「さむらい」は, 侍, 士, と当てる。 「サブラヒの転」 とある(『広辞苑第5版』)。「さぶらひ」は 「主君のそば近くに仕える」 意であり,その人を指した。 「平安時代,親王・摂関・公卿家に仕え家務を執行した者,多く五位,六位に叙せられた」 つまり,「地下人」である。「地下(じげ)」とは, 「昇殿を許された者、特に公卿以外の四位以下の者を殿上人と言うのに対し、許されない者を地下といった。」 のである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E4%BA%BA)。さらに, 「武器をもって貴族まったく警固に任じた者。平安中期,禁裏滝口,院の北面,東宮の帯刀などの武士の称」 へと特定されていく。 「さむらい」に「士」と当てると, 「武士。中世では一般庶民を区別する凡下と区別される身分呼称で,騎馬・服装・刑罰などの面で特権的な扱いを受けた。江戸時代には幕府の旗本・諸般の中小姓以上,また士農工商のうちの士分身分の物を指す。」 とあり(『広辞苑第5版』。凡下(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E5%87%A1%E4%B8%8B)については触れたが, 「鎌倉幕府では、侍は僕従を有し、騎上の資格ある武士で、郎従等の凡下と厳重に区別する身分規定が行なわれた。しかし、鎌倉中期以降、その範囲が次第に拡大、戦国時代以降は、諸国の大名の家臣をも広く侍と称するようになり、武士一般の称として用いられるようになる。」(仝上) という。 それをメタファとして,「さむらい」というと, なかなかの人物, の意で使うらしいが,「さむらい」を褒め言葉と思うのは,僕は錯覚だ思っている。かつて,いちいち言わなくても,侍は,侍であった。 「武家」という言い方をすると, 「日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。」 のも(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6),そこから来ている。 「平安時代中期の官職や職能が特定の家系に固定化していく『家業の継承』が急速に進展していた。しかし武芸を職能とする下級貴族もまた、『兵の家』として武芸に特化した家柄を形成し、その中から軍事貴族(武家貴族)という成立期武士の中核的な存在が登場していった。これらの家系・家柄を指して『武家』もしくは『武勇の家』『武門』とも呼ばれている。」 ということになる。「さぶらふ」者に変わりはない。「さぶらひ」は, 侍ひ, 候ひ, 伺ひ, と当て, 「サモラヒの転。じっと傍で見守り,待機する意。類義語ハベリは,身を低くして貴人などのそばに坐る意」 とある(『岩波古語辞典』)。「さもらふ」は, 「サは接頭語。見守る意のモリに反復・継続の接尾語ヒのついた形」 とある(仝上)。接尾語「ひ」は, 「四段活用の動詞を作り,反復・継続の意を表す。例えば,『散り』『呼び』といえば普通一回だけ散り,呼ぶ意を表すが,『散らひ』『呼ばひ』といえば,何回も繰り返して散り,呼ぶ意をはっきりと表現する。元来は四段活用の動詞アヒ(合)で,これが動詞連用形のあとにくわわって成立したもの。その際の動詞語尾の母音の変形に三種ある。@[a]となるもの。例えば,ワタリ(渡)がウタラヒとなる。watariafi→watarafi。A[o]となるもの。例えば,ツリ(移)がツロヒとなる。uturiafi→uturofi。B[ö]となるもの。例えば,モトホリ(廻)がホトホロヒとなる。mötöföriai→mötöföröfi。これらの相異は語幹の部分の母音,a,u,öが,末尾の母音を同化する結果として生じた」」 とある(仝上)。とすると,「モリ(守)に反復・継続の接尾語ヒのついた形」の 「もり+ひ」 つまり,「もらふ」である。「さ(sa)」を付けると, samöriafi→samörafi→samurafi→saburafi→samurai, といった転訛であろうか。その経緯は, 「「サムライ」は16世紀になって登場した比較的新しい語形であり、鎌倉時代から室町時代にかけては『サブライ』、平安時代には『サブラヒ』とそれぞれ発音されていた。『サブラヒ』は動詞『サブラフ』の連用形が名詞化したものである。以下、『サブラフ』の語史について述べれば、まず奈良時代には『サモラフ』という語形で登場しており、これが遡り得る最も古い語形であると考えられる。『サモラフ』は動詞『モラフ(候)』に語調を整える接頭辞『サ』が接続したもので、『モラフ』は動詞『モル(窺・守)』に存在・継続の意の助動詞(動詞性接尾辞ともいう)『フ』が接続して生まれた語であると推定されている。その語構成からも窺えるように、『サモラフ』の原義は相手の様子をじっと窺うという意味であったが、奈良時代には既に貴人の傍らに控えて様子を窺いつつその命令が下るのを待つという意味でも使用されていた。この『サモラフ』が平安時代に母音交替を起こしていったん『サムラフ』となり、さらに子音交替を起こした結果、『サブラフ』という語形が誕生したと考えられている。『サブラフ』は『侍』の訓としても使用されていることからもわかるように、平安時代にはもっぱら貴人の側にお仕えするという意味で使用されていた。『侍』という漢字には、元来 『貴族のそばで仕えて仕事をする』という意味があるが、武士に類する武芸を家芸とする技能官人を意味するのは日本だけである。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D)。 サモラヒ→サムラヒ→サブラヒ→サムライ, と転訛したことになる(『日本語源広辞典』)。 「『初心仮名遣』には、『ふ』の表記を『む』と読むことの例の一つとして『さぶらひ(侍)』が示されており、室町期ころから、『さふらひ』と記してもサムライと発音していたらしい。一般的に『さむらひ』と表記するようになるのは、江戸中期以降である。」(『精選版 日本国語大辞典』『日本語源大辞典』) 「さぶらふ」(その名詞形「さぶらひ」)の原義,「主君の側近くで面倒を見ること、またその人」が, 「朝廷に仕える官人でありながら同時に上級貴族に伺候した中下級の技能官人層を指すようになり、そこからそうした技能官人の一角を構成した『武士』を指すようになった。つまり、最初は武士のみならず、明法家などの他の中下級技能官人も『侍』とされたのであり、そこに武人を意味する要素はなかったのである。…『サブラヒ』はその後『サブライ』→『サムライ』と語形変化を遂げていったが、地位に関係なく武士全般をこの種の語で呼ぶようになったのは、江戸時代近くからであり、それまでは貴族や将軍などの家臣である上級武士に限定されていた。 17世紀初頭に刊行された『日葡辞書』では、Bushi(ブシ)やMononofu(モノノフ)はそれぞれ『武人』『軍人』を意味するポルトガル語の訳語が与えられているのに対して、Saburai(サブライ)は『貴人、または尊敬すべき人』と訳されており、侍が武士階層の中でも、特別な存在と見識が既に広まっていた。」 その時代,「凡下」も意味を変える。 「元は仏教用語で『世の愚かな人たち』『世の人』(『往生要集』)などを指す語として用いられていた。これが一般社会においては官位を持たない無位の人々(白丁)の意味で使われた。後に武士(侍)が力を持ち始めると、武士の身分と官位には関連性が無かったために武士の中には有位の者も無位の者もいた。そのため、無位を含めた武士層と対置する無位の庶民に対する身分呼称として雑人とともに凡下が用いられるようになった。」 武士の台頭によって,相対的に他を呼ぶ呼称が変わったことになる。 かつては,武家の従者の,地位の高い者を郎党、低い者を従類といった。武家の従者で主人と血縁関係のある一族・子弟を家子と呼んだ。従類は、郎党の下の若党、悴者(かせもの)を指す。家子・郎等・従類は、皆姓を持ち、合戦では最後まで主人と運命を共にする。この下に,中間、小者、あらしこ、という戦場で主人を助けて馬を引き、鑓、弓、挟(はさみ)箱等々を持つ下人がいる。身分は中間・小者・荒子(あらしこ)の順。あらしこが武家奉公人の最下層。中間(ちゅうげん)、小者(こもの)、荒子(あらしこ)まで武士身分に位置づけられる(天正19年(1569)の秀吉の身分統制令)。ここまでを武家奉公人と呼び,「士」とした。凡下ではないのである。だから,江戸時代以前では主家に仕える(奉公する)武士も含めて単に奉公人と呼んだが,江戸時代以降は中間や小者は非武士身分とされた。まあ,戦のない時代,武家にとって無用となったということだろか。 「江戸時代の法制面では、幕臣中の御目見(おめみえ)以上、即ち旗本を侍と呼び、徒(かち)・中間(ちゅうげん)などの下級武士とは明確に区別した。諸藩の家臣についても、幕府は中小姓以上を侍とみなした。」(仝上) とある。江戸時代,「さむらい」の意味をまた変えたのである。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
「かぶく」は,「傾く」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E5%82%BE%E3%81%8F)で触れたように,『大言海』は, 「頭(カブ)を活用せしむ(頭(かぶ)す(傾),頭(かぶ)る(被)同じ),まくらく(枕),かづらく(鬘)の例なり,頭重く,ウハカブキになる意より,傾く義となる」 とし,「うはかぶき(上傾き)」とは, 物の頭がちにて,傾くこと, つまり, 頭でっかち, であり,さらに, 派手で上っ調子なこと, の意がある(『岩波古語辞典』)。この意が, かぶきもの(傾者), 異様な風体をして大道を横行する軽佻浮薄の遊侠の徒, を指すのにつながる。「かぶく」 には, 傾く, つまり, 常軌を逸する, 意と,そこに, 自由奔放さ, へのちょっとした憧憬も含意しているように思える。 「『かぶく』の『かぶ』は『頭』の古称といわれ、『頭を傾ける』が本来の意味であったが、頭を傾けるような行動という意味から『常識外れ』や『異様な風体』を表すようになった。」 とある(http://gogen-allguide.com/ka/kabuki.html)のは飛躍で,「傾く」自体に, 一定の基準(水平または垂直)から片方へそれる, という意があり(『広辞苑第5版』),「かぶく」のもつ「傾く」意そのものに, 外れている, という含意がある。 むしろ, 「かぶくとは、どっちかに偏って真っすぐではないさまをいい、そこから転じて、人生を斜(しゃ)に構えたような人、身形(みなり)や言動の風変わりな人、アウトロー的な人などを『かぶきもの』と呼んだ。」 というほうが正確である(http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/kabuki/kabuki040111.html)。 で,そこから転じて, 「風体や行動が華美であることや,色めいた振る舞いなどをさすようになり,そのような身なり振る舞いをする者を『かぶき者』といい,時代の美意識を示す俗語として天正(1573〜92年)頃流行した。」(仝上) となる。「かぶき者(傾奇者、歌舞伎者とも表記)」は, 「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596年〜1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%81%8D%E8%80%85)。その風体は, 「当時男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通だった。しかし、かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。他にも天鵞絨(ビロード)の襟や立髪や大髭、大額、鬢きり、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、大鍔、大煙管などの異形・異様な風体が『かぶきたるさま』として流行した。」 という(仝上)織田信長も「かぶき者」といわれるだけの風体だったことになる。 これが,現代の歌舞伎となったのは, 「17世紀初頭,出雲大社の巫女『出雲の阿国(おくに)』と呼ばれた女性の踊りが,斬新で派手な風俗を取り込んでいたためも『かぶき踊り』と称されたことによる。」 という(仝上)。これは, 「その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢たちに、その美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていく。」 ことになる(仝上)。 『日本語源広辞典』は,「かぶき」の語源について, 「語源は,唐の時代の『仮婦戯(仮に女になる芝居)』で,中国語源です。通説は,『動詞カブクの連用形』ですが,疑問」 とする。しかし,唐代のものが,天正から,慶長にかけて流行った風体を「かぶき者」と呼んだ理由が,これでは説明が付かない気がする。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
「かち」に, 徒士, と当てると, 徒士侍, 徒侍, 御徒(おかち), の意である。今駅名に残る,御徒町は,この「御徒」に由来する。つまり,「徒士」は, 江戸時代,幕府・諸藩とも御目見得以下の,騎馬を許されぬ軽輩の武士, を指すが, 御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する, という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%BE%92%E7%94%BA)。 「江戸幕府における徒歩組(かちぐみ)は、徳川家康が慶長8年(1603年)に9組をもって成立した。以後、人員・組数を増やし、幕府安定期には20組が徒歩頭(徒頭とも。若年寄管轄)の下にあり、各組毎に2人の組頭(徒組頭とも)が、その下に各組28人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は70俵5人扶持。礼服は熨斗目・白帷子、平服は黒縮緬の羽織・無紋の袴。家格は当初抱席(かかえぜき)だったが、文久2年(1862年)に譜代となった。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E5%A3%AB)。この地名は城下町であればどこにでもある地名でもある,とか。 「徒士」つまり,徒歩の侍は,鎌倉・室町時代の, 走衆(はしりしゅう), に由来する。 「将軍出行の際,徒歩で随行して,警固および諸雑用にあたる下級の職。徒士衆(かちしゆう),歩走(かちはしり)ともいい,…鎌倉将軍の上洛や出行などの供衆の行列の中に,しばしば〈歩走〉〈歩行衆〉とみえ,すでに鎌倉期の将軍出行に,徒歩で従う警固の士の存在がうかがわれるが,室町期になると幕府職制として成立し,職掌も定まった。将軍の外出に際しては護衛として供奉(ぐぶ)し,つねにその身辺を警戒して狼藉(ろうぜき)者を取り締まる。」 とあり(『世界大百科事典 第2版』),室町期になると幕府職制として成立し,職掌も定まった,という。 「走衆」は, 徒士衆, 歩衆, とも言い, 「歩とは江戸時代に徒士と書き,江戸幕府では将軍直属の歩兵隊員で,御譜代格の下級武士であるから御家人といい直参の総称に含まれる。安土桃山時代の各大名も用いている大名直属の歩兵隊員で,長柄組・鉄砲組・弓組と同格でありながら,矢張り直属という重みで待遇,格を異にする」 とある(『武家戦陣資料事典』)。要は,「徒士」は, 「主人直属の歩卒。歩衆は常に旗本にあって、警衛雑用を務める。室町幕府の走衆は、戦時に主君の旗本に備え、平時には行列供方(ともがた)の先導や主人の身辺警固にあたった。」 という(仝上)。この統率者を徒士頭、歩頭(ほがしら)という。これは, 「歩頭は物見使番の役たるべし。…歩者を預かる人は第一に物見、第二に伏、第三に夜討の心懸けあるべし、或は御馬のあたりを心掛け、退口、或は馬の不及(およばぬ)所をも、自由に働き潔し、されは歩(ほ)の衆といふ」 とある(軍侍用集)。伏(ふせ)は、伏兵。伏隠、待伏の意。 「近代軍制でいうと、馬上の資格がある侍(馬廻組以上)が士官に相当し、徒士は下士官に相当する。徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別される。戦場では主君の前駆をなし、平時は城内の護衛(徒士組)や中間管理職的な行政職(徒目付、勘定奉行の配下など)に従事した。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E5%A3%AB)。足軽とは区別される。 足軽(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E8%B6%B3%E8%BB%BD)については触れた。 武士の身分,士分は, 「『侍』と『徒士(かち)』に分けられる。これは南北朝時代以降、戦場への動員人数が激増して徒歩での集団戦が主体となり、騎馬戦闘を行う戦闘局面が比較的限定されるようになっても、本来の武士であるか否かは騎馬戦闘を家業とする層か否かという基準での線引きが後世まで保持されていったためである。」 「侍」は, 「本来の武士であり、所領(知行)を持ち、戦のときは馬に乗る者で『御目見え』の資格を持つ。江戸時代の記録には騎士と表記され、これは徒士との比較語である。また、上士とも呼ばれる。『徒士』は扶持米をもらい、徒歩で戦うもので、『御目見え』の資格を持たない。下士、軽輩、無足などとも呼ばれる。」 という区別である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB)。 「『侍』の内、1000石程度以上の者は大身(たいしん)、人持ちと呼ばれることがあり、戦のときは備の侍大将となり、平時は奉行職等を歴任し、抜擢されて側用人や仕置き家老となることもある。それ以下の『侍』は平侍(ひらざむらい)、平士、馬乗りなどと呼ばれる。」 諸藩は多く、騎士(上士)・徒士(かち)(下士)・足軽(卒)と藩士を分け、 将・士・卒, という言い方をするが,将とは, 上士, を指し, 下士, が,「徒士」に当たる。 卒, は足軽で,足軽以下は軽輩と呼ばれ、士分とは見なされない。たとえば, 幕府の旗本は「侍」、御家人は「徒士」, 幕府の役所で,与力は本来は寄騎、つまり戦のたびに臨時の主従関係を結ぶ武士に由来する騎馬戦士身分で「侍」、同心は「徒士」, 代官所の下役である手付は「侍」、手代は「徒士」, 等々である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB)。この差は,維新後も, 一門以下平士ニ至ル迄総テ士族ト可称事, とし,足軽以下は, 卒族, とされた。それ以下は, 平民, である。 参考文献; 笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房) 「ところてん」は, 心太, 瓊脂, と当てる。 「『心太(こころぶと)』をココロティと呼んだものの転か」 とある(『広辞苑第5版』)。『大言海』も, 「心太(ココロブト)を心太(ココロティ)と讀みたることより轉ず」 としている。ただ,これは,「心太」と当てた以降の転訛をいっているだけで,なぜ「心太」と当てたかはこれでは,わからない。 そもそも「ところてんは」, 「テングサを煮 溶かす製法は遣唐使が持ち帰った」 とされる(http://gogen-allguide.com/to/tokoroten.html)が, 「中国から伝わったとされる。海草を煮たスープを放置したところ偶然にできた産物と考えられ、かなりの歴史があると思われる。」 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A6%E3%82%93)。 「古く『和名類聚抄』(承平4年(934)頃成立。醍醐天皇第4皇女・勤子の依頼で作成した百科事典)にも読まれていますが、その語源はところてんの原料である天草(テンクサ)が煮るとドロドロに溶け、さめて煮こごる藻であるところから、こごる藻葉(コゴルモハ)と呼ばれ、これからできる製品を「ココロブト」と呼んでいました。」 とあり(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213754542), 「和名で『凝海藻(こるもは)』といい,また『こごろも』ともいう。これを煮るとこごる(凝る)からである。コゴロモをココロブトと訛って,俗に心太の二字を用いて,室町時代にはココロブトを訛ってココロティ,それをさらに訛ってココロテン,これがさらに訛って江戸時代にはトコロテンとなった」 とある(『たべもの語源辞典』)。「こるもは」というのは, 「『十巻本和名抄−九』に,『大凝菜 楊氏漢語抄云大凝菜(古々呂布度)本朝式云凝海藻(古流藻毛波 俗用心太読与大凝菜同)』とあるように凝海藻で作った食品を平安時代にはコルモハといい,俗に心太の字をあてて,ココロフトと称していたのである。この『凝海藻』の文字は古くは大宝令の賦役令にあらわれる。」 とある(『日本語源大辞典』)。この「こころふと」が,室町時代, 「『七十一番職人歌合-七十一番』の「心太うり」の歌には, 「うらぼんのなかばの秋のよもすがら月にすますや我心てい(略)右は,うらぼんのよもすがら,心ぶとうることしかり。心ていきく心地す」 と,ココロティとある(仝上)。で, コゴルモハ→コルモハ→コゴロモ→ココロブト→ココロフト→心太→ココロティ→ココロテン→トコロテン, という転訛,ということになる。「心太」と当ててから, 「ココロフト→ココロタイ→ココロテイ→→ココロテン→トコロテン, と訓みが転訛しているだけだから,そもそも「こころぶと」となった謂れが,問題になる「ココロブト」となったのは, 「『こころふと』の『こころ』は『凝る』が転じたもので,『ふと』は『太い海藻』を意味していると考えられている」 ものの未詳(http://gogen-allguide.com/to/tokoroten.html)とし,それに「心太」と当て,湯桶読みで「こころてい」と呼ばれるようになった,とする。湯桶読みとは, 「日本語における熟語の変則的な読み方の一つ。漢字2字の熟語の上の字を訓として、下の字を音として読む「湯桶」(ゆトウ)のような熟語の読みの総称」 をいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%A1%B6%E8%AA%AD%E3%81%BF)。 『日本語源広辞典』は, 「凝る(コゴル・トゴル・音韻変化トゴォロル)+テン(天・てんぐさ)」 とする。『日本語の語源』は,独自に, 「煮て溶解した天草のことをトクルテングサ(溶くる天草)といったのが,ク・ルの母交(母韻交替)[uo],クサの脱落で,トコロテン(心太)になった」 とするが,トクルテングサからいきなりトコロテンは,歴史的に見て,飛躍が過ぎる気がするが, 「古くは正倉院の書物中に心天と記されていることから奈良時代にはすでにこころてんまたはところてんと呼ばれていたようである。」 とも言われるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A6%E3%82%93)ので,なかなか難しい。 一応, コゴルモハ→コルモハ→コゴロモ→ココロブト→ココロフト→心太→ココロティ→ココロテン→トコロテン, という転訛になったとしておく。 江時代,暑さがやってくるころ「ところてん売り」が街中を歩いた,という。その売り声は、「ところてんや、てんや」。この売り声を, 心天(ところてん)売は一本ン半に呼び(『誹風柳多留』) 詠(よ)んだ川柳があるとか。ところてんを数えるのを1本、2本と言ったようで、呼び声が一度と半分であることをうがった句であるとか(https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p042/)。 「幕末近くの上方生まれの喜多川守貞(きたがわもりさだ)は随筆『守貞謾稿(もりさだまんこう)』で、京都や大坂では砂糖をかけて食べ、ところてん1箇が1文(もん)で、江戸では白糖(精製した砂糖で贅沢品)か、醤油をかけて食べ、1箇が2文だと伝えている。今でも関西では、ところてんに甘い蜜をかけて食べるというが、江戸時代以来の食べ方である。」 という(仝上)江戸時代,「ところてんや」は,こんな売り声だったらしい。寅さんの口上である。 さあつきますぞ/\ 音羽の滝のいとさくら ちらちらおちるは星くだり それ天上まてつきあげて やんわりうけもち すべるはしりもち しだれ柳にしだれ梅 さきもそろうてきれぬをしようくわん あいあい 只今 あげます/\ 等々(https://www.benricho.org/Unchiku/edo-syokunin/11-kinseiryukosyonin/20.html) 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「もののふ」は, 武士, と当てるが, サムライ, とは由来を異にする。サムライ(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4)はすでに触れた。 『実用日本語表現辞典』には,「もののふ」は, 「武士」の読みの一種。武道を修めた戦士を指す語, と, 「物部」の読みの一種,ニギハヤヒミコトを祖神とし、飛鳥時代前後に栄えた豪族, の意が載る。ついでならが,知らなかったが, 「カタカナ表記で『モノノフ』と表記する場合は、女性アイドルグループ『ももいろクローバーZ』のファンならびにライブの観客を指すことが多い」 ともある。確かに,『岩波古語辞典』は,「もののふ」に, 武士, と 物部, を当てている。で, 「モノはモノノベのモノに同じ。はじめ武人の意。後に文武の官の意に広まった」 とある。枕詞の, もののふ(物部)の, は, 「武人の射る矢から『八十(やそ)』『矢野』『矢田野』『弓削』に『射(い)』から同音の地名『宇治』などにかかる」 とある(『広辞苑第5版』)。 『広辞苑第5版』に, 「上代,朝廷に仕えた官人」 とあるのはその意である。そこから, 「武勇をもって仕え,戦陣に立つ武人」 に広がり, つわもの, 武士, に意味が広がったものと思われる。 『大言海』は, 「兵器をモノと云ひ,フは丈夫の夫,即ち,物の夫の意。物の具と同趣。」 とある。『日本語源広辞典』も, 「モノ(兵器・武)+ノ+フ(夫)」 とする。この「モノ」の言い方は, 物頭(足軽大将), の「物」と重なる。『大言海』は, 兵器, を, つわもの, と訓ませている。 「物になるとは,然るべきものになる意,物のきこえとは,物事のきこえ人聞き,世情の評判」 と。「物」の項で書いている(『大言海』)。「もののふ」とは, 「古へ,武勇(たけ)き職を以て仕ふる武士(タケヲ)の称。一部となりて物部と云ひ,転じては,凡そ朝廷に仕ふる官人の称となれり」 とある。で,「物部(もののべ)」とは, 「武士部(もののふべ)のフの略。また,ベを略して,モノノフとも云ふ,共に兵器(つわもの)の羣(むれ)の義」 とある。 「初,饒速日(にぎはやひ)命,天上より率ゐられし廿五部の物部を獻りしより,武官の棟梁,輔佐の重職は,此氏の人,御代御代統べ来つれば,其職に就きて云ひしが,後,神武天皇の御時,可美眞手(うましまで)命,天(あまの)物部を率ゐて仕へ奉る。是れ物部氏の遠祖なり」 と,物部氏の由来とつながる,とする。ただ,『日本語源大辞典』は, 「『もの』は兵器の意かというが明らかではなく,『ふ』も未詳だが,上代,軍事警察の任に当たっていた『もののべ(物部)』と関係深い毎考えられる」 としている。ただ,「もののふ」という言葉は,必ずしも, サムライ, とはイコールではなかったらしく,サムライ(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4)でも触れたように,「サムライ」を, 「地位に関係なく武士全般をこの種の語で呼ぶようになったのは、江戸時代近くからであり、それまでは貴族や将軍などの家臣である上級武士に限定されていた。 