海山も隔たらなくに何しかも目言(めこと)をだにもここだ乏(とも)しき(大伴坂上郎女) の、 目言、 は、 目で語りかけること、 で、 目配せする機会さえも、 と訳される(伊藤博訳注『新版万葉集』)。なお、 こごた、 は、 は、 幾許、 と当て、 こんなに多く、 こんなに甚だしく、 の意、 ここだく、 は、 幾許く、 許多く、 と当て、 ここだ、 と同じである。 ここだ、 ここだく、 に当てる、 許多、 は、漢語で、 忽與郷曲歯、方驚年許多(范成大詩)、 きょた、 と訓み、 あまた、 甚だ多し、 の意味である(字源)。 目言(めごと)、 は、 目辞、 とも当て、 まごと、 とも訓ませるが、古くは、 めこと、 と清音、改正増補和英語林集成(1886)には、 Megoto メゴト 眼語、 と載る(精選版日本国語大辞典)。文字通り、 あぢさはふ目辞(めこと)も絶えぬしかれかもあやに悲しみぬえ鳥の片恋づま朝鳥の通はすきみが(万葉集) を、 じかに逢うことも言葉を交わすこともなされなくなってしまった、 と訳される(伊藤博訳注『新版万葉集』)ように、 実際に目で見、口で話すこと 会うこと語ること、 の意(岩波古語辞典)だが、冒頭のように、 目で合図すること、 目でものを言うこと、 の意で使う(精選版日本国語大辞典)。 ちなみに、 言目、 と、逆転させると、 いふめ(いうめ)、 と訓み、 ばくちで、自分が期待している賽(さい)の目、 の意から、転じて、 願っている物事、 の意で使い、 言目が出る(いうめがでる)、 で、 願ったとおりの賽(さい)の目が出る、 の意から、 親分の内に居れば、大概な大名の奥さまよりか、いふ目が出るの(歌舞伎「与話情浮名横櫛(切られ与三)」)、 と、 願ったとおり物事が都合よくはこぶ、 希望どおりに実現する、 意となる(精選版日本国語大辞典)。 なお、 こと、 で触れたように、和語では、「こと(事)」と「こと(言)」は同源である。 古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで、言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、事の意か言の意か、よく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以後に至ると、コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり、コト(事)と別になった。コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事・事件などをいう。時間的に不変な存在をモノという。後世モノとコトは、形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた、 とある(岩波古語辞典)。モノは空間的、コト(言)は時間的であり、コト(事)はモノに時間が加わる、という感じであろうか。 古く、「こと」は「言」をも「事」をも表すとされるが、これは一語に両義があるということではなく、「事」は「言」に表われたとき初めて知覚されるという古代人的発想に基づくもの、時代とともに「言」と「事」の分化がすすみ、平安時代以降、「言」の意には、「ことのは」「ことば」が多く用いられるようになる、 ともある(日本語源大辞典)。ここでは、もちろん、 口に出して言うこと、 の意であるが、それが、 目でものをいう、 へと転じる背景は、 言と事、 とが重なり合い、 口で言うこと、 という事態が、 目で言うこと、 という事態へと、事態として、重なっていくこと肯われる背景があるように思う。また、 め、 については触れた。 「目」(漢音ボク、呉音モク)の異字体は、 𡆲、 𡇡、 𡧟(同字)、 𥃦、 𥆤、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9B%AE)。字源は、 象形。めを描いたもので、まぶたにおおわれている「め」のこと、 とある(漢字源)。他も、 象形。人の目を象る[字源 1]。「め」を意味する漢語{目 /*m(r)uk/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9B%AE)、 象形。人のめの形にかたどる。のち、これを縦にして、「め」、ひいて、みる意を表す。転じて、小分けの意に用いる(角川新字源) 象形文字です。「人の目」の象形から「目」という漢字が成り立ちました。人の目の形を90度回転させれば、「目」という漢字になります(https://okjiten.jp/kanji10.html)、 象形。めの形。〔説文〕四上に「人の眼なり。象形」とし、「童子(瞳)を重ぬるなり」、すなわち重瞳子(ちようどうし)であるという。〔尚書大伝〕に古の聖人舜を重瞳子とし、〔史記、項羽紀〕に項羽も重瞳子で、その苗裔であろうかという。瞳子を大きく写した字は臣、望󠄂(望)・監の字などがその形に従う。古くは目は横長の形にしるした。目を動詞にして、目撃・目送のように用いる。また眉目は最もめだつところであるから、標目・要目のようにいう(字通)、 と、象形文字としている。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 思ふらむ人にあらなくにねもころに心尽して恋ふる我(あ)れかも(大伴家持) の、 ねもころ、 は、 ただひたすらに思い詰めて、 と訳される(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 ねもころ、 は、 懇、 と当て、 ねんごろ、 の古い形(精選版日本国語大辞典)で、後に、 ねもごろ、 とも変ずる(仝上)。今日使う、 ねんごろ、 は、 「ねもころ」の変化した語、 である(仝上)。中世に入り、 ねもころ→ねむころ→ねんごろ、 と変じて行った(日本語源大辞典)。 ねもころ、 は、 懇、 の他、 惻隠、 とも当て(岩波古語辞典)、 根モコロの意、モコロは、同じ状態にある意、草木の根が、こまかにからみあって土の中にあるのと同様にの意(岩波古語辞典)、 ネは根、ゴロは如の義、草木の根の行き渡るがごとき心配りの意(万葉集類林・俚言集覧・和訓栞・日本語源=賀茂百樹)、 ネは根なり、モコロは如の義、物の極と等しくの意ならむ(大言海)、 ネモは字音語ネム(念)、コロは形容詞クルシ(苦)の語根(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 ネキモトメコル(願求凝)の義(名言通) 音も児等の義、児らに対するように世話をやく意(国語溯原=大矢徹)、 ネは系、モコロは庶兄弟姉妹の意、近親者の転義(日本古語大辞典=松岡静雄)、 等々とあるが、後述のように、使用例をみると、 根、 と深くつながっていることがわかる。ちなみに、 もころ、 は、 如、 若、 と当て、上代、 ごと(如)、 にあたり、 同じような状態、 よく似た状態、 の意で、 ……の如く、 と、 常に他語による修飾をうけ、副詞的に用いる、 とある(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。 もころ、 は、 形容動詞ナリ活用、 で、 おしてる難波の菅の根毛許呂爾(ねモコロニ)君が聞こして年深く長くし言へばまそ鏡磨(と)ぎし心をゆるしてし(万葉集)、 と、 こまやかに状の絡むさま、 や、 あしひきの山に生ひたる菅の根のねもころ見まく欲しき君かも(万葉集)、 と、 こまやかに周到にものを見るさま、 や、 菅の根のねもころ君が結びてし我(わ)が紐の緒を解く人はあらじ(万葉集)、 と、 濃やかに心をつかうさま、 の意で使い、副詞として、 見わたしの三室の山の巌(いはほ)菅(すげ)ねもころ我は片思(かたも)ひぞする(万葉集)、 と、 入念に、 心から、 心をこめて、 等々の意でも使うが、冒頭のように、 ねもころに、 の形でも、同じ意味で使い、 菅の根の根毛一伏三向凝呂爾(ねモころゴロニ)吾が思へる妹によりては(万葉集)、 と、 ネモコロのコロを重ねた形、 の、 ねもころごろに、 という言い方もある。 ねもころごろに、 は、 懃懇、 惻隠惻隠、 と当て(岩波古語辞典)、上述の、 菅の根の根毛一伏三向凝呂爾(ねモころゴロニ)吾が思へる妹によりては(万葉集)、 では、 こころこまやかに、 の意だが、 高山(たかやま)の巌(いはほ)に生(お)ふる菅の根のねもころごろに降りおくの白雪(万葉集)、 と、 すみずみまで、 至らぬところなく、 の意でも使う(仝上)。 「懇」(コン)は、 会意兼形声。「心+音符貇(コン)」で、心をこめて深く念をおすこと、 とある(漢字源)。同じく、 会意兼形声文字です(貇+心)。「獣が背を丸くして獲物に襲いかかろうとする象形と、人の目を強調した象形(「とどまる」の意味)」(「ふみとどまる」の意味)と「心臓」の象形から、一定の範囲内に心をふみとどめておく事を意味し、そこから、「ねんごろ(心がこもっているさま)」を意味する「懇」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1580.html)、 ともあるが、他は、 形声。「心」+音符「豤 /*KƏN/」。「誠意を尽くす」を意味する漢語{懇 /*khəənʔ/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%87%87)、 形声。心と、音符貇(コン)とから成る。心をつくす意を表す(角川新字源)、 形声。声符は貇(こん)。貇はもと豤に作り、猪が牙で作物を深く掘りかえすことをいう。それで土を深く反転することを墾といい、また深く人の心に達することを懇という。〔説文新附〕十下に「悃なり」とあって、悃誠の意とする(字通)、 と、形声文字としている。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) なかなかに絶ゆとし言はばかくばかり息の緒にして我(あ)れ恋ひめやも(大伴家持)、 の、 息の緒、 は、 緒のように長く続く息、 とあり(伊藤博訳注『新版万葉集』)、 息の緒にして、 は、 命がけで、 と訳す(仝上)。 息の緒、 は、 生の緒、 とも当て、 息の長く続くことを緒にたとえた語で、 いのち、 玉の緒、 や、 息、 の意で使い(広辞苑)、多くは、 いきのをに、 の形で用いられ、 命がけで、 命の綱として、 と訳される(学研全訳古語辞典)。 息の緒 は、 息が長く続くのを緒にたとえた表現(精選版日本国語大辞典)、 ヲは紐状に長く続いているもの。息の続く限りの意。古くは常に助詞ニを伴い、思ひ・戀ひなどの語と共に使われた(岩波古語辞典)、 もので、万葉集に、 生緒(いきのを)、 と記せるあるが、正字なり、 とあり(大言海)、 古事記、中(崇神)「意能賀袁(オノガヲ)」とあるを、記傳に「己(おの)が緒」にて、生緒(いきのを)の緒なり。続けて絶えざらしむる物を、緒と云ふ、生緒(いきのを)、即ち命(いのち)にて、生(いき)の続きて絶えざる程なるべし、魂緒(たまのを)も同じ、年緒(としのを)も、長くつづくことなり」とあり、 とある(仝上)。 命(いのち)、 の意で、 命の綱、 命の限り、 の意でも使う(岩波古語辞典)が、 魂緒(たまのを)、 の意でもある(大言海)。この語、 生緒(いきのを)に思ふ、 生緒に戀ふ、 生緒に歎く、 などといって、冒頭の歌のように、 命にかけて、 の意に用いられることが多い(仝上)。ただ、後には、鎌倉初期の歌学書「八雲御抄(やくもみしょう)」(順徳天皇)に、 いきのを、気也、 とあるように、 息のをの苦しき時は鉦鼓こそ南無阿彌陀仏の声だすけなれ(「三十二番職人歌合(1494頃)」)、 と、 思ひ僻(ひが)めて、息のことに用ゐたり、 とある(大言海・岩波古語辞典)。 短いことのたとえや、魂の緒、つまり命の意で使う、 玉の緒、 については触れた。 「息」(漢音ショク、呉音ソク)の異字体は、 熄(被代用字)、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%81%AF)。字源は、 会意文字。「自(はな)+心」で、心臓の動きにつれて、鼻からすうすうといきをすることを示す。狭い鼻孔をこすって、いきが出入りすること。すやすやと平静にいきづくことから、安息・生息などの意となる。また、生息する意から子孫をうむ→息子の意ともなる、 とある(漢字源)。他も、 会意。「自」(=鼻)+「心」、心臓の動きに合わせ、鼻からいきを出し入れすること(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%81%AF)、 会意。心(心臓)と、自(はな)とから成り、呼吸する「いき」の意を表す(角川新字源)、 会意。自(じ)+心。自は鼻の象形字。鼻息で呼吸することは、生命のあかしである。〔説文〕十下に「喘(あへ)ぐなり」とするのは、気息の意。