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コトバ辞典


ないがしろ


「ないがしろ」は,

蔑ろ,

と当てる。「蔑」(漢音ベツ,呉音メチ)は,

「会意。大きな目の上に,逆さまつ毛がはえたさまに戈(カ 刃物)をそえて,傷つけてただれた目を表した。よく見えないことから,転じて,目にも留めないとの意に用いる」

とある。

ただれた目→よく見えない目→相手を目にも留めない,無視する→相手をけなす,

といった意味の転化のようである。

「ないがしろ」は,

他人や事物が,あっても無いかのように侮り軽んずるさま,

の意で,そこから転じて,

人目を気にしないこと→うちとけたさま→無造作なさま→しどけないさま,

等々と意味が変わっている。「ないがしろ」は,

だから,

あってもないかのごとく,

の意である。

「無キガシロ(代)の音便。無いも同然の意」

とある(広辞苑・大辞林・岩波古語辞典)。天治字鏡には,

「蔑,無加代也」

とある。日本語源広辞典の解釈だと,

「『無き+しろ(代,材料,対象)』です。他人の目を気にしない,気ままの意です。転じて,現代語では,あってもなかったように軽く扱う意です」

となるが,これでは,「蔑」の字を当てた古人の意図が消えてしまう。また,日本語の語源は,

「ナキガムシロヨシ(無きが寧ろ良し)は『ム』『ヨシ』を落としてナイガシロ(蔑ろ)になった」

とするが,これだと,「ないがしろ」の意味が少し変わり,ガンムシの意味が薄らぐ。「蔑」の字を当てた意味が飛んでしまうのではないか。あくまで,

あってもなきがごとく,

であるからこそ,「蔑」の字を当てる意味がある。

「ナキガシロ(無代)」の他,多くは,

ナキカステラ(無為)の義(言元梯),
ナキ(無)カ-シリ(領)オの義(国語本義),
無が如しの義(柴門和語類集),

としている。 

「ないがしろは、『無きが代(なきがしろ)』がイ音便化された語。『代(しろ)』は『身代金』などにも使われるように、『代わりとなるもの』を意味する。『代』が無いということは、『代用の必要すら無いに等しい』という意味である。 つまり、人を無いようなものとして扱うことの意味から、軽視したり無視することを『ないがしろ』というようになった」

という説明(語源由来辞典・由来・語源辞典)が正確である。

現代の使い方は,

蔑ろにする,

が多いが,

「無いのと同じように扱う、という意味。寝ている親を思い切り蹴飛ばしておきながら、『なんだ、そこにいたのか。気がつかなかった』というようなことを平気で口走る態度を『親をないがしろにする』と言う」

と(笑える国語辞典)と,ほぼ当初の意味を保持しとている。むしろ,

あってもないかのごとく,

の意が転じた,

人目を気にしないこと→うちとけたさま→無造作なさま→しどけないさま,

という使い方は,

「小桂(コウチギ)だつもの,ないがしろに着なして」(源氏)
「装束,しどけなげにて,参り給へり,鬢のわたりも,打ちとけて,ないがしろなる御うちとけすがたの」(狭衣),

は平安期のみのように見える。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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じだんだ


「じだんだ」は,

地団駄,
地団太,

と当てる。「じだんだ」は,

ジタタラ(地蹈鞴)の転,
とか,
「じたたら(地蹈鞴)」の音変化,

とある(広辞苑,デジタル大辞泉)。「じたんだ」は,

地団駄を踏む,

という言い回しで使う。

足で地を何回も踏みつける,

状態表現だが,

悔しがって足を踏み鳴らす様子,
あるいは,
怒りもがいて激しく地面を踏む,

意で使う。室町末期の日葡辞書にも載る。

地蹈鞴を踏む,

の転訛で,

地団駄をふむ,となったものらしい。

「地蹈鞴」とは,

じたたら,
じだたら,
じただら,

とも訓ます。

蹈鞴(たたら),

と同じ意味である。語源由来辞典は,

「激しく地面を踏み鳴らすさまが,蹈鞴を踏む仕草に似ていることから『地蹈鞴(じだたら)』と言うようになり,『地団駄(じだんだ)』に転じた。『じんだらを踏む』『じんだらをこねる(地団駄を踏んで反抗する・駄々をこねる)』など,各地に『じんだら』という方言が点在するのも,『地蹈鞴(じだたら)』が変化したことによる」

としている。柳田國男も,

「尻餅をつき,両足を投げ出してばたばたさせることをいう関東方言のヂンダラ」

も同系統としている(日本語源大辞典)。

蹈鞴は,蹈鞴製鉄の意で,「たたら」という文字は,

「『古事記』(712年)に『富登多々良伊須々岐比売命ほとたたらいすすきひめのみこと』、『日本書紀』(720年)では『姫蹈鞴五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみこと』と出てくる」

のが初見とされるhttp://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-outline/part-1/ほど,

「日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が『たたら』と呼ばれていたために付けられた名称。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする。近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%82%89%E8%A3%BD%E9%89%84

