|
梅雨、 とあてる「つゆ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%81%A4%E3%82%86)は触れたことがあるが、ここでは、 露、 と当てる「つゆ」である。「露」は、 空気中の水蒸気が地物の表面に凝結してできる水滴。風のほとんどない晴れた夜,地物の表面温度が放射冷却で降下したとき発生する、 が(ブリタニカ国際大百科事典)、植物の葉や建物の外壁などで水滴となったもの。物に露が着くことを、 結露(けつろ)、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2)。 「露」(漢音ロ、呉音ル、慣用ロウ)は、 形声。「雨+音符路」で、透明の意を含む。転じて、透明に空けて見えること、 とあり(漢字源)、「はかないもの」や「うるおいや恩恵」に喩えるし、露天のように、「さらす」意や、露見、暴露のように、「あらわれる」意でも使う。 和語「つゆ」も、「露」をメタファに、 涙、 や わずかなこと、 や はかないこと、 の意で使う。そのため、 つゆまどろまず、 というように、副詞で使う「つゆ」は、 ほんのわずか、 の意から、下に否定を伴って、 少しも、 の意で使うが、そこには、「はかない」「わずか」という「露」をメタファとしたことばの翳がある。 「つゆ」は、 液、 津、 と当てる、 汁、 の意の「つゆ」がある(大言海)。江戸語大辞典には、「つゆ」に、 (遊里語)祝儀、 の意で使い、 金銀曰花、又曰露、 とあるように(享保十五年・史林残花)、「花」ともいい、また、 すまし汁、 の意で載るのも、「汁」の意であるが、「つゆ」には、 水気、 湿り、 の意があり(大言海)、「露」とあてる「つゆ」の意と同じに意味を持つ。そのため、大言海は、「つゆ(露)」の語源を、 (シル、水気の意と)同じきか、或は云ふ、粒斎(つぶゆ)の意にて、圓くして浄きを云ふと、 とする。似た説に、 ツ(統)+ユ(斎・清浄なもの)、 として、清らかな水の玉の意、とするものもある(日本語源広辞典)。しかし、 斎、 と当てる「ゆ」は、 ユユシ(斎・忌)と同根。接触・立ち入りが社会的に禁止される意、 とあり(岩波古語辞典)、 イミ(忌)の約、 ともあるように(大言海)、 斎笹、 斎屋、 等々と、 名詞・動詞の上に冠せられて熟語とする、 ともある(仝上)。「つゆ」とは使い方も、意味の上からも、異和感がある。しかし、 ツイエル意(和句解・和語私臆鈔)、 ツユ(津弥)の義(言元梯)、 という他の説は、しっくりこない。ただ、 ツは丸い意、ユはただよわしの意(槙のいた屋)、 が少し気になる。 「ツ」は、「ツブ」の「ツ」と考えると、「独楽」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474857902.html)で触れた「ツブ」は、「かたつむり」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/460441943.html)で触れたように、 粒・丸、 と当て、 「つぶし(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」 とあり、「ツブリ(頭)」は、 「ツブ(粒)と同根」 とある。「ツビ」(粒)ともいい、「つぶ(螺)」は、 ツビ、 とも言い、「つぶら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464485052.html)で触れたように、「つぶら」の「ツブ」は、 粒、 と関わり、「ツブ」は、 ツブラ(円)、 と関わる。「粒」は、「ツビ」(粒)ともいい、 円いもの、 と重なり、「粒」「丸」「円」「螺」は、ほぼ同じと見なしたらしいのである。それなら、 ツブ→ツユ、 もありなのではないか、という気がしてならない。もちろん憶説だが。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「安倍川餅」は、 安倍川のほとりの名物、 とあり、 搗きたての餅に黄粉や餡をまぶしたもの、また、焼餅を湯・密などにつけ、黄粉と砂糖でまぶしたもの、 とある(広辞苑)。たんに、 あべかわ、 とも言う(仝上)。転じて、 黄粉餅、 とも言い、さらに、 唐茄子のあべ川を食ふ上戸(文化十年・浮世風呂)、 というように、 茹でて黄粉まぶしたもの、 をも言うようになる(江戸語大辞典)。個人的な経験では、 焼餅を湯につけて、黄粉をまぶしたもの、 が、「安倍川餅」であった。確かに、 黄粉餅、 とも呼んだ。 浮世絵にもあるように、安倍川付近で、東海道を上り下りする旅人に供した掛茶屋の名物だが、評判になったのは、天明年間(1781〜89)から、らしい(たべもの語源辞典)。それは、 当時珍しかった砂糖を用いたから、 であるらしい(仝上)。たべもの語源辞典には、 搗きたての餅を臼の中から小さくちぎり、砂糖蜜を塗り、砂糖を等分に加えてつくったきな粉に少量の塩を加える。まぶして皿に盛り、その上から白砂糖を振りかけて出した、 とある。後に、 土産物に小豆の漉し餡でくるんだものができ、黒と黄の二色の安倍川餅になった、 とある(仝上)。東海道中膝栗毛(十返舎一九)にも、 ここは名にあふあへ川餅の名物にて両側の茶屋いずれも奇麗にはなやかなり、 とあり、 「五文どり」(五文採とは安倍川餅の別名)、 として(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%B7%9D%E3%82%82%E3%81%A1)、登場する。 茶屋女が名物餅を、 「あがりゃアレ」 と旅人に呼び掛けたため、旅人の話題になった(たべもの語源辞典)、とある 由来については、いくつかある。ひとつは、 慶安年間(1648〜52)、東海道府中(静岡)、堤添川越町の弥勒院の仏弟子のひとりが、師僧の勘当をうけて還俗し、名を源右衛門と改め、河原で茶を出し餅を売り始めたのが起こり、 といい(仝上)、また別に、 慶安年間(1648〜52)、徳川家康が井川笹山金山を御用金山として採掘させたころ、家康が巡検に赴いたとき、餅をつくって献上したものがあり、家康は大いに喜び、その餅の名を尋ねると、「金の粉が安倍川に流れますのをすくい上げまぶしてつくるので、金なこ餅と申します」と答えた。家康が気に入って、「安倍川餅」の名を貰った、 という(仝上)。東海道をたびたび往来したことのある八代将軍徳川吉宗はよく知っており,当時の御賄頭(おまかないがしら)の古郡孫太夫が駿河からもち米を取りよせて調進したところ大いに嘉賞されたと,江戸南町奉行でもあった根岸鎮衛(やすもり)がその著『耳囊(みみぶくろ)』に書いている(世界大百科事典)。 なお、お盆に安倍川餅を仏前に供え食べる風習のある山梨県などでは黄な粉と黒蜜をかけるらしいが、餅の形も基本的に角餅である。同じく安倍川餅と呼んでも、言っても静岡市内のものとは違う。この風習から派生した土産菓子が信玄餅である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%B7%9D%E3%82%82%E3%81%A1)、という。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「餡」には、いくつかの意味がある。例えば、 ゆでた小豆・白小豆・白隠元・うずら豆・ささげなどに、砂糖をまぜて、更に煮て煉ったもの、 という漉し餡・粒餡・つぶし餡などの種類のある豆類の他、 サツマイモ、栗などを煮て砂糖を加えて練ったもの、 も含め、いわゆる「あんこ(餡子)」といわれるものの意味があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1)、 枝豆で作った豆打(ずんだ)、青豌豆(グリーンピース)で作った鶯餡(うぐいす餡)、 などもある(実用日本語表現辞典)。この他に、 饅頭や餅、中華点心の包子(餃子、焼売など)などの中に包み込むために調理した挽き肉、野菜などの具、 水またはだし汁に葛粉、片栗粉などのデンプン粉を加えて加熱しとろみをつけたもの。または、これに野菜や挽き肉などを加えたもの、 という意味、さらに、饅頭などから意味が広がったが、 中に包み込まれているもの、 という意味もある(広辞苑、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1)。 漢字「餡」(漢音カン、唐音アン、呉音ゲン)は、 会意兼形声。臽(カン)は、おしこめる、くぼめて中に入れるの意。餡はそれを音符とし、食を加えた字、 とある(漢字源)。本来、「餡」は、 中に包み込まれているもの、 つまり、 詰め物、 を意味し、 金銀の細工物などに、内部に銅など籠めたるものを、アンヅメと云ふ、贋金などにも云ふ、此の如くつくりたるを、外部の金銀に就きてはテンプラと云ふ、コロモをかけたりと云ふなり、 とあるいい方(大言海)は、詰め物の意である。 『字彙』では餅の中の肉餡を指し(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1)、 饅頭などの中にいれる肉や野菜など、 の意であった。「餡」の字には、日本語の「あんこ」の意味も、「葛餡」の意味も、ない。 日本へは聖徳太子の時代に中国から伝来したとされ、中国菓子で用いられる肉餡がその原形となっていると考えられている、 とある(仝上)。小豆を用いた小豆餡が開発されたのは鎌倉時代であるとされ、当初は塩餡であったが、安土桃山時代になって甘い餡が用いられるようになり、砂糖が用いられるようになったのは江戸時代中期からで高貴な身分に限られていた、 とされる(仝上)。餡には、 肉や野菜を用いる塩味系統、 と、 豆や芋などを用いる甘味系統、 があり、豆や芋を用いる餡も砂糖が普及するまでは、塩味のいわゆる塩餡であった、とある(仝上)。 「あん」は、 唐音、 とする(広辞苑)のが主流、大言海が、 餡(カン)の字の宋音、 とするのは、由来と関わる。 禅寺の調理より出たる語なるべし。鹽尻「餅、及び、饅頭の内に満つる物をアンと云ふ、餡の字なり、唐音はアンと云ふ、」、正字通「凡、米麪食物、坎(アナニシ)其中、實(ミタス)以雑味、曰餡」、支那にては多く肉類を入る、禅家にて、小豆に代へたるならむ、 とする。饅頭(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E9%A5%85%E9%A0%AD)で触れたように、 日本の饅頭の起源には二つの系統(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD)があり、ひとつは、 「臨済宗の僧龍山徳見が1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)に帰朝した際、その俗弟子として随伴してきた林浄因が伝えたとするものである。当初林は禅宗のお茶と食べる菓子として饅頭を用いる事を考えたものの、従来の饅頭は肉を入れるため、代わりに小豆を入れた饅頭を考案されたと言われている。その後、奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立てたことから、漢國神社内の林神社と呼ばれる饅頭の神社で、菓祖神として祀られている」 とあり、もうひとつの系統は、 「1241年(仁治2年)に南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。円爾は辻堂(つじのどう)に臨済宗・承天寺を創建し博多の西、荒津山一帯を托鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと言われる。このときに茶屋の主人に書いて与えた『御饅頭所』という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭はふくらし粉を使う『薬饅頭』で、博多の方は甘酒を使う『酒饅頭』とされる」 とあるが、いずれも禅宗と絡む。大言海は、 「元代の音、暦應四年、元人、林浄因建仁寺第三十五世、徳見龍山禅師に従ひて帰化し、南都にて作り始むと」 と前者を採る。 「南都の饅頭屋宗二は、先祖は唐人なり、日本に饅頭といふ物を将来せし開山なり」 と、江戸前期の見聞愚案記にもある、と。たべもの語源辞典もまた、前者を採り、 「南北朝時代の初期興国年間(1340〜46)、京都建仁寺の三五世徳見龍山禅師が、留学を終えて元から帰朝するとき、林和靖の末裔林浄因という者を連れて帰国した。この人が日本に帰化して奈良に住み、妻をめとって饅頭屋を開き、初めて奈良饅頭をつくった。浄因五世の孫に饅頭屋宗二(林逸)という。『源氏物語林逸抄』、饅頭屋本と呼ばれる『節用集』はこの人の著作である。宗二の孫紹伴は、菓子の研究に明に渡り、数年して帰ると、一時、三河國塩瀬村に住んでいたが、京に出て烏丸通りで饅頭をつくった。これが塩瀬饅頭である。(中略)紹伴は時の将軍足利義政に饅頭を献じたところ、将軍から『日本第一饅頭所』の看板を賜ったとされている」 としたとあるところから見ると、 唐音、 ではなく、 宋音、 の「アン」ではないか、と思われる。ただ、「菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れた、倭名類聚抄に載る、 八種唐菓子(やくさからがし)、 のひとつ、 団喜(だんき)、 は、これより古く、 小麦粉を練った皮で巾着(きんちゃく)形の福袋をつくり、中に甘葛煎(あまずらせん)で調味した桂皮や数種の木の実を詰め、ごま油で揚げたもの、 がある(日本大百科全書)。今日の餡にはほど遠いが、中国の月餅を考えれば、団喜の中身はまさに餡の祖型であった、といえる(仝上)。京都には「清浄歓喜団」(亀屋清永)と呼ばれる団喜が(江戸時代中期以降に現在のように小豆餡を包むようになったので、当初の団喜とは異なるが)現存しているが、いまは、 小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたもの、 となっていて(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90)、寺院に奉納される他、和菓子として市販もされている、という。 なお、「あずき」については「豆」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E8%B1%86)で触れた。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「飯鮨」は、 飯寿司、 飯酢、 とも当て(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%BF%E5%8F%B8)、 いずし、 あるいは、 いいずし、 と訓ます(たべもの語源辞典)。 飯(いい)はご飯で、御飯の鮨を飯鮨、 という。今日では、 飯を主とした押鮨(広辞苑)、 乳酸発酵させて作るなれずしの一種(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%BF%E5%8F%B8)、 米麹、魚、野菜を樽の中に入れて漬け込み、乳酸発酵させたなれずしの一種(http://takemoto-suisan.com/user_data/whats.php)、 等々を指すが、 古い時代、鮨は、自然に酢味をもたせた魚ばかりのものであった。その後、早ずしとか一夜ずしといって飯を使って鮨をつくるようになったが、これは発酵作用のために飯を利用したもので、食べるのはやはり魚ばかりであった、 とあり(たべもの語源辞典)、飯は、捨ててしまったのである。つまり、 動物の生肉を塩と合わせ、それを飯の間に漬け、数日たつと飯が発酵して酸味を生じたものを食べた。…飯は食べずに、肉だけを食用とした(日本食生活史)、 冬場、雪に閉ざされる北海道や東北地方の港町ならではの食べ物で、冬の保存食として年末やお正月には欠かせない郷土料理として食べられてきました。魚をどのように美味しく保存できるのか考えられ開発されたのが「飯寿し」です(http://takemoto-suisan.com/user_data/whats.php)、 等々とあるように、あくまで主役は、魚であった。 近江の鮒ずし、 北海道のニシンずし、 等々。『今昔物語集』にも、 「鮨売りの女が酔いつぶれて、売り物の鮨桶の中に嘔吐してしまったので、あわててかき混ぜてごまかした」 「三条中納言朝成は肥満に悩み、医師に減量法を尋ねたところ、『夏は水漬け飯、冬は湯漬け飯を召しあがればよい』と教えられた。そこで瓜の漬物や鮎の鮨をおかずに湯漬け飯を食べたが、食べる量があまりにも多いので結局痩せなかった」 等々の記述があり、飯部分を除去して食されていた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8)ことがわかる。のちには、飯(いい)も食べるすしができ、現在の飯鮨は、それである。 鮒ずしは、 日本古来の“鮓すし(なれずし)”の代表的一種、 古代から琵琶湖産のニゴロブナ(煮頃鮒)などを主要食材として作られ続けている滋賀県(近江国)の郷土料理である。今日では「ふなずし」「鮒鮓」「鮒鮨」「鮒寿司」「鮒寿し」などとも記し、「鮒寿司」が最も一般的となっている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%92%E5%AF%BF%E5%8F%B8)。 「鮒鮓」「鮒鮨」「鮒寿司」「鮒寿し」「鮒寿司」等々と表記しているが、「鮒のなれずし」という特徴を的確に表せるのは「鮒鮓」、 である(仝上)とあるのは、「鮨」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%99%E3%81%97)で触れたように、 「鮨」の字は 魚の鰭, うおびしお,魚のしおから, を意味し,我が国だけで, 酢につけた魚, 酢・塩をまぜ飯に,魚肉や野菜などをまぜたもの,寿司, の意で使う。「酢」は, 塩・糟などにつけ,発酵させて酸味をつけた魚。たま,飯を発行させて酸っぱくなった中に魚をつけた込んだ保存食, の意で,「華南・東南アジアに広く行われた」(『漢字源』)物を指す。これは, なれずし(熟れ鮨・馴れ鮨), と重なる。「酢」を「鮨」と同様の意味で使うのは,我が国だけである、という背景からと思われる。 表記については,『十巻本和名抄-四』に「鮨(略)和名須之 酢属也」とあり,「鮨」と「鮓」は同義に用いられていた可能性がある。ただし,飯の中に魚介類を入れて漬けるのが酢で,魚介類の中に飯を詰めて漬けるのが鮨であるとも言われている、 とあり(日本語源大辞典)、また、 スシのスは酸であり,シは助辞である。すなわち「すし」とは「酸(ス)シ」の意である。古く延喜式の諸国の貢物のなかに多く「すし」が出てくる。これは「馴れずし」で魚介類を塩蔵して自然発酵させたものである。発酵を早めるために,飯を加えて漬けるようになったのは,慶長(1596‐1615)ころからと伝えられる。飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材となって飯鮨とよばれるようになり,散らしや握り鮨が生まれる、 とあり(たべもの語源辞典)、 最も古い表記は「鮓」で、元々は塩や糟などに漬けた魚や、発酵させた飯に魚を漬け込んだ保存食を意味した漢字であるため、発酵させて作るすしを指し、馴れずしが当てはまる。「鮓」の漢字は、鯖鮓や鮎鮓、鮒鮓などで使われる、 ともある(https://chigai-allguide.com/%E5%AF%BF%E5%8F%B8%E3%81%A8%E9%AE%A8%E3%81%A8%E9%AE%93/)。 平安時代中期に制定された延喜式には、西日本各地の調としてさまざまななれずしが記載されているが、 アユやフナ、アワビなどが多いが、イノシシ、シカといった獣肉のもの、 も記述されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97)、とある。 大言海の「すし」の項を見ると、 古へ、飯と鹽とにて魚を蔵し、酸味を生ぜしめたるもの、即ち源五郎鮒の酢の如し。又、魚介の肉に鹽を加へおき、数日を歴て、自然に酸味を生じたるもの、即ちみさご酢の如し、 とあり、「鮨」の古形、「酢」を示している。「みさご酢」というのは、みさご(鶚)という鳥は、 其捕りたる魚を、海上の巌の間、又は、深山の巌陰に貯へ、宿を経しめて食とす、みさご酢と云ひ、鹽、醤を加へずして食ふべく、味、人の作れる酢の如し、 という(大言海)伝説があり、 ミサゴが貯蔵した魚が自然醗酵し、酢漬けのような状態になって旨味が増したものを人間が見つけて食したのが寿司の起源である、 ともされ、そのため、 みさご鮨の屋号、 を持つ寿司屋は全国に少なからず点在する(https://washimo-web.jp/Report/Mag-Misagozushi.htm)のだとか。 「なれずし」は、 北陸以北の日本海側と北海道の寒い地域に集中した分布圏がみられる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%BF%E5%8F%B8)ように、 冬の保存食、 の性格がよく出ているが、「飯鮓」の語源は、 飯鮓(いいずし)の転訛、 魚鮓(いおずし)の転訛、 の二つの説がある(仝上)ようだ。ただ、 日本のなれずしは、弥生時代に稲作が渡来したのと同時期にもたらされたものとする見解があるが、これは飯に漬けて発酵させるという製法から米に結び付けて説明されており、明証があるわけではない、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97)ように、米とつなげるのは後で、 魚鮓(いおずし)、 の転訛で、後に、 飯酢、 と当て、 飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材、 となるようになって(たべもの語源辞典)、 飯鮨、 と当てたのではないか、と思われる。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「一夜鮨」は、 いちやずし、 ひとよずし、 と訓ませるが、 ひとばんずし、 とも言う(大言海)。広辞苑には、 ふり塩をしたアユの腹に飯を詰め、苞にいれて火にあぶり、おもしをかけて、一夜のうちにならした鮨、 塩・酢でしめた魚と熱い飯を交互に重ね、おもしをかけて、一夜のうちにならした鮨、 塩・酢でしめたすし飯にのせて、重しをかけて一夜で作った鮨、 の三種類が載る。「なれる」は、 熟れる、 と当て、 熟成して味がよくなる、 意である。ただし、「熟れ鮨」は、かつては、魚の保存の為なので、飯は捨てた。 「一夜鮨」は、本来は、 一夜でなれずしになる、 という意味の、 一夜鮨、 で、昔の鮨は、 魚類を塩に漬けて久しく貯えて置き、自然に酸味の出てくるのを待った、 からである。「飯鮨」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%A3%AF%E9%AE%A8)で触れたように、「鮨」の字は 魚の鰭, うおびしお,魚のしおから, を意味し,我が国だけで, 酢につけた魚, 酢・塩をまぜ飯に,魚肉や野菜などをまぜたもの,寿司, の意で使う。「酢」は, 塩・糟などにつけ,発酵させて酸味をつけた魚。たま,飯を発行させて酸っぱくなった中に魚をつけた込んだ保存食, の意で,「華南・東南アジアに広く行われた」(『漢字源』)ものを指す。これは, なれずし(熟れ鮨・馴れ鮨), と重なる。「酢」を「鮨」と同様の意味で使うのは,我が国だけである。 スシのスは酸であり,シは助辞である。すなわち「すし」とは「酸(ス)シ」の意である。古く延喜式の諸国の貢物のなかに多く「すし」が出てくる。これは「馴れずし」で魚介類を塩蔵して自然発酵させたものである。発酵を早めるために,飯を加えて漬けるようになったのは,慶長(1596‐1615)ころからと伝えられる。飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材となって飯鮨とよばれるようになり,散らしや握り鮨が生まれる、 としており(たべもの語源辞典)、また、表記については, 『十巻本和名抄-四』に「鮨(略)和名須之 酢属也」とあり,「鮨」と「鮓」は同義に用いられていた可能性がある。ただし,飯の中に魚介類を入れて漬けるのが酢で,魚介類の中に飯を詰めて漬けるのが鮨であるとも言われている、 ともある(日本語源大辞典)。 つまり、「一夜鮨」は、昔の「なれずし」の製法と、酢をつかったものとの両義があるようなのである。広辞苑に載る三種のうち、 ふり塩をしたアユの腹に飯を詰め、苞にいれて火にあぶり、おもしをかけて、一夜のうちにならした鮨、 が古い形になる。 元来酢は鮒にあれ、鮎にあれ、其魚と飯とをまぜて、二三日或いは四五閧煬oて、なれて食するものなるを、一夜にてなれて食するより云ふ、 とある(大言海)のは、その意味である。「酢」は、飯の中に魚介類を入れて漬ける「鮨」を指す。 江戸時代後期『嬉遊笑覧』には、 ムカシの酢は、飯を腐らしたるものにて、みな、源五郎鮒の酢の如し、早鮨とも、一夜ずしなり、料理物語、一夜ずしの仕様、鮎の酢を苞に入れ、焼火に炙りて、おもしを強くかくる、又は、柱に巻つけて、しめたるもよし、一夜にしてなるるといへり、 とある。寛永二〇年(1643)刊行の『料理物語』は、「一夜ずし」の仕様を、 鮎をあらひ、めしを常の鹽かげんよりからうして、うほに入れ、草づとにつつみ、庭に火をたき、つととともにあぶり、その上を、こもにて二三返まき、かの火をたきたる上におき、おもしを強くかけ候、又、柱に巻きつけ、強くしめたるもよし、一夜になれ候、 と書く。蕪村の句に、 夢さめてあはやとひらく一夜鮓、 とある。 つくりはじめて一日くらいで食べられる酢、 の意で、 はやすし、 なまなり、 とも言う(たべもの語源辞典)、とある。ただ、 「生成の鮨(鮓)」とは、十分な熟成を経ない半熟の鮨(鮓)ではあるが、飯を共に食するというものではなく、敢えて半熟状態のものを試みに賞翫するというもの、 とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8)、飯を食べる今日の鮨とは異なることに注意しなくてはならない。しかし、「早すし」は、酢を用いるようになって以後の「すし」をも指すので、何に対して早いかの意が、少し変わる。ここで「一夜ずし」は、 なれずし、 に対して言っている。 時代が下るとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、寿司の発酵を早めるため様々な方法が用いられ即製化に向かう、 が(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8)、やがて、1600年代からは酢を用いた例が散見されるようになり、幕末の、岡本保孝『難波江』に、 今江戸にある酢は、延宝の頃、御医師の松本善甫と云ふもの新製なり、されば、世に松本酢と云、彦根の鮒の酢、尾州の鮎の酢などは、魚と飯とをまぜて、五六日も経て食ふなり、吉野近辺にて粟の飯にて造る、二三ヶ月もかこはるるなり、これらの酢は、右より左には出来兼る故に、あきなふ者にあつらふるに、今日より幾日経て取りに来給へと云により、これをオジャレズシと云、松本酢は、直に出来故に、マチャレズシと云、又、早酢とも云なり、元来すしは、上件の如く、飯と魚とをまぜて置に、日数経れば、おのづから、酸味の出るものにて、酢を加へて製するものにあらず、鮨の字よりは、酢の字の方よろし、字書を観て知るべし、 とある(大言海)ので、まだ飯を食べる「鮨」ではなく「酢」である。ただ、この説は、 日比野光敏によれば「松本ずし」に関する資料は他になく、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司があるゆえ「発明者であるとは考えられない」としている、 説もあるが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8)、誰が発明したかは別として、鮨に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、いよいよ発酵を待たずに酢で酸味を得て食する寿司が誕生し、まさに、 早寿司(鮨)、 が生まれることになる(仝上)。この場合は、「一夜ずし」よりも早い、ということを意味になる。酢を用いるようになると、 魚は沖鱛ほどにひらりと大きく切って、二時間ほど酢につけておく。引き上げて水気がなくなるまで乾かし、飯をきれいにこしらえて、一段一段に並べ、おしをよくして、二、三日たったら出す。こしらえた翌日も食べることが出来る、 とあり(たべもの語源辞典)、飯を食べるスタイルになっている。 寛延四年(1751)版の『増補江戸惣鹿子』に、 酒川酢、深川富吉町柏屋、御膳筐酢、本石町二丁目南側伊勢屋八兵衛、交ぜ酢、早漬、切漬其外御望次第、 と見える。「混ぜ酢」というのは、起こし酢のことで、 五もく酢、 であり、「早漬」は、 一夜酢、 の変化したもの(日本食生活史)、とあり、既に、飯を食べるものに変わっている。 安永(1772〜80)の頃になると、「笹巻」が現れる。「笹巻ずし」とは、 切酢を笹の葉にぐるぐる巻いて押した酢、 であり、長くおいても、飯がかたくならないで、魚が変色しないという特徴があった(仝上)、とされる。 文政七年(1824)には、魚の骨を毛抜きで抜いた、 毛抜酢、 が登場する。 一つずつ笹の葉に巻いて売り、 笹巻酢、 と称した、とある(仝上)。 「妖術という身で握る鮓の飯」『柳多留』(文政一二年〈1829年〉)が、握り寿司の文献的初出である。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎とも言われる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8)、 にぎりずし、 が登場することになる。 江戸三鮨(えどさんすし)、 というのは、江戸時代に江戸で名物として謳われた、 毛抜鮓(けぬきすし)、 與兵衞壽司(よへえすし)、 松が鮨(まつがすし)、 を指すが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8)、 毛抜鮓(けぬきすし)は、 押し鮓や馴れ鮓の形態を色濃く残した、笹の葉で巻いた押し鮓の一種で、保存食とするため飯を強めの酢でしめてあるのが特徴、 だが、他の二つは、「握り酢」である。 與兵衞壽司(よへえすし)は、 文政年間(1818 -〜30)に、上方風の押し寿司と異なる江戸前の握り寿司を考案、すしにワサビを使った、 松が鮨(まつがすし)は、 玉子は金の如く、魚は水晶のようだと、その華麗な色彩感がたちまち評判となり、権家の進物品として引っ張りだことなった。やがて江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われ、『嬉遊笑覧』は、握り寿司の考案者は堺屋松五郎だとしている、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8)。幕末の『守貞謾稿』には、京阪にては、 方四寸許の箱の押しずしのみ。一筥四十八文は鳥貝のすし也。又こけらずしと云は鶏卵・やき鮑・鯛と並に薄片にして飯上に置を云。価六十四文一筥凡十二に斬て四文に売る。又筥ずし飯中椎茸入る、飯二段のになりたり、又浅草海苔巻あり、巻ずしと言、飯中椎茸と独活を入る、京阪の鮨普通以上三品を専とす。而も異制をなす店も希に有之、又鮨には梅酢漬の生姜一種を添る、 とあり、江戸では、幕末期、多種多様な握り鮨がつくられ、『守貞謾稿』には、 今製に握り酢也、鶏卵焼・車海老・そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまま也、以上大略価八文酢也、其中玉子巻は十六文許、添之に新生姜の酢漬姫蓼(ひめたで)等也、又隔等には熊笹を用い、又酢折詰などには酢上に……熊笹を斬て置之飾とす、京阪にては隔にはらんを用ひ、又添物には紅生姜と言て梅酢漬を用ふ、 とある(日本食生活史)。 江戸末期の『江戸自慢』には、 江戸の鮓は握りて押したるは一切なし、調味よし、上方の及ぶ處にらず、価も賤(やす)し、 とある(仝上)。なお、 「すし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%99%E3%81%97)、 「いなりずし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%99%E3%81%97)、
については、触れた。 「かきもち」には、 欠餅、 と 掻餅、 の二種ある(たべもの語源辞典)、とある。欠餅は、 正月の鏡餅を砕き欠いてつくる干菓子のこと。公家では「かきがちん」、女房詞(ことば)では「おかき」と称した。『本朝食鑑』は「鏡餅は八咫鏡(やたのかがみ)に擬した餅か」と述べ、「武家は甲冑にこの餅を供えたところから具足餅と称した。これは八幡神に供えたものである」と説明している。欠餅は正月20日の鏡開きにつくられた。刃柄(はつか)を祝うの意だが、1651年(慶安4)4月20日に徳川3代将軍家光が死亡して以来、20日を遠慮して正月11日に改められた。鏡開きには「切られる」を忌み、刃物を使わずに手で欠き割ったのでこの名がある。包丁で切ったものは片餅(へぎもち)というが、いまはどちらもかき餅という。また餅をなまこ形につくり、小口から薄く輪切りにして干したものもかき餅とよぶ。鏡餅を砕いたかき餅は、汁粉に入れるか、干して油で揚げるが、なまこ形につくるかき餅には、黒ごまや大豆、青のりなどを搗(つ)き込んで風味をつけることもある、 であり(日本大百科全書)、掻餅は、 牡丹餅、 と そばがき、 の二種がある(たべもの語源辞典)。つまり、掻餅は、 「掻(か)い練り餅飯(もちい)」の意で、かい餅、かき餅という。掻餅にも、ぼた餅、おはぎをさす場合と、そば掻き(そば餅)をさす場合がある。『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』に「僧たちよひのつれづれに、いざ掻餅せむといひけるを」とあるのや、『徒然草(つれづれぐさ)』の「一献にうちあわび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ」などは、そば掻きのほうとみられる、 とある(日本大百科全書)。 欠餅は、「かがみびらき」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%81%B3%E3%82%89%E3%81%8D)で触れたように、 「正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される。」 ものである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D)が、鏡餅は割って祝う。 「武士は斬(きる)という言葉を忌み、刃を入れずに引掻くので、これをかき餅とよんだ。」 とある(たべもの語源辞典)。江戸時代、 「新年の吉日に商家では蔵開きの行事をしたが、武家において新年の11日(もと20日)に行われる行事で鎧などの具足に供えた具足餅を下げて雑煮などにして食し『刃柄(はつか)』を祝うとした行事。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開くことを「初顔」を祝うといった。この武家社会の風習が一般化したものである。江戸城では、重箱に詰めた餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉などにして食べた」 この武家社会の風習が一般化した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D)。 庖丁で切ることを嫌い鏡餅を引き欠いた、 ので、 欠き餅、 といったのであるが、いまは 片餅(へぎもち)、 のことも、 かきもち、 といっている(たべもの語源辞典)。「へぎもち」というのは、 鏡餅を刃物でヘギ切りにしたものである。近世になって、ナマコ形に餅をつくって、それを小口から薄く切って干したもの、 で(仝上)、因みに、「へぎ」は、和食の調理用語で、 「剥ぎ」と表記し、薄く表面を剥ぎ取るようにする、 といった意味になり(https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/9991_K/01.html)、皮剥のごとく表面だけを薄くすき切る包丁のことを「へぎ切り」と言う、とある。 「かきもち」の語源を、 カハキモチ(乾餅)の約、 とする(菊池俗語考)のは、「へぎもち」の由来を指しているのではあるまいか。 鏡餅は、 「武家では正月に鎧や兜の前に鏡餅を供えたことから、…具足餅と呼ばれた。女子は鏡台の前に供えた」 からである(語源由来辞典)。 「掻餅」は、 かきもち、 とも、 かちもち、 とも呼ぶが、幕末の『守貞謾稿』には、 かい餅(もちひ)は牡丹餅、 とある。 掻練の餅、 だから、とする(たべもの語源辞典)。 「ぼたもち」とは、 よく搗かぬ餅、 つまり、 掻き練った餅、 だから、という意味である(たべもの語源辞典)。「ぼたもち(牡丹餅)」とは、 もち米とうるち米を混ぜたもの(または単にもち米)を、蒸すあるいは炊き、米粒が残る程度に軽く搗いて丸めたものに、餡をまぶした食べ物である。米を半分潰すことから「はんごろし」と呼ばれることもある、 もので(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%A1)、昔は「ぼたもち」のことを、 かいもちひ(かいもち、掻餅)、 と呼んでいた(仝上)故であるが、安永八年(1778)の『屠竜工随筆』に、 萩のことを「ぼた」というから、「ぼたもち」とは「はぎもち」ということだ、 とある。萩餅は、おはぎで、ぼたもちである(たべもの語源辞典)。 しかし、『徒然草』に、最明寺入道が足利左馬入道のところで御馳走になる献立に、 一献にうちあわび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ、 とある「三献にかいもちひ」というのは、 そばがき、 とする説が強い(たべもの語源辞典)、という(「三献」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E4%B8%89%E7%8C%AE)については触れた)。 民間伝承に、南駒ケ岳山麓の村では、蕎麦粉で製した「かき餅」「かい餅」「けえ餅」などとよぶ蕎麦餅をつくり、とくに一月一三日の夜は、このけえ餅を食べる習慣があり、「かんがえ餅」とよんでいる。寒に入って食べるかい餅という意味だろう、 とある(仝上)。 「蕎麦がき(そばがき、蕎麦掻き)」は、 蕎麦粉を熱湯でこねて餅状にした食べ物、 で、 蕎麦切り(蕎麦)のように細長い麺とはせず、塊状で食する、 ものである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D)。17世紀の農村事情に詳しい武士の書いた『百姓伝記』には、 「そば切りは田夫のこしらへ喰うものならず」 とあるように、そば切りを禁止されている農村が少なからずあった。そのような地域では蕎麦がき、そば餅が食べられた(仝上)、とある。 「蕎麦がき」は、 鎌倉時代には存在し、石臼の普及とともに広がったと見られる。江戸時代半ばまではこの蕎麦がきとして蕎麦料理を食べられていた、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D)、これを、「かきもち」というのは、 そばを掻いてそばがきにした餅、 だから、である(たべもの語源辞典)。 つまり、同じく「かきもち」とは言うものの、 餅を欠いて食べたから、「かきもち」(欠餅)、 であり、 蕎麦を掻いて「そばがき」にした餅だから、そばがきもち(蕎麦掻餅)、略して、かきもち、 であり、 よく搗かぬ餅である「ぼたもち」、つまりかき錬った餅だから、かきもち、 なのである(仝上)。 ただ、「かきもち」と呼ぶものに、もうひとつ、 覚えた通り祝ふかきもち、 という句がある(昼網)ように、 氷餅(こおりもち)の異称、 のあるものがある(岩波古語辞典)。これは、 餅を水に浸して凍らせたものを寒風に晒して乾燥させた保存食、 であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E9%A4%85)、別名、 干し餅(ほしもち)、 凍み餅(しみもち)、 凍み氷(しみごおり)、 とある(仝上)。今日、 かきもち(欠餅)、 と呼ぶものに、もうひとつ、「煎餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E7%85%8E%E9%A4%85)でも触れたが、 おかき(御欠)、 とよぶ、 餅米を原料とした菓子。なまこ餅などの餅を小さく加工し(欠き)、乾燥させたものを表面がきつね色になるまで炙った米菓、 がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%8D)。これは、 鏡餅など神様に供えた餅を槌で細かくして作られるもので、そのような餅に刃を入れるのは縁起が悪いとして槌が用いられた、 とあり(仝上)、本来の「欠餅」から由来している。ちなみに、「あられ」との違いは、 原料の餅を細かくするために包丁を使ったものを「あられ」、槌を使ったものを「おかき」と呼んだ、 とある(仝上)。刃を使うのを忌んだからであり、これも、鏡餅を欠くことに由来する。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「鹿の子(かのこ)餅」は、 和菓子の一種、 略して、 鹿の子、 とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85)。関西では、 小倉野(おぐらの)、 ともいう(デジタル大辞泉)。 現在の「鹿の子餅」は、 餅・求肥・羊羹のうちいずれかを賽形に切ったものを中心にして、小豆餡で丸く包み、そのまわりに柔らかく煮た金時小豆を粒のまま鹿の子のように付ける、 とあり、隠元豆を用いるものは、 いんげん鹿の子、 といい、(仝上)、 京鹿の子、 ともよぶ(デジタル大辞泉)。栗を茹でて甘く煮つけたものは、 栗鹿の子、 という(たべもの語源辞典)。 「鹿の子餅」は、 宝暦(1751〜64)のころ、歌舞伎俳優の道化方の名人として知られる嵐音八という役者が人形町東側中程に恵比寿屋という菓子屋を開店して売り始め、江戸名物になった、 とある(仝上)が、 嵐音八という役者の実家、 ともあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85)、 役者手製の餅菓子として評判を呼び全国に広まった、 という(仝上)。天保期(1831〜45)の『寛天見聞記』に、 寛政の末まで、此所(人形町)に、……鹿子餅を売りける、後、此店を、囃子頭の太田市左衛門と云へる者譲受けたりと云ふ、 とある(大言海)。その後、芯に餅の代わりに求肥や羊羹を用いることも行われるようになった。鹿の子という名の由来は、 整った粒が隙間なく並ぶさまが鹿の背の斑点を思わせることからつけられた、 とある(仝上)。文政年間(1818〜30)の川柳に、 鹿の子餅釈迦の天窓(あたま)の後向き、 とある(仝上)。明和七年(1770)『辰巳之園』には、 鹿の子餅は、又太郎が見世、 とある(江戸語大辞典)。 なお、富山県高岡に名物「鹿の子餅」があるが、 白色の羽二重餅で、大きさは五センチ角で高さ三センチくらい、下部にあたるモチの中にウズラ豆の蜜漬が散らしこまれて、鹿の子の背の斑紋を模している、 とある(たべもの語源辞典)。 「鹿の子」というのは、 鹿の子、 を指し、薄茶色の毛色に 鹿の子模様、 という白い斑点が出る。 シカの子は生後2年くらいの間,赤みがかったくり色の体に白い斑点が多くできる。これは保護色の作用をするものである、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)が、 この模様は、子鹿だけでなく、大人の鹿にも毎年出て、 人間の指紋のように1頭1頭違い、模様は一生変わらない、 という(http://naradeer.com/blog/2015/06/28/%E3%80%8C%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%80%8D%E6%A8%A1%E6%A7%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/)。この鹿の背のように斑点が散在する様を指して、伝統的に、 鹿の子斑(かのこまだら)、 と呼び、この含意から、「鹿の子」には、鹿の子斑の略以外にも、伝統的な絞り染めの柄の一種である、 鹿の子絞り(かのこしぼり)の略、 にも使う。総じて、鹿の子餅のように、 霜降り状のもの、 をそう呼ぶ。ために、「鹿の子」のつく言葉は多い。和装、和手芸関連では、 「鹿の子地」「鹿の子帯」「鹿の子編み」「鹿の子刺し」「鹿の子繍(ぬい)」「鹿の子織り」 生物名にも、 「鹿の子百合」「鹿の子草」「鹿の子蛾」「鹿の子貝」「鹿の子魚」 その他、 「鹿の子打ち」「鹿の子摺り」鹿の子切り」等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90)。 「鹿の子絞」は、 布を白い粒状に隆起させて染め出したもの、 で、 鹿の子染、 鹿の子目結い、 鹿の子結、 ともいい、京都が主産地なので、 京鹿の子、 ともいう。 布地を指先または鉤針(かぎばり)を用いてつまみ,その先を糸でくくって絞る。これを染めると小さいやや不整形の絞染の中で最も古くから行われたもので,正倉院の纐纈(こうけち)の中にもこれに類するものが見られる。この絞りが,斜めに45度の線につめて絞られると,上りが角ばった形となっていわゆる一目絞の詰(つめ)となり,これがさらに方形の疋田絞(ひつたしぼり)へと進展する、 という(マイペディア・世界大百科事典)。これは、 表面に凹凸(細かい隆起)があって肌に触れる面積が少なくなり、風通しが良く、肌触りが軽いのが特徴、 である(https://www.modalina.jp/modapedia/w/e9b9bfe381aee5ad90/)。 因みに、「鹿の子」は、 カノケ(鹿毛)の略(言元梯・大言海)、 とされる。生涯班点が変わらないとするなら、妥当に思える。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「がんもどき」は、 雁擬き、 と当てるが、 雁賽、 とも記す(大言海)、とある。 がんも、 とも呼ぶ(広辞苑)。京阪地方では、 飛竜頭(ひりゅうず、ひりうず、ひろうす、ひりょうず)、 と呼ぶ(たべもの語源辞典)。「がんもどき」の名は、 雁の肉に擬(もど)きたる意、 とある(仝上)が、他にも、 鳥類の肉のすり身を鶏卵大に丸めて煮たり蒸したりする料理「丸(がん)」に似せて作ったという説、 がんもどきの中にきくらげではなく安物の昆布で代用したら丸めた形の表面に糸昆布が現れてその様子が雁が飛んでいるかのように見えたからという説、 等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8D)が、別に、 こんにゃくを使った点心「糟鶏」が、「俗にいうがんもどきなるべし」とあるところから、「糟鶏」の俗称として「がんもどき」という親しみやすい日本語にしたという説、 もある(http://www.tofu-as.com/tofu/history/06.html)。古い形が、「蒟蒻」であったことを考えると、この説は、由来としてかなり意味がある気がする。 いずれにしても、「肉」に見立てたもので、精進料理の「普茶料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)から起こった、と考えられる。「普茶料理」は、 卓袱(しっぽく)料理の精進なるもの、 と言われ、 巻繊(野菜や乾物の煮物や餡かけ)、 油糍(下味をつけた野菜などを唐揚げにしたものや雲片(野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの)、 擬製料理(肉や魚に擬した「もどき」料理。麻腐、すなわち胡麻豆腐も白身魚の刺身に擬した「もどき」料理である)、 等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)、の「擬製料理」の一つとして、炒めや揚げに胡麻油を用いた、 がんもどき、 や 精進揚、 がはじまり、これが日本では未発達であった油脂利用を広めた(仝上)、とされる。しかし、「もどき」は、「ようなもの」という意だから、 雁もどきはがんの肉に似たもの、 というが、あまり似ていない(たべもの語源辞典)、とある。確かに。。。。 「がんもどき」は、いまは、 油揚げの一種、 とされ、 豆腐を崩して、つなぎに、ヤマノイモ、卵白などを加え、細かく刻んだ牛蒡・人参・銀杏・麻の実・昆布などを混ぜて丸め、油で揚げたもの、 をいう(広辞苑・大辞林)が、江戸時代の料理書『料理通』(1822〜35年)によると、 蒟蒻を小口切にし、鹽にて洗ひ、揉みさらし、葛粉にくるみて、油にあげて、味を付けたるもの、 とある(大言海)。さらに、昔は、 麩を油で揚げたもの、 であったが、天明二年(1782)出版の料理本『豆腐百珍』には、「尋常品」の一つとして、 ひりょうず、 が挙げられ、 豆腐の水気を切りよくすってつなぎに葛粉を入れ、かやくにごぼう、銀杏、きくらげ、等好みの具を入れます。かやくを油で炒って適当な大きさの豆腐に包み油で揚げます。酒を煮詰めておろしワサビか白酢にワサビの細切りを添えます。また、でんがくにして青味噌にけしを振りかけます、 とあり(http://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html)、江戸時代の「がんもどき」は、 現代のように豆腐に具材を混ぜ込んで揚げたものではなく饅頭のように豆腐で具材の餡を包んで揚げたもの、 であったようである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8D)。しかし、豆腐料理の「尋常」品であり、 あげどうふー、ごまあげがんもどき(寛政十一年(1799)「三人酩酊」)、 と呼び売りをしたいたらしい(江戸語大辞典)。 関西で「飛竜頭」といったのは、ポルトガル語フィリョース(filhós 小麦粉と卵を混ぜ合わせて油で揚げたお菓子)から由来している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8D、たべもの語源辞典)。「ひりうず」とか「ひろうず」に、 飛竜頭、 と当てたのは、 水でこねた小麦粉に豆腐や野菜を加えて油で揚げたとき、かたまりから角のようにいくつか衣が飛び出して、それが竜の頭のように思えた、 のではないか(たべもの語源辞典)、という。この「ひりょうず」は、江戸時代の料理書に、 小麦粉の代わりにもち米を使って油で揚げたあと、砂糖蜜にひたし、上にこんぺい糖をのせた、 と書いてある(http://www.tofu-as.com/tofu/history/06.html)、という。なぜ、 南蛮渡来のお菓子がどうして豆腐料理の「ひりょうず」に変身したのか、 は、はっきりしないらしい(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「寒天(かんてん)」とは、 寒空(さむぞら)、 の意であり(字源)、 寒い日の空、 冬の空、 の意である(広辞苑)。「寒天」を、 テングサの粘質物を凍結・乾燥としたもの、 の意で使うのは、わが国だけである。それは、 黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師が「寒空」や「冬の空」を意味する漢語「寒天」に「寒晒心天太(かんざらしところてん)の意味を込めて命名した、 ことに由来するらしい(語源由来辞典)。つまり、「寒天」とは、 心太(ところてん)を寒夜に晒して、凝り乾きて、甚だ軽くなりたるもの、 に、そう名付けたからである、というわけである。 「寒天」は、偶然の産物らしい。 江戸時代前期、山城国紀伊郡伏見御駕籠町において旅館「美濃屋」の主人・美濃太郎左衛門が、島津大隅守が滞在した折に戸外へ捨てたトコロテンが凍結し、日中に融けたあと日を経て乾物状になったものを発見した。試しに溶解してみたところ、従来のトコロテンよりも美しく海藻臭さもなかった、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9)。これを隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励され、その際に隠元によって寒天と命名されたという(仝上)のである。 