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コトバ辞典


けだし


「けだし」は,

蓋し

と当てるが,いまは,ほぼ使わないと思う。意味は,辞書によって,幅が異なる。たとえば,『広辞苑』は,

まさしく,ほんとうに,たしかに(発語的にも使う),
ひょっとしたら,もしや,

とある。発語的というのは,

異議なし,

というように,

蓋し,

という合の手として入れる,という意味だろうか。『大辞林』も,

@〔多く漢文訓読に用いられた語〕 かなりの確信をもって推量するさま。思うに。確かに。
A疑いの気持ちをもって推量したり仮定したりする意を表す。ひょっとして。もしかして。もしや。 

もほぼ同じ。しかし,『デジタル大辞泉』は,

1 物事を確信をもって推定する意を表す。まさしく。たしかに。思うに。
2 (あとに推量の意味を表す語を伴って)もしかすると。あるいは。
3 (あとに仮定の意味を表す語を伴って)万が一。もしも。ひょっとして。
4 おおよそ。大略。多く、漢文訓読文や和漢混淆文などに用いる。

と,少し細かい。『古語辞典』をみると,

「きちんと四角である意のケダ(角)の副詞化。正(まさ)しく,定めて,きっとの意。推量の語と共に使われるうちに,おそらく,たぶん,万一と意味が広くなった」

とある。そして,

(推量・疑問の語を伴わずに)まさしく,ほんとうに,まったく(発話的に使う)
(推量・疑問の語を伴って)おそらく,たぶん,ひょっとすると,

とあり,いまは,どちらかというと,

蓋し名言である,

というように,前者の使い方が残っているのではないか。しかし,『大言海』を見ると,

「氣慥(きたん)の義。慥氣(たんげ)の意ならむと云ふ。たし(慥)の條を見よ」

とあり,

「若し斯くもあらむかと,推し定むる意に云ふ語」

とある。「たし(慥)」を見ると,

「正(ただ)しの略と云ふ。タシに,氣を冠ラシテ,ケダシとなり,氣(き)の転の氣(か)を添へて,タシカとなる」

とある。「慥」の字は,『字彙』に,

「慥,誠信也。守實而言行相應貌」

とあると,引用する。しかし,「慥」の字は,

「造次(ぞうじ 急ごしらえ)の造は,あわただしく寄せ集めること。慥は『心+音符造』で,そそくさと急場をつくろう気持ちのこと」

とあり,

「あわただしい」
とか,
「慥慥(ぞうぞう)」「慥慥爾(ぞうぞうじ)」と,言ったことをすぐ実行するさま,

という意味で,我が国だけで,

こしらえる(急慥(きゅうごしら)え),
たしか,おそらく,たぶん,

という意味で使う。

『語源辞典』を見ると,「蓋し」について,

「漢文訓読のケダシは,三つの語源説があります。説1は,『気+慥』が語源で,気のせいかおそらく,の意です。説2は,『異+慥』が語源で,あやしいことに恐らく,の意です。説3は,『キザシ(兆し)の変化』説で,そんな兆しがみえるが恐らくの意だという説です。」

とある。こうみると,『大言海』が説くように,

「気(氣)」

がついているということは,「気のせい」という含意が込められている,というふうに見ていいのではないか。とすれば,

けだし名言である,

というとき,

確かに,
とか,
まさしく,

と言い切るよりは,

確かに(思える),
確か(と感じる),

というニュアンスなのではないか。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1130439.html

に,法律世界で「なぜなら」みたいな意味で使われているのは誤用ではないか,との問いに,

「歴史的文献は現代語に訳すと,
『明治初年よりこれが方法を講したりとするも、未だ十分にその目的を達するに至らす蓋し旧土人の皇化に浴する日向浅く、その知識の啓発、頗る低度なりとす。』
『明治初年から対策を講じてきたけど、まだまだ不十分だよ。なぜなら、原住民が天皇の恩恵を受けるようになってからまだ期間が短かくて知識レベルがとっても低いからだよ』ですよね?
やっぱり誤用だわ。蓋し、法律の世界では誰かが始めたそういう使い方が普通だと思って、使われてきたのよね。(笑)」

と答えています。僕は,この現代訳に,訳した人の「蓋し」観が出ているだけであって,ひょっとすると,「含意」を見落としているのではないか,という気がする。「蓋し」は,確かに,と言い切る含意ではないのではあるまいか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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支離滅裂


支離滅裂,

は,

統一もなくばらばらに乱れて,筋道がたたないさま,めちゃめちゃなこと,

と,『広辞苑』に乗る。想像されるように,中国語由来で,

「『支離』(はなればなれになる)滅裂(ばらばらにわかれる)』が語源です。文章や話の筋にまとまりがなく,全体がばらばらになっていることをいいます。」

と,『語源辞典』にはある。特別の由来はないようだが,『大言海』は,『荘子』

「夫支離其形者,猶足以養其身終其天年又況,支離其徳者乎」

さらに,駱寶王詩から,

「生涯一滅裂,岐路幾徘徊」

を引く。「支離」は,

分かれ散りて全からず(『字源』),

という意味の他に,実は,身体障害の意味があり,上記の『荘子』の「支離」は,それを指す。

「滅裂」は,

きれぎれ,

という意味だが,『荘子』に,

「治民焉勿滅裂」

とあるらしい。「支離」と「滅裂」は,似た意味でバラバラに使われていたものらしい。念のため,漢字に当たると,

「支」は,会意文字で,

「『竹の枝』+『又(手)』で,手に一本の枝を持つさまを示す。」

とある。意味は,

「わかれ,枝,もとから枝のように分かれ出たもの」

という意味で,そのメタファからか,

「胴体を幹とすれば,手足は枝」

という意味で,手足,という意味になり,四肢という。

「離」の字も,会意文字で,

「『隹(とり)+大蛇の姿』で,元,蛇と鳥が組みつ離れつ争うことを示す。ただし,普通は麗(きれいに並ぶ)に当て,二つ並んでくっつく,二つ別々になる意をあらわす。」

とある。

「滅」の字は,

「右側は,『戉(まさかり)+火』の会意文字で,刃物で火種を切って火を消すことを意味する。滅はそれを音符とし,水を加えた字で,水をかけて火を消し,または見えなくすること。」

とある。だから,

ほろぶ,ほろぼす,

という意味の他に,

この世からなくする,姿をなくする(「消滅」「滅国」),
消える(「点滅」),

という意味を持つ。

「裂」の字は,

「歹(ガツ)は,関節の骨の一片。それに刃をそえて,列(骨を刀で切り離す→切り離したものがずらずらと並ぶ)となる。裂は『衣+音符列』で,布地を切り裂くこと。」

とある。

漢字一つ一つの意味を見ていくと,いまの意味とうまくつながらないのは,使われていくうちに,謂れを離れて,言葉はそれ自体で独り歩きし始めるからだろう。

支離滅裂の類義語は,

四分五裂,
乱雑無章,
滅茶滅茶
目茶苦茶,

等々とあるが,四分五裂は,ちりじりに広がる感じなので,少しニュアンスが違う。乱雑無章は,

物や事柄がばらばらのまま整理されていないこと。無秩序のまま放置されていること,

で,「無章」は筋道が立たないこと,「章」は筋道・秩序の意で,

「乱雑にして章無なし」

と訓読するらしい。強いて言えば,「筋道が通らない」という意味では,乱雑無章が近いが,支離滅裂の語感にはかなわない。

因みに,対義語は,

終始一貫,
首尾一貫,
順理成章,
脈絡通徹,
理路整然,

といったところで,文脈が通る,という意味では,順理成章,脈絡通徹,が対義語に当たるのだろう。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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つま