「蹈鞴」は,大言海は,

「叩き有りの略轉,踏み轟かす義」

とするが,

板を踏んで風を送るときの音から(瓦礫雑考),
鉱石を爛らかし熔かす器具デアルトコロカラ,タタはタダレ(爛れ)の語幹,ラは接尾語(日本古語大辞典=松岡静雄),

などもあり,擬音説は捨てがたい気がする。

「蹈鞴」については,

蹈鞴を踏む,

という言い回しがある。

蹈鞴を踏んで,空気を送る,

意と,

勢い込んで打ちまたは突いた的が外れたため,力が余って,空足を踏む,

意で使う(広辞苑)が,これよりは,

よろめいた勢いで,勢い余って数歩ほど歩み進んでしまうこと,
足踏みすること,

という意味(実用日本語表現辞典)の方が実態に近い。

「から足を踏む」 動作と 「蹈鞴を踏む」 動作が同一視できるものなのかどうか,ちょっと疑問に思える,

という印象(https://mobility-8074.at.webry.info/201610/article_21.html)がなくもないが,

「たたらを勢いよく踏むさまが、空足を踏む姿と似ていることから、勢い余って踏みとどまれず数歩あゆむことを『たたらを踏む』というようになった」

ということでいいのかもしれない(語源由来辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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襟を正す


「襟を正す」とは,文字通り,

姿勢,服装の乱れを整え,きちんとする,

意だが,それをアナロジーに,

心を引き締め真面目な態度になる,

意で使う(広辞苑)。

膝を正す,

も,

改まった様子になる,

という意である。似た言い回しに,

居住まいを正す,

というのがある。「襟を正す」の出典は,一つは,史記・日者伝の,

宋忠賈誼、瞿然而悟獵纓正襟危坐,

の,

獵纓正襟危坐(纓を猟り襟を正して危坐す),

である。

「長安の有名な易者に会いに行った漢の宋忠と賈誼が,有名な易者である司馬季主と会ったとき、司馬季主の易にとどまらない深い博識に感動し、自然に冠のひもを締め直して上着の襟(えり)を正し、きちんと座り直して話を聞き続けた」

という意である(由来・語源辞典)。

「襟を正す」の出典とされるものに,もう一つある。北宋の詩人・蘇軾(そしよく)(東坡)の詩,「前赤壁賦」に,

蘇子愀然
正襟危坐
而問客曰
何為其然也

とある。、「蘇子(蘇軾)は真顔になり襟を正して座りなおし、客に『どうすればそのような音色が出せるのか』と問うた」というのである(https://biz.trans-suite.jp/15915)。前後は,

客有吹洞簫者(客に洞簫を吹く者有り)
倚歌而和之(歌に倚りて之に和す)
其声鳴鳴然(其の声鳴鳴然として)
如怨如慕(怨むが如く慕うが如く)
如泣如訴(泣が如く訴えるが如く)
余音嫋嫋(余音嫋嫋として)
不絶如縷(絶えざること縷の如し)
舞幽壑之潜蛟(幽壑の潜蛟を舞はしめ)
泣孤舟之寡婦(孤舟の寡婦を泣かしめ)
蘇子愀然正襟(蘇子愀然として襟を正す)
危坐而問客曰(危坐して客に問いて曰く)
何為其然也(何為れぞ其れ然るやと)

という(http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/seki1.htm)。

「赤壁賦」には,

前赤壁賦と後(こう)赤壁賦,

があり,あわせて「赤壁賦」というが,前赤壁賦のみにも使うらしい。これは,

「政争のため元豊3年都を追われ黄州 (湖北省) に流された作者が,翌々年7月揚子江中の赤壁に遊んだときのありさまを記したもの。同年 10月再び赤壁に遊び続編をつくったので,7月の作を『前赤壁賦』,10月の作を『後赤壁賦』と呼ぶ」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

「えり」は,

襟,
衿,

と当てる。「襟」(漢音キン,呉音コン)は,

「会意兼形声。『衣+音符禁(ふさぐ)』」

で,「えり」の意だが,

胸元をふさぐところ,衣服で首を囲む部分,

とあり,「衿」(漢音キン,呉音コン)は,

「会意兼形声。『衣+音符今(ふさぐ,とじあわせる)』でね衣類をとじあわせるえりもと」

とあり,「えり」の意だが,

しめひも,衣服を着るときむすぶひも,

とあり,「襟」と「衿」は微妙に違うように思える(漢字源)。

和語「えり」の語源は何か。岩波古語辞典は,

「古くは『くび』または『ころもくび』といった」

とある。古くは,「えり」という名がなかった可能性をうかがわせる。大言海が,

「衣輪(エリン)の略(菊の宴(えん)もきくのえ)。…万葉集『麻衣に,衿著』とあるを,契沖師はアヲエリと訓まれたれど,此語さほどふるきものとは思はれず」

とするのも,「えり」という言葉が後のものだと思わせる。「えりん (衣輪) 」とは,貫頭衣 (かんとうい) の,

「 1 枚の布や莚 (むしろ) の中央に穴をあけただけのもので,その穴に首 (頭) を通して着る,その穴のこと」

らしく(https://mobility-8074.at.webry.info/201812/article_17.html),倭人伝に,

「衣を作ること単被の如し。その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る」

のと同様である。「衣輪」との絡みで,大言海は,「輪(りん)」の項で,車の輪の意の他に,

覆輪(ふくりん)の約,

という意を載せる。

衣服の縁(へり)。別のきれにて縁をとりたるもの,襟(はんえり)なるも,施(ふき)なるも云ふ,

という意味を載せる。これも,「えり」の由来の新しさを思わせる。

日本語源広辞典は,二説挙げる。

説1は,「へり(縁辺)の音韻変化」,ヘリ→エリ,
説2は,「縁の中国音en+iの音韻変化」,エン→エニ→エリ,

しかし大言海の「衣輪」説を考えあわせれば,なにも中国語を考えなくても,

ヘリ→エリ,

で自然ではあるまいか。その他,

ヨリ(縁)の轉(言元梯),
ヘヲリ(重折)の約(菊池俗語考),
エン(縁)の轉(嚶々筆語),

等々も同趣旨である。「えり」が新しいことを考えると,「へり」の転訛もありえるが, 「衣輪」由来というのも捨てがたい。

「首に当たる部分以外でも,今でいう袖口の部分や裾の部分も『へり (縁) 』なわけですから,なぜ,首が当たる部分だけを『へり』と言ったのか,その説明がないと,ちょっと語源説としてもの足りない感じがします。」

