まかねふく吉備の中山帯にせる細谷川(ほそたにがわ)の音のさやけき(古今和歌集)、 の詞書に、 この歌は、承和の御嘗(おほんべ)の吉備國の歌、 とあるが、 承和、 は、 仁明天皇の時の年号、転じて、仁明天皇、 ともあり、 御嘗(おほんべ・おほむべ)、 は、 大嘗会、 のことで、普通、 大嘗、 と当て、 おほにへの音便(岩波古語辞典)、 大饗(おほにへ)の義、饗(にへ)の敬称(大言海)、 とあり、音便に、 おほんべ、 と、 大嘗祭に同じ、 である(大言海)。 大嘗祭では、その年の新穀を奉る国が二つ決められ(悠紀国・主基国)、その国に即した歌を献上する。ここは、仁明天皇の大嘗会で主基国になった備中の国の歌、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 「にいなめ」で触れたように、 新嘗、 は、 宮中にて行はせらるる神事、古へは陰暦十一月、下の卯の日(三卯のあるときは中の卯の日 今は陽暦、十一月二十三日)に、其年の新稲を始めて神に奉らせたまひ、主上、御躬(みずから)も聞し召す、 とあり(大言海・精選版日本国語大辞典)、宮中神嘉殿(しんかでん 平安大内裏の中和院(ちゅうかいん)の正殿の称。天皇が神をまつるところ)にて行われるこの儀式を、 新嘗祭(にいなめさい・にいなめまつり・しんじょうさい)、 といい、 當年の新稲を以て酒撰を作り、天照大神を始め奉り、普く天神地祇に饗(あ)へ給ひ、天皇御躬らも聞し食し、諸臣にも賜る式典、 で(大言海)、 稲の収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する祭儀、 である(仝上)。なお、天皇の即位の年、一代一度行うのを、 大嘗祭(だいじょうさい・おおにえまつり・おおなめまつり・おおんべのまつり)、 といい、 天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿ついで主基殿(東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)という)、 で行う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。一世一度の新嘗であるから、 大新嘗(おおにいなめ)、 ともいう(仝上)。古くは、 おほにへまつり、 おほなめまつり、 などと訓じたが、現代においては、 だいじょうさい、 と音読みする(宮内庁)とか。大嘗祭は、 践祚大嘗祭、 つまり、 天皇即位の年、 に行うが、 七月以前即位、当年行事、八月以後、明年行事、 とあり(太政官式)、 受禅即位が七月以前ならばその年の、八月以後ならば翌年の、諒闇登極(りょうあんとうきょく 服喪期間の即位)の場合は諒闇後の、一一月の下の卯の日(三卯ある時は中の卯の日)より始まり、辰の日の悠紀節会、巳の日の主基節会、午の日の豊明節会にいたる四日間にわたって行なわれる。辰の日以後は諸臣と饗膳を共にする節会である、 という(精選版日本国語大辞典)、で、 佳日は、陰暦十一月中卯日にて、場所は、朝堂の庭上、後には、紫宸殿の南庭にて行はせらる。初、龜卜を以て、豫め京都より東西の地方に、悠紀(ゆき)、主基(すき)の國郡を定め給ひ、斎田を立てて稲を作らしめ御饌(みけ)とし、又、白酒(しろき)、黒酒(くろき)を醸さしむ。次に、大嘗宮を設け、柴垣にて四方に神門を建て、其内に、東に悠紀(ゆき)殿、西に主基(すき)殿を建てらる(南北五閨A東西三閨j。すべて黒木茅葺作りなり(壁床は、近江筵(むしろ)なり)。此内にて祭をせらる。初夜は悠紀、後夜は主基にて行はせらる。北に廻立殿あり、此は、御浴御更衣の處とす。次に、斎田より奉れる新稲を天照大神、及天神地祇に饗(そな)へたまひ、天皇御親らも聞こしめし、臣下にも賜へり。中臣氏、天神(あまつかみ)の壽詞(よごと)を奏し、悠紀、主基(すき)の国司、其国の風俗歌を奏し、標(しるし)の山を殿庭に引きわたす。翌日節会あり、五節舞を奏す、 といい(大言海)、 大嘗宮、 は、 祭に先つこと七日始めて工を起し五日にして造り畢る、東西廿一丈南北十五丈、之を中分して東を悠紀殿とし西を主基殿とする、外は囲らすに柴垣を以てし、内に屏籬を以て隔て東西南北に各小門を設け別に廻立殿(天皇沐浴斎服著御の所)膳屋(神饌調進の所)あり、当日天皇廻立殿に行幸、御沐浴斎服著御の上悠紀の正殿に御す、やがて吉野の国栖古風を奏し、悠紀の国司歌人を率ゐて国風を奏し、隼人司は隼人を率ゐて風俗の歌舞を奏し、次に天皇親ら神饌清酒を神祇に供し、亦御親ら召させ給ふ。次に廻立殿に還御、更に沐浴斎服を改め主基の正殿に御し国栖以下の奏及び薦享の式悠紀に同じである、 とある(東洋画題綜覧)。大嘗宮は黒木(皮つきの丸木)で新造された悠紀・主基の両殿から成るが、 それぞれに同じく〈神座(かみくら)〉〈御衾(おぶすま)〉〈坂枕(さかまくら)〉などが設けられて、悠紀殿ついで主基殿の順で天子による深更・徹宵の秘儀が行われた、 が、秘儀だけにその詳細は知りがたいが、内部の調度より推定すれば、 天子はそこに来臨している皇祖神、天照大神(あまてらすおおかみ)と初穂を共食し、かつ祖霊と合体して再生する所作を行ったらしい。聖別された稲を食することで天子は国土に豊饒を保証する穀霊と化し、さらに天照大神の子としての誕生によって天皇の新たな資格を身につけた、 ものと考えられる(世界大百科事典)とある。 大嘗祭(=新嘗祭)、 の儀式の形が定まったのは、7世紀の皇極天皇の頃とされ、この頃はまだ、 通例の大嘗祭(=新嘗祭)、 と、 践祚大嘗祭、 の区別はなく、通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時が初めとされる。律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として、 践祚大嘗祭、 と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備されたが、 大嘗会(だいじょうえ)、 とも呼ばれるのは、大嘗祭の後に、 3日間にわたる節会、 が行われていたことに由来している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD)。 なお、後には、通常の大嘗祭(=新嘗祭)のことを、 毎年の大嘗、 践祚大嘗祭を、 毎世の大嘗、 とも呼んだ(仝上)。元来、 記紀では大嘗・新嘗は、「祭」とも「会」とも称されていない。単に「大嘗」、「新嘗」とだけ記されている。奈良時代になると、「大嘗会」「新嘗会」と称されるようになり、平安時代となると、公式の記録では「大嘗祭」「新嘗祭」とされたが、日記類ではほとんどが「大嘗会」「新嘗会」である(仝上)ことから、大嘗・新嘗を構成する重要な要素の一つが、 会、 にあった(仝上)とされる。 大嘗祭、 は、 古代の王権の歴史とともに古く、その淵源は農村の収穫儀礼や成年式に求めることができる、 とある(世界大百科事典)。 厳格化され肥大・分化してゆく「大嘗祭」の施行の細部は、「貞観儀式(じようがんぎしき)」(871ころ)、「延喜式(えんぎしき)」(927)、「江家次第(ごうけしだい)」(1111)などに記録されているが、その大略は、 (1)即位の年の4月、悠紀(ゆき)国・主基(すき)国(悠紀・主基)の卜定。検校行事の任命。 (2)大嘗祭の年8月上旬に大祓使(おおはらえし)を卜定し、左右京に1人、五畿内(ごきない)1人、七道に各1人を差し遣わし、下旬に抜穂使(ぬきほし)を卜定し斎国(いつきのくに)に遣わし、使はその国に至って斎田(さいでん)、斎場雑色人(ぞうしきにん)らを卜定し、9月になり稲穂を抜き取り、その初めに抜いた四束を御飯(みい)として、あとを黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供することとし、9月下旬斎場院外の仮屋に収めた。 (3)9月、伊勢(いせ)の神宮以下諸国の天神地祇に幣帛(へいはく)を供す。悠紀・主基両国の神田からから、神饌用の稲・粟をもった雑色人たちが抜穂使らに率いられて上京し、内裏の北方に悠紀と主基の斎場を作り、井を掘り神酒を醸造し、神衣を織るなどの準備にかかる。九月から宮中は散斎(あらいみ)三ヵ月(のち一ヵ月)、致斎(まいみ)三日の物忌に入る。 (4)10月下旬、天皇は川に臨み御禊(ぎょけい)したが、平安中期以降それは賀茂(かも)川に一定、江戸中期以降宮城内。 (5)11月1日より晦日(みそか)まで散斎(あらいみ)とされ、その祭儀の行われる卯日(うのひ)の前丑(うし)日より3日間は致斎(まいみ)とされ、穢(けが)れに触れることを戒めた。11月上旬(十一月中または下の卯の日)が祭の当日、大嘗宮の設営。祭りの7日前より大嘗宮をつくり始めるが、5日以内につくり終える。 (6)11月の中の寅の日、(新嘗祭に同じく)鎮魂祭(ちんこんさい)。 (7)同卯の日の夜半より翌朝まで、大嘗宮の儀。卯の日は、早朝、神祇官で神々を祭り、三百四座の神々に班幣(はんぺい)がある。朝巳の刻に悠紀・主基の斎国の雑色人たちが国司・郡司に率いられて供物の品々を斎場から朝堂院の大嘗宮に運びこむ。造酒児(さかつこ、斎郡郡司の娘)が輿にのって先導し、神饌用の稲や神酒の輿を中心に節会の料物など多量の食物・調度を、悠紀と主基とそれぞれ朱雀大路の左右に分かれて、羅城門から応天門まで数千人が列になって搬入する。この時「標(ひょう)の山」という飾物(祇園祭の「山」のごときもの)も運びこまれる。こうして準備がすっかり整うと、大嘗宮の南北の門には物部氏後裔の石上(いそのかみ)・榎井(えのい)両氏が神楯(かんたて)・神戟(かんほこ)を立て、内物部二人を率いて守りに就く。伴・佐伯二氏は南門の左右の脇にあって時刻がくれば門を開閉する。 神事は夜に入って始まる。まず悠紀の神事であるが、天皇は戌の刻に廻立殿(かいりゅうでん)に入り、小忌(おみ)の湯で身を清め衣服を改めてから大嘗宮の悠紀殿に入る。この際の通路には布単(ぬのひとえ)が敷かれ、さらに天皇の通るところだけに葉薦(はごも)が敷かれている。悠紀殿内の奥の間にあたる室(しつ)の中央には八重畳の座が設けられ、坂枕(さかまくら)が置かれる。天皇が殿内に入って神事が始まる前に、南門が開かれ皇太子以下諸臣が大嘗院に入場して定位置につく。この時隼人(はやと)の犬吠(いぬぼえ)がある。続いて吉野の国栖奏(くずそう)、諸国の語部による古詞(ふるごと)の奏上、また悠紀・主基の斎国による国風(くにぶり)など地方の芸能が奏され、隼人の歌舞も奏される。やがて亥の刻に安曇(あずみ)・高橋両氏が内膳司の官人と采女(うねめ)を率いて松明を先頭に神饌を納めた筥などを悠紀殿に運びこむ。これを「神饌行立(しんせんぎょうりゅう)」という。続いて最も重要な天皇が神に食物を供え、みずからもたべる「神饌親供(しんせんしんぐ)」の儀が始まる。陪膳の采女たちが奉仕して、八重畳の東の神座と御座に米と粟の飯・粥に黒酒(くろき)・白酒(しろき)を中心とした数々の料理の品々の神と天皇の膳を並べる。天皇は神の食薦(けごも)の上に神饌の品々を十枚の葉盤(ひらで)に取り分けたものを供え、その神饌の上に神酒をそそぐ。そして天皇も箸をとってたべる形をとる。この神事が神饌親供である。以上の小忌の湯から神饌親供に至る神事や、諸国の芸能奏上は、主基殿においても丑の刻から寅の刻まで主基の神事としてくり返される。以上で辰の日の暁方に神事は終る。 これ以降、豊楽(ぶらく)院(平安宮では朝堂院の西に隣接する)において三日間続く節会となる。 (8)同辰の日、辰日の節会(せちえ)。 (9)同巳の日、巳日の節会。 (10)同午の日、豊明(とよのあかり)節会。 第二日辰の日には豊楽院に悠紀・主基の御帳が東西に並べて設けられる。天皇は朝辰二点に豊楽院の悠紀御帳に入る。皇太子大臣以下も庭上に整列し、ここで中臣寿詞(なかとみのよごと)奏上や忌部による神器の鏡剣献上という即位儀そのままの儀式がある。次に悠紀・主基の国からの多米都物(ためつもの)の酒・菓子などの品目を奏上、続いて巳の刻から悠紀の御膳があり、五位以上に膳を給わり、六位以下が参入して風俗楽を奏し、悠紀国の国風(くにぶり)の歌がある。午後は主基の御帳に移り、午前と同様に主基の御膳と宴があり、官人たちに賜禄がある。 第三日の巳の日も前日とほぼ同様で、午前に悠紀帳における御膳と五位以上の宴に和舞(やまとまい)、午後は主基帳に移り、御膳と宴になり、田舞や主基の国風と風俗歌がある。ただこの日は寿詞奏上や神器献上の儀はない。辰の日には悠紀の国司らに、巳の日には主基の国司らにそれぞれ賜禄がある。 第四日の午の日は前の二日よりもくだけた感じの宴で、豊明節会(とよのあかりのせちえ)という。豊楽院に高御座(たかみくら)を設け、豊楽院の前に舞台を作る。朝、辰の刻に天皇出御して大嘗祭の功労者に叙位があり宣命が下される。終って饗宴となる。宴の間に吉野の国栖奏、久米舞、吉志舞(きしまい)、悠紀・主基両国の風俗(ふぞく)舞、さらに舞姫たちによる五節舞(ごせちのまい)がある。そして一同拝舞(はいぶ)の後、解斎の和舞があって、四日間の儀式をすべて終る。 平安時代には巳の日の夜、豊楽院後房で清暑堂御神楽(せいしょどうのみかぐら)があって、天皇・公卿らは「徹夜歓楽」と歓をつくす宴であった。さらに未の日には六位以下の官人と斎国の郡司人夫らに叙位賜禄、十一月晦日に大祓(おおはらえ)があってすべての行事が完了する。 というように、7ヵ月にわたって行われる(仝上・国史大辞典)。「豊明(とよのあかり)節会」については、「五節の舞」で触れた。 新嘗祭の前日夕刻に天皇の鎮魂を行う儀式「鎮魂祭(ちんこんさい)」については、「鎮魂(たましずめ)」で、「新嘗祭」については、「にいなめ」で、「五節の舞ついては、「鬢だたら」で、悠紀(ゆうき)・主基(すき)に風俗の歌を唱える童女(いむこ)については「童女」で、「五節の舞」で、大嘗会(だいじょうえ)などの時、菜菓などを盛って神に供える葉手(ひらて)については、「葉椀(くぼて)・葉手(ひらて)」で触れた。 「嘗」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、「にいなめ」で触れたように、 会意兼形声。嘗は「旨(うまいあじ)+音符尚(のせる)」で、食べ物を舌の上にのせて味をみること、転じて、試してみる意となり、さらにやってみた経験が以前にあるという意の副詞となった、 とある(漢字源)。「嘗烝(蒸)」という言葉があるが、これは中国最古の字書『爾雅(じが)』(秦・漢初頃)にある、 春祭曰祠、夏祭曰礿、秋祭曰嘗(シャウ)、冬祭曰蒸、 で、 春の祠、夏の礿、秋の嘗、冬の烝 を、 四祭(しさい)、 四時祭、 という(精選版日本国語大辞典)。別に、「嘗」を、 形声文字です(尚+旨)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」(「請い願う」の意味だが、ここでは、「当(當)」に通じ(同じ読みを持つ「当(當)」と同じ意味を持つようになって)、「当てる」の意味)と「さじの象形と口の象形」(さじで口に食物を流し込む事から、「うまい」の意味)から、「旨い物を舌に当てる」、「味わう」を意味する「嘗」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2401.html)。漢字の、 新嘗(しんじょう)、 は、 野露及新嘗(杜甫)、 とあるように、 新穀を廟にすすめて神をまつる、 意である(字源)。「にいなめ」に当てたのは、この故であろう。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 来(こ)し時と恋ひつつをれば夕暮れの面影にのみ見えわたるかな(古今和歌集)、 は、 夕暮れの面影、 に、 くれのおも、 を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 くれのおも、 は、 呉の母、 懐香、 と当て(広辞苑・デジタル大辞泉)、 セリ科の多年草、ウイキョウ(茴香)の古名、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)に、 ウイキヤウ、一名懐芸、一名懐香、久禮乃於毛、 とあり、和名類聚抄(931〜38年)も同じ、 とある(大言海)。 呉、 とは、 呉(くれ)の國よりの移植なり(茴香は、地中海沿岸の原産なりと云ふ)、 の故で、 おも、 は、 藝(ウン)の呉音、ヲンの転なり(烏帽子(えぼし)、焉帽子(えんぼうし)。ねもごろ、ねんごろ。寡(やもめ)、やむめ)、草の香(芸草)などと、音訓、混成したる、同趣の語にして、莖、葉、共に香気あること、芸香(クサノカウ)に同じ、 とある(大言海)が、 ウン、 の音は、 漢音、 の例外のようである(漢辞海・https://kanji.jitenon.jp/kanji/493.html)。 ウイキョウ、 は、 茴香、 懐香、 と当て、 セリ科の多年草、南ヨーロッパ原産の栽培種。高さ二メートルに及ぶものもある。葉は大きくて、糸状に細かく裂け、コスモスの葉に似る。夏、枝先に黄色い五弁の小花が球状にかたまって咲き、秋、卵形をした楕円形の実がなる。茎、葉、実ともに香りがあり、香味料となる、 とあり、実は、 健胃剤や、痰(たん)をきる薬とし、せっけんなどの香料、 ともする(精選版日本国語大辞典)。 中国へは4、5世紀に西域から伝わり、日本へは9世紀以前に中国から渡来した、 とされる(日本大百科全書)。 「呉」(漢音ゴ、呉音グ)は、「呉牛」で触れたように、 会意。「口+人が頭をかしげるさま」。人が頭をかしげて、口をあけ笑いさざめくさまを示し、娯楽の娯の原字。古くから国名に当てる、 とある(漢字源)。別に、 口と、夨(しよく 頭をかたむけた人)とから成り、顔をそむけるほどの大声の意を表す、 ともある(角川新字源)。ただ、口を開けて笑うさま(藤堂明保)とは別に、 祭器を担いで踊る様(白川静)、 との解釈もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%89)ので、 象形文字です。「頭に大きなかぶりものをつけて、舞い狂う」象形から「やかましい」、「はなやかに楽しむ」を意味する「呉」という漢字が成り立ちました、 との説になる(https://okjiten.jp/kanji1685.html)。 「茴」(漢音カイ、呉音エ・ウイ)は、 会意兼形声。「艸+音符回(まるい)」、 とあり(漢字源)、茴香に当てる。実が楕円形のためかと思われる。 別に、 形声、声符は回(かい)。香(ういきよう)は香草。〔玉〕に「香なり」とみえる。また懐香ともいう。字はもとに作る、 と(字通)、形声文字とする説もある。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 風吹けば波越す磯の磯馴(そなれ)松ねにあらわれて泣きぬべらなり(古今和歌集)、 の、 磯馴(そなれ)松、 は、 磯馴れ松の約、 で、 風に吹かれて幹や枝が一方に傾いた松、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 「水馴木(みなれぎ)」で触れたが、 磯馴(そなれ)、 は、 動詞「そなる(磯馴)」の連用形の名詞、 であり(精選版日本国語大辞典)、 潮風のために木が地面に低くなびいて、傾き生えること、 をいい、 そな(磯馴)る、 の「そ」は、 いそ(磯)」の変化したもの、 で、 荒磯の波にそなれて這ふ松はみさごのゐるぞたよりなりける(山家集)、 と、 下二段活用の自動詞、 で、 海岸の木が風波に順応し、磯を這うような姿になる、 意で(岩波古語辞典)、 普通に、磯馴松と書けば、ソはイソの略などと見て、濱邊の磯に馴れたる松のやうに思ふ人あれど、風にも云へれば、山風、濱風に副ひ馴るる意の語なり、 とある(大言海)のは、そんな含意である。 いそな(磯馴)れる、 というと、 下一段活用の自動詞、 で、 礒なれし松も見らるるねはんかな(白雄句集)、 と、 強い潮風のために樹木が地面になびいて生え延びる、 意である(精選版日本国語大辞典)。 そな(磯馴)る、 は、 見慣れ磯馴れて別るる程は(源氏物語)、 と、 見慣れ磯馴れ、 の形で、 長年馴れ親しむ、 意だが、 「見慣れ」に「水馴れ」を掛け、単に語調を合わせるために「磯馴れ」と続けたにすぎない、 とある(岩波古語辞典)。 海岸などに傾き生えている木、 を、 磯馴(そな)れ木、 といい、 海岸などに傾き生えている松、 を、 磯馴(そな)れ松、 という(仝上)。 磯馴松(そなれまつ)、 は、 潮風に曝されるため背が低くなっている松、 とか、 潮風に晒されたために傾いて生えた松、 をいう(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%A4)が、冒頭のように、 風ふけば波こすいそのそなれまつ根にあらはれてなきぬべら也(「古今六帖(976〜87)」)、 とあるので、 海の強い潮風のために枝や幹が低くなびき傾いて生えている松、 というところ(精選版日本国語大辞典)だろう。 「馴」(漢音シュン、呉音ジュン)は、「水馴木」で触れたように、 会意兼形声。「馬+音符川」で、川が一定のすじ道に従ってながれるように、馬が従いなれること、 とある(漢字源)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 吉野山こぞのしをりの道変へてまだ見ぬ方の花を尋ねむ(西行)、 の、 こぞのしをり、 は、 去年したしおり、 の意、 しをり、 は、 枝折り、 で、 道しるべのために木の枝を折ること、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。西行は、この歌の他にも、 しをりせでなほ山深くわけ入らんうきこと聞かぬ所ありやと(新古今和歌集)、 がある。これに合わせて、 吉野山深く入るとも春のうちは桜が枝をしをりにはせじ(林葉集)、 も引用している(仝上)。 しおり、 は、 枝折(しを・しほ)る、 の連用形の名詞化で、 しをり、 と表記することも多い(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)。本来、 しおりして行く旅なれどかりそめの命しらねばかへりしもせじ(大和物語)、 と、 草木の枝を折り取ること、 また、 折り取った枝、 の意だが、上述のように、 木の枝を折って目じるしとする、 意になり、転じて、 道案内する、 道しるべとする、 意に使う(岩波古語辞典)。ここから、 紙・布・革などで作り、書物の間に挟んで目印とする、 栞、 の意に使う(仝上)。これは、道しるべに、 草や紙などを目じるしとなる木の枝に結んでおく方法、 もあり、 読みさしの本に挟んでおく栞もまた帰路の道しるべの一種である、 との解釈もある(世界大百科事典)。なお、 枝折、 は、 柴折、 とも当てるが、折口信夫は、 峠や山の口にあって通行の安全を守る道祖神のことを柴神、柴折様などとよんで、通りすがりの人が柴や青草を手向ける習俗がある、 とし、柳田国男は、この柴神を、 柴をまつり柴を手向けとする神の名であるとして、柴は今日でいうサカキ(榊)またはシキミ(樒)のことである、 としている(仝上)。で、 柴神(しばがみ)、 は、 榊などの枝を手折って、これを賽物(さいもつ 供物)とした無名の岐神(くなとのかみ)などの総称と考えられる。したがって〈しおり〉もまた単なる道しるべではなくて、もともとは行路の安全を祈願するための柴神への賽物であったと考えられる、 との説がある(仝上)。 ところで、動詞、 枝折(しを・しほ)る、 も、同様に、 世のうさにしほらで入りし奥山に何とて人の尋ね来つらん(浜松中納言物語)、 と、 木の枝などを折りたわめる、 迷いやすい山道などで、小枝を折るなどして道しるべとする、 また、 草を結び、あるいは紙などを木の枝につけて道しるべとする、 意だが、転じて、 さきぬやとしらぬ山路に尋ねいる我をば花のしをるなりけり(千載集)、 と、 道案内をする、 道しるべする、 意に使う(精選版日本国語大辞典)。江戸時代、 まくたたむ事をしほるといふは、そなはりたること葉なれ共、用捨の所ありて、まくあくるといひ、又はおさむるといふ(咄本「私可多咄(1671)」)、 と、 幕をたたむ、 意で使うのは、 折る、 からの意味のシフトであろうか(仝上)。 枝折る、 の由来には、 柴折(しばを)りの略(南嶺遺稿・安斎随筆・言元梯・和訓栞・国語溯原=大矢徹・大言海)、 シルベオリの略(和字正濫鈔)、 枝折の義(古今沿革考・異説まちまち・草蘆漫筆)、 シメヲリ(標折)の義(茅窓漫録・和訓栞) シルシヲリ(験折)の義か(志不可起・和歌色葉)、 等々諸説あるが、 枝折の義、 が自然だが、 「しおる(撓)」と同一語源で「枝折」は当て字であろう、 とあり(精選版日本国語大辞典)、鎌倉時代の辞書「名語記」(みょうごき 経尊)に、 さきをり也、道をわすれじと柴のさきを折て、しるしとする義也、さきを反せはし也、おりは折也、又云、すきおり歟、過折也、すぐる道をわすれじとしるしの木をおれば也、 とある(仝上)。 撓る、 は、 萎る、 とも当て、現代語では、 しおれる、 に当たるが、歴史的仮名遣いは、 しをれる(しをる)、 ともするのは、 しほる、 の、 ほ、 が、ハ行転呼を起こしたため、早くから、 しをる、 と表記されたため(日本語源大辞典)とある。 植物が雪や風に押されて、たわみ、うなだれる、 意である。で、 撓ひ折るる意か、或は、荒折(さびを)るの約かと(大言海)、 シジム(縮)のシと、オルル(折)とが重なった語か(国語の語根とその分類=大島正健)、 等々があるが、むしろ、 しぼむ(縮)、 や、 「しおお(しほほ)」、「しおたれる(しほたる)」などとの関連が考えられる、 とされ(精選版日本国語大辞典)、 しほる(霑)、 との関連の方が気になる。なお、 枝折戸(しをりど)、 は、 柴折戸、 とも当て、 折った木の枝や竹をそのまま使った簡単な開き戸、 をいい、 多く庭の出入り口などに設ける(デジタル大辞泉)。もともとは、 粗末な開き戸、 を意味したが、今日では和風庭園などで風雅を求めて用いられ、茶庭では、露地門として使われる場合が多い(仝上)とある。特に、 茶庭では露地門の一形式、 として風雅を喜ばれている(仝上)という。 「枝」(漢音シ・キ、呉音シ・ギ)は、「枝」で触れたように、 支、 とも当てる。 幹の対、 であり、 会意兼形声。支(キ・シ)は「竹のえだ一本+又(手)」で、一本のえだを手に持つさま。枝は「木+音符支」で、支の元の意味をあらわす、 とある(漢字源)。手足の意では、 肢(シ)、 指の意では、 跂(キ)、 の字が同系である(仝上)。もと、 「枳」が{枝}を表す字であり、「枝」はその後起形声字である、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9E%9D)。 「栞」(カン)は、 会意兼形声。干(カン)は、上端が揃ったさまを描いた象形文字。栞はそれを音符として、木を加えた字で、同じ大きさに四角く切り取った木の札、 とあり(漢字源)、 山林を歩くときに道の目じるしとするために折った木の枝、 つまり、 しをり、 の意である(仝上)。別に、 会意兼形声文字です(幵+木)。「2本の竿を並べて上が平らな」象形(「平ら」の意味だが、ここでは、「削る」の意味)と「大地を覆う木」の象形(「木」の意味)から、「しおり(木を削り削りして道しるべとしたもの)」を意味する「栞」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2328.html)が、 形声。「木」+音符「干 /*KAN/」×2。「きる」「けずる」を意味する漢語{刊 /*khaan/}を表す字、 も(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A0%9E)、 形声。木と、幵音符(ケン)→(カン)とから成る、 も(角川新字源)、形声文字とする。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) かざし折る三輪の繁(しげ)山かき分けてあはれとぞ思ふ杉立てる門(かど)(新古今和歌集)、 の、 かざし折る、 は、 いにしへにありけむ人もわがごとや三輪の檜原にかざし折りけむ(拾遺集・柿本人麻呂)の歌によって、「三輪の繁山」の枕詞のように冠した、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 かざし、 は、「山かづら」で触れたように、 挿頭、 挿頭華、 と当て、 秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや(万葉集)、 と、上代、 草木の花や枝などを髪に挿したこと、また、挿した花や枝、 をいい、平安時代以後は、冠に挿すことにもいい、多く造花を用いた(デジタル大辞泉)とあり、 幸いを願う呪術的行為が、のち飾りになったもの、 とある(仝上)。古墳時代には、これを、 髻華(うず)、 といい、飛鳥時代には、髪に挿すばかりではなく、冠に金属製の造花や鳥の尾、豹(ひょう)の尾を挿して飾りとし、平安時代になって、冠に挿す季節の花の折り枝や造花を、 挿頭華(かざし)、 とよぶようになった。造花には絹糸でつくった糸花のほか金や銀製のものがあった。その挿し方は、 冠の巾子(こじ)の根元につけられている上緒(あげお)に挿すが、官位、儀式により用いる花の種類が相違し、大嘗会(だいじょうえ)には、 天皇菊花、 親王紅梅、 大臣藤花、 納言(なごん)桜花、 参議山吹、 と決められた。 