「つま」は,

妻,
夫,
端,
褄,
爪,

と,当てて,それぞれ意味が違う。

爪,

を当てて,「つま」と訓むのは,「つめ」の古形で,

爪先,
爪弾き,
爪立つ,

等々,他の語に冠して複合語としてのみ残る。『古語辞典』をみると,

「端(ツマ),ツマ(妻・夫)と同じ」

とある。で,

端,

を見ると,

「物の本体の脇の方,はしの意。ツマ(妻・夫),ツマ(褄),ツマ(爪)と同じ」

とある。これだけでは,「同じ」というのが,何を指しているのかがわからない。その意味は,「つま(妻・夫)」を見ると解せる。

「結婚にあたって,本家の端(つま)に妻屋を立てて住む者の意」

つまりは,「妻」も,「端」につながる。で,「つま(褄)」を見れば,やはり,

「着物のツマ(端)の意」

とあり,結局「つま(端)」につながるのである。

しかし,果たしてそうか。『大言海』には,「つま(端)」について,

「詰間(つめま)の略。間は家なり,家の詰の意」

とあり,「間」の項を見よとある。「間」には,もちろん,いわゆる,

あいだ,

の意と,

機会,

の意などの他に,

「家の柱と柱との中間(アヒダ)」

の意味がある。さらに,「つま(妻・夫)」については,

「連身(つれみ)の略転,物二つ相並ぶに云ふ」

とあり,さらに,「つま(褄)」についても,

「二つ相対するものに云ふ。」

とあり,「つま(妻・夫)」の語意に同じ」とある。

どうやら,「つま」には,

はし(端)説,

あいだ説,

があるということになる。『語源辞典』をみると,二説あるらしい。

「説1は,『ツマ(物の一端)』が語源で,端,縁,軒端,の意です。説2は,『ツレ(連)+マ(身)』で,後世のツレアイです。お互いの配偶者を呼びます。男女いずれにも使います。上代には,夫も妻も,ツマと言っています。」

と。どやら多少の異同はあるが,

はし,

関係(間),

の二説といっていい。僕には,上代対等であった,





が,時代とともに,「妻」を「端」とするようになった結果,

つま(端)

語源になったように思われる。三浦佑之氏は,

「あちこちに女を持つヤチホコ神に対して,『后(きさき)』であるスセリビメは,次のように歌う。
 やちほこの 神の命(みこと)や 吾(あ)が大国主
 汝(な)こそは 男(を)に坐(いま)せば
 うちみる 島の崎々(さきざき)
 かきみる 磯の崎落ちず
 若草の つま(都麻)持たせらめ
 吾(あ)はもよ 女(め)にしあれば
 汝(な)を除(き)て 男(を)は無し
 汝(な)を除(き)て つま(都麻)は無し」

と紹介する。どうも,ツマは,

対(つい),

と通じるのではないか,という気がする。「対」は,中国語由来で,

二つそろって一組をなすもの,

である。『大言海』は,「つゐ(対)」について,

「むかひてそろふこと」

と書く。

「刺身につま」というときは,

具,

とも当てるが,その「つま」について,

http://temaeitamae.jp/top/t6/b/japanfood3.06.html

は,

「刺身にあしらわれてる千切り大根の事を『つま』そう思ってなさる方が多い。あれは『つま(妻)』ではありません。『けん』と言います。
けん、つま、辛み、この三種の「あしらい」を総称して「つま」という事もありますが、「つま」とは、端やふち、へり、を意味します。刺身に寄り添うかたちですね。ですから【妻】という字の代わりに【褄】と書いてもよいのです。」

と書く。対等の一対から,端へとおとされた「つま」が,「妻」に限定されていくように,「つま(具)」も,添え物のイメージへと変化していったようだ。『江戸語大辞典』には,「つま(妻)」は,

「料理のあしらいとして添えるもの」

としか載らない。

参考文献;
三浦佑之『古代研究−列島の神話・文化・言語』(青土社)
http://temaeitamae.jp/top/t6/b/japanfood3.06.html

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すだく


「すだく」は,

集く,

と当てる。『広辞苑』には,

多く集まってさわぐ,
多く集まる,
虫が集まって鳴く,

という意味が載る。どうやら,本来,

集まる,

という意味らしい。『語源辞典』には,

「ツドフ(集ふ)」とスダク(集く)と同源の語の変化」

とある。『大言海』には,

「集(つど)ひ挈(た)くの約。集ひ居て動く義」

とある。で,

集まる,多く集う,

というのが意味で,『大言海』は,

「誤りて,鳴く」

と載せる。意味として,

「虫集く」

とは,集まっている,という意味だけで,

鳴く,

意味は本来なかった。因みに,「挈(た)ぐ」は,

「手揚(たあ)ぐの約か」

として,

揚ぐ,もたぐ,

の意味を『大言海』は載せる。ただ,他の辞書には載らない。もし,『大言海』の説通りなら,

ただ集まる,

という意味だけではなく,

もたげる,

という含意がある。だから,ただ集まる意味に,

騒ぐ,
あるいは,
騒がしい,

という含意が,もともとあった,と考えるべきなのかもしれない。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110853596

では,

「本来は “あつまる”、“むらがる” という意味でしたが、『庭に集(すだ)く虫の音(ね)』を『庭で鳴いている虫…』と誤解して、『すだく』に “鳴く” という意味があるかのような使い方がされるようになりました。」

というが,群がり,(それにともなって)騒がしい,という含意が,

蕪村の句の,

鬼すだく戸隠のふもとそばの花

に含まれている,と見なした方が,句の奥行が広がるのではあるまいか。『広辞苑』の「すだく」の用例に載る,

葦鴨(あしがも)の、すだく池水(いけみづ)、溢(はふ)るとも、まけ溝(みぞ)の辺(へ)に、我(わ)れ越(こ)えめやも

という万葉歌も,「騒がしい」という含意があるようだ。あるいは,

「かしがまし 野もせにすだく 虫の声や われだに 物は言はでこそ思へ」

という古歌も,「すだく虫の声」としているところを見ると,「すだく」には,

集まって騒がしい,

という意味を伴っている。しかし,『広辞苑』の引く,

ひとをまつむし秋にすだけども,

という『閑吟集』では,虫の声に「騒がしい」意味が薄らいでいる。たとえば,『学研全訳古語辞典』で引く,

「すだきけむ昔の人は影絶えて宿もるものはありあけの月」

という新古今の歌にも,「群がり集まる」意に,「賑やかだった」という含意が影のようにあるから,意味が陰翳を増す。

「秋の虫の叢(くさむら)にすだくばかりの声もなし」

という『雨月物語』の例も,騒ぐの含意があって,生きてくる。どうやら,

集まる→にぎやか→さわぐ→声

という意味の外延を広げていったのだと,推測がつく。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ゆきたけ