17世紀初頭に刊行された『日葡辞書』では、Bushi(ブシ)やMononofu(モノノフ)はそれぞれ『武人』『軍人』を意味するポルトガル語の訳語が与えられているのに対して、Saburai(サブライ)は『貴人、または尊敬すべき人』と訳されており、侍が武士階層の中でも、特別な存在と見識が既に広まっていた。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D)。 これは,サムラヒが,その振る舞いに由来(主君の側近くで面倒を見ること、またその人)するのに対して,「もののふ」は,「武」や「兵」や「兵器」という手段に由来してきた差ではないか,という気がする。ただ,『日本語源大辞典』は,「つわもの」の項で, 「古くは兵よりも武器そのものをさす(武器の)の場合が多かった。兵をさす場合は,類義語『もののふ』が『もののけ』に通う霊的な存在感を持つのに対して,物的な力としての兵を意味していたらしい」 とある。「もの」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%82%E3%81%AE)で触れたように,「もの」は, 「形があって手に振れることのできる物体をはじめとして,広く出来事一般まで,人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるに対して,モノは推移変動の観念を含まない。むしろ変動のない対象の意から転じて,既定の事実,避けがたいさだめ,普遍の慣習・法則の意を表す。また,恐怖の対象や,口に直接指すことを避けて,漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは,対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。」 であったが(『岩波古語辞典』),大野晋の言うように, 「『もの』という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す『もの』という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して『もの』と使う、存在一般を指すときにも『もの』という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も『もの』といった。」 としている(http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)と考えると,「もののけ」は,「もの」から分化したものと考えるべきで,「もののふ」の「もの」は,やはり,武器と見なすべきであろう。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「つわもの」は, 兵, と当てる。 武具,武器, の意であり(『岩波古語辞典』『広辞苑第5版』), それが転じて, 武器をとり戦争に加わる人,兵士, 武士, の意に転じ(『広辞苑第5版』), 武士, の意となった(『岩波古語辞典』),と見ることが出来る。武器庫を, つはものぐら(兵庫), と呼ぶのはかなり古い。 つはもののつかさ(兵司), とも言う。律令制下の八省の一つ, 兵部省, を, もののふのつかさ, つわもののつかさ, と呼ぶ(和名抄には「都波毛乃乃都加佐」)のは, 軍政(国防)を司る行政機関, であり,武器の意味よりは,軍隊の意に転じていると見ていい。因みに,八省とは, 中務省・式部省・治部省・民部省(左弁官局管掌), 兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省(右弁官局管掌), である。「つわもの」に, 強者, とあてるのは,後の当て字である。 『大言海』には。「つはもの」を, 「鐔物(つみはもの)の略にて,兵器,特に鐔(つば)あれば云ふとぞ」 とある。字類抄には, 「兵,ツハモノ,兵仗劒戟也,物名也」 とある,とか。「兵仗」は,兵器,「劒戟」はつるぎとほこ,の意。「鐔(つば)」の呼名は,「ツミハ(ツミバ)」といい, 「刀劒の金具。扁(ひらた)くしてアナり,形,方,圓,種々なり。刀心(こみ)を貫きて刅(み)と柄との間に挿(は)めて,縁,四方へ余り出ヅ。握る手の防ぎとするなり」 とあるので,まさに「鍔」である。 『日本語源広辞典』は, 「ツワ(固い・強い)+者」 で,強い兵士の意とするが, 強者, と当てた後の「強者」からの解釈に思える。『日本語源大辞典』の, 「古くは兵よりも武器そのものをさす…場合が多かった。兵をさす場合は,類義語『もののふ』が『もののけ』に通う霊的な存在感を持つのに対して,物的な力としての兵を意味していたらしい」 というように,「力」としての「つわもの」が始源であったとみていい。その意味で, ツハモノ(器物)の略(日本釈名・草蘆漫筆・和訓考・語簏・ことばの事典=日置昌一), ツミハモノ(鐔物)の略(古事記伝・俗語考・大言海), ツはト(鋭)の転,ハモノは刃物の義(日本古語大辞典=松岡静雄), 打刃物の義(雅言考), と,武器系の語源説に軍配だろう。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「武士」は, もののふ, と訓ませたりするが,由来は,漢語だと思われる。「史記」蘇秦傳に, 「武士二十萬」 とある(『字源』)らしい。『大言海』には, 「高祖令武士縛信,載後車」(漢書・韓信傳) 「先以詔書告示都,密徴求武士,重其購買,乃進軍」(後漢書・功都夷傳) の例が載る。「武士」は, 武夫, と同じらしい。「武夫」に, もののふ, の意として,周南の, 「赳赳武夫,公侯干城」 の詩句がある(『字源』)という。ただ,「武夫」は, 玉に似た美石, の意もあるらしい(仝上)。「武人」も, もののふ, の意で, 「武人東征」 の詩句(小雅)がある。 武士,武夫,武人, は,ほぼ同意である。 「武」(漢音ブ,呉音ム)の字は 「会意。『戈(ほこ)+止(あし)』で,戈をもって足で堂々と前進するさま。ない物を求めてがむしゃらに進む意を含む」 とあり,たけだしい意で,「猛」「勇」と類似する。当然,戦争や武器の意もある。まさに「武」である。 「士」(漢音シ,呉音ジ)の字は, 「象形。男の陰茎の突きたったさまを描いたもので,牡(おす)の字の右側にも含まれる。成人として自立するとこ」 とあり,我が国では, サムライ, の意で使うが,周代の諸侯―大夫―士の「士」であり,春秋・戦国以降の知識人を指す。「論語」に出る「士」は, 「士不可以不弘毅」(士は以て弘毅ならざる可からず) サムライの意ではない。中国でいう, 士農工商, の「士」は,「無論大家小家士農工商」(曾国藩)と, 知識人, を指す。我が国では,「士」を, サムライ, とするが,「武士」と「サムライ」はイコールではなかったらしい。 「武士といふは,朝廷武官の人の総称にて,上古の書にも,武士といふ名目あり」 とある(安斎随筆)。「武士」という言い方は, 官人, を指した。 「同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、『武士』に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者など)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB)。「サムライ」は,「サブラフ」から平安時代に「サブラヒ」という名詞に転じたが, 「その原義は『主君の側近くで面倒を見ること、またその人』で、後に朝廷に仕える官人でありながら同時に上級貴族に伺候した中下級の技能官人層を指すようになり、そこからそうした技能官人の一角を構成した『武士』を指すようになった。つまり、最初は武士のみならず、明法家などの他の中下級技能官人も「侍」とされたのであり、そこに武人を意味する要素はなかったのである。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D) で,「サムライ」も, 「「朝廷の実務を担い有力貴族や諸大夫に仕える、通常は位階六位どまりの下級技能官人層(侍品:さむらいほん)を元来は意味した。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D) 武士も, 「奈良時代に武士は『もののふ』と呼ばれ、朝廷に仕える『文武百官』のことで あった。」(http://gogen-allguide.com/hu/bushi.html) つまり,「武士」も「サブラフ者(サムライ)」も, 地下人(じげにん), であり, 清涼殿殿上(てんじょう)の間に昇殿することを許されていない官人, であり,あるいは転じて, 位階・官職など公的な地位を持たぬ者, の意であった。「武」の地位向上とともに,「サムライ」が, 武士, 「武士」が, サムライ, の意と重なる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) べそをかく, なきべそをかく, の「べそ」は, こどもなどの泣き顔, とある(『広辞苑第5版』)。『大言海』には, 「べし(壓)の轉か」 とあり, 小児の泣き顔になること, の意と共に, 壓口(べしくち)をつくること, の意が載る。「俚言集覧」には, 「へし口とは,口を壓へつくること也。能の面に大壓(オホヘシ)あり,口を結びたるを云,小児泣かんとする時の面つきを,ベソを作ると云ふも是也」 とある。 押し合いへし合い, の「へし(圧)」という説である。 へしぐち(壓し口), という言葉があり, 不興にて,強いて口をへの字に噤みて居ること, とある(『大言海』)。 能面に,「小べし見」というのがあり,荒々しい力を宿す恐ろしい神を表した鬼神の面の1つで,「べし見」は、口を強くつぐむことを「へしむ」と言ったことに由来するとある(http://hikone-castle-museum.jp/cms/wp-content/uploads/2018/08/ca9fee3afa90d79ee664ce7abb9a33b5.pdf)。 『岩波古語辞典』には, べしめん(壓面), が載り, べし口の表情の面, とある。 「べそ」が, ベシクチ(圧口)の轉(嬉遊笑覧・松屋筆記), ベシ(圧)の転か(大言海), ベレクチの訛。また口をへの字形にして泣くところから(ことばの事典=日置昌一), という子供の泣き顔から来たのか, 能面のベシミ(圧面)の口のように口を結んでいるのをベシということから(俚言集覧), の二説のいずれか,ということのようである。他に, 「べそ」 は 「めっそう(滅相)」 が転訛したもの, という説もあるらしい(https://mobility-8074.at.webry.info/201501/article_6.html)が語呂合わせに思える。普通に考えれば,顔の形から来て,それをなぞって面が出来たということだろう。 「『へしくち』の『へし』と『べしみ』の『べし』は同源で,への字に曲げることを表しているため,これらの説を別物として扱う必要はない」 と『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/na/nakibesowokaku.html)であろう。方言に, 「『押す』ことを『おっぺす』と言うところがあります。この『ぺす』は『へす(圧す)』であり、強く押さえるという意味です。泣き出すときに口をゆがめるのが、口を押さえつけたようであることから『へし口』という言葉ができ、泣き出しそうになることを『へし口を作る』というようになって、『へし口を掻く(表現する・・・の意)』に転じ、『べそをかく』に変化したようです。」 という(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109875995)のが妥当である。ちなみに,「べそをかく」の「かく」は, 「漢字では『掻く』と書く。『掻く』は爪などで表面をこするという動作から,『事をなす』という意味でも使用し,『汗をかく』『いびきをかく』『恥をかく』など,好ましくないものを表面に出す表現で多く使われる」 とする(http://gogen-allguide.com/na/nakibesowokaku.html)。 「書く(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%8B%E3%81%8F%EF%BC%88%E6%9B%B8%E3%81%8F%EF%BC%89)で触れたように,「掻く」は「書く」と同源で, 「爪を立て物の表面に食い込ませてひっかいたり,絃に爪の先をひっかけて弾いたりする意。『懸き』と起源的に同一。動作の類似から,後に『書き』の意に用いる」 とあり(『岩波古語辞典』),「懸き」も, 「物の端を対象の一点にくっつけ,そこに食い込ませて,その物の重みを委ねる意。『掻き』と起源的に同一。『掻き』との意味上の分岐に伴って,四段活用から下二段活用『懸け』に移った。既に奈良時代に,四段・下二段の併用がある。」 としている。つまり,「書く」も「掻く」も「懸く」も「掛く」も「舁く」も「かく」で,幅広く動作を表現しており, 「好ましくないものを表面に出す表現」と強いていう必要はなく,「掻く」の, 「手を動かして目につく動作をする」 意から転じて, 「動作などが外に大きく現れる」 意の流れで,「鼾をかく」「恥をかく」と,たとえば「胡坐をかく」という動作になぞらえた表現とみていい。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「あそぶ」は, 遊ぶ, と当てるが,「遊」(漢音ユウ,呉音ユ)の字は, 「会意兼形声。原字には二種あって,一つは,『氵+子』の会意文字で,子供がぶらぶらと水に浮くことを示す。もう一つはその略体を音符とし,吹き流しの旗のかたちを加えた会意兼形声文字(斿)で,子どもが吹き流しのように,ぶらぶら歩きまわることを示す。游はそれを音符とし,水を加えた字。遊は,游の水を辶(足の動作)に入れ替えたもの。定着せずにゆれ動く意を含む」 とあり(『漢字源』),きまったところにむとどまらず,ぶらぶらする,という含意がある。 「あそぶ」は, 「日常的な生活から別の世界に身心を解放し,その中で熱中もしくは陶酔すること。宗教的な諸行事・狩猟・酒宴・音楽・遊楽などについて,広範囲に用いる」(『岩波古語辞典』) 「日常的な生活から心身を解放し,別天地に身をゆだねる意。神事に端を発し,それに伴う音楽・舞踊や遊楽などを含む」(『広辞苑第5版』) 「上代以来,管弦のほか,歌舞,狩猟,宴席などにもいい,本来は祭祀にかかわるものであったか。『日常性などの基準からの遊離』が原義か」(『日本語源大辞典』) 等々とあるが, 神遊び,つまり神楽を演じる(『岩波古語辞典』), かぐらをする,転じて音楽を奏する(『広辞苑第5版』), と,どうやら「あそぶ」は「遊」とは異なり,神事に由来する。「神遊び」という言葉があり,「あそび」は, 「神をもてなすため,あるいは神とともに人間が楽しむための神事やそれに付随する芸能全体をさしていたと考えられる。その後平安時代にはやや限定的に楽舞を演じて楽しむことを意味し,『御遊 (ぎょゆう) 』ともいわれた。当時の宮廷社会には,定められた年中行事や儀式とは別に,『あそび』と称する響宴があり,そのありさまは『源氏物語』や『栄華物語』などの平安文学に叙述されている。なお,最も狭義には管絃の合奏をさす。」 とある(『ブリタニカ国際大百科事典』)。「あそび」の変化は,『大言海』の取り上げ方でよく分かる。『大言海』は,四項挙げ,いわゆる, 遊, 游, の字を当てる, 己が楽しと思ふ事をして,心をやる, という「あそぶ」(「あすぶ」)の他に, 漢籍訓(かんせきよみ)の語,遊(ゆう)の訓読, として,遊学(イウガク 故郷を去り,他方に出でて,学問をすること)というような, 学術を学ぶ, 意の「あそぶ」を立てている。「遊ぶ」にある学術を学ぶのは,漢語由来らしい。この二つは,「遊」「游」の字を当てる。残りは,ひとつは, 神楽, と当てて, 「喪葬の時にするは,天岩戸の故事の遺風にて,死者の,奏楽をめでてかへりたる事もやと,悲しみの余にするわざなりと云ふ」 とし, 神楽(かみあそび)す,神楽をす, の意味とする。いまひとつは, 奏楽, と当てて, 遊ぶより移る,楽は,遊ぶことの中に,最も面白きものなれば,特に云ふなりといふ」 とし, 絲竹の遊びをす, の意を載せる。「絲竹」は,「絲竹(シチク)」の訓読で, 「絲は琴・琵琶などの弦楽器。竹は笙・笛などの管楽器」 で(『岩波古語辞典』), 楽器の総称, である。「あそび」は, 神楽(かみあそび)→神楽(あそび)→奏楽(あそび)→遊び, と転じてきたことになる。しかし,「あそぶ」は,そもそも天照大御神が,思ず,顔をのぞかせたり,死者が帰ってきたいと思ったりするほど,楽しいことであるのに違いはない。神事由来だが,天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし,神憑りして胸をさらけ出し,裳の紐を陰部までおし下げて踊ったことに淵源するように,厳かさよりは,底抜けの楽しさがある気配である。 となると,語源は, 足+ぶ(動詞化)(日本語源広辞典) アシ(足)の轉呼アソをバ行に活用したもの(日本古語大辞典=松岡静雄), 辺りなのではないか。 やはり, 「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」 という『梁塵秘抄』の歌は,やはり「あそび」の本質を衝いているようである。+ 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
かたな(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%AA)については既に触れたが,「太刀(たち)」は, 「太刀(たち)とは、日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60cm)以上で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用(はいよう)するものを指す。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%88%80) で,腰に佩くものを指す。腰に差すのは, 打刀(うちがたな), と言われ, 「打刀は、主に馬上合戦用の太刀とは違い、主に徒戦(かちいくさ:徒歩で行う戦闘)用に作られた刀剣である。」 とされる(仝上)。 「馬上では薙刀などの長物より扱いやすいため、南北朝期〜室町期(戦国期除く)には騎馬武者(打物騎兵)の主力武器としても利用された」 らしいが,騎馬での戦いでは, 打撃効果, が重視され,「斬る物」より「打つ物」であったという。そして,腰に佩く形式は地上での移動に邪魔なため,戦国時代には打刀にとって代わられた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%88%80)。 打刀(うちがたな), は, 「反りは『京反り』といって、刀身中央でもっとも反った形で、腰に直接帯びたときに抜きやすい反り方である。長さも、成人男性の腕の長さに合わせたものであり、やはり抜きやすいように工夫されている。」 といい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%88%80),やはり,これも, 「太刀と短刀の中間の様式を持つ刀剣であり、太刀と同じく『打つ』という機能を持った斬撃主体の刀剣である」 という(仝上)。ちなみに, 「通常 30cmまでの刀を短刀,それ以上 60cmまでを脇差,60cm以上のものを打刀または太刀と呼ぶ。打刀は刃を上に向けて腰に差し,太刀は刃を下に向けて腰に吊る。室町時代中期以降,太刀は実戦に用いられることが少い。」(ブリタニカ国際大百科事典) とあり,「太刀」と「打刀」の区別は,例外があるが,「茎(なかご)」(刀剣の、柄つかの内部に入る部分)の銘の位置で見分ける。佩いた太刀の場合,名は,外側に位置する。 さて,その「太刀」は,何を見ても, 「『断ち』の義」 とあり,『広辞苑第5版』には,こうある。 「人などを断ち切るのに用いる細長い刃物。古くは直刀を『大刀』と表記し,平安時代以後のものを『太刀』と書く。儀仗・軍陣に用い,刄を下向きにして腰に帯びるのを例とする」 すでに,実戦向きではない。 『岩波古語辞典』は,「断ち」は, 「タエ(絶)の他動詞形」 とあるが,「たえ(絶)」をみると, 「タチ(絶)の自動詞形。細く長くつづいている活動とか物とかが,中途でぷっつり切れる意。類義語ヤミ(止)は,盛んな活動や関係が急に衰えて終りとなる意。ツキ(尽)は,力が消耗しきる意」 とあり,意味はクリアになるが語源は循環している。『日本語源広辞典』は, 断つ, 絶つ, 裁つ, は, 「タツ・タチ(切り離す)」 とするが,なぜ,「たつ」が切り離すのかが説明できていない。『日本語の語源』は音韻変化から, 「上代,刀剣の総称はタチ(断ち,太刀)で,タチカフ(太刀交ふ)は,『チ』の母韻交替[ia]でタタカフ(戦ふ)になった。〈一つ松,人にありせばタチ佩けましを〉(記・歌謡)。平安時代以後は,儀礼用,または,戦争用の大きな刀をタチ(太刀)といった。 ちなみに,人馬を薙ぎ払うナギガタナ(薙ぎ刀)は,『カ』を落としてナギタナになり,転位してナギナタ(薙刀・長刀)に転化した。」 とする。「断ち」の語源は,これではわからない。『日本語源大辞典』は, 力を用いて切る音から(国語の語根とその分類=大島正健), タツ(立)の義,刀の刄が入りたつ意から(名言通), ヘダツ(隔)の義(言元梯), 等々が載る。「たつ」は,もともと漢字が無ければ, 立つ も, 絶つ も, 経つ も, 建つ も, 発つ も, 断つ も,みな「たつ」である。「立つ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E7%AB%8B%E3%81%A4)は,既に触れたように,「立つ」は,の語源は, 「タテにする」 「地上にタツ」 らしい。「裁つ」「絶つ」「断つ」は,それとは別系統とされる。で,「かたな」の項では, タチ切ル, のタチから来ている,とした。その「タチ」は,臆説かもしれないが, 力を用いて切る音, に関わらせるなら,「叩き斬る」の「叩く」なのではないか。太刀は,斬るのでは,「打つ」物であったのだから。 叩き斬る, は,促音化すると, たたっきる, となる。 参考文献; 笠間良彦『図説日本甲冑武具事典』(柏書房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「こうもり」は, 蝙蝠, とあてる。「蝙蝠」(ヘンプク)は,中国語そのものである。「蝠」(ふく)の字が「福」に通じるので中国では縁起が良いものとされている(『漢字源』)とか。 「古代中国では漢字で『蝙hen、蝠fuku、蝙蝠hen-puku、服翼fuku-yoku(以上の4語は『説文解字』A.D.100年許慎編纂)、伏翼fuku-yoku(『神農本草経』漢時代(B.C206-A.D220)編者不明)と書き、『蝙蝠』は唐代の長安地方の発音である『漢音』で、『ヘンプク』と発音した。その字義は『蝙』が『(扁)は平たい、(虫)は動物』、『蝠』が『へばり付く動物』の義で、『飛ぶ姿が平たく見え、物にへばりつく生態から』の当て字。『伏翼』は『昼伏し(休憩し)翼あるものの義』である。蝙蝠は古代中国で本草(薬物)の一つとして用いられており、現存する中国最古の薬物書である『神農本草経』に『伏翼』としてその名がある。『時珍(1518-1593)』編纂の『本草綱目(1596年刊)』には、『伏翼は形が鼠に似て灰黒色だ。薄い肉翅niku-shiがあり、四足、及び尾を連合して一hitotsuのようになっている。夏は出て冬は蟄し、日中は伏して夜間に飛び、蚊ka、蚋buyoを食物とし』とある。薬効として、『 目瞑癢痛ku-mei-you-tsuu』目を明にし、夜間物を視るに煙あらしめる。久しく服すれば人をして熹樂ki-rakuし、媚好bi-kouし、憂無urei-naからしめるとある。』 とか(http://www.yasei.com/koumori.html)。中国では蝙蝠も食した。 和語「こうもり」は,どうやら,古形は, 「かはほり(かはぼり、加波保利)」, らしいが, カハホリ(カハボリ)→カワボリ→カワブリ→カワモリ→カウモリ→コーモリ→コウモリ, と変化してきたものらしい(『日本語源大辞典』)。こうある。 「古形のカハホリから現在のコウモリに至るまでの語形がさまざまに変化した。中古の文献では『カハホリ』の例が多いが,実際の発音はカハボリであった可能性が高い。その後,音韻の変化により,中古から中世にかけて,ハ行転呼によるカワボリ,オ段とウ段の交替によるカワブリ,バ行からマ行への変化によるカワモリ,カワ→カウの変化によるカウボリ,カウブリ,カウモリなどの変化が生じ,語形が揺れた。全体的には,中世にはカハホリよりもカウモリが多く行われるようになり,カワモリが普通語,カハホリは文章語という使い分けも行われた。中世から近世にかけては,カウモリからコーモリへと発音が変化し,近世には完全にコーモリとなったが,仮名遣いの規範意識によって,表記は『カウモリ』のものがほとんどである。近代に入って,カハホリは使われなくなり,コウモリのみが残って現在に至った。ただし,方言では様々な形がのこっている」 と。『日本語の語源』は,音韻変化については少し異説である。 「コウモリ(蝙蝠)の別名を畿内ではカクイドリ(蚊食鳥)といった。平安時代にはカワホリといった。(中略)蚊食鳥の名が示すとおり,コウモリの古名はカハフリ(蚊屠り)カハホリ・カワホリ・カワボリ・カワモリ・コウモリを経てコウモリ(蝙蝠)となった」 つまり, カハフリ→カハホリ→カワホリ→カワボリ→カワモリ→コウモリ, と転じたと,原初は,「蚊食鳥」の別名, 蚊屠り, とする。 「『みなごろしにする』という意のホフル(屠る)は,古くは,ハフル(和名抄)」 というところからとする。と考えると,『日本語源広辞典』の, 「川+守り」 は,音韻変化の途中の「カワモリ」からの解釈に過ぎず, 「川辺の洞窟などにいて,川を守るものとみた」 というのは牽強付会となる。『岩波古語辞典』の「かはぼり」を, 川守の意, も,『大言海』の「かはほり」を, 「川守(かはもり)の轉(守 (まぼ) る,まもる。『扇をかはもり』(壒囊抄))。井守(ゐもり),屋守(守宮 やもり)の例なり。河原の石間,橋下などに棲めば名とす。静岡にてカウブリという」 も,やはり音韻からみて,妥当とはいえない。 「平安時代はカハホリ(加波保利)と呼んでいたらしい。俳句の世界では過去形ではないが。 かはほりや むかひの女房 こちを見る 蕪村 畿内ではカハボリと濁音化させたりしたようだ。それを考えると、語源をカワモリ(川守)と考えるのは一寸無理がありそう。イモリ(井守)、ヤモリ(家守)があるから、川守にしたくなる気持ちはわかるが。」 という(http://www.randdmanagement.com/c_japan/ja_108.htm)とおりである。 「日本では蚊食鳥(カクイドリ)とも呼ばれ、かわほりの呼称とともに夏の季語である。蚊を食すため、その排泄物には難消化物の蚊の目玉が多く含まれており、それを使った料理が中国に存在するとされる。 『強者がいない場所でのみ幅を利かせる弱者』の意で、『鳥無き里の蝙蝠』という諺がある。また、織田信長はこれをもじって、四国を統一した土佐の大名、長宗我部元親を『鳥無き島の蝙蝠』と呼んだ。この『鳥無き島の蝙蝠』のフレーズは、古くは『未木和歌抄』巻第二十七に平安末期の歌人和泉式部の歌に『人も無く 鳥も無からん 島にては このカハホリ(蝙蝠)も 君をたづねん』とあり、鎌倉期の『沙石集』巻六にも『鳥無き島のカハホリにて』とあることから、少なくとも12世紀には記されていたものとわかる。」 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%A2%E3%83%AA), 蚊屠り, 説(『日本語の語源』)が注目され,似たものに, 蚊を好むところから,カ(蚊)をホリ(欲)する義(日本釈名), カモリ(蚊守)の義(柴門和語類集), カ(蚊)ヲ−ホリの轉(和句解・滑稽雑誌所引和訓義解), カハメリ(蚊食)の義(言元梯), 等々があるし, 「和語としては、1713年頃に寺島良安が編んだ江戸時代の百科事典ともいえる『和漢三才図会』に、<和名、加波保利(カハホリ)、今、加宇毛利(カウモリ)と云>とあり、当時既に方言は別として、二つの発音が流通していたといえよう。『コウモリ』の語源は岸田久吉氏(1924年)によると、『カハホリ』は『蚊(カ)、屠(ホフリ)』で、これが『カハホリ』と転じ、さらに転じて、『コウモリ』になったと、新井白石著(1719年)の「東雅」にあるという。」 も(http://www.yasei.com/koumori.html), 蚊屠り, 説だが(『東雅』の説はいつも当てにならないが),『語源由来辞典』は, 「『カハボリ』の『カハ』が『皮』のアクセントと一致することから,『蚊』に由来する説も難しい」 とし(http://gogen-allguide.com/ko/koumori.html), 「『皮(かは)』と『ほり』からなり,『ほり』は『張り』か『振り』が転じたもので,翼としている薄い皮膜に由来するものと考えられる」 と,自説を立てる。「皮」説は, カハハリ(皮張)の轉(名語記・名言通), カハハトリ(皮羽鳥)の義(和訓栞・日本語原学=林甕臣), 等々ある。しかし音韻ではなく,アクセントというのでは,「蚊食鳥」と呼び慣わしてきた流れを否定する根拠としては弱くはないだろうか。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店)
