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コトバ辞典


罟師(こし)


楊柳渡頭行客稀(楊柳(ようりゅう)の渡頭(ととう) 行客(こうかく)稀なり)
罟師盪槳向臨圻(罟師(こし) 槳(かい)を盪(うご)かして臨圻(りんき)に向う)
唯有相思似春色(唯だ相思(そうし)の春色(しゅんしょく)に似たる有りて)
江南江北送君歸(江南(こうなん)江北(こうほく) 君が帰るを送る)(王維・送沈子福之江南)

の、

楊柳渡頭、

は、

楊柳の渡し場のほとり、

という意味だが、

楊柳、

は、「折楊柳(せつようりゅう)」で触れたように、唐詩では、

楊柳の枝を折る、

というと、

別離には楊柳の枝を折って贈る風習があった、

ので、この詩の場面には、

楊柳、

はふさわしい(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

罟師(こし)、

の、

罟、

は、

魚をとる網、

で、

罟師、

は、

漁師、

を指す(仝上)。

「罟」(漢音コ、呉音ク)は、

会意兼形声「网(あみ)+音符古(胡 かぶさる)」

とあり(漢字源)、

魚を捕るための網、

だが、

うえからかぶせる仕掛け網、

とあり(漢字源)、

あみの総称、

ともある(仝上・漢辞海)。

網罟(もうこ)、「罟師」等々と使い、メタファとして、

天罟(てんこ)、

と、

犯罪を防ぐため、張り巡らした法網(漢字源)、
おきて(字源)、

の意でも使う(仝上)。

「あみ」に当てる漢字は、かなりの数があり、辞書で拾えるだけでも、

网、罔、網、羅、汕、罘、罟、罨、罦、畢、罼、罝、罥、罤、罨、罿、罾、罛、罜、

等々とある(字源・漢辞海・漢字源)。

「网」(漢音ボウ、呉音モウ)は、

象形、両脇の支柱の間に、×型にあみを張ったさまを描いたもの。のち音符亡を加えて、罔の字となった、

とあり(漢字源)、「罔」は、「网」の異字体(漢辞海)、

会意兼形声、「网(あみ)+音符亡(みえない)」

で、

網、

の古字とある(字源)。

糸やひもを編んで作った鳥獣や魚をかぶせて捕らえるあみ、

である(仝上・漢字源)。

「網」(漢音ボウ、呉音モウ)は、

会意兼形声。罔はもと、あみを描いた象形文字、網は「糸+音符罔(モウ)」で、被せて見えなくするあみ、また目には見えにくくてかぶさるあみ、罔と同じ、

とある(漢字源)。

糸や紐を編んで作った鳥獣や魚をとらえるあみ、

の意で、

网、
罔、
罟、
羅、

と同義である(仝上)。

「羅」(ラ)は、「綾羅」で触れたように、

会意文字。「网(あみ)+維(ひも、つなぐ)」

とある(漢字源)。あみを張りめぐらす意を表である(角川新字源)。別に、

形声。「糸」+音符「䍜 /*RAJ/」。「あみ」を意味する漢語{羅 /*raaj/}を表す字。もと「网」が{羅}を表す字であったが、「隹」を加えて「䍜」となり、さらに「糸」を加えて「羅」となった、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%85

会意文字です(罒(网)+維)。「網」の象形と「より糸の象形と尾の短いずんぐりした小鳥と木の棒を手にした象形(のちに省略)」(「鳥をつなぐ」、「一定の道筋につなぎ止める」の意味)から、「鳥を捕える網」を意味する「羅」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2007.html

鳥罟謂之羅(中国最古の字書『爾雅』(秦・漢初頃))、

と、

鳥をとらえるあみ、

の意である(字源・漢辞海)

「汕」(サン)、

は、

魚の泳ぐさま、

をいい、魚をすくいとる、

すくいあみ、

とあるhttps://kanjitisiki.com/jis2/2-2/535.html

「罘」(漢音フウ、呉音ブ)は、

会意兼形声。「网(あみ)+音符不(ふっくら、ふくれる)」

とあり(漢字源)、

うさぎをとらえるあみ、

の意であり(仝上・漢辞海)、また、ひろく、

鳥獣などを狩るのに用いるあみ、

の意でもある。

「罦」(フ・フウ)、

は、

雉離于罦(王風)、

と、

車上に設けて鳥を捕らえるあみ、

である(字源)。

「畢」(漢音ヒツ、呉音ヒチ)は、

象形。もと鳥獣をとりおさえる柄付の網を描いたもの。ぴたりと隙間なく抑える意から、もれなくおさえてケリをつける意となる、

とある(漢字源)。別に、

象形。鳥をとらえるための、大きなあみの形にかたどる。借りて「おわる」意に用いる(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「区画された狩猟地・耕地」の象形と「かも猟に用いられる柄のついた網の象形」から「あみ」を意味する「畢」という漢字が成り立ちました。また、「閉」に通じ(「閉」と同じ意味を持つようになって)、「おわる」の意味も表すようになりましたhttps://okjiten.jp/kanji2604.html

ともあり、

鳥獣をとりおさえるための柄つきのあみ、

の意である(漢字源・漢辞海)。

「罼」(ヒツ)は、「畢」とつながり、

長い柄の先に網をつけて、鳥などを捕らえるあみ、

の意で、

うさぎあみ、
さであみ(叉手網 魚を大きな袋網を用いて. すくいとる)、

の意もある(字源)。

「罝」(シャ・ショ)は、

「罝罘」(シャフ)、

と、

兎などの獣を捕らえるあみ、

の意(字源)。

「罥」(ケン)は、

鳥獣を捕らえるための網、

の意である(字源・漢辞海)。

「罤」(コン)は、

兎を捕らえる網、

であるhttps://kanji.jitenon.jp/kanjis/9178.html

「罨」(慣用アン、漢音呉音エン)は、

会意兼形声。「网(あみ)+音符奄(エン かぶせる)」、

で、

うえからかぶせて魚を捕らえるあみ、

の意である(漢字源・字源)。

「罿」(ショウ・トウ)は、

車上に張りて鳥を捕らえるあみ(字源)、

とも、

ウサギ用の捕獲あみ(漢辞海)、

ともある。

「罾」(ソウ)は、

置人所罾魚腹中(漢書・陳勝傳)、

と、

方形の阿見の四隅を竹にて張り柄をつけ、少時、水に沈め、急に引き上げて魚を取る、

いわゆる、

四つ手網、

の意である(字源)。

「罛」(コ)は、

魚罛(ぎょこ)、

と、

魚を捕らえる大きな網、

である(字源)。

「罜」(シュ)は、

魚罟(ぎょこ)、

の意で、

魚を捕らえる小さな網、

こあみ、

の意である(字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)

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轅門(えんもん)


日落轅門鼓角鳴(日落ちて轅門(えんもん) 鼓角(こかく)鳴り)
千群面縛出蕃城(千群(せんぐん)面縛(めんばく)して蕃城を出(い)ず)
洗兵魚海雲迎陣(兵を魚海に洗えば 雲 陣を迎え)
秣馬龍堆月照營(馬を竜堆(りようたい)に秣(まぐさか)えば 月 営を照らす)(岑参・封大夫破播仙凱歌二)

の、

面縛、

とは、

後ろ手にしばること、

をいい、特に、

自分から縛ること、

をいう(前野直彬注解『唐詩選』)。つまり、

降服のしるし、

である。

面、

とは、

顔だけが突き出ること、

ともいい、

背後に、

の意味だともいう(仝上)とある。

轅門、

の、

轅、

は、

車のながえ、

をいい、

天子や将軍などが野外に宿営するときは、周囲に車を並べて垣を作り、入口には二台の車を、車輪を向き合わせた形に立てるので、ながえ門のように見える、

ので、これを、

轅門、

という(仝上)が、ここでは、必ずしも車を用いたとは限らず、

駐屯地の軍門、

を意味する(仝上)とある。春秋穀梁伝に、

置旃以爲轅門(旃(せん)を置き以て轅門と為す)、

とあり、その注に、

轅門卬車、以其轅表門(轅門は車を卬けて、其の轅を以て門を表あらわす、

とし、その疏に、

以車爲營、舉轅爲門(車を以て営と為し、轅を挙て門と為す)、

とある。

ながえ」で触れたように、

轅門(えんもん)、

は、

陣営の門、
軍門、

の意でも使う(広辞苑)のだから、ここでの、

車、

は、「周禮」天官篇に、

謂仰両乗車轅相向表門、故名轅門、

とあり、

護衛の兵車を仰向けて並べる、

のだから、当然、

軍用車両、

である、

兵車、

である。

兵車、

は、

戦争に用いる車、

で、

戎車(じゅうしゃ)、

ともいう(広辞苑)。代表的なものは、

戦車(いくさぐるま)、

で、

輕車(けいしゃ)、
馳車、

という(https://three-kingdoms.net/12471)とある。春秋時代、

兵車戦、

が主な戦い方で、趙の武霊王が紀元前307年に胡服騎射を取り入れるまで、騎兵が用いられることは少なかったとされる。また兵車1台あたり、周では75人、楚では150人が付き従ったとされる。また、兵車のみでは戦力にならないため、戈などの近接戦闘具が併用された、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%B2

戦車には、他の車(馬車)のように垂たれ幕や車蓋(しゃがい)はなく、輿(よ 人が乗る部分)と車輪は紅色べにいろに塗ぬられています、

とありhttps://three-kingdoms.net/12471

矛(ぼう 矛(ほこ))、
戟(げき)、
幢(どう)・麾(き)(共に指揮をするための旗)、
弩(ど)の箙(えびら 矢筒)、

が装備され、牽引4頭の馬には馬甲(ばこう)を着用していた(仝上)とある。乗員は3名で、

で、

主人と馬を御す御者と主人を護る右(車右)です。 おそらく主人と右が長手の武器を持って、相手の戦車とすれ違いざまに攻撃をして相手を倒したり、 車上から落としたりしたのでしょう、

とある(https://chinahistory3000.web.fc2.com/point170.html)。その戦車には歩兵が従う。歩兵部隊の最小ユニットは5人で、

伍、

と呼ばれ、伍が5つ集まって両を編成します。両は5行5列の方陣が基本隊形でした。この両3つが1輛の戦車に付き従い、その後ろに25人のメンテナンス後続部隊が続きました、

とある(仝上)。

「史記」項羽紀に、

侯將を召見す。轅門に入り、膝行して前(すす)まざる無く、敢て仰ぎ視るもの莫(な)し、

とある(字通)。

「轅」(漢音オン、呉音エン)は、

会意兼形声。「車+音符袁(エン =遠、遠回り、ゆるい曲線を描く)」

とある(漢字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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大幣


大幣の引く手あまたになりぬれば思へどえこそたのまざりけれ(古今和歌集)、

の、

え、

は、

打消しの表現と呼応して、

とても……できない、

の意(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

大幣、

は、

国の大奴佐(おほヌサ)を取りて生剥(いきはぎ)・逆剥(さかはぎ)……牛婚(うしたはけ)・鶏婚(とりたはけ)・犬婚(いぬたはけ)の罪の類を国の大祓(おほはらへ)を為て(古事記)、

と、

祓えの行事の折に用いられた大串に下げた長い布。祓えが終った後、人々が争ってそれを身体にあて、罪を拭う、

とあり、

祓えが終ると川に流される、

とある(仝上)。

大麻、

ともいう(広辞苑)。

幣の大きなる串にさすので、小さき、

切幣(きりぬさ)、

に対していう(大言海)。類聚名義抄(11〜12世紀)に、

御麻、オホヌサ、

色葉字類抄(1177〜81)に、

御祓麻、オホヌサ、

とある。

冒頭の、

大幣で浮気心を喩えた歌、

から、

大幣、

で、

我をのみ思ふと言はばあるべきをいでや心は大幣にして(古今和歌集)、

と、

心があちこちにひかれる、

意や、

大幣になりぬる人のかなしきは(大和物語)、

と、

引く手あまたであること、
ひっぱりだこ、

の意で使われた(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

ただ、

大幣、

を、

たいへい、
おおみてぐら、

と訓ませると、

在山背国乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。頻有徴験。%大幣及月次幣例(「続日本紀」大宝二年(702)七月己巳)、
献るうづの大幣帛(おほみてぐら)を、安幣帛の足幣帛と、平らけく安らけく聞し食せと(延喜式(927)祝詞)、

と、

践祚大嘗祭にあたり、伊勢神宮以下一定の神社に奉る幣帛、

の意となり、

大奉幣、

ともいう(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。

ぬさ

は、

麻・木綿・帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、または祓(はらえ)にささげ持つもの、

の意で、

みてぐら、
にぎて、

ともいい、共に、

幣、

とも当て、

祈總(ねぎふさ)の約略なれと云ふ、總は麻なり、或は云ふ、抜麻(ぬきそ)の略轉かと、

とあり(大言海)、「ねぎふさ」に、

祈總(ねぎふさ)を当てるもの(国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、

抜麻(ねぎふさ)を当てるもの(雅言考)、

があり、「抜麻」を、

抜麻(ねぎあさ)と訓ませるもの(日本語源広辞典・河海抄・槻の落葉信濃漫録・名言通・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、

があり、その由来から、「ぬさ」が、元々、

神に祈る時に捧げる供え物、

の意であり、また、

祓(ハラエ)の料とするもの、

の意、古くは、

麻・木綿(ユウ)などを用い、のちには織った布や帛(はく)も用い、或は紙に代えても用いた、

とあり(大言海・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、

旅に出る時は、種々の絹布、麻、あるいは紙を四角に細かく切ってぬさぶくろに入れて持参し、道祖神の神前でまき散らしてたむけた、

とある(精選版日本国語大辞典)。後世、

紙を切って棒につけたもの、

を用いるようになる(仝上)。この、

神に捧げる供物、

をいう「ぬさ」と、本来は、供物の意味をもたない、

しで(四手)、
みてぐら、

と混同が起こったと考えられている(精選版日本国語大辞典)。

「にぎて」は、

下枝に白丹寸手(にきて)、青丹寸手を取り垂(し)でて(古事記)、

と、

にきて、

と清音、

平安以降ニギテと濁音、

とあり(岩波古語辞典)、

和幣、
幣帛、
幣、

と当て(広辞苑・大言海)、

にきたへ(和栲・和布・和妙)の約(広辞苑・大言海・和訓栞・神遊考)、
テは接尾語で、手で添える物の意、あるいはタヘ(栲)の転か(岩波古語辞典)、
ニキは和の意。テはアサテ・ヒラデ・クボデなどのテと同じく「……なるもの」の意(小学館古語大辞典)、
ニキは和の義、テは、是を執って神に見せる義(東雅)、
ニギは和、テは手の義(日本語源=賀茂百樹)、

などとある。「にきたへ」(和栲)は、

片手には木綿(ゆふ)取り持ち、片手には和栲(にきたへ)まつり平(たひら)けくま幸(さき)くいませと天地(あめつち)の神を祈(こ)ひ祷(の)みまつり(万葉集)、

と、

「荒稲(あらしね)」の対、平安時代以後はニギタヘと濁音、

打って柔らかくした布、神に手向ける、

意である(岩波古語辞典)が

たへ→て、

の音韻変化は考えにくく、

「くぼて」「ながて」の「て」と同様に「……なるもの」の意、

と見るべきとされ(日本語源大辞典)、「にき」は、

和魂(にきたま)、

の、

やわらかい、
おだやか、

という意になる(広辞苑)。斎部(いんべ)氏の由緒記『古語拾遺』(807)に、

和幣、古語、爾伎底、
神衣、所謂和衣、古語、爾伎多倍、

と別けて記している(大言海)。「にぎて」は、

木綿(ゆふ)の布、麻の布を神に供ふる時の称、後に、絹、又、後に布の代わりに紙を用ゐる。

とあり(仝上・岩波古語辞典)、

白和幣(しらにぎて 白幣)は木綿の糸似て作り、色白ければ云ひ、青和幣(あをにぎて 青幣)は麻の糸にて作り、稍、青みれば云ふ、古語拾遺に穀(カヂ)を植えて白和幣を造り、麻を植えて青和幣を作る、

とある(仝上)。「にきて」は、神代紀に、

枝下懸青和幣、

とある注に、

和幣此云、尼枳底、

とあるように、

榊の枝などに取り懸けて神をまつるしるしとする、

とあり(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

棒につけたものを用いるようになる、

と、「ぬさ」と変わらなくなる。

「みてぐら」は、

幣、
幣帛、

などと当てる。古くは、

みてくら、

と清音、その由来は、

御手座の意(本居宣長・広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉・日本釈名・東雅・日本語源=賀茂百樹・日本の祭=柳田國男)、
御手座の義、置座(おきぐら)に手向ける義、或は云ふ、御栲座(みたへぐら)の約、或は云ふ、充座の義とか、いかがか(大言海)、
ミテ(充)クラ(座)、たくさんの供物を案上に置いて献上すること。クラとは、物をのせたり、物をつける台となるものをいう(賀茂真淵)、
ミ(御)タヘ(栲)クラ(台)の約、ミは接頭語、タヘは古代に用いられた織物の総称で、タヘがテとなった(敷田年治)、
御手向クラの義(箋注和名抄)、
マテクラ(真手座)の義(類聚名物考・名言通)、
ミテは天王の御手の意、クラは神にクレ(遣)るの意(雅言考)、

等々とされ、

元来は神が宿る依代(よりしろ)として手に持つ採物(とりもの)、

を指し(百科事典マイペディア)、

祭人が手に持って舞うことにより、神がそこに降臨すると信ぜられた神座をいう。それが祭場に常に用意されるところから、神への供物と考えられるようになった、

とあり(岩波古語辞典)、

神に奉納する物の総称、

として、

布帛・紙・玉・兵器・貨幣・器物・獣類、

のちには、

御幣(ごへい)、

をもいうようになる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。それは、「みてぐら」に、

幣の字を当てたため、幣帛(にぎて)と混用される、

に至ったもののようである。だから、「みてぐら」は、

絹布などを串に挟みて奉るを云ふ、後には、紙にも代ふ、木綿(ゆふ)の布の遺なるべし。今は、紙を長く段々に切りたるを、みてぐら、又、幣帛(へいはく)と云ひ、紙をたたみて、水竹に挟みたるを、幣束(へいそく)、又御幣(ごへい)とも云ふ、切りたるは御衣(みけし)に裁ちたる意、切らぬは裁たず、たたみながら獻ずる意と云ふ、

