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コトバ辞典


片縒(かたより)

 

片縒(かたよ)りに糸をぞ我(わ)が縒る我が背子が花橘を貫(ぬ)かむと思(おも)ひて(万葉集)

の、

片縒り、

は、

一本縒り、

とあり、

上二句は、一筋に相手を思うことの譬え、

とあり、

片縒(かたよ)りに糸をぞ我(わ)が縒る、

は、

片縒りのままに私は糸を縒っています、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

片縒(かたより)、

は、

片撚、

とも当て(広辞苑)、

左右どちらか一方によりをかけること(広辞苑)、
糸などを、両方から搓らず、一方から搓ること(岩波古語辞典)、
糸を縒るとき、左右いずれか一方の向きにだけ縒りをかけること(精選版日本国語大辞典)、
片方の糸にだけよりをかけること(学研全訳古語辞典)、

などとあり、そうした、

長い繊維を一本あるいは数本ひきそろえて縒りをかけたもの、

を、

片縒糸、

という(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。

まったく撚られていない無撚の糸は織ることはできないので、縒りをかけることになるが、

撚り、

には、

S撚り、
Z撚り、

の2つの向きがあり(「S」、「Z」はアルファベットの形からきている)、

S撚りは、逆さにしても、反対側から見ても決してZ撚りになることはありませんが、鏡に映すと、Z撚りと同じになります。こうした二つの関係は、鏡像対称性をもつ、と表現されます、

とあるhttps://shikenjyo.blogspot.com/2015/07/blog-post_9.html。なお、S撚りとZ撚りは、英語でも、

s twist、z twist 、

と呼ばれる(仝上)。この、

撚りの方向による分類、

には、

右撚(S撚)、
左撚(Z撚)、

撚り数による分類、

には(撚り数の単位はT/m、糸1メートルあたり何回転したかで表す)、

甘撚 500T/m以下
中撚 500〜1000T/m
強撚 1000〜2500T/m
極強撚 2500T/m以上

とありhttp://www.nenshi.or.jp/about_nenshi.html

糸の撚り姿、

による分類では、

何本かの糸を引き揃えて片側に撚りを掛ける、

片撚り、

は、特徴として、

光沢があり綺麗。特に細い絹糸は綺麗に見えます。逆に指のささくれなどに引っかかりやすく、毛羽立ちやすいで、

とあるhttps://www.savageblue.com/nenshi.htm。その他、

糸の撚り目(縄の目のような物)がはっきり見える撚り方として、

双撚り・諸撚り(もろより)、

がある。

撚り目で光沢は少し落ちますが、経糸にも緯糸にも使える万能糸で、使いやすい、

とある(仝上)。なお、

撚糸を2工程にかける(2回目の撚りを逆方向にかける)事により、糸の戻ろうとする力を抑える事ができ取り扱い易い糸になります。1回目の撚糸を下撚り、2回目の撚りを上撚りと言う、

とある(仝上)。

何本か引き揃えただけの状態のもの、

つまり、

無撚(むより・むねん)、

を、

引き揃え(ひきそろえ)、

という。

製造方法は双撚りと全く同じだが、下撚り・上撚りどちらもに1000回以上入った撚糸を、

駒撚り、

といい、通常、西陣・丹後(縮緬)では着尺の経糸に利用され(仝上)、

織物に堅さ&シャリ感を出すのが特徴で、汗をかいた際のべたつきなどが少なくなります。また摩擦などの耐久性にも非常に優れていますが、光沢は双撚りよりも落ちます、

とある(仝上)。

駒撚りよりもさらに撚りが強いものを、

特駒撚り、

といい、

ここまでくると、糸自体に縮もうとする力があります。織りあがった生地を少し縮める事ができます、

とある(仝上)。

縒る、

は、

搓る、
撚る、

とも当て(広辞苑・学研全訳古語辞典)、色葉字類抄(1177〜81)には、

縒、ヨル、縒糸、

字鏡(平安後期頃)には、

搓、與留、

とあり、

ら/り/る/る/れ/れ、

の、他動詞ラ行四段活用で、

我(わ)が持てる三相(みつあひ)に搓流(よれル)糸もちて付けてましもの今そ悔しき(万葉集)、

と、

糸、または糸状のもの何本かをねじり合わせて一本にする、

意(「三相(みつあひ)」は、「三本縒り」)、

よられつる野もせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空(新古今和歌集)、

と、

ねじり曲げる、

意、

有る人、其の手足を縛(ヨリ)たり(法華義疏長保四年点)、

と、

縛る、

意にもなる(学研全訳古語辞典・精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)が、

ら/り/る/る/れ/れ、

と、自動詞ラ行四段活用の、

よる、

は、

縒れる、

意で、

蟬(せみ)の羽(は)のひとへに薄き夏衣(なつごろも)なればよりなむ物にやはあらぬ(古今和歌集)、

と、

しわになる、
からまる、

意になる(仝上)。この、

縒る、

の由来は、

ヨル(寄る)の義(志不可起・言元梯)、
ヨラス(寄らす)の義(名言通)、
イトロム(糸論)の反(名語記)、
横に拈(ひね)る意(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々とあるが、普通に考えれば、

寄る、

ではないか。

寄る、

は、

凭る、
頼る、

とも当て、

事物や現象が一方向や一点にいちじるしく近づき、また集まってあらわれる意(広辞苑)、
ある物やある所、また、ある側に近づいて行く(精選版日本国語大辞典)、
物や心をひきつける方へ自然に自発的に近づいて行く意(岩波古語辞典)、

といった意で、

よる、

には、

寄、
倚、
凭、
拠、
縁、
依、
因、
由、
頼、

等々の字をあてはめるが、

依・因・由、

は、

よりどころとなる事柄に基づく(「もととなる」)、

拠・縁、

は、

気持が、そちらに引きつけられる、
根拠となる、

倚・凭、

は、

もたれかかる、

意となり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、ここでは、

寄る、

が近い(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。この由来には、

ヨソ(余所)からアツマルの義か(和句解)、

などがあるがはっきりしない。

「縒」(@シ、Aサ、Bサク)は、

会意兼形声。「糸+音符差(シ・サ 食い違う・ぎざぎざ)」、

とある(漢字源)。なお、音は、「参搓(シンシ)」のように、布の先端がぎざぎざでそろわないさま、の意は@の音、色どりの鮮やかなさま、の意はAの音、「縒綜(サクソウ)」のように、「錯(サク)」にあてた用法の場合は、Bの音、とある(仝上)。ただ、字源は、他に、

形声。声符は差(さ)。差に「參差(しんし)」の声がある。〔説文〕十三上に「參縒(しんし)なり」とあり、参差として乱れもつれることをいう。色のそろわぬさま、色とりどりの意がある。わが国では、ねじり撚(よ)る意に用いる。糸にはより糸、紙にはこよりという(字通)、

と、形声文字とするものがある。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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朝(あさ)な朝(さ)な

 

隠(こも)りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出(で)よ朝(あさ)な朝(さ)な見む(万葉集)

の、

朝(あさ)な朝(さ)な、

は、

朝ごとに、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

朝(あさ)な朝(さ)な、

は、

野辺ちかく家居(いへゐ)しせれば鶯の鳴くなるこゑはあさなあさなきく(古今和歌集)、

と使う、

あさなあさな(朝朝)」の変化した語(精選版日本国語大辞典)、
アサナアサナの約(岩波古語辞典)、

とあり、

朝(あさ)な朝(あさ)な、

の、

ナの意味は不明、

とある(精選版日本国語大辞典)が、

朝闥ゥ閨iあさのまあさのま)の約(呉(くれ)の藍(あい)、くれなゐ。此方(このかた)、こなた)、夜な夜なと云ふも、夜阮鵆閨iよのまよのま)の約、アサナサナと云ふは、中閧フアが、上のナの韻に合するなり、

とあり(大言海)、

は、

朝ごとに、
毎朝。

意(仝上・岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、多く、約めて、

うら恋(こひ)し我(わ)が背の君はなでしこが花にもがもな安佐奈佐奈(アサナサナ)見む(万葉集)、

と、

あさなさな、

で用いる(大言海)。なお、

朝朝、

を、

あさあさ、

と訓ませても、

朝々の蚊にさも似たり市の声(俳諧「俳諧古選(1763)」)、

と、

あさなあさな、

と同義の、

毎朝、
朝ごと、

の意になる(精選版日本国語大辞典)。

朝(あさ)な、

だと、

「な」は接尾語、

として、

あさなは、朝にあたりての心となる歟(「名語記(1275)」)、

と、

朝、

の意になる(精選版日本国語大辞典)。ところで、



は、

朝まだき

で触れたように、古代、夜の時間は、

ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

という区分をし、昼の時間帯は、

アサ→ヒル→ユウ、

と区分した(岩波古語辞典)。「アサ」は、

夜の対ではなく、

ヨイ(宵)・ユウ(夕)の対になる(仝上)、なお、



については触れた。時間帯としては、昼の時間帯の「アサ」は、夜の時間帯の、

アシタ(明日・朝)、

と同じになるが、

アシタ、

は、

あした

で触れたように、

「夜が明けて」という気持ちが常についている点でアサと相違する。夜が中心であるから、夜中に何か事があっての明けの朝という意に多く使う。従ってアルクアシタ(翌朝)ということが多く、そこから中世以後に、アシタは明日の意味へと変化しはじめた、

とあり(仝上)、

アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アシタ(明日)、

と転化していった(日本語の語源・日本語源広辞典)ので、時間帯は同じだが、

夜が明けた朝、
と、
昼を前にした朝、

とは含意が異なったと思われる。しかし、

アサ、

は、

アシタ(明日・朝)の約、

と、「アシタ」由来とみなされる。

〈あが面(オモ)の忘れんシダ(時)は〉(万葉)とあるが、夜明けの時のことをアケシダ(明け時)といった。「ケ」を落としてアシタ(朝)になった。さらにシタ[s(it)a]が縮約されてアサ(朝)になった、

とあり(日本語の語源)、

アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アサ(朝)、

と転化したことになる(日本語源広辞典)。

アサには「明るい時間帯の始まり」の意識が強い(「朝まだき」「朝け」)のに対し、アシタには「暗い時間帯の終わり」に重点があった。そのため、前夜の出来事を受けて、その「翌朝」の意味で用いられることが多く、やがて、ある日から見た「翌日」、後には今日から見た「明日」の意に固定されていく。この意味変化と呼応しつつ、アサが専ら「朝」を指す単独語となり、ユフベが「昨夜」を示すようになった、

とあり(精選版日本国語大辞典)、古代にあっては、アサは、

夜の終わりの時間をさす「あした」とほぼ同じ意味であるが、単独で使われることは少なく、他の語と複合して使われることが多かった。また、「朝さる・朝漕ぐ・朝立つ」など助詞を介さず動詞と直結する例が多い。夕、宵、夜に対応し、「あかとき」とも時間的に重なることがあるらしい。日の照る時間は「昼」で別のものであったが、のち「あさ」のさす時間帯もだんだん広がって、あるときは、一昼夜を暁、明、朝、昼、夕、暮、宵、夜に分けて辰の時(おおよそ午前七〜九時)をさすといわれたり、また、広く夜が明けてから正午までの午前中の時間をさして使われることもある、

ともあり(精選版日本国語大辞典)、

アサが「朝日・朝霧・朝夕」など複合語の前項として多く用いられ、平安時代以前には単独語の用例がまれだったのに対し、アシタは単独語としての使用が普通で、複合語としては「朝所」(あしたどころ)くらいであるという違いがあった、

ともある(仝上)。なお、上述の、

シダ、

は、

とき、

の意で、今日、

行きしな、
帰りしな、

と使う、

しな、

の古語である(岩波古語辞典・大言海)。「しな」については、

しな、すがり、すがら

で触れた。

朝も昼も、
いつも、

の意の、

あさなけに

日増しに、
日がたつにつれて、
一日一日と、
毎日毎日、

の意の、

日に異(け)に

あさごとに、
毎朝、

の意の、

朝さらず

日毎に、
毎日、

の意の、

日に日(け)に、日に日(け)に、

は、

日に異(け)に

で、それぞれ触れた。

「朝」(@漢音・呉音チョウ、A漢音チョウ、呉音ジョウ)は、「朝月夜」で触れたように、

会意→形声。もと「艸+日+水」の会意文字で、草の間から太陽がのぼり、潮がみちてくる時をしめす。のち「幹(はたが上るように日がのぼる)+音符舟」からなる形声文字となり、東方から太陽の抜け出るあさ、

とある(漢字源)。@は、「太陽の出てくるとき」の意の「あさ」に、Aは「来朝」のように、「宮中に参内して、天子や身分の高い人のおめにかかる」意の時の音となる(仝上)。同趣旨で、

形声。意符倝(かん 日がのぼるさま。𠦝は省略形)と、音符舟(シウ)→(テウ)(は変わった形)とから成る。日の出時、早朝の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「草原に上がる太陽(日)」の象形から「あさ」を意味する「朝」という漢字が成り立ちました。潮流が岸に至る象形は後で付された物です、

ともhttps://okjiten.jp/kanji152.html

会意。艸(そう)+日+月。艸は上下に分書、その艸間に日があらわれ、右になお月影の残るさまで、早朝の意。〔説文〕に字を倝(かん)部七上に収め、「旦なり。倝(旗)に從ひ、舟(しう)聲」とするのは、篆文の字形によって説くもので、字の初形でない。金文には右に水に従う形が多く、潮の干満、すなわち潮汐(ちようせき)による字形があり、その水の形が、のち舟と誤られたものであろう。左も倝の形ではなく、倝は旗竿に旗印や吹き流しをそえた形で、朝とは関係がない。殷には朝日の礼があり、そのとき重要な政務を決したので、朝政といい、そのところを朝廷という。朝は朝夕の意のほかに、政務に関する語として用いる。暮の初文である莫(ぼ)も、上下の艸間に日の沈む形である、

とも(字通)あるが、

「朝」には今日伝わっている文字とは別に、甲骨文字にも便宜的に「朝」と隷定される文字が存在する、

としてhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%9D

会意文字。「艸」(草)+「日」(太陽)+「月」から構成され、月がまだ出ている間に太陽が昇る明け方の様子を象る。「あさ」を意味する漢語{朝 /*traw/}を表す字。この文字は西周の時代に使われなくなり、後世には伝わっていない、

とは別に、

形声。「川」(または「水」)+音符「𠦝 /*TAW/」。「しお」を意味する漢語{潮 /*draw/}を表す字。のち仮借して「あさ」を意味する漢語{朝 /*traw/}に用いる。今日使われている「朝」という漢字はこちらに由来する、

とし、

『説文解字』では「倝」+音符「舟」と説明されているが、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように、「倝」とも「舟」とも関係が無い、

とある(仝上)。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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うら泣く

 

ひさかたの天の川原にぬえ鳥のうら泣きましつすべなきまでに(万葉集)

の、

ぬえ鳥、

は、

うら泣き、

の枕詞、

うら泣く、

は、

忍び泣き、

とし、

(織姫樣は)ぬえ鳥のように忍び泣きしていらっしゃいました、たまらなくいたわしく思われるほどに、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

ぬえ

鵺、

とも

鵼、

とも

恠鳥、

とも

奴延鳥、

とも当てるようだ。辞書(『広辞苑』)には、

トラツグミの異称、源頼政が紫宸殿上で射取ったという伝説上の怪獣。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に、声はトラツグミに似ていたという。平家物語などに見え、世阿弥作の能(鬼能)にも脚色、転じて正体不明の人物やあいまいな態度にいう、

とある。『大言海』には、

和(ナエ)にて、なびく声に云ふ。即ち、恨むる如く、うらぶる如く、しなふる如くなれば云ふと、

と注記して、

又、ぬえどり。ぬえこどり。梟の類。世に怪鳥として、其鳴くを凶兆とす。吉野山等の深山に棲む。大きさ鳩の如く、黄赤にして、黒班あり。嘴の上は黒く、下は黄にして、脚は黄赤なり。昼伏し、夜出でて、木の梢に鳴く、聊(いささか)、小児の叫ぶが如し。鬼つぐみ。関東に、虎つぐみ、

と、あわせて、

近衛天皇の時、源頼政が射て獲たりと云ふ想像上の怪獣の名。猴首、虎身、蛇尾にて、声は鵺の如し(『平家物語』)と云へるより移りて、世に誤りて、その名とす、

ともあり、あくまで、鳴き声が、つまりトラツグミだったのを、誤って、怪獣の名にしたのだ、というわけである。

うらなく、

は、

心泣く、
裏嘆く、

とあて(広辞苑)、

うら

は、

こころ

の意で(精選版日本国語大辞典)、

表に現わさないで泣く、
忍び泣く、
また、
おのずと泣けてくる(精選版日本国語大辞典)、
心の中で自然に泣けてくる(広辞苑)、
心の中で自然と泣けてくる(岩波古語辞典)、

とあり、

下泣(したな)く、

という言い方もするようだ。普通、

け/け/く/くる/くれ/けよ、

の、カ行下二段活用

とされる(学研全訳古語辞典)が、

霞立つ長き春日(はるひ)の暮れにけるわづきも知らずむらきもの心を痛みぬえこ鳥卜歎(うらなけ)居れば(万葉集)、

の、

卜歎(うらなけ)、

は、

うらなき、

と訓み、

か/き/く/く/け/け、

の、カ行四段活用とする説もある(精選版日本国語大辞典)ようだ。

うら

は、

心、

と当て、

表に見えないものの意、

で、

こころ、
おもい、

の意である(広辞苑)が、

裏、
浦、

と同源で、

裏、

とも当てる。『大言海』は、「うら」は、

事の心(うら)の意、

とし、「心(うら)」は、

裏の義。外面にあらはれず、至り深き所、下心、心裏、心中の意、

としている。「古今集」など、和歌では、「うら」が「心」の意と「浦」や「裏」の意味を掛けて使われ、

いさなとり海の浜辺にうらもなく臥(ふ)したる人は母父(おもちち)に愛子(まなこ)にかあらむ(萬葉集)、

では、「心」と「浦」を掛け、

何も気にかけず、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。上代、

うら(心)思(も)い、
うら(心)思(も)ふ、
うら(心)許(もと)無し、
うら(心)無し、

等々、多くは語素としての用法である(精選版日本国語大辞典)。また造語要素としては、

うらあう、
うらがなし、
うらぐわし、
うらごい、
うらさびし、
うらどい、
うらなき、
うらまつ、
うらもう、
うらやす、

等々、形容詞およびその語幹、動詞の上に付いて、

心の中で、
心から、
心の底からしみじみと、

の意を添えて使われる(仝上)。この、

うら(心・裏)、

は、平安時代までは、

「うへ(表面)」の対、

院政期以後、次第に、

「おもて」の対、

となっていく。

表に伴って当然存在する見えない部分、

をいう(岩波古語辞典)。

下笑(したゑ)まし

で触れたように、

した、

は、上代において、

人に隠した心、

の意で(岩波古語辞典)、

心の中に喜びが満ちあふれるさまである、
心ひそかににこにこしたくなる、

の意で使う(仝上・精選版日本国語大辞典)が、この、

した、

と、

うら、

のちがいは、

うら、

が、

意識して隠すつもりはなくても表面にはあらわれず隠れている心である、

のに対し、

した、

は、

表面にあらわすまいとしてこらえ隠している心である、

とする(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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赤らひく

 

赤らひく色ぐはし子をしば見れば人妻(ひとづま)ゆゑに我(あ)れ恋ひぬべし(万葉集)

の、

しば、

は、

しばしば、

の意、

赤らひく、

は、

「色ぐはし子」の枕詞、

とあり(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

ほんのりと紅い頬をした目にも霊妙な女(ひと)、

と訳す(仝上)。また、

赤らひく肌も触れず寐寝(いぬ)れども心を異(け)には我(わ)が思はなくに(万葉集)