「ゆきたけ」(「いきたけ」ともいう)とは,

裄丈,

と当て,

衣服のゆきとたけ,

の意味で,それをメタファに,

物事の都合,前後の関係,

の意味にも転じている(『広辞苑』)。例えば,膂力,が,腕力を意味するのに,広く,力技を指すようなものである。

「裄」と「丈」は,

http://kimonoo.net/yukitake.html

に詳しいが,

「和服で、背中の中心となる縫い目からそで口までの長さ」

を指す。要は,肩幅にそで幅を加えた寸法で,肩ゆきとも言うらしいが,洋服でもいうことがあり,その辺りは,

http://www.ozie.co.jp/base/

に詳しい。

「裄」は『大言海』をみると,

「裄行などの意」

とあり,

「丈に対する」

とある。で,転じて,

「物の程度,高」

とあり,さらに転じて,

「ゆきたけ」

の意味となり,

「ゆきたけの知れたる身代」

という用例が載る。その意味で,『広辞苑』とは異なり,「ゆきたけ」の広がった意味は,単に「脈絡」という意味だけではなく,ものたの奥行,広がり,といった意味にまでなっているらしい。

上記の,

http://kimonoo.net/yukitake.html

を見ると,

「きもののサイズを表すものとしては、…特に重要なものとして、裄、丈、幅があります。
裄(ゆき)というのは、首の下の背中の中心から手の先までの長さ(つまり、「手を水平に伸ばした時の長さ」割る『2』にほぼ等しい)。丈(たけ)と言うのはその名の通り、きものの縦の長さです。
幅というのは、…前幅、後幅、おくみ幅と分かれますが、普通は 全て足した物を言うことが多いようです。」

とある。

「丈」は,『語源辞典』によると,

「身の丈などのタケも,タカ(高・竹)と同じ語源」

とあり,

「長く(タク)は,高さがいっぱいになることの意で使います。時間的にいっぱいになる意のタケナワも,根元は同じではないかと思います。春がタケルも,同じです。わざ,技量などいっぱいになる意で,剣道にタケルなどともいいます。」

とある。『広辞苑』にも,「たけ」は,

丈,
長,

の字を当て,

「動詞「たく(長く)」と同源」と載る。『大言海』には,

「高背(タカセ)の約。長(タケ)の義」

とあり,意味は,

上に長きこと,立てる高さ,
転じて,長さ,
十分の程,あるかぎり(あるたけ),

と意味の変化が載る。

ある意味で,裄丈は,

天地左右の寸法,

といっていい。文字通り,メタファとしての意味だが。念のため,漢字に当たると,

「裄」の字は,

「衣+行」

で,どうやら,「ゆき」の採寸法自体が,中国由来だと知れる。

「丈」の字は,

「手の親指と他の四指とを左右に開き,手尺で長さをはかることを示した形の上に+が加わったのがもとの形。手尺の一幅は一尺とあらわし,十尺はつまり一丈を示す。長い長さの意を含む。」

どうやら,採寸方法だけでなく,長さの単位まで輸入物らしい。

参考文献;
http://kimonoo.net/yukitake.html
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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つまらない


「つまらない」は,

つまらぬ,

とも言うし,

つまらん,
つまんない,

という言い方もするが,『広辞苑』には,「つまらぬ」について,

「ツマルに否定の助動詞ズの連体形ヌが付いたもの。『つまらない』とも」

と載る。『大辞林』は,「つまらない」で,

「動詞『つまる』の未然形+打消しの助動詞『ない』」

と載る。意味は,多く,

面白くない,

という意味で使うが,辞書的には,

道理に合わない,得心できない,
意に満たない,面白くない,
取るに足りない,価値がない,自己に関する物事について,謙遜するときにも使う,
馬鹿げている,とんでもない,
金に困る,うまくゆかない,

と意味の幅が広い。

詰(ま)らない,

と当てるので,「詰まる」という意味から来ているとは想像がつく。

『語源辞典』には,

「『詰まるの未然形,ツマラ+ない(打消し)』ものがぎっしり詰まっていない,内容がない,終結がよくない,面白くないの意です。」

とある。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/tu/tsumaranai.html

は,

「つまらないは、動詞『詰まる(つまる)』に打ち消しの助動詞『ない』がついたもの。『詰まる』は動けなくなる状態のほか、行動や思考が行き詰る状態も意味する。 そこから、『納得する』『決着する』などの意味を持つようになった。 やがて、『納得できない』の意味で『つまらない』が使われ、現在の意味に変化した。」

と載せる。『デジタル大辞泉』は,用例で,

「『大金をはたいてつまらない(下らない)買い物をした』『あんなつまらない(くだらない)人間とは付き合うな』など、価値のない意では相通じて用いられる。『つまらない』は、そのものに対する評価というより、心がひかれない、楽しめないという状態を言う。『内容はよいが、つまらない映画』。『くだらない』はある物の評価が低いことに重点があり、楽しさ、おもしろさとは別である。『この映画はくだらないが、おもしろい』。『独りぼっちはつまらない』とは言うが、『独りぼっちはくだらない』とはふつう言わない。

と書く。どうやら,「詰まる」の意味に,「つまらない」の意味の理由がある。『広辞苑』は,「詰まる」を,

@満ちてふさがる意として,
 つかえて通じない,ふさがる,行き詰まって先へ進まない,
 充満する,一杯になる,
 行きつく,極限に達する,
 十分納得のいく状態になる,
A満ちて身動きができなくなる意として,
 窮屈になる,圧迫を感ずる,
 ゆとりなく,さしせまる,
 苦しみ困る,窮する,窮乏する,
 息の詰まったような感じの発音になる,