祭りの使(つかい)および列見(れっけん)(朝廷で2月11日に六位以下の官吏を位階昇進の手続のため閲見、点呼する儀式)などの行事に参列する大臣以下も同じで、非参議以下はその時の花を用いる、 とある(日本大百科全書)。 髻華(うず)、 は、 巫女の頭飾りのルーツ、 で、 山の植物の霊的なパワーを得るため髪や冠に草花や木の枝を挿すもの、 とされ、現在の巫女の頭飾りに用いる花もこれを踏襲している(https://gejideji.exblog.jp/31187471/)。上代、 蔓草を採りて、髪に挿して飾りとしたるもの、又、種々の植物の花枝などをも用ゐたり、後の髻華(ウズ)、挿頭花(かざし)も、是れの移りたるなり、 とある(大言海)。もと、 植物の生命力を身につけようとする感染呪術より生じ、のちに装飾となった、 とある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 挿頭、 の動詞が、 挿頭(かざ)す、 で、 カミサシ(髪挿す)の転(岩波古語辞典)、 髪刺すの義、鬘(かつら)も、髪蔓(髪蔓)の略(大言海)、 カサス(頭刺)の義(万葉考・雅言考・言元梯)、 とあり、 kamisasi→kamsasi→kanzasi→kazasi、 と転訛したと思われる(岩波古語辞典)が、 かざす、 行為は、植物を挿して身に着けることにより、自然のもつ霊力を自分に感染させる意味があった、 とあり(日本語源大辞典)、 かづら(カミ(髪)ツラ(蔓)の約)、 かづらく(鬘く)、 も、長い蔓のものを頭に着け、蔓草の感染呪術の意味を持つものである、 とし(仝上・岩波古語辞典)、後世の、 花簪(はなかんざし)、 も同様(大言海)で、この、 かざす、 から、後世、 かざる(飾)、 を派生する(日本語源大辞典)とある。 「挿(插」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、 会意兼形声。臿(ソウ)は「臼(うす)+干(きね)」からなり、臼の中にきねの棒を差し込むさまを示す。插は「手+音符臿」で、臿の原義を表す、 とあり(漢字源)、別に、 会意形声。手と、臿(セフ、サフ うすづく、さしこむ)とから成り、さしこむ意を表す。常用漢字は俗字の省略形による、 も(角川新字源)、 会意兼形声文字です(扌(手)+臿)。「5本の指のある手」の象形と「うすにきねをさしこんだ」象形から「手でさしこむ」を意味する「挿」という漢字が成り立ちました、 も(https://okjiten.jp/kanji1972.html)、会意兼形声文字とするが、 形声。「手」+音符「臿 /*TSOP/」。「さしこむ」を意味する漢語{插 /*tshrop/}を表す字。「臿」は矢を矢筒に挿入するさまを象る象形文字で[字源 1]、もと「臿」が{插}を表す字であったが、手偏を加えて「插」となった、 と(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8F%92)、形声文字とする説もある。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 久方の天つ乙女が夏衣くもゐにさらす布引の滝(有家朝臣)、 の、 天つ乙女、 は、 天女、 である(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 天つ乙女(あまつをとめ)、 には、 天上に住むという少女、 つまり、 天女、 の意(広辞苑)の他に、 天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ(良岑宗貞(僧正遍照)) の、詞書に、 五節の舞姫をみてよめる、 とあり、 をとめ、 で、 五節の舞姫を天女に見立てており(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、 五節(ごせち)の舞姫、 を、天女になぞらえても使う(広辞苑)。「五節の舞姫」については「五節の舞」で触れた。 天つ乙女、 は、 天津乙女、 と当て(大言海)、 天少女(あまをとめ)、 天乙女(あまをとめ)、 とも、 天人、 天女、 ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 天霧る、 で触れたように、 あま(天)、 は、 あまつおとめの(天つ少女)、 あまつえだ(天つ枝)、 あまつかぜ(天つ風)、 あまついわさか(天つ磐境)、 あまつかみ(天つ神)、 あまつかみのみこ(天つ神の御子)、 あまつくもい(天つ雲居)、 あまつそら(天つ空)、 あまつのりと(天つ祝詞)、 あまつひつぎ(天つ日嗣)、 あまつひもろき(天つ神籬)、 あまつみや(天つ宮)、 等々様々に使われるが、 「あめ(天)」に同じ。多く助詞「つ」あるいは「の」を介して他の語を修飾し、また直接複合語をつくるときの形、 で(大辞林)、 あまつ、 の、 あま、 は、 あめ、 が、 熟語に冠したる時の音転なり、爪(つめ)、爪(つま)先。目(メ)、まぶた(蓋)。雨(アメ)、雨(あま)雲、雨(あま)水、 と(大言海)、 あめ(天)の母音交替形、 で、 アカ(赤・明)からアケ(朱・明)が派生するように、ア段で終わる語根に母音iが下接して、エ段音(乙類)になった形が名詞・動詞連用形などに転じることが少なくないが、それに準じればアマがアメの原形あると考えてよい、 と(日本語源大辞典)、 アメの古形、 ということになる(広辞苑)。 ツは、 ツは上代の助詞、 で(大辞泉)、 天の、 天にある、 の意となり(大辞林)、「あま」は、 あをによし奈良の都にたなびけるあまの白雲見れど飽かぬかも(万葉集)、 と、 そら、 てん、 の意で(広辞苑)、 天雲、 天人(あまびと)、 天降(くだ)る、 天霧(ぎ)る、 等々、 天に関する事物、また、高天原(たかまがはら)に関する事物に冠して用いる、 とあり(日本国語大辞典)、 アマは何もないという意のソラ(空)とは異なり、奈良時代及びそれ以前には、天上にある一つの世界の意。天上で生活を営んでいると信じられた神々の住むところを指した。天皇家の祖先はアマから降下してきたと建国の神話にあり、万葉集などにも歌われている。それでアマは、天上・宮廷・天空に関する語に付けて使う、 というもので(岩波古語辞典)、 あま、 の古形、 あめ(天)、 は、 天つ神の住む天上の世界、 なので、古くは、 地上の「くに」の対、 後に、アメが天界の意から単なる空の意に解されるに至って、 「つち」の対、 となる(仝上)。 をとめ、 は、古くは、 をとこの対、 で(岩波古語辞典)、 少女、 乙女、 と当てる(広辞苑・大言海)。和名類聚鈔(平安中期)は、 少女、乎止米、 類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう 11〜12世紀)は、 少女、ヲトメ、 としている。 「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」などと同様、「こ」「め」を男女の対立を示す形態素として、「をとこ」に対する語として成立した、 もので(精選版日本国語大辞典)、 ヲトは、ヲツ(変若)・ヲチ(復)と同根、若い生命力が活動すること。メは女。上代では結婚期にある少女。特に宮廷に奉仕する若い官女の意に使われ、平安時代以後は女性一般の名は「をんな(女)」に譲り、ヲトメは(五節の)舞姫の意、 とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。 風のむた(牟多 共)寄せ來る波に漁(いさり)する海人(あま)のをとめが裳の裾濡れぬ(万葉集)、 と、 少女、 の意から、 藤原の大宮仕へ生れつがむをとめがともは羨(とも)しきろかも(万葉集)、 宮廷につかえる若い官女、 の意でも、 (五節の舞姫を見て詠める)あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめの姿しばととどめむ(古今集)、 と、 舞姫、 の意でも使われる。 「乙」(漢音イツ、呉音オツ・オチ)は、「をとめ」で触れたように、 指事。つかえ曲がって止まることを示す。軋(アツ 車輪で上から下へ押さえる)や吃(キツ 息がつまる)などに音符として含まれる、 とある(漢字源)が、別に、 象形。草木が曲がりくねって芽生えるさまにかたどる。借りて、十干(じつかん)の第二位に用いる、 ともあり(角川新字源)、さらに、 指事。ものがつかえて進まないさま(藤堂)。象形:へらとして用いた獣の骨を象る(白川)。十干に用いられるうち、原義が忘れられた、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%99)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 梅の花咲きたる園の青柳(あをやぎ)は可豆良(カヅラ)にすべくなりにけらずや(万葉集)、 の、 かづら、 は、 鬘、 と当て、 蔓草で作った髪飾り、 をいい、 蔓草や羽などを輪にして作った、 とある(岩波古語辞典)。万葉集時代は、 柳(と梅)・菖蒲(と花橘)さ百合などを用いた(仝上)、 青柳、アヤメ、ユリ、藻草、稲穂などの種々の植物を、髪の飾りとした(精選版日本国語大辞典)、 などとある(仝上)。平安時代前期の歴史書『古語拾遺』には、 以眞辟葛(マサキカヅラ)為鬘、 とある。後の、 髻華(うず)、挿頭花(かざし)も、是の移りたるなり、 とある(大言海)が、 「うず」や「かざし」が枝のまま髪に突きさした、 のに対し、「かづら」は、 髪に結んだり、巻きつけたり、からませたりして用いた。元来は、植物の生命力を身に移そうとした、感染呪術に基づく、 とあり(精選版日本国語大辞典)、上代には男女ともに結髪をしていたが、 初めは頭髪を蔓草や布帛(ふはく)などで結んだものが自然に装飾視されるようになり、頭飾の一種となったものであろう。この点で挿頭(かざし)などと出発点を異にしている、 ともある(世界大百科事典)。 上代のかづらには、 まさきかづら、 木綿(ゆう)かづら、 などが見えるが、のちには、 蔓草や植物繊維にかぎらず、季節の花葉果実をひもに連ねてかづらとした、 が、男子が一般に冠帽をかぶるようになっても、この風習が遊宴や神事のときに残り、万葉集に、 梅の花咲きたる苑(にわ)の青柳は蘰(かずら)にすべくなりにけらずや、 あしびきの山下日蔭かづらける上にやさらに梅をしのばむ、 などとある(仝上)。で、 ひかげのかずら、 や ゆうかずら、 は、大嘗祭(だいじようさい)には冠の巾子(こじ)から細いあげ巻の組ひもを結びたれ、これを〈ひかげの糸〉ともいい、木綿かずらも、大和舞の舞人などが冠に紙の幣をつけることになごりをとどめた(仝上)とある。「さがりごけ」で触れたように、 ヒカゲノカズラ、 は、 践祚の大嘗祭、凡そ斎服には……親王以下女孺(にょじゅ、めのわらわ 下級女官)以上、皆蘿葛(延喜式)、 と、 新嘗(にいなめ)祭・大嘗(だいじょう)祭などの神事に、物忌のしるしとして冠の笄(こうがい)の左右に結んで垂れた青色または白色の組糸、 を呼ぶ(岩波古語辞典・広辞苑)のは、もと、 植物のヒカゲノカズラを用いたための称、 とある(仝上)。なお、 髻華(うず)、 挿頭(かざし)、 については、「かざし」で触れた。 玉かづら、 で触れたことだが、 かづら、 に、 ヒカゲノカズラ、 ヘクソカズラ、 ビナンカズラ、 等々の特定の植物をさすとする説もある(精選版日本国語大辞典仝上)。また、 山かづら、 は、 ヒカゲノカズラで結ったカズラ、 をいい、 神事に用いた、 とされ(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 マサキノカヅラ(真拆葛 「ていかかずら(定家葛)」または「つるまさき(蔓柾)」の異名)にて結ひたるかづら、 ともある(大言海)。 かづら、 の由来の多くは、 カミ(髪)ツラ(蔓)の約(岩波古語辞典・玄同放言・雅言考) 鬘の字は、髪蔓(ハツマン)なり、髪蔓(カミツラ)の約、ツラは、蔓。髪刺(カミサシ)が挿頭(かざし)となるが如し(大言海)、 カは髪、ツラはツル(蔓)の母音交替形(時代別国語大辞典-上代編)、 カミツラナル(髪連)の義(日本釈名・言元梯・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 髪にツラネル(聯)義(日本語源=賀茂百樹)、 等々、髪に巻き付けた用法からとみて、 kamitura→kamtura→kaduraki→kadura、 と転訛した(岩波古語辞典)ようだ。この用法のため、 かづら、 は、 葛、 蔓、 と当てて、 鬘にする蔓草の総称、 としても使う(岩波古語辞典・広辞苑)。新撰字鏡(898〜901)に、 葛、加豆良(かづら)、 とあり、 藤かづら、蔦かづら、葛(くず)かづら、すひかづら、さねかづら、眞析(まさきづら)、 が載る(大言海)。基本的には、 カツラ(鬘)と同じ(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 と、 鬘(かづら)、 と同語源(日本語源大辞典)とみられるが、 神代紀に伊弉諾(いざなぎ)神の黒き御鬘(みかづら)の化して蒲萄(エビカヅラ)となりしに起これる語なるべし、ツルのツはツヅクの義、カは髪(東雅)、 カは助語、ツラはツル(蔓)の転(東雅・非南留別志)、 カは上から覆う意をもつ語、ツラは蔓で、カツラ(覆蔓)の義、カは髪とするのは非(古今要覧稿)、 カカリツラナル(掛連)義(日本紀和歌略註・言元梯・名言通)、 カカリツルからか、またカカヅラフから(和句解)、 等々、苦しい説があるのは、 鬘、 と 葛・蔓、 を別と考えるからではないか。さて、 蔓草や花などを頭髪の飾り、 とした、 かづら、 は、転じて、 わが御ぐしの落ちたりけるを取り集めてかつらにし給へるが、九尺余ばかりにて、いと清らなるを(源氏物語)、 と、 髪の薄い人、短い人などが添え加えた髪、 の意となる(精選版日本国語大辞典)。和名類聚抄(931〜38年)に、 髪少者、所以被助其髪也、加都良、 とあり、 一名、添髪(そへがみ)、 また、垂髪(スベラカシ 髻(もとどり)の末を背後にすべらかし、永く垂れ下げる)髪の末に加ふるを、 すゑ、 ともいい、後の、 かもじ(髪文字・髢)、 である(大言海)。平安・鎌倉時代は宮廷女性に用いられたが、江戸中期以後女髷(おんなまげ)が発達し、 前髪、髷、鬢(びん)、髱(たぼ)の構成による複雑な髪形が結われるようになると、かもじの種数も多くなった。髷の根に足す根かもじをはじめ、鬢や髱に部分的なかもじを使うようになった。鬢のかもじは髪毛を1列に並べて、蓑の形に似ているところから、「びんみの」と呼ばれた、 とある(世界大百科事典)。これが、今日の、 かつら、 つまり、 種々の髪型に作って頭にかぶるようにしたもの、 につながる(精選版日本国語大辞典)。もとは、演劇用として発達したが、現在では髪型を変えるためなどに使われるに至っている。今風に言えば、 ウイッグ、 ヘアピース、 エクステンション、 というところだろう(デジタル大辞泉)。 「玉かづら」、「山かづら」、「葛かづら」、「葛」については触れた。 「葛」(漢音カツ、呉音カチ)は、「玉かづら」で触れたように、 会意兼形声。「艸+音符曷(カツ 水分がない、かわく)」。茎がかわいてつる状をなし、切っても汁が出ない植物、 とある(漢字源)。「くず」の意である。また、 会意兼形声文字です(艸+曷)。「並び生えた草」の象形と「口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形」(「祈りの言葉を言って、幸福を求める、高く上げる」の意味)から、木などにからみついて高く伸びていく草「くず」、「草・木のつる」を意味する「葛」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2110.html)が、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%9B)、 形声。「艸」+音符「曷 /*KAT/」(仝上)、 形声。艸と、音符曷(カツ)とから成る(角川新字源)、 とする説がある。 「鬘」(慣用マン、漢音バン、呉音メン)は、「玉かづら」で触れたように、 会意兼形声。「髟(かみの毛)+音符曼(かぶせてたらす)」、 とあり(漢字源)、「髪がふさふさと垂れさがるさま」「インドふうの、花を連ねて首や体を飾る飾り」(仝上)の意である。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) ももしきの内のみ常に恋しくて雲の八重立つ山は住み憂し(如覚) の、 ももしきの、 は、 「内」にかかる枕詞、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。また、 百礒城の大宮人は暇(いとま)あれや梅をかざしてここに集へる(万葉集) 布勢(ふせ)の浦を行(ゆき)きてし見てばももしきの大宮人に語り継ぎてむ(万葉集)、 ももしきの淤富美夜比登(オホミヤヒト)はうづら鳥領布(ひれ)取りかけて(古事記)、 などと、 大宮人、 にもかかる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。上述の、 毛毛志紀能(モモシキノ)大宮人は鶉鳥(うづらとり)領巾(ひれ)取り掛けて(古事記)、 の、 ももしきの、 は、 百磯城の、 百敷の、 百国石の、 等々と当て(岩波古語辞典)、 ももしき、 は、 多くの石や木で造った「大宮」の意から、「大宮」にかかる、 とも、一説に、 多くの石で築いた城(き)の意でかかる、 とある(精選版日本国語大辞典)。 春草の茂く生ひたる霞たち春日の霧(き)れる百磯城之(ももしきの)大宮所見れば悲しも(万葉集)、 と、 「万葉集」ではすべて、枕詞として用いられているが、平安時代以降、枕詞としての用例は減少し、「万葉集」で「大宮人」と「大宮所」にかかっていたものが、「大宮人」のみにかかるようになる(仝上)、 とある。枕詞としての、 ももしきの、 から転じて、 ももしき、 は、 百敷、 百磯城、 と当て(日本語源大辞典)、後世は、 ももしぎ、 ともいい、 白露はおきて変われどももしきのうつろふ秋はものぞかなしき(伊勢)、 と、 内裏、 宮中、 禁裏、 の意で用いるようになっていく(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。この、 ももしき、 は、 百(もも)は、満盛廣大などの意、敷は、敷地などの敷、川敷、蔵敷、屋敷、道敷などと同趣(大言海)、 モモは百の義。シキは石城で、石を繞らして一定の地を限る意(読史百話=喜田貞吉)、 百官の座を敷くところだから(古今集注・河海抄・名語記・貞丈雑記・年々随筆・一挙博覧)、 崇神天皇の長い治世を祝って、そのシキノミヅガキ(磯城瑞籬)宮に因み、百敷城といったところからか(万葉代匠記・万葉集類林)、 百の寮をシキススムル(敷奏)の義(和訓栞)、 大宮を建てるに地を広く敷く意(安斎随筆)、 モモはタモチカゾフル意、シキはシキツラヌル意(皇国辞解)、 等々、諸説あるが、付会の説が多く、 敷く、 は、 一面に物や力を広げて限度まで一杯にする、すみずみまで力を及ぼす意、シク(及・頻)と同根、 とあり(岩波古語辞典)、 領(し)く、 とも当て、 あたり一面に隅々まで力を及ぼす、 意と見られ、意味としては、 百(もも)は、満盛廣大などの意、敷は、敷地などの敷、川敷、蔵敷、屋敷、道敷などと同趣(大言海)、 なのだと思うが、「しきしまの」で触れたように、 しきしま、 は、 敷島、 磯城島、 志貴嶋、 などと当て、 都を倭(やまと)の国の磯城郡の磯城島に遷す(日本書紀・欽明一年)、 と、 欽明天皇の、大和国、磯城郡、磯城島に、宮居したまへるに起こる、 とある、 大和国磯城郡の地、 で、 崇神・欽明両天皇の宮があったと伝承される地、 とされ、 大三輪町金屋辺り、 とされる(岩波古語辞典・大言海)。 秋津島の如し、 とある(大言海)。これは、 秋津洲、 が、 大和の一地名アキヅ(「秋津」 奈良時代、葛城地方の別名)が広がって日本全国を謂うようになった、 のと同趣ということである(岩波古語辞典・日本歴史地名大系)。こう見ると、 ももしき、 の由来としては、 崇神天皇の長い治世を祝って、そのシキノミヅガキ(磯城瑞籬)宮に因み、百敷城といったところからか(万葉代匠記・万葉集類林)、 との説が見過ごせないが、そもそもの、この、 しきしま、 の語源は、そうした背景を考えると、 イシキシマ(石城島)の義(日本語原学=林甕臣)、 シキシマ(敷版間)の義(柴門和語類集)、 シキはサキ(幸)の転声(和語私臆鈔)、 イザナギ・イザナミの赤白の神が滓を固めて造った國というところから、色嶋の義。また、東夷・南蛮・西戎・北狄の四将軍の城があるところから、四城嶋の義か(古今集注)、 と諸説あるが、 ひろく統べる、 という含意でいいのではなかろうか。ただ、 敷島、 と当てるのは、 おしなべて今朝の霞の敷島やまともろこし春を知るらむ(続拾遺集)、 敷島の三輪の社の(曾丹集・序)、 など、平安時代の後半と、比較的新しい(日本語源大辞典)とされている。 「百」(漢音ハク、呉音ヒャク)は、 形声。「一+音符白」を合わせた字(合文)で、もと一百のこと。白(漢音ハク・呉音ビャク)は音符で、白いという意味とは関係ない、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BE・角川新字源)。別に、 形声文字です(一+白)。「1本の横線」(「ひとつ」の意味)と「頭の白い骨または、日光または、どんぐりの実」の象形(「白い」の意味だが、ここでは、「博」に通じ、「ひろい」の意味)から、大きい数「ひゃく」を意味する「百」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji133.html)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 風吹けば波越す磯の磯馴(そなれ)松ねにあらわれて泣きぬべらなり(古今和歌集)、 見てもまたまたも見まくのほしければなるるを人はいとふべらなり(仝上)、 の、 べらなり、 は、 助動詞「べし」の語幹「べ」に接続辞(接尾語)「ら」が接し、さらに指定の助動詞「なり」の接続したもの、平安初期には訓点語として用いられ、中期には歌語として盛んに用いられた、 とあり(広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、「古今集」など、平安初期の和歌文学作品で、男性歌人が多く使っているため、 当時の男性が口頭語で用いた、 とする説もあるが、定かでない(精選版日本国語大辞典)とある。平安中期以降は古語化していったようで、「俊頼髄脳」に、 「べらなり」といふことは、げに昔のことばなれば、世の末には、聞きつかぬやうに聞こゆ、 とある(仝上)。 ○・べらに・べらなり・べらなる・べらなれ・○、 と活用し、 活用語の終止形、ラ変型活用は連体形に付く、 形で使われ、 可(べ)うあらむなりの約という、 とされ(大言海)、 ……する様子だ、 ……らしい、 ……するそうな、 ……ように思われる、 といった意味で使われる(仝上)。 成立については、 べし、 と関係づける解釈が一般的で、「清し」から「清らなり」が派生したのと同様に、「べし」から派生したとされる。形態、意味、接続、上接語の傾向などの点で「べし」との類似性が認められる、 とある(精選版日本国語大辞典)。 べし、 は、 bësi、 とあり(岩波古語辞典)、奈良時代は、 べく・べし・べき、 と、未然形がなかったが、平安時代以後、已然形、 べけれ(べき+ありの已然形あれ)、 が発達した(岩波古語辞典)とある。 べし、 の意味の基本は、 物事の動作・状態を必然・当然の理として納得する外はない状態にある、 と判断を下す点にあり、そこから、古人の好き嫌い・希望などを超えた必然的な状態と判断することであるから、 食(を)す國天下の政は平けく安く仕え奉るべしとなも思ほしめす(続日本紀) と、 道理から当然であること、 ……すべきであると義務を表す、 場合があり、さらに、 世の中は数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべき思へば(万葉集)、 と、 運命であること、 を示し、また、自己の意思を示す場合は、 磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど見すべき君がありといはなくに(万葉集)、 と、 強い意志、 を表わし、相手に対しては、 わが祭る神にはあらず大夫につきたる神そよく祀るべし(万葉集)、 と、 拒否を許さない命令、 を示し、第三人称の動作についた推量の場合も、 わが宿に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも(万葉集)、 と、 まさに……しそうである、 かならずそうなる、……に相違ない、 という強い確信を表す(岩波古語辞典)。で、 べらなり、 にも、推量の、 べし、 のもつ、 強い確信、 が含意としてある。 べし、 は、 「宜(うべな)うべし」の音変化、 とする説が有力(デジタル大辞泉)とあるが、もともとは、 漢字にべしと訓じたるもの、 にて(大言海)、その意味の差は、当てた字によって、 可の字は、可能の意、當の字は、當然の意、應の字は、相應の意、宜の字は、是非とも然べき意、須の字は、必ず然すべき意、合の字は、為すことの事情に合ふ意、容の字は、為すことの、容(ゆる)さる意なり、 とある(仝上)。 べらなり、 の、 ら、 は、 さかしら、 あから、 など、 擬態語・形容詞語幹などを承けて、その状態表現を表す接尾語、 である(岩波古語辞典)。 助動詞、 なり、 は、 雁くれば萩は散りぬとさをしかの鳴くなる声もうらぶれにけり(万葉集)、 の、 伝聞・推定のなり、 ではなく、奈良時代から見え、 汝たちもろもろは、吾が近き姪なり(続日本紀)、 と、 ……である、 という指定する意味を表す助動詞である(仝上)。ふるくは、 にあり、 であったものが、 niari→nari、 と音韻変化したものである(仝上)。 「可」(カ)は、 会意文字。「屈曲したかぎ型+口」。訶(カ)や呵(カ)の原字で、のどを屈曲させ声をかすらせること。屈曲をへてやっと声を出す意から、転じて、さまざまの曲折を経て、どうにか認める意に用いる、 とあり(漢字源)、同趣旨で、 会意文字です。「口」の象形と「口の奥」の象形から、口の奥から大きな声を出す事を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「よい」を意味する「可」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji778.html)が、 象形。原字(『説文解字』では「𠀀」と説明されている)は、「斤」の刃の部分の筆画を取り除き、斧の柄の部分のみを象ったもの。「斧の柄」を意味する漢語{柯 /*kaaj/}を表す字。のち仮借して「能力がある」を意味する漢語{可 /*khaajʔ/}に用いる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%AF)、 形声。口と、音符𠀀(カ)(丁は変わった形)とから成る。同意する意を表す。また、許可・可能などの意を表す助字に用いる(角川新字源)、 と、全く異なる説もある。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) そのかみの玉のかづらをうち返し今は衣の裏をたのまむ(東三條院) の、 衣の裏、 は、 法華経巻第四・五百弟子受記品第八に説く、衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬喩(酔い臥していたために、親友が衣服の裏に宝珠を付けてくれたのも知らず、苦労を重ねたのち、その友に逢って宝珠の存在を告げられた人のように、二乗の人は仏が教化したことを無知ゆえに悟らず、しかも悟ったと考えていたこと)をさす、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この、 二乗の人、 とは、 声聞乗(しょうもんじょう)と縁覚乗(えんかくじょう)、 をさし、 菩薩乗(ぼさつじょう)、 に対して言う(広辞苑)。 五乗、 で触れたように、 乗、 は、 のりもの。衆生を彼岸に運載する教え、 の意で、五種の教法の総称を、 五乗(ごじょう)、 といい、 人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗、 をいう(広辞苑)が、 仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、 あるいは、 声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗、天上乗、 と、宗派により名称、説き方が異なる(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 一乗、 は、サンスクリット語、 エーカ・ヤーナeka-yāna(一つの乗り物)、 の訳語、 「一」は唯一無二の義、 「乗」は乗物、 の意、 開闡(かいせん ひらき広める)一乗法、導諸群生、令速成菩提(法華経)、 と、 乗物の舟車などにて、如来の教法、衆生を載運して、生死を去らしむる、 とあり(大言海)、乗(乗り物)は、 人々を乗せて仏教の悟りに赴かせる教え、 をたとえていったもので、 真の教えはただ一つであり、その教えによってすべてのものが等しく仏になる、 と説くことをいう(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)とある。