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コトバ辞典



梅雨、

とあてる「つゆ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%A4%E3%82%86は触れたことがあるが、ここでは、

露、

と当てる「つゆ」である。「露」は、

空気中の水蒸気が地物の表面に凝結してできる水滴。風のほとんどない晴れた夜,地物の表面温度が放射冷却で降下したとき発生する、

が(ブリタニカ国際大百科事典)、植物の葉や建物の外壁などで水滴となったもの。物に露が着くことを、

結露(けつろ)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2

「露」(漢音ロ、呉音ル、慣用ロウ)は、

形声。「雨+音符路」で、透明の意を含む。転じて、透明に空けて見えること、

とあり(漢字源)、「はかないもの」や「うるおいや恩恵」に喩えるし、露天のように、「さらす」意や、露見、暴露のように、「あらわれる」意でも使う。

和語「つゆ」も、「露」をメタファに、

涙、

わずかなこと、

はかないこと、

の意で使う。そのため、

つゆまどろまず、

というように、副詞で使う「つゆ」は、

ほんのわずか、

の意から、下に否定を伴って、

少しも、

の意で使うが、そこには、「はかない」「わずか」という「露」をメタファとしたことばの翳がある。

「つゆ」は、

液、
津、

と当てる、

汁、

の意の「つゆ」がある(大言海)。江戸語大辞典には、「つゆ」に、

(遊里語)祝儀、

の意で使い、

金銀曰花、又曰露、

とあるように(享保十五年・史林残花)、「花」ともいい、また、

すまし汁、

の意で載るのも、「汁」の意であるが、「つゆ」には、

水気、
湿り、

の意があり(大言海)、「露」とあてる「つゆ」の意と同じに意味を持つ。そのため、大言海は、「つゆ(露)」の語源を、

(シル、水気の意と)同じきか、或は云ふ、粒斎(つぶゆ)の意にて、圓くして浄きを云ふと、

とする。似た説に、

ツ(統)+ユ(斎・清浄なもの)、

として、清らかな水の玉の意、とするものもある(日本語源広辞典)。しかし、

斎、

と当てる「ゆ」は、

ユユシ(斎・忌)と同根。接触・立ち入りが社会的に禁止される意、

とあり(岩波古語辞典)、

イミ(忌)の約、

ともあるように(大言海)、

斎笹、
斎屋、

等々と、

名詞・動詞の上に冠せられて熟語とする、

ともある(仝上)。「つゆ」とは使い方も、意味の上からも、異和感がある。しかし、

ツイエル意(和句解・和語私臆鈔)、
ツユ(津弥)の義(言元梯)、

という他の説は、しっくりこない。ただ、

ツは丸い意、ユはただよわしの意(槙のいた屋)、

が少し気になる。

「ツ」は、「ツブ」の「ツ」と考えると、「独楽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474857902.htmlで触れた「ツブ」は、「かたつむり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460441943.htmlで触れたように、

粒・丸、

と当て、

「つぶし(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」

とあり、「ツブリ(頭)」は、

「ツブ(粒)と同根」

とある。「ツビ」(粒)ともいい、「つぶ(螺)」は、

ツビ、

とも言い、「つぶら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464485052.htmlで触れたように、「つぶら」の「ツブ」は、

粒、

と関わり、「ツブ」は、

ツブラ(円)、

と関わる。「粒」は、「ツビ」(粒)ともいい、

円いもの、

と重なり、「粒」「丸」「円」「螺」は、ほぼ同じと見なしたらしいのである。それなら、

ツブ→ツユ、

もありなのではないか、という気がしてならない。もちろん憶説だが。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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安倍川餅


「安倍川餅」は、

安倍川のほとりの名物、

とあり、

搗きたての餅に黄粉や餡をまぶしたもの、また、焼餅を湯・密などにつけ、黄粉と砂糖でまぶしたもの、

とある(広辞苑)。たんに、

あべかわ、

とも言う(仝上)。転じて、

黄粉餅、

とも言い、さらに、

唐茄子のあべ川を食ふ上戸(文化十年・浮世風呂)、

というように、

茹でて黄粉まぶしたもの、

をも言うようになる(江戸語大辞典)。個人的な経験では、

焼餅を湯につけて、黄粉をまぶしたもの、

が、「安倍川餅」であった。確かに、

黄粉餅、

とも呼んだ。

浮世絵にもあるように、安倍川付近で、東海道を上り下りする旅人に供した掛茶屋の名物だが、評判になったのは、天明年間(1781〜89)から、らしい(たべもの語源辞典)。それは、

当時珍しかった砂糖を用いたから、

であるらしい(仝上)。たべもの語源辞典には、

搗きたての餅を臼の中から小さくちぎり、砂糖蜜を塗り、砂糖を等分に加えてつくったきな粉に少量の塩を加える。まぶして皿に盛り、その上から白砂糖を振りかけて出した、

とある。後に、

土産物に小豆の漉し餡でくるんだものができ、黒と黄の二色の安倍川餅になった、

とある(仝上)。東海道中膝栗毛(十返舎一九)にも、

ここは名にあふあへ川餅の名物にて両側の茶屋いずれも奇麗にはなやかなり、

とあり、

「五文どり」(五文採とは安倍川餅の別名)、

としてhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%B7%9D%E3%82%82%E3%81%A1、登場する。

茶屋女が名物餅を、

「あがりゃアレ」

と旅人に呼び掛けたため、旅人の話題になった(たべもの語源辞典)、とある

由来については、いくつかある。ひとつは、

慶安年間(1648〜52)、東海道府中(静岡)、堤添川越町の弥勒院の仏弟子のひとりが、師僧の勘当をうけて還俗し、名を源右衛門と改め、河原で茶を出し餅を売り始めたのが起こり、

といい(仝上)、また別に、

慶安年間(1648〜52)、徳川家康が井川笹山金山を御用金山として採掘させたころ、家康が巡検に赴いたとき、餅をつくって献上したものがあり、家康は大いに喜び、その餅の名を尋ねると、「金の粉が安倍川に流れますのをすくい上げまぶしてつくるので、金なこ餅と申します」と答えた。家康が気に入って、「安倍川餅」の名を貰った、

という(仝上)。東海道をたびたび往来したことのある八代将軍徳川吉宗はよく知っており,当時の御賄頭(おまかないがしら)の古郡孫太夫が駿河からもち米を取りよせて調進したところ大いに嘉賞されたと,江戸南町奉行でもあった根岸鎮衛(やすもり)がその著『耳囊(みみぶくろ)』に書いている(世界大百科事典)。

なお、お盆に安倍川餅を仏前に供え食べる風習のある山梨県などでは黄な粉と黒蜜をかけるらしいが、餅の形も基本的に角餅である。同じく安倍川餅と呼んでも、言っても静岡市内のものとは違う。この風習から派生した土産菓子が信玄餅であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%B7%9D%E3%82%82%E3%81%A1、という。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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「餡」には、いくつかの意味がある。例えば、