と整理する。Aのほうは,@をメタファとして,意味の外延を広げているという感じである。しかし,「詰まり」を,副詞として,

つまり,何々,

という使い方をする場合は,

結局,
とか,
要するに,
とか,
つまるところ,

という意味になるが,この使い方は,「詰まる」の「行どまり」という意味を前提にしないと成り立たない。とすると,「詰まらない」が「詰まる」の否定なら,

行き止まりではない,

と,意味が変ってしまう。

『古語辞典』では,「詰まり」の項に,

「ツメ(詰)の自動詞形」

とあり(この否定で,「詰まらぬ」となる),「詰(蔵)め」について,

「一定の枠の中に物を入れて,すきま・緩みをなくす意」

とある。これが原意なら,「つまらぬ」が,

隙間がある,
内容がすかすか,

といった意味にメタファとして広がる意味はよく分かる。しかし,この解釈では,言葉の用例の広がりが説明できないのではないか。「詰まらない」は,

「動詞『つまる』の未然形+打消しの助動詞『ない』」

という説明だけでは,一筋縄ではゆかないのである。それは,次の一文を読むと初めて納得できる。

「『はなはだあやしい。ふつごうだ』という意味のケシカラム(怪しからむ)は,推量のムが撥音化してムシカランというようになった。文章を書くに当たって撥音を復原するとき,紫式部は,推量のムであるべきを打消しのヌと誤認して〈かくケシカラヌ心ばへは使ふものか〉(源・帚木)とした。それでは『怪しくない』という意味になる。語義の矛盾に気付いた学者は“意味の反転”で片づけました。
 『場所,程度などが高い所から低い所へ一気に落ちる』ことをクダル(下る。降る)という。『つまらない。価値がない』というとき,推量の助動詞ムをつけてクダラム(下らむ)といった。撥音化されてクダランといったが,鼻音に復原するとき,これまた打消しと誤認して,クダラヌ・クダラナイというようになった。これでは価値があるということになる。
 『行き詰まるだろう』という意味のツマラム(詰まらむ)も撥音化ツマランという。これを鼻音に復原するときツマラヌ・ツマラナイと打消しに変えてしまった。『行き詰まらない』という意味になるのだから,これも“意味の反転”で片づけてきた。」

そして,方言には,原義を残しているものがあり,貧乏・窮迫を,

つまらん,

という地方がある,という。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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くだらない


「くだらない」は,

くだらぬ,

とも言い,

下らぬ,

と当てる。『広辞苑』は,

「『読みが下らぬ』の略か」

とし,

つまらない,
価値がない,
取るに足らない,

という意味を載せる。『江戸語大辞典』にも,

「『読みが下らぬ』の略。読めぬの意。転じて,わけのわからぬ。」
「『理屈が下らぬ』の略。理屈の筋が通らぬ,理屈が合わぬの意。つまらぬ,たわいもない,ばかばかしい。」

の二説を載せる。『デジタル大辞泉』は,

「動詞『くだる』の未然形+打消しの助動詞『ない』」

と分解するだけで,由来は解かない。手元の『語源辞典』には,

「『東海道を下らない関東の地酒』のことです。悪質の意です。取るに足らない意に一般化しました。つまらない,の意味です。」

とある。多くは,この上方からの「下りもの」「下り酒」でない意,としている。たとえば,

http://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%8F/%E4%B8%8B%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%AF-%E6%84%8F%E5%91%B3/

は,

「下らないとは、程度が低い、ばかばかしい、取るに足らないといった意味だが、言葉づらをとらえてよく考えてみると、『下る(落ちる、下等である)ではない』のだから、上等なものと解釈してもよさそうなものだが、その昔、日本の中心であった京都から新興都市の江戸へ運送された上等な産物を『下りもの』と呼び、江戸近郊で作られた産物を『下らないもの』として一段低い立場においたのがこの言葉の語源となっている…。」

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84

でも,

「動詞である『下る』に、打ち消しの助動詞の『ない』を付けたものとする説。『下る』には、もともと『筋が通る』というような意味があるとされる。
江戸時代に、灘など上方かみがたで醸造された酒のうち、良い物は大消費地であった江戸へ下くだるが、悪い物は主に当地で消費され『下らない』ことから、つまらない、できの悪い物を指し『くだらない』といった。cf.くだりもの。
上方からの下りものは良い酒だが、下ってこない江戸の地酒はぐっと品質が落ちるため、大したことのないものを『くだらない』と言った。」

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1430429484

でも,

「江戸時代、灘(今の神戸あたり)で作られた酒は、大阪から江戸へ船で出荷されていました。檜の樽に詰められた状態で船に揺られるうち、酒に檜の香りが移ります。そのため江戸では『灘の酒』は薫り高い素晴らしい酒として高く評価されていました。ところが、江戸から大阪方面へやってきて本場の『灘の酒』を試してみると、あの檜の芳香が感じられず、ただの酒と変わりありません。大阪から江戸まで船で揺られる過程を経ていないからです。
ところで、当時は京都方面から江戸へ向かうのは『下り』にあたります。従って、江戸に送られた酒は『下った酒』、送られなければ『下らない酒』です。船に揺られていない『下らない酒』は大したことない、ただの酒だった…というところから、たいした価値のないこと、つまらないことを指して『くだらない』と言うようになったそうです。」

と。しかし,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ku/kudaranai.html

は,「くだりもの」説を否定する。

「くだらないは、動詞『下る』に打ち消しの助動詞『ぬ』がついて『くだらぬ』、『ない』がついて『くだらない』となった。『下る』には、通じるといった意味を示す場合があり、それを『ない』で否定して、『意味がない』『筋が通らない』などの意味となり、取るに足りないの意味に転じたという。
 他の説では、上方から関東に送られる物を『下りもの』と言い,その中でも清酒は灘や伏見が本場であるため、『下り酒』と呼ばれていた。反対に関東の酒は味が落ちるため『下らぬ酒』と言われ、まずい酒の代名詞となり、転じて現在の意味になったとする説があるが、『下りもの』と呼ばれる以前から,『くだらぬ』は使われていたため、この説は考え難い。
 また日本に農法を伝えたのは現在の朝鮮にあたる百済の人々で、百済の人々を頭の良い人としていたため、頭が悪く話の通らない人を『百済ではない人』と呼び、略され『くだらない』となったとする説もある。一般に昔の否定は『ぬ』であり、名詞を『ぬ』でひていすることは考えられぬことと、『くだらぬ』という言葉が使われ始める遥か前から、『くだらない』が使われていたことになるため、この説も考え難い。
 さらに他の説では、仏教用語に『ダラ』という九つに教えがあり、その教えが一つもない行為を『クダラが無い行動』と言ったことから、『くだらない』に転じたとする説もある。仏教用語に『ダラ』を含む言葉は多いが,『ない』は日本の打消しなので、日本に『ダラの教え』が伝来してから、『くだらない』となったと考えられる。そのため『ダラ』という教えが実在し、日本でも『ダラの教え』が使われていたのであれば有力な説となるが、ダラの教えがはっきりとしていないため,俗説と考えられる。」

どうやら,「下る」のもつ意味の中の,「意味を通す」から来たとするのが,妥当のように見える。

しかし,『大言海』の解釈は,いつもながら,異彩を放つ。

「ヘリクダル(謙)を,クダルとのみも云ふ,クダラヌは,人前も憚らぬ意とならむ。謙(へ)らず口と云ふ語もあり」

となかなか含蓄がある。で意味は,

「理(スヂ)なきことを,言ひ立つる。理につまらぬ。降らない。没理」

と載せる。これが最も説得力がありそうなのだが,「つまらない」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba6.htm#%E3%81%A4%E3%81%BE%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84) で触れたように,「くだらぬ」の解釈の前提,