「声聞」で触れたように、 悟りに至るに三種の方法、 には、 声聞乗(しょうもんじょう 仏弟子の乗り物)、 縁覚乗(えんがくじょう ひとりで覚(さと)った者の乗り物)、 菩薩乗(ぼさつじょう 大乗の求道(ぐどう)者の乗り物)、 の三つがあり、これを、 三乗、 といい、『法華経』では、この三乗は、 一乗(仏乗ともいう)、 に導くための方便(ほうべん)にすぎず、究極的にはすべて真実なる一乗に帰す、 と説き(仝上)、 三乗方便・一乗真実、 といい、それを、 一乗の法、 といい、主として、 法華経、 をさす(仝上)。「一乗妙法」については触れた。 声聞、 は、 梵語śrāvaka(シュラーヴァカ)、 の訳語、 声を聞くもの、 の意で、 釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子、 である(精選版日本国語大辞典)のに対して、 縁覚(えんがく)、 は、 梵語pratyeka-buddhaの訳語、 で、 各自にさとった者、 の意、 独覚(どっかく)、 とも訳し、 仏の教えによらず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者、 をいう(仝上・日本大百科全書)。 菩薩、 は、 サンスクリット語ボーディサットバbodhisattva、 の音訳、 菩提薩埵(ぼだいさった)、 の省略語であり、 bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩埵、人)、 より、 悟りを求める人、 の意であり、元来は、 釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿、 をさしている(仝上)とされる(「薩埵」については触れた)。つまり、部派仏教(小乗)では、菩薩はつねに単数で示され、 成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊、 だけを意味する。そして他の修行者は、 釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした(仝上)。 阿羅漢、 とは、 サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、 で、 尊敬を受けるに値する者、 の意。 究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、 をいう。部派仏教(小乗仏教)では、 仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、 をさし、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、 無学(むがく)、 ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教では、 個人的な解脱を目的とする者、 とみなされ、 声聞、 独覚(縁覚)、 を並べて、二乗・小乗として貶しており、 悟りに至るに三種の方法、 である、 三乗、 を、 声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、 縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、 菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、 とし、大乗仏教では、 菩薩、 を、 修行を経た未来に仏になる者、 の意で用いている。 悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、 また、仏の後継者としての、 観世音、 彌勒、 地蔵、 等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。だから、大乗仏教では、「阿羅漢」も、 小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩)には及ばない、 とされた。 四乗(しじょう)、 という場合、 声聞(しょうもん)乗・縁覚(えんがく)乗・菩薩乗・仏乗、 をいい(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E4%B9%97)、 五乗(ごじょう)、 という場合、 仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、 あるいは、 声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗(人乗)、天上乗(天乗)、 の五種の教法の総称をいう(精選版日本国語大辞典)。 宗派によって異なるが、天台宗の教学では、人間の心の境涯を、 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏、 の十の世界(十界)に分け、 声聞と縁覚、 を小乗の教法として、 二乗、 と呼び、 菩薩・仏、 の大乗の教法と分け、 声聞・縁覚・菩薩、 を、 三乗、 人間界から菩薩界までを、 五乗、 と呼ぶ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97)とある。 さて、 衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬喩、 は、 貧人繋珠(びんにんけいじゅ)の譬え、 ともいい(http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-2390.html)、 法華七喩(ほっけしちゆ)、 法華七譬(しちひ)、 といわれる、 法華経に説かれる7つのたとえ話の一つである。上述したように、五百弟子受記品の、 ある貧乏な男が金持ちの親友の家で酒に酔い眠ってしまった。親友は遠方の急な知らせから外出することになり、眠っている男を起こそうとしたが起きなかった。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけた。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り他国を流浪し、少しの収入で満足していた。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができた。この物語の金持ちである親友とは仏で、貧乏な男は声聞であり、二乗の教えで悟ったと満足している声聞が、再び仏に見え、宝珠である真実一乗の教えをはじめて知ったことを表している、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9)。 妙法蓮華経五百弟子受記品第八には、 貧人酔酒譬(貧人の酔酒)、 として、 世尊。譬如有人。至親友家。酒酔而臥。是時親友。官事当行。以無価宝珠。繋其衣裏。与之而去。其人酔臥。都不覚知。起已遊行。到於他国。為衣食故。勤力求索。甚大艱難。若少有所得。便以為足(世尊、譬えば人あり、親友の家に至って酒に酔うて臥せり。是の時に親友官事の当に行くべきあって、無価の宝珠を以て其の衣の裏に繋け之を与えて去りぬ。其の人酔い臥して都て覚知せず。起き已って遊行し他国に到りぬ。衣食の為の故に勤力求索すること甚だ大に艱難なり。若し少し得る所あれば便ち以て足りぬと為す)、 とあり、 親友覚悟譬(親友の覚悟) 於後親友。会遇見之。而作是言。咄哉丈夫。何為衣食。乃至如是。我昔欲令。汝得安楽。五欲自恣。於某年月日。以無価宝珠。繋汝衣裏。今故現在。而汝不知。勤苦憂悩。以求自活。甚為痴也。汝今可以此宝。貿易所須。常可如意。無所乏短(後に親友会い遇うて之を見て、是の言を作さく、咄哉丈夫、何ぞ衣食の為に乃ち是の如くなるに至る。我昔汝をして安楽なることを得、五欲に自ら恣ならしめんと欲して、某の年月日に於て無価の宝珠を以て汝が衣の裏に繋けぬ。今故お現にあり。而るを汝知らずして、勤苦憂悩して以て自活を求むること、甚だこれ痴なり。汝今此の宝を以て所須に貿易すべし。常に意の如く乏短なる所なかるべしといわんが如く)、 とある(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/4/08.htm)。なお、 法華七譬(しちひ)、 は、 衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)、 の他、 三界火宅(さんしゃかたく、譬喩品「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れた)、 三草二木(さんそうにもく) 長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)、 化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品 「初地」で触れた)、 髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品) 良医病子(ろういびょうし、如来寿量品) とされる。 髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)、 は、 転輪聖王(武力でなく仏法によって世界を治める理想の王)は、兵士に対してその手柄に従って城や衣服、財宝などを与えていた。しかし髻(まげ、もとどり)の中にある宝珠だけは、みだりに与えると諸人が驚き怪しむので容易に人に授与しなかった。しかし、最も困難な事柄を果たした者には歓喜して明珠を与えた。この物語の転輪聖王とは仏で、兵士たちは弟子、種々の手柄により与えられた宝とは爾前経(にぜんきょう=法華経以前の様々な教え)、髻中の明珠とは法華経であることを表している。より正しくは、転輪聖王と同じように如来も法華教を教えることを最後まで慎重に控えていたのだ、と説明している、 とあり、 良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)、 は、 ある所に腕の立つ良医がおり、彼には百人余りの子供がいた。ある時、良医の留守中に子供たちが毒薬を飲んで苦しんでいた。そこへ帰った良医は薬を調合して子供たちに与えたが、半数の子供たちは毒気が軽減だったのか父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしなかった。そこで良医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせた。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、大いに憂いて、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができた。この物語の良医は仏で、病で苦しむ子供たちを衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で涅槃したことを表している、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9)。 なお、法華経については、「法華経五の巻」で触れた。 「珠」(漢音シュ、呉音ス)は、 会意兼形声。「玉+音符朱」。朱(あかい)色の玉の意、あるいは主・住と同系で、貝の中にじっととどまっている真珠の玉のことか、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(王(玉)+朱)。「3つの玉を縦のヒモで貫いた」象形(「玉」の意味)と「木の中心に一線引いた」象形(「「木の切り口のしんが美しい赤」の意味)から、「美しい玉」、「真珠」を意味する「珠」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1316.html)が、 形声。「玉」+音符「朱 /*TO/」。漢語{珠 /*to/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8F%A0)、 も、 形声。玉と、音符朱(シユ)とから成る。真珠の意を表す(角川新字源)、 も、形声文字とする。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 憂しといひて世をひたぶるに背かねば物思ひ知らぬ身とやなりなむ(新古今和歌集) の、 ひたぶる、 は、 頓、 一向、 とあて、 一途なさま、 を言い、 もっぱら、 ひたすら、 すっかり、 といった意味である(広辞苑)。古くは、 「ひたふる」か、 ともある(精選版日本国語大辞典)。 態度が一途で、しゃにむに積極的に、あたりかまわず振る舞うさまをいうのが原義、 とあり(岩波古語辞典)、後に、広く使われて、 一途に、 の意(仝上)、平安時代に、 「獫狁(けんいん)」(中国で野蛮人とされた匈奴)や「敢死」をヒタフルと訓むのは、原義をよく伝えるものであろう。平安女流文学でも、「捨つ」「逃ぐ」「否ぶ」「……し果つ」などの強い動作を形容するのに使う。類義語ヒタスラは、古くは、すっかり亡くなり失せる意の動詞を形容したが、後に一般化して、一途にの意になり、ヒタブルと接近した、 とある。色葉字類抄(1177〜81)には、 頓、ヒタフル、敢死、ヒタフル、獫狁、ヒタフル、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 永、ひたふる、 とある。意味の幅は、 海賊のひたふるならむよりもかのおそろしき人の追ひ来るにやと(源氏物語)、 と、 一方的で、乱暴な性質、利乱暴な人、 無理を冒して強引なさま、粗暴で配慮に欠けるさま、 と、原義に近いとされる意から、 ひたふるなる御心なつかはせ給そ(源氏物語)、 と、 向こう見ずで、無茶なさま、 といった意、 思ふ心の程を宣ひつづけたる言の葉、大人大人しく、ひたぶるにすきすぎしくあらで、いとけはひことなり(源氏物語)、 と、 むやみなさま、 の意と、どちらかというとマイナス面の意味から、 親ののたまふことをひたふるにいなび申さむ事のいとほしさに(竹取物語)、 人はよろづをさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり(徒然草)、 と、 ただ一つの方向に強く片寄るさま、もっぱらそのことに集中するさま、いちず、ひたすら、 の意、 さりとて、ひたぶるには打ち解けず、故ありてもてなし給へり(源氏物語)、 と、 完全にその状態であるさま、すっかり、まったく、 といった意と、抽象度を高めた価値表現でも使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。 この由来は、 ヒタは、直(ヒタ)、ブルは、あらぶる、ちはやぶるのブルと同趣で、強く励む意(大言海)、 ヒタはヒト(一)の転でヒタムキ、ヒタスラなどのヒタ、ブルは状態が顕現するような意を表す接尾語(小学館古語大辞典)、 ヒタフル(常経)の義(和訓栞)、 ヒタフル(直経)の義、またヒタウフル(非道振)の義(言元梯)、 等々あり、 ヒタ、 について、 直、 と 一、 に別れるが、「ひたむき」で触れたように、 ひたむき、 は、 直向き、 と当て、 ヒタ(いちず)+ムキ(向き)、 である(日本語源広辞典)。類語、 ひたすら、 は、 頓、 一向、 只管、 と当て、 ヒチはヒト(一)と同源(広辞苑)、 ヒタスラ(直向)の義(大言海)、 ヒタはヒトに同じ、スラはツル(弦)と同源。一すじの意(日本語の年輪=大野晋)、 ヒタは直、スはサ変動詞終止形、ラは動詞終止形について情態言を作る接尾辞(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、 等々とある。ここでも、 ひた、 は、 一、 と、 直、 が対立するが、 ヒタ(直)、 は、 ヒト(一)の母音交替形(岩波古語辞典)、 とされるのが有力(日本語源大辞典)とされており、何れを当てても、 直道、 ひた騒ぎ、 ひた照り、 等々、 名詞。またこれに準ずる語、まれに動詞について、それに徹したさま、 を表し(日本語源大辞典)、 いちず、 一面、 直接、 ただちに、 等々の意を表す(岩波古語辞典)。 なお、「ちはやぶる」で触れたように、 ぶる、 には、 ブルは様子をする意(岩波古語辞典・広辞苑)、 「ぶる」は「振る舞う」を意味する(https://zatsuneta.com/archives/005742.html)、 「学者ぶる」「えらぶる」など、そのようにふるまう、そのふりをよそおう、の意を表わす(精選版日本国語大辞典)、 (振ると当て)他の語について其の容子を云ひ表す語(大言海)、 等々の説があるが、 その様子を表す、 とするのが妥当なのだろう。 「頓」(トン)は、「頓に」で触れたように、 会意兼形声。屯(トン チュン)は、草の芽が出ようとして、ずっしりと地中に根をはるさま。頓は「頁(あたま)+音符屯」で、ずしんと重く頭を地につけること、 とあり(漢字源)、別に、 会意兼形声文字です(屯+頁)。「幼児が髪を束ね飾った」象形(「集まる、集める」の意味)と「人の頭部を強調した」象形(「かしら、頭」の意味)から、頭を下げてきた勢いが地面で一時中断されて、力が集中する事から、「ぬかずく(頭を下げて地につける)」を意味する「頓」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2197.html)が、 形声。「頁」+音符「屯 /*TUN/」。頭を下げる敬礼を意味する漢語{頓 /*tuuns/}を表す字、 も(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A0%93)、 形声。頁と、音符屯(トン)とから成る。「ぬかずく」意を表す、 も(角川新字源)、形声文字とする。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) かくしつつ夕べの雲となりもせばあはれかけても誰か偲ばむ(周防内侍) の詞書に、 例ならで太秦に籠りて侍りけるに、心細く覚えければ、 とある、 例ならで、 は、 病気になって、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 例ならず、 の、 ず、 は、 ず・ず・ぬ・ね、 と活用し、 動詞・助動詞の未然形を承けて、承ける語の動作・作用・状態を否定する意を表す助動詞、 で(岩波古語辞典)、連体形で、 例ならぬ、 などとも言う。 例ならず、 は、 この女、れいならぬけしきをみていと心うしと思て(宇津保物語)、 すべて例ならぬ所の、只つかふ人の(枕草子)、 などと、 いつもと違っている様子、 ふつうと変わって、様子が違う、 いつものようでない、 という意で使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典)が、さらに、 あやしく、などか御様のれいならずおはします(宇津保物語)、 れいならぬさまに悩ましくし給ふ事もありけり(源氏物語)、 などと、 身体が普通の状態でない、 病気である、 あるいは、 妊娠している、 意に特定して使う(仝上)。これは、 病気や妊娠など身体の不調など好ましくない状態を直接的にいうのを避けた婉曲表現、 で(精選版日本国語大辞典)、 ふれい重くすべかりし女人は、旅の空にかくれましにしかば(宇津保物語)、 などと、 不例(ふれい)、 という言い方もする。これは、 不例(例ならず)、 の漢文表記を音読してできた語である。漢語、 不例、 は、 常と変わる、 常ならず、 の意味でしかない(字源)が、その、 例でない、 の意から 貴人の病むこと、 に使う(広辞苑)のはわが国だけの用例である(字源)。日葡辞書(1603〜04)には、 ゴフレイデゴザル とあるように、さらに接頭語「ご」をつけて、 御病気、 の意で、 就寝之後、或人云、俄上皇御不例、殊以重御……(玉葉和歌集)、 と、 貴人を敬って、その人の体の状態が通常でないこと、 をいったりする(仝上)。江戸期の『書言字考節用集』には、 不例、フレイ、違例、義仝、 とある(大言海)。 違例、 は、 いつもの霊と違うこと、 常態と違うこと、病気、不例、 の意である(広辞苑)。江戸後期の『類聚名物考』では、 不例、フレイ、思フニ、コノ詞、古ヘハ貴賤上下ノワカチナクイヘリ、今ハ、大貴人ナラデハ申サヌコトトナレリ、 とある。 「例」(漢音レイ、呉音レ)は、 会意兼形声。列は「歹(ほね)+刀」の会意文字で、裂(レツ いくつにも切りさく)の原字。例は「人+音符列」で、いくつにも裂けば、同類の物が並ぶことになるから、列や裂と同系。また列と例とは意味が近い、 とある(漢字源)。別に、 会意形声。人と、列(レツ)→(レイ)(ならび)とから成り、人の「たぐい」の意を表す。ひいて、ならわしの意に用いる、 ともある(角川新字源)が、この両説は、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 とされ(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BE%8B)、 形声。「人」+音符「列 /*RAT/」、 と(仝上)、形声文字としている。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ(新古今和歌集)、 の、 真木、 は。 杉や檜などの常緑針葉樹、 で、 真木立つ、 は、萬葉集に、 み吉野の真木立つ山ゆ見降(おろ)せば川の瀬ごとに明(あ)け来れば、 と、 しばしば見える句、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 真木、 は、 ま、 は、 美称の接続詞、 で(日本語源大辞典)、 立派な木(広辞苑)、 すぐれた木(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)、 の意である。 真木、 は、 槙、 艨A とも当て(大言海・岩波古語辞典)、 檜・杉・松・槇など、堅いので建築に適する材をいう と(岩波古語辞典)、 常緑の針葉樹の総称、 とされる(学研全訳古語辞典)が、 特に、檜にいう(動植物名よみかた辞典)、 多くは、檜の美称(広辞苑)、 杉の古名(広辞苑)、 艪ヘ杉の一名、古書のマキは杉なり、槙は真木の俗用(大言海)、 檜の異名、檜を褒めて云ふ語(大言海)、 とあり、様々な、用途やら材質やらで、対象が異なるようだが、新撰字鏡(898〜901)には、 槙、万木、 とあり、和名類聚抄(931〜38年)には、 艨A木名、作柱埋之、能不腐者也、末木、……又杉一名也、 とある。 真木柱作る杣人(そまびと)いささめに仮廬(かりほ)のためと作りけめやも(万葉集)、 と、 真木柱(まきばしら)、 というと、 杉や檜などの材で作った柱、 をいう(精選版日本国語大辞典)ので、 杉、 や、 檜、 など、建築材としてのすぐれた材をいったものだと思われる。ただ、 真木、 には、 又、胸の毛を抜き散つ。是れ、檜(ひのき)に成る。尻の毛は是れ、(マキ)に成る(日本書紀)、 の、 一位科の山地自生の常緑喬木、高さ六十尺に達す。樹皮灰黒色にして、浅く縦裂す。葉は狭長にして、厚く尖り、表は緑色、裏は青白色にて、互生す。花期は五月、雌雄同株、果実は楕円形にて括れり、下部は肉質にて赤く、上部は緑色なり。材は建築用、又は器具用となる、 とある(大言海)、 こうやまき(高野槇)、 いぬまき(犬槇)、 らかんまき(羅漢槇)、 の異名(仝上・精選版日本国語大辞典・動植物名よみかた辞典)でもある。 さまざまな樹木の異名である、 真木、 の由来には、 圓木(マルキ)の約、艪ヘ、皮木の合字、皮つきのままにて用ゐる意ならむ。或は、埋木(ウメキ)の約轉と云ふはいかがか(大言海)、 メハリキ(芽張木)の義(日本語原学=林甕臣)、 等々の異説もあるが、 マキ(真木)の義(名語記・和句解・東雅・袂草・言元梯・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 つまり、 マは美称、木の中の第一の物である(蒹葭堂雜録)、 ほめことばで佳い木という意(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、 というところなのだろう(日本語源大辞典)。 「眞(真)」(シン)は、「真如」で触れたように、 会意文字。「匕(さじ)+鼎(かなえ)」で、匙(さじ)で容器に物をみたすさまを示す。充填の填(欠け目なくいっぱいつめる)の原字。実はその語尾が入声に転じたことば、 とあり(漢字源)、 会意。匕(ひ)(さじ)と、鼎(てい)(かなえ)とから成り、さじでかなえに物をつめる意を表す。「塡(テン)」の原字。借りて、「まこと」の意に用いる(角川新字源)、 会意文字です(匕+鼎)。「さじ」の象形と「鼎(かなえ)-中国の土器」の象形から鼎に物を詰め、その中身が一杯になって「ほんもの・まこと」を意味する「真」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji505.html)、 等々と同趣旨が大勢だが、 形声。当初の字体は「𧴦」で、「貝」+音符「𠂈 /*TIN/」。「𧴦」にさらに音符「丁 /*TENG/」と羨符(意味を持たない装飾的な筆画)「八」を加えて「眞(真)」の字体となる。もと「めずらしい」を意味する漢語{珍 /*trin/}を表す字。のち仮借して「まこと」「本当」を意味する漢語{真 /*tin/}に用いる、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%9F)、 甲骨文字や金文にある「匕」(さじ)+「鼎」からなる字と混同されることがあるが、この文字は「煮」の異体字で「真」とは別字である。「真」は「匕」とも「鼎」とも関係がない、 とある(仝上)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 見ればまづいとどいとど涙ぞもろかづらいかに契りてかけ離れけむ(鴨長明)、 の、 もろかづら、 は、 桂の枝に賀茂葵を付けた鬘、また、賀茂葵そのものをもいう、 とあり、ここでは、 その意で形容詞「もろき」を掛ける、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 かけ離れけむ、 の、 「かけ」は「かづら」の縁語、 とあり、 源氏物語・蓬生の巻で末摘花が詠んだ「絶ゆまじき筋を頼みし玉鬘思ひのほかにかけ離れぬる」を念頭に置くか、 とある(仝上)。 もろかづら、 は、 諸鬘、 諸葛、 と当て、 もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらん(大鏡)、 と、 賀茂の祭の時、桂の枝に葵(二重葵)をつけて、簾にかけ、また頭などにかざしたもの、 とあり(広辞苑)、 葵のみかけるのを、 片かづら、 といい、また、その葵のことをいう(仝上)とある。 かづら、 は、「山かづら」で触れたように、 鬘、 とあて、 カミ(髪)ツラ(蔓)の約(ツラはツル(蔓)と同根)、 で、 蔓草で作った髪飾り、 をいい(岩波古語辞典)、上代、 蔓草を採りて、髪に挿して飾りとしたるもの、又、種々の植物の花枝などをも用ゐたり、後の髻華(ウズ)、挿頭花(かざし)も、是れの移りたるなり、 とある(大言海)。 髻華(うず)、 は、 巫女の頭飾りのルーツ、 で、 山の植物の霊的なパワーを得るため髪や冠に草花や木の枝を挿す、 ものとされ、現在の巫女の頭飾りに用いる花もこれを踏襲している(https://gejideji.exblog.jp/31187471/)し、 挿頭、 挿頭華、 とも当てる、 秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや(万葉集)、 の、 かざし、 は、上代、 草木の花や枝などを髪に挿したこと。また、挿した花や枝、 をいい、平安時代以後は、冠に挿すことにもいい、多く造花を用いた(デジタル大辞泉)とあり、やはり、 幸いを願う呪術的行為が、のち飾りになったもの、 とある(仝上)。古墳時代には、これを、 髻華(うず)、 といい、飛鳥時代には、髪に挿すばかりではなく、冠に金属製の造花や鳥の尾、豹(ひょう)の尾を挿して飾りとし、平安時代になって、冠に挿す季節の花の折り枝や造花を、 挿頭華(かざし)、 とよぶようになった。造花には絹糸でつくった糸花のほか金や銀製のものがあった。 なお、「かづら」、「挿頭(かざし)」については触れた。 もろかずら、 は、 葵鬘・葵桂(あふひかづら)、 ともいい(精選版日本国語大辞典・大言海・岩波古語辞典)、 諸葉(もろは)葵、即ち、賀茂葵と、桂とを組み合わせたもの、 をいい、 賀茂祭の時、祭に加わる人々、皆、烏帽子に挿して、飾りとしたり、其外、参加の牛車(ぎっしゃ)の簾などにも懸け、禁中にても、諸所に懸けられたり、これによりて、賀茂祭を葵祭とも云ふ、 とある(大言海)。平安中期の『親信卿記』(天延元年(974)四月十四日)に、 祭也、十五日、葵桂、各二折櫃、 とあり、注に、 上御社二櫃、下御社二櫃、……結付畫御帳犀角邊、結付南殿御帳、 とある。