立てたプランニングを実現するリーダーシップの要諦はリソースの見積もりにある,といわれる。ここにはふたつの意味がある。 ひとつは,ヒト・モノ・カネ・ノウハウ・時間の,自分の使える資源である。「優れたリーダーシップの条件とは?」の問いに,あるエグゼクティブ曰く,「優れたメンバーである」と。つまり,すぐれたリーダーシップを支えるのは優れたメンバーシップであり,メンバーが応えてくれなければ,リーダーシップの発揮のしようがないのである。しかし,それを育てるのもリーダーシップそのものの力だから,その瞬間,問われているのは,日頃のリーダーシップそのもののつけなのである。 いまひとつは,リーダー自身の内的リソースである。スキルとしてのリーダーシップから見たとき,実は,自分自身のもっているスキル・知識・経験ではなく,どれだけの人のネットワークをもっているかが一番大きなリソースとなる。それは通常はブラックボックスとなって目には見えない。しかし,何かあったとき,一声かければ,その人のためにサポートや支持をしてくれる人がどれだけいるか,それがいわばリーダーシップのリソースにほかならない。その人が通常の業務や責任の範囲で動かせる対象,つまり部下や関係者はこの場合勘定には入れない。それが動かせないようなら,話にならないのだが,実は日常でも職位と権限で言うことをきかせていただけで,ほとんど動かせていないのに,自らのリーダーシップで動かしているつもりでいただけかもしれない,ということがそのとき白日の下に明らかになったのかもしれない。 さて,そうしてともかくもプランが動き出すと,それが遅滞なく進んでいる限りリーダーシップはいらない。しかし立てた目標もプランも,リーダーの日々のフォローなくしては完結しない。進捗管理は,リーダーシップにとって,方針徹底の場であり,部下の考え方,仕事の進め方の理解の場である。こうした日々のフォローが,目標達成と同時に,部下育成の機会であり,チーム力アップとして,次へつながる。だが,こういうことを言うと,OJTの場合でもそうだが,すぐにテクニカルな面や仕事の仕方といったハウツーに目が向きがちである。しかしそれは間違いだと思う。OJTでも,その組織のDNAである,仕事への取り組み姿勢,仕事の中で価値を置くべきことは何か,何を重んずべきことなのか等々を刷り込むことこそが重要なのである。テクニカルなことは,二の次とは言わないが,仕事の姿勢や価値が重視されれば,テクニカルなことは自己責任で身に着けていけばいいし,そのための機会さえつくってやればいいのである。 その意味で,リーダーシップがもっとも問われるのは,プランニングの進捗を妨げる障害が起きたときだ。しかも急を要する問題の除去とプランにおける重要な価値にかかわることとの二者択一になったとき,まさに何を仕事で重視するかのリーダーシップが問われる。でなければ,リーダーシップは必要ないのだ,といってもいい。 その問題の処理を優先させると,それまで価値を置いてきたこと,自分たちの行動基準や仕事で価値を置いてきたことが台無しになるのだとすると,そこで問われているのは,いままで何に価値をおいてきたのか,そしてそれはどこまで本気だったのか,なのだ。 たとえば,社内の反対を押し切って個人向けの小口宅配便へと業態転換をしたヤマト運輸は,小口輸送がまだ損益分岐点にも達していない3年目に,当時の小倉社長の決断で,商業貨物から完全撤退を決め,安定した収入源である大口顧客の松下電器に「取引の解消」を申し出ている。それは,小口と両立しないビジネスのあり方を棄てるという決断を通して,苦難の中でも,いま自分たちが何に価値を置こうとするのか,何を重視しようとするのかを,社員全員に示した決断と言っていい。 トラブルを処理しなくてはならない。しかしそれを優先させると,いままで大事にしてきたこと,あるいは本来目指していることが崩れかねないということはよくある。たとえば,取引先から過大な条件変更があり,それをのまなければ,納期に間に合わない状況になったとする。あるいは,チームメンバー間で進捗の遅速があり,時期を揃えようとすると,どこかで遅れている分を取り戻さなくてはならない。トップから思いもよらない方針変更が出され,今までとは180度の方向転換を強いられる等々。そこで何を重視するかを,メンバーは注視している。 もちろん理想を言えば,それを跳ね除けて方針を堅持するパワーがあるにこしたことはない。しかし不幸にして事態はそううまくはいかないし,すべてのリーダーがスーパーマンではありえない。問題は,価値変更や方針変更するとき,どうメンバーに説明するか,だ。そのとき本当の意味で,リーダーシップの真価が問われる。そのとき大事なのは,リーダー自身がおのれの限界と向き合い,それをメンバーに隠さないことができるかどうか。弁解も,自己合理化も,強弁もせず,きれいごともなしに,自分がなぜそう決断したかを開示して,説明してみせることだ。それは,何を捨て,何を守ったかについての説明でなくてはならない。リーダーは自分の誇りは捨てても最低限チームや組織の価値を守ろうとしたのか,あるいはその逆なのか。メンバーはそのリーダーシップの姿勢の虚構を見のがすことはない。