ゆでた小豆・白小豆・白隠元・うずら豆・ささげなどに、砂糖をまぜて、更に煮て煉ったもの、

という漉し餡・粒餡・つぶし餡などの種類のある豆類の他、

サツマイモ、栗などを煮て砂糖を加えて練ったもの、

も含め、いわゆる「あんこ(餡子)」といわれるものの意味がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1

枝豆で作った豆打(ずんだ)、青豌豆(グリーンピース)で作った鶯餡(うぐいす餡)、

などもある(実用日本語表現辞典)。この他に、

饅頭や餅、中華点心の包子(餃子、焼売など)などの中に包み込むために調理した挽き肉、野菜などの具、
水またはだし汁に葛粉、片栗粉などのデンプン粉を加えて加熱しとろみをつけたもの。または、これに野菜や挽き肉などを加えたもの、

という意味、さらに、饅頭などから意味が広がったが、

中に包み込まれているもの、

という意味もある(広辞苑、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1)。

漢字「餡」(漢音カン、唐音アン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。臽(カン)は、おしこめる、くぼめて中に入れるの意。餡はそれを音符とし、食を加えた字、

とある(漢字源)。本来、「餡」は、

中に包み込まれているもの、

つまり、

詰め物、

を意味し、

金銀の細工物などに、内部に銅など籠めたるものを、アンヅメと云ふ、贋金などにも云ふ、此の如くつくりたるを、外部の金銀に就きてはテンプラと云ふ、コロモをかけたりと云ふなり、

とあるいい方(大言海)は、詰め物の意である。

『字彙』では餅の中の肉餡を指しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1

饅頭などの中にいれる肉や野菜など、

の意であった。「餡」の字には、日本語の「あんこ」の意味も、「葛餡」の意味も、ない。

日本へは聖徳太子の時代に中国から伝来したとされ、中国菓子で用いられる肉餡がその原形となっていると考えられている、

とある(仝上)。小豆を用いた小豆餡が開発されたのは鎌倉時代であるとされ、当初は塩餡であったが、安土桃山時代になって甘い餡が用いられるようになり、砂糖が用いられるようになったのは江戸時代中期からで高貴な身分に限られていた、

とされる(仝上)。餡には、

肉や野菜を用いる塩味系統、
と、
豆や芋などを用いる甘味系統、

があり、豆や芋を用いる餡も砂糖が普及するまでは、塩味のいわゆる塩餡であった、とある(仝上)。

「あん」は、

唐音、

とする(広辞苑)のが主流、大言海が、

餡(カン)の字の宋音、

とするのは、由来と関わる。

禅寺の調理より出たる語なるべし。鹽尻「餅、及び、饅頭の内に満つる物をアンと云ふ、餡の字なり、唐音はアンと云ふ、」、正字通「凡、米麪食物、坎(アナニシ)其中、實(ミタス)以雑味、曰餡」、支那にては多く肉類を入る、禅家にて、小豆に代へたるならむ、

とする。饅頭http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E9%A5%85%E9%A0%ADで触れたように、

日本の饅頭の起源には二つの系統https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%ADがあり、ひとつは、

「臨済宗の僧龍山徳見が1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)に帰朝した際、その俗弟子として随伴してきた林浄因が伝えたとするものである。当初林は禅宗のお茶と食べる菓子として饅頭を用いる事を考えたものの、従来の饅頭は肉を入れるため、代わりに小豆を入れた饅頭を考案されたと言われている。その後、奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立てたことから、漢國神社内の林神社と呼ばれる饅頭の神社で、菓祖神として祀られている」

とあり、もうひとつの系統は、

「1241年(仁治2年)に南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。円爾は辻堂(つじのどう)に臨済宗・承天寺を創建し博多の西、荒津山一帯を托鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと言われる。このときに茶屋の主人に書いて与えた『御饅頭所』という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭はふくらし粉を使う『薬饅頭』で、博多の方は甘酒を使う『酒饅頭』とされる」

とあるが、いずれも禅宗と絡む。大言海は、

「元代の音、暦應四年、元人、林浄因建仁寺第三十五世、徳見龍山禅師に従ひて帰化し、南都にて作り始むと」

と前者を採る。

「南都の饅頭屋宗二は、先祖は唐人なり、日本に饅頭といふ物を将来せし開山なり」

と、江戸前期の見聞愚案記にもある、と。たべもの語源辞典もまた、前者を採り、

「南北朝時代の初期興国年間(1340〜46)、京都建仁寺の三五世徳見龍山禅師が、留学を終えて元から帰朝するとき、林和靖の末裔林浄因という者を連れて帰国した。この人が日本に帰化して奈良に住み、妻をめとって饅頭屋を開き、初めて奈良饅頭をつくった。浄因五世の孫に饅頭屋宗二(林逸)という。『源氏物語林逸抄』、饅頭屋本と呼ばれる『節用集』はこの人の著作である。宗二の孫紹伴は、菓子の研究に明に渡り、数年して帰ると、一時、三河國塩瀬村に住んでいたが、京に出て烏丸通りで饅頭をつくった。これが塩瀬饅頭である。(中略)紹伴は時の将軍足利義政に饅頭を献じたところ、将軍から『日本第一饅頭所』の看板を賜ったとされている」

としたとあるところから見ると、

唐音、

ではなく、

宋音、

の「アン」ではないか、と思われる。ただ、「菓子」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90で触れた、倭名類聚抄に載る、

八種唐菓子(やくさからがし)、

のひとつ、

団喜(だんき)、

は、これより古く、

小麦粉を練った皮で巾着(きんちゃく)形の福袋をつくり、中に甘葛煎(あまずらせん)で調味した桂皮や数種の木の実を詰め、ごま油で揚げたもの、

がある(日本大百科全書)。今日の餡にはほど遠いが、中国の月餅を考えれば、団喜の中身はまさに餡の祖型であった、といえる(仝上)。京都には「清浄歓喜団」(亀屋清永)と呼ばれる団喜が(江戸時代中期以降に現在のように小豆餡を包むようになったので、当初の団喜とは異なるが)現存しているが、いまは、

小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたもの、

となっていてhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、寺院に奉納される他、和菓子として市販もされている、という。

なお、「あずき」については「豆」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E8%B1%86で触れた。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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餡掛豆腐


「餡掛け」は、「餡」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%A4%A1で触れた「餡」の意味の、