上記の、 葵(フタバアオイ)の葉と桂の枝を組み合わせたもの、 を、 諸鬘(もろかずら)、 葵だけのもの、 を、 片鬘(かたかずら)、 というのは、この故である。 元来は、 もろかづら、 は、 葛を匍ふにつきて云ふ語、或は云ふ、楓(かつら)と葵(あふひ)とをかねて云ふ語、 とあり(大言海)、 二葉の葵、 を言い、 ふたばあおい(双葉葵)の異名、 でもあり(精選版日本国語大辞典)、 もろはぐさ(諸葉草)、 といい、 賀茂葵、 ともいう(大言海)。 ふたばあふひ(二葉葵)、 は、 かざしぐさ、 ふたばぐさ、 あふひ、 ともいう(大言海)が、 ウマノスズクサ科の夏緑多年草。カモアオイともいう。根茎は太く、地表をはい、先端から名前のように通常は2枚の葉を出す。葉は長い葉柄を有し、円心形で、質は薄く、縁にはまばらな毛がある。春、葉の展開とともに葉間から葉柄よりも短い花梗を出し、その先に1筒の花をうつむきかげんにつける。萼片は汚黄白色で紫褐色を帯びる。基部は筒状となり、先端の裂片は完全に反り返るので、花の全形は椀状に見える。花被は花後も宿存し、果実の成熟とともにくずれ、種子を散布する、 とあり(世界大百科事典)、徳川家の家紋は3枚のフタバアオイの葉を図案化したものである。 賀茂祭、 については、「返さの日」、「齋院」でも触れたが、 京都の賀茂別雷神社(上社)・賀茂御祖神社(下社)の例祭、 で、 葵祭、 とも、また石清水八幡宮の祭(南祭)に対して、 北祭、 ともいった(仝上)。古代には、 単に祭といえばこの祭を指した、 とされ、 欽明朝、気候不順、天下凶作のため卜部伊吉若日子をして占わしめたところ、賀茂神の祟とわかったので神託により馬に鈴をかけ人には猪頭を被せて馳せしめたのが祭の起りである、 と社伝はいう。 和銅四年(711)四月詔して以後毎年祭日には国司の検察を定められ、大同元年(806)四月、中酉日をもって官祭を始め、嵯峨天皇弘仁元年(810)斎院をおき、皇女有智子内親王を斎王として祭に奉仕させて以来、後鳥羽天皇に及び、歴代の内親王が斎王となる慣例とされた。祭の始まる前の午または未の日、斎王の御禊が賀茂川で行われる。当日は斎王の行列はまず下社、ついで上社に向かうが、これに勅使や東宮・中宮などの御使も加わり、その服装・車など華麗を極めるので、貴賤を問わず観衆が雑踏する、 とある(国史大辞典)。行列は、江戸時代前期の神社由来書『賀茂注進雑記』に、 歩兵左右に各四十人、騎兵左右に各六十人、郡司八人、健児左右各十人、検非違使十人、史生・さかん(目)・掾各一人、山城守(または介)一人、内蔵寮の官幣、中宮・東宮の御幣、宮主、東宮・中宮の走馬各二疋、馬寮の走馬左右各六疋、東宮の御使、中宮の使、馬寮の吏、近衛使、内蔵寮吏、中宮の女蔵人、内蔵人、中宮の命婦、左右の衛門・兵衛・近衛各二人、斎長官御輿駕輿丁前後二十人、御輿の長(おさ)左右各五人、女孺(はしりわらわ)各十人、執物十人、腰輿、供膳の唐櫃三荷、雑器の物二荷、膳部六人、陰陽寮漏刻、騎女十二人、童女四人、院司二人、唐櫃十荷(神宝)、蔵人所陪従六人、御車、内侍車、女別当車、宣旨車、女房車、馬寮車、 の順とあり、下社では宣命の奏上、奉幣、ついで東遊・走馬が行われる。上社も同様である。翌日は還立(かえりだち)の儀がある(仝上)という。 「諸(ゥ)」(ショ)は、 会意兼形声。者(シャ 者)は、こんろに薪をいっぱいつめこんで火気を充満させているさまを描いた象形文字で、その原義は暑(暑)・煮󠄀などにあらわれている。諸は「言+音符者で、ひとところに多くのものがあつまること、転じて、多くの、さまざまな、の意を示す、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(言+者(者))。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「台上にしばを集め火をたく象形」(「集まって多い」の意味)から、「もろもろ(多くの)」を意味する「諸」という漢字が成り立ちました。借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「これ」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji920.html)。 「葛」(漢音カツ、呉音カチ)は、「葛の葉」で触れたように、 会意兼形声。「艸+音符曷(カツ 水分がない、かわく)」。茎がかわいてつる状をなし、切っても汁が出ない植物、 とある(漢字源)。「くず」の意である。また、 会意兼形声文字です(艸+曷)。「並び生えた草」の象形と「口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形」(「祈りの言葉を言って、幸福を求める、高く上げる」の意味)から、木などにからみついて高く伸びていく草「くず」、「草・木のつる」を意味する「葛」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2110.html)が、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%9B)、 形声。「艸」+音符「曷 /*KAT/」(仝上)、 形声。艸と、音符曷(カツ)とから成る(角川新字源)、 とする説がある。 「鬘」(慣用マン、漢音バン、呉音メン)は、「玉かづら」で触れたように、 会意兼形声。「髟(かみの毛)+音符曼(かぶせてたらす)」、 とあり(漢字源)、「髪がふさふさと垂れさがるさま」「インドふうの、花を連ねて首や体を飾る飾り」(仝上)の意である。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) しきみ摘む山路の露に濡れにけり暁おきの墨染の袖(小侍従) の、 しきみ、 は、 モクレン科の常緑低木、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。『和名類聚抄』(931〜38年)木類に、 樒、之岐美、香木也、 同『和名類聚抄』木類に、 莽草、之木美、可以毒魚者也、 『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)にも、 莽草、之岐美乃木、 とある。。この、 莽草、 の、 莽、 は「罔」と音通で、本来食すると「迷罔(=正気を失う)」するような有毒な草を意味したが、後に毒のある木に転用され、八角茴香と同種で有毒な木(即ちシキミ)を指すようになった、 とある(精選版日本国語大辞典)。 しきみ、 樒、 櫁、 梻、 と当てるが、 梻、 は、もっぱら、仏前に供えたところから、 榊(さかき)、 に対して、 梻、 という国字が作られた(岩波古語辞典)。 モクレン科の常緑小高木(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・日本語源大辞典)、 シキミ科の常緑小高木(動植物名よみかた辞典・世界大百科事典)、 とされたりするが、現在は、 マツブサ科(旧キシミ科)の常緑小高木、 とされ(広辞苑・デジタル大辞泉)、 各地の山林に生え、墓地などにも植えられる。高さ三〜五メートル。葉は互生するが枝先に密につくため輪生状に見え、革質の倒卵状狭長楕円形で長さ約七センチメートル。分枝も葉と同様やや輪生状に出る。春、葉腋(ようえき)に淡黄白色の花被をもつ径約二・五センチメートルの花をつける。果実は有毒で径約二センチメートルの扁平な球形。熟すと星形に裂け、黄色の種子をはじき出す。全体に香気があり、枝を仏前にそなえ、葉から抹香(まっこう)や線香をつくる。材は数珠(じゅず)などとする。材は有用で、緻密(ちみつ)で粘り強く、割れにくいといわれている、 などとある(精選版日本国語大辞典・広辞苑・世界大百科事典)。また、 シキミは果実に毒があり、香りも強いため、新しい墓や山の畑に植えて、害獣の被害を防ぐことも行われる、 ともある(仝上)。なお、シキミとしばしば混同された、 トウシキミ(八角茴香(ういきよう)または大茴香)、 の果実は、香辛料として有名で、欧米ではスター・アニスstar-aniseとして珍重されたが、シキミは全木有毒で、果実はとくに毒性が強く、甘いが食べると死亡することすらある。殺虫剤としても使われる、 という(仝上)。 しきみ、 は、別に、 キシビ、 コウシバ、 木密、 仏前草、 はなのき、 こうのき、 まっこうぎ、 樒(きしみ)の木、 莽草(もうそう)、 花柴(はなしば)、 花榊(はなさかき)、 などともいう(仝上・デジタル大辞泉)。 奥山の之伎美(シキミ)が花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ(万葉集)、 と、 しきみの花、 も詠まれている。 きしみ、 の由来は、 重實(シキミ)の義、實、重(しげ)くつく故かと云ふ。神武紀の長歌「イチサカキ、ミノ多ケク(しきみナリト)」と見えたり、字も、木蜜を二合して作れり、多く佛に供すれば、木佛の二合字もあり(大言海)、 実が多くつくところから、シキミ(繁子)の義(万葉考)、 実に毒があるところから、アシキミ(惡実)の上略(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・塩尻拾遺・日本語の語源)、 花が咲かずに実がなるところから、イヤシキ実か(和句解)、 などと、 「しきみ」の「み」を「実」の意、 とする説は、 上代では「実」が乙類の仮名で記されているのに対し、「しきみ」の「み」は甲類の仮名で表記されているから別語、 とある(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。 その他、 シキは、その葉のシゲキ(茂)ところから、ミは助詞(東雅)、 動詞シク(瀕・重)の派生形シキム・シキブの連用形からか(語源辞典・植物篇=吉田金彦) シはクシ(臭)の約(松屋筆記)、 シキメキ(繁芽木)の義(日本語原学=林甕臣)、 シゲモリ(茂守)の義(名言通)、 「敷き+満つ」、匂いの敷き満つ木の音韻変化(日本語源広辞典)、 等々とあるが、はっきりしない。ただ、 しきみ、 の異名、 花柴(はなしば)、 については、 「Fanna Skiba」は「花がたくさん咲く臭き葉しきば」であり、「くしきは」が 「Skiba シキバ」になった、 とする説(廻国奇観)があり、 それとの類比で、 木全体に芳香があるため、「臭き木、臭き実」の意味から、「臭実 :くしきみ」という名が起こり、それが「シキミ」となった、 とする(https://warpal.sakura.ne.jp/kbg/shikimi/shikimi.html)。上述のように、「実」の音韻上の難点があるので、賛同しかねるが、この「匂い」との関連に、語源がありそうではある。なお、 榊、 が神事に使われるのに対し、 しきみ、 は花柴(はなしば)、花榊(はなさかき)とも呼ばれるように、仏前に供えたり棺に入れるなど、おもに仏事や葬式に用いられ、墓などによく植えられるし、葉や樹皮からは抹香や線香も作られる。しかし、平安中期の神楽歌の中に、 榊葉の香をかぐわしみ求めくれば八十氏人ぞ圓居せりける 圓居せりける、 とあるように、シキミも古くは、 神事用の常盤木(ときわぎ)であるサカキの一つ、 として、 神仏両用に使われ、独特の香りをもつために、香の木、香の花、香柴とも呼ばれた。中世に入ると、シキミはもっぱら仏事に使用されるようになったが、京都の愛宕(あたご)神社ではシキミを神木としており、また愛知県北設楽郡などでは門松にシキミを使うように、少数ながら仏事以外に用いる例もある、 とある(世界大百科事典)。 「樒(櫁)」(漢音ビツ、呉音ミツ・ミチ)は、 会意兼形声。「木+音符密(びっしり茂る)」、 とある(漢字源)。なお、 「樒」と「櫁」は同字、 とあり(https://kakijun.jp/page/mitb18200.html)、 「樒」が正字、「櫁」が異字体、 である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AB%81)。なお、字通には、 形声。声符は密(みつ)。〔玉篇〕に「香木なり。香を取るときは、皆當(まさ)に豫(あらかじ)め之れを斫(き)るべし。久しくして乃ち香出づ」とあり、字は蜜に従う。空海の〔篆隷万象名義〕には字を樒に作り、「香水、朽腐するもの」とする。中国では〔明史〕に「朱睦樒」という人名がみえる。〔和名抄〕に「之岐美(しきみ)」と訓するが、〔本草和名〕には莽草を「之岐美乃木(しきみのき)」と訓している。 「梻」(シキミ)は、 会意。「木+佛」で、佛前に供える木の意からの和製漢字、 である(漢字源)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 永らへて生きるをいかにもどかまし憂き身のほどをよそに思はば(源師光) の、 もどかまし、 は、 もどく、 の未然形に、 (とてもかなわぬことだが)もし……だったら……だろう、 の意の助動詞、 まし、 が付いた形で(広辞苑)、 生き永らえていることをどんなに非難することだろうか、もしつらい私の身分を他人事だとおもったならば、 と訳注がある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 「憂き身のほど」(低い社会的身分)であることを自身知っているから、他者が生き永らえていることを非難できない、 という含意である(仝上)と。 もどく、 は、 擬く、 抵牾く、 牴牾く、 と当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、上述のように、 をさをさ、人の上もどき給はぬおとどの、このわたりのことは、耳とどめてぞ、おとしめ給ふや(源氏物語)、 と、 さからって非難または批評する、 また、 そむく、 反対して従わない態度を見せる、 といった意味であるが、 がんもどき、 の、 それに似て非なるものである、まがいもの、 の意の、 もどき、 は、 もどくの連用形の名詞化、 であり、 此七歳(ななとせ)なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文をつくりかはしければ(宇津保物語)、 と、 他と対抗して張り合って事を行なう、 他のものに似せて作ったり、振舞ったりする、 まがえる(紛)、 意でも使う(仝上)。 ただ、 非難する、 意と、 他のものに似せて作る、 とでは意味に乖離がありすぎる。大言海は、 擬く、 と当てる「もどく」と、 抵牾く、 牴牾く、 柢梧く、 と当てる「もどく」というを項を別にしている。前者は、 欺く、 まがへる、 他物をもて似せて作る、 意とし、後者は、 戻るの他動、戻り説くの意、 として、 もとらかす、 逆らふ、 然はあらずと批判す、 非難す、 の意とする。この意味に当ててている、 牴牾(ていご)、 は、 甚多疎略、或有牴牾(漢書・司馬遷傳)、 と、漢語で、 牴、 は、 さわる、 意、 牴觸、 の、 牴(抵)、 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 牴、觸也、 とあり、 牾、 は、 逆(さか)ふそむく、 悖る、 意、 迕(ゴ さからう)、 と同義で、明代の『正字通』には、 牾、與忤逆通、 とあり、 牴牾、 は、 互いに相容れざること、 かれとこれと食い違ふこと、 背戻、 の意である。その意味で、 互いに相容れざること、 ↓ 非難する、 という意味の流れはわかるが、 他のものに似せて作る、 という意味へは架け橋がない。 もどく、 の語源説も、 モドク(戻)の義か(志不可起)、 モドカス(戻)の義(名言通)、 モドはモドス(戻)・モヂル(捩)と同根(岩波古語辞典)、 戻り説くの意(大言海)、 モソムク(茂背)の略転(柴門和語類集)、 と、 戻る、 との関連を見る説が大半で、使われる意味の幅との関連が分からない。ただ、 モドはモドス(戻)・モヂル(捩)と同根、 とする説(岩波古語辞典)は、つづけて、 ねらった所、収まるべき所に物事がきちんと収まらず、はずれ、くいちがうさま、 が原義とする(仝上)。とすると、 他に似せて作る、 というのではなく、本来は、上述の、 此七歳(ななとせ)なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文をつくりかはしければ(宇津保物語)、 は、 他と対抗して張り合って事を行なう、 のが含意で、そこから、しかし、 うまく真似できないながら、真似をする、 ↓ 似て非なるまねをする、 となり、その状態表現である主体表現が、 あやしくひがひがしくもてなし給ふをもどき口ひそみ聞こゆ(源氏物語)、 と、 似て非だという様子を示す、 ↓ 相手を誹謗し、非難する、 と、客体表現の価値表現へと転換していく(岩波古語辞典)とみれば、意味の外延をたどることができる。どうも、 牴牾、 は、意味が転換してから当てたものではないか、と想像される。 非難する、 悪くいう、 悪口のかぎりをつくす、 意で使う、 人にさしもどかるる程の事はなかりしに(平治物語)、 の、 さしもどく(差し牴牾く)、 は、その結果生まれた言葉ではあるまいか。「差し」は「さし」で触れたように、「もどく」を強めている。 ところで、 もどかまし、 の、 まし、 は、 ませ(ましか)・〇・まし・まし・ましか・〇、 と活用し、 用言・助動詞の未然形に付く、 推量の助動詞である(精選版日本国語大辞典)。 奈良時代には未然形「ませ」、終止形「まし」、連体形「まし」しかなかったが、平安時代に入って、已然形「ましか」が発達し、それが未然形に転用された、 とあり(岩波古語辞典)、 かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずそあるべくありける(万葉集)、 と、 現実の事態(A)に反した状況(非A)を想定し、「それ(非A)がもし成立していたのだったら、これこれの事態(B)がおこったことであろうに」と想像する気持ちを表明するもの、 で、 反実仮想の助動詞、 といい(仝上)、多く上に、「ませば」「ましかば」「せば」などを伴って、事実に反する状態を仮定し、それに基づく想像を表し、 もし…だったら…だろう、 の意となる(精選版日本国語大辞典)。 らし、 が、 現実の動かし難い事実に直面して、それを受け入れ、肯定しながら、これは何か、これは何故かと問うて推量する、 のに対して、 まし、 は、 動かし難い目前の現実を心の中で拒否し、その現実の事態が無かった場面を想定し、かつそれを心の中で希求し願望し、その場合起るであろう気分や状況を心の中に描いて述べる、 ものである(岩波古語辞典)。これは、推量の「む」から、 mu+asi→masi、 と転成したとされ(仝上)、 かむな月雨間も置かず降りにせばいづれの里の宿か借らまし(万葉集)、 あな恋し行きてや見まし津の国の今もありてふ浦の初島(後撰和歌集)、 と、 疑問の助詞「か」あるいは「や」と共に用いて、「……か……まし」となった場合、及び「……ましや」と用いた場合には、 …しようかしら、 …したものだろうか、 と、迷い・ためらいの気持を表す(仝上・精選版日本国語大辞典)とある。 「擬」(漢音ギ、呉音ゴ)は、 会意兼形声。疑は「子+止(あし)+音符矣(アイ・イ 人が立ち止まり、振り返る姿)」からなる会意兼形声文字で、子どもに心が引かれて足を止め、どうしようかと親が思案するさま。擬は「手+音符疑」で、疑の原義をよく保存する。疑は「ためらう、うたがう」意に傾いた、 とある(漢字源)。「擬案」(案を擬す じっと考えて案を寝る)の意と、「模擬(本物に似せる)」、「擬古(昔に似せる)」の意があり、「もどく」に、これを当てたのは慧眼と言っていい。別に、 会意兼形声文字です(扌(手)+疑)。「5本の指のある手」の象形と「十字路の左半分の象形(のちに省略)と人が頭をあげて思いをこらしてじっと立つ象形と角のある牛の象形と立ち止まる足の象形」(「人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる」の意味)から、「おしはかる」を意味する「擬」という漢字が成り立ちました、 と同じく会意兼形声文字とする説(https://okjiten.jp/kanji1783.html)もあるが、 形声。手と、音符疑(ギ)とから成る。おしはかる意を表す(角川新字源)、 形声。「手」+音符「疑 /*NGƏ/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%93%AC)、 と、形声文字とする説がある。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) なさけありし昔のみなほ偲ばれて永らへまうき世にも経(ふ)るかな(西行法師) の、 永らへまうき、 の、 まうき、 は、 ま憂き、 で、 まほしき、 の反対(久保田淳訳注『新古今和歌集』)とある。 まうし、 は、 推量の助動詞ムのク語法マクにウシ(憂)のついたマクウシの音便形か(岩波古語辞典)、 推量の助動詞「む」の未然形「ま」に接尾語「く」が付き、さらに、形容詞「憂し」が付いた「まくうし」の音変化(デジタル大辞泉)、 などとされ、 ◯・まうく(まうかり)・◯・まうき・まうけれ・◯、 のク活用型活用、 で、 動詞型活用の未然形に付く、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 その動作をするのに、気分が進まない、 という意を表わし(仝上)、 それをする気がおこらない、 ……だろうとと思うだけでいやになる、 思っただけで気がすすまない、 ……したくない、 ……するのがいやだ、 等々という意で使う(仝上・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。 「まほし」の反対語、 だが、これは、 「まほし」が「まく欲し」から出たと同様、「まく憂し」から変化したと考えられる。しかし、「まく憂し」の形は実例がないので、「まほし」の成立後、その類推によって生じたものと見られる、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 希望の助動詞「まほし」が「ま欲し」と理解され、その類推として成立した、 という(デジタル大辞泉)、「まほし」から対比して作られたもののようだ。 平安中期から鎌倉時代まで用いられた。用例はあまり多くない、 とある(精選版日本国語大辞典)。 まほし、 は、奈良時代にあった、 まくほし、 が転じたもの(岩波古語辞典)で、 春日山朝立つ雲の居ぬ日なく見まくの欲しき君にもあるかも(万葉集)、 の、 見まく、 は、「見む」のク語法で、「見むこと」の意であり、「ほしき」は形容詞である。これが、 ほとときすなくさほやまのまつのねのねもころ見まくほしき君かも(万葉集)、 と使われて、奈良時代、 まくほし、 という形が成立、平安時代、音便によって、 まうほし、 と転訛し、さらに、音が詰まって、 まほし、 となった(岩波古語辞典)。鎌倉時代になると、擬古的な文章を除いて一般的には、 たし、 が多用されるようになり、中世以後は雅語と意識された(精選版日本国語大辞典)とある。 希求の意を表し、 ……してほしい、 という意で、 あはぬまでも、見に行かまほしけれど(宇治拾遺物語)、 話し手の希望、 を、また、 すこしもかたちよしと聞きては、見まほしうする人どもなりければ、かぐや姫を見まほしうて(竹取物語)、 と、 話し手以外の人の希望、 をも表わし、「あらまほし」の形で、 人は、かたち、ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ(徒然草)、 と、 ……あってほしい、 と、 他に対する希望や期待の意、 を表す(デジタル大辞泉)。活用は、 (まほしく)、まほしから・まほしく、まほしかり・まほし・まほしき、まほしかる・まほしけれ・〇、 で、 動詞および助動詞「す」「さす」「ぬ」の未然形に下接する、 とある(精選版日本国語大辞典)。 なお、語幹相当部分に接尾語「がる」「げなり」の付いた、 御供に我も我もと物ゆかしがりて、まう上らまほしがれど(源氏物語)、 ことしも心ちよげならむ所のかぎりせまほしげなるわざにぞ見えける(かげろふ日記)、 と、 まほしがる、 まほしげなり、 の形もある(デジタル大辞泉)。 「憂」(漢音ユウ、呉音ウ)は、 忧(簡体字)、𠪍(古字)、𩕂(同字)、𠮕(同字)、 が異体字とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%86%82)、 会意文字。「頁(あたま)+心+夂(足をひきずる)」で、頭と心が悩ましく、足もとどこおるさま。かぼそく沈みがちな意を含む、 とある(漢字源)。同趣旨で、 会意。心と、頁(けつ)(あたま)とから成り、心配なことが顔に出ることから、「うれえる」意を表す。常用漢字は、のち、夊(すい)(あし。夂は変わった形)が加わった会意形声字で、おだやかに歩く意を表したが、借りて「うれえる」意に用いられる、 ともある(角川新字源)が、 会意。「頁(=頭)」+「心」+「夊(=足:歩む様)」、思い悩みふらふらと歩くさま。「心」+「夊」は「愛」の構成要素でもある。この記述は金文などの資料と一致していない記述が含まれていたり根拠のない憶測に基づいていたりするためコンセンサスを得られていない、 とされ(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%86%82)、 形声。「心」+音符「夒 /*NU/」[字源 1]。また一説に、「心」+音符「頁(首) /*LU/」[字源 2]。{憂 /*ʔ(l)u/}を表す字、 とある(仝上)。別に、 会意兼形声文字です(頁+心+夂(夊))。「人の頭部を強調した」象形と「心臓」の象形と「下向きの足」の象形から、「頭・心を悩ます・心配する」を意味する「憂」という漢字が成り立ちました。また、「優(ユウ)」に通じ(同じ読みを持つ「優」と同じ意味を持つようになって)、「おだやかに行われる」の意味も表すようになりました、 と(https://okjiten.jp/kanji1776.html)、会意兼形声文字とする説もある。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) わが恋は千木(ちぎ)の片そぎかたくのみゆきあはで年のつもりぬるかな(大炊御門右大臣)、 夜や寒き衣やうすき片そぎの行合ひの間より霜やおくらむ(住吉御歌)、 の、 片そぎ、 は、 千木(棟で交叉して高く突き出ている社殿の両端の材)の片端を縦に切り落としてあること、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 千木、 については触れたが、「千木」は、 社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した木、 を指し、 古代の家は、この突き出た端を切り捨てなかった、 が(岩波古語辞典)、後世、 破風と千木とは切り離されて、ただ棟上に取り付けた一種の装飾(置千木)となる、 とある(広辞苑)。 上代の家作に、切棟作りの屋根の、左右の端に用ゐる長き材にて、基本は、前後の軒より上りて、棟にて行き合ふを組交へ、其組目以上、其梢を、そのまま長く出して空を衝くもの。其組目より下は、椽(タルキ)と並び、又、屋根の妻にては、搏風(ハフ)となる、 という(大言海)。 だから、「ちぎ」は、 千木、 知木、 鎮木、 等々と当てる(仝上)とともに、 搏風、 とも当てている(日本語源大辞典)が、本来、「搏風」は、 榑風、 なので、「ちぎ」に当てた字も、 榑風、 なのではないか。神武紀にある、 太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、 も、 榑風、 を、 ちぎ、 と訓ませている(大言海)。「榑」(漢音フ、呉音ブ)は、「榑(くれ)」で触れたように、 会意兼形声。旁の部分(フ・ハク)は、大きく広がる意を含む。榑はそれを音符とし、木を添えた字、枝の広がった大木、 とある(漢字源)。「榑桑」は、太陽の出る所にあるといわれる神木、「扶桑」とも書く、わが国では、 皮のついたままの丸太、 の意である(漢字源)。これを交叉させて、上にで突き出た分が、 千木(榑風)、 山形に交叉した部分が、 搏風(榑風 ハフ)、 となった。「千木」は、 氷木(ひぎ)、 ともいう(広辞苑・岩波古語辞典)。『古事記』の出雲大社創建条は、 氷木(ひぎ)、 であり、また、 冰椽、 とも表記され、『日本書紀』の神武天皇紀にも、上述のように、 太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、 と「チギ」と訓ませている。『延喜式』の祝詞において、 高天原の千木に高知りて、 と、「千木」の表記が現れ、平安時代中期には、 チギ、 と訓んだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%A8%E3%83%BB%E9%B0%B9%E6%9C%A8・岩波古語辞典)。 片削ぎ、 は、 千木、 には、 其梢の一角を殺ぐを、カタソギと云ふ。伊勢の内宮なるは内角を殺ぎ、外宮なるは外角を殺ぐ、共に共に風穴を明く、 とがあり(大言海)、例外もあるが、 千木には矩形(くけい)の穴があけられており、これを風切穴(かざきりあな)という。千木上部が水平になる内殺(うちそぎ)と、外側が垂直になる外殺(そとそぎ)があり、前者は女神、後者は男神が祭神の本殿を飾る千木という、 らしく(仝上)、 内そぎは女千木(めちぎ)で女神を表す、 外そぎは男千木(おちぎ)で男神を表す、 となる(https://izumo-enmusubi.com/entry/chigi/)。