「ゆうまぐれ」は, 夕間暮れ, と当てる。 「『まぐれ』は目暗れ」の意」 とある(『広辞苑第5版』)。『大言海』も, 「目暗れにて,目くれふたがりて,物の見えぬ頃なれば云ふか」 とし,『岩波古語辞典』も, 「目昏れの意」 とする。つまり,この「まぐれ」は, 目暗(昏)れ, の意である。「昏」(コン)の字は, 「会意兼形声。民は,目を↑型の針でつぶしたさまを示す。目が見えず暗い意を含む。昏は『目+音符民』。物が見えないくらい夜のこと。のち,唐の太宗李世民が自分の名の民を含んでいるために,その字体を『氏+日』に代えさせた」 とあり(『漢字源』),暗につながる。「暗」(漢音アン,呉音オン)の字は, 「会意兼形声。音は,言の字の口に・印を加えた会意文字で,ものをいう口の中に何かを含んでくちごもるさま。諳(くちごもって明白に発音せず,頭の中で覚える)のものになる字。暗は『日+音符音』で,中に閉じこもって日光のささないこと」 とあり(仝上),闇につながる。この「まぐれ」は, 眩れ, とあてる。 目が眩む, 眩暈, 意である。この「まぐれ」は,「まぐれ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%BE%E3%81%90%E3%82%8C)で触れたように, 紛れ, と当てる「まぐれ」, 物の中に入り混じって目立たないようになる,しのび隠れる, 弁別できなくなる, あれこれと事が多くて忙しい, 筋道が分からなくなる, 他の物事に心が移る, という意味の「まぐれ」とつながる気がする。しかし,『大言海』は, 「目霧(まぎ)るの転訛と云ふ」 とし,他も, 目霧の義か(和訓栞), メガヒアルル(目交荒)の義(日本語原学=林甕臣), ミキレル(見切)の義(名言通), マキル(間切)の義(言元梯・国語の語幹とその分類=大島正健) マは間,ギは限を極めない意,マギルはマギ入の約(国語本義), 諸説,「紛れ」と「眩れ」は別とする。しかし,「眩れ」の語源, マは目の義,クルはクラムの約,また暮れの義(名語記), マグレ(目暗れ)ルの義(松屋筆記), 目暗れにて,目くれふたがりて,物の見えぬ頃なれば云ふか(大言海), と比べた見たとき, 眩しさ, と 紛れる, との差は,はっきりしない。「紛れ」を, 「『眼前に霧がかかる』という意のマギル(目霧る)は『区別しがたい』意のマギル(紛る)・マギレル(紛れる)・マギレ(紛れ)になったが,それぞれマグル・マグレル・マグレに転音した。マグレアタリ(紛れ当たり)」 といい(『日本語の語源』),「眩れ」を, 「『目を離さないでじっと見つめる』ことをメモル(目守る)といったのがマモル(守る)になった。『目くらむ,めまいを感じる』意のメクル(目眩る)はマクル(眩る)になった。」 とする(仝上)。一方は,眩しくて,「まぐれ(眩る)」,他方は,物の形が定かならなくて,「まぐれ(紛れ)」,いずれも,定かに物の区別がつかない状態であることに変りはない。 少なくとも,「ゆうまぐれ」の「まぐれ」は, 眩れ, というより, 紛れ, に思える。前にも触れたが,一方は,眩しさで,「まぐれ(眩れ)」,他方は,ぼんやりと「まぐれ(紛れ)」まったく区別をつけたのは,「眩」と「紛」の漢字ではなかったのか。光りが眩しくて弁別が付かないのか,影と陰の区別がつかずぼんやりとしていて弁別が付かないのかの区別はなく,いずれも, まぐれ, だったのではあるまいか。もともとは, まぎれ, だったのではないか。「眩」と「紛」を当てはめることで,光の眩しさと,夕暮れの眩しさとが,区別された。「夕間暮れ」ににつて, 「『まぐれ』は目暗れの意」(『広辞苑』) 「マグレはマ(目)クレ(暗)の意」(『岩波古語辞典』) 「マグレは目暗(まぐ)れにて,目のくれふたがりて物の見えぬ比を云ふ」(『大言海』) とあるのは,「眩れ」よりも「紛れ」の「まぐれ」に思えてならない。 なお,逢魔が時(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E9%80%A2%E9%AD%94%E3%81%8C%E6%99%82)については,すでに触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「夕立」は, ゆだち, ともいい,『大辞林』に, 夏の午後から夕方にかけ,にわかに降り出すどしゃぶり雨。雷を伴うことが多く,短時間で晴れ上がり,一陣の涼風をもたらす, とある。この場合,「夕」に騙されると, 夕方降る雨, となるが,『日本語源広辞典』には, 「夕方でもないのに,庭か雨で一時的に暗くなって夕方らしくなる,が本義です。」 とある。 「夏の午後から夕方にかけ」 というのに意味がある。しかし, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E7%AB%8B には, 「古語としては、雨に限らず、風・波・雲などが夕方に起こり立つことを動詞で『夕立つ(ゆふだつ)』と呼んだ。その名詞形が『夕立(ゆふだち)』である。 ただし一説に、天から降りることを『タツ』といい、雷神が斎場に降臨することを夕立と呼ぶとする。」 とある。しかし,別名, 白雨(はくう), とも言うところから見ると,明るい時刻に違いない。 http://yain.jp/i/%E5%A4%95%E7%AB%8B は, 「夏の午後に、多くは雷を伴って降る激しいにわか雨。白雨(はくう)。」 とし,やはり, 「動詞『夕立つ(ゆうだつ)』の連用形が名詞化したもの。『夕立つ』は、夕方に風・雲・波などが起こり立つことの意。動詞『立つ』には現象が現れるという意がある。」 としているが, http://mobility-8074.at.webry.info/201606/article_22.html は, 「夕方に降るから『夕立』と言うというように何となく思っていましたが,語源を調べてみたら,ちょっと違うようです。まず,『立つ』には,〈隠れていたもの,見えていなかったものが,急に現れる,急に目立ってくる〉という意味があります。『目立つ』『きわ立つ』 の『立つ』です。 「夕立」 の 「立つ」 は, 〈雲 ・ 風 ・ 波などが,急に現れる〉 ことを言っています。ここで注意したいのは, 『夕立』は,本来は〈雨〉 のことではないということです。雲が現れた結果として雨になることが多いのですが,語源的には『ゆうだち』は雨ではありません。『夕立』の『夕』は,雲や風が現れるのが夕方ということではないのです。この『夕』は,〈夕方のようになる〉という意味での『夕』です。(中略) で,『夕立』というのは,〈まだ昼間の十分に明るい時間帯なのに,突然,雨雲が湧いてきて,あたかも夕方を思わせるほどに薄暗くなる〉状態のことなのです。『ゆうだち』は,もとは『いやふりたつ (彌降りたつ)』だったという説です。この『彌』は〈いよいよ,ますます,きわめて,いちばん〉の意味の副詞です。つまり,〈きわめて激しく降り出した雨〉という意味の「いやふりたつ」が『やふたつ』→『ゆふたつ』→『ゆふだち』へと変化してきたという説です。」 としている。そう見ると,『大言海』が「ゆふだち」の意味に, 「雲にわかに起(た)ちて降る雨」 とあるのが生きてくる。『日本語源大辞典』には,「立つ」について, 「『万葉集』にすでに『暮立』の表記でみえる。ユウダチのダチ(立つ)は,自然界の動きがはっきりと目に見えることをいう」 とある。『広辞苑』の「立つ」には, 「事物が上方に運動を起こしてはっきと姿を表す」 意の中に, 雲・煙・霧などが立ち上る, という意味が載る。 ただ気になるのは,『広辞苑』は,「夕立」の項で, 「一説に,天から降ることをタツといい,雷神が斎場に降臨することとする」 とあることだ。『岩波古語辞典』には,「立つ」について, 「自然界の現象や静止している事物の,上方・前方に向き合う動きがはっきりと目に見える意。転じて,物が確実に位置を占めて存在する意」 とある。とすると, 雲がにわかにむくむくと立ち上がるのを龍に見立てる, ということはあるかもしれない。『日本語源広辞典』は,「たつ(竜)」の語源を, 「立つ」 としているので,「たつ(立つ)」と「たつ(竜)」がつながらないわけではない。龍については, http://ppnetwork.seesaa.net/article/447506661.html で触れたが,「龍」は,水と関わる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C に,「龍」は, 「中国から伝来し、元々日本にあった蛇神信仰と融合した。中世以降の解釈では日本神話に登場する八岐大蛇も竜の一種とされることがある。古墳などに見られる四神の青竜が有名だが、他にも水の神として各地で民間信仰の対象となった。九頭竜伝承は特に有名である。灌漑技術が未熟だった時代には、旱魃が続くと、竜神に食べ物や生け贄を捧げたり、高僧が祈りを捧げるといった雨乞いが行われている。」 とし, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AB%9C は, 「竜神は竜王、竜宮の神、竜宮様とも呼ばれ、水を司る水神として日本各地で祀られる。竜神が棲むとされる沼や淵で行われる雨乞いは全国的にみられる。漁村では海神とされ、豊漁を祈願する竜神祭が行われる。場所によっては竜宮から魚がもたらされるという言い伝えもある。一般に、日本の竜神信仰の基層には蛇神信仰があると想定されている。」 「仏教では竜は八大竜王なども含めて仏法を守護する天竜八部衆のひとつとされ、恵みの雨をもたらす水神のような存在でもある。仏教の竜は本来インドのナーガであって、中国の竜とは形態の異なるものであるが、中国では竜と漢訳され、中国古来の竜と混同ないし同一視されるようになり、中国風の竜のイメージに変容した。日本にも飛鳥時代以降、中国文化の影響を受けた仏教の竜が伝わっている。」 とある。 なお, 夕立は馬の背を分ける, という言葉があるが, https://www.waraerujd.com/blank-131 に, 「夕立は馬の背を分けるとは、夕立は馬の片身に降っても反対側の片身には降らないという意味で、夕立の局地性を表現したことわざ。」 である。 参考文献; https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E3%82%92%E9%99%8D%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%A6%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%AB%9C https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AB%9C 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「くれなずむ」は, 暮れ泥む, と当てる。 日が暮れそうでなかなか暮れないでいる, 意味である。 「日没どき、日が暮れかけてから暗くなるまでの間の様子。『暮れ泥む』と書く。多くは春の夕暮れを表す。『泥む』とは物事が停滞すること」 とある(『実用日本語表現辞典』)ので, まだ,日は暮れていない, 状態を示している。だから, 「こちらはもうすっかり暮れなずんでおります」 という使い方はしない(https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/078.html),という。 「暮れ」は, 「クラシ(暗)と同根」 とある(『岩波古語辞典』)。『岩波古語辞典』は,「くれ」に, 眩れ, 暗れ, 暮れ, を当て,いずれも,「暗くなる」意としている。 『日本語源大辞典』は,「くれ」の諸説を, クロ(黒)の義(日本釈名), クラ(暗・昏)の義(東雅・言元梯・名言通), 日没のあとをいうことから,クラはクラキ,レはカクレか(和句解), と,大勢は「暗い」とつなげている。 「なず(づ)む」は,既に触れた(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%81%AA%E3%81%9A%E3%82%80)ように, 泥む, あるいは 滞む, と当てる。 行きなやむ,はかばかしく進まない,滞る, 離れずに絡み付く, 悩み苦しむ,気分が晴れない, 拘泥する,こだわる, かかずらわって,そのことに苦心する, 執着する,思いつめる,惚れる, なじむ。なれ親しむ, あるいは, 植物がしおれる。生気がなくなる, という意味になる。『日本語源大辞典』は, 「原義は人や馬が前へ進もうとしても,障害となるものがあって,なかなか進めないでいる意で,主に歩行の様子等に関して用いたが,平安時代には心理的停滞をも表した。現在では『暮れなずむ』のような複合動詞の中にのみ生きている。『執着する』の意の中から,思いを寄せる意が生じたのは近世で,それとの意味の近さ,また『なじむ』との音の類似から,幕末には『なじむ』意が生じた」 と,意味の変遷をまとめている。今日は,「なずむ」は, 馴染む, と当てる「なじむ」に取って代わられている気がする。 「なずむ」は,『岩波古語辞典』には, 「ナヅサヒと同根。水・雪・草などに足腰を取られて,先へ進むのに難渋する意。転じて,ひとつことにかかずらう意」 とあり,「泥む」と当てたのには,意味がある。「ナヅサヒ」は, 水に浸る,漂う, (水に浸るように)相手に馴れまつわる, 意で,さらに,「ナヅミ」と同根の「なづさはり」という言葉があり, なじみになる, という意味が載る。すでに,「なづむ」は「なずさはる」を経て,「なじむ」と重なっているとみていい。 「なずむ」の語源について,『日本語源広辞典』は, 「ナ(慣れ)+ツム(動かず)」 とする。この「つむ」は「詰む」だろう。「水に浸る」意の,「なづさふ」よりは「なずむ」の原義に近い気がする。他には, ナエシズミ(萎沈)の約(雅言考), ナエトドム(萎止)の義(名言通), ナツム(熱積)の義(柴門和語類集), ナツウム(泥着倦)の義(言元梯), 等々,いずれもピンとこない。「暮れなず(づ)む」の語感に合う語源は,ちょっと見あたらなかった。勝手な臆説を述べるなら,「なじむ」(馴染む)に転じた意からみると, 昼と夜が馴染んでいる, 感覚である。 夜が昼に引っ張られているのか,昼が夜に引っ張られているのか, というふうな感覚である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「血祭り」は, 血祭りに上げる, などと物騒な言い回しをする。多くは,例えば, 「昔中国で,出陣のさいいけにえを殺し,その地を以て軍神に祀ったことから」 を由来とし, 戦場に臨む際に,縁起のため,間諜または敵方の者などを殺すこと,また戦場で,最初に敵を討ち取ること」 といった意味を載せる(『広辞苑第5版』)。あるいは, 「(昔、中国で、出陣に際し、いけにえを殺して軍神をまつったことから)出陣に際して、敵の者などを殺して士気を奮い立たせること。手始めとして敵をほふって気勢を揚げること。」 と(『大辞林』)いう意味になる。ただ, 血祭りに上げる, の形は, 「昭和になってからで、近年は転じて単にひどい目にあわせる意でも用いられる。」 とある(『由来・語源辞典』)。たとえば, 「『やつらを血祭りに上げてやる」などと使うように、一人や 二人をやっつけて喜んでいるのではなく、全員を徹底的にやっつけるという意味あいのある威勢のいい言い方であり、あくまで『例え』にとどめておきたい言いぐさである。』 という((『笑える国語辞典』https://www.waraerujd.com/blank-59)のが今日の含意である。気になるのは,中国云々の由来だ。 「『血祭り』とは、古代中国で出陣の際、いけにえを殺してその血で軍神を祭る『血祭(けっさい)』に由来する。」(『由来・語源辞典』) 「『血祭り』は、生け贄の血を神に供えて祭る古代中国の『血祭(けっさい)』に由来」(『語源由来辞典』) 等々とある。確かめる手がないが,『字源』には,「血祭」(けっさい)の項で, 「いけにえを殺し血を取りてまつる」 とあり,周禮・春官の, 「以血祭一祭社稷語祀五嶽」 を引いている。軍神とはいささかも関係ない。で,我が国だけの使い方として, 「出陣の時,いけにへを殺して軍神を祭る。又其の敵とする者を殺してみせしめにする」 とある。軍神云々は,中国由来ではないことになる。 『続日本紀』には,出陣を, 「天平寳字三年(七五九)六月壬子令大宰府造行軍式以将伐新羅也」 とあり,行軍式といったらしい。出陣の儀礼化が進んだのは,室町以後で, 「管領為始宿老中に意見有御尋,時宜定めて以後,陰陽頭撰吉日,進時五日も十日も前に御陣奉行之右筆罷出,其國之守護代令同道寺家にても誘申,御陣奉行は其儘待可申鎌倉御立,當日御出之御酒として大草調進鮑勝栗昆布御肴にて御酒一献あり」 と,『鎌倉年中行事』にあるように,縁起を担ぎ,鮑,勝栗,昆布を食している(大草家は将軍家の調理を担当する)。その後,神仏に祈念し,武運長久を願う。 「茅の葉にて酒を注いで九万八千の軍神勧請常の如くなり」 と『鴉鷺合戦物語』にあり,室町頃から行なわれている。 血祭は,出陣に際してではないようである。 「敵の首を取ったとき味方の気勢を上げるために軍の神に供えるといういみでささやかな祭事を行うのを軍神への血祭りという」 とある(『武家戦陣資料事典』)。『軍侍用集』に, 「初めて捕えたる首を祭ることを血祭と云ふ也,九万八千の軍神に向かひ手を合せて南無摩利支尊天を初め奉り一切九万八千の軍神今日の首あたへ給の所偏へに武運高名之奇妙也,弥武運長久を祈り友引の方に向ひ四天王の八鬼を念九魔王神に供え祭りて味方の勝利我方の武運長久と守り給へ,急々加津令といのるべし,必ず破軍にむかふべからず」 とあり, 初めて捕えたる首を祭ること, を血祭といったとみえる。密教の秘法から出た祈りらしく,どうも,この頃活躍する兵道家・陰陽師が,権威づけに言ったのではないか,と思いたくなる。この嚆矢は,平安末期らしく,当初は, 「去らば軍神に祭らんとて暫く弓を引き持ち,表に進みたる伊藤六がまん中に押し當て発ちたり」(保元物語), と,初戦に敵を殺して,軍神に捧げて加護を願うといった意味であった,と見られる。 兵道家・陰陽師が「こじつけ」形式化したようだが,結局, 「唯軍神へ血祭り明春越州江州邊に於て有無の一戦を致し首を取獄門に晒し可申」(松隣夜話) というように,敵首を梟首して済ませたようである。後年,伊勢貞丈は,『軍神問答』で, 「佛家の説に九萬八千夜叉神と言ふは三宝荒神の眷属にて,具に言へば九億九萬八千七百七拾弐神あり,常に略してに九萬八千と言ふ」 としている。毛利元就の軍幡には 「頂礼正八幡大菩薩 南無九万八千軍神二千八百四天童市十 帰命摩利支尊天王」 とあるとか。武士は縁起をかついだのである。 参考文献; 笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房) 笹間良彦『図説 日本戦陣作法事典』(柏書房) 「ちまた」は, 巷, 岐, 衢, と当てる。 「道 (ち) 股 (また) 」の意, らしい。どうやら, 道の分かれるところ(「八十の巷に立ちならし」), ↓ (物事の分かれ目(「生死の巷をさまよう」)) ↓ 町の中の道路,街路(「南北に大きなる一つの巷あり」), ↓ 人が大ぜい集まっているにぎやかな通り,町中 (まちなか)(「紅灯の巷」), ↓ (ある物事が盛んに行われている)ところ,場所(「弦歌の巷」「修羅の巷」), ↓ 世間(「巷の噂」), といった流れで,「岐路」に準えて,意味の外延がひろがっていったものらしい。 「『分かれ道』に集落,つまり街を形成することが多く,町の通り,街の意」 とある(『日本語源広辞典』)のが,分かれ道,街路,街とつながる意味が納得できる。 「巷」(漢音コウ,呉音ゴウ)の字は, 「会意兼形声。『人のふせた姿+音符共』。人の住む里の公共の通路のこと。共はまた,突き抜ける意から,突きぬける小路のことと解してもよい」 とあり,街路,世間,の意で分かれ道の意はない。 「岐」(漢音キ,呉音ギ)の字は, 「会意兼形声。支はも細い声だを手にした姿で,枝の原字。岐は『山+音符支(キ・シ)』で,枝状のまたにわかれた山,または,細い山道のこと」 で,枝道のこと,分岐,岐路と使う。 「衢」(漢音ク,呉音グ)の字は, 「会意兼形声。瞿(ク)は『目二つ+隹(とり)』からなり,鳥があちこちに目をくばること。衢は『行(みち)+音符瞿』で,あちこちが見える大通り」 で,四方に通じる大通り,巷の意で,直接的に分かれ道を示していない。巷,岐,衢と漢字を当て分けたのは,先人たちの苦労の跡,ということになるのかもしれない。 ミチマタ(道股)→チマタ(巷), とする説(『日本語の語源』)もあるが, 道, は, ち, とし,『大言海』は,「ち(道・路)」は, ツ(津)に通ず, とし,「道饗祭(ちあへ)」(祝詞)「道別(ちわき)」(神代紀)等々, 熟語にのみ用ゐる, とする。また, 連声には濁る, とする。例えば,「天漢道(あまのかはぢ)」「天道(あまぢ)」等々。『岩波古語辞典』には,「ち(道・方向)」は, 「道,または道を通って行く方向の意。独立して使われた例はない。『〜へ行く道』の意で複合語の下項として使われる場合は多く濁音化する」 とある。「道 (ち) 股 (また) 」でよさそうである。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「みどり」は, 緑, 翠, 碧, と当てる。 「緑」(漢音リョク,呉音ロク)の字は, 「会意兼形声。右側の字(ロク・ハク)は竹や木の皮をはいで,皮が点々と散るさま。緑はそれを音符とし,糸を加えた字で,皮をはいだ青竹のようなみどり色に染めた糸を示す」 で,「竹や草の色で,青と黄の中間色」とある。 「翠(翆)」(スイ)の字は, 「会意兼形声。『羽+音符卒(シュツ ちいさい,よけいな成分を去って,小さくしめる)』。からだの小さくしまった小鳥のこと。また,汚れを去った純粋な色」 で,「よごれのないみどりの羽。『翡翠』(水辺に棲む小鳥の名。全身青緑色の美しい羽毛をもつ。雄を翡,雌を翠という),かわせみ」とある。 「碧」(漢音ヘキ,呉音ヒャク)の字は, 「会意兼形声。『玉+石+音符白(ほのじろい)』。石英のような白さが奥にひそむ青色。サファイア色」 で,「あおくすんで見える石。『碧玉』」とある(『漢字源』)。 「緑」は,萌黄,「翠」はかわせみ,「碧」は石,に由来する。 「みどりは」 「ミドが語根で,『瑞々し』のミヅと関係あるか」(『広辞苑第5版』) 「元来、新芽の意で、そこから色名に転じたといわれる」(『デジタル大辞泉』) 「本来色の名であるよりも,新芽の意が色名に転じたものか」(『岩波古語辞典』) とあり,どうやら「みどり」は「緑」に合うように思えるが,『大言海』は, 「翠鳥色(そびどりいろ)の略轉かと云ふ,或は,水色の略轉か」 とするので, 翠, が妥当ということになる。『日本語源広辞典』は,二説挙げている。 「水+トオル(通・透)の連用形」で,緑の字を当て,木の葉などが,水に濡れているようなミズミズシサをミドリといったのが語源です。洗い髪のみずみずしさを緑の黒髪,みずみずしいミドリゴ,みずみずしい松の若葉のミドリ,楓の若葉を下から見上げて透き通るようなミドリ」 と,いまひとつは, 「『カワセミの古語,ソニドリ,ソミドリ』が語源」 とする。「そにどり」は, 鴗鳥, とあて,カワセミである。しかし,色は,今日でいう 青色, である。「あお」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%81%82%E3%81%8A)で触れたことだが,「あを」は, 「一説に,古代日本では,固有の色名としては,アカ,クロ,シロ,アオがあるのみで,それは,明・暗・顕・漠を原義とするという。本来は,灰色がかった白色を言うらしい。」(『広辞苑第5版』) とあり(『広辞苑第5版』),「あを」の範囲は広く, 晴れ渡った空のような色, 緑色, 青毛の略。馬一般にも言う。 若い,未熟の意, とある。『日本語源大辞典』には, 「アカ・クロ・シロと並び,日本の木椀的な色彩語であり,上代から色名として用いられた。アヲの示す色相は広く,青,緑・紫,さらに黒・白・灰色も含んだ。古くは,シロ(顕)⇔アヲ(漠)と対立し,ほのかな光の感覚を示し,『白雲・青雲』の対など無彩色(灰色)を表現するのはそのためである。また,アカ(熟)⇔アヲ(未熟)と対立し,未成熟状態を示す。名詞の上につけて未熟・幼少を示すことがあるのは,若葉などの色を指すことからの転義ではなく,その状態自体をアヲで表現したものと考えられる」 としている。「あを」の中に, みどり, も含められていた,ということである。『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/mi/midori.html)が, 「元来、『新芽』や『若枝』を 表す具体名詞であったことから、『みづみづし(みずみずしい)』と関係のある語と考えられている。『新芽』や『若枝』の色から、青色と黄色の中間色である『緑色』を表すようになった。それまで緑色を表していたのは『青』である。」 と,「緑色を表していたのは『青』である。」としているのはその意味である。『大言海』の語源説は,「アヲ」の包含されていた時代のことをいっているとしか思えない。その意味で,「あを」が広すぎて, 瑞々し, を「みどり」色として分化させていったのだと思われる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「ずんぐりむっくり」は, ずんぐりして肉が盛り上がっているさま, の意(『広辞苑第5版』)だが,人の体格を言い表わすのに使う。「ずんぐりむっくり」は, 「ずんぐり」を強めていう語, ともある(『大辞林』)。「ずんぐり」が, 太くて短いさま, というか, 太って背の低い人, を意味するので,それに「むっくり」を加えて, 横巾の広い筋骨の逞しさ, を加味しているのだろうか。二葉亭四迷『浮雲』には, 「横巾の広い筋骨の逞しい、ズングリ、ムックリとした生理学上の美人で」 とあるので,男性ばかりを指したのではなかったらしい。 「むっくり」は, 唐突に起き上がるさま, 肉づきよく肥えたさま, の意で,「むっちり」とは違う。