水またはだし汁に葛粉、片栗粉などのデンプン粉を加えて加熱しとろみをつけたもの。または、これに野菜や挽き肉などを加えたもの、

を掛けた料理の意である。江戸語大辞典には、

葛溜(くずだまり)をかけること、またその料理、

と載り、

初鮭のあんかけ、

を引く(天保四年・壽御夢相妙薬)。「葛溜」とは、

くずあん(葛餡)、

の意である。「葛餡」について、

葛を入れてとろみをつけた餡。調味した出汁に葛粉を用いてとろみを出したもの。南禅寺蒸しなどの蒸し物や、煮もの(炊きあわせ)、茹でた料理、うどん(あんかけうどん・ 京都のたぬきうどん・のっぺい、等)やそば(あんかけそば)などにも用いられる。葛餡をかけた料理は、見た目に透明感があって品がよく見え、口当たりが滑らかで、料理の温かさを保つ効果もある。餡を下に敷いている場合もあり、その場合は敷餡とも呼ばれる、

とありhttps://japan-word.com/kuzuan、葛餡を用いた料理は、

冬瓜の葛あんかけ、
湯葉の葛あんかけ、
胡麻豆腐の葛あんかけ、

といった「〜の葛あんかけ」と呼ばれる(仝上)、とある。

大言海に、「餡掛け」は載らないが、

餡掛饂飩、
餡掛豆腐、

が載る。「餡掛豆腐」について、

豆腐を好きほどに切りて煠(ゆ)で、葛餡をかけたるもの、古くはアンドウフとも云ひき。饂飩をおなじやうに製したるものを、アンカケウドンと云ふ、

と載る。江戸初期の『大草家料理書』に、

アンドウフと云ふは、二寸許に切りて、葛煮をして、皿に入れて、上に葛溜をかけて、

とある(大言海、精選版日本国語大辞典)、という。

「今出川豆腐」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E8%B1%86%E8%85%90でも触れたが、天明二年(1782)刊行の、豆腐を題材にした料理「豆腐百珍」に、「尋常品」の一つとして、

高津湯(こうづゆ)とうふ、

が載り、

絹ごしとうふを用い、湯烹して、熱葛あんかけ、芥子おく。又、南禅寺ともいふ、

とありhttps://ttms.exblog.jp/6672512/

大坂高津の廟の境内に、湯とうふ家三、四軒あり。其料に用ゆ豆腐家、門前に一軒あり。和国第一品の妙製なり。京師に南禅寺とうふあり。江戸浅草に華蔵院といふとうふあり、

と付言されている(仝上)。更に、「奇品」の一つとして、

縮緬とうふ、

が載り、

ところてんの突き出しに豆腐を入れて押し出し、茶碗蒸しの中に入れます。葛のあんかけとおろしわさびを添えます、

とあるhttp://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html。江戸時代、夜に、

茶飯と葛かけ豆腐を売っていた、

とある(たべもの語源辞典)。いまは、

かつおぶしのだしを煮たてて味醂と醤油を加え、味かげんしたものに水どきした葛を杓子でだし汁にかきまわしながらときこむ。豆腐は、沸騰した湯の中に入れてゆで、網杓子ですくい上げて、椀に入れ、あんをかけて、上におろしたワサビを添えて出す、

が(仝上)、昔は、

餡豆腐、

と呼び、

湯煮した豆腐の上に葛だまりをかけて、ケシ・粉胡椒、胡桃の実を上置きした、

とある(仝上)。

豆腐の真ん中をさじですくいとって、その中に生卵を落とし込み、蒸して半熟程度にして「葛餡」をかけた「玉蒸豆腐」、

は、石川県の郷土料理、とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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飯鮨


「飯鮨」は、

飯寿司、
飯酢、

とも当て(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%BF%E5%8F%B8)、

いずし、

あるいは、

いいずし、

と訓ます(たべもの語源辞典)。

飯(いい)はご飯で、御飯の鮨を飯鮨、

という。今日では、

飯を主とした押鮨(広辞苑)、
乳酸発酵させて作るなれずしの一種https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%BF%E5%8F%B8
米麹、魚、野菜を樽の中に入れて漬け込み、乳酸発酵させたなれずしの一種http://takemoto-suisan.com/user_data/whats.php

等々を指すが、

古い時代、鮨は、自然に酢味をもたせた魚ばかりのものであった。その後、早ずしとか一夜ずしといって飯を使って鮨をつくるようになったが、これは発酵作用のために飯を利用したもので、食べるのはやはり魚ばかりであった、

とあり(たべもの語源辞典)、飯は、捨ててしまったのである。つまり、

動物の生肉を塩と合わせ、それを飯の間に漬け、数日たつと飯が発酵して酸味を生じたものを食べた。…飯は食べずに、肉だけを食用とした(日本食生活史)、

冬場、雪に閉ざされる北海道や東北地方の港町ならではの食べ物で、冬の保存食として年末やお正月には欠かせない郷土料理として食べられてきました。魚をどのように美味しく保存できるのか考えられ開発されたのが「飯寿し」ですhttp://takemoto-suisan.com/user_data/whats.php

等々とあるように、あくまで主役は、魚であった。

近江の鮒ずし、
北海道のニシンずし、

等々。『今昔物語集』にも、

「鮨売りの女が酔いつぶれて、売り物の鮨桶の中に嘔吐してしまったので、あわててかき混ぜてごまかした」
「三条中納言朝成は肥満に悩み、医師に減量法を尋ねたところ、『夏は水漬け飯、冬は湯漬け飯を召しあがればよい』と教えられた。そこで瓜の漬物や鮎の鮨をおかずに湯漬け飯を食べたが、食べる量があまりにも多いので結局痩せなかった」

等々の記述があり、飯部分を除去して食されていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8ことがわかる。のちには、飯(いい)も食べるすしができ、現在の飯鮨は、それである。

鮒ずしは、

日本古来の“鮓すし(なれずし)”の代表的一種、

古代から琵琶湖産のニゴロブナ(煮頃鮒)などを主要食材として作られ続けている滋賀県(近江国)の郷土料理である。今日では「ふなずし」「鮒鮓」「鮒鮨」「鮒寿司」「鮒寿し」などとも記し、「鮒寿司」が最も一般的となっている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%92%E5%AF%BF%E5%8F%B8

「鮒鮓」「鮒鮨」「鮒寿司」「鮒寿し」「鮒寿司」等々と表記しているが、「鮒のなれずし」という特徴を的確に表せるのは「鮒鮓」、

である(仝上)とあるのは、「鮨」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%99%E3%81%97で触れたように、

「鮨」の字は

魚の鰭,
うおびしお,魚のしおから,

を意味し,我が国だけで,

酢につけた魚,
酢・塩をまぜ飯に,魚肉や野菜などをまぜたもの,寿司,

の意で使う。「酢」は,

塩・糟などにつけ,発酵させて酸味をつけた魚。たま,飯を発行させて酸っぱくなった中に魚をつけた込んだ保存食,

の意で,「華南・東南アジアに広く行われた」(『漢字源』)物を指す。これは,

なれずし(熟れ鮨・馴れ鮨),

と重なる。「酢」を「鮨」と同様の意味で使うのは,我が国だけである、という背景からと思われる。

表記については,『十巻本和名抄-四』に「鮨(略)和名須之 酢属也」とあり,「鮨」と「鮓」は同義に用いられていた可能性がある。ただし,飯の中に魚介類を入れて漬けるのが酢で,魚介類の中に飯を詰めて漬けるのが鮨であるとも言われている、

