自分の仕事の達成にリーダーシップを発揮できない人に,人を引っ張るリーダーシップがあるはずはない。自分の仕事のリーダーシップとは,その仕事の意味と目的を意識し,その実現のために周囲を巻き込んでいく力をもっているということである。それは,自分の仕事を自己完結させず,たえず幅広い視点から,俯瞰する目を持っているということである。仕事の完成の規模が大きければ大きいほど,あるいは自分の狭い役割に自己限定せず,より大きな広がりの中で解決を図ろうとすればするほど,より上位の者を巻き込んでいくほかはない。それは,たとえ経営トップでも同じだ。自社という枠の中で自己完結させるか,広く業界まで考えるか,業界を超えるか,さらには,国内という制約を超えるかによって,その巻き込まなくてはならないヒトもモノもカネも情報もノウハウも拡大していくはずだ。
その仕事を,自分一人でやっているか部下を抱えてやるかに関わりはない。トップはトップとして,管理者は管理者として,担当者は担当者として,それぞれの旗を立てなくてはならない。それは,トップは組織の存在理由を考え,管理者は部署の存在意味を考え,担当者は自分の仕事の存在意味を考えなくてはならない,ということを意味している。
だから,リーダーシップは,決まった組織や決まったメンバーを対象としているわけではない。
たとえば,いまやっている仕事の中で,「このままでいいのか」「いまのやり方のままでいいのか」と疑問を感じたとしよう(これが感じた問題)。そしてそれを解決しようとすると,自分の役割や裁量の枠内を超えると気づいたとしよう。そのとき,「これはオレの領分ではない」と見なすなら,その問題はなかったことになる。あるいは自分の職分でできる範囲をやって,お茶を濁したとしよう。それで問題が沈静化したとしても,「それがあなたの仕事でしょ」で終わる話しであり,危惧した通り,後になって大事になったとすれば,「おまえは気づかなかったのか」と鈍感呼ばわりされ,下手をすれば上位者を道連れにすることになる。
そのとき,たとえ自分の役割や裁量を超えても,「これは自分が何とかしなくてはならない」と考えたとき(これが問題意識である),現状の枠にとらわれず,その問題を解決するにはどうしたらいいかのを考えていくしかない。当然,上位者や関係者をどれだけ幅広くその気にさせ,解決当事者として巻き込んでいくかを突詰めていくほかはない。ここでその人はリーダーシップがあるかないかの分岐点に立つことになる。
仕事のリーダーシップとは,自分の仕事を自己完結させず,その実現のために周囲を巻き込んでいくということである。それは,いままでのやり方のままでよしとしない,このままでいいと思わない,ということだ。とすれば,リーダーシップに現状維持はありえないはずだ。『鏡の中のアリス』に,赤の女王が「同じ所にとどまりつづけるには全速力で走りつづけなければならない」という台詞がある。ちょうどルームランナーに走っているのと同じだ。ベルトのスピードについていくには,走りつづけるしかない。しかし,それを旗とするリーダーがいたら,それは既にリーダーシップではない。走りつづけることに,目的も未来もないからだ。
小松左京の初期作品に『日本アパッチ族』がある。そこでは,新たな国造りを果した指導者が,周囲から祭り上げられて独裁者になりつつある自分を打ち壊すため,その批判者となり,その銅像を群集の先頭に立って引き倒す箇所があった。功なり遂げた殊勲者や創業者が,その成功体験を自らの力で打ち壊すのは難しい。しかしいったん掲げた旗は,それを達成すること自体が目的化するものではない。自分で掲げた旗は,自分の決断で降ろすか変えるかしなくては,意味もなく既定路線を走りつづけさせられるのを,誰も止めることはできない。そのときリーダーシップは単なる老害と化す。
確かに,次々に自分の掲げた旗を自ら次々と更新しつづけるリーダーは少ない。「節を曲げない」とは,こんにちは「節」を自己点検できない代名詞にすぎない。自己点検できないとは,自己肥大を指す。ひどくなれば,夜郎自大に堕す。あるいは,自分を棚に上げてメンバーを責める側に回るかもしれない。しかし,組織が自分を必要とするのではなく,自分が組織を必要しているのに気づいていないのにすぎないのではないか。
リーダーシップの自己革新とは,自分自身で理想を設定し直し,それとのギャップを自ら創り出していくことをいう。それはたゆまざる自己克服であり,自己成長である。それは,組織の目的達成のためである。そのとき,組織はそのリーダーシップを必要としている。
