リーダーシップの観点からみたとき,部下を育てるとは,同じ価値を共有できる者ではなかろうか。この組織は何をするために存在し,そのために何をしたらいいかというミッション(使命)について,共に共有してもらいたい,と。もちろんそれを実現するためにどうするかはひとりひとりにゆだねるとしても,これこそが組織のDNAを引き継いでいくということではなかろうか。それは決してコピーをつくることではない。単純なコピーをつくったのでは,進化しないまま絶滅した種と同様,時代の変化に飲み込まれてしまうだろう。 リーダーシップの核は,繰り返し述べたように,自己認知能力である。意味は,ふたつある。 ひとつは,自分自身のリーダーシップのありかたについて,みずからモニタリングする力がいる,という意味である。リーダーとしての影響力が強まるほど,リーダー自身に関する「よい情報」は,十倍ぐらいに増幅されて入るが,リーダー自身に関する「悪い情報」は,十分の1ぐらいに縮小して入る。リーダーシップに,聞く耳が必要なのは,自分の見えない部分について,部下からのフィードバックを受け入れなければ,モニタリングにならないからだ。 いまひとつは,リーダー自身が自分について知っている,あるいは自分のことを受け入れている程度にしか,部下を理解できないし,受け入れられない,ということである。自分の甲羅の大きさに合わせてしか相手を計れない。ここで言うのは,自分の持つ価値観や使命感,何を重視しているか,何を大切なものと考えているか,だ。端的な対比をするなら,部下はリーダーの目指すもの(それこそが組織の目指すものだと考えている)をただ黙々と実現するように努力すればいいと考えているのか,いや自分がこの仕事を通して自己実現を目指すように,この組織の存在意味を実現するために,ひとりひとりが仕事の中で,何をしたらいいか,何ができるのかを考えながら,自己実現してほしいと考えているのか,の差だ。前者が自分の価値観なのに,それを意識しておらず,部下には自立してものを考えることが大事だと口にし,自分でも思い込んでいるとすると,本人は気づかなくても,このリーダーが望んでいるのは,DNAの引継ぎではなく,自分のコピーをつくろうとしていることが,部下には伝わるだろう。それでは組織は変化を,自分で乗り切っていく人材をつくれないだろう。 リーダーは完全でなければならない,と言っているのではない。自分のどこが不完全で,どこが不十分なのかに気づいてもいないし,それを自分で認めもしない,という自己認知の不十分さを指しているだけである。完全な人間であるに越したことはないが,今この時点で完全であるとは,今の状況に完璧に適応していることを意味する。それは,すぐに変化する時代に突き放されるだろう。大事なことは,そうした時代と格闘しながら,不完全で,不十分な自分を認め,受け入れ,だからこそ,組織の使命を実現するために,これからどうしたらいいのか,何ができるのか,自分を生かす道は何なのか等々と,煩悶し,悩みながら,諦めず,粘り強く,次代への壁を突破していこうとしている姿勢そのものを,自分にもメンバーにも隠さず見せることなのではないだろうか。その格闘するマインドこそが,次代へ引き継ぐべきDNAなのではないか。 たとえば,部下を育てるニーズには3つある。 @部下の担当している仕事のレベルアップ〜担当している部分自体の幅と質のアップ A部下が本来求められている役割にふさわしい担当業務領域の拡大〜その役割ならもっとやってほしい期待される力量 B近い将来求められる役割にふさわしい業務領域への浸透〜これからはもっとこういうことをになえるようになってほしい期待値 @は,今担当している業務の質量をレベルアップするための必要点である。通常これを部下育成の必要点と考えるが,これは現状の業務遂行を前提にしているにすぎない。本来は,そのキャリアと職位から考えると,もっと幅広い役割が期待されていることを自分で受け止められれば,周囲の求める期待にふさわしい役割を実現するには,何をしなくてはいけないかが,おのずと本人に見えてくるし,もしそこに手がついていなければ,それにふさわしいスキルと知識と経験を積まなくてはならない,と自分で気づくし取り組むはずである。それがAである。しかしそれは@の視点に立っている限り決して出てこないのである。更に,近い将来,組織の中であるいはキャリア上(たとえば後継者として),求められる役割が高まり,それにふさわしい業務遂行ができるように,いまから少しずつスキルと知識と経験を積まなくてはならないと気づくこと,それがBである。必要なのは,組織の使命を実現するために,自分のポジションでは何をすべきかを,いつも,主体的に考えられる力である。それには,まずAができること,それを未来のキャリア形成へ延長させることでBが見えてくることになる。 部下に求める以上,求める側にもその努力がいる。今日成果主義がうまくいかない理由に,トップが成果主義を適用除外されているからだ,というジョークがある。リーダーが部下を育てるための価値観を共有し,共に担わなければ,部下育成は絶対にうまくいかない。