人間関係は,リーダーにとっての資源(リソース)の一つと考えられる。人のもつ資源には,@その人自身のもつ能力,経験,技能(リーダーシップも含めたスキル),得意分野,専門分野,興味関心,特技,取得資格・免許,性格,体力,資質といった内的資源と,A趣味や業界等々の人的なネットワーク,友人関係,組織的後ろ盾,社会的後ろ盾,出身地,バックボーン・出自,支援者,経済的後ろ盾,地域的後ろ盾,家族等々といった外的な資源,の二つがある。 外的資源は,その人が手段や手助けとして利用(使用)可能な資源である。人間関係は,友人,家族,知人,部下,同僚等々の人的ネットワークをすべて含めて,大きな資源といっていい。その大きさは,その人自身の影響力を反映していると考えられる。やっかいなことに,このリソースは他人だけではなく,自分自身にとっても,見えない,気づいていないブラックボックスなのである。 『論語』に曰く,「人の己れを知らざるを患(うれ)えず,人を知らざるを患えよ」とある。それと対になって,「己れを知ること莫(すくな)きを患えず,知らるべきをなさんことを求む」ともある。こういうと逆説めくが,つまりはその人の業績に応じて知己を得,得た知己の多さに応じて成果に寄与する,というわけだ。だから人脈だけが突出してある,というのは詐称に近い。人脈作りに血道をあげる例があるが,本末転倒だ。単なる知り合いが多いことをもってして,リーダーシップの外的資源とは言えまい。リーダーシップにとっての最大の外的資源は,何よりその組織のメンバーであり,部下でなくてはならない。部下に背かれて外部に頼っても,外的資源がおれの失地回復に有効なことはまずない。 「人との関係を失うことで己れを失う」と言われることが多いが,そこには人とは関係そのものの中にあり,その関係の結節点として存在しているという意味ももちろんあるが,ここでの視点からいえば,そもそも孤立したリーダーシップは矛盾そのものでしかないという意味でなくてはならない。リーダーのためにリーダーシップがあるのではなく,組織目的のためのリーダーシップであるとするなら,よきメンバーシップがよきリーダーを育てるのでなくてはならない。だから,よきメンバーを育てることこそがリーダーの仕事の第一歩でなくてはならない。上杉鷹山のはじめたのはそれであったはずだ。 そのために必要な人間関係能力は,次のふたつである。 @話しあう能力(責任・使命からの役割行動), Aふれあう能力(感情交流,自己開示) この意味することは,リーダーとしての役割行動からくる部下のなすべき責務についての指示・命令だけではなく,部下の心と関わることが必要だということだ。それに不可欠なのは,リーダー自身の心だ。心とは,自分自身を感じる心,相手を感じる心だ。それは人への感度である。たとえば,メンバーが大失敗をしたとする。その失敗の結果は責められても仕方ない。しかし大事なのは,そのときメンバーが向き合っていた状況を,メンバーの立場で向き合えるかだ。役割責任を遂行できなかった結果を責めるだけでなく,「どうすればよかったのと思うか」「他にどんな選択肢がありえたと思うか」と,本人に,本人の結果と向きあわせられることだ。それが次につながる。その状況を,そのときの,部下の立場から一緒になって見ていける姿勢を,共感性と言う。部下自身が別のやり方をすればよかったと気づきさえすれば,その結果の厳しい評価を,部下は受け入れるはずだ。リーダーは,自分より優れた優秀な部下を使いこなせなくてはならない。人を使うには,合理的で理詰めの「つきあい能力」だけではなく,恐れや不安や悔しさといった感情を受けとめる「ふれあい能力」も必要なのだ。 社会心理学の知見によれば,自己開示を行うことが話し手への好意を高めるとされるが,特に話し手が自己開示した原因が自分自身にあったと聞き手に感じさせること,たとえばリーダーが自分のために心を開いてくれたと部下が感じたとき。よりリーダーへの好意を高める。自分が信頼されたからだという満足感や充実感が,リーダーへの好意を高めるからだ。それが,ふれあう力の鍵だ。たとえば,「いつも君の努力には敬服するよ。僕は,若いころ努力しなくてね,云々」と自分を開示していくことが,相手との回路を広げるためにも有効なのだ。 いってみれば,人間関係力というのは人間力なのである。人間力とは,受容力だ。自分の限界を受け入れ,相手の異質さを受け入れ,時代の変化を受け入れ,自分に都合の悪い事実も受け入れる。それはおのれの思惑や思い入れや思い込みなしに,虚心にありのままを受容するということだ。 「大きく叩けば大きく鳴り,小さく叩けば小さく鳴る」と西郷隆盛を評したのは,坂本龍馬であった。これを器量の大きさと見誤ってはならない。器量を客観的に測る物差しなどないのだ。