とあり(日本語源大辞典)、また、

スシのスは酸であり,シは助辞である。すなわち「すし」とは「酸(ス)シ」の意である。古く延喜式の諸国の貢物のなかに多く「すし」が出てくる。これは「馴れずし」で魚介類を塩蔵して自然発酵させたものである。発酵を早めるために,飯を加えて漬けるようになったのは,慶長(1596‐1615)ころからと伝えられる。飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材となって飯鮨とよばれるようになり,散らしや握り鮨が生まれる、

とあり(たべもの語源辞典)、

最も古い表記は「鮓」で、元々は塩や糟などに漬けた魚や、発酵させた飯に魚を漬け込んだ保存食を意味した漢字であるため、発酵させて作るすしを指し、馴れずしが当てはまる。「鮓」の漢字は、鯖鮓や鮎鮓、鮒鮓などで使われる、

ともあるhttps://chigai-allguide.com/%E5%AF%BF%E5%8F%B8%E3%81%A8%E9%AE%A8%E3%81%A8%E9%AE%93/

平安時代中期に制定された延喜式には、西日本各地の調としてさまざまななれずしが記載されているが、

アユやフナ、アワビなどが多いが、イノシシ、シカといった獣肉のもの、

も記述されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97、とある。

大言海の「すし」の項を見ると、

古へ、飯と鹽とにて魚を蔵し、酸味を生ぜしめたるもの、即ち源五郎鮒の酢の如し。又、魚介の肉に鹽を加へおき、数日を歴て、自然に酸味を生じたるもの、即ちみさご酢の如し、

とあり、「鮨」の古形、「酢」を示している。「みさご酢」というのは、みさご(鶚)という鳥は、

其捕りたる魚を、海上の巌の間、又は、深山の巌陰に貯へ、宿を経しめて食とす、みさご酢と云ひ、鹽、醤を加へずして食ふべく、味、人の作れる酢の如し、

という(大言海)伝説があり、

ミサゴが貯蔵した魚が自然醗酵し、酢漬けのような状態になって旨味が増したものを人間が見つけて食したのが寿司の起源である、

ともされ、そのため、

みさご鮨の屋号、

を持つ寿司屋は全国に少なからず点在するhttps://washimo-web.jp/Report/Mag-Misagozushi.htmのだとか。

「なれずし」は、

北陸以北の日本海側と北海道の寒い地域に集中した分布圏がみられる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%BF%E5%8F%B8ように、

冬の保存食、

の性格がよく出ているが、「飯鮓」の語源は、

飯鮓(いいずし)の転訛、
魚鮓(いおずし)の転訛、

の二つの説がある(仝上)ようだ。ただ、

日本のなれずしは、弥生時代に稲作が渡来したのと同時期にもたらされたものとする見解があるが、これは飯に漬けて発酵させるという製法から米に結び付けて説明されており、明証があるわけではない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97ように、米とつなげるのは後で、

魚鮓(いおずし)、

の転訛で、後に、

飯酢、

と当て、

飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材、

となるようになって(たべもの語源辞典)、

飯鮨、

と当てたのではないか、と思われる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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一夜鮨


「一夜鮨」は、

いちやずし、
ひとよずし、

と訓ませるが、

ひとばんずし、

とも言う(大言海)。広辞苑には、

ふり塩をしたアユの腹に飯を詰め、苞にいれて火にあぶり、おもしをかけて、一夜のうちにならした鮨、
塩・酢でしめた魚と熱い飯を交互に重ね、おもしをかけて、一夜のうちにならした鮨、
塩・酢でしめたすし飯にのせて、重しをかけて一夜で作った鮨、

の三種類が載る。「なれる」は、

熟れる、

と当て、

熟成して味がよくなる、

意である。ただし、「熟れ鮨」は、かつては、魚の保存の為なので、飯は捨てた。

「一夜鮨」は、本来は、

一夜でなれずしになる、

という意味の、

一夜鮨、

で、昔の鮨は、

魚類を塩に漬けて久しく貯えて置き、自然に酸味の出てくるのを待った、

からである。「飯鮨」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%A3%AF%E9%AE%A8で触れたように、「鮨」の字は

魚の鰭,
うおびしお,魚のしおから,

を意味し,我が国だけで,

酢につけた魚,
酢・塩をまぜ飯に,魚肉や野菜などをまぜたもの,寿司,

の意で使う。「酢」は,

塩・糟などにつけ,発酵させて酸味をつけた魚。たま,飯を発行させて酸っぱくなった中に魚をつけた込んだ保存食,

の意で,「華南・東南アジアに広く行われた」(『漢字源』)ものを指す。これは,

なれずし(熟れ鮨・馴れ鮨),

と重なる。「酢」を「鮨」と同様の意味で使うのは,我が国だけである。

スシのスは酸であり,シは助辞である。すなわち「すし」とは「酸(ス)シ」の意である。古く延喜式の諸国の貢物のなかに多く「すし」が出てくる。これは「馴れずし」で魚介類を塩蔵して自然発酵させたものである。発酵を早めるために,飯を加えて漬けるようになったのは,慶長(1596‐1615)ころからと伝えられる。飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材となって飯鮨とよばれるようになり,散らしや握り鮨が生まれる、

としており(たべもの語源辞典)、また、表記については,

『十巻本和名抄-四』に「鮨(略)和名須之 酢属也」とあり,「鮨」と「鮓」は同義に用いられていた可能性がある。ただし,飯の中に魚介類を入れて漬けるのが酢で,魚介類の中に飯を詰めて漬けるのが鮨であるとも言われている、

ともある(日本語源大辞典)。

つまり、「一夜鮨」は、昔の「なれずし」の製法と、酢をつかったものとの両義があるようなのである。広辞苑に載る三種のうち、

ふり塩をしたアユの腹に飯を詰め、苞にいれて火にあぶり、おもしをかけて、一夜のうちにならした鮨、

が古い形になる。

元来酢は鮒にあれ、鮎にあれ、其魚と飯とをまぜて、二三日或いは四五閧煬oて、なれて食するものなるを、一夜にてなれて食するより云ふ、

とある(大言海)のは、その意味である。「酢」は、飯の中に魚介類を入れて漬ける「鮨」を指す。

江戸時代後期『嬉遊笑覧』には、

ムカシの酢は、飯を腐らしたるものにて、みな、源五郎鮒の酢の如し、早鮨とも、一夜ずしなり、料理物語、一夜ずしの仕様、鮎の酢を苞に入れ、焼火に炙りて、おもしを強くかくる、又は、柱に巻つけて、しめたるもよし、一夜にしてなるるといへり、