つまり、 片削ぎ、 は、 かたそぎの月を昔の色とみて猶しもはらふ松の秋風(新後撰和歌集)、 と、 片方をそぎ落とすこと、 また、 そぎ落としたもの、 の意だか、ここでは、 神殿の千木、 を指す。 神殿の千木(ちぎ)が、先端を水平または垂直にそぎおとしてあるから、 である(広辞苑)。 「削」(@漢音シャク・呉音サク、A漢音呉音ショウ)、 は、 会意兼形声。小は、真ん中のh印をけずって、その細片の散るさまを示す。肖は、肉を細く削ること。削は「刀+音符肖(ショウ)」で、刀で細くけずること。小・肖の原義を表す、 とある(漢字源)。「削除」「削滅」などは@の音、鞘(ショウ)のに当てた、細いさやの意の場合、Aの音である(仝上)。同趣旨だが、 会意兼形声文字です(肖+刂(刀))。「小さな点の象形と切った肉の象形」(骨肉の幼く小さいものの意味から、「小さい」の意味)と「刀」の象形から、「刀で小さくする」、「けずる」を意味する「削」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1636.html)が、 形声。「刀」+音符「肖 /*SEW/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%89%8A)、 形声。刀と、音符肖(セウ)とから成る。刀のさやの意を表す。借りて「けずる」意に用いる(角川新字源)、 は、形声文字とする。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 白波に玉依姫(多万余理毗刀@たまよりひめ)の来(こ)しことはなぎさ(渚)やつひに泊りなりけむ(大江千古)、 の、 玉依姫、 は、 海神の娘。豊玉姫の妹で、神武天皇の母、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 玉依姫、 は、 たまよりひめ、 と訓むが、古くは、 たまよりびめ、 と訓まし(精選版日本国語大辞典)、 記紀神話で、海の神、綿津海(わたつみ)~の女(むすめ)、姉の豊玉姫が天孫彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の子彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を産み落として去った後、其の子を養育した。その後、育てた彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と結婚して、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと 神武天皇)を含む四人の男子を産んだとされる、 とも、 『山城国風土記』逸文にみえる女神。神武天皇の先導をしたと伝える賀茂建角命(かもたけつのみのみこと)の女、丹塗矢(にぬりや)と化して瀬見の小川を流れ下ってきた火電神(ほのいかずちのみこと)との間に、賀茂別雷命(可茂別雷命 かもわけいかずちのみこと 賀茂氏の祖神)を生んだ、 ともあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、固有名詞のように扱われているが、 「たま」は魂、「より」は憑依する、 意の(精選版日本国語大辞典)普通名詞で、 身に神霊を宿す女の通称(広辞苑)、 神霊が依り憑(つ)く女性(精選版日本国語大辞典)、 で、いわゆる、、 巫女、 である(広辞苑)。巫女の本来的な役目は、 神を迎えることであり、ときにその滞在の間、妻となって神の子を宿す役割を果たす、 とされ、 玉依姫の話はまさにそのような巫女のありようが神話的に構成されたものである、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 海幸山幸神話の主人公火遠理(ほおり)命の妻となった豊玉姫(とよたまひめ)、 狭井(さい)河のほとりで神武天皇のおとないをうけた伊須気余理比売(いすけよりひめ)、 毎夜訪れる見知らぬ若者(大物主(おおものぬし)神)によってみごもり、三輪氏の祖を生んだとされる活玉依媛(いくたまよりひめ)、 下鴨の御祖神社の祭神で上賀茂の別雷命の御母であったという多々須玉依比売(たたすたまよりひめ)、 等々、名は違うがいずれも、 タマヨリヒメ、 にほかならない(世界大百科事典)。祭儀の際、 神降臨の秘儀に立ち会う巫女が、神話的には神に感精してその子を生む母として形象化されたものである、 とされ(仝上・朝日日本歴史人物事典)、古代の巫女はなべて、 タマヨリヒメ、 であった(仝上)。このため、 玉依姫を祀った神社が地方にも多くある、 ことになる(日本伝奇伝説大辞典)。 なお、柳田國男『妹の力』に、「玉依姫考」がある。 「依」(漢音イ、呉音エ)は、 会意兼形声。衣は、両脇と後ろの三方から首を隠す衿(えり)を描いた象形文字。依は「人+音符衣(イ)」で、何かのかげをたよりにして、姿を隠すの意を含む。のち、もっぱらたよりにする意に傾いた、 とあり(漢字源)、 会意兼形声文字です(人+衣)。「横から見た人」の象形と「衣服のえりもと」の象形から、人にまとわりつく衣服を意味し、そこから、「よる」、「もたれかかる」を意味する「依」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1101.html)。しかし、 会意文字として解釈する説(白川静)があるが、これは誤った分析である、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BE%9D)、 形声。「人」+音符「衣 /*ɁƏJ/」[字源 1]。「よる」を意味する漢語{依 /*ʔəj/}を表す字(仝上)、 形声。人と、音符衣(イ)とから成る。「よる」意を表す(角川新字源)、 と、形声文字とする。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 大和かも海のあらしの西吹かばいづれの浦にみ舟つながむ(三統理平)、 に、 賀茂社の午日(うまのひ)唱(うた)ひ侍るなる歌、 とある、 賀茂社の午日、 とは、 賀茂祭は四月、酉の日に行われるが、「午日」は、その前日の午の日、この日、齋院の御禊(ごけい)が行われる、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。「齋院」については「齋院」、「返さの日」で触れた。 斎院御禊、 は、 祭の日に先立って、午または未(ひつじ)の日に、天皇の名代として賀茂神社に奉仕する斎院(未婚の内親王または女王)の御禊(ごけい)が賀茂川で行われました、 とあり(https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki71)、華やかな行列が仕立てられ、人々が物見に集まり、『源氏物語』葵巻で語られた車争いは、この折のことでした(仝上)とある。 御禊、 は、広くは、 君が代の千歳の数も隠れなく曇らぬ空の光にぞ見る(新古今和歌集)、 の詞書に、 堀河院の大嘗会御禊、日頃雨降りて、その日になりて空晴れて侍りければ、紀伊典侍に申しける、 と、 大嘗会御禊、 とあるように、 大嘗会の一ヶ月前に天皇が賀茂河原に行幸して禊(みそぎ)をすること、 で、この歌の御禊は、寛治元年(1087)十月二十二日に行われた(久保田淳訳注『新古今和歌集』)ものだが、 伊勢の斎宮や賀茂の齋院が卜定(ぼくじょう)の後や祭りの前に賀茂川などで行うみそぎ、 にもいう(広辞苑)。ちなみに、 禊、 は、 神事などの前に、厠躬で身を洗い清めること、 をいう。記紀神話の中で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が神避(さか)りました妻の伊弉冉(いざなみ)尊を黄泉(よみ)国に訪ねたのち、その身体についた汚穢(おえ)を祓い清めるために、 筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の檍原(あわぎはら)に出(い)でまして禊祓をされた、 とあるのに始まるとされる(仝上)。 なお、新嘗祭の前日夕刻に天皇の鎮魂を行う儀式「鎮魂祭(ちんこんさい)」については、「鎮魂(たましずめ)」で、大嘗会については、「鬢だたら」、「五節の舞」、「御嘗(おほんべ)」でも触れた。 また、賀茂社における午の日は、「みあれ」で触れたように、 みあれの日、 でもあり、 賀茂祭の前に行われる神招(お)きの神事が行われる中の午の日、 とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、 跡垂れし神にあふひのなかりせば何に頼みを掛けて過ぎまし(賀茂重保)、 の詞書に、 みあれにまゐりて、社の司(つかさ)おのおの葵をかけけるによめる、 とあるように、 みあれ、 ともいう(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、 御阿礼神事(みあれしんじ)、 のことである。 御阿礼、 は、 御生、 とも当て、 神または貴人が誕生・降臨すること、 をいい(広辞苑)、 ミは接頭語、アレは出現の意、祭神の出現・降臨の縁となる物の意、転じて、奉幣(神に幣帛を捧げること)の意、 とある(岩波古語辞典)。 阿礼、 は、 アル(生 神や人形を成して忽然と出現して存在する意、阿礼と同源)の名詞形。出現の意、 で、 祭神の出現の縁となる物、榊など、それに種々の木綿(ゆふ)を垂らして使う、 とある。一緒の、 よりしろ(依代・憑代)、 である。だから、「阿礼」は、 奉幣の義、 となる(大言海)。多くは、「御阿礼」は、 賀茂のみあれ(御生)、 を指し、古くは四月の中の午の日(二回目の午の日、現在は五月一二日)、 京都の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)で葵祭の前儀として行なわれる神事、 をいい、 神社の北西約880mの御生野(みあれの)という所に祭場を設け、夜半暗黒のうちに、ここで割幣をつけた榊に神を移す神事を行い、これを本社に迎える祭りである。祭場には、720cm四方を松、檜、賢木(さかき)などの常緑樹で囲んだ、特殊の神籬(ひもろぎ)を設け、その前には円錐形の立砂一対を盛る。この神籬前庭では修祓(しゆばつ)ののち奉幣行事を行い、葵桂を挿頭(かざし)にし、饗饌の儀(献の式)をして、手水をつかい、灯火を消し、矢刀禰(やとね)(神職)5員がそれぞれ榊をもって立砂を3周し、神移しを行う。これを本社に捧持する。本社では、開扉して葵桂を献じ、祝詞を奏して閉扉する、 とあり(世界大百科事典・精選版日本国語大辞典)、 別雷神の出現・再現を感受しようとする神事、 で(仝上)、賀茂御祖(かもみおや)(下賀茂)神社では、御蔭祭(みかげまつり)と称する神迎えの神事がある。 御阿礼祭(御生祭 みあれまつり)、 ともいう(仝上)。平安時代の『内蔵寮式』賀茂祭に、 下社、上社、松尾社、社別、阿礼料、五色帛、各六疋、……盛阿礼料筥、八合、 とある。 賀茂祭については、「もろかづら」で触れた。 「午」(ゴ)は、 象形。上下運動を交互に繰り返して、穀物をつくきねを描いたもので、交差し、物をつく意を含む。杵(きね)の原字。また十二進法では、前半が終り、後半が始まる位置にあって、前後交差する数のことを午(ゴ)という、 とある(漢字源)。他に、 象形。杵を象る。「きね」を意味する漢語{杵 /*tkaʔ/}を表す字。のち仮借して「十二支の7番目」を意味する漢語{午 /*ngaaʔ/}に用いる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%88)、 象形。きねの形にかたどる。「杵(シヨ)」の原字。借りて、十二支の第七番目に用いる(角川新字源)、 象形文字です。もちをつく時に使う「きね」の象形。両人がかわるがわる手にしてもちをつく、交互になる事から陰陽の交差する十二支の第七位の「うま」・「時刻では正午」を意味する「午」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji363.html)、 とあり、十二支との関連に解釈の差がある。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 臨時祭をよめる、 とある、 宮人の摺れる衣にゆふだすき掛けて心を誰に寄すらむ(紀貫之)、 の、 摺れる衣、 は、 山藍で摺り模様を付けた小忌衣(をみごろも)、 のことで、 ゆふだすき、 は、 神事にかけるたすき、 で、 山藍摺りの小忌衣に木綿襷(ゆふだすき)を掛け、 と注釈される(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 木綿襷(ゆふだすき)、 は、 木綿(ゆふ)で作った襷、神事に奉仕する時に袖をかかげるのに用いる、 とある(広辞苑)。中古以降は、歌語として、たすきをかける意で「かく」を引き出す序詞などとして用いられることも多い(精選版日本国語大辞典)。なお、 木綿、 は、 楮(こうぞ)の樹皮を蒸して水にさらし、細く割いたもので、代りに麻を用いることもある、 とあり(世界大百科事典)、『日本書紀』天の石窟戸(いわやど)の段に、 天鈿女(あめのうずめ)命が、蘿(ひかげ ヒカゲノカズラ)を手にして神がかりした、 とあり、允恭4年9月条には、 木綿手をつけて探湯(くかたち)した、 とある。現行では遷宮のときなどに用い、左右肩より左右両脇下に斜にかけ、体の前後で交差するか、左肩より右脇下に斜にかける方法がある(仝上)という。なお、 探湯(くかたち)、 は、 盟神探湯、 誓湯、 と表記し、 神に誓って、熱湯に手を入れさせ、火傷(やけど)をしたものは邪、火傷をしなかったものは正とした、 古代の裁きにおける真偽判定法(デジタル大辞泉)とある。 ところで、冒頭の、 臨時祭、 は、 賀茂の臨時祭、 を指し、 陰暦十一月、下の酉の日に行われた、 とある(仝上)。 臨時祭、 は、 りんじさい、 と訓ませ、 りんじのまつり、あさてとて、助にはかに舞人にめされたり(蜻蛉日記)、 と、 例祭ではなく、臨時に行なう祭、 をいい(精選版日本国語大辞典)、特に、 陰暦11月の下の酉とりの日に行われた賀茂神社の祭り、 陰暦3月の中の午うまの日に行われた石清水八幡宮の祭り、 陰暦6月15日に行われた祇園八坂神社の祭り、 をいう(仝上・デジタル大辞泉)とある。延喜式(927)に、 臨時祭、凡常祀之外応祭者。随事祭之、 とあり、奈良・平安時代の朝廷では、 神祇官(じんぎかん)が御竈(みかまど)祭、御井(みい)祭、堺(さかい)祭、大殿祭(おおとのほがい)ほかの臨時祭を行った、 とある(日本大百科全書)。賀茂(かも)臨時祭、石清水(いわしみず)臨時祭などは当初は臨時であったのが、のち恒例化したものである。 賀茂の臨時の祭、 は、 陰暦十一月下旬の酉(とり)の日に行う賀茂別雷(かもわけいかずち)・賀茂御祖(かもみおや)両社の祭礼、 で、四月の「賀茂の祭り」と区別していうが、祭儀は賀茂祭と同じ(精選版日本国語大辞典)とある。賀茂祭については、「もろかづら」で触れた。 賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、 は、京都市北区上賀茂本山にある神社。通称は、 上賀茂神社(かみがもじんじゃ)、 といい、 式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社、旧社格は官幣大社、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%88%A5%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE)。かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに、 賀茂神社(賀茂社)、 と総称される。賀茂社は、奈良時代には既に強大な勢力を誇り、延暦13年(794年)の平安遷都後は、皇城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた(仝上)。『延喜式神名帳』では、 山城国愛宕郡 賀茂別雷神社、 として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。『山城国風土記』逸文では、 玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える、 とある(仝上)。丹塗矢の正体は、 乙訓神社の火雷神、 とも、 大山咋神、 ともいう(仝上)。主祭神は、 賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)、 とされる。 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)、 は、京都市左京区下鴨泉川町にある神社。通称は、 下鴨神社(しもがもじんじゃ)、 といい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%BE%A1%E7%A5%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE)、 式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社、 で、賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂県主氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。本殿には、右に、 賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、 左に、 玉依姫命の父の賀茂建角身命、 を祀るため、 賀茂御祖神社、 と呼ばれる。金鵄(きんし)および八咫烏(やたがらす)は賀茂建角身命の化身である(仝上)。境内に、 糺の森(ただすのもり)、 御手洗(みたらし)川、 みたらし池、 がある(仝上)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 立ち昇る塩屋のけぶり浦風になびくを神の心ともがな(徳大寺左大臣)、 の、 詞書に、 白河院熊野に詣で給へりける御供の人々、塩屋の王子にて歌よみ侍りけるに、 とある、 塩屋の王子、 は、 熊野九十九王子(くじゅうくおうじ)の一つ、 で、 紀伊国、現在の和歌山県御坊市塩屋町北塩屋にある、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 天照大神の御神像が祀られているので別名は、 美人王子、 ともいい、 祈願すれば美人の子が授かるというので、子安神社としてお詣りする人があとをたちません、 とある(https://4travel.jp/dm_shisetsu/11313294)。 九十九王子(くじゅうくおうじ)、 の、 「九十九」は数の多いこと、 の意(精選版日本国語大辞典)で、「若王子(にゃくおうじ)」で触れたように、京都から熊野への参詣路である、 熊野街道、 のうち、 窪津(くぼつ、大阪市中央区)起点とし、紀伊路に沿って本宮、新宮から那智社までの間、おおよそ三一町余に置いた王子、 に一つずつ、熊野権現の末社である、 若王子(にゃくおうじ)、 または 若一王子(にやくいちおうじ・わかいちおうじ)、 が配され、中世後期までには、 熊野九十九王子(熊野王子)、 と総称されるようになった(精選版日本国語大辞典)とある。 九十九所、 九十九王子社、 ともいう(仝上)。 九十九王子、 は、「源平盛衰記」には、 窪津王子より八十余所におはします王子王子、 といい、 「熊野九十九王子記」には、 八二か所、 と数え、室町時代以前の文献に見えたものを総合するとすべてで、 九八か所、 あるが、これを俗に、 熊野九十九、 という(精選版日本国語大辞典)とある。 熊野街道、 は、 摂津の渡辺から天王寺・住吉を経て泉州を南下し、雄ノ山峠で紀州に入り、矢田峠・藤代峠・蕪坂・鹿瀬山を越えて日高に至り、切目・岩代・南部の海岸伝いに田辺に着き、そこから山中に入って富田川の谷を北上、滝尻・逢坂・近露・道湯川と山道をたどり、発心門から熊野川河畔の本宮に通じていた、 とあり、 九十九王子、 といわれる、熊野権現の分身とされる王子社が配列されていたが、なかでも、 藤代、切目、稲葉根、滝尻、近露、 の諸王子は、 五体王子、 と呼ばれる主要拠点の王子社であった(世界大百科事典)とある。 若王子(にゃくおうじ)、 は、 熊野の十二所権現の一つ。十一面観音の垂迹(すいじゃく)といわれる、 とある(日本国語大辞典)。『長秋記』長承三年(1134)の記事で、 若宮(わかみや)、 とあるのが本来の呼称らしいが、平安末期の『梁塵秘抄』には、 若王子、 とある(世界大百科事典)。平安中期から中世を通して繁栄した、 紀伊国の熊野三山(本宮(ほんぐう)、新宮(しんぐう)、那智(なち)の熊野三社)、 に祀(まつ)られた、 熊野十二所権現(くまのじゅうにしょごんげん)の一つ、 とされ、「若王子」、「若宮」のほか、 若一王子権現(にゃくいちおうじごんげん)、 若宮王子(わかみやおうじ)、 若女一王子(にゃくにょいちおうじ)、 などとも称し、三山ともその発祥を異にするらしいが、平安中期頃から神仏習合を表す本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により、 本宮は家津御子神(けつみこのかみ 本地は阿弥陀如来)、 新宮は速玉大神(はやたまのおおかみ 本地は薬師如来)、 那智は牟須美神(むすびのかみ 本地は千手観音)、 の、 熊野三所権現、 と本地仏が祀られた(日本大百科全書)。平安後期までには、 若王子(本地は十一面観音)、 を中心とする、 五所王子(ごしょおうじ)、 と、一万眷属を含む、 四所宮(ししょみや)、 の、 熊野十二所権現、 が成立したとされる(仝上)。つまり、 三所権現、 が、 証誠殿(本地阿彌陀)・新宮(本地薬師)・那智(本地千手観音)、 五所王子、 が、 小守の宮(本地聖観音)・児の宮(本地如意輪観音)・聖の宮(本地龍樹)・禅師の宮(本地地蔵)・若王子(本地十一面観音)、 四所明神が、 一万の宮(本地普賢)または十万の宮(本地文殊)・勧請十五所(本地釈迦牟尼)・飛行夜叉(本地不動)・米持金剛童子(毘沙門天)、 の一二の権現を、 十二所権現(じゅうにしょごんげん)、 という(精選版日本国語大辞典)。 室町時代の意義分類体の辞書『下學集』には、 熊野権現、證誠殿、本地阿弥陀、両所権現者、薬師観音、若一王子者、施畏大士(だいじ)、號曰日本第一霊験熊野三所権現、 とある。 若王子、 は、三所権現に次ぐ位置を占め、 五所王子の第一、 に置かれ、 本宮・新宮では第四殿、 那智では第五殿、 に祀られる(仝上)。祭神は、 天照大神、 または、 伊邪那岐命、 で、 十一面観音の垂迹(すいじゃく)、 といわれる(精選版日本国語大辞典)。
参考文献; 岩代の神は知るらむしるべせよ頼む憂き世の夢の行末(読人しらず)、 の詞書に、 熊野へ詣で侍りしに、岩代王子に人々の名など書き付けさせてしばし侍りしに、拝殿の長押に書き付けて侍りし歌、 とある、 岩代王子、 は、 熊野九十九王子の一つ、紀伊国、現在の和歌山県日高郡みなべ町西岩代野添にある、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。九十九王子については触れた。 長押、 は、 間仕切りとして柱と柱の間に横に渡した木、 とある(仝上)。 で、 なげし、 の由来は、 長(長い横木)+押(押し渡した)」で、和室の梁の上に押すように取り付け、渡した長い横木の意、ナガオシがナゲシに転訛した(日本語源広辞典)、 ながおし(長押)の約(大言海・世界大百科事典)、 とされる。 和名類聚抄(931〜38年)に、 長押、奈介之、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 長押、ナゲシ、 とある、日本の建築で、 柱から柱へと水平に打ち付けた材、 をいい、 柱の表面に釘(くぎ)で打ち付けて各柱を連結する横材、 である(日本大百科全書)。古代では、長押は、 重要な軸組用構造材の一つで、軸組を引き締める役割を果たしており、柱の頂部に頭貫(かしらぬき)が入れられたほか、柱の中間では長押を打ち付けて各柱を連結し、柱の横への移動を防ぐ方法がとられた、 とある(仝上・不動産用語辞典)。寝殿造で、 母屋(もや)・廂(ひさし)・簀子(すのこ)の間仕切りとして、柱から柱に横へ渡した(岩波古語辞典)、 ので、 母屋と廂との、中の隔の上下を限るもの、 とされ(大言海)、 下なるは幅広く、廂より高し、上なるを上長押(うはなげし)など云ふ、 とある(仝上)。後世、 鴨居の上、又は、敷居の下に、別に、横に長く亙せる化粧の材、 をいうようになる(仝上)。で、数寄屋建築や民家では、 天然の丸みを残した面皮(めんかわ)の材を使うこともある。装飾材となってからはことさら節(ふし)がなく木目のつんだ良材を用いるようになる。また、柱に止めた釘の上には釘隠(くぎかくし)を打つ、 とある(世界大百科事典)が、書院建築などでは、装飾を重んじて、 その意匠を凝らすことが多く、無節、柾(まさ)目の杉材が使用される、 ようになる(マイペディア)とある。 長押、 は、とりつける箇所によって、 地面に接する地(じ)長押、縁の上にある切目(きりめ)長押、 切目長押上の丈の低い半長押、 窓下や腰回りに打ち付けられる腰長押、 扉口や鴨居(かもい)の真上につく内法(うちのり)長押、 内法長押より上にある上(かみ)長押、 内法長押の裏側の縁(えん)寄りに取り付けられる縁長押、 天井と内法の間の小壁上方に蟻壁(ありかべ 室内の上端に設け、部屋を一周する細長い壁)を設けた場合には蟻壁を受ける蟻壁長押、 天井回縁(まわりぶち)の下に巡る天井長押、 柱の最下部をつなぐ地長押、 部屋の外側に回縁(まわりえん)を設けた場合、敷居下の縁板(えんいた)下に取り付ける切目(きりめ)長押、 等々がある(世界大百科事典・仝上)。奈良時代初期には、 扉を釣り込むためのもの、 であったが、まもなく、軸組を固めるために用いられるようになり(精選版日本国語大辞典)、鎌倉時代以降、中国の宋(そう)様式の導入によって、 貫(ぬき 柱と柱を貫いて連ねる部材)を通して柱を固めるようになると、徐々に構造的性質を失って装飾的な材へと変質していった、 ようだ(日本大百科全書・仝上)。断面は、 横長の長方形からほぼ正方形の裏側をL型に欠き取った形、さらに縦長の台形または三角形へと変化する。したがって、柱からふき出る部分(胸という)も古くは大きく、のちには小さくなる、 とあり、装飾材となってからは、 ことさら節(ふし)がなく木目のつんだ良材を用いるようになる。また、柱に止めた釘の上には釘隠(くぎかくし)を打つが、書院建築などではその意匠を凝らすことが多い、 という(仝上)。 現在では、 長押、 は、 鴨居の上にある柱の表面に水平(横)に取り付けた化粧材、 を言う(https://www.ooyamano-ie.jp/blog/5996)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 住よしと思ひし宿は荒れにけり神のしるしを待つとせしまに(津守有基)、 の詞書に、 奉幣使にて住吉にまゐりて、昔住みける所の荒れたりけるを見てよみ侍りける、 とある、 奉幣使、 は、 勅命によって、神社や山稜に幣(ぬさ)を奉る使者、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 奉幣、 は、 ほうへい、 とも、 ほうべい、 とも訓ませ(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 初使至社奉幣之後、於社前給両社禰宜、祝及忌子等祿」(「延喜式(927)」)、 と、 神に幣帛(へいはく)をささげること、 である(仝上)。一般には、 神社に幣帛(へいはく)を奉る、 という意味に用いられるが、古代では、諸社の祝部(はふりべ)らが幣帛をうけとりにくる、 班幣、 と区別され、 勅旨をもって山陵や神社に幣帛を奉ること、 をいった(マイペディア・山川日本史小辞典)。この場合、 神祇官が幣帛を頒(わか)ち、これを使に渡して奉らしめた、 が、この使を、 奉幣使 (幣帛使)、 といった(仝上)。神に対する奉幣の場合、 掌侍が神祇官に赴いて幣帛をつつみ、天皇が臨見してから幣帛使に付された、 とあり(仝上)、また奉幣には、 宣命(せんみょう)、 がともなうことが多く、これも幣帛使に付される。 幣帛使、 は、 五位以上の人で、かつ、卜占により神意に叶った者が当たると決められていた、 とある(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%B9%A3)。神社によって奉幣使が決まっている場合もあり、 伊勢神宮には王氏(白川家)、 宇佐神宮には和気氏、 春日大社には藤原氏、 が遣わされる決まりであった。奉幣の数は変動したが、延喜式神名帳は奉幣を受けるべき神社を、 3132座、 記載されていて、3132座の神には、 神祇官よりの官幣 か、 国司よりの国幣、 が捧げられた(仝上)が、11世紀中頃には、 二十二社、 となり、通常、奉幣使には宣命使が随行し、奉幣の後、宣命使が天皇の宣命を奏上した(仝上)。