とあり(大言海)、これでは、

ぬさ、

にぎて、
も、
幣帛(へいはく)、

幣束、
も、
御幣、
も、

ほぼ同義になってしまっている。なお、

「木綿・麻」の代わりに、細長く折り下げた紙を両側に垂らす形式、

が見られるようにもなるのは中世(13世紀末頃)。これが、

紙垂(しで)、

である。

榊(玉串・真榊)の他、神前に御幣を捧げる形、

が普及・定着化したのは、室町時代から江戸時代にかけて、中世以降の御幣は、

捧げ物本体である「幣紙」(へいし)

神聖性を示す「紙垂」(しで)、

それらを挿む「幣串」(へいぐし)、

から成るようになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3。なお、長い棒や竹の先端に幣束を何本か取付けたもののことを、特に、

梵天(ぼんてん)、

という(仝上)らしい。

「ぬさ」については、布や帛を細かく切ったもので、旅人が道の神の前でこれを撒く「ぬさ」と、麻・木綿・帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、または祓(はらえ)にささげ持つ「ぬさ」については、それぞれ触れた。

「幣」(漢音ヘイ、呉音ベ)は、「ぬさ」で触れたように、

会意兼形声。敝の左側は「巾(ぬの)+八印二つ」の会意文字で、八印は左右両側に分ける意を含む。切り分けた布のこと。敝(ヘイ)は、破って切り分ける意。幣は「巾(ぬの)+音符敝」で、所用に応じて左右にわけて垂らし、または、二枚に切り分けた布のこと、

とある(漢字源)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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竜鐘(りゅうしょう)


故園東望路漫漫(故園 東望(とうぼう)すれば路(みち)漫漫(まんまん)たり)
雙袖龍鍾淚不乾(双袖(そうしゅう)竜鍾(りゅうしょう)として涙乾かず)
馬上相逢無紙筆(馬上相逢(お)うて紙筆(しひつ)無し)
憑君傳語報平安(君に憑(よ)って伝語(でんご)して平安を報ぜん)(岑参・逢入京使)

の、

故園、

は、

故郷のわが家、

で、

作者の郷里は河南省南陽であるが、ここでは長安にあった住居をさす、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

漫漫、

は、

遠く果てしないこと、

である。『楚辞』の「離騒」に、

路(みち)曼曼として其れ脩遠(しゅうえん)なり、吾(われ)将(まさ)に上下して求索(きゅうさく)せんとす(路曼曼其脩遠兮、吾將上下而求索)、

とある(https://kanbun.info/syubu/toushisen358.html

竜鐘、

は、

老いてつかれ病む貌、

とある(字源)が、これは、

龍と鐘の二字の音を合わせれば、

癃、

となるため(字源)とある。

「癃」(漢音リュウ、呉音ル)は、

会意兼形声。「疒+音符隆(リュウ 一部盛り上がる)」、

で(漢字源)、

疲癃、

で、

疲れ病む、

意、

罷癃、
老癃、

老いて病む、

というように、

疲れ病む、

意で(字源)、

龍鐘、

は、

潦倒龍鐘百疾叢體(李華・臥疾舟中贈別序)、
今日道旁扶一枴、乃公安得不龍鐘(劉克荘・老奴)、

などと、

衰弱の状、

をいい(大言海)、また、

敗絮龍鐘擁病身、十分寒事在湘濱(劉克荘・湘潭道中即事)、

と、

しおたれること、

の意などで使い(大言海)、

老人の形容・失意の形容に用いる、

が(前野直彬注解『唐詩選』)、ここでは、

漢の蔡邕(さいよう)または晋の孔衍(こうえん)の撰と伝えられる『琴操』の中の「退怨の歌」に、

空山歔欷、涕龍鍾兮(空山(くうざん)歔欷(きょき すすり泣く)して、涕(なみだ)竜鍾(りゅうしょう)たり)

とあるのに基づき、

涙があふれ出ることの形容、

とある(仝上)。

故園東望路漫漫、雙袖龍鐘涙不乾(岑参・逢入京使)、

にも、

涙の垂れること、

の意で用いている(大言海)。

「竜」(漢音リョウ、呉音リュウ、慣用ロウ)は、「亢龍悔い有り」で触れたように、

象形。もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それにいろいろな模様を添えて、龍の字となった、

とある(漢字源)。

竜、

が古字(字源)とある。別に、

象形。もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、「龍」となった。意符としての基本義は「うねる」。同系字は「瀧」、「壟」。古声母は pl- だった。pが残ったものは「龐」などになった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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山かづら


すべらぎをときはかきはにもる山の山人ならし山かづらせり(新古今和歌集)、

の、

ときはかきはに、

は、

永久不変に、

の意、

山かづら、

は、

山鬘、
山蔓、

と当て、

ヒカゲノカズラで結ったカズラ、

をいい、

神事に用いた、

とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。ただ、

マサキノカヅラ(真拆葛)にて結ひたるかづら、

ともある(大言海)。

かづら、

は、

鬘、

とあて、

カミ(髪)ツラ(蔓)の約(ツラはツル(蔓)と同根)、

で、

蔓草で作った髪飾り、

をいい(岩波古語辞典)、上代、

蔓草を採りて、髪に挿して飾りとしたるもの、又、種々の植物の花枝などをも用ゐたり、後の髻華(ウズ)、挿頭花(かざし)も、是れの移りたるなり、

とある(大言海)。

髻華(うず)、

は、

巫女の頭飾りのルーツ、

で、

山の植物の霊的なパワーを得るため髪や冠に草花や木の枝を挿す、

ものとされ、現在の巫女の頭飾りに用いる花もこれを踏襲しているhttps://gejideji.exblog.jp/31187471/し、

挿頭、
挿頭華、

とも当てる、

秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや(万葉集)、

の、

かざし、

は、上代、

草木の花や枝などを髪に挿したこと。また、挿した花や枝、

をいい、平安時代以後は、冠に挿すことにもいい、多く造花を用いた(デジタル大辞泉)とあり、やはり、

幸いを願う呪術的行為が、のち飾りになったもの、

とある(仝上)。古墳時代には、これを、

髻華(うず)、

といい、飛鳥時代には、髪に挿すばかりではなく、冠に金属製の造花や鳥の尾、豹(ひょう)の尾を挿して飾りとし、平安時代になって、冠に挿す季節の花の折り枝や造花を、

挿頭華(かざし)、

とよぶようになった。造花には絹糸でつくった糸花のほか金や銀製のものがあった。その挿し方は、

冠の巾子(こじ)の根元につけられている上緒(あげお)に挿すが、官位、儀式により用いる花の種類が相違し、大嘗会(だいじょうえ)には、

天皇菊花、
親王紅梅、
大臣藤花、
納言(なごん)桜花、
参議山吹、

と決められた。祭りの使(つかい)および列見(れっけん)(朝廷で2月11日に六位以下の官吏を位階昇進の手続のため閲見、点呼する儀式)などの行事に参列する大臣以下も同じで、非参議以下はその時の花を用いる(日本大百科全書)とある。

やまかづら、

に、

ヒゲノカヅラ、

以外に、

マサキノカヅラ、

に当てる説がある(岩波古語辞典・大言海)が、

マサキノカヅラ、

は、

深山(みやま)にき霰降るらし外山(とやま)なるまさきのかづらいろづきにけり(神楽歌)、

とあり、

真栄の葛、

と当て、今日の、

テイカカヅラ、

の古名で、

ツルマサキの古名、

ともされ、やはり、

神事に用いた、

とある(仝上)。

さがりごけ」で触れたように、

ヒカゲノカズラ、

は、

践祚の大嘗祭、凡そ斎服には……親王以下女孺(にょじゅ、めのわらわ 下級女官)以上、皆蘿葛(延喜式)、

と、

新嘗(にいなめ)祭・大嘗(だいじょう)祭などの神事に、物忌のしるしとして冠の笄(こうがい)の左右に結んで垂れた青色または白色の組糸、

を呼ぶ(岩波古語辞典・広辞苑)。もと、

植物のヒカゲノカズラを用いた、

ための称である(仝上)。

ヒカゲノカズラ、

は、

ヒカゲカズラ、

ともいい、

キツネノタスキ、
カミダスキ、

とも呼び、

日陰鬘、
日陰蔓、
蘿葛、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

山葛蘿(ヤマカズラカゲ)、

の別名を持ち、

漢名は、

石松、

で(広辞苑)、

蘿(かげ)、

という別称もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AB%E3%82%B2%E3%83%8E%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%83%A9

シダ類ヒカゲノカズラ科の常緑多年草、

で、各地の山麓に生える。高さ八〜一五センチメートル。茎はひも状で地上をはい長さ二メートルに達する。葉はスギの葉に似てごく小さく輪生状またはらせん状に密生する。夏、茎から直立した枝先に淡黄色で長さ三〜五センチメートルの円柱形の子嚢穂をつける、

とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。茎は、正月の飾りにし、胞子は、

石松子、

という丸薬の衣に用い、また皮膚のただれに効くという(仝上)。

なお、

山蔓(やまかづら)、

には、

あら玉の年の明行山かつら霞をかけて春はきにけり(続千載和歌集)、

と、

明け方、山の端にかかる雲、夜明けに山の稜線にたなびいて見える雲、

の意で使われ、さらに、転じて、

あらばへと背中をたたく暁雲(ヤマカツラ)(雑俳「ぎんかなめ(1729)」)、

と、

明け方、
早朝、

の意でも使われる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

巾子(こじ)」については触れたし、「日陰蔓(ひかげのかずら)」については、「さがりごけ」で触れた。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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月草


いで人は言のみぞよき月草のうつし心は色ことにして(古今和歌集)、

の、

月草、

は、

露草、

のこと(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

月草で染めた衣は色変わりしやすいので、「うつし心」などの枕詞となる、

とある(仝上)。

つきくさ、

は、

鴨跖草、
鴨頭草、

とも当て(大言海)、

つきぐさ、

ともいう(仝上・広辞苑・日本語源大辞典)。和名類聚抄(931〜38年)に、

鴨頭草、都岐久佐、押赤草(鴨跖草の假字)、

本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)に、

鴨頭草、都岐久佐、

平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)に、

豆支草(つきくさ)、

とあり、万葉集で、

鴨頭草(つきくさ)に衣色取り摺らめども移(うつろ)ふ色と言ふがくるしさ、

と詠われる。

月草、

の他、

うつしばな、
うつしぐさ、
アオバナ(青花)、
アイバナ、
カマツカ、
ホタルグサ(蛍草)、
アキバナ、
ボウシバナ(帽子花)、
チンチログサ、
トンボグサ、
メグスリバナ、
ハマグリグサ、
ツケバナ、

等々の名もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%A6%E3%82%AF%E3%82%B5・岩波古語辞典・大言海・広辞苑)、

露草、

は、

ツユクサ科ツユクサ属の一年生植物。畑地・路傍などに見かける雑草である。高さ30センチ余、鮮やかな青色の花は朝に咲き、昼にはしぼむ。葉柄は鞘状、夏から秋にかけて左右対称の花をつける。他のツユクサ属の植物と同様、雄しべは6本あり、上側の3本、下側中央の1本、下側左右の2本で形態が異なる、

とあり(広辞苑・https://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=32150)、古来、この花で布を摺り染める。若葉は食用、乾燥して、利尿剤としても使う(仝上)。この花が、

すぐに萎れて色が変わる、

し、

花汁で摺りつけた藍色は水で落ちやすい、

ために、

つき草のうつろいやすく思へかも我(あ)が思ふ人の言(こと)も告げ来(こ)ぬ(万葉集)、
朝(あした)咲き夕(ゆうべ)は消(け)ぬるつき草の消(け)ぬべき戀(こひ)も吾(あれ)はするかも(万葉集)、

などと、

人の心のうつろいやすいたとえ、

に使うことが多い(岩波古語辞典)。

露草、

の由来は、

善く露をたもては云ふ(大言海)、
露を帯びた草の義(牧野新日本植物図鑑)、
朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることからと名付けられたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%A6%E3%82%AF%E3%82%B5

と、「露」と関わらせる説が多いが、

月草、

の由来は、

月影を浴びて咲くところから月草の義(万葉集抄・古今集注・和訓栞)、
花、朝開き、昼に萎む、碧色にして、採りて衣に摺る、善く染み着けば着草(つきくさ)と云ふ、月影に開けば月草と云ふと云ふは、非なり(大言海)、
臼でついて染料にしたからいう(広辞苑)、
衣に摺るとよく染み着くところから着草の義(冠辞考続貂・箋注和名抄・言元梯・名言通)、

等々とあるが、上代特殊仮名遣いでいうと、

「つきくさ」のキは乙類、

「月草」のキは乙類、

「着草」のキは甲類、

であり、「着草」には妥当性はない(日本語源大辞典)とある。

なお、襲(かさね)の色目でいう、

月草、

は、

表は(はなだ)、裏は舂縹または表に同じ、

で、秋に用いるという(広辞苑・デジタル大辞泉)。

また、枕詞の、

月草の、

は、

つき草の假(か)れる命にある人をいかに知りてか後もあはむといふ(万葉集)、
百(もも)に千(ち)に人はいふともつき草の移ろふこころ吾(われ)持ためやも (万葉集)、

と、

月草の花で染めたものは色がおちやすい、

ので、

「うつる」「け(消)ぬ」「かり(仮)」などにかかる(広辞苑)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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姑射山(こやのやま)


羨爾城頭姑射山(羨(うらや)む 爾が城頭(じょうとう)姑射(こや)の山)(李頎・寄韓鵬)

の、

姑射(こや)の山、

は、

今の山西省臨汾・襄陵のあたりにそびえる山。「荘子」逍遥遊篇に、

藐姑射(はこや)の山に仙人が住むとあり、この山がそれだと言い伝えられる、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

藐姑射」で触れたことだが、

藐姑射(はこや)、

は、

藐姑射之山、有神人居焉、肌膚若冰雪、淖約若處子、不食五穀、吸風飲露、乘雲氣、御飛龍、而游乎四海之外(『荘子』逍遥遊篇)、

により(字源)、

バクコヤ、

と訓ませ、『列子』第三にも、

藐姑射山在海河洲中、山上有神人焉、吸風飲露、不食五穀、心如淵泉、形如処女、不偎不愛、……、

とあるhttp://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E8%97%90%E5%A7%91%E5%B0%84%E7%A5%9E%E4%BA%BA。ただ、「藐姑射」の、

藐、

は、

邈、

と同じで、

遙か遠い、

意、

姑射、

は、

山名、

なので、もともとは、

はるかなる姑射の山、

の意であるが、「荘子」の例によって、

一つの山名のように用いられるようになった、

とある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

我が国にも、古くから伝わっていたらしく、

心をし無何有(ムカウ)の郷に置きたらば藐姑射能山(はこやのやま)を見まく近けむ、

と万葉集にも歌われている(「藐孤射能山」を「まこやのやま」とも訓ませるとする説もある)。この、

無何有(ムカウ)の郷、

も、

出六極之外、遊無何有(ムカイウ)之郷、

と(字源)、荘子由来で、

ムカユウ、

と訓み、

何物もなき郷、造化の自然楽しむべき地にいふ、

とある(仝上)、

自然のままで、なんらの人為もない楽土、

という、

荘子の唱えた理想郷、

の謂いである(広辞苑)。

ムカユウ、

を、

ムカウ、

と訛って訓ませる。因みに、「六極」とは、

天地四方、
上下四方、

のこと、つまり、

宇宙、

をいう(精選版日本国語大辞典)。『荘子』逍遥遊篇には、

今子有大樹、患其無用、何不樹之於無何有之郷、廣莫之野、彷徨乎無為其側、逍遙乎寢臥其下(今、子、大樹有りて、其の用無きを患(うれ)ふ、何ぞ之を無何有の郷、広莫の野に樹て、彷徨乎(ほうこうこ)として其の側に為す無く、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥(しんが)せざる)、

とある(故事ことわざの辞典)。

「藐」(漢音バク・ビョウ、呉音マク、ミョウ)は、

会意兼形声。「艸+音符貌(ボウ おぼろげな形、かすかな)」で、細い、かすかなの意を含む、

とある(漢字源)。「藐小」(バクショウ ちいさくてかすかな)、「藐然」(バクゼン 遠くにあっておぼろげなさま)などと使う。

「邈」(漢音バク、呉音マク、ミャク)は、

はるかに遠い、

という意味である(漢辞海・字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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蓬(ほう)


薊庭蕭瑟故人稀(薊庭(けいてい)蕭瑟(しょうしつ)として故人稀なり)
何處登高且送歸(何れの処(ところ)か高きに登りて且(しばら)く帰るを送らん)
今日暫同芳菊酒(今日(こんにち)暫(しばら)く同(とも)にす 芳菊(ほうぎく)の酒)
明朝應作斷蓬飛(明朝(みょうちょう)は応(まさ)に断蓬(だんぽう)と作(な)って飛ぶべし)(王之渙・九日送別)

の、

断蓬、

の、

蓬、

は、

北方に生える蓬(よもぎ)は、冬になって枯れると、根が切れ、球形のかたまりとなって、風の吹くままに転げて行く、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。これを、

斷蓬、
飛蓬、
轉蓬、

などといい、

行方をさだめぬ旅人の身の上にたとえられる、

とある(仝上)。たとえば、

平沙歴亂撒蓬根(平沙歴亂として蓬根(ほうこん)撒く)(張仲素・塞下曲二)