「動詞『くだる』の未然形+打消しの助動詞『ない』」

が間違っていたらどうなるのか。『日本語の語源』は,こういうのである。

「『はなはだあやしい。ふつごうだ』という意味のケシカラム(怪しからむ)は,推量のムが撥音化してムシカランというようになった。文章を書くに当たって撥音を復原するとき,紫式部は,推量のムであるべきを打消しのヌと誤認して〈かくケシカラヌ心ばへは使ふものか〉(源・帚木)とした。それでは『怪しくない』という意味になる。語義の矛盾に気付いた学者は“意味の反転”で片づけました。
 『場所,程度などが高い所から低い所へ一気に落ちる』ことをクダル(下る。降る)という。『つまらない。価値がない』というとき,推量の助動詞ムをつけてクダラム(下らむ)といった。撥音化されてクダランといったが,鼻音に復原するとき,これまた打消しと誤認して,クダラヌ・クダラナイというようになった。これでは価値があるということになる。
 『行き詰まるだろう』という意味のツマラム(詰まらむ)も撥音化ツマランという。これを鼻音に復原するときツマラヌ・ツマラナイと打消しに変えてしまった。『行き詰まらない』という意味になるのだから,これも“意味の反転”で片づけてきた。」

つまり,

「クダル+推量の助動詞ム」

だとすると,すべての語源説が,根本的に間違っていることになる。で,

「『下らない』の反対は、『下る』でいいのでしょうか?」

という問いへの答えが,意味を持ってくる。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1366748598

「『くだらない話』という場合の『くだらない』のことだとすると、『冗談で言う』だけなら『下る』でも通じるでしょうが、(しかし、それはただ「くだらなくない」と言っているだけで反対の意味までは持ち得ません)真面目な場で通用する日本語としては、そういう使い方の『下る』という語は存在しません。したがって、反対でもなんでもありません。『くだらない』を否定するなら『くだらなくない』ですし、『反対』と言うなら、『価値ある』『意義のある』『意味深い』など、場面に応じて適切な語は変わります。『坂を下らない』に対して『坂を下る』というのは、否定=肯定の関係ではありますが、「反対」とは言えません。『坂を下る』の反対は『坂を上る』です。」

つまり,この答によって,「くだらない」が「くだる」の否定ではないことを言っているように見える。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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へらずぐち


「へらずぐち」は,

減らず口,

と当てるが,

減らぬ口,

とも言う。この「減」を当てるのが正しいのか。意味は,『広辞苑』によれば,

負け惜しみや出まかせを言うこと,
また,相手がどう思おうとかまわずに,憎まれ口をたたくこと,

とある。『語源辞典』には,

「『減らず+口』です。遠慮せずにしゃべる口を,減らない口と皮肉った語です。」

とある。『デジタル大辞泉』も,

「いくらしゃべっても口はへらない、の意から」

とある。『由来・語源辞典』

http://yain.jp/i/%E6%B8%9B%E3%82%89%E3%81%9A%E5%8F%A3

も,

「いくら言っても口数が減らないということから『へらず口』というようになった。」

としている。『大言海』は,「くだらぬ」を調べていて,

「ヘリクダル(謙)を,クダルとのみも云ふ,クダラヌは,人前も憚らぬ意とならむ。謙(へ)らず口と云ふ語もあり」

と書いていた。「へらずぐち」の項では,

不減口,
不謙口,

を当て,

「憚らず云ふこと,まけをしみなどに云ふこと。憎まれ口」

としか載せない。しかし,『江戸語大辞典』は,

「謙(へ)らぬ口,すなわち不遜の言辞の意」

とはっきり書く。『古語辞典』を見ると,

「謙(へ)り」

の項に,

「減りと同根」

とある。どうやら,「減らぬ口」は,

「謙らぬ口」

が初めらしい。つまりは,

不遜な物言い,

という意味では,目上の人,ないし,上位の人の前で,憚らず,物を言った,という意味になる。

『笑える国語辞典』

http://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%B8/%E6%B8%9B%E3%82%89%E3%81%9A%E5%8F%A3%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

では,

「減らず口とは、ああだこうだと言い訳を言ったり、負け惜しみを言ったり、生意気なことを言ったりすること。それだけ言いたいことを言えば、大きな口もさすがに多少は目減りし、言葉数も減るだろうと思いきや、少しも減る気配をみせずになお意気盛んであることから『減らず口』……といいたいところだが、減らずの『減る』は『へりくだる(謙る)』の『へる』と同じ語源なので、『減らず口』は要するに『相手に敬意を表しない言い方』『遠慮しない言い方』と解釈するのが妥当かと思われる。」

とある。『日本語表現インフォ』

http://hyogen.info/word/1263408

では,

「『減る』は『へりくだる(謙る)』の『へる』と同じ語源なので、『減らず』は、『身の程をわきまえず、とどまらない』という意味(「減」は借字)。『いくら話しても口は減らない』わけではない。」

と言い切る。つまりは,「謙らぬ口」を「減らぬ口」と言い回すようになって以降を前提に,語源を考えることが,それこそ屁理屈でしかない見本のような話だ。とすると,同義とされる,

憎まれ口,

とは微妙に違うはずだ。『江戸語大辞典』には,

「憎たらしい物言い」

とあるので,『広辞苑』にあるように,

人に憎まれるような言葉,憎々しい物言い,

には違いないが,両者の関係は,ある程度親密であることが含意されている。目上の人,上位の人,というだけでなく,さほどの関係でもない人に対する,憚らぬ物言いを指す,減らず口,とは少し違うようだ。減らず口は,

「目下の者、特に年少者が目上の者に対して使った言葉を、目上の者の側からいう。」(『類語例解辞典』)

が正しいようだ。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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たわいない


「たわいない」は,

たあいない,

とも言い,

他愛ない,

と当てたりする。「たわいない」は,

とりとめもない,思慮がない,
正体ない,
張り合いがない,手ごたえがない,

と意味の幅がある(『広辞苑』)。しかし,

とりとめもない,

思慮がない,

でも,同列に扱えるとは思えない。「たわいない」の「たわい」は,

「『他愛』と当てる」

として,

思慮分別,
「たわいない」の略。一説に「酒たわい(酒に酔うこと)」の略ともいう,

と載る(『広辞苑』)。しかし,『デジタル大辞泉』『大辞林』などをみると,
たわい

「下に『ない』を伴って用いる」

として,「たわいない」の意味を載せ,そのほかに,

「正体なく酒に酔うこと,酩酊」

の意味が載る。どうも『広辞苑』の「他愛」の意味を,

思慮分別,

とするのは,「たわいない」の「ない」を取った,ひっくりかえしなのではないか,と勘繰りたくなる。

酩酊,

用例として,

「御免候へ、たわい、たわい」〈浄・忠臣蔵〉
「御免下され,我等もう酔ひました,何申すやらたわい たわい」(浄瑠璃・伊賀越道中双六)