の、

赤らひく、

は、

肌の枕詞、

で、

心を異(け)には、

は、

あだな心を持っている、

と訳す(仝上)。

赤らひく

は、

赤ら引く、
赤羅引、

と当て(広辞苑・大言海)、

「ひく」は「引く」で、帯びる意を表わし、「あからひく」は赤くなるの意。実景の描写を兼ねて用いる(精選版日本国語大辞典)、
アカラは、アカラムの語根、明根映(あかねさ)すと同意、明(あか)く光る日とかかり、赤みの映(さ)す子(女子)、君、(紅顔の意)、膚とかかる(枕詞)(大言海)、
明るく光る、あるいは、赤実を帯びる意で、月、日、子、君、朝、膚、敷栲、にかかる枕詞(広辞苑)、

とあり、

明るく光る、あるいは、赤みを帯びる(広辞苑)、
赤い色を帯びる、赤みがさす(岩波古語辞典)、

意で、

ぬばたまの夜はすがらに赤羅引(あからひく)日も暮るるまで嘆けども(万葉集)、

と、

明るく照り映える意から「日」「朝」にかかる(デジタル大辞泉)、
赤い色を帯びて輝く意から「肌」「日」「朝」などにかかる(学研全訳古語辞典)、
夜が明けていく意で、「日」「朝」「昼」にかかる(精選版日本国語大辞典)、

枕詞として、また、冒頭の、

朱羅引(あからひく)色ぐはし子をしば見れば人妻ゆゑに我(あ)れ恋ひぬべし、

と、

赤みを帯びる意から「色」「肌」にかかる(デジタル大辞泉)、
赤みを帯びた美しい肌の意で、「肌」や「子」にかかる(精選版日本国語大辞典)、

枕詞として使われる。この名詞、

あからひき(赤引)、

は、

赤い色を帯びること、

で、

赤引絲(あからひきのいと)参拾伍斤(持統紀)、

と、

生糸の称、

として、

あからひきのいと(赤良引絲)、

と使われ(大言海)、

大神宮(伊勢神宮)の神衣(かんみそ)祭(まつり)に、織りて供(そな)ふるものに云ふ、

とある(仝上)。

あかひきのいと、

ともいう(仝上)。この、

赤(あか)が明(あき)らかに転ず、明衣(あかはとり)のアカなり、明潔の意にて、稱辞(たたへごと)なり、

とある(仝上)。ちなみに、

あかはとり(明衣)、

とは、

明衣(あかはとりの)料、絁二疋、調布二端、綿八屯(「延喜式(927)」)、

とあり、

あかはといふは、明衣とかく。御湯帷子をいふ也(「御代始鈔(1461頃)」)、

とあるように、

浄衣(じゃうえ)、

をいい、

もと沐浴の後に用いた湯帷子(ゆかたびら)をさしたが、神事、儀式に用いる浄衣をも意味した、

とある(精選版日本国語大辞典)。

あかは、
あかるたえ、
あけのころも、
きよぎぬ、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。ついでに、

神衣(かんみそ)祭、

の、

かんみそ(かむみそ)、

は、

神御衣、
神衣、
神服、

とあて、

又、天照大神の、方に神衣(カムミソ)を織りつつ、斎服殿(いむはたとの)に居(ましま)すを見て(日本書紀)、

と、

神のお召しになる衣服、
神のお召しになるものとして、神に捧げる衣服、

をいい、

かんころも、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

かんみそ祭、

は、

神御衣祭、

とあて、

毎年、陰暦四月一四日と九月一四日に、朝廷から伊勢の皇大神宮にそれぞれ夏冬の神衣を奉る祭、

をいう(仝上)。

閑話休題。

赤ら、

の、

「ら」は接尾語、

で、他の語の上に付いて複合語をつくり、

赤らたちばな、
赤ら引く、

など、上代、

赤みを帯びて美しいさま、

にいい、

月待ちて家には行かむ我が挿せる赤ら橘影に見えつつ(万葉集)、

と、ここでは、

色づいた橘の実を月の光に照らしださせながら、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)ように、

つやつやと赤みを帯びて照り輝くもの、

を表わす使い方をするが、後には、価値表現から状態表現に変じて、

赤ら顔、

のように、

赤みを帯びているさま、

にいう語となる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。近世には、

先祖より酒の家に生れ、あから呑(のめ)といはれて此かた(浮世草子「本朝二十不孝(1686」))、

と、

(酒を飲むと顔が赤くなるところから)酒の異名、

として使われ、

あか、

ともいった(仝上)。

べにといふものいとあからかにかい付けて(源氏物語)、

と、

赤(あか)らか、

は、

「か」は接尾語、

で、

赤みを帯びているさま、
赤く色づいて鮮やかなさま、
赤みを帯びて美しいさま、

と、価値表現になる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)し、

三栗(みつぐり)の中つ枝(え)のほつもり阿迦良袁登売(アカラヲトメ)を誘(いざ)ささば良(よ)らしな(古事記)、

の、

あからをとめ(赤ら少女)、

も、

血色の良い美少女、
バラ色の肌をした美しい少女、

の意と、価値表現である。

沖ゆくや赤羅小舟(あからをぶね)につとやらばけだし人見てひらき見むかも(万葉集)、

の、

赤ら小舟(あからをぶね)、

は、

赤く塗った舟、特に官船、古代官船は赤く塗ったから、

とあり(広辞苑)、状態表現のようであるが、

「播磨国風土記逸文(釈日本紀所載)」で、神功皇后が新羅遠征成功を祈って、航海に赤色を用いたことからも、魔除け、厄除けの呪術的意味があったと考えられる、

とあり(精選版日本国語大辞典)、価値表現であると知れる。

引く、

は、

退く、
曳く、
牽く、
惹く、
弾く、
挽く、
碾く、
轢く、

等々と、意味に応じて当て別けており、色葉字類抄(平安末期)に、

引、ヒク、音胤、

牽、ヒク、牛馬、

曳、ヒク、曳衣、

彎、ヒク、彎弓、

控、ヒク、控弦、

弾、ヒク、弾琴、鼓琴瑟也、

易林節用集(慶長)に、

挽、ヒク、木、

等々とある。本義は、

相手をつかんで、抵抗があっても、自分の手許へ直線的に近づける意、また、物や自分の身を、自分の本拠となる場所へ戻す意(岩波古語辞典)、
対象を手もとに近づけようと力を加える、手繰り寄せる、引っ張る(日本語源大辞典)、

とあり、

手に取って引き寄せる意の本来二音節語(日本語源広辞典)、
ヒク(日來)の義(柴門和語類集・日本語原学=林甕臣)、
ヘリク(減來)の義(日本語原学=林甕臣)、
ハリキ(張來)の義(名言通)、
ノヘクル(延繰)の義(言元梯)、
ヒイク(日往)の義(言葉の根しらべ=鈴木潔子)、
ヒはノビ、及びまたはヒキ(低)のヒ。クは來の義(和句解)、
贔屓を活用したもの(国語本義)、

等々の由来説があるが、どうもすっきりしない。

くる(來)、

とかかわらせるなら、

ひ、

は、

何なのだろう。音からの連想では、経糸(たていと)の間に緯(ぬき)糸を通すのに使う、

ひ(杼・梭)、

だが、もちろん憶説である。ここで、

赤らひく、

の、

ひく、

は、

惹く、

とあて、

人目をひく、
目をひく、

といった使い方の、

人の注意や関心を向けさせる(精選版日本国語大辞典)、
人を誘う。気持を近寄せるようにさせる(デジタル大辞泉)、
心をこちらに向けさせる、関心をよぶ、誘う(広辞苑)、

意なのだろう。

「赤」(漢音セキ、呉音シャク)の異体字は、

㫱、䦝、䬉、灻、烾、𤆍、

とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B5%A4)。字源は、

会意文字。「大+火」で、大いにもえる火の色、

とある(漢字源)。他も、多く、

会意文字です(大+火)。「両手・両足を伸びやかにした人」の象形と「燃え立つ炎」の象形から、火の光を浴びる人を表し、そこから、「あかい」を意味する「赤」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji136.html

本字は、会意。火(ひ)と、大(おおきい)とから成り、火が盛んに燃える、また、その色の意を表す。赤は、その変わった形(角川新字源)、

会意。大+火。〔説文〕十下に「南方の色なり。大に從ひ、火に從ふ」とあり、〔段注〕に南方大明の色の意であるという。大は人の正面形。これに火を加えるのは禍殃を祓うための修祓の方法であり、また、さらに攴(ぼく)を加える赦(しや)は、赦免を意味する字である。〔周礼、秋官、赤犮(せきふつ)氏〕は、火を用いて禍害を防ぐことを掌る。一切を清め終わった心を赤心、一切を失い果てたことを赤貧・赤手のようにいう(字通)

と、会意文字としているが、

「大」と「火」から構成され、人が燃やされるさまを象る象形文字と考えられるが、原義は不明。また一説に形声文
字で、「火」+音符「亦 /*LAK/」の略体。「あか」を意味する漢語{赤 /*k-l̥ak/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B5%A4

と、異説もある。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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丹(に)の穂(ほ)

 

我(あ)が恋ふる丹(に)のほの面(おも)わこよひもか天の川原に石枕(いしまくら)まく(万葉集)

の、

丹のほの面(おも)わ、

は、

紅い頬のふっくらしたあの子は、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

面わ、

は、

面輪、

とあて(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

「わ」は輪郭の意、

とあり(仝上・デジタル大辞泉)、

顔、
顔面、

の意である(仝上)。

丹のほ、

は、

丹の穂(広辞苑・デジタル大辞泉)、
丹の秀(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・大言海)、

とあり、

赤い色の目立つこと、
赤くおもてにあらわれること、
目立って赤いこと、

の意である(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・広辞苑)。同じ、

あか、

でも、

赤、
紅、
朱、
丹、

と当て別けているが、

べに、

は、

紅、

とあてるが、古くは、

へに、

清音で、

䞓粉、

とも当て(大言海)、和名類聚抄(931〜38年)に、

䞓粉、和名閉邇(べに)、䞓(テイ)、赤也、染使赤、所以著(着)頬也、

とあり、

頬丹(ほほに)の転か(大言海)、

として、

臙脂(べに)を白粉(しろきもの)に和したるもの、頬に着けて装う、

とある(仝上)が、

末摘花

で触れたように、

ベニバナ、

を、

末摘花、

と呼ぶのは、

茎の末の方から花が咲き始め、その茎の末に咲く黄色の頭花を摘み取って染料の紅をつくるからいう、

とある(広辞苑・大辞林)。

ベニバナ、

は、日本には5世紀頃に渡来したといわれ、古くは和名を、中国伝来の染料の意味で、

くれのあい(呉藍)、

といいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%8A

万葉集にも、

外(よそ)のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘む花の色に出(い)でずとも、

と詠われ、上代の和歌では、

紅の末摘花、

などと、

色に出づ、

を導き出す序詞とされる(精選版日本国語大辞典)。ここから、

へに、

が転じて、

べに、

になったとする(大言海)。だから、

べに、

の由来は、



ノベニ(延丹)の義、紅花をのべた丹の意(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・名言通・和訓栞)、
ハニ(延丹)の転か(国語の語根とその分類=大島正健)、
ベニ(脣紅)の義(俗語考)、

と、紅花に絡めるが、

あか

で触れたように、

赤(アカ)、

は、

明(アケ、夜明けの「あけ」、あかつきの「あか」)が語源で、暗・黒(クラ・クロ)が、これに対する、

とされるし、

埴生

で触れたように、

はに(埴)、

の、

に、

にあてる字は、

土、
丹、

で、

土・丹の意をなす「な」の転(広辞苑)、
に(丹)はニ(土)と同根(岩波古語辞典)、
ニ(丹)は赤土(アカニ)に起こる(大言海)、

とあり、

土、

丹、

の両者の関係は深いが、

土(に)、

は、

櫟井(いちひゐ)の丸邇坂(わにさ)の邇(ニ)を端土(はつに)は膚赤らけみ底土(しはに)はに黒きゆゑ三栗のの中つ邇(ニ)を(古事記)、

と、

土、特に赤い色の土、

また、

取り佩ける大刀の手上に丹(に)画き著け(古事記)、

と、

辰砂(しんしゃ)あるいは、赤色の顔料、

つまり、

あかに、

を言い(日本語源大辞典)、

丹(に)、

は、

海は即ち青波浩行(ただよ)ひ、陸は是れ丹(に)の霞空朦(たなび)けり(常陸風土記)、

と、

赤い色(日本語源大辞典)、

あるいは、

朱色の砂土、顔料にした(岩波古語辞典)、

を言うので、

赤色の土→赤色→顔料、

という流れが通底している。

朱、

は、

黄色のかかった赤、また、黄色みを帯びた赤色の顔料、

で、

成分は硫化水銀、天然には辰砂(辰沙)として産し、朱砂、丹砂、丹朱ともいい、水銀と硫黄の混合物を加熱・消化させてつくる。古くから顔料の朱としても用いられた、

とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。同じ

あか、

でも、由来を異にし、おそらく、

丹は、赭土(シャド)、赤土の色、
朱は、黄色がかった赤、
赤は、明けのアカ、
紅は、紅花の汁で染めた、わずかに紫がかった赤、

と、色合いも、微妙に異なる。ちなみに、漢字では、赤系の色を示す字は、

「赤」は、火(あるいは太陽)の赤く燃える色。きらきらとあかきなり。
「紅」は、植物性の染料のあかさ。桃色なり。
「丹」は、丹砂の色なり。大赤なり。
「茜」は、夕焼け空の赤い色
「絳」は、深紅の色。大赤色なり。
「緋」は、染料によって染められた繊維のあかさ。目のさめるような鮮やかな赤色。深紅色なり。

と使い分ける(字源)。

「穂」(漢音スイ、呉音ズイ)の異体字は、

穗(旧字体)、穟、𥝩、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A9%82

「穗」の略体(「惠」→「恵」の類推)、

とある(仝上)。

「穗」(漢音スイ、呉音ズイ)は、

会意文字。「禾(いね)+惠(=慧、ほそい、細かい)」、

とある(漢字源)。他に、

会意。正字は𥝩(すい)に作り、爪+禾(か)。禾穂を摘み采る意。〔説文〕七上に「禾成りて秀あり。人の收むる所以(ゆゑん)なり。爪禾に從ふ」とし、また穗の字形をあげて惠(恵)声とするが、声が合わない。〔慧琳音義〕に引く〔倉頡篇〕に穗・穟を同訓としており、𥝩・穗・穟は同字異文と考えられる。惠に三隅矛(みつめぼこ)の意があり、禾麦の穗がそのような形に出ていることを、惠の字形によって示したものであろう。金文の惠の字に、上を三穂の形に作るものがあり、繫縛の縛も、古くは上部に三本の紐が出ている形であった(字通)、

と、会意文字とするものもあるが、

形声。「禾」+音符「惠 /*WIT/」。「ほ」を意味する漢語{穗 /*swits/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A9%97

もと、𥝩と書き、会意で、禾と、爪(そう)(とる)とから成り、人がとるいねの「ほ」の意を表す。旧字は、𥝩の俗字で、形声。禾と、音符惠(クヱイ)→(スイ)とから成る。常用漢字は省略形による(角川新字源)

と、形声文字とするもの、

会意兼形声文字です(禾+恵(惠))。「穂の先が茎の先端に垂れかかる穀物」の象形(「稲」の意味)と「糸巻きの象形と心臓の象形」(「いちずな心を傾ける・めぐみ(幸福・利益をもたらすもの)」の意味)から、穀物のめぐみを意味し、そこから、「ほ(穀物の茎の実のつく部分)」を意味する「穂」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1343.html

と、会意兼形声文字とするものに分かれる。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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かてに

 

己夫(おのづま)にともしき子らは泊(は)てむ津の荒磯(ありそ)まきて寝む君待ちかてに(万葉集)

の、

己夫(おのづま)にともしき子らは、

は、

自分の夫にめったに会えないあの子は、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

ともし

は、

乏し、
羨し、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

乏、トモシ、貧、トモシ、マズシ、

とある。現代語でいうと、

ともしい(乏しい、羨しい)、

になる。その由来は、

トム(求)と同根。跡をつけたい、求めたいの意。欲するものがあって、それを得たいという欠乏感・羨望感を表す(岩波古語辞典)、
動詞トム(求)の形容詞化(日本古語大辞典=松岡静雄)、

とあり、

オソル(恐)とオソロシイの関係と同じく、トム(求)から派生した語であろう。求めたいと思う対象が稀少であったり、心ひかれる対象についての情報量が少ない時に懐く感情をいう、

とある(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)のが妥当なのだろう。

とむ、

は、

尋む、
求む、
覓む、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

トは跡の意、

で、

時に川上に啼哭(ねな)く声有るを聞く。故、声を尋ねて覓(トメ 別訓まき)往(いてま)ししかば、一(ひとり)の老公(をきな)と老婆(をむな)と有り(日本書紀)、

と、

跡をつけていく、
たずねる、
さがしもとめる、

意である(仝上・精選版日本国語大辞典)。

ともし、

は、上述の由来から、

思ほしきことも語らひ慰むる心はあらむを何しかも秋にあらねば言問の等毛之伎(トモシキ)子ら(万葉集)、

と、

物事が不足している、
不十分である、
(もっと欲しいと思うほど)少ない、
とぼしい、

意や、

乏(トモシキ)者(ひと)の訴は水をもて石に投ぐるに似たり(日本書紀)、

と、

財物が少ない、
貧しい、
貧乏である、
とぼしい、

意というように、

少ない、乏しい、貧しい等々、対象の客観的状態等を主とする(日本語源大辞典)、

状態表現として使われ、

八千種(やちくさ)に花咲きにほひ山見れば見のともしく川見れば見のさやけく(万葉集)、

と、

(存在の稀なものに)心惹かれる、
珍しく思う、

意や、

日下江の入江(くさかえ)の蓮花蓮身(はちすはなはちすみ)の盛り人(さかりびと)登母志岐(トモシキ)ろかも(古事記)、

と、

自分にはないものを持っている人などをうらやましく思う、

意などのように、

心惹かれる、羨ましいなどの意未は、対象に対する話し手の感情を主とする(日本語源大辞典)、

価値表現となる。ただ、中古以降、この用例は、

ほとんど見られなくなる、

といい(仝上)、

うらやまし、

等々に代替された(仝上)とみられる。ここでは、こうした背景をくんで、

(会いたくても)めったに会えない、

と意訳したとみることができる。

かてに、

は、

我(わ)れはもや安見児(やすみこ)得たり皆人(みなひと)の得かてにすといふ安見児得たり(万葉集)

の、

かてに、

の、

カテは、補助動詞カツの連用形、二は打消しヌの連用形、

とし、

得かてにすといふ、

を、

手に入れがたいと言っている、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

夕されば君來(き)まさむと待ちし夜(よ)のなごりぞ今も寐寝(いね)かてにする(万葉集)

の、

今も寐寝(いね)かてにする、

を、

いまも寝つかれないでいる、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

かてに、

は、

克てに、
勝てに、

などとあて(岩波古語辞典)、

ニは打消しの助動詞ズの古い連用形(岩波古語辞典)、
「耐える」「できる」意の「かつ」に否定の助動詞「ず」の古い連用形「に」の接続した語。のちに、語頭が濁音化し、ガテ(難)ニと意識された(広辞苑)、
補助動詞「かつ」の未然形に、打消の助動詞「ず」の上代に使われた連用形が付いたもの(精選版日本国語大辞典)、
可能等の意の補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の上代の連用形(学研全訳古語辞典)、

