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コトバ辞典
ここで言う,Dreamは,
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの,「I Have a Dream」ではなく,
レム睡眠(Rapid eye movement sleep, REM sleep)で見る,
夢のことである。
夢はレム睡眠というごく浅い眠りに随伴する内的体験,
だとされている。本当に完全に脳が休んでいる状態なら意識は途切れるので,夢体験が起こることは考えにくい,といわれる。
脳がある程度の活動状態に保たれている,
からこそ,夢を見ることができる。夢を見ている最中は,
脳の奥のほうにある記憶に関連した大脳辺縁系と呼ばれる部分が活発に活動し…,同時に大脳辺縁系で情動的反応に関連した部位も活発に活動している…。一方で,記憶の照合をしている,より理性的な判断機能と関連する前頭葉の機能は抑制されている,
とされ,フランスの脳生理学者ミッシェル・ジュヴェの発言がいい。
レム睡眠中には,動物も人間も危機に対処する行動をリハーサルし,いつでも行動できるよう練習している,
という。つまりは,イメージ・トレーニングである。
ここでは素人が専門的な夢に立ち入るつもりはないが,自分の夢には,ずっと特徴がある,と思っている。といって,精神分析家やユンギアンにかかったことがないので,特徴かどうかも,素人判断だが…。
特徴は,二つある(といっても正確に覚えているわけではないので),ような気がする。
ひとつは,よく夢の続きを見る。
いまひとつは,よく探し物をしている。
探し物というのは,いろんなパターンがある。たとえば,
どこかと誰かと飲んでいて,店を出て,忘れ物をしたことに気づくが,なかなか店に辿り着けない,
あるいは,
多分会社とおぼしい事務所に,忘れ物をして,それを捜しに行くのだが,事務所へたどり着けない。
あるいは,よくあるのが,
トイレに行こうとするのだが,よく知っているはずなのに,なかなかたどり着けない。あると思うと,風呂だったりする。
そのプロセスだか,別のことだか分からないが,よくあるのは,高いところから,降りていくのに難渋するのケースだ。階段だと思うと,途中で切れていたり,途方もない高さのベランダのようなものに出て,そこから下への方法がなく,そろそろと,伝わりながら下りている,ということが多い。辿り着いたかどうかまでは,覚えていない。
それと関連するが,飛び降りなくてはならない,というシチュエーションが存外多い。いまでも少しだけ覚えている例でいうと,
高い山頂から,一直線に,尾根沿いを下る,急角度の坂の上で,そこを滑り降りるか,駈け降りるか,選択を迫られている,しかし他に余地はなく,渋々というか,恐る恐る,そこを下りだす,
というような感じだ。
何処かへ行こうとして行き着かない,
何かを捜そうとして,探し出せない,
何とか行こうとすると,道や階段がない,
こんなふうな感じの夢が多い。
僕は,いつも,何かを,
探しあぐねている,
らしいのだ。夢の専門家なら,何かを言い当てるかもしれないが,まあ僕には思い当らない。第一,そんな冒険家でも野心家でもドリーマーでもないので,夢を見ているときは,わくわくよりは,じりじり,という感覚が残っている。
しかし,ああ,これはいつぞやの夢の続きだ,
と夢の中で思っていることが再三ある。単なる,デジャヴ(?)かもしれないが,確かに,その感覚があるし,
話が続いている,
(と思って夢を見ている)のである。そして,稀に,忘れ物を探し当てることがある。しかし,これは最近だが,
忘れたと,思って急いでその場へ戻ると,カードすべてが抜き取られた空財布だった,
ということがある。そのぞっとした感覚は,なんとなく残っている。
別に夢判断をしたいとは思わないが,
レム睡眠は朝に向かって増える。夢は,
脳の機能から考えると,ノンレム睡眠の時に休んだ脳機能を朝の覚醒にむけて,外界の変化から離れた夢を見ながら徐々に働かせている。
つまりはオフライン状態のときに,ウォーミングアップしているのだという。そういえば,昔は,
空を泳いている,
夢をよく見た。ユンギアンは,言葉を覚えた時代のもの,という。
しかし,何のウォームアップになるのだろう。
参考文献;
内山真『睡眠の話』(中公新書)
上へ
岐(わかれる・ふたまた)路。分かれ道のことだ。支は,細い小枝を手にした姿で,枝の原字だとされる。枝状に別れた山道というのが,原意らしい。
「分れ道」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%88%86%E3%82%8C%E9%81%93)については書いたが,「わかれ」といっても,分かれ,訣れ,別れ,とある。
分は,合の反対,ものを別々にわける。
別は,弁別,これはこれ,彼は彼と区別する。
判は,分に断の意を兼ねて,判別,判決。
頒は,分かち賜う意。
析は,斤にて木をわる意。
訣は,永く別れる意。
と,わかれるだけでも,これだけある。分かれ道にも,それだけの意味がある。
そういえば,田中英光が,『さようなら』のなかで,
「人生即別離」とは唐詩選の一句,それを井伏さんが,「サヨナラダケガ人生ダ」と訳し,太宰さんが絶筆「グッドバイ」の解題に,この原句と訳を引用し…,
と書いていた。そう,どこかでも書いたが,原句は,于武陵の,
勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵)
満酌不須辞 (満酌辞するを須いず)
花發多風雨 (花發けば風雨多く)
人生足別離 (人生別離足る)
だそうで,それを,井伏鱒二は,
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生だ
と訳した。
一期一会
に通じるのだろうが,と思って調べていたら,寺山修司が,
さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
という詩を書いているという。調べると,『さよならだけが人生ならば』という題で,
さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。
となっている。ついでに載っていたのは,カルメン・マキに贈った,『だいせんじがけだらなよさ』という詩も,寺山修司にはある。
さみしくなると言ってみる ひとりぼっちのおまじない
わかれた人の思い出を わすれるためのおまじない
だいせんじがけだらなよさ だいせんじがけだらなよさ
さかさに読むとあの人が おしえてくれた歌になる
さよならだけがじんせいだ
さよならだけがじんせいだ
寺山修司なりのこだわりを,この詩に書いたことが分かる。(「だいせんじがけだらなよさ」はさよなら云々を逆さにしている)。
人は二度死ぬ,
というのは,柳田國男が言ったのだとばかり思い込んでいたが,クリスチャン・ボルタンスキ―というフランスの芸術家が言った言葉だ,と言う説もあり,
たった1人でも,だれかがあなたを思っている。だれもあなたのことを思わなくなったら,人はこの世からいなくなって消えてしまう,
ネイティブアメリカンのブラックウルフ族の伝承という説もあり,真偽は分からない。ともかく,
人は二度死ぬ,
そう思うと,別れにも,二度の別れがあり,
面影
が残っているだけ,あるいは,別れは終わっていない,と言うこともできる。
別れ道は,しかし,一つを捨てることだ,それを捨てたことにこだわることは,そこで決断ができなかったことだ。ならば,戻った方がいい。心にそれを残したままでは,心は,未来ではなく,過去を見続けていることになるから。
参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
田中英光『さようなら』(現代社)
井伏鱒二『厄除け詩集』(筑摩書房)
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なずむは,
泥む
あるいは
滞む
と当てる。 意味は,辞書(『広辞苑』)には,
行きなやむ,はかばかしく進まない,滞る,
離れずに絡み付く,
悩み苦しむ,気分が晴れない,
拘泥する,こだわる,
かかずらわって,そのことに苦心する,
執着する,思いつめる,惚れる,
なじむ。なれ親しむ,
とあるが,他を見ると,その他に,
植物がしおれる。生気がなくなる,
という意味もある。語源は,
「ナ(慣れ)+ツム(動かず)」
で,物事が進行しない,,はかばかしく進まない,意で,心がそのことから離れないことを言う,とある。その意味では,「なずむ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%81%AA%E3%81%9A%E3%82%80)
で述べた,「馴染む」とつながるところがある。「暮れなずむ」という言い方は,日が暮れそうでなかなか暮れない,というもともとの「泥む」に近い使われ方なのかもしれない。
本来,行き悩む,はかどらない,という意味から,何かに捉われている心の内にメタファとして使われ,そこから,悩みや苦心,執着,馴染むへと広がっていったのはわかるが,萎れるは,また別の系統で意味が広げられた感じがする。敢えて言えば,「行き悩む」が「生き悩む」あるいは「育ち悩む」とスライドさせれば,つながらなくもない。
『古語辞典』をみると,「なづみ」で出ていて,
「ナヅサヒと同根。水・雪・草などに足腰を取られて,先へ進むのに難渋する意。転じて,ひとつことにかかずらう意」
と注記がある。因みに,「ナヅサヒ」を見ると,「ナヅミ」と同根とあって,
水に浸る,漂う,
(水に浸るように)相手に馴れまつわる,
とあり,さらに,「なづさはり」という言葉があり,「ナヅミと同根」として,なじみになる,という意味が載る。「なづみ」の意味は,上記とほとんど変わらないが,
惚れること,
恋着,
が,「行き悩む」「まつわりつく」「ひとつのことにとらわれて悩む」とは別途に意味が立てられている。あるいは時代の違いかもしれないが,辞書だけからはわからない。
滞る,
閊(つか)える,
行き悩む,
拘る,
執着,
拘泥,
というのが類語だか,泥む,という言葉は,ちょっと独特の語感がある。拘泥というのと,泥むというのとでは,前者は頑なさがあるが,後者には,馴れる感じが付きまとう。元の意のもつ,
行き悩む
と
行き兼ねる
と並べてみると,
躊躇
というニュアンスが出る。「〜(し)兼ねる」というとき,そこには,ただ,
〜することができない,
という「不可能」とか「不出来」ということと同時に,
〜することに耐えきれない,
という心情が含まれている。「兼ね」には,「あちこちに気を使ってヒトの気持ちをおしはかる」「憚り思う」というニュアンスがある。「泥む」というときの心境と重なるような気がする。
ただこだわっているのではなく,そこに愛着というか,こだわるものがある,という感じであり,滞るという外見ではなく,おのれを滞らせている内面が,躊躇いに似てくる。
「泥」の字の,「尼」は,
尸(ひとのからだ)+比(ならぶ)の略体」で,
人が相並んで親しむさま,
人と人とが身体をよせてくっついたさま,
を示す会意文字(この含意は「昵懇」の昵に残る),
と言い,「水」をつけた「泥」は,
ねちねちとくっつく,
という意味になる。そこから,
ねちねちとくっついて動きが取れない,
という意味を含み,「拘泥」という用例につながる。いつも思うのだが,先祖たちは漢字に熟知していた。漢字を当てることで,和語が奥行と陰影をもった。「泥」の字を,なずむに当てたのには,深い意味がある。
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どうも,
一貫性,
という言葉に弱い。始めから終わりまで一つのこと,あるいは考えを貫く,
一念岩をも通す,
というし,
虚仮の一心,
とも言う。あるいは,
匹夫も志を奪うべからざるなり,
と孔子の曰われるのも,その伝だろう。
しかし,たぶんまれだから,そういうのだろう。どうも,しかし,振り返ると,それほどの一貫性のある生き方ではない。たとえば,
人生とは,なにかを計画していている時に起こってしまう,別の出来事のことを言う,
とか,
結果が,最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味を持つのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である,
というのに惹かれるのは,言い訳のにおいがするかもしれないが,そのときに身をゆだねる,ということの方に惹かれるせいかもしれない。
道草し,そこで一生過ごすかもしれない,
そのことが悪いことには思えない。よく童話であるのは,そういう道草してしまった兄弟姉妹を連れ戻す話が多いが,それは,日常側から見ているからではないのか。浦島太郎は,龍宮から戻ってきたが,それがよかったかどうか。
泉鏡花の『高野聖』の若い修行僧の宗朝が,山へ引き返さなかったことが,よかったかどうかは,誰にもわからない。山に戻り,その女の魔力で馬の姿に変えられ,猿に変えられても,その方がよかったのかもしれない。
小説では,
朝,女の家を発ち,里へ向いながらも美しい女のことが忘れられず,僧侶の身を捨て女と共に暮らすことを考え,引き返そうとする。そこへ馬を売った帰りの男と出くわし,女の秘密を聞かされる。男が売ってきた昨日の馬は,女の魔力で馬の姿に変えられた富山の薬売りだった。女には男たちを,息を吹きかけ獣の姿に変える妖力があるという。宗朝はそれを聞くと,踵を返しあわてて里へ駆け下りていった,
のだが,ここが,寄り道するかどうかの瀬戸際ということになる。
あくまでまっとうな日常をよしとするからこそ,僧の話に納得できるが,
もったいない,
あたら面白い人生を捨てた,
と思う人だっていなくはない。
安部公房の『砂の女』で,(記憶のままに書くので,思い違いかもしれないが),
砂の穴から必死で逃げようとしていたはずの男が,あるとき,砂に桶を沈めておくと,水がしみ込んでくるのを発見して,砂の中では,水の確保が最大の課題だったから,そのことをまず,自分を砂の穴に閉じ込めたはずの,当の女に伝えたい,
と思ったシーンがあった。そのとき,もう数十年も前のことだが,
ああ,日常に捉えられるというのはこういう感覚なんだ,
と感じたことを鮮やかに覚えている。それは,悪い感覚で気はなく,職場で,ある問題の解決を思い浮かべたとき,まず最初に伝えたいと思うのは,職場の仲間に,だというのと似た感覚だ。
もちろん,他方で,
死して後已む,
という思いがなくもないし,
この世に偶然はない。人は偶然を必然に変える力を持っている,
という言葉に惹かれないわけではない。だが,僕は,
寄り道,
回り道,
した人の方が好きだし,回り道したまま,戻ってこない人が,もっと好きだ。自分には,できない,何かをそこに感じるからだろう。
ひとり思い当たる人がいる。まさに,彼は,
遊子
である。
参考文献;
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』
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ねぎらう
は,
ネギ(祈願・労う)+らう(動詞化)
で,神の心を慰め,かごを願う。禰宜も同源という。
祈るのは,結局自分のためなのだ,労いは,自分のためでもある。
棒を呑む
それも,無理やり飲まされる
ようなものだとつくづく思う。人の死を受け入れる,ということがだ。それについては,「死」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E6%AD%BB)
で触れた。
連絡が遅れたのは,ぼくら二人には必ず知らせるように,と言い残した当人が,連絡先をどこにも残さなかったからだ,という。まあ,年賀状とかを書かない人なので,偶然書庫を整理していて,本の見返しに,もう一人の友人の電話番号がメモ書きしてあるのを発見した,と言う。
主人が知らせてくれた,
と再三言われたようだ。
確か,昨年夏,一度会おうか,と僕はその友人に言ったらしいのたが,言われた本人が,仕事にかまけて遅れ遅れになったことを,知らせを聞かされて悔い,その夜は眠れなかった,と言う。
お互いが無理やり飲んだ棒のことを話し,当人の悪口を言い合いながら,昼間から,二人で,飲んだくれた。二人にしては,珍しい。大体それほど強くない僕が,あれほど飲んでも,そんなに強かったか,と呆れられるほど,ほとんど酔わない。
不思議な縁で,いったん切れた関係が,本当に奇跡的な偶然で,僕が死んだ彼と再会したことで,つながりが復活した。もう,三十年近く前のことだ。それ以降は,三人離れ離れで,バラバラに仕事をしていたのに,何年かに一回,多いときは,月に一回,さりげなく誘い合って飲み交わした。その飲み交わしの場をつくるために,僕と近所に住む友人は,まず飲み交わし,それから死んだ彼との場を設定する,と言う手順を取ることが多かった。二人は,横浜に住い,亡くなった一人が八王子に仕事場を持っていたせいで,八王子か,横浜で,ということが多かった。
始めは墓参りをする気はなかったが,飯能だか入間だかに墓があり,それも,亡くなったご子息の名を刻んだ墓石の中に,納まっている,と聞くと,やはり一度は行っておかなくては,と思う。墓に,息子の名を刻んだときは,そこに自分が入る予定はなかったのだろう。しかしそこに,納まるのは,彼らしい,と思う。
遊子
という言葉が似つかわしい奴だったと思う。
飄々として生きた彼は,何となく悠然と河を渡っていった気がする。
あまり怒った顔を見たことはないが,友人は,一度だけ,建築業の作業服を着た酔っ払いに絡まれ,大声で怒鳴りあっているのを目撃したという。相手は,こっちの風体を見て差別するのか,と絡んだらしいが,そういうことのまるでない人だから,そういう因縁のつけられ方に,切れたのではないか,という。
僕もあまり怒ったところを見たことはない。僕がいらちで,もう一人と結構衝突するが,二人(の意見)はどこが違っているのかわからん,結局同じじゃないか,とよく言われたものだ。丸めれば同じだが,その差に意味があるから,そう言われると,立つ瀬がなくなる。そんな関係であった。
もう若くはないので,いら立ちをぶつけるエネルギーは失せている。穏やかなものだ。
亡くなった友人をねぎらうというよりは,残された二人を互いにねぎらい合い,結局,墓参りをすることになった。それも,彼のためというよりは,自分たちのためのような気がする。互いに体内に爆弾を抱えているのだから。
重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(「はじまる」)
石原吉郎のこの詩がふいに浮かぶ。はじまるのは,死んだ彼にとってではなく,残されたものにとって,なのだろう。
死もまた未来をもつ,
確かに。
上へ
心の平安,と言うと大袈裟だが,僕にとって,心のバランスをどうとるか,と言うと,たとえば,外との関係で言うと,
@外に対し,バリアを張って外部刺激をはねつける,
A外に対し,バリアを張るが,取捨選択して,濾過する,
B別に何でも構わず浸透させ,混ぜ合わせる,
極端に言うと,こんな感じか。
かつては,まあ,バリアを張る,というか,閉じこもる,というのに近かった。自己完結したがるというか,そういう時間というか,そういう場所が必要だった。いまでもそれは,基本的に変わらないが,
別にいいじゃないか,
というほど大胆にはなれないが,
浸透させてみて,かき回し,自分でひねくり回してしまう,
というのが近いかもしれない。こちらの方が,質が悪いのかもしれない。
自分流儀に直してしまう。換骨奪胎,というと聞こえはいいが,真似という痕跡を残さない,というのに近い。そこに,自恃がある。
しかし,それは主体的になっている場合で,受け身に回ると,全くそれが出来なくなる。
自分が主体的にいろんな刺激を取りに行く,例えば,
先達の考え方,方法,
競合者の考え方,方法,
学びに行くときは,まだそれを受け止めるキャパかあるが,そうでないときは,押し込まれたり,波風立てられると,その状態をそのまま受け入れられるほどに器用でもないし,器量も小さいので,どうしても,
それを自分の中で整理統合する,
そのための時間が必要なことが多かった。いまも,そういう消化の期間は,必要でないことはないのだが,
その場で,前捌き,
ができる,面の皮が厚くなった。自分の世界と,人の世界との違いと共通点を,
そんなにタイムラグなく,
整理できる,
あるいは,
融合したり,分離したり,
出来る。なんだろう,場数を踏んだせいなのかもしれない。しかし,その本当の影響は,
後になって効いてくる,
ということが多い。特に,そこで反発や異論を感じたものほど,
自分の考えとすり合わせ,自分の世界にきちんと位置づけるためには,時間がかかるような気がする。これだけは,やはり変わらない。
その異質さというか,違和感が大きいほど,無理やり,それを呑みこまされる感じがあり,消化するのに時間がかかるということだ,しかし,その異質さを自分の中に,きちんと位置づけ直せた時,
自分に見える世界が,結構変わる,
そんな気がしている。
その意味で,結局思うのは,似た考えの人とだけ交わっていては,自分の変化というか,変身は起きず,その場合,皮下脂肪や内臓脂肪が増えるだけなのではないか,という気がする。
自分の考えの身の丈が大きくなるには,
棒を呑む
ように,本当に異質な考えを,何とか飲み下し,自家薬籠中のものにしていくという,消化の努力なしにはあり得ない,という気がしてならない。
いまは,自己完結は手放して,しかも前捌きで都合のいいものだけを濾過するのも,あまり得策ではない。むしろ,大いなる異質さ,違和感を,無理やり飲み込むことが,まだまだ必要だと,思っている。
それには,脳の消化機能を鍛えなくてはならない。
上へ
つい言ってしまわないか。
すみません
と。大概曖昧だ。謝る意思を示すときは,
ごめんなさい,
と言う。しかし,すいませんは,ちょっとニュアンスを濁す感じがある。
すむ,
は,
住む,済む,澄む,清む,棲む,栖む,
と当てる。
すみませんは,語源的には,僕の見たものでは,
「澄み+ません」で,謝罪,感謝,依頼などで,「済みません」と書くので,「完了しない」とされることが多いが,違うのだという。
スミは,澄むが語源。かきまわした泥水が,時間経過とともに沈殿して清らかに澄んでくる。同じように,澄むはずの心が,澄まないのが,済みません,の語源,
なのだそうだ。
人から恩義を受けて,心がかき回され,いつまでも心の中が済まない,安定しない状態,
これが済みません,なのだという。
そう受け止めると,北山修氏が,こう書いていたのが,よく分かる。
「済みません」は,周辺や相手の状態がなかなかすまないという状況とともに,「御迷惑おかけして」「ご面倒をおかけして」と,相手にかけた迷惑が自分の心のなかで澄まない,落ち着かない,乱れている,という感覚や自体も捉えています。つまり,周りに濁りや乱れ,騒ぎを生じさせたことについて「すまない」と言い,相手だけではなく自分も内的にすんでいないことを進んで認め,謝罪の言葉としているわけです。それは対話の相手に向けられた謝罪であると同時に,澄んでいることを最高の規範のひとつとして共有する周りや周囲,つまり共同体に対し,自らのすんでいないという,浄化の不十分さを謹んで申し上げているのです。
そう考えると,あいまいさの中に,自分の側の落ち着かなさをも含めているということになる。その段階で,
謝罪,
の責任の所在を,相手にも分有させようとしている,と取れなくもない。
これを英語に訳そうとすると(確かではないが),
○感謝。 Thank you very much
○お詫び。I am sorry.
Excuse me
ネットで見ると,もっと細かく分けているのもある。
1相手の立場に関係なく使える表現(通常の表現)I'm sorry.
2「本当に申し訳ございません」と述べる時(通常の表現)I'm very sorry.
3「残念ながら,〜です」という表現(丁寧な表現)Unfortunately, 〜.
4会議に遅れる場合(丁寧な表現)Please excuse my lateness.
5たいへん地位の高い人に謝罪の意を述べる場合(丁寧な表現)A thousand apologies.
6「恐縮ですが,〜です」という表現(やや丁寧な表現)I'm afraid 〜.
7「ご理解お願いいたします」という言い回し(やや丁寧な表現)We hope you understand.
8ウェートレスがお客さんの注文を間違えた場合(やや丁寧な表現)I'm terribly sorry.
9本当に罪悪感を感じて謝る場合(やや丁寧な表現)I can't apologize enough.
まあ,ここまで細かに分けなくても,感謝と謝罪が,含まれているのでいいのだが,それだけの含意を,
すいません,
の一言ですませてしまうということは,
謝るのでも,
詫びるのでも,
礼を言うのでも,
ない,結局両者の文脈に強く依存していて,その微妙なニュアンスを,文脈まかせにする,
すいません,
なのだと思う。最近,僕が似たような便利な言葉で,多用しているのは,
恐縮です,
という言い方だ。これも,「すいません」よりは少し軽い,
ちょっとした感謝,
ちょっとしたお詫び,
ちょっとした謙譲,
を含めている。便利だが,本当に詫びなくて話せない時に,
ごめんんなさい,
が言えないということは,本当にお礼を言わなくてはならない,言いたいときに,
ありがとうございます,
が言えない,ということのような気がする。なんとなく,文脈に流して(相手のせいかも,という余韻を残す狡さがある),その場を切り抜けるような方便ではないか,という気がしないでもない。
言葉は,その人の姿勢を示す,もう少し,はっきり言うと,
生き方を示す,
曖昧で玉虫色の言い回しで切り抜ける,というのは,そういう生き方をしていく,と言っている,というか言わず語りに現れてしまっているようで,ちょっと気色悪い。
自分が,
というIメッセージというのは,
自分の責任で発する,という意味があるはずで,
主語を明確にするのと同様,
意味の明晰,明瞭な言い方をすべきなのだ,とつくづく思う。自省,自戒を込めて。
参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
「かい」とは何だろう。
甲斐は,
行動の結果として現れるしるし。努力した効果,
期待できるだけの値うち,
とある。
甲斐は,
甲斐,
詮,
効,
を当てる。しかし,
甲斐がない,
と
詮がない,
と
効(目)がない,
では微妙に違う。
詮は,「はかり」の意味で,
物事の道理を明らかにとく,
物事の道理が整然と備わっている,
言葉や物事をきれいにそろえて,よいもの,正しいものを選びとる,
煎じ詰める,結局,
詳しく調べる,
なすべき方法,
と,ある。しかし,
甲斐性,
生き甲斐,
やり甲斐
年甲斐,
甲斐がある,
甲斐甲斐しい,
という使い方から見ると,「甲斐」には,
ただの効き目や効果やその測定だけではなく,
値打ちの有無,
のニュアンスがあるような気がする。語源的には,
かう(支う)の連用形。大工の「支う(かう)」では,「こんな細い棒ではカイ(支え)がないのと一緒」
という。とっさに浮かぶのは,突っ支い棒。そこでいう,「支い」と同じではないか,と思う。
かう(替う)の名詞化という説もあるが,そこからも,代価,代償,値打ちの意味が,確かに出てくる。
生きる(た)値打ち
やる代償
と解釈は可能になるようだ。
しかし,値打ちには,自分にとっての意味という部分と,ひと様から見ての意味の部分と二つある。甲斐というとき,その両方のニュアンスがある。
自分から見ると,値打ちだが,
相手から見ると,手ごたえ,張り合い,になる。
いや,
相手からの手ごたえ,張り合いが,
自分の値打ちを確かめるものになる,
とも言える。自分の甲斐が,相手に影響し,その影響が自分に反照する。結局,
甲斐,
は自己完結するのではなく,人との関係のなかで,影響し,反照する中で,強められるのかもしれない。
自分の自己対話の中では,甲斐は,張り合いのない,甲斐のないものなのかもしれない。それと,
行動の結果として現れるしるし,
という言い方からすると,一瞬のそれを測っているのではなく,積み重ねた結果を言っているようでもある。
そこにある,それ自体に,それまで生きてきた歳月の重みがあるのか,
そこで,このまま,生きていく値打ちがあるのか,
と。その歳月が,
馬齢,
なるかどうかは,自分の甲斐次第,ということになる。いや,そういう,照らし,照らし返される関係そのものの積み重ねの中で,
年甲斐
も生まれるのではないか。
参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
上へ
遊びという言葉がふいに浮かび,『梁塵秘抄』の有名な,
遊びをせんとや生れけむ,戯れせんとや生れけん,遊ぶ子供の声きけば,我が身さえこそ動がるれ
が続いて浮き上がってきた。しかし,遊び,というのは,
遊び,遊興,なぐさみ,
の他に,
仕事や勉強の合間,
気持ちのゆとり,余裕,
機械の部品と部品の余裕,
といった意味がある。では,「遊」という字はどうか,というと,上記と重なるが,それ以外に,
楽しむ(遊学,遊山),
自説を説きまわる(遊説),
まじわり,よしみ(交遊),
ひまびと,常業なきもの(遊食,遊民),
一定の所属なきもの(遊軍,遊魂),
というのがある。日常や,定形,ルーティンから外れている,という意味がちょっと面白い。もともと遊びは,自分の文脈から切れる,
時間,
場所,
人,
を指しているように思える。
遊子,
遊侠,
遊女,
遊里,
はそんなイメージで,まさに,日常から,
遊離,
することを言っている。その,
解き放たれた,
感覚がないと,埋没して,モノが見えないからに違いない。
非日常,
とはそんな感覚なのではないか。別の言い方をすると,ハレかもしれないが,それでは,裃が付きすぎる。
祭り
が近い。まつり,には,それ以外に,
祀り,
祠り,
があるが,ともに,定まったまつりで,祭は,
いつに限らずものを供えてまつる,
とある。まあ,ちょっとその気になったらまつる,というのは,いっとき,日常から離れる。ちょっと飛躍か?
ただ,仕事でも生活でも,ルーティン化することで,流せる。しかしそのまま流されず,そこから抜けて出る自分がいる。その違った自分の目で,改めて日常を見る。それを余裕というなら,そのことで,日常の自分の仕事や人との距離感が見える。
間合,
と呼んでいい。それが,
遊び,
なのではないか。遊びのない,密着した,というかがちがちのハンドルでは,操作しづらいに決まっている。生き方も,そういうのりしろが不可欠なのだと,つくづく思う。
子曰く,これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず,
その通りだが…,なかなか。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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心が折れる,とは,
諦めるや挫折といったような心境
を意味するらしい。
最近使われ出した。印象深いのは,イチローが使ったのだが,元祖は,女子プロだという。
折れる
とは,
曲って二重になる,
曲って,二つに別れ離りる,
道などを曲がる,
挫ける,気勢を削がれる(腰が折れる)
主張・意見を和らげ,相手に従う
ものごとに苦労する(骨が折れる)
とあって,いまのような使い方の「 心が折れる 」の含意がなくはないが,
勢いがそがれる
というニュアンスで,いまの言い方とは微妙に違う。
女子プロで使っていたのも,ウィキペディアでは,
相手の心を折ることだった。骨でも,肉でもない,心を折ることを考えていたんで,相手を痛めつけようとは思っていなかった。本当に相手を痛めつけることなんか,目的じゃなかった。柔道やってたから,勝負に負けるときっていうのは,最初に心が折れるってこと知ってた。
という言い回しだったらしく,
再び立ち上がろうとする相手選手の気力を萎えさせ,奮い立つ気持ちを煮えさせる,
という意味だということができる。その意味では,
気勢を削ぐ,
の延長線上で,別に特に新しい言い方とは言えない。しかし,格闘家にとって,
腕を折られても心が折れなければ負けではない,
どんなに敗北だとされても,自分の心が負けを認めるまでは闘争は続く ,
という敢闘精神というか,
心が負けない,
の意味だとされるから,少し意味がシフトしていなくもない。ダメージが,
精神(こころ)
に及んだ状態,ということだと,削がれるというよりは,
挫ける,
という意味になっている。その延長線上で,「心が折れる」の現在の使い方は,
懸命に努力してきたものが,何かのきっかけで挫折し立ち直れなくなる状況,
と解説される。たぶん,それを決定的にしたのは,イチローの,WBCでの,
ほぼ折れかけてた心がさらに折れて,
という言い回しだったらしい。しかし,この経緯をみると,心が折れるには,それなりの背景が必要で,ただ,
めげる,
落ち込む,
凹む,
ギブアップ,
という気分とは違うような気がする。文脈の中で,自分が最早どうにもならないほど,自分の力の限界を思い知らされて,完膚なきまでに,打ち負かされた状態,
失望
と
絶望
の差くらいの隔たりなのではないか。それなりの,
努力と精進を経て実力を養ったものにだけ使える言葉,
という気がする。とっさに思い浮かんだのは,武田信玄の挑発に(に乗らざるを得ない状況で,あえて)乗って,三方ケ原で,完膚なきまでに,まさに鎧袖一触,弾き飛ばされて,恐怖で自分の糞尿に紛れて,浜松へ逃げ帰った,松平家康の心境こそ,それにあたるのかもしれない。
しかし,そのおのれの醜態を,そのまま自戒の意味で肖像画として描かせたあたりが,家康の家康らしいしぶとさなのかもしれない。その意味で,
心が折れた,
と言っている人は,(イチローも振り返ってそう言っていたように)そういう自分の追い詰められた状況を,メタ・ポジションから見るもう一つの目をもっている。あるいは,だから,
折れた,
のではなく,
折れかけた,
と言ったのかもしれない。心の折れ切った人は,心が折れた,などとは言わない気がする。その意味で,軽々に,凡人が,
心が折れる,
などという言葉を使ってはならないのかもしれない。
と書いてみて気づいたが,
こころが折れる,
と
心が折れる,
と
精神(こころ)が折れる,
とでは微妙に異なるのではないか。
精神(こころ)が折れる,
は文字通り,おのれを失うに近いニュアンスな気がする。自分の骨格をなす精神そのものが木端微塵にされたような。だとすると,それを認めるおのれがいる。だから,こうなのではないか。
心は折れる
が,
精神(こころ)は折る
ものだ,と。
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たしか,映画『たそがれ清兵衛』の中で,娘が,裁縫を習うのは役に立つが,学問をすることが何の役に立つか,と問うところがあった。そのとき清兵衛は,自分の頭で考えることができる,という趣旨のことを答えていたと記憶する。
「
考える」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B)については触れたので,ここでは,知る,ということを考えてみたい。
知るには,語源的に二説ある。
ひとつは,
「シルシ(著し)」で,はっとはっきりわかるから,シル(著る)
という説。つまり,腑に落ちるというか,理解する,ということだ。いまひとつは,
心を占領する(領る),つまり占る,
だという。つまり,ある現象・状態を広く隅々まで自分のものにする,という意味だ。
学は思に原(もとづ)く
とはそういう意味のような気がする。
学びて思わざれば則ち罔(くら)く,
とはそのことだ。
それで思い出したが,前にも書いたことがあるが,
ライルが,知(ってい)る(knowing)には,
Knowing that
と
Knowing how
があると言っていた。
Knowing thatとは,
〜ということを知っている
というこであり,
Knowing howとは,
いかに〜するかを知っている
ということになる。ここで,清兵衛が答えたのは,前者の意味だ。それは,違う言い方をすると,
Knowing how
の持っている意味を知っていることこと,と言い替えていい。つまり,
メタ知識
である。現実にいま,われわれが直面しているのは,
解き方のわからないこと(問題,事態),
ではなく,
意味の分からないこと(問題,事態),
であり,それを解明することが,まさに考えることなのだといっていい。だとすると,そのときわれわれが,使えるのは,アナロジーなのではないか,と思う。
問う、如何なるか是れ、「近く思う」。曰く類を以って推(お)す
のと同じである。いわば,アナロジーというのは,自分の既知のものを,
異質な分野との対比を通して,
理解することといっていい。
例えば,Aを,それに似たXを通して見る(理解する)というのは,
・Aの仕組みをXの仕組みを通して理解する
・Aの構造を構造を通して理解する
・Aの組成をXの組成を通して理解する
・Aの機能をXの機能を通して理解する
等々。アナロジーで見たいのは,見えない関係を,「〜を通して」見ることで見つけることである。
アナロジーは,次の2つにわけることができる。
●類似性に基づくアナロジーを,「類比」
●関係性に基づくアナロジーを,「類推」
前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだすのに対して,後者は,両者の間の関係を見つけ出す。特に関係性が重要なのであるが,これには,次の2つのタイプがある。
・両者の構成要素のもつ関係性からの類推
・両者の関係から生み出す全体構造の類推
以上のことから,アナロジーによる理解には,次の3パターンがある。
・全体に関係が似ているものを見つける
・部分からつながりを見つけ,そこから逆算して関連するものを吸引する
・部分と部分の関係の断片から全体像を見つける
アナロジーのように,既知と未知について,こういう操作をしているということは,メタ・ポジションをとっていることといっていい。つまり,自分の既知と未知とを俯瞰していくメタの位置である。
知るとは,究極,
Knowing that
なのだが,知れば知るほど,
パースペクティブが深まる,
のは,結局,メタ・ポジションが,どんどん高くなっていく,言い換えると,
俯瞰する世界が広く大きくなっていくこと,
に他ならない。
博く学びて篤く志り,切に問いて近く思う,
知は,その中にある,
である。
参考文献;
G・ライル『心の概念』(みすず書房)
佐伯胖監修『LISPで学ぶ問題解決2』(東京大学出版会)
上へ
やる気について,自分なりに整理し直してみた。
@まず,「やる気がない」という評価は正しいか
「やる気がない」を前提に,なぜやる気がないのか(原因探求),どうしたらいいのか(手段検討),と対応するのは,やる気の問題でなければ,的外れになる。やる気がないとみえたときでも,背後を推測してみると,さまざまことが想定でき,一筋縄ではゆかないのである。
第一に,本当に本人のやる気の問題なのかどうかである。上司が,やる気がないと判断しているのは,自分の期待している仕事の仕方,仕事への取り組み姿勢,仕事の遂行能力ができていないからだが,部下には一杯一杯だけなのかもしれないし,これで十分やっているつもりなのかもしれない。それは,上司の期待が相手との間ですりあわされていないことを意味する。
第二は,仮にやる気がないとしても,それが本人だけの問題なのかどうかである。本人にはやる気があっても,それを果たす知識やスキルが欠けていたのかもしれない,聞きたくても,周囲は自分の仕事で精一杯で声をかけられない状況かもしれない,上司や同僚との関係に悩んでいるのかもしれない等々,そうなった別の理由があるかもしれないのである。とすると,それは上司が部下の見積もりを誤ったことからきているのである。
Aどういうときにやる気をなくすのか
有名な心理学実験に,繰り返し逃れられない電気ショックを経験した犬は,避けられる場面でもそのショックを回避しようとせず無抵抗になるという。これを学習性無気力というが,自分でコントロールできない経験を重ねることで無気力になるのだというのである。それには,ふたつの要因がある。
○自分自身にコントロールできない原因があると感ずる場合(内的要因)
○外的状況がコントロールできない原因があると感ずる場合(外的要因)
要は,
自分のリソース(知識・経験・スキル)のせいと思うか,
相手(状況・条件)のせいと思うか,
だが,どちらにしても,結局自分に帰ってくる。自分にはとうてい無理だと思うか,たまたま難しすぎたが,次は努力すればできると思うか。それは,過去に成功体験をもっているかどうかによって,自分は何とかできる人間と思っているか,いつも失敗している人間だと思うかによる,といってもいい。逆に言えば,努力すればコントロールできるという自信がもてていれば,無気力に陥るのを避けられるのである。そういう自信をどうつけさせるかの問題と考えてみることが大事なのである。
Bそもそもやる気とは何か
「やる気」の「遣る」とは,「ものごとをはかどらせる」こと,やる気とは,
物事を積極的に進めようとする目的意識(広辞苑)
とある。やる気があるとは,それをするための「何か」(目的)が自分の中にあることなのである。それをするためならその気になれる,たとえば,それをする意味や価値や魅力(大切さや値打ち,面白さや楽しさ),興味や関心,自己表現(目立つ,存在感,賞賛)等々が必要なのである。
しかしそのことにどんなに価値や魅力があっても,自分にやれる(できる)と思えなければ,願望や夢,憧れで終わるだろう。その距離が遠すぎれば,努力する気にすらならないだろう。
Cやる気がある状態とはどういう状態なのか
そう考えると,やる気がある状態には,
●その気になれる意味や価値がある(やりたいことかやりたいもの)こと,
●それが自分にも,(努力すれば)やれると思えること,
が必要である。ただ,厳密に言うと,「やれる」と思うには,「やれる」という予感(自信)だけの場合と実際に「やれた」経験(実績)があってそう感じる場合とがある。予感だけなら,うぬぼれや過信も入る。現実にぶつかったとき通用する根拠もないのに,のうてんきに自信だけをもたれても困るのである。
そこで,「やれる」と思えるには,
●自分ならできるのではないかという自分への自信(あるいは自分へのプラスイメージ)だけでなく,
その裏づけとして,
●具体的にどうやればいいかがある程度見通せ(こうすればいいのではないかという予想が立ち),それなら自分にできると思えることが必要になる。
そういう予想ができるには,ある程度経験が必要である。自信を空手形にしないためには,担保となる経験が必要なのである。つまり,
第1に,「やりたいこと」が「やれる(かも)」と思えること,
第2に,「やれる(かも)」が「やれた!」経験の裏打ちをさせること,
この2つをセットにして,やる気を現実に着地させることが必要なのである。
D「やれた」ことで「やれる」を強化する
経験の裏打ちをさせるにも,まず実際にやらせなくてはならない。自分にもできると思えるには,
・やることのおおよその見通しができる,
・こうすればいいという,やり方の予想ができる,
・それをするのに必要な知識やスキルが自分にあると思える,
ことが必要である。それには,
・十分やれる可能性のあるものにチャレンジし,
・まず,確実に達成した成果をえて,
「やれた!」という成功感を感じることが必要である。
「やれる(かも)」が,実際に「やれた!」
を味うことで,
次への自信(「次もできる(かも)」)
と
もっとうまくやりたいという意欲
につながる。それには,楽々できるのでは自信にはならない。少し努力してクリアできるようなハードルを,励ましながら,チャレンジさせる必要がある。できないかもしれないとしり込みする不安を,
・できるだけ協力と支援を惜しまない,
・困ったときには,いつでも相談に乗る,
という後ろ盾で支えて,一歩踏み出させ,何とか「できた!」という,成功感を味わせるのである。そうした経験の積み重ねによって,どんなときもある程度「こうすればできる」という見通しをたてられる自分への自信をつけさせることである。
E人の力を借りることの意味を学ばせる
このためには,それが本人だけの孤独な戦いではなく,その努力自体が,メンバーから支えられ認められ,支援がえられ,メンバーとして受け入れられていると感じさせるものでなければならない。
なぜなら,「こうすれば」できるという見通しには,ここまでは自分でできるが,ここからは助力があればできるという判断が必要なときがある。
成功感
で,もうひとつ必要なのは,なんでも自分でやりとげることだけではなく,周りの力を借りて,一人ではできない高いハードルをクリアする経験なのだ。でなければ,自分の力以上の仕事をすることはできない。本人のやる気だけに問題を完結させるのではなく,周囲も巻き込んで仕事をやりとげていく力を育てていくプロセスこそが,チームのパフォーマンスにとっても欠かせぬことなのである。
以上を整理すると,やる気を引き出し,持続させるのは5つである。
@その気になれる意味や価値(やりたいことかやりたいもの)がある
Aやってみて,「やれた!」という成功感を味わう(実績をつむ)
B自分にもできる(こうすればできそうだ)と思える(自信をつける)
Cそうやっている自分の努力をメンバーが認めている(承認される)
Dメンバーとして受け入れられていると感じられる(有効感がある)
Eやる気を育むチームの条件
やりたいと思うものがあっても,自分ができると思えなければ,やる気にはつながらず,やりたいと思っても,どうやればいいかが見えなければ,やってみようとは思わない。またやりだしても,達成の目途が立たなければ,意欲は萎えるし,まして誰も自分のやっていることを認めてくれなければ,やる気は続かないのである。
そう考えると,メンバーのやる気を育てるのは,チームリーダーやチームメンバーが,部下を育てることに関心をもち,その気にさせる仕掛けをつくることが不可欠だとわかるのである。つまり,
@本人にやりたいことを見つける機会があり,
Aそれをやりとげるための助言やヒントをもらうことができ,
B自分にできると感じられる体験をつむチャンスが与えられ,
Cそれを後押しし,励まし支える雰囲気があって,
D一歩一歩やれたという成功感を積み重ね,
Dチームに必要な人間だと認められる,
ことが必要なのである。それはマネジメントとしての課題なのである。
参考文献;
宮本美沙子『やる気の心理学』(創元社)
波多野完治・依田新・重松鷹泰監修『学習心理学ハンドブック』(金子書房)
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たしなむ,
という言葉の響きがいい。語源は,
タシナム(堪え忍ぶ)の変化,
だという。転じて,
深く隠し持つ,
常に心がける,
謹む,
遠慮する,
身辺を清潔にする,
有ることに心を打ちこむ,
といった意味になる,とある。ニュアンスは,嗜みは,
身につけておくべき芸事の心得を指し,「素養」よりも技術的な側面が強い,
とある。では,素養はというと,
日ごろから修養によって身につけた教養や技術を指し,「心得」や「嗜み」に比べ,実用面より知識に重きを置く,
とある。では,教養はというと,
世の中に必要な学問・知識・作法・習慣などを身につけることによって養われる心の豊かさを指す,
とある。どうも,心映えに関わる気がする。「心ばえ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%BF%83%E3%81%B0%E3%81%88)については触れたが,心ばえも,
心延えと書くと,
その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,
心映え
と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。心情的には,
おのずから照りだす,
心映え
がいい。つまり,内側のその人の器量が,外へあふれて出るよりは,おのずから照りだす,というのが,
嗜む,
というつつましさに似合っている。どうも,嗜みは,教養,素養,作法よりも,それをもっているとは言わなくても,そこはかとなく滲み出てくる,そんなニュアンスである。そういう,
自制,というか,慎みというか,節度,というか,謹む,とか,床しさ,
という感覚は,セルフブランディングがよしとされる今日にはそぐわないのかもしれない。
しかし,昔は一杯いた。落語の大家さんのような物知りではなく,影のように付きまとうものといっていいのか,それを,
品とか,
雅とか,
優とか,
というのだろうか。ひけらかすとか,見せびらかすのではない,そういう奥ゆかしさと,
嗜む,
とか,
嗜み,
というのはつながる気がする。
まあ,がさつで,無作法,品とか雅とかとは無縁な僕が,ないものを見て憧れる,そういう類のものかもしれない。いまどき,そんなものは,どこにもない,という気がする。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
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選択している,
のと,
選択させられている,
のとどう違うか。選択しているつもりで,選択させられていることはないか,そして,そのことに無自覚であるということは。
吉本隆明は,こう言っていたのを,ちらりと見て,触発されたものがある。
人間の意志はなるほど,選択する自由をもっている。選択のなかに,自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが,この自由な選択にかけられた人間の意志も,人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは,相対的なものにすぎない。
意思したつもりだが,結果として,関係性で引きずられている,これを文脈とか秩序とかと置き換えると,一般化されすぎ,どろどろした現実感が消えてしまう。
「関係が強いる絶対性」というのが,確か,『マチュウ書私論』のモチーフだと記憶している。
上記は,
人間は,狡猾な秩序をぬってあるきながら,革命思想を信じることもできるし,貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら,革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし,人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは,この矛盾を断ちきろうとするときだけは,じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき,ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。
マチウの作者は,その発想を秩序からの重圧と,血で血をあらったユダヤ教との相剋からつかんできたにちがいない。
とも語られる。さらに,
秩序にたいする反逆,それへの加担というものを,倫理に結びつけ得るのは,ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である,
と。倫理,別の言い方をすると,
ひととしてどうあるべきか,
は,そのおのれの置かれている文脈抜きでは,他人事でしかない。
関係性の強いる絶対性とは,客観的にあるのではなく,自分の中に,意識的無意識的に,絶対性として強いる者を感じる,
という意味だとすると,吉本の言っているより,もっと広げている(和らげている)かもしれないが,
人は知らず,おのれにとっては,
と,言うとき,
人間と人間との関係が強いる絶対的な情況,
というもの(このとき,人も状況も個別,固有化されているが)から,思想も,発想も,意識的か無意識的かは別に,逃げられない。それを土着とか,アイデンティティと言い換えると,やっぱり,少しきれいごとになる。
父親・母親との関係,
上司との関係,
影響力のある先達との関係,
地縁・血縁,
自分の置かれている立場,
生い立ち,
等々,「強いる」と受ける関係にはさまざまある。
本当の意味とは別のところで,僕の中で,「関係性の強いる絶対性」という表現で,動いたのは,結局,
関係の強いるものからは逃げられない,
ということなのか,
関係の強いるものを意識することで,選択肢が広がる,
ということなのか,
関係の強いるものに無自覚で,選択している,
ということなのか,
関係の強いるものによって,選択肢は強いられている,
ということなのか,だ。それもまた選択なのではないか。
そのとき,
人は,関係の結節点そのもの,
という言い方もあるし,
人間は社会的諸関係のアンサンブルである,
という言い方も,もっと主体的な意味に変わる。その見方が,
自分の取りうる立場を選択させる,
と言い換えてもいい。その瞬間,関係の絶対性は,相対化される気がする。
中沢新一が,
知識はかならず身体性をとおさないと本物にならない,というのは,ぼくの基本的な考え方です,
と言っていたことを,少し(でもないが)膨らませるなら,
そういう,自分の結節点が無意識に強いるものとの対決抜きには,
いかに生きるべきか,
は,自分のものにならない。
とは,ちょっと格好つけすぎか。
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てきぱきと手際よく物事を捌く,というのは,傍から見ていて気持ちがいい。手際とは,要するに,
もの事を処理する腕前,
ということになる。手際とは,
手+キワ(処理を極める)
だから,手並み,腕前となる。
捌くは,
サ+分く
で,入り組んだ物事をきちんと処理する意味である。だから,捌くの意味は,
@入り乱れたりからんだりしているものを解きほぐす
A鳥・魚などを切り分ける。解体する
B扱いにくいものをうまく扱う。また,道具などを使いこなす
C錯綜した物事を手際よく処理する
D物事を解き明かす
E商品を売りこなす
F目立つように振る舞う
Gふるまう,おこなう
H理非を裁断する
と多様に,ものごとを処理する意味がある。
確かに,捌くには,前捌き,売り捌く,荷捌き,手捌き,太刀捌き,といった腕前に絡むことがおおい。では,
こなす(熟す),
のとどう違うのか。
こなすは,
コ(小・細)+なす(為す)
で,細かく砕くが本義。それから,消化のこなれるにもつながる。意味的には,
@食べた物を消化する
Aかたまっているものを細かく砕く
B技術などを習って、それを思うままに使う。また、身につけた技術でうまく扱う
C与えられた仕事などをうまく処理する
D売りさばく
E見下げる。けなす
F動詞の連用形に付いて、自分の思いのままにする意を表す。うまく…する。完全に…する
等々。使いこなす,乗りこなす,読みこなす等々。こなすだと分かりにくいが,
こなれる,
だと,状態を示して,
細かくなる,砕けて粉になる,
熟して味がよくなる
物事に馴れる。世情につうじて角が取れる,
巧みになる
等々とよりはっきりしてくる。捌くは,動作面で見ており,こなすは,主体側で見る,つまり,捌くは,仕事や物事側,こなすは,スキル側とみれば,なんとなく,区別がつく。なんとなく,こなすには,小手先という感じがしてしまう。気のせいか。
しかし,こなすには,どこか,
やってのける
やり終える
まっとうする
やり遂げる
まっとうする
というニュアンスが付きまとう。やっとこさっとこ,必死でやり繰りしたというような。因みに,やり繰りは,
遣り+繰り
で,不十分なものを,あれこれ算段する工夫をさす。そんなニュアンスがある。
しかし,捌くには,
つかいこなす
というか,どこか軽やかな,
手綱捌き
太刀捌き
鑓捌き
前捌き
腕捌き
手捌き
足捌き
等々と,颯爽感がある気がするのは,思い過ごしだろうか。
身のこなし
と
身の捌き
と比較すると,こなしの方が軽く,捌きが重厚な気がする。しかし,
捌けた(人),
と
こなれた(人),
と,状態で表現すると,結局あまり差が無くなってしまうように見える。けれども,ニュアンス差はいくらか残り,
こなれた
というと,やっぱりスキルチックな軽さがある気がするのは,ぼくだけか。
こなれた人,
と言われるよりは,
捌けた人,
と呼ばれた方が,人としては,上に感じてしまう。錯覚かもしれないが,捌きに長けたものの方が,こなしに長けたものよりも,人としての重みが違うような…。
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もう二十年以上,1日1アイデアを続けている。実に下らない思いつきばかりだが,そのくだらなさが,なにごとも当たり前にしない目につながると信じている。
数年前までは,1日2アイデアであったが,とうとう音をあげて,1日1アイデアに,ハードルを下げた。当初は,忸怩たるものがあったが,いまは,1日1アイデアでも,悪戦苦闘している。
アイデアについては何回か書いた,
「アイデア出し」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E5%87%BA%E3%81%97)
「アイデア」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2)
が,基本的には,
アイデアづくりの構造(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod02100.htm#%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0)
を考えている。基本的には,何度も触れたことがあるが,
本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,
のを創造性と言った川喜多二郎の言は正しい。しかし,もっと踏み込むと,
どんなものでもつなげることで新しい意味づけをしさえすればいい,
あるいは,
新しい意味が見つけられるなら何と何を結びつけてもいい,
と読み替えてもいい。となると,
結びつけ,
に意味があるのではなく,
意味づけ,
の方にウエイトがかかる。本来バラバラの物を意味あるようにつなげること,と。これは,
情報の編集,
である。それは,ひらめきの,脳の反応に似ている。ひらめいた瞬間,
脳の広範囲が活性化する,
つまり,いつもとは別のものとつながり,意味に気づく。言い換えると,
いろんなものとリンクさせる力
である。これを僕は,脳の筋力と呼ぶ。
脚力も膂力も腕力も,日々鍛えなくてはすぐに衰えていく。それと同じで,
脳の筋力,
も,日々鍛えなくては,ありきたりの,当たり前に見てしまう。アイデアは,
当たり前と見ない,
ことからしか始まらない。例えば,コンビニが込む。当たり前か?切符の販売機に並ぶ。当たり前か?天気が急変する。当たり前か?アホな政治家が,おのれの思想信条を国是にしようとしている。当たり前か?名字が選べない。当たり前か?
当たり前とすれば,何も問題視しないということだ。いまのまま甘受するということだ。
それは,何も考えないのと同じだ。アイデアは,いまの当たり前をどう崩すか,どう変えるか,どうしたら自分たちのためになるようにするか,を考えることだ。
その意味で,筋力を鍛えることは,生き残る力を,蓄えることだ。アウシュビッツで生き残ったのは,
未来に自分がいる意味を見つけた人たちだ,
フランクルは言う。
(ニーチェの格言)「なぜ生きるかを知っている者は,どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には,彼らがいきる「なぜ」を,生きる目的を,ことあるこどに意識させ,現在のありようの悲惨な「どのように」に,つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え,抵抗できるようにしてやらなければならない。
生きることへの期待から,生きていることが自分たちに期待し,何をなさせようとしているかへ,180℃変えさせた,そこに自分の未来を見つけること,それが生きている意味だと,フランクルは言っているのだが,
自分が生きていることに意味を見つけたものにとって,どう生きるかは,どんな苦難の中でもどうやって生き延びるかを考えることでもあった。それが,
創造性,
に他ならない。
それは,いまのありようを,甘受せず,何としても生き残ろうとする,執念だ,
それを支えるのが,アイデアに他ならない。それは,人を出し抜くことでも,人を陥れることでもない。
フランクルの『夜と霧』で読み取った,勝手な教訓は,
創造性,
こそが生き残る鍵だということだ。どうすれば,
生き延びる創意と工夫を考え出すか,
それは,創造性というか,アイデアの,原基だと,つくづく思う。
発想力については,
http://ppnetwork.c.ooco.jp/view06.htm#%E2%80%9CCritique%20Back%20Number%204
と考えている。基本は今も変わらない。
参考文献;
V・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)
上へ
読むというのは,
読むと,数(よ)むとは語原が同じ,つまり,
数える,
とされる。お経をヨム,と同じなのだそうだ。ヨムは,中国語源では,
文書をヨム
意味を抜き出す,
言葉を眼で追う,
を指すらしい。しかし,どうも作品(多くは文学作品だが)を読む,というときの,
読む,
はちょっと異なるのではないか,という気がする。
吉本隆明の発言に,
文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。
というのがある。例によって,ちょっと逆転した物言いたが,自分に読み取れたことを人は別に読む,という相対的なものの見方が出来なければ,こういう言い方はできない。
多くが,そこに自分を読み込むことで,自分にしかこの作品は分からない,という確信(誤解)をえる。それが,作品の良し悪しの根拠という言い方は,独自で面白い。それは,逆に言うと,作家の自己完結した世界に閉鎖されれば,多くは,跳ねのけられた感覚になるに違いない。
これが正しいかどうかは別として,作品を読むというのは,
作品の意味を読み解く,
のとは異なる。そういう読み方を文芸評論家はするかもしれないが,それは,身過ぎ世過ぎのためであって,作品を読む,という場合,僕は,三つしかない,と思っている。
第一は,作家の描いた世界に,丸々乗ってしまう。まあ,これだって,読者が作品に思い描いた世界と,作家がイメージして文字にしたものとは異なっているかもしれないが。
なぜなら,ひとつの言葉の意味は,辞書的には同じでも,その言葉見るのは,それぞれのパーソナルエピソードに拠っている。人生が同じでないように,言葉に思い描くものが同じなわけはない。
僕にとっては,藤沢周平の作品がそれかもしれない。ただその世界に入り込んで,楽しんでいる。いまは,漫画の『キングダム』が,あるいは,そういう作品かもしれない。
第二は,言葉を自分の世界に置き換えて,読む。作家の描く世界を,自分流にイメージした世界として読む。そのとき,そのイメージは,明らかに,個人的なものだ。
クオリアレベルで言うと,同じ赤といっても,見ている赤の内実は違っている。にもかかわらず,「アカ」という言葉だ代替する。だから,「赤」に,おのれの描く朱を見ることで,その瞬間から,その言葉の拓く世界は,自分の世界に変わっている,と言ってもいい。
僕にとっては,これは,石原吉郎の詩だ。
第三は,作家の言葉の描く世界と,自分がその言葉に見る世界とを,キャッチボールしつつ,両者の向こうに,というか,ベン図の円の重なった部分,といったほうがいいか,そこに,独自の読んだ世界を見る。
あるいは,その作品に影響を受けて,自分の世界を築こうとする。それが,別の作品になるのか,商売になるのか,自分の生き方になるのかは,ともかく,作品に強い影響を受ける,というのは,そこから,自分が新たなアクションを起こそうとする,というのにつながる。それが,作品の完結した世界とはまったく別のものになるにしても,読み手にとっては,作家の世界とのキャッチボールの結果なのだ。
もちろん,このほかに,正確に,作家の発するメッセージを意味として受け取るという読み方もある。しかし,それでは受身だと僕は思っている。いい作品ほど,その影響と格闘することになる。
これは,僕にとっては,古井由吉であり,個別の作品で言うと,ドス・パソス『USA』であり, マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』だ。
この作家とこの作品は,僕の中でいつも格闘が続いている。それは,方法であり,世界観であり,描き出す世界像である。
いずれの読みが正しいかどうかは,ぼくにはわからない。しかし,世の中の大作,傑作については,僕はあまり関心がない。流行していようと,世界的作家であろうと,僕に刺激としてのインパクトと,強烈な存在感を示さないものは,僕にとっては,傑作でも,名作でもない。
その点では,吉本の言うことには,賛成できない。
結局読む,とは,僕にとって,僕個人と,
作家の作品との格闘,
に他ならない。作家とではないが,結果として作家個人と対峙していることになる。そして,いつも,完膚なきまでに負け続けている。
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能力は,前にも何度も触れたが,独断と偏見によるけれども,
知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),
である,と考えている。これに,
気力(がんばる)
体力(やれる)
努力(つづける)
を加えてもいいが,大した影響はない。大事なのは,発想だっと思っている。
何とかしなければならないレベルの,いままでの知識と経験では解けないことに,立ち向かって初めて,自分が,
何を知らないのか,
何ができないのか,
に気づく。それが第一。第二に,そこで初めて,自分の頭で(知識と経験は受け取ったものだ),
どうしたら解けるかを考える。
発想を経ない経験は,結局,
出来る範囲でやる,
か,
出来ないことに目を背ける,
ことでしか,クリアできない。それは,能力のキャパを増大するチャンスをみすみす潰すことになる。
発想といっても,持っている,
知識と経験の函数,
だから,マジックのようなことができるわけではない。しかし,持っている知識の組み合わせやつなぎ方を変えるだけで,新しいアイデアやモノの見方に気づけることが多い(もちろん,自分にとって)。
ひらめく瞬間に,
脳内の広範囲が活性化する,
と言われる。それは,いままでのリンクとは全く別のつながり方によって,自分にとっての,
アッハ体験
ができる,と言うことだ。そういう経験を積み重ねることが,考える,自分の頭で考えるということだと,僕は思っている。
それを別の言い方をすると,
編集,
という作業になる。情報も知識も,編集することで,様相を変える。例えば,前にも挙げたことがあるが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる。
「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。
たとえば,陳腐な例だが,
たとえば,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる,
等々。
アイデアも,編集という意味では,似てると言える。たとえば,創造性についての代表的な定義は,E・ヴァン・ファンジェの,
@創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である,
A創造とは,この新しい組み合わせである,
B創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせることにすぎない,
である。要するに,既存の要素(見慣れたもの)から新しい組み合わせ(見慣れないもの)を創り出すことである
であるが,川喜田二郎は,わかりやすく,
本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける(新しい意味があるように組み合わせる)
ことである,
と定義している。
いずれも,言い換えれば,異質な組み合わせによって,知っているもの(見慣れたもの)を知らないもの(見慣れぬもの)にすることである。あるいは,新しい意味づけを見つけることである。
この「組み合わせ」を,アーサー・ケストラーは,
互に矛盾する二つの見地(モノの見方)に,常識的にはとうてい均衡がとれそうもないないところで「不安定な平衡状態」を見つけることだ,
と言う。つまりは,単なる寄せ集めではなく,常識的には接合点の見つけられない「異質」なものに「交錯点」を見つけ出すのである。そこにつながりを見つけることなのである。
発想を別の言い方をすると,
選択肢,
である。さらに突っ込むと,
(できるだけ)沢山の選択肢が出せる,
ということになるのではないか。当然,組み合わせの選択肢は,自己完結では限界がある。人とのキャッチボールによる,異質な選択肢を加味することが,不可欠となる。
どこまでも,コミュニケーション抜きで能力は広がらないようにできている。
参考文献;
E・ヴァン・ファンジェ『創造性の開発』(岩波書店)
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)
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いまさら迷うような歳ではない,とふとつぶやいて,迷い,という言葉の意味が気になった。
言ってみれば,迷うということは,煩悩は凡夫ゆえに仕方ないとして,何かを未決のまま,決めかねている状態といっていい。まあ,ここまで生きてくると,それは少ない。というか,迷いを蹴散らさなくては(見過ごす,目を瞑るも含めて),生きてこられまい。
辞書では一番に,
@布の経糸と緯糸がほつれて偏ること,
とでる。つづいて,
A紙などが乱れること
B迷うこと,惑い
Cまぎれること
D成仏の妨げになる妄執
とある。煩悩の方はさて置くとして,しかし,
迷い,
と
惑い,
は同じか?でもって,辞書を引くと,
事態を見極められず,混乱して応対の仕方を定めかねる意,
として,以下を挙げる。
@見当を失って途方に暮れる
A悩む,心が乱れる
B取り違える,考え違いをする
Cうろたえる,あわてる
D髪の毛の乱れる
E他の動詞について,その状態がひどい意を表す。たとえば,荒れ惑い,
とある。どうやら,迷って,迷路に,というか迷いっ放しのまま,迷宮に入り込んだ状態が,惑いで,迷路の中で,何かを決めかね,決断がつかないまま混乱した状態ということになる。
迷いが,気分や混乱ではなく,何に迷っているのか,そしてそれが更に選択肢に切り分けられれば,ただの決断の問題に変わる。そうすれば視界は晴れる。
語源的には,迷うは,
@マ(目)+ヨウ(酔う)で,方向がはっきりしない意
Aマ(織物の目)+ヨウ(酔う)で,織物の目の間隔が偏り,弛む意に,惑うとの混同が起こり,いまの意に。
B中国語源では,「迷」は,之(しんにゅう)+米(昧)
とある。では,惑いはと,言うと,
目(見当)+問う
で,検討を心の中で問うという意で,ぐるりと回って,迷いへ戻ってきてしまう。漢字的には,
或(わく)+心
で,狭い枠にとらわれた心,となる。
結局,どうしようかと戸惑っている状態から,どうしようかと迷いが生まれ,そのまま混乱の中に迷い込み,惑乱するところまでの,心のどこに焦点を当てるかで,意味のずれが生じてくる,ということになる。
思えば,迷っている状態では,その状態自体が,自分を引っ張り込み,何に迷っているかすら,見えなくなることは,確かにある。
極端に言うと,どつぼにはまる。しかし,考えようでは,少しシニカルに言えば,人生そのものが,迷路のようなものなのだから,そこで少々,
迷おうが,
惑おうが,
そんな差など大したことではないと言えば,言える。しかし,そのわずかな差に,人生を賭けなくてはならない時だってある。わずかな違いにこそ,おのれと他人の差はある,と言えば,軽々に見過ごしていいことではない。
しかし,だ。迷いがなければ,選択肢がなく,選択肢がなければ,決断(何かを捨てること)はない。
そういう人生ってあるのか?
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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ノブレス・オブリージュ,
という言葉がある。
ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)は,直訳すると
高貴さは(義務を)強制する,
となる由。日本語では,
位高ければ徳高きを要す,
などと訳されるそうだ。
一般的に財産,権力,社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。実際には,貴族などの特権と贅沢を正当化する隠れ蓑として使われていた側面もあるようだ。
ファニー・ケンブルが1837年に手紙に「……確かに『貴族が義務を負う(noblesse
oblige)』のならば,王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」
と書いたのが,使われた最初とされている。
倫理的な議論では,特権は,それを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべきだという「モラル・エコノミー」を要約する際にしばしば用いられる。最近では主に富裕者,有名人,権力者が社会の模範となるように振る舞うべきだという社会的責任に関して用いられる
と,ウィキペディアにはある。
しかし,僕は,孔子の言っていたことも,それだと感じた。なぜ,「士」としての,そのありようが,問われるのか,それは,その地位にいるものの,当然の使命からくる。
高貴である(と認められる)のは,その身分や地位ではなく,その地位にふさわしい責めを担う覚悟がある,
からではないのか。それを,
心映え,
と言うように思う。昨今,そんなトップも,リーダーも,本当に少なくなった気がする。昔はいたのか,と言われると,甚だ,心もとないけれども。しかし,自分のモデルにしたいと,思う人は,確かにいた。思想的にも,生き方的にも,
弊(やぶれ)たる縕袍(うんぽう)を衣て,狐貉を衣る者と立ちて恥じざるもの,
と評された子路のような人物は。
士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや。
漫然と上に立ってはならない,ということではないか。上に立つとは,そういう資格とは言わないまでも,そういう覚悟がいる。しかし,昨今,その覚悟どころか,資格すらないものが,上に立っているのではないか。
その身正しければ令せずして行われ,その身正しからざれば,令すと雖も従わず,
と。というより,正しからざる振る舞いによって,いままで結界のうちに閉じ込めてきた悪しきものが,幽鬼の如く,
方は類をもって聚(あつ)まり…,
と,次々と湧き出て,巷を徘徊し始めた。
何を言っても,してもいいという範を,上が示しているからに他ならない。ナチスのハーゲンクロイツの旗を振りまわし,ヘイトスピーチをがなり立てる,人としての埒も矩も超えた言動が徘徊するのを許すのは,われわれ自身の恥そのものであり,みずから,人非人であると喧伝しているのも同じである。
あるいは,
名正しからざれば則ち言順わず,言順わざれば則ち事成らず,事成らざれば則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば則ち刑罰中らず,刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし,
とも。おのれのすることに名目の有無など頓着せず,おのが信条を国是とすることに邁進するものは,士どころか,賊である。
少なくとも,士であるからには,みずからを戒め裁く,脇差が必要である。だから二本差しである。でなければ,ただの長どす一本のヤクザと変わらない。
いまや,士と称しつつ,長どす一本の,ヤクザまがいが増えた。その手合いを,
サムライもどき,
という。もどきは,所詮もどき,がんもどきは,
雁
にはなれぬ。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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裏切り
正直,この言葉が,あまりピンとこない。というか,こなかった。
辞書的には,
@敵に内通して,主人または味方に背くこと,
A約束・真偽に反する行為をする。人の期待に反する,
とある。
期待に反する
と
期待を裏切る
とでは若干ニュアンスに差がある気がする。人の期待に反することは,一杯あっただろうが,反しようと思ってするというより,できなかったということが実態で,裏切る,というニュアンスには遠い,
期待外れ,
な程度というのが,主観的な印象だ。
期待を裏切る
と
期待外れ
では,ずいぶん印象が違う。背負わされた「期待」が,オリンピック選手のそれと,僕のそれとの違い,に起因するのだろう。
自分では,細かなことはあるかもしれないが,決定的に人を裏切ることの出来るような,ある意味で大物ではなく,器量の小さい人間だと思うからだ。
ただ,そう考えていて,不意に思い出したことがある。
昔,労働組合,というほどのことはないが,理不尽なトップへの抵抗という意味で,労働組合をつくる羽目になったことがある。いつの間にか首謀者になっていて,その当時の下宿屋まで,調査の人が調べに来たということがあった。ま,組織側がやったらしいのだが,そんな仲間の中で,途中から抜けたのならいいが,最初から,仲間面して,内部のことをいちいち,報告していた人がいたことを,後日に知った。
これって裏切りなんだろうな,
と,思い出したのだ。しかし,この人は,某映画会社の労働争議の時,組合委員長なのに,経営側に通じていたということで,ある意味有名な人だったらしい。
それを聞いたとき,ふと,何だろう,不遜ながら,
可哀そう,
と感じた。たぶん,身の置き所がないのではないか。会社からは,重宝かも知れないが,
重んじられること,
はまずない。人として信用できないからだ。当然,組合側からも,これは,
軽侮と憎悪,
の対象になる。どこにも身の置き所がないのに違いない,と人としての寂しさを感じた。もう,ご存命ではないかもしれないが,その人についての記憶では,たまたま,
ガリバー旅行記,
を文庫版で読んでいて,それを見て,ニュアンスは忘れたが,原書で読まないのを,
憫笑,
された記憶がある。そう言えば,洋書を読む人で,著名な彫刻家の御子息なんだと,後日仲間の一人から聞いた。
その憫笑は,結構効いたが,しかし,人として,どうなのよ,と言いたい気持ちが,いまならある。
価値観が違う,
と言われればそれだけのことだが,僕の印象では,
信念として通報役,
を買って出た感じではない気がしている。その人の事情を知っているトップが,強いたのではないか,というような憶測をしている。それほどに,日常は,小太りの,気のいい人に見える,人なのだ。
気のいいのは僕なのかもしれないが,それほど怒りや反撥を感じた記憶がないのは,大した人数でもない,ちっぽけな組合づくりの活動にまで,そういう人が,役割として登場する,と言うのが,どことなく滑稽だったからかもしれないし,逆に,そのことを知ってからは,組織の凝集度が高まったと感じたせいかもしれない。
しかし,もうかなり昔のことなのに,裏切りというなら,そのイメージで,どこか,
寂しい,
ひとりぼっち,
というイメージがある。それは,僕の側の勝手な忖度かもしれないが,
誰にも相手にされない,
という感覚である。それは,たぶん,僕自身が大切にしている,
信義,
律儀,
に反しているので,僕の思いを投影しているだけかもしれない。
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最近,ん十年愛用の,誰にもらったかも忘れた大理石の文鎮を落として割ってしまった。このところ似たようなことが続いていて,ちょっと気になる。
愛用するということは,日々手になじみ,そこにあることになじんでいて,一見風景になっているが,それが無くなると,風景の一か所に欠落が出る。それによって,なんとなく,違和感がある。
物にこだわる質でもないし,収集癖もない。
収集癖という以上,件の漫画家ではないが,徹底しなくてはならない。しかし,そこまで固執する物に出くわしたことがない。中途半端だから,かえって,未練が残るのかもしれない。そこに,なまじの思いや感情を投影しすぎる。それは,玩びつくしていないから,なのかもしれない。
玩物喪志
という言葉がある。
無用なものを過度に愛玩して,本来の志を見失ってしまう,という意味らしい。意で、
物を玩べば志を喪う,
『書経』旅獒の出典らしく,
人を玩べば徳を喪い,物を玩べば志を喪う
とある。この場合の物は,必ずしも,いわゆる物,
物品,物体,
を指すとは限らない。これを言った,召公が,武王を諌めたのは,武王が,献上された獒(ごう)という一頭の大きな犬に心を奪われて,政治が荒んだことを指している。物は,
天地間に存在する,有形・無形のものすべて,
を,本来指しているようだから,幅広い。ストーカーも,温泉マニアも,何たらフェチも,鉄男も,撮鉄も,博打狂いも,酒も,煙草も,麻薬も,主義主張も,信仰も,殉死も,珈琲も,すべて,
玩物喪志,
である。ところが,である。武田泰淳は,川端康成論の中で,「普通は悪い意味に使用されているが,ここでは,対象を手ばなさずに,専心している姿勢の意味である」が,と言いつつ,
志をうしなうほど物にが玩べれば,本望である。その物が,風景であろうと,女体であろうと,主義であろうと,そこに新しい魅惑が発見できるまで執着しつづけねば,何物も生まれはしない。玩物喪志の志,あるいは覚悟を持ちつづける作家は,そう数多くはないのである。
と書いているのに出くわした。ネットを調べているうちに,泰淳にであい,この小論に出会い,僕の玩物喪志のひとつ,全集買いが,ここで生きた。
玩物自体が「志」とは,逆転の発想である。そうか,
覚悟の問題
なのか。武王が,犬に執心なら,王位を捨てなくてはならない。その覚悟がなくてはならない。エドワード8世が,王位を擲って,恋に賭けたように。そのとき,恋は,王位と匹敵した。
織田信長が天下を玩物したときは,天下は,近畿をさす,それは三好三人衆にとっても,玩物であった。しかし,その「物」が全国になったとき,玩物自体が,「志」になる。そう意味だろうか。
さらに,泰淳は,川端康成にこう告げている。
玩物喪志の「物」の内容を変更しただけでは解決はつくまい。「物」のひろさと新しさが,「玩」の深さと新しさと密着して,深くひろく新しい魅惑を生み出さねばならない。
玩物の,
「物」のスケールも,
「玩」のスケールも,
気宇壮大ならば,もはや,召公のスケールを超える。はて,では,翻って,おのれは如何?
ただ横道にそれ,油を売っているのとは違う。たしかに,人生には,
何かを計画している時に起こってしまう別の出来事,
の面がある。しかしそれを言い訳にすれば,道草で良しとなる。しかし,こうある。
予期せぬ出来事の中で全身全霊を尽くしている時,予期せぬ世界が開けてくる。
つまり,玩物であろうと,道草であろうと,そこに全身で打ちこまなければ,
玩物が志となり代わる,
ということはない。結局,
覚悟,
はいずれも必要なのだ。覚悟とは,
迷いを取り去る,
ことに尽きる。でなければ,喪われた「志」が泣く。
参考文献;
武田泰淳「玩物喪志の志」(武田泰淳全集第12巻 筑摩書房)
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』
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間抜けの,「マ」が気になり,続いて,
合間と間合と隙間,
という言葉がふと浮かんだ。
単なる思い付きだが,ここから,どんな展開にできるか,成り行き任せ,ということで…。
合間,というのは,物事の途切れた間,あるいは,「たまに」。
間合,というのは,何かをするのに適当な距離や時機,ころあい。調子や拍子の間。相手との距離。
隙間,というのは,モノとものとの隙,開いている時間,乗ずべき機会,油断。
隙間については,
「ニッチ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%81),
「間合い」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E9%96%93%E5%90%88%E3%81%84)
「間(ま)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E9%96%93%EF%BC%88%E3%81%BE%EF%BC%89)についても,
で書いた。また,
「人との距離感
」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AE%E8%B7%9D%E9%9B%A2%E6%84%9F)
についても書いたので,少し違うところから,考えてみる。
「間」という字が,まずは気になる。「間」は,「閨vの俗字とある。その意味は,
「門」と「月」。門の間から月の光が差し込んで「間」という意味を表したもの,
だとする。なるほど。象形文字だ。発音は,
呉音 : ケン
漢音 : カン
訓読み : あいだ,ま
およそ,意味は,
@「あいだ」二者間の物理的,時的又は形而上のへだたりのこと。間一髪,間隔,空間,隙間。年間,期間,時間。
A人と人との関係。人間,世間,仲間。
B隙を探る。間者,間諜。
等々。用例から,細かく見ると,
@(あいだ,ま,かん,けん)二者間の物理的へだたり。隙間,間隔,間合,眉間
A(あいだ,ま,かん)二者間の時間的へだたり。この間,いつの間にか,間近い,時間,合間,間食
B(あいだ,ま)二者間の概念上のへだたり。間違い,間引く,間抜け
C(ま)言葉のやり取りのタイミング。話す時に言葉を言わないでおく時間。間が悪い,間の取り方
D(ま,あいだ)人と人との関係。仲間,間柄,間に入る,間男
E(ま)部屋。板の間,居間,謁見の間,床の間
F(ま)めぐりあわせ,運,タイミング。間がいい,間が悪い,間に合う
等々。
どうも,鍵は,「間(ま)」になるようだ。ここからは勝手な妄想だが,合間と間合と隙間の違いを考えてみる。
合間,というのは,ニュートラルで,あいた「間」をさす。それが,主体的に意味を持てば,
間合,
になり,意味がなければ,
隙間になる。しかし,隙間は,
本来空いているべきでない,「間」が,空いていることだから,
隙,
にもなる。隙間は,あってはならないものだから,詰めるべきものだが,間合いは,その距離に意味があ。
間(ま),
を詰めれば,命取りにもなる。合間は,それを意識すると,意味ある,
距離,ないし空白,
となり,意識した側に,アドバンテージがある。だから,意識しなければ,
隙間,
に変わる。しかし,隙間は,間合いにはならない。本来空いていてはいけないというか,詰まっているべきものがあいているのたがら,
空穴来風,
という言葉があるそうだが,隙間があるから穴に風が入ってくる。その意味では,
知らぬ間に,
とか,
いつの間にか,
というのは,隙でしかない。人との距離も,モノとの距離も,出来事との距離も,情報との距離も,知識との距離も,須く,意識して,取らなくてはならないのだろう。それが,
専守防衛,
というものだ。
ぼんやりしていて,
いつの間にか,
相手に間を詰められてしまったのでは,ほとほと,
間抜け,
としか言いようはない。緊張感が欠ける,というか,そもそも,意識して,その間(ま)を選んでいないから,つまり,
方便として,
そう言っていただけだから,ぼろが出た。
間の取り方を知らぬものが,軍支度したところで,勝ち方をそもそも知らない。いままで,卑怯な,
奇襲,
や
不意打ち,
か,
騙し討ち,
を好み,都合が悪くなると,神風頼み。まことに,
どの時代を差して,
良い時代,
といっているんだか。ほとほと,
間抜けに見えて仕方がない。
上へ
学ぶのは,
自分の伸びしろを知る
ためだと思う。伸びしろは,
あるのではなく,
見つける,
あるいは,
創り出す,
炙り出す,
ものだと思う。それは,自分の発見なのだと思う。発見というと,他人事だが,
自分を掘り起こす,
あるいは,
自分を膨らます,
といってもいい。風船に空気をいれるような感じ,というと少し危いか…!