では、

枯れた蓬の根、

を、

蓬根、

といい、それが、

撒く、

とは、

飛蓬、

となることをいう(仝上)。

凄凄遊子若飄蓬(凄凄(せいせい)たる遊子(ゆうし) 飄蓬(ひょうほう)を苦しむ)
明月清樽祗暫同(明月清樽(せいそん) 祗(た)だ暫くは同(とも)にせん)
南望千山如黛色(南のかた千山(せんざん)を望めば黛色(たいしょく)の如し)
愁君客路在其中(愁(うれ)う 君が客路(かくろ)の其の中(うち)に在るを)(皇甫冉・曾山送別)

では、

風に吹き飛ばされる蓬、



飄蓬、

と表現し、

落ちぶれた流浪の身、

に譬えている(https://kanbun.info/syubu/toushisen398.html)。曹植は、

轉蓬離本根(転蓬(てんぽう)は本根(ほんこん)より離れ)、
飄颻隨長風(飄颻(ひょうよう)として長風(ちょうふう)に随う)(雑詩六首 其の二)

と、

轉蓬、

を使い、張正見は、

顏如花落槿(顔は花の如く落槿(らくきん)し)
鬢似雪飄蓬(鬢(びん)は雪に似て飄蓬(ひょうほう)す)(白頭吟)

と、

飄蓬、

を使っている(仝上)。

よもぎ」で触れたように、「よもぎ」に当てる漢字は、

蓬、
艾、
蒿、
萩、
苹、
蕭、
薛、

等々とある(字源)が、「よもぎ」の漢字表記は、

現在日本において、ヨモギは漢字で「蓬」と書くのが一般的だが、中国語でヨモギは「艾」あるいは「艾蒿」である。(中略)艾は日本で「もぐさ」と訓じる。もぐさはヨモギから作られるから、そのこと自体は何ら問題ではない。だが、蓬をヨモギとするのは誤りである、という説が現在では一般的のようだ、

とあるhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm

「艾」(漢音ガイ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。「艸+音符乂(ガイ、ゲ ハサミで刈り取る)」、

とあり、

よもぎ、もぐさ、

の意である(漢字源)。字源には、

よもぎ(醫草)、

と載る。

よもぎ(艾)、

の由来は、

善燃草(よもぎ)の義(大言海)、
ヨモキ(彌燃草)の義(言元梯)、
ヨはヨクの義、モはモユルの義、キは木の義(和句解)、
ヨクモエグサ(佳萌草)の義(日本語原学=林甕臣)、
弥茂く生える草の意(日本語源=賀茂百樹)、
ヨリモヤシキ(捻燃草)の義、灸に用いるところから、生は草の意(名言通)、

等々とされるが、どうもその使用法からきているようだ。

本州・四国。九州の山野にある多年草で、春に新葉をとって草餅の材料にする。モチグサと呼ぶ。よく乾いた葉を揉むと葉肉は粉になって葉の裏の白い綿毛が残るから、これを集めて灸のモグサともする(たべもの語源辞典)、

山野に自生す。茎、直立して白く、高さ四五尺、葉は分かれて五尖をなし、面、深緑にして、背に白毛あり。若葉は餅に和して食ふべし(餅草の名もあり)。秋、葉の間に穂を出して、細花を開く。實、累々として枝に盈つ。草の背の白毛を採りて、艾(もぐさ)に製し、又印肉を作る料ともす。やきくさ。やいぐさ。倭名抄「蓬、一名蓽、艾也。與毛木」、本草和名「艾葉、一名醫草、與毛岐」(大言海)、

などとあり、

モグサ、

は、

モエグサ(燃草)の略、

であり(仝上)、

ヤイトグサ、

の別名あり、地方により、

エモギ、
サシモグサ(さしも草)、
サセモグサ、
サセモ、
タレハグサ(垂れ葉草)、
ヤキクサ(焼き草)、
ヤイグサ(焼い草)、

などの方言名があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AE

しかし、

よもぎ、

に当てる、

蓬(漢音ホウ、呉音ブ・ブウ)、

は、

会意兼形声。「艸+音符逢(△型にであう)」で、穂が三角形になった草、

とあり(漢字源・漢辞海)、

よもぎ(艾)の一種、

とある(字源)が、

葉は一尺ばかり、柳に似て細長く、周囲は細かい鋸状である。淡黄の小さい花を着け、後に絮(わた)になって飛ぶ。冬に枯れると根が切れ、茎や枝部は風に吹かれて球状にまとまって地面を転がる(漢辞海・字源)、
葉は、柳に似て、微毛あり、故に、ヤナギヨモギの名もあり。夏の初、茎を出すこと一二尺、茎の梢に、枝を分かちて、十數の花、集まりつく。形、キツネアザミの花に似て、小さくして淡黄なり。後に絮(わた)となりた飛ぶ。ウタヨモギ。字類抄「蓬、ヨモキ」(大言海)、

などとあり、

よもぎ(艾)とは違った植物である、

とある(たべもの語源辞典)。

蒿(コウ)、

は、

会意兼形声。「艸+音符(高く伸びる、乾いて白い))」、

とあり(漢字源)、よもぎ、くさよもぎ、艾の一種、

とある(字源・たべもの語源辞典)。

萩(漢音シュウ、呉音シュ)、

は、

会意兼形声。「艸+音符秋」、

で、

秋の草、

とあり、日本では「はぎ」に当てる。

よもぎ、くさよもぎ(蕭)の一種、

とある(字源)

蕭(ショウ)、

は、

会意兼形声。「艸+音符肅(ショウ 細く引き締まる)」、

とあり(漢字源)、

よもぎ(艾蒿)、

の意とある(字源)。

苹(漢音ヘイ、呉音ビョウ)、

は、

会意兼形声。平は、屮型のうきくさが水面に平らに浮かんだ姿を描いた象形文字。苹は「艸+音符平(ヘイ)」で、平らのもとの意味をあらわす、

とある(漢字源)。浮草のようであるが、

よもぎ、蒿の一種、

ともある(字源)。

薛(漢音セツ、呉音セチ)、

は、

会意。「艸+阜の字の上部(つみかさねる)+辛(刃物で切る)」。束ね重ねて着るよもぎをありらわす、

とあり(漢字源)、

かわらよもぎ(仝上)、
よもぎ(蒿)(字源)、

とあり、「よもぎ」のようである。どうやら、

艾、
蒿、
艾蒿、

が、本来の「よもぎ」のようである。

蒿(かう)もヨモギで、艾の一種。苹(へい)またはビョウとよむが、これもヨモギで、蒿の一種、蕭(ショウ)もヨモギで、蒿と同じである。漢名には、蒿艾(コウガイ)、蕭艾(シュウガイ)、指艾(シガイ)、荻蒿(テキコウ)、氷台、夏台、福徳草、肚裏屏風などがある、

とある(たべもの語源辞典)。しかし、色葉字類抄(1177〜81)に、

蓬、よもぎ、

とあるように、また、

あやめ草誰しのべとか植ゑおきて蓬(よもぎ)がもとの露と消えけむ(新古今和歌集)、

と詠われるように、

「蓬」の字を当ててきた。その理由はわからない。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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玉鉾


玉鉾(たまほこ)の道は常にもまどはなむ人をとふともわれかと思はむ(古今和歌集)、

の、

玉鉾(たまほこ)、

は、

道にかかる枕詞、

で、一般に、

たまぼこ、

と訓まれるが、この時代は、まだ、

たまほこ、

であろう(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。

たまほこ、

は、

玉鉾、
玉桙、
玉矛、

等々と当て、

たまは美称、

とあるが(大言海)、そのわけを、

タマ(霊)ホコ(桙)で、陽石(陽物の形の石)、

とあり(岩波古語辞典)、

上古、矛を携ふればなり、此語道に續くは、出征に矛を賜はるに因る。後に、節刀を賜はることとなれり。又、常の出行くの道にも手矛など持ち行きたるならむ。門の両旁の木をほこだちと云ふも、それを立ておきたる故の名なるべし、

とある(大言海)のは、

三叉路や村里の入口に玉桙の類を立てた、

ことによる(岩波古語辞典)とみられる。「ちぶりの神」で触れたように、これは、


行く今日も帰らぬ時も玉鉾のちぶりの神を祈れとぞ思ふ(袖中抄)、

とある、

旅の安全を守る神、

つまり、

道祖神、

に対する信仰で、「さえの神」で触れたように、

塞(斎 さえ)の神、
道陸神(どうろくじん)、

ともいい、

塞大神(さえのおおかみ)、
衢神(ちまたのかみ)、
岐神(くなどのかみ)、
道神(みちのかみ)、

などとも表記される(日本大百科全書)。

障(さ)への神の意で、外から侵入してくる邪霊を防ぎ止める神(岩波古語辞典)
路に邪魅を遮る神の意(大言海)、
邪霊の侵入を防ぐ神、行路の安全を守る神(広辞苑)、
さへ(塞)は遮断妨害の意(道の神境の神=折口信夫・神樹篇=柳田國男)、

等々という由来とされ、近世には、

集落から村外へ出ていく人の安全を願う、
悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神、

としてだけでなく、

五穀豊穣、
夫婦和合・子孫繁栄、
生殖の神、
縁結び、

等々、

性の神、

としても信仰を集めた。

わたつみのちふりのかみにたむけするぬさのおひかぜやまずふかなん(土佐日記)

と、

陸路または海路を守護する神、

として、

旅行の時、たむけして行路の安全を祈った、

とされ、

たまほこ、

は、一種の祓いの意味を持っていたからではないかという気がする。いまひとつ、「たま(魂・魄)」で触れたように、

たま、

は、

魂、
魄、
霊、

と当て、「たま(玉・珠)」が、

タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、

とある(岩波古語辞典)。依り代の「たま(珠)」と依る「たま(魂)」とが同一視されたということであろうか。

未開社会の宗教意識の一。最も古くは物の精霊を意味し、人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離靈の一種で、人間の体内から脱け出て自由に動き回り、他人のタマとも逢うこともできる。人間の死後も活動して人を守る。人はこれを疵つけないようにつとめ、これを体内に結びとどめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます、

ともある(仝上)。だから、いわゆる、

たましい、

の意であるが、

物の精霊(書紀「倉稲魂、此れをば宇介能美柂麿(うかのみたま)といふ」)、

人を見守り助ける、人間の精霊(万葉集「天地の神あひうづなひ、皇神祖(すめろき)のみ助けて」)、

人の体内から脱け出して行動する遊離靈(万葉集「たま合はば相寝むものを小山田の鹿田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)らすも」)、

死後もこの世にとどまって見守る精霊(源氏「うしろめたげにのみ思しおくめりし亡き御霊にさへ疵やつけ奉らんと」)、

と変化していくようである。そこで、

生活の原動力。生きてある時は、體中に宿りてあり、死ぬれば、肉體と離れて、不滅の生をつづくるもの。古くは、死者の魂は、人に災いするもの、又、生きてある閧ノても、睡り、又は、思なやみたる時は、身より遊離して、思ふものの方へゆくと、思はれて居たり。生霊などと云ふ、是なり。故に鎮魂(みたままつり)を行ふ。又、魂のあくがれ出づることありと、

ということになる(大言海)。

たまほこ、

の、

たま、

には、

ほこ、

自体のもつ霊力に期するところがあり、だからこそ、

美称、

でもあったのではないか。

枕詞としての、

たまほこの、

は、前述のように、「たまほこ」を、

三叉路や村里の入口に玉桙の類を立てた、

ところから、

我が立ち聞けば玉たすき畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず玉桙の道行く人もひとりだに似てし行かねば(万葉集)、

と、

道、里、

などに掛かるが、そこから転じて、

この程はしるもしらぬもたまほこの行きかふ袖は花の香ぞする(新古今和歌集)」、

と、

道、

そのものの意でも使われる(岩波古語辞典)。

ところで、

ほこ、

と訓ませる漢字は、

矛、鉾、桙、戈、鋒、戟、鋒・殳、鉈、戛(戞)、桙、戞、鉾、槊鉈(釶)、槍、棘、戣、鎩、槊、鏦、欑、戊、

等々と多数あり(漢辞海・字源)、我が国で、

ほこ、

に当てる漢字も、

矛、鉾、桙、戈、鋒、戟、鋒、殳、鉈、戛(戞)、桙、戞、鉾、

等々とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

ほこ、

は、

長い柄を装着する刺突用の武器のうち、柄を挿入する袋状の装置(銎 きよう)があるもの、

を指す(ブリタニカ国際大百科事典)とあり、銅矛すなわち青銅製の矛はまず中国で用いられるようになり、後に朝鮮・日本に伝わった。大別すると、

長さによって、

長鋒(ちょうぼう)、
短鋒、

の別、

刃の幅によって、

広鋒、
狭鋒、

に分けられ、厳密には、

戈、

は枝のあるもの、

戟、

は2つの枝のあるもの、

鉾、

は袋穂のあるもの、などの種類があり、その他飾りのついたもの、祭礼、儀式用のものなどがある(世界大百科事典)。

まず、

たまほこ、

の当てる、

矛、桙、鉾、

から見てみいくと――。

「矛」(漢音ボウ、呉音ム)、

は、

やりのような形の武器を描いたもの。鉾(ボウ 金+音符牟(ボウ))とまったく同じ言葉をあらわす、

とある(漢字源)。

するどいほこ先に、長い柄がついた「ほこ」の形にかたどる(角川新字源)、
「長い柄の頭に鋭い刃をつけた武器」の象形https://okjiten.jp/kanji1055.html
長い柄の先に両刃の剣をつけたもの(漢辞海)、

などとあり、後述する、

戈(カ)、

とは異なるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%9B

柄の長さ周尺で二丈のものを酋矛、二丈四尺のものを夷矛といふ、

とあり(字源)、古え、

蚩尤の創作せしもの、

とある(仝上)。「蚩尤」については、「一葉の舟」で触れた。

「鉾」(漢音ボウ、呉音ム)は、

形声。「金+音符牟(ボウ)」で、障害をおかして、むりに突きかかる意を含む、

とある(漢字源)。

先のとがったほこ、

とある(漢字源)。

「鋒(ほう)なり」(集韻)とあって、鋒と同義、

とある(字通)。中国ではほとんど用例がなく、わが国では山鉾などの意に用いる。山車(だし)の上に高い鉾木を樹(た)てるのは、もと神を迎えるためのものであった。金文の図象に、禾(か)形のものを屋上に樹てる形のものがあり、その禾は軍門の左右に立て、両禾軍門という。のちの華表(宮城など前に建てる柱)の原型をなすものである(仝上)。

「桙」(@漢音呉音ウ、A漢音ボウ、呉音ム)は、

形声、「木+音符牟」、

とあり(漢字源)、

ほこ、

に当てるのはわが国だけで、

湯や水を飲む器、

の意(@の発音)、

器の一種、

の意(Aの発音)である(漢字源)。

「戈」(カ)は、

象形。とび口型の刃を縦に絵をつけた古代のほこを描いたもので、かぎ型にえぐれて、敵を引っかけるのに用いる武器。のち、古代の作り方とまったく違った、ふたまたのやりをも戈と称する、

とあり(漢字源)、

両刃のある実の部分に直角に長い柄をつけ、敵を引っかけた。全体がとび口のような形で、柄の先にも後にも敵を突きさす刺(し)がない、

とある(仝上)。

ほこ(戟)の古の兵器、枝の旁出せる両刃の剣を長き柄の先につけたるもの、單枝なるを戈と為し、雙枝なるを戟と為す、

とある(字源)。

「戟」(慣用ゲキ、漢音ケキ、呉音キャク)は、

会意。「幹(カン 太い棒)の左側+戈(ほこ)」で、柄でゆわえつけたわ個をしめす。ケキは格(カク 固くひっかかる)と同系のことば、

とある(漢字源)。別に、同趣旨で、

会意。戈と、榦(かん)(倝・𠦝は省略形。長い木の棒)とから成る(角川新字源)、
会意文字です(幹の省略形+戈)。「旗ざおの象形(大地を覆う木の象形は省略されている)」(「よく伸びた木の幹(みき)」の意味)と「握りのついた柄の先端に刃のついた矛」の象形から、木の幹と枝のように「両刃の刃が二股になっている武器」を意味する「戟」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2457.html

ともある。

戈(カ)の柄の先に敵を突きさす刺(シ)のついた武器。つまり、敵をひっかけたり、突いたりすることができる。刺を別に鋳たものと、同時に鋳たものとがある(漢字源)、
長い柄の先端に戈の刃先をつけたもの、戈の刃先の数は一ないし三が多く、柄の先に刺(シ 矛)のあるものとないものがある(漢辞海)、

とも、

両旁に枝のでたるほこ(字源)、

ともある。「戈」の先に剣が着いたものという感じだろうか。

「鋒」(漢音ホウ、呉音フ・フウ)は、

会意兼形声。丰(ホウ)は、作物の穂が三角に尖ったさまを描いた象形文字。夆は逢の原字で、三角形の頂点で出会うこと。鋒は、「金+音符夆」で、△型に尖った刃物の先、

とあり(漢字源)、

ほこさき、

の意であり(仝上)、

転じて、

ほこ、

の意でもある(漢辞海)。別に、

会意兼形声文字です(金+夆)。「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(土の中に含まれる「金属」の意味)と「下向きの足の象形と草・木の葉が寄り合い茂る象形」(「足が1点に寄り集まる」の意味)から刃物の刃と背(峰)が寄り集まる部分「きっさき」を意味する「鋒」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2767.html

「戊」(慣用ボ、漢音ボウ、呉音ム)は、

象形。戉(エツ まさかり)に似た武器を描いたもので、その根元の穴が柄に被さるので、ボウ(冒)という。のち、十干の序数に当てたため、原義は忘れられた。戈の一種で、矛(ボウ 突く武器)とは形が異なる、

とある(漢字源)。

まさかりに似た武器https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%8A
おの形の刃が付いたほこ(矛)の形にかたどる(角川新字源)、
斧のような刃のついた矛https://okjiten.jp/kanji2455.html