とある。寛永二〇年(1643)刊行の『料理物語』は、「一夜ずし」の仕様を、

鮎をあらひ、めしを常の鹽かげんよりからうして、うほに入れ、草づとにつつみ、庭に火をたき、つととともにあぶり、その上を、こもにて二三返まき、かの火をたきたる上におき、おもしを強くかけ候、又、柱に巻きつけ、強くしめたるもよし、一夜になれ候、

と書く。蕪村の句に、

夢さめてあはやとひらく一夜鮓、

とある。

つくりはじめて一日くらいで食べられる酢、

の意で、

はやすし、
なまなり、

とも言う(たべもの語源辞典)、とある。ただ、

「生成の鮨(鮓)」とは、十分な熟成を経ない半熟の鮨(鮓)ではあるが、飯を共に食するというものではなく、敢えて半熟状態のものを試みに賞翫するというもの、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8、飯を食べる今日の鮨とは異なることに注意しなくてはならない。しかし、「早すし」は、酢を用いるようになって以後の「すし」をも指すので、何に対して早いかの意が、少し変わる。ここで「一夜ずし」は、

なれずし、

に対して言っている。

時代が下るとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、寿司の発酵を早めるため様々な方法が用いられ即製化に向かう、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8、やがて、1600年代からは酢を用いた例が散見されるようになり、幕末の、岡本保孝『難波江』に、

今江戸にある酢は、延宝の頃、御医師の松本善甫と云ふもの新製なり、されば、世に松本酢と云、彦根の鮒の酢、尾州の鮎の酢などは、魚と飯とをまぜて、五六日も経て食ふなり、吉野近辺にて粟の飯にて造る、二三ヶ月もかこはるるなり、これらの酢は、右より左には出来兼る故に、あきなふ者にあつらふるに、今日より幾日経て取りに来給へと云により、これをオジャレズシと云、松本酢は、直に出来故に、マチャレズシと云、又、早酢とも云なり、元来すしは、上件の如く、飯と魚とをまぜて置に、日数経れば、おのづから、酸味の出るものにて、酢を加へて製するものにあらず、鮨の字よりは、酢の字の方よろし、字書を観て知るべし、

とある(大言海)ので、まだ飯を食べる「鮨」ではなく「酢」である。ただ、この説は、

日比野光敏によれば「松本ずし」に関する資料は他になく、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司があるゆえ「発明者であるとは考えられない」としている、

説もあるがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8、誰が発明したかは別として、鮨に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、いよいよ発酵を待たずに酢で酸味を得て食する寿司が誕生し、まさに、

早寿司(鮨)、

が生まれることになる(仝上)。この場合は、「一夜ずし」よりも早い、ということを意味になる。酢を用いるようになると、

魚は沖鱛ほどにひらりと大きく切って、二時間ほど酢につけておく。引き上げて水気がなくなるまで乾かし、飯をきれいにこしらえて、一段一段に並べ、おしをよくして、二、三日たったら出す。こしらえた翌日も食べることが出来る、

とあり(たべもの語源辞典)、飯を食べるスタイルになっている。

寛延四年(1751)版の『増補江戸惣鹿子』に、

酒川酢、深川富吉町柏屋、御膳筐酢、本石町二丁目南側伊勢屋八兵衛、交ぜ酢、早漬、切漬其外御望次第、

と見える。「混ぜ酢」というのは、起こし酢のことで、

五もく酢、

であり、「早漬」は、

一夜酢、

の変化したもの(日本食生活史)、とあり、既に、飯を食べるものに変わっている。

安永(1772〜80)の頃になると、「笹巻」が現れる。「笹巻ずし」とは、

切酢を笹の葉にぐるぐる巻いて押した酢、

であり、長くおいても、飯がかたくならないで、魚が変色しないという特徴があった(仝上)、とされる。

文政七年(1824)には、魚の骨を毛抜きで抜いた、

毛抜酢、

が登場する。

一つずつ笹の葉に巻いて売り、

笹巻酢、

と称した、とある(仝上)。

「妖術という身で握る鮓の飯」『柳多留』(文政一二年〈1829年〉)が、握り寿司の文献的初出である。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎とも言われる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8

にぎりずし、

が登場することになる。

江戸三鮨(えどさんすし)、

というのは、江戸時代に江戸で名物として謳われた、

毛抜鮓(けぬきすし)、
與兵衞壽司(よへえすし)、
松が鮨(まつがすし)、

を指すがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8

毛抜鮓(けぬきすし)は、

押し鮓や馴れ鮓の形態を色濃く残した、笹の葉で巻いた押し鮓の一種で、保存食とするため飯を強めの酢でしめてあるのが特徴、

だが、他の二つは、「握り酢」である。

與兵衞壽司(よへえすし)は、

文政年間(1818 -〜30)に、上方風の押し寿司と異なる江戸前の握り寿司を考案、すしにワサビを使った、

松が鮨(まつがすし)は、

玉子は金の如く、魚は水晶のようだと、その華麗な色彩感がたちまち評判となり、権家の進物品として引っ張りだことなった。やがて江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われ、『嬉遊笑覧』は、握り寿司の考案者は堺屋松五郎だとしている、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8。幕末の『守貞謾稿』には、京阪にては、

方四寸許の箱の押しずしのみ。一筥四十八文は鳥貝のすし也。又こけらずしと云は鶏卵・やき鮑・鯛と並に薄片にして飯上に置を云。価六十四文一筥凡十二に斬て四文に売る。又筥ずし飯中椎茸入る、飯二段のになりたり、又浅草海苔巻あり、巻ずしと言、飯中椎茸と独活を入る、京阪の鮨普通以上三品を専とす。而も異制をなす店も希に有之、又鮨には梅酢漬の生姜一種を添る、

とあり、江戸では、幕末期、多種多様な握り鮨がつくられ、『守貞謾稿』には、

今製に握り酢也、鶏卵焼・車海老・そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまま也、以上大略価八文酢也、其中玉子巻は十六文許、添之に新生姜の酢漬姫蓼(ひめたで)等也、又隔等には熊笹を用い、又酢折詰などには酢上に……熊笹を斬て置之飾とす、京阪にては隔にはらんを用ひ、又添物には紅生姜と言て梅酢漬を用ふ、

とある(日本食生活史)。

江戸末期の『江戸自慢』には、

江戸の鮓は握りて押したるは一切なし、調味よし、上方の及ぶ處にらず、価も賤(やす)し、

とある(仝上)。なお、

「すし」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%99%E3%81%97
「いなりずし」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%99%E3%81%97)、

については、触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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かきもち