では,何を学ぶのか,というとき,思い浮かぶのは,G.ライルの言う,
Knowing how
と
Knowing that
である。そのことを知っている中に,その「遂行の仕方を知っている」が含まれなければならない。なぜなら,前にも書いたが,能力というのは,
知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
出なければ,そのキャパは増えないと思うからだ。だから,ある意味,
そのことを知っている,
の中に,
そのことのやり方を知っている
が含まれ,入子になっているのかも知れない。そして,学ぶとは,
何を知らないかを知ること,
に他ならない。学ぶ前は,何が分からないかが分からないから,
何が分かっていないか,
が分かる。
まさに,
知れるを知るとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり,
である。あるいは,知るとは,
どうすればそれが得られるか,
という手段知をも手に入れることでもあるかもしれない。そのことによってパースペクティブが広がり,見える世界が変わる。向こうにまだ山が屹立しているのが見える。
学びて思わざれば則ち罔(くら)く,思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う
僕は,学ぶことは,メタ・ポジションを手に入れることだと思う。学ぶたびに,俯瞰とまではいかないにしても,ものを見る視野が広がることだ。広がれば,ますます広く見たくなるのが人情というものだ。
そこにおのれの伸びしろを見る。
如之何(いかん),如之何と曰わざる者は,吾如之何ともする未(な)きのみ,
である。
見えていないものが何かが見える,
それが伸びしろである。あるいは,
知らないことが何かが分かってくる,
のでもいい。まだ,その心境にはいきつかないが,
これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず,
に行きつけば,おのれの伸びしろがまだあることに,喜び,学びに喜ぶかもしれない。しかし,まだ,知らないことに,愕然とする一方の日々だ。
参考文献;
ギルバート・ライル『心の概念』(みすず書房)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
上へ
われながら嫌になる。ときどき,むきになる。むきになると,
一歩も引かなくなる。
議論を交わすというのではなく,押し潰す,という雰囲気になってしまうらしい。自説を引っ込めないというか,
自説を変えない。
そういう悪癖がある。自分でも,その瞬間は,頑迷そのものの(そうでなくても頭が固いのに),
嫌な奴,
になっているのがわかる。目を剥き,梃子でも引かなくなり,(わずかに装っている)柔軟さと温厚さは,影を隠す。ときどき,そういう事態を,自分が引き起こす。瞬間,周囲が引く,というか,呆れたようにひきつった笑いに変わる。それがわかっていて,引くに引けなくなる。
時に,その場を,
凍りつかせる,
ことすらある。それが,後から振り返ると,ずっと落ち込ませる要因で,
しまった,
と臍を噛むが,後の祭り,まさに,
後悔先に立たず,
である。振り返っても,
その時こだわっていたことはわかるが,なぜそれほど拘泥したのかは,よくわからない。
何にこだわるかは,そのときどきで,自分でも分からない。ただ,何かにフックがかかると,
それに執着する,
多くは反論と言うか,異論をとなえるときが多い。あるいは,質問の形で,問い質す。多く,問い質された側が,こちらの向きになりように,反応して,頑なになる。
ちょっと前のことだが,あるワークショップの場で,講師との間でそんなことがあった。はじめは質問のつもりだったが,途中で,問いつめている問いに変わっていたらしい。相手もむきになってきて,会場が凍りついた。
そこをさらりと,ユーモアで交わせたらいいのだが,とつくづく思う。
しかし,自説を翻す気はないので,反省は,
自説をこだわったことではなく,
むきになって言い募ったことで,その場をしらけさせたことの方に向いている。
かつて,知人が,(見るに見かねて)とりなして,代弁を買って出てくれたことがあったが,その人が,僕を上回る屁理屈屋で,却って,その場の雰囲気を悪くしてしまったことがあったが,逆に,そこでフリーになった自分が,
ああ,こういうふうに,この場の雰囲気を壊したのだな,
と思い知らされたことがあった。
ただ思うのだが,御説御もっともと,ただ頷いていればいいのか,と言うと,それはそうは思わない。だから,自説を提起すること自体が悪いとも,それにこだわることがいけないとも,僕は思わない。
自説にこだわりすぎる,と言うのは,
頑迷,
強情,
と言われるかもしれない。もちろん,
這っても黒豆,
というのは論外としても,それぞれの意見は,
自分の頭で考えた以上(自分で考えたことであればあるほど),異説,異論,異見,と言われようと,そうそう軽々に譲れない。譲れないところが問題ではなく,異説同士を戦わせて,
別のひとつにまとめていく,
そういう努力に欠けるところが問題なのだと,思う。
自説は,堂々と言ってもよい。よいが,言うかぎりは,他の意見に耳を傾ける,
柔軟性,
が必要なのだろう。つくづく思うが,
平板で,短兵急な声になる(むきになるとそうなるらしい)と,それだけで人は反発し,拒絶反応を示すらしい。
やはり,ユーモアではないか。
ユーモアは,メタ・ポジションに立たなければ,言語化できない。それは,
余裕,
を生み,声も厚みのある,ゆったりした声になる。
欠けているのは,その姿勢かもしれない。
上へ
沈黙というと,
黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな
という壺井繁治の詩が反射的に浮かぶ。
昨今,沈黙というものの値打ちが下がったことについても,「緘黙」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E7%B7%98%E9%BB%99)書いた。
いつも思うことは同じらしい。僕自身が,ぺらぺらよくしゃべる方なので,余計に,
寡黙
に憧れる。かつては,
沈黙は金,雄弁は銀,
と言ったが,お喋りについては,ない。いまは,お喋りがあるだけの気がする。確かに,
口にしないことは伝わらない,
とは思うが,のべつ幕なしに,喋りつづけることには,抵抗がある。チャットもLINEも,それに似ている。そこでは,
言われたことばより
言われなかった思いの方が重い
語られたことより,
語られなかったことの方が深い
という気がする。ヴィトゲンシュタインの言うように,
およそ言いうることは言い得,語りえないことについては沈黙しなければならない,
なのに,
言うべきこと,
言わなければならないこと,
ではなく,言っても言わなくてもいいことだけが言語化される。
言わなければならない,そのとき,というものがある。しかし,言葉が浮くように話されるところでは,
そのとき,
が見えない。なぜなら,その会話は,文脈とは切れた,関係の中だけで共有される,言ってみると,
自己完結された会話,
だから,とき,がない。ときがない,とは,
そのとき,
がない,ということだ。「その」に意味がある。それは,
リアリティ感,
といっても言い,現実感覚といってもいいし,時代感覚といってもいい。いわば,
そのとき,その場所,
に生きている,ということだ。そこにいなければ,
そのとき,
が見えるはずはないし,たった一度の,
その一瞬,
など気にもならないだろう。
本来,言葉は,会話は,文脈に依存する。だから,主語はいらない,場合によっては,
あれ,
だけで通じる。
文脈を共有すると,Tグループでの体験(「場」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E5%A0%B4)で書いたように,
場を共有することで,心が,思いが,共有される。そんな感覚を味わったことがある。それは,場が,それぞれに共有されて,場に埋もれた状態で,言葉が極端に必要がなくなった。
そのとき,黙っている,という感覚はなく,お互いが,会話しあっている,感じがあった。
沈黙のコミュニケーションになっていた。
本質的には,沈黙は,
黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです,
と吉本隆明が言っていたことに通じる。だから,壁ではない。ただ,それも,
その人のいる文脈に依存している。そのとき,
自己対話などしているべきでない,
ことに気づけるかどうかは,
意識が内向きの自己対話になっているか,
意識が外向きの自己対話になっているか,
で異なる。これについては,「考える」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B)
で触れたことがある。
内向きの自己対話は,自己完結であり,外に閉じている。それは,沈黙ではなく,
思考停止,
である。あるいは,
妄想,
ぶある。よく電車で,一人対話というか一人口論をしているのを見かけるが,あれである。
本来,自己対話の原型である,内語は,
外に出ない思考(考える)
であり,内向きの自己対話は,
内語,
ではなく,独り言である。それは,現実から遊離した空想世界に漂っているだけである。
上へ
本を読むというのが,習い性のようになっている。昔は,あまり本を読んだ記憶がない。少なくとも,高校生の時代は。まあ,おくてである。
しかし,大学に入って以来,無知を悟り,というか思いっきり恥をかいて,夏休みまでに,平凡社の世界文学全集,という文庫サイズのものが実家にあって,それを読破した。その中に,『戦争と平和』もあったはずだか,ショーロホフ『静かなドン』にただ圧倒された記憶がある。
その後,『チボー家の人々』を読み,後は乱読になったと思う。その時代に深く印象に残ったのは,『カラマーゾフの兄弟』だろう。特に,大審問官は,強烈だ。
昔は,結構抜書きをしたり,場合によっては,一作丸々,写しとったこともあったが,日記をやめてからは,ずっと読みっぱなしになっていた。
最近,ブログで本を紹介するようになってから,全体を俯瞰するように変わった。前は,良くも悪くも,虫瞰的で,気に入ったフレーズを引っ張り出して,書きとめていた気がする。そのせいか,全体が見えない癖があるかも。
例えば,記憶では,(石子順造氏が)それぞれのラストシーンを,
鉄腕アトムは太陽に向かい,サイボーグ009は流れ星になった,
といった趣旨のフレーズで表現していたと覚えているが,ところがそれがどこにも見当たらない。あるいは,
人は持っている言葉によって,見える世界が違う,
というのは,ヴィトゲンシュタインだと思っているが,これが見当たらない。あるいは,
人は死ぬまで可能性の中にある,
はハイデガーの『存在と時間』に見当たらない。あるいは,誰だったか,大学の授業で聞いたフレーズかもしれないが,
握った手は握れない,
というのは,これもどこにも探せないでいる。
アイデア一杯の人は決して深刻にならない。
これは比較的最近だが,記憶が確かなら,バレリーだと思うが,定かではない。
フレーズが全体を象徴しているならそれでもいいが,そうでない場合は,とっても恥ずかしい目に合う。昔,ヘーゲルの『精神現象学』を逐語的に(訳が悪かったせいもあるが)読み進め,結局全体像がつかめなかった愚を犯した。そういうことになる。
前にも書いたことがあるが,僕は古井由吉にはまり,『杳子』はほぼ丸ごと,写しとった。その時感じたのは,文体が生理ではなく,文体が生理を呼び起こすという感じであった。吉本隆明の詩に,
風が生理のように落ちて行った,
というフレーズがあったが,意識の多層性,キルケゴールの言う,
自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである,
を,表現していると感じたものだ。
その意味で,日本語というものの持っている表現可能性を,ぎりぎり極限まで突き詰めた文体は,美を通り越して,言葉が示せる極北の世界を見た,と感じた。これ程の文体をもつ作家は,以前も以後もいない。
それを, 不遜にも,「語りのパースペクティブ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm#%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96)
で,まとめたことがあるが,これが,「万物の終焉」(http://www009.upp.so-net.ne.jp/ikeda/shirowada.pdf)
で引用された。考えてみれば,いまは,ブログが,自分の発信ツールになっている。
ブログで読書感を書きながら,最近思うのは,結局読書も対話なのだ,と思う。たとえば,「向き合う」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-5.htm#%E5%90%91%E3%81%8D%E5%90%88%E3%81%86)
は,著者と対話した感じが残っている。
考えることが,自己対話だとしても,その対話の視点がどれだけ多角的であるかは,どれだけ多様な人との対話をしたかにかかっている。その意味で,読書は手軽な対話の場なのかもしれない。
昨今のわが国の為政者たちを見ていると,その対話が自己完結した人ばかりが,妄想している印象なのは,さまざまな視点や考え方の人と対話を積み重ねる努力をしてこなかったということを,無残にも露呈している。
それは,知的レベルの低さということだ。これでは,他国の知性あるリーダーと対話できるはずはない。そして,それは,日本人自身が,他国から侮られ,軽んじられることを意味する。投票行動を軽んじることは,結果として,天に唾するのと同じことになっている。
僕は,そういう意味で,物理,天文,数学,科学,詩,小説,演劇,落語,歴史,ビジネス,経営,哲学,古典,心理等々,何でもかんでも,興味と好奇心に引かれて,要は乱読だが,その分多様な対話を重ねてみたい。まだまだ出会ってない人が山のようにある。それが,結果として,自分の考える力,つまり自己対話の視点を増やし,おのれの自己完結性(うぬぼれ)を崩すことになる(はず?)。
自己完結は,痴呆のはじまりだ,とおのれを戒めよう。
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げんを担ぐは,
験を担ぐ
と当てることが多い。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/69321/m0u/
には,
《「縁起を担ぐ」から転じた語か》ある物事に対して、よい前兆であるとか悪い前兆であるとかを気にする。
とあるが,手元の辞書(『広辞苑』)には,「験」しか載っておらず,
「験(けん)」には,「慣用音」とあって,
しるし,きざし,ききめ,
ためし,調べること,
という意味があり,
「験(げん)」には,
仏道修行を積んだしるし,加持祈祷のききめ,
ききめ,しるし,効能,
縁起,前兆,
とある。どうやら,「験(げん)」のようだ。ところが,
「験(げん)」の語源は,
「縁起の逆で,ギエンの音韻変化」
とあって,「縁起」へ,また戻ってくる。つまりは,
「何かをするのに先立って,そのことの善し悪しを示すような出来事」
をいう。しかし「縁起の逆」の意味が分からない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%93%E3%82%92%E6%8B%85%E3%81%90
には,
「本来は『縁起を担ぐ』であったが、江戸時代に流行った逆さ言葉で縁起を『ぎえん』と言うようになり、それが徐々に『げん』に変化したとする説が一般的である。」
とあって,「ぎえん」の謂れが分かる。『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/ke/genwokatsugu.html
には,
「本来は,『縁起を担ぐ』で,『縁起』が反転し音韻変化したとする説が有力とされる。この『げん』は,『げんがいい』や『げんなおし』などとも使われる。『験』には,『仏道修行を積んだ効果』の意味や『利き目』『効果』などの意味があり,『縁起』を意味する『げん』と関係があるとも考えられている。ただ,『効果』などを意味する『げん』は平安期,『縁起』を意味する『げん』は近世以降と自体が離れており,『縁起』を意味する方は,ヤクザ用語から出た言葉とされていることから,直接関係するわけでもなさそうである。」
とあって,由来が一筋縄ではない。まあ,
縁起船乗り博奕打
という諺があるくらいだから,ヤクザには縁起担ぎは縁が深いのかもしれない。
しかし,「縁起を担ぐ」は,辞書(『広辞苑』)には,
「ちょっとしたことにも縁起がいいとか悪いとか気にする」
という意味が載っていて, 他の辞書でも,
「ちょっとした物事に対して、よい前兆だとか悪い前兆であるとかを気にする。」
という意味が載っている。
げんを担ぐ,
と
縁起を担ぐ,
では,確かに似ているのだが,微妙に違う,というか,事態が,さかさまのような気がする。
げんを担ぐ方は,
「何かをするのに先立って,そのことの善し悪しを示すような出来事」
で,げんがいいとか悪いとかという。
縁起を担ぐ方は,
「ちょっとしたことにも縁起がいいとか悪いとか気にする」
とあるので,過去の幸運やよいことがあったためしにならって,それを守ろうとする,というように,受け取れる気がする。現に,「縁起を担ぐ」の類語には,
「成功や利益を祈願するために過去の良い状況を再構築しようとするさま」
として,類語を挙げる。
「縁起」は,辞書(『広辞苑』)には,「因縁生起の意」として,
仏教で,一切の事物は固定的な実体を持たず,さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立しているということ。因果。
事物の起源・沿革,由来。
社寺などの由来または霊験などの伝記,またはそれを記したもの。
吉兆の前兆,きざし。
といった意味が載る。言ってみれば,
「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指す,
ということになる。だから,いまの吉兆が,これからの成功の兆し,と言った受けとめになる。ただ,
http://okwave.jp/qa/q7829914.html
には,
「何かを始める際に吉兆の兆しを取り上げて、その縁起が好ましくなければ「(御幣を)担ぐ」意味での御祓いや、それに準じた何某(なにがし)かを行うのが縁起担ぎであり、一方『験を担ぐ』方は、これまでの好ましかった『験(効き目)』の再現を願って御祓いのような何がしかを行うもの」
との記述があるので,真逆の解釈になる。ただ,近世以降,「縁起」の意味の「験」に重なったようだから,あえて,順序をつけるのは野暮かもしれない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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ニッチ時間,つまり隙間時間のことだ。
隙間時間の使い方の上手い人は,並行処理のうまい人だと思う。
シーケンシャル処理の人は,ひとつコトが終わらないと,次の案件処理に行かない。それだとすごく能率が悪い。ひょっとすると,単なる段取りの力というか,頭の中の設計プランの問題なのかもしれないが,頭の中で,並行処理する案件を想定しながら,案件ごとではなく,案件の中の具体的な作業レベルで,処理を設計しているかどうかの問題のような気がする。
WBS(Work Breakdown
Structure)というのがあるが,そこまで厳密ではないが,頭の中で,案件のおおよその仕事のプロセスを作業段階に分解する。そうすると,一緒にできるものがある。
ただ,各案件の,ちょうどPERT (Program Evaluation and Review Technique
)で言う,クリティカルパスのようなものは,別扱いをせざるを得ない。段取りながら,それをあぶりだすという方がいい。
よく段取り8分,
という言い方をするが,前もっての作業をプランするとか,作業設計をするというのとは,ちょっと違うのだ,と僕は思っている。クリティカルパスをあぶりだすというのは,そこが,その人が,難所ということでもある。だとすれば,本来のクリティカルパスの意味とはまったく違う使い方かもしれないが,それに先に取りかからなくてはならない。順逆が,ひっくり返っても,そういう作業想定をする,ということが,段取りの意味だと思っている。
問題解決の鍵は,
誰を(どのレベル)を動かさくては解決できない問題か,
ということが見きわめられることだ,と僕は思っているが,それとよく似ている。問題解決案をロジカルと言うか,ロジカル・シンキングで創作しても,現実は動かない。
おれは聞いていない,
の一言で,いっさいが潰えることがある。問題解決がロジカル・シンキングなどと言っているうちは,自分の裁量範囲内の問題しか解決したことのない人か,よほどの僥倖に恵まれた人だ。
ここでの問題の瀬踏みと言うか,目利きも,
段取りに通じる。
「情報化社会とは,重工業を中心とした世界からコンピュータを中心とした情報通信機器によるネットワーク化した社会」と言う言い方をすることがあるが,いまの話が,工業が情報によってあらたな結び付きの中に入るというのに似ていると言うと,大袈裟か。
工業化,つまり機械化は,
□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
という線形の工程で表現できる。その各工程ABCは,高度化しても,
A□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
B□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
C□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
と,各工程は短縮できても,A+B+C…の総和にしかならない。しかし,情報化では,
┌A□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
X┼B□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
└C□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
1コンピュータシステムXにおいて,ABCの工程を同時処理することができる(もちろんフレキシブルに工程を組み合わせられる)。それは,更に集積すれば,いくつものXをZによって,いくつものZを,Yがというように,同時処理の集積度は高っていく。
大袈裟な例だが,段取りができるというのは,こういうことだ。まあ,要は,メタ化ということだ,とも言える。
だから,細切れの仕事を,案件のシーケンシャルなフローとは別立てて,処理できる。
僕は,よくそういうのを,デスク脇に,ポストイットで貼っていた。
この細かな,とは限らないが,ニッチな案件処理,そういう未決案件示す,ポストイットを片づけて一掃するのが,けっこう楽しみであった。あんまり,思考しなくてもいい(だけとは言えないが)のが,一種の息抜きであった。
そのせいかもしれないが,ニッチ時間の処理のうまい人は,仕事の並行処理が出来る人だ,と思っている。それは,しかし,仕事が効率的かどうか,スピーディかどうかとは,必ずしもイコールではないように思う。
参考文献;
吉本隆明『ハイ・イメージ論T』(福武書店)
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緩和ケア
たくさんの「死」に触れ,看取りをしてきたという看護師の方と,ちらっと立ち話をした。ただ会話の接点を探すつもりで,
母が緩和ケアにいた,
と話したら,あれは私の看取っているのとは違う,という趣旨のことを言われた。話の接ぎ穂がなく,
三ヵ月も持たなかった,
と言ったが,関心を示されなかった。そうか,緩和ケアは,ホスピスとはちがうのか,とそのとき,なんとなく,そんな話を持ち出した自分を恥ずかしく感じた。しかし,心のどこかにわだかまりがあった。
なぜなら,僕のあのとき受けた説明は,
治療しない(治療しても無駄だから,とは言わなかったがそういう意味)で,苦痛だけを和らげる,
ということだった。最早治療が効果がないので,無駄に医療行為をしないで,緩慢に,死をまつ,ということだ。そうは,母には説明できなかった。一緒に車いすで,説明をききに緩和ケア病棟まで行ったことを思い出す。
実は,治癒の見込みがないというか,はっきり言わないが,
治療行為が医療費の無駄遣い,
というニュアンスで,自宅へ帰ることを病院から迫られていた。
つまり,治療しない,ということは,自宅へ帰って,自宅で死を待つ,という決断を迫られていた。しかし母は,医者の娘でもあったので,
自宅へ帰って何をするのか,(治療できないという意味で)帰っても仕方ない,
と言っていた。まだ,本人は治療行為を諦めていなかった。
幸か不幸か,その病院には緩和ケア病棟があり,空きが出た。後に,そんな僥倖はない,と言われたものだが,緩和ケア病棟のある病院自体が少ないからだ。
治療しないということは,緩慢に死を待つだけだ。というより,治療をしないということは,癌と戦わないということだから,必然的に急速に癌が進行する。緩慢ではなく,急速ケアといってもいい。
つまり,緩和ケアは,死を見守る,
というより,死期をひたすら早める,
ということだ。
因みに,日本ホスピス緩和ケア協会では,
緩和ケアとは
緩和ケアとは,生命を脅かす疾患による問題に直面する患者と其の家族に対して,痛みや其の他の身体的問題,心理社会的問題,スピリチュアルな問題を早期に発見し,的確なアセスメント対処(治療・処置)を行うことによって,苦しみを予防し,和らげることで,クオリティ・オブ・ライフを改善するアプローチである。
緩和ケアは・・・,
・ 痛みやその他の苦痛な症状から解放する
・ 生命を尊重し,死を自然なことと認める
・ 死を早めたり,引き延ばしたりしない
・ 患者のためにケアの心理的,霊的側面を統合する
・ 死を迎えるまで患者が人生を積極的に生きてゆけるように支える
・ 家族が患者の病気や死別語の生活に適応できるように支える
・ 患者と家族―死別後のカウンセリングを含む―のニーズを満たすためにチームアプローチを適用する
・ QOLを高めて,病気のかていに良い影響を与える
・延命を目指す其のほかの治療―化学療法,放射線療法―とも結びつ
・それによる苦痛な合併症をより良く理解し,管理する必要性を含んでいる
と定義している。そして,緩和ケアとホスピスの違いについて,ウエブで調べると,
緩和ケアという言葉は「緩和ケア入院加算料」を算定している場合に使います。
要件は,
末期悪性腫瘍患者の終末医療を行う医療施設で厚生労働大臣の認可を受け,
@病室は1人あたり8u以上であること。病棟は1人あたり30u以上であること。
A個室が病床の50%以上あること。差額病床については病床数の50%以下であること。
B家族控室,患者専用の台所,面談室,談話室があること。
C入退棟についての判定委員会が設置されていること。
D病院の医師数が医師法の標準を満たし,かつ常勤の専任の医師が当該病棟内に勤務していること。
E当該病院が基準看護の承認を受けていること。
F看護婦が患者1.5人に対し1人の割合で当該病棟内に勤務していること。
です。つまり上記の要件を満たしている施設だけを緩和ケア病床(病棟)と呼び,要件に関係なく,終末医療を行う施設を指して言うときはホスピス,と分けていいのではないか,
と。この説が正しいかどうかは知らない。しかし,これを前提にすると,
上記の看護師の方は,ホスピスと緩和ケアは別物だと思われたのかもしれない。いやいや,厳密に言うと,現場感覚では,そうなのかもしれない。
患者家族にとって,死を待つということでは同じだというところではなく,その厳密な違いだけに焦点を当てられたのかもしれない。「緩和」という言葉に,母と同様騙されたのではないか,と疑っている。
そして,僕は,いま猛烈に腹を立てている。
迂闊にそんなことを言い出したことに,
そのために,結局母をお為ごかしに,死に追いやっただけだったことを思いださざるを得なかったことに,
そして,自宅治療か緩和ケアかと二者択一を迫った医師に,そして病院に,
更に,そういうふうに追い込まれる患者家族を生み出す国の仕組みに,
結局いつも個々人の責任で死を背負い込まざるを得なくさせる日本という国に,
そして,八つ当たりだが,件の看護師の方の配慮のなさに,
ついでに,そういうことをいまさら思い出している自分自身に。
結局人は,自分のキャリア以上の視界(パースペクティブ)を持てない。そのことに自覚できるためには,広い,メタ・ポジションを持てなくてはならない。
メタ・ポジションの自覚のない人を信じてはいけない。それは,コーチでもカウンセラーでも,ビジネスマンでも,自分の視点しかなければ,
たまたまをそもそも,
としていることに気づけない。
そして,そのことは,そのまま自分に返ってくる。おのれはどれだけメタ・ポジションを持てているか,言い換えると,どれだけ広いパースペクティブを持っているか,と。
和辻哲郎は,確か,
視圏
という言葉を使った。その広さこそが,その人を見る目安だ。そして,それは,言い換えると,おのれの知っていることは,所詮おのれの経験したことに過ぎないという,
謙虚さ,
を欠いてはいけないということだ。
上へ
才能,
という言葉に,ずいぶん振り回されてきた。最近は遺伝子レベルで限界がある,と言うことに,ようやく納得するようになった。まあ,ありていに言えば,諦めがついた。
才能を,辞書で引くと,
才知と能力,
とあり,
ある個人の一定の素質,または訓練によって得られた能力,
と。しかし,才知を引くと,
才能と知恵,
とあり,
物事をうまく行う,頭の働き,
と。
要するに,これではよくわからない。
では,能は,と見ると,
為しうる力,
とあり,才は,と見ると,
ただす,見分ける,目利き,
とある(「裁」と同義)。ここから,僕流に,勝手に妄想するに,
才能と言うのは,
自分の能を目利きすることができる,
ということなのではないか。
言い換えると,
能力の即自性,あるいは,即自的な能力,
ではなく,
能力の対自性,あるいは,対自的な能力,
つまり,自分の能力への批評力がある,ということではないか。
才知は身の仇
という言い方があるが,小賢しい才知で何とでもなっている,思い上がりを諭している。
つまり,ただ能力があるだけでは,才能とは言わない。それはただの自惚れに過ぎない。そうではなく,
自分の力量,技量を,測れる,
ということに力点がある。因みに,能力は,何度も言うが,
知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),
である,と考えている。
多少能力があると,ついつい自惚れ,鼻が高くなる。それは,井の中の蛙に過ぎない,それを,客観的に測る目利き,つまりもっと広い世界の中に,自分を配置し,位置づけることができて,初めて,本当の意味で才能がある,と言うのではないか。
まあ,自分へのメタ・ポジションを持っているかどうか,と言うことだ。
過不足なく,自分の力を,測れる,それ自体が,能力といっていい。だから,ただ能力の有無だけでなく,おのれの能力の凄さ,ダメさを,きちんと目利きでき力,
それがあるのを才能と言うのだろう。
そう考えたとき,イチローの凄さがわかる。たとえば,こんなことを言うのである。
実際見るとラッキーのヒットだったって言う人って結構いると思うんですよ。でも,僕の中では全く違うんですよね。
変化球が来ても,ヒットにできる。真っ直ぐが来ても,詰まらせてヒットにするっていう技術があるんですよね。
誰も,自分のやっていることは,自分にとって当たり前で,それが人より優れていると,気づけることは少ない。だから,多少能力があっても,
いやいや,私なんて,
と謙遜する。それは悪いことではないが,ただの謙遜でなければ,その瞬間,その人自身が,
自分の才能の目利きができない,
ということを露呈している。
自分の才を,正確に,つまり等身大に,目利きすることは,ことほど左様に,難しい。邪心,我欲なしに,
自分の才を測る,
それ自体が,いかに冷静な客観的な視野を持っているかの目安に違いない。
それが出来なければ,ただの自惚れ屋か自己卑下屋になってしまう。
いやいや,これは,おのれのことを言っている。
上へ
あるところで,こういうことを書いているいる人がいた。
プロコーチとして活躍したければ,
コーチという職業の本質を理解しなければなりません。
クライアントより,自分としっかり客観的に向き合い,
クライアントと同じ以上に,自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける。
これができずして,クライアントから選ばれることも,
クライアントの心の声を聴くことも,共感することも,最適な質問をすることも絶対にできません。
一見もっともらしいが,僕は,視野狭窄だと感じた。所詮,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,自分のコーチ観,コーチング観を語っているだけだが,そのことに気づいていない。第一,どうでもいいことのようだが,
絶対
という言葉を,見識ある人間は使わない。
僕は,この人は,ビジネスとしてのコーチングを前提にしているのだと推測する。そういう考えもあるが,そうでもない考えの人のことが,この人の頭には,からっきしない。全く視野に入っていない。だから,
視野狭窄
という。
自分が目標を達成し,ビジネスとして成功もしていないのに,コーチ面している,ないし自己満足している,
この一文にすべてがある。自分は,こういうコーチを目指している,ということを語っているだけなのに,それを人を非難する材料に使っている。それは,そのまま,おのれに返るだけだ。たとえば,
ほとんどの人が自分はさて置き,自分をごまかし,自分を癒すために,コーチングを人にやろうとしているか,自分と向き合うことに酔ってるだけの人だと感じてしまうからです。
こう感じるのは勝手だし,部分的に同感と思うことはないでもない,が,あくまで,自分がそう思っただけに過ぎない,という前提を置き忘れ,所詮仮説であるにもかかわらず,それを事実のごとくに,前提にして語り始める,
僕は,一読して,正直,
自分もやりかねないな,
と思った。ある一点で,相手が見えた気がしてしまう。錯覚に過ぎないが。
所詮,自分のコーチング観に当てはめて,それと違うコーチをけなしているにすぎないのだ。人がどういうコーチを目指しているかは,あるいは何も目指していないかは,人がどう生きるかと同様,他人の忖度すべきことではない。そのことが,この人にはまったくわかっていない。
悪いが,僕は,別にビジネスとして成功させているコーチを偉いとは思わない。また,そういうことを望むクライアントばかりでもない。誰もが,目標達成を悩んでいるわけではない。誰もが,そんなことをコーチングしてほしいと思っているわけでもない(僕は,そんなことぐらい,自分でできないやつこそ,ビジネスの失格者と思っている)。
クライアントが求めるコーチは,全く違うことかもしれないのである。目標などという目先ではなく,人生の目的かもしれない。生き方そのものかもしれない,自分の価値そのものについてかもしれない。自分の存在理由かもしれない。人との葛藤かもしれない。クライアントは,ビジネスに成功したいと人ばかりとは限らないのである。その意味でいうと,コーチングについても,コーチ(像)についても,クライアントついても,まったく,
メタ・ポジションをもてていない。
だから,「ある一点」で,と言った。自己肥大と言い換えてもいい。自惚れと言い換えてもいい。勘違いといってもいい。
世の中にどれほどのコーチがいるのか,どれほどのコーチングがあるのかも,弁えず,いや弁えていないから,野放図なことが言えたのだろうが,おのれのコーチングに鼻を高くしている図は,正直言ってみっともない。
今は昔の光通信の,何と言ったか知らないが,あの社長に似ている。
どうもこの人は,文章からみると,自分のコーチ業が,ビジネスとして成功することが,もっとありていに言えば,金儲けに成功すれば,自分のコーチングに箔がついたと思っているらしい。しかしそうは思っていない人にとっては,そんなことはコーチを測る目安ではない。
百歩譲っても,コーチングあるいはコーチを測る,唯一の目安ではない。逆に,コーチで(あるいはセラピーでといっても同じだか),金儲けしている輩こそ,胡散臭いと考える人間だっている。どっちが正しいかではない。なりわいとしてのコーチについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390224446.html
で書いた。そういうコーチを求めるクライアントもいるだろうから,それはそれでいい。それはしかし,コーチが決めるのではなく,クライアントが決める。コーチに似たクライアントが,そのコーチに来る,というだけで,それがすべてではない。
大事なのは,相対的なものの見方だ。それを測る目安が,
メタ・ポジション
なのだ。
例えばだが,僕は,コーチをつけるエクゼクティブを軽蔑している。自分の起業をコーチングする人間も軽蔑している。自分ひとりでとことん考えないやつに,経営ができるはずはない。起業ができるはずがない。風潮だから,勝手にすればいいが,トップクラスの企業家がコーチをつけている,聞いた瞬間,トップクラスではないと見なすことにしている。そういうコーチング観もあるということだ。
そのことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140214-1.html
で触れた。
ついでだから,書くが,自分に向き合うことも,コーチに必須とは思わない。そんなことをしなくても,クライアントに向き合い,クライアントの気づきに立ち会えるコーチはいる。まして,
クライアントと同じ以上に,自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
のも必須とは思わない。そんな程度のことは,普通の人間は,そう意識しないで日常やっている。働くということは,まさに,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
ことなのではないのか。日々営業マンも,事務の人も,開発の人も,研究者も,何も「リスクを賭ける」などという大袈裟な言い方をしないだけで,やってのけている。それだけのことだ。それを特殊と思うこと自体に,思い上がりがあるが,まあいい。
コーチがどんな経験をしているかなんぞは,どうでもいいのだ。クライアントに関心があるのは,クライアント自身であり,クライアントの人生だ。
あるいは,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
というのは,コーチが自分の納得のために,弁明のために,自尊心のためにやっているだけで,クライアントは,クライアント自身の人生について,聴いてほしいのだ。
僕は,呑兵衛でもろくでなしでも,いい加減な人生を送っている人でも,クライアントに向き合った瞬間,
クライアントのいるその場にいて,一緒にクライアントの見るものを見られる人,
なら,それで立派なコーチングなのだと思っている。生真面目に,自己に向き合うほど,らっきょの皮をむくように,何もない自己に気づくだけだ。
ああ,つまらんことに時間を使った。こういうコーチがいるから,コーチング界は,まだまだ未熟なのだ。多様性こそが,どの世界でも,活性化の鍵でしかない。
所詮,コーチング,コーチという理論と実践,方法自体,例によってアメリカから借り物の理論に基づいている。つまり,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづけ…
た結果,自分が考え出したことではないということだ。僕流のプロフェッショナルの定義から言えば,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163044.html
で書いたように,一流ではなく,二流以下でしかないので,誰もかれも,同様に,
剽窃者,
下世話に言えば,
パクリ,
でしかないことを忘れないことだ。
それを謙虚という。
上へ
多く作品というと,芸術作品をイメージする。例えば,辞書的には,
作品とは,作者の精神活動を通じて創作された表現物を指す,
とある。
英語に詳しくはないが,英語に訳すと,productかworkであり,芸術作品なら,work of
artとなるだけで,製品と作品を区別しないらしい。日本語だと作品と製品を分ける。作品には,個人の仕事,製品は,大量生産とは言わないが,工房の仕事,というニュアンスになる。
漢字的に言うと,
製は,
裁つからきている。
衣服を仕立てるところにあるようだ。しかし詩文を作るにも,この字を当てるらしい。どちらかと,カタ,カタチをなすものを指すらしい。製塩,製造,製紙,製糸,製糖,製版等々。
作は,
田をつくる
書をあらわす
ということに端緒がありそうだ。どうしても,作家,作詩,作曲,作事,作者,作品,作法,作用,作業,作文等々。
同じつくるだが,微妙に差がある。しかし,ここからは,個人の思い入れだが,
個人が自分がつくった,
と思えるものなら,作品なのではないか。
知人で,断熱・保温塗装の外装作業を請け負っている人がいるが,その人は,自分の完成品を,
作品
と呼んでいる。ひとつひとつ,カスタマイズし,その現場の状況に合わせてつくりあげている,という意味らしい。それは,ひとつの見識だと思う。
僕は,労働とは,
自己対象化
なのだと思っている。ほんのわずかしかそこに自分らしさが対象化できないこともあるし,自分丸ごと対象化できることもある。その意味で,その労働には,自分が生かされていなくてはならない。
これはおのれの仕事ではなくやらされていることだ,お金のためにしていることだ,と思う人は,自分の人生の無駄遣いをしている。そこで,時間と肉体と頭脳を使って,仕事をしている以上それが,自分にとってただの他人事であるなら,それこそ自己疎外を,自ら招いている。
疎外について,こうある。
人間は意識し,考える存在である。意識し続けながら,自分の中のものを自分の外へ出す。また外界に働きかけることによって,自分の外へモノをつくる。自分の考え出したことやつくった物が,自分を豊かにすることもあるし,反対に自分を抑圧し,非人間にすることもある。
もちろん仕組みや制度的に制約はあるが,そこに作品と見るか製品と見るかの分かれ道がある。
作品を表現と考えれば,「表現」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E8%A1%A8%E7%8F%BE)
で書いたように,そこに,
自分にしかできない何かを現出させたということになる。
それがわずかな工夫であれ,わずかな寄与であれ,自分にしかできないことを創り出すために,そこに自分がいる。それを,僕は誇りと呼ぶ。
知人は,
作品,
と呼んだ時,明らかに,誇らしげであった。
どんな仕事も,僕は,作品だと思う。あるいは,別の言い方をすると,自己表現である。前にも書いたが,労働とは,能力の現出化である。
能力とは,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),である。
発想とは,いままでの知識と経験ではできないことに向き合って,それを何とかすることである。ここに創意工夫がある。もし発想がなければ,単なる前例踏襲,日々同じことを繰り返すルーチンである。
だからこそ,それぞれの能力の自己表現は,作品なのである。
上へ
コミュニケーションが同じベースの上で行われているかを見る目安に,
同じ土俵に乗っているかどうか,
ということを考えるが,それと似たもので,二人(とは限らないが)の関係性を,
同じ紐の輪に入っているかどうか,
というのをイメージしてみた。メタファーという方がいいか。
紐と書くとなんか変だが,電車ごっこの紐ないしゴム紐を想定してほしい。
相思相愛というと,意味が変わるかもしれないが,思いを共有している状態をイメージしている。コミュニケーションの問題ではなく,思いが響きあっている関係を,この紐をもっている関係という形で象徴させてみた。
別に二人である必要はないのかもしれない。
電車ごっこ(をしているという関係)は,その紐を電車に見立てるということを共有しなければ,成り立たない。その意味では,ゲームと似ている。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームではないが,紐で,思いの共有ゲームをイメージできる。
その思いに共鳴しているだけでいいのかもしれない,どっちへ向かうか,何をするかはともかく,そのひもを関係性の象徴として受け入れていれば,そこに関係性が成立する。
まあ,二人をイメージした方がわかりやすいので,そのままこれで進めるとすると,すくなくとも,その関係性を保とうとする意志が,その紐になる。
例えば,ブレインストーミンの,
批判禁止
質より量
自由奔放
相乗りOK
は,そういう紐のルールといっていい。それは,
相手を受け入れる,
相手を認める,
相手に○をつける,
という対人の認知,承認が前提ルールになっている,といってもいい。
それを信頼という言葉に置き換えてしまうと,少し違う。あえて言えば,恋という言葉のほうが近い。
響きあう,
というか,お互いの,
心の鐘,
思いの鐘を,
鳴らし合う,そういう関係なのだと思う。それが,両者の心を刺激し合い,アイデアや発想につながる,そういう関係である,といっていい。
成長しあう,
という言葉の方がいいか。そういう関係性を互いに認め合い,相手の想いを鳴らし,励ませる,それがそのまま自分の心の鐘に反照し,共鳴する。
あるいは,それぞれが,
おのれのままに,ありのままにふるまうことが,そのまま認められる関係,
を象徴するもの,と言ったらいいか。
紐の長さは一定とは限らない,距離の近さ,等差は,そのときどきの意志で,伸縮するだろう。そういうときはいつも近接したところでいることがいいとは限らない。
あるいは目指す方向が異なることもあるだろう。しかし引っ張りすぎれば,伸び切ってしまって,紐の関係自体が意味を失う。そんなに引き伸ばしたいなら,紐を外せばいいので,伸縮性があるといっても限度がある。
ある意味,緊張感は不可欠かもしれない。
認めあうというのは,
それなりの緊張した関係なのかもしれない。
品位,
というか,
品性,
というか,
節度,
というか。それを矜持と呼ぶか,自恃と呼ぶかはわからないか,一種の潔さと言っていい。人が何と言おうと,おのれというものを毅然として保つ,そういう凛とした姿勢だ。だから,
一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(石原吉郎「一期」)
という緊張感は欠かせない。
あるいは,思うに,コーチングにしろ,カウンセリングにしろ,そのセッションは,共有する紐がなければ成り立たない。それは,あるいは,共有する意思と言い換えてもいいが。
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情報を考えるとき,おおよその定義は,
@情報を量としてみようとするときの定義。シャノンやウィーナーに代表されるような,情報のコード化につながる定義である。
A生物に関わる情報の定義。たとえば,生命体の外界の刺激や視界に写っているものについて,生命体がどう受け止めるか。アフォーダンスとしてみるように,そこに有用か危険かの意味を見出すことになる。
B社会的なコミュニケーションに関わる情報の定義。この場合,データから言語情報まで含まれるので,コード化された情報から,状況に拘束されたモード情報まで,多様なものがある。
の三つに分けられる。しかし,個人的には,以下の三つを重視している。
●情報とは,「伝達された(る)何らかの意味」である。そのためには,3つの要件がある。情報の発信者と受信者がいること,伝えられるべき何らかの意味(内容)をもっていること,受け手に伝わるスタイル(様式・形態)で表現されていること。
コード化できる情報を「コード情報」と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を「モード情報」と呼ぶ。(金子郁容『ネットワーキングへの招待』)
●情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である。(ピーター・F・ドラッカー『経営論』)
●情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。(グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』)
そこから,情報の基本構造について,
・情報には,「コード情報」と「モード情報」がある。(金子郁容)
・情報とは,データに意味と目的を加えたものである。(ドラッカー)
をベースに考えるようにしている。その上で,「差異」に着眼する。人と同じところではなく,違っているところを見きわめる。。
では,情報の基本性格をどうとらえるか。
・自己完結している 抽象レベル(言語レベル)に丸められて,それの文脈・状況から分離されている
・言語化しないと情報にならない 情報は向き(意味づけ)を与えられている,というか向きが与えられなければ情報にはならない
そう考えると,情報は,ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっている必要がある。言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。しかしその言語を受けとめたものは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。その意味の背後に,その人のエピソード記憶や手続き記憶に基づいてイメージを描く必要がある。ぶっちゃけ,情報を,
・時間的(いつ)
・空間的(どこ)
・主体的(誰)
に紐づけなくては,情報の自己完結した意味に引きずられる,ということになる。その情報を読むということは,,“そのとき”,“そこ”に限定し直すということなのである。本来情報は文脈依存だからである。
「アクセス情報への基本スタンス」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0923.htm#%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B9%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B9)でも触れたが,コード情報であれ,モード情報であれ,情報になるためには,発信者によって向きが与えられる。向きがなければ情報にならない。どんな場合も,出来事だけでは情報にはならない。その情報を発信してはじめて情報になる。そのとき,情報は,その人がどういう位置にいて,どんな経験と知識をもっているかによって,情報は,再構成される。つまり,“情報”は発信者のパースペクティブ(私的視点からのものの見方)をもっている。発信された「事実」は私的パースペクティブに包装されている(事実は判断という覆いの入子になっている)。逆に言えば,私的な向きがなければ,情報にはならない。
たとえば新聞記事情報を単純構造にして考えると,
・発信者(目撃者)による主観(発信者に理解された範囲で意味づけられた情報)
・報告者(伝聞者=記述者)による主観(記述者に理解された範囲で意味をまとめられた報告情報)
・受信者(読み手)による主観(読み手に理解された範囲で意味を読み込まれた情報)
となる。しかも,もう少し突っ込むと,その入れ子の構造自体が,
発信者
報告者
受信者
それぞれが,時間的,空間的に限定され,しかもそれぞれの主体の持つ知識・経験に限界づけられている。三重の,それぞれの発信者が,自覚しないで,それぞれのいる文脈に依存して,偏りを与えている,ということができる。
さて,ここからだが,情報自体の偏りが自覚できたとしても,自分自身の偏りは,なかなか自覚できない。
だから,情報は,二つの意味で,
自己完結してはならない,
と思う。
第一は,情報自体が完結しているのだから,単体で自己完結させない,
第二は,読み手である自分自身で自己完結させない,
ということだ。情報の読みは,ある意味で情報の編集である。編集,つまりアイデアを発想する原則は,
自己完結させない,
である。これは,情報にも当然当てはまる。
上へ
考えるというのは,自分で答えを出すことだ。自分だけの答えを出す。もちろん一人の頭で考えることだけを意味しないが,主体になって,答えを出そうとする。それが考えることだ,と僕は思う。
それは,問いから始まり,答えに至る。
如之何(いかん),如之何と曰わざる者は,吾如之何ともする未(な)きのみ。
と孔子の言う通,問答(自己問答だけではないが)が考えるの原点かと思う。
社会構成主義的に言うと,それは,関係性の反映,つまり,僕が人との関係の中で培ってきたものになるだろうが,個人的には,正解がどこかにあるかどうかは別に,場合によっては,現実に最適性あるいは妥当性を求め,場合によっては,自分にとって最も理にかなうことを,場合によっては,ぎりぎりの我慢できる限界を,それぞれ自分なりに求めていくプロセス,というふうに言えると思う。
時実利彦氏は,考えるとは,
受けとめた情報に対して,反射的・紋切り型に反応する,いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決,たてた目標の実現や達成のために,過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろ組みあわせながら,新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち,思いをめぐらし(連想,想像,推理),考え(思考,工夫),そして決断する(判断)ということである(『人間であること』)
と定義している。辞書的に言うと,
1知識や経験などに基づいて,筋道を立てて頭を働かせる。たとえば,判断する。結論を導き出す。予測する。予想する。想像する。意図する。決意する。
2 関係する事柄や事情について,あれこれと思いをめぐらす。
3 工夫する。工夫してつくり出す。
4 問いただして事実を明らかにする。取り調べて罰する。
5 占う。占いの結果を判断・解釈する。
となる。「考」という字の持つ意味は,
考える
調べる
試みる
永らえる
叩く
問う
正す
比べ測る,
究める
し遂げる
となるから,ほぼその範囲に入る。そういうプロセスを積み重ねることで,自分にとっての知識やノウハウになっていく。
野中郁次郎氏が,知識とは,
思いの客観化プロセス,
と言われたのが,僕には,ひどく気に入っている。「思い」を,「問い」と置き換えてもいい。なんなら,問題意識と置き換えれば,もっともらしくなる。そうやって自ら問い,その答えを考えた結果が,おのれの知識になっていく。
人間が考えるという,この思考活動の内面プロセス自体を明らかにしたのは,スイスの心理学者J.ピアジェであるが,
たとえば3,4歳の子供が遊んでいると,誰に話しかけるというのでもなく独り言をしゃべっている。
4歳女の子「この木にはね,おサルが上るのよ。おサルさんかわいいね,すうっと登ってすうっとおりるのよ」
4歳男の子「ハイウェーだぞ。メルセデスベンツが走るんだぞ,大きいんだぞ」
お互いに誰かと話し合っているわけでないし,人に聞かれているというつもりもない。ただ自分で自分が考えていることをどんどんことばにして,それを刺激にしてまたしゃべっている。これをピアジェは自己中心的言語と名付けた。
これは,思考プロセスそのものが外面化しているとみることができる。成長につれて,通常は独り言は少なくなって,
独り言が次第に聞き取れなくなっていく。それは,自分のためにしゃべっているのであって,別に文脈が整っている必要がないからであり,自分の内的会話と人とのコミュニケーション(社会的会話)とが分離していくということでもある。こうして言語が内面化されていく。すっかり内面化された言語を内語という。
これが考えるという内面的プロセスなら,考えるとは,自己対話と言い換えてもいい。
成人でも,非常に集中したとき,無意識でものを考えながら独り言をいって,自分で思考を方向づけたり,自分を励ましたりしいることがある。そして実はそれは言語だけでなく,たとえばそろばんが上手になると,そろばんをはじく仕草をしたり,頭にイメージを浮かべて暗算したりするように,動作や映像もまた内面化される。
こうした内面化した思考プロセスには,
@動作,行為およびそれらの内面化した過程
A知覚,経験およびその内面化したイメージ
B言語およびその内面化した象徴過程
C現実の因果関係の内面化した法則的論理
の4つがあるとされているが,これは成長のプロセスであると同時に,成人においては層をなしているとみなすことができる。だから,モノを考えるとき,われわれは,以上の4つのパターンを組み合わせているということができる。
動作,行為の感覚で考える,というのは,動作や行為の経験が内面化されている。いわば,動作や行為との対話と言い換えてもいい。必ずしも,自分のそれとは限らず,人の,プロのそれと対話するということもありうる。
動作を想像するとき,思わず躯を動かすということがあるのも,そのためである。ゴルフのスイングを想定するとき,肱の恰好や腰の据わり方を,思わず躯を動かしながら,あれこれ考えている。これは,自分の躯の動きが頭の中にしまわれている(内面化されている)というふうに考えられると同時に,しかし自分が頭で考えるほどに躯は動いてはくれないという事態も生ずる。
イメージで考えるというのは,知覚・経験の内面化したイメージがあり,これも,自分の記憶との対話だけではなく,見た映像や写真というものとの対話も含まれる。それで内側を見たり,裏面を想像したりする。それは映像化された知覚経験の蓄積といったもの,いわばビジュアルなものとのつきあわせである。こうした映像的な思考,あるいはパターン化した思考は,直観につながっているように思う。
言葉で考えるというのは,言葉,つまり意味や文脈で物事を考えたり,判断したりする。成人のわれわれはほとんど言葉,あるいは概念でモノを考えているといっていい。「知っている」というとき,大体「その意味を知っている」といわれるが,もっている言葉で現実を見る眼が変わる。違った意味に見える,ということである。同時に,ソシュールの言うように,言葉は(現実とは関わりなく,あるいは切れても)言葉だけとリンクしながら,そのつながりの流れ自体で意味を創り出すことがある。
理屈・論理で考えるというのは,現実を因果関係や法則で判断する。学んだ知識・経験によって,ものごとを推理したり,類推したり,演繹したりする(こうすれば,こうなる。こういうときは,こうなるはずだ)。これが知識の力といっていい。こうなるのが当たり前,というわけだ。ロジカル・シンキングのロジックツリーがどれだけ整合性があり,論理の筋が整っていても,現実にマッチしないことがあるように,言葉以上に,論理のみの筋道だけで,ロジックが出来上がっていく。
こういう思考のプロセスを積み重ねて,ものを考える枠組が形成される。それには,次の四つがある,とされる。
@自分はどういうときにどうするタイプの人間かという自己(の可能性,傾向の)についての自画像
Aある状況ではこういうことがおき,こういうふうになるであろうという,行動や出来事の連鎖についての経験知
Bかくかくの状況・立場ではこういう役割や行動が期待されているという状況への認知イメージ
C人間はこういう性格と傾向があるといった経験知
Dこうなればこうなるだろう,あるいはこうなればこういう結果になるだろうといった,因果関係の図式の認知
つまり,モノを考えるということは,こういう自分なりの思考の枠組みができているということにほかならない。これによって,その人なりのモノの見え方,見えるものが決まってくる。
しかしである。それは,
こうした思考の枠組が,
世界を安定し,扱いやすいものにし,
私たちに突然襲いがちな予想外の出来事の数を減らし,
生活に生ずる目新しい出来事を飼い慣らし,
新しいものを既知のものに結びつけようとする
ということにほかならない。そうなれば,通常よく知っているタイプの目印となる特徴に注目し,頭の中にいつも持っているステレオタイプによって残りを満たす。それは考えるとは言わない。
自己完結した思考回路は,堂々巡りをするか都合のいい解釈しかしなくなる。それを夜郎自大という。
例えば,フィリップ・ゴールドバーグ『直感術』におもしろい小話が出ている。
ある心理学者は,ノミに「跳べ」といったら跳べるように訓練した。
試みにノミの足を1本取ってみたが,まだノミは命令に従って跳べた。
2本とっても,3本取っても命令に従って,跳びつづけた。
やがて全部の足をとってしまったら,ノミは跳ばなくなった。
そこで,この学者は,次の結論を出した。
「足を全て失ったノミは聴覚をなくす」
ここに考えるということの自己完結さ,というか自己閉鎖した思考の滑稽さがあらわになっている。
僕は考えるというのは,独り言が出発点であったように,自己対話なのだと思う。しかし,本来,自己対話は,その人が生きている現実という文脈の上で成り立っている。ということは,自己完結した,閉鎖的な自己対話はほとんど病気である。生きているということは,人が現実と関わり,人と関わり,情報と関わり,メディアと関わり等々,その都度,さまざまなレベルで対話しつづけているということである。その対話があるからこそ,自己対話を豊かにする。
ミハイル・バフチンは,こんなことを言っている。
人びとは対話を通して,意味の中に生まれてくる
と,つまり,会話は,先行する発話によって意味の中に産み落とされる,それは二人の関係のなかでの会話で決まる。
言葉の意味は,新しい(関係という)コンテクストの中におかれるたびに微妙に変化し新しい言葉がつくり出される。
だから,考えるということは,生きるということが,現実との,人との,情報との,メディアとの,他国との対話である限り,その対話というか,その関係性を反映する限り,自己対話の対話相手(視点と呼び換えてもいい)は増え続け,多様化し,多声化して,成長し続けるはずである。しかし,自己完結した閉鎖的な自己対話は,妄想か空想に陥るしかない。
参考文献;
時実利彦『人間であること』(岩波新書)
相良守次編『学習と思考』(大日本図書)
フィリップ・ゴールドバーグ『直感術』(工作舎)
J.キャンベル『柔らかい頭』(青土社)
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「まじない(ひ)」は,
呪い,
と当てる。呪(のろい)と同じ字である。辞書(『広辞苑』)によると,
「(多く迷信として)神秘的なものの威力を借りて,災いを除いたり起こしたりする術。禁厭,厭勝,符呪,」
という意味が載っている。別の辞書では,
「神仏その他不可思議なものの威力を借りて、災いや病気などを起こしたり、また除いたりする術。」
とある。神仏も入るかどうかの違いだが,迷信とあるからには,いかがわしいものも含まれる,と見られる。実際,
「呪(まじな)う」
という動詞を見ると,
神仏または神秘的威力によって災禍を免れたり起こしたりすることを祈る,
という意味が載る。
呪(なじな)いの語源は,『語源辞典』には,
「魔+シ(行為)+ナヒ(接尾語)」
で,「魔の作用を実現するおこない」とある。ちょっと疑問。
『大言海』には,「まじなふ」について,
「マジは,蠱にて,彼方の體に,此方の霊の交わる意。ナフは,卜(うら)なふ,商(あき)なふのアフと同趣。蠱(まじ)を行ふ意。」
とある。意味として,
蠱物(まじもの)を構えて,人をしてそれに交わり,あやからしめんと詛(のろ)う(詛うは,凶(あ)しからしむるのみなれど,マジナフは,吉からしむるにも云う)。蠱物す。
物を構えて疾苦を止め直す。人のためにも,己れがためにもするなり(薬をも用い,業をもするあり)。
が載っている。因みに,「蠱物」は,「交物(まじもの)の意」で,辞書(『広辞苑』)によると,
災厄が被とに呼ぶように神霊に祈祷すること。またその法術,祝詞,大祓詞。
人を惑わすもの,
が載っている。「まじこり(蠱凝り)」という言葉があって,「マジは,マジナヒのマジに同じ」で,
呪術に熱中する,
という意味らしい。昔も今も,はまる人ははまるらしい。
「まじなふ」の「まじ」は,『古語辞典』
「マジコリ,マジモノ,マジワザなどのマジと同じ。人に対するのろい,病気の治癒など,善悪に関わらず呪術の意」
とあるように,「(彼方の體に,此方の霊の交わる)まじわる」意味なのだろう。霊を飛ばすことが,良くないと言われる所以である。別に,
http://okwave.jp/qa/q1235084.html
には,「まじなふ」の「なふ」は接尾語で、「伴なふ」「行なふ」「商なふ」「占なふ」「諾(うべ)なふ」「罪なふ」「誘(いざ)なふ」などに含まれるものと同じと,用例がより詳しく,
「『まじ』は名詞で『蠱』と書くことが多いようです。人形その他の『まじもの(蠱物)』を使い、呪法を行なって敵を滅ぼすなどの目的を達しようとすることを言ったものと思います。この意味を取って『呪』が当てられるようになりました。」
とある。しかし, 「呪う」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E5%91%AA%E3%81%86)で触れたように,呪う
は,語源的には,
「祈る(ノル)」+「ふ」
で,基本は,「祈る」の延長戦上にあるものらしい。「呪」という字も,
口+兄
で,もともとは,「祈」と同じで,
神前で祈りの文句を称えること
なのだが,後,「祈」は,
幸いを祈る場合,
「呪」は,
不幸を祈る場合,
と分用されるようになった,とある。
いまもむかしも,おまじないは尽きず,「幸運をもたらすと信じられているもの」に,
御守り
護身符
お札
魔よけ
護符
等々があるが,考えれば,これも,蠱物で,そのお札やお守りという
「蠱物を構えて,人をしてそれに交わり,あやからしめんと詛(のろ)う」
という意味であり,ある意味,「彼方の體に,此方の霊の交わる」に変りはない。言ってみれば,日々そうして,交わっている,ということになる。
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「地震・雷・火事・おやじ」は,一般には,
地震,雷,火事などの災害に匹敵するほど親父が怖かったのは,年長の男性によって支配される家族制度である家父長制のもとでのことで,現在では親父はそれほど怖いものとは思われていない。
「親父」の代わりに「女房」や「津波」など,怖いと思うものに置き換えて使われることもある。「親父」は「親爺」とも書く。
と説明されることが多い。しかし,「地震・雷・火事・おやじ」のおやじは親父ではなくて,
「大山風(おおやまじ)」もしくは「大風(おおやじ)」であり,簡単にいうと「台風」のこと。
と言うもっともらしい説が,流布している。で,
「・・・『地震,雷,火事,おやじ』のおやじは,オオヤマジ(大きい風=台風)がなまったという説もある」,と『お天気生活事典』などの著書がある福井地方気象台防災業務課長の平沼洋司さん(59)は話す。」(朝日新聞)
という説明があったりするので,ややこしい。しかし,
おおやまじ
すべての辞書検索で該当する情報は見つかりませんでした。
という報告もあり,その報告では,
「なお『大やまじ』説が,はじめて紹介された書籍を調べると,なんと!森田正光さん著の『雨風博士の遠めがね―お天気不思議ものがたり』(新潮社
1977)にたどり着くのだそうです。
ということは,責任の矛先は森田さんに向くわけです。森田さんの弁解?によれば,むかし気象庁などの大先輩の何人もが『大やまじ』説を口にされてるのを聞いた記憶があり,件の書籍で書くに当たって書籍で調べた所,明確な根拠は見つからなかったので『こういう説もある』と断定はしなかったそうです。
それが,テレビのクイズ番組などマスコミであっという間に広まり,いつの間にか通説として現在定着してしまったというのが実態のようです。だいたいマスコミで広まった時期も2000年以降だそうで,このあたり符合しています。」
とあり,上記の朝日新聞記事も,その時期らしい。考えてみれば,
地震・雷・火事・おやじ
と落ちるから面白いのであって,
地震・雷・火事・台風
では,面白くも可笑しくもない。やはり,諺に,もっともらしい理屈をひねり出した人間がいるのだろう。
道を聴きて塗(みち)に説くは,徳をこれ棄つるなり
である。「尤もらしい」の「尤も」というのは,元来,
御尤も
というように,ちょっと茶化すニュアンスがなくもない。
どこから見ても理屈にかなっている
という意味だが,
「もっとも,…」
と接続詞として使うときは,
そうは言うものの
ただし,
はたまた
という余白を残している。だから,
ご無理御尤も
もっともごかし
もっとも至極
もっとも千万
という使い方をするので,「尤もらしい」という口吻をちょっと含めていなくもない。
御尤も役
という,「御尤も」と相槌を打つ役が,端役の代名詞にあるくらいだが(ちょっと意味が違うか)。
「尤」の字は,
手の肘+―
で,手のある部分に,いぼやおできが出来るなど,思わぬ事故の生じたことを示す,という。で,災いや失敗の生ずることで,肬(いぼ)や疣(いぼ)の原字。多くは,
科,
わざわい
とがめる,
失敗を責める
という意味で,いい意味ではないが,
尤者
で,優れたものという意味もあるので,
もっとも,
目立っていちばんに,
とりわけ,
という意味を持っていないわけではない。普通もっともというと,「最も」と当てるが,「最」は,
最上,
最初
という意味で,「最」は,
「おおい+取る」
で,かぶせたおおいをむりやりにおかして,少量ずつ,つまみ取ることを示す,という。もともとは,「極少」の意味なのに,「少ない」の意を失って,「いちばんひどく」の意となったとされる。日本語で言うと,
「最」は,
「いとど」と訳す。はなはだの意で,優れて異なる,という意味,日本語で言うと,「けやけし」になる。「けやけし」とは,
異様だ
際立つ
こしゃくである
と辞書にある。「もっとも」と言いつつ,
確かに理屈に合っているが,小癪,小賢しい,と感じているということだ。つまりは,心のどこかで,
?
を感じている,という意味だ。
もっともらしい,
とは,兎角言い得て妙である。確かに,
地震・雷・火事・大やまじ
には,小癪なもっともらしさがある。しかし,「御尤も」と茶化すに如くはない。
参考文献;
http://flyman.jugem.cc/?eid=1046
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)
上へ
躾については,「しつけ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E8%BA%BE)
で書いたことがある。躾は,犬猫の躾と同じで,立ち居振る舞いの規制であるが,それを社会的に広げれば,礼あるいは礼儀である。お行儀が悪い,といわれれば,それは,ある意味,躾と礼儀作法の両方を含んでいる感じである。
躾は,
礼儀作法を身につけること。
縫い目を正しく整えるために仮に縫い付けること。
行儀は,
立ち居振る舞いの作法のほか,修行・実践に関する規則,という仏教の儀式上の意味もある。
礼儀は,
社会生活の秩序を保つために人が守るべき行動様式,敬意を表す作法。
とある。敢えて言えば,ベン図ふうに図解するなら,躾の円の外側に,行儀の円,その外に,礼儀の円が同心円に重なっているとも見えるが,礼儀を身につけさせることを躾けと言う,という言い方もできる。
仮縫いの躾があるから,まともな縫い付け,つまり社会的なありよう,対人関係のあり方,振る舞いができるようになる,
ということもできる。躾について,
人間または家畜の子供または大人が,人間社会・集団の規範,規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように,訓練すること。概念的には伝統的な子供への誉め方や罰し方も含む。
という説明もある。その意味では,社会的人間としてのありようを整えるという意味がある。他の,群れで暮らす動物にも,その躾はあるようだから。
交通ルールと同じで,社会的に関わる以上,相互に当たり前とする了解事項がある。それを前提にして動いているから,それを外されると,基本的なかかわりがぐちゃぐちゃになる。
躾は,前にも書いたが,
「シ(為・仕)+付けるの連用形」。
で,「仕付く」とは,
馴れている
身についている
という意味で,「仮に糸で縫い押さえておく」という「躾(仕付け)」の意味は,なかなか意味深である。つまり,躾けられただけでは,まだ仮免許なのである。あとは,おのれが日々身につけて,
おのれの立ち居振る舞い
として完成させていく。それが,躾,つまり,
身の美,
礼儀なのではないか。礼の人,孔子(因みに孟子は,義の人らしい)は,
命を知らざれば,以て君子と為すなすことなきなり。礼を知らざれば,以て立つことなきなり。言を知らざれば,以て人を知ることなきなり。
という。人として,「立つことなき」とはなかなか厳しい。これを逆さにすれば,
君子博く文を学びて,これを約するに礼を以てすれば,亦以て畔(そむ)かざるべし。
とも。躾は,「仕付け」に過ぎず,学ばなければ,おのれのものにならない。それは,意味を知る,ということなのではないか。意味とは,目的である。目的とは,志である。
志は気を師(率)いるものなり。気は体を充(統)ぶるものなり。夫れ志至れば,気はこれに次ぐ。故に曰く,其の志を持(守)りて,其の気を暴(害)うこと無れ。…志壱(専)らなれば気を動かし,気壱らなれば則ち志をおごかせばなり。
と,孟子は言う。孔子は,別の言い方をする。
名正しからざれば則ち言順(したが)わず,言順わざれば則ち事成らず,事成らざれば則ち礼楽興らず,礼楽興らざれば則ち刑罰中(あ)たらず,刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。故に君子これに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。
名すなわち名目,あるいは名分といってもいい。目的である。個人にとっては,志である。行き当たりばったりの言に信用がないのは,今日の日本を見ればわかる。名目なく,言なく,礼なき国が,立つところがあるはずはない。
礼を為して敬せず,
とは,礼なきに等しい。いやいや,人ではない。
人にして仁ならずんば,礼を如何せん。
である。仁とは,
子曰く,人を愛す。
あるいは,孟子曰く,
惻隠の心
である。
ヒト皆人に忍びざるの心有り。
の心映えである。
惻隠の心無きは,人に非ざるなり。辞譲の心無きは,人に非ざるなり。是非の心無きは,人に非ざるなり。惻隠の心は仁の端(はじめ)なり。羞恥の心は,義の端なり。辞譲の心は,礼の端なり。是非の心は,智の端なり。
惻隠の情なき人は,人ではない。人でない為政者は,為政者の資格がない。それは,そもそも躾られていない人である。仕付けられていない人にかぎって,多く,他人には多くを求める。
匹夫も志を奪うべからざるなり,
等々は,仕付けられていない人の耳に届くことはない。ならば,
その身正しければ,令せずして行われ,その身正しからざれば,令すと雖も従わず
である。
参考文献;
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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中国絵画における,気の表現については,「気」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-5.htm#%E6%B0%97)
で触れたが,僕は,気というと,
浩然の気
という言葉がすぐに浮かぶ。浩然の気とは,
曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞つ。その気たるや,義と道とに配す,是なければ餒うるなり。是れ義に集いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(よか)らざることあれば,則ち餒う。
と,まあ,注釈では,
天地にみなぎっている,万物の生命力や活力の源となる気。
物事にとらわれない,おおらかな心持ち。
とある。「天の和気」が浩然の気とされる。では,そもそも「気」とは何か。これはなかなか難しい。
漢字の「気(氣)」は,まず,
「气」は,遺棄が屈折しながら出て来るさま,
といい,
「气+米」で,米をふかすとき出る蒸気
を指す。漢字の「気」の意味は,
@息。「気息」「呼気」
A個体ではなく,ガス状のもの。「気体」「空気」
B人間の心身の活力。「気力」「正気」
C漢方医学で,靭帯を守り,゛い名を保つ陽性の力のこと。「衛気」
D天候や四時の変化を起こすもとになるもの陰暦で,二十四気。「節気」「気候」
E人間の感情や衝動のもととなる,心の活力。「元気」「「気力」
F形はないが,何となく感じられる勢いや動き。「気運」「兵革之気」
G偉人のいるところに立ちあがるという雲気。「望気術」
H宋学で,生きている,存在している現象を言う。「理気二元論」
Iかっとする気持ち。「動気」
となるが,日本語で言う「気」は,固有の日本語としてはない言葉で,漢字の音をそのまま使い,
目に見えないが,空中に満たされているもの,
といった意味で,漢字の意味を流用しながら,微妙に違う意味にスライドしている。
@天地間を満たし,雨中を構成する基本と考えられるもの。またその動き。
・風雨・寒暑などの自然現象。「気象」「気候」「天気」
・15日のたは16日間を一期とする呼び方。三分してその一つを,候と呼ぶ。二十四節気。
・万物が生ずる根元。「天地正大の気」
A正命の原動力となる勢い。活力の源。「気勢」「精気」「元気」
B心の動き・状態・働きを歩赤津的に表す。文脈に応じて重点が変る。
・(全般的に見て)精神。「気を静める」「気が滅入る」
・事に振れて働く心の端々。「気が散る」「気が多い」
・持ちつづける精神の傾向。「気が短い」「気がいい」
・あることをしようとする心の動き。つもり。「どうする気だ」「気がしれない」「まるで気がない」「やる気」
・あることをしようとして,それに惹かれる心。関心。「気をそそる」「気を入れる」「気がある」「気が乗らない」
・根気。「気が尽きた」
・あれこれと考える心の動き。気遣い。心配。「気を揉む」「気に病む」「気を回す」「気が置ける」「気になる」
・感情。「気まずい」「気を悪くする」「怒気」
・意識。「気を失う」
・気質。「気が強い」
・気勢。「気がみなぎる」
Cはっきりとは見えなくても,その場を包み込み,その場に漂うと感じられるもの。
・空気。大気。「海の気」「山の気」「気体」「気圧」
・水蒸気のように空中にたつもの。気(け)。
・あたりにみなぎる感じ。「殺伐の気」「鬼気」「霊気」「雰囲気」
・呼吸・息遣い。「気息」「酒気」
Dその物体本来の性質を形づくるような要素。「気の抜けたビール」
等々,僻目かもしれないが,どうも,具体的にもの,形而下的な,あるいは現象としての「気」にシフトして使われている気がしてならない。矮小化する,というと貶めすぎだろうか。
たとえば,元気は,
天地の間に広がり,万物生成の根本となる精気
を指し,「儒教における生成論で宇宙の根源である太極に呼応する概念,『元気・陰陽・四時・万物』の一つ」とされるのに,
活力の源となる気力
から変じて,
健康で勢いのいいこと
と,心と体の活動性を示す言葉に代わっている。
精を練って気に化し,気を練って神に化する
ときにも「気」であるし,五気朝元,つまり,
木・火・土・金・水
の五気(五行)が,「元」に帰一する,「気」であり,さらには,
陰陽二気
の「気」であり,そして,
「神を練って虚に還し,復た無極に帰す」
と,循環する。
「万物は五行に還元せられ,五行は陰陽に還元せられ,陰陽は太極に,太極は無極に還元せられる」
という宇宙観の背景にあるのが,「気」となる。
中国で「気」の哲学される張横渠は,
「天地は虚を以て徳となす,至善なるものは虚なり」
として,「虚の極致,『太虚』」が天地宇宙の別名とする。
「太虚とは…気の充満」であり,
「聚まりて万物とならざることあたわず,万物は散じて太虚とならざることあたわす」
として,
万物は気の凝集によってできたものであり,その気は宇宙合そのものを形成している。
人も万物も「気の海」に浮かんでいる,
とは,まるで,気は「原子」そのものようである。だから,張横渠の哲学は「唯物論」と位置づけられる,と言う。
「気は坱然たる太虚にして,あるいはのぼり,あるいは降り,あるいは動,あるいは靜,あるいは屈し,あるいは伸び,飛揚して一瞬もとどまることがない。これがすなわち『易』でいうところの『絪縕』である。」
『易経』には,
天地絪縕して万物化醇し
男女精を構せて,万物化生す
とある。絪縕とは,「密接にまじりあうこと」という。
「気は不思議な存在である。どこまでも同じ一つの気でありながら,しかも同時に,常に必ず陰陽二気である。二にして一,一にして二,本質的に矛盾的な存在である。いっさいの存在は,このような気(陰陽)の自己運動の過程からせいりつしてくるものにほかならない。それはあたかも水と氷のごとくであって,すべての存在は変化の途中におけるただ一時形,ちょうど水の一部分が氷となって浮かんでいるようなものである。」
このような気の自己運動から,万物が生まれる。
「気によって化する」
そこにこそ「道」がある,と言うのである。
「太虚によりて天の名あり,気化によりて道の名あり」
と。島田虔次氏は,こう表現する。
「『道』とは,野馬,盛んな活動状態を内に含みながら,しかもこのうえないハーモニー,すなわち『太和』を保っているところ,そこにこそ『道』があるのである。」
と。そして,
「生とは気の集結であり,死とは気の解散」
である,と。この先に,理気二元論の朱熹が来るらしいのだが,ま,それは別の話として,こう「気」を振り返ってみると,
「浩然の気」
が,単なる,
天地にみなぎっている,万物の生命力や活力の源となる気。
物事にとらわれない,おおらかな心持ち。
ではないはずである,天地生成の気を感じ,おのれが,道を意識している,という気概まで含んでいるように見える。
「志は気を師(率)いるものなり。気は体を充(統)ぶるものなり。夫れ志至れば,気はこれに次ぐ。故に曰く,其の志を持(守)りて,其の気を暴(害)うこと無れ。…志壱(専)らなれば気を動かし,気壱らなれば則ち志を動かせばなり。」
とはこの心境か。
参考文献;
島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
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昔から,粗忽である。軽率と言い換えてもいい。粗忽とは,辞書的には,
@あわただしいこと。あわただしくことを行うこと。
A軽はずみなこと。そそっかしいこと。また,そのさま。軽率。
B不注意なために引き起こしたあやまち。そそう。
C唐突でぶしつけなこと。失礼なこと。また,そのさま。
とある。ここにないが,もうひとつ,早飲み込みというのがある。早合点,である。軽はずみに含まれる,と言えば言えるが,分かったつもりで動いて,結果,その後処理にバタバタする,という奴である。行動自体は同じことになる。
「粗忽」の語源では,
「粗(あらい)+忽(うっかりする)」
で,そそっかしい,というニュアンスが強い。因果をたどると,
あわただしい,
というか,
気持ちがせかせかして落ち着きがない,
というか,まあ,
せっかち
に起因している,というように見える。で,結果として,
軽はずみになったり,
不躾になったり,
ということになる。語感的には,
不注意による過ち,
そういうことの多い性格,
となるが,たぶん,一種のトンネルビジョンに陥っている,ということだ。何か一点に気を取られて,あるいは思い込んで,たとえば,忘れ物でも,なくしものでもいいが,そのことが視野を蓋って,モノが見えなくなり,あわてる,ということになる。
バタバタするのは,
所要時間の見積もりが,実時間より長く見積もっていたか,
実時間の見積もりが,所要時間よりも短く見積もっていたか,
いずれにしても,実時間不足と思い込んでいるか,実時間不足に陥るかの差はあっても,その時点では(時間がないと),焦っていることに変わりはない。
落ち着け,
という声がかかるのは意味があって,トンネルビジョンから,つまり,そういう心理的どつぼから抜け出すには,
距離を置く,
しかなく,それにはまずは,立ち止まるしかない。それが,
時間的にか
空間的にか,
は別にして,距離を置く第一歩だからだ。
落ち着く,
というのは,
「オチ(おさまる)+ツク(安定する)」
で,おさまる,しずまる,という意味になる。それは,
その場に立ち止まる,
まずは,止まって居つく,
というニュアンスがある。そう考えると,粗忽の類語とされる,
そそっかしい,
軽々しい,
はまだしも,
上っ調子,
おっちょこちょい,
軽はずみ,
軽率,
と「粗忽」とは少しニュアンスが違う。ましてや,
軽佻浮薄,
無分別,
盲目的,
とはかなりの隔たりがある。結果として,軽率な振る舞いになるにしても,上っ調子や,おっちょこちょいなのではなく,何かに捉われ,執着してしまう結果の,
不注意な行動,
ということになる。外見は,変らないにしても,内心の葛藤は,かなりの差がある。単に何も考えず,軽はずみに,というよりは,考えているうちに,何かにとらわれ,逆に,執着し,考え込んだ結果のバタバタになる。そのせいか,
忽
には,
うっかりしているまに,
こころがうつろなさま,
というニュアンスがあり,
勿(ブツ)