が載るが,『江戸語大辞典』には,

「たわいがない」

しか載らないので,「たわいがない」の略として,言っているとしか思えない。その場合,

正体がない,

の意味で言っているのではないか。『語源辞典』をみると,

「『タワイ(手応え)+ナイ(無い)』です。手応えがない,もろい,だらしがない,などの意です。」

とある。『大辞林』には,

「近世以降の語。」

とあるので新しい言葉らしい。『古語辞典』には,「たわい」に,

思慮分別,正気,

とあり,「たわいなし」に,

思慮分別がない,
正気を失っている,

と載り,『江戸語大辞典』にも,

思慮分別がない,
大人臭いところがない,

と意味を,

「常任(ふだん)にまでもあどけなく年をとっても可相成(なるたけ)は大人風(たわい)のないが唄女(げいしゃ)の高値(ねうち)」(天保九年・春色恋の白波)

のよう例が載っている。こうみると,「たわい(ない)」には,

手応え系,
思慮分別系(大人系も含め),

の二系列の意味の謂れがありそうである。『大言海』は,

「利分(とわき)の轉かと云ふ。出雲には,トワイがないと云ふ語あり」

と注記し,

思慮弁別なし,張りあいなし,見当がつかぬ,はてがない,とりとめなし,ねもはもなし,てごたえなし,

と意味を列記する。そして,『名言通(天保,服部宣)』から,

「手合(てあい)無しにて,角力に起る。相手とするに足らぬ。」

とあるので,どうやら,

手応え系,

に軍配が上がりそうである。

手応えがない→張り合いがない→とりとめもない→見当もつかない→正体がない→思慮分別がない,

等々と意味の外延が,広がったものと考えられる。『大言海』が,

思慮弁別なし,張りあいなし,見当がつかぬ,はてがない,とりとめなし,ねもはもなし,てごたえなし,

と意味を連ねるわけである。酔っぱらうは,当然派生した意味に過ぎない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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罵詈雑言


罵詈雑言は,

ばりぞうごん,

と訓ませるが,「言」は「げん」とも読むので,

ばりぞうげん,

とも訓む。『語源辞典』を見ると,

「中国語の『罵(罵る)詈(ののしる)+雑言(悪口)』が語源です。口汚い言葉で,さんざん悪口を言って,ののしることを言います。悪口雑言と同じです。」

とある。「罵詈」を見ると,

「『罵』も『詈』も悪口を言う意」

とあり,

ののしること,悪口を浴びせること,嘲罵,

と意味が載る(『広辞苑』)。

『大言海』には,「罵詈」について,

「釋名(漢,劉煕)釋言語篇『罵,迫也,以悪言被迫人也,詈,歴也。以悪言相彌歴也』」

と注記がある。「歴也」とは,推測するに,「歴」の字は,

「上部の字(音レキ)は,もと『厂(やね)+禾(いね)ふつたつ』(厤)の会意文字で,禾本(かほん)科の植物を並べて取り入れたさま。順序よく並ぶ意を含む。歴はそれを音符とし,止(あし)を加えた字で,順序よく次々と肢で歩いて通ること。」

で,「歴」には,

次々と経る,
とか
次々と並んでいるさま,

という意がある。悪言が重なる意とともに,それがシーケンシャルに累々と連なっている,といったニュアンスなのではあるまいか。

しかし,「雑言」は,『字源』をみると,

「いろいろのつまらぬ話」

が意味で,

「陶濳詩『相見無雑言,但道桑麻長』

という用例を引いて,

「いろいろとののしる。『悪口雑言』

は,我が国の用例,としている。そう言われると,「罵詈」の出典は,『史記』魏豹傳がよく引用される。例えば『大言海』では,

「今漢王慢而侮人,罵詈諸侯羣臣如罵奴耳」

や,「蔡邕,単人賦」

「酔即揚聲,罵詈恣口」

等々の用例があるが,「雑言」には見当たらない。『大言海』は,「雑言(ざふごん)」について,

四方山の話,雑談。

を第一に挙げ,続いて,

なんのわかちもなく物言ふこと,物狂ひのうはごと,讒言,
種々のことを言ひ掛けて罵ること,

と続く。『古語辞典』も,

雑談,

をまず載せ,続いて,

悪態,悪口,

と意味を載せる。億説かもしれないが,どうやら,日本で,

雑談→よもやま話→わけのわからない物言い→うわごと→讒言→悪口,

といったように変じたらしいのである。

因みに,「罵詈」の「罵」と「詈」は,

罵は,悪言をもって人に加ふる義,
詈は,罵より軽い,

と意味が若干違うらしい。「罵」の字は,

「馬は相手かまわず突き進む馬,网(あみ)は,相手におしかぶせる意を示す。罵は『网(あみ)+音符馬』で,馬の突進するように,相手かまわず推し被せるわるくちのこと。」

「詈」の字は,

「『闘(あみ)+言』。相手に罵る言葉を押し被せることをあらわす。」

「雑(雜)」の字は,

「木の上にあるのは衣の変形,雜は,襍とも書き,『衣+音符集』で,ぼろ布を寄せ集めた衣のこと」

罵詈雑言の類語には,

悪口罵詈(あっこうばり),
讒謗罵詈(ざんぼうばり),
罵詈讒謗(ばりざんぼう),
爬羅剔抉(はらてきけつ),

等々があるが,

爬羅剔抉(はらてきけつ),

のみが,若干ニュアンスが違う。意味は,

https://nortonsafe.search.ask.com/web?q=%E7%BD%B5%E8%A9%88&o=APN11910&geo=ja&prt=&ctype=&ver=&chn=&tpr=121

に,

「隠れた人材を、あまねく求めて用いること。また、人の欠点や秘密をあばき出すこと。つめでかき集め、えぐり出す意から。▽「爬」はつめなどでかき寄せる、「羅」は網で鳥を残らず捕る意。「剔」「抉」はともに、そぎ取る、えぐり取る意。「爬羅」があまねく人材を求めることで、「剔抉」が悪い者を除き去る意とする説もある。」

とある。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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和(にぎ)