「かきもち」には、

欠餅、

掻餅、

の二種ある(たべもの語源辞典)、とある。欠餅は、

正月の鏡餅を砕き欠いてつくる干菓子のこと。公家では「かきがちん」、女房詞(ことば)では「おかき」と称した。『本朝食鑑』は「鏡餅は八咫鏡(やたのかがみ)に擬した餅か」と述べ、「武家は甲冑にこの餅を供えたところから具足餅と称した。これは八幡神に供えたものである」と説明している。欠餅は正月20日の鏡開きにつくられた。刃柄(はつか)を祝うの意だが、1651年(慶安4)4月20日に徳川3代将軍家光が死亡して以来、20日を遠慮して正月11日に改められた。鏡開きには「切られる」を忌み、刃物を使わずに手で欠き割ったのでこの名がある。包丁で切ったものは片餅(へぎもち)というが、いまはどちらもかき餅という。また餅をなまこ形につくり、小口から薄く輪切りにして干したものもかき餅とよぶ。鏡餅を砕いたかき餅は、汁粉に入れるか、干して油で揚げるが、なまこ形につくるかき餅には、黒ごまや大豆、青のりなどを搗(つ)き込んで風味をつけることもある、

であり(日本大百科全書)、掻餅は、

牡丹餅、

そばがき、

の二種がある(たべもの語源辞典)。つまり、掻餅は、

「掻(か)い練り餅飯(もちい)」の意で、かい餅、かき餅という。掻餅にも、ぼた餅、おはぎをさす場合と、そば掻き(そば餅)をさす場合がある。『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』に「僧たちよひのつれづれに、いざ掻餅せむといひけるを」とあるのや、『徒然草(つれづれぐさ)』の「一献にうちあわび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ」などは、そば掻きのほうとみられる、

とある(日本大百科全書)。

欠餅は、「かがみびらき」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%81%B3%E3%82%89%E3%81%8Dで触れたように、

「正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される。」

ものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8Dが、鏡餅は割って祝う。

「武士は斬(きる)という言葉を忌み、刃を入れずに引掻くので、これをかき餅とよんだ。」

とある(たべもの語源辞典)。江戸時代、

「新年の吉日に商家では蔵開きの行事をしたが、武家において新年の11日(もと20日)に行われる行事で鎧などの具足に供えた具足餅を下げて雑煮などにして食し『刃柄(はつか)』を祝うとした行事。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開くことを「初顔」を祝うといった。この武家社会の風習が一般化したものである。江戸城では、重箱に詰めた餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉などにして食べた」

この武家社会の風習が一般化したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D

庖丁で切ることを嫌い鏡餅を引き欠いた、

ので、

欠き餅、

といったのであるが、いまは

片餅(へぎもち)、

のことも、

かきもち、

といっている(たべもの語源辞典)。「へぎもち」というのは、

鏡餅を刃物でヘギ切りにしたものである。近世になって、ナマコ形に餅をつくって、それを小口から薄く切って干したもの、

で(仝上)、因みに、「へぎ」は、和食の調理用語で、

「剥ぎ」と表記し、薄く表面を剥ぎ取るようにする、

といった意味になりhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/9991_K/01.html、皮剥のごとく表面だけを薄くすき切る包丁のことを「へぎ切り」と言う、とある。

「かきもち」の語源を、

カハキモチ(乾餅)の約、

とする(菊池俗語考)のは、「へぎもち」の由来を指しているのではあるまいか。

鏡餅は、

「武家では正月に鎧や兜の前に鏡餅を供えたことから、…具足餅と呼ばれた。女子は鏡台の前に供えた」

からである(語源由来辞典)。

「掻餅」は、

かきもち、
とも、
かちもち、

とも呼ぶが、幕末の『守貞謾稿』には、

かい餅(もちひ)は牡丹餅、

とある。

掻練の餅、

だから、とする(たべもの語源辞典)。

「ぼたもち」とは、

よく搗かぬ餅、

つまり、

掻き練った餅、

だから、という意味である(たべもの語源辞典)。「ぼたもち(牡丹餅)」とは、

もち米とうるち米を混ぜたもの(または単にもち米)を、蒸すあるいは炊き、米粒が残る程度に軽く搗いて丸めたものに、餡をまぶした食べ物である。米を半分潰すことから「はんごろし」と呼ばれることもある、

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%A1、昔は「ぼたもち」のことを、

かいもちひ(かいもち、掻餅)、

と呼んでいた(仝上)故であるが、安永八年(1778)の『屠竜工随筆』に、

萩のことを「ぼた」というから、「ぼたもち」とは「はぎもち」ということだ、

とある。萩餅は、おはぎで、ぼたもちである(たべもの語源辞典)。

しかし、『徒然草』に、最明寺入道が足利左馬入道のところで御馳走になる献立に、

一献にうちあわび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ、

とある「三献にかいもちひ」というのは、

そばがき、

とする説が強い(たべもの語源辞典)、という(「三献」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E4%B8%89%E7%8C%AEについては触れた)。

民間伝承に、南駒ケ岳山麓の村では、蕎麦粉で製した「かき餅」「かい餅」「けえ餅」などとよぶ蕎麦餅をつくり、とくに一月一三日の夜は、このけえ餅を食べる習慣があり、「かんがえ餅」とよんでいる。寒に入って食べるかい餅という意味だろう、

とある(仝上)。

「蕎麦がき(そばがき、蕎麦掻き)」は、

蕎麦粉を熱湯でこねて餅状にした食べ物、

で、

蕎麦切り(蕎麦)のように細長い麺とはせず、塊状で食する、

ものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D。17世紀の農村事情に詳しい武士の書いた『百姓伝記』には、

「そば切りは田夫のこしらへ喰うものならず」

とあるように、そば切りを禁止されている農村が少なからずあった。そのような地域では蕎麦がき、そば餅が食べられた(仝上)、とある。

「蕎麦がき」は、

鎌倉時代には存在し、石臼の普及とともに広がったと見られる。江戸時代半ばまではこの蕎麦がきとして蕎麦料理を食べられていた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D、これを、「かきもち」というのは、

そばを掻いてそばがきにした餅、

だから、である(たべもの語源辞典)。

つまり、同じく「かきもち」とは言うものの、

餅を欠いて食べたから、「かきもち」(欠餅)、

であり、

蕎麦を掻いて「そばがき」にした餅だから、そばがきもち(蕎麦掻餅)、略して、かきもち、

であり、

よく搗かぬ餅である「ぼたもち」、つまりかき錬った餅だから、かきもち、

なのである(仝上)。

ただ、「かきもち」と呼ぶものに、もうひとつ、

覚えた通り祝ふかきもち、

という句がある(昼網)ように、

氷餅(こおりもち)の異称、

のあるものがある(岩波古語辞典)。これは、

餅を水に浸して凍らせたものを寒風に晒して乾燥させた保存食、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E9%A4%85、別名、