「むっちり」は, 肉づきがよく弾力があるさま, とある(『広辞苑第5版』)。『擬音語・擬態語辞典』には, 「むっちり」は, 腕や腿などの肉づきがよく中味が詰まった感じの様子, とあり,それに準えて, 張りと重量感があって歯ごたえがある様子, の意で使う。 むっちりした歯ごたえのある, とたべものの表現に使うが, むっくりした歯ごたえ, とは言わない。「むっくり」は,「むくり」「むくっ」と同様,動作の擬態表現から来ている。 「『むっくり』は動作が大きいのに対して,『むくり』はそれより動作が小さい。促音「っ」が入ることで動作が大下差になる例には,『がくり−がっくり』『ぐたり−ぐったり』などがある。また『むっく』は『跳ね起きる』にかかる例が目立つので,『むっくり』よりも勢いよく起き上がる様子を表す」 とある(『擬音語・擬態語辞典』)。「むっくり」は,「ずんぐりむっくり」と, 「背が低くて太った意の『ずんぐり』と組み合わせて使われる場合が多い」 らしく,この場合は,動作の表現ではなく,「太った」の強調の意味になっている。そして, 「『ずんぐり』と『むっくり』の単独例は江戸時代からあるが,『ずんぐりむっくり』の例は,明治以降である」 とあり(『江戸語大辞典』は,「ずんぐり」「むっくり」で載る), 「『ずんぐり』と『むっくり』は共に太っている様子を示し,その二語を重ねて強調した」 言い回し,とある。二葉亭の表現も, ズングリ、ムックリ, と切れているので,使われ始めのように見える。『岩波古語辞典』には,「ずんぐり」は載らず,「むっくり」の代わりに,「むくっと」が載り, むくとの促音化, とあり,『大言海』も, むくと, むくっと, むっくりと, と転訛のプロセスを載せている。何れも擬態語と見ていい。「ずんぐり」は載らず,「ずんぐりのむっくり」が, 背が低くて,肥満(ふと)りたる體を云ふ語, と載る。「むっくり」は, むくと→むくっと→むっくりと, と,擬態語とみていい(独楽の古名『つむくり』で独楽の形から」(語源由来辞典)とする説もあるが)。ただ,「ずんぐり」は,『日本語源広辞典』に, 「『ずん(くひせれていない)+ぐり(盛り上がっている)』です。短身で太っている様子を表す言葉です」 とある。これだと分からない。「ずんどう」ということばがあり, 寸胴, と当てる。 腹から腰にかけて同じように太くて不格好なこと, の意(『広辞苑第5版』)が載る。「寸胴」には, 「陶芸界では、焼き物(陶磁器)を形成する際の途中の形で、円筒形のものを寸胴(ずんどう)と言う。」 「直径と深さがほぼ同じ、円筒形の深鍋は、寸胴鍋(ずんどうなべ)あるいは単に『寸胴』といわれる」 等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%B8%E8%83%B4)が,「ずんぐり」の語源には, 「上から下まで太さが変わらない意味の『ずんど・ずんどう(寸胴)』の『ずん』と,擬態語の語尾に使われる『くり・ぐり』が組み合わさった」(『語源由来辞典』http://gogen-allguide.com/su/zungurimukkuri.html) とある。しかしこれは,「寸胴」を前提にしているような気がする。 『日本語源広辞典』は,「ずんどう」について, 「『髄(真ん中)+胴』の変化です。真ん中を輪切りにした胴の意です。腰の括れていない胴を言います」 とある。この輪切りを, ずんどぎり(寸胴切), といい, ずんぎり(寸切), という。「寸切」は, 「『髄(ずん)切り』の意。『寸』は当て字という。一説に『すぐきり(直切り)』の音変化とも」 とあり(『デジタル大辞泉』),『大言海』には,「すんきり」を, 「直切(すぐぎり)の音便転かと云ふ」 とし, 「勾配も無く,面も取らず,真直ぐに断ち切ること。つつぎり」 とある。筒切り,つまり, 輪切りである。この表現は,室町末期の『日葡辞典』に, まるくて長いものを横に切ること, とあり,この断ち方から, 大木の幹を切って下だけ残し,茶室の庭などに植えて飾りとするもの, とか(『デジタル大辞泉』), 筒型の花活けの総称, とか(『江戸語大辞典』), 茶桶の蓋を立上がりがほとんどない程浅くした「頭切(ずんぎり)」(筒切・寸胴切), というのは,あくまで,筒切りになぞらえたことばと見ていい。どうやら,「ずんぐり」は, 寸胴(ずんどう), に行き着くが,微妙なのは,「寸胴」について, 「太鼓の音から,太鼓そのもの,さらにその形状に似たものをいうようになった(松屋筆記), とあることだ(『日本語源大辞典』)。ふと,太鼓が先かもしれない,と思えてくる。となると,擬音ということになる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
「峠」は,和製の会意文字である 「山+上+下」 「裃」が,同じく, 「衣+上+下」 の和製会意文字なのと同時である。和製漢字(https://kanji.jitenon.jp/cat/kokuji.html)は, 桁, 榊, 糀, 等々,結構ある。「峠」は, 「タムケ(手向け)の轉。通行者が道祖神に手向けをするからいう」 とある。『岩波古語辞典』も, 「タムケ(手向)の轉。室町時代以降の形」 とある。正直,ちょっといかがわしくないか。手向けるのは,峠とは限らない。ましてや「道祖神」は, 「道路の悪霊を防いで行人を守護する神」(『広辞苑第5版』) である。峠とは限らない。 「道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9E) とあり,山の神にもつながらない。どちらかというと, 「厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている」(仝上) と,村と関わる「道の神」である。 「中国では紀元前から祀られていた道の神『道祖』と、日本古来の邪悪をさえぎる『みちの神』が融合したものといわれる」 道陸神, 賽の神,障の神, 幸の神(さいのかみ,さえのかみ), が特に峠とつながらない限り, 手向け, 説はちょっと疑わしい。ただ, 「峠は多く村境になっており,村人は旅から帰った人をここで坂迎えする習俗があった。また峠には地蔵など村境の神を祀る例も多い (境の神 ) 。峠を境にして気象などの自然現象を異にすると同時に民俗のうえでも差異をみせる例が多い。」(『ブリタニカ国際大百科事典』) との説明なら,納得がいく。大勢は,だから,手向説で,『大言海』も, 手向の轉, とし,「立向く」を見ると, 「手に捧げて供えれば云ふとぞ。これ多くは,山,又は津にて,さへの神,海(わた)の神へ,我が旅行の恙なからむを祈るになす」 とある。『語源由来辞典』( http://gogen-allguide.com/to/touge.html)も, 「『万葉集』に『多武気』の例があるとおり、古くは『たむけ』といい、室町時代以降、『たむけ』 が『たうげ』に転じ、さらに『とうげ』に変化した。『たむけ』とは『手向け』のことで、神仏に 物を供える意味の言葉である。これは、峠に道の神がいると信じられており、通行者が旅路の安全を祈って手向けをしたからと考えられている」 とする。しかし,旅の安全を,旅の途中の峠で,手向ける意味は,これでは見えない。だからか,『大言海』は,「手向けの音便」としつつ, 「又,嶽(たけ)の延か」 と加えている。この方がまだわかる。また, 「峠の語源は『手向け(たむけ)』で、旅行者が安全を祈って道祖神に手向けた場所の意味と言われている。」 としつつ,(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%A0), 「異説として北陸から東北に掛けた日本海側の古老の言い伝えがある。『たお』は湾曲を意味していた。稜線は峰と峰をつなぐ湾曲線を描いており、このことから稜線を、古くは『たお』と呼んでいたと言う。『とうげ』とは、『たお』を越える場所を指し、『たおごえ』から、『とうげ』と変化した。従って、稜線越えの道が無い所は、峠とは呼ばないのが本来である。同じように『たお』から変化したものとして、湾曲させることを『たおめる』→『たわめる』、その結果、湾曲することを『たおむ』→『たわむ」と言う。或いは実が沢山なって枝が湾曲する状態を『たわわ』と言うようになったと説明している。』(仝上) とする。説得力がある。どうやら,語源説は 「たむけ説」(峠は境界なので,境の神,塞(さい)などが祀られるので,安全を祈って手向(たむ)けをする説) と 「たわむ説」(山鞍部をタワと呼ぶところから,そこを越えるのでタワゴエが転じてトウゲとなったという説) があるらしい(『ブリタニカ国際大百科事典』『世界大百科事典 第2版』)。旅人視点で,「手向け」は矢張り妙だ。村人視点なら,村境に焦点が当たる。どちらかと言うなら, たわむ説, に惹かれる。 「低い鞍部は古語で『タワ』『タオリ』『タル』『タオ』などとよばれ、トウゲはタムケ(手向)の転化ともいわれるが、むしろ「タワゴエ」や「トウゴエ」が詰まったものと考えられている。」 という(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)のでいいのではないか。「たわ」は, 「タワミ(撓)・タワワのタワ。タフリと同根」 とある(『岩波古語辞典』)。これは,柳田國男の, 「タワ(乢・鞍部)+越え」 でもあり, タ,ワゴエ→タウゴエタウゲ→トウゲ, の転訛説である。実は,鞍部説には,いまひとつ, 「タワ(乢)+ケ(処)」 で,山路の鞍部を指す(『日本語源広辞典』)。 「国字の字源からすると,『山+上+下』山越え通で,上りと下りと変るところが語源」(仝上)とする説がある。敢えて,「越え」を加える必要はない,ということか。 音韻変化から,それを跡づけると, 「山の尾根の線がくぼんで低くなった所,たわんでいる鞍部をタヲリ(撓り)といった。〈足引の山のタヲリ〉(万葉集),〈山のタヲリより〉(紀)。その省略形をタヲ(撓・田尾)・タワ(撓・多和)といった。そこを通る山越え道をタヲゴエ(撓越え)といったのが,ゴエ[g(o)e]の縮約でタヲゲ(峠)になり,トウゲに転音した」 となる(『日本語の語源』)。「たわむ」説に軍配である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「さか」は, 坂, 阪, と当てる。「坂」(阪)(バン,漢音ハン・ベン,呉音バン)の字は, 「会意兼形声。反はそりかえって弓型に傾斜する意を含む。坂は『土+反(そりかえる,傾斜する)』」 で,さか,あるいは,⌒型にそりかえった丘,傾斜した山道,の意である。 『大言海』は, 「級處(シナカ)の約と云ふ(然(しか),さ)」 とする。 『日本語源大辞典』に載る, サはサキ(割)などの原語で,刺・挿の義。カは処を意味する語。分割所の意から境の意を生じ,さらに山の境の意から坂の義に転じた(日本古語大辞典=松岡静雄), サカヒ(堺・境)の転義(古事記伝・山鳥民譚集=柳田國男), という「境」説は, 「傾斜地,上り下りする道をさす語であるところから,古来さまざまな意味合いで用いられてきた。語源については,〈サカシキ(嶮)〉〈サカヒ(堺,境)〉〈サカフ(逆)〉に発するとか,また,〈サキ(割)〉の原語のサとカ(処)とから成るとかいわれているが定かではない。しかし,坂といわれる場所が地域区分上の境界をなしたり,交通路の峠をなしたりしている事例が少なくないことは,語源に関する諸説の中ではとくに重要とみられる。」 とする考え(『世界大百科事典 第2版』)からみると,重要で,『岩波古語辞典』は「さか(境)」の項,で, 「サカ(坂)と同根」 とし, 「古くは,坂が区域のはずれであることが多く,自然の境になっていた」 とある。「さか(坂)」と「さか(境・堺)」は,漢字を当てはめる前は,いずれも「さか」であったのではないか。その場に居合わせた人にとって,会話の文脈上,その意味の区別は明確であった。 坂の意のサに場所の意のカが複合した語(角川古語大辞典), る近縁の説である。 他の語源説には, 登降しがたいところから,サカフ(逆)の義(名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子), がある。『日本語源広辞典』は,「サカフ」説を採り, 「逆さが坂の語源」 とし, 「サカ波,サカ落とし,サカ立ち,などみな逆の意のサカです。下り道の方向を順と考えますと,坂は,逆(サカ)が語源だとするのが。自然な帰結です」 とい。しかし,「サカ立ち」の「さか」と「サカ道」の「さか」が同じというのは,言葉の感覚としても,体感覚としても,ちょっと合わない気がする。逆さは,あくまでひっくり返る感じである。坂に,そんな感覚はない。険しい坂道でも,あくまで傾斜道でしかない。 サカシキ(嶮・嵯峨)意から(和句解・日本釈名・東雅・国語の語根とその分類=大島正健), サガル(下)の義(言元梯), シナカの急呼。シナは階級・科,カは処の義(箋注和名抄・大言海), 「さ」は方角を意味する(精選版 日本国語大辞典) 等々の諸説も,ちょっと説得力に欠く。 「坂といわれる場所が地域区分上の境界をなしたり,交通路の峠をなしたりしている事例が少なくないこと」 から見て, さか(坂) と さか(境・堺) とは同意であったのではないか。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「さかひ(い)」は, 境, 界, 堺, 等々と当てる。「境」(呉音キョウ,漢音ケイ)の字は, 「会意兼形声。竟(キョウ)は『音+人の形』の会意文字。また『章(音楽のひと区切れ)の略体+人』と考えてもよい。人が音楽の一楽章を歌い終って区切りを付けるさまを示し,『おわる』と訓じる。境は『土+音符竟』で,土地の区切り」 とあり,「国境」の意のさかいであり,「境内」の一定の範囲の場所,「環境」の周りの状態の意である。 「界」(漢音カイ,呉音ケ)の字は, 「会意兼形声。介(カイ)は『人+ハ印』の会意文字で,人が両側から挟まれた中に介在するさま。逆にいうと,中に割り込んで両側に分けること。界は『田+音符介』で,田畑の中に区切りを入れて,両側にわけるさかいめ」 とあり,「境界」のさかいめ,「業界」のように,区切りの中の領域や社会の意。 「堺」(漢音カイ,呉音ケ)の字は, 「会意兼形声。介(カイ)は『人+ハ印(左右にわける)』をあわせて,人を中心にして,その両側を区切ることを示す。界は,それに田を添えて,他の区切りを示す。堺は『土+音符界(他の区切り)』で,土地の区切りのこと」 とある(『漢字源』)。 「さか」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%95%E3%81%8B)で触れたが, さか(坂) と さか(境・堺) とは同意であったのではないか,と思うが,『広辞苑第5版』には, 「サカフの連用形から」 とある。 土地の区切り, わかれ目, を指す。『岩波古語辞典』の「さかひ」(動詞,四段)に, 「サカ(坂)アヒ(合)の約」 とある。「サカフの連用形」とはこの意である。しかし,『大言海』は,逆で, 「境(サカ)を活用す(色ふ,歌ふ,顎(あぎと)ふ)」 とする。名詞「さかひ(境・界・堺・疆」を見ると, 「境ふの名詞形。此語坂合(さかあひ)の約なりと云ふ説もあれど,境界は山に限らず,平地にもあり」 とする。因みに,「疆」(漢音キョ,呉音コウ)の字は, 「会意兼形声。畺(キョウ)は『田二つ+三本の線』の会意文字で,くっきりと田畑を区切ること。彊(キョウ)はそれを音符とし,弓を加えた会意兼形声文字で,かっちりとした弓を示す。強・剛と同系のことば。疆は『土+音符彊』で,土地にくっきりとかたく区切りをつけたことを示す。」 とあり,「疆界」「無疆」など,境目,限りの意である。 「さか(境・界)」は,『大言海』は, 「サは,割くの語根,割處(さきか)の義なるべし。塚も,築處(つきか),竈尖(くど)も,漏處(くきど)なり(招鳥(ヲキドリ),をどり。引剥(ひきはぎ),ひはぎ)。此語に活用を付けて,境ふ,境ひと云ふ」 とするし,『日本語源広辞典』も, 「サ(割き・裂き)+カ(場所)」を語源とするサカフの連用形サカイ, とする。「さか」そのものの語源としては妥当かもしれないが,もともと,『岩波古語辞典』の,「さか(境・界)」は,「さか(坂)」で触れたように, 「さか(坂)と同根」, とし, 「古くは,坂が区域のはずれであることが多く,自然の堺になっていた」 こと,さらに, 「坂といわれる場所が地域区分上の境界をなしたり,交通路の峠をなしたりしている事例が少なくないこと」(『世界大百科事典 第2版』) からみて,「さか(境)」と「さか(坂)」は,漢字が無ければ,同じ「さか」であったのではないか,と思う。この語源が, 割く處, というのは,「さか(坂)」と「さかい(境)」の意味から考えても,妥当だとは思うが,説は, 堺ふの名詞形(大言海), サカアヒ(坂合・坂間)の約(和字正濫鈔・和語私臆鈔・古事記伝・名言通・和訓栞・柴門和語類集), 以外に, 「さか(逆・傾斜地)」+「ヰ(用水)」で、傾斜地周辺の土地を意味する(https://folklore2017.com/gogen/004.htm), 土地と土地とかサカフ(逆)ことをいうところからで,ヒはアヒダ(間)の上下略か(和句解), サハアヒ(放合)の義(言元梯), 等々があるが,やはり,「さか(坂)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%95%E3%81%8B)の結論と同じく, さか(坂) と さか(境・堺) とは同意であったのではないか,と思う。
「剣が峰(剣ヶ峰)」(けんがみね)は, 「噴火口の周縁、主として富士山山頂にいう」 とある(『広辞苑第5版』)。つまり, 「富士山の最高峰であり、日本の最高標高地点3,776 mのことである。八神峰(はっしんぽう)の1つでもある。」 ということになる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%A5%9E%E5%B3%B0)。 したがって, 「日本に複数存在する峰(山岳で、周囲より高まっている部分。頂き)や山の名前としての剣ヶ峰(けんがみね)および剣ヶ峯(けんがみね)は、古くからあった呼称から、あとあと名付けられたものと考えられる。」 ようである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E3%83%B6%E5%B3%B0)。 そこから転じて, 相撲で,土俵のたわら。また,そこに足がかかって後がない状態をいう, に転じる。つまり, 「ここを境にして体(たい)が残るか否かで勝敗が分かれる土俵際(どひょうぎわ)の、特に土俵の円周を形成する俵の一番高い所(上面)の呼称であり、『剣が峰でこらえる』などと用いられる」 とある(仝上)。これをメタファに, 事が成るか成らぬかのぎりぎりの分かれ目, それ以上少しの余裕も無いぎりぎりの状態, 絶体絶命, 成否の決する瀬戸際, 等々意味で使われる。その意の慣用句として, 剣が峰に立つ, 剣が峰に立たされる, がある。 「足がかりが無く、もう後の無い状態になる」(仝上) という言い回しは,正に土俵際のメタファである。 かたな(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%AA)については触れたが,「諸刃の剣」という意は, 「《両辺に刃のついた剣は、相手を切ろうとして振り上げると、自分をも傷つける恐れのあることから》一方では非常に役に立つが、他方では大きな害を与える危険もあるもののたとえ。」(『デジタル大辞泉』) とあり,「両刃」の意となっている。だから,両刃は, 剣(つるぎ), と呼ぶ。刀は,剣と対比されている。『岩波古語辞典』には,「つるぎ」について, 「(古事記・万葉集にツルキ・ツルギ両形がある)刀剣類の総称。のちに片刃のものができてからは,多く両刃(もろは)のものをいう。」 とあり,「かたな」については, 「カタは片,ナは刃。朝鮮語nal(刃)と同源。古代日本語文法の成立の研究の刀剣類は両刃と片刃とがあった。」 とある。『大言海』の「つるぎ(劒)」の項に, 「吊佩(つりはき)の約,即ち,垂佩(たれはき)の太刀なり。御佩刀(みはかし)と云ふも,佩かす太刀の義。古くは,太刀の緒を長く付けて,足の脛の辺まで垂らして佩けり。法隆寺蔵,阿佐太子筆聖徳太子肖像,又,武烈即位前紀『大横刀を多黎播枳(たれはき)立ちて』とあるに明けし」 とある。「剣」とは, もろ刃の太刀, を指す。太刀は, 「刀剣の形式を区分上でいう太刀は,長さがだいたい六〇糎以上で,刃を下に向けて佩いた場合に茎(なかご)の銘が外側に位置するものをいう。」 と定義される。「剣」は, 劒, 剱, とも書く。「剣」(漢音ケン,呉音コン)は, 「会意兼形声刀『刀+音符僉(ケン・セン そろう)』で,両刃のまっすぐそろった刀」 である(『漢字源』)。「剣」は, つるぎ, と訓ませるが,「けん」は,漢音そのものである。 「みね」は, 峰, 峯, 嶺, とも当てる。 山の頂, の意である。それをメタファに, 物の高くなった所, の意で使い, 刀の刃の背,棟(むね), 烏帽子の頂上, 櫛の背, 等々にも使う。「峰(峯)」(ブ,漢音ホウ,呉音フ)の字は, 「会意兼形声。夆は,△型に先の尖った穂の形を描いた象形文字に夂(足)印を加えて,左右両方から来て△型に中央で出あうことを示す。逢(ホウ 出会う)の原字。峰はそれを音符とし,山を加えた字で,左右の辺が△型に頂上で出あう姿をした山。封(ホウ △型の盛り土)ときわめて縁が近い」 とある(『漢字源』)。「嶺」(漢音レイ,呉音リョウ)の字は, 「会意兼形声。領(レイ)は,人体の上部,頭と胴をつなぐ首のこと。嶺は『山+音符領』で,人体の首に当たる高い峠」 で,「峰」は△型にとがった山,いただき,「嶺」は,いみねの続きで,少し含意はずれるが,いずれも,「みね」の意。 それを「みね」に当てた,その「みね」を,『大言海』は, 「ミは発語,ネは嶺なり」 とするが,『岩波古語辞典』は, 「ミは神のものにつける接頭語。ネは大地にくいいるもの,山の意。原義は神聖な山」 とする。『日本語源広辞典』は, 「ミ(御)+ネ(嶺・どっしりした高い山の頂)」 とし,「神格化された頂上」とする。かつて山はご神体であった。三輪山は,大物主大神を祀る大神神社の, 「神体山として扱っており、山を神体として信仰の対象とするため、本殿がない形態となっている。こうした形態は、自然そのものを崇拝するという特徴を持つ古神道の流れに大神神社が属していることを示すとともに、神社がかなり古い時代から存在したことをほのめかしている。」 というように(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1)。 「ね」は, 嶺, と当てるが, 「ネ(根)と同根。大地にしっかりと食いこんで位置を占めているものの意。奈良時代には東国方言になってらしく,独立した例は東歌だけに見える。大和地方ではミネという。類義語ヲ(峰)は稜線の意」 とある(『岩波古語辞典』)。 富士の高嶺, の「ね」である。 剣ヶ峰, が富士山の頂上を指すのは,富士山が, 神体山, であったことともつながっているとみていい。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「むぎ」は, 麦(麥), と当てる。和名抄(和名類聚抄)に, 「麥,牟岐,今按,大小麥之㵤總名也。大麥。布土無岐,小麥,古牟岐」 とあり,本草和名に, 「大麥,布止牟岐,小麥,古牟岐」 とあり,名義抄に, 「麥,ムギ,大麥,フトムギ,小麥,コムギ,マムギ」 とある。「麦(麥)」は, 「コムギ、オオムギ、ライムギ、エンバクなどの、外見の類似したイネ科穀物の総称」 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AE)。 「『古事記』に保食神(けもちのかみ)の陰(ほと)に麦が生(な)ったとあるが,米を表とすれば麦は裏といった考えであろう。異名は,コゾクサ(去年草),トシコエグサ(年越草),トシコシグサ,また,チャセングサ(茶筅草)という。大麦をカチカタ(搗難)またはフトムギというが,小麦に対してのことばである。コムギの古名はマムギである。」 とある(『たべもの語源辞典』)。 「麦(麥)」(漢音バク,呉音ミャク)の字は, 「会意兼形声。來(=来)は,穂が左右に出たむぎを描いた象形文字。麥はそれに夂(足)をそえたもの。遠くから歩いてもたらされたむぎをあらわす。がんらい來が『むぎ』,麥が『くる,もたらす』の意をあらわしたが,いつしか逆になった。賚(ライ もたらす→たまわる)と同系で,神が遠く西方からもたらした収量ゆたかな穀物のこと。來(ライ)と麥(バク)は,上古音では同じであった」 とある(『漢字源』)。「麥」の字は,、紀元前 1500 年の殷の時代甲骨文字からうまれたとされ,古い。 「殷の時代では『來』、周の時代には『牟』となり、その後、來(むぎ)と夊(くる)が合体して『麥』」 になったらしい(https://www.pref.ehime.jp/h35118/1707/siteas/11_chishiki/documents/11_mugi_2.pdf)。さらに, 「紀元前 1050 年から始まる周の時代に原始的な漢字『金文』が成立し、その周王朝の初代王には『我に來牟(らいぼう)を胎る』とする伝承が残されています。牟(ぼう)とは、芒(のぎ)、すなわち麦穂にみられる細長いヒゲのことをさし、麦を表わします。來(らい)とは、殷の時代には麦を表しますが、周の時代には「来(くる)」に転じます。」(仝上) 「來牟(らいぼう)」とは西方から良い麦の種子がやって来たことを表わすのだ,という。 この「麦」は, バク・ミャク・マク・ムク・マイ, 等々と訓ませるのは, 「有史以前に中国から朝鮮半島を経て渡来したもので,ムギという名称も,中国語・朝鮮語などの影響を考えねばなるまい」 とする(仝上)。で, 「朝鮮語mil(麦)と同源か」(『岩波古語辞典』) や 「漢音のカツ(葛)をクツ・クヅ・クズといい,同じくバク(麦)をマク・ムク・ムギという」(『日本語の語源』) という由来説もある。 「ムギの字音は,英語・デンマーク語・アイヌ語・蒙古語・満州語などの麦の名称ににている」 ともある(仝上)ので,由来は,中国以西にたどれるのかもしれない。だから麦の語源を, 「モキ(衣着)の義とか,実木だとか,ムレゲ(群毛)の義とか,ムラゲ(叢毛実)の義とか,ムは高いの意の古語で,キは芒の義とかいう。その他,冬雪中に萌え出すところから,モエキ(萌草)の約,またムレノギ(群芒)の略とか,ムクカチの略とか,また,秋になると我先に蒔くところから,マクカチ(蒔勝)の略とか,ムキノギの略とか,聚芒(むのき)だとか,他の穀類にくらべて幾度も皮をつき剥ぐところからムキ(剥)の意であるとかのしょせつがある。」 とはしつつ,何れにも否定的である。『大言海』も, 「他の穀は,一度,穀を去れば可(よ)きに,麥は幾度も皮を搗き剥ぐ,故に剝(ムキ)の意,大麥に搗難(カチカタ)の名もあり,或は云ふ,萌草(モエキ)の約,三冬雪中に萌ゆれば云ふ,或は,羣芒(むれのぎ)の略と云ふ,いかがか」 と少し否定的である。『日本語源大辞典』には,上記列挙の諸説が載るが,やはり語呂合わせに見える。 そして,上記を否定した後に,『たべもの語源辞典』は, 「麦は中国語ではマイとよむ。奈良では麦をウラケという。稲のことをホンケとよぶから麦がウラケになったのであろう」 と付け加える。これは, 「バク(麦)をマク・ムク・ムギという」(『日本語の語源』) とする中国由来説とつながる。『日本語源広辞典』は, 中国古代音melog−meg, を有力とする。その『日本語源広辞典』が指摘する通り, 「大陸からの外来種なのでこれが語源と考えるのは合理的です。」 ということだろう。これだと,『岩波古語辞典』の, 朝鮮語mil, 由来とする説ともつながる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「あせ」は, 汗, と当てる。 「汗水たらす」「汗を流す」「血と汗の結晶」「額に汗する」 とか, 「手に汗握る」「冷や汗をかく」「汗顔の至り」 といった汗にまつわる言い回しは少なくない。 