などとある。

「殳」(漢音シュ、呉音ズ)は、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、

形声。「又+音符几」

と分析されているが、甲骨文字の形や金文の形を見ればわかるように、これは誤った分析である、

とし、

象形。ハンマー・枹のようなものを持った手を象る。漢語{殳 /*do/}を表す字、

とするhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AE%B3。別に、

象形文字です。「手に木の杖を持つ」象形から「矛(ほこ)、木の杖」を意味する「殳」という漢字が成り立ちました、

とある(https://okjiten.jp/kanji2886.html)

殳、

は、

束ねた竹で作り、八角の長さは一丈二尺、兵車(戦車)の上に立てて、兵車の先頭がそれをもって先駆けする、

とあり(漢辞海)、

殳は殊である、長さは一丈二尺で刃がなく、車上で撞いたり、斬ったりしたものを殊(絶)ち離させるのである、

ともある(仝上)。

「鉈」(漢音シ・呉音セ、漢音シャ・呉音ジャ)は、

会意兼形声。「金+音符它(タ 長く伸びる)」。刃を長くたたきのばした刃物、

とあり(漢字源)、「釶」は「鉈」の異字体である。

柄の短いほこ、

の意である(仝上)。我が国では、薪割りなどに使う、片手で持つ、

なた、

に当てている(漢辞海)。

「戛」(カツ)は、

会意。戈+首、

で(漢辞海)、

枝刃のあるほこ(漢辞海)、
長いほこ(戟)、長矛(字源)、

の意である。

「槊」(サク)は、

形声。木+音符朔、

で(漢辞海)、

柄の長い矛(仝上)、

とあり、

周尺にて、一丈八尺ある矛(字源)、

とある。

「棘」(漢音キョク、呉音コク)は、

会意。刺の字の左側の朿(とげでさす)を二つ並べたもので、とげで人をひやひやさせるばらの木、

とある(漢字源)。

槍の刃の部分に敵を引っかけるための突起がついているほこ、

で、

戟、

の類義語である。

「戣」(漢音キ、呉音ギ)は、

会意兼形声.癸(キ)は、刃が三方または四方に張りだして、どちらでも突けるほこを描いた象形文字。癸が十干の名に専用されたため、戣でその原義を表した。戣は「戈(ほこ)+音符癸(キ)」、

とあり(漢字源)、

三方、または四方に刃の張りだしたほこ、

で、漢代の、

三鋒戟(さんぼうげき 鋒先が三つ)、

はその変化したもの(仝上)とある、

「矟」(サク)は、

会意兼形声。「矛+音符肖(ショウ 補足尖る)」、

とあり、

長さ一丈八尺で、崎の尖ったほこ、

とあり(漢字源)、

槊、

と同義になる(仝上)が、

矟、

は、

馬上で所持するもので、矟矟(ほっそりながいさま)としていて刺しやすい、

とある(漢辞海・字源)。

「鎩」(サツ)は、

形声。金+音符殺、

で、

長い穂先のついたほこ、

とある(漢辞海)。

「鏦」(ショウ・ソウ)

形声。金+音符従、

で、

小形のほこ、

の意である(漢字源)。

「欑」(サン)は、

細い竹を束ねて作ったつえぼこ、

とある(漢辞海)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)

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何せむに


逢ふまでの形見もわれは何せむに見ても心のなぐさまなくに(古今和歌集)、

の、

何せむに、

は、もともとは、

何せむに命継(つ)ぎけむ我妹子(わぎもこ)に恋ひざる先(さき)に死なましものを(万葉集)、

と、

何をするために、

の意。そこから、

何せむに命をかけて誓ひけむいかばやと思ふ折もありけり(拾遺集)、

と、

何になろうか、
何の役にも立たない、

の意となった。

何せむに命をもとな長く欲(ほ)りせむ生(い)けりとも我が思ふ妹にやすく逢はなくに(万葉集)、

と、

万葉集には多く見られるが、古今和歌集には少なくなった表現、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

何せむに、

は、

玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋も妹と居りせば(仝上)、

の、

何せむ、

を、

銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(万葉集)、

と、強めた言い方でもある(デジタル大辞泉)。

何せむに、

は、

何をしようとして、
何のために、

の意味の、

ナニセムタメニ(何為むために)、

が省略されて、

ナニセムニ、

になった(日本語の語源)のだが、上述のように、疑問の副詞として、

何せむに我を召すらめや明けく我が知ることを歌人(うたひと)と我を召すらめや笛吹きと我を召すらめや琴弾きと我を召すらめやかもかくも(万葉集)、

や、反語の副詞として、上述の、

何せむに命をもとな長く欲りせむ生けりとも我が思ふ妹にやすく逢はなくに(万葉集)、

と使われ、さらに転じ、

ナニシニ、

に変化し(仝上)、

まうとはなにしに此処にはたびたび参るぞ(源氏物語)、

や、

わが心よなにしにゆづり聞こえけむ(仝上)、

と、

理由を問う形で、そんなことをしなくてよかったのにの気持を含め、

どうして、
なぜ、

の意や、

なにしに悲しきに見送りたてまつらむ(竹取物語)、

と、反語の意で、

どうして、

の意で使うに至る(仝上・岩波古語辞典・広辞苑)。

「何」(漢音カ、呉音ガ)は、

象形。人が肩に荷を担ぐさまを描いたもので、後世の負荷の荷(になう)の原字。しかし普通、一喝するの喝と同系の言葉に当て、のどをかすらせてあっとどなって、いく人を押し止めるの意に用いる。「誰何(スイカ)する」という用例が原義に近い。転じて、広く相手に尋問する意になった、

とある(漢字源)。しかし、別に、

象形。物を担いだ人を象ったもの(甲骨文字の形)。周代に形声文字「人」+音符「可 /*KAJ/」として再解釈された。「になう」「かつぐ」を意味する漢語{荷 /*gaajʔ/}を表す字。のち仮借して疑問詞の{何 /*ɡaaj/}に用いる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%95

形声。人と、音符可(カ)とから成る。背に荷物を負う意を表す。もと、「荷(カ)(になう)」の原字。借りて、疑問詞「なに」の意に用いる、

とも(角川新字源)ある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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寒食


春城無處不飛花(春城(しゅんじょう) 処(ところ)として花を飛ばさざるは無し)
寒食東風御柳斜(寒食(かんしょく)東風(とうふう) 御柳(ぎょりゅう)斜めなり)
日暮漢宮傳蠟燭(日暮(にちぼ) 漢宮(かんきゅう) 蠟燭を伝え)
煙散入五侯家(青煙(せいえん)散じて五侯(ごこう)の家に入(い)る)(韓翃・寒食)

で、

寒食、

は、

春のおとずれをつげるもので、この詩は、その時節の長安の風物を描いている(前野直彬注解『唐詩選』)とあり、

かんしょく、

以外に、

かんじき、

とも訓ます(世界大百科事典)。

陽暦の四月九日または六日を、

清明節、

といい、

その前の二日間を、

寒食、

といい、この期間、

いっさい火を用いない、

という風習があった(仝上)。伝説によれば、

春秋時代の介之推(介子推 かいしすい)は、晋の文公が不遇時代の忠臣であったが、文公が君主の位につくと、山の中に隠れてしまった。文公は召し出して高祿を与えようとしたが、承知しないため、山を焼き払って、無理やり介之推をひきだそうとした。しかし彼は、山中の立木を抱いたまま焼け死んでいた。これがちょうど寒食のころだったから、彼の霊をなぐさめるために、火を禁ずる習慣が生まれた、

という(仝上)。その詳細は、

春秋・戦国時代に、晋国の君主・晋の献公の息子の重耳は、迫害されて外国に逃れ、十九年間も流浪生活を送り、数え切れない辛い目にあった。彼に従がっていた者たちは、その苦しさに堪えかねて、大方は自分たちの活路を求めて離れていった。ただ介子推とその他五、六人の者が、忠義の心厚く、苦しみを恐れずにずっと彼に従っていた。重耳が肉を食べたいというと、介子推はひそかに自分の腕の肉を切りとって、煮て彼に食べさせた。のちに重耳は秦国の国王・穆公の助けをえて、晋国の国王になった。重耳はずっと自分に従って亡命していた者たちに論功行賞を行い、それぞれ諸侯に封じてやった。介子推は母親と相談して、富貴を求めない決心を固め、綿山に入って隠居した。その後、晋の文公・重耳は彼のことを思い出し、自ら車に乗って捜しにいったが、なん日捜しても介子推母子の行方はわからなかった。晋の文公は介子推が親孝行なのを知っていたので、もし綿山に火を放ったならば、きっと母親をたずさえて山から逃げ出してくると思った。けれども介子推は功を争うより死を選んだ。大火は三日三晩燃えつづけ、山ぜんたいを焼きつくした。文公が人を遣わして見にいかせたところ、介子推母子は一本の枯れた柳の木に抱きついたまま焼死していた。文公はこの母子の死を心からいたみ、綿山に厚く葬り、廟を建立し、介山と改名した。そして介子推の自分に対する情誼を永遠に記念するために、その柳の木を切りとって持ち帰り、木のくつを作らせ、毎日眺めては悲嘆にくれた。「悲しきかな、足下よ!」。のちに人々は、自分に親しい友人に手紙を送る時、「××足下」と書いて、厚い友情を示すようになった。晋の文公は、介子推の生前「士は甘んじて焚死しても公候にならず」という志を通した高尚な人となりをたたえて、この日には家ごとに火を使わず、あらかじめ用意しておいた冷たい食べ物を食べるように、全国に命令をくだした。長いあいだにこれが次第に風習と化し、独特な「寒食節」となって受けつがれた、

とあるhttp://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029595.htm。南宋の曾先之編の歴史書『十八史略』にも、

公(文公)曰、噫、寡人之過也。使人求之。不得。隱綿上山中。焚其山。子推死焉。後人爲之寒食(公曰く、噫、寡人(かじん)の過ちなり、と。人をして之を求めしむ。得ず。綿上(めんじょう)の山中に隠る。其山を焚く。子推死す。後人之が為めに寒食す、

とある。ただ、漢代の「風俗通(風俗通義)」(応邵撰)には、

冬至後、百四、五日、六日、有疾風暴雨、為寒食、

とあり、大言海は、

介子推ガ焚死ノ爲ニ、火ヲ禁スゲルト云フハ、妄説ナリト云フ、禁火ハ周の舊制ナルガ如シ、

と注記している。なお、

傳蠟燭、

とは、清明の日には、どこの家でも新しく火を起こし始めるのだが、宮中では、

柳の枝に火をつけ、百官に賜る、

風習があり、

宮中から火をつけた蝋燭が下賜され、使者が高官の家に伝達した、

という(仝上)。

蝋燭を伝え、

とは、

そのことを言い、

青煙、

とは、

伝達された蝋燭から立つ煙、

をいう(仝上)。

寒食、

は、

火食、

に対して言い、

冷食、即ち、冷ややかなる食、

の意で、室町時代編纂のいろは引きの国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』に、

寒食、カンショク、自冬至至一百五日也、

とあるように、

冬至より百五日目に当たる日(陰暦の清明節)の節日、

で(漢辞海・大言海)、昔の人はみな寒食を、

百五、

といったhttp://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029595.htmともある。

晋代史書の『鄴中記』(陸翽撰)に、

幷州之俗、冷食三日、作乾粥食之、中國以為寒食、

とあるように、この、

前後三日間、

は(漢辞海)、

疾風、甚雨のあるべき節として、火を焚くことをせず、前日に調へおきたるものを食ふ、食物に、寒具(かんぐ)と云ふものあるも、これより起これるなりと云ふ、

とある(大言海)。

寒食、

の日にばらつきがあるのは、古代では一つの、

独立した祭日、

であったが、隋・唐の時代には、多くの寒食を、

清明の二日前、

に固定し、宋代には、

三日前と定めていたhttp://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029595.htmからのようである。この、

寒食節、

が終わると清明節になる。

周書に、

司烜氏、仲春以木鐸、循火禁國中、

とあるのに対する註に、

為春将出火也、今寒食準節気、是仲春之末、清明、是三月之初、

とあり、荊楚地方(長江中流域)の年中行事を記した、南朝梁の『荊楚歳時記』(宗懍(そうりん)著、隋・杜公瞻(とこうせん)注釈)には、

去冬節一百五日、即有疾風甚雨、謂之寒食。禁火三日、造餳大麥粥(冬節を去ること一百五日、即ち疾風甚雨有り、之を寒食と謂う。火を禁ずること三日、餳(とう 澱粉を加工して作った飴)と大麦の粥を造る)、

とあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen399.html

寒食、

の起源は、介子推の伝説はともかく、

古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く、
火災防止(暴風雨の多い季節がら)、

などが考えられている(世界大百科事典)とある。漢代は、

山西省太原付近の一地方習俗、

にすぎなかったが、六朝末には、南方まで伝わり、唐・宋時代、

全国的な行事、

となった。

冷たい物ばかり食べるので、麦芽などで作った餳(あめ)や餳湯(あめゆ)などが好まれた、

といい、明・清以後、その苦しさから、廃止された、とあり(仝上)、

寒食節は清明節(107日目)の同義語、

となったようだ(仝上)。

清明節(せいめいせつ)、

は、元来は、

中国の先祖祭、

で、旧暦3月、

春分から15日目にあたる節日に、家中こぞって先祖の墓参りに出かけ、鶏、豚肉、揚げ豆腐、米飯、酒、茶あるいは香燭や紙銭などを供える、

とある(精選版日本国語大辞典)。

田家復近臣(田家にして復た近臣)
行楽不違親(行楽して親(しん)に違(たが)わず)
霽日園林好(霽日 園林好く)
清明煙火新(清明 煙火(えんか)新たなり)(祖詠・清明宴司勲劉郎中別業)

に、

清明清明煙火新、

とあるのは、清明の直前の、

寒食、

が終わって、どの家もまたむ火を起こし始めたから、「新」といったのである、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。明代の「煕朝樂事」(田汝成)に、

清明、

は、文字通り、

清く明らかなこと、

で、礼記に、

清明在躬、志気如神、

とある(字源)。

清明、

は、

清く明るい気が満ちる、

意で、

二十四節気のひとつ、

で(広辞苑)で、

春分の次の気節、

太陽の黄経が15度の時、春分後15日目、

三月の節(せつ)、

で、太陽暦の、

四月四日頃に当たる(字源・広辞苑)。

「寒」(漢音カン、呉音ガン)は、

会意文字。「塞(サイ・ソク)の字の上部+冫(こおり)」で、やね(宀)の下にレンガや石(I印)を積み重ね、手で穴をふさいで、氷の冷たさを防ぐさまを示す。乾燥して物の乏しい北方のさむさ、

とあり(漢字源)、また、

会意文字です。「家屋・屋根」の象形と「人」の象形と「枯れ草」の象形と「氷」の象形から、寒さに凍え、枯れ草に身をまるくする人、すなわち「こごえる・さむい」を意味する「寒」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji332.htmlが、

「寒」の下側に存在する2つの点について、『説文解字』では「冫」(氷の象形)に由来すると説明されているが、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように、これは羨符(意味のない余剰な筆画)で、「冫」とは関係がない。楷書では「塞」の上部と同じ部品を共有しているが、字形変化の結果同じ形に収束したに過ぎず、起源は異なる、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AF%92

会意。「宀」(家屋)+「茻」(多くの草)+「人」から構成され、屋内で人が草を被って寒さをしのぐさまを象る。「さむい」を意味する漢語{寒 /*gaan/}を表す字、

とある(仝上)。また同趣旨で、

会意。宀と、人(ひと)と、茻(ぼう)(は変わった形。草のむしろ)と、冫(ひよう)(さむい)とから成る。家の中で人がむしろにくるまって寝ていることから、「さむい」意を表す、

とある(角川新字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)
簡野道明『字源』(角川書店)

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ひさかたの


ひさかたの天つ空にも住まなくに人はよそにぞ思うべらなく(古今和歌集)、

の、

天つ空、

は、

遠く離れた場所、

の意(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

ひさかたの、

は、

「あめ(天)」「あま(天)」「そら(空)」にかかる枕詞、

だが、転じて、

さよふけてまなかばたけゆくひさかたの月吹きかへせ秋の山風(古今和歌集)、
ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ(仝上)、

と、天空に関わる、

「月」「日」「雨」「雪」「雲」「霞」「星」「光」「夜」、

等々にかかる枕詞である(仝上・広辞苑)。

ひさかたの、

は、

久方の、
久堅の、

と当て、その由来は、

日射方(ひさすかた)の義(大言海)、
「日射す方」の約(精選版日本国語大辞典)、
天先ず成れば、地より久しき意にて、久堅の義(大言海)、
天は虚なれば、丸くうつろな形を、匏(ひさご)形の義(仝上・精選版日本国語大辞典)、
「久方・久堅」から、天を永久に確かなものとする(デジタル大辞泉)、
万葉集に「久堅」とあるので、永く堅い意が込められていた(岩波古語辞典)、

等々諸説あるが、

皆、牽強ならむ、

とあり(大言海)、未詳(精選版日本国語大辞典)というのが妥当かもしれない。

ひさかたの、

は、

比佐迦多能(ひさかたの)阿米能迦具夜麻(あめのかぐやま)斗迦麻邇(とかまに)佐和多流久毘(さわたるくび)比波煩曽(ひはぼそ)ひさかたの天(あめ)の香具山(かぐやま)とかまにさ渡る鵠(くび)ひほぼそ(万葉集)、