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問題は問題の顔をしているわけではない。「問題」はいつも誰かの目を通してしか問題として浮かび上がることはない。いわば,「問題がある」のではなく,誰かが「問題にする」ことによって「問題になる」。
だから,第1に,「問題」は,誰にとっても「問題」とは限らない。その人にとって「問題」と思えても,他の人にとっては何でもないこともありえる。もし,誰の目から見ても「問題」なら,実行する,つまり誰が,いつ,どういう解決行動をするかだけが問題となる。
しかし,第2に,問題をみないふりしたら,存在しないのと同じである。自分の感じた問題と向き合い,何とかならないだろうか,考え始めたとき,始めて問題は解決しなくてはならない事柄として目の前のある。これを,問題意識と呼ぶ。問題を感じることは,誰にでもできるが,それに向き合わない限り,その問題は,ないのと同じである。意識的に「問題にする」ところからしか,「問題」は
顕在化しない。
といっても,第3に,問題とされても,誰もがそれを解決しようとするとは限らない。問題と課題とは違う。飲み屋で上司の悪口,会社の批判をしているのは,その人がそれを問題だと思っているからかもしれない。しかし多くは酒の肴として,翌朝は忘れてしまう。誰もが自分が解決すべき問題だと受け止めるとは限らない。その問題を,自分が解決すべき問題として,具体的に考え始めたり,行動を起こし始めたとき,その「問題」は,その人にとって,「課題」になる。
リーダーシップに求められるのは,自らの問題意識や問題への感度だけではない。チーム構成員全体が,問題意識をもち,それがメンバー全員に共有化されやすいチームを作ることだ。メンバー個々の問題意識の鋭さに頼るのではなく,チームとしての問題意識を高めることだ。
どうしたら「問題」への意識を高められるのか。問題とは,現状と基準とのギャップだから,何を問題と思うかは,何に基準を置くかで違う。眼前の状態を“問題”と感ずるかどうかは,どういう基準を意識しているかによる。つまり,基準の明確化が,より問題への感度を高めることになる。とすると,リーダーに求められているのは,
第1は,問題とする“基準”,たとえば達成すべき目標,維持すべき水準,保持すべき正常状態,守るべき基準等々を共有化すること。でなければ,何を問題とするかがバラバラになってしまう。
第2に,基準と関わるひとりひとりの意識には,理想との差,目標の未達,不足や不満,価値や意味との距離等々あるから,チームとして目指すもの(目的),期待する成果(目標)をすりあわせる必要がある。
つまり問題意識があるから問題が見えるのではないのだ。問題が見える立場と意識があるから問題意識が強くなる。チームの目指すものは何かという目的意識があるから,その中で自分は何をすべきかが意識でき,その役割意識があるからこそ,何が問題かに気づきやすい。これをたえず,チーム内で確認し,すり合せるためにこそ,即ち,
@目的や目標が何であるかをメンバーが共有化できているか(目的意識の共有化)
Aそれがひとりひとり,自分の問題であると感じられるようになっているか(役割意識の徹底)
Bそれをひとりひとり,自分が何とかしなくてはならないと感じているか(当事者意識の自覚)
等々のためにこそ,リーダーシップが必要となる。
そのとき,単にひとりひとりの意識を強化するということで終わるなら,結局同じことになる。ひとりひとりの問題意識を高めるようにチームとしての仕組みをどう作るかがリーダーシップの課題でなくてはならない。チームが,そのように動かなくては,課題は解決されたことにはならない。それが新しいことであればあるほど,チームにわかってもらうには,最低4回以上伝える努力をしなくてはならないといわれるのには,理由がある。
大事なことは,ひとりひとりの問題意識を,一個人のスキルや能力として自己完結させないことなのだ。ひとりでできることは限度がある。どんなにすぐれた問題意識の持ち主でも,所詮個人の発想の枠から出ることはできない。それより,どんな些細な気がかりでも,どんなつまらなそうな違和感でも,チームメンバーの問題意識にさらすことで,「どうです?」「ひょっとしたら」「前にもこんなときが」「それならこうしたら」等々といった,キャッチボールを通して,掘り下げる場があることだ。このとき,ミーティングや会議だけを想定されていたら大間違いだ。会議のみで問題意識がかわされることはまれだ。何気ない会話,雑談,立ち話,重要なことはこうした中で気づかれる。そういうことがフランクにできる場づくりが必要なのである。その雰囲気をつくりだすのは,リーダーシップそのものなのだ。
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