〔荘子、大宗師〕に「眞人の息(いき)するや踵(かかと)を以てし、衆人の息するや喉(のど)を以てす」とあり気息の法は養生の道とされた。生息・滋息(ふえる)の意に用いる。また〔戦国策、趙四〕に「老臣の賤息」という語があって、子息をいう(字通)、 会意文字です(心+自)。自は鼻の象形、心は心臓の象形です。心臓部から鼻に抜ける「いき」を意味します。また、静かな息から「いこう」を意味する「息」という漢字が成り立ちました。つまり、息子には「憩いの子」という意味があります(https://okjiten.jp/kanji24.html)、 と、会意文字としている。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) はつはつに人を相見ていかにあらむいづれの日にかまた外(よそ)に見む(河内百枝娘子) この山の黄葉(もみぢ)の下(した)の花を我(わ)れはつはつに見てなほ恋ひにけり(万葉集) の、 はつはつに、 は、 ちらりと、 とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 はつはつ、 は、 はつか、 はつ(初)、 と同根、 とあり(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、 端端、 とも当て(大言海)、 あることが、かすかに現われるさま、 ちょっと行なわれるさま、 を表わし、 ほんのちらっと、 ちらっと、 わずかに、 かすかに、 の意で(仝上・学研全訳古語辞典)、 形容動詞ナリ活用、 だが、 はつはつに、 と、 副詞的にも用いる(仝上)。後には、時間的な意味に転じて、 やっとのことでそうなるさま、 かつかつ、 の意でも使う(「日葡辞書(1603〜04)」)。 はつか、 は、 僅か、 と当て、 わずか、 いささか、 の意であり(広辞苑)、 はつか、 の、 はつ、 は、 ハツ(初)と同根(岩波古語辞典)、 「はつはつ」と同語源で、「か」は接尾語(精選版日本国語大辞典)、 はつはつは極極(はつはつ)の義(大言海)、 などとあり、 春日野の雪間をわけて生ひいでくる草のはつかに見えし君はも(古今和歌集)、 と、 物事のはじめの部分がちらりと現われるさま、 瞬間的なさま、 かすか、 ほのか、 の意で、特に、 視覚や聴覚に感じられる度合の少ないさまを表わす、 とある(仝上・岩波古語辞典)。それが、時間的な表現にシフトして、 今宵の遊びは長くはあらで、はつかなるほどにと思ひつるを(源氏物語)、 と、少しの時間であるさまの、 しばらくの間、 ちょっと、 の意で使い(仝上)、その、 少し、 を、 わずか(僅か)、 と混同して、量的にシフトさせ、 其勢はつかに十七騎(平家物語)、 と、分量の少ないさまの、 ほんの少し、 わずか、 の意で用いるに至る(仝上)。 ハツ、 は、 初、 と当て、 最初にちらっとあらわれる意、 で(岩波古語辞典)、起源的には、 初雁、 初草、 初霜、 初花、 等々、 ハツハツ(端端)などのハツと同じく、ちらっとその端だけを示す意が根本、多く、その季節の最初にちらっとあらわれた自然の現象をいうのが古い用法、 とある(仝上)。また、 事物の周縁部を意味する語ハタ(端)と母音交替の関係にあるものか。上代にはハツカの例は見出せないが、ハツカと共通の形態素を持ち、意味的にも関連性が認められるハツハツが視覚に関して使用されることが多いという傾向が認められるので、ハツカの原義は、物事の末端を視覚的にとらえたさまを表わすところにあったと推測される。この点で、物事の分量的な少なさを表わすワヅカとの意味上の差異は明確であるが、後世には両語を混同して用いることも多くなる、 ともある(精選版日本国語大辞典)。なお、 初、 を、 うひ、 とよますと、 初陣、 初冠(うひかうぶり)、 等々、 事にたって初心で、不慣れで、ぎこちない意、 となる(仝上)。 「初」(漢音ショ、呉音ソ)の異体字は、 䃼、䥚、𠁉、𠜆、𠫎(古字)、𡔈、𢀯、𢀰(則天文字)、𣦂、𥘉、𥘨(訛字)、𥝢、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%9D)。字源は、 会意文字。「刀+衣」で、衣料に対して最初にはさみを入れて切ることを示す。また、最初に素材に切れめを入れることが、人工の開始であることから、はじめの意に転じた。創(ソウ 切る→創作・創造する)の場合と、その転義の仕方は同じである、 とある(漢字源)。他も、 会意。衤(衣)+刀を合わせて、布を切る事で衣の製作の「はじまり」を表す(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%9D)、 会意。刀と、衣(ころも)とから成り、衣を作るはじめの裁断、転じて、物事の「はじめ」の意を表す(角川新字源)、 会意文字です(衤(衣)+刀)。「衣服のえりもと」の象形(「衣服」の意味)と「刀」の象形から、刀で衣服を裁断する事を意味し、裁断する作業が衣服を作る手始めの作業である事から、「はじめ」を意味する「初」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji696.html)、 会意。衣+刀。衣を裁(た)ちそめる意。〔説文〕四下に「始なり。刀に從ひ、衣に從ふ。裁衣の始めなり」という。〔爾雅、釈詁〕に初・哉・肇・基など、「始なり」と訓する字を列するが、それらはいずれも、ことはじめとしての儀礼的な意味を背景にもつ字である。初・裁は神衣・祭衣を裁(た)つ意の字であろう。金文の「初見」「初見事」は君臣の礼。最初の意は引伸の義である(字通)、 と、何れも会意文字としている。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
はねかづら今する妹を夢(いめ)に見て心のうちに恋わたるかも(大伴家持) 思い遣るすべの知らねば片垸(かたもひ)の底にぞ我(あ)れは恋ひ成りにける(粟田女娘子) の、 片垸(かたもひ)、 は、 土製の蓋なしの椀、水飲み用、 で、 片思いをかける、 とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 かたもひ(かたもい)、 は、 片椀、 片垸、 と当て、 「片」は不完全の意、 とされ(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、 ふたのない、水などを入れる素焼きの土器(精選版日本国語大辞典)、 水を汲む、蓋のない土製の椀(岩波古語辞典)、 合子(がふし)などに対して、蓋なき椀のことならむ(大言海)、 であり、 かたわん、 ともいう(精選版日本国語大辞典)が、冒頭の歌のように、 「片思ひ」に言い掛ける、 とある(岩波古語辞典)。 合子(がうし)、 とは、 正韻「合子、盛物器」、子は助辞也、 で、和名類聚抄(931〜38年)に、 合子、朱合、朱合、朱漆合子也、 とあり、 椀の蓋と身と合ふもの(大言海)、 身と蓋とからなる小さい容器、蓋物・香合の類(広辞苑)、 をいい、 合器(ごき)、 ともいい、 盒(ごう)、 白木合子、 引入(ひきいれ)合子、 などがある(大言海)とある。 もひ(もい)、 は、 盌、 と当て、 盛水(もりひ)の略、ひの水を云ふは、沾(ひ)ず、漬(ひた)る、冷(ひ)ゆ、などの意と同趣、 とあり(大言海)、和名類聚抄(931〜38年)にも、 盌、椀、末里、俗云、毛比、小盂也、 とあり、 玉暮比(もひ)に水さへ盛り(記紀歌謡)、 と、 水を盛る食器、 おわん、 まり、 の意で、転じて、 飛鳥井に宿りはすべしやおけ蔭もよしみ毛比(モヒ)も寒し御秣(みまくさ)もよし(催馬楽)、 と、 「もい(椀)」に入れるものの意、 から 飲み水、 の意でも使い(広辞苑・岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、その場合、 水、 と当てる(精選版日本国語大辞典)。 玉もひ、 は、 玉盌、 と当て、 玉製の盌、 の意だが、また、 美しい盌、 たままり、 の意でもある(精選版日本国語大辞典)。 まり、 は、 かなまり、 で触れたように、 所捧鋺水溢、而腕凝不堪寒(日本書紀)、 と、 鋺、 椀、 と当て(岩波古語辞典)、 土や金属で作った酒や水を盛る器、 で(広辞苑)、 もひ(もい)、 ともいう(仝上)。 平安時代の漢和辞典『新撰字鏡』(898〜901)には、 椀、杯也、万利(まり)、 とあり、和名類聚抄(平安中期)金器類の、 金椀、 の註に、 古語謂、椀為磨利、 とあり、同・瓦器類には、、 盌(ワン)、亦作椀、……末里、俗云毛比、 天治字鏡(平安中期)には、 椀、萬利、 平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、 鎵、萬利、 などとある。 「垸」(漢音カン、呉音ガン)は、 会意兼形声。「土+音符完(円くとりまく、欠け目がない)」、 とあり(漢字源)、 漆を灰にあえて、まんべんなく器に塗る(漢字源)、 漆と灰を混ぜて塗る(https://kanji.jitenon.jp/kanjiy/13723)、 意であり、 まるい、 まるく回る、 という意でもある(漢字源)。 「椀」(ワン)は、 会意兼形声。「木+音符宛(エン・ワン まるく曲がる、まるくくぼむ)」、 とあり(漢字源)、 食物を盛る、まるくえぐった木製の容器、 を指し(仝上)、 石+音符宛、 の「碗」とは、素材の差のようである。同趣旨で、 会意兼形声文字です(木+宛)。「大地を覆う木」の象形と「屋根・家屋の象形と月の半ば見える象形とひざまずく人の象形」(「屋内で身をくつろぎ曲げて休む」、「曲がる」の意味)から「曲線を持つ、食器を盛る小さな器」を意味する「椀」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2518.html)、 と、会意兼形声文字とするものもあるが、他は、 形声。「木」+音符「宛 /*ɁON/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A4%80)、 形声。木と、音符宛(ヱン)→(ワン)とから成る(角川新字源)、 と、形声文字としている。 「盌」(ワン)の異体字は、 碗、 とある(https://kanji.jitenon.jp/kanjin/6527・漢字源)。「碗」の字源は、 会意兼形声。宛(エン)は、まるい、まるくくぼむの意を含む。碗は「石+音符宛」、 とある(漢字源)。同趣旨で、 会意兼形声文字です(石+宛)。「崖の下に落ちている、いし」の象形と「屋根・家屋の象形と月の半ば見える象形とひざまずく人の象形」(「屋内で身をくつろぎ曲げて休む」、「曲がる」の意味)から「曲線を持つ、食器を盛る小さな器」を意味する「碗」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2616.htm)、 ともあるが、他は、 形声。「石」+音符「宛 /*ɁON/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A2%97)、 とし、「盌」の字源は、 形声。皿と、音符夗(ヱン)→(ワン)とから成る(角川新字源)、 形声。声符は夗(えん)。夗は人が坐して、ひざをまるくしている形。そのまるくふくよかな形のものをいう。材質によって盌・椀・夗+瓦・鋺・碗というが、みなはち形のもの。殷・周の青銅器に盂(う)というものがあり、儀礼の際に用いるが、于(う)もゆるくまがるものの意で、盂は深い鉢の形。みな命名の法が似ている(字通) 盌・椀・夗+瓦・剜は同声。剜(わん)は椀のような形に器を刳(えぐ)り削って作ることをいう。肙+刂uyanや、また刓nguanも、そのように削りとることをいう。肙+刂は〔段注〕四下に「抉(えぐ)りて之れを取るなり」とする。夗・宛iuanと于hiua、迂・紆iuaと声義近く、ゆるくめぐるようなさまをいう語である(字通) と、形声文字としている。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 味酒(うまざけ)を三輪の祝(はふり)が斎(いは)ふ杉手触れし罪か君に逢ひかたき(丹波大女(たにはのおほめ)娘子) の、 味酒(うまざけ)を、 は、 三輪の枕詞、 祝、 は、 神官、 とあり、 手触れし、 は、 手に触れたはずはないのにの意がこもる、 とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 味酒、 は、 旨酒、 とも当て、 うまさけ、 とも訓み、 酒を、味美(うま)しと称賛して云ふ語、 で(大言海)、 脚日木(あしひき)の此の傍山(かたやま)に牡鹿(さをしか)の角挙(ささ)げて吾が儛(まは)しめば、旨酒(ムマさけ)、餌香(えか)の市に直(あたひ)以て買はぬ(日本書紀)、 と、 味の良い酒、 上等の酒、 美酒、 を意味するが、 うまさけを、 うまさけの、 と、 神に供える美酒や、それを醸造する瓶(かめ)を「みわ」というところから(デジタル大辞泉)、 味の良い酒である神酒(みわ)というところから(精選版日本国語大辞典)、 神酒を古くミワといったことから(岩波古語辞典)、 等々の故に、冒頭の歌のように、 「みわ(神酒)」と同音の地名「三輪」や、三輪山と同義の「三諸(みもろ)」「三室(みむろ)」「神名火(かむなび)」「餌香(えか)」、 にかかる枕詞として使われる(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・岩波古語辞典・広辞苑)。 