と、

天(あま・あめ)、

にかかり、さらに、主に上代(奈良時代)に、

妹(いも)が門(かど)行き過ぎかねつ久方乃(ひさかたノ)雨も降らぬか其(そ)を因(よし)にせむ(万葉集)、

と、

天(あめ)、

と同音の、

雨、

にかかり、中古以降に。

ひさかたのそらに心の出づといへば影はそこにもとまるべきかな(蜻蛉日記)、

と、

天、

と類義の、

空、

にかかり、さらに、

久方乃(ひさかたノ)月夜を清み梅の花心ひらけて吾が思(も)へる君(万葉集)、

と、天空にあるものとしての、

月、
また
月夜、

にかかるに至る。その用例から転じて、

ひさかたのつきげそこより渡るとも天(あま)のかはらげ影とどめてむ(康保三年順馬毛名歌合)、

と、

時間としての「月」や色の名「月毛」、

にかかり、さらに、

久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(古今和歌集)、

と、天空にあるものとして、天体の、

日、

に、天体に関係あるものとして、

光、

にかかり、転じて、時間としての「日」、「日」と同音を含む語や「昼」にもかかる。さらに、天空に関係のあるものとして、

久方の雲の上にて見る菊は天つ星とぞあやまたれける(古今和歌集)、

と、

雲、
雪、
霰(あられ)、

にかかり、どんどん広がって、天上のものとして、

ひさかたの岩戸の関もあけなくに夜半に吹きしく秋の初風(曾丹集)、

と、

岩戸、
織女(たなばたつめ)、

などにかかり、さらには、月の中の、

ひさかたの桂にかくるあふひ草空の光にいくよなるらん(新勅撰和歌集)、

と、月の中に桂(かつら)の木があるという伝説から、

桂、

および、それと同音の地名「桂」にかかり、

久堅之(ひさかたの)都を置きて草枕旅ゆく君を何時とか待たむ(万葉集)、

と、

都、

にかかる(精選版日本国語大辞典・大言海)。

最後は、天(あま)、空、月などにかかるところから、

久方のなかにおひたる里なれば光をのみぞたのむべらなる(古今和歌集)、

と、

天、
空、
月、

そのものの意でも使うに至る(岩波古語辞典)。

「久」(漢音キュウ、呉音ク)は、

会意。背の曲がった老人と、その背の所に、引っ張るしるしを加えたもので、曲がって長いの意も含む。灸(キュウ もぐさで長い間火を燃やす)、柩(キュウ 長い間死体を保存するひつぎ)の字の音符となる、

とある(漢字源)。「镹」「乆」は異字体とある(仝上・漢辞海)。別に、

不詳。一説に、「氒」の略体に由来する。『説文解字』では灸を当てている人のさまを象ると分析されているが、信頼できる記述ではない(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%85)

指事。人と、乀(後ろから引き止めるさまを示す)とから成る。とまる、おくれる、ひいて「ひさしい」意を表す(角川新字源)、

象形文字です。「病気で横たわる人の背後から灸をすえる」象形から、灸の意味を表しましたが、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「時間が長い」、「ひさしい」を意味する「久」という漢字が成り立ちました(久は灸の原字です)https://okjiten.jp/kanji883.html

と、異説がある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)

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騂弓(せいきゅう)


三戍漁陽再度遼(三たび漁陽(ぎょよう)を戍(まも)って再び遼(りょう)を度(わた)る)
騂弓在臂箭腰(騂弓(せいきゅう)は臂(ひじ)に在り 剣(つるぎ)は腰に横たわる)
匈奴似欲知名姓(匈奴は名姓(めいせい)を知れるが若(ごと)きに似たり)
休傍陰山更射G(陰山(いんざん)に傍(そう)て更にG(ちょう)を射るを休(や)めよ)(張仲素・塞下曲一)

の、

騂弓、

は、

正しく張った弓、

の意(前野直彬注解『唐詩選』)とあるが、

調子よく張った弓、一説に赤色をいう、

ともあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen422.html

「詩経」小雅・角弓の詩に、

騂騂角弓、翩其反矣(騂騂(せいせい)たる角弓(かくきゅう)は、翩(へん)として其(それ)反(はん)す)

とあるのにもとづく(仝上・前野直彬注解『唐詩選』)。

騂弓、

を、

赤い弓、

とするのは、

「騂」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

形声。「馬+音符辛(シン)」、あるいは辛(刃物で切る)と同系で、切った血のように赤い意か、

とあり(漢字源)、

あかうま、
やや黄色がかったあかい毛色の馬、

の意で、

騂顔(せいがん)、

というと、

渉筆騂我顔((公文書を書いては)我が顔を騂(あこ)うす)、

と、

顔を赤らめる、

意であるからと思われる。

騂騂(せいせい)、

というと、

弓の調子のいいさま(漢字源)、
弓の工合よく調和させる(字源)、

をいうとあるので、「赤い」という意味は消えているかもしれない。

射G、

の、

G、

は、

わし、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)が、

おおわし、

とあり(字源・漢字源)、

タカ科の大形の猛禽の総称、

ともある(漢辞海)が、

青G最俊者、謂之海東青(張融・海賦)、

と、

くまたか、胡地に産する鷲鳥の一。両翼を張れば八九尺に至る。全体羽毛暗褐色、頸後暗赤色、嘴は強大にして鉤の如く曲がり、性鷹よりも猛く、よく犬羊を捕え食う、

とある(字源)。

「G」(チョウ)は、

会意兼形声。「鳥+音符周(全体にいきわたる)」。全身に羽毛が生えていること、あるいは、全身に力がいきわたることからきた名称、

とある(漢字源)。「G」の異字体https://kanji.jitenon.jp/kanjio/7170.html

「雕」(チョウ)は、

中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、

形声。「隹(とり)+音符周」、

とある(漢辞海)。

射G、

の詩句は、

漢の飛将軍李広が匈奴のGを射る射手と遭遇し、大激戦を演じた故事を指す、

とする説、

北斉の将軍斛律光(こくりっこう)が大Gを射落として弓の上手とうたわれた故事にもとづく、

とする説があり、

匈奴似欲知名姓
休傍陰山更射G

の意味も、

匈奴に向かい、Gを射てまわるような勝手な振舞いをするな、

と解する説、

こちらがGを射ると、武芸のほどか敵に知られて警戒されるから、やめるように、

とする説とにわかれるといい、この注釈者は、後者を採り、

全体に李広の故事から発想されたもの、

と見ておく、としている(前野直彬注解『唐詩選』)。『史記』李広伝には、

匈奴大入上郡。天子使中貴人從廣勒習兵擊匈奴。中貴人將騎數十縱、見匈奴三人、與戰。三人還射、傷中貴人、殺其騎且盡。中貴人走廣。廣曰、是必射雕者也。廣乃遂從百騎往馳三人。三人亡馬歩行、行數十里。廣令其騎張左右翼、而廣身自射彼三人者、殺其二人、生得一人。果匈奴射雕者也(匈奴大いに上郡に入る。天子、中貴人(ちゅうきじん)をして広に従い勒(ろく)して兵を習い匈奴を撃たしむ。中貴人、騎数十を将(ひき)いて縦(しょう)し、匈奴三人を見るや、与に戦う。三人還り射て、中貴人を傷つけ、其の騎を殺して且(まさ)に尽きんとす。中貴人、広に走る。広曰く、是れ必ず射雕者(せきちょうしゃ)ならん、と。広乃ち遂に百騎を従え往きて三人に馳(は)す。三人、馬を亡(うしな)い歩行し、行くこと数十里。広、其の騎をして左右の翼(よく)を張らしめ、而うして広身自(みみずか)ら彼の三人の者を射て、其の二人を殺し、一人を生得(せいとく)す。果たして匈奴の射雕者(せきちょうしや)なり)、

とあるので、

漢の将軍李広が匈奴を征伐したとき、Gを射る名手と遭遇し、二人を殺し一人を生け捕りにした、

という故事を踏まえるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen422.htmlというのが正確かもしれない。

李広将軍については、「桃李蹊」、「禿筆」(とくひつ)で触れた。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)

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劉郎


紫陌紅塵拂面來(紫陌(しはく)の紅塵(こうじん) 面を払って来(きた)る)
無人不道看花回(人の花を看て回(かえ)ると道(い)わざるは無し)
玄都觀裏桃千樹(玄都(げんと)観裏(かんり) 桃千樹)
盡是劉郎去後栽(尽(ことごと)く是れ劉郎(りゅうろう)去って後(のち)に栽(う)えしなり)(劉禹錫(りゅう うしゃく)・元和十一年自朗州至京戯贈看花諸君子)

の、

劉郎、

は、「志怪小説」『幽明録』(宋)に、

漢の明帝の永平五年、剡県(せんけん)の劉晨・阮肇、共に天台山に入り穀皮を取り、迷いて返ることを得ず、十三日を経て、糧食乏尽し、饑餒(きだい)して殆ど死せんとす。遥かに山上を望むに一桃樹有りて、大いに子実有り。而るに絶巌(ぜつがん)邃澗(すいかん)ありて、永く登路無し。藤葛を攀援(はんえん)し、乃ち上に至るを得たり。各〻数枚を啖(くら)いて、饑(うえ)止み体充つ。復た山を下り、杯を持ちて水を取り、盥漱(かんそう)せんと欲するに、蕪菁(ぶせい)の葉の山腹より流出するを見る。甚だ鮮新たり。復た一の杯流出し、胡麻飯の糝(つぶ)有り、相謂いて曰く、此れ人の径(みち)を去ること遠からざるを知る、と。便ち共に水に没し、流れに逆いて二三里にして、山を度(わた)りて一大渓に出ずるを得たり。渓辺に二女子有り、姿質妙絶なり。二人の杯を持ちて出ずるを見て、便ち笑いて曰く、劉・阮二郎、向(さき)に流れに失いし所の杯を捉りて来る、と。晨・肇既に之を識らざるも、二女の便ち其の姓を呼ぶや、旧有るに似たるが如きに縁りて、乃ち相見て忻喜す。問う、来ること何ぞ晩(おそ)きや、と。因りて邀(むか)えて家に還る。其の家は銅の瓦屋にして、南壁及び東壁の下に各〻一大床有り。皆絳(あか)き羅帳を施し、帳角に鈴を懸け、金銀交錯す。床頭に各〻十侍婢有り。勅して云う、劉・阮二郎、山岨を経渉し、向(さき)に瓊実を得と雖も、猶尚(なお)虚弊す。速やかに食を作る可し、と。胡麻の飯、山羊の脯、牛肉を食らう。甚だ甘美なり。食畢わりて酒を行う。一群の女の来る有り。各〻五三の桃子を持ち、笑いて言う、汝の婿の来るを賀す、と。酒酣たけなわにして楽を作なす。劉・阮忻怖交〻(こもごも)并(あわ)さる。暮に至りて、各〻をして一帳に就きて宿せしむ。女も往きて之に就き、言声清婉にして、人をして憂いを忘れしむ。十日の後に至り、還り去らんことを求めんと欲す。女云う、君の已に是に来るは、宿福の牽く所なり。何ぞ復た還らんと欲するや、と。遂に停まること半年なり。気候草木は是れ春時、百鳥啼鳴するも、更に悲思を懐き、帰らんことを求むること甚だ苦しきりなり。女曰く、罪君を牽く。当に如何ともす可けんや、と。遂に前に来りし女子を呼ぶに、三四十人有り。集まり会して楽を奏し、共に劉・阮を送り、還る路を指示す。既に出ずるや、親旧零落し、邑屋改異し、復た相識るもの無し。問訊して七世の孫を得たり。伝え聞く、上世山に入り、迷いて帰るを得ずと。晋の太元八年に至り、忽ち復た去り、何れの所なるかを知らず、

とある、

昔、劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)という二人の男が薬を採りに天台山に入り、道に迷って桃の実を食べ、二人の仙女に出逢った。二人は迎えられて、それぞれ仙女と夫婦になって暮らした。そのうち家が恋しくなって別れて帰ったところ、知っている人は皆亡くなっており、そこには七代目の子孫が住んでいた、

という故事をふまえ(https://kanbun.info/syubu/toushisen416.html・前野直彬注解『唐詩選』)、

作者の姓(劉)とを掛けて言ったもの、

とあり(仝上)、

劉郎、

は、

遊女におぼれて夢中になっている男、
放蕩者、

の意で使われる(広辞苑)。

郎、

は、

妻が夫を呼ぶ言葉、

で、転じて、

男子を呼ぶ美称、

とあり、自分で郎の字を使ったところに、詩題の、

元和十一年自朗州至京戯贈看花諸君子(元和十一年(816)、朗州自(よ)り京(けい)に至り、戯(たわむ)れに花を看る諸君子に贈る)、

という、

ふざけた気持ち、

を表しているhttps://kanbun.info/syubu/toushisen416.html)とある。

作者は、この年、配所の朗州から都へ呼び返され、このとき、都の玄都観(道教の寺)に道士が「仙桃」を植え、その美しさは「紅霞」のごとくであると評判が立ったので、戯れにこの詩をつくり、花見に行く友人に贈った、

という(前野直彬注解『唐詩選』)。ただ、この詩が世間に伝わると、

作者は自分が都を追われたあと、新しい権力者たちが世に栄えるようになったことを、桃の花にたとえ、不満の意を表した、

と言いふらすものが現れ、また連州へ追われた(仝上)という。『本事詩』(孟棨)に、

劉尚書、屯田(とんでん)員外(いんがい)より郎州司馬に左遷せらる。凡およそ十年にして始めて徴(め)し還(かえ)さる。春に方あたりて、花を看る諸君子に贈る詩を作りて曰く、……其の詩一たび出でて都下に伝わる。素より其の名を嫉む者有り、執政に白(もう)し、又其の怨憤(えんふん)有るを誣(し)う。他日、時宰(じさい)に見(まみ)え与(とも)に坐す。慰問すること甚だ厚し。既に辞す。即ち曰く、近者(ちかごろ)の新詩、未だ累を為すを免(まぬか)れず、奈何(いかん)と。数日ならずして出でて連州刺史たり、

とあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen416.html。作者は十数年後にまた都へ戻り、玄都観を訪ね、昔をしのんで、七言絶句(「再び玄キ觀に遊ぶ」)をつくった、

百畝庭中半是苔(百畝の庭中 半ばは是れ苔)
桃花淨盡菜花開(桃花は浄(ち)り尽くして菜花開く)
種桃道士今何歸(桃を種えし道士は何処にか帰る)
前度劉カ今又來(前度の劉郎は今又来たる)

の、結句の、

前度の劉郎は今又来たる、

から、

元の土地や地位に舞い戻る、

意の、

前度劉郎、

という諺が出来た(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

「劉」(漢音リュウ、呉音ル)は、

会意兼形声。「金+刀+音符卯(リュウ ひらく、はなす)」で、刀でばらばらに切り開くこと、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8A%89)。別に、

会意形声。刀と、金(金属)と、丣(バウ)→(リウ)(=卯。は変わった形。ころす)とから成る。「ころす」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(卯(丣)+金+刀(刂))。「同じ形のものを左右対称においた」象形と「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(土中に含まれる「金属」の意味)と「鋭い刃物」の象形から、「鋭い刃物で2つに切る」、「殺す」を意味する「劉」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji2374.htmlある。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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h樹


h樹西風枕簟秋(h樹(きじゅ)の西風(せいふう) 枕簟(ちんてん)秋なり)
楚雲湘水憶同遊(楚雲(そうん) 湘水(しょうすい) 同遊(どうゆう)を憶(おも)う)
高歌一曲掩明鏡(高歌(こうか)一曲 明鏡(めいきょう)を掩(おお)う)
昨日少年今白頭(昨日(さくじつ)の少年 今は白頭(はくとう))(許渾・秋思)

の、

枕簟(ちんてん)、

は、

簟(てん)は竹を編んで作ったむしろ、夏にはこれを敷いて、その上に寝る。楚の地方では、ことに多く産したらしい。枕とあわせて、寝具を意味する、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

h樹(きじゅ)、

は、

崑崙山の北に生えると伝えられる、玉のなる木、

である(仝上)。ここでは、

庭前の樹木を、美しく言ったもの、

と注釈がある(仝上)。

h樹、

の、

h、

は、

玉(ぎょく)の名、

で、

h樹、

は、

寶林寺有h樹、在法堂前、即本草之南天燭(六朝事迹)、

と、

南天、

を指すらしいが、

珠樹、
玉樹、

に同じとあり(字源・https://kanbun.info/syubu/toushisen438.html)、

東方之美者、有醫無閭之c玕h焉(中国最古の字書『爾雅』(秦・漢初頃)・釋地)、

とあり(字源)、

建木滅景於千尋(建木(けんぼく)景(かげ)を千尋(せんじん)に滅めし)
h樹璀璨而垂珠(h樹(きじゅ)璀璨(さいさん)として珠(たま)を垂る)(孫綽・遊天台山賦)

と詠われる(https://kanbun.info/syubu/toushisen438.html)

「h」(漢音キ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。「玉+音符其(キ 四角い)、

とあり(漢字源)、

四角い玉、
形の整った玉、

の意である(仝上)。

珠樹玲瓏隔翠微(珠樹(しゅじゅ)玲瓏(れいろう)として翠微(すいび)を隔(へだ)つ)
病來方外事多違(病来(びょうらい) 方外(ほうがい) 事(こと)多く違(たが)えり)
仙山不屬分符客(仙山(せんざん)属せず 符(ふ)を分(わか)の客)
一任凌空錫杖飛(一えに任(まか)す 空(くう)を凌(しの)いで錫杖(しゃくじょう)の飛ぶに)(柳宗元・浩初上人見貽絶句欲登仙人山因以酬之)

の、

珠樹(しゅじゅ)、

も同義で、

中国の南にあるといわれる伝説的な木、

を指し、

葉はすべて真珠だという、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。『淮南子』墬形訓に、

闔四海之內、東西二萬八千里、南北二萬六千里、水道八千里、通穀其名川六百、陸徑三千里。禹乃使太章步自東極、至於西極、二億三萬三千五百里七十五步。使豎亥步自北極、至於南極、二億三萬三千五百里七十五步。凡鴻水淵藪、自三百仞以上、二億三萬三千五百五十裏、有九淵。禹乃以息土填洪水以為名山、掘昆侖虛以下地、中有搶驪繽d、其高萬一千里百一十四步二尺六寸。上有木禾、其修五尋、珠樹、玉樹、琁樹、不死樹在其西、沙棠、琅玕在其東、絳樹在其南、碧樹、瑤樹在其北。旁有四百四十門、門間四裏、里間九純、純丈五尺。旁有九井玉、維其西北之隅、北門開以內不周之風、傾宮、旋室、縣圃、涼風、樊桐在昆侖閶闔之中、是其疏圃。疏圃之池、浸之黃水、黃水三周複其原、是謂丹水、飲之不死。河水出昆侖東北陬、貫渤海、入禹所導積石山、赤水出其東南陬、西南注南海丹澤之東。赤水之東、弱水出自窮石、至於合黎、餘波入於流沙、絕流沙南至南海。洋水出其西北陬、入於南海羽民之南。凡四水者、帝之神泉、以和百藥、以潤萬物。