干し餅(ほしもち)、
凍み餅(しみもち)、
凍み氷(しみごおり)、

とある(仝上)。今日、

かきもち(欠餅)、

と呼ぶものに、もうひとつ、「煎餅」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E7%85%8E%E9%A4%85でも触れたが、

おかき(御欠)、

とよぶ、

餅米を原料とした菓子。なまこ餅などの餅を小さく加工し(欠き)、乾燥させたものを表面がきつね色になるまで炙った米菓、

があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%8D。これは、

鏡餅など神様に供えた餅を槌で細かくして作られるもので、そのような餅に刃を入れるのは縁起が悪いとして槌が用いられた、

とあり(仝上)、本来の「欠餅」から由来している。ちなみに、「あられ」との違いは、

原料の餅を細かくするために包丁を使ったものを「あられ」、槌を使ったものを「おかき」と呼んだ、

とある(仝上)。刃を使うのを忌んだからであり、これも、鏡餅を欠くことに由来する。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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鹿の子餅


「鹿の子(かのこ)餅」は、

和菓子の一種、

略して、

鹿の子、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85。関西では、

小倉野(おぐらの)、

ともいう(デジタル大辞泉)。

現在の「鹿の子餅」は、

餅・求肥・羊羹のうちいずれかを賽形に切ったものを中心にして、小豆餡で丸く包み、そのまわりに柔らかく煮た金時小豆を粒のまま鹿の子のように付ける、

とあり、隠元豆を用いるものは、

いんげん鹿の子、

といい、(仝上)、

京鹿の子、

ともよぶ(デジタル大辞泉)。栗を茹でて甘く煮つけたものは、

栗鹿の子、

という(たべもの語源辞典)。

「鹿の子餅」は、

宝暦(1751〜64)のころ、歌舞伎俳優の道化方の名人として知られる嵐音八という役者が人形町東側中程に恵比寿屋という菓子屋を開店して売り始め、江戸名物になった、

とある(仝上)が、

嵐音八という役者の実家、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85

役者手製の餅菓子として評判を呼び全国に広まった、

という(仝上)。天保期(1831〜45)の『寛天見聞記』に、

寛政の末まで、此所(人形町)に、……鹿子餅を売りける、後、此店を、囃子頭の太田市左衛門と云へる者譲受けたりと云ふ、

とある(大言海)。その後、芯に餅の代わりに求肥や羊羹を用いることも行われるようになった。鹿の子という名の由来は、

整った粒が隙間なく並ぶさまが鹿の背の斑点を思わせることからつけられた、

とある(仝上)。文政年間(1818〜30)の川柳に、

鹿の子餅釈迦の天窓(あたま)の後向き、

とある(仝上)。明和七年(1770)『辰巳之園』には、

鹿の子餅は、又太郎が見世、

とある(江戸語大辞典)。

なお、富山県高岡に名物「鹿の子餅」があるが、

白色の羽二重餅で、大きさは五センチ角で高さ三センチくらい、下部にあたるモチの中にウズラ豆の蜜漬が散らしこまれて、鹿の子の背の斑紋を模している、

とある(たべもの語源辞典)。

「鹿の子」というのは、

鹿の子、

を指し、薄茶色の毛色に

鹿の子模様、

という白い斑点が出る。

シカの子は生後2年くらいの間,赤みがかったくり色の体に白い斑点が多くできる。これは保護色の作用をするものである、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)が、

この模様は、子鹿だけでなく、大人の鹿にも毎年出て、

人間の指紋のように1頭1頭違い、模様は一生変わらない、

というhttp://naradeer.com/blog/2015/06/28/%E3%80%8C%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%80%8D%E6%A8%A1%E6%A7%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/。この鹿の背のように斑点が散在する様を指して、伝統的に、

鹿の子斑(かのこまだら)、

と呼び、この含意から、「鹿の子」には、鹿の子斑の略以外にも、伝統的な絞り染めの柄の一種である、

鹿の子絞り(かのこしぼり)の略、

にも使う。総じて、鹿の子餅のように、

霜降り状のもの、

をそう呼ぶ。ために、「鹿の子」のつく言葉は多い。和装、和手芸関連では、

「鹿の子地」「鹿の子帯」「鹿の子編み」「鹿の子刺し」「鹿の子繍(ぬい)」「鹿の子織り」

生物名にも、

「鹿の子百合」「鹿の子草」「鹿の子蛾」「鹿の子貝」「鹿の子魚」

その他、

「鹿の子打ち」「鹿の子摺り」鹿の子切り」等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90

「鹿の子絞」は、

布を白い粒状に隆起させて染め出したもの、

で、

鹿の子染、
鹿の子目結い、
鹿の子結、

ともいい、京都が主産地なので、

京鹿の子、

ともいう。

布地を指先または鉤針(かぎばり)を用いてつまみ,その先を糸でくくって絞る。これを染めると小さいやや不整形の絞染の中で最も古くから行われたもので,正倉院の纐纈(こうけち)の中にもこれに類するものが見られる。この絞りが,斜めに45度の線につめて絞られると,上りが角ばった形となっていわゆる一目絞の詰(つめ)となり,これがさらに方形の疋田絞(ひつたしぼり)へと進展する、

という(マイペディア・世界大百科事典)。これは、

表面に凹凸(細かい隆起)があって肌に触れる面積が少なくなり、風通しが良く、肌触りが軽いのが特徴、

であるhttps://www.modalina.jp/modapedia/w/e9b9bfe381aee5ad90/

因みに、「鹿の子」は、

カノケ(鹿毛)の略(言元梯・大言海)、

とされる。生涯班点が変わらないとするなら、妥当に思える。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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がんもどき


「がんもどき」は、

雁擬き、

と当てるが、

雁賽、

とも記す(大言海)、とある。

がんも、

とも呼ぶ(広辞苑)。京阪地方では、

飛竜頭(ひりゅうず、ひりうず、ひろうす、ひりょうず)、

と呼ぶ(たべもの語源辞典)。「がんもどき」の名は、

雁の肉に擬(もど)きたる意、

とある(仝上)が、他にも、

鳥類の肉のすり身を鶏卵大に丸めて煮たり蒸したりする料理「丸(がん)」に似せて作ったという説、
がんもどきの中にきくらげではなく安物の昆布で代用したら丸めた形の表面に糸昆布が現れてその様子が雁が飛んでいるかのように見えたからという説、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8Dが、別に、

こんにゃくを使った点心「糟鶏」が、「俗にいうがんもどきなるべし」とあるところから、「糟鶏」の俗称として「がんもどき」という親しみやすい日本語にしたという説、

もあるhttp://www.tofu-as.com/tofu/history/06.html。古い形が、「蒟蒻」であったことを考えると、この説は、由来としてかなり意味がある気がする。

いずれにしても、「肉」に見立てたもので、精進料理の「普茶料理」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86から起こった、と考えられる。「普茶料理」は、