はふり、 は、 祝、 と当て、 祝三人、起正月一日尽七月卅日(正倉院文書・天平二年(730)大倭国正税帳)、 と、 祝(はふ)る人、 の意で、和名類聚抄(931〜38年)に、 祝、波不利、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 祝、ハフリ、 などとあり、 動詞「はふる(放)」の連用形の名詞化したもの、 で、後世、 はうり、 ほうり、 ともいい、 神社に属して神に仕える職、 また、 その人、 をいい、しばしば神主(かんぬし)・禰宜(ねぎ)と混同され、三者の総称としても用いられる(精選版日本国語大辞典)が、 禰宜、 で触れたように、古くは、 神主、禰宜、祝(はふり)、 という位置づけで、 神主の指揮を受け、禰宜よりもより直接に神事の執行に当たる職をさす、 ことが多い(精選版日本国語大辞典)が、 神主よりは下位であるが、禰宜との上下関係は一定しない、 ともある(仝上・日本語源大辞典)。 はふりこ、 はふりし、 はふりと、 はふりべ、 ははり、 などともいう(精選版日本国語大辞典)。この由来は、 不詳、穢を放(はふ)る義か(大言海)、 ハデ(袖)を振って神を楽しませるものをいったか(東雅)、 羽振の義で、羽は衣袖をいう(和訓栞)、 イハヒベラの略転(万葉考)、 ハラヒ(祓)の義か(名言通)、 イハフリ(斎)の義(言元梯)、 犠牲となる動物を屠って神に供えるところから、ホフリ(屠)の義(祭政一致と祭政分離=喜田貞吉)、 ヒフリ(霊能降)の転。霊力の宿った人の意(日本古語大辞典=松岡静雄)、 等々あるが、その役割からみれば、 穢を放(はふ)る義か、 ハラヒ(祓)の義か、 イハフリ(斎)の義、 といったところが妥当ではあるまいか。 はふる(翥る・羽振る)、 で触れたように、「はふり」の元ととなった動詞、 はふる、 は、 はふる(放)、 はふる(溢)、 はふる(屠)、 はぶる(葬)、 等々とあり、清濁の決定し難い面もあるが、 基点とする場所から離れる、または離れさせるという意味を共通に持っているので、語源を同じくすると考えられる、 とある(精選版日本国語大辞典)。大言海には、 はふる、 と訓ませるものを、 羽振る、 扇る、 放る、 葬る、 投る、 屠る 被る、 溢る、 と挙げている。 扇る、 は、 羽(は)を活用す、羽振るの意、 とする、 起り触る。 扇(アフ)がれて振ひうごく、 意、 放(抛)る、 は、 大君を島に波夫良(ハブラ)ば船余りい帰り来むぞ我が疊(たたみ)ゆめ(古事記)、 と、 遠くへ放ちやる、 意や、 みまし大臣の家の内の子等をも、波布理(ハフリ)賜はず(続日本紀)、 と、 うちすてる、 閑却する、 すてておく、 意となり、 葬る、 は、 はぶる、 ほぶる、 と訓ませ(広辞苑)、 はぶる(放)と同根、 はふる(放)の語意と同じ、即ち、古へ、死者を野山へ放(はふ)らかしたるにより起こる(大言海)、 と、 死者を埋めること、 野山へ送り遣ること、 転じて、 葬る、 意となり、 投る、 は、 放(はふ)る意(大言海)、 とあり、 衣の上に投げかける、 羽織る、 意と共に、 投げ遣る、 意もある。 屠(屠)る、 は、 窮刀極俎、既屠且膾(欽明紀)、 と、 ほふ(屠)る、 意、また、 切散(キリハフリ)、其蛇(古事記)、 と、 切り散らす、 意でもある。 溢る、 は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 灑、ハフル、 とあり、 葦鶴のすだく池水溢(はふ)るともまけ溝の辺(へ)に吾れ越えめやも(万葉集)、 と、 溢れる、 意である。 放(はぶ)る、 は、 溢(はふ)るの転なるべし、此の放るると同意なるあふるると云ふ語あり(大言海)、 とあり、 つながるものの放れ散る、 鎮まり居るものの散り乱れる、 意が、転じて、 親なくして後に、とかく、はふれて、人の国に、はかなき所にすみけるを(大和物語)、 と、 家を離れてさまよう、 さすらう、 流離する、 意、さらに転じて、 落ちぶれる、 零落、 流離、 意で使う。 ところで、神職の上位、 神主、 は、 かんぬし、 かむぬし、 と訓ませ、 神官の長、 で、広く、 神職、 をさし(岩波古語辞典)、 神を祭るときに、中心となって祭を行う人、 で、 祭主、 ともいい、神社の神職としては、 神官の長、 で、その下に、 禰宜、はふり(祝)、巫覡(かんなぎ)、 がいる(大言海)。この由来は、 神の大人(うし)の約、斎(いはひ)の大人(うし)、いはひぬし(大言海)、 カノノウシ(神大人)の約(日本古語大辞典=松岡静雄)、 神に奉仕するウシ(主人)の意から(古事記傳)、 とあり、上古、 重職とせり(大言海)、 という意味が伝わる言葉である。
「祝(祝)」(@シュク、A漢音シュウ、呉音シュ)は、 ますらをと思へる我(わ)れをかくばかりみつれにみつれ片思(かたもひ)をせむ(大伴家持) の、 みつれにみつる、 は、 体も心もやつれしおれる、 意で、 みつる、 は、 下二段動詞、 とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。この、 みつる、 は、 羸る、 と当て、 れ/れ/る/るる/るれ/れよ、 の、 自動詞ラ行下二段活用、 で、 やつれる、 疲れはてる、 病みつかれる、 意である(学研全訳古語辞・精選版日本国語大辞典)。 身やつるの約、 とする説がある(大言海)が、 身がmïの音なので成立困難、 とある(岩波古語辞典)。 同義語に、 かじく、 がある。 かじく、 は、 悴く、 瘁く、 と当て、古くは、 形色(かほ)憔悴(カシケ)(日本書紀)、 と、 かしく、 と清音で、日葡辞書(1603〜04)では、 Caxiqeta(カシケタ)ナリ、 Cajiqe、uru、eta(カジクル 悪化する。衰弱する。または、やせて醜くなる。比喩、貧しく、衣類もない人に言う)、カジケビト、または、cajiqeta(カジケタ)ヒト(貧しい人。貧乏人)、 とあり、 生気がなくなり、衰える、 意から、それをメタファに、 みすぼらしくなる、 意でも使うことがわかる(精選版日本国語大辞典)。 「羸」(ルイ・レン)の異体字は、 𦏞、𦣉、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%B8)。字源は、 会意兼形声。「羊+音符𣎆(ラ 柔らかいむき身の略体)」。力なく、ぐったりした羊を表す、 とある(漢字源)が、他は、 形声。「羊」+音符「𣎆 /*ROJ/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%B8)、 と、形声文字とする。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) むらきもの心砕けてかくばかり我(あ)が恋ふらくを知らずかあるらむ(大伴家持) の、 むらきもの、 は、 心の枕詞、 とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 むらきも、 は、 群肝、 村肝、 とあて、 むらぎも、 とも訓ませ、 群がっている肝(精選版日本国語大辞典)、 群がっている臓腑(きも)(岩波古語辞典)、 群がりたる肝の意、また腎肝(ムラトギモ)の略か(大言海)、 の意から、 体内の臓腑(ぞうふ)、 つまり、 五臓六腑(ごぞうろっぷ)、 を言い、転じて、 心の底、 の意で使い、 むらぎもの、 で、 心は内臓の働きと考えていたところから、冒頭のように、 村肝之(むらきもの)心くだけてかくばかり吾が恋ふらくを知らずかあるらむ(万葉集)、 と、 「心」にかかる枕詞、 として使う(精選版日本国語大辞典)。 人間の精神活動の内容や動きをいう「こころ」という日本語は、古くは、 身体の一部としての内臓(特に心臓)、 をさす場合が多く(世界大百科事典)、《古事記》《日本書紀》《万葉集》には、〈こころ〉の枕詞として、 群肝(むらぎも)の、 のほか、 肝(きも)むかふ、 が用いられている(仝上)し、また、 心前(こころさき)(胸さきの意)、 心府(こころきも)、 という言い方もあり、いわゆる五臓六腑の総称が、 群肝、 で、心臓がそれらの、 肝、 に対しているところから 肝むかふ、 といい、また「肝」の一類として、 心肝、 と呼んだのであろう(仝上)との指摘もある。 「群」(漢音クン、御恩グン)の異体字は、 羣(本字)、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%A4)。字源は、 会意兼形声。君(クン)は「口+音符尹(イン)」からなり、まるくまとめる意を含む。群は「羊+音符君」で、羊がまるくまとまってむれをなすこと、 とある(漢字源)が、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%A4)、他は、 形声。「羊」+音符「君 /*KUN/」。「むれ」を意味する漢語{群 /*gun/}を表す字(仝上)、 形声。羊と、音符君(クン)とから成る。羊のむれ、ひいて、ひろく「むれ」「むらがる」意を表す(角川新字源) 形声文字です(君+羊)。「神聖な物を手にする象形と口の象形」(天子、君主の意味だが、ここでは、「昆」に通じ(「昆」と同じ意味を持つようになって)、「むらがる」の意味)と「ひつじの首」の象形から、むらがる羊を意味し、 そこから、「むらがる」、「むれ」を意味する「群」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji825.html)、 形声。声符は君(くん)。〔説文〕四上に「輩なり」、〔玉篇〕に「朋󠄁なり」と訓するが、もと獣の群集する意である。〔詩、小雅、無羊〕は牧場開きを祝う詩で、「三百維(こ)れ群す」とその多産を予祝する。羊や鹿の類には群集する習性があるので、羊には群といい、鹿には攈(くん)という。これを人に移して群衆という。金文の〔陳侯午敦(ちんこうごたい)〕に「群諸侯」の語がみえている(字通) と、すべて形声文字としている。 「肝」(カン)は、 会意兼形声。干(カン)は、太い棒を描いた象形文字。幹(カン みき)の原字。肝は「肉+音符干」で、身体の中心となる幹の役目をするかん臓。樹木で、枝と幹があい対するごとく、身体では、肢(シ 枝のようにからだに生えた手や足)と肝があい対する、 とある(漢字源)が、他は、 形声。「肉」+音符「干 /*KAN/」。「きも」「肝臓」を意味する漢語{肝 /*kaan/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%82%9D)、 形声。肉と、音符干(カン)とから成る(角川新字源)形声文字です(月(肉)+干)。「切った肉」の象形と「先がふたまたになっている武器」の象形(「おかす・ふせぐ」の意味だが、ここでは「幹」に通じ、「みき」の意味)から、肉体の中の幹(みき)に当たる重要な部分、「きも」を意味する「肝」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji291.html)、 形声。声符は干(かん)。〔説文〕四下に「木の藏なり」とあり、肺を金、脾を土のように、五臓を五行にあてる。〔釈名、釈形体〕に「肝は幹なり。五行において木に屬す。故に其の體狀に枝幹有るなり」という。〔素問、六節蔵象〕に「肝は罷極の本、魂の居る所なり」とあり、人の活動力の源泉とされた(字通)、 と、すべて形声文字としている。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 春日山霞たなびき心ぐく照れる月夜(つくよ)にひとりかも寝む(坂上大嬢) の、 心ぐし、 は、 うっとうしく、 と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 心ぐし、 は、 (く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ、 の、 形容詞ク活用、 で、 気分がはっきりしない、 心が晴れずうっとうしい、 心がせつなく苦しい、 といった意味になる(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。 