中世以降、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)に対する奉幣のことを特に、 例幣(れいへい)、 と呼ぶようになり、例幣に遣わされる奉幣使のことを、 例幣使、 といい(https://www.japanesewiki.com/jp/Shinto/%E5%A5%89%E5%B9%A3.html)、天皇の即位・大嘗祭・元服の儀の日程を伊勢神宮などに報告するための臨時の奉幣を、 由奉幣(よしのほうべい)、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%B9%A3)。ちなみに、 神嘗祭(かんなめさい・しんじょうさい・かんにえのまつり)、 は、毎年10月15日〜17日に執り行われる伊勢神宮の年中行事きっての大祭で、 天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天上の高天原(たかまがはら)において、新嘗を食したとの神話に由来し、その年に収穫した新穀を由貴(ゆき 清浄な、穢(けがれ)のないという意)の大御饌(おおみけ)として、大御神に奉る祭り、 とある(日本大百科全書)。朝廷では例幣使を9月11日に発遣、17日に宮中で天皇が衣服を改めて遥拝式を行い、賢所(かしこどころ)での親祭の儀がある(山川日本史小辞典)。 こうした朝廷からの奉幣は、朝廷の衰微とともに次第に縮小・形骸化され、応仁の乱以降は伊勢神宮への奉幣を除いて行われなくなったが、17世紀半ばから江戸幕府が朝廷の祭儀を重んじるようになり、延享元年(1744年)、約300年ぶりに二十二社の上七社への奉幣が復興された。正保3年(1646年)より、日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まり、江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かった(https://www.japanesewiki.com/jp/Shinto/%E5%A5%89%E5%B9%A3.html)という。 「奉」(漢音ホウ、呉音フ)は、 会意文字。「╋(ささげもの)+りょうて+手」。ある物を両手でささげもつ意を表す。また、ささげ持てば、両手の形は△型をなして、その頂点に物をささげることとなる。両方から近づき△型に頂点であう意を含む。捧(ささげる)の原字、 とある(漢字源)。別に、 会意文字。丰(ほう)+収(きょう)。丰は秀(ほ)つ枝。神の憑(よ)る所。夆(ほう)はその枝に神霊が降る意。丰を両手で捧げ、神を迎えることを奉という。それで神意をうけ、神意を奉ずるのである、 ともある(字通)。他に、 会意形声。手(て)と、廾(きよう 両手)と、丰(ホウ しげった草)とから成り、草を両手でささげる、ひいて「ささげる」意を表す。「捧(ホウ)」の原字(角川新字源)、 会意兼形声文字です(丰+廾+手)。「草・木のよく茂った」象形と「両手」の象形と「5本の指のある手」の象形から、「両手を寄せて物をささげる」を意味する「奉」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1639.html)、 と、会意兼形声文字とする説もあり、別に、 形声。金文の字形は「廾」(与える)+音符「丰 /*PONG/」。「与える」「献上する」を意味する漢語{奉 /*b(r)ongʔ/}を表す字。のち「手」を加えて「奉」の形となる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%89)、 と、形声文字とする説もある。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) なほ頼めしめぢが原のさせも草わが世の中にあらむ限りは(新古今和歌集)、 の、 しめぢが原、 は、 標茅原、 と当て、 今の栃木市北部から都賀(つが)町にかけてひろがる野、 で(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 下野国の枕詞、 とされる(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 させも草、 は、 もぐさ、 の意とあり(仝上)、 指焼草、 指艾、 と当て、 さしも草、 に同じとあり(広辞苑)、 ヨモギの異称、 とあり、さらに、上記歌は、 何か思ふ何をか歎く世の中はただ朝顔の花の上の露、 とともに、新古今和歌集の釋教歌として、 清水観音御歌、 とされているので、 観世音菩薩に救われるべき一切衆生をたとえて言う語、 ともされている(広辞苑)。 「よもぎ」で触れたように、 よもぎ、 は、古く、 させもぐさ、 つくろひぐさ、 えもぎ、 させも、 等々といった(たべもの語源辞典)。「させもぐさ」は、 さしもぐさ(指焼草・指艾)の転(岩波古語辞典)、 サセモグサと云ふは、音轉なり(現身、うつせみ)、サセモとのみ云ふは、下略なり(菰筵、薦)(大言海)、 である。「さしもぐさ」は、 夫木抄「指燃草」、注燃草の義、注(さ)すとは、点火(ひつ)くること(灸をすうるを、灸をさすと云ふ…)、モは燃(も)すの語根、燈(とも)すの、モスなり、此のモグサは、即ち艾(もぐさ)にて、灸治する料とす(大言海)、 サシは灸をすえるの意である(たべもの語源辞典)、 とある。で、 さしもぐさ、 の由来は、 サシモシグサ(指然草)の義。サス(注)は点火(ヒツ)くること(灸をさすと云ふ)、モは、燃(も)すの語根、燈(とも)すの、モスなり(大言海)、 サシは接頭語、モグサは燃え草の意(角川古語大辞典)、 夫木抄に「指燃草」とあるところから、サシモヤシ草の義か、また、艾の意で、サシは美称(和訓栞)、 刺艾の義(名言通)、 等々とあるが、古来、 単に雑草をさすとする説、 と、 艾(蓬)の異名とする説、 が対立していた(日本語源大辞典)が、和歌において、平安中期以降、 「もぐさ」の縁語として、「燃ゆる」「思ひ」(火をかける)、「こがす」がみられ、典型的な歌語とされるところから、今では、伊吹山を名産地とする蓬の異名とする説が定着している、 とある(仝上)。 伊吹もぐさ、 は、 短小で香気が高い、 とされ、伊吹山は艾の山地とされる(たべもの語源辞典)。 ところで、大言海は、「よもぎ」を、 艾、 蓬、 とそれぞれ当てる漢字毎に、二項別に立てている。 よもぎ(艾)、 は、 善燃草(よもぎ)の義、 とし、 草の名。山野に自生す。茎、直立して白く、高さ四五尺、葉は分かれて五尖をなし、面、深緑にして、背に白毛あり。若葉は餅に和して食ふべし(餅草の名もあり)。秋、葉の間に穂を出して、細花を開く。實、累々として枝に盈つ。草の背の白毛を採りて、艾(もぐさ)に製し、又印肉を作る料ともす。やきくさ。やいぐさ。倭名抄「蓬、一名蓽、艾也。與毛木」、本草和名「艾葉、一名醫草、與毛岐」、 と記す。ほぼ、いわゆる「よもぎ」の意である。しかし、 よもぎ(蓬)、 の項では、 葉は、柳に似て、微毛あり、故に、ヤナギヨモギの名もあり。夏の初、茎を出すこと一二尺、茎の梢に、枝を分かちて、十數の花、集まりつく。形、キツネアザミの花に似て、小さくして淡黄なり。後に絮(わた)となりて飛ぶ。ウタヨモギ。字類抄「蓬、ヨモキ」、 とする。 日本では一般的な「よもぎ」は、 ヨモギArtemisia princes Pamp.〔分布〕本州・四国・九州・小笠原・朝鮮 ニシヨモギArtemisia indica Willd.〔分布〕本州(関東地方以西)・九州・琉球・台湾・中国・東南アジア・印度 オオヨモギArtemisia montana (Nakai) Pamp.〔分布〕本州(近畿地方以北)・北海道・樺太・南千島 の三種という(http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm)。日本だけでも30種あるが、この3種は植物学の分類上かなり近縁の種で、 日本全国で一般に『ヨモギ』と呼ばれている植物はこの3種のうちいずれかということになろう、 というし、 別名は、春に若芽を摘んで餅に入れることからモチグサ(餅草)とよく呼ばれていて、また葉裏の毛を集めて灸に用いることから、ヤイトグサの別名でも呼ばれている。ほかに、地方によりエモギ、サシモグサ(さしも草)、サセモグサ、サセモ、タレハグサ(垂れ葉草)、モグサ、ヤキクサ(焼き草)、ヤイグサ(焼い草)の方言名がある、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AE)、一般には、区別しているようには見えない。しかし、 蓬(よもぎ)は、葉は柳に似て微毛があるのでヤナギヨモギと呼ばれる。淡黄の小さい花をつけ、後に絮(わた)になって飛ぶ。ウタヨモギともいい、艾(よもぎ)とは違った植物である、 とある(たべもの語源辞典)。大言海の見識である。 「よもぎ」の漢字表記は、 現在日本において、ヨモギは漢字で「蓬」と書くのが一般的だが、中国語でヨモギは「艾」あるいは「艾蒿」である。(中略)艾は日本で「もぐさ」と訓じる。もぐさはヨモギから作られるから、そのこと自体は何ら問題ではない。だが、蓬をヨモギとするのは誤りである、という説が現在では一般的のようだ、 とある(http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm)。ちなみに、「蓬(ほう)」で触れたように、 よもぎ(艾)、 の由来は、 善燃草(よもぎ)の義(大言海)、 ヨモキ(彌燃草)の義(言元梯)、 ヨはヨクの義、モはモユルの義、キは木の義(和句解)、 ヨクモエグサ(佳萌草)の義(日本語原学=林甕臣)、 弥茂く生える草の意(日本語源=賀茂百樹)、 ヨリモヤシキ(捻燃草)の義、灸に用いるところから、生は草の意(名言通)、 等々とされ、その使用法からきている。 本州・四国。九州の山野にある多年草で、春に新葉をとって草餅の材料にする。モチグサと呼ぶ。よく乾いた葉を揉むと葉肉は粉になって葉の裏の白い綿毛が残るから、これを集めて灸のモグサともする(たべもの語源辞典)、 山野に自生す。茎、直立して白く、高さ四五尺、葉は分かれて五尖をなし、面、深緑にして、背に白毛あり。若葉は餅に和して食ふべし(餅草の名もあり)。秋、葉の間に穂を出して、細花を開く。實、累々として枝に盈つ。草の背の白毛を採りて、艾(もぐさ)に製し、又印肉を作る料ともす。やきくさ。やいぐさ(大言海)、 などとあり、 モグサ、 は、 モエグサ(燃草)の略、 であり(仝上)、 ヤイトグサ、 の別名あり、地方により、 エモギ、 サシモグサ(さしも草)、 サセモグサ、 サセモ、 タレハグサ(垂れ葉草)、 ヤキクサ(焼き草)、 ヤイグサ(焼い草)、 などの方言名がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AE)。 「艾」(ガイ、呉音ゲイ)は、 会意兼形声。「艸+音符乂(ガイ、ゲ ハサミで刈り取る)」、 とあり、よもぎ、もぐさの意である(漢字源)。字源には、 よもぎ(醫草)、 と載る。 「蓬」(漢音ホウ、呉音ブ)は、 会意兼形声。「艸+音符逢(△型にであう)」で、穂が三角形になった草、 とあり(漢字源)、 よもぎ(艾)の一種、 とある(字源)。「蓬(ほう)」で触れたように、 葉は一尺ばかり、柳に似て細長く、周囲は細かい鋸状である。淡黄の小さい花を着け、後に絮(わた)になって飛ぶ。冬に枯れると根が切れ、茎や枝部は風に吹かれて球状にまとまって地面を転がる(漢辞海・字源)、 葉は、柳に似て、微毛あり、故に、ヤナギヨモギの名もあり。夏の初、茎を出すこと一二尺、茎の梢に、枝を分かちて、十數の花、集まりつく。形、キツネアザミの花に似て、小さくして淡黄なり。後に絮(わた)となりた飛ぶ。ウタヨモギ。字類抄「蓬、ヨモキ」(大言海)、 などとあり、 よもぎ(艾)とは違った植物、 である(たべもの語源辞典)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 禊(みそぎ)する川の瀬見れば唐衣日もゆふぐれに波ぞ立ちける(紀貫之) の、 唐衣、 は、 衣の美称、 とあり、 「紐」などの枕詞「紐ゆふ」に「日も夕」を掛ける、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 唐衣、 で触れたように、本来、 中国風の衣服、 の意だが、転じて、 めずらしく美しい衣服、 をいうこともある(広辞苑)とある。また、ここでいう、 禊、 は、 六月祓(みなづきばらへ)、 で、 夏越(なごし)の祓(はらへ)、 の謂いで、 六月の晦日、茅(ち)の輪をくぐったり、身体を撫でた人形(ひとかた)を川へ流したりして、身をきよめた、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。これは、 大祓(おおはらえ)、 といわれ、年に2度行われ、6月の大祓は、旧暦6月30日の、 夏越(なごし)の祓、 また、 輪越の神事、 六月祓(みなづきばらえ)、 夏祓(なつはらえ)、 などともいい、12月の大祓は、旧暦12月31日の、 年越の祓、 と呼ばれる(https://www.jinjahoncho.or.jp/omatsuri/ooharae/・精選版日本国語大辞典)。大祓は、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)を起源とする神事、 で、701年には宮中の年中行事として定められていた(https://boxil.jp/beyond/a5539/)とある。 大祓では、 大祓詞(おおはらえことば)を唱え、人形(ひとがた)と呼ばれる人の形に切った白紙などを用いて、身についた半年間の穢れ、 を祓い、神社によっては、無病息災を祈るため茅や藁を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立て、これを3回くぐって穢れや災い、罪を祓い清める。特に、 夏越の大祓、 では、 水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり、 と唱え、 年越の祓、 は、 中臣(なかとみ)の祓え、 ともいい、 新たな年を迎えるために心身を清める祓い、 とある(https://www.jinjahoncho.or.jp/omatsuri/ooharae/)。初見は《古事記》の仲哀天皇の段で、 更に国の大奴佐(おほぬさ)を取りて、生剝(いきはぎ)、逆剝(さかはぎ)、阿離(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、 馬婚(うまたはけ)、 牛婚(うしたはけ)、鶏婚(とりたはけ)、犬婚(いぬたはけ)の罪の類を種種求(ま)ぎて、国の大祓して、 とある(世界大百科事典)。律令制の確立後は、毎年六月と一二月のみそかに、 親王、大臣以下百官の男女を朱雀門(すざくもん)前の広場に集めて行なった、 とされ(精選版日本国語大辞典)、臨時には、大嘗祭(だいじょうさい)、大神宮奉幣、斎王卜定(ぼくてい)などの事ある時にも行なわれた(仝上)。 みそぎ(禊)、 は、 汚穢・罪障・厄災などを取り除くために行なう儀礼、 である、 祓(はらえ)、 の一種で、特に、 川や海の水につかって行なうもの、 をいい、 禊祓(みそぎはらえ)、 ともいう、 浄化の所作、 で、神事に当たって物忌のあと積極的に身心を聖化する手段の一つだが、服喪など異常な忌の状態から正常な日常へ立ち戻る一種の、 再生儀礼(生まれ清まり)、 でもあり(世界大百科事典)、元来の意味は、物忌の後、 水に入って若返り、神となるための行事、 で、 変若水(おちみず・わかがえりみず)信仰、 であったとされる(マイペディア)。古代中国では、『後漢書』礼儀志や『晋書』礼志にみえるように、 春禊、 と 秋禊、 とがあって、陰暦3月3日(古くは上巳)と7月14日に、 官民こぞって東方の流水に浴して、宿垢を去った、 というし、『魏志倭人伝』にも、倭人は、 其の死には、棺(ひつぎ)有れども槨無し。土を封じて冢(つか)を作る。始め死するや、停喪(ていそう)すること十余日、時に当りて肉を食わず、喪主は哭泣し、他人は就きて歌舞飲酒す。已に葬(ほうむれ)ば、家を挙げて水中に詣(いた)りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんぼく ねりぎぬをきての水を浴びること)の如くす、 と、十余日の服喪の後に遺族が沐浴すると伝えている(仝上)。 記紀神話の中では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が神避(さか)りました妻の伊弉冉(いざなみ)尊を黄泉(よみ)国に訪ねたのち、その身体についた汚穢(おえ)を祓い清めるために、 筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の檍原(あわぎはら)に出(い)でまして禊祓をされた、 とあるのに始まるとされ、そのおりに生成した日神(なおびのかみ)、また祓戸(はらえど)神の神威により、禍津日(まがつひ)神の所為であるツミ、ケガレ、トガ、ワザワイが消除されると信じられる、 とある(日本大百科全書)。中古には、年中行事のうち、特に、上述の六月晦日に行なわれる、 夏越(なごし)の禊(夏越の祓え)、 と強く結びつき、和歌にもよく詠まれる。中世以降には、真言宗や修験道で修行的な要素が加わったものが、 水垢離(みずごり)、 と称され(仝上)、 浜垢離、 寒垢離、 滝行、 水行、 などに発展し、修行的な要素も加わり、精神的な清浄も重視された。とくに、 神祇祭祀(じんぎさいし)、 に関しては潔斎(けっさい)の重要な行事として厳修され、 手水(てみず)、 はその簡略化された形式で、近世以後、神道(しんとう)の修錬行法ともなった(日本大百科全書)とある。 平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、 上巳祭也、……(所)言(美)乃(波)良(みのはらへ)、 天治字鏡(平安中期)には、 禊、上巳祭、又云、三月三日得巳為、上巳所言乃美良戸(美乃波良戸の誤説)、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 禊 キヨム・ハラヘ・ミソギ・ミソハラフ、 とある。この、 ミソギ、 の由来は、 身滌(みそそぎ ミ(身)ソソギ(濯))の約(大言海・日本語の語源・広辞苑・岩波古語辞典・延喜式祝詞解・類聚名物考・古事記傳・雅言考・言元梯・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健・日本語原学=林甕臣・日本語源=賀茂百樹)、 身清(みすす)ぎの義、また身のけがれを除く意(日本釈名)、 ツミ・ケガレを身体から取り去る身削(みそ)ぎ(日本大百科全書)、 等々あるが、大勢は、 身滌(濯 みそそぎ)、 である(日本語源大辞典)。 「禊」(漢音ケイ・呉音ゲ)は、 会意兼形声。「示(まつり)+音符契(けずりとる、けがれをとる)」、 とある(漢字源)。別に、 形声、声符は契(けい)。〔玉篇〕に「史記に云ふ、漢の武帝、霸上に禊す。徐廣曰く、三月上巳、水に臨んで祓除す。之れを禊と謂ふ」と、〔史記、外戚世家〕の文と、その注とを引く。〔論語、先進〕「莫春には、春服既に成る。〜沂(き)(川の名)に浴し、舞雩(ぶう)に風し、詠じて歸らん」とあるのが、その古俗である。六朝期には曲水の禊飲が行われた、 と形声文字とする(字通)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) さらぬだに重きが上の小夜衣(さよごろも)わがつまならぬつまな重ねそ(寂然法師) は、 釈教歌、 のひとつで、 十重禁戒、 の第三、 不邪婬戒、 を詠い、 わがつまならぬつま、 で、 「つま」は、夫または妻の意の「つま」に、「衣」の縁語「褄」を掛けた、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。両者の関係については、「つま」で触れたことだが、「つま」は、 妻、 夫、 端、 褄、 爪、 と当て、それぞれ意味が違う。 爪、 を当てて、「つま」と訓むのは、「つめ」の古形で、 爪先、 爪弾き、 爪立つ、 等々、他の語に冠して複合語としてのみ残る。 端(ツマ)、ツマ(妻・夫)と同じ、 とある(岩波古語辞典)。で、 端、 を見ると、 物の本体の脇の方、はしの意。ツマ(妻・夫)、ツマ(褄)、ツマ(爪)と同じ、 とある(仝上)。これだけでは、「同じ」というのが、何を指しているのかがわからない。その意味は、、 つま(妻・夫)、 を見ると解せる。 結婚にあたって、本家の端(つま)に妻屋を立てて住む者の意、 つまりは、「妻」も、「端」につながる。で、 つま(褄)、 を見れば、やはり、 着物のツマ(端)の意、 とあり、結局、 つま(端)、 につながるのである。しかし、『大言海』には、 つま(端)、 について、 詰間(つめま)の略。間は家なり、家の詰の意、 とあり、 間、 は、もちろん、いわゆる、 あいだ、 の意と、 機会、 の意などの他に、 家の柱と柱との中間(アヒダ)、 の意味がある。さらに、 つま(妻・夫)、 については、 連身(つれみ)の略転、物二つ相並ぶに云ふ、 とあり、さらに、 つま(褄)、 についても、 二つ相対するものに云ふ、 とあり、 つま(妻・夫)の語意に同じ、 とする。どうやら、「つま」には、 はし(端)説、 と あいだ説、 があるということになる。『日本語源広辞典』は、 説1は、「ツマ(物の一端)」が語源で、端、縁、軒端、の意です、 と、 説2は、「ツレ(連)+マ(身)」で、後世のツレアイです。お互いの配偶者を呼びます。男女いずれにも使います。上代には、夫も妻も、ツマと言っています、 と二説挙げる。どやら多少の異同はあるが、 はし(端)、 と 関係(間)、 の二説といっていい。僕には、上代対等であった、 夫 と 妻 が、時代とともに、「妻」を「端」とするようになった結果、 つま(端)、 の語源になったように思われる。つまり、 夫または妻の意の「つま」、 と、 「衣」の縁語「褄」、 とは語源的につながっているのである。 ところで、 小夜衣、 の、 小夜、 は、 サは接頭語、 で、 夜、 の意、 小夜衣、 は、 夜具、 夜着、 の意で(岩波古語辞典)、 身をおおう夜具、着物のような形で、大形で掛けるもの。多く真綿がはいっている、 という(精選版日本国語大辞典)。なお、上記の、 さらぬだに重きが上のさよごろもわがつまならぬつまな重ねそ、 の歌の影響で、近世、 小夜衣、 は、 奥様に引まくらるる小夜衣(雑俳「楊梅(1702)」)、 と、 密通する女、 をいうようになる(仝上)。なお、この、 小夜、 のついた言葉は、 小夜千鳥(さよちどり) 小夜嵐(さよあらし) 小夜時雨(さよしぐれ) 小夜曲(さよきょく) 小夜衣(さよごろも) 小夜終(さよすがら) 小夜神楽(さよかぐら) 小夜中(さよなか) 小夜更(深)け方(さよふけがた) 小夜枕(さよまくら) 等々ある(大言海・岩波古語辞典)。 ところで、 十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)、 とは、 十重禁、 十重、 ともいい(広辞苑)、顕教では、梵網経で説く、 十種の重大な戒め、 をいい、 不殺戒(不快意殺生命戒(ふけいせっしょうみょうかい) 生き物を殺さない)、 不盗戒(不劫盗人物戒(ふこうとうにんもつかい) 盗みを働かない)、 不淫戒(不無慈行欲戒(ふむじぎょうよくかい) 出家者は性交渉をもたず、在家は不倫をしない)、 不妄語戒(不故心妄語戒(ふこしんもうごかい) 噓をつかない)、 不酤酒(ふこしゅ)戒(不酤酒罪縁戒(ふこしゅざいえんかい) 酒を売らない)、 不説罪過戒(不説四衆過戒(せつししゅかかい)・不説他罪過戒(ふせつたざいかかい) 出家・在家問わず仏教徒の犯した罪を吹聴しない)、 不自讃毀他戒(ふじさんきたか 自ら威張り散らし、また他人をそしりけなさない)、 不慳貪(けんどん)戒(不慳惜加毀戒(ふけんじゃくかきかい)・不慳生毀辱戒(ふけんしょうきにくかい) 他人に与えることについて惜しまない)、 不瞋恚戒(不瞋心不受悔戒(ふしんじんふじゅげかい)・不瞋不受謝戒(ふじんふじゅしゃかい) 謝罪に対して、怒りをもって応じ、それを受け入れないということをしない)、 不謗三宝戒(不誹謗三宝戒(ふひほうさんぼうかい) 仏・法・僧の三宝をそしらない)、 とする(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E9%87%8D%E7%A6%81%E6%88%92・精選版日本国語大辞典)。これらの戒は、 それぞれ自らが犯さないことはもちろん、他人にも犯させないようにすることが要求されている、 とある(仝上)。これとは別に、密教では、説に不同があるが、無畏三蔵禅要によれば、 不退菩提心・不謗三宝・不捨三宝三乗経・不疑大乗経・不発菩提心者令退・不未発菩提心者起二乗心・不対小乗人説深大乗・不起邪見・不説於外道妙戒・不損害無利益衆生、 の十戒とする(精選版日本国語大辞典)。 寂然法師は、上述のように、十重禁戒の第三、不邪婬戒を、 さらぬだに重きが上に小夜衣わが妻ならぬ妻な重ねそ と詠う他、十重禁戒の第二、不偸盗戒を、 うき草のひと葉なりとも磯がくれおもひなかけそ沖つ白波 と、十重禁戒の第四、不酤酒戒を、 花のもと露のなさけはほどもあらじ醉ひな勸めそ春の山風 と詠っている(新古今和歌集)。 『梵網経』(ぼんもうきょう)は、二巻。具名は『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』、下巻は別に『梵網菩薩戒経』ともいい、 十重禁戒・四十八軽戒 (きょうかい) をあげて大乗戒(菩薩 (ぼさつ) 戒)を説き、戒本とされる、 とある(デジタル大辞泉)。鳩摩羅什訳と伝わるが、五世紀の中国成立と見られる。この経の説く戒律思想は、 日本仏教の基調を形成し、かつそれは大きな潮流として現在まで流れ続けており、戒律は、仏教者の生活軌範となるべきものとされている(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%A2%B5%E7%B6%B2%E7%B5%8C・仝上)。 『梵網経』下巻に説く戒である、 十重四十八軽戒(じゅうじゅうしじゅうはっきょうかい)、 は、 十重禁戒と四十八軽戒、 をいい、 十重禁戒を犯した場合は波羅夷罪(はらいざい)に相当するとする。これは重大な罪であり、出家者の場合、僧の資格を失い、教団から追放され、修行の成果も無に帰す、 のに対し、 四十八軽戒を犯した場合、智『菩薩戒経義疏』下によれば、罪を告白する対首懺悔により、その罪が滅せられる、 という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E8%BB%BD%E6%88%92)、 大乗の菩薩が守るべき戒、 とされ、 新学の菩薩は半月ごとの布薩において十重四十八軽戒を誦すべきである、 とされる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E9%87%8D%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E8%BB%BD%E6%88%92)とある。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) うきを猶むかしの故と思はずばいかにこの世を恨みはてまし(二條院讚岐) の、 詞書に、 入道前關白家に、十如是歌よませ侍けるに、如是報、 とある、 如是報、 は、 十如是(じゅうにょぜ)、 の一つ、 今生の善悪の業因に報い、未来の苦楽の果を受けることを言う、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この、 十如是、 は、法華経第一・方便品第二にある、 天台宗で、全ての存在を十の方面から説くもの、 であり(仝上)、 十如、 如是、 諸法実相、 ともいう(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)。 如是(にょぜ)、 とは、 かくのごとく、 このように、 という意味で、 十如是、 とは、 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等、 の十の如是を通して、 宇宙のあらゆるものの本当の姿はこうだよということを示してくれている法門です、 とある(https://rk-kitai.org/lotus-sutra/bukking_05)。 妙法蓮華経方便品第二には、 止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等(止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり)、 とあり(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/02.htm)、 一切存在の真実の在り方を、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟の10方面から説いたもの、 とされ(広辞苑)、 相(形相)、 性(本質)、 体(形体)、 力(能力)、 作(作用)、 因(直接的な原因)、 縁(条件・間接的な関係)、 果(因に対する結果)、 報(報い・縁に対する間接的な結果)、 本末究竟等(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)、 をいい、 諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この10の事柄において知られる、 という、 この世のすべてのものが具わっている10の種類の存在の仕方、方法、 をいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)。