「汗」(漢音カン,呉音ガン)の字は, 「形声。干(カン)は,敵を突いたり,たてとして防いだりする棒で,桿(カン こん棒)の原字。汗は『水+音符干』で,かわいて熱したときに出る水液。すまりあせのこと」 とある。 「あせ」は, 「血を阿世と称す」(延喜式斎宮寮) と,斎宮の忌詞であったらしい(『岩波古語辞典』)が,「あせ」の語源は載せるものがほとんどない。 アはアツキ(熱),セはシと相通で汁(日本釈名), アシ(熱水)の轉(言元梯), アツシメリ(熱湿)の義(箋注和名抄・名言通・和訓栞), アは暑い時出る故か,セはホセか(和句解), アセミヅ(息迫水)の略(日本語源=賀茂百樹), といずれも,苦しい。要するにはっきりしない。 汗衫, とあてる「かざみ」は, 字音カンサムの轉, とある(『岩波古語辞典』)が,『大言海』は, 汗衫, を, カニサムの略轉(案内,あない。本尊,ほぞん), とし,「かにさむ(汗衫)」の項で, 「汗衫(カヌサム)の転。蘭(ラム),らに。錢,ぜに。約転してカザミと云ふは,衫(さむ)の轉。燈心,とうしみ」 とするので,『岩波古語辞典』と同じである。「汗衫」とは, 古くは,汗取りの服, で, 「麻の単の一種です。奈良時代より一般の男女が夏に着ました。表着にも内衣にも用います。」 とある(http://www.so-bien.com/kimono/%E7%A8%AE%E9%A1%9E/%E6%B1%97%E8%A1%AB.html)。 後に, 「平安時代中期以後、後宮(こうきゆう)に仕える童女の正装用の衣服。「表着(うはぎ)」または「衵(あこめ)」の上に着用する、裾(すそ)の長い単(ひとえ)のもの。」 となる(『学研全訳古語辞典』)。 「脇縫いのない袖の長いもので、組みひもを袖につけたり、わざと縫いほころばしたり、さまざまな縫い方があります。男子服に似た仕立てで、婚礼、五節に用いられました。」 とある(仝上)。 「汗衫装束(かざみしょうぞく)の特色は少女の中性的な面をよく表し、女子の服でありながら男子の服装の趣を多くもつことにあります。」 とある(仝上)。 熱けくにあせかきなげ, と万葉集にあるほど,「あせ」は古くから使われていて,語源ははっきりしないが,「汗が滲む」のを, 汗あゆ, といった。「あゆ」は, 零, と『大言海』は当てるが,宮にはじめてまゐりたるころ, 「いかで立ちいでしにかと、あせあえていみじきには」 と枕草子にあるのは,零れるより,「滲む」の方が含意としてはふさわしいかもしれない。 しかし「あゆ」は, 「アヤシ(落)の自動詞形。アヤフシ(危)・アヤブミのアヤと同根」 とある(『岩波古語辞典』)ので「こぼれる」が意味としては正しいようだ。 汗を使った慣用表現は多く,中国からも, 綸言汗の如し, とか, 汗牛充棟, 等々がある。「綸言汗の如し」は,我が国では今日死語同然だが, 「『漢書‐劉向伝』の『号令如汗、汗出而不反者也、今出善令一、未能踰時而反、是反汗也』から) 君主の言は、一度出た汗が再び体内にもどらないように、一度口から出たら、取り消すことができない。」 で(『精選版 日本国語大辞典』),「汗牛充棟」は,つい密集している喩えに使いそうだが, 「心をおさめんために、汗牛充棟(カンキウシウトウ)に及ぶ書を尽しみるといふとも」 と「信長記」にあるように, 蔵書が非常に多いことのたとえ, で, 「柳宗元『唐故給事中陸文通墓表』の『其為書、処則充棟宇、出則汗牛馬』から出たことばで、ひっぱるには牛馬が汗をかき、積み上げては家の棟木(むなぎ)にまで届くくらいの量の意) 蔵書が非常に多いことのたとえ。」 とか(仝上)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「ごまをする」は, 他人におもねりへつらって,自分の利益を計る, 意だが,この語源は, 「昔商人が、お世辞をいいながら売り込むときに、もみ手をしていた。もみ手の様子を、左手をすり鉢、右手をすりこぎに見立ててごますりと称した。」 とする説(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114763916)もあるが, 「炒った胡麻をすり鉢ですると、内側に胡麻がくっつくことから、人にべたべたと擦り寄り、へつらう意味に用いられるようになった。おべっかを使う人のことは『胡麻すり』という。」 とする説(http://yain.jp/i/%E8%83%A1%E9%BA%BB%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B)が,大勢のようだ。『大言海』も, 「擂鉢の内にて,炒れる胡麻の子(み)を擂り潰すに,鉢の四方につく,ミソスリに同じ」 とあり, 「あちらにも屬(つ)き,こちらにも屬(つ)き,彼人に諂ひ,此人に諂ふ者を呼ぶ,ウチマタガウヤク」 と載る。 「煎ったゴマをすり鉢 ですり潰すと,あちこちにゴマがくっつくことから,人にへつらう意味で用いられた言葉である。また,商人などの手を揉む仕草がゴマをする姿に似ていることから,その仕草を語源とする説もあるが,あまり有力とされていない。江戸末期の『皇都午睡(こうとごすい)』にもみられ,『追従するをおべっかといひしが,近世,胡麻を摺ると流行詞(はやりことば)に変名しけり』とある」 と,『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ko/gomawosuru.html)も,揉み手説には否定的である。 『江戸語大辞典』によると,天保頃からの流行語とあり, おべっか, の意と, 告げ口,密告, の意が載る。まあ,密告とは,権力者への諂いなので,あり得る意味と思う。 「種々(さまざま)胡麻をすりければ」(天保十五年『魂胆夢輔譚』) の「ごますり」は, 「ごまをするといふは言告口をきく通言」 と注記がある(『江戸語大辞典』)。 では,「ごま(胡麻)」の語源は何か。『大言海』は, 「和名抄『胡麻,本出大宛,故地名之』,箋注和名抄『胡麻,載在本草経,恐非本出大宛,蓋胡之言,烏也,以其色黒,有是名』。さらば,ウゴマと云ふは,烏胡麻(ウゴマ)なるか,重言となれど,胡麻の語原は,知らず,又,忘れられたるなり。淡海(アフミ),雁音(かりがね)の声の類か」 と,諸説挙げ,分からない,とする。 『日本語源広辞典』は, 「中国語の『胡(えびす・西域)+麻』です。漢の張騫が西域から持ち帰った麻に似た植物」 とし, 「インド・エジプト原産で、漢の張騫(ちょうけん)が西域から持ち帰ったとされ、中国では西域の異民族を「胡」と呼び、「胡から伝わった麻の実に似た種子」 という意味から「胡麻」と名づけられた。」(『由来・語源辞典』) 「ごまは 中国を経由して日本に伝わった植物で,漢語の『胡麻』を音読みしたものが『ごま』である 。中国では西域の諸国を「胡」といい,『胡瓜(きゅうり)』『胡椒(こしょう)』『胡桃(くるみ)』と同じく,胡から持ち帰ったものには『胡』が冠される。ゴマの実は,麻の実に似ていることから,胡から持ち帰った麻に似た植物ということで『胡麻』と称されるようになった」(『語源由来辞典』) 等々, 胡麻→こま→ゴマ, という中国由来ということのようである(和名抄,五万,訛云,宇古末(うごま))。『岩波古語辞典』は,「うごま」の項で載る。 「奈良時代には濁音で始まる和語は極めて少なかったので,gomaと発音しにくかったため,前に母音uをつけてugomaとしたものであろう」 とある。とすると, 胡麻→うごま→ごま, の転訛なのかも知れない。 「胡という字は烏のことで,黒いところからつけられた名であるとの説もあるが,ゴマは黒ばかりではないから,面白くない。(中略)古名のウゴマは烏胡麻だというが,またゴマの音を訛ってウゴマという説もある。コミアサ(コミアサ)がゴマになったとの説もあるが良くない」 とし,張騫が西域から持ち帰った「胡の「麻に似た植物の名を胡の麻」とした,としている。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「お べっか」は, へつらうこと,また,そのことば, とある(『広辞苑第5版』)が, 上の人の御機嫌をとったり、へつらったりすること,おべんちゃら, というのが正確かもしれない。対等な相手に言うのではない。 『江戸語大辞典』には, 語源不詳, と載る。その他に,「お べっか」の動詞化で, お べっかう, という言葉もあったらしい。『大言海』は, 諂諛, の字を当てている。へつらう(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%B8%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%86)で触れたように, 「諂」(テン)の字は, 「会意兼形声。臽(カン・タン)は,くぼむ,穴に落すの意をあらわす。諂はそれを音符とし,言を加えた字。わざとへりくだって足いてを穴に落すこと」 とあり(『漢字源』),へつらう,人の気にいるようなことをいってこびる意である。 「諛」(ユ)の字は, 「改憲形声。臾(ユ)は,両手の間から物がくねくねとぬけることを示す会意文字。諛は『言+音符諛(くねくねとすりぬける)』」 とあり(仝上),意味は,へつらうだが,言葉を曲げて相手のすきにつけこむ,とあるので,「諂」より,多少作為が際立つのかもしれない。 『大言海』は,「お べっか」の項で, 「顔見世狂言の初めに,役者,囃子方,皆別火(べっか)にて斎戒(ものいみ)して,式三番を勤めたり。何事のときにかありけむ,囃子方の頭某に,常に諂ふ性の者あり,座元の許に行き,例に因りて御別火(おべっか)にて勤めます,頻りに云ひしより,楽屋詞に,御別火を云ふとて,諂ふ意とせしに起ると,或書にて見たることあり。又或は越前にてアベコキとも云へば語原は別にあるか」 と,結局曖昧である。「別火(ベッカ)」とは, 「神事を行う者が,穢れにふれないように別にきり出した火で食物を調理して食すること。また,穢れのある人が炊事の火を別にすること」 とある(『広辞苑第5版』)。「式三番」(しきさんばん)は, 「能・狂言とならんで能楽を構成する特殊な芸能の一つ。能楽の演目から転じて、歌舞伎舞踊や日本舞踊にも取入れられているほか、各地の郷土芸能・神事としても保存されており、極めて大きな広がりを持つ芸能である。なお、現代の能楽師たちはこの芸能を、その文化を共有する人たちにだけ通じる言葉、いわゆる符牒として『翁』『神歌』(素謡のとき)と呼んでおり、『式三番』と呼ぶことはほとんど無い。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E4%B8%89%E7%95%AA)。「翁」というのは, 「能が成立する以前の翁猿楽(老人の面を付けた神が踊り語って祝福を与えるという芸能)の様式を留める芸能が式三番である。」(仝上) 『日本語源広辞典』は,方言説を採り, 「お(接頭語)+ヘツ(諂 ヘツラウ)+か(人)」 とし, 「過度に諂う人を軽蔑する意の方言オヘツが現在,中部近畿,南部四国にあります。近畿中北部のオベッカと語原が通じるのでしょう」 としている。 しかし,『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/o/obekka.html)は, 「おべっかの語源は、口のきき方・言い方のほか、口のきき方がうまいことを意味する『弁 口(べんこう)』に、接頭語の『御(お)』が付いた『御弁口(おべんこう)』が変化した言葉で あろう。 北海道の方言で、おべっかを『べんこ』というのも、『弁口』からと思われる。」 とし, 「神事・祭事の際に炊事の火を別にすることをいう『別火』(べっか)に由来し,別火を知らない人が,調子よく「おべっか」と言ったことからとする説や,服従する意味の英語『obey』からという説もあるが,考え難い」 とする。「おべんちゃら」は, 弁がちゃらい, の意で良いが, 弁口, は, 口のきき方を言っているだけの状態表現で,そこに,価値表現はない。それを, 御弁口, と言い,それが, 御弁巧, の意へと, 転じた経緯がはっきりしなければ,ただの語呂合わせでしかないように思える。『大言海』がいうように,方言の可能性が高いが,『江戸語大辞典』に載る以上,それが一般に通用していた,ということだろう。そう考えると, ヘツラフ→オヘツラヒ→オベッカ, の転訛があり得る気がする。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「ハコベ」は, 繁縷, 蘩蔞, と当てる。ナデシコ科ハコベ属(Stellaria)の総称。別名,コハコベ(小繁縷)。茎が緑色なのでミドリハコベともいう。ただ,漢字名の「繁縷(ハンロウ)」は、生薬の名前だとか。 ハコベラ, または, アサシラゲ, の古名がある。 芹なずな 御形はこべら 佛の座、すずなすずしろ これぞ七草, の歌にある, 春の七草, の一つである。ちなみに,「御形」はハハコグサ、「佛の座」はコオニタビラコであるとするのが定説,とか。 「平安時代の後期の文献に『君がため 夜越しにつめる 七草の なづなの花を 見てしのびませ』の歌があるとされるので、七草を摘むという風習は平安時代には既にあったと考えられます。ただ、七草の対象となっていた草本はまちまちで、地方によっても異なっていたようです。」 とある(http://www.geocities.jp/tama9midorijii/ptop/kogop/kohakobe.html)し, 「平安時代から食用の記録が残り、『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には野菜(当時は文字どおりの野の菜)の一つとして、波久倍良(はくべら)の名が載る。鎌倉後期の『年中行事秘抄』には、宮中で用いる七種菜(ななくさのな)に(はこべら)の名があがる。ハコベは異名や方言が多いが、ハコベの名は『下学集(かがくしゅう)』に初見する。江戸時代には種子を播(ま)いて育てたことが『百姓伝記』にみえ、はこべ汁(『料理物語』)などにして食べられた。また、干して粉にしたのを塩と混ぜたハコベ塩を歯みがきに使う習俗もあり、現在も歯茎の出血を防ぐ目的で使われることがある。」 とあり(日本大百科全書(ニッポニカ)), 「花期の3〜6月に地上部の茎葉を刈り取り、水洗い後、天日干しにしたものを生薬名『繁縷(ハンロウ)』といい、産後の浄血薬、催乳薬、胃腸薬や湿疹などの皮膚炎の治療薬として用いられてきました。また、同粉末に適量の塩を混ぜたものを『ハコベ塩』と呼び、これを指に付けて、歯茎をマッサージすることにより、歯茎からの出血、歯槽膿漏の予防に用いられてきました。江戸時代には既に使われていた葉緑素入りのハコベ塩はまさしく『歯磨き粉の元祖』とも言えます。」 ともあり(https://www.pharm.or.jp/flowers/post_6.html),古くから馴染みがある。 『大言海』は,「はこべら」の項で, はくべら(繁蔞)に同じ, とする。名義抄には, 「繁蔞,はこべら,ハクベラ」 と載る。「ハクベラ」の項で,「ハコベ」の古名で, 「葉配(ハクバリ)の転かと云ふ」 とある。倭名抄には, 「繁蔞,鶏腸草,八久倍良」 本草和名には, 「繁蔞,一名,鶏腸,波久邊良」 和訓栞には, 「はくべら,…葉をくばりしくりーの義にや,いまは,ハコベといへり」 等々とあるという(仝上)。「鷄腸草」も「蘩蔞」と同じく,由来のようである。どうやら, 波久倍良(ハクベラ)→ハコベラ→ハコベ, という転訛らしい。微妙に違うのは, 「ハビコルナ(蔓延る菜)は,ルナ[r(un)a]が縮約されてハビコラに転音し,『ビコ』の転位でハコビラ・ハコベラ(繁蔞)・ハクベラ(和名抄)などの語形を経てハコベになった」 とする(『日本語の語源』)説だ。しかし,繁茂しているさまは,確かに,蔓延(はびこ)る感じではある。 はびこる→はこびる→はこべら→はこべ, の転訛もある。同じく生態をとらえた、 はいずる→へえずるの派出とみられるへずる、ひずる系の方言, が西日本に多い(日本大百科全書(ニッポニカ)),とある。 茎は柔らかく地表をは, という生態からの見方の方が自然に思える。 『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ha/hakobe.html)は, 「ハコベは,『ハクベラ』が転じた『ハコベラ』が更に転じた語で,春の七草のひとつとして挙げる際には『ハコベラ』と呼ぶことが多い。ハクベラ(ハコベ)の語源は諸説あり,『葉配り』の轉とする説。『ハク』は『帛』で茎から出ている白い糸を『帛(絹)』に見立てたもの,『ベラ』は群がる意の古語とする説。『ハク』は漢字の『繁』の漢音『ハン』で草が茂ること,『ベラ』は漢字『婁(ル)』で茎が長く連なった草の意のことで,漢語『ハンル(繁婁)』の音変化とする説。『ハク』は二股に分かれた茎に小さな葉がつき,小さな飾りの袴を腰に穿いているようであることから,『穿く・佩く(はく)』の意味,『ベラ』は股の外側に付いた葉っぱを指したもので『花弁(はなびら)』や『草片(くさびら)』の『びら』と同源とする説がある。漢語『ハンル(繁婁)』の説は,ハコベの漢字『繁縷』にも通じ,意味も分かりやすく発音も近いように思えるが,『ハクベラ』への音変化は難しい。『ベラ』は『花びら』などの『びら』と同源とするのが一番自然に思えるが,『ハク』については判定が難しい」 と,諸説を挙げるが,「はこべ」は花ではなく,葉の方に人の関心が向いている。花びらとつなげるのは,食用ハコベ実態と離れている。 「ユーラシア原産で、農耕に伴って世界中に広まった史前帰化(しぜんきか)植物とされています。ハコベの和名は古名の『はこべら』や『はくべら』が転訛したものですが、語源は『蔓延芽叢(はびこりめむら)』、『歯覆(はこぼるる』、『葉采群(はこめら)』などの諸説があります。ハコベは食用や薬用にしたり、柔らかい草質からニワトリや小鳥のえさとしてよく知られており、『ハコビ』、『ヒズリ』、『ヘズリ』、『アサシラベ』、『ヒヨコグサ』など各地でそれぞれの方言で呼ばれています。英語でもハコベを「chickweed(=ヒヨコの草)」と呼んでいます。」 とする(https://www.pharm.or.jp/flowers/post_6.html)説から見て, はびこる, と絡めるのが妥当に思えてならない。 参考文献; 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「なでしこ」は, 撫子, と当てる。当て字である。当て字から解釈する, 撫で撫でして、いつくしみ、かわいがる子。それほどかわいい花, というのは,ほぼ切り捨ててよいと,僕は思った。ところが, ナデシコの由来 「花が小さくて色も愛すべきところから、愛児に擬して『撫でし子』となった」 という説が有力だという。 「花が小さく色も愛すべきところから,愛児に擬した『撫でし子』が有力である。万葉集の和歌には,撫でるようにしてかわいがる子(女性)と掛けて詠んだものがみられるが,それは現在でいう『カワラナデシコ(河原撫子)』を指した。古くは,夏から秋にかけて花をつけることにちなみ,『トコナツ(常夏)』とも言った」 とか(『語源由来辞典』http://gogen-allguide.com/na/nadeshiko.html), 「ナデ(撫でる)+シ+子」 とか(『日本語源広辞典』),正に絵に描いたように,この字を当てた者の罠にはまっている。『大言海』も, 「家経朝臣和歌序『鐘愛抽衆草,故撫子,艶色契千年,故曰常夏』,又此草の花,形,小さく,色愛すべきものゆゑ,愛児に擬し,ナデシコと云ふ」 と,珍しく何も語源の根拠を示せていない。 因みに, 和撫子(やまとなでしこ), というのは, 唐撫子(石竹), に対していう(仝上),とある。 セキチク(石竹.)は,原産は中国で,日本では平安時代には栽培されてきた,という。 どうしても,撫子という当て字に引きずられた解釈が多く,愛児に擬して,ナデシコが大勢で,それ以外に, ナデサスリクサ(撫擦草), ナテチクソウ(南天竺草), もあるが,同類である。しかし当て字解釈よりは, 密集するところからナヅミンゲ(泥茂), と,草の生態の方がました。漢字を当てると,その意味に引きずられるのはやむをえないとしても, 「『撫でし子』と語意が通じることから、しばしば子どもや女性にたとえられ、和歌などに多く参照される。古く『万葉集』から詠まれる。季の景物としては秋に取り扱う。『枕草子』では、『草の花はなでしこ、唐のはさらなり やまともめでたし』とあり、当時の貴族に愛玩されたことがうかがえる。また異名である常夏は『源氏物語』の巻名のひとつとなっており、前栽に色とりどりのトコナツを彩りよく植えていた様子が描かれている。」 と,すでに,撫子からの解釈から出られなくなっている。当否は別にしても, 「淡紅色の花の優雅さを眺めて,アテサク(貴咲く)花といったのが,子音[n]を添加してナデサクとなり,『サ』の母交(母韻交替)[ai]でナデシコ(撫子)になった。〈野辺のナデシコの散らまく惜しも雨な降りそね〉(万葉集)」(『日本語の語源』) という解釈の方を採りたい。 「あて(貴)」は, 「『いやし』の対。高い血筋にふさわしい上品さ。必ずしもヤンゴトナシのような第一級の尊貴をさすものではない」 とある(『岩波古語辞典』)。 上品, という意味である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「なずな」は, 薺, と当てる。春の七草の一つである。田畑や荒れ地、道端など至るところに生える, ぺんぺん草, 三味線草, である。 「若苗を食用にする。かつては冬季の貴重な野菜であった。貝原益軒は『大和本草』で宋の詩人蘇軾を引用し『「天生此物為幽人山居之為」コレ味ヨキ故也』(大意:『天は世を捨て暮らしている人の為にナズナを生じた』これは味が良いためである)と書いている。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BA%E3%83%8A)。ただ,「曾丹集(十一世紀初)」に, 「み園生のなづなのくきも立ちにけりけさの朝菜に何を摘ままし」 とあり, 「朝の菜として食したことがわかる。ただし、この詞書には『三月終』とある。『万葉集』には見えず、八代集でも『拾遺集‐雑春』の『雪を薄み垣根に摘めるからなづななづさはまくのほしききみ哉〈藤原長能〉』の一首が見えるだけであるが、これは『なづさふ』を導き出す序詞なので、平安前期は和歌の景物、春の七草という意識はなかったらしい。その後、和歌に用いられる時は『摘む』物として取り上げられ、平安後期になって『君がため夜ごしにつめるなな草のなつなの花を見て忍びませ』〔散木奇歌集‐春〕のように、七草の一つと考えるようになったらしい。」 とある(『精選版 日本国語大辞典』)ので,七草入りは,平安後期以降らしい。 「薺」(漢音セイ,呉音ザイ)の字は, 「会意兼形声。『艸+音符齊(セイ そろってならぶ)』で,小さな花をつけた茎が揃って並ぶ,なずな」 の意である。 「ムギ栽培の伝来と共に日本に渡来した史前帰化植物と考えられている」 とあり(仝上),かなり古くからある。 「民間薬として陰干ししたのちに煎じたり、煮詰めたり、黒焼きするなどしたものは肝臓病・解熱・血便・血尿・下痢・高血圧・止血・生理不順・腹痛・吐血・便秘・利尿・目の充血や痛みに効き、各種薬効に優れた薬草として用いられる。」 ともある(仝上)。なかなか重宝な植物である。 「薺は生ゆること済々たり故に之を薺と謂う」 と『本艸』にあるとか。で, 「ナズナを行燈につり置くと虫よけになるという」 とか(『たべもの語源辞典』)。 『大言海』は, 「撫菜(なでな)の義にて,愛ずる意かと云ふ」 とある。「撫子」を「愛児に擬し」愛ずる意としたのに似て,いささか,いかがわしい気がする。「倭名抄」には, 「薺,奈都那」 とある。『語源由来辞典』も,諸説挙げつつ, 「ナズナの歴史的仮名遣いは『ナヅナ』で,その語源には、撫でいつくしむ草の意味で『撫で菜』とする説。ナズナは夏に枯れるところから,『夏無(なつな)』とする説。苗が地について縮まっているところから,『滞(なず)む菜』の意味とする説。『野面菜(のつらな)』が変化し,『ナヅナ』になったとする説がある。ナズナ(ナヅナ)の後方の『ナ』は『菜』のことと考えるのが自然で,枯れる時期が名前になることはまずないため,『夏無』の説は考え難い。断定は難しいが,ナズナは古くから薬用として食べられ,音変化も自然なことから『撫で菜』の説がゆうりょくであろう。」 と,撫菜説を権威ぶって請け合うが,「薬用として食べ」ることと「撫ぜる」こととどうつながるのか,ほとんど説明がない。この説の根拠を説明するのは, 「菜を摘んで細かく刻んで七草粥に入れた。ナヅ(ズ)ナは,菜が美味なところから,撫で愛でる菜の意の『なで菜』からである。」 という(『たべもの語源辞典』)ことだろう。薬用ということだけと撫でたとは思えない。『たべもの語源辞典』が,夏無説,夏無き説,と並んで挙げた, ノツラナ(野面菜), が,僕には生態をよく示していると感じられてならない。 『日本語源広辞典』は, 「ナヅ(撫で愛ず)+ナ(菜)」 説以外に, 「朝鮮語nasi nasinの変化」 を挙げる。大勢は, 撫で愛ずる説, のようだが,「撫子」にも使った語源説で,撫でるのはナズナやナデシコだけではあるまい。僕は, ノツラナ(野面菜), に与する。こんなにあちこちに見かける草はない。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「ホトケノザ」と今日いうのは, サンガイグサ(三階草), とも呼ばれる,シソ科オドリコソウ属の, 仏の座(学名: Lamium amplexicaule) である。この「ホトケノザ」は, 「子供が花びらを抜き取り、それを吸って蜜を味わって遊ぶことがある」 らしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%88%E3%82%B1%E3%83%8E%E3%82%B6)が,この「ホトケノザ」は,春の七草の「ほとけのざ」と異なり,食用ではない。 いわゆる,春の七草,で知られる, せり,なずな,ごぎょう,はこべら,ほとけのざ,すずな,すずしろ,これや七草, の, ほとけのざ, と別である,ということになっている。 ごぎょうはハハコグサ, はこべらはハコベ, ほとけのざはタビラコ, すずなはカブ, すずしろは大根, とされている(『世界大百科事典 第2版』)。「タビラコ(田平子)」は, キク科ヤブタビラコ属, コオニタビラコ(小鬼田平子), ともいい, ホトケノザ(仏の座), ともいうとされるのが紛らわしい。春の七草の一つとして知られているのは,この「ホトケノザ」である。 コオニタビラコ, は,キク科ヤブタビラコ属である。これは,食用にされた。 「正月7日の朝に粥(かゆ)に入れて食べる7種の野草、もしくはそれを食べて祝う行事。この日、羹(あつもの)にした7種の菜を食べて邪気を避けようとする風は古く中国にあり、おそらくその影響を受けて、わが国でも、少なくとも平安時代初期には、無病長寿を願って若菜をとって食べることが、貴族や女房たちの間で行われていた。ただ、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる。七草の種目は、一般にはセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの7種だとされているが、時代や地域によってかならずしも一定せず、そのうちのいくつかが含まれていればよいと考える所もある。」 とか(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)。 今日の「ホトケノザ」は,その形をみると,納得できるが,コオニタビラコは,なぜ「ほとけのざ」と言われたのかがはっきりしない。 「『ホトケノザ』という名は、ロゼット葉の姿からつけられたものと思われるが、現在ではシソ科の雑草であるホトケノザ(Lamium amplexicaule L.)に与えられ、そちらが標準和名となっている。