心ぐし、 に、 心苦し、 とあて、 心ぐるしの略と云ふ(見苦(めぐる)し、めぐし。蝦手(かへるで)、楓(かへで)。帰るさ、かへさ)、 とする説(大言海)もある。しかし、この、 心ぐし、 の、 ぐし、 は、 くさくさ、 くしゃくしゃ、 むしゃくしゃ、 といった、 憂鬱な状態、 心が沈んでふさぎこんでいる状態、 を言い表す擬態語と関係があるのではないか。 くしゃくしゃ、 は、 くさくさ、 の音韻変化だが、今日では、 「くさくさ」が心が低迷している様子、 「くしゃくしゃ」が心が混乱して整理がつかなくなる様子、 と使い分け(擬音語・擬態語辞典)、 「むしゃくしゃ」は「くさくさ」より感情の起伏が激しい、 とあり、 「くさくさ」が内面的に憂鬱な感情、 「むしゃくしゃ」が八つ当たりなど、外への行動に直接結びつけたくなるような不愉快さ、 を表しているようだ(仝上)。で、この、 くさくさ、 は、 憂鬱になる、 意の、 腐る、 を畳語にして強調した語(仝上)とある。 心くし、 は、この、 くさくさ、 の、 腐る、 と通じるのではないか、という気がする。もちろん、憶説だが。ちなみに、 腐る、 は、 クサシ(臭)・クソ(糞)と同根。悪臭を放つようになる意(岩波古語辞典)、 クタル(腐)と通じず、豊後風土記に、直入郡、球覃(くたみの)郷は、臭泉(くさいずみ)の訛なりとあり、ふたぐ、ふさぐ。大雨(ひため)、ひさめ、も相通ず。くた(朽)は腐る気ざしの意なるべし、腐るの語根、朽(く)つ、朽ち、と通ず(大言海)、 クチサル(朽去)の義か(和訓栞)、 クダクアル(砕有)の義(名言通)、 キサル(気去)の転呼か(和語私臆鈔)、 クサアルル(臭荒)の義(日本語原学=林甕臣)、 クソアル(糞生)の約(国語本義)、 等々とあるが、どうも語呂合わせ似すぎる。 クサシ(臭)・クソ(糞)と同根、 とみるのが妥当ではないか。 植物などがいたむ、 腐敗する、 の意のメタファで、 心が失われてだめになる、 思いどおりに事が運ばないため、やる気をなくしてしまう、 活気がなく、ゆううつになる、 という意で使うに至ったたと見ることができる。ちなみに、 腐る、 は、もともと、 四段活用であったが、中世頃から下二段に活用する場合が現われ、並行して用いられた。しかし、その後、四段活用が盛り返し、現代では五段活用がふつうである。複合語や転成語では、「ふてくされる」「くされ縁」「持ちぐされ」「生きぐされ」など、下一段(下二段)系のものが著しい、 とある(精選版日本国語大辞典)。 なお、 こころ、 については、触れた。 「心」 (シン)の異体字は、 㣺(部首の変形)、忄(部首の変形)、腎(の代用字)、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%83)。字源は、「心にくし」、「こころ」で触れたが、 象形。心臓を描いたもの。それをシンというのは、沁(シン しみわたる)・滲(シン しみわたる)・浸(シン しみわたる)などと同系で、血液を細い血管のすみずみまでしみわたらせる心臓の働きに着目したもの、 とある(漢字源)。他も、 象形。心臓を象る。「こころ」を意味する漢語{心 /*səm/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%83)、 象形。心臓の形にかたどる。古代人は、人間の知・情・意、また、一部の行いなどは、身体の深所にあって細かに鼓動する心臓の作用だと考えた(角川新字源)、 象形文字です。「心臓」の象形から、「こころ」、「心臓」を意味する「心」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji5.html)、 象形。心臓の形に象る。〔説文〕十下に「人の心なり。土の藏、身の中に在り。象形。博士説に、以て火の藏と爲す」とあり、藏(蔵)とは臟(臓)の意。五行説によると、今文説では心は火、古文説では土である。金文に「克(よ)く厥(そ)の心を盟(あき)らかにす」「乃(なんぢ)の心を敬明にせよ」のように、すでに心性の意に用いている(字通) と、いずれも象形文字としている。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 夜(よ)のほどろ我(わ)が出(い)でて来れば我妹子(わぎもこ)が思へりしくし面影に見ゆ(大伴家持) の、 しくし、 の、 しく、 は、 過去の助動詞キのク語法、 シ、 は、 強意の助詞、 とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 夜(よ)のほどろ、 の、 ほどろ、 は、 密なるものが次第に粗になるさま、 で、 夜が白み始める頃、 をいう、 とある(仝上)。 ほどろ、 は、 「ほど」は、「ほどこる(播 ホドコス(施す)の自動詞形)」の「ほど」と同源で、夜の闇がくずれ散る時分の意という、 とある(精選版日本国語大辞典)が、 ホドク・ホドコスのホドに同じ、散りゆるむ意、ロは状態を表す接尾語、 ともあり(岩波古語辞典)、 ホドク(解く)、 で、 ホドコス(施す)と同根、凝り結ばれているものを、ばらばらにして広げる意、 とあり、 ほどこす(施す)、 に、 ホドク(解く)、ホトバシル(迸る)と同根、もとをゆるめて、広く散らし行き渡らせる意、 とあり、 ほとばしる(迸る)、 には、 ホドク(解く)・ホドコス(施す)のホドに同じ、ハシリは飛び散る意、 とあり(岩波古語辞典)、 ほどこす、 ほどこる、 ほどく、 とはつながってくる。この、 ほどろ、 は、だから、 我が背子を今か今かと出てみれば沫雪(あわゆき)降れり庭もほどろに(万葉集)、 と、 (雪などが)はらはらと散るさま、 また、 雪などがまだらに降り積もるさま、 の意で、 夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり 一云 庭も保杼呂尓(ホドロニ)雪そ降りたる(万葉集)、 と、 はだら、 と、 まだら、 と同義で使ったり、空間的な「まだら」の意味を、時間軸に転じて、冒頭の、 夜の穂杼呂(ほドロ)吾が出でて来れば吾妹子(わぎもこ)が思へりしくし面影に見ゆ、 のように、 夜が徐々に、ほのかに明け始めるころ、 の意で使ったりする。この場合、上述のように、 夜の闇がくずれ散る、 という意味になる。この、 ほどろ、 の、 ほど、 が、のちに、 ほど(程)、 の意に誤解されたことで、 翁(おきな)かく夜のほどろに参りて(宇津保物語)、 と、もっぱら、 夜のほどろ、 の形で、 ころ、 時分、 の意で使われるに至る(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。また、 沫雪(あわゆき)の保杼呂保杼呂尓(ホドロホドロニ)に降り敷けば奈良の都し思ほゆるかも(大伴旅人)、 と、 「ほどろ」を重ねて意味を強めた、 ほどろほどろ、 という言い方もあり、この場合、 雪などがうっすらと降り積もるさま、 で、 はだら、 はだれ、 ともいい、 うっすらと地面に降り積もる、 と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 はだら、 はだれ、 は、 雪や霜などの薄く積もったさま、 以外にも、 はらはらと雪の降るさま、 にもいい、 はだれゆきあだにもあらで消えぬめり世にふることや物うかるらん(「主殿集(11C末〜12C前)」)、 と、 斑雪、 とあてて、 はだれゆき、 はだらゆき、 と訓ませ、 はらはらと降る雪も また、 薄く降り積もった雪、 の意で使い、 はつれゆき、 という言い方もする。 「斑」(漢音ハン、呉音ヘン)は、 会意文字。玨は、玉を二つにわけたさま。班(二つに分ける)と同系。斑は「玨(分ける)+文」で、分かれて散らばる意を含む、 とある(漢字源)。また、同じく、 会意文字です(辡+文)。「入れ墨をする為の針」の象形×2と「人の胸を開いて、入れ墨の模様を書く」象形から、模様に分かれ目がある事を意味し、そこから、「まだら」を意味する「斑」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2120.html)、 会意。玨(かく)+文。玨は両玉。その色の相雑わるをいう。〔説文〕九上に字を辡+文に作り「駁(まだら)なる文なり」と訓し、辡(べん)声の字とするが、辡は辯(弁)の初文で、獄訟のことをいう字である。斑を正字とすべく、斑とは二玉相雑わる玉色をいう(字通)、 と、会意文字とするが、 形声。「文」+音符「班 /*PEN/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%91)、 形声。文と、音符辡(ハン、ベン)(玨は変わった形)とから成る。まだらもようの意を表す(角川新字源) と、形声文字とする説もある。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 夜(よ)のほどろ我(わ)が出(い)でて来れば我妹子(わぎもこ)が思へりしくし面影に見ゆ(大伴家持) の、 しくし、 の、 しく、 は、 過去の助動詞キのク語法、 シ、 は、 強意の助詞、 とあり(伊藤博訳注『新版万葉集』)、 思へりしくし面影に見ゆ、 を、 思い沈んでいた姿が目の前にちらついて見えます、 と訳す(仝上)。 助動詞「き」のク語法、 は、 したこと、 の意となる(精選版日本国語大辞典)。 助動詞、 き、 は、動詞・助動詞の連用形を承け、 き・し・しか、 という活用形だけをもつ(岩波古語辞典)とされるが、 せ・◯・き・し・しか・◯、 と活用するとの説もある(精選版日本国語大辞典)。ただ、 「き」の未然形「せ」は、動詞「す」の未然形とする見解もあって、未だ決定的ではない、 とある(岩波古語辞典)。 き、 の意味は、基本、 人言(ひとごと)を繁(しげ)みこちたみ逢はずありき心あるごとな思ひわが背子(万葉集)、 と、 「き」の承ける事柄が、確実に記憶にあるということである。記憶に確実なことは、自己の体験であるから、「き」は、 「……だった」と自己の体験の記憶を表明する場合が多い、 とある(仝上)。しかし、自分の経験しえない、また目撃していない事柄についても、 音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領布(ひれ)振りきとふ君松浦山(きみまつらやま)(万葉集)、 と、 みずから目撃していない伝聞でも、自己の記憶にしっかり刻み込まれているような場合には、「き」を用いて、「……だったそうだ」の意を表現した、 とある(仝上)。なお、「き」が、カ変・サ変の動詞につく場合は、接続上特殊な変化があり、 カ変には「こ‐し、こ‐しか、き‐し、き‐しか」、 の両様の付き方があり、 サ変には「せ‐し、せ‐しか、し‐き」、 のように付く(仝上・精選版日本国語大辞典)。なお、同じく、動詞・助動詞の連用形を承ける、過去の助動詞、 けり、 との違いは、 けり、 は、 来有り、 の転、 で、 事態の成り行きがここまできていると、今の時点で認識する、 という意味が基本であり、 この花の一節(ひとよ)のうちは百種(ももくさ)の言持ちかねて折らえけらずや(万葉集)、 と、 そういう事態なんだと気づいた、 という意味で、 気づいていないこと、記憶にないことが目前に現れたり、あるいは耳に入ったときに感じる、一種の驚きをこめて表現することが少なくない、 とあり、 けり、 が、 詠嘆の助動詞、 とされる所以である。ただ、 世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり(万葉集)、 と、 見逃していた事実を発見した場合や、事柄からうける印象を新たにしたとき、 や、 遠き代にありけることを昨日(きのふ)しも見けむがごとも思ほゆるかも(万葉集)、 と、 真偽は問わず、知らなかった話、伝説・伝承を、伝聞として表現するとき、 にも用いる(仝上)。 ク語法、 は、 かけまく、 おもわく、 ていたらく、 すべからく、 見まく、 などで触れたことだが、今日でいうと、 いわく、 恐らく、 などと使い、奈良時代に、 有(あ)らく、 語(かた)らく、 来(く)らく、 老(おゆ)らく、 散(ち)らく、 等々と活発に使われた造語法の名残りで、これは前後の意味から、 有ルコト、 語ルコト、 来ること、 スルコト、 年老イルコト、 散ルトコロ、 の意味を表わしており、 ク、 は、 コト とか、 トコロ、 と、 用言に形式名詞「コト」を付けた名詞句と同じ意味になる、 とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E8%AA%9E%E6%B3%95・岩波古語辞典)、後世にも漢文訓読において、 恐るらくは(上二段ないし下二段活用動詞『恐る』のク語法、またより古くから存在する四段活用動詞「恐る」のク語法は「恐らく」)、 願はく(四段活用動詞「願う」)、 曰く(いはく、のたまはく)、 すべからく(須、「すべきことは」の意味)、 等々の形で、多くは副詞的に用いられ、現代語においてもこのほかに 思わく(「思惑」は当て字であり、熟語ではない)、 体たらく、 老いらく(上二段活用動詞「老ゆ」のク語法「老ゆらく」の転)、 などが残っている(仝上)。 