とあり、動詞の連用形に付いて、

……することができなくて、
……に耐えられずに、

の意を表す(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

がてに

で触れたように、

あは雪のたまればかてにくだけつつわがもの思ひのしげきころかな(古今和歌集)、

の、

かてに、

は、上述したように、動詞「克つ」からできた連語。「こらえかねて」の意。他の動詞につくと、

桜散る花のところは春ながら雪ぞ降りつつ消えがてにする(古今和歌集)、

と、

「がてに」の形になる、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。これは、

「かてに」の「かて」に「難」の字を用いているものは、「かて」に否定の意を含み、本来打消の助動詞である「に」を助詞と解したものと思われる、

故とされる(精選版日本国語大辞典)。

がてに、

は、すでに上代から、

春されば吾家(わぎへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さばしる君待ちがてに(万葉集)、

と、

その例がみられる(大辞泉)ように、

ガテは難シの語幹と混同され、ニは格助詞のように意識された(広辞苑)、
語頭が濁音化し、一語と考えられ、ガテ(難)ニと意識された(大辞泉・学研全訳古語辞典)、
「難(かた)し」との語形の類似から、「かて」に「…することに耐えない、できない」の意を含み、「に」を助詞と解したことによる(精選版日本国語大辞典)、
本来、こらえられずにの意の「かて(克)に」であったが、すでに奈良時代からその語源意識が薄れ、カテはカタシ(難)の語幹と混同され、ニは格助詞と意識されて、ガテニが成立した(岩波古語辞典)、

などとあり、動詞に付いて、

わが宿に咲ける藤波立ち返り過ぎがてにのみ人の見るらむ(古今和歌集)、

と、

……しがたく、
……できずに、
……するに耐えないで、

の意を表すようになる(広辞苑)。このため、

かてに、

は、平安中期ごろ消滅した、

とある(岩波古語辞典)。そのため、

がてに、

は、

難てに、

と当てられる(岩波古語辞典)。ちなみに、

かつ(克・勝)、

は、

て/て/つ/つる/つれ/てよ、

の、タ行下二段活用で、補助動詞として用いられ、動詞の連用形に付いて

未然形「かて」に打消の助動詞「ず」の上代の連用形「に」や連体形「ぬ」を伴う「かてに(がてに)」や「かてぬ」、あるいは終止形「かつ」に打消推量の助動詞「まじ」の古い形「ましじ」を伴う「かつましじ」の形で使われることが多い、

とされ(学研全訳古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

大坂に継ぎ登れる石群(いしむら)を手越(たご)しに越さば越し介氐(カテ)むかも(日本書紀)、

と、

…するに耐える、
…することができる、

の意味に使い、転じて、

あは雪のたまればかてにくだけつつわが物思ひのしげき頃かな(古今和歌集)、

と、

耐える、

意で使う(精選版日本国語大辞典)。この場合、

和(か)てに、

と、

…する一方では、

の意とする説もある(仝上)らしいが。

「克」(コク)の異体字は、

剋(繁体字)、𠅔(古字)、𠅡(古字)、𠧳(古字)、𠧻(古字)、𡱠(同字)、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%8B。字源は、「がてに」で触れたように、

会意。上部は重い頭、またはかぶとで、下に人体の形を添えたもので、人が重さに耐えてがんばるさまを示す。がんばって耐え抜く意から、勝つ意となる。緊張してがんばる意を含む(漢字源)、

とあり、別に、

象形文字です。「重いかぶとを身につけた人」の象形から、「重さに耐える」、「打ち勝つ」を意味する「克」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1497.html

象形。人が甲冑(かつちゆう)を着けた形にかたどり、甲冑の重さに耐える、ひいて「かつ」意を表す(角川新字源)、

象形。木を彫り刻む刻鑿(こくさく)の器の形。上部は把手、下は曲刀の象。〔説文〕七上に「肩(かつ)ぐなり。屋下の刻木の形に象る」とあり、支柱の意とする。しかし金文の字形では、下部が曲刀をなしており、また〔説文〕古文の第二字は明らかに刻彔の形、すなわち錐もみの器である。刻鑿・掘鑿(くつさく)に用いる。〔詩、大雅、雲漢〕「后稷(こうしよく)克(しる)さず」の〔鄭箋〕に「克は當(まさ)に刻に作るべし。刻は識(しる)すなり」とあり、克はその克識を施すための器である。ものを刻することから、克能・克勝の意となり、また克己のように用いる(字通)、

と、象形文字ともするが、

不詳。複数の説が存在するが定説はない、

としているhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%8B

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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いなのめ

 

相見(あひみ)らく飽き足(だ)らねどもいなのめの明けさりにけり舟出(ふなで)せむ妻(万葉集)

の、

相見らく、

は、

互いにいつまでも会っていても、

の意、

いなのめの、

の、

いなのめ、

は、

稲の目で、古代家屋の明り取りか、

とあり、

いなのめの、

で、

明けの枕詞、

とする(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

いなのめの、

は、枕詞として、

かかり方未詳(岩波古語辞典・広辞苑)、

ながら、

あけ(明)にかかる(広辞苑)、
「あけ」にかかる(岩波古語辞典)、
「夜が明く」の「明く」にかかる(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)、

とされるが、その語源については、

未詳。一説に、「いなのめ」は「稲藁(いねわら)」を編んで壁とした住居の窓代わりの用とした、粗い編目のこととかいう、また、「寝(いな)の目」の意かともいう、「明け」にかかる(広辞苑)、
「いな」は「寝(いな)」に通じるので、「寝(いな)の目の開(あ)け」の意か(岩波古語辞典)、
語源およびかかり方については(イ)「いな(寝)のめ(目)」が朝方に開くから「(夜が)明く」にかかる。(ロ)「いなのめ」は「しののめ」(暁方の意)と同義であるところからとする。(ハ)「いな(稲)のめ(目)」(稲の穂の出始める意)を夜明けにたとえるところからとする。(ニ)「イナ(鯔)のめ(眼)」が赤いところから「赤」と同音の「明」にかかる。(ホ)採光、通風のために、稲藁を粗く編んだむしろのすきま(稲の目)から明け方の光がさし込むところから、など諸説ある(精選版日本国語大辞典)、
イナノメは、寝(いね)の目の転、アクにかかる。いねむしろ、いなむしろ(寝筵)。いねのほ、いなのほ(稲穂)の例(大言海)、

とあるが、

寝(いね)の目→寝(いな)の目、

なのではないか。

いなのめ、

は、枕詞の

いなのめの、

の、

「いなのめの明く」という言い方から転じて、

名詞として、

いなのめは岩のかけ橋ほのぼのとしばし休らへまほならずとも(夫木(ふぼく)集)〈、

と、

あけがた、
あけぼの
夜明け、
しののめ、

の意に使われる(大言海・広辞苑)。

稲、

については、

いね

で触れたように、

いね、

は、

稲(稻)、
禾、

と当て、

稲禾(とうか)、
禾稲(かとう)、

ともいう。

稲、

は、

日本国内に稲の祖先型野生種が存在した形跡はなく、揚子江中流地域において栽培作物として確立してから、栽培技術や食文化などと共に伝播したものと考えられている。日本列島への伝播については、幾つかの説があり、概ね以下のいずれかの経路によると考えられている。
江南地方(長江下流域)から九州北部への直接ルート、
江南地方(長江下流域)から朝鮮半島南西部を経由したルート、
南方の照葉樹林文化圏から黒潮にのってやってきた『海上の道』ルート、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8D、「稲」作は人とともに、伝播した。言葉は、そのとき伝わったとみていい。

イネ、

は、

古形イナの転(岩波古語辞典)、

とあり、稲わらとか稲垣、稲束、稲作、稲田、稲幹(いながら)、稲子(蝗)、稲扱(いなこぎ)、稲荷等々、複合語の中にのみ生き残っている(仝上)。『大言海』は、

イネ、

を、

飯根(いひね)の約、

とし、

飯根(いいね)の約。恆山(くさぎ)を鷺の以比禰と云ひ、白英(ひよどりじょうご)を鶫(つぐみ)の以比禰と云ふ、

としているが、ちょっと意味がくみ取れないが、

恆山(くさぎ)、

は、『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)に、

恒山、和名久佐岐、一名宇久比須乃以比祢、

和名類聚抄(931〜38年)に、

恒山、和名宇久比須乃以比禰、一云久佐木乃禰、

とあり、

いわゆる「くさぎ」のことを言っており、「ひよどりじょうご(鵯上戸)」は、

赤い実を鵯が好んで食べることから、ヒヨドリジョウゴの名前がついたとされる。実は真っ赤で美味しそうではあるが、不快な匂いがし、鳥にとっても美味しいものとは思えない。最初「ツグミ」の名前を付けていたが、後に、雑食性でなんでも食べる、鵯の名前を借りたのかもしれない。日本の古書『本草和名(ほんぞうわみょう)』には、漢名に「白英(はくえい)」、和名に「保呂之(ホロシ)」の名がある。その後「豆久美乃以比禰(つぐみのいいね)」ともよばれ、江戸時代に「ヒヨドリジョゴ」が定着した、

とありhttp://blog.goo.ne.jp/momono11/e/b7408ea9aa0296032a1d8add99cc78c2、「以比禰」が「飯根」の「いいね」とかさなるが、「以比禰」をもって、「いね」の語源「飯根」の傍証とする根拠が、浅学の自分には見えなかった。なにより、「いね」の古形が「いな」とするなら、これは傍証にもなっていないことになるのだが。他の語源説は、

イヌ(寝)の連用形による名詞がイネ(稻)に転用されたもの。稲藁を敷いて寝たことから(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、
イヒネ(飯寝)の約(言元梯・和訓栞)、
イヒネ(飯米)の意(名言通)、
イノチノネ(命根)の略か(和句解・三省録・本朝辞源=宇田甘冥)、
イ(命のイ)+ネ(根・大切な物)と、生命の根となる作物(日本語源広辞典)、
イキネ(生根)から(本朝辞源=宇田甘冥)、
イキネ(息根)の約(日本声母伝・古語類韻=堀秀成)、
イツクシナヘ(美苗)の約(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、
イは発語、イヅル(出)の意、ネはタネ(種)のネ(東雅・言葉の根しらべ=鈴木潔子)、
イヒノメ(飯芽)の義(日本語原学=林甕臣)、
秧の別音inが変化したもの(日本語原考=与謝野寛)、

とあるが、どれも語呂合わせに近い。それを捨てていくと、

イナ→イネ(岩波古語辞典)

なのか、

イヒネ→イネ(大言海)、

になるが、いずれなのかは、語源説がかかわるのだが、いずれとも決めがたい。なお、

イネの実、

である、

こめ、

については、

こめ

よね

で触れた。

「稲」(漢音トウ、呉音ドウ)の異体字、

は、

稻(旧字体)、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A8%B2

「稻」の行書体に由来する略体(「臼」→「旧」の類推)、

とある(仝上)。

「稻」(漢音トウ、呉音ドウ)の、異体字は、

槄(俗字)、稲(新字体)、𰨛(二簡字)、𰨬(俗字)、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A8%BB、字源は、

会意兼形声。「禾(いね)+音符舀(ヨウ・トウ 臼の中でこねる)」、

とある(漢字源)。同じく、

会意兼形声文字です(禾+舀)。「穂先が茎の先端にたれかかる穀物」の象形と「手を上からかぶせて下にあるものをつまみ持つ」象形と「木・石をうがって(掘って)作るうす」の象形から、うすから取り出す穀物を意味し、そこから、「いね」を意味する「稲」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji306.html

と、会意兼形声文字とするものもあるが、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

と否定しhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A8%BB、他は、

形声。「禾」+音符「舀 /*LU/」。「いね」を意味する漢語{稻 /*luuʔ/}を表す字(仝上)、

旧字は、形声。禾と、音符舀(エウ)→(タウ)とから成る。いねの総称。常用漢字は省略形の俗字による(角川新字源)、

形声。旧字は稻に作り、舀(よう)声。舀に滔・慆(とう)の声がある。舀は臼の中に手を入れている形。〔説文〕七上に「稌(もちいね)なり」とあり、粘りのあるものを稲、ないものを秔(こう)、総称して稲という。金文の簠(ほ)の銘文に「用て稻粱を盛(い)る」というのが常語で、簠にいれて神饌とした。〔礼記、曲礼下〕に「稻を嘉蔬(かそ)と曰ふ」とあり、神饌としての名である(字通)、

と、形声文字としている。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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よしゑやし

 

よしゑやし直(ただ)ならずともぬえ鳥のうら泣き居(を)りと告げむ子もがも(万葉集)

の、

よしゑやし直にならずとも、

は、

たとえ直に逢えなくても、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

告げむ子もがも、

は、

告げられる子が近くにいてくれてらよいのに、

と訳す(仝上)。

ぬえどりの(鵼鳥の)、

は、鵼の鳴き声が悲しげに聞こえるところから、枕詞として、

うら歎(泣 な)く(忍び泣く)、
のどよふ(か細い声を出す)、
片恋ひ、

にかかる(精選版日本国語大辞典・学研全訳古語辞典)。なお、

もがも

は、

終助詞「もが」にさらに終助詞「も」を添えた語、主に奈良時代にもちいられ、平安時代には「もがな」に代わった、

とあり(広辞苑・デジタル大辞泉)、

体言、形容詞の連用形、副詞などの連用部分につき、その受ける語句が話し手の願望の対象であることを表す、

とし、その

事柄の存在・実現を願う、

意を表し、

……があるといいなあ、
……であるといいなあ、

の意で使う(仝上・デジタル大辞泉)。発生的には、

「もが」に「も」が下接したものであるが、「万葉集」で「毛欲得」「母欲得」「毛冀」などと表記されている例もある、

とされ、上代にすでに、

も‐がも、

という分析意識があった(精選版日本国語大辞典)としている。

都へに行かむ船もが刈り薦(こも)の乱れて思ふ言告げやらむ(万葉集)、
あしひきの山はなくもが月見れば同じき里を心隔てつ(万葉集)、

と、奈良時代に使われた、

もが、

は、

係助詞「も」に終助詞「か」がついた「もか」の転(広辞苑・デジタル大辞泉)、
係助詞「も」に終助詞「が」の付いたもの(精選版日本国語大辞典)、

である(広辞苑・精選版日本国語大辞典)が、

名詞、形容詞および助動詞「なり」の連用形、副詞、助詞に付く。上の事柄の存在・実現を願う意を表す(デジタル大辞泉)、
文末において、体言・副詞・形容詞および助動詞「なり」の連用形、副助詞「さへ」などを受けて、願望を表わす(精選版日本国語大辞典)、
体言・形容詞連用形・副詞および助詞「に」を承け、得たい、そうありたいと思う気持ちを表す(岩波古語辞典)、

等々とあり、

……があればいいなあ、
……であってほしいなあ、
……でありたい、
……がほしい、

といった意味で使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

もが、

をさらに強調して、

もが・も、

といったことになる。

よしゑやし、

は、同じ万葉集でも、

よしゑやし恋ひじとすれど秋風の寒く吹く夜(よ)は君をしぞ思ふ(萬葉集)

では、

よしままよ、

と訳し、また、

暁(あかとき)と鶏(かけ)は鳴くなりよしゑやしひとり寝(ね)る夜(よ)は明けば明けぬとも(万葉集)

では、

ええいなんとでもなれ、

と訳し、

里人(さとびと)も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰(た)が名ならめや(万葉集)

では、

えい、ままよ、

と訳し(仝上)、

よしゑやし恋ひじとすれど秋風の寒く吹く夜(よ)は君をしぞ思ふ(萬葉集)

でも、

えいままよ、

の意で、

もう恋い焦がれたりなんかするものか、

と訳す(仝上)。

よしゑやし、

は、

縦やし、

とあて、その、

ヤシは間投助詞(岩波古語辞典)、
「や」も「し」も間投詞、「よし」「よしゑ」を強めたもの(広辞苑)、
エヤは歎辞、シは助詞(大言海)
副詞「よしゑ」+間投助詞「や」「し」から(デジタル大辞泉)、
副詞「よしえ」に助詞「や」「し」の付いてできたもの(精選版日本国語大辞典)、

で、

縦(よし)や然(さ)はあれ、

で、冒頭のように、

逆接の仮定条件を表わす語、

として、

たとえ、……でも、
たといどうなろうとも、
よしんば、……でも、
万一……でも、

の意で(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、略して、

しゑや

とする(大言海)が、転じて、上述の歌の大半のように、

里人(さとびと)も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰(た)が名ならめや(万葉集)、

と、

ある事態をやむをえないと容認するさまを表わす語、

として、

まあいいさ、
えいままよ、
どうなってもかまわない、

の意で使う(仝上)。

たとえ……でも(仕方ない)→たといどうなろうとも→まあいいさ→ええままよ、

といった、意味の外延の拡大、転化だろうか。なお、

しゑや

は、

断念・放任・決意を表現するときに発する掛け声、

として、

口惜し屋と云ふ意(大言海)、

で、

ままよ、
ええい、
ええいままよ、

として使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

よしゑやし、

の、「や」「し」をとった、

よしゑ、

も、

縦しゑ、

とあて(仝上)、

ヨシは許容・容認する意、ヱは、間投助詞(岩波古語辞典)、
ゑは間投助詞(広辞苑)、
副詞「よし」に間投助詞「ゑ」が付いて一語化した上代語(学研全訳古語辞典)、
副詞「よし」に、助詞「え」の付いてできたもの(精選版日本国語大辞典)、
放任、許容を示す副詞、ヱは間投助詞(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

とあり、

たらちねの母に知らえず我(わ)が持てる心は吉恵(よしヱ)君がまにまに(万葉集)、

と、

十分満足する状態ではないことを承知のうえで、とにかく、決断を下すさま、

で、

たといどうなろうとも、
まあいいさ、
えいままよ、
ええよろしい、

の意である(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。

よしゑやし、

に似たものに、

流れてはいもせの山の中におつる吉野の河のよしや世の中(古今和歌集)、

という、

よしや、

がある。これも、

縦しや、

とあて(仝上・岩波古語辞典)、

ヨシは許容・容認する意。ヤは間投助詞(岩波古語辞典)、
副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの(精選版日本国語大辞典)、
「や」は間投助詞(広辞苑)
縦(よし)に感動詞のヤを添えたるもの(是非もなしの意)(大言海)、
副詞「よし」+間投助詞「や」から(デジタル大辞泉)、

とあり、

よしゑやし、

と似た用法で、上述の、

流れてはいもせの山の中におつる吉野の河のよしや世の中(古今和歌集)、

と、

不満足ではあるが、やむをえないと考えて、放任・許容するさま、

の意で、

まあいい、
(どうなろうとも)ままよ、
仕方がない、

の意の他に、

吉野川よしや人こそつらからめはやく言ひてし言(こと)は忘れじ(古今和歌集)、

と、

逆接の仮定条件を表わす語、

として、

もし、
かりに、
たとい、
万一、
よしんば、

の意で使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)が、前掲の、

よしや人こそつらからめ、

を、

たとえあの人がつれなくても、まあ仕方ないけれど、

と訳しており(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

よしんば→(どうなろうとも)ままよ、→仕方がない、

と、意味はほぼ重なってしまっているように見える。なお、

やし、

は、

はしきやし栄えし君のいましせば昨日(きのふ)も今日(けふ)も我(わ)を召(め)さましを(万葉集)、

と、

間投助詞「や」+間投助詞「し」から。上代語。形容詞の連体形や助詞などに付いて文節末に置かれる。語勢を強め、感動の意を表すが、「はしきやし」「はしけやし」「よしゑやし」などの限られた言い方で用いる。(デジタル大辞泉)
間投助詞「や」に副助詞「し」がついたもの、感動を表し、また語調を整えるのに用いる語(広辞苑)
形容詞連体形または間投助詞に続き、調子を整える語「愛(は)しけやし」「よしゑやし」など(岩波古語辞典)、
間投助詞「や」+間投助詞「し」から。上代語》形容詞の連体形や助詞などに付いて文節末に置かれる。語勢を強め、感動の意を表す(精選版日本国語大辞典)、