は,吹き流しがゆらゆらして,はっきりと見えないさまをえがいた象形文字で,
「心+勿」
は,心がそこに存在しないまま,見過ごしていることを,示す。同じく,心ここにあらずでも,どこかに,まだ救いがある,というのは,思い入れが過ぎるか,
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
日本中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
上へ
「当局者迷」というフレーズを,昔手帳に書きとったまま,放ってあった。調べると,
当局者迷 傍観者清(旁观者清)」
と続くらしい。だから,
当事者は目がくもり傍観者はよく見える,岡目八目,
となる。これも,元は,
「碁を打っている本人は局面がしばしばわからなくなるが,傍で見ている人は却ってはっきりとわかっている,というところから派生して,当事者は問題の局面がしばしばわからなくなるが,部外者のほうが却ってはっきりと把握していることをいうようになった。」
とある。しかし,
当局者迷
だけなら,
知らぬが仏,
ということになる。裸の王様,と言い換えても的を外すまい。「知らぬが仏」は,「知るが煩悩」か「見ぬが秘事」と続く。知らない方が,幸せということもあるが,どこかに嘲りがある。
トンネルビジョンに陥りやすい,ということなのではないか。多く,迷路に入り込んだとき,頭の隅で,自分がトンネルに入っているのではないか,という疑念がかすめる。人は,メタ・ポジションにも,メタ・メタ・ポジションにも立てる。それがそう囁いている。しかし,信じているというか,思い込んでいるというか,妄想に陥っているときは,そこしか見えない。
これしかない,
とか,
この道しかない,
等々というのは,もはや迷路に入り込んでいる証拠である。ヴァレリーだと思ったが,
アイデア一杯の人は決して深刻にならない,
と言った。選択肢が一杯あることを知っているからだ。この選択肢が一杯だせることを,発想力が豊かと言うが,思い込んだ結果,鬱に落ち込むか,ひと様を巻き込んで,一緒に奈落に陥るか,のいずれかである。だから,トンネルビジョンに陥ったときは,まずは立ち止まり,
距離を置く。
時間的にか,空間的にか,距離を置く。いまひとつ,自分を他人の目でみるという手もある。たとえば,自分の尊敬した人の目で,「その人なら自分をどう見るか」と,いわゆるエンプティチェアの独演である。しかし,所詮,自己対話に過ぎない。限界がある。
だから,優れたトップは,別の声を必ず傍に置く。ホンダやトヨタの例を出すまでもなく,秀吉なら,小一郎(秀長)であり(堺屋太一『豊臣秀長―ある補佐役の生涯』がある),家康なら本多正信,と言うところだ。しかし,小一郎死後秀吉がトンネルビジョンに陥ったように,ひとり舞台となると,自分の妄想から出られなくなる。
軍師と言うのは,講談本ならともかく,日本には存在しなかった。たとえば,
「軍師は,西欧の軍制度における参謀などと異なり,軍司令官的な存在とも対等,ないしやや上位の関係にあり,賓客(要人),顧問的な立場であった。時として君主の師匠扱いもされ,君主より上位の存在の場合すらあった。」
と言うが,こうした軍師像は,儒教道徳的な考え方,後世のイメージによって創作された部分が大きく,実際に軍司令官的存在に対し,上位の立場で軍事にのみ助言する軍師という存在は『三国志演義』・『水滸伝』,あるいは日本の戦国時代を基に作られた軍記物などの創作の世界にのみ登場する存在,らしい。
たとえば,ウィキペディアでは,
「官制上の軍師は,両漢交替期の群雄が名士を招聘したことに端を発する。劉秀配下のケ禹における韓歆,隗囂における方望が当時の軍師の例である。諸軍閥は軍師を文字通り『師』として,帷幄で謀略をめぐらす任務を託した。群雄と軍師との関係は君臣の間柄ではなく,軍師は進退去就の自由を有する賓客として遇された。両漢交替期の軍師は戦時体制下の臨時職であったため,後漢の中国統一ののちに廃止された。」
とあるから,今川義元の,朝比奈泰能,太原雪斎がそれに近いのかもしれない。軍師と言うより,師と言う感じである。その意味では,上杉景勝の直江兼続は,家康の本田正信に近い存在かもしれない。謀臣ではあるが,軍師ではない。対話対手,という言い方が近い。
実際,秀吉の軍師として有名な官兵衛も,肝心の賤ヶ岳の合戦には,戦場にいなかったことが,官兵衛に指示する文書から明らかだし,竹中半兵衛も,将官に過ぎず,秀吉を動かせる人物ではない。第一,官兵衛も,半兵衛も,信長の家臣で,あくまで信長の指示で秀吉を与力しているにすぎない。
自己対話は,多く妄想を増殖させる。それを煽るのが,佞臣。つまりへつらう臣である。多く,その実像は,今日の日本の為政者周辺で見ることができる。メディアのトップ,産業界のトップまで,官房秘密費で,飲食し,「いわゆる同じ釜の飯を食う」に近い状態にしている。これでは,自己増殖は止まらない。
自己対話に,批判的な視点をいれるのが,いわば,謀臣であり,参謀であると思う。謀臣とは,はかりごとを立てる臣,という意味と,主君に反逆する臣下の意味とがある。参謀とは,指揮官を補佐して,作戦,用兵その他一切の計画・指導に当たる人,である。因みに補佐とは,人の仕事を助ける人,とある。補佐は,輔佐ともかく,
「補」の字の, 「甫」は,
田んぼの(「圃」)原字。平らにへばりつくの意をもつ。「おぎなう」意である。
「衣+甫」で,布切れを平らにして,破れ目にぴたりとへばりつかせる,
という意になる。で,「補」の意味は,「おぎなう」だが,
衣服の破れ目に布切れをあてがう(「補綴」「補衣」)
不足しているところをたすける(「補欠」)
利益やためになる助け(「小補」)
助ける役
といった意味の広がりになる。では,「輔」は,
「車+甫」
で,車に沿えた添え木。だから,「輔」の意味は,たすけるだが,添え木,という意味で,
車を補強する添え木(「輔車」)
その人のそばにひたとくっついて力を添える
そばに寄り添って助ける
というように,寄り添う添え木の意味が強い。
因みに,「謀」は,楳=梅の原字。暗くてよくわからない,意味。したがって,はかりごとは,陰謀とか謀議とか,あまりいい意味はない。となると,「輔」の添え木ではない,「補」の,不足やかけているものを補う,「補佐」が,この場合の「傍観者」に当たる。
今日,どれもこれも,金太郎飴のように,悪相で,人品骨柄の賤しい人間しか周りにいないのは,トップの器量そのものの反映である。沖縄県知事への対応を見ている限り,到底,人物ではない。しかし,そんな人物をトップにいただくことは,残念ながら,それ自体が,日本人すべての器量の反映である。内誉めでなければ,外からは,そう見えるはずである。
上へ
何かを学んだとき,うろ覚えたが,確か,8時間後には,その,
1/2〜1/3
を忘れる,と言われる。たしか,エビングハウスの忘却曲線というやつだ,調べ直すと,
「20分後には42%を忘却し,58%を保持していた。 1時間後には56%を忘却し,44%を保持していた。 1日後には74%を忘却し,26%を保持していた。
1週間後(7日間後)には77%を忘却し,23%を保持していた。 1ヶ月後(30日間後)には79%を忘却し,21%を保持していた。」
とある。聞いたり,体験したりする直後から忘れていく,というらしい。しかし,僕は,これをあまり信じていない。忘れているのではなく,脳のなかに貯蔵された記憶とアクセスがしにくくなる,ということだと思っている。まあ,俗説に,死の直前,
一生分が,フィルムのラッシュのように,目の前を流れていく,
というのをどこかで信じているせいかもしれない。しかし,アクセスできないというのは,知らないのとほとんど変わらない。その意味では,学んだことを,使ってみることで,脳のリンクが強化される,というのは,正しいようだ。少なくとも,
学んだり,体験しただけでは,自分のスキルやノウハウにはならない,
というのは正しいようだ。その意味では,一度立ち止まって,
何を学んだのか,
何を経験したのか,
を振り返っておくことは,重要なのだと思う。その振り返り,というのは,
自分のもっている知識や経験とすり合わせて,それとつなぎ直す,
という作業なのではないか。自分のもっている知のネットワーク,体験のネットワークの中につなぎこむ,ということだ。それは,
得た知識
と
やってみた体験
と,自分の知識・経験とを,メタ・ポジションから見る視点をもつということなのかもしれない。
知には,G・ライルの言うように,
Knowing how
と
Knowing that
があるのだが,体験したことをつなぎ直すというのは,
どうやったのか,
どう学んだのか,
というKnowing howを,
Knowing that化
することに他ならない。王陽明は,
抑々知っているという以上,それは必ず行いに現れるものだ。知っていながら行わないというのは,要するに知らないということだ。
と言うが,そもそも,
Knowing that
と
Knowing how
を別と考えることが間違っている,というに等しい。王陽明の,
知といえばすでにそこには行が含まれており,行とだけいえばすでに知が含まれている…,
というのもその趣旨だ。
知は行の始(もと),行は知の成(じつげん)
とはその意味だ。あるいは,知は自己目的ではない,と言い換えてもいい。
行のための知でもなく,知のための行でもない。
元来は,
そのことをよくしようと求めるから学といい,その惑いを解こうと求めるから問といい,その理に通じようと求めるから思といい,その考察を精にしようと求める上から弁といい,その実際を履行しようと求める上から行という…,
ものなのではないか。それは,『中庸』の,
博くこれを学び,審らかにこれを問い,謹みてこれを思い,明らかにこれを弁じ,篤くこれを行う。学ばざることあれば,これを学びて能くせざれば措かざるなり。問わざることあれば,これを問いて知らざれば措かざるなり。思わざることあれば,これを思いて得ざれば措かざるなり。弁ぜざることあれば,これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。行わざることあれば,これを行いて篤からざれば措かざるなり。
から来ているし,元をたどれば,『論語』の,
子夏曰く,博く学びて篤く志り,切に問いて近くに思う,
につながる。そもそもかつての知は,実践のための知であった。
行えない,
行わない,
のは知ではないのである。いわゆる,
修身斉家治国平天下
である。つまり,
古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は先ずその実を脩む。その身を脩めんと欲する者はまずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠に千と欲する者はその知を到(きわ)む。知を到むるは物に格(いた)るに在り。物に格りて后知至(きわま)る。知至まりて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。
いやはや,ノウハウ(Knowing how)抜きの知(Knowing that)はなかったのである。
それにしても,秘書がとか,妻がとか,そもそもしかるべからざる人間が上にいて国が治まろうはずはない。その現状を見るとき,大塩平八郎を思い出さざるをえない。
それでもなお,知の破綻は,自己完結によってもたらされる。現実との格闘抜きの自己完結があり得ないところで,自己完結させれば,知は細る。
大塩平八郎が,「此節米価弥高直ニ相成,大坂之奉行并諸役人とも,万物一体の仁を忘れ,得手勝手の政道をいたし」と,一揆の檄文に書かざるを得なかったのは,おのれの「万物一体の仁」の思想に反してでも,そこに閑居して見過ごせない「惻隠の情」に従ったとみるべきだ。そして,現今の為政者も,天保当時の幕閣と比べても劣らない体たらくである。
とすれば,ノウハウとは,ただ知の自己完結ではない。「民を視ること傷めるが如し」という思想を実践することを手ばなして,「万物一体の仁」を称えることは出来ないという,(大塩が体現した)最後の倫理が見える気がする。それもまたKnowing
thatである。
参考文献;
溝口雄三訳注『伝習録』(中公クラシクス)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
上へ
かつては,自責化という言い方で,
@自分が主体になって解決する。もちろん必要なら,メンバーや上位者の支援を求める。その判断も自責である。
A自分に解決できるカタチに置き換える。こういうカタチなら,ここまでできるという判断がつけられる。
と,仕事に置ける,自己責任の取り方を,常々おのれに言い聞かせてきた(それが常にできたとは言わないが)。それは,生き方においても同じなのではないか。
人事を尽くして天命をまつ,
という言葉が好きになれないのは,どこかに,決裁を仰ぐ姿勢がある。しかし,神田橋條治氏流に,
天命を信じて人事を尽くす,
か,清澤満之の,それを,
天命を安んじて人事尽くす,
に換えたものの方が,自責に近い。天命というと,場違いかもしれないが,おのれの役割,使命と置き換えてもいい。
生きるのも為すのも自分である。他力に頼ったところで,それにすがってやったのでは,自責ではない。他力本願とは,ある意味,すがることの放棄である。
はからい
を捨てることである。それは,逆に言うと,何かをしたからとか,しなかったから,というおのれの思い入れや希望や仮託を捨てることである。それは,自分の責任で生きる,ということに他ならない。
天命
は,ただ,それを自覚しなければ,耳にも心にも聞こえない。主体的なかかわりの中で,自分の責任で生きる。その結果を忖度しない。
他力には義なきを義とす
とは,
「『義』とは,自力のはからいをさしているから,人間の思慮や作為を否定するのが他力である」
意味とされる。だからと言って,どんな生き方をしてもいいということではない,と思っている。『歎異抄』の,
「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく,『悪人なほ往生す,いかにいはんや善人をや』。
この条,一旦そのいはれあるに似たれども,本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは,自力作善の人(善人)は,ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ,弥陀の本願にあらず。しかれども,自力のこころをひるがへして,他力をたのみたてまつれば,真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は,いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを,あはれみたまひて願をおこしたまふ本意,悪人成仏のためなれば,他力をたのみたてまつる悪人,もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ,まして悪人はと,仰せ候ひき。」
も,だからと言って,自責なき生き方をしていい,という意味ではない。おのれの人生の舞台で,おのれの天命を尽くす,後は,計らいをいれない。
其の道を尽くして死する者は,正命なり
と,『孟子』にあるのもそれである。
中島らもが,
「人間にはみな『役割』がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。」
と言っていた(そうだが,そういう)のも,それに違いない。スピリチュアリティにおいてすら,
「人生には目的があります。しかしその目的は,それに携わる人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。…あなた方には個的存在としての責任と同時に,ある限度内の自由意志が与えられているのです。」
という。それは,
「内部に完全性を秘めそれを発揮しようとしている未完の存在」
であるからこそ,
「人生はしょせんは一つの長い闘いであり,試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身をおいている」,
その場で,「この世に存在する目的」を果たす努力なしにはない,それを通して,
「自分とはいったい何なのか,如何なる存在なのか,如何なる可能性をもつか」
を悟ることはない,と言っている。神田橋條治さんのいう,
遺伝子の可能性の開花,
もそれだし,孟子の,
万物皆我に備わる,
というのもそれであり,
之を求むるに道あるも,之を得るに命あるは,是れを求むることを得るに益なきなり。外に在る者を求むればなり。
というのもそれである。
仏性
といい,
一切衆生悉有仏性,
というのも,またおのれの中にある。
「仏性を開発自由自在に発揮することで,煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく,また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び,仏法修行の究極の目的とされている。」
という(説明される)のにも通じる。
参考文献;
アン・ドェーリー編『シルバー・パーチの霊訓(一)』(潮文社)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
上へ
『孟子』にある,
我善く浩然の気を養う。敢えて問う,何をか浩然の気と謂う。曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞(み)つ。その気たるや,義と道とに配す。是れなければ餒(う)うるなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(こころよ)からざることあれば,則ち餒う也。
は,「浩然の気」が独り歩きして,士の心映えを示すものになった。その例が,文天祥の,
天地に正気あり,
雑然として流形を賦す
下は則ち河嶽と為り
上は則ち日星と為る
人に於いては浩然と為る
沛乎として滄溟に塞つ
皇路清く夷(たい)らかに当たりて
和を含みて明庭に吐く
時窮まれば節乃ち見(あら)われ
一一丹青に垂る
という「正気の歌」につながる。この歌は,これに和した,藤田東湖の,
天地正大の気
粹然として神州に鍾まる
秀でては不二の嶽杜為り
巍々として千秋に聳ゆ
注いでは大瀛(だいえい)の水と為り
洋々として八洲を環(めぐ)る
発しては万朶の桜となり
衆芳與(とも)に儔(たぐ)ひ難し
凝りては百錬の鉄となり
鋭利鍪(かぶと)を断つ可し
盡臣皆熊羆にして
武夫盡く好仇なり
神州孰か君臨せる
万古天皇を仰ぐ
皇風六合に洽(あまね)く
明徳太陽にrし
世として汚隆無くんばあらざるも
正気時に光を放つ,
という「正気歌」を通して有名になった。しかし,明らかに,文天祥にとって,おのれ一個の気概をうたったものが,おのれがたつ国誉めに変身してしまった。
文天祥に和して,東湖は,意味を変えた。
正気,浩然の気とは,おのれの信ずる確信に基づく。自分のなかにある譲れない何か,それが正気に通じている。おのれのみの節義だ。それはこの国のありようとはつながらない,おのれの拠って立つ何ものかのはずだ。それをこの国のありようとつなげた瞬間,おのれの生きざまの言い訳になる。おのれを小さな国体につなげてしまったことになる。そうすることでおのれの拠って立つ拠り所をえたかも知れぬが,天地はもっともっと広く,広大無辺のはず,そういう天地の正気ではなくなっている。
それは東湖にとって,異国への,おのれを正当化する言い訳として,だしに使われている。国がなくなろうが,会社がなくなろうが,おのれが持さねばならぬ義ではなくなっている。
いま,それと同じ空気が流れている。自画自賛が満ち溢れている。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/404516184.html
で,触れた。
義は,
正義ではない。「義」の字を構成する,
我
は,「ぎざぎざとかどめのたった戈」を描いた象形文字であり,「義」は,
「羊+我」
で,
かどめがたってかっこうのよいこと,
きちんとして格好の良いと認められるやり方,
を意味する。孟子の言う意味は,
よしあしの判断によって,適宜にかど目をたてること,
という。あるいは,
羞悪の心が義の端
とする。悪すなわち悪く,劣り,欠け,あるいはほしいままに振舞う心性を羞じる心である。それは,あくまで,倫理である。倫理とは,
(おのれが)いかにいくべきか,
であって,人に押し付けたり,押し付けられたりするものではない。そう見れば,文天祥の義に対して,東湖のは,大義や正義に紐づけられている。おのれの生き方ではないところから,義を語っている。
そういう語り口が闊歩し始めたら,危険の兆候である。
僕は,義とは,
問い
であると思う。どこかに正しい答えがあるのではない。これでいいのか,このありようでいいのか,とみずからを問うものである。その意味で,答えは永遠にないはずなのである。それは,
倫理に通じる。倫理は,
生き方
である。この生き方でいいのか,と自らに問う。それと同じである。だから,孟子は言う。
天下の廣居に居り,天下の正位に立ち,天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に因り,志を得ざれば,独り其道を行ふ。富貴も淫すること能わず,貧賤も移すこと能わず,威武も屈すること能わず
と。
参考文献;
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)
上へ
正直は,中国語の,
正しく+素直な
というのが語源であるそうだ。平安の頃から使われているらしい。常識的には,
心が正しく素直なこと,陰日向のないこと。
率直なこと。ありのまま。
という意味だが,その他に,
桶屋の用いる長さ1.2m鉋。木をその上に乗せて,推して削る
とか
家屋・柱などの垂直を検査する具で,長い木の上下に同じに長さの横木があって,上の横木の一端から錘重を垂れる
という意味もある。
「正」は,
「一+止(あし)」で,足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。
と言い,「征」(まっすぐすすむ)の原字,という。そのせいか,この字には,
ただしい
まっすぐである
ただす
という意味の他に,
主なものである
丁度の時刻
まと
等々といった意味がある。
「直」は,
「―(まっすぐ)+目」
で,まっすぐに目を向けることを示す。だから,「直」には,
まっすぐなさま
なおきこと
じかに
等々といった意味になる。
その意味では,「正直」は,正しいかどうかよりは,真っ直ぐに目を向ける,と言うニュアンスが強いのかもしれない。しかし,「正直」が,高く買われているかと言うと,そうでもない。
正直の頭に神宿る
という言い方もあるが,
正直一遍律儀真法(まっぽう)
正直貧乏横着栄耀
とも言い,融通のきかなさを揶揄する言い方も結構ある。しかし,それは,是非,可否の判断から,外から言うからであって,内から見れば,そうではない。確かに,少し前の新聞記事に,
「『自分と相手のお金の取り分の比率を変えながら提案を受け入れるかどうかを聞く』という実験を行った結果そのような結果が得られたとのこと。また,その結果と脳内におけるセロトニン神経細胞の密度を比較したところ,『正直者』タイプの人間はセロトニン神経細胞の密度が少なかったという。そのようなタイプの人間は,セロトニンによる我慢が効きにくいのではないかと見られている。」
といったことが出ていて,単なる単細胞と言われているに等しく,「正直一遍律儀真法」を証明しているようで,正直は分が悪い。ネットでは,正直とは,
「古代の『清明心』が中世に入り武士階級を中心に発展し形成された概念。近世になると更に『誠』の精神へと発展していく」
という説明もあった。しかし,「誠」の「成」は,
「戈+丁」
で,「戈」はほこ,「丁」は,打ってまとめ固める意。打の原字。「成」には,
「道具でとんとんとうち固めて城壁をつくること」
「かけめなくまとまる」
「まとめあげる」
という意味があり,「誠」には,
かけめない言行
を指す。そこには,言い方は悪いが,何についてかは問わず,言行に矛盾がなければよしとするように聞こえる。それは,他律的であり,自律的ではない。
ぼくは,正直を,何か外の価値,規準に照らすのではなく,おのれ自身の倫理(とは,いかに生きるべきか)にこそ照らすべきだ,と思う。
それは,内なる声,というか,自分の本音,と言うべきものとまともに向き合う,ということにつながるのではないか。
自分の気持ちと言うと,少しぶれが大きすぎるので,内なる声にしておくが,それはあるいは,(他人にではなく,おのれ自身に)オープンである,ということにつながる。ひょっとすると,それは,自分自身に対してメタ・ポジションを維持する,ということなのかもしれない。それが,外から矛盾に見えたとしても,厭わないことにしたい。自分がそういう振る舞いを選択していることに自覚的であるという意味で,だ。
以前書いたが,かつていろいろ世話になった先輩は,肝炎の入院先で,高見順の『死の淵より』を読んでいる,と言ってにやりと笑ってみせた。本人なりの意地と意気なのかもしれない。
石田三成は,刑場へ行くとき,「柿」を勧められて,それは体に悪いとか言って,刑吏の嗤いを誘ったというが,そういう刑吏を三成は嘲った。それで思い出すのは,フランス革命で処刑される貴族の誰それが,刑場へ行く馬車の中でも本を読み続け,下りろと促されて,読みかけのページに折り目を付けたと言われるが,おのれの矜持を徹底するという意味で,そこまでいけば,生きざまには違いない。
ただし,その振る舞いを自覚的に選択しているという意味で,である
そういう意味の,正直でありたいと思う。
人の生きるや直し
である。
上へ
格闘の「格」の字の「各」は,
「夂(あし)」と四角い石を組み合わせて,足が硬い石につかえて止まったさまを示す,
という。「格」は,
つかえて止める堅い棒,引っかかる木,
の意味と言う。そのせいか,「格」には,
つかえる,堅い心棒,人間が芯に持つ本質(「骨格」「人格」)
とか
(つかえる)かどや枠,ものごとを制限するきまり(「格式」)
とか
堅い材料でつくった,ものを留めておく道具,四角く区切ったますがた(「格子」)
とか
こつんとうちあたる(「格闘」「各段」)
とか
至る,本質に突き当たる
とか
ただす,かどめをつける
といった意味がある。格闘は,「挌闘」の字もあるが,この場合は,打つというニュアンスが,「扌」で直接的にでる。しかし格闘には,何か本質的な部分での闘いというようなニュアンスがある気がする。
「闘」は,元来は,「鬪」であり,「鬥」は,
ふたりが武器を持って戦うさま
を示し,「鬪」は,「たちはだかってきりあうこと」を意味する。
しかし,ここで言おうとする「格闘」とは,人とではなく,自分,それも自分の才能というか,限界との格闘である。
人の可能性は無限である,
という。しかし,それは,「可能性」であって,イコール,
実現性,
という意味ではない。ハイデガーではないが,ひとは,確かに,
死ぬまで可能性の中にある,
だから,ずっとそうなれるかもしれない,というあいまいな宙ぶらりの中にいられる,という意味でもある。
僕は,少なくとも,自分の才能の限界を思い知らされてからは,
無限の可能性
などということは,口が裂けても言えない。前にも書いたと思うが,神田橋條治さんが,
自己実現とは遺伝子の開花である,
という言葉が一番ぴんと来る。
「鵜は鵜のように,烏は烏のように」
とその言葉は続く。鳶は鳶であり,鷹は鷹。そういうと,諦念に聞こえるかもしれないが,そうではない。遺伝子の持つ可能性を,開花させるも,蕾のまま萎れさせるのも,おのれ自身である。
才能との格闘,
とはそういう意味だ。しかし,
鵜は鵜のように,烏は烏のように
ということが簡単に見極められはしない。鷹のつもりで,一生,可能性を追うことだってある。可能性だから,誰にも否定はできない。
問題は,そのことの覚悟なのかもしれないのだ。
一生を賭すつもりがなければ,鷹になることを追いかけるのは,単なる世迷言に過ぎない。そして,不思議なことに,賭した分だけの,なにがしかが返ってくる気がする。
鷹にはなれなかったが,何かになっている,
ということに気づくのだ。目指したものとは違ったかもしれないが,打ち込んだ時間は,そのまま人生になっている,ということなのだろう。
ひょっとすると,鳶だと諦めてそこそこの生き方をするより,身のほど知らずに,鷹のふりをすることで,しゃにむに突き進むことが,鷹にはなれないまでも,おのれのもつ伸びしろをかなり広げてしまう効果がある,ということがあるのではないか。
僕のような怠け者には,余りわからないが,身の丈以上のことをしているうちに,身の丈そのものが大きくなる,というようなことが起きる,のではあるまいか。
多く格闘は,そういうことに対してのみなされない。日常の些事と言ってしまうと,言い方が悪いが,ほとんど,大半は,本筋とは関係のないことに費やされる。
特に問題は,似た領域のことの場合だ。たとえば,書くことが仕事であれば,自分本来のチャレンジすべきことではないところで,悪戦苦闘する。しかし,それもまた書くことには違いないので,そのことで,ちっぽけな達成感と充足感がある。
それは,身の丈内のことなので,格闘ではない。格闘ではないことに費やす努力が,格闘のエネルギーを消耗させてしまう,ということはある。それは,身の丈だから,自分の限界を超える努力も工夫もいらないが,それでも書く努力はいるからだ。だからこそ,
覚悟
と言ったのだ。それは,関係ないことを思い切りよく捨てて生きられるか,ということでもある。賭す,とはあるいは,そういう意味かも知れない。しかし,もう一つ大事なのは,
身の丈を超えた成りたいおのれ
になり切って,恥じない,ということも,覚悟に含まれるのかもしれない。僕のように,中途半端な常識人で,テレが出てしまうと,そう成りきれないのである。そこには,
人が何と言おうと,そうなりきってしまう,
いうなれば,頑なほど,おのれを信ずる,ということが必要なのかもしれない。よそ目には,バランスを崩しているように見えるが,本人の中では,自信と夢は,分銅が釣り合っている,というような。
でなければ,無謀なチャレンジは出来ないのかもしれない。
思うのだが,どうしても突破できない壁へのチャレンジをしない限り,壁そのものの大きさも強さねわからないし,自分のもつ限界も見えない。
限界はある。限界のぎりぎりまでいって,撥ね返された(と思い込んでいる)経験から言うと,その限界を突破するのは,並大抵ではない。
やはり,ずぼらな僕のような人間のよくできる仕業ではない。
参考文献;
神田橋條治『技を育む』(中山書店)
上へ
「ごしょうぎ」は,
後生気
と当てる。
「後生の安楽を願う心。来世の安楽の種になるような功徳をしたいと思う気持ち。後生心。また、その心持ちであるさま。」
という意味で,
後生気を起こす,
とか
後生気が薄い,
等々とつかう。似た言葉で,
後生願い,
とか,
後生頼み,
というのがある。
後生願いは,
ひたすら来世の極楽往生を願うこと。また、その人,
後生頼みは,
阿弥陀に帰依して,極楽往生をねがうこと,またその人,
でほぼ同じ。似た言葉の「後生楽」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E5%BE%8C%E7%94%9F%E6%A5%BD)については触れた。意味は,
後生は安楽と思って安心すること,
心配事も苦にしないで、のんきなこと。また、そのさまや、そのような人。ののしったり、しかったりするときにもいう,
とあるから,似ているが,後生気を起こして,後生楽となる,と言う順序であろうか。
しかし,「後生気」の「後」を抜いて,
生気,
となると,「せいき」と訓むと,当たり前だが,まったく意味が変わる。
いきいきした活力,活気,
万物を育てる自然の力,
となるが,同じ「生気」でも,「しょうげ」と訓むと,
陰陽道で,十二支を12ヵ月に配当し,正月を子とし,順次に12月に至り,これを八卦の方角に当て,その人のその年の吉であろうとする方角を指示したもの,吉の方角。生気の方(かた)。
「生気の色」の略。
と意味が変わる。「生気」の色というのは,
生気を考えて定めた衣服の色。東には青,南には赤を用いる等々,
とある。「生気(せいき)」というと,
元気
活力
精気
神気
英気
といった言葉に連なるが,そうしたものの中心が,いわゆる,
正気(せいき),
ではなかろうか。「正気」は,
天地にみなぎっていると考えられている,至公,至大,至正な天地の気,
正しい気風,
という意味になる。それは,『孟子』にある,
我善く浩然の気を養う。敢えて問う,何をか浩然の気と謂う。曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞(み)つ。その気たるや,義と道とに配す。是れなければ餒(う)うるなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(こころよ)からざることあれば,則ち餒う也。
という「浩然の気」につながり,文天祥の
「正気の歌」
につながる。文天祥については,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%A5%A5
「正気の歌」については,
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B0%97%E3%81%AE%E6%AD%8C
に詳しいが,この辺りは,「義」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E7%BE%A9)
ですでに触れた。この歌に和した,藤田東湖の,
天地正大の気
粹然として神州に鍾まる
秀でては不二の嶽杜為り
巍々として千秋に聳ゆ
注いでは大瀛(だいえい)の水と為り
洋々として八洲を環(めぐ)る
が,幕末の生気になった。このエネルギーの是非は別として,いまこの国に必要なのは,この生気であり,正気なのではないか。後生気にすがっている場合ではない。
文天祥の言う,
天地に正気あり,
雑然として流形を賦す
下は則ち河嶽と為り
上は則ち日星と為る
人に於いては浩然と為る
まさに,「沛乎として滄溟に塞つ」。大いに天地に満ちている,この気が機ではないだろうか。
参考文献;
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)
上へ
コピペということで,散々叩かれ,自殺者まで出した日本の研究者状況の貧困な精神風土には辟易する。
ただし,僕がうんざりしているのは,コピペ問題ではない。僕は,ひと様のコピペを言挙げ出来るほどオリジナリティに富んだ人間ではない。
素人の僕も言うのも,口幅ったいが,研究は(何も研究だけに限ったことではないが),
オリジナルな着想が命である,
と思う。しかし,その着想の是非の前に,コピペを言い立てて問題を本題から逸らし,そんな奴がろくな研究をするはずはない,というようにすりかえ,例によっての,よってたかってのバッシングのほうである。
大体,一体何人の研究者・学者が,人のコピペを嗤えるのか。
欧文をただ邦文にしただけの,タテヨコのコピペ,
翻訳しただけで,原著者と同じような顔をして,その説を吹聴して金を稼ぐ翻案コピペ,
ただ先達の墨跡をなぞっているだけのなぞりコピペ,
あちらの哲学を哲学する哲学コピペ(自分の哲学ではないから哲学者の哲学コピペ,政治コピペ,心理コピペ等々),
あちらの研究の喧伝者というアンプコピペ,
あちらの研究・学説・著作の金棒引きコピペ
あちらの研究・学説の解説コピペ
あれこれをつぎはぎしただけのパッチコピペ
等々,どれもこれも立派なコピペではないのか。おのれにコピペの自覚がないだけなお始末が悪い。
一体日本の,何人の学者,大学教授,研究者が,真実おのれの頭で考えたと言い切れるのか。(すべては先人の成果の肩に乗ってというのは当たり前だが)たとえば,自分の論文を欧米で堂々翻訳出版できるのか。翻訳したら,たぶん多くは失笑されるだろう。国内ならばれないが,現地へ行けば,厳然たるオリジナルが存在し,それをなぞっただけなのがバレバレだから。それは,他の分野も同じだ。
僕は研究のケの字も知らぬ素人だが,オリジナリティは,
着想にある。
あるいは,
ひらめきにある。
あるいは,
発想にある。そう思っている。その発想がないから,人の剽窃で平然としていられる。
それで,思い出すのは,ずいぶん前,読んだ研究者の話である。生態のわかっていない山岳地帯の蜂の研究をしたくて,捉えては,育てようとしたが,どうやっても育たない。さまざまに気温を変え,環境を設定したが死滅してしまう。あるとき,ふと思いつく。ひょっとすると,寒暖の差が必要なのではないか,と。このことである。ひらめきというのは。
ひらめきの起きたとき,0.1秒,脳の広範囲の部位が活性化する,
という。つまり,多角的な経験・知識のリンクである。それは,何かを突き詰めて考えたとき,トンネルを抜けるように,ぱっと視界が開けた状態といっていい。
例のコピペ騒動の時,研究者の一人として,あの着想がどうなのかに着目し,その着想の是非,検証に乗り出したうえで,批判した人が,一体何人いたのか。学問批判の,それが常識ではないのか。
すべての着想は仮説である。仮説は,検証・実証されるまで,
妄想
に過ぎない。妄想だと笑うものは,一度も,自分の頭で,徹頭徹尾ものを考えたことのないものだ。
そんなに簡単に仮説が検証されるはずもない。アインシュタインだって,検証されるまで妄想に過ぎなかったのだ。つい最近だって,光より早いものがある,アインシュタインの仮説が崩れた云々と大騒ぎになったばかりではないか。
そういう仮説の妄想を嗤うものばかりだから,コピペに話がずれていった。
こういうと顰蹙をかうかもしれないが,論文のコピペだろうと,卒論のコピペだろうと,何が問題か。そんなものは,手続きというか,関門を通るための手段に過ぎない。まあ,くりかえさないが,ウィキペディアをコピペするのと,外国の論文を(翻訳)コピペするのとは,
目くそ鼻くそ
である。そんなことより,オリジナルな着想をして,それを検証したら,勝ちではないのか。そこに着目できない,わが国の研究風土の貧弱さと貧困さには,目を蔽いたくなる。
曖昧さ,
くだらなさ,
と
前例打破
とはほとんど同義である(天才と狂人が紙一重なのと同じである)。コピペでバッシングしている学者の顔が,下劣で愚かしく見えたのは,一人として,オリジナルな着想の重要性に言及せず,ただ手続きの瑕疵だけを問題にしているように見えたことだ。
着想
だけが宝なのだ。アーサー・C・クラークが言っている。
権威ある科学者が可能というとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能というとき,それは多分間違っている,
と。誰も考えたこともないから,
オリジナル
なのだ。それは,現在の評価基準,常識には当てはまらない。だから,新しい。そこからしか出発しない。それが検証し,実証できなければ,
ただの妄想
だっただけのことだ。過去にある,累々たる仮説の屍の一つになっただけのことだ。しかし,それを嗤うものは,
研究の,
科学の,
あるいは,
オリジナルにものを考えることの,
何たるかがわかっていないだけのことだ。
先日やっと検証実験の中間報告がでた。
未だ,つくれず,
という。これがまっとうな批判というものだ。しかし,まだ結論ではない。そんなに簡単に白黒がつくわけはない。100m走をしているのではないのだ。
上へ
生来,
理不尽なこと
が嫌いらしく,これは,ヤクザを投げ飛ばして,返り血を浴びて帰ってきた,
父遺伝
のものらしい。理不尽は,意味としては,
道理を尽くさないこと
道理に合わないこと,無理無体
となるが,
非合理(知性または理性ではとらえられないこと,論理的ではなく情緒的なもの,超自然てき,反理性的なこと)
とか
不合理(道理に合わないも筋の通らないこと)
とか
イラショナル(ラショナルでない)
という意味よりは,
不条理(背理,筋道・道理の通らないこと)
に近い。昔から,よく,
現実的に考える(考えろと言われるほうが多いか)
という言い方をされた。しかし,現実という言葉に,言っている本人も騙され(ているふりをし)ているだけだ。多く,
長いものに巻かれろ,
大勢は決した,いまさらじたばたするのは悪あがきだ,
利害得失を考えろ
といったニュアンスが含まれていて,現実的とは,
理にかなっている,
合理性がある,
等々と,言い訳的に言われるが,その実,
妥協
という意味よりは,
現状追認,
あるいは,
流れに竿さす
こととへの後ろめたさから言っているにすぎないことが多い。とりわけ,わが国で使われるのは,
大勢に順ずる
と言うほどの意味でしかないことが多い。つまり,本当にそれが現実的かどうかを,是非善悪,理非曲直を糺した結果ということはほとんどない,と言うことだ。
我国は,
大義
を掲げているときは,多く,錦の御旗程度の意味しかなく,自分たちの得心のためでしかない。だから,
八紘一宇
とか
五族共和
という類も,自分たちの行為の合理化ないし糊塗でしかない。今日,
積極的平和主義
も,その類といっていい。いまだかつて,本当の意味で,
大義
を掲げて,世界のために何かしたことは,ほとんどない。他国も同じではないか,と言うかもしれないが,少なくとも,主観的には,それが大義だと信じている。しかし,われわれは,多く,
お為ごかし
として使っている。詐欺と同然である。
それを理不尽という。
僕は思うのだが,その一瞬には気づかないが,振り返ると,あのときがそうだったと思い当たる,歴史の転換点に,偶然立ち会うことがある。
いま,そんな大きな分岐点にいることは確かだ。未来の人に対して,本当に,心の底から,それでよし,と言い切れる人が何人いるのか。
いままた,現実的に,
現状追認
するのだろうか。満州事変から,現状追認を続けて,十年の日中戦争に陥り,挙句の果てに太平洋戦争に突入した,十五年戦争と同じように。
上へ
「諦める」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E8%AB%A6%E3%82%81%E3%82%8B)は,
で書いたことがあるし,諦めるに似た,「心が折れる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E5%BF%83%E3%81%8C%E6%8A%98%E3%82%8C%E3%82%8B)について
も触れたことがある。
語源的には,前にも触れたが,
明らめる(明らかにする)
である。
明ら+む
で,
先を明らかに見て,否定的に悟る
の意味。まあ,
先々を見通して,だめだと見込む。思い切る,断念する,
の意味になる。
仕方がないと,思いを断ち切る,
とする辞書もある。しかし,もともと,
諦
の字は,
詳らかにする
明らかにする
いろいろ観察をまとめて,真相をはっきりさせる
という意味で,いい意味では,仏教用語の,
悟り
になる。その場合,見通しが真相なら悟りになり,
締
と同系とあるので,
締めくくる,という意味にもつながる。本来,「諦」の字に,悲観的なニュアンスを見てしまうが,本来の意味からすると,
詳らかにする
明らかにする
いろいろ観察をまとめて,真相をはっきりさせる
には,悲観のニュアンスはないのではないか,という気がする。漢和辞典の熟語では,
諦観
も明らかに見る,だし,
諦思
は,詳らかによく考える,だし,
諦視
は,明らかに見る,だ。それが,わが国では,
あきらめる
に変じた。古語辞典をみても,「明らむ」は,
はっきり見る
(こころを)晴らす
事情・理由をきわめる
という意味しか出ていない。『大言海』をみると,やはりそうなのだが,
明らむ
の次に,
あきらむ
とあり,
詳らかに見極む
理由を究め知る
とあって,「明らむ」の
明らかに見る
の転じたものとある。その次に,
あきらめ 思いを立つこと
あきらめる 思い切る
と載る。屁理屈のようだが,
見きわめた結果,
が,転じて,断念の意味にシフトしたということなのだろう。しかし,悲観のみにシフトしたのは,ひょっとすると,勝手な妄想だが,浄土思想の蔓延していた,平安末期なのかもしれない。見きわめれば見きわめるほど,この世に展望が開けない,というように。でなければ,悲観一方へシフトしきったのがよくわからない。
しかし,何を諦めるというのだろう。
夢
恋
生
人生
志,
未来,
理想,
自分,
才能,
希望,
しかし,見切ったと思った瞬間,その思いを裏切るように,何かが涌き出てくる。自殺するのであっても,おのれの死そのものにも,何らかの仮託がなければ,そもそも死なないだろう。死ぬことで,得られるものがあるのだ。
楽になる
苦からの解放
極楽浄土
厭離穢土,欣求浄土
救済
いつも,何かを仮託する。せざるを得ない。ということは,
見切りながら,見切った先に別の何かを見ている,
ということになる。
明らむ
とは,まさにその意味かも知れない。
上へ
「
異和」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E7%95%B0%E5%92%8C)については書いた。異和は,違和より,ちょっと突出した感覚だが,昨今そう感じることが多くなった。
同じ時代に生き,同じものを見ているのに,自分は違うという違和感である。最近死んだ友人が,そう見ていたという感覚がよくわかる気がしている。
同じ場所で飲み食いはしていても,自分たちとはちょっと隔てがあったのではないか。たとえば,
こいつらが飲み食いしている,いつかそのときには自分はいないな…,
という感覚である。ひよっとすると,一緒にそのとき,その場にいて,同じ空気を吸っていても,見える地平が違っていたのかもしれない。
ふと思う。
それぞれが自分の天寿というか,寿命のベルトコンベアに乗っている。並んでいるように見えて,何年か先が切れている,と感じたとき,
ああ,そこには僕はいないんだな,
という感覚である。寂しさとか悲しさという感覚とは別で,もっと乾いた,
隔て
である。大袈裟な言い方をすると,
異空間にいる
という感じである。来年は,
ここで一緒に飲むことはできないのだな,
と友人が,僕らに感じていたのではないか,という隔て,というか,
隔絶感
を,いま自分がよくわかる,気がする。
未来のその時空にはいない,
という感覚は,説明のしようのない,隔てなのである。
行き先の違う仕分けのベルトコンベアに乗っているのに,一瞬は,そのとき,その場所に一緒にいる。そういう感じである。他のコンベアがまだ走っているところには,僕のベルトは切れている,その感覚である。
寂しさとか,哀しみとは違う,乾いた
違う
という感覚,違和感としか言いようはない。その感覚を伝えようがない,というのも含めて,隔たりなのである。
会話の声が,ときに遠くになる。
かぎりなく
はこびつづけてきた
位置のようなものを
ふかい吐息のように
そこへおろした
石が 当然
置かれねばならぬ
空と花と
おしころす声で
だがやさしく
しずかに
といわれたまま
位置は そこへ
やすらぎつづけた(石原吉郎「墓」)
止まった時間と,まだ運び続けているという時間の感覚の差と言ってもいい。
ここでわかれることに
する
みぎへ行くにせよ
ひだりへ行くにせよ(石原吉郎「死んだ男へ」)
ふいに思い出した,谷川俊太郎が詩を書き,武満徹が作曲した曲があった。
死んだ男の
残したものは
一人の妻と
一人の子供
他には何も
残さなかった
墓石ひとつ
残さなかった(「死んだ男の残したものは」)
反戦歌なのだが,時代的にも,個人的にも,いま,身につまされる。
上へ
体力や気力の衰えと,死とは必ずしもつながらない。
衰えると,逆に,生に執着する分,死を遠ざける。
肉親の死もこたえるが,友人の死は,もっとこたえる。同年代だから,ということもあるが,同じ時代の空気を吸い,同じ時代と戦ってきたという思いがある。
いつも,僕のことを遠くから見守ってくれていた友人は,婚家先で,四十代直前自死した。僕のことを気遣ってくれていたという(と間接的に聞かされたきた)友人は,大台を見ずに死んだ。最近死んだ友人は,医者に打つ手がないと言われてから,二年ほど生きた。
いずれも,死後,知らされた。死を知るまでは,その間,僕は,同じように生きているつもりで,生きていた。そのギャップが,やりきれない。
僕は勘が鋭くもないし,基本鈍感(愚鈍とも言う)なので,母の死後,親戚の人が,深夜別れに訪ねてきてくれた,というような,スピリチュアルな体験はまったくない。
母のときも,父のときも,その一瞬を逃している,まあ迂闊な人間なので,そのこと自体は悔いもしないし,恥じもしない。ただ,眠っている状態のまま,ふと気づくと息をしていない,不思議にそれは,直感でわかった。思うに,人が死ぬときは,眠りに落ちるのとほとんど変わらない,というのを感じている。そのフェイドアウトの瞬間は,どこにあるのか…。
両親とも,迂闊なことに,眠っていいるなと見守っているうちに,そのまま,いつの間にか死んでいた,
のである。本人だって,眠っているつもりで,そのまま暗い淵に入り込んでしまったのに違いない。その意味で,仕合せな臨終だったのかもしれない。
で,思うのだ。死期を悟ることはある。あると思うが,
最後の最後まで,まだ生きられる,
と思っているのではあるまいか。
ずっと眠っていて,ふと目覚めて,看護するものとひとことふたこと言葉を交わして,また眠りにつく。そのまま眠りが深くなり,ついに目覚めなくても,眠りの延長線の上にいて,本人だって,どこからが,眠りから死へと跨いだのか,分からないのではないか,という気がする。
いや,そうあってほしい,
というだけのことかもしれない。痛みに苦しんでいたのに,だんだんそれを感じなくなり,脚の指先の方から,少しずつ,神経が,血流が,行き届かなくなり,冷たくなっていく。温めようとこするが,そのこすられている感覚さえ消えていく。なんだろう,指が指と感じられず,それが脚になり,二の腕になり,股になり,腹になり…,やがて全身からの感覚が消えて,自分の体が感じられず,感覚が,少しずつ狭まって縮み,か細くなっていく。
その麻痺と睡魔は,リンクしている。
その方が苦しくないのかもしれない。死の直前,自分を俯瞰するところから,部屋全体を見渡す,という説がある。しかし,僕は,自分の感覚を失うことと,それはセットなのではないか,という気がする。
そう,自分を自分として,この世につなぎとめておく体の感覚が失われていく。
「
眠り」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-5.htm#%E7%9C%A0%E3%82%8A)については触れたが,確か,レム睡眠時,身体の統覚が失せて,身体と切れて,脳が自己完結しているという,それに似ているのかもしれない。
だから,夢を見ている状態と,死んでいく状態とは,どこか重なる。
専門的なことは分からないので,勝手な妄想だが,それは,脳の自己防衛なのではないか,という気がしてならない。
最期の最後も,自分が眠っている感覚のまま,この世から浮き上がっていく。脳だけが,というか意識だけが,自己完結した状態で,宙に浮く。まさにレム睡眠時の状態そのものだ。それは,もはや外界に対する注意も感覚も必要としなくなった,脳のそういう判断の結果のような気がする。
最後,脳そのものからも,自分の意識が,というか,自己意識と言ったほういいのかどうかわからないが,蝋燭の火が消えていくように,ふっとすべての感覚が消えて,闇のただなかにいる。
それなら,最後の夢は,どんな夢なのだろう。
上へ
友人の死の知らせを受けた。
この友人については,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20121110-1.html
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20121220-1.html
で書いた。
すでに,ずいぶん前に,死を覚悟していたし,その別れの旅も,三人で,二度することができたこともあって,意外感より,とうとうきたか,という思いがあった。昨年,僕が入院する前に,電話して彼の声を聞いたのが最後になった。
訃報
ばかりの年代になったのだ,と思う。
いずれ行く道だもの,
は誰の台詞だったか。
死生命有
富貴天に在り(『論語』)
という。ここでは,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つ天が並列されている。
一つは,天の与えた使命,
五十にして天命を知る
の天命である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,寿命である。
すべては天命である。寿,つまり,
壽
とは,「老」部(老の省略形)+(壽の土を除いたつくり)でひさしいの意とあり,
年老いるまで生きる,
の意味という。どこまでを年老いた,と言えるかは,人によって違う。彼の思いを聞いたことはない。が,
不慮の死を非命というから,でなければ,天寿である。
山頭火の,
分け入つても分け入つても青い山
には,
人間到る所青山あり,
の青山と考えると(あるいは蘇武のという,是処青山可埋骨のほうがよりストレートか),人生そのものを指していなくもない。別に覚悟の問題とは思わない。生きるということ自体が,背負っているものだ,と思う。
前に,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/394682754.html
で書いたことがあるが,
生かされて(いま,ここに)ある,
(のが天命だ)という思いが僕にはある。まだ少し,彼より生かされて,ある。
それは僕の理解すべきことではなく,ただ受け入れるべきことだ。
ただ,肉親のときは,その不在を了解するのに,ずいぶん時間がかかった。数年経たいまも,まだその不在感になれない。
かの友人の場合,確かに,すでに,別れを告げられていたために,不在を当たり前と思うのかと思ったが,そうではない。
つかず離れず,長い年月,遠く離れて,生きてきていた分,というか,何年かに一度,昨日別れたように,再会してきただけに,
不在,
というよりは,
いまは(ここに)いない,
という意識の方が強い。かえって,死が遠くに感じられる。
何しているかな,
と,つい思いを遣りかねない,そんな感じである。
すでに亡くなっているのに,知らせをもらった日までの時間がそうだったように,その離席中のような感覚は,ずっとこれからもつづく。あるいは,年々,強まっていくのかもしれない。だから,
そろそろ会うか,
と。彼は,僕の中で,まだ生きている。
これが逆でも,そうなのかもしれない。
自分の死については,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20121205-1.html
し残したことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/392762774.html
に書いた。
少し,彼より長生きする分,あと何年後か,あちらで再会した時,誇れるようなことをし終えておきたいと,ちょっと思っている。
遅いじゃないか,いままで何してたんだ,
と言わせぬように。
残った二人で,近々,しんみり彼のことを語ることになりそうだ。たぶん,彼が,
そこにはいないが,あたかも生きているように,
彼について語るのではないか。いつも,二人で彼を話題にしていたときのように。
上へ
趣きは,辞書は,
@心の動く方向,心の動き
A事柄の大事な内容
B物事のなりゆき,ありさま
Cしみじみとした味わい
D言おうとしていること。趣旨。〜ということ,由
Eやり方,方法
等々とあるが,「趣き」という言葉をあえて使うというところに,
しっとりとした味わい,
のニュアンスを伝えたい意志の反映であり,ただの「ありさま」を指しているにしても,
それを表現した主体のそれへの好意が伝わる,
という含意がある。
語源的には,
面+向き
で,心をそちらへ向ける意であり,転じて面白み,であり,背向(そむ)くの反対語とある。
まさに,そちらへ向けようとする意味がにじみ出る。僕は,趣きの味わいとは,
陰影
なのだと思う。残る隈なく,煌々と照らされて,のっぺりとした中に,味わいはない。
なぜこんなことから始めたのか,というと,根津美術館で,
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/index.html
特別展「燕子花図と藤花図 光琳、応挙 美を競う」を観てきたことから,
趣きがない,
と感じたせいだ。もちろん,美術には素人の朴念仁の言うことだから,大した意味はないが,帰り道,そう感じたことに気づいたのだ。
展覧会の趣旨では,
国宝「燕子花図屏風」の季節が,今年もやってきます。このたびは,尾形光琳の筆になる「燕子花図屏風」を,それからおよそ70年後,同じ京都で円山応挙が描いた「藤花図屏風」とともに展示し,美を競わせる趣向です。衣裳文様にも通じるデザインを,上質な絵具をふんだんに用いてあらわした「燕子花図屏風」と,対象の細やかな観察と高度で斬新な技法が融合した「藤花図屏風」。対照的な美を誇る2点の作品を中心に,琳派の金屏風の数々,さらには応挙にはじまる円山四条派の作品を加えて,近世絵画の魅力をご堪能いただきます。
とあり,
尾形光琳筆「燕子花図屏風」
と
円山応挙筆「藤花図屛風」
を対比すると,いまでも通ずるデザイン風と写生の対比が狙いなのだろうが,それって意味があるのか?と感じた。別にガラス越しに見ることに不平があるのでもないが,屏風が,
絵
として展示されても,その意味は見えてこない。せめて,畳を敷いたうえで,家屋としての背景を考えるとかしてみないと,本当にこの屏風の趣きは,滲んでこない。
(真偽は知らないが)伊藤若冲のプライス・コレクションが来日した展覧会では,先方の要望で,行燈とか蝋燭だとかの,揺れる灯りの中で,いくつかを展示したとかという話を聞いたことがある。そういう展示をしなければ,その絵の持つ意味が見えないと,コレクターは感じ取ったことがあるのではないか。
とりわけ,屏風も襖絵も,
その場,
とセットになっている。そこで見るから意味がある,それを場から切り離したのでは,群れで生きる野生動物を,折の中に入れて鑑賞するのに似ていなくもない。
花田清輝が,
猿知恵とは,猿のむれの知恵のことであって,むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たちのちえのことではない。檻のなかにいれられた猿たちを,いくら綿密に観察してみたところで,生きいきしたかれらの知恵にふれることのできないのは当然のことであり,観察者の知恵が猿知恵以下のばあいは,なおさらのことである。
と,皮肉たっぷりに言っていたのを不意に思い出す。
鑑賞者がトウシロウの場合は,なおのこと,そこに,技術が読めるわけでもなく,ただ感心して通り過ぎるだけだ。それなら,時代の「場」のただなかにおいて見たら,時代の中で,それがどのような,
味わい,
を醸し出していたのか,少なくとも,雰囲気として実感できた,そんな,ないものねだりをしてみたくなった。
味わいとは,
陰影
なのだ,とつくづく思う。陰影とは,
奥行き
でもある。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『語感の辞典』(岩波書店)
花田清輝『鳥獣戯話』(講談社文芸文庫)
上へ
私の体験のなかには,思想化されること,一般化され,体系化されることをはげしく拒む部分があり,それが私の発想のもっとも生き生きした部分を形成しているのだ。
石原吉郎の,この言葉に触発されて,いろいろ考える。
石原は,シベリアの強制収容所の取調官に,
もしあなたが人間なら,私は人間ではない,
もし私が人間ならあなたは人間ではない
と,ラーゲリの非人間的な取り扱いに対してそう言って,死んでいった石原の友人(鹿野武一)の言葉を思い出す。
取調官は,飢えきった囚人を目の前に引き据え,自分はゆっくりと食事しながら訊問する,鹿野の言葉は,その非人間性を指している。非難ではなく,事実の指摘なのである。そして,石原は,ここに,
国家
を見る。あるいは,非人間的な官僚を見る。
いま,フクシマで,放射線の線量を測定する線量計の数値が高すぎると,数値を下げることを厳しく指示した,文部省の官僚は,その線量計に変わって,別の低く数値の出る線量計を設置し直している。普通なら,低い方を取り上げる。それが,人間の視点だ。しかし,彼らは,官僚なのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=6JdXl7Ol5_U&feature=player_embedded#t=137
ここにも,おのれの職務を非情にこなす官僚がいる。鹿野の問い,
もしあなたが人間なら,私は人間ではない,
もし私が人間ならあなたは人間ではない,
が,ここでも生きてくる。
安全だという,命に別状はない,と言う。
ただ,そこに但し書きがいる,
いますぐは,
と。そして,何十年かしてから,心臓病か癌になる。しかし,それは,因果をたどられることはなく,
自己責任,
と言われるだろう。第一,安全と保障した役人も,政治家も,とうに死んでいて,責任の埒外にいる。
アウシュビッツ等々のホロコーストに関わった,ヘス,メンゲレも,その末端の看守も,すべてただ官僚として職務を遂行したに過ぎない。
石原は言う,
居ずまいを正すな。そのままの姿勢で,
と言う。
事実を事実として,本当のことを言うこと,
がいまほど重要な時期はない。
そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすわらいさえしている
見たものは
見たといえ(「事実」)
おのれの責任の埒外の戦争に駆り出され,
おのれの責任の埒外の密告でラーゲリにたたきこまれ,
自分の責任の埒外の酷寒のシベリアで過ごし,
自分の責任の埒外の僥倖で生きのび,
自分の責任の埒外の時代に翻弄されたものが,やっと語る真実を,しかし,国家はなかったことにする。
あるいは自己責任,と言うかもしれない。
その理不尽さは,いまの理不尽さの中にある,
それを見逃してはならない。
それを見過ごしてはならない。
それを見なかったふりをしてはならない。
それを黙認してはならない。
責任は,とらされるものではない。
責任は,取らせるものだ。
かつて赤紙を発行した官僚は,淡々とおのれの責務を全うした。淡々とまっとうした責任を取ることなく,天寿を全うした。
責任を取らせなくては,ならない。
つけだけ国民が支払う義務はない。
嫌なものは,嫌と言わなくてはならない,
分からないことは,分からないと言わなくてはならない。
知ったかぶりも,きいたふうな口もきいてはならない。
そのつけは,彼らは払わないのだから。
官僚も政治家も
つけ馬
である。こっちの覚えの有無にかかわらず,いつの間にか,つけだけが嵩上げされ,取り立てられている。
上へ
コーヒーについての思い入れについては,「コーヒー」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC)
で書いたことがあるが,昨今は,セルフサービス型のコーヒーショップが大流行だ,スターバックスだの,タリーズだの,ベローチェだの,ドトールだの,プロントだの,サンマルクカフェだの,エクセルシオールだのとあって,昔風の,喫茶店と言えるのは,珈琲館だの,ルノアールだのがわずかにあるだけで,なかなか落ち着かない。
だから,多く時間調整か,暇つぶし,時間稼ぎ程度の使い方になる。
あるいは待ち合わせて,そうそうに出る,というような。
そんなわずかな時間つぶしによくするのは,いまだと,
スマホ
をいじるということのようで,本を読んだりしているのは,学生さんの勉強を除くとまず見かけなくなった。確かに,ツイッターを眺めていたり,フェイスブックわ見ていれば,時間つぶしにはなる。
が,ふともったいない,と感じる。ツイッターで得られる情報というのは,あるが,玉石混交,悪意に満ちた書き込みを見ていると,こちらの心が乱れるし,こちらが汚れる気がする。
もともと,僕はメモ魔で,バスや電車の中で,結構メモを取る。
メモは忘れるために取る,
という名言を吐いた人がいたが,短期記憶にとどめておける絶対容量は少ない。で,メモることで,それを忘れて,脳の中の流れを滞らせない。
面白いもので,メモは,結構問題意識の持続を反映していて,間歇的に同じことを思いついていることに気づく。それも少しずつ発展して,思いつく。
脳は,「?」を投げかけると勝手に考え続ける,
とはよく言ったものだと思う。ただ,文脈に依存したことをメモした場合には,少し状況説明的なことを加えておかないと,全くその意図が思い出せないことがあるが。
で,だ。そういうメモを取ることに時間つぶしを当てる時,僕は,よく,
モードを決める,というか,
さあて,考えるか,
とスイッチを入れて,モードを切り替える。で,
よし,これから仕事の○○について,考えるぞ,
とか,
よし,これから(毎日1アイデアを課しているので)アイデアを考えるぞ,
とか,
よし,追いかけているテーマについて,考えるぞ,
とか,
よし,ブログのテーマ出し(テーマから中身を書き出すので)をするぞ,
と,考えるモードを決める。決めて,すぐに,前に考えていたことの継続を意識し始めることもあるが,決めても,他へ流れたり,雑念が出たりする。しかし,そうやって,行きつ戻りつしていることで,結果的に,アイデアが浮かんだり,別の仕事についての着想を思いついたり,と考えモードは持続していく。
傍から見ると,それは,ぼんやりしている状態といっていいが,
ぼんやりしている,
という状態は,実は,外への関心や注意を手放して,内部の意識の流れそのものにゆだねる,と言うのに近い。外への注意・警戒がいらない,コーヒーショップ,電車の中,旅行中の列車の中は,その意味で最適といってもいい。
アイデアの三上,
厠上
馬上
枕上
というし,英語でも,3B
Bus
Bath
Bed
と言う。
脳は,自分の知っている以上を知っている,
とも言う。自分のリソースが産み出すに任せても,たまには,いい。ことは意識的にいつもなるとは限らない。
そうそう,ぼくは,よく夢の続きを見る。思い違いかもしれないが,あっ,これはこの間の続きだ,と夢の中で気づくことと,目覚めてから,ああ,この間(何年も間隔があくこともある)の続きだった,と気づくこともある。
だから,ずっと継続している感覚が,いつもある。
脳は勝手に働いている。
上へ
普通には,広く一般に通じるという意味と,どこにでも広く見受けられ,つまりありふれている,の意味がある。しかしこれを英訳すると,
常態,あるいはレギュラーという意味の,
Normal(反対は,abnormal)
と,共通というか共有するという意味の,
Commont(反対は,uncommon)
と,いつものの意味の,
Usual(反対は,unusual)
のほかに,
Ordinary(反対は,extraordinary)
というのがある。別に英語に強くないので,あてずっぽうで言うが,四者の区別は,厳密にはつかないが,average,つまり並みの,ありふれた,というか,特別ではないというか,平々凡々,というのが,Ordinaryにふさわしいような気がしている。
それは,勲章なのだ,とこの頃思う。
ルイス・キャロルの,『鏡の国のアリス』に登場する,赤の女王が,
その場にとどまるためには,全力で走り続けなければならない
It takes all the running you can do, to keep in the same place
と言ったが,その平凡さを保つのは,実はそんなに,容易ではない。水面下で,ばたばたと足をばたつかさなくては,その場にとどまりつづけることは難しい。
ワナメーカーというアメリカの実業家が,
自分の仕事を愛し,
その日の仕事を
完全に成し遂げて
満足した軽い気持ちで
晩餐の卓に帰れる人が,
最も幸福な人である
と,言っていた言葉は,彼の理想なのか,現実なのかはわからないが,そういうニュアンスが読める。
僕の父親は,官吏で,二三年毎に,全国転勤しまくったが,幸か不幸か,職住接近で,5時少し過ぎには官舎に帰ってくる毎日だった,と記憶している。
地方検事
が職業だったが,昨今は知らず,その当時は,地方では名士らしく,転勤の度に,当時の国鉄の駅長室に案内されて,そこで時間待ちをしていた。確か,赤絨毯が引き締められていたように覚えている。そこだけだったのかどうかは記憶にないが。
いま振り返ると,仕事は精神的には激務だったのではないか,と思う。中には父の関わった,未だに判例になっているらしい刑事事件もある。引いてみたことはないが,ネットでも調べられるらしい。閑話休題。
要は,そういう仕事と家庭とが,どういうふうに父の中でバランスが取れ,(子供心にも)日々を淡々と過ごしていったのか,がいま振り返ると,結構興味深い。
ありきたりの日常は,失ってみて初めて気づく。そのリズムというか,テンポというのは,そのときにはなかなか気づかない。しかし,だらしなく過ごしているのとは違う,
緊張感,
というか,張り詰めたものが,日々ある。
日々是好日,
とはこれを指すのだろう。それは,一日一日を,かけがえのない,他に換えられぬ一日として,
時々刻々
を大切に生きる,と言うことだ。それは,そんなに易しくはない。
一瞬一瞬の振る舞いを,
考えながら,意識しながら,生きる。
しかし,それは日々是好日して,という意味ではない。
自己完結させた,内向きだけでは突然,外から壊される恐れがある。それを防ぐために,自分の状況,時代を監視しつづけなくてはならない。いま,その普通が,普通であり続けることを可能にしない時代が来つつある気がしてならない。
戦前もそうやって普通にした日々が,気づくと,いつのまにか,死地にいさせられる状況になっていた,そんな感じだとよく聞かされる。
そういえば,戦傷して帰国した父が,思い出したように,ぽつりと口にした言葉は,
酷いことをしてきた,
という言葉だ。意図しようとしまいと,他国へ侵略するということは,そういうことだ。
上海敵前上陸で,ほぼ全滅した部隊をかろうじて生き残った者の,警告だったと思えなくもない。そうした経験者がいなくなると,こういう時代が来る。
その中から,父は,改めて司法試験を受け,人生をやり直して,やっと手に入れた平々凡々だったのだ。
上へ
かつて,コーチのファウンデーションについて,いくつか書いた。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163156.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163157.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163158.html
しかしクライアントから見たとき,ではコーチのありようはどう見えるのか。
確かに,僕にとって,コーチが有名人であるか,高名であるか,金持ちであるか,信頼できる人物か,高潔な人か,人品骨柄のすぐれた人か,は知ったことではない。僕にとってコーチとして,僕のサポートにふさわしいかどうかが大事だ。そう思っている,これはいまも基本は変わらない。
だから,リアル世界で何をしていようと,どんなあり方であろうと,僕とのコーチングの舞台の上で,僕が信頼できるコーチとしての振る舞いをしてくれるかどうかが大事だと思う。
その意味で,逆の言い方だが,コーチングの場のみが大事で,リアルのコーチを知らない方がいい(かもしれない)。
ただクライアントの鏡として,正確に反映してくれる。その場にコーチとして存在するのではなく,自己対話の一人としてそこにいて,クライアントの対話に加わり,さりげなく自己対話を崩す問いかけをする。いつもの自己対話が,そうやって,微妙に変わって,自分を崩し,自分を変えていく。
そうであるなら,そういう環境をつくってくれるコーチが大事で,リアル世界に存在する,コーチ何某を,なまじ知らぬ方がいい。
そうは思うのだが,ハロー効果の逆を何というか知らないが,信頼度が下がることが,リアル世界での関わりがあると,結果として,コーチへのマイナスのハロー効果が増す。
それは直接コーチングとは関係ない。例えば,例は悪いが,仲間内に悪い評判が立ったとすれば,そのことで,コーチングをしている土俵上での,コーチの振る舞い,言動に不審を懐くだろう。いや,そうではない。ちょっとした違和感があると,すべては世評のせいにして,不審が勝手に膨らむだろう。一旦懐いた不安や懸念は,日に日に拡大し,ひび割れを大きくしていく。
クライアントにとって割れた鏡では,もはや正当に自分を映し出してくれる鏡にはならない。というより,写ったものが正確ではないと感じてしまうだろう。事実がどうかとは関係なく,クライアントの心理として。
そうして幾つかが重なっていくと,その懸念は,もはや不審から,不信に近づく。
しかし,それはコーチのせいではない。クライアントが勝手に懐いた不信だ。確かに,何か疑問や不安や等があれば,正直にフィードバックしてほしいと,どのコーチもいう。一般的にも,それがいいという。クライアントの正直さ,オープンマインドとして。
クライアント一人の問題ではなく,コーチ−クライアント関係での,二人の問題として,俎上に上げて,両者できちんと向き合う必要がある,というのも一理ある。そうするのがベストなのだとは,思う。
しかし,第一に,しかしこのあたりの心理的機微は,言葉になるか,という疑問がある。言葉にできないわけではないが,言葉にした瞬間,何かが零れ落ち,別のことを話していることになりそうだ。
第二は,両者で話すこと自体が,本当にそうか,という疑問がある。一般論で言うが,サービス業で,そのサービスに懸念を懐いた時,いちいちフィードバックするだろうか。黙って,立ち去るのではないか。フィードバックするということは,コーチへのモニター役を果たすことになる。それをする気持ちもないほどの心理状態というのはありうる。セラピーでは,次回の約束をすっぽかし,そのまま来なくなるケースは一杯ある。コーチングでもあるかもしれない。
例のセラピーの効果を調べたデータでは,
クライアントの要因40%
セラピスト・クライアント関係 30%
セラピーへの期待とかプラシーボ効果15%
セラピー技法 15%
といわれる。コーチングでも同じことで,クライアントの要因が大きいなら,クライアントの心的変化によって,少なくとも,関係性と期待が消えて行く。その二つが消えれば,コーチング技術への信頼も消えるだろう。
コーチ−クライアント関係は,共に成長していく。クライアントの成長に合わせて,コーチも成長していく。
しかしそれには,両者の絆というか,両者が共に同じ土俵に乗っているからこそ,お互いが切磋琢磨していくことができる。が,それが実感できない,あるいは微妙な違和感を,感じ出したとすると,その共に歩いている実感がなくなる。同じの土俵の上で,一杯コーチングの恩恵は受けた,しかしいったん失われた信頼感,一体感は,もう取り戻せない。それはクライアント側の思い違いかもしれない。しかし,それでも,崩れたものは戻らない。
そうなると,単なるサービスの契約関係になっていく。ペイはペイとして払っている。恩義はペイされている。ならば,それ以上のフィードバックは,クライアントからの返礼になる。それをしなくてはいけないのか,となる。
それは心理的なものに過ぎない。確かに,そうだが,信頼そのものが,もともと心理的なものではないのか。
コーチ−クライアント関係を解消するとき,コーチ側から言われることもある。しかし,もしその申し出がもしクライアントにとって理不尽だとすれば,それまでの信頼関係は,雲散霧消する。その申し出自体が,コーチ−クライアント関係そのものを崩すということもある。
ではクライアント側からはどうか。当初の目標が達成された,目指しているものが実現できたという円満卒業を別とすると,
ちょっとマンネリだな
コーチングそのものに不満
どうもコーチとの相性が合わない
行動変化が起きない
惰性化している
新しいコーチとの新たなコーチングをしてみたい
多くは,コーチとの関係性そのものへの葛藤からくる。
つくづく思うのは,信頼を築くには,時間がかかるが,崩れるには,ほんの小さな綻びひとつで,十分だということだ。それは,必ずしも,コーチのミスでも,コーチングの瑕疵でもないことがある。コーチ−クライアント関係そのものの土俵の崩れなのかもしれない。小さな綻びは,その気づいた時に繕わなくては,手遅れになる,そう実感した。
しかし取り繕ってまで維持する関係とは何か。つくづく,コーチ−クライアント関係というのは特殊だと思う。というより,僕のコーチ−クライアント関係の捉え方が,少し心情的すぎるのか。もう少し世の中の人は,ビジネスライクなのかもしれない。たぶん,ここにコーチング論の差が出る。期待するコーチ像の違いを反映している。
参考文献;
バリー・L・ダンカン&マーク・A・ハブル&スコット・D・ミラー『「治療不能」事例の心理療法』(金剛出版)
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『あなたへの構成主義』で,著者ケネス・J・ガーゲンは,こう宣言する。
今,世界中で,さまざまな学問の壁を越えた刺激的な対話が始まっています。それがいったいどのようなものかを,ぜひ,読者のみなさんに伝えたいというのが私の願いです。……それは,16世紀から17世紀に起こった,思想や実践の大きな転換…にも匹敵します。なぜならば,その対話は,私たちが「これは事実である」「これは善い」と考えているすべてのものの基盤を根底から揺さぶるだけではなく,クリエイティヴな考えや行為を生み出すまたとない機会を提供するものだからです。
ここで言う対話,こそが,キーワードである。事実も,価値も,我々の外にあるのではなく,我々自身の対話のなかで生み出している,これが,僕の理解した社会構成主義の肝である。それは,どこかに正解があるのではなく,正解はわれわれ自身が創り出している,ということになる。その意味では,専門性や科学性の権威性そのものを,民主化する,というような意味がなくもない。
この画期を,ポストモダンから,説き始め,それを三つに整理するところからスタートする。
第一は,言葉は現実をありのままに写しとるものではない。
第二は,価値中立的な言明はない。
第三は,記号論から脱構築へ。
第三は説明がいるでしょう。これは,ソシュールの,「意味するもの(シニフィアン)」と「意味されるもの(シニフィエ)」の関係は恣意的であり,「降っている雪」を「雪」とよぶのは,たまたま偶然にすぎない。とすると,
あらゆることばがいかなるシニフィエ―対象,人,できごと―でも意味しうる…,
ということになる。そして,もうひとつ,
記号のシステムはその内的な論理に支配されている,
ということをソシュールは言った。ということは,
言語の使用が内なる論理によって決められているということは,「意味」が言語の外の世界から独立したものである,ということを意味する,
ということになる。言語の脱構築を理論化したデリダは,
第一に,すべての有意味な行為は―合理的な決定をする,人生における重大な問題に対してよい答えを出す―はすべて,あり得たかもしれない多様な意味を抑圧することによって成り立っている,
第二は,私たちが行うすべての決定は,たとえいかに合理的に見えても,合理性の根拠を突き詰めてていけば必ず崩壊する可能性をはらんでいる,
と,その不確かさを説明している。それへの一つの答えを,ヴィトゲンシュタインは,
言語ゲーム
というメタファーで示した。どんなゲームにも(自己完結した)ルールがあるように,言葉の意味もそれと同じだと,ヴィトゲンシュタインは,言う。
言葉の意味とは,言語の中でその言葉がいかに使用されているかということ,
である。つまり,言葉は,言語ゲームのなかで用いられることによって,その意味を獲得していく。
それは,言語が事実や心を写す道具ではなく,
言葉を用いてものごとを行っている,
のであり,
相手と一緒に何かを行っている(パフォーマンスに加わっている),
のであり,その中で意味が生まれてくる。つまり,
状況を超えた事実というものは存在しない,
事実はある,ただし,常にある特定の限られたゲームの中に,事実はある,
ということになる。
こう言うことを前提に,社会構成主義は四つのテーゼをもつ。
第一は,私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は,「事実」によって規定されない。
第二は,記述や説明,そしてあらゆる表現の形式は,人々の関係から意味を与えられる。
第三は,私たちは,何かを記述したり説明したり,あるいは別の方法で表現したりする時,同時に,自分たちの未来をも創造している。
第四は,自分たちの理解のあり方について反省することが,明るい未来にとって不可欠である。
第三は,我々の未来が過去ではなく,
人と話したり,何かを書いたりしているまさにその瞬間にも,私たちは確かに未来を創造している
のであり,そのためには,
与えられた意味を拒否する―例えば,性差別者や人種差別者の言葉を無視する―だけではだめで…,それに代わる新しい言葉や,新しい解釈や,新しい表現を生み出さなければなりません,
と言い,それを生成的言説,と呼ぶ。結局社会構成主義は,
事実や全を,社会的なプロセスの中に位置づけ,我々の知識は,人々の関係の中で育まれるものであり,個人の心の中ではなく,共同的な伝統の中に埋め込まれていると考えている。したがって,社会構成主義は,個人よりも関係を,孤立よりは絆を,対立よりも共同を重視する,
という。その点から見ると,二つのポイントが特筆される。
第一に,心理的な言説は,内的な性格な記述ではなく,パフォーマティヴなものである。が,「愛している」ということで,ある関係を,他ではない特定の関係として形づくっている。
例えば,「愛している」を「気になる」「敬愛している」「夢中だ」と言い換えると,関係が微妙に変わる。だから,こうした発話は,単なる言葉ではなく,パフォーマティヴな働きをしているのである。
第二は,パフォーマンスは関係性の中に埋め込まれている。このパフォーマンスには,文化的・歴史的な背景を取り入れなければ何の意味も持たない。つまり,私があるパフォーマンスをするとき,さまざまな歴史を引きずり,それを表現している。言い換えると,文脈に依存している,ということになる。
ある人のパフォーマンスは,必ずある関係の構成要素である,
ということになる。
しかし,ここから疑問がわく。
関係性の中で,自分が依存している限り,確かに,
記憶やその他の心のプロセスが集合的なものであることは,いいかえれば,それらが共同体の中に配分されている,
ということは認めるし,感情も価値も,そうかもしれない。ヴィトゲンシュタインの言うように,
理解(や判断もそうかもしれない)を,心のプロセスとして理解しようとしてはいけない。……その代り,自分自身にこう問いかけてみなさい。私たちは,どんな時に,あるいはどのような状況において,「どうすればいいか,わかったよ」と言うのか,と。
意味を個人の心に閉じ込めるのではなく,人々の相互関係の中に位置づける,
と。それを,僕流に,
関係性の反映,
と呼ぶとすると,しかし,一人一人の脳のなかでの,
関係性の記憶,
というか思考のプロセスは,イコールではない。一人一人が考えていることは,文脈とイコールではない。人によって,異なる。
たしかに,
私はたった一人では,何も意味することはできません。他者の補完的な行為を通してはじめて,「私は何かを意味する」力を得る,
というのはわかる。しかし,社会構成主義の四つのテーゼの言う,第四の,
理解のあり方について反省する,
という,その反省の主体は,誰なのか。結局,この主体なくしては,対話も,反省もない。
この「私」
を「我思うゆえにわれあり」の「われ」を主客二分として,葬り去ったところから,社会構成主義はスタートしたと強調するが,しかし,反省する主体,会話する主体なくして,ゲームが成立するのか。その主体は,ゲームの単なる駒なのか。とすれば,関係性が紡ぎ出す中で,ただ紡がれていればいいのか。
関係性の他者は,主体あってこそ,他者ではないのか。
例えば,こう言っている。
私たちの現実が,他の人々に耳を傾けられ,肯定されて,会話がますます調和したものになった時,変化力をもつ対話へ向けてのさらなる動き―「自己内省」―が生じる可能性が生まれます。モダニズムの伝統として,私たちは常に「統合された自我(ego)」として会話の中に位置づけられています。つまり,私たちは,単独の首尾一貫した自己として構成されています。そのため,論理的あるいは道徳的な一貫性がない人は,人々の軽蔑の対象になりますし,私たちは自分と立場を異にする人々に対して,自らの意見を,ほころびのない織物のように作り上げようとします。したがって,私たちがいったん対立関係に入り込んでしまうと,私たちの距離は決して縮まることがありません。
その関係性に対して,
自らの立場を疑問視する試み―つまり「自己内省」への会話によって,異なる声を受け入れて,多声性を取り入れる会話がいる,と述べる,
その内省する主体である。たった一人のときでさえ,特定の文化に根差した話し方をしているにしても,その主体は,何なのか。統合された自我を否定しながら,そこは,スルーしている。いまある現状をそのままにしていくのか。普通の日常で,人と接している自分を,そのまま前提にするのか。
個人主義的な自己に変わって,関係性の中の自己,
という,その自己のことである。これについては,僕の読んだかぎり答えが見えなかった。
それを無批判に使っている,というところが気になった。それなら,例えば,
自己は,相手から認知されることで存在する,
と徹底的に置き換えてみる。しかし,それでも,そを認知し,受け止める「自己」とは何か,
答が先のばしというか,スルーされたままのような気がする。
僕は,自己について,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388611661.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/389704147.html
書いた。しかし…!