「来」(ライ)の異体字は、 來(旧字体/繁体字)、徕(俗字)、徠(古字)、耒(略字の代用字/別字衝突)、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%A5)、 来、 は、 來、 の異体字である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%A5)。 「來(来)」(ライ)の異体字は、 徕(俗字)、徠(古字)、来(新字体/簡体字)、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BE%86)。字源は、 象形。來は、穂が垂れて実った小麦を描いたもので、むぎ(麦)のこと。麥(麦)は、それに夊印(足を引きずる姿)を添えた形声文字で、「くる」意を表した。のち「麥」をむぎに、「來」をくるの意に誤用して今日に至った。來(ライ)は転じて、他所から到来する意となる。ライ(來)と、バク・マク(麥)とは、上古mlという複子音が、lとmとにわかれたもの、 とあり(漢字源)、 西北中国に定着した周の人たちは、中央アジアから小麦の種が到来してから勃興したので、神のもたらした結構な穀物だと信じて大切にした、 ともある(仝上)。他も、 象形。麦の穂を象る[字源 1]。「むぎ」を意味する漢語{麥 /*mrəək/}を表す字。のち仮借して「くる」を意味する漢語{來 /*rəə/}に用いる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BE%86)、 象形。麦がのぎを張った形にかたどる。借りて「くる」意に用いる。教育用漢字は省略形による(角川新字源)、 象形文字です。「ライむぎ」の象形から、「ライむぎ」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「くる」を意味する「来」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji239.html)、 象形。麦の形に象る。〔説文〕五下に「周、受くる所の瑞麥・來麥+牟(らいぼう)なり。一來に二縫あり。芒朿(ばうし)の形に象る。天の來(もたら)す所なり」とし、〔詩、周頌、思文〕の「我に來麥+牟を詒(おく)る」の句を引く。周の始祖后稷(こうしよく)が、その瑞麦嘉禾(かか)をえて国を興したことは〔書序〕の〔帰禾〕〔嘉禾〕にもみえる。往来・来旬、また賚賜(らいし)などの用義はすでに卜辞にもみえるが、みな仮借義である(字通)、 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 神(かむ)さぶといな(否)にはあらず八多也八多(ハタヤハタ)かくして後にさぶしけむかも(紀郎女) の、 神さぶ、 は、 神さびる、 で触れたように、 難波門(なにはと)を榜ぎ出て見れば神かみさぶる(可美佐夫流)生駒高嶺(たかね)に雲そたなびく(万葉集) と、 神々(こうごう)しい様子を呈する、 古色を帯びて神秘的な様子である、 古めかしくおごそかである、 といった意味である(広辞苑)が、 ひさかたの天つ御門(みかど)をかしこくも定めたまひて神佐扶(かむさぶ)と磐隠(いはがく)りますやすみししわが大君の(万葉集)、 と、 神らしく行動する、 神にふさわしい振舞いをする、 意でも使った。普通に考えると、神々しいという言葉の派生として、それに似た振舞い、という意味の流れになるのかと思う。転じて、 いそのかみふりにし恋のかみさびてたたるに我は寝(い)ぞ寝かねつる(古今集)、 と、 古風な趣がある、 古めかしくなる、 年を経ている、 意となり、さらに、 あけの玉墻(たまがき)かみさびて、しめなはのみや残るらん(平家物語)、 と、 荒れてさびしい有様になる、 意に転じ、あるいは、 かみさびたる翁にて見ゆれば、女一(にょいち)の御子の面伏(おもてぶせ)なり(宇津保物語)、 と、単に、 老いる、 意でも使い、だんだん神秘性が薄れ、ただの古ぼけたものになっていく感じである。 ここでは、 神(かむ)さぶといな(否)にはあらず、 は、 年老いているからいやだというわけではない、 と注記があり(伊藤博訳注『新版万葉集』)、 「老いらくの恋」の遊び、 とある(仝上)ので、単に、 老いる、 意で使っている。 はたやはた、 は、 その反面、 そうはいうものの、 と注記がある(仝上)。 はたやはた、 は、 将や将、 とあて、 副詞「はたや」に副詞「はた」を続け、さらに強調する語、 で(デジタル大辞泉・学研全訳古語辞典)、 「はた(将)や」の危惧の気持を強めたいい方、 になり(精選版日本国語大辞典)、 もしかして、 もしかしたら、 ひょっとして、 もしや万一、 等々の意である(広辞苑・学研全訳古語辞典)。 はたや は、 将や、 とあて、 「や」は疑問の助詞、 で、 み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜(こよひ)も我(あ)が独り寝む(万葉集)、 と、 もしかしたら、 ひょっとして、 あるいは、 の意(広辞苑・学研全訳古語辞典)で、 疑い・危惧(きぐ)の念を強く表す、 とあり(仝上)、 さ雄鹿(をしか)の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ(万葉集)、 の、 ひょっとすると、 もしかして、 やはり、 やはり…なあ、 といった意の、 はた(将)、 の危惧の気持を強めたいい方である(デジタル大辞泉) はた、 は、 将、 当、 とあて(デジタル大辞泉)、 甲乙二つ並んだ状態や見解などが考えられる場合、甲に対してもしや乙はと考えるとき、あるいは、やはり乙だと判断するときなどにつかう(岩波古語辞典)、 他の事柄と関連させて判断したり推量したり、あるいは列挙選択したりするときに用いる語(精選版日本国語大辞典)、 邊(はた)、端(はた)、殆(ほとほと)のホトなどに通ず、其邊に近づかむとする意、将、為當の字を記すも、将(まさに)云々、為(セムトス)當(まさに)云々(セムト)の意なりと云ふ(大言海)、 一説に、「はた(端)」が語源で、「ふち(縁)」「ほとり(辺)」などと関係がある(広辞苑)、 等々の原意から、上述の、 さ男鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君が当(はた)逢はざらむ(万葉集)、 と、 ひょっとして、 もしかして、 と、事の成否を危惧しながら推量するときに用いたり、 女もはたいと逢はじとも思へらず(伊勢物語)、 と、下に否定語を伴って まさか、 よもや、 の意や、 男の御かたち・有様、はたさらにもいはず(源氏物語)、 と、 やはり、 さすがに、 思ったとおり、 はたして、 と、当然のこととして肯定する気持を表わしたり、 ほととぎす初声聞けばあぢきなくぬし定まらぬ恋せらるはた(古今和歌集)、 と、 他に考えてもやはり、 と、肯定する気持を感動的に表わしたり、 げにさせばやと思せど、数より外の大納言になさん事は難し、人のはたとるべきにあらず(落窪物語)、 と、先行の事柄と類似の事柄をさらに想定してみるときに用い、 そうはいうものの、 しかしながら、 打消表現と呼応して、それもだめだという気持を表わしたり、 是の諸の行相は一人に具せりとや為む、当(ハタ)多人に具せりとや為む(「蘇悉地羯羅経略疏寛平八年点(896)」)、 と、 はたまた、 それともまた、 あるいは、 と、二つの事柄のどちらを選ぶか迷う気持を表わしたり、 この男はた宮仕へをば苦しき事にして、ただ逍遙をのみして(平中物語)、 と、先行の事柄と類似の事柄を列挙するときに用いて、 また、 同様に、 と、それもまた同様であるという気持を表わしたり、 例の遊び、はたまして、心に入れてし居たり(宇津保物語)、 と、 その上にまた、 さらにまた、 いっそう、 と、さらに類似のことが加わることを表わしたりする(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)なお、 はた、 を強めるいい方には、 貧賤の報のみづから悩ますか、はたまた妄心の至りて狂せるか(方丈記)、 と、 将また、 とあて、 それともまた、 もしくは、 あるいは、 という意の、 はたまた、 という言い方がある。 将又、 とも当て、 夢か将又幻か、 という言い方をする(デジタル大辞泉)。 「將(将)」(@漢音ソウ・呉音ショウ、A漢音ショウ・呉音ソウ)の異体字は、 将(簡体字)、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%87)。字源は、 会意兼形声。爿(ショウ)は、長い台をたてに描いた文字で、長い意を含む。将は「肉+寸(手)+音符爿」。もと一番長い指(中指)を将指といった。転じて、手で物をもつ、長となって率いるなどの意味が派生する。持つ意から、何かでもって処置すること、これから何かの動作をしようとする意を表す助動詞となった。将と同じく「まさに……せんとす」と訓読することばには、且(ショ)がある、 とあり(漢字源)、「上将」「将軍」「将(ひき)いる」は、@の音、「将(もち)ふ」「将(と)る」「将(おく)る」「将(まさに)……せんとす」「将(まさに)……ならんとす」「将(はた)」などの意の場合はAの音、となる(仝上)。同趣旨で、 会意兼形声文字です(爿+月(肉)+寸)。「長い調理台」の象形と「肉」の象形と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形から、肉を調理して神にささげる人を意味し、そこから、「統率者」、「ささげる」を意味する「将」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1013.html)、 ともあるが、他は、 形声。寸と、音符醬(シヤウ)(は省略形)とから成る。「ひきいる」、統率する意を表す。借りて、助字に用いる。教育用漢字は省略形による(角川新字源)、 会意。旧字は將に作り、爿(しよう)+肉+寸。爿は足のある几(き)(机)の形で、その上に肉をおいて奨(すす)め、神に供える。軍事には、将軍が軍祭の胙肉(そにく)を奉じて行動した。その胙肉を𠂤(し)といい、師の初文。帥(そつ)もその形に従う。これを以ていえば、將とはその胙肉を携えて、軍を率いる人である。殷器には●を標識として用いるものがあり、王族出自の親王家を示す図象であるらしく、その身分のものが軍将に任じ、作戦の中核となった。將・壯(壮)の字に含まれる爿は、その図象と関係があるものと思われる。〔説文〕三下に「帥(ひき)ゐるなり」と訓し、醬(しよう)の省声とするが、醬は將声に従う字であるから、將が醬の省声ということはありえない。奬(奨)は將の繁文。將は訓義多く、字書に列するものは五十数義に及ぶが、将帥が字の原義である(字通)、 と、会意文字と形声文字に割れている。ただ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に由来する、 「寸」+音符「醬」の略体、 との分析は、誤った分析である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%87)とし、 原字は「肉」+「廾」から構成される会意文字で、肉を差し出すさまを象る。それに音符「爿」を加えて「將」の字体となる。「すすめる」「ささげる」を意味する漢語{將 /*tsang/}を表す字。 とある(仝上)。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 玉の緒を沫緒(あわを)に縒(よ)りて結べらばありて後にも逢はざらめやも(紀郎女) の、 玉の緒、 は、 命の意、 とあり(伊藤博訳注『新版万葉集』)、 沫緒(あわを)、 は、 糸を緩く縒り合わせた緒、 とあり(仝上)、 互いの心を緩く結ぶ意、 と注釈し、 沫緒(あわを)のように柔らかく縒り合わせて結んでおいたならば、 と訳し、 ありて後にも逢はざらめやも、 は、 生き長らえて後に逢わないことがありましょうか、 とし、 今逢うことを言外に断わったもの、 と注釈する(仝上)。 玉の緒、 で触れたように、 玉の緒(たまのを)、 は、文字通り、 始春(はつはる)の初子(はつね)の今日の玉箒(たまばはき)手に執(と)るからにゆらく多麻能乎(タマノヲ)(万葉集)、 と、 玉を貫き通した緒、 で、 首飾りの美しい宝玉をつらぬき通す紐、 または、 その宝玉の首飾りそのもの、 を指し、 玉飾り、 ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。