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A9%E3%82%B3)。ロゼッタ葉というのは, 「バラの花の形を意味する言葉であるが、『ロゼット葉』は地面に葉が広がって立ち上がっていない状態を指している。」 とか(http://had0.big.ous.ac.jp/ecologicaldic/r/rozetto/rosette.htm), 「短い茎の部分に多数の葉が密集し全体として丸い形状をなすもの」 とある(https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=226),あるいは, 「若葉はもっとしっかり地面に貼りついている。もう少し仏様が座りやすい形にも見えるだろう。」 とある(http://www.mokichi.net/flowers/annex/koonitabirako.html)ので,葉の形なのかもしれない。しかし,他にも,タンポポなどのキク科植物やキャベツなどのアブラナ科の植物など身近にある。あえて「ホトケノザ」とこれを比定したのは何によるのだろう。昔の人の観察眼は,細かくて,鋭いときがある。葉の広がった状態ではなく,この花そのものに,謂れがあるのではないか,とふと思った。 この花は, 「一つの花に見えるのは6〜9個ほどの花の集まりだ。花びらのように見えるのが花だ。一つの花には合着した5枚の花弁があり、雄しべとめしべがある」 とある(https://kobehana.at.webry.info/201403/article_28.html)。つまり,花弁状に見えるのが,一つの花で,だから,雄しべとめしべは,花弁の数だけある。そうみると,花弁状の花(舌状花)についた雄しべ(黒い部分)とめしべ(黄色の部分)が仏に見えなくもない。 「たびらこ」の謂れは, 「『タビラコ(田平子)』の名は、田面に張り付くように放射状に根生葉を広げる様子を現した名であるというのが通説です。」 と(http://www.geocities.jp/tama9midorijii/ptop/kogop/koonitabirako.html), 地面にはいつくばった姿, を指していて,分かりやすい。 「ブリ」は, 鰤, と当てるあの「ブリ」である。「鰤」(シ)は, 「一説に,これを食うと死ぬという毒魚」 とある(『漢字源』)。また,漢字の「鰤」のつくり, 「『師』は年寄りの意味を表し、年をとった魚・老魚の意味がある。また、冬は特においしいので『師走しわすの魚』ということも表している。」(https://zatsuneta.com/archives/001770.html) 「ブリは出世魚と呼ばれ最終的にたどり着いたところが『ブリ』。つまり人間でいうところの先生(師)の位に辿り着いたわけ。だから魚に師と書いて鰤」(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10167227310) 等々とこじつけるものもある。 この魚は,出世魚といわれるほど,成長するにつれて名前が変わる。たとえば, ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ(東京地方), ツバス→ハマチ→メジロ→ブリ(大阪地方) とある(『広辞苑第5版』)。その変化は, 関東 - モジャコ(稚魚)→ワカシ(35cm以下)→イナダ(35-60cm)→ワラサ(60-80cm)→ブリ(80cm以上) 北陸 - コゾクラ、コズクラ、ツバイソ(35cm以下)→フクラギ(35-60cm)→ガンド、ガンドブリ(60-80cm)→ブリ(80cm以上) 関西 - モジャコ(稚魚)→ワカナ(兵庫県瀬戸内海側)→ツバス、ヤズ(40cm以下)→ハマチ(40-60cm)→メジロ(60-80cm)→ブリ(80cm以上) 南四国 - モジャコ(稚魚)→ワカナゴ(35cm以下)→ハマチ(30-40cm)→メジロ(40-60cm)→オオイオ(60-70cm)→スズイナ(70-80cm)→ブリ(80cm以上) 等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AAに譲るが),地域差が大きいが,成魚(80cm以上)を「ブリ」というのは同じようである。 「ブリの古名は,ハリマチである。小さいものをワカナゴと呼んだが,これがワカシとなった。ハリマチの名は今はハマチ(魬)とになった」 とある(『たべもの語源辞典』)。「和漢三才図絵」には, 「鰤,…和名波里萬知,略曰波萬知」 とある。「ハリマチ」は平安時代には,使われている。古名が,端々に,出世魚の中に残っていることになる。 『大言海』は, アブラの略轉か, とするが,これは, 「江戸時代の本草学者である貝原益軒が『脂多き魚なり、脂の上を略する』と語っており、『アブラ』が『ブラ』へ、さらに転訛し『ブリ』となったという説」 とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA)通じる。『語源由来辞典』は, 「ブリは,年を経た魚の意味で『フリウヲ(経魚)』と呼ばれ,『フリ』が濁音化され『ブリ』になったと考えられる。中国ではブリは『老魚』と言われていたため,日本でそれを言い表わしたのが『経魚』で代表的な出世魚であるため有力な説である。漢字の『鰤』が『魚』に『師』であることも,『老魚』や『経魚』の意味に通じる。ただし,中国にブリが入る時には,非常に大きく毒を持つとも言われているため,解釈は日本のものとは異なる。」 と(http://gogen-allguide.com/hu/buri.html),出世の「経年」を採る。また, 「老魚の意をもって年経りたるを 老りにより『ふり』の魚という」(「日本山海名産図絵」) と記述されている,ともいう。 『たべもの語源辞典』は, 「年を経たという意で,フリが濁ってブリになった。九州でブリを大魚というので,鰤という字は,老魚・大魚の意であるというが,面白くない説である。ブリは,師走に最も味が良くなる魚,寒ブリと呼ばれるゆえんである。その師走の魚という意で,鰤としたとの説がよい。また,ブリはあぶらの多い魚なので,アブラのアを略し,ラとリが通じるのでブリとなったとの説は良くない。アブリ(炙)の上略という説もいただけない。体が大きいところからフクレリの略とか,ミフトリ(身肥太)の義とかの説があるが,いずれね良くない。」 と,「経年」のふり説なのか,師走の魚説なのかが,判然としないが,素人ながら,こういう語呂合わせにもったいぶった理屈をつける説は,あまり語感からみても良くない,と思うが如何であろうか。 『日本語源広辞典』は,二説挙げる。 説1は,「アブラ(脂)の変化」説,つまり,アブラ→ァブラ→ァブリ→ブリ,と。 説2は,アブリの変化, である。 アブラ(脂) か アブリ(炙) か ふり(経) か というところだが,古名「ハリマチ」は平安時代には,使われているが,「ブリ」という名は,鎌倉時代の辞書が初見,ハマチは室町時代,とある(http://www.pref.kagawa.jp/suisan/kensan/files/hamachinohanashi.pdf)。経年を意識したのは,鎌倉時代末期,ブリの大きさによって名前を変えた,という。とすると,ブリの名は新しいのではないか。経年を意識したのと,ブリの名とが,何れが先かで,かなり変わる。僕は, ハリマチ, が, ハマチ, と転じる前に,ブリが意識されたとみていい。それは,「ハリマチ」を年経るながれの中に,位置づけ直した(室町時代)ということである。ブリは,その前に名があった(鎌倉時代),とみるのが自然になる。とすれば, アブラ(脂) か アブリ(炙) とみるのが順当に思るが,如何であろうか。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「フグ」は, 河豚, 鰒, 鮐, 魨, 鯸, 鯺, 等々と当てるらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B0)。古くは, フク, といったとあり(『広辞苑第5版』), 「平安時代の文献『本草和名』『倭名類聚秒』には、フク(布久)またはフクベ(布久閉)と記されていた記録があります。フクが濁って『フグ』と呼ばれるようになったのは江戸時代頃からです。ただし、関西では古来より『フク』という呼び方を用い、今でも下関や九州ではフクと呼ぶ方も少なくありません。」 ということらしい(https://www.fugu-sakai.com/magazine/learn/1426/)。 「河豚」と表記することについては,中国由来であり, 「漢字が、『河』と書くのは中国で食用とされるメフグが河川など淡水域に生息する種であるためで、また、このメフグが豚のような鳴き声を発することから『豚』の文字があてられているとされる。」 とある(仝上)。「河」は黄河を指すが,ここでは大きな河の意か。 「河という字が使われているのは、中国では揚子江や黄河など、海よりも河に生息するふぐが親しまれていたからだそうです。」 とある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410857504)。さらに, 中国語では,「フグ」は, 「『河豚』『河豚魚』『河魨』という表記を使っている」 とある(仝上)。日本で「フグ」に当てている, 鰒(漢音フク,呉音ブク), は, とこぶし, とあり, 一説に, あわび, ともある(『字源』)。すくなくとも,「フグ」の意ではないが,漢音で「フク」と発音することから,古名「フク」に当てたのかもしれない。 鮐(イ,タイ), 魨(トン), 鯸, は,「フグ」の意である。鯺(ショ)は昆虫を指すらしい。この辺りは, 「漢字は『河豚』と書くのが普通だが、魚へんの漢字『鰒』『鯸』『魨』も『ふぐ』と読む。『鰒』は本来アワビを指す漢字であるが、『フク』と音読みすることから、フグを表す漢字として使用されるようになった。室町時代の国語辞典『節用集(せつようしゅう)』に『鰒(ふぐ)』が始めて現れる。『鯸』は、つくりの『侯』が『膨れる』という意味を表すことから『大きく膨れる魚』=フグとなった。『河豚』は中国の揚子江や黄河の中流域までメフグが棲んでいたことから『河』、膨れた姿が豚に似ていることから『豚』が使用されるようになった。また、豚の異体字を『豘』と書くことから『河魨』の表記が生まれ、『魨』の一文字が独立するようになった。」 と詳しい(https://zatsuneta.com/archives/001931.html)。なお,「鮭」(ケイ,ケ)も, フグ, をさす(『山海経』などの古典ではフグに『鮭』の字を当てている),とか(仝上)。 当てた漢字はさておき,「フグ」の語源は,『大言海』は, 「怒れば,腹,脹るる故に云ふと」 と,脹れるを語源とする。その他, 口の形が「吹き付ける」のに適しているところから、「フキツケル→ フク→ フグ」という説 「腹を含ませる(フク)」から“フク“となり「フク→ フグ」という説 膨らんだフクが「瓢箪・フクベ」のようだから「フクベ→ フク→ フグ」という説 フクルルトト(脹るる魚)からフクトと呼ばれた。「フクト→ フク→ フグ」という説 韓国語で「ポク」はフグのこと。そこから「ポク→ フク→ フグ」という説 等々(http://allfishgyo.com/595.html),さらに, シブク(渋)の義(和句解), フド(斑魚)の義(言元梯), ブス(毒)の転(和語私臆鈔), 等々もある(『日本語源大辞典』)。 「膨らむものを意味するものの多くは『ふく』が使われているため、ふぐも『ふく』と呼ばれたとする」 説からする(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410857504)と, 袋(ふくろ), 脹脛(ふくらはぎ), ふくよか, 膨れる(ふくれる), ふくべ(瓢箪) 脹る, 等々の諸説は「ふくらむ」の「ふく」に含まれる。どうやら, 「平安時代には『布久(ふく)』『布久閉(ふくべ)』と呼ばれていた。江戸時代中頃から,関東で『フグ』と呼ぶようになり全国へ広がったが,現在でも下関や中国地方の一部では『ふく』と呼ばれている。『ふく』の語源は,海底で砂を吹き出てくるゴカイ類を食べる性質があるため,『吹く』と呼ぶ説や,『袋(ふくろ)』『脹脛(ふくらはぎ)』『ふくれる(膨れる)』など膨らむものを意味するものの多くに『ふく』が使われており,フグも膨らむのでこの語幹からとする説がある。『瓢箪』を『瓠瓢(ふくべ)』と呼んだことから,形が似ているため『ふぐ』を『ふくべ』と呼び,『ふく』になったとする説もあるが,『瓠瓢』は膨らむものと同じ由来になるので,この説は違うとみてよいだろう。」 と整理(http://gogen-allguide.com/hu/fugu.html)してみると,「ふくらむ」の「ふく」に傾く。 「フグは,『吹く』で,膨れる,フクベと同源です」 とある(『日本語源広辞典』)のをみると,「吹く」と「膨らむ」が重なるように見える。しかし,『岩波古語辞典』には,「膨る」は, フクダムと同根, とある。「フクダム」は, 毛羽立たせる, 毛がそそけだって膨らんだようになる, ことである。「吹く」は,あくまで, 口をすぼめて息を吐く, 意で,膨らむのは逆に吸い込むで,別のことである。やはり, 膨らむの「ふく」 でいいのではあるまいか。 「空気をのみこんてだ体をふくらすので,フクルルトト(脹るる魚)といったのが,フクト・フグトに転音した。…さらに,語尾を落してフク(布久。和名抄)・フグ(河豚)になった」 とある(『日本語の語源』)のは,時間経緯が多少怪しいが,「ふくらむ」説の傍証となる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「ふく」は, 吹く, 噴く, と当てる。 「吹」(スイ)の字は, 「会意。『口+欠(人のからだをかがめた形)』。人が体をかがめて口から息を押し出すことを示す」 とある(『漢字源』)。「息をふく」「風がふく」意である。「噴く」(フン,ホン)は, 「会意兼形声。賁(ホン)は『貝(たから)+音符奔(吹き出す,ふくれる)の略体』で,はじけそうに膨れた宝貝のこと。噴は『口+音符賁』。ぷっとはじけるように口から吹き出すこと」 漢字を当てなければ,「噴く」と「吹く」の違いのニュアンスは。その場にいるものに「ふく」だけで伝わった。文字表現ではないのだから,その場にいるものに通じればよかったのである。 『岩波古語辞典』は, 「口をすぼめて息を吐く意。また,風の起こる意」 とし, 「神話では息を吹きだすことは生命の象徴だったので,息・風・霧などは生命の誕生と結びつけられた」 とある。『広辞苑第5版』は, 「語幹フは風が樹木などを吹いて立てる音の擬声音か」 とする。 息を吹く擬態, か, 風の音の擬音, か, ということのようである。『大言海』は, 「脣の所作の聲」 とするので,擬音説である。 『日本語源広辞典』は,二説挙げる。 説1は,「ビュウ・フウ(擬音,pju→hju→hu)+く」で,擬音に語尾「く」を加えた語, 説2は,「フ(含み)+ク(動詞化)」口の中の含みを出す意, とする。しかし,「含み」は, 「内に物を包み込んで保つ」 意で,「吹く」動作とは異なるのではないか。 大勢は, フーという擬音から(国語溯原=大矢徹・国語の語根とその分類=大島正健・日本語原学=林甕臣・音幻論=幸田露伴・江戸のかたきを長崎で=楳垣実), フクフクという風の音から(和句解), と擬音説のようである。しかし,他に, ハルキル(春剪)の反(名語記), フキク(吹気来)の義(日本語原学=林甕臣), フク(風来)の義(言元梯), フレキ(触来)の義(名言通), フは広がる意,クはうきあがり,また,かきわく意(槙のいた屋) 風に当たると万物が傾くところからカタフク(傾)の上略か(和句解), フは進行の義。進む所に付止まる義(国語本義), 風の意の中国語fengから(外来語辞典=荒川惣兵衛), 等々珍説がある(『日本語源大辞典』)。風の音くらい,わざわざせ中国から持ってこなくても,吹いているものに名ぐらい付けるだろう。 個人的には,「ふーっ」「ふーふー」という擬態語か擬声語ではないか,と思う。風音はともかく,「ふーっ」は音というよりその恰好 「脣の所作」 ではないか。あるいは,『大言海』の, 「脣の所作の聲」 というところかもしれない。「ふーっ」は, 「口をすぼめて,軽く息を吹きかける音」 とある(『擬音語・擬態語辞典』)。どちらかというと擬態に近いような気もする。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 「葺く」は, 屋根を葺く, の「葺く」である。「葺」(シュウ)の字は, 「会意兼形声。下部の字は,寄せ集める意を含む。葺はそれを音符とし,艸を加えた市場で,かや草などを寄せ集めること」 とある(『字源』)。 「名義抄」には, 「葺,フク,カサヌ」 とある。 『日本語源広辞典』には, 「カタフク(傾く)の下の二音節」 とあり, 萱,茅,葦,板,瓦などを傾けて置き,屋根を覆う意, とある。しかし,ちょっと, kamuku→muku, とするのは,どうだろ。他には, もる雨をフセグ(防)義か,またフサグ(塞)の義か(和句解), フク(吹)の転。雨が淀みなき所に付止る義(国語本義), 覆の音から(外来語辞典=荒川惣兵衛), 等々がある。ちょっと「覆」の音というのは惹かれるが,屋根葺が渡来とはがぎらない。 「日本でも縄文時代には茅を用いた屋根だけの住居が作られていたと考えられている。奈良時代以降の場合は板葺や樹皮葺であった可能性が検討されるが、弥生時代以前の遺跡(登呂遺跡など)で復元される竪穴式住居などの屋根は通常茅葺とされる。」 とある(仝上)ように,登呂の遺跡の再現には,少し疑問があるにしても,古くから葺いていたことはの間違いない。 「吹く」は,基本的に,息を吹く,とか,風が吹く,とか,精々法螺を吹く,程度の意味の外延しかなく,屋根を「ふく」に転用できるとは思えない。ただ, 葺く, の意味に, 草木などを軒端などにさし飾る, 意がある(『岩波古語辞典』)。 紅葉を葺きたる船の飾りの,錦と見ゆるに(源氏物語), あやめ葺く軒場涼しき夕風に〈玉葉集〉, 五月(さつき)、あやめふくころ、早苗とるころ(徒然草) 等々という用例もある。強引に「吹く」とつなげられなくもないが,無理筋だろう。 「屋根をおおうことを『葺(ふく))」 という(http://japanmeguri.seesaa.net/article/407274668.html),とある。とすると, 覆, につながるが,これも,漢字を持たない時代を考えると,「覆」につなげるのは無理がある。結局分からないが,あるいは,漢字を持たない時, 葺く, も 吹く, も 拭く, も 同じ「ふく」であった。あるいは,「振る」の古語, 振く, 揮く, も「ふく」である。どうやら,「ふく」は広く使われていたらしい。臆説を挙げるなら,「振る」にある, 振り分ける, 割り当てる, とつなげれば,「葺く」にもつながらなくもない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 拭く, も 葺く, も 吹く, も 噴く, も 振く, も, 全て, ふく, であった。あるいは,語源は一つではないか,という気がしないでもない。文字を持たない祖先にとって,言葉は口頭での会話だけであった。文脈を共有する当事者にとって,「ふく」で,何を指しているかは明確で,区別の必要はなかった。文字表現になって初めて,意味の限定を必要とした。漢字は,不可欠となる。 「拭く」の「拭」は, ぬぐう, とも訓ませる。 「どちらも汚れ・水気などを取り去るために布や紙などを表面に当てて動かすことだが、『窓をふく』『食器をふく』のように、隅々までこすって全体をきれいにする意では『ぬぐう』は使いづらい。『ぬぐう』は部分的な汚れ・水気を取り去るという意が強い。…『ぬぐう』は、汚点やよくない印象などマイナス面を取り去る意にも用いられる。」 とある。あくまで,和語では,「ふく」と「ぬぐう」は別だったものに,「拭」の字を当てるから,面倒になっただけである。 「拭」(漢音ショク,呉音シキ)は, 「会意兼形声。式(ショク,シキ)とは『弋(クイ)+工』からなり,棒杙(ボウグイ)で工作すること。のち人工を加えて整える意となる。拭は『手+音符式』で,人工を加えときれいにすること」 とある(漢字源)。ふく,意も,ぬぐう,意もある。「ふく」と「ぬぐう」の区別は,文字化するとたいした差ではなく,眼前にそれを見ているものにとって,そのわずかな差のニュアンスが問題になるのではないか。 「拭く」は, 「拭き拂う意かと云ふ」 とあり(大言海), ぬぐうと同じ, とある(仝上)。『日本語源広辞典』は,二説挙げる。 説1は,拭き払うの変化,布を使い埃をとってきれいにすること, 説2は,「払の音(フツ)」の動詞化,拭い取る意, とする。しかし,「払の音」を動詞化したというには,「払」が,「ふく」と同じ意で使われていること,つまり,説1と同じく「はらう」意だということを前提にしないと,説2は成り立たない。説2は,穿ち過ぎではないか。それなら,むしろ,「拭く」は, 吹く, の意だったのではないか。つまり,「拭く」と「吹く」は同源だったのではないか。 ただ,『岩波古語辞典』には, 「ふく」 は載らず, のごふ, が載り, 「ぬぐふの古形」 とある。あるとすると,元々和語には,「ふく」意味の言葉は, のごふ, のみあったのかもしれない。としても, 払, とはつながらない。因みに,「ぬぐう」は, のごふの転, とある(大言海)が,「のごふ」の語源は分からない。しかし,この言葉は, てぬぐい(手拭い), の中に残っている。「てぬぐい」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%A6%E3%81%AC%E3%81%90%E3%81%84)で触れたように,「てぬぐい」は, てのごひ, また, たのごひ, とも(岩波古語辞典)いった,とある。「て(手)」は,古形が「た」なので,「たのごひ」というのも「てぬぐい」のことである。しかしこれ以上には辿れない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「ヒラメ」は, 鮃, 平目, 平魚, 等々と当てる。「鮃」は, 「会意兼形声。『魚+音符平(たいら)』」 で,「ヒラメ」を指す。ヒラメとカレイの総称とか(『漢字源』)。「鮃」は平たい魚の意ということである。比目魚ともいうらしいが,「目が並んでいる魚」の意らしい(『たべもの語源辞典』)。 左ヒラメに右カレイ, といい, 「黒いほうを上にし,腹を手前に置いて目が左にくればヒラメ,反対に右ならカレイ」 とか(『たべもの語源辞典』)。 しかし,ことはそう簡単ではないらしい。 「干ガレイ(デビラとかコノハガレイともいう)やカワガレイは目が左にある。ヒラメとカレイは稚魚の項ロバ,メは左右についている。海底生活をするようになって砂に接する側(裏)が白くなり反対のほうが黒っぽくなる。眼鏡の左・右ではカレイとヒラメの区別はむずかしい。むしろ,口の大きさでヒラメは大きくカレイは小さいというほうがよい。春夏にうまいのがカレイで,ヒラメは秋冬がうまい。」 ということらしい(仝上)。 「古くは,ヒラメとカレイの間の区別は明確ではなく,ヒラメはカレイの一種という扱いであった」 らしい(『日本語源大辞典』)。 「漢字の『鰈(カレイ)』は『葉っぱのように平たい魚』という意味。現在ではヒラメ(鮃)とカレイ(鰈)で別々の漢字を用いて区別しているが、昔は区別していなかった。江戸初期の辞書『倭爾雅わじか』(1694年)では『比目魚ひもくぎょ』をカレイと読ませており、その際、カレイとヒラメは区別していない。」 ともある(https://zatsuneta.com/archives/001840.html)。両者の区別は,あまりされていなかったようである。 さて,「ヒラメ」の語源説は, ・平たく薄い魚だから(平魚と書き,特殊な眼鏡の付き方によって平目魚から)「ヒラメ」(になった)という説, ・目が並んでいるところから「比目魚」と書いて「ヒラメ」と呼んだという説, ・平見え「ヒラミエ→ ヒラメ」になった説, ・カタヒラ(半平)に目(メ)があるからという説, ・ヒラ(左片)に両目(メ)があるからという説, ・平べったい魚から,ヒラメとしたという説, ・平たい体に目が二つ並んでいることから「平目」とする説, 等々ある(http://allfishgyo.com/557.html,その他)らしいが,『大言海』は, 「片片(カタヒラ)に目ある意」 とし,『たべもの語源辞典』も, 「魚の名称は,その魚の特徴をつけるものなので,平たくて目が片側にあるというカタヒラメを略してヒラメというとしたい」 と,カタヒラメ説を採る。『日本語の語源』は, 「カタミエ(平見え)魚はヒラメ(比目魚。鮃)になった」 と,平らに見える状態から来たとする。『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/hi/hirame.html)は, 「古語では,『平らなさま』を『ひらめ』というため,そのまま『平らな魚』で『ひらめ』。また,ヒラメの『メ』は『ヤマメ』『アイナメ』などと同じく,『魚』を意味する『メ』で『平らなメ(魚)』からとも考えられる」 と,平らになる,平らにするという動詞「平む」(自動詞,他動詞)からきたとする。名詞形は平らなさまの「ひらめ」である。 『日本語源広辞典』は, 「ヒラ(平ら)+メ(接尾語)」の,平らな魚, 「かたひらに目がある魚」 の二説挙げる。確かに,平らな魚の形態から, ヒラメ, もあるが,特徴を,目と見れば, カタヒラメ→ヒラメ, もある。どちらとも言い難いが,平らよりは,目の特徴を採ってみる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「カレイ」は, 鰈, と当てる。「鰈」(トウ,チョウ)の字は, 「会意兼形声。枼は,薄くて平らなとの基本義をもつ。鰈はそれを音符とし,魚をくわえた字」 とあり(『漢字源』),カレイの意であるが,ひ「ひらめやかれての類の総称」で,「比目魚」ともとあるので,ヒラメとの区別は曖昧である。 「『鰈』の『枼』は葉に由来し薄いものの意。王が魚を半分食べたところを水に放すと泳ぎだしたとの中国の故事から『王余魚、王餘魚』とも書くが、ヒラメをも含めた言い方である。このほか『鰕魿』『嘉列乙』『嘉鰈』『魪』『鮙』『鰜魚』などの漢字表記もある。漢名は『鰈』であるが、ヒラメとの混称で『偏口魚』『比目魚』などとも呼ばれる。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%82%A4)し, 「漢字の『鰈』は『葉っぱのように平たい魚』という意味。現在ではヒラメ(鮃)とカレイ(鰈)で別々の漢字を用いて区別しているが、昔は区別していなかった。江戸初期の辞書『倭爾雅わじか』(1694年)では『比目魚ひもくぎょ』をカレイと読ませており、その際、カレイとヒラメは区別していない。」 ともある(https://zatsuneta.com/archives/001840.html)。両者の区別は曖昧であった。 「この魚は扁(ひらた)く薄くて,頭が小さい。身の右の一面が黒く左の一面は白く,白いほうを地にすりつけて泳ぐ」 とあり(『たべもの語源辞典』), 「体は平たく、両目は、ヌマガレイなどの一部の例外を除き、原則として体の右側の面に集まっている。逆にヒラメ類では、目は体の左側側面に集まる。しかし、個別の個体では偶発的に逆となる変異現象(reversal of sides)がある。両目のある側を上にして海底に横向きになり、砂や泥に潜るなどして潜む。体の目のある側は黒褐色から褐色。特有の斑点を持つものもある。」 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%82%A4)。 「カレイ」は, カラエイの転, とある(『広辞苑第5版』)。『語源由来辞典』も, 「古名は『カラエヒ(イ)』で,これが転じて『カレイ』になった。