参考文献;
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの構成主義』(ナカニシヤ出版)
上へ
ベンジャミン・メイズというアメリカの教育者は言う。
人生の悲劇は,ゴールに到達しなかったことにあるのではない。
悲劇はゴールを持たないことにある。
理想を実現できないのは不幸ではない。
実現すべき理想がないことが不幸なのだ。
僕はへそ曲りだから,疑う。本当か。
悲劇というのは,本人が嘆いているのか,周りがそう言っているのか。
不幸というのは,本人が悲しんいるのか。周りがそう評価しているのか
悲劇というのは,何を基準に言うのか。喜劇ならいいのか,ハッピーエンドならいいのか。では,何を指してハッピーエンドというのか。
不幸というのは,何に対して言うのか。幸せとは何をいうのか,不幸と幸せを分ける基準なんてあるのか。
何をした人か知らないが,
上記の文章は続く。
星に到達できないのは恥ではない。
到達すべき星を持たないのが恥なのだ。
失敗ではなく,理想の低さが罪なのである。
人は結局自分を語っている。そう本人が,不幸と思い,悲劇と思っている,ということを語っているにすぎない。
基本的に,「〜と僕は思う」という,主語(ベンジャミン・メイズ)が抜けている。こういうのを,(時枝誠記氏の言う)ゼロ記号という。僕は,ゼロ記号化された語りを基本信じない。
これについては,「言葉の構造と情報の構造」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm#%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0)
で,「言葉の構造と情報の構造」ということで語ったことがある。日本語が主語がないのではない。日本語が強く文脈に依存しているからにすぎない。必要としないだけだ。必要とするときに,言わなければ,信頼されないだろう。英語であっても事情は同じだ。(一般化ないし原則として語るような)意図を持った語りは,必ずゼロ記号化される。
そういうときは用心した方がいい。
僕は生来の怠け者らしく,昔,先輩から,
のんべんだらり,
としていると,結構厳しく叱責された記憶がある。なぜなのか,僕は,それを,
何となく無為に過ごす,
と受け止めて恥じたが,しかし考えたら,なぜ恥じなくてはならないのか,といまなら思う。
僕は不精ではあるが,のんべんだらりというだらしなさはないと,いまでも思っている。どちらかというと,自分では,
のほほんとしている,
という方が当たっている気がしている。のほほんは,無頓着だけれども,無為に生きているわけではない。
ゴールなどという大層なことは考えない,
まして,
理想などということを考えない。第一,ゴールは,あくまでゴールで,その先には別のゴールがある,ということは,それはゴールではなく,通過点でしかないではないか,という茶々入れないが,そう思うと,ゴールなんぞで,悲劇だの喜劇だのと言われたくはない。
人生自体には目的はないかもしれない。
生体としての人は,ただその天寿,あるいは遺伝子の持つ可能性を全うすることが目的と言えば言える。そこには,おのずと,その人生を生きる役割があるはずだ。その意味で,ゴールは,そういう役割の手段に過ぎない。そんなものの有無で,悲劇なんぞと言われてはかなわない。
理想だってそうだ,理想,どういう理想なのか,その中身は問わないにしても,理想の有無だけで,幸不幸を忖度されてはかなわない。それこそ大きなお世話というものだ。
何のための理想なのか,
こそが大事なので,理想の有無なんぞ,何の価値基準にもならない。
大体が,こういう格言だか名言だかを,人を測る物差しにされては,迷惑だ。
人は,人の数だけ尺度が違う,人は自分の人生と自分の天寿を持つ。それを,誰それの尺度なんぞで測ろうなんて,ふてえ料簡というものだ。
だから,タイプだの性格診断だのを信じない。人の数だけ人の特性があり,それをタイプに押しはめたら,かならず,そこからはみ出すものがある。それを見ない人は,たぶん,タイプの眼鏡でしか人が見られない人だ。人の個性とは,誰も,タイプからはみ出す。そのはみだしたところにこそ,その人の持つ大事な何かがある。
そういう信念のない人は,自分だけあてはめていればいいのである。人さまのことを推し量る資格のない人だ。僕はそう思っているし,僕は,そんなタイプにはまり込むほど,典型的な人間ではない(と信じたい)。
人は,人の数だけ尺度がある,そういう信念のない人間が援助職をしてはならない。
上へ
ここでいう,
いま・ここ
は,カウンセリングやコーチングのセッションという閉ざされた場でのそれではない。おのれが生きている,この一瞬一瞬のいまであり,ここのことだ。
心理や内面のやり取りという抽象的な疑似空間は現実ではない。ともすると,内に向いてしまって,現実が見えなくなっていないか。そういう危惧がある。
純粋の会話は成り立たない。言葉は,その人の現実を反映し,価値を反映している。
マンガチックに言うなら,例えば,国が亡びんとしている風前のともしびの中,儒者が,最期の皇帝に,皇帝としていかにあるべきか,を講じている図に近いことはないか。
その意味で,会話自体が,時代という状況の文脈に依存している。そのことを忘れれば,温室の会話になる。
では,どれだけいまここに,生きているのだろう。毎日は,何もしなくても過ぎていく。自分が何もしないからといって,世の中が何もしないのではない。実感としては,日々,世の中が,息苦しく,閉塞感が強まっているように思えてならない。
それは,ひとりひとりがバラバラに,自己責任という名のもとに,個々に閉じ込められ,個々の感性・知性で測れるだけしか世の中の流れが汲み取れなくなっているからに違いない。
人は,ひとりで自己完結して情報を受け止めてはいけない,というのが,原則だ。
だが,そう言いながら,一体誰と,どう,ざっくばらんにキャッチボールできるだろう。そういう場が,失われつつあるように思えてならない。杞憂だろうか。
いま・ここは,過去からの時代の流れを背負い,いまがあり,ここがある。いま,ここでどうするかで,未来が決まる。
その意味で,いまの一瞬一瞬に注意を払い,集中力をもって見届けているだろうか。
なんとなく,惰性に流していないだろうか。
昨日と同じように,今日が過ぎてはいかない,過ごさせてはいけない,そんな僅かな違いに着目しているだろうか。些細だからと,そんなサインを見落としてはいないだろうか。
後から振り返って,ああ,あれが通過点だという,ティッピングポイント(それを過ぎたら後戻りの効かない時点)を見落としてしまっていないだろうか。
僕はまあ,老い先短いが,しかし,だから,責任があるのではないか。
あの時,あれを見逃したために,こうなったのか,という悔いは,後からくるものに,はコントロールできない不可抗力になる。しかし,いまを生きているわれわれには,まだわずかながら,何とか出来る,かすかな希望がある。それがたとえ,わずかでも,諦めたら,終りだ。
いまの一瞬一瞬の見落としが,妥協が,怠慢が,気の緩みが,未来を歪める。未来に影を落とす。そう考えて,一瞬の,いま・ここを生きなければ,後から来る人々に,未来を託せはしない。
未来に,自分が投企する。自分(たち)にある,わずかな可能性を開き,着地させ,実現していかなくてはならない。
投企とは,
自己の存在の可能性を未来に向かって投げ企てること,
を言うらしい。常に,自分の可能性が,未来に開かれている,という意味らしい。
ならば,まだまだ,諦めてなんかいられない,
投げ出してなんかいられない,
やけになるにはまだ早い。まだ時間が終わったわけではないのだ。未来は,まだ,少なくとも,いま・ここの一瞬先にも,開いているのだから。
自分にとっても,
友人にとっても,
仲間にとっても,
われわれ日本人にとっても,
すべての一人一人が,
死ぬまで可能性の中にある,
を少しもじれば,
自分の可能性を,未来へ投げることは,自分に関わる人の可能性も,一緒に未来へ投げることになるのではないか。自分を諦めないことが,結果として,未来を諦めないことにつながる,
少なくとも,そう信じることにしたい。
いま・ここでは。
上へ
われわれが,
この社会で他人に出会うとき,彼/彼女が自分にとってなんであるかを問われれば,何らかの答えを返すことができる。その答えは,たとえば〈妻〉であったり,〈友人〉であったり,ときには見知らぬ「他人」であったりするだろう。社会的世界において私たちが他社に与えるこの規定を,「役割」
と呼ぶ。仮に,ある人を固有名詞で呼ぶとすると,
そこには固有名で呼ぶことを可能とする関係が前提にされているばかりでなく,私自身も自分がこの他者を固有名で呼ぶことのできる関係をもっていることを知っている。
ということは,われわれは,日常的に役割存在である。
行為者は,ある役割関係を前提に,すなわちすでに存在する相互作用過程のなかで,ある役割を担う他者を見出し,対応する役割を担う行為者として,他者に対する関係好意を行う,
要は,何らかの役割なしには,この世の中に存在しえない,ということらしい。
社会的世界は先ず役割を担う個人の集合として,役割世界として,
存在している。たとえば,
他者が意味をもって,すなわち役割存在として私の世界に現れるとき,私はこの意味において反照される。
相手を上司として認識することは,自分がその部下であると認識する。しかし,それは,確定したものなのか。たとえば,ストーカーが,
相手を私の恋人
と認識したとき,相手は私の恋人になるわけではない。その瞬間,相手が私をストーカーと認識した時,私の認識には関係なく,私はストーカーという役割に転ずる。
そこは,
コミュニケーションを通して他者と共有する間主観的な役割世界,
を持ち合えなければ,妄想と現実(どちらが妄想かは,実はわからない)のすれ違いになり,どちらにとっても何も生まないことになる。なぜなら,
行為者は,役割関係のネットワークのなかで役割行為を遂行することによって,この関係のネットワークと自分自身とを生産・再生産する。この役割関係や役割行為のあり方は多種多様であり,それ自体が何らかの重層的・複合的な関係において構造化されている。その最も…基層にあるのは,人間は社会のなかでのみ個別化されうる存在である…普遍的な依存と貢献の関係である。私たちが役割関係のなかで行為し,自己実現するときの最終的な根拠は,行為者がそのなかで行為能力を備えた個人として生成するこの普遍的な相互連関にある,
からである。一方的では役割は生じない。
両者の相互作用の結果
としてしか共有されない。それは,上司(リーダーと置き換えてもいい)として君臨しても,上司として認知されないことはありうるということに他ならない。
主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する。つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。
相互作用があるときのみ,役割関係が相互で認識される,と言い換えてもいい。
相互作用を関係性と呼びかえると,その人のポジションに応じて,関係性が変わり,自分の役割が変わる。だからこそ,ポジショニングというのが,役割を考えるときに,大事になる。
役割関係というのは,その瞬間,相互に責務(責任と言い換えてもいい)が生まれてくる。それに伴って,
役割期待
が生まれる。期待はコントロールできないが,期待を自覚はできる。それに応えていくことが,信頼や評価につながる。
しかしである。この関係性自体が,自分とはかけ離れていくことが多い。つまり,
一度社会化された人間は,おそらくすべてが潜在的な〈自己自身への反逆者〉
となる可能性がある。しかしそれは相互関係のなかでは,多く許されない。
主観的に選ばれたアイデンティティは,個人の意識のなかでのみその〈真の自我〉として客観化されるにすぎない幻想的なアイデンティティとなる。人間は常にかなえられない目的達成の夢をもつ,
と。関係性が,桎梏になることもある。というより,関係性の向こうに(関係性を抜けた)自分自身のありようを探したがる。
自分探し,
はそれだが,結局別の関係性の中にまた結びつけられるしかない。蒸発が,そうであるように。
で思う。いま,ここでの関係性の中で,
自分のありようを示せないものに,
示せる場所はない。人は関係性の結節点そのものとしてし生きられない,社会的動物であり,逆に,そこでこそ,自分が発揮できるのだから。
参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
P・L・バーガー=T・ルックマン『日常世界の構成』(新曜社)
上へ
書くについては,「書く」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E6%9B%B8%E3%81%8F,http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E6%9B%B8%E3%81%8F)等々,何度か,すでに書いた。今回は少し違う切り口で,僕の書くについて,書いてみたい。
僕にとっては,書くことは,まとめること,あるいは,編集することだ。したがって,思いをそのまま,つらつらと書き殴る,ということではない。
例えば,依頼されたテーマがあるとすると,
そのテーマについて,まず最初に,いくつかの断片が浮かび,断片がまたいくつかの断片を引っ張りだしてくる。これが出てくれば,なんとなく書ける予感がする。
それはもう少し具体的には,,頭の中に,いくつかのアイデアや,語彙,自分の過去に書いた文章の断片,それからとっさに浮かぶ参考文献や,そこから出てくるフレーズ等々が,雑多に頭を駆け巡り,その段階では,思いつくままに,メモを取る。
そのほとんど,フレーズだったり,ひとかたまりの考えの流れだったり,骨子のラフスケッチだったり,いろいろだ。そんなことをしているうちに,そのうちに,なんとなく全体像がかたちになり,流れになる。
口幅ったいが,それは,ちょうど,ヴァン・ファンジェの言う,
創造性とは,既存の要素の新しい組み合わせ,
という感じである。もう少し言うと,川喜多二郎氏の言う,
本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,
というか,結びついて,意味がひとつらなりになっていくときが,流れの感じである。だから,編集なのである。
頭のなかで(メモを取ることもあるが)本当にラフの流れができると,もう書きたくなる。
大体そんな段階で,いきなりパソコンに向かって,打ち始める。
そうすると,流れが固まりのようになって,次々と出てくるときと,ある程度で止まってしまうときと,ほとんど数行でとん挫するときと,いろいろあるが,うまくいくときは,大体終わりまでが,書き上がる。うまくいかないときは,流れの見込み違いなのである。だから,再度,メモへ戻す。仕事だと,何とか書き上げるが,仕事でなければ,没になることもままある。
推敲とか,構成とかは,その後にすることが多い。
だから,基本は,流れのまま書き流す,というスタイルになっている。
昔は(手書きの時代だが),表現や語句に結構こだわっていて,あれこれ考えあぐねたりしたが,ワープロになってから(正確には8ビットのパソコン→ワープロ→98という流れだが)は,あまり遂行せず,出てきたものをそのまま書いていくようになった。いいか悪いかはわからないが,表現に凝る,ということがなくなった。
それは最適な表現を探すという内的な葛藤がなくなったという言い方もできるが,ストレートに書いている流れのままに紡ぎ出す方が自然だという感じなのかもしれない。
ブログを書く時も,似たもので,
書くテーマが浮かぶときは,何かに憤っていたり,思いが募っていたりするが,そうでない場合は,
フレーズ,
テーマ,
語句,
読んだ文章,
がきっかけで,自分の中から反応する思いや言葉を書き連ね,何とかまとめきろうとする意志が働く。
自分の中に反応するのは,
それへの共鳴,共振れ,
過去に考えたこと,
それへの反発・同感,
いまの心境とのシンクロ,
過去に読んだものとの共振れ,
等々多岐にわたるが,僕のなかでは,書きはじめたら,何が何でもまとめきりたいという意志だけが強い。大体,目安は,400字詰めで,10枚を基準にして,帳尻をつける。
いまの理想は,
自然体の文章,
だ。思いの流れにまかせて,淡々と,流れる文章でありたい。
文は,人なり,
というが,そんなことはどうでもよく(それは結果だから),筆がスムーズに流れていくのがいい。どこかで,無理に凝ったり,練ったりするのは,邪魔になる。
それだけに,逆にこちらの力量・技量がもろに問われる,そんな文章なのではないか。
そして,どんなお題にも,何かを必ず書ききれる,(ブログレベルの話だが)そういう書き手になりたいと思っている。
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ケネス・J・ガーゲンは問う。
自分の心の状態を観察しようとしているとき,心のどの部分が観察を行い,どの部分が観察されているのか。…心をある種の鏡とみなすならば,鏡がそれ自身の像を映し出すことは,どうして可能になるのか。私たちは世界を眼で見る。とすると,何が「内なる世界を見る眼」の役をはたすのだろうか。また,その対象は何か,
と。あるいは,
心の状態を,正しく認識しているという確信は,どこから得られるのか。もしかしたら,ある心的プロセス(例えば抑圧や認知的バイアス)が,正しい自己認識を妨げているかもしれない。また,バイアスはかかっていないという確信をもっているとしても,自分が正しく「あるがままに」自分の心を見たということがどうしてわかるのだろうか,
と。たしかに,われわれは,簡単に,
自己に向き合う,
とか,
自己を直視する,
とか,
自己を大事にする,
とか,
自己を愛する,
とか,
自分らしく,
と言う。しかしそういうときの自己というのは,そんなにはっきりしたものなのか。向き合う,大事にする,直視する等々,いずれも,モノか対象物のようなイメージでとらえているように見える。自己をそうした固定した何かのように感じているのは幻想ではないのか。
幻想は,みなが,それが幻想であることを忘れている限りにおいて幻想たりうる,
とニーチェが言ったそうだが,自己というものを鏡で自分を見るように明確なイメージで抱いているとすると,ちょっと首をかしげたくなる。
キルケゴールの有名な一節が,瞬時に浮かぶ。
人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。
だから自己対話そのものは自己ではない。自分を是とする自分と非とする自己の関係そのものは,自己ではない。それに関係することが自己なのである。
内省とは,自己対話そのものではなく,自己対話と対話することと言い換えてもいい。
花びらを一枚ずつはがして,来る,来ない,
と言っていることが自己対話だとすると,その対話自身と対話するのが自己ということになる。,その関係性は,他者との関係性を反映していると,僕は思う。
他者との関係での相互作用への不安が,そのまま自己対話の双方になり,その双方をにらみながら,逡巡している。それはそのまま,他者との関係の反映以外ではない。
そこで自己完結している限り,自己撞着は崩せない。僕が内省に懐疑的になったのは,ここに由来する。例えば,漫画チックに言うなら,
僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)…
はどこまで続くのだろうか。
例えば,鏡の中の自分の目を見ている場合を仮定すると,
鏡の中の自分の目の中に,鏡を見る自分の目があり,その目の中に,鏡の中の自分の目があり,その中に鏡を見る自分の目があり,その目の中に,鏡の中の自分の目があり,その目の中に,鏡を見る自分の目があり,…
と続いていく。ただし物理的には何というか忘れたが,限界が来る。それと同じように,原理的には,
自分を見る自分を見る自分を見る…,
も実は,次元を超えていくように見えて,同じ自分のレベルの堂々巡りに陥る。それを破るには,他者との対話以外にはない。
ひとつの鍵は,栗岡幹英氏が言う,
〈私の世界〉は,実際にはコミュニケーションを通して他者と共有する間主観的な役割世界なのである。
他者が意味をもって,すなわち役割存在として私の世界に現れるとき,私はこの意味によって反照される。
主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する。つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。したがって,そこには,相互に関連する役割のネットワークが存在すると考えられる。そして,各々の主体は,自己を中心としたこのネットワークの連環のありようを,ひとつの図式として意識のうちに備えていると考えられる。
等々にある。
他者とのさまざまな関係を通して,さまざまな役割を照らし出し合う,そういう関係性があることで,自分に関係する関係自体が,多次元になりうるということができる。あるいは多声性と言い換えてもいい。自己との関係性の次元は,そういう他者との関係性の次元を反映するのだと思う。
まあ,ぶっちゃけて言えば,さまざまな人との関係を持つことが,自分の自己対話と対話する視点が多様性と,多視点性,多声性を持てるのではないか,という当たり前のことを言いたいだけかもしれない。
自分との対話は,さまざま別の自分との対話を誘発するものでなくてはならない。それが自分を豊かにし,自分の可能性を掘り起こす。とすれば,自分が,多様な人との関わりのなかで,多様な自分(の役割)を獲得できなければ,その自己対話は,自己同一の悪循環から抜け出せない。
参考文献;
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』(ナカニシヤ出版)
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
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怒りは常に愚行に始まり,悔恨に終わる,
と,ピタゴラスが言ったそうだ。しかし,怒りが爆発する瞬間,束の間,そうどれくらいかわからないが,コンマ,コンマ何秒か,頭をこのまま行くとまずいぞ,という思いがよぎる。それを蹴散らすほど怒りが大きければ,その止め立てする,何と呼ぶか,理性のようなものを,踏み潰す。しかし,何十回に一回か,踏みとどまることがある。この差は何だろうか。
前にも書いたことがあるが,人生で最大の怒りの爆発時,あっ,これはまずいかも,という思いが頭をかすめた。それを蹴散らして噴出させた怒りについて,しかし不思議に後悔したことはない。
ここは勝手な妄想だが,コンマ何秒かで,どうする,このまま行くか,やめるか,を秤にかけたのだと思う。だから,一瞬自分の頭に,目の前で自分を止める両手が浮かんだときは,ほんの一瞬,是非を測っている,と信じている。
では,悔いるとはどういうことか。
辞書的には,
自分のしたことについて,そんなことをすべきではなかったと思う,
のだという。そこで思うのだが,
それは結果が失敗だったからか,成功だとしたら,そうは思わないのか。成功でも思うことがありそうなことはあるが,ともかく,だとしたら,それは,
結果から,
あるいは,
その結末から蒙ることから,
そう後悔するのだろうか。後悔先にたたず,というが,あらかじめ予期することができるなら,そんなことはしない。ということは,
結果を覚悟せず,軽率に踏み出した,そのマインドのことをいうのか,
結果を考えて,慎重にすべきだった,その振る舞いのことをいうのか,
結果を考えず,やみくも突っ走る,その生き方をいうのか,
結果を推し量りもせず,軽々に動くそのありようをいうのか,
どれを指しているのだろうか。そして,そう問いを立ててみて気づくのは,
もうひとつ,その踏み出し,あるいは振る舞いは,
自分でコントロールできないことをコントロールできるかのごとく考えたことなのか,
自分でコントロールできるかどうかをよくよく考えずに踏み出したことを言うのだろうか,
僕は,石橋を叩いて渡るタイプではないので,あえて暴言を吐くとすると,
コントロールできるかどうかは,実はやってみなくてはわからない,問題は,コントロールできないと分かった時,どうするか,誰に支えてもらうか,といったことを考慮していたかどうかが,問題なのではないか,
とは思う。しかし,もっと言うと,
やってみなくてはわからないなら,無駄にあれこれ逡巡するより,やっちゃった方が早い,
で,もしそれで,引っ返しが効かないのなら,その時点で改めて考えればいい。そう考える。少なくとも,そこに,他責はない。時代のせいでも,状況のせいでもなく,ただおのれの力量不足のせいとしか考えない。
だから,ひょっとすると,悔いる,ということはあまりない。あるとすると,
自分の力量,技量の見誤り,
を悔いるだろう。もっと力があると思ったのに,こののろま,と自分を罵るかもしれない。
だから,天命を安んじて人事を尽くす,
という清沢満之の姿勢が,自分にはぴったりくる。
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サミュエル・ウルマンの詩の一部に,
歳を重ねただけでは,人は老いない。理想を失った時にはじめて老いがくる,
というのがあり,老人には,言い訳が出来そうな感じだ。さらに,
青春とは人生のある期間ではなく,
心の持ち方を言う,
となると,まだ若いとはしゃぐかもしれない。だが,僕はそうは思わない。
人は,20代では,その年代でしかできないことをし,その積み重ねの上に,30代があり,その上に,40代があり,
50代がある,60代がある。
僕は昨今の年寄が,若さだけを競うのはおかしいと思っている。若さしか強調できないということは,歳にふさわしい知識と経験を自分の中に蓄積できなかった証のように見えてくる。
子曰く,吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る。六十にして耳に順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず,
というのは,まあ人生五十年の時代のこととして,これに比して,何歳か上乗せするにしても,歳にふさわしいありようがなければ,単なる呆けと同じである,と僕は思う。
確かに若い心をもち,
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には,
驚異に惹かれる心,おさなごのような未知への探求心,
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・喜び・勇気・力の
霊感をうける限り君は若い,
というのは悪くない。しかし,それは若者だから,このあとの三十代,四十代があるから,意味のあることなのではないか。
僕は,若々しい精神を持つことと,積み上げてきた人生の蓄積の上で,何をするかというのは,別だと思う。後残り少ない人生で,何をするのか,何ができるのか,はそれまでに何をしてきたかの結果として,おのずと現れる。
二十代の冒険心と,五十代六十代の冒険心とは違う。だから,(ひとのすることに茶々をいれる気はないが)七十,八十で最高峰を踏破したからといって,ちっとも素晴らしいとは,僕は思わない。ましてそのために,若い人を支え役にする,というのは,その人の人生を費やさせていることなのではないか,そう思う。
もちろん,年甲斐もなく,などとは言わない。
しかし,天命を弁えたとき,おのずと,おのれの使命があるはずだと思うだけである。
子曰く,後世畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるをしらんや。四十五十にして聞こゆることなきは,これ亦畏るるに足らざるのみ,
とは,年月を積み重ねてきたものにしか言い得ないことのはずである。それを,目利きと呼ぶ。
いま本当に必要なのは,こういう目利きというか,時代眼というか,時代精神なのではないか。
若いということは,別の言い方をすれば,愚かということではないのか。思慮が足りないということなのではないのか。
しかし若さは,未来に向かって開いている。その若さを,生き生きと発揮できる世界を創っていくことが,先行したものの役目なのではないのか。
だからこそ,若さよりは,思慮を,知恵を重んじたい。
それは,たぶん,老成や熟成とは無縁の時代への突っ張り,尖がり方である。
後からくるものに,借金と,核のゴミと,荒廃した国土を残していくことが,いま生きている,今まで生きてきた先輩たちのすることなのか。
彼らが,先人の肩に乗って,更に遠くを見る視界を得られるようにするために,
いまできることは何か,
いましなくてはならないことは何か,
いましておかなくては取り返しのつかないことは何か,
を考えること,これこそが,先に生きてきたものの使命ではないのか。
天命を知る,
とは,おのれの寿命を弁えることであると同時に,おのれの生まれてきた所以,使命を自覚することなのではないのか。
だからあえて言うなら,
ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある,
かもしれないが,20歳の青春と60歳の青春は,違うのだということだ。20歳のすることに,60歳がチャレンジして,競うことではない,そう僕は思っている。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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きめつけも,思い込みの一種だ。こうでなくてはならない,という。それは自分だけにしてほしい。
たとえば,
人は,過去の経験がいまを決めている,
過去に蓋をしてはいけない,
自分に向き合わなくてはいけない,
自分をありのままに受け入れなくてはいけない,
自分を見つめなくてはならない,
等々というのが,僕は嫌いである。そういうことができない人間は自分を受け入れず,結果として他人を受け入れない,という。
それは過去からくるのでも,自分と向き合わないからでもなく,
いまその瞬間,
その人と向き合わない,
その人と向き合うのを避けた,
その人と向き合うのから逃げた,
等々という程度のことだ。そのことで,その人の人生が台無しになるようなことではない。その人は,そのとき,その人に向き合いたくないし,受け入れられなかった,というただそれだけのことだ。
いつもの持論として言うが,
過去がその人のいまを決めているのではない,
いまのその人のありようが,過去の見え方を決めている,
それだけのことだ。
大事なのは,いま生きている自分であり,
いま,何かから逃げているか,
いま,何かをしなければならないのに,避けているか,
いましなければならないことから,目を背けているか,
という「いま」だ。いま,
自分が生きていく上で,しなくてはならないこと,やらなければならないことを,弁えているかどうかだけのことだ。
あえて言えば,そういう立場や状況から逃げないでいることの方がもっと重要だ。向き合うなら,自分のいるその場面や状況にこそ向き合うべきだ。
過去や内省,自己分析を重視するのは,心理を齧ったものの悪い癖だ。ひとは,いちいち内省しない。そんな暇はなく,駆けずり回っている。
もし立ち止まることが必要なら,そのときが必ず来る。それが死の直前だろうが,それがどうしたというのか。ひとは,自分で選択する。自分と向き合う必要があると,気づけば,自分で向きあう。
それを向き合いなさい,
とは,他人のおせっかいだ。
僕は基本的に,過去を脱ぎ捨ててきた。その時々の人間関係も含めて,多くは脱ぎ捨ててきた。それについて,自分の性分や性格を分析しようとは思わない。所詮結果論だからだ。
ある時から,日記をやめ,すべて捨てたのも,それが理由だ。
その都度置き去りにした自分の影は,必要なら,必ず追いついてくる。
私は私に耐えない
それゆえ私を置き去りに
する
私は 私に耐えない それゆえ
瞬間へ私を置き去りにする
だが私を置きすてる
その背後で
ひっそりと面をあげる
その面を(石原吉郎「置き去り」)
追いついてきたとき向きあえばいいのではないか。
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世の中に
寝るほど楽はなかりけり
浮世の馬鹿は
起きて働く,
という三年寝太郎に由来するらしいセリフが,僕は好きなのだが,あるいは,
起きて半畳,寝て一畳,
というのも,足るを知る,というニュアンスで,結構気に入っている。あるいは,
胡蝶の夢,
もいい。昔,荘子が蝶になった夢を見た。夢の中で自分が人間であることを忘れ,楽しく飛び回った。
夢からさめ,自分が人間であることに気がつき,夢の中のことを思い出してみると,
荘子自身が蝶になったのか,それとも,蝶が荘子になったのか,よくわからなくなってしまった。 という。あるいは,
邯鄲の夢,
というのもあった。昔,邯鄲の 茶店で,盧生という貧しい青年が,富が思うようになるというふしぎな枕を借りて寝たところ,自分が出世して豊かな富を得,
50年余りの幸せな人生を終える。ところが,目をさましてみると,眠る前に茶店の主人が炊きかけていた大粟が まだ煮え終わらないほど短い時間だったという。
しかし,もう少し現実的なことを言うと,
寝ることの効果は,
(自分との,人との,事柄との,出来事との)距離を取ることだと思う。
たとえば,どつぼにはまって,トンネルビジョンに陥っているとき,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づかない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだ。そのために一番いい方法は,あえて,距離を取ることだ。それには,
時間的な距離化
と
空間的な距離化
の二つがある。寝るのは,まさに,この二つにあてはまる。岡潔が,
タテヨコナナメ十文字,考えてか考え詰めて,それでもだめなら寝てしまえ,
といった趣旨のことを言ったが,まさにその通り,寝ている間に,はまっていた視野狭窄を客観化する視点を手に入れて,起きたとき,
そうか,
と気づくことも,ままある。よく,アイデアを考えるときの,
三上,
つまり厠上,馬上,枕上,というが,いずれも,ちょっとした視点の移動を伴う,というのが共通している。僕は,これを,
「見る」を見る,
と呼んでいる。
いわば,ものの考え方や見え方を変えるというのは,見る位置を移動することである。
大きくなるとは見る位置を近づけること,
小さくなるとは遠ざけること,
逆にするとはひっくり返すこと,
だ。位置を動かせるわれわれの想像力を駆使して,見えているものを変えてみることで,見え方を変える。見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである
しかしそれをするためには,対象を見ている自分の位置にいる限り,それに気づきにくい。それが可能になるのは,見ている自分を見ること(を意識的にすること)によってである。
つまり,見る自分を対象化して,ものと自分に固着した視点を相対化することだ。そうしなければ,他の視点があることには気づきにくい。
それを意識的にすることももちろん可能だが,
寝る,
のは,自然とそういう位置を自分の中につくり出すような気がしている。ここからは,妄想に類するが,人は,見ているうちに,体験したことを記憶し直す,というか,整理する。その操作自体が,
俯瞰する,
立ち位置をもたらすことになる。
さて,まあ,桃源郷の夢でも,見ることにするか。
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バロン=コーエンは,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳があるという説を提案しているという。
共感とは,他人が何を感じ,何を考えているかを知り,それに適切に反応することをいう。共感できる脳は相手の感情や心の状態を知って心を動かす活きをすると仮定されるので,心の理論が働くことに通じる,という。
心の理論(theory of mind)というのは,ひとはそれぞれ自分の心を持っていてそれにもとづいて行動していることができることを言う。つまり,
心の理論が理解できるようになると,自分の心と他人の心は違うことがわかるので,自分と他人とは,感情,意思,考えなどが違うことがわかる。大体四歳くらいで理解できるようなる(一歳でもできるという指摘もある)らしい。
これが社会を形成してきた人の共通の特徴とされている。
一方システム化に優れた脳は,システムを分析したり検討することが得意で,システムの隠れた法則に気づいたり,新しいシステムを創り出す傾向を持つ。心の理論とは縁遠いことになる,という。
バロン=コーエンは,二つの脳について,
E(共感できる脳)とS(システム脳)について,
EがSよりまさるEタイプ,SがまさるSタイプ,バランスの取れているBタイプに分けたが,95%はBタイプであるとしている。そして極端に人間関係が苦手なアスペルガー症候群の人をSタイプとした。
しかし,それを立証する生物学的マーカーは見つかっていない。むしろ,高橋惠子氏は,
個性と障がいの線引きは簡単ではない。ある社会的ルールを知らないことが本人を苦しめたり,不利にする,(中略)個性を尊重し個性を活かすことが…根本原則である,
という。妥当だろう。所詮仮説でしかないもので,人を類別し,人を理解した気になることは,浅薄だと,僕は常々思っている。
仮説というのは,所詮,仮の説明概念である。それを持ってみると,現実がよく説明できる。あくまで,仮にそう説明するとわかりやすいというだけだ。当然別の眼鏡を掛ければ別のものの見え方がする。
ロジャーズは,(これもたびたび引用するが)共感について,
「あくまで……のごとく」という性質(“as if” quality)を決してうしなわない
で,クライアントの私的世界をそれが自分の世界であるかのように感じとる,ことだと言っている。ロジャーズには,それは錯覚かもしれないし,思い過ごしかもしれないし,思い込みかもしれないことを,よく自覚していた。
それを失ったら,単なるきめつけに過ぎない。
右脳左脳で切り分ける俗説もこれに似ている。
これで思い出したが,前にも書いたことだが,
人の認知形式,思考形式には,
「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」
と
ストーリーモード(Narrative Mode)」
がある(ジェロム・ブルナー)があるとされている。
前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。
ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。
物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」(『人を賢くする道具』)
要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。
だから,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳は相互に補完し合っていることになる。95%から外れた人を,個性と見ることが出来なければ,所詮個性などどこにもない。
僕は個性は,百人いれば,百個の個性があると思っている。
問題は,人と同じ尺度だけで測っているから,それが見えない。百個違う尺度がいるのだ。それだけのことだ。
そしてこれが理解できない人は,
ブレインストーミング
の意味が永久にわからないだろう。
百個の個性とは,百個の異質さなのだ。それが前提でなければ,ブレインストーミングなど活かせっこないし,
キャッチボール
によって生み出される,異質な何かなど見えはしない。
そこにあるのは,創造性のとば口なのだ。
参考文献;
高橋惠子『絆の構造』(講談社現代新書)
H・カーシェンバウム&V・L・ヘンダーソン編『ロジャーズ選集』(誠信書房)
ドナルド・A・ノーマン『人を賢くする道具』(新曜社)
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僕はコーヒー好きだが,そうなったのは,結構昔だ。かつては,コーヒーのおいしい店というのが,いっぱいあった。布ドリップで一日分を仕込み,後は客に一杯ずつ温めて出してくれる店があった。そのコクといったら,なかなか味わえないもので,クリームを入れると更に味が変わった。
そんなコーヒーに全神経を使った店が,いまやどうでもいい機械出しのコーヒーショップに変わってしまった。ドトールとスタバと比較することはほとんど意味がない。あれは,コーヒー風味の飲み物に過ぎない。インスタントがそうであるように。
ほんとうのコーヒーを探すほどの酔狂ではなく,ただ場所を借りるつもりで,スターバックス,ドトールコーヒー,タリーズコーヒー,ベローチェ,サンマルク,プロントと渡り歩く。しかし,昔の喫茶店ほどにも落ち着けず,早々に逃げ出してしまうことになる。
コーヒーもどきを売って,コーヒーショップというのは詐欺だが,しかし消費者があれがコーヒーと認めたのだから,コーヒーなのだろう。
ルノアールがコーヒーではなく,くつろぎをもらうつもりでいく店であるように,コーヒーショップは,時間調整の場所でしかないのだろう。
大体,コーヒーショップで紙のドリップやサイフォンを使っているような店は,プロとは言わない。素人が自宅で出せるものを出して,コーヒーショップとして,大金を取るのは,詐欺だ。しかし,昨今プロフェッショナルは,どの世界にもいなくなった。
小説の世界でも,ベストセラーになったら大家だと勘違いしているのが大勢いる。しかし,それを見とがめる批評家のプロもいなくなって,どの世界も,夜郎自大だらけになった。というか,夜郎自大だらけになると,まっとうな人間が,異端になる。
さて,かつて,仲間と一緒に喫茶店,コーヒー専門店をやった時期がある。ちょうどコーヒー専門店ブームの頃で,珈琲館が何店もチェーンを連ね,あのルノアールさえも,コーヒー専門店を出店したくらいだ。ただ,カウンターに座った時,カウンター内にいた店員が,注文したアメリカンをお湯で薄めて出してきたのには,ちょっと驚いた。まあ,その程度の知識だったのだろう。
われわれも,ひと様のことを言えた義理ではなく,出店二年で,見事に失敗したが,といっても不格好なことに,一年目は赤字をどう減らすかに悪戦苦闘し,二年目はどう傷を少なく店仕舞いするかに振り回されただけで,その時のことを思い出すと,まだ冷や汗が出る。水商売とはよく言ったものだ。
「水」は「勝負は水物だ」と言われるような,運次第で大きな利益を得たり,損失をこうむるといった,流水のように収入が不確定な状態を指している,
ところから来たらしいが,それは他人事の言い方で,僕の反省では,すでに出店の段階で,勝負は決まっていた,と思っている。誰が通り,誰が客になりうるかといった立地というのも大きいが,どういうコンセプトにし,どういう内装にし,どういうアプローチにするかといった店づくり,調度品・備品の構成,どういう商品構成にするのか,何で収益を得るのか,どう回転率を高めるのか,経営というか店の運営主体をどうするのか等々,それが店の命運を決める,とは一般的には言える。
が,僕は,ちょっと違うと思っている。要は,
覚悟,
なのではないか。ただコーヒーショップをやりたいのか,うまいコーヒーを提供したいのか,そこに寛ぎの空間を作りたいのか等々,それは何でも構わない。決めたら,それをやりきる,何が何でもやりきって貫徹する,というものがなければ,どんなに外見や立地が良くても,それは手段に過ぎない。魂ではない。別の言い方をすると,
こだわり,
あるいは,
執念,
なのかもしれない。たとえば,
コーヒーと呼ぶか,珈琲と呼ぶか,カフェと呼ぶか,
どちらでもいいのではない。どっちを取るかで,その思いが違う。こだわりが違う。そこにこだわりがなくてはならない。コーヒーを提供するとは,そういうこだわりを提供することだ。
僕は,いま思うのは,コーヒーの淹れ方一つでも,プロフェッショナルはある,という当たり前のことを思い知らされる。われわれは結局素人であった。
ひよっとしたら布でも,紙でも,サイフォンでも,何でもいいのかもしれない。少し薄目なのか,ぬるめなのか,濃い目なのか,そこにもこだわりがあっていい。その先に道具が来る。
プロフェッショナルとは,執念だと思っている。梃子でも動かない自恃である。こだわりである。おのれの信念を捨てたら,それは素人になる。
しかし,素人は,素人であるとは気づかない。
プロフェッショナルは,自身がプロフェッショナルでなくては,そのプロのプロたる所以がわからない。蟹はおのれの似せてしか穴を掘れない。
そのとき仕入れていたコーヒーは,キーコーヒーだったが,長く舌がその味を覚えていて,何年か後,ある大きなコーヒー店で,ブラックで飲んだ舌が,それだと教えてくれた。嫌な顔をされたが,店の人に聞くと,わざわざマネージャーが出てきて,不承不承キーコーヒーと肯った。それだけが,残った遺産かもしれない。
上へ
日本国憲法前文は言う。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
安倍氏は,これを,みっともない,いじましいと言った。そして目指しているのが,どうやら戦前らしいが,しかも,秘密保護法(特定秘密の保護に関する法律)を制定し,教育勅語を復活しようとしているところから見ると,,大日本帝国憲法へと戻ろうとしているように見える。しかし今上天皇は,明確な意思として,現行憲法を尊んでおられる。だから,戦前には戻れないが,戦前のような強大武力の国家にしたいらしい。まるで,北朝鮮の目指す強盛国家のようだ。
しかしその陰で北朝鮮では,数万から十万の餓死者が出て,人肉食騒動まで起きている。同様に日本は貧困率二位で,六人に一人の子供が貧困にあえいでいる。所得が国民の「平均値」の半分に満たない人の割合が高い,つまり貧富の差が広がっている。
因みに,みっともない,とは,
外聞が悪い,体裁が悪い,見苦しい,
を意味する。語源的には,
「見たくもなし」
が音便化しいて「見とうもなし」となり,「見とうもない」「見っともない」と変わったとされる。本来は,見たくない,の意味であり,それが見たくもないほど見苦しい,と変じてきた,とされる。
見苦しさは,どこから来るか。
ひとつは,自分の価値に反するから,
いまひとつは,GHQの監督下で,(無理やり?)民主化されたことが気にいらない,
ということだろう。しかし,それが自分の価値に反していなければ,そうは言わないから,主要な理由は,自分の価値に反する,というところにあるのだろう。
僕には,
大人げない,
というか
女々しい
というか,
覚悟が足りない,
というか,要は,負けていやいや呑んだが,本当はこんな国家にも,こんな国のあり方にも不満でしょうがないと言っているようにしか聞こえない。忘れているらしいが,(仮にそれを押し付けられたのだとしても)それを呑んだ,ということは,その瞬間,「諾」だったということを表明したことだ。その自分を忘れている。だから,本気で,
国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する
国にしようと思ったこともないし,
恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい
とも願ったこともないのだということが,ようやく露骨になってきた。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう
と決意したことなどないのだろう。
ほとんど戦後とともに生きてきた僕には,それこそが,
みっともない,
の一語に尽きる。というか,
女々しい,
と言ってはばからない。
もし,本気でそうしたくないなら,そのとき,徹頭徹尾論議し,GHQと戦えばよい。しかし,そんなことをしないで,ただ弱気をくじき強気にへつらう根性だったから,とりあえず,面従腹背したが,
そろそろ機が来た,
とこうべをもたげてくる,その根性こそが,
いやしく,
みっともない。
だから覚悟がないというのだ。一旦受け入れたとき,本当は嫌でしたが,強権が怖くてなどとどの面さげていうのか。その根性の下劣さにはへどが出る。
そのくせ,人には文武両道を言う。しかし,文武両道の本質は,横井小楠が,「文武一途の説」で,こう言い切っている。
徳性に基づき原理に従って正しく導くのが文の道であり、その心を治め、胆を練り、その清華を武伎や政で試して見るのが武である。伎芸に従って心を治めるのと、心が充実しているのを武伎で試すのとは正反対であるとわきまえねばならない。武伎なしで上手ぶるのは論外だけけれども、武士は武芸で体を強くするというのはよくない。躰を強くしたいのであれば、漁師、樵、農夫が勝っている。ただ躰をきたえるだけなら、漁をし狩をした方が道場の修業よりましだ。士道をわきまえぬなら、農夫より劣っている。侍に値しないのだ。士農工商といえども、いやしくも道を学ぶものは皆士である。士にして家職にあるものは士というべきだ。家職を卑しいとして勉めないのは、恥ずべきことだ,
と。士とは心映えをさす。士とは武ではない。まして軍ではない。士心を持たぬものが,やたらサムライを言い立て,ひとをけしかける。よく見ておくといい。そういう人は,ほとんど自分は矢面には立たない。
この手の猛虎馮河の類には,つける薬はない。
総じて,この手の人は,強者にはペコペコする。もしそういう気があるなら,断固としてアメリカとの間で地位協定を交渉する機会はいくらでもあっただろう。あれだけ中国に対して,韓国にたいて強気の連中が,対アメリカには弱腰になり,そのことを咎めもしない。よほど,
うちなーんちゅ
の方が男気があり,男伊達である。
上へ
心ばえは,心映えとも,心延えとも書く。いい響きの言葉だ。
辞書には,こうある。
「映え」はもと「延へ」で,外に伸ばすこと。つまり,心のはたらきを外におしおよぼしていくこと。そこから,ある対象を気づかう「思いやり」や,性格が外に表れた「気立て」の意となる。特に,心の持ち方が良い場合だけにいう。
そのほかに,
「おもむき」「風情」「事の次第」「気立て」「心遣い」「おもむき」「心だて」
といった意味もあるらしい。心の状態が,外へ広がっている,写し出されている,というニュアンスなのだろうか。まずも悪い意味で使われることはなさそうだ。
「心映え」の「映え」の,「映える」は,栄えるという意味で,
光を映して,美しく輝く。その結果目立つ,というニュアンスになる。「化粧映え」につながる。
「心延え」の「延え」の,「延える」は,敷きのばす,という意味で,
「進む」「伸びる」「及ぶ」「展きのぶる」,というニュアンスになる。蔓延の,蔓がはい延びる,につながる。
ここからは,妄想になるが,
心ばえ
といっても,
心映え
と書くのと,
心延え
と書くのでは,少しニュアンスが変わる。
上記にもあったように,心延えと書くと,
その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,
心映え
と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。
似ていると言えば似ているが,
おのずから照りだす,
心映え
がいい。それが,その人の,
ありようからきている,
なら,なおいい。僕個人は,
周りへの影響のニュアンスの,
心延え
よりは,何か一人輝きだしている,
心映え
がいい。まあ,そういう生き方をしてみたい,と思う。つい,何か言葉でそれを言い出してしまう。しかしそこには,我執がある。何かすることで目立とうとする自分がいる。それは,心映えが悪い。
そのありよう自体が,おのずと輝く,
はえは,
栄え
とも書く。その在り方自体が,誉れであるような,
そういう生き方,あり方をしてみたいものだ。
上へ
断念,という言葉のニュアンスが好きだ。何だろう,ちょっと個人的には,潔さを感じてきた。
意味は,「諦めて,思いきる」。しかし,調べていくと,少しずつ,ニュアンスが変わる。思い切ると一言で言っても,
諦める,
思いきる,
の他に,
見切る,
見限る,
放り出す,
投げ出す,
思いとどまる,
踏みとどまる,
投げ捨てる,
手放す,
匙を投げる,
手を引く,
お手上げ,
ひっこめる,
等々,必ずしも,自分の意志とは限らず,
何かの想いを捨てる,
何かの執着を捨てる,
という意味合いにも,自分で見切って,断ち切る場合と,投げ出す場合のふた色があるが,その他に,
何かを仕掛けていたのを中断する,
イケイケどんどんな突進に急ブレーキをかける,
という踏みとどまるニュアンスもある。しかし,自分の意志でそうしたという以外に,
不承不承といったニュアンスの,ちょっと追い詰められた,詰め腹を切らされる感じも色濃くある。だから,
断念したのか,
断念させられたのか,
断念せざるをえなかったのか,
断念を強いられたのか,
で,思いは違う。
「念」という字は,同義の他の文字と比較すると(『字源』による),
「思」は,思案の思い,
「憶」は,思い出す,
「意」は,こころばせ,心映え,
「想」は,相手やカタチに心を映す
「惟」は,ただ一筋に思う,
「懐」は,ふところ,心にこめて思う,
とあり,「念」は,「思」より軽い,とある。
ということは,断念は,あまり思い入れするようなことではなく,ペットボトルを道端に捨てようと思って諦めた,程度のことなのかもしれない。
しかし,「念」を何々という単語を洗ってみると,
想念/雑念/情念/記念
というニュートラルなものよりは,
信念/丹念/懸念/執念/観念/専念
か
邪念/怨念/疑念/放念/失念
といったものの方が多い。必ずしも,「思」より軽いとは感じない。そのせいか,
瞬間を断念において
手なづけるために(石原吉郎「断念」)
と言ったり,
海は断念において青く
空は応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である(石原吉郎「耳を」)
と言ったり,断念には,重さが付きまとう。
時間が筋肉をもつときの
断念と自由を
同時にきみは
信じなくてはいけないのだ(石原吉郎「時間」)
断念は,手放す自由とつながっている。断念が重いほど,手放す自由が大きい。最期,否応なく,すべてを手放さなくてはならない。それが,強いられたものではなく,おのれの「断念」となるために,すべてを手放していく必要がある。最後の最期は,すべての関係も,関わりも手放す。そのとき,
非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ (石原吉郎「非礼」)
一本の,ただ立つおのれになる。ひとは,
自分自身になるために,
生きる。最期まで生きる。
上へ
デモは,テロだという妄言を吐いた政治家がいたが,タイの政治家の爪の垢でも煎じて飲んだらよい。吉宗は目安箱を設置した。封建時代の将軍すら,民意を探ろうとしていたのだ。
国民は,奴隷か羊のように,従順に右向け右というのが御しやすいに違いない。そう考えている政治家は,多様性を束ねる政治力のなさを白状しているようなものだ。政治は,自分の思う通り国を動かすことではない。国民の負託を受け,あくまで民意を実践するものでなくはならない。しかし,多く,戦後自民党政権は,民意を重んずるより,私益を重んじて国を運営してきたとしか思えない。現在の体たらくのすべては,ほとんど戦後一貫して国のかじ取りをしてきた自民党の責任以外のなにものでもない。にもかかわらずわずか三年弱の民主党に責任をおっかぶせて,あたかもみずからは,無罪のごとく振舞う。この厚顔無恥を許しているのも民意なら,この国が,後戻りの効かないティッピングポイントを通過しても,それを看過するのだろう。
後になって,一億総懺悔だけは御免蒙る。
さて,デモの話だった。デモは,署名活動と並んで,国民が自らの意志を主張できる合法的手段だ。
しかし,日本の場合警備が非常に厳しく,デモ隊より警備の警察官の方が多くなることもしばしば。しかも警察官がデモ隊をぐるりと包囲する形で監視している。これは,警察がデモ活動を周囲の見物人や通行人などと切り離し,飛び入り参加者を阻止するためで,このために歩行者などにデモに気を取られて立ち止まらないよう命じられることも多い。
日本でのデモ活動は事前計画を超えられず,他国にしばしばみられるように,デモが自然発生的に大規模化することは困難。しかも,道路交通法又は都県または市が定める公安条例の縛りがきつく,まるで,
おなさけで(いやいや)デモをさせていただいている,
という具合である。だから,冒頭の暴言が出る。
かつて,それを突破するために,暴力的に警官隊を突破することがあった。いまや伝説にしか過ぎない。かつてまだ若者は,未来に夢を持っていた。
創りたい社会像
があり,
目指す未来像
があったように思う。それが若者のエネルギーであった。いまや国を挙げて,社会を挙げて,家庭を挙げて,飼いならし,牙を抜いて,おとなしい羊と化した若者(というか,いい子に,寄ってたかって仕上げた)に,かつてのエネルギーはない。
なぜなら,国の未来は,若者には一番厳しく,相対的に少数派になっている若者は,選挙でも勝ち目はなく,相対的に多数派の老人,既得権益を握っている大人たちに勝ち目はない。
しかもアメリカと異なり,起業(ここでいう起業は企業ごっこを指さない)は,厳しい環境にあり,寄ってたかって大手に潰される。
目立つのはヘイトスピーチと人種差別のデモだ。ネトウヨと呼ばれる若者を誤指導しているのが誰かは知らない。しかし,怒りの向け方が間違っている。相手は,老人と既得権益者ではないか。かつて白人の低所得者が黒人排斥に血道を上げたのと似た構造だ。だからか,未来像が過去になる。過去がそんなよかったのなら別だが,過去に未来なんかない。それは(疑似)懐古趣味に過ぎない。
僕は,もううん十年前,警官隊に追い散らされたデモ隊にいて,逃げ遅れて逮捕されたことがある。別に誇りはしないが,自らが主張すべきことを主張し,結果警官隊とぶつかり,追い散らされた結果の逮捕を恥じてはいない。が,逃げそびれたおのれの頓馬さは悔しい。
あのころ,まだ若者は生き生きしていた。荒馬のようにエネルギーに満ち満ちていた。
それを駄馬のように,羊のようにしたのは,国と社会だ。若者がエネルギーを持てない国は,未来はない。未来を担うべき若者に,
夢を見ることを放棄させたからだ。
未来を見えなくしたからだ。いまや,夢は,
自分の発見という小宇宙にとどめられてしまった。しかし,そんなものは,国が亡び,社会が荒んだら,糞の役にも立たない。
いまそれは顕在化しつつある。
貧困率は2位,六人に一人,子どもが貧困にあえいでいる。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/44/index.html
この先にあるのは,奴隷だ。ただわずかに給与を得るために,唯々諾々と従う。しかし,人は奴隷にはなりきれない。自分があり,自由を求める。そこに憤懣がマグマのように蓄積する。
言いたいことを言えず,一人で抱え込んで,製品に毒を入れたり,無差別殺人に走ったりという非生産的な心境に,若者(とは言えないが,失われた20年を経れば,就職に失敗したものは,壮年になる)が,憤懣を一人抱え込むしかない心情を,痛いほどわかる。
今,それを救い上げるものがどこにもない。労働組合は既得権益の巣窟でしかなく,いまや保守そのものだ。各個ばらばらに個別撃破されて,一人一人の労働者がかなうわけはない。
しかし,この下へしわ寄せした分,日本の企業は競争力を確保したかというと,逆だ。いま,どの企業も職場は荒れている,と見ている。一人一人,個別バラバラに,各個撃破され,羊になるか,病気になるか,ドロップアウトするかしか選択肢はない。
だが,そんな日本企業が競争力があるとは思えない。
モノづくりは,すでに多く追い抜かれ,それ以外のソフト力もシステム力も,対抗できるだけに育ってはいない。労資ともどもも,すでにティッピングポイントを超えた,と僕は見ている。悲観的に過ぎる,と言われるかもしれないが,人を大事にしない企業が,社会が,国が,将来何を担保にして成長するのか。
自己責任とは,便利な言葉だが,セーフティネットがあって初めて機能する言葉だ。それなしの自己責任の要求は,国の,社会の,企業の責任放棄だということが,この国の為政者には全く分かっていない。
アメリカは,311の後,9000人のアメリカ人脱出計画を立てた,と聞く。福島県の全県避難すら,拒絶され(それを当時の管首相が要請したが福島県知事が拒否したと言われている),未だに住み続けさせられている。むしろ定住を促進しようとする運動(その主体が誰かは想像に難くない)がまかり通っている。その付けを払うべき何十年後は,それを進めたものは鬼籍に入り,住まわせられた子供たちに負いかぶさる。こんな国に,未来があるのか,と絶望的になる。
上へ
勝海舟が,こんなことを言っている。
久能山だとか,日光だとかいふものを,世の中の人は,たゞ単に徳川氏の祖廟とばかり思つて居るだらうが,あそこには,ちやんと信長,秀吉,家康,三人の霊を合祀してあるのだ。これで織田豊臣の遺臣なども,自然に心を徳川氏に寄せて来たものだ。この辺の深味は,とても当世の政治家には解らない。
うろ覚えで書くが,確か,司馬遼太郎が,『街道をゆく』の中で,
徳川幕府が,森林保護のために結構尽力してきた,
という趣旨のことを言っていた。それが維新後消え,荒れた,と。目安箱にしてもそうだが,封建制という限界はあるにしても,為政者側の懐は深かった。それが天保頃になると,制度疲労を起こし,幕末になると,ほとんど当事者能力を失ったのは,人材登用が,うまく機能しなくなったということにあるように見える。
それにしても,この懐の深さは,計算づくではできない。目先の利益だけでは,到底間尺が合わないからだ。例の米百俵にしても,小泉元総理が違う文脈で利用したのと゛は異なり,長岡藩が河井継之助に率いられて列藩同盟に加わり,戦火で荒廃した中でも,人材育成という長期的視点に着目したところにこそ目を向けなくてはならない。しかし,それは,自分たちは贅沢三昧しながら,民に節約を強いる政治とは別物でなくてはならない。それは,詐欺である。
懐が深い,というのは,
@度量が広い。包容力がある,
A理解や能力に幅がある,
B相撲で,身長が高く,両腕の長い力士に見られる能力で,四つに組んだとき,両腕と胸とで作る空間が広く,相手になかなかまわしを与えないことをいう。
の意味がある。言い換えると,
・器量とか,度量とかという,器の大きさになるか,
・奥深さ
になる。ここで言いたいのは,それとは微妙にずれる気がする。
ただあわてず騒がず,悠然とことに当たる,
というニュアンスだと,大きさしか示していない。ここで見ているのは,視野の広さという意味のような気がする。近視眼的ではなく,もっと幅広く,奥行き深く,長期の視点でものが見られる,という意味だ。
目の前の問題処理だけではなく,長期間視点で,布石を打ち,種をまいていく,
という感じになる。かつての日本企業がそうであったように,それは余裕が必要になる。それは,システムにも,財政的にも,人材的にも,キャパシティがあるからこそできる,ように見える。
今日の日本は,余裕を失っている。ヘイトスピーチ,それへの対抗,人種差別,一極集中バッシング等々,社会全体が狭量になっている。苛立ち,些細なことで突っかかり,とげとげしているように見える。そのせいか,短期の,目先のことに振り回されて,長期の視点が消えているように見える。
日本が近隣諸国に,特に中韓に強気になるのは,総じて,国内が窮しているときが多い。明治の征韓論も,国内の政情不安と経済的困窮とが,外に目を向けさせていた。それは,余裕のなさといっていい。
だが,そんな中にも,勝のように,日清韓の三国連携で欧米列強に抗すべしという論を張っていた人もいた。そこには,長期の視点があった気がしてならない。
目先の自尊心や利害に振り回されて,強硬姿勢を取るのは,百年の計がなさすぎる。
確か竹内好だと思うが,中国人と日本人では時間のスケールが百年単位か十年(?)位の差がある,といっていたような気がするが,その中国も,いまや懐の深さを失ってしまったように見える。
それは言ってみると,個人になぞらえれば,
トンネルビジョン,
に陥っているに等しい。ぶっちゃけ,どつぼにはまっている。その視野狭窄から抜け出す方法は,
時間的にか
空間的にか,
距離を取ることしか抜け出す道はない。空間的には,なかなか難しいかもしれないが,少なくとも,時間のスケールを100年とは言わないまでも,30年,40年単位で考える視点が欲しい。そうすると,視界が変わる。
ついでながら,竹内の,
大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった。この二つの側面は、事実上一本化されていたが、論理上は区別されなければならない。(中略)太平洋戦争において両側面は癒着していたのであって、この癒着をはがすことはこの段階ではもう不可能だったからである。というよりも、癒着をはがす論理がありうることを、われわれは戦後に東京裁判でのパール判事の少数意見からはじめて教わった…,
という文章が目に留まった。これが僕には視界の広いものの見方に見える。
上へ
責任の取り方を知らないものは,ヒトの責任の取らせ方も,自分が責任を取るとはどういうことかをも弁えない。だから,いったん人が責任を取ったことで決着したことを蒸し返す。そして,リセットしたがる。
日本に多いのは,
一億総懺悔
のように,誰もが悪いというカタチにすることだ。これは,誰も責任を取らないということだ。すべての人のせいにするということにひとしい。
そういう無責任な人ほど,
自己責任
として,個人に押し付け,見捨てる。その当の本人は,イラクについても,原発についても,一切の責任を取らない。いまどき原発ゼロを安全な圏外から叫ぶのは無責任そのものでしかない。
一億総懺悔と自己責任は,
無責任体制を示す双極といっていい。
リスボンシビリティとは,結果責任と言われるが,そうではない。これを有言実行の意味だと言った人がいるが,だからこそ,結果責任なのだ。
自分の責任で決断し,自分でその責を負う,
という人を昨今見かけたことがない。
かつて勝海舟は,行蔵は我に存す,毀誉は他人の主張,とうそぶいたが,それだけの責任を一身に背負い,幕臣の戦後処理を続けた。こう言う人を見かけない。
勝にとって一身を賭けて譲った国家が,私されるのを厳しく批判し,伊藤博文らの批判者であり続けた。
戦後体制を壊し,アンシャンレジームを目指すのは,それこそ無責任なもののすることだ。戦後体制は,
第二次世界大戦を始めたもののけじめ,
である。このけじめすら取れないものに,世界に伍して発言していく資格はない。
靖国も,憲法改正も,
結局一度もきちんと責任をとらない,取らせることができない国民であることを,世界に標榜することでしかない。
戦後一貫して,なし崩しに,戦後のけじめをぐじゅぐじゅにしてきた総仕上げといってもいいのかもしれない。しかし,その瞬間,日本という国は,結局,何百万,何千万の人間を殺し,あるいは苦しめた責任を,取らないのだと宣言することに等しい。
人のせいにして始めた戦争の責任のけじめの取りようがないのと同様,人に押し付けられた戦後体制ということにして,結果として,また責任を放棄する。
これがけじめであり,
たとえそれが擬制であったとしても,それを受け入れて,続けていくことが自分のした始末のけつをぬぐうことだという,当たり前のことさえわからぬ人が多いことに,僕は恥ずかしい。
それは,結局,
負け,
を一度も受け入れられず,負けたふりれをしていただけということだ。これは,卑怯者のすることだ。女々しいとはこういうことを指して言う。
負けとは,あるいは全面降伏とは,その時点で,自分を捨てることだ。両手を上げるとはそういうことではないのか。
そのはずだ。降伏文書に署名するというのはそういうことだ。
負けた以上,その責任を誰かが取らなくてはならない。恥ずかしいことに,自分が責任者だと,自裁した人は,ほんのわずかしかいない。そのこと自体,さむらいなどという言葉を二度と使ってほしくないほど,恥ずかしい。
ようやくけじめとして責任を取らせたはずなのに,それ自体不当という,認めないという。
ではもう一度戦い直すのか,その勇気もない。
にもかかわらず,卑怯にも,その後ずっと一貫して,そのけじめをなかったことにしたがってきた。そして,その責任を取らせたはずのモノを復権させようとしてきた。それは,負けの撤回に等しい。恥ずかしくないのだろうか。
だろうな,でなければ死んだ者(殺したもの,死に追いやったものとはあえて言わない)に顔向けできないはずだ。そしてそのことをかみしめている人は,黙って,語らない。沈黙している。
それをいいことに,…
やめよう,きっと馬の面にションベンだ。
僕は恥ずかしくて仕方がない。そういうひとが,臆面もなく,さむらいなどということばをいい,責任などということばをいうことに。
いずれ,早晩,また臍をかまされるに違いない。
しかし,また一億総懺悔か自己責任だけがまかり通るのだろうか。
それだけはなしにしなければならない。歴史は,一度目は悲劇だが,二度目は茶番だ。
上へ
考えれば,手紙というのは,そこにわずかでも,手書きの部分があれば,その人柄がしのばれる。宛名や差出人名すら,本文がワープロであっても,わずかな手書きの手筋で,その人の状態や心理が窺える気がする。
ちょっとネットで別のコトを調べていたら,長田弘「すべてきみに宛てた手紙」に,こんな文章があることを知った。
書くというのは,二人称をつくりだす試みです。書くことは,そこにいない人にむかって書くという行為です。文字をつかって書くことは,目の前にいない人を,じぶんにとって無くてはならぬ存在に変えてゆくことです,
と。しかし考えれば,書くという行為は,書いた瞬間に,自分にとっても情報として入ってくる。その時,暗黙のうちに,自分は読み手となり,無意識で読み手となっている誰かを想定しているところがある。
かつて,日記を何十年も書いていた時,頭の中で思っているだけと,それを文章にして紡ぎ出したものとは,微妙な齟齬があった。描いた瞬間に,書きながら,書き手自身がそれを読み,暗黙のうちに,前後の辻褄を合わせようとしている。それが虚実皮膜のはじまりである,と思ったものだ。
そのとき,ただきちんと書こうとしているというだけではない意識が働いていた気がしないでもない。
思い出すと,日記でも,メモでも,それが込み入ったことであればあるほど,その経緯がわかるように書こうとしているところがあった。もともと書くということは,思いや意識を整理しようという意志が働いているせいもあるが,なんとなく後から読んでもわかるように,という意識が働いている。
そのとき,無意識で,対象として,
誰か読者を想定している,
というのと,
いまひとつ,
自分自身を読み手として想定している,
というのがあるような気がする。
誰が,と特定できるわけではないが,いまでも覚えているが,自分が死後,誰かがそれを読んだとしたら,ということが,ちらりと頭をよぎった気がする。そう考えて,描写に抑制が働いたのと,きちんと書こうとする志向が働いたのを覚えている。
もうひとつは,書きながら,思い描いていたのは,後から自分が読むということだ。すごく極端な言い方をすると,その自分は,それを考えていたちょっと後の自分であるのではないか。それを目にする自分にとっては,すでに,過去の自分なのである。その過去と瞬間のいまの自分との対話,といってもいい。
考えてみたら,書いた瞬間,思っていた自分とはタイムラグがある。その前の想いと,書かれたものとの間の微妙な齟齬は,そこにもある。
そのキャッチボールが,文章を文章として独立させ,頭の中のもやもやしていた思いが,整理された面がある半面,少しずつずれていく,という感覚がある。
もちろん長田弘の言っているのは,上述の後段で,
いずれも,目の前にいない「きみ」に宛てた言葉として書かれました。手紙というかたちがそなえる親しみをもった言葉のあり方を,あらためて「きみ」とわたしのあいだにとりもどしたいというのがその動機でした。これらの言葉の宛て先である「きみ」が,あなたであればうれしいと思います。
と,本当の読者を想定しているのではあるが,書いているときに,暗黙に,誰かが想定されなければ,書き出しの動機にはならないのかもしれない。
とすると,手紙は,すでに,その相手に向かって,直線的に,暗黙のリンクをつなげようとする意志そのものといってもいい。
それがラブレターでも年賀状でも儀礼的な礼状でも,結果として,思いの多寡はあるにしても,その思いのワイヤー(レスも含め)をつなげることだ。
その意味で,メールよりもちろんだが,電話よりも,太い意思に思える。
なぜなら,ただ印刷されたものであっても,宛名が書かれた瞬間には,それがつながるのであり,ましてそこにわずか一行が手書きで書き加えられれば,それはもっと強い。
なんとなく,ふとそんなことを思っているうちに,
あゝおとうとよ,君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
という与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を思い出した。これもまた直接的なものだが,しかし,すべての作品は,手紙以上に読み手を意識しているはずだ。それが,特定の誰かであるほど,その作品の持つメッセージ性が強くはなるにはちがいないにしても。
上記の長田弘の文章がもうひとつ。
ひとの人生は,やめたこと,やめざるをえなかったこと,やめなければならなかったこと,わすれてしまったことでできています。わたしはついでに,やめたこと,わすれたことを後悔するということも,やめてしまいました。煙草は,二十五年喫みつづけて,やめた。結局,やめなかったことが,わたしの人生の仕事になりました。―読むこと。聴くこと。そして,書くこと。物事のはじまりは,いつでも瓦礫のなかにあります。やめたこと,やめざるえをえなかったこと,やめなければならなかったこと,わすれてしまっとことの,そのあとに,それでもそこに,なおのこるもののなかに。
これは,誰に向けたものなのか,僕には,自分自身に向けたメッセージに思えてならない。
上へ
最近,ある本を読んでいてこんな文書に出くわした。
「幸福の認識は,まったく経験的事実にもとづくものであり,また幸福に関する判断は各人の臆見に左右され,そのうえこの臆見なるものが,また極めて変り易いものだからである。」
これはカントの言葉らしい。これを引いて,柄谷行人は,こう説いていた。
「彼(カントのこと)が幸福主義を斥けるのは,幸福がフィジカルな原因に左右されるからだ。つまり,それは他律的だからだ。その意味では,自由はメタフィジカル」
である,と。カントの目指す自由とは,こういうことだ。
「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を,けっしてたんに手段としてのみ用いるのみならず,つねに同時に目的(=自由な主体)として用いるように行為せよ」
その自由から見て,文脈(あるいは状況)に左右されるものを目的化することは,僕もよしとしない。
さて,しあわせは,
幸せ(倖せ)
と
仕合(わ)せ
と当てる。
辞書(『広辞苑』)では,両者を別々に項を立てているが,一般には,一緒にしている。仕合せは,
めぐりあわせ,機会,天運,
なりゆき,始末,
(「幸せ」とも書く)幸福,好運,さいわい,
で,「幸せ」は,そのうちの三番目の意味に限定される,ということになる。
この語源は,
「為合わせ(仕合せ)」
とされ,良いことが重なること,という意味になる。さらに,
「シはサ変動詞の連用形,アワセは,プラスの意です。二つの動作・行動を,して合わせるの意です。祖父が喜寿,父が還暦,孫の合格,家族は健康で無事などと良いことが重なるがシアワセなのです。地震があって,火事がおこって,そこに大風が起こって,泥棒がやってきて,いくつかの災いが,仕合せて,災難だった,などと悪い意味に使われてもいたのが不シアワセということばです。」
と,加える。『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/si/shiawase.html
によると,室町時代に生まれた言葉で,
「本来は,『めぐりあわせ』の意味で,『仕合せが良い(めぐりあわせが悪い)』,『仕合せが悪い(めぐりあわせが悪い)』と,評価語を伴って使われた。江戸時代以降,『しあわせ』のみで『幸運な事態』を表すようになった。更に事態より,気持ちの面に意味が移って,『幸福』の意味になり,『幸』の字が充てられて,『幸せ』と表記するようになった。」
とある。ただ,漢字の「幸」と「倖」の字は,
「幸は,手を上下からはさむ手かせを描いた象形文字で,執(手かせをはめて捉える)や報(仕返しの罰)の左側に含まれる。刑罰の刑(かせ)や型と同系の言葉。やがて刑にかかるところを危うく免れたの意となり,それから,思いもよらず運よくはこんだの意となる。のち,広く幸運の意に拡大して用いられたため,その原義を倖の字があらわすようになった。」
とあるから,ちいさな「僥倖」(思いがけない幸運。こぼれざいわい)を「幸い」と呼んだように見える。
『古語辞典』をみると,
仕合せ
為合わせ
と当てて,
うまく合うようにする,
という意味が最初に来る。そこから,
物事の取り回し,処置,
となり,それが,
めぐりあわせ,
となっていく様子が見える。「しあひ」
という言葉があり,
仕合い
為合い
とあてて,
共にことをする,
という意味で,それが,一方で,
互いに争い合う,
つまり勝負の試合(仕合)になり,他方で,
幸運
になっていくさまが想像される。『大言海』の説明がいい。
「仕合せたる時(オリ)に,運に当たり,不運に当たること。命運」
と。まさに,それが「仕合せ」の本義だろう。
中島みゆきの「糸」という曲には,
「縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます」
とある。
参考文献;
柄谷行人『トランスクリティーク』 (岩波現代文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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ときどき落ち込む。めげる。
本当に,情けなくて,涙が出る…!
寝入りばなか,目覚めた直後か,ちょっとぼんやりしている時か,緊張感の解けた,一瞬に,自分がくだらない人間に見えてくる。
きっかけは些細なことだ(だけでもないが)。ちょっと行き違いがあった,しくじった,トラぶった,躓いた,ころんだ等々。
そこから,自分のマイナス面が,ふつふつと泡のように吹き上がってくる。
情義に薄い,
浅薄,
狭量
偏屈
上っ調子,
中身が空っぽ,
浮気性,
知ったかぶり,
短気,
癇性,
根性なし,
何かに根を詰めて取り組んだことがないと思い始めると,
道に聴きて塗(みち)に説くは,徳をこれ棄つるなり,
と,孔子の言葉が耳に痛い。
選択理論ではないが,落ち込むという自分の状態を,無意識で自分が選んでいる。思うに,落ち込むことで,たぶんバランスを取っているのだ,と思う。
何とバランスを取っているのだろう。
それ以上に突っ込むと,自分のやばい部分が見えてくるので,気分としての落ち込みのレベルでとどめておくために,
あるいは,
ときどきふんぞり返る自己満足の自分を牽制するために,
あるいは,
落ち込んでいる自分というものがいることに満足するために,
あるいは,
あほやなあ,と思いつつ,自分をあほと思っている自分を,どこかで良しとしている,
あるいは,
…もうないか。
ともかく,落ち込んでいることは事実なのだ。そして,落ち込んでいるとき,自分が情けなく,アホに見えてくる。そういう自分に耐えられず,気分として滅入る。
残念だが,そういう状態に居続けられない。
まあ,いいか,
といつもの能天気が顔を出す。そこでも,一つコトに拘泥出来ぬ,移り気なおのれが顔を出す。いつの間にか,オセロゲームのように,一気に黒が白にひっくり返る。
事態が動いたのではなく,気分が動いただけだ。
かなんなあ,こんな調子で,一生の幕が下りるのは…!
今日はめげっぱなしで,終ろう。
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未来は出現するものなのか,
未来は到達するものなのか,
という問いがふと出てきた。あるいは,未来は,
ひらめくものなのか,
見えてくるものなのか,
といってもいい。あるいは,
未来は,未来からやってくるものなのか,
未来は,過去からやってくるものなのか,
と言い換えてもいい。あるいは,
未来は,線形か,
未来は,非線形か,
と問い直してもいい。
普通に考えると,
過去の選択がいまを呼び寄せ,
いまの選択が未来を呼び寄せる,
と言えるはずだ。しかし,
人との出会い,
出来事との出会い,
を通して,自分の選択といえなくもないかもしれないが,それによって,ふいに,思ってもいなかった,
未来が出現する,
ということがある。その時,そう感ずることもあるし,後になって思い当ることもある。そこでは,不意に未来が,屹立したイメージだ。あるいは,不意に舞台のホリゾントが破れて,向こうに世界が開けた感じといってもいい。
しかし,普通は,横井小楠が言うように,
人は三段階あると知るべし。天は太古から今日に至るまで不易の一天である。人は天中の一小天で、我より以上の前人、我以後の後人とこの三段の人を合わせて一天の全体をなす。故に我より前人は我前生の天工を享けて我に譲れり。我これを継いで我後人に譲る。後人これを継いでそのまた後人に譲る。前生今生後生の三段あれども皆我天中の子にしてこの三人あって天帝の命を果たすものだ。孔子は堯舜を祖述し、周公などの前聖を継いで、後世のための学を開く。しかしこれを孔子のみにとどめてはならない。人と生まれては、人々皆天に事(つか)える職分である。身形は我一生の仮託、身形は変々生々してこの道は往古以来今日まで一致している,
と,過去を引き継いで,過去の偉人の肩に乗って,
はるかな未来が見えてくる,
という感じではないか。そのとき,未来は,歩一歩,ステップをたどって登っていく先に開けてくる。
しかし,その場合も,未来は,出現の機会を待っている,
と言ってもいいのかもしれない。信仰で言えば,親鸞が,絶対他力で,第十八願,
至心に,心の底から阿弥陀仏を信じて名号を称えれば,必ず浄土へ行ける,
を信じきることで,浄土から光が差す,という。これはね神人によって,未来が出現するもといっていい。
清澤満之は,これを,
天命を安んじて人事尽くす,
と言った。それを引き受ける,ことで,未来が出現する。
だから,確かに,未来は,過去の生み出すものでもあるが,しかし,同時に,自分が,
いま,何を引き受けるか,
によって,未来は,そこに道となって開く,とも言える。
清水博さんが,
場は,未来からくる,
と言われたのも,あるいは,自分の姿勢,ありようを,さしている,といっていい。
だから,言い換えなくてはならない,
未来は,出現させる,
ものだと。そのための,覚悟と,意思がいる。
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表現を,仮に,
現(うつつ)を表わす,
としたとする。そうすると,
「現」とは,
あらわれる(あらわす),
うつつ,
起きている,
という意味になり,まあ出来事,現実,と捉えておく。では「表す」の「表」はどうか,同義語と比較すると,
見は,隠れたものが出てくる,
現は,見と同じ。現在=見在,
表は,うわ側へ出してあらわす,
顕は,照り輝くほどにあらわれる,
著は,あらわす,あらわる,
暴は,さらす,
等々,まあ表へ出る,表面化する,という感じなのではないか。
とすると,表現を,
現を表わす,
と言ったが,こう言い換えるとどうなるか,
現に表す,
現で表す,
現から表す,
現が表す,
現も表す,
現へ表す,
等々,その都度微妙にニュアンスが変わる。
「を」にすると,現が何にせよ,それを外へ表出するということになる。しかし,
「に」にすると,何を表出するにせよ,「現」にする,つまり現実化,顕在化する,というように変わる。
「で」にすると,「現」そのものが表出する手段に変わる。
何が言いたいのか,というと,表現というとき,
自分の内面(思い,思想,感情,心等々)を,外在化することに力点がある。つまり,自分を表現する,というように。しかし,それを,
自分で表現する,
自分に表現する,
自分も表現する,
自分へ表現する,
自分が表現する,
自分から表現する,
等々,自分を表現するという,というこだわりを手放すと,自分は,
表現そのものの媒体であってもいいし,
表現のキャンバスそのものであってもいい。
だから,自分は何をしても,自己表現になっている,と言ってもいいし,人生は,自己表現の舞台そのものであると言ってもいい。
僕は,自分を対象に,自分が表現の主体であることにこだわっているが,それは,視野を狭めていないか,ということなのだ。
人からのフィードバックは,それ自体,僕についての表現なのだし,それは自分の中に,その人自身が自分を投影しているのかもしれない。でも,それは,
自分に表現された何かなのだ。
表現が,言葉によるのであれ,他の手段によるのであれ,
現前化,
するということに尽きる。それが,自分に表現されても構わないし,それ自体を逆手に,表現し直してもいい。たとえば,表現は,
表言
表原
表間
表源
表呟
表嫌
表眼
表玄
表験
表見
表限
表顔
表訝
表幻
等々なんでもいい,極端に言えば,
他人が自分(をキャンバス)に表現する,
ということもあり,なのだと思う。目指す表現(現前化)には,それにマッチした手段があるとき,
世評はどうあれ,それが最高傑作なのだ,と信じている。
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落語をうかがってきた。
常々思うが,人は,どこで,笑うかは一様ではなく,確かにおかしいが,それほどでもないところに,反応する人もいれば,その場がどっと反応するのに,自分は,それほどでもなく,つられて,笑うということもある。
笑いというのは,その場にいると伝播する,というところがある。あくびも伝わるが,それとはちょっと違う。あくびは,その場を共有している何人かに,伝わるが,その伝わり方は,場の共有の深さに比例する。どういうか,くつろぎ感というか,安心感というか,心のほのぼの度を共有している感じである。
笑いの伝播は,笑いの漣に,渦に,波に,飲み込まれる,という感じである。場そのものが笑っているというか,笑いを促すところがある。主体は,「場」のように思う。だから,「場」が重要なのだと思う。
ある意味,その場にいる人が,落語家(この場合一琴師匠)の噺を聴きに来ている,という状態。いわば,耳になっている。
それはレディネス状態といっていい。
http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8D%E3%82%B9
によると,レディネスとは,
ある行動の習得に必要な条件が用意されている状態をいう。これが,特に学習のレディネスとも呼ばれる概念の定義である。
そして必要な条件としては,身体や神経系の成熟,すでに習得している知識や興味,態度などが想定されている。あることがらの習得に,学習者の身心の条件が準備されているとき,すなわち一定のレディネスが成立していれば,学習者は,その学習に興味を持ち,進んでこれを習得しようとし,学習の効果をあげることができる,
と。つまり,程度の差はあれ,落語とはどういうものかということを弁え,噺を聴くことはどういうことかが了解できている,いわば,
笑い,
を期待して,そういう構えで,その場にいる。つまり,笑う準備はできているのである。
