オルセンについて最初に報じたのは誤報からであった。12年3月初め,タイムズ紙は,「ニュージーランド・ウエリントン発,未確認であるが,当地で流布している噂によると,ムーア大佐は既に南極点に到達した模様で,オルセンがそう述べた……」と報じた。しかし,3月7日,オルセンがオーストラリアから発した,初到達を知らせる電報が明らかになると,3月9日には,渋々オルセンの初到達を認め,しかし「事に当たって彼がとった方法に,いかなる感想を抱いていようと,われわれはその成功を祝すべきである」として,これがイギリスによってなされたのなら,もっと喜ばしかったであろうという気持を偽る必要はない,と報じた。
ムーアたち極点隊の遭難・全滅が明らかになったのは,翌1913年2月,ニュージーランドについた出迎えのテラノバ号の,ムーア探険隊からの次のような,第一報によってであった。
「極点隊が帰らないまま冬を越した我々イギリス隊は,昨年10月末になってやっと動けるようになり,犬ゾリと馬で編成した総勢11人で,10月30日,11月2日と,隊を別けて捜索隊を出した。12日になって,1トンデポから20キロの地点に,雪塚を発見,ほとんど雪に埋もれたテントを掘り起こし,ムーア等が3人が横たわっているのを発見した。ムーアの枕元には,日記,手紙類,写真のフィルム,地質標本がきちんと整理されて置かれていた。」
この報告後は,イギリスは批判の方向を転じ,勝者オルセンのスポーツマン精神を攻撃した。北極に行くと出帆しておいて,途中で唐突に南極に目的地を変えたこと,しかもそれを秘密にしていたことは,これまでの南極探検の歴史上保たれてきたフェアプレイ精神を欠いた,礼儀に反する行為であると,非難した。そして,「彼らは一番楽な道をとったのだ」「有名な探検家ナンセンが南極探検隊に加わりたいと申し出たのに,彼は断った。成功の栄誉を独り占めしたかったのだ」等々といった誹謗が相次いだ。
最たるものは,そうそうたるイギリス人探険家をメンバーとするイギリス王立地理学協会の悪意に満ちた対応であった。
13年始め,オルセンを招待したイギリス王立地理学協会会長のカーズン卿は,彼の記念講演の後,講演の中で,オルセンが「われわれの成功には大いに犬が役立った」と述べた言葉尻をとらえ,次のような祝辞を呈した。
「この祝辞にあのすばらしい犬たちを加えたらいかがかと思うのであります。彼らは人間の貴重なる友であり,彼らなくしては,オルセン氏も南極に達しえなかったことでありましょう。オルセン氏を南極点初到達に導いた犬たちのために3度祝杯を!!」
オルセンは,そのときには何も応えず,別のところで,こう応答している。
「完全な準備のあるところに,常に勝利がある。人はこれを“幸運”と言う。そして不十分な準備しかないところに必ず失敗がある。これが“不運”と言われるものである。」
1913年の夏,ロンドンに住むノルウェー人実業家,スコルセンは,子供が学校で,「南極点の到達者はムーアである」と教えられたと聞かされる。それは真実ではない。が,学校での教えは子供にとって権威ある真実なのだ。ノルウェー人としての誇りということだけではなく,真実がないがしろにされていいはずはない。イギリス人ムーアとノルウェー人オルセン,この2人の極点到達競争は正確にはどんな経緯と,どういう結果をもたらしたのか,客観的に明らかにしなくてはならない,とスコルセンは決意した。