ただ、 『法華経』のサンスクリット原典や『正法華経』には十如是が見られないので、鳩摩羅什が『法華経』翻訳時に『大智度論』の九種法をもとに十如是を挿入したのではないかと考えられている、 とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)。 天台大師智は、本末究竟以外の九如是に対し、 三転読、 をほどこしている。たとえば、 相の場合、「是の相は如なり」、「是くの如き相」「相は是くの如し」と転読し、空・仮・中の三諦として捉える。一切法の生起は十の範疇で総合的に捉えることにより認識されるのであるが、その認識された対象の実相は三諦によって把捉されるもの、 としている(仝上)。因みに、 三転読、 とは、智が、鳩摩羅什訳の十如是の文について『法華玄義』(二ノ上)において、十如是の箇所の文字の区切り方を3通りにずらして、 是の相も如なり、乃至、是の報も如なり(即空)、 と、 是の如きの相、乃至、是の如きの報(即仮)、 と、 相も是に如し、乃至、報も是に如す(即中)、 として、十如是を三種に読み、これを「空・仮・中」の三諦(さんたい)の義に配釈したことをいい、これを、 三転読文(さんてんどくもん)、 といわれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)。ここでいう、 転読、 とは、 大部の経典の本文読誦を省略し、経題・訳者名あるいは経典の初・中・終の要所を読むことによって全体を読むのに代えること、 で(精選版日本国語大辞典)、 真読(信読 経典を読むとき、その本文を略さないで、ていねいに読誦(どくじゅ)すること)、 に対する語である。 なお、智(ちぎ)については、 十界十如(じっかいじゅうにょ)、 で触れた。「十如」は、「十如是」のことである。 冒頭の、 如是報(にょぜほう)、 は、 因と縁が出合えば、必ずある状態を実現しますが、ただそれが実現されたことにとどまらず、必ずあとに影響(報い)を残すものです。アサガオを丹精込めて育て、見事に花を咲かせたとします。すると「うれしい」という気持ちがわいてきます。そのように、物事には必ず、何らかの影響が残ります。これが「如是報」です。「主観的結果=物事の受け止め方」といえます、 とあり(https://rk-kitai.org/column/series04-3)、如是報の他の、 如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果、 については、https://rk-kitai.org/column/series04-3に譲るが、最後の、 如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)、 は、 相・性・体・力・作・因・縁・果・報の九如是は、常に無数に、そして複雑に絡み合っていて、人間の知恵ではどれが原因だか結果だか分からないようなことが多くあります。しかし、それらは必ず天地の真理である一つの「法」によって動いているものであって、どんな物も、どんな事柄も、どんなはたらきも、一つとしてこの「法」を離れることはできません。「相」から「報」まで、すなわち初め(本)から終わり(末)まで、つまるところ(究竟して)「法」の通りになるという点においては同じだ(等しい)、というわけです。「本末究竟等」とは、そういう意味なのです、 とある(仝上)。 法華経については、「法華経五の巻」で触れた。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 濡れて干す玉串の葉の霜露に天照る光幾代へぬらむ(摂政太政大臣)、 神風や玉串の葉を取りかざし内外(うちと)の宮に君をこそ祈れ(俊恵法師)、 の、 玉串、 は、 伊勢神宮で榊のことをいう、 とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、 榊の異称、 であるが、 五百箇(いおつ)真坂樹(まさかき)の八十玉籤(やそたまくし)を採らせ(日本書紀)、 と、 榊の枝に木綿(ゆう)または紙をつけて神前に捧げるのに用いるもの、 の意とある(広辞苑)。これが転じて、 榊、 の意となった(岩波古語辞典)もののようである。また、 玉籤、 とも当てるが、古くは、和名類聚抄(931〜38年)に、 玉籤、太萬久之、 とあり、 たまくし、 と清音(仝上)、美称して、 太(ふと)玉串、 八十(やそ)玉串、 などともいう(日本大百科全書)。 幣帛(へいはく)の一種、 で、 幣(ぬさ)、 には、 財物、採物(とりもの)、祭壇の表示、呪力ある樹枝の4つの系統、 があるが、 玉串、 はこれらの機能の象徴と考えられる(ブリタニカ国際大百科事典)とあり、 サカキなど常緑樹の小枝に紙の幣(ぬさ)あるいは木綿(ゆう)をつけ神前に供えるもの(デジタル大辞泉・広辞苑)、 榊(さかき)の枝に木綿(ゆう)または紙を切ってつくる紙垂(しで)をつけたもの、現在は紙垂か紅白の絹を用いる(世界大百科事典)、 榊(さかき)の枝に紙の垂(しで 四手)および麻(皇族のときは紅白の絹垂(きぬしで))をつけたもの(日本大百科全書)、 さかきの枝に木綿 (ゆう。楮布) 、または垂(しで。紙垂、四手) を掛けて神前に供するもの(ブリタニカ国際大百科事典)、 等々と、 神前に敬意を表し、神意を受けるために、祈念をこめてささげるもの。榊の葉表を上に、もとを神前に向けて案上に供える法と、葉表を神前に向け、もとを台(筒)にさしたててたてまつる方法とがあり、たてまつったら、二礼、二拍手、一礼の作法にて拝礼を行う、 をとある(世界大百科事典)。仏教儀礼における、 仏前での焼香(しょうこう)、 に対して、神前や祖霊に参拝するときに奉る、 玉串奉奠(ほうてん)、 で、神道(しんとう)儀礼の一特色である(日本大百科全書)。榊の代りに檜(ひのき)や櫟(いちい)を用いるところもある(世界大百科事典)。この、 玉串、 には、 神に捧げる財物、 という意味の他に、神霊の依ってくる、 依り代、 の意味をももつ(仝上・デジタル大辞泉)。前者は神霊を勧請する習俗が普及するにつれて一般化したもので、本来は、 手にとって動かす神霊の依り代、 であり、玉串などにより本来的姿をとどめており、紙の普及する以前の姿は削掛け等に認められる(仝上)。人の形を模した、 人形(ひとがた)、 も本来は神霊の表象で、神霊を送るために人形を作る習俗は道祖神祭り、疫病送り、虫送りなどの各種の行事にみられ、山車や屋台に作られる人形(にんぎよう)も神の送迎を示す形代が本来の姿であった(仝上)とされる。 玉串、 の由来は、 手向け串(たむけぐし)の約轉(大言海・古事記伝)、 タマは魂(たま)、神聖の意(岩波古語辞典)、 玉は尊貴の称、串は榊を地に刺し立てるところから(釋日本紀所引私記・東雅)、 タマは魂の義、クシは生樹の枝をいうか。霊の依代である一本の喬木の小枝を運搬することが分霊になると考えたものか(幽霊思想の変遷=柳田國男)、 等々あるが、 たま、 は、 魂・霊、 で、 神霊を意味する美称、 であり、 串、 は、天津罪の串刺の例のように、 物に刺して立ててしるしにする機能を有する、 とある(日本語源大辞典)。だから、 榊に限定されず、神聖な枝、若しくは、枝状の物を意味した、 とある(仝上)。 樹木や磐そのものが神の依代、 と見なされ、その意味では、上記の、 分霊、 という考えともつながる。なお、 たま(玉)、 たま(魂・魄)、 については触れたし、 さかき、 についても触れた。 「串」(漢音カン、呉音ケン)は、 象形。二つのものを一本の線でつらぬいたさまを描いたもので、患(カン 心が貫かれる→心の底まで気にかかる)の音符となる、 とある(漢字源)。別に、 象形。二つのものを貫く様(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B2)、 象形。重ねた貝をひもで連ねた銭さしの形にかたどる(角川新字源)、 象形文字です。「2つの物を縦に貫く」象形から「貫く」、ある事柄を貫く、すなわち「慣れる」を意味する「串」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2105.html)、 と、象形文字としながら、微妙に違いがある。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) ちはやぶる香椎(かしひ)の宮のあや杉は神のみそぎに立てるなりけり(読人しらず)、 の、 みそぎ、 は、 御衣木、 と当て(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、この、 あや杉、 は、 ちはやぶるかすひの宮のあや杉は幾代か神のみそぎなるなるらむ(桧垣嫗集) ちはやぶる香椎の宮の杉の葉をふたたびかざすわが君ぞ君(金葉集)、 と詠まれてきた杉(仝上)とある。 御衣木(みそぎ)、 は、室町時代の国語辞書『文明本節用集』には、 御衣木、みそぎ、造佛材木也、 とあり、同じ室町時代の意義分類体の辞書『下學集』にも、 御衣木、みそき、造佛材木也、 とあり、 女院被奉始三尺御仏二体……法印有観、加持御衣木(「兵範記」仁平三年(1153)一〇月一八日)、 とあるように、 神仏の像を作るのに用いる木、檜、白檀(びゃくだん)・栴檀(せんだん)・朴(ほお)、 などの類とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。室町時代編纂のいろは引きの国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』には、 御衣木、ミゾキ、 とあり、 みぞき、 ともいう。 センダンの古名は、 楝(おふち)、 で(広辞苑)、 栴檀、 と当てるが、 センダン科センダン属に分類される落葉高木、 の一種で、別名、 アフチ、 オオチ、 オウチ、 アミノキ、 などといい、 樹皮は松に似て暗褐色。葉は羽状複葉で縁にぎざぎざがあり、互生する。初夏に淡紫色の5弁花を多数つけ、秋に黄色の丸い実を結ぶ、 とあり(デジタル大辞泉)、薬用植物の一つとしても知られ、 樹皮は漢方で苦楝皮(くれんぴ)といい駆虫薬に使い、果実をひび・あかぎれに用いる。材は建築・家具材になる、 とある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 春に花が咲き秋には実が鈴なりに、千個の団子のようにぶら下がる、 ので、その実のついた状態を、 千団子(せんだんご)、 に見立てた(木の名の由来=深津正)ともされ、 千団子は三井寺で行われる法会の俗称で、別名栴檀講という、 とある(仝上)。 栴檀は双葉より芳(かんば)し、 のセンダンとは別、香木の栴檀はインドネシア原産のビャクダン(ビャクダン科)を指し、このセンダンは特別な香りを持たない(仝上)という。 ビャクダン(白檀)、 は、 ビャクダン科の半寄生性の常緑小高木。高さ3〜10メートル。幹は直立して分枝し、葉は長卵形で先がとがる。花は鐘形で円錐状につき、黄緑色から紫褐色に変わる。果実は丸く、紫黒色に熟す。材は黄色がかった白色で強い香りがあり、仏像・美術品・扇子や線香などに使うほか、白檀油をとり香料にする、 とあり、別名、 栴檀、 というから、ややこしい。ただこの、 白檀、 は、 双葉の時は匂いがない、 とされるので、もっとややこしい(https://parfum-satori.hatenablog.com/entry/sendan)。 ところで、 御衣木、 を、刻みだす前、 御衣木加持(みそぎかじ)、 と言われる、 穢(けがれ)を除き、霊性をもたせるために行う加持の式、 が行われる。 御衣木の前に香華を供え、御衣木・刀・斧(おの)に聖水を注ぎ、像の胸部に本仏の種子(梵(ぼん)字)を書き、真言を誦する、 とあり(マイペディア)。仏画の場合は、 御衣絹(みそぎ)加持、 を行う(仝上)とある。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 山里に訪ひ来る人のことぐさはこの住まひこそうらやましけれ(前大僧正慈円) の、 ことぐさ(言種)、 は、 口癖、 言い草、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 ことぐさ、 は、 ことくさ、 ともいい(精選版日本国語大辞典)、 物言ひの種(くさ)はひ、 とある(大言海)。 種はひ(くさわい)、 は、 種延(くさは)ひの義か、気(ケ)はひ、齢(ヨ)はひ、わざはひのハヒ、同じかるべし、 とあり(仝上)、 物事の種となるもの、 の意(仝上)とある。「ふりはへて」で触れたように、 はふ、 は、 遠くへ這わせる、 意で(岩波古語辞典)、 心ばえ、 の、 心延え、 (心の動きを)敷きのばす、 意味と同じで(大言海・岩波古語辞典)、「心延え」は、 心映え、 とも書くが、 映え、 は、もと、 延へ、 で、 延ふ、 は、 這ふ、 の他動詞形、 外に伸ばすこと、 つまり、 心のはたらきを外におしおよぼしていくこと、 になる(岩波古語辞典)。で、 種はひ、 は、 なの内侍ぞ、打ち笑ひたまふくさはひにはなるめる(源氏物語)、 と、 物事の原因、 材料、 たね、 もと、 の意から、それを広げて、 物のくさはひならびたれば(落窪物語)、 と、 種類、 品々、 の意、さらに、その意味を状態表現から価値表現へ広げて、 御台、ひそくやうの、唐土(もろこし)の物なれど、人わろきに、何のくさはひもなく、あはれげなる、まかでて人々食ふ(源氏物語)、 と、 おもしろみ、 趣、 風情、 の意で使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。 ことぐさ、 も、上記のように、 むかし、女、人の心をうらみて、……常のことぐさにいひけるを(伊勢物語)、 と、 常日頃の言いぐさ、 口ぐせ、 の意の他に、 むつかしき事もあれば、いかでかまかでなんといふことくさをして(「能因本枕(10C終)」)、 と、 言いわけ、 口実、 の意、さらに、 このごろ、世の人のことくさに、内の大いどのいまひめ君と、ことにふれつつ言ひちらすを(源氏物語)、 と、 話のたね、 噂のたね、 語りぐさ、話題、 の意、さらに転じて、 ことぐさにとりよせたるにて(爲兼卿和歌抄)、 と、 言葉の趣向、 ことばのあや、 の意、転じて、 昔の人は、ただいかに言ひすてたることくさも、皆いみじく聞ゆるにや(徒然草)、 と、 ことば、 の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。 ことくさ、 の、言葉の中身の、 種、 の意から、 言、 へと意味を収斂させていったと見える。 「言」(@漢音ゲン・呉音ゴン、A漢音ギン・呉音ゴン)は、 会意文字。「辛(きれめをつける刃物)+口」で、口をふさいでもぐもぐということを音(オン)・諳(アン)といい、はっきりかどめをつけて発音することを言という、 とある(漢字源)。「黙(だまる)」の対、「語」「曰(エツ いう)「謂(イ いう)と類義語で、「言う」「ことば」の意は@の音、「言言(ゲンゲン)」は、角ばっていかめしい意、慎むさまの意の「言言(ギンギン)」はAの音、とある(仝上)。同趣旨で、 会意文字です(辛+口)。「取っ手のある刃物」の象形と「口」の象形から悪い事をした時は罪に服するという「ちかい・ことば」を意味する「言」という漢字が成り立ちました、 も(https://okjiten.jp/kanji198.html)、会意文字とするが、これは、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に依拠したもので、『説文解字』では、 「䇂」+「口」と分析されており、「辛」+「口」と解釈する説もあるが、甲骨文字の形とは一致しない(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A8%80)、 とある、 「舌」+「一」。「いう」を意味する漢語{言 /*ngan/}を表す字。もと「舌」が{言}を表す字であった(甲骨文字に用例がある)が、区別のために横画を加えた、 とする(仝上)。また、 象形。口の中から舌がのび出ているさまにかたどる。口からことばを発する意を表す、 と(角川新字源)、象形文字とする説もある。 「種」(漢音ショウ、呉音シュ)は、 会意兼形声。重は「人+土+音符東(つきぬく)」の会意兼形声文字で、人が上から下に、地面に向かってとんとおもみをかけること。種は「禾(作物)+音符重」で、上から下に地面を押し下げて作物をうえること。もともと種は、作物のたね、穜(トウ・ショウ)はうえる意であったのが、後に混同された、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(禾+重)。「穂先がたれかかる稲」の象形と「入れ墨をする為の針、人の目、重い袋」の象形(目の上に入れ墨をされた奴隷が重い袋を持つ、すなわち「重い」の意味)から、稲の穂の重い部分、「たね」を意味する「種」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji303.html)が、 形声。「禾」+音符「重 /*TONG/」。「たね」を意味する漢語{種 /*tong/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A8%AE)、 形声。禾と、音符重(チヨウ)→(シヨウ)とから成る。おくてのいねの意を表す。転じて「たね」、たねまく意に用いる(角川新字源)、 と、形声文字とする説もある。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 斧の柄の朽ちし昔は遠けれどありしにもあらぬ世をも経るかな(式子内親王) の、 斧の柄の朽ちし、 は、 述異紀などにいう爛柯(らんか)の故事、 とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、 仙境に入り込んだ木樵りの斧の柄がいつしか朽ちて、出てきたら遥か後の時代だったというように、以前とはすっかり変わってしまった世の中に永らえている、 と注釈する(仝上)。この本歌は、古今和歌集の、 古里は見しごともあらず斧の柄の朽ちし所ぞ恋しかりける(紀友則) で、 かつて住み慣れた都は、以前とは変わっていました。斧の柄の朽ちてしまった、あなたとともにいた地が恋しく思われるのでした、 と注釈がある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 見しごと、 は、 「ごと」は「ごとし」の語幹、 だが、この「ご」に、故事の、 碁、 を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とあり、その故事は、 中国の晉の王質という人が、木を伐りに石室山に入り、二人の仙人が碁を打っているところを見ていた。一番が終わらないうちに、尾野の柄が腐っていることに気づき、家に戻ってみると、はるか未来の世になっていて、知っている人は誰もいなかった、 というものである(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 爛柯、 の、 爛、 は、 くさること、 柯、 は、 斧などの柄、 をさす(故事ことわざの辞典)。 南朝梁の任ム『述異記』には、 晉時、王質伐木至、見童子數人棊而歌、質因聴之、童子以一物與質、如棗核、質含之、不覚飢、俄頃童子謂曰、何不去、質起視斧柯盡爛、既歸無復時人(晉の時、王質、木を伐りて至り、童子數人、棋して歌ふを見る。……俄頃(しばら)くして童子謂ひて曰く、何ぞ去らざると。質起ちて斧柯(ふか)を視るに爛盡し、既に歸るに復(ま)た時人無し)、 とあり、同じ話が、北魏の酈道元『水経注』に、やはり晋の時代に、 王質が木を伐りに行って石室に着くと、4人の童子が琴を弾いて歌っていた。王質はこれを聞いていたが、しばらくして童子が帰るように言われると、斧の柄が爛し尽くされており、家に帰ると数十年が過ぎていた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%9B%E6%9F%AF)。唐の段成式の『酉陽雑俎』では、 晋の泰始年間、北海の蓬球、字は伯堅という者が、貝丘の玉女山の山奥で不思議な宮殿にたどり着くと、中では四人の婦人が碁を打っていた。そこに鶴に乗った女が現れ、球のいることに怒ったので、門を出て振り返ると宮殿は消え失せていて、家に帰ると建平年間になっていた、 とあり、宋代の『太平寰宇記』・江南東道の衢州信安県の条では、 石室山は別名石橋山・空石山ともいい、王質が童子の碁を見ていると、童子が、汝の柯、爛せりと言う。家に帰ると100歳になっていた。この山は爛柯山とも名付けられた、 とある(仝上)。同書・剣南西道巂州越巂県の条では、 王質は二人の仙人が碁を打っているのを見て、碁が終わって見ると斧の柄が腐っており、二人が仙人であることを悟った、 とあり、明代の王世貞『絵図列仙全伝』では、 王質が童子の碁を見ていると、斧の柄が爛り、家に帰ると数百年が過ぎており、王質はふたたび山に入り仙人となる、 とある(仝上)。浦島伝説と通じる話であるが、ついには、自ら仙人になるというオチは後世の付会らしい。この、 爛柯、 は、 斧の柄朽つ、 ともいい(大言海・故事ことわざの辞典)、 囲碁の別称、 として、また、 囲碁に夢中になって時のたつのを忘れること。 から、転じて、 遊びに夢中になって時のたつのを忘れること、 の意で使われる(仝上)。 とある(字通)。漢詩集『江吏部集(1010〜11頃)』(大江匡衡)では、 爛柯不識残陽景、 後葉空逢七袠霜、 と詠われている(故事ことわざの辞典・精選版日本国語大辞典)。 「爛」(ラン)は、 爤、 の字が本字とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%9B)、 会意兼形声。「火+音符闌(ラン)」。火熱のため形がくずれ、あふれ出ること、 とある(漢字源)。「爛熟」「腐爛」など、「焼けてただれる」「柔らかくなって、わくや形が崩れるさま」の意、「眼光爛爛」と、光があふれんばかりに輝く意、「爛漫」と、「形やわくにとらわれずに、あふれ乱れる」意で使う(仝上)。 「柯」(カ)は、 会意兼形声。「木+音符可(⏋型に曲がる)。⏋型の枝や柄、 とある(漢字源)。別に、 形声。「木」+音符「可 /*KAJ/」。「斧の柄」を意味する漢語{柯 /*kaaj/}を表す字。もと「可」が{柯}を表す字であったが、木偏を加えた、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9F%AF)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) あはなくに夕占(ゆふけ)を問へば幣(ぬさ)に散るわが衣手はつげもあへなくに(古今和歌集)、 の、 夕占、 は、 夕方におもに辻で行われる占い。自分が道行く人の話を聞いて行ったり、専門の占い師が行ったりするもの、 だが、 月夜(つくよ)には門(かど)に出(い)で立ち夕占(ゆうけ)問ひ足卜(あうら)をそせし行かまくを欲(ほ)り、 などと、万葉集に多く見られるが、平安時代には廃れていたと見られる、 とあり、ここでは、 幣に散る、 とあるように、 占いのために袖を細かく切って散らすのであろう、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。で、 つげ、 は、動詞、 継ぐ、 で、 「幣」として袖をどんどん切っていったら、袖を継ぐこともできないくらいになってしまった、 という意味になる(仝上)。「衣手」については触れた。 幣、 は、元々、 神に祈る時に捧げる供え物、 の意であり、また、 祓(ハラエ)の料とするもの、 の意、古くは、 麻・木綿(ユウ)などを用い、のちには織った布や帛(はく)も用い、或は紙に代えても用いた、 とあり(大言海・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉他)、 旅に出る時は、種々の絹布、麻、あるいは紙を四角に細かく切ってぬさぶくろに入れて持参し、道祖神の神前でまき散らしてたむけた、 とある(精選版日本国語大辞典)。後世、 紙を切って棒につけたものを用いるようになる、 とある(仝上)。 あはなくに、 の動詞、 あふ、 は、 耐える、 持ちこたえる、 意で、 良い結果が出るように何度も占いをした、 ために、そうなった(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。「あへなし」でふれたように、 敢ふ、 は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 肯、アフ、アヘテ、 敢、アヘテ、 とあり、 合ふと同根、事の成り行きを、相手・対象の動き・要求などに合わせる。転じて、ことを全うし、堪えきる、 とあり(岩波古語辞典)、 大船のゆくらゆくらに面影にもとな見えつつかく恋ひば老い付く我が身けだし堪へむかも(万葉集)、 と、 (事態に対処して)どうにかやりきる、 どうにかもちこたえる、 意から、 秋されば置く露霜にあへずして都の山は色づきぬらむ(万葉集)、 と、 こらえきる、 意となり、動詞連用形に続いて、 神なびにひもろき立てて斎へども人の心はまもりあへぬもの(万葉集)、 と、 ……しきれる、 意や、 足玉(あしだま)も手玉(てだま)もゆらに織る服(はた)を君が御衣(みけし)に縫ひもあへむかも(万葉集)、 と、 すっかり……する、 意で使う。 ゆふけ(ゆうけ)、 は、 夕卜、 夕衢占、 とも当て(大言海・広辞苑)、後世は、 ゆうげ、 ともいう、 夕方、辻に立って、往来の人の話を聞き、それによって吉凶・禍福をうらなうこと、また、その占い(広辞苑)、 夕方、街の辻に立って道行く人の言語を聞いて吉凶を占うこと(岩波古語辞典)、 夕方道端に立って、一定の区域を定め、米をまき、呪文を唱えなどして、その区域を通る通行人のことばを聞いて吉凶禍福を占ったもの(精選版日本国語大辞典)、 をいい、 辻、 は、 六道の辻、 で触れたように、 道路が十文字に交叉しているところ、 つまり、 四辻、 の意であるが、また、 道筋、 道端、 巷、 の意でもあり、 人だけでなく神も通る場所、 である。 ケは卦か、 とあり(大言海)、 夕方にする辻占、 のことなので、 ゆううら(夕占・夕卜)、 ゆうけのうら(卜)、 みちのうら、 ともいう(仝上・広辞苑・精選版日本国語大辞典)。なお、後拾遺集に、 さし櫛もつげの歯なくて吾妹子がゆふけの卜を問ひぞわづらふ、 とあるように、 女子が、黄楊(つげ)の櫛を持ちて、辻に出て、道祖神を念じて櫛の歯を鳴らし、そこに見え來る人の語にて、吉凶を定ることあり、 ともある(大言海)。別称に、 朝占夕占(あさけゆうけ)、 というように、 朝方や夕方の人の姿がはっきりしない時刻に行われ、道行く人の無意識に発する言葉の中に神慮を感じとり、それを神の啓示とした、 とある(世界大百科事典)。万葉集でも詠われているように、起源は古代にさかのぼる。 なお、類似のものに、橋のたもとに立って占う、 橋占(はしうら)、 というのがある。これは、 橋のほとりや橋上に立って、往来の人のことばで吉凶を占うこと、 であるが、 橋や水辺は、神、とくに水神の示現する場所とされ、人通りの少ない暁や宵にそこに立って神意をうかがった、 ことから、 朝占夕占(あさけゆうけ)、 とも呼ばれ、 ささやきの橋、 の名称は、 占いを求めてその橋を渡ると、神の霊示があるとされたことに由来する、 とあり、京都島原の遊廓の前にあった、 思案橋、 は、橋占のためにその上をしばらく行きつ戻りつしたことにちなんでおり、その脇には見返り柳のような神の宿る木も植えられていた(世界大百科事典)とある。 一条戻り橋、 は、橋占の名所でもあり、 戻り橋、 の名の由来も、鎌倉後期の仏教説話集『撰集抄』に、 一条の橋をもどり橋といへるは、宰相三善清行のよみがへり給へるゆへに名付けて侍る。源氏宇治の巻に、ゆくはかへるの橋なりと申たるは是なり、 とあるのによる。それは、 三善清行が病篤くなり、熊野にいた子浄蔵が急ぎ帰ったが、すでに善行は没し、野辺の送りの一行とこの橋の上で出会い、父の棺に向かって加持祈祷すると善行が蘇生した、 という話である。この橋は、 京の内外をわかつ、 だけではなく、 異界との境をなす、 と考えられ、 橋占い、 の場所としても知られ、『源平盛衰記』に、 一条戻橋と云ふは、昔安倍晴明が天文の淵源を極めて、十二神将を仕ひにけるが、其妻、職神の貌に畏れければ、彼十二神を橋の下に呪し置きて、用事の時は召仕ひけり。是にて吉凶の橋占を尋ね問へば、必ず職神、人の口に移りて、善悪を示すと申す、 とある。こうした伝承のせいか、 今も婚儀の際はこの橋を通行せず、古は旅立には態(わざ)とこの橋を通って発足したという、 という民俗もあったようである(大辞典)。 もどる、 は、 モドは、モドク(擬)・モヂル(捩)と同根、物がきちんと収まらず、くいちがい、よじれるさま、 とあり(岩波古語辞典)、 もとる(悖る)と同根、 ともある(仝上)。しかし、 モトホルの転、 ともある(広辞苑)。柳田國男は、「戻る」には、 元来引き返す、遁げて行くという意味はなかったように思います。