部下の育成は,リーダーと部下の共同作業なのである。 補佐は,辞書的には,「人についてその仕事を助ける人」であり,「参謀」は,「高級指揮官を補佐して作戦・用兵その他一切の計画・指揮にあたる将校。転じて計画・作戦を立てる人」である。間違ってはいけないのは,彼らは主役ではなく,リーダーあっての存在なのだということだ。リーダーシップを考えるとき,輔佐側から考えのではなく,リーダー自身,あるいはリーダーシップを発揮しなくてはならない立場から考えてみるほうが,その機能が見やすいはずである。 つまり,補佐役からみるのとでは少し様相がかわるはずである。よく比肩される,ホンダの本田と藤沢との関係と,ソニーの井深と盛田との関係とは微妙に違う。 似た意味で,ノーベル賞を受賞した島津製作所の田中耕一氏の例でも,田中氏からではなく,その上司(つまりリーダー側)から見てみると,その様相が変わる。もちろん田中氏の功績がすばらしいのは論を俟たないが,リーダーシップの観点から見たとき,田中さんがストックホルムの授賞式に伴ったかつての上司は,もっと偉いというべきなのではないか。なぜなら,田中氏の発見を,チーム全体の課題にし,結果としてそれをチームあるいは会社のアウトプットに纏め上げていったのだから,そのチームのリーダーシップにこそ改めて光を当ててもいいはずである。つまり,こういってもいいのである。田中氏をすぐれた部下にしたのは,そのリーダーが優れていたからだ,と。 参謀とか補佐と言うのは,補佐や参謀の優れた力を発揮させるリーダーがいてこそ意味があるのである。『日本軍 失敗の研究』ではないが,参謀本部がリーダーシップを発揮すると言うことは本末転倒でしかない。 なぜなら,リーダーシップとは,一人で何でもできる人でも,一人で抱え込む人でもない。むしろ逆で,英傑そのものであった項羽と異なり,情けなくほっおけないようなタイプであった劉邦がそうであったように,優れたリーダーシップとは,優れた才能を持った本人ではなく,おのれよりも器量の上である異才,奇才に仕えさせる力のある人のことだ。優れたリーダーが優れた人材をつくると言うこともあるが,むしろ優れた部下が優れたリーダーをつくる,そうした人材を纏め上げていけることこそが,リーダーシップにほかならない。 そして,その補佐機能をリーダーから見たとき重要なのは,リーダーがキャッチボールできる相手であることなのである。その場合部下の優秀性とは,必ずしも部下が答えをくれるという意味ではない。優れた研究者は,優れたキャッチボールの相手をもっている。かつての仁科研究室からは,湯川博士や朝永博士などのノーベル賞受賞者を輩出したが,それは,自分の問題意識をぶつけ,それに対する反応を鏡に,自分の中に発想の転換を見出していった,その相手のボールの返し方が優れていたからにほかならない。そのとき,答えは相手ではなく,自分の中にあるのである。 つまり,キャッチボールするとき,相手が自分より優れた技量や発想を持っていたほうがいいのである。ここで言うキャッチボールとは,こういうイメージである。 例の3Mのポストイット開発で,周知のように,シルバーが,接着剤を開発していて,貼ってもすぐ剥がれてしまうものを創り出してしまった。彼はそれを「失敗」とはみなさず,社内の技術者に,この特性を生かした使い道を考えてくれないかと要請した。その中に,いつも聖歌隊の歌集に挟む付箋に不便を感じていたフライが,ポストイットという新たな使い道を見つけ,新たな商品開発へとつながったのである。ここには,大事なポイントが2つある。第一は,自分から人に問い掛けるということ,第二は,失敗作という先入観にとらわれず,何とかできないかと受けとめる「聞く耳」をもっている人がいたこと。キャチボールの相手が優れていなくてはならないという意味はそこにある。 例のブレインストーミングも,その意味で見直すと,補佐の心得となるはずである。即ち,@発言への批判禁止,A自由奔放,B質より量,C他人の発言への相乗りOK。まさにキャッチボールを機能させるためのルールにほかならない。リーダーが鏡を見て自問するのではなく,問い掛けた問題意識や危機意識に,リーダー自身が思いもかけない視点や論点から,まったく異質の発想で癖球を返してくれる。そういう相手がいるかいないかで,どれだけリーダーシップの幅と奥行きと厚みが変わるか。それによってその組織自体の意思決定がどれだけ違うか,独裁国家のリーダーの例を出すまでもなく,独善的な経営トップによく見受ける光景である。そのつけは,すべて組織構成員が担わされることになるのである。 リーダーが,優れた部下をもつことで,優れたリーダーシップを発揮するとは,こういう意味である。その意味で,ホンダの本田と藤沢と,ソニーの井深と盛田との関係が微妙に違うのは,もちろんリーダーの資質の差もあるが,キャッチボールしようとしていた中身がまったく異なるからだ。 |
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