むしろ器量の大きさを左右するのは,その人の人間関係力によって決まる。西郷を大きく鳴らす島津成彬や盟友の大久保利通なくして,おのれの器量を咲かすことはできなかった。ある面でよきメンバーシップがよきリーダーシップをつくるとは,このことなのだ。 変革のリーダーシップとは,変化を起こすことであり,組織が今いるところから,行く必要のあるところへと誘導していくことである。それは,長期の視点で,いまの枠組みや構造全体を,目指すべき姿へと変えていくことである。だからといってイノベーションのリーダーシップがあるわけではない。日常的に当たり前のリーダーシップが当たり前にできていることが大事であり,そういうリーダーシップこそが変革を実現できる。 たとえば,それは,いま自分たちは何を目指しているのか,それは何を実現するためなのか,またそれを実践していくためにはどういうリソースが必要なのかを,メンバーと一体になって考え,行動する仕組みを作り上げているリーダーシップだ。たえずチームが目的をもって動けているからこそ,ひとりのメンバーの「このままではまずい」という問題意識がメンバーに共有化される。変革は,そこからしか始めようはないのだ。 それは一言で言うと,「失敗を失敗と認識できる」ことではないか,と思う。失敗を失敗と認めることは未来志向であり,失敗を失敗と認めないことは過去志向なのである。 失敗と認めることは,別の成功がまだこれからもあると信ずることだ。失敗と認めないのは,これ以外に成功がないと信じ込むことだ。そこにふたつの理由が考えられる。自分たちの思い描いた成功にとらわれているか,もともとどういう成功を目指すのかがなかったか,だ。どちらも思い込みからスタートしたという意味では同じだ。「これしかない」「こうなればこうなるはず」という思い込みで動き出し,どうすれば目標を,いつまでに,どれだけ達成できるかを真剣に検討していない。それを検討していれば,達成するための手段・方法を具体化せざるをえず,そうなれば手持ちのリソースは何か,自分たちにはどこまで,何が実行可能なのか,自分たちの限界も明確になってくるはずである。それがないから,いまどうなっているかを測る術がない。何が成功で何が失敗かを測る術がない。成果の判断ができないのである。ずるずると延引し,場合によっては無原則にリソースを投入し,組織も自分ものっぴきならないところへ追い詰めることになる。 要するに,失敗を失敗と認めるとは,自分をありのまま認めることだ。それができなくて,自分の現状が正確に認識されるはずはなく,現状がわからなければ,「いまのままではいけない」「何とかしなくては」という変革へのスタートラインにすら立つことはできまい。 当たり前のリーダーシップとは何かを考えるために,まずリーダーシップの3つの常識,つまり,@リーダーシップはトップのものである, Aリーダーシップはパーソナリティである, Bリーダーシップは対人影響力である, を点検してみるのが手がかりになるはずである。 リーダーシップとは,トップに限らず組織成員すべてが,いま自分が何かをしなければならないと思ったとき,みずからの旗を掲げ,周囲に働きかけていくことだ。その旗が上位者を含めた組織成員に共有化され,組織全体を動かしたとき,その旗は組織の旗になる。そのリーダーシップにふさわしいパーソナリティがあるわけではない。何とかしなくてはならないという思いがひとり自分だけのものではないと確信し,それが組織成員のものとなりさえすれば,リーダーシップなのである。そこに必要なのは,自分自身への確信である。それは自分を動かすものだ。それが人を動かす。リーダーシップは他人への影響力である前に,自分への影響力である。「お前がやらなくて誰がやるのか」「自分がやるしかない」と,みずからを当事者として動かせるものが,自分の中になければ,人は動かない。それが旗の意味であり,旗の実現効果であり,そこに共に夢を見られることだ。 だから,リーダーシップには,新たな常識が必要となる。 @周囲を巻き込める夢の旗を掲げられること, A夢の実現プランニングを設計できること, B現実と夢とを秤にかけるクリティカルさがあること, 「こうすべきだ」だけでは人は乗らない。それが単なる夢物語でも人は乗らない。夢と現実味をかね合わせて,絶えず点検していける精神こそが,求められるリーダーシップである。それは,パーソナリティでも地位でもパワーでもなく,スキルであることを意味している。 よく「人事を尽くして天命をまつ」という。しかし,そうではない,「天命を信じて人事を尽くす」のが正しい。旗を信じるから,人を束ね,人を動かす努力を尽くす。
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