などとあり、前掲の歌は、

はしきやし、

を、

ああ、お慕わしい、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。なお、

はしきやし

は、

愛しきやし、

と当て、

は(愛)しけやし、

は、

はしき予辞(ヨシ)我家の方ゆ雲居立ち来も(日本書紀)、
はしきよしかくのみからに慕ひ来(こ)し妹が心のすべもすべなさ(万葉集)、

と、

は(愛)しきよし、

ともいい、

間投助詞の「よ」「し」を重ねたもの。上代語》種々の語に付いて、文節末に置かれる。語勢を強め、感動の意を表す(デジタル大辞泉)、
間投助詞「よ」「し」の重なってできたもの ) 文節末に添えて詠嘆を表わす(精選版日本国語大辞典)、

とあるが、

形容詞「よし」から、仮に宜(よ)しと許す意(広辞苑)、
形容詞ヨシ(宜)の転用。他人の判断や行動を許容・容認し、また、自己の決意・断念を表現する語。下に、逆接仮定条件をあらわす「とも」を伴うことが少なくない(岩波古語辞典)、

とあるので、

よしゑやし、

や、

よしゑ、

の用法に、この、

よし、

の意味の翳が強いことがわかる。

よし、

は、

縦し、

とあて、

人は皆萩を秋と言ふよし我(わ)れは尾花が末(うれ)を秋とは言はむ(万葉集)、

と、

満足ではないが仕方なく、
ままよ、
かまいはしない、
それはともかく、

の意で(広辞苑・岩波古語辞典)、前掲の歌では、

なに、かまうものか、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、さらに、

人はよし思ひ息(や)むとも玉葛(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも(万葉集)

と、

たとえ……でも(かまわない)、

意でも使い(岩波古語辞典)、前掲の歌では、

人はよし思ひ息(や)むとも、

を、

他人はよしたとえ悲しみを忘れようとも(それはかまわぬ)、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。なお、

よし、

については、

よし・あし

で触れたが、

よし、

は、

宜し、

と当てるが、

宜し、

は、

よろし、

とも訓ませる。

よろし、

は、口語では、

よろしい、

だが、

よろし(宜し)、

は、

(ヨル(寄)の派生語であるヨラシの転)主観的に良しと評価される、そちらに寄りたくなる意(広辞苑)、
動詞「よる(寄)」からヨラシという形容詞が派生し、それがヨロシに変化したもので、その方へ近寄りたいというのが原義だという説が有力である(精選版日本国語大辞典)、
形容詞ヨラシの転、その方へなびき寄り近づきたい気持ちがする意。ヨシ(良)が積極的に良の判定を下しているのに対し、悪い感じではない、まあ適当、相当なものだ、一通りの水準に達しているの意(岩波古語辞典)、
エシの義(言元梯)、
ヨシの義、ロはやすめ字(日本釈名・国語本義)、
ヨキの語から(国語の語根とその分類=大島正健)、
ヨロヒシキ(備如)の義(名言通)、

等々とある。また、

よろし、

に転じたとされる、

みつみつし久米の子等(ら)が頭椎(くぶつつ)・伊斯都都(石椎 イシツツ)いもち今撃たば良らし(古事記)、

とある、

よらし(宜し・良らし)、

も、

動詞「寄る」の形容詞化。近寄りたくなるようなさま、が原義(デジタル大辞泉)、
(ヨラシは)ヨリ(寄)の形容詞形。側に寄りたい気持ちがするする意が原義。ヨリ(寄)・ヨラシの関係は、アサミ(浅)・アサマシ、サワギ(騒)・サワガシ、ユキ(行)・ユカシの類(岩波古語辞典)、

とされ、

好ましい、

意である(デジタル大辞泉)。なお、古代では、

「よし」が積極的な判定を下すのに対して、「よろし」は消極的で、「よし」よりも低い評価を表わす(精選版日本国語大辞典)、
ヨシ(良)が積極的に良の判定を下しているのに対し、悪い感じではない、まあ適当、相当なものだ、一通りの水準に達しているの意(岩波古語辞典)、

そして、中古には、

「よし・よろし・わろし(わるし)・あし」と四段階の評価があり、ヨシはヨロシよりも高い評価を表わしたといわれる。「日葡辞書」にヨシは「良い、非常によい」、ヨロシイは「良い、適当な(もの)」などと説明されており、中世も同様の傾向にあったと考えられる、

とある(精選版日本国語大辞典)。そういうところから考えると、こういうことだろうか、

よし、

は、

ある基準を超えている、

だから、積極的な価値表現になる。しかし、

よろし、

は、その基準線すれすれ、つまり、

まずまず、
あるいは、
普通、

という意味になる。だから、

笠(かさ)うち着、足ひき包み、よろしき姿したる者、ひたすらに家ごとに、乞ひありく(方丈記)、

と、

まずまずだ、
まあよい、
悪くない、

意や、

物みなは新(あら)たしきよしただしくも人は古(ふ)りにしよろしかるべし(万葉集)、

と、

好ましい、
満足できる、

意や、

湯浴(ゆあ)みなどせむとて、あたりのよろしき所におりて行く(土佐日記)、

と、

ふさわしい、
適当だ、

の意や、

事よろしきときこそ腰折れかかりたることも思ひ続けけれ(更級日記)、

と、

普通だ、
ありふれている、
たいしたことはない、

といった意になる(学研全訳古語辞典)。だから、

宜し、

を当てるが、

よろし、

には、

良し、
善し、
好し、
吉し、
佳し、

等々の字は当てない。こうみると、

よしゑやし、

の、

よし、

が、

よし・あし、

の、

よし、

ではなく、

よろし(宜)、

の含意の、

よし(宜)、

でなくては、

たとえ……でも(仕方ない)→たといどうなろうとも→まあいいさ→ええままよ、

という意味の変化にはならず、

よし、

だと、

物事の本性、状態などが好ましく、満足すべきさまであるの意。「あし」「わるし」に対していう。古くは「よろし」よりも高い評価を表わす。くだけた口語表現では終止形・連体形が「いい」の形をとる(精選版日本国語大辞典)、
「あし(悪)」「わろし(劣)」の対。吉凶・正邪・善悪・美醜・優劣などについて、一般的に、好感・満足をえる状態である意(岩波古語辞典)、

となるので、

良し、
善し、
好し、
吉し、
佳し、
宜し、

とあてるのだから、言ってみれば、

良いか悪いか、

なので、

たとえ、
とか、
まあいいか、
とか、

とはならず、

ええいままよ、、

とはならないだろう。たとえば、

雪寒(さむ)み咲きには咲かぬ梅の花よしこのころはかくてもあるがね(万葉集)、

の、

よし、

は、

まあ当分こうしているのがよかろう、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

よろし、

の含意である。

「縦」(慣用ジュウ、漢音ショウ、呉音シュ)の異体字は、

縱(繁体字/正字)、纵(簡体字)、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B8%A6

「縱」の略体、

であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B8%A6

「縱」(慣用ジュウ、漢音ショウ、呉音シュ)は、

会意兼形声。从(ジュウ)は、Aの人のあとにBの人が従うさまを示す会意文字。それに止(足)と彳印を加えたのが從(従)の字。縱は「糸+音符從(ジュウ)」で、糸がつぎつぎと連なって、細長くのびること。たてに長く縦隊をつくるから、たての意となり、縦隊はどこまでものびるので、のびほうだいの意となる、

とある(漢字源)。同じく、

会意兼形声文字です(糸+従)。「より糸」の象形(「たて糸」の意味)と「十字路の左半分の象形と立ち止まる足の象形と横から見た人の象形」(人の後に人が従うさまから「したがう」の意味)から、たてに人が従う事を意味し、そこから、「たて」を意味する「縦」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji924.html

と、会意兼形声文字とするものもあるが、他は、

形声。「糸」+音符「從 /*TSONG/」。「ゆるめる」を意味する漢語{縱 /*tsongs/}を表す字。のち仮借して「たて」を意味する漢語{縱 /*tsong/}に用いるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B8%B1

旧字は、形声。糸と、音符從(シヨウ)とから成る。ゆるめる意を表す。借りて、「たて」の意に用いる。教育用漢字は省略形による(角川新字源)、

形声。声符は從(従)(じゆう)。從は二人相従う意。縦にならぶことをいう。〔説文〕十三上に「緩やかなり」というのは、縦糸をゆるやかに張る意であろう。また「一に曰く、舍(はな)つなり」と放縦の意とする(字通)、

と、形声文字としている。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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さいで

 

君こふる涙にぬるる我が袖と秋のもみぢといづれまされり(源整(ととのふ))

の、詞書(和歌や俳句の前書き)に、

紅葉と色こきさいでとを女のもとにつかはして、

とある、

さいで、

は、

裂帛、

とあて、

布や絹を裁ち切った余りの端、

の意で、

「色濃きさいで」を、血涙に濡れた袖の切れ端に見立てて贈ったのであろう、

と、注釈する(水垣久訳注『後撰和歌集』)。

さいで、

は、

裂帛、

のほか、

裂布、

とも当て(精選版日本国語大辞典)、

割出、

とも当てる(広辞苑)が、

布帛の裁片(たてはづし)(大言海)、
布帛の切れはし、小切れ(広辞苑)、
布の切れはし、小切れ(岩波古語辞典)、
絹、または布の裁(た)ちはし。裁ち余りの布帛。布きれ。たちはずし(精選版日本国語大辞典)、

と、

絹の布切れ、

の意で、だから、由来は、

「さきで」の変化した語(精選版日本国語大辞典)、
サキデ(割出)の音便形(岩波古語辞典)、
サキデの音便(広辞苑)、
サキデ(裂出・割出)の音便(名語記・答問雑稿・嬉遊笑覧)、
割出(さきで)の音便、裁ちて、餘りの出たるもの(大言海)、
サキタヘ(裂栲)の義(雅言考・名言通)、
さきたへ(裂絹)の義(言元梯)、
裂織の料とするところから(綜合日本民俗語彙)、

などとあり、色葉字類抄(1177〜81)に、

割出、サイデ、布切也、、

とある。『枕草子』に、

枯れたる葵。ひひなあそびの調度。二藍(ふたあゐ 紅(くれない)と藍とを重ねて染めた青みのある紫色)、葡萄(えび)染め(エビカズラで染めた色)などのさいでの、おしへされて草子の中などにありける、見つけたる、

とあり、『屠龍工随筆』(1778)に、

幼き人の、さいで見つけて、這ひかかれると、枕草子に書けるは、絹の端切(はしきれ)のやうに聞こえたり、……然して、其名鞘塗師(さやぬし)にのみ残りて、鞘の地錆を磨きて拭ふ時を、さいでといふ、

とあり、江戸後期の『嬉遊笑覧』に、

絹にても、布にても、裁端をさいでと云ふ、今も、塗師方にて、漆を拭ふ布ぎれを、さいでと云ふなり、

とある。

さいで、

は、後に、上述のとおり、特に、

漆器の塗(ぬり)を業とする者が使う布きれ、

をいう(精選版日本国語大辞典)。

さいで、

にあてる、

裂帛、

は、

れっぱく、

と訓ませると、漢語で、

曲終收撥當心畫か(曲終り撥(ばち)を收めて、心(むね)に當てて畫(くわく)す)、
四絃一聲如裂帛(四絃一聲、裂帛の如し)(白居易・琵琶行)、

と、

帛(きぬ)を裂く、また、その音、

の意(字通)で、日本語でも、

裂帛の気合、

といった使い方をする。

「裂」(漢音レツ、呉音レチ)は、

会意兼形声。歹(ガツ)は、関節の骨の一片。それに刀をそえて、列(レツ 骨を刀で切り離す→切り離したものがすずるずると並ぶ)となる。裂は「衣+音符列」で、布地をきりさくこと、

とある(漢字源)。同じく、

会意兼形声文字です(列+衣)。「毛髪のある頭骨の象形と刀の象形」(「首を切る」の意味)と「衣服のえりもと」の象形から「衣服を切りさく」を意味する「裂」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1566.html

と、会意兼形声文字とするものもあるが、他は、

形声。衣と、音符列(レツ)とから成る。切りさいた布、また、布を切りさく意を表す(角川新字源)

形声。「衣」 + 音符「列 /*RAT。「ぬのきれ」を意味する漢語{裂/*rat/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A3%82

形声。声符は列(れつ)。列は断首。ものを切断分裂する意がある。〔説文〕八上に「綸(きぬ)の餘りなり」とあって、裁(た)ち残りの裂(きれ)の意とする。布帛を截(き)ることをいい、〔左伝、昭元年〕「裳帛を裂きて之れを與ふ」とは、急いで裂き断つ意。はげしくものをさき破り、分裂することから、人の四肢を四馬に結んで四方に走らせる刑を車裂という。肉を削って次第に骨に至らしめるという凌遅(りようち)処死の刑とともに、刑の最も厳酷なるものといえよう(字通)、

と、形声文字としている。

「帛」(漢音ハク、呉音ビャク)は、

会意兼形声。「巾(ぬの)+音符白」で、白い絹布のこと、

とある(漢字源)が、他は、

形声。「巾」+音符「白 /*PAK/」。「きぬ」を意味する漢語{帛 /*braak/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%9B

形声。声符は白(はく)。〔説文〕七下に「潤iきぬ)なり」とあり、糸部十三上に「潤iそう)は帛(きぬ)なり」と互訓する。金文の賜与に帛束・帛束璜などがみえ、のちの束帛加璧の類。金文の〔兮甲盤(けいこうばん)〕に「淮夷(わいい)は舊(もと)我が白+貝田+毎(はくほ)の臣なり」とあって、淮夷は白+貝田+毎の朝貢義務を負うものであった。白+貝はあるいは〔書、禹貢〕にこの地の貢ぎ物とする「織貝」の類であろう。古くは旗、のち書画に用い、漢代の帛書・帛画の類が出土している(字通)、

と、形声もじとしている。

参考文献;
水垣久訳注『後撰和歌集』(Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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いざわ

 

天の川波は立つとも我(わ)が舟はいざわ漕ぎ出(で)む夜の更けぬ間(ま)に(万葉集)

の、

いざわ、

の、

わ、

は、

呼びかけ・勧誘の意の間投助詞、

で(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

さあ、

と訳す(仝上)。

いざわ、

は、

「いざ」に終助詞「わ」を添えた語(広辞苑)、
イザは人を誘う感動詞、ワも感動詞(岩波古語辞典)、
「いざ」は感動詞。「わ」は感動の助詞(精選版日本国語大辞典)、
和訓栞「いざやと同じ」(さやぐ、さわぐ)、神武紀の註に「過、音倭」とあり(私記の攙入なりと云ふ)、過の音は「クッ」なり、廣音に「過、音倭」とあり(大言海)、

などとあり、

誘うときに発することば、

で(精選版日本国語大辞典)、

いざやと云ふに同じ(大言海)、

なので、

さあ、
さあさあ、

の意(広辞苑)、

怡奘過、
率和、

とあてるとする(大言海)が、これは万葉仮名を言っており、

怡奘過、

は、上述したように、

天神の子、汝(いまし)を召す。怡奘過(イザわ)、怡奘過(イザわ 過の音は倭)といふ(日本書紀)、

と使うが、この例は、

八咫烏の鳴き声なので、「イザクヮ」とみる、

とする説もある(精選版日本国語大辞典)。『大言海』は、

率参(いざまゐ)れと云ふことを、烏と云ふに託して設けたる幼言也(橘守部)の注記を、「烏の鳴聲に寄せたるか」、

としている。

率和、

も、

見欲(みほ)しきは雲居に見ゆるうるはしき鳥羽の松原童(わらは)ども率和(いざわ)出(い)で見むこと放(さ)けば国に放(さ)けなむこと放(さ)けば家に放(さ)けなむ(万葉集)

と使われている。

いざわ、

と同義とされた、

いざや、

は、

「いざ」に間投助詞「や」のついたもの(広辞苑)、
「や」は間投助詞(デジタル大辞泉)、
「いざ」に間投助詞「や」の付いたもの。中世に多く用いられる(精選版日本国語大辞典)、

で、

いさや、これ殿上に行てかたらむとて、中将新中将六位どもなど、ありけるはいぬ(枕草子)、
鎮西八郎こそ生捕られて渡さるるなれ。いざや見ん(保元物語)、

と、

誘いかけるときに用いる語(デジタル大辞泉)
相手を誘うときなどに呼びかける語。また、あることを思い立って実行に移そうというときに発する声(精選版日本国語大辞典)、
人を誘うとき、また、自分に対して、行動を促すときに発する語(学研全訳古語辞典)、
他を誘うときや、自分が思い立ったときに発する語(岩波古語辞典)、

で、

さあ、
いざ、
いでや、
どりゃ、
どれ、

といった意になる(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・広辞苑・岩波古語辞典)。

いざ、

は、

イは発語、サは誘う聲の、ささ(さあさあ)のサなり、イザイザと重ねても云ふ(伊彌、いや。伊莫、否(いな))、発語を冠することに因りて濁る、伊弉諾(いざなぎの)尊、誘(いざ)ふのイザ、是なり(大言海)、
「いざなふ」と同根(精選版日本国語大辞典)、
いさみ勇むときの掛け声(本朝辞源=宇田甘冥)、
梵語アイサ(阿伊佐)の略語(和語私臆鈔)、

などとあり、

馬並(な)めていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)の清き磯廻(いそみ)に寄する波見に(万葉集)、

と、

人を誘い、または思い立って事をし始めようとするときにいう語(広辞苑)、
人を誘う時や自分が思い立った時など、行動を起こす弾みをつけるのにいう(岩波古語辞典)、
相手を誘って一緒に事を始めるときや思いきって行動しようとするときに発する語(デジタル大辞泉)、
相手を誘うとき、自分と共に行動を起こそうと誘いかけるときなどに呼びかける語で、さあ。ある行動を思い立って実行に移そうという時に発する声の、さあ、どれ。(精選版日本国語大辞典)、
人を誘うときに発する語さあ、行動を起こすときに発する語、どれ。さあ(学研全訳古語辞典)、

などとあり、

さあ、
どれ、
いで、

といった意たが、この、

いざ、

は、

ぬばたまの今夜(こよひ)の雪に率(いざ)ぬれな明けむ朝(あした)に消(け)なば惜しけむ(万葉集)、
玉守(たまもり)に玉は授(さず)けてかつがつも枕とわれは率(いざ)二人寝む(万葉集)、
去来(いざ)、我等、此の家を売て其の直(あたひ)を三に分て、三人して分(わか)ち取て此(ここ)を去りなむ(今昔物語集)、

と、

率、
去来、

等々と当てたりする(大言海)。これついては、

「書紀‐開化元年一〇月」の訓注に「率川、此云伊社箇波」、また「書紀‐履中即位前」に「去来 此云伊弉」とある。「率」は「いざなう・ひきいる」という字義から「いざ」とよまれたもの。「去来」はもと、陶淵明の「帰去来辞」中の「帰去来兮」が「かえりなん、いざ」と訓ぜられ、本来は「帰去」が動詞で「来」が語助の辞であるのを、「帰」と「去来」とに分けて、「去来」を「いざ」と理解したものとされる(精選版日本国語大辞典)、

とあり、『大言海』も、

率(そつ)の字は、ヒキヰルにて、誘引する意、開化天皇の春日率川宮も、古事記には伊邪川(いざかはの)宮とあり、去来(きょらい)の字を記すは、帰去来を、「かへりなんいざ」と訓ませたことによるが、帰去来の來(らい)は、助語にて、助語審象に「來者(らいとは)、誘而啓之之辞」など見ゆ(字典に、「來、呼(よぶ)也」、周禮、春官「大祝來(よぶ)瞽)」、キタレの義より、イザの意となる)、帰去来(ききょらい)という熟語の訓点なれば、イザが語の下にあるなり。史記帰去来辞(ききょらいのことば)など、夙(はや)くより教科書なれば、此訓語、普遍なりしと見えて、古くより上略して、去来の二字をイザに充てて用ゐられたり、