中古以後には、転じて、 草木におりた露のたとえ、 として用いられるようになり(精選版日本国語大辞典)、 玉をつなぐ緒が短いところから、 も、 さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと(万葉集)、 逢ふことは玉の緒ばかり思ほえてつらき心の長く見ゆらむ(伊勢物語)、 と、 短いことのたとえ、 に用いるようになる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。さらに、 魂(たま)を身体につないでおく緒、 つまり、 魂の緒、 の意で、 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(新古今和歌集)、 ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に長き契をいかが結ばむ(源氏物語)、 と、 生命。いのち、 の意でも使い、ここでは、 命、 の意で使っている。 『伊勢物語』に、冒頭の歌を改作した、 玉の緒を沫緒によりてむすべれば絶えてののちもあはむとぞ思ふ、 がある。 あわを、 は、 沫緒、 とあて、 糸のより方をいう、 のか、 紐の結び方をいう、 のか、はっきりせず、さらに、 その状態が柔らかいのか強いのか、 等々、さまざまに説かれ、 未詳、 とされる(精選版日本国語大辞典)。江戸末期の『碩鼠漫筆』(安政、黒川春村)は、 沫緒は、所謂、今のうち紐と云ふものの如く、中を虚(うつろ)に搓合(よりあ)はせなるべし、 としている。大言海は付言して、 丸打紐の中の虚にして、稍脹れたるを、水の沫に比して云へるか、かかる紐もありしなるべし、 とし、冒頭の、 玉の緒を沫緒(あわを)に縒(よ)りて結べらばありて後にも逢はざらめやも、 について、 玉緒(たまのを)は、魂緒(たまのを)にて、生命(いのち)なり、緒と云ふを縁にて、沫緒に寄せ、第四句の有而の、存命してに移る、結ぶば、契約の意なり、後の沫緒詠める歌は、皆此歌を拠として、沫の融けやすきを、緒の解けやすきに寄せて云へり、アワとのみも云い、アワ絲などとも云ふ、 としている。 うち紐、 というのは、 打紐、 とあて、 羽織の紐も品々流行たり。……細き打紐をいく筋もよせてこしらへたるもあり(随筆「賤のをだ巻(1802)」)、 とあるように、 糸の組み目を篦(へら)で打ち込んで固く仕上げた紐、 をいい、 丸打ち、 と、 平打ち、 とがあり、 組紐、 打緒(うちお)、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 「組み紐」をつくる際に、ヘラ状のもので、組み目をつめるために打つ、 ということからこの名前が付いた(https://kimono-rentalier.jp/column/kimono/uchihimo)とある。で、 沫緒、 については、様々な解釈があり、 ほどけやすいようによった緒(岩波古語辞典)、 ほどけやすいように結んだ紐。中がうつろになるように縒(よ)った紐ともいう(広辞苑)、 切れにくく、解けやすいようにゆるく縒った紐(http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise/old/ise_o35.html)、 糸の堀河百首の源国信詠に「水引の沫緒の糸の一すぢに分けずよ君を思ふこころは」があり、これによると、水に浸した麻などを裂いて一すじに縒ったものらしい(https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/osika2.html)、 等々とあり、伊勢物語にある同じ歌の注釈では、 「沫緒」の実体は不明であるが、切れにくい縒り方で縒った、強い糸であろう。「絶えて」は、「玉の緒」の縁語、糸の切れることと関係の絶えることをかける。「あふ」は、一旦切れた糸が再び縒り合わされる意に「逢ふ」をかけたもの、 とある(石田穣二訳注『伊勢物語』)。解釈がむつかしい。 ほどけやすいようによった緒、 では、ちょっと歌意と離れるし、 切れにくい縒り方で縒った、強い糸、 では、歌意にそぐわない。 また縒り合されることを期す以上、糸自体は強いが、縒り方はほどけやすいゆるい縒り方、 ということになるのだろうか。歌い手の、背反した心情表現のメタファとしてはなかなか出色なのではあるまいか。 「沫」(漢音バツ、呉音マツ。マチ)の異体字は、 沬、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B2%AB)。字源は、 会意兼形声。末は、木の上のはしに一印をつけてこずえを示した指事文字。沫は「水+音符末」で、見えないほど小さい水の泡や粒のこと、 とある(漢字源)。同じく、 会意兼形声文字です(氵(水)+末)。「流れる水」の象形と「大地を覆う木の象形に横線を加えた文字」(「木の先端」の意味)から、飛び散った水の先端、「しぶき」を意味する「沫」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2554.html)、 ともあるが、他は、 形声。「水」+音符「末 /*MAT/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B2%AB)、 形声。水と、音符末(バツ)とから成る(角川新字源)、 形声。声符は末(まつ)。末に微小なるものの意がある。〔説文〕十一上に蜀の川の名とする。若水と合流して沫若水という。郭沫若はその名を用いた。〔淮南子、俶真訓〕に「人、流沫(りうばつ)に鑑(かんが)みる莫(な)し」とあり、あわだち流れる水をいう。わが国では沫雪(あわゆき)のように用いる(字通) と、 形声文字としている。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 石田穣二訳注『伊勢物語』(仝上) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 百年(ももとせ)に老舌(おいした)出(い)でて与余牟(ヨヨム)とも我(あ)れはいとはじ恋ひは増すとも(大伴家持) の、 よよむ、 は、 腰が曲がってひょろついても、 の意とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 老舌(おいした)、 は、 老人の舌、 の意(精選版日本国語大辞典)だが、 老人の、歯が落ちて、ものを言う時に唇の外に出る舌(岩波古語辞典)、 老人の、歯が落ちて、ものを言う時に見えがちになる舌(広辞苑)、 とあり、 歯が抜けて口にしまりがなくなり、話をする時に出がちになる舌、 をいう(精選版日本国語大辞典)ようだ。 よよむ、 は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 斜、カタブク、ナナメナリ、ヨヨム、 字鏡(平安後期頃)に、 斜、ナナメ・カタフク・ナノメナリ・カタラフ・ヨヨミ・ヨコサマ・クダク・クム・ツル、 とあり、 年老いて腰が曲がる、よぼよぼになる(デジタル大辞泉)、 曲がる。特に、身体が曲がる。年老いて腰が曲がる。よぼよぼになる(精選版日本国語大辞典)、 まがる、体がまがる(岩波古語辞典)、 腰が曲がる(広辞苑)、 等々と、多くは、 体(腰)がまがる、 意としているが、 ヨヨは、明らかならぬ発音に云ふ、 として、 老人の歯の落ちたる口つきにて、脣動きて、舌出でて、声あやなし、 と、 老舌(おいした)、 と同義にしているものもある(大言海)ものの、 老いて歯が抜け、発音が不明瞭になる、ことばがどもる、 とする説もあり、他の例と合わせ考えると、 身体が曲がる、 とする説が有力である(精選版日本国語大辞典)ともあり、上述の、 斜、よよむ、 の意から見れば、 腰が曲がる、 意と見ていいのではないか。 「老」(ロウ)は、「老いらく」、「老いなみ」で触れたように、 象形。年寄が腰を曲げて杖をついたさまを描いたもので、からだがかたくこわばった年寄り、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%80%81・https://okjiten.jp/kanji716.html・漢字源)。別に、 象形。こしを曲げてつえをつき、髪を長くのばした人の形にかたどり、としよりの意を表す(角川新字源)、 象形文字です。「腰を曲げてつえをつく老人」の象形から「としより」・「老人」を意味する「老」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji716.html)、 ともある。しかし、 会意。耂+𠤎 (か)。耂(老)は長髪の人の側身形。その長髪の垂れている形。𠤎は化󠄁の初文。化は人が死して相臥す形。衰残の意を以て加える。〔説文〕八上に「考なり。七十を老と曰ふ。人毛の𠤎(くわ)するに從ふ。須(鬚)髮(しゆはつ)の白に變ずるを言ふなり」とするが、𠤎は人の倒形である。〔左伝、隠三年〕「桓公立ちて、乃ち老す」のように、隠居することをもいう。経験が久しいので、老熟の意となる(字通)、 とするものもある。 なお、「老いさらばえる」で触れたように、漢字、 老、 には、老いる、老ける、という意味だけでなく、 長い経験をつんでいるさま(「老練」) 老とす(老人と認めて労わる、「老吾老、以及人之老」) 年を取ってものをよく知っている人、その敬称(「長老」「古老」) 親しい仲間を呼ぶとき(老李、李さん) といった意味がある。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 都道(みやこぢ)を遠みか妹がこのころはうけひて寝(ぬ)れど夢(いめ)に見え来(こ)ぬ(大伴家持) の、 うけふ、 は、 神に受け合ってもらう意、 で、 実現を期待する呪的行為、 とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。この場合、 夢に相手が見えればこの恋は有望、 と、 神に祈る、 意である(岩波古語辞典)。 うけふ(うけう)、 は、 は/ひ/ふ/ふ/へ/へ、 と、自動詞ハ行四段活用で、 祈誓ふ、 祈ふ、 誓ふ、 などと当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 上代に行われた占いの一法、 で、 判断・推測・証拠の当否、または正邪をうかがう法、 である(岩波古語辞典)。この、 うけふ、 の名詞形、 うけひ、 は、 宇気比(うけひ)、 とあて、 誓約、 祈、 誓、 とも当てるが、幕末の、 神風連(しんぷうれん)、 の、 林櫻園、 が、古風に倣って、神明を受ける方法として、 審(さ)神者(にわ)(神のお告げを聞いて、その意味を伝える)、 卜占と、 うけひ(夢に神の教えを受ける)、 の三つを、神慮を知るための、 うけひ、 と言っていたのを思い出す(「うけひ」に詳しい)。閑話休題、 うけふ、 は、 前もって甲と乙という対立した事態を予想しておき、神意の所在が甲にあれば実際に甲が起こり、神意の所在が乙にあれば乙が起こるとして、神意をうかがう。のちに、神に祈る意となり、平安時代には呪う意に転じた。 とあり(仝上)、 神意をうかがう(学研全訳古語辞典)、 神に祈って事の成否・吉兆を占う(広辞苑)、 物事の吉凶・成否を神意によって知ろうとして祈る(デジタル大辞泉)、 わからないことを神意によって知ろうとして神に祈る(精選版日本国語大辞典)、 といった意味になるが、もう少し細かく見ると、 (こころが清明ならば女子を生むと)各々宇気比(ウケヒ)て子生まむ(古事記)、 などと、 前もって二つのことを定めておいて、どちらが現われるかによって神意をうかがう、 物事の吉凶、成否、是非などを占う、 意と、 是夜自ら祈(ウケヒ)て寝(みね)ませり。夢に、天神有て、訓(をし)へまつりて曰く(日本書紀)、 と、 どうしたらよいか、どういうことかなどについて、神のお告げを受けるように祈る、 意や、 誠に験あらば、この鷺巣池(さぎすのいけ)の樹に住む鷺やうけひ落ちよ(古事記)、 と、 神意があるか否かを示す証拠として、或ることが起こる、 意などがある(仝上・岩波古語辞典)。折口信夫は、 うけ・ふ【誓ふ】(補)ちかふ(ア)。祈る。願ふ(イ)諾(ウ)くの再活か。(A)事の善悪・成否・吉凶を占ふ時に、神を判者に立てゝ、現在判断に迷うてゐる事が、+(プラス)ならばかく、−(マイナス)ならばかく兆(シルシ)を表し示し給へと予約すること。(B)其から一転して、さういふ約束を立てゝ祈ること。又、(C)若し欲する通りの結果を生ぜしめて下されたら、かくかくの事をすると誓約することにも使ふ。