言い方は悪いが,笑いの臨界点に達している。だから,ちょっとしたことでも笑いが起きやすい。そこで笑いに共振れすること自体が,そこにいる,その場そのものにいることの共有のように感じる。もしも,何か,自分に笑えないことがあって,場の笑いから取り残されると,なんとなくさびしく感じる,そういう場になっている,ということだ。だから,場の笑いに身をゆだねて,ひととき,おのれを解き放つ。
噺家は,
ひとりで何役も演じ,語りのほかは身振り・手振りのみで物語を進め,また扇子や手拭を使ってあらゆるものを表現する,
ことで,聴衆の想像力が物語の世界が広げていくのを支える。だから,師匠が,たとえば,ただ表情だけで,ただを捏ねる子供の反応を演じているとき,客観的にみれば,ふた色にわかれる,
子どもと一体になって口元を歪めているか,
父親と一体になって困惑した表情になっているか,
いずれも,ただ身振りと声色だけで演じられている世界の向こうに,噺家ではなく,噺家の描く噺の世界にどっぷりつかっている。にもかかわらず,それを笑うとき,
その世界と一体になっていては笑えない。その場の,
滑稽さ,
は,それを判別するもう一つの目があるから,笑える。子供の仕草を笑うには,それがおかしいと思うには,それを第三者として見る位置からでなければ,おかしいとは感じない。しかし,一方で,子どもの身振りとシンクロして口をゆがめている。
とすると,観客は,複雑な意識の動きをしていることになる。
一方で,噺家の身振りに一体化して,演じられている子どもと一体化した表情になりつつ,
他方で,その身振り手振りの滑稽さを,第三者の目(観客)の目で観る視点も持っている,
映画でも演劇でも,似たことは起きているが,落語では,噺家の語る言葉以外に,噺の世界はどこにも現前していない。つまり,それを聴く観客の人の心の中にだけ描き出されているのである。
それだけに,一方で,世界に一体化し,他方で,それを観るという意識の行きつ戻りつが,際立つ。
もちろん持っている言葉によって,人は見える世界が違いうから,同じ噺家が発した言葉でも同じ世界が見えているとは限らない。特に江戸の世話物になると,もう同じものが見えてはいない。しかし,
笑いは,同期し,
笑いの波は伝搬する。だから,面白い。
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僕は,ストーカーと恋は,わずかの差だと思う。
同じ土俵に乗っていると思う,
のと,
同じ土俵に乗っていると感ずる,
のと,
同じ土俵に乗っているつもり,
のとは少しずつずれる。しかし,「同じ土俵に乗っている」のと「同じ土俵に乗っているつもり」とは,ほとんど変わらない。お互いにそう思っていても,それは,別々の土俵かもしれない。一方だけがそう思って,他方は合わせているだけかもしれない。
そもそも全く接点のなかった関係で,ストーカーは起きない。起きたとしたら,妄想か病気である。
だから,なにがしか,土俵を共有した,という幻想を抱くに足る時間があったということになる。
そういう意味では,恋とストーカーとは,ベン図ふうにいうと,重なる部分がもともと大きい。
恋は仕勝ち
とも,
恋は思案の外,
ともいう。好き嫌いとか愛憎というが,
好きと嫌いは対ではなく,
愛すと憎むは対ではない,
気がしている。もちろん,好きが嫌いに転じることもある。愛が憎しみに変わることもある。だが,対ではない。好きなものは,ずっと好きなのだ。ストーカーの心理を追いかけたわけではないので,勝手な妄想だが,
ストーカーは好きという幻想から抜け出られなくなっている,
だから,相手の土俵は見えていない。自分の土俵に乗っていたはずの(と思っている)相手を,勝手に追い求めている。これだけ追いかければ,わかってくれるだろう,気持ちも変わるだろう,と勝手に思い込む。
だからストーカー規制法によって警察から事情聴取や警告を受けた瞬間,その土俵から降りた相手に気づく。気づいたおのれが愚かしく見えるか,これだけ好意を示すおのれへのこんなふるまいに対して,相手が憎く見えるか,そこで憎悪に転ずるかどうかの岐路がある(かもしれない)。
多くは,そこで断念する。というか,みじめに見える自分を,これ以上みじめにする振る舞いには耐えられない。だから,その土俵を降りる。しかし,おのれの土俵から降りなければ,というか,同じ土俵の上にあった(はずの)相手しか見えていないので,そのときのおのれの思いの丈,好意の分量だけ,相手への憎悪の分量もかさ上げされる。
もともと好きと憎しみとは,好悪という言葉があるように,隣接している。好きから嫌いには転じないが,好きから憎む(悪む)には転じやすい。
愛は,いつくしむ,めぐむ,したしむ,かわいがる,このむ,と,いわゆるlove(の反対はhate)とは微妙にずれている気がする。だから,愛憎より,好悪の方がしっくりくる。
よく,ことわざに,
恋の道には女が賢しい
とある。一般には女性の方が,冷淡と言われる。さっぱりしている,というか,踏ん切りがいい。モトカレのものは洗いざらい捨てる。しかし,未練たらしいのは,男のほうだと言われる。本当のことは人によって,そのときの心理状態によって,二人の関係性によって,違うとは思うが,女性の方が思い切りがいいと聞かされることが多い。女性のストーカーの方が圧倒的に少ないのは,そのせいかもしれない。しかし,これも,個人差があるし,彼我の関係の中で変わる。
よく聞くのは,結婚詐欺師は,女性に信じられているという。相手の土俵にうまく,おのれの好意を残す。というか,そもそも騙されたと相手は思っていないのだという。だから,相手は憎まないのだ,という。そのあたりの,詐欺師の手腕は,
いつまでも,相手の心の土俵に,自分を残りつづけさせる,
ところにあるのかもしれない。どうせ幻なら,そういう土俵の降り方がいい。
そう,ここにはコミュニケーションの基本がある気がする。思えば,こういうコミュニケーションの仕方がいいのかもしれない。
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死生命有
富貴天に在り(『論語』)
でいう,天には,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つが並列されている。
つまり,天命には,二つの意味があり,一つは,天の与えた使命,
五十にして天命を知る
の天命である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,「死生命有」の寿命である。だから不慮や非業の死は非命という。
しかし,いまひとつ,
彼を是とし又此れを非とすれば,是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)
で言う「天理」のことでもある,と。
天命で,よく知られていることわざは,
人事をを尽くして天命を待つ,
であるが,これだと,これだけやったんだから,どうだ,という褒美を当てにしているようなニュアンスがなくもない。そのせいか,神田橋條治さんは,
天命を信じて人事を尽くす,
と逆転した言いようを,紹介されていた。これだと,おのれの使命にしろ,天理にしろ,を信じて,やれるだけのことをやる,というニュアンスに変わる。
しかし,清澤満之は,これを,
天命を安んじて人事尽くす,
と言った。微妙に意味が変わる。
「安んずる」とは,
安心するという意味もあるが,
それに満足して不満に思わない,甘んずる,
という意味がある。あるいは,もう少し踏み込むと,
受け入れる,
あるいは,
引き受ける,
というニュアンスになる。さらに少し踏み込むと,
甘受する,
となる。
そこには,成果や成功とは関係なく,苦難や困難の意味合いが深く出てくる。それでも,それを引き受けて,人事を尽くす,と。
清澤は,言う。
請うなかれ。求むるなかれ。なんじ何の不足かある。もし不足ありと思はば。これなんじの不信にあらずや。
彼は,絶対他力からそう言っているが,そこにあるのは,どんな過酷な運命も,そのまま受け入れ,引き受けて,その中で,おのれの出来ることを尽くす,というように聞こえる。
だから,こう言う。
独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり。殺戮餓死,もとより覚悟の事たるべし,
と。
すでに殺戮餓死を覚悟す,
とも。この覚悟は,言葉が重い。自分のような軟弱もののよく言える言葉ではない。しかし,天命を受け入れるというのは,こういうことだ,という意味で,重いが,同時に,身震いするほどの緊迫感がある。
不意に思い出したが,横井小楠が,二人の甥を坂本龍馬に託して洋行させる折,送った送別の詩に,
心に逆らうこと有るも
人を尤(とが)むること勿れ
人を尤むれば徳を損ず
為さんと欲する有るも
心に正(あて)にする勿れ
心に正にすれば事を破る
君子の道は身を脩むるに在り
というのがあった。「心に正にすれば」と抑制するところが,あったこと,を。自責,とはこのことだ。絶対他力は,つまるところ。絶対自責に通ずる。
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思い込みとは,おのれの信じたことを堅く思い決めることという。それは,視野狭窄と変わらない。あるいは,その思いからしか世界が見えないことを言う。そこでは,議論の余地はない。なぜなら,そもそも議論で意見が変わるなら,思い込みとは言わない。
思い込みを別の言い方をすると,固定観念という。
固定観念は,機能的固着,とも言う。つまり,その余の脳の部位とのリンクができない状態である。それを崩すには,(もちろん本人が崩す気があればの話だが),
ひとつは,言語レベルから現実レベルに降りる,
あるいは,
より高みの目的から手段を洗い直す,
の二つがある。しかし,いずれの場合も,現実といって,自分の見える現実しか見ようとしない場合,「現実」いう同じ言葉を使っていても,同じ現実を見ていない。
コントロールできていないものが,
完全にコントロールできていると言い切れるような場合,
たぶん,現場に行っても,現物を見せても,現実を突き付けても,コントロールできているものしか目に入らないだろう。
この絶望感,この閉塞感をどうしたらいいのか。
さて,ここ連日ある新聞社が,河野談話について,いろいろ騒ぎ立てている。ツイッターでも,「意向」を「指示」に変えたということを,ことさら騒ぎ出している人間がいた。で,
何を騒いでいるやら,言葉レベルで言っていても現実は見えない,軍が意向といったら,指示と同じだ。それが現実だ,
云々といった書き込みしたら,
現実とはそうではない,云々として,切られてしまった(らしい)。
しかし,日本の上位者は,多く,明確に意思を指示しない。下は,その意向をくみ取って,それを下へ指示する。だから,トップは多く責任を免れる。そういう言葉のレベルの現実的問題がある。
言葉レベルでいくら現実を見ようとしても,現実は丸められている。丸められたレベルのことを問題にしたら,誰が大戦の意思決定をしたのか,はわからなくなる。そういう無責任体制というか,文言で明晰にするような仕組みにはなっていなかったし,なっていない。だから,証拠はない,文書として残るはずもないし,残すはずもない。
それが現実なのだ,ということを言いたかったのだが,要は,談話を潰したい向きにとっては,そんなことはどうでもいいのだ。
しかし,一国が世界に向けた談話を,ころころ変えるような国や人民を信用するだろうか。
綸言汗の如し,
それ自体は,すでに国是なのだ。その覚悟がないから,一事が万事,簡単に,降伏文書と講和条約に基づく戦後体制を否定し,アンシャン・ジームに復帰したがる。憲法を欽定憲法に戻し,教育勅語を復活させ,治安維持法もどきを制定し,一体どういう国家にしたいのか。今上天皇も,誕生日に明確に述べられていたように,まったく望んでいないのに。
少なくとも,戦後こそが,本当に世界に伍していく国力を蓄えたのであって,戦前の比ではない。しかし,彼らは,どうも復古することで,人民というか,国民をおのれのコントロール下に起きたいらしいのだ。それは,そのまま家父長制イデオロギーの復活であり,男尊女卑の復活であり,結局そういうことを考えている人たちは,自由で平等で多様な世界に耐えられず,それが不埒な世界にしか見えないのだろう。だから,心の中まで,踏み込んでひとつのイデオロギーでコントロールしたがる。
というより,人は,右向け右でないと,コントロールできないと思っているのかもしれない。そんな均一社会のもろさは敗戦で証明されたではないか。第一,いまどきそんなリーダーシップもマネジメントも,世界中で通用するのは,北朝鮮だけだ。そういう中で,頂点に立っていないと,不安でしょうがないのだろう。まるで金正恩のようだ。
哀れで,みじめで貧相な,人品骨柄の賤しい人たちに見える。
自由なくして,世界に伍す発想も発明も生まれない。
平等なくして,闊達な議論は生まれない。
侃侃諤諤の議論なくして創造性は育まれない。
創造性なくして,未来を切り開く力は生じない。
このマインドは,五箇条の御誓文そのものだ。藩閥政府によって踏みにじられた,五箇条の御誓文の趣旨が,80年を経て,戦後,いろいろ問題はあっても,曲りなりに,やっと実現し(かけ)たに等しい。
広く会議を興おこし,万機公論に決すべし
上下心を一にして,盛に経綸を行ふべし
官武一途庶民に至たる迄まで,各の其の志を遂げ,人心をして倦まざらしめん事を要す
旧来の陋習を破り,天地の公道に基づくべし
知識を世界に求め,大に皇基を振起すべし
これを起草した,由利公正,三岡八郎は横井小楠の強い影響下にあった。小楠のもとでの殖産興業政策で窮乏した福井藩財政を再建した。そう,だから,この御誓文には,小楠の『国是七条』や『国是十二条』が反映している。これは,坂本龍馬の「船中八策」にも色濃く反映している。そのせいか,龍馬に二人の甥を託した折の,壮行の詩にふつふつとみなぎる,
堯舜孔子の道を明らかにし,
西洋器械の術を尽くさば,
なんぞ富国に止まらん,
なんぞ強兵に止まらん,
大義を四海に布かんのみ,
といった気概と希望が満ち満ちている。
そう,考えようによっては,80年を経て,自力でできなかった,五箇条の御誓文の世界が戦後体制で初めて実現でき(そうに見え)たのだ。
それが気にいらないのは,侮民政策というか,愚民政策をとろうとする藩閥政府と同じ発想なのかもしれない。安倍氏は,長州なのだから。そして,聞くところでは,そもそも靖国神社は,幕末維新で亡くなった長州の奇兵隊を祀る招魂社から始まったというし…。
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チャレンジというのは,ニュアンスとしてアグレッシブという意味合いがある。挑戦というのは,戦いに挑むので,当然そうなる。
ただそこには,戦いそのものが,他人とであれ,自分とであれ,状況とであれ,結果として,蛻変とか変身とか変化とか変態とか変容とか変貌というものが付きまとう。というか,そういうのがあるから,チャレンジする。
チャレンジは,
●自分自身を,ひとつも二つも上の(理想ないし目指す)レベルへと飛躍させようとする,
●自分の目の前の懸崖やハードルを飛び越えようとする,
●目の前の壁や抵抗を突き破る,
●いまの自分を乗り越える,
●いまいるところよりも,より高みへ,もっと高みへと挑む,
●自分の閾値,世間の常識や限界を突破していく,
●自分の殻や膜を破る,
●いままでとは違うこと,いつもとは違うことをしようとする,
●いまの自分を維持したり,持続しようとする圧力に逆らう,
●体制や権力にあえて異を唱え,立ち向かう,
●権威や正統に刃向う,
●前へ前へと進み続けようとする,
●したいことを探してやり続ける,
●いままでの伝統や記録や姿勢を突破する,
●新しいステージや舞台を創り出す,
●何かに挑むこと自体にこだわり続ける,
等々,自分に対してか,他人に対してか,状況や現状に対する,Noを突きつけ続ける姿勢といっていい。しかし,多くは,自分自身が足枷であったり,桎梏であったりする。それを断ち切ることが一番のチャレンジかもしれない。
チャレンジそのものが目的ということもなくはないが,多く,
それは,現状維持の否定である。
それは,いまのままの否定である。
それは,権威の否定である。
それは,既得権の否定である。
それは,守勢の否定である。
それは,墨守の否定である。
そして,
それは,限界の否定である。
つまり,チャレンジは,何かを目指すための手段に過ぎない。それがどれだけエネルギーを擁することであれ,それが得られなければ,意味はない。
その多くは,変化といっていい。
蛻変,
脱皮,
を経て,変身,変容,変貌,変態等々。
自分が変わるにしろ,
状況が変わるにしろ,
そこに新しいステージが拓ける。
僕のイメージは,ストップモーションのように,自分が少しずつ,いまの自分からずれて,変化していき,やがて,気づくと,蛇や甲殻類の変態のように,自分が変わっている,そういう変化のプロセスそのものが面白いと思っている。
それは,自分が微妙に変化していく感触というか肌触りが面白いのかもしれない。あるいは,徐々に移っていく自分の変化の流れが,味わいたいのかもしれない。
しかし,多くは,気づくと,すでに,目の前に,別の景色が見えている,ということの方が多い。
変化のプロセスは,僕の場合,一瞬だったり,目覚めたら,気づいたら,既に起きている,ものらしい。
だから,そのプロセスなのだと思っている。
さて,残り少ない人生,怠け者で,あまり大袈裟なことは言いたがらない性分の僕の場合は,ひそかに,ただ黙って,ちょっと挑み続けるというのがいい。
挑むのはおのれの才能という,巨大な壁である,
こいつだけは努力や精進だけでは超えられない,生得というか,遺伝子レベルで決まっているというか,そういうものに,しかし終生挑む,というのが,いまの自分の残された課題である。勝ち目は薄い,しかし薄いから,やってみない手はない。勝てる戦ならやらなくてもわかる,しかし勝てない戦いであるからこそ,やらなくてはわからない。
そして,わずかながら,微動する気配のある,そのプロセスを楽しむ,という心意気でいい。
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旗とは何だろうか。自分で言っていながら,それを表現しようとすると,うまく伝えられない。改めて,かつての武将の旗指物と同じだとして,その意味は何か。それでおのれを掲げるのだとして,考えられるのは,
@自己表現 自分自身をそれによって表現しようとする。旗そのものが自己表現。
A自分の存在のアピール 自分がここにいると存在を表示し,存在を誇示
B自分の出自 言ってみると,家紋,家柄等々。西洋でも紋章がある。
C自分のあり方,生き方を表現する 自分の思想の表明としては,赤旗というのもあるが,いまどき流行らない。
等々が思い浮かぶが,単なる自己表現では,ファッションと変わらない。
自分は何者か
何をするために生きているのか
何処へ向かうのか
自分のリソースは何か
を示せるものがいい。
確かに家紋は,出自を表わしはするが,たとえば我が家は「横木瓜」。しかし源平藤橘以外は,所詮地名を苗字にした程度の,どこぞの馬の骨だから,大した出自でもない。
別に自分はペンネームを持っているが,それはあくまで仕事用の,ビジネスネーム。大して考えもせず,適当に決めたものだから,あまり意味はない。せいぜい同姓同名がいないというのが奇跡に近い。
仕事,つまり生業にしていることを旗印にするというのもいいが,小説家とか劇作家とか,劇団主宰といったものならともかく,個人事業主では大した旗にもならない。それに,なりわいはあくまで生業で,それがおのれを示していることにはならない。サラリーマンが,営業です,人事です,という程度では,ただやっていることを表現したに過ぎない。確かに何者であるかの一端を示してはいるにしても。ましてや,職業や社会的地位,名声では表現としては足りない。
旗は,ただおのれが何者かを示しているだけでなく,その背負っている使命を示し,その向うべき方向も示さなくてはならない。そして,併せて思いつくのは,旗をひらめかせるということは,ただ自己表現ではなく,同時に仲間に自分をアピールする機能もあるのではないか,ということだ。
そこで改めて,思い出すのは,清水博さんが示している「自己の卵モデル」だ。それは,
@自己は卵のように局在的性質をもつ「黄身」(局在的自己)と遍在的性質をもつ「白身」(遍在的自己)の二領域構造をもっている。黄身の働きは大脳新皮質,白身の働きは身体の活(はたら)きに相当する。
A黄身には中核があり,そこには自己表現のルールが存在している。もって生まれた性格に加えて,人生のなかで獲得した体験がルール化されている。黄身と白身は決して混ざらないが,両者の相互誘導合致によって,黄身の活(はたら)きが白身に移る。逆もあり,白身が黄身を変えることもある。
B場所における人間は「器」に割って入れられた卵に相当する。白身はできる限り空間的に広がろうとする。器に広がった白身が「場」に相当する。他方,黄身は場のどこかに適切な位置に広がらず局在しようとする。
C人間の集まりの状態は,一つの「器」に多くの卵を割って入れた状態に相当する。器の中では,黄身は互いに分かれて局在するが,白身は空間的に広がって互いに接触する。そして互いに混じり合って,一つの全体的な秩序状態(コヒーレント状態)を生成(自己組織)する。このコヒーレント状態の生成によって,複数の黄身のあいだでの場の共有(空間的な場の共有も含む)がおきる。そして集団には,多くの「我」(独立した卵)という意識に代わって,「われわれ」(白身を共有した卵)という意識が生まれる。
D白身が広がった範囲が場である。したがって器は,白身の広がりである場の活(はたら)きを通して。黄身(狭義の自己=自分)に「自己全体の存在範囲」(自分が今存在している生活世界の範囲)を示す活(はたら)きをする。そして黄身は,示された生活世界に存在するための適切な位置を発見する。
E個(黄身)の合計が全体ではない。器が,その内部に広がるコヒーレントな白身の場を通じて,黄身に全体性を与える役割をしている。現実の生活世界では,いつもはじめから器が用意されているとは限らない。実際は,器はそのつど生成され,またその器の形態は器における人間の活(はたら)きによって変化していく(実際,空間的に広がった白身の境界が器の形であるという考え方もある)全体は,卵が広がろうとする活(はたら)きと,器を外から限定しようとするちからとがある。
F内側からの力は自己拡張の本能的欲望から生まれるが,外側からの力は遍在的な生命が様々な生命を包摂しようとする活(はたら)きによって生まれる。両者のバランスが場の形成作用となる。
というものだ。コアの黄身が自分。そして自分の振る舞いや行動によって,人と接触していく。そこに場ができる。そこでは,ただいるのではなく,自分が何をしようとしているかが,相手にはっきりしているほど,相手に伝わる。
どこへいっても,そこで割られた割られ方で,誰とどう接触し場ができるかは,自分の振る舞いにもよるが,相手の自分への志向にもよる。
そこでやろうとしているのは,「つながり」の可能性を周囲に示していることになるのではないか。あるいは,「この指とまれ!」を触れ回っていることになる。
その意味では,旗が自己を主張するだけではなく,そこに旗のもつ機能と効果と意味が,出てくるような気がする。
「この指とまれ!」
と言うためには,旗は何を表していなくてはならないのか,を照らし出してくれるような気がする。
それは,単に,
自分のリソース
自分の夢・目指すもの
自分の役割
を表現するだけでは伝わらないのではないか。自分の役割を表現するということは,その持つ社会的意味を表現するということにつながる。それには,まだ結論は出ていないが,どうも,物語が必要な気がしている。旗と旗をめぐる物語が。
しかしここまで書いてきて言うのもなんだが,旗に必要なのは,あるいは,旗は,もはや,
自分そのものなのではないか,
自分の顔であり,
自分の振る舞いであり,
自分の衣装であり,
自分の言葉であり,
自分の口吻であり,
自分という存在そのものであり,
それ自体が何かを醸し出す,そういうものではないか。
自分自身が自分の物語の結末であり,夢の果てであり,自分のリソースそのものの顕在化であり,自分の役割そのものの表現である,
とすれば,そこにいるだけで,すでになにかを主張している,というような。
となるとだ,もう旗はある。それを飾ろうとしたり,いい格好しようとしたり,繕ったりしようとしても,隠せぬものがある。それが,旗なのではないか。
それを,
生きざまのつけ,
と呼ぶとちょっと可哀そうだが。いまさら隠しようもないから,そのままさらし者にしておいていい。
ただ,負け惜しみかもしれないが,まだのりしろが残っている。
ということは,まだ旗は変えられる,ということだ。
そのための余命といってもいい。
棺の蓋を覆うまで,
人は可能性の中にある。
参考文献;
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『』(東京大学出版会)
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人と人がすれちがうのは,それだけのことだが,そこでちょっとしたつながりができると,そこで二つの世界がつながる。それぞれ二人が一緒に運んでいる,
自分の人生そのもの,
生きる場所そのもの,
が出会う。それは,
それぞれの個人として背負っている来歴であり,
それぞれのつくっている場であり,
それぞれの持っている空気感であり,
それぞれの醸し出す雰囲気であり,
それぞれがつながっている家族であり,
それぞれがつながっている人とのリンクであり,
それぞれがつながっている地域であり,コミュニティであり,
それぞれの培ってきた知識であり,知性であり,教養であり,
それぞれの積み重ねてきた人生そのものであり,
それぞれの考えてきた考え方であり,
それぞれの大切にしている価値であり,美であり,
それぞれの懐いている夢であり,希望であり,
それぞれの抱懐している野心であり,志であり,
それぞれの視点であり,ものの見方であり,
がそこで一瞬触れ合い,あるいは重なり,あるいは混じり合う。
その緊張と共鳴と反撥とが,出会いの面白さなのかもしれない。
その出会いそのものから生まれるのか,
出会いのもたらすインパクトが,
自分に化学変化を起こさせるのか,
は,えり分けられないが。
清水博さんの「自己の卵モデル」で言えば,
黄身の自分の外延としての白身部分の混じり合いである。だから,そこでは,化学反応も起きれば,拒絶反応も起きれば,融合も起きる。
そこで,二人による新しい場になるかどうかは,それはその出会い自体からはわからない。
どうせなら,一方的な併呑ではなく,両者で化学変化を起こし,
白身が変質し,
黄身自身も変容させ,
そのことで白身も変化し,
両者の関係そのものにもまた変化が起きる,そして,
そこに全く新しい世界を,それぞれが獲得する,
そういう出会いがいい。
それは,別に永続というか,持続しなくてもいい。一瞬の出会いでそれが起こるかもしれない。
一旦起これば,距離が離れていても,そこでつくられた関係の世界は,つながっていくはずである。
さて,今年も多くの人と出会うことになったが,
もともとは,2011年のある新年会で,ちょうどその直前に読んでいた『U理論』を一言で,「開く」だといい,今年のテーマは,
「開く」
だと言ったあたりから,始まったことだが,それが高じて,昨年あたりから,積極的に,自閉的で自律的〈というか孤立的〉な世界を捨てて,外へ開き始めたが,おかげで今年も多くの人と出会い,自分の中で多くの化学変化が起きた,と思う。
その変性結果は,来年以降に顕在化するような気がする。
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何気なく,分れ道と書いて,別れ道とはちょっとニュアンスが違うことに気づいた。岐路の意味で,分岐点と同じ意味で言い換えたつもりだが,そこには,メタファーが潜んでいて,別れ道というと,人との別離が意味されているということに気づいた。当然,その先には死別が含意されてくることになる。
ちょうど分岐点のところで,手を振って別れる。握手して別れる。いまなら,乗り換えのところで,そうやって別れる。それが,永久の分かれ,ということを意識するほどの別れ方はしない。だって,明日があると思っているから。もし明日がないのだとしたら,別れそのものがない。
昨今絆ということが言われれば言われるほど,僕のようなへそ曲がりは背中がこそばゆくなる。出会いも分かれも,自然で,そうなるべくして会い,そうなるべくして別れる。「さようなら」が,「左様なるわけですからお別れします」と意味であるのは,なかなか意味深なのだとつくづく思う。
人は孤独なのだ,ということをどこかで思っている。どうせ思いがすれちがう寂しさを感じるくらいなら,そんな出会いなど無用だろう,と思わないでもない。しかし,人はまた一人では生きてはいけない。
何となく疎遠になった人は少なくないが,きちんと別れた人は,そうは多くない。どこかに,かぼそいながら,縁を残しておきたい無意識のなせるわざか,ただ自然にそうなっただけかははっきりしない。
死別した友人の数もそう多くはないが,親との死別だと,僕の中に何かが残されたという感じがある。しかしまだ友人の死で,それを感じたことはない。遠くから,いつも僕のことを気づかってくれていた(と聞かされていた)友人が亡くなった時も,そうは感じなかった。
別れ道というのは,分岐点という意味では,それを選択しなかった,という意味でもあるが,そっちの道を捨てた(取らなかった)という意味でもある。その瞬間に,孤独が際立つ感じがする。
安部公房の最初期の作品に,確か,繭になる話があって(『赤い繭』),その孤独感が,印象に残っている。あらすじは,
帰る家のない「おれ」は,日の暮れた住宅街をさまよううちに,足から絹糸がずるずるとのびてゆき,どんどんほころんでいった。その糸は「おれ」の身を袋のように包みこんでいって,ついに「おれ」は消滅し,一個の空っぽの大きな,夕陽に赤々と染まった繭となった。だが家が出来ても,今度は帰ってゆく「おれ」がいない。踏切とレールの間のころがっていた赤い繭は,「彼」の眼にとまり,ポケットに入れられた。その後,繭は「彼」の息子の玩具箱に移された…,
というのだが,覚えているのは,繭になった部分だけだ。原文が手元にないので,全くの記憶だけだが,そのぬくもり感を奇妙に覚えている。たぶん,そのとき僕も孤独だったのだろう。
別れる時,
またね,
と言うか,
じゃあね,
というか,
それでは,
というか,まあそんな感じで,僕はさようなら,という言い方をしないことに,ふと気づく。たぶん。今の延長線上で,また会うことを暗黙のうちに含んでいるからだろう。
そのとき,別れは,分岐でも岐路でもなく,またこの先で出会う道だということを含んでいる。
あるいは,鈍感なのか,矜持が強すぎるのか,僕の場合,人との出会いより,別れた後の悔いの方が大きい。出会うことで得るよりは,別れた後に教えられることの方が多い。そういう不心得な質なのだ。
たとえば,こんな感じで,さりげなく付き合いが始まり,
どこまでつきあえる
あの町かどの交番が
さしあたっての目安だが
その先もうひとつまでなら
つきあってもいい
そこから先は
ひとりであるけ
立ちどまっても
あるいても
いずれはひとりなのだから(「目安」)
そう,こんなことを言いそうなのだ。僕も,そして,いつの間にか惰性となり,
こんなにつきあうと
思ってもみなかったな
つきあっていて なんど
君に出会ったかな
つきあえばいいと
いうものではない
つきあえばというものでは
行ってくれ
どてんとしてくれるな(「つきあい」)
最後は,別れになる。
ここでわかれることに
する
みぎへ行くにせよ
ひだりへ行くにせよ
きみはもう
かえってきてはならぬ
ぜんまいのような
のびちぢみに
いちにちやふつかは
耐えるにしても
のびきったところで
それはもうおわるのだ(「死んだ男へ」)
別れた後に,その人の影が,ずっと,向こうに見える。どちらも立ち止まらず,歩き続けるか,どちらか一方が立ち止まって,後姿を見届けるか,いずれにしろ,本当は,別れは,そのように分岐していく。その道がまた会うということは,本来の別れにはない。
別れは,どんな時も,孤独の確認であり,自分の確認なのかもしれない。あるいは,
別れの数だけ成長する,
というのかもしれない。それは,自分との分岐ということでもある。
と同時に,ふと思う。そういう別れは,別れた後に,自分の中に,別れた相手の影があることに。死別と生別とを問わない。それだけ,別れを意識した人との間には,自分にも,相手にも,それぞれの相手の影が,滲み,沁みとおっている。
僕の中に一人だけ思い当る。
上へ
このところ,
受け取ってください,
と強いられる(という感覚が僕にある)。たとえば,ひとに,
すごいですね,
と言われたとき,普通の感覚では,照れたり,いえいえ,と謙遜する。
しかし,コーチングやそれに関連するワークショップでは,相手の言葉(フィードバック)をきちんと受け取れないのは,いまの自分自身をきちんと認められないことだ,それは翻って(そう受け止めた)相手のいまを認めていないことだ,というふうにされることが多い。
ひとつの反応としては,
ありがとう,うれしいです,
と,その自分を受け入れることだろう。それが素直な反応だし,そうしないことがないこともない。それが相手と,そのとき,を一緒にいるという感覚なのだともわかっている。
だから,わからないでもないが,多く,そういうとき僕の中で起きているのは(相手の言葉にもよるが),
@単純な照れ
Aその程度はという謙遜
Bその程度ではそれに値しないという自尊
Cあるプロセスにすぎない
D単純な違和感
といったものだ。@とAは,いい。
あえて言えば,Aは,
自分は,まだまだそのレベルではありません,という自己像と絡んでくる。そうなると,B,Cと関わる。
で,問題は,B。
自分の目指すレベルでは,その程度のことを褒められても,
という意味と,
それは自分の分野(関心)外なので,それを褒められても,
という二つの意味がある。
Cは,大きな高みを目指しているプロセスに過ぎないので,このレベルで褒められても,
というニュアンスがある。Bと似ていなくもないが,誉められている分野が登ろうとしている高みと一致するときは,こういう反応がある。
Dは,誉められたり,認知されたり,承認されたりすること自体への違和感である。(不遜かもしれないが)いまの程度の僕の振る舞いで,何がわかるというのですか,そう簡単にわからないでほしい,という気持ちに近い。
その程度で,僕を測るな,という思いが強い。思い上がっているのではない。尊大な気持ちで言っているのでもない。
要は,BCDは,いずれも,こう言うと不遜に聞こえるかもしれないが,僕は自分では,高みを目指している。目指しているその途中のことは,ただの通りすがりの振る舞いでしかない。
だから,僕にはいまの瞬間は,僕の登り道のステップにしかすぎず,ハイデガーではないが,
人は死ぬまで可能性の中にある,
のだから,その一瞬のことは,そこで忘れている(終わっている),といってもいい。
一瞬前の自分については,気障な言い方だが,
そんな昔のことは覚えちゃいない,
という,『カサブランカ』のハンフリー・ボガートのセリフに似た心境なのだ。
第一,僕は,謙虚であることは,特に,人に対しては,自分をひけらかさないことは,大事な矜持であるとも思っている。それなくては,人として,信じられない。だから,自分を神とか宇宙人とかという類の人間は,ほとんどアホ,と思って軽蔑するタイプの人間である。そういう人間にとって,受け入れない,ということは,自分の生き方の価値とつながっている。
生意気ついでに,もう少し突っ込むと,仮に,
すばらしいふるまいでした,
という言葉を受け取るかどうかは,僕自身が決めることだ。とすれば,
「すばらしいふるまいでした」という承認を受け取ってもらえますか,
と,まず訊いてほしい。でなければ,丸ごと,
すばらしいふるまいでした,
という相手の承認(あるいは認知にしろ,賞賛にしろ,)は受け取るのが当たり前となる。その瞬間,押し付け感が(僕の中に)生ずるのではないか。
私には「すばらしいふるまい」に思えました。この言葉を受け取ってもらえますか,
と聞かれれば,受け取るとすれば,
ありがとうございます。そう言っていただいて大変うれしいです(あるいは恐縮です),
と言うか,
ありがとうございます。そうなれれば嬉しいです(そうなれるよう努力します),
と返事するだろう。これが受け止めるということだと思うのだが,こういう姿勢が結果として,おのれの孤独(孤立)を招くのなら,それも甘んじて受け入れよう。
なぜなら,僕は思うのだ,すごく大袈裟な言い方をするなら,
これは自由の問題と関わるような気がする。
人は基本,自由である,
と僕は思う。いや,もっとはっきり言って,
人は,自由でなければならない,
と思う。とすれば,ひとがどう率直に言葉を発しても,それを,受け止めるかどうかは,その人の自由であり,その自由を認めた上での発信でなければならない。
とすれば,多く,素直にそれを受け取れない人は,
人の言葉をきちんと受け止められない人,
とみなされ,人の言葉を真正面から受け止められない人とされることになるけれども,
しかし上記の背景を考えると,それはコミュニケーションについての考え方,あるいはもっと踏み込むと,人としてのあり方についての考えが,基本,違っているとしか言いようはないように見えてくる。
僕は,自分が,人が認知したり,承認したりするレベルを,あまり信じていないところがあるせいかもしれない。
僕には,
謙虚で,寡黙な人物像
が,僕にとっての理想なのだ。(僕の)現実(像)とのギャップはいささか大きすぎるにしても,僕は照れは美徳と考えている。照れない姿勢は僕には考えられない。ひととしての価値に関わってもいる。メラビアンの,
好意・反感など,態度や感情のコミュニケーションにおいて,感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたとき,人の行動が相手に及ぼす影響は,
話の内容などの言語情報が7%,
口調や話の早さなどの聴覚情報が38%,
見た目などの視覚情報が55%
という。つまり,口に出さなくても,態度で現れている。態度で現れているものを念押しするように,言葉で言わなければならないような野暮を強いられている気がしてならない。
惻隠の情
というのがあるではないか。
上へ
どうも,ずっと片思いが続いているような気がする。
もちろん恋愛のそれも含めて,自分の思いが届かないことを指している。
思いが相手に届くことで,
共通の土俵に乗れるかもしれないし,
(清水博さんの言う「自己の卵モデル」黄身と黄身の混じり合った)共通の場ができるかもしれない。
しかし,それが叶わないことで,自分には自分の可能性を削いでいるような感じがする。しかし,たとえば,恋愛なら,自分が,相手を好きだ,と言ったところで,相手は,
Noというかもしれないし,
無視するかもしれないし,
聞かなかったことにするかもしれないし,
嘲笑されるかもしれないし,
話をそらすかもしれない,
のと同じで,そうそう思いが叶うとは限らない。自分のボスである自分自身ですら,自分をコントロールできないのに,ボスでもない相手をコントロールできるはずはない。そこに,不安や恐れが出る。
ためらいは,
自分の防御であり,
自分の安全であり,
相手への忖度であり,
相手への遠慮である,
ある意味では,自分を守ることである。そこにあるのは,その思いが,所詮,自分のものではあっても,相手のではないからかもしれない。だから,思いが届かないのではなく,思いを届けるのを怠っている。あるいは,思いを届けるのをサボっている。
では,その思いは小さいのか。
いや,思いが小さいか大きいか,ではなく,自分に切実かどうかではないか。
それは,仮にどんな思いであっても,たとえば,
クライアントとしてコーチへのフィードバックであっても,
オブザーバーとして,コーチへのフィードバックであっても,
友人への忠告であっても,
知人へのアドバイスであっても,
何かを一緒にしようという誘いであっても,
危惧を分かち合おうとすることでも,
その時言うべき(と思った)ことをきちんと伝えないと,結果として,切実ではないことになってしまう。
そこにあるのは,誠実さを欠いている,ということなのではないか。そこで開示しなければ,開示の結果は,それがマイナスであれ,プラスであれ,その果実を手に入れることはできない。
思えば,そういうことが多い。ということは,
出すもの(思い)を出さないことは,出されたものを受け取れない
ということではないか,と指摘された。というより,
自分の思いがきちんと出せないということは,相手の思いもきちんと受け取れない,
という自分の中での堂々巡りに陥っているのかもしれない。
相手に,ストレートに何かを伝えるということは,そのままストレートに返ってくることではないか。ということは,それができていない,あるいは,それができないのは,ある意味,
その場で,相手に対して,自分自身でいない,ということになる。ある意味,
自分でいられないということは,それが,
大きく見せるにしろ,
小さく見せるにしろ,
自分を等身大に見られない,
ということであり,裏返せば,
相手も等身大に見られない,
ということにつながると指摘された。自分ができない(しない)ことは,相手からもされない(してもらえない)ことに通ずる,と。
これは,思いのことではなく,自分の表現のことであり,自分の生き方のことでもある。
何処かで,自分を小さく見積もることで,切り抜けようとしているのかもしれない。小さい人間の思いは,小さくしか聞き届けてもらえない。
しかし,だ。
思いをストレートに伝える,
ということは,どんな思いにしろ,僕には,結構覚悟と勇気がいる。
上へ
黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな(壺井繁治)
という詩がある。ここで言っているのは,沈黙は,何も考えていないということではないという,沈黙の非言語表現のことだったが,たしかに,言葉になるのは,
思いの20〜30分の一だか,ほとんどは,言葉にならないか,言葉で,丸められている。
まあ,
言われたことばより
言われなかった思いの方が重い
語られたことより,
語られなかったことの方が深い
には違いないが,ヴィトゲンシュタインではないが,
およそ言いうることは言い得,語りえないことについては沈黙しなければならない。
ということもある。つまり,
語りえないのである。
語る手立てがないのか,
語る言葉がないのか,
語るには掬えないほど重いのか,
語るにはまだ意識に上ってこないものがあるのか,
言ってみて,口に出してみて,初めて,それは違う,という自分の言いたいことと言わなければならない思いとが,微妙な齟齬を持っているのに気づくことがある。
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する,
とヴィトゲンシュタインは言う。その意味では,言葉にできないということは,それが,私に見える世界の視界を限るものなのだ。でも,ヴィトゲンシュタインは,
私の心の限界が私の世界の限界である。
という。ということは,言語化されることで,私の世界は広がる,とも言える。言語より,心は広い,意識より,無意識は遥かに広い。
沈黙は,確かに重い,
しかし黙っていては,いないも同じだ,と僕は思う。
黙るということは,アクティブではなく,受け身な行為にしか見えない。仮に,抗議の沈黙でも,黙っている限り,事態は動かない。動かすためには,言葉にしなくてはならない。
言葉にすることは,口に出すにしろ,書くにしろ,手振りをするにしろ,物理的に波風を立てることだ。バタフライ効果ではないが,この世は複雑系だ。単純に因果だけでは動かない。
その意味で,黙るということが罪であることに変わりはない。
ひとつは,自分の想いに対して,
ひとつは,自分の存在に対して,
ひとつは,この世界に対して,
ひとつは,この世界の同時代の人に対して,
ひとつは,この世界の次世代の人に対して,
黙ること自体で,不作為の罪,「為さざることの罪」になる。
ふと思い出したのは,メラビアンの法則である。
これは,矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について,他人にどのように影響を及ぼすかを判断する,あの(有名な)アルバート・メラビアンが行った実験結果である。
これは,好意・反感など,態度や感情のコミュニケーションにおいて,感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたとき,人の行動が相手にどのように影響を及ぼすかというものだが,それは,
話の内容などの言語情報が7%,
口調や話の早さなどの聴覚情報が38%,
見た目などの視覚情報が55%
の割合であった,というのである。まさに,言葉にならないことのほうが,はるかに影響が大きいが,それは,言わずとも,振る舞いに現れている,ということだ。
なら,口に出そう。どうせ伝わっているのだ。そこで黙っているのは,相手に勝手解釈を許すことになる。それをも,許したことになる。
上へ
おのれの視界は,自分ではその広さ,狭さには,気づかない。自分の視点も,自分では気づけない。視点に気づくには,メタポジションがなければ,気づけない。視覚は,見えているものについては気づけても,それが,上からなのか,横からなのかという視点には,気づけない。気づいているとすると,おのれのイマジネーションによって,無意識にメタ化しているにすぎない,と思う。あるいは経験から,推測しているにすぎない。
意識していないが,人は特有の自分の見方を持っている。それは価値観であったり,生まれつきの見る位置であったり,こだわりであったり,暗黙の前提であったり,慣れであったり,なんとなく制約を考慮していたり,気づかず固定した位置でみている。しかし,その自分の癖というか,特性については,メタ化しなければ気づけない。
メタ化して,それを自分でチェックすることで,それに気づけるし,逆にいえば,それを意識できれば,変えることもできる。見方だけは,意識しないと変えられない。特定の見方をとっていることを気づかない限り,変えることはできない。
上から見ていると,気づいて初めて,それ以外の視点があることに気づける。
いってみれば,見方を「変える」ためには,それを意識してみる必要がある。
例えば,「価値を変える」には,「〜と見た」とき,「いま自分は,どういう価値観・感情から見たのか」と振り返ってみることでしか気づけない。
そのときの,善悪なのか美醜なのか喜怒なのかを意識して初めて,それ以外の価値観で見たらどうなるか,に意識が向く。無意識でしていた見方を意識し,「では,別の見方ならどうなるか」と,改めて別の見方を取ることができる。
見え方を変えるのは,ある意味,見る位置の移動である。
大きくなるとは見る位置を近づけること,
小さくなるとは遠ざけること,
逆にするとはひっくり返すこと,あるいは自分が逆立ちすること,
等々に違いない。
我々のイマジネーションは,(頭の中で)位置を自在に回転できる。位置を動かせるわれわれの想像力を駆使して,見えているものを変えてみることで,見え方を変えられる。
見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである。
見えているものが動かせるなら,その動いた見え方によって,こちらの見方が影響を受ける。だから,みえているものを,分解したり,くっつけたり,束ねたり,回転させたり,によって,見方を動かすることができる。
しかしそれをするためには,(モニターで3D画面を操作するのでないかぎり)対象を見ている自分の位置を動かさない限り,気づきにくい,というかたぶん気づけない。それが可能にするのは,メタ化という言い方をしたが,言い換えると,
「見ている自分を見る」こと
によってである。
それは,見る自分を突き放して,ものと自分の間で固着した視点を相対化することだ。そうすることで,他の視点があることには気づける。それは,自分自身を含め,自分の見方,考え方,感じ方,経験,知識・スキル等々をも対象化することも含まれる。
それを,僕は,
「見る」を見る
と呼んでいる。「見る」を意識しない限り,何を見ているかはわかるが,どう「見(てい)る」か,どこから「見(てい)る」か,見る自分自身は気づけないからだ。見ているものと,見ている自分,を見る自分を対象化することで,全体が見える。
ちょうど,コーチングでいう,
レベル1(自分に矢印)
レベル2(相手に矢印)
レベル3(両者に矢印)
という意識の向け方と同じことだ。
対象化するためには,いったん立ち止まって,自分を,自分の位置を,自分のしていることを,自分のやり方を振り返らなくてはならない。たとえば,
言葉にする,
図解する,
録音する,
録画する,
というのもその方法のひとつになる。
たとえば,どつぼにはまって,トンネルビジョンに陥っているとき,その真っ最中は,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づかない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだ。
岡潔は,
タテヨコナナメ十文字,考えて考えて,それでもだめなら寝てしまえ,
といったようなことを言っていた。
それは,どつぼにはまっている状態も同じことだ。寝ることで,一旦,その事態および,その事態にはまっている自分から距離を置くことができる(もっとも寝るには,情報の整理期間を置くという脳の効果もあるのだろうが…)。
探し物をしているときは,それに似ている。同じ場所を何度もひっくり返す。しかし,その状態でいくら探し続けても,発見はない。その事態自体から,自分を引きはがすしかない。それには,
距離を取ること,
に尽きる。距離には,
時間的,
空間的,
とがある。一旦,部屋を出てしまうことだ。あるいは,時間を置いて再度探すことだ。
こうした距離の取り方は,他にもある。
他人に仮託してみる,
というのもあるが,あえて,自分の視点(視野狭窄に陥っている)を捨てて,意識的に,別の視点を取れる,あるいは取る状況を作ることだ。
「見る」を見る,
のバージョンに変わりはない。
あるところで,こういう言い方をされた。
われわれは,「問題」はわかっている,しかしその問題の解き方がわからない,
のだ,と。だから発想スキルが必要なのだ,と。
しかし,だ。そこまでやって解けないなら,問題の設定の仕方そのものが間違っている,と考えた方がいいのではないか。視野狭窄,違う言い方をすると,視野が限られている。
あるいは,こう言ってもいい。
問題との距離の取り方が間違っているのではないか,
と。そう考えると,そういう距離の取り方,というか逆にいえば,視界の決め方(限り方)を整理してみると,たとえば,こういうふうに四つにわけてみることができる。それぞれは,問いの立て方を変えることで,視野をメタ化できる。
1.「問い」(問題)の設定を変える その「問い」(問題)の立て方がものを見えにくくしているのではないか
●問いの立て方を変える 問題そのものを設定し直す,別の問いはないか,問題そのものが間違っていないか,新たな疑問はないか,見逃した疑問はないか
●目的を変える 別の意味に変える,別の意義はないか,別の目的にする,意味づけを変える,意図を変える
●制約をゼロにする 時間と金を無制限にする,別の制約に変える,人の制約を無視する
●根拠を見直す その前提は正しいか,前提を見直す,前提を捨てる,こだわりを捨てる,価値を見直す,大切としてきたことを見直す
2.視点(位置)を変える−その視点(立脚点)が見え方を制約しているのではないか
●位置(立場)を変える 立場を変える,他人の視点・子供の視点・外国人の視点・過去からの視点・未来からの視点になってみる,機能を変える,一体になる・分離する,目のつけどころを変える,情報を変える等々
●見かけ(外観)を変える 形・大きさ・構造・性質を変える,状態・あり方を変える,動きを変える,順序・配置を変える,仕組みを変える,関係・リンクを変える,似たものに変える,現れ方・消え方を変える等々
●意味(価値)を変える まとめる(一般化する),具体化する,言い替える,対比する別,価値を逆転する,区切りを変える,連想する,喩える,感情を変える等々
●条件(状況)を変える 理由・目的を変える,目標・主題を変える,対象を変える,主体を変える,場所を変える,時(代)を変える,手順を変える,水準を変える,前提を変える,未来から見る,過去から見る等々
3.枠組み(窓枠)を変える−その視界が見える世界を限定していのではないか
●全体像から見直す 全体像を変える 広がりを変える,別の世界のなかに置き直す,位置づけ直す
●設計変更する 出発点を変える,ゴールを変える,要員を変える,仕様を変える,組成を変える
●準拠を変える 別の準拠枠を設定してみる,よりどころを見直す,前提を変える,制約を消す(変える)
●リセットする すべてをやり直す,リソースを見直す,ゼロにする,チャラにする,なかったことにする
4.やり方(方法)を変える−その経験とノウハウ(経験のメタ化)が方法を狭めているのではないか
●本当に可能性は残っていないか まだやれるというには何が必要か,何があれば可能になるか,どういうやり方ができれば可能になるか,何がわかれば可能になるか,
●まだやり残していることはないか 他にやっていないことはないか,まだ試していないことはないか,まだやって見たいことはないか,ばかげていると捨てたことはないか,限界を決めつけていないか,
●プロセスを変える まだたどりなおしていないことはないか,別の選択肢はないか,分岐点の見逃しはないか,捨てていいプロセスはないか,経過を無視する,逆にたどる,資源の再点検,見落としはないか
●手段を変える 試していないことはないか,異業種で使えるものはないか,捨てた手段に再チャレンジする
自分の対象との距離の取り方は,違う言い方をすると,個性と言ってもいい。
ならば,その千差万別を生かすのは,自己完結しないで,人とキャッチボールしてみるのが一番なのかもしれない。それ自体が,メタ化になっているのだから…。
上へ
言葉にする,というのは,言語のスピードの20〜30倍の意識の流れから,言語に置き換えて,ことばとして発声する。その時,耳は,自分の声を,改めで,情報として聞くという。
オートクラインが起きるのは,このせいだが,言語化することができるようになったということは,
もの(こと)を,俯瞰する,
視点を手に入れたということだ。だから,ユンギアンは,言葉を覚えたときから,われわれは,空を飛ぶ夢を見るようになる,という。
たしかに,僕自身も,言葉の習得と直接関係があるかどうかは別に,ある時期,空中を平泳ぎしている夢をよく見た。大きな幹の木々の間を,ぬって泳いでいたのを良く覚えている。
しかし,それは,逆に言うと,ものごとを丸め(られ)るようになった,ということでもある。
言葉レベルで発想していると,時に堂々巡りになる。それは,抽象度の高いレベルで,思考が空回りしているという状態のように思える。
前にも書いたが,一般に,人の記憶に,
・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)
がある,とされている。もちろん,この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,短期記憶,ワーキングメモリー等々があるが,このなかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶であると思う。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。
意味レベルでは,誰が言っても同じだか,その言っている言葉の背後にある景色は,人によって違う。
かつて,メールで,何気なく,「思惑」という言葉を使ったら,相手が激怒したことがある。別に悪意や他意があって使ったのではないが,彼には,他意あるかのごとく受け取るエピソード記憶が,「思惑」という言葉に絡みついていたのだ。
人は持っている言葉によって,見える世界が違う,
とヴィトゲンシュタインが言ったのだが,ただ言葉の違いだけではなく,その言葉に張り付いている,自伝的記憶が違うのだといっていい。
たしかに,
パワハラ,
という言葉を知らなければ,上司が部下を叱責しているのは,ただ注意されているのか,注意されているのか,指導されているのか,という程度だが,パワーハラスメントという言葉を知ってしまうと,同じ光景が,別のニュアンス,あるいは,全く違う光景として認識される。
確かにそうには違いないが,同じパワハラでも,人によって,その色合いが違う。その違いを,言語にできなければ,コミュニケーションは,意味レベルだけで,空中ブランコをしているだけで,深まることはない。
大事なのは,二つのように思う。
ひとつは,リアリティと紐つけをすること。
同じものを見ていても,同じように見えているとは限らない。その見え方に,その人のオリジナリティがある,と僕は思っている。とすると,より具体化することだ。
ただ,具体性,といっても,それぞれ自分にとっての当たり前レベルをもっている。しかしそのことに自覚的ではない。
たとえば,「上から」といったときの,上は,
二階からなのか,木の上からなのか,屋上からなのか,高層ビルの上からなのか,その当たり前は,意識的に動かすことができるはずである。たとえば,東京タワーの上から,飛行機の上から,人工衛星の上から,月から等々。
それは,人によって,具体性のレベルが違うからだ。しかし,人は意識すれば,具体性のレベルを変えていける。
そのためには,最低限,
・具体例を挙げる〜具体性のレベルを変える
・強制,あるいは見たいように見ることを押さえない〜見えているものを見る
・5W1H,あるいはストーリーを描く〜できるかぎりピンポイントにする
因みに,具体的かどうかの原則は,次の3点。つまりそれが,
・他にないたったひとつの「もの」や「こと」であるかどうか,
・心の中に,気持ちや感情を動かすイメージが浮ぶかどうか,
・特定の何かをそこから連想させる力があるかどうか,
というとこを意識する,こちら側の努力はいる。
だか,しかし,だ。そこで問題になるのは,言語の少なさなのだ。語彙の足りなさ,言いたいことを表現する言葉が足らないのだ。自分にしかみえないものを言語化する,手段が不足しているのだ。
例えばだ,クオリアレベルで,見えている色に微妙な差がある,とすれば,それが言語に置き換えられなくてはならない。しかし,色を表現する,日本語の,独特の言葉が,いまや,死語になりつつある。
たとえば,
浅黄色
萌黄色
銀鼠色
等々,そういう言葉を片方が持っていても,相手にそれが理解できなければ,他の言葉で言い換えるしかない。
昔色見本を見ながら,印刷の色指定をしていた,まだそういう色見本帳には,そういう色の名が生きているに違いないと思うのだが…!
だから,第二は,語彙を増やすことだ。そのために,ひとつの言葉を,言い換える努力をしてみることだと思う。そして,そのことは,情報の読みと深くつながっていく,と僕は信じている。
上へ
絶望とは,望みの絶えることなのか,望みを絶つことなのか。
ある年齢以降,政治に対する姿勢が変わった,次の時代は次の時代を担う世代が考えるべきだ,その時代を生きていないものが,とやこういうべきではない,と考えるようになった(と,自分に言い訳するようになったというのが正しいか!)。
しかし,あまりにもひどい。
僕ははっきり言って,怒りと絶望感で,この国が嫌になっている。たぶん,僕の若い頃は,この国の未来について,もっと敏感で,もっと過激に反応したはずだ。それでも,梃子でも動かせない,巨大な壁に,無力感に打ちひしがれてきた。しかし,それでもあきらめなかった。しかしいま,その種の無力感ではない無力感,何もしないうちから,気分だけで無力感に陥っているムードが蔓延している。
それにしても,この鈍さはどうだろう。特に多くの若い人の反応が鈍い。むろん,あの日,神戸からわざわざ勤務終了後駆けつけ,結果を聞いてため息をついている人がいたことなど,ツイッターを見る限り,地方から駆け付けた若い人だっていなくはない。だからすべてではない,とは思う。
勇敢なものほど
よくあおざめることができる
隊伍のなかで
最初にあおざめるのは
つねに最前列の
数人だ
まっさおになることは
若いきみたちの
資格だということを
おぼえておくといい
きみたちにはまっさおになる
権利がある(石原吉郎「あおざめる」)
自分が敏感だとは思わない。歳とともに皮膚感覚が鈍磨する。ずいぶん危機感を懐くのが遅くなった。老耄した証だ。それでも,ふいに,やばいと感じた。心底やばいと,身震いするほど,危機を感じた。
ずいぶん遅い。人のことを言えた義理ではない。
しかしこういう問題に若い人が敏感ではないということは,この国の未来に何かを仮託する夢を失っている,もう少し突っ込めば,絶望してしまっている,という証かもしれない。その絶望とは,望みが絶えている,の謂いだ。そのことが,二重に絶望感を募らせる。
あの,かつて感じた,何といっていいのか,やむにやまれぬ衝迫感,いてもたってもいられない焦燥感が,どこにも感じられない。
それは皮膚感覚であり,本能的なものであり,理屈ではない。
引き籠りと,フリーターをふくめると,500万人という数値がある。
日々絶望の中を生きている。望みを絶ち,望みが絶えている若者が,それだけいることに,身震いする。明日という日に何の期待も夢も持てずに眠りにつく(と想像される)人間が,こんなにいる。
いま一世代200万人を切って180万くらいになっている。とすると,二世代半に当たる人口になる。それだけの人間が,おのれの人生を生きるのをやめている。
しかも,それを外から見れば,その多くは,社会保険料を払っていない。ひょっとすると,税も。それは社会の根幹が,根腐れを起こしているということだ。そのことに為政者もほとんど注意を払わない。
アンシャン・レジームもいいだろう。しかし,既に日本は,国としての足元が崩れかけている。そんな回顧趣味よりも優先すべきことはいっぱいある。福島もコントロールできていない。廃棄物も処理できていない。復興も遅れている。故郷も山も荒廃している。しかしそんなこと以上に重視するものがあるから,原発の新設も目指す,武器輸出も目指す,軍隊派遣も拡大する。当然それで利益をえるものに加担しているからに他ならない。
500万人なんぞは,歯牙にもかけない。そういう政治をしているし,そういう政治を国民は選んだ。
かつての戦争は誰かの責任ではなく,一人一人の国民の,わずかな油断と,妥協と,諦めと,黙認と,緘黙と,わずかに高をくくったことが積み重なった結果なのだという深刻な反省のないまま,戦後が蜃気楼のように築き上げられた。その付けをいま払わなければならない。
国の成り立ちという意味でも,次世代の成り立ちという意味でも,二重三重四重に,国の未来を暗くしている。もちろんそう思わない人もいるだろう。それはそちら側での受益者なのだ。
僕はもうそんなに先は長くない。したがって,この法律からどんなものが派生し,どんな不自由が生まれるのかを見届けるゆとりはない。しかし,もし自分に子供がいたら,必死で国会へ出かけただろう。自分の子供の未来について,この国の行末について,本気に心配したろう。しかし…!
本気で絶望し,本気で,嫌気がさしている。
治安維持法をいまさら言い出す気もしない。愛国者法でどれだけの人間が拘束されているか,それはいまも継続中なのだ。がそんなことも,もう今更言い出す気もしない。自由のないところに,本当の経済の活力は生まれない。発想の活力も生まれない。起業の活力も生まれない。しかし,そうではないという人もいるのだろう。お手並みを拝見しよう。
自由について,あまりに鈍感すぎる。
自分探しをしている間に,本当の自分づくりにうつつを抜かしているうちに,肝心の,その自分の生きる自由空間がなくなっていることに気づいても,もう遅い。一体,何を観ているのだろう。内向きで,自分の夢だけを投影した世界しか見えていないのではないかと危惧する。
それは,結果として,保守ということだ。保守ということは,現状になにがしかの既得権益を持っている,ということだ。
自由は,自由について真剣に語るものにその意味が分かっている,とは限らない。本当に何かをこの国でやろうとした時,十重二十重に縛りがかかっていることに初めて気づく。もう実は,十分不自由なのだ。十分情報は秘匿され,ひそかに遺棄されている。
元毎日新聞の西山記者は,一生を賭して戦った。戦わざるをえないように強いられた。日米の密約スクープを下ネタスキャンダルに貶められ,ようやくアメリカの公開された情報で,密約が明らかにされた。しかし,これからは,政治的スクープ自体が処罰の対象になる。すべての記者が,同じシチュエーションに置かれる。その真偽がわかるまでに,60年かかる。
それにしても,60年とはひどすぎる。しかも廃棄の権限もある。そのこともまた秘匿される。
使命や天命を語るなら,この国のあり方について,この国の社会について,きちんと考えないそれは,架空のそれでしかない。場所のない,生はない。その場所が抽象的だったり,心の中だったりというのは,架空の使命でしかない。
最近,コミュニケーションで社会が変わるということを言う人が増えてきた。
コミュニケーションが,通信も含めた幅広い意味ならまだしも,一対一を指しているなら,正直ありえない,と僕は思っている。それは幻想というか,まあ,願望に近い。
五・十五事件で,犬養首相が「まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか」と何度も言ったのに対して,反乱軍の若い将校は,「問答いらぬ。撃て。撃て」と言った。撃たれた直後,まだ犬養首相はしばらく息があり,駆け付けた者に「今の若い者をもう一度呼んで来い,よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言う。
仮に,コミュニケーションで,一対一で広げられたとしても,平面だ,二次元で,水平には広がるかもしれない。しかし,社会や組織と言ったときは,次元が違う。本気で,組織を,社会を変えようとしたことのない人には,それが見えていない。レベルを超えるのはコミュニケーションではない。なぜなら,そこには,アクションが地続きではないからだ。アクションがつながらないことは,現実化できない。
変えるのは,具体的な行動以外ない。
海は
断念において青く
空は
応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である(石原吉郎「耳を」)
いま絶望とは,望みを絶つことに近い。
しかし,だ。
絶望なんかしてられない。それは諦めることだからだ。
諦めてなんかいられない。それは自分を見捨てることだからだ。
自分を見捨ててたまるか,それは自分を殺すことだからだ。
まだまだしぶとく,生きる。生きるとは,抗うことだ,自分を縛るものと戦うことだからだ。
上へ
一般には,苦手とは,
1.勝ち目のない相手,嫌な相手,気象などが合わないで,互いに忌み嫌う相手,
2.得意でないこと。不得手,
という意味だが,もうひとつ,
3.不思議な力をもつ手。その手で押さえると,腹の痛みや癪がおさまり治る,また蛇は動けなくなって捕らえられるという,
とあり,
爪がにがく,手に毒がある手
だという。広辞苑には,『好色一代女』から,
私の苦手薬なりと,夜明け方までさすりける,
というのが引用されている。
人との関係に限定していうなら,3は特殊としても,
反りがあわない,
というのに似ている。つまり,
刀の鞘と刀身の反りが合わない,
というのだ。それは,僕流にいうと,土俵がまったく交差しない状態といっていい。大概の大人なら,何とか話も合わせられる,多少の話題の交換程度はできるはずなのに,どうも話がちぐはぐで,かみ合わない,…どころか,話しているうちに,
苛立ち,
というか,
軋み,
というか,なんとなく心がざわつき,落ち着かない。そもそもお互いのフィールドが全く違い,来歴だけでなく,生活感,感性,知性がかみ合わない。
肌が合わない,
というか,
肌合いが違う,
というか,肌感覚といったらいいか,NLP流にいうとキネステティックが違うという感じなのである。
それは好悪の感覚とはちょっと違う。嫌いの感覚に近いが,好悪は,価値観に近いが,それとも違う。磁石のNとSのような,噛み合うもなにも,そもそもすれ違う,というか,
両者の次元,
が違うという感覚だ。その場合,自分の土俵に留まって,コミュニケーションしようとしても,理解はできても,肌が拒絶反応を示す。
それなら,いっそ自分の土俵を降りて,相手の土俵の上に立つ。自分の仮説は役に立たないし,有害である,として,むしろ,
相手の枠組みで,
相手の目線で,
相手の視界に見えるものを見ようとする,という手もある。ロジャーズの言う共感性である。
しかし,共感性は意識的な試みなのだが,しかもなお,最後,最初の意識的に,という意識は,捨てなくてはならない。
そこまでする必要のある相手は,限られる。だから,苦手は消えない。
上へ
発想力とは,
選択肢
がたくさん出せることだと思っている。アイデアは,その出現形態の一つに過ぎない。
ずいぶん昔,アイデアについて,
http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod02100.htm#%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0
と構造化したことがある。
アイデア一杯の人は決して深刻にならない,
と言った人がいる。その通りだ。これっきゃないと,思い詰めるから,自殺にまで追い詰められる。それ以外にも一杯選択肢があると思えば,どうということはない。
人はひらめいた瞬間,脳の広い範囲が活性化するという。それは,思いもかけないこととつながるからではないか。とすれば,選択肢を広げるためには,いろんなものとつながるような仕掛けをすればいい。
その意味では,自己完結しないで,
ブレインストーミング
のように,人とのキャッチボールをすることが有効なのは,当たり前だ。人が,自分にとってメタ・ポジションになるという意味もあるが,自分にとって,「地」になっていた部分が,人とのキャッチボールによって,思いがけず「図」に変わり,見慣れた風景が変わるように,見え方が変わるのに違いない。
もちろん,発想は,
自分の知識と経験の函数,
だから,自分の中にないことは,出現しない。しかし,大したことがないと思っていたことが,改めて,別のものとつながることで,意味を変えるかもしれない。
その意味で,
本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,
のを創造性と言った,川喜多二郎の言は正しい。しかし,もっと踏み込むと,
どんなものでもつなげることで新しい意味づけをしさえすればいい,
あるいは,
新しい意味が見つけられるなら何と何を結びつけてもいい,
と読み替えてもいい。となると,
結びつけ,
に意味があるのではなく,
意味づけ,
の方にウエイトがかかる。ヴァン・ファンジェなどが言うように,創造とは,
既存の要素の新しい組み合わせ,
というのは,逆で,
既存の要素,
は結果なのであって,
新しい組み合わせ,
の「新しい意味」に意味がある。それは,
いままで考えられなかったような意味を見つけ出すことがあって,初めて,要素のつながりに意味が見えてくる。
そう考えると,多機能と組み合わせとは本質的に違う,ということが言える。
多機能は,いまあるものに機能を追加したのだから,新しい組み合わせも新しい意味も,そこにはない。
例えば,携帯電話に,カメラがついたのは,
多機能,
なのか,
新しい組み合わせ,
なのか。その人の創造性というものの考えが試されている試金石というか,踏み絵になる。
上へ
何があったら,人は,一歩を踏み出すのだろう。コーチングはそのためにある,という人がいるが,僕はあまり信じていない。人を見くびってはいけないように思う。
その人が踏み出そうと思えば,いつでも踏み出す。そう思っていなければ,何十回コーチングを受けても,僕は踏み出さない。踏み出させない何かがあるなら,それが消えるまでは動かない。少なくとも,僕は自分をそう思う。
結局タイミングでしかないと思っている。タイミングは二つしかない。
ひとつは,内的なもの(内的要因)。
いまひとつは,状況や文脈(外的要因)。
それ以外にはない。そのタイミングを人が関わることで作り出せると思い上がってはいけない。たまたまそのどちらかがタイミングだったのだ。
逆にいえば,その機をどう見逃さないか,というのが重要なのかもしれない。
しかし,ただそうしようと思うだけでは何も動かない。一歩でも半歩でも,微動でも,動くことで事態が動く,波紋が怒る。バタフライ効果ではないが,何かが変わる。
その変化は頭でわかっても,動く動機にはならない。動くメリットでも,動く成果でも,動いた先の何かでも,たぶん動かない。動いた時の実感は,動いたものにしかわからない。
忘れていたが,もうひとつ,動かす動機がある。それは,動かす先か,動かそうとする人か,どちらかに強い関心がある場合だ。恋でも憧れでも,興味でも,好奇心でもいい。そのとき,
内的要因と外的要因がセット
で発生する。
そうなれば動く。動くこと自体が自分にとって意味かある。というか動かなくてはならないという衝迫がある。
あるいはそんな綺麗ごとでなくてもいいかもしれない。それをしなければ,飢え死にする,あるいは職を失う,恋い焦がれる,という(やむにやまれぬ)衝迫もある。
そうやって踏み出した結果,いやいや始めても,そのことが面白くなる,ということはある。
僕の場合,なりたくて始めたというより,社会人になって,職業として始めた編集という仕事だが,考えれば,すべては編集なのだ。もっと突き詰めれば,
情報の編集。
アイデアを発想するのも,仮説を立てるのも,企画を立てるのも,構想を練るのも,情報の編集作業に他ならない。
編集ということに熟知すればするほど,その作業の奥行きがはるかに遠く,深いことに気づく。考えれば,ものを書くという作業は,すべて編集といっていい。自分の過去の記憶の編集から,リアル世界の編集,情報世界の編集,虚構という世界の編集まで,幅と奥行きは違っても,編集というフィールド上にある。
そもそも情報自体が,(意識的か無意識的かは別にして)編集抜きに情報にはならない。
僕にとっても,いま編集という作業抜きには成り立たない。このブログも,フェイスブックの記述も,ホームページも,研修という仕事も,コーチングというワークも,すべて,同じ土俵ではないにしろ,フィールドは同じ情報の編集にほかならない。
その意味で,編集ということを,もう少し意識して方法論にしておく必要がある。
アイデアづくり,企画づくり,仮説づくり,問題解決づくり,ロジカルシンキング,
等々については,編集という視点で自分なりに考えたたが,思えば,情報の編集とは,情報の読みに他ならない。その視点で見ると,リーダーシップも,マネジメントも,チームづくりも,別の視界が開ける気がする。
情報編集を,
化学反応と置き換えてもいい。
多色刷りと置き換えてもいい,
織物と置き換えてもいい,
その意味では,人と人との出会いそのものが,編集作業に似ている。
清水博さんの,
「自己の卵モデル」
で言う,白身と白身の混じり合いもそれだ。
そういう意味では,自分にとっても,もう一歩も二歩も踏み出さなくてはならないことが一杯あることに気づかされる。
上へ
ランボオの『地獄の季節』の,小林秀雄訳,
また見付かった,
何が,永遠が,
海と溶け合う太陽が。
が好きなのだが,あるところで,金子光晴の訳を見た。
とうとう見つかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽といっしょに,
去(い)ってしまった海のことだ。
ニュアンスの差がある。
「海と溶け合う」太陽ではなく,
太陽と一緒に去る海に力点がある。で,ちょっとネットで調べてみた。
堀口大学
もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは,太陽と番(つが)った
海だ。
西条八十
また見つかったぞ。
何が? ――永遠が。
それは太陽と共に
去って行った海。
粟津則雄
見つかったぞ。
何がだ!――‘永遠’。
太陽と手をとりあって
行った海。
清岡卓行
あれがまた見つかった。
なにが? 永遠が。
それはいっしょに消えた海
太陽と。
原文は,
Elle est retrouve'e.
Quoi? - L'Eternite'.
C'est la mer alle'e
Avec le soleil.
逐語的だと,
また,見つかった。
何が?−永遠。
それは行ってしまった海,
太陽といっしょに。
という(ふうになる)感じだが,訳は,二種類に分かれる。
太陽とともに行った海,
か
太陽に混じった(溶けた,とろけた)海,
に別れる。
Aller
は,語学に堪能ではないので,間違っているかもしれないが,英語のgoに当たる。それを,
Avec
の捉え方で,
一緒に行く,
か
溶ける
かになる。それも,
海が溶けるのか,
海に溶けるのか,
の違いもある。
確か,記憶が間違っていなければ,ウィトゲンシュタインは,
その人の持っている言葉によって,見える世界が違う,
といった。
それは,訳者のもっている言語によって,見える世界が変わる,ということだ。それは,もう原義とは離れているかもしれない。
もう少し踏み込むと,その人の視界は,その人だけのもので,それは他人とは重ならない。例えば,小説家が見えていた世界を,言語化しても,その言語で見える世界は,人によって違う。だから,同じ文章を読んでいても,違うものを見ている,と言ってもいい。
われわれは,言語を得ることで,世界を俯瞰する視点を得た。あるユンギアンの本を読んでいたら,言葉を得てから,中空を飛ぶ夢を見る,と言っていたのを記憶している。
そう言えば,幼いころ,中空を平泳ぎで泳いでいる夢をよく見たものだ。
それは別の言い方をすると,現実を丸める術を得たということになる。人によって,丸めるレベルに違いがある,ということなのかもしれない。
だから,持っている言葉によって,そこから見えるものが違う。
たしか,和辻哲郎は,『鎖国』の中で,「視圏」という言葉を使っていた(と思う)。そのとき,日本(人)の視界の狭さと,射程距離のなさを嘆いていた。でも,別の見方をすると,それは,(不遜ながら)ご自身のそれを言っていたのかもしれない。
参考文献;
ランボオ『地獄の季節』(小林秀雄訳 岩波文庫)
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どうして人は因果関係を見たがるのか。たぶん,想像するに,次を予測するのに,一番便利だからだ。しかし,今の自分を過去に何かがあったから,と考えるのは,いかがなものか。
過去生から始まって,前世がどうしたこうした,母がどうしたの,父がどうしたの,となんでもいまの自分に結びつけるのを聞くと,ちょっと後ずさりする。僕が両親からいい意味でも悪い意味でもそういう強いインパクトを受けなかったせいかもしれない。
それは,自分が仮託しているのだ,とどうして認めないのか。それだけ過去の何か,誰かに縛られている自分を強調して,何が楽しいのか。僕にはさっぱりわからない。
仮に,それがあるとしても,そうやって輪廻転生や因縁を仮定することで,自分のいまの言い訳であり,自分のいまの理由がわかったからといって,それは自分ではコントロールできない。コントロールできないことをいっぱい並べるのは,自分のいまを言い訳しているようにしか見えない。
仕方がない,
と言ってみて,それでそこに甘んじられるなら,それもいい。しかしそうでないなら,そんな訳を知ったところで,どうなるのか。それを変えられるわけではない。
「まあ,しょうがない」と思うだけでは,
しょうがないだけの選手で終わってしまう。
とは,落合博満の言。
器械じゃあるまいし,原因が特定できるわけではない。
なぜそうなった?
なぜ?
と言ったところで,原因点のようなものが特定できるわけではない。人の人生に,
特異点
はない。いくつもの選択肢(選択できない選択肢もある)を経て,いまがある。両親を選択できるようになっているわけではない(選ばれたという見方もあるが,そう思うことで幸せになれるならそう思えばいい程度のことだ)。自分が選択したわけでなければ,結局,自分のコントロール外でしかない。
自分のコントロールできないことに縛られると,結局何をしても事態を変えられないと,ただおのれの無力を思い知るだけではないのか。これを,
学習性無力感,
学習性絶望感,
というらしい。要は,
努力を重ねても望む結果が得られない経験・状況が続いた結果,何をしても無意味だと思うようになり,不快な状態を脱する努力を行わなくなる,という。
あるいは,
長期にわたって,ストレス回避の困難な環境に置かれた人は,その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという。
心理学者マーティン=セリグマンが,1967年に,マイヤーと,犬を用いて行った,という。ネットではこうある。
予告信号のあとに床から電気ショックを犬に与えるというものである。犬のいる部屋は壁で仕切られており,予告信号の後,壁を飛び越せば電気ショックを回避できるようにした。
また,前段階において次の二つの集団を用意した。
電気ショックを回避できない状況を用意し,その状況を経験した犬と足でパネルを押すことで電気ショックを終了させられる状況を経験した犬である。
実験ではその二つの集団に加え,なにもしていない犬の集団で行った。
実験の結果,犬の回避行動に差異が見られた。前段階において電気ショックを回避できない犬はその他の集団に比べ回避に失敗したのである。具体的にはその他の集団が平均回避失敗数が実験10回中約2回であるのに対し,前段階において電気ショックを回避できない犬は平均回避失敗数が実験10回中約7回である。
これは犬が前段階において,電気ショックと自分の行動が無関係であると学習しそれを認知した為,実験で回避できる状況となった場合でも何もしなくなってしまったと考えられる。
これを学習性無力感と呼んだわけだ。これが,うつ病に至る心理モデルの一つとして有力視されているらしい。
しかしおもしろいのは,これを発見したセリグマンが,ポジティブ心理学の創始者でもあることだ。
セリグマンは30年以上にわたってうつ病やうつ状態の研究をしてきた。多くの患者は,つらい出来事に心を奪われた状態が続いて,いつまでも不幸な状態が続いていた。ある時セグリマンは,それまでの心理学が,病気を治すための努力はしてきたが,「どうすればもっと幸福になれるか」については,あまり研究してこなかったことに気がつき,ポジティブ心理学を創始した,と言われる。
つまりこうだ,過去からの因果にとらわれるのではなく,
個人や社会を繁栄させるような強みや長所を研究する,
と。
ただ精神疾患を治すことよりも,通常の人生をより充実したものにするための研究,
が必要とみなしたということだ。これは,ソリューション・フォーカスト・アプローチもそういう発想だ。
なぜではなく,
どうしたらいいのか,
どうなったらいいのか,
というソリューション・トークによって,未来を変えようとする。どうせ因果も因縁も変えられないなら,
変えられるものを変える,
動かせるものを動かす,
それで変わるというよりは,動かすという主体的な活動が,自分に効力感を回復させてくれるのではないか。
出来ない理由より,
どうすればできるか,
を考えた方が,発想は活発になる。
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子曰く,異端を攻(おさ)むるは,これ害るのみ,と。
貝塚茂樹氏の注に,
織物の両端から一度に巻きはじめるように,別々の傾向の学問を一度に手掛けると,中途半端になって,害しか受けない,
とある。まさにおのれのことだ。さらに言う。
この文章の意味は難解で定説がない。清朝の経学の一方の旗頭であった戴震によると,物事には織物のように両方の端がり,それを異端と言う。学問は,ひとつの専門に打ち込むと精密になり成功するが,一度に二つの端から別々の学問を兼修すると,ものにならないのだという。私はこれに暗示を得て,異端を収めるとは,反物を一度に両方から巻きはじめるようなもので,それではうまく巻きおさめることができない。傾向の違った学問に一度に手をつけると一家の学を成すことはできないといって,弟子を戒めたのであると解する。
とも。
しかし,辞書的には,
異端(いたん,heterodoxy あるいはheresy)とは,正統からはずれたこと。正統orthodoxy と対立する異説。
「異端」は「正統」の動的な対概念である。「正統」からはずれたものが「異端」ということになる。正統からはずれたものと見なすこと,異端として扱うことを「異端視」と言う。
となる。孔子の言うそれとは少し違う。正統に対して,異端と指さす感じか。へそ曲がりなので,そういうポジション,立ち位置が嫌いではない。むしろ,異端は好むところだ。
というよりは,一つコトを深く掘り下げられない質なので,あっちこっちと食いついて,異説を好む,と言うか,異説にならざるを得ない。異説を拾い集めて,それをつなぐので,どうだろう,いつの間にか正統にすり寄っていなくもない。でもどこかに正統への嫉妬と憧れがなくもない。
石原吉郎は,僕の解釈では,その微妙な心の綾を,こう書く。
かりにそうでもと
いうひとところで
ふみちがえた
おわりのひと研ぎで
その刃は思案をこえた
その刃を当てなおすために
その膝がわずかに
ずれるだろう
ずらせたそのはばへ
斬撃のおもいは
のこるだろう
正統を恋うとは
そのことなのだ(「正統」)
異端へとはみだしたものの,悔いと反撥とは均衡するようなものだ。異端に出てみたことのないものには見えない。
しかし,異端が異端であることを表明できない時代は,不幸かもしれない。多様性は,時代にとっても,社会にとっても柔軟な力の源泉なんのだから。
ふと思い出して,昔の本を引っ張り出した。吉本の有名な『異端と正系』にこうある。
ただ,単にオーソドックスな思想や集団というものは存在できないし,存在しない。それはいつも背中に異端の思想や集団というものを合わせていることによって,はじめて存在しうる。そして,オーソドックスな思想や集団は,ひとつの契機によって異端に転化し,異端の思想や集団は,ひとつの契機によってオーソドックスに転化する。
何とナイーブなと,いまなら思う。それでも,これが鋭い切っ先だったあの時代は,どういう時代だったのか,と思う。
しかし,考えてみると,いままたぞろかつてのオーソドックスがオーソドックスに戻りつつあることを思うと,異端は,いつも異端なのかもしれない。
改めて,時代の主流への異を唱える立場は,時代に竿さすよりもはるかに時代の多様性にとって重要だと思う。そのとき,その重要性に時代側が気づかないにしても。
是は是,
非は非,
でなくてはならない。それが異端の心意気というものだ。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
吉本隆明『異端と正系』(現代思想社)
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野中郁次郎氏の言葉(知識は思いの客観化プロセス)をもじると,仮説を立てるというのは,
おのれの思いの客観化プロセス,
であると思うが,検証されるまでは,妄想に過ぎない。しかし,だからと言って,
集めた情報から読み取った結論,
数字の統計処理から結論づけられた数値,
は仮説とは呼ばない。そんなものは,誰がやっても同じ結論になる。誰が読んでも同じ結論になるようなものを仮説とは呼ばない。
誰も読み取らないような意味をそこから読み取るから,仮説として立てる意味がある。
その根拠は,甚だ主観的なものだ。
あれ?
何これ?
どうして?
何か変?