という考え(https://mobility-8074.at.webry.info/201812/article_17.html)もあるが,大言海が,「覆輪」を,

衣服の縁(へり)。別のきれにて縁をとりたるもの,襟(はんえり)なるも,施(ふき)なるも云ふ,

としているように,「はんえり」と「施(ふき)」を同じく「覆輪」と呼んでいるのである。「施(ふき)」は,袖口や裾の裏地を表に折り返して,少しのぞくように仕立てるものを指す。襟も袖口も裾も,「覆輪」なのである。我が国は,言葉の使い方はかなりいい加減である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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そで


「そで」は,

袖,

と当てる。「袖」(漢音シュウ,呉音ジュ)は,

「会意兼形声。『衣+音符由(=抽,抜き出す)』。そこから腕が抜けて出入りする衣の部分。つまり,そでのこと」

とあり(漢字源),字源には,

「手の由りて出入りする所,故に由に从(したが)ふ」

とある。「そで」には,「袂」もあるが,我が国は,

たもと,

に当てる。「袂」(漢音ベイ,呉音マイ)の字は,

「会意。『衣+夬(切り込みを入れる,一部を切り取る)』。胴の両脇を切り取ってつけた,たもと」

とある(漢字源)。

「そで」は,

「衣手(そで)の意。奈良時代にはソテとも」

とあり(広辞苑),岩波古語辞典も,

「ソ(衣)テ(手)の意。奈良時代は,ソテ・ソデの両形がある」

とし,大言海は,

「衣手(そで)の義と云ふ。或は,衣出(そいで)の約か」

とする。「そ」自体が,

衣,

と当て,

ころも,

の意だが,

ソデ(袖),
スソ(裾),

等々,熟語にのみ用いられる。問題は,この「そ」が,上代特殊仮名遣いでは,

乙類音(sö)

で,「そで(袖)」の「そ」が,

甲類韻(so),

とされていることだ。ただ,もし「襟を正す」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%A5%9F%E3%82%92%E6%AD%A3%E3%81%99)で触れたように,「えり」ということばが,後になって使われたのだとすると,「そで」も後に,つまり,

『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』など、上代(奈良時代頃)の万葉仮名文献に用いられた,

後の,古典期以降,その特殊仮名遣いが使われなくなって以降の「ことば」とすると,つじつまはあう。とすると,

そで(衣手)の義(東雅・安斎随筆・燕石雑志・箋注和名抄・筆の御霊・言元梯・名言通・和訓栞・弁正衣服),
衣の左右に出た部分をいうところから,ソデ(衣出)の義(日本釈名・関秘録・守貞漫稿・柴門和語類集・上代衣服考=豊田長敦),

の諸説も,まんざら捨てられない。音韻とは関係ない,

そとで(外出)の義(名語記),

もあるが,ちょっと付会気味である。

「そ(衣)」は,

「ソデ(袖),スソ(裾)のソ。ソ(麻)と同根か」

とある(岩波古語辞典)。「ソ(麻)」は,

アサの古名。複合語として残る,

とある(仝上)。

あおそ(麻),
うっそ(打麻),
なつそ(夏麻),

等々に使われている。大言海は,

オソフ(襲)の語根オソの約か,又身に添ひて着るなれば,云ふかと云ふ,

とするが,ちょっと無理筋に思える。他に,

身の外に着るからソ(外)の義(柴門和語類集),

等々あるが,理屈ばっているときは大概付会である。ここは,日本語源広辞典の,

麻の古名ソ

でいいのではないか。「そ(麻)」も,「そ(衣)」も,

so,

なのである。

なお,「袖にする」という言い回しは,

手を袖にす,

の略で,

自分から手を下そうとしない,手出ししない意,

である(岩波古語辞典)それが転じて,

手に袖を入れたまま何もしない,

おろそかにする,

すげなくする,

といを転じたと思われる。日本語源広辞典は,

「ソデは,身に対して付属物です。中心におかないことです。おろそかにする,蔑ろにする意です」

とし,笑える国語辞典は,

@着物の袖に手を突っ込んだまま相手の話を聞くという冷淡な態度からきた,
A「舞台の袖」などというように「袖」には端の部分、付属的な部分という意味があるから,
B袖を振って相手を追い払う仕草から,

と三説挙げるが,原義が,

手を袖にす,

なら,いずれも,後世意味の変化後の解釈に思われる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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たもと


「たもと」は,

袂,

と当てる。「袂」(漢音ベイ,呉音マイ)の字は,

「会意。『衣+夬(切り込みを入れる,一部を切り取る)』。胴の両脇を切り取ってつけた,たもと」

とある(漢字源)。「たもと」の意で使うのは我が国だけらしい(漢字源)。

「たもと」は,

手本(たもと)の意(広辞苑),
タ(手)モト(本)の意(岩波古語辞典),
手本(たもと)の義。手末(たなすゑ)に対す(大言海),
テモト(手許)の轉(和語私臆鈔),