としている。なお、

帰去来

については触れた。

いざ、

は、

いざ鎌倉、
いざさせ給え
いざそらば、

と慣用語になっているものも多いが、

いさ

でふれたように、

さて(わからない)、
どうだか(知らない)、

の意の、

いさ、

は、たとえば、今日、

いさ知らず、

を、

昔はいざ知らず、現在こんな事を信じる者はいない、

というように、

いざ知らず、

の形で用いるが、この用例は、近世以降の誤用で、

「いさ知らず」の「いさ」と感動詞「いざ」との混同によってできたもの、

で、

いさ、

は、

一つの事をあげて、それについてはよくわからないがの意で、後述するもう一つの事を強調する表現、

として、

…についてはよくわからないが、
…はともかくとして、

の意で用いる(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

いざ、

は、

いざ鎌倉、

と、謡曲「鉢木」により、

幕府に大事が起こってはせ参ずる場合だ、

の意、転じて、

大事が起こった場合、

の意で使う(広辞苑)が、今日では、

いざというとき、

というように、「いざと…」の形で用いられる(精選版日本国語大辞典)。

いざさらば、

は、

いざさらば今日明日経なむ秋の空今幾日かは野邊に残らむ(公忠集)、

と、冒頭にあって、行動をうながす時に発する語として、

いで然らば、さあそれならば、
さあ、それでは、

の意、これを略して、

住みわびぬいざさば我れも隠れなむ世は憂きものぞ山の端の月(月詣集)、

と、

いざさば、

という(大言海・精選版日本国語大辞典)。これが、別れの言葉として、

いまこそ別れめ、いざさらば(あおげば尊し)、

と、

では、さようなら、

の意に転じる(大言海・広辞苑)。

いざさせ給へ、

は、

「たまえ」は尊敬の意を表わす補助動詞「たまう(給)」の命令形で、上に来るはずの「行く」「来る」の意を表わす動詞を略したもの(精選版日本国語大辞典)、
「給え」は尊敬の補助動詞「給う」の命令形。この上に来るはずの「行く」「来る」の意の動詞を略したもの(デジタル大辞泉)、
いざさせたまへ、と云ふは、いざ為(せ)させたまへ、の略、いぞぎたまへ、の義にて、おはしませの意なり(大言海)、

などとあり、

見所あらん御かたち見出でて、いざさせたまへ(宇津保物語)、

では、

さあ、なさいませ、
さあ、やってごらんなさい、

の意、

去来(いざ)、させ給へ、大夫殿、東山の辺に湯涌(わか)して候ふ所に(今昔物語集)、

では、特に、人を誘う場合に用いて、

さあいらっしゃい、

の意で使う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。中古以降、

親しい間柄、気楽な相手への誘いかけとして、よく用いられている、

とある(仝上)。

いざ、

を重ねて、

いざいざ、

という形でも使い、

いざいざ、これまづ殿上に行きて語らむ(枕草子)、

と、人を誘う時にいう語として、

さあさあ、

の意や、

いさいさ御迎にまいらん(幸若・大織冠)、

と、ある行動を思い立って実行に移そうという時に発する声として、

さあ、
どれ、
いざ、

の意となる(精選版日本国語大辞典)。

いざわ、

の、

わ、

は、

いざ吾君(あぎ)振熊(ふるくま)が痛手負はずは鳰鳥(にほどり)の淡海の海に潜(か)づきせな和(古事記)、
うるはしき鳥羽の松原童(わらは)どもいざわ出(い)で見む(万葉集)、

と、

舟渡せ乎(を)のヲに通ず、誘う聲(大言海)、
勧誘の表現に付いて、強める気持ちを表す。ヱと同様に、上代に僅かに使われ、平安時代以降には衰滅した(岩波古語辞典)、
上代語、副詞・助詞に付く。念を押したり、相手へ呼びかけたりする意を表す(デジタル大辞泉)、
文末に付く。〔感動・詠嘆〕…よ。…わ(学研全訳古語辞典)、

とある。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ものかも

 

渡り守(もり)舟出(ふなで)し出(い)でむ今夜(こよひ)のみ相見て後(のち)は逢はじものかも(万葉集)

の、

ものかも、

は、

反語、

で、

逢えないということなどあるものか、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

ものかも、

は、

名詞「もの」に係助詞「か」「も」の付いたもの、

で、文末にあって活用語の連体形を受け、

神木(かむき)にも手は触(ふ)るといふをうつたへに人妻といへば触れぬ物可聞(ものカモ)(万葉集)、

と、

軽い疑問の気持をこめた詠嘆、

を表わす用い方(精選版日本国語大辞典)で、

(人妻というだけで)まるっきり手出しもできないものなのかなあ、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

人言の繁くしあらば君も我(あ)れも絶えむと言ひて逢ひし物鴨(ものかも)(万葉集)、

では、

反語の意、

を表わす用い方(精選版日本国語大辞典)で、

(盛んに人の口の端にのぼるようになったら)それっきりにしようなどといってお逢いしたのだったかしら、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

ものかも、

の、

ものか、

は、

形式名詞「もの」+係助詞「か」(学研全訳古語辞典・デジタル大辞泉)、
名詞「もの」に助詞「か」の付いたもの、文末で活用語の連体形を受ける、転訛して、もんか。(精選版日本国語大辞典)、
モノは、避けがたいさだめ、カは反語・詠嘆(岩波古語辞典)、
形式名詞「もの」に終助詞「か」がついたもの。活用語の連体形に付く(広辞苑)、

とあり、

心なき鳥にぞありけるほととぎす物思(ものも)ふ時に鳴くべきものか(万葉集)、
初めより長く言ひつつ頼めずばかかる思ひに逢はましものか(仝上)、

と、

非難の意をこめて問い返す意を表す(学研全訳古語辞典)、
反語の意を表す(デジタル大辞泉)、
強い反語を表す(広辞苑)、
反語を表し、ことがらを否定したり、「…ことがあるものか」「…ことをするものか」「…ものか」などの形で、制止・禁止を表わす(そういうことがあってはいけない。そういうことをしてはいけない)(精選版日本国語大辞典)、

もので、

……ものか、
……ていいものか、
……などとはとんでもない(そんなさだめはないはずだ)、
……ことがあるものか、
……ことをするものか、

などの意で使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)上掲の歌では、前者は、

物思いにしずんでいるこんな時に、鳴いたりしてよいものか、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、後者は、

(頼りにさせるように仕向けなかったら)こんなつらい思いに逢ったりはしなかったでしょうに、

と訳す(仝上)。後者の、

ましものか、

は、

反実仮想の助動詞マシの連体形と、動かし難い事実をいうモノとの複合を、詠嘆する語法、

とある(岩波古語辞典)。さらに、

ものか、

は、

海神(わたつみ)はくすしきものか淡路島(あわぢしま)中に立て置きて白波を伊予に廻(めぐ)らし(万葉集)、

と、

直面した事態が意外である、という驚き・詠嘆を表わす(精選版日本国語大辞典)、
意外な事態に驚いたときの強い感動を表す(学研全訳古語辞典)、
意外なことに感動したり、驚いたりする意を表す(デジタル大辞泉)、
強い感動を表す(広辞苑)、

もので、

意外にも……であることよ、
(なんとまあ)……ことよ、
(驚いたことに)…ではないか

等々の意でも使い(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、上掲の歌は、

海の神は何と霊妙あらたかな存在(もの)であることか、

と訳している(伊藤博訳注『新版万葉集』)。なお、

(「ものか」の)「か」を係助詞の文末用法とする説もあるが、上掲の歌のような詠嘆的用法の存在から終助詞と考えてよいと思われる、

とあり、また、

重六いでことて、うたせ給へりけるに、ただ一度にいでくるものか(大鏡)、

のように、古典語では連体形だけで体言相当句を構成できるが、

形式体言「もの」を付加することで事実性をより強く示すことになる、

とある。現代語では、強い否定や固い決意を述べる時に主として話しことばで用い、

……するもんか、

の形で使う(精選版日本国語大辞典)。

ものかも、

の、

かも、

は、種々の使い方があるが、

係助詞「か」に係助詞「も」が付いて一語化したもの、体言や活用語の連体形などに付く。…か(なあ)。…なのか(学研全訳古語辞典)、
係助詞「か」+係助詞「も」。上代語、種々の語に付く(「かも」がかかる文末の活用語は連体形をとる)。感動を込めた疑問の意を表す。…かなあ。中古以降、おおむね「かな」に代わる(デジタル大辞泉)、
係助詞の「か」と「も」が重なったもの。体言、用言の連体形(まれにシク活用形容詞の終止形)を受け、詠嘆を含んだ疑問を表わしたり、詠嘆を表わす(精選版日本国語大辞典)、
詠嘆の「か」とも」の複合したもの、感動をあらわし、……ことだ。平安以降は「かな」が一般的になった(広辞苑)。
「か」の下に「も」を添えた助詞。体言または活用語の連体形を承ける。「も」は不確実な提示、あるいは不確実な判断を表すのがその本質的な意味であるから、「かも」となった場合も、単独の「か」の持つ疑問の意を受けつぐ。ただし詠嘆の意を表す場合は、「かも」は「か」単独の場合よりもやわらげた表現のように見える(岩波古語辞典)、

などとあり、

浦みより漕ぎ來(こ)し船を風早み沖つみ浦に宿りするかも(万葉集)、

では、

(遠い沖合の)こんな恐ろしい裏で旅宿りをするというのか、われらは、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、詠嘆を含んだ疑問を表わし、

霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(万葉集)、

では、

(髪に挿しているけれど)ますます離しがたい気持ちだ、この梅の花は、

と訳し(仝上)、詠嘆を表わす。

かも、

の、

か、

は、

疑問詞を承ける係助詞のひとつ、

で(岩波古語辞典)、種々の語に付く(デジタル大辞泉)が、

表現者自身の判断を下すことが不能であること、疑問であることを表明するのが原義、

とあり(岩波古語辞典)、

「か」は体言または活用語の連体形を承ける。(中略)疑問はその意味をやわらげれば慨嘆になる、

ともあり(仝上)、

苦しくも降り來る雨か三輪の崎挟野(さの)の渡りに家もあらなくに(万葉集)、

では、

何とも心せつなく降ってくるあめであることか、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、慨嘆の意となっている。

かも、

の、

も、

は、

疑問詞を承ける係助詞の一つ、

で(岩波古語辞典)、やはり、種々の語に付く(デジタル大辞泉)。

「も」は、承ける語を不確実なものとして提示し、下にそれについての説明・叙述を導く役割をする。(中略)承ける語を不確実なものとして提示するばかりでなく、下文も、打消・推量・願望などの不確実な表現で終わるものが多い、

とある(岩波古語辞典)。ここでの、

も、

は、

終助詞、活用語の終止形(係結びでは結びの形)、ク語法について、詠嘆の意を表す。体言には「かも」「はも」などの形で用いる。「かも」は平安時代には「かな」に代わる(広辞苑)、
終助詞。文末で、活用語の終止形、助詞、接尾語「く」に付く。感動・詠嘆を表す。…ことよ。…なあ。「かも」「ぞも」「はも」「やも」、主に上代の用法で、その後は「かな」に代わった。係助詞の終助詞的用法ともいう(デジタル大辞泉)、
文末用法。文末の終止形(文中に係助詞がある時はそれに応ずる活用形)およびク語法を受けて詠嘆を表わす。体言を受ける場合は同じく詠嘆を表わす他の係助詞が上接して「かも」「はも」「そも」などの形となる。終助詞とする説もある(精選版日本国語大辞典)、

などとあり、

春の野に霞たなびきうら悲(がな)しこの夕影にうぐひす鳴くも(万葉集)、

では、

鶯がないているなあ、

といった意味になる。

ものかも、

の、

もの、

については、

もの

で触れたが、

形があって手に振れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、普遍の慣習・法則の意を表す。また、恐怖の対象や、口に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている、

としている(岩波古語辞典)。コトは、言であり、事であった。なお、

ぬかも

については触れた。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)

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ま(枕)く

 

年にありて今かまくらむぬばたまの夜霧隠(ごも)れる遠妻(とほづま)の手を(万葉集)

の、

まく、

は、

枕にしている、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

己夫(おのづま)にともしき子らは泊(は)てむ津の荒磯(ありそ)まきて寝む君待ちかねて(仝上)

では、

荒磯をまくらに、

と訳し(仝上)、

天の川なづさひ渡る君が手もいまだまかねば夜(よ)の更けぬらく(仝上)

では、

手をまだ枕にもしていない、

と訳し、

ま日(け)長く川に向き立ちありし袖今夜(こよひ)まかむと思わくがよさ(仝上)

では、

(その袖を)枕にすることができる、

と訳し、

天の川白波しのぎ落ちたぎつ早瀬渡りて若草の妻をまかむと大船の思ひ頼みて漕ぎ來(くらむ)その夫(つま)の子が(仝上)

では、

妻の手を枕にしようと、

と訳し、

上(かみ)つ瀬にかはづ妻よぶ夕されば衣手(ころもで)寒(さむ)み妻まかむとか(仝上)、

では、

妻と共寝をしようというのであろうか、

と訳す(仝上)。ここでの、

まく、

は、

か/き/く/く/け/け、

の、他動詞カ行四段活用で(学研全訳古語辞典)、

枕く、
婚く、
娶く、
纏く、

とあて、

鴨山(かもやま)の磐根(いはね)しまける我(わ)れをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ(万葉集)、
かくばかり恋ひつつあらずは高山(たかやま)の岩根(いはね)しまきて死なましものを(仝上)、
うち日さす宮のわが背は大和女(やまとめ)の膝麻久(マク)ごとに我(あ)を忘らすな(仝上)、

と、文字通り、

枕にする、
枕にして寝る、

意だが、これをメタファに、

大和の高佐士野(たかさじの)を七行(ななゆ)く媛女(をとめ)ども誰(たれ)をし枕かむ(古事記)、
みもろの神(かむ)なび山にたち向ふ御垣(みかき)の山に秋萩の妻をまかむと(万葉集)、

と、

女性と共寝する、
抱いて寝る、
また、
妻とする、

意で使う。この場合、

婚く、
纏く、
娶く、

等々とあて、

まぐ、

ともいう(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)とするが、別に、

メダク(女抱く)は、メグ[m(ed)a]の縮約で、まく(媾く。記歌謡)・マグ(媾)になった、

とする(日本語の語源)説があり、

まく、

と、

まぐ、

を別由来としている。色葉字類抄(平安末期)に、

婚、メマグ、

類聚名義抄(11〜12世紀)に、

婚、トツク・ツルブ・メマク・マク゜、

字鏡(平安後期頃)に、

婚、娵、嫁、マグ、

とある。この、

まく、

は、

「巻く」と同源、

とある(精選版日本国語大辞典)が、語源説を見ると、

纏く意、マクラと云ふも頭に纏く物なれば云ふならむ(大言海)、
枕をしたときの形容から巻くの義(雉岡随筆)、
マはタマ(玉)、マル(丸)などの語根。腕て首を巻いて寝る意から(日本古語大辞典=松岡静雄)、
体を撓めるところからマグ(曲)の意(釈日本紀)、
男女が袖をさし交えて相巻く意から(類聚名物考)、
マギヌル(纏寝)の意(亮亮(さやさや)草紙)、

と、別由来とする説もある。

ま(巻)く

で触れたように、

まく、

に当てる漢字は、

巻く、
捲く、
播く、
蒔く、
撒く、
枕く、
婚く、
纏く、
負く、
設く、
任く、
罷く、

等々ものすごい数になる。ただ、大まかに、

巻く、
捲く、

と、

枕く、
婚く、
纏く、



播く、
撒く、
蒔く、

と、 その他に、由来を異にする、

負く
設く
任く、
罷く、

等々とに別れる。同じく「まく」とはいいつつ、由来は異なっている。ここで問題となっている、

巻く、
捲く、

は、

一点、または一つの軸を中心にして、その周囲に渦巻状の現象や現状が生ずる意、

とあり(岩波古語辞典)、

圓く轉(く)る意か、渦の如く、クルクルと折り畳む(大言海)、
マク(丸く包み込む)(日本語源広辞典)
マロカスの反モクの転か(名語記)、
マロカス(丸)の義(名言通)、
前に繰るの義か(和訓栞)、
マルメク(円来)の義(日本語原学=林甕臣)、
マロ(円)にするの意(国語溯原=大矢徹)、
マルクの略か(和句解)、
円く畳む意(国語の語根とその分類=大島正健)、
マク(曲転)の意(言元梯)、
マはムカハ(向)の約。向へあわす意(和訓集説)、

等々の由来説がある。当然、

まる(円・丸)

との関連が気になる。

まる、

は、

中世期までは「丸」は一般に「まろ」と読んだが、中世後期以後、「まる」が一般化した。(中略)本来は「球状のさま」という立体としての形状をさすことが多い。平面としての「円形のさま」は、上代は「まと」、中古以降は加えて「まどか(まとか)」が用いられた。「まと」「まどか」の使用が減る中世には「まる」が平面の意をも表すことが多くなる、

とあり(日本語源大辞典)、

まる、

は、

まろの転、

で、

まろ、

は、

球形の意。転じて、ひとかたまりであるさま(岩波古語辞典)

と、更に意味が転じている。

まろ、

の語源は、

音を発するときの口の形から(国語溯原=大矢徹・国語の語根とその分類=大島正健)、
マアル(真在)の義(日本語原学=林甕臣)、
マロ(転)の義(言元梯)、
全の義(俚言集覧)、

等々と載るが、むしろ

廻(まは)る

との関係が気になる。

廻(まは)る、

は、、

舞ふと同根、

で(岩波古語辞典)、

平面を旋回する意、

とある。

舞う、

の語源は、

類義語「踊る」があるが、それは本来、とびはねる意であるのに対して、「まう」は回る意、

とある(日本語源大辞典)。こう見ると、

巻く、

は、

まる、

とつながり、

まる、

は、

廻る、

とつながる。この、

巻く、

と同源とされる、

枕く、
纏く、
婚く、

は、上述したが、

圓く轉(く)る意か、

から、

渦の如く、クルクルと折り畳む、

意とし、

纏く、

をつなげ、

纏いつく、
絡み付く、

意とつなげ、

枕く、

は、

纏く意、マクラと云ふも頭に纏く物なれば云ふならむ、

とつなげる(大言海)ように、

枕く、

は、

相手に腕をかけてかき抱く、

と、

巻く、

とつながるが、上述したように、

マはタマ(玉)、マル(丸)などの語根。腕で首を巻いて寝る意から(日本古語大辞典=松岡静雄)、
体を撓めるところからマグ(曲)の意(釈日本紀)、

と、語源も「まる」とつながっていくようである。ちなみに、

播く、
撒く、
蒔く、

と、 その他由来を異にする、

負く、
任く、
罷く、
設く、

については、

まく(負く)

で触れた。また、

ま(設)く

についても触れた。なお、

まる(円・丸)
まくら

についても触れた。

「枕」(慣用チン、漢音・呉音シン)は、「南枕」で触れたように、

会意兼形声。冘(イン・ユウ)は、人の肩や首を重荷でおさえて、下に押し下げるさま。古い字は、牛を川の中に沈めるさま。枕はそれを音符とし、木を加えた字で、頭でおしさげる木製のまくら、

とある(漢字源)。音符冘(イム)→(シム)と音変化したらしい(角川新字源)。別に、

会意形声。「木」+音符「冘」。「冘」は、H字形のもので押しつけ「沈」めることを意味。頭で押しつける木製のまくらを意味したものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9E%95

会意兼形声文字です(木+冘)。「大地を覆う木」の象形と「人がまくらに頭を沈める」象形から、「(木製の)まくら」を意味する「枕」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2133.html