そういう自分の直観である。それは,ある仕事に携わって,あるいは担当して,三年以上たっていれば,当然,
当たり前感,
当然そうなるはず,
順調感,
といったビジネス上で,円滑というか順調というか,そういう当たり前感がある,その当たり前感に,わずかな違和感を覚えたとしたら,そこに何かがある,そう考えるのが当たり前である。
ベイトソンは,
情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
と書いた。僕流に言い換えると,情報とは差異である,ということだ。つまり,
人と同じところを読んだって人と同じことしか出ない,
ということだ。とすれば,
人とは違うところ,
人が当たり前とするところで,わずかに感じた違和感,
を大事にする。数値でも同じだ。
何か気になること,
引っかかるところ,
があるはずだ。たとえば,何某が,4.0となっていたとする。その.0と丸めたところに着目しなくてはならない。
4.00
なのか,
4.04
なのか,
0.4001
なのかによっては意味が違う。そういう微妙な差異にこだわる。統計処理された結果だけを云々するのは,仮説を立てようとする人間のすることではない。
統計処理されたとき,意図的か無意識的か,数値を丸める。その丸められたところに,意味があるかもしれないのである。結果だけからものを推測するのは,誰にでもできる。仮説をわざわざ立てるのは,そこではない,人の着目しないところを着目する。
ピーター・F・ドラッカーは,
情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である,
といった。それは,違う言い方をすると,我々が目にする情報は,
意味と目的によって,鉛筆が舐められている,
ということだ。意図したかどうかではない。情報とは,基本,そうやって主観的に整合性を取らなければ,情報にはならない。
その意味で,仮説を立てるものは,
情報の読者,
になってはならない。あくまで,別の視角,別のメタ・ポジションから,情報を俯瞰する観点を持たなければ,読者となり,情報発信者の丸めた(整合性をもたせた)情報を,意図通り読む羽目になる。
そのカギは,おのれの問題意識,もっとはっきり言うと,
疑いの目,
しかない。たしかに,
疑う,
疑問をもつ,
というのはメタ・ポジションではある。それには違いないが,しかし,それが狭い管から見ていることに変わりはない(「管見」とは言い得て妙)。
だから,人によって,着眼が違うのである。そこから出る結論は,情報分析(に限らないが)は,
自己完結してはならない,
ということになる。
自分の中からだけからは,自分なりのゆがんだトンネルビジョンしか得られない。他人というもう一つのメタ・ポジションが必要なのである。
別にこれは仮説には限らないが。
参考文献;
P・F・ドラッカー『経営論』(ダイヤモンド社)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)
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僕の記憶では,フランクルが,どこかで,人は皆自分の物語を持っており,それを語りたがっている,という趣旨のことを,そのエピソードと一緒に書いていたと思う(探したが,そのプリントを捨ててしまったらしい)。
そう,どんな意味の物語かは別として,たとえば,ナラティブ・セラピーで言うような,ドミナントストーリーであろうと,それとは別のオルタナティブな物語を,われわれはいくつでも紡ぎ出すことができる。
人の持つエピソード記憶に,キーワードひとつで,芋づるのように,物語が引っ張り出されるに違いない。
例えば,
凧,
例えば,
竹ひご飛行機,
例えば,
海水浴,
たとえば,
スキー,
何でも構わない。自分の中にかすかなエピソードが思い浮かんだら,そこから,次々と,エピソードの連なりが生まれ,それはそれで物語になる。
そのとき,
自分は物語の外にいるのか,
自分も含めて自分のいる物語を語っているのか,
いずれだろうか。
それは自分を語るのか,自分の見たものを語るのかの違いがある。なぜなら,ウォーが言う通り,
語り手がいなければ「物語」の存在はありえない。「話」の見かけ上の「非人称」も結局は必ず「人称」なのであり,結局は「言説」である。
それによって,物語の窓枠が決まる。それによって,見える世界が変わる。
文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。
とバルトの言う「小説」を,物語に置き換えても同じことだ。
窓枠とは,視界と言い換えてもいい。自分の目を通してなのか,振り返って,メタ・ポジションから見てなのかで,物語の視界が変わる。いずれにしても,語り始めた瞬間から,フィクションになる。ただ,
私と称することは確実に記号内容を自分に引き受けることである。それはまた,伝記的な時間を自分のものにすることであり,想像の中で,知覚し得る《進化》に従うことであり,自分を運命の対象として意味づけることであり,時間に意味を与えることである。
逆に「彼(彼女)」とすることで,それを他人の物語として,メタ・ポジションから語ることができる。
どっちにしたって,語り始めた瞬間,語られたことは,事実(を確かめることができたとしても,それ)との乖離が生ずる。語るとは,そういうことだ。カメラでフレームに世界を写し撮った瞬間,それがフィクションに変わるのと同様,どの窓枠にしろ,語りだした瞬間,その世界はフィクションに変わる。
選択された事象をどうつなぐかは,語り手の視界にゆだねられる。
言述の作者として,語り手は実際に,現在−物語行為の現在−を決定するが,その現在は,物語言表行為を構成する言述の現前化行為と同様に虚構である。
とリクールの言う通りだ。
作家にとって,
物語は作家が書きはじめるところで止まる,
が,おのれの物語も,同様に,
物語は語り手が語り始めたところで止まる,
小説というのは原則として過去形で書くべきものなんですよね。過去に起こった出来事を人に伝えるわけだから。
と古井由吉が言うことは,そのままおのれの物語も当てはまる。
すでに終わったことを語る。
その世界は,既にこの世には存在しない。タイムマシンに乗って立ち戻ったとしても,立ち戻った瞬間,その世界は漣たち微妙な変化を起こし,その時,そこで起きたことは,語りだされない限り,消える。しかし,語り出した瞬間,虚構となる。
しかし,だからこそ語りたいのだ。それを知っているのは私だけだから。
参考文献;
パトリシア・ウォー 『メタフィクション』(泰流社)
古井由吉『「私」という白道』(トレヴィル)
P・リクール『時間と物語』(新曜社)
R・バルト『S/Z』(みすず書房)
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かつて入社してしばらくたったころ,年長の先輩から,
この会社に引っ掻き傷を残せ,
と言われた。その時は,何か自分の名前のついて回る新商品を出せ,という意味だと聞いていたものだが,いま考えると,そういうことだけではなく,もっと,自分という存在が,そこにいた痕跡を残せというような意味だと理解している。
いまはこの会社は,社員の何人かが買い取って,別の会社になっているが,ついこの間まで,何十年も前に開発した自分の商品を継続して売っている,と聞いてびっくりした記憶があるが,痕跡は,そういうことではなく,
自分の仕事の仕方,
自分の仕事のスタイル,
自分の仕事のノウハウ,
自分の仕事の流儀,
自分の戦いのスキル,
が,会社の仕事の仕方として,(誰かの中に)残っていく,大袈裟に云うと,風土や文化として残っていく,というのがいわば誇りの原点のように思う。変化の激しい時代だから,そんなことは望むべくもないが,そういうつもりで自分の仕事の流儀をつくりあげていくというのは,なかなか面白いのかもしれない。
いまは一人で仕事をしているが,それは,自分の仕事の仕方,自分の考え方,自分のノウハウ,自分のスキルそのものが,商品になるかならぬかを日々試される連続であった。
僕は基本的に,誰かのやり方,誰かの発想,誰かのスキルを受け継いだことはない。言ってみれば,あっちこっちから「いただいた」ものを自己流につなぎ合わせただけかもしれないが,すべては,「僕の」と名札をつけられるものだ。誰かの受け売りでも,誰かの系譜を継ぐものでもない。あえておこがましい言い方をすれば,僕の流派そのものだ。たとえ細々とした流派でも,それが,こういう家業をやるものの気概だと信じている。だから,誰かの弟子にも,誰かの免許も,誰かの教えも受けないできた。だから,よくよく聞くと,なんだい,それは,アメリカの誰かの受け売りではないか,とか何処かのコンサル会社で学んことではないかとか,ということは一切ない(つもりだが,継ぎ足しだから,自信はないが)。
たった一人の,なけなしの頭で,我流でつくり上げてきた。だから,ときどき「出典は」とか,「どれくらい信憑性があるか」とかという問い合わせをもらうが,(権威性のない自分も情けないけれども)そんなものはない。試してみればいい,いいと思えば使えばいいし,だめなら捨てればいい。それだけのことだと思っている。そもそもそういう発想をしている人は,結局権威に依存して,その虎の威を借りないとものが言えない人なのだと思う。
そう考えてから,産業カウンセラーのシニアの受験資格を得ても(それなりの投資をして講座をすべて受けたが),受験するのをやめた。以来,資格を追加するのをやめた。資格でモノを言ったり,資格の意向を借りるのは,結局虎の威を借りないと,自分の言っていることに箔がつかないと思い込んでいるのだと思うようになった。
昔知り合いのコンサルタントが,コンサルタントは,
虚業
だと言った。その意味が分かる。必要不必要とは別に,実業の修羅場にいないで,修羅場について,コンサルティングするということの,おこがましさがわかっていない人が多すぎる,と感じている。
自分は実業の場を,逃げ出したか,ほおり投げたか,卒業したか,リタイアしたか,は知らない。ともかく,脚抜けした,今その場にいない,ということの自分の存在の軽さを意識しなくてはいけないとつくづく思う。
ずいぶん昔,経営学者が自分の会社の社長になってその会社を潰したということがあったが,その乖離がわかっていないということだ。その距離は,遥かに大きい。だから,
何をするために,そこにいるのか,
という,(E・H・シャインのいう)どんなプロセス・コンサルテーション(医者,看護師からコンサルタント,コーチ,セラピストまで)に携わっているものも,自分の出発点を忘れてはいけない。
現場を逃げ出して,コンサルやコーチやカウンセラーになってほっとしている人間が,上から目線で(メタ・ポジションという便利な言葉がある)モノを言うのは,おのれを知らなすぎる。逆に,
逃げ出したからこそ,
その修羅場がわかり,ものがよく見えるというのなら,それはそれで伝わる。
なんだろう,自分は,この世の中を動かす修羅場に直接携わってはいない。楽なところにいる,という後ろめたさを持たないのだろうか。
原子力の専門家は,安全なところから,評論する。現場の人間は,毎日,修羅場をくぐっている。くぐらなければ,現場を変えられないからだ。先日いわきにいったが,いわきを拠点にして,原発に向けて一直線につながる国道沿いを,毎朝,大勢の作業員の人が,車に分乗して出かける。除染の人,工事の人等々等々…。それを現場と呼ぶ。
必要なのは,その修羅場を戦い抜くための武器だ。専門家というなら,そのための武器を提供する。それが第一線で戦っている人々への礼儀というものだ。
ほんとうの幸せとは何か,
本当にしたいことは何か,
ほんとうの自分と出会う,
おいおい,本気かよ。いま修羅場で,戦場で戦っているものに,それはないだろう。それって,戦いをやめろっていうことなのか。僕には,楽なところにいる人間の,たわごとにしか見えない。人を見くびりすぎているように思えてならない。
仮設に住みながら,ずっと新規会社を立ち上げている人たちと会話してきたが,その人に言うべき言葉を持っているなら,一緒にやればいい。言うべき言葉がないなら,黙って,別のフォローをすればいい。一番は,戦う武器を提供することだ。
こころのケアお断り
の張り紙(を貼りだした仮設住宅の人の思い)の重さを感じる感性がなかったら,
あるいは,
自分への後ろめたさがなかったら,
人間としてどこかおかしい。プロセス・コンサルテーションに携わる人間なら,なおさらおかしい。僕は,徹頭徹尾彼らに役立つスキルだけを,対話しながら伝える,というより一緒に考える。それだけが,現場を動かす,彼らの自信となると信じているからだ。
自分について考えるのは,
どう生きるかとか,
どう自分の人生を受け入れるかと,
何のために生きているのか,
等々は,立ち止まって考えることではない。戦いながら,走りながら,考えるべきことだ。ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』の中で,うろ覚えだが,「赤の女王」は,
その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない,
と言っていた。戦うとは,立ち止まれないということだ。そこから脚抜けしたものには,彼我のスピード感の落差に気づけない。
僕も,確かに,修羅場で戦いながら考えていた。走りながら考えていた。その時の方が,フルスロットルで,頭は高速回転していたと思う。
だから,そんな程度の問いは,自分の中にある。誰にでも,そういう問いがある,と僕は信じている。それを後回しにしても,やりきらなければならない何かを抱えているだけだ。もしそういう現場にいる自分に嫌気が差せば,人に言われなくても,さっさとリタイアするだろう。(いつだったか,タクシーの中で,女性のドライバーの人が,ある日突然その臭気に耐えられなくなって福祉施設を辞めてゼロから男と伍するタクシードライバーに転じた,と言っていた)。
はっきり言って,それは本人が自分自身で考えるべきことだ。おのれの人生の責任を負っているのは,自分自身だ。僕はそんなあほなことを,上から目線で教えるような人間にはなりたくない。それは,人間としておかしい,と思っている(もっと言うと,そんな楽なことをヒマこいて考えていられるのは,いま修羅場で戦っている人々がいるおかげではないのか)。
僕のすべきことは,
その修羅場を,動かしていくために,どうすればいいのか,
その修羅場は,どうすれば,もっと楽に動くのか,
その修羅場を,戦いきるために何があればいいのか,
それを一緒に考える。
その時,
その場で,
その人と,
という一回性の中で,正解なんてない。しかし,どう考えれば,それに風穴があき,どうすれば,それを動かせるのかの,考え方,スキルは,身の処し方は,一緒に確認できる。
もし役に立たなければ捨てればいい。スキルとはそういうものだ。そして,スキルは,おのれが使えなければスキルにならない。
僕にできることは,もっとはっきり言うと,
修羅場を動かす武器
を,一緒に磨いていきたい。ビジネス・スキルとは,そういうものだ。
まだまだ磨き足りない。
上へ
このところ写真をよく撮る。もっともコンパクトデジカメかスマホなので,写真機に凝るということはない。ただ,目に触れるもので,ちょっと気になると,撮る。そういう意識でいると,不思議と感覚が研ぎ澄まされる(そうたいそうなことでもないが)。視野のわずかな異変というか差異に敏感になる。ちょっと敏感になりすぎて,転んだこともあるが。
しかし写真を撮っても,最近はほとんどプリントアウトしない。撮ること自体が目的化しているのかもしれない。
不思議なことに,写真は,客観的に事実を伝えている,というように錯覚することがあるが,そうではない。文章を書くのとほとんど同じだ。専門家ではないので,あくまで素人談義だが…。
文章のもつ,そういう偏りについては,「言葉の構造と情報の構造」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm#%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0)
でも触れたが,写真の場合は,フレームと視角がそれにあたる。そのフレームで切り取ること自体が,文章で言う「辞」に相当する。つまり,「詞」である事実を,主観でくるんで取り出している。その(主観という)フレームを外せば,偏りはあるにしろ,事実に違いはないが,フレームで切り取った瞬間,なにがしかの「私」性を主張している。
視角というのは,あるいは,見える角度というものかもしれない。どういう角度で切り取るか,それは,ズームを押したり引いたりするのも同じだ。その場面を切り取った時,そこに,意図がある。
視覚のことはよくわからないが,肉眼で見たものと写真を撮ったものでは,ずいぶん印象が変わる。視覚の方がはるかに素晴らしい。この差を埋めるために,また撮る。この差は多分埋まらない。その分,アングルや近接の調節で,カバーすることになる。
こんな言い方もある。
写真は対象の選択,対象と撮影者との物理的距離,対象の様態,撮影するタイミングなどによって,撮影者の心や世界に対する態度を反映する。写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり,表現の手段である,
と。でも,そうなると,最初に撮ったもの勝ちのところがなくもない。同じ場所に大勢のカメラマンが集まってシャッターチャンスを狙うのも,そういう心理があるような気がする。でなければ,同じ場所にはいない。人とは違う場所を探す。僕なら,人の撮るものは撮らない。
写真詩というものがあるらしい。
結局,言葉でも写真でも表現し尽くせないから,つけたしたくなる。
写真一枚に,仮に土門拳の写真に,いらぬ詩がついていたら,張り倒したくなるだろう。
表現は,詩でも,小説でも,写真でも,絵でも,世界を描く。その世界が,リアル世界に近似か,はるかに遠いかはどうでもいい。問題は,そこで表現されたものが,独立した世界を描ききれなければ,それは表現の失敗なのだ。
昔,小説は,世界を描く,と先輩が言った。その意味が,今頃になって,やっとわかってきた。その世界は,
リアルのいま,ここから,下っていく,
場合もあるらしいが,僕の場合は,
リアルのいま,ここから,上っていく。
その世界が,幻視にしろ。幻想にしろ,目の当たりに描き出せなければ,その世界は存在できない。
そういう試練をいつも繰り返し,ずっと失敗してきた。
写真も,リアルと対比して,
あああそこね,
あれは綺麗だったね,
と言われるうちは,スナップ写真の域を出ない。それが何處であれ,それ自体で,ひとつの虚構世界を現出させて初めて,写真という表現手段によって,世界を出現させたことになる。
それは,その一枚で,リアル世界と拮抗するものでなくてはならない。
どうせ写真を撮るなら,そういう写真を撮ってみたい。
それはカメラのレベルではなく,表現者としてのレベルの問題なのだから。
そのとき,
綺麗,
とか,
美しい,
という反応ではなく,
絶句,
という反応でなくてはならない。
僕は絵や映画はわからないが,小説では,呆然自失したことがある。そういうものでなくてはならない。
上へ
つくづく思うが,努力は才能だ。本当に努力しているという人は,半端ではない。
何かに挑戦したら,確実に報われるのであれば,誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで,同じ情熱,気力,モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり,私は,それこそが才能だと思っている。
とは羽生善治さんの言葉だが,その通りだ。
天才とは努力する,凡才のことである,
とは,アインシュタインの言。イチローは,こういう。
努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら,僕はそうじゃない。努力した結果,何かができるようになる人のことを「天才」というのなら,僕はそうだと思う。人が僕のことを,努力もせずに打てるんだと思うなら,それは間違いです。
しかし,「努力」という同じ言葉で,僕が言っている努力と,この人たちの言っている努力とでは,そのストレッチの程度が,全く違う。よく,
自分の限界まで引き伸ばすことで,自分が伸びる,
という言い方をするが,限界は,じりじりと伸びる。ここまでと思っていた,キャパが,いつの間にか,広がっている,ということがある。その意味では,拙い経験でも,伸び白が広がる経験はある。
しかし,だ。
ぼくは,血の滲む努力などというものをしないで来てしまったと言っていい。人並み程度の努力は,した。しかし,自分が壊れるぎりぎりまで自分を引っ張り,引き伸ばしたかと言うと,ちょっと肯うには自信がない。
思うに,おそらく,努力というのは,自分の殻を脱ぎ捨てていくための通過儀礼なのだとしみじみ感じる。そのとき,その場で,それをしないと,経験できない大切な何か,というような。
あるいは,ヤドカリが,将来を見通して,大きめの貝殻に住み替えるように,努力しているうちに,いつの間にか,自分が大きか駆体になっていることに気づく。その感触は,努力したものにしか感じ取れないものかもしれない。
努力は,たぶん,目標がなくてはできない。
ただ,夢中になって打ち込んでいるうちに,結果として,それが努力というものなのだと,傍目にはわかるが,本人は,そうは思っていない,ということはある。そのとき,気づかず,自分の限界を打ち破ったということはあるかもしれない。
何かを手に入れるために,
何かに手が届くように,
必死で手を差し伸ばしている瞬間は,別にその目指すものしか視界に入っていない。それを手にするために,背伸びする,努力というのは,そういうものかもしれない。
努力の「努」に似た言葉と対比すると,
努は,ひといきに力を入れる,
勤は,骨折り,精を出す,
勉は,強いてつとめる,
力は,勤に近い。力を入れて精出す,
務は,精力を一途にそのことに用いる,
と区別されていて,同じ,「つとめる」だが,あえて,踏み込むと,「努」は,力の入れ方が尋常ではない,というニュアンスが含まれている気がする。肺活量検査で,一気に吐いたり,一気に吸ったりするとき,「もっと,もっと」と声がかかるが,あの「もっと」「もっと」「もっと」と,限界点まで「つとめ」て,閾値を超えていく。
努力は,自分の閾値を超えていく通過儀礼なのだと,やはり思う。この通過儀礼を経なければ,遺伝子のもつ可能性すら開花しないのではないか。
ただ,通過儀礼には,その時期というものが定まっている。旬がある,賞味期限かある。
例えば,このごろ思っていることに,社会人になって,どんな職業にしろ,就いた職で,3年が勝負だと思う。
出典がはっきりしないが,例のロバート・カッツ(マネージャーに必要な能力を,テクニカル・スキル,ヒューマン・スキル,コンセプチュアル・スキルの3つに分類した)が,
職務経験年数と個人の関心領域の変化
という図のコピーだけが手元にあって,そこに,社会化3〜4年の間に確立するものとして,
自己の状況的アイデンティティの確立
状況規範の解読と許容かつ報酬的行動の確認
社会的関係の樹立と同僚からの承認
上司・同僚から寄せられている期待の自覚
重要かつ貢献度の高い成員であることの自己証明
とある。つまり,そこでの,
自分の居場所(何をするためにそこにいるのか),
と
自分の存在理由(自分のすべきことは何か),
を確立する時期,ということになる。あるいは,それを考える時期といってもいい。
この期間に,仕事をするために,何が必要か,が身につかないと,同じ3年を,何度も何度も繰り返すことになる。それを繰り返している限り,基礎ができないまま過ごすことになる。基礎のない上に築く上物は,砂上の楼閣でしかない。努力は,無駄になる,という気がしている。
ところが,大卒3年以内に辞めてしまうものの離職率が4割に近いという。とすると,そこですごしたその何年かは,下手をすると,無駄に終わる。なぜなら,組織の仕事は,その文脈(コンテクスト)の中での自分の居場所と存在理由を明確にする作業なので,文脈が変われば,リセットと同じになる。
こういう言い方は,古いと言われるかもしれないが,3年か4年経たないと,そこでのひとつの仕事のワンクールがきちんと体験できない。それがつかめれば,あとはほかでも応用がきくが,それが体験できないと,
仕事を完成させるとはどういうことか,
仕事のインとアウトとは何か,
が遂にわからない。それがわからなければ,仕事が細切れでしかつかめない。細切れでしかつかめないということは,細切れの仕事しかしない(できない)人になる。それは,部分(ハーツ)でしかないという意味だ。
僕にとって,努力は,ただすればいいものではなく,
何かを目指して,
そのために努める,
ことだから,それが,
一丁前のビジネスマン
になるためなら,それに必要な時期がある,と思う。確か,言葉を母国語とする時期というのがあり,それを逃すと外国語として学ぶことになる,つまりネイティブになれないのと同じく,この3年を逃すと,ビジネスマンになりそこなう,という気がしている。
ということは,努力にも,タイミングというものがあり,すべき時に,すべき努力をしないと,その上には積み上がらない,という気がする。それは何においてもそうなのではないか。
その機を逃すと,勝海舟ではないが,
機があるのだもの,
という悔いになる。
上へ
ウォーキングの自分のペースがつかめているときは,一種自分なりのリズム感があり,どうやらピタリと思考のテンポとシンクロすることがある。そういう時に限って,浮かんだアイデアをメモするものがなくて,焦った記憶がある。忘れてしまったアイデアが大魚だったように思えて,悔しかったことがある。
いっときジョギングにはまっていたことがあるが,その時は,そういうことはほとんど起きなかった。たぶん,人によると思うが,僕には,思考や発想のリズムとシンクロナイズすることがなかったのだろう。
発想で行き詰まった時,距離を取ることがいいとされる。いってみると,メタ・ポジションを取る,ということなのだが,それには,
時間的,
空間的,
の両方があるとされるが,その意味では,ジョギングもウォーキングも日常の自分から距離を取っていることに変わりはないから,たぶん残るのはリズムというかテンポなのかと思う。
ただ自分が初心者だったせいもあるが,ジョギングの場合,いろいろなことを考える余裕というものがなく,たぶん,メタの位置に自分を置けず,言ってみると即自的にただひたすら走る自分に密着していた,というかそれ以外のゆとりがなかった,というだけかもしれない。
それに比べてウォーキングは,ある意味ゆったりと周囲を見ながら,歩いていて,いわば,自分に対してもメタ・ポジションをとれているのかもしれない。
自分のからだの動き,心の動き,感情の動きに対してメタ・ポジションを取れていれば,自分の発想もチェックできる。
しかし,だ。何かを一生懸命考えている時ではなく,ただ黙々と歩くことに専念している時に,不意に,前日の思考の流れとつながって,ふと,あらたな着眼に気づくということの方が多い気がする。
なかなか一筋縄ではいかない。
生体のリズムというものがある。歩き方にも,人独自のそれがある。
ただ,僕の妄想では,自分のリズムに即して,即自的に歩いているときは,確かに気持ちはいいが,出ることは出ても,大した発想は出ない。
しかし,それと微妙にずれている,どういったらいいか,歩行のテンポが,生体のそれとずれている時の方が,発想が出やすいという気がしている。
それもメタ・ポジションなのだというと,身も蓋もないが。
ずれている時に,不意に前日のことを思い出すと,あるいは意識的にでもいいが,発想が動き始めることがある。もちろん,発想は,
おのれの知識と経験の函数
だから,おのれの中にないものは生まれない。しかし,発想した瞬間の,意外感は,意外なものとリンクすることから生ずる。
それは視点が変わると言ってもいいが,リフレーミングと言ってもいい。
そのために,準備期間がいるという言い方が出来なくもないが,そうは言いたくない。そのときは,そのこととつながるとは思わなかった,気づかなかったから,トンネルビジョンに陥っていた,しかし,別の切り口で見ると,全く様相が変わる。
そうだったのか,
とはそういうときに感じる。
じゃあ,そういう距離の取り方を,意識的にしたらどうなるのか,
それがいわゆる発想法ということになるが。僕の勉強した範囲では,ほとんど役に立たなかった。結局,発想は,その人の生理だから,技法と言いつつ,自分の生理をメタ整理しているだけと言ってもいい。
オズボーンのチェックリストでさえ,オズボーンの生理を感じる。
他に利用できないか,
が最初に来るところに,それを感じる。次が,
他からアイデアが借りられないか,
これは,生理というより癖というに近いか。どのみち,そういうことだ。ならば,
自分の癖を強化する方向か,
自分の癖の弱点を強化する方向か,
自分流の発想法を考える鍵は,そこにしかない。といって,
頭に中にないものは使えない。
せいぜい,ひとつかふたつ,だろう。僕は,
対
と
目的(と手段=目標)
をキーにしているが,これも,いまの自分の生理にあっているだけだ。
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心
と書くのと,
こころ
と書くのではニュアンスが変わる。
こころというと,
無疵なこゝろが何處にある
というランボーのフレーズが浮かぶ。
「心」は非常に多義的・抽象的な概念で,文脈依存で,さまざまな精神作用を言うことが多い。たとえば,辞書だと,
人間の精神作用のもとになるもの,
人間の精神の作用そのもの,
知識・感情・意志の総体,
おもわく,
気持ち,
思いやり,
情け,
等々一杯の意味が出てくるが,僕は,「こころ」は,意志や知識とは別の,もっと情緒的なもののような気がしている。言ってみると,Mindやspiritではなく,heartが近いのではないか。
ランボーの詩は,元は知らず,訳詩はそれに近い。
空海は『秘密曼荼羅十住心論』で,「心」の段階を10の層に分けて,最後の密教的な境地への悟りが深まる道筋を説いたそうだ。
異生羝羊心 - 煩悩にまみれた心
愚童持斎心 - 道徳の目覚め・儒教的境地
嬰童無畏心 - 超俗志向・インド哲学,老荘思想の境地
唯蘊無我心 - 小乗仏教のうち声聞の境地
抜業因種心 - 小乗仏教のうち縁覚の境地
他縁大乗心 - 大乗仏教のうち唯識・法相宗の境地
覚心不生心 - 大乗仏教のうち中観・三論宗の境地
一道無為心 - 大乗仏教のうち天台宗の境地
極無自性心 - 大乗仏教のうち華厳宗の境地
秘密荘厳心 - 真言密教の境地
「こころ」は,ここで言う,境地ないし心境というのが近いか。心持ちというか,心地というか…。
でなければ,触れあいや共鳴や,共振れは起きない。それは,相手の感情や思いや気持ちで揺れて,揺らぐ,柔らかなものの気がする。
和毛,
柔毛,
赤子の肌,
といった感じか。いやいや違うな。
マシュマロ,
ゼリー
の感じか,それも,違う。
繊毛,
イソギンチャクの触手
のようなイメージか。これもちょっと違う。薄い,
オブラート,
あるいは,
ビブラート,
が近いか。
でも,こころは半歩後ろからついてくる。だから,とっさには傷に気づかない。痛みに気づくのに,タイムラグがある。
悔いは瞬間には来ない。何かの後,ほんの少しずれてやってくる。それに似ている。しばらくして,自分の傷みに気づく。
昔,待ち合わせで三時間待ったことがある(逆もあるのだが)。そのときは,気づかない。いろいろ忖度して,こころは忙しい。しかし,後日心の傷みに気づく。
自分だけが鈍感なのかと思った。そうではない。現実の,その一瞬一瞬,一刻一刻,その応接に忙しく,ただ忘れている。ほっと一息ついた時,自分の心の傷みに気づく。こころは,遅れてやってくる。
悲しみが深いほど,タイムラグがある。軽いものなら,すぐ来るが,深いほど,しばらく置いて,打ちのめす。
おれの理由は
俺には見えぬ
おれの涙が
見えないように(石原吉郎「理由」)
涙が出ると悲しみがやってくる。それと似ている。ふいに頭をよぎる。
見えぬけれどもあるんだよ,
見えぬものでもあるんだよ。
とは,金子みすゞであったか。
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意地という言葉は,あまりいい意味に使われない。
意地汚い
意地が悪い
片意地
意地っ張り
意地を通す
意地にかかる
意地になる
底意地
等々まあ,依怙地というか,頑固というか,執心というか,心映えが悪いというか,おのれの我を通すという意味に使われることが多い。
這っても黒豆,
といった,強情さそのもののように言われる。
しかし,へそ曲りなので,僕には,意地を張らぬ人間は軟弱に見える。強く押されてへなへなと腰を引くのではなく,瘦せ我慢が必要な時はある。
情張りと突っ張りは強いほどいい
とも言う。時に強気であることは必要なのではないか。
とはいえ,意地を張るのは,見栄っ張り同様格好悪さは否めない。しかし,
徹底
執念
貫徹
押し切る
頑張る
突っ張る
一徹
凝り性
と少しニュアンスを変えると,同じ頑固でもプラスイメージが湧く。ある意味,
夢を追い続ける
持続し続ける,
墨守し続ける,
等々持続していくには,そういった意地が必要で,突っ張る心根がなければ,無理なのではないか。その面で開き直って,突っ張るのも,ときには悪いことではない。だから,
意気地なし
という言葉もある。だから,やりぬこうとする気力や心の張りの部分に焦点をあてれば,プラスにはなる。
しかし,総じて悪いイメージの意地に引き換え,
意気
は,ちょっとした違いなのに,結構いいイメージだ。
心意気
意気軒昂
向こう意気
意気天を衝く
意気込む
元々は「粋」に転ずるくらいだから,いい心映えを意味している。意地のニュアンスの部分も,意気には,
土性骨
の意味もあり,意気地のあることも含めていて,やっぱり意気には勝てない。
どうせ意地を通すなら,小粋にやれば,意気になる,ということか。
どうもそれって,その人そのものの品性というか,人品骨柄とでもいうか,生来のかっこよさなのかもしれず,ちょっとかなわないな。
例えば悪いが,イチローがやるとかっこいいが,松井がやると野暮になるのに似ているか。
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崛起は,狂気に通じる気がする。思い詰めた何かである。
最近の出来事で,正論ではない何かが,世の中を動かすということを思い出した。かつてはいらだっていた松陰の無謀ぶりに,同じ(ではないが,似たような愚行と)狂気を感じて,ふと思い出した。それをちょっと自分なりに見直し,整理し直してみたい。
吉田松陰の『講孟余話』で,理論だって,冷静な正論を吐いているのは,大儒・山県太華だ。攘夷について,
漢土の例にならって,時刻を中国といい,他国を夷狄といい,我は尊く,彼はいやしいというべきわけがない。海外の諸国も,皆人間の国であり,禽獣虫魚とは違う。天がこれら外国の人々に倫理・道徳の根本を与えること,皆同じである,
という,どう聞いても正論である。あるいは,
天下は一人の天下である,という松陰に対して,
天下は一人の天下に非ず,天下の天下である,
と,まあただっこに対して冷静な論理で突っぱねるのに似ている。
しかし,である。正しい言い分では,世の中は動かない。というよりも,その冷静さは,いま現在の受益者,と言う言い方が悪ければいま現在の体制の側にいるものの保身のにおいがする。当然,そういう冷静な理屈では,時代の突破力を持たない。
時に狂気のような力がいる。
たしか来島又兵衛(だったと思う)は,蛤御門の変の前,逡巡するものに,
而して,
という口癖を皮肉っていた,と思う。「而して」と言いつつ,結局なにもせぬ,と。多分又兵衛は,その屁理屈に,保身と防衛を嗅ぎつけたに違いない。もちろん,猪武者がいいなどとは思わない。
暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり,
と孔子の言うとおりである。しかし,皆が,そのように,「而して」と言っているばかりでは,時代は動かない。
欺くこと勿れ,而してこれを犯せ,
とも孔子は,主君に仕える心得について尋ねたのに,答えている。
松陰の,
草莽崛起,
とは,
恐れながら天朝も幕府もわが藩もいらぬ,ただわが六尺の微躯あるのみ,
の気概である。あるいは,孫子の,
死地に陥りて而して生く,
の覚悟である。そういえば,松陰と立場は少し異にするが,横井小楠も,
人必死の地に入れば、心必ず決す,
と言っていた。草莽崛起とは,ひとごとではない。
おのれ自身の責任として,おのれの身に引き寄せて,おのれ自身が,草莽として,崛起するのでなくて,おのれの責を全うしたことにはならない。だから言う。
時を待つの人に非ず,
草莽崛起,あに他人の力をからんや,
往く先崛起の人あるかなきかを考えてみねばならぬ云々,是は勢いを計り時を観るの論なり,
と。
理屈を捏ね,而してと言う人は,ただ傍観者である。傍観している間にも,事態は悪化する,ひとごととは思えぬものが,
やむをえず,
やむにやまれず,
取る行動を僕は全面的に容認する。
何にもしないで冷ややかに評論ぶっている奴より,いたたまれず何か(突拍子もないことを)する奴の方が好きだ。その心根に共感する(こういう時にこそ,共感という言葉はある)。まして,(そいつが)大勢に,寄ってたかって打擲され,貶められているのを見ると,性分としてほっておけない。それが孤立無援の闘いをしているならば,…理非曲直を問わない。直ちに助太刀に入りたい気持ちだ。意味は違うが,
義を見てせざるは勇無きなり,
ではないか。
狂にして直ならず,
のものを見たことがない,と孔子は言う。中庸の人,孔子ですら,こう言う。
中行を得て,之と与にせずんば,必ずや狂狷か,狂車は進み取る,狷者は為さざる所有る也,
と。いま必要なのは,冷静な評論でも,権力の金棒引きでもなく,そいつらを蹴散らす突破力だ。
理非曲直を問わない。
直情にして,果断,
な思いの突出こそが必要だ。
参考文献;
村上一郎『草莽論』(大和書房)
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僕は自分が効率的な生き方をしているとはとうてい思えない。
しかし効率的でない,と言うと,インプットしたエネルギー以上の成果を出せたかどうかとということになるか。あるいは能率的と言うと,一定時間にどれだけの成果を出せたかということになるか。
しかし仕事もそうだが,ただ一定水準のものを次から次へと出せばいいというものではないのではないか(負け惜しみだが)。まして人生は,一定時間にどれだけ仕事をしたかとか,どれだけの効率的な生き方をしたかとかだけで測っていいものかどうか。
僕は,どうも,真っ直ぐには進まないタイプで,
回り道,
横道,
遠回り,
脇道,
に逸れるきらいがある。いわば,道草大好きで,好きな人がいると,すべてを投げ捨てても人生の時間を浪費して惜しまない。
そう言う意味で,
何か成果を出したか,
とか,
何を達成したか,
とかに関心がないわけではないが,目の前の花や団子に目を奪われ,うかうかと時間を過ごす傾向がある。
言ってみると,
どうでもいいことに無駄な時間を使い,一生を台無しにするタイプなのだといっていい。
どうなのだろう。
子どものときに夢中になっていた,
昆虫採集,
凧揚げ,
模型飛行機づくり
等々と,オトナになって,そう効率や能率や成果とは無縁の,どうでもいいこと,
たとえば(酒や賭博や競馬・競輪は除くが),
おまけの大人買い,
アニメの大人買い,
マンガの大人買い,
稀覯本の収集,
落語家の追っかけ,
ガンプラの収集,
等々に夢中になるのは,顰蹙を買うことになるのだろうか。
あえて言うが,人生は,他人のために生きているのではなく,ただおのれのためだけに消尽しつくすのは,その人の唯一の自由といっていい。
僕は,何かにまっしぐらに突っ走る人もうらやましいし,かっこいいとは思うが,どうでもいい感情にこだわって,人生を台無しにするというのも,別にかまわないと思う。一生をかけるに値する感情だったのだ。たとえば,片思いでも,一生を賭しても構わない恋だってある。僕はそういう人を知っている。それはそれで,恰好いいじゃないか。
あるいは,人にとってはどうでもいいものに夢中になり,その収集のために家族も捨て,退職金を擲ってでも手に入れようとするのも悪くない。そこまで夢中になったら,それは,人生を賭けるに値する何かだったのだ。
僕は人生は,一本道であるより,挫折,失墜,落伍,道草,失踪,自殺,何でもアリだと思う。だからと言って,脇道体験があるほど,その人に滋味が出るなどというアホなことは言わない。んなわけはないのだ。
一生をたった一つの夢に賭けてもなお,叶わぬ夢はある。それは人生と等価なのだ。だからいい人生だなどというお為ごかしは好きではない。論評無用なのだ。
行蔵は我に存す,毀誉は他人の批評
である。
ただ,だから人生は自己表現なのだ,と思う。一生を通して,
結果として,自分になる。
人生には,有効,有益はない。
当然人生に,無効,無益もない。そういう秤ではつりあう分銅はないのだ。
それを目方で形にしようとするなら,こういうことか。
おれひとりで呼吸する
おれひとりで
まにあっている
世界のちいさな天秤の
その巨きな受け皿へ
おれの呼吸を
そっとのせる(石原吉郎「呼吸」)
人生には,無駄はない。
本道を行く者には,脇道・横道は,無駄に見えるかもしれない。しかし,横道にそれたものから見れば,本道こそが無駄に見える。
人生楽しければいいなどという極楽とんぼは言わぬが,おのれの道が,脇だろうが,本道だろうが,ひと様には関わりはない。
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Motifは,英語で言えば,Motive。まあ,動機。いわば着想のきっかけといっていい。
辞書的には,
文学・美術などで,創作の動機となった主要な思想や題材。
音楽で,固有の特徴・表現力をもち,楽曲を構成する最小単位となる音型。動機。
毛糸編みやレース編みで,いくつかの小片をつなぎ合わせて作る場合,その個々に編んだ小片。
とある。これだと,何のことかわからないが,たとえば,ふと一節メロディが浮かんだとする,それが発想のきっかけになって,全体の構想を創り上げていく。しかし,その全体を形としてまとめていくのは,テーマになる。その最初のきっかけになったものが,モチーフだと思っているが,それが単なる思い付きで終わるか,そこが膨らんで,構築する作品世界への橋渡しになるかは,紙一重の気がする。
何がモチーフになるのかは,当人にもわからない。結果として,それがテーマを持った世界づくりにつながった時,振り返ってモチーフになる,というものなのかもしれない。
何しろ,唐変木のとうしろうが言っているので,正しいかどうかわからないが,僕のイメージではそんな感じだ。
ウィキペディアには,
物語におけるモチーフとは物語を構成する要素,ことにシンボル化され得るようなものを指す概念である。
とある。要素がモチーフということは,結果であって,その要素が,作家のマインドを動かさなければモチーフには転じない。この説明は逆立ちしている,と見る。
まず作家ありきだ。そのモチーフそのものが,ときにその作品の主題(テーマ)そのものともなることもある,それはそのモチーフへの思い入れ次第だ。
いま僕は,中江兆民と宮崎八郎が気になっているが,それはモチーフに当たる。そして,そこから何かをまとめていくとすると,八郎的な大言壮語,壮士風の暴虎馮河の輩,さらにあえて言えば,その支えとなっている西郷的なものとの対決というのが,テーマになる。
そこまでは,誰もが語れる。問題はこの先だ。
論文にしろ,作品にしろ,単行本にしろ,ひとつの完成像をまとめきらなければ始まらない。それが僕の持論だ。
そこで何が起きるかと言うと,現実との対峙が起きる。作品は,論文であっても,小説であっても,評論であっても,リアルに依存しているようでは,未完品だ。
完成品は,それ自体で,虚構になる。現実からの隔たりがある。それがなければ,自立していない。いちいち現実と照らし合わせるようでは(「似ている」とか「よくかけてる」等々はその指標だ),現実に依存しているだけの新聞記事,雑誌記事の同類に過ぎない。つまりは使い捨てだ。
何があるからなのか。
自立した世界が描けていることだ。
小説はもちろん,論文であれ,評論であれ,ビジネス書であれ,啓発書であれ,それ自体が独自の世界を創りださなければ,読者をその本の世界に引き入れることはできない。
だから,虚構なのだ。
ドキュメンタリーと実録風ドラマとの違いは,虚構度では,ほとんどない。しかしニュース風に現実に依存していると,それは報道ではあっても,作品としてのまとまり,世界を持てない。もちろん,ニュース映像にはテーマはない。
そこで話をモチーフに戻すと,たぶん,こだわる人は,モチーフのところに立ち止まってしまう。モチーフに拘泥すると,テーマが,現実依存から抜け出せなくなる,そういう懸念がある。
モチーフはあくまで,きっかけに過ぎない。かぼちゃが馬車になるかどうかは,カボチャだけからはわからない。そこは,ブラックボックスになる。そのかぼちゃが橋渡しになって,カボチャが変じた世界をイメージできたとき,カボチャはモチーフになる。
だからカボチャの材質やカボチャの種類にこだわり始めたら,それはもう別のこだわりになっている。
素材にこだわって,そこに固執しつづけるのは,一見芸術家気質に見えるが,どうも違う。それは単なる(悪い意味の)職人気質でしかない。
作品としてまとめ上げなくては,職人も職人たりえない。詩を語っても,詩を書かない詩人は詩人とは呼べないのと同じだ。
モチーフがなければきっかけはない。しかしテーマにまとまっていかなければ,作品世界にはならない。素材の存在する,リアルの世界に引っ張られたままになる。
僕は,まずテーマありきだと思う。テーマがなければ世界は作れない。世界が作れなければ,作品としての自立はない。
モチーフは,だからきっかけなのであって,本来作品世界が出来上がってしまうと,捨てて顧みないものなのかもしれない。
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一知半解
に似た言葉に,
生半可,
半可通,
付け焼刃,
生噛り,
生兵法,
とある。
宮本武蔵も,五輪書で,この道,つまり剣の道について,「利を得んと思うこと」は,生兵法は大疵の本と言っているが,実践的なものは,すぐ化けの皮がはがれるが,口説の類は,そうはいかない。
道を聞きて塗(みち)に説くは,徳をこれ棄つるなり,
とは孔子の言。聞きかじりを自説のように説くのは,徳どころか人として信じられまいが,まあ時に,無意識で刷り込まれていることを吹聴することがないとは言えない。ではどういう学びがいいのか。
横井小楠は,
古来聖賢の学なるもの是れをすてて何にあらんや。後世の学者日用の上に学なくして唯書について理会す,是れ古人の学ぶところを学ぶに非らずして,所謂古人の奴隷という者なり。いま朱子を学ばんと思いなば,朱子の学ぶところ如何と思うべし。左なくして朱子の書につくときは全く朱子の奴隷なり。たとえば,詩を作るもの杜甫を学ばんと思いなば,杜甫の学ぶところ如何と考え,漢魏六朝までさかのぼって可なり。且つまた尋常の人にて一通り道理を聞きては合点すれども,唯一場の説話となり践履の実なきは口耳三寸の学とやいわん。学者の通患なり。故に学に志すものは至極の道理と思いなば,尺進あって寸退すべからず。是れ眞の修行なり。
と言う。「いま朱子を学ばんと思いなば,朱子の学ぶところ如何と思うべし。左なくして朱子の書につくときは全く朱子の奴隷なり」とは,趣旨の学びの本流までさかのぼって,それをたどり直す,かどうかは別に,それをそのまま真に受けているようでは,奴隷だ,と言い切った。
博く学びて篤く志り,切に問いて近くに思う,
の身近に思うが,小楠の言う,
学の義如何,我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。後世学者と言えば,書を読み文を作る者を指していうようなれども,古えを考えれば,決して左様な義にてはなし。堯舜以来孔夫子の時にも何ぞ曾て当節のごとき幾多の書あらんや。且つまた古来の聖賢読書にのみ精を励みたまうことも曾て聞かず。すなわち古人の所謂学なるもの果たして如何と見れば,全く吾が方寸の修行なり。良心を拡充し,日用事物の上にて功を用いれば,総て学に非ざるはなし。
と,「日用事物の上にて功を用いれば,総て学に非ざるはなし」と通ずるのだろう。
学びて思わざれば則ち罔(くら)く,思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し
結局自分の頭で考えて,考えて,自分なり結論に至る,そこでまた問いがでる。
果たして如何と見れば,全く吾が方寸の修行なり,
とはそういうことなのだろう。一生修行なのだと思う。
一知半解は,いわば,知っているということがわからないのではなく,
知らない,
ということがわからないのだ,と言ってもいい。神田橋條治さんは,
それ知らないのだけど,教えてくれる?
と言える人が,強い人(セラピスト)だというようなニュアンスのことを言っていた記憶があるが,
まさに,ソリューション・フォーカスト・アプローチで言う,無知の姿勢(not knowing)である。
知れるを知るとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり,
と,孔子の言うとおりだ。
結局思うのだが,学んだことは,使わなければ脳のネットワークは強化されない。使えば,疑問もわくし,わからないことが見えてくる。
人は,経験しただけではノウハウにもスキルにもできない。メタ化というか,振り返るプロセスを経て初めて,自分のものになる端緒となる。
考えるとは,そのことを言うのではないか。
ものごとに精通することがいいのではない,もちろんそれはそれですごいことだが,それ以上に,いつも自分の判断基準を持てること,自分の目線でモノが見られることだ。それには,いつも,
問い,
が欠かせない。問いつつ,学び,学びつつ問う。
その時,守破離の,「破」への第一歩を踏み出している。「破」がなければ,奴隷でしかない。
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大好きな映画作品,リドリー・スコットの『キングダム・オブ・ヘブン』で,エルサレム国王は,イベリン卿バリアンに,こう語っていた。
(生まれる場所は選べない。王であったり下僕であったり,そこでは生き方は選びようがない。しかし)
魂は,おのれのものだ,
ということは,一切の言い訳は,神の前ではきかない,と。
あのときこうしたのは,これこれのためだ,とか,
やむを得ずとか,
そういう状況だったので,とか,
ああせざるを得なかったので,とか。
もちろん,手相も,占星術も,風水も,言い訳には使えない。
そういう言い訳のきかない事態で,どれだけおのれの魂を賭して,対処したか。
そうおのれの心が,問われて,大きくイエスと言い切る自信はない。
そういう時の自分の阿る表情や口調が,ふと頭をよぎる。逆らえず,下を向いたときの悔しさも蘇る。
Noと言うべきときに,Noと言えなかったことはないか。
Yesと言うべきときに,Yesと言えなかったことはないか。
黙っているのは,答えきれなかった証拠でしかない。
沈黙は,屈辱ではないのか。
かつて,ある食品メーカーの食肉センターで,売上げ不振に悩んだセンター長が,部下の管理職に,輸入肉をに国産肉のラベルを貼りかえる指示を出した。三人のうち,一人が,Noを言った。しかし,残り二人は黙っていた。
後日,新聞記者が,その二人に尋ねた。
なぜ黙っていたのか,と。
すると二人は,
サラリーマンだから,わかるでしょ,
と言った。さて,自分なら,その時どうするのか。言い訳はきかないのだとしたら。
そのセンター長の指示は,管理職に,
部下の人たちに―その人たちには,いい肉かどうかを目利きする腕を磨いてきた人も含まれる―,そんなことはいいからラベルを貼りかえろ,
というものだ。一体,どの面を下げて,そんなことが言えるのか。
魂がそのとき,何と答えるのか。
そもそも一体,何をするためにそこにいるのか,
それを役目というか,役割というか,天命というか,使命というか,そんなことはどちらでもいい。
自分は,何をするためにそこにいるのか,
という自分の存在理由を忘れて,人はまっとうに生きてはいけない。
それを,ぼくは自分の旗と呼ぶ。旗については, 何度か触れた。
魂とは,おのれの心の声であると同時に,おのれの生きている理由でもある。そこに生きている意味をなくすような振る舞い,決断,意思決定は,自分がそこに生きている意味そのものを失わせかねない。
仮に,神の前に立って,きちんと言えるかどうか。
曾子曰く,吾,日に三度吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか,朋友と交わりて信ならざるか,習わざりしを伝えしか,
あるいは,五省に言う。
1.至誠に悖る勿かりしか
1.言行に恥づる勿かりしか
1.気力に缺くる勿かりしか
1.努力に憾み勿かりしか
1.不精に亘る勿かりしか
しかしこれらは,単なる振る舞いを指す。ここで言うのは,存在そのものの意味,自分という存在のあり方として,恥じるところはないか,ということを言う。
そこで生きている,意味そのものが,問われる事態,そのときに,自分は,
自分の魂に賭けて,
偽りのない決断をしたのか,と。
もしおのれの全存在を賭して決断したのなら,その是非も,可否も,関係ない,
おのれの存在と等価なのだから。
それが言い訳のきかないという意味だ。
上へ
まあ,不器用といっていい。人との付き合いも,仕事の仕方も,そう器用にサクサクと片づけていけない。尾を引く。
器用の,
器
というのは,ひとつは,
はたらき(才能)
であり,いまひとつは,
度量
であり,器量の器,大きさといっていい。いまひとつは,
うつわにする,
つまり,才能に従って使用する,
ひとつのことに役立つ,
という意味になる。孔子の言う,
君子は,器ならず,
というときの器である。人を見るときの測り方に,
器量
度量
技量
力量
裁量
とあるが,器用というのは,
力量といった,物の用に役に立つか立たないかという側面と,
もっと細かな,手先がよくきき,仕事をうまくこなすという技量の側面(悪くすると,抜け目がない,要領がいいというニュアンスになることもある)と,
その他に,器量がいいの容貌とか人品骨柄の面,意外にも,
潔い
という意味がある。そこには,度量や器量や裁量といった,そのひとの大きさに関わる部分がある。
僕が不器用(無器用とも書く)というとき,
ぶっきっちょ,
とか
要領のわるさ,
を指す。あんまり,小器用に立ち回れず,立ち居振る舞いから,真意が漏れてしまうというか,面従腹背といったことができないというか,そんなことを指す。
そのために,損をしたかというと,いちいち思い当ることはない。
ただ,真っ正直に立ち向かうために,
いつの間にか,労働組合をつくる先頭に立たせられていたり,
いつの間にか,最前列でトップと矢面で対決させられていたり,
いつの間にか,その開発をひとりで担わされることになったり,
いつの間にか,あらゆる仕事を背負い込まされていたり,
いつの間にか誰かを庇って逆に自分がその矛先を受けることになったり,
等々,まあ気づくと損な役回りをしていることが多い。だから,日頃の言動から,何かとトップ批判と,相手に受け取られ,真意が誤解されることもある。しかし,そういう無骨で,骨太な役回りに立たせられることが嫌ではない。内心は,ぶるぶる震えるような緊張感と怯えを抱えながら,こぶしを振り上げざるを得ないことが何度あったか。
そう,それを無器用,と呼ぶなら,器用な立ち回りの出来ない質なのだと言った方がいいのかもしれない。
だから,
是は是,
非は非,
と公然と口にする。その意味で,常に煙たい存在だったのかもしれない。言いたいことを口に出させず,腹ふくるる状態には堪え得ない。腹の中にしまっておけない質なのかもしれない。
とうとうトップと公然と対立せざるを得なくなったのも,まあ自業自得。器用な世渡りはできない。
上へ
お蔭様
は,いい言葉だか,自分はずっと苦手にしてきた。というか,おれがおれがの性分で,すべてをおのが手柄とする傾向があった。今でもないとは言えない。自分に対するそういう自負心がなくなったらおしまいじゃないか,という気持ちが強い。
自恃,
自らを恃む気持ちがなくなったら,おしまいではないか。
人に頼るのを,だから,ずっとよしとしなかった。
而立
とはそういうことだと,思ってきた。
何でも人に頼る,ということを嫌ったのは,教えを乞うた時,相手が「自分で考えろ」というそぶりを見せたのが,たぶん,心に焼き付いている。
でも考えたら当たり前かもしれない。おのれの才覚で必死に考え付いたノウハウを,昨日今日始めたやつに,ただ手渡しても,そのありがたみがわかるはずはない。
ただ教えればいいというものではない。
啐啄同時
という言葉があるが,タイミングがある。孔子曰く,
如之何(いかん),如之何と曰わざる者は,吾如之何ともする未(な)きのみ
とあるし,
噴せずんば啓せず,悱せずんば発せず
とも言う。だから,人に教えるのが嫌だというのではない。
不思議だが,自分でとことん考えたことは,
教えたい。
聞いてほしい。
使ってほしい。
人から聞いたこと,学んだことは,教えたくても教えようがない。ネタバレしそうだということもあるが,それよりなにより,その背景となるバックグラウンドというか,コアとなる思想というか,哲学が欠けている。そもそもない。
何でもオープンに手渡して怯まなくなったのは,しばらくたってからだ。真似ができるなら,どうぞという不遜な考えではない。自分が必死で考えたものだからこそ,それを使ってくれるなら喜んで,使ってもらいたい,それだけのことだ。
思えば,そこには,自分がいる。自分がある。誰かの世話というより,
先人の肩の上に立っている,
ということなのだ。だから,最近,リーダーシップもこう考えるようになった。
リーダーシップは,人に協力や支援を求めて,一緒にこと(問題解決や何かの実現)に当たってもらうべく,自分が積極的に必要な人に働きかけていくことである,と。
そのとき,どれだけ人を巻き込んでいく力があるか,である。
そのために必要なのは,
・「何のために」「何を目指して」という,意味づけ(組織全体にとっての,その仕事にとっての,各自にとっての,その問題にとっての等々)が明示でき,
・必要な人々に,その意味をきちんと伝えていく力があり,
・めざすことを一緒にやっていくための土俵(協働関係)をつくれ,
・協力してくれた相手,サポートしてくれた人への感謝と承認を怠らないこと,
である,
と。
肝は,最後にある。
協力してくれた相手,サポートしてくれた人への感謝と承認を怠らないこと,
とは,
「お陰様で」
と言えるかどうかである。これがなければ,
画竜点睛を欠く,
あるいは,
九仞の功を一簣に虧く,
である。一発屋のリーダーシップというのはありえない。まして,リーダーシップはリーダーの役割行動とは別のものだ。
つくづく,これを欠くリーダーは多いが,それが欠けた瞬間,その人は,リーダーシップの何たるかがわかっていない,という目印である。
リーダーとしての役割なら,(あるにこしたことはないが)なくても問題視はされない。それがその人の役割(社長としての,課長としての,部長としての職務権限,裁量)からくるものだから。
しかし,リーダーシップにこれを欠いたら,誰も,二度と協力しないだろう。
そして思う。リーダーシップというのは,その人の仕事の仕方の延長線上にある,と。
いつも自分で抱え込んで(自分の技量と才覚にのみ頼って),自己完結した仕事の仕方をしてきた人は,チームを預かるようになっても,チーム内で何とか完結して仕事をしようとする。しかし,チームレベルでは(本来は,個人レベルでもそうなのだが),自己完結して仕事ができるはずはないし,自分たちだけで解決できない問題が必ず起こる。それでもそれを何とかチーム内で背負い込んでやり遂げようとする。当然そうすれば,自分がつぶれるか,チームがつぶれる。
仕事は,自分の器量と技量と裁量内でやろうとすれば,自分の持つリソースだけの仕事しかできない。それを超えた大きな仕事はできない。
仕事の出来る人は,人のサポートや支援を得て,自分の器量と技量と裁量を超えた,大きな仕事をする。本来仕事はそういうものだ。その延長線上に,リーダーシップはある。だから,仕事の仕方なのだ。
とすれば当然,「お陰様」はついて回る。というか,そもそもそれなしに,自分の技量と器量と裁量を超えた仕事ができるはずはない。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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イメージしたことは実現できるというが,人は,そう途方もないことをイメージできない。なぜなら,意識にないものはイメージ化できない,ある意味で,それは,いまの心の中にあるものを,
最大限に膨張させたもの,
になる。それはだから,実現可能性が高い,ということなのではないか。
しかし,もうずいぶん昔から,夢見てきて,遂に実現できていないことがある。努力もまあ,一応した,しかし,それは遂に果たされない。そんな程度の努力だ,といわれるかもしれない。それはそうだ。血の尿の出るほどの努力とは到底言えない。ただ,強く感じているのは,人は,おのれのDNAの限界は超えられない,ということだ。
まあ,言ってみれば才能だ。
思うに,
努力も才能だ。
それ以上の努力は,しようと思っても,できない。いやいや自分の限界を決めてしまうところが,そもそも才能なのかもしれない。
力足らざるものは中道にして廃(や)む。今汝は画(かぎ)れり。
そう孔子はおっしゃる。はじめから自分で自分に限界をつけている,と。その境界線もまた,才能なのではないか。どこまでも伸び白が自在に伸ばせるかどうか,その努力に限界を設けないのも,また才能なのではないか。
何となくおのれの才能に見切りをつけかけてくると,なんとなく,そう言いたくなる。
閑話休題。
夢と言うと,
I Have a Dream.
というキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)のあの声が耳元に聞こえる。
そう,夢がある,
という言葉はきれいだが。それを支えるのは,イメージしたり思うだけでかなうことはない。
趣味の世界なら,
私は絵を描いてます,
私は詩を書いています,
私は役者をやっています,
私は野球をやっています,
等々というのは悪くない。しかし,その境界線内にいることを潔しとしない瞬間から,つまりはプロフェッショナルとして生きていこうとするときから,視界に大きな壁が広がる。というか途方もない広くて長い階段が見えてくる。それを目指したものにしか見えない,幻の階段だ。
それをフロー体験などという言葉で言い換えたら,たぶんそれはプロの世界ではなく,趣味の世界だ。イチローが好きなことをやっていても,楽しくはない,と言ったのに象徴されるように,「楽しい」「夢中」は,趣味の世界だ。
しかもそれは,ひとつ登るたびに,頂上はますます遠のき,雲のなかに消えて見えなくなる世界だ。
いい例かどうかはわからないが,弁護士でも税理士でも,あるいはカウンセラーでもコーチでも,それで食って行けるかどうかは別にして,店を開けば,それでいい。しかし,個人の才能が問われる,個人「芸」の世界では,その芸のレベルは歴然とした差がある。その差は,やっているものの技量のレベルに応じてしかわからない。
それは才がはっきり問われる。努力だけでカバーできるとするには限界がある。仮に,イチロー並みの努力をしても(できはしないが。出来たとしても),イチローにはなれない。
その厳しい現実の前で,夢は妄想に近づく。
夢は実現できる,
という言葉の持つ厳しい現実が見える。
そして思う。それで夢が諦めきれるなら,それはここで言う夢ではない。他の何か,野心だったり,願望だったり,希望だったり,という他の何か,夢ではない何かなのだ。
夢は,一生かけて追うものなのだ。
あるいは,おのれの一生分に値する何かなのだ。
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自分とは何かということを考えた時わかりやすいのは,混雑した電車で肩が触れたの,押したのといってもめている人を見た時だ。
たぶん自分でもあるが,たとえば,スマホを見ている,新聞を見ている,本を読んでいるというとき,無意識で暗黙のバリアを張っている。別に体の輪郭そのままではないが,それに近いところで,自分というものと人との境界線を引いている。それは,距離的に測れるものではないが,肌そのものでも,衣服そのものでもなく,それから何センチか何ミリかの隔たりを置いている。別に物理的にこれだけと明確ではないが,触れられたくない距離といっていい。
だから,不意に押されると,自分のテリトリーを侵略されたような感触がある。いきなりだからいけないのか,直接触れたからいけないのかはわからないが,その不快感はよくわかる。
といって,押しくらまんじゅう状態の時が不快でないのかというと,不快だが,その時は,境界線が,(あきらめてか,現状追認かは別にして)ずっと後退していて,顔がくっつかなければよしとする状態になっているので,そういう侵略されたという認識はない。
周りにかまわず化粧するのは,その境界線が,本人にとって強固で,透明の(でないかもしれないが)バリアの中で,完全に内向きの視線の中で,居座っている。この場合も,押されたり,接触したりされると,同じ反応をするはずである(怖くてやっていないと言うか,見たくないので遠ざかるが)。
この境界線は,心理学者の言う社会的距離のことではない。
エドワード・ホールが,人間の対人距離意識について,
・密接距離 (intimate distance) - 15 〜 45 cm。愛撫,格闘,慰め,保護の意識をもつ距離。
・個人的距離 (personal space) - 45 cm 〜 1.2 m。相手の気持ちを察しながら,個人的関心や関係を話し合うことができる距離。
・社会的距離 (social distance) - 1.2 m 〜 3.6 m。秘書や応接係が客と応対する距離,あるいは,人前でも自分の仕事に集中できる距離。
・公衆距離 (public distance) - 3.6 m 以上。公演会の場合など,公衆との間にとる距離。
と分けているが,これは他人を意識している状態というか,人との距離を意識している状態で,自分が何となく自分という境界線を引いている状態とは少し違うような気がする。
人との距離というか,他者との距離と言うので思い出すのは,正確には覚えていないのだが,多田富雄さんの本で,そこで,免疫系が,自己と非自己を区別している,といったのを,読んだ気がしているが,そのときの衝撃だけを覚えている。
自分というもののイメージが根本から崩れた,という印象なのだ。
例えば,
免疫とは,ヒトや動物などが持つ,体内に入り込んだ「自分とは異なる異物」(非自己)を排除する,生体の恒常性維持機構の一つである,
とある。極端な話,不意に押された時の不快感や怒りは,免疫反応の延長線上にある自分以外の異物の排除行動なのてある。
免疫系は,外部からやってくる病原菌やウィルスに抵抗する担い手として抗体をつくる。これが自己である。非自己がなければ,自己もつくれない。
他者がいなければ自己は認識できない。あるいは,自分がどのあたりに境界線を引いているかは,意識できない。
多田さんは,こう書いている。
免疫は,病原性の微生物のみならず,あらゆる『自己でないもの』から『自己』を区別し,個体のアイデンティティを決定する。還元主義的生命科学がしばしば見失っている,個体の生命というものを理解するひとつの入り口である,
と。免疫システムを,自分の無意識の境界線と置き換える。それは,相手によって使い分けるのだろうか。そこが,社会的距離と重なるところである。
親疎は,つまり親和性と反撥性によって,自分が拡大するわけではない。
自分というのを物理的な領域だけで考えると,狭小になる。たとえば,DVや性的被害者は,その瞬間を,自分から剥離してしまうことで,事態を自分から遠ざけていく,という。
そう,人の持っている想像,空想,妄想の領域は,物理的な障壁がない。だから,電車の中で,突然奇声を発したり,独り言を言ったり,一人口論をしたりしている人は,ひょっとすると,物理的境界の埒外にいるのかもしれない。
免疫というシステムは,先見性のない細胞群をまずつくりだし,その一揃いを温存することによって,逆に,未知のいかなるものが入ってきても対処しうる広い反応性を,すなわち先見性をつくりだしている,
という。未知の者への対応は,人は,そういうイマジネーションの世界を設定し,そこへのめり込むことでやっているのか?
いやそれは,どうも違うように思う。
それは,一種の自傷行為に近い。
免疫系は,生体を重層的な防御体制で守る,という。まずは,物理的な障壁で,細菌やウイルスが生体に侵入するのを防ぐ。
病原体がこの障壁を突破して体内に侵入したとき,自然免疫(先天性免疫)がそれを感知して排除する。
病原体が自然免疫も逃れたら脊椎動物は第3階層の防御反応をする。これが獲得免疫であり,一度感染源に接触することで自然免疫によって発動される。
この機構は,病原体が排除された後も免疫記憶として残り,次いで,同一(あるいは似通った)の病原体に遭遇する度に強化される。
社会的距離は,その防御階層といってもいいのかもしれない。そして,最後は,内なる世界へ逃避して,接触をみない。
と,ここまで考えてみて,どうもこういう見方は,自分としいうものを狭くしているのではないか,という気がしてくる。
清水博さんが,こう言っている。
生命という活(はたら)きは自己の存在を自己表現,あるいは自己創出する活(はたら)きであるために,場に位置づけられなければ生き物は一つの決まった形(表現形)を取れないということである。そしてその表現形は,局在的生命と遍在的生命のあいだの創出的循環のために,一定の状態に留まることができない…。生命の自己表現性とは,生命は場に位置づけられた存在をその場へ表現するかたちで活(はたら)いているということである。生命はそれ自身をそれの上へ表現する「場的界面現象」(場的境界の生成現象)であるといえる。生きものは,その存在を場に表現するから場においてコミュニケーションができるのである。
場なしに,自己は存在しない。「自己の卵モデル」では,繰り返しになるが,こう説明される。
@自己は卵のように局在的性質をもつ「黄身」(局在的自己)と遍在的性質をもつ「白身」(遍在的自己)の二領域構造をもっている。黄身の働きは大脳新皮質,白身の働きは身体の活(はたら)きに相当する。
A黄身には中核があり,そこには自己表現のルールが存在している。もって生まれた性格に加えて,人生のなかで獲得した体験がルール化されている。黄身と白身は決して混ざらないが,両者の相互誘導合致によって,黄身の活(はたら)きが白身に移る。逆もあり,白身が黄身を変えることもある。
B場所における人間は「器」に割って入れられた卵に相当する。白身はできる限り空間的に広がろうとする。器に広がった白身が「場」に相当する。他方,黄身は場のどこかに適切な位置に広がらず局在しようとする。
C人間の集まりの状態は,一つの「器」に多くの卵を割って入れた状態に相当する。器の中では,黄身は互いに分かれて局在するが,白身は空間的に広がって互いに接触する。そして互いに混じり合って,一つの全体的な秩序状態(コヒーレント状態)を生成(自己組織)する。このコヒーレント状態の生成によって,複数の黄身のあいだでの場の共有(空間的な場の共有も含む)がおきる。そして集団には,多くの「我」(独立した卵)という意志器に代わって,「われわれ」(白身を共有した卵)という意識が生まれる。
D白身が広がった範囲が場である。したがって器は,白身の広がりである場の活(はたら)きを通して。黄身(狭義の自己=自分)に「自己全体の存在範囲」(自分が今存在している生活世界の範囲)を示す活(はたら)きをする。そして黄身は,示された生活世界に存在するための適切な位置を発見する。
ある意味,接触しあった白身を,社会的距離と捉えた瞬間,自分との隔てに変わる。そうではない,そこにこそ,自分が自分である場なのだと捉えると,それは,自分の外延に変わる。
それは,確かに,電車の中では無理かもしれないが,そう考えた瞬間,人が自己完結している限り,防御力が劣る理由が見える。人の防御力は,体内のほかにもうひとつ,自分の外に,人との接点に,接触しあった白身のつくり出す「場」があるということを,ついつい忘れてしまう。
人は社会的動物なのだ。
参考文献;
多田 富雄『免疫の意味論 』(青土社)
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『場の思想』(東京大学出版会)
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「三十六計逃げるに如かず」。いわばあれこれ無駄に評定するくらいなら,ともかく逃げて後の計画を立てたほうがいいと言う。
第三十六計目は,「走為上」(逃ぐるを上と為す)であるという。
言わば,負けるが勝ちである。孫子の兵法にも,「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるもの」とある。織田信長というひとは,逃げるとか,卑怯とか,弱みとか,残虐とかということに先入観のない珍しい人物で,朝倉攻めの最中,後背を浅井氏の裏切りで閉ざされると,全軍に撤兵を指示して,さっさと一騎で京へ逃げ帰った。そういえば,黒澤明の『隠し砦の三悪人』では,藤田進演じる何某という武将が,「裏切りご免」と,寝返ったが,これも,いつの頃からかマイナスイメージに転じた。
「逃げる」をマイナスに捉えたのは,いつからだろう。平和になり,かえって武士というもののありようが問われるようになった江戸時代中期以降か。大体,サムライでないものが,サムライ精神を言挙げすると,いつも勇ましくなる。山形有朋の軍人勅諭の,
軍人は武勇を尚ぶべし
なんぞは,普通の人間に,鍛錬したサムライと同じにせよと言っているようなもので,もともと無理がある。どうもそういう軍隊は弱い。どだい,本当のサムライは,自分のことをサムライとは言わない。誰かが日向に傘を差すような振る舞いはせぬものと言っていたが,サムライの看板を背負って歩くような奴は,見かけ倒しと相場が決まっている。サムライでないものの方が,強くサムライを意識する。土方歳三や近藤勇などはその例だ。
生きて虜囚の辱はずかしめを受けず,死して罪禍の汚名を残すこと勿なかれ
ということを戦陣訓にしたのが誰かは知らないが,これを示達した東條英機のような器量の小さいものほど言いたがる。そういえば,逃げるのを非難する向きは,高みの見物している奴か,旗だけ振って後ろからけしかける政治家や評論家と相場が決まっている。自分は前線に出ないとわかっているからだ。まずは勇ましいことを言うやつを前線に出してみることだ。
大体が,
人に備わらんことを求る勿れ
という。小人ほど,人に完全を求める。
尖閣でけしかけた何たらという前都知事は,政治家なら,まずはおのれが直接中国に乗り込んで見せよ。それからかっこいいことを言え,と若手(もうそうでもないか)の新右翼の論客にすら後ろ指さされていた。彼はいつも安全なところから人をけしかける,と。
安全地帯で旗を振る輩ほど勇ましい。
そういう輩に利いた風な口をきかせてはならない。
暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり,必ずや事に臨みて懼れ,謀を好みて成さん者なり,
と孔子の言うとおりである。大体そういうのは,猪武者といってもサムライとしても下の下である。
戦争を政治の手段に位置づけたのは『戦争論』のクラウゼヴィッツだが,そもそも戦いになったら,政治の失敗なのである。勝利が目的なら,戦うことのみを目的化するのは意味がない。勝つために何をすべきかだけが大事なのである。勝つことを徹底すれば,いかに素早く逃げて,次に備えるかが肝心となる。
負けるが勝ちとは,事態の正確な把握を必要とする。危機は危機と認識できるとは限らないと同様,敗北が敗北と認識できるとは限らない。しかし,それは戦いの前に,戦いの目的を見失っているのに等しいのではあるまいか。
戦いは,目的があってはじめたはずだ。とすれば,少なくとも勝てないまでも,負けない戦をしなければ,何のために戦いを始めたのかがわからない。そもそもそこで,既にリーダーシップが欠けているとしか言えないのだ。勝つために何をすべきか。彼我の戦力差の認識と戦いの状況の正確な把握である。
寡兵で敵に戦うために,背水の陣をひく。かつてカストロは,退路を断つために,上陸してきた船を叩き壊した。漢の韓信は,一万兵で二十万の敵に対するのに,河を背にして布陣し,逃げ場をなくして必死で戦い,背後に回った味方の挟撃の時を稼いだ。これも,自らを追い詰めるという決断であって,そこには彼我の差の正確な自己認知があるからだ。
西夏に備えていた宋の武将の配下五千名が反乱を起こして,西夏へ逃亡したことがあった。部下の将軍たちが慌てる中,泰然自若として,「かれらはわしの命令で行動した」から騒がなくていいとのんびりした口調で語ったという。それが,西夏に疑心暗鬼を引き起こし,逃げ込んだ五千名を殺させたという。騒いだところで,兵が戻ってくるわけではない。その事態を正確につかめば,何をすればいいかは,明白だ。何もなかったようにしているしかない。
野村克也氏に,「勝ちに不思議の勝ちあり,負けに不思議の負けなし」という名言がある。それはここでも正しいようだ。
いやいや,話が勝ち負けに流れた。言いたいことは,「負ける」でも「逃げる」でも,それに価値観を当てはめると,ろくなことはないということだ。
ただ,逃げると避けるは違うように思う。
逃げるはその場を捨てる,去る。避けるは,やり過ごす。その場にとどまる選択肢といっていい。だから,避けるには決断はいらない。しかし,逃げるは決断がいる。決断がいるということは,覚悟がいるということだ。
何から(何を)逃げるのか。
その人か,
そのモノか,
その場所か,
そのときか,
その位置か,
その役割か,
その立場か,
自分からか,
自分の執着からか,
まあ何にしたところで,逃げるには逃げる理由がある。黒澤明のように,徴兵を逃れた人間は,徴兵忌避ではなく,徴兵回避であって,大した決断はいらない。だから覚悟が決まっていない。
逃げるというのは,実は戦場では最も危険である。したがってその場に留まって敵を防ぐ殿軍は,決死である。だから猪武者より,思慮と器量と度量がいる。決断といい,覚悟と言ったのはその意味だ。
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死ぬ瞬間,自分が身体から剥離して,部屋を俯瞰する位置で,自分を取り巻く人々の様子を見る,という。死んだ人間は語らないので,真偽は知らない。
あるいは,死ぬ一瞬に,一生分を,フィルムのラッシュのように,眼前を流れていくのだという。これも,真偽は知らない。
僕は前にも書いたが,三度ほど死にかけたが,一番鮮明に覚えているのは,小学校の二,三年の時,川で泳いでいて,深みにはまり,泳げないので,川底へ沈み,そこから,川水をレンズのように通して,青空を見ていた。
そのときの心境をよく覚えていないが,なぜかじたばたしていた記憶がない,というか,したばたした後,力尽きて川底へ沈んだのか,そのあたり全く覚えていず,川底から流れる水にきらきらとさざめく青空を眺めている記憶しかない。
だから,誰に助けられたのかも,どうやって救ってもらったのかも,ほぼ記憶から消えている。そのときは,覚えていたのかもしれない。口から水を吐き出しながら,耳の水が気になって,熱い石を探していた記憶がかすかにある。
人はどうして大事なことを覚えていないのだろう。
幼稚園児の時,悪ふざけしながら,後ろ向きで階段を下りていた記憶があり,その後途切れて,ダンプの車体の下に仰向けになっている自分の記憶になっている。それを目撃されていた保母さんが,まだご存命で,母の死後お手紙をいただいたが,タクシーだと記憶しておられる。僕の記憶ではダンプかトラックのような,車高の高い車なのだが,記憶が違っている。
いずれにしろ,自分は,この場合も,轢かれる瞬間は覚えていない。気づくと,車体の下にいた,という記憶しかない。
ここからは想像なので,どうでもいいのだが,その断裂した記憶,というか記憶の隙間というかは死と直通しているような気がする。
気づくと死んでいる,
のと,
気づくと車の下にいる,
のとの違いは,ほんのわずか,紙一重なのではないか。
そのわずかの差,その深い深淵をひと飛びするところを,意識が追い続けていられるのかどうかが,ちょっと疑わしい。
眠りに落ちるのと,
死んで行くのと,
の差は,その一瞬を,どちらに渡るかでしかないが,本人にだってわからないような気がする。
眠るように死んでいった母のことを思い出すと,確かにつむった眼が動いていて,レム睡眠らしいと思うのだが,ほんの一瞬後,気づくと,それが止まっていて,あわてた記憶がある。
本人だって,あるいは,どこまでか夢で,夢を見ているつもりになっているうちに,フェードアウトして,その先は,真っ暗の闇なのかどうか,そのことを気づいているかどうかも,いまは確かめようはない。
意識の空白というのは,よく不注意の問題で起きるが,人は一点をじっと集中してみていられるわけではない。
僕は先だって,カメラでモノを撮っていて,後ずさりしているうちに,何かに引っかかって,転倒したが,その間の何秒かが意識から飛んで,気づくと,カメラのレンズが吹っ飛んでいて,あおむけに転んでいる自分に気づいた。それからしばらくして,脚の痛みに気づき,脛をすりむいていることに意識が向いた。
そう,この意識の飛んでいる一瞬の間隙が,生と死の間隙に思えてならない。
変な言い方だが,
気づくと,転がっている自分がいる,
というのと,
気づくと,死んでいる自分がいる(と気づくことがあるかどうかはわからないが)
とは,紙一重なのではないか,ということなのだ。
その意識の空白部分に,運否天賦がある,といえば言えるのかもしれない。
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悲しみという言葉で,瞬間に思い出すのは,中原中也の,
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
だが,この詩には,どこかベルレーヌの,というか,堀口大学のベルレーヌの訳詩のにほひがある。
巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん?
このセンチメンタルな悲しみは,悲しみというより愁い,メランコリーというのに近いのではないか。
因みに,「悲」は,「哀」とともに,いわゆる悲しみで,
悲は,喜の反対。痛なり。
哀は,楽の反対。あわれがりて,深く悲しむ。哀悼と用いる。哀は痛みの声に現れるもの。悼は痛みの心に存する。
とある。「悲」(痛み)の声に現れるのを「哀」というとある。
つまり,悲しみは痛みに通ずるらしいのだ。
痛は,身に痛みある如く悲哀を感ずることが切である,
傷は,傷心とは心を破り,損なう如く,強く痛み悲しむ,
悼は,人の死を悲しむ,
隠は,惻隠,心をそこより見ていられぬほどに痛む,
とある。こう見ると,ふたつの詩のメランコリックな悲しみは,悲しみとは異質だということがわかる。そうすると,それは哀愁というときの,「愁」に近いのではないか。
そこでまた漢字を比べてみると,
愁は,物寂しく,浮かぬ状態,
憂は,心のなかに苦労する,
患は,病や災難を苦にする,
憂は,内を主とし,患は,外を主とし,内憂外患と使う。
せいぜい哀愁という感じか。結局言語化するというのは,ある程度丸める,抽象度を上げないと,伝わるレベルにならない。そうなると,微妙な差が消えて行く。悲しみということに含まれる感傷なのか悲哀なのか憂愁なのかは,伝わりにくくなる。
しかしどんな感情も,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わる,という。残るのは気分だ。それは,そういう気分を選択している,ということになる。
それがセンチメンタルであれ,メランコリックであれ,自分がそういう気分に浸ることで,何かを味わっているのか,何かから逃げているのか,何かを避けているのか,ともかく,そうすることを選んでいる。
しかしどうも悲しみは少し違う。もっと深い何かのような気がする。
無疵なこころが何處にある
とか,
もとより希望があるものか
立ち直る筋もあるものか
というランボーの詩句を思い出すと,ふいに,ダイナマイトを巻きつけたジャン・ポール・ベルモンドがあわててダイナマイトの導火線を消そうとする滑稽なというか悲惨なというべきか,シーンが思い浮かぶ。ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』のラストだ。爆発をずっと引くと,海に沈む太陽が映し出され,
また見付かった,
何が,永遠が,
海と溶け合う太陽が。
というランボーの詩句が被さる。
悲しみは,あるいは無力感と似ている。どうしても自分ではコントロールできないものに押し流される辛さと切なさとがある。ヒトの死も,ヒトの蒙る災害も,しかしそれよりなにより,自分自身の定めについて,どうにもならない巨大な奔流からまぬがれないというような無力感なのではないか。
だから,それは,喜や楽の反対というのも違うような気がする。顔淵の死で,孔子が,
天予(われ)を喪(ほろ)ぼせり
と嘆く痛切さが最も近い。いや,おのれ自身を,
鳳凰至らず,河図(かと)を出ださず,吾巳(や)んぬるかな
と嘆く悲しみの方が深い。おのれに瑞祥はあらわれず,僥倖も望めず,不世出のおのが才を生かす場のないまま,死期に近づく孔子の絶望が,本当の意味で悲しみを表している。
フランソワーズ・サガンの小説『悲しみよこんにちは』は,Bonjour Tristesseだが,その悲しみは,孔子のそれ,ランボーのそれに比べると,単なる憂愁というニュアンスが勝るようにしかみえない。
参考文献;
簡野 道明『字源』(角川書店)
ランボオ『地獄の季節』(小林秀雄訳 岩波文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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あお(青)を辞書(『広辞苑』)でひくと,
「一説に,古代日本では,固有の色名としては,アカ,クロ,シロ,アオがあるのみで,それは,明・暗・顕・漠を原義とするという。本来は,灰色がかった白色を言うらしい。」
とある。そのため,「青」の範囲は広く,
晴れ渡った空のような色,
緑色,
青毛の略。馬一般にも言う。
若い,未熟の意,
とある。語源を見ると,
「アオカ(明らか)」
が語源どあろうとされている,と言う。で,
「明るい空,明るい海,生き生きとした山や森の木々の明るい色」をアオといったとする。だから,藍から,緑まで,意味が広い。
「藍から染めた明るい色が,さまざまあるのも同源のアオと言われるのもうなずかれる」
と。「藍」は,
アイ染めの染料(藍玉)から多くのアオ色が染め出される」
が,この幅のことを言っているのであろう。『古語辞典』をみると,
「藍と同源」
とあり,青と藍と緑の使い分けが気になってくる。「みどり」を辞書(『広辞苑』)でひくと,
緑・翠
とあて,
「ミドが語幹で,『瑞々(みずみず)し』のミヅと関係があるか」
と,「?」で留められている。意味は,
草木の新芽,また,書架の若葉,
青と黄の間色,草木の葉のような色,
とある。語源は,『大言海』は,
「翠鳥色(そびどりいろ)の略転かと云ふ,或いは水色の略転か」
とあいまい。語源的には,
「水+トオル(通・透)の連用形」で,緑の字を当て,木の花などが,水に濡れているようなミズミズシサをミドリといったのが語源。洗い髪のみずみずしさを緑の黒髪,みずみずしいミドリゴ,みずみずしい松の若葉のミドリ,楓の若葉を下から見上げて透き通るようなミドリ,等々。
と,もう一つ説があって,『大言海』の言う,
「カワセミの古語,ソニドリ,ソミドリ」から来たとして,翡翠の字をミドリに当てる。どうやら,見ている対象から来ているのだから,言葉としては,「アオ(あを)」しかなく,それを,漢字で当てていくことで,微妙に意味が分化していった,というところだろうか。
「青」という字は,
「生(青い草の芽生え)+丼(井戸の中の清水のたまったさま)」で,青草や清水のような澄み切ったあおいろ,
を指し,
「緑がかったあお,黒みがかったあおなど,けがれなくすみきったかんじのするあおを青という」
とある。対になるのは,丹(あか)である。
「翠」という字は,
「ちいさい,よけいな成分を去って,小さくしめる」という含意で,体の小さく締まった小鳥のこと,汚れを去った純粋な色」
という意味で,
「よごれのないみどりの羽,翡翠(水辺にすむ小鳥の名。全員に青緑色の美しい羽毛をもつ。カワセミのこと。雄を翡,雌を翠という)。
とある。
「緑」という字は,
「彔」(ろく)は,竹や木の皮をはいで,皮が点々と散るさま。「緑」は,皮を剥いだ青竹のように緑色に染めた糸,
を指す。で,
「青竹や草の色で,青と黄との中間色。またみずみずしくて深い感じの色。」
とある。
いつもこうやって調べて思うが,和語は,漢字なしで,言葉の微妙なニュアンスの使い分けでできない言語だと痛感する。「あお」の代名詞のような,藍自体,古く中国から輸入した。その意味で,
もっている言葉によって見える世界が違う,
というのにならうなら,漢字なしに,見える世界,つまり日本的なもの自体が存在しないのだ,とつくづく思い知らされる。
情報とは差異である,
と言う。「あを」といったいた時代,差異がない。漢字に当てて,初めて差異が見えてきた,ということなのだろう。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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あかとは,
赤
のことだが,辞書(『広辞苑』)によると,
「一説に,『くろ(暗)』の対で,原義は明の意と言う」
とある。で,
血のような色,緋色・紅色・朱色,茶色などの総称,
赤と関係の深いもの,例えば,赤児(あかご),小豆(あずき),銅(あかがね)等々の略称
名詞の上に付けて,まったくの,すかり,明らかなの意をあらわす。赤はだか,赤恥,赤の他人
等々の意味が載る。ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4
には,
「"赤"(あか、紅、朱、丹)は色のひとつで、熟したイチゴや血液のような色の総称。JIS規格では基本色名の一つ。国際照明委員会 (CIE) は700 nm
の波長をRGB表色系においてR(赤)と規定している。赤より波長の長い光を赤外線と呼ぶが、様々な表色系などにおける赤の波長とは間接的にしか関係ない。語源は「明(アカ)るい」に通じるとされる。『朱・緋(あけ)』の表記が用いられることもある。赤色(セキショク、あかいろ)は赤の同義語。」
と載り,赤,紅,朱,緋を次のように区別している。
「赤という基本色名には、多くの固有色名が含まれる。比較的橙色に近いものから、
紫に近い色合いのものまで、また広くは茶色なども赤と総称される。茜色やカーマイン、アッシュローズ等も赤の範疇である。また、明るく彩度の低い桃色やピンクなども赤の一種と捉えられることが多い。」
「赤の色名として、紅(べに、くれない)の表記が用いられることがある。『赤』は単独で“red”を表すのに対して、他の色と対置するときに「紅」とすることが多い。熟語で「紅色(こうしょく)」と読む場合もこの意味である。たとえば『紅白』『紅紫』などがその例である。この意味では紅(くれない)もまた基本色名としての役割を担うことがある。ただし紅(べに)、紅色(べにいろ)と表記した場合にはベニバナ由来の色素に基づく色であることが強く意識され、より固有色名的な意味合いを持つ。」
「丹(タン)が色を名指すときは赭土(シャド)、赤土の色の意味である。赭土の主たる発色成分は三酸化二鉄である。黄土(;主要発色成分:水和酸化鉄)や緑土も焼成すれば丹色になる。なお、鶴の一種タンチョウの和名は、頭頂部(頂)が赤い(丹)ことに由来する。」
「朱(シュ)は、硫化水銀によるの赤色顔料辰砂の意味を持つ。硫化水銀による朱(辰砂・朱砂)には、例えば『黄口』や『青口』があり、色料
朱の範囲は比較的幅があると考えてよい。」
「緋(ヒ)は、濃く明るい赤色を指す。緋は緋色に染め付ける染料のみではなく、緋色に染め付けられた糸や絹の色も指すことがしばしば強調されることからも分かるように、染色によって現れる染色とも強く関わる。緋の英語訳として使われるscarlet(スカーレット)にも同様の傾向がある。」
つまり,すべて,「赤」を意味する語である。
赤の語源について,『大言海』は,
「赤(アケ)の転(竹(たけ),タカ。酒(さけ),サカ)」
と,転じた例を挙げている。『語源由来辞典』によると,
「赤(アカ)は,『明』が語源で,暗・黒(クラ・クロ)が,これに対する語です。したがって,狭い,色相としての,アカを示す言葉ではなく,広く,血の色,顔色,明け方の空の色,紅葉,朱色,ピンクに近い紅梅の色など,ずいぶん広い色合いを指した言葉」
とある。ある意味,暗さに対する明るさ,という二分の中に納まる,という意味で,幅広く,色ではなく,明るさを指していたのではないか,と思う。辞書(『広辞苑』)には,「黒」について,
「『くら(暗)』と同源か。またくり(涅)と同源とも」
とある。「涅」とは,水底に沈んだ黒い土,涅色を指す。ここでも,明暗である。
あお
で触れたように,和語には,
「古代日本では,固有の色名としては,アカ,クロ,シロ,アオがあるのみで,それは,明・暗・顕・漠を原義とするという。」
という意味で,明確な色の識別を,言葉として持っていなかった,らしいである。ヴィトゲンシュタインではないが,
人は,持っている言葉によって見える世界が違う,
という。その意味では,色の世界が貧弱だったのではないか。ある意味,
赤
紅
緋
朱
という言葉を手に入れて,そういう色を識別できるようになった,という気がする。因みに,「赤」という字は,
「大+火」
で,大きく燃えあがった火の色,を指す。「朱」は,
「木+一印」
で,木の中央を一線でたち切ることを示す。つまり,切株を示す,株の原字。切株の木質部のあかい色をいうのに転用された,とある。「紅」は,
もと白地を茜(あかね草)の染め汁にさっとつけた色,訓の「くれなゐ」は「呉(くれ)の藍」で,中国から来た染料の意,
とある。「緋」は,
「非」は,羽が左と右と逆にそむいたさま。緋は,ぱっと左右の開ける感じ,つまり目のさめるような感じをあたえる意図や布の色,
を示す。漢字では,赤系の色を示す字をこう使い分ける。
「赤」は,火(あるいは太陽)の赤く燃える色。きらきらとあかきなり。
「紅」は,植物性の染料のあかさ。桃色なり。
「丹」は,丹砂の色なり。大赤なり。
「茜」は,夕焼け空の赤い色
「絳」は,深紅の色。大赤色なり。
「緋」は,染料によって染められた繊維のあかさ。目のさめるような鮮やかな赤色。深紅色なり。
別に,
朱,丹,赭は,鉱物起源のあかさ。
「丹」は水銀の化合物、
「赭」は鉄の化合物、
「赬」は,魚など動物のあかさ、
とも。
この複雑な色を,漢字と共に,具体的な染料として,実地に学んできたらしいのである。われわれは,色すら中国から学んだ。それを忘れてはならない。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
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「うんともすんとも」は,
「うんともすんとも言わない」
という使い方をする。辞書(『広辞苑』)には,
「『すん』は『うん』の語呂にあわせたもの,下に否定の語を伴う」
として,
ほんの一言も,
まったく言葉をいった来ないことをいう,
とある。「うんともすっとも」とも言うらしい。因みに,「うん」は,『大言海』には,
「諾(ウ)の音便化」
とあり,
「肯(ウケガ)ふ意を表す」
とあり(因みに,「肯ふ」とは,相手の言うところを受けて,こちらの賛意を伝えること),辞書(『広辞苑』)には,
承諾・肯定の意をあらわす声。「はい」よりぞんざいで,親しい間柄で用いる。思い出したときの声,
とある。そのほか,気絶する時やくるしい時などに発したり,力を込める時の,いきむ声,といった鼻息の音や唸り声を表す擬態語として用いる。その意味では,「すん」も鼻から出す音で,その意味では,「うんもすんも」は,ただ一言も言わないだけではなく,生きさえ発しない,つまり,
音沙汰ない,
というニュアンスが込められている。
「うんともすんとも」の語源は,
「『ウン』(返事)という最低の返事もしないです。スンは語呂合わせで,『トモ』をつけて対応させた語」
とある。で,
ポルトガル語の「um(一)ともsumo(最高)を語源とする説は,ウンスンカルタの流行時とはいえ,意味的に疑問」
とする。『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/u/untomosuntomo.html
も,ウンスンカルタ説を退けるが,こう説明する。
「ウンスンカルタとは,元禄の終り頃に考案されたもので,…天正カルタにおされて消えて行ったことから,『うんともすんとも言わなくなった』と言う語源説である。ウンスンカルタは天正カルタから派生して,この説では時代関係が前後している。」
ウンスンカルタは,
「パオ(こん棒、クラブの原型)、イス(剣、スペードの原型)、コツ(聖杯、ハートの原型)、オウル(貨幣、ダイヤの原型)、グル(巴紋)の5種類のカードが15枚ずつの計75枚で、種類ごとに1〜9の数札とスン(唐人)やウン(七福神)など6枚の絵札があります。ポルトガルから伝わったカルタを日本風にアレンジしたものである。」
で,裏には金泥(きんでい)を塗って美しく仕上げられている,という。
http://washimo-web.jp/Trip/Unsun/unsun.htm
http://www.kyuhaku.jp/museum/museum_info04-07.html
に詳しいが,不思議なことに,
日本中でただ一ヶ所、人吉・球磨地方にだけにこの遊びが残り,今日まで伝えられている,
と言われる。
「うんともすんとも」の語源については,
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000134786
一覧化しているが,
近世の苦しい時のうなり声であった「うんすん」に由来(『暮らしのことば語源辞典』より),
承諾の声または苦しい時のうなり声であった「ウン」は中世からあり、ウンスンの形で苦しいときのうなり,
近世の苦しい時のうなり声であった「うんすん」に由来,
鼻から出す声と息の音という説,
という,声さえ出ない,という説があることを伝えている。しかし,「うん」というのは,音沙汰がない,という意味で,
「うんだともつぶれたともいわぬ」(「膿んだとも潰れたとも」と当てる場合もあるが)
「うんだものがつぶれたともいわぬ」
という言い方をするときの,「うん」と同類で,やはり,
「うん」は肯定の応答詞で,肯定とも否定とも言わないということを語呂合わせして「すんとも」とした,
「すん」は「うん」に語呂を合わせて何も発言のないことを強調するためにつけられたもの,
というのが妥当なようだし,自然だろう。それにしても,語源を探る屁理屈自体が,語呂合わせになっているところが面白い。
参考文献;
http://gogen-allguide.com/u/untomosuntomo.html
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000134786
http://www.kyuhaku.jp/museum/museum_info04-07.html
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横井小楠,沼山津へ転居後,沼山とも称した。僕はこの号が好きだ。
小楠は,二度,日本を大回転させるべき機会で,狭量なるテロリズムによって,その行く手を遮られた。一度は,同じ熊本藩の勤王党によって襲撃を受け,二度目は,新政府に招かれたところで暗殺された,尊攘派志士によって。
小楠の有名な詩(二人の甥を龍馬に託して洋行させる折送った送別の詩)
堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富国に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ
には,小楠の理想が託されている。小楠は,本気だったのである。松浦は,こう説明する。
異文化の巨大な圧力にさらされていた19世紀の小楠にとっては,堯瞬3代を読み替え,自分をそれに一致させてヨーロッパの「事業の学」に対抗することで精一杯だったのであり,…「事業の学」の内面にまで切り込まなかった小楠においては,西洋の技術は,導入すればよいものとしてとらえられる。劣位の学として輸入し,優位の学である小楠の心徳の学に組み入れ,後は逆にこちらから影響を与える…
福沢諭吉あたりの腰軽な和魂洋才とは,その気組みが全く違う。「大義を四海に布かんのみ」は,本気なのである。
人君なんすれぞ天職なる
天に代わりて百姓を治ればなり
天徳の人に非らざるよりは
何を以って天命に愜(かなわ)ん
堯の舜を巽(えら)ぶ所以
是れ真に大聖たり
迂儒此の理に暗く
之を以って聖人病めりとなす
嗟乎血統論
是れ豈天理に順ならんや
という小楠の詩も,
武家政権と儒教との近世二百数十年にわたるなれあい関係に終止符を打って,幕藩体制を百パーセント儒教主義に読み替え,読み替えたとおりの政治を本気で実現しようとしていた小楠の本心と見ることができる。すなわち,そこにあるのは,儒教の,革命論である。将軍や藩主の世襲原理の否定である(当然その論理の延長線上には必然的に天皇も来る)。
松浦玲は,その小楠伝の最後を,こう締めくくっている。
小楠は,最後まで儒学者であり,その儒学的理想を日本に実現し,世界に拡げようと念願し続ける政治家であった。小楠をここまで追跡してきた私には,彼の理想が,実現不可能な空想だとは思えない。多年講学し続け,その上,越前藩や幕府での実践を経た,ずっしり手ごたえのある思想だと感じられる。むろん小楠自身もそう自負していた。明治元年の廟堂では,おそらく彼一人が,自分を中心として世界に仁義の大道を敷くというほどの大構想を持ち,それを本気で実現するつもりだったのである。
暗殺は,その大構想を,まだ実現の緒にもつかないうちに絶ち切ってしまった。
しかし,世の中には,そうは思わない人がいて,神風連の源流,林櫻園を対比しながら,渡辺京二はいう。
(堯舜孔子の道を明らかにし云々の詩は)櫻園にいわせればこれはとほうもない誇大妄想というものであったろう。ヨーロッパ文明との接触はそれから「器械の術」だけをいただけばいいようなものではなく,小楠にとっての「大義」すなわち「堯瞬孔子の道」を必然的に崩壊させずにすまぬことを,彼はおそらく洞察していた…
という。こういうのを読んで,何の血も流さず,引き籠って冷ややかに評論を垂れる輩と思う。それはこれを書く著者渡辺京二も同じだ。蟹はおのれに似せて穴を掘る。
櫻園は畳の上で,大往生し,小楠は,今日の路地で,脇差が刃こぼれするほどに戦って,首を刈られた。
僕には,こういう人たちが,途方もない壮大な構想の足を,いまも昔も引っ張り続けているとしか思えない。
小楠は言う,
既に衆と正義を非とすれば
天理何れの処にか求む
一たび和同の意を生ずれば,
忽ち子莫の舟に乗ぜん
と。「子莫の舟に乗る」つまり中を取るだけはしない。
人必死の地に入れば 心必ず決す
天地仁義にもとづいて信義を貫く
とも。これが小楠の生涯を懸けた軸であった。
ところで,小楠の『学校問答書』『兵法問答書』を高杉晋作が筆写しており,編集者はそれを知らないまま,高杉の著作と思い込み,高杉晋作全集に高杉の著作物として載せられたというエピソードは,高杉が,福井藩での小楠の成果を見に行って,長州へ招こうとしたという逸話とともに,記憶されてよい。
参考文献;
松浦玲『横井小楠』(ちくま学芸文庫)
渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社)
野口宗親『横井小楠漢詩文全釈』(熊本出版文化会館)
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イマジネーションは空想ではない。だから,現実体験(知識やテレビ・映画の疑似体験も含めて)がなければ,豊かにはならない。もちろん体験すればいいというものではないが,現実を自分の体験として味わったことのないものには,想像力は醸成されない。
ところで,サルトルは,イマージュ(像)の現象学的特徴を4つ挙げている。
第一は,イマージュは意識である。イマージュは意識の対象物への関係,言い換えると。それが意識に現れる,現れ方,関係に他ならない。自分が坐っている椅子を知覚するにしろ,想像するにせよ,意識は同じ椅子と異なった仕方で関係している。
第二は,知覚において,われわれは対象物を観察する。知覚では,対象物のある側面しか目に入らない。たとえば正六面体の全体像は,他の観点から見るなどして学習するほかない。しかし,イマージュの場合,たとえば正六面体は,初めから正六面体として全貌を表す。逆に言うと,自分があらかじめそのイマージュの中に置いたもの以上のものを決して見出すことはできない。知覚は欺くことがあるが,イマージュは欺かない。それを準観察と呼んでいる。知覚と異なり,何一つ教えることのない観察である。
第三は,知覚はその対象物が現存するものとして措定するが,イマージュは,対象物を非存在として,あるいは不在として,どこか他のところに存在するものとして,あるいはその対象物が現存しないものとして,措定する。知覚が現実に存在する対象物に結びついているのに対して,イマージュは目前現実とは離れた存在せぬものとして与えられる。いかに生き生きしていようとも,それは存在していないものとして与える。
第四は,知覚は受け身のカタチで現れるのに対して,イマージュは想像的意識として,自発的にイマージュを生み出す。
わざわざこんな古臭いことを引用したのは理由がある。想像力は,空想ではない。内的経験でもない。知覚したもの,経験したものからしか,イマージュを作り出すことはできない。
それを,
エピソード記憶
と呼ぶか,
自伝的記憶
と呼ぶかは微妙に違うが,現実の中で生きたこと,読んだこと,見たことしか想像できない。知らないことは想像できない。
イマージュは,この世界の土台の上でのみ,また,この土台と結びついたところでしか現れることができない。それが想像力の条件である。
サルトルはこのように意識によって生きられ把握される現実世界を状況と名づけたが,文脈(コンテキスト)と呼んでもいい。自分の人生という文脈の中で,現実世界を生きたものだけが,自分の(想像力の)コンテンツを持てる。それなしに,想像力はありえない。
昨今,どうしてそういうことをすれば,どういう結果になるかが,想像できなかったのだろう,と多くの人が,多くは大人だが,嘆くような愚かな示威行為が連続した。
しかしそれは彼らのせいではない。
親に代表される社会が,
間違いを許さない,
危険を冒させない,というか危険要因を除いてしまって,防護柵の中での安全しかし許さない,
抗菌・防菌・防臭・無菌の状態の中で,何が危険化はわからない保護状態に置く,
競争条件を取り除きみんな一緒ごっこを強いる,
等々どう見ても,自分の頭で考えなくてはならない状況に身を置いて,自分で必死に考えて切り抜ける経験がつめているとは思えない。
そういう中で育てられるのは,
意味記憶
手続き記憶
だけだ。知識とやり方を,箱庭の中で,いくら覚えても,箱庭は箱庭だ。
想像力は,自分の意識にないものは生み出せないのだ。意識を記憶と置き換えても,リソースと置き換えてもいい。
参考文献;
J・P・サルトル『想像力の問題』(人文書院)
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初めは,「秘める」というテーマで考え始めたが,
秘める恋
秘める思い
秘める志
秘める夢
秘める悪意
秘める怨念
と考えたところで,「しのぶ」を調べていくうちに,
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
わが恋を 人知るらめや しきたへの 枕のみこそ 知らば知るらめ
にいきついて,結局恋のことか,とわれながらあきれた。無粋な野暮天がどの程度語れるか,ちょっと試みる。なんとなく,挫折しそうだが。
恋の心理を少し考えてみたい。なにせ野暮天の言うことだ,あまりあてにはならないが。
僕が思うには,これも,土俵で考えるといい。普通,人は自分の土俵から降りない。だから,人との会話に齟齬が生ずる。同じ土俵を仮に作って,そこで会話しなくては,そのことが共有できる場がない。恋は,それと似ているが,その土俵が共有になっているかどうかは,実はわからない。あばたもえくぼではないが,まずは,
お互いが同じ土俵に乗っているつもりだけかもしれない。
あるいは,
自分の土俵に相手が乗ってくれている,と相互で勝手に思い込んでいるだけかもしれない。
土俵は同じでも,土俵の意味が,そもそも違っているのかもしれない。
自分が思っている土俵に相手が乗っていると思い込むのは,ほぼ片思いに近い。それを事実と信じ込むというか,事実と誤認するとストーカーになる。このあたり,実は結構微妙なのだと気づく。
不思議だか,相手の土俵に自分が乗っている,という気になることは少ない。相手の土俵に乗るとは,ロジャーズの言う,
相手の準拠枠
であることであり,
エリクソンの言う,
相手の枠組みであること
である。つまり,恋とは,共感性ゼロから始まるというか,そもそも恋とは,共感性とは関係なく,おのれの妄想を肥大化させたものなのかもしれない。妄想が言い過ぎなら,思い込みと言ってもいい。
おのれの思い込みの中に生きている。
いやいやストーカーは他人事ではない。
だから,自分の思いでモノを見ているので,相手が見えているものと違うことに,そもそも気づけない。いや,それが事実だと信じて疑わないのだから,事実を見せられても,それが架空にしか見えない。
恋は,はしか,という。
だから一生に一度しかかからない,あるいはだから歳をとってからの恋は,酷いことになる,とも。まして老耄の恋は。やめておけ,醜いだけだ。どうせ野暮天には縁はないが。
しかし,これは恋というより,人との関わりすべてにおいても通じることだ。
所詮人は,自分の土俵を降りないというか,降りられない。
降りているつもりが一番怖い。
「あたかも」とロジャーズが言った意味が強く響く。そういう自覚が不可欠という思いがある。
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「恋」を,ちょっと別の角度,「共振れ」(あるいは「共振れ幻想」)という視点から考えてみたい。まあ,艶っぽいこととは無縁な無粋な人間ではあるが,だからこそ考えてみたい。与謝野晶子,の
柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君
てやつである。
恋と哀れは種ひとつ
ということわざがある。これは違うと直感する。
哀れは上から目線だ。なくはないが,逆かもしれない。下から目線,というと憧れ,あるいは慕うという方が,重なるような気がする。
あるいは,
崇める,
憧れる,
敬う,
という,憧憬や尊崇の目線が,相手と同じ目線になるきっかけのようなものがあるに違いない。まあ,言ってしまえば,勘違いするきっかけ,思い違いするきっかけ,といってもいい。それによって,同じ目線になったと思い込む,あくまで思い込みだが。
しかし考えようによっては,人との関係をいろんな切り口で考えるとき,「恋」を,親しみの極端に振れた時というふうに捉えることができる。人によって,その感情は違うので,共振れというふうに,感情がシンクロするとは限らない。これを共鳴(共鳴り)と言い換えても,同じだ自分が鳴っていても,相手が鳴っているとは限らない。
いやいや,そもそも共振れなどということは,生理的に,たとえば,あくびが伝染するようにあるかもしれないし,同じ映画を観ていて,同じように感情が共振れすることはある。しかし相互の感情や感覚が,共振れすることがあるのか,というと,どうも,幻想以外には難しい,という気がする。
少しひねくれているのかもしれない。
人は,自分の観ている現実が,その感覚が,人も同じだと思いがちだが,全く別だ。現象学的に言えば,人は,結局自分の幻想のなかに生きている。だが,人は自分の物語を生きる。
とすれば,その物語を共有するには,
よほどミラーニューロンが発達していて,鋭く察することができるか,(いやいやそれだって,ただ自分が察しているのは察しているつもりになっているだけの自分の幻想かもしれない),
心がシンクロしているという幻想を現実と思い込めるほどの思い込みの強さか,
相手の振る舞いとのシンクロさせる(つもりな)のが巧みであるのか,
相手と一緒の土俵の上にいるつもりになっているのか,
相手も自分にシンクロしていると思い込んで揺らがないトンネルビジョンに入り込んでいるのか,
いずれにしても,独りよがりでしかない。もし,相手が,両手で近づくのを突っ張っているのに,それが見えないか,それを見ないか,それは見間違いと思いこみ,あるいは相手が勘違いしていると思い込み,それを踏み越えて行けば,ストーカーになる。
しかし,そうした人との関係は,何も恋愛という関わり方だけとは限らない。
だから人との関係は難しい。
ただ,一つの結論を持っている。
「物語」は共有できる。しかし,その物語に感じた感情や,その物語に仮託した思い,その物語にイメージした世界は共有できない。
だから,物語がたぶん,共振れのキーなのかもしれない。
ひとつの物語を共有できれば,それぞれの思いと感情は微妙に違っても,一緒いることかできる。
人の認知形式,思考形式には,
論理・実証モード(Paradigmatic Mode)
と
ストーリーモード(Narrative Mode)
がある。前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。
ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。
物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。
思いと感情は齟齬があっても,意味を共有化するというのは,もはや恋ではない。したがって,恋には,意味はいらない。共振れの幻想のみが必要なのだ。
恋は思案のほか
とはまさにそのことだろう。
たしか,ロジャーズは,
クライアントの私的世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取る,
といったが,ただしこう付け加えるのを忘れていない。
あたかも〜のように(as if)という性質を失わないこと,
と。この制約を自覚しない共感は,共振れ幻想に過ぎない。それは恋とその極限であるストーカーに近い,というと言いすぎか?