とある。「たなすゑ」は,

手之末の義,

で,

手の端,
手の先,
手先,

の意である(大言海)。岩波古語辞典には,

手末,
手端,

と当て,

「タは手の古形。ナは連体助詞」

とする。だから,「たもと」の本来の意味は,

肘より肩までの間,即ち肱(かいな)に当たるところ,

を指すとし, 

「上古の衣は,筒袖にて,袖の肱に当たる邊を云ひしが如し」

とする(大言海)。つまり,

かいなの部分→そこを覆う着物の部分,

となり,さらに,

袖,

の意にまで広がり,

「袖の形が変わるにつれ,下の袋状の部分をいうようになる」

という(岩波古語辞典)。平安時代以降,和服の部分を指すようになった(語源由来辞典)ものらしい。

「たもと」は,その意味では,

手先,

の対であると同時に,

足元,

にも対している(日本語源広辞典)。

「たもと」にかかわる言い回しで,

袂の露,
袂を絞る,

は意味が分かるが,「関係を断つ」「離別する」意で使う,

袂を分かつ,

は,和服の,



身頃,

の接続部分,つまり,

袖付け,

を斬りはなすことを指す。「袂を分かつ」には,どこか,単なる,

関係を立つ,

よりは,身を切るような,あるいは,捨てるというような,思いがあるように思われる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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すそ


「すそ」は,

裾,

と当てる。「裾」(漢音キヨ,呉音コ)は,

「会意兼形声。『衣+音符居(しりをおろす,したにすわる)』」

とある(漢字源)。別に,

「会意兼形声文字です(衤(衣)+居)。『身体にまつわる衣服のえりもと』の象形(「衣服」の意味)と『腰かける人の象形と、固いかぶとの象形(「固い、しっかりする」の意味)」(「しっかり座る」の意味)から、座る時に地面につく『すそ』を意味する『裾』という漢字が成り立ちました。』

ともある(https://okjiten.jp/kanji2062.html)。で,

長い衣服の,下の垂れた部分,

つまり,

すそ,

の意から,転じて,

物の下端,

の意味となる(漢字源)。これは,和語「すそ」とも同じである。

衣服の下の縁,

の意から,

物の端,
髪の毛の末端,
山のふもと,
川下,

と意味が転じていく。岩波古語辞典には,

「上から下へ引くように続いているもの,くたつものなどの下の部分」

とある。大言海は,

裾,

の他に,

裔,
裙,
襴,

を当て,

「末衣(すえそ)の略か,又,末殺(すえそぎ)の略か。はたばり,はば。かたはら,かは」

とする。日本語源広辞典は,

末衣(スエソ)の略,

を採る。大言海の二説以外には,

スリサル(摺去)の義か(名言通),
スソ(摩衣)の義か(国語の語根とその分類=大島正健),

があるが,言葉の意味から見れば,

末衣(スエソ)の略,

が妥当かもしれない。「すそ」に絡む言葉は結構あり,

裾高,
裾付,
裾継,
裾張り,
裾被(かつぎ),

等々の中で,

(お)裾分け,

という言い回しは現代でも使う。

もらいものの余分を分配する,
利益の一部を分配する,

といった意だが,中世末期の日葡辞書にも,

スソワケヲスル,イタス,

とあり,

お裾分け,

は近世後期からみられる(語源由来辞典),という。岩波古語辞典が,

下配,

とも当てるように,

多く,卑下(めした)に対して云ふ,

とあり,上位者に対しては使わない。

「『すそ』とは着物の裾を指し、地面に近い末端の部分というところから転じて『つまらないもの』という意味がある。よって、本来目上の人物に使用するのは適切ではない」

と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%A3%BE%E5%88%86%E3%81%91)。

「『すそ(裾)』は、衣服の下端の部分から転じて、主要ではない末端の部分も表す。 そこから、品物の一部を下位の者に分配することを『裾分け』というようになり、下位の者に限らず、他の人に一部を分け与えることを『おすそわけ』というようになった」(語源由来辞典)。

「『裾』は衣服の末端にあり重要な部分ではないことから、特に、上位の者が下位の者に品物を分け与えることを『裾分け』といい、…現在では本来の上から下へという認識は薄れ、単に分け与える意味で用いることが多い」(由来・語源辞典)

ということらしい。しかし,「お裾分け」は,

お福分け,

ともいい,

「お福分けは『福を分ける』意味であるゆえ目上の人物に使用しても失礼に当たらないとされている」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%A3%BE%E5%88%86%E3%81%91)。物は言いようである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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杜撰


「杜撰」は,

ずさん,

と訓ますが,本来,

ずざん,

と訓むものが訛った。「杜」(漢音ト,呉音ズ)は,

「会意兼形声。『木+音符土(ぎっしりつまる)』」

とあり(漢字源),果樹の「やまなし」の意であり,「とざす」(是静非杜門)の意で,「塞」と同意である(字源)。「(神社の)もり」の意で使うのは我が国だけである。

「撰」(慣音セン,漢音サン,呉音ゼン)は,

「会意兼形声。巽(セン・ソン)とは,人をそろえて台上に集めたさま。撰は『手+印符巽』で,多くのものを集めてそろえること」

とある(漢字源)。「えらぶ」意だが,「詩文をつくる」意がある。「えらぶ」意では,

撰んで集めそろえること(もの),
事柄をそろえ,集め,それをもとに文章をつくる(撰述),
生地を集めて述べる,編集する,

といった意味になる(漢字源)。「撰」は,

「造也と註す。文章を作るには,撰,譔何にてもよし。撰述と連用す。唐書,百官志『史館修撰,掌修國史』」

とあり(字源),「選」は,

「よりすぐること,文選・詩選は,詩文のよきものをよりぬく意なり。撰述には用ひず。論語『選於衆擧皐陶不仁者遠(衆に選んで皐陶(舜帝が取り立てて裁判官とした)を挙げしかば,不仁者遠ざかりぬ)』」