但し此は正しくはちかふで、うけふの本義は、(A)である、 と整理しているが、別に、土橋寛は、 ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない「真実」(「神意」ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を「真実」なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、「もしAならば、Bならむ」という形式は、「こう言えば、こうなる」という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを「真実」でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に「祈」「禱」などの漢字表記に惑わされたためである、 としている。ともあれ、いずれにしろ、 (是非・真偽・善悪を)神にうかがう、 意から、冒頭の歌や、 水の上(うへ)に数書くごとき我(わ)が命(いのち)妹に逢はむとうけひつるかも(万葉集)、 と、 事柄の実現を神に祈る、 意に転じ、さらに、その延長線上で、中古以後、 つみもなき人をうけへば忘草おのが上にぞ生(お)ふといふなる(伊勢物語)、 と、 人の不幸や死を神に祈る、 つまり、 のろう、 意へと転じていく(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。近世の用法では、 日高見の神社……隣の国までも、夜ひるまうでてちか言す。はたうけひ給ひて(読本「春雨物語(1808)」)、 と、 祈りを聞き入れて神がしるしを現わす、 受納する、 意や、 二稿、三稿といへるものは、年を経てもほゐとぐべきわざなれとすすめければ、二子もうけひて、かしこうこそ申つれ(俳諧・太祇句選(1772‐77)蕪村序)、 と、 承知する、 意へと、神への期待から、それが受け入れられた意味へと180度転換していくのが面白い。この、 うけふ(うけう) の由来については、 受く(下二段)を再活用させた動詞(時代別国語大辞典−上代編)、 ウケヒク(受引)の義、ヒクの反フ(名言通)、 ウカガフ・ウカネラフのウカと同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 等々とあるが、意味から見ると、 うかがふ(窺・伺)、 ではないか。 うかがふ、 は、奈良時代には、 うかかふ、 と清音だが、 他人に知られないように周囲に心を配りながら、相手の真意や、事の真相をつかもうとする意(岩波古語辞典)、 なので、それが、 神、 に向かったまでのことだろう。この、 うけふ、 と類似の、 いのる(祈・禱)、 は、 いのり、 で触れたが、 イはイミ(斎・忌)・イクシ(斎串)などのイと同じく、神聖なものの意、ノリはノリ(法)・ノリ(告)などと同根か、みだりに口にすべきでない言葉を口に出す意、 であるが、 呪う、 で触れたように、 みだりに口に出すべきでない言葉、 というところから、意味が転じて、 呪う、 呪詛する、 意味になる。 呪 は、 口+兄 で、もともとは、 祈、 と同じで、 神前で祈りの文句を称えること なのだが、後に、 「祈」は、幸いを祈る場合、 「呪」は、不幸を祈る場合、 と分用されるようになった。 ちかう、 で触れたように、 ちかう(誓・盟)、 は、 漢字「盟」は血をすすって約束を固くする意というが、日本語チカフも「血交フ」に起源をもつという(岩波古語辞典)、 と、「盟」と関わるとする説がある。しかし、 手交(てか)ふ意か(大言海・日本語源広辞典)、 とする説があり、やはり、 チ(血)にかけてカハス(交)の義(本朝辞源=宇田甘冥・国語の語根とその分類=大島正健)、 チカフ(血香得)の義。自己の心火である生血に、太陽の明霊を受け得て気を堅めることをいう(柴門和語類集)、 チアヒ(血交)の義(言元梯)、 と、「盟」の字に絡ませる説が多い。しかし、「盟」の意味に振り回されているのではないか。漢字をもたず「ちかう」時の実態は、これではよく分からない。むしろ、 チはイノチ(命)のチか(国語の語根とその分類=大島正健)、 チは内に満ちる義、カフは来合の義(国語本義)、 と、「イノチ」の「チ」と絡ませる説に引かれる。「チ」は、血であり、霊であり、「ちかう」重さが、ここには籠る。「ちかう」という言葉は、すくなくとも、最初は、今日とは格段に異なる重さがあったはずである。 「祈(祈)」(漢音キ、呉音ゲ・ギ)の異体字は、 𣄨、𧘻、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A5%88)。字源は、 会意兼形声。斤は、物におのの刃を近づけたさまを描いた象形文字で、すれすれに近づく意を含む。近の原字。祈は「示(祭壇)+音符斤(キン・キ)」で、目指すところに近づこうとして神に祈ること、 とある(漢字源)が、他は、 形声。「示」+音符「斤 /*KƏJ/」。「いのる」を意味する漢語{祈 /*ɡəj/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A5%88)、 形声。示と、音符斤(キン)→(キ)とから成る。神に福を願い求める意を表す(角川新字源)、 形声文字です(ネ(示)+斤)。「神にいけにえをささげる台」の象形(「先祖神」の意味)と「曲がった柄の先に刃をつけた斧」の象形(「斧」の意味だが、ここでは、「近(キン)」に通じ(同じ読みを持つ「近」と同じ意味を持つようになって)、「ちかづく」の意味)から、幸福に近づく事を願う事を意味し、そこから、「いのる」、「いのりを意味する「祈」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1156.html)、 形声。声符は斤(きん)。斤に圻・沂(き)の声がある。〔説文〕一上に「福を求むるなり」とあり、前条の祓に「惡を除く祭なり」とあるのと合わせて、祭にはこの二義があった。金文に字を𣄨に作り、後期の器銘には𬀍・旂などの字を用いる。みな軍行に当たって、あるいは遠行に際して無事を祈願したものであろう。金文にまた匄・介・乞・害などの字を祈求の義に用いる。みな声の近い字である(字通)、 と、すべて形声文字としている。 「誓」(漢音セイ、呉音ゼ、慣用ゼイ)は、 会意兼形声。「言+音符折(きっぱりとおる)」。きっぱりといいきること、 とある(漢字源)。また別に、 会意兼形声文字です(折+言)。「ばらばらになった草・木の象形と 曲がった柄の先に刃をつけた手斧の象形」(「斧で草・木をばらばらにする」の意味だが、ここでは、「明らかにする」の意味)と「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)から、神や人前で明らかにした言葉「約束」、「ちかい」を意味する「誓」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1814.html)、 と、会意兼形声文字とする説もあるが、他は、 形声。「言」+音符「折 /*TAT/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AA%93)、 形声。言と、音符折(セツ)→(セイ)とから成る。とりきめのことば、「ちかい」の意を表す(角川新字源)、 形声。声符は折(せつ)。〔説文〕三上に「約束するなり」とあり、折声とする。哲もまた折に従う。折は草木を折る意で、誓約する意があるらしく、また矢を用いることもあって、矢を「矢(ちか)う」とよむ。金文の〔番生皀+殳(ばんせいき)〕に「丕顯(ひけん)なる皇祖考、穆々(ぼくぼく)として克(よ)く厥(そ)の徳を誓(てつ)(哲)にし、嚴として上に在り」とみえ、誓を哲の意に用いる。言・口(ꇴ(さい))は祝禱や誓約を意味し、誓と哲とは字の立意が同じ。〔倗生皀+殳(ほうせい()〕に、契約に際して「則ち析す」とあり、これは書券を判つ意であろう(字通) と、形声文字としている。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 春風の音にし出でなばありさりて今ならずとも君がまにまに(大伴家持) の、 ありさりて、 は、 ありしありての約、 とあり、 経過を見計らって、 の意とし、 ありさりて、 は、 時機を見計らって、 と訳され(伊藤博訳注『新版万葉集』)、 木綿畳(ゆふだたみ)田上山(たなかみやま)のさな葛(かづら)ありさりてしも今にあらずとも(万葉集)、 の、 ありさりて、 は、 (さね葛が延びつづけるように)このままずっと生き長らえて、 と訳される(仝上)。 ありさりて、 は、 在りし在りて、 とあてる、 ありしありての約、 というのは、 ありありてに強く指す辞(テニハ)の、シの加はれるもの、萬葉集「名草山(なぐさやま)事(こと)にしありけり我が恋る千種(ちくさ)の一重(ひとへ)も慰めなくも」とあるを、袖中抄(しゅうちゅうしょう 平安末期の歌学書)、「にざりけり」としたり、 とあり(大言海)、 世にあり経て、 (生き)ながらへて、 の意(仝上)とするが、文字通りには、 このまま時がたつ、 そのままの状態で経過する、 という意になる(広辞苑・岩波古語辞典)。『大言海』の、 ながらへて、 も、冒頭の歌の訳、 時機を見計らって、 も、その意訳と言っていい。 ありし+ある、 の、つづめて、 ありさる、 は、 在り去る、 有り去る、 とあて、 ら/り/る/る/れ/れ、 と、自動詞ラ行四段活用で、 「あり」は継続して存在する意。「さる」は時間が経過する意(学研全訳古語辞典)、 「あり」は継続的に存在する、「さる」は物事の移動、推移する意(精選版日本国語大辞典)、 で、上述したように、 「ある」状態が継続する、 という意味で、 ずっとそのままの状態で過ごす、 このまま時が過ぎる、 今のままで経過する、 の意だが(精選版日本国語大辞典・学研全訳古語辞典)、 阿里佐利(アリサリ)て後も逢はむと思へこそ露の命も継ぎつつ渡れ(万葉集)、 では、 変わらぬ心を持ち続けて、 と訳される(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 そのままの状態がつづく、 は、時については、 生きながらえて、 となったり、 時機を待って、 となり、心情については、 思いを持ち続けて、 となる。 ありし+ある、 の、 ありし、 は、 有りし、 在りし、 とあて、 ラ変動詞「あり」の連用形+過去の助動詞「き」の連体形(学研全訳古語辞典・デジタル大辞泉)、 ラ変動詞「あり(有)」の連用形に過去の助動詞「き」の連体形「し」が付いて連体詞のように用いられるもの(精選版日本国語大辞典)、 で、 ありし童いで来て例のいも、ところ、焼き調じて(宇津保物語)、 と、 以前あった、 の意で、 以前の、 昔の、 かつての、 また、 前に述べた、 あの、 といった意味になるので、 ありしありて、 には、 以前のままの、 かつてあった、 といった含意があることになる。 ありし、 には、 父の夢に、有りし女子(にょし)……心に思ひ歎きたる気色にて有る程に……と見て(今昔物語集)、 と、 (特に、「かつて世にあって今はいない」というところから)なくなった、生前の。 の意や、 出でていなば誰か別れの難からんありしにまさる今日はかなしも(伊勢物語)、 と、 (準体言として、「以前あった時、事」の意)以前の状態、昔の時、 という使い方もするが、やはり、 以前の状態、 の含意は残る。この、 ありし、 は、 ありしやうにも遣戸(やりど)さし固めさせねば、あこぎうれしと思ふ(落窪物語)、 と、 以前そうであったさま、 昔どおり、 の意の、 有りし様(よう)、 思ひ出でて夜(よる)はすがらに音をぞ泣くありしむかしの世々の古こと(金槐和歌集)、 と、 過ぎ去った昔、 の意の、 有し昔、 しきかへずありしながらに草枕塵(ちり)のみぞゐるはらふ人なみ(大和物語)、 と、 昔のまま、 以前のまま、 の意の、 有しながら、 限りなくあはれとおぼすにぞ、ありし世をとりかへさまほしくおもほしける(源氏物語)、 と、 過ぎ去った昔。特に、かつてある地位にあったり、栄えていたりした、そういう昔の時、 の意の、 有し世、 といった使い方をする(精選版日本国語大辞典)。 ラ変動詞「あり(有)」を重ねたものに接続助詞「て」が付いて一語化した、 ありありて、 は、 在有而(ありありて)後も逢はむと言(こと)のみを堅く言ひつつ逢ふとは無しに(万葉集)、 と、 ありありて(有有て・在在て)、 にも、やはり、 引き続きそのままでいて、 このままであって、 と、 ある状態がそのまま存続するさまを表わす、 含意が強くある。 「在」(漢音サイ、呉音ザイ)の異体字は、 扗(古体)、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%A8)。字源は、 会意兼形声。才(サイ)の原字は、川の流れをとめるせきを描いた象形文字で、その全形は形を変えて災(成長進行をとめる支障)などに含まれる。