平安中期の『本草和名』にも,『加良衣比』sある。」 とし,『大言海』も, 「古語カラエヒの転」 とある。「カラエヒ」の項に, 「槁鱏(カラエヒ)の義。痩せ枯れたる意ならむ。…鱏(エヒ)に似て,甚だ小さし」 とある。「から」は, 涸, 枯, 乾, と当て,接頭語で, 「涸(カレ)の転。群,むら雲,末(ウレ),うら葉。稀人,まらうど(賓客)の例なり(竹,たかむら。船,ふなばたの類)。枯,乾(カレ)の,カンラとなるも同じ。空(から),殻(から)も,乾(カラ)より移れるなり」 とある(『大言海』)。随って, 「『かれい』は『唐鱏』(からえい)または『涸れ鱏』の転訛とされる」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%82%A4)「唐」は, 「唐とあてるのは間違いである。舶来とか新むとかいう意味のとき唐がつけられる。カラエイには,そういう意味はない」 ようである(『たべもの語源辞典』)。当然, 「韓に多くいたエイ類の海魚である。「サカタザメ」をいう韶陽魚(こまめ)に似ているところからカラエイ(韓鱏)の約(和字正濫鈔・東雅・名言通・国語学通論=金沢庄三郎), と「韓(から)」につなげるのも間違いとなる。またも古名が,「カラエヒ」である事を考えると, カタワレイヲ(片割魚)の略(日本釈名・物類称呼・俚言集覧・重訂本草綱目啓蒙・柴門和語類集), の説も採れない。『日本語源広辞典』は, 「カタエイ,カラエイ(片側魚),の変化」 とするが,エイ」は「鱏(エイ)」の意なので,この説は,採れまい。 「古名のカラエイがカレエイとなり,エが略されてカレイとなった。この魚をカラエイとよんだのは,エイという肴に似ているが,小さくてエイよりは涸れているからだある。カラはカレテル,涸れる,しめり気の乾くことといった意もである」 という(『たべもの語源辞典』)のが,結論だろう。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「カツオ」は, 鰹, 松魚, 堅魚, などと当てる。「鰹」(ケン)の字は, 「会意兼形声。『魚+音符堅(肉がしまっている)』」 で(『漢字源』), 「胴の大いなるもの」 の意(『字源』)で, 「おおうなぎ」 とする(『漢字源』)ものもあり,少なくとも, カツオ, でないことは確かである。もともと, 堅魚, と書いていたものが,一字化し, 鰹, となった(木工→杢,麻呂→麿)もののようである。 「カツオ」は, カタウオの約, とある(『広辞苑第5版』)。 「日本では古くから食用にされており、大和朝廷は鰹の干物(堅魚)など加工品の献納を課していた記録がある。カツオの語源は身が堅いという意で堅魚(かたうお)に由来するとされている。『鰹』の字も身が堅い魚の意である。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%84%E3%82%AA)から,あえて,「鰹」の字をあてたのだろう。吉田兼好が, 「鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなりと申しき。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ候れ。」 と書いており(『徒然草』),かつては見向きされなかったものらしい。ただ鰹節(干鰹)は, 「神饌の一つであり、また、社殿の屋根にある鰹木の名称は、鰹節に似ていることによると一般に云われている。戦国時代には武士の縁起かつぎとして、鰹節を『勝男武士』と漢字をあてることがあった。織田信長などは産地より遠く離れた清洲城や岐阜城に生の鰹を取り寄せて家臣に振る舞ったという記録がある。」 という。そんな「カツオ」も,江戸時代には人々は初鰹を特に珍重したとかで, 目には青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお), という句(山口素堂)もある。 「江戸においては『粋』の観念によって初鰹志向が過熱し、非常に高値となった時期があった。『女房子供を質に出してでも食え』と言われたぐらいである。1812年に歌舞伎役者・中村歌右衛門が一本三両で購入した記録がある。」 とか(仝上)。 『大言海』は, 「頑魚(カタクナウヲ)の略轉」 とし, 「高橋氏文『以角弭之弓,當遊魚之中,即着弭而出,忽獲數隻,仍名曰頑魚(カタウヲ),此今諺曰堅魚』。今も牛角の鈎ニテ釣るなり,鰹は,借字の堅魚の合字なり,鰹節に因りて,堅き魚の義とする説あれど,海中に腊(きたひ 干物の意)なるはなし」 とあるので, 愚かであることから,カタウヲ(頑魚)の転, 説だが,この説明で,「カタウヲ」説にも,『大言海』が批判するように, 干すると堅くなる, の「カタウヲ」説があり, 「干すと堅くなるので『かたうを』と呼ばれていた」(日本語源大辞典) 「古くは生で食べることはなく、干して食用にしたことから、堅い魚の意の『堅魚(かたうお)』が変化した語とされる(由来・語源辞典http://yain.jp/i/%E9%B0%B9)。 とするものがある。しかし, 「『カタシ(堅し)』の『カタ』に『ウヲ(魚)』で『カタウヲ』となり、転じて『カツヲ(カツオ)』になっ たといわれる。加工されていないカツオは,鎌倉時代まで低級な魚として扱われ,主に干し固めて食用としていたことや,肉がしまっていること,『万葉集』などには『堅魚(カツオ)』といった表記があることから,『カタウヲ』説は有力」 という説明(『語源由来辞典』http://gogen-allguide.com/ka/katsuo.html)などから見ると,大言海の揶揄にもかかわらず, 干すと堅くなる, と 肉がしまっている, の両方の意味が重なっていそうである。その他,『大言海』の, 愚かであることから,カタウヲ(頑魚)の転(高橋氏文・箋注和名抄・松屋筆記), カツオは疑似餌ぎじえでどんどん釣れるくらい「頑かたくなな魚」だから、「カタウオ」(頑魚)→「カツオ」になったという説(https://zatsuneta.com/archives/001714.html), 以外に, カチ(濃紺)+魚(日本語源広辞典), 釣り上げると木の棒で叩いたり,ぶつけたりして処置しておくことから,棒などで打ち叩く意味の『カツ(搗つ)』に『魚(うを)』で『カツウヲ』となり,転じて『カツヲ』となった(語源由来辞典・衣食住語源辞典=吉田金彦), 弱いイワシに対して、強い魚だから、「勝つ魚」→「カツオ」となったとう説がある。江戸時代には「勝つ魚」と語呂がよいことから武士の間で好まれた(https://zatsuneta.com/archives/001714.html), 等々もある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「イルカ」は, 海豚, と当てる。和名抄では, 江豚 伊流可, 古事記では, 入鹿魚, と表記している。 「海豚(カイトン)」は,中国語である。 「宛字、〈海豚・江豚〉は中国人の用語で、イルカを〈豚〉に似た形と断じての命名であろう」 と(語源海),とある。「イルカ」に当たる漢字は,一字だけで表す字が数種あるらしい。 「イルカ」の定義は,曖昧で, 「哺乳綱鯨偶蹄目クジラ類ハクジラ亜目に属する種の内、比較的小型の種の総称(なお、この区別は分類上においては明確なものではない)。」 とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB), 「分類学上は『イルカ』に相当する系統群は存在しない。一般的にはハクジラ亜目に属する生物種のうち比較的小型の種を総称して『イルカ』と呼ぶことが多いが、その境界や定義についてははっきりしておらず、個人や地域によっても異なる傾向がみられる。」 日本では, 「日本語では、成体の体長でおよそ4mをクジラとイルカの境界と考えることが多い。」 という。総じて, 小形のハクジラ類の総称, ということらしい。この「イルカ」の定義同様,「イルカ」の語源も,例えば,『語源由来辞典』が挙げるのは, @イルカ漁をすると大漁の血が流れたり,辺り一面が血の臭いになることから「チノカ(血臭)」が転じた, A「行く」を意味する「ユルキ」が転じた, B海面に頭を出し入れすることから,一浮一没の魚の意味で「イリウク(入浮)」が転じた, Cよく入江に入ってくるので「イルエ(入江)」が転じた, Dイルカの「イル」は,「イヲ(魚)」で,「カ」は食用獣をいう語, の五説で,「イルカ」の語源説のすべてである。最も有力な説は,Dとし, 「古く『ウロコ』は『イロコ』と呼ばれており,『イル』や『イロ』『イヲ』は魚を表す言葉に用いられる。また,食べ物の神は『ウカノミタマ(食稲神)』と呼ばれ,『ウカ』には『食』の意味があり,『稲』が陸上の食『ウカ』とすれば,水中のウカが『イルウカ』や『イロウカ』と呼ばれ,転じて『イルカ』になったことは十分考えられる」 としている(http://gogen-allguide.com/i/iruka.html)。「行く」説も,地方によっては,「イルカ」を「ユルカ」と呼ぶところもある,としている(仝上)が,『日本語源広辞典』は, 「イル(湾や入江に入る)+カ(動物)」 とする。 カは食用獣をいう語(日本古語大辞典=松岡静雄), とする根拠は分からないが,それを前提にすると, イル, が, 行く(ユルキ), か 入る, か イヲ(魚), となるが,僕は,「イヲ(魚)」と思える。「ゆく」は, 「現在の地点を出発点または経過点として,進行・移動が,確かな目標あるいは広い前方に向かって持続される意。また,時の経過とともに現在の状態が持続し,その程度が増大する意。奈良時代以降,同義のイク(行)よりも広く使われ,特に漢文訓読体ではユクの形を用いた」 とある(『岩波古語辞典』)。「入る」というのは常時ではないので,消極的に「イヲ」かと。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
「すずな」は, 菘, 鈴菜, と当てる。 カブラ, とも言うが, かぶ(蕪), のことである。春の七草, せり (芹),なずな (薺),ごぎょう (御形・五形),はこべら (繁縷・蘩蔞),ほとけのざ (仏の座),すずな (菘/鈴菜),すずしろ (蘿蔔・清白), の一つとされる。 原産地は地中海沿岸、南ヨーロッパ地帯,アフガニスタン地方, といわれている(食の医学館),とか。 「中国へは約2000年前に伝播し、『斉民要術(せいみんようじゅつ)』(530頃)には栽培や利用に関する詳細な記述がある。『三国志』で有名な蜀の軍師諸葛孔明が行軍の先々でカブをつくらせ、兵糧の助けとしたので、カブのことを諸葛菜(しょかつさい)とよぶというエピソードがある。」 とか(日本大百科全)。わが国に伝わったカブは 「ヨーロッパ型(小カブ)とアジア型(大カブ)の2種で、関ヶ原付近を境に分布が東西にわかれているといいます。朝鮮半島から渡来したヨーロッパ型は東日本に分布し、中国経由で渡来したアジア型は、西日本に定着しました。」 という(仝上)。 「日本へは中国を経て、ダイコンよりも古く渡来した。『日本書紀』には、持統天皇の7年3月に、天下に詔して、桑、紵(からむし)、梨、栗、蕪菁(あをな)などを植え、五穀の助けとするよう勧めるとの記載がある。平安時代の『新撰字鏡(しんせんじきょう)』や『本草和名(ほんぞうわみょう)』には阿乎奈(あをな)とあり、『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』では蔓菁、和名阿乎菜、蔓菁根(かぶら)、加布良(かぶら)とある。『延喜式(えんぎしき)』には、根も葉も漬物にして供奉されたとの記載があり、種子は薬用にもされていたほか、栽培法の概要も記されており、平安中期にはかなり重要な野菜であったことがわかる。平安末期の『類聚名義抄(るいじゅうみょうぎしょう)』では、蔓菁根、蕪菁、蕪菁子(なたね)と使い分けの生じたことが知られる。江戸時代には『本朝食鑑』『和漢三才図会』『成形図説』『百姓伝記』『農業全書』『菜譜』などに品種名を伴った記載があり、当時すでに品種が分化していたことがわかる。」 とある(仝上)。とにかく古い。「鈴菜」は当て字と思われるが,「菘」(呉音スウ,漢音シュウ)の字は, 「会意兼形声。『艸+音符松(たてに長い)』」 とあり, 「たぅな,葉は蕪菁(かぶら)に似て,青白し」 とあり, 「よく寒に耐ふ,松の操あり,故に字松に从(したが)ふ」 ともある(字源)。「かぶ」そのものを指すのではないらしい。 「すずな」の語源は, 小菜(ささな)の義ならむ, とある(大言海)。 「スズナの『スズ』は、『ササ(細小)』が変化した語と考えられているが、スズナ(カブ)が他の植物に比べ、圧倒的に小さいと言えるほどではないため難しい。スズナが『鈴菜』とも 表記されるところから考えれば、『鈴花菜(すずはなな)』の略。もしくは、『鈴』は楽器ではなく『錫』のことで、スズナが錫型の丸い容器に似ているところから付いた名sも考えられる」 とする(語源由来辞典 http://gogen-allguide.com/su/suzuna.html),「鈴」説を採るのが, 「鈴+菜」 とする『日本語源広辞典』である。 「神楽の鈴のような葉の菜」 という。しかし,「葉」を指しているので「鈴」ではないようである。さらに, スズハナナ(鈴花菜)の略(日本語原学=林甕臣), と四弁の菜の花のような「すずな」の花説を採るものもあって,「すずな」の語源説ははっきりしない。「鈴」説としても,葉あり,花あり,実あり,で確定しがたい。 神楽の鈴, というなら,実のことだろうとは思うが,こんなふうに鈴なりになるわけではない。。 「すずな」は,後世, かぶら(蕪菁,蕪), と呼ばれる。「かぶら」は, かぶらな(蕪菜)の略, とされる。「かぶらな」は, 「根莖菜(カブラナ)の義」 とあり(大言海),「かぶら」は, 根莖, と当て, カブは,頭の義。植物は根を頭とす,ラは意なき辞, とする(大言海)。「かぶ」は, 「カブ(頭・株)と同根」 とする(岩波古語辞典)と重なる。「かぶ」と「かぶら」のつかいわけは, 「『かぶら』の女房詞『おかぶ』から変化した語か。類例に『なすび』の女房詞『おなす』から『なす』が出来た例がある」 とある(日本語源大辞典)ので, かぶらな→かぶら→おかぶ→かぶ, という転化してきたものらしい。ただ,「かぶ」については,かぶ(頭)説以外に, カブは根の意(志不可起), 説があるが,やはり,「かぶり」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%82%8A)で触れたように, かぶ→かしら→こうべ→(つむり・かぶり・くび)→あたま, と転じた「かぶ」頭説でいいのではないか。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「すずしろ」は, 蘿蔔, 清白, 等々と当てる。春の七草の一つ「すずしろ」である。 大根, の意である。「蘿蔔(ラフク)」は,漢名である。 「蘿菔(ラフク)とも書く。蘿蔔は中国でロープと訓まれた。千切りにした大根を北京語でセンロープといった。それが訛って千六本といわれた」 とある(たべもの語源辞典)。原産地は, 「確定されていないが、地中海地方や中東と考えられている。紀元前2200年の古代エジプトで、今のハツカダイコンに近いものがピラミッド建設労働者の食料とされていたのが最古の栽培記録とされ、その後ユーラシアの各地へ伝わる。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3)。とても古い。日本には, 「弥生時代には伝わっており、平安時代中期の『和名類聚抄』巻17菜蔬部には、園菜類として於保禰(おほね)が挙げられている。」(仝上) 古名は, オオネ, で,それに当てた, 大根, の音読が「ダイコン」である。では, スズシロ, は何か。『大言海』は, 「菘代(スズナシロ)の義にて,蘿蔔を以て,あをな,すずなに代へ用ゐるより名ありしならむ」 とあるが,よく分からない。「すずほり(菹)」を見ると, 「菘鹽入(すずなしほり)の約にもあるか,菘代(スズナシロ)同じ」 とあり, 「鹽漬の菜。多くは,あをな,即ちスズナを用ゐる」 とある。つまり, スズナ(蕪)に代えて,用いるから,菘代(スズナシロ), ということらしい。ちょっと無理筋ではないか。大根は,大根であって,蕪の代用ではあるまい。しかし, 「スズシロノ『スズ』は『涼しい』の『スズ』,『シロ』は根の白さで,ずすがしく白い根を表した『涼白(すずしろ)』を語源とする説がある。漢字で『清白』と表記することや,単純で分かりやすいことから上記の説が有名であるが,『清白』は当て字で,『涼白』の意味が先にあったものか,『清白』が当てられ『涼白』がの説が考えられたか,その前後関係は不明である。『涼白』の説より,『スズナ(カブの別名)』に代わるものの意味で,『菘代(スズナシロ)』が語源と考えるほうがいいだろう」 とする(語源由来辞典 http://gogen-allguide.com/su/suzushiro.html)説もある。蕪の代用にされたかどうかは,事実の問題で,解釈の問題ではない。といって, 「スズシロの『スズ』は『涼しい』『涼む』の『すず』で清涼の意。『シロ』は根の白さで、すがすがしく白い根から『涼白(すずしろ)』が名前の由来とされる。」 という(由来・語源辞典 http://yain.jp/i/%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%82%B7%E3%83%AD)のも,理屈が過ぎる。蕪だって白い。 この他に, スズはスズナと同じく小さい意。シロは根が白いところから(滑稽雑誌), もある。しかし,もともと。 おほね, という言葉があった。「すずしろ」は後から付けた名ではないか。七草は, 「現在の7種は、1362年頃に書かれた『河海抄(かかいしょう)』(四辻善成による『源氏物語』の注釈書)の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見とされる(ただし、歌の作者は不詳とされている)。」 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89)。 芹,なづな,御行,はくべら,仏座,すずな,すずしろ, の語呂と, 芹,なづな,御行,はくべら,仏座,すずな,おほね, では,語呂が悪い。 「日本では古くから七草を食す習慣が行われていたものの、特に古代において『七草』の詳細については記録によって違いが大きい。『延喜式』には餅がゆ(望がゆ)という名称で『七種粥』が登場し、かゆに入れていたのは米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物で、これとは別に一般官人には、米に小豆を入れただけの「御粥」が振舞われていた。この餅がゆは毎年1月15日に行われ、これを食すれば邪気を払えると考えられていた。なお、餅がゆの由来については不明な点が多いが、『小野宮年中行事』には弘仁主水式に既に記載されていたと記され、宇多天皇は自らが寛平年間に民間の風習を取り入れて宮中に導入したと記している(『宇多天皇宸記』寛平2年2月30日条)。この風習は『土佐日記』・『枕草子』にも登場する。」 とある。 米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆, の七種であったり, 「旧暦の正月(現在の1月〜2月初旬ころ)に採れる野菜を入れるようになったが、その種類は諸説あり、また地方によっても異なっていた。」(仝上) のであり,もともと,年初に雪の間から芽を出した草を摘む「若菜摘み」という風習に由来するが,これ自体, 「六朝時代の中国の『荊楚歳時記』に『人日』(人を殺さない日)である旧暦1月7日に、『七種菜羹』という7種類の野菜を入れた羹(あつもの、とろみのある汁物)を食べて無病を祈る習慣が記載されており、『四季物語』には『七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや』とある。このことから今日行われている七草粥の風習は、中国の『七種菜羹』が日本において日本文化・日本の植生と習合することで生まれたものと考えられている。」(仝上) 何を入れるかを勝手に, 「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」 と確定させたとき,「おほね」を「すずしろ」と替えた。とすると, 蕪の代替, と勝手に作者が決めたのかもしれない。白さでも,蕪も大根も区別がないのだから。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「太鼓持ち」とは, 幇間, の意である。 遊客の機嫌を取り,酒興を助けるのを仕事にする男, とある。 末社, 太鼓, とも言う。それをメタファに, 人に追従しそのご機嫌取りをする者, 太鼓叩き, の意でも使う。ただ, 太鼓を持つこと, という意味もある(岩波古語辞典)。人に太鼓を持たせる意は,しかし, 「昔は太鼓,人に持たせて打つ。太鼓持ちと藝なき者を云ふは,右の如く太鼓持たせ打ちし故なり」(わらんべ草) とあるところから見ると, (太鼓の持ち手にしかなれない)「藝なきもの」 を指した,ということのようである。 「太鼓もち」と同義語の「末社」とは聞き慣れないが, 大尽をとりまく,遊里で客の取り持ちをする人, で,たいこもちの意である。 「大尽の音が大神に通うのでこれを本社に擬し,その取り巻きを末社にぎして呼ぶ」 とある(江戸語大辞典)。それに擬して,転じて, 太鼓持ち, 幇間, の意に広げたもののようである。ちなみに, 「太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%87%E9%96%93)。 「『幇』は助けるという意味で、『間』は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである」 ともされる,と(仝上)。さらに,幇間は, 「別名『太鼓持ち(たいこもち)』、『男芸者』などと言い、また敬意を持って『太夫衆』とも呼ばれた」 とあるが(仝上), 「座敷を盛り上げるのが、彼らの仕事です。男芸者も座敷を盛り上げますが、太鼓持の方がランクは下になります。 具体的に、男芸者は吉原に住んでいる三味線や踊りで盛り上げるプロの芸人です。妓楼に属する内芸者と吉原見番から2人1組で派遣される見番芸者がいました。一方、太鼓持はおしゃべりや酒の相手が主な仕事で、さらに下のランクになると、裸踊りをする者もいたとか。つまり、特に何か芸を身に付けているわけではなく、お調子者で世渡り上手なことが大事だったのです。」 ともあり(https://mag.japaaan.com/archives/79815), 太鼓持ち, と 男芸者, とは別,とする説もある。しかし,『江戸語大辞典』『大言海』は,「太鼓もち」の別称として, 男芸者, としている。また, 「京坂の俗言にはたひこもち又やつことも云也。江戸にて芸者と云は大略女芸者のこと也。幇間は必ず男芸者或は太夫とも云也。京坂にて芸者とのみ云ば幇間也。女芸妓は芸子とも云也。京坂には野幇間と称すること之無,然れども其業をなす者は往々之有」(守貞漫稿) とあり, 「地域にもよるが,『やっこ』『芸者』『男芸者』『太夫』ともよばれてしいたこと」 とあり(日本語源大辞典),厳密な区別は,その当人たちだけのことで,いずれも,外から見れば,「太鼓持ち」と括れられたのかもしれない。なお落語に出てくる「野太鼓」というのは,プロの幇間ではなく, 素人, を指すらしい(江戸語大辞典)が, 「内職として行っていた」 ともある(日本語源大辞典)ので,どちらかというと, 幇間自体を卑しめて呼ぶ称, というのが正しいのかもしれない。 さて,「太鼓持ち」の語源は, 「太鼓持ちの語源は安土桃山時代まで遡る。豊臣秀吉が関白から太閤になった時、お伽衆であった曽呂利新左エ門が「太閤、いかがで。太閤、いかがで。」とご機嫌をとっていたことが起源といわれている。その太閤を持ち上げている様子を『太閤持ち』から『太鼓持ち』となった。」 という説(https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%A4%AA%E9%BC%93%E6%8C%81%E3%81%A1)から, タイコは,話の相槌・応答の意。持つはそれで仲を取り持つ意(上方語源辞典=前田勇), 六斎念佛や紀州雑賀踊りでは,鉦を持たないものが太鼓を持つところから,金持ちの遊興の席で機嫌を取る,金を持たない者をいった(色道大鏡・大言海・松屋筆記), 昔,太鼓の名人が,常に自分の気に入りの一人の弟子にのみ太鼓を持たせたので,腹を立てた相弟子らがそれを太鼓持ちといったところから(洞房語園), 人に物を与えることを打つというところから,遊客がよく打てば鳴るとの意でいったもの。また打つ人つまり遊客の心にあうようにふるまうところからか。また,この職の者はうそをついて人の心を慰めるところから,タイコは大虚の義か(好色由来揃), 田楽や風流踊で太鼓を打つ役の名から(演劇百科事典), 太夫をこころよくのせて廻し,大尽の気に入るように拍子をとるので,能の太鼓打ちになぞらえたもの(嬉遊笑覧), 等々まで諸説ある。しかし, 「古来諸説あれど,いずれも付会の感が強い」 とする(江戸語大辞典)ように,どうも理屈をこねるものに,正解はない。もともと, 「昔は太鼓,人に持たせて打つ。太鼓持ちと藝なき者を云ふは,右の如く太鼓持たせ打ちし故なり」(わらんべ草) とあるところから見ると, (太鼓の持ち手にしかなれない)「藝なきもの」 を指した,ということのようである(岩波古語辞典)。その意味では, 六斎念佛や紀州雑賀踊りでは,鉦を持たないものが太鼓を持つところから, というのが実態に沿うのではないか。ただ,「藝無き」ものではなく, 「芸としては,地口,声色(こわいろ),物真似・舞踊・のほか,扇子や衣桁などの身近な物を用いた演技や狂態など,滑稽なものが主である。ただし,多くは,一中節・清元などの音曲を身に着けていた」 とある(日本語源大辞典)。確かに, 男芸者, である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「春」(シュン)の字は, 「萅」の略体, で,「萅」の字は, 「会意兼形声。屯(トン・チュン)は,生気が中にこもって,芽がおい出るさま。春はもと『艸+日+音符屯』で,地中に陽気がこもり,草木がはえ出る季節を示す。ずっしり重く,中に力がこもる意を含む」 とある(漢字源)。春とは, 「冬と夏の間の季節。現行の太陽暦では三月から五月まで。陰暦では正月から三月まで。また、二十四節気では立春から立夏の前日まで。天文学上では、春分から夏至(げし)の前日まで。」 とか(http://www.7key.jp/data/language/etymology/h/haru.html)。 三春, といい, 初春 (孟春)は,旧暦1月、または、立春から啓蟄の前日まで, 仲春 (仲陽)は,旧暦2月、または、啓蟄から清明の前日まで, 晩春 (季春)は,旧暦3月、または、清明から立夏の前日まで, とか(仝上)。和名抄には, 「正月,初春,二月,仲春,三月,暮春」 とある。 「春」の字を得て,やっと春を得た感じだが,和語「はる」の語源は,『日本語源広辞典』は, 説1は,水田に水をハル季節。これに対して田がアク季節がアキ, 説2は,木々の芽がハル季節で,通説。木の芽が膨れる季節の意, 説3は,田をホル(墾)時節。 説4は,ハエル(映)季節。自然のあらゆるものが映える季節, と四説挙げ, 「農民の季節意識から」 説1を採る,とする。しかし,季節感が異なりはしまいか。さらに,「ハル」が「張る」なら, 「『張る』とする説は,アクセントの転から成立困難」 とする説もある(岩波古語辞典)。『大言海』は, 「萬物發(は)る侯なれば,云ふと云ふ」 とする(日本声母伝・和訓栞・日本語源=賀茂百樹)。「張る」には,「木の芽が張る」とする説もある(和句解・国語蟹心鈔・類聚名物考・言元梯・名言通・菊池俗語考・本朝辞源=宇田甘冥・日本古語大辞典=松岡静雄)が,「張る」については,否定説がある。 