とあり(字源),「撰」と「選」の違いが,「杜撰」の語源を考えるに当たって鍵となる。

「杜撰」は,今日,

物事の仕方がぞんざいで,手落が多い,

意で使われる。元は,一説に,

杜黙(ともく)の作った詩が多く律に合わなかったという故事から,

とある(広辞苑)。日本語源広辞典も,

杜黙の試が多く律に合わなかった故事,

とする。大言海は,

「宋音ならむ。禅林寶訓音義,下『杜撰,上,塞也,下造也,述也,言不通古法而自造也』。無冤録『杜撰,杜借也。撰,集也』」

とし,

詩文,著述などに,妄りに典故,出處も無き事を述ぶること,

とし,類書纂要の,

「杜撰作文,無所根拠」

野客叢書(宋,王楙)の,

「杜黙為詩,多不合律,故言事不合格者,為杜撰」

事文類聚の,

「或云,唐皇甫某,撰八陽經,其中多載無本據事,如鬱字,分之為林四郎,故事無本據,謂之杜撰」

等々を引く。こうみると,「杜撰」は,

「杜という人の編集したものの」

意(故事ことわざ辞典)ではなく,「撰述」の意,つまり,

「詩作」

の意であり,

「『杜』は宋の杜黙(ともく)のこと、『撰』は詩文を作ること。杜黙の詩が定形詩の規則にほとんど合っていなかったという「『野客叢書』の故事から」(デジタル大辞泉)

「杜撰の『杜』は、中国宋の杜黙(ともく)という詩人を表し、『撰』は詩文を作ることで、杜黙 の作った詩は律(詩の様式)に合わないものが多かったという故事に由来するという、中国の『野客叢書(やかくそうしょ)』の説が有力とされる」(語源由来辞典)

というところに落着しそうだが,

杜撰の「杜」は,本物でない仮の意味の俗語とする説,
道家の書五千巻を撰した杜光庭を指す説,

等々異説もあるが,「杜」については説が分かれている。日本語源大辞典は,

「ズ(ヅ)は『杜』の呉音,サンは通常センと訓む『撰』の別音。中国宋代に話題となったことばで,『野客叢書』や『湘山野録』などで語源について論じられている。日本には禅を通じて入ったようで,『正法眼蔵』や,『下學集』の序文に使用例が見られるが,辞書では,『書言字考節用集』に『湘山野録』を引いて『自撰無承不拠本説者曰杜撰』と記述されている」

と書く。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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をろち


「をろち」は,

おろち,

普通,

大蛇,

と当てる。ほぼどれも,

ヲ(オ)は「峰」,ロは接尾語(あるいは助詞,接辞),チは霊威あるもののの意,

としている(広辞苑)。「ヲ」を「尾」とするものも多くある(日本語源広辞典)が,「を(尾)」は,

「小の義。動物體中の細きものの意」

で(大言海),そのメタファで,

山尾,

という使い方をし,

山の裾の引き延べたる處,

の意に使い,転じて,

動物の尾の如く引き延びたるもの,

に使った。「を(峰・丘)」は,その意味の流れの中で重なったとみられる。

大言海は,「をろち」を,

ヲにロの接尾語を添へて尾の義,チは靈なり,尾ありて畏るべきものの義,

としているが,

「『ろ』は助詞で,現在使われている助詞の中では『の』に相当する語」

とあり(語源由来辞典),ほぼ同義である。「ち」は,

「血」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E8%A1%80),
「いのち」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1),

で触れたように,

いかづち(厳(いか)つ霊(ち)。つは連体助詞),
をろち(尾呂霊。大蛇),
のつち(野之霊。野槌),
ミヅチ(水霊),

と重なり,「ち(霊)」は,

「原始的な霊格の一。自然物のもつはげしい力・威力をあらわす語。複合語に用いられる」

ので,

いのち(命),
をろち(大蛇),
いかづち(雷),

等々と使われ(岩波古語辞典), 

「神,人の霊(タマ),又,徳を称へ賛(ほ)めて云ふ語。野之霊(ノツチ,野槌),尾呂霊(ヲロチ,蛇)などの類の如し。チの轉じて,ミとなることあり,海之霊(ワタツミ,海神)の如し。又,轉じて,ビとなるこあり,高皇産霊(タカミムスビ),神皇産霊(カムミムスビ)の如し」

なのである(大言海)。つまり,「をろち」は,

尾の霊力,

という意味になる(日本語源大辞典)。

古事記のヤマタノロチは,

高志之八俣遠呂知,

と表記されている。八つの頭と鉢の尾をもつ恠異である。これについて,

「酒を飲まされたヲロチはスサノヲに切り殺されるが,その尾を切った時,剣が出てきた。三種の神器の一つ,草薙の剣である。(中略)『尾』こそが,得体の知れない恐ろしいヲロチの武器なのである」

とある(日本語源大辞典)。つまり,

尾から剣が出る,

とは,

尾の霊威,

の象徴なのである。また,「蛇」は,

水の神,

でもある。ヤマタノロチは,

「その身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生ひ,その長(たけ)は谷八谷・峡八尾(やお)に度(わたら)ひて,その腹を見れば,悉に血に爛れつ」

とある,まさに,

河川,

そのものの如くである。

「蛇神は一般に水の神として信ぜられたから,八俣の大蛇は古代出雲地方の農耕生活に大きな破壊をもたらした洪水の譬喩」

と見做す(日本伝奇伝説大辞典)のは妥当なのかもしれない。なお,大蛇から出た,

剣,

は,出雲・斐伊の河上流の,

鉄文化,

の象徴との見方もある(仝上)。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ためる


「ためる」(たむ)は,

溜める,
貯める,

とあてる「ためる」と,

矯める,
撓める,
揉める,

とあてる「ためる」がある。「溜める・貯める」は,

とどめる,
せきとめる,
たくわえる,

といった意味であり,「矯める」は,

曲がっているのを真直ぐにする,
改め直す,
いつわる,曲げる,
狙いをつける,

といった意味を持つ。大言海は,「たむ(撓)」は,

木竹など炙り,又は濡すなどして,伸べ,或は屈め,て,形を改む,

とあり,それが,転じて,

すべて物事を改め正しくす,

の意となり,それは,ある意味,

「無理にもとの形を変える。良くする場合も,悪くする場合にもいう」(岩波古語辞典)

ので,

偽る,

ともなる。また,

控え,支え持つ,

意を持つ。これが,

「腰だめ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E8%85%B0%E3%81%A0%E3%82%81),

の「ため」であり,

「ためつすがめつ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%A4%E3%81%99%E3%81%8C%E3%82%81%E3%81%A4),

の「ため」でもある。室町末期の日葡辞書(『広辞苑』)にも,「テッポウ(鉄炮)ヲサダムル」とある。さらに,「たわむ(揉)」は,

撓(たわ)むの略,

とする。岩波古語辞典の「たむ」の項は,

タム(廻)と同根,

とある。大言海は,

撓む,

意とし,

くねり廻る,

とする。この「たむ」は,

廻む,
訛む,

とも当てる。

ぐるっとまわる,

意の他に,

歪んだ発音をする,

つまり,

訛る,

意もある。「たむ」は,漢字で当て分けているが,結局,

無理にもとの形を変える,

意であり,それが,

矯正,
でもあり,
偽り,
でもあり,
訛る,

でもある。しかし,「腰だめ」「ためつすがめつ」の,

狙いをつける,

はどこから来たか。勝手な臆説だが,

溜める,
貯める,

の「たむ」から来たのではないか。これは,

とどめる,
せきとめる,
たくわえる,

意であるが,岩波古語辞典の「たむ」には,

満を持した状態でおく,一杯にした状態のままで保つ意,

とある。それは,

集める,

意であるが,

留める,

意でもある。「腰だめ」の「ため」は,これと通じる。僕には,

溜,
貯,
廻,
訛,
矯,,
撓,
揉,

と漢字で当て分けているが,もともと「たむ」は,

曲げる,
直す,

といった意で,その派生として,

留める,
貯える,

と,漢字の意味に影響されて,意味の外延を広げたもののように思える。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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溜息


「溜息」は,

長息(ちょうそく),
大息(おおいき),

とも言い,

「失望・心配または感心したときなどに長くつく息」(広辞苑)
「心配・失望・感動などの時に思わずもらす大きな息」(大辞林)
「気苦労や失望などから、また、感動したときや緊張がとけたときに、思わず出る大きな吐息」(デジタル大辞泉),

等々と意味が載る。

溜息をつく,
溜息が出る,
溜息をもらす,

等々と使う。

嘆く時は,

嘆息,

感動する時は,

感嘆,
詠嘆,

という。似た言い回しに,

吐息,

がある。

「落胆したり,安心したりしてつく息」

である(広辞苑)。この酷い状態が,

青息吐息,

で,

「嘆息する時弱った時に出す溜息,また,その溜息が出るような状態」

とある(広辞苑)。嘆息のもっとひどい状態である。笑える国語辞典は,

「ため息(溜息)とは、吸った息をひとしきり溜めたのちに吐かれる長い息のこをいうが、決してレントゲンの検査をしているわけではなく、落胆したときや絶望したとき、あるいは逆に感動したときなどに吐かれる息のことをいう。「吐息」も似たような意味があるが、こちらは女性が男性を誘惑するようなときにも用いられるのに対して、ため息はどちらかというと、女性ご自慢のボディを見せつけられた男性が間抜け面をして吐く息である」

と区別して見せるが,まあ付会である。

イタリアのヴェネツィアには「溜め息の橋」という観光名所があるそうである。

「ドゥカーレ宮殿と旧監獄を結ぶ運河の上に架かる橋の事を指し、この橋を渡って監獄に入れられていく罪人達が溜め息をつくことから由来(橋から眺めるヴェネツィアの景色が、囚人が投獄前に最後に見られる光景であるため)」

とか(https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%9F%E3%82%81%E6%81%AF)。

私見だが,大きく息を吸うためには,大きく息を吐かなくてはならない。それは肺活量検査で,経験済みである。嘆いたり,絶望したとき,思いが鬱屈していて,息が浅いか,思い詰めて息を殺している。だから,体は,吸気のために,まず体内の息を吐き出す。それが溜息のように思われる。

溜息は意識的ではなく,ほとんど無意識に,

気付いたら「はぁ〜」とため息をついているもの,

らしい(https://docoic.com/12261)。その前に,思い屈し,息が浅いか,息を飲むように,息を止めているかがある。

2016年2月米カリフォルニア大と米スタンフォード大の合同研究チームが,ラットの実験で,ため息が脳を活性化させるばかりか,呼吸を助けて生存に欠かせない行為であることを明らかにし、英科学誌「ネイチャー」に発表した。それによると,

「人間は気づかないうちに約5分おきに、通常の呼吸より2倍多く空気を吸い込む『小さなため息』をついている。肺の中には肺胞という微細な袋がたくさんあり、酸素を取り込んでいるが、呼吸の間に水分を吸収し濡れた風船のようにしぼんでしまうからだ。そこで、ため息をついて空気を多く吸い込み、再び肺胞を膨らませるのだ。研究チームは、ラットの脳の神経細胞を調べ、酸素が足りないことを脳が察知し、ため息をつかせる神経回路を発見した。この回路に異常をきたすと、呼吸障害などが起こり、死に至ることがわかった」

という(https://www.j-cast.com/2016/02/19258913.html?p=all)。スタンフォード大学のマーク・クラズノー教授は,

「ため息はただの感情のはけ口でなく、生きるために不可欠な行為なのです。ため息によって、感情、言葉、認知、推理をつかさどっている大脳皮質が再び活性化します。ため息は、脳にとって究極の覚醒(かくせい)と言えます」

とコメントしているという(仝上)。

人間の自律神経には,興奮時に活動する交感神経と安静時に活動する副交感神経がある。

交感神経は血圧や心拍数を高めて体を活性化する,
副交感神経は血圧や心拍数を鎮めて体をリラックスさせる,

両者はアクセルとブレーキの関係で,両方のバランスが取れているのが健康な状態になる。ストレス状態では,

「交感神経が強く働くようになる。いったん優位になった交感神経は、放っておくと2時間は元に戻らない」

そんなときは,

「呼吸も乱れている。姿勢が前かがみになり、肺に十分空気が行き渡っていない。すると、リラックスが役割の副交感神経が働いてくる。副交感神経の1つに呼吸情報をモニタリングする迷走神経があり、『酸素が足りていない』とキャッチし、脳に『ため息を命じて』と伝達する。こうして、深々とため息をついて酸素を取り込むことで、高ぶった交感神経を収めてくれる」

という仕組みになっている(仝上)。ため息をつくことは,ストレスで無呼吸や浅い呼吸の状態から呼吸を整える役割ということになる。

「溜息」とは,まさに,文字通り,

溜+息,

息を溜めている状態から,息を吐き出す意である(日本語源広辞典)。大言海は,

溜めて,後に長くつく息,

と正確である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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スカンピン


「スカンピン」は,

素寒貧,

と当てる。

貧乏で何も持たないこと,まったく金がないこと,またそういう人やそのさま,

の意である。江戸語大辞典にも,

赤貧,

の意で載る。

素寒貧,

は江戸時代に当てた当て字である(日本語源広辞典・日本語俗語辞典)。嚆矢は,江戸中期の国語辞典,

俚言集覧,

らしく,

「『俚言集覧』において〈素寒貧〉の字が当てられて以降そのような漢字で表記し,赤貧のさまをいうようである」

とある(日本語源大辞典)。しかし,

「まず、中国に『寒貧(かんぴん)』という言葉がありました。「ものすごく貧しい」という意味です。ちなみに、この場合の『寒』は『さむい』という意味ではなく、『貧しい』という意味で、同じ意味の漢字を重ねた強調表現です。一方、江戸時代には『素(す)』という接頭語が、よく使われました。強調の意味を表わすための接頭語で、『素浪人』であれば『ただの浪人』、ほかに『素っ裸』や『素っ頓狂(すっとんきょう)』など、あまり良くない方のニュアンスで使われることが多かったようですね。『素寒貧』も、このようにして出来上がった単語のひとつです」

とする説明が載るhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1275418157。しかし,漢和辞典を見る限り,

貧寒,

は載る(字源・漢字源)が,

寒貧,

は載らない。「寒」は,もちろん,

貧乏で苦しい,
物が乏しくて苦しい,

意である。むしろ,

寒貧,

は,

素寒貧,

があって,その意で用いられている。順序は逆に思える。

「素」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E7%B4%A0)は,既に触れたように,「す(素)」「そ(素)」と訓み方で使い分けている。「す」と訓むと,

ありのまま,

という系統で(「素顔」「素うどん」「素手」),日本特有の使い方は,

「日本の音楽・舞踊・演劇などの演出用語。芝居用の音楽を芝居から離して演奏会風に演奏したり、長唄を囃子(はやし)を入れないで三味線だけの伴奏で演奏したり、舞踊を特別の扮装(ふんそう)をしないで演じたりすること」

と意味を拡大したり,「素」をつけて,

「素寒貧」「素町人」と,軽蔑の意味を込める,
とか,
素早い,すばしっこい,

と,程度のはなはだしいのに使うし,まじりっけなしという意味で,

「 素顔」「 素肌」「 素うどん」「 素泊り」

と使う。しかし,これは,我が国だけでの使い方らしい。

一方,「そ(素)」と訓ませて,

白い,生地のまま,

という系統で,飾りっ気のない(「素服」「素地」「素因」「素質」「簡素」「素行」「平素」「素描」「素朴」等々。しかし「素性」は「す」と訓む)という意味の範囲になる。

閑話休題。

で,「スカンピン」だが,日本語源広辞典は,

スカリ(全く)+ピン(貧乏),

の音韻変化とする。それは,たとえば,

すっかりびんぼう,

を,

スッカリビンボウ→スカンビン→スカンピン,

と縮約し,転訛したものということだろう。

「いつも出入しけるすかんひんの牢人来りけるに」(咄本・正直咄大鑑)

という用例があるので,

スッカリビンボウ→スカンビン→スカンヒン→スカンピン,

という転訛かもしれない。似た説に,

スッカリビンボウ(悉皆貧乏)→スカンピン,

とするものがある(日本語の語源)。それだと,

シッカイビンボウ→スッカリビンボウ→スカンビン→スカンヒン→スカンピン,

という感じであろうか。ただ,日本語源大辞典は,

「花札では配られた札によって役がつくが,最初に配られた七枚がすべてカス札であるとき,その役を皆素(からす)勘左衛門と呼ぶのである。この役は,赤・短一・十一(といち)とともに点が取りにくいため〈一文無し・スカンピン〉に近い意味で用いられる。(中略)これは『スカ(カス札)のピン』ということではあるまいか」

と,独自説を挙げている。是非を判断する材料はないが,まあ,

スッカリビンボウ→スカンビン→スカンヒン→スカンピン,

の転訛とみておくのが無難ではあるまいか。ただ,臆説だが,漢字の,

貧寒,

を逆転させて,「素」をつけた,

素寒貧,

というギャグ(自虐ネタ)だったのかもしれない,と不図思いついたのだが…。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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濫觴


「濫觴(らんしょう)」は,

物の始まり,
物事の起源,

の意である。広辞苑には,こう載る。

荀子(子道)『其源可以濫觴』(長江も水源にさかのぼれば觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの,または觴に濫(あふ)れるほどの小さな流れである意),

と。出典は荀子である。「觴」は「さかずき」の意だが,「濫」の解釈が,

あふれる,

意と,

うかべる,

意とに分かれる。「濫」(ラン)は,

「会意兼形声。監は『うつ向いた目+水をはった皿』の会意文字で,人がうつむいて水鏡に顔をうつすさま。その枠の中におさまるようにして,よく見る意を含む。鑑の原字。檻(和句解をはめて出ぬようにするおり)と同系のことば。濫は『水+音符監』で,外へ出ないように押さえたわくを越えて,水がはみ出ること」

とある(漢字源)。「あふれる」意であるが,「うかべる」意もある。

濫溢(らんいつ),
泛濫(氾濫),

は「あふれる」だが,

濫觴(らんしょう),

は,「うかぶ」の例として,

「孔子曰子路曰,夫江始出岷山,其源可以濫觴及至江津,不舫楫,不可以渉」(孔子家語,三恕),

と載る(字源)。また「ひたす」意,

物の表面が水面と同じくらいの高さになるようにひたす,

意の例としても,「濫觴」が載る(漢字源)。孔子の言葉は,載せるもので多少の違いがあるが,

昔者江出於岷山、其始出也、其源可以濫觴。及其至江之津也、不放舟不避風、則不可渉也。非唯下流水多邪(むかし江は岷山(びんざん)より出いで、其の始めて出ずるや、其の源は以て觴(さかずき)を濫(うか)ぶべし。其の江の津に至いたるに及よんでや、舟に放(よ)らず、風を避ざれば、則ち渉るべからず。下流水多きを唯てに非ずや)

とあり,意味は同じである(https://kanbun.info/koji/ransho.html)。

似た言葉に,

嚆矢(こうし),

がある。「嚆矢」は,

かぶらや(鏑矢),
鳴箭(めいせん)。

の意である。

矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑が取り付けられた矢のこと。射放つと音響が生じることから戦場における合図として合戦開始等の通知に用いられた,

もので(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2),

「古く中国で開戦のしるしに『かぶらや』を敵陣に向けて射掛けた」

ことから,

始まり,

の意で用いる。「嚆」(漢音コウ,呉音キョウ)は,

「形声。『口+音符蒿(コウ)』で,うなる音を表す擬声語」

で,

矢のうなる音,

そのものを指す。出典は荘子,

「焉知曾(曾參)史(史鰌)之不為桀(夏桀王)跖(盗跖)嚆矢也,故曰,絶聖棄知,而天下大治」(在宥篇)

ここで初めて,「始まり」の意で使われたとされる。

しかし,

濫觴,

嚆矢,

は,始まりの意に違いはないが,あえて言えば,「嚆矢」は,

始める,

であり,「濫觴」は,

始まる,

であり,微妙に意味が異なる気がする。鏑矢で,

開始する,

のと,川の源流が,

始まる,

のとではちょっと異なる。敢えて,言うなら,「嚆矢」は,

開始,
創始,

であり,「濫觴」は,

始原,
発端,
淵源,

である。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ポンコツ


「ポンコツ」は,

「もと,金槌の意とも,げんこつの意ともいう」

とある(広辞苑)。で,

「家畜などを殺すこと。また,古くなった自動車などをたたきこわして解体すること。転じて,老朽したもの,廃品」

の意である(仝上)。

屠殺→自動車の解体,

の意味の流れは,メタファとして分からなくもない。比較的新しい言葉だと思われ,

「俺達は牛牛と世間でもてはやされるやうにはなったけれど…四足を杭へ結ひつけられてぽんこつをきめられてよ」

という用例(安愚楽鍋)からみると,明治以降に思われる。

ポンコツ語源説には,

金槌説,

げんこつ説,

がある中で,大言海は,げんこつ説を採る。

「ポン」と「コツ」 という擬音説,

があり,「げんこつ」も,

「拳骨(げんこつ)」を聞き間違えたとする」

説らしい(語源由来辞典)。「金槌」も,

げんこつで殴る意味から大きなハンマーを意味するように,

なった(仝上)とし,

「自動車をハンマーで解体することから老朽化した自動車をポンコツ車というようになった」

とする(仝上)。この言葉が広まったのは,昭和34年の阿川弘之の新聞小説『ポンコツ』にある,

「ぽん,こつん。ぽん,こつん。ポンコツ屋はタガネとハンマーで日がな一日古自動車をこわしている」

という一節による(仝上)らしいので,

擬音説,

は,留保する必要があるし,

ハンマー説,

も保留する必要がある気がする。現に,

「ポンコツ」とは「大きなハンマー」のことであり、その語源は「ポンポン、コツコツ」という物をたたく音です。