漢字の戻も同様ですが、日本語の「戻る」という語は古くは「もとほる」といって、前へも行かず後へも帰らず、一つ処に低徊していることであったのです、 と指摘した(女性と民間伝承)上で、いわゆる「戻橋」についても、 橋占、辻占を聴くために、人がしばらく往ったり来たりして、さっさと通ってもしまわぬ橋というのでありました、 としている(仝上)。 ところで、 辻占(つじうら)、 というのは、 古への夕衢占(ゆふけ)、辻に立ちて、往来(ゆきき)の人の無心の言語を聞きて事の吉凶を占ふこと(大言海)、 黄楊(つげ)の櫛を持って四辻に立ち、道祖神に祈って歌を三遍唱え、最初に通りかかった人の言葉によって吉凶を判断したこと(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、 四辻に立ち、初めに通った人の言葉を聞いて、物事の吉凶を反ずる占い(広辞苑)、 などとある。『絵本本津草』(享保十三年)には、 黄楊の櫛を持ちて、道祖神を念じて、四辻に出で、吾が思ふことの叶ふや否やを占ふ、辻や辻、四辻がうらの、市四辻、うら正しかれ、辻うらの神、かく三返唱へて、其辻へ先に來る人の言葉により、吉凶をうらなふ、 とあり、 辺を見れば黄楊の水櫛落てげり。あぶら嗅きは女の手馴し念記ぞ、是にて、辻占(ツヂウラ)をきく事もがなと(浮世草子「好色一代男(1682)」)、 と、 黄楊の小櫛、 ともいう(文明本節用集(室町中期))。なお、伴信友は『正卜考(せいぼくこう)』のなかで、 場所はかならずしも四つ辻とは限らず、また占いは女がするものとは決まっていない、 と述べている(世界大百科事典)。 これが転じて、 とうふあきなふ商人のきらずきらずと声だかに。売辻占の耳に立心おくれと成やせん(浄瑠璃「堀川波鼓(1706頃か)」)、 と、 偶然に遭遇した物事によって将来の吉凶を判断すること、 をいうようになり、さらには、俗閧ノ、 辻占煎餅、 などという、 小さき紙に、種々の語句を記したるを、巻きたる煎餅などの内に挿み(これを辻占煎餅と云ふ)、あるいは、あぶり出しのような細工をほどこしたりして、偶然に探り取りて、當座の事を占ひて興とするもの、 という(大言海・精選版日本国語大辞典)、作為的な占へと転じて行く。 辻占煎餅、 の他、 辻占昆布、 辻占豆、 辻占かりん糖、 等々の、 辻占菓子、 があり、占い付き菓子は、飲酒や娯楽、夜の街と関係が深く、江戸後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗、事物を説明した類書(百科事典)『守貞謾稿』や同時代の為永春水の『春の若草』に、宴会や吉原の妓楼で辻占菓子を楽しむ描写が登場する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E5%8D%A0)とある。 辻占、 も、別称に、 朝占夕占(あさけゆうけ)、 といい、やはり、 朝方や夕方の人の姿がはっきりしない時刻に行われ、道行く人の無意識に発する言葉の中に神慮を感じとり、それを神の啓示とした、 というものだが、後に、行路の神である、 道祖神、 や 塞の神、 の託宣とされるようになり、さらに、上述のように、衢(ちまた)に出て黄楊(つげ)の櫛を持って、道祖神を念じつつ、見えて来た人の言葉で吉凶を占うようになるのは、 黄楊と「告げ」が結び付き、櫛という呪物も加えられた、 とある(江戸期『嬉遊笑覧』)。夜、花柳界などを中心に占紙を売り歩いた、 辻占売、 はこの流れを引く者で、 淡路島通う千鳥の恋の辻占、 などと呼び声をあげて縁起の良いものだけを売った。占紙には、あぶり出しや巻煎餅・干菓子・板昆布にはさんだもの、割りばしや爪楊枝(つまようじ)の袋に印刷したものなどがあった、 とある(世界大百科事典)。 辻、 は、 神仏や妖怪など善悪さまざまな霊的存在の出現する境界的な場所であり、そこに昼と夜の境をなす時間の立つことは、あの世との接点で霊界との交流を果たすことを意味していた、 ともある(仝上)。 六道の辻、 で触れたように、 辻、 の字は、国字である。 辻は達の省、或は云ふ、十字街の十に之繞(シンネウ)せるとなり、 とある(大言海)、作字である。 和語「つじ」は、 つむじ、 ともいう(広辞苑)。つまり、 旋毛(つむじ)と通ず(大言海)、 ツムジの転(岩波古語辞典)、 とある。逆に、「旋毛(つむじ)」も、 つじ、 と訓む。「つむじ」は、 ツムはくるくる廻るサマ、ジは風。アラシ、ハヤチ、コチのシ・チと同じ、 とある(仝上)。「し」は、 風・息、 と当て、 あらし(嵐)・つむじ(旋風)・しまき(風巻)、 と複合語になった形でのみ使われ、 風の古名、 とあり(大言海)、転じて、 方角、 の意となり、 西風(にし)、 と使われる(岩波古語辞典)。「ち(風)」は、 し(風)の転、 とあり(大言海)、やはり 東風(こち)・速風(はやて)・疾風(はやて)、 と、複合語としてのみ使われる(仝上)。こうみると、 ツムジ→ツジ、 と転訛したとみていいが、 「下総本和名抄」に「俗用辻字〈都无之〉未詳」とあり、「斯道文庫本願経四分律平安初期点」に「巷陌の四衢道の頭(ツムシ)」とあるように、「つむじ」の変化したものとされる。その「つむじ」は頭髪のつむじ(旋毛)と関係するとみられるが、十字路ははやくから「つじ」が一般的となっていたと思われる、 とある(日本語源大辞典)。 都无之(つむじ)、 は、「独楽」で触れた、倭名抄箋注本にある、 都无求里(つむくり)、 とつながる。「つじ」の古名「つむじ」の「つむ」は、「つぶ」に通じるのである。 「つぶ」は、「かたつむり」で触れたように、 粒・丸、 と当て、 「つぶし(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」 とあり、「ツブリ(頭)」は、 「ツブ(粒)と同根」 とある。「ツビ」(粒)ともいい、「つぶ(螺)」は、 ツビ、 とも言い、 つぶら、 で触れたように、「つぶら」の「ツブ」は、 粒、 と関わり、「ツブ」は、 ツブラ(円)、 と関わる。「粒」は、 円いもの、 と重なり、「粒」「丸」「円」「螺」は、ほぼ同じと見なしたらしいのである。しかし、 かたつむり、 でみたように、「つぶり」の「つぶ」を「粒」ではなく、「つむり」の「つむ」を、「おつむ」「つむり」の「つむ」(頭)ともみられ、 かたつむり→かたつぶり、 と転訛したとも言えるし、あるいは、「つぶ」を「つぶ(螺)」とみれば、粒と同じく、 かたつぶり→かたつむり、 となるのである。カタツムリを、別名マイマイなどという。マイマイとは、渦巻きのこと、ツブ、ツブロはニシ(螺)だから、巻貝のこと、と考えていくと、 「つじ」の古名「つむじ」の「つむ」は、 頭、 の意でもあるが、やはり、 つむじ(旋毛)、 とも つむじ(旋風)、 ともつながり、 渦巻く、 と関わると思われる。そういえば、四つ辻は、よく、 旋風風、 が起きる。「旋風風」は、 辻風(つじかぜ)、 と呼ばれるのである。 なお、巫女などの口から出る歌を手掛かりに占いを行う、 歌占、 については触れた。 「占」(セン)は、 会意文字。「卜(うらなう)+口」。この口は、くちではなく、ある物やある場所を示す記号。卜(うらない)によって、一つの物や場所を選び決めること、 とある(漢字源)。他も、 会意。「卜」+「口」。「予言する」「予見する」を意味する漢語{占 /*tem/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%A0)、 会意。卜と、口(くち)とから成り、うらないの結果を判断して言う意を表す(角川新字源)、 会意文字です(卜+口)。「うらないに現れた形」の象形と「口」の象形から、「うらない問う」を意味する「占」という漢字が成り立ちました。また、占いは亀の甲羅に特定の点を刻んで行われる事から、特定の点を「しめる」の意味も表すようになりました(https://okjiten.jp/kanji1212.html)、 と、会意文字とする。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 美濃山に繁(しじ)に生いたる玉柏豊のあかりにあふがうれしさ(古今和歌集)、 の、 豊のあかり、 は、 新嘗祭や大嘗会の翌日の豊明の節会、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 とよのあかり、 は、 豊の明かり 豊明、 等々と当て、 は、 五節の舞、 で触れたように、 豊は称辞なり、あかりは、御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義と云ふ(大言海)、 トヨは美称、アカリは顔の赤らむ意(広辞苑)、 夜を日をついてせ酒宴するところから(和訓栞)、 タユノアケリ(寛上)またはタヨナアケリ(手弥鳴挙)の義か(言元梯)、 アカリは供宴に酔いしれて顔がほてっている様子から、トヨはそれを賛美する語(国文学=折口信夫)、 とあるが、素直に、 御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義、 ということだろう。 昨日神ニ手向奉リシ胙(ひもろぎ 神に供える肉)ヲ、君モ聞食(きこしを)シ、臣ニモ賜ハン為ニ、節会ヲ行ハルルナリ(室町時代「塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)」)、 と、 祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事(共飲共食儀礼)、 である、 直会(なおらい 神社における祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒をいただき神饌を食する行事)、 の性格があり、 大嘗祭の祝詞の、 千秋五百秋(ちあきのながいほあき)に平らけく安らけく聞食(きこしを)して、豊明に明り坐(ま)さむ、 や、中臣神寿詞の、 赤丹(あかに)の穂に聞食して、豊明に明り御坐(おは)しまして、 などの例を引き、 豊明に明り坐す、 という慣用句が、宴会の呼称として固定したものであり、 豊は例の称辞、明はもと大御酒を食て、大御顔色の赤らみ坐すを申せる言、 と説く本居宣長『古事記伝』の解釈が最も妥当とみられる(国史大辞典)とある。だから、 とよのあかり、 は、意味としては、上述の、 赤丹(あかに)の穂に聞食して、豊明に明り御坐(おは)しまして(中臣の寿詞)、 と、 酒に酔って顔の赤らむ、 ことだから、 宴会、 饗宴、 を意味する(広辞苑)が、特に、 天皇聞看豊明之日(古事記)、 あをによし奈良の都に万代に国知らさむとやすみしし我が大君の神ながら思(おも)ほしめして豊の宴見(め)す今日の日は(万葉集)、 と、 泛(ひろ)く、朝廷の御宴会の称、 で、 豊穣(ゆたか)なる酒宴、 大宴会、 節会、 をいう(大言海・広辞苑)が、また、限定して、 豊明節会(とよあかりのせちえ)の略、 の意としても使う。古え、 新嘗祭の翌日(陰暦十一月、中の辰の日、大嘗祭の時は午(うま)の日)、天皇新穀を召しあがり、群臣にも賜ふ儀式、 をいい、 吉野の国栖(くず)、御贄(みにえ)を供し、歌笛を奏し、治部省雅楽寮の工人は立歌を奏し、大歌所の別当は、歌人を率ゐて五節の歌を奏し、舞姫、参入して五節の舞を演ず、 とある(大言海・広辞苑・精選版日本国語大辞典)。「新嘗祭」については、 にいなめ、 で触れたし、「大嘗祭」については、 御嘗(おほんべ)、 で触れた。また、「直会(なおらい)」については、 おほなほび、 で触れたように、 動詞直(なほ)るに反復・継続の接続詞ヒのついたナホラフの体言形(岩波古語辞典)、 ナオリアイの約。斎(いみ)が直って平常にかえる意(広辞苑) ナホリアヒ(直合)の義(大言海)、 平常に直る意(日本語源=賀茂百樹)、 直毘の神の威力を生じさせる行事の意(上世日本の文学=折口信夫・金太郎誕生譚=高崎正秀)、 等々諸説あるが、 神事(異常なこと)が終わった後、平常に復するしるしにお供物を下げて飲食すること、またその神酒(岩波古語辞典)、 神事が終わって後、神酒、神饌をおろしていただく酒宴、またその神酒(広辞苑)、 という意味である。 鬢だたら、 五節の舞、 で触れたように、 五節(ごせち)、 は、その謂れを、 「春秋左伝‐昭公元年」の条に見える、遅・速・本・末・中という音律の五声の節に基づく、 とも(精選版日本国語大辞典・芸能辞典)、 天武天皇が吉野宮で琴を弾じた際、天女が舞い降り、五度歌い、その袖を五度翻しそれぞれ異なる節で歌った、あるいは、天女が五度袖を挙げて五変した故事による、 とも(壒嚢抄・理齋随筆)いわれる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、 新嘗祭(にいなめまつり・しんじょうえ)・大嘗会(おおなめまつり・だいじょうえ)に行われた少女舞の公事、 をいい、毎年、 十一月、中の丑・寅・卯・辰の四日間にわたる、 とされ(岩波古語辞典)、丑の日に、 五節の舞姫の帳台(ちょうだい)の試み(天皇が直衣・指貫を着て、常寧殿、または官庁に設けられた帳台(大師の局)に出て、舞姫の下稽古を御覧になる)、 があり、寅の日に、 殿上の淵酔(えんずい・えんすい 清涼殿の殿上に天皇が出席し、蔵人頭以下の殿上人が内々に行う酒宴。《建武年中行事》などによると、蔵人頭以下が台盤に着し、六位蔵人の献杯につづいて朗詠、今様、万歳楽があったのち装束の紐をとき、上着の片袖をぬぐ肩脱ぎ(袒褐)となる。ついで六位の人々が立ち並び袖をひるがえして舞い、拍子をとってはやす乱舞となる)、 があり、その夜、 舞姫の御前の試み(天皇が五節の舞姫の舞を清涼殿、または官庁の後房の廂(ひさし)に召して練習を御覧になる)、 があり、卯の日の夕刻に、 五節の童女(わらは 舞姫につき添う者)御覧(清涼殿の孫廂に、関白已下大臣両三着座。その後、童女を召す。末々の殿上人、承香殿の戌亥の隅のほとりより受け取りて、仮橋より御前に参るなり。下仕、承香殿の隅の簀子、橋より下りて参る。蔵人これに付く。殿上人の付くこともある)、 があり、辰の日に、上述のように、 豊明(とよのあかり)節会の宴(新嘗祭は原則として11月の下の卯の日に行われ、大嘗祭では次の辰の日を悠紀(ゆき)の節会、巳の日を主基(すき)の節会とし、3日目の午の日が豊明節会となる)、 があるが、新嘗祭では辰の日に行われたので、 辰の日の節会、 として知られた。当日は天皇出席ののち、天皇に新穀の御膳を供進。太子以下群臣も饗饌をたまわる。一献で国栖奏(くずのそう)、二献で御酒勅使(みきのちよくし)が来る。そして三献では五節舞(ごせちのまい)となる、 とあり、ここで正式の、 五節の舞、 となり、 吉野の国栖が歌笛を奏し、大歌所の別当が歌人をひきいて五節の歌を歌い、舞姫が参入して庭前の舞台で五度袖をひるがえして舞う(大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4〜5人(大嘗祭では5人)の舞姫によって舞われる)、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E・https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki45・大言海・精選版日本国語大辞典)。後世、大嘗会にだけ上演され、さらにそれも廃止された。ちなみに、 帳台、 とは、平安時代に、 貴人の座所や寝所として屋内に置かれた調度のこと、 をいい、 御帳台(みちょうだい)、 また、 御帳(みちょう)、 ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B3%E5%8F%B0)。帳台の形状は、 四隅に置いた「土居」(つちい)というL字型の台の上に高さ6尺7寸の柱3本、合せて12本の柱を立てると全体の高さは7尺1寸になる。その上の方四辺に「鴨居」(かもい)と呼ばれる横木を渡して各々の柱を繋ぎ、その上に桟を漆塗りとした明障子(あかりしょうじ)を乗せ、四幅(よの)の帳(とばり)を四隅に、五幅(いつの)の帳を四方の中ほどにそれぞれに別に垂らした、 とある(仝上)。現代風の言い方だと、 天蓋付きのベッド、 となる(https://heian.cocolog-nifty.com/genji/2008/03/post_aacd.html)。 なお、 五節句、 は、 重陽でも触れたように、 人日(じんじつ)(正月7日)、 上巳(じょうし)(3月3日)、 端午(たんご)(5月5日)、 七夕(しちせき)(7月7日)、 重陽(ちょうよう)(9月9日)、 である。 「豊(豐)」(慣用ブ、漢音ホウ、呉音ブ)は、 会意兼形声。丰(ホウ)は、△型にみのった穂を描いた象形文字で。豐は「山+豆(たかつき)+音符丰二つ」で、たかつき(高坏)の上に、山盛りに△型をなすよう穀物を盛ったことを示す。のち、上部を略して豊とかく、 とある(漢字源)。「豊」の字には、異体字が、 丰(簡体字)、 豐(被代用字(旧字体))、 禮(後起字)、 とあり、後述のように、 二種類の字が存在する(別字衝突)、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%8A)。 「丰」(漢音ホウ、呉音フウ・フ)は、 象形。草の穂が△型に茂るさまを描いたもの。豐(豊)の音符となり、豊かに茂る意を表し、鋒(ホウ ほこさき)・峰(ホウ 山のみね)の音符となって、先が三角形に尖る意を表す、 とある(漢字源)が、この異体字は、 豐(繁体字)、 封(後起字)、 𡴀(同字)、 𫵮(古字)、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B0)、 象形。草木の苗(封樹)を象る。漢語{封 /*p(r)ong/}を表す字、 とある(仝上)。 丰、 は、 豐、 の簡体字でもある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%8A)。 さて、「豊」には、 豐(被代用字(旧字体))、 禮(後起字)、 の二系統の字がある(仝上)というのは、 @「レイ」と読む字「禮」、 が、 会意。「玨」+「壴」、儀礼の代表物である玉と太鼓。儀礼を意味する漢語{禮 /*riiʔ/}を表す字。もと「豊」が{禮}を表す字であったが、示偏を加えた、 A「ホウ」と読む字「豐」、 が、 形声。「壴」(太鼓)+音符「丰 /*PONG/」×2。太鼓の擬音を示す漢語{蓬 /*boong/}を書き表す字。のち仮借して「ゆたか」を意味する漢語{豐 /*ph(r)ung/}に用いる。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、たかつき(「豆」)の上に食べ物が山盛りにされている様の象形文字と説明されているが、甲骨文字を見ればわかるように「豆」や食べ物とは関係がなく、誤った分析である、 とあり、上述の漢字源(藤堂明保説)は、『説文解字』に依拠した説明ということになる。しかし、 (A)「豐」 象形。高杯(たかつき)(食物を盛る、脚のある器)の上に玉が二つある形にかたどる。祭りに用いる道具の意を表す。もと豐とは別字で、「禮(レイ)(=礼)」の原字であるが、のちに豐の省略形として使われるようになった。教育用漢字はこれによる、 (B)「豊」 象形。実った穀物の穂を高杯(たかつき)の上に盛った形にかたどる。豊作の意を表す。ひいて「ゆたか」の意に用いる、 も(角川新字源)、 「豐」 会意兼形声文字です(丰+丰+豆)。「草・木が茂っている」象形と「頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)」の象形から、ゆたかに盛られた、たかつきを意味し、そこから、「ゆたか」を意味する「豊」という漢字が成り立ちました、 「豊」 象形文字です。「甘酒を盛る為のたかつき」の象形から、「たかつき」を意味する「豊」という漢字が成り立ちました、 とし(https://okjiten.jp/kanji863.html)、「禮(礼)」(漢音レイ、呉音ライ)についても、 会意兼形声。豊(レイ 豐(ホウ)ではない)は、たかつき(豆)に形よくお供え物を盛ったさま。禮は「示(祭壇)+音符豊」で、形よく整った祭礼を示す。『説文解字』や「礼記」祭儀篇では、礼は履(ふみおこなう)と同系のことばと説く。礼はもと古文の字体で、略字に採用された(漢字源)、 会意形声。示と、豊(レイ)(豐(ほう)の新字体とは別。神を祭るための祭器)とから成り、祭器に供え物をして神を祭る意を表す。ひいて、礼法の意に用いる。教育用漢字は古字の変形による(角川新字源)、 会意兼形声文字です(ネ(示)+乚(豊))。「神にいにしえを捧げる台の象形」と「甘酒を盛る為のたかつき」の象形(「甘酒」の意味)から甘酒を神に捧げて幸福を祈る、「儀式・礼儀」を意味する「礼」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji427.html)、 と、あくまで、 豐、 と 豊、 とを二系として、誤っているとされる、 豆(たかつき)がいっぱい満たされているもの、豆から構成され、象形文字(漢辞海)、 豆の豊満なるに象る。豆に从ふ象形、二の丰に从ふ、丰は聲をあらわす、豊(禮の古字)とは別(字源)、 とする「説文解字」に依拠して対比しているように見える。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 持入天台路(天台の路(みち)に入らんと待つ) 看余渡石橋(余が石橋(せききょう)を渡るを看よ)(駱賓王(栄之間)・霊隠寺) の、 石橋、 は、 天台山にある、深い谷川にかけられた石橋の名、生死を超越した人でなければ、怖ろしくて渡れないという、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。 渡石橋、 で、 天台山の深い谷川にかけられた、幅が一尺にも満たないという石の橋を渡る、 という意味だが、 生死を超えた悟りの世界に入ることに喩える、 とある(https://kanbun.info/syubu/toushisen115.html)、 石橋(しゃっきょう)、 は、文字通り、 石で造った橋、 つまり、 いしばし、 をいうが、「石」の字音は、 漢音セキ、呉音ジャク、慣用シャク・コク、 であり、 せっきょう、 とも訓ませる(精選版日本国語大辞典)。 深谷に架(わた)せる石橋、 ともあり(大言海)、 苔、滑らかにして、歩み難し、橋のあたりに、咲きたる牡丹花に、戯れ遊ぶ獅子あり、危きを恐れず、彼岸に達して、始めて、普賢の座に至る、 といった、 仏教の理に因る意味、 に譬えて言う(仝上)とある。 普通、 石橋(しゃっきょう)、 というと、 出家した大江定基、寂昭法師が入唐し清涼山で石橋を渡ろうとすると、一人の童子が現れて橋の渡り難いことを説き、橋のいわれを語る。やがて獅子が現れ、咲き乱れる牡丹(ぼたん)の花の間を勇壮に舞い、御代の千秋万歳をことほぐ、 という謡曲の曲名を指したりするが、ここでは、 天台山にあった石橋、 をいう。南朝梁の任ム『述異記』には、 秦の始皇、石橋を海上に作り、海を過(よぎ)り、日の出づる處を観んと欲す。神人有り、石を駈(か)る。去(ゆ)くこと速からず。神人之れを鞭(むち)うち、皆流血す。今石橋、其の色猶ほ赤し、 とある(字通)。石橋は、 支那天台山にある石の橋で、橋上苔滑かにして稍々もすれば転び落ちやうとするし両岸は断崖千仞削るが如く、橋下は数千丈の深潭であり、此の附近獅子よく出でゝ遊ぶ、 といい(東洋画題綜覧)、『元亨釈書』には、 天台山に石橋あり、広さ尺に満たず長さ数歩其下数千丈あり、天台大師始めて登山の時、この橋に一宿す、羅漢現じて将来を示す、 などとある(仝上)。この石橋は、 橋上苔滑かにして稍もすれば転ぜんとす、両岸に断崖削るが如く、その橋下は数千丈の深潭にて、その附近に獅子の住むと称へらるゝ神秘的の境なり、天台大師始めて登山の時、是に一宿し羅漢と会すという、我が寂昭大師も此を訪ひし時、渡らんと欲して、その危険を恐れ屡々躊躇越りと伝へらる、 とあり(https://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E7%9F%B3%E6%A9%8B)、謡曲「石橋」は、この、 寂昭大師入唐して此地に至り、獅子舞の奇特に会せしことを叙せり、 とある(仝上)。能に於ける獅子の狂ひ舞が世に普及し、 通例石橋といへば赤頭白頭の獅子の狂ひ舞を画くを習となす、 とある(仝上)。 謡曲に『石橋』では、 なほ/\橋のいはれ委しく御物語候へ、「夫れ天地開闢の此方、雨露を降して国土を渡る、是れすなはち天の浮橋ともいへり、「其外国土世界に於て橋の名所さま/゙\にして、「水波の難をのがれ、万民富める世を渡るも、すなはち橋の徳とかや、「然るに此石橋と申すは、人間の渡せる橋にあらず、おのれと出現して、つづける石の橋なれば、石橋と名を名付けたり、其面わづかに尺よりは狭うして、苔甚だ滑かなり、其長さ三丈余、谷のそくばく深きこと千丈余に及べり、上には滝の糸、雲より懸けて、下は泥梨も白波の、音は嵐にひゞき合ひて、山河震動し雨塊を動かせり、橋のけしきを見渡せば、雲にそびゆる粧ひの、たとへば夕陽の雨の後に虹をなせる姿、又弓をひける形なり、遥かに臨んで谷を見れば「足冷ましく肝消え、すゝんで渡る人もなし、神変仏力にあらずば、誰か此橋を渡るべき、 と詠う(東洋画題綜覧)。 天台山、 は、 支那の仙境と数へらるゝ所にして、天台宗の根原地なり、浙江省台州府に在り、超然として秀出して山八重あり、高さ一万八千尺という、路険にして渓水清冷、石橋ありて、径尺に盈たず、下絶冥の澗に臨む、之に登るには或は岩壁に梯し、或は蘿葛を握りて辛うじてすべしという、上に隋の煬帝が宗祖智者大師の為めに建つる所国清寺あり、瓊楼、玉閣、天堂、碧林あり、醴泉亦湧く、古来金庭不死の仙境と称せらる、晋の隠士白道猷曽つて之を過ぎて醴泉、紫芝、霊薬を得、以て不老の妙に通せりという、此仙境を画くもの仏家に多く、亦南画家に少なからず、 とあり(https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%B1%B1)、 支那浙江省台州府にある名山、赤城山、方山、等と共に仙霞嶺山脈中の一峰にかゝる、天台の名は斗牛(星座の二十八宿の中に隣り合う、斗宿と牛宿。「斗」は射手座の一部、「牛」は山羊座の一部で、わし座の南方にある)の分野に当り天の台宿に応ずるが故に名付くといふ、山峰奇秀、渓水深険、山に寺塔多く、中にも国清寺は仏教史上の名刹で、晋の時代から高僧多く留錫修道し、殊に隋の代になつて智者大師此山にあつて法華経に基き天台の教義を組成弘通してから、唐代に於ては南支那に於ける仏教の一大道場となり、我が伝教大師また入唐して此の山に学び、帰朝の後比叡山に日本天台宗を開いた、 ともある(仝上)。 「天台山」については、「方丈」で触れたように、 天台、 は、 浙江省の東部にある山、 で、 昔は仙人の住む霊山と考えられた、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 天台、 は、孫綽(そんじゃく)「天台山に遊ぶ賦」に、 海を渉れば則ち方丈・蓬莱有り、陸に登れば則ち四明・天台有り、皆玄聖の遊化する所、霊仙の窟宅する所なり、 とある(仝上)。 「石」(漢音セキ、呉音ジャク、慣用シャク・コク)は、 象形。崖の下に口型のいしのあるさまをえがいたもの、 とある(漢字源)。別に、 象形。厂(かん がけ)の下にあるいしの形にかたどり、「いし」の意を表す(角川新字源)、 ともあるが、これは、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)の、 「口」をいしの象形として「厂」を崖と解釈している、 のによるが、 甲骨文字の形を見ればわかるように、これは誤った分析である、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%B3)、 象形。「厂」の部分が原字で、いしの形を象る。のち羨符「口」を加えて「石」の字体となる。「いし」を意味する漢語{石 /*dak/}を表す字、 とする(仝上)。 「橋」(@漢音キョウ・呉音ギョウ、Aキョウ)は、 会意兼形声。喬は、高(たかい家の形)の屋根の先端が曲がったさまを描いた象形文字で、高くて曲線をなしてしなう意を含む。橋は「木+音符喬」で、⌒型に高く曲がったはし、 とあり(漢字源)、「橋梁」「架橋」の「橋」、橋をメタファにした横木、「橋起」のように、たかくそびえるさま等々、いわゆる「橋」の意の場合は@の音、轎(キョウ)に当てて用いた、橋のように担ぎあげる輿の意の場合は、Aの音となる(仝上)。別に、 会意兼形声文字です(木+喬)。「大地を覆う木の象形」と「高い楼閣の上に旗がかけられた」象形(「高い」の意味)から谷川に高くかけられた木の「はし」を意味する「橋」という漢字が成り立ちました、 も(https://okjiten.jp/kanji419.html)、会意兼形声文字とするが、 形声。「木」+音符「喬 /*KAW/」。「はし」を意味する漢語{橋 /*ɡ(r)aw/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A9%8B)、 形声。木と、音符喬(ケウ)とから成る。「はし」の意を表す(角川新字源)、 は、形声文字とする。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) |
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