参考文献;
ドナルド・A・ノーマン『人を賢くする道具』(新曜社)
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凹むで落ち込んだところから,どう立ち直るのだろう。
例えば,
お酒を痛飲する
激しい恋をする
やけくそになる
人に愚痴を言う
楽しいことをする
すべてを忘れて旅に出る
何もせず陰々滅々になりきる
黙ってひたすら寝る
しかし僕は何もしない。しくじった,叱責された,人から激しい非難を浴びた,失恋した,裏切られた等々,どの場合も,落ち込みながら,脱出方法,打開策の選択肢が浮かんでいる。
これについては,「パニック」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba3.htm#%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF)でも書いたが,
人の脳は,はるかに多くのことを同時並行で進行させているらしい。僕は,しばし落ち込み,悔やみ,激しく懊悩する。しかし同時に,既にどうすべきなのかが,頭に(無意識のこともあるが)答えが浮かんでいることが多い。
次に機会があれば,こうしよう,
あの時の対応は,こういうやり方があった,それを忘れていた,
やったプロセスの,問題点はここだから,そこを手直ししよう,
まあざっとこんな具合に,客観的には,正しい対応策かどうかは知らない。しかし対応策,打開策を考えることが,僕にとっての立ち直りの方法らしいのだ。
それは,凹んで,落ち込んだ自分のリソース側からの,
まだこういう可能性がある,
まだこれだけの手が残っている,
まだやりつくしてはいない,
まだどん詰まりにはない,
という生き残りのエネルギーが湧き上がってきて,支えてくれるらしいのだ。
無論空元気なのかもしれないし,どっちにしたって後の祭りなのかもしれない。しかし,自分の中に対応する手立てとスキルがあることが,落ち込んでいられない,と思わせてくれるらしいのだ。
いってみると,僕は落ち込まず,そこから立ち直る方法,スキル,振る舞いを,自分の中から見つけることで立ち直るという選択をしているらしい。その選択肢を考えることで,落ち込む側面を,落ち込んだ崖下を見ないようにしている,といってもいい。
どんな問題でも,それが解けなくなる時,行き詰まる時は,トンネルビジョンに入っていることが多い。それは,解き方の問題ではなく,問題の設定の仕方なのだ。
だから,
ダメな自分,
という問題の設定をするか,
ダメな自分のどこが問題だったのか,
あるいは,
どうすればよかったのだろうか,
という問題の設定の仕方をするかで,その事態への視界が決まる。一番目は,問題の焦点をあてている。しかも自分自身に焦点が当たる問いになっている。
二番目は,「どこが問題だったか」という問いの立て方の中に,「自分の振る舞い」に焦点が当たる問いになっている。
さらに三番目は,「どうなったら」と,「どうなったら解決したことになるのか」「どういう状態だったらよかったのか」とという問いになっている。。それは,自分そのものでも,自分の振る舞いの問題でもなく,自分の振る舞いの問題解決(状態)を視野に入れる問いになっている
解決を志向すれば,解決が見え,問題を志向すれば,問題が見える。
そういう姿勢を取ることで,立ち直ろうとしている。
いつも,いつもそうできるわけではない。
たとえば,これが失恋のように人との関係の場合は,少し勝手が違い,立ち直れず,時間とともに,忘却していくしかない,というのが普通だが。
それでも,どこかに,心のリソース側が,諦めずに偶然か,僥倖か,まだほんのわずかでも可能性があると思わせるところがあり,こればかりは,ちょっと独り相撲的になる悪癖はあり,とどのつまり自分がかえって追い詰められる可能性があるが…。
まあ何ごとも例外はある…!
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空前のマラソンブームだそうである。昨年ほんのわずか,その一端に触れ,ハーフ完走だけで,リタイアした自分としては,忸怩たるものがあるが,人間の走るについては,少し考えを改める必要があるようだ。
人間の足について,人類学者,アリス・ロバーツは,こう書いている。
わたしたちの体の構造は,人類が長距離走に耐えるように進化してきたことを示唆している。たとえば,腱と靭帯は,エネルギーを貯めて効率よく走れるようになっているが,そのような特性は,毎日走って体を鍛えたりしなくても,わたしたちの体に元々組み込まれているのだ。
自分の足を見てみよう。類人猿にしては…とても変わっている。人類の足は,立って,歩いて,走るためにできている。近い親戚のチンパンジーやゴリラと違って,わたしたちは足でモノをつかむことができない。その代りに,すべての指が一列に並び,足は直立するための土台という,より重要な機能を果たすようになった。また,人類の足にはアーチ構造が見られる。内側の縦のアーチ(土踏まず)と外側の縦のアーチ,そして甲の部分を横切るアーチだ。これらのアーチは,収縮性のある腱と靭帯によって支えられている。走る時,足が地面につくと,腱と靭帯がバネのように伸びてエネルギーを貯め,地面を離れる足にそのエネルギーを戻す。アキレス腱は,筋肉と踵骨をつなぐ太い腱で,やはりバネの役目を果たしている。また,人類の足は長いので,大きな歩幅で歩いたり走ったりできる。
この人間の足の長さは,かなり以前からのようで,
最初のヒト族(ホミニン)はアウストラロピテクス属の猿人で,二本足で歩いていたが,四肢のバランスはチンパンジーに似て,腕が長く,脚が短かった。初期のヒト属(ホモ属)も四肢のバランスはチンパンジーのようだったが,ホモ・エレクトスが登場した180万年前頃には,脚の長い人類が現れはじめた。
そこで,走るのに適したように変化があらわれる。例えば,前傾姿勢が保てるように背筋が発達,脚を後ろに動かすための臀部の筋肉も大きくなる等々。なにより,人間の体には,体毛がほとんどなく,長距離を走っている時に,熱を発散し,桁はずれて多い汗腺による発汗と汗の蒸発によって体温を下げるという,適応がある。
この特徴が,人類を,短距離ではそれほど速く走れないが,長距離では決して他に引けを取らない,霊長類で唯一,走れるようになった種なのだ。
だから,人類学者には,
歩行が基本的で重要な移動方法であるのは確かだが,走ることが人類や祖先にとってどれほど大切な役割を果たしてきたかが見逃されてきた,
とし,
人類の体は,歩き,時には走って長距離を移動するために進化してきた,
考えているものがいるようだ。人類は,その脚力で,出アフリカで,ユーラシアから北極圏,南北アメリカへと移動していったのだ。
しかし,歩いたほうがエネルギーの消費が少なくてすむのに,なぜ,あえて走るようになったのだろうか。
それは,走らなければ生きていけなかったからだ。弓矢のような道具が発明される前,祖先たちは長距離を走って獲物に接近して槍で仕留めるか,あるいは,追い続けることで獲物を疲れさせて捉えていた。走らなければ,大きな動物を捉えることはできなかった。
長距離を走れるようになった遺伝子を子孫につなげてきた。それが,
粘り強いハンターの役に立つ脚と臀部を具えている,
というわけだ。
チーターのような,その瞬発的な力はない代わりに,粘り強く走り続ける持久力が我々の特徴であるなら,それは,精神にももともと備わっているはずなのではないか。
いまも狩りをする,ブッシュマンに同行したアリス・ロバーツは,その長距離ランナーぶりに驚嘆しているが,なにより,日中に狩りをすることが,他の捕食動物やハイエナのような清掃動物とも重ならず,ニッチを獲得したのではないか,と推測している。そこには,人の狩りの仕方がある。真昼間,動物の足跡みつけて,それをたどり,執拗に追跡する。そして夜は,安全な集落に戻る。
持続する脚力は,持続する精神力とセットのはずだ。持続する精神力は,持続できる体力とセットのはずだ。
仮に持久力のある脚力があっても,執拗に追い詰めていく精神力がなければ,途中で投げ出すだろう。つまり,精神の持久力の限界が,脚力の限界になる。その脚力は,精神力とあいまって進化したというべきなのだ。
ほんのわずか走ってみた,つたない経験でも,足が痛かろうが,腹が痛かろうが,それが限界ではない。もうだめ,と思いつ,しかし粘って粘って,自分の中で,あの橋まで,あの電柱まで,と先へ先へと身体を引っ張るのは,精神力だと,つくづく思う。自分がだめ,と思った瞬間,耐えてきた体の痛みが,脚の痛みが,我慢できないほどの痛みとなって,諦めを後押しする。
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僕は,嫉妬というのは,その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する悔しさといっていい。
しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。
自分は,その方向を向いていないのに,その方向にいたいと思う,その矛盾が嫉妬を生む。
羨むというのは,穏やかだが,それは,距離があるからだ。遠い向こうを見ているからだ。その距離が感情を生々しくしない。生臭くしない。
嫉妬は,その距離が微妙だ。その位置にいられそうな,一つ間違うとそこにいたかもしれない,そうなれたかもしれないのにそうなりそこなった,そんな間合いが,悔しさというか,身もだえするような生なまましい悔しさを感じさせる。
その距離は必ずしも物理的なものではない。心理的な近しさ,あるいはほとんど同位置にいると感じさせる(錯覚にしても錯覚するくらいの)親しさがある。それは,勝手な思い込みも含めて,主観的なものだ。
ある意味同類意識なのかもしれない。
もし自分がその位置に,同じところにいるのだとしたら,それは感じるのだろうか。あるかもしれないが別の感情だ。
だからといって,その位置,その立場,その状態を,必ずしも,自分が欲しているのではない。欲していたら,嫉妬よりは,別の反発や奮発といった感情なのではないか。
だから,嫉妬は微妙なのだ。同じ方向を向き,そこを目指しているのではない。にもかかわらず,それを妬む。
そこを目指してもいないが,しかし,
その位置に自分がいないことに,
いやそこにはいられないことに,
あるいは,
いようともしなかったことに,
たまらない悔しさを感じる。しかし決してそこにはいないだろうし,いられもしないだろうことも承知している。まあ,矛盾だといっていい。
その矛盾を強引に突破しようとすると,ストーカーになるしかない。それは,現実ではなく,そこにいようと思えばいられたかもしれない,という幻想を現実に無理やり接続してしまうことだ。本人は,距離をそうやって埋めようとする。しかし物理的な距離を埋めても,心理的な距離は夢とうつつのように隔絶している。埋めようはない。
その絶望に,どこで気づくのだろう。
気づかないのだろうか。
僕は気づいていると思う。気づいているからこそ,現実を強行突破するしかなくなるのだ。
どこで引き返すべきだったのだろう。
嫉妬の一瞬の距離と方向の違いを,それに気づいている自分に気づくべきだったのだろう。気づくのは,つらいことだが。現実の隔絶を前にする時ほどの絶望とは違う。
しかしいつの間にか,嫉妬は憎悪に変わっているのかもしれない。それは,距離を一気に飛び越えていくものだ。距離故の矛盾を,自分にも相手にも盲目に,突き破っていく。激しい憎しみは,感情の肌理を焼き尽くしてしまう。
その一瞬,世界には,自分一人しかいなくなる。
その孤立が,憎しみを募らせる。
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人は経験しているが,日々時間の流れの中で,忘れていく。それでなくても,8時間後には,学んだことの半分ないし,3分の1は忘れていく。
人によっては,とても口では言えないくらいのドラスチックな経験をしたり,すさまじい冒険をしたりしている。
僕は経験が非日常的だから,そこに価値があるとは思わない。所詮非日常は非日常だ。冒険家だって,社会へ復帰すれば,ただ日々食うために生きて行かなくてはならない。
大事なのは,そういう何げない日常の積み重ねだって,経験だということだ。
悩んで底の底まで味わい尽くした人が,必ずしも素晴らしいことを会得したとは思わない。それは,その人が,普通の人なら凹みもしないことに凹んだだけのことだ。凹まない人にとっては,軟弱な悩みに過ぎないかもしれない。
どんな経験も,結局その人にしか役には立たない。その人が自分の経験を生かすも殺すも,それを貴重なリソースにするか単なる過去の思い出にするかは,自分の経験をどうメタ化したかにかかっている。
他人にとってどんな意味も価値もないものでも,自分が生きていく上で,大事なリソースなのだ。
例えば,とことん失恋で悩んだとしよう。しかしそれ事態は,大なり小なり,誰でもが体験することのひとつに過ぎない。その体験から,
何を得たのか,
何を学んだのか,
そこに自分のどういう特徴をみたのか,
(男女に限らず)人との関わりにおいてどういう発見があったのか,
そこで何が大事で,
何に価値があり,
どんな意味があるのか,
等々。そこで必要なのは,「人とは」とか「恋愛とは」とか「男女関係とは」と,一般論を語ることではないし,そこで分別や人生訓を得ることでもない。
人の発想とは,
知識と経験の函数,
という。大事なのは,良かれ悪しかれ,そこに自分のリソースのすべてが出たということだ。人は,経験から類推したり,延長したりして物事を推し量る。それなら,元のメジャーができていることだ。
もっと言えば,イマジネーション自体,その人の意識にないものはイメージできない。
蟹は甲羅に似せて穴を掘る,
という。それは悪い意味ではない。そこにしか自分らしさ,自分の個性,人と違う何かは,ない。
ならば,徹底的に自分らしさを突き詰めていく。それが一番手っ取り早い。
自分は,この世に一人しかいない。という意味は,そういう可能性がある,というだけの,蓋然性を言っている。
自分を掘り下げるとは,自分の経験をメタ化し,それを広げ,掘り下げていくことだ。そこが,
自分になる,
ための,金城湯池なのだから。
人生は,生涯を懸けて,
自分自身になっていく,
そういう舞台なのだ,と思う。いくつになっても,伸び白は残っている。
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人との間合いがよく見えない。たぶん,ぼくが距離を置くと,相手も距離を置く。しかし,僕が間を詰めると,相手が両手で突っ張るように見えた時,僕には,それ以上踏み込む気がなくなる。
人との関係の難しさが,いい歳になっても,身に染みる。
これは立ち会いと同じだと思う。本来真剣勝負なのだ。宮本武蔵は言う。
敵をうつ拍子に,一拍子といって,彼我ともに太刀の届くほどの位置を取り,敵の心組みができない前に,自分の身も動かさず,心も動かさず,すばやく一気に打つ拍子である。敵が,太刀を引こう,外そう,打とうなどという心組みが決まらないうちに打つ拍子,これが一拍子である,
という。武蔵の本を見ると(剣の心得がないので勝手読みだが)意外と間合い外しをやる。
敵よりも素早く,構える間もなく,敵の懐に入り込んで,敵に全身を寄せてしまうという,秋猴の身という技もある。あるいは,敵のまぎわに入り込み,体ごと敵にぶつかる,というのもある。また,相手に身を密着させて離れない,漆膠という身の置き方もある。
こういう間合い崩しは,ふつう腰が引けたり,手だけで接近したりする。その恐怖をかなぐり捨てて,敵に飛び込むというのは,おそらく,相手は想定していない。そういう間合い崩しは,小手先の技とは異なり,全身でぶつかる,というのに近い。
人との間合いで,妨げになるのは,身をかばう防衛心なのかもしれない。庇うことが,かえって,距離を遠ざける。
多敵のくらいというのがある。一人で大勢と対峙する場合,全体を見てしまう。しかし,
どの敵が先に,どの敵が後にかかってくるか,その気配を見抜いて,先にかかってくるものとまず戦う,
という。結局,一対一なのだ,と言っている。
同じ趣旨のことを,宗矩も言っていて,
立ち会うやいなや,一念にかけてきびしく切ってかかり,先の太刀を入れんとかかる,
と,先んじて打ち込むことを言っているが,もう少し踏み込んで,
一太刀打って,打ったぞと思うと,その打ったと思う心がそのままそこに留まる…。打ったところを,心が元に戻らないため,一瞬,心が空白状態になり二の太刀を敵に打たれて,先手を取ったことが無になる,
と。これを,心を返す,という。
心を返すとは,一太刀打ったら,打ったところに心を置かず,すぐに心を戻して敵の気色をみよ,という。
機先を制したと,得意になっていたら,敵は,そのことに敵愾心をもやし,かえって厳しく対応してくる,それが油断である。
病とは,心の留まることをいう。仏法ではこれを執着といって,もっとも嫌う。心が一か所に執着してとどまれば,見るところを見外して,意外な負けをとる。
心は,形のないことは虚空のようであるが,一心はこの身の主人であり,すべてのわざをすることはみな心に源がある。その心が動いてはたらくことは,心の営みである。心の動かないのは空である。空の動くのは心である。空が動いて,心となって手足へ作用する。立ちをにぎった(相手の)拳の動かぬときに素早く打つので,空を打てという…。
いわば,この場合,相手の太刀を捧げた手の動かないところは,心が働いていない,つまり隙である。そこを打て,という。
まてまて,立ち会いの話に転じてしまったが,人との関係の話であった。
たぶん,心が何かに固着して動かないから,相手が見えないのだろう。心を返す,自分の立つ位置に常に戻す,それがいわば平常心というものではないか,というところに落ち着くが,何の解決にもなっていない…か。
宗矩の師,沢庵は,
人ごとの身の中に神あり,
といっている。それと関わるが,宗矩は,神妙剣について,こう言う。
神(しん)内に在りて妙(みょう)外に顕る。…たとえば一本の木に,内に木の神ある故に,花咲き匂い,みどり立ち,枝葉しげる也。これを妙という。木の神は,木をくだきても,これぞ神とて目にみえねども,神なくば花緑も外にはあらわるまじく也。人の神も,身をさきても,これぞ神とて目には見えねども,内に神あるによりて,様々のわざをなす也。神妙剣の座に神をすえるゆえに,様々の妙が手足にあらわれて,軍(いくさ)に花をさかす也。神は心の為には主人也。神が内にありて,心を外へつかう也。此の心また気をめしつかう也。気をめしつかい,神の為に外にかける,此の心が一か所に逗留すれば,用がかくる也。然るによりて,心を一か所にとどめぬようにするのが肝要,
と。心を止める,つまり執着しないこと,に尽きるのかもしれない。
別の言い方をすれば,
軽やかに,
ということになる。
参考文献;
宮本武蔵『五輪書』(講談社)
柳生宗矩『兵法家伝書』(岩波文庫)
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日本語は論理的でないという人がいる。
それは,おのれの論理力を言語のせいにしているか,よほどの西欧語信奉者かのいずれかだ。言語は,おのれの思考の表現手段だ。その手段を使いこなせないのを,日本語のせいにする人は,まず,その人が西欧語で論理的に表現できるかどうかを確かめたほうがいい。
さて,日本語の特徴について,ザックリと,「言葉の構造と情報の構造」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm#%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0)
で触れたことがあるが,僕は日本語には日本語の筋が通っていると思う。そのことは,西欧語から見ると見えない。その人は,基準をいつも,西欧を尺度にするから,ものが見えないのだ。そういうのを奴隷根性という。あるいは,文化的植民地根性と言ってもいい。そういう手合いに限って,横文字を縦文字にして,おのれのオリジナルな如く語る。最低だ。
戦前,戦後何度も,漢字廃止論とか,日本語をローマ字にしようとか,フランス語にしようといったたわけたことを言った連中がいたが,どういっていいかわからない。絶句するしかない。それもどこかに,日本語蔑視がある。
この辺りは,
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97%E5%BB%83%E6%AD%A2%E8%AB%96
の漢字廃止論にある程度概観できる。
そこで,日本語だ。
たとえば,主語がないと言うが,それは日本語が文脈依存が強いので,不要だから表現しないのであって,日本語そのものの問題というより,使い方の問題に過ぎない。
基本,日本語は風呂敷構造になっている(正確には,日本語の表現構造を「風呂敷型統一形式」と呼んでいる)。そのことを了解してしまうと,入れ子構造の流れに,日本語の論理と時制が見えてくる。
花が咲か ない
花が咲い た
における,「た」や「ない」は,「表現される事柄に対する話手の立場の表現」(時枝誠記『日本文法口語篇』),つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし,「花が咲く」の部分を,「表現される事物,事柄の客体的概念的表現」(時枝,前掲書)である「詞」とした。つまり,
(詞)は,話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり,また主観的な感情や意志などであっても,それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して,(辞)は,話し手のもっている主観的な感情や意志そのものを,客体として扱うことなく直接に表現した語です。
と三浦の指摘する通りだ。その入れ子の複雑な表現構造は,
われわれは,生活の必要から,直接与えられている対象を問題にするだけでなく,想像によって,直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり,過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が,やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し,あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を,われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり,現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに,今朝はふらなかったとすれば,現在の私は
雨がふら なくあっ(予想の否定) た(過去)
というかたちで,予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な,いくつかの語のつながりのうしろに,実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている「とき」と今朝のそれを否定する天候を確認した「とき」とそれを語っている「いま」=引用者)と,その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。
と表現した通りなのである。入れ子構造は,さらなる入れ子構造にすることで,時制を複雑に表現することができる。そして,かならず,最後は,話者の語っている「いま」へと戻ってくる。そこには,情緒的で,あいまいな言語表現はみじんもない。それを,我々はいともたやすく使いこなしている。
たとえば,
花が咲いて いた なあ
と「なあ」を「いま」とすると,
「花が咲いてい」る状態は過去のことであり(「いま」は咲いていない),それが「てい」(る)のは「た」(過去であった)で示され,語っている「とき」とは別の「とき」であることが表現されている。そして「なァ」で,語っている「いま」,そのことを懐かしむか惜しむか,ともかく感慨をもって思い出している,ということである。
この表現のプロセスは,
1.「桜の花が咲いてい」ない状態である「いま」にあって,
2.話者は,「桜の花の咲いてい」る「とき」を思い出し,「そのとき」にいるかのように現前化し,
3.「た」によって時間的隔たりを「いま」へと戻して,
4.「なァ」と,「いま」そのことを慨嘆している,
という構造になる。
ここで大事なことは,辞において,語られていることとの時間的隔たりが示されるが,語られている「とき」においては,「そのとき」ではなく,「いま」としてそれを見ていることを,「いま」語っているということである。だから,語っている「いま」からみると,語られている「いま」を入子としているということになる。
ここには,言語として明示されていないものの,主語も,時制も明確に表現されている。それを論理的でないと称する人は,おのれの西欧コンプレックスで日本語を見ているだけに見える。でなければ,そのコンプレックスの色眼鏡で,日本語の論理を見ようとしていないのだ,というしかない。
日本語の構造すらわからなくて,日本語を云々するのは,早計というより,軽率そのものである。
参考文献;
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
時枝誠記『日本文法 口語篇』(岩波全書)
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ならぬ堪忍するが堪忍,
というが,怒ったあとの気分の悪さと言ったらない。堪忍袋や癇癪玉の大きさが,器量,度量の大きさに比例するというような気がしてならない。
怒りは狂気,
というのもよくわかる。
怒りは,基本的に欲求充足が阻止されたときにその阻害要因に対して生じる,と心理学辞典ではいう。生理的には,怒りの状態では交感神経が活性化し,血圧の上昇,心拍数の増加が生じ,表情は文化を超えて似ており,眉が引き寄せられて下がり,口が私価格開いた攻撃的状態になる,という。
怒りという言葉には,
怒り,
腹立ち,
憤り,
むかつき,
瞋恚,
とあるが,むしろ漢字の方が,厳密に分ける(以下『字源』による)。
怒(喜の反対,腹立ち)
忿(立腹して恨む。外へ現れない)
憤(内に鬱積して発する怒)
悶(心に煩鬱してもやもやする)
懣(悶に同じもだえる。)
恚(恨み怒る。怒りが尾を引く)
瞋(怒気が目元に現れる。目をいからす)
愾(恨み怒る。)
艴(怒る顔色)
怒りの種類は,言ってみればたくさんあるのだから,怒りとは,
欲求充足が阻止されたときにその阻害要因に対して生じる,
というのは,いささか単純な気がする。人の心に,勝手に設けた,
(相手や他の者がこうするべきという)基準やルール,
(人は,相手はこうしてくれるはずという)期待や願望,
(こうなるはずという)希望や期待,
(こうなってくれるといいという)夢や望み
(かくあるべしという)信念や価値
という,一言で言えば,期待値への思い入れが強ければ強いほど,それが叶わない,阻まれる,意に沿わない,ということで,普通なら意志喪失したり,落胆したり,めげたりするのが,相手への怒りや恨みに変わる。その閾値は,人によって違うが,引き返せないくらい,(独りよがりの)思いの重みが偏っているということに因るように思う。
そうすると,自責ではなく,こんなに期待しているのにとか,こんなにこっちは守っているのにとか,こんなに思っているのにと,(思いを受け止めない相手への責め)他責へと転じ,攻撃としての怒りが爆発する。あるいは逆か,怒りが,自責を押しつぶし,他責へと転ずる。
いずれにしても,それは内的な心理的バランスが崩れた,ということができる。要は,論理療法に言われるまでもなく,相手が怒らせているのではなく,自分が怒っている,それがイラショナル・ビリーフによるかどうかは別に,自分の思いにあることは間違いない。
しかし,前にも挙げたが,ジル・ボルト・テイラーは,こう言っている。
わたしは,反応能力を,「感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力」と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。
生理的な反応の怒りは90秒まで,それ以降は,それはそれが機能するよう自分が選択し続けている。つまり,思いの(というよりもう妄想の)偏りで,視野が狭窄しており,怒りつづけなければ,思いの秤のバランスが取れなくなっている。
この怒りは,すべてがおのれの幻想的な現実の上で組み立てられていて,事実を突きつけられても,それは事実とは見えない。ほぼ,狂気に入り込んでいるのに近いかもしれない
ただ,どうも,こうやって私的な怒りだけに怒りを限定するのは,不公平な気がする。たとえば,
慷慨,
義憤,
公憤,
という怒りがある。
義を見てせざるは勇無きなり,
という言葉もある。その時,阻害されているのは,社会的公平であり,社会的正義であり,人間としての道であり,人としてのあるべき姿ということになる。
昨今,その怒りの表現が,われわれは下手になった。ツイッターのつぶやきは,単なる私的怒りの表現でしかない。そこには,公的な基準を確かめていく,再確認するという理よりは,私憤の吹き溜まりの感がある。野次馬の正義感みたいなものだ。その広がりの大きさは認めるが,ひとりひとりが自分の体と存在で関わるデモ以上の戦闘力にする工夫が,僕には見えない。
参考文献;
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)
簡野 道明『字源』(角川書店)
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よく無邪気と言われる。
素直とも言われる。
好悪がはっきりしている,とも言われる。
子どもっぽいという意味かもしれない。あるいは,大人になっていないという意味かもしれない。
でも考えようによっては,奥行きがない,見えるまま,ぺらぺらということでもあるし,
無防備ともいえる。
しかし,考えようによっては(自分でリフレームするなら,),自己開示している,ともいえる。僕はこういう素直さは大切にしたい。といって,できないことが多いが,
まずシャッターなしに受け入れる。
色眼鏡なしに聞く耳を持てる。
それができればできるに越したことはないが,そういう大人の分別さが嫌いなのだ。
わきまえもいらない。
分別もいらない。
小賢しさもいらない。
嫌いなものは嫌いであり,好きなものは好きなのだ。
だから子供っぽい。
無邪気な好奇心がいい。
それが直感を鋭くするような気がする。
ただ素質だけで感じ分けられるものはたかが知れている。いわば,思い込みと大して変わりはない。言ってみれば錯覚である。
言葉は悪いが,ストーカーの錯覚,思い込みと大した差はない。いわば,自分の視角しかもてていない。自分の視野は自分だけにしか見えないものだ。人も同じように見えていると思っては大間違いだ。その視野で見えたものを唯一と信じ込めば,ストーカーになる。
違う視角というと,知識や経験というのもある。それが,ものごとに距離を置いてみさせる。ある意味広いパースペクティブをもてる。しかしそれも相対的なものだ。地べたを這うような視角であることは,似たり寄ったりだ。
ではあとは何か。たとえば,神の視点というのがある。これは別に俯瞰する視点ではない。地球を外から見るような視点は,知識の視点であって,神の視点ではない。
全く別の世界から,こっちを見るという感覚だろう。僕はこの視点を持ったことも感じたこともないので,あくまで想像だ。
たぶん,たぶんとしか言いようがないが,相手の心の世界を俯瞰する。あくまで(ロジャーズの言う,あたかもas
if)だから,幻想かもしれない,錯覚かもしれない,すれすれのところなのではないか。相手が違うと言えば,全く幻を見ただけになる。
しかしそれはそういう視角を持てるということで,その視角が自分に対しても持てるかというと,たぶんできない。その視角を取ろうとした瞬間,自分についてのさまざまな思い,感情が,視角に迷いをもたらし,自分の期待や不安を見てしまう。
自分のことはわからない。
だからひとからのフィードバックが必要なのだろう。
直感もまた,そういうフィードバックと思えば,さまざまなタイプがあることは,プラスになる。
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本当の自分という言い方が嫌いである。いま,ここに居る自分以外に自分はいない。可能性のことを言っているなら,そういえばいい。隠れている自分というのは,隠れているのではなく,まだ,ここに居ないのであって,本当の自分という言い方は妥当ではない。
で,だ。自分はよく凹む。凹むのは,
人と比較して,自分のだめさに気づかされたとき,
何かしくじりをやって,落ち込んだとき,
自分の期待した水準のことができず,自分で自分を貶めているとき,
ひとから自分の振る舞いについて批判されたとき,
自分が妬んだり羨んだりしているのに気づいたとき,
自分の頭の中の特定の誰かの眼で,自分を批判するとき,
自分で自分に期待外れを起こしたとき,
何となく憂鬱でブルーな気分に落ち込んだとき,
等々,いろいろあるが,要は,自己イメージが崩れてしまった,あるいは(ダメな,あるいはあからさまな)自分を突きつけられた,というときだ。というか,何となくこういう自分だと思っている自己概念というか,セルフイメージが,何かのきっかけで罅がいるというか,輪郭がくずれるというか,もっとひどい時は,木端微塵に砕けるというか,そんなときだ。
そんなとき,
自分には人には見えない本当の自分がいる,
とか,
もっと違う自分があるとか,
という言い方をするとすれば,自己逃避そのものといっていい。
いま,ここで,そのきっかけになったことが些細なことか重要なことかはともかく,何かに躓いて,凹んでいる自分,その自分がそのまま,本当の自分に他ならない。
この自分よりほかにもっと優れた自分がいるはず,
と思いたいのは自由だが,そっちへ行けば,ほぼ妄想か仮想か空想か,まあ,病気に近づく。
まっとうな人は,そこから,改めて,自分を立ち直らせるしかない。
昔自殺を考えたことがあったが,最期の最後で,自分というものを,ぎりぎり信じている自分がいた。その時どう考えたかは,正確には覚えていないが,
まだ自分にはしなくてはならないこと,
まだ自分にはしたいこと,
あるいは,
まだ自分にはし残したこと,
がある,というような,自分のか細い可能性を信じた,というか,それを藁しべにして,それにすがって,かろうじて,凹んだ自分を支えた,という記憶がある。
だから,心底絶望したのではないかもしれない。そんな奴には,わからん,と言われそうだ。しかし,僕は,信じている。どんなに絶望の淵にしても,
自分がすること,
自分でなくてはできないこと,
自分がしなくてはならないこと,
を思い出せば,かすかな可能性が見える。それが,
したいことか,
しなければならないことか,
は,このぎりぎりのときにはどうでもいいのだ。この世の中に,僕がいることが,少なくとも,必要だ,と感じられればいいのかもしれない。
フランクルが,『夜と霧』で書いていたことは,僕流に言い換えると,これだったような気がする。
フランクルは,ニーチェの,
なぜ生きるかを知っているものは,どのように生きることにも耐える
を引き,生きることから期待するのではなく,生きることが私たちに期待していることにどう応えるか,だと言ったのは,そういう意味だと捉えている。
だから,唐突だが,リーダーシップと言われているものも,その人が,
何をするためにそこにいるのか,
を実践する手段である。
自分の思いを(共に)実現するために,
自分の目的を(共に)実現するために,
そうすることで,たぶん,
自分が自分になる,
それが人生の目的なのだ,と思っている。
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)
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不細工は,
ぶさいく,
もしくは,
ぶざいく,
と訓む。意味は,辞書(『広辞苑』)によると,
細工がへたなこと。まずいこと。できばえが悪いこと。また,そのさま。
体裁の悪いこと,また,そのさま,
容貌の悪いこと,また,そのさま
とあり,想像されるように,語源は,
「不(打消し)+細工(こまかいたくみ)」
で,
「こまかい工作ができない,不器用な人,転じて,器量の悪い人の意で使うのは,現代語」
とある。しかし,『古語辞典』にも,
容貌の醜いこと,不器量,不恰好,
の意味も用例もある。必ずしも,現代とは言えないようだ。別に,
「本来は決してほめ言葉ではないが、シチュエーションや人によっては、親しみや愛しさをこめて「不細工」という言葉を使う場合もある。 略してブサともいう。」
とあるが,「ブサかわいい」という言い方をしたとき,親しみはあるが人に対する敬意や尊敬があるとは思えない。
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%B4%B0%E5%B7%A5
には,
「通俗的にはブサまたはブスとも。なおブスの語源に関しては諸説あり、『トリカブト(附子、ぶす)によって中毒を起こし、表情が乏しくなった者を指す』とする説があるが、それ以外にも様々な憶測が存在するため、往々にして語源は不明瞭である。」
と,ブスの語源にわたっているが,因みに,「ブス」の語源には,
「ブスっとした女」で,愛想のよくない不美人,
という説と,
「ブ(不)+スケ(助女の隠語・ナオスケ)」の意で,ブオンナの意,
として,「附子(トリカブトの根)」の転用説は,疑問視されている。
話を元へ戻すと,では,細工の意味は,と改めて辞書(『広辞苑』)で調べると,
手先を働かせて細かい物を造ること,またそのもの,その職人,
細かな点についての工夫。とくに小さな点を変えたり,見た目をとりつくろったり,ごまかしたりして,人目を欺こうとする企み。
(名詞の上に付けて)本格的でない,素人くさいの意。細工芸等々。
の意味がある。現代だと,小細工と言ったりして,細工にはいいニュアンスがないが,『古語辞典』では,
手の込んだ細か器具を作る職人,
手のみ―込んだ器具を作ること,工芸,手工,
技巧,術策などに長じていること,
(名詞に冠して)本格的でないもの,また素人が我流でするの意,
しか載らない。しかし,『大言海』には,
「工匠(たくみ)の細小なる器具を造るを職とする者。家を建築するなどに対する」
と断って,細かい製作云々の意味の他に,
「ゑたの異名。竹細工,箒,茶筅など,造り出して生活を営むより云ふ」
と,この時代の奥底にある人々の心底の深奥にある悪意のある含意(差別意識)を,ちらりとのぞかせ,ぎょっとする。それに,
「つくろいごと,たくらみごと,人の行為に云ふ」
という意味が載る。ここには,細工に,作為という含意がこもる。思えば,諺に言う,
細工は流々仕上げをごろうじろ,
には,工夫を十分凝らしてあるから,できあがった結果を見てください,という意味には,途中でとやかく言わないで,出来上がったものを批評しろ,という自信を示す意味がある。しかし,この「細工」には,企み,仕掛け,という含意がある。
細工貧乏人宝,
という諺には,器用貧乏というか,人には重宝がられるが,才能が自分の利益にならない,という意味を持つ。
とすると,細工には,どこか,竹細工職人を差別したほどではないにしろ,上から目線の蔑みのにおいがなくもない。
細工は,
「サイ(細かい)+ク(工・技・たくみ)」
が語源。大工に対する言葉で,『大言海』に,「家を建築するなどに対する」とあるのは,その意味になる。
「たくみ」
で引くと,工の他に,
技
匠
伎
等々と出る。
「工」は,
「上下二線の間にh線を描き,上下の面に穴を通すことを示す。またかぎ型ものさしの象形とも言う。工は攻(突き抜く)の原字で,孔(突き抜けた孔)・空(穴)と極めて近いことば。穴をあけるのは高度の技であったので,細工することを意味するようになった」
とある。「技」は,
「支が,細かい枝をてにもつさまで,技は,細かい枝のような細かい手細工のこと」
とある。「匠」は,
「『匚(かぎ型のものさし)+斤(おの)』で,ものさしや刃物をつかって細工する意。もと創(きる)と同系で,素材を切って技工を施す意を含む」
とある。「伎」は,
「人間の細かい技,技を操る人の意」
とある。あえて,「細工」「大工」等々,「工」を使った意味があるのだろうが,敢えて深読みすると,「工」には,
細工や技術を心得た職人,
という意味があったせいだろうと思う。それにしても,「細工」の類語は,いまや,
改竄
枉げる
たくらみ
姦計
等々と悪意の籠った作為の意味が多い。小細工がその代表か。なお,「小細工」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E5%B0%8F%E7%B4%B0%E5%B7%A5)については触れた。
参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%B4%B0%E5%B7%A5
簡野道明『字源』(角川書店)
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明治25年の正月,福沢諭吉は,ひそかに脱稿した『痩我慢の説』を,榎本武揚と勝海舟に送り付けてきた。二人とも,スルーしたので,翌月返事の催促をした。
過日呈した痩我慢の説一冊,いずれ時節を見計らい世に公にするつもりだが,もし事実に間違いや立論の不当のところは「無御伏蔵」ご意見を承って置きたい,
といい,尚書として,
二三の親友以外には見せていない,
と断っている。
痩我慢の説は,要は,戊辰戦争のとき,徳川は徹底的に抗戦し,最後は江戸城を枕に討死すべきだった,その精神を受け継ぐことが,小国日本が世界の大国に抗していく原動力になる,
と勝の江戸城無血開城を,痩我慢の精神を踏みにじったものと非難しているのである。
榎本武揚は,
昨今別而多忙に付,其中愚見可申述候
と逃げた。しかし,勝は,
行蔵は我ニ存す,毀誉は他人之主張,我に与らず我に関せず存候
と,にべもない。そして,尚書についても,
各人へ御示御座候とも毛頭異存無之候
と突き放した。勝の言う「機」を離れて,後になって何を言おうと,所詮,利いた風な口をきいているだけのこと。そのとき,その場で,修羅となって戦っていないで,後出しじゃんけんのように,とやこういう人間の方が,愚かしく,軽佻浮薄に見える。まさに,福沢諭吉は男を下げた。
言うべきタイミングを失したら,黙っているのが,痩我慢というものだ。福沢諭吉という人間を,僕は全く買わないのは,所詮,外国ネタを自分の主張のように言う軽薄学者と同列だと思っているからだ。(そのネタを人より早く仕入れるかどうかの)早い者勝ちのようなものだ。荻生徂徠は,中国でも,その主張が通る。どうだろう,福沢の著作のどれほどが,西洋で翻訳できるだろうか。
それはどうでもいい,自分は,本当の生き死にの場にいないで,安全なところから高みの見物をしていたものが(そのことを咎める気はない。ヒトはそれぞれなすべきことが違うのだから。しかし少なくとも,おのれをわきまえたら),生き死にの場にいて,命を懸けて奮闘していたものに,後になって,言ってはいけないことがある。少なくとも,それを口に出さない,それが,本当のその人間の節度と思うが,そのかけらもなく,おのれの主張を送り付けて,返事を強いる,傲慢無礼そのものだ。
そのとき勝は,長男小鹿の臨終の場にいた。福沢へ返事した翌日,小鹿は死んだ。そして,翌日徳川慶喜,家達に,手紙を認めた。概略次のような文意だ。
小臣家,つまり勝家は,先年華族に列せられたが,本来ご辞退すべきところを,所存があり御受けした。このたび,相続可致倅病没,其内拙老衰弱最早無程死亡可致,そんな次第なので,この華族の家を,一堂以御末男御相続被下候様相願候…。
一堂とは,勝のつけた慶喜の号。つまり,これが勝の覚悟である。福沢ごときとは別世界の器量と度量と技量の勝は,華族としてのおのれの家を丸ごと,
徳川に返し,自分の死後は,慶喜の末男(十男,精は五歳)が新たに新徳川伯爵家として立ててくれと言っているのである。華族に列せられたのを,本来ご辞退すべきところを,所存があり御受けした,というその所存とは,この意味なのである。
それなりの,これが,勝としての主家・徳川家へのけじめのつけ方なのである。
矜持というのは,こういうものだと思う。矜持は,覚悟をともなう。覚悟なき矜持は,ただの高慢に過ぎない。福沢の振る舞いには,高慢しか感じられない。
それよりなにより,物書きとしての矜持と覚悟がまるでみられない。素人ではあるまいし,当事者に意見を求めてどうするのか。その通りですと言ってほしいのか。このあたりの何というか,高慢さの裏にある,修羅場をくぐらない,口説の徒の哀しみが出ているというのは言いすぎか?
人必死の地に入れば 心必ず決す
と,横井小楠は言っている。
我れ誠意を尽くし,道理を明らかにして言はんのみ。
聞くと聞かざるとは人に在り。
亦たなんぞ其の人の聞かざることを知らん。
あらかじめ計って言はざれば,その人を失ふ。
言うて聞かざるを強く是れ強ふるは,我が言を失ふなり
とも言う。その覚悟である,欠けているのは。
参考文献;
松浦玲『勝海舟』(筑摩書房)
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ここでは自分の意味づけを考える。自分の価値や重要性を認めて,それを積極的に表現できるところまでがベストかもしれないが,まあ,自分で認めるところまででよしとしよう。
ただ,大前提は,すべての人の人生に意味がある。
どんなありようも,生き方も,ふるまいも,すべてどんな人も,無条件で,掛け値なしに意味がある。本人がそれを受け止めようが受け止めなかろうが,関係なく,すべての人生には,それだけで,そこにいるだけで意味がある。
しかしその上で,自分の意味づけにはいくつかの考え方,やり方があるように思う。どれかが正解ということは,もちろんない。
ひとつは,すごく大上段だが,使命だとか,目的から,
自分が何するためにそこにいるか,
を自分なりに考えて,自分が生きている意味を絞っていくことだ。これは,フランクルのいう,
自分の人生にどう応えていくか,
を考えていくのに似ている。
第二は,自分のポジショニング,自分の役割を考えていく。これを,僕は旗と呼んでいる。
当然,結果として,
自分は何をするためにそこにいるか,
の答えを見つけていくことになる。ただ,アプローチは,自分の周囲,家族,友達,組織の同僚等々,人との関係の中で,周囲からの(役割)期待を受け止めるところから,あるいは,周囲のフィードバックを受け止めるところから,自分の位置関係を見つける,ポジショニング,居場所を決めていく。そこに自分のいる意味をみつけていく。
第三は,自分自身の中の,したいこと,なりたいこと,ありたいことから自分の意味を見つけていく。下世話に言えば,趣味や興味,関心だ。目的から自分のところへブレークダウンするのも,使命から自分の役割にブレークダウンするのも,周囲の期待やフィードバックから自分の位置をみつけていくというのも,まあ他律的といえば他律的だ。外因的と言えば外因的だ。それに比べれば,内発的というか,内因的だ。
第四は,いまできているところ,今やっているところ,いまいるところに,意味づけることだ。自分に出来ていて当たり前のことが,人にとって当たり前とは限らない。しかし,この自己認知を促すのは,人のフィードバックが必要かもしれない。
そう考えると,意味づけには,
自分を受け入れる,
という自己受容が必要かもしれない。
ただ僕の経験では,人は自分を受け入れるより前に,そういう自分として生きざるを得ない。そういう自分をありのままに認める前に,それを背負って生きている。
この自分自身を現実に投げ出すこと
で,生きていく。その意味で,受容は後からくる。
まず動く。現実の中で動く。その一瞬一瞬のなかで,自分を表現することになる。否応なく,関係性の中に,自分が織り込まれ,そこで,居場所ができる。それが生きていくことだ。受容は,その確認としてやってくる。
清水博さんが,『コペルニクスの鏡』で書いていた,「生きている」ことと「生きていく」ことの差だ。
つまり,いのちは一人では生きられない,生きる場所なしでは生きられない。「いのちの居場所」という。
いのちの居場所とは何か。清水さんは,サッカーの例を挙げている。
サッカーの選手たちが,サッカー場という居場所に自分で自分の役割を位置づけることができるようになると,はじめて立派にチームプレーをすることができる。これと同じように,いきものも自分なりの役割を自分で〈いのち〉の居場所に位置づけることができて,はじめて〈いのちの〉与贈循環をうまく実行できる。
場に位置づけられていることが存在existenceを獲得しているという事であり,これと活(はたら)きや意味に結びつかない物理的存在presenceとは違う。その意味で,
自分の生きる場所は何処か?
自分の居場所は何処か?
そこで自分のポジショニングを計りながら,自分は何をするためにそこにいるのかの答えを出すことが,「生きていく」ことなのではないか。
とすると,意味づけは,一生かかって,つけていくことになる。その意味では,自分の居場所を「生きていく」ことが,そのまま意味づけなのではないか。
参考文献;
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『場の思想』(東京大学出版会)
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ぼくは、ゼロ戦の設計思想が嫌いである。というより,その思想が,いまも脈々と受け継がれていることを恥ずかしいと思う。別に飛行機マニアではないので,正確ではないかもしれないが,ゼロ戦の話を聞くたびに、ずいぶん昔,フォード車にのっていた友人が、言っていたエピソードを思い出す。
曰く、追突した国産車のほうが、大破した、
と。お手軽で,軽量化した車は,ある意味で命を使い捨てにする思想だ。
ずいぶん昔読んだものの記憶で書くので間違っているかもしれないが,ゼロ戦は,ボルトやねじなど細部に至るまで徹底した軽量化を追求した,当時究極の軽量化飛行機だ。だから,
格闘性能,
航続力,
速度・高高度性能
高速時の運動性,
等々に優れている。しかし,一方で,部品点数の多さ,軽量化のための特殊加工等々から生産性が悪く,大量生産に向かない,いわば手作り飛行機という欠点もあるが,最大の問題は,軽量化と機動性を確保するために,防御部分がカットされていることだ。
防弾燃料タンク
防弾板
防弾ガラス
自動消火装置
等々が搭載されておらず,当然被弾するとあっという間に火を噴く。しかも,回避をパイロットの技能に依存している。たとえば,
運動性能と視界の良さを生かして、攻撃を受ける前に避けるという方法で防御力の弱さをカバーするパイロットも多かった,
とされるが,それでは熟達パイロットの名人芸に依存しているということで,基本的に飛行機としての性能の大事なものが欠けているということの裏返しだ。いわば,人命軽視そのものだ。
ゼロ戦の操縦は,かつて製本屋で働く何人かに一人,必ずむ指先が断裁機で切断されていたのを思い出させる。フェイルセーフの発想などない昔の断裁機で,いかにに名人芸を発揮するか,を彼らが競うのに似ている。
ゼロ戦に対抗して設計製作されたというアメリカの,F6F (Grumman F6F Hellcat)は,真逆の設計思想だ。
頑丈であること,
単純化されて生産性が高いこと,
防弾フロントガラス,
コクピットを張り巡らした部厚い装甲,
装甲されたエンジンとタンク,
等々パイロットを守るために,ゼロ戦相手とわかっていても,機動性すら犠牲にしている。それは,人命尊重というより,ベテランパイロットの操縦を前提にしない,徴兵された普通の兵士が操縦することを前提にした設計思想だ。
まさに,フールプルーフ,といってもいい。
一方は,パイロットの命を消耗品と見る,
他方は,パイロットを代替可能な戦力と見る,
違いは微妙だが,それが設計思想になったとき,雲泥の差が出る。
フォード車と国産車のアナロジーをそのまま象徴する。いまや軽量化が重量派を駆逐してしまったが,それが人命軽視の思想の蔓延でないことを祈る。
日本では,戦後も,基本通底するのは,自国民の命を軽視するという(暗黙の)意志だ。それよりも守るべきものがいつもあるらしい。体制(国体)であったり,誰ぞの体面であったり,何某の既得権であったりする。
年間三万の自殺者がいるのが,そのまま有効な手も打たない,という(暗黙の)意思がある,
毎日人身事故と称して鉄道事故が起きているのに,安全柵設定を遅々として進めない,という(暗黙の)意思がある,
原発事故が起きても,人命に対する手立てを迅速に打たず,放置し続ける,という(暗黙の)意思がある,
等々挙げればきりがないほど,そう考えなくては理解できないような,人の命を守るのに迅速さが欠けていて,逆に言えば人の命を使い捨てにする思想が脈々と生きているとしか言いようがない。
テロに拉致された女性を自己責任と称して,見捨てた国だ,同時期のイタリア政府の救済のために打った対応と比較すると,その人命軽視は目を覆いたくなる。
知覧で特攻の写真を見て,涙した首相がいたが,冗談ではない,てめえら政治(家)の失敗(政)で,あたら若い人を無駄死にさせたのではないのか,それを英霊などと呼んだところで,死んだ者は帰ってこない。そのことを政治家として一言の弁もなく,普通の人と同じ目線で涙するなど,政治家失格というより,政治家としての自覚も意志もないとしか思えない。その同じ首相が,拉致監禁された女性に自己責任と言ったのだ。
こんな政治家どもが,国民の命に思いを致すとは思えない。靖国参拝などのパフォーマンスより前に,政治家として為すべきことは何か,を考えよと言っても,きっと馬の面にションベンだろう。
いまだ,この程度の政治家しか生み出せない,ということは,そのまま天に唾していることになる,おのれら国民ひとりひとりの責任が問われている。それは,結果として,
我々自身が人の命を軽視している,
ということだ。それもまた,おのれに返ってくる。
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リーダーシップは,
文脈依存,
だ。
リーダーシップについて,あるところにこういう文章を書く機会があった。
リーダーシップは,人への影響力を意味するが,もっと現場に限定した言い方をすると,何かを完遂するために,必要な人を巻き込んでいくこととなる。
更に突っ込むなら,自分(ひとり)では(裁量を超えていて)解決できないこと,あるいは解決してはいけないことを解決するために,解決できる(権限のある,スキルのある)人を動かして,一緒に,その解決をはかっていこうとすること,と言える。リーダーシップの真価が問われるのは,自分のポジションより上や横を動かそうとするときだ。そのとき必要なのは,
・「何のために」「何を目指して」という,意味づけの旗が明示されていること
・必要な人々に,その意味をきちんと伝えていく力があること
・めざすことを一緒にやっていくための土俵(協働関係)をつくること
・あえて加えれば,協力してくれた人,サポートしてくれた人への感謝を怠らぬこと
である。
とすると,そこで解決しようとする問題は,自分や自分のチームや部署内で自己完結しては解決できない問題でなくてはならない。リーダーシップで問われるのは,何を目指しているかであり,そこで,何を問題にしているかが,そのままリーダーシップの見ている視野の限界があらわになる可能性がある。
よく思うのだが,リーダーシップはその人の仕事の仕方の延長線上にある。一人で抱え込んで仕事をしてきた人は,チームのリーダーになっても,チーム内で自己完結しようとするだろう。それは基本的に仕事の出来ない人,あるいは自分の器量以上の仕事の出来ない人だ。
因みに,何度も繰り返しているので,恐縮だが,リーダーという役割とリーダーシップは別だ。それについては,「リーダーとリーダーシップ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97)
で触れた。要は,リーダーの役割は,チームとしてのパフォーマンスを上げることだ。マネジメントとは,マネージすること,つまり持てるリソースで,「何とかする」ことだ。しかし,リーダーシップはそれとは別だ。
で,思うのだが,その人が,ヒラであろうと,チームリーダーであろうと,役員であろうと,トップであろうと,決して自己完結せず,その問題,その目的を実現するために,必要な人に働きかけ,その人のサポートを得て,それを実現していくことは必要である。
そのときリーダーシップがいる。
リーダーシップは,一般論で語ろうとすると,どうしても,
影響力
とか,
指導力
とか,果ては,
人間力
となるが,その人が置かれているシチュエーション,つまり文脈の中で,
自分が何をするためにそこにいるのか,
そのために自分がすべきことは何か,
に,その人のリーダーシップは依存している,と思う。その文脈の中で,
本当に解決すべきことを,解決できる人を巻き込んで,解決しようとしたかどうか,
がリーダーシップの根幹なのだ。その是非は,その人の文脈の中でしかわからない。
だからこそ,そこで,自分が,
何をするためにそこにいるのか,
いま自分がしなくてはならないことは何か,
そのために誰を動かせばいいか,
を本人がわかっているかどうか,
その上で,
いま,自分がすべきことを実現するために,その人に,どう働きかければいいのか,
をはかっていけるかどうかが,問われている。それができるかどうかは,実は一般論で語っている限り見えてこない。
僕はそれを,
ポジショニング
と呼ぶ。サッカーで,試合の最中,俯瞰したグラウンドが見え,その中で,ゴールするために,自分はどの位置にいればいいのか,そのために,誰にどう働きかければいいのかが,見えている,そういう選手が優秀な選手という。リーダーシップの神髄はここにある。だから,
文脈依存,
と呼んだ。それは,
「いま」
「ここ」
で,
「そのとき」
において,見逃さず自らが,なすべきと思う何かをするか,だ。
勝海舟が,「機があるのだもの」と言った「機」である。その意味で,リーダーシップには賞味期限がある。文脈依存というのはその意味でもある。
そのとき,その場での状況の読みとイマジネーションが問われている,といってもいい。
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コミュニケーションは多義的だ。たとえば,
・伝達の手段としてのコミュニケーション 通信/交通/媒介(記号)
・伝達の中身としてのコミュニケーション 情報/メッセージ(意味)
・伝達の過程としてのコミュニケーション 交換/互換
・伝達の効果としてのコミュニケーション 共(分)有/連結
といった意味がある。しかし,ここでは,あくまで,いわゆる人と人の対話,会話といった意味に使っておく。上記で言えば,伝達過程としてのコミュニケーション,伝達効果としてのコミュニケーションということになる。
確かに,その意味のコミュニケーションは大切だし,重要なことについては,異論もないし,アサーティブやコーチング,アクティブ・リスニング等々,それによってコミュニケーションの円滑を促す効果については,まったく同感する。
しかし顰蹙を買うのを承知で,あえて言うが,コミュニケーションで解決できることは,コミュニケーションレベルでしかない。そのことで組織が変わったり,社会が変わったり,まして世界が変わったり等々ということは,たぶんない。
なぜなら,コミュニケーションレベルで解決できることは。関係性という枠組みの中でのことであって,それを超えた問題に対しては,全く次元が違う。位相の違うレベルを,解決することはできない。二次元レベルの課題は二次元でしか解決できず,三次元には及ばない。別のアプローチが必要だということだ。
この辺りをごちゃごちゃにして,あたかもコミュニケーションがよくなれば世界が変わる,と言われると,まず僕は反論するのをやめて,引く。問題のレベルが違う,という厳然たる事実が見えなければ,議論のしようはない。ただだまってにこやかにその場にいるか,黙って立ち去るしかない。
コミュニケーションは,言い方は悪いが,手段に過ぎない。
何かを一緒に目指すために,
想いを分かち合うために,
心を開きあうために,
ビジョンを共有化するために,
心を分かち合うために,
等々のためにコミュニケーションがいる。それが,
関係性の改善のためなのか,
組織改革のためなのか,
社会改革のためなのか,
によって,当然その手段自体が変わるし,場合によってはコミュニケーションなど何の役にも立たないかもしれない。関係性を改善するためと異なり,コミュニケーションは自己目的ではないので,次のアクションの地ならしにすぎない。
僕は,そもそもコミュニケーションは,
土俵づくりなしには成り立たないと思っているので,もう少し,誤解を恐れずに踏み込むと,ここでいう,コミュニケーションレベルとは,同じ土俵に乗れるサイズ,ということになる。
土俵に乗るとは,言いっ放しではなく,何らかの意思疎通を果たそうとするかぎり,お互いが,一緒の土俵に乗るという気持ちと思いがなければ,小手先の会話術程度で,コミュニケーションが円滑になるはずはない。
背中合わせになっている人間にとっては,共有する思いも意思もない。それがなければ,そもそもコミュニケーションは成り立たない。コミュニケーションのスキルレベルでできることは,所詮スキルレベルでしかないし,スキルの届く射程にしか,その効果は及ばない。
いやいや背中合わせということは,あるいは敵対しているというのも含めて,皮肉ではなく,両者に関係性の枠組みがある。その意味では,まだ乗るべき土俵が出来る可能性がある。しかしそもそも同じ土俵に乗る気もないし,乗りたくもないと思っているもの同士には,コミュニケーションでそれが解決するとは思えない。
だからコミュニケーションが無駄だとか,意味がないと言っているのではない。コミュニケーションが必要な限界と範囲がある,その射程を超えて,その効果を広げて考えるべきではない,と言っているだけだ。
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かつては,I型とかT型といった,専門性の軸の取り方を言ったものだが,昨今はどういうのか知らない。そんな高尚な話ではない。昔,独立したてのころ,先輩か知人にいわれたのか,電車の中での仲間内の会話だったのか,よく覚えていないが,
専門は,
ひとつではだめ,
ふたつなくては,
食べていけない。というニュアンスのことばが耳に残っている。それは,たとえば,講師としていくなら,二つ以上の得意分野を持て,と言ったニュアンスだと思う。
ただ自分のわずかな経験は,それは逆で,
まず絶対得意分野をつくれ,
それは誰かの真似ではなく,また誰かの代弁でもライセンスでも,誰かの受け売りでも,免許皆伝でもなく,オリジナルなものを創りだすこと。それがコアになって,次々と関連する分野が,隣接して広がっていく。
自分でしかできない代替の聞かない軸に,それが溶けて滲んでいくように広がっていく,イメージだ。
その境界を立てるのは自分なので,すこしでも違う隣接分野は,一本の軸として立てていく。そうすることで,軸がいくつか立つ。本来,軸はあるものではなく,軸として創っていくものだ。
そうしていくつもの軸というか,得意分野というか,専門分野というかは知らないが,近接領域にか細い軸がびっしり立ち並ぶ。その場合,同じIでも,一本はか細くても,五本も六本も束ねると,野太い柱になっている。しかも,近接しているので,相互が絡みついてリンクしあっていく,というか絡み合わざるを得ない。
それが僕の軸のイメージだ。
それで思い出したが,前野隆司氏は,∇(ナブラ)型になれという。
T型人間とは,Tの縦の棒のように,何かひとつ専門について狭く深く知るとともに,横の棒のように世の中一般の常識を広く浅く身に附けよ,という意味だ。(中略)T型人間の問題点は…縦棒と横棒を,か弱い「点」でしかつながっていない二つの要素と捉えることだ。T字型の部品があったとしたら,継ぎ目のところが最も折れやすいことが知られている。
では,∇型人間とは何か。ナブラとは,ヘブライ語の竪琴に由来する。
要するに,専門性と一般性が,Tとは違って,強固にぎっしりとつながっている,という意味だ。
つまり,専門性が,世の中のさまざまな考え方とリンクがつながっていて,Tの横棒と縦棒のさまざまなか所が,相互につながり合っている,
Tの縦の上の任意の点と横の棒の任意の点を直線でつなぐ,という操作を繰り返した場合,次第にTは,塗りつぶされた∇に近づいて行くはずだ。
∇型人間とは,専門と世界のつながりを多様な意味で理解し実践する人間のことだ。
という。専門性という縦軸に,横軸の一般性にコイルが絡みつくように幾重にもまきつくイメージだ。
あるいは,別の言い方をすると,専門性が,脳の機能的固着に陥らないために,さまざまな視点で,それを俯瞰したり,異質なものとリンクさせたり,組み合わせたり,ということが自在にできるということではないか。
川喜多二郎氏が,創造性とは,
本来ばらばらで異質なものを意味あるように結びつけ,秩序づけることだ,
と定義したところと考え合わせると,専門性という固定した視点を相対化して,相互に関連づける視点を持てることといっていい。それには,∇もTもない。自由にメタ化し,俯瞰する視点が不可欠だ。
そのとき,軸は,仮に拠って立つ基点でしかない。つまり,いつでもそれを離れて,自在に別の基点から測れなくてはならない。
それが自由な発想という意味だ。
上へ
なんとなく,捨てることに,意味を持たせたがっている風潮が好きにならない。
僕が社会人になったころ,ワンウェイということで,使い捨てがキャッチフレーズであった。捨てるはプラスの意味が与えられていた。確かヤクルトが,ボトルの一体成型から充填までの一貫生産プロセスを完成したとかで,見学に行ったことがある。古い話だ。
いまは,エコであり,もったいないがキーワードだ。
しかし捨てるが流行っている。断捨離の教祖が,
断捨離というと新しい片づけ術かと思うかもしれませんが、そうではありません。断捨離とは、モノへの執着を捨てることが最大のコンセプトです。モノへの執着を捨てて、身の周りをキレイにするだけでなく、心もストレスから解放されてスッキリする。これが断捨離の目的です。
必要もないもの、使わないものを手放すことで、本当に必要なもの、本当に価値のあるものがさらに浮かび上がってきます。
と,のたまっている。
僕のようなへそ曲がりは,心が整理できないことと,ものが整理できないことは無関係で,ものを整理したことで,何かが片付いたように錯覚するだけだと思う。心が片付いていないから,片付いていないものが気になっているのだ。ストレスがあるから,執着するものが気になる。見ようによっては,逆立ちしている。たぶん,教祖はおのれを語っている。蟹はおのれに似せて穴を掘る,とか。
ものを捨てても片付いていない心を片づけるためには,現実に立ち向かうほかはない。ストレスも同じだ。江戸の仇を長崎で討つことはできない。
まあ,何を言っても,蟷螂の斧ということだろう。つまらぬことに寄り道しすぎた。本題に入ろう。
全く違うところから捨てるについて考えてみたい。
それにしても,何を捨てるのだろう。
ヒトか,
モノか,
カネか,
チエか,
情か,
意か,
コンテンツか,
コンテクストか,
思いか,
執着か,
捨てることで手に入れられるのは,何だろう。自由,自然体ということなのか。
違う気がする。捨てることで,得られるのは,その決断した自分の潔さだけなのではないか。それで何かが変わるのではなく,その潔さで,リアルのいまを生きられるかどうかだ。それは捨てたことで得られるのではない。その後の話だ。
僕は,これまで一杯の,ヒトとモノを捨てた(いやヒトは,捨てられたのか?)。本は,建て替えにあたって,大々的に捨てた。でも,不思議に本は,捨てると,その本を探すということが出来する。だから捨てられない。執着しているのは知識であり,知恵だ。本ではない。
いままで書き溜めた三十年分の日記もメモも習作もすべて捨てた。捨てたのは,過去であって,いまの自分の執着やこだわりやストレスではない。捨てたことで,いまの自分の執着は断ち切れない。いまの自分は,いま生きているなかで執着しているのだから。
日記ももう何年も前に書くのをやめた。一日を振り返ることは,過去にこだわることだ。いまにこだわれば,日記はいらない。
いまを生きるとは,過去とは関係ない。過去がいまを拘束すると思っているのは,そういう言い訳を言えば楽だからにすぎない。そんなことでいまが突破できるはずはない。
多分捨てることで一番大事なのは,ヒトではないか。
ヒトとの関係ではないか。ヒトを捨てるということは,その関係を捨てることだ。その関係を捨てるということは,そういう自分のありようを捨てるということだ。
組織を捨てるということは,組織の中で生きる生き方を捨てるということだ。それは,別の生き方を選択することになる。
もしモノを捨てることに意味があるとすると,そういう自分の生き方に関わるものを捨てるということだ。
例えば,包丁を捨てるとは,板前というあり方を捨てるということだ。
ペンを捨てるということは,物書きというあり方を捨てるということだ。
断捨離とは全く逆なのだ。
必要でないものを捨てるのではない,
必要不可欠なものを捨てることだ。
それは人生のひとつの選択肢を閉ざすということだ。それが本当の捨てるということの重みだ。そのとき,リアルな心の決断が先にある。その結果として,捨てるが来る。
もちろん迷っている時,捨てることで背中を押すことはある。しかしそれは,リアルの決断そのものが先にあることに変わりはない。
断捨離が逆立ちしているとはそういう意味だ。
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人の思いの重さを感じることはないだろうか。
こんな歌がある。
別れても 別れても
こころの奥に
いつまでも いつまでも
覚えておいて ほしいから
幸せ祈る 言葉に換えて
忘れな草を
あなたに あなたに(「忘れな草をあなたに」)
結構怖い。三番は,もっとすごい。
よろこびの よろこびの
涙にくれて
抱き合う 抱き合う
その日が いつか来るように
二人の愛の 思い出そえて
忘れな草を
あなたに あなたに
自分の思いについては必死なのに,人の思いに無頓着ということがある。しかしそれに気づくと,結構気疎いというか,重いというか…。
人への思いは,恋でも愛でも憧憬でも嫉妬でも憎しみでも恨みでも,本人にとっては,必然というか,流れがある。しかし,相手にとっては唐突のことが多い。
だから怖いし重い。
それは妙に長く続く。相手の中で底流のように伏在し続け,あるとき,ふっと噴出したりする。
がさつな僕自身には,艶めいた話はほとんどないが,微妙な恨みはいっぱい買った。
ただ自分は無頓着なので,それに無自覚な分,余計に相手に思いが募るらしい。いつぞや,ずいぶん昔のことを,
君は人の心に一杯ひっかき傷をつけた…!