和は,

塾,

とも当て,

にき,

と訓んだが,中世以降,

にぎ,

と訓む。

和魂(にぎたま),

の「和(にぎ)」である。『広辞苑』には,「にき」の項で,

「ニコと同根。奈良・平安時代には,清音。後世はニギとも」

として,

「おだやかな」「やわらかな」「こまやかな」「精熟した」などの意を表す,

と載る。「荒(あら)」が対。動詞化すると,

にき(和)び,

で,和らぐ,慣れ親しむ,

という意味。対は,「あら(荒)び」となる。因みに,

にきび(面皰),

は,かつて「にきみ」といったが,

「ニキはニキ(和)と同根」

とある(『古語辞典』)。

にきたえ(へ),

は,

和妙,
和栲,
和幣,

と当てるが,

古く折目の精緻な布の総称,またうって柔らかく曝した布,

の意で,対は,荒妙(荒栲)。『日本語の語源』によると,

「神に供える麻布をぎたへ(和栲)といったのが,たへ(t[ah]e)の縮約で,にぎて(和幣)になった。」

とある。因みに,「にこ」は,

和,
柔,

と当て,「荒(あら)」と対なのも「にき」に同じ。

体言に冠して「やわらかい」「こまかい」の意を表す。にき,
穏やかに笑うさま,

と載る。前者は,にこ毛,にこ草,等々と使う。後者は,「にこと笑う」の「にこ」である。

『大言海』は,「にぎ」の項として,

「和(なぎ)に通ず。荒(あら)の反」

とある。そして,

柔飯(にぎいひ),
塾蝦夷(にぎえみし),
和稻(にぎしね),
和炭(にぎずみ),

等々が並ぶ,ちなみに,和稻(にぎしね)とは,

籾をすりさった米,

の意で,「抜穂の荒稻(あらしね)」が対である。因みに,

にぎはひ,

は,

賑はひ,

と当てるが,語源は,

「ニギ(和)+ハフ(延ふ)」

で,「和やかな状態が打ち続き,盛んになる」意であり,

にぎやか,

も,

賑やか,

と当てるが,語源は,

「ニギ(和)+やか(形容動詞化)」

で,「和やかで,豊かで活気がある状態の形容動詞」である。

反対の荒(あら)は,『古語辞典』には,

「にき・にこ(和)の対。アラカネ(鉄)・アラタマ(璞)・アラト(磺)などのアラで,物が生硬で剛堅で,烈しい意を表す。」

とある。また「荒(あら)」は,

粗,

とも当てるが,その場合は, 

「こまか(濃・密)の対。アラアラ(粗・略)・アラケ(散)・アライミ(粗忌)・アラキ(粗棺)などのアラ。物が,バラバラで,粗略・粗大である意を表す。母音交替によってオロに転じ,オロカ・オロソカのカタチでも使われる。」

とあり,こう注記がある。

「(粗と荒は)起源的に別であったと思われるが,後に混用され,次第に『荒』の一字で両方の意味を表すようになった。」

しかし,そうではないのではないか。元々和語では,

「あら」

という表現しかなく,漢字で,荒と粗を区別することを知ったが,無理があり,混淆した,と見るべきではないか。だから,「あら」と言っている限り,

粗いの「あら」

荒っぽいの荒「あら」
も,

区別がつかない。前述した,にきたえ(へ)(和妙,和栲)は,反対は,荒妙(荒栲),つまりこの場合,荒々しいではなく,粗いを指す。区別はとうについていない。

「『大言海』の「あら」の説明がいい。

「嗟(あら)にて,見て驚嘆する声にもあるか」

と。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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而して


「而して」は,

しこうして,

と訓むが,『広辞苑』に,

「シカクシテの音便」

と載る。『大言海』には,

「然(しか)しての延」

とある。『古語辞典』にも,

「シカウはシカクの音便形」

とある。『デジタル大辞泉』は,

「『しかくして』あるいは『しかして』の音変化」

とする。いずれにしても,

漢文訓読,

のための言葉なのだが,

そうして,
それから,

という意味(『広辞苑』)とするのは,どうか。『大言海』には,

その如くありて,

とあり,意味は,「そして」に違いないが,どうももう少し含意がある気がする。それは,記憶に間違いがなければ,確か,司馬遼太郎の小説の中で,

来島又兵衛(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E5%8F%88%E5%85%B5%E8%A1%9B) が,結局蛤御門の変を起こすことになる,「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵することをためらう者に,

而して云々,

と,結局議論だけして事を起こさぬ,というような言い方をした場面があった。そのとき,「而して」は,

だから,
とか,
ひいては,

と,理屈の接続詞として使うことを皮肉っている含意があった。そこでは,単純に,

そして,

と前節をつなぐだけではない気がした。だから,

「《中世には「しこうじて」とも》前文で述べた事柄に並べて、あるいは付け加えて、別の事柄を述べるときに用いる。そうして。それに加えて」

と書く,『デジタル大辞泉』の説明は,微妙な含意を捉えていると思う。だから,前節をそのまま引き継ぐときは,

然り而(しこう)して,

と使うとある(『大辞林』)。つまり,

「先行の事柄を肯定的に受けて,後続の事柄に続けるときに」

「(そのとおりだ)そして」

という意味で使う。ただ「それから」の場合,「しかして」,

然(しか)して,
而(しか)して,

と使う。『大辞林』には,

「副詞『しか』に動詞『す』の連用形『シ』,助詞『て』の付いた語」

とある。敢えて解釈すれば,

然り+して,

と肯定して受ける,ということになる。

『古語辞典』は,「しかして」の項で,「然(しか)して」と「而(しか)して」を,正確に分けている。

「然して」は, 

「前後の分が時間的に前後の関係にあることを示す」

「而して」は,

@「前の文の終結した後をうけて,新たに後文をおこす」
A「文中に合って,前の中止形の文と後文とが,時間的に前後の関係にある事を示す」

「而して」は,単純に「そして」ではない。「而」の字は,

而立





である。つまり,「論語』(為政篇)の,

吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る
六十にして耳順い,七十にして 心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず,

でいう,

三十而立,

から来ている。「三十にして立つ」は,単純に「そして」であるはずはない。

三十になったからこそ,
三十になった故に,
三十になったのを機に,
三十になってようやく,

等々,

十有五而志乎學,
三十而立,
四十而不惑,
五十而知天命,
六十而耳順,
七十而従心所欲踰矩,

の「而」のもつ含意は,ただ「そして」ではない。

因みに,「而」の字は, 

「柔らかく粘ったひげのたれたさまを描いたもの。ただし古くから,中称の指示詞に当て,『それ』『その人(なんじ)』の意に用い,また指示詞から接続詞に転じて,『そして』『それなのに』というつながりを示す。」

とある。「而」「然」の違いについて,こう載せている。

「而」は,て,にて,して,しかるに,しかも,などと訓み「承上起下之辞」と註す。されば,而の字を句中に置くときは,必ず上下二義あり,上下の二義折るることあり。左傳に「哀而不傷」の如し,折れざることあり,左傳に「有威而可畏,之謂威」のごとし。折るる場合には,しかもと訓むべし。

「然」は,而と同用にして,意重し,しかれどもと訓むときは,雖然の義にして語緊し。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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いいんです


「いいです」は,

良いです,
あるいは,
(それで)結構です,

と肯定の意味にも使うが,

要らないです,
あるいは
(それは)結構です,

という,

否定,
あるいは,
拒絶,

の両義性があり(「結構です」も両義性があるが),まさに,

すいません,

と同様,文脈依存の日本語の真骨頂のような言い回しではなかろうか。これが,

いいんです,

と「ん」が入って強調されても,その両義性は変わらない。

すい(み)ません,

については,「すいません」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%81%99%E3%81%BF%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93)、「誤る」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E8%AC%9D%E3%82%8B) で触れた。

で,「いいです」であるが,この,

いい,

は,恐らく,

よい,

あるいは,

よし,

が変化したものである。「よし」だと,

好し,
吉し,
善し,
宜し,

が当てられ,『古語辞典』には,

「『あし(悪)』『わろし(劣)』の対。吉凶・正邪・善悪・美醜・優劣などについて,一般的に,好感・満足をを得る状態である意」

とある。「よい」だと, 

好い,
善い,

が当てられ,『広辞苑』に,

「『よい』の転。終止・連用形のみ。『よい』のくだけた言い方」

とある。『デジタル大辞泉』には,

「『よい』の終止形・連体形だけが、類義・類音の『ええ(良)』の影響を受けて『いい』となった語。『いくない』『いかった』なども地方によっては使われるが、あまり一般的でない。」