この伝承は複数の書物に見られるが、具体的な時期は諸説ありはっきりしないらしい。むしろ、 江戸初期の金森宗和の『宗和献立』に「こごりところてん」、 虎屋の慶安四年(1651)の記録に「氷ところてん」、 という記述があることから、起源はかなり古い。島津の参勤交代云々の記述(『島津国史』の、明暦三年(1657)と推測されている)よりは古いと思われる。この伝承は、些か眉唾ではあるまいか。 当初は水で洗ってそのまま食することが多かったと考えられ、寛文十一年(1671)刊の『料理献立集』に、 寒天を使用した精進刺身、 が載っている、とある。菓子材料としては、宝永四年(1707)の『御菓子之畫図』に、 寒天を使用した棹菓、 がみられる、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9)。 その後、摂津国島上郡原村字城山の宮田半兵衛が製法を改良して寒天製造を広める、寛政十年(1798)には寒暖差の大きい島上郡・島下郡・能勢郡の18ヶ村による北摂三郡寒天株仲間が結成され、農閑期の余業として寒天製造が行われ、寒天製造は天保元年(1830)頃に隣接する丹波国へも伝播し、丹波国へ行商に来ていた信濃国諏訪郡穴山村の行商人・小林粂左衛門が天保十二、十三年(1841〜1842)頃に諏訪地方へ寒天製造を広め、角寒天として定着した、 とある(仝上)。 「ところてん」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A6%E3%82%93)で触れたように、 海草を煮たスープを放置したところ偶然にできた産物と考えられ、かなりの歴史があると思われる、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A6%E3%82%93)。 ところてんの原料である天草(テンクサ)が煮るとドロドロに溶け、さめて煮こごる藻であるところから、こごる藻葉(コゴルモハ)と呼ばれ(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213754542),さらに、「凝海藻(こるもは)」といい、「こごろも」ともいい、……こごろもをココロブトと訛って、俗に心太の二字を用いた。室町時代にはココロブトを訛ってココロティ、それがさらに訛ってココロテン、江戸時代にはさらに訛って、トコロテンとなった(たべもの語源辞典)。 ココロブトがココロテンになるのだが、「太」と「天」を書き間違えたか、見違えたかであろう。そしてココロテンが訛ってトコロテンになる。だから「心太」と書いて、トコロテンとよんでいる(仝上)、 と、 コゴルモハ→コルモハ→コゴロモ→ココロブト→ココロフト→心太→ココロティ→ココロテン→トコロテン, 転化してきた。「こるもは」というのは, 『十巻本和名抄−九』に,『大凝菜 楊氏漢語抄云大凝菜(古々呂布度)本朝式云凝海藻(古流藻毛波 俗用心太読与大凝菜同)』とあるように凝海藻で作った食品を平安時代にはコルモハといい,俗に心太の字をあてて,ココロフトと称していたのである。この『凝海藻』の文字は古くは大宝令の賦役令にあらわれる、 とある(日本語源大辞典)。「トコロテン」がそれほど古くからあるのに、その寒晒しの「寒天」が、江戸時代というのは解せない。 むしろ、 寒晒しのところてんの寒と天とをとって、カンテンとよんだ(たべもの語源辞典)、 寒晒心太の中略(大言海)、 という、シンプルな説に軍配を上げる。しかし、「ところてん」の、 「テングサを煮溶かす製法は遣唐使が持ち帰った」 とされる(http://gogen-allguide.com/to/tokoroten.html)ように、中国由来かもしれないが、少なくとも、「寒天」は、 日本で初めて発明された食品、 である(https://www.kanten.or.jp/appeal/rekishi.html)ことは間違いない。 寒晒心太、 という名称は、寒のとき晒したものが品質最高ということから、 寒晒、 を付ける(たべもの語源辞典)、という。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「きなこ」は、 黄粉、 と当てる。 大豆を炒って碾いて粉にしたもの、 である(広辞苑)。 加熱により大豆特有の臭みが抜け、香ばしい香りになる。粗砕きした段階で皮を除き、更に粉砕するが、皮を除かないものもある、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%AA%E7%B2%89)。粉にすると、豆の色によって、 青豆粉、 黄豆粉、 のになる(たべもの語源辞典)。一般的に「きな粉」というと「黄豆粉」を指し、青豆粉は鶯粉、青きな粉などと呼ばれる(仝上)。豆粉は、 青大豆をざっと炒って、三分の一ほど皮きれるほど、喰ってみて生ぐさけのなくなるときをよしとして粉にする、 という(たべもの語源辞典)。 きな粉は古くから食品として用いられてきたが、もともとは、和名類聚鈔に、 大豆麩 まめつき(「末女豆岐」とも)、 とあり(たべもの語源辞典)、 まめつき、 と呼んだ。 ツキ、 とあるのは、 豆を臼で搗いて粉にしたもの、 ということになる(仝上)。「麩」とは、 粉末のこと、 で、 大豆を炒ってから臼で搗いて粉にふるい分けるという工程から、 名前がついた(https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000190493)、とある。 「きな粉」という呼び名は、その外観から出た、 女房ことば、 が元と考えられ、室町時代の『女房躾書』にその名が記されているが、この呼び方は上流階級に限られ、一般的には「豆の粉」と呼ばれていた(https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000190493)とある。室町時代の、『厨事類記』『大草家料理書』などには、 大豆の粉、 としか載らず、「きな粉」は出てこない(たべもの語源辞典)、とある。江戸時代初期の『醒睡笑』にも、大豆の粉とのるので、「きな粉」が一般化するのは、元禄(1688〜1704)頃らしい。明治になって、 豆粉、 を「きなこ」と訓ませている。 「黄粉」をまぶした餅が「黄粉餅」で、「安倍川餅」といった。これは「安倍川餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475927903.html?1593109508)で触れた。「黄粉」の語源は、 「黄なる粉」で、黄な粉とも書く、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%AA%E7%B2%89)。 「黄なり」の連体形「黄なる」の「る」が落ちた「黄な」+「粉」、 である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%93、大言海)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「伽羅蕗(きゃらぶき)」 蕗の茎を醤油で伽羅色になるまで煮しめた料理、 である(広辞苑)。たべもの語源辞典には、 フキの皮をむいて生醤油に粉唐辛子を少々加えて佃煮のように辛く煮たもの、 とある。 伽羅牛蒡、 もあった、とある。 「伽羅」は、 濃い茶色、 である。 「伽羅」は、梵語(古代インドの言葉)、 kālāguruの音写「伽羅阿伽嚧」の略。また、tagaraの音写「多伽羅」の略とも、 とあり(デジタル大辞泉)、 伽藍, 伽楠、 などとも書写され(百科事典マイペディア)、 香木の一種。沈香,白檀などとともに珍重された、 とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、「沈香」(じんこう)は、 サンスクリット語(梵語)で aguru(アグル)またはagaru(アガル)と言う、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%A6%99)、香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類され、その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれるとあるが、 他の木所の呼称が産地や重要な交易の拠点の名称を彷彿させるのに比べて、伽羅だけは、別格とも言える扱いを受けています。それは、古来、伽羅が最上級の「沈(ぢむ=沈水香木)」とみなされ、殊更に尊重されて来たことを示していると考えられます、 とし(http://www.kogado.co.jp/archives/3352)、 「伽羅は、沈香とは明らかに異なる性質を具える香木である」。従って、「最上級の沈香を伽羅と称する訳では無い」ということです。言い換えますと、「どんなに上質でも沈香は沈香であり、どんなに低品質でも、伽羅は伽羅である」(仝上)のだが、伽羅の元になる植物(沈香樹)は沈香と同じくジンチョウゲ科アキラリア属であり、 広い意味では、伽羅は沈香の仲間であると表現できる、 が、同じベトナム産の沈香樹でありながら沈香に変質するものもあれば伽羅に変質するものもある理由も、解明されていないらしい(仝上)。同じように、 熱帯産のジンチョウゲ科の樹木が土中に埋もれ,樹脂が浸出し,香木となる(百科事典マイペディア)、 にしても、あるいは、 沈香の生木あるいは古木を土中に埋め、腐敗させて生産する(知恵蔵mini)、 にしても、あるいは、 風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったもの(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%A6%99)、 にしても、微妙な環境差が左右するものらしい。ちなみに、「沈香」は、 原木は、比重が0.4と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる、 ので、 沈水香木、 といい(http://www.kogado.co.jp/archives/3352)、「沈香」という言葉の由来となっている(仝上)。 この沈香を伽羅とを識別する根拠は、 沈香と伽羅と樹脂分の性質の違い、 にあり、それを見極めるには、体験を重ねる過程で様々な生きたデータを収集・整理した結果として得られる特殊なもので、言語で表現することも不可能に近いと思われます、 とし、 1.外見を観察する 2.触れてみる 3.鋭利な刃物で削ってみる 4.鋸で挽いてみる 5.確認のために聞香してみる という作業を、できるだけ多くの香木の塊に接して実行するのが理想(http://www.kogado.co.jp/archives/3352)、としている。そして、油分が多く色の濃いものを、 kālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」 と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香(かなんこう)、奇南香(きなんこう)の別名でも呼ばれる(仝上)。 ま、「伽羅」を見分ける技術は、専門家にゆだねるとして、「伽羅」は、『日本書紀』に、 推古天皇3年(595年)4月に淡路島に香木が漂着した、 とあるのが沈香に関する最古の記録であり、漂着木片を火の中にくべたところ、よい香りがしたので、その木を朝廷に献上したところ重宝されたとある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%A6%99)。正倉院には長さ156cm、最大径43cm、重さ11.6kgという巨大な香木・黄熟香(おうじゅくこう)(蘭奢待とも)が納められている。鎌倉時代以前に日本に入ってきたと見られており、足利義政・織田信長・明治天皇の3人は付箋によって切り取り跡が明示されている(仝上)、とある。 「伽羅」の語源は、 サンスクリットのカーラーグルkālāguruまたはカーラーガルkālāgaruの語頭を音写した語。また,同じく香の一種であるタガラtagara(香炉木と訳される)を音写した多伽羅の語頭を省略したものである。黒沈香(香木)の意である、 とある(世界大百科事典)し、大言海も、 伽羅惡掲魯(キャラアグル)kālāguruの略、黒沈香木の義、 としているので、黒の意で尽きているようだが、微妙に解釈を異にし、 伽羅はサンスクリット語で黒の意。一説には香気のすぐれたものは黒色であるということからこの名がつけられた、 とか(ブリタニカ国際大百科事典)、もあり、その他、 伽羅の字音カラのカを延ばしてキャとする(類聚名物考)、 キエラ(気吉)の義(言元梯)、 もある。 「伽羅」は、沈香の高級品という意味か広がったのか、 立すがた世界の伽羅蕗よけふの春(隠蓑)、 というように、 極上、 という意味でも使う。江戸時代は、吉原隠語で、 金銭、 の意でも使ったらしい。 もと金銭を伽羅代と呼びしによる、 とある(江戸語大辞典)。広辞苑には、 今の俗、世事をいふといふ事を伽羅をいふ(用捨箱)、 の用例で、 おせじ、 の意を載せている。 因みに、いま「伽羅」は、1g、二万円から五万円している(https://yamadamatsu.shop-pro.jp/?pid=96943884)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「黍団子」(きびだんご)は、 黍の実の粉で作った団子、 である(広辞苑)。大言海には、 もちきびの粉に、米の粉をまぜ、水に捏ねて、まろめて蒸したるもの、 とある。 黍餻、 とも当てる(大言海)。 この「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、 餌(ジ)、 と同じであり、 もち、だんご(粉餅)、 の意である。「餈」(シ)は、 むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、 とある(字源)。「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、中国では, 小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品, つまり、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に「餅」を当てるのは,我が国だけである。 餻、 餈、 も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。ために、江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、 「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」 とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、 「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」 とある(たべもの語源辞典)。つまり、「餅」が本来、小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチの借字として「餅」の字を使った、という経緯があり、結構あいまいではあった。 昔、麦粉や黍などの雑穀の粉を蒸してついた食物は「餅(べい?)」と称していたという考察が、江戸期の暁鐘成の随筆にある。またこれによれば今の餅は、本来「餐」と呼ばれていたという、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90)のも、曖昧な使い方の故ではある。「五平餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474063861.html)は、「餅」といっているが、 粳米(うるちまい)飯を半搗き、 にしたものである。だから、 団子(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%9B%A3%E5%AD%90)、 と 餅(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)、 の違いは、 米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、 粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、 とする説(たべもの語源辞典)もあるが、 「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。 「黍団子」の早期の用例として、『山科家礼記』に、長享二年(1488)三月一九日に、 黍團子、 の記述があり、室町末期の日葡辞書にも、キビダンゴは、 黍の団子、 と定義されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90)、らしい。 「黍」(ショ)の字は、 会意。「禾(イネ科の作物)+水または雨」。水気を吸収して育つ作物をあらわす。一説に暑(ショ)と同系で、暑いさなかに育つからともいう、 とあり(漢字源)、「きび」の意だが、 北中国では主食にし、飯・かゆをつくり、酒を醸すのに用いた、 ともある(仝上)。 日本へは、アワ、ヒエ、イネなどよりも遅く渡来したと考えられている、 らしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%93)が。『万葉集』にも、 梨棗(なしなつめ)黍(きみ)に粟(あは)嗣(つ)ぎ延(は)ふ田葛(くず)の後(のち)も逢はむと葵(あふひ)花咲く、 等々とあり、古くから親しまれてきた。古代中国の草本書『食物本草』にも、 味は甘く性質は温で毒はない。気を益し、脾臓や胃の働きを助ける作用がある、 とある(仝上)とかで、多く、 実をそのまま炊いて粥にして食用にしたり、粉にして餅や団子などにしたりする。キビは米と一緒に1、2割の割合で混ぜて炊飯されたりもされ、米飯よりも甘みと少しのほろ苦みが加わる、 とあり(仝上)、炊きたてのモチ黍をすり鉢に入れてついたものは黄色い餅になり、それを丸めると黍団子となるのである(仝上)。 和語「きび」は、 黄實の轉(大言海・日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・東雅・名言通・和訓栞・柴門和語類集・言葉の根しらべの=鈴木潔子・風土と言葉=宮良当壮・日本語源広辞典)、 とするのが大勢で、 マキミ(眞黄実)の上略(日本語原学=林甕臣)、 「黄米」の別音ki-Miの転音(日本語原学=与謝野寛)、 も、黄色ということに着目しているのは同じである。万葉集に、 きみ、 と訓んでいたことは確かなので、 Kimi→kobi、 の転訛なのだろう、と思われる。 ところで、 吉備団子、 と当てられる団子菓子は、嘉永・安政(1848〜60)頃に現れる。岡山藩の茶人家老伊木三狼斎が勧めて、吉備津彦命を祀る吉備津神社の境内の茶店で売らせた(たべもの語源辞典)、とある。これは求肥(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%B1%82%E8%82%A5)にきびの粉をまぜた菓子である。安政六年(1859)に江戸浅草で「日本一きび団子、昔屋桃太郎」の看板で黍団子を売り出したものがあったらしい(仝上)。 昔は黍で覆われた食品だったかもしれないが、現在に至る改良製品は、餅米の粉を混ぜて求肥を作り、これを整形して小さく平な円形(碁石形)に仕上げる、 全く別物である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%A3%E5%AD%90)。 ただ、吉備津神社と黍団子という食べ物の間には、17世紀初頭までにはなにかしらのゆかりができていたらしいのである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90)。細川幽斎(1610年没)が「備中吉備津宮にて詠める」と詞書で前置きした狂歌、 神はきねがならはしなれば先づ搗きて団子にしたき吉備津宮かな、 があり(寛文6年(1666)『古今夷曲集』)、 餅雪や日本一の吉備だんご、 という句もある(慶安4年(1651)『崑山集』)。ただ、桃太郎が与える「きびだんご」は、 元禄の頃までは「きびだんご」ではなく「とう団子」等だった、 とされる(仝上)。元禄頃(1688〜1704)は「とう団子(十団子)」の他、「大仏餅」「いくよ餅」も出てくるという(仝上)。つまり、桃太郎と黍団子が結びつくのは、江戸も中期以後、元文頃(1736)だという。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「きりたんぽ」は、 切蒲英、 と当てたりする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%BD)が、 炊き立ての飯を擂鉢に入れて餅のようにつぶし、杉の棒に円筒状にぬりつけて焼き上げたもの、 とあり(広辞苑)、 鶏肉・牛蒡・芹などとともにだし汁で煮て、 食べたり(仝上)、 味噌を付けて焼いて、 食べたりする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%BD)。 秋田地方の郷土料理、 とされるが、 県南部(由利本荘市、大仙市、横手市、湯沢市周辺)では、あまりなじみがある料理ではなかった、 とあり、 古くは、県北だけのもの、 であった(たべもの語源辞典)。南部は、山形県や宮城県などで広く行われている芋煮会の分布範囲であった(仝上)、とある。江戸時代の藩域と関係があるようである。 「きりたんぽ」の由来は、 江戸時代に南部藩主が花輪地方を巡視されることになって、地元では饗応に何を出そうかと相談したところ、木こりや猟師たちの弁当にもっていく焼きめしがかろうということになった。それで「わっぱ」(弁当)の飯をこねて棒の先につけて焚火で焼いてみた。これは思いのほかおいしい。お喜びになった藩主が「これなるたべものは何という」と聞かれたとき、当意即妙に出た答えが「きりたんぽ」であった、 といわれている(たべもの語源辞典)。 短穂槍(たんぽやり:短い穂(ほ)のついたけいこ用のヤリ)に形が似(に)ていたのでとっさに「たんぽ」と答えた、 ともある(https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0509/01.html)。 鹿角(かづの)の人々の山ごもりするときのタンポは長さ50センチくらいの棒に、こってりと飯を盛りつけた大型のきりたんぽ、 であり、 北秋田で秋田杉の木こりたちが弁当にもっていく飯でつくったものは、冷や飯を半殺しのぼた餅風に搗いて細竹に巻きつけて炭火でこんがり焼くもので、ご飯の焼竹輪といったもの、 であり、 県南では、新米に味噌を付けて焼くたんぽ焼をつくった、ウルチ米九にもちごめ一ほど混ぜて炊き上げたものを、すぐ擂鉢に移してスリコギで練る。半分搗き上げたものを竹の棒に竹輪のように巻きつけて、炉の火であぶり、こんがり焼いたきりたんぽは竹から外して、切るか、手で折って食べる、 である(たべもの語源辞典)。県南のものは後世の作り方で、もともとは、 冷や飯の利用法として工夫されたもの、 と考えられる(仝上)。 「きりたんぽ」の語源は、 たんぽつきの稽古槍に似ているのを適宜に切るところから(飲食事典=本山荻舟)、 という説が有力である。たんぽ槍とは、 綿を丸めて革や布で包んだ稽古用の槍で、単に「たんぽ」とも呼ぶ。この焼き上がった形がたんぽ槍に似ており、それを切って食べることから「きりたんぽ」とよばれるようになった、 というのである(語源由来辞典)。ただ、「たんぽ」は、 綿を丸めて革や布で包んだもの、 を指し、 稽古用の槍の頭につけたり、 拓本をとるとき墨を含ませたり、 するのに使うので、「たんぽ」は、別に、 たんぽ槍、 のみを指さない。むしろ、漢字では、 短穂、 あるいは、 打包、 と書き、 拓本を採るときに墨をつけて叩く道具、 であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%9D)、中国由来である。 中国では固く括ったものが用いられるが、日本では比較的柔らかめのものが好まれる、 とあり(仝上)、 綿などを布で包み、ボール状にして縛ってある部分を持ちやすいように棒状にする。昔は、かもじ(人毛)を真綿でくるんで紅絹(もみ)の布で包んで作った、 らしく、大きさは直径20センチメートルくらいのものから1センチメートルくらいまで用途に応じて作られる、とある(仝上)。 その「たんぽ」を流用して、タンポに砥石の粉末を内部に含ませて、日本刀の刀身を払拭するための、 刀剣用のタンポ が生まれる。刀剣に「たんぽ」を打ち、 古い油を取っています。あの白い物の中には打ち粉と呼ばれる砥石の粉が入っているんです。その粉を刀身に軽く付けて紙で拭くことによって、砥石の粉が油を吸って刀身に塗ってある古い油を完全に取っているんです、 とある(http://www.katanakazi.com/utiko.html)。さらに、槍術の練習用として、棒の先端にタンポをつけたのが、 たんぽ槍、 になる。その意味では、「たんぽ槍」ではなく、 たんぽ、 が由来と考えてもいい。しかし、個人的には、「竹輪」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%AB%B9%E8%BC%AA)の、 魚肉のすり身を竹などの棒に巻きつけて加熱した、 中心の棒を抜く前の状態に似ているように思う。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「きんぎょくとう」は、 金玉糖、 錦玉等、 等々とあてるが、 寒天に砂糖を加えて煮詰めて固め、ざらめ糖をまぶした、 半透明の菓子である(たべもの語源辞典)。ただ、ざらめ糖をまぶさないものは、 金玉羹、 と区別し(たべもの語源辞典)、 練り羊かんの一種、 になり(日本大百科全書)、色素を加えて、本膳料理(お茶会)に添えられる料理の、 口取り(菓子)、 にも用いられる(仝上)。 琥珀羹(こはくかん)、 琥珀糖、 錦玉羹、 金玉羹、 等々の別名もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%A5%E7%8F%80%E7%BE%B9)、 透明な美しさを生かし、異なる色のものを合わせたり、練り切りやあんで作ったあゆ・金魚などの風物やみつ漬けのあずきなどを中に入れたりして、夏の情緒をあらわしたものが多く作られる、 とある(世界の料理がわかる辞典)。道明寺粉(糯米(もちごめ)を蒸して乾燥し粉末にしたもの)を入れた、 みぞれ羹, 卵白をかき立てて流し込み、その気泡性を利用した、 泡雪羹、 葛粉を加えた、 吉野羹、 などもある(百科事典マイペディア、日本大百科全書)。 「琥珀羹」というのは、 クチナシの実で透明の寒天を琥珀色に着色することもあったため、この名が付いた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%A5%E7%8F%80%E7%BE%B9)が、江戸時代は、 金玉羹、 の名称の方が一般的であった、ともある(仝上)。江戸時代には「金」と書くことが多かったが、次第に「錦」が用いられるようになった(世界の料理がわかる辞典)、ともある。 江戸時代に寒天の発明者である美濃屋太郎左衛門が凍らせたところてんと砂糖を混ぜて最初の錦玉糖を作った、 とする説もある(https://www.ehealthyrecipe.com/recipe-webapp/syokuzai/SyokuzaiDetailServ.php?szid=15015)。 「寒天」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E5%AF%92%E5%A4%A9)は触れたように、 江戸時代前期、山城国紀伊郡伏見御駕籠町において旅館「美濃屋」の主人・美濃太郎左衛門が、島津大隅守が滞在した折に戸外へ捨てたトコロテンが凍結し、日中に融けたあと日を経て乾物状になったものを発見した。試しに溶解してみたところ、従来のトコロテンよりも美しく海藻臭さもなかった、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9)、同一人とするものである。 表面を乾燥させて半生菓子にしたものは、 干琥珀(かんこはく) や 琥珀(こはく)、 と呼ぶ。干菓子として扱われることも多いが、内部の寒天は水分を含んでおり、基本的には半生菓子である。 乾燥した表面のしゃりしゃりした砂糖を含んだ寒天の食感と、内側の水分を含んだ寒天のぷるぷるした食感が楽しい和菓子である。内部に小豆や柑橘などを含んで、見た目や食感、風味に変化を付けることが多く、表現性豊かな和菓子である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%A5%E7%8F%80%E7%BE%B9)。 琥珀菓子、 は砂糖や水飴と寒天でできた透明なお菓子で、色を付けたり中に練りきりを入れたりした夏のお菓子である。一般にこの様に寒天を使った透明なお菓子を琥珀羹とか琥珀糖と呼んでいる、 のに対して、この琥珀糖を乾燥させたものが、 干琥珀、 になる(http://keisui.com/20180715-food-25183-keisui/)。琥珀糖は寒天を使った羊羹のようなものだが、 宝石のような琥珀糖、 というのは、 干琥珀、 で、 周りが砂糖の結晶で覆われ外側はシャリシャリ内側は柔らかい寒天という複雑な食感の干菓子、 になる。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「きなくさい」は、 焦臭い、 と当てる(大言海)。 紙・綿・布などの焦げるにおいがする、 焦げ臭い、 意であり、 硝煙のにおいがする、 意をメタファに、 戦いや物騒なことが始まりそうな気配である、 意や、 何となくあやしい、 うさんくさい、 の意でも使う(広辞苑)。大言海を見ると、 綿・紙などの焦げる臭(カ)あり、 の意が載り、 紙衣(カンコ)くさし、 とも言うとし、 焦げ臭し、仙台にてはひなくさし、 と載る。そのため、語源を、 衣(キヌ)くさしの轉か(綱(ツナ)、つぬ。鐸(ヌリテ)、なりで)、 とする。しかし、江戸語大辞典をみると、 (きなくさい)のきなは、木では無いの意とも、木の意とも、衣焦(きぬこげ)の省略かともいい、確かではない、 とし、 紙・切れなどの焦げる匂いにいう、 つまり、 焦げ臭い、 意だが、 紙衣くさし、 とも言ったというところを見ると、 紙・布、 等々に限定して言っていたらしいのである。 多く、促呼して、 きなっくさい、 というともある(江戸語大辞典)。どうやら、江戸期になって多く使われるようになったらしい。 「紙衣」は、 紙子、 とも当て、 かみこ、 かみころも、 かみぎぬ、 等々と訓ませる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%A1%A3)。 紙製の衣服。厚紙に柿渋を引き、乾かしたものを揉み和らげ、梅雨に晒して渋みを去って作った、保温用の衣服、 であり、 もとは律宗の僧が用いた(広辞苑)が、 絹の衣よりも安価なため、低所得者が利用する着物と思われがちだが、丈夫で持ち運びに便利なため、武士や俳人などが好んで利用し、性空や親鸞が愛用していたことでも知られる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%A1%A3)。江戸時代には、 広く防寒衣として利用されたが、下着的な利用ばかりではなく、好事家の間では羽織に定紋をつけて用いられ、胴着としても利用された。歌舞伎(かぶき)では『廓文章(くるわぶんしょう)』のなかでみられ、伊左衛門が零落したのちかつて遊女と取り交わした手紙を張り合わせてつくった紙衣を着た姿に、もののあわれを感じさせる、 等々ともあり(日本大百科全書)、必ずしも、貧乏人が使ったとばかりは言えないようである。 よく揉み込んだ紙は柔らかな鹿皮のような風合いになるようで、戦国時代の胴服や陣羽織などにも使われた、 とある(https://kimono-kitai.info/10804.html)。 軽くて、しかも保温性に富み、古代から僧衣として用いられ、その伝統を引いて今日も、奈良・東大寺の二月堂の修二会(しゅにえ)の際に着用されている(日本大百科全書)。 「きな」が、 衣(きぬ)の転、 としても、 衣臭い、 が、 焦げ臭い、 意にはならないような気がする。「〜くさい」には、「焦げ臭い」のような、 〜のにおいがする、 意の他に、「インチキ臭い」というような、 〜のように感じられる、 〜らしい、 意や、「面倒臭い」「てれくさい」のように、 いやになるほど〜だ、 という意で使われるが、とするなら、 紙衣なのに衣のように感じられる、 意で、 衣臭い、 と使われたものが、「臭い」の含意から、 臭い、 の意に引きずられて、 焦げ臭い、 となったのではないか、という憶測も成り立つのではないか。 衣臭い、 からの転訛なら、意味の外延の辻褄は合うのではないか。もちろん憶説だが、 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
「金柑頭」は、 きんかあたま、 と訓ませる。江戸語大辞典には、 きんかんあたま(古今三通伝「本卦がへりの隠居どのも、……きんかんあたまをふりたてて」天明二年)、 で載る。「きんか」は、 きんかん、 の転訛である。ただ、「金柑」も、 きんかん、 ではなく、 きんか、 とも訓ませる(岩波古語辞典)。 「金柑頭」は、 はげあたま、 の意である。 毛髪がなくて金柑(きんかん)のように赤く光った頭、 の意である(広辞苑)が、 老人の赤くはげた頭、 と限定的な使い方とするものもある(江戸語大辞典)。 きんかつぶり、 やかんあたま、 蠅すべり、 等々とも言い、 其の禿げ残りたる神に用ゐる元結を、きんか元結と云ひき、 とある(大言海)。 織田信長が、明智光秀を打擲するとき、いかに、きんかんあたま、のまふかのむまひか、一口返事をせよ、と罵れることあり(室町殿日記)、 酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(義残後覚)、 等々、光秀の渾名としても知られている。禿げていたのかもしれないが、信長は秀吉にも「はげねずみ」と(ねね当て手紙で)書いているので、「はげ」という呼称はよく言ったのかもしれないし、 「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説、 もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80)ので、実際に「きんかあたま」だったかどうかははっきりしない。 閑話休題。 「きんかあたま」の語源として、 キンカはキンカハ(金革・金皮)の下略(近世事物考・守貞謾稿・大言海)、 「きんかり」光るさまから、 等々がある(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)ともいわれ、弘化の頃(1845〜48)の近世事物考には、 きんかは、金皮の略語にて、老人頭上、はげ光りかがやけるを、金色の如しと、譬へしなり、延宝四年(1676)類船集と云ふ本に、うるはしき黒髪に油ひきたる、憎からず、きんかあたまの剃りたて、夜光の玉かとも疑へり、などとあり、 とある、とか(大言海)。ただ、 この語の使用時期より古くキンカン単独での例が見られるところから、直接的には柑橘類の「金柑」の形状からの連想が考えられるが、光るさまをいう擬態語「ぎんがり」との音の類似、また、「金」と光るイメージの類似など、複合的背景のあることも考えられる、 とある(日本語源大辞典)。金柑に準えた、とみていい。「金柑」(きんか)のみにても、 頭髪がなくてはげた頭、またその人、 の意が載る(日葡辞書・岩波古語辞典) しかし、果物の「金柑」は、 きんかん、 と訓ませる。 ミカン科キンカン属の常緑低木、 であり(広辞苑)、 ひめたちばな(姫橘)、 ともいい、漢名は、 金橘(きんきつ)、 という。果実は民間薬として咳や、のどの痛みに効果があるとされ、金橘(きんきつ)と称することがあるのは、この故である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3)。 「きんかん」の名の由来は、 黄金色のミカン(蜜柑)の意味から金橘、金柑の中国名が生まれて、日本ではそれを音読みしてキンカンとなった、 とある(仝上)。 中国から古く渡来したのはマルミキンカンで、江戸時代にナガミキンカンが入ってきた、 とある(たべもの語源辞典)。 皮に芳香があって、実は酸味を帯びるが、果皮は甘いので皮とともに生食する、 が(仝上)、果皮のついたまま甘く煮て、砂糖漬け、蜂蜜漬け、甘露煮にする。甘く煮てから、砂糖に漬け、ドライフルーツにすることもある、とか(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「赤福餅」は、 伊勢の名物餡餅(あんもち)。餅を淡泊なこし餡でくるむ。餡の表面に五十鈴(いすず)川の清流をかたどり、2本の指型をつける。日もちのよいことが特色、 とある(日本大百科全書)。 あんころ餅、 あんころばし餅、 の一種である。「あんころ餅」は、 餡の上に転ばしたる意、 である(大言海)。 餅を小豆でできた餡で包んだもの。餡が餅の衣になっていることから「餡衣餅(あんころももち)」と呼ばれ、それが「あんころ餅」になったという説がある。おはぎ、牡丹餅と同一視されることもあるが、中身が完全な餅であるという点でそれらとは区別されていることが多い、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%93%E3%82%8D%E9%A4%85)、 関西や北陸地方(特に京都・金沢)を中心に夏の土用の入りの日にあんころ餅を食べる風習があり、別名「土用餅(どようもち)」と呼ばれる、 ともある(仝上)。江戸時代、 疲れた旅人が食べやすい様に一口サイズになった、 ともいわれている(仝上)。ただ、「餡衣餅(あんころももち)」説については、 餡衣餅(あんころももち)は如何か、 と大言海は、疑問を呈している。 餡餅(あんもち)、 とも言うが、守貞謾稿には、 餡餅、今世、二種あり、一種は、餅を皮とし、小豆餡に砂糖を加へ、肉としたるなり、これを本とするなるべし、一種は、餅を中に、餡を以て包みたるものなり、俗に、餡ころ餅と云ふ、餡衣餅(アンコロモモチ)の略なるべし と(仝上)、 餡を中に包んだ餅、 と、 餡で表面をくるんだ餅、 とを区別し(デジタル大辞泉)、「あんころ餅」は後者に当たることになる。 なお、「餡」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%A4%A1)については、触れた。 赤福経営者である濱田氏は、濱田ます(8代当主・種三の妻、企業としての赤福初代社長)の口述によると、先祖は応永年間(1394年〜1427年)に宇治に移住して来た、 とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85)、「赤福」創業は、 宝永四年(1707)、 とある(https://www.akafuku.co.jp/ise/)。同年の小説『美景蒔絵松』に、 伊勢古市の女が「(恋仲になった男が)赤福とやら青福とやら云ふあたゝかな餅屋に聟に入りを見向きもしなくなってしまい、その裏切りがくやしうて泣いております」と嘆いた、 とあり、これが「赤福」の屋号の初出である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85・たべもの語源辞典)。また、薗田守理『秘木草紙』に、 古老の話として、昔の赤福はささやかな店で、今の濱田氏と血縁のない浜田という老女が経営していた、 ともある(仝上)。ただ『宇治昔話』にももてはやされているので、創業は、 少なくとも宝永年間(1704〜11)以前の創製、 と推測する説がある(たべもの語源辞典)。「赤福」とは、 「赤心慶福」(せきしんけいふく)、 に由来し、 赤とは赤心(まごころ)、福は幸福、つまり赤福とは、明るく清い心をもって人々が幸福を求める、 という意味で付けられた、とある(たべもの語源辞典)。「赤福」自体も、言い伝えによると、 京都から来たお茶の宗匠があんころ餅を「赤心慶福」と讃え、創業者の治兵衛がそれを聞き屋号と製品名に採用した、 としている(https://www.akafuku.co.jp/contact/qa/)。しかし、異説もあり、1895年(明治28年)の『神都名勝誌』は、 餡を入れた餅を大福と呼ぶ対比として、赤い餡をつけた餅であるから赤福と称した と推察している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85)。 初めは、 塩餡、 つまり、 塩で味つけをして練りあげた餡、 で、江戸後期に砂糖餡になった(仝上)。この時点では、 黒砂糖餡、 であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85)、白砂糖を使うようになるのは、明治末である(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「浅茅焼(あさじやき)」の「浅茅(あさじ)」とは、 一面に生えた、丈の低い茅(ちがや)、 をいう。「ちがや」は、 イネ科の多年草、 日当たりのよい空き地に一面にはえ、細い葉を一面に立てた群落を作り、白い穂を出す、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AC%E3%83%A4)。春、葉より先に柔らかい銀毛のある花穂をつける。この花穂を、 つばな、 ちばな、 といい、強壮剤とし、古くは成熟した穂で火口(ほぐち)をつくった。茎葉は屋根などを葺いた(広辞苑)。 万葉集に、春の蕾の時は、 戯奴(わけ)がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花(つばな)ぞ食(め)して肥えませ(紀女郎)、 とあるように、甘みがあって食べられる(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/tigaya.html)らしい。 「茅」(漢音ボウ、呉音ミョウ)は、 会意兼形声。「艸+音符矛(ボウ 先の細いほこ)」 であり、尖った葉が垂直に立っている様子から、矛に見立てたものであり、「ちがや」「かや」の意である。 和名「ちがや」は、 チ(茅)カヤ(草)の義、チ(茅)は千の義。叢生するより云ふか(大言海)、 チヒガヤ(小萱)の義(日本語原学=林甕臣)、 等々あるが、 「チ」は千を表し、多く群がって生える様子から、千なる茅(カヤ)の意味、 で名付けられた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AC%E3%83%A4)というのが妥当なのだろう。 「浅茅」は、 茅の丈の低いもの、 を指し、 浅は、低しの意、 とある(大言海)。 深しの対、 とあり(岩波古語辞典)、 アス(褪)と同根。深さが少ない、薄い、低いの意、 とある(岩波古語辞典)。「浅い」の語源には、 ウスシ(薄)のウスと同根(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、 アは発語、サシはサシ(狭)の義(大言海)、 アは輕いの音、サは小水の流れる音で狭小、薄いの意(日本語源=賀茂百樹)、 少量の水がサラサラ流れるさまから出た語(国語溯原=大矢徹)、 等々、種々あるが、それは、「浅い」が、 空間的に表面から底までの距離が近い、奥までが近い、 時間的に初めからの時間の経過が少ない、 色や香りが薄い、 程度が軽い、 社会な地位が低い、 心づかいが不十分、 等々の幅広い意味で使われているためである(広辞苑)。浅茅の生う原を、 浅茅原、 と呼ぶ。 茅生(ちふ)、 とも言う(大言海)。 さて、料理で「あさじ」という名は、 小麦粉に水と醤油をあわせてこねる。それにわらび穂を切って衣にまぶしつけてから油で揚げ、その上に唐きび粉を振りかけて出す、 とある(たべもの語源辞典)。これを「あさじ」と呼んだのは、 唐きび粉がばらついていること、 からとある(仝上)。茅のまばらに生えているのに準えている。 「浅茅焼」というのは、当て字なので、 浅路焼、 とも、 浅地、 麻地、 とも当て(仝上)、 キスなどの軽い味の魚を、うす塩をしておいてから味醂醤油に漬け、取り出してよく汁をふきとって、身と身をあわせて串に刺し、煎った白ごまを振りかけて焼く、 とある(仝上)。この白ごまのまばらについているのが、 茅の風情、 になる(仝上)、ということらしい。 ふりかけるものは、何でもよいが、一面にまばらに何かがついて焼かれているもの、 をいうらしい(仝上)。 「浅茅」の名の付くものに、 浅茅飴、 もある。 求肥の粉気をふきとって、白ごまの煎ったのを一面につけている、 ところからこの名がついた。 四角い求肥生地の周りにしろ胡麻をまぶし、浅茅が原に見立てた、 ものである(http://moroeya.co.jp/archives/23)。 求肥飴、 求肥餅、 浅茅餅、 とも称す、とある(仝上) 「浅茅和」は、 白の煎り胡麻で作った切りごまを砂糖、醤油等で味つけし、下処理を施した春菊や法蓮草などを和えた料理、 であり(https://kondate.oisiiryouri.com/asajiae-gogen-imi/)、 天明二年(1782)刊行の、豆腐を題材にした料理「豆腐百珍」に、豆腐百珍の佳品として、 浅茅(アサジ)田楽、 が、 稀醤(うすしやうゆ)のつけ炙(やき)にして梅醤(むめみそ)をぬりて、いりたる芥子を密にかける也 と載る。この芥子を掛けたさまが、茅に準えられている。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「あさつき」は、 浅葱、 糸葱、 と当てる(広辞苑)。 ユリ科の多年草、ネギ類で最も細い、ユーラシア大陸原産。各地に自生するが、野菜として栽培、葉とラッキョウに似た鱗茎を食用にする。春先の葉は美味、 とある(仝上)。ただ、 ヒガンバナ科ネギ属、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%84%E3%82%AD)。 センボンワケギ、 センブギ、 イトネギ、 ヒメエゾネギ、 とも言い(仝上・広辞苑)、漢名は、 蒜葱、 とある(仝上)。「葱」(漢音ソウ、呉音ス)は、 会意兼形声。「艸+音符怱(ソウ 縦にとおる、つつぬけ)」、 とあり、「ねぎ」の意である。和名抄には、 島蒜 阿佐豆木(あさつき)、 とあり(岩波古語辞典)、和漢三才図絵には、 胡葱(あさつき) 臭気浅于(より)餘葱、故名浅葱、津者仮名之助辞也、 葱・にんにく・ノビルなどを総称して蒜(ひる)とよぶが、このヒルに対してアサとしゃれた、 という説があるが、「浅」は、「浅茅焼」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E6%B5%85%E8%8C%85%E7%84%BC)で触れたように、 深しの対、 であり(岩波古語辞典)、 アス(褪)と同根。深さが少ない、薄い、低いの意、 である(岩波古語辞典)。だから、「浅葱」の語源としては、 根深とよばれる種類の葱に対して根が浅いから(物類称呼)、 他の葱に比べて臭気が浅いから(大言海・日本語源広辞典・和訓栞)、 根にラッキョウに似た鱗茎ができるが、これが浅いところにできるから(浅玉茎の意 日本語原学=林甕臣)、 アサは痩せと通じるから、痩せたキ(葱)(日本釈名・滑稽雑談)、 浅之葱(あさつき)の義(大言海) といった「浅い」の意味に関わる説(たべもの語源辞典)が多い、 島蒜と書いて、朝鮮語でアサツキと訓む(東雅)、 という説もあるが、「ねぎ」は、古名、 き、 と呼んだ。 アサ(浅)+ツ+キ(葱)で、ツは連体修飾を表す助詞と考えるのが妥当(日本語源大辞典)、 なのではないか。 「浅葱」は、 あさぎ、 とも訓ます。 緑かかった薄い藍色、 薄青、 である。「あさつき」と呼んだのは、 浅葱色(あさぎいろ)のように、葱の色が葉の緑よりも色が浅いから、浅つ葱(き)、 という意味もある(たべもの語源辞典)、としている。 また、「浅葱」は、 麦葱、 と当てて、 あさつき、 と訓ませる(仝上)。また、「浅葱」は、 千本分葱(せんぼんわけぎ)、 と当て、「千本」を、 ちもと、 と訓み、 せんぶぎ、 ともいう(仝上)。ただ、「分葱」(わけぎ)は、タマネギに似た球根性多年草であり、 ワケネギ(分け葱)、 とは別で、 ネギとタマネギの雑種または独立種として分類される、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B1%E3%82%AE)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「葱(ねぎ)」は、古名では「冬葱」「比止毛之」「祢木」とされ、 き、 ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AE)、とある。「き」は、 紀、 葱、 をあてる(和名抄)。 「ねぎ」は、また、女房詞では、 一文字、 と呼び、ニラを、韮(にら)の二文字に対して葱(き)の一文字だから、 二文字、 と呼ぶ(枝分れした形が「人」の字に似ているからという説もある)。根が深いので、 根深(ねぶか)、 とも呼んだ(たべもの語源辞典)。東日本では単に「ネギ」と言うと、 成長とともに土を盛上げて陽に当てないようにして作った風味が強く太い、 根深ネギ(長葱・白ネギ)、 を指し、他は「ワケギ」「アサツキ」「万能ネギ」「九条葱」などの固有名で呼んで区別をする。西日本では陽に当てて作った細い葉葱を、 青葱、 と言い、根深ネギは白ネギ、ネブカなどと呼ぶ場合もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AE,広辞苑)。蕪村の句に、 易水にねぶか流るる寒さかな、 芭蕉の句に、 ねぎ白く洗ひたてなる寒さかな、 がある(日本語源広辞典)。 古名「き」は、 気(き)の義、気(け)に通ず、其気、薫烈なり、 とあり(大言海)、「気」の、 香(か)、 の意である(仝上)。日本では古くから味噌汁、冷奴、蕎麦、うどんなどの、 薬味、 として用いられ、 硫化アリルを成分とする特有の辛味と匂いを持つ。匂いが強いことから「葷」の一つ「禁葷食」ともされる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AE)所以である。 「ねぎ」は、 根を賞するに因りて、根葱(ねぎ)と云ふ、 ということになる(大言海)。 古くはキといわれて、一音であったところから、女房詞でヒトモジ(一文字)とよばれるようになり、これが次第に一般にも広まった。同じころ白くて太い葉鞘に注目したと思われる「ネギ(根葱)」という呼び方も現れる、 とある(日本語源大辞典)。江戸語大辞典には、 ねぎ、 が載り、 ねぶか、 と意味が載る。 土中に深くある根を食べるところから、ネブカ(根深)ともいった、 とある(たべもの語源辞典)。この葉の色から、 浅葱色、 の名がつく。 葱のあさき色、 で、浅黄ではない(たべもの語源辞典)。 「ねぎ」の原産地はシベリア地方とされる。 中国西部に葱嶺(そうれい)という山脈があり、中央アジアのパミール高原が中国ねぎの原産地、 といわれる(仝上)らしい。日本に渡来したのは古く、 神武・応神・仁徳という所期の天皇の御歌にネギが出てくる、 とあり(仝上)、ネギの花の、 擬宝珠(ぎぼし)、 葱坊主(ねぎぼうず)、 は、その形から、 葱帽子(ぎぼし)、 といった。延喜式に葱花形とある。擬宝珠は、この葱帽子に似ているからついたもので、擬宝珠が当て字である、とある(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「べったら」は、 べったら漬の略、 の意である(他に、こんにゃくの味噌田楽を指す意もあるらしいが)。「べったら漬」は、 大根を塩と糠で下漬けをし、麹・砂糖などで漬けたもの、 の意で、 浅漬(あさづけ)、 である(広辞苑)。「浅漬」には、広く、 野菜を糠や薄塩で短時日漬けること、またその漬物、 を指し、 当座漬、 早漬、 一夜漬、 即席漬、 とも言うが、 べったら漬、 をも指す。 