(https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8D%97%E5%AD%90/%E5%A2%9C%E5%BD%A2%E8%A8%93)

禹乃以息土塡洪水、以爲名山、掘崑崙虛、以下地。中有搶驪繽d。……珠樹、玉樹、琁樹、不死樹、在其西(禹乃ち息土を以て洪水を塡(うず)めて、以て名山と為し、崑崙の虚を掘りて、以て地に下す。中に増城の九重なる有り。……珠樹・玉樹・琁樹(せんじゅ)・不死樹、其の西に在り)、

とあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen427.html

なお、崑崙山は、

中国の古代信仰では、

神霊は聖山によって天にのぼる、

と信じられ、崑崙山は最も神聖な山で、大地の両極にあるとされた(仝上)。中国北魏代の水系に関する地理書『水経(すいけい)』(515年)註に、

山在西北、……高、萬一千里、

とあり、中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』には、

崑崙……高萬仞、面有九井、以玉為檻、

とあり、その位置は、

瑶水(ようすい)という河の西南へ四百里(山海経)、

とか、

西海の南、流沙(りゅうさ)のほとりにある(大荒西経)、

とか、

貊国(はくこく)の西北にある(海内西経)、

と諸説あり、

その広さは八百里四方あり、高さは一万仞(約1万5千メートル)、

あり、

山の上に木禾(ぼっか)という穀物の仲間の木があり、その高さは五尋(ひろ)、太さは五抱えある。欄干が翡翠(ひすい)で作られた9個の井戸がある。ほかに、9個の門があり、そのうちの一つは「開明門(かいめいもん)」といい、開明獣(かいめいじゅう)が守っている。開明獣は9個の人間の頭を持った虎である。崑崙山の八方には峻厳な岩山があり、英雄である羿(げい)のような人間以外は誰も登ることはできない。また、崑崙山からはここを水源とする赤水(せきすい)、黄河(こうが)、洋水、黒水、弱水(じゃくすい)、青水という河が流れ出ている、

とあるhttp://flamboyant.jp/prcmini/prcplace/prcplace075/prcplace075.html。『淮南子(えなんじ)』(紀元前2世紀)にも、

崑崙山には九重の楼閣があり、その高さはおよそ一万一千里(4千4百万キロ)もある。山の上には木禾があり、西に珠樹(しゅじゅ)、玉樹、琁樹(せんじゅ)、不死樹という木があり、東には沙棠(さとう)、琅玕(ろうかん)、南には絳樹(こうじゅ)、北には碧樹(へきじゅ)、瑶樹(ようじゅ)が生えている。四方の城壁には約1600mおきに幅3mの門が四十ある。門のそばには9つの井戸があり、玉の器が置かれている。崑崙山には天の宮殿に通じる天門があり、その中に県圃(けんぽ)、涼風(りょうふう)、樊桐(はんとう)という山があり、黄水という川がこれらの山を三回巡って水源に戻ってくる。これが丹水(たんすい)で、この水を飲めば不死になる。崑崙山には倍の高さのところに涼風山があり、これに昇ると不死になれる。さらに倍の高さのところに県圃があり、これに登ると風雨を自在に操れる神通力が手に入る。さらにこの倍のところはもはや天帝の住む上天であり、ここまで登ると神になれる、

とある(仝上)。

宋代の『湘山野録』には、

崑崙山産玉、麗水生金、

中国の西方に位置して玉を産し、黄河の源はこの山に発すると考えられた、

とあり(日本大百科全書)、

美麗なる玉(ぎょく)を出すを以て、名あり、崑玉と云ふ、

ともある(大言海)。後漢書・孔融傳では、

與琭玉秋霜、比質可也、

とあり、その、

人格の高尚なる、

のに準えられている(大言海)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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剣潭


想象精靈欲見難(精霊(せいれい)を想像し 見んと欲すれども難(かた)し)
通津一去水漫漫(通津(つうしん) 一(ひと)たび去って水漫漫(まんまん)たり)
空餘昔日凌霜色(空しく余す 昔日(せきじつ) 霜を凌ぐ色)
長與澄潭生昼寒(長(とこし)えに澄潭(ちょうたん)と与(とも)に昼寒(ちゅうかん)を生ず)(欧陽・・題延平剣潭)

のタイトル、

剣潭、

は、

閩江(びんこう)の上流にあった渡し場、

をいう。この辺りは、

剣渓、

と呼ばれ、

延平津、

という渡し場があり、

剣津、

とも呼ばれる(https://kanbun.info/syubu/toushisen428.html・前野直彬注解『唐詩選』)。

晋のころ、雷煥(らいかん)という人が、晋の宰相張華と協力して名剣二口を地中から掘り出し、一つを華に与え、一つを自分が所持した。華は後に殺され、剣は行方知れずとなったが、その後、雷煥(その子とも言う)がその剣を佩(お)びて延平津を渡ったところ、剣は自然と抜け出て、川の中に落ちた。見ると、長さ数丈もある二匹の竜が水中を泳いでいた、

とある。で、これ以後、この川を、

剣渓、
剣潭、

と呼ぶようになった(前野直彬注解『唐詩選』)。

延平(えんぺい)、

は、今の福建省南平市延平区である。『晋書』張華伝には、

煥到縣、掘獄屋基、入地四丈餘、得一石凾。光氣非常、中有雙劍。竝刻題。一曰竜泉、一曰太阿。……遣使送一劍竝土與華、留一自佩。……華誅、失劍所在。煥卒、子華爲州從事。持劍行經延平津、劍忽於腰阮出墮水。使人沒水取之、不見劍。但見兩龍各長數丈。蟠縈有文章、沒者懼而反。須臾光彩照水、波浪驚沸。於是失劍(煥、県に到り、獄屋の基を掘り、地に入ること四丈余、一石の函を得たり。光気非常にして、中に双剣有り。並びに題を刻む。一を龍泉と曰い、一を太阿と曰う。……使いを遣わして一剣並びに土を送りて華に与え、一を留めて自ら佩ぶ。……華誅せられ、剣の所在を失う。煥卒(しゅっ)し、子の華、州の従事と為る。剣を持じて行き、延平津を経しとき、剣忽ち腰間より躍り出でて水に堕つ。人をして水に没もぐりて之を取らしむるも、剣を見ず。但だ両竜の各〻長さ数丈なるを見る。蟠縈(はんえい)し文章有り、没(もぐ)りし者懼れて反る。須臾にして光彩水を照らし、波浪驚沸す。是に於いて剣を失う)、

とあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen428.html。この名剣は、

干将・莫耶

とする説もあり、

西晋の雷煥は土中より一対の伝説の神剣「干将・莫耶」を掘り当てた。一本は自らが持ったが、もう一本は張華に送った。やがてふたりは歴史の荒波に殺され、干将莫耶は何処ともなく消えていった、

とあるhttps://kakuyomu.jp/works/16816700428584992583/episodes/16816700429236754093。なお、

張華、

については、別に譲るhttps://readingnotesofjinshu.com/translation/biographies/vol-36_3

剣潭、

は、台湾にもあり、

鄭成功、

が兵士を引き連れて、この池を通過した時、池の中からミズチのような化け物が現れ、風と波を起こし、無数の人々を困らせたそうです。この時、鄭成功が腰に付けていた宝剣を池の中の化け物に投げつけると、池は静かになったと言われています、

とありhttps://www.travel.taipei/ja/attraction/details/787、鄭成功の投げた剣で化け物を退治することができたので、、

剣潭、

と呼ばれる(仝上)と。

「潭」(漢音タン、呉音ドン)は、

会意兼形声。覃は「西(ざる)+高の逆形」の会意文字で、そこの深いざる。潭は「水+音符覃(深い)」で、水を深くたたえたふちのこと。深く下に垂れたのを「沈々」と形容するが、その沈や深に近く、ずっしりと分厚い意を表す、

とある(漢字源)。別に、

形声。「水」+音符「覃 /*LƏM/」(説文解字(後漢・許慎)・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%BD%AD)、

と、形声文字とする説もある(漢辞海)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)

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大荒


平沙落日大荒西(平沙(へいさ)の落日 大荒(たいこう)の西)
隴上明星高復低(隴上(ろうじょう)の明星(めいせい) 高く復た低し)
孤山幾處看烽火(孤山(こざん) 幾処(いくしょ)か烽火(ほうか)を看(み))
戰士連營候鼓鼙(戦士 営(えい)を連ねて鼓鼙(こへい)を候(うかが)う)(張子容・水調歌第一畳)

の、

平沙、

は、

広く平らな砂漠、

の意、

沙、

は、「砂」と同じhttps://kanbun.info/syubu/toushisen448.htmlとある。

平沙落雁、

というと、

干潟に降り立つ雁の群れのこと、

をいい、

中国の山水画の伝統的画材である瀟湘八景(瀟湘地方の八つの景勝。山市晴嵐・漁村夕照・遠浦帰帆・瀟湘夜雨・煙寺晩鐘・洞庭秋月・平沙落雁・江天暮雪)の中の一つ、

であるhttps://yoji.jitenon.jp/yojib/945.html

大荒、

は、

世界のはて、

の意、古くから、

都を中心として同心円状に世界を五分し、『書経』益稷篇に、

惟荒度土功、弻成五服、至于五千(毎服、五百里、四方相距ること、五千里なり)

とあるように、

五服、

と名づける観念があり、その最も外側の、

王畿より離れること二千里より二千五百里に至る地(字源)、

を、

荒服、

と呼んだことからきている(前野直彬注解『唐詩選』)。塞外の地は、文化の及ばぬところで、

荒服、

と意識されていた(仝上)とある。

五服(ごふく)、

は、上古、

王畿を中心として、其四方、周囲五百里づつ距(さ)りたる、五つの地域、

を称し、王畿の周圍なる五百里の地を、

甸(でん)服、

と云ひ、其の外圍なる五百里を、

侯服、

と云ひ、其の外圍を、

綏(すい)服、

其の外圍を、

要服、

其の外圍を、

荒服、

といった(大言海)。

甸(でん)服、

の地が最も王城に接し、

荒服、

の地が最も遠くなる。『書経』禹貢篇には、

五百里荒服、三百里蠻、二百里流(五百里は荒服、三百里は蛮(ばん)、二百里は流(りゅう))、

ともあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen448.html。『山海経』大荒西経には、

大荒之中有山、名曰大荒之山。日月所入(大荒の中うちに山有り、名づけて大荒の山と曰う。日月の入る所なり)、

とある(仝上)。

「荒」(コウ)は、

会意兼形声。亡(モウ・ボウ)は、ない、何も見えないの意、巟(コウ)は、何も見えないむなしい川。荒はそれを音符とし、艸を加えた字で、みのりの作物が何もない、むなしいの意、

とある(漢字源)。なお、

「荒󠄁」は「荒」の旧字、「𠯚」「𠃤」は「荒」の古字、「𫟎」は「荒」の俗字、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8D%92。別に、

会意兼形声文字です。「並び生えた草」の象形と「人の死体に何か物を添えた象形と大きな川の象形」(「大きな川のほか何もない」の意味)から、「あれはてた草のほか何もない」意味する「荒」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1203.htmlあるが、

形声。「艸」+音符「巟 /*MANG/」。「手つかずの土地」「あれはてる」を意味する漢語{荒 /*hmaang/}を表す字、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8D%92

形声。艸と、音符巟(クワウ)とから成る。耕す人のいないあれ地、ひいて、あれはてる意を表す、

も(角川新字源)、形声文字とする。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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西施石


西施昔日浣紗津(西施(せいし) 昔日(せきじつ) 浣紗(かんさ)の津(しん))
石上苔思殺人(石上(せきじょう)の青苔(せいたい) 人を思殺(しさつ)す)
一去姑蘇不復返(一たび姑蘇(こそ)に去って復(ま)た返(かえ)らず)
岸傍桃李爲誰春(岸傍(がんぼう)の桃李(り) 誰(た)が為にか春なる)(楼穎・西施石)

の、

浣紗(かんさ)、

は、

川で紗をすすぐ、

つまり、

紗を晒すこと、

をいう(前野直彬注解『唐詩選』)。

姑蘇、

は、

呉王夫差の都、

で、今の江蘇省 蘇州市である(https://kanbun.info/syubu/toushisen458.html)。「姑蘇」は、ここでは、

姑蘇台、

を指す。姑蘇台は、

山在州西四十里。其上闔閭起臺((姑蘇)山は(蘇)州の西四十里に在り。其の上に闔廬(こうりょ)、台を起(きづ)く)、

とあり(元和郡県図志)、春秋時代の後期、

呉王闔廬(こうりょ)が姑蘇山(江蘇省蘇州市の西南)上に築き、後にその子夫差が改修した離宮。西施など大勢の美女を住まわせて遊んだ、

という(仝上)。この、

台、

は、

建物を築くとき、土を高く盛ってつき固めた台基のこと、

とある(仝上)。

思殺、

の、

殺、

は、

程度の甚だしいことをあらわすこと、

で、

深く思うこと、

とある(前野直彬注解『唐詩選』・https://kanbun.info/syubu/toushisen458.html

西施、

については、「顰に倣う」で触れたが、

中国史上代表的な美人の一人、

で、四大美人というと、

西施(春秋時代)、
王昭君(前漢)、
貂蝉(ちょうせん 後漢)、
楊貴妃(唐)、

で、貂蝉は、『三国志演義』に登場する架空の人物。このほかに卓文君(前漢)を加え、王昭君を除くこともあり、虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともある、という。

西施は、

沈魚美人、

とも言われるが、春秋時代、越の国に生まれ、

家が貧しいので、薪を採ったり、川で紗(薄い絹)を晒したりして働いた。このころ呉王夫差との戦いに敗れ、復讐を志していた越王勾践に召し出され、夫差のもとに送った。夫差は、彼女の容色におぼれ、国政を顧みなくなったので、呉国は次第に乱れ、終には越に滅ぼされた、

というまさに傾城の美女である。彼女が紗をさらしていた谷川は、後世、

浣紗渓、

と呼ばれ、

西施石、

も、そうした伝説の一つで、

会稽の苧蘿(ちょら)山中(今の浙江省紹興市の西南、諸曁(しょき)市)の谷川で紗(うすぎぬ)を洗ったときに使った石、

とされる(前野直彬注解『唐詩選』)。西施をしのびながら作ったのが冒頭の詩になる。

中国の類書(一種の百科事典『太平御覧』(北宋・李ム(りほう)編、983年完成)に、

勾踐索美女以獻吳王、得諸曁羅山賣薪女西施、鄭旦、先教習于土城山。山邊有石、云是西施浣紗石(勾践、美女を索(もと)め以て呉王に献ぜんとし、諸曁羅(しょきら)山の薪(たきぎ)を売る女、西施・鄭旦(ていたん 西施と同郷とされ、越王勾践によって西施とともに呉に送られた)を得、先ず土城山に教習せしむ。山辺に石有り、云う是れ西施紗(うすぎぬ)を浣(あら)う石なり)、

とある(https://kanbun.info/syubu/toushisen458.html)

西施、

の名は、

顰にならう」で触れたように、本名は、

施夷光、

中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれ、

と言われているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%96%BD

西施、

と言う名は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施、西施と呼ばれるようになった、

とある(仝上)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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三寿


一月主人笑幾回(一月(いちげつ)に主人 笑うこと幾回(いくかい)ぞ)
相逢相値且銜杯(相逢い相値(あ)うて且(しばら)く杯(はい)を銜(ふく)まん)
眼看春色如流水(眼(ま)のあたり看(み)る 春色(しゅんしょく) 流水の如きを)
今日殘花昨日開(今日(こんにち)の残花は昨日開きしなり)(崔恵童・宴城東荘)

の、

値、

は、

逢、

と同じ意味、

識(知り合いになる)、

となっている本もある(前野直彬注解『唐詩選』)とあるが、

値、

は、

思いがけなく出会うこと、

ともあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen462.html

寧見乳虎、無値寧成之怒(乳虎に見(あ)ふとも寧成の怒に値(あ)ふなかれ)(史記・酷吏傳)、

とあるように、

出くわす、

という意味で、『説文解字』に、

値、措也(値は、措くなり)、

とあり、徐注に、

一曰逢遇(一に曰く、逢遇するなり)、

とある(仝上)。

笑幾回、

は、「荘子」盗跖篇に、

人上壽百歳、中壽八十、下壽六十除病瘦死喪憂患、其中開口而笑者、一月之中、不過四五日而已矣(人、上寿百歳、中寿八十、下寿六十。病瘦・死喪・憂患を除きて、其の中(うち)に口を開きて笑う者、一月(いちげつ)の中(うち)、四五日(じつ)に過ぎざるのみ)

にあるのを踏まえる(前野直彬注解『唐詩選』・https://kanbun.info/syubu/toushisen462.html)とある。この、

上壽百歳、
中壽八十歳、
下壽六十歳、

の長寿三種を、上記出典から、

三寿(さんじゅ)、

という(広辞苑)が、

上寿(100歳または120歳)、
中寿(80歳または100歳)、
下寿(60歳または80歳)、

と幅がある(広辞苑・デジタル大辞泉)。

「値」(@漢音チ・呉音ジ、A漢音チョク・呉音ジキ)は、

会意兼形声。直は「|(まっすぐ)+目+(かくす)」の会意文字で、目をまともにあてて、隠れたものを直視することを示す。植(真っ直ぐ立てる)、置(真っ直ぐに立ておく)と同系のことば。値は「人+音符直」で、何かにまともにあたる、物のねうちにまともにあたる値段の意、