その他諸説, 春は晴天が多イトコロカラ,ハル(晴)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・本朝辞源=宇田甘冥), 年が開ける意で,ハル(開)の義(東雅), 畑をハル(墾)の義(南留別志・言葉の根しらべの=鈴木潔子), ヒエサル(冷去)の義(日本語原学=林甕臣), ハラフと同系語ではらひすてて出現する意から(宮廷と民間=折口信夫), 年のハジマルの略か。また,葉ツハルの義か。またアラハルの義か(和句解), ヒヤワラグ(日和)の約(和訓集説), ハは含んだものがアラハルル意,ルは万物が生成して動き落ち着かぬ意(槙のいた屋), Paru(春)のpaは光の義(神代史の新研究=白鳥庫吉), があるが,中では,「晴れ」の語感に惹かれる。言語学者の阪倉篤義氏は, 春の語源は動詞の「晴る」だと推測している, という(https://japanese.hix05.com/Language3/lang307.haru.html)。 「晴れる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%AF%E3%82%8C%E3%82%8B)で触れたように,「はる(晴る)」は, 「ハラ(原)と同根か。ふさがっていた障害となるものが無くなって広々となるさま」 とあり(岩波古語辞典),「はる」に, 墾, 治, という字を当てるものは, 「開くの義,開墾の意,掘るに通ず」 晴, 霽, の字を当てるものは, 「開くの義,履きとする意」 として,いずれも「開く」につながるのである(大言海)。その意味は, パッと視界が開く, 晴れ晴れ, という感じと似ているが,それは, 開いた(開墾した), という含意がある。つまり,開く(開墾する)ことで,開けたという意味である。「はる(晴る・霽る)」に, 「開(はる)くの義。はきとする意」 とあるのに通ずる気がする。さらに, 開く, と当てる「はるく」は, 晴れる, 意とある。つまり,「はれ」は, 晴, 墾, 原, と同源なのである。 「空に障害物,雲,霧などがなく,ハレバレとした様」 とは,まさに,春ではあるまいか。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「夏」は,天文学的には, 夏夏から立秋(の前日)まで, 太陽暦では, 6月から8月, 陰暦では, 4月から6月, ということになるらしい。 孟夏, 仲夏, 季夏, とも別ける。 う「夏」(漢音カ,呉音ゲ)の字は, 「象形。頭上に飾りをつけた大黄な面をかぶり,足をずらせて舞う人を描いたもの。仮面をつけるシャーマンの姿であろう。大きなおおいで下の物をカバーするとの意を含む。転じて,大きいの意となり,大民族を意味し,また草木が盛んに茂って大地をおおう季節をあらわす」 とある(漢字源)。 「なつ」は, 「暑(アツ)の轉。冬の冷ゆるに対す。漢語熱(ネツ)と暗合す」 とある(大言海・日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・南留別志・百草露・柴門和語類集)。 「アツ」を熱とするもの(東雅・和語私臆鈔・俚言集覧・名言通・日本語源=賀茂百樹),「アツ」を温とするもの(言元梯),「アツ」を熱(ネツ)とするもの(和語私臆鈔)等々があるが,『日本語源広辞典』は, 「暑いのアツが語源」 とし, 「ネツ,アツ,ナツ,同じ語源」 とする。「暑」「熱」「温」は同じとみていい。似たものに, 「ゲニアツキトキ(実に暑き季)は『ゲ』『キトキ』を脱落した省略形のニアツの部分が,ニア[n(i)a]の縮約でナツ(夏)になった」 がある(日本語の語源)。また, アナアツ(噫暑)の義(日本語原学=林甕臣), も,「暑い」説の変形と見られる。また, 「朝鮮語nyörɐm(夏)と同源」 とする(岩波古語辞典),外国語由来とする説もあり, 「朝鮮語の『nierym(夏)』,満州語の『niyengniyeri(春)』などアルタイで『若い』『新鮮な』の原義の語という同系」 とする(語源由来辞典)。しかし,どうだろう,もし季節感が,外国由来なら,夏だけが,外来語というのは変ではあるまいか。 この他には, 草木がナリイズル(造出)の義(類聚名義抄), 稲がナリタツ(成立)の義(古事記伝・菊池俗語考), 成の義(和訓栞), 稲がナリツク(生着)の義(和訓集説), ナはナユルのナ,ツは助語(日本声母伝), と植物と関わらせるもの, ナデモノ(撫物)のナヅと関係のある語。接触によって穢れを落す,季節の祭祀から出た語か(続万葉集講義=折口信夫), na-tuの複合語。naはudaru(煮)・iteru(凍)などと同語(神代史の新研究=白鳥庫吉), 等々があるが, atu(あつ)→natu(なつ), が自然に思える。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「あつい」は, 暑い, 熱い, と当てる。「暑」(ショ)の字は, 「会意兼形声。者は,こんろで柴を燃やすさま。火力を集中する意を含み煮(にる)の原字。暑は『日+音符者』で,日光のあつさが集中すること」 とある。まさに「暑い」と当てたわけである。「熱」(呉音ネツ・ネチ,漢音セツ)の字は, 「形声。埶は,人がすわって植物を植え育てるさま。その發音を借りて音符としたのが熱の字。もと火が燃えてあついこと。燃の語尾がつまったことば」 とある。まさに「熱い」と当てたわけだ。 和語は, あつ(暑)い(あつし), と あつ(熱)い(あつし), と同源とされている。和語では,「暑い」と「熱い」は区別がない。 『大言海』も『岩波古語辞典』も語原を載せない。『日本語源広辞典』は, 「アツイは,『火熱のアツ』が語源」 とし, 「中国では,『太陽の暑さ』と,『火の熱さ』は区別しているのですが,日本では,古くは,区別していなかった」 とする。しかし,これでは, アツ, がなんだか分からない。『日本語源大辞典』は,「アツ」について,諸説挙げる。 まず,アツ=当説。 アツはアタル(当),シは退く(和句解), アツシ(熱)と同じく,火にアツル(当)から出た形容詞(国語の語根とその分類=大島正健), アツ(当)と関連があるか(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦), 擬声説。 「喝」Atの語尾を添えて形容詞化したもの(日本語原学=与謝野寛) 手を火に付けて,アアと驚き,手をツツーと引くことから生じた(本朝辞源=宇田甘冥), 熱烈な熱火に対する自然の叫び声。転じて,暑気の強いこと,意思の烈しいこと,疎からず濃いことなどにアツという(日本語源=賀茂百樹), 外来説。 梵語か(和訓栞), 外来説には, アイヌ語の「火(ape)」やタガログ語の「火(apoy)」またはインドネシア語の「火(api)」に関係がある, とする説(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13147599383)もある。 その他, アツシキ(厚如)の意。衣服を厚く感じるのは暑いから(名語記), というのもあるが,「あつい(厚)」と「あつい(暑)」は,アクセントも異なり,別語とみられる(日本語源大辞典)。 ナツ(夏)の転(言元梯), というのもあるが,「夏」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E5%A4%8F)で触れたように,夏の語源説に「あつい」があり,これでは堂々巡りになる。 結局はっきりしないが,「火」が古くから人類にあるのであれば, アツ, は,意外と, 擬声, なのではあるまいか。とすると,やはり, 火, と関わっている,とみてよさそうに思えるが。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「スミレ」は, 菫, と当てる。「菫」(漢音キン,呉音ゴン)の字は, 「会意兼形声。『艸+音符僅(キン 小さい)の略体』で,小さい野菜」 とある(漢字源)。「スミレ」の意ではあるが,「とりかぶと」の意でもあり,「むくげ(槿)」の意でもあり,「菫菜(キンサイ)」というと,セロリを意味する(仝上)。 「『スミレ』の名はその花の形状が墨入れ(墨壺)を思わせることによる、という説を牧野富太郎が唱え、牧野の著名さもあって広く一般に流布しているが、定説とは言えない」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%AC)。 「スミレ」の名は,それ以前にもあったはずで, 墨入れ(墨壺)を思わせる, という文献でもあったのだろうか。 春野尓 須美礼採尓等 来師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来(春の野にすみれ摘みにと来しわれそ、野を懐かしみ一夜(ひとよ)寝にける)山部赤人 山振之 咲有野邊乃 都保須美礼 此春之雨尓 盛奈里鶏利(山吹(やまぶき)の、咲きたる野辺(のへ)の、つほすみれ、この春の雨に、盛りなりけり)高田女王 茅花拔 淺茅之原乃 都保須美礼 今盛有 吾戀苦波(つばな抜く、浅茅が原のつほすみれ、今盛りなりわが恋ふらくは)大伴田村大嬢 の他に長歌が一首のみ(https://art-tags.net/manyo/eight/m1449.html)と,少ないながら,「須美礼」とある。因みに,「つぼすみれ」(都保須美礼)は,ごく小型で、長く茎を出し、白い花をつける,「スミレ」の一種。 万葉集期に,「スミレ」と「ツボスミレ」が区別されているほど,すでに知られた花であった。「墨壺」は, 「日本では、法隆寺に使われている最も古い木材に、墨壺を使って引いたと思われる墨線の跡があり、この時代から使われていたとされる。」 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%A3%BA)ほどで,あったとしても一般的ではないのではあるまいか。 しかし,「墨壺」ではなく, 「花の形,墨斗(スミツボ)の墨芯(すみさし)に似たれば,墨入筆(スミイレフデ)など云へる,略ナラムカト云へる」 とある(大言海)し,『日本語源広辞典』は,それを引き継ぎ, 「墨入れ(筆)の音韻変化」 とする。どうやら,音からきたもののようである。 スミイレフデ(墨入筆)→スミレ(大言海・千草の根ざし), スミイレ(墨入)→スミレ(日本語原学=林甕臣), のようである。しかし,筆指は, 「墨さしは、一端がヘラ状、反対側が細い棒状になっています。墨汁を付けて、ヘラ状の側で線を、棒状の側で記号、あるいは文字を書くのに使用します。墨壺、朱壺と共に用いられます。 材質は竹でできています。ヘラ状の側は巾約10〜15mm、先端から約1〜2cmの深さまで縦に薄く割り込みをいれ、ヘラ先の部分を斜めに切り落としています。この部分を曲尺などに沿わせて線を引きます。熟練者は、割り込みを30〜40枚位に極めて薄くいれるといいます。」 とあって(https://www.dougukan.jp/tools/tools_01_02),ペンナイフのように薄いモノだ。どこを指して,「スミレ」が「墨指」に似ているとしたのだろう。墨壺の「池」と呼ばれる墨の入っている部分か,あるいは,墨を蓄える墨入れと、筆を収納する棹部分からなる「矢立」なら,何となく花の形が似ていなくもないが。 他に,「ツボスミレ」の略,という説(名言通)もある。これ自体, 壺墨入の略(大言海), とあって,堂々巡りに陥る。納得しかねるが,他に, スは酸の義。ミレはニレの転で,楡のように滑るところからか(東雅), ソミレ(染)の義(言元梯), 子供たちが 「相撲 (すまひ)とれ、相撲とれ」と、はやし立てて遊んだ。その「相撲とれ」の転訛(和泉晃一), という説しかない。ただ, 「花の形が大工道具の『墨入れ(すみいれ・墨壺)』に似ていることからこの名があるとされる。ほかに、古くは春の野に出て若菜を摘む習慣があり、すみれもその若菜の一つとされ、『摘入草(つみいれぐさ)』の『つみれ』が『すみれ』に変化したとする説もある。」 とあり(http://yain.jp/i/%E3%81%99%E3%81%BF%E3%82%8C), つみいれぐさ→つみれ→すみれ, 説なら,消去法ながら,なんとか納得できる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「むらさき」は, 紫, と当てるが,色としての「紫」の意味と,その根から染色する, ムラサキ科のムラサキ, の意と, 鰯, の意と, 醤油, の意とがある。「紫」(シ)の字は, 「会意兼形声。此(シ)は『止(趾。あし)+比(並ぶ)の略体』の会意文字で,両足がそろわず,ちぐはぐに並ぶこと。紫は『意と+音符此』で,赤と青をまぜて染めた色がそろわず,ちぐはぐの中間色となること」 とある(漢字源)。孔子は,中間色として憎んだという(「悪紫恐其乱朱也」孟子)。 「むらさき」の語源が,色を指しているのか,花を指しているのか,はっきりしないのは,たとえば,『大言海』は, 「叢咲くの義,花に黄白粉紅あれば云ふとも云ふ,或は瓣萼層層して開けば云ふか,或は羣薄(ムラウス)赤きの約略という」 とあるのをみると,「むらさき」の根から「紫色」を染め出すので,その色をいうのは,草の名か色の名かははっきりしなくなる。 「植物のムラサキが群れて咲くことから『群れ咲き』の意味とする説と、花の色がムラに なって咲くことから『むらさき』になったとする説がある。 色の紫は、ムラサキの根に含ま れる色素によって染められた色で、植物名が染色名に転用されたものである。 」 とある(語源由来辞典 http://gogen-allguide.com/mu/murasaki.html)ように,その色から草の名が出来たとするとしても,その色の名をもっていなければ名づけようはない。 紫陽花(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4)で触れたように,アジサイの語源にも, 「『藍色が集まったもの』を意味する『あづさい(集真藍)』がなまったものとする」 説があったし, 「古く『あづさヰ(あじさヰ)』であった。『あづ(あぢ)』は集まるさまを意味し,特に小さいものが集まることを表す語。『さヰ』は『真藍(さあい)』の約。もしくは,接頭語の『さ』と『藍(あい)』の約で,い小花が集まって咲くことから,この名が付けられたとされる。」 「『あじ(あぢ)』は『あつ』で集まること,『さい』は真藍(さあい)の約で,い花がかたまって咲く様子から名づけられたとする説が有力か」 説もあって,紫陽花も, アヅサヰの約転。アヅはアツ(集),サヰはサアヰ(真藍)の略, と集まって咲く意である。しかし,「むらさき」は,紫陽花のように花が群がっている感じはない。 「『ムラ(群ら)+サキ(咲き)』です。群がって咲く花の色です」(日本語源広辞典) という説は誤解ではあるまいか。根は太く紫色だが,花の色は白色である。 諸色蒸れた中にサラリと清い色であるところからか(本朝辞源=宇田甘冥), の方が実態に合う。 アジサイをいうムラサキ(叢咲)の義から(日本古語大辞典=松岡静雄), の方が,色といい状態といい,妥当に思える。あるいは, 「紫陽花,藤,のように総房花序の色をいったものか」 ということ(日本語源広辞典)なのかもしれない。 「むらさき」を鰯というのは,女房詞らしいが, 「いわし,むらさき,おほそとも,きぬかづきとも」 とある(大上臈御名之事)。「いわし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%82%B7)で触れたように,「むらさき」説は, 「紫式部が夫の宣孝の留守にイワシを焼いて食べていたら,夫が帰ってきた。そんな卑しいものを食べてと叱ると,『日のもとにはやらせ給ふいはし水まいらぬ人はあらじとぞ思ふ』と歌で抗議した。紫式部の好きな鰮だから紫といった」 という俗説がある(たべもの語源辞典,日本語源大辞典)が, 鰯の集まる時は海面が紫になるから(牛馬問答), アイ(鮎)にまさるところから紫はアイ(藍)にまさるとかけていったもの(梅村載筆・嘉良喜随筆), 等々もある。かつては,紫式部の夫が批難するほど下品な魚だったので, 隠語, ではないか(大言海)とするのが腑に落ちる。醤油をいうのも,その色から来ているが, 「もとは花柳界や様々な飲食店で使われていたが、現代では寿司屋や一部の食通が使う程度となっている。」 と(日本語俗語辞典 http://zokugo-dict.com/33mu/murasaki.htm),やはり隠語である。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「とんま」は, のろまの転, と,『大言海』はした。その「のろま」は, 鈍間, 野呂松, と当てるが,『江戸語大辞典』は, 野呂松人形の略(「のろまは可咲(おかしき)演劇(きょうげん)より発(おこ)る」(文化十一年・古今百馬鹿)), 転じて, 緑青を吹いた銅杓子(かなじゃくし)の形容(「銅杓子かしてのろまにして返し」(明和二年・柳多留)), さらに別に,野呂松(野呂間)人形の意味より転じて, 愚鈍なもの,あほう,まぬけ, さらに,遊里語として, 野暮, という意味が転じたとする。野呂松人形の意味より転じたとする説は, 「寛文・延宝頃,江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が遣い始めたという,黒い変てこな顔つきの道化人形,滑稽な狂言を演じた」 というもので,この人形は, 「頭が平たく,顔が黒い愚鈍な容貌の古人形」 で,それに基づいて, 気のきかぬこと, まぬけ, の意に転じたとする。『江戸語大辞典』は,さらに,「野呂松人形」の項で, 「江戸和泉太夫座で野呂松(のろまつ)勘兵衛が遣い始めた操り人形。頭部扁平で顔面黒く,道化役を演じた。間の狂言で鎌斎左兵衛の遣う人形の賢役なるに対し,これは愚昧な人物を演じたので,ついに野呂松(のろま)が愚者の異称となったという」 と,念押ししている。 しかし,『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/no/noroma.html)が, 「のろまは、江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が演じた『間狂言』の『野呂間人形(のろまにん ぎょう)』に由来する。『野呂間人形』は平らで青黒い顔をし愚鈍な仕草をする滑稽な人形 なので、『のろま』になったとするものである。 『野呂松』や『野呂間』とも書くことから、『野呂松人形』の説は喩力と考えられる。」 としつつ, 「『のろ』は速度や動きが遅いことを意味する形容詞の『鈍(のろ)し』、『ま』は状態を表す接尾語『間』とする説もある。『のろろする』など動作が遅いことには『のろ』が用いられる」 とも付言している。『日本語源広辞典』は,その「のろ」を採る。 「ノロマのノロは,ノロイで,速度の遅い意です。ノロマは,『ノロ(形容詞ノロイの語幹)+マ(者の接尾語)』」 とする。接尾語「ま」は, 「形容詞語幹・動詞の未然形・打消しの助動詞『ず』,接尾語『ら』などに接続して状態を表す語」 である(『岩波古語辞典』)。『大言海』の, 「鈍間抜(のろますけ)の下略なるべし」 とやはり「のろ」は,「鈍」から来ているとみる。 同様に,『由来・語源辞典』(http://yain.jp/i/%E3%81%AE%E3%82%8D%E3%81%BE)も, 「形容詞『のろい(鈍い)』の語幹に、状態を表す接尾語の『ま』がついた語。「鈍間」は当て字。」 とみる。「のろい」は,あるいは,擬態語, のろのろ, のろくさ, のろり, 等々からきたのかもしれない。『擬音語・擬態語辞典』には, 「この『のろい』は江戸時代,異性に甘いという意味もあり,『のろける』はそこから来た語」 とある。『江戸語大辞典』をみると, のろ作, のろ助, のろつく, のろっくさい, のろっこい, など,「のろさ」を嘲り,罵る語に事欠かない。この「のろ」を「野呂松人形」とつなげるのは,サカサマのように思える。つまり,「のろい」という言葉があったからこそ, 野呂松(間)人形, の「のろ」の意味がよく伝わったはずなのである。あらかじめ, 「高さ一尺五寸許りにて,頭偏く,色黒き,木偶を舞はして,痴駭(たはけ)たる狂言を演ずる」(大言海) 「ふざけた狂言」と言っているようなものである。 野呂松勘兵衛, という名も,そう考えれば,意味がよく伝わる。 因みに,「のろし」について, 「ヌルシ(緩し)はさらにヌルシ(鈍し)に転義して,『にぶい,愚鈍である』さまをいう。〈心のいとヌルキぞくやしき〉(源・若菜下)。さらには母交(母韻交替)をとげてノロシ(鈍し)になり,動作の鈍い様子をノロノロ(鈍々)という。」(『日本語の語源』) とある。擬態語は,「鈍し」から出た,という説である。 「野呂松人形」は,人形浄瑠璃の間(あい)狂言を演じたが,「間(あい)狂言」とは, 「能では,シテの中入のあと狂言方が出て演じる部分をいうが,能のアイ(間狂言)のみならず近世初頭の諸芸能では,たて物の芸能の間々に,種々の雑芸が併せて演じられた。それを〈アイの狂言〉または〈アイの物〉と呼ぶ。歌舞伎踊や浄瑠璃操り,幸若舞,放下(ほうか),蜘(くも)舞などの諸芸能の間でも,それぞれ間狂言がはさまれ,物真似(ものまね)狂言,歌謡,軽業,少年の歌舞などが演じられた。」(『世界大百科事典 第2版』) とある。「野呂松人形」と相次いで,「そろまにんぎょう」「むぎまにんぎょう」が起こったとある(大言海)が,今日, 「新潟県佐渡市の説経人形の広栄(こうえい)座、宮崎県都城市山之口町の麓文弥(ふもとぶんや)人形で、間狂言(あいきょうげん)として演じられている。石川県白山市の東二口(ひがしふたくち)文弥人形、鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市東郷町の斧淵(おのぶち)文弥人形にも人形だけが遺存する。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』) という。 「古浄瑠璃(こじょうるり)時代の道化人形芝居の一つ。浄瑠璃操りの成立以前には能操りがあって狂言操りも併演されていたが、明暦(めいれき)・万治(まんじ)(1655〜61)ころに歌舞伎(かぶき)の猿若(さるわか)が道化方に変じ、人形芝居に影響して道化人形芝居が成立した。西六(さいろく)、藤六、万六(まんろく)、太郎ま、麦ま、米(よね)ま、五郎まなどいろいろあったが、延宝(えんぽう)(1673〜81)ごろに上方(かみがた)に、そろま、江戸に、のろまが現れた。青塗りが愚鈍な容貌(ようぼう)の一人遣いの小人形で、愚直な主人公の展開する滑稽科白(こっけいせりふ)劇である。野呂松勘兵衛、のろま治兵衛らが知られているが、1715年(正徳5)の『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』上演からこれらの人形は除かれ、姿を消していった。佐渡へ伝わったのは享保(きょうほう)(1716〜36)ごろという。」(仝上) 「人形は4体1組。木之助が彫像形式で、手足が紐(ひも)でぶらりとつけられている。芝居の最後に男根を出して放尿するので有名。」(仝上) と,この出し物の品がわかる。「のろい」というより「とろい」「とろくさい」という感じかもしれない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「すべた」は, スベタ, と表記されることが多い。 「espada ポルトガル・スペインの転。剣の意。もとカルタ用語」 とあり(『広辞苑第5版』), 花札で,点数にならないつまらない札。素札(すふだ), の意で,この「素札(すふだ)」が転じて, スブタ, と, 女性を罵る言葉, になったと見ることができる。江戸時代には既に使われていたらしく,『江戸語大辞典』の「すべた」の項に,よりい 「めくりカルタで,数にならぬ札。四十八枚中,二十四枚ある。素札」 とあり, 「詰まらない男また女を罵って言う語」 とある。女性に限らなかったらしく,つまらない客の意で, すべた客, つまらぬ男の意で, すべた野郎, という言葉もあった(『江戸語大辞典』)。『大言海』は,カルタの「スベタ」と別に「スベタ」の項を立て,カルタの項では, 「鋤の西班牙語,espada(英語spqde)の訛にて,其の象を牌面に記したるものより云へるか」 とし, 「西洋骨牌(カルタ)に云ふ語。一枚が,一にならでは値せぬ平凡(へぼ)なる牌の称」 とし,もうひとつの「すべた」は, 素女, と当て, 「安永七八年頃より,美(よ)からぬ女を,ソベタと云ふは,(スベタの)骨牌よりでたる詞とぞ(醜を,ヘチャとも云ふ)」 とし,別に 「伊豆にて。色情深き女(男の,スケベヱに対す)」 とある。そういう含意かと,よく分かる。『日本語源大辞典』には, 「特に外形面の非難が強く,行動や精神面の軽はずみへの非難を示す『蓮葉』と対照的に使用された」 とあり,これだとただ外面の良し悪しを言っていることになる。しかし『江戸語大辞典』の,男性に使った含意は, つまらない, 取るに足りない, という含意であるから,初めは,そういう含意だったのが,外面の, 良し悪し, に転じたものに思われる。 エスパーダ→素札(すふだ)→すべた, の転は,美醜を指してはいない。 役に立たない, つまらない, の意である。 なお,「めくりカルタ」については, 「『めくり』は明和期(1764-1772)の中頃に登場し、安永、天明(1781-1789)のいわゆる田沼時代に大ブームを巻き起こしました。この頃の黄表紙、洒落本、噺本等の文芸作品にも数多く登場し」 たとあり,こう説明されています(http://www.geocities.jp/sudare103443/room/mein/mein-01.html)。 「『めくり』は三人で競技しますので『胴三』は無く『親』『胴二』『大引』のみとなります。カルタ一組四十八枚(時に「鬼札おにふだ」と呼ばれる一枚を加える事も有り)を使用し、各人に手札として七枚づつ配り、場札として六枚を表向けに晒し、残りは山札として裏向きに積んでおきます。競技は『親』から開始します。手札の中に場札と同じ数(ランク)の札が有ればそれを出し、場札と合わせて取る事が出来ます。同じ数が無い場合は任意の一枚を場に表向けに捨て、以後この札も場札となります。次に山札の一番上の札をめくり、場に同じ数の札が有れば二枚合わせて取る事が出来ますが、無ければその札も場札に加えられます。続いて『胴二』『大引』の順に同じ手順を繰り返し、七順で一勝負(番個ばんこと呼ぶ)が終了します。」 とある。 聖杯(骨扶/乞浮)、 刀剣(伊須/伊寸)、 貨幣(於留/遠々留)、 棍棒(巴宇), の4スート、1から9の数札と, 女王(十)、 騎士(馬/牟末)、 国王(切/岐利), の絵札からなり, 合計48枚, ということらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F)。 なお,方言ではこの「スベタ」を, ずべっこ(新潟県) ずべろく(新潟県西頚城郡) ずべたら(栃木県、埼玉県秩父郡、東京都八王子市、山梨県南巨摩郡、静岡県榛原郡) ずべたらもの(群馬県勢多郡=道楽者の意) ずべくら(熊本県下益城郡) ずべとこ(富山県東礪波郡) ずべたこ(兵庫県西宮市) 等々というとある(http://www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/0701-0800/0761.html)。 この「すべた」が, すべた→すべ→ズベ公, と,「ズベ公」という言葉につながるらしい。 参考文献; http://www.geocities.jp/sudare103443/room/mein/mein-01.html 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) |
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