才は、そのせきのかたちだけをとって描いた象形文字で、切り止める意を含む。在は「土+音符才」で、土でふさいで水流を止め進行を止めること、転じて、じっと止まる意となる、 とある(漢字源)。同じく、 会意兼形声文字です(士+才)。「まさかり(斧)」の象形と「川の氾濫をせきとめる為に建てられた良質の木」の象形から、災害から人を守る為に存在するものを意味し、そこから、「ある」を意味する「在」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji861.html)、 と、会意兼形声文字とするものもあるが、他は、 形声。音符「才 /*TSƏ/」+音符「士 /*TSƏ/」。「ある」を意味する漢語{在 /*dzəəʔ/}を表す字。もと「才」が仮借して{在}を表す字であったが、音符を加えた(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%A8)、 形声。土と、音符才(サイ)とから成る。地上にとどまっている意から、「ある」、いる、存在する意を表す(角川新字源)、 と形声文字とし、字通では、 才+士。才は神聖を示す榜示の木で、在の初文。卜文・金文では、才を在の字義に用いる。士は鉞頭の形。その大なるものは王。王・士もまた聖器で、身分象徴に用いた。神聖の表示である才と士とを以て、その占有支配の意を示したものと思われる。〔説文〕十三下に「存なり」とし、「土に從ひ、才聲」とするが、金文の字形は士に従う。金文には才声の字である載・鼒・●をみな在の意に用いる。〔師虎皀+殳(しこき)〕「先王に●(あ)り」、〔段皀+殳(だんき)〕「王、畢に鼒(あ)り」、〔卯皀+殳(ぼうき)〕「乃(なんぢ)の先祖考に●(あ)り」などの例があるが、それらはみな才・在と通用する用義である。在にまた在察・存問の意があり、〔儀礼、聘礼〕「子(し)、君命を以て寡君を在(と)ふ」、〔書、舜典〕「璿璣玉衡(せんきぎよくかう)を在(あき)らかにす」のように用いる。子に聖記号として才を加えた存の字にも、存問の義がある(字通)、 と説く。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 春雨を待つとにしあらし我がやどの若木(わかき)の梅もいまだふふめり(藤原久須麻呂) の、 ふふめり、 は、 つぼんだまま、 と訳される(伊藤博訳注『新版万葉集』)。 ふふむ、 は、 含む、 とあて、 ま/み/む/む/め/め、 の、自動詞マ行四段活用である。類聚名義抄(11〜12世紀)に、 含、フクム・ククム・フフム・シノフ・ツボム、 とあるように、 花や葉がふくらんで、まだ開ききらないでいる、 つぼみのままである、 という意で使う(学研全訳古語辞典)が、それをメタファに、 五瀬の命矢に中(あた)りて薨(かむさ)りませり。天皇銜(フフミもち)たまふて常に憤懟(いかかみうらむること)を懐(いた)きて(日本書紀)、 と、 ある感情を内に抱く、多く、怒り、怨みなどの感情を抱く場合にいう、 意でも使い(精選版日本国語大辞典)、後には、 舌を巻きて口を鉗(フフム)で黙して閑居す(「将門記承徳三年点(1099)」)、 と、 とざす、 つぐむ、 意でも使う(仝上)。また、 ま/み/む/む/め/め、 の、他動詞マ行四段活用として、 時に先の夫(を)の烏(からす)、食物をふふみ持ち来たりて(霊異記)、 と、 (口に)含む、 意や、それをメタファに、 此人、内には悪の心を含めりけれど、外かには猶僧の姿なり(「観智院本三宝絵(984)」)、 と、 思い、感情などを心中に抱く。また、他の命令、意志などを守ろうとして心にとめる、 意や、 エミヲ fucumu(フクム)(「日葡辞書(1603〜04)」)、 と、 内に包みもっている感情、思いなどを表面に表わす、 また、 様子、色あいなどを帯びる、 意で使う(精選版日本国語大辞典)。この、 ふふむ、 の由来は、 物を口内に含む形から(国語溯原=大矢徹)、 ホホエミ(頬笑)の義(言元梯)、 とあるが、どうも。先後が逆のような気がする。むしろ、意味からいうと、 ふくらむ、 意の、 ふくる(膨る・脹る)、 とかかわるのではないか。 ふくる、 は、 れ/れ/る/るる/るれ/れよ、 の、自動詞ラ行下二段活用で、 風いとおもき人にてはらいとふくれ(竹取物語⦆、 と、 内から外へ張り出す、 内が充満して外側に丸みを帯びて大きくなる、 意で、 噴くの転か、 ともあり(大言海)、 フクダムと同根、 とあり、 ふくだむ、 は、 ふくる(脹る)、 と同根で、 毛がそそけだってふくらんだようになる、 意である(岩波古語辞典)。 ふふむ、 と同義の、 ふくむ、 は、 脹(フク)の活用(大言海)、 ホホコム(頬籠・頬蓋)の義(言元梯・和訓栞)、 フフムの訛りか、またフフクム(含組)の約(俗語考)、 フクメ(吹目)の義(名言通)、 フはフサグの義か。クはクチ(口)の義、ムはノムの義(和句解)、 フキウム(吹産)の約(国語本義)、 フクはフクフクシ(肺)・フクロ(袋)・フクツケシ(貧)のフクと同源(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、 等々とあり、語呂合わせを除けば、 脹らむ、 とつながるとみていいのではないか。 含む、 は、 ま/み/む/む/め/め、 の、自動詞マ行四段活用で、 指貫の裾つかた、すこしふくみて(源氏物語)、と、 中に包み持っているような形になる、 ふくらむ、 ふくれて柔らかになる、 という意で、そこから、 忘るやと野に出でて見れば花ごとにふくめるものはあはれなりけり(古今和歌六帖)、 と、 植物がつぼみをもつ、 意で使い、 ま/み/む/む/め/め、 の、他動詞マ行四段活用で、 太刀の先を口にふくみ、馬より逆さまに飛び落ち、貫(つらぬ)かってぞ失(う)せにける(平家物語)、 と、 中に入れる、 中に裹み持つ、 意や、 いやしくも勅命をふくんでしきりに征罰を企つ(平家物語)、 心にとどめおく、 心中にいだく、 意で使う(学研全訳古語辞典・デジタル大辞泉)。 ふふむ、 の転訛で、 ほほむ、 という言い方もあるが、どうも、意味の重なりから見ると、 ふふむ ↓ (ほほむ) ↓ ふくむ、 という転訛もあり得る気がする。 「含」(慣用ガン、漢音カン、呉音ゴン)の異体字は、 唅、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%AB)。字源は、 会意兼形声。今は「亼(かぶせる)+一印(隠されるもの)」の会意文字で、中に入れて隠す意をふくむ。含は「口+音符今」で、口中に入れて隠すこと、 とある(漢字源)。同趣旨で、 会意兼形声文字です(今+口)。「ある物をすっぽりおおい含む事を示す文字」と「口」の象形から、「口にふくむ」を意味する「含」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1225.html)、 と会意兼形声文字とするものもあるが、他は、 形声。「口」+音符「今 /*KUM/」。「口にふくむ」を意味する漢語{含 /*gəəm/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%AB)、 形声。口と、音符今(キム)→(カム)とから成る。口中に物を「ふくむ」意を表す(角川新字源) と形声文字とするもの。 会意。今+口。今は、酒器を盦(あん)、飮(飲)の初文を㱃(いん)としるすように、器の栓のある蓋の形。口は甲骨・金文の字では、一般に祝告を収める器の形のᗨ(さい)であるが、含は含玉の意であるから、今を口に加えて、死気を遮閉する意とみてよい。〔説文〕二上に「嗛(ふく)むなり」とあり、琀の初文。その復活を願う意を以て、蟬形の玉器を用いる。含玉の意より、のちすべて内に含む意に用いる(字通) と、会意文字とするものとに分かれる。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大野山(おほのやま)霧立ち渡る我が嘆くおきその風に霧立ちわたる(山上憶良) の、 おきそ、 は、 息嘯(おきそ)の意か、 とあり(伊藤博訳注『新版万葉集』)、 嘆息は霧になると考えられた、 とある(仝上)。 おきそ、 は、 息嘯、 とあて、 「おき」は息、「そ」はウソの約(広辞苑)、 「そ」は「うそ(嘯)」の音変化(デジタル大辞泉)、 「おき」は息、「そ」は口をすぼめて息を出す意の「うそ(嘯)」の「そ」と同語源(精選版日本国語大辞典)、 オキ(息)はウソ(嘯)の約(岩波古語辞典)、 オキウソ(息嘯)の約ならむと云ふ(大言海)、 等々とあり、 ため息、 嘆息、 の意である。 息を霧と云へるは、古事記「吹棄(ふきう)つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)」、 とある(大言海)による。 息、 を、 オキ、 と訓ますのは、和訓栞に、 おき、気又息をよめり、 とあるように、 「いき」の母韻交替形、 とあり(岩波古語辞典)、 息嘯(おきそ)など、複合語の中だけにみられる、 とある(仝上)。天武紀に、 戦息長(おきなが)横河、 の例もある。 息(いき)、 は、 気息、 とも当てる(大言海)が 生(い)くと同根(岩波古語辞典)、 「生(い)く」(四段活用)の名詞形、日本釈名(元禄)「息、生(イキ)なり」、和訓栞「生の義、韓詩外傳「人得気則生、失気則死」(大言海)、 生の義(和訓栞)、 イク(生)の義、またはイズルキ(出気)の略(日本釈名)、 イはイデ(出)、キはヒキ(引)ら(和句解)、 イはイーと引く音、キは気の意(国語溯原=大矢徹)、 イキ(息気)の意、イは口より出る気息の音、キは気(日本語源=賀茂百樹)、 イキ(生気)の義(言元梯・日本語原学=林甕臣)、 イは発語、キはフキからか(名言通)、 イキ(胃気)の異か(和語私臆鈔)、 イは気息を意味する原語。キは活用語尾(日本古語大辞典=松岡静雄)、 等々あるが、シンプルに、 生の義、 生(い)くと同根、 「生(い)く」(四段活用)の名詞形、 でいいのではないか。 生(い)く、 は、 か/き/く/く/け/け、 の、自動詞カ行四段活用で、 竹芝のをのこに、いけらむ世のかぎり、武蔵(むさし)の国を預けとらせて(更級日記)、 と、 生きる、 生存する、 意で、奈良・平安時代は、四段活用だが、鎌倉時代以降、平安末期頃から、 命ばかりは、などかいきざらん(徒然草)、 と、 き/き/く/くる/くれ/きよ、 の、自動詞カ行上二段活用が生まれ、次第に交替していき(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)、さらに、 軍兵が勝てば、大将も生きるぞ(三河物語)、 上一段活用へと転じるに至って、四段活用は亡びた(岩波古語辞典)ともある。歌では「行く」を掛けて用いることもある(精選版日本国語大辞典)という。 生(い)く、 は、 イキ(息)と同根(岩波古語辞典)、 イキ(息)を活用したもの(国語溯原=大矢徹・大言海・日本語源=賀茂百樹)、 イキク(息来)の義(日本語原学=林甕臣)、 イケルの約(祝詞考)、 イキ(伊耆)の転声。伊耆は春の神であるから生成の意になる。またイキ(胃気)の義もあるか。胃の気があるものは死なないから(和語私臆鈔)、 「有」の入声wikがikと転じて動詞化したもの(日本語原考=与謝野寛)、 等々とあり、 息、 と、 生く、 との関係を強くうかがわせる。 「嘯」(ショウ)は、「嘯く」で触れたように、異体字 は、 啸(簡体字)、嘨(俗字)、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%98%AF)、字源は、 会意兼形声。「口+音符肅(ショウ ほそい、すぼむ)」、 とあり、 口をすぼめてながく声を引く、 口をすぼめて口笛を吹く、 という意(漢字源)や、 聲を長く引きて詩を歌ふ(字源)、 意で、 嘯詠気頗雄、攀躋(はんせい)力或弱(馬祖常詩)、 と、 嘯詠(ショウエイ うそぶき歌ふ)、 とか、 嘯歌傷懐、念彼碩人(小雅)、 と、 嘯歌(ショウカ 詩歌をうたふ)、 と使い(字源)、また、 虎嘯、 と、 烈しく声を出してうなる、 意でも使う(仝上)。字通は、 形声。声符は肅(粛)(しゆく)。肅に蕭・簫(しよう)の声がある。〔説文〕二上に「吹く聲なり」とあり、肅はその音を写したものであろう。籀文(ちゆうぶん)に歗に作り、欠(けん)部にまたその字がみえる。〔詩、召南、江有〕に「其の嘯(な)くや歌はん」とあり、嘆くときのしぐさである。古くは呪詛的な意味があったかと思われる。六朝のころ長嘯を好む人が多く、嘯逸・嘯傲のような語がある、 と形声文字としている。 「息」については、「息の緒」で触れた。 参考文献; 伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
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