とある(漢字源)。「価値」の、物の値打ちに相当するあたい、の意の場合@の音、「当値(直)」の、役目や順番に当たる意、あう、当面にするの意の場合Aの音となる(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(人+直)。「横から見た人」の象形と「まじないの印の十をつけた目」の象形(「まっすぐ見つめる」の意味)から、人が見つめあう事を意味し、そこから、人が「会う」、物に向き合う「値段」、「価値」を意味する「値」という漢字が成り立ちました。また、「直(ジ)」は「持(ジ)」に通じ(同じ読みを持つ「持」と同じ意味を持つようになって)、「持つ」の意味から、「人が持つ」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji968.htmlが、

形声。「人」+音符「直 /*TƏK/」。「あう」を意味する漢語{値 /*drəks/}を表す字。のち仮借して「あたい」を意味する漢語に用いる、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%80%A4

形声。人と、音符直(チヨク、チ)とから成る。立てておく意を表す。直と通じ、あたる、転じて「あたい」の意に用いる、

も(角川新字源)、形声文字とする。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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虎溪三笑


虎溪闌肢相過(虎渓(こけい)の間月(かんげつ) 引いて相過ぎ)
帶雪松枝掛薜蘿(雪を帯ぶる松枝(しょうし) 薜蘿(へいらく)を掛く)
無限山行欲盡(無限の青山(せいざん) 行く盡きんとす)
白雲深處老僧多(白雲深き処 老僧多し)(釈霊一・僧院)

の、

虎溪、

は、

江西省廬山の東林寺の境内にある川、

をいい、晋の名僧慧遠(えおん)が東林寺に住み、来客があっても、俗界禁足と、川の手前までしか送らなかった。ある日、陶淵明(とうえんめい)と陸修静の二人が寺を訪れ、辞去するときに、慧遠は思わず話に身が入って、虎溪を渡ってしまった。そこで気づき、三人は顔を見合わせた、

という、

虎溪の三笑、

の故事として有名である(前野直彬注解『唐詩選』)。

虎溪三笑(こけいさんしよう)、

は、

三笑、

ともいう(広辞苑)。出典は、宋代の、

廬山記(ろざんき)、

で、日本で元禄十年(1697)に日本版『廬山記』が刊行されたが、『〔宋版〕廬山記』に附された地図がない代わりに、

「廬山」にまつわるエピソードを描いた挿し絵が収録されています、

とあるhttps://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishihouko/h27contents/27_1040.html

廬山、

は、

中国の江西省九江市の南に位置し、景勝地として有名で、宋版「廬山記」(陳舜兪)は、「廬山」の観光案内書で、南宋の紹興年間(1131〜1163)に刊行された。陳舜兪は、

廬山の名所旧跡を訪れて見聞記を著し、廬山に関する資料と合わせて、全5巻の観光案内記にまとめました、

とあるhttps://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishihouko/h27contents/27_1010.html

慧遠(えおん 334〜416)、

は、東晋(とうしん)の仏僧。浄土宗の祖師と称され、

蘆山(ろさん)の慧遠、

といわれる。

陶淵明(とう えんめい 365〜427)、

は、六朝時代の東晋末〜南朝宋初の詩人。陶淵明については、「帰去来」で触れた。

陸修静(りくしゅうせい 406〜477)、

は、

劉宋時代の道士。字は元徳、号は簡寂先生。

『後素説』に曰く、

戯放禅月作、遠公詠并序、遠法師居廬山下持律精苦過中不受密湯、而作詩換酒、飲陶彭沢、送客無貴賎、不過虎渓而与陸道士行、過虎渓数百歩、大笑而別、故禅月作詩云、

愛陶長官酔兀々、送陸道士、行遅置酒、過渓皆破戒、期何人期師如期故効之、邀陶淵明把酒椀、送陸修静、過虎渓、胸次九流清似鏡、人間万事酔如泥、

註云、禅月師名貫休其詩見於集中、陳舜兪廬山記曰、遠師送陶元亮陸修静不覚過虎渓、因相与大笑、今世伝三笑図蓋起於比、又云、陳舜兪廬山記曰、簡寂観宋陸先生之隠居、隠居名修静、明帝召至闕、設崇虚館通仙堂、以待之、仍会儒釈之士講道於荘厳仏寺、

とある(https://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E8%99%8E%E6%B8%93%E4%B8%89%E7%AC%91)

虎渓三笑、

は、

三酸吸聖、

に通じる、

仏教(慧遠)・儒教(陶淵明)・道教 (陸修静)の一致、

つまり真理はひとつということを暗示しているされ、

禅味豊かなるを以て従来画材となる、

(https://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E8%99%8E%E6%B8%93%E4%B8%89%E7%AC%91)ある。

ちなみに、

三酸吸聖(さんさんきゅうさん)、

は、

三酸図、

ともいい、

三聖図(さんせいず)、
三教図、
三教聖人図、
吸酢三教図、
三聖吸酸の図(さんせいきゅうさんのず)、

等々の呼び方もある、、

儒の蘇武、道教の黄庭堅、仏教の佛印の三者が、桃花酸を共になめて眉を顰める図、

で、

三教の一致、

を諷するものとされる(広辞苑)。

孔子、老子、釈尊、

を描くこともある(仝上)。

なお、能の演目にも「三笑」というものがありhttp://www.tessen.org/dictionary/explain/sansyo、ストーリーは同じである。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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第三声


唯有夜猿知客恨(唯夜猿(やえん)の客恨(かくこん)を知る有り)
嶧陽溪路第三聲(嶧陽(えきよう)渓路 第三声(だいさんせい))(李端・送劉侍郎)

の、

第三声、

は、猿の鳴き声は非常に悲しく、三度その声を聞けば、涙をおとさずにはすられないという、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。後魏の酈道元「水經注」に、

巴東の山峡、巫峡長く、猿鳴くこと三声にして、涙裳(もすそ)を沾(うるお)す、

とあるのにもとづく(仝上)とある。

『水経注』江水の条に、

漁者歌曰:巴東三峽巫峽長、猿鳴三聲淚沾裳。江水又東逕石門灘、灘北岸有山、山上合下開、洞達東西、緣江步路所由。劉備爲陸遜所破、走逕此門、追者甚急、備乃燒鎧斷道。孫桓爲遜前驅、奮不顧命、斬上夔道、截其要徑。備踰山

とありhttps://zh.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8/34、漁者の、

巴東三峽、巫峽長、猿鳴三聲、淚沾裳(巴東(はとう)の三峡、巫峡(ふきょう)長く、猿鳴くこと三声(さんせい)にして、涙裳(もすそ)を沾(うるお)す)、

からきているhttps://kanbun.info/syubu/toushisen402.html。また、梁の元帝(蕭繹)の「武陵王に遺おくる詩」(『古詩紀』巻八十一)にも、

四鳥嗟長別(四鳥(しちょう)長別(ちょうべつ)を嗟(なげ)き)
三聲悲夜猿(三声(さんせい)夜や猿(えん)悲む)

とある(仝上)。なお「水経注」は、

中国古代の地理書。40巻。北魏の酈道元(れきどうげん)が、漢代から三国時代ころに作られた中国河川誌「水経」に拠って、中国全土の水路を詳述したもの、

である。ただ、

古書『水經』に注釈を加えるという形を取っているが、注が正文の二十倍にも及んでおり、現在『水經』として単独で用いることはない。黄河にはじまり、揚子江水系から江南諸水に及び、その流域の都城・古跡に触れ、その際に古書を多数引用している。この書は、宋代には既に本文と注の区別がつかない等の混乱を生じていたが、清の戴震らの校訂作業によって、ほぼ原型が復元された、

とあるhttp://karitsu.org/kogusho/b4_skc.htm。なお、酈道元については「酈道元略伝」https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/145734/1/jor006_2_130.pdfに詳しい。

ただ、知っている猿の鳴き声は、どうも哀調とは無縁に思える。同じことを考えた人がいて、確かめた人曰く、

高く澄んだ美しい音色でした。中国にもたくさんの種類の猿が棲息しているのでしょうが、この武陵源で見た猿は、大きさも姿も日本猿とほとんど変わりません。あえて違いを言えば、やや小ぶりであるのと、日本猿ほど顔が赤くないというくらい、それもわずかな違いにすぎません。……その鳴き方というのは、口を小さく0型に突き出すようにして、ホ―っと高く声をのばすのです。高く澄んだその声は、むしろ鳥の声に近く、けもの類と鳥類とのあいだのような音色です。それはちょうど日本の鹿の鳴き声にも似ているようでした、

とある(波戸岡旭「中国・武陵源の猿声」https://www2.kokugakuin.ac.jp/letters/examinee/zuihitsu/hatookax.htm)。

「猿」(漢音エン、呉音オン)は、「猿蟹合戦」で触れたように、

会意兼形声。「犬+音符爰(エン ひっぱる)。木の枝を引っ張って木登りをするさる。猿は音符を袁(エン)にかえた、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(犭(犬)+袁(爰))。「耳を立てた犬」の象形と「ある物を上下から手をさしのべてひく」象形(「ひく」の意味)から、長い手で物を引き寄せてとる動物「さる(ましら)」を意味する「猿」という漢字が成り立ちました。「猿」は「猨」の略字です、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1815.html

「猿」に当てる漢字には、「猴」(漢音コウ、呉音グ)もあるが、これは、

「犬+音符侯(からだをかがめてうかがう)」。さるが、様子をうかがう姿から来た名称、

とある(漢字源)。「猿猴(えんこう)」で、「さる」なのだが、両者の区別はよく分からない。孫悟空の場合、通称は、

猴行者、

で、自らは、

美猴王(びこうおう)、

と名乗ったので、「猿」ではなく、「猴」である。「猴」は、

人に似て能く坐立す。顔と尻とには毛がなく赤し、尾短く、性躁にして動くことを好む、

とある(字源)が、猿のかしらは、

山多猴、不畏人、……投以果実、則猴王・猴夫人食畢、羣猴食其余(宋史・闍婆國傳)、

と、

猴王、

という(字源)。

猨(猿)、

は、やや大型のさるで、手足の長いものを指す、

とあり、

猴、

は、

小型のさる、

とある(漢辞海)ので、「猿(猨)」と「猴」は区別していたようである。

この他に、「さる」の意で、

體離朱之聰視、姿才捷于獼猿(曹植・蝉賦)、



獼猿(ビエン)、

や、「おおざる」の意で、

淋猴即獼猴(漢書・西域傳・註)、



獼猴、

という使い方をする、

獼(ビ)、

がある。「獼」自体、

おおざる、

の意で、

母猴、
淋猴、

ともいう(漢字源)、とある。日本でも、色葉字類抄(1177〜81)に、

獼猴 みこう、びこう、

と載り(精選版日本国語大辞典)、

後生に此の獼猴の身を受けて、此の社の神と成るが故に(「霊異記(810〜824)」、戦国策・斉策)、
海内一に帰すること三年、獼猴(みごう)の如くなる者天下を掠むこと二十四年、大凶変じて一元に帰す(「太平記(1368〜79)」)
仏家には、人の心を猿にたとへられたり。六窓獼猴(ミゴウ)といふ事あり(仮名草子「東海道名所記(1659〜61頃)」)、

等々と使われる(仝上)。

猢猻(こそん)、
猴猻(こうそん)、

は、猿の別称、

とされるhttps://kanji.jitenon.jp/kanjiy/16424.htmlが、

猻、

は、

子猿、

の意とある(漢字源)。

「猻」(ソン)は、

会意兼形声。「犬+孫(ちいさい)」、

で、

小ざる、

の意である(漢字源)。

猴、

より小さいという意味だろう。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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見まく


いたづらに行きては來ぬるものゆゑに見まくほしさにいざなはれつつ(古今和歌集)、
見てもまたまたも見まくのほしければなるるを人はいとふべらなり(仝上)、

の、

まく、

は、

助動詞「む」を名詞化したク語法、

ほしければ、

は、

まく、

と結合して、

まくほし、

となる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。

見まく、

は、

見む、

の、

ク語法で、

あしひきの山に生ひたる菅の根のねもころ見まく欲しき君かも(万葉集)、

と、

見るであろうこと、
見ようとすること、
見ること、

の意味となる(岩波古語辞典)。

おもわく」、「ていたらく」、「すべからく」などで触れたことだが、

ク語法、

は、今日でいうと、

いわく、
恐らく、

などと使うが、奈良時代に、

有らく、
語らく、
来(く)らく、
老ゆらく、
散らく、

等々と活発に使われた造語法の名残りで、これは前後の意味から、

有ルコト、
語ルコト、
来ること、
スルコト、
年老イルコト、
散ルトコロ、

の意味を表わしており、

ク、

は、

コト
とか、
トコロ、

と、

用言に形式名詞「コト」を付けた名詞句と同じ意味になる、

とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E8%AA%9E%E6%B3%95・岩波古語辞典)、後世にも漢文訓読において、

恐るらくは(上二段ないし下二段活用動詞『恐る』のク語法、またより古くから存在する四段活用動詞『恐る』のク語法は『恐らく』)、
願はく(四段活用動詞「願う」)、
曰く(いはく、のたまはく)、
すべからく(須、『すべきことは』の意味)、

等々の形で、多くは副詞的に用いられ、現代語においてもこのほかに

思わく(「思惑」は当て字であり、熟語ではない)、
体たらく、
老いらく(上二段活用動詞『老ゆ』のク語法『老ゆらく』の転)、

などが残っている(仝上)。

まく、

は、

推量の助動詞ムのク語法、

で、

梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林に鶯なくも(万葉集)、
見渡せば春日の野辺に立つ霞見まくのほしき君が姿か(仝上)、

と、

……しようとすること、
……だろうこと、

の意となる(岩波古語辞典)。

む、

は、動詞・助動詞の未然形を承ける語で、

む・む・め

と活用し、

行かまく、
見まく、

の、

ま、

は、ク語法の語形変化であり、「む」の未然形ではない(仝上)とある。

「見」(漢音呉音ケン、呉音ゲン)は、「目見(まみ)」で触れたように、

会意文字。「目+人」で、目立つものを人が目にとめること。また、目立って見える意から、あらわれる意ともなる、

とある(漢字源)。別に、

会意。目(め)と、儿(じん ひと)とから成る。人が目を大きくみひらいているさまにより、ものを明らかに「みる」意を表す(角川新字源)、

会意(又は、象形)。上部は「目」、下部は「人」を表わし、人が目にとめることを意味するhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A6%8B

会意文字です(目+儿)。「人の目・人」の象形から成り立っています。「大きな目の人」を意味する文字から、「見」という漢字が成り立ちました。ものをはっきり「見る」という意味を持ちますhttps://okjiten.jp/kanji11.html

など、同じ趣旨乍ら、微妙に異なっているが、目と人の会意文字であることは変わらない。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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初地


竹逕従初地(竹逕 初地(しょち)に従い)
蓮峰出化城(蓮峰 化城(けじょう)を出す)(王維・登弁覚寺)

の、

化城、

は、

佛が衆生を導いて行く時、途中で疲れると、方便によって、前方に町を現出せしめるので、衆生はまた元気を取り戻し、前進するという、その幻の町のこと、

という。ここでは、

弁覚寺の建物をそれに喩えたもの、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

初地、

は、

菩薩の十地のうち、第一段階の地、

をいう。つまり、

仏果を得るための入口、

で、ここではそれを、

寺の入口、

にかけていったもの(仝上)とある。

化城(けじょう)、

は、

神通力をもって化作した城郭、

の意(精選版日本国語大辞典)で、

法華経に説く七喩、

の一つ、「法華義疏」に、

第三従道師多諸方便以下。名為設化城譬、

とある、

大乗の究極のさとりを宝所にたとえて、そこに達する途中の、遠くけわしい道で、人々が脱落しないよう一行の導師が城郭を化作して人々を休ませ、疲労の去った後、さらに目的の真実の宝所に導いたというたとえ、

で、

大乗の涅槃(ねはん)に達する前段階としての小乗方便の涅槃、

をいう(仝上)とある。「妙法蓮華経」化城喩品第七に、

譬えば五百由旬の険難悪道の曠かに絶えて人なき怖畏の処あらん。若し多くの衆あって、此の道を過ぎて珍宝の処に至らんと欲せんに、一りの導師あり。聡慧明達にして、善く険道の通塞の相を知れり(導師の譬)。

衆人を将導して此の難を過ぎんと欲す。所将の人衆中路に懈怠して、導師に白して言さく、我等疲極にして復怖畏す、復進むこと能わず。前路猶お遠し、今退き還らんと欲すと。導師諸の方便多くして、是の念を作さく、此れ等愍むべし。云何ぞ大珍宝を捨てて退き還らんと欲する。是の念を作し已って、方便力を以て、険道の中に於て三百由旬を過ぎ、一城を化作して、衆人に告げて言わく、汝等怖るることなかれ、退き還ること得ることなかれ。今此の大城、中に於て止って意の所作に随うべし。若し是の城に入りなば快く安穏なることを得ん。若し能く前んで宝所に至らば亦去ることを得べし。是の時に疲極の衆、心大に歓喜して未曾有なりと歎ず。我等今者斯の悪道を免れて、快く安穏なることを得つ。是に衆人前んで化城に入って、已度の想を生じ安穏の想を生ず。
爾の時に導師、此の人衆の既に止息することを得て復疲倦無きを知って、即ち化城を滅して、衆人に語って、汝等去来宝処は近きに在り。向の大城は我が化作する所なり、止息せんが為のみと言わんが如し(将導の譬)

とあるhttps://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/3/07.htm

方便力を以て、険道の中に於て三百由旬を過ぎ、一城を化作して、衆人に告げて言わく、汝等怖るることなかれ、退き還ること得ることなかれ。今此の大城、中に於て止って意の所作に随うべし、