等々の解釈もある。共通するのは、「木製のまくら」とである。なお、

形声。声符は冘(いん)。冘に沈・鴆(ちん)の声がある。冘は人が枕して臥している形。〔説文〕六上に「臥するとき、首に薦(し)く所以の者なり」(段注本)という。〔詩、唐風、葛生〕は挽歌、「角枕粲(さん)たり」と、棺中の人を歌っている(字通)、

と、形声文字とする説もある。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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やも

 

ますらをの心はなしに秋萩の恋のみにやもなづみてありなむ(万葉集)

の、

ますらをの心、

は、

ますらおの雄々しい心、

秋萩の恋、

は、

秋萩への思い、

なづみてありなむ、

は、

かかずらう、

やも……なむ、

は、

反語形、

とし、

秋萩の恋のみにやもなづみてありなむ

で、

秋萩への恋にばかりかかずらっていたりしてよいものであろうか、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

やも、

は、

「や」に終助詞「も」の添った形で、活用語の已然形を承けて反語に使う。多くは奈良時代に使われ、平安時代になると「やは」がこれに代わって使われた。文末の「も」が一般に用いられなくなったので、「やも」が衰亡し、「やは」が代わったものである(岩波古語辞典)、
係助詞「や」+終助詞「も」。一説に「も」は係助詞。「やも」が文中で用いられる場合は、係り結びの法則で、文末の活用語は連体形となる。「やも」で係助詞とする説もある(学研全訳古語辞典)、
「も」は、一説に間投助詞ともいわれる。中古以降には「やは」がこれに代わった(デジタル大辞泉)、
係助詞「や」「も」の重なったもの(精選版日本国語大辞典)、

等々とあり、文中と文末の用法で、微妙に意味が異なる。

文中の用法の場合、

文中の連用語を受け連体形で結ぶ(精選版日本国語大辞典)、
名詞、活用語の已然形に付く(精選版日本国語大辞典)、

とあり、

うつせみの世也毛(ヤモ)二行(ふたゆ)くなにすとか妹に逢はずて我(あ)がひとり寝む(万葉集)、

と、詠嘆を込めた反語の意を表し(デジタル大辞泉)、

この現(うつ)し世がもう一度繰り返されるなんていうことがあろうか、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

江林(えはやし)に伏せる鹿(しし)やも求むるに良き白栲(しろたへ)の袖巻き上げて鹿(しし)待つ我が背(万葉集)、

と、詠嘆を込めた疑問の意を表し(デジタル大辞泉)、

入り江の林に伏している鹿は捕えやすいのであろうか、そんなはずはない、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

文末用法の場合、

あしひきの山の常陰(とかげ)に鳴く鹿の声聞かすやも山田守(も)らす子(万葉集)、

と、已然形・終止形に付いて、詠嘆を込めた疑問の意を表し、

日の射すこととてない山陰で鳴く鹿の声をいつもきいておられることでしょうか、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾れ恋ひめ八方(やも)(万葉集)、

と、已然形に付いて、詠嘆を込めた反語の意を表し、

(そこが気に入らないのであったら)人妻と知りながら、どうして恋焦がれたりしようか、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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あけぐれ

 

明け暮(ぐ)れの朝霧隠(ごも)り鳴きて行く雁(かり)は我(あ)が恋妹に告げこそ(万葉集)

の、

明け暮(ぐ)れ、

は、

明け方のまだ暗い頃、

とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

我(あ)が恋妹に告げこそ、

の含意は、

雁は恋の使いとされた、

とある(仝上)が、それは、

前漢の蘇武が匈奴に抑留されたとき、狩りの脚に文を託して故国に伝えたという故事による、

とある(仝上)。これについては、

雁信

で触れたように、『漢書』蘇武傳の、

昭帝即位數年、匈奴與漢和親、漢求武等、匈奴詭言、武死……常惠教漢使者謂單于言、天子射上林中得雁、足有係帛書、言武等在某澤中、使者大喜、如惠言以譲單于、單于視左右、而驚謝漢使曰、武等實在、

の、

雁書、

の故事により(字源)、

帛書、

ともいい、

若向三湘逢雁信、
莫辞千里寄漁翁(温庭筠)

と、

雁信、

ともいう(仝上)。

雁信、

の、

信、

は、

信書、
私信、
風信、

などとも言うように、

手紙、
たより、

の意の、

音訊(おんしん)、

の、

訊(シン)に当てた用法、

とあり(漢字源)、

音信、

の意(仝上)である。また、

雁札(がんさつ)、
雁文、
雁素(がんそ)、
雁足(がんそく)、
雁帛(がんぱく)、
かりのたより、

等々ともいい、

音信の書、
手紙、

の意で使う(仝上・精選版日本国語大辞典)。ただ、

雁字の書、

ともいい、江戸中期『夏山雑談』(小野高尚)は、

蘓武の故事にあらず、雁行の列の正しきを、文書にたとへたるなり、其證、古詩に多し

との主張もある(大言海)。雁は、

候鳥(こうちよう)で、秋には南に渡り春には北に帰るところから、中国では遠隔の地の消息を伝える通信の使者と考えられ、雁信、雁書の説が生まれた、

とあり(世界大百科事典)、

雁行、

云々より、

渡り鳥、

の特徴から、逆に、

雁信、
雁書、

の伝説が生まれたというのが正確かもしれない。

あけぐれ、

は、辞書では、

明け暗れ、

とあて、

明け暮れ、

は、

あけくれ、

と訓ませているようだが、万葉仮名の原文は、

明闇之朝霧隠鳴而去鴈者言恋於妹告社

と、

明闇、

なので、

意味的には、

夜が明け、日が暮れる、

という意の、

あけくれ(明け暮れ)、

ではなく、

あけぐれ(明け暗れ)、

になる。

あけぐれ、

は、上述のように、

明け暗れ、

とあて、

夜明け前のまだうす暗い時分。未明(学研全訳古語辞典)
夜が明けきる前の、まだ薄暗い時分(精選版日本国語大辞典)、
夜の明け方の、まだ薄暗きほど(大言海)、

の意で、

もうすぐ夜明けだと待っているのに、まだ暗い頃。なかなか明けない夜明けを待ち切れなく思う気持ちから、「惑ふ」「迷ふ」「知らぬ」などと共に使われ、晴れない気分を表すことが多い、

とある(岩波古語辞典)。漢語で、

昧旦(まいたん 「昧」はほの暗い、日の出る頃の意)

とも、

昧爽(まいそう 「昧」はほの暗い、「爽」は明らかの意)、

ともいい、詩に、

女曰雞鳴なり、士(をとこ)は曰ふ、昧旦なりと(鄭風)、

とある(字通)。

あけくれ、

と訓ませる、

明け暮れ、

は、文字通り、

夜が明け、日が暮れる、
夜明けと夕暮れ、
日が経つ、

意で、

ひめ君の、あけくれにそへてはおもひなげき給へるさまの(源氏物語)、

と、

朝夕、

の意、転じて、

やがて御精進にてあけくれ行いておはす(源氏物語)、

と、

日々、
毎日、
始終、

の意で使い、

明暮見なれたるかぐや姫をやりていかが思ふべき(竹取物語)、

と、副詞として、

明けても暮れても、
いつも、
しょっちゅう、

の意でも使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

「明」(漢音メイ、呉音ミョウ、唐音ミン)の正字は、

朙、

であり、字源は、

会意文字。「日+月」ではなく、もと「囧(ケイ)+月」で、あかり取りの窓から、月光が差しこんで、物が見えることを示す。あかるいこと、また、人に見えないものを見分ける力を明という、

とある(漢字源)。同じく、

会意。正字は朙に作り、囧(けい)+月。囧は窓の形。窓から月光が入りこむことを明という。そこは神を迎えて祀るところであるから、神明という。〔説文〕七上に「照らすなり」とし、また古文の明を録し、その字は日月に従うが、卜文・金文の字はすべてに従う。〔詩、小雅、楚茨〕「祀事孔(はなは)だ明らかなり」のように、神明のことに用いるのが本義。ゆえに〔易、繫辞伝下〕「神明の徳に通ず」のようにいう。黄土層の地帯では地下に居室を作ることが多く、中央に方坑、その四方に横穴式の居室を作る。窓は方坑に面する一面のみで、そこから光をとる。光の入る所が神を迎えるところであった。この方坑の亞(亜)字形が明堂や墓坑の原型をなすものであったと考えられる。周初の聖職者を明公・明保といい、周公家がその職を世襲したと考えられる。すべて神明の徳に関することを明という(字通)、

とあるが、しかし、この解釈のもととなった、『説文解字』では、

「囧」が窓の形と解釈されて会意文字として扱われている(『説文解字注』では亦声とされている)が、これは誤った分析である、

としhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%99

形声。「月」+音符「囧 /*MANG/」

とのみ解している(仝上)。で、

「明」(漢音メイ、呉音ミョウ、唐音ミン)の異体字は、

朙(古字)、眀、𣇱(同字)、𣷠、𰤺、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%98%8E。字源は、

会意。「日」(太陽)+「月」。甲骨文字では「明」と「朙」の両方が使われていたが、「明」は西周では使われなくなり、六国文字で使われた。現在の楷書で使われる「明」はこの文字ではなく「朙」に由来するもの。

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%98%8E、「明」は、

「朙」の略体。「囧」が簡略化されて隷書で「目」に変化し、楷書で「日」に変化した、

とする(仝上)。別に、

もと、明・朙の二体があり、ともに会意。明は、日と月(つき)とから成り、「あかるい」意を表す。朙は、月と囧(けい)(窓の形)とから成り、窓に月光がさしこむことから、「あかるい」意を表す。のち、明の字形に統一された(角川新字源)、

会意文字です(日+月)。「太陽」の象形と「欠けた月」の象形から「あかるい」を意味する「明」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji263.html

と、いずれも、

日+月の会意文字、

としている。

「暮」(漢億ボ、呉音モ・ム)は、「くれくれ」で触れたように、

会意兼形声。暮は「日+音符莫」、莫(マク・バク)は「四本の草+日」の会意文字で、草原のくさむらに太陽が没するさま。莫が「ない」「見えない」との意の否定詞で専用されるようになったので、日印を加えて「暮」の字で、莫の原義を表すようになった。

とある(漢字源)。同じく、

会意形声。日と、莫(ボ、モ)(日ぐれ)とから成る。日ぐれの意に用いる。「莫」の後にできた字(角川新字源)、

会意兼形声文字です(莫+日)。「草むらの象形と太陽の象形」(太陽が草原に沈むさまから「日暮れ」の意味)と「太陽」の象形から、「日暮れ」を意味する「暮」という漢字が成り立ちました(「莫」が原字でしたが、禁止の助詞として使われるようになった為、「日」を付し、区別しました)https://okjiten.jp/kanji1065.html

と、会意兼形声文字とするものもあるが、

形声。「日」+音符「莫 /*MAK/」。「よる」を意味する漢語{暮 /*maak/}を表す字。もと「莫」が{暮}を表す字であったが、「日」を加えたhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9A%AE

形声。声符は莫(ぼ)。莫は草間に日の入る形で、暮の初文。〔説文〕一下に「莫は日且(まさ)に冥(く)れんとするなり。日の艸+艸 (ばう)中に在るに從ふ。艸+艸は亦聲なり」(小徐本)という。のち莫が多く否定詞に用いられ、暮夜の字として暮が作られた(字通)、

と、形声文字とするものもある。

「暗」(漢音アン、呉音オン)の異体字は、

晻(被代用字)、闇(被代用字)、𣆛、𣈇、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9A%97。字源は、

会意兼形声。音(オン)は、言の字の口中に丶印を加えた会意文字で、ものをいう口の中に何かを含んで口ごもるさま。諳(アン 口ごもって明白に発音せず、頭の中で覚える)のもとになる字。暗は「日+音符音」で、中に閉じこもって日光の差さないこと、

とある(漢字源)が

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9A%97、他は、

形声。「日」+音符「音 /*ɁUM/」。「くらい」を意味する漢語{暗 /*ʔuums/}を表す字(仝上)、

形声。日と、音符音(イム→アム)とから成る。日がかくれて「くらい」意を表す(角川新字源)、

形声文字です(日+音)。「太陽」の象形と「取っ手のある刃物の象形と口の象形(「言う」の意味)の「口」の部分に1点加えた形」(「音」の意味だが、ここでは、「陰」に通じ(同じ読みを持つ「陰」と同じ意味を持つようになって)、「くもる」の意味)から、曇りの為、太陽の光がない、「くらい」を意味する「暗」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji264.html

形声。声符は音(おん)。音は、形がみえず、音のみ聞こえる意。暗は、日の光がなく、冥暗の意。闇と声義が同じ。〔説文〕七上に「日に光無きなり」とみえる(字通)

と、すべて、形声文字としている。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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はだれ霜

 

天雲(あまくも)の外(よそ)に雁が音(ね)聞きしよりはだれ霜降り寒しこの夜は(万葉集)

の、

はだれ霜、

は、

うっすらと降り置いた霜、

とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

はだれ

は、

ほどろ

でふれたように、

はだら、
ほどろ、

ともいい、

沫雪(あわゆき)かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花ぞも(駿河采女)

では、

はらはらと降ってくる、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

はだら、
はだれ、

は、

雪や霜などの薄く積もったさま、

以外にも、このように、

はらはらと雪の降るさま、

にもいい、

はだれゆきあだにもあらで消えぬめり世にふることや物うかるらん(「主殿集(11C末)」)、

と、

斑雪、

とあてて、

はだれゆき、
はだらゆき、

と訓ませ、

はらはらと降る雪、
また、
薄く降り積もった雪、

の意で使い、

はつれゆき、

という言い方もする。で、

はだれ

は、

斑、

とあて(広辞苑)、

ハダラの転、

とあり(大言海)、

まだら、
まばら、
はだら、
はたれ、

ともいい、

ほどろに通ず、

とする(仝上)。

雪がはらはらと降るさま、
雪が薄く積もるさま、
また、
その雪、

の意で、

はだれ雪、

の略でもあり(仝上)、冒頭の歌の、

はだれ霜、

では、

薄くまばらにおいた霜、

の意で(デジタル大辞泉)、

沫雪(あわゆき)か薄太礼(ハダレ)に降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも(万葉集)、

と、

はだれ雪、

は、

まだらゆき(斑雪)、

ともいい、

まだらに降り積もった雪、
また、
まだらに消え残る雪、

であり、

はらはらと降る雪、

にもいい、

はつれゆき、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。上掲の、

沫雪(あわゆき)かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも(万葉集)、

では、

はらはらと降ってくるかとみまごうばかりに、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

「霜」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、

会意兼形声。「雨+音符相(たてに向かい合う、別々に並び立つ)」。霜柱がたてに並び立つことに着目したもの、

とある(漢字源)が、他は、

形声。「雨」+音符「相 /*SANG/」。「しも」を意味する漢語{霜 /*srang/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9C%9C

形声。雨と、音符相(サウ)とから成る。しもばしらの意を表す(角川新字源)、

形声文字です(雨+相)。「天の雲から水滴がしたたり落ちる」象形と「大地を覆う木の象形と人の目の象形」(「木の姿を見る」の意味だが、ここでは、「喪(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「喪」と同じ意味を持つようになって)、「失う」の意味)から、万物を枯らし見失わせる「しも」を意味する「霜」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1974.html

形声。声符は相(そう)。〔説文〕十一下に「喪(うしな)ふなり」と畳韻を以て訓する。〔釈名、釈天〕に「霜は喪なり。其の氣慘毒にして、物皆喪するなり」とあり、当時の音義説である。〔説文〕にまた「物を成す者なり」とあり、〔詩、秦風、蒹葭〕「白露、霜と爲る」の〔伝〕に「白露凝戻(ぎようれい)して霜と爲り、然る後、歳事成る」とある文によるものであろう(字通)、

と、すべて形声文字としている。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)

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おしてる

 

おしてる難波堀江(なにはほりえ)の葦辺には雁寝たるかも霜の降らくに(万葉集)

の、

おしてる、

は、

難波の枕詞、

とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

おしてる、

は、

押し照る、

とあて、

ら/り/る/る/れ/れ、

の、自動詞ラ行四段活用、

で、

押しは接頭語(学研全訳古語辞典)、
「おす」は、日や月などの光が威力を一面に及ぼす意(精選版日本国語大辞典)、
オシはは上から力を一面に及ぼす意(岩波古語辞典)、

とあり、文字通り、

押し並(な)べ゛て、照る、

意の(大言海)、

窓越しに月おし照りてあしひきのあらし吹く夜(よ)は君をしぞ思ふ(万葉集)、

と、

一面に照りつける、
くまなく照る、
照り渡る、

意である(広辞苑・学研全訳古語辞典・デジタル大辞泉)。冒頭の歌のように、枕詞として使う場合、

浪華(なみはな)にかけて光る花の意(大言海)、
一面に照り光る難波の海の意から(デジタル大辞泉)、
光が一面に照る意で(精選版日本国語大辞典)、
大和から難波へ山を越えるとき、大阪湾の海上一面に光が照りつけているのがみえるところから(岩波古語辞典)、

地名「難波(なにわ)」にかかる(岩波古語辞典・広辞苑・精選版日本国語大辞典)。かかり方については、

朝日・夕日のただ射す宮だからと難波に対する賛美の気持から、

とするものの他に、上述のように、

難波の海上が一面に光り輝いている実景にもとづくもの、
江戸中期の枕詞辞書「冠辞考(かんじこう)」(賀茂真淵)の襲い立てる浪速(はや)とするもの、
「枕詞解」の押し並べて光る浪の華とするもの、
岬が突堤のように押し出しているとするもの、

などの諸説があるが、掛かり方は未詳とされている(精選版日本国語大辞典)。

おしてるや難波の崎よ出で立ちて(古事記)、

の、

おしてるや、

も同じく、難波にかかる(岩波古語辞典)。この、

ヤは、詠嘆の助詞、

である。

櫻花(さくらばな)今さかりなり難波の海おしてる宮にきこしめすなへ(万葉集)

の、

おしてる(押し照る)宮、

は、

難波の宮、

の意となる(岩波古語辞典)。

おしてる、

の、

おし、

は、

押し、
圧し、

とあて(広辞苑)、動詞、

「おす」の連用形が他の動詞の上について接頭辞(岩波古語辞典)、
動詞「おす(押)」の連用形「押し」の変化した語(精選版日本国語大辞典)、

となる、

接頭語、

で、

動作がしいて、また、勢い込んでなされる意を表す。無理に……する、しいて……する、ずんずん……する、で、「おしかけ」「おしいり」など(岩波古語辞典)、

とある。この転訛が、

おっ、

で、

主として動詞の上に付いて、多く、勢いよくする、いきなりするの気持をこめてその動詞の意味を強める。「おっぱじめる」「おっかぶせる」「おっけえす」「おったまげる」「おっとる」「おっぴらく」「おっぺす」など。中世末期以降の俗語的な使い方、