として,用法として,

「『日当たりがいい(よい)』『都合がいい(よい)』『気分がいい(よい)』、また『いい(よい)評判』『いい(よい)成績』などでは相通じて用いられるが、話し言葉では『いい』のほうが普通である。
『いい気味だ』『いいざまだ』『いい年をして』『いい迷惑だ』『いい御身分だ』のような皮肉をこめた言い方、相手を非難する言い方では『いい』を使い、『よい』はあまり使わない。『よい子』は正面からの肯定的評価であるが、『いい子になる』では皮肉な意味がこめられる。
類似の語に『よろしい』があり、『評判がよろしい(いい・よい)』『成績がよろしい(いい・よい)』など、『いい』『よい』と同じように使うが、『よろしい成績』『よろしい日当たり』などとは普通はいわない。」

と載る。「よし」には,

宜し,

も当てていたので,「よろし」の含意は元々ある。「よろし」は,

「ヨル(寄)の派生語であるヨラシの転。主観的に良しと評価される,そちらへ寄りたくなる意」

と『広辞苑』にはある。『古語辞典』の「よらし」を見ると,

「ヨリ(寄)の形容詞形。側に寄りたい気持ちがする意が原義。ヨリ(寄)・ヨラシの関係は,アサミ(浅)・アサマシ,サワギ(騒)・サワガシ,ユキ(行)・ユカシの類」

とある。しかし,

いいです,

の肯定は,これでも意味が通じるとしても,拒絶は,これでは意味が通じない。

「よし」には,「縱(縦)し」と当てる言葉がある。

「形容詞ヨシ(宜)の転用。他人の判断や行動を許容・容認し,また自己の決断・断念を表現する語。下に,逆説仮定条件を表す『とも』を伴うことが少なくない。」

と,『古語辞典』にはあり,『大言海』は,

「可(よ)しと縦(ゆる)す意」

として,

「心には叶はねど,せむ方も無ければとて,打任する意を云ふ語。たとひ,さもあらばあれ,ままよ」

と意味が載る。確かに,肯定の「いいです」には,

良い,
好い,

意味があるが,どこか,

とでも言っておくか,

というニュアンスがあるのではないか。否定は,

詮方ない,

が表面に出る,ということだろうか。

じゃあ,いいです,

となると,少し否定が前へ出るか。それにしても,文脈があいまいだと,

肯定,

と取られかねない,危うさがある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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丸める


「丸める」は,

形を丸くする,

という意味から,それをメタファーに,

頭髪をそる,剃髪する, 
全体をひっくるめる,
丸め込む,巧みに人を言いくるめる, 
端数を切り上げたり、切り捨てたりして扱いやすい数にする,

と,意味の外延の抽象度が上がる(『広辞苑』『デジタル大辞泉』)。『江戸語大辞典』には,

丸くおさめる,人の和をはかる,
口先でうまく従わせる,

の意しか載らない。

丸めるの「まる」は,

丸,
円(圓),

と当てるが,「マロ」の転。古形は,「マロ」。

「球形の意。転じてひと固まりであるさま」(『古語辞典』)

である。だから,「丸める」は,

まろめる,
まろむ,

とも言う。語源は,

「『マル(丸・円)+める』で,他人を自由に操る意です。」

とある(『語源辞典』)が,いかがなものか。「まる(丸・円・○)」の語源は,

「満(例:満三年,まる三年)」

である。

「manがmaruと音韻変化した語です。マロ(麿・麻呂)も同源です。」

とある。「麿」をみると,

「『マロ(丸・円)』です。完全で立派で丸い人,の意です。上代の自称。」

とある。「まろ(麿・麻呂・丸)」について,『古語辞典』は,

「奈良時代には,多く男子の名に用いた語。平安時代には広く男女にわたって自称の語として使われ,親愛の情の込められた表現であった。室町時代,転じてマルとなり,接尾語となった。」

とある。しかし,漢字「丸」の字は,

「『曲がった線+人が身体をまるめてしゃがむさま』で,まるいことをあらわす」

とある。しかも,意味は,

たま,弾丸や丸薬,

を指し,どうやら,

まるい,
まるめる,
まる,円,
まる,全部,
まる,城郭,
人の名マル,

というのは,我が国だけで使う意味のようである。つまりは,本来「球」しか意味しないものを,勝手に拡大して使って,円だの,全部だのと,意味を広げたということになる。

「圓(円)」の字は,

「員(ウン・イン)は,『○印+鼎』の会意文字で,丸い形の容器を示す。圓は,『囗(かこい)+音符員』で,まるいかこい」

である。圓と丸の違いは,

圓は,方の対。まんまろきなり,形態に限らず,義理の上にも広く用ふ。圓満,圓熟,
丸は,弾丸なり,丸薬の如く,まんまろく,ころげるものなり,

とある(『字源』)ので,あるいは,「丸」は,「圓(円)」の意を受けて広がったのではないか,と推測される。

『大言海』の「まろ(圓・丸)む」の意味が,この間の経緯をよく示す。

「手にて固めて圓(まる)くなす。まろぐ。まるむ。まろめる。」
「圓(まろ)き形をつくる。」

その意味で,丸と圓ば混同されたようだ。「まるく(かたち)つくる」ものはすべて,丸なのだ。城郭で,

真田丸,

のように,「郭・曲輪(くるわ)」を丸と呼ぶが,

「安土桃山時代以降の城では、それぞれの曲輪はその用途によって「○○曲輪」「○○丸」などと呼ばれ、また時代や地域によっても名称は異なる。“本丸”“二の丸”など曲輪を“丸”と言うようになった起源や語源はわかっていない」

と,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E8%BC%AA

では言うが,多く,まるく囲む所から来たに違いない。

「城をとるべきようは、小く丸くとるべし」(北条氏長『兵法雌鑑』)
「城は小円を善とすること、城取の習とぞ、此故に丸とは呼ぶ也」(木下義俊『武用弁略』)

とあるように,語源的には,本来は,丸ではなく,圓でなくてはならない。

また,船につける「丸」については,

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1122743421

に,

「船舶法の取り扱い手続きに『船舶ノ名称ニハ成ルベク其ノ末尾ニ丸ノ字ヲ附セシムベシ』とあるが,その謂れには,

1.豊臣秀吉が巨船を造って日本丸と名付けたのが起こりである。 
2.中国の皇帝の時、天から降りて船を造ることを教えた白童丸の丸を採った。 
3.易から来た。 
4.封建時代に屋号を用いた丸から転用された。 
5.麿から転化した。
(自分のことを麿と言ったのが、後に愛敬の意味で人名に付け、
さらにそれが広く愛玩物に用いられ、
同時に麿から丸に転じ、船にもつけるようになった。) 

とある。これも,「麿」の謂れが一番近い気がするが。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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結構