物を書きたいという気持ちがあれば,それは何でもかまいません。たとえば,
- 自分の過去を振り返る
- 何でもいいから自分のことを書いてみたい
- 趣味には自信がある
- ビジネスマンとしてのノウハウを紹介したい
- 子育ての面白さを本にしたい
- 子供を亡くした悲しみからどう立ち直ったかを本にしたい
- 自分の難病との戦いを書きたい
- 自分と同じ苦しみを味わった人に,励ましを書きたい
- 自分の思いを伝えたい
- 自分の感動を多くの人に伝えたい
- 小説を書きたい
- ビジネス書をまとめてみたい
- 評論を書きたい
- 童話を書きたい
等々,どんなことでも,ご本人が書きたいことをどうまとめていくかが対象になります。もちろん,書くのも,悩むのも,悪戦苦闘するのも,コーチではありません。しかし本人が自分の思いを語る相手になり,考えてくることを写す鏡になり,一緒に歩きながら,完成を目指すお手伝いをしていきます。
本を書くというのは,人の基本的欲求です。こんなことばがありました。
ある<時代>性が,一人の人物を,その時代と,それにつづく時代から屹立させるには,かならずかれが幻想の領域の価値に参与しなければならない。幻想の領域で巨匠でなければ,歴史はかれを<時代>性から保存しはしないのである。たとえかれがその時代では巨大な富を擁してもたはやされた富豪であっても,姿勢の片隅でそのひぐらしのまま生き死にしようとも,歴史は<時代>性の消滅といっしょに彼を圧殺してしまう。これは重大なことなのだ。たくさんのひとびとが,記述の世界に,つまり幻想と観念を外化する世界にわずかでも爪をかけ,わずかでも登場したいとねがうことは,歴史のある時代のなかで,<時代>性をこえたいという衝動ににている。(吉本隆明『カール・マルクス』光文社文庫)
まずは,この世に自分のひっかぎ傷をのこす。たとえ,書くことがそうであっても,何か書いて残したいというのは,時代を超えたいということだといえるかもしれません。
ことわざで,虎は死して皮をとどめ,人は死して名を残す。といいます。あるいは福田恆存氏は,「人間は二度死ぬ」と言っています。一度は本人が亡くなったとき,二度目は,その人を知っているすべての人が亡くなったとき。誰かが知っていてくれる限り,その人の中に生き残る。本をん区ということには,それをもっと続けたいという思いもあるはずです。更には,自分自身が,この世に生きた証を残したいという思いからかもしれません。