卓袱(しっぽく)料理の精進なるもの、

と言われ、

巻繊(野菜や乾物の煮物や餡かけ)、
油糍(下味をつけた野菜などを唐揚げにしたものや雲片(野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの)、
擬製料理(肉や魚に擬した「もどき」料理。麻腐、すなわち胡麻豆腐も白身魚の刺身に擬した「もどき」料理である)、

等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86、の「擬製料理」の一つとして、炒めや揚げに胡麻油を用いた、

がんもどき、

精進揚、

がはじまり、これが日本では未発達であった油脂利用を広めた(仝上)、とされる。しかし、「もどき」は、「ようなもの」という意だから、

雁もどきはがんの肉に似たもの、

というが、あまり似ていない(たべもの語源辞典)、とある。確かに。。。。

「がんもどき」は、いまは、

油揚げの一種、

とされ、

豆腐を崩して、つなぎに、ヤマノイモ、卵白などを加え、細かく刻んだ牛蒡・人参・銀杏・麻の実・昆布などを混ぜて丸め、油で揚げたもの、

をいう(広辞苑・大辞林)が、江戸時代の料理書『料理通』(1822〜35年)によると、

蒟蒻を小口切にし、鹽にて洗ひ、揉みさらし、葛粉にくるみて、油にあげて、味を付けたるもの、

とある(大言海)。さらに、昔は、

麩を油で揚げたもの、

であったが、天明二年(1782)出版の料理本『豆腐百珍』には、「尋常品」の一つとして、

ひりょうず、

が挙げられ、

豆腐の水気を切りよくすってつなぎに葛粉を入れ、かやくにごぼう、銀杏、きくらげ、等好みの具を入れます。かやくを油で炒って適当な大きさの豆腐に包み油で揚げます。酒を煮詰めておろしワサビか白酢にワサビの細切りを添えます。また、でんがくにして青味噌にけしを振りかけます、

とありhttp://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html、江戸時代の「がんもどき」は、

現代のように豆腐に具材を混ぜ込んで揚げたものではなく饅頭のように豆腐で具材の餡を包んで揚げたもの、

であったようであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8D。しかし、豆腐料理の「尋常」品であり、

あげどうふー、ごまあげがんもどき(寛政十一年(1799)「三人酩酊」)、

と呼び売りをしたいたらしい(江戸語大辞典)。

関西で「飛竜頭」といったのは、ポルトガル語フィリョース(filhós 小麦粉と卵を混ぜ合わせて油で揚げたお菓子)から由来している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8D、たべもの語源辞典)。「ひりうず」とか「ひろうず」に、

飛竜頭、

と当てたのは、

水でこねた小麦粉に豆腐や野菜を加えて油で揚げたとき、かたまりから角のようにいくつか衣が飛び出して、それが竜の頭のように思えた、

のではないか(たべもの語源辞典)、という。この「ひりょうず」は、江戸時代の料理書に、

小麦粉の代わりにもち米を使って油で揚げたあと、砂糖蜜にひたし、上にこんぺい糖をのせた、

と書いてあるhttp://www.tofu-as.com/tofu/history/06.html、という。なぜ、

南蛮渡来のお菓子がどうして豆腐料理の「ひりょうず」に変身したのか、

は、はっきりしないらしい(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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寒天


「寒天(かんてん)」とは、

寒空(さむぞら)、

の意であり(字源)、

寒い日の空、
冬の空、

の意である(広辞苑)。「寒天」を、

テングサの粘質物を凍結・乾燥としたもの、

の意で使うのは、わが国だけである。それは、

黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師が「寒空」や「冬の空」を意味する漢語「寒天」に「寒晒心天太(かんざらしところてん)の意味を込めて命名した、

ことに由来するらしい(語源由来辞典)。つまり、「寒天」とは、

心太(ところてん)を寒夜に晒して、凝り乾きて、甚だ軽くなりたるもの、

に、そう名付けたからである、というわけである。

「寒天」は、偶然の産物らしい。

江戸時代前期、山城国紀伊郡伏見御駕籠町において旅館「美濃屋」の主人・美濃太郎左衛門が、島津大隅守が滞在した折に戸外へ捨てたトコロテンが凍結し、日中に融けたあと日を経て乾物状になったものを発見した。試しに溶解してみたところ、従来のトコロテンよりも美しく海藻臭さもなかった、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9。これを隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励され、その際に隠元によって寒天と命名されたという(仝上)のである。

この伝承は複数の書物に見られるが、具体的な時期は諸説ありはっきりしないらしい。むしろ、

江戸初期の金森宗和の『宗和献立』に「こごりところてん」、
虎屋の慶安四年(1651)の記録に「氷ところてん」、

という記述があることから、起源はかなり古い。島津の参勤交代云々の記述(『島津国史』の、明暦三年(1657)と推測されている)よりは古いと思われる。この伝承は、些か眉唾ではあるまいか。

当初は水で洗ってそのまま食することが多かったと考えられ、寛文十一年(1671)刊の『料理献立集』に、

寒天を使用した精進刺身、

が載っている、とある。菓子材料としては、宝永四年(1707)の『御菓子之畫図』に、

寒天を使用した棹菓、

がみられる、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9

その後、摂津国島上郡原村字城山の宮田半兵衛が製法を改良して寒天製造を広める、寛政十年(1798)には寒暖差の大きい島上郡・島下郡・能勢郡の18ヶ村による北摂三郡寒天株仲間が結成され、農閑期の余業として寒天製造が行われ、寒天製造は天保元年(1830)頃に隣接する丹波国へも伝播し、丹波国へ行商に来ていた信濃国諏訪郡穴山村の行商人・小林粂左衛門が天保十二、十三年(1841〜1842)頃に諏訪地方へ寒天製造を広め、角寒天として定着した、

とある(仝上)。

「ところてん」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A6%E3%82%93で触れたように、

海草を煮たスープを放置したところ偶然にできた産物と考えられ、かなりの歴史があると思われる、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A6%E3%82%93

ところてんの原料である天草(テンクサ)が煮るとドロドロに溶け、さめて煮こごる藻であるところから、こごる藻葉(コゴルモハ)と呼ばれhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213754542,さらに、「凝海藻(こるもは)」といい、「こごろも」ともいい、……こごろもをココロブトと訛って、俗に心太の二字を用いた。室町時代にはココロブトを訛ってココロティ、それがさらに訛ってココロテン、江戸時代にはさらに訛って、トコロテンとなった(たべもの語源辞典)。

ココロブトがココロテンになるのだが、「太」と「天」を書き間違えたか、見違えたかであろう。そしてココロテンが訛ってトコロテンになる。だから「心太」と書いて、トコロテンとよんでいる(仝上)、

と、

コゴルモハ→コルモハ→コゴロモ→ココロブト→ココロフト→心太→ココロティ→ココロテン→トコロテン,