となる(精選版日本国語大辞典)。この、

おし、

は、前述したように、

無理に押し通す、

というように、

しいて…する、
おしとる、
おしつける、

等々、

無理に……する(精選版日本国語大辞典)、
「むりに」「しいて」(広辞苑)、
強力に、強引に、無理に(デジタル大辞泉)、

などの意を表す使い方と、

おしいただく、
おし黙る、
おし詰まる、

等々のように、

下に付く動詞の表す意味を強める(デジタル大辞泉)、
単に語勢を強める(精選版日本国語大辞典)、
語調を強め、また改まった意を添える(広辞苑)、

という使い方とがある。動詞、

おす、

は、

押す、
圧す、
捺す、
推す、

などとあて、

さ/し/す/す/せ/せ、

の、他動詞サ行四段活用で、

面積あるいは量を持つものの、上面または側面に密着して力を加える、

意で、

ヨス(寄す)と同源(言元梯)、
オモシ(重)の義、オモの反オ(名言通)、
重い石や置く石をいうオシ(圧)からか(和句解)、

等々とあるが、由来ははっきりしない。

味酒(うまさけ)三輪の殿の朝門(あさと)にも於辞(オシ)開かね三輪の殿門(とのと)を(日本書紀)、

と、

物に力を加えて向こう側へか動かす、

意や(「押す」を当てる)、

圧、これおば飫蒭(オス)と云ふ(古事記)、

と、

上から重みを加えて動かぬようにする、

意や(「圧す」とあてる)、

咸(ことごと)くに神武を懼れ大位(みかど)に推(オシ)尊ぶ(「大唐西域記長寛元年点(1163)」)、

他に抜き出た位置につくようにする、

意などに使う(「推す」とあてる)が、いずれも、

強い意志、

が働いている。この意が、接頭語「押し」にもまとわりついてする。

「押」(@漢音オウ・呉音ヨウ、A漢音コウ・呉音キョウ)は、

「押印」のように「おす」意、「押収」「押送」のように、権力で押さえつける意、「花押」のように、署名の意は、@の音、「押しが強い」「ひと押し」など「圧力」の意の場合、Aの音、となる(漢字源)。字源は、

会意兼形声。甲は、からをかぶせて封じたさま。押とは「手+音符甲」で、外からかぶせておさえること、

とある(仝上)。同じく、

会意兼形声文字です(扌(手)+甲)。「手」の象形と「かめのこうら」の象形(「(亀の甲羅のような物で)覆う」の意味から手で物を覆って「おさえる」を意味する「押」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji245.html

と、会意兼形声文字とするものもあるが、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8A%BC、他は、すべて、

形声。「手」+音符「甲 /*KAP/」。「おす」を意味する漢語{壓 /*ʔreep/}を表す字(仝上)、

形声。手と、音符甲(カフ)→(アフ)とから成る。手で「おさえる」意を表す(角川新字源)

形声。声符は甲(こう)。もと甲の音でよみ、柙・柙檻の意に用いたが、のち押捺(おうなつ)・花押の意に用い、いまはその義に用いる(字通)

と、形声文字としている。

「照」(ショウ)の異体字は、

㷖、昭、曌、炤、燳、瞾、𢢤、𣉬、𣊕、𣊧、𤈌、𤋜、𥊐、𥋫、𭴋、𭴫(俗字)、𭵳、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%85%A7、字源は、

会意兼形声。召は「口+音符刀」からなり、刀の刃の曲線のように、半円を描いてまねきよせること。昭は「日+音符召」の会意兼形声文字で、半円を描いて、右から左へと光がなでること。照は「火+音符昭」。昭があきらかの意の形容詞に用いられるため、さらに火印(灬)を加えて、すみからすみまで半円形に照らすことを示す、

とある(漢字源)。同じく、

会意兼形声文字です(昭+灬(火))。「太陽の象形と刀の象形と口の象形」(神秘の力を持つ刀を捧げ、祈り、神まねきをする、すなわち、「まねく」の意味を表す。さらに、太陽を付し「あきらか」の意味)と「燃え立つ火」の象形から火であきらかにする、「てらす」を意味する「照」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji600.html

と、会意兼形声文字とするものもあるが、他は、すべて、

形声。「火」+音符「昭 /*TAW/」。「てらす」を意味する漢語{照 /*taws/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%85%A7

形声。火と、音符昭(セウ)とから成る。火でてらして明らかにする、ひいて「てらす」意を表す(角川新字源)、

形声。声符は昭(しよう)。昭は昭明の意。〔説文〕十上に「明なり」とあり、〔書、泰誓下〕に「日月の照臨するが若(ごと)し」とあり、その昭光をいう。対照・照応のように用いる。炤はその異体字(字通)、

と、形声文字としている。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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かも

 

つとに行く雁の鳴く音は我(あ)がごとく物思(ものも)へれかも声の悲しき(万葉集)

の、

つとに行く、

は、

朝早く飛び渡る、

とし(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

物思(ものも)へれかも、

は、

物思うからか、

と訳す(仝上)。

つとに、

は、

夙に

とあて、

早くから、
ずっと以前から、

の意もあるが、ここでは、

朝早く、
早朝に、

の意である。

ものもふ (物思ふ)、

は、

は/ひ/ふ/ふ/へ/へ、

の、自動詞ハ行四段活用で、

「ものおもふ」の変化した語(学研全訳古語辞典)、
ものおもふの約(岩波古語辞典)、

とあり、

ものおもふ(物思う)、

は、

胸のうちで思いにふける、
物思いにふける、
物事をあれこれと思いわずらう、

意(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)、

もの思(おも)ふ、

は、

験(しるし)なき物乎不念(ものヲおもはず)は一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし(大伴旅人)、

と、

もの(物)を思(おも)ふ、

の、

物事を思い悩む、
思いにふける、

意で(精選版日本国語大辞典)、上掲の歌は、

甲斐なきものにくよくよとらわれるよりは、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

ものかも

で触れたように、

かも、

は、種々の使い方があるが、

係助詞「か」に係助詞「も」が付いて一語化したもの、体言や活用語の連体形などに付く。…か(なあ)。…なのか(学研全訳古語辞典)、
係助詞「か」+係助詞「も」。上代語、種々の語に付く(「かも」がかかる文末の活用語は連体形をとる)。感動を込めた疑問の意を表す。…かなあ。中古以降、おおむね「かな」に代わる(デジタル大辞泉)、
係助詞の「か」と「も」が重なったもの。体言、用言の連体形(まれにシク活用形容詞の終止形)を受け、詠嘆を含んだ疑問を表わしたり、詠嘆を表わす(精選版日本国語大辞典)、
詠嘆の「か」と「も」の複合したもの、感動をあらわし、……ことだ。平安以降は「かな」が一般的になった(広辞苑)。
「か」の下に「も」を添えた助詞。体言または活用語の連体形を承ける。「も」は不確実な提示、あるいは不確実な判断を表すのがその本質的な意味であるから、「かも」となった場合も、単独の「か」の持つ疑問の意を受けつぐ。ただし詠嘆の意を表す場合は、「かも」は「か」単独の場合よりもやわらげた表現のように見える(岩波古語辞典)、

などとあり、

文中用法、

と、

文末用法、

があり(精選版日本国語大辞典)、前者は、

置目(おきめ)もや淡海(あふみ)の置目明日(あす)よりはみ山隠りて見えず加母(カモ)あらむ(古事記)、

と、

係助詞的にはたらく。この場合の「か」は疑問の意を表わし、係り結びを起こす、

とある(仝上)。

後者は、体言、用言の連体形(まれにシク活用形容詞の終止形)を受け、係終助詞的にはたらき、

浦みより漕ぎ來(こ)し船を風早み沖つみ浦に宿りするかも(万葉集)、

では、

(遠い沖合の)こんな恐ろしい裏で旅宿りをするというのか、われらは、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、詠嘆を含んだ疑問を表わし、

霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(万葉集)、

では、

(髪に挿しているけれど)ますます離しがたい気持ちだ、この梅の花は、

と訳し(仝上)、詠嘆を表わす。この、

かも、

は、上述したように、平安以後はおおむね「かな」となる(仝上)。

かも、

の、

か、

は、

疑問詞を承ける係助詞のひとつ、

で(岩波古語辞典)、種々の語に付く(デジタル大辞泉)が、

表現者自身の判断を下すことが不能であること、疑問であることを表明するのが原義、

とあり(岩波古語辞典)、

「か」は体言または活用語の連体形を承ける。(中略)疑問はその意味をやわらげれば慨嘆になる、

ともあり(仝上)、

苦しくも降り來る雨か三輪の崎挟野(さの)の渡りに家もあらなくに(万葉集)、

では、

何とも心せつなく降ってくるあめであることか、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、慨嘆の意となっている。

かも、

の、

も、

は、

疑問詞を承ける係助詞の一つ、

で(岩波古語辞典)、やはり、種々の語に付く(デジタル大辞泉)。

「も」は、承ける語を不確実なものとして提示し、下にそれについての説明・叙述を導く役割をする。(中略)承ける語を不確実なものとして提示するばかりでなく、下文も、打消・推量・願望などの不確実な表現で終わるものが多い、

とある(岩波古語辞典)。ここでの、

も、

は、

終助詞、活用語の終止形(係結びでは結びの形)、ク語法について、詠嘆の意を表す。体言には「かも」「はも」などの形で用いる。「かも」は平安時代には「かな」に代わる(広辞苑)、
終助詞。文末で、活用語の終止形、助詞、接尾語「く」に付く。感動・詠嘆を表す。…ことよ。…なあ。「かも」「ぞも」「はも」「やも」、主に上代の用法で、その後は「かな」に代わった。係助詞の終助詞的用法ともいう(デジタル大辞泉)、
文末用法。文末の終止形(文中に係助詞がある時はそれに応ずる活用形)およびク語法を受けて詠嘆を表わす。体言を受ける場合は同じく詠嘆を表わす他の係助詞が上接して「かも」「はも」「そも」などの形となる。終助詞とする説もある(精選版日本国語大辞典)、

などとあり、

春の野に霞たなびきうら悲(がな)しこの夕影にうぐひす鳴くも(万葉集)、

では、

鶯がないているなあ、

といった意味になる。冒頭の、

つとに行く雁の鳴く音は我(あ)がごとく物思(ものも)へれかも声の悲しき(万葉集)

は、

私のように物思いに沈んでいるからなのか、その声がもの悲しく聞こえる、

と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

詠嘆を含んだ疑問、

を表していると見えるが、他も、たとえば、

朝の空を飛んでいく雁の鳴き声は、私と同じく物思いをするからか、声が悲しいことよ、

とかhttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=2137

朝方飛んでいく雁の鳴き声。私のように物思いに沈んでいるからかもの悲しく聞こえる、

とかhttps://manyoshu-japan.com/11441/

私のように悩んでいるせいでそんなに悲しく響くのか、

とかhttps://sanukiya.exblog.jp/28655674/

雁の悲しげな声に共感して、多少疑問を含んだ、

詠嘆、

の含意が強いが、

「物思ふ」の已然形「物思へれ」に、詠嘆の係助詞「かも」が付く。「〜しているのだろうか、いや、しているに違いない」という感情の揺れを含む、

とする解釈もある(copilot)。ただ、反語という意味合いは薄いので、

雁の悲しげな声に共振れ、

した、

詠嘆、

と見ていいのだろう。なお、

朝ごとにわが見る屋戸の瞿麦(なでしこ)が花にも君はありこせぬ香裳(かも)(万葉集)、

と、

ぬかも、

の形で願望の意を表し、

……てくれないかなあ、

の意で使う、

ぬかも

については触れた。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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かしこし

 

山辺にはさつ男のねらひ畏(かしこ)けど鹿鳴くなり妻が目を欲(ほ)り(万葉集)

の、

さつ男、

は、

狩人、

さつ、

は、

幸、

とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

幸、

については、

さつや

で触れた。

畏(かしこ)けど、

は、

恐ろしいに違いないが、

とし、

妻が目を欲(ほ)り、

は、

妻の目を欲して、

の意とする(仝上)。

かしこし、

は、

(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ、

の、形容詞ク活用で、

畏し、
恐し、
賢し、

等々とあてる(精選版日本国語大辞典・大言海・広辞苑)。

海・山・風などあらゆる自然の事物に宿っていると信じられた精霊の霊威に対して、畏怖・畏敬の念を持つのが原義(広辞苑)、
海・山・坂・道・岩・風・雷など、あらゆる自然の事物に精霊を認め、それらの霊威に対して感じる、古代日本人の身も心もすくむような畏怖の気持ちをいうのが原義。転じて、畏怖すべき立場・能力をもった、人・生き物や一般の現象をも形容する。上代では「ゆゆし」と併用されることが多いが、「ゆゆし」は物事に対してタブーと感じる気持ちをいう(岩波古語辞典)、
「かしこし」と「ゆゆし」の違いは、「かしこし」が畏敬(いけい)という肯定的な気持ちを持っているのに対し、類義語の「ゆゆし」は、不吉・不浄な物を忌み避ける否定的な気持ちを持っている(学研全訳古語辞典)、
アニミズム(精霊崇拝)に基づき、精霊の威力を畏怖する気持に由来したといわれる。畏怖から畏敬へ、さらに神などの畏敬すべき能力を表わすようになり、平安時代には資質や能力がすぐれていることをいうようにもなった。「かたじけなし」が時代とともに敬意の程度をあまり下げることがなかったのに対して、「かしこし」は敬意の程度を人智を超えるものから一般的なものへと下げていったといえる。語幹「かしこ」は手紙の末尾(後には女性の)に用いられる語として固定し、感動詞「あな」がついた「あなかしこ」は、禁止を表わす表現を伴って、陳述副詞の機能を持つようになる(精選版日本国語大辞典)、

などとある。なお、

あなかしこ

かしこ

ゆゆし

ゆゆしい

については、触れた。

かしこし、

は、

自然などの霊威に対する霊威への恐れ(畏怖)

畏怖・畏敬すべき立場や能力の人・生き物に対する畏れ(恐れ多い)

すぐれたものへの尊敬・賛美(立派だ)

賢明だ(頭がいい)、

と、

畏怖→畏敬→尊崇→賢明、

と、意味が変化し、当てる漢字も、

畏し・恐し→賢し、

へと変わっていくが、その意味の流れは、第一は、

自然界の事物の霊威に対して畏怖を感じる意、

を表す使い方で、

天雲(あまくも)をほろに踏みあだし鳴る神も今日にまさりて可之古家(カシコケ)めやも(万葉集)、

と、

(今日にまさって)畏れ多い(ことがありましょうか)、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

おそれ多い、

意や、

かけまくもゆゆし畏(かしこ)き住吉の我が大御神(おほみかみ)船(ふな)の舳(へ)に領(うしは)きいまし、船艫(ふなとも)にみ立たしまして(万葉集)、

と、

(口にかけて申すも)はばかり多い、

と訳す(仝上)、

恐懼する気持ち、

の意になる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。第二は、

畏怖・畏敬すべき立場や能力の人・生き物に対する畏れ、

を表す使い方で、

もったいない、
畏れ多い、

意で、

さ夜床を並べむ君は介辞古耆(カシコキ)ろかも(日本書紀)、

と、

おそろしい、

意もあるが、

かしこしとは、かたじけなしと恐れたる詞(ことば)なり、

とある(新古今和歌集・注)ように、

恐之(かしこし)。此の国は、天つ神の御子に立奉らむ(古事記)、

と、

畏敬(いけい)する者、またはその言動に対して用い、その言動を受ける者の感謝の心がこめられる場合もある、

意(精選版日本国語大辞典)、また、

過(あやま)ち作りしは甚畏(かしこし)(古事記)、

と、

畏敬する者にかかわる言動をする場合に用い、自身の行動に対する「申しわけない」気持のこめられる場合もある、

といった意になる(仝上・岩波古語辞典)。この他に、

磐手の郡より奉れる御鷹、よになくかしこかりければ(大和物語)、
(和琴は)さながら多くの遊び物の音(ね)・拍子を整へ取りたるなむ、いとかしこき(源氏物語)、

と、

(生き物や事物が)すぐれている、まさっている、

意や、

老いたるはいとかしこきものに侍り、若き人なあなづりそ(大鏡)

と、

(人の智力などが)際立っている、添えている、

意(この場合「賢し」とあてるが、類義語「さとし」は、ものの覚えが早い意を主にいう)、

風吹かずかしこき日なり(源氏物語)、

(めぐりあわせなどが)ありがたい、

意、

世の常のかしこきし思へるは、さかさかしく世間のことをわきまへ(妻鏡)、

と、

利口だ、
頭が良い、

意などで使う(岩波古語辞典)。第三は、

他からあがめ敬われる程にすぐれているさま。また、それに対する尊敬、賛美の気持を表わす、

使い方で、

貴(カシコキ)国の天皇(すめらみこと)に失礼(ゐやなし)(日本書紀)、

と、

国柄、血筋、身分、人柄などがすぐれている、
尊い、
徳が高い、
尊敬すべきだ、

の意、

左右大臣、及び、智謀(カシコキ)群臣共に議を定む(日本書紀)、

と、

才能、知能、思慮、分別などの点ですぐれている、

意、

かしこき玉の枝をつくらせ給ひて(竹取物語)、

と、

物の品質、性能などがすぐれている、
すばらしい、

意、

こもり、いとかしこうまもりて、わらはべも寄せ侍らず(枕草子)、

と、

人または事柄が尊重すべく、重要、重大であるさま、
また、
それを大切にし、慎重に思う気持を表わす、

意、

かしこくも取りつるかな。我はさひはひありかし。思ふやうなる婿ども取るかな(落窪物語)、

と、

物事が望ましい状態であるさま、
また、
それを賛美し、よろこぶ気持を表わす、

意で、

結構だ、
好都合だ、
よい具合だ、

の意、

人にはただ御病の重きさまをのみ見せて、かくすぞろなるいやめの気色しらせじとかしこくもてかくすと思しけれど(源氏物語)、

と、

自身に好都合なように計らうことの巧みなさま、
抜け目がない、
巧妙だ、

の意等々で使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。このほかに、

かしこしの連用形、

かしこく、

を、

かぜふき、なみあらければ、ふねいださず。これかれ、かしこくなげく(土左日記)、

と、副詞的に

程度のはなはだしいさま、

を言う、

はなはだしく、

の意や、

かしこけれど、この御前にこそはかげにもかくさせ給はめ(源氏物語)、

と、

かしこけれど、

の形で、畏敬の意味が軽くなって、

恐縮ですが、
失礼な申し分ですが、

の意の挨拶語としても用いる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。大きく分けて、

かしこし、

は、

畏し、
恐し、

とあてるものと、

賢し、

とあてるものに分かれる。

賢し、

とあてる。

かしこし、

は、上述と重なるが、

世に知らず、聡(さと)うかしこくおはすれば(源氏物語)、

と、

賢い、賢明だ、分別がある、

意、

北山になむ、なにがし寺といふ所にかしこき行ひ人侍(はべ)る(源氏物語)、

と、

すぐれている、立派だ、

の意、

とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに(枕草子)、

と、

上手だ、大変よい、巧みだ、

の意、

風吹かず、かしこき日なり(源氏物語)、

都合がよい、ありがたい、

の意、

男はうけきらはず呼び集(つど)へて、いとかしこく遊ぶ(竹取物語)、

と、

(「かしこく」の形で)大いに、非常に、

等々の意で使う(学研全訳古語辞典)。こうみると、

畏し・恐し→賢し、

の変化は、

畏しの意味の外延の拡大、

と見ていいのではないか。

かしこい

で触れたように、

自然界の霊異への畏れ、畏怖、

という感情の表現から、対象へ転嫁されて、

おそれ多い、もったいない、ありがたい、

という感情表現へシフトし、さらにそれが、

(生き物や事物などが)すぐれている、まさっている、
(人の智力などが)きわだっている、

といった価値表現へと転じ、

賢し、

と当てられたと見れば、

賢し、

は、

畏し、
恐し、

が語源と見られる。

かしこし、

の由来には、

「畏し、畏し」が語源、尊い、恐れ多い、立派だ、頭が良い、と転じてきた語(日本語源広辞典)、
才能の優れた者を畏れ崇む意の、カシコキ(畏)の転(国語の語幹とその分類・大言海)、
カシコミシキ(畏如)の義(名言通)、
恐畏の意(槙のいた屋)、
厳かだ、偉いの意のイカシの活用形イカシクからイが脱落したカシクから(語源辞典)、
語根はカシコ(神峻厳)の意(日本古語大辞典)、
利口な者はかしこく爰へ速く心が行くところからカシコシ(彼知是知)の意(和句解・言元梯)、
彼方知の義(桑家漢語抄)、
カシコシ(神子)から。シは助詞(和語私臆鈔)、
カシコ(日領所)の義(国語本義)、
カシはカシラ(頭)・カシヅク(傳・頭付)のカシで頭の意。コは心グシ・眼グシなどのク(苦しい・切ない)の転か(古代日本語文法の成立の研究)