近世、大根漬の一種で、生干しの大根を甘塩であっさり漬けたもの、 を指し、女房詞で、 あさあさ、 京阪では、 あっさり、 東京では、 べったら、 といった(たべもの語源辞典)、とあるが、大言海は、 あさづけ、 を、 京阪にて大根、茄子などの漬物の名、 とあり、守貞謾稿も、 鹽麹に、生大根、生茄子、瓜の類を漬けたるを、京阪にて浅漬と云ひ、 とあり、さらに、大言海は、この「浅漬」は、 東京にては、大阪浅漬と浅漬大根と別つ、 としている。京阪で、「浅漬」といっているものと「浅漬大根」とは別物、ということである。 陰暦10月19日のえびす講の宵宮にべったら市が、日本橋旅籠町、人形町、小伝馬町、通油町にかけてたった。もとは、翌日のえびす講の支度に必要な土製・木製の恵比寿大黒・打出の小槌・かけ鯛・切山椒などを売った市であるが、いつのころからか安くてうまいといわれる浅漬大根を売る店がふえた、 とある(たべもの語源辞典)。織物商人が集まって市を立てていたものに、 周辺の農家でとれるダイコンを麹と飴(あめ)で加工して売り出したのが始まり、 といわれている(日本大百科全書)。浅漬売りは、 いずれも白シャツ紺の腹掛けに向こう鉢巻という威勢のいいいでたちで、町の両側にずらりと店を並べ、粕のべったりついたままの浅漬大根を売った、 とあり(仝上)、その売り子が、 女性客の着物の袖に「べったらだべったらだ」とはやしがら米麹をつけようとして売るのがスタイルだった、 とある(https://agri.mynavi.jp/2017_10_24_9154/)し、また別に、 きれいな着物をきた人たちが、縄でしばった浅漬をぶら下げて帰った。若者たちはたわむれて、わざと「べったら、べったら」といいながら女の着物につけようとする。売り手も「べったらべったら」と呼びながら売った。べったりと麹などが人々につくから、 ともある(たべもの語源辞典)が、いずれにしても、「べったらだべったらだ」とはやしたことから、この市を、 べったら市、 というようになり、べったら市で売られる浅漬を、 べったら漬、 と呼ぶようになった(仝上)らしいが、べったら漬け発祥の例祭の市が、 べったら市、 という名前に変わったのは、明治頃からとされる(https://agri.mynavi.jp/2017_10_24_9154/)ので、あくまで、 えびす講、 であった。 この「べったら」の由来には、 べったりの転(広辞苑)、 べちゃべちゃ、べたべた(擬態語)+漬物(日本語源広辞典)、 麹がべたつくところから(擬音語・擬態語辞典)、 麹がべとべとしていることから(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B9%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%89%E6%BC%AC)、 麹でべたべたしているところから(日本大百科全書)、 等々、大根を漬けた麹の付いている感触からきている、とみるのが妥当のようだ。少し違うが、 大根を薄塩と麹で浅漬けするとき、べったらべったらと手で打ちながら漬けるから、 とする説(たべもの語源辞典)、 漬けた大根の表面に漬け床の米麹がベタベタついていたから、 とする説(https://agri.mynavi.jp/2017_10_24_9154/)もある。 大根のおいしくなるのが冬なので、陰暦のこの時期はおいしかったが、明治以降陽暦で催すので、 本来のうまさは味わえない、 ともある(たべもの語源辞典)。江戸時代、 浅漬は大根を塩に糀(こうじ)を混ぜて漬け、50日ばかりで出した、 とある(たべもの語源辞典)が、 ダイコンは皮の筋目が残らないよう厚く皮をむき、塩で下漬けしたあと麹で本漬けにする。麹はぬるま湯で溶いて保温し、固めの甘酒にして用いると甘味が強くなる。下漬けしたダイコンは麹、砂糖をふりかけながら漬け込み、重石(おもし)をする。5日目くらいから食べられ、15日くらいが食べごろ、 ともある(日本大百科全書)。これを、 浅漬大根、 と呼ぶのは東京で、そのため、べったら市には、 関西の品もきた。浅漬大根を関西地方ではべったら漬といったので、これが江戸に入った、 という説もある(たべもの語源辞典)。大言海には、べったら市にて売る浅漬大根を、 関西地方にてはべったらづけなどと云ふ、 とあり、江戸では、 浅漬大根、 というのが本来のようだから、 関西由来、 という説には一理ある。大言海によれば、べったら市は、 くされ市、 とも言い、 元は専ら、掛鯛を売りしなるべし、遠く伊勢より來る鹽鯛にて、周期れば腐れと云ふ、 とある。江戸語大辞典にも、 夷講で蛭子神を祭るに必要な小宮・神棚・三方・小桶・俎板の類、また神前に供える掛鯛などを売る。この掛鯛が、もと伊勢から来たもので臭気があったので、この称がある、 とある。「蛭子神」は、『古事記』の国産みの際、イザナギ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神、子作りの際に女神であるイザナミから先に男神のイザナギに声をかけた事が原因で不具の子に生まれたため、葦の舟に入れられオノゴロ島から流された、 のを指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%B3)。流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。 『源平盛衰記』では、摂津国に流れ着いて海を領する神となって夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)、と記している。日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多い。ヒルコとえびす(恵比寿・戎)を同一視する説は室町時代からおこった新しい説であり、それ以前に遡るような古伝承ではないが、古今集注解や芸能などを通じ広く浸透しており、蛭子と書いて「えびす」と読むこともある。現在、ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られているが、恵比寿を祭神とする神社には恵比寿=事代主とするところも多い、 とある(仝上)。えびす講の「祭神」である。「掛鯛」というのは、 正月あるいは恵比須講に小ダイを二尾腹合わせにして、口と鰓に藁を通して結び、神棚の前または下に掛ける、 ことをいう(季語・季題辞典)。 こう考えると、「べったら」が、関西由来の言葉というのは、あながち的外れではないのかもしれない。 「えびす講」は、江戸時代の、 宝田恵比寿神社例祭の市に遡る、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B9%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%89%E6%BC%AC)。その由来は、馬込勘解由の碑(http://www.viva-edo.com/kinenhi/nihonbasi/bettara.html)に、詳しいが、宝田神社は、 慶長十一年(1606)の昔四百十余年前、江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村(現在鳥居内楓山付近)の転居を命ぜられましたので、馬込勘解由(かげゆ)と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申し上げ、住民を引率して此の地集団移転をしたのであります。馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時、三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申し上げたのが今日に至った、 とある(https://www.nihonbashi-edoya.co.jp/bettara/history.html)。そして、 宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄、火防の守護神として、崇敬者は広く関東一円に及び毎年十月十九日の「べったら市」二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます、 と(仝上)。守貞謾稿には、 十月十九日夜江戸大伝馬町、腐市、 とある(江戸語大辞典)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「たくあん」は、訛って、 たくわん、 とも言い、 沢庵、 と当てる。江戸初期の臨済宗の僧、澤庵宗彭(たくあんそうほう)のそれではなく、 沢庵漬、 の「たくあん」である。 干した大根を糠と塩とで漬けて重石(おもし)でおしたもの、 の意である(広辞苑)。「たくあん漬け」の呼び名は関東から発生したもので、京都では、 辛漬(からづけ)、 九州では、 百本漬(ひゃっぽんづけ)、 と称する、とある(https://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/1205/01a.html)。 この「たくあん」の由来に、沢庵和尚が絡んでくる。諸説あるが、 沢庵宗彭が創建した東海寺では、「初めは名も無い漬物だったが、ある時徳川家光がここを訪れた際に供したところ、たいそう気に入り、『名前がないのであれば、沢庵漬けと呼ぶべし』と言った」と伝えられるが、東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ、 と、沢庵創案とする説がある(広辞苑・日本語源広辞典・大言海)。本朝食鑑(1697)には、 香物…有百本漬者、……或称沢庵漬、 とあり、沢庵漬を百本漬の異称とし、沢庵和尚の在住した大徳寺から広まったところからの名称であるとしている(日本語源大辞典)。ちなみに、「百本漬」は、 大根百本が酒の四斗樽ひとつにおさまる量である、 ところから呼ばれたが、料理塩梅集(1668)の「大根百本漬」と「料理綱目調味抄」(1730)の「沢庵漬」の製法は糠・塩・麹の比率まで同じで、百本漬と沢庵漬とが同じものをさす(仝上)、と思われる。 沢庵創案については、当時も議論の対象になった由で、「物類称呼」(1775)は、 今按に、武州品川東海寺開山沢庵禅師制し給ふ、依て沢庵漬と称するといひつたふ、貯漬(たくはへづけ)といふ説有、是をとらず、又彼寺にて沢庵漬と唱へず、百本漬と呼也、 として、沢庵創案説を否定している。 沢庵と関わらせる説には、他にも、 沢庵和尚の墓(無縫塔)の形状が大根漬の圧石の形状に似ていたから(書言字考節用集)、 沢庵和尚の墓の形が大根漬の形に似ていたから(俗語考・すらんぐ=暉峻康隆)、 等々もある。俗語考(1841)には、 (沢庵)和尚の墓一個の圓石にして、其石の形、大根の香の物に似たり、故に粉の渾名をおふせたるが、和尚の名とともに世に広くひろまりたる也、 とある。沢庵説については否定説が多いが、 「沢庵」のような食べ物は、既に平安時代から作られていたとされ、沢庵和尚の説を否定されることもあるが、米ぬかが普及したのは江戸初期のため、一般に普及した際、沢庵和尚が何らかの形で関わっていたとも考えられる。また、「貯え漬け」や「じゃくあん」が音変化した後、沢庵和尚と関連付けられて「沢庵」の字が当てられたとも考えられ、どちらが先であるか不明である、 とみる見方もある(語源由来辞典)。しかし、たべもの語源辞典は、「たくあん」は、 沢庵(1573〜1645)が生まれる前からあったもので、沢庵が発明したというのは間違いである、 と明確に否定したうえで、 塩糠で乾大根を漬けたものを京阪では「香の物」とか「香々(こうこう)」とのみいい、それを江戸で沢庵漬といった。要するに、沢庵漬という呼び名は関東だけで他国には通じなかった。沢庵の「沢」は、うるおう、めぐみ、まじりけなし、つやつや、などの意味があり、「たく」とか「じゃく」とよむ。「庵」には、こじんまりと閉じこもることで、「いおる」(庵る)という。「いおり」には、落ち着く、沈む、耽るという意味がある。九州では、味噌や漬物は、かやぶきの庵に貯えて、塩むしろをかぶせて大切に保存していた。「じゃくわん」(沢庵)というのは、大根に限らず、すべて糠と塩で漬け込んだものをいい、「じゃかん」とも言った。京都の辛漬、九州の百本漬は、沢庵(じゃくあん)ともいった、 とし、 じゃくあん→じゃかん→(「沢庵」の訓みから)→たくあん→たくわん、 と転訛した、とする。一応この転訛説は説得力がある。 「たくあん」の由来については、確かに、 「混じり気のないもの」という意味の「じゃくあん漬け」の転訛(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E6%BC%AC%E3%81%91、語源由来辞典)、 「貯え漬け(たくわえづけ)」が転じた(袂草・日本語源広辞典・大言海)、 と同趣の説があり「たくあん」は主に関東で使われていた呼び名で、西日本では「百本漬」や「香の物」と呼んでいたため、 じゃくあん(漬)、 は「沢庵(漬)」の転訛とする見方はある(語源由来辞典)。ただ、保存漬であるから、 貯え漬け、 が転訛して「沢庵漬」となった、とする説はたべもの語源辞典が否定している。また、その他、 比叡山には元三大師こと慈恵大師良源(912年-985年)が平安時代に考案したとされる「定心房(じょうしんぼう)」と呼ばれる漬物が伝えられており、これを沢庵漬けの始祖とする説(司馬遼太郎『街道をゆく16 叡山の諸道』)もある。これは丸干しした大根を塩と藁で重ね漬けにしたものであったとされるが、現在「定心房たくあん」として販売されているものは一般的な糠漬けの沢庵である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E6%BC%AC%E3%81%91)。 糠が江戸初期以降としても、塩や麹によるものは既にあったと思われる。だが、 江戸時代の初期に白米を食べるようになったことから、その副産物として生まれる糠を用いることで、広く普及するようになった、 と言われる(http://www.kyuchan.co.jp/takuan/)のは確かで、ただ、なぜそれに沢庵和尚が結びつけられたのは、転訛の過程で、 沢庵、 と同じ字の「沢庵」和尚か付会されたにすぎない気がする。 なお、沢庵の主な生産地は九州や関東で、それぞれの産地で製法や味覚は若干異なり、ひとつは、 「干した大根を漬け込む」方法。天日で干して大根の水分量を調整し、歯ごたえや甘味を引き出してから漬け込む昔ながらの製法、 があり、いまひとつは、 「大根を塩押ししてから漬け込む」方法。収穫した大根を塩分によって脱水して旨味を引き出してから漬け込んでいく製法、 後者から生まれる沢庵はソフトな食感で現代の食生活に溶け込んでいる、とある(仝上)。 なお、「ぬか」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%AC%E3%81%8B)については、すでに触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「おしんこ」は、 御新香、 と当てる(広辞苑)。 しんこ、 の意である。 新香、 しんこうの約、 である。 新しい香の物、 つまり、 新着け、 の意である。「しんこう(新香)」「おしんこう(御新香)」「おしんこ」は、 かつては新鮮な野菜の色を失わない浅漬けの物、 を指したがが、今日、 漬物、 の意で用いる。多く、関西では かうかう、 かうこ、 おかうこ、 は、今日、 沢庵漬、 を指し(大言海)、「おしんこ」も、 沢庵漬け、 をさすことが多い、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%AC%E7%89%A9)。 「漬物」を、 こうこう(香々)、 おこうこう(御香々)、 こうのもの(香の物)、 等々と呼ぶのは、 こうのもの(香の物)、 からきている(仝上)。 「香の物」の「香」は、 味噌、 を指す(江戸語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%AC%E7%89%A9・大言海・大日本国語辞典・碩鼠漫筆等々)、とする意見が大勢だが、たべもの語源辞典は、それを否定し、 においがたかいものということで香物とよぶ。奈良時代に漬物がはじまる。香(か)は気甘(きあま)、あましは、あーうましの意である。香物は、うまいにおいをもったたべものの意。大根・瓜など味噌の中につけて味噌の香気をうつしたので香物という説があるが、味噌だけでなく、塩・味噌・酒粕などに漬けた蔬菜でにおいのあるものを香物という、 とする。確かに一理あり、味噌だけではない気がするが、「味噌」を、女房詞で、 香、 と呼んだことは確かで、室町時代の大上臈御名之事には、 女房詞、汁のしたりのミソを、カウの水と云ふ、 とあり(大言海)、江戸初期の慶長見聞集には、 凡そ味噌と云ふことを香と云ふ、みそは、一切の物に染みて匂ひよく、味よき故に、香と名づけたり、 とある。また、雍州府志(1684)によると、 木芽漬はアケビ,スイカズラ,マタタビなどの新芽を細かく切って塩漬にしたもの,烏頭布漬はいろいろな植物の新芽をとりまぜて塩漬にしたものであった。室町期には,香(こう)の物,奈良漬といったことばが現れてくる。前者は,みその異名を〈香(こう)〉というところから,本来はみそ漬をいったことばだとされる、 とある(世界大百科事典)。ただ、だから、香の物が、 味噌漬、 の代名詞だったかどうかまでははっきりしない。岩波古語辞典は、 野菜を味噌・酒粕・糠・塩などで漬けた、 とある。糠は「沢庵」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%93)で触れたように、米ぬかが普及したのは江戸初期だが、必ずしも味噌だけではないのではあるまいか。だから、 香りのするもの(香+の+物)(日本語源広辞典)、 カウは香々の略か(於路加於比)、 カウ(糠)の物か(和句解)、 香を判別するには、漬物の匂をかぐことによって香の混同を防ぐことが出来ることから、漬物を香の物という(四方の硯・孝経楼漫筆)、 等々、「香り」由来とする説が多いが、味噌のみに限定する必要はなさそうに思うのだが。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「糠味噌漬」は、 糠味噌に漬けた漬物、 の意で(広辞苑)、 塩糠に生大根・生茄子・生瓜を漬けたもの、 とあり(江戸語大辞典)、守貞謾稿には、 京阪にては浅漬と云、江戸にては糠味噌漬と云、 とある。 どぶつけ(溝漬)、 ぬかづけ(糠漬)、 ともいう(大言海)が、「糠漬け(ぬかづけ)」は、 乳酸菌発酵させて作った糠床(ぬかどこ)の中に野菜などを漬け込んで作る糠味噌漬け(ぬかみそづけ)、どぶ漬け、どぼ漬けとも呼ばれるもの、 と、 大根を漬けた沢庵や糠ニシン、糠サンマのように材料に塩と糠をまぶして漬けたもの、 の双方を呼ぶ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0%E6%BC%AC%E3%81%91)ともあり、「糠漬」の概念の方が広く、厳密には、 米ぬか・塩・水を混ぜ、乳酸発酵させて作ったぬかみその漬け床(ぬか床)に野菜などを漬け込むこと、 をいう(世界の料理がわかる辞典)のだろう。 糠床で作る糠漬けでは、一般に胡瓜、茄子、大根といった水分が多い野菜を漬け込むことが多い。このほかにも肉、魚、ゆで卵、蒟蒻など多様な食材が利用される。あまり漬かっていないものは「浅漬け」「一夜漬け」と呼ばれ、長く漬かったものは「古漬け」「ひね漬け」などと呼ばれる(仝上)、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0%E6%BC%AC%E3%81%91)。 「糠味噌漬」は、 糠に鹽を混ぜ、麹などを加えたりして、桶に貯えておき、これに蔬菜などをつけて香の物にするのが糠漬、 である(たべもの語源辞典)。「糠漬」を、 糠味噌漬、 と呼んだのは、 古くは味噌としてつくった、 からである(仝上)。 糂粏(じんだ)味噌、 じんだ、 ささじん(酒糂)、 などといい、糠味噌を汁にして食べたからである。これを、 糠味噌、 と呼んだが、後に、糠漬を、 糠味噌、 というようになった(仝上)、とある 貞丈雑記(1784頃)に、 甚太味噌はぬかみその事なり。味噌の作り様に米の糠を入て作るみそあり。その事也、 とある(精選版日本国語大辞典)。「糂粏(味噌)」は、 五斗味噌、 後藤味噌、 をも指し、 大豆・糠ぬか・米麴こめこうじ・酒粕さけかす・塩をそれぞれ一斗ずつ混ぜて熟成させた味噌、 を指す(大辞林)。 糂汰の「糂」はサン、慣用音がジンである。糂は糝と同じである。糝(こながき)は羹に米の粉を混ぜて煮立てたものである。糂粏・糂汰・糝汰とも書く。いずれも「ぬかみそ」のことである、 とある(たべもの語源辞典)。「羹」は「羊羹」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E7%BE%8A%E7%BE%B9)で触れた。 平城京跡から出土した木簡に記された須須保利(すずほり)という漬物は、臼で挽いた穀類や大豆を塩と混ぜて床にした。現存はしないが、糠漬けの原型と推測されている。現在の形の糠漬けが出来たのは、江戸時代初期と言われている。須須保利の穀類・大豆の代わりに、精米の際に出る米糠を使った、 のである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0%E6%BC%AC%E3%81%91)。糠に含まれる豊富な栄養を除いた白米に偏重した食事は脚気をもたらし、「江戸患い」と呼ばれた。漬け込みの過程で糠のビタミンB1が野菜に吸収されるため、糠漬けを副食とすることである程度、脚気を防ぐ効果があったと考えられている(仝上)、とある。 なお、「糠」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%AC%E3%81%8B)、「味噌」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%91%B3%E5%99%8C)、については、すでに触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「麹」は、酒さけ・味噌・醤油などに加工するため、 米こめ・麦むぎ・大豆といった穀類を蒸したものに、コウジカビなどの発酵に有効な黴かびを中心にした微生物を繁殖させたもの、 の意である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%98)。 「麹」(キク)は、 会意兼形声。「麥+音符掬(キク 掬手で丸く握る)の略体」。ふかした麦や豆を丸くにぎったみそ玉、 とある(漢字源)。「糀」(こうじ)は、国字。 会意。「米+花」・蒸し米の上に、花が咲いているように繁殖することを表す、 とある(仝上)。 糀の字をも用ゐるは、米花(黴)の合字、 とある(大言海)。 「かもす」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464017690.html)で触れたように、「麹」「糀」両字の区別は,意味上ないが, 「糀」:米を醸造して作った物 「麹」:大豆・麦を醸造して作った物 「こうじ」を醸造するための元になる菌(種)のことも「麹」の漢字を使用しています。 と,ある味噌屋のサイトでは区別していた(http://www.izuya.jp/daijiten/kouji-a_5.html)。古くから利用されているのは、 黄麹、 で、 味噌、醤油、日本酒、酢、味醂などを醸す代表的な菌種、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%B9)。 和語「こうじ」の語源は、 かびだち(黴立ち)→かむだち→かうだち→かうぢ(大言海・日本紀和歌略註・類聚名物考・箋注和名抄・名言通・音幻論=幸田露伴)・日本語源広辞典、 とするのが多数派である。確かに、平安中期の倭名抄(和名類聚抄)に、 麹、加無太知、 とあり、平安末期の類聚名義抄にも、 麹、カムタチ・カムダチ、 とあるが、しかし、 カビダチ(黴立)→カムダチ→カウダチ→カウヂと音韻変化した説が有力。中世の古字書にはカウジしかみられず、「ヂ」の仮名遣いに疑問の声もある(語源由来辞典)、 類聚名義抄などに「麹」を「カビダチ」(黴立ち)と訓ずるのに拠り、この転訛(カビダチ>カウヂ>コージ)とする説もあるが、このような変化は不規則であることに加え、「ヂ」で終わる語形は実際には確認されていない(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%B9)、 等々とする見方があり、断定しがたい。漢字側からは、 麹子(きくし)が訛って「コウジ」となり、日本語化した(漢字源)、 との見方があるが、 応神天皇のころ朝鮮から須須許理(すずこり)という者が渡来して,酒蔵法を伝えて,麹カビを繁殖させることを伝えた、 とある(たべもの語源辞典)ので,この説にも説得力がある。ただ、 かもす(醸す)の連用形「かもし」が、ウ音便化により、カモシ>カウジ>コージと、転訛した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%B9・語源由来辞典)、 カムシの転(語簏)、 口の中で噛んでつくったものであるから、カムダチである。カムダチ(醸立)がカムチとよばれ、コウヂとなった(たべもの語源辞典)、 とする説も、一応の説得力がある。特に、たべもの語源辞典の説は、 カビダチ→カムダチ→カウダチ→カウヂ、 の転訛ではなく、 カムダチ(醸立)→カムチ→カウヂ、 と、「醸す」を出発点とする考え方になる。 「かもす」は, 醸す, と当てるが,古語は, か(醸)む, である(岩波古語辞典)。 もと,米などを噛んで作ったことから、 であり(仝上)、 カム(醸)は,口で噛むという古代醸造法、 らしい(大言海)。字鏡には 醸,造酒也、佐計加无、 名義抄(類聚名義抄)には、 醸、カム、サケカム、サケツクル、カモス、 とある。しかし、これは、 カム(噛む)はカム(嚼)に転義して食物を噛み砕くことをいう。米を噛んで酒をつくったことからカム(醸む)の語が生まれた。〈すすこりがカミし神酒にわれ酔ひにけり〉(古事記)。(中略)酒を造りこむことをカミナス(噛み成す)といったのがカミナス(醸み成す)に転義した。カミナスは,ミナ[m(in)a]の縮約で,カマス・カモス(醸す)になった、 と(日本語の語源)いうように,あくまで、 醸造の方法、 を指していて、これ自体は、「麹」の由来の説明にはなりそうもない気がする。それに,「かも(醸)す」という言葉から,それの原因になる「麹」を抽象化するほどの語彙力を、われわれはもたなかったのではないか、という気がしてならない。その意味では,「かもす」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%99)で触れたことと同じく、やはり、 麹子(きくし)→こうじ, の転訛が捨てがたい。 なお、「酒」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E9%85%92)、「味噌」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%91%B3%E5%99%8C)、「醤油」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E9%86%A4%E6%B2%B9)、については触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「福神漬」は、 漬物の一種で、大根・茄子・鉈豆(なたまめ)・白瓜・蓮根・生薑・紫蘇の実など七種の野菜を塩漬けにしたものを細かく刻み、塩抜きをしたのち圧搾して、砂糖・醬油などに漬け込んだもの、 であり(広辞苑)、 七種の材料を用いたことから、七福神にちなんで命名した、 とある(大辞林)。七種の具は、 大根・茄子・鉈豆(なたまめ)・白瓜・蓮根・生薑・紫蘇の実(広辞苑)、 大根・なす・かぶ・なた豆・しその実・うり・れんこんなど7種類(世界の料理がわかる辞典)、 茄子・瓜・生薑・紫蘇・刀豆(なたまめ)・小蕪の出盛りのものに、乾大根を加へ(大言海)、 ダイコン、ナス、カブ、ナタマメ、ウド、シイタケ、シソの実、ショウガ、タケノコ、ニンジン、蓮根などを適宜(日本大百科全書)、 大根・ナス・ナタマメ・蓮根・胡瓜・シソの実・椎茸等(https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E6%BC%AC)、 大根・茄子・鉈豆(なたまめ)・蓮根・生姜・紫蘇の実・筍(語源由来辞典)、 茄子・蕪・大根・なた豆・紫蘇の実・うど・筍・蓮(たべもの語源辞典) と、それぞれ微妙に違うが。 由来については、 寛文12年(1672年)、出羽国雄勝郡八幡村(現・秋田県湯沢市)出身の了翁道覚が、上野寛永寺に勧学寮を建立した。勧学寮では寮生に食事が出され、おかずとしては、了翁が考案したといわれる漬物が出された。ダイコン、ナス、キュウリなど野菜の切れ端の残り物をよく干して漬物にしたもので、輪王寺宮がこれを美味とし「福神漬」と命名、巷間に広まった、 とする説(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E6%BC%AC)と、 明治時代初頭、東京・上野の漬物店「山田屋」(現在の酒悦)の店主・第15代野田清右衛門が開発し、自分の経営する茶店で売り出したところ評判となり、日本全国に広まった。名づけ親は、これを大いに気に入った当時の流行作家「梅亭金鵞」で、「ご飯のお供にこれさえあれば他におかずは要らず、食費が抑えられ金が貯まる(=家に七福神がやってきたかのような幸福感)」という解釈で、7種類の野菜を使用し店が上野不忍池の弁才天近くにあった事から「福神漬」と命名されたとされ、日暮里の浄光寺に表彰碑が存在する。また、この名称が広がる事を願った清右衛門は、商標登録をしなかった、 とする説(仝上)がある。碑は現在でも、 西日暮里の淨光寺に「福神漬発明者野田清右衛門表彰碑」、 として現存している(https://pando.club/post-1604)、という。一般には、後者が大勢で、発案者は初代野田清右衛門、とするのは、たべもの語源辞典で、こう記している。 清右衛門は伊勢山田の出身で、延宝三年(1675)に江戸に出て山田屋を名乗り、東海地方から乾物を引いて業とし、初めは本郷元町に店を構えたが、後、上野に移った。その店は香煎(こうせん)屋といわれた。江戸末期の大名・旗本屋敷などでは縁起をかついで茶を用いない風習があったが、町家の人々もこれにかぶれて婚礼などの祝儀には茶は仏事のものとして嫌がった。今日でも結婚式に桜湯を飲んでいるのはその名残りである。香煎屋は、神仏両用のものを売るが、一般に茶の代用品としては山椒や紫蘇の実などの塩漬けに白湯をさして飲んでいた。山田屋は東叡山輪王寺の御門跡の宮様に出入りしていたので、「酒悦」の屋号を賜って江戸名店の一つになった。そして清右衛門は、茄子・蕪・大根・なた豆・紫蘇の実・うど・筍・蓮などを細かく刻んで、味噌醤油で下漬けをしてから、水飴などを加えて再び煮詰めた味噌醤油に漬け込んだ新製品をつくりだした。それを小石川指ガ谷町に住む梅亭という趣味人のところへ持っていき、試食してもらった、 と。で梅亭が、「酒悦は不忍池の弁財天に近いから七福神に見立てて『福神漬』と命名し、その材料も七種にするとよい」と教え、「この漬物を常用するときは、他に副食はなくても済むから贅沢をせず、知らず知らずに財宝がたまって福が舞い込む」と書いて引札をつけるとよいと勧められた、とある(仝上)。それが明治18年(1885)、という。このために、10年以上かけた、ともある(https://pando.club/post-1604)。 命名の謂れについては、別に、この「漬物」を、 明治19年(1886)上野公園に日本釈名水産会第一回品評会が開かれた時、会の幹部のものが試食して「これは着想もよし味もよいから」と、会場の売店に出品販売させ、初めて命名された、 ともある(たべもの語源辞典)。二説のいずれとも決めかねるが、もともとあったものに清右衛門が、工夫を加えたものなのかもしれない。なお、カレーライスの定番となったについては、 大正時代(1902、1903年説あり)に日本郵船の欧州航路客船で、一等船客にカレーライスを供する際に添えられたのが最初であり、それが日本中に広まったとされる。福神漬が赤くなったのは、インドカレーの添え物であるチャツネに倣ったという、 説がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E6%BC%AC)由で、 昭和初期、軍隊で支給された缶詰の福神漬は砂糖で甘く味つけされており、人気を得るに至った。これを故郷に持ち帰った将兵により甘口の福神漬は全国に広まることになる、という(仝上)。 因みに、「福神」とは、 財物にめぐまれるしあわせを授ける神、 いわゆる、 福の神、 で、福をもたらすとして日本で信仰されているのは、 七柱の神、 である。つまり、一般的には、 恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天、 とされており、それぞれがヒンドゥー教、仏教、道教、神道など様々な背景を持っている、とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%A6%8F%E7%A5%9E)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 福神漬(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E6%BC%AC)の材料になることで知られる、 「ナタマメ」は、 鉈豆、 と当てる。 刀豆(トウズ、タチマメ、ナタマメ)、 帯刀(タテハキ)、 とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A1)。日本には江戸時代初頭に清から伝わった。約25cmほどの豆果を結ぶ。以前から漢方薬として知られている、とある(仝上)。また「ジャックと豆の木」のモデルともいわれる。 マメ科1年草としては最大級の植物で、丈は5メートル以上、サヤも40〜60センチまで大きく太く成長します。サヤの中の種子も3センチ程の楕円形の大きさになります。大きなマメとしてなじみのあるソラマメが約2センチですから、それよりもひとまわり大きな豆です、 とある(http://www.yoshitome.co.jp/natamame/)。その大きさは、 熱帯アジア原産、 といわれる(広辞苑)と納得できる。九州地方、とくに鹿児島に栽培が定着した、とある(仝上)。 福神漬には、 ナタマメの未熟な莢を薄くむ小口きりにしたものが入っている、 という(たべもの語源辞典) 「農業全書」(1696年)の中で「刀豆」として記載されている(仝上)。 サヤの形が、刀や刃物のなたに似ている、 から「刀豆」と表記され「なたまめ」と呼ばれるようになった、とある(仝上)が、 切ったものも剣に似ているが、サヤ全体の形が刀に似ているから刀豆と書き、また、幅広く厚みがあり鉈に似ているからナタマメといった、 というところだろう(たべもの語源辞典)。別名の「タテワキ(帯刀)」も、 莢の形、 に由来する。「帯刀」(たてわき)は、 たちはき(帯刀)、 といい、 太刀佩(は)きの義、 とある(大言海)ように、 刀を帯びる、 意であり、音便で、 タテアキ、 タテハキ、 とも。 古代、春宮(とうぐう)坊の舎人監(とねりのつかさ)の役人で、皇太子の護衛に当たった武官、舎人の中で武術に優れたものを任じ、特に帯刀させた、 ので、 帯刀舎人、 ともいい、要は、 禁中の滝口、院の北面の如し、 と(大言海)、「侍」と関わることから、とみられる。「ナタマメ」の形から、 延べうちで、平たく短く、鉈豆の莢に似せた形のキセル、 つまり、 鉈豆煙管、 の意でもある。 ナタマメの花は、まず本のほうから末に向かって咲いて、つぎに、ふたたび末から本へ咲き下がって来る、 ので(たべもの語源辞典)、 もとに還る、 という意味で、 旅行・出立の祝いの膳にナタマメを付けるところがあった(仝上)、という。また、 ナタマメ二個をお守りとして持っていれば無事に戻ることが出来る、 というので四国巡礼の人々がこれを持ち歩いた、ともある(仝上)。「ナタマメ」は、 ぐんぐんと勢いよく生長することから、鹿児島では縁起の良い豆、商売繁盛のお守りとして親しまれてきました。また、地方によっては、花が絶え間なく咲くことから子孫繁栄の縁起物として扱われることもある、 らしい(http://www.yoshitome.co.jp/natamame/)。 「なたまめ」の薬効としては、 血行促進や免疫力の向上などのさまざまな効果があるほか、昔から排膿(膿を出す)の妙薬と言われており、腎臓に良く、蓄膿症、歯周病や歯槽膿漏の改善、痔ろうなどにも効果がある。他の野菜の病害虫の防止用として周囲に植えられることもある、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A1)、 白ナタマメは、ナンテンの葉と同じように解毒に効き、のどがはれてつまったとき、ナタマメを粉末にして服用すると治る、 ともある(たべもの語源辞典)。江戸語大辞典には、 鉈豆枳殻(からたち)の気遣い、 という言葉が載り、 癲癇もちにたべさせると発作を起こす、 として、鉈豆をたべさせて、病歴の有無を調べた、ともある。本草網目には、なた豆の効用として、 腎を益し、元を補う、 とあり、 「腎」の機能を高めて、病気に負けない免疫力をもたらす生薬、 とされているらしい(http://www.wakasanohimitsu.jp/seibun/sword-bean/)が、この記述の真偽は確かめられなかった。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「七福神」は、一般的には、 恵比寿、 大黒天、 福禄寿、 毘沙門天、 布袋、 寿老人、 弁財天、 の七柱の、 福の神、 つまり、 福をもたらす神、 とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%A6%8F%E7%A5%9E、大言海他)。 大黒柱(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E5%A4%A7%E9%BB%92%E6%9F%B1)で触れたことがあるが、ヒンドゥー教の神である大黒を台所の神として祀ることは最澄が比叡山で始め、歴史的な経緯はよくわかっていないが、平安時代以降、京都の鞍馬の毘沙門信仰からはじまった毘沙門天を恵比寿・大黒に加え、三神として信仰されることが起こり、平安末期〜鎌倉初期の頃、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになると毘沙門天ではなく「恵比寿・大黒・弁才天」とするケースも増えた。室町時代、仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まったものである、とされる(仝上)。東山文化の時代、中国の文化に影響され、『竹林七賢図』に見立てて七福神としたのではないか、とされる(仝上)。 七福神のメンバーが確定したのは江戸時代といわれ、 寿老人の代わりに吉祥天・お多福・福助・稲荷神・猩猩・虚空蔵菩薩[が入れられる、 とか、宇賀神・達磨・ひょっとこ・楊貴妃・鍾馗・不動明王・愛染明王・白髭明神が七福神の一人に数えられたりと、入れ替わりがあったらしい(仝上)。中国には、 八仙(八福神)、 があり、実在の人物(仙人)とされているが、これが七福神の元型ではないかという説もある(仝上)。 七福神の「七」は、仁王般若経にある、 七難即滅(しちなんそくめつ)、七福即生(しちふくそくしょう)、 に基づく聖数七に由来する(日本伝奇伝説大辞典)とされているらしい。法華経では、 火難、水難、羅刹(らせつ)難、王難、鬼難、枷鎖(かさ)難、怨賊難、 の七難、仁王般若経では 日月失度難・二十八宿失度難・大火難・大水難・大風難・亢陽(こうよう)難・賊難の、 の七難を消滅すれば、七福が生ずるという信仰である、とされる(仝上)。 しかし、それにしても、 七変化、 七化、 七光、 七難、 七星、 七生、 七転八起、 七宝、 七珍、 七草、 等々、七を付ける言葉は結構ある。なぜ「七」なのだろう。八福神でもいいはずだ。「八」は、末広がりで縁起がいい数字という含意もある。 「七」についての説明に、 10は全部 9はほぼ全部 8は無限とほぼ同じような意味に使われていますが、その一歩手前ということで、多いと言う意味で使われます、 との説明がいくつかある(https://oshiete.goo.ne.jp/qa/1798289.html、https://okwave.jp/qa/q1798289.html)。七福神もそうだとして、 七不思議、 というように、代表的なものを「七」挙げるという使い方もあるので、必ずしも、 多い、 という含意で使われているとは思えない。ある意味、「七」の列挙で、 凡てを尽くしている、 という含意ではないか。それに、五節句の、 人日(1月7日) 上巳(3月3日) 端午(5月5日) 七夕(7月7日) 重陽(9月9日) のなかでも、重陽は、漢代には、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となった、とされるほどで、「九」も、 九仞、 九死、 というように、あと一歩という含意でも使われるが、 九曲、 九死、 九折、 等々、 数が多い、 の意で使われている。「九」(漢音キュウ、呉音ク)の字は、 象形。手をまげて引き締める姿を描いたもので、つかえて曲がる意を示す。転じて、一から九までの基数のうち、最後の引き締めにあたる九の数、また指折り数えて、両手で指を全部引き締めようとするとき出てくる九の数を示す。究(奥深く行き詰まって曲がる最後のところ)の音符となる、 とある(漢字源)。「七」(漢音シチ、呉音シツ)は、 指事。縦線を横線で切り止め、端を切り捨てるさまを示す。また、分配するとき、三と四になって、端数を切り捨てねばならないことから、中途半端な印象をもつ數を意味する、 とあり(仝上)、特に、 數が多い、 という意味ではなく、むしろ中途半端な含意の方が強い。 「七」の説明の中で、 中国,文体の一種。押韻した文で,全体が8段から成り,そのうち7つの問答を含むのでこの名がある。内容は人の重んずべき道を説くのを目的としたものが多い。『楚辞』の『七諫』をその源流とし,題名もこれにならってすべて「七」の字で始る2字から成る。前漢の枚乗 (ばいじょう) の『七発』,六朝時代魏の曹植の『七啓』,晋の張協の『七命』などが有名、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)のが唯一だが、これは、「七」の謂れがあって、「七諫」「七命」等々と、「七」でつくしている含意が出てくるので、なぜ「七」の説明にはなっていない。 ここからは、憶説になるが、易経の「八卦」と関わるのではないか、と思う。 昔者聖人の易を作るや、まさにもって性命の理に順わんとす。ここをもって天の道を立つ、曰く陰と陽と。地の道を立つ、曰く剛と柔と。人の道を立つ。曰く仁と義と。三才を兼ねてこれを両にす、 易に太極あり、これ(陰陽の)両儀を生ず、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず、 とある。 天地人、 と 四象、 つまり、 老陽、 少陽、 老陰、 少陰、 と。八卦のもとは、老陽、少陽、老陰、少陰の四象であり、四象のもとは、陰陽の両儀であり、そして陰陽を統べるものとしての、 太極、 を挙げる。易は、 陰陽二爻を重ねること三にして、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の八卦をなす。これを自然に当てはめれば、 天・沢・水・雷・風・水・山・地、 となる。つまり、 太極、陰陽、老陽、少陽、老陰、少陰の四象、 の七つで、世界を表現している。ここに、「七」の意味の背景があるのではないか。多く、という意味よりは、それで、すべてを尽くす、という含意である。ま、憶説ですが。。。 参考文献; 高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 「集め汁」とは、 大根・牛蒡(ごぼう)などの野菜や豆腐・串鮑(くしあわび)・干し魚など、種々の材料を取り合わせて煮込んだ味噌汁、またはすまし汁、 の意で、 邪気を払うとして5月5日に食べるもの、 とされた(デジタル大辞泉)、とある。そのため、 五月汁、 とも言い、 現在も鹿児島に残っていて、鯛・大根・牛蒡・椎茸・油揚げなどを味噌汁にして粉山椒をふりこんで食べる、 とある(たべもの語源辞典)。古くは、 骨董(あつめ)汁、 とも当て、 室町時代の礼法をつかさどる小笠原備前守政清が、1504年(永正1)に書いた文書に、すでにその名が出ている、 とある(日本大百科全書)。 昔、貴族や武将たちが客人の息災を願ってもてなした集め汁はいわば格上のお味噌汁でした。主人側は遠くから海産物を運ばせたり、空に飛ぶ鳥を撃ち落としたり、山や畑の美味なる食材集めるのに走り回ったわけで、まさにご馳走! ともあり(https://www.yamabukimiso.jp/post_column)、それだけの具材を集めること自体が、確かに馳走であった。 「馳走」とは、文字通り、 走り回ること、 であり、さらに、 もてなしのために奔走すること、 であり、その奔走する意から、 もてなし、 に意に、さらに、 酒食などで饗応する、 へと意が転じた。その意味では、文字通りの「ご馳走」であった。 「集め汁」の由来は、 たくさんの具材を集めるから「集め汁」、 とも、 羹汁(あつものじる)があつめ汁になった、 とも、 羹汁の熱い汁ものが集め汁になった、 と諸説あるようだが(たべもの語源辞典・https://biyori.shizensyokuhin.jp/articles/707その他)、 品々を集めた汁を名にした、 のではないか(たべもの語源辞典)。 安土桃山時代の初期、天正年間(1573〜1592)に扱われた安土城の料理献立集のなかに、集め汁の中身を、 いりこ、くしあわび、ふ、しいたけ、大まめ、あまのり、 とある(仝上)。寛永二〇年(1643))版の『料理物語』には、 中味噌だし加えよし、またすましにも仕候、大根、午蒡、芋、豆腐、筍、串鮑(くしあわび)、煎海鼠(いりこ)、つみ入など入れてよし、その外いろいろ、 あり、天正年間とさほど変わっていない(日本大百科全書)。 天明五年乙巳(1785)の『鯛百珍』には、薩摩鯛の集め汁が載り、具は、 鯛・椎茸・油揚げ・大根・ごぼう・焼豆腐・ねぎ、 で、 椀よりも高くもりあげて出すなり、 とある(https://www.ginza-mikawaya.jp/?mode=f54)とか。 「集め汁」に似た汁物として、 旧暦の12月8日、2月8日の「事八日(ことようか)」に無病息災を祈って食べる習慣があった野菜たっぷりの味噌汁、 お事汁(おことじる)、 というものもある(https://esdiscovery.jp/sky/info01/food_menu002.html)、とある。別名、 六質汁(むしつじる)、 とも呼び、 芋・大根・人参・ゴボウ・小豆・コンニャク、 の6種類の具材を入れていたことから、そう呼ばれた。やはり、無病息災を祈願する味噌汁である(仝上)。 「事八日(ことようか)」というのは、 東日本で、旧暦二月八日(お事始め)と十二月八日(お事納め)を併せて言う、 とある(広辞苑)が、2月8日と12月8日のどちらかを「事始め」、他方を「事納め」と呼ぶ場合、 「事」を年間の祭事あるいは農作業と解釈し、2月を事始め・12月を事納めとするのが主流だが、関東の一部では「事」を新年の祝い事と解釈し、12月が事始め・2月が事納めとなる、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%85%AB%E6%97%A5)。 八日節供、八日待(まち)、八日ぞう、事始め/事納め、お事始め/お事納め、八日吹き、八日行、節供始め/節供納め、お薬師様、恵比寿講、 等々とも呼ばれる(仝上)。 「事八日」のコトは、 小さな祭り、 の意。この日は一つ目の怪物が来るといい,これを避けるために目籠を竿先に掛けて軒先に立てたりするほか、針供養などの行事がある。これらは物忌から発したもので,仕事を休んで静かに家で謹慎していることが本義であるが,のちに転じて,怪物や鬼や疫神が来るからだと説明するようになったと考えられる、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「幾世餅」は、 短冊形に切った餅を焼いてまわりに小豆餡をつけたもの、 である(たべもの語源辞典・広辞苑)。元禄十七年(1704)に、両国広小路小松屋喜兵衛というものがはじめて製したとき、吉原町河岸見世の遊女幾世を妻に迎えて商ったからである。繁盛して名物となり、 幾世餅、 と称した、とある(仝上)。 一個五文、 とある(江戸語大辞典)。 享保十八年(1733)刊『江戸名物鹿子』の江戸名物には、 塩瀬饅頭、本町色紙豆腐、味噌屋元結、本郷麹室、歌比丘尼鬢簓、油町紅絵、白木呉服、本町益田目薬、五霊香、破笠塗物、清水夏大根種、勧化僧、赤坂左たばこ、浅草茶筌、芝三官飴、横山町花蓙織、弥左、衛門町薄雪せんべい、浅草簑市、こん/\妨、吉原朝日のみだ、さん茶女郎、目黒飴、駒込富士団扇、麹町助惣やき、てうし蝶、髭重兵衛が飴、赤坂鍔、長坂元結、松井源左衛門居合、佃島藤、吉原太神楽、麹町獣、湯島唐人祭のねりもの、浅草柳屋挽伍倍子、両国の幾世餅 と並ぶ中に、「幾世餅」があり(https://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/he-yougo/yougo-benie.html)、さらに、『近代世事談』(1734刊)にも、 夫婦にて餅を拵へ、吉原町の幾世。幾世と申触し、殊の外商ひもありし、 とあるが、天保七年(1836)刊『江戸名物詩』には、 若松屋(菓子屋) 「若松屋幾代餅 両国吉川町 両国一番若松屋 雑煮(サウニ)汁粉(シルコ)客の来る頻なり、 と「幾世餅」の店が代わっており、こうある。 世間の名物多くは零落す 幾世独歴幾代春、 そして、 吉原遊女・幾代を落籍した後その名をとって開業した餡餅。享保二十年刊『続江戸砂子』「両国はし 西の詰松屋喜兵衛」とあり、 と(http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html)、享保二十年までは、江戸名物であったらしいのだが(『近代世事談』(1734刊))。 この「幾世餅」は、少し話を変えて、落語の演目にもなっているが、落語では。 搗き米屋六右衛門の奉公人の清蔵が、絵草紙屋で見た吉原の幾代太夫の錦絵に一目ぼれして恋患いし、心配した親方は一年間みっちりと働いて金を貯めたら幾代太夫に会わせてやると約束する。一年後、貯まった十三両と二分に、足して十五両をもたせ、遊び達者な医者の藪井竹庵先生に指南、案内役を頼み、清蔵の身なりを整え、野田の醤油問屋の若旦那ということにして吉原に繰り出す。竹庵なじみのお茶屋の女将に幾代太夫に会いたいと頼み、幸いにも幾代は空いていて、清蔵は幾代の大見世に上がり、晴れてご対面となる。その夜初会とも思えないもてなしを受け、後朝(きぬぎぬ)の別れに、幾代は「今度は主は何時来てくんなます」と問われ、清蔵は搗き米屋の奉公人と明し、一年間、稼いだらまた来ると打ち明ける。清蔵の真に惚れたのか幾代は来年三月で年季が明けたら、清蔵の所へ行くから女房にして欲しいと、支度金の五十両を預ける。三月、搗き米屋の前に一丁の駕籠がぴたりと止まった。中からは文金高島田の幾代が現れ、竹庵先生を仲人に、二人は晴れて夫婦になって、親方が清蔵を独立させ、両国広小路に店を持たせた。そこで売り出した「幾代餅」は大評判で名物となった、 と(https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/25/3.html)、「紺屋高尾」と似た咄になっている。「紺屋高尾」も、実在の、5代目紺屋高尾で、駄染(だぞめ)高尾ともいわれ、神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した。駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、手拭は当時の遊び人の間で流行したと伝わる。のち3人の子を産み、80歳余まで生きた、とか(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%A4%AA%E5%A4%AB)。 根岸鎮衛『耳嚢』(1784〜1814)に、こんな話が載っている、という。 「幾世餅」は、相当売れたらしく、元祖は浅草寺門内の藤屋と言われており、藤屋が、幾世餅の商標の独占を大岡越前守に訴え出た。判決は、藤屋が元祖であることを認めつつも、小松屋の事情も斟酌して、藤屋は四谷内藤新宿、小松屋は葛西新宿に移ることを命じた。どちらも江戸のはずれ、とても商売になりません。双方示談の上、訴えを取り下げた、 と(https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/034/)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「インゲンマメ」は、 隠元豆、 の他、 眉児豆、 菜豆、 とも当てる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A1)。漢名は、 雲豆、 花雲豆、 で(たべもの語源辞典)、 別名、 サイトウ(菜豆)、 サンドマメ(三度豆)、 と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A1)か、 インゲンササゲ、 ゴガツササゲ、 とか(広辞苑)呼ばれるが、別に、 フジマメの別称、 ともされ(広辞苑)、フジマメ(藤豆)は、別名、 センゴクマメ(千石豆)、 アジマメ(藊豆)、 のことを、西日本、関西、では「インゲンマメ」と呼び(広辞苑)、 両種は混同されやすいとあるが、別種である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A1)。 当然、「隠元豆」と当てる以上、 隠元が明から伝えた豆、 とされている(日本語源広辞典)が、 隠元禅師が中国から帰化するとき持ってきた豆がどれであったかわからない、 という(たべもの語源辞典)。 隠元が日本に伝えたのはフジマメともいわれるが、フジマメは平安初期から「アヂマメ」という名で存在している、 とある(語源由来辞典)。牧野富太郎博士は、フジマメがインゲンマメと力説したらしいが、和名抄に、 アヂマメ、 として載っており、平安初期には日本に渡来していたと思われる。 また、別に、「インゲンマメ」の別名は、「五月ささげ」「三度豆」であるが、 隠元禅師は二種類の豆をもってきて、関東には五月ささげを、関西には藤豆を広めた、 とする説(由来・語源辞典)もある。要は、隠元禅師に何かかかわりがあるらしい、ということしかはっきりしない。 インゲンマメは、 アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税の物納品目として徴収していた。ヨーロッパにはコロンブスの二度目の航海の後に持ち込まれ、16世紀には育てやすく食べやすい作物として栽培されるようになった。。特にギリシャなど地中海沿岸地域では、ソラマメ中毒にならない健康に良い豆として受け入れられた16世紀末にヨーロッパを経由して中国に伝わり、17世紀に日本に伝わった、 のに対して(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A1)、フジマメは、 熱帯アジアからアフリカ原産で、エジプトで「ラブラブ」という豆である。フジマメは千石豆とも言われるのは、収穫が多いからだし、味豆といわれるのは、味が良いからである、 とあり(たべもの語源辞典)、別系統の豆である。「フジマメ」は、漢名、 藊豆、 とされる(仝上)。 今日一般に「隠元豆」とされるものは、明治時代に日本に輸入された、 トウロク豆、 という品種である。これが、 ゴガツササゲ、 である。「ささげ」は、捧げるという意味で、豆果が上を向くものにつけられた、 とある(たべもの語源辞典)。ゴガツササゲの漢名は、 竜爪豆、 雲藊豆、 である(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「いとこ煮」は、 従兄弟煮、 従弟煮、 と当てたりする(広辞苑・たべもの語源辞典)。 小豆・牛蒡・大根・芋・豆腐・慈姑(くわい)・焼栗などを堅いものから追い追い入れて煮込んだ料理、 とあり(広辞苑)、秋田県鹿角地方では、 大根をさいの目にして小豆とともに煮た味噌汁、 を言い、新潟県には、 大根・人参・芋に小豆などを混ぜて煮る、 ものがある(たべもの語源辞典)。要は、 小豆または豆と野菜の寄せ煮料理、 であり(仝上)、 各地に伝わる郷土料理の一つ、 で、 山形県庄内地方のもの、北陸地方(新潟県・富山県・石川県)のもの、奈良県のもの、および山口県萩市周辺に伝わるものが知られている、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E7%85%AE)、 この起源は古く、 寛永二〇年(1643)版『料理物語』のなかに、「あずき、ごぼう、いも、だいこん、豆腐、焼栗、くわいなどを入れ、中みそにてよし、かようにおいおいに入れ申すによりいとこ煮か」 と解説している(日本大百科全書)、とある。 「いとこ煮」の語源は、『料理物語』にある、 おいおいに入れ申すによりいとこ煮、 と、 「追い追い」と「甥甥」を掛けた、 とするのが大勢(広辞苑・語源由来辞典等々)であるが、もともとは、 正月・事八日・盆・祭礼・収穫祭などに食べた。これは神に供えたたべものを集めて煮ることに始まったもので、雑煮と同じ風習による、 とされる(たべもの語源辞典)ので、 年中行事の際つくられるお事煮がなまっていとこ煮となった、 とする説(日本大百科全書)もある。その他、 いとこ煮(萩風)は、小豆を柔らかく煮る、白玉だんごを作ってゆでる、だし汁に干ししいたけを入れて煮るというように、最終的にお椀で一緒になるはずの材料を別々に煮ている。この別々に煮ることを“銘々(めいめい)に煮る”という。姪と姪(兄弟の子ども同士)が一緒にお椀に入って一つの料理を作り上げている。お椀の中の具は、姪同士なのでつまり、お互いは従兄弟(いとこ)の関係。よって、いとこ煮という、 いとこ煮は、婚礼や法事といった冠婚葬祭の席で必ず出される。冠婚葬祭で兄弟姉妹や従兄弟たちが集まったときに食べる料理だったことから、「いとこ煮」と呼ばれるようになった、 野菜ばかりを煮るので、近親関係なので、いとこ煮、 等々もある(http://www.ysn21.jp/~eipos/data/2006/WB18_001/kyoudoryouri/itokoni/newpage1-4-10-2.html)が、 お事煮→いとこ煮、 の転訛が一番自然に思える。 一般的に知られているのは、かぼちゃと小豆を甘く炊いた奈良県のスタイル、 のようだが、 だったらあずき煮でいいじゃないか、 となる(https://macaro-ni.jp/33187)のは当然で、「あずき粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%8D%E7%B2%A5)で触れたように、中国由来で、 「小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。 中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている」 と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E7%B2%A5)、「小豆」は特別なものであった。 「事八日(ことようか)」というのは、集め汁(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%9B%86%E3%82%81%E6%B1%81)で触れたように、 東日本で、旧暦二月八日(お事始め)と十二月八日(お事納め)を併せて言う、 とある(広辞苑)が、2月8日と12月8日のどちらかを「事始め」、他方を「事納め」と呼ぶ場合、 「事」を年間の祭事あるいは農作業と解釈し、2月を事始め・12月を事納めとするのが主流だが、関東の一部では「事」を新年の祝い事と解釈し、12月が事始め・2月が事納めとなる、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%85%AB%E6%97%A5)。 八日節供、八日待(まち)、八日ぞう、事始め/事納め、お事始め/お事納め、八日吹き、八日行、節供始め/節供納め、お薬師様、恵比寿講、 等々とも呼ばれる(仝上)。この時食べるのものに、 お事汁(おことじる)、 というものがある(https://esdiscovery.jp/sky/info01/food_menu002.html)。別名、 六質汁(むしつじる)、 とも呼び、 芋・大根・人参・ゴボウ・小豆・コンニャク、 の6種類の具材を入れていたことから、そう呼ばれた。やはり、無病息災を祈願する味噌汁である(仝上)。どうも、この、 お事汁、 は、 いとこ煮、 と深くつながるような気がしてならない。もともとあった祖型が、 お事汁、 と いとこ煮、 に分離したのかもしれないが。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「板焼」とは、 カモ・鶏などの無肉を薄く切り、味醂・醤油などに漬け、杉板にのせて焼いた料理、 とあり(広辞苑)、 片木(へぎ)焼、 とも言う。 杉板焼き、 とも言う(精選版日本国語大辞典)、とある。杉板焼の名称は、江戸時代に多く用いられた(たべもの語源辞典)らしい。 これに用いる板は杉板に限定され、古くは、 へぎ焼き、 の名のほうが多く用いられた、とある(日本大百科全書)。ただ、杉板が片木(へぎ)のとき、 片木(へぎ)焼、 折(へぎ)焼、 という、ともある(たべもの語源辞典)。 鳥肉などを味醂醤油・煮だしなどでつくった汁につけてから板の上にのせて焼くのでこの名がある、 とあり(仝上)、 杉板の上にのせ、炭火の上に移し、加熱して焼く。木板は熱の不良導体であるため、熱の伝導が弱く、ふんわりとした落ち着いた味になるのが特色で、材料はあまり強い熱源を必要としないものが向く、 とある(日本大百科全書)。 板は杉板を使うので、 杉焼、 ともいい、 杉の木の香りを移した料理である、 とある(たべもの語源辞典)が、 同様の調理法に杉焼とよばれているものがある、 として、 板焼、 と、 杉焼、 とを区別するものがある(日本大百科全書)。「杉焼」は、康平年間(1058〜65)成立の『新猿楽記』に、 杉板の間に白身魚を挟んで両面から順次加熱したものをいう、 と記されている。文政五年(1822)刊の『料理早指南』には、「杉板焼き」と書き、 杉板に厚く塩を塗り付け、その上にしょうゆに浸したイナダの身をのせて焼く、 との解説がある(仝上)。杉板の上にのせるのを、 板焼、 または、 杉板焼、 杉板に挟むものを、 杉焼、 と区別するのだろうか。いずれも、杉板を使うことには変わりはない。二条宴乗日記の元亀元年(1570)一二月四日に、 杉焼に可仕とて無塩た井一枚、 と記述がある。「杉焼」とあるが、「板焼」と区別されるのかどうかはわからない(精選版日本国語大辞典)。 たべもの語源辞典は、 杉箱の底に酒でといた味噌を敷き、魚・鳥・貝類・野菜類を入れ、ふたをして金網の上で焼くもの、 と、 杉板の上にのせて焼くもの、 とがあるとしている。 杉板で焼くときは、板の裏に塩を暑く塗りつけて、板が焦げないようにする、 とあり、板焼自体は室町時代から始まるが、杉箱をもちいたものは、江戸前期以降という。好色一代男(1682)に、 雁の板焼に赤鰯を置合(をきあはせ)、 とある(精選版日本国語大辞典)。 なお、杉板焼には、 フッコ・タイ・ヒラメ・サケなどのすり身におろし芋を加えて板につけ、蒸してから蒲鉾のように焼く、 タイプもある、らしい(たべもの語源辞典)。 板焼に、 板焼豆腐、 というものがある。 うすい杉の板にふき味噌をべったりと塗って、その上に豆腐を切ってのせ、またその上に味噌を塗り、同じ形の板杉を上にのせて強火で焼く、 とある(仝上・日本大百科全書)。また、 板焼味噌、 というものもあり、 羽子板形の板の表面に、横菱にのこぎり目を入れて、その上に胡麻味噌をつけて、炉の灰に立てて炙る、 とある(仝上)。 みそは熱源に直接当てて少々焼き目を加えると香ばしい味が生ずる、 ためである(日本大百科全書)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「かくや」は、 覚弥(彌)、 隔夜、 覚也、 等々と当てる(広辞苑・たべもの語源辞典)。 種々の香の物の古漬を塩出しして細かく刻み、醤油などで調味したもの、 とある(仝上)。関西では、 贅沢煮、 という、ともある(日本語源広辞典)。寛政期の風俗などを記した「寛天見聞記」には、 八百善といふ料理茶屋……、かくやの香の物……は、春の頃より、いと珍しき瓜、茄子の、粕漬けを、切り交ぜにしたる也、 とある。料理屋に出るものは、単なる残り物や古漬けの活用とは違うようである。 江戸時代の初め、徳川家康の料理人岩下覚弥の創始(広辞苑・日本語源広辞典)、 とも、 高野山の隔夜堂を守る歯の弱い老僧のために作られた(仝上)、 とも、 沢庵和尚の弟子覚也が始めた(江戸語大辞典)、 ともいわれ、諸説あるが、江戸時代のものらしく、 古なすにもり口のかくや、 とある(天明七年(1787)「総籬」)。「覚弥」説には、 東照公の料理人岩下覚彌、調じて供せしに、賞美ありしより名とす、岩下氏の家伝なる由なり(松屋筆記)、 という背景もある(大言海)。 なお、「香の物」については、「おしんこ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%93)、「沢庵」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%93)、「糠味噌漬」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E7%B3%A0%E5%91%B3%E5%99%8C%E6%BC%AC)、で触れたでふれたが、「香の物」というのは、「おしんこ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%93)で触れたように、 「漬物」を、 こうこう(香々)、 おこうこう(御香々)、 こうのもの(香の物)、 等々と呼ぶのは、 こうのもの(香の物)、 からきている(仝上)。 「香の物」の「香」は、 味噌、 を指す(江戸語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%AC%E7%89%A9・大言海・大日本国語辞典・碩鼠漫筆等々)、とする意見が大勢だが、たべもの語源辞典は、それを否定し、 においがたかいものということで香物とよぶ。奈良時代に漬物がはじまる。香(か)は気甘(きあま)、あましは、あーうましの意である。香物は、うまいにおいをもったたべものの意。大根・瓜など味噌の中につけて味噌の香気をうつしたので香物というせつがあるが、味噌だけでなく、塩・味噌・酒粕などに漬けた蔬菜でにおいのあるものを香物という、 とする。確かに一理あり、味噌だけではない気がするが、「味噌」を、女房詞で、 香、 と呼んだことは確かで、室町時代の大上臈御名之事には、 女房詞、汁のしたりのミソを、カウの水と云ふ、 とあり(大言海)、江戸初期の慶長見聞集には、 凡そ味噌と云ふことを香と云ふ、みそは、一切の物に染みて匂ひよく、味よき故に、香と名づけたり、 とある。また、雍州府志(1684)によると、 木芽漬はアケビ、スイカズラ、マタタビなどの新芽を細かく切って塩漬にしたもの、烏頭布漬はいろいろな植物の新芽をとりまぜて塩漬にしたものであった。室町期には、香(こう)の物、奈良漬といったことばが現れてくる。前者は、みその異名を〈香(こう)〉というところから、本来はみそ漬をいったことばだとされる、 とある(世界大百科事典)。ただ、だから、香の物が、 味噌漬、 の代名詞だったかどうかまでははっきりしない。岩波古語辞典には、 野菜を味噌・酒粕・糠・塩などで漬けた、 とある。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「角兵衛獅子(かくべえじし)」は、 越後国西蒲原郡の神社の里神楽の獅子舞、 あるいは、 越後国西蒲原郡月潟地方から出る獅子舞、子供が小さい獅子頭をかぶり、身をそらせ、逆立ちで歩くなどの芸をしながら、銭を乞い、歩く、 ものなので、 越後獅子(えちごじし)、 蒲原獅子(かんばらじし)、 月潟(つきがた)の獅子 とも言う(広辞苑)。また、「角兵衛獅子」を、 覚兵衛獅子、 と当てたりするものもある。たとえば、洒落本・当世爰かしこ(1776)には、 「ひろうどの牛まで出るに、覚兵衛獅子(カクベイシシ)は何がふ足で久しくみへぬ」 とある(精選版日本国語大辞典)。 角兵衛獅子(かくべえじし)は、越後獅子(えちごじし)とも呼ばれる由来については、 越後より江戸に出しは、宝暦の頃(1751〜64)なりと云ふ、始めて率ひ来たりし人名などによるか、 とある(大言海)が、そもそも角兵衛獅子の由来については、諸説あり、昭和11年(1936)に発足した角兵衛獅子保存会のまとめによれば、ひとつは、 水害対策説です。信濃川の支流中ノ口川左岸にある月潟村は、肥沃な土地に恵まれ農業が盛んでしたが、水運と農業に欠かせない水をもたらす川はしばしば氾濫し、村の人々を苦しめました。そこで、一人の農民が、水害で疲弊する村に新たな収入源をもたらそうと、踊りを考案して子どもたちに教え、近隣の村々を巡業。農民の名前が角兵衛だったことから、その踊りの一座は角兵衛獅子と呼ばれた、 というもの(https://n-story.jp/topic/117/page1.php)。「角兵衛獅子」は、このときの一座を率いていた「角兵衛」からきている、ということになる。越後獅子が江戸に来たのは宝暦5年(1755年)らしく、 諸諸侯へ召し出されて獅子冠を演じた親方が角兵衛であったから角兵衛の獅子、角兵衛獅子となった、 と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90)あるが、別に、 信濃川中流部の中之口川沿岸の農民角兵衛が毎年の凶作や飢饉から村人を救うため、獅子舞を創案した、 洪水に悩まされた月潟村の者が堤を造る費用を得るために、子供に越後の獅子踊りをさせて旅稼ぎをさせたのが始まり、 というのもある(仝上)。 もうひとつの説は、 親の仇討ち説です。常陸(現・茨城県)から月潟村に移り住んだ角兵衛が何者かに殺され、その時に犯人の足を噛み切りました。足の指のない犯人を探し出すため、角兵衛の2人の息子は、逆立ちしながら「足を上にして、足の指のないものを気を付けて見れ」とはやしたて、全国を回った、 というもの(仝上)。これによると、「角兵衛」は、殺された父の名、ということになる。 さらには、 角兵衛は獅子頭を彫った名工の名(俚言集覧・嬉遊笑覧・三養雑記)、 と、獅子頭の作者名というのもある(日本語源大辞典)。この他に、江戸後期の『嬉遊笑覧』は、 「越後獅子を江戸にては角兵衛獅子といふ。越後にては蒲原郡より出づるに依りカンバラ獅子といふとぞ、角兵衛獅子は、恐らくは蒲原獅子の誤りならむ」 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90)、これによれば、カンバラ獅子が角兵衛獅子に転訛したことになる。 いずれにせよ、宝暦六年(1756)撰の「越後名寄(なよせ)」や文化一二年(1815)撰の「越後野誌」に、すでに「いつ始まったのか定かではない」と記されているほど、古い(仝上)、とある。 獅子頭(ししがしら)をかぶり、鶏の尾をつけた衣服を着た子供が二、三人、笛、太鼓の音につれて踊り回り、逆立ちなどの技を見せるもの。多く正月などに舞い歩き、災いを除くといわれる、 とある(精選版日本国語大辞典)が、 獅子舞は7歳以上、14、5歳以下の児童が、しま模様のもんぺと錏(しころ:兜の鉢の左右から後方に垂れて頸を覆うもの)の付いた小さい獅子頭を頭上に頂いた格好で演じる。獅子頭の毛には鶏の羽根が用いられ、錏には紅染の絹の中央に黒繻子があしらわれている、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90)。構成は、 かつては獅子舞4人、笛吹き1人、太鼓1人の計6名(これより少ないと定めの曲ができない)であったが、後に獅子舞2人、笛吹き兼太鼓の3人が増え9名となった。このうち笛吹きまたは太鼓打ちを「親方」と呼ぶ。親方は曲名を言い、掛け声調子を取り、獅子舞はその指示に従って芸を演じる、 という(仝上)。 親方だけが月潟または近隣に籍を置き、獅子の児は他所の孤児などもらい子だった。扮装は、小さな赤い獅子頭を頭に頂き、筒袖(つつそで)の着物に襷(たすき)を掛け、卍紋の入った胸当てをし、裁着袴(たっつけばかま)をはき、白い手甲をつけ、日和下駄(ひよりげた)を履いて、腹に腰鼓をつける。芸には、金の鯱(しゃちほこ)、蟹の横這(よこば)い、獅子の乱菊、淀の川瀬の水車などの一人芸と、二人一組芸の肩櫓(かたやぐら)、大井川の川越(かわごし)、唐子(からこ)人形の御馬乗りなどがある、 という(日本大百科全書)。江戸その他に進出して人気を集め、地歌、富本節(とみもとぶし)、長唄(ながうた)舞踊劇、下座(げざ)音楽長唄、所作事などの《越後獅子》もこれを素材とする(世界大百科事典)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「かぼちゃ」は、 南瓜、 と当てるが、この「南瓜」表記は漢名からきている。「かぼちゃ」は、他に、 唐茄子(とうなす)、 南京(なんきん)、 ぼうぶら(ボーボラ)、 等々の異名もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%A3、語源由来辞典他)、ウリ科カボチャ属に属する果菜の総称原産は南北アメリカ大陸、だが、現在、 チリメン・キクザ(菊座)等々の日本カボチャ、 クリカボチャなどの西洋カボチャ、 ソウメンカボチャなどのペポカボチャ、 の三系統がある、とされる(広辞苑)が、栽培されているのは、 ニホンパイカボチャ(Cucurbita moschata)、クロダネカボチャ、セイヨウカボチャ、ニホンカボチャ、ペポカボチャ、 の五種とするものもある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%A3)。 「かぼちゃ」の語源は、 「カンボジア」を意味するCamboja(カンボジャ)の転訛(仝上)、 16世紀頃カンボジアから伝来したから、カンボジアの転訛(広辞苑、日本語源広辞典)、 天文年間(1532〜55)ポルトガル人がカンボジアの産物として日本に伝え、当初「カボチャ瓜」と呼ばれ、「瓜」が落ちた(語源由来辞典)、 初め、Cambodia(漢名 柬埔寨)より來る、葡萄牙人の寄航地なりき、此瓜、内地にては、永禄の頃植え始め、天正の頃より食ひ始めたりと云ふ(大言海)、 インドシナのCambodiaより渡来したから、カボチャボーブラの略(江戸語大辞典)、 等々とする説が多い。ただ、 Camboja(カンボジャ)の転訛、 については、 “ポルトガル語 Cambodia abóbora に由来する”といった説が少なくともネット上においては相当広まっているが、この表現はポルトガル語としては何重にもおかしく、何かの勘違いが事故的に広まってしまったものと思われる。「カンボジアの瓜」をポルトガル語で言うなら、abóbora de Camboja / abóbora da Camboja か、もしくは abóbora cambojana であろう、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%A3)、少なくとも、地名由来なら、 Cambodia(漢名 柬埔寨)、 だろう、と。 「かぼちゃ」が、 南京(中国の南京に寄港したから)、 ボウブラ(ポルトガル語でウリ科の植物「abobora」が由来)、 唐茄子(南蛮渡来の瓜を意味している)、 等々、その異名は、伝来の経路もあるが、 品種によってはじめ呼び分けられてきた、 ことがある(https://www.olive-hitomawashi.com/column/2017/08/post-412.html)。たとえば、 日本かぼちゃは伝来の歴史においても二つのグループに分かれていたとされており、ひとつは「ボウブラ」、もうひとつは「南京かぼちゃ」と呼ばれていたといわれている。ボウブラは、ウリ科の植物を意味するポルトガル語「abobora」に語源をもつ系統である。また、中国から伝来したかぼちゃは、中国の南京の港から持ち込まれるかぼちゃ、という意味で「南京かぼちゃ」「南瓜(ナンキン)」と呼ばれてきたようだ。中国でも、かぼちゃは「南瓜」と呼ばれ、「南蛮渡来の瓜」を意味しているといわれている。唐の国からやってきた茄子という意味から「唐茄子(トウナス)」という別名で呼ばれることもある。 とある(仝上)が、江戸語大辞典をみると、 最初に伝来したのは正円形でボーブラと呼ばれ、ついで伝来したのがカボチャ瓜で、備前徳利に似た形のもの。味はさして美ならず。明和四年(1767)・柳多留に「御亭主が留守で南瓜の直(ね)が出来る」(女の好物)。安永四年(1775)・物類称呼「大阪にて、なんきんうり又ぼうぶら、江戸にて先年は、ぼうふらといい、いまはかぼちゃと云」 とあり、さらに、「唐茄子」は、 扁平で竪襞のある小型のかぼちゃ。かぼちゃよりも美味。明和頃(1764〜72)から行なわれ始めた、 とあり、 ボウブラ、 カボチャ瓜(南京)、 だけでなく、 唐茄子、 もまた別種であった。 「ぼうぶら」は、 天正(1573〜92)ころから作り始めた、 とある(たべもの語源辞典)。その種は、 もと回紇(ウイグル)から渡ってきた。薩摩には元和年間(1615〜24)にカンボジア(柬埔寨)からボウブラというウリが渡来し、寛永年間(1624〜44)に世に広まった。京都に種を植えたのは延宝・天和(167284)ころである、 とある。一方、江戸では、 享保年間(1716〜36)までは南瓜(ナンキン 一名カボチャ)を売っていない、 が、 元文(1736〜41)の初めころから多く植えられるようになり、夏から秋にかけてのたべものになった、 とある。「唐茄子」は、 天明六年(1786)の項は隋の後、江戸足立郡栗原村の農夫某がカボチャの古種を見出して撒いてみたところ、この味がカボチャり良く、唐茄子と呼んで広まり、寛政(1789〜1801)にはカボチャはついに絶えてしまった、 とある(仝上)。この「カボチャ」は、 カボチャ瓜、 といい、後に瓜を省いた。曲亭馬琴は、 箱根から西には唐茄子はない、みなカボチャである。カボチャは味が薄くまずい、 と書いていた(仝上)。つまり、 ボウブラ、 カボチャ瓜、 唐茄子、 は、別々のものであった。今日、カボチャは、一つであるが、今日市場におけるかぼちゃのほとんどは、 セイヨウカボチャ C. maximaの日本品種である栗かぼちゃ、 であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%A3)、ニホンカボチャとは別種であり、日本国外で、 「Japanese pumpkin(日本のかぼちゃ)」や「kabocha」、 と呼ばれるかぼちゃも主に、栗かぼちゃでありニホンカボチャではない(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「芥子」は、 からし、 と訓むが、 かいし、 がいし、 けし、 とも訓む。また「芥子」は、 辛子、 とも当てる。正倉院文書にあり、臼でついた意の〈舂芥子〉の語がある(世界大百科事典)ので、既に奈良時代に、芥子の粉末が使われていた(たべもの語源辞典)。また、延喜式には甲斐、信濃、上総、下総から中男作物などとして貢納されていた(仝上)。ちなみに、「中男作物」とは、 令制下の租税で、中男(大宝令では少丁)は17歳から20歳の男子。中央官庁が必要とする物品を、国郡司が中男を使役し調達して貢進したもの。中男が不足の場合は正丁(21歳から60歳の男子)の雑徭(ぞうよう)で補った、 とある(百科事典マイペディア)。 「芥子」は、 カラシナの種を粉にした、黄色で強い辛味がある香辛料、 であるが、 からしな、 の意もある(広辞苑)。 「からしな」は、 芥子菜、 芥菜、 と当て(仝上)、 アブラナ科アブラナ属の越年草、 で(仝上)、 葉茎は油炒めやおひたし、漬物などに利用される。タカナ(高菜)やザーサイ(搾菜)は、カラシナの変種。沖縄県ではシマナー(島菜)と呼ばれ、塩漬けや炒め物などに多用される、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%8A)、種子が、 からし(和からし)の原料となりオリエンタルマスタードとも呼ばれる、 とある(仝上)。 「芥」(漢音カイ、呉音ケ)は、 会意兼形声。「艸+音符介(カイ 小さく分ける、小さい)」、 で、 からしな、 の意であり、 その実、 の意でもある(漢字源)。まさに「からし」の意である。「芥子(カイシ)」も、同義で、 からしな、またその実、 の意である(字源)。厳密には、 「芥」でカラシナを意味し、「芥子」はカラシナの種子の意味、 ということになるが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%8A)。 「からしな」は、 アブラナ科アブラナ属の越年草、 で(仝上)、 葉茎は油炒めやおひたし、漬物などに利用される。タカナ(高菜)やザーサイ(搾菜)は、カラシナの変種。沖縄県ではシマナー(島菜)と呼ばれ、塩漬けや炒め物などに多用される、 とあり(仝上)、種子は、 からし(和からし)の原料となる。マスタード(洋からし)の原料として利用されるシロガラシは、同じアブラナ科の別種、 とある(仝上)。 「芥子」の語源は、 辛しの義、 であり(大言海)、 形容詞の終止形を名詞とす、 である。 罌粟(ケシ)が渡来すると、芥子がケシの意味で使われたので、カラシかケシか判断に苦しむ、 とあり(たべもの語源辞典)、江戸時代の料理本に、 芥子、 とあるのは、ほとんどケシのことである(仝上)。そこで、 辛子、 の字を用いるようになった、という経緯らしい(仝上)。 辛子酢・辛子味噌・辛子和え、 は室町時代から盛んになるが、 辛子漬、 は江戸時代、 ときがらし、 水がらし、 が現れるのは、江戸末期という(仝上)。納豆に辛子を用いるのも、その頃からである。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
小説家の平井和正が書いた、のが嚆矢で、広まった、
とされる(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410453834)。
「語るに落ちる」は、 話しているうちに、うっかり本当のことを言ってしまう、 意で(広辞苑)、 問うに落ちず語るに落つ、 あるいは、 問うに落ちず語るに落ちる、 の略とされる。つまり、 人にとわれた時には、用心して胸の中の秘密を言わないが、何気なく話す時は、かえって真実の事を漏らしてしまうものだ、 という意である。 とふにおちぬはかたるにおつる、 とも言う(故事ことわざの辞典)。 しかし、この対は、ちょっと違う気がする。 問われているという状態の時は、十分緊張し、慎重に答えるが、何気なく、普通の話をしている時は、何かの拍子に、ふと漏れてしまう、 というので、二つのシチュエーションは全く違う。むしろ、 問われて緊張している状態、 と、 くつろいで油断している状態、 との対ではないか。 問わず語り、 という言い方もある。たしか、「ものがたり」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A)で触れたが、人は皆自分の物語を持っており、それを語りたがっている、という。だから、心が緊張から解け、自分のことを話している時は、つい、言わでものことを言ってしまう、ということはある。 それに、しゃべる時は、意識の流れの中から、言語化して口に出すが、意識は言語のスビートの20〜30倍のスピードで流れていく。何かをしゃべろうとして、その言語化に気が向いている時は、何かの中身に無頓着になることがある。しゃべってしまった瞬間、自分の言葉を耳で情報として聞いて、ハッとするということはある。 しかし、一方、質問というのは、 人は問われたことの答えを自分の中で探そうとする、 という効用があるとされる。で、問題は、 どう問うか、 でその答が変わる、ということだ。例えば、 何があったんだ(何が起きたんだ)? と問えば、何があったか、という事柄を語るだろう。しかし、 何したんだ(何やったんだ)? と問えば、何をしたか、自分の行動を語るだろう。そして、 何考えてんだ? と問えば、自分の言い訳を言うだろう。 やったこと、 と 考えたこと、 は、言い訳で包めることが出来る。しかし、 起こったこと、 は、聞き手が観察力さえあれば、突っ込みどころが見えてくるはずだ。なぜなら、起こったことを語る時は、とりあえず、俯瞰的に、時系列に従って、起こったことを語るしかないからだ。その事実経過の中で、相手が、どこで何をしようとし、結果何が起きたかは、後から当てはめて行けばいい。 結局、何が起こったかを語ることで、何をしたかは、おのずと見えてくるのではないか。 問うに落ちず語るに落つ、 の語りは、確かに油断した状態で、思わず語るということもあるが、 ただ自分の物語を語らせる、 のではなく、 自分を含めた状態の変化を語らせる、 ことで、結果として、 語るに落ちる、 ことになるのではないか、という気がする。 「言葉の構造と情報の構造」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm#%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0)で触れたが、時枝誠記氏は、日本語の表現形式を、話し手が対象の客観(客体)的な表現である「詞」を、主観(主体)的な表現である「辞」が包む、「入子型構造」と呼んだ。 ![]() つまり、「事実」は語られるとき、「辞」という主体的表現によって、偏っている。だから、主体の行動や考えの言い訳を聞く限り、事実は見えてこない。だから、できる限り、「辞」に包まれている「詞」を再現し、何が起きているかを浮き上がらせることの方が、正確に起きたことを見極める近道になる。犯罪捜査で、目撃情報だけに頼ると、誤認逮捕になるのは、その事実は主観的な事実に過ぎないからだ。その意味では、多くの目撃情報を集め、その中から、何が起きたかを再現しようとすることの大事さがわかる。 語るに落ちる、 は、 語るに任す、 のではなく、 語らせる、 ことだ、ということになる。そのための問いが鍵になる。 「かたる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%82%8B)で触れたように、「かたる」は、「はなす」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%99)とは違う。「はなす」は、 放す(心の中を放出する) である(大言海)。「かたる」との差は、 筋のある、 事柄や考えを言葉で順序立て、 というところになる。だから、「かたる」は、 語る、 と、 騙(衒)る、 と漢字で当て別けないかぎり、そのいずれなのかは、 かたる、 だけでは区別されない。いずれも、 「タカ(型、形、順序づけ)+る」で、順序づけて話す、 である(大言海)。そこで語られる、 順序付けた事柄、 こそが、突っ込みどころ満載の、「語るに落ちる」鍵になる。そのとき、 どの位置にいて、 どう関わったのか、 は、それを語るパースペクティブ(視界)に、おのずと事実が顕れる。なぜなら、パースペクティブは、主体からの物事の見え方を示しているからだ。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
「正鵠を射る」は、 核心をつく、 物事の急所・要点を正しくおさえる、 という意味になるが、 正鵠を得る、 とも言う。というよりも、本来は、 正鵠を得る、 が出自としては正しいといわれる。 「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、 会意。「一+止(あし)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(まっすぐに進の原字)、 とあり(漢字源)、「邪」の反対の意(字源)だが、「正」は、 的、 の意で、 射侯の中、弓の的の中の星、 の意である(仝上)。 終日射侯、不出正兮(齊風)、 と使われる。「射侯(しゃこう)」とは、 矢の的。侯は的をつける十尺四方の布、 とある(広辞苑)。 「鵠」(漢音コク、呉音ゴク)は、 形声。「鳥+音符告」で、白い鳥のこと、 とある(漢字源)。「くぐい」の意であるが、白鳥の古名である。 弓の的の中心の白い星、 を指す(漢字源)とあるが、字源は、 的の正中(真ん中)の黒星、 とし、 弓の的(射的)布に畫くを正といい、川に棲ましむるを鵠といふ、 とある。中心が白か黒かは、確かめようがないが、 「鵠」が的の意味を持つようになったのは、的の中心が黒ではなく白かったためといわれている、 とする(語源由来辞典)のは、一理ある。「鵠」の字には、 鵠髪(こくはつ)、 というように、白髪の意で使う用例もある。 ともあれ、 図星、 でいう、 的の中心の星、 である。漢字源は星を「白い星」としているが、大言海の「づぼし(図星)」をみると、 圖にあたる星の義、……書きたる黒点、的の中の黒点、 と、「黒」説を採る。ただ、 昔、中国で、的の中央には「とび(正)」や「白鳥(鵠)」などの鳥の絵が描かれました。よって、的の中央の黒ぼしは「正鵠」と言われます、 という説を紹介しているものもあり(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q148945024)、圖であった可能性はある。いずれにせよ、「正」も「鵠」も、的の真ん中を意味する。大言海に、 侯中者、謂之鵠、鵠中者、謂之正(小爾雅)、 とある。 さて、礼記に、 發而不失正鵠者、其唯賢者手 とあり、中庸に、 射有似乎君主、失諸正鵠、反求諸其身、 とある。つまり、 正鵠を失わず、 というのが出典であり、そこから、 正鵠を得る、 という言い回しが出た、とみられる。その後、 正鵠を射る、 が使われ始めたらしい。 正鵠は的の中心の意味から、物事の要点や核心の意味に転じた。明治時代に物事の急所や要点を正確につく意味で「正鵠を得る」が生じ、正鵠に的の意味があるところから、昭和に入って「正鵠を射る」という形が生まれた。正鵠を射るは的を射るから生じた言葉で、正鵠を得るが誤用というのは間違いである、 とされる(語源由来辞典)。 「正鵠を射る」に転じさせたきっかけになる、 的を射る、 は、矢を射る意味から、 的を得る、 という言い方は誤用とされてきたが、今日、その見方は、三省堂国語辞典第7版が、 「的を得る」は「的を射る」の誤り、と従来書いていたけれど、撤回し、おわび申し上げます。「当を得る・要領を得る・時宜を得る」と同様、「得る」は「うまく捉える」の意だと結論しました、 と、誤用とは当たらないと結論づけて以降、 的を射る、 的を得る、 はいずれも可、とされるようになっているらしい。 ところで、「的」(漢音テキ、呉音チャク)は、 会意兼形声。勺は、一部分をとりだすさまを描いた象形文字。的は「白+音符勺」で、一部分だけ特に取り上げて、白くはっきりと目立たせること、 とある(漢字源)。「的」には、「しろい」意味があるので、中心はともかく的自体は白かった可能性はある(とすると、中心が白ではありえないが)。 和語「まと」は、「まる(丸・円)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%BE%E3%82%8B%EF%BC%88%E5%86%86%E3%83%BB%E4%B8%B8%EF%BC%89)で触れたように、 マト(円)の意(岩波古語辞典)、 圓(まどか)の義(大言海)、 と形状からきている。 どうやら、 正鵠を得る(明治)→正鵠を射る(昭和初期)→的を射る(昭和初期)→的を得る(戦後)、 という使われ方の変遷らしい(ただ「的を得る」には江戸時代に用例があるらしい)。この、「正鵠を射る」「正鵠を得る」「的を射る」「的を得る」の使用例を詳細に調べた結論は、「『的を得る』と『的を射る』の誕生と成長の歴史」(http://biff1902.way-nifty.com/biff/2010/04/post-63d8.html)に詳しい。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
「巾着汁」というのは、 山芋の皮をむいてすりおろして葛粉を少し混ぜ、切った半紙に包んで熱湯を入れたものを味噌汁の実にした汁。紙に包んだときに巾着のような形になるのでこの名がある、 とある(たべもの語源辞典)。 何かの中身をくりぬいて、巾着袋のようにして好みのものを詰めた料理名に、 巾着、 という名称が用いられる(仝上)。最近だと、油揚げを袋として用いるものが多いようだが、 茄子の中身をくりぬいて巾着の袋のようにして豆腐を詰めた煮た、 巾着豆腐、 柚子の実をくりとってその中に好みのものを詰めたものを、 巾着柚、 といった(仝上)、らしい 「巾着」というのは、 布・革・帛(きぬ)などでつくり、口を紐でくくるようにした小物入れ、、 を言い(岩波古語辞典)、中に金銭などを入れて携帯する袋である。今日でも、幼稚園や小学校などでも使用されている。 横襞(よこひだ)、 とも呼ぶ。 腰巾着、 というと、 常に人に付き従っている者をあざける語、 になる。 巾着、 だけでもその意で使う。 巾着の紙鳶(いかのぼり)、 というと、 巾着が軽くなって紙鳶のように風に舞い上がる意で、金銭を使い果たすこと、 である(岩波古語辞典)。「巾着」は、 荷包、 とも言う。和訓栞には、 荷包を、巾着と書けり、手巾(シュキン 手拭い)に着くるより云へるにや、燧袋の遺製なりと云へり、 とある(大言海)。語源由来辞典にも、 「巾」は「頭巾」や「布巾」にも用いられる語で、「布切れ」の意味。肌身に着けて携帯する布切れ(袋)なので、「巾着」というようになった。火打ち道具を入れた火打ち袋が変化したものといわれ、古くは金銭の他、お守り薬や、印籠などにも入れられていた、 とあるが、日本語源広辞典は、 巾(切れ)+着(チャク擬声)、 とし、 口がチャクッとよくしまる、 意とある。しかし、その用例の、 イソギンチャク、 は、 磯巾着、 と当てているところを見ると、巾着の口が締まるのに準えているので、見当違いなのではないか。 巾着草(キンチャクソウ)、 も、 カルセオラリア、 ともいい、 花弁の下側が袋状になっているのを巾着に例えたもの、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2)。「巾着」は、 「巾」は布きれ、「着」は身に付ける意で、身につけて携帯する布きれの意から名付けられた、 という(由来・語源辞典)のでよいのではないか。 巾着切(きんちゃくきり)、 は、「掏り」のことだが、「巾着」に金品を入れていたからである。による滑稽本『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)に、 道中で「ごまのはい」に金を盗まれて困った弥次郎兵衛と喜多八が身に着けていた印伝革の巾着を通りがかりの武士に300文で売りつけようとするが、足元を見られて安く買いたたかれてしまう、 ところがある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2)。「印伝革」とは、 羊や鹿の皮をなめしたものをいう。細かいしぼが多くあり、肌合いがよい。なめした革に染色を施し漆で模様を描いたもので、袋物などに用いられる。名称はインド(印度)伝来に因むとされる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E4%BC%9D)。 「巾着」は、隠語としても使われたらしく、 客、 の意で、 きんちゃ、 とも言ったらしい。金銭の出所・持ち主だかららしい(江戸語大辞典)。吉原詞では、 遣り手の異称、 であった。大きな巾着をぶら下げていたかららしい(仝上)。また、江戸時代の俗語で、 私娼、 をも意味した(広辞苑)、らしい。 因みに、よく似た、 信玄袋、 との違いは、「信玄袋」が、底に織物製の胴をつけていること、である。持物一切合財を入れられるという意から、 合財(がつさい)袋、 とも呼ばれたらしいという(https://komorebit.exblog.jp/19558924/)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「きんとん」は、 金団、 と当てる(広辞苑)が、 金飩、 とも当て(たべもの語源辞典)、古くは、 橘飩(きつとん)、 と書いた(仝上)。 甘藷(さつまいも)・隠元豆などを茹でて裏漉しにし、砂糖を加えて練り、甘く煮た栗・隠元豆などを混ぜたもの、 で(広辞苑)、 栗きんとん、 まめきんとん、 とも言う。ただ、広辞苑には、「金団」に、和菓子として、 栗の粉で小団子のようにつくり、中に砂糖を入れた菓子、 胡麻または雨の粉をまぶした団子、 求肥皮の小饅頭の周囲を煉り切り餡で半包みとし、表面に餡そぼろをつけた生菓子、 丸めた餡を芯にして、そぼろ状の餡を表面につけた生菓子、 等々も載る。これは、「金団」の由来ともかかわることである。 橘飩(きっとん)の転、 とされる(大言海)ように、「きんとん」は、古く、 橘飩、 と書き、 粟をふかして砂糖で包んで作った、 とあり(たべもの語源辞典)、江戸後期の『貞丈雑記』には、「きんとん」は、 中に砂糖を入れた、粟の粉の団子、 とあり、 粟の色が黄色なので、 金団、 金飩、 と名づけた、とある(たべもの語源辞典)。 「橘飩」は、卓袱料理(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)の語から由来した、とされる(仝上)。それは、 小麦粉を黄色く着色したものを丸めて茹でたもの、 とされるからである。 「きんとん」という語自体は室町時代から見られ、実隆公記の大永七年(1527)八月一日には、 自徳大寺一金飩一器被送之、 と、「金飩」の字があり、 米や粟の粉で小さな団子のように作り、中に砂糖を入れたもの、 とされる。当時の文献には材料や製法の記載はない。ただ一,二の故実書に,不用意に食べると中から砂糖がとびだして顔へかかるから注意すべきだとか,手でつまんで食べるものだとか,書かれている(世界大百科事典)、とある。 どうも、「きんとん」は、中国から渡ってきた唐菓子の、 餛飩(こんとん)、 からその名が起こったらしい。「菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、「唐菓子」は、古く、 文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法であった。これらの菓子は祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞としてその形を残している、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2)が、この果実・木の実とその加工品を、 くだもの(果子・菓子) と記述していたことが、嗜好品を菓子と記述する由来になった、と思われる(仝上)。 「唐菓子」は、はじめは、植物の菓子に似せて、 糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、 らしく(日本食生活史)、名前も、異国風に、 梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、 桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、 餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、 桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、 黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、 饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、 鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、 団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、 等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、以上の八種は、 八種唐菓子(やくさからがし)、 と呼ばれ、 これは特別の行事・神仏事用の加工食品と言える。これらは日常的に作られていなかったようで、製法が詳細に記述された文献がある、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90)。この他に、 餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、 餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、 餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、 環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、 結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、 捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、 索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、 粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、 餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、 煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、 粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、 等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)。「餛飩」は、この一つである。これが、和菓子になり、 金飩(こんとん)、 と呼び、江戸末期には、 巾飩(きんとん)、 と変わり、文化・文政(1804〜30)ころから、 餡そぼろ、 をつけるようになる(たべもの語源辞典)、とある。文政一三年(1830)の『嬉遊笑覧』には「きんとん」は、 ごまや黄な粉をまぶした団子、 とあるが、天保十二年(1841)の「菓子話舩橋(かしわふなばし)」には、 求肥(ぎゅうひ)皮の小さな饅頭の周囲を練切餡で半包とし、表面に餡そぼろをつけた生菓子、 が載る(精選版日本国語大辞典)。 「きんとん」は、 京飩の転音、唐音、 という説もあり、 きんとう、 ともいった、とある(仝上)。京では、 餅、 で、江戸では、 あん餅、 を指した、 金団餅、 という茶菓子であった(仝上)、ともある。 和菓子の「金団」は、 餛飩(こんとん)→金飩(こんとん)→巾飩(きんとん)→金団、 と転じたものらしい。 今日の「金団」は、 近世の発明、 とされる(たべもの語源辞典)。 ナガイモなどを煮てすり、砂糖を加え、クチナシで着色して、これに、栗・クワイなどの煮たものを混ぜたものをまぜたもの。金は金色つまり着色で、(橘飩の)飩はむしもちのこと、また麺類の一種である、 とある(仝上)。 餛飩(こんとん)→橘飩(きつとん)→金飩→金団、 と転じたが、「金団」の団は円に同じで、まるいもの、また、あつまり、かたまりを指し、ナガイモなどを煮て黄色に染めてつぶしたものがかたまった団子状のものを、 金団、 といった(仝上)のである。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「ぎんなん」は、 いちょうの実、 である。 銀杏、 と当てるが、「いちょう」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%84%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86)で触れたように、 銀杏、 に、 イチヤウ、 と振られ、「いちょう」の別名でもあった。「いちょう」の由来には、 葉の形をアヒルの足に見立てた鴨脚(イアチァオ)の転訛、 とする説があるが、 「室町時代以後に字書類などに見え,イチャウと振仮名がある。『銀杏』の宋時代の発音インチャウの訛がイチャウとなったものであろう。『いてふ』と書くのは,語源を『一葉(いちえふ)』と考えたからで,イチエフがつまってイテフとなる。『鴨脚』とも書くので,その唐音ヤチャオの転と見る説もあるが,疑わしい。」 と一蹴し(岩波古語辞典)、 「1481年頃に成立した一条兼良の『尺素往来』や1486年の『類集文字抄』、1492年頃の『新撰類聚往来』にも『鴨脚』はなく、『銀杏』に『イチヤウ』とのみ振られて」 いるし(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6)、 「室町時代の国語辞典『下学集』では、『銀杏』の文字に『イチヤウ』および『ギンキヤウ』と振り、その異名に挙げる『鴨脚』には『アフキヤク』と振られており、イチヤウはあくまでも銀杏の音としてギンキヤウと併記され」 ていたらしい(仝上)。で、その種である「ぎんなん」は、 ギンアンの転、アンは唐音(広辞苑・日本語源広辞典)、 銀杏(ギンキヤウ)の宋音、ギンアンなり。連聲(レンジヤウ)にて、ギンナンと云ふ、銀は白き義、本草綱目「銀杏、因其形似小杏、而核色白也」(大言海)、 アン(杏)は唐音(国語の中に於ける漢語の研究=山田孝雄)、 「銀杏の中世漢語はiən-hiəngであり、銀杏の唐音である「ギンアン」が転訛し(連声)、ギンナンと呼ばれるようになった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6)、 唐宋音の「ギンアン」が転訛して、「ぎんなん」と呼ばれるようになった(実用日本語表現辞典)、 銀杏(ぎんきょう)の宋音である「ギンアン」が「ギンナン」になった(たべもの語源辞典)、 等々と、宋音と唐音と別れるが、「いちょう」を指す、 銀杏(ギンキョウ)、 の「杏」(キョウ、呉音ギョウ、漢音コウ、唐音アン)は、 会意、「木+口」で、口に食べてみておいしい実のなる木をあらわす、 とある(漢字源)。わが国に入ってきた時間差、ということなのではないか。 「銀杏」と当てられたのは、 実の形が杏(あんず)によく似ていて、銀色の殻に包まれていることから、 である(実用日本語表現辞典)。 「ぎんなん」は、 秋になると球形の実がなる。これを数日間土の中に埋めておくと、外皮が破れて、白果があらわれる。食べるときは、外の殻を割って、渋皮をとってから火を通して用いる(たべもの語源辞典)、 が、 蛋白質に富んでいるが、また強力な蛋白分解酵素があるので、腫物や皮膚病などに生のままむつぶしてその汁液を塗ると効果がある。虫歯の痛みが止まり、毎朝これを食べると食欲増進し、強精の効果もある、 という(仝上)。 中国では、結婚式の花嫁・花婿に、氷砂糖で煮た銀杏を食べさせる、 とある。銀杏が地上に落ちて種子が芽を出す発芽率は100%であり、また、その枝を地にさしてもよくつく、生命力の強い植物、 だから、らしい(仝上)。「いちょう」は、 雌雄異株、 であり、銀杏ができるのは雌株である。 チチノキ、 と呼ばれるが、雄の樹には、太い下枝から乳のようなものが垂れ下がり、地面につくと根を出す。この乳状のものが垂れ下がるので、そう呼ぶ。しかし、雄株である(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「きんぴらごぼう」は、 金平牛蒡、 と当てるが、「ごぼう」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%86)で触れたように、「金平」とは、 極めて美麗にして強き物事の形容に云ふ語、 とあり(大言海)、この「金平」は、 金平浄瑠璃、 または、 金平節、 とも言う、江戸時代に流行った浄瑠璃の一派、に由来する。「金平浄瑠璃」は、 大江山の鬼退治で知られる源頼光と頼光四天王(坂田金時、渡辺綱、碓井貞光、卜部季武)の次世代の話と位置づけられ、頼光の三番目の弟・源頼信の長男であり嫡男でもある源頼義と頼光四天王の息子である坂田金平・渡辺竹綱・碓氷定景・卜部季春の「子四天王」が活躍し、特に坂田金時の息子である金平が人気であったためにこの名が付いたとされている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83)が、大言海には、 明暦(1655〜1658)、寛文(1661〜1673)の頃、土佐節の浄瑠璃に、金平という怪力無双の荒男を仮想して綴れるを、桜井和泉太夫(後に丹波少椽正信)と云ふ者、二尺の鐵棒を叩きて拍子を取り、豪壮なる異調にて語れり、これを金平節と云ふ。金平法問答、金平天狗問答、金平千人切など云ふ外題のもの、数篇あり。岡清兵衛の作多し。其頃の男達、町奴の気風に投じて、大いに行はれたり、これより、強きことをキンピラと云ひ、きんぴら娘、きんぴら糊、きんぴら足袋など云ふ語出来たり、 とある。「金平」は架空の人物だが、江戸語大辞典には、 坂田金時の子公平、強力無双の人。土佐節の浄瑠璃に、公平を金平として語られ、大いに世に行われたため、強い人を金平というようになった、 とあり、「公平」が元の名とある。 「金時」が赤くて大きいことのたとえにされるのに対して、「金平」は、金平足袋、金平織、金平糊(にかわを混ぜた粘りの強い糊)などのように、堅固なもの、強いものを表す、 とある(日本語源大辞典)。強いものの喩えなのに、 金平ごぼう、 の場合は、 辛きを強き意に言うか(大言海)、 とか、 牛蒡の固く辛いことを表した(たべもの語源辞典)、 とか、 ゴボウのしっかりとした歯応えや唐辛子の強い辛さが金平の強さに通じる(https://zatsuneta.com/archives/006276.html)、 とか、喩えとしては、ちょっとすっきりしない。しかし、 江戸時代に元気な娘のことを「きんぴら」といった。また、金平糖というのも実はきんひら糖といったものである。娘の気の強いとか、金平糖の砂糖の甘みがつよいといったように「強い」ことを金平(きんぴら)と称した。金平牛蒡も「強い」といった感じのする料理である。強精作用があると考えられたところから名づけられたのである、 と説明されると、納得である(「金平糖」については、「有平糖」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96)で触れた)。「金平牛蒡」は、 牛蒡を繊に切り、唐辛子とともに、味をつけて、胡麻の油にていためたる、 もの(大言海)で、 極めて辛い、 のだから(仝上)。それに、確かに、「ごぼう」には、 ごぼうは水溶性、不溶性共に食物繊維を豊富に含み、便秘の解消に効果が大きい他、不溶性食物繊維の「リグニン」は腸内の発ガン性物質を吸着し、大腸ガンの予防効果がある、 と言われている(https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/gobou3.htm)が、 アミノ酸の一種であるアルギニンを多く含む。アルギニンは精力増強に役立つといわれ、性ホルモンの分泌を促進し、男性の機能向上にも役立つといわれている。また、新陳代謝と肌にも良いといわれている成分、 を含むのである(https://www.olive-hitomawashi.com/column/2017/03/post-53.html)。 ただ、今日は、 繊切りにした野菜を砂糖・醤油を用い甘辛く炒めたもの。特に繊切りまたは笹がきにしたゴボウを主に調理したもの、 で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3)、「極めて辛い」という印象はないが、 強さや丈夫さを願うことから、最近では、おせち料理で作る家庭もある、 と言われている(https://blog.goo.ne.jp/raishou0213/e/1f91af43db0676e81dd30ac266cd7402)。ちなみに、ごぼうの切り方は、 関西では笹がき、関東ではせん切りにすることが多い、 とある(http://gogen.bokkurigoya.com/archive/005386.php)。 ところで、「金平牛蒡」の由来には、 笹がきにしたごぼうの様子が、金平のざんばらな髪に似ているから、 という説もある(仝上)らしいが、 「きんぴら」の付く、「金平足袋」や「金平糊」などがあり、それらは「強さ」を表していることから、「きんぴらごぼう」だけが髪型に由来するとは考えにくい、 と否定する(語源由来辞典)のが妥当に思われる。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「こんぺいとう」は、 金平糖、 金米糖、 金餅糖、 渾平糖、 糖花、 等々と当てる(広辞苑・たべもの語源辞典)。「有平糖」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96)で触れたように、 ポルトガル語のコンフェイトconfeito(糖菓の意)の転訛、 といわれる(糖菓の意)。 コンヘイ、 とか、 コンヘイトウ、 とか、 コンペイトウ、 といわれた(たべもの語源辞典)。 ケシ粒を心にして砂糖液をかけてかわかし(古くはゴマを使用),加熱しさらに糖液をかけて作る。心に吸収された糖分が加熱によって吹き出すので周囲にとがった角ができ,その形が不思議がられて珍重された、 ものである(百科事典マイペディア)。 「金平糖」は、「有平糖」ともに、安土桃山時代にポルトガルより伝わった南蛮菓子である。天文十八年(1549)、鹿児島に上陸した、フランシスコ・ザヴィエルが、持ち込んだ中に、 カスティラ、 ボウル、 カルメイル、 アルヘイトウ 等々があった、とされる(たべもの語源辞典)。永禄一二年(1569)4月ルイス・フロイスが織田信長に謁した際の贈物の中にその名が見える(世界大百科事典)。 江戸時代初期には慶長14年(1609年)に佐賀藩の『坊所鍋島文書』に「金平糖一斤(600グラム)」が記されており、慶長18年(1613年)に平戸の松浦鎮信の病気見舞いに贈られた、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3%E7%B3%96)。さらに、 寛永14年(1637年)の長崎・平戸のオランダ商館長日記に拠れば、ポルトガル船により「各種金平糖3000斤(1800キロ)」が運ばれており、京都などに流通して献上品として用いられていた、 とある(仝上)。 金平糖が国産化したのは渡来から約120年後の貞享年間(1684〜1688)とみられ、井原西鶴の『日本永代蔵(』(1688)には、「南京より渡りて、仕掛いろいろ穿鑿すれども成がたく」「南蛮人もよきことは秘すと見えたり」などと紹介され(大言海)、近年世間に広まって値段もやすくなったと, 近年下直(げじき)なること、長崎にて女の手わざに仕出し、今は上方にてもこれにならひて弘まりける。胡麻一升を種にして、金平糖二百斤になりける、 とあり(日本大百科全書)、当時は核にごまやケシ粒、肉桂皮などを用い、 ゴマを砂糖液で煮たものを乾燥し,それをなべでいると,あたたまるにしたがってゴマから砂糖が吹き出して金平糖になった、 とある(世界大百科事典)。 当時はごま粒を種にしてつくったが,後世けし粒に代って現在に及んでいる。けし粒に蜜衣を何度も掛け,乾かし,十分に糖を吸わせてから加熱すると糖が吹出し,でこぼこができる、 らしい(ブリタニカ国際大百科事典)。広辞苑には、 氷砂糖を水に溶かして煮詰め小麦粉を加えたものに、炒った芥子(けし)や胡麻、または飴の小核を種に入れ、かき回しながら、加熱し、製する、 と載る。今日の製法は、 現在ではざらめやイラ粉(蒸したもち米で作った粉)を芯にして作り始めます。この芯に糖蜜を何度もかけ、乾かしていくと、糖液が次第に固まって大きくなり、次第に角のような突起ができるのですが、一朝一夕ででき上がるものではなく、1日に1ミリ程度にしか大きくならず、完成までには時間も手間もかかります、 とある(https://biyori.shizensyokuhin.jp/articles/527)。 「金平糖」と当てるのは、「きんぴらごぼう」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%B4%E3%82%89%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%86)で触れたように、江戸期に流行った、源頼義の四天王の息子で坂田金平という名の売れた勇士がいて、 砂糖の甘みが強い、 というので、 キンヒラトウ(金平糖)の義。キンヒラは強い意(松屋筆記)、 ということから、「金平」を当てた、とも言われるが、 外来菓子であるからコンフェイトスという名に近い日本文字をあてて名とした、 ものと思われる(たべもの語源辞典)。「金平」と当てたことで、「金平」説が生まれたのではないか。 「干菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%B9%B2%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたが、本朝世事談綺(江戸中期、1733年)には、「干菓子」というものは、 白雪糕(はくせっこう)で製するもので、中古は、アルヘイ糖、コンペイ糖の類をいった、 とある(たべもの語源辞典)。江戸中期までは、大名茶菓子であったが、いまでは駄菓子である。 金平糖の特徴である角は、1つの金平糖に角は17〜36個程度あると言われています。実は、この角が何故出来るのかは分かっていないらしい。一説によると、 釜の表面に張り付いた1点が、釜が回転することにより引っ張られて盛り上がり、転がるうちにこの1点ばかりがくっつくようになる。 その作業を繰り返すことで、表面にいくつかこうした点ができ、次第に凸凹がはっきりしてくる、 とされている(http://www.sasakiseika.co.jp/fs/sasakiseika/conpeito)、とか。 なお、金平糖の作り方は、http://www.sasakiseika.co.jp/fs/sasakiseika/conpeitoに詳しい。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「空也豆腐」(くうやどうふ)は、 空也蒸し、 とも言う。 空也派の僧侶が創製したから、 そう呼ぶらしい(広辞苑)。大言海には、 空也念仏宗の本山、京都の空也堂の徒弟の作り始めたりと云ふ豆腐、 とある。 四角い豆腐をお堂に見立て、お堂の周りを空也念仏を唱えながら踊り回る様子を模して作られたから、 ともいわれる(世界の料理がわかる辞典)。 空也堂とは、 空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは(京都、四条門、油小路の)紫雲山光勝寺極楽院(しうんざんこうしょうじごくらくいん)と号する、天台宗の寺。天慶2年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥にあったので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた、 とある(https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=166)。 「空也豆腐」は、 溶き卵と調味した出し汁を豆腐にかけて蒸し、その上に葛餡を掛けた料理、 とある(広辞苑)。 四角に切った豆腐をくずさないように蓋付きの丼に入れ、玉子と出汁をかきまぜたものを上からかけて蒸し上げ、くずあんをかけて熱いうちに食べる。季節によって貝柱やとりそぼろなどを加えてもよい。空也念仏が流行した平安時代に考案されたといわれる、 ともある(http://www.eihosha.com/tabemono/page10.html)が、たべもの語源辞典の説明が具体的である。 茶碗蒸の茶碗に、豆腐を入れておき、卵を割る。だしは、豆腐に水気があるから、茶碗蒸の割合よりもすくなめにして(玉子と同量のだし)、味をつけてよくかきまわし、茶碗に入れて蒸す。蒸したら、その上に、貝柱か、海老のそぼろ、または鳥のそぼろをかけて、その上に葛餡をかけて、蓋をして出す、 とし、その由来は、 茶碗蒸かと思って食べると中から豆腐が出てくる。玉子料理であって豆腐料理であるところが、半僧半俗の念仏踊になぞらえられ、空也念仏の空也という名を借りてつけたものであろう。空也上人が考えたとかつくった料理だからというのは間違いである、 と、空也念仏とのかかわりを否定している。 「空也」(くうや)は、平安時代中期の僧、 阿弥陀聖(あみだひじり)、 市聖(いちのひじり)、 市上人、 等々と称される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E4%B9%9F)。 口称念仏による弥陀の進行を庶民に説いた最初の人とされる。五畿七道を巡歴し、難路を開き、端を架け、井戸を掘り、遺骸の埋葬など社会事業を行いながら布教した。天慶元年(938)三十六歳のときに京都に現れ、京市民から貴族層に及ぶ広範な信仰を集めることになる。天暦二年(948)四十六歳のとき、天台座主延昌に受戒して正式の僧になったが、生涯自称の空也を名とした。仏像を負い、経綸を携え、法螺や錫杖を持った姿で、女子、子供や虫類にいたるまだ教化した、 とある(日本伝奇伝説大辞典)。 口称念仏を説くが、主体は観想念仏、 とある(仝上)。「観想念仏」とは、 仏の相好や浄土の様子を心にこらし、その姿や相を想い描くこと。また、特に浄土教では阿弥陀仏の姿やその功徳、さらには浄土の具体的様相を想起する観法の一つ、 であり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A6%B3%E6%83%B3%E5%BF%B5%E4%BB%8F)、称名念仏に対することばである。 俗に天台宗空也派と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)、 と、特定の宗派ではない(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E4%B9%9F)。 三百年後、日蓮は、 をどりはねて念仏をば申し、 と書いているが、空也は、 踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない、 のであり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E4%B9%9F)、また、 鉢叩き念仏の祖にようにもいわれ、ほら貝を吹いて仏の道を説いた、 とされるが、空也にそんな記録はない。だから、 「日蓮の時代にすでに空也のことは、わからなくなっていたのである。その大切な教えとか行状さえわからぬ人物がこしらえた料理が伝わったということはありえない」 のであり、 何もわからない人だから、空也踊・空也餅・空也最中のように、空也の名がつけられるのである。空也豆腐も、空也上人とはまったくかんけいはない、 らしい(たべもの語源辞典)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「草餅」は、 くさもち、 あるいは、 くさもちい、 と訓む(広辞苑)。 米粉に、よもぎの葉を搗きまぜて、蒸し作れる餅、或は、おほばがらしを加へて、色を添う、 とあり(大言海)、 艾餅(よもぎもち)、 であり、 艾餻、 とも当てる。「よもぎ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%82%88%E3%82%82%E3%81%8E)については触れた。 上巳(じょうし 三月三日)の供とす、 とある(仝上)。 古への、母子餅(ははこもち)の遺なり、 ともある(仝上)。鎌倉時代後期の「夫木抄」(夫木和歌抄(ふぼくわかしょう、夫木抄、夫木和歌集、夫木集とも)に、 花の里、心も知らず、春の野に、はらはら摘める、ははこもちひぞ(和泉式部)、 とある。「ははこもちい(ひ)」は、 母子(這兒)に供ふる餅の義ならむ、 とある(仝上)。「母子(ははこ)」とは、 這兒、 であるが、この流れは、「天兒(あまがつ)」から始まる。「天兒」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E5%A4%A9%E5%85%90)で触れたことと重なるが、「天兒」は、 「幼児の守りとして身の近くに置き、凶事をこれに移し負わせるのに用いる信仰人形。幼児用の形代として平安時代に貴族の家庭で行われた。『源氏物語』などの諸書には、幼児の御守りや太刀(たち)とともにその身を守るまじない人形の一種として登場する。1686年(貞享3)刊の『雍州府志』によると、30センチメートルほどの丸い竹1本を横にして人形の両手とし、2本を束ねて胴として丁字形のものをつくり、それに白絹(練り絹)でつくった丸い頭をのせる。頭には目鼻口と髪を描く。これに衣装を着せて幼児の枕元に置き、幼児を襲う禍や穢をこれに負わせる。1830年(文政13)刊の『嬉遊笑覧』には子供が3歳になるまで用いたとある。天児を飾ることは室町時代に宮中、宮家などで続いてみられ、江戸時代には民間でも用いられるようになった。また天児と同じ時期に発生した同じような人形に縫いぐるみの這子(ほうこ)があり、江戸時代に入ると天児を男の子、這子を女の子に見立てて対にして雛壇に飾り、嫁入りにはこれを持参する風習も生まれた」 とある(日本大百科全書)。室町時代の「御産之規式」には、 あまがつの事は、はふことも言ひ孺形(じゅぎやう)とも云ふ。是は若子の御傍に置きて、悪事災難を、このあまがつに負はするなり、若子の形代なり、 ともある。つまり、 稚児の身に副へおく、祓いの人形(ひとがた)、 であったものが、後世、 小兒の守として、枕頭に置くものとなり、幼児の形したる人形、 となり、 室町時代には白絹にて綿を包みて作り、江戸時代になると、尺余の竹筒に、白絹にて頭を作りつけ、又、尺余の竹筒を其下に横たへて、両肩とし、白絹の小袖を着す、小袖には、金銀にて、鶴・龜、松、竹、寶盡しなどを画く、 ようになる(大言海)。この「あまがつ」が雛人形につながるのだから、 後世此の餅をひなに供す、 となることになる(広辞苑)。 「ははこもちひ」は、 古へ、米の粉に、ははこぐさ(母子草)の葉を和し、蒸して製したる餅、 で、 又、今のくさもちひ(草団子)、後に艾餅(よもぎもち)の草餅となる、 とある(大言海)。『三代実録』の嘉祥二年(849)三月三日の条に、母子草を、 蒸しつきて糕(もち)とす、 とある(たべもの語源辞典)。これが、史書に現れた初見である。中国では、 鼠麹草(そきくそう)、 を用いていた。「ははこぐさ」の漢名である。そのため、昔は母子草を用いていたが、 室町中期頃から艾(もぐさ) を用いるようになる。 よもぎ(艾)、 である。「母子草」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%AF%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%90%E3%81%95)については触れたが、春の七草のひとつ、 「ごぎょう(御形)」のことである。「母子草」は、 臼と杵を陰陽と考える伝説もあって、母と子を同じ臼に付くことを忌む、 考え方から、母子草を用いることが廃れた、とある(たべもの語源辞典)。 「草餅」の起源は、中国である。 周の幽王が身持放埓のため群臣愁苦していたとき、三月上巳曲水の宴に草餅を献上するものがあった。王がその味を賞味して宗廟に献じしめた結果、國大いに治まって太平になったという。後にこれにならって祖霊に進めるようになったのが起源、 とされる(たべもの語源辞典)。荆楚歳時記によると、 6世紀ごろの中国では3月3日にハハコグサの汁と蜜(みつ)を合わせ,それで粉を練ったものを疫病よけに食べる習俗があった、 とされる(世界大百科事典)。これが日本に伝えられた、とみられる。 「草餅」の製法には二つあるらしい。 ひとつは、蒸した糯米(もちごめ)とよもぎとを搗き混ぜて作る。雛の節句の菱餅はこれである。 いまひとつは、白米粉をこねて蒸籠で蒸し、別に茹でて細かく刻んだよもぎをまぜせて臼で搗く。あんころ餅などはこの法による。 江戸では「草餅」といったが、京阪では「よもぎ餅」と呼んだらしい(たべもの語源辞典)。 ところで、「もち」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%82%E3%81%A1)「餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)で触れたように、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、 「『食+音符并(ヘイ 表面を平らにならす)』で,表面が薄く平らである意を含む」 で,中国では,小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品,「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に当てるのは,我が国だけである。 餻、 餈、 も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、 餌(ジ)、 と同じであり、 もち、だんご(粉餅)、 の意である。「餈」(シ)は、 むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、 である(字源)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、 「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」 とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、 「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」 とある(たべもの語源辞典)、という。つまり、「餅」が小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米(もちごめ)でつくるモチとは異なるが、借字として「餅」の字を使ったのである。だから、 団子、 と、 餅、 の区別も、「団子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%9B%A3%E5%AD%90)で触れたように、 米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、 粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、 とする説(たべもの語源辞典)もあるが、 「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。つまり、「餅」といいつつ、糯米(もちごめ)を使っているとは限らない、のである。だから、 草団子、 と、 草餅、 の区別は、現物を見るまでつかない。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「具足煮」という料理がある。 イセエビを殻のついたまま輪切りにして煮たもの、 とある(広辞苑)。「具足」は、甲冑の意である。だから、 伊勢海老とか車海老の、かたい殻のあるものを、その甲羅のまま筒切りにしたり、縦二つに割り、煮たり、焼いたりした料理の名称、 とある(たべもの語源辞典)。縦二つに割るのを、 梨割り、 とも言うらしい(https://nimono.oisiiryouri.com/gusokuni-gogen-yurai/)が、ともかく、武士が鎧、兜を着けている、つまり具足を着けたという意から、 海老の殻を具足と見立てた、 のである(たべもの語源辞典)。海老だけでなく、 蟹を殻つきのまま大まかに切り、さっと煮つけたもの、 も指すようである(世界の料理がわかる辞典)。その調理法によって、 具足焼き、 具足蒸し、 等々ともいう(仝上)。ただ、 イセエビの頭を去り、身を殻のままにて、輪切りにして、味醂・醤油。同量に、砂糖を加へて、煮立てたる汁にて煮つけたるもの、 とある(大言海)ので、 兜を着けていない、 状態のように思えるが、別に、 殻付き(頭付き)でないと甲冑らしくありませんので、姿のままの海老や蟹を二つ割りにして煮ます。はじめ水・酒で煮て、醤油を加えるだけのシンプルな料理。出汁は材料から出ますので使いません。もちろん煮汁は旨いだしが出て美味しく飲めます。汁物か煮物か微妙なところですが、煮物です、 という調理の仕方が載っている(https://temaeitamae.jp/top/t8/Japanese.food.3/2/09.html)ので、これだと、 甲冑、 ということになる(「甲冑」の「甲」はかぶと、「冑」は胴巻き、鎧の意だが、後に「かぶと」を「冑」というようになったらしいが)。 殻を鎧よろいに見たてていう(大辞林・大言海) の、「鎧」を、「甲冑」の意なのか、「鎧」(胸や胴を防ぐ)の意なのか、必ずしも、厳密には使っていないのかもしれない。 「具足」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E5%85%B7%E8%B6%B3)は、前に触れたが、 甲冑, の意で用いられるが,本来は, 十分に備わっている, 揃っている, 意で, 円満具足, などという。『大言海』は,三項に分け,一つを, 備わり足ること、揃いたるもの、 で、 香炉・花瓶・燭台、そろひたるを、三つ具足、 と云ふとする。次に、 具足する(ともなふ)ものもの意、 として, 携へるもの,携行品, 携ふる意より転じて,所持品,調度,道具、什器, の意とする。さらに、「所持品」の意から, 武士の所持品、調度、道具は、鎧を第一とするに因りての名なり、もののぐ(什器)を、鎧の称とし、調度を弓矢、道具を槍の名とすと、正に同意なり、甲冑、籠手、佩楯等、六具具備する称と云ふは具足を、そなはる意に介して、考へたる鑿説(イリホガ うがちすぎてかえって真実から遠ざかってしまうこと)なり、何れの器化、所要の部分の備はらざるものあらむ、 と退け(鑿説(サクセツ)は、内容がとぼしく、真実性のうすい説、鑿説にイリホガと大言海はルビを振っているが同義である) 甲冑の異名、 とする。ただ、 後世は、鎧の、脇楯なく、種々の付属品なく、簡略なる制のもの、 とあるので、室町末期の, 当世具足, を指すことになる。 「日本の甲冑や鎧・兜の別称。頭胴手足各部を守る装備が『具足(十分に備わっている)』との言葉から。鎌倉時代以降から甲冑を具足と呼ぶ資料が見られるが、一般的には当世具足を指す場合が多い。また鎧兜に対して、籠手などの副次的な防具は小具足とも呼ばれた。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B7%E8%B6%B3) 「小具足」は、 武装の際の付属具、鎧では、脛当、脇楯(わいだて 大鎧の胴の隙間を防ぐもの)、籠手(こて 肩先から腕を覆うもの)、喉輪、後世の具足では、脇引(わきびき 両脇下を防御する)、籠手、頬当、脛当(すねあて 膝から踝までおおうもの)、佩楯(はいだて 桃と膝を覆う防具)など、 を指す(広辞苑)。当世具足とは, 「戦国時代に入ると、集団戦や鉄砲戦といった戦法の変化に伴って、大量生産に適しながらも強固さを具える鎧が求められた。それに応じて、当時の下克上の風潮を反映した、従来の伝統にとらわれない革新的改良がなされ、鎧の生産性・機能性が向上し、より簡便で堅牢なものとなった。しかしながら、胴や兜は堅牢なものになったが、手足を覆う部分は従来の形式を踏襲し、鉄の小片を綴ったり鎖帷子形式で動きやすさが重視されていた。西洋のラメラーアーマーと同じ構造原理である。」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E4%B8%96%E5%85%B7%E8%B6%B3)。 しかし,「具足」は,もともと、 事物の完備充足を示す呼称で,恒例臨時の儀式,遊宴,祭祀,法会,軍陣などに際しての用具を総括して,物の具,装束,調度などの名目と同様に広く用いられる、 とあり(世界大百科事典)。『伊勢貞助雑記』に、 具足とは物の惣名(そうめい)なり,楽器具足,女の手具足,又射手具足,三具足などと申候也、 とみえ、『宇治拾遺物語』に、 家の具足ども, 『徒然草』に、 何となき具足とりしたため、 とあるのもその例であり,『御産所日記』には、 産屋(うぶや)の調度を御産所具足としており,仏供(ぶつぐ)の花瓶,香炉,燭台は一そろいとして三具足(みつぐそく)とよんだ、 とある(仝上)。あらゆる場面での,用具全般を指したと思われる。それを武家の装備に転じて, 甲冑一式, を指すようになったということではあるまいか。 「初め物事が充足しているさま,儀式,宴などの道具,調度品をさしたが,武士階級の興隆に伴い,鎧を意味するようになり,室町時代には大鎧,室町末には胴丸をさした。のち槍,鉄砲の多用により新形式の鎧が出現,在来のものと区別して当世具足と呼ばれた。」 との説明(仝上)が当を得ている。 「具足」自体は, 「具(そなわる)+足(十分)」 の意なのである(『日本語源広辞典』)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「口取」(くちとり)は、 馬の轡を取ってひくこと、またその人、 の意で、 くちつき、 くちひき、 とも言い(広辞苑)、 うまつき、 とも言う(大言海)。人を指す場合、 馬丁(ばてい)、 の意である。 口は、轡なり、 とある(仝上)。 正確には、 馬の差縄(さしなわ)を引いて前行する役目。諸差縄(もろさしなわ)は左右から両人で、左を上手(かみて)として上位の官人が担当して引くのを例とする。片差縄(かたさしなわ)は一人で轡鞚(くつわずら)を握って前行する、 とある(精選版日本国語大辞典)。 「口取」は、別に、 口取肴の略、 で使われる。「口取肴」(くちとりざかな)は、もとは、 本膳料理の最初に座つき吸物と一緒に出す、かちぐり・のしあわび、こんぶの類を盛ったもの、 を、 口取物、 といったとある(たべもの語源辞典)が、後には、 きんとん、蒲鉾、その他魚肉や鳥肉などを甘く煮て盛り合わせたもの、 を、 口取、 というようになる(仝上)。江戸時代、 広蓋(ひろぶた)や硯(すずり)蓋に盛られた、 とあり(百科事典マイペディア)、硯蓋に出される料理は、 きんとん、羊羹、寒天菓子等の甘味類(料理菓子、口取り菓子とも呼ばれる)、あるいは蒲鉾、牛蒡や小魚の佃煮といった保存の利く食物が多く、これらは賓客が持ち帰る慣わしであった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86)。 「口取」というのは、 盛られた料理を小口から(端から)取ったので、小口取肴、それを略して、「口取」としたもの、 である(仝上)。 小口から切って取り分ける肴(さかな)、 という意味で酒の「肴」を指す、本膳料理の用語である。「本膳料理」は、「懐石料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%87%90%E7%9F%B3%E6%96%99%E7%90%86)で触れた。宗五大草紙(そうごおおぞうし)(1528)には, 初献(しよこん)に雑煮,二献に饅頭(まんじゆう),三献に吸物といった肴(さかな)で,いわゆる式三献(しきさんこん)の杯事(さかずきごと)を行い,そのあと食事になって,まず〈本膳に御まはり七,くごすはる〉とあり,一の膳には飯と7種のおかず,以下二の膳にはおかず4種に汁2種,三の膳と四の膳(与(よ)の膳)にはおかず3種に汁2種,五・六・七の膳にはそれぞれおかず3種に汁1種を供するとしている、 ように、本膳料理の基礎は、 一汁三菜、「菜(さい)」は副食物のことを指す。一汁三菜の内容は、飯、汁、香の物、なます、煮物、焼物であり、飯と香の物は、数えない、……菜の数は、かならず、奇数である。日本において、奇数を陽とし、偶数を陰とする思想があり、奇数をめでたいものとすることによる、 とある(http://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.html)。本膳は「本膳料理の体系」(http://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.html)に詳しい。 大言海には、 勧盃(けんぱい)の時に、先ず出す取肴、熨斗鮑、昆布、勝栗の類、 とある。「勧盃(けんぱい)」は、 まわし飲みではなく,各人の盃に長柄の銚子で酒がつがれ飲むのが,一度の勧盃(けんぱい)であった。勧盃あるいは三献はあくまで儀礼であり,これを宴座(えんのざ)、 と称した(世界大百科事典)。これは「三献」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E4%B8%89%E7%8C%AE)で触れた。近松の「心中万年草(しんじゆうまんねんそう)」にもあるように、 土器を三宝に,口とりは熨斗(のし),昆布、 見えるように,かちぐり,のしアワビ,コンブといった祝儀のさかなに始まったものが、やがて饗膳が儀礼的なものから楽しみ味わうものへと変化し,会席料理などが出現するに及んで,食味主体に趣向をこらした料理が用いられるようになった、とみられる(世界大百科事典)。 何処にも記述がないので、憶説になるが、この「口取」の、 勝栗,熨斗鮑,昆布、 は、「カチグリ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%B0%E3%83%AA)で触れた、武家の、 出陣式、 の、 勝栗、打鮑、昆布、 と重なるのは偶然とは思えない。武士が出陣の際、 勝栗・熨斗(のし)・昆布、 の三つを肴にして、門出を祝った(たべもの語源辞典)。「熨斗」は、元来長寿を表す鮑が使われていた。 熨斗鮑(のしあわび)、 あるいは、 打鮑(うちあはび)、 が原型である。「熨斗鮑」は、 「鮑の肉を、かんぺう(干瓢)を剥ぐ如く、薄く長く剥ぎて、條(スジ)とし、引き延ばして干したるもの。略して、のし。儀式の肴に代用し、祝儀の贈物などに添えて飾とす。(延長の義に因る)。長きままにて用ゐるを、ながのしと云ふ。古くは、剥がずして、打ち展べて用ゐ、ウチアハビなどとも云へり。アハビノシ、カヒザカナ」 とある(大言海)。厳密には、出陣時は、 うちあはび、 とされる。「打鮑」は、 「古へは打ち伸(の)して薄くせり。薄すあはびとも云ひき」 として、 「今、ノシアハビと云ふ」 とあり、 ただ打ち延ばす、 か、 薄く剥ぐか、 の違いのようだ。 もともと「本膳料理(ほんぜんりょうり)」は、 室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式、 で、 「南北朝時代には公家の一条兼良の往来物『尺素往来(せきそおうらい)』において本膳・追膳(二の膳)・三の膳の呼称が記され、『本膳』の言葉が出現する。また、室町時代には『蔭涼軒日録』長禄3年(1459年)に正月25日に将軍足利義政が御所において御煎点(ごせんてん)を行った際の饗膳が記されて」 おり、 「室町時代には主従関係を確認する杯を交わすため室町将軍や主君を家臣が自邸に招く『御成』が盛んになり本膳料理が確立した。本膳料理の確立に伴い、室町時代から江戸時代には『献立』の言葉が使用され、饗宴における飲食全体を意味した」 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86)のであるから。 最初の「口取肴」とは代わり、宴会料理では、口取が最初に運ばれたが、きんとん・紅白蒲鉾・鯛塩焼・杏の砂糖煮、鶏肉と野菜のうま煮、姿海老などの美しいものでお膳をにぎやかしたが、客はこれには箸をつけない。これは、当初の「口取」の習わしそのものを引き継いでいる。これらは折箱に入れられて土産になった、 とある(たべもの語源辞典)。この「口取肴」が、別の料理に変化し、口取代わりをつめたものが、 口代わり、 とか 口替、 という料理になる。で、代わりに酒の肴になるものとして 海、山、里の物を少量ずつ盛り合わせた料理、 を少量ずつ一皿に取り合わせたものを、その場で食べるための「口代わり」が出されるようになった。今日では、この「口代わり」を「口取り」ということもある、 という(世界の料理がわかる辞典)。 口取は、今日のおせち料理にも残り、 口取り肴は饗膳のなかでも最初に食べる料理なので、重箱のいちばん上の「一の重」に、縁起がいいとされる奇数(5品、7品、9品)の料理が詰められます。おせち料理の口取りには、紅白かまぼこ、栗きんとん、昆布巻き、伊達巻き、魚の甘露煮などの甘めの料理が一般的です、 とあり(https://gurusuguri.com/special/season/osechi/spcu-1511_11/?__ngt__=TT10ebbcb17004ac1e4aed6a3FIq3Um2tXQkF_n_n-L4qr)、「祝い肴三種」も口取りの一種とされる。関東圏では、 黒豆・かずのこ・田作りの三種、 京都をはじめ関西では、 黒豆・かずのこ・たたき牛蒡、 とされる(仝上)。 なお、茶席で出される、 口取菓子、 は、 客が席に着いたとき、器にもって出す菓子のことをいう(たべもの語源辞典)らしいのだが、 茶請け、 なので、茶席で、 まんじゅう、羊かん、蒸し物に添えて出す煮しめ物、 をいう(世界の料理がわかる辞典)ともある。たとえば遠州流では、 初釜で主菓子に紅白のまんじゅうを用いるが、これに干瓢の煮しめを結んだものを添える、 という。これを指す。「口取」は、 口取り肴(ざかな)ともいい、本来は甘味の菓子をさしますが、現在では口代わりと同じ意味で使われることが多く、松花堂弁当や大徳寺縁高の中に入れる場合もあります、 とあり(https://oisiiryouri.com/kuchidori-imi/)、これだと、 口直し、 の意味になっている気がする。 文政七年(1824)刊の『江戸買物独案内』には、 両国薬研堀(やげんぼり)の川口忠七,下谷大恩寺前の駐春亭,向島の平岩,真崎(まつさき)の甲子屋ほか多くの店が会席料理を称している。献立には多少の変遷,異動があったように思われるが,最初に蒸菓子を出して煎茶を勧め,そのあと酒のコースに入って,まず味噌吸物,つづいて口取肴(くちとりざかな),二つ物,刺身,茶碗盛(ちやわんもり)またはすまし吸物が供され,それから一汁一菜と香の物で飯となるものだったようである。口取肴はいまいうところの口取,二つ物は甘煮(うまに)と切身の焼魚で,それぞれ別の鉢に入れて供された、 とあり(世界大百科事典)、江戸後期の守貞漫稿によると、天保初年(1830)ごろから会席料理がはやったとあり、 天保初め比(ころ)以来、会席料理といふこと流布す。会席は茶客調食の風をいふなり。口取肴など人数に応じてこれを出して、余肴の数を出さず。その他肴もこれに准(じゅん)ず。前年のごとく多食の者はさらに余肴これなく、腹も飽くに至らず。しかして調理はますます精を競へり。今世、会席茶屋にて、最初煎茶に蒸菓子も人数限り、一つも多く出さず。口取肴も三種にて、織部焼などの皿に盛り、これも数を限り余計これなし。口取肴の前に坐付味噌吸物、次に口取肴、次に二つ物といひて甘煮と切焼肴等各一鉢、次に茶碗盛人数一碗づつ、次に刺身、以上酒肴なり。膳には一汁一菜、香の物、 とある(https://www.kabuki-za.com/syoku/2/no276.html)。浴室も準備され、余肴は折り入れて持ち帰りにし、使い捨ての提灯も出すなど、京坂にくらべ江戸の会席料理屋の良さを挙げている(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房) 「肴」は、 さかな、 と訓ます。「肴」(漢音コウ、呉音ギョウ)は、 会意兼形声。「肉+音符爻(コウ 交差する)」で、料理した肉を交差させて俎豆(ソトウ)の上に並べたもの、 とあり(漢字源)、 食べるために煮た魚肉、 の意である。 飲食の時に食べる副産物、 の意で用いるのはわが国だけである(漢字源)が、 酒肴、 珍肴、 という言葉があり、 穀物以外の副食物、 の意もあり(字源)、 酒の肴、 ということが、原義から外れているとは必ずしも言い難い気もする。「さかな」に当てる漢字には、 魚、 があるが、「魚」(漢音ギョ、呉音ゴ)は、 象形文字。骨組みの張った魚の全体を画いたもの、 で(漢字源)、いわゆる「さかな」の意であるが、 鱗と鰭のある水族、 を指し(字源)、 池魚、 海魚、 等々と使う。「さかな」の意味では、 鮭、 の字もあるが、「鮭」(漢音ケイ、カイ、呉音ケ、ゲ)は、 会意兼形声。「魚+音符圭(ケイ 三角形に尖った形がよい)」 とある(漢字源)。日本語では、「さけ」にあてるが、 鮭肝死人、 とあるように、 ふぐ、 を指し、さらに、 鮭菜、 というように、 調理せる魚菜の総称、 の意味がある(字源)。 さて、「さかな」であるが、 酒の肴、 という言い方はいけない、などというのは、「さかな」の語源が、 酒菜(さかな)の意、 とされるから(広辞苑)である。つまり、「肴」は、平安時代から使われ、 サカは酒、ナは食用の魚菜の総称(岩波古語辞典)、 酒+ナ(穀物以外の副食物)、ナは惣菜の意(日本語源広辞典)、 「菜」(な)は、副食物のことを指し、酒に添える料理(酒に添える副菜)を「酒のな」と呼び、これが、なまって 「酒な」となり、「肴」となった(http://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.html)、 「酒菜」から。もともと副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字をあてていた。酒のための「な(おかず)」という意味である。「さかな」という音からは魚介類が想像されるかもしれないが、酒席で食される食品であれば、肴となる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4)、 等々が一般的とされる。大言海も、同趣で、 サカは酒なり、ナは食用とする魚菜の総称、 とし、 國語、晉語「飲而無殽」注「殽俎實(モリモノ)也」、広韻「凡非穀而食者曰肴、通作殽」 を引いて、 酒を飲むとき、副食(アハセ)とするもの、魚、菜の、調理したるもの、其外、すべてを云う、 とし、 今、専ら、魚を云ふ、 とあるが、「酒の肴」というとき、必ずしも「魚」を指さない。その意味では先祖返りしている。酒にあてがうことから、 アテ、 と呼ぶし、手でつまんで簡単に食べられるようなおかずだったから、「つまみもの」と呼んでいたので、 つまみ(おつまみ)、 ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4)。その意味から派生して、 酒を飲む際に共に楽しむ様々な対象(歌舞や面白い話題など)、 も「肴」と呼ばれる(仝上)。 「菜」(サイ)は、 会意兼形声。「艸+音符采(サイ 採=つみとる)」。つみなのこと、 とある(漢字源)。 葉、茎を食用とする草本類の総称、 である(仝上)。和語では、 な、 とも訓ませ、 酒飯に添えるものの総称である。 魚・鳥・草木、食べるものは、みな菜であって、ナという、 のであり(たべもの語源辞典)、だから、酒を飲むときの「菜」だから、 サケのナ→サカナ、 となる。逆にいうと、「な」は、 肴、 とも、 菜、 とも、 当てる。「な(菜)」は、 肴(な)と同源、 なのであり(広辞苑)、「菜」と「肴」と漢字をあてわけるまでは、 な、 で、 野菜・魚・鳥獣などの副食物、 を全て指し、 さい、 おかず、 の意であった(岩波古語辞典)。かつては、 おめぐり、 あわせもの、 とも言った。「あわせもの」は、 飯に合わせて食うことから、 いう(日本食生活史)。古今著聞集に、 麦飯に鰯あはせに、只今調達すべきよし、 とある(仝上)。 「菜」の字を当てることで、「菜(な)」は、 葉・茎・根などの食用とする草木、 と分離し、今日では、「菜」(な)は、 あぶらな類の葉菜、 に限定するようになっている(広辞苑)。そして、 魚類のことを「さかな」と呼ぶのは、肴から転じた言葉であり、酒の肴には魚介類料理が多く使用されたためである。古くは「うを」(後に「うお」)と呼んでいたが、江戸時代頃から「さかな」と呼ぶようになった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4)。もともと「魚」の意では、 イヲ、 ウヲ、 が用いられていた(岩波古語辞典)。名義抄には、 魚、ウヲ、俗云、イヲ、 とある。 江戸時代以降、次第にサカナがこの意味領域を侵しはじめ、明治以降、イヲ・ウヲにとってかわるようになった、 とある(日本語源大辞典)。江戸語大辞典では、「魚」の意味で、「さかな」に、 魚、 を当てている。文政八年(1825)の風俗粋好伝には、 鮮魚売(さかなうり)、 天保九年(1838)の祝井風呂時雨傘には、 魚問屋(さかなどんや)、 と使われて、「魚」(うお)の意となっている。イヲ、ウヲから「サカナ」に転じたとき、「魚」と当てて、区別したのかもしれない。 ちなみに、平日の菜を、京阪では、 飯(ばん)ざい、 といい、江戸では、 惣ざい、 といった(たべもの語源辞典)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「クチナシ」は、 梔子、 巵子、 山梔子、 等々と当てる(広辞苑)。漢名は、 梔子(シシ)、 これを当てた。 「梔」(シ)は、 会意兼形声。「木+音符巵(シ 水をつぐ器)」。くちなしの実が、水をつぐ器に似ていることから」 とある(漢字源)。「巵(卮)」(シ)が当てられるのは、「巵」が、盃の意だからであろうか、あるいは、「シ」という同音のせいだろうか。たべもの語源辞典は、 巵は酒を入れる器である。果実の形が巵に似ていることから、巵子あるいは梔(シ)という、 とする。 「クチナシ」は、別名、 木丹(ボクタン)、 とも言う。本草綱目に、 梔子、一名木丹、 とある(字源)。 熟した果実を採取し、天日または陰干しで乾燥処理したものは、生薬として、 山梔子(サンシシ)、 と称され、漢方では、 消炎、利尿、止血、鎮静、鎮痙(痙攣を鎮める)の目的で処方に配剤されるが、単独で用いられることはない、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8A%E3%82%B7)。 「クチナシ」の語原は、 口無の義、實、熟すれども、開かず、 とする(大言海)説が、大勢である。 クチニガシの義(名語記)、 キナス(黄為)の義(言元梯) 「殊に可愛らしい花」という意味でコトニハシキ(殊に愛しき)花といったのが、ニハ[n(ih)a]の縮約でコトナシになり、コの母交(ou 母音交替)、トの母交(oi)の結果、クチナシ(梔子)になった(日本語の語源)、 この実に細かい種子がたくさんあり、果実の梨に似ている、しかもこの実には自然にさけない嘴状の咢があり、これをクチとよんだ。クチのあるナシなので、クチナシといわれた(たべもの語源辞典)、 実の突き出した部分が容器の注ぎ口に似ていることから「口成(くちな)し」の意(由来・語源辞典)、 クチナワナシ(クチナワ=ヘビ、ナシ=果実のなる木)、ヘビくらいしか食べない果実をつける木という意味からクチナシに変化した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8A%E3%82%B7)、 等々諸説あるが、和歌では、 山吹の花色衣主や誰問へど答へずくちなしにして(古今和歌集)、 というように、「口無し」にかけて言うことが多い(和名抄)こと、また、 クリ・シイ・ザクロ・ツバキなど、からがあってその内に種子を包むものは、熟するとかならず口を開くものであるが、このクチナシだけが、熟しても口を開かない。熟しても口がないのは実に珍しいのでクチナシと称した、 という(たべもの語源辞典)ことから、 口無し、 説が妥当なのだろう。 なお、 梔子色、 というのは、 梔子染、 支子染、 の色を指し、 布帛を、クチナシの実にて染たるもの、色、黄なり、 とある(大言海)が、 赤みを帯びた濃い黄色、 である(岩波古語辞典)。ただ、厳密には、 クチナシで染めた黄色に、ベニバナの赤をわずかに重ね染めした色を指し、クチナシのみで染めた色自体は黄支子(きくちなし)と呼んで区別された、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%94%E5%AD%90%E8%89%B2)。 別名は、 謂はぬ色、 である。「口無し」からきている。 なお、襲の色目にも、 くちなし、 があり、 表裏共に、黄なるもの。四季を通じて着用す、 とある(大言海)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「クラゲ」は、 水母、 海月、 水月、 等々と当てる。「水母(すいぼ)」「海月(かいげつ)」「水月(すいげつ)」は、漢語である。 海月伴行舟(張説詩)、 水母目蝦(郭璞・江賦)、 等々とある(漢字源)。別に、 海舌(かいぜつ)、 ともいう(字源)。「水母目蝦」は、 クラゲには目がないと思った昔の人がクラゲのそばに蝦がいて、人が来てとろうとすると、エビが水中に入り、クラゲもついて沈んでしまう、 そう考えて、 水母、蝦を目とす、 とか、 水母、蝦目(カモク)を借る、 といった(たべもの語源辞典)意である。「海月」「水月」は、 海中あるいは水中の月のように見える、 という意味であるが、「水母」の謂れは不明のようである(たべもの語源辞典)。 海鏡、 石鏡、 海蛇、 も「クラゲ」の意だが、これから転じて、 海折(かいせつ)、 とも書くし、 凝月、 とも書く(仝上)。クラゲを煮ると固まるからである。 和語「クラゲ」は、 国稚(わか)く浮きし脂のごとくして、久羅下なすただよへるときに、 とある(古事記)ように、 久羅下、 久良介、 等々と当てて、古くから使われている。和名抄は、 海月、一名水母、久良介(くらげ)、貌似月在海中故名之、 とするし、天治字鏡は、「虫」扁に「竟」の字を、 久良介、 としているが、大言海は、 和製字なり、鏡虫の合字なるべし、 とし、珍しく、 語原を考へ得ず、 とした上で、こう書いている。 試みに云はば、輪笥(クルゲ)の轉にて(弦(ツル)、つら)、形に就きて名とするか、いかが。和訓栞に、海鏡とも云ふとあり、天治字鏡には、鏡虫の合字を作れり。器に見立てては、あるなり、水母(クラゲ)に目なしと云へば、暗気(クラゲ)ならむなどと云ふ説もあれど、開闢の時、然る、謎詞はあらじ、 と。この自信無げな、 輪笥(クルゲ)の轉、 説に似たのが、日本語源広辞典で、 クラ(クル輪)+げ(笥)、 で、形が丸い笥(容器)、 とする。その「クラ」から展開するのが、たべもの語源辞典で、 たよりなく海中にのらりくらりして、クルクルとかクラクラしている様子をクラゲといったのである。回転することをクラクラというが、このクラである、 と。 軽くめまいする様子の、 「クラクラ」の「クラ」であるが、 「くらくら」の「くら」は、「くるくる」の「くる」と関係があり、回転する意を表す。「目がくらむ」「立ちくらみ」の「くら」も同源である、 とある(擬音語・擬態語辞典)。「くるくる」は、 物が軽やかに回転する様子、 の意だが、平安時代から見られるとあり、奈良時代は、 くるる、 といった、とある。 緒もくるるに、其の髻(もとどり)に纏(ま)かせる……、 とある(日本書紀)。時代差が気になるところだが、「クラゲ」の「クラ」が、和語の特徴である擬態語から来た、とするのは説得力がある気がする。 目がないといわれていたところから暗(くら)ぐれ(和句解・日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、 色が黒いことから(和句解)、 クリアゲ(繰り上げ)の義(名言通)、 フラコ(振魚)の義(言元梯)、 イクラカイケ(幾何生毛)の義(日本語原学=林甕臣)、 くらがりにいる化け物のようだから(たべもの語源辞典)、 等々の諸説は、たべもの語源辞典が一蹴するように、「難しく」考え過ぎである。理屈ばった説は、大概外れである。 ただ、日本語の語源は、例によって、音韻変化から、 上代人は海面を漂うクラゲ(海月)を見て、「浮く許りの魚」と呼んだ。その省略形のウクバカリ(浮く許り)は、バの子交(子音交替)[bd]とカリ[k(ar)i]の縮約とでウクダキ・ウクダケ(浮く丈)になった。さらにウの脱落、ダの子交[dr]でクダケ・クラキ・クラゲに転音した。相模のクラキ(久良岐)郡を中世クラゲ(海月)郡と呼んだのと同様の母交(母音交替)[ie]である、 と説く。是非の判断はできないが、 クラキ→クラゲ、 は、カナシゲ、キヨゲの接尾語ゲと同じ「気」はキ→ケの転訛で説明が付くのではあるまいか。「け(気)」は、 気(き)音の転、 「げ(気)」は、 気(け)の連濁、 であり(大言海)、 他語の下に属きて、風情、気色(けしき)を云ふ、 とある(仝上)。 擬態語「くら」+気(げ)、 ではないか。なお、 水母の骨、 という言葉があり、 あるわけがないもの、 または、 きわめて珍しいもののたとえ、 として使われる。『承久記』に、上田刑部という武士が、 人の身には、命ほどの宝はなし。命あればクラゲの骨にも申すたとえの候なり(命があれば、クラゲの骨にも会うだろう)、 と言ったとされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2)。このため、民話に、 海月骨なし、 という話がある。 竜宮の乙姫が病となり、猿の生き胆を食べると治るというので、竜王の命令で、亀が猿をだまして連れてくる。ところが門番のクラゲが、猿に生き胆を取るのだと告げてしまう。肝を木に干してきたと欺いて亀に陸地へ連れて行かせる。このためクラゲは罰として骨を抜かれた、 という。類例は全国に分布し、クラゲが猿を連れに行く使者という変形もある。 クラゲを食用とするのは、日本と中国であるが、中華料理では、 海蜇(ハイチェ)、 といい、塩漬けクラゲを指す(大辞林)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 「芥子」(カイシ)を、 からし、 と訓ませる「芥子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%8A%A5%E5%AD%90)については、触れた。ここでは、「けし」と訓む「芥子」てある。 「けし」は、 罌粟、 とも当て、 罌子、 とも当てる。芭蕉の句に、 罌子咲いて情に見ゆるやどなれや、 がある。 罌子粟、 とも書いた(たべもの語源辞典)、とある。漢名は、 朱嚢子、 米嚢花、 とも書く(仝上)。 鴉片花(あへんか)、 と書くのは、ケシからアヘンを採るからである。 嚢子、 象穀、 御米花、 という漢名もあるらしい(仝上)。 「芥子」の「芥」(漢音カイ、呉音ケ)は、 会意兼形声。「艸+音符介(カイ 小さく分ける、小さい)」、 とある(漢字源)。「介」(漢音カイ、呉音ケ)は、 会意文字。「人+八印(両脇にわかれる)」で、両側に二つに分かれること。両側から中のものを守ることでもあり、中に介在して、両側をとりもつことでもある、 とある(仝上)。「芥」は、その実から「からし」をとる、 からしな(辛菜)、 の意である。だから「からし」は、 芥子(かいし)、 と当てる。 その実極めて小なるが故に、転じて極小の喩とす、 とあり(字源)、維摩経に、 以須弥之高廣、内芥子中、無所増減、 とあるとか(仝上)。 罌粟(オウゾク)、 の、「罌」(漢音オウ、呉音ヨウ)は、 会意兼形声。「缶+音符嬰(エイ・オウ まるくとりまくの略体)」、まるいかめ、 で、「腹の部分が大きく、口の部分が小さいかめ」の意である(漢字源)。 「粟」(ゾク、漢音ショク、呉音ソク)は、 会意文字。「西(ばらばらになる)+米」。小さくてぱらぱらした穀物を表す、 とあり(漢字源)、「あわ」の意であるが、小さいものの喩えとして使われる(仝上)。 実が瓶のような形をしていてその中に粟粒のような種が入っていて、「けし」の実は小さいので、 罌粟、 と当てて、「けし」と訓ませた(たべもの語源辞典)。 けしつぶ(罌粟粒)のよう、 という使い方をする(仝上)。「罌粟」(オウゾク)というのは、 罌(カメ)の形の如きものあり、芥子殻(けしがら)と云ふ、……罌の中に、粟の如き、極めて細かなる子(ミ)満つ、 とある(大言海)。「芥子殻」は、 棗の實を立てたる如く、頂、菊紋をなす、小児の髪の鬌(スズシロ)の如し、因りて、すずしろを、けしがらあたま、けしぼうずと云ふ、 とある(仝上)。 「鬌」(すずしろ、すずじろ)とは、 童子の髪形の一種。頭髪の中央をそり残し、周囲をそり落としたもの、 で、確かに、「罌粟殻」は似ている。 日本には足利時代にインドから津軽地方に伝来したらしく、天保年間(1830〜44)には関西地方にも広がり、津軽から全国に広まったため、 ツガル(津軽)、 と当初呼ばれた(たべもの語源辞典・日本語源大辞典)。ただし、当初入ってきたのは、アヘン用のそれではなく、 護摩などにたく香料として、 であり、「胡麻粒」の「芥子」は、後に入ってきた「罌粟」とは別らしい(日本語源広辞典)。源氏物語に、 (六条御息所の着物は)ただの芥子の香にしみかへりたる、 とあり、これは、 邪気を払う護摩のときなどに用いた、 その残り香ということになる(岩波古語辞典)。 「けし」の語源は、 芥子の音カイシを、誤って言ったもの(大言海・和訓栞後編)・日本語の語源、 花が咲くと白くなるところから、ヒラケシロシの略(日本釈名)、 ケ(食)シジム(蹙)の義(名言通)、 とある。漢語の、 解脱(かいだつ)を、ゲダツ、 解毒(かいどく)を、ゲドク、 解熱(かいねつ) と訓むように、「解」の呉音「ゲ」「ケ」で訓む例は多いので、「芥」の呉音「ケ」と訓むことは大いにあり得る。 しかし、「罌粟」の生態から見ると、「ヒラケシロシ」は、面白い説ではある。 ひらけ白し、 ということは、花を開けば花は白いという意だが、この上方を略して、しらけのケと白しのシで、ケシとしたともいう、 とも説く(たべもの語源辞典)。その謂れは、「罌粟」の花は、 つぼみのときには青い皮があって、ひらいて青い皮が落ちると初めて白くなる。他の花は、つぼみのときから白いものであるが、ケシは違っている、 からである(仝上)。 「ケシ」の若葉は食用にし、茎が10センチくらいのところとって浸し物にする。茎葉が大きくなると阿片汁液を含むので有毒である、 とある(仝上)。 六月の中頃開花するが、アヘンは落花後10日以内に搾収する。種子をとるには落花して20日後に苅取って、これを屋根裏などに干して20間ほど乾燥する。ケシは肺病を治し、腸を温め、風邪によく、熱をさます。また、下痢をとめ、痔にもよい、 と薬効がある。漢方では、 果皮を罌粟穀(おうぞくこく)といって、鎮咳・鎮痛・下痢止めに用いた、 という(仝上)。なお、昔、雪隠にケシの花を画いた屏風を立てたが、ケシの薬効からきているが、「結する」つまり、下痢が治る、の洒落でもあったらしい(仝上) なお、「芥子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%8A%A5%E5%AD%90)で書いたように、罌粟(ケシ)が渡来すると、芥子がケシの意味で使われたので、カラシかケシか判断に苦しむ、 とあり(仝上)、江戸時代の料理本に、 芥子、 とあるのは、ほとんどケシのことである(仝上)。そこで、 辛子、 の字を用いるようになった(仝上)。 なお、植物としての「けし」の詳細は、https://www.asgen.co.jp/blog/2014/09/104.htmlに詳しい。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 江戸時代に江戸で名物として謳われた、 江戸三鮨(えどさんすし)、 というのがあった。 毛抜鮓(けぬきすし)、 與兵衛寿司(よへえすし)、 松が鮨(まつがすし)、 である。「毛抜き鮓」は、 元禄一五年(1702)に初代松崎喜右衛門が竈河岸(へっついがし、現在の日本橋人形町二丁目付近)で創業、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8)。 笹巻鮓、 といって、 握り鮨を一つずつ笹の葉でまいた、 ものを、 毛抜鮓、 といった。 笹の葉で巻いた押し鮨の一種で、保存食とするため、飯を強めの酢でしめているのが特徴、 で(http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-3.html)、 握り寿司や巻き寿司に比べて歴史が古く、それ以前の押し鮓や馴れ鮓の形態を色濃く残している、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8)。江戸時代、 日本橋南伝馬町二丁目富士屋利八、 が、有名であったが、同名の鮓は市中諸所に散在した、 とある(江戸語大辞典)。嘉永六年(1853)の『守貞謾稿』に、 毛ぬきずしと云ふは、握りずしをひとつづつくま笹に巻きて押したり。値一、六文ばかり、毛ぬきずしの他は貴価のもの多く、鮨一つ値四文より五、六十文に至る。天保府命のとき、貴価の鮨を売る者二百余人を捕えて手鎖にす。その後皆、四、八文のみ。府命ゆるみて、近年二十、三十文の鮨を製すものあり、 とあり(http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-3.html)、調理法は、 すし種を酢飯にのせて笹で巻き、桶に入れて上から重しの石を置く。仕込みの段階で、「毛抜き」をもち使い、魚の小骨を丁寧に抜いたことから「毛抜きすし」と呼ばれた、 とある(仝上)。具体的には、 寿司だねも先ず塩漬けで1日、次に酸味の強い酢(一番酢)で1日、そして酸味の弱い酢(二番酢)で3日から4日も漬ける。これをひとくち大に切ったものを酢飯の上に乗せ、殺菌作用のある笹で圧しながら巻いて空気を抜くことで、さらに保存性を高めている、 と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8)、大変手間と時間がかかる高級品だったため、当時は大名の藩邸や大身旗本の屋敷などからの進物品としての注文が主だった、ともある(仝上)。しかし、後に調理がより簡略化された握り鮨が現れると、従前との対比でそれは「早ずし」と呼ばれ、庶民から有りがたれるほどだった(仝上)、とされる。 この経緯は、現在でも十二代目松崎喜右衛門が「笹巻けぬきすし総本店」として千代田区神田小川町で、江戸三鮨のなかで、唯一生き残って、営業を続けている(http://www.kanda-hojinkai.com/information/sinise/sinise09.html)「笹巻けぬきすし総本店」の紹介ページ(http://www.ll.em-net.ne.jp/~rumba/kenukisusi.html)では、「毛抜き鮓」は、 『守貞謾稿』が「文政ノ末頃ヨリ、戎橋南ニ、松ノ鮓ト号ケ、江戸風ノ握リ鮓ヲ賣ル」と文化文政年間(1804〜1829)にとある時代より、百年以上前、戦国の頃に、飯を笹で巻いたものを兵食としたことに着想を得て、元禄十五年(1702)年に創始した、 握り寿司とは別系統のすし、 で、 鯛、こはだ、鯵、さよりなどの季節の魚を1週間ほど塩に漬け、さらに酢でしめたものを、酢の利いた飯と一緒に熊笹で巻いたもの(だから笹巻)。笹で巻くのは防腐のためと、乾燥を防ぐため。早鮨系ですね。しかし三田村鳶魚によれば、早鮨が江戸に広まったのは宝暦年間だとのことですから、当初の笹巻けぬきすしは、「生なれ」の一種だったのかもしれません、 としている古形の鮓、ということになる(仝上)。 「毛抜き鮓」の「毛抜き」の謂れは、 小骨を抜いた、 という説もあるが、その他、 色気抜きで食欲をそそるほど美味いことから転じて、「色気抜き」の色が外れて「気抜き」に「毛抜き」の字が宛てられた、 とするものもある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8)。しかし、 よく食うという洒落(たべもの語源辞典)、 うまく食うというしゃれで命名(江戸語大辞典)、 とする、 毛抜きの歯のかみ合わせを言ったもの、よく喰う毛抜きでないと、その用をなさない、 からという(たべもの語源辞典)説が、江戸ッ子の命名らしいのではないか。上方の狂言作者・西沢一鳳が江戸浅草に滞在中に執筆した嘉永三年(1850)の『皇都午睡』(みやこのひるね)にも、 毛抜きは物をよくくわえてつかむものであり、そこから転じて人々がよく食うすしであるという謎かけである、 としている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8)。 「笹巻けぬきすし総本店」の紹介ページでは、その謂れを、 「旗本や松平候等幾多の諸侯御来店の折、毛抜にて魚の小骨を抜き鮨を作るを見て『面白きことよ』と興ぜられ、笹巻鮨を毛抜鮨とも呼び益々世に広まりたり」(「江戸名物 笹巻毛抜鮨由来」)ということに由来している、 としつつ、上述の西沢一鳳『皇都午睡』を引き、 「毛抜鮨とは魚の骨をよく抜きたる故呼ぶかと思いしに、よく考へ見れば、よう喰ふとの謎なるべしと悟りぬ」。つまり、毛抜きの縁語である「よく喰う」から発想した、洒落にもとづく、 説も紹介し、 江戸時代の人はひげをそる(江戸の訛りだと「する」。また、「する」を嫌って「あたる」と言った)と、ちくちくするのでこれを嫌い、毛抜きで抜きましたが、この毛抜きでひげを挟んでひっこ抜くことを、「毛抜きがひげを喰う」と言ったのです。落語「道具屋」にも、「(ふっと毛を吹いて、毛抜きの先を払い)こりゃ、よく食うぜ」という台詞があります、 と絵解きしている。江戸ッ子らしい、この説に与したい。 なお、江戸三鮨の残りのひとつは、 流行鮓屋町々在、此頃新開兩國東、路地奥名與兵衛、客來争坐二間中、 と紹介された(http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-3.html)與兵衛寿司は、 文政七年(1824)に両国尾上町(東両国)回向院前に小泉与兵衛が華屋の屋号で創業、大繁盛した。すしにワサビを使ったのはこの華屋与兵衛が最初なので、一般には与兵衛寿司が握り寿司の嚆矢とみなされている。華屋の流れを汲む両国与兵衛寿司は維新後も明治から大正にかけて営業していたが、関東大震災以後没落し、昭和5年(1930年)に閉店している、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8)、 いまひとつは、『守貞謾稿』に、 江戸鮓に名あるは、本所阿武蔵の阿武松(あたけまつ)のすし、上略して松のすしと云ふ、天保以来は店を浅草第六天前に遷す、また呉服橋外に同店を出す、 と、紹介された(http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-3.html)松が鮨は、 文政一三年(1830)、深川の安宅六間堀(現在の新大橋近く)に堺屋松五郎が創業。地名から安宅の鮓(あたかのすし)とも呼ばれた。玉子は金の如く、魚は水晶のようだと、その華麗な色彩感がたちまち評判となり、権家の進物品として引っ張りだことなった。やがて江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われるようになり、そのあまりの贅沢ぶりから天保の改革で水野忠邦の発した倹約令に触れて、与兵衛寿司とともに処罰を受けている。「松ヶ鮓一分ぺろりと猫がくひ」などと当時の川柳にも詠まれているほか、歌川国芳による大判錦絵「縞揃女弁慶 松の鮨」にも握り寿司と押し鮓が描かれている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8)。 なお、江戸時代後期の国学者で考証学者でもある喜多村筠庭は、諸書から江戸の社会風俗全般の記事を集めて類別した文政一三年(1830)刊の随筆集『嬉遊笑覧』には、握り寿司の考案者は華屋与兵衛ではなく堺屋松五郎だとしている、とある(仝上)。 「すし」に関連しては、「すし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%99%E3%81%97)、「いなりずし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9A%E3%81%97)、「飯鮨」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%A3%AF%E9%AE%A8)、「一夜鮨」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E4%B8%80%E5%A4%9C%E9%AE%A8)、で、それぞれ触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「源氏豆」は、 煎った大豆に砂糖を衣がけして、紅白二色にした豆菓、 とある(広辞苑・デジタル大辞泉)。 蓬莱豆、 源平豆、 とも言う。「はた」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%AF%E3%81%9F)で触れたことだが、 おもに縦長で、上辺の旗上(はたがみ)を竿(さお)に結ぶ流旗(ながればた)、鉾(ほこ)などにつけた比領(ひれ)という小旗などが古い形式である。のちに上辺と縦の一辺を竿につける、やはり縦長の幟旗(のぼりばた)とよばれる形が現れ、さらに正方形に近い形など、さまざまな種類も生じた、 とされる(日本大百科全書)が、源平のそれは、 白旗は源氏の旗印であった。対する平家(伊勢平氏)は赤旗(紅旗)を用いており、これをもって日本で「紅白」は対抗する図式の象徴色の一つとなった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%97%97)、紅白から、「源氏」あるいは「源平」と名付けた、と思われる。 「蓬莱豆」というのは、京都の蘆山寺、紫式部の邸宅跡として知られる、廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)で節分に撒かれる砂糖でくるんだ紅白の豆を指す。 紅白一粒ずつ食べると寿命が6年延びる、 と言われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86)。蘆山寺のホームページには、 大豆の外側を砂糖で固めた紅白の豆で、本尊の元三大師が魔滅大師(豆大師)と云われ厄除け開運、諸願成就の観世音菩薩の化身だといわれるその豆大師を表現したものです。この蓬莱豆を紅白一粒づつ食べるとその人の寿命が延び、また福餅を食べると開運出世するといわれています、 とある(http://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/22setubun.html)。 それにしても、赤白に準えて、「源氏」と名づけるものは結構ある。たとえば、 源氏巻、 というのがある。これは、 棹物(さおもの 赤小豆を羊羹にするとき、寒天を加えて船形の函に流し込んで凝結させたものを、細長く切ったので棹物とよんだ)で赤を白で重ねて渦に巻いたもの、 とある(たべもの語源辞典)。 白色のものをころもとし、白色を主にして紅を飾りとしたようなものを、 源氏、 と名づけたとある(仝上)が、「源氏巻」には、 餡をきつね色に焼いたカステラのような薄い生地に包んだ長方形の菓子、 として、津和野町の銘菓として知られるものがある。その名前の由来は、 幕末に藩の御用菓子司が銘名を頂くため、このお菓子に紫色の餡を詰め込んで、藩主に進上した。この際、藩主の妻が紫色の餡に感動し、『源氏物語』の「若紫」に出てくる和歌「手に摘みていつしかも見ん紫の根に通ひける野辺の若草」を詠んだ。それにあやかって「源氏巻」と名付けられたと、 される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%B7%BB)。 白を源氏、赤を平氏と見立てるものが多いが、たとえば、紅白の餅は、 源氏餅、 源平餅、 といい、 豆腐の白とみその赤を源平の旗に見立てた、 源氏豆腐、 というのもある(仝上)。あるいは、 源氏と名がついたものは、白ならばよいわけであるが、源氏といったとき、すぐ平氏も考え、その赤旗というわけで、赤い色を取り合わせることもした。白と赤の組合わせで、源平とつけられることも多かった、 のである(仝上)。 江戸時代に、 飯までも白きは源氏茶漬なり、 とか、 奢らずに源氏茶漬で安芝居、 と川柳にもうたわれた、 源氏茶漬、 は、 普通の白いご飯を源氏に見立てたものらしい(仝上)。 1883年(明治16年)に日本で初めて氷砂糖の製造に成功したという三立製菓の、 源氏パイ、 は、パイ生地に砂糖を折り込んだ焼き菓子だが、 和風の名前を付けたいと考えていたところ、発売翌年のNHK大河ドラマが『源義経』に決まったことを知り、そこから「源氏パイ」と名付けられた、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E3%83%91%E3%82%A4)らしいが、消費者からの問い合わせで、平家パイはないのかとあったので、同社が発売していたレーズンパイを2012年度のNHK大河ドラマが『平清盛』となったことに合わせて平家パイに改称した、 という(仝上)。これは、紅白とは何の関係もない。 源氏と名の付いたものと言えば、 ゲンジボタル、 がいる。 「源氏蛍」の名は、 平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた源頼政の思いが夜空に高く飛び舞う蛍に喩えられた。 平家に敗れた源頼政が亡霊になり蛍となって戦うと言う伝説、 があり、これに由来している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%AB)、とされる。 別に、腹部が発光する(光る)ことを、「源氏物語」の主役光源氏にかけたことが由来という説もあるが、より小型の別種のホタルが、最終的に源平合戦に勝利した清和源氏と対比する意味で「ヘイケボタル」と名づけられたという説もあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF)、「此美観を蛍合戦と称し、随って源氏蛍(ゲンジホタル)、平家蛍の名も出来たのであるが」(宮武外骨)と、蛍合戦を恋の争ひと見立てているものもある(精選版日本国語大辞典)。 もうひとつ「源氏」の名のついたものに、 源氏窓、 がある。 火灯窓(かとうまど)、 花頭窓、 ともいい(広辞苑)、 書院窓、 ともいう。 上部が尖頭アーチ形をしている窓。禅宗寺院の建築とともに中国から伝わって、唐様からよう建築に多く用いられた、 とある(大辞林)。 「源氏窓」というのは、 石山寺の「源氏の間」に見られる、 ことより、その通称が生じた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%AF%E7%AA%93)、とある。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「公卿(くぎょう)」は、 公家、 の意のそれではなく、 供饗、 公饗、 等々と当てる。 公卿に供する食物などを載せる膳、 つまり、 衝重(ついがさね) の意である。大言海は、 公卿衝重、 とし、 供饗、公饗などと書けるは、借字なるべし、 とする。 食盤(ぜん)の名、公卿に供する衝重、常には、略して公卿とのみ云ふ、 とある。 俊成卿九十賀記、建仁三年(1203)十一月廿三日に、 於上皇二条御所被賀入道正三位釋阿九十算、……次賜釋阿前物、……次居公卿衝重、 とあり、註に、 塗胡粉、有畫圖(藤原俊成入道釋阿)、 とある(大言海)。 木具、 とも言う(広辞苑)。運歩色葉集に、 公卿、木具、公卿人居之、 とある(大言海)。「木具」とは、 木具膳、 の意で、檜の白木で作る(広辞苑)。 信長公記の天正元年には、 一、朝倉左京太夫義景首(かうべ)、一、浅井下野 首、一、浅井備前 首、已上三ツ薄濃(はくだみ)にして公卿に据置御肴に出され候て、 とある。「薄濃」とは、 箔彩、 とも当て、 金銀箔・金銀泥などで彩色すること、 である。 「衝重」は、 ついかさねたるもの、 で、 ツキガサネの音便、 で、 ツイガサネ、 と訓ますが、 神供(じんぐ)や食器を載せるのに用いる膳具、折敷の下に台をつけたもの、 で、普通白木を用い、 三方に穴をあけたものを、 三方(さんぼう)、 四方に穴のあけたのを、 四方、 穴をあけないのを、 公卿、 という(広辞苑)。四方の形小さいものは、 小四方(こじほ/こじほう)、 という(大言海)。「穴」は、 眼象(げんじょう)という格狭間(こうざま)を透かしている、 もの(日本大百科全書)で、「眼象」は、「げじょう」とも訓み、 牙象、 と当て、三方、四方にあけているものは、 刳形・繰形(くりかた)、 という(広辞苑・大言海)。 圓く刳り貫きて、猪目(ゐのめ)形に、葉入りにす、 とある。 「猪の目」とは、「井の目」とも当て、 猪の目の形を模したハート型を上下逆さにしたような透かし文様、 で、灯籠の煙山しの透かし、飾り金具や額縁・経机の彫刻などにも用いる。 猪の目透かし、 とも言う(大辞林)。 「三方」は、 神道の神事において使われる、神饌を載せるための台、 であり、古代には、 高貴な人物に物を献上する際にも使用された。寺院でも同様のものが使われるが、この場合は、 三宝(仏・法・僧)にかけて三宝(さんぽう)、 と書かれることもある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9_(%E7%A5%9E%E9%81%93))。 「衝重」は、 通常は檜などの素木(しらき)による木製で、折敷(おしき)と呼ばれる盆の下に直方体状の台(胴)がついた形をしている、 とあり(仝上)、 折敷を、方形の筒の如き臺に、築重(つきかさ)ねて、作附(つくりつ)けにしたる(大言海)、 ために、「衝重」というにことになる(大言海)。つまり、元々は折敷と台は分離していて使用するときに台の上に折敷を載せており、台に載せずに折敷だけで使用することもあった。 今日では折敷と台が完全に結合したものが使用されており、折敷だけで使用するものは三方とは別に用意するようになっている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9_(%E7%A5%9E%E9%81%93))。これは、 折櫃の蓋を櫃の上に裏返して重ねて器の代わりとしていた、 のが元になったとされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9D%E9%87%8D)。「折櫃」(おりびつ)は、 檜の薄板を折り曲げて作った小箱。形は四角・六角などさまざまで、菓子・肴などを入れる、 とある(デジタル大辞泉)。 「三方」「四方」が、 公卿衝重、 であり(大言海)、「四方」は、 大臣以上に供し、 「三方」は、 大納言以下、 で、 其折敷の縁の低きを、細縁(ほそぶち)と云ひ、六位蔵人に用ゐる。これを薄盤と云ふ、 とある(仝上)。ただ、眼象がないのを、 供饗(くぎょう)、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9D%E9%87%8D、広辞苑、日本大百科全書)とあるので、厳密には、 公卿衝重、 と 供饗、公饗、 とは区別されるものかもしれないが、あるいは、 後には、孔のあいていないものを供饗、孔の三つ无ある物を三方、四つのものを四方といった、 とある(日本食生活史)ので、本来の三方、四方をいう「公卿衝重」の意味から、身分による使い分けをしなくなるほど、一般化した時期から、 三方、 四方、 供饗(穴のない)、 と分化した、と考えるのが妥当のようである。 「衝重」は、したがって、 平安時代、饗宴の席に折敷、高坏などとともに用いられ、白木造りであったが、鎌倉時代以降、朱や黒の漆塗りのものや、蒔絵(まきえ)で装飾したもの、彩絵(いろえ)を施したものなどが現れ、初めのものは高さも低かったが、近世になると脚が高くなった、 とあり(日本大百科全書)、 後世は、平人も、儀式の時には、三方を杯臺とし、其外、種々の物を載するに用ゐ、春慶塗にするものあり、形も、上広く、臺狭くなり、穴も、寶珠形の如くなれり、 ともある(大言海)。 なお、「衝重」に似たもので、 懸盤(かけばん)、 というものがある。 大きく格狭間(こうざま)を透かせた台に折敷を載せたもの、 で、 藤原氏の氏長者(うじのちようじや)がその地位の標識として朱器とともに伝領した台盤も、この形式のものであった、 とある(世界大百科事典)。これは、 折敷を載せ掛けおく臺盤の意、 で、 衝重と同じ造りのもの、 とある(大言海)。 晴れの儀式などに用ゐる膳。昔は、四脚の臺の上に、折敷を載せて用ゐき、後世なるは、上下作りつけにし、銀杏脚にて、脚の下に方形の椢をつけて、面、朱漆にて、他は、総黒漆なり、 という(仝上)が、 入角折敷(いりずみおしき)形の盤に、畳ずりのある四脚置台をとりつけるのが通形。脚間を格狭間(こうざま)形に大きくくり抜いた四脚が、弧を描いて盤面より外に大きく張り出し、安定した形姿を示すのが特徴的である。懸盤の名称は、盤下にこの種の置台を伴うことにもとづくのであろう。文献では平安時代から散見されるようになり、《江家次第》には〈殿上人懸盤居之〉とあるから、当初は昇殿を許された五位以上の位の人に限り、宮中の宴席などで使用されたことが知られる、 とある(世界大百科事典)のを見ると、四脚のタイプも、脚に横木を渡したタイプも、何れも、脚が張り出した形に思える。 近世になると、台面に朱漆、縁足台などに黒漆を塗り、草花、花鳥、家紋などの蒔絵(まきえ)が施された美術工芸品が出現している。その代表的な遺例として、高台寺(京都)の蒔絵調度類のうちの松菊桐蒔絵懸盤と芦辺(あしべ)桐蒔絵懸盤があげられるが、これらは豊臣秀吉夫妻の使用と伝えられる、 とある(日本大百科全書)。 因みに、平安期頃の食卓に当たるものには、 衝重(ついがさね)、 懸盤(かけばん)、 の他に、 台盤(だいばん)、 春日卓(かすがしょく 二月圭卓とも)、 高坏(たかつき 高杯)、 等々がある。「台盤」は、 清涼殿の殿上の間や台盤所に於かれている食卓で、上は縁が高く、中は低く、脚は八角形で、中央にくびれがあり、机の上は赤く、外は黒漆になっている、 とあり(日本食生活史)、 平安時代の宮廷、貴族の飲食調度の一つで、節会、大饗などに用いた。「だいはん、ばんだい」ともいう。食物を盛った盤 (皿) を載せる木製の机状の台。長さが約 240cmの大台盤 (長台盤、2人以上用) 、約 120cmの小台盤 (切台盤、1人用) などがあり、ともに幅は約 1m、高さは約 45cmぐらい。朱・黒漆塗で、上面は幅広い縁がつき中が低い。台盤を置く場所を台盤所といい、のち略して台所と称した、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。 「春日卓」は、 黒塗で脚は並行した板で、中はくり形がある、 とある(日本食生活史)。「春日卓」の名は、 春日大社で使用された神饌具の一種で、仏殿に香華を供えるための机である、 とあり(https://nanao-art-museum.jp/?p=2773)、そこに由来する。大言海には、 春日机、 として、 八脚の机にして、上面は朱漆、他はすべて黒漆に、處々、青貝を塗り込めるもの。奈良の春日神社の神饌の用具。二十年毎に改造せられるものと云ふ。春日塗これに起こる、 とある。現在は、春日卓(かすがじょく)とも訓み、仏具の香炉卓(こうろじょく)等々として残っている。 「高坏」は、 食物を盛るのに用いた長い脚の付いた器。1本の脚の上面に円形または方形の皿が付いたもの。縄文、弥生時代には土器であったが、平安時代以降は漆器となった。蒔絵(まきえ)を施したもの、紫檀製のものなどがある。現在は仏前、神前の供物に用いる。角高坏が正式、丸高坏は略式とされる、 とある(食器・調理器具がわかる辞典)。 以上のうち、「衝重」と「懸盤」は、近世まで、食卓として残った。 なお、「折敷」は、「八寸」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%85%AB%E5%AF%B8)で触れたし、「膳」の変化は、「膳」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%86%B3)で触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「けんちん」は、 巻繊、 捲煎、 巻煎、 等々と当てる。 けんちぇん、 けんちゃん、 けんちょん、 等々と訛る。 繊は唐音でチンだが、煎はチェンであるから、この字の違いによって、ケンチンとかケンチャンとか呼ばれ……訛ってケンチンとなった(たべもの語源辞典)、 「ちゃん」は「繊」の唐宋音=けんちん(巻繊)(俚言集覧(増補)(1899))、 等々、基本的に「繊」(セン)の唐宋音由来というのは一致している。「繊(纖)」は、 会意兼形声。韱(セン)は、小さく切るの意を含む。纖はそれを音符とし、いとを加えた字、 とあり(漢字源)、 巻も捲も、巻いたものを表すので、湯葉とか油揚で巻いている。繊は、千切りとか細かくしたものを示している、 とある(たべもの語源辞典)。大言海は、 巻は、黒大豆の萌(もやし)なり、繊は、細かに刻みたるなり、今も、大根の繊(セン)に切ると云ひ、繊蘿蔔(センロツポン)の名もあり、 とする。「繊蘿蔔」は大根の意で、「せんろふ」とも訓み、大根を細く薄く刻んだもの(日葡辞書)である。 「けんちん」は、 普茶料理の一つ(たべもの語源辞典)、 とされたり、 卓袱料理のひとつ(大言海)、 とされたりするが、「卓袱」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%8D%93%E8%A2%B1)や「普茶料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)で触れたように、「普茶料理」は、 卓袱(しっぽく)料理の精進なるもの、 とあり(大言海)、料理山家集(1802)には、 普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす。卓袱は魚類を以って調じ、仕様も常の会席などと別に変りたる事なしといへども、蛮名を仮てすれば、式と器の好とに、心を付ける事肝要なり、 とあり、それで、 精進の卓袱料理、 といわれ(たべもの語源辞典)、何れも中国からの伝来で、油を使うところが特徴である。 日本に伝えられた「けんちん」は、 @黒大豆のもやしをごま油で炒めて湯葉で巻いたもの、 A大根・牛蒡・人参・椎茸などを千切りにして、油で炒めて崩した豆腐を加え、味付けしたものを油揚で巻いて油で揚げたもの、 B鯛・エビ・鶏肉などを玉子焼で巻いたもの、 なとげがある、とある(たべもの語源辞典)。本来は中国料理なので、必ず油を用いる(仝上)。大言海も三種挙げており、@に当たるのは、「卓袱料理」由来で、 黒大豆を萌(もやし)を刻み、胡麻の油にて煎り、鹽、醤油にて味をつけたるもの、 で、長崎にては、 もやしを油にていため、湯葉に巻いて煮びたしにす、 と付言してある。俚言集覧には、 巻繊の字を書く、巻は黒大豆のもやしを云ふ、此豆を油にて煎り、鹽、醤油を加へ食す、いわゆるしっぽく料理なり、 とあり、和訓栞には、 しっぽくに用ふる料理の名也、油あげの品也、巻煎なりと云へり、 とあり(以上、大言海)、享保一五年(1730)の料理網目調味抄には、 ゴボウ、キクラゲのせん切りとセリを湯葉で巻いて油で揚げ、小口切りにしてショウガ酢、煎酒(いりざけ)で供する、 とあり(世界大百科事典)、後続の江戸時代の料理書では材料に多少の差はあるものの、おおむね油でいためた具を湯葉で巻き、それを揚げたものになっている(仝上)。「卓袱料理」でも「普茶料理」でもどちらでも通りそうであるが、これは「卓袱」系である。「卓袱」系の「けんちん」には、 ゆでたえびの身や白身の魚を細かくほぐし、千切りにしたしいたけ、笹がきにしたごぼう、銀なんなどとともに煮つけ、薄焼き卵に包み込み、小口切りにする、 というのもある(ブリタニカ国際大百科事典)「卓袱系」は、今日、 もやしや煮た野菜を小麦粉のクレープ巻き、または、湯葉巻きにして、蒸す料理。油で揚げたものや、イセエビと野菜を使い、薄焼き卵巻きにして揚げたものもある、 というバリエーションらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93)。 Aに当たるのは、 大根・牛蒡・椎茸・麩・青菜など、繊(せん)に打ち、胡麻の油にて煎りて、醤油にて味をつけ、豆腐の油揚にて巻き、鹽、醤油にて味をつけ、豆腐の油揚にて巻き、巻目にうどんこを塗り、又油にて揚げ、小口切にす、是は、精進のものなり。けんちん汁はこれより転じたる、 とある(大言海)。「普茶」系である。精進系の「けんちん」には、 煮沸した豆腐を袋に入れて水を切り、細かくほぐして味つけし、銀なん、小口切りにしたごぼう、しいたけ、麻の実を煮たものを、薄皮状に広げた豆腐の上に載せて巻き、美濃紙に包んで蒸してつくる、 というのもある(ブリタニカ国際大百科事典)。「普茶系」は、今日、 根菜類、シイタケ、麩を繊切りにし、油と醤油で炒め、栗、青菜などとともに油揚げで巻いて揚げた料理、 というスタイルらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93)。 Bに当たるのは、 鯛・伊勢蝦・鶏肉・銀杏などを材料に加へ、玉子焼きにて巻く、 とある(大言海)。 伝来した「けんちん」は、以上の三系統らしいが、今日、「けんちん」と名の付くものが、 けんちん汁、 けんちん蒸、 けんちん煮、 けんちん豆腐、 けんちん焼、 等々、結構ある。この場合の「けんちん」は、 けんちん地、 を材料にした料理の総称(https://temaeitamae.jp/top/t8/Japanese.food.6/0996.html)であり、そのバリエーションは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93に譲る。 「けんちん地」は、 大根、人参、ごぼう、筍、木耳などを細切りにして油で炒めて調味、豆腐を崩して加え、さらに炒めたもの、 とある(仝上)。あるいは、 細く切った野菜を油で炒めて、その中にくずした豆腐を入れて更に加熱したもので、玉子を主にして作った場合、 は、 玉子けんちん地、 ともいうらしい(https://kondate.oisiiryouri.com/kenchinmushi-gogen-yurai/)。現在では、 野菜を刻み、崩した豆腐と炒め合わせて作ったものを汁物にすると、 けんちん汁、 蒸し物に仕立てると、 けんちん蒸、 湯葉や油揚げで巻き込んで煮ると、 けんちん煮、 といった使われ方をしているようである(https://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-1132/)。 「けんちん汁」は 豆腐を絞りて水気を去り、胡麻の油にてにい煎て、水気を去り、牛蒡、芋など、種々の野菜を刻みて加へ、澄汁(すましじる)にいれたるもの、 略して、 けんちん、 とある(大言海)。俚言集覧(1797)に、 豆腐牛房芋その外色々時の菜を入て油にて煎て汁の物にするをけんちんといふ、 とあるものである。この由来には、 鎌倉の建長寺の開山であった蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が、くずれてしまった豆腐を野菜と煮込んで作った汁物に由来する、 といった説もある(語源由来辞典)。これが、「建長寺汁」「建長汁」と呼ばれるようになって、訛って「けんちんじる」となったとするものである。だとすると、これは、精進料理の「普茶料理」系由来ということになる。元来は精進料理なので、 肉や魚は加えず、出汁も鰹節や煮干ではなく、昆布や椎茸から取ったものを用いた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93%E6%B1%81)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「おみなえし(をみなへし)」は、 女郎花、 と当て、 をみなめし、 をむなへし、 おみなべし、 おみなし、 ちめぐさ、 じょろうばな、 等々とも呼ばれ(広辞苑他)、中世以降は「をみなめし」の形が使われた(岩波古語辞典)らしい。別名、 敗醤(はいしょう) 粟花(あわばな)、 蒸粟(むしあわ)、 ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%B7)。「敗醤(はいしょう)」というのは、 此花、水中に挿すこと二三日すれば、液出て、異臭あり、醤の腐れるが如し、故に漢名に敗醤の名あり、 とある(大言海)。ただ、中国名の敗醤は、 オトコエシ、 のことであり(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)、漢名は、 黄花龍芽(精選版日本国語大辞典)、 黄花竜牙(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%B7)、 とある。 「おみなえし」は、秋の七草、 萩、 尾花、 葛、 撫子(なでしこ)、 女郎花、 藤袴(ふじばかま)、 桔梗(ききょう)、 の一つとされ、 スイカズラ科オミナエシ属、 とされる(https://matsue-hana.com/hana/ominaesi.html)が、 オミナエシ科オミナエシ属、 ともされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%B7)多年草の植物だが、古名、 おほつち、 おほとち、 和名抄に、 女郎花、乎美那閉之、 とある。 「おみなえし」は、また、 襲(かさね)の色目の名、 てもあり、 表が黄、または、経(たていと)が青で緯(よこいと)が黄、裏は青。秋に着用する、 秋の襲、 でもあり(精選版日本国語大辞典)、七八月頃に着用する(大言海)。 女郎花の少し青みがかった黄の花の色から取ったもの、 である(http://www.mode-japonesque.com/irodori/kasane_aki/ominaesi.htm)。 「おみなえし(をみなへし)」の語源は、大言海が「いかがか」と疑問を呈した、 ヲミナは美女の意。ヘシは脇へ押しやる、力を失わす意、この花の美しさが美女をも顔色をなくさせる意か、 とする説(岩波古語辞典・古今要覧稿)がある。鎌倉時代の僧宗碵(そうてい)の『藻塩草(もしおぐさ)』には、 平城(へいぜい)天皇(806〜809)の時代、自分の愛した男が別の女と結婚すると聞いて、世をはかなんで川に身を投げたという女が脱ぎ置いた山吹重ねの衣から、女郎花が咲き出た、 との伝説をある由(日本大百科全書)なので、由来に故なしとはしないが、他に、 「女+なる+べし」の「なる」の省略、「おみなべし」が元の形、 と見る説(日本語源広辞典・語源辞典・植物篇=吉田金彦)があるが、「おみなべし」「おみなめし」は中世以降に登場するので、いかがであろうか。また、 ヲミナベシは、女房詞で「粟飯」を指す、粟飯のような花、 とする説(日本語源広辞典)もある。是非は判断できないが、 粟花(あわばな)、 蒸粟(むしあわ)、 という別名があり、「粟」でなく「粟飯」とする理由がわからない。「おみなえし」は、 粟、 または、 粟餠、 をいう女房詞とある(精選版日本国語大辞典)ので、逆に「粟花」という名があったから、そう呼ばれたのかもしれない。ここは、「女郎花」の語源とは別の話になる。 なお、「女郎花」の対とされるのが、同属で姿がよく似ている白花の、 オトコエシ(男郎花)、 で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%B7)、全体にやさしい感じがするところから名付けられたとされる。和名は、 オミナエシに対立させる形で、より強豪であることを男性にたとえたものである。最後のエシは元来はヘシであり、またヘシはメシに変化する例もあり、そのため本種の別名としてオトコメシもある、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%88%E3%82%B3%E3%82%A8%E3%82%B7)。 「なでしこ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%93)については、触れた。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 秋の七草は、 萩、 尾花、 葛、 撫子(なでしこ)、 女郎花、 藤袴(ふじばかま)、 桔梗(ききょう)、 のとされるが、山上憶良の歌では、 萩の花尾花(をばな)葛花(くずはな)なでしこの花をみなへしまた藤袴(ふぢはかま)朝顔の花、 と、桔梗ではなく、朝顔を入れている。この朝顔が何であるかについては、 桔梗説、 牽牛子(けんごし)説、 木槿(ムクゲ)説、 等々諸説がある(https://tankanokoto.com/2019/10/aki-nanakusa.html)。「牽牛子」は、「あさがお」の種の生薬の名である。 今日、「あさがほ(あさがお)」は、 朝顔、 と当てる。「朝顔」は、 朝、起き出たままの顔、 つまり、 寝起きの顔、 の意である。枕草子には、 殿おはしませば、ねくたれの朝顔も、時ならずや御覧ぜむ、と引き入る、 とある。大言海は、「朝顔」を、六項目に分ける。 「朝顔」の第一は、 朝、寝起きの顔、 の意で、 朝容(アサガタチ)、 と当てる。この意は、 麩焼(ふやき)の異名(後水尾院年中行事)、 ともある。 焼きたる面の、清らかならぬを、女の朝顔の、つくろはぬに喩えて云ふ、 とある。つまり、ということは、「朝顔」は、「女性の寝起きの顔」の意である。その意の転化として、 「朝顔」の第二は、 朝の容花(かほばな)の意、 つまり、 朝に美しく咲く花、 の意を持つ。「容花」は、 貌花、 とも当て(大言海)、 かほがはな、 ともいう(岩波古語辞典)が、 カホとは、容姿(すがた)の義、すがたの美しき花の儀、容(かほ)が花とも云ふ(容好花(かほよばな)とも云ふ)、美麗なる人を、容人(カタチビト)と云ふが如し、容鳥(かほどり)、かほよどりと云ふも同じ、 とある(大言海)。「容花」は、広く、 朝に美しく咲く花、 の意だが、 ひるがほ、 をいう(岩波古語辞典)とあるが、他に、 あさがほ、かきつばた、ムクゲ、オモダカ、 等々も指した(仝上)。 「朝顔」の第三項は、 朝の美しき花、 が一つに絞られていく。 朝に咲くが美しいもの、 として、「あさがほ」は、 ききょう、 むくげ、 にも当てられたが、 木槿も牽牛子(漢方、朝顔の種)も後の外来ものなれば、万葉集に詠まるべきなし、 とし、 桔梗、 の意であった、とする(大言海)。 今日の「あさがお」は、 奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされる。アサガオの種の芽になる部分には下剤の作用がある成分がたくさん含まれており、漢名では「牽牛子(けにごし、けんごし)と呼ばれ、奈良時代、平安時代には薬用植物として扱われていた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%AA)が、 遣唐使が初めてその種を持ち帰ったのは、奈良時代末期ではなく、平安時代であるとする説もあるが、このため、古く万葉集などで「朝顔」と呼ばれているものは、本種でなく、キキョウあるいはムクゲを指しているとされる、 としている(仝上)。平安初期の新撰字鏡も、 桔梗、阿佐加保(あさがほ)、 とし、岩波古語辞典も、「朝顔」が、万葉集で歌われているのは、 桔梗、 の意で、輸入された、 ムクゲが美しかったので、それ以前にキキョウにつけられていた「あさがほ」という名を奪った、 ととする。名義抄(11世紀末から12世紀頃)には、 蕣、キバチス、アサガホ、 とある。その後、平安時代に中国から渡来した、その実を薬用にした牽牛子(けにごし)が、ムクゲよりも美しかったので、「あさがほ」の名を奪った、 と(岩波古語辞典)ある。名義抄には、既に、 牽牛子 アサガホ、 とある。 「ムクゲ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%80%E3%81%8F%E3%81%92)で触れたことだが、 ムクゲは古代の中国では舜(しゅん)とよばれた。朝開き、夕しぼむ花の短さから、瞬時の花としてとらえられたのである。『時経』には、女性の顔を「舜華」と例えた記述がある。白楽天も一日花を「槿花(きんか)一日自為栄」と歌った。(中略)日本では平安時代から記録が残り、「和名抄」は木槿の和名として木波知春(きはちす)をあげている。これは「木の蓮(はちす)」の意味である。『万葉集』の山上憶良の秋の7種に出る朝顔をムクゲとする見解は江戸時代からあるが、『野に咲きたる花を詠める』と憶良は断っているので、栽培植物のムクゲは当てはめにくい、 としていた(日本大百科全書)ので、やはり、万葉集の歌にある「朝顔」は、 桔梗、 のようである。 そして、「朝顔」の第四項目は、「桔梗」から「あさがお」の名を奪った「ムクゲ」である。 此灌木、字音にて、木槿(むくげ)と呼べば、漢種の移植のものなり、されば野生になし、其花、朝に咲きて、暮れに落つれば、朝顔と云ふ、色種々にして、殊に美麗なれば、桔梗の名を奪へるなり、然れども、又、牽牛子(あさがほ)に、其名を奪はれて、字音の方にて、呼ばれるやうになれり、 とある(大言海)。確かに、「槿」について、『漢字源』には、 「花は朝開いて、夕方にはしぼむので、移り変わりのはやいことや、はかないことのたとえにひかれる」 とあり、「舜(しゅん)とよばれた」というだけの謂れはある。日本で、古く、「あさがお(朝顔)の名があったのもそのゆゑである。 「朝顔」の第五項目は、今日の「あさがお」である。 平安朝の初期に、實を薬用とするために、漢種を渡しし草にて、野生になし、即ち、字音にて、牽牛子(ケニゴシ)と云ひき、實の名なるが如し、朝に花咲きて、其碧色の美麗なること木槿(あさがほ)に超ゆれば、その名を奪ひ、ケニゴシ(牽牛子)の名は行われず、終にアサガホの名を専らにして、いまの世に到れり、 とある(大言海)。平安中期の和名抄には、 牽牛子 阿佐加保、 とある。 花の色は、渡来時は、 碧色、 白色、 の二種であったらしい(仝上)。それが江戸時代に、 文化・文政期(1804年-1830年)、嘉永・安政期(1848年-1860年)、 とブームがあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%AA)、色だけではなく、八重咲きや花弁が細かく切れたり、反り返ったりして本来の花型から様々に変化したものが生まれた(仝上)という。 牽牛子(けにごし)、 が、 あさがお、 と呼ばれるようになったのは十世紀初め頃であり、「朝顔」という表記が定着したのは幕末頃と考えられている。 ついでに、「朝顔」という名をもつものがある。これが「朝顔の第六項目。 蜉蝣、 である。爾雅、釋註「蜉蝣」に、 朝生暮死、 とある(大言海)。 因みに、「牽牛子」を、 けにごし、 と訓むは、 けぬごしの転、ゴは牛(ギュウ)の呉音、證類本草「此薬始出田野人、牽牛易薬、故以名之、 である(大言海)。牽牛子は『名医別録』に、 「味苦寒、有毒。気を下し、脚満、水腫を療治し、風毒を除き、小便を利す。」 載る、とある(https://www.uchidawakanyaku.co.jp/tamatebako/shoyaku_s.html?page=107)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「葛」は、「九十九」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D)で触れたように、 くず、 かずら、 つづら、 と訓ませるが、 つづら、 と訓ませると、 ツヅラフジなどの野生の蔓植物の総称、 だが、 ツヅラフジの別称、 でもあり(動植物名よみかた辞典)、 かずら、 と訓ませると、 蔓性植物の総称、 とある(仝上)。しかし、 くず、 と訓むと、秋の七草の「くず」である。 「葛」(漢音カツ、呉音カチ)は、 会意兼形声。「艸+音符曷(カツ 水分がない、かわく)」。茎がかわいていてつる状をなし、切っても汁がでない植物、 とある。「くず」や「つる」の意で、「くずの繊維で織ってつくった布(かたびら)」の意で、「つづら(葛籠)」や「かづら」の意味で使うのはわが国だけである。 ここでは、 くず、 と訓ませる「葛」である。「くず」は、 くずかずら、 ともいうが、むしろ、 くず葛(かづら)と云ふが、正しきなるべし、 とある(大言海)。この根は、 生薬の葛根湯、 として用い、また 葛粉、 を採る。「くず」の繊維で、 葛布、 を織り、蔓で、行李の、 つづら(葛籠)、 をつくる(広辞苑)。大和本草に、 葛粉は、吉野よりのもの最もよし、 とあり、本草綱目にも、 葛粉、城州にては、和州の芳野葛を上品とす、 とあり、 國栖葛(くずかづら)なるべきかと云ふ、いかが、 と大言海は多少疑問符をつけているが、 奈良県国栖の地名にちなむという(広辞苑)、 吉野のクズ(国樔)のものを良しとしたところから(古今要覧稿・和訓栞)、 グズ(国栖)のかづら(葛)の意(日本語源広辞典)、 と、地名の国栖を語源とする説がある。しかし、 漢音のカツ(葛)をクツ・クヅ・クズと転音した(日本語の語源)、 漢音「葛」katの音韻変化、kat―kut―kuz(日本語源広辞典)、 と、「葛」の漢音の変化、とする説もある。その他、 スイガヅラの上下略の転(滑稽雑誌所引和訓義解)、 クリ(栗)の異名クジの転呼。クジは美味の義の朝鮮語クスハタからか(日本古語大辞典=松岡静雄)、 根を粉にして用いることから、細屑の義(東雅・百草露)、 等々あるが、理屈ばったものは大概外れている。地名か漢音の音韻変化のいずれか妥当思うが、 葛=国栖、 とみなされていた、ということは大事かもしれない。特に、 国栖、 は、 国樔、 とも当て、 國主(くにぬし)の、くにし、くにす、 と転じた(大言海)、 くにすの約、 である(岩波古語辞典・大言海)。 古事記(応神)に、吉野之國主(くにす)等とあり、神代よりの地祇(クニツカミ)の裔なり。国栖(くづ)とも云ふは、くにすの約なり……、常陸國の国巣も、土着の地主の義なり、是を土蜘蛛と云ふも、土公(つちぎみ)にて、地主の事なり、 とあり(大言海)、「国栖」は、特殊な意味がある。 上代、日本各地に散在し、非農耕民的な生活様式によって、大和政権から異種族と目された。特に大和國吉野川の川上に住んでいた人々をさす(日本語源大辞典)。 他の村落と交通せず、在来の土俗を保持し、奈良・平安時代には、宮中の節会に参加、贄を献じ、笛を奏し、口鼓を打って風俗歌を奏することが例となっていた、 とある(広辞苑)。古事記(神武天皇)には、 磐排別(イハオシワク)之子、此則吉野國巣部(くにすら)始祖也、 とあり、姓氏録の大和國神別、地祇、国栖(くにす)に、 神武天皇行幸吉野時、川上有遊人、……喚問、答曰、石穂押別神(いわほおしわけ)之子也、爾時詔賜国栖名、 とあり、応神紀(19年5月)には、 十月の戊犬の朔に吉野宮に幸す。時に国栖人(くずびと)来朝。因り醴酒を以て、天皇に献りて、 とあり(大言海)、 人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたという。交通不便のため古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し風俗歌を奉仕したようで、『延喜式』では宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%A0%96)。 そう考えると、 国栖の葛、 には、意味があると思う。 なお、「なでしこ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%93)、「おみなえし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8A%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%88%E3%81%97)は触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「葛」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%91%9B)については触れたが、古えから「葛」の塊根に含まれるデンプンをとり、 葛粉、 として利用されてきた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BA)。 秋から冬にかけて掘り起こしたものを砕いて水を加えて繊維を取り除き、精製してデンプンだけを採取する。葛粉を湯で溶かしたものを葛湯と言い、熱を加えて溶かしたものは固まると透明もしくは半透明になり、 葛切り、 葛餅、 葛菓子(干菓子)、 葛そうめん、 等々の他、和菓子材料や料理のとろみ付けに用いられてきた(仝上)。「葛そうめん」というのは、 練った葛料を、数個の穴をあけた柄杓に流し込み、底から糸状に垂れてくるのを熱湯でゆで上げ、数回水にさらす。澄まし汁の具に用いられる、 とある(日本大百科全書)が、 はるさめの古い形のもの、 ともある(仝上)。大言海は、「葛切り」と「葛そうめん」を一括して、 葛ねり、 としているが別物である。「葛餅」は、 葛粉、生麩(しようふ)粉、小麦粉を等分に配して水でこね、一晩ねかせたあと木枠に流し入れて蒸し、これを適宜に切って糖みつときな粉で食べるもの、 で(世界大百科事典)、東京の亀戸天神、本門寺、神奈川県の川崎大師(平間寺)などの名物になっている。その他、江戸語大辞典には、 葛煎餅、 が載り、 葛粉で製した煎餅、 とあり、また、 葛溜(くずだまり)、 が載り、 葛餡、 ともいい、 醤油・味醂・煮出汁でつくった汁に水で溶いた葛粉を加えて煉ったもの、 とあり、これを掛けた料理が、 餡掛、 である。中国料理では、 溜(リウ)、 と呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1%E6%8E%9B%E3%81%91)。 「葛切り」は、 葛の根の澱粉からとった葛粉に砂糖と水を加え、塊がなくなるまでこねたら、それを湯煎(ゆせん)しながら流し固めてうどんのように細目に切ったものである。料理にも使われる。和菓子の場合は、氷で冷やしながら、黒蜜か白蜜をかけて食べる、 ものである(https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=2424)。普及品として、くず粉の代用としてじゃがいもなどのでんぷんを用いたものもある(世界の料理がわかる辞典)。なお、ゼラチンや寒天は加熱してから冷却することでゲル化するが、 葛切りは、澱粉なので加熱することでゲル化する、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%88%87%E3%82%8A)。「葛切り」という名は、 葛を、糕(むしもち)にしてから麺のように切るので、葛切りという、 とある(たべもの語源辞典)。「餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)で触れたように、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、 「『食+音符并(ヘイ 表面を平らにならす)』で、表面が薄く平らである意を含む」 で、中国では、小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして、ついてつくった食品」に当てるのは、我が国だけである。 餻、 餈、 も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、 もち、だんご(粉餅)、 の意である。「餈」(シ)は、 むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、 である(字源)。 現在の和菓子としての葛切りは、京都に起こったとされるが、 京都市祇園にある鍵善(かぎぜん)が高名である。鍵善はこれを吉野葛でつくり、螺鈿(らでん)を施した漆の容器に入れ、白蜜か黒蜜を添えて供している。幕末のころは葛切りを岡持ちに入れて出前した、 という(日本大百科全書)。 古い料理本にある葛切りの作り方は、 葛を粉にして、きぬ篩でふるってから煮えたぎった熱い湯でこね、蕎麦切(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%95%8E%E9%BA%A6%E5%88%87)のように打つ、夏は冷やして食べる、 が(たべもの語源辞典)、室町中期の『尺素往来』(せきそおうらい)の点心の一つに、 砕蟾糟、 とあり、現代の葛切りに似たものではなかったかと考えられている(https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=2424)。次の時代には、 葛粉一升を熱湯一合五勺(0.27リットル)でこねて、蕎麦のようにのばして打切り、茹でてから水に入れて晒す、 あるいは、 葛粉一升に白砂糖半斤(300g)を入れ、熱湯でこねもてから、めん棒でのばし、蕎麦のように打って、煮え湯に入れて出す。つけ汁は蕎麦つゆより甘いものにし、味醂、砂糖を使う、 とある(仝上)。冷たくして食べるものとは限らなかったようだが、夏の食べ物であった。 宝暦13年(1763)〜天明4年(1784)の『貞丈雑記』には、 葛の粉をねり砂糖を入れて薄くひろげて、さまして短尺の如く小さく切りたる物なり。黄と白の二色を交うるなり。本は「水仙羹」なるべし。水仙の花の色なり、 と記し(https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/055/)、 水繊(煎 すいせん)、 水蟾(すいせん)、 と呼んでいる。これは、 水繊羹、 ともいい、 くず粉を煮、冷やし固めて短冊形に切ったもの、たれ味噌または煎(い)り酒をつけて食べる、 とある(大辞林)。「水繊」は、 かつて黄と白の短冊状の食べ物で、色合いが水仙の花色を思わせたことから、 水仙羹、 とも呼ばれていた(https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/055/)らしい。 今でも葛粽を「水仙粽」と呼んだり、虎屋の生菓子「水仙巌の花」「水仙常夏」のように、葛粉を使った菓子に「水仙」を冠したりするのも、このためでしょう、 とするが(仝上)、「羹」なので、今日の葛切りとは異なる。江戸時代には、水繊(すいせん)は、 葛粉を水でといて水繊鍋(水繊用の四角の浅鍋)に薄く流し入れ、鍋底を熱湯に浮かべて半透明になったら、そのまま水繊鍋を熱湯中に押し入れて完全に糊化させ、これを冷水中に入れて冷やし、水中で糊化したものをへらではがして取り上げて細く切ります、 ともあり(https://www.kabuki-za.com/syoku/2/no231.html)、 酒、醤油(しょうゆ)、酢、鰹節(かつおぶし)、塩などを煮詰めた調味料につけながら食べていた、 とある(https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=2424)。これは、「葛切り」ではなく、「葛そうめん」に近いものであったのではないか、という気がする。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「萩」は、 芽子、 生芽、 等々と当て、尾花・葛・撫子・女郎花・藤袴・桔梗とともに、秋の七草花の一つとされている。別に、 タマミグサ(玉見草)、 ツキミグサ(月見草)、 ニハミグサ(庭見草)、 ノモリグサ(野守草)、 ハナヅマ(花妻)、 シカツマグサ(鹿妻草)、 シカナキグサ(鹿鳴草) フルエグサ(古枝草)、 ハツミグサ(初見草) 等々の異名を持つ(http://hanatomidorinoki.seesaa.net/article/128624763.html・大辞林・大言海)。「ハナヅマ」とは、 鹿の起き伏しして親しむものであるところから、萩を鹿の妻に見立てた語、 とされるように、「鹿」と関わらせる異名が多いことに気づく。平安時代中期の和名抄には、 鹿鳴草、萩、波木、 宝永七年(1709)の大和本草には、 天竺花(てんじくか)、ハギ、花史云、観音菊、天竺花是也、五月開至七月、花頭細小、其色純紫、枝葉如嫩柳、其幹之長與人等、 と載る。漢名は、 胡枝花(こしか)、 胡枝子、 という(和漢三才図会・精選版日本国語大辞典)。 普通には、 ヤマハギ、 センダイハギ、 を指す(広辞苑)、とある。漢字「萩」(漢音シュウ、呉音シュ)は、 会意兼形声。「艸+音符秋」で、秋の草のこと、 とあり(漢字源)、 よもぎ、くさよもぎの一種、川岸や荒れ地に自生する、かわらにんじん、 の意とされ(字源・漢字源)、 はぎ、 に当てるのはわが国だけ、とされる(仝上)。しかし、牧野富太郎によると、これは、 「艸+秋」という会意による国字であり、ヨモギ類の意味の「萩」とは同形ではあるが別字、 という説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%AE)。 しかし、1717年刊の書言字考節用集には、 萩、ハギ、万葉用芽子字、今案、萩、蒿(ヨモギ)之類也、本朝俗、以天竺花為萩、謬來舊矣、 とあり、平安時代に編纂の漢和辞典、天治字鏡には、 萩、波支、蕭(よもぎ)類也、 とある。「蕭(蒿)」とわかっていて、「ハギ」に「萩」を当てたのではないか。ただ、 ハギに「萩」の文字が使われるのは『播磨国風土記』が早い例とされていますが、唯一の伝本である平安末期の写本では「荻」(禾ではなく犭)となっているため再考の余地がある、 という指摘もある(http://www.pref.nara.jp/36960.htm)、とか。万葉集では、 秋萩に 恋尽くさじと 恩へども しゑやあたらし またも逢はめやも、 と詠われていますが、万葉仮名では、 秋芽子 戀不盡跡 雖念 思恵也安多良思 又将相八方、 と「萩」に「芽子」を当てて、「はぎ」と訓ませている(https://art-tags.net/manyo/ten/m2120.html)。 このため、「はぎ」の語源には、 生芽(ハエキ)の意、宿根から芽を生ずればなり、故に芽子の字を用ゐる(大言海・日本語源広辞典)、 とする説がある。これは、 刈りとった根からでも、毎年のように新たな芽が出るという性質をあらわした用字であると考えられています。ちなみに若い葉や茎は栄養価が高く、食べることができる、 らしい(http://www.pref.nara.jp/36960.htm)。 確かに、「芽」の語原は、「め」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%82%81)で触れたように、 モエ(萌)の約(名語記・古事記伝・言元梯・松屋筆記・菊池俗語考・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・大言海・日本語源広辞典)、 萌の字音から(外来語辞典=荒川惣兵衛)、 と、萌え出てくる感じはある。しかし、それが「はぎ」だけか、となると疑問を感じるのだが、しかし、「はぎ」の「ぎ」は、接尾語「キ」(草)、 芽萌(きざ)すのキにて、宿根より芽を生ずる義ならむ。萩に芽子(ガシ)の字を用ゐる。ヲギ(荻)、ハギ(萩)、 ヨモギ(艾)、フフキ(蕗)、アマキ(甘草)、ちょろぎ(草石蠶)、 と思われ(大言海)、「はぎ」の「ぎ」は「き」の転と考えると、「生芽(ハエキ)」も捨てがたくなる。 「はぎ」の語源には、その他、 茎が這うようにのびることからハクエキ(延茎)の義(日本語原学=林甕臣、国語の語根とその分類=大島正健)、 養蚕の時に用いる雑木小枝を束ねたものをいう「ハギ」から、多枝細条であるから(遊相医話)、 芽が早く黄色くなるからハヤクキバム(早黄)・ハキ(葉黄)(和句解・日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・言元梯) ヤマハギの朝鮮語名no-hyongt(牝荊)から転じた(植物和名の語源=深津正) 等々がある(日本語源大辞典)。どうも理屈ばっているのが気に入らない。もっとシンプルだと思う。日本語の語源は、 アキノ(秋の)花は(hの添加で)ハギになった、 とする(和語私臆鈔)。 Aki→haki→hagi、 と。もし、「萩」の字が、 艸+秋、 の国字とするなら、なおのこと、この説に魅力がある。 因みに、襲の色目にも「萩」がある。六月から八月にかけて秋に着るものとされ、表が蘇芳、裏が青である。 なお、秋の七草のうち、「なでしこ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%93)、「おみなえし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8A%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%88%E3%81%97)、「葛」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%91%9B)、については、触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「萩餅」(はぎのもち)は、 糯米(もちごめ)に粳米(うるちまい)を混ぜて炊き、軽く搗いて丸め、餡または、黄粉などをつけたもの、 をいう(たべもの語源辞典)、とある。 おはぎ、 はぎもち、 萩の花、 かいもち(掻餅)、 ぼたもち(牡丹餅)、 等々ともいう(仝上)。「萩餅」「萩の花」と「萩」に絡めるのは、 煮た小豆を粒のまま散らしかけたのが、萩の花の咲き乱れるさまに似るので、 いうが、「おはぎ」というのは、 萩の餅をいう女房詞から、 である(仝上)。「ぼたもち」は、 牡丹の花に似ているから、 である(仝上)。和漢三才図会に、 「牡丹餅および萩の花は形、色をもってこれを名づく」 とある。「かいもち」は、「かきもち」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8B%E3%81%8D%E3%82%82%E3%81%A1)で触れたように、 掻餅、 と当て、 カイモチヒ(掻餅)の音便、 で、 かきもち、 とも、 かちもち、 とも呼ぶが、幕末の『守貞謾稿』には、 かい餅(もちひ)は牡丹餅、 とある。 掻練(かいねり)の餅、 だから、とする(たべもの語源辞典)。「ぼたもち」とは、 よく搗かぬ餅、 つまり、 掻き練った餅、 だから、という意味である(たべもの語源辞典)。「ぼたもち(牡丹餅)」は、 米を半分潰すことから「はんごろし(半殺し)」と呼ばれることもある、 もので(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%A1)、昔は「ぼたもち」のことを、 かいもちひ(掻餅)、 と呼んでいた(仝上)故であるが、安永八年(1778)の『屠竜工随筆』に、 萩のことを「ぼた」というから、「ぼたもち」とは「はぎもち」ということだ、 とある(たべもの語源辞典)。 また、「萩餅」は、 きたまど(北窓)、 よふね(夜船)、 となりしらず(隣不知)、 ほうがちょう(奉加帳)、 という別名もある(仝上)。 夜船とは、いつの間にツク(着)、北窓はツキ(月)知らずと、いずれも「搗(つく)」にかけた洒落である。隣不知は音がしないから隣でも知らない意で、奉加帳とは、寄付を求める奉加帳はツク(付)家もありツカぬ家もある意、 とある(仝上)。駄洒落である。 ただ、「萩餅」「牡丹餅」を萩の花や牡丹の花と考えるのは間違いとする説もある。 ハギとかボタンというのは「米・飯」を意味する言葉ではないかという説がある。正しくは餅といえないものであるから、ハギとかボタとつけたというのである、 とある(仝上)。 確かに、「餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)、で触れたように、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、中国では, 小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品, つまり、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に「餅」を当てるのは,我が国だけである。 餻、 餈、 も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、 餌(ジ)、 と同じであり、 もち、だんご(粉餅)、 の意である。「餈」(シ)は、 むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、 とある(字源)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、 「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」 とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、 「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」 とある(たべもの語源辞典)。つまり、「餅」が本来、小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチの借字として「餅」の字を使った、という経緯があり、結構あいまいではあった。だからといって、もともと曖昧に使っていた「餅」を、わざわざ厳密に餅でないからと、別の言葉を当てるのはどうだろうか。 そのほか、「ハギの餅」「ボタの餅」が「米・飯」の意とする説には、 蒙晤語・満州語や台湾のツアリセン族パイワン族の語、インドのボンベイ地方の語、マルワラ語などで、ボタに似た語、 が「飯」を意味し、 台湾のプレワガン語・ブーヴァン語、またマレー語、 などがハギに似た語で「米」を意味する(たべもの語源辞典)、とある。確かに、米や飯の由来を加味すると、一利なくもないが、わざわざ「米」とする必要はなく、「団子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%9B%A3%E5%AD%90)で触れたように、穀類の粉を水でこねて小さく丸めて蒸し、または茹でた「団子」と「餅」の区別は、 米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、 粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、 とする(たべもの語源辞典)説もあるが、 「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。つまり、実に日本的に、あいまいに「餅」と言い表していたものが、「糯米」であるかどうかで厳密に言い変えるとは思えない。 また、別に、「ぼた餅」について、 ボタ米を用いて作った餅であるところから。ボタ米は、にごから脱しきらないわら屑交じりの米をいう(ことばの事典=日置昌一)、 ぼた餅は豚の肉を使ったのが暗に代わったもの(たべもの語源辞典)、 「うははぎもち」(嫁菜をまぶすか、つき入れたもの)が訛って「おはぎ」になった(仝上)、 等々という説がある(日本語源大辞典)。ボタモチの「ボタ」は、 ボタ山のボタと同じく「かす」の意ととり、秋に落穂を拾って、それでつくったのがボタ餅、 であるとする説(たべもの語源辞典)である。この説には、些か根拠がある。元禄の頃(1695年前後)に、 「民家の食にして貴人の食するば希なり。杉折には詰め難く晴れなる客へは出し難し」 とあり、 もともと下品なものであったとする(たべもの語源辞典)もので、 「うはぎもち」や「落穂」説も考えられる、 とする(仝上)。「おはぎ」が上品なものになったのは、幕末からである、という(仝上)。 ところで、「おはぎ」と「ぼたもち」を区別する説がある。 春から初夏にかけては「牡丹餅」、 秋に作るのが「おはぎ」、 というのがある(日本語源大辞典)。この説は、たとえば、 ぼたもちは江戸時代に春のお彼岸に食べられていたもの。砂糖は貴重だったため、あんこは塩味で作られていましたが、江戸時代中期になると砂糖の入ったあんこが広まっていきました。一説には小豆を牡丹の花に見立てたことから、「ぼたんもち」と呼ばれていたのが「ぼたもち」に変わったとも言われています。一方のおはぎは、秋のお彼岸に食べられていました。秋の七草のひとつである萩の花と小豆の形状が似ているため、「おはぎもち」と呼ばれていたのが「おはぎ」に変わったとされています、 とあり(https://www.kanro.co.jp/sweeten/detail/id=789)、 ぼたもちは牡丹の花のように大きな丸い形で作られ、おはぎは萩の花のように細長い俵型のような形状で作られていた、 とされている(仝上)。 外側を覆うあんこもぼたもちはこしあん、おはぎは粒あんという違いがありました。秋に収穫したばかりの小豆は皮が柔らかく、そのまま皮も潰して食べられるため、秋のおはぎには粒あんが使われていました。しかし、ぼたもちを作る春には皮が固くなってしまっているため、皮を取り除いたこしあんが使われていた、 というのがその根拠である(仝上)。諸説あるので何とも言えないが、この季節性には、 春 牡丹餅 牡丹の花が咲く季節、すなわち春の彼岸に、神仏や先祖への供物とされた小豆餡の様子を、牡丹の花に見立てた、 夏 夜船 ぼたもちは、もちと作り方が異なるため、音を出さずに作ることができ、隣に住む人には、いつ搗いたのか分からないので、「搗き知らず」→「着き知らず」、 秋 御萩 牡丹餅と同じく、小豆餡の様子を秋の彼岸の時期に咲く萩の花に見立てた、 冬 北窓 月を知らない、つまり月が見えないのは北側の窓から、「搗き知らず」→「月知らず」、 と使い分けていた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%A1他)ことからも、言えるとする。 その他、「ぼたもち」と「おはぎ」の違いについて、 春のものは「ぼたもち」、秋のものは「おはぎ」と名前が異なっているだけである、 春なるを牡丹餅(糯米を主とす)、秋なるを萩の餅(粳米を主とす)、 東京では春秋ともに「おはぎ」と呼ぶ、 もち米を主とするものが「ぼたもち」、うるち米を主とするものが「おはぎ」である、 餡(小豆餡)を用いたものが「ぼたもち」、きな粉を用いたものが「おはぎ」である、 こし餡を使ったものをぼたもち、つぶ餡や煮た小豆そのままを使ったものをおはぎ(逆の場合もあり)、 サツマイモを使った物をぼたもち、餡を使ったものをおはぎ、 二口程度で食べられる小さいものをおはぎ、それより大きいものをぼたもち、 地域によって、もち米で作られているのは「ぼたもち」、主にうるち米を使っているのは「おはぎ」と呼んでいる、 等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%A1・https://www.kanro.co.jp/sweeten/detail/id=789・大言海・日本語源大辞典他)諸説あるが、「ぼたもち」と「おはぎ」の区別は次第に薄れているような気がする。 もともとは、 物日の食物として作られた、 とある(日本昔話事典)ように、 祭日、祝日など特別な日、 に作られた。 原型はもち米と小豆を炊いたもので作られていた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%A1)ので、「あずき粥」と関わるのかもしれない。「あずき粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%8D%E7%B2%A5)は、 小豆をこめにまぜて炊いた粥、 の意(広辞苑)で、小正月を祝って神に供え、人も祝ってこれを食べた。ために、 十五日粥、 とも、 また、望(もち)の日(陰暦十五日、満月の日)の節供なので、 望粥(もちがゆ)、 ともいう(たべもの語源辞典)。一年の邪気を払うものとして食べ、 さくらがゆ、 ともいう(仝上)。粥に小豆を加えたのは、 赤は陽の色で、小豆の粥は、この赤い色を食べて、冬の陰気を陽徳で消させる、 という意がある(仝上)とされるが、 「小豆を入れて煮た粥。普通の白粥と違って赤く染まるので、その色に呪力を認め、屋移りや旅立ちに災異除(よ)けとして用いられた」 ともあり(日本大百科全書)、 「小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。 中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている」 と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E7%B2%A5)、中国由来である。 正月十五日に小豆粥をつくって天狗を祀り、これを食べれば疫病にかからないという中国の俗信からきた、 ともある(たべもの語源辞典)。漢名では、 紅調粥、 というとか(たべもの語源辞典) なお、「あずき」については、「豆」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E8%B1%86)触れたし、「餡」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%A4%A1)でも触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「小豆」(あずき)については、「豆」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E8%B1%86)で触れたことがある。「あずき」は、 小豆、 と当てるが、これは、 ショウズ、 と訓む中国語である(字源)。大言海は、「あづき」に、 赤小豆、 と当て、 「醫心方『赤小豆(あかつき)』、成形図説(文化)『赤小豆(あずき)、赤粒木(あかつぶき)』などの義にや。キは草の義を表し、ハギ、ススキ、フフキ(蕗)等の語成分で、またキザスの語根」 とする。確かに、 アカアヅキ、 という呼び方もあるが、「あずき」の語源には、 アは赤を意味し、ツキ・ツキが溶けることを意味し、他の豆より調理時間が短いことを意味していた、地方用語でアズ・アヅとは崩れやすいという意味であり、そこから煮崩れしやすいアズキと名付けられた(日本釈名・柴門和語類集)、 「あ」は「赤色」、「つき」及び「ずき」は「溶ける」の意味があり、赤くて煮ると皮が破れて豆が崩れやすいことから「あずき」になった(大和本草)、 アは小の義、ツキはツムキと同語で、角がある意(東雅)、 アは赤、ツキはツク(搗)か。臼でついて用いることを吉とし、またもちなどにつくる故からか(和句解)、 アツキ(赤粒草)の義(言元梯)、 アカツキ(赤着)の義(名言通・日本語原学=林甕臣)、 豆木の湯桶読みツキか(日本語源=賀茂百樹)、 アヂケ(味饌)の転。うまい食物の意(和訓栞後編・日本古語大辞典=松岡静雄)、 イツキ(斎)から出た語か(語源大辞典=堀井令以知)、 アイヌ語でantukiという。アイヌ語が日本語に入ってきてアヅキとなったか、逆に日本語がアイヌ語に入ったか、両様の解釈が可能(外来語の話=新村出)、 朝鮮語pqt-ki(小豆)からか(植物和名語源新考=深津正)、 中国からdugという音が実物のアズキとともに日本に伝えられ、dugiとなり、清音化し、接頭語アが加わった(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、 「本草和名(ホンゾウワミョウ)」(平安時代)には「赤小豆」を阿加阿都岐(アカアツキ)と記述しており、後にアズキとなった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%82%AD)、 赤粒木(あかつぶき)からアズキとなった(仝上)、 アヅ(味)+キ(重なり)で、味を引き立てるものの意(日本語源広辞典) 等々諸説あり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%82%AD、日本語源大辞典)、どれとは決めがたい。しかし、古く縄文遺跡から「小豆」が発掘されているほか、古事記に、 殺されたオオゲツヒメの鼻から小豆が生じたとする、 し、万葉集にも、 あづきなく 何の狂言(たはこと) 今さらに 童言(わらはごと)する 老人(おいひと)にして、 と、「あづきなく」(不当に)の「あづき」に「小豆」の漢字を当てており、奈良時代からあった(仝上)、と思われる。とするなら、知られていた「豆」、つまり、 大豆、 と区別して、 赤小豆(あかあづき)、 としたことは確からしく思えるが、どう訓み、どう転訛して「あづき」→「あずき」となったかは、はっきりしない。大言海の、すすき、フキの「キ」から、 アカツブキ→アカツキ→アヅキ、 といったふうな転訛が最もあり得るように思える。 「あずき粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%8D%E7%B2%A5)で触れたように、粥に小豆を加えたのは、「小豆」の、 赤は陽の色で、小豆の粥は、この赤い色を食べて、冬の陰気を陽徳で消させる、 という意がある(たべもの語源辞典)とされるが、 「小豆を入れて煮た粥。普通の白粥と違って赤く染まるので、その色に呪力を認め、屋移りや旅立ちに災異除(よ)けとして用いられた」 ともあり(日本大百科全書)、 「小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。 中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている」 と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E7%B2%A5)、中国由来である。 正月十五日に小豆粥をつくって天狗を祀り、これを食べれば疫病にかからないという中国の俗信からきた、 ともある(たべもの語源辞典)。ただ、中国最古の薬物書「神農本草経(しんのうほんぞうきょう)」には、 あずきの煮汁が解毒剤として使われたと記載されており、日本でも古来よりあずきは薬として用いられた、 という実用的な意味もあったらしい(https://www.imuraya.co.jp/azuki/features/origin/)。 確かに、「あずき」は、紀元前1世紀の中国最古の農業書「氾勝之書(はんしょうししょ)」に、栽培方法が載っており、 日本のあずきは中国からの渡来と信じられてきました。しかし、ごく最近のDNAを調べた研究では、中国のあずきとは遺伝的に別系統で進化したようだ、 と報告されている(https://www.imuraya.co.jp/azuki/features/origin/)という。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「尾花」は、 ススキの花、 の意であり、そのため、「尾花」の語源には、 穂に出たる状、獣の尾に似たれば(大言海)、 馬などの尾に似ているところから(デジタル大辞泉)、 ヲバナ(招花)の義(古今要覧稿)、 ホバナ(穂花)の転(名語記・言元梯・日本語の語源)、 等々あるが、いずれも、その花の形状に由来しているが、「尾花」からみれば、 花穂を尾に見立てた、 ということだろう。別に、 袖波草、 とも言い、また転じて、 ススキそのもの、 の意としても使う。秋の七草(萩・尾花・葛・撫子・女郎花・藤袴・桔梗)のひとつとされる。万葉集に、 多可麻刀能 乎婆奈(おばな)布伎故酒 秋風尓 比毛等伎安氣奈 多太奈良受等母 たかまとの乎婆奈ふきこす秋風に紐(ひも)解きあけな直(ただ)ならずとも、 という歌がある。 「ススキ」は、 薄、 芒、 と当てるが、 群がって生える草の総称、 であったものが、 尾花、 に特定しても使う(広辞苑)。また屋根を葺くのに使う。 茅・萱(かや)、 の主要な一種ともなっている(仝上)。かつては、 「茅」(かや)と呼ばれ、農家で茅葺(かやぶき)屋根の材料に用いたり、家畜の餌として利用することが多かった。そのため集落の近くに定期的に刈り入れをするススキ草原があり、これを茅場(かやば)と呼んでいた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%82%AD)。 平安中期の倭名抄(廿巻)には、 薄、波奈須須岐、 とあり、安政六年(1859)頃成立の雅俗随筆には、 今は尾花を、すすきと云へど、古くは、群がり繁る草を、すべて、すすきと称ひ、爾雅、露草に、草聚生曰薄と云ふに従ひ、薄の字をすすきと訓ませたり、和名抄、廿巻草名、見可し、 とある。 「薄」(漢音ハク、呉音バク)は、 会意兼形声。甫(ボ)は、平らな苗床に苗の生えたことを示す会意文字で、圃(ホ)の原字。薄(ハク)は、甫を含んだ文字で、水が平らに転がること。薄は「艸+音符溥」で、草木が間をあけずにせまって生えていること。間がせまれば厚さが少なくうすく平らである、 とあり、「薄い」意であり、「すすき」に当てるのはわが国だけのようである。「芒」(漢音ボウ、呉音モウ)も、 会意兼形声。「艸+音符亡(ボウ みえにくい)」 とあり、「草の派穀物の先端の細い毛」の意はあるが、「ススキ」の意はない。「穂先」の意があるので、それで当てたものかもしれない。 「すすき」の語源も、所説多い。 ススは、スクスクと生立つ意、キは、木と同じく草の體を云ふ、ハギ(萩)、ヲギ(荻)と同趣。接尾語「キ」(草)は、芽萌(きざ)すのキにて、宿根より芽を生ずる義ならむ。萩に芽子(ガシ)の字を用ゐる。ヲギ(荻)、ハギ(萩)、 ヨモギ(艾)、フフキ(蕗)、アマキ(甘草)、ちょろぎ(草石蠶)、等々(大言海・日本語源広辞典)、 「スス」は「ササ(笹)」に通じ、「細い」意味の「ささ(細小)」もしくは「ささ(笹)」の変形、キは葉が峰刃のようで人を傷つけるから(東雅・語源由来辞典)、 スス(細かい・細い)+キ(草)、細かい草の意(日本語源広辞典)、 スは細い意で、それが叢生するところからススと重ねたもの、キは草をいう(箋注和名抄)、 ススキ(進草)の義(言元梯)、 スス(進)+クの名詞化、花穂がぬきんでて動く(すすく)意、つまり風にそよぐ草の意(日本語源広辞典)、 煤生の訓(関秘録)、 スはススケル意、キはキザスの略か(和句解)、 スクスククキ(直々茎)の義(名語記・日本語原学=林甕臣)、 茎に紅く血の付いたような部分があるところから、血ツキの轉(滑稽雑誌所引和訓義解)、 秋のスズシイときに花穂をつけるところから、スズシイの略(日本釈名)、 サヤサヤキ(清々生)の義(名言通)、 中空の筒状のツツクキ(筒茎)といい、ツの子交[ts]、茎[k(uk)i]の縮約の結果、ススキ(薄)になった(日本語の語源)、 等々諸説あるが、理屈ばったもの、語呂合わせを棄てると、「すすき」の「すす」は、 「ササ(笹)」に通じ、「細い」意味の「ささ(細小)」もしくは「ささ(笹)」の変形、 で、「き」は、 草、 と当てる接尾語、 ヲギ(荻)、ハギ(萩)、ヨモギ(艾)、フフキ(蕗)、アマキ(甘草)、 等々の「き」「ぎ」に使われているものと同じ、と見るのが妥当かもしれない。 なお、「なでしこ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%93)、「おみなえし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8A%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%88%E3%81%97)、「葛」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%91%9B)、「萩」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%90%A9)、については触れた。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 山上憶良の歌では、 萩の花尾花(をばな)葛花(くずはな)なでしこの花をみなへしまた藤袴(ふぢはかま)朝顔の花、 と、秋の七草に「桔梗」ではなく、朝顔を入れているが、「あさがお」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%8C%E3%81%BB)で触れたように、「朝顔」は、 桔梗、 にも、 木槿、 にも、 呼ばれたが、 木槿も牽牛子(漢方、朝顔の種)も後の外来ものなれば、万葉集に詠まるべきなし、 と(大言海)し、 桔梗、 の意であった、とされる。今日の「あさがお」は、 奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされる。アサガオの種の芽になる部分には下剤の作用がある成分がたくさん含まれており、漢名では「牽牛子(けにごし、けんごし)と呼ばれ、奈良時代、平安時代には薬用植物として扱われていた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%AA)が、 遣唐使が初めてその種を持ち帰ったのは、奈良時代末期ではなく、平安時代であるとする説もある。この場合、古く万葉集などで「朝顔」と呼ばれているものは、本種でなく、キキョウあるいはムクゲを指しているとされる、 としている(仝上)。平安初期の新撰字鏡も、 桔梗、阿佐加保(あさがほ)、 とし、岩波古語辞典も、「朝顔」が、万葉集で歌われているのは、 桔梗、 の意で、輸入された、ムクゲが美しかったので、それ以前にキキョウにつけられていた「あさがほ」という名を奪った、とする。名義抄(11世紀末から12世紀頃)には、 蕣、キバチス、アサガホ、 とあるが、その後、平安時代に中国から渡来した、その実を薬用にした牽牛子(けにごし)が、ムクゲよりも美しかったので、「あさがほ」の名を奪った、 と(岩波古語辞典)ある。名義抄には、既に、 牽牛子 アサガホ、 とある。 「ムクゲ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%82%80%E3%81%8F%E3%81%92)で触れたことだが、 ムクゲは古代の中国では舜(しゅん)とよばれた。朝開き、夕しぼむ花の短さから、瞬時の花としてとらえられたのである。『時経』には、女性の顔を「舜華」と例えた記述がある。白楽天も一日花を「槿花(きんか)一日自為栄」と歌った。(中略)日本では平安時代から記録が残り、「和名抄」は木槿の和名として木波知春(きはちす)をあげている。これは「木の蓮(はちす)」の意味である。『万葉集』の山上憶良の秋の7種に出る朝顔をムクゲとする見解は江戸時代からあるが、「野に咲きたる花を詠める」と憶良は断っているので、栽培植物のムクゲは当てはめにくい、 としていた(日本大百科全書)ので、やはり、万葉集の歌にある「朝顔」は、 桔梗、 のようである。 つまり、「ムクゲ」が「桔梗」から「あさがお」の名を奪ったのである。 此灌木、字音にて、木槿(むくげ)と呼べば、漢種の移植のものなり、されば野生になし、其花、朝に咲きて、暮れに落つれば、朝顔と云ふ、色種々にして、殊に美麗なれば、桔梗の名を奪へるなり、然れども、又、牽牛子(あさがほ)に、其名を奪はれて、字音の方にて、呼ばれるやうになれり、 とある(大言海)。確かに、「槿」について、『漢字源』には、 「花は朝開いて、夕方にはしぼむので、移り変わりのはやいことや、はかないことのたとえにひかれる」 とあり、「舜(しゅん)とよばれた」というだけの謂れはある。日本で、古く、「あさがお(朝顔)の名があったのもそのゆゑである。 その「ムクゲ」も、「朝顔」の名を、今日の「あさがお」に奪われるのである。 平安朝の初期に、實を薬用とするために、漢種を渡しし草にて、野生になし、即ち、字音にて、牽牛子(ケニゴシ)と云ひき、實の名なるが如し、朝に花咲きて、其碧色の美麗なること木槿(あさがほ)に超ゆれば、その名を奪ひ、ケニゴシ(牽牛子)の名は行われず、終にアサガホの名を専らにして、いまの世に到れり、 とある(大言海)。平安時代中期の和名抄には、 牽牛子 阿佐加保、 とある。 さて、「桔梗」は、漢語である。「桔梗」(ケッコウ)の「桔」(漢音ケツ、呉音ケチ)は、 会意兼形声。「木+音符吉(きつくしまる)」で、かたくしまった実をつける草木。きつく引き締まる棒などの意、 とある(漢字源)。はねつるべの「桔槹」(ケッコウ)などに使う。「梗」(漢音コウ、呉音キョウ)は、 会意兼形声。「木+音符更(かたい心棒)」。梗は芯になる堅い棒やしんのあるとげ、 とある(仝上)。どうも芯が固く締まっているというイメージは、根にあるのかもしれない。大言海に、 根は牛蒡の如し、 とある。この根は、 サポニン(オレアナン型トリテルペンサポニン)を多く含むことから生薬として利用されている(Platycodi Radix、日本薬局方では桔梗根でキキョウという)。生薬としては、根が太く、内部が充実し、えぐ味の強いものが良品とされている、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%82%A6)、 鎮咳、去痰、排膿作用があるとされる(仝上)、とあり、代表的な漢方処方に桔梗湯(キキョウ+カンゾウ)があるらしい。 「桔梗」を、 キキョウ、 の訓むのは、 漢音ケッコウの転訛、 とみられる。古名は、 キチコウ、 という(日本語源大辞典・大言海)。古今集で、 きちかうの花、あきちかう(秋近う)野はなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく(紀友則)、 と詠まれている(仝上)。 ケッカウ→キチカウ→キキャウ→キキョウ、 と転訛したとみられる。 他に、 ヲカトトキ(乎加止止岐)、 アリノヒフキ(蟻の這木)、 等々とも呼ばれたらしい(大言海・精選版日本国語大辞典)。 なお、「桔梗」という名の襲の色目があり、 襲(かさね)の色目の名。表は二藍(ふたあい)、裏は青、 とある(http://www.mode-japonesque.com/irodori/kasane_aki/kikyou.htm)。 きちこう、 とも言う。「二藍(ふたあい)」は、 藍と紅花で染めた染色の色。紅花は紅藍花ともいうし、呉藍(くれない)ともいう、 という(仝上)、二種類の藍を使った色である。
なお、「なでしこ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%93)、「おみなえし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8A%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%88%E3%81%97)、「葛」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%91%9B)、「萩」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%90%A9)、
「尾花」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E5%B0%BE%E8%8A%B1)、については触れた。 「はかま」は、 袴、 褌、 と当てる(大言海)。「袴」(漢音コ、呉音ク)は、 会意兼形声。「衣+音符夸(カ 股を開く、またぐ)」 とあり(漢字源)、 ズボンのように股が割れた衣服、 の意である。「褌」(コン)は、 会意兼形声。「衣+音符軍(丸く取り巻く)」。腰の周りにめぐらす布地、 である(仝上)。「褌」は、我国では「ふんどし」と訓ませるが、 ももひきの類、 したばかま、 の意で、やはり、股が割れたものを指す。なぜ「ふんどし」の当てたのかはわからないが、下着の意味から採ったのかもしれない。日本書紀に、 はらみやすき者は、褌(はかま)を以て體(み)に觸(かから)ふに、すなわちはらみぬ、 とあるのを、岩波古語辞典は、「ふんどし」の意と採っている。 「はかま」は、 穿裳(ハキモ)の轉(大言海・広辞苑)、 ハカ(履く)+裳(日本語源広辞典)、 穿く裳(日本語の語源)、 ハカはハク(穿)の古い名詞形。マはモ(裳)の母音交替形(岩波古語辞典)、 等々、 ハキモ(穿裳・佩裳・帯裳)の転(日本釈名・筆の御霊・言元梯・上代衣服考=豊田長敦)、 とする説が大勢だが、「はかま」の、 「はか」には、腰より下に帯をはく、「ま」にはまとうの意昧があり、元は腰に巻きつけられた布(犢鼻褌 とくびこん)であったものが、上衣の上につけ、腰から下を被うものになり、漢字も「袴」「褌」「婆加摩」「八加万」「穿裳」など、 種々の字を当てた、ともある(原ますみ「袴について」)。「犢鼻褌」は、 たふさぎ、 と訓ませ、 膚に着けて陰部を防ぐもの、 つまりは「ふんどし」のようなものである。 「日本書紀」には、 「袴」(神代)「褌」(雄略)があるが、古訓でいずれも「ハカマ」と読まれる。「新撰字鏡」(平安時代)には「褌」は「志太乃波加万」とあり、下ばきのズボン様のものをさしたらしい、 とある(日本語源大辞典)ので、「褌」の漢字の意味をなぞっていることになる。 古きは、陰處を掩ふものにて、製、猿股引の如きものか、後に、はだばかま(膚袴)と云ふものならむ、 ともある(大言海)。「さるまた」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%9F)で、股引、ステテコ、パッチ等々については触れた。これが、 後には、「十巻本和名抄」にも見えるように専ら衣の上に着用し、腰から両脚をおおいかくすものをさすようになった、 とある(日本語源大辞典)。大言海にも、 後に、専ら、衣の上に用ゐて、腰より両脚まで被うべく寛くつくれる衣。紐にて腰に約し、二脚に當る所、分かれて袋の如し、表(うへ)の袴、指貫の袴あり、又、長袴、半袴、馬乗袴、行燈袴等あり、 とある。推測するに、「袴」が、外向きの衣になるにつれて、「褌」が下着のままとどまり、「ふんどし」に当てられたもののように思える。 袴の由来ははっきりしないが、「古事記」「日本書紀」に見られる、上古の「褌」は、我国では古墳時代より用いられており、各地で発掘された六、七世紀の埴輪の衣褌(きぬばかま)の容姿は中国の魏、晋、南北朝時代の北方諸族の服装で、防寒と乗馬に適するように作られた胡服系統の衣服である、 とある(原ますみ)。 原始から古墳時代の袴は、男子のみに用いられ、丈が足首までの太いズボンのような形式で、外出する時には膝下を脚結(あゆい)と言う紐で結んで活動の便をはかっており、女子はスカート状の衣裳を着用していた、 とある。「衣装(きぬも)」は、上半身に着る「衣」と下半身に着る「裳」の意であり(大辞林)、「裳」は、股のないものを指した(https://kimono-rentalier.jp/info/colum_hakama001)。 袴は、飛鳥、奈良時代は中国大陸文化の流入により、風俗が唐風に変化したため、 袴が細くなり、上衣も長くなり、裾口しか見えなくなり、 この頃、 ズボン式のもの、 と 現代のもんぺの形状に近い括緒袴(くくりおばかま)という裾口に紐を通して締めるもの、 の二様式に別れた(仝上)、とある。これが、 表袴(うえのはかま)、 指貫(さしぬき)、 に発展した(仝上)平安時代は、 貴族男子は礼装の束帯の時、下袴(したのはかま)の大口袴の上に白の表袴(うえのはかま)をつけ、表袴(うえのはかま)は前開き形式のもので、表は白、裏は紅、これにつぐ礼服の衣冠、直衣、狩衣を着る時にはく袴は下袴の上に指貫という、裾がひもでくくれる袴を上に履く、 とある(仝上)。「表袴」は、 白袴(しろばかま)と呼ぶのが本義であり、衣服令にも白袴と見えているが、下に大口袴を着けるために表袴と称した、 とある(有職故実図典)。「大口袴」は、略して「大口」とも言うが、 裾口を括らず広がっているためこの名がある。表袴(うえのはかま)の下に着用するいわゆる下袴、 である(仝上)。 「指貫」は、裾を紐で指し貫いて絞れるようにした袴である。 女性も宮廷の裳形式が変化して、 下袴が表袴に変り、十二単の装いとして緋の袴を右脇で紐で結んで穿いた、 とあり、袴はこの頃の女性の下着として用いられていた(仝上)。これは、 打袴(うちはかま)、 と呼ばれ、 男子の大口の拵えと同形にして、なお長く仕立てたもので、紐も一条で、前後の腰を廻らし、右脇に取り合わせて結び下げるのを特色とした、 が、既に近世と変わらず、 色目は紅を本義とし、紅袴とも称された、 とある(仝上)。 鎌倉時代は武家社会となり、直垂となり、下級武士では膝より上の丈の短い四幅袴(よのばかま)が用いられ、室町時代には直垂、大紋、素襖(すおう)が武士の礼服となり足を隠す風習が生まれ、安土桃山時代は衣服が簡略化され、女子は小袖に細帯、男子は肩衣半袴、礼服には長裃(ながかみしも)となり、江戸時代には袴の形状が変化し、腰幅に大して裾幅が広くなり、全体的に三角形に近いものになり(仝上)、現在は、 スカートのように間に仕切りのない筒状の袴を「行灯袴(あんどんばかま)」 ズボンのように2つに分かれている形の袴を「馬乗袴(うまのりばかま)」、 の二つのタイプがある(日本文化いろは事典)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) 原ますみ「袴について」(https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4640&item_no=1&page_id=29&block_id=40) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「藤袴」は、秋の七草(萩・尾花・葛・撫子・女郎花・藤袴・桔梗)の一つである。中国名は、 蘭草(ランソウ)、 香草、 香水蘭、 と表記され、日本でも、古くは「蘭」とよばれ、『日本書紀』の允恭天皇記における「蘭」の字が初めて記された名である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B8%E3%83%90%E3%82%AB%E3%83%9E)、とされる。蘭草は、『神農本草経』に、 「味辛平。主利水道殺虫毒…。一名水香」、 載り、生薬として知られている(https://www.uchidawakanyaku.co.jp/tamatebako/shoyaku_s.html?page=085)。『大戴礼記』(戴徳・前漢)に、 (五月五日)是日採蘭以水煮之為沐浴、令人辟除刀兵攘却悪鬼、 フジバカマを入浴剤にして沐浴すると、魔除けになるとあり(https://costume.iz2.or.jp/column/530.html)、『宋書』にも、 釁浴、謂以香薫草薬沐浴也、韓詩曰、鄭国之俗、三月上巳、釁両水之上、招魂続魄、秉蘭草払不祥、此則其来甚久、非起郭虞之遺風。 と、やはり魔除けとして載る。また口臭予防にも用いられ、帝の前に出るときには蘭草を口に含んだ、とも言われている、とある(仝上)。香りが特徴らしい。 『源氏物語』には、 かかるついでにとや思ひ寄りけむ、蘭の花のいとおもしろきを持たまへりけるを、御簾のつまよりさし入れて、「 これも御覧ずべきゆゑはありけり」とて、とみにも許さで持たまへれば、うつたへに思ひ寄らで取りたまふ御袖を、引き動かしたり、同じ野の露にやつるる藤袴 あはれはかけよかことばかりも、 とあり、「蘭」と「藤袴」とのつながりがよくわかる。本草和名、和名抄には、 蘭草、布知波加萬、 とある。ただ、「蘭」は、 香草の総称であった、 が、中古以降はもっぱらフジバカマのこととされ、歌語として用いられた。「源氏‐藤袴」でも、地の文では「蘭」といっていても和歌中では「ふぢばかま」である(精選版日本国語大辞典)ともある。 また、「藤袴」は、 コメバナ、 ウサギノサトーグサ、 モチバナ、 スケホコリ、 等々の地域ごとの名を持つ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B8%E3%83%90%E3%82%AB%E3%83%9E)。 「藤袴」の語原は、 花の色、藤に似て、花辨の筩(つつ)をなすこと袴の如き意なり、 とする説(東雅・箋注和名抄・名言通・和訓栞・大言海・日本語源広辞典)、あるいは、 花の色が藤の花に似ている、 とする説(名語記・重訂本草綱目啓蒙)、 の他、 ブヂバナカフクミグサ(藤花香含草)の義 とする説(日本語原学=林甕臣)、 クンハカマ(薫袴)の義、 とする説(言元梯)等々があるが、「香り」や「藤色」だけではなく、「袴」についての説明がないと、語原を説いたことにはなるまい。 なお、「藤袴」は、その花の名から、 襲(かさね)の色目の一つ、 として「藤袴」の名がある。室町中期の『胡曹抄』(一條兼良)に、 衣色異説少々注之……八月 藤袴<表紫裏同>、 とあり、表裏とも紫色である(精選版日本国語大辞典)。 その他、「藤袴」には、「蘭」と書いて、香木の名にもある。分類は新伽羅。一木三銘香の一つとされる(仝上)。 また、寛平四年(892)に完成した、編年体である六国史の記事を中国の類書にならい分類再編集した歴史書『類聚国史』に、 天皇行幸下・大同二年(807)九月乙巳「幸神泉苑〈略〉四位已上、共挿菊花、于時皇太弟頌歌云、美耶比度乃、曾能可邇米豆留、布智波賀麻、岐美能於保母能、多乎利太流祁布、 とあり、「菊」の異名として使われている(仝上)、とか。 さらに、朝鮮茶碗の一つにも「藤袴」の名があり、筒状の胴外側の上辺に崩れた雷文帯を、下辺に二本の筋をめぐらし、その間に菊丸紋四顆を象嵌したもの、とある(仝上)。
なお、「なでしこ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%93)、「おみなえし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8A%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%88%E3%81%97)、「葛」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%91%9B)、「萩」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%90%A9)、
「尾花」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E5%B0%BE%E8%8A%B1)、
「桔梗」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E6%A1%94%E6%A2%97)については触れた。 「万葉集に菊なく、楚辞に梅なし」 という。中国では、菊は古くから文献に現われるが、 これらは自生種のハイシマカンギクなどを指すと考えられる。栽培キクはチョウセンノギクとハイシマカンギクの雑種として5、6世紀頃に現れたらしく、唐代に入って盛んに栽培・観賞された、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AF)。それが、奈良時代末か平安初期に中国から渡ってきた(岩波古語辞典)とき、「菊」の字音として伝わった、とする説がある。「菊」(漢音・呉音キク)は、 会意兼形声。匊(キク)は、手の中に米をまるめて握ったさま。菊はそれを音符とし、艸を加えた字で、多くの花をひとまとめにして、まるく握った形をした花、球状花序、掬(キク まるくにぎる)、球(まるくまとめる)とは同系、 とある(漢字源)。「球状花序」とは、 多くの花をまとめて丸く握ったような形をした花、 を指す(語源由来辞典)、とある。 陶淵明に、 采菊東籬下 采菊東籬下 悠然見南山 山気日夕佳 飛鳥相共還 此中有真理 欲弁巳忘言 がある。確かに。大言海にも、 我が国固有の種は、古名、カハラヨモギ、今云ふ、野菊にて、盛んに賞翫するものは、支那種なり、されば、字音に菊(キク)と云ふ、渡来は、奈良朝の末なるべく、延暦の大御歌を初見とす、 とある。確かに万葉集には「菊」は詠まれておらず、編年体である六国史を中国の類書にならい分類再編集した『類聚国史』(延喜元年(901))に、 この頃のしぐれの雨に菊の花散りぞしぬべきあたら其の香を(桓武天皇) と、あるのが初見とされる(たべもの語源辞典・岩波古語辞典)。平安時代中期の和名抄(和名類聚抄)にも、 菊、俗如本音呼、 とある。ために、 「菊」の字音、 とする説(和句解・日本釈名・国語の中に於ける漢語の研究=山田孝雄)が大勢である。 同じ和名抄は、地名だが、 ククチ、菊池、 と記し、古くは、菊を、 クク、 と訓んだと思われる(たべもの語源辞典)。そのため、 古くはクク(東雅・古今要覧稿)、 という説がある。とすると「クク」は何に由来するか、が説明されなくてはならない。たべもの語源辞典は、 菊の花がくくったような形をしているのでクク(菊)といった。ククがキクに転訛した、 とする。 古くはククで、小花をしめくくっている頭状花であることから、ククル、ククリの言葉から(植物名の由来=中村浩)、 がそれである。「頭状花序(とうじょうかじょ)というのは、 主としてキク科の花に見られるような、多数の花が集まって、一つの花の形を作るものである、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E7%8A%B6%E8%8A%B1%E5%BA%8F)、個々の花びらと見えるのは、それぞれが一つの花である。分解してよく見れば、それぞれに雄蕊や雌蕊があり、小さいながらも花の構造を持っている(仝上)のである。 日本語源広辞典は、字音キク由来とし、こう説明している。 キクは訓ではなく音読みです。菊の花が、まったく中国からの輸入だとしますと、名もないノギクや、エゾギクなどは、五、六世紀に中国から輸入したものでしょうか。(中略)キクという中国音は、音だけが古くから伝わっていて、縄文の時代から使われていました。そして、すっかり日本語になったキクが、中国の漢字と出会うのは、弥生の後期になってからだと想像します、 と。いかがなものであろうか。「菊」の実物なしに、音だけが入るということはあり得るのかどうか。そんなに古くから「菊」があったのなら、なぜ「菊」を歌わなかったのか、が疑問になる。むしろ、花序から、 クク、 と呼んでいたものが、漢字の、 菊、 の字と出会って、 キク、 に転じた、と見る方が妥当かもしれない。 古くは「クク」と言っていたものが「キク」に音韻変化した(語源由来辞典)、 というのは、その意味ではないか。 花の形がものをすくいあげるときの手の形に似ていることから「掬」の意によってつけられた、 とする(古今要覧稿)のは、少し考え過ぎの気がする。 それにしても、古来の野菊系は、なぜ歌に登場しないのだろう。 菊は神代から日本にあったが、賤しげな貧弱な花であったから詠まれなかった、 とする(たべもの語源辞典)のは、ちょっと納得しがたい。 キク科の「ヨメナ」(嫁菜)は、道端で見かける野菊の一種であるが、 よく似た姿のキク類は他にもいくつかあり、一般にはそれらをまとめてヨメナと呼んでいることが多い、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A1%E3%83%8A)。つまり、 野菊、 を、 ヨメナ、 と括ったりするが、 花姿の良く似たノコンギクに比べ、黄色い筒状花の冠毛が非常に短いが、弁別は難しく、大雑把に「野菊」と呼ばれることもあります、 とあり(http://kemanso.sakura.ne.jp/uhagi.htm)、「ヨメナ」を、 ノギク、 の別名とみている辞書もある(広辞苑)。ヨメナは、 ムコナ(シラヤマギク)、 に対応する名前で、万葉時代には、 うはぎ、 平安時代には、 おはぎ、 と呼ばれていた(http://kemanso.sakura.ne.jp/uhagi.htm)とされる。「ヨメナ」は、食用であり、「うはぎ」は、 妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや、 春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春野のうはぎ摘みて煮らしも、 と、万葉集に詠われているのである(https://art-tags.net/manyo/flower/uhagi.html)。 中国由来の「菊」は、古今和歌集で盛んに詠われていたが、今日の「野菊」の一種に当たる「よめな」は詠われている。「菊」という名を知らないのだから、当然である。 となると、「菊」は、 字音、 と考えるのが当然なのではないか。 なお、「野菊」の各種については、https://www.neko-net.com/hana/archives/category/special/%E9%87%8E%E8%8F%8Aに詳しい。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「そうめん」は、 素麺(素麵)、 と当てるが、 索麺(サクメン)の音便、 とされ、 素麵、 は当て字、広辞苑は、「そうめん」に、 索麺、 を当てている。 小麦粉に食塩水を加えてこね、これに植物油を塗って細く引き伸ばし、日光にさらして干したもの、 をさす(広辞苑)。 索麺は宋音、 である(たべもの語源辞典)。たべもの語源辞典は、 索(なわ)のような麺という意味で、日本では奈良朝のころから文書に索麺が用いられた。索はなわ・つなである。素はソまたはスで、しろし・もと・つね・もとむ、といった意味の字である。素麺と書けば、白い麺といった意味になるが、ソウメンがウドンとか他の麺にくらべて特に白い麺であるとは考えられない。それで、索麺が正しいものを、いつか索を素と書き誤ってしまったものか、サクメンがソウメンと訛ってしまったので、 素の字を当てたのではないか、とする。 ほそもの(細物)、 ぞろ・ぞろぞろ(女房詞・小児語)、 ともいい、 むぎなわ(麦縄)、 は古語、とする(仝上)。 同じ小麦製の、 ひやむぎ、 うどん、 との違いは、「そうめん」が、 小麦粉を塩水でこねて生地を作り、油を塗りながら手を使って細く延ばす麺、 に対して、 平らな板と麺棒を使って生地を薄く延ばし、刃物で細く切る麺、 が「ひやむぎ」や「うどん」となる。しかし、現在は製法の機械化が進み、日本農林規格(JAS)の乾麺類品質表示基準で、 干しそうめん 長径1.3o未満(手延べの場合は長径1.7o未満)、 干しひやむぎ 長径1.3o以上1.7o未満(手延べの場合は長径1.7o未満)、 干しうどん 長径1.7o以上(手延べの場合も長径1.7o以上)、 と、麺の太さの違いとされているが、手延べ麺の場合は、 素麺もひやむぎも同基準であり、めん線を引き延ばす行為のすべてを手作業により行っているなどの条件を満たしたものが、太さに合わせて、それぞれ「手延べ素麺」、「手延べひやむぎ」、「手延べうどん」とされる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E9%BA%BA)。 「菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、奈良時代から平安時代にかけて、中国から、 唐菓子(からかし)、 唐菓(果)子(からくだもの)、 と呼ばれる、 穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、はじめは、植物の菓子に似せて、 糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、 らしく(日本食生活史)、名前も、異国風に、 梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、 桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、 餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、 桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、 黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、 饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、 鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、 団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、 等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、以上の八種は、 八種唐菓子(やくさからがし)、 と呼ばれ、 これは特別の行事・神仏事用の加工食品と言える。この他に、 餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、 餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、 餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、 環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、 結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、 捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、 索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、 粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、 餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、 煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、 粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、 等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)。この中の、 索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、 が、「そうめん」の元祖と目される。「麥縄」は、 麥索、 とも当てるが、和名抄には、 索餅、 のこととあり、 饂飩(うどん)または、冷麦、 のこと、とある(広辞苑)。 「うどん」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93)で触れたように、「うどん」は、唐菓子のひとつ、 混沌、 とされる。 「『混沌』は物事のけじめがつなかいさまをいうが、小麦粉の皮に餡(肉や糖蜜など)を包んで煮たもの(丸いワンタンのようなもの)で、丸めた団子はくるくるして端がないことから『こんとん』とよばれた。たべものなので食偏に改めて『餛飩』と書いた。熱いたべものなので『温飩』と書くようにもなり、これが、また食偏に変わって『饂飩』になった」 とする説である(仝上)。 「丸い形のものだったので、それを切って細くしたとき、切麦(切麺とも書く)というよび名も生まれた。…熱したものを『あつむぎ』、冷やしたのを『ひやむぎ』とよんだ。オントン(温飩)がウントン(饂飩)になって、室町時代に。ウドンというよび名が使われ始めた。しかし江戸時代になっても、ウンドンというよび名がウドンとともに用いられていた」 とある(仝上)。しかし、「うどん」発祥については、「餛飩」(コントン)では、 「小麦粉の皮に餡を包んだワンタンのようなものと、そば状の『うどん』とは、まったく別種のたべものなので、渡来したとき、初めからこの二つは別々のものとしてはいってきたのではないかと考える」 とする説(たべもの語源辞典)もある。だから、 こんとん(混沌)→おんとん(温飩)→うんどん(饂飩)→うどん(饂飩)、 の変化とは別系統の、 索餅(さくべい)→麦縄(むぎなわ)→切麦→うどん、 という流れがあるとする説がある。 「西アジアから伝わった小麦文化は、中国で麺の原型となる食べものに変化します。中国で『麺(ミエン)』というのは、もともとは小麦粉のことを指し、日本でいう『麺』にあたるものは『麺条(ミエンテイアオ)』と呼ばれていました。小麦を加工した食品には他に『餅』がありますが、これは日本の『もち』ではなく『ピン』といって、その後登場する麺の原型となった食べものです。(中略)『餅(ピン)』には、練った小麦粉を現在の饅頭や焼売のように蒸した『蒸餅(ツエピン)』、パンや煎餅のように焼いた『焼餅(サオピン)』、小麦粉に『みょうばん』や『かんすい』などの添加物を加えて棒状にねじって油で揚げた『油餅(イウピン)』、スープの中に入れてゆでた『湯餅(タンピン)』の4種類があります。この4種類の中で、「ゆでる」という調理法が現在の「麺」に発展していくのです。」 と(https://www.tablemark.co.jp/udon/udon-univ/lecture01/index.html)し、餅(ピン)が「うどん」に変化していく、とする。 まず、「索餅(さくべい)」という、中国最古の麺と呼ばれる、小麦粉と米粉を混ぜて塩水で練り、縄状にねじった太い麺がある。 「日本でも奈良時代にはたくさんの「索餅」が作れていたようです。小麦粉の大量生産のために大型の回転式臼を使用していたといわれ、東大寺境内の古井戸からは臼の破片が発見されています。また平安時代には、長寿祈願の食べものとして宮中でも供応されていたといわれています。」(仝上) 清の時代に書かれた書物には、 「『索餅は水引餅(すいいんべい)のことである』と書かれています。「水引餅」とは、紐状にした麺を水につけてから人差し指と親指ではさみ、もみながらニラの葉のように薄く手延べしたものを指します。これをスープに入れてゆでて食べる」 らしく、うどんの直接の原型とみられている(仝上)。 太い縄状にねじった太い「索餅(さくべい)」の次に現れるのは、それを細く伸ばした、「麦縄(むぎなわ)」になる。 「『索餅』の『索』という漢字には『縄』という意味があり、『麦縄(むぎなわ)』という文字は『索餅』の直訳で、同じ食べものを指します。」 そして、「切麦」となる。 「小麦粉を水でこねて細く切った『切麦』という、うどんの原型が登場します。中国では小麦粉を使わずに麺がグルテン化しない素材(米、そば、緑豆等)を、円筒形の筒から直接湯の中に入れてゆでる食べ方があります。さらに中国の麺作りの進化の過程で、包丁で麺を切り出す方法が生まれます。宗の時代にはこれを『切麺(チェミェン)』と呼び、『切麦』のルーツといわれています。」 という流れで見る(https://www.tablemark.co.jp/udon/udon-univ/lecture01/index.html)と、やはり、ワンタン状の こんとん(混沌)→おんとん(温飩)→うんどん(饂飩)→うどん(饂飩)、 というの変化には無理があり、別系統の、 索餅(さくべい)→麦縄(むぎなわ)→切麦→うどん、 という、 太い縄状にねじった太い麺(索餅)→細く伸ばした麺(麦縄)→切麦(うどん)、 の方が自然に思われる。 この「うどん」の系統の中から、 太い縄状にねじった太い麺(索餅)→細く伸ばした麺(麦縄)→素麵→素麵、 太い縄状にねじった太い麺(索餅)→切麦→あつむぎ・ひやむぎ、 となったのではあるまいか。「うどん」「ひやむぎ」も「そうめん」も元祖は、 索餅、 となるのではないか。 祇園社の南北朝時代の記録である『祇園執行日記』の康永二年(1343)7月7日の条に、麺類を指す言葉として、 索餅(さくべい)、索麺・素麺(そうめん) という三つの表記があり、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされている(http://www.yamanashinouta.com/kisetsunogyouji/soumennoyurai.html)。同じ、南北朝時代の「異制定訓往来」が「素麺」の初出という説もあるので、この時期が史料上の初出らしい。そして、 索餅、索麺、素麺、 の混用が室町時代に続き、やがて「素麺」が定着したといわれている(http://www.yamanashinouta.com/kisetsunogyouji/soumennoyurai.html)。 参考文献; https://sozairyoku.jp/%E2%80%9C%E3%81%9D%E3%81%86%E3%82%81%E3%82%93%E2%80%9D%E3%81%A8%E2%80%9C%E3%81%B2%E3%82%84%E3%82%80%E3%81%8E%E2%80%9D%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84%E3%81%AF%EF%BC%9F 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
「アチャラ漬」は、 阿茶羅漬、 とも当て、 アジャラづけ、 とも言う。 蓮根・大根・筍・蕪などを細かく刻んで、唐辛子を加えた酢・酒・醤油・砂糖などに漬けた食品、 である(広辞苑)。 「アチャラ漬」の「アチャラ」は、 ペルシャ語の漬物の意のアチャルから(たべもの語源辞典)、 インドネシア料理の、アチャルという野菜を甘酢漬けにして赤唐辛子を入れたものから(仝上)、 野菜・果物の漬物の意のポルトガル語achar(アチャール)から(デジタル大辞泉・日本大百科全書・語源由来辞典)、 もともとはピクルスをまねてつくったもののようで、「あちゃら」とは外国の意味(日本大百科全書)、 アチャラは、ペルシャ語のāchārに由来するポルトガル語(広辞苑)、 ペルシヤ語achara由来だが、ポルトガル人が伝えた(大辞林)、 フィリピンやインドネシアでは漬物をアチャラと呼んでいるが、これはペルシア語で漬物をさすアーチャールを語源としており、日本のアチャラも同源(世界大百科事典)、 と諸説あり、ペルシャないしポルトガルが関与しているらしいという以上に、どれとも定めることは難しいが、 近世初頭に、南蛮貿易を通して日本に入ったといわれる。「あちゃら漬」の「あちゃら」に似た音で「漬物」を表している言葉が、インドの「アチャール」、フィリピン・インドネシアの「アチャラ」、ネパールの「チャーレ」、アフガニスタンの「オチョール」など各地に見え、これらは同源と考えられる、 とある(語源由来辞典)ので、少なくとも、ポルトガル人の進出に合わせて伝搬したということは確かなようだ。ただ、南蛮由来とされる料理、 オランダ煮、 南蛮漬け、 も唐辛子を使うことが特徴なので(https://oisiiryouri.com/acharazuke-gogen-imi-yurai/)、「アチャラ漬」もそうした伝来のひとつとみられる。 南蛮料理の一種、 とされ、 もともとはピクルスをまねてつくった、 とされる(日本大百科全書)ので、 和風のピクルス、 といったところか(百科事典マイペディア)。 元禄二年(1689)刊の「合類日用料理指南抄」には、 南蛮漬、 と載り、はじめは、南蛮漬と呼ばれ、のちにアチャラ漬というようになったと思われる(世界大百科事典)。 「料理網目調味抄」(1730)には、 阿茶蘭漬、 「料理山海郷」(1749)にも、 阿茶羅漬、 としてのつくり方が紹介されている。前者では、酢に塩を加えて煮返したものにナス、ショウガ、ミョウガ、れんこん、ゴボウ、イワシ、貝類などをつけるとあり、後者では酢、塩に酒を加えて2度沸騰させて冷ましたものに魚のつくり身をつけるとしてある(仝上)。 「南蛮」というのは、 南方の夷(えびす)、 の意であり、 室町時代末期以後に、フィリピン・シャム・ポルトガル・スペイン、 等々のことを言った。だからこの地方から渡ってきたものに、 南蛮、 とつけた。唐辛子も、 南蛮からし、 南蛮胡椒、 といった、とある(たべもの語源辞典)。 今日、「南蛮漬」と呼ばれているのは、 魚肉に片栗粉をまぶして揚げたものを、トウガラシにネギやタマネギを加えた合わせ酢に漬けたもの、 を指し、アジ、ワカサギ等小魚をおもに使う、とある(百科事典マイペディア)。 油でいためたり、ネギやトウガラシを用いた料理は、 南蛮、 とつけられることが多く、これもその一つとされる(仝上)「合類日用料理抄」(1689)には、 揚げてから漬ける新しい料理法であるからとも、ネギやトウガラシを用いるところからつけられた名、 とある(精選版日本国語大辞典)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「アチャラ漬」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%82%A2%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%A9%E6%BC%AC)で少し触れたが、「南蛮」というのは、 南方の夷(えびす)、 の意であり、 室町時代末期以後に、フィリピン・シャム・ポルトガル・スペイン、 等々のことを言った。だからこの地方から渡ってきたものに、 南蛮、 とつけた(たべもの語源辞典)、とある。「南蛮」は、 古くは中国で、インドシナをはじめとする南海の諸国の称、 とある(広辞苑)。北狄(ほくてき)に対する、とある(仝上)。「蛮(蠻)」は、 会意兼形声。旧字の上部はもつれる意(音ラン・レン)は、蠻は、それを音符とし、虫を加えた字。姿や生活が乱れもつれた虫(へび)のような人種のこと。もと、南方の未開の民を指し、転じて広く文明を知らない人の意となった、 とある(漢字源)。 古来、中国では、自国を中央に位する文化の開けた大きな国であるとして、中華または中夏と呼び、四方の国々を、それぞれ野蛮な国とみなして、東夷、西戎、南蛮、北狄と呼んだ、 のである(仝上)が、皮肉なことに、 クビライによって南宋が滅ぼされると、漢人が逆に南蛮人と呼ばれるようになった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE)。日本もそれを真似て、 「蛮」という語は『日本書紀』の時代には朝鮮半島南部の未開地や薩摩の西の五色島、薩摩七島、琉球を指す語として用いられた、 が(仝上)、その後、室町末期から江戸時代にかけて、 シャム・ルソン・ジャワその他の南島諸島の称、その地を経由して渡来した西欧の人や物、 を指し、更に、 オランダ人を紅毛というのに対して、スペイン、ポルトガルを指し、キリシタンと同義に用いられた、 と、意味が変遷する(広辞苑)。 「南蛮」は、南方から渡来したものに付けられ、唐辛子も、 南蛮からし、 南蛮胡椒、 といい(たべもの語源辞典)、 南蛮菓子(カステラ、ボウル等々)、 南蛮黍(とうもろこしの異名)、 等々もある(大言海)。この中に、 南蛮煮、 もある。「南蛮煮」は、 南蛮、 とも略される。 葱、大根、魚、鳥の肉など、すべて油にて煮たるもの、 とあり(大言海)、 鯔(ぼら)その他のなま魚のこけらをとって、下洗いし、丸焼きにして、油で揚げ、ネギの五分切りを入れて、煮出し汁と醤油とで煮たもの、 また、 すべて煮汁に唐辛子を加えて用いるもの、 とし(たべもの語源辞典)、 前者の南蛮煮は、日本ネギを加えているので南蛮煮とよばれる、 ともある(仝上)。これは、 難波煮、 のナニワ(難波)が転訛した語である(仝上)。どうも、 唐辛子、 と、 ネギ、 が鍵のようである。 「南蛮」の語は、今日の日本語においても長ネギや唐辛子を使った料理にその名をとどめている。「南蛮料理」という表現は、16世紀にポルトガル人が鉄砲とともに種子島にやってきた頃から、様々な料理関係の書物や料亭のメニューに現れていた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE)。 南蛮餅、 というのは、 南蛮煮の雑煮餅、 で、膝栗毛に、 上方にてするなんばんもちとて、ねぎをいれたるざう煮餅なり、 とある。 ネギを入れた、 というところがミソで、 南蛮煮、南蛮焼というのは、みんな日本ネギをつかったものにつけている、 のである(仝上)。 鴨南蛮、 は、日本ネギを用いているからである。そば屋では、 ネギのことを南蛮と称しており、南蛮蕎麦はネギの入ったそばのことを指します。 また、南蛮人(ポルトガル人、スペイン人など南から来た人)が好む食べ物として唐辛子、とうもろこしなども南蛮と呼ぶことがあります。江戸時代に来日した南蛮人が、健康保持、殺菌などの目的でネギを盛んに食べていたのがネギを南蛮と呼ぶ由来とされ、鴨肉とネギが入ったそばを「鴨南蛮」と呼ぶのはそのためです、 とある(たべもの語源辞典・https://www.nikkoku.co.jp/entertainment/glossary/post-132.php)。 南蛮料理が現れる最も古い記録には、17世紀後期のものとみられる『南蛮料理書』がある。また主に長崎に伝わるしっぽくと呼ばれる卓上で食べる家庭での接客料理にも南蛮料理は取り込まれていった、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE)。文政十三年(1830)の『嬉遊笑覧』には、鴨南蛮について、 又葱(ねぎ)を入るゝを南蛮と云ひ、鴨を加へてかもなんばんと呼ぶ。昔より異風なるものを南蛮と云ふによれり、 とある(仝上)。 醤油と削り節をベースにした熱い汁で食べる「ぶっかけそば」が江戸時代中期に広まった。そこに鴨肉とネギを乗せて鴨南蛮の形にしたのは、日本橋馬喰町にあった「笹屋」とされる。幕末の『守貞謾稿』にも、 鴨肉ト葱ヲ加フ、冬ヲ専トス、 と、鴨南蛮を紹介している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%8D%97%E8%9B%AE)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「磯辺(邊)」は、 磯の辺(ほと)り、 で、 磯のほとり、 いそばた(磯端)、 の意であるが、 磯辺和え、 磯辺餅、 磯辺揚げ、 磯辺巻き、 等々、海苔を用いる料理・菓子、 に使う(大辞林)。単に、 磯、 ということもある 「磯」(漢音キ、呉音ケ)は、 会意兼形声。「石+音符幾(近い、すれすれ)」で、水際に近い石、また波にもまれて擦り減る石、 の意であり、 水が石に激しくあたる、 石が流れに現われる川原、水際の石の多いところ、 と、あくまで「石」の意である。 中国南北朝時代(543年)の梁の顧野王によって編纂された部首別漢字字典『玉篇』(ぎょくへん、ごくへん)に、 磯、水中磧(イシハラ)、 とあり、 本邦の古書に多く、礒字を用ゐたり、唐韻「礒(ギ)、石巌也」などあるより通用したものなるか、 とある(大言海)ので、「磯」の原義を知っているものは「礒」の字を当てた物かと思われる。 万葉集では、 白真弓(しらまゆみ)石邊(いそべ)の山の常盤なる生命なれやも戀つつ居らむ と、「石邊」と当てていた。それは、和語「いそ」の語源が、 イシ(石)・イサゴ(砂・砂子)と同源(岩波古語辞典)、 イシ(石)の転(南留別志・俚言集覧・和訓栞・大言海)、 イソ(石)から出た語(万葉集講義=折口信夫)、 イソ(石添)の義(桑家漢語抄・和句解・日本釈名)、 イソ(石所)の義(言元梯)、 等々「石」とつながっているためかと、思われる。 だから、 水辺の石、 ↓ 岩の多い水辺、 ↓ 沖に対して浅近なこと、 ↓ 水辺の波打ち際、 と、 いそ、 の意で、 荒磯(あらいそ)、 というように、 海や湖の波打ち際、 の意へと転じてきたが、これは我国だけである。この、 波打ち際、 の含意がなければ、 海苔を添えて用いる料理、 の意にはつながらなかったろう。 磯で採れたものを使った料理に、 磯辺、 の名をつけ、 海苔を使った料理に用いられてきた。 磯辺焼は、 餅を焼き、砂糖、しょうゆを用い、のりで巻いたもの、 磯辺揚げは、 材料に衣をつけ、焼きのりを細かくしてふりかけてから揚げるもの、材料をのりで包んでから衣をつけて揚げるものがある。また小麦粉に卵と水を加えて揚げ物の衣をつくり、その中に焼きのりを細かくして加え、揚げる場合もある、 とある(日本大百科全書)。 磯辺煮は、 白魚やエビ・イカなどを塩・酒・醤油でうす味に煮て、水ときした葛をときこみ、ドロリとさせ、火からおろして、もみのりをかけたもの、 とある(たべもの語源辞典)。 磯辺という料理は、 のりの香りと味をほのかに楽しむのが目的であるから、上等ののりを用いないと特徴が出ない。ときには香りのよい青のりを用いることもあり、生(なま)のりを使用することもある、 とある(日本大百科全書)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「いけづくり」は、 いきづくり、 とも言うが、 「いけづくり」とよぶべきだが、往々にして「いきづくり」という。「粋きづくり」という語と紛らわしいのでこれを避けるため、「生作」は「いけづくり」とよむのがよい、 とあり(たべもの語源辞典)、 生栗(いけぐり)・生戀(いけごい)・生簀(いけす)・生花(いけばな)などは、いずれも生かしておくという「いける」の意である、 ともある(仝上)。しかし、江戸後期(1834〜48頃)の為永春水『貞操婦女八賢誌(ていそうおんなはっけんし)』には、 其方(そなた)の体を生作(いけづく)り、その庖丁の切味を饗応(ふるま)ひ呉れん、 とあり、江戸後期(1810〜22)の十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の続編の『続膝栗毛』に、 おれは鰒汁(ふぐじる)に生海鼠(なまこ)鱠(なます)鯉(こい)の生(いき)づくりでなければくはぬぞといふと、 とあり(https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=363)、「いきづくり」「いけづくり」が両用されていたようである。 「いけづくり」は、 生け作(造)り、 活け作(造)り、 等々と当てる。 コイ・タイなどを生きたまま、頭・尾・中骨はそのままに、身を切り取って手早く刺身に作り、再び原形のように並べて出す料理、 である(広辞苑)。これが転じて、 新鮮な魚の刺身、 の意ともなっている、とある(仝上)。 刺身をとくに活きがよいと自慢するために「生作」と称する場合もある、 とある(たべもの語源辞典)。 出雲松江の料理に、 鯉の腹を切って、内臓を取り出し、下の身はそのままにして中骨の上の身だけを皮を傷つけぬようにしてとる。それを洗いにするか、または細作りにして、鯉の中身の上に並べ、上の皮をかぶせて、さながら生きている鯉のように見せて客に供する……。客の前に置くとき、目に醤油か酢の一滴を落とすと、はねて、生きていることがわかる、 とあり(たべもの語源辞典)、 鯉の生作を客席に出すと、客前で鯉の頸部を庖丁のみで叩き、鯉がはねると皮の下に盛り込んだ肉がばらばらになる。それをお客に盛り分ける。一つの芸として見せたのである、 ともある(仝上)。 「生け作り」の「つくり」は、 魚軒(つくりみ)なり、 とあり(大言海)、 鯉の料理の名、 とあるので、本来鯉の料理を指したもののようである。鯉は、 背骨を傷めない限り、わりに長く生きているので、本当の生けづくりはコイであるともいう。コイは三枚におろし、皮は背皮の部分を切り離さないでおく。肉を刺身か洗いづくりにして中骨の上に戻し、皮をかぶせる。イセエビ、クルマエビなどは、背骨はないが長く生きているのでよく用いられる、 とある(日本大百科全書)。また、タイもよく使われ、江戸時代の文献に、 生きのいいものを皮付きのまま三枚におろし、片側は焼き、片側は刺身づくりにしたものをタイの生けづくりという、 とある(日本大百科全書)。江戸中期の国語辞典『俚言集覧』には、 鯉、鮒等、活動するものわ、細切し、臠(ヒトキレ)にせず、食用にする制作を云ふ、 とある。 「つくりみ」は、 作身、 とも当て、 切るを忌みて作ると云ふか、刺身も同じかるべし、ミは、肉(しし)なり、 とある(大言海)。 「さしみ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%BF)で触れたが、「さしみ」は、 指身・指味・差味・刺躬また魚軒とも書く。生魚の肉を細かく切ったものを古くは鱠(なます)とよんでいた。つくり方は、魚肉を切ったものであるが、切るという言葉を忌み、切身とよばず打身(うちみ)とよんだものがあった。室町時代に魚肉の打身という言葉が現れる。また、切ることを刺すと称することから、刺身ともよんだのが刺身の起こりであるとの説がある。また、切った身は、その魚名がわかりにくい。そこで切った身にその魚の鰭(ひれ)をさしてその正体を現したものを刺身というとの説もある。昔からある鱠(なます)にその魚の鰭を刺したものを「さしみなます」とよび始めたが、これが略されて刺身となったともいう。儀式料理では、刺身が正しい呼び方である。室町時代に醤油が発明され、刺身醤油ができたとき、刺身料理が完成した。刺身の語源は、魚肉を切って、その鰭を一種の飾りのように身に刺したことから起こったものである、 とある(たべもの語源辞典)。なお、 関西では魚を切ることを「つくる」といったので、つくり身といい、「つくり」を関東の刺身と同じ意味に用いた、 ともある(仝上)。 こうした「切り身」が「刺身」と「造り」に呼び分けられたのは、 切りつけの方法から盛りつけ方、器に至るまで、関東と関西では全く異なった、 からだ、とある(https://www.gnavi.co.jp/dressing/article/22003/)。江戸では、 魚の鮮度を損なわないよう、さくに包丁があたる面をなるべく少なくして厚みのある短冊に切る。盛りつけ方は、深さのある器にけんやつまをたっぷりと飾り、高いところから低いところへと水が流れるようにさまざまな種類の魚を盛る「天地人盛り」や「山水盛り」が主流であった、 のに対し、内陸の京では、 冷蔵・冷凍で保存する技術もなかったため、薄塩や昆布で締めた白身魚を食べていた。塩で締めた魚は包丁を引かないと切ることができない。魚の持ち味を楽しむという関西独自の考え方から、一皿に盛りつける魚は1種のみ。あしらいは使わず、平皿に直に並べられていた、 とある(仝上)。ただ、今日では、「つくる」は、 大根や大葉などの「あしらい」や尾頭で飾りつけられた切り身を盛り合わせたものや、昆布で締めるなど切り身にひと手間加えたもの、 を呼び、刺身は、 飾り気のない切り身、また、魚介に限らず牛や馬などの肉や刺身コンニャクなどの加工品を含む新鮮な切り身全般、 を呼ぶ傾向にある(仝上)、とか。 なお、「あらい」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%84)、「なます」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%99)については、触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 生物の「ウニ」は、 ガセ(ガゼ)、 とも言うが、 海胆、 海栗、 と当てるが、食品としての「ウニ」、というか、食べる部分を、 雲丹、 と当てている(たべもの語源辞典、https://zatsuneta.com/archives/003210.html、他)。 ただ、「海栗」は、 生きているウニ、 「海胆」は、 殻から取り出した中身(生殖巣)で、生のウニ、 「雲丹」は、 食品用に加熱・加工されたウニ、 を指す、と区別しているものがある(https://gimon-sukkiri.jp/uni/)。「海胆(かいたん)」「海栗(かいりつ)」「雲丹(ウンタン)」、いずれも漢語であるが、漢和辞典では、特に区別はしていなかった(字源)。 海膽の食べるところ(生殖巣)を雲丹とか海丹と書いているが、雲には集まる者という意味があり、丹は「あか」で、国訓で「に」とよむとき赤土である。要するに赤色である、 とある(たべもの語源辞典)ので、生物のそれと食用のそれとは、指示している対象が異なることは確かである。 風土記には、 棘甲贏、 甲贏、 と書いてあるが、 棘贏(きょくら)、 という(たべもの語源辞典)。「贏」は、「螺」と同じで、ツビ、たにし、サザエ等々、螺旋状の殻をもつ、 ニシ(類)、 という貝である。「棘」は、イバラ、トゲのある者を意味する。だから、 棘のある貝の仲間、 とみなして、この字を当てたと思われる(仝上)。本草和名には、 靈贏子、貌似橘而圓、其甲紫色、生芒角者也、宇爾、 とあり、同、 石陰子、加世、 和名抄には、 石陰子、甲贏、加世、 とある(大言海)。 「海胆」の、 胆は、膽の俗字、 とある。「膽」(タン)は、 形声。・(セン・タン)は、「高いがけ+八印(発散する)+言」の会意文字。噡(セン 高い崖の上から見る)、譫(セン うわずったでたらめをいう)などの原字。膽はそれを単なる音符として加えた字で、ずっしりと重く落ち着かせる役目を持つ内臓、 とある(漢字源)。胆嚢、肝胆、臥薪嘗胆などとつかわれるが、「きも」の意である。 漢方医学では、肝と胆があい連なって、人体の安定と気力を保つ働きをすると考えた、 とあり(仝上)、これをメタファ―に、胆力、勇胆、胆略等々、誘起や決断力の意で使われる。「ウニ」の食用部分は、 生殖巣、 であるが、「海胆」の「肝」とあるのは、 ウニの食べる部分を肝、 とみなしたからである。「海栗」は、まさに、その姿を栗に見立てたからである。 大言海・日本語源広辞典は、「うに」の語源を 腸の漢名、海膽(かいたん)の文字読の、海膽(ウミイ)の約轉か。にの、みの(蓑)。にな、みな(蜷)。にがし、みがし(苦)、 としている。その他には、 ウヰ(海肝)の略転(和訓栞)、 ウニ(雲丹)の義(南留別志・和訓栞)、 等々がある。是非は判別できないが、たべもの語源辞典は、 海のものを表すウ、赤い色を表すニでウニになった、 とする。「うみ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%86%E3%81%BF)で触れたように、 「うみ」の語源は、 大水(おほみ)の約轉。う(大)の條をみよ。禮記、月令篇、「爵(すずめ)入大水為蛤」註「大水、海也」、 とある(大言海)。「う(大)」を見ると、「大」を当て、 オホの約(つづま)れる語、 として、 おほみ、うみ(海)。おほし、うし(大人)。おほば、うば(祖母)。おほま、うま(馬)。おほしし、うし(牛)。おほかり、うかり(鴻)。沖縄にて、おほみづ、ううみづ(洪水)、おほかみ、ううかめ(狼)、 と例示する、つまり、 「う」は「大」の意味の転、「み」は「水」の意味で、「大水(うみ・おほみ)」、 である(語源由来辞典・日本語源広辞典)。「ウニ」の「ウ」は、 「ウ(大)+ミ(水)」の「ウ」 である。 ウニは縄文時代の遺跡から発見されるほど、古くから我々に馴染みの食物である。 海胆の「胆」は丹と同じよみで、海丹(かいたん)とよむときは海胆に通じている。雲丹も、集まった赤いものという状態から来た名称であり、海に生きているウニでなく食べる生殖巣をさしてウニとよぶとき、多く「雲丹」がもちいられるようになった、 ようである(たべもの語源辞典)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 「小田巻蒸(おだまきむし)」は、 苧環蒸、 とも当てる。 えだまき、 とも言う(広辞苑)。 うどんを用いる蒸し物料理。茶碗(ちゃわん)にうどん、かまぼこ、ぎんなん、百合根、アナゴの蒲焼き(または鳥肉)を入れ、澄まし汁で生卵を3倍半くらいにのばしたものを加え、蒸し器で蒸す。茶碗蒸しにうどんが加わったものである。かつてそばの専門店では独特の作り方を誇りとしていた、 とある(日本大百科全書)。 「苧環」は、「へそくり」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%81%B8%E3%81%9D%E3%81%8F%E3%82%8A)で触れたが、 麻糸を巻いて玉状または環状にしたもの。布を織るのに使う中間材料である。「おだまき」は「おみ」(麻績)「へそ」(綜麻・巻子)ともいう。次の糸を使う工程で、糸が解きやすいようになかが中空になっている、 のをいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A7%E7%92%B0・岩波古語辞典・大言海)。大言海は、文字通り、「をだまき」を、 麻手巻きの義、 とする。要は、中が空洞になるように円く巻いた苧環の形状に、 茶碗の中に巻いて入れたうどんが似ている、 から、この名が来たものらしい(たべもの語源辞典)。静御前が、 しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に、 と詠ったのは、この苧環の元になった、 苧環の花、 を指す。 「茶碗蒸」は、 茶碗に椎茸・ギンナン・ユリ根・蒲鉾(主に板蒲鉾)・鶏肉・小海老・焼きアナゴなどの具材と、溶き卵に薄味の出し汁を合わせたものを入れ、吸口にミツバや柚子の皮などを乗せて蒸し器で蒸す、 ものだが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E7%A2%97%E8%92%B8%E3%81%97・たべもの語源辞典)、 茶碗焼、 とも呼ぶ(仝上)。 この、 味醂・醤油煮出汁などで味つけしたとき玉子のつゆ、 を、 茶碗蒸しの地、 という(たべもの語源辞典)が、この地に、卵を用いずに、 生ゆばと山芋をすりおろして葛粉を水どきして加えて地をつくるもの、 栗または銀杏をすり、豆腐と山芋を加えたもの、 豆乳とかくみ豆腐を地にするもの、 等々があったようである。延宝二年(1674)の『江戸料理集』には、 玉子貝焼、 寛延二年(1749)の『料理山海郷』には、 ハモのすり身を薄めて使った茶碗蒸、 が載るが、明和元年(1764)の『料理珍味集』に、現在のような卵を使った茶碗蒸が登場する(たべもの語源辞典)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) |
|
ご質問・お問い合わせ,あるいは,ご意見,ご要望等々をお寄せ戴く場合は,sugi.toshihiko@gmail.com宛,電子メールをお送り下さい。 |