「問題」は,いつも誰かの目を通してのみ“問題”となる。(一般的に)「問題がある」のではなく,(誰かが)「問題にする」ことによって,初めて,「問題になる」。それを見過ごすのも自分であり,見過ごしにせず,「問題」にするのも自分である。「問題の発見」は,こうした個人としての問題意識や思い入れ,入れ込みによる,個人的な突っ込みからこそ,自分の思いのこもった,自分の“企画”は始まる。
「疑問」を「問題にする」(問題にできる)“役割意識”の主体性
「不安」を「問題にする」(問題にできる)“当事者意識”の責任感
「不具合」「不便」を「問題にする」(問題にできる)“カスタマーマインド”の生活感度
「不満」を「問題にする」(問題にできる)“アウトサイドイン”の 時代感覚
「理想」を「問題にする」(問題にできる)“目的意識”の方向感覚
「願望」を「問題にする」(問題にできる)“現状批判”のバランス感覚
があるから,
「ウォークマン」は,どこでもステレオが聞けない不満を問題にし,
「24時間風呂」は,一々風呂を焚かなくてはならない面倒や無駄を問題にし,
「iマック」は,どれもこれも変わりばえのしない無機質のパソコンを問題にし,
「バリアフリー」は,老人や身障者にとっての(健常者の気づかない)障害を問題にし,
「フロッピーディスク」は,いちいちケースから出さなくてはならないLPレコードの面倒さを問題にした
少なくとも,最初に「温泉饅頭」を開発した人にとって,それは,温泉地のかかえる何がしかの問題(あるいは目標)を達成するための企画であったはずだ。それは,自分の“たわごとのよう夢”の問題意識を実現させた24時間風呂の開発者と同じであったはずだ。しかし,それを真似た人間にとっては,ただ,「あそこが,あれで成功したんだから,うちも」という,その企画そのものが目的化し,それで何を達成しようとしたかは曖昧になっている。しかし,それは,ここでは企画とは呼ばない。ただし,その(解決したい)問題からそのマネが,その解決となると考えたのなら,それは十分企画であると考えていい。問題なのは,何のために(何を解決するために)それを企画したか,だ。