のことである。

世の中を厭ふまでこそかたからめかりの宿りを惜しむ君かな(西行)、

の、

仮の宿り、

は、

宿を借りる意、

だが、法華経化城喩品第七に説く、

この世は仮の宿で、虚妄である、

という、

化城の比喩、

の意を込めている(久保田淳訳注『新古今和歌集』)とある。この歌の返しが、

世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ(遊女妙)、

と、

現世を厭離した人が、仮の宿に執着なさるな、

と返している(仝上)。

七喩、

は、

三草二木」、「窮子(ぐうじ)」で触れたように、法華経に説く、

七つのたとえ話、

で、

法華七譬(しちひ)、

ともいい、

化城、

を説く、

化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)、

の他、

三草二木(さんそうにもく)、
三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品 「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」でも触れた)
長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)
衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

がある。

初地(しょじ)、

は、

菩薩の修行の最上の十段階である十地(じゅうじ)の第一、

である、

歓喜地(かんぎじ)、

をいう(精選版日本国語大辞典)。「十住経」に、

もし衆生あって、厚く善根を集め、諸の善行を修め、よく助道の法を集め、諸仏を供養し、諸の清白の法を集め、善知識に護られ、深広の心に入り、大法を信楽し、心多く慈悲にむかい、好んで仏智を求めるならば、このような衆生はよく阿耨多羅三藐三菩提心(無上正真道意)をおこすであろう。一切種智を得るがための故に(為得一切種智故)、十力を得るがための故に(為得十力)、大無畏を得るがための故に‥‥菩薩はこのような心をおこすのである。この無上正真道意すなわち無上道心をおこすとき衆生は直ちに凡夫地をこえて菩薩位に入り、菩薩道を展開する身となる。これを歓喜地(初地)に入るという、

とあるhttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%98

十地(じゅうじ)、

は、

大乗の菩薩が菩提心を発してから仏道修行を積み、仏果を獲得するまでの階位、

をいい、

菩薩が修行して経過すべき 52位の段階のうち第 41位から第 50位までの10位、

をいうが、

諸経論によって階位の数や名称、開合の仕方が異なり、思想史的な発展も認められる。中国仏教において一般的に用いられるのは『菩薩瓔珞本業経』に説かれる、

十信・十住(習種性)・十行(性種性)・十回向(道種性)・十地(聖種性)・等覚(等覚性)・妙覚(妙覚性)、

であり、

十信以下を外凡(げぼん)、十住以上を内凡(ないぼん)とし、十住・十行・十回向を三賢(さんげん)、十地を十聖、

とよび、あわせて、

三賢十聖、

というhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%81%AE%E9%9A%8E%E4%BD%8Dとある。階位の詳目は、十信位は、

@信心A念心B精進心C慧心D定心E不退心F回向心G護心H戒心I願心、

十住位は、

@発心住A治地住B修行住C生貴住D方便住E正心住(しょうしんじゅう)F不退住G童真住(どうしんじゅう)H法王子住I灌頂住、

十行位は、

@歓喜行A饒益(にょうやく)行B無瞋恨(むしんこん)行C無尽行D離痴行E善現行F無著行G尊重行H善法行I真実行、

十回向位は、

@救護一切衆生離相回向心(くごいっさいしゅじょうりそうえこうしん)A不壊(ふえ)回向心B等一切仏回向心C至一切処回向心D無尽功徳蔵回向心E随順平等善根回向心F随順等観一切衆生回向心G如相回向心H無縛解脱回向心(むばくげだつえこうしん)I法界無量回向心、

十地は、

@四無量心(歓喜地)A十善心(離垢地)B明光心(発光地)C焰慧心(烙慧地)D大勝心(難勝地)E現前心(現前地)F無生心(遠行地)G不思議心(不動地)H慧光心(善慧地)I受位心(法雲地)、

で、さらに等覚(入法界にゅうほっかい心)、妙覚(寂滅心)となる(仝上)。

十地、

は『菩薩瓔珞本業経(ぼさつようらくほんごうきょう)』などに説かれる大乗菩薩の階位(十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚)であり、この位に入って無明を断じて真如を証し、誓願と修行を完成させることを、

十地願行(じゅうじがんぎょう)、

というhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%9C%B0%E9%A1%98%E8%A1%8C。善導『往生礼讃』には、

専ら名号を称すれば、西方に至ると。彼しこに到れば華開きて妙法を聞き、十地の願行自然に彰あらわる、

とあり、極楽浄土に往生すれば十地の願行の徳が自然にそなわっていくことを説いている。これは四十八願中の第二二・必至補処の願にもとづく内容である(仝上)という。当然、

十地、

は、仏のさとりをうるまでの修行段階を言うので、

亦大僧等、徳は十地にr(ひと)しく、道は二乗に超えたり(霊異記)、

と、

菩薩、

の意味でも使う(精選版日本国語大辞典)。

なお、「菩薩」については「薩埵」で、法華経については、「法華経五の巻」で触れた。

「化」(漢音カ、呉音ケ)は、「化生」で触れたように、

左は倒れた人、右は座った人、または、左は正常に立った人、右は妙なポーズに体位を変えた人、いずれも両者を合わせて、姿を変えることを示した会意文字、

とある(漢字源)が、別に、

会意。亻(人の立ち姿)+𠤎(体をかがめた姿、又は、死体)で、人の状態が変わることを意味する、

とかhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%96

会意形声。人と、𠤎(クワ 人がひっくり返ったさま)とから成り、人が形を変える、ひいて「かわる」意を表す。のちに𠤎(か)が独立して、の古字とされた、

とか(角川新字源)、

指事文字です。「横から見た人の象形」と「横から見た人を点対称(反転)させた人の象形」から「人の変化・死にさま」、「かわる」を意味する「化」という漢字が成り立ちました、

とかhttps://okjiten.jp/kanji386.htmlとある。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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玉かづら


玉かづら今は絶ゆとや吹く風の音にも人の聞こえざるらむ(古今和歌集)、

の、

かづら、

は、

蔓草の総称、

玉、

は、

美称、

とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、ここは、

絶ゆ、

にかかる枕詞(仝上)。

谷狭(せば)み峯に延(は)ひたる多麻可豆良(タマカヅラ)絶えむの心我がもはなくに(万葉集)

と、

たまかづら、

は、

玉葛、
玉蔓、

と当て(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、「たま」は美称で、

かづら、

は、

蔓草類の総称(岩波古語辞典)、
つる性の植物の総称(精選版日本国語大辞典)、

で、

ヒカゲノカズラ、
ヘクソカズラ、
ビナンカズラ、

等々の、

特定の植物をさす、

とする説もあるが、確証はない(仝上)とある。「ヒカゲノカズラ」については「さがりごけ」で触れた。

また、

たまかづら、

は、枕詞として、つる草のかずらの意で、つるがどこまでも延びてゆくところから、

玉葛(たまかづら)いや遠長く祖(おや)の名も継ぎゆくものと母父(おもちち)に妻に子どもに語らひて(万葉集)、

と、

長し、
いや遠長く、

などにかかり、

つがの木のいや継ぎ継ぎに玉葛(たまかづら)絶ゆることなくありつつもやまず通はむ(万葉集)、

と、

絶えず、
絶ゆ、

にかかり、延びる意の延(は)うの意で、

玉かづらはふ木あまたになりぬれば絶えぬ心のうれしげもなし(古今和歌集)、

と、「延ふ」と同音の、

這(は)ふ、

などにかかる(精選版日本国語大辞典)。

たまかづら、

は、

玉鬘、

と当てると、

根使主(ねのおむ)の着せる玉縵(たまカツラ)、大(はなは)た貴(けやか)にして最好(いとうるわ)し(日本書紀)、

と、

装身具、

の意で、蔓草を頭に巻いたところから、

多くの玉を緒に通し、頭にかけて垂れた髪飾り、

を言い(岩波古語辞典)、のちに、

御ぐしのめでたかりしはまたあらむやとて、とりに奉りたまへりければ、からもなくなりにし君がたまかつらかけもやするとおきつつもみむ(「斎宮女御集(985頃)」)、

と、

美しいかつら、またはかもじの美称、

や、

ありし昔の玉かづら色つくれる面影常にかはり(浮世草子「世間娘容気(1717)」)、

と、

女性の美しい髪のたとえ、

にいう(精選版日本国語大辞典)。

また、枕詞として、つる草の一つ、「ひかげのかずら」を「かずら」とも「かげ」ともいうところから、

人はよし思ひやむとも玉蘰(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも(万葉集)、

と、

「かげ」と同音、または同音を含む「影」「面影」にかかる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

「葛」(漢音カツ、呉音カチ)は、「葛の葉」で触れたように、

会意兼形声。「艸+音符曷(カツ 水分がない、かわく)」。茎がかわいてつる状をなし、切っても汁が出ない植物、

とある(漢字源)。「くず」の意である。また、

会意兼形声文字です(艸+曷)。「並び生えた草」の象形と「口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形」(「祈りの言葉を言って、幸福を求める、高く上げる」の意味)から、木などにからみついて高く伸びていく草「くず」、「草・木のつる」を意味する「葛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2110.htmlが、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%9B

形声。「艸」+音符「曷 /*KAT/」(仝上)、
形声。艸と、音符曷(カツ)とから成る(角川新字源)、

とする説がある。

「鬘」(慣用マン、漢音バン、呉音メン)は、

会意兼形声。「髟(かみの毛)+音符曼(かぶせてたらす)」、

とあり(漢字源)、「髪がふさふさと垂れさがるさま」「インドふうの、花を連ねて首や体を飾る飾り」(仝上)の意である。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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まだき


わが袖にまだき時雨のふりぬるは君が心にあきや來ぬらむ(古今和歌集)、
あかなくにまだきも月の隠るるか山の端(は)逃げて入れずもあらなむ(仝上)、

の、

まだき、

は、

まだその時期ではないのに、
はやくも、

の意(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。

まだき、

は、

夙、
豫、

と当て(広辞苑・大言海)、

ある時点を想定して、それに十分には達していない時期・時点、

を指し、

まだその時期にならないうち、
早くから、
もう、

の意味で使い(広辞苑・日本語源大辞典・岩波古語辞典)、

単独で、または「に」を伴って、

早くも、
早々と、

の意で副詞的に用いることが多い(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。

室町時代編纂のいろは引きの国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』には、

速、マダキ、

とある。この語源は、

マダ(未)・マダシ(未)と同根か(岩波古語辞典)、
「未(ま)だし」と関連ある語か(デジタル大辞泉)、
「まだし(未)」のク活用形を想定し、その連体形から転成した語(角川古語大辞典・精選版日本国語大辞典)、
マダキは、急ぐの意の、マダク(噪急)の連用形(大言海)、
イマダシキ(未如)の義(名言通)、
イマダハヤキの義(日本釈名)、

等々あるが、

朝まだき

という場合は、

夜明けを基点として、まだそこに至らないのに、既にうっすらと明けてきた、

という含意のように見受けられる。

朝+マダキ(まだその時期が来ないうちに)、

で(日本語源広辞典)、

未明を指す、

とあるので、極端に言うと、まだ日が昇ってこないうちに、早々と明るくなってきた、というニュアンスになる。

まだき、

と同根ともされる、

まだし

は、

未だし、

と当て、

まだその期に達しない、

意から、転じて、

なからまではあそばしたなるを末なんまだしきと宣(のたま)ふなる(蜻蛉日記)、

と、

まだ整わない、
まだ十分でない、

意で使い(広辞苑)、

琴・笛など習ふ、またさこそは、まだしきほどは、これがやうにいつしかとおぼゆらめ(枕草子)、

と、

未熟である、

意や(学研全訳古語辞典)、

この君はまだしきに、世の覚えいと過ぎて(源氏物語)、

と、

年齢などが十分でない、
幼い、

意となる(岩波古語辞典)。こうした用例から見ると、この由来は、

いまだし(未)の上略、待たしきの義(大言海)、
副詞まだ(未)の形容詞形(岩波古語辞典・角川古語辞典)、
副詞「いまだ」の形容詞化(デジタル大辞泉)、

などとあり、

未だ→まだ→まだし、

と転化した(日本語の語源)と見ていいのではないか。

「夙」(漢音シュク、呉音スク)は、「夙に」で触れたように、

会意。もと「月+両手で働くしるし」で、月の出る夜もいそいで夜なべすることを示す、

とあり(漢字源)、「夙昔(シュクセキ)」と「昔から」の意、「夙興夜寝、朝夕臨政」と、「朝早く」の意である(仝上)。別に、

会意文字です(月+丮)。「欠けた月」の象形(「欠けた月」の意味)と「人が両手で物を持つ」象形(「手に取る」の意味)から、月の残る、夜のまだ明けやらぬうちから仕事に手をつけるさまを表し、そこから、「早朝から慎み仕事をする」、「早朝」を意味する「夙」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2302.html

「豫(予)」(漢音・呉音ヨ)は、「予」は、

象形。まるい輪をずらせて向うへ押しやるさまを描いたもので、押しやる、伸ばす、のびやかなどの意を含む。杼(ジョ 横糸を押しやる織機の杼(ひ))の原字と考えてもよい。豫・預・野(ヤ 広く伸びた原や畑)・舒(ジョ 伸ばす)・抒(ジョ 伸ばす)などの音符となる。代名詞(予(われ))に当てたのは仮借である、

「豫」は、

会意兼形声。「象(ゾウ のんびりしたものの代表)+音符予(ヨ)」で、のんびりとゆとりをもつこと、

とある(漢字源)。別に、「予」は、

象形。機(はた)の横糸を通す杼(ひ)の形にかたどる。「杼(チヨ)」の原字。杼を横に押しやることから、ひいて「あたえる」意を表す。借りて、自称の代名詞に用いる、

「豫」は、

形声。意符象(ぞう)と、音符予(ヨ)とから成る。原義は、大きな象。借りて、まえもって準備する意に用いる、

とも(角川新字源)、

「予」は、

象形文字です。「機織りの横糸を自由に走らせ通すための道具」の象形から、「のびやか、ゆるやか」を意味する「予」という漢字が成り立ちました。また、「こちらから向こうへ糸をおしやる事から、「あたえる」の意味も表すようになりました、

「豫」は、

会意兼形声文字です(予+象)。「機織りの横糸を自由に走らせ通す為の道具」の象形(「伸びやか」の意味)と「(ゆっくり行動する動物)象」の象形から「伸びやかに・ゆっくりと楽しむ」、「あらかじめ」、「ゆとりをもって備える」を意味する「豫」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji546.htmlあり、いずれも、「予」と「豫」の由来を別とし、「予」が先行と見ている。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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葦鶴


住の江のまつほど久(ひさ)になりぬれば葦鶴(あしたづ)の音になかぬ日はなし(古今和歌集)、

の、

葦鶴、

は、

もともと葦の生えた水辺にいる鶴の意味だったが、古今集時代には、鶴の歌語。鶴も長寿の鳥として、しばしば松とともに詠まれた、

とあり、

松は、常緑であることによって、長い時間を連想させる、

とある。(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

葦鶴、

は、

葦の生えている水辺によくいるところ、

から、

鶴の異名、

だが(学研全訳古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

葦鶴の、

は、

鶴(つる)が鳴くように泣く、

の意から、

君に恋ひいたもすべ無み蘆鶴之(あしたづの)ねのみし泣かゆ朝夕(あさよひ)にして(万葉集)、
住江のまつほど久になりぬればあしたづのねになかぬ日はなし(古今和歌集)、

と、

ね泣く、

にかかる枕詞である(仝上)。

葦蟹、
葦鴨、

も、

同様に、

葦辺に居るに因りて、呼び馴れたる語なり、

とある(大言海)。

あしたづ、

の、

たづ、

は、

「万葉集」では「たづ」は「つる」に対する歌語として使われていたと考えられ、平安時代以降もそれは変らない。「あしたづ」の例も基本的には歌語と認められ、歌学書にも鶴の異名として登録される、

とある(日本語源大辞典)。

あし、

は、

葦、
蘆(芦)、
葭、

と当てる、

イネ科の多年草。水辺に群生し、根茎は地中を長くはい、茎は中空の円柱形で直立し、高さ二〜三メートルに達する。葉は長さ約五〇センチメートルの線形で縁がざらついており、互生する。秋、茎頂に多数の小花からなる穂をつける。穂は初め紫色で、のち褐色にかわる。若芽は食用となり、茎は葭簀(よしず)材や茅葺き屋根、製紙の原料になる。根茎は漢方で蘆根(ろこん)といい、煎汁(せんじゅう)は利尿、止血、解毒などのほか、嘔吐(おうと)をおさえるのにも用いられる、

とあり(精選版日本国語大辞典・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%97)、

安之(アシ)の葉に夕霧たちて鴨がねの寒きゆふへしな(汝)をばしのはむ(万葉集)、

と、

悪し、

と発音が同じため、後世、

ヨシ、

と言い換えられて定着し、学術的に用いられる和名もヨシとなっている(仝上)。

あし、

の由来は、

初めの意のハシの義。天地開闢の時、初めて出現した神の名をウマシアシカビヒコヂノ神といい、国土を葦原の国といった日本神話に基づく(日本釈名・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
水辺の浅い岸にはえる草であるところから、アサ(浅)の転語(和訓集説・碩鼠漫筆)、
アシ(脚)で立つことのできる垂井にるということでアシ(脚)の転(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、
アはアラの反、未だ田となっていない意のアラシ(荒)の転(名語記)、
アシ(編繁)の義から(日本語源=賀茂百樹)、
アシ(弥繁)の義(言元梯)、
アアト云フホドシゲルモノであるから(本朝辞源=宇田甘冥)、
ア+シ(及)、あとからあとから生えるものの意(日本語源広辞典)、

等々あるが、はっきりしない。ただ、

早く記紀など、日本神話で葦原の中つ国が日本の呼称として用いられたり、『万葉集』から数多く詠まれ、とくに難波(なにわ)の景物として知られていて(日本大百科全書)、語感ほどの悪いイメージはない。

「葦」(イ)は、

会意兼形声。「艸+音符韋(イ まