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コトバ辞典


ないがしろ


「ないがしろ」は,

蔑ろ,

と当てる。「蔑」(漢音ベツ,呉音メチ)は,

「会意。大きな目の上に,逆さまつ毛がはえたさまに戈(カ 刃物)をそえて,傷つけてただれた目を表した。よく見えないことから,転じて,目にも留めないとの意に用いる」

とある。

ただれた目→よく見えない目→相手を目にも留めない,無視する→相手をけなす,

といった意味の転化のようである。

「ないがしろ」は,

他人や事物が,あっても無いかのように侮り軽んずるさま,

の意で,そこから転じて,

人目を気にしないこと→うちとけたさま→無造作なさま→しどけないさま,

等々と意味が変わっている。「ないがしろ」は,

だから,

あってもないかのごとく,

の意である。

「無キガシロ(代)の音便。無いも同然の意」

とある(広辞苑・大辞林・岩波古語辞典)。天治字鏡には,

「蔑,無加代也」

とある。日本語源広辞典の解釈だと,

「『無き+しろ(代,材料,対象)』です。他人の目を気にしない,気ままの意です。転じて,現代語では,あってもなかったように軽く扱う意です」

となるが,これでは,「蔑」の字を当てた古人の意図が消えてしまう。また,日本語の語源は,

「ナキガムシロヨシ(無きが寧ろ良し)は『ム』『ヨシ』を落としてナイガシロ(蔑ろ)になった」

とするが,これだと,「ないがしろ」の意味が少し変わり,ガンムシの意味が薄らぐ。「蔑」の字を当てた意味が飛んでしまうのではないか。あくまで,

あってもなきがごとく,

であるからこそ,「蔑」の字を当てる意味がある。

「ナキガシロ(無代)」の他,多くは,

ナキカステラ(無為)の義(言元梯),
ナキ(無)カ-シリ(領)オの義(国語本義),
無が如しの義(柴門和語類集),

としている。 

「ないがしろは、『無きが代(なきがしろ)』がイ音便化された語。『代(しろ)』は『身代金』などにも使われるように、『代わりとなるもの』を意味する。『代』が無いということは、『代用の必要すら無いに等しい』という意味である。 つまり、人を無いようなものとして扱うことの意味から、軽視したり無視することを『ないがしろ』というようになった」

という説明(語源由来辞典・由来・語源辞典)が正確である。

現代の使い方は,

蔑ろにする,

が多いが,

「無いのと同じように扱う、という意味。寝ている親を思い切り蹴飛ばしておきながら、『なんだ、そこにいたのか。気がつかなかった』というようなことを平気で口走る態度を『親をないがしろにする』と言う」

と(笑える国語辞典)と,ほぼ当初の意味を保持しとている。むしろ,

あってもないかのごとく,

の意が転じた,

人目を気にしないこと→うちとけたさま→無造作なさま→しどけないさま,

という使い方は,

「小桂(コウチギ)だつもの,ないがしろに着なして」(源氏)
「装束,しどけなげにて,参り給へり,鬢のわたりも,打ちとけて,ないがしろなる御うちとけすがたの」(狭衣),

は平安期のみのように見える。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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じだんだ


「じだんだ」は,

地団駄,
地団太,

と当てる。「じだんだ」は,

ジタタラ(地蹈鞴)の転,
とか,
「じたたら(地蹈鞴)」の音変化,

とある(広辞苑,デジタル大辞泉)。「じたんだ」は,

地団駄を踏む,

という言い回しで使う。

足で地を何回も踏みつける,

状態表現だが,

悔しがって足を踏み鳴らす様子,
あるいは,
怒りもがいて激しく地面を踏む,

意で使う。室町末期の日葡辞書にも載る。

地蹈鞴を踏む,

の転訛で,

地団駄をふむ,となったものらしい。

「地蹈鞴」とは,

じたたら,
じだたら,
じただら,

とも訓ます。

蹈鞴(たたら),

と同じ意味である。語源由来辞典は,

「激しく地面を踏み鳴らすさまが,蹈鞴を踏む仕草に似ていることから『地蹈鞴(じだたら)』と言うようになり,『地団駄(じだんだ)』に転じた。『じんだらを踏む』『じんだらをこねる(地団駄を踏んで反抗する・駄々をこねる)』など,各地に『じんだら』という方言が点在するのも,『地蹈鞴(じだたら)』が変化したことによる」

としている。柳田國男も,

「尻餅をつき,両足を投げ出してばたばたさせることをいう関東方言のヂンダラ」

も同系統としている(日本語源大辞典)。

蹈鞴は,蹈鞴製鉄の意で,「たたら」という文字は,

「『古事記』(712年)に『富登多々良伊須々岐比売命ほとたたらいすすきひめのみこと』、『日本書紀』(720年)では『姫蹈鞴五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみこと』と出てくる」

のが初見とされるhttp://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-outline/part-1/ほど,

「日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が『たたら』と呼ばれていたために付けられた名称。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする。近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%82%89%E8%A3%BD%E9%89%84

「蹈鞴」は,大言海は,

「叩き有りの略轉,踏み轟かす義」

とするが,

板を踏んで風を送るときの音から(瓦礫雑考),
鉱石を爛らかし熔かす器具デアルトコロカラ,タタはタダレ(爛れ)の語幹,ラは接尾語(日本古語大辞典=松岡静雄),

などもあり,擬音説は捨てがたい気がする。

「蹈鞴」については,

蹈鞴を踏む,

という言い回しがある。

蹈鞴を踏んで,空気を送る,

意と,

勢い込んで打ちまたは突いた的が外れたため,力が余って,空足を踏む,

意で使う(広辞苑)が,これよりは,

よろめいた勢いで,勢い余って数歩ほど歩み進んでしまうこと,
足踏みすること,

という意味(実用日本語表現辞典)の方が実態に近い。

「から足を踏む」 動作と 「蹈鞴を踏む」 動作が同一視できるものなのかどうか,ちょっと疑問に思える,

という印象(https://mobility-8074.at.webry.info/201610/article_21.html)がなくもないが,

「たたらを勢いよく踏むさまが、空足を踏む姿と似ていることから、勢い余って踏みとどまれず数歩あゆむことを『たたらを踏む』というようになった」

ということでいいのかもしれない(語源由来辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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襟を正す


「襟を正す」とは,文字通り,

姿勢,服装の乱れを整え,きちんとする,

意だが,それをアナロジーに,

心を引き締め真面目な態度になる,

意で使う(広辞苑)。

膝を正す,

も,

改まった様子になる,

という意である。似た言い回しに,

居住まいを正す,

というのがある。「襟を正す」の出典は,一つは,史記・日者伝の,

宋忠賈誼、瞿然而悟獵纓正襟危坐,

の,

獵纓正襟危坐(纓を猟り襟を正して危坐す),

である。

「長安の有名な易者に会いに行った漢の宋忠と賈誼が,有名な易者である司馬季主と会ったとき、司馬季主の易にとどまらない深い博識に感動し、自然に冠のひもを締め直して上着の襟(えり)を正し、きちんと座り直して話を聞き続けた」

という意である(由来・語源辞典)。

「襟を正す」の出典とされるものに,もう一つある。北宋の詩人・蘇軾(そしよく)(東坡)の詩,「前赤壁賦」に,

蘇子愀然
正襟危坐
而問客曰
何為其然也

とある。、「蘇子(蘇軾)は真顔になり襟を正して座りなおし、客に『どうすればそのような音色が出せるのか』と問うた」というのである(https://biz.trans-suite.jp/15915)。前後は,

客有吹洞簫者(客に洞簫を吹く者有り)
倚歌而和之(歌に倚りて之に和す)
其声鳴鳴然(其の声鳴鳴然として)
如怨如慕(怨むが如く慕うが如く)
如泣如訴(泣が如く訴えるが如く)
余音嫋嫋(余音嫋嫋として)
不絶如縷(絶えざること縷の如し)
舞幽壑之潜蛟(幽壑の潜蛟を舞はしめ)
泣孤舟之寡婦(孤舟の寡婦を泣かしめ)
蘇子愀然正襟(蘇子愀然として襟を正す)
危坐而問客曰(危坐して客に問いて曰く)
何為其然也(何為れぞ其れ然るやと)

という(http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/seki1.htm)。

「赤壁賦」には,

前赤壁賦と後(こう)赤壁賦,

があり,あわせて「赤壁賦」というが,前赤壁賦のみにも使うらしい。これは,

「政争のため元豊3年都を追われ黄州 (湖北省) に流された作者が,翌々年7月揚子江中の赤壁に遊んだときのありさまを記したもの。同年 10月再び赤壁に遊び続編をつくったので,7月の作を『前赤壁賦』,10月の作を『後赤壁賦』と呼ぶ」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

「えり」は,

襟,
衿,

と当てる。「襟」(漢音キン,呉音コン)は,

「会意兼形声。『衣+音符禁(ふさぐ)』」

で,「えり」の意だが,

胸元をふさぐところ,衣服で首を囲む部分,

とあり,「衿」(漢音キン,呉音コン)は,

「会意兼形声。『衣+音符今(ふさぐ,とじあわせる)』でね衣類をとじあわせるえりもと」

とあり,「えり」の意だが,

しめひも,衣服を着るときむすぶひも,

とあり,「襟」と「衿」は微妙に違うように思える(漢字源)。

和語「えり」の語源は何か。岩波古語辞典は,

「古くは『くび』または『ころもくび』といった」

とある。古くは,「えり」という名がなかった可能性をうかがわせる。大言海が,

「衣輪(エリン)の略(菊の宴(えん)もきくのえ)。…万葉集『麻衣に,衿著』とあるを,契沖師はアヲエリと訓まれたれど,此語さほどふるきものとは思はれず」

とするのも,「えり」という言葉が後のものだと思わせる。「えりん (衣輪) 」とは,貫頭衣 (かんとうい) の,

「 1 枚の布や莚 (むしろ) の中央に穴をあけただけのもので,その穴に首 (頭) を通して着る,その穴のこと」

らしく(https://mobility-8074.at.webry.info/201812/article_17.html),倭人伝に,

「衣を作ること単被の如し。その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る」

のと同様である。「衣輪」との絡みで,大言海は,「輪(りん)」の項で,車の輪の意の他に,

覆輪(ふくりん)の約,

という意を載せる。

衣服の縁(へり)。別のきれにて縁をとりたるもの,襟(はんえり)なるも,施(ふき)なるも云ふ,

という意味を載せる。これも,「えり」の由来の新しさを思わせる。

日本語源広辞典は,二説挙げる。

説1は,「へり(縁辺)の音韻変化」,ヘリ→エリ,
説2は,「縁の中国音en+iの音韻変化」,エン→エニ→エリ,

しかし大言海の「衣輪」説を考えあわせれば,なにも中国語を考えなくても,

ヘリ→エリ,

で自然ではあるまいか。その他,

ヨリ(縁)の轉(言元梯),
ヘヲリ(重折)の約(菊池俗語考),
エン(縁)の轉(嚶々筆語),

等々も同趣旨である。「えり」が新しいことを考えると,「へり」の転訛もありえるが, 「衣輪」由来というのも捨てがたい。

「首に当たる部分以外でも,今でいう袖口の部分や裾の部分も『へり (縁) 』なわけですから,なぜ,首が当たる部分だけを『へり』と言ったのか,その説明がないと,ちょっと語源説としてもの足りない感じがします。」

という考え(https://mobility-8074.at.webry.info/201812/article_17.html)もあるが,大言海が,「覆輪」を,

衣服の縁(へり)。別のきれにて縁をとりたるもの,襟(はんえり)なるも,施(ふき)なるも云ふ,

としているように,「はんえり」と「施(ふき)」を同じく「覆輪」と呼んでいるのである。「施(ふき)」は,袖口や裾の裏地を表に折り返して,少しのぞくように仕立てるものを指す。襟も袖口も裾も,「覆輪」なのである。我が国は,言葉の使い方はかなりいい加減である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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そで


「そで」は,

袖,

と当てる。「袖」(漢音シュウ,呉音ジュ)は,

「会意兼形声。『衣+音符由(=抽,抜き出す)』。そこから腕が抜けて出入りする衣の部分。つまり,そでのこと」

とあり(漢字源),字源には,

「手の由りて出入りする所,故に由に从(したが)ふ」

とある。「そで」には,「袂」もあるが,我が国は,

たもと,

に当てる。「袂」(漢音ベイ,呉音マイ)の字は,

「会意。『衣+夬(切り込みを入れる,一部を切り取る)』。胴の両脇を切り取ってつけた,たもと」

とある(漢字源)。

「そで」は,

「衣手(そで)の意。奈良時代にはソテとも」

とあり(広辞苑),岩波古語辞典も,

「ソ(衣)テ(手)の意。奈良時代は,ソテ・ソデの両形がある」

とし,大言海は,

「衣手(そで)の義と云ふ。或は,衣出(そいで)の約か」

とする。「そ」自体が,

衣,

と当て,

ころも,

の意だが,

ソデ(袖),
スソ(裾),

等々,熟語にのみ用いられる。問題は,この「そ」が,上代特殊仮名遣いでは,

乙類音(sö)

で,「そで(袖)」の「そ」が,

甲類韻(so),

とされていることだ。ただ,もし「襟を正す」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%A5%9F%E3%82%92%E6%AD%A3%E3%81%99)で触れたように,「えり」ということばが,後になって使われたのだとすると,「そで」も後に,つまり,

『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』など、上代(奈良時代頃)の万葉仮名文献に用いられた,

後の,古典期以降,その特殊仮名遣いが使われなくなって以降の「ことば」とすると,つじつまはあう。とすると,

そで(衣手)の義(東雅・安斎随筆・燕石雑志・箋注和名抄・筆の御霊・言元梯・名言通・和訓栞・弁正衣服),
衣の左右に出た部分をいうところから,ソデ(衣出)の義(日本釈名・関秘録・守貞漫稿・柴門和語類集・上代衣服考=豊田長敦),

の諸説も,まんざら捨てられない。音韻とは関係ない,

そとで(外出)の義(名語記),

もあるが,ちょっと付会気味である。

「そ(衣)」は,

「ソデ(袖),スソ(裾)のソ。ソ(麻)と同根か」

とある(岩波古語辞典)。「ソ(麻)」は,

アサの古名。複合語として残る,

とある(仝上)。

あおそ(麻),
うっそ(打麻),
なつそ(夏麻),

等々に使われている。大言海は,

オソフ(襲)の語根オソの約か,又身に添ひて着るなれば,云ふかと云ふ,

とするが,ちょっと無理筋に思える。他に,

身の外に着るからソ(外)の義(柴門和語類集),

等々あるが,理屈ばっているときは大概付会である。ここは,日本語源広辞典の,

麻の古名ソ

でいいのではないか。「そ(麻)」も,「そ(衣)」も,

so,

なのである。

なお,「袖にする」という言い回しは,

手を袖にす,

の略で,

自分から手を下そうとしない,手出ししない意,

である(岩波古語辞典)それが転じて,

手に袖を入れたまま何もしない,

おろそかにする,

すげなくする,

といを転じたと思われる。日本語源広辞典は,

「ソデは,身に対して付属物です。中心におかないことです。おろそかにする,蔑ろにする意です」

とし,笑える国語辞典は,

@着物の袖に手を突っ込んだまま相手の話を聞くという冷淡な態度からきた,
A「舞台の袖」などというように「袖」には端の部分、付属的な部分という意味があるから,
B袖を振って相手を追い払う仕草から,

と三説挙げるが,原義が,

手を袖にす,

なら,いずれも,後世意味の変化後の解釈に思われる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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たもと


「たもと」は,

袂,

と当てる。「袂」(漢音ベイ,呉音マイ)の字は,

「会意。『衣+夬(切り込みを入れる,一部を切り取る)』。胴の両脇を切り取ってつけた,たもと」

とある(漢字源)。「たもと」の意で使うのは我が国だけらしい(漢字源)。

「たもと」は,

手本(たもと)の意(広辞苑),
タ(手)モト(本)の意(岩波古語辞典),
手本(たもと)の義。手末(たなすゑ)に対す(大言海),
テモト(手許)の轉(和語私臆鈔),

とある。「たなすゑ」は,

手之末の義,

で,

手の端,
手の先,
手先,

の意である(大言海)。岩波古語辞典には,

手末,
手端,

と当て,

「タは手の古形。ナは連体助詞」

とする。だから,「たもと」の本来の意味は,

肘より肩までの間,即ち肱(かいな)に当たるところ,

を指すとし, 

「上古の衣は,筒袖にて,袖の肱に当たる邊を云ひしが如し」

とする(大言海)。つまり,

かいなの部分→そこを覆う着物の部分,

となり,さらに,

袖,

の意にまで広がり,

「袖の形が変わるにつれ,下の袋状の部分をいうようになる」

という(岩波古語辞典)。平安時代以降,和服の部分を指すようになった(語源由来辞典)ものらしい。

「たもと」は,その意味では,

手先,

の対であると同時に,

足元,

にも対している(日本語源広辞典)。

「たもと」にかかわる言い回しで,

袂の露,
袂を絞る,

は意味が分かるが,「関係を断つ」「離別する」意で使う,

袂を分かつ,

は,和服の,



身頃,

の接続部分,つまり,

袖付け,

を斬りはなすことを指す。「袂を分かつ」には,どこか,単なる,

関係を立つ,

よりは,身を切るような,あるいは,捨てるというような,思いがあるように思われる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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すそ


「すそ」は,

裾,

と当てる。「裾」(漢音キヨ,呉音コ)は,

「会意兼形声。『衣+音符居(しりをおろす,したにすわる)』」

とある(漢字源)。別に,

「会意兼形声文字です(衤(衣)+居)。『身体にまつわる衣服のえりもと』の象形(「衣服」の意味)と『腰かける人の象形と、固いかぶとの象形(「固い、しっかりする」の意味)」(「しっかり座る」の意味)から、座る時に地面につく『すそ』を意味する『裾』という漢字が成り立ちました。』

ともある(https://okjiten.jp/kanji2062.html)。で,

長い衣服の,下の垂れた部分,

つまり,

すそ,

の意から,転じて,

物の下端,

の意味となる(漢字源)。これは,和語「すそ」とも同じである。

衣服の下の縁,

の意から,

物の端,
髪の毛の末端,
山のふもと,
川下,

と意味が転じていく。岩波古語辞典には,

「上から下へ引くように続いているもの,くたつものなどの下の部分」

とある。大言海は,

裾,

の他に,

裔,
裙,
襴,

を当て,

「末衣(すえそ)の略か,又,末殺(すえそぎ)の略か。はたばり,はば。かたはら,かは」

とする。日本語源広辞典は,

末衣(スエソ)の略,

を採る。大言海の二説以外には,

スリサル(摺去)の義か(名言通),
スソ(摩衣)の義か(国語の語根とその分類=大島正健),

があるが,言葉の意味から見れば,

末衣(スエソ)の略,

が妥当かもしれない。「すそ」に絡む言葉は結構あり,

裾高,
裾付,
裾継,
裾張り,
裾被(かつぎ),

等々の中で,

(お)裾分け,

という言い回しは現代でも使う。

もらいものの余分を分配する,
利益の一部を分配する,

といった意だが,中世末期の日葡辞書にも,

スソワケヲスル,イタス,

とあり,

お裾分け,

は近世後期からみられる(語源由来辞典),という。岩波古語辞典が,

下配,

とも当てるように,

多く,卑下(めした)に対して云ふ,

とあり,上位者に対しては使わない。

「『すそ』とは着物の裾を指し、地面に近い末端の部分というところから転じて『つまらないもの』という意味がある。よって、本来目上の人物に使用するのは適切ではない」

と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%A3%BE%E5%88%86%E3%81%91)。

「『すそ(裾)』は、衣服の下端の部分から転じて、主要ではない末端の部分も表す。 そこから、品物の一部を下位の者に分配することを『裾分け』というようになり、下位の者に限らず、他の人に一部を分け与えることを『おすそわけ』というようになった」(語源由来辞典)。

「『裾』は衣服の末端にあり重要な部分ではないことから、特に、上位の者が下位の者に品物を分け与えることを『裾分け』といい、…現在では本来の上から下へという認識は薄れ、単に分け与える意味で用いることが多い」(由来・語源辞典)

ということらしい。しかし,「お裾分け」は,

お福分け,

ともいい,

「お福分けは『福を分ける』意味であるゆえ目上の人物に使用しても失礼に当たらないとされている」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%A3%BE%E5%88%86%E3%81%91)。物は言いようである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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杜撰


「杜撰」は,

ずさん,

と訓ますが,本来,

ずざん,

と訓むものが訛った。「杜」(漢音ト,呉音ズ)は,

「会意兼形声。『木+音符土(ぎっしりつまる)』」

とあり(漢字源),果樹の「やまなし」の意であり,「とざす」(是静非杜門)の意で,「塞」と同意である(字源)。「(神社の)もり」の意で使うのは我が国だけである。

「撰」(慣音セン,漢音サン,呉音ゼン)は,

「会意兼形声。巽(セン・ソン)とは,人をそろえて台上に集めたさま。撰は『手+印符巽』で,多くのものを集めてそろえること」

とある(漢字源)。「えらぶ」意だが,「詩文をつくる」意がある。「えらぶ」意では,

撰んで集めそろえること(もの),
事柄をそろえ,集め,それをもとに文章をつくる(撰述),
生地を集めて述べる,編集する,

といった意味になる(漢字源)。「撰」は,

「造也と註す。文章を作るには,撰,譔何にてもよし。撰述と連用す。唐書,百官志『史館修撰,掌修國史』」

とあり(字源),「選」は,

「よりすぐること,文選・詩選は,詩文のよきものをよりぬく意なり。撰述には用ひず。論語『選於衆擧皐陶不仁者遠(衆に選んで皐陶(舜帝が取り立てて裁判官とした)を挙げしかば,不仁者遠ざかりぬ)』」

とあり(字源),「撰」と「選」の違いが,「杜撰」の語源を考えるに当たって鍵となる。

「杜撰」は,今日,

物事の仕方がぞんざいで,手落が多い,

意で使われる。元は,一説に,

杜黙(ともく)の作った詩が多く律に合わなかったという故事から,

とある(広辞苑)。日本語源広辞典も,

杜黙の試が多く律に合わなかった故事,

とする。大言海は,

「宋音ならむ。禅林寶訓音義,下『杜撰,上,塞也,下造也,述也,言不通古法而自造也』。無冤録『杜撰,杜借也。撰,集也』」

とし,

詩文,著述などに,妄りに典故,出處も無き事を述ぶること,

とし,類書纂要の,

「杜撰作文,無所根拠」

野客叢書(宋,王楙)の,

「杜黙為詩,多不合律,故言事不合格者,為杜撰」

事文類聚の,

「或云,唐皇甫某,撰八陽經,其中多載無本據事,如鬱字,分之為林四郎,故事無本據,謂之杜撰」

等々を引く。こうみると,「杜撰」は,

「杜という人の編集したものの」

意(故事ことわざ辞典)ではなく,「撰述」の意,つまり,

「詩作」

の意であり,

「『杜』は宋の杜黙(ともく)のこと、『撰』は詩文を作ること。杜黙の詩が定形詩の規則にほとんど合っていなかったという「『野客叢書』の故事から」(デジタル大辞泉)

「杜撰の『杜』は、中国宋の杜黙(ともく)という詩人を表し、『撰』は詩文を作ることで、杜黙 の作った詩は律(詩の様式)に合わないものが多かったという故事に由来するという、中国の『野客叢書(やかくそうしょ)』の説が有力とされる」(語源由来辞典)

というところに落着しそうだが,

杜撰の「杜」は,本物でない仮の意味の俗語とする説,
道家の書五千巻を撰した杜光庭を指す説,

等々異説もあるが,「杜」については説が分かれている。日本語源大辞典は,

「ズ(ヅ)は『杜』の呉音,サンは通常センと訓む『撰』の別音。中国宋代に話題となったことばで,『野客叢書』や『湘山野録』などで語源について論じられている。日本には禅を通じて入ったようで,『正法眼蔵』や,『下學集』の序文に使用例が見られるが,辞書では,『書言字考節用集』に『湘山野録』を引いて『自撰無承不拠本説者曰杜撰』と記述されている」

と書く。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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をろち


「をろち」は,

おろち,

普通,

大蛇,

と当てる。ほぼどれも,

ヲ(オ)は「峰」,ロは接尾語(あるいは助詞,接辞),チは霊威あるもののの意,

としている(広辞苑)。「ヲ」を「尾」とするものも多くある(日本語源広辞典)が,「を(尾)」は,

「小の義。動物體中の細きものの意」

で(大言海),そのメタファで,

山尾,

という使い方をし,

山の裾の引き延べたる處,

の意に使い,転じて,

動物の尾の如く引き延びたるもの,

に使った。「を(峰・丘)」は,その意味の流れの中で重なったとみられる。

大言海は,「をろち」を,

ヲにロの接尾語を添へて尾の義,チは靈なり,尾ありて畏るべきものの義,

としているが,

「『ろ』は助詞で,現在使われている助詞の中では『の』に相当する語」

とあり(語源由来辞典),ほぼ同義である。「ち」は,

「血」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E8%A1%80),
「いのち」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1),

で触れたように,

いかづち(厳(いか)つ霊(ち)。つは連体助詞),
をろち(尾呂霊。大蛇),
のつち(野之霊。野槌),
ミヅチ(水霊),

と重なり,「ち(霊)」は,

「原始的な霊格の一。自然物のもつはげしい力・威力をあらわす語。複合語に用いられる」

ので,

いのち(命),
をろち(大蛇),
いかづち(雷),

等々と使われ(岩波古語辞典), 

「神,人の霊(タマ),又,徳を称へ賛(ほ)めて云ふ語。野之霊(ノツチ,野槌),尾呂霊(ヲロチ,蛇)などの類の如し。チの轉じて,ミとなることあり,海之霊(ワタツミ,海神)の如し。又,轉じて,ビとなるこあり,高皇産霊(タカミムスビ),神皇産霊(カムミムスビ)の如し」

なのである(大言海)。つまり,「をろち」は,

尾の霊力,

という意味になる(日本語源大辞典)。

古事記のヤマタノロチは,

高志之八俣遠呂知,

と表記されている。八つの頭と鉢の尾をもつ恠異である。これについて,

「酒を飲まされたヲロチはスサノヲに切り殺されるが,その尾を切った時,剣が出てきた。三種の神器の一つ,草薙の剣である。(中略)『尾』こそが,得体の知れない恐ろしいヲロチの武器なのである」

とある(日本語源大辞典)。つまり,

尾から剣が出る,

とは,

尾の霊威,

の象徴なのである。また,「蛇」は,

水の神,

でもある。ヤマタノロチは,

「その身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生ひ,その長(たけ)は谷八谷・峡八尾(やお)に度(わたら)ひて,その腹を見れば,悉に血に爛れつ」

とある,まさに,

河川,

そのものの如くである。

「蛇神は一般に水の神として信ぜられたから,八俣の大蛇は古代出雲地方の農耕生活に大きな破壊をもたらした洪水の譬喩」

と見做す(日本伝奇伝説大辞典)のは妥当なのかもしれない。なお,大蛇から出た,

剣,

は,出雲・斐伊の河上流の,

鉄文化,

の象徴との見方もある(仝上)。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ためる


「ためる」(たむ)は,

溜める,
貯める,

とあてる「ためる」と,

矯める,
撓める,
揉める,

とあてる「ためる」がある。「溜める・貯める」は,

とどめる,
せきとめる,
たくわえる,

といった意味であり,「矯める」は,

曲がっているのを真直ぐにする,
改め直す,
いつわる,曲げる,
狙いをつける,

といった意味を持つ。大言海は,「たむ(撓)」は,

木竹など炙り,又は濡すなどして,伸べ,或は屈め,て,形を改む,

とあり,それが,転じて,

すべて物事を改め正しくす,

の意となり,それは,ある意味,

「無理にもとの形を変える。良くする場合も,悪くする場合にもいう」(岩波古語辞典)

ので,

偽る,

ともなる。また,

控え,支え持つ,

意を持つ。これが,

「腰だめ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E8%85%B0%E3%81%A0%E3%82%81),

の「ため」であり,

「ためつすがめつ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%A4%E3%81%99%E3%81%8C%E3%82%81%E3%81%A4),

の「ため」でもある。室町末期の日葡辞書(『広辞苑』)にも,「テッポウ(鉄炮)ヲサダムル」とある。さらに,「たわむ(揉)」は,

撓(たわ)むの略,

とする。岩波古語辞典の「たむ」の項は,

タム(廻)と同根,

とある。大言海は,

撓む,

意とし,

くねり廻る,

とする。この「たむ」は,

廻む,
訛む,

とも当てる。

ぐるっとまわる,

意の他に,

歪んだ発音をする,

つまり,

訛る,

意もある。「たむ」は,漢字で当て分けているが,結局,

無理にもとの形を変える,

意であり,それが,

矯正,
でもあり,
偽り,
でもあり,
訛る,

でもある。しかし,「腰だめ」「ためつすがめつ」の,

狙いをつける,

はどこから来たか。勝手な臆説だが,

溜める,
貯める,

の「たむ」から来たのではないか。これは,

とどめる,
せきとめる,
たくわえる,

意であるが,岩波古語辞典の「たむ」には,

満を持した状態でおく,一杯にした状態のままで保つ意,

とある。それは,

集める,

意であるが,

留める,

意でもある。「腰だめ」の「ため」は,これと通じる。僕には,

溜,
貯,
廻,
訛,
矯,,
撓,
揉,

と漢字で当て分けているが,もともと「たむ」は,

曲げる,
直す,

といった意で,その派生として,

留める,
貯える,

と,漢字の意味に影響されて,意味の外延を広げたもののように思える。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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溜息


「溜息」は,

長息(ちょうそく),
大息(おおいき),

とも言い,

「失望・心配または感心したときなどに長くつく息」(広辞苑)
「心配・失望・感動などの時に思わずもらす大きな息」(大辞林)
「気苦労や失望などから、また、感動したときや緊張がとけたときに、思わず出る大きな吐息」(デジタル大辞泉),

等々と意味が載る。

溜息をつく,
溜息が出る,
溜息をもらす,

等々と使う。

嘆く時は,

嘆息,

感動する時は,

感嘆,
詠嘆,

という。似た言い回しに,

吐息,

がある。

「落胆したり,安心したりしてつく息」

である(広辞苑)。この酷い状態が,

青息吐息,

で,

「嘆息する時弱った時に出す溜息,また,その溜息が出るような状態」

とある(広辞苑)。嘆息のもっとひどい状態である。笑える国語辞典は,

「ため息(溜息)とは、吸った息をひとしきり溜めたのちに吐かれる長い息のこをいうが、決してレントゲンの検査をしているわけではなく、落胆したときや絶望したとき、あるいは逆に感動したときなどに吐かれる息のことをいう。「吐息」も似たような意味があるが、こちらは女性が男性を誘惑するようなときにも用いられるのに対して、ため息はどちらかというと、女性ご自慢のボディを見せつけられた男性が間抜け面をして吐く息である」

と区別して見せるが,まあ付会である。

イタリアのヴェネツィアには「溜め息の橋」という観光名所があるそうである。

「ドゥカーレ宮殿と旧監獄を結ぶ運河の上に架かる橋の事を指し、この橋を渡って監獄に入れられていく罪人達が溜め息をつくことから由来(橋から眺めるヴェネツィアの景色が、囚人が投獄前に最後に見られる光景であるため)」

とか(https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%9F%E3%82%81%E6%81%AF)。

私見だが,大きく息を吸うためには,大きく息を吐かなくてはならない。それは肺活量検査で,経験済みである。嘆いたり,絶望したとき,思いが鬱屈していて,息が浅いか,思い詰めて息を殺している。だから,体は,吸気のために,まず体内の息を吐き出す。それが溜息のように思われる。

溜息は意識的ではなく,ほとんど無意識に,

気付いたら「はぁ〜」とため息をついているもの,

らしい(https://docoic.com/12261)。その前に,思い屈し,息が浅いか,息を飲むように,息を止めているかがある。

2016年2月米カリフォルニア大と米スタンフォード大の合同研究チームが,ラットの実験で,ため息が脳を活性化させるばかりか,呼吸を助けて生存に欠かせない行為であることを明らかにし、英科学誌「ネイチャー」に発表した。それによると,

「人間は気づかないうちに約5分おきに、通常の呼吸より2倍多く空気を吸い込む『小さなため息』をついている。肺の中には肺胞という微細な袋がたくさんあり、酸素を取り込んでいるが、呼吸の間に水分を吸収し濡れた風船のようにしぼんでしまうからだ。そこで、ため息をついて空気を多く吸い込み、再び肺胞を膨らませるのだ。研究チームは、ラットの脳の神経細胞を調べ、酸素が足りないことを脳が察知し、ため息をつかせる神経回路を発見した。この回路に異常をきたすと、呼吸障害などが起こり、死に至ることがわかった」

という(https://www.j-cast.com/2016/02/19258913.html?p=all)。スタンフォード大学のマーク・クラズノー教授は,

「ため息はただの感情のはけ口でなく、生きるために不可欠な行為なのです。ため息によって、感情、言葉、認知、推理をつかさどっている大脳皮質が再び活性化します。ため息は、脳にとって究極の覚醒(かくせい)と言えます」

とコメントしているという(仝上)。

人間の自律神経には,興奮時に活動する交感神経と安静時に活動する副交感神経がある。

交感神経は血圧や心拍数を高めて体を活性化する,
副交感神経は血圧や心拍数を鎮めて体をリラックスさせる,

両者はアクセルとブレーキの関係で,両方のバランスが取れているのが健康な状態になる。ストレス状態では,

「交感神経が強く働くようになる。いったん優位になった交感神経は、放っておくと2時間は元に戻らない」

そんなときは,

「呼吸も乱れている。姿勢が前かがみになり、肺に十分空気が行き渡っていない。すると、リラックスが役割の副交感神経が働いてくる。副交感神経の1つに呼吸情報をモニタリングする迷走神経があり、『酸素が足りていない』とキャッチし、脳に『ため息を命じて』と伝達する。こうして、深々とため息をついて酸素を取り込むことで、高ぶった交感神経を収めてくれる」

という仕組みになっている(仝上)。ため息をつくことは,ストレスで無呼吸や浅い呼吸の状態から呼吸を整える役割ということになる。

「溜息」とは,まさに,文字通り,

溜+息,

息を溜めている状態から,息を吐き出す意である(日本語源広辞典)。大言海は,

溜めて,後に長くつく息,

と正確である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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スカンピン


「スカンピン」は,

素寒貧,

と当てる。

貧乏で何も持たないこと,まったく金がないこと,またそういう人やそのさま,

の意である。江戸語大辞典にも,

赤貧,

の意で載る。

素寒貧,

は江戸時代に当てた当て字である(日本語源広辞典・日本語俗語辞典)。嚆矢は,江戸中期の国語辞典,

俚言集覧,

らしく,

「『俚言集覧』において〈素寒貧〉の字が当てられて以降そのような漢字で表記し,赤貧のさまをいうようである」

とある(日本語源大辞典)。しかし,

「まず、中国に『寒貧(かんぴん)』という言葉がありました。「ものすごく貧しい」という意味です。ちなみに、この場合の『寒』は『さむい』という意味ではなく、『貧しい』という意味で、同じ意味の漢字を重ねた強調表現です。一方、江戸時代には『素(す)』という接頭語が、よく使われました。強調の意味を表わすための接頭語で、『素浪人』であれば『ただの浪人』、ほかに『素っ裸』や『素っ頓狂(すっとんきょう)』など、あまり良くない方のニュアンスで使われることが多かったようですね。『素寒貧』も、このようにして出来上がった単語のひとつです」

とする説明が載るhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1275418157。しかし,漢和辞典を見る限り,

貧寒,

は載る(字源・漢字源)が,

寒貧,

は載らない。「寒」は,もちろん,

貧乏で苦しい,
物が乏しくて苦しい,

意である。むしろ,

寒貧,

は,

素寒貧,

があって,その意で用いられている。順序は逆に思える。

「素」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E7%B4%A0)は,既に触れたように,「す(素)」「そ(素)」と訓み方で使い分けている。「す」と訓むと,

ありのまま,

という系統で(「素顔」「素うどん」「素手」),日本特有の使い方は,

「日本の音楽・舞踊・演劇などの演出用語。芝居用の音楽を芝居から離して演奏会風に演奏したり、長唄を囃子(はやし)を入れないで三味線だけの伴奏で演奏したり、舞踊を特別の扮装(ふんそう)をしないで演じたりすること」

と意味を拡大したり,「素」をつけて,

「素寒貧」「素町人」と,軽蔑の意味を込める,
とか,
素早い,すばしっこい,

と,程度のはなはだしいのに使うし,まじりっけなしという意味で,

「 素顔」「 素肌」「 素うどん」「 素泊り」

と使う。しかし,これは,我が国だけでの使い方らしい。

一方,「そ(素)」と訓ませて,

白い,生地のまま,

という系統で,飾りっ気のない(「素服」「素地」「素因」「素質」「簡素」「素行」「平素」「素描」「素朴」等々。しかし「素性」は「す」と訓む)という意味の範囲になる。

閑話休題。

で,「スカンピン」だが,日本語源広辞典は,

スカリ(全く)+ピン(貧乏),

の音韻変化とする。それは,たとえば,

すっかりびんぼう,

を,

スッカリビンボウ→スカンビン→スカンピン,

と縮約し,転訛したものということだろう。

「いつも出入しけるすかんひんの牢人来りけるに」(咄本・正直咄大鑑)

という用例があるので,

スッカリビンボウ→スカンビン→スカンヒン→スカンピン,

という転訛かもしれない。似た説に,

スッカリビンボウ(悉皆貧乏)→スカンピン,

とするものがある(日本語の語源)。それだと,

シッカイビンボウ→スッカリビンボウ→スカンビン→スカンヒン→スカンピン,

という感じであろうか。ただ,日本語源大辞典は,

「花札では配られた札によって役がつくが,最初に配られた七枚がすべてカス札であるとき,その役を皆素(からす)勘左衛門と呼ぶのである。この役は,赤・短一・十一(といち)とともに点が取りにくいため〈一文無し・スカンピン〉に近い意味で用いられる。(中略)これは『スカ(カス札)のピン』ということではあるまいか」

と,独自説を挙げている。是非を判断する材料はないが,まあ,

スッカリビンボウ→スカンビン→スカンヒン→スカンピン,

の転訛とみておくのが無難ではあるまいか。ただ,臆説だが,漢字の,

貧寒,

を逆転させて,「素」をつけた,

素寒貧,

というギャグ(自虐ネタ)だったのかもしれない,と不図思いついたのだが…。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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濫觴


「濫觴(らんしょう)」は,

物の始まり,
物事の起源,

の意である。広辞苑には,こう載る。

荀子(子道)『其源可以濫觴』(長江も水源にさかのぼれば觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの,または觴に濫(あふ)れるほどの小さな流れである意),

と。出典は荀子である。「觴」は「さかずき」の意だが,「濫」の解釈が,

あふれる,

意と,

うかべる,

意とに分かれる。「濫」(ラン)は,

「会意兼形声。監は『うつ向いた目+水をはった皿』の会意文字で,人がうつむいて水鏡に顔をうつすさま。その枠の中におさまるようにして,よく見る意を含む。鑑の原字。檻(和句解をはめて出ぬようにするおり)と同系のことば。濫は『水+音符監』で,外へ出ないように押さえたわくを越えて,水がはみ出ること」

とある(漢字源)。「あふれる」意であるが,「うかべる」意もある。

濫溢(らんいつ),
泛濫(氾濫),

は「あふれる」だが,

濫觴(らんしょう),

は,「うかぶ」の例として,

「孔子曰子路曰,夫江始出岷山,其源可以濫觴及至江津,不舫楫,不可以渉」(孔子家語,三恕),

と載る(字源)。また「ひたす」意,

物の表面が水面と同じくらいの高さになるようにひたす,

意の例としても,「濫觴」が載る(漢字源)。孔子の言葉は,載せるもので多少の違いがあるが,

昔者江出於岷山、其始出也、其源可以濫觴。及其至江之津也、不放舟不避風、則不可渉也。非唯下流水多邪(むかし江は岷山(びんざん)より出いで、其の始めて出ずるや、其の源は以て觴(さかずき)を濫(うか)ぶべし。其の江の津に至いたるに及よんでや、舟に放(よ)らず、風を避ざれば、則ち渉るべからず。下流水多きを唯てに非ずや)

とあり,意味は同じである(https://kanbun.info/koji/ransho.html)。

似た言葉に,

嚆矢(こうし),

がある。「嚆矢」は,

かぶらや(鏑矢),
鳴箭(めいせん)。

の意である。

矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑が取り付けられた矢のこと。射放つと音響が生じることから戦場における合図として合戦開始等の通知に用いられた,

もので(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2),

「古く中国で開戦のしるしに『かぶらや』を敵陣に向けて射掛けた」

ことから,

始まり,

の意で用いる。「嚆」(漢音コウ,呉音キョウ)は,

「形声。『口+音符蒿(コウ)』で,うなる音を表す擬声語」

で,

矢のうなる音,

そのものを指す。出典は荘子,

「焉知曾(曾參)史(史鰌)之不為桀(夏桀王)跖(盗跖)嚆矢也,故曰,絶聖棄知,而天下大治」(在宥篇)

ここで初めて,「始まり」の意で使われたとされる。

しかし,

濫觴,

嚆矢,

は,始まりの意に違いはないが,あえて言えば,「嚆矢」は,

始める,

であり,「濫觴」は,

始まる,

であり,微妙に意味が異なる気がする。鏑矢で,

開始する,

のと,川の源流が,

始まる,

のとではちょっと異なる。敢えて,言うなら,「嚆矢」は,

開始,
創始,

であり,「濫觴」は,

始原,
発端,
淵源,

である。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ポンコツ


「ポンコツ」は,

「もと,金槌の意とも,げんこつの意ともいう」

とある(広辞苑)。で,

「家畜などを殺すこと。また,古くなった自動車などをたたきこわして解体すること。転じて,老朽したもの,廃品」

の意である(仝上)。

屠殺→自動車の解体,

の意味の流れは,メタファとして分からなくもない。比較的新しい言葉だと思われ,

「俺達は牛牛と世間でもてはやされるやうにはなったけれど…四足を杭へ結ひつけられてぽんこつをきめられてよ」

という用例(安愚楽鍋)からみると,明治以降に思われる。

ポンコツ語源説には,

金槌説,

げんこつ説,

がある中で,大言海は,げんこつ説を採る。

「ポン」と「コツ」 という擬音説,

があり,「げんこつ」も,

「拳骨(げんこつ)」を聞き間違えたとする」

説らしい(語源由来辞典)。「金槌」も,

げんこつで殴る意味から大きなハンマーを意味するように,

なった(仝上)とし,

「自動車をハンマーで解体することから老朽化した自動車をポンコツ車というようになった」

とする(仝上)。この言葉が広まったのは,昭和34年の阿川弘之の新聞小説『ポンコツ』にある,

「ぽん,こつん。ぽん,こつん。ポンコツ屋はタガネとハンマーで日がな一日古自動車をこわしている」

という一節による(仝上)らしいので,

擬音説,

は,留保する必要があるし,

ハンマー説,

も保留する必要がある気がする。現に,

「ポンコツ」とは「大きなハンマー」のことであり、その語源は「ポンポン、コツコツ」という物をたたく音です。
(「ゲンコツ」で叩いたという異説もあります),

との説明もあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1035180425

「げんこつ」説を採るのは,大言海で,

ぽんこつ(拳)→げんこ(拳固),

と項を辿り,「げなこ」について

「拳子(けんこ)にて(接尾語の子…,猜拳(さいこ),面子(めんこ),固の字は,にぎり固むる意の当て字ならむ),怒りて毆(う)つより,濁らせて云ふか。ゲンコツと云ふはゲンコ毆(うち)の約。ゲンコチ,ゲンコツと轉じたるならむ(博打(ばくちうち),ばくち。垣内(かきうち),かきつ。梲(うだち),うだつ)。ポンコツは,洋人の,国語を聞きてあやまれるなるべし」

とし,

「開港場などにて洋人は,(げんこつを)ポンコツという」

とする。

「『げんこつ』と英語(punish)との混成語」

と見る説もある(日本語源大辞典)。語源由来辞典も,

「古くは、拳骨で殴ることを意味する言葉であるため、拳骨が有力 とも思えるが、拳骨で殴った時の音から、拳骨で殴る意味になったとも考えられる」

とする。東京日日新聞明治16年(1883)二月六日の記事に,

「筆者は若し仕損じなばポンコツの一つ位は飛來るべしと覚悟の体なりし」

とある(日本語源大辞典)とかで,

「古く拳骨で殴る意に用いられた」

というのが大勢だが,

「『ポンと打ち,コツンと叩く』です。屠殺,解体です」

との説(日本語源広辞典)は見逃せない。この意味の背景が無ければ,

屠殺・解体→自動車解体,

への意味のシフトが分からない。阿川弘之が,自動車解体で使ったのは,密かなタブー(解体は古く非人の仕事とされてきた)の意味の翳を知っていたからではないか,という気がする。広辞苑の説明は,さすがに光る。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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いなりずし


「いなりずし」は,

稲荷鮨,
稲荷寿司,

と当てる。

しのだずし,
きつねずし,

とも言う。「いなりずし」の発案は,天保四年の天保の飢饉の後,天保七,八年(1836,7)と飢饉があった,その頃,

「名古屋で油揚げの中に鮨飯を詰める稲荷鮨が考えた」

とある(たべもの語源辞典)。異説では,

「愛知県豊川市にある豊川稲荷の門前町で、天保の大飢饉の頃に考え出された」

といわれる(由来・語源辞典)。ただ,

「1836(天保7)年の天保の大飢饉の直後に幕府から『倹約令』が出て、当時流行っていた握り寿司などを禁止された時期がありました。その時、油揚げを甘辛く煮て、質素だけれどもおいしい『いなり鮓』(当時は「いなり“鮓”」と明記されていました)が広く食べられるようになったようです。…もっとも、当時は飢饉ですからお米ではなく、おからを詰めていたそうです」

ともある(https://www.gnavi.co.jp/dressing/article/21424/)。これで納得,飢饉に「いなりずし」が流行ったというのはちょっと違和感があった。「おから」というなら,一挙両得である。

いずれにしろ,これが嚆矢である。「いなり」は,

「稲荷神の使いである狐の好物に由来する。 古くから狐の好物は鼠の油揚げとされ、鼠を捕まえる時にも鼠の油揚げが使われた。そこから豆腐の油揚げが稲荷神に供えられるようになり、豆腐の油揚げが狐の好物になったとされる。その豆腐の油揚げを使う寿司なので、『稲荷寿司』や『狐寿司』と呼ばれるようになった」

とある(語源由来辞典)。しかし,

「ある人が実験として、動物園などで狐に油揚げを与えてみたところ、雑食性でなんでも食べるといわれる狐が、油揚げは食べなかった」

とあるので,油揚げの色を狐の毛皮の「きつね色」に見立てたということなのかもしれないhttps://www.gnavi.co.jp/dressing/article/21424/

江戸時代末期に書かれた『守貞謾稿』には,

「天保末年(1844年2月〜1845年1月)、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸干瓢を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異称)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%AF%BF%E5%8F%B8)。これが,

「天保の飢饉のときから始まって大流行をした。十軒店というのは江戸本石町二丁目で,この角に店を張った稲荷屋治郎右衛門は大繁盛だった。『いなりずしうまいと人を釣狐,わなに掛たる仕出し商人』という狂歌でわかるように各所に稲荷鮨を売る商人がいた」

のである(仝上)。

弘化二年(1845)の『稽古三味線』に,

「十軒店のしのだずし稲荷屋さんの呼声」

とある(たべもの語源辞典)。呼声とは,

天清浄地(てんしょうじょうち)清浄(しょうじょう) 六根清浄(ろっこんしょうじょう) 祓いたまへ清めたまへ
一本が十六文 ヘイヘイヘイ ありがたひ
半ぶんが八文 ヘイヘイヘイ ありがたい
一と切れが四文
サアサア あがれあがれうまふて大きい大きい大きい 稲荷さま稲荷さま稲荷さま,

というもの(仝上)。この呼声で,町々を振売りした。

「天秤で屋台をかつぎ,狐の面を描いた旗をたて,小さな屋台の屋根の下に提灯を三つ並べてぶら下げ,それに,『稲,荷,鮨』と一字ずつ書いてある。俎板の上に庖丁と長い長い稲荷鮨を置いて切って売った。角行燈には『稲荷大明神さま』と書き,夜になると辻に立って,『お稲荷さん』とよんだ」

という(仝上)。

江戸の「いなりずし」は,太くて長くhttps://edo-g.com/blog/2017/03/fukagawaedo_museum.html/fukagawaedo_museum33_l,今日の巻鮨のようで,切り売りした。「いなりずし」は,わさび醤油を付けて食べた。「一と切れが四文」ということは,そば一杯でお稲荷さんが4個食べられるお値段である。『天言筆記』(明治成立)には,

「飯や豆腐ガラ(オカラ)などを詰めてワサビ醤油で食べるとあり、『はなはだ下直(げじき-値段が安いこと)』」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%AF%BF%E5%8F%B8)。

因みに,「お稲荷さま」は,

「たべものいっさいを司る倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀ったもので,大宜都比売神(おおけつひめのかみ)・保食神(うけもちのかみ)・豊受毘売神(とようけひめのかみ)も同神といわれる。それがイナリとなったのは,『神代記』に『保食神腹中に稲生れり』とあるので,イネナリ(稲生り)がイナリとつまった。またイネカリ(稲刈)が転訛したともいう。あるいは稲をになった化人からとった名とか,イナニ(稲荷)から転じたともいう。伊奈利山に祀ったのでイナリと称するともいわれる。イナリ神とキツネは大宜都比売神のケツを『御尻(みけつ)』と称した。この『みけつ』を『三狐』と書いたり,大宜都比売神に『大狐姫』の漢字を当てたりする。それでキツネは稲荷神のお使い様とされた」

とある(たべもの語源辞典)。「うかのみたま」は,『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。

「『稲成り』の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に『稲荷』の字が当てられたとされる。もとは古代社会において、渡来民の秦氏から伝わった氏神的な稲荷信仰であり、秦氏の勢力拡大によって信仰も広まっていった。本来の『田の神』の祭場は狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の穴)だったと推測されるが、近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。
五穀をつかさどる神・ウカノミタマと稲荷神が同一視されることから、伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社ではウカノミタマを主祭神としている」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E)ので,「狐」が先である。やはり,キツネが主役のようである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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あやし


「あやし(い)」は,

怪し,
妖し,
奇し,
賤し,

等々と当てる。意味によって当て分けているだけである。「怪」(漢音カイ,呉音ケ)は,

「会意兼形声。圣は『又(て)+土』からなり,手でまるめた土のかたまりのこと。塊(カイ)と同じ。怪は,それを音符とし,心をそえた字で,まるい頭をして突出した異様な感じを与える物のこと」

とあり(漢字源),「見慣れない姿をしている」「不思議である」「腑に落ちない」「あやしむ」「あやしげなもの」といった意味になる。

「妖」(ヨウ)は,

「会意兼形声。夭(ヨウ)は,細かくからだを曲げた姿。妖は『女+音符夭』で,なまめかしくからだをくねらせた女の姿を示す」

とあり(仝上),「あやし」よりは,夭姿,妖気という,どこか「なまめかしい」語感が強い。

「奇」(漢音キ,呉音ギ)は,

「会意兼形声。可の原字は˥ 印で,くっきりと屈曲したさま。奇は『大(大の字の形に立った立った人)+音符可』で,人のからだが屈曲してかどばり,平均を欠いてめだつさま。また,かたよる意を含む」

とあり(仝上),「あやしい」の意に,めずらしい,常識からかけ離れたという含意が強い。

「賤」(漢音セン,呉音ゼン)は,

「会意兼形声。戔は,戈(ほこ)を二つ重ねた会意文字で,物を刃物で小さくきるの意を表す。殘(残 小さい切れはし)の原字で,少ない,小さいの意を含む。賤は『貝+印符戔』で,財貨が少ないこと」

とあり(仝上),やすい,みすぼらしい意で,「あやし」の意味も,身分が低く,みすぼらしい意である。

「あやし」は,

「不思議なものに対して,心をひかれ,思わず感嘆の声を立てたという気持ちを言うのが原義」

とあり(広辞苑),

霊妙である,神秘的である。根普通でなくひきつけられる,

不思議である,

常と異なる,めずらしい,

いぶかしい,疑わしい,変だ,

見慣れない,物珍しい,

異常だ,程度が甚だしい,

あるべきでない,けしからん,

不安だ,気懸りだ,

確実かどうかはっきりしない,

ただならぬ様子だ,悪くなりそうな状況だ,

(貴人・都人からみて,不思議な,或可きでもない姿をしている意)賤しい,

みすぼらしい,粗末である,

見苦しい,

等々といった意味の広がりかと思われる。「賤し」とあてる「あやし」だけは,同じ価値表現でも少し意味が乖離しているが,

「本来は、異様な物事や正体のわからないものに対する驚異・畏敬の気持ちを表したが、転じて、(珍しいの)普通でないの意ともなった。また、もともと善悪にかかわらず用いられたが、身分の高い人は、異様なもの、正体不明のものに対して否定的感情を持ったところから、(とがめられるべきだ,けしからぬ、粗末だ、見苦しい)のようなマイナスの意が生じた。近世以降は、(確実かどうかはっきりしない,ただならぬ様子だ,悪くなりそうな状況だと)物事を否定的に予想する」

とあり(大辞林),「(賤し)と当てる「あやし」には,

身分が低い,卑しい,
みすぼらしい,みっともない。見苦しい,

の意味は,

霊妙→不思議→珍しい,

といった意味の流れとは別系統に見える。しかし, 

神秘的である→あやしい,

珍しい→あやしい,

見慣れない→あやしい,
と,
みすぼらしい→あやしい,

とはほぼ見る側からの驚きという意味では平行に思える。岩波古語辞典に,

「感動詞アヤを形容詞化した語か。自分の解釈し得ず,不思議と感じる異様なものに心惹かれて,アヤと声を立てたい気持ちを言うのが原義。類義語クスシは,不思議に思うことを畏敬する気持ちを言う」

とあり,「あや」は,

「感嘆詞アとヤとの複合」

とし,大言海が,

「感動詞の嗟嘆(アヤ)を活用せしめたる語」

とする感嘆詞であるが,

「古事記にある神の名『阿夜訶志古泥(あやかしこね)』のアヤもこれにあたる」

とあり,前に触れた「あやかし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469248998.html?1566932460とつながることを感じさせる。「あやしい」と「うたがわしい」を比較して,

「『怪しい』は、何であるか、どうであるかがはっきりせず、不気味であったり、信用できなかったりという、受け取り手の気持ちを表す。『疑わしい』は何らかの根拠があって、確かではない、疑わざるをえないという判断を示す。『明日は晴れるかどうか怪しい』は、はっきりしない空模様から、晴れるということに対して信用できない気持ちを表す。この場合、『疑わしい』といえば、現在の天候や天気図から、明日は晴れそうもないと判断したことになる。『怪しい人影』『雲行きが怪しい』などの『怪しい』は、『疑わしい』で置き換えることはできない。『疑わしきは罰せず』は『あやしき』で置き換えることができない。」

という説明がなされている(デジタル大辞泉)。あくまで,「あやしい」は,主観的な感情にすぎないということである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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みの


「みの」は,

蓑,
簑,

と当てる。

わら,カヤ,スゲ,シナノキなどの植物の茎や皮,葉などを用いてつくった外被である。雨,雪,日射あるいは着衣が泥や水に汚れるのを防ぐために着用する。古くから農夫,漁夫,狩人などが着用した,という。

「《日本書紀》には,素戔嗚(すさのお)尊が青草をたばねて蓑笠としたと記してあり,《万葉集》にも見られるほか,12世紀の成立とされる《信貴山縁起絵巻》には,尼公の従者が蓑を着て旅する姿が描かれている。蓑の種類は,背蓑,肩蓑,胴蓑,丸蓑,腰蓑,蓑帽子の6種類に分けられるが,一般的に用いる蓑は肩蓑と胴蓑が多い。」

とある(世界大百科事典)。

「東北地方の背中を覆う『ケラ』がもっとも古く、『信貴山縁起(しぎさんえんぎ)』に、そのおもかげを察することができる。これを東北地方では背蓑ともいう。漁村では、多く腰から下に巻く腰蓑は、水を防ぐためのものであり、肩や背を覆う肩蓑、丸く編んだ丸蓑、帽子付きの蓑帽子、背蓑と腰蓑を継いでつくった胴蓑は猿蓑とよぶ地方もある。」

ともある(日本大百科全書)。

「蓑(簑)」(サイ,サ)は,

「会意兼形声。衰は,端をばらばらに切った粗末な衣。蓑は『艸+音符衰』で,端をそろえてない草の衣」

とある(漢字源)。「簑」は「蓑の俗字」とか(字源)。「草衣」ともいい,まさに「みの」の意である。

和語「みの」は,大言海が,

「身擔(みに)の轉かと云ふ」

とし,日本語源広辞典も,

「身+担う」の音便,

とし,

ミニナウ→ミナウ→ミノ,

の変化とする。似た説は,

ミニ(身荷)の転か(国語の語根とその分類=大島正健),
ミニナフ(身荷)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子),

等々もある。語源由来辞典も,

「『み』が体の「身」であると思われるが、『の』については特定が難しい」

としつつ,

「『ミニ(身担)』や『ミニ(身荷)』『ミヌ(身布)』の転、『ミニナフ(身荷)』や『ミオホ(身覆)』の意味、『ミノカサ(身笠)』の下略などある」

と類似説を挙げている。しかし,身に担うのは,別に「みの」だけではない。

その他,「身」と絡ませるものに,

ミナビキ(身靡)の義(名言通),
ミオホ(身覆)の義(言元梯),
ミヌ(身布)の転か(国語の語根とその分類=大島正健),
ミノカサ(身笠)の下略(柴門和語類集),
身体をつかず離れずの関係にあるところからミノシロ(身代)の下略(偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道=折口信夫),

等々あるが,どうも納得できない。「身」と離れて,

ムギノホ(麦穂)の反(名語記),
ミナ(河貝子)から。ミノを着た全体の形は,頭を頂点として両肩から下へと円錐形をなし,ミノとは人が巻貝のミナの恰好をすることだった(続上代特殊仮名音義=森重敏),

と諸説がある。「ミナ」とは,

川蜷,
河貝子,

と当てる,「カワニナ」のことである。ホタル類幼虫の餌となることで知られる。かつては,食用にもした。

「日本の淡水にはカルシウムが少ないためで、カワニナに限らず淡水性貝類では殻頂部が侵食されている場合が多い」

とされる(日本大百科全書)。これに真似る,というより,逆なのではないか,「みの」があって,似ていることに気付いた,と。

「身」に絡ませるなら,これは,「みの」を着る感覚からいえば,

まと(纏)ふ,

はお(羽織)る,

である。「まとふ」は,

巻きつく,

意で,少し外れる。「はおる」は,

被(はふり)が羽織となり,それを活用した,

ものなので,「かぶる」につながる。

かぶ(被)る,

は,

かがふるの転,

「かかぶる」は,

頭からかぶる,

意で,また少しずれる。どうも,「みの」を,身と絡ませようとすると,それを着る語感と合わなくなる。やはり,

「『み』が体の「身」であると思われるが、『の』については特定が難しい」

ようである(語源由来辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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隠れ蓑


「隠れ蓑」は,ハリー・ポッターに出てくる透明マントのように,

それを身につけると他人からは姿が見えなくなるという,鬼や天狗が持つとされる想像上の蓑,

を指す。それが転じて,

真相を隠す手段の意,

を指すようになる。「蓑」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%BF%E3%81%AEは,既に触れたように,藁,茅,菅,シナノキなどの植物の茎や皮,葉などを用いてつくった雨具である。岩波古語辞典を見ると,

隠れ蓑,

の他に,

隠れ笠,

というのもある。江戸期の型染木綿に,

宝尽くし紋(たからづくしもん),

というのがある。

「宝物を集めた文様です。福徳を呼ぶ吉祥文様として晴れ着などに多く使われています」

とある(https://kimono-pro.com/blog/?p=818)。その宝物として,

宝珠(ほうじゅ おもいのままになる),
打出の小槌(うちでのこづち 打てば宝がでてくる),
鍵(かぎ 大切なものを守る土蔵の鍵),
金嚢(きんのう 砂金や金貨を入れる),
宝巻・巻軸(ほうかん・まきじく ありがたいお経の巻物),
筒守(つつまもり 宝巻・巻軸を入れる物),
分銅(ふんどう 金を計る),
丁子(ちょうじ仏宝 貴重な薬・香料),
花輪違い(はなわちがい 七宝),

等々と並んで,

隠れ蓑・隠れ笠(かくれみの・かくれがさ 体が隠れる),

がある。江戸時代の桃太郎話では,桃太郎が鬼ヶ島から凱旋(がいせん)したときに持ち帰った財宝のなかに,これを着ると、その人間は透明人間になる,

隠れ蓑(みの),



があったとされる(https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p082/),とか。

大言海も,「隠れ蓑」「隠れ笠」の項で,

「共に,穏形(おんぎゃう)の法などに云ふものか。此蓑笠は,寶盡しと云ふものの中に,其形を畫きて飾りあり」

としている。寶物集に,

「昔より,隠れ蓑,打出の小槌を持たると云ふ人も,實はなし,隠蓑少将と申す物語も,あるまじき事を作りて侍る」

通り,想像の産物だが,『日本昔話事典』では,

宝物交換,

のひとつとし,「八化け頭巾」の一変化と見做す。「八化け頭巾」は,

狐が化けるのに必要な呪宝を人間が智謀で取り上げる話,

で,「隠れ蓑」も,こんな話である(日本伝奇伝説大辞典)。

「博奕に負けた博奕打が賽を転がして『京が見える,大阪が見える』と言い,天狗の持っている隠れ蓑笠と取り換える。天狗は騙されたことをすぐに知るが,博奕打ちはすぐさま蓑笠で姿を隠し,料理や菓子を盗んで歩く。あまり汚い蓑笠なので,女房が焼いてしまう。残った灰を体に塗ってみると姿が隠れるので,また,したい放題をする。あるとき,酒を盗み飲んだところ,口の周りだけ灰が取れ,見破られてしまう」

多く,蓑笠を焼くのは,母親か女房であり,看破される寸前に助け出すのも女房である。

「致富譚における援助者としての女性の位置」

が見られる(仝上),とある。

「蓑を着けた姿は,古代の常世からの来訪者の姿に通じており,少なくとも蓑の異様な外観に神秘的なものが感じられた」(日本昔話事典)

「蓑を着けた姿は常世からの来訪者の姿であると信仰され,中世では隠れ蓑は宝の一つに考えられていた」(日本伝奇伝説大辞典)

やはり,姿が隠せることに,憧れがあったのは,洋の東西を問わないらしい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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証を立てる


「証を立てる」は,

証が立つ,

という言い方もする。

潔白であるということを証拠に挙げてはっきりさせる,

という意味である。

「『証』は、(後ろ暗くないことの)証明。『立てる』は、ここでは、はっきり示す意で、『誓いを立てる』『願を立てる』などと使う」https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-01-2-0004.html

ともある。「たつ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E7%AB%8B%E3%81%A4で触れたように,「たつ」は,

タテにする,地上にタツ,横になっていたものを縦にする,

意である。

逆に,「横」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E6%A8%AA)は,

横言,
横訛り,
横飛び,
横恋慕,
横流し,
横取り,

と,「横」のつく言葉は,横向きという以外は,ほとんど悪意か,不正か,当たり前でない,ことを示すことが多い。

横を行く,

と言えば,無理を通すだし,

横車,

も,横向きに車を押す,ことだから,理不尽さ,という意味合いを含んでいる。

横紙破り,

は,線維に沿って縦に破るのではなく,横に裂こうとする含意から,無理押しの意味が含まれる。

「たて」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%9F%E3%81%A6)で触れたように,「立つ」は,

「自然界の現象や静止していめ事物の,上方・前方に向かう動きが,はっきりと目に見える意。転じて,物が確実に位置を占めて存在する意」

とある(岩波古語辞典)。この含意は,

立役者,

の「立」に含意を残しているように,

はっきりと目に見える,

意である。「立てる」は「縦にする」意なのである。

もともと「証(あかし)」は,これ自体,

証明する,
唄数をはらす証拠,

という意味を持つ。「証(證)」(ショウ,セイ)は,「證」(ショウ)は,

「会意兼形声。『言+音符登』で,事実を上司の耳にのせる→上申すること。転じて,事実を述べて,うらづけるの意となる」

とあり,「あかし」「証を立てる」意である。「証(セイ)」は,

「会意廉形声。『言+音符正(ただす)』。意見を述べて,あやまりをただすこと。いまは,證の新字体として用いられる」

とあり,「いさめてただす」意となる。「證」は「あかし」,「証」は「ただす」意と,本来別であった。

和語「あかし」は,

灯(燈),

と同源とある。「あかし(灯)」は,

ともしび,あかり,

の意である。漢字「灯(燈)」(トウ,チョウ)は,「燈(トウ)」は,

「会意兼形声。登は『両足+豆(たかつき)+両手』の会意文字で,両手でたかつき(脚つきの台)をく上げるように,両足で高くのぼること。騰(のぼる,あがる)と同系のことば。燈は『火+音符登』で,く持ち上げる火。つまり,くかかげるともしびのこと」

であり,「ともしび」「あかり」の意であり,「灯(チョウ)」は,

「会意兼形声。灯は『火+音符丁(停 とめおく)』で,元,明以来,燈の字に代用される」

とある。「ひ」「ひと所にとめておくあかり」の意とある。ちょっと区別ははっきりしない。

和語「あかし」が,

あかし(灯),

と同源ということは,

明かし,

つまり,

明るくする意,

であり,それは,

アク(明)・アカシ(赤),

と同根ということである。「あく」は,

明く,
開く,

と当て,

明るくなる,
ものを明るみに出す,

意である。つまり,

あかし(証),

は,

明かす,

であり,

赤す,

である。その「赤」に対するのが,

黒,

の,

暗(くら),

である。このことは,

「あか」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%81%82%E3%81%8B),
「くろ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E3%81%8F%E3%82%8D), 
「赤」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E8%B5%A4),

等々で触れた。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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あがく


「あがく」は,

足掻く,
跑く,

と当てる。「あがく」の「あ」は,

足,

である。万葉集に,

「アの音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ」(安能於登世受 由可牟古馬母我 可豆思加乃 麻末乃都藝波思 夜麻受可欲波牟)

とある。この「あ(足)」の用例は,

足占(あうら),
足結(あゆひ),

等々,多く下に他の語をともなった複合語をつくる(岩波古語辞典),とある。「あゆひ」は,

あしゆひ,

とも言い,

動きやすいように,袴を膝頭の下で結んだ紐,鈴や玉をつけ,装飾とした,

とある(広辞苑)。

あよひ,

とも言い,この対が,

手結(たゆひ),

になる。「足占(あうら)」は,やはり,

あしうら,

とも言い,

「古代の民間占法。一歩一歩に吉兆の辞を交互に唱え,目標の地点に達した時の辞によって,吉兆をうらなったものかという」

とある(仝上)ので,花びらで,「來る,来ない」とやる占いみたいである。岩波古語辞典には,

「歩いて行って,右足・左足のどちらで目標の地点につくかによって吉兆を定めるものらしい」

ともある。

もともと,「あがく」は,

ア(足)+カク(掻く),

で,

馬が前足で地面を掻く,

意とある(日本語源広辞典)。つまり,

轡をくわえさせられ,手綱で御される,

馬の自由にならない状態を前提に,馬が,

足で地面を掻いている,

というのがこの言葉の前提である。とすると,

「(馬などが)足で地面を掻いて進む」(岩波古語辞典)

は正確ではない。それなら,それが転じて,

自由になろうとしてやたらに手足を動かす,もがく,

意となり,それをメタファに,

悪い状態から抜け出そうとして,どうにもならないのに,いろいろやってみる,あくせくする,

子どもが悪戯して騒ぎまわる,ふざける,

意としても使うという意味の外延の広がりとつながらない。万葉集に,

「武庫川の 水脈を早みと 赤駒の 足掻く激(たぎち)に 濡れにけるかも」

は,早い川の流れに,乗り手は進もうと手綱で指示するが,馬は立ちすくみ足踏みしているさまである。本来は,「あがく」は,意味の転化の変化から鑑みても,この意味だったと思われる。

「ふざける」意では,今日使わないが,

「ヤイ,ヤイ,ヤイ。よつぽどにあがけよ,其所なぬくめ」
「(子供は)早く寝て疾く起し,昼あがかせたが万病円」

という用例がある(ともに近松・鑓権三)。

なお,「足」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%82%E3%81%97)については,触れたが,

タチ(立)の転(玄同放言),

が最もいいところをついていると思う。「立つ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E7%AB%8B%E3%81%A4は,

「タテにする」

という意味である。それを「あし」とつなげるのは,自然に思えるが,どうだろう。二足歩行は,まず立つから始まる。たとえば,

tatu→tasi→asi

といった転訛をしたとは考えられまいか,とは臆説ではある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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あくせく


「あくせく」は,

齷齪,
偓促,

と当てる。「齷齪」の訓み,

あくさく,

の転訛である。だから「齷齪」は,

あくさく,
あくそく,
そそくさ,

とも訓ませる。そのせいか,

あくせく 83.8%
あくそく  9.5%
あくさく  5.4%
そそくさ  1.4%

と,訓み方がわかれる(https://furigana.info/w/%E9%BD%B7%E9%BD%AA)。「あくせく」への転訛は,

「『あくさく』から『あくせく』の音変化は、『急く(せく)』からの類推と思われる」

とする説もある(語源由来辞典)。

心が狭く,小さなことにこだわること,
休む間もなくせかせかと仕事などをすること,

の意である。「齷」(アク)は,

「会意兼形声。『齒+印符屋(つまる,ふさがる)』。歯の間がせまくつまっていること」

とある(漢字源)。「つまってちいさいさま」の意である。「齪」(サク,セク)は,

「会意兼形声。『齒+音符足(=促 せかせかする,間が狭い)』」

とあり(仝上),せまい,せせこましい,という意味である。「齷齪」は,

歯の細かく密なる義,

転じて,心が狭し,こせつく,

という意味が転じた(字源)とある。つまり,歯の間の狭いというだけの状態表現が,「こせこせ」「あくせく」と価値表現へと転じたことになる。さらに,

細かいことを気にして落ち着かないさま,

目先のことにとらわれて,気持ちがせかせかする,

と,その価値表現の幅も広い。要は,

せっついている,

ということである。中国語では,さらに,

汚い,不潔な,
卑しい,卑怯な,
度量が狭い,

と,その貶め方がきわまるらしいhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BD%B7%E9%BD%AA。笑える国語辞典にも,

「現代中国語では、やはり『齷』も『齪』も『齷齪』にしか使わず、こちらは『汚れている、汚い』という意味で用いられているようである」

とある。

大言海は,「あくさく」の項に,

「六書故『人之曲(こまかに)謹者,曰齷齪』。集韻『齷齪,迫(せまる)也』。アクセクと訛りて,普通語となれるは昔教科書なりし,文選より出しならむ」

とある。文選には,

「小人自齷齪,安(いずくんぞ)知嚝士懐(おもひ)」(嚝士は,心嚝き人なり)

とあるとか(仝上)。

「齷齪」は,和語でいうと,

こせつく,

だが,これは,擬態語,

こせこせ,

から来ている。「こせこせ」は,

コ(小)セ(狭)の繰り返し(日本語源広辞典),
コセはコソ(小狭)の意(大言海),

らしく,鎌倉時代から見られる。

「意味は,…(どうでもよい細かなことにこだわったり,些細な事を必要以上に気にしたりするなど,気が小さく,考えや行動にゆとりや落ち着きが無い様子)。『栂尾明恵上人遺訓』に『こせこせと成ける者哉と』ある。この『こせ』をもとに鎌倉・室町時代には『こせがむ』『こせびる』『こせめく』など,細かなことにこだわる意の動詞が現れた。今日の『こすい』『こすっからい』のもとの形容詞である『こすし』も室町時代からみえる」

とある(擬音語・擬態語辞典)。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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隠れ里


「隠れ里」には,

世の煩わしさを避け,世間に隠れて棲む所,特に貴人が山奥に隠れ住んでつくった部落を言い,伝説化しているところが多い,

という意味と,

山中や地下にあるといわれる人の知られぬ別世界,多くは椀貸し伝説に結びつく,

という二つがある(広辞苑)。前者は,

平家の落人部落,

という類で,後者は,日本の民話、伝説にみられる,

桃源郷,

で,

山奥や洞窟を抜けた先などにある,

と考えられたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E9%87%8C。隠れ里は,

奥深い山中や塚穴の中、また川のはるか上流や淵の底にあると想像されている別天地,

であり(仝上),

隠れ世,

隠田百姓村(おんでんひゃくしょうむら),

等々の呼称もある。そんなアナロジーなのか,

遊里,

特に,私娼の場所を言ったりする,らしい(岩波古語辞典)。

「猟師が深い山中に迷い込み、偶然たどり着いたとか、山中で機織りや米をつく音が聞こえた、川上から箸やお椀が流れ着いたなどという話が見られる。そこの住民は争いとは無縁の平和な暮らしを営んでおり、暄暖な気候の土地柄であり、外部からの訪問者は親切な歓待を受けて心地よい日々を過ごすが、もう一度訪ねようと思っても、二度と訪ねることはできないとされる」

という伝承は,落人伝説と共に,

「仏教の浄土思想渡来以前の、素朴な山岳信仰、理想郷の観念が影響している」

とされ,二つの「隠れ里」は微妙に重なっている。理想郷の伝承があるから,貴人の落人伝説が生まれてくる,というように。

「各地の隠れ里伝承を比較研究した民俗学者の柳田國男は、概して西日本の隠れ里は夢幻的で、東北地方に行くにしたがって具体性を帯びていくという指摘をしている」

とか。たとえば,「椀貸し伝説」は,

「椀や膳が入用なとき,その淵に頼めば貸してくれる」

というもので,「淵」は,

川,
池,
沼,
塚,
洞穴,
風穴

等々ともなる。

「これらの伝承を持つ地は竜宮につながっているということも多くみられ,貸主は淵の主である龍神,河童,大蛇,乙姫などが多い。このことから,椀貸し淵伝説は,富や幸をもたらす水底の異郷に対する信仰を根底にし,これらのや池,沼などは竜宮へつながる出入口のように考えられていた」

とある(日本昔話事典)。

「隠れ里を訪ねた者の話には、贅沢なもてなしを受けたとか、高価な土産をもらったとかいうものがある。隠れ里は概ね経済的に豊かであることが多い。また、隠れ里に滞在している間、外界ではそれ以上の年月が経っていたという話もあり、時間の経ち方が違っていることもある」

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E9%87%8C

浦島太郎,
鼠浄土,

といった説話とつながってくる。

「常世の国が海の彼方という不可能性を帯びた所に在るのに対して、隠れ里は地下の国や深山幽谷といった一応到達可能な点に置いている」(仝上)

たとえば,「鼠浄土」は,

おむすびころりん,

である。

鼠の餠つき,
団子浄土,

等々ともいう。

「 おじいさんが、いつものように山で木の枝を切っていた。昼になったので、昼食にしようとおじいさんは切り株に腰掛け、おばあさんの握ったおむすびの包みを開いた。すると、おむすびが一つ滑り落ちて、山の斜面を転がり落ちていく。おじいさんが追いかけると、おむすびが木の根元に空いた穴に落ちてしまった。おじいさんが穴を垣間見ると、何やら声が聞こえてくる。おじいさんが他にも何か落としてみようか辺りを見渡していると、誤って穴に落ちてしまう。穴の中にはたくさんの白いねずみがいて、おむすびのお礼にと、大きいつづらと小さいつづらを差し出し、おじいさんに選ばせた。おじいさんは小さいつづらを選んで家に持ち帰った家で持ち帰ったつづらを開けてみると、たくさんの財宝が出てきた。」

という話https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%99%E3%81%B3%E3%81%93%E3%82%8D%E3%82%8A%E3%82%93で,この続きは隣の意地悪爺さんが真似をして,欲をかいて失敗する,というお定まりの話になる。なぜ「鼠」なのか。

「ネズミは神に関わる動物だとする俗信と,生活苦のない,物の豊かな浄土への憧れと,物をとって貯えるネズミの習性の観察とがある。古来,ネズミは作物などに甚だしい害を加えるにもかかわらず畏敬されてきた。白ネズミは農神であり富の神とも信仰されてきた大黒天の使者だといわれている。」

という(日本昔話事典)。そしてこの「鼠浄土」は,

根の国,

とつながる。柳田國男は,この「根の国」を,

「沖縄のニライ,ニルヤ,儀来(ぎらい),根屋(ねんや)などと同系のものと考え,本来は,光明の地であり,生命や豊穣(みのり)の源泉」

と考えた(仝上)。それは折口信夫の,

常世郷(とこよのくに)の信仰,

と重なる。「隠れ里」は,

常世の国,

を海の彼方から,この地にスライドさせたものであった。結局,苦しく貧しい,この世とはかけ離れた豊かな世界へのあこがれの反映とみられる。今日のわれわれにとって,その常世の国は,何処に比定されてるのだろう。

なお,日本各地の「隠れ里」伝承については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E9%87%8C

に詳しい。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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かくれんぼう


「かくれんぼう」は,

隠れん坊,

と当てる。

かくれんぼ,

ともいう。、主に幼少の子供がする,

二人以上で遊ぶ。まず鬼の役をやる人を決め、鬼がその場で数を数える間に他の人はどこかに隠れる。鬼が「もういいかい」と呼びかけ、隠れる側が「まだだよ」か「もういいよ」と答える。「もういいよ」と答えたら鬼が探索開始。隠れた人を見つけたら鬼の勝ち。見つけられずに鬼が降参したら隠れた人の勝ち。または、鬼に一番最後に見つかった人が勝ち,

という遊戯であるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%8B%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%93%E3%81%BC

鬼を決めるのは,じゃんけんで,その鬼が目をつぶっている間に皆が隠れる。鬼に最初にみつけられた者が次の鬼になる,

ということから,

隠れ鬼,

ともいう。この遊びの歴史は相当に古く,

「『栄花物語』の莟み花の巻に、かくれ遊びとして名がみえている。「ともすれば御かくれあそびのほどもわらはげたる心地して」とあり、『物類称呼』によれば、その名称も数多かった。かくれご(出雲(いずも)=島根県)、かくれかんじょう(相模(さがみ)=神奈川県)、かくれかじか(仙台)などがみえる。かじか(河鹿)は岩の間に隠れるから、それにちなんでの名称であろう」

とあり(日本大百科全書),明治以後この遊びが流行したので,全国のにさまざまな呼び方が明らかになった,という。

カクレモーモ(長崎県),
カクレモチ(新潟県長岡市付近),
カクレジョッコ(秋田県北部),
カクレモジョ(鹿児島県),
ナブリッコ(東京都八丈島),
モウゾウガクレ(熊本県の球磨郡地方),

等々。東京周辺では「もういいかい」「もういいよ」という問答だが,が通例となっているが、この間に唱えることばがある地方も多い,とか(仝上)。岩波古語辞典には,

「この遊びの時『樗(あふち)や辛夷(こぶし)や桂の葉』,訛って『ちいちゃこもちや桂の葉』と唱えた」

とある。熊本県の球磨郡地方では,

「かくれんぼうをモウゾウガクレとよぶ。モウゾウは化け物のことらしいが、ここでは隠れ終わったときに『モウゾウ』とよぶそうである。そうよぶ以前に小さな声で『だぁまれ、だぁまれ、雉(きじ)の子、うんともいうな、屁(へ)もひんな、鉄砲かためが通ったぞ』という。鉄砲かためは鉄砲を肩にした者の意。奈良県では『モウヤァ』といって隠れるが、これが東京付近でいう『まだまだ』にあたるし、東京で『もういいよ』という合図のことばは、このへんでは「チンカラコ」といわれる」

ともある(仝上)。

日本以外にもほぼ同様のルールのものが多数存在し,英語圏では,

Hide-and-seek,

というらしい(仝上)。

「かくれんぼう」の由来は,はっきりしない。

隠れん+坊(接尾語ヒト),

とある(日本語源広辞典)。

「ンボは,オコリンボ,ケチンボのンボと同じで,人の意」

であるが,大言海の,

「隠るることを擬人化したる語。寝坊,悔しん坊」

という行為や擬態の擬人化の方が妥当に思える。

「隠れん坊」の由来には,宗教的な起源があるように思うが,はっきりしない。日本だけでなく,世界にあることも,何か人の営みの根源と関わるように思えるのだが。

なお,「かくれんぼう」は,

「日本では近代まで神隠し・誘拐(人身売買)を恐れ、夕暮れ時以降はタブーとされていた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%93%E3%81%BC。柳田國男は,

「高麦のころに隠れん坊をすると、狸に騙れると豊後の奥ではいうそうだ。全くこの遊戯は不安心な遊戯で、大きな建物などの中ですらも、稀にはジェネヴィエバのごとき悲惨事があった。まして郊野の間には物陰が多過ぎた。それがまたこの戯れの永ながく行われた面白味おもしろみであったろうが、幼い人たちが模倣を始めたより更に以前を想像してみると、忍術などと起原の共通なる一種の信仰が潜んでいて、のち次第に面白い村の祭の式作法になったものかと思う。
 東京のような繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにしている。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。または隠かくし婆ばあさんに連れて行かれるといって、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいていて夏の夕方などに、児を喚ぶ女の金切声かなきりごえをよく聴くのは、夕飯以外に一つにはこの畏怖もあったのだ。だから小学校で試みに尋ねてみても分かるが、薄暮に外におりまたは隠れんぼをすることが何故に好くないか、小児はまだその理由を知っている。福知山附近では晩に暗くなってからかくれんぼをすると、隠し神さんに隠されるというそうだが、それを他の多くの地方では狸狐といい、または隠し婆さんなどともいうのである。隠し婆(はばあ)は古くは子取尼(ことりあま)などともいって、実際京都の町にもあったことが、『園太暦(えんたいりゃく)』の文和二年三月二十六日の条に出ている。取上げ婆ばばあの子取りとはちがって、これは小児を盗んで殺すのを職業にしていたのである。なんの為にということは記してないが、近世に入ってからは血取りとも油取りとも名づけて、罪なき童児の血や油を、何かの用途に供するかのごとく想像し、近くは南京皿の染附に使うというがごとき、いわゆる纐纈城(こうけちじょう)式の風説が繰り返された。そうしてまだ全然の無根というところまで、突き留められてはいないのである」

と書いている(山の人生)。夕暮れの薄暗い時,つまり,黄昏は,

逢魔が時,

という。

逢魔が時http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E9%80%A2%E9%AD%94%E3%81%8C%E6%99%82については,触れたことがあるが,

おおまがとき(大禍時)の転。禍いの起きる時刻の意,

とあり(広辞苑),

大魔が時などと云ひて,怪ありとす,

とする(大言海)。

「それは恐らく日が沈み、それまで明らかだったものの輪郭がぼやけて見えなくなっていく、その覚束なさから生まれる不安なのだ。そして、ぼんやりとした物の陰から、何か異界の者がそっとはみ出るように現れてくるのだ。」

とある。陰と闇とがまぎれ,物の形がとける,という感覚は,ちょっと気味は悪い。さらに,

「だから、普通には魔物に逢っても意識されることは殆んどない。夕暮れ時の忙しさの中で、それは薄暗闇に紛れてしまう。ただ、感受性の強い、幼い子供を除いて……。 夕食の支度やら何やらで、忙しく立ち働かなくてはならないこの時間帯は、不思議なことに、赤ん坊は必ずぐずり、幼子は聞き分けがなくなって、母親にまとわり付くものだ。その多くの理由は、純な魂が、魔物を感じ取って不安になるためだと私は考えている。しかし、当然彼らにはその不安を説明することはできない。で、大人はいらいらと叱ったり、よしよしと宥めたりするだけなのだ。」

とありhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1323106583,だからか,

「世俗、小児を外にいだすことを禁(いまし)む。」

という。ましてや,物陰に隠れる「隠れん坊」は,神隠しとつながる。

「子供のいなくなる不思議には、おおよそ定きまった季節があった。自分たちの幽かすかな記憶では秋の末から冬のかかりにも、この話があったように思う…。多くの地方では旧暦四月、蚕かいこの上簇じょうぞくや麦苅入の支度に、農夫が気を取られている時分が、一番あぶないように考えられていた。これを簡明に高麦のころと名づけているところもある。つまりは麦が成長して容易に小児の姿を隠し、また山の獣などの畦あぜづたいに、里に近よるものも実際に多かったのである。」(山の人生)

だから,高麦の頃は,紛れがちで危ない,という。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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狸寝入り


「狸寝入り」とは,

空寝 (そらね) ,
狸眠り,
たぬきね,
たぬきねぶり,

等々とも言い,

眠ってるふりをすること,

だが(広辞苑),

都合の悪いときなどに,寝たふりをすること,

の方がこの言葉の含意を捉えている。

「狸は強く驚くと死んだまねをするところから」

とある(精選版 日本国語大辞典)。

「もとは臆病な動物の狸がびっくりした際などに一瞬、気絶してしまい、眠ったようになることに由来しています。また、人をだますとされている狸が気絶している姿を人々は自分たちをだますための空寝と思い、『狸寝入り』と言うようになりました」

ともあるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E7%8B%B8%E5%AF%9D%E5%85%A5%E3%82%8A。同趣のものに,

「狸寝入りという言葉は、江戸時代の文献にも見られる。 タヌキは臆病な動物で、驚いた 時には倒れて一時的に気を失い、眠ったようになる。 昔からタヌキは人を騙すと思われ ており、この姿をタヌキが人を騙すための空寝と考え、「狸寝入り」と喩えられるように なった」

とある(語源由来辞典)。江戸語大辞典の「たぬき」の項は,

狸寝入りの略,

のみ載り,

おきなんしなどと狸へよりかかり,

という川柳が載る(柳多留)。

「たぬき」は,

狸,
貍,

と当てる。

「アナグマと混同され両者ともムジナ・貒(まみ)といわれる。ばけて人をだまし,また腹鼓を打つとされる」

とある(広辞苑)。「むじな」は,

狢,
貉,

とあてるが,「むじな」は,

アナグマ,

の異称。しかし,

「混同して,タヌキをムジナとよぶこともある」

とある(広辞苑)。和名抄には,

「貉,無之奈,似狐而善睡者也」とあるが,

文明本節用集には,

「貉,ムジナ,狸類」

とある(岩波古語辞典)。

「江戸時代以降は、たぬき、むじな、まみ等の呼ばれ方が主にみられるが、…狢(むじな、化け狢)猯(まみ)との区別は厳密にはついておらず、これはもともとのタヌキ・ムジナ・マミの呼称が土地によってまちまちであること・同じ動物に異なったり同一だったりする名前が用いられてたことも由来すると考えられている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E3%81%91%E7%8B%B8。「たぬき」も,「むじな」も,人を化かす。

「民間伝承では、タヌキの化けるという能力はキツネほどではないとされている。ただ、一説には『狐の七化け狸の八化け』といって化ける能力はキツネよりも一枚上手とされることもある。実際伝承の中でキツネは人間の女性に化けることがほとんどだが、タヌキは人間のほかにも物や建物、妖怪、他の動物等に化けることが多い。また、キツネと勝負して勝ったタヌキの話もあ…る。また、犬が天敵であり人は騙せても犬は騙せない」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%AD,とある。

「ムジナ」も,人を化かす。

「むじなの化かし方は大きく分けて3つあり、1つ目は田や道を深い川のように思わせる。2つ目は馬糞をまんじゅうに、肥溜めを風呂のように思わせる。3つめは方向感覚をなくすということである」

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%8A),

「日本の民話では、ムジナはキツネやタヌキと並び、人を化かす妖怪として描かれることが多い。文献上では『日本書紀』の推古天皇35年(627年)の条に『春2月、陸奥国に狢有り。人となりて歌う』とあるのが初見とされ、この時代にすでにムジナが人を化かすという観念があったことが示されている。下総地方(現・千葉県、茨城県)では『かぶきり小僧(かぶきりこぞう)』といって、ムジナが妙に短い着物を着たおかっぱ頭の小僧に化け、人気のない夜道や山道に出没し『水飲め、茶を飲め』と声をかけるといわれた」

と載る(仝上)。

では「たぬき」は,語源は何か。大言海は,

「皮,韛(たぬき)に佳なるより名とするかと云ふ」

と,皮の用途から来たとする。これは,

皮をタヌキ(手貫き)に用いるところから(名言通・和訓栞・ことばの事典=日置昌一),

と同じである。日本語源広辞典は,

「タ(田)+の+キ(動物)」

と,田に出回るという意味を採る。

タノキミ(田君)の訛か(ことばの事典=日置昌一),
タノケ(田之快)の義か。また田猫の義か(燕石雑志),

等々と似ている。「田猫」というのは,『和漢三才図会』が,「タヌキ」の名として,「野猫」と記しているのとつながるのかもしれない。これらをみると,「タヌキ」はそれほど恐れられていないように見える。しかし,

「鎌倉・室町時代の説話に登場するタヌキには、ときに人を食うこともあるおどろおどろしい化け物としてのイメージが強い」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%ADので,語源のイメージとしては,新し過ぎるように見える。

「ムジナ」は,大言海は,

「貉は茂(も)し穴(な)に棲み,熊は隈(くま)に棲むと云ふ。共に棲む所より云ふ」

と,住処が語源とみなす。他に,

その声をきらって,ウンジキナ(倦鳴)の義(名言通),
クシイヌ(奇狗)の義(言元梯),

等々あるが,これもはっきりしていない。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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狐の嫁入り


「狐の嫁入り」は,

狐火が多く連なって嫁入り行列の提灯のように見えるもの,

を言うが,

陽が照っているのに雨の降る天気,

つまり,

天気雨,

についてもいう(広辞苑)。そのため,

狐雨(きつねあめ),

ともいう。

語源由来辞典は,

「狐の嫁入りは,夜,遠くの山野に狐火がいくつも連なっていることを,狐が嫁入りする提灯に見立てたもの。狐火は,狐の口から吐き出された火という俗信がある奇怪な青白い火で,恐れられていた。陽が照っているのに雨がバラつく現象を,狐火の怪しさのようであることにたとえ,日照り雨を『狐の嫁入り』というようになった」

と,その意味の転化を説明する。日本語源広辞典の,

「狐火(土中の燐化水素の自然発火)を,『狐の嫁入りの提灯の灯とみて怪しいとみた』言葉です」

は,ちょっと身も蓋もない。大言海は,

「一方に日は照り,一方に雨の降るを称する語。変化自在の狐のすめ所為(わざ)として云ふなるか」

と,日照り雨の説明をする。この方がいい。

宝暦時代の越後国の地誌『越後名寄』には,怪火としての「狐の嫁入り」が,

「夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり」

と,描かれているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E3%81%AE%E5%AB%81%E5%85%A5%E3%82%8Aし,寛永時代の随筆『今昔妖談集』には江戸の本所竹町、文政時代の草紙『江戸塵拾』には同じく江戸の八丁堀、寛政時代の怪談集『怪談老の杖』には上州(現・群馬県)神田村で、それぞれ奇妙な嫁入り行列が目撃されて,それが実はキツネだった(仝上),とか。

葛飾北斎による『狐の嫁入図』では,天気雨のときにはキツネの嫁入りがあるという俗信に基き、キツネの嫁入り行列と、突然の天気雨に驚いて農作物を取り込む人々の様子が描かれている(仝上)。

「狐火」とは,

「狐が口から吐くという俗説にもとづく」

とし,

暗夜,山野に見える怪火,鬼火・燐火等の類,

とある(広辞苑)。

狐の提灯,
ヒトボス、
火点し(ひともし),
燐火(りんか),
鬼火,

ともいう。郷土研究家・更科公護によると,狐火の特徴は,

「火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうという。また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいという。十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい、火のなす行列の長さは一里(約4キロメートルあるいは約500〜600メートル)にもわたる」

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E7%81%AB)。まさに,「狐の嫁入り」である。人は,知っていることを見る,まさに「狐」とはこういうものだというものを見ている。

なお,「きつね」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E3%81%8D%E3%81%A4%E3%81%ADはすでに触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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狐と狸


「狐と狸の化かし合い」

という言葉があるほど,だますものの双璧だが,不思議なことに,手元の鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』には,「狐火」はあるが,「狐」は載せない。しかし,「狸」は,載っている。

狸は,

「狐と並んで人を化かすといわれるが,その方法は狐に比べて単純で,あまり恐ろしくない。その信仰も,狐に対するほど強くはない」

とされる(日本昔話事典)が,狐は,

「早くから稲荷の使いと信じられてきた。比較的人里に近い山林に棲み,生殖や採餌の行動が季節によって特異な点があることから,農民には農耕神の示現を意味するとも考えられていたらしい」

とある(仝上)。古代の信仰では,

「山はそれ自体が山神であって、山神から派生する古木も石も獣(キツネ)もまた神であるという思想が基としてあると言われている」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D。それかあらぬか,日本の狩猟時代の考古学的資料によると,

「キツネの犬歯に穴を開けて首にかけた、約5500年前の装飾品[29]やキツネの下顎骨に穴を開け、彩色された護符のような、縄文前期の(網走市大洞穴遺跡)ペンダントが発掘されている。しかし、福井県などでは、キツネの生息域でありながら、貝塚の中に様々な獣骨が見つかる中でキツネだけが全く出てこない」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D,どうやら狐は特別な存在だったらしいのである。

「稲作には、穀物を食するネズミや、田の土手に穴を開けて水を抜くハタネズミが与える被害がつきまとう。稲作が始まってから江戸時代までの間に、日本人はキツネがネズミの天敵であることに注目し、キツネの尿のついた石にネズミに対する忌避効果がある事に気づき、田の付近に祠を設置して、油揚げ等で餌付けすることで、忌避効果を持続させる摂理があることを経験から学んで、信仰と共にキツネを大切にする文化を獲得した」

らしく,

「キツネは大衆に憎まれる存在とはならなかった。江戸時代に入り商業が発達するにつれて、稲荷神は豊作と商売繁盛の神としてもてはやされるようになり、民間信仰の対象として伏見のキツネの土偶を神棚に祭る風習が産まれた」

いのである(仝上)。その狐に対する信仰が,変化衰退して,

「その変怪神通力も化ける,化かすなどと受け止められるようになった」

とあり(日本昔話事典),狸の妖異とは,どうやら由来を異にするらしい。

狸にも,狐に似た,

狸憑き,

というのがあったらしい。

狸の霊が人に憑依すること,

だが,

「狐の場合に比して,いささかユーモラスで,大きんだまの話とか,大名行列をまねたなどというのが目立っている。しかし,文福茶釜の話にみられるように,文福茶釜に化ける,美しい娘に化けて女郎屋に身売りする,馬に化けるというように,繰り返して化けるのが狐であるのに対して,茶釜に化けて和尚に売られ,釜の尻をごしごしやられ,火に掛けられると熱いので尻尾を出して逃げ出す」

のは、狸なのである(日本昔話事典)。だから,狸に憑かれると,

「むやみと食物を請求して大食する。当人は腹ばかり膨れるが,身体は衰弱してついに命を落とす」

ということになる(仝上)が,狐の場合,

「キツネの霊に取り憑かれたと言われる人の精神の錯乱した状態であり、臨床人狼病(英語版)の症状の一種である」

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E6%86%91%E3%81%8D,今昔物語に,

「物託(ものつき)の女、物託つて云く、己は狐也、祟をなして来れるに非ず、ただ此所には自ら食物散らふものぞかしと思ひて指臨き侍るを以て被二召籠一て侍るなり」

とあるのが最古の例とされる(仝上)。憑く狐は,キツネ以外に,

イズナ(東北地方,関東の一部),
オオサキバツネ(関東地方),
クダギツネ(中部地方),
トウビョウギツネ(東中国地方),
ヒトギツネ(山陰地方),

等々と呼び,

「特定の家に付属していると信じられて」

いた(日本昔話事典)ので,

「キツネが守護霊のように家系に伝わっている場合もあり、(中略)これらの家はキツネを使って富を得ることができるが、婚姻によって家系が増えるといわれたため、婚姻が忌まれた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E6%86%91%E3%81%8Dが,これらのほか,

稲荷下げ,

などといって、修験者や巫者がキツネを神の使いの一種とみなし、修法や託宣を行うといった形式での狐憑きもある,という(仝上)。これは,

「キツネを稲荷神やその使いとみなす稲荷信仰(中略)を背景として狐憑きの習俗が成立した」

という例証とみなされる。

信仰という背景のせいか,狐を使って靈をとりつかせる,

狐使い,

等々があるのが狐の特徴で,狸の場合,その化かし方は,

「大きな音を立て,あかるい火をともし,細かな砂をまき,小さな石をなげるばかりでなく,土地によっては,婚礼や葬式に倣い,芝居や汽車をまねた」

とどこか大らかなところがあるが,それは江戸時代以降のことらしい。

「江戸時代になって、民俗イメージの中のタヌキは腹がふくれ、大きな陰嚢をもつようになり、やがて『腹鼓(はらつづみ)』まで打つようになったが、鎌倉・室町時代の説話に登場するタヌキには、ときに人を食うこともあるおどろおどろしい化け物としてのイメージが強い(御伽草子の「かちかち山」前半の凶悪なタヌキは、おばあさんを騙して殺し、さらにおじいさんを騙して「婆汁」を食わせる)」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%AD。信仰の対象にはならなかったわけである。

「きつね」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E3%81%8D%E3%81%A4%E3%81%AD
「たぬき」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%8B%B8%E5%AF%9D%E5%85%A5%E3%82%8A

については,それぞれ,既に触れた。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)

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セーラー服


「セーラー服と機関銃」ではないが,セーラー服は,この国では,女生徒の換喩であるが,

水兵服に似せた女性・子供用の服,女学生の制服に用いる,

とある(広辞苑)。特徴的な後ろに垂れ下がった四角い襟は,

セーラーカラー,

というらしい。日本語源広辞典は,

「英語sailor(水兵)+服」

とし,

「十九世紀にイギリスでは子供服でした。日本では1921年に女学生服として採用されています」

と書く。セーラー服は,

もともとイギリス海軍の制服,

であったらしい。この大きな襟は,

「甲板上で風の影響によって音声が聞き取りにくいときに、襟を立てて集音効果を得るなど諸説あるが、定かではない」

とあるが(由来・語源辞典),

「セーラー服の襟の起源は、18世紀のヨーロッパで流行した男子の辮髪(ピッグ・テイル)による服の汚れを防ぐために服につけた別布にあるといわれている。逆に言えば入浴を好まないヨーロッパ人の慣習がこうした服を発明させたともいえるものだ。辮髪といえば中国の清ではやっていたものであるが、産業革命以前のヨーロッパの富と力では総力を結集したところで到底太刀打ちできそうもない大国清に少しでもあやかろうとしたものだろう」

ともあり,水兵とは別の由来があるのかもしれない。しかし,セーラー服が出来た頃の船乗りの間では,

「長髪を後ろで括ってポマードで塗り固める髪型(タール漬けの豚の尻尾)が流行していたが、船上ではなかなか洗濯が出来ないので、後ろ襟や背中が脂やフケで汚れを防ぐためという説もある。しかし、イギリス政府のサイトでは、“豚の尻尾”は1815年以降急速に廃れ、記録に残っているのは1827年が最後であるのに対し、大きな襟が現れたのは1830年以降なので、“豚の尻尾”とセーラーカラーが共存していた時期はないと指摘している。更に同サイトでは、初期の襟は円形であったが、男性が自分で繕うのに簡単なため、方形になったとしている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%8Dので,はっきりしない。なお,

「セーラー服の胸元が大きく開いて逆三角形になっているのは、海に落ちた時にすぐ服を破り、泳ぎやすくするためと言われている。装飾として胸元にタイ(スカーフ)があり、その起源は水兵が手ぬぐい代わりに使用するための物であったと言われている」

とある(仝上)。この制服は日本海軍でも1872年には取りいれられ、現在も自衛隊の水夫の制服として存続しているらしい。

セーラー服の原型は,

「1800年代前半にイギリスで完成したと言われています。その当時,イギリス海軍では制服が制定されていなかったので,『各船ごとに艦長が趣味で制服を決める』といったことを行いました」

とありhttp://yurai-naze.com/sailor-suit/,で,一部の艦の艦長は,

「自分好みの制服を艦の資金で誂えていた。しかし、全乗組員に支給するには多額の費用がかかるため、人目につくことが多い艦長艇のクルーのみ制服を揃える場合もあった。特に軍艦ブレザー号(HMS Blazer)の艦長が1845年に誂えた制服は評判となり、乗組員の制服を揃えることが艦長の間で流行した。1853年、ハーレクイン号(HMS Harlequin)のウィルモット艦長は、この流行に乗って自艦の艦長艇クルーに艦名にちなみ道化師(Harlequin)の服を着せた。しかしこれは顰蹙を買い、新聞にも大きな問題として取り上げられた」

といった経緯でhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%8D,1857年に,海軍本部はセーラー服を水兵の制服として制定し、支給することにしたという(仝上)。

これが子供服になるきっかけは,ヴィクトリア女王である。

「英王室ヨット“HMY Victoria and Albert”乗組の水兵の制服として揃えられたセーラー服が気に入り、同一デザインの子供服を誂えて1846年のクルージングの際に王太子アルバート・エドワード(のちのエドワード7世)にその衣服を着用させた」

それを国民も倣い,子供服として流行した。その流行はその後20世紀初頭にかけて世界的なものとなった,とある(仝上)。その流行はフランスに及び,19世紀のフランスでは女性のファッションとしてセーラー服が着られるようになり、その後ボーイッシュ・ブームの一環としてヨーロッパ各国やアメリカで女性のファッションとして流行した。その流れの中で,日本では,20世紀前半までに主に女子生徒用の制服として定着した,とある。

それを学校の制服としたのは,1920年,

京都の平安女学院,

だとされているhttp://yurai-naze.com/sailor-suit/。翌年(1921年)には,福岡女学院が現在のものとほぼ同形のセーラー服を採用し,これが日本全国の女学生の服装として広まることになったとある(仝上)。いくらなんでも,もはや少し古めかしいイメージであるが,

「セーラー服を採用している中学・高校はかつてに比べれば減ったものの、女子中高生にはいまも主流」

なのだとかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%8D。多く,明治以降に始まったものなのに,やたらと旧習を墨守するのはいかがなものなのだろう。

「日本でも、海軍好きで少女好きなイギリス人好きな人々の尽力で、セーラー服は女子中高生の制服として認知され、いまでは世界中のどの国よりセーラー服好きで少女好きな国民となっている」

と(笑える国語辞典)の皮肉も,少し空しい。精神の幼稚さの象徴でしかない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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タニシ


「タニシ」は,

田螺,

と当てる。

「螺」(ら)は,

「会意兼形声。『虫+音符累(いくえにもなる,ぐるぐるまく)』」

とあり(漢字源),

たにし,さざえなど,螺旋状のからをもつにし類の総称,

である(仝上)。「にし」は,

螺,

と当て,

巻貝の一群の総称,

である(広辞苑)。「タニシ」は,日本には、大形のオオタニシ、中形のマルタニシ・ナガタニシ、小形のヒメタニシがいるらしい。ナガタニシは琵琶湖だけに棲息する固有種である。

大言海には,

古名たつび,
たつぶ,
たつぼ,
つぶ,

の呼称が載る。古名タツビは,

田中螺,

と当てる(たべもの語源辞典)。語源説には,

「タニシのタは田で,ニシは螺,巻貝のことで,田に棲む巻貝という意である。ニシのニは丹で殻の赤いことをいい,シは白で身が白いという説,ニシン(丹肉)の約だという説もある。また殻が赤いから丹(ニ)で,シは助辞であるという説もある。さらに,ニシム(丹染)からニシになったというセッションもある」

等々(仝上),また,

他に住む貝の王者という意でタヌシ(田主)の轉語(衣食住語源辞典=吉田金彦)

もあるが,はっきりしない。古名「たつび」は,

たつぶ(田粒)

の意と思われる。「つぶ」は,「つぶら」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%A4%E3%81%B6%E3%82%89で触れたように,

丸,
粒,

と当て,

「ツブシ(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」

である(岩波古語辞典)。

円い小さい立体,

の意の「つぶ」であったのではないか。その後,「にし」という概念を知り,

田の螺,

という名を変えた,と思われる。

古くから貴重な食料としてなじみのあった「タニシ」は,昔話の中では,農民生活と縁の深い水田や池沼に生息することから,

水の神の使令,

と見なされてきた(日本昔話事典)らしい。

田螺長者,
田螺と狐,
田螺と烏の歌問答,

等々の昔話がある。「田螺長者」は,子のない夫婦が神に祈願して得た子がタニシであったが,

「子供のない老夫婦が子供を恵んでくださるよう村はずれの観音様に祈ると、老婆に子供ができた。しかし、生まれた子供は人間ではなく田螺だった。それでも老夫婦は観音様からの授かりものとして、大切に育てることにした。
ある日、ふとしたきっかけで、馬の耳元(あるいは耳の中)から馬に囁くことで、自在に馬を操る才能があることが分かり、以後馬による荷運びを手伝うようになる。そのことが評判になり村の庄屋が話を聞き知るようになった。
庄屋は田螺の出自を知ると、観音様のご利益にあやかりたいと思い、田螺と自分の娘を夫婦にする。信心深い娘は、田螺との結婚を嫌がることもなく、円満に暮らし始める。ある夏祭りの日に夫婦で観音様にお参りに行った帰りに、烏に襲われる。その弾みで殻が割れてしまうが、中から普通の大きさの人間の男になった(元)田螺が現れる。それから(元田螺)夫婦と老夫婦は末永く幸せに暮らしたという」

という話https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%9E%BA%E9%95%B7%E8%80%85,「田螺と狐」は,

「タニシと狐が駈け比べをする。タニシは狐の尻尾に食いついていって,決勝点で飛び降り勝利を得る」

という話(日本昔話事典)。「田螺と烏の歌問答」は,カラスに食べられそうになったタニシは,

「烏をほめて,その姿を美しく形容した歌を歌う。(中略)烏はそれを聞いて喜んで木の上に引き上げる。タニシはそれを見て,『おのれの背見りゃ鍋の尻(けつ),おのれの目玉は味噌ごし目玉』とからかって,田の中にもぐってしまう」

という話(仝上)。昔話の中では,タニシは,

小さいながら機知で身を守るもの,

として表現されているようである。神の使令のイメージが強いせいだろうか。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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くも


「くも」は,

蜘蛛,

と当てる。「くも」は,地方によって呼び名が異なり,四国の太平洋側では,

グモ,

東北・北陸地方では,

クボ,

九州では,

コブ,

という(日本昔話事典),とある。

漢字「蜘蛛」の,「蜘」(ち)は,

会意兼形声。『虫+音符知(=踟 小刻みにすすむ)」

とあり(漢字源),「蛛」(チュウ)は,

会意兼形声。「虫+音符朱(=株 ひとところにじっとまっている)」

どあり,ともに「くも」の意である。「蜘蛛」(チチュウ)は,

小刻みに動いてはとどまる,

ところから,「くも」である。「蜘躅」と同系とされる。「躅」(チョク)は「いもむし」の意である。

大言海は,

「沖縄にて,クム。朝鮮にて,ケムイ」

と載る。沖縄の「クム」は,九州の「コブ」という呼び名と,音韻のつながりがありそうである。朝鮮由来と見る説には,日本語源大辞典に載る,

朝鮮語kömïiと同源(万葉集・日本古典文学大系),
朝鮮の俗語で蜘蛛をいうクムとからか(東雅),

がある。日本語源広辞典は,

説1,中国語kobu,kumoの音韻変化,
説2,ク(組)+モ(モチ,ねばる),

の二説を挙げる。しかし,「ク(組)+モ」なら,

kumu→kumo,

とシンプルな音韻変化だってあり得るのではないか。現に,

網を汲む虫ということから,クム(組)の転か(和語私臆鈔・閑田耕筆・言元梯・碩鼠漫筆),
巣をクム(組)の義。または,捕えると手を組んで腹を抱えることから,手をクム(組)の義(滑稽雑誌所引和訓義解),
スクミモリ(巣組守)の義(日本語原学=林甕臣),

等々と,「くむ(組む)」と関わらせる説がある。

その他,巣を張って待つところから,

巣に籠っているところから,コモリ(籠)の義(名言通),
手を拡げたさまが雲に似ているからか(河社),
蜘蛛の巣が雲に似ているから(九桂草堂随筆),

等々もある。「雲」は,

「雲る」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%8F%E3%82%82%E3%82%8B

で触れたように,「くもる」は,

「隠(くも)る義なりと云ふ(かくむ,かこむ。くくもる,くこもる)」(大言海)
「黒雲の中に(雨)コモル(籠る)は(天)クモル(曇る)に転音・転義をとげた」(日本語の語源)。
「『隠る・籠る』と語源が等しい」(日本語源広辞典)

等々と,

クモル(隠る)→クモ(雲)→クモル(曇る),
か,
コモル(籠る)→クモル(曇る)→クモ(雲),

クモルあるいはコモル→くもり→くも,

かは,別として,「こもる」と関わる。その意味で,「蜘蛛」と「雲」がつながる,と見るのは無理筋ではない。

「蜘蛛」は,

「賢淵伝説として全国に広く分布する水蜘蛛伝説にも見られるように,クモは水界の靈と信じられていた」

とある(日本昔話事典)し,

「九州地方には蜘蛛合戦の習俗があるが,これはクモを神の仮の姿と信じる蜘蛛占いの一つである。夜グモが凶兆とされるのは,外観の奇怪さとともに夜出現する神を畏怖する心が恐怖心に変化したものであろう」

とする(仝上)。因みに,賢淵伝説は,たとえば,広瀬川の伝承として,

「仙台の城下町のはずれに当たるこの付近は茶屋町と呼ばれていたが、ここに住むある男が淵で魚釣りに興じていた。ふと気が付くと、一匹の蜘蛛が川面から現れて男の足首に糸を巻き付けた。気に留めた男は糸をはずすと、そばにあった柳の木の根元にそれをくっつけた。しばらくして気付くと、また同じ蜘蛛が男の足首に糸を巻き付けていたので、同じように柳の根元にくっつけた。こうして巻き付けられた糸を何度もはずしては根元にくっつけていたのだが、突然あたりを揺るがすような大きな音がしたかと思うと、柳の木が根こそぎ引き抜かれ、勢いよく淵に引き込まれていったのである。突然の出来事に男が肝を潰していると、水の中から「かしこい、かしこい」という声が聞こえてきた。そこでようやく、淵の主である蜘蛛が自分を引きずり込もうとして足首に糸を巻き付けていたこと、そして自分が糸を柳の木に付け替えていたために身代わりに柳が淵に引きずり込まれたことに気付いたのであった。それ以降、この淵は“賢淵”と呼ばれるようになったという」

というのが載る(https://www.japanmystery.com/miyagi/kasikobuti.html)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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心中


「心中」は,

しんちゅう,

と訓ませば,

心の中,
胸中,

の意である。

しんじゅう,

と訓ませれば,今日,

相愛の男女が一緒に自殺する,

という意の,

情死,

の意であるが,それが広がって,

一家心中,

のように,

複数の人間が一緒に死ぬ,

意である。それを比喩に,

会社と心中する,

というように,

打ち込んでいる仕事や組織などと運命を共にする

意で使ったりする。「情死」の意の前に載る意味は,

人に対して義理を立てる,
相愛の男女がその真実を相手に示す証拠,放爪,入墨,断髪,切指の類,

とあり,それがと転じて,

男女の相対死,

の意になったようである(広辞苑)。

本来,「心中」は,漢字では,

意中,

の意であり,ただ「心の中の考え」というだけの意味にすぎない。

心中有心,

というと,

心をもって心を制する,

意であり(管子「治之者心也,安之者心也,心以蔵心」),

心中人,

というと,

わが思う人,

の意である。この用例を見ると,「意中」の意は,ニュートラルではなさそうで,価値表現を含んでいるように思われるが,それ以外の意味は,我が国だけの用例らしい(字源)。だから,「しんぢう(しんじゅう)」と訓ませる場合も,

心,考え,

の意が元であり,それが,

心中立て,

の略として使われたところから,「心中」の意味が変化したもののようである。大言海は,「しんぢゅう」の項で,

互いに心中立(しんぢゅだて)する意,

としている。「心中立」とは,

心中を立ててとほす意。忠義立て,男だて同趣,

とある(大言海)。つまり,

心中(しんちゅう)→心中立(しんぢうだて)→心中(しんじゅう),

と,心の中の誓いや義理の話が,外へ出て,証を示すことになり,さらには,究極共に,その証として死ぬ,ということになった,という意味の流れに見える。日本語源広辞典の,

「中国語の,『心中(心の中の誠実)』が語源です。転じて,二人以上が同時に自殺することをいいます」

は説明に飛躍がある。

「『心中』は本来『しんちゅう』と読み、『まことの心意、まごころ』を意味する言葉だが、それが転じて『他人に対して義理立てをする』意味から、『心中立』(しんじゅうだて)とされ、特に男女が愛情を守り通すこと、男女の相愛をいうようになった。また、相愛の男女がその愛の変わらぬ証として、髪を切ったり、切指や爪を抜いたり、誓紙を交わす等、の行為もいうようになる。そして、究極の形として相愛の男女の相対死(あいたいじに)を指すようになり、それが現代にいたり、家族や友人までの範囲をも指すようになった」

という説明が正確である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E4%B8%AD)。

「元々は,遊廓の遊女が客に、心をこめる箱を意味する心中箱を渡す風習があった。これが、心中の前身であったと言われる。初期には心中箱に爪などを入れるが、しだいに断髪を入れるようになり、さらには遊女が20代後半になると引退ということになり、客に最後にわたす意味で、指を切って渡した。当時の心中が文学作品の影響や、情死を美化する日本独自の来世思想(男女が情死すると、来世で結ばれる)から、遊廓を逃亡した遊女などが気に入った客と情死する=心中するという意味に移行するに至った」

という説(仝上)があり,究極,

「自らの命をも捧げる事が義理立ての最高の証と考えられたことから、現在の心中の意味になった」

とされる(仝上)。情死を賛美する風潮も現れ、遊廓で遊女と心中する等の心中事件が増加して,

「江戸幕府は『心中は漢字の「忠」に通じる』としてこの言葉の使用を禁止し、『相対死』(あいたいじに)と呼んだ。心中した男女を不義密通の罪人扱いとし、死んだ場合は『遺骸取捨』として葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落とした」

という(仝上)。「心中」を,

しんちゅう→しんぢう→しんじゅう,

と濁らせたについては,

「遊里おいてに,起請文(相愛の男女がその愛情の互いに変わらないことを誓うために書いたもの)の意で(心中は)用いられ,原義との区別を清濁で示すようになった。元禄頃になると,男女の真情の極端な発現として情死という意味に限定される」

ようになったものとある(日本語源大辞典)。思えば,遊里であるからこそ,

起請文,

がいる。というより,それも客寄せの手段だったのかもしれない。しかし,思い詰めて行けば,行き着くところは,

情死,

になるのも,相手が遊女だったからなのかもしれない。

「そもそも男女が愛情の証しとして指や髪を切ることを言ったが、それだけではお互いを信用しきれない疑い深い連中が手段をエスカレートさせた結果、この究極の約束の方法にたどりついた。確かに心中が成功すれば約束が破られることはないが、往々にして片方だけが生き残り、そうなるとこれも究極の約束破りとなる」

とある(笑える国語辞典)のが笑えないのは,現に多かったのである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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愚痴


「愚痴」は,

愚癡,

とも当てる。「愚」(グ)は,

「会意兼形声。禺(グウ)は,おろかな物まねざるのこと。愚は『心+音符禺』で,おろかで鈍い心のこと」

とあり(漢字源),「智」や「賢」の対。「痴(癡)」(チ)は,

「会意。疑は,とまどって動かないこと。癡は『疒+疑』で,何かにつかえて知恵の働かないこと」

で,「慧」「聡」の対。「痴」は,「癡」の俗字で,「疒+音符知」の形声文字。

「愚痴」は,

言っても仕方のないことを言って嘆くこと,

の意で使うが,もとは,三毒の一つ,

理非の区別のつかないおろかさ,

を言う。

「原語は一般にサンスクリット語のモーハmohaがあてられ、莫迦(ばか)(のちに馬鹿)の語源とされている。仏教用語では、真理に暗く、無知なこと。道理に暗くて適確な判断を下せず、迷い悩む心の働きをいう。根本煩悩である貪欲(とんよく)(むさぼり)と瞋恚(しんに)(怒り)に愚痴を加えた三つを三毒(さんどく)といって、人々の心を悩ます根源と考えた。また、心愚かにも、言ってもしかたのないことを言い立てることを、俗に『愚痴をこぼす』などと用いるようになった」

とある(日本大百科全書)。「莫迦(ばか)(のちに馬鹿)」との関係は,

「モーハは、中国語に翻訳された時に、『愚痴』と訳された場合と、『莫訶』あるいは『馬鹿』と訳された場合がありました。ですから『馬鹿』という言葉も元をただせば、『愚痴』と同じだった」

ということのようである(http://www.housenji-zen.jp/rensai/rensai_406.html)。意味が転じたのは,江戸期らしく,

「江戸時代になって、愚かなことを口にするという用法になり、さらに、江戸時代中期ごろからは現在と同様の意味に変化した」

とある(由来・語源辞典)。「三毒」とは,

仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩,

貪欲(とんよく),
瞋恚(しんに),
愚癡(ぐち),

を指す。「貪欲」は,

貪(とん),

むさぼり(必要以上に)求める心。一般的な用語では「欲」・「ものおしみ」・「むさぼり」と表現する,

「瞋恚」は,

瞋(しん),

怒りの心。「いかり」・「にくい」と表現する,

「愚癡」は,

癡(ち),

真理に対する無知の心。「おろか」と表現する,

と説明される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%92)。

最古の経典と推定される南伝パーリ語のスッタニパータに、貪・瞋・癡を克服すべきことが述べられている,という(仝上)。

愚痴邪見,

と表現されることがある。「邪見」は,

よこしまな見方,誤った考え,

の意だが,これも仏教の,

因果の道理を無視する妄見,

で,

五見・十惑,

の一つとされる。仏教用語の「見」は,

哲学的な見解のこと,

正しい「見」は,「正見」(しょうけん)であり,間違った見解(悪見)は,

身見(自我の執着,自分はいつでも自分であると自分に執らわれる考え),
辺見(人間は死によって無に帰すとするのは断見,何かが残って続いてゆくとするのは常見である。このような一方的な考え方),
邪見(善因楽果,悪因苦果は仏教の根本である。この根本である因果の理を認めないで,それを否定し,偶然論を唱える説),
見取見(持勝見とも。間違った考え方を誤って勝れた考え方であると、それに執着する。有身見、辺見、邪見の三見は、見取見の初めの見となる),
戒禁取見(かいごんじゅけん 戒禁〈かいごん〉されたものを勝れた正しいものと誤って執着する考え方),

で(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%82%E3%81%8F%E3%81%91%E3%82%93),

邪見,

は,その一つとされる。「十惑」は,煩悩の根源は,三毒の,

貪(とん),
瞋(しん),
痴(ち)

に(三惑),

慢(まん 自らを高くみるおごり),
疑(ぎ 仏教の真理を疑うこと),

を加え,五見の,

有身見,
辺執見,
邪見,
見取見,
戒禁取見,

を加えたもの。根本煩悩ともいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%85%A9%E6%82%A9

「年寄りの愚痴は聞いてやれと言われるが、愚痴の聞き手はストレスがたまり、他の他人に愚痴をこぼしてストレスを解消する。つまり、愚痴は飛沫感染の伝染病である」

とある(笑える国語辞典)が,マイナスのエネルギーは,人の気力・やる気をそぐ効果はある。本人だって,吐き出した分,別の愚癡が充填されるだけで,碌なことはない。言っても解決しないことは,言うよりは,動くことかもしれない。

窮すれば変じ,変ずれば通ず,

である。

参考文献;
高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫)

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朝飯前


「朝飯前」は,文字通り,

朝起きて朝食をとる前,

の意だが,

(朝飯を食べる前にできることから)容易なこと(広辞苑),

あるいは,

(「朝食を食べるほどのわずかな時間でできる)たやすいこと(goo辞典),

と,謂れの違いはあるが,

簡単にできる,

意である。語源由来辞典は,

「朝飯前は字の通り、朝飯を食べる前のこと。 朝飯を食べる前は、空腹かつ時間もない ため、簡単な仕事しかできない。 特に、江戸時代中頃までは食事が一日二回だっ たため、朝飯前には力が入らない。 そのようなことから『朝食前でも仕上げられる簡単な 仕事』という意味」

とするし,日本語源広辞典も,

「朝食を取る前にできてしまうほど,たやすいこと」

とする。大言海に,

「こんな重い物,朝飯前には持ち上げられぬなど云ふは,飢腹(ひだる)き意より云ふなり」

とあるので,やはり,そんな状態でもできる,という意味ととるのが自然のようだ。江戸語大辞典に,

朝飯前にできぬ,

という諺が載り,

「空腹ではなにもできぬ,腹が減っては軍(いくさ)は出来ぬの類」

の意が載るので,そんな状態でもできることの意,とみていい。

朝飯前と同様に,簡単なことを意味する表現で「お茶の子さいさい」がある。

「お茶の子」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%8A%E8%8C%B6%E3%81%AE%E5%AD%90で触れたように,「茶の子」は,

茶の子,御茶菓子,また間食としてとる軽い食事,
(腹にたまらないところから)たやすくできること,

という意味である(広辞苑)。前者の意味から,後者へ転じたということでは「朝飯前」と似ているようだが,大言海は,「茶の子」について,

茶うけ菓子。點心,
朝茶子と云ふは,朝食に,茶粥を用ゐることなるべし,略して,チャノコとも云ひ,朝飯のこととす(今,静岡縣にては,朝飯をアサジャとも,チャノコとも云ふ)
朝の空腹に粥なれば消化(こな)れやすく,腹にたまらぬ意よりして,容易(たやす)きこと,骨折らずできること,又,朝腹の茶の子と云ふ諺も,容易なる意に云ひ,お茶の子などとも云ふ,

とする。「茶の子」が「お茶うけ」では,

容易,

という意味にはつながらない。

茶うけ→朝茶子(朝粥)→たやすい,

なら,少し意味が流れる。だから,「お茶の子」は,

「お菓子のこと。お菓子は腹に残らないことから、容易にできること、たやすいことをいう。」(「とっさの日本語便利帳」)

では,意味が飛躍しすぎる。「お茶うけ」は,腹にためるものではない。

腹にたまらない→たやすい,

と転じるには,

お茶うけ→朝茶子(朝粥)→腹にたまらない→たやすい,

と,もう一つ意味の拡大を挟んでいたのではあるまいか。あるいは,『隠語大辞典』に,

間食のことを茶の子といったので手軽な食,

ともあるので,間食も含めた,

お手軽食,

という意味から,たやすい,という意味に転じたというふうにも見られる。

お茶うけ→朝茶子(朝粥)あるいは手軽な間食→腹にたまらない→たやすい,

と,その手軽さが,たやすさへとシフトした,ということなのかもしれない。

『日本語源大辞典』には,

「朝食前,起きぬけにとる間食を茶ノ子と言うので,朝飯前の同義語としていう」(日本古語大辞典)

と言う説を載せている。つまり,ただの間食ではなく,

朝飯前の起きぬけの食事,

ということだから,正確には,

お茶うけ→朝茶子(朝粥)→腹にたまらない→たやすい,

の流れに,「朝飯前」という意味が重なる。それが,たやすいという意味と直接的につながっていく。

『日本語の語源』は,

オチャヅケノゴハン(お茶漬けの御飯)→オチャノコ(お茶の子),

と変化したという説を載せる。これを取るなら,もともとあった,

お茶の子,

とは別に,起きぬけの朝粥(あるいは茶漬け)を略して「茶の子」と言うようになった流れがあり,「お茶の子」に二重の意味が重なったのではないか。つまり,

お茶漬けの御飯→お茶の子,

が,本来の「お茶の子さいさい」の原点なのだが,それに,もともとあった,「茶うけ」の「茶の子」と重なった,というように。『日本語源広辞典』は,

「お茶の子(農民の朝飯前の代用食)+サイサイ(囃し言葉)」

と,よりクリアに,「お茶の子さいさい」の「お茶の子」の出自を明確化している。まさしく,

朝飯前,

なのだ。だから,たやすい意とつながる。これに「茶うけ」の「茶の子」の意味が重なったほうが言葉の陰翳は深まるような気がするが。

また「朝っぱら」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E6%9C%9D%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%89で触れたように,「朝っぱら」にも,

朝食前のお腹,

という意味と,

極めてたやすいこと,
朝飯前,

の意味が載る(岩波古語辞典)。朝飯前の時間は,お腹のすいた,余り機嫌のよくない,エネルギーのない時間にもかかわらずできることという意味になる。

ところで,「朝飯」は,

朝餉・朝食

の意であるが,古くは,

アサケ,

といい,日葡辞書に,

アサケヲコシラユル,

と載る。夕餉・夕食も,古くは,

ユウケ,

で,日葡辞書には,

ユウケ,ユウメシ,

で載る。「朝飯」について,

「古代,朝廷などでは朝夕の二食を常とした。天皇に差し上げる朝食のことを『あさがれい』といい,一般には朝食のことを『あさけ』といった。日葡辞書には『Asaqe(アサケ)』『Asaiy(アサイイ)』の形があり,中世以降,『あさいい』,『あさめし』の形も使われるようになった。『いい』に対して,『めし』は『めしあがりもの』による丁寧語であって,『あさいい』よりも『あさめし』のほうが上品な言葉と意識されるようになった。近世以降『あさめし』がもっとも広く用いられたが,近代に『めし』が一般語となるとともに,『あさはん』,またより丁寧な表現として『あさごはん』(朝御飯)が用いられるようになった」

とある(日本語源大辞典)ので,

朝飯前,

という言い回しは,江戸期以降の言葉と見ていい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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屁の河童


前に触れた,

朝飯前(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%9C%9D%E9%A3%AF%E5%89%8D),
お茶の子さいさい(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%8A%E8%8C%B6%E3%81%AE%E5%AD%90),

と似た言い回しに,

屁の河童,

という言い方がある。

河童の屁,

とも言う。

何とも思わないこと,
へいっちゃら,
たわいもないこと,
全く容易でなんともないこと,

等々という意味で使う。この語源は,

木端の火の転訛,
水中でする屁,

の二説がある。「木っ端」説を採るのは,

「屁の河童は木っ端の火(こっぱのひ)という慣用句からきている。木端(木の屑)の燃える火は火持ちしないことから、たわいもないこと・はかないことを木っ端の火といった。これが訛って河童の屁となり、更に転じて屁の河童となった」(日本語俗語辞典)

「『木っ端の火』は語源が定まっているため,『木っ端の火』の転化説が妥当である」(語源由来辞典)

「『屁』は誰の屁であるにせよとるにたりないものであるが、なぜわざわざ想像上の動物である河童に託したのか疑問が残り、水中で出す屁なので勢いがないなどという、苦し紛れの解釈もなされている。一方で、すぐに消えてしまう『木くずについた火』という意味の『木っ端の火』が訛った言葉であるとの見解もあり、どちらかというとそのほうが説得力がある」(笑える国語辞典)

「『木(こ)っ端(ぱ)の火(あっけないこと、たわいのないこと)』がなまって『河童の屁』となり、『屁の河童』と転じたものという」https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-29-5-0001.html

と,ネットで拾う限り,「木っ端」説が大勢である。しかし,語源説は,いままでいろいろ調べた経験で,理屈ばったもの,辻褄を合わせようとするものは,大概付会と相場が決まっている。訳の分からない河童を採ったことの方に,意味がある,と僕は思う。「水中の屁」説は,

「『河童の屁の倒語』です。水中の屁はたわいなく消える,たわいない意です。転じて,たやすい意」(日本語源広辞典)

「河童の屁は水中でするので勢いがないところから」(故事ことわざ辞典)

と,印刷媒体がこれを採る。注目すべきは,「故事ことわざ辞典」が,

物事がたやすくできること,

味も香りもないこと,無味乾燥なこと(多くはうまくない茶にいう),

どっちつかずの中途半端な人間に喩えるのに用いることば,

という意味の変化を述べていることである。

「木っ端の火」では,たやすいことは,意味として見えるが,

無味乾燥,
どっちつかず,

の意味は見えない。無味乾燥の用例として,

気軽さは佐吉かっぱの屁を呑ませ(雑俳・柳多留),

が載る(故事ことわざ辞典)。理屈ばった語源説を,僕は採らない。

河童の屁,

は,河童でなくてはならない。

木っ端の火,

では面白くもおかしくもあるまい。

たやすいことを言うのに,

屁でもない,

という言い回しもある。その屁と河童を繋げたところがミソではないか。河童にとって屁でもないという意の,

河童の寒稽古,

という似た言い回しもある。やはり,河童の屁は,

河童の屁,

でなくてはなるまい。

朝がへりつくづく思やかっぱの屁(金升・柳多留)

という川柳もあるが,江戸語大辞典に,

河童のおなら,

とも載る。ぬるい出がらし茶を,

かっぱのおならといふ茶だ(寛政十一年・品川楊枝),

という用例もある。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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河童


「河童」は,

河(川)太郎(かわたろう),

とも言う。

「かっぱ」は,

「『かわ(川)』に『わらは(童)』の変化形『わっぱ』が複合した『かわわっぱ』が変化したもの」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5),

「カハワラハ(河童)の訛,カハワッパの約」(日本語源広辞典,名言通,大言海,江戸のかたきを長崎で=楳垣実),

とされる,

かわわらべ,
かわらんべ,

という方言もある(日本語源広辞典),とか。

「日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。類縁にセコなどがいる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿」

ともいう(仝上)。河童の呼称は,

ガーッパ系 カッパ,ガッパ,ガラッパドンなど,
河(川)太郎系 カワタロウ,ガタロウ,ガータロ,ガワンタロなど,
川原坊主系 カワラロゾウ,カワラボウズ,カワソウなど,
川の殿系 カワノトノ,カワントノ,カワノヌシなど,
猿猴系 ホナコウ,ユンコサン,エンゴザルなど,
その他 メドチ,ガメ,ヒョウスンボ,コマヒキなど,

の六つの系統に分けられる,という(日本伝奇伝説大辞典)。河童が文献に最初に現れるのは,

河伯(かはのかみ),

として,日本書紀にある。河童のこととされている。

「河童」は,

「体格は子供のようで、全身は緑色または赤色。頭頂部に皿があることが多い。皿は円形の平滑な無毛部で、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う、または死ぬとされる。口は短い嘴で、背中には亀のような甲羅が、手足には水掻きがあるとする場合が多く、肛門が3つあるとも言われる。体臭は生臭く、姿は猿やカワウソのようと表現されることもある。両腕は体内で繋がっており、片方の腕を引っ張るともう片方の腕が縮み、そのまま抜けてしまうこともあるとされ、これは、中国のサル妖怪で、同様に両腕が体内で繋がっていると言われる『通臂猿猴』の特徴と共通している」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5),「通臂猿猴(つうひえんこう)」というのはよく分からないが,『西遊記』中では孫悟空に重用された二匹の通臂猿猴「崩」「芭」が登場している。

「18世紀以前の本草学・博物学書上における河童のイメージは両生類的ではなかった。例えば、文安元年(1444年)に成立した『下学集』には『獺(カワウソ)老いて河童(カワロウ)に成る』とある。また、『日葡辞書』の「カワラゥ」の項では、川に棲む猿に似た獣の一種と説明されている。18世紀半ばに、山がなく猿に馴染みのない江戸の人びとに受容しやすい、カエルやスッポンに似せた両生類的な江戸型の河童のモデルが生まれ、19世紀には出版物を通じて全国に伝播し、置き換えられていったと考えられている」

とある(仝上)。「本朝俗諺志」や「和訓栞」には,

「昔,河童は黄河の上流に棲んでいたが,その中の一族が海を渡って九州の球磨川に棲んだ。そこで河童が繁殖して九千匹になった。九千坊と称する族長は乱暴者で,加藤清正が九州の猿を集めた攻め立てたところ,河童は降参して肥後を去り,久留米の有馬公の許しを得て筑後川に棲み,水難除け神の水天宮の使いになった」

とある(日本伝奇伝説大辞典)。川祭りとか,水神祭を六月に行うのは,河童を祀り,胡瓜をそなえるのは,それに因るとか。ただ,河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ,大陸からの渡来とされるが,

「東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5)。

もともと,「河童」は,

「田の水を司り,田の仕事を助けることもある。西日本の各地で,河童は秋冬は山にすみ,春夏は里にすむと伝える点は,田の神去来の信仰と対応する。河童は,小さ子たる水神童子の零落した姿であったろうと考えられている。かつて水神の化身,もしくは使者として信仰され,今でも各地で水神として祭られている。しかし,信仰の衰えに従ってしだいに妖怪に零落」

したものである(日本昔話事典)。

河童石,

というものが各地にあるが,

川子石(かわごいし),
川太郎石(かわたろういし),
ガラッパ石,
ヒョウスエ石,
エンコウ石,

等々ともいい,

「春に山の神が水脈を伝わって里へ降りて来て田の神となり,秋に山にまいもどり山の神になるという信仰伝承に似て,河童は春は里に,秋は山に行くと信じられていたが,その中継基地が河童石と考えられる。ために,精霊の拠る台座として祭祀の対象にも,また常人の近づくことを許されぬ禁忌の対象にもなっていた」

という(仝上)。

河童の駒引き,

という馬が川に引き込まれる昔話は,多く,川の近くにある河童石に絡むことが多いのは,信仰が薄れた後のことと思われる。三重県志摩の伝承に,

「河童が馬に蹴られて頭上の水をこぼして力を失ったので,寺の住持に頼んで水を入れてもらい,お礼に大石二個を奉納した。そしてその石が朽ちるまで村人を害さないと誓ったという」

こぼし石,

は,いまも祭祀し,水難除けのご利益があるという(仝上)。水神としての河童への微かな信仰の翳が残っている。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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瓢箪鯰


「瓢箪鯰」は,

ひょうたんで鯰を押さえる,

という諺の名詞化,

つかまえどころがないもの,

の意である(広辞苑)。正確には,

ぬらぬらしてなかなかつかまえることのできないこと,

転じて,

ぬらりくらりとして要領を得ないさま,

の意とある(精選版 日本国語大辞典)。

まるく滑らかな瓢箪でぬるぬるした鯰をとらえようとする,

を喩えとして,

とらえどころのないこと,要領ををえないこと,

を言う(故事ことわざ辞典)のに使う。江戸語大辞典には,

瓢箪で鯰を和える,

という言い回しも,同趣と載る。

「世の中の事は万事胡蘆子(ひょうたん)で鯰をへるが如く」(安永八年・竜虎問答)

とある。「瓢箪」は,漢語で,

瓢(ひょう 瓠、匏とも表記),
瓢瓠(ひょうこ),
胡盧(ころ 葫盧,葫蘆,葫盧,壺盧,とも表記),

とも言うhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%B3。「瓢」(漢音ヒョウ,呉音ビョウ)は,

「会意兼形声。票は『要(細い腰)の略体+火』の会意文字で,火が細く軽く舞い上がること。瓢は『瓜(ウリ)+音符票』で,腰が細くくびれて軽いひょうたん」

とある(漢字源)。「ひょうたん」の意である。「箪」(タン)は,

「会意兼形声。『竹+音符単(タン 平らで薄い)』。薄い割竹であんだ容器のこと」

であり,和語では,

ひさご,
ふくべ,

という。この植物の果実を加工して作られる「ひょうたん」は,

「瓢」の「箪(容器)」

という意味になる(仝上)。

「瓢箪」は,

「『瓢』はひさご,『箪』は竹製のまるい飯櫃」

とある(広辞苑)が,日本語源大辞典に,

ひさごとかたみ,

とある。つまり,

「酒などを入れるひさご(瓢)と,飯を盛るかたみ(筺)。『箪』は,竹で編んだ目の細かいかご,すなわちかたみをいう」

とある。この本来「瓢」と「箪」は別物である。大言海は,「へうたん」の項で,

「簞(タン)は,竹の組籠なり,簟(テン)にあらず,一簞食一瓢飲を,朗詠集に瓢箪屡空と熟語に用ゐたるより,一物に誤用す」

とする。「一簞食一瓢飲」とは論語で,顔回を評した言葉。

子曰。賢哉回也。一簞食。一瓢飮。在陋巷。人不堪其憂。回也不改其樂。賢哉回也(子曰、賢なるかな回や。一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や)

に由来する。日本語源大辞典も,

「瓢と箪は別物の器を指したが,『和漢朗詠集』で『瓢箪しばしば空し 草顔淵が巷に滋し〈橘直幹〉』と熟語に用いられてから,瓢の意味だけに誤用されるようになった」

としている。しかし多く「ひざご」の形で使われ,「ひょうたん」という言葉が一般に使われ出したのは,室町期以降のようである。「ひさご」は,古くは,

ヒサコ,

であり,

「ユウガオ・フクベ・ヒョウタンといったユウガオ科の腰のくびれた植物の果実から作った容器を,古くはヒサコと称した。『十巻本和名抄』にも『奈利比佐古』がみえる。ひしゃく,しゃくしの語はヒサコに由来する」

室町期に,ヒサコ,ヒサゴが用いられた。

「瓢箪」は,縄文時代草創期から前期にかけての遺跡である鳥浜貝塚から種子が出土していると言い,日本書紀』(720年成立)の中で瓢(ひさご)として初めて登場する。その記述によると,

「仁徳天皇11年(323年)、茨田堤を築く際、水神へ人身御供として捧げられそうになった茨田連衫子という男が、ヒョウタンを使った頓智で難を逃れた」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%B3

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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甘酒


「甘酒」は,

醴,

とも書く。

「白米を柔らかい粥のように炊き,少しさめたときに麹を加えて混ぜ合わせ,醸して甘くした飲み物」

である(たべもの語源辞典)。

甘い,

から「甘酒」という,らしい。

「麹を加えて醸してつくるのでアルコール(酒精分)は少ないが酒と呼ばれる」

ともある。「甘酒」には,いまひとつ,

「酒粕をとかして甘みをつけたものも」

あり,

「醸して一夜を経て甘酒とするので一夜酒(ひとよざけ)ともいう」

とある(仝上)。つまり,「甘酒」は大きくわけて二つの種類があり

ご飯やお粥に米麹を混ぜて醸造したノンアルコールのもの,

酒粕を使ったアルコールを含むもの,

と。前者は,甘粥,とも呼ばれる。

「甘酒」は,

「甘酒、昔は酒蔵が夏に手が空いた時期の副業として作られていた」

らしい。

「酒蔵が甘酒を副業として作る理由としては、作る工程が似ていることから夏の閑散期に作ろうという流れとなりました。清酒の工程は、まずお米を蒸します。蒸した米のでんぷん質を麹菌が糖分に分解、酵母菌がその糖分を栄養源にしてアルコール発酵し、出来たもろみを搾ると酒と酒粕に分かれ濾された酒が清酒となります。一方で甘酒は、蒸した米のでんぷん質を麹菌が糖分に分解し出来上がります」

とかhttps://www.kayamasyuzou.com/amama/blog/2018/02/01/

中国では西暦紀元前後の前漢の歴史を記した『漢書』(班固編)に醴酒の名で登場するらしい。そして甘酒は「醴斉」と呼ばれ,神を祭るのに用いる酒である「斉」の一種として扱われ、一般に人が飲用する「酒(シュ)」とは区別されていた,とかhttp://www002.upp.so-net.ne.jp/hidemi-k/thought/t074.html

日本では,

「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が醸した天甜酒(あまのたむざけ)はいまの甘酒であろう」

とされるとか(たべもの語源辞典)。また,

「応神天皇の十九年十月十日に吉野宮に行幸されたとき,国栖(くず)の人が醴酒(こざけ)を献じたとある」

のも,「甘酒」とみなされる(仝上)。

「古くから,濃酒(こざけ)・醴酒(こざけ)。口酒(こざけ)というように『こざけ』という語があるが,酒をつくるのに口で米を噛んだことが察せられる」

ともある。

醴酒が行商されるようになったのは室町時代からで,京阪ではもっぱら夏の夜だけ売ったが,江戸では初め冬のものとされ,やがて夏も売るようになり,後には四季を通して売られた,という(仝上)。ただ,俳句では,夏の季語である。

「夏に飲む場合は夏バテを防ぐ意味合いもあり、栄養豊富な甘酒は体力回復に効果的ないわば「夏の栄養ドリンク」として、江戸時代には夏の風物詩だった。『守貞漫稿』には、『夏月専ら売り巡るもの』が『甘酒売り』と書かれており、非常に人気がある飲み物であった。」

からのようである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%85%92)。江戸幕府は庶民の健康を守るため、老若男女問わず購入できるように,甘酒の価格を最高で4文に制限していた,という。甘酒造りは,武士の内職でもあった,とか(仝上)。

江戸時代の甘酒売りは,天秤棒の前に茶碗やお盆を、後ろの箱には甘酒を温めるため炭火を熾した炉に釜を据えて,

「甘い・甘い・あ〜ま〜ざ〜け〜」

などの文句で売り歩いた。

「こうした姿から、一方が熱くてもう一方が冷めている状態を『甘酒屋の荷』と称して『片思い』を連想させる洒落た喩え言葉も生まれました」

ともあるhttp://www.hananozaidan.or.jp/syunnohanasi_09.html

「江戸中期天明(1781〜89),江戸横山町などで『三国一』とか『白雪醴』という名をつけて甘酒が売られたのは,木花咲耶姫が富士浅間神社の祭神だからである。神社仏閣の境内,縁日祭礼の盛り場などで販売されるようになったのは,天保(1830〜44)のころからで,浅草本願寺門前の甘酒店は最も名高かった」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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あかねさす


「あかねさす」は,

茜さす,

と当てる。

茜色に照り映える意で,

「日」「昼」「照る」「君」「紫」などにかかる枕詞である(広辞苑)。

「東の空があかね色に映える意から昇る太陽を連想し,美しく輝くのをほめて」

かかる,とある(岩波古語辞典)。

大海人皇子が蒲生野で狩りをしたとき,額田王が詠んだ歌,

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

が例だが,確か母校の校歌に「あかねさす」のフレーズがあった。

大言海は,「あかねさす」について,

「アカは,明き義なり。ネには意なし。島ね,眉(まよ)ね,羽ねの如し(万葉集古義)。サスは,輝くなり,明気(あかき)映(さ)すの意。イアカネサシと云ふは,中止形なり。因りて,日,昼,照るにつづく。紫には,其色の匂ふにつづけ,君には,其顔のにほはしく色づけるにつづくるなり。紅顔の意にて,赤羅引く君と云ふが如しと云ふ」

とする。因みに,「赤羅引く」は,

「アカラは,アカラムの語幹。明根映(あかねさ)すと同意。明かく光る日とかかり,赤みの映(さ)す子(女子),君,(紅顔の意)膚とかかる」

とある(大言海)。大言海の説明を敷衍すると,厳密には,「あかねさす」は,

茜色に照り映える意から、「日」「昼」「照る」にかかる,

と,

紫(古代紫)は赤みを帯びていることから、「紫」にかかる,

と,

照り映えて美しいの意で、「君」にかかる,

とは,少し異なる。つまり,単純に,

茜色がさす,
赤く照り映える,

という状態表現が,枕詞に使われるとき,「日」「昼」「光」「朝日」等にかかる,

赤い色がさして光り輝く,

意から(「茜刺(あかねさす)日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも」万葉集),さらに,紫色、蘇芳(すおう)色との色彩としての類似から,それぞれ同音の「紫草(むらさき)」および地名「周防(すおう)」にかかる(「茜草指(あかねさす)紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る」万葉集)。紫が赤みを帯びている意で、「紫」の枕詞とされているが、あるいは、

これも日に照って光り輝いている意から、「紫野」にかけたのではないか,

とも考えられる,とされる(精選版 日本国語大辞典)。そして,「君」にかけ,

顔が赤く照り輝いている,

意で(「飯(いひ)喫(は)めどうまくもあらず行き行けど安くもあらず赤根佐須(あかねサス)君が情し忘れかねつも」万葉集),

と,紅顔、紅頬(こうきょう)の意のほめことば(一説に、赤心、すなわち真心のある意でかかるという),あるいは,光り輝く意から、美しい君にかける,という価値表現へと転化している(仝上)。

なお,茜色(https://www.color-sample.com/colors/2/)は,濃い赤色系カラーで,「暗赤色」という別称もある。万葉名では

茜,
茜草,
赤根,
安可根,

等々という表記される。「茜」(セン)は,

「会意兼形声。『艸+音符西(日の落る方向,夕焼け色)』」

とあり,「あかね」の意である。

「アカネの名は『赤根』の意で、その根を煮出した汁にはアリザリンが含まれている。その根は染料として草木染めが古くから行われており、茜染(あかねぞめ)と呼び、また、その色を茜色と呼ぶ。同じ赤系色の緋色もアカネを主材料とし、茜染の一種である。このほか黒い果実も染色に使用できる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8D。古く『魏志倭人伝』にも「邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から茜色の絹を送られた」という記述もある。しかし,この日本茜を使って鮮やかな赤色を染める技術は室町時代に一時途絶えた,らしい。

「日本アカネで染めた色は、外国産のアカネと比べて黄色みを帯びるのが特徴です。茜色は染色に工数がかかるため、江戸時代には蘇芳すおうで代用した似茜(にせあかね)が出回りました」

らしい(https://www.i-iro.com/dic/akane-iro)。途絶えた日本茜の茜色は,

「染色家の宮崎明子が1997年にかけて、延喜式や正倉院文書などを参考にして、日本茜ともろみを併用する古代の染色技法を再現した」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8Dが,現在では、アカネ色素の抽出には同属別種のセイヨウアカネ(西洋茜、R. tinctorum)が用いられることがほとんどである(仝上),という。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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風呂敷を広げる


「風呂敷を広げる」は,

大言壮語する,

意だが,

大風呂敷を広げる,

とも言う。「大」が付いた分,

実現不可能な計画を立てる,

大言壮語が弥増している。「風呂敷」は,岩波古語辞典に,

入浴具の一つ,

とあり,

「風呂場に敷いて,足を拭いたり,衣類を包んだりした方形の布,のちに物を包むのに用いる絹布になった」

とある。しかし,足に敷いたものが,物を包むものになるのだろうか。しかし,大言海も,

「もと風呂場に敷きて,足を拭布ヘルなれと云ふ。一説に,振敷(ふりしき)の転,打敷の意と云ふ」

とある。「打敷(うちしき)」とは,

器物などをのせるために敷く布帛,
あるいは,
寺院の高座または仏壇・仏具などの敷物。死者供養のため,その衣服でつくった,

とある(岩波古語辞典)。これなら,包むのに転用はある。しかし,多く,風呂関係を語源とする。たとえば,

「風呂に敷くことからの名。 室町時代の風呂は蒸し風呂のようなもので、蒸気を拡散 させるために『むしろ』『すのこ』『布』などが床に敷かれていたものが起源であるが、現在の風呂敷にあたるものは『平包(ひらづつみ)』と呼ばれていた。 足利義満が大湯殿を 建てた際、大名たちが他の人の衣類と間違えないように家門入りの絹布に脱いだ衣類を包み、湯上りにはこの絹布の上で身づくろいをしたという記録があり、これが『風呂敷』と『平包』の間に位置するものと考えられている。江戸時代に入り、湯をはった銭湯が誕生し、衣類や入浴道具を四角い布に包まれるようになったのが現在の風呂敷に最も近いもので、風呂に敷く布のようなもので包むことから、『風呂敷包み』や『風呂敷』と呼ばれるようになった。銭湯が発達したのに伴い、江戸時代の元禄頃から『平包』に代わり『風呂敷』の呼称が一般に広まった」(語源由来辞典)

「語源は,『風呂+敷き物』です。風呂に入る時,広げて,汚れた下着・衣類を包みこんだ敷物です。これは近世の語源です。能登半島,曽々木海岸近くの史跡,平時国家には,風呂桶の上に白い木綿布が掛けられ,風呂敷の語源とあります。平安末には,侍女が運んだ人肌に近い温水をかぶるのが湯浴み,入浴でした。その時,『貴族の身体が,直接風呂桶に触れないように,敷物』を敷いたのです。時代を経て,近世に至り,入浴の習慣ができ,庶民たちが,銭湯で風呂敷に汚れ物を包み込む習慣と変化したのです。現代語では,物を包む四角な布を言います。清浄なものを汚さぬ布の意識がある所以です」(日本語源広辞典)

等々。しかし,汚れ物を包んでいた風呂敷を,進物を包むのに用いるであろうか。どうも,この説には無理がある。「風呂敷」と当てた字にとらわれているのではないか。確かに,語源説の大勢は,

風呂場に敷いて足を拭う布の意から(貞丈雑記・骨董集・袂草・俚言集覧・守貞漫稿・大言海),
風呂場に敷いて衣類を包んだりした布の意から(南嶺遺稿・鳴呼矣草・名言通・増補国語研究=金田一京助),

という風呂の足拭きか脱衣類包みが多い。しかし,

「風呂敷といふものは,元湯あがりに敷もの故,ふろしきといふ。今の湯ふろしきといふは重言也。室町家の時分,大湯殿を建て,近習の大名衆,一処に入玉ふ事也。(略)是より物を包むものを,惣てふろしきといふやうに成たり。只ふくさ包といふべし。ふろしき包とはいやしき名也」

とある(南嶺遺稿)。どこか違和感があったからではないか。やはり,足拭きを包みに転ずるのは納得しがたい。

正倉院の所蔵物にそれらしきものがあり,古くは,

衣包(ころもつつみ),
平包(ひらつつみ),

と呼ばれていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82%E6%95%B7,とある。

「正倉院宝物の中に舞楽の衣装包みとして用いられたものが残っているこの専用包みには、現在の風呂敷にはない中身を固定するための紐が取り付けられていた。また、伎楽衣装を包む『伽楼羅(かるら)包(本来は果冠に下が衣)』、子どもの衣装を包む『師子児(ししじ)包(同じく元の字は果冠に衣)』と言う呼称が用いられ、それらに収容する内容物が墨書されていた」

らしい(仝上)。

「平安時代には『平裹』・『平包』(ひらつつみ)と呼ばれていて、庶民が衣類を包んで頭にのせて運んでいる様子が描かれている。また、古路毛都々美(ころもつつみ)という名称も和名類聚抄にうかがえる」

ともある。風呂敷の語源は,この物を包んでいた布,と考えるのが自然ではないか。その「平包」を,

「日本の室町時代末期に大名が風呂に入る際に平包を広げその上で脱衣などして服を包んだ、あるいは足拭きにした」

のであって,前後は逆に思える。

「風呂敷」という言葉が、物を包む裂として一般に用いられるようになったのは江戸時代も中期以後,それまでは、包まれているものを冠して,

けさづつみ,
ころもづつみ,
おおづつみ,
首包み,

等々と呼ばれていた。それが,風呂敷包に一括されたのは,

「江戸時代に入り庶民に銭湯が普及し、銭湯で脱いだ衣類を包んだり、その上で着替えるのに風呂敷が用いられました。この頃から風呂敷の名前が一般に定着してきたものと考えられます。そして花見など物見遊山が大衆化したことで、風呂敷を使う機会が増えました」

というhttp://www.furoshiki-kyoto.com/how_to/lecture_history.htmlのが,正しくはないか。この背景にあるのは,木綿の栽培,精製の普及がある。

「江戸時代の火事への備えとして、風呂敷は布団の下に敷かれるようになりました。その理由は、火事が多い江戸の町で、夜でも鍋釜と布団をそのまま包んですぐ逃げられたからです。このように、普段使いの利用法と違い、代用品として手近にあるものの利用法として『早風呂敷』と名付けられたとされています」

ともある(仝上)。因みに,風呂敷は正方形ではないそうである。

「上下と左右の長さがほんの少し違う。風呂敷は、反物を裁断しその端を三ツ巻きにして縫い上げる。縫った端を天地(上下)とし、生(き) 地(じ) 巾(はば) が左右となる。巾(はば) よりも天地方向のほうが若干長くつくられている」

という(http://www.ymds.co.jp/knowledge/trivia.html)。

なお,江戸の銭湯についてはhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-7.htm#%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E9%A2%A8%E5%91%82触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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裏を返す


「裏を返す」は、

同じことをまたする、

意とあり(広辞苑)、特に、

同じ芸娼妓を二度目にきて買う、

意とある。いまやその意味は死語だが、遊里では、「裏を返す」は、

「客が初めて揚屋に入り遊女を指名して客になることを『初会』、客が初回の相手に会いに二度目に登楼することを『裏を返す』、三度目に会うのを『馴染み』といった。

とある(日本語源大辞典)。

「裏を返さないのは江戸っ子の恥」、

という言葉が残っているように、それが粋な遊び方だったらしいhttps://sho.goroh.net/uraokaesu/

もっとも、「裏を返す」には、

裏側を塗る、
壁・板などを打ち抜いて抜けぬようにする、

意があり(岩波古語辞典)、これが本来の意ではないか、と思われる。

「一説に『裏壁を返す』の略で、左官の言い始めた語と」

とあり(江戸語大辞典)、

「『裏を返す』は『裏壁(返す)』の言い方もあり(浮世草子など)、『壁の表を塗った後にもう一度裏から塗直す』という左官の用語を語源と見る考え方が18世紀の随筆や草草紙に記されている」

とある(日本語源大辞典)ので、語原は左官用語みていい。

今日では、「裏を返す」は、

「裏を返せば」、

の形で、

逆の見方をすれば、
本当のことを言えば、

という意味で使われることが多い。

裏を返す→裏返る→裏返す、

といった転訛で、

裏を返して表とす、

つまり、

ひっくり返す、

意で使う。遊里の言葉は、「裏返す」の、

同じことをする、

意の転用と思われる。

裏壁かえす→同じ事を重ねてする→壁の上塗りをする、

と意味を転じたが、「裏壁返す」とは、

壁の表側を塗った後に裏側を塗り、木舞(こまい)からはみ出した壁土を裏側から塗り返す、

意である(精選版 日本国語大辞典)。「木舞(こまい)とは、

小舞、

とも当て、

土壁(つちかべ)の下地、

の意。

細く割った竹を、3〜4cmくらいの間隔をあけて格子状に縄で組んだもの。

とある(家とインテリアの用語がわかる辞典)。昔の土壁をイメージすればよい。この意味が、

打った釘の先を打ち曲げる、

意にもなった。裏側から打ち曲げるからであろうか。

「うら」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E3%81%86%E3%82%89で触れたように。「うら」は,

裏,

と当てるが,

心,

とも当てる。そのことは,「うらなうhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%86」で触れた。「うら(占)」は,

「事の心(うら)の意」

とする。「心(うら)」は,

「裏の義。外面にあらはれず,至り深き所,下心,心裏,心中の意」

とある。『岩波古語辞典』は,「うら」に,

裏,
心,

と当て,

「平安時代までは『うへ(表面)』の対。院政期以後,次第に『おもて』の対。表に伴って当然存在する見えない部分」

とある。とすると、「裏を返す」とは、

おもてになる、

意である。そうみると、なかなか意味深な言葉遣いではある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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追剥


「追剥」は、

通行人を脅かして衣類や持ち物などを奪うこと、

である。今日では死語だが、室町末期の「日葡辞書」には、

オイハギニアウ、

と載る(広辞苑)。動詞で、

追い剥ぐ、

ということばがあり、

往来の人を追ひ劫やかして、衣類、金銭などを剥ぎ取る、引剥(ひはぎ)を行ふ、

とある(大言海)。「引剥」は、

ひきはぎ、
ひっぱぎ、

とも訓み、

「山野など、無人の路に潜みて、往来の人を劫(おびやか)し、衣を剥ぎ、財を奪う盗人」

とある(仝上)。古くは、

追落(おいおと)し、
引きはぎ、

ともいい、「宇治拾遺物語」に、

「いかなる者ぞと問へば……ひはぎに候」

とある。「追剥」は、

「追い+剥ぎ」

で(日本語源広辞典)、

旅人を追いかけて、衣類や持ち物を剥ぎ取る、

ところからきているらしい(仝上)。ただ、江戸幕府は、

「『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』で『追いはぎ』と『追落し』とを区別したが、殺人強盗、傷害強盗とともに強盗罪のなかに組み入れている。追いはぎは、通行人を捕らえて自由を奪い金品を強奪して衣類をはぐことをいい、刑罰には獄門を適用した。追落しは、通行人を脅して突き倒し、あるいは逃げるのを追いかけて金品を奪うことをいい、刑罰は一等軽い死罪であった」

とある(日本大百科全書)。

「追落(おいおとし)」は、

「往来の人を脅したり追いかけたりして、落とさせた財布などを奪い取ること」

とあり(精選版 日本国語大辞典)、鎌倉時代からの語らしいが、追剥と区別したのは、江戸時代のことになる。「追剥」は、

「往来の人を捕え、着ている衣類や金銭をはぎ取ること」

で(仝上)、江戸時代、獄門の刑が科せられ、追落(おいおとし)は、死罪だが、晒されないだけまし、というこの区別は、よくわからない。「獄門」は、

梟首(きょうしゅ)、
晒し首、

ともいい、江戸時代の『公事方御定書』には、

「斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑の刑罰」

になるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%84%E9%96%80。「死罪」は、『公事方御定書』には,

「首を刎ね,死骸を取捨て,様斬 (ためしぎり) にする」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

ところで、寿司屋の言葉にも、

追い剥ぎ、

というのがあるらしい。

「寿司ネタをシャリから剥がして、タネにしょうゆをつけ、またシャリの上に戻して食べる方法」

を指す(日本語源大辞典)。

「職人が一番がっかりするもので、せっかく形よく握った寿司なのに、タネをはがされると、シャリとわさびが寒々しく見え、言葉通り、『追いはぎ』にあった若い娘のようにみえてしまう」

とある(佐川芳枝『寿司屋のかみさん』)、らしい。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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帷子


「帷子(かたびら)」は、

帷、

とも当てる。

几帳、帳(とばり)など懸けて隔てとした布、

の意もあるが、

裏をつけない衣服、

つまり、

ひとえもの、

の意でもある。日本語源広辞典は、

「カタ(片、裏をつけない)+ヒラ(薄く平たい衣)」

とする。

「かたびらは袷(あわせ)でなく裂(きれ)の片方を意味し,帳(ちよう)の帷(い)や湯帷子(ゆかたびら)はその原義を示している」

とある(世界大百科事典)。

『大言海』は、「帷子」を二つ分けて記し、「帷(かたびら)」は、

片枚(かたひら)の義と云ふ。裏をつけぬ、カタヘラの帛の意、

として、

几帳などにかけて隔てとする、一重の布帛。夏は生絹(スズシ)、冬は練絹を用ゐる、

とする。和名抄には、

「帷、圍也。以自障圍也。加太比良」

とある。「帷子(かたびら)」は、

帷の語の移りて、帷の字もそのままに用ゐるなり、

とし、

裏をつけぬ衣、一重の服。ひとへもの、襌、衫、

と載せる。「ひとへ」とは、

一重、

で、

重ならないで、一枚だけである意で、

単、

と当てると、

単衣(ひとへぎぬ)、

の意で、

「裏のない一重の衣であり、単衣(ひとえぎぬ)と呼ぶのを本義とするが、略して単と通称している」

とある(有職故実図典)。

「表着の下に着る。男子用と女子用があり、男子は若いときは紅色で重菱(しげひし)などの模様、老年は遠菱、極老は白色。女子の場合は、五衣の下に着る」

とある(岩波古語辞典)。

「装束の下に重ねて着る衣。表衣(ウハギ)の色に因りてその色に定めあり。時は綾にて張り、又は、板引きにす。若年は重菱の紋、老年は遠菱、極老は白き色、四季ともに着用すとぞ」

ともある(大言海)。

「単の形状は、衵(単の上に重ねて着る)と同様であるが、裏をつけないため、端はすべて『ひねり返し』としている」

とあり、

「単は、天皇より六位に至るまで皆同様で、地質は堅地綾、色は紅、文様は横繁菱、であり、老年のいわゆる宿徳(高徳の老人)に限り、その束帯に準じ、大文の菱に白を用いた」

とある(仝上)。つまり、

装束をつけるとき、汗とりとして着たもの、

が帷子で、生地にかかわらず「帷子」と呼ばれたが、室町末期江戸時代以降は、

単(ひとえ)仕立ての絹物を単、

と称するのに対して,

麻で仕立てられたものを帷子、

と称するようになった。

「武家のしきたりを書いた故実書をみると,帷子は麻に限らず,生絹(すずし),紋紗(もんしゃ)が用いられ,江戸時代の七夕(7月7日),八朔(8月1日)に用いる白帷子は七夕には糊を置き,八朔には糊を置かないのがならわしとなっている」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

なお、ゆかたは、

ゆかたびら(湯帷子)の略、

であり、

「平安時代の湯帷子(ゆかたびら)がその原型とされる。湯帷子は平安中期に成立した倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)によると、内衣布で沐浴するための衣とされている。この時代、複数の人と入浴する機会があったため汗取りと裸を隠す目的で使用されたものと思われる。素材は、水に強く水切れの良い麻が使われていたという説がある。安土桃山時代頃から湯上りに着て肌の水分を吸い取らせる目的で広く用いられるようになり、これが江戸時代に入って庶民の愛好する衣類の一種となった」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B4%E8%A1%A3)。なお、

風呂http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E9%A2%A8%E5%91%82
江戸の風呂(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-7.htm#%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E9%A2%A8%E5%91%82

については、既に触れた。

参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

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食指が動く


食指は、

人差し指、

で、和語では、

お母さん指、
塩舐め指、

医学用語では

第二指、
示指、

で、漢語で、

食指、
頭指、

と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%AE%E3%81%97%E6%8C%87。ちなみに、日本語で、親指、人差し指、中指、薬指、小指は、中国語ではそれぞれ、

大拇指、
食指、
中指、
无名指、
小指、

と言うらしいhttp://chugokugo-script.net/koji/shokushi.html。人差し指を、

食指、

と呼ぶのは、食べ物をつかむ時必ず使う指だからだそうである(仝上)。薬指の、

无名指、

は、「名無しの指」の意となる。日本語で、「薬指」というのは、

昔薬を水に溶かしたり塗ったりする時に使ったから、

とされる(仝上)。

塩舐め指、

という言い方もする。医学用語でも、「薬指(やくし)」という。ついでながら、

親指(おやゆび)は、母指(ぼし)、
人差し指(ひとさしゆび)は、示指(じし)、
中指(なかゆび)は、中指(ちゅうし)、
薬指(くすりゆび)は、薬指(やくし)・環指(かんし)、
小指(こゆび)は、小指(しょうし)、

と、医学用語では言うらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87

「食指が動く」とは、

食欲が起こる、

意で、転じて、

物事を求める心が起こる、

あるいは、

ある物事をやろうという気になる、

意で使う。これは、春秋左氏伝の、

楚人献黿於鄭霊公。公子宋与子家、将入見。子公之食指動。以示子家曰、他日、我如此、必嘗異味。及入、宰夫将解黿(楚人、鄭(てい)の霊公に黿(げん)を献ず。公子宋と子家、将に入りて見んとす。子公の食指動く。以て子家に示し曰く、「他日、我此の如く、必ず異味を嘗(な)む、と」。入るに及びて、宰夫将に黿を解せんとす)

の故事によるhttp://chugokugo-script.net/koji/shokushi.html、故事ことわざの辞典)。これは、

「楚の荘王が鼈(スッポン)を送ってきたとき、霊公はそれを料理して家臣たちに振る舞おうとした。子家と子公も宴に招かれ、その道中に子公が『この指が動いたときは珍味にありつける』と言っており、鼈を見て両者は顔を見合わせて笑った(食指の故事)。霊公がそれを見咎めて訊ね、子公が委細を答えると、霊公は機嫌をそこね、宴の席で子公にのみ鼈料理を出さなかった。子公はこれを屈辱に思い、鼈の鍋に指を突っ込んで舐めると退室した。子公の無礼に怒った霊公はこれを討とうとするも子家に諌められたが、のちにこのことで恨み骨髄に徹した子公は子家を誘って挙兵し、霊公を討った。」

という経緯になるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%AC_(%E9%84%AD)。しかしどうも鼈だけが原因ではなさそうである。

霊公(れいこう)は、中国春秋時代の鄭の第12代君主。若い頃から楚への人質として送り込まれ、楚の太子侶(のちの荘王)の知遇を得る。父穆公の死後に即位し、それまでの親晋外交を親楚に切り替えようと画策し、宰相子家(公子帰生)や子公(公子宋)らと対立する。このことが背景にある。霊公を討ったのち、

「子家と子公は賢明と名高かった霊公の弟子良(公子去疾、七穆のひとつ良氏の祖)を鄭君に迎えようとしたが、断られたため、公子堅を即位させた。これが襄公である。さらに、先君の謚を決める際に幽と名づけたが、鄭の人々はこれを哀れみ、子家が死んだ際にはその棺を打ち壊し、その一族を国外に追いやった。そして、幽公と名づけられていた先君の改葬を要求し、宰相となっていた子良はそれをすぐさま承知した。こうして、幽公は改めて霊公と諡(おくりな)をつけられた」

とある(仝上)。

「食指が動く」は、平成23年度「国語に関する世論調査」で、

「食指が動く」を使う人が38.1パーセント、

本来の言い方ではない、

「食指をそそられる」を使う人が31.4パーセント、

という結果が出ている。「食欲」と重なっているらしい。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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月と鼈


「月と鼈」は、

「両者とも丸い形をしている点では似ているが、実は非常な違いがあるところから、比較にならないほどかけはなれていることのたとえ」

とある(故事ことわざの辞典、広辞苑等)。

二つの者の間の非常に差のあることのたとえ、

として使われる(広辞苑)。

鼈と月、
月鼈(げつべつ)、
鼈とお月様、

ともいう。しかし、丸いものなら、

お盆と月、

の方がこのたとえにはあう。江戸語大辞典は、

すっぽんとお月様、

として載り、

「すっぽんの甲も十五夜の月も共に丸いが、全然異物であるの意。一見似ていても、比較にならぬほど相違する物事のたとえ」

とある。まだ、この方がわかる。

しかし、

「江戸時代後期の随筆『嬉遊笑覧』には、スッポンの甲羅が丸いことから異名を丸(まる)と言い、一方満月も丸いけれど二つの丸は大違いでまるで比較にならないので『月と鼈』とは少しは似ていても、実際には甚だ異なっている様を云うとしています。
 詳細は不明ですが、同時代に疑義も提示されている様子です。朱塗の丸い盆『朱盆(しゅぼん)』が訛って『鼈(すっぽん)』に転訛したとの説も有り、幕末の役者評判記『鳴久者評判記』では、似て非なるもので比較にならないものとして『下駄に焼味噌』と並んで『朱ぼんに月』を取り上げています。
 尚、近世全般では『お月さまと鼈』と表現され、幕末になってから初めて『月と鼈』と表現された様子です。」

とあり(岩波ことわざ辞典、http://homepage-nifty.com/osiete/s464.htm)、「すっぽん」ではなく、「朱盆」とする。これなら、納得できるが、理屈に合うことわざは、大概こじつけ、というのが相場だ。京阪では、「鼈」を、

マル(丸)、

と呼んだので、

月と鼈、

という言い方をした可能性がある。

「上方のスッポン屋は看板の行燈に輪を書いて丸の印でスッポンを表した」

とある(たべもの語源辞典)。ちなみに江戸では、俗に、

蓋(ふた)、

という。

「これも丸い形からの異名である。『月とスッポン』というのは、月も丸く、スッポンも丸と呼んで丸いものだが、随分異なっているものだの意で、不釣り合いのたとえとか、比較にならないほど相違する物事のたとえにもちいられている」

とある(仝上)。これなら、丸に共通があることに得心が行く。

「鼈」(ベツ、漢音ヘツ、呉音ヘチ)は、

「会意兼形声。『黽(かめ)+音符敝(ヘイ 横に開く)』。横に伸びて、平らに開いた姿をしたすっぽん」

とある(漢字源)。「鼈」は、中国では、

団魚、

と呼ばれ、日本では、

土亀、
泥龜、
川龜、

等々とも呼ぶ(各地で、ガメ・ドウガメ・ドンガメ・ドヂ・ドチ・トチとも)。

「日本列島においては滋賀県に所在する栗津湖底遺跡において縄文時代中期のスッポンが出土しているが、縄文時代にカメ類を含む爬虫類の利用は哺乳類・鳥類に比べて少ない。弥生時代にはスッポンの出土事例が増加する」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3、主に西日本の食文化であったが近世に関東地方へもたらされたものらしい。

「元禄大坂でスッポン料理があったとき、京にはなく、江戸では下賤のたべものであったが、寛延・宝暦のころ(1748-64)、柳原の長堤に葭簀の小屋でスッポンの煮売りが始まり、次第にスッポンは高価なものになっていった」

とある(たべもの語源辞典)。

和語「すっぽん」の語源は、

「スボンボの轉。或いは、葡萄牙語也と云ふ説もあり」

と(大言海)、ちょっとはっきりしない。

「すっぽんの名は飛び込んだ時に附け」

という川柳があるらしく、すっぽんが水の中に飛び込んだ時、

スッポン、

という音がした、という説に由来しているとするが、そのほか、鳴き声が、

スッポンスッポン、

と聞こえるとする説もある。

「亀はポンポンと鼓の音のように鳴くという。『亀の看経(かんきん)』といって、亀の鳴き声は初めは雨だれ拍子で、次第に急になり、俗に責念仏(せめねんぶつ)といわれる。スッポンの鳴声も間遠にスポンスポンと聞こえる。いずれもよるになって聞こえる」

とある(たべもの語源辞典)。大言海の「スボンホ」は、その転訛であるとも思われる。この他、

すぽむ+ぼ(もの)、

と首をすくめる擬態からとする説(日本語源広辞典)もあるが、やはり「擬音」で、よさそうである。

かつて日本ではキツネやタヌキと同様、土地によってはスッポンも妖怪視され、

「人間の子供をさらったり血を吸ったりするといわれていた。また『食いついて離さない』と喩えられたことから大変執念深い性格で、あまりスッポン料理を食べ過ぎると幽霊になって祟るともいわれた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3。江戸時代には、

ある大繁盛していたスッポン屋の主人が寝床で無数のスッポンの霊に苦しめられる話(北越奇談)、
名古屋でいつもスッポンを食べていた男がこの霊に取り憑かれ、顔や手足がスッポンのような形になってしまったという話、
ある百姓がスッポンを売って生活していたところ、執念深いスッポンの怨霊が身長十丈の妖怪・高入道となって現れ、そればかりかその百姓のもとに生まれた子は、スッポンのように上唇が尖り、目が丸く鋭く、手足に水かきがあり、ミミズを常食したという話(怪談旅之曙)、

等々があるという(仝上)。なお、

すっぽん、

と名付けられた、歌舞伎の劇場で、本花道に切り抜いた、奈落から役者がせり上がる穴は、

「切穴から出るとき、演者が首から出るので亀の首を想像して付けられたか、また床面が龜甲形だからとも、床板のはまるときスポンとおとがすることからともいう」

とある(演劇百科大事典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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金魚


「金魚」は、

錦魚、

とも記す、とある(大言海)。「金魚」は、中国語である。

「『金魚』の発音(ピン音で jīnyú )は「金余」と同じ縁起が良いものとされ、現在でも広く愛玩される背景の一つとなっている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A7

日本には、元和年中に、伝来した。

「和泉国の堺浦に渡る(大和本草)、緋鮒にて、鮒性(フナダチ)と云ふ(緋鯉を、鯉性とす)、鮒に似て、尾小さし、是れ原種のものなり。今和金和金と称す」

とある(大言海)。ただ当時はまだ飼育方法や養殖技術等が伝わっておらず、定着には至らなかったらしい。

江戸時代に大々的に養殖が始まったが、

「寶永の頃、阿闍梨より渡したりと伝ふ、蘭鑄と云ふ。一名丸子。體圓く、頭に肉瘤ありて、背鰭なし。寛政、文化の頃、琉球産のもの渡れるを、琉金と云ふ。體圓ぐ、口小さく、尾長大なり。尾長とも云ふ。蘭鑄と琉金との子を、阿闍梨獅子頭(がしら)と云ふ」

とある(大言海)。当初、

「ガラス金魚鉢が高価であったため、金魚は陶器の鉢に入れ上から見ることが一般的でした。これを『上見』といい、金魚の改良は上から見ることから始まりました。目が飛び出ると龍が連想され、『龍晴(りゅうせい)』と呼ばれて珍重されました。この最高峰が『頂天眼(ちょうてんがん)』です。上見のため背ビレをなくしたのが『ランチュウ』です」

ともあるhttp://www.photo-make.jp/hm_2/kingyo.html

「金魚」は、

「江戸初期には富裕な者の贅沢(ぜいたく)だったが、宝暦(1751〜64)のころからは金魚売りの露店も出て、一般庶民の間にも広まり」https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-122-08-04-G252.html

「江戸、京都、大坂の三都ともに金魚を楽しむ風習があり、特に町々を売り歩く金魚売りは、夏の風物詩となっていた」

とある(仝上)。「蘭虫」や「朝鮮」の珍しいものは、3両から5両もした。縁日では、桶を並べて金魚を売る業者がおり、これを買った者は「金魚玉」と呼ばれるガラスの容器に入れて持ち帰り、軒につり下げて鑑賞した(仝上)、らしい。上からも、下からも見えるガラスの器は風鈴のように軒に掛けられたものらしい。

「金魚愛好が広まったのは、延享5年(1748年)に出版された金魚飼育書である安達喜之『金魚養玩草』の影響が大きい」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A7。同時に、

化政文化期に現在の三大養殖地(奈良県大和郡山、愛知県弥富、東京都江戸川)で大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格も下がったことから本格的な金魚飼育が庶民に普及する。品評会が催されるようになったほか、水槽や水草が販売され始めるなど飼育用具の充実も見られた。幕末には金魚飼育ブームが起こり、開国後日本にやってきた外国人の手記には、庶民の長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が飼育されているといった話や金魚の絵などが多く見られる、とある(仝上)。

金魚売は、夏の間、涼しい時間帯に、

「きんぎょ〜え〜、きんぎょ〜」

と売り歩く。

「天秤棒に提げたたらいの中に金魚を入れ、独特の甲高い売り声を上げながら街中をゆっくりとした足取りで売り歩いた。金魚売の多くは日銭を稼ぐために短期で勤めていたものらしく、冬になると扇の地紙売りなど別の仕事を請け負っていたようである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%AD%9A%E5%A3%B2

「守貞漫稿」には、

「振売」「棒手振り」(ぼてふり)、

商売として、

「油揚げ、鮮魚・干し魚、貝の剥き身、豆腐、醤油、七味唐辛子、すし、甘酒、松茸、ぜんざい、汁粉、白玉団子、納豆、海苔、ゆで卵」

等々、食品を扱う数十種類を紹介しているが、食品以外にも、

ほうき、花、風鈴、銅の器、もぐさ、暦、筆墨、樽、桶、焚付け用の木くず、笊、蚊帳、草履、蓑笠、植木、小太鼓、シャボン玉など日用品。
子供のおもちゃ、

金魚、鈴虫・松虫などの鳴き声の良い昆虫、
錦鯉、

等々を商っていた、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E5%A3%B2

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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かまいたち


「かまいたち」は、

鎌鼬、

と当てる。

鎌風、

ともいう。「通り魔」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437854749.htmlで触れたことがある。

「道などを歩いているとき,(小旋風のため)突然鎌で切られたような傷を受ける怪異現象の1つ。出血もなく,痛みも感じない」

塵旋風、
真空説、
寒冷説、
電気説、

等々の諸説があり(ブリタニカ国際大百科事典)、この旋風を、

カマイタチ、

という。鼬の仕業と考えて、この名がある。

「気圧の急変などの自然現象によるもの」

とも説明されている。かつて、神奈川地方では、

カマカゼ,

静岡地方では、

アクゼンシカゼ(悪禅師風)、

愛知県東部では、

飯綱(いづな)、

高知県などでは、

野鎌(のがま)に切られる、

等々といっていた。

越後七不思議の1つ、

に数えられている(仝上)。怪異とみなしたせいか、

旋風に乗ってきて人を切り生き血を吸うという魔獣、

とみなしたところもある。特に雪国地方にこの言伝えが多い。信越地方では、

暦を踏むと鎌鼬にあう、

という(百科事典マイペディア)。

鳥山石燕は,「かまいたち」に,

窮奇,

の字を当てているが,通常,

鎌鼬,

の字を当てる。その経緯は,

「鎌鼬(かまいたち)は、日本に伝えられる妖怪、もしくはそれが起こすとされた怪異である。つむじ風に乗って現われて人を切りつける。これに出遭った人は刃物で切られたような鋭い傷を受けるが、痛みはなく、傷からは血も出ないともされる。別物であるが風を媒介とする点から江戸時代の書物では中国の窮奇(きゅうき)と同一視されており、窮奇の訓読みとして『かまいたち』が採用されていた。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E9%BC%AC

因みに,「窮奇」とは,

「中国神話に登場する怪物あるいは霊獣の一つ。四凶の一つとされる。中国最古の地理書『山海経』では、『西山経』四の巻で、ハリネズミの毛が生えた牛で、邽山(けいざん)という山に住み、犬のような鳴き声をあげ、人間を食べるものと説明しているが、『海内北経』では人食いの翼をもったトラで、人間を頭から食べると説明している。五帝の1人である少昊の不肖の息子の霊が邽山に留まってこの怪物になったともいう。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AE%E5%A5%87。それが,

「『淮南子』では、『窮奇は広莫風(こうばくふう)を吹き起こす』とあり、風神の一種とみなされていた。」

ということから,「かまいたち」と同一視されたらしい。

「かまいたち」(鎌鼬)の名は、

人体で利鎌で斬ったような痕のようなものが生ずるのを鼬の所為として名付ける(大言海)、
カマイタチ(風間鼬)の義(言元梯)、
太刀を構えて伐ったであるから(俚言集覧)、

と、傷跡から、鼬や鎌に絡めているが、

大言海には、

「(人体に,利鎌を持ちて斬りたる痕の如きものの生ずるを,鼬の所為として名づく)気候の変動よりして,空気中に真空を生じ,人体これに触るれば,体内の気,平均を保つため,皮膚を裂きてこうむる負傷」

と載る。この説は,明治期に流布したものらしい。この知見は一見科学的であったために近代以後、児童雑誌や科学記事などを通じて一般に広く浸透したが,

「実際には皮膚はかなり丈夫な組織であり、人体を損傷するほどの気圧差が旋風によって生じることは物理的にも考えられず、さらに、かまいたちの発生する状況で人間の皮膚以外の物(衣服や周囲の物品)が切られているような事象も報告されていない。これらの理由から、現在では機械的な要因によるものではなく、皮膚表面が気化熱によって急激に冷やされるために、組織が変性して裂けるといったような生理学的現象(あかぎれ)であると考えられている。かまいたちの伝承が雪国に多いことも、この説を裏付ける。また、切れるという現象に限定すれば、風が巻き上げた鋭利な小石や木の葉によるものとも考えられている。」

と,今日では考えられているらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E9%BC%AC

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ホウホケキョ


「ホウホケキョ」は、

ホウホケキョウ、
ホーホケギョー、

とも表記する、

ウグイスの鳴き声、

を表す擬音語である。大言海は、

ほうほけき、

と表記している。

ウグイスhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%82%B9で触れたように、

「宇武加比売命(うむがひめのみこと) 法吉鳥(ほほきどり)と化(な)りて、飛び度り、此処に静まりましき。故(かれ)、法吉(ほほき)といふ」(出雲風土記‐嶋根)

とあるhttp://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000rxv.html

法吉鳥、

は「鶯」とみなされるが、この「ホホキ」も「ホーホケキョ」とつながる。さらに、蓮如上人は、最期の時に、

空善クレ候ウクヒスノ声ニナク
サミタリ コノウクヒスハ 法
ホキヽヨ トナク也、

と仰せられた(第八祖御物語 空善聞書)とある(仝上)。蓮如上人には「法を聞け」と聞こえたのである。それ以前,

「平安時代は,鶯の声を『ひとく』と聞いた。『梅の花 見にこそ來つれ 鶯のひとくひとくと厭ひしもをる』(古今和歌集)。『ひとく(人が来る)』の意味に掛けて用いられる。『ひとく』は江戸時代まで用いられ続けた。鎌倉室町時代には,鶯を飼ってよい声で囀るように躾けることが流行った。『つきひはし(月日星)』と聞こえるように鳴く鶯が最高であった。躾けてもうまく鳴けずに『ひつきはし』『こけふじ』と聞こえるように鳴いてしまう鶯もいた。それらの鶯は、鳴きぞこないと言われ値打ちが下がった。江戸時代になると,『ほーほけきょー』と写され,『法華経』の意味を掛けて聞いた。仏教の隆盛とあいまって、『慈悲心も仏法僧も一声のほう法華経にしくものぞなき』(狂歌蜀山百種)と言われるほど、鶯の声は尊ばれた」

とあり(擬音語・擬態語辞典)、江戸初期から、

鶯の声にはだれもほれげ経(毛吹草1645年)、
鶯のほう法花経や朝づとめ(犬子(えのこ)集1633年)、

と法華経と絡め、『本朝食鑑』(1697年)にもその鳴声を、

宝法華経、皆声調によっての言なり

と記しているが、ようやく江戸後期になると、鶯の鳴き声は「ホーホケキョ」が定着し、小林一茶は、

今の世も鳥はほけ経鳴(なき)にけり(おらが春1819年)

と詠んでいるhttp://www.cluster.jp/hp/?p=14460

「江戸時代から、鳴き声を楽しむために飼われ、夜間も照明を与えることにより、さえずりの始まる時期を早めて正月に鳴かせる『夜飼い』、米糠(こめぬか)、大豆粉、魚粉を混合したものを水で練って、ウグイスなどの食虫性の小鳥の飼養を容易にした『擂餌(すりえ)』などの技術を発達させてきた。また、さまざまな変わった鳴き声を競わせることも広く行われてきた」

とあり(日本大百科全書)、「鳴き合せ」といった。「なきあはせ」(鳴合・啼合)の項で、大言海は、

「なきあはせくわいの略。うぐいすあはせ、うぐいす會。衆人、飼鶯を持寄りて、其啼聲を聞き分けて、優劣を定むこと(嚮に東京にては、毎年四月、下谷の根岸の地などに行はれき)。元、啼聲の最優なるを江戸一と称せしが、嘗て、薩州候、江戸一の名鳥を買はれたるに、翌年の啼合會にて、又別の名鳥に其称を附せしを、候家より咎められて後、最優なるに、准の一と命ずるを、習慣とせしが、明治以後、正の一と云ふを立て、最上とすと云ふ。名鳥の傍らに雛を置きて、其聲を学ばしむるを、音附(ねつけ)と云ひ、其鳥を附子(つけこ)と称す。今世は、文字口(もじくち)と云ふを最優とす。上音(うはね)、ヒイホケケコ、中音、ホウホフフコ、下音、ホホホホホホケコ。節廻し艶さへあるもの。昔は、月日星と聞きて、三光の囀るが如しと」

と書く。「三光」とは、

「鳴声の1節を律、中、呂の3段に分ける。律音をタカネ、またアゲ、中音をナカネ、呂音をサゲという。3段を日月星に比して三光と称し、三つ音とも称し、その鳴声の長短、節調の完全なものが優鳥とされた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%82%B9。明治維新ですたれたが、かつては、

「正月下旬、2月の計2回、江戸、京都、大坂の三都に持ち寄って、品評会を開き、「鶯品定めの会」と称した。会場は江戸では向島牛島の旗亭梅本と定め、期日が決定したら、数日前から牛島を中心に小梅、洲崎の各村の農家に頼んで出品する各自の鳥を預ける。当日、審査員格の飼鳥屋が梅本に集まり、家々を何回となく回って鳴声を手帳に書留め、衆議の上で決定した。第一の優鳥を順の一という位に置き、以下、東の一、西の一、三幅対の右、三幅対の中、三幅対の左、というように品位を決め、品にはいったものは大高檀紙に鳥名と位を書き、江戸鳥屋中として白木の三宝に載せ、水引を掛けた末広扇1対を添え、飼主に贈り、飼主からは身分に応じて相当の謝儀があった。その謝儀をもって品定め会の費用を弁じた。本郷の味噌屋某の飼鳥が順の一を得た時には、同時に出品した加賀の太守前田侯の飼鳥を顔色なからしめ、得意のあまり、『鴬や百万石も何のその』と一句をものしたという挿話がある」

という(仝上)。もちろん今日、鳥獣保護法により捕獲・飼育が禁止されている。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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商う


「商う」は、

商売をする、

意である。「商」(ショウ)は、

「形声。『高い台の形+音符章の略体』で、もと、平原の中の明るい高台。殷人は高台に聚落(しゅうらく)をつくり商と自称した。周に滅ぼされたのち、その一部は工芸品を行商するジプシーと化し、中国に商業がはじまったので、商国の人の意から転じて、行商人の意となった」

とある(漢字源)。「あきなう」意だが、

「もと、行商を商、店を構えるのを賈(コ)といったが、のち広く商売を商という」

ともある。別に、

「会意兼形声文字です(章+冏)。『大きな入れ墨用の針』の象形(『目立つ』の意味)と『高殿(高い建物)』の象形から、どこからでも目立つ高殿を意味し、『殷(中国の王朝)の首都の名前』を意味する『商』という漢字が成り立ちました。のち、殷が亡びてその亡民が行商を業とした為、「あきない」の意味も表すようになりました」

ともありhttps://okjiten.jp/kanji507.html、殷とつながるようである。

和語「あきなふ(う)」の「なう」は、

接尾語、

とみられる(広辞苑)。これは、

あがなう、
おこなう、
になう、
ともなう、
つぐなう、
いざなう、
おぎなう、
そこなう、
うべなう、
うらなう、

等々でも使われる。

「名詞を承けて四段活用の動詞を作る」

とあり、

「綯うと同根か、手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする意に転じたものであろう」

ともある(岩波古語辞典)。「あきなう」の「あき」は、

「秋と同根。収穫物の交換期の意」

とある(仝上)。「秋」を見ると、季節の意のほかに、

「収穫。みのり」

の意が載り、「あき」に、

商、

を当て、

「アキ(秋)と同根。アキナヒ、アキビト(商人)のアキに同じ」

とあるので、漢字を当てるまで、

秋、

商、
も、

ともに「アキ」であり、季節と、商売の意であった。文字を持たないので、話している当事者には、どちらを言っているかはわかっていた。

「秋」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E7%A7%8Bについては既に触れたが、言葉の自然な転訛を考えるなら,

草木が赤くなり,稲がアカラム(熟)ことから(和句解・日本釈名・古事記伝・言元梯・菊池俗語考・大言海・日本語源=賀茂百樹),

ではないか、とみなした。

黄熟(あかり)→赤かり→明かり,

と通じる。それと「商い」が同根なのは、季節的な要因かと思われる。

「秋の収穫物を、欲しい人に売る行為(オコナイ)ですから、アキナイというのです。語原通り、『秋なう』であり、『秋ない』なのです」

なのであろう(日本語源広辞典)。

「商いの語源は、農民の間で収穫物や織物などを交換する商業が秋に行われたことから、『秋なふ(秋なう)』から動詞『あきなふ』が生まれ、『あきない』になったとする説が定説になっている。しかし、物を買い求めたり、何か別のものを代償として手に入れる意味の『購う・贖う(あがう・あがなう)』と同源とも考えられ、商いの語原が『秋』が正しいとは言い切れず、正確な語原は未詳である」

との異説(語源由来辞典)もあるが、「あがなふ」は、交易の双方向性がない。無理筋ではないか。

「『あきなう』ば『秋なう』です。秋は稲の収穫期です。秋になると,農家をまわって米やその他の農産物を買い集める人が出回りました。その人たちは,買い集めた農産物を持ち寄って,町で市 (いち) を開きました。まだ,町に店というものが登場する以前は,この定期的に開かれる市によって,物々交換が行われ,やがて貨幣というものが通用するようになると,現代の商行為のような 〈売り買い〉 が盛んになっていきました。そのように 〈秋に行われる 「物」 の流通〉を『秋なう』と言っていたのです」

という感覚でいいのではあるまいかhttps://mobility-8074.at.webry.info/201603/article_10.html

「なう」が「綯う」と同根とすると、

「『縄をなう』の『なう(撚り合わせる、すり寄せる、帯びる)』から出来た言葉であることは間違いない。『あき』は『秋』ではなく『空き』と考えるのが一番妥当ではないか。『商う』とは売り買い双方の間(空き)を『なう』(すり合わせる)ことであると思う」

という考え方もありうるhttps://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/dc1556c64d9a3407dc07328fc6984f29かもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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なう


「あきなふ(う)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470686640.html?1570218138で触れたように、「あきなう」の「なう」は、

接尾語、

とみられる(広辞苑)。これは、

おこなう、
あがなう、
になう、
ともなう、
つぐなう、
いざなう、
おぎなう、
そこなう、
うべなう、
うらなう、

等々でも使われる。

「名詞を承けて四段活用の動詞を作る」

とあり、

「綯うと同根か、手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする意に転じたものであろう」

ともある(岩波古語辞典)。「綯う」は、

縄と同根、

とある(仝上)。「綯う」は、

数多くの線を交へ合はせゆく、
左右相交ふ、
あざなふ、
撚る、

意である(大言海)つまり、

撚り合わせる、

意である。その意味から見ると、

縄と同根、

がわかりやすいが、

あわせる意のナラフ(効)の義(名言通)、
ナフ(永延)の義(言元梯)、
ナヨラカによる意から(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々の他説は、「なう」の同義語から探ろうとしている。やはり、「縄」が妥当に思える。「縄」は、

朝鮮語noと同源、

とする説(岩波古語辞典)もあるが、

綯藁(なひわら)の略ならむ。直(なほ)に通ず、

とある(大言海)。これが自然に思える。

「綯う」は、いずれにしても、限定された、

撚り合わせる、

意であったものが、

手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする、

意に転じたとすると、合成語の成り立ちを見て、その意の転化が見えてくるだろうか。たとえば、

おこなう(行う)、

は、大言海は、

「興行(おこな)ふの義にて(贖なふ、罪なふ)、事を起こしゆく意」

としているが、同趣ながら、

「オコはオコタリ(怠)のオコと同根。儀式や勤行など、同じ形式や調子で進行する行為」

の方が、「なう」が生きる。日本語源広辞典は、

「オコ(起動)+ナフ(継続)」

とするが、ちょっと説明不足な気がする。「怠る」の「オコ」については、

「オコナヒ(行)のオコと同根。儀式や勤行など同じ形式や調子で進行する行為。タルは垂る、中途で低下する意。オコタルは、同じ調子で進む、その調子が落ちる意」

とある(岩波古語辞典)。

「あがなう(贖う)」の「あが」は、

贖(あが)ふの語根、

である(大言海)。ただ、奈良・平安時代はアカヒと清音であったらしい(岩波古語辞典)。「あがなう」は、

贖う、

と当てる、「罪の償いをする」意と、

購う、

と当てる、「何かの代償として別のあるものを手に入れる」「買う」意とは、同じである。代償として何を出すかの差のようである。

「になう」(担う)、

は、

「ニは荷。ナヒはむ動作を表す接尾語」

とあり(岩波古語辞典)、大言海の、

荷を活用す、

も同じである。

ともなう(伴う)、

は、

「トモは伴・友」

であり、「主と従とが友のように同行する」、つまり、

同伴、

の意である(岩波古語辞典)が、

「トモ(共)+ナフ(行動する)」

の方(日本語源広辞典)が妥当ではないか。

つぐなう(償う)、

は、「つぐのふ」で、室町時代まで「つくのふ」と清音。「受けた恩恵、与えた損害、犯した罪や咎などに対して、代償に値する事物・行為なとで補い報いる」(岩波古語辞典)意、っまり、

埋め合わせる、

意だが、多少解釈が異なり、

賭(ツク)のものを出す義(大言海)、
ツクはツキ(調)の古形。ノヒは…ナフ母音交代形(岩波古語辞典)、
継ぐ+ナヒ(行動)。「欠けたものを継ぐ行為」(日本語源広辞典)
ツク(給)ノフ(日本語源=賀茂百樹)、

等々あるが、埋め合わせの解釈の差である。

いざなう(誘う)、

は、誘う、勧める、勧めて連れ出すといった意だが、

率(いざ)を活用せしむ(珍(ウヅ)なふ、宜(うべ)なふ)。イザと云ひて引き立つるなり」

とある(大言海)。「いざ」は、

率、
去来、

とあて、

「イは発語、サは誘うの聲の、ササ(さあさあ)ノ、サなり。イザイザと重ねても云ふ(伊弥(イヤ)、イヤ、伊莫(イナ)、否(イナ))発語を冠するに因りて濁る。伊弉諾尊、誘ふのイザ、是なり。率(そつ)の字は、ヒキイルにて、誘引する意。開花天皇の春の日、率川宮も、古事記には伊邪川(イザカハの)宮とあり、去来の字を記す」

のは、「かへんなむいざ(帰去来)」に由来するらしい。「かへんなむいざ」は、

「帰去来と云ふ熟語の訓点なれば、イザが、語の下にあるなり。史記、帰去来辞など夙(はや)くより教科書なれば、此訓語、普遍なりしと見えて、古くより上略して、去来の二字を、イザに充て用ゐられたり」

とある(大言海)。つまり、

イザ(さあ)+ナフ、

であり、

「積極的に相手に働きかけ、自分の目指す方向へと伴う意。類義語サソフは、相手が自然にその気持ちになるように仕向ける意」

とある(岩波古語辞典)。

おぎなう(補う)、

は、「おぎぬふ」の転。「おぎぬふ」は、

「平安時代はオキヌフと清音。アクセントを考えると、オキは置くで布を破れ目の上に置く意。ヌフは縫フ意。室町時代オギヌフと濁音化。またオギノフ、オギナフの形も現れた」

とある(岩波古語辞典)ので、「おぎなう」の「なう」は、

置く+縫う、

と(日本語源大辞典)別系かもしれない。

そこなう(損なう)、

は、

「殺(そ)ぎを行う義」

とあり(大言海)、

ソコ(削)+ナフ」

も(日本語源広辞典)、同趣で、「完全であるものを不完全にする」、つまり、傷つける意となる。

うべなう(宜う)、

は、

「ウベ(宜)を活用させた語」

で、「うべ」は、もっともである、という意である。平安時代、

mbe、

と発音されたので、「むべ」と書く例が多い、とある(岩波古語辞典)が、

「ウは承諾の意のウに同じ。ベはアヘ(合)の転か。承知する意。事情を受け入れ、納得・肯定する意。類義語ゲニは、所説の真実性を現実に照らして認める意」

とある(岩波古語辞典)。

うらなう(占う)、

は、うらなうhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%86で触れたように、「卜する」意であり、

ウラ(心,神の心)+ナウ

となる(日本語源広辞典)。

こうみると、「なふ」は、他の語の行動を示す、というより、ついた言葉の動詞化の役に転じている。ように見える。ある意味で重宝な言葉だといえる。こんにち、

晩御飯なう、

と使われる言葉は、nowの意味から、ingの意味に転じ、

〜している、

を言う言葉になっているのと、どこか似ている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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魑魅魍魎


「魑魅魍魎」(ちみもうりょう)は、「魑魅」は、

「『魑』は虎の形をした山神、『魅』は猪頭人形の沢神」

で(史記・五帝本紀)、

山神、
山林の異気から生ずるという怪物、

「魍魎」(「罔両」とも表記)は、

水の神、
山川の精、木石の怪、

とある(広辞苑)。どうやら、「魑魅」も「魍魎」も、もとは、

神、

あるいは、

精霊、

であったらしい。

「魑魅魍魎」は、

「山川の精霊をいう。また螭蜽とも書く。中国の《左伝》の注に〈魑魅は山川の異気の生む所にして人に害をなすもの〉,また,《国語》の〈木石の怪を夔蜽(きもうりよう)と曰(い)う〉の注に〈蜽は山精,好んで人の声を斅(まな)びて人を迷惑(まどわ)す〉とあるように,こだま,すだまの類をさす。これらは地方的な精霊であるため,中央集権的な神々の体制には服さず,それゆえ,人々が何の準備もなくこうした精霊と遭遇するのは危険であるとされた」

とあり(世界大百科事典)、地域性の強い神であったことと、それへの信仰が薄れたことで、零落して、

「魑魅」は山林の異気から生じて人を害する怪物、
「魍魎」は山水木石の精気から出る怪物、

と(四字熟語辞典)なりはて、

「山の怪物や川の怪物。様々な化け物、妖怪変化。魑魅は山の怪、魍魎は川の怪であり、一般には山河すべての怪として魑魅魍魎の名で用いられることが多い」

となったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%91%E9%AD%85%E9%AD%8D%E9%AD%8E

「魑」(チ)は、

「会意兼形声。离(チ)は、奇怪な蛇、山の怪物をあらわす。魑はそれを音符とし、鬼を加えた字。この音符はもと、上部は山であった」

とあり(漢字源)、「すだま」「山林の精気から生じる化け物」の意。「すだま」は「魑魅」とあてる。和名抄は、

「山林・木石の精気から生じるという人面鬼身の怪物」

とある。「魅」(漢音ミ、呉音ビ)は、

「会意兼形声。『鬼+音符未(はっきりわからない)』。何とも得体のしれない魔力で人をまどわす妖怪」

とある(仝上)。「すだま」「山林の異気の生ずるばけもの」とある。「魍」(漢音モウ、呉音ボウ)は、

「会意兼形声。『鬼+音符罔(あみ、あみをかけて見えなくする)』。

で(仝上)、「水神」「木石の怪」とある(字源)。「魎」(漢音リョウ、呉音ロウ)は、

「会意兼形声。『鬼+音符兩(ふたつ、二本足)』。人間のように二本足で歩くばけもの」

とあり(漢字源)、「山水木石などの精気から生ずるというばけもの」「山川のおばけ」の意である(仝上)。

「魑魅」と「魍魎」は、いまは区別がつかないが、魑魅とは、

「山林の異気(瘴気)から生ずるという怪物のことと言われている。顔は人間、体は獣の姿をしていて、人を迷わせる。平安時代中期の辞書『和名類聚抄』ではスダマという和名の鬼の一種とされ、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では山の神とされる」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%91%E9%AD%85%E9%AD%8D%E9%AD%8E、鳥山石燕は、「魑魅」を描かなかったが、

邪魅(じゃみ)、

を描き、

邪魅は魑魅の類なり、妖邪の悪鬼なるべし、

と記した(今昔画図続百鬼)。

「魍魎」は、

「山川や木石の精霊とされる。山・水・木・石などあらゆる自然物の精気から生じ、人を化かす。また、死者を食べるとも言われ、姿かたちは幼児に似ていて、2本足で立ち、赤黒色の皮膚をして、目は赤く、耳は長く、美しい髪と人に似た声をしている。これらの外見は鬼を思わせる。『和漢三才図会』では水神、古代中国の書『春秋左氏伝』では水沢の神とされる」

とあり(仝上)、

鳥山石燕は、

「形三歳の小児の如し。色は赤黒し、目赤く、耳長く、髪はうるはし。このんで亡者の肝を食らふと云、

と記した(今昔画図続百鬼)。これは、

「罔両は状は三歳の小児の如し、色は赤黒し、目は赤く耳は長く、美しい髪をもつ」

とある(淮南子(えなんじ))のに基づくとみられる。

「『本草綱目』には、「罔両は好んで亡者の肝を食べる。それで『周礼』に、戈(ほこ)を執って壙(つかあな)に入り、方良(罔両)を駆逐する、とあるのである。本性、罔両は虎と柏とを怖れす。また、弗述(ふつじゆつ)というのがいて、地下にあり死人の脳を食べるが、その首に柏を挿すと死ぬという。つまりこれは罔両である」

と記されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8D%E9%AD%8E、とか。

「魍魎」は、

みずは、

と訓じ、

水神、

とされた(「水波」「美豆波」「弥都波」等々と表記)。

「山や川、木や石などの精や、墓などに住む物の怪または河童などさまざまな妖怪の総称」

でもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8D%E9%AD%8E

「『淮南子』によると、罔象は水から生じる。また、『史記』によると、孔子は水の怪は龍や罔象であるとした。
これらから、魍魎も水の怪の総称とみなされるようになった。この意味は、山川の怪を意味する魑魅と対を成すようになった(あわせて魑魅魍魎)。日本では『日本記』により、罔象の和名は水神(あるいは女神)を意味する『みずは』だとされた」

とある(仝上)。ただ、亡者の肝を食べるという点から、日本では魍魎は死者の亡骸を奪う妖怪・火車と同一視されており、火車に類する話が魍魎の名で述べられている事例も見られる(仝上)、という。

火車(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E7%81%AB%E8%BB%8A

については、すでに触れた。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)

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入舞


「入舞(いりまい)」は、

入綾(いりあや)、

ともいう。「入綾」は、

「舞楽で、舞終了後の退出作法。舞楽曲の中心となる当曲(とうきょく)を舞い終わり、同じ曲が反復演奏(重吹 しげぶき)される中を、舞人は中央に縦一列になり、その曲の舞の手を続けながら、順次退出する」

という意で、その意が転じて、

物事の終わり、

の意となる(広辞苑)。これだとわかりにくいが、

「唐楽の特定の曲 (いずれも4あるいは6人舞) において,舞人全員がうしろ向きとなり,舞いながら中央によって縦に一列となり,降台する舞人以外は舞い続けて下臈の舞人から順次退場する様式。当曲 (舞楽の中心となる曲) を続けて奏する。入手 (いるて) といえば,出手 (でるて) と同じ舞手をおのおのの舞座で同時に行い,終了後,左回りにその場で一周して順次下臈より降台することで,特定の退場楽を用いるが,当曲を重ねて奏するときは重吹 (しげぶき) という」

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、さらに、

「舞楽が終わって、舞人が退場するとき、いったん御前に引き返してから、改めて舞いながら楽屋にもどること。また、その舞。特定の曲に限ってこれを行なう」

ともある(精選版 日本国語大辞典)。どうやら、舞い終わった後、それぞれの立ち位置から、中央へ戻り、舞いながら、舞仕舞いをしていくことらしい。

入り際のあや、

の意(岩波古語辞典)とある。大言海は、

「舞の手を、あやおりの手に譬えて云ふ語かと云ふ」

とする。

老いの入舞、

という言い方がある。

老いの入り前、

とも言う。

晩年に一花を咲かせる、

意であり、世阿弥は、

「人の目には見えて嫌ふ事を、我は昔より此のよき所を持ちてこそ名をも得たれ、と思ひつめて、そのまま人の嫌ふ事をも知らで、老いの入舞をし損ずるなり」

という言葉を残している(「花鏡(かきょう/はなのかがみ)」故事ことわざの辞典)。

「花鏡」の中で、

初心忘るべからず、

について、世阿弥はこう言っている。

是非初心不可忘
時々(ときどき)初心不可忘
老後初心不可忘

と。老後について、

「老後の初心忘るべからずとは、命には終わりあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、又老後の風体に似合ふ事を習ふは、老後の初心也。老後の初心なれば、前能を後心とす。五十有余よりは、『せぬならでは手立てなし』と言へり。せぬならでは手立てなきほどの老後にせんこと、初心にてはなしや。さるほどに、一期初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入り舞にして、終に能下がらず」

とあるhttp://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc9/zeami/gyouseki/kakyou02_1.html。ちなみに、是非の「初心」については、

「是非初心忘るべからずとは、若年の初心を不忘して、身に持ちてあれば、老後にさまざまの徳あり。『前々(ぜんぜん)の非を知るを、後々(ごご)の是とす』と言へり。『先車のくつがへす所、後車(ごしゃ)の戒め』と云々。初心を忘るるは、後心をも忘るるにてあらずや。功成り、名遂ぐる所は、能の上がる果也。上がる所を忘るるは、初心へかへる心をも知らず。初心へかへるは、能の下がる所なるべし。然者(しかれば)、今の位を忘れじがために、初心を忘れじと工夫する也。…初心を忘れずば、後心正しかるべし。後心正しくば、上がる所の態(わざ)は、下がることあるべからず。」

とある(仝上)。更に、時々の初心は、

「時々の初心を忘るべからずとは、是は、初心より、年盛りの頃、老後に至るまで、其時分時分の芸曲の、似合ひたる風体(ふうてい)をたしなみしは、時々の初心也。されば、その時々の風儀をし捨てし捨て忘るれば、今の当体の風儀をならでは身に不持。過ぎし方の一体(いってい)一体を、今当芸ににみな一能曲持てば、十体(じゅってい)にわたりて、能数尽きず。其時々ありし風体は、時々の初心也。それを当芸に一度に持つは、時々の初心を忘れぬにてはなしや」

と(仝上)。つまるところ、

老いの入舞、

が最後の一花になるには、イチローの言葉ではないが、小さな一歩一歩を、初心として身に着けてきた果てにこそある、ということになる。

ところで、大言海は、「入舞」について、

二の舞と同趣の語、

としているが、いささか違うのではないか。

「二の舞」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E4%BA%8C%E3%81%AE%E8%88%9Eで触れたように、「二の舞」はただ二度目の舞の意ではない。大言海にしては、軽忽の言葉に思える。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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鶏肋


「鶏肋(けいろく)」は、

鶏のあばら骨の意、

であるが、喩えに使われて有名になった。ひとつは、後漢書楊震伝附楊修伝、

「夫鶏肋、食之則無所得、棄之則如可惜(夫れ鶏肋は之を食には則ち得る所無し、之を棄つるには則ち惜しむべきか如し)」

からきている(故事ことわざの辞典)。初出は、他に、

『三国志』魏書「武帝紀」の注に引く『九州春秋』に記録がある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%82%8B

曹操、

が言ったとされる。

「(少しは肉があるので捨てるには忍びないの意から)大して役に立たない影棄てるには惜しいもの」

の意で使われる。

「本来はスープなどの材料であるが、一般に骨についている肉は美味いので、昔はしゃぶって食べる事もあった。しかし、肉は僅かしかついていないので、出汁にはできても腹は満たされない。このことから『大して役に立たないが、捨てるには惜しいもの』を指して」

「鶏肋」というようになった、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%82%8B

この経緯は、

「漢中郡をめぐる劉備(蜀の先主)との攻防戦において持久戦をとる劉備軍に曹操軍が苦戦を強いられた時、曹操が食事中無意識に発した『鶏肋』を伝令が触れ回り、誰もその意味を理解できない中で側近の楊修は撤退の準備をさせた」

周囲はその意がわからず、問われた楊修は、

夫鶏肋、食之則無所得、棄之則如可惜

と、上述の言葉を述べたものとされる。これだと少しわかりにくいが、

「曹操は漢中を制圧し、さらに蜀の劉備を討とうとしたが、攻めるにも守るにも困難なため、大度を決めかねて、一言『鶏肋のみ』と言った」

らしい。

「鶏肋(鶏のあばら骨)は、捨てるには惜しいが、食べても腹の足しになるほどの肉はついてない。すなわち、漢中郡は惜しいが、撤退するつもりだろう」

と楊修は解釈した。いわば、イソップの、

酸っぱいブドウ、

のような意味になる。負け惜しみと言えば負け惜しみである。

しかし、曹操は、勝手に撤退準備を始めた楊修を、軍規を乱したとして処刑したとされる。

三国志演義では、

曹操は夕食の最中も鶏湯を食べながら、進退を思案していた。そこへ夜の伝達事項を聞きに夏侯惇がやってくる。曹操は夏侯惇を前にしても上の空で、碗の中の鶏がらを見ながら『鶏肋、鶏肋…』と呟く。意図も分からぬまま夏侯惇が全軍に『鶏肋』と伝達すると、楊修はそそくさと撤退の準備を始める。(中略)曹操は、全軍が指図もないのに撤退準備をしていることに大いに驚き、楊修に対して「お前はどうして流言を広めて軍心を乱したのか」と激怒し、楊修を処刑し継戦を告げた」

が、結局劉備に再び敗れた撤退を決断するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%82%8B、とある。しかし、楊修の処刑は、撤退後であり、曹操の後継者争いで世子の曹丕でなく庶子の曹植世子に味方したこと、母親が袁術と縁続きであったこと等々によるとされる。

「鶏肋」のもうひとつの出典は、晋書劉伶伝の、

「嘗酔、与俗人相忤、其人攘袂奮拳而往、伶徐曰、鶏肋不足以安尊拳、其人笑而止(嘗て酔い、俗人と相忤(とも)る、其の人袂を攘(はら)い拳を奮って往く、伶徐に曰く、鶏肋以て尊拳を安んずるに足らずと、其の人笑って止む)」

により、

体の弱く小さいことのたとえ、

として使われる。

どうも、「鶏肋」の喩えとしては、曹操の負け惜しみの言葉の方が、面白い。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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てんぷら


「てんぷら」は、

天麩羅、
天婦羅、

と当てる。広辞苑は、「テンプラ」を、

têmporas ポルトガル語、

とし、

斎時の意、tempero(調味料)からともいう、

とする。同じくポルトガル語の調味料とするものに、

調理の意のポルトガル語temperoから(話の大事典=日置昌一・すらんぐ=暉峻康隆・上方語源辞典=前田勇・外来語辞典=荒川惣兵衛)、

がある。日本語源広辞典も、

ポルトガル語temperp(調理)

の意とする。「斎日」に関しては、

「斎日」には、肉食が禁じられ魚料理を食べたことから、「斎日」を意味するポルトガル語のテンポラスtemporasからきたのだ、

とする説もある。それを、スペイン語・イタリア語とする、

天上の日の意のスペイン語・イタリア語のtemplaから。この日には獣鶏肉は食わないで、魚肉・鶏卵を食したところから、魚料理の名となったものか(大言海)

との説もある。天上の日とは、金曜日の祭りの日(大言海)、らしい。そのほか、

油を天(あ)麩(ぶ)羅(ら)と書いて音読したもの(外来語辞典=楳垣実)、

とする説や、

イタリア人画家が使用したテンペラという絵具は、スペイン語でテンプラ、ラテン語の混合物、あるいは攪拌する意で、昔スペイン人が日本人のかきあげを見て、うどん粉に魚類を混合するもの、攪拌する、かき混ぜて揚げるものの意、

とするもの(たべもの語源辞典)等々もある。たべもの語源辞典は、

「テンプラの語源は、テンプラリの略称であると思われる」

と断定するが、「南蛮語であろう」とするだけで、特定していない。ただ「てんぷら」に当てた、

天麩羅、

は、

麩(うどんこ)の羅(うすもの)を填めたるなり、

という意(大言海)だが、この字を当てたのは、山東京伝とされる(日本語源広辞典は付会の説とするが)。大言海は、

「天ぷらノ始リ、天明ノ初年、云々、大坂ニテつけあげト云物、江戸ニテハ胡麻揚ゲトテ辻賣アレド、イマダ魚肉アゲ物ハ見エズ、云々、利介曰、是ヲ夜見世ニ賣ランニ、ソノ行燈ニ、胡麻揚ト記スハ、何トヤラン物遠シ、云々、先生名ヲ付ケテ賜ハレト云ヒケルニ、亡兄(京傳)少シ考ヘ、天麩羅ト書キテ見セケレバ、利介、不審ノ顔ニテ、てんぷらトハ如何ナル謂レニヤト云フ、亡兄ウチ笑ミツツ、足下ハ今、天竺浪人也、フラリト江戸ヘ来テ賣始メル物故、てんぷら也。てんハ天竺ノ天、即チ揚ゲル也。ぷらニ麩羅ノ二字を用ヰタルハ、小麦ノ粉ノウス物ヲカクルト云フ義ナリト、云々、見世ヲ出ス時、行燈ヲ持チ来リテ、字ヲ乞ヒケル故、亡兄、余ニ字ヲ書カシメ給ヘリ、コハ己レ十二三頃ニテ、今(文化三年(1806))ヨリ六十年ノ昔ナリ、今ハ天麩羅ノ字モ、海内ニ流伝スレドモ、亡兄京傳翁ガ名付親ニテ、予ガ天麩羅ノ行燈ノ書始メ、利介が賣リ弘メシトハ、知ル人アルベカラズ(此説實ニ侍リ、我幼キ頃ハ、行燈ニ、モト胡麻揚トアリシ也)」

と引く(岩瀬京山「蜘蛛の糸巻」(文化))。利介とは、京伝の所に出入りしていたものらしい。もちろん、「てんぷら」という言葉は既にあったので、

「京伝が考えたのは、『てんぷら』を『天麩羅』と当て字した面白さである」

ということ(たべもの語源辞典)だろう。「天婦羅」は、「天麩羅」の当て字を換えたものと思われる(語源由来辞典)。その十年後、

「天明の初、何者か、天麩羅揚と、行燈看板に万葉仮名にて書けり」

とあり(嬉遊笑覧)、浄瑠璃昔唄今物語(天明元年)にも、

天麩羅、

とあり(大言海)、すでに「天麩羅」が膾炙している。

「てんぷら」という言葉自体は、奈良・平安時代に中国から伝来したものとして、米粉などを衣にしたものがあったらしいが、「てんふら」という名称で文献上に初めて登場するのは、江戸時代前期の1669年(寛文9年)刊『食道記』らしい。ただ、

「『素材に衣をつけて油で揚げる』という料理法は既に精進料理や卓袱料理などによって日本で確立されていたため、それらの揚げ物料理と天ぷらの混同によって古くから起源・語源に混同が見られる経緯もあり、今でも西日本では魚のすり身を素揚げしたもの(揚げかまぼこのじゃこ天や薩摩揚げなど)を指す地域が広い。江戸時代の料理書では、これらの両方を『てんぷら』と称していた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%B7%E3%82%89。更に、

「16世紀には、南蛮料理を祖とする『長崎天ぷら』が誕生している。これは衣に砂糖、塩、酒を加えラードで揚げるもので、味の強い衣であるため何もつけずに食するものであった。これが17世紀に関西に渡り、野菜を中心としたタネをラードに代わりごま油などの植物油で揚げる『つけ揚げ』に発展する。そして、江戸幕府開府とともに天ぷらは江戸に進出、日本橋の魚河岸で商われる魚介類をごま油で揚げる『ゴマ揚げ』として庶民のあいだに浸透していったといわれている」

ので、この胡麻揚げに「天麩羅」と当てたものと、思われる。

家康が、鯛を油で揚げて食し(國師日記「家康ノ鯛ノてんぷらヲ食ス」)、にわかに発病したらしい(元和二年(1616))が、これが「てんぷら」との記述はない。しかし、後年の寛文一二年(1672)の『料理献立集』には、

「きじ、てんぷらり」

と載る(たべもの語源辞典)。更に、寛延元年(1748)の『歌仙の組糸』には、

「長皿、きくの葉てんぷら、結びそうめん、油あげ」
「茶碗、鯛切身てんぷら、かけしほ、とうからし」
「てんぷらは何魚にても、うどん粉まぶして油に揚げるなり」

等々とあり、

「菊の葉てんぷら又牛蒡蓮根長いも其外何にてもてんぷらにせん時は、うどん粉を水醤油ときぬりつけて揚るなり」

とある(たべもの語源辞典)、とか。この十三年後、京伝が「天婦羅」と当てたことになる。

嬉遊笑覧(文政一三年(1830))には、「てんぷら」について、

「蕃語ナルベシ。小麦粉ヲ練リテ、魚物ナドニツケテ油揚ゲニスルモノヲモ云フ、(てんぷらは)其形、同ジケレバ也、云々、元文三年、千前軒ガ小栗判官ノ浄瑠璃、波羅門組ト云フ悪党ノ名ニ、てんぷら長九郎ト云フアリ、然レバ、其ヨリ先、長崎ナドニハ、魚物ノ油揚ヲ然云ヘリト見ユ」

とある(大言海)。『守貞謾稿』(嘉永六年(1853))には、魚介類を揚げたものが、てんぷらで、野菜を揚げたものはてんぷらとは言わないで、「あげもの」というとし、

「京坂の天ぷらは半平の油揚げをいう。江戸の天麩羅は、アナゴ・芝えび・こはだ・貝の柱・するめ。右の類、惣じて魚類に温沌粉をゆるくときて、ころもとなし、しかる後に油揚げにしたるをいう。蔬菜の油揚げは江戸にてもてんぷらとはいはず、「あげもの」というなり」

とあるらしいhttps://wheatbaku.exblog.jp/22446076/。どうやら、

「江戸時代前期には、天ぷらは『天ぷら屋』と呼ぶ屋台において、揚げたての品を串に刺して立ち食いする江戸庶民の食べ物あった」

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%B7%E3%82%89

「てんぷら」屋台は、「そば」「すし」と並んで,

江戸の三味、

と呼ばれたとか。このきっかけは、明暦の大火(1657年)で、江戸の3分の2が焼けたため,大勢の職人が集まって,復興に当たった。彼らは単身赴任の男性なので,食事に困り,屋台に人気が集まった。満腹しては仕事にならないので,軽食,おやつ的な献立が好まれた。後には,男女に関係なく,生活を豊かにするおやつとして,食べ物の屋台は,江戸の街に定着していくことになるhttp://www.abura.gr.jp/contents/shiryoukan/rekishi/rekish40.htmlとか。その食べ方は、

「屋台の天ぷらは,天つゆと大根おろしで食べた。手が汚れないように,串に刺して出した。種には,江戸前のあなご,芝海老,こはだ,貝札するめなどが使われた。技術の向上で江戸湾からの魚介類の漁獲が増えたことも,天ぷら文化の普及に貢献した」

だったらしいhttp://www.abura.gr.jp/contents/shiryoukan/rekishi/rekish40.html

ところで、関東と関西では使用する油が違うらししい。

「関東では卵入りの衣をごま油で揚げることで、キツネ色に揚がる。一方関西では卵は使わず、衣をつけて菜種油で揚げるので仕上がりは白い。どうも関西で広まった天ぷらは野菜中心だったために、自然の味を損ねないように菜種油で揚げて塩をつけて食べていたようだ。それが関東、というより江戸に伝わり日本橋の魚河岸で水揚げされた魚介をごま油で揚げるようになった。ごま油は魚の臭みが抑えられるためだ」

とあるhttps://kusanomido.com/study/life/food/22861/

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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豆腐


「豆腐」は、中国名をそのまま日本訓みしたもの。白壁に似ているので、女房詞で、

おかべ、

ともいう。豆腐をつくるときの皮は、老婆の皺に似ているので、

うば、

と言い、転じて、

ゆば(湯婆)、

と言い、豆腐の粕を、

きらず、

というのは、庖丁を用いなくても刻んだから、という。

おから、

である(たべもの語源辞典)。豆腐は、『本草綱目』では、

「紀元前二世紀前漢時代の淮南王(わいなんおう)で優れた学者でもあった劉安によって発明されたとしている」

とか。この人は、学者・文人を集めて著書を編纂させているが、その中の『淮南王万畢術』に、豆腐の製造方法が記述されている、という。しかしこの本は現存しない(仝上)。ただ、この時代に大豆はまだないとする説もあり、

「一説には豆腐の起源は8世紀から9世紀にかけての唐代中期であるともいわれている。実際、6世紀の農書『斉民要術』には諸味や醤油についての記述はあるものの豆腐の記述が見当たらず、文献上『豆腐』という語が現れるのは10世紀の『清異録』からである。唐代には北方遊牧民族との交流によって、乳酪(ヨーグルト)、酪(バター)、蘇(濃縮乳)、乳腐(チーズ)などの乳製品が知られていた。豆腐は、豆乳を用いた、乳製品(特にチーズ)の代用品(乳「腐」から豆「腐」へ)として、発明されたと考えられている」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90

日本へは、

「遣唐使によるとする説が最も有力とされるが、その一員でもあった空海によるという説、鎌倉時代の帰化僧によるとする説もあるなど様々な説がありはっきりとしていない。ゆばやこんにゃくなどとともに鎌倉時代に伝来したとみる説もある。ただ、1183年(寿永2年)の奈良・春日神社の供物帖の中に『唐府』という記述がある」

とか(仝上)。室町中期、文安元年(1444)の『下学集』に、豆腐という語が載っている(たべもの語源辞典)、らしい。

当初は、寺院の僧侶等の間で、次いで精進料理の普及等にともない貴族社会や武家社会に伝わり、室町時代(1393〜1572年)になって、ようやく全国的にもかなり浸透した。製造も奈良から京都へと伝わり、次第に全国へと広がっていき、本格的に、庶民の食べ物として取り入れられるのは、江戸時代となるhttp://www.zentoren.jp/knowledge/history.html。ただ、「慶安御触書」には、

「豆腐はぜいたく品として、農民に製造することをハッキリと禁じています。 その家光の朝食には、豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳にも擬似豆腐(豆腐をいったんくずして加工したもの)などが出されていた」

らしく、ようやく庶民の食卓に普段の日でものぼるようになったのは、江戸時代の中頃、それも江戸や京都、大阪などの大都市に限られていたhttp://www.tofu-as.com/tofu/history/01.html、らしい。

「江戸時代の豆腐は、今日でいう木綿豆腐のみであった。豆腐は庶民の生活に密着しており、江戸では物価統制の重要品目として奉行所から厳しく管理されていた。『豆腐値段引下令』に応じない豆腐屋は営業停止にされるため、豆腐屋は自由に売値を決めることは出来なかった」

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90。ちなみに、江戸で初めて絹ごし豆腐を売ったのは、いまだに続いている老舗「笹の雪」である。価格統制にかかわって、『守貞謾稿』によると、豆腐屋与八を表彰した「豆腐売り」の記事がある。

「豆腐売り 三都とも扮異なく,桶制小異あり。
 京阪豆腐一価十二文、半挺六文、半挺以上を売る。焼豆腐・油揚げ・とうふともに各二文。江戸は豆腐一価五十余文より六十文に至り、豆腐の貴賎に応ず。半挺あるいは四半挺以上を売る。価半価・四分の一価なり。焼豆腐・油揚げ・豆腐各五文。けだし京阪豆腐小形、江戸大形にて価相当す。また京都にては半挺を売らず、一挺以上を売る。
 因に記す、天保十三年二月晦日、江戸の市中に令す。江戸箔屋町豆腐屋与八、豆腐価廉に売る故に官よりこれを賞す。古来、豆腐筥制、竪一尺八寸・横九寸なるをもってこれを製す。これを十あるひは十一に斬り分けて一挺と号けるを例とす。与八のみこれを九挺に斬りて価五十二文に売る。他よりは四文廉なり、云々。当時価五十六文にて、与八のみ形大にして五十二文に売る故にこれを賞す。」

http://www.manabook.jp/aji-essay-toufu.htm

「天明二年(1782年)に刊行された『豆腐百珍』には、100種類の豆腐料理が記述されており、また様々な文学でも親しまれてきた。当時より、豆腐は行商販売もされており、前述の豆腐百珍は大きな人気を得て一般的な料理であった。行商の豆腐屋はラッパや鐘を鳴らしながら売り歩いていた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90が、

「『一里腐屋』という『振り売り』が街の中を売り歩きます。売り声を出して売り歩くのですが、豆腐屋さん独特の笛は時代がもっと下ってからのようです。一豆腐屋さんの声が聞こえると『一丁おくれ』というふうに買っていました」

とあるのでhttp://www.glomaconj.com/joho/edojuku1.htm、少なくとも、ラッパは明治以降のようである。

「関東地方では、明治時代初期に乗合馬車や鉄道馬車の御者が危険防止のために鳴らしていたものを、ある豆腐屋が『音が“トーフ”と聞こえる』ことに気づき、ラッパを吹きながら売り歩くことを始めたものである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90

「振り売り」とは、ざる、木桶、木箱、カゴを前後に取り付けた天秤棒を振り担いで売り歩いたので、こういう。

棒手振り(ぼてふり)、

とも言い、

油揚げ、鮮魚・干し魚、貝の剥き身、豆腐、醤油、七味唐辛子、すし(図2)、甘酒、松茸、ぜんざい、汁粉、白玉団子、納豆、海苔、ゆで卵など食品、

ほうき、花、風鈴、銅の器、もぐさ、暦、筆墨、樽、桶、焚付け用の木くず、笊、蚊帳、草履、蓑笠、植木、小太鼓、シャボン玉など日用品や子供のおもちゃ、

金魚、鈴虫・松虫などの鳴き声の良い昆虫、錦鯉など愛玩動物、

相撲の勝負の結果を早刷りにして売る「勝負付売り」、

等々を売り歩いたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E5%A3%B2

「豆腐」の「腐」を嫌って、「根ぎし 笹乃雪」では、9代目当主が、20世紀前半頃、食品に「腐る」という字を用いることを嫌って

豆富、

と表記し、それが広まったが、中国でも「腐」を避け、

菽乳、方壁、小宰羊(宰羊:羊の肉)

等の異名があったとある(『豆腐百珍』)。しかし「腐」は、

「腐るという意味だけでなく液状のものが固形状になったやわらかいもの、という意味」

もあり、そこからきているhttps://j-town.net/tokyo/news/localtv/269715.html?p=all

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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豆腐小僧


「豆腐小僧」というのがよくわからない。たとえば、

「『豆腐小僧』は、大きな傘をかぶった大頭の5才位の子どもの妖怪で、紅葉印のある豆腐を載せたお盆を持ち歩くと言われています。豆腐小僧が出てくる一番古い文献は、安永8(1779)年の黄表紙(大衆的な絵入り小説本)『妖怪仕内評判記(ばけものしうちひょうばんき)』【207-1754】で、その後、天明期や寛政期の黄表紙によく登場します。特徴がわかりやすいのは北尾政美の『夭怪着到牒(ばけものちゃくとうちょう)』【208-500】ですが、ここでは「大あたまこぞう(大頭小僧)」と書かれており、他でも一つ目小僧などと混同されていることもあるようです」

https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/21/2.htmlあり、「大頭小僧」と同一視されている。あるいは、

「豆腐小僧(とうふこぞう)は日本の妖怪の一つで、盆に乗せた豆腐を手に持つ子供の姿の妖怪。江戸時代の草双紙や黄表紙、怪談本に多く登場する妖怪であり、幕末から明治時代にかけては凧の絵柄、すごろく、かるたなどの玩具のキャラクターとしても親しまれていた。一般には頭に竹の笠をかぶり、丸盆を持ち、その上に紅葉豆腐(紅葉の型を押した豆腐[6])を乗せた姿で描かれている。身にまとう着物の柄は、疱瘡(天然痘)除けとして春駒、だるま、ミミズク、振り太鼓、赤魚などの縁起物や、童子の身分を著す童子格子に似た格子模様も見られる」

とあるhttps://www.wikiwand.com/ja/%E8%B1%86%E8%85%90%E5%B0%8F%E5%83%A7

「豆腐小僧」は、

「特別な能力などは何も持たず、町のあちこちに豆腐や酒を届けに行く小間使いとして登場することが多く『豆腐小僧ハ化ものゝ小間使ひ』と川柳にも詠まれている。人間に対しては、雨の夜などに人間のあとをつけて歩くこともあるが、特に悪さをすることもなく、たいして人間に相手にされることもない、お人好しで気弱、滑稽なキャラクターとして描かれている。悪さをするどころか、軟弱な妖怪としてほかの妖怪たちにいじめられる例もある」

とあるhttps://www.wikiwand.com/ja/%E8%B1%86%E8%85%90%E5%B0%8F%E5%83%A7し、

「人間を怖がって逃げだす際に大事な豆腐を落としてしまったり(京伝『怪物ばけものつれつれ草ぐさ』)、他の妖怪にいじめられている場面(桜川慈悲成作 ; 歌川豊国画『大昔化物双紙おおむかしばけものそうし』)などもあります」

ともあるhttps://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/21/2.html

他方に、上記のように、「豆腐小僧」と同一視されている「大頭小僧」(おおあたまこぞう)というのがいる。

「黄表紙『夭怪着到牒』(1788年)などに描かれている。頭部の大きな子供の姿をした妖怪。『夭怪着到牒』では『豆腐屋を驚かして豆腐を持って来た』といった内容を作中のせりふとして語っており、特徴的な大きな頭を見せ人間を驚かす妖怪であると考えられる。桜川慈悲成『化物夜更顔見世』(1791年)では、ちょろけん、ちょろけん小僧という名で頭部の大きな子供の妖怪が登場しており、同様の妖怪が江戸時代に描かれていたことをうかがうことが可能である」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%AD%E5%B0%8F%E5%83%A7、一応「豆腐小僧」とは区別されている。水木しげるは、「大頭小僧」は、大きな頭と獣のような裸足が特徴であり、「豆腐小僧」とは別の妖怪であると明記し(『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』)、

「紅葉豆腐を持っているのは『大頭小僧』であるという解説および豆腐小僧とは別物であるという分類を敷衍解釈し、紅葉豆腐を持つ妖怪を大頭小僧、それ以外の豆腐(絹豆腐など)を持つのが豆腐小僧であると解説されることもある」

とか(仝上)。『続妖怪事典』には、

「雨がしとしと降っているとき、竹やぶに、大きな笠をかぶった子どもが現れて、手に持ったおぼんに豆腐がのっていたら、それは“豆腐小僧”である。いかにもおいしそうだが、それにつられてうっかり食べてしまうと、身体中にかびがはえてしまう」

とある。

確かに図を見る限り、「豆腐小僧」と「大頭小僧」は別のように見える。豆腐小僧は、

見越し入道を父、ろくろ首を母とする、

説があるが、大頭小僧は、『夭怪着到牒』で、

見越入道の孫、

という設定で、

雨のしとしと降る夜に、豆腐屋を驚かせて豆腐を一丁せしめてくる

とあるhttp://kihiminhamame.hatenablog.com/entry/2017/09/26/190000のだから、少なくとも、黄表紙『夭怪着到牒』では、両者を、区別をしていたとみていい。しかし、

「豆腐を持ち運んでいる様子が描かれていることから『豆腐小僧』として『夭怪着到牒』の『大頭小僧』の図版が使用されることが増え、それ以前の豆腐小僧イメージとの置き換えまたはイメージの混同が見られた」

もののようであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%AD%E5%B0%8F%E5%83%A7

「豆腐小僧」の憎めないキャラクターは、あるいは、

「豆腐屋や豆腐売りが一般化する江戸時代中期以降に『豆腐小僧』が作られたとみられるものの、その経緯は明らかになっておらず、豆腐屋の販売促進のために作られたキャラクターという説もあります」

というのがオチらしいhttps://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/21/2.html

参考文献;
水木しげる『続妖怪事典』(東京堂出版)

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蛇女房


へびhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/433628380.htmlについては触れたことがあるが,「蛇」は、

クチナワ、
ナガムシ、
カガチ、

等々と呼ばれ、古来神聖な動物として崇められてきた。阿部正路氏は,

「蛇の古語はナビ=奈備である。それを鎮めて神奈備とし,日本の神の基本に据えたのも所詮蛇への畏怖である。」

とし、妖怪の「濡れ女」にしても,「ろくろく首」にしても,蛇を根底においた妖怪,であるらしい。『俵藤太物語』には,大蛇に頼まれて近江国三上山の巨大な百足を退治する話が出ているが,

「蛇と水と龍はひとつながりの存在であり,蛇が人間の力を借りて百足を退治するのは,足のない妖怪の足を持つ者への限りない恐れを暗示する」

という。しかし,思うに,

「竜蛇の力こそ人間にとって理想の怪力をもたらすもの」

と思われていて(仝上)、

「特に湿地帯に生息するゆえに水の神とも観じられたきた」

のである(日本昔話事典)。

「蛇女房」は、

異類婚姻譚(いるいこんいんたん)、

のひとつである。つまり、

人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話の総称異種婚説話、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%A1%9E%E5%A9%9A%E5%A7%BB%E8%AD%9A。この「動物」には、慣例的に、架空の山姥、鬼、河童、天人等も含まれるらしい。関敬吾氏による分類では、

援助 - 例:動物を助ける。
来訪 - 例:動物が人間に化けて訪れる。
共棲 - 例:守るべき契約や規則がある
労働 - 例:富をもたらす。
破局 - 例:正体を知ってしまう。(見るなのタブー)
別離

と、六つの要素で構成される(仝上)。そこには、

異類婿譚、

異類女房、

とがあり、「異類婿」は、

「人間の女と動物の婚姻。何かと引き替えに、女性が一種の人身御供として異類と結婚する羽目に陥る。女性自ら婚姻が破綻する様に画策し、破局させる話も多い」

とあり(仝上)、

蛇婿、
猿婿、
犬婿、
河童婿、
馬婿、
鼠婿、
一寸法師、

等々があり、「異類女房」は、

「人間の男と動物の婚姻。異類婿よりは比較的悲惨でない話が多い。見るなのタブーを犯すことで離別する結末を迎える話も多い」

とあり、

蛇女房、
竜宮女房、
魚女房、
蛤女房、
亀女房、
鶴女房、
天人女房、
狐女房、
猫女房、
蛙女房、
雪女、
木霊、
山姥、
クモ、
河童、
鬼、
鉢かつぎ、

等々がある(仝上)。

「蛇婿」は、「蛇」と交換可能な、

狐、狸、猫、蛙、いもり、たら、うなぎ、魚、たにし、蜘蛛、むかきで、けむし、

と、他の動物と交替しただけの説話があるのに対して、「蛇女房」に替わる動物の話はない(異類婚姻譚に登場する動物)。このことに何か意味があるのかどうか。

「蛇女房」とは、

「ある若者が蛇を助け、やがて美しい女がやってきて若者と夫婦になる。女房は妊娠し、覗いてくれるなと部屋に入ってお産をするが、つい夫が覗くと大蛇が赤児を産んでいる。女房は見られたことを悟り、自分は池の主で助けられた蛇であると告げ、子供を育てるための玉(片目)を置いて去る。(その玉をしゃぶって無事成長するが)その玉が有名になり殿様に取り上げられてしまう。夫は困って池へ行き事情を話すと、母親の蛇が現れてもう片方の目を与え、これで盲目になってしまい時もわからないので、寺に鐘を寄進して朝夕衝いてくれと夫に頼む(または、夫と子供を安全なところに逃がした後、洪水を起こして殿様に復讐する)」

という話である(日本昔話事典、日本伝奇伝説大辞典)。全国に百以上分布している、という。「お産の時部屋を見るな」という

産屋の禁忌、

は、古く『古事記』の、

豊玉姫神話、

に遡るが、この型の話にしか残っていない、という(日本昔話事典)。

この説話は、蛇が水の神と関連する霊的な動物とされるため、水を支配する蛇の存在を表現しているが、伝説として語られるため、たとえば、蛇の頼んだ鐘は、近江の、

三井寺の鐘、

とする例も多い。また

鴻の池(徳島)、
龜ケ池、龍泉寺(奈良)、
鏡ケ池(栃木)、
お仙ケ淵(岩手)、

と、池の伝説と結び付けられている例もある(仝上)。

蛇の目玉は、

「動物ことに魚の目が精力を強めるという(民間)信仰」

と関係がある、との見方もあるが、蛇の棲む淵を、

座頭淵、

と呼んだ例もあり、この種の説話の分布には、

「盲人、座頭が参与したのではないかと思われる。座頭は古くから水の神の信仰と関係があった」

とするのはなかなか興味深い(日本昔話事典)。ちなみに、この子はのちに、

俊仁将軍(御伽草子「田村の草子」)、
あるいは、
安倍晴明(長崎)、

となる、という出世譚もあるが、豊玉姫神話の、

鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、

になるのをなぞっている、ともいえる。

参考文献;
阿部正路『日本の妖怪たち』(東京書籍)
中村とも子・弓良久美子・間宮史子『異類婚姻譚に登場する動物』https://ko-sho.org/download/K_010/SFNRJ_K_010-09.pdf
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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納豆


「納豆」は、豆腐と違い、日本語である。

「寺納豆に起り、納所の僧の豆の義化と云ふ。いかがか」(大言海)

で、

「古製なるは濱名納豆」

とある。「納所」(のうしょ/なっしょ)とは、年貢などを納める所の意だが、ここでは、

寺院で、施物を納め、また会計などの寺務を取り扱うところ、またそれをつかさどる僧、

の意である。

「僧侶が寺院で出納事務を行う『納所(なっしょ)』で作られ、豆を桶 や壷に納めて貯蔵したため、こう呼ばれるようになったとする説が有力とされている。『なっ』は呉音『なふ』が転じた『なっ』で、『とう』は漢音『とう』からの和製漢語である」(語源由来辞典)

「濱名納豆」は、

「遠州濱松(旧名、濱名)の大福寺の製に始まる」

とあり(大言海)、

「黒大豆を煮て、小麦粉を衣として麹とし、砕きて煎じたる鹽汁に浸し、生姜、山椒皮、陳皮、紫蘇葉、芥子などを刻みて加へ、圧して数十日の後、乾して成る。此の種にて一休納豆、味最も美なり」

とする。どうやら、今日の「納豆」、つまり、

糸引き納豆、

とは別種で、

塩辛納豆、
浜納豆、
大徳寺納豆、
寺納豆、
唐納豆、

等々とも呼ばれる。

「奈良時代より宮内省大膳職で作られた『鼓(くき)』の一種であるといわれる。室町時代になると納豆、唐納豆、寺院で作ることが多いところから寺納豆とも呼ばれた。京都の大徳寺納豆、浜名湖畔大福寺の浜名納豆が有名である」

とある(日本語源大辞典)。これは、

「豆腐と同じように、中国から製法が伝わったものである。中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキとしてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である」(たべもの語源辞典)

「茶菓子としても利休以下多くの茶人に愛され、京菓子の中には餡の中にこの納豆をしのばせたものもある」

とか(仝上)。

今日の日常食する納豆は、淡鼓を簡単に作ったもので、これは、

日本の発明、

である(仝上)、とか。その由来には、

利休が馬屋の藁の中に落ちていた味噌豆にカビが生えているのを見て発明した、
八幡太郎義家が東北地方の征伐に出陣した時、その家来が偶然豆が糸を引くことを発見し納豆を発明した、
神棚に供えておいた豆が納豆に変化したのを見てその製法を考えた、

等々諸説あるが、

「東北地方に古くからあり、九州地方にもあった。これは東北の発明を九州へもっていったからだという」

とある(仝上)ので、民間で、古くから自然発酵法で行われたものと思われる。11世紀半ば頃に藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』の中で、

「『精進物、春、塩辛納豆』とあるのが初見で、この『猿楽記』がベストセラーになったことにより、納豆という記され方が広まったとされる」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86、「糸引き納豆」は、

「室町中期になると、公家の日記などに登場する(『大上臈御名之事』に『まめなっとう、いと』)、『御湯殿上日記・享禄二年一二月九日』に『いとひき』などの例があり、女房詞で『いと』『いとひき』と呼ばれていた。当時の生産地が近江であることなどを考え合わせると、近畿で創出された可能性も高い」

とある(日本語源大辞典)。さらに、

「室町時代中期の御伽草子『精進魚類物語』が最古のものと言われる。なまぐさ料理と精進料理が擬人化して合戦する物語だが、『納豆太郎糸重』という納豆を擬人化した人物の描写は藁苞納豆と通ずるものがある」

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86、室町期には、ある程度、一般化していたものらしい。その起源は、

「糸引き納豆は、『煮豆』と『藁』の菌(弥生時代の住居には藁が敷き詰められていた。また炉があるために温度と湿度が菌繁殖に適した温度になる)がたまたま作用し、偶然に糸引き納豆が出来たと考えられているが、起源や時代背景については様々な説があり定かではない。『大豆』は既に縄文時代に伝来しており、稲作も始まっていたが、納豆の起源がその頃まで遡るのかは不明である」

とあり、一部で使われていた可能性は残る。

納豆が庶民の間で広く食されるようになったのは江戸時代、それも、一年中納豆を手に入れることができるようになったのは江戸時代中期。それ以前は主に冬に食べられていたため、納豆は冬の季語とされている。納豆が庶民に食されるようになるのは、江戸時代である。

「からすの鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地の人の好物なる故と思はる」(江戸自慢)

との記述もあるhttps://style.nikkei.com/article/DGXMZO30208400Y8A500C1000000?page=3し、

納豆と蜆(しじみ)に朝寝おこされる、

という川柳もある(仝上)。

「各町内の木戸が開くのは明け六つ(朝6時頃)。夜が明ける時刻が明け六つですから、このころから湯屋(銭湯)の男湯がにぎわいだします。なんたって、廓(くるわ:遊郭のこと)帰りや、商家のご隠居、道楽者などが、朝湯にどっと繰り出します。長屋の木戸が開くと聞こえてくるのは、浅利売り、納豆売りの声です。『明星(金星)が入ると納豆売りが来る』」

といった具合だったらしいhttps://edococo.exblog.jp/9088724/

こんな文章もあるhttp://www.natto.or.jp/bungakushi/s07.html

「霜のあしたを黎明から呼び歩いて、『納豆ゥ納豆、味噌豆やァ味噌豆、納豆なっとう納豆ッ』と、都の大路小路にその声を聞く時、江戸ッ児には如何なことにもそを炊きたての飯にと思立ってはそのままにやり過ごせず、『オウ、一つくんねえ』と藁づとから取出すやつを、小皿に盛らして掻きたての辛子、『先ず有難え』と漸く安心して寝衣のままに咬(くわ)え楊枝で朝風呂に出かけ、番頭を促して湯槽の板幾枚をめくらせ、ピリリと来るのをジッと我慢して、『番ッさん、ぬるいぜ!』、なぞは何処までもよく出来ている」(柴田流星『残された江戸』(明治44年))

豆腐50文、
そば16文、

に対し、

納豆4文、
シジミ一枡10文、
冷や水4文、

とあるhttps://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1210/25/news108.html。納豆は安い。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ショウガ


「ショウガ」は、

生姜、
生薑、
薑、

と当てる。

原産地はインドを中心とした熱帯アジアと推定されているが、野生種は発見されていない。古い時代に中国に伝わり、三世紀以前に日本に渡来したらしい。

「日本には二、三世紀ごろに中国より伝わり奈良時代には栽培が始まっていた。『古事記』に記載があるように早くから用いられている

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC、古くはサンショウと同じく「はじかみ」と呼ばれ、区別のために「ふさはじかみ」「くれのはじかみ」とも呼ばれた、ともある。この経緯は、

「漢名が薑(きょう)、訓でハジカミとよむ。ハジカミとは山椒の古名。生姜の異名でもある。ショウガもハジカミも一つではあるが、ハジカミはショウガではない。ハジカミの中で、ショウガは、その部分が土の中にあることを示した名がツチハジカミであり、穴をあけてとるところからアナハジカミともいい、その部分がかたまりになっているのでクレノハジカミとも称した。クレノハジカミを生姜または生薑と書き、ショウガと称したのである。薑はハジカミまたはショウガである。乾薑(ほしかじかみ)が『和名鈔』にある。これは一名定薑ともよばれるもので、これに対して生薑と書いてクレノハジカミの名とした。薑は、キョウとよむが、姜もキョウまたはコウとよむ。それで画数の少ない姜を用いて生姜(ショウキョウ)とした。生姜はショウコウともよまれる。これがショウガとなった」

とある(たべもの語源辞典)ので、「ショウガ」は、

ショウキョウ(生姜)→ショウコウ(生姜)→ショウガ、

の転訛と見える。大言海も、

「生と云ふは、乾薑(ホシハジカミ)に対するならむ。ガは、薑、姜の呉音、カウの約ト云ふ」

とするし、語源由来辞典も、

「しょうがを中国では『薑』と書き、生のものを『生薑』、干したものを『乾薑』という。このうち生のショウガを表す『生薑』を音読みした『シャウキャウ(シャウコウ)』が転じ、『ショウガ』と呼ばれるようになった。『キャウ(カウ)』が『ガ』の音になったのはミョウガの影響によるものと考えられる」

とするhttp://gogen-allguide.com/si/syouga.htmlが、別に、

「ショウガは、その形が蘘荷(めうが)に似ているので、女香(めか)と呼んだのに対し、生薑を兄香(せか)と称した。これがセウガと訛ったのは、女香(めか)が『めうが』と訛ったのとおなじである」

と(たべもの語源辞典)、

セカ(兄香)→セウガ→ショウガ、

の転訛とする説もある。同じく、

「大陸からミョウガとともに持ち込まれた際、香りの強いほうを『兄香(せのか)』、弱いほうを『妹香(めのか)』と呼んだことから、これがのちにショウガ・ミョウガに転訛したとする説がある」

としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC説もある。しかし、「せうが」の表記は見られないのが難点である。

「室町時代にはシャウガとハジカミが併用されていた」

ともある(日本語源大辞典)。中国伝来の由来から見ると、乾した薑に対する、

生(なま)

の、薑(はじかみ)の意と見るのが妥当のようである。

なお、「ショウガ」は、大きさ別に、

大生姜・中生姜・小生姜の3種類、

に分けられるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%ACが、

「小ショウガには谷中(やなか)や金時(きんとき)など、中ショウガには三州(さんしゅう)や近江(おうみ)ショウガなどの品種がある。小ショウガと中ショウガの品種は、日本で栽培され、分化したものである。大ショウガは江戸時代以後に渡来したと考えられ、印度(インド)生姜、広東(カントン)生姜などの品種がある」

という(日本大百科全書)。

ちなみに、山椒の古名でもある「はじかみ」は、

「味が辛いところから生姜もさすようになった。なお、実のなる山椒はナルハジカミ、中国渡来の生姜をクレノハジカミと呼び分けることもあった」

とある(日本語源大辞典)。

なお、「ショウガ」には、

吝嗇の人をあざける称、

の意があるらしいが、江戸語大辞典には、

芝居者用語、

としか載らないが、

「食用に用いられる根茎が、人が手を握った時の形に似ているから」

とある(語源由来辞典、大言海)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ミョウガ


「ミョウガ」は、

茗荷、
蘘荷、

と当てる。旧仮名では、

めうが、

と表記される。岩波古語辞典の「めうが」の項には、

「ミョウガの芽を多く食べると馬鹿になるという俗説」

から、

馬鹿、阿保、愚者、

の意がある、とする。ミョウガは、

「日本の山野に自生しているものもあるが、人間が生活していたと考えられる場所以外では見られないことや、野生種がなく、5倍体(基本数x=11、2n=5x=55)であることなどから、アジア大陸から持ち込まれて栽培されてきたと考えられる。花穂および若芽の茎が食用とされる」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC

「高さは一メートルになる。全体が薑(しょうが)に似ている。葉の幅がやや広く、根から鱗状の苞のある白花を生ずる」

が(たべもの語源辞典)、

「通常『花みょうが』『みょうが』と呼ばれるものが花穂で、内部には開花前の蕾が3〜12個程度存在する。そのため、この部分を『花蕾』と呼ぶ場合もある。一方、若芽を軟白し、弱光で薄紅色に着色したものを『みょうがたけ』と呼ぶ。『花みょうが」は、晩夏から初秋にかけ発生し、秋を告げる風味として喜ばれ、一方『みょうがたけ』は春の食材である。地面から出た花穂が花開く前のものは『みょうがの子』と呼ばれる。俳句では夏の季語で、素麺の薬味などとして食される』

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC

「ミョウガ」の「茗荷」は、当て字である。蘘荷(じょうか)は、

「『魏志』の倭人伝に『蘘荷』とあるので、これが日本のミョウガに関する最古の記載である」

とある(仝上)。日本で古くから栽培されてきた野菜の一つで、延喜式・大膳には、

「正月最勝王経斎会供養料(略)蘘荷漬、菁根漬各二」

と載る。更に、和名抄に、

「蘘荷(略)和名米加」

とあるので、古くは「メカ」と呼ばれていた(日本語源大辞典)。そこで、ミョウガの語原は、

メカ(芽香)の転、

とする説がある(広辞苑、日本語源広辞典)。ミョウガの香りに由来すると思われる。

めか(芽香)→めうか→みょうが、

という音韻変化を採る。しかし、「ショウガ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%ACでも触れたように、

「大陸からショウガとともに持ち込まれた際、香りの強い方を「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」と呼んだ。これが後にショウガ・ミョウガに転訛した」

との説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC

めのか(妹香)→みょうが、

の転訛とするのである。これについて、語源由来辞典は、

「みょうがは、古名を『めが』といい、奈良時代には『売我』『女我』と表記され、平安中期から中国名の漢字が使われた。『めが』の語源は、その香りから『芽香(メガ)』の意とする説と、ショウガを『兄香(セガ)』といったことから、男の称『セ』に対し女の称『メ』を当てた『女香(メガ)』とする説があるが、『芽香(メガ)』の説が一般的である。この『めが』が拗音化して、『みょうが』となったとされるが、(中略)平安中期には、『メガ、又はミャウガ』と記されており、『めが』が音変化して『みょうが』となったとすれば、この当時は『メウガ』と書かれるはずで、『ミャウガ』は『メガ』の音変化とは別とするものである。この問題をうめる説として、中国漢字の『めが』が、日本では漢音で『ジャウガ』、呉音で『ニャウガ』と発音されていたため、『ニャウガ』が『ミャウガ』となり、『ミョウガ』になったとする説があり、最も有力な説といえる」

と、「めか」説を否定している(大言海は「みょうが」を「めうが(蘘荷)」の誤りとしているので、「めうが」の表記がないというのは解せない)。ただ、「中国漢字の『めが』が、日本では漢音で『ジャウガ』、呉音で『ニャウガ』と発音されていたため、『ニャウガ』が『ミャウガ』となり、『ミョウガ』になったとする説」は、生姜(薑)が「乾薑」と対なので、ちょっと受け入れがたい。やはり、「芽香」と、香りに由来するとみるのが普通であろう。

なお、「茗荷」の当て字は、

「遅くとも室町期には『文明本節用集』に『名荷 みゃうか』、『運歩色葉』に『名荷 茗荷 蘘荷』とあるところから、ミョウガとよばれると共に、あて字『茗荷』が用いられ始めた」

ようだ(日本語源大辞典)。

「ミョウガ」を食べると、物忘れするといわれるのは、

「中国の蘇東坡の『東坡詩林』に『庚申三月十一日薑の粥食ふに甚だ美なり、歎じて曰く吾れ薑食ふこと多し』とある。つまりショウガを多く食べたので愚とになったというのである。それがショウガとミョウガを混同してしまって、ミョウガを多く食べると物忘れする、馬鹿になると言い出したものである」

とある(たべもの語源辞典)が、別に、

「釈迦の弟子で周梨槃特の塚から生えた草を愚鈍草と名付けた。槃特は、自分の名も覚えられないので、その名を書きつけた物を荷って歩いたところから、名を荷う、名荷とは、愚鈍草のことだ、という」

とある(仝上)。しかし南方熊楠によると、槃特比丘が性愚鈍だということを書いたものはあるが、名荷の話は日本人の創作である、という(仝上)。「茗荷」に当てて以降の作り話である。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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山椒


「山椒」は、

さんしょう、
あるいは、
さんしょ、

と訓ませる。

「サンショウ(山椒、学名:Zanthoxylum piperitum)はミカン科サンショウ属の落葉低木。別名はハジカミ。原産国は日本であり、北海道から屋久島までと、朝鮮半島の南部にも分布する。若葉は食材として木の芽の名称がある。雄株と雌株があり、サンショウの実がなるのは雌株のみである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6

「山椒」の「椒」(ショウ)の字は、

「会意兼形声。『木+音符叔(小さい実)』で、小粒の実のなる木」

とある(漢字源)。山椒の意味もあるが、「胡椒」の「椒」でもある。

「実が丸く、味が辛い」

からとある(仝上)。ただ「椒」には、

「芳しいの意があり、山の薫り高い実であることから「山椒」の名が付けられたと考えられる」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6。語源由来辞典には、

「『椒(ショウ)』の一字でも『山椒』を指していたが、山で採れる意味で『山』が冠されて『山椒』となった。その漢字を音読みしたのが『サンショウ』で、『生姜』に『ハジカミ』の名を奪われたため、この名が定着していった」

とある。ただし、

「サンショウは、山に多くあるはじかみ(椒)ということで山椒と書き、それを音読みしちものである。したがって山椒は漢名ではない」

とある(たべもの語源辞典)。

なお、山椒は、

「原始時代から日本列島にあった。記紀の歌にも椒(はじかみ)の名が出てくる。まぶたに物もらいができたとき、宵に山椒の実を丸のまま五粒飲んで寝ると翌朝できものが治っている、といわれた」

とある(たべもの語源辞典)。たとえば、

「垣下(かきもと)に 植ゑし椒(はじかみ) 口ひひく」(『書紀』では「垣本(かきもと)に 植ゑし山椒(はじかみ) 口疼(ひび)く」)

と載る(「柿の下に植えた山椒は口がひりひりする」という意味)、とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E6%AD%8C#cite_note-%E6%AD%8C-1

山椒の古名は、

ハジカミ、

でもあることは、生姜http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%ACで触れたが、

「呉薑(クレノハジカミ)、渡来して、別して、皮ハジカミとも云ふ。辛皮(カラカハ)を食ふに因るなり。生(なる)ハジカミ、房ハジカミとも云ふ」

とある(大言海)。「ハジカミ」を生姜にも当てたため、区別したものである。

「ハジカミ」は、

ハジカミラの略、

「ハジははぜるの意で、カミラはニラの古名である。果実の皮がはぜ、また味が辛くてニラの味に似ているところからきた」

とする(たべもの語源辞典)。似たものに、

ハジカラミの略。ハジは、花がハゼて実が出るところから。カミラは韮の古名で味が似ているところから(箋注和名抄)、

がある。大言海も、

罅裂子(はじけみ)、

とし、日本語源広辞典も、

ハジケ+ミ(実)、

とはじける説を採る。

辛くてハ(歯)がシカム(蹙)ところから(雅言考)、

という説は、

「この葉や実を噛むと歯がうずき痛むからであるというが、歯がうずく辛さのものは他にもある」

として、たべもの語源辞典は否定する。

「味が辛いところから生姜もさすようになった。なお、実のなる山椒はナルハジカミ、中国渡来の生姜をクレノハジカミと呼び分けることもあった」

とある(日本語源大辞典)。生姜と区別するため、山椒は「結実」するという意味で「ナルハジカミ」や、実が房状になる意味で「フサハジカミ」などと呼ばれたものである(語源由来辞典)。

山椒の中の、

朝倉山椒、

は、

「丹波越前などから出る。元但馬国朝倉村の産なのでこの名がある。普通の山椒よりはが大きく、期には棘がない。果実の大きさは山椒の三倍ある。辛味が強く香気が高い。これは朝鮮から但馬に渡ってきた」

ものらしい(たべもの語源辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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八寸


「八寸」は、

1寸の8倍の長さ。約24.2センチ、

の意味だが、

八寸角の折敷(をしき ヘギ製の角盆)、

を指す(たべもの語源辞典)。「折敷」は、

片木(へぎ)を四方に折り廻して作った角盆、食器を載せるのに用いる。杉などのほか種々の香木でつくる、

とある(広辞苑)が、

「四角でその周囲に低い縁をつけたもの,すなわち方盆のこと。その名は,上古に木の葉を折敷いて杯盤にしていたことが残ったものであるといわれる。高坏(たかつき)や衝重 (ついがさね) よりは一段低い略式の食台として平人の食事に供されたもので,8寸(約 24cm)四方のものを『大角』または「八寸」,5寸(約15cm)四方のものを『中角』,3寸(約9cm)四方のものを「小角(こかく)」といい,角(かど) 切らないものを「平折敷」,四隅の角(すみ)を切ったものを『角切の折敷』あるいは『角』と呼び,ほかに足がつけられた『高折敷』『足付折敷』などの種類もみられた」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

「折敷」(をしき)は、

ヲリシキ(折敷)の約で、柏、椎などの葉を折り敷いて食物を盛った古の風俗から(大言海・名語記・万葉代匠記・和字正濫鈔)、

が由来とみられる。「へぎ」は、

削ぎ、

で、

「減ると同根。一部を削り取る意」(岩波古語辞典)

からきていると思われる。名詞「へぎ」には、

片木
片器、

と当て、

薄く削いだままの板で作った折敷、

とある(仝上)。大言海は、「へぎ」に、

折、

を当て、

折(へ)ぐこと、また、ヘギイタ、ソギ、片木、

としている。

「八寸」は、寸法の意から、「折敷」の意となり、さらに、

それに盛られる取肴、

意となり、さらに、

料理献立の一つ、

となる。

「懐石料理(茶料理)で主客が盃のやりとりをするとき、木地の八寸四方の片木(へぎ)盆に取肴を盛って出したので、『八寸』という器に盛る肴が、決まった」

らしい(たべもの語源辞典)。懐石料理の中の八寸は、たとえば、

「八寸…に、酒の肴となる珍味を2品(3品のこともある)、品よく盛り合わせる。2品の場合は、1つが海の幸ならもう1品は山の幸というように、変化をつけるのがならわしである。亭主は正客の盃に酒を注ぎ、八寸に盛った肴を正客の吸物椀の蓋を器として取り分ける(両細の取り箸が用いられ、それぞれの端が酒肴によって使い分けられる)。酒と肴が末客まで行き渡ったところで、亭主は正客のところへ戻り、『お流れを』と言って自分も盃を所望する。その後は亭主と客が1つの盃で酒を注ぎ合う。亭主は正客の盃を拝借するのが通例である。正客は自分の盃を懐紙で清め、亭主はその盃を受け取り、そこに次客が酒を注ぐ。その次は、同じ盃を次客に渡し、亭主が次客に酒を注ぐ。以下、末客が亭主に、亭主が末客に酒を注ぎ合った後、亭主は正客に盃を返し、ふたたび酒を注ぐ。このように、盃が正客から亭主、亭主から次客、次客から亭主、と回ることから、これを『千鳥の盃』と称する。客が上戸の場合は、さらに『強肴』(しいざかな)と称される珍味が出される場合もある(強肴は『預け鉢』の前後に出される場合もあり、『預け鉢』そのものを『強肴』と称する流派もある)」

という具合であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3

「一汁三菜(さらにあれば預け鉢)などの食事が済み箸洗いが出たあと、亭主と客が酒の献酬(けんしゅう)をする際に肴(さかな)として珍味などを盛った(八寸)を亭主が持ち出し、客に一人ずつ取り分ける。動物性のものと植物性のもの2種を盛ることが多い」

ともある(食器・調理器具がわかる辞典)。

「八寸」の考案者は、利休で、

京都洛南の八幡宮の神器からヒントを得て作ったといわれる、

らしいhttps://kyoto-kitcho.com/event/madrid_fusion_05/mf_008_jp.htmlが、はっきりしない。ただ、上記にあるように、

「一期一会の好機を得て主となり客となった喜びをこめて、亭主と客が盃をかわす場面でだされるものをいいます。正式には八寸四方の杉のお盆を使い、酒の肴として、海のもの(生臭もの)と山のもの(精進もの)を合わせて出すことが決まりとされています。「八寸」は、十分に湿らし、右向こうに海のもの、左手前に精進のものを盛り、手前に両細の青竹箸を濡らし、露をきって添えます。また、客の数よりも多く(通常、お客さんの人数+御代わり1名分+亭主用1名分)盛り付けるようにします。」

ともある(仝上)。

その後、明治になって、「八寸」は、

「八寸四方の片木盆に盛るといった八寸ではなく、八寸という献立の中の名称であって、その料理は、煮物でも焼物でも何でもよい。つまり、焼物といえば、魚鳥肉を焼いたものといった風に、その料理法は決まっているが、八寸と称したとき、その料理法に決まりはなく、何か一つの料理を出すための看板として八寸という名称が用いられるようになったといえよう。その器も、八寸四方の片木盆など昔のことはまったく忘れられて、八寸皿とよぶ器に盛られるようになった」

という献立に変わってしまった。ただ、懐石料理に「八寸」はあるが、会席料理にはないようである。

ちなみに、「へぎそば」は、へぎ(片木)」と呼ばれる、剥ぎ板で作った四角い器に載せて供されることからこの名が付いているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B8%E3%81%8E%E3%81%9D%E3%81%B0

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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懐石料理


「かいせきりょうり」に、

「懐石料理」

と当てるほかに、

「会席料理」

とも当てる。

「懐石料理」の「懐石」は、

「禅家の語。小食、夜食のこと。抑、腹に満たすを、温石を懐に入るる意として、懐石と称す。茶会の客も、初めは割子(わりご 白木の折箱)を懐して、各、食物を持ち寄りたるに因り、此称ありと云ふ。茶道は、繕り出づ、さもあるべし」(大言海)

「禅宗の僧が、一時的に空腹しのぐために懐に入れていた『温石(おんじゃく)』をいった。温石とは、蛇紋石や軽石などを火で焼き、布に包んだものである。懐石が空腹をしのぐものであったところから、簡単な料理・質素な食事を意味する」(語源由来辞典)

とあるが、どうやら、

「江戸時代になって茶道が理論化されるに伴い、禅宗の温石に通じる『懐石』の文字が当てられるようになった。懐石とは寒期に蛇紋岩・軽石などを火で加熱したもの、温めたコンニャクなどを布に包み懐に入れる暖房具(温石)を意味する」

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3。それが料理に結び付く経緯は、諸説あり、

「一に修行中の禅僧が寒さや空腹をしのぐ目的で温石を懐中に入れたことから、客人をもてなしたいが食べるものがなく、せめてもの空腹しのぎにと温めた石を渡し、客の懐に入れてもらったとする説。また老子の『徳経』(『老子道徳経』 下篇)にある被褐懐玉の玉を石に置き換えたとする説などである」

後に、「懐石」の字を当てたものらしい。

「会席料理」の「会席」とは、

寄合の座敷、

の意味で、それが、

歌会または蓮歌・俳諧を興行する席・座敷・一座を言う、

ようになり、さらに、

茶の湯の席で行われる簡単な料理、

を指すに至る(岩波古語辞典)。

「会席は当て字なり、茶会の席上の料理の意に思ひ移したるなるべし」

とある(大言海)。

「懐石とは茶の湯の食事であり、正式の茶事において、『薄茶』『濃茶』を喫する前に提供される料理のことである。利休時代の茶会記では、茶会の食事について『会席』『ふるまい』と記されており、本来は会席料理と同じ起源であったことが分かる。江戸時代になって茶道が理論化されるに伴い、禅宗の温石に通じる『懐石』の文字が当てられるようになった」

だけのことである(仝上)。もともと、茶席での料理で、

茶料理、
会席、

と呼ばれていたものを、禅につなげて(つまりは権威化するために)、「懐石」の字を当てたものだ。

簡単な料理・質素な食事とは、

「茶席で亭主(ホストのこと)が客にもてなす料理のことです。もてなすといっても主役はあくまでも濃茶で、これを頂く前に、お客様の空腹をいやすために出される軽い食事」

を意味するものhttp://gogen-allguide.com/ka/kaiseki.htmlが、茶道では、

「献立・食作法・食器などにも一定の決まりが定められるようになった」

というわけである(語源由来辞典)。本来は、

一汁三菜、

のスタイルで、

「ごはん、お吸い物、3品のおかず、香の物で構成されていました。三菜にあたるおかずは、なます、煮物、焼き物の3種」

とシンプルなものhttps://macaro-ni.jp/57492だったらしい。

「天正年間には堺の町衆を中心としてわび茶が形成されており、その食事の形式として一汁三菜(或いは一汁二菜)が定着した。これは『南方録』でも強調され、『懐石』=『一汁三菜』という公式が成立する。また江戸時代には、三菜を刺身(向付)、煮物椀、焼き物とする形式が確立する。さらに料理技術の発達と共に、『もてなし』が『手間をかける』ことに繋がり、現在の茶道や料亭文化に見られる様式を重視した『懐石』料理が完成した。なお、『南方録』以前に「懐石」という言葉は確認されておらず、同書を初出とする考えがある」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3

ただややこしいのは、「懐石料理」と「会席料理」とは、別のものであることだ。

「懐石料理」は、

茶懐石、

と区別されるように、

「茶事の一環であり、茶を喫する前に出される軽い食事で、酒も提供されるが、目的は茶をおいしく飲むための料理である」

のに対して、「会席料理」は、

「本膳料理や懐石をアレンジして発達したもので、酒を楽しむことに主眼がある」

ので、

「料理の提供手順も異なっているが、顕著に異なるのは飯の出る順番である。懐石では飯と汁は最初に提供されるが、会席料理では飯と汁はコースの最後に提供される」

し、「会席料理」は、

「一人一人に料理が盛って持ち出され、茶席におけるように、取り回し時に特別の作法」

があるわけではない(仝上)。つまり、「懐石料理」は、

茶席、

のものであり、「会席料理」は、

宴会、

のもの、ということになる。

日本の宴会は、

「酒礼・饗膳・酒宴の三部から構成され、中国の唐礼や朝鮮半島からの影響を受け酒礼に三献を伴う儀式が成立したと考えられている。酒礼は一同に酒が振る舞われる儀礼で、今日の乾杯や『駆付け三杯』にあたる。酒礼の後には飯汁を中心とした饗膳(膳、本膳)に入り、茶や菓子も含まれる。酒礼と饗膳は座を変えて行うことが多く、平安時代の饗宴においては酒礼・饗膳を『宴座』、宴会の酒宴は『穏座』と呼称して区別していた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86

「本膳料理(ほんぜんりょうり)」は、

室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式、

で、

「南北朝時代には公家の一条兼良の往来物『尺素往来(せきそおうらい)』において本膳・追膳(二の膳)・三の膳の呼称が記され、『本膳』の言葉が出現する。また、室町時代には『蔭涼軒日録』長禄3年(1459年)に正月25日に将軍足利義政が御所において御煎点(ごせんてん)を行った際の饗膳が記されて」

おり、

「室町時代には主従関係を確認する杯を交わすため室町将軍や主君を家臣が自邸に招く『御成』が盛んになり本膳料理が確立した。本膳料理の確立に伴い、室町時代から江戸時代には『献立』の言葉が使用され、饗宴における飲食全体を意味した」

とある(仝上)。「本膳料理」は、

「《宗五大草紙(そうごおおぞうし)》(1528)には,初献(しよこん)に雑煮,二献に饅頭(まんじゆう),三献に吸物といった肴(さかな)で,いわゆる式三献(しきさんこん)の杯事(さかずきごと)を行い,そのあと食事になって,まず〈本膳に御まはり七,くごすはる〉とあり,一の膳には飯と7種のおかず,以下二の膳にはおかず4種に汁2種,三の膳と四の膳(与(よ)の膳)にはおかず3種に汁2種,五・六・七の膳にはそれぞれおかず3種に汁1種を供するとしている」

といった例(世界大百科事典)があり、大規模な饗宴では七の膳まであったとの記録もあったとされる。
「式三献(しきさんこん)」とは、

三献、

酒宴の作法の一つで、饗宴で献饌ごとに酒を勧めて乾杯することを三度繰り返す作法、

といい、

「中世以降、特に盛大な祝宴などでは『三献』では終わらず、献数を重ねることが多くなり、最初の『三献』を儀礼的なものとして、特に『式三献』というようになったものと思われる」

とある(精選版 日本国語大辞典)。のん兵衛は相変わらずである。

「本膳料理」からくる「会席料理」の献立は、たとえば、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%B8%AD%E6%96%99%E7%90%86

に詳しいし、「懐石料理」の献立は、たとえば、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3

に詳しい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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つつしむ


「つつしむ」は、

慎む、
謹む、

と当てる。「慎む」「謹む」を区別して、

(慎む)調子に乗り過ちを犯さぬよう、行動を控えめにする。
(謹む)敬意を表し、畏まる。

とかhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%A4%E3%81%97%E3%82%80

「慎む」・・・過ちを起こしたり、限度を越さないように抑えめにすること
「謹む」・・・相手に敬意を表して、かしこまった態度をとること
「慎む」は自分も含めてある人が失敗しないための表現、「謹む」は相手を尊重するための表現として使います。

とかhttps://eigobu.jp/magazine/tsutsushimu

「謹む」とは、かしこまって相手に敬意を示すことを指します。
一方、「慎む」とは、言動を控えめにして度が過ぎないようにすることを指します。

とかhttps://gimon-sukkiri.jp/respect-careful/

というのは、和語「つつしむ」に「慎」「謹」を当てたのちの、あと解釈に思われる。「つつしむ」という和語に、両漢字を当てた時は、区別をつけていたとは思われない。

ちなみに、「慎(愼)」(漢音シン、呉音ジン)は、

「会意兼形声。眞(シン 真)は、欠け目鳴く充実したこと。愼は『心+音符眞』で、心が欠け目なくすみずみまで行き届くこと」

とあり、「つつしむ」「念を入れる」「欠け目なく気を配る」等々のいである(漢字源)。「謹」(漢音キン、呉音コン)は、

「会意兼形声。菫(キン)は、『動物の頭+火+土』からなり、かわいた細かい土砂のこと。謹はそれを音符とし、言を加えた字で、細かく言動に気を配ること。こまごまと小さい、の意を含む」

とあり、「つつしむ」意だが、「細かに気を配ってくる狂いや漏れのないようにする」とあり、気配りが「愼」よりも細心になっている(仝上)。「つつしむ」意の漢字は多いが、その使い分けは、

「謹」は、一筋に念を入るる着、細かに、抜け目なきなり。細謹、謹信と用ふ、
「愼」は、内ば(控え目、内気の意)にして、用心する義、敬に近けれど、大事に用心するのみにてあがめる意はなし、
「敬」は、コトをやまひ、大切にするなり、礼記の註に「貌ニ在ルヲ恭トナシ、心ニ在ルヲ敬トナス」とあり、
「恭」は、行儀正しく、つつしむこと。容貌のつつしみは恭なり、心のつつしみは敬なり、
「粛」は、つつしみのきびしくして、まちがひのなき義。

とあり(字源)、「謹」に「敬う」意はない。後のこじつけに過ぎない。むしろ「愼」が「敬」にちかい。

さて、和語「つつしむ」は、岩波古語辞典は、

「ツツはツツミ(包)と同根。物のまわりをすっぽり包む意。シミは、シミ(凍)・シメ(締)と同根。きつく締める意。自分の身を包み込み引き締める意。類義語イミ(忌)は、タブーに触れないように心がける意。カシコミは、畏敬すべき物に対して恭順の意を表す意」

とあり(広辞苑も同じ)、日本語源広辞典は、

「ツツ(包むの語幹)+シム」

で、「心を包む意」とする。ま、「身を包む」か「心を包む」かの違いになる。

大言海は、

約(つ)め締む、

の意とする。日本語源広辞典は、

「ツメ(約)+しむ」

で、「心を詰めて引き締める」意と解釈している。

「つつむ」で触れたように、

「つつむ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E3%81%A4%E3%81%A4%E3%82%80は,「苞(つと)」と同根であり,「筒(つつ)」ともつながるとすれば,「つつむ」は,

「苞」

の動詞化の可能性がある。「苞」は,

「ツツミ(包)のツツと同根。包んだものの意」

である(仝上)。その意味で、「心」を包むが、「約(つ)め締む」よりは、

つつしむ、

の含意を理解しやすい。多く、

ツツム(日本釈名・南留別志)、
ツツマシメ(包目)の義(名言通)、
ツツマシムル(包令)(和句解)、

と、「包む」と絡ませる説がある。その他、例えば、

ツツシミはツミ(罪)の語幹ツから出た形容詞ツツシに接尾語ミがついたもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ツツシミはイツツシメの略で、五行をシムル意(蒪菜草紙)、
イツクシムルの略で、五行をシムル意。また、実のあるものは胴体が締まっているところから、ツツシム(筒卜)の義(志不可起)、
五行においては、金は土を締め、義の道を行うものであるところから、ツツは土の義、シムはシマル義(百草露)、

等々という語感は、「謹」の漢字からの解釈から「畏まる」意とリンクさせた感があり、到底原意とは思われない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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九十九


「つづら」は、

九十九、

と当てると、

九十九折、

の「つづら」となり、

葛籠、

と当てると、

つづらこ、

ともいう、

ツヅラフジの蔓で編んだ、衣服などを入れる(蓋つき)箱形のかご。後には竹・檜 (ひのき) の薄板で編み、上に紙を張って柿渋 (かきしぶ) ・漆などを塗った、

衣装入れ、

となる。

「ツヅラフジ」は、

葛藤、

と当てる(クズフジとも訓ませる)が、別名、

青葛、

と当て、

あおかずら、
あおつづら、

ともいう。

関東地方以西の暖地の常緑樹林中に生える。茎は木質で硬く,長く伸びて他物に巻きつく。

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。ツヅラフジの、

幹、根茎、根を乾燥し、薄く横切りしたもの、

を、漢方では、

防已(ぼうい)
または
漢防已、

と称し、利尿、消腫(しょうしゅ)、鎮痛剤として浮腫、小便不利、関節痛、神経痛などの治療に用いる(日本大百科全書)。

「葛」は、

くず、
かずら、
つづら、

と訓ませるが、

くず、

と訓むと、秋の七草の「くず」であり、

つづら、

と訓ませると、

ツヅラフジなどの野生の蔓植物の総称、

だが、

ツヅラフジの別称、

でもある(動植物名よみかた辞典)。

かずら、

と訓ませると、

蔓性植物の総称、

とある(仝上)。「つづら」の語源は、

綴葛(つらつら)の約にて、組み綴るより云ふかと云ふ(大言海)、
連続の意のツラツラの略(類聚名物考)、
ツヅクカヅラの略(日本釈名)、
クスカツラの略(和訓栞)、

と形状からきているようだ(日本語源大辞典)。

「九十九折」は、

葛折、

とも当てるように、

ツヅラフジの蔓のように幾重にも折れ曲がっている意、

で、

羊腸小径(ようちょうしょうけい)、
斗折蛇行(とせつじゃこう)、

という言い方もするhttps://sanabo.com/words/archives/2001/06/post_360.html

蔓が木にからんだように折れているところから(名語記)、
ツヅラの蔓のように折れ曲がる意(大言海)、

という解釈が一般的だが、

ツラツラオリの略(類聚名物考)、
ツツラヲリ(継連折)の義(言元梯)、
ツツは登れぬさまを言う語。オリは降りる意。登ろうとしてはうしろへおりてしまう坂であるところから(松屋筆記)、

等々もあるが、「つづら」の形状との類似と見るのが自然だろう。

「葛籠」は、

「元々はツヅラフジのつるが丈夫で加工しやすいことから、つる状のものを編んで作る籠のことを材料名から葛籠と呼んでいたようである。原材料が変化しても呼称だけは残り、葛籠という字が当てられたまま「つづら」と呼ばれるに至っている」

のだhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E7%B1%A0が、

つづらこ(葛籠)、

といったものの約と見ていい(大言海・俗語考)。

ところで、「ツヅラフジ」に当てる、

葛藤、

は、

カットウ、

とも訓ませる。これは、

葛(かずら)やふじ(藤)のつるがもつれからむ、

ことから、

もつれ、悶着、

の意から、

心の中の違った方向あるいは相反する方向の力があって、その選択に迷う状態、

心理的葛藤、

の意になる。仏語では、

正道を妨げる煩悩のたとえ、

禅宗では、

文字言語にとらわれた説明、意味の解きがたい語句や公案、あるいは問答・工夫などの意、

にも、用いる(デジタル大辞泉)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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つくも


九十九、

は、

つくも、

と訓ませると、「つづら(九十九)」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9Dで触れたのとは、別の意味になる。ひとつは、

九十九髪(つくもがみ)の略、

であり、いまひとつは、

植物ふとゐの古名、

であり、「ふとゐ」は、

江浦草、

とも当てるが、「九十九髪」も、

江浦草髪、

と当てる。

老女の白髪、

をいう。伊勢物語の、

百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくもかみ我を恋ふらし面影に見ゆ、

に由来するらしく、

「つくも(九十九)は、ムツグクモ(次)百の訳で、百に満たず九十九の意と見、それを百の字に一画足りない『白』の字とし、白髪にたとえたという。また、白髪が江浦草(つくも)に似るからともいう」

とある(広辞苑・岩波古語辞典)。

「『つくも』は『つつも』のなまったもので、『つつ』は古語での『足りない』、『も』は『百』を意味する、

ともあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413861284

つまり、いずれも、「百に(一つ)足りない」という意で「九十九」を「つつも」と読んだということに変わりはない。

九十九髪自体が、

「老嫗の白髪の、江浦草(つくも)に似たるを云ふ語なりと」

とある(大言海)し、

ツツモガミの誤り、老嫗の乱れた髪がツツモという藻に似ているところから(松屋筆記)、
ツクモ(江浦草)に似ているところから(和訓栞)、
藻をツクネタさまにたとえたもの(花鳥余情)、

と、対象は違うが、草を束ねた様になぞらえたものからきている。

江浦草は、

タクマモ、

ともいう(大言海)らしいが、

都久毛(つくも)、

とも当て、古く、

ふとゐ、

という水草の名である。「ふとゐ」は、

太藺、

と当て、「太藺」は、

おおい、

とも訓ませる。

太い藺草」の意味である。実際にはイグサ科ではなく、カヤツリグサ科フトイ属に属する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A4

茎で花筵などを織る、

ともあり、

池沼などに生える。茎は高さ1〜2メートル、円柱状で太く、中空。葉は鱗片(りんぺん)状で、褐色を帯びる。夏、黄褐色の穂をつける、

とある(デジタル大辞泉)。

ツクモの束を白髪に見立て、

て「つくもがみ」と読ませたhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413861284、ともある。

あるいは、

老人の乱れた髪をいうツクモガミのように乱れはえいるところから(東雅)、

と、逆だったのかもしれない。

ところでややこしいことに、「九十九草(つくもくさ)」という「つくも」の付く植物が、別にある。

ツクモグサの命名は、

「この花を八ケ岳で発見した山草愛好家の城数馬(じょう・かずま)(中略)は、『花は黄色、形は白頭翁(オキナグサ)に、葉はコマクサに、全形はハクサンイチゲに似ている』新種らしいことは分かったものの、牧野富太郎博士に見てもらってもはっきりしない。そこで『九十九は祖父の名』であることと、『白頭翁に類するが故に、其の頭字の白を以って、百に一足ら ざる』故「九十九草」と名付けたと書いています」

という経緯らしいhttp://home.r07.itscom.net/miyazaki/garden/yatsu-special.html#tukumo。「江浦草」とは全く無縁である。

つくも(江浦草)は、

上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ、

という柿本人麻呂の歌がある。「大藺」(おおゐ)、つまり、

ふとゐ、

は、古くからなじみのものであった。白髪からなぞらえたか、江浦草からなぞらえたかは、別として、馴染み深いものだったことだけはわかる。

なお、九十九髪の名がついた唐物茄子茶入、

九十九髪茄子、

があるが、

付喪神、

ともいうので、次項で改める。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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付喪


「つくも」に当てる、

九十九、
江浦草、

については、

「九十九」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D
「つくも」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%82)、

で、それぞれ触れた。「つくも」に、

附喪、

と当てると、

付喪神、

の意である。

しかし「妖怪」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%A6%96%E6%80%AAで触れたように、「付喪神」は当て字で、

「九十九」(つくも)、

を指すらしい。だから、

九十九茄子、

と書き、

松本茄子、
富士茄子、

とともに天下三茄子の一つとされる茶入れの名となっている。で、最も評価が高いそれは、松永弾正(久秀)所持により、

松永茄子、

とも呼ばれる。

「つくも」は、

付藻、
江澤藻、
江浦草、
作物、

などとも書くhttps://meitou.info/index.php/%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D%E9%AB%AA%E8%8C%84%E5%AD%90、とある。「付喪」は、

「室町時代の御伽草子系の絵巻物『付喪神絵巻』に見られるものである。それによると、道具は100年という年月を経ると精霊を得てこれに変化することが出来るという。『つくも』とは、『百年に一年たらぬ』と同絵巻の詞書きにあることから『九十九』(つくも)のことである」

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%98%E5%96%AA%E7%A5%9E、「つくも」で触れたように、やはり、『伊勢物語』の、

百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくもかみ我を恋ふらし面影に見ゆ、

由来するらしい。つまり九十九は、

「長い時間(九十九年)や経験」
「多種多様な万物(九十九種類)」

等々を象徴し,九十九髪と表記される場合もあるが,「髪」は「白髪」に通じ,同様に長い時間経過や経験を意味し,

「多種多様な万物が長い時間や経験を経て神に至る物(者)」

の意味を表すとされる。

日本の民間信仰において,長い年月を経て古くなったり,長く生きた依り代(道具や生き物や自然の物)に,神や霊魂などが宿ったものの総称で,荒ぶれば(荒ぶる神・九尾の狐など)禍をもたらし,和(な)ぎれば(和ぎる神・お狐様など)幸をもたらすとされる。

「付喪」自体,長く生きたもの(動植物)や古くなるまで使われた道具(器物)に神が宿り,人が大事に思ったり慈しみを持って接すれば幸をもたらし,でなければ荒ぶる神となって禍をもたらすといわれる。ほとんどが,現在に伝わる妖怪とも重複する。

つまりは,親しみ,泥んだものや人や生き物が,邪険にされて妖怪と化す,というわけだ。どうもそれはものや生きもの側ではなく,こちら側の負い目や慙愧の念に由来する影に思える。確か,花田清輝が,

「煤払いのさい、古道具たちが、無造作に路傍に放り出されるということは、彼らにとって代る新しい道具類のどんどん生産されていたことのあらわれであって、室町時代における生産力の画期的な発展を物語っている」

と書いたように,こちらの都合によるものらしい。だから,捨てられたものは,妖怪に化す。

百鬼夜行とは、

百器夜行、

なのである。

その付喪神を名に負ったのが、前述の「九十九茄子」、

九十九髪茄子、

ともいう大名物・漢作、唐物茄子茶入である。

付藻茄子、

とも呼ばれる。この茶入は、

「古来この茄子茶入は『つくもがみ』と呼ばれていた。漢字では『九十九髪』もしくは『付喪神』と表記し、前者の漢字をあてる場合は老女の白髪を意味する。また、後者の漢字をあてる場合は古い器に霊が宿った妖怪を意味する。前者の場合『伊勢物語』の一節「百年に一年足らぬつくもがみ我を恋ふらし面影に見ゆ」から、完全な形を意味する百に対して石間(部分的に釉薬がかからず、土の部分が見えたようになっている部分を指す)が欠点で『百』至らぬ『九十九』という意味で名付けられた。また、後者の場合は二つある石間が両目のようであったからと解されて名付けられた。また、付物・作物の字をあてることもある」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D%E9%AB%AA%E8%8C%84%E5%AD%90#cite_note-4。村田珠光が、

九十九貫で購入した、

という伝承があり、それも「つくも」と命名された由来と結び付けられている。この茶入、なかなかその伝来は、また一つの歴史になっている。

「当初は足利義満が所有しており、…その後足利家が所有していたが足利義政により山名是豊に与えられ…その後伊佐宋雲の手に渡り朝倉宗滴(朝倉教景)が五百貫で購入した。後に宗滴から越前小袖屋に質入れされ、1558年に松永久秀が一千貫にて入手する。その後、1568年足利義昭を奉じて上洛した織田信長へ…九十九髪茄子に吉光を添えて献上した。織田信長没後、本能寺の焼け跡から拾い出された九十九髪茄子は豊臣秀吉に献上された。しかし、秀吉は焼けて釉薬の輝きが失われた九十九髪茄子を好まず、有馬則頼に与えた。有馬則頼の没後、九十九髪茄子は大坂城に戻されるが、1615年大坂城落城の際に再度罹災する。徳川家康の命により藤重藤元・藤厳父子が大坂城焼け跡から探し出し、破片を漆で継ぎ合わせて修復を行った。家康は修復の出来映えの褒美として藤元に九十九髪茄子を与えた。以後、藤重家に伝来した」

とある(仝上)。1876年(明治9年)に岩崎弥之助に譲られ、現在は、静嘉堂文庫美術館所蔵となっている。

ちなみに、松本茄子は、

「今井宗久から織田信長に献上され、その後信長から宗久に下賜され、信長の死後、宗久から豊臣秀吉に献上し秀吉が所有することになった。また、徳川家康の命令により藤重藤元・藤重藤厳父子によって大坂城焼け跡から掘り出され、修復の後、藤重藤厳が拝領し藤重家が代々所蔵する」

https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%8C%84%E5%AD%90が、1876年(明治9年)に岩崎弥太郎が譲り受け、やはり静嘉堂文庫美術館が所蔵する。富士茄子は、

当初は足利義輝が所有しており、京の医師、曲直瀬道三が拝領し祐乗坊に与えた[2]。その後織田信長がこれを召し上げたが再び道三に戻り、道三から豊臣秀吉に献上され、秀吉から前田利家に与えられ、以後、前田家が所有した[2]。別の説では、京都から東国公方に渡り、茄子茶入に縁のある今川氏から京都に環流し、後に前田家に入った」

https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%8C%84%E5%AD%90、ある。

参考文献;
花田清輝『室町小説集』(講談社)
阿部正路『日本の妖怪たち』(東書選書)

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つづる


「つづる」は、

綴る、

と当てる。「綴」(漢音テイ・テツ、呉音タイ・チ)は、

「会意兼形声。叕(テツ)は、断片をつなぎ合わせるさまを描いた象形文字。綴はそれを音符とし、糸を加えた字で、糸でつづりあわせることを示す」

とある(漢字源)。「つづる」「つなぎあわせる」という意である。別の説明では、

「会意兼形声文字です(糸+叕)。「より糸」の象形(『糸』の意味)と『糸をつなぎあわせた』象形(『つづる』の意味)から糸で『つづる』を意味する『綴』という漢字が成り立ちました」

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2653.html

和語「つづる」は、

つぎわす、つづけあわす、

という意で、

糸などでつなぎ合わせる。また、破れなどをつぐ、
とか、
紙の束などを糸や紐を通してとじる、

という意味から、それをメタファに、

言葉をつづけて文章や詩歌をつくる、

意となり、

アルファベットなどをつらねて単語を書き表す、

という意へ広げて使われる。日本語には、

スペル、

という意味の、

綴り、

はないので、ポルトガル、スペイン等々の欧米語が入って以降の使い方になる。ただ、

「スペルとは、古英語の『spellian』という単語が語源になっており、これは『話すこと』『会話する事』などを意味する。またこれは、『speak:スピーク:話す』の語源とも繋がりがある。現在の英語単語として『spell』と言った場合は『魔法使いや呪い師の語り』『呪文』『怪しげな決まり文句』『仕事』『文字の綴り』『文字の並び』などを意味する」

とあるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%ABので、「つづる」と無縁ではなさそうであるが、動詞「spell」は、綴る意だが、名詞「spell」に使うと、

「『綴り』という意味はなくなり、『魔力』(charm)、『魅力』(fascination)、『時間のひと続き』(period of rime)という意味」

になり、英語で「綴り」はspellingという。Spellはあやまりとある(あなたの英語診断辞書)ので、正確には、スペルではないが。

和語「つづる」は、

「つづら(葛)と同根。蔓(繊維)を突き通して物を縫い合わせる意」

とある(岩波古語辞典)が、

「ツヅ(続)+ル」

とする説(日本語源広辞典)や、同趣の、

続(つつ)の活用、

とする説(大言海)もある。しかし、抽象度の高い言葉から始まるとは思えないので、

つづら(葛)、

というのは妥当なのとではないか。「つづら」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9Dで触れたように、つづら折りの「九十九」でもあり、それは、「葛」からきている。「葛」は、

くず、
かずら、
つづら、

と訓ませるが、「くず」は、

「つづら」と訓むと、秋の七草の「くず」であり、「つづら」と訓ませると、

ツヅラフジなどの野生の蔓植物の総称、

だが、

ツヅラフジの別称、

でもある(動植物名よみかた辞典)。「かずら」と訓ませると、

蔓性植物の総称、

とある(仝上)。「つづら」の語源は、

綴葛(つらつら)の約にて、組み綴るより云ふかと云ふ(大言海)、
連続の意のツラツラの略(類聚名物考)、
ツヅクカヅラの略(日本釈名)、
クスカツラの略(和訓栞)、

と、その蔓のつながる形状からきている(日本語源大辞典)。だから、「つづる」も、

ツレツレル(連々)の義(名言通)、
ツツル(継連)の義(言元梯)、

と、連続することを指示しているように見える。いきなり、

続ける意(国語の語根とその分類=大島正健)、

と「続ける」と考えるよりは、その具象形である、

葛、

からと見るのが自然に思える。

参考文献;
松本安広・アイリン『あなたの英語診断辞書』(北星堂書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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海馬


「海馬」は、

かいば、

と訓む。中国語である。字源には、

たつのおとしご、
にんぎょ、

の意味が載る。「にんぎょ」は、

儒艮(じゅごん)、

の意と載る。大言海も、

たつのおとしご、
せいうち、

と載せる。しかし、広辞苑には、

Sea-horseの訳、

として、

セイウチ、およびトドの別称、
タツノオトシゴの別称、
ジュゴンの誤称、
Hippocampus 脳の内部にある古い大脳皮質の部分。その形がギリシャ神話の神ポセイドンが乗る海の怪獣、海馬(ヒポカンポス)の下半身に似ているのでこの名がある、

と載る。脳の海馬の由来はここにあるが、精選版 日本国語大辞典は、「うみうま(海馬)」は、

たつのおとしご(龍落子)の異名(物類称呼(1775))、
海産の大きなカメ。うみぼうず。あおうみがめ(大和本草批正(1810頃))、

とし、「かいば(海馬)」を、

魚「たつのおとしご(龍落子)の異名(山槐記・治承二年(1178))、
セイウチ(海象」の異名(南島志(1719))、
大脳辺縁系で古皮質に属する部位、

と分け、脳の海馬は「断面の形がタツノオトシゴに似る」としている(時実利彦・脳の話)。これは、動植物名よみかた辞典によると、

海馬(アシカ) アシカ科の動物の総称、
海馬(ウミウマ) ヨウジウオ科の海水魚。タツノオトシゴの別称、
海馬(トド)  アシカ科の海獣、

とあるので、「海馬」を、アシカと訓ませたりするのは、トドを含めたアシカ科の総称だから、ということになる。ただ、脳の「海馬」は、一般には、ヒポカンポスに似るとされるが、日本人からは、タツノオトシゴに似ていると見える、ものらしい。

で、「海馬」は、

「かいば」「うみうま」と訓んで、タツノオトシゴ、
「かいば」と訓んで、セイウチ、
「かいば」「とど」と訓んで、トド、
「あしか」と訓んで、アシカ科(アシカ、オットセイ、トド等を含み、アザラシやセイウチ等を含まない)の総称。または、アシカ、
「かいば」と訓んで、ジュゴンの誤称、
「かいば」と訓んで、ヒッポカムポス - ギリシア神話に登場する半馬半魚の架空の生物、それに準えて脳の海馬、

と、読み分けられている。脳の「海馬」は別にすると、「海馬」は、

「ウマのような大きな海産動物の意。セイウチ(海象)、アシカ(海驢)、ジュゴン(儒艮)にも用いられるが、最近は胡櫞にかえてトドの漢名として定着しつつある。タツノオトシゴの異名でもある」

というのが落としどころらしい(日本大百科全書)。

ついでながら、「海」の付く生き物を挙げてみると、「海象」は、

せいうち、
かいぞう、
かいしょう、

と訓ませ、「セイウチ」のこと。「海豹(カイヒョウ)」は、

アザラシ、

と訓ませる。

水豹、

とも当てる。「海豚」(カイトン)は、

イルカ、

と訓ませる。イルカhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%ABについては触れた。「海狸」(カイトン)は、

ウミダヌキ、

と訓ませ、ビーバーの別名。「海狗」(カイク)は、「おっとせい(膃肭臍)」の異名。「海獺」(カイタツ)は、

猟虎、
獺虎、

とも言い、ラッコだが、

うみうそ、
うみおそ、

ともいい、「アシカ」の異称でもある。「海星」は、

人手、

とも当て、「ヒトデ」と訓ませる。「海月」は、

水母、

とも当て、「クラゲ」と訓ませる。「アシカ」は、

海馬、

とも当てるが、

海驢、
葦鹿、

とも当てる。アイヌ語由来とある。「海胆」は、

ウニ、

と訓ませるが、

雲丹、
海栗、

とも当てる。「海扇」

ほたてがい、

と訓ませる。

帆立貝、

とも当てる。「海鷂魚」は、

鱏、
鱝、
鰩、

とも当て、「エイ」と訓ませる。「海鞘」は、

ほや、

と訓ませる。やれやれ、めんどくさい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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カチグリ


「カチグリ」は、

搗栗、
勝栗、

と当てる。「勝栗」は当て字だろう。

栗の実を殻のまま干して、臼で搗(つ)き、殻と渋皮とを取り除いたもの、

で、昔から保存用として重宝された。

「秋に収穫したクリを1週間から20日ぐらい日光で乾燥したうえ、さらに竹簀(たけす)底の木箱に入れて焙炉(ほいろ)にかけ約2昼夜加熱したのち臼(うす)にとり、杵(きね)で軽く搗(つ)いて殻を搗き割り、ふるって、実だけを残す」

とある(日本大百科全書)。「搗く」は、古く、

かつ、

と訓んだので、

カチグリ、

と呼ぶ。また、

搗、

が、

勝、

に通ずるから出陣や勝利の祝い、正月の祝儀などにもちいた(広辞苑)、とある。『徴古歳時記』に、

「搗と勝と訓の同じなれば、勝といふ義にとりて、これを祝節に用ふ」

とある、とか。

押栗、
あまぐり、

ともいう(仝上)。江戸前期の《本朝食鑑》(1697)などは、

天日で干しあげたものをつくとし,後期の《草木六部耕種法》(1823)などは、

1昼夜ほど〈あく〉につけてから同じようにしてつくるとしているが、搗栗子〉の語は奈良時代から見られ,《延喜式》には,丹波その他の諸国から貢納され,神祭仏会などの料として〈平栗子〉〈干栗子〉〈甘栗子〉〈生栗子〉などと併記された例も見られる、

とある(世界大百科事典)ほど、古くからなじみのものである。

この栗は、各栽培品種の原種で山野に自生するもので、

シバグリ(柴栗)、
または、
ヤマグリ(山栗)、

あるいは、

ササグリ(小栗)、

と呼ばれる、「栗」は、

実の皮の隍(くり)色をしているからクリという。隍は黒色の転じたものである」

とある(たべもの語源辞典)。「クリ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%82%AF%E3%83%AAで触れたように、

「僧契沖の説に『くりは涅なり。その色をもて名づく』とある。涅(くり)は水中の黒い土である。涅はくらき色を染める物である。その色は栗の皮に似ている。これを,滝沢馬琴が『燕石雑志』に『物の名』で書いている。(中略)要するにクリの名は,果皮の黒っぽいという特色からでたものと考えられる。」(たべもの語源辞典)

「石を意味する古語『クリ』は、水底によどむ黒い土を表す『くり(涅)』と同源であるため、『クリ』は色の『黒』や石の『クリ』と同系と考えられる。」(語源由来辞典)

とあり、「あか」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%81%82%E3%81%8Bで触れたように, 古代日本では,固有の色名としては,アカ,クロ,シロ,アオがあるのみで,それは,明・暗・顕・漠を原義とするので、「黒」は,「『くら(暗)』と同源か。またくり(涅)と同源」(仝上)とある。「涅」は,水底に沈んだ黒い土,涅色を指し,明暗の意である。

「シバグリ」(「しばくり」とも)は、山地に自生し、実は小粒だが味がよい、とされる。指の先ほどの大きさしかないので、

「柴くりは小粒で拾い集めるのが大変です。落ちているクリには虫が入っていることが多く、 穴の開いてないクリを採るには木についているイガを落とさなければなりません。 イガも丈夫でなかなか実を開けさせませんので、思うように採取ができません。クリは「クマ」の大好物です。 食べ方もイガを剥いてきれいに食べています。時には枝を折って食べてますが日中に会うことはありませんので 夜中に食べてるようです」

http://www.sansaikinoko.com/memo-sibakuri.htmあり、小さいが甘さは一味違う美味しいさ、とか。

縁起ものとして「勝栗」は、武士が出陣の際、

勝栗・熨斗(のし)・昆布、

の三つを肴にして、門出を祝った(たべもの語源辞典)、という。「熨斗」は、元来長寿を表す鮑が使われていた。

熨斗鮑(のしあわび)、
あるいは、
打鮑(うちあはび)、

が原型である。「熨斗鮑」は、

「鮑の肉を、かんぺう(干瓢)を剥ぐ如く、薄く長く剥ぎて、條(スジ)とし、引き延ばして干したるもの。略して、のし。儀式の肴に代用し、祝儀の贈物などに添えて飾とす。(延長の義に因る)。長きままにて用ゐるを、ながのしと云ふ。古くは、剥がずして、打ち展べて用ゐ、ウチアハビなどとも云へり。アハビノシ、カヒザカナ」

とある(大言海)。厳密には、出陣時は、

うちあはび、

とされる。「打鮑」は、

「古へは打ち伸(の)して薄くせり。薄すあはびとも云ひき」

として、

「今、ノシアハビと云ふ」

とあり、

ただ打ち延ばす、
か、
薄く剥ぐか、

の違いのようだ。

後世になるほど儀式ばったようで、儀式化したのは室町以降とか。

「配膳所役が折敷に打鮑五本か三本並べた土器と、打栗(勝栗)五個か七個入れた土器と、昆布三切れが五切れ入れた土器と、盃三つ重ねをのせたものを左右中ほどを両手で捧げ持ち、左足からしずしずと踏みしめ、折敷を据え置く場所へは右足で踏み込み、左足をそろえて立ってから膝を地につかずして蹲踞して置き、立つときも手を地についたり膝を突いたりしないで立って右足を前方に踏み出して回れ左をして右足から踏み出して元の席にもどる」

とある(武家戦陣資料事典)が、

一般には、

打鮑・勝栗・干昆布、

とされるのは、

打って・勝って・喜ぶ、

の縁起だが、

打鮑・勝栗、

のみにするものもあり、

肴はかうのもの一切れなり、

と簡単なものもある(今川大双紙)、とか(仝上)。

参考文献;
笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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クルミ


「クルミ」は、

胡桃、
山胡桃、

と当てる(広辞苑)。食用の利用としては、縄文時代から種実の出土事例があり、オニグルミを中心に食料として利用されていたと考えられている。オニグルミ、ヒメグルミ、ノグルミなどの名が天平時代から用いられている(たべもの語源辞典)らしい。また、

「もっとも古い記録は、天平宝字六年(七六二)十二月の『東大寺正倉院文書』に、『十八文買胡桃二升直』とあるのがそれで、次に現れるのが、大同二年(八〇七)斎部広成の撰になる『古語拾遺』に(略)『呉桃』の葉を添えて」

とありhttp://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000156162

「『延喜式』に貢納物のひとつとして記されているほか、『年料別貢雑物』では甲斐国や越前国、加賀国においてクルミの貢納が規定されており、平城宮跡出土の木簡にもクルミの貢進が記されている」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9F

日本に自生している胡桃の大半はオニグルミといい、核はゴツゴツとして非常に硬く、種子(仁)が取り出しにくい、ともある(仝上)。

「オニグルミという名は、核面のなめらかなヒメグルミに比べて、凹凸がひどいことからであるが、ヒメ(姫)は、やさしいとか柔らかいということからつけられた。ノグルミは野グルミで、まったくちがう種類の木であるが、樹がクルミに似ており野山に生える。他にサワグルミというのもある。これは沢グルミで、渓流のわきに生えるからである。カワグルミとかフジグルミともよぶが、実は食用にならない。…また、テウチグルミとよばれるものは、クルミの中で最も大きくその殻が柔らかく、手で割ることができるのでその名がある。食用として最も多く用いられ」

ている(たべもの語源辞典)、とある。

「クルミの食用となる部分は、果実の中にある仁である。仁は生でも食べるし、干したものも用いる。クルミの核は、一日ほど水につけておいてから、水気をぬぐい去って、火であぶるとすぐ割れ、仁はたやすくとれる。クルミをしぼった油は食用とするほか、種々の皮膚病にも利用され、また木器具の艶だしに使われていた。樹皮や果実の煎汁は茶褐色に、果実を黒焼きにしたものは鼠色の染料になった」(仝上)

クルミの漢名は、

核桃(かくとう)、
羗桃(きょうとう)、
万歳子(ばんざいし)、
播羅師(はんらし)、

等々あるが、「胡桃」は、

「漢の張騫が西域に使いしたとき持ち帰り、中国に伝わったという。胡から持ってきた桃というので胡桃とよぶという。実果が桃に似ていたので胡桃とした」

とある(仝上)。

「クルミ」の語源は、大言海は、

「呉桃ともあれば、呉果(クレミ)の轉ならむ(呉(クレ)は、韓語にて、クルなり。)」

とする。同趣に説に、

呉国から渡ったものであるとちころから呉実(クレミ)の転(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・東雅)、

がある。その他、

クロミ(黒実)の転か(翁草)、
その殻の堅いところから、コルミ(凝実)の転(滑稽雑誌所引和訓義解)、
殻の中に屈曲して実があるところから、クルミ(屈実)の義(和語私臆鈔)、
円実の義(箋注和名抄)、
コモリミ(籠子)の義(言元梯)、
殻が実を包んでいるところから、クルム(包)の義(名言通)、
カラクルミミ(殻包括実)の義(日本語原学=林甕臣)、
ころころとコクル(転)ところからか(和句解)、
カル‐ミ(実)の転(名語記)、

諸説ある。「クルミ」は、古く、

「『古語拾遺』には、呉桃(クルミ)とあり、『延喜式』には呉桃子(クルミ)とある」

と「呉桃」と当ててきた。「呉桃」説をとりたいが、これは和語「くるみ」に漢字を当てて訓ませていただけで、「クルミ」の語原とは言えない。たべもの語源辞典は、

クルミ(屈実)説を採り、

「仁を食べることは実に早く知られていた。クルミの果実を見たとき、その食べられるところが大切なことを感じたであろう。そして、その核を堅くでこぼこしているものとしてよんだ」

と説く。しかし、「クリ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/458882224.html)で触れたように、日本語の語源は,

「栗の実は焦げ茶色,胡桃の核は褐色であるが,ともにクロミ(黒実)といった。ロミ[r(om)i]の縮約でクリ(栗・万葉)になり,『ロ』が母韻交替[ou]をとげてクルミ(胡桃。源)になった。」

としている。「栗」が、

くろ(黒)み→くり(栗),

なら、「クルミ」は、

くろ(黒)み→クルミ

でいいのかもしれない。

参考文献;
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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胡椒


胡椒は、インド南部の海岸地方を原産地とする。

「中国では西方から伝来した香辛料という意味で、胡椒と呼ばれた(胡はソグド人を中心に中国から見て西方・北方の異民族を指す字であり、椒はカホクザンショウを中心にサンショウ属の香辛料を指す字である)。日本には中国を経て伝来しており、そのため日本でもコショウ(胡椒)と呼ばれる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6

漢名の「胡椒」をそのまま訓んだものである。

「胡麻・胡瓜・クルミ、そして胡椒と、胡のつく名称があるが、中国では古代から西北方の異民族を胡と呼んだので、この方面から伝来した物には胡の字をつけた」

ともある(たべもの語源辞典)。

「天平勝宝8歳(756)、聖武天皇の77日忌にその遺品が東大寺に献納された。その献納品の目録『東大寺献物帳』の中にコショウが記載されている。当時の日本ではコショウは生薬として用いられていた(江戸時代初期に書かれた『雑兵物語』でも『(戦場で)毎朝胡椒を1粒づつかじれば夏の暑さにも冬の寒さにも当たらない』としており、当時でも薬用の需要があった)

らしい(仝上)。和名抄には、薬名類として、

「胡椒丸、治胸中冷気」

とある(大言海)。

正倉院文書に名が出るので、少なくとも、

「奈良朝初期には渡来していた」

と(たべもの語源辞典)思われるが、日本料理には胡椒はあまり用いられず、山椒の実を、

胡椒、

と呼んだりしていたらしい(仝上)。たとえば、

「胡椒寒汁(こしょうひやしる)という料理は山椒ひや汁のことである」

とある(仝上)

山椒http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%B1%B1%E6%A4%92で触れたが、「山椒」の「椒」(ショウ)の字は、

「会意兼形声。『木+音符叔(小さい実)』で、小粒の実のなる木」

とある(漢字源)。山椒の意味もあるが、「胡椒」の「椒」でもある。

「実が丸く、味が辛い」

からとある(仝上)。ただ「椒」には、

「芳しいの意があり、山の薫り高い実であることから『山椒』の名が付けられたと考えられる」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6

「椒は、ハジカミである。ひりひりと刺激すること、その結果、感覚がしびれることをハジカムといった。ハジカミというものは、胡椒ばかりでなく、山椒・唐辛子・生姜・ワサビ・芥子などみんなひとまとめにされていた。それで、西国や仙台では胡椒が唐辛子の異名にもなっていた」

とある(たべもの語源辞典)。別に、

「唐辛子が伝来する以前には、山椒と並ぶ香辛料として現在より多くの料理で利用されており、うどんの薬味としても用いられていた。江戸期を通じて唐船は平均して年間5.7トン、オランダ船は1638年の記録では78トンを輸入している。現在でも船場汁、潮汁、沢煮椀などの吸い物類を中心に、薬味としてコショウを用いる日本料理は残存している。(『胡椒茶漬け』という料理があったという記録もある)。唐辛子はその伝来当初、胡椒の亜種として『南蛮胡椒』『高麗胡椒』などと呼ばれていた。このため現在でも九州地方を中心に、唐辛子の事を『胡椒』と呼ぶ地域がある。九州北部にて製造される柚子胡椒や、沖縄のコーレーグス(高麗胡椒)の原料は唐辛子である。胡椒を主に唐辛子の意で用いる地域では、…『洋胡椒』と呼んで区別することもある」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6が、

「日本人の多くが肉食を避け,あるいは嫌ってきたことは,香辛料の使い方に大きな影響を与えた。たとえば,コショウは奈良時代以来輸入されていたが,室町時代以後うどんの薬味とされたくらいで,いっこうに用途がひろがらず,トウガラシが伝来するとまもなくその薬味の座をあけ渡してしまった」

ようである(世界大百科事典)。

さて、「胡椒」は、

「つる性の木の実で、形は丸く、青桐の実より小さく、蒸すと色黒くしわを帯びる。皮の中に固い核があって、内に辛く香気ある白い仁をもち、この仁を粒のまま用いるのを粒胡椒といい、粉末にしたのを粉胡椒という。黒胡椒というのは、まだ熟しきらない実をとって乾かして、外皮の黒いのをつけたまま粉末にしたもので、白胡椒は熟した実の外皮を取り去って内皮を種と一緒に砕いたものである」

とある(たべもの語源辞典)。その他、青胡椒は、

「完全に熟す前の実で収穫するが、ブラックペッパーと異なり塩漬けまたはフリーズドライ加工したもの。青胡椒と呼ばれるが、実の色は緑である」

赤胡椒は、

「赤色に完熟してから収穫するが、ホワイトペッパーと異なり外皮をはがさずにそのまま使用する。黒コショウと同じく外皮が皴になるのが特徴。色はくすんだ赤色」

等々もある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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風呂吹き大根


「風呂吹き」は、

大根・蕪などを、柔らかく茹で、その熱い間に練り味噌を塗って食べる料理、

の意である(広辞苑)が、大根・蕪の他、

「トウガンや柿の実などが用いられ、『風呂吹き大根』や『蕪の風呂吹き』、『柿の風呂吹き』などと呼ばれ、いずれも熱いものを食べる」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82%E5%90%B9%E3%81%8D。大根に限らない。

この「風呂吹き」の由来には、諸説ある。大言海は、

「風呂に入り、體の熱潤したるに、息を吹きかけて、垢を掻くこと」

とある。甲陽軍鑑に、

「伊勢風呂という申子細は、伊勢の国衆ほど熱風呂を好て、能吹申さるるに付て、云々夫荒仕子(ブアラシコ)までも、風呂ふくすべを存候は、あつき風呂好く故かと見え申候」

卜養狂歌集に、

「名を右衛門と云ふ若き人、風呂吹くこと上手なれば、云々、或人、風呂を新しく立て、入りぞめしけるに、云々、入風呂を祝ふて三度、長息に、フトクトクトク、フクトクと吹く」(風呂吹大根、此に起る)

とあるのを、引用する。この説が有力らしく、たべもの語源辞典も、

「今日では湯に入ることを風呂に入るというが、もとは湯屋と風呂とは別のもので風呂といえば蒸気でむされることであった。山東京伝に『伊勢の風呂吹』がある。それによると、『甲陽軍鑑』の天文一四年(1545)の条に、伊勢風呂といって伊勢の国の人たちが熱風呂を好んで、垢をとるために身体に息を吹きかけることが書かれていた。宝永七年(1710)の『自笑内証鑑』には、大坂道頓堀の風呂屋のところで、『この風呂へ入相のころより来り吹いて吹かれて、ざっとあがり湯に座して…』とある。宝永の頃まで風呂を吹くということがあったのであろう。伊勢の人の物語を聞くと、『風呂を吹くというのは、空風呂になることである。これを伊勢小風呂という。垢をかく者が、風呂に入る者の体に息を吹きかけて垢をかく。こうすると息を吹きかけたところにうるおいが出て、垢がよく落ちる。口で拍子をとりながら、息を吹きかけて垢をかくのに上手下手があるのは面白いことである。そこで垢をかく者を風呂吹という。伊勢にはいまもこの風呂吹がいるとのことである』という。…この風呂吹というのは、蒸し風呂で体を熱してから、息をかけて垢をするというのが、この動作は、湯気の出るような体に息をかけることである。風呂吹大根とは、大根を熱く蒸して、湯気の立つくらいのところを息を吹きかけて食べるさまが、この風呂吹に似ているので、名付けられたのである」

とし、語源由来辞典http://gogen-allguide.com/hu/furofukidaikon.htmlも、

「風呂吹きは、冷ましながら食べる仕種に由来する。昔の風呂は蒸し風呂で、熱くなった体に息を吹きかけると垢を掻きやすいため、息を吹きかけ垢をこすり取る者がいた。蒸し風呂で息を吹きかけ垢を取ることや、その者を『風呂吹き』と呼んでいた。湯気の出る息を吹きかける様子と、その料理を食べるときに冷ます姿が似ていることから、『風呂吹き』と呼ぶようになった」

とし、さらに、由来・語源辞典http://yain.jp/i/%E9%A2%A8%E5%91%82%E5%90%B9%E3%81%8D%E5%A4%A7%E6%A0%B9も、

「昔の風呂は蒸し風呂であったが、その風呂には『風呂吹き』と呼ばれる、垢をこする役目の者がいて、熱くなった体に息を吹きかながら垢をかいたという。熱い大根に息を吹きかけて、冷ましながら食べる様子が『風呂吹き』に似ていたので、この名がついたとされる」

とする。しかし、垢取りの「風呂吹き」が料理の名になるのだろうか。しかも、伊勢のローカルな話が一般化するには、「風呂吹き」の料理が、伊勢発祥というのならともかく、どうもつながらない、こじつけではないか、と思えるのだが、他の説が、しかし、それ以上にいただけない。たとえば、

「ある僧から『大根の茹で汁を漆貯蔵室の風呂に吹き込むと、うるしの乾きが早くなる』と聞いた漆職人が、その通りにしてみたところ大変効果があったので、大根の茹で汁を大量に作ったが、茹でた大根が残るため近所の人に配ったことから、『風呂吹き大根』と呼ばれるようになったとする説」(語源由来辞典)

同じく、

「ある僧から『大根の茹で汁を漆貯蔵室の風呂に吹き込むと、うるしの乾きが早くなる』と聞いた漆職人が、その通りにしてみたところ大変効果があったので、大根の茹で汁を大量に作ったが、茹でた大根が残るため近所の人に配ったことから、『風呂吹き大根』と呼ばれるようになったとする説」

があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82%E5%90%B9%E3%81%8D、飲食事典他)。あるいは、

「大根は体にもよく、安くて経済的なため『不老富貴』の意味からとった説」

もある(語源由来辞典)。しかし、確かに、

「元々この料理はカブで作られており、単に『風呂吹き』と呼ばれていた。『風呂吹き』の材料をカブから大根に替えたものが『風呂吹き大根』であるから、不老富貴や漆職人の説は考えられない」

のである(仝上)。

大根を使った風呂吹きが作られるようになったのは、江戸初期頃と考えられている(仝上)。

とすると、風呂http://ppnetwork.seesaa.net/article/461438920.htmlで触れたように、まだ湯屋の起こる江戸中期前なら、風呂は蒸し風呂である。それなら、

「風呂(蒸し風呂)+吹き(蒸気を吹きかけて暖まる)」

と(日本語源広辞典)、垢かきと切り離してなら、食物の命名として妥当に思えるがどうだろう。
なお、大根と蕪は、

「すずしろ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%97%E3%82%8D
「すずな」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%AA

で触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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わび・さび


無粋な人間なので、

わび、
さび、

についてほとんど関心を持ったことがなかったが、

茶の湯は貧の真似(ひんのまね)、

ということわざがある。

「茶の道は『侘び』の心が基本にあるとされています。その心を理解できない者が、派手なことを嫌って貧乏の真似ごとをしているようだと例えたことわざです」

との説明http://www.ocha.tv/words/ta_07/index.htmlは、本当だろうか。むしろ、

「茶道は、わびを主として、はでなことをきらい、まるで貧乏の真似をしているのと同じようだ」

との解釈(故事ことわざの辞典)が的確に、その意を衝いているように思える。少なくとも、

「茶湯は貧の真似。但風雅の上盛也、可習嗜。併近奢侈故禁誡、実以座席飲食会釈无此上」

ともあり(譬喩尽(たとえづくし)、仝上)、それ自体が贅沢であったことに間違いはない。

「わび」は、

侘び、

と当てる。「わび」は、

「わぶ(貧しく暮らす)の連用形」

とある(日本語源広辞典)。しかし、「わぶ」(詫・侘)は、必ずしも、

不如意な生活をする、
貧しく暮らす、

という意味だけではない。

「失意・失望・困惑の情を態度・動作にあらわす意」

とし、

気落ちした様子を外に示す、落胆した様子を見せる、
困り切った気持ちを示す、
つらがって嘆く、
不如意な生活をする、貧しく暮らす、
世俗を遠ざかって淋しく貧しい暮らしに安んずる、閑雅を楽しむ、
(困惑のさまを示して)許しを乞う、あやまる、
(動詞連用形について)〜する気力を失う、〜しきれない、〜しずらくなる、

といった意味を持つ(岩波古語辞典)。いわゆる「わび」は、

「貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」(日本大百科全書)
「簡素の中に見いだされる清澄・閑寂な趣。中世以降に形成された美意識、特に茶の湯で重視された」(デジタル大辞泉)

を指す一種の価値表現である。確か、定家が、

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

と歌った時、それまでの、花や紅葉とは別のところに、価値を見出したのと相通ずる。千利休の師匠、武野紹鴎は、この歌こそがわび茶の心であると評した(南方録)とされるのも、価値の転換を表現しているからである。

ある意味、マイナスな意味の「わぶ」に、プラスの価値を与えたということができる。それを、山上宗二は、

「上をそそうに、下を律儀に(表面は粗相であっても内面は丁寧に)」

と表現(山上宗二記)し、

「単に粗末であるというだけでなく質的に(美的に)優れたものであることを求める」

ようになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3、とある。

侘び茶人、

を、

「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(宗二記)

と記し、

「貧乏茶人」のこと、

とし、後の千宗旦の頃になると「侘」の一字で無一物の茶人を言い表すようになる(仝上)、とある。宗二は、

「宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何」

とした。それは、

「『佗タ』は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた」

のではないか、という見方もある(仝上)。「わび」は、

「茶の湯の中で理論化されたが、『わび茶』という言葉が出来るのも江戸時代である。特に室町時代の高価な『唐物』を尊ぶ風潮に対して、村田珠光はより粗末なありふれた道具を用いる茶の湯を方向付け、武野紹鴎や千利休に代表される堺の町衆が深化させた」

のである(仝上)。

「茶室はどんどん侘びた風情を強め、張付けだった壁は民家に倣って土壁になり藁すさを見せ、6尺の床の間は5尺、4尺と小さくなり塗りだった床ガマチも節つきの素木になった。紹鴎は備前焼や信楽焼きを好んだし、利休は楽茶碗を創出させた。日常雑器の中に新たな美を見つけ茶の湯に取り込もうと」

したものらしい。たとえば、京都六条堀川に作ったと伝えられる方丈の茶室、

珠光四畳半(じゅこうよじょうはん)

がある。

「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、杉板のふちなし天井、小板ふき、宝形造、一間床なり。秘蔵の円悟の墨跡をかけ、台子をかざり給ふ。その後炉を切て弓台を置合られし也。大方、書院のかざり物を置かれ候へども、物数なども略ありしなり。床にも、二幅対のかけ絵、勿論、一幅の絵かけられしなり。前には卓に香炉、花入、あるひは小花瓶に一色立華、あるひは料紙、硯箱、短尺箱、文台、或は盆山、葉茶壷など、これらは専かざられしなり」

とある(南方録)。その形は古図に残されている。

「珠光四畳半は、東大寺の四聖坊に残る古図に「珠光好地蔵院囲ノ写」と書込みのある四畳半座敷が画かれ、それによると一間床で、檜角の床柱、勝手付間中に柱を立てて壁とし、勝手口は一間二本襖を建て、入口に縁が付き、縁に面して障子四枚があります。
珠光四畳半は、東京芸術大学所蔵の『茶湯次第書』に「珠光の座敷斗に有」と書込みのある「落縁」(おちえん)が描かれた四畳半図があり、その四畳半座敷は、一間床で、床框(とこがまち)は栗の四角、一尺七寸炉、勝手との間に襖二枚、壁は張付壁(はりつけかべ)で長押(なげし)が打たれ、天井は竹縁の蒲天井、入口に縁が付き、縁は半間幅で堅板張(たていたばり)、縁先に二ッ割りした竹を打並べた落縁がついたものです」

とあるhttp://verdure.tyanoyu.net/cyasitu020401.html。宗二は、

「光かヽりは、北向右かつて、坪の内に大なる柳一本在、後に松原広し、松風計聞く、引拙は南向右勝手、道陳は東向右勝手、宗達右勝手、何も道具に有子細歟、又台子をすくか、将又紹鴎之流は悉く左勝手北向也、但し宗易計は南向左勝手をすく、当時右かつてはを不用と也、珠光は四帖半、引拙は六帖敷也」

と書き残している。それは、

「右勝手(逆勝手)の茶室で、隣接する部屋との関係で客の入口の位置は異なりますが、同じ間取りで、一間床、入口に縁が付き、縁に面して障子を建て、勝手口は二本襖、右勝手(逆勝手)となっていて初期の四畳半の形式を表している」

という(仝上)。貧しい家屋をただ真似ているだけではないことは確かである。そこには、珠光の美意識がある。しかし、それに贅を尽くす、財力を必要とすることは確かである。

一方、「さび」は、

寂び、
然び、

と当てる。「わび」は、「さぶ」の名詞形だが、

錆、
寂、荒、

と同源である。つまり、「さぶ」は、

「生気・活気が衰え、元の力や姿が傷つき、痛み、失われる」

意の「荒ぶ」「寂ぶ」と、

古びてさびてくる、

意の「錆」とが、同源であり(岩波古語辞典)、

然ぶ、

は、

「サは漠然と放校様子を示す語。ビは行為を人に示す意。カナシビ、ウレシビのビと同じ」

で、体言について、

そのものにふさわしい、
そのものらしい行為や様子をし、またそういう状態にあることを示す」

言葉で(仝上)、大言海は、

然帯(さお)ぶの訳なるべし、

とし、

都(みや)び、鄙(ひな)びも、都帯び、鄙帯びの約なり、

とする。「さぶ」も、

荒れる、荒涼たる様になる、
古くなる、古びる、
心が荒涼となる、
さびる、
古びて趣がある、

等々どちらかというとマイナスの意味の言葉である。それにプラスの価値を見出そうとする姿勢が、

不足の美を表現する新しい美意識、
老いや枯れの中に趣を見る、

という価値表現へと転換させた。だから、「然ぶ」と当てる意味について、

「本来は時間の経過によって劣化した様子を意味している。漢字の『寂』が当てられ、転じて『寂れる』というように人がいなくなって静かな状態も表すようになった。さびの本来の意味である『内部的本質』が『外部へと滲み出てくる』ことを表す為に『然』の字を用いる」

とする考え方もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3

で話をもとへ戻すなら、僕には、「わび」には、もともと、

貧を衒う、

ところがなくもなかった、と思えてならない。「衒う」は、

照らふの意、

とあり(広辞苑)、

輝くようにする、
見せびらかす、

含意が、もともと、なくもない。だから、

茶の湯は貧の真似(ひんのまね)、

という言い方には、ある意味、ただ貧を真似ているのではなく、そこに積極的な価値を見出したという点では、草創期には、「わび・さび」に確かな価値表現の意味があった。しかし、それが理論化され、権威化され、「わび茶」という言葉が出来た江戸時代、

「多くの茶書によって茶道の根本美意識と位置付けられるようになり、侘を『正直につつしみおごらぬ様』と規定する『紹鴎侘びの文』や、『清浄無垢の仏世界』とする『南方録』などの偽書も生み出された」(仝上)

とき、多くは、「茶の湯」は、大店の主や隠居の手慰みとなり、形式をなぞり、それを真似るだけの趣味に化し、落語『茶の湯』のように、どこか、

貧を衒う、

つまり、

貧者の真似、

としか見えない風情に堕していたのではないか。その限りで、必ずしも、

その心を理解できない者、

のたわ言とは言い切れない、ある種、そういう茶の湯を揶揄する面を持っていたのではないか、という気がしてならない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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「酢」は、

す、

と訓ませるが、漢字「酢」(サク、漢音ソ、呉音ス)は、

「形声。『酉+音符乍』。醋(月日を重ねて発酵した汁をねかせておく)と同じ」

とある(漢字源)。「醋」(サク、漢音ソ、呉音ス)も、

「会意兼形声。『酉+音符昔(日を重ねる)』で、月日を重ねて、発酵した汁を寝かせておくこと」

とある(仝上)。「酢」も「醋」も、「す」「すっぱい液体」の意である。大言海は、「す」に、

酢、
醋、

を当てている。和名抄には、

「酢、字亦作醋、須」

とあり、「須」とも当てたらしい。「酸」も、「す」と訓まれた(たべもの語源辞典)、とある。

別に、

「会意兼形声文字です(酉+乍)。『酒器』の象形と『木野小枝を刃物で切り除く』象形(『作る』の意味・『組』に通じ(「組」と同じ意味を持つようになって)、「積み重ねる」の意味)から、『酒を皿に作って、「す」にする』、『す』、『客が主人に酒をすすめる(返杯する)』を意味する『酢』という漢字が成り立ちました」

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1882.html。「酢」「醋」ともに、「むくいる」意があり、「客が主人に盃をすすめる(返す)」意となる。この逆は、「献」で、主人が客に酒をすすめる言葉になる。

「酢」は、古くから調味料として使われ、

「『万葉集』にも『醤酢(ひしおす)』として酢が出てくる。酒造技術とともに中国よりもたらされた調味料で、地帯化の改新時(645)には酢を作る役人ができ、平安時代には米からの製造技術が生まれ…江戸時代には…米酢が作られるようになった」

とある(たべもの語源辞典)。古くは、

からざけ(辛酒)、

と呼ばれた(仝上、大言海)。和名抄には、

「酢、…鄙語、謂酢為加良佐介」

とある。

大言海は、「す(酢)」の語源を、

「スガスガシ、スズシの意」

とする。たべもの語源辞典も、

「スという音は、清(スガ)という意味からつけられたもので、その味が清酸であることによって、スと名付けられた。中国では苦酒(くしゅ)と書かれた」

とする。語源由来辞典は、

「口に含んだときにスッとする感覚の『す』であろう。『すずしい』や『すがすがしい』の『す』を語源とする説もあるが、口に含んだ時の感覚を『すがすがしい』や『すずしい』と形容した 説なので、ひとまとめにスッとする感覚と捉えて良いであろう」

と、「すがすがしい」を「スッ」とする感覚でまとめている。

日本語源広辞典は、

すし(酢し)の語幹、

とするが、「酢し」自身が、「す(酢)」を前提にしているので、前後が逆ではあるまいか。しかし、

スシ(酸)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
朝鮮語suil、満州語zuなどに由来するか(衣食住語源辞典=吉田金彦)、

と同種の説は少なくない。岩波古語辞典が、

朝鮮語sïと同源、

とするが、この是非は判別できない。その他、

スク(透)の反(名語記)、
肉などにかけると縮まり、また人が吸うと口がスボルところからスボムルの義(和句解)、
物事の落ちつくさまをしめす語根スから。酒の浮遊物が落ちついてできた清い液の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
「酒」を口にしたときに、酸っぱくなっていて思わず口を「窄(すぼ)めた」から(http://www.marukan.com/health/sub/kotoba.html)、

等々あるが、語感からいうと、たしかに、「スッ」とする感覚というのが妥当に思える。

酢が調味料として一般に広まったのは江戸時代、

「お酢の製法が全国各地に広まり、それとともにお酢をつかった料理もたくさん生まれました。 はじめてお寿司が生まれたのもこの頃。ごはんに酢を混ぜて押し寿司にする『早ずし』と呼ばれるものです。幕末になると、『にぎり寿司』や『いなり寿司』が誕生し、庶民にも大変な人気だった」

そんな江戸時代、「酢屋」の看板がなかなかユニークだった。

「小竹を編んだもの、つまり簀(す)を軒先に掛け、酢に通じさせたともいう。古いものでは、酢売りの瓶の絵を買いて示した。また、木片を丸くした曲物の輪をぶら下げた。これは的をねらって矢を射ても通り抜けてしまう。つまり素矢(すや)という意を表して酢屋に通わせた」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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「巣(巢)」は、

鳥・獣・蒸しなどの住処、

を指すが、ほかに、

窼、
栖、

とも当てる。

「巣(漢音ソウ、呉音ジョウ)」は、

「会意。『鳥のすのかたち(のち西と書く)+木』で、高い木の上の鳥のすのこと。高く浮いて見える意を含む」

とある(漢字源)。「栖」(漢音セイ、呉音サイ)は、

「会意兼形声。西は、ざる状をした鳥のすを描いた象形文字。栖は『木+音符西』で、ざるの形をした木の上の鳥のす」

とある(仝上)。「窼」(カ)も「鳥の巣」、

「穴中にあるを窼、樹上にあるを巣といふ」

とある(字源)ので、「巣」「栖」「窼」は、ともに、もともと鳥の巣を指していた、とみられる。

和語「す」は、

住居(スマヒ)を占むる意、

とある(大言海)。これだと意味が定かではないが、

「本来の一音節語ス(鳥の巣)です。あきス、ふるス、スむ、スまう、スごもる、などと同根と思われる」

とある(日本語源広辞典)と、照らし合わせると、腑に落ちてくる。

スミカ(栖)の義(日本釈名・和訓栞)、

も同趣である。とするなら、逆に、

スム(栖・住)の義(和句解・言元梯・言葉の根しらべ=鈴江潔子)、
スム(住)の語根スが名詞に転じた語。スは、物事の落ちつくさまを示す(国語の語根とその分類=大島正健)、

と、「すむ」が先にある、と見る方が妥当に思えてくる。

「すむ」は、

住む、
棲む、
栖む、

と当て、

「スム(澄む)と同根。あちこち動き回るものが、一つ所に落ち着き、定着する意」

とあり(岩波古語辞典)、「すむ(澄)」は、

清む、
済む、

と当て、

「スム(住)と同根。浮遊物が全体として沈んで静止し、気体や液体が透明になる意。濁るの対」

とある(仝上)。当然、「住む」は、「巣」とかかわらせて、

巣から出た動詞か(小学館古語大辞典)、

等々という説もあるが、日本語源大辞典は、

「『巣』『住む(棲む)』『据う』、さらに…『澄む』の語幹スには、『ひと所に落ち着く』といった共通の意を読み取ることが可能である」

とし、そこから、

落ちつく意の語感スから出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、

という説にも通じ、その「落ちつく」は、

「『終わる』『かたづく』ことであるとも考えられるから、『すむ(済む)』の語幹ともなった」

と考えられる、としている。

つまり、「住む」「澄む」はほぼ同じ意味の外延に入り、「澄む」もその端につながる。とすると、「住む」の「す」が先か、「巣」の「巣」が先かは定かではないが、日本語源広辞典のいう、「す」の持つ意味の広がりの中に、「巣」も「住む」も「澄む」も「済む」も入るということができる。

その意味で、「巣」の語原に、

スキ(透)の義か(名言通)、

も的を外してはいないのである。

ちなみに、

「平安時代の声点を見てみますと『スクフ(巣)』のスの声点は去声になっていて、『スム(住)』のスが平声、『スク(透)』のスが上声であったのとはアクセントが違い、区別されていた(類聚名義抄四種声点付和訓集成)ことが判ります。『巣』と同じ去声のスの声点が付けられているのは『簀』『スロ(棕櫚)』ですね。棕櫚は南九州原産の植物で、枕草子にも出て来るので『スロ』が和語である蓋然性もあり、『ロ』が『カブラ』の『ラ』のような接尾辞とすれば本体は『ス』になるので、あるいは『ス(巣)』の原義は棕櫚だったのではないかとも思われます」

との説https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12162627907もあるが、それよりも、「す」がアクセントで区別して使われていたことは、注目される。文字を持たない時代の、会話の名残と見ていい。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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スカ


「スカ」は、

当てが外れること、
見当違い、
(籤などの)はずれ、
へま、

の意で、

すかまた、

ともいう。ただ、「すかまた」は、

当ての外れること、
見当違い

意のほか、

まのぬけたこと、
すかたん、

の意もある。なお、

「類義語にスカタン(スコタンとも)・スカマタがあり、前者は上方語、後者は江戸語とみられる」

とある(日本語源大辞典)が、江戸語大辞典には、「すかまた」は、

芝居用語、

とあり、

透脵、

と当て、

間違い、見当違い、へま、
当て外れ、

の意が載る。

「すかたん」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%99%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%82%93で触れたように、「すかたん」は、

あてのはずれること,だまされること,また,まちがい,の意の他に、

見当違いのことをした人をののしって言う、

のにも用いる。「すかたん」の「たん」は「すか」に付けた接尾語とみえる。

大言海は,「すかたん」の項で,

「賺(すか)されたる意」

とあり,

くひちがふこと,欺くこと,待ちぼうけること,すかを喰はすこと(だしぬく),

とある。「食い違い」が原意に見える。つまり,「食い違い」が思惑の違いなら,「当て外れ」になるし,意図的なら,「だまされる」となる。さらに,何らかの基準に外れるなら,「間違い」になる。それを人に当てはめれば,「当て外れ」は期待外れ,になり,「へま」「すか」にも転ずる。この「すか」は,はずれくじやはずれ馬券などに使う「すか」でもある。それを人に当てはめれば,罵りに転ずるはずである。しかし,どこか,罵倒にはならないのは,天に唾するようなもので,期待した自分に返ってくるからである。

そして,『大言海』は,『名言通』を引く。

「鶍〔いすか〕,(鳥名)行過ぐるなり,行過ぐるは,その嘴の上下,嚙(く)ひ差ふを云ふ。俗,スコタンなど云ふ。スコも同じ。スコタン或は,スカタンとも云ふ。又,スヤスとも,ソヤスと云ふ。皆,轉なり」

どうも、ちょっと付会ではあるまいか。

「スカ」は、

すかす(透・空)の語幹、

のようである(日本語源広辞典・日本語源大辞典・江戸語大辞典)。

「すかす」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%99%E3%81%8B%E3%81%99で触れたように、

賺す、

と当てる「すかす」は、

他人の心に透きをいれる(日本語源広辞典)、
他の用心に透きあらしむる意(大言海)、
他の心に,隙を生ぜしむ(岩波古語辞典)、

となる。その語幹「すか」は、

「もともとは大阪の駄菓子屋から来ています。『すか』は『すかし』という意味からきているそうです」

とあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128435442が、江戸語大辞典に載り、どうやら、字義通り、

すきま、
空(くう)、

というのが原義のようである。それが、それをメタファに、

当て外れ、
肩透かし、

の意になり、さらに、

籤などの外れ、

の意となったもののようである。吉原詞で、

すかや、

は(「や」は詠嘆の終助詞)、

好かん、
好かない、

意で使われ、

スカを食う、

と使うと(「スカマタを食う」「すかたんを食う」とも言う)、

当て外れ、
肩透かしを食わされる、
裏をかかれる、

意で使った(「名古平蹴倒そうとするを切平身をかはし、名古平スカを食らって雪に辷ろうとして」元治元年・曽我綉侠御所染)。なお、「スカ」の語源について、

「弓で、的を射そこなうさまをスカという。関係があるか」

とある(日本語源大辞典)。

「すかすか」という言い方があるが、今日の、

隙間だらけ、

の意ではなく、「すかと」を、

「高いところを超えて通るさま、矢で的を意損なう様」

と室町末期の『日葡辞書』は書くので、当時の、

すっかりと、
すかりと、

が同義で、

高いところを通るさま、
矢で的を射そこなうさま、

と意味が重なる(日葡辞書)。「透かす」の意味に、

間をあける、
間引く、
透けるようにする、

意と並んで、

的を外す、

意があるので、やはり「すかす」の「すか」と関わるとみていい。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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「洲」は、

州、

とも当てる。「州」(シュウ)は、

「象形文字。川の中になかすのできたさまを描いたもので、砂地の周囲を、水が取り巻くことを示す。欠け目なく取り巻く意を含む」

とあり、「砂がたまって水面に出た陸地」「す」の意味であり、「洲」(シュウ)は、

「会意兼形声。州は、川の流れの中のなかすを描いた象形文字。洲は『水+音符州』」

とあり、「川の中の小島」「なかす」の意である(漢字源)。ただ、

「本来は州が中州を意味したが、州が行政区画も意味するようになったので、さんずいを加えて中州の意味を明らかにした字が洲である。しかし、古くから互いに通用できる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9E

「洲」は、

水流に運ばれた土砂が堆積して、河川・湖・海の水面に現れたところ、

であり(広辞苑)、

「河口付近などの比較的浅い場所にできる」

とある(デジタル大辞泉)。

砂洲、
とか
中の島、
とか
中洲、

と言ったりする。和名抄に、

「洲、水中可居者曰洲…四方皆有水也、須」

とある(岩波古語辞典)。

大言海は、「洲」を、

「巣、栖と通ず、人の住む所を云ふと云ふ。或いは云ふ、清(スガ)の義。沙に汚泥無きを云ふと、或いは云ふ、洲(シウ)の音の約なりと」

と並べて、確言していない。「巣」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%B7%A3で触れたように、「巣」の「ス」と、「住む」の「ス」と、「澄む」の「ス」、「済む」の「ス」は同根で、「すむ」は、

住む、
棲む、
栖む、

と当て、

「スム(澄む)と同根。あちこち動き回るものが、一つ所に落ち着き、定着する意」

であり(岩波古語辞典)、「すむ(澄)」は、

清む、
済む、

と当て、

「スム(住)と同根。浮遊物が全体として沈んで静止し、気体や液体が透明になる意。濁るの対」

である(仝上)。で、「住む」は、「巣」とかかわり、

「『巣』『住む(棲む)』『据う』、さらに…『澄む』の語幹スには、『ひと所に落ち着く』といった共通の意を読み取ることが可能である」

とし(日本語源大辞典)、そこから、

落ちつく意の語幹スから出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、

という説にも通じ、その「落ちつく」は、

「『終わる』『かたづく』ことであるとも考えられるから、『すむ(済む)』の語幹ともなった」

と考えられる、としている(仝上)。その意味で、「洲」も、流れ来った砂が、

ひと所に落ち着く、

と共通する意味が読み取れなくもない。

巣の義か(本朝辞源=宇田甘冥)、
動くものの落ちつくさまを示す語根スから(国語の語根とその分類=大島正健)、

も同じ説を採る。もちろん異説も、

「洲」の音シウの反(名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
砂に汚泥が無いところからスガ(清)の義(箋注和名抄)、
清くて、気がスイとするものであるところから(本朝辞源=宇田甘冥)、
スナ(砂)の義(言元梯)、
スヒヂ(沙土)・スナゴ(砂子)などスと同源、砂と通じる意を持つ(角川古語大辞典)、
スヱ(末)の義か(和句解)、
水が浅く蘆が生えたところをいうアセフ(涸生)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々あるが、「巣」の「ス」と、「住む」の「ス」と、「澄む」の「ス」、「済む」の「ス」と意味の共通する外延の中の、

ひと所に落ち着く、

意の「ス」のつながりに、「洲」もあるとみるのが妥当ではあるまいか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ちゃぶだい


「ちゃぶだい」は、

卓袱台、

と当てるが、この他に、

茶袱台、
茶部台、
食机、
餉台、
食卓、

等々とも当てる。洋風化したため、今日はほとんど見かけない。

「四本脚の食事用座卓である。一般的に方形あるいは円形をしており、折り畳みができるものが多い」

もので、

「1887年(明治20年)ごろより使用されるようになり、…1895年(明治28年)ごろになると折畳み式の座卓に関する特許申請が出るようになり、徐々にではあるが、座卓が家庭へと進出し始めた1920年代後半に全国的な普及を見た。しかし1960年(昭和35年)ごろより椅子式のダイニングテーブルが普及し始め、利用家庭は減少していった」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%B6%E5%8F%B0が、既に、

「1870年(明治3年)に仮名垣魯文が著した『萬國航海西洋道中膝栗毛』に既にチャブダイという言葉が西洋料理店の食卓を指す俗語として登場していることから、名称としてはこの頃には広まっていた可能性がある」

ともある(仝上)。

この語源には、

チャブは「茶飯」の中国音Cha-fanの訛り、
チャブは「卓袱」の中国音Cho-fuの訛り、
中国料理をいう米国語Chop-sueyの転、

等々諸説ある(日本語源大辞典)。大言海は、

食卓、

と当て、

チャブ(喫飯)、或いは卓袱台の支那音の訛、

とする。「チャブ(喫飯)」について、

「チャブは、茶飯の支那音(cha-fan)の訛か、或いは云ふ、支那語卓袱(チャオフ Cho-fu)の訛か、又、米国辺にて支那料理のことをチャブスイ(Chop-suey)と云ふより、転ぜしならむと」

としている。諸説を並べた形になる。「卓袱(しっぽく)」は、

テーブルクロスの意の中国音zhuō fú、

からきて、転じて、

食卓、

の意となったもので、「茶飯」は、

吃飯(チャフン、ジャブン)、

と表記し、

ご飯を食べること、

を意味する。「チャブスイ(チャプスイ)」は、

中国人移民からアメリカへ広まった料理(英語: Chop Sui、チョップスウイ、チョプスイ)、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%B6%E5%8F%B0、という。

「ちゃぶだい」は、

卓袱台、

と表記するように、

しっぽく(卓袱)、

と関わるとみる説が多い。たとえば、

「卓袱台と書くように,卓袱(しつぽく)料理(卓袱)の食卓を日常生活に導入したもので,〈チャブ〉とは卓袱の原義であるものという。伝統的に銘々膳方式の食事をしていた日本人にとって,数人で一つの卓を囲み料理をとり分ける卓袱の食事形式はかなり特異で衝撃的なものであったが,やがてその利点を認識する階層も広くなり,日常的に身分差別を必要とせぬ家庭生活の中で使われるようになった」

とする(世界大百科事典)し、

「『ちゃぶ台』の『ちゃぶ』という言葉は、中国料理の食卓を意味していた『卓袱(zhuo-fu)』の読みから来ているというのが有力な説である。中国語の『卓袱』はほんらいは、食卓にかける布、つまりテーブルクロスのことで、それがテーブルの意味にも用いられるようになったものらしいが、現代中国語ではなじみの薄い言葉である」

とある(笑える国語辞典)し、

「中国語の『卓袱(テーブルかけ)』に台を加えたもの」

とある(日本語源広辞典)。

「ちゃぶだい」の呼称は、地域によって異なり、

「富山県、岐阜県、三重県、兵庫県、佐賀県、長崎県、熊本県などの一部ではシップクダイ、シッポクダイ、ショップクダイ」

とある(仝上、https://www.yuraimemo.com/2773/等々)ところを見ると、「卓袱(しっぽく)」との関連が、やはりありそうである。

日本語の語源は、

「タブルダイ(食ぶる台)をチャブダイ(卓袱台)」

とするが、「ちゃぶだい」に「卓袱台」と当てるには、「卓袱(しっぽく)」が、食卓の意味であることを承知していたからこそではないか、と思える。

「撥脚台盤などといった大きな食卓を使う習慣は、奈良時代には既に中国より入っており、貴族社会においては同じ階級のものが同一食卓を囲む場合があったが、武士が強い支配力を持つようになると上下の人間関係がより重要視されるようになり、ほぼ全ての社会において膳を使用した食事が行われはじめた。
江戸時代に入ると出島などでオランダ人や中国人などの食事風景を目にする機会が出るようになり、それらを真似た洋風料理店では座敷や腰掛式の空間に西洋テーブルを置き、食事を供する場が登場しはじめる。享保年間以降はこうした形式の料理屋が江戸や京にも出現し始め、そこで用いられるテーブルや座卓を『シッポク台』とか『ターフル台』などと呼称するようになった」

という経緯https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%B6%E5%8F%B0もあり、また江戸語大辞典には、「しっぽく」の項で、

中国風の食卓、

の意で載り、

「高さ三尺余、四脚、朱漆で塗り周りに布帛を垂らす」

とあり、

しっぽく台、

とも言ったとある。この前提で、「ちゃぶだい」が名付けられたと考えていいのではあるまいか。ただ音は、

吃飯(チャフン、ジャブン)、

に近い。大言海が、三説併記したのがわかる気がする。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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卓袱


「卓袱」は、

卓袱台(ちゃぶだい)、

の「卓袱」でもあるが、

しっぽく、

と訓ませると、

卓袱料理の、

「卓袱」である。「卓袱」は、「ちゃぶだい」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%B6%E3%81%A0%E3%81%84で触れたように、

卓袱、

は、

テーブルクロスの意の中国音zhuō fú、

からきて、転じて、

食卓、

の意となり、

卓袱料理、

の意でもある。

「『卓』の字をシツと訓むのは、広東か東京(トンキン)の方言かと言われる。卓(シツ)・袱(ポク)、いずれも唐音である」

とある(たべもの語源辞典)。

「中国語で『卓』はテーブル、『袱』はクロスの意味(袱紗など)を持つ。また、長崎奉行所の記録には『しっぽく』は広南・東京(トンキン)方面(現在のベトナム中部、北部)の方言と記されている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E8%A2%B1%E6%96%99%E7%90%86

ただ、卓袱料理は、

料理の種類でなく、卓やテーブルを使う食べ方を意味する、

と見た方がいいのかもしれない(仝上)。たとえば、

「和食、中華、洋食(おもにオランダなど)が盛られたコース料理を大勢で囲んで食べるもの。別名「和華蘭料理(わからんりょうり)」とも呼ばれる、長崎に伝わる国際色豊かな宴会料理。中国料理同様に円卓を囲み、大皿に盛られた料理を各自が自由に取り分け食べるのが卓袱料理の基本スタイル」

とかhttp://local-specialties.com/gourmet/000337.html

「大皿に盛られたコース料理を、円卓を囲んで味わう形式をもつ。和食、中華、洋食(主に出島に商館を構えたオランダ、すなわち阿蘭陀)の要素が互いに交じり合っていることから、和華蘭料理(わからんりょうり)とも評される。日本料理で用いられている膳ではなく、テーブル(卓)に料理を乗せて食事を行う点に特徴がある。 献立には中国料理特有の薬膳思想が組み込まれていると考えられている」

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E8%A2%B1%E6%96%99%E7%90%86

「和食、洋食、中華料理が融合した国際色豊かなコース料理で、大きな円卓に多くの料理を並べる長崎県の郷土料理です。別名『和華蘭(わからん)料理』とも呼ばれ、長い歴史の中で異国の影響を受け続けてきた国際都市『長崎』だからこそ生まれた料理ともいえます。『卓袱料理』は一つの大きなテーブル、円卓に大皿を並べて大勢で各自が取り分けて食べるのですが、同じ形式の料理は中華料理にあり、『卓袱料理』の基本は中華料理にあります。中華料理のように大きなテーブルに料理をのせた大皿を並べて、料理にはポルトガルやオランダ(蘭)など西洋の洋食、そして日本の伝統の和食文化を取り入れたのが「卓袱料理」というわけです」

とかhttps://kyoudo.kankoujp.com/?p=40

「長崎の郷土料理で、ひとつの円卓を囲んで大皿に盛られた料理を各自がとり分けて食べる中国の食事様式をとり入れたもの。料理は椀以外は人数分を大皿に盛る。お鰭(ひれ)という吸い物で始まり、大皿や大鉢に盛られた刺身、豚の角煮、長崎天ぷらなどの料理が続き、最後は「梅椀」と呼ばれる汁粉などの甘味となる」

とか(日本の郷土料理がわかる辞典)、要は、

「1つの卓を囲んで,大きな皿に盛った料理を,各自が小皿に取分けて食べる様式。中国から伝わった同形式の普茶料理が精進であるのに対し,魚介・肉類を用いるのが特徴」(ブリタニカ国際大百科事典)

というスタイルになる。長崎における卓袱料理の起源ははっきりしていないようだが、

「元和・寛永期(1615年-1643年)に崇福寺、興福寺などの唐寺が建立、徳川幕府により朱印船が廃止、対中国貿易が長崎港に限定されたため、かなりの中国人が滞在していたものとみられる。1689年(元禄2年)に唐人屋敷が整備されるまでは、中国人と日本人が市中に雑居しており、互いに招きあい、食事をする機会も多かったと考えられている。また、海外から運ばれた砂糖や香辛料、オランダ語が語源とされるポン酢など、出島を拠点に行われたポルトガルやオランダなどとの貿易によってもたらされた食材の影響も少なくない。ポルトガル由来の南蛮料理、南蛮菓子は卓袱料理の発展の下地となり、出島に居住するオランダ人と交流する機会のあった江戸幕府の役人を通してオランダの食文化が少しずつ長崎に広まっていった。このような異文化の交流の中から、卓袱料理の形態が生まれたと言われている」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E8%A2%B1%E6%96%99%E7%90%86。さらに、

「1761年、長崎に入国していた清国人・呉成充が山西金右エ門を船に招いて中国式の料理でもてなしたという『八遷卓宴式記』の記述が、卓袱料理についての最古の記録である」

とあり、それが、

「文化・文政期(1804年 - 1829年)前後には江戸で一大ブームになる。ひとりひとりに膳が出されるのが普通であった当時の人々にとっては、一つのテーブルを囲んで大皿で食べるという中国式のスタイルは物珍しかったという。江戸古典落語に登場する『百川』は卓袱料理屋として創業したと伝えられる」

とある(仝上)。江戸や京都で流行した卓袱料理は次第に廃れ、後に長崎で復興して、1900年代に現在の卓袱料理の様式と献立が成立し、今日に至ることになる。

日本人は。各自が一人前の膳に向って食事をしていたから、卓を囲んで食事をする風習に強い印象を受けたと思われる(たべもの語源辞典)。

「『しっぽくだい』とか『しっぽこだい』とよび、この食卓を用いて出す長崎料理のことを『しっぽく』といった。享保(1716−36)年中に長崎から上京して京都祇園の下河原に佐野屋嘉兵衛という者が長崎料理を始めた。これが食卓(しゅっぽく)料理店の初めである。このとき、大椀十二の食卓(しゅっぽく)を広めた。大椀は大平(おおひら)なので、蕎麦切を大平に盛って、上にかまぼこ・きのこ・野菜などをのせたものを『しっぽく』と呼ぶようになった」

とあり(仝上)、これが江戸に伝わったのは、宝暦・明和(1751−72)のころで、浮世小路の百川茂左衛門が京都に模してはじめた、とある。

ただ、江戸に伝わった「卓袱」は、「卓袱料理」ではなく、いわゆる「しっぽく」、「蕎麦切」の「しっぽく」ではあるまいか。

「卓袱料理のなかに、大盤に盛った線麺(そうめん、またはうどん)の上にいろいろな具をのせたものがあった。これを江戸のそば屋が真似して、そばを台に売り出したのが『しっぽくそば』ということになっている。」

とあるhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/47/。どうやら、

「しっぽく料理そのものは享保(1716〜36年)頃に京都に移植され、それが大坂をはじめとする畿内に広まったとされている。そして、京・大坂はいうまでもなく、うどん文化圏だ。とすれば、まず京坂のうどん屋がいち早くしっぽくうどんを売り出し、それが江戸に伝わってそばの種ものになった」

という流れらしい(仝上)。天保から嘉永(1830〜54年)頃の風俗を記した『守貞謾稿』では、

「具は玉子焼き、かまぼこ、シイタケ、クワイなどとなっており、具の内容はだいたいこのへんに落ち着いていたようである。ただし、これらの具は京・大坂のうどん屋が出しているしっぽく(うどん)の解説であり、江戸のそば屋のしっぽくについては具体的な説明はなく、『京坂と同じ』としているだけである。」

とありhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/47/、安永4年(1775)の『そば手引草』には、

「マツタケ、シイタケ、ヤマイモ、クワイ、麩、セリを具とする」

とある、とかhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/47/

江戸の夜そば売りは「しっぽく」を売り物にし、

「しっぽくとはいっても、せいぜいチクワか麩をのせただけだったようだが、どの時期からのことだったのかははっきりしない。しかし文化(1804〜18)頃になると、ネギと油揚げをのせたなんばん、油揚げがメインの信田、海苔をのせた花巻、そうめんを温めたにゅうめんなども売っていたようだ。天保・嘉永期(1830〜54)の記録である『守貞謾稿』は、『一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也』と記している」

とあるhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/

つまり、「しっぽく」とは、

ソバ切、または、うどんなどのつゆに、マツタケ、シイタケ、カマボコ、野菜などを加えて煮た、

料理の名前。「しっぽく料理」は、

中国風の食事様式を取入れた長崎の名物料理。1つの卓を囲んで,大きな皿に盛った料理を,各自が小皿に取分けて食べる様式。中国から伝わった同形式の普茶料理が精進であるのに対し,魚介・肉類を用いる、

和華蘭料理のこと、である。両者が混同されているところがある。

この「しっぽく料理」は、

「かつては、大きな皿や鍋に料理を盛り、皆でつついて食べるものであったが、次第に種々の器に盛る者になっていった。これは、懐石料理の影響によるもの」

と考えられている(日本語源大辞典)。

なお、今日の通常の卓袱料理(コース料理)の順序は、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E8%A2%B1%E6%96%99%E7%90%86

に詳しい。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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「膳」は、

料理、調菜の具はりたるもの、

の意で、

膳部、
御膳、

の意であり、転じて、

食事の器を載する盤、即ち折敷(おしき)、脚あるものをも云ふ、

とある。室町末期の日葡辞書には、

ゼンヲハス(据)ユル、

と載る(大言海)。

食膳、

である。さらに、

一膳飯、

というように、

椀に盛った食物(特に飯)を数える、

のに使い、さらに、

塗箸一膳、

というように、

箸二本を一対ちとして数える、

のにも使う(広辞苑)。さらに、

膳夫、

というように、「膳」を、

カシハデ、

と訓ませ、

供膳、
饗膳、

の意であるが、

饗膳を司る人、

の意にも使う(漢字源)。「かしわで(膳・膳夫)」は、

古代、カシワの葉を食器に用いたところから、

いう。「で」はする人の意である(デジタル大辞泉)が、

中世、寺院で食膳調理のことをつかさどった職制、

に転じ、

供膳、
饗膳、

の意となる。「かしはで」は、

膳部、

と当てると、

大和朝廷の品部(しなべ)で、律令制では宮内省の大膳職・内膳司に所属し、朝廷・天皇の食事を調製を指揮した下級官人、

である(広辞苑)。なお、この意味の変転は、

「律令制下の大膳職(だいぜんしき),内膳司(ないぜんし)あるいは《延喜式》にみられる膳部(かしわでべ)などが飲食をつかさどる官名であることによっても知られるように,膳は本来,料理や食事そのものをさす言葉であったが,しだいに食事をそなえた盤,台の類を意味するようになり,やがてそれが転じて食台一般をさすようになったとされる。その時期はつまびらかでないが,1295年(永仁3)以降の成立とされる《厨事類記(ちゆうじるいき)》には,膳と食台とをなお明確に区別しており,膳が食台を意味するようになるのは,本膳料理が儀礼の料理として完成する南北朝以後であると考えられる」

とある(世界大百科事典)。

漢字「膳」(呉音ゼン、漢音セン)は、

「会意兼形声。善は『羊+言』の会意文字で、ゆったりとゆとりがある意、もと亶(セン ゆったりと多い)と同系のことば。膳は『肉+音符善』で、いろいろとゆたかにそろえた食事。転じておいしいごちそうをいう」

とある(漢字源)。「膳」は中国語である。「ごちそう」の意以外は、日本だけで使う用例である。

別に、「膳」の字について、

「会意兼形声文字です(月(肉)+善)。『切っ多肉』の象形と『羊の首の象形と、取っ手のある刃物の象形と口の象形×2(原告と被告の発言の意味))(羊を神の生贄とし、両者がよい結論を求めるさまから、『よい』の意味)から、よい肉を意味し、そこから、『供え物』、『供える』、『すすめる』を意味する『膳』という漢字が成り立ちました』

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2186.html

この方が、端緒の由来の説明になっているのかもしれない。

食膳としての「膳」は、

「日本料理独特のもので,古く平安時代から食事の際に使われた。種類も今日の食卓と同じような大きな4脚つきの台盤 (だいばん) ,1人用の懸盤 (かけばん) ,1人用で脚のない折敷 (おしき) ,あるいは高い脚のある皿様の高坏 (たかつき) などがあった。これらは主として会食用として用いられ,膳の上の食物の配置なども決められていた。この風習は近年まで伝えられ,1人用の膳は懐石料理,本膳料理などに欠かせないものとなっている」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)

「膳」は、「折敷」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470985757.htmlの発展形らしい。1200年ほど前の平城京跡から出土した食器や食具の中に、ひのきで作られた折敷(おしき)が発見されている。平安時代になると、

「貴人達は高杯(たかつき)を用いるようになります。折敷の四方に、宝珠形の穴をくり抜いた台をつけた衝重(ついかさね)が出てくるのもこの時代です。宴会の場合は案や机を用い、スツールに坐ることもありました。室町時代になると、衝重は三方とか供饗(くぎょう)と呼ばれるようになり、 折敷に足をつけた脚打ち折敷が生まれ、それが膳の原形となります」

とあるhttp://www.komenet.jp/bunkatorekishi06/37.html

「わが国では古くから檜(ひ)の片木板(へぎいた)を折り曲げてつくった折敷(おしき)、木具(きぐ)、三方(さんぽう)、懸盤(かけばん)などの曲物(まげもの)の角膳が使われていた。膳は折敷の変化したもので、食器をのせる盤台を膳とよぶようになったのは、のちに挽物(ひきもの)や指物(さしもの)の盤台が使われるようになってからであろう。木地師が木地をひいてつくる挽物膳は、丸膳とか木地膳とよばれる。スギ、ヒノキなどを材料とし漆を塗って仕上げる指物膳には、四足膳、両足膳、平膳、箱膳などの種類がある。四足膳は盤の四隅に足をつけたもので、この足の形によって蝶足(ちょうあし)膳(内朱外黒の漆塗り、祝儀用)、宗和足(そうわあし)膳(茶人金森宗和好みの内外朱または黒漆塗り、客用)、猫足(ねこあし)膳・銀杏足(いちょうあし)膳(ともに黒漆塗り、略式)などがある。二つ割りにしたクルミの殻を足とした胡桃足(くるみあし)膳は下人用であった。足なしで会席に用いる会席膳は、明治以降一般家庭で客膳として使用された。蓋(ふた)付き箱形の箱膳は、かつては町家や農家で普段の膳として広く使用され、家族各人がそれぞれ自分のものをもっていた。中に1人分の食器を入れておき、蓋を裏返して盤とし、その上に食器を並べて食事をする。食後はふきんでぬぐって食器を中に納める」

とある(日本大百科全書)。本来,料理や食事そのものをさす「膳」が、食事をそなえた盤,台の類を意味するようになる経緯は、はっきりしないが、

「1295年(永仁3)以降の成立とされる《厨事類記(ちゆうじるいき)》には,膳と食台とをなお明確に区別しており,膳が食台を意味するようになるのは,本膳料理が儀礼の料理として完成する南北朝以後であると考えられる」

とある(世界大百科事典)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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蕎麦切


「蕎麦切」とは、

そば粉を練ったかたまりであるそばがきなどに対し、こんにち一般的な麺の形状のものであることをいう場合に用いることが多い、

とある(世界の料理がわかる辞典)。つまり、

麺にした蕎麦、

の意である。「そば」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E3%81%9D%E3%81%B0で触れたが、

「食品としての『そば』は、そば粉に熱湯を加えてかき混ぜた『ソバガキ』が、江戸時代以前には一般的であった。江戸時代以降、現在のように細く切られるようになり、当初は『ソバギリ』と呼ばれた」

のである(語源由来辞典)。大言海の「そばきり」の説明が秀逸である。

「蕎麦粉を、水に捏ねて、延べて、細く切りたるもの。製法、饂飩に同じ。又、蕎麦粉のみにて、同様に製し、沸湯に煠(ゆ)でて、冷水にて洗ひ、再び蒸籠にて蒸すを、ムシソバキリと云ふ。これを、汁に浸し、或は、汁に煮て、食ふ。略して、ソバ」

と。そして、

河漏、

ともいう、と。

河漏(かろう)、

とは、

河漏麺(かろうめん)、

のことで、

「小麦粉またはそば粉をこね、箱形の容器の底板に小さい穴をあけたものから、煮たっている鍋の中へ押し出して作ったうどん様のもの」

を言い(精選版 日本国語大辞典)、

「中国の河漏という船着場の茶店で、たくさん売っていたところから」

いうらしい。日本では、蕎麦切のことをいった、とある(大言海)。

「中古、二百年以前の書、諸々の書物を詳に記せるにも、そば切の事、見えず、ここを以て見れば、近世、起こる事也、モロコシ、河漏津と云ふ、船著の湊の名物、茶店に多くこれを造る、よって、河漏と云ふ、是れ、日本のそば切の事也、江府のそば切の盛美には、諸国共に、及難し」

ともある(本朝世事談綺)。しかし、

「蕎麦、此云蘇泊、作麪、縷切者、云蘇泊幾利、即、蕎麦麪、一名河漏、一名河洛、是也。團入湯者、云蘇泊禰利、即、黒兒也、松岡元達食療正要、以黒兒為蘇泊禰利、以河漏蘇泊禰利者、誤矣」

とあり(秇苑日渉)、同一視したのは、誤解かもしれない。蕎麦は、

「蕎麦及ビ大小麦ヲ種樹シ」

と『続日本紀』の「備荒儲蓄の詔」にあるから、古くから食べられたが、

「蕎麦粉をこねて団子にして焼餅として食べるとか、やや進んで蕎麦かきとして食べた」

ものである(たべもの語源辞典)。「蕎麦切」の名は、

「粉を水でこねて、麺棒で薄くのばして、たたみ、小口から細長く切り、ほぐして熱湯の中に入れてゆで、笊ですくって冷水につける。そして水を切った」

という製法からつけられた。

「現在のような蕎麦が作られるようになったのは、慶長年間(1596−1615)といわれる」

が(たべもの語源辞典)、その発祥地には、

森川許六の編集した『風俗文選』宝永三年(1706)にある「蕎麦切の頌」から信濃の国、本山宿という説、

天野信景の『鹽尻』「蕎麦切は甲州よりはじまる。初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売るに、米麦の少なかのし故、そばをねりてだごとせし、其後うどむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし」から甲州発祥説、

の二つがある。大言海は、

「そば切は甲州より始る」

と鹽尻説を載せる。

明暦3年(1657)の振袖火事の後、復興のために大量の労働者が江戸に流入し、煮売り(振売り)が急増、その中から、夜中に屋台でそばを売り歩く夜そば売りも生まれた、というhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/

最初の頃の主力商品はそばではなくうどんで、貞享3年(1686)の町触には、「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とある。幕府は火事対策として夜の煮売りを禁止していたが、禁令を無視して夜中から明け方近くまで売り歩く煮売りが多かった、らしい(仝上)。「かる口」(貞享)には、

「一杯六文、かけ子なし、むしそば切」

とあり、「鹿の子ばなし」(元禄)には、

「むしそば切、一膳七文」

とある。これは、「夜鷹そば」とよばれたものもの値段に思われる。元文(1736〜41)頃から、夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになる、とある。売り物は温かいぶっかけ専門だった、らしい(仝上)。天保・嘉永期(1830〜54)になると、「一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也」(守貞謾稿)とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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しじみ


「しじみ」は、

蜆、

と当てる。「蜆」(ケン、漢音ケン、呉音ゲン)は、

「会意兼形声。『虫+音符見(=現、あらわれる)』。浅瀬に姿を現す小さい貝」

で(漢字源)、「蜆」の意である。

「しじみ」は、淡水域や汽水域に生息する小型の二枚貝、殻は三角形で、通常殻長約三センチメートル。日本には、純淡水産のマシジミ、海水のまじる河口付近にすむヤマトシジミ、琵琶湖水系にすむセタシジミ、奄美諸島以南にすむ大形のヒルギシジミガイなどが生息している(精選版 日本国語大辞典)。

琵琶湖のものは、室町時代に、

ししみ取る堅田の浦のあま人よこまかに言はばかひぞあるべき(為尹千首)、

という堅田のものを詠んだ歌があり、、近世には瀬田の名産とされた、とある(仝上)。

「しじみ」は、縄文・彌生の遺跡からも多く出土し、播磨風土記にも、履中天皇がシジミを食した記事があり、万葉集にも、

住吉の粉浜の四時美(シジミ)開けも見ず隠りてのみや恋ひ渡りなむ、

とあるなど、古くから食用にしてきた。江戸時代から、黄疸(おうだん)に効くと言われ、

シジミ売り 黄色なつらへ 高く売、

という川柳もある、とかhttp://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/83-shijimi.html。守貞漫稿には、

江戸には殻を去りたる蜆無之、

とあるが、

蜆は京坂にては或は貝のまま売るあり。或は石灰を交へ煮て殻を去て売るもあり、

とある(精選版 日本国語大辞典)。

「殻付きで味噌汁にすることが多いが、関西では剥き身を佃煮や和え物にすることもある」

とある(日本語源大辞典)。

「しじみ」は、「棒手振」・「棒手売」(ぼてふり)と呼ばれた「物売り」が売りに来た。後の事だが、

しじみ売りは「スズメガイホー」と呼び歩いた、

とある(寺田寅彦『物売りの声』)が、蜆浅蜊売りは、

しじみーあさりー、

と売り歩いたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E5%A3%B2%E3%82%8A。一升、

六文、

とあるhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-15.html。後に、十文になる。江戸のいろはかるたには、

貧乏ひまなししじみ売り、

の句があり、きわめて零細な元手で商売できるところから,ぼてふりのしじみ売りは貧乏人の典型とされたようである(世界大百科事典)。

さて、「しじみ」の語源であるが、大言海は、

縮貝(しじみかひ)の義、

とする。日本語源広辞典も、

「シジ(縮小)+ミ(接尾語 貝)」

で、縮小したような貝の意、とする。これは、

通常目にする二枚貝のうちでは小型なので「縮み」が転じて名づけられた、

ものとする説であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%9F。しかし、似ているが、身ではなく、殻の皺を指している、とするのは、たべもの語源辞典で、

「貝殻の表面に横しわが多数あって、それが縮んでいるように見えるので縮貝とした。チヂムを古語でシジムといい、シジムがシジミになった」

とする。大言海の「縮貝」は、こちらの意かもしれない。「しじむ」は、

蹙、

とも当てる(古語大辞典)。音韻から見ると、この説が妥当に思える。その他に諸説あるが、

「煮ると実が縮むからシジミだという説(和句解)は、貝の身は丸くなるのであり、縮むという感じは少ないから、これは良くない。また、繁群(ししむ)れているところからだ(日本語源=賀茂百樹)とか、ササミ(少々身)の転だ(和語私臆鈔)という説もあるが、面白くない。マタ、シジミのシは、清水の意で、ミは棲みつくとか、あるといういであるから、清水におる貝というところからシジミになったという説もあるが、シジミが清水に棲むというかんじはもてない」

とたべもの語源辞典は一蹴する通りである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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しぐれ煮


「しぐれ煮」は、

時雨煮(しぐれに)、

と当てる。略して、

時雨、

と呼ぶことも多い。

志ぐれ煮、

と表記されることもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%9B%A8%E7%85%AE

生姜を加えた佃煮の一種、

「貝類のむきみにショウガ・サンショウなどの香味を加えて醤油・砂糖などで煮しめた料理」

とある(広辞苑)が、本来は、

「蛤のむき身に生姜を加え、佃煮にしたもの」

を指す(たべもの語源辞典)。今日は、生姜を入れた佃煮を、「時雨煮」と呼んでいるが。

元は、桑名・四日市地方の名物、

時雨蛤(しぐれはまぐり)、

が有名になって、時雨煮が世に知られた(仝上)。そういえば、桑名は江戸時代からハマグリが名物であり、

その手は桑名の焼きはまぐり、

という俗語が古くから知られていた。時雨蛤の命名は、芭蕉の高弟(で、芭蕉の遺書を代筆した)各務支考(かがみしこう)だとされる(語源由来辞典)。

「時雨とは、晩秋から初冬にかけて降ったり止んだりする雨、曇りがちの空模様を言う。通り雨の『過ぐる』が語原とも。しぐれは『し』と『くれ』に分けて、『くれ』は『暗し』と解釈し、『し』を『しばし』とか、『し』は風のことだと説いたりする。蛤の佃煮を食べていると蛤の味が醤油の辛さのうちに通り過ぎていく。この時雨煮は、簡単にのみこめるものではないから、降ったり止んだりする時雨のように口中で味の変化、過程を楽しめる。これが時雨煮とした理由と考えられる」

とする説(たべもの語源辞典)は、なかなか趣がある。ただ理屈ばっているのが気になるが、もし支考の命名というなら、あり得るかもしれない。

その他に、

時雨の降る時期がもっともハマグリがおいしくなる季節だから(語源由来辞典)、
江戸時代の料理書には、短時間で仕上げることがしぐれ煮作りの特徴として記されており、むき身をたまり醤油に入れて煮る調理法が、降ってすぐ止む時雨に似ているから(仝上)、
時雨のころの草木の枯れ色に仕上げたから(由来・語源辞典)、

等々諸説あるが、

口中で味が変化することから時雨にたとえた、

とする説に肩入れしたい。

同じ「時雨」を採った、

時雨饅頭、

というものもあるらしい。

「時雨饅頭は、小豆のこし餡をそぼろにして蒸したしぐれ羹で餡を包んだものである。そぼろからしぐれを思わせるからである」(たべもの語源辞典)

また、

時雨餅、

というものもあるらしい。

「小豆餡・みじん粉・砂糖を混ぜ合せてそぼろにして蒸しあげる。そぼろにしたところがしぐれと名づけるりゆうである」(仝上)

「しぐれ」と名づけるには、「そぼろ」になっているのがみそである。「そぼろ」は、

ばらばらで細かいこと、

を意味するが、そぼ降る雨というような、

雨がしとしと降るさま、

の意がある。しかし、「時雨煮」はそぼろではない。

「時雨は『しぐれ色』と称して、時雨で色づいた草木の色を取り上げることもある。だから、時雨煮とは、しぐれ色に煮上げたものと考える人もある。蛤とか牡蠣とか、時雨煮にするとき醤油で煮染めるとか、生姜を加えて佃煮にするとか、どんなものを煮ても味を濃くして口に入れたとき味が変わっていく、通り過ぎていく味を感ずるこの味つけが時雨煮の本領なのである」

という、味わいから来たとする説(たべもの語源辞典)に、やはり肩入れしよう。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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時雨


「時雨」は、

しぐれ、
じう、

と訓ます。

液雨(えきう)、
霂、

ともいう(大言海)。

秋の末から冬の初めころに降ったり病んだりする雨、

の意で使う。で、時雨が降る天候に変わることを、

時雨れる(しぐれる)

という(広辞苑)。この意が転じて、

(時雨に掛けて)さっと涙がこぼれる、

という使い方もする。しかし、「時雨」は、漢語としては、

ほどよいときに降るよき雨、

を意味し、禮記にも、

天降時雨、山川出雲、

とある。それが転じて、

時雨之化、

というように、

教化の普く及ぶをいう。草木の好雨を得て発生するに喩う、

意で使う、とある(字源)。「しぐれ」の意で使うのはわが国だけである。

和語「しぐれ」は、

志ぐれの雨の略、

とある(大言海)。その動詞「志ぐる」は、

「志は、風雨(シ)、クルは、暮る、時雨と書くは、時(しばしば)降る雨の意。時鳥(ほととぎす)の如し」

とする。同趣は、

祝詞などにある風の異称シナトノカゼ(シは風、ナは「の」の意の古い連体助詞、トは場所)等から古く風の意のシがあったとみられ、これとシグレのシを関連づける(暮らしのことば語源辞典)、
シは風の義、クレは狂ひの転か(音幻論=幸田露伴)、
シは風の義。クレは晩の義(和訓集説)、

がある。その他に、その暗くなる空模様から、

シバシクラキ(しばらくの間暗い)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、
シバシクラシ(荀昧)の義から(柴門和語類集)、
シバクラ(屡暗)の義(言元梯)、
シクレアメ(陰雨)の略(東雅)、
シグレ(気暗)の義(松屋筆記)、
頻昏の義(和訓栞)、
シキクレ(頻暮)の義(日本語原学=林甕臣)、
シキリニクラシの訓(関秘録)、
シゲククラム(茂暗)の義(志不可起)、
シゲクレ(繁昏)の義〈名言通〉、
シは添えた語。クレは、空がクラクなるところから(和訓栞(増補))、
シは水垂下の義。クレは雨、あるいは陰、あるいは暗晦の義という(箋注和名抄)、

等々あるが、どうも語呂合わせにすぎる。「しぐれ」は、

時雨(しぐれ)の雨、間(ま)なくな降りそ、紅(くれなゐ)に、にほへる山の、散らまく惜(を)しも
時待ちて、ふりし時雨の、雨止みぬ、明けむ朝(あした)か、山のもみたむ

と、万葉集にうたわれているように、古くからある言葉で、もっとシンプルなのではないか、と思う。たとえば、広辞苑、日本語源広辞典は、

「『過ぐる』から出た語で、通り雨の意」

とする。同趣は、

過ぎ行く雨であるところから、スグル(過)の転(語源をさぐる=新村出)、

もある。さらに、日本語の語源は、

「秋の末から冬の初めにかけて降ったり止んだり定めなく降る通り雨をスギフル(過ぎ降る)雨といった。ギフ[g(if)u]の縮約でスグル・シグル(時雨る、下二)になった〈けしきばかりうちシグレて〉(源氏 紅葉賀)。連用形の名詞化がシグレ(時雨)である。〈長月のシグレにぬれとほり〉(万葉)」

とする。

すぐる→しぐれ、

と転訛したとみるのが、自然ではないか。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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しぎやき


「しぎやき」は、

鴫焼、

と当てる。

「ナス(茄子)の皮をむいて約一センチくらいの厚さに輪切りにし、胡麻油で揚げて串にさして焼き、山椒味噌を塗ったもの。また醤油付焼にしても良い。油で揚げないで、油を塗って焼いても良い。切り方も、ナスを縦に二つ割にする法がある。形がこのほうがよいという人もある。若くて柔らかなナスなら皮つきのまま金串にさして切り口にさっと胡麻油を塗って炭火でこがさないように両面から焼いて、練味噌を切り口に塗り、ちょっとあぶる程度にして串を抜いて、器に盛って粉山椒をふりかけて熱いうちに供する」

とある(たべもの語源辞典)。『日本料理法大全』には、

「ナスを輪切りにして、油でさっと揚げ、串にさして焼いてかわかし、山椒味噌をつけるか、醤油付焼にする油で揚げずに油を塗って、生から焼いてもよい」

とある(仝上)。『日本料理法大成』では、

「ナスを茹でて適当に切って、串にさし、山椒味噌をつけて焼く」

とある(仝上)。これは、寛永の頃の作り方らしく、『料理物語』(寛永)に、

「鴫やき、茄子を煠(ゆ)で、よき比に切り、串にさし、山椒味噌を付けて、焼くなり」

とある、とか(大言海)。別に、

茄子田楽、
炙田楽、

ともいい(大言海)、

ナスのみそ田楽の別称、

ともある(世界大百科事典)。「しぎやき」は、

「江戸での呼称であったことが《料理網目調味抄》(1730)などに見える。もともとはシギそのものを焼いた料理であったが,きじ焼がキジの焼物から豆腐,さらには魚の切身の焼物へと変化したのと同様,ナスの料理へと変わったものである。室町後期の《武家調味故実》に〈しぎつぼ〉という料理があるが,これは塩漬にしたナスの内部をくりぬいて壺状にし,そこへシギの肉を切って詰め,カキの葉で蓋(ふた)をして,酒で煎(い)るというもので,シギのくちばしを蓋にさして供した」

とある(仝上)。大言海にも、

「元は、鴫の肉なりしなるべし、狸汁の、蒟蒻となりしがごとし」

とある。

「しぎやき」という料理は古くからあり、それ以前の作り方がいろいろあった。

「今の茄子の鴫やきといふものは、鴫壺焼といふことより転(うつ)れるなるべし。包丁聞書に鴫壺焼と云は生茄子(なす)のうへに、枝にて鴫の頭(かし)の形をつくりて置也。柚味噌(ゆみそ)にも用とあり」

とする(喜多村信節『瓦礫雑考』)、とか(たべもの語源辞典)。『武家調味故実』(天文四年(1535))には、

「鴫壺(しぎつぼ)の事、漬けなすびの中をくり抜き鴫の身を作りて入るべし、柿(かき)の葉を蓋(ふた)にしてかいぐることあり、藁(わら)のすべにてかいぐるなり、石鍋(いしなべ)に酒を入れて煮るべし。折びつに耳かわらけにいためた鹽を置いて供す」

とあり(仝上、日本大百科全書)、「しぎやき」の起源は、

茄子をくりぬいて壺をつくって、鴫の身をいれ、冬には柚子を使って壺にした、

のが原型、その後、「しぎやき」は、鴫を食べた名残りか、

生茄子の上に板で鴨の頭の形を作って置いた、

が、慶長(1596〜1615)頃から、現在の形になった(仝上)。『寛永発句帳』には、

鴫やきやなすびなれどもとり肴、

という句があり、いまの形になっている。なお、茄子の代わりに、柚子を壺にしてつぼ焼きにしたものは、

柚壺、

という料理となった、とある(たべもの語源辞典)。現在の肉抜きになった経緯には、

「獣肉を食べられなかったお坊さんが鴫を焼いたものに似せて、味噌で味つけした」

という説もあるhttps://www.yuraimemo.com/1258/らしい。精進料理の感じではある。

「しぎやき」の語源には、

「しぎ」というのは、調理されたなすの形が鴫に似ていることから、
切り取った茄子のヘタが鴫の頭部に似ていたから、

という説もあるが、「鴫壷焼」という鴫肉と茄子を用いる料理があったのだから、

鴫壷焼→鴫焼→茄子田楽、

と、鴫の肉の入れ物から、茄子が主役になった、という転化でいいのではあるまいか。なお、「ナス」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459202304.htmlについては既に触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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しぎ


「しぎ」は、

鴫、
鷸、

と当てる。「鴫」は、国字。「鷸」(漢音イツ、呉音イチ)は、

「会意兼形声。矞(イツ)は、すばやく避けるとの意を含む。鷸はそれを音符とし、鳥を加えた」

とあり、「しぎ」の意だが、「カワセミ」の意も持つ。

鷸蚌(いつぼう)之争、

という諺がある。鷸(しぎ)と蚌(はまぐり)が、くちばしと貝殻を互いに挟みあって争っているうちに、両方共漁師につかまった、という喩えである。戦国策に、

「趙且伐燕、蘇代為燕、謂恵王曰今日臣来過易水、蚌方出暴、而鷸喙其肉、蚌合而箝喙、鷸曰、今日不雨、明日不雨、即有死蚌、蚌亦謂鷸曰、今日不出、明日不出、即有死鷸、両者不肯相捨、漁者得而幷擒之、今趙且伐燕、燕趙久相支以敝大衆、臣恐強秦之為漁父也、恵王曰、善、乃止」

とある。漁夫の利である。

鷸蚌之弊(ついえ)、

ともいう。「しぎ」に関しては、

鴫の看経(かんきん)、
鴫の羽搔(はがき)、

等々という言い回しや、

鴫の羽返(はがえし)、

といった舞の手、さらに剣術・相撲の手の言い回しに使われている。

「しぎ」は、シギはシギ科に属する鳥の総称で我国では50種類以上もみられるそうだが、代表的には、イソシギ・タマシギ・アオアシシギ・アカアシシギ・ヤマシギなど、日本には旅鳥として渡来し、ふつう河原・海岸の干潟(ひがた)や河口に群棲する。古事記で、

「宇陀の 高城に 志藝(シギ)わな張る 我が待つや 志藝(シギ)は障らず いすくはし 鯨障る」

と歌われるほど馴染みの鳥で、食用にした。田にいるシギの飛び立つ羽音を詠むこともあるが、

「しぎの羽根掻き」を踏まえて、女の閨怨の譬えに多く用いる、

とある(精選版 日本国語大辞典)。「鴫の羽掻(はがき)」とは、

「鴫がしばしば嘴で羽をしごくことから、物事の回数の多いことのたとえ」

の意で使われる。大伴家持に、

「春まけて もの悲しきに さ夜ふけて 羽振(はぶ)き鳴く鴫 誰(た)が田にか棲む」

の歌があり、西行に、

「心なき 身にもあはれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」

という歌があるが、飛び立つ姿を詠むようになるのは、源兼昌の、

「我門の おくてのひたに おどろきて むろのかり田に 鴫ぞ立つなる」

以降だそうだが、歌では「鴫」の鳴き声を詠むことは稀である(仝上)、という。飛び立つ時には「ジェー」というしわがれた声を出すせいかもしれないhttps://manyuraku.exblog.jp/10705489/

さて、「しぎ」の語源だが、大言海は、

「繁(シゲ)の転、羽音の繁き意と云ふ。字は、和名抄に、一云、田鳥(たどり)とある。合字なり」

とある。田に居るから、田と鳥を付けた作字、ということらしい。しかし、ヤマシギも、イソシギいるのだが。確かに、和名抄は、「しぎ」を、

「之木、一云田鳥、野鳥也」

とあるが。日本語源広辞典も、

シゲ、羽音が繁々し(回数が多い)、

を採っている。他には、

羽をシゴクところから、シゴキの転か(名言通)、
ハシナガキ(嘴長)の義(和句解)、
サビシキの略(滑稽雑誌所引和訓義解)、

がある。

鴫の羽搔(はがき)、

という言い回しは、羽のしごきの多さからきている。それが「しぎ」の特徴とするなら、

しごく→しごき→しぎ、

もあるのではないか。

鴫の看経(かんきん)、

は、

鴫がじっと立っている姿を経を読んでいる様(さま)に見立てたものだが、寂しさの含意がなくもないが、一茶に、

「立鴫とさし向かいたる仏哉」

という句があるらしいhttps://manyuraku.exblog.jp/10705489/ので、ちょっと違うかも。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
https://manyuraku.exblog.jp/10705489/

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おでん


「おでん」は、

御田、

と当てる。

田楽(でんがく)」の「でん」に、接頭語「お」を付けた女房詞、

である。御所で使われたことばが、上流社会に通じたもので、それが民間に広がった。

田楽とは、

豆腐に限って言った、

ので(たべもの語源辞典)、「おでん」は、

豆腐、

と決まっていた。

「豆腐を長方形に切って、竹の串をさして炉端に立てて焼き、唐辛子味噌を付けて食べた。初めは、つける味噌は唐辛子味噌に決まっていた」

のであり、これが、

おでん、

であった(仝上)。

「田楽」という名前の起こりは、

「炉端に立てて焼く形が田楽法師の高足の曲という技術の姿態によく似ているので、のちに、豆腐の焼いたものを田楽とよぶようになった、ともいう」

とある(仝上)。「高足」(たかあし、こうそく)とは、

「田楽で行われる、足場の付いた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸。鷺足(さぎあし)とも呼ばれる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%B6%B3。高足を串に見立てた意味がよくわかる。

「田植どきに豊作を祈念して白い袴(はかま)に赤、黄、青など色変わりの上衣を着用し、足先に鷺(さぎ)足と称する棒をつけて田楽舞を行った。このときの白袴に色変わりの上衣、鷺足の姿が、白い豆腐に色変わりのみそをつけた料理に似ているので、田楽のようだといったのがこの料理の名称となり、本来の舞のほうは忘れ去られた」

とある(日本大百科全書)。

時代は、永禄(1558〜70)の頃、とされる。その後、元亀・天正(1570〜92)頃には、流行していた。

天正五年(1587)の『利休百会』に、豆腐の料理を挙げて、

「とうふくずに、とうふのうば(ゆば)、とうふのでんがく」

とある、らしい(仝上)。「豆腐田楽」は、一串二文と安い。今日の三十数円、という感じである。

天明(1571〜89)の頃になると、「田楽」は多種類になる。

「こんにやく」の田楽は、元禄(1688〜1704)頃で、宝暦十年(1760)の『献立筌』に、

こんにゃくの田楽、

が載る。こんにゃく田楽は、豆腐の田楽のように、

「串に刺して、茹でて、味噌をぬった」(仝上)。

天明二年(1782)の『豆腐百珍』には、

「木の芽田楽、ふたたびでんがく、はじやきでんがく、葛田楽、うにでんがく、浅ぢでんがく、まゆでんがく、みの田楽、たまごでんがく、あこぎ田楽、つぶて田楽」

等々が載る(仝上)。各田楽の詳細は、http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-9.htmlに詳しい。翌年の続編『豆腐百珍』、翌々年の『豆腐百珍余録』が上梓され、

「目川でんがく、今宮のすな田楽、衛士田楽、青みそ田楽、みたらし田楽、あづま田楽、なんばん田楽、小野田楽、煮取田楽、女郎花田楽、小倉田楽、しののめ田楽、出世田楽、太平でんがく」

等々が載っている(仝上)。これはすべて、

豆腐田楽、

のバリエーションである。

「(江戸では)田楽豆腐を『短冊豆腐』とか『田楽焼』といった。冬のたべものだった田楽が、木の芽を使うようになると初夏の名物の一つとなった。京都の四季という唄に『二本差しても柔らかい祇園豆腐の二軒茶屋』とあるが、上方の田楽は串を二本指してった。江戸では串は二本であった。しかも京阪の串は股のあるもので、白味噌に山椒の若芽をすりこんだが、江戸で股のない串を通して赤味噌を塗って木の芽をのせた」

とある(たべもの語源辞典)。

この間に、野菜を材料にした田楽が現れる。

野菜田楽、

である。享保十五年(1730)の『料理綱目調味抄』には、

「大根、かぶ、牛蒡、山のいも、芋、栗、かしゅう、蓮根、くわい、瓜、唐茄子、冬瓜、松茸、ししたけ」

の味噌田楽が載っている、という。豆腐が田楽の元祖であるためか、

「豆腐の形に切れるものは、豆腐のように見せて焼いて味噌をつけたものが多い」

とある(享和・文化・文政(1801〜30)に三分冊が上梓された『素人庖丁』)。野菜が出れば、当然ながら魚類の田楽が出る。

魚田(ぎょでん)、

という。前出の『料理綱目調味抄』に、

「ゑひ、うなぎ、はぜ、小ぶな、あわび、あかがひ、はまぐり、たいらぎ、かき、えび、たい、ひらめ」

が載る。それぞれ、

何々みそ付焼、
醤油付焼、

とある。やはり、切れるものは、長方形や四角に切っている。まだ豆腐の味噌田楽の尾を引きずっている。

文化・文政・天保(1804〜44)年間には、

「串に刺したこんにゃくを味をつけて煮込むようになってきた」

という(仝上)。これが、

煮込みおでん、

の始まりである。一説に、

田楽に菜飯(なめし)が付き物であったように,おでんには茶飯が付き物とされた、

とあり、

「菜飯に田楽を添えて提供する『菜飯田楽』は寛永の頃から流行をはじめ、まもなくこんにゃくの田楽が登場し、これがオデンの略称で呼ばれるようになったとする。『浪花の風』(安政三年(1856)頃から文久三年(1863)頃)によれば『この地(上方)にても、蒟蒻の田楽をおしなべておでんと呼ぶ』とある。この頃のこんにゃくおでんは味噌田楽であったが、菜飯田楽の流行から煮込みのこんにゃくがつくられ『煮込みおでん』と言われたものが、むしろこちらが名前を奪い煮込み野菜類にハンペンや信田巻きなども加えて広くおでんと呼ばれるようになった」

とする(平凡社大百科事典)。『守貞謾稿』(1837年)には、「上燗おでん」という振り売りがあり、

「酒燗と蒟蒻の田楽であり、江戸のものは芋の田楽も売る」

と紹介されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%A7%E3%82%93。結果、「おでん」は、

煮込み田楽、

を指し、「田楽」は、

焼き田楽、

を指すことになった。この「おでん」は、

「蒟蒻を三角に、里芋を二つに切り、焼蒲鉾、蓮根ヲ厚さ二分ほどづつに輪切にし、何れも一つづつ竹串に刺し、煮出汁に醤油、砂糖、漉味噌少し入れたるに、串のまま浸して、温火(とろび)にて煮て成る。多くは行商す」

とある(大言海)ように、串に刺してある。「煮込み田楽」の背景には、醤油がある。

「元禄期に銚子ではじまった醤油醸造は、やがて江戸経済圏の発展とともに香りと味の良い醤油を盛んに供給するようになり、削り節に醤油や砂糖、みりんを入れた甘い汁で煮込んだ『おでん』が作られるようになった。外食産業が盛んであった江戸では、『おでん燗酒、甘いと辛い、あんばいよしよし』の掛け声で売る『おでん・かんざけ』と書いたのれんを掲げたおでんの振売や屋台が流行した。

本格的に、今日のような「おでん」となったのは、明治以降のことで、

「上方では、田楽が『お座敷おでん』として客座敷に出されるようになったが、種を昆布だしの中で温めて甘味噌をつけて食べる『焼かない田楽』と区別するために『関東炊き/関東煮』(かんとだき)と呼んだ。その後の関東煮は、昆布・クジラ・牛すじなどでダシをとったり、薄口醤油を用いたりと、関西風のアレンジが加えられていった。これを『関西炊』と呼ぶ人もいる」

とある(仝上)。

関東煮の語源には、

「かんとうふ煮」説、
中国広東の煮込み料理に由来する「広東煮」説、

もある(仝上)。

ところで、「茄子の味噌田楽」と「茄子の鴫焼」とどう違うのだろう。

たとえば、田楽は、

田楽味噌をのせて焼く焼き物の総称、

とあるhttps://temaeitamae.jp/top/t8/Japanese.food.4/1/09.html。「おでん」は、

煮たもの、

で、それと関係がありそうなのが、

風呂吹き大根、

だが、茄子を輪切りにしたとき、「茄子味噌田楽」は、ほぼ、鴨の肉抜きとなった、

茄子の鴨焼き、

と重なるのではないか。どうみわけるのだろうか。

「鴫焼」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%97%E3%81%8E%E3%82%84%E3%81%8Dについては、前に触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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田楽


「田楽」は、「おでん」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%8A%E3%81%A7%E3%82%93で触れたように、

田楽豆腐、

の意だが、その由来は、平安時代中期に成立した、

田楽、

という芸能に由来する。

「もと、田遊び・田植祭など田の豊作を祈願する民俗から発展し、平安時代末期から室町にかけて盛行」

した(古語大辞典)という。豊作祈願の、

田舞、

が発展したもので、それを演ずる者を、

田楽法師、

といい、

「仏教や鼓吹と結びついて一定の格式を整え、芸能として洗練されていった。やがて専門家集団化した田楽座は在地領主とも結びつき、神社での流鏑馬や相撲、王の舞などとともに神事渡物の演目に組み入れられた」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD

田楽能、

と呼ばれたが、室町後期には、世阿弥による猿楽能に押された衰退した(古語大辞典)。

各地に、民俗芸能として伝わったが、その共通する要素は、

びんざさらを用いる
腰鼓など特徴的な太鼓を用いるが、楽器としてはあまり有効には使わない
風流笠など、華美・異形な被り物を着用する
踊り手の編隊が対向、円陣、入れ違いなどを見せる舞踊である
単純な緩慢な踊り、音曲である
神事であっても、行道のプロセスが重視される
王の舞、獅子舞など、一連の祭礼の一部を構成するものが多い

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD

「法師は神社の祭礼などにも出た。笠は飾りの藺笠で、風流(ふりゅう)といって蓬萊鶴亀等がつくられている。このようにつくり物をすることが、やがて後に、変化しながら祭礼に出る傘鉾や、つくり山にもなる」

とあるhttps://costume.iz2.or.jp/costume/510.htmlが、江戸時代初期の笑話集『醒睡笑』には、

「田楽法師が下に白袴をつけ、上に色ある物をうちかけ、鷺足に乗って踊る姿が、白い豆腐に味噌を塗る形に似ている」

との記述https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C%E7%94%B0%E6%A5%BD#cite_note-3があり、

「白い袴をはき、その上に色のついた上着をはおった田楽法師。彼らは単に踊るだけではありません。竹馬のような一本棒にのってピョンピョンはねたり踊ったりするのも中にはあったのです」

とかhttp://www.tofu-as.com/tofu/history/15.html

「田植の田楽舞に、横木をつけた長い棒の上で演ずる鷺足(さぎあし)という芸がある。足の先から細い棒が出て、腰から下は白色、上衣は色変わりという取り合わせ」

とか(日本大百科全書)が、由来の説明としては、妥当のようである。

「おでん」で触れたように、この、

「白い袴をはき一本足の竹馬のような高足に乗って踊る」

恰好https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C%E7%94%B0%E6%A5%BDが、

白い豆腐に変わりみそを塗った串焼き、

に似ているというので、「田楽」と名付けたのであった。

「田楽法師の鷺足に乗るに、白袴に色ある衣を着たるのに、豆腐に味噌を塗りたるが似たれば」

とある通りである(大言海)。たべもの語源辞典には、

「田楽法師が七尺(二・一メートル)ばかりの棒を付けたものに乗って踊るさま」

と具体的にある。

この「田楽」という名称は、

「もと南都興福寺と東大寺両寺の僧語」

である(仝上)。しかし、「田楽」の由来には、

田植えのときの楽であるところから(俚言集覧・芸能辞典)、
田はいやしい意で、正しく風雅な楽でないという意(貞丈雑記・安斎雑考・和訓栞)、
田野の学の義、また申楽の申が田の字に転じたものか(和訓栞)、
田舎の猿楽の義(能楽考)、

などの諸説があるけれども、

「田はいやしい意」

込めていることは確かのようである。しかし、猿楽より人気で、

「鎌倉時代にはいると、田楽に演劇的な要素が加わって田楽能と称されるようになった。鎌倉幕府の執権北条高時は田楽に耽溺したことが『太平記』に書かれており、室町幕府の4代将軍足利義持は増阿弥の芸を好んだことが知られる。田楽ないし田楽能は「能楽」の一源流であり、「能楽」の直接の母体である猿楽よりむしろ高い人気を得ていた時代もあった」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD。さらに、

「田楽は、大和猿楽の興隆とともに衰えていったが、現在の能(猿楽の能)の成立に強い影響を与えた。能を大成した世阿弥は、『当道の先祖』として田楽から一忠(本座)、喜阿弥(新座)の名を挙げている」

とある(仝上)。しかし、

田楽は 昔は目で見 今は食ひ

という川柳に残るほど、いつのまにか、「田楽」は、

田楽豆腐、
田楽焼、

となった。『宗長手記』(大永六年(1526)))に、

田楽、
田楽たうふ、

とある(仝上)、とか。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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奇を衒う


「奇を衒う」は、

一風変わったことをして見せる、
わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする、

といった意味である。しかし、

奇を好んで奇なること能わず、

という諺もある。

突飛なことを望んで、結局平凡な結果に終わる、

ことはままある。

揚子雲之文、好奇而卒不能奇也、故思苦而詞難、善為文者、因事以奇出、江河之行、順下而已、至其触山赴谷風搏物激、然後盡天下之変、子雲惟好奇、故不能奇也

とある(後山詩話)。

事に因りて以て奇を出だす、江河の行くや、下るに順うのみ、其の山に触れ谷に赴き風搏ち物激するに至りて、然る後に、天下の変化を尽くす、

でなくてはならないようだ(故事ことわざの辞典)。

「てらう」の「衒」(漢音ゲン、呉音ケン)は、

「会意兼形声。玄(ゲン)は、細くて見えにくい糸をあらわす。よく見えない、あいまいである意を含む。衒は『行(おこなう)+音符玄』で、相手の目をごまかして、真相がよく見えないようにする行いのこと」

である(漢字源)。「てらう」意であり、

学問・才能や外見を、(あるようにごまかして)みせびらかす、

意となる。

和語「てらふ(う)」は、

照るを他動詞に活用す。韻會「衒、自矜(ほこる)也」、

と載る(大言海)。

自矜、

とはなかなかうまい言い方である。字鏡には、

「衒、亂也。天良波須、又賣也」

とある。古語大辞典に、「てらふ」の意味として、「みせびらかす」以外に、

買い手をつのる、
売る、

とある。四声伊呂波韻成に、

「売、ウル・ヒサグ・テラフ」

とある(古語大辞典)。売るために、己を誇示する、という含意が、「てらう」にある。しかし「照る」には、

四面に強い光を放つ、光る、
つやがある、
(光を受ける意で)うつむく、あおむく、
(面照ルの略)能楽で顔面が少し上向きになる、

等々の意はあるが、「売る」意はない。「てらう」のみが持つ意味のようである。

「衒う」の語源は、

「照る」の他動詞、

とあるが、岩波古語辞典、広辞苑は、

照らふの意、

とある。つまり、

光を当てる、

意であるが、「照る」には、いくつかの解釈がある。

人にテラス(照)義(名言通・和訓栞・大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、
ひけらかし売る意で「照る」の他動詞形(日本語源=賀茂百樹)、
「てらふ」の意(小学館古語大辞典)、
テリ(光)ハヒの約。ハヒは活用語尾(日本古語大辞典=松岡静雄)、

どうも、元々の意は、

自矜、

と、自らを売り込むために、自分を光り輝かせる、という意味であったのではあるまいか、と疑問を感じたが、元々の「衒」という漢字自体が、

通じて眩に作る、

とあり(字源)、

誇衒、

という言い方で、見せびらかす意のほかに、

自ら己をとりもちて世に広告する、自ら行きて、てらひ賣る、

という意味がある。

估衒、

というように、

衒女不貞、衒士不信(越絶書)、

と、

自己の美貌学才などを自ら世に広告する者、

の意で使われる。「売る」という意味は、「てらふ」に、

衒う、

と当てて以後、「衒」の漢字の意味から出たのかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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手前味噌


「手前味噌」は、

手味噌、

ともいう。

自分のことを誇ること、
自慢、

の意である。一般には、「手前味噌」の語源は、

自前の味噌、
自家製の味噌、

の意味とされる。「手前」は、

自分の手の前、
目の前、

の意で、そこから、目線で、

自分に近い方、
こちら、

あるいは、

自分の手元、

の意となり、

相手に対してこちらの立場、

の意となり、より近づいて、

自分の持ち物、
抱えている者、

の意となり、それをメタファに、

自分の腕前、
技倆、

の意となり、

点前、

と書いて、

茶道の所作、作法、

に特定されたりするが、点前は、手前とも当てるので、あるいは逆に、点前の用例から、腕前の意になったのかもしれない。さらに、内々の意から、

家計、
暮らし向き、

の意としても使われる。その意味では、「手前味噌」の「手前」は、

自前、
あるいは、
自家製、

といった意味であったとみられる。それは、

昔は味噌は各家庭で作られており、それぞれがおいしくなるようにと工夫を凝らしていました。
そして、おいしく出来た味噌を「手前(わたし/自家製)の味噌おいしくできたから食べてみて」と自慢し合うようになった、

とみるhttps://eigobu.jp/magazine/temaemisoのが自然である。戦前までは、多くそうであった。もう少し踏み込めば、

自家製の味噌を独特の味があると自慢する、

意とみる(デジタル大辞泉)、ことになる。

しかし、異説を、

「手前味噌という際の「手前」は、…『自家製』や『自前』、また一人称の『自分』のことである。 手前味噌の『味噌』は食品の味噌のことだが、現代でも『ポイント』の意味で『味噌』が使われるように、『味噌』には『趣向をこらしたところ』の意味がある。これは各家庭で味噌を作り、それぞれかよい味を出すために工夫を凝らしていたためで、近世には『趣向をこらしたところ』の意味から、人に自慢する様子にも『味噌』が使われた。『手前どもの味噌は…』と自家製の味噌を自慢することから、『手前味噌』という言葉が生じたとするのも間違いではないが、『味噌』という言葉自体に、『自慢』の意味が含まれることから、自分を自慢する言葉として『手前味噌』が使われるようになったと考える方がよいであろう」

と述べるものがある(語源由来辞典)。しかし、逆ではあるまいか、

手前味噌、

という言い方があったから、それをメタファに、

特色とする点、
得意に思っている箇所、

という意味でも使われるようになっただけなのではないか。ことわざに、

手前味噌で鹽が辛い、

というのがある。

自分で作った味噌なら、塩が辛くてもうまいと思うこと、

転じて、

自慢話ばかりするので聞いていて苦しいことのたとえ、

の意である。

「味噌」の「噌」(漢音ソウ、呉音ショウ、慣ソ)は、

会意兼形声。「口+音符曾(層をなして重なる)」

としかない(漢字源)が、別に、

「会意兼形声文字(口+曾)。『口』の象形(「言葉」の意味)と『蒸気を発する為の器具の上に、重ねたこしきから、蒸気が発散している』象形(「かさねる」、「かさなる」の意味)から、『言葉が積み重なる』、『やかましい』を意味する『噌』という漢字が成り立ちました」

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2400.html

「味噌」は、わが国だけで使うようである。字源には、

大豆を煮て米又は麦の麹と鹽とを和して醸す、

と載り、

豉(シ)、

と同じとある。「豉」は、

豆と鹽とを和して作りし食品(幽尗)、味噌の類、

とある。「豉」は、

くき、

と訓ませ、新撰字鏡に、

「豆を原料とした食物。味噌・納豆(なっとう)の類とも、たまりの類ともいう」

とある(精選版 日本国語大辞典)が、「納豆」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%B4%8D%E8%B1%86で触れたように、

「中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキとしてある。鼓をクキとよんだ」

ので(日本語源大辞典)、

塩鼓、

つまり、

浜名納豆、
寺納豆、
大徳寺納豆、

の意味である。「味噌」については、項を改める。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)

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点前


「手前」は、「手前味噌」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%89%8B%E5%89%8D%E5%91%B3%E5%99%8Cで触れたように、

自分の手の前、
目の前、

の意で、そこから、目線で、

自分に近い方、
こちら、

あるいは、

自分の手元、

の意となり、

相手に対してこちらの立場、

の意となり、より近づいて、

自分の持ち物、
抱えている者、

の意となり、それをメタファに、

自分の腕前、
技倆、

の意となり、

家計、
暮らし向き、

の意としても使われる。茶道では、

点前、

と書いて、

茶道の所作、作法、

の意で使う。手元で、

茶を点(た)てるから、

点前、

というのかもしれないが、茶道では、お茶を点てることを、

点前(てまえ)

と呼び、

お茶を点てる道具を茶席に運び出して置きつけ、客の前で茶器、茶碗などを清め、茶碗をお湯で温め、そこへ抹茶を入れ、湯を注ぎ、茶筅でかき回す。点てた抹茶を客へ出す、最後に使った道具をもう一度、清めて、元の場所へ片付け、道具を持ち帰る、

という茶を点ずるための順序,手続、作法を、

点前、

と呼ぶ。もっともどの範囲を指すかは、素人にはわかりにくく、

茶道の作法のうち茶を点てたり,炉や風炉に炭を入れる所作(炉または風炉に炭を入れる所作は炭手前)、

という言い方(デジタル大辞泉)と、

茶の湯において茶を点(た)てたり、炭を置く行為、

という言い方がある(日本大百科全書)。運び入れ、運び出しは、入れないようであるが、準備と後片付けを入れないのは、茶道という限り、ちょっと納得しかねるのだが。

「点前」は、古くは、

手前、

と当てていたが、現在は、炭を置く行為である、

炭手前、

にのみ手前の字を使い、ほかはすべて点前の字をあてている。たとえば、

盆点前、
運び点前、
棚点前、
茶箱点前、

等々。「点」について、

「『小さな目印』という意味。つまり「少量のお茶を作る事」という意味で「点前」という漢字が使われるのです。
『点』という文字は『点眼』『点鼻』などにも使われますよね。どれもみんな『少量をさす』という意味があると思います」

という説明https://plaza.rakuten.co.jp/kaporinfukufuku/diary/200706080000/があったが、ちょっと疑わしい。

チャヲタツル、

という言い方が室町末期の日葡辞書に載る。

かき回して整える、

意とある(広辞苑)が、「立つ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E7%AB%8B%E3%81%A4で触れたように、「立つ」の語源は、

タテにする、
地上にタツ、

である。「たつ」の意味の、

上方へ向かう運動を起こさせて、目立たせる、
とか、
行為や現象の度合いを高めて、目立たせる、

といった含意の中、

薬を水に立てて、

という用例のように、

かき混ぜて、泡立たせる、

意である(この場合「点つ」と当てる)。「茶を点てる」とは、そのままの意ではないか。大言海も、

茶を立つとは、抹茶を湯にかきまづ、

としている。あるいは、日本語源広辞典の、

湯気をまっすぐ立ち昇らせる、

意とするのも、「たつ」の含意から見てあり得る。「点前」は、

「中国宋(そう)代の茶書『茶録』に『点茶』とあって、点前の語の初見となっている」

とあり(日本大百科全書)、炭手前の他は、流派によって違うが、

ふつうの点前を平(ひら)点前

といい、

薄茶(うすちゃ)点前

濃茶(こいちゃ)点前

とがある、とか。

『南方録(なんぽうろく)』によると、茶の湯の点前が初めて行われたのは、

「将軍足利義教が後花園(ごはなぞの)天皇を招いて饗応したあと、寵臣赤松貞村(さだむら)が水干(すいかん)・折烏帽子(おりえぼし)姿で披露した台子(だいす)点前が最初であったということになっている。それは、天皇拝領の唐物(からもの)道具を使った台子による3種極真荘(ごくしんかざり)の点前であった。現存する『室町殿行幸御餝記(おかざりき)』(徳川美術館蔵)によると、永享(えいきょう)9年(1437)10月21日のことであって、二か所に茶湯所がしつらえられており、そこで点前が披露されたことになる。『海人藻屑(あまのもくず)』(1420)に「建盞(けんさん)ニ茶一服入テ、湯ヲ半計(なかばばかり)入テ、茶筅(ちゃせん)ニテタツル時、タダフサト湯ノキコユル様ニタツルナリ」とあるので、貞村の点前とはこうした点て方であったと考えることができる」

とある(仝上)。ちなみに、「台子・臺子」(だいす)は、

茶道の点前に用いる茶道具で、水指など他の茶道具を置くための棚物の一種。真台子・竹台子をはじめとして様々な種類がある、

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%AD%90。こののち、やがて、

「草庵(そうあん)茶の成立とともに炉(ろ)の点前が考案されていった。興福寺別当光明院の実堯(じつきょう)による『習見聴諺集(しゅうけんちょうげんしゅう)』に記載された『古伝書』(1604、05写)には、「いるり(囲炉裏(いろり))の立様之事」「薄茶之立様之事」があって、台子を使った風炉(ふろ)と炉の濃茶と薄茶の両様の点前が記述されている。その後、わび茶の大成するにつれて茶席の極小化が行われ、千利休(せんのりきゅう)による「一畳半の伝」といわれるような運び点前が成立し、点前の基本がすべて整ったのである」

とある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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うつらうつら


「うつらうつら」とは、今日、

しきりと眠りを催し、浅く眠ったり覚めたりするさま、

の意で使う。

うとうと、
うつうつ、
うつっ、
とろとろ、
とろり、

等々の類語がある。しかし、「うつらうつら」は、万葉集では、

なでしこが、花取り持ちて、うつらうつら、見まくの欲しき、君にもあるかも(船王〈ふなのおおきみ〉)

と歌われ、そこでは、

まのあたりにはっきりと、

という意味である。「うつつ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%86%E3%81%A4%E3%81%A4で触れたように、この「うつ」は、

現(うつつ)、

の意味である。「うつつ」は、ウツシ(顕)の語幹のウツを重ねた

「ウツ(現実)+ウツ(現実)」

の約で,目覚める意であった。しかし,『古今集』で「夢かうつつか」「うつつとも夢とも」等々と使われるうちに,夢と現の区別のつかない状態,

夢見心地

を指すようになった,とされる。そのため、「うつらうつら」の「うつ」を、

現、

の意とする説がある。つまり、

「うつ(現)し」などの「うつ」に接尾語「ら」の付いた「うつら」を重ねた語(デジタル大辞泉)、
あるいは、
「うつうつを約めて、うつつ(現)と云う。うつに助辞のらの添はりたる語」(大言海)、

で、本来の意は、

目の当たりにはっきり、

という意味であるが、「うつつ」の意味が、夢うつつの状態に変わったのに合わせて、

うとうと、
とろとろ、

の意になった、とするものである。しかし、別に、

「『うつ(空)』に接尾語『ら』の付いた『うつら』を重ねた語」(デジタル大辞泉)、
あるいは、
「『うつろな目』など『空虚』を意味する『うつ』」(語源由来辞典)、
あるいは、
「『ウツロウツロ(意識が空)』」

とする説がある。しかし、この意味は、はじめから、

浅い眠りにひきこまれるさま、

の意で使われており、あるいは、由来を別にするのかもしれない。半ば眠り半ば冷めているような状態の意で「うつらうつら」が使われ始めたのは、室町時代で、

「本来は、『うつらうつらと〜する』のように、気の抜けた状態で何らかの行動をする時に用いた」

が(擬音語・擬態語辞典)、

「江戸時代になってから、特に睡眠と結びつき、現在のような意味で用いられるようになった」

とある(仝上)。こうみると、「うつらうつら」は、

現(うつつ)、

の意味のそれと、

空(うつ)、

の意味とは、別の由来と思われる。

「『目もうつらうつらに鏡に神の心をこそはみつれ』(はっきりと鏡に映るように神の本心を見た)』(土佐日記)のように、古くは全く逆の意味で使われていた。これは『現(うつつ)』を語源とする別の語と言われる」

とあるように(仝上)、「うつらうつら」の「うつ」は別であったが、「うつらうつら」の意味が、「うとうと」の意味に転じたとき、重なってしまったもののようである。

「うとうと」は、大言海は、

「うつらうつらのらを略したる、うつうつの轉なり(鴇(つき)、トキ)、ウを略してツラツラが、とろとろと轉じ、トロリと眠るなどと云ふ」

とする(大言海は、「とろとろ」も「うつらうつら」の略轉としている)が、これだと、「うつらうつら」が「現」由来なら辻褄が合うが、「空」由来なら、帳尻があわない。やはり、

「『うとうと』の『うと』は『う(っ)とり』の『うと』と同じく『うつ(空)』の変化した『うと』を重ねた語で、原義は『意識がなくなっている状態』を表す」

という説明(擬音語・擬態語辞典)が妥当に思える。「うとうと」が気の抜けた状態を意味したせいか、

「江戸時代には『うとうととありく春日野の里 座頭の坊三笠に杖をくくり付』(犬子集)のように、『歩行などがたどたどしいさま』の意を表す『うとうと』もあった。江戸時代、身体の機能が十分でない様子をいった『疎い』と関連する語と思われる」

との説明もある(仝上)。「疎(うと)し」は、

「空遠(うつとほ)しの約にもあるか」(大言海)、

なら「うつ(空)」と関わるが、

「ム(身)ト(外)シの転か。わが身が対象に対して疎遠な状態にある意」(岩波古語辞典)、

となると、「うとうと」の語源を改めて考えなくてはならない。しかし、

「『うと』は『うつろ』『うつほ』の『うつ』と同じく、空虚・からっぽを意味する」(日本語源大辞典)、

で落ち着きそうである。

日本語語感の辞典によると、「うとうと」は、

「『うつらうつら』よりさらに意識が薄れている状態」

らしい。

「『うとうと』は浅い眠りが持続する状態で、…『うつらうつら』は浅く眠ったり、覚めたりを繰り返す状態」

という(擬音語・擬態語辞典)。

ちなみに、「とろとろ」「とろり」は、「とろける」の「とろ」である。

「トロはとろく(蕩く)のトロと同じ」

であり(岩波古語辞典)、室町末期の日葡辞書には、

「溶け、または軟化するさま」

とあり、「とろとろ」「とろり」は、蕩けた状態をメタファに、

心の締まりがなくなる

気持ちよくうとうと眠る

避けに快く酔ったさま、

のような使い方をしたもののようである。ちなみに、「とろとろ」「とろり」は、

「眠気を催したり浅い眠りに入る様子を表すのに対して、『うとうと』は心地よい半眠りの様子」

とある(擬音語・擬態語辞典)。「とろとろ」は「うつらうつら」に近い。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)

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味噌


「味噌」の字については、手前味噌http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%89%8B%E5%89%8D%E5%91%B3%E5%99%8Cで触れた。「味噌」そのものの起源には、

中国伝来説、
日本独自説、

の二説があるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C

中国伝来説は、

古代中国の醤を根源とし、遣唐使により中国を経て伝来したとされる説、

である。醤(ひしお)は、中国語では同文字を jiàng (チァン)と発音するペースト状の調味料で、原料によって、肉のものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、穀物のものは穀醤と呼ぶ。日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当することになる(仝上)。

「語源も『未だ醤にならないもの』という意味の未醤から平安時代に味醤、味曽、味噌となった。701年の大宝律令に未醤が課税対象としてあらわれ、『主醤』という醤を管理する役職の記述もある」(仝上)

日本独自説は、

古く弥生時代からとする説もあるが、豆を用いた現在の味噌とは違う液体状のもので、魚醤に近い。日本においては縄文時代から製塩が行われ、醤(ひしお)などの塩蔵食品が作られていたと見られる。縄文時代後期から弥生時代にかけて遺跡から穀物を塩蔵していた形跡が見つかっている(仝上)。

「現在の味噌の起源に連なる最初は、奈良時代である。当時の文献に『未醤』(みさう・みしょう:まだ豆の粒が残っている醤の意味)と呼ばれた食品の記録がある。また『末醤』とも書かれ、『大宝令』(大宝元年(701年))の『大膳職』条では『末醤』と記される。他に味醤、美蘇の字もすでに見える。藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤と末醤を請求したものとして、表は『謹啓今忽有用処故醤』、裏には『及末醤欲給恐々謹請 馬寮』と書かれた木簡が発掘されている」(仝上)

中国由来説は、豉(くき)をミソの前身とするものである。「豉」については、

納豆http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%B4%8D%E8%B1%86)、

で触れたように、

「豆腐と同じように、中国から製法が伝わったものである。中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキとしてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である」(たべもの語源辞典)

鑑真が持ってきたのは、豉ではないか、とする(たべもの語源辞典)。で、たべもの語源辞典は、味噌日本独自説を、こう展開する。

「日本列島の原住日本人は、海水から塩をとることを発見していたが、この保存に苦しんだ。海水からとった塩は、岩塩と違って、ニガリが多く、空気中の湿気をすぐとけて液体となり、流れ去ってしまう。この保存法として塩と食物を一緒にすることを考えついた。ダイズと塩を合わせることは、最も早く行われた。ダイズは、日本列島にコメよりも早く栽培されていた。アメリカのダイズは、日本のダイズをもっていったものである。醤というたべものは塩の保存法として生まれた。完全な醤になる前の状態のもの、未完成のものという意味で未醤(みそ)という名称が生まれた。(中略)中国から豉が入り韓国からも醤が入ってくる。これらを参考として日本のミソは生まれたものである」

と(仝上)。つまり、「味噌」の原点は、にがりの多い、海水由来の塩をどう保存するかから生まれた、という発想は、是非はともかく面白い。

「醤」から始まっても、日本独自に発展したにしても、「未(末)醤」から、

「未醤、あるいは末醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化したものであることは、『倭名類聚抄』(934年頃)や『塵袋』(1264-1287年頃)という辞書に書かれている」

と、「味噌」は始まることになる(仝上)。古く、

「天平二年(730)、尾張の醤・未醤が奈良朝廷に納めたという記録がある」

とか(たべもの語源辞典)。

鎌倉時代の『塵袋』には、

「味噌という字は正字かあて字か、正字は末醤であり、書きあやまって未醤となった」

と(たべもの語源辞典)し、

「末というのは搗抹することで、未せぬものは常のヒシホで、末したものがミソである」

と論じているとか。しかしこの論は、誤りとするのが江戸後期、文化末年(1818)の『松屋筆記』(小山田與清)で、

「未とすべきを味とし、醤を曾とし味噌となった」

とする。江戸中期、享保四年(1719)の『東雅』(新井白石)は、

「高麗醤を弥沙(ミソ)という、醤をヒシホというが、ヒがミに転じ、シホはソと転訛シタノガ、ミソである」

としているという(たべもの語源辞典)。大言海が「みそ」に、

味噌、
味醤、

と当て、

「韓語なり。東雅『宋の孫穆の鶏林類事に、醤を密祖と云ふ』とあり、今も然り、和名抄に、高麗醤の称あり、證とすべし、同書に末醤(マツシヤウ)を未醤(ミシヤウ)と誤れりとの説、或いは、唐僧、鑑真、嘗めて未曾有と称したるに起こるなど云ふ皆付会なり」

とするのは、東雅に基づいている。和名抄には、確かに、

「未醤、高麗醤、美蘇、俗用味噌二字」

とある。

朝鮮語miso(密祖)から(外来語辞典=楳垣実・外来語辞典=荒川惣兵衛)、

も同説である(日本語源大辞典)。江戸初期の、慶長一九年(1614)の『慶長見聞集』(三浦茂信)に、殿上人がミソをヒクラシというから味噌を虫というのだと書いてある(たべもの語源辞典)が、これは、

「古く味噌を香(かう)ともいうが、香の名に『ひぐらし』があるので味噌をヒクラシとよんだ」

ところによるらしい(仝上)。

鑑真が嘗めて、未曽有といったとか、文徳天皇のときに唐僧湛誉が来朝して献上した等々はみな誤りのようで、

「天平時代日本において独自の製法が工夫され、日本的に完成されていた」

と、たべもの語源辞典はいう。ただ、経緯から、それが、

未(末)醤、

なのか、

味噌、

なのかの区別は、後世ではつかない。「味噌」の語源として、

蒸し→みそ、

とする説がある。

「お蒸しmusi、omusiが、音韻変化によりmiso、omisoになった」(日本語源広辞典)
「秋大豆を蒸してつき砕くところから、岡山県・滋賀県神埼郡では味噌のことをムシ(蒸し)という。女性語のオムシ(お蒸し)は近畿・福井・大垣・岡山県小田郡・四国で用いられ、石川・三重県阿山郡では転音してオモシという。このムシ(蒸し)の転音がミソ(味噌)であった」(日本語の語源)

しかし、この言葉は、後世のものとみられる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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みやげ


「みやげ」は、

土産、

と当てる。

ミアゲ(見上げ)の転、

とあり(岩波古語辞典、広辞苑)、

見上げ、

の項で、

ミヤゲの古形、

とあり、

よく見、えらんで、人に差し上げる品物、

とある(岩波古語辞典、広辞苑)。

しかし、日本語源大辞典は、

「『見上げ』の転といわれるが、『みあげ』『みやげ』の前後関係は明らかでなく、したがってその語源もはっきりしない」

と否定的である。「見上げ」とは、

上の方に視線を注ぐ、仰ぎ見る、

意で、そのメタファで、

人物・力量などが優れていると認める、

意であり、名詞としては、

まびさし、

つまり、

兜の鉢の前方から。庇のように出て、額を深く覆うもの、

と、やはり、「見上げる」に関わる言葉である。それと、

お土産、

の「みやげ」とのつながりははっきりしない。大言海は、

「都笥(ミヤコケ)の義。宮倉(ミヤケ)より都へ持って上がれる由にて、云へるにかと云ふ」

とする。

ミヤケ(宮笥)の義か(志不可起)、
ミヤケ(宮倉)の義か(三余叢談)、
ミヤケ(都帰)の義(言元梯)、
ミヤコケ(都笥)の義(日本釈名・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、

も、ほぼ同趣旨とみられる。日本語源広辞典は、

宮(伊勢神宮)+ケ(筐)、

とする代参の御礼の意、とする説も載せるが、同趣の説を、

「寺社仏閣を参詣した証拠の品として、神札などの授かりものを故郷に持ち帰るのが、おみやげの原初的な形態。伊勢神宮で購入された神札「神宮大麻」もおみやげの元祖のひとつ」

と載せる(https://jisin.jp/life/living/1658791/)ものもある。

しかし、「土産」を、

ドサン、
あるいは、
トサン、

と訓ませると、

土地の産物、

の意であり、

みやげ、

の意もある。この「土産(ドサン)」は、中国語である。宋史・張齊賢傳に、

「齊賢詢知云々、虔州土産銅鐵鉛錫之數」

遼史・食貨史に、

「太平初幸燕、燕民以年豊、進土産珍異、上禮高年、恵鰥寡、賜酺連日」

とある(大言海)。「土産」は、「どさん」と訓んで、

土地の名産、

の意で用いていたので、「みやげ」とは別の言葉であった。「みやげ」の意では、万葉集の大伴家持の歌に、

家苞に貝そ拾へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど

と、「家苞(いへづと)」という言葉があった。「家苞」は、

家へ持ち帰る「みやげ」であった。「みやげ」の言葉の由来は、どうも明確ではないが、「土産」に当てられたのは、

「『易林節用集』に『土産』の訓として『ミヤゲ』『ドサン』があり、『日葡辞書』には、『ミヤゲ』『トサン』に同様の語釈が施されていることなどから、『とさん』と混用され、『みやげ』に『土産』の字を当てるようになったのは室町末期以降と考えられる」

というところのようである(日本語源大辞典)。

「土産」は、

土産物の略、

ともある(諸橋大漢和)ので、たとえば、

「『旅先で求めて持ち帰る、その土地の産物』をミヤゲモノ(土産物)という。その語源は、モチカヘリアゲルモノ(持ち帰り上げる物)で、その省略形ノモチアゲモノが、モチ[m(ot)i]の縮約で、ミアゲモノになり、『ア』に子音[j]が添加されてミヤゲモノになった」

という音韻変化を辿る(日本語の語源)のも正攻法かもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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点心


「點(点)心(てんしん)」は、

てんじん、

とも訓む。中国語である。

あひだぐひをする、

の意で、河東記に、

「板橋三娘子、置新作焼餅干食牀上、與客點心」

とある(字源)。また、転じて、

其の食物、菓子の類、

ともあり(仝上)、輟畊(てつこう)録に、

今以早飯前及午前後小食為點心、

とある(仝上)。つまり、

早飯前と飯後・午前・午後に食べる小食のこと、

であり、どうやら、

一時の空腹をいやすための少量の食事、

のことである(たべもの語源辞典)、らしい。中国の食事は、大きく分けて、

飯(主食),
菜(副食),
湯(スープ)、
点心(間食,小食)

となる(世界大百科事典、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83)。「点心」は、

ツァイ(菜,料理の意)に対するもので,麺(めん)類,シューマイ,ギョーザなどの軽食や菓子、

をいう(百科事典マイペディア)が、「点心」は、

鹹(かん)点心(塩味),
甜(てん)点心(甘味),
小食(鹹,甜以外のもの),果物

に、分類される(世界大百科事典)、という。「点心」は、解釈が多く、たとえば、

「めん類,ギョーザなどは,食べる時により飯になったり点心になったりする」

ので、食べる時間帯によって

早点(朝御飯)
午点(おやつ)
晩点(夜食)

となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83が、

間食,非時の食,小食、

としておくのがいいようである(仝上)。

「点心」という名前は

「禅語『空心(すきばら)に小食を点ずる』からきたという説や、心に点をつけることから心に触れるものと言う説がある。明確な定義はないが、食事の間に少量の食物を食べることなので、菓子や間食、軽食の類いは全て点心と呼ばれる。中国の朝食は点心ですまされる事が多い」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83、間食や軽食をさすという意味では、

茶の湯の料理である懐石も,本来は同義、

と考えられる(百科事典マイペディア)。

日本には室町時代に伝来し、朝食と夕食の間に食べる箸休めの品とされ、

「『間食』の意に用いられる語となった」(たべもの語源辞典)

が、当時は1日2食が普通だったので、朝と夕の間、と幅が広い。

『七十一番職人尽歌』(室町時代)だと、

饅頭を点心とよんでいる、

とある(たべもの語源辞典)。「点心」は、

「字義は、胸に点ずるという意味で、僅かなものをすすめるということで、茶のこ、茶うけなどといい、小食をとることと同じ意味」

である(仝上)。

『庖丁聞書』(16世紀後半)、『禅林小歌』(応永年間(1394〜1427))には、

点心とは、腹心に点加する意であり、禅家では、昼食の意に用いるようになる、

とあり、『浮世草紙』(元禄期)には、

「侍は中食といひ、町人は昼食といひ、寺がたは点心と云、道中はたご屋にては昼息といひ」

とあり、「点心」は、どうやらこの時期、

昼食、

の意に落ち着いてきたようである(たべもの語源辞典)。

で、『貞丈雑記』(天保四年(1843))には、

「朝夕の飯の間のうどん又は餅などを食ふをいにしへは点心と云今は中食(ちゅうじき)又むねやすめなどといふ」

とあり、『類聚名物考』(宝暦三年(1753)〜安永九年(1780))には、

点心は、俗にいう茶子(ちゃのこ)である。飯粥の類ではない、菓子の類で、心を点改する故に点心という。禅家のことばとのみ思ってはいけない。唐の時にすでにあったことばである、

とある。『嬉遊笑覧』(文政十三年(1830))には、

点心は、食後の小食である、蒸菓子の類を点心とする、

とある。
なお、「点心」には、豆沙包子(あんまん)、桃包(タオバオ、桃饅頭)、月餅等々の甜点心(てんてんしん)、餃子、焼売、春巻、ラーメン、チャーハン等々の鹹点心(かんてんしん)があるが、詳しい内容は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83に譲る。

ついでながら、

飲茶(ヤムチャ)

とは、

お茶を飲むこと、

であり、

中国茶を飲みながら点心を食べる行為、

を指す。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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「麩」は、

ふすま、

と訓むと、

小麦をひいて粉にするとはに残る皮の屑、

を指し、

麬(フ)、

とも当てる。

もみじ、
からこ、
むぎかす、
こがす、

ともいう。

洗い粉、牛馬の飼料にする(広辞苑)。普通小麦 100に対し,22〜25%の比率でできる、という(ブリタニカ国際大百科事典)。

「麩」(フ)は、

「形声。『麥+音符夫(皮)』で、平らに散りしく穀皮の意」

とあり(漢字源、日本語源広辞典)、「麩」は、

ふすま、
むぎかす、

の意である。いわゆる「おふ」の意で使うのは、わが国だけらしい。大言海は「麩」の項で、

「ムギカス。小麦粉のフスマ。即ち、洗粉に用ゐるもの。中世、誤りて、豆腐皮(トウフノウバ)に此字を用ゐたり(鹿苑日録)」

と記す。「麩」は、中国では、

麺筋(麪筋、めんきん、麵筋/面筋、miànjīn)、

と呼ばれ、宋代に書かれた『夢渓筆談』にもその名が登場する。日本では、

「『麩』という字で麬(ふすま)を指し、後にその加工品である麪筋にもこの字が当てられた(『本朝食鑑』)また、小麦そのものが中国大陸から伝来されたことから唐粉(からこ、殻粉)とも称した。鎌倉時代には唐粉を宮廷に貢納する供御人(唐粉供御人)がいた。「麩=ふ」としての最古の記録は南北朝時代に書かれた『嘉元記』正平7年(1352年)5月10日条に登場する「フ」の記述である」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A9

いまの製法は、

「小麦粉に食塩水を加えてよく練って生地を作り、粘りが出たところで生地を布製の袋に入れて水中で揉む。デンプンが流出した後に残ったグルテンを蒸して生麩(もち麩)が作られる。生麩を油で揚げると揚げ麩になる。生麩を煮てから成形して乾燥させると乾燥麩になる。(中略)グルテンに、小麦粉、ベーキングパウダー、もち米粉などを加えて練り合わせ、焙り焼きしたものが焼き麩である。」

とある(仝上)が、昔の作り方は、

「小麦粉のフスマと分離しない粗い粉を桶に入れて水でこねる。足で踏んでねばり気が出てから桶の下にざるを置いて、その上でこね粉を取り入れて、水をかけながらもむと、澱粉はほとんど洗い流されて、ざるの目から桶の底に沈む。これが『しょう麩』になり、ざるの中に残ったねばったものが『なま麩』になる」

とある(たべもの語源辞典)。

中国では麩の原料のグルテンを、

麩質(ふしつ、麩質/麸质、fūzhí)、
もしくは
麩質蛋白(ふしつたんぱく、麩質蛋白/麸质蛋白、fūzhídànbái)、

と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A9らしいが、

「麩質は主に外皮の内面にある。麩(フスマ)と分離せぬ粗粉を用いる」

のは、そのためのようである(たべもの語源辞典)。室町時代初期に明から渡来した禅僧によって製法が伝来したが、

「僧院がこれを用いたので、在家では、精進のたべものと考え、仏事・法要以外には常用しなかった」

もの(たべもの語源辞典)が、次第に、貯蔵食品として重用され、年中食べ物で、乾燥四天王、

麩、
湯葉、
凍豆腐、
椎茸、

のひとつとなった(仝上)。

麩の種類は、

生麩(なまぶ、俗に蒸麩(むしふ)ともいう)、
焼麩(やきふ)、
揚げ麩(あげふ)、
乾燥麩、

等々があるが、生麩には、

「竹輪形にした竹輪麩、すだれでおしつけた形のある簾麩、すだれふに似て厚い相良麩、また御所麩とよばれるものもある」

焼麩には、

「四角の板形の板麩、角麩、渦を巻いた黄渦麩(うづぶ)、菊の花形をした菊麩、切った切麩、主に金魚の餌になる金魚麩、車の形にした車麩、丸形にして中に筋模様のある観世麩、小型の罌粟麩、七色の色分けになった七色麩、牡丹の花型をした牡丹麩、紅葉の形をした楓麩(もみじぶ)がある」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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にわか


「にわか」は、

俄、

と当てる。

急に変化が現れる、

意で、

だしぬけ、
すぐさま、

という意である(広辞苑)。「俄」(ガ)は、

「会意兼形声。我(ガ)は、厂型に折れ曲がり、ぎざぎざの刃のついた熊手のような武器を描いた象形文字で、われの意に用いるのは当て字。俄は『人+音符我』で、何事もなく平らに進んだ事態が、急に厂型にがくんと折れ曲がる意を含む」

とあり(漢字源)、「にわかに」「急に」の意である。昨今、

俄ラグビーファン、

が急増したという使い方で、おなじみである。語源は、

イマカ(息間所)の義(言元梯)、
急なことは、一、二と分かずの意か(和句解)、
ニはニヒ(新)から分化した語か。カは形容語尾(日本古語大辞典=松岡静雄、国語の語根とその分類=大島正健)、

等々諸説あるが、はっきりしない。ただ、この

にわかに、

の意からきていると思うが、「俄」は、

俄狂言、

の意で使われる。「俄」は、

仁輪加、
仁和歌、
二和加、

等々、さまざまな当て字を使う、

宴席や路上などで行われた即興の芝居、

の意だが、

またの名を茶番(ちゃばん)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84のは、後世、混同されたのちのことで、本来、

茶番(狂言)、

俄(狂言)、

とは別である。そのことは、茶番http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E8%8C%B6%E7%95%AAで触れた。

茶番、

にわか、

は、素人芸としてひとくくりにされているが、「俄」は,

「俄狂言の略。素人が座敷・街頭で行った即興の滑稽寸劇で,のちに寄席などで興業されたもの。もと京の島原で始まり,江戸吉原にも移された。明治以後,改良俄・新聞俄・大阪俄といわれたものから喜劇劇団が生まれた。地方では,博多俄が名高い。茶番狂言。仁輪加。」

とある(広辞苑)。岩波古語辞典に、「にはか」について、

「もと、座興のために素人が演じた…洒落、滑稽を主とした一種の茶番狂言。享保頃遊里に発生し、後、専門の芸人が演ずるようになった」

とある「一種の茶番狂言」という言い方が正確である。あるいは、

「俄、つまり素人が演じたことからこう呼ばれる。あるいは一説に、路上で突然始まり衆目を集めたため、「にわかに始まる」という意味から「俄」と呼ばれるようになったと伝えられる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84通り、

「享保年間(1716〜36)、大坂住吉神社の夏祭の行列で、素人が行った即興劇を起源とするという」

ともある(日本語源大辞典)。あるいは、

「享保元文の頃、二羽屋嘉平次の頓作をはやして『二羽嘉』と称したところから思いついて、提灯に『二〇加』と書いて頓作を流して歩いたことから」

という説(話の大辞典=日置昌一)もある。すでに、

「天和時代の京島原遊廓に源流の芸が存在した。安永時代 (1772 – 1780年)の諸書に俄の芸が登場する」

らしい(仝上)。いずれにしても、関西発祥で、大阪で最も盛んにおこなわれ(仝上)、各地に俄が伝わり、

大阪俄、
博多俄、
肥後俄、
佐賀俄、

等々があるらしいが、各々の地域が俄と呼んでいる内容は

@オチのついたコント、A踊り、B獅子舞、C仮装、D行列、E山車や屋台などの造り物、

と多岐にわたる、という(歌舞伎研究者・佐藤恵理、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84)。

それが江戸にも伝わった。大言海には、こうある。

「俄に趣向をつけて、当意即妙、道化滑稽(おどけ)の事を演ずるもの。江戸、新吉原にては、男女芸者、廓内の街道を演じて行く。これ毎年、秋期、陰暦八月おこなはるるなり」

と。

しかし、「茶番」は、「茶番」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E8%8C%B6%E7%95%AAで触れたように、山東京山『蜘蛛の絲巻』(弘化)が、

「天明元年の十二月,ある所なる勢家にて,年忘れとて茶番ということありしに,云々,茶番の題は,鬼に金棒,二階から目薬,猫の尻へ木槌など云ふ卑俗の諺なり」

と書くように(大言海)に,お題が,諺から与えられて,何かを演ずる,ということらしい,

「江戸にて,芝居の役者共,顔見世の頃,楽屋にて,茶番,餅番,酒番などとて,其番にあたりし者より饗することあり,色々たはれ(戯)たる趣向を尽くす。此時茶番に当たりし役者の,工夫思ひつきに,景物を出してせしを,云いひなるべし。略して,ちゃばん,にはか(京都)」

と,「茶番」の出自が明らかになっている。大田覃「俗耳鼓吹」(天明)は,

「俄と茶番とは,似て非なるもの也」

としているように、茶番は、あくまで、

江戸歌舞伎の楽屋内、

で発生したもので、

「下手な役者が手近な 物を用いて滑稽な寸劇や話芸を演じるもののこと。本来、茶番はお茶の用意や給仕をする者のことであるが、楽屋でお茶を給仕していた大部屋の役者が、余興で茶菓子などをつかいオチにしたことから,この芝居を『茶番狂言』と呼ばれるようになった。此の寸劇では,オチに使ったものを,客に無料で配っていたため,見物客の中には,寸劇ではなく,くばられる品物を目当てに訪れる者もいたといわれる。」

それには、

口上茶番

立ち茶番

とがあったらしい(大辞林)。「口上茶番」は,

身振りを入れず,座ったまま、せりふだけで演じる滑稽を演じるもの,

「立茶番」は,

「かつら・衣装をつけ,化粧をして芝居をもじったこっけいなしぐさをする素人演芸」

となる。

どちらかというと、俄はお座敷芸だが,茶番は,歌舞伎役者の内々の芸,あるいは,落語の前座の芸比べといった雰囲気で,俄が,「喜劇劇団」になっていくのに対して,茶番は,実体を失い,

茶番劇,

と,出来レースというか,見えすいた小芝居,と喩えられる言葉の中にのみ,かろうじて生きている,という感じである。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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弁当


「弁当」は、

外出先で食事するため、器に入れて携える食品、またはその器、

を意味し、転じて、

外出先で取る食事、

の意になった(広辞苑)。「弁当」自体に、「器」の意味があるので、

弁当箱、

というのは、重複した使い方になる。

「弁当」は、

行厨(こうちゅう)、
厨傳(ちゅうでん)、
簞食(たんしょく)、
乾飯(かんぱん)、
破籠(はちょう)、
樏子(るいこ)、

等々の類語がある(日本類語大辞典)、らしいが、和語では、

餉(かれい)、

で、

餉、
乾飯、

とも当てる(岩波古語辞典)。「かれい」は、

乾飯(かれいひ)、

の略で、

旅などに携行した干した飯、

転じて、

携行食糧、

にもいう(広辞苑)。その容器は、「餉(かれい)」を入れる「笥」(け)」で、

餉笥(かれいけ、かれいげ)、

で、

樏子、

とも当てる(仝上)。「わりご」である。「わりご」は、

破子、
破籠、
樏、
割子、
割籠、

等々とも当てる(仝上)。平安頃は、昼弁当を

昼養(ひるやしなひ)、

といった(たべもの語源辞典)。宇治拾遺に、

「奈島の丈六堂の辺にて昼破籠を食ふに」

と載り、「破籠」(わりご)を用いた。

「たべものを入れる器で、その中にしきりがある。割ってあるから『わりご』と呼んだ。今日の折箱のように手軽なものであったから、竹笥(たけささえ 酒・茶・などを入れる物)とともに使い捨てにされたものである。この破子に飯・菜を盛って出したのが弁当」

とある(仝上)。「わりご」は、

「ヒノキなどの白木を折り箱のようにつくり,中に仕切りをつけ,飯とおかずを盛って,ほぼ同じ形のふたをして携行した。古くは携行食には餉 (かれいい),すなわち干した飯を用い,その容器を餉器 (かれいけ) といったが,『和漢三才図会』には『わり子は和名加礼比計 (かれいけ),今は破子という』」

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、

「平安時代におもに公家の携行食器として始まったが,次第に一般的になり,曲物(まげもの)による〈わっぱ〉や〈めんぱ〉などの弁当箱に発展した」(百科事典マイペディア)

らしい。「弁当」の初出は、江戸初期の『老人雑話』(江村専斎)に、

「信長の時分は辨当と云物なし、安土に出来し辨当と云物あり」

とある(大言海)が、これは、

「安土城作事の時、食事の配当に弁ずる」

者の意味であったとする説もある(日本語源広辞典)。また、江戸中期の『翁草』(神沢貞幹)には、

「安土に出来て弁当と云ふ物有り、小さき内に諸道具をさまる」

とある(仝上)し、江戸後期の『和訓栞(わくんのしおり)』にも、

「昔はなし、信長公安土に来て初めて視(み)たるとぞ」

とある。織田信長が安土城普請で、大ぜいの人にめいめいに食事を与えるとき、食物を簡単な器に盛り込んで配ったが、そのとき、

配当を弁ずる意、

当座を弁ずる意、

で、初めて弁当と名づけた(日本大百科全書)ということらしい。しかし、ただ江戸後期の『松屋筆記』には、

「宗二が節用集(饅頭屋本節用集、明応五年(1496)十一代足利義澄のころ)に弁当あれば室町の代の製にて、信長よりも以前の物也」

とあるので、嚆矢は、時代が少し遡るかもしれないが、室町末期の『日葡辞書』には、「bento」が弁当箱の説明で記載されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%BD%93ので、この時代には、弁当という器物ができて、それに納められるたべものが一般的に弁当とよばれるようになった(たべもの語源辞典)、ということのようである。

では、この「べんとう(べんたう)」の由来は何か。

岩波古語辞典は、

便当、

と当て、

「不便の対。『便道』『弁当』などは当て字」

とし、

便利なこと、
豊かで不自由のないこと、

の意とし、

弁当、

と当て、

外出などの時、食物を入れて携行する容器、またその食物、

とする。「便利」な意味から、「弁当」として使われた、という趣旨らしい。日本語源大辞典も、

「『弁当』の意は、その由来を中国南宋ごろの俗語『便当』に求めることができる。日本でも『便利なこと』の意で中世の抄物などに用いられている。『便利なこと→便利なもの→携行食』といった意味の変化によって生じたと考えられる」

としている。

「『便道』『弁道』などの漢字も当てられた。『弁えて(そなえて)用に当てる』ことから、『弁当』の字が当てられ、弁当箱の意味として使われた」

と考えられる(語源由来辞典)。

辨えてその用に当てる意。弁当の飯の略(柳亭記)

も同趣である。大言海は、

「面桶(めんとう)の轉。面桶(めんつう)に同じ。漢呉音の別なり」

とするが、

「『飯桶(めしおけ)』を意味する『面桶(めんつう)』を漢音読みした『めんとう』から『べんとう』になったとする説もあるが、歴史的仮名遣いは『べんたう』なので考え難い」

ようである(語源由来辞典、日本語源大辞典)。

江戸時代になると、弁当はより広範な文化になり、旅行者や観光客は簡単な「腰弁当」を作り、これを持ち歩いた。

「腰弁当とは、おにぎりをいくつかまとめたもので、竹の皮で巻かれたり、竹篭に収納されたりした」

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%BD%93、「幕の内弁当」は、江戸時代に始まった。

「能や歌舞伎を観覧する人々が幕間(まくあい)にこの特製の弁当を食べていたため、『幕の内弁当』と呼ばれるようになったという説が有力である」

とある(仝上)。江戸時代になり弁当は大いに発達し、容器もいろいろくふうされてきた。提重(さげじゅう)というような豪華なものもできたが、一般には漆器、陶器、木箱などの弁当容器が使われた(本大百科全書)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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五反百姓出ず入らず


五反百姓出ず入らず(ごたんびゃくしょうでずいらず)、

という諺がある(臼田甚五郎監修『ことわざ辞典』)。手元のことわざ辞典にも載らないが、

五反歩の耕地をもっている百姓は、金が残りもせず、借金もせず、また他人の手も使わず内輪の手で足り、恰度とんとんの経営であると言う事、

とあるhttp://the-kotowaza.seesaa.net/search?keyword=%E4%BA%94%E5%8F%8D

反(段)、

とは、

三百歩(坪)、

で、約千(991.7)平方メートル。十反で一町、約百(99.17)アールである。

寛政六年(一七九四)の『地方凡例録(じかたはんれいろく)』(大石久敬)「作徳凡勘定之事」では、

「農夫作徳(サクトク)の儀ハ、賦税の高下、土地の善悪、米穀并に肥養價(ヒヨウアタヒ)の尊卑、用水掛引の損益等にて、国々村々一定せずして作徳の多少ハ悉く差(タガヒ)あり……一概の勘定ハ會て成りがたしといへども、国政に携ハる人は此大旨を知ずんばあるべからず、故に此概略(アラマシ)を左に記す。仮令バ上州群馬郡(グンバゴホリ)辺両毛作の場所に小百姓壱軒ありて、此家内を五人暮しとなし、其内老幼不用のもの弐人、耕作の働等をなすもの三人としたる凡そ積りの勘定左の如し」

として、以下のように、田畑五反五畝歩の農家の収支試算をしている。

 収入は、
中田四反歩−米六石七斗二升、此代金八両。麦六石四斗、此代金四両一分二朱永四十二文七分。
中畑一反五畝歩−麦二石四斗、此代金一両二分永百文。雑穀類等(大豆・稗・粟・小豆・芋)、此代金一両三分二朱永二十二文五分(他に菜・大根・茄子・大角豆の類の収穫があるが計算外)。
合計金十五両三分二朱永三十九文三分
 支出は、
年貢、作方諸雑用費(雇人夫・雇馬・肥料代)、合計金七両永六十七文一分。
 差引残金八両三分永九十七文二分。
 作徳の分
  此遣方
 金八両一分永十文(麦十二石三斗九升)
 一家五人の一人平均一日七合宛の一年間の食用分
 金二両 一家五人の塩・味噌・薪・衣帯・農具修復等の諸雑費
 合計金十両三分永十文

 とし、差引不足が一両一分二朱永三十七文八分としている(飯野亮一「地方書による近世農民の食生活」)。

この不足について、久敬は、

「右の作徳勘定ハ不足立て、百姓世話に引合がたしと雖も、夫食(ブジキ)の儀は麦計り食するにもあらず、粟(アハ)・稗(ヒエ)・菜物・木葉・草根をも加へ、又は米拵への砕(クダケ)・粃(シイナ)の落溢(ヲチアブ)れも取集めて食するこ
となれバ、前書積(ツモ)り丈の夫食(ブジキ)入用ハ掛らず」

と、麦に粟や稗などを混ぜた雑穀食を食べることにより、この不足分は補えるとしている。また、諸雑費二両については、

「家内五人暮しの者の諸雑用(ショゾウヨウ)ハ金弐両にては不足なれども、何国(イヅク)にても農業の外に少し充(ヅヽ)の稼(カセギ)ハあるものなり、分て上州ハ蚕飼(カイコ)あり煙草作(サク)あり、又何れの村々にても縞木綿(シマモメン)を織出し、自分の着用にもし、又売出す処もあり、或ハ筵(ムシロ)を織り縄を綯(ナ)ひ、山方ハ材木を伐(キリ)出し炭薪(スミタキギ)を出し、海川附の村々は漁猟(ギョレウ)をもいたし、都合の近里(キンリ)ハ菜園を重に作りて売出し、其外農業の間(イトマ)男女とも其処に仕馴たる相応の稼(カセギ)ありて、少々の助成(ジョセイ)を以て取つづくことなり」

と説明している、とある(仝上)。随分な言いようであるが、田畑五反五畝歩で、この体たらくである。ぎりぎりの分水嶺である。

五反百姓出ず入らず、

の、トントンとはこの程度を指す。ちなみに、

地方凡例録(じかたはんれいろく)、

は、高崎藩主松平輝和(てるやす)の命令を受けた郡奉行大石久敬が著した地方書(じかたしょ)。つまり(地方(じかた)支配(所領支配)に関する手引書である。内容は、

総論から始まり、石高・検地・新田開発・度量衡・義倉など、領主及びその代官・役人が地方(領地)支配を行うにあたって重要な事柄についての解説がほぼ網羅されている、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%87%A1%E4%BE%8B%E9%8C%B2

作徳(さくとく)、

とは、年貢を支払った後に手元に残る分の意。夫食(ぶじき)は、農民の食料一般をさす。夫食は米以外の雑穀が中心で、芋やこんにゃくを主食とした地方もある。中田、中畑とあるのは、土地の等級が、田だと、上田、中田、下田、荒田、畑なら、上畑、中畑、下畑、とある中の「中等」の意。

「近世では一人前の男が一年に消費する米の量は一石(玄米で一五〇キロキグラム)から二石、また夫婦と子供・親の五人から六人の家族が自らを自力で維持していくことのできる標準的な規模は、裏作も可能な田畑を合わせて五反五畝程度、石高にして八石前後の所持であった。表作の米は年貢・諸役(貢租)として徴収され、裏作の麦を主食としながら、である。麦は米とほぼ同じ収量を期待できるから、五反以上の高持百姓は再生産が可能で、上手くやれば、いくらかの蓄積も可能なる。但し、これは裏作の不可能な地域では通用しない。
それに反して、五反(約八石)以下の百姓はかなり苦しい。五反が家族を含めた自給自足の限度、再生産経営の一般的基準である」

とあるが(渡邊忠司『近世社会と百姓成立―構造論的研究』)、たとえば、江戸時代初期、田5反、畑5反の小農。家族は夫婦と子供1人、下男の構成で、

収入
田(5反) 米 7.5石
畑(5反) 雑穀 15.0石
 収入合計 22.5石
支出
年貢 4.5石 三ツ取(三公七民として)
飯料 12.0石 馬1匹分2石を含む
衣類、下人給金、馬損料、農具・馬具その他の雑費 6.0石 金4両相当
支出合計 22.5石 差し引きなし

という例があるhttp://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J071.htm。これでトントンだが、四ツ取(6石)とすると1.5石の不足になる。何かあれば、窮する状態である。

「高持百姓である以上、所持高の多少に関わりなく年貢や諸役の負担がある」のである。高持百姓、つまり、

本百姓、

とは、

高請地(たかうけち)、つまり、

検地帳に登録され年貢賦課の対象とされた耕地(田畑)および屋敷地、

を所持し、検地帳に登録された農民は、江戸時代中・後期になると、商品経済の波にのまれ、このレベルでさえ、かつかつである。しかもこれ以上は少数派、過半は、三反、四反以下、飢饉がくればひとたまりもない。ましてそれ以下、無高百姓、水飲百姓の窮乏は目を覆うばかりである。

高持百姓http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.htmlで触れたように、

「不勝手之百姓ハ例年質物ヲ置諸色廻仕候」

と,

「春には冬の衣類・家財を質に置いて借金をして稲や綿の植え付けをし,秋の収穫で補填して質からだし,年貢納入やその他の不足分や生活費用の補填は再度夏の衣類から,種籾まで質に入れて年越しをして,また春になればその逆をするという状態にあった」

のであり、つまり、

「零細小高持百姓の経営は危機的であった」(仝上)

のである。摂津国を例にしているが,寒冷地では,もっと厳しい状態で,近世慢性的に飢饉が頻発した背景が窺い知れるのである。

近世の飢饉http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html

についてはすでに触れた。

参考文献;
臼田甚五郎監修『ことわざ辞典』http://the-kotowaza.seesaa.net/article/448845714.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立―構造論的研究 』(佛教大学研究叢書)

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きじやき


「きじやき」は、

雉焼、
雉子焼、

とも当てる。

雉焼豆腐の略、
雉が美味なので、それに似せた料理。カツオ・マクロなどの切身を醤油と味醂を合わせた汁に浸して焼く、
鴫焼に同じ、

と載る(広辞苑)。或いは、

マグロ・カツオなどの魚の切り身を、生姜(しようが)の汁を入れた醬油でつけ焼きにしたもの、

とも載る(大辞林)。鴫焼と同じと載る(広辞苑・大辞林)が、鴫焼http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%97%E3%81%8E%E3%82%84%E3%81%8Dで触れたように、山椒味噌をつけるか、醤油付焼にするので、どこかで、混同されたのかもしれないが、同じではない。「しぎやき」の項で、

「江戸での呼称であったことが《料理網目調味抄》(1730)などに見える。もともとはシギそのものを焼いた料理であったが,きじ焼がキジの焼物から豆腐,さらには魚の切身の焼物へと変化したのと同様,ナスの料理へと変わったものである。」

とある(世界大百科事典)ことには触れた。

「鴫焼は茄子の田楽、…醤油で味つけしたものは、どちらかといえば『きじ焼き(雉焼き)』に近いのではないでしょうか?」

ということhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/392518.htmlからの、混同なのかもしれないが。

「雉焼」は、

「本来は、名前通り美味で知られる雉の肉を焼く料理であったが、徐々に変化して今では雉を使うことはほぼ無く、献立名だけが残った例である。鳥類で最も美味しいのが雉であるとされた為で、これも『あやかり料理』の一種といえよう。始めのうちは身の色が似ている『カツオ』の漬け焼きを雉焼きと呼んでいたが、徐々に対象が広がり、サバ、ブリ、マグロも範疇に。その後鶏肉、獣肉でも『雉焼き』の対象になって今に至る。つまり正確には『雉肉ふう・・・』である。赤身の魚は焼くと身がパサつくので、ごま油等油を塗り補助する。油で揚げずに油を塗って、生から焼いてもよい」

とあるhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/6_G/010.htmlのが正確のようである。

「焼きものの一つで、とり肉や、かつお、ぶり、さばなどの魚の切り身などの材料を、しょうゆ、みりん、酒で作った漬け汁に漬けて焼いたもののこと。室町時代から江戸時代まで、きじは鳥類の中では美味とされ、そのきじの肉を味わってみたいというところから生まれた擬似料理が始まりといわれる。材料は、一般では魚、精進料理では豆腐が使われた。」

ともあるhttps://www.lettuceclub.net/recipe/dictionary-cook/211/。岩波古語辞典には、「きじやき」は、

「豆腐を小さく切り、塩または薄醤油を付けて焼き、燗酒をかけた料理。雉焼き料理」

としか載らない。ところが、江戸語大辞典は、

「まぐろ・鰹の切身を醤油に付けて焼くこと、またその物」

とのみ載る。江戸時代、既に、雉は使えなかったようである。大言海は、

「元は、雉の肉を鹽焼にしたるを用ゐき、その料理法の魚肉、豆腐に移りたるなり鴫焼、狸汁皆同じ」

と載せ、併せ、「きじざけ(雉酒)」の項で、

「雉の肉の鹽焼に、熱燗の酒を注ぎたるもの。元旦の供御に奉る」

とある。

足利時代の天文年間(1532〜55)の『犬筑波集』という山崎宗鑑の蓮歌本に、精進の汁にまじって不精進の雉焼があったが、よくよくみたら豆腐だったという作がある(たべもの語源辞典)、という。寛永二十年(1642)の『料理物語』に、

「きじやきは、豆腐を小さく切って塩をつけて焼いたものだとある」

ともあり(仝上)、この時代、「きじやき」は、

豆腐料理、

であったようだ。

つまり、「雉子焼」とは、

雉子焼豆腐の略、

であった(仝上)。大言海は、

「豆腐を二寸四方、厚さ五六分に切りて焼き、薄醤油にて味を付け、酒を沸して注けたるもの。酒のみ飲みて、豆腐は食はすものと云ふ。正月の佳例に供したり」

と書く。

「きじの肉が白いので豆腐の白をこれにたとえた」

ともいわれる(世界の料理がわかる辞典)。しかし、

「他に鮪・鰹などの魚の切身を醤油でつけやきにしたものも、きじやきといった。料理名には『きじやきでんがく』などあり、豆腐に串をさして狐色に焼いて猪口に煮返しの醤油に摺柚子を添えて出した。ただの豆腐のきじやきは、塩をつけて焼いたところに熱い酒をかけて食べた」

とある(たべもの語源辞典)。

野鳥は古くから食用にしており、焼きキジのおいしさは昔から一般に知られていた。このキジの味に近い味をほかの材料を用いてつくり、それをきじ焼きと名づけた、ということらしい。

「現在は魚鳥肉を用いてしょうゆのつけ焼きにかじ焼きの名称をつけることが多く、色彩だけが似ている場合もある」

とある(日本大百科全書)。なお、「きじ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%82%AD%E3%82%B8については触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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雉も鳴かずば


「きじ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%82%AD%E3%82%B8については、触れたことがあるが、少し補足的に追加しておきたい。

「雉」(漢音チ、呉音ジ)は、

「会意兼形声。『隹+音符矢(シ・チ)』で、真っすぐ矢のように飛ぶ鳥の意。転じて、真っすぐな直線をはかる単位に用いる」

とある(漢字源)。

「矢は直線状に数十mとんで、地に落ちる。つまり雉とは『矢のように飛ぶ鳥』という意味である。特に雄キジの飛び方をよく表している」

とあるhttp://yachohabataki2.sakura.ne.jp/torinokotowaza%20kiji.htm

「繁殖期のオスは赤い肉腫が肥大し、縄張り争いのために赤いものに対して攻撃的になり、『ケーン』と大声で鳴き縄張り宣言をする。その後両翼を広げて胴体に打ちつけてブルブル羽音を立てる動作が、『母衣打ち(ほろうち)』と呼ばれる。メスは『チョッチョッ』と鳴く」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8

「きじ」は、

日本の国鳥、

であるが、国内の多くの自治体で「市町村の鳥」に指定されているにも関わらず、国鳥が狩猟対象となっているのは、世界でも珍しい例、とされる。

「日本のキジは毎年、愛鳥週間や狩猟期間前などの時期に大量に放鳥される。2004年(平成16年)度には全国で約10万羽が放鳥され、約半数が鳥獣保護区・休猟区へ、残る半数が可猟区域に放たれている。(中略)放鳥キジには足環が付いており、狩猟で捕獲された場合は報告する仕組みになっているが、捕獲報告は各都道府県ともに数羽程度で、一般的に養殖キジのほとんどが動物やワシ類などに捕食されていると考えられている。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8

「『記紀』において天津神が天若日子(あめのわかひこ)のもとへ雉を遣わしたように、古くから神の死者とみなされていたらしく、『名言わずの鳥』という忌詞があり、特に白雉は吉兆あるものとされた」

とある(日本昔話事典)と同時に、味が美味なために、食用としても重用され、平安時代、

「宮中では、炭火で焼いた雉肉を燗酒に入れた『雉酒』を祝い酒としてふるまう習慣もあった」

とされる。「雉焼」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%84%E3%81%8D)で触れたように、「雉酒」は、

「雉の肉の鹽焼に、熱燗の酒を注ぎたるもの。元旦の供御に奉る」(大言海)

が、「雉焼」の略である「雉焼豆腐」は、

「豆腐を二寸四方、厚さ五六分に切りて焼き、薄醤油にて味を付け、酒を沸して注けたるもの。酒のみ飲みて、豆腐は食はすものと云ふ」(大言海)

のは、この「雉酒」の名残のようである。「きじ」は歌にも登場し、

春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋ひにおのがあたりを人にしれつつ(大伴家持)
武蔵野のをぐきが雉(きぎし)立ち別れ去(い)にし宵より背(せ)ろに逢はなふよ(不明)
春の野のしげき草葉の妻恋にとびたつ雉子のほろほろとなく    (平貞文)

等々と歌われる。

和語「きじ」は、すでに触れたように

古名きぎしの転、

である(岩波古語辞典)。古名には、

キギス、

もあるが、

「古名には『キギス』もあるが、『キジ』よりも新しく、『キギシ』の方が古い」

ようだ(語源由来辞典)。「きぎ」は、おそらく、

鳴き声、

から来た擬音語で(岩波古語辞典・語源由来辞典)、「キギシ」「キギス」の「シ」「ス」は、「カラス」「ウグイス」「ホトトギス」でなじみの、鳥を表す接尾語である。

「キギは鳴く聲。キキン,今はケンケンと云ふ。シはスと通ず。鳥に添ふる一種の音。…キギシのキギスと轉じ(夷(えみじ),エビス),今は約めてキジとなる」(大言海)

「万葉東歌,記紀歌謡の仮名表記には『きぎし』とあり,古くは多く『きぎし』と呼ばれていたが,『古今六条』には『きじ』が六首,『きぎす』が二首見られる。後者は共に万葉の歌だが,『きぎし』から『きぎす』に移行した時期は不明」(日本語源大辞典)

ということのようだ。

「雉」は、馴染みの鳥でもあるが、神の使者でもあり、桃太郎に雉が登場するのも、そんな由来からのようである(日本昔話事典)が、そのせいか、雉にまつわる諺は多い。

朝雉が鳴くは晴れ、夜鳴くは地震の兆(きざし)、
雉が三声つづけて三度叫ぶと地震あり、
雉、鶏が不時に鳴けば地震あり

と地震予知に関するものもあるが、

雉の草隠れ、
焼け野の雉子、夜の鶴、
多勢に無勢、雉と鷹、
雉子(きぎし)の頻使い、

と雉にからむ諺は少なくない(たとえば、http://yachohabataki2.sakura.ne.jp/torinokotowaza%20kiji.htm、故事ことわざの辞典)。しかし、

ものいわじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射たれざらまし、

の歌に由来する、

キジも鳴かずば射たれまい、

の諺ほど有名なものはあるまい。「長柄(ながら)の人柱」という伝説に由来する。

「むかし長柄橋を架設するとき、工事が難渋して困惑しきった橋奉行らが、雉の鳴声を聞きながら相談していると、一人の男が妻と2、3歳の子供を連れて通りかかり、材木に腰掛けて休息しながら、『袴の綻びを白布でつづった人をこの橋の人柱にしたらうまくいくだろう』とふとつぶやいた。ところがその男自身の袴がそのとおりだったため、たちまち男は橋奉行らに捕らえられて人柱にされてしまった。それを悲しんだ妻は『ものいへば父はながらの橋柱 なかずば雉もとらえざらまし』という歌を残して淀川に身を投じてしまった。」(神道集)

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9F%84%E6%A9%8Bが、異説も多く、室町時代の『康富記』には、長柄橋に、子を負った女の人柱を立てた伝、男の人柱を立てたと伝える猿楽のある旨が記されている(日本伝奇伝説大辞典)。また、元禄年間の地誌『摂陽群談』に、

「西成郡垂水村の長者岩氏が人柱になったとある。岩氏には光照と呼ばれるほど美貌の娘がいたが、唖のように言葉を発することなく成長した。嫁いでもものをいうことがなく、実家に送り帰されることになった。その道中、夫が雉を射るのを見てはじめて声を発し、『物言じ父は長柄の橋柱鳴かずば雉子も射られざらまし』と吟じた。後に出家、自ら不言尼と称して父の後世を弔った」

とある(仝上)。また、あるいは、

「昔、摂津の長柄川で橋を架ける工事が行われたが、幾度、架けても流されるので、人柱を立てようということになった。そのとき、長柄の里の長者が『袴につづれのある者を人柱に立てよう』いった。ところが、袴につづれのあったのは言い出した長者自身だった。
 里人たちは、有無を言わせず、長者を捕らえて、長者を人柱にし、橋が出来上がった。長者には河内に嫁いだ娘がいたが、その娘は、この話を聞いて一言も口をきかなくなった。愛想をつかした夫は、摂津まで送り返そうと連れだって家を出て、交野まで来たとき、草むらで、『ケン ケン』とキジが鳴いた。夫は弓矢で射ろうとすると、娘は、懸命に止めた。夫は、いぶかしそうにしていると、娘は、口を開き、こんな歌を詠んだ。『ものいはじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射られざらまし』。夫は心をうたれ、娘にわび、二人で河内にもどり、仲良く暮らしたという。」

という話もあるhttp://yachohabataki2.sakura.ne.jp/torinokotowaza%20kiji.htm

長柄橋は、

「嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月再び長柄橋を造らしむ、人柱は此時なり(1798(寛政10)/秋里籬島/攝津名所圖會)(なお推古天皇の21年架橋との説もある。)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9F%84%E6%A9%8B、長柄橋の名は、古代より存在した。現在の橋は、大阪市大淀区と東淀川区との間にかかっているが、往古は、現在の大阪市淀川区東三国付近と吹田市付近とを結んでいたとされている、が、正確な場所についてははっきりしない(仝上)。攝津名所圖會(寛政年間)には、

「此橋の旧跡古来よりさだかならず、何れの世に架初めて、何れの世に朽壊れけん、これ又文明ならず、橋杭と称する朽木所々にあり、今田畑より掘出す事もあり、其所一挙ならず」

とある(日本伝奇伝説大辞典)。にもかかわらず、摂関時代以後の中世に、この存在しない橋が貴族たちの間で「天下第一の名橋」と称され、歌や文学作品に多数取り上げられることとなった(仝上)。

ながら、ふる、朽つなどの意味を引く句として、

わればかり長柄の橋は朽ちにけり なにはの事もふるが悲しき(赤染衛門)
君が代に今もつくらば津の国の ながらの橋や千度わたらん(藤原家隆)

等々(仝上)、多くの歌人に詠まれたが、

時代が下がるにつれて、跡や跡なしに用いられるにいたる(仝上)。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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めし


「めし」は、

飯、

と当てる。「飯」(漢音ハン、呉音ボン)は、

「会意兼形声。『食+音符反(バラバラになる→ふやける、ふくれる)』で、米粒がふやけてばらばらに煮えた玄米のめし」

とある(漢字源)。

米を炊いたもの、

の意から、

時を定めてする食事、

の意に広げて使う。「めし」にあたる同意のことばには、

「ごはん・ごぜん・おぜん・こご・やわら・まま・まんま・いい・ひいめし・おだい(御台)・だいばん・おもの・ぐご(供御)・ごれう(御料)・おほみけ(大御飯)」

等々がある(たべもの語源辞典)。

万葉集にも、

家にあれば笥(け)に盛るいひを草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る、

と歌われている「めし」は、

「『食ふ(食う)』の敬語のうち尊敬語である『召す』に由来する。日本語に継続的に生じている『敬語のインフレーション』(初めは尊敬を込めた表現でも、長く使っているとありがたみが薄れて普通またはそれ以下の表現になる)という現象により、現在はややぞんざいな表現になった。敬語のうちの丁寧語では『御飯』(ごはん)。幼児語は『まんま』。老人語は『まま』。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF。大言海は、

「聞食物(キコシメシモノ)の略。何によらず、身に受け納めるるをメスと云ふ。飯は其第一にて、人の尊びて云ひししに起こる」

と書く。

「室町時代にそれまでのイヒに代わって現れた。語源には諸説あるが、動詞メス(召す)の名詞化という説が有力である。『召す』は『呼び寄せる』『着る』『食べる』『乗る』など複数の用法を持っていたが、名詞としてはそれらの意味を共存させず、『呼び寄せること』の意味から『食べるけもの=飯』の意へと交替した」

とあり(日本語源大辞典)、本来「メス」は、

「『見(ミ)』スの尊敬語」

であった(岩波古語辞典・大言海)が、

「室町後期にはすでにオメシのようにオ(御)を冠した形も認められる」(日本語源大辞典)

と敬語の意識がなくなっていたらしい。上述のように、「めし」の語源は、「召す」とする説が大勢だが、

「中国の漢字から考えると、飯とはかならず蒸したものである」(たべもの語源辞典)

と考えると、

ムシ(蒸)の義、

とする説も、ちょっとムシ(無視)できない気がする。

ところで、日本人が米の飯を食べたのは弥生時代だが、米の飯を炊く初めは、此花開耶姫(このはなさくやひめ)が浪田(なだ、沼田)の稲を用いて飯をつくったのが最も古いことになっている(たべもの語源辞典)が、中国では、『周書』に、

黄帝が穀を蒸して飯となすとか、穀を烹(に)て粥となす、

とある(仝上)。

「穀類を煮たり蒸したりすることを古くは〈炊(かし)ぐ〉といい,のち〈炊(た)く〉というようになった。〈たく〉は燃料をたいて加熱する意と思われる。飯の炊き方には煮る方法と蒸す方法とがあり,古く日本では甑(こしき)で蒸した強飯(こわめし)を飯(いい)と呼び,水を入れて煮たものを粥(かゆ)といった。粥はその固さによって固粥(かたがゆ)と汁粥(しるかゆ)に分けられた。」(世界大百科事典)

とあり、

「飯を固粥(かたかゆ)または粥強(かゆこわ)とよび、今日の粥を汁粥(しるかゆ)といった。また固粥は姫飯(ひめいひ)とも称した。蒸した飯は強飯(こわいい)である」

とある(たべもの語源辞典)ように、飯は、

甑(こしき)、

を用いて蒸してつくられた(たべもの語源辞典)。伊勢物語に、

「飯をけこ(ざる・かご)の器物に盛ってたべるとある」

が、蒸した強(こわ)い飯であったことがわかる(たべもの語源辞典)、とある。

「甑(こしき)は古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器。需とも。竹や木などで造られた同目的のものは一般に蒸籠と呼称される。 日本各地の遺跡で発見されており、弥生時代には米を蒸すための調理道具として使われていたと考えられる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91

「昔かなえ(鼎)の上に甑をのせて飯をかしいだことが『空穂物語』にある。室町時代になると、かなえを『かま』とよんだ。飯はかしぐといい、粥は煮るというが、かしぐとは甑をつかうからであろう」

とある(たべもの語源辞典)ので、

ちょうど「こしき」が「かま」に転じるころ、「いひ」が「めし」に転換した時期のようである。

「いい(ひ)」(飯)は、

イフ(言ふ)と同根、

とあり(岩波古語辞典)、「言ふ」は、

口に出し、言葉にする意、

だが、さらに、

食(い)ふ、

とも当て、

口にする意でもある(仝上)。「イヒ」の語源には諸説あり、大言海は、

忌火(イムヒ)に縁のある語か、

と、少し曖昧だが、その説をとるのは、

イミヒ(忌火)の義(名言通)、

その他、

イは接頭語、ヒは胎芽を意味する原語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
イは発語、ヒは良しの意(東雅)、
イヒ(息霊)の義、息をつなぎとめるヒ(霊)というが、ヒは実の義であろう(日本語源=賀茂百樹)、
煮ることから、ユヒ(燖)の転(言元梯)、
ユイ(湯稲)の転後(柴門和語類集)、
「粒」の別音ipがihiに転じた語(日本語原学=与謝野寛、日本語源広辞典)

等々あるが、言ふ、食ふ、イヒ(飯)、と関連させる語源に魅力がある。言葉の音から辿るのは、語呂合わせになるきらいがある。

現在は「めし」も広く使われているが、「ごはん」という呼び方が一般的である。「ごはん」は、

「漢文の影響のうかがわれる軍記や室町時代の物語から用例」

が現れ始め(日本語源大辞典)、

「やがて女房ことばとしてこれに『お(御)』を加えた『おばん(御飯)』という語が現れる。そしてこれが広まり、江戸時代末期には『お』を『ご』に替えた」

とありhttps://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=393、『ごはん』の形になるのは、近世末期のようである(日本語源大辞典)。

「『飯』の呼び方の変遷は、イヒからメシへ、メシからゴハンへと、意識の上でより丁寧な言い方を指向した」

ようである(仝上)。「めし」が日常語として用いられるのは江戸時代以後のことである。『召す』は尊敬の動詞であるから、『めし』にも敬語意識が伴っていたと考えられる(語源由来辞典)。「めし」が位置を落として後も、確かに、「ごはん」という言い方には、なにがしか丁寧な語感がある。

「ゴハンは16世紀前半に例が見られるが、『飯』を音読したハン(日葡辞書)に、敬語の接頭語「御」をつけた語と考えられる。ゴハンは現在でも、メシに比べて上品な表現と考えられている」

とある(暮らしのことば新語源辞典)。

ところで、「めし」の、

「メという字は、芽・妻(め)・目・群(め)を意味している。また、メは未来の意を表す助辞でもある。芽はめぐむ、妻は孕むもの、目はめがでる、群はものが聚(あつ)まるという意味。シは、汝(シ)・己(シ)・其(シ)で、汝と己(おのれ)であり、指示するときに出る声である。『めし』という音には未来の喜びを示すものがある」

とある(たべもの語源辞典)。これと関連すれば、「いひ」が、

言ふ、
食ふ、

とつながるのもありえるのではないか。なお、

こめhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%93%E3%82%81
いねhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%84%E3%81%AD

については、それぞれ触れた。

参考文献;
山口佳紀編『暮らしのことば新語源辞典』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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醤油


「醤油」と「味噌」は深くつながる。「味噌」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471703618.htmlについては、すでに触れた。

「醤油」の成語の初見は、慶長二年(1597)の『易林節用集』とされる(たべもの語源辞典)。そこで、

「漿醤」に「シヤウユ」と読み仮名が振られている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。比較的新しい。

「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

「会意兼形声。『酉+音符将(細長い)』。細長く垂れる、どろどろした汁」

で、

肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、

の意と、

ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、

の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(漢字源)。

「醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、味噌から発展した液状のものが現在の日本の醤油になる。

「醤は、シシビシオである。シシは肉、だから肉の塩漬のことである。ヒシオのヒは隔つる義で、醸して久しくおくと塩と隔つのでその名とする説、また、浸塩(ひたししお)の意との説もある。またミソともよむ。漿(コンツ)と同じである。」

とある(たべもの語源辞典)。「ひしお(醤・醢)」とは、

なめみそ、

である。

味噌は鎌倉時代の精進料理の伝来のなかで大きな影響を及ぼし,寺院でのみそ作りが盛んになったという。当時は調味料としてよりも『なめみそ』扱いをされたことが『徒然草』にも記されている」

とあるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。「ひしお」は、

大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、

の意だが(日本語源大辞典)、

「醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。

「醤油は、醤からしみだし、絞り出した油(液)」

の意(たべもの語源辞典)の意であるが、室町時代に醤は「漿醤」となって、それに「シヤウユ」との訓読みが当てられた。現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞ったたまり醤油で、江戸時代に現代の醤油の製法が確立したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4

「日本では、塩を海水からとったので、塩がすぐ溶けてしまう。そこで塩の保存法として食料品と塩とを合わせた。草醤(漬物になる)・魚醤(肉醤、塩辛になる)、そして穀醤(味噌になる)があり、奈良時代に中国から唐醤(からびしお)が入り朝鮮から高麗醤(こまびしお)が入ってくる」

ことで、

「701年(大宝元年)の大宝律令に官職名として『主醤』(ひしおのつかさ)という記載が現れる。なおこの官職は、宮中の食事を取り扱う大膳職にて醤を専門に扱う一部署であった。主醤が扱ったものには、当時『未醤』(みさう・みしゃう)と書いた(現代の)味噌も含まれていた。このことから味噌も醤の仲間とされていたことがわかる。
醤の日本語の訓読みである『ひしお』の用例は平安時代の903年(延喜3年)に遡る。同年の『和名抄』(日本最古の辞書)において、醤の和名に『比之保』(ひしほ)が当てられている。また927年(延長5年)に公布された『延喜式』には、醤の醸造例が記され、『京の東市に醤を売る店51軒、西市に未醤を売る店32軒』との旨の記述もある。」

ということになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4

「多聞院日記」の1576年の記事では、

「固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当する」

と考えられる(仝上)。つまり、

「味噌ができると、その汁を『たれみそ』と称して用いた。『たまりみそ』とも『うすだれ』ともいった。醤油の現れる前は、たれみそが用いられた」

つまり、「たまり醤油」である。初見は、慶長八年(1603)の『日葡辞書』で、

「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」

との記述があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述も同書にあり、天文十七年(1548)の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている(仝上)。「たまり」の発祥は、

「後堀河天皇の安貞二年(1228)に紀伊国由良、興国寺の開山になった覚心(法燈国師)が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝えた。そして諸国行脚の途中、和歌山の湯浅の水がよいので、ここで味噌をつくり、その槽底に沈殿した液がたべものを煮るのに適していることを発見した。後、工夫して文暦元年(1234)に醤油を発明した」

と伝える(たべもの語源辞典)、とある。同趣は、

「醤油は中国からもたらされた穀醤,宋の時代に伝わった径山寺みそ,日明貿易で中国から輸入されたという説があるが,紀州湯浅での醤油は径山寺味噌から発しているという説が有力である。この説は三世紀に宋で修業をおさめた僧(覚心)が径山寺味噌をひろめ,その製作工程中の上澄み液や樽の底にたまった液を集めて調味料として利用したというものである。」

があるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を、

「紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型」

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。しかし、その他に、

「伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型」

とする説、

「500年代に記された『斉民要術』には現代の日本の味噌に似た豆醤の製造法と、その上澄み液から作る黒くて美味い液体『清醤』の製造法が詳細に記述されており、その製造法や用途から清醤が現代のたまり醤油の原型であると理解されている。たまり醤油が中国で普及していった過程において、その製造法が日本にも伝来した」

とする説等々もある(仝上)。

この時代のたまり醤油は、

「原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴なわない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった」

が、木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展した。そのため、

「麹はこうじカビを蒸した原料に職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。こうじカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに『すみ醤油』という名前で現れている。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。これが今のヒガシマル醤油である。

「龍野醤油の醸造の始りは、天正十五年(1587)から後の寛文年間(1670)に、当時の醸造業者の発案により醤油もろみに、米を糖化した甘酒を混入して絞った。色のうすい『うすくち醤油』が発明」

された、とあるhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/mame01.html。兵庫県龍野は淡口醤油発祥の地、

「もともとは酒造業が発達した地域であったものの、鉄分を含まない揖保川の水や播州赤穂の塩、播州平野の大豆など、醤油造りに適した土地柄でもありました。領主の脇坂氏の積極的な産業推進もあり、次第に醤油造りに移っていったのです」

とありhttps://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_sake-and-soysauce、龍野の醤油造りを担ったのが、地元で酒造りをしていた、または灘へ出稼ぎに出ていた播州杜氏たちであり、龍野の醤油造り唄の中には、

〽この寒いのに洗い番はどなた かわいい殿ごでなけりゃよい
〽かわいい殿ごの洗い番の時は 水は湯となれ風吹くな(龍野の醤油造り唄)

の一節があり、灘の歌にも、

〽寒や北風今日は南風 明日は浮名の巽風
〽今日の寒さに洗い番はどなた かわいい殿さの声がする
〽かわいい殿さの洗い番の時は 水も湯となれ風吹くな(丹波流酒造り唄)

というのがありhttps://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_sake-and-soysauce、酒造りの作業を醤油造りでも応用していたことがわかり、木桶を通した酒蔵と醤油蔵の関係や、蔵人たちの人的交流を通した技術の継承によって、「うすくち醤油」につながったものとみられる(仝上)。

甘酒http://ppnetwork.seesaa.net/article/470325231.htmlで触れたように、甘酒は,「昔は酒蔵が夏に手が空いた時期の副業として作られていた」のである。

淡口醤油と称する色の薄い醤油は、

「煮物に色がつかないので関西料理に愛好された。江戸では『下り醤油』と称して関西から船で運んでくる醤油を用いていたが、やがて関東の野田、銚子の醤油を用いるようになった。」

とある(たべもの語源辞典)。永禄年間(1558〜70)に、武田方にたまり醤油が野田から納められた、という記録がきろくがある、という(仝上)。

いわゆる濃口醤油は、

「紀州の浜口儀兵衛が湯浅醤油(濃口醤油)の生産を関東の銚子で始め,江戸市場をバックに醤油醸造を成功させ,現在のヤマサ醤油になっている。関東平野での大豆・麦の産地を控えて,作った醤油を水路で江戸に運搬する利便性をもとに,銚子と野田が醤油の生産地として発展していった。そして濃口醤油の利用は江戸の料理の特徴にもなっていく。」

とあるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。また、天明元年(1781)に、

「玖珂郡柳井津(現在の山口県柳井市)の高田伝兵衛によって「甘露醤油」(「再仕込み醤油」「さしみ醤油」)が開発されている」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9

ところで、俗に、調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの、

さしすせそ、

に当たる「せ」を、

せうゆ、

とするが、歴史的仮名遣いでは、

しやうゆ、

が正しいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9が、「せうゆ」は、いわゆる許容仮名遣として広く行われていたものらしい(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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