と言われた。昔のことだ,笑い話なのかもしれない。しかし,そのとき,十何年ぶりかで再会したそのときに,そう言うということは,ずっと底流していた思いが,僕の顔をみて,ふいに引き出されたという言い方もできる。
僕にも同じように底流する思いはある。しかし,そういう相手に生涯で二度と会うことはない。というか,会いたくはない。会う機会があっても,たぶん合わない選択をするだろう。それも,思いの錘りが,僕を引きとめている。
それに向きあえ
という人がいる。
いいのですよ,大なり小なり,人はそういうさまざまに輻輳する思いを持っている。そのすべてを明るみに出したところで,人生が画期的に変わるわけではない。僕に大きな変革が起きるのでもない。いつも思うが,過去にエンジンはない。
君は過去に蓋をしている,
とかつてある心理系の人間に言われたが,当たっていなくもない。僕は過去を振り返ることで,未来への道を拓くという発想を取らない。過去が足を引っ張っているのではない。今,いまの問題に躓いている自分がいるだけだ。ひとは,いまを生きている。過去に囚われている人は,過去を生きている。過去を生きている人は,いまを生きていない。
いまに,すべての鍵がある。
いまを突破しなくては,未来はない。それができた瞬間,過去は別の光に照らされるだろう。いまの暗いスポットライトで照らされているのは,因果関係という物語に拘泥する暗い物語だ。しかしいまが,輝く時,その輝くスポットライトに照らし出されるのは,オルタナティブな自分の物語だ。
自分の物語を決めているのは,いまの生き方だ。
僕はいまの思いを大切にする。
いま好きな人は,いまのその人であって,過去の影ではない。いまの思いが,過去の思いを変える。まるで,過去からそう決まっていたような,因果関係の物語が見えてくるかもしれない。
しかしそれは所詮物語に過ぎない。次のいまの思いの中で,また別の物語が生まれるだろう。
結局人は自分の物語を生きる。その物語を生涯かけて完成するしかない。
そう,他人の思いに振り回されないでいいのだ,と思う。人はおのれの物語の中で,おのれの思いを紡ぐ。僕は僕の物語の中で,僕自身の思いを紡ぐ。もし二人の思いが重なれば,ふた色の糸で,一緒に物語を紡げばいい。
現象学的に言えば,所詮,人の見る現実は幻に過ぎない。それは自分の目にしか見えないうつつなのだ。その限りで,ゆめもうつつも,境目はない。
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僕は問題解決について,「どうすれば問題が解決できるのか」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0960.htm#%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AF%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%8B%EF%BC%91)
という枠組みを考えている。大事なのは,問題に焦点をあてないということだ。人は,何を期待値(達成値あるいはあるべき姿)とするかによって,問題は違う。問題に焦点をあてるのではなく,
どうなったら問題解決したことになるのか,
に焦点をあてる。
何を問題にするか,
ではなく,
なぜ問題にするか,
と言い換えてもいい。
「問題」はいつも誰かの目を通してのみ問題となる。どこかに「問題がある」のではなく,誰かが「問題にする」ことによって「問題になる」。
だから,誰かにとっての「問題」は,僕の「問題」とは限らない。その人にとって「問題」と思えても,他の人にとっては何でもないこともありえる。もし,誰の目から見ても「問題」なら,実行する,つまり誰が,いつ,どういう解決をするか,だけが問題となる。
問題とする基準,たとえば達成すべき目標,維持すべき水準,保持すべき正常状態,守るべき基準等々,何と言ってもいいが,要は,その人にとって,「どうなったら解決したことになるか」は,ひとりひとり微妙に違う。
それぞれの,「どうなったら解決したことになるか」には,それぞれの理想状態(なりたい状態,ありたい状態),目標状態(やりたい状態),満足状態,期待状態,あるいは価値や意味等々からきている。それが簡単にすり合わせられるとは思わないが,問題をあげつらっているよりは,一致点(逆に不一致)は明確にしやすい。
どうなったら問題解決したことになるのか,
をよく,期待値という言い方を僕はする。
そうしたすりあわせ,期待する成果,本音の解決状態を正直に出し合うことで,はじめて相手の問題が自分にとって明確になる。もちろんそれを共有するかどうかは別の問題だが。
つまり,問題に焦点をあてるというのは,相手が何に対して問題にしているかがわからない手探り状態で,現象に振り回されるのに似ている。何を基準にしているかがわからなければ,一緒に問題解決しようにも,向いている方向も目線も違う。
だから,未達とか未完了に焦点をあてるより,お互いの目指す解決状態(完了状態)から考えたほうがいいのだ。
たとえば,遅刻を問題にして,
どうしたら遅刻をなくせるか,
なぜ遅刻するのか,
と原因究明を話し合う,という非生産的で暗い話より,
どうしたら遅刻したくない職場(朝起きたら生きたくて仕方のない楽しい職場)にするにはどうしたらいいか,
朝目覚めたらわくわくして早く出勤したくなるようなそんな職場にするにはどうしたらいいか,
を話した方が,はるかに面白いし,わくわくする。それは働くこと,生きることについての,それぞれの価値や意味を確認することになるからだ。
それを話していることで,遅刻問題は消えて行く,というより,そんなことを問題にしていること自体がばかばかしくなる。
これがソリューション・トークだ。問題に焦点をあてるのがプロブレム・トークなら,はるかにソリューション・トークの方が建設的だ。
チームで問題解決をしようとするなら,原因を探るより,目指す解決状態を共有化し,そのために何をするかを話し合った方がはるかに前に進む。
僕が妥協や未完了が嫌いなのは,それがプロブレム・トークだからだ。
問題をいくら挙げても,挙げ尽くせることはない。もぐら叩きをいくらしても,本質には届かない。
未完了や妥協を取り上げることで,生き方の象徴にしたいのだろう。しかしダメ出しは自分で腐るほどしている。必要なのはダメ出しではない。ダメ出しから,自分のリソースを見つけることはできない。
発想に否定(ダメ)出しはない。逆に言うと,否定(ダメ)出しからは発想は生まれない。生まれても現状の延長線上から脱せない。
そんな程度の発想なら,たぶん,いつか思い浮かぶ程度のコトだ。
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妖怪と幽霊は違う,
と大真面目に論じていたのを,どこかで読んだ記憶があるが,思い出せない。どうも花田清輝の口ぶりっぽく記憶にあるが,当たってみた『室町小説集』にはなかった。
記憶で書くので,間違っているかもしれないが,確か,つくも神の話だったように思う。使い古して捨てられた道具が妖怪になる,というような。そのつくも神に,惹かれた。
百鬼夜行の当て字で,百器夜行
つくも神とは,
付喪神,は当て字で,正しくは「九十九」と書き,この九十九は「長い時間(九十九年)や経験」「多種多様な万物(九十九種類)」などを象徴し,また九十九髪と表記される場合もあるが,「髪」は「白髪」に通じ,同様に長い時間経過や経験を意味し,「多種多様な万物が長い時間や経験を経て神に至る物(者)」のような意味を表すとされる,
とある。
まあ,日本の民間信仰において,長い年月を経て古くなったり,長く生きた依り代(道具や生き物や自然の物)に,神や霊魂などが宿ったものの総称で,荒ぶれば(荒ぶる神・九尾の狐など)禍をもたらし,和(な)ぎれば(和ぎる神・お狐様など)幸をもたらすとされる。
「付喪」自体,
長く生きたもの(動植物)や古くなるまで使われた道具(器物)に神が宿り,人が大事に思ったり慈しみを持って接すれば幸をもたらし,でなければ荒ぶる神となって禍をもたらすといわれる。ほとんどが,現在に伝わる妖怪とも重複する,とされる。
つまりは,親しみ,泥んだものや人や生き物が,邪険にされて妖怪と化す,というわけだ。どうもそれはものや生きもの側ではなく,こちら側の負い目や慙愧の念に由来する影に思える。
妖怪とは,
物の本質をかくし,その本質を変えて,不思議な姿に化けるもの,
という定義がある。江馬務は,「妖怪変化」について,
〈妖怪〉は得体の知れない不思議なものであって,〈変化〉とは外観的にその正体を変えたもの,
と,妖怪と変化を区別した。僕は,妖怪が人にわかるような,あるいは驚かすためのさまざまな姿形に変えて出現するのを変化
と呼ぶのだろうし,だからお化けというのだろう。まあ,ともかく,こうした妖怪を図にして,いまの水木しげるにつながるのが,鳥山石燕で,横須賀美術館の展示も,石燕の,『画図・百鬼夜行』から始まる。
しかし妖怪を怖いというより,哀れさというか,同情を禁じ得ない。
よく退治の対象となる鬼や狒々,魔物,妖怪は,
ひとつは,神楽の鬼のように,来訪神のような存在。これは,里に対して,山の世界,里にとっての外部としての山の世界,つまり異界性を反映している。
いまひとつは,世界の周縁に存在し,向こう側から現れるものの存在によって,逆に,自分たちの立ち位置が中心であるとする認識を支える役割を果たす。地理的には,東北であったりする(その位置はどんどん北へ移動していく)が,もうひとつ,身近な洞穴であったり,木のほこらやを入り口とした,冥界であったり,竜宮城であったりという,異次元であったりする。
今日のように,世界がひとつにつながり,かつて内と外を隔てていた境界線がなくなり,公と私も,国内と国外も,リアルとバーチャルも境界線があいまいになっていき,一面均一の「いま」「ここ」だけがある,とこんな言い方をされる。別の言い方をすれば,グローバル化,インターネット化で世界は一つになった,と。
どうも,そういう単層の,均一の世界に,われわれは耐えられないのではないか,という気がする。かつて以上に,心霊現象やパワースポット,幽霊や祖霊が信じられるようになっている。
三百年平和な時代が続いた江戸時代に,妖怪ブームがあったのは,何も浮世絵,読み本という表現手段があったばかりではないのかもしれない。
参考文献;
阿部正路『日本の妖怪たち』(東書選書)
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人は独りでは生きていけない。
しかし,それは人に頼ることや人のサポートが前提ではない。まず,
人は独りでしか生きていけない,
ということがあるから,というかこれがなくては,人として信用できない。
人は独りで生きていくしかない。
人は独りで生きるしかない。
これを覚悟という。水におぼれかけた人を,向う見ずにすぐ飛び込んではいけない。なぜなら,その人は助けに来た人にしがみつき,共倒れというか,道連れにされてしまう。
覚悟は何で見きわめるか。その人が,自分でどれだけ努力しているかを見きわめる。例えば,自分で服を脱ぎ,何とか自力で努力しようとしているかどうか。でないと,すがりつかれて道連れになるだけだ。
それが覚悟なのではないか。その見極めを人に非難されるかもしれない。それでも,確実に人も我も助けるためにどうするかを考える。それがなくても,とっさに飛び込むかもしれない…が。惻隠の心,と孟子は言っていたが…。
昔,僕はサラリーマンにはなりたくないと思っていた。しかしサラリーマンにしかなれないと思っていた。なぜなら,一人で生きる技量も度量も器量もない。そんな奴に,自立して生きることは難しいと思っていた。そこにはサラリーマンを貶める気持ちがあった。
しかし今は,そうは思わない。自立して,独立自営しているものを偉いなどとは思わない。
どれも,選択のひとつに過ぎない。
毎朝,9時出社し,仕事をこなして退社する,それを馬鹿にしてはいけない。それは,無言の選択と覚悟なのだ。出来不出来はあるかもしれない。技量,器量の差はあるかもしれない。しかし,そこには覚悟がある。9時に間に合うように起き,間に合うように通勤していくという選択,大袈裟な言い方をするなら,そういう生き方を選択し,それを淡々とこなしていく生き方にも,覚悟がいる。
淡々と生きる。
一見平々凡々に見える生き方を馬鹿にしてはいけない。そこに覚悟を見ない人には,所詮人間はわからない。
個人事業主にできることなんぞはタカが知れている。その一人の器量と技量以上の仕事はできない。組織を動かすには,それなりの覚悟と,技量と器量と度量がいる。
僕はそれぞれの優劣を感じなくなっている。感じる心をむしろ軽蔑している。
ともすると起業するのをよしとする風潮がある。しかし考えてみれば,起業した奴が,社会を動かす力を持つことなどほとんどない。そういう人がたまさかいるかもしれないが,社会は動かない。動くのはその人の関係性の枠の中だけだ。
たとえば,コミュニケーションで動くのはコミュニケーションレベルであって,社会も組織も動かない。社会や組織を動かすのは,コミュニケーションとは異なるレベルのアクションでなくては,動かないからだ。まったくレベルというか,位相が異なる。その差異に気づかないと極楽とんぼになる。
話が横へ逸れた。
まず人は,自分がどんな覚悟をして生きているのかを確かめておく必要がある。選択とは,覚悟だ。そういう生き方をすることは,どういう生き方にせよ,そう生きるように生きる覚悟をしている。その覚悟が自覚的とは限らない。
ただそう思っているだけかもしれない。
ただ仕方なくそうしているだけかもしれない。
不承不承そうしているだけかもしれない。
しかしそうして生きている限り,意識しようがしまいが,そこには選択があり,選択がある限り,決断があり,決断がある限り覚悟がある。覚悟がなければ,早々に離脱しているはずである。
人の覚悟に多寡も優劣もない。その人なりの覚悟だ。きちんと生きていないものに,人の覚悟が見えるはずはない。
僕はこの頃,いまさらめくが,
平々凡々,
淡々と生きる,
ということの凄味に気づいた。
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発想に否定はない。
発想にダメ出しはない。
発想に批判はない。
ブレインストーミングに批判がないのは,当たり前で,「ダメ出し」では基本的に,発想できない。「ダメ」ではなく,どうすれば「ダメでなくできるか」「可能になるか」を考える,それが発想だからだ。
当然ネガティブはない。
川喜田二郎氏は,創造性をこう定義した。
本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける。
異質なものを組み合わせて,そこに意味を見つければいい。
いや,意味さえ見つかれば,何でもつなげていい,ということだ。それに良い悪いも,正しい間違いもない。どれだけ新しい意味があるように組み合わせられたか,なのだ。
くだらないなどと言ってはいけない。客観的に見て,どんなにくだらなかろうと,それはアイデアを練り込んでいく端緒に過ぎない。出発点に過ぎない。そのくだらない(と見える)アイデアが練り込みのきっかけを作ってくれるのだ。
ある管理職曰く,
部下に何かいいアイデアはないかと言ったら,出てきたアイデアがどれもこれもありきたりで…
と。この発言がばかげている理由はふたつある。
第一は,「ありきたり」と言っているのは,その管理職だけかもしれない。自分にはありきたりに見えているというだけのことかもしれないということに,いささかも,本人は思いが至っていないことだ。
第二は,アイデアは完成品が出てくるものと思っていることだ。それなら,あんたはいらない。部下から出たすばらしいアイデアを拾い上げるだけなら,はっきり言ってマネジメントはいらない。
大事なことは,アイデアを自己完結しないことだ。
アイデア自身に閉じ込めない,
自分だけに閉じ込めない,
となると,そこに初めて,一緒になって完成させていくという,プロセスが出てくる。そこでマネジメントが生きる。そこ以外にマネジメントをいかす場所などない。
いいアイデアはないか,
と部下に指示したのは,マネジメントでも何でもない。そんなものは,ただ権力を笠にきて,命じているだけだ。
基本,アイデアにくだらないものはない。
くだらないと決めつけている固定観念(これを機能的固着という)があるだけだ。くだらないかどうかは,まだわからない。ただアイデアを練り込んでいく端緒に過ぎない。それを素材に,どう練り込んでいくか,そこにこそマネジメントの神髄がある。
一緒に練り込むプロセスで,
自分の目指すことがより部下に伝わるかもしれない,
自分自身も,そのプロセスで自分の目指すことと部下の受け止めていることのギャップに気づくかもしれない。
部下の発想スタイルが見えてくるかもしれない。
アイデアを考え出すということはどういうことかを学ぶプロセスになるかもしれない。
そうやって一緒に完成させていくプロセス以外に良いアイデアにしていく王道はない。
アイデアを創り込んでいく鍵は,自己完結させないことだ。
自分の中だけ,
そのアイデアの中だけ,
に。ひらめく一瞬,0.1秒,脳の広い範囲が活性化する,という。それと同じだ。どう多様な人と人とのリンクの中で,それに違う光をあてられるか。
一見くだらないと思えたものが,人と人のキャッチボールの中で思わぬものになっていく,
それが発想というものの神髄だ。そうすることがアイデアの練り込みであり,発想というものだ。
そうなれば,どんな(くだらないと思える)アイデアにも無駄はない。
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死生命有
富貴天に在り(『論語』)
という。ここでいう,天には,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つが並列されている。
つまり,天命には,二つの意味があり,一つは,天の与えた使命,
五十にして天命を知る
の天命である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,「死生命有」の寿命である。
しかし,いまひとつ,
彼を是とし又此れを非とすれば,是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)
あるいは,
心虚なれば即ち天を見る,天理万物和す
紛紛たる閑是非,一笑逝波に付さん(同)
で言う天は,「天理」のことだ。もう少し敷衍すると,
道既に形躰無ければ,心何ぞ拘泥あらんや
達人能く明らかにし了えて,渾(す)べて天地の勢いに順う(同)
でいう天地自然の勢いとなる。まあ,自然の流れ,というとあなたまかせだが,天理,自然の道理というと,人間としてのコアの倫理に通じていく。だから,
人事を尽くして天命を俟つ
の天命は,神田橋條治氏流に,逆に言うと,
天命を信じて人事を尽くす
には,コアの天理にかなうはずという,自らへの確信という,主体的な意味がある。
先日降霊というワークに初めて参加したが,その霊を,天と考えると,僕にはわかりやすい。選択に迷った時,何を聞くか,心の声であり,天の声だ。天の声は,天理に通じ,天命に従う。
心虚なれば即ち天を見る
とは,「虚心見理」である。
このとき,自分を離れ,ただ自分を空洞にして,あるいは高感度のマイクとアンプになって,虚心に,天に耳を傾ける。我利我執を捨てることも,利害得失を手放すことも,そうはできない。しかしそういう自分を遠ざけ,心を宙にさまよわせてみる。
之を天に照らす
という。
姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る
と小楠が言うのは,
惻隠の心無きは,人に非ざるなり。辞譲の心無きは,人に非ざるなり。是非の心無きは,人に非ざるなり。惻隠の心は仁の端(はじめ)なり。羞恥の心は,義の端なり。辞譲の心は,礼の端なり。是非の心は,智の端なり。
と老子の言う「是非」を,置けということだ。
是に因り非に因り,非に因り是に因る。是を以て聖人は因らずして,之を天に照らす。(『荘子』)
天の声を虚心に聞く。まだまだ智に因ろうとする傾向が強い。
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無念
も
無念無想も,
ふたつの対立する意味がある。
無念は,一方で,
妄念のないこと,無心,
とあり,他方で,
(正念を失って)口惜しく思うこと,不本意,残念,
とある。無念無想も,一方で,
一切の妄念を離れる,無心,
とあり,他方で,
何の考えもない,思慮の足りないこと,
とある。どちらかというと,いまの使い方とは違うが,僕は,
断念の結果,
あるいは,
不承不承の,本意でない意思決定の故の,悔しさを感じる。本来の意味(正念を失うとか妄念をなくす)とは違うが,本意とは違うことをせざるを得なかった口惜しさ,悔しさを言葉からは感じる。
本来意図していたことができなかったには,
自分の内的要因か,
自分の外的要因か,
いずれの場合が多いのであろうか。あるいは,より悔しさが勝るのは,どっちだろうか。
言葉を換えれば,
自分ではできるはずなのに,他力ないし他人の意志で妨げられたときか,
自分ではできるつもりだったのに,自分の中にはそれをやり遂げる力がないことに気づいたときか,
ここで,どちらに悔しさを感じるかは,その人の性分を強く反映しそうな気がする。
僕には,自分ではできるはずなのに,他力ないし他人の意志で妨げられたときは,言い訳が効くような気がする。つまり,弁明可能なのだ。
しかし後者の,自分ではできるつもりだったのに,自分の中にはそれをやり遂げる力がないことに気づいたときは,ふたつの過ちを犯している。
第一は,自分にはできると思い込んだ自己認識の甘さ,
第二に,それをやり遂げられないことを,ぎりぎりまで把握できなかった見通しの甘さ,
という致命的な判断ミスを犯している。それが仕事面であれば,あえて言えば,さらに,
第三に,見積もりの甘さから,そのために必要なリソースを確保しなかった,マネジメント力のミス,
第四に,その段階でも,人の支援やサポートを求めることの出来なかった,リーダーシップの欠陥,
も加えることができる。
その悔しさは,結構尾を引く。自分の努力で,何とかできたはずだ,というマインドは,自分のコンピテンスに関わるもので,次のやる気につながるものではある。
だからこそ,悔しさが募ると言えば募る。
参考文献;
宮本美沙子『やる気の心理学』(創元社)
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いまそこにあったはずのモノが,目の前から消えている。
いつものところにあるはずのモノが,そこにない。
自分が最後に置いたはずのところに,そのものがない。
まあ,探し物は,そういう形で始まる。一種の思い込みだが,先日こんなことがあった。
出がけに着替えて,外出用の時計をしようとして,ワイシャツの袖口がほつれていることに気づき,あわてて,それを脱いで着替えた。まだ時間は5分の猶予がある。悠々だ,と思って腕時計を探したが,見当たらない。外出のために,手帳,財布などと一緒に,一式をまとめてデスクに置いたはずなのに,探しても見当たらない。
その瞬間に,何が起こったのかがわからなくなって,一種のパニックというか,興奮状態になっている。
いわばトンネルビジョン状態だ。
ベッド回り,脱ぎ捨てたワイシャツ近辺,いつも収納するデスク上の引き出し,探し回っても出てこない。諦めて,別の時計を仕掛けて,でも諦めきれずに,再度ぎりぎりまで探して,不意に,チェアの座面に置いてあるのに気付いた。
その瞬間に,ワイシャツを着替える時,そのほつれに気づいたのは,時計を腕につけようとした時だったこと,そのとき,ワイシャツに気を取られて,時計をその近くにあったチェアに置いた,ということが,一連の流れとして思い出された。
つまり,自分の中に記憶の切断があったということだ。
ワイシャツのほつれを気付いて,着替えようという方に意識が向いた瞬間,時計は無意識で手近な場所に置いて,意識の外に投げ出された。そのために,時計がどこにも記憶されないことになった。
で,後は,ただトンネル状態で時計を探していたのだが,そのパニックに近い状態の時,では,本当に砂のなかに首を突っ込んだ状態だったかというと,どうもそうではない。
一方で,自分の動作を振り返って,それをもう一度辿り直してみようとする自分がいて,
他方で,時計が見つからなければ,別のもう一つの時計で行くしかないと考えている自分がいるし,
また,後5分,3分,間に合わない,と時間を計っている自分もいる,
という具合に,別の選択肢をとろうとする自分がいつつ,しかし,時計がふいに消えた理不尽を承服できず,いらだち,悔しがっている自分がいる。
テイラー氏が言うように,
わたしは,反応能力を,「感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力」と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。
つまり,通常無意識で反応しているのを意識的に,90秒を目安に,自分で選択できる。90秒過ぎても,パニックが続いているとしたら,そう機能するよう自分が選択し続けている,ということになる。
つまり,そのときの僕は,
別の時計をはめて出かける選択も,
探すのを中断する選択も,
いずれも取らず,探し続ける選択をした。しかも,時刻を計りながら,探し続ける方を選んだのは明らかだ。理性では,後で帰ってから探そうというのを,感情が探し続けさせたという言い方もできなくはないが,不意に消えたことが納得できず,諦め悪く,そこにとどまり続けた。
しかし探す手立てがないことも,わかっていた。
そういう状態をぎりぎりまで選択していた。時間の許す限り,という点で言うと,選択していたことに違いはない。
たぶん,帰宅後に探せば,座面の時計がすぐ飛び込んできたに違いない。しかし,ずっと心に引っかかったまま仕事に出かけるのは,気が重かったことも確かだ。この場合は,ぎりぎりまで引っ張って,探し続ける選択をした自分は,結果的には正しかった。
参考文献;
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)
上へ
拘泥するというとあまりいいニュアンスがない。しかしこだわりというと,少しまたニュアンスが変わる。
何かにフックを掛けられた状態,何かに惹きつけられた状態,そこから心が離れられなくなった状態,といっていいか。しかし悪いこととは限らない。
モノやコトに執着する(こだわる)
ヒトに執着する(こだわる)
カネに執着する(こだわる)
いずれも,自分の想いに執着していることになる。
こだわりにはプラスとマイナスがある。執念も同じ,虚仮の一念といっていい。思いが岩を貫くこともある。
だから,一点集中の良さは,ある意味で,オセロゲームの黒と白の逆転のように一気にひっくり返る。
何かにこだわれば,それは尖がりにもなる。しかしそれが,邪魔して,周囲の変化に気づけず,時代おくれになる。
集中しているから気づけることもあるが,集中しているから,周囲が見えないこともある。
例が悪いが,ストーカー。たぶん自分の想いに振り回されている。思い詰めているので,トンネルビジョンというより,すべての解釈は自分の都合よく変えられている。邪魔をする周囲も,場合によっても,俺のことがわかっていない,と思う。
しかし現象学的に言えば,正しい。人はすべて自分の幻想の中に生きている。見えている現実は人によって違う。いやいや,そもそもクオリア的に言えば,同じ赤だって,同じ色に見えているとは限らない。
執着は,しかし生きるのに不可欠なのではないか。生きたいという思いがなくなれば,食べたくなくなる。動きたくなくなる。いわば,自己完結し,縮小再生産している状態だ。最後には,呼吸するのも面倒になる。
認知症にならない三原則というのを,昔「ためしてガッテン」で言っていた。
脱メタボ
有酸素運動
コミュニケーション
特にコミュニケーションは,脳を自己完結させないためには必要だ。人とのコミュニケーションは,独り言と違って,自分の使わない脳の領域を使わせられる。そういう会話で,眠っていた記憶が引っ張り出される。忘れていた感覚がよびさまされる。それだけで,収斂していた視点が変わり,トンネルビジョンから抜け出すことになる。それには,家族間の,「ふろ」「めし」「ねる」は,コミュニケーションにはならない。脳の固定した機能しか使わないからだ。こういうのを「機能的固着」という。それでは,トンネルビジョンと同じだ。
たぶん,だが,自分が執着していることに気づいていれば,つまりは,自分の執着,あるいは執着する自分を,メタ化できていれば,トンネルビジョンからは抜け出している。
しかしそれが幸せとは限らない。執着が片思いと知った時の切なさは,知らないで,一途に視野狭窄に陥っている,いわばフロー状態近似の心理の方が,幸せかもしれないのだ。
幻と気づかなければ,現はない。執着に没入していることが,必ずしも不幸とは限らない。
上へ
マンガでは,発せられた言葉が,人物から吹き出しで表現される。
しかし揚げ足を取るようだが,あれは,
内語
か
独語
と同じく,言葉は閉じこめられている。人に向かって開かれていない。
それでなくても,口頭のメッセージの歩留りは,25%という説がある。四分の一なのである。閉じられていては,もっと低い。
あるいは自覚的には,言葉を放っている。しかし,
その言葉にくっついている思いは別に閉じられている。
あるいは,
言いたい言葉を半分にして言う。
あるいは,
想いが言葉にならない。
いずれにしても,言葉は,肝心なことを吹き出しに閉じ込めている。
想いは必ず通じるということを,誰が信じさせたのだろう。
不徳のせいか,通じたことはほとんどない。
人はもともとまったく違う方向を向いている。というより,別々の方向を向いて生まれてきた。それが会話程度で一致するはずはない。
違う位置にいて,違う方向を向いている。
にもかかわらず,というかだからこそというべきか,人は嫉妬する。
僕は,嫉妬というのは,その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する悔しさといっていい。
しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。
その方向を向いていないのに,その方向にいたいと思う,その矛盾が嫉妬を生む。
まあ,悲しい性というか,おのれの方向について無自覚故なのかもしれない。
変えられないことに拘泥するより,変えられることに目を向けたほうがいい。
確かにそうだ。しかし変えられそうもないことを,変えようとして必死になっていくのも人生なのかもしれない。
一念,岩をも徹す,という。あるいは,
虚仮の一念。
僕は変えられないことを諦める小賢しさより,変えられないことを変えようとして一生を棒に振る人間が好きだ。「棒に振る」とは,他人の評であって,本人にとって,ずっとフロー体験なのだ。
そういう生き方がいい。
上へ
あの時,あれを選んだから,いまがあるというような,そんな大きな分岐点は,そうそうあるものではない。しかし人生は,日々分岐点だ。出かけるか出かけないか,とか,昼に何を食うか,とか,大小さまざまな決断の連続の中で,人生というタイムラインが,分岐していく。
そうしたいくつもの分岐点を分かれた結果が,いまの自分に至る。当然別の分岐に行けば,別の人生になる…かもしれないし,結局遠回りしても元へ戻ってくるかもしれない。しかし,いまの自分は,その分岐を経ているので,「たら」「れば」は自分を否定することにしかならない。
分岐というのは,それを意識する何かがあったからで,無意識で通過してきた分岐点は一杯ある。どんな選択肢があったかすらはっきり覚えていない。
変な言い方だが,選ぶ選択肢がはっきりしているときは,どちらを選ぶとこうなる,というような,イメージというか,マイナスのイメージなら不安で,プラスのイメージならわくわく感のようなものが浮かぶ時がある。あるいは,色かもしれない。それは,直観的に信じていい気がしている。
あるいは見えている(ような気がする)のは,パターンかもしれない。こういう人生というパターンが瞬間見える,だから選んだ瞬間,そういう人生が始まっている。
確かに,ある面,人生は分岐点の連続には違いないが,それは,
可能性の選択なのか,
不可能性の非選択なのか,
困難の非選択なのか,回避なのか,逃避なのか,
妥協の結果なのか,
『用心棒』の桑畑三十郎が,棒切れを投げて,行き先を決めたように,さいころを振って運否天賦を決めたところで,結果は変わらないのかもしれない。
たとえば,40代早々に,というか三十代の終わりに,会社を飛び出したが,自分がサラリーマン以外に仕事が向いているとは思えなかった。与えられた枠をはみ出すことは,確かに多々あったにしろ,自分に枠そのものを創り出す器量があるとは到底思えなかった。まあ,与えられた枠組みの中で平々凡々に生きていくタイプと思っていた。
しかし結果として,出ることを選んだ。どろどろの人間関係と無責任体質に,時間の無駄遣いに見えた。会社を背負ってやろうという気にはなれなかった。腐っていると見えた。
だから困難を回避した,
というのが選択理由かもしれない。でも,違う人生のパターンが見えた気がしたのも確かだ。
自由
というものだ。しかし同時に,ある種の寂寥感があった。悔いに近いが,もうすでに踏み出してしまった後だ。
自由とは飢える自由でもあり,不安の自由でもある。
その間,図書館に通っていた。時間を持て余したのではなく,通勤の習慣が残っていて,体が納得しなかったのだ。
そこで得たものがある。自分一人でとことん考えて考え詰めた作品が,一定の評価を得たことで,自分の考えのオリジナリティを意識したことだ。マジョリティにはなれないが,マイノリティなりに,自分の尖がりは表出できる。
そのときのフロー体験の,脳が沸騰する感覚は,ビジネスマン時代にたったひとり商品開発をこつこつ熱中してやっていたときの熱闘とはまた違う,脳だけが膨れ上がり煮沸する陶酔であった。そのときの,この世の中にこんなことを考えるやつは自分しかいないという孤高と矜持の体感覚は,感覚自体が薄れても,記憶にやけどのように残っている。それが僕の自恃のエンブレムである。
どんなに凹んでも立ち直っていけるのは,そういう他にない自分というコアらしいものをそこでつかんだせいではないか,それが,自分の分岐点を,自分で意識した最初かもしれない。
考えてみれば,最初に得た自信だったかもしれない。
まあ人様から見れば,出たとこ勝負,行き当たりばったりというのだろう。以来うん十余年,なんとかかんとか食いつないできた。
選択が正しかったかどうかの答えは,死ぬ時まで出まい。まだもう少し生きるつもりだから。
上へ
人との関係を,つながりという言い方には違和感がある。誰とつながっているかが大事なので,誰とでもいいというわけにはいかない。
僕は昔から,ひとと意味なくつながるくらいなら,一人でいよう,という思いが強かった。
「連帯を求めて孤立を恐れず,力及ばずして倒れることを辞さないが,力尽くさずして挫けることを拒否する」
これは,1969年1月,東大の安田講堂に立てこもった全共闘の学生が,壁に書き残したものとされているが,ほぼ同時代を生きた僕の記憶では,「連帯を求めて孤立を恐れず」自体は,全共闘運動の中のスローガンとして人口に膾炙していたもので,それが落書きされたのだと思う。事実関係は逆ではないか。
ともかく,この言葉そのものに,僕は強い共感を覚える。その是非は脇に置く。
そこまで,孤立して,おのれを尽くしたことがあるか,
と問われて,どう応えるか,そこにその人の生き方があらわれる。
ではどういう人とつながりたいのか。これは難しい。個々別々だからだ。
イメージ的には,ベン図の円が接しているか,重なりがどの程度か,あるいはまったく重なるか,自分の心地よい関係は,ベン図の円が接している程度がいいと思うが,必ずしも現実的にはそうでもなく,限りなく重なるか,限りなく遠ざかるか,どうも極端になる傾向がある。
しかしここの円が確立していなければ,どちらかが呑み込まれるか,二つ足して一つの円というような関係になる。それは僕は望まない。
相性の良し悪しとか,好悪とか,ということもあるが,何というか,両者空気のような関係がいい。いずれにとっても邪魔にならず,といっていっしょにいてほしい。
何かを一緒にするというビジネスライクな関係をここで考えているわけではないので,あくまで私的なつながりのあり方のようなことだ。
では逆に,どういう人とはつながりたくないのか。
まず,僕は,何かというとお金のことを言う人を好きになれない。そんなことは,その人の生き方とは関係ない,結果でしかない。はじめから金持ちだった奴も,貧乏たれで,金にあくせくしていたものも,どう生きているかだけが問われている。そういうと,メンタルブロックということをいう。そうではないのだ。
金は天下の回りもの
という言い方がある。所詮回っていくし,回っていかなくては,世の中がドン詰まりになる。何十年も生きてくると,金などどうにでもなると,気づく。別に人間万事塞翁が馬,ということを言いたいのではない。事実金は回る。タンス預金していたお金が,振り込み詐欺で世の中に回るのも,その是非を論ずるのをやめてみれば,確かに金が回っていくのに違いない。
次は,おのれを売り出すことに夢中な人。そういう人は嫌いではないが,僕はちょっと引く,というだけだ。自分を売ろうとせず,引っ込む人も,謙虚でいいが,一生そのままでいいのか,と問いたくなる。しかし売り込む人のそばで,引き立て役は御免だなと思っている。多寡は違えど,自分を売り込むことをしたくないわけではないからだ。
次は,信義の問題だ。誠実さとか誠意とか,あるいは人としての品格とか,そう言ったものは,所詮自分の主観の問題だから,絶対的な基準はない。たぶん,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,それは自分の信義観を人に投影しているだけかもしれない。
最も嫌いなのは,だらしなさということに関わる。生き方だけではない,身の処し方,見過ぎ世過ぎの仕方にだらしなさを感じると,近づきたくなくなる。あるいは潔さに欠ける,という言い方のほうが適切かもしれない。それは別に覚悟とか決断とかを言っているのでも,性格のさっぱりしているかどうかを言っているのでもない。執着するのも,諦めの悪さも関係ない。
締まりがない,
節度がない,
ということになるが,かつてぼくも「のんべんだらり」と言われたことがあるので,そう利いた風なことはいえないが,
飄々としている,
のと
野放図
との違いといっていい。あるいは,
きまま
と
自由
との違いといってもいい。その違いは,主体的に選んでいるか,どうかなのかもしれない。たぶん,自分の意思でそうしているかどうかが,最も気になるのかもしれない。
でないと,ベン図の円同士が,緊張しない。
上へ
マジに,死から考えるのが,自分にとって,もはや当たり前になった。もうあと何年かが,気になる。そういう人間にとって,「未完了」などという言葉は,ちまちまして見える。その言葉に器量もスケールも感じられない。
死から考えると,どんなことも尺度が違う。
死はそれほどにも出発である
死は全ての主題のはじまりであり
生は私には逆向きにしかはじまらない
死を<背後>にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ(石原吉郎「死」)
もうひとつ,
重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(石原吉郎「はじまる」)
僕は心底,コーチングで言う「未完了」という言葉が嫌いである。「未完了」と言った瞬間,評価が入っていることに敏感でなくてはならない,と思う。「完了」が是で,だから「未完了」は,非となる,と。
そうだろうか?
未完了ということは,「継続中」ということだ。人生もまた継続中だと考えれば,いまの時点で完了していないだけだ。「仕掛かり」状態で生きていくのが人生ではないのか。その仕掛かりは,いまを基準にした短期間でクリアするのではなく,一生をかけて片づけていく,そういうものではないか。
いや,そもそも人生で片付くなんてことがあるのか。すべては完成しないまま,継続する。完成といった瞬間,そこで行き止まりになる。人生に完成なんてない。すべてを同時進行で,平行に仕掛かりにしていく,そのあいまいさに耐えられない人間が,まあはっきりいって「仕掛かり耐性」のない人間が,考えた概念に思えてならない。単純に完成=是,と。余りにスケールが小さい。余りにも人生を見るパースペクティブが狭い。人間の器量を疑う。
いつやるの?
いまでしょ。
と言われそうだが,これは受験生に向かって言っている。しかしこれだって,いまやろうが,三年後やろうがどうでもいいのではないか。十年後再受験したっていい。それは受験生という概念を狭くとっている予備校教師らしい発想でしかない。彼にとっては,それが「いま」であって,そうでないひとには「いま」ではない。
未完了ということを言う人間の小賢しさが嫌いである。
多く,未完了の例示に挙げられていることが,実にくだらない。それを考えた人間の器量が知れる。お里が知れる。人生のスケールが小さい。人を見るスケールが小さい。
蟹はおのれに似せて穴を掘る。
自分のことを言っているのだ。「未完了」を気にしている小心で,スケールの小さいおのれという自分に合わせて他人を計っている。
完了って何?
人生における完了って何?
完了と完結とは違うのか?
完了とは,文法でいう完了形の意味では,完結また完結した結果の存続状態,とある。完結で変わらなければ,それでドン詰まり。完結は自己完結というようにそれ自体で閉じている。
人生に完了などということがあるはずはない。いつまでも,死んでもなお未完了は続く。
そもそも,僕は,その人にとって本当に必要なことは,必ずやる,と信じている。
必ずやらねばならないことは,必ずやる。やらないのは,その人にとって「いま」ではないからだ。いま必要ではないからだ。やめられないのは,本当はやめる必要を感じていないからだ。死ぬまで「いま」が来ないかもしれない。しかし,それがどうだというのだ。
その時間を無理やりつづめることは,無駄だ。むしろその人の人生のテンポを変えることだ。急ぎたい時は,人は急ぎ足になる。人様がとやかく言うことではない。
そう信じない人が「未完了」を口にする。あるいは,「未完了」という言葉を学んだ人がその言葉でおのれを振り返る。ひとは,もっている言葉で見える世界が違う。「未完了」などという小賢しい言葉でおのれの大きな人生を計ってはならない。それを考えた人物と同程度の器量になってしまう。
「未完了」というラベル(仮説?)に合わせて自分の人生を点検するほどあほ臭いことはない。
そもそも未完了という評価は,スパンを狭く考えすぎだ。そういっている人の器量を小さく見せるだけだ。
手塚治虫は,頭の中に3つくらいの次回作の構想があった,という。
ギロチン台に向かう貴族は,処刑台のところで,読みかけのほんのページを折った。
カフカの『城』も,埴谷雄高の『死霊』も,プルーストの『失われた時を求めて』も,ムージルの『特性のない男』も,中里介山の『大菩薩峠』も,夏目漱石の『明暗』も,ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』も未完…
それをしも,未完了というのか。
人生に完了などはない。すべては,継続中なのだ。人は,その継続しているままに死を迎える。そういうものだ。
これは生き方の問題ではなく,死に方の問題だ。
上へ
例えば,好きという思いを,伝えても,相手が自分の想いの土俵に乗らなければ,
片思いであり,
無理強いをすれば,ストーカーになる。しかし考えてみれば,何もこれは特殊なことではない。
普通の人と人とが知り合い,わかりあう,
というのとどこも変わりはない。
自分の想いを共有しあうというのは,そう簡単ではない。しあっているつもり,と言うだけのことかもしれない。
安易にわかりあう,
つながり合う
という言葉が嫌いなのは,そのあたりの微妙な齟齬やすれ違いに敏感なだけだ。思い込んで,その気になるのに耐えられないだけだ。
下手をすれば,単なる思い込み,と言うか幻想に過ぎないかもしれない。それでも,つながっているという感じが好きなら,それはそれで,僕の関知しないところだ。しかし,それがストーカーと同じくらい主観的で,主情的なことだと僕は思っている。
だから,「心のケアお断り」と張り紙をされてしまう。
同じ土俵にいないのに,あるいは同じ土俵に乗りたくもないのに,
同じ土俵にいるという前提で,話を進められても困る。
同じ土俵にいたじゃないか,と迫られても困惑する。
何と言うのだろう,そういう思い込みは,それぞれ,心には同じ土俵の上で会話している二人の関係を思い描いているが,それぞれの描いているものが同じという保証はない。まったく別の土俵に乗っているのに,二人は,それぞれ同じ土俵の上に乗っている自分たちを思い描いているだけかもしれない。
同じ赤色を見ていても,見ているのが同じ赤とは限らない。
人はミラーニューロンで,相手を見倣う。しかし見倣っているものが相手と同じとは限らない。なまじいに,相手の振る舞いから相手の心が読めるだけに,それが自分の思い描くものと,同じと思い込みやすい。
しかしそれはあくまで幻想だから,わずかな行き違いで,心理的破綻はくる。
でもだ,皮肉ではなく,お互いが同じものを見ているとお互いが信じられている限りは,その違いは,それぞれの中で微細なものとして無視できるほど,関係が心地いいのかもしれない。なまじ齟齬が見えない分だけ,心地よいと思えるのかもしれない。それを信頼というのだろう。しかし,それが儚い幻想の上に立っている,と最近思えてならない。
別にシニカルに言っているのではない。信頼関係というのはその程度だということだ。人は,所詮一人ぽっちだ。何人に囲まれて死のうと,死ぬのは一人だ。それが野垂れ死にだろうと,祝福された天寿であろうと,同じだと最近思っているせいもある。それを寂しい人だと称する人がいる。いやいや,死が迫った時,どんなに親身に世話をし,親身に相談に乗ってくれたところで,その不安を分かち合うことはできない。わかることもできない。
その上でなくては,両者の土俵なんて創れっこないのだ。
初めっから,信頼だの,絆だの,つながりだのと言う,浮ついた言葉ありきでスタートする関係を,最近,ますます信じなくなった。まあ,もともとと言えば,原点回帰に過ぎないかもしれないが。
むしろ,その両者の越えられない溝というか,淵というか,そこからスタートし,幻想でもいい,ハイパーな土俵を創ることからしか,スタートしない。その厳しい,隔絶をわからなければ,安易にひとがわかるなどと言ってはいけない。
上へ
アーサー・C・クラークは言っている。
権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている。
不可能だと人からいえるほどとんがる,そういう気概がいる。
ただしい間違いに気を取られると,自分のとんがりを忘れてしまう。
最近の芸術の世界を見た時,日本は老成化しているとつくづく感じる。特に文学だ。尖(とん)がった人が出てこない。出てくるのは,新しいジャンルだ。芥川賞や直木賞は,本来新人の登竜門のはずだ。しかしいつの間にか,変質してしまい,目標に変わってしまった。
そこからは若い世代を熱狂させる,尖がった作品は全くでなくなった。古いが,村上龍以来,尖がったものはない。素材や内容が尖がっていても,文学として尖がっているとは言えない。文学としての冒険がなくてはならない。それはからっきしない。
だいたい石原慎太郎のような,何を勘違いしているのか,『太陽の季節』以外小説らしい小説を書いていない老人が,選考委員を,つい最近までしていたこと自体,間違っている。老人に文学の尖がりを見る目があるはずはない。そういって選考委員を早々に辞めた文学者(小説家ではない。小説家は小説というジャンルにのっとって書く,文学者は新たな小説の枠組みを作り出す。今日,中上健次以降の世代に,小説家はいるが,文学者はいない)がいたが,おのれを知っているというべきだろう。
最近,ある展覧会で,若い作家と話をさせてもらった。そのとき,
テーマ(表現しようとする主題,貫いているものと個々の作品のそれの両方がある)
モチーフ(自分を駆り立てている動機となる考え方,発想・着想,着眼点)
問題意識(テーマやモチーフを目指すものとして,それと現状との間で意識しているギャップないし問題)
を,ちょっと区別して聞いてみた。ほとんど変わらないと言えば言えるが,テーマも,モチーフも,問題意識も,自分自身の絵を描く姿勢全体に貫かれる部分と,各作品毎に個々に持つ場合とがあるが,僕は,一つの画期というものがあると感じていて,いくつか問題意識をもって描くうちに,一つの到達点に達する。その瞬間に,自分に見える世界が変わる。
勝手ながら,それらしいものを見た気がした例がある。そこへ到達しないと,それは見えない。それも,その瞬間気づくとは限らない。
モチーフは尖がっていても,それをテーマにするとありきたりになる,
問題意識はクリアだが,それを表現する技術がともなわない,
技術的な問題意識ははっきりしているが,その先のテーマにたどりつけない,
そのとき,自分のとんがりを大事にしたい。ひととちがう,尖端の,どんがった部分。それを見つけなくては,人真似か,二番煎じに終わる。
何ごともぴんときりはある。
しかし,小さくてもピンでなくては,意味がない。そこに自分がある。
僕は欧米(だけではないが,そういう人が多い)の思想のお先棒を担ぐ人を基本信じない。そんなものは,あなたではない,それは人真似でしかない。一生人真似の思想を担ぐ人は,人真似の人生を送っている。それで金持ちになろうと,著名になろうと,そんなものは屁みたいなものだ。所詮,人真似は人真似。
自分でとことん考え詰めて,自分の尖がりが発見できなかった人だ。
とことん考え詰めて,自分(の考え)に到達することのできなかった人は,考えるということをしなかった人と同じだと感じる。その人が何を旗印として掲げているかにそれは現れている。何某の弟子,何某というひと様の思想,考えを掲げている人は,遂にその人の奴隷でしかない人だ。
横井小楠は言っている。
学ぶとは,書物や講学の上だけで修行することではない。書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える,(私の話を)そのまま書きとめるのではなく(それでは私の奴隷になることだ),おのれの中で,なるほどこのことか,と合点するよう心がけるが肝要だ。合点が得られたときは,世間窮通得失栄辱などの外欲の一切を度外視し,舜何人か,小楠何人かの思いが脱然としておこる,
と。それが尖がるということだ。誰かの奴隷になるのではなく,おのれをおのれとして突き出す。この世の中に押し出す。それを気概という。とんがるという。
日々自分の頭を考えている人は,誰かの思想のお先棒担ぎをしている暇はない。
「守破離」の「守」は戦いである。学ぶ相手との戦いである。自分をとがらせるための踏み台としなければならない。その結果として,「破」が来る。尖りで蹴破るといっていい。「破」はすでにして「離」ではない。尖っていても,おのれの行く先が見えていなければ,師の近接領域に,巣立ちの出来ぬ雛のようにうろうろすることになる。それは「接」に過ぎぬ。「離」とは,遠心力でなくてはならない。相当の脚力がなければ「離」にはならない。
上へ
人に良く思われたいと思わなくもないが,
べたべたの関係
と
スカスカの関係を綱引きしている。
記憶が確かではないが,司馬遼太郎が,『翔ぶが如く』だと思うが,大山巌が,従兄弟の西郷隆盛について,「声望好き」というか「徳望好き」というかそんなことを言っていたと覚えている。人に担がれてしまうと,それを嫌と言えない。それが西南戦争で引っ張り出された遠因だと,評したというのだ。当たらずと言えども遠からず。人には,誰もそういう対人関係における難所をもっているらしい。
人に好かれたいという好かれ方には違いはあるが,大なり小なり,人に好かれたいというひそかな思いはある。それが恐れや不安になると,病気に近づく。
僕は相手の好意が感じられなければ遠ざかる癖があるので,そこに難点があるのではなく,人との距離に敏感なところが難点と言えば難点かもしれない。
微妙な距離感に,結構感度がある。といっても,誰もがそうなのかもしれないが,相手が手を突っ張ってくる,心の感覚が見える。もちろん,そう勝手に思い込んでいるだけの妄想かもしれない。しかし,ミラーニューロンが,距離を無意識で示すしぐさや目つきに敏感で,相手の心の動きが見える気がしてしまう。
それって,両者が同じ土俵にいても,ハイパーな土俵は自分にそう見えるだけで,相手はすでに土俵を下りて,あるいはおりかけて,いる感じなのかもしれない。
つくづく人との関係は難しい。それを自分のコミュニケーションの難所と感じてきたのだが,そうではないのかもしれない。人はそこをスルーできる。しかし僕にはそれがスルーできない。それだけのことだ。だから人にはコミュニケーションは難しくないと見え,僕にはコミュニケーションが難しいと見える。本当は,コミュニケーションの問題ではなく,ソーシャルスキルの問題かもしれないし,人との対人関係の取り方の問題かもしれない。
あるいは,対人距離の取り方,間合いの問題かもしれない。
ずっと小さいころ,学期の途中で,父の仕事の関係で引っ越すことになったとき,ふたつの思いがあった。
ひとつは,むかう先への不安だ。見も知らぬ街へ,しかも六年の三学期から転入するというのだから,まあ不安にならない方がおかしい。
しかし一方で,いままでいた街から離れられることに,少なくともほっとしていた。もちろん人並みに寂しさがないでもないが,子ども心に,どうせ数年で転居するとわかっていて,何かとかその間,うまくやりくりして過ごしたいという背伸びというか,肩肘張ったというか,一丁前の言い方をするなら,何とかうまく関係作りをしていきたいという,それなりに無理な身構えがあったからに違いない。
いつかわかれるという関係は,悲しいが,どこか気が楽だ。ずっとこのまま続くという関係は,安心かもしれないが,どこが気が重い。
それが自分のコントロール外の要因でそうなる場合を別にすると,無意識で僕は自分でどこかで,期限付きの関係というものを設定しているらしい。そう考えると気が楽というのもあるが,そもそも永続する関係というものを,家族以外では想定しづらい。いや,そもそも家族ですら,どこかで,この場合は,死という別れだが,それを予感していないわけではない。いつもそう思っているのではないが,そういう感覚が,どこかにある。
自分勝手という面があるのは否定しないが,それ以上に,孤独というものをどこかで意識している,ということなのかもしれない。
上へ
どうも孤独とか孤立がマイナスのイメージで語られるのが,僕には,しっくりこない。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりで立てるということではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれ自身というものを大事にするからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりでしかできないことがあるからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりの器量を頼らなければ誰も頼れないからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりで世界に立ち向かう必要があるからではないか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりでしか戦えないことがあるからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりで戦う勇気があるからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりの技量と力量だけでやり遂げようと思うからではないのか。
何かべたべたとやわにひととつながるのを,僕はよしとしない。ぎりぎりの孤独と孤絶の中に立ったことのない人を僕は信じない。どこかにもたれ合う心を感じる。とことん極限状態のなかで仕事を一緒にしてみるとわかる。一人で立てないものは,共には立てない。
吉本隆明の,
ひとりつきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから
ひとりつきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐのは卑怯だから
僕はでていく(「ちいさな群れへの挨拶」)
そして,
ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる(「同」)
という。そういう志なしに,やたらと群れるのを僕は,いさぎよしとしない。
そこに,甘えはないか,
そこに,逃げはないか,
そこに,言い訳はないか,
そこに,回避はないか,
そこに,安心はないか,
そこに,依存はないか。
そこに,心やすさはないか,
そこに,防御はないか等々。
どこかに自分で立つのを逃げている,避けている心がある。その弱さを,人によって助けてもらおうとしている。
「思い群ならず」という,杜甫の言葉がある。李白をほめたたえた詩の中で,
白や詩敵無し,飄然として思い群ならず
とある。これもその一つだ。牧水の,
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにもそまずただようふ
も,どちらかというと,僕には矜持に聞こえる。強がりかもしれない。しかし強がりにこそ,おのれがある。強がってみなければ,自分の境界線も,閾値も見えはしない。
石原吉郎の詩に,
私が疲れるのは
私の自由において
私が倒れるのは
私の自由において
いつの日にあっても
私が倒れうることを
自由なその保証として
私よ たじろがず
自由に立ちつづけよ(「私の自由において」)
とある。その自由は,孤独の中にしかない。つながりは目的ではない。一人一人が自立して,おのれの拠って立つものを持たなければ,弱い。サッカーの本田圭佑が,「個」をあえてあそこで言ったことには意味がある。もたれ合っては,チームは成り立たない。
優れたサッカー選手は,グランド全体を俯瞰する視点を持ち,試合の流れの中で,自分がどうポジショニングすることが,自分が有効かを絶えず考えている,と言われる。「個」とは,そういう自分の立ち位置を自分の責任で決めることだ。目前のボールを追っかけているような選手には,たぶん孤独はない。
よくトップは孤独だという。それを本人が言ったら,「あほ」だと僕は思っている。自分の下に何万いても,自分の代役はできないという意味で孤独だが,その孤独は,自立した孤独であり,孤独でないトップは,信ずるに足りない。ここでいう,孤独とは,誉め言葉でなくてはならない。
たった一人で,おのれと,さらには何かと戦うことのできない,そんなやわな精神で,人とともに立てるのか。
これが僕の命題だ。
鳥羽伏見で敗れ,逃げ帰った徳川慶喜に代わり,それまでの慶喜との確執もこだわりもすべて擲って,黙ってすべてを引き受けた勝海舟への,いわれなき諭吉の批判に,
行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存候。
こう返事した。この勝の強烈な矜持が好きだ。ここに「孤独」の理想を見る。
非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ(「非礼」)
だから一切の言い訳を言わない。
おれにむかってしずかなとき
しずかな中間へ
何が立ちあがるのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな出口を
だれがふりむくのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな背後は
だれがふせぐのだ(「しずかな敵」)
静かに,屹立する個でなくてはならない。でなければ,手をつなぐことは逃げだ。
草莽崛起
と松蔭がいったとき,「恐れながら天朝も幕府もわが藩もいらぬ,ただわが六尺の微躯あるのみ」と書いた。その矜持であり,自負がなくてはならない。
村上一郎は言う。
草莽が自らを草莽とみなすのは,…誰に選ばれるのでも命ぜられるのでもなく,ただ自任あるのみ…
と。そこには,孤独などという言葉が挟まる余地すらない。
参考文献;
村上一郎『草莽論』(大和書房)
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芸術家の問題意識というものを考えてみたい。
問題意識は,自分の求めているものと現状とのギャップを意識していることと単純化するなら,ここから,
@自分の求めているものがはっきりしている
A現状の自己の状態についての自己認知がある
の両者が不可欠になる。この枠組みは,自分のあり方や自分の目指すものという大きなシチュエーションでも言えるが,個々のテーマや作品のあり方についてもいえるのかもしれない。
僕は芸術家ではないので,詳細について深入りして語ることはできないが,たぶん最初は作品に出会うか,作家に出会う。そのときは憧れだったり,これこそ自分の気持ちの代弁だと思うものに出会う。僕らの時代だと,太宰治がかつてそうであり,吉本隆明がそうであったように。今なら村上春樹ということになるか。
僕は,単なるディレッタントでしかなかったにしろ,作品に出合い,それを目指したが,その目指すものと,自分の現状とのギャップに気づくのに,人は時間がかかる。なぜなら,自分というものの持つリソース,違う言い方をすると,自分にしか表せない何か,自分だけの表せるオリジナリティに気づくことが,実は,大事なのだが,めざすものへの憧れがホンマものであるほど,そこに目が向きにくい。
ここで言っているのは,自分の才能の限界というのではない。そういうのは,もっと前に気づく。到底それは表現できない,ということに,自分が表現について彫琢すればするほど,自分の表現技術が上達すればするほど,実はそのモデルは遠ざかり,より高みへと登っていく。そこまでの距離の大きさに,表現技術に収斂すればするほど気づくからだ。
技術ではなく,テーマとか切り口とか自分が描きたい世界とか,自分なりの独自の世界を見つけた時,技術の絶望からは少し目が遠ざかる。しかしそこで,世界を表現するということについての,大きな落差,に気づく。その時本当の意味で自分の才能が問われているが,見つけた独自の切り口に夢中になる。また夢中にならなければ,その先はないのだが。
もうひとつ,ひとつひとつの作品を漫然と書く(描く)ということはない。ただ技術的な彫琢として,習作を書くということはあるが,それは作品として完成させるということとは別の,単なる練習で,そうではなく,作品を書こうとするとき,そこには,テーマとモチーフとがある。そこに問題意識がやはりある。
@目指している完成像
A現状の未知状況
現状は,この場合,自分のリソースではなく,作品世界を描くために必要なデータであったり,資料であったり,素材であったりする。
しかし作品を創るときに必要なのは,まず,
どんな世界にするか,
なのではないかという気がしている。
その世界を,時間と空間を,もっと突き詰めていくと,
その場,そのとき,
を決めることだ。そこからは,どういう立ち位置からそれを眺めるか,小説なら,それは語り手になる。
R・バルトはこう言っていた。
文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。
(『S/Z』)
それをパースペクティブと呼んでいる。パースペクティブ,窓をどうとるかで,眺めが変わる。どの位置で,どう眺める語り手の位置にするかで,見える風景が変わる。このとき,
完成像と自分の現状とが,
そのとき,その場で一つの統一された世界になる。
はじめて,そこで世の中のレベルと向きあわされる。腹の底から,震えるほど,自分というものの才能に思い知らされることになる。
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たとえば,個人的でも,何かの場においてでも,人と断続的に関わっていて,結構踏み込んだ会話をするようになったとする。そのうちに,相手に自分との関係についての姿勢のようなものがほの見える。たとえば,時間的空間的に制約を設ける感じを受けて,相手に,変だな,と感じたとする。それが何度か重なると,ちょうど,会話は弾んでいるようでも,手でこっちを突っ張っているような感じを受け,ああ,それ以上踏み込んでこないでというシグナルなのだなと感じ,その相手の薄い隔てを嫌だなと思うようになり,やがて,その常態が,はっきり見えてくるようになると,こちらへの警戒心か,境界感か,いずれにしても,明確な距離設定,この人とはこういう距離感でいこうというのが見えてくる。その瞬間に,相手の僕への評価が見え(たような感じがして),つきあいそのものの未来が見えた気がする。そうなると,今度は,僕が距離を明確に置くようになる。いきなり,断絶することも,徐々に遠ざかることもある。
好意の互恵性
というのがある。相手から好意を感じると,相手に好意を返す。相手に好かれていると,相手を好きになる。しかし,それは逆もある。相手の距離感を感じると,相手に距離感を感じる,というように。
それは自分の受け止めなので,そう感じたけど,本当はどうなの?等々とは決して確かめない習慣になっている。言葉を信じていないわけではなく,そういう自分の体感覚をコトバで確かめてみても仕方がない。聞かれた方だって,答えようがないはずだ。だから,そんなことはない,という。しかしそれを確かめること自体,不明確だったり,感覚的だったり,あるいは無意識だった距離そのものを,意識させることになり,結果として距離ができることになる。
しかしこれは,あくまで「僕の問題」なのだ。対人関係から言えば,「二人の問題」あるいは「関係の問題」として,それに二人で向きあえばいい,と言われるかもしれない。恋人同士や友人同士なら,そういうこともあるかもしれない。しかし,僕は,これを「僕」の問題と感じる癖がついている。というよりあくまで,「僕の」感じ方の問題に過ぎない。それが正鵠を射ていようと外れていようと,ぼくの対人評価の問題で,それによってもっと近づくか離れるかを決めているだけのことだ。だから,両者の関係の問題,「僕」の問題ではなく,「二人」の問題というようには受け止めても仕方がない。
それを口に出して,質してみると,そう意識していたのではないと言うかもしれない。いや,言葉を濁すかもしれない。
いずれにしろ。そうすると,両者の関わりとして,意識され,どっちにしても,何となくお茶を濁すか,足して二で割るか,正面から正すか,まあそういう解決をすることになるだろう。でも,その解決は,僕の心の感触とは別の解決になる。すでに,感触では答えは出ているのに,言葉レベルでいくら積み重ねても,僕の結論は変わらない。
だから,僕はそもそもそれを口に出そうという気にはならない。それはあくまで,僕の問題に過ぎないと思っているからだ。
客観的に,変かどうかなのではない。そう感じた自分の中に,相手への違和感がある。常に,パースペクティブは自分のものでしかない。だから,視界に感じた違和感を,自分の中で,確かめ続ける。その違和感は,無意識に出た相手の意思と見ているのかもしれない。そう受け止めているのは確かだ。
だとすれば,それを口に出して確かめても仕方がない。その意志は無意識だけれども,表現されている。
確かにいちいち確かめるのを憚る気持ちがなくもないが,遠慮というのとも違う。
自分の中のその感触を,しかし,猜疑心のように勝手に増幅させているのではない。毎回確かめている。言い方は悪いか,検証している。
それを,あくまで自分の感じ方の問題だと思っているからだ。そう受け止めた自分の側でそれを確かめ,確信が持てたら,相手の意思を確かめることもなく,さようならを言う。そういう癖になっている。
マザー・テレサは,こう言ったそうだ。
思考に気をつけなさい,それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい,それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい,それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい,それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい,それはいつか運命になるから。
そう,だから,自分の運命になっている。
僕の問題を,誰かと一緒の問題にはできない。あくまで自分が処理すべき問題なのだ。だからといって,人のせいにはしない。あくまで僕の問題なのだ。
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人は,閉鎖システムであり,オートポエーシス理論の提唱者,フランシスコ・ヴァレラは,主体的個人の「自己(self/identity)」は五つのレベルの閉鎖システムで定義される,と言っている。
第一は,生命体の最小要素は細胞レベル。「生物的自己」
第二は,免疫レベル。身体的同一性を保つ。「身体的自己」
第三は,行動レベル。知覚器官をもとに行動するレベル。「認知的自己」
第四は,人間社会における個人のレベル。「社会的自己」
第五は,個人が組織化されたレベル。「集団的自己」
人間の想像力が,上位レベルへの創発の原動力だという。ここでは,作動することとそれを観察することとが同一に同時に行われている。つまり,自分のしていることを自分でモニタリングしている。そうすることで,自律性が保たれ,一貫性が保たれる。
生命体とは,機械と異なり,設計図なく自分で自己を創出していく自律的なシステムである。その作動の仕方は,外界に対して,自分の中から,その固有の歴史に依存して,対応していく。いわば,リソースは自分の中にある。それが生きるということだと言い換えてもいい。
西川アサキという人がコンピュータ・シミュレーションによって,面白い実験をした。閉鎖系システムと開放系システムで,集団がどう変化し,リーダーがどう出現するかをみている。
システムが他律的で,機械のように開かれていれば,適切な情報伝達と入出力操作によって,世界像を完璧に共通化し「客観化」していくことができる。しかし生命体のように閉じていれば,情報の意味を主観的に解釈するプロセスが入るので,どうしても差異や不透明さが残る。
結論を言うと,開放システムの場合は,リーダーが一人出現する場合もあるが,多数のリーダーが乱立したり,全くリーダーが出現しなかったりする。一方,閉鎖システムでは,必ずリーダーが安定して出現する。
この理由を,西垣さんは,こう整理している。
開放システムでは,各メンバーにとって世界があまりに「透明」に見えすぎ,瞬間的にせよ,そこには一元的で絶対的な価値観(世界観)が生まれる。わずかな周囲条件(外部環境)の変動に敏感に反応し,グローバルな状況が急変する。外部環境に他律的に依存するために,唯一のリーダー,複数のリーダー,リーダーシップなしの間を揺れ動く。
一方,閉鎖システムは,各メンバーにとって,世界は不透明であり,それぞれ保守的に自分なりの価値観を維持しようとする。その意味で安定している。グローバルな状況としては多元的で相対的な価値観が併存する。と同時に,一人のリーダー,つまり一元的価値も生成されやすい。そういう一元的な価値観のもとでこそ,集団における相対主義も存立しうる。
このシミュレーションが示唆するのは,こういうことだ。西垣さんは,オープンな社会が必ずしも望ましくないことを示している,と言う。つまり,
人間が自律性を失って開放システムに近づくと,社会がいわば透明になりすぎ,外部環境の変動にともなって,「絶対的リーダーへの一極集中/多極化/完全な無秩序」といった諸状態の間をぐるぐる彷徨することになりやすい。
これに対して人間本来の閉鎖性が保たれていれば,それぞれが自律的で唯一の尺度は存在しないにもかかわらず,社会のなかに一種の慣性力が働いて,安定したリーダーが生まれる。
こういったリーダーに対するほどほどの従属関係がある時の方が,世界の崩壊は起きにくい。逆に,メンバーにできるだけ透明な情報伝達と一元的な価値観を強制する独裁社会の方が,多様性に基づく値がまれず,世界は不安定になる。
実はこのリーダーシップとメンバーの従属関係に基づく階層構造は,ポラニーの暗黙知の構造と深くつながる。ポラニーの暗黙知の構造は,
「諸細目(particulars)」と「包括的存在(comprehensive
entity)」との二項関係からなるダイナミックスである。前者は近接項,後者は遠隔項にそれぞれ対応する。
たとえば,顔を認識する例で考えると,
まず,相手の眼,鼻,口,額,頬,顎などの「諸細目(近接項)」にちらっと目を向けるが,いつまでも続くことはない。われわれの注意はすぐに諸細目から離れ,顔全体という「包括的存在(遠隔項)」に移行する。といっても,諸細目は完全に忘れ去られるわけではない。相手の顔を認知識別しているとき,われわれは相手の眼や鼻などの諸細目を無意識に,「顔全体の姿」のなかにしっかりと感知しているのだ。それらは潜在化し,明示的に語られないものの,顔全体の「意味」を構成しているのである。
つまり,下位レベルの諸知覚器官による認知観察行動は自律的におこなわれ,脳はそれらを完全に統御しているわけではない。しかしそれなしでは「顔という全体」を認知できない。
こういうダイナミックスは,リーダーとメンバーも同じなのではないか。
リーダーは集団の代表であり,リーダーの言動は事実上社会組織の言動とみなされる。それは,暗黙のうちに集団個々の構成メンバーの言動によって支えられている。逆にいえば,個々のメンバーの主観を反映した対話や行動をもとに上位レベルのリーダーの言動が生成され,逆にリーダーレベルからみれば,個々のメンバーの言動は無意識のレベルにある。
いわば,個々のメンバーの「諸細目」とリーダーという「包括的存在」のセットで暗黙知を形成している。諸細目の無意識(メンバーレベルでは無意識ではない)とのダイナミックなやり取り抜きでは,組織の活力は生まれない,という当たり前のことを言っているのかもしれない。
参考文献;
西垣通『集合知とは何か』(中公新書)
西川アサキ『魂と体,脳―計算機とドゥルーズで考える心身問題』(講談社)
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正念場とは,性根の発揮が問われている場らしい。その人の根本的な心の持ち方が問われている,といいうよりはその人が生きているに値するのかどうか,が問われている場面といってもいい。
私の知人は,すったもんだした挙句転職した。転職に成功した。天職のはずであった。しかし,すでに後悔している,辞めると言いだしている。
それもあるかもしれない。思ったことと現実とのギャップもあるし,その職場が初めの顔とは違い,とんでもない本性をあらわすということもある。
しかし,性根が坐っていない。だから,「正念場だ」と伝えた。
いわば背水の陣と置き換えてもいい。水を背にして,韓信が趙を破ったように,そこを先途と必死になる場所がある。それが出来ず,手取川では,信長軍は謙信に敗れた。カストロは,上陸した地点で,上陸艇を壊して,背水の陣を上陸軍に示した。
まあ,こんな例をいくら挙げても本人にとっての正念場という自覚がなければ,馬の面に小便だ。半身ではだめだ。正対で,事態に向き合わなくては,突破口は自分に見えない。その事態の主役はおのれだという自覚がなければ,どうにもならない。
いわば,ほかならぬここが,自分の性根が問われている場所という覚悟を持たねばどうにもならない。
そういう場は,人生においてそう何度もない。僕は,あったか,と問われて,ある,と答えた。それがすべての原点だと答えた。なぜなら,その時ブロー体験を味わったのだと,後から思い知った。時間を忘れ,沸騰する脳細胞から湧き出てくるものを必死で形にした。人にはピンとキリという,才能の絶対的格差があることも思い知ったが,その自分の閾値を,身をもって知ったことが,自分というものの原点だと思う。いま考えても,あれ以上はできない,自分の最高レベルを達成した。しかし,それでも,世の中レベルでは到底かなわないのだ,という感慨も味わった。
しかしそこに絶望はない,どんなに脚力に自信があっても,ボルトと走ってかなわないと思い知ったところで,絶望するような人は,一度も自分の限界まで,自分を出し切ったことのない,生涯夢見る人でしかない。おのれを知るとは,そういうことだ。
もちろん気持ちよくなんかない。自分の程度を知って,快哉を叫ぶやつはいまい。しかし現実は現実だ。諦めというのとも違う。そういう自分の力量を前提に,精一杯生きるしかない,そういう見きわめといってもいい。
それは,不思議なことだが,その時は気づかない。後から振り返って,あれが自分の正念場だったと気づく。それをスルーしていたとしたら,気づくことはない。
なぜなら,そのとき自分が対処したコーピングが,その後の自分のやり方のパターンになっていることが多いからだ。成功体験というものかもしれない。しかし同時に,それだけではうまくいかないという選択肢も,同時に自分の中で育っている。たぶん,そのとき自分が,持っているキャパ一杯一杯まで伸ばし,拡大しきったことで,無自覚ながら,沢山の,そのとき使わなかった選択肢を,育てていたのだと思う。
人の能力は,知識(知っている)×技能(できる)×やる気(その気になる)×発想(何とかする)だと思っている。何とかするとは,いままで使ったこともない,考えたこともないことを発想し,発意し,着想し,実践しなくてはならないそういう場を経験しなくては,伸びないという意味だが,ひょっとすると,正念場をクリアするたびに,少しずつ自分というものの(自分が限界づけている)限度を,気づいていないが,広げているのかも知れない。
堀田凱樹さんも言っていた。
自分が遺伝的にもらった才能というのは,自分が思っているよりはるかに広い。それを開拓するということが,学習するということです。
だからか,振り返ったとき,いまから見ると,正念場だったという思いと同時に,もうちょっとやれたのではないか,どこかで諦めたのではないか,というかすかな悔いが,微妙な満足感とともに湧き上がってくる。
そして思う。自分の思う以上に,自分のキャパは大きいのではないか。だから,まだ,自分は,自分の持っている容量を目いっぱい使いきってはいないのではないか。器量,技量,度量という…。自分という「量」わ見くびってはいけない。
知人は,「いま,自分が仕事しやすくするために,できることはないのか」という僕の問いに,その場で,かすかながら,突破口を見出した。がんばれ,と口に出さぬが,心の中で叫んだ。
そこでできることをしないものに,そのできることをさせてくれる場が,向こうからやってくることはない。だから,僕は手放しで夢を語るやつをあまり信じない。いまいまおのれのすべきことをやっていない,共に何かをしたくないやつが多すぎる。いまなすべきことの見えないやつに,夢に逃げてもらっては困る。
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確か,記憶では,野中郁次郎さんは,知識とは主観であり,思いを客観化するプロセスなのだ,というようなことを講演でおっしゃっていた記憶がある。だから,絶対的な知識がどこかにあって,それを学ぶというものではない,と言っていたように記憶している。
心を探るとき,クオリアというのがキーワードになるようだ。クオリア,つまり「感覚質」,その人が一回限り感じる,個々の人間の意識のなかに特定の体験として出現する感覚イメージというものは,人とは共有できない。
肝心なのは,同一波長の赤色光を人間の視覚器官がとらえたとき引き起こす印象が様々に異なるということではない。そもそもある人が感じている「赤」と別の人が感じている「赤」とが同じなのかちがうのかが判定しようがない,ということなのである。
西垣さんは,こういう。
私が見ている赤信号の色Xと,あなたが見ている赤信号の色Yと全く異なっていても,私とあなたはともにきちんと交通ルールを守ることができる。(中略)二人ともそのように環境に適応して生きているだけのこと。客観的,絶対的な「赤」なる唯一の事物が存在し,それを全員が正しく認識しなければならない必然性などありはしない。
だから,
われわれはよく,情報や知識を共有するとか,心を開いて共感するとか言う。だが,それらはあくまでも,心がほんとうは閉じているという絶望的な事実をふまえた上での,一種の希望以上のものではない。心とは徹底的に「閉じた存在」なのである。自分の痛みのようなクオリアは,他人には決して分かってもらえないことが,その証拠といえる。
このギャップは,人同士の間だけではない。自分自身の「心」と「身体」にも横たわっている。自分の感じているクオリア,たとえばバラの赤の感じは,脳をどんなに精査しても,データとして取ることはできない。このポイントは,観察位置だと,西垣さんは言う。
ポイントは観察者の位置である。脳の測定は,客観的,科学的におこなわれ,その記述はあくまで三人称的である。観察者は外部にいるのだ。一方,クオリアは徹頭徹尾,内部から主観的に感じとられるものだ。その記述は一人称でおこなわれ,文学的に表現されることも少なくない。このとき観察者は,いわば心の内部にいるのである。
しかし,われわれの認知行為とは「所与の客観世界の表象をえること」ではないのである。生き物の認知観察行為の原型は,むしろ自分が動きまわって対象と主体的にかかわることにある。認知観察行為は,
(生き物が)行為の歴史に基づいて世界と心を行為から産出すること(フランシスコ・ヴァレラ『身体化された心』)
なのであり,心身問題へのアプローチは,まずクオリアありき,
三人称的な科学的記述からクオリアに迫るのではなく,逆に一人称的,主観的なクオリアの記述から出発して,いかに客観世界という仮構が成立するかを問うていく必要がある。
これはそのまま,集合知の活用とつながることだというのが,西垣さんの問題意識である。客観的なものがあって,それを共有するだけで,集合知になるのなら簡単だ。しかし,多くのそれは失敗してきた。ただ貯蔵され,死蔵されただけだ。
その観点から注目されるのが,ポラニーの暗黙知である。その構造は,
「諸細目(particulars)」と「包括的存在(comprehensive
entity)」との二項関係からなるダイナミックスである。前者は近接項,後者は遠隔項にそれぞれ対応する。
たとえば,顔を認識する例で考えると,
まず,相手の眼,鼻,口,額,頬,顎などの「諸細目(近接項)」にちらっと目を向けるが,いつまでも続くことはない。われわれの注意はすぐに諸細目から離れ,顔全体という「包括的存在(遠隔項)」に移行する。といっても,諸細目は完全に忘れ去られるわけではない。相手の顔を認知識別しているとき,われわれは相手の眼や鼻などの諸細目を無意識に,「顔全体の姿」のなかにしっかりと感知しているのだ。それらは潜在化し,明示的に語られないものの,顔全体の「意味」を構成しているのである。
というように,語ることのできない知識というのは,こういった二項関係の構造における諸細目として考えると,わかりやすいはずである。つまり,
暗黙知というのは,決して固定的に認識できない知というわけではなく,むしろ,包括的存在を認識するというダイナミックスのなかで,いわば意識から隠れてしまう知のことを指している。
暗黙知理論のすばらしさは,単に語れない知識の存在を指摘したことではなく,
ある対象の意味を把握するには,それより下位の要素的な諸細目を身体で感知しつつ,対象を全体として包括的にとらえる作用が必要だという,生命的な認知のダイナミックスを指摘した点にある。
ポラニー自身は,暗黙知を,
(近接項と遠隔項という)二つの項目の協力によって構成されるある包括的な存在を理解すること
と定義している。では,二人の人間が対話することによって,そこにお互いに通じあう共通の「意味(包括的存在)」が生まれることはないのか。ポラニーは,
二人の人間がいるとき,「潜入(dwell-in)」という努力によって,一方が相手の生み出した知識(包括的存在)をある程度体得できる可能性はある,
と言っているようだ。では,さらに,皆の間で共有される三人称の知識はどう得られていくのか。
われわれ生命体は,「オートポイエティック(自己創出的)」な存在とされる。そこが機会との根本的な違いである。個々の細胞レベルから,脳神経系も免疫系も,自分で自分を創り出す。機械と異なり,生命体は「自律的(autonomous)」にシステムであり,他律的(heteronomous)システムではない。
自律システムの作動の仕方は,その固有の歴史に依存している。外界からの入力がやってくると,その時点で,その個体特有のやり方で反応してしまう。再現性があるとは限らない。
西垣さんは,一人称的なクオリアと三人称的な科学的記述のギャップを渡る一つの方法として,このオートポイエーシス理論が有効だと位置づける。
たとえば,心の中で思考(thinking)している時何が起きているのか。
ここでいう「思考」とは,いわば主人公の一人称的モノローグをともなう映画のショットのようなものだ。それは自己言及的コミュニケーションであり,現在の志向を自己循環的に創出していくのが,心というオートポイエティック・システムの作動なのである。ねーもちろん,外界から刺激は到達するのだが,それらは心にそっくり「入力」されるのではない。あくまでも思考は再帰的に,心の内部から創出されるのだ。
「心の閉鎖性」にもかかわらず,われわれは社会的行為をし,組織が機能している。それを,こういう。
興味深いのは,こういった社会的組織においては,コミュニケーションがコミュニケーションをつくりだすという自己循環的な作動がおこなわれていることだ。社会的組織には特有の用語概念をもつ伝統や文化があって,一種の知識として記憶されている。その記憶をもとにコミュニケーションが発生し,またそのコミュニケーションの痕跡が組織の記憶となって蓄積されていく。社会的組織のこういうダイナミックスは,再帰的に思考を生み出す心のダイナミックスと基本的に変わらない。
つまり,社会組織もまた「オートポイエティック(自己創出的)・システム」になっている。では,構成メンバーの心という「オートポイエティック・システム」とどういう関係になるのか。ここに三人称的知識へとつながる鍵がある。
社会的組織のコミュニケーションは,構成メンバーの発する言葉を素材にして織り上げられる。そして一方,構成メンバーは組織ルールなどの拘束のもとにある。
つまり,社会的「オートポイエティック・システム」は構成メンバーの心的「オートポイエティック・システム」の上位にあり,両者はある種の階層関係を成している。構成メンバーが心の中でどんなことを思考しようと自由だし,他方上位の社会組織から見れば,個々の構成メンバーは一定の拘束を充たす言葉を出力する。この非対称的関係の,階層的自律コミュニケーション・システム(Hierarchical
Autonomous Communication System)というモデルによって,情報や知識の伝達や蓄積を見ることができる。
個々の構成メンバー同士の会話のように,一人一人の心的「オートポイエティック・システム」同士が会話することを通して,下位の階層的自律コミュニケーション・システムが,暗黙知の構造で言う「細目」となり,それが構成する上位の社会組織の階層的自律コミュニケーション・システムが,「包括的存在」を形づくっている。そこでは,メンバー相互の階層的自律コミュニケーション・システムが,社会組織の階層的自律コミュニケーション・システムの「意味」や「価値」を創出している,という形になる。
では,これとITがどう活用できるのか,あるいはITを含めた知のあり方はどうなるのか。
このヒントに,西垣さんは,マーク・ハンセンの,高度なIT機器からなるネットワークによって,リアルとバーチャルが融合する時代の,「システム環境ハイブリットSEHS(System-Environment
Hybrids)」という概念に着目する。
客観世界ではなく,主体が再帰的な認知活動をつうじて世界を構成していくという閉鎖システムの知を前提に,人間のもつテクノロジーによって,自己を乗り越え重層的に拡張していくという特徴を踏まえて,高度なITエージェント(人間を代替するコンピュータなどの知的存在)を駆使して,暫定的な閉鎖システムによる認知活動を指す。そこでは,リアルとバーチャルが融合し,ネットの中のITエージェントが活動する周囲環境であり,そういう中でこそ,人間は生物的な自己を乗り越え,新たな自己を創り出し,進化していく,というわけである。
そこで暗黙知との関連に置き直すなら,こういうことになる。
われわれが心の中で思考し,ある対象の全体的意味をとらえるとき,そこでは対象を構成する要素の諸細目が無意識のうちに感知され(心的階層的自律コミュニケーション・システム),ある社会組織がコミュニケーションをし,ある対象の全体的意味をとらえるとき,そこでは参加メンバーの発現や関連資料などの諸細目が暗黙の裡に感知されている。この人の心と社会組織のダイナミックスに,コンピュータ処理を行うITエージェントが介入するとどうなるのか。
そのとき起きるのは諸細目の変更や置換や拡大である。特に社会組織において,ITエージェントの出力が参加メンバーの発現と同じくコミュニケーションの素材となる。
知とはあくまで,生命体が生きるための実践活動と切り離せない,その意味で主観的で一人称的なものだ。というところから出発し,集合知へとたどり着くために必要なのは,閉鎖性というキーワードだ。
個々のローカルな社会集団の中には,さらに無数の半独立の社会集団や社会組織が入れ子になっている。それらは柔軟な階層を成しており,最終的には個人にまで分割される。(中略)ローカルな社会集団は,それぞれ文化と秩序を持っており,自律的に観察・記述をおこなっている。つまり「閉じた存在」にほかならない。しかしより上位レベルの社会集団からみれば,開かれた他律システムと同様,一種の機能を果たしている。
そこでITに期待されているのは,社会集団の下位レベルにある暗黙知や感性的な深層をすくいあげ,明示化する機能である。
その場合,メインフレームやスパコンは役に立たない。パソコンや携帯端末が個々の人々の心を結びつける。しかし大量のパソコンをつないだ人工知能マシンではない。それでは,メインフレームの機能をパソコンに代替させているだけだ。
必要なのは,人間のコミュニケーションにおける身体的・暗黙知的な部分を照射し,人間集団を感性的な深層から活性勘し,集団的な知としてまとめあげるためのマシンだ,という。これをタイプVコンピュータと呼ぶ。
しかし,ここまで辿ってみても,どうもまだ明確ではない。個々の閉鎖した心の思考構造(暗黙知も含めた)を,集合へつなげていくために,感性がデジタル化できるという前提に立っているとしか思えない。
情報にはデジタル化できるコード情報と,デジタル化できないモード情報がある。暗黙知は,どこまで顕在化しても,暗黙のまま沈む部分がある。それを前提にすると,IT機器のいまの方向からは,決して解決できない気がしてならない。マトリックスはこないのだ。
参考文献;
西垣通『集合知とは何か』(中公新書)
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直観というと,パターンに認識で,将棋の羽生善治を思い出すが,通常直観とはあまりいい意味では使われないらしい。
例えば,マイヤーズは,こういう例を出す。
一枚の紙を100回折ると,その厚さはどのくらいになるか?
多くの直観は間違う。マイヤーズはこういう。
我々の直観は,たいてい間違いを犯す。紙の厚さが0.1ミリだとすると,折るたびに前の厚さの倍になって,100回折り畳んだ後の厚さは地球と太陽との間の距離の800兆倍になるだろう。
しかし,我々は直観で判断していることが多い。たとえば,
ヘッドホンをして,片方の耳で朗読を聞き,朗読のテキストと照合しながら,もう片方から音楽が聞こえている。意識して聞いているわけではないが,その音楽の間に,以前聞いたことのある音楽を挿入しておく。で,どちらが好きかを問われると,聞いたことのある方と,答えるらしい。意識的にはわからないことを好き嫌いの選考では,明らかにできる。
物体写真や顔写真を200ミリ秒見ただけで,ひとは直ちに良し悪しを判断する。対人関係では,最初の10秒で直観的に判断してしまう。
ザイアンスの法則と言われるのは,単純接触効果だ。よく知っているものほど好きになる。見慣れたものに近づき,見慣れないものを警戒する。
他者を観察するとき,素早くわれわれは何らかの判断を下す。そして後になってそのとっさの感情に理屈づけする。われわれはものを感じている時,なぜそう感じるかがわかっているわけではない。その感情の理由を探ると,もっともらしい間違った要因に目を向けることになる。意識しないでやった理由を,左脳は間違った解釈をする,という。
では,直観というのは記憶と同じなのか。記憶には,潜在記憶(手続き型記憶)と顕在記憶(陳述型記憶)という分け方もできるし,もう少し細かく,手続き記憶,意味記憶,エピソード記憶とわけることができる。意識化しないで,働くという面で言えば,手続き記憶とエピソード記憶が,直観,あるいは勘に機能しているということができる。
パターン認識を使う,将棋のような何十通りの手筋を思い描く場合とは違い,通常我々の直観は,あてずっぽうか思い込みのことが多い。盤面という限られた世界ではなく,複雑な人間関係や心理については,手筋は無数なのだ。
たとえば,自分の将来について,直観する場合,失敗する。
感情の持続時間を予測する場合は,失敗する。失恋した後の,選挙に敗れた後の,試合に勝った後の,侮辱された後の,感情の持続時間を間違って予測している,という。ネガティブな出来事に注目すれば,それ以外のあらゆることを軽視してしまい,みじめさはずっと続くと予測する。しかし,自分が注目しているものは,自分が思っているほど重要ではない。また自分の将来の行動についても,直観は間違える。自分の将来行動の予測よりは,他人の行動予測の方が当たる,という。
人の行動を解釈するとき,その置かれている状況を過小評価し,その人の内的要因を過大評価する。しかし自分の行動を評価するときは,これと逆に考える。自分が不機嫌なのはその日が不愉快だからで,他人が不機嫌なのは,その人が不愉快な気質だからだ。
関連ないことにパターン化する。たとえば,子供の無い夫婦は養子をもらうと妊娠する可能性が高くなる。目立つところに注目するために,パターンとして意識化されやすくなる。
しかし,直観のつけが自分にくるだけなら,別にたいしたことではない。そういう直観が試されるのは,象徴的には,心理臨床場面だ。
マイヤーズによると,セラピストは,自分の直観に味方する,という。しかし研究者たちは,直観と統計的予測とが競合した場合(たとえば面接者による生徒の学力予測と,成績や適性得点に基づいた客観評価とが食い違うような場合),たいてい客観的評価によって決定する,という。統計的予測が必ずしも正確ではないにもかかわらず。
臨床心理的直観は,過った関連付けや後知恵のバイアス,信念の根強さ,自己成就的診断などの弱みが現れている,とマイヤーズはいう。
心理臨床のクライアントの行動がそのセラピストの理論としばしば一致している,と言われる。
あなたの気持ちがそうならば
あなたの求めるものがそうなる。
自分の望むものをあなたは見つけるだろう。
自分の見たがっている関連性を見ようとし,それを後知恵で補強する。自分の理論や仮説を見てしまう。自分が正しいと思う質問をする等々。
他山の石だ。
たまたまをそもそもとしているのではないか,そういうチェックは欠かせない。
参考文献;
デヴィッド・G・マイヤーズ『直観を科学する』(麗澤大学出版会)
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補助線というと,幾何の問題で一本補助線を引くことで,問題自体は変わらないのに,こちらのパースペクティブが変わり,解き方が見えてくることがある。どこに,何を引くかが,発想の肝になる。
しかし世の中の問題は,幾何の問題のように,全体像が見えているわけでもないし,補助線自体が物理的に見えるカタチで引けるものでもない。しかし,補助線を,足す線とばかりではなく,引く線であったり,リンクをつなげる,次元を畳む,次元を橋渡しすると考えていくと,補助線は,思考のトンネルに開ける選択肢に見える。選択肢が広いほど,発想が広がるのだから。
茂木さんが,生涯の目標となったクオリア(感覚質)との出会いを,こう書いている。
研究所からの帰り,夜。私は電車に乗っていた。無意識のうちにガタンゴトンという音を聴いていた。突然,その音が,周波数で解析しても,スペクトラムを眺めても決して解明しきれぬ生々しい「質感」として私の意識に到達していることに気がついた。私は感動と畏怖で青ざめた。車両と車両の連結部分の空気が一変した。その瞬間,わたしは,芸術を愛する経験的自然科学者から,現象学的経験をも視野に含めた「自然哲学者」へと変貌したのである。
そして,いま,
「クオリア」という補助線を精神と物質の間に引きたい。それで問題が解けるかどうかはわからない。しかし,明らかに不思議の質が変わる。
面白いことは,「クオリア」という補助線が,「地」から「図」になった瞬間,見える世界が変わり,パースペクティブが変質した。そのことによって,実はこちらも変貌していく。その精神のダイナミズムが面白い。それは,我々にも,日常的にある。
茂木さんの問題意識は,こんなところにも見える。
ニュートン力学から最近の超ひも理論に至る数学的形式に基づく自然科学の厳密さと,それを生み出す人間の思考の「あいまい」さ,
数学的心理や完璧な科学とそれを生み出す,ノイズだらけの脳のダイナミクス,
視野の中に複数のものが存在している状態を,並列的に「私」が見るという統合された並列性と,それを生み出す脳の大脳皮質の神経細胞の活動,
永遠を考え,宇宙を考え,孫嗄声しない正七面体を考えることと,いま,ここにしばりつけられた意識,
等々。この振幅にあるのは,この振幅を見極める補助線を引きたいという,茂木健一郎という学者が,サブカルチャー化し断片化した知を丸ごと引き受けたいという志向に他ならない。茂木さんは言う。
人としてこの世に生を受けた以上,単に世界の部分だけを知るだけでなく,全体を,そして普遍を志向したいという私たちひとりひとりの切ない思いについて考えたいのである。
そして,
どうあがいても有限の存在でしかない人生という泥沼からときには大輪の蓮の花が咲くことがあるのは,私たちの感情が「どうせできないとわかっているのに」悪あがきするからなのである。(中略)傍から見れば滑稽な大言壮語にすぎなくても,「今論文を書いている。大論文を書いている」と言い続けなければならない。
一見関係のないものの間に補助線を引くことで,世界の見え方を変える。世界の見え方を変えることで,見ているこちらも変わる。その変わった目線で見えるパースペクティブは,また変わるだろう。
ロジャー・ペンローズは,「創造することは思い出すことに似ている」といった。なぜなら,脳は何もないところから何かを生み出すのではなく,脳内のアーカイヴに依存している。自分のもっている者を組み替える。リンクを変える。それは,所蔵されている「知」を,別のパースペクティブで見直すことと言ってもいい。
川喜多二郎は,「本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ秩序付ける」ことを創造と呼んだ。だから補助線が生きる。見え方が変わることで,今まで当たり前に見えていたものが違って見える。違って見えることで,今まで全くリンクしなかった脳内のネットワークとつながる。そこで,異質な解が開けてくる。
参考文献;
茂木健一郎『思考の補助線』(ちくま新書)
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どうも人は知らず,自分はコーチングで自分に気づくのは,まだ仮説(仮の説明)の段階と思っている。自分の中で,そうかもしれないという自分自身や自分の感情や自分のリソースと向き合う。
しかしそれが自分のリアル体験の中で,身に沁みなければ,自分の気づきにも,自分と向き合うことにもならない。
たとえば,自分は,いつも謙遜から入るのだとしよう。それに気づくことと,それが嫌味や場合によっては相手を上から見ていることになる,ということに,心底気づくには,そういう場面に出会うしかない。それは自分の傾向の問題だからそうなのかもしれないし,ただ想像力に欠けているだけなのかもしれない。
しかし,自分のスキルや技量のような,頭で考えただけでは気づきにならないものは,その場で初めて,知ることになる。そうなら,それはコーチングで気づくより前に,そういうぎりぎりの,自分が追い詰められ,立ち往生し,にっちもさっちもいかないシチュエーションに立ったことがないだけのことではないのか。そういう場に立たなければ,自分のぎりぎりの限界は見えない。
「知れるを知るとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり」というには,その知らざるシチュエーションに立って,ぎりぎりの限界,
何を知らないのか,
何ができないのか,
何がわかっていないのか,
何が気づけていていないのか,
何が見えていないのか,
何が聞こえていないのか,
何が感じられていないのか,
何が味わえていないのか,
等々を思い知らされる場面を経験することで,初めて,自分の閾値に気づく。その先は,未知の領域だ。そこに初めて伸び白が見える。そこから先の真っ白の部分が,伸び白になる。
それは,そういうシチュエーションを体験し,身震いしながら,自分の無知と無能を思い知らなくては,本当は気づいたことにはならない,と思っている。頭の中での内省を何百回しても,頭の中だけの堂々巡りにしかならない。僕が何十年続けた日記を放棄し,破棄したのはそれが理由だ。だからこそ,コーチングでは行動を促さなくてはならないのではないか。行動を促すのが,クライアントの目標達成や夢の実現というのは,本末転倒で,本来の自分自身に腹の底から気づく,それには,甘ったるい内省や気づきを,言葉や会話でするのではなく,行動で,その場に立って,おのれの身の程知らずに震え上がる,おのれのリソースのなさにおびえる。そこからスタートする。だからこそ,伸び白がある。今までの経験や知識,スキルが生きるのは,その凹んだなかでの,自分のもっているものの意味の変換,リフレームによってである。どんなに凹んでも,ゼロではない。そこからスタートする。
あるとき,自分が傷ついているということに気づいた。その傷は結構深い,ということにも気づいた。しかし,その場面では,自分はにこにこ笑って,ものわかりよく,「自分にとって何が大切かを考えることが大事だね」と言った。しかし,それは相手に対して言ったのであって,自分に対してのそれではなかった。そのことに気づいたのは,結構時間がたってから,はたと,気づいた。もちろんそういう気づきのタイムラグはある。それは,その時の場面の持つ意味が自分では意味づけられなかったということだ。しかし,その機会はもう二度と来ない。その痛切な後悔が,自分を傷つけている。
後から,こういう気づきがやってくる。しかし場はもはや閉じている。そういう気づきは,では体験として役に立つのか。はっきり言って,立たない,と思う。また同じ場面で,同じことをするだろう。顔は笑っている。それを変えるには,その場で,自分が「顔は笑って同意する」ことでその場を収める,そういう選択肢を選んだということを,意識することからしか始まらない。
次の機会,といっても同じシチュエーションとは限らないが,やはり,その場で,はっきり言って,その場をぶち壊してもいいくらいの,自分の主張をするのか,まあ,その場をそのまま静かに閉じるのもいいと,同じ選択をするのかを自分で意識して選ぶことだ。そうすれば,少なくとも傷はつくが,無意識の傷にはならない。大きな傷か小さな傷か,前回は,自分は無意識に小さな傷を選んでいたが,今度は意識して,小さな傷を選ぶ,というように。
グラッサーはいう。心の傷や落ち込みは,自分の選択である,と。そして,それには,怒りを抑えたり(落ち込まなければ怒りを爆発させるかもしれない),人に支援を求める理由づけ(こんなに困っています)にしたり,逃避する(したくないこと,恐れからの)ために,を無意識に落ち込みを選択している,という。だから,小さな傷にとどめるために,笑ってその場を収める選択をしたのだろう。
グラッサーはいう。自分の気分が落ち込んでいるとき,出来ることは三つ,
@自分の求めているものを変える
A自分のしていることを変える
B両方を変える
の三つだと。選択した傷から立ち直るには,確かにこの三つしかないのだろう。
参考文献;
ウイリアム・グラッサー『選択理論』(アチーブメント出版)
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