まず原則論から言うなら,組織の活力について次のように言うことができるだろう。 チームの活力を高めるのには,どれだけメンバーが目的意識を共有化できるかである。そのために,リーダーは,確信をもってチームの目指すもの(目的と目標)を指し示すことができなければならない。それがチームメンバーに,日々の仕事の意義(目標達成のためになすこと)への確信をもつ根拠となる。それによって,チームの目的と情報の共有化を図り,何のためにそれをするのか(目的意識)が明確となり,そのために何をしたらいいか(目標意識)が共有化され,どういう役割を果たせばいいのか(役割意識)が分担され,何をチェックしたらいいのか(評価基準)が一致し,チームメンバーがひとつの目的実現のために一体となって取り組むことができる。それが,何よりもチーム全体のやる気づくりの根源となる。 しかし,以上のことは,組織側からの視点で考えたことに過ぎない。組織活力が何のために必要なのかに対する答え方に応じてその中身が変わるのである。たとえば,大まかに3つの面から考えることができる。 第一は,組織自体のパフォーマンスにとって。組織自身の維持と向上から,組織に活力がなくてどうして,社会の要請にこたえ,その組織が存在する意味を実現できるだろう。 第二は,リーダー自身のパフォーマンスにとって。組織に活力がないとは,リーダーが何かを求めても,メンバーからは何の反応も,前向きの行動も生まれず,ただ言われたことを生活のために仕方なくやっている,ということになる。それではリーダー自身にとっても,その一つ一つの仕事にも,自分自身の存在にも,意味も達成感も見出すことはできない。 第三は,メンバー自身のパフォーマンスにとって。メンバーが,自分がそこにいて,働くことに意義を感じられること,特に自分がそこで有用とされ,そこでの成果に寄与できているという有効感や,そこで働くことで自分自身のやりたいことを実現できるという効力感がもてなければ,そこですごす時間は単なる義務感でしかない。 多くリーダーは,組織のために貢献することを求めがちだ。ともすると,リーダーは組織目的と一体化してしまっているからだ。組織としての「しなくてはならないこと(環境要因)」「できること(内部要因)」「したいこと(意思)」と,リーダー自身の「しなくてはならないこと(環境要因)」「できること(内部要因)」「したいこと(意思)」とがイコールとしてしまっている。もちろん,それを否定する気はないが,その範囲にとどまる限り,個人商店主的リーダーシップであって,その組織の社会的存在意味も限定されたものであるし,そうしたリーダーシップは,メンバーにとってメンバー自身の活力を減らすストレス要因そのものになっているケースが多い。 本当は,まずリーダー自身が本当に,そこで自分自身を活性化できているのか,と自問しなくてはならない。心から充実し日々生き生きとしているのかどうか。気づかずにやらねばならないこと(それも自分のそれではなく組織のそれ)とリーダーとして役割から来るやりたいことが重なって,本人はそれが自分のやりたいことと勘違いし,迷惑にもそれをメンバーに強要している。問題は組織と一体化していることではなく,それに気づかず,あたかも自分の意思であるかのごとく思い込んでいることだ。 自分に気づいていないとは,自分自身ときちんと向き合っていないことを意味する。自分の心に向き合う程度でしか他人の心とも向き合えない。それではメンバーの思いにも意思にも気づけるはずはない。そんなリーダーの言葉に迫力も活力も生み出すはずはない。そこでは,ただ「なすべきこと」を要求するだけのリーダーシップしかない。それはリーダーシップではなく,ボスという肩書きに頼った命令に過ぎない。自分自身をコントロールし,リードできないものに,人をリードし,ましてや人の活力を引き出す力があるとは思えない。 本気で,その組織のパフォーマンスを高めたいなら,いかに異質なメンバーにも,その組織で働くことの,本人にとっての意味を見出すチャンスを与えるものでなくてはならない。必ず見つかるものでもないし,ここでは見つからないと気づくことになるのかもしれない。それでもいいのだ。それができるためには,ひとりひとりがそういう意味を考えられるチームの風土ができていなくてはならない。 たとえば,活力というのをイメージとして言うなら,チームメンバーひとりひとりが,自分自身の責任でなすべきことをわきまえ,その達成のためにチームメンバーと助け合いながら,組織としてのパフォーマンスをあげるように努力するプロセスということができる。そのときメンバー自身もまた自分自身の本音と意思に向き合い,何をしたいのか,それは今ここでできているのかを考え,チームにもオープンに話せる雰囲気がなくてはならない。 それがなければ,表面上は活発な意見交換がなされても,それは組織として「なすべきこと」についてのみであって,ひとりひとりの「やりたいこと」を諦めるか,はじめから考慮に入れていないか,そもそも意識していないか,のいずれかでしかない。それを方向づけていくのがリーダーシップそのものなら,リーダー自身が自分の本心と本音と意思に,きちんと向き合っていなくてはならない。でなくては,結局その活力は,メンバーのためのものではなく,組織とリーダーのためのものでしかない。それは真の活力とは言えない。 【組織活力となるリーダーシップ行動】
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