等々の諸説があり、多く、

「畏し、畏し」が語源、尊い、恐れ多い、立派だ、頭が良い、と転じてきた語(日本語源広辞典)、

のように意味の拡大・転化とみる説が多数派だが、他に、次のように、音韻変化から、転訛の流れを説く説もある。

カガム(屈む)は、母韻交替[ao]をとげてコゴム(屈む)に、さらに母音交替[ou]をとげてクグム(屈む)になった。〈笛の音の近づきければクグミて見れば〉(義経記)。
畏怖のあまり、貴人の前で自然に腰が折れ曲がることをコシカガム(腰屈む)といった。「ガ」を落としたコシカムは、語頭の母韻交替[ao]でカシコムになった。〈カシコミて仕へまつらむ〉(推古紀)は「おそれおおいと思う」意であり、〈大君のみことカシコミ〉(万葉)は「謹んで承る」意である。
さらにカシコミアリ(畏み在り)は、ミア[m(i)a]の縮約でカシコマル(畏まる)になった。「恐れ敬う。慎む。きちんとすわる。謹んで命令を受ける」などの意であり、その連用形の名詞化がカシコマリ(畏まり)である。
カシコム(畏む)の形容詞化が「恐れ多い。もったいない。高貴だ」の意のカシコシ(畏し)であり、その語幹がカシコ(恐・畏)である。
身分に対する畏敬の念が才智に対するそれに転義してカシコシ(賢し)が成立した、

とする(日本語の語源)。この説だと、畏れの姿勢、

屈む、

から、音韻変化して、カシコシへと転訛したことになる。『岩波古語辞典』や『大言海』は、畏れの気持ち、

畏し、

が出自とする。どちらが先かは、決める手がかりはないが、

屈む、

前には、畏れがあったという方が自然に見えるが、いかがであろうか。いずれにしろ、

畏し・恐し→賢し、

と、意味を転化させてきたことには変わりはない。

「畏」(漢音イ、呉音エ)は、

象形。大きな頭をした鬼が手に武器をもっておどすさまを描いたもので、気味悪い威圧を感じること、

とある(漢字源)。他も、字解は異にするが、

象形。杖を持った人を象る(人の部分は音符「鬼 /*KUJ/」を兼ねる)。{畏 /ʔujs/}(おそれる)を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%95%8F

象形。おにが手にむちを持ったさまにかたどり、おどす、転じて「おそれる」意を表す(角川新字源)、

象形。鬼頭のものの形。〔説文〕九上に「惡なり」とし、上は甶(鬼)頭、下は虎爪にして「畏るべき」ものとするが、下部は人と呪杖の形である。卜文・金文の形は鬼頭の者が呪杖をもち、その威霊を示す形。夢などにあらわれるものをいい、卜辞に「畏夢多し」などの語がある(字通)、

と、象形文字としているが、

会意文字です(鬼+卜)。「グロテスクな頭部を持つ人」の象形と「ムチ」の象形から、怪しい者がムチを持つ事を意味し、そこから、「おそれる」を意味する「畏」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1757.html

と、会意文字とするものもある。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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こほろぎ

 

秋風の寒く吹くなへ我(わ)がやどの浅茅(あさぢ)が本(もと)のにこほろぎ鳴くも(万葉集)

の、

詞書(和歌や俳句の前書きで、万葉集のように、漢文で書かれた場合、題詞(だいし)という)に、

蟋(こほろぎ)を詠む、

とあり、その、

蟋(こほろぎ)、

は、

今のこおろぎか。秋鳴く虫の総称ともいう、

とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

なへ、

は、

なへに

で触れたように、

二つの事柄が同時に進行することを示す、

とある(仝上)。

きりぎりす

で触れたように、

きりぎりす、

は、

こおろぎの古称、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

きりぎりす、

は、

蟋蟀、
螽斯、

と当て、

コオロギの古称、

であるが、

こおろぎ(こほろぎ)、

は、

蟋蟀、

と当て、

暮月夜 心毛思努爾 白露乃 置此庭爾 蟋蟀鳴毛(夕月夜(ゆふづくよ)心もしのに白露の置くこの庭に蟋蟀(こほろぎ)鳴くも)(万葉集)、

と、古くは、

秋鳴く虫の総称、

で(広辞苑・精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、

マツムシ・スズムシ・キリギリス、コオロギ、

等々すべてをいい(岩波古語辞典)、中国でも、

秋鳴く虫、

を、

蟋蟀(しっしゅつ)、

と総称した(仝上)が、

蟋蟀在堂、歳聿其莫、今我不樂、日月其除(蟋蟀、堂に在り歳聿(ここ)に其れ(く)れぬ 今我樂しまずんば 日其れ除(さ)らん)(詩経・唐風)

とある場合、

こおろぎ、

を指すともある(字通)。

ただ、秋鳴く虫の中で、特に、

こおろぎ、

を指す場合は、

きりぎりす、

といった。

むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす(芭蕉)、

も、

こおろぎ、

である。古くは、

促織(はたおりめ)蜻(コホロギ)蟋蟀(きりぎりす)……古にこほろぎといひ、今はいとどといふ者也(東雅)、

と、

いとど、

あるいは、

ちちろむしよる吹風やさむからしふくればいとどよはるこゑかな ちちろむしとはきりぎりすを云也(古今打聞(「1438頃)」)、

と、

ちちろむし、

ともいった(精選版日本国語大辞典)。なお、

こほろぎ、

の異表記に、

その中より、こうろきといふむし、出て申けるは、いかにかたがた、聞たまへ、誠にわれわれの、身のうへは、あさましや(御伽草子「こほろぎ草子(室町末)」)、

と、

こうろき、

がある。和名類聚抄(平安中期)に、

蟋蟀、一名蛬(こほろぎ)、木里木里須、

天治字鏡(平安中期)に、

蟋蟀、支利支利須、

類聚名義抄(11〜12世紀)に、

蟋蟀、キリギリス、

とある。中世になって、

こうろぎ、

という表記も見られるようになる(精選版日本国語大辞典)ようである。

こほろぎ、

は、上述したように、

秋鳴く虫の総称、

で、

マツムシ・スズムシ・キリギリス、コオロギ、

等々のすべてに言ったが、

こほろぎ、

の由来は、

コロコロ(鳴き声)+ギス(バッタ類)、コロコロギス、コホロギス、コオロギと変化した(日本語源広辞典)、
コホロと鳴く虫の意(箋注和名抄・日本古語大辞典=松岡静雄)、

と鳴き声からきているとされる他に、

古く「古保呂岐」と書かれ、黒い木を意味したもののようで、コオロギの黒褐色の体色と関連させてその名となった、

などの説もある(日本大百科全書)。

ウグイスの鳴き声を「法華経」というように、鳥や動物の鳴き声を人の言葉や文字に置き換えて覚えやすくした、

聞きなし、

では、エンマコオロギは、

「コロコロ…」「ヒヨヒヨ…」「コロリーコロコロリー」「コロコロリー」

などで表現されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE。なお、童謡「蟲のこゑ」に登場するコオロギの鳴き声は「キリキリキリキリ」という擬声語で表現されているの、カマドコオロギだといわれている(仝上)。今日でも、

バッタ(直翅)目コオロギ科に属する昆虫の総称(精選版日本国語大辞典)、
直翅目コオロギ上科に属する昆虫を呼ぶときに用いる通俗的な呼名(世界大百科事典)、

とされる、

こおろぎ、

は、

蟋蟀、
蛬、
蛩、
蛼、

とあてhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE

昆虫綱バッタ目(直翅目)キリギリス亜目(剣弁亜目)コオロギ上科またはコオロギ科またはコオロギ亜科に属する昆虫の総称、

であり、

体は一般に円筒形で、黒褐色または褐色。触角は体より長い。後足は長く、跳ねるのに適する。草地などに多く、物の陰にかくれ、雄は夏から秋にかけて鳴く、

とされ(精選版日本国語大辞典)、日本ではコオロギ科のうちコオロギ亜科に属する、

エンマコオロギ、ミツカドコオロギ、オカメコオロギ、ツヅレサセコオロギ、

などが代表的なものになる(仝上)。一応、

ケラの仲間になる。コオロギ類は、キリギリス類やバッタ類とともに直翅目を構成する主要な群で、とくにキリギリス類に類縁が近い、

とされる(世界大百科事典)が、

キリギリス類は体型が縦に平たく、主として樹上生活に適応しているが、コオロギ類は、エンマコオロギで代表されるように、体型が背腹に平たくなり、地表生活に適応している。色彩も地表面の色に近い、褐色ないし黒褐色系の色彩が主流を占めている、

とある(仝上)。別名は、

しつしゅつ(蟋蟀)、
しつそつ(蟋蟀)、
しつしつ(蟋蟀)、

と、多く漢名の音読みがあるが、他に、和名では、

いとじ(こおろぎ(蟋蟀)の異名)、
いつつ(えんまこおろぎ(閻魔蟋蟀)の異名)、
ちくろ(こおろぎ(蟋蟀)の異名)、
ちちろ虫(コオロギの別名)
きりご(かまどうま(竈馬)の異名。こおろぎ(蟋蟀)の異名)、
いとど(カマドウマの古名)、

などがある。

かまどうま(竈馬)、

については、

いとどし

で触れた。

「蟋」(漢音シツ、呉音シチ)は、

形声。「虫+音符悉(シツ)」羽をさっさっとさせる音をまねした擬声語、

とある(漢字源)。「蟋蟀」(シツシュツ)は、きりぎりす、とある(仝上)が、字通は、

形声。声符は悉(しつ)。〔爾雅、釈虫〕に「蟋蟀(しつしゆつ)、蛬(こほろぎ)なり」とあって、蟋蟀と連用し、こおろぎをいう。蟋蟀はその鳴く声をとるものであろう(字通)、

と、形声文字とし、「こおろぎ」としている。

「蟀」(漢音ソツ、呉音シュツ・シュチ)は、

形声。「虫+音符率」。羽をさっさと摩擦させる音をまねた擬声語、

とある(漢字源)。「蟋蟀」(シッシュツ)で、こおろぎ、または、キリギリスを指す(漢字源・字源)とある。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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夕かたまけて

 

草枕旅に物思(も)ひ我(わ)が聞けば夕かたまけて鳴くかわづかも(万葉集)

の、

夕かたまけて、

は、

夕方が近づいたとばかりに、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

夕かたまけて、

は、

夕片設けて、

とあて、

夕がたになる、
日暮れに近づく、

意である(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

片まく、

は、

片設く、

とあて、

け/け/く/くる/くれ/けよ、

の、自動詞カ行下二段活用で、

カタはわずかの意、マクは予期した時になる意(岩波古語辞典)、
片付設(かたつきま)くの意と云ふ(万葉集古義)、

とあり、

やがてその時が来る、その時になる(岩波古語辞典)。
時を待ちもうける、また、時が近づく(広辞苑)、
(その時節を)待ち受ける、(その時節に)なる(学研全訳古語辞典)、
ある季節や時をひたすら待つ、また、時が移ってその時期になる、近づく(デジタル大辞泉)、
季節や時が来るのが待たれる、心から待ち受ける気持になる。また、時が移ってある時期になる。ある時節が近づく(精選版日本国語大辞典)、
片寄り待ちつく、偏に待つ(大言海)、

などと微妙に含意が異なるが、

片ま(設)く、

の意味からすれば、

時を待ちもうける、

が原意で、そこから、

待ちうける、

近づく、

その時になる、

といった意味の幅がある。で、その、

ある季節や時をひたすら待つ、

といった含意から、意味を転じて、

夏麻引(なつそび)く命方貯(かたまけ)刈薦(かりこも)の心もしのに人知れずもとなそ恋ふる息(いき)の緒(を)にして(万葉集)、

と、

ある事にいちずに心を寄せる、
傾注する、

意でも使う(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。なお、

かたまく、

は、冒頭の、

夕かたまけて、

のように、

時を表す語とともに用いる、

とされ(学研全訳古語辞典)。

秋かたま(片設)けて、

は、

磯の間ゆたぎつ山川(やまがは)絶えずあらばまたもあひ見む秋加多麻気弖(カタマケテ)(万葉集)、

と、

秋が近づいて、また、秋になるのを待ち受けて、

の意(精選版日本国語大辞典)で、上掲の歌は、

重ねて相見(まみ)えよう、秋ともなって、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

秋の田の我(わ)が刈りばかの過ぎぬれば雁が音(ね)聞ゆ冬方設而(ふゆかたまけて)(万葉集)、

と、

冬かたま(片設)けて、

は、

冬が近づいて、また、冬になるのを待ち受けて、

の意(精選版日本国語大辞典)で、

すぐそこに冬も近づいて、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

夏陰(なつかげ)の妻屋(つまや)の下に衣(きぬ)裁(た)つ我妹(わぎも)うら設(ま)むて我(あ)がため裁(た)たばやや大(おほ)に裁て(万葉集)、

の、

うらま(裏設・心設)けて、

は、

着物の裏を用意して、一説に、心待ちして、

の意(精選版日本国語大辞典)で、

心積もりして、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。なお、

片まく、

の、

片、

は、

片垸(かたもひ)

で触れたように、

不完全の意、

だが(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

片待つ

で触れたように、

カタ(片)、

は、

名詞や動詞につく接頭語、

で、

カタは不完全、マ(真・双)の対(岩波古語辞典)、
一対のもの、二つで一組のものの一方。片方。片一方(デジタル大辞泉)、
片方の、かたよった、などの意を表わす(精選版日本国語大辞典)、
諸(もろ)の反(大言海)、

とあり、その由来は、

半分の意の、蒙古語kaltas、ツングース語kaltakaと同源、側、片方の意、日本に受け入れられたときには既にカタであった(日本語の起源=大野晋・日本語源広辞典)、
アルタイ諸語のkalta(片)と同源(岩波古語辞典)、
対偶がなくて一つある物の称kat(介)の転音(日本語原考=与謝野寛)、
介(人+八)分ける意katから、片方の意(日本語源広辞典)、
カタカタ(偏)から(和句解・名言通)、
一方(ひとかた)の意か(大言海)、

等々あるが、わざわざアルタイ諸語由来と考えるまでもなく、類聚名義抄(11〜12世紀)には、

片、カタハシ・ハシ・カタハラ・カタツカタ・カタオモテ、

字鏡(平安後期頃)には、

片、カタオモテ・シリソク・カタハラ・ハシアハス・カタハシ・サク・カタカタ・カタ・ヲフ・カタヘ・ハシ・サス、

とあるのを見れば、

マ(真・双)の対(岩波古語辞典・デジタル大辞泉・学研全訳古語辞典)、

とみなせば、

一方(ひとかた)、

の意と見るのが一番妥当に思える。

片、

の対である、

マ(真)、

は、

真鳥、

で触れたように、

名詞・動詞・形容詞について、揃っている、完全である、優れている、などの意を表す(岩波古語辞典)、
名詞・動詞・形容詞・形容動詞などの上に付いて、完全である、真実である、すぐれているなどの意を加え、また、ほめことばとしても用いる(精選版日本国語大辞典)、
体言・形容詞などに冠し、それそのものである、真実である、正確であるなどの意を表す(広辞苑)、

等々とあり、

ま袖、
真楫(かじ)、
真屋、

では、

二つ揃っていて完全である、

意を表し、

ま心、
ま人間、
ま袖、
ま鉏(さい)、
ま旅、

等々では、

完全に揃っている、本格的である、まじめである、

などの意を添え、

ま白、
ま青、
ま新しい、
ま水、
ま潮、
ま冬、

等々では、

純粋にそれだけで、まじりもののない、全くその状態である、

などの意を添え、

ま東、
ま上、
ま四角、
まあおのき、
真向、

等々では、

正確にその状態にある、

意を添え、

ま玉、
ま杭(ぐい)、
ま麻(そ)、
ま葛(くず)、

等々では、

立派である、美しいなどの意を込めて、ほめことば、

として用い、

真弓
真澄の鏡(まそ鏡)、
真鉋(まかな)

等々では、

立派な機能を備えている、

意を表し、

真名、

では、

仮(かり)のもの(仮名・平仮名・片仮名)でも、略式でもなく、正式・本式であること、

を表す(精選版日本国語大辞典・広辞苑・岩波古語辞典)。

真鴨、
真葛、
真魚
真木
ま竹、
まいわし、
真鳥

等々では、

動植物の名に付けて、その種の中での標準的なものである、その中でも特に優れている、

意を表す(岩波古語辞典)。とすれば、

片、

も、名詞の上に付いて、

片恋、
片手、
片われ、

と、

一対のものの一方、一組になっているものの一部、

などの意を表わし(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)、

片山、
片岡、
片親、
片生(かたおい 十分生長しないさま、かたなり)、
片泣き、
片かんな、
片思い、
片言(こと)、
片仮名、
片垸(かたもひ)

と、名詞の上に付いて、

不完全な、整っていない、少しの、

などの意を表わし(仝上)、

片田舎、
片淵、
片添へ、
片縒り

と、名詞の上に付いて、

一方に偏した、かたよった、

の意を表わし(仝上)、

片時(かたとき わずかな間)、
片手間、
片かど、
片まけ、

と、

わずかな、少ない、

の意を表し(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)、

片聞き、
片敷き、

と、

ひとり、

の意を表し(岩波古語辞典)、

片待つ、

と、主として動詞の上に付いて、

しきりに、
ひたすら、

の意を表わす(精選版日本国語大辞典)。この使い方からすると、

片、

を、

一方に偏る→一途に、

と、心のシフトと考えると、

片待つ

は、

ひたすら、

といった意味になる。

片まく、

も、その意味変化に似て、

待ちうける、

近づく、

その時になる、

ひたすら待つ、

にいちずに心を寄せる、

意に意味のシフトをしていることになる。なお、

ま(設)く

については触れたが、類聚名義抄(11〜12世紀)には、

設、マウク・タトヒ・ヲサム・モシ・シク・マヌガル、

字鏡(平安後期頃)には、

設、ヲサム・ホドコス・カナフ・タトヒ・ノブ・マヌガル・ユルス・マウク・アフ・オク・シク・モシ、

とある。

「設」(漢音セツ、呉音セチ)は、「まく」で触れたように、

会意文字。もと「▽(のみ)+棒+又(手)」の会意文字で、のみをたたいて何かをすえつけることをしめす。のち、▽印がかわって言になり、「言+殳(工作する)」となった、

とある(漢字源)。他も、

会意。言と、殳(しゆ 手でうつ)とから成る。人を使って何かを陳列させる意を表す。ひいて、建物・場所などを「もうける」意に用いる(角川新字源)、

会意文字です(言+殳)。「取っ手のある刃物・口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味⦆と「手に木のつえを持つ」象形(「木のつえを手にして殴る」の意味)から、腕力や言葉を「並べる」、「もうける」を意味する「設」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji877.html

会意。言+殳(しゆ)。〔説文〕三上に「施陳するなり」と礼器などを陳設する意とし、「言に從ひ、殳に從ふ。殳は人を使ふなり」とする。殳は羽旞(うすい 羽で作った呪飾)をもつ形で、誓約や祈禱を示す言に、その呪飾をそえる意とみられ、祭祀の場を設定することを示す字であろう。〔詩、大雅、行葦〕「筵を肆(つら)ね席を設く」のように用いる。のち設色・設心・設言など、すべてことを用意することをいう(字通)、

と、会意文字としているが、上記の、

「言」+「殳」、

とする字解は、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)によるもので、『説文解字』では、

「言」+「殳」と説明されているが、これは誤った分析である、

としhttp://xn--ja-9k0g.wiktionary.org/wiki/%E8%A8%AD

形声。「言」+音符「(⿰𡉣攴) /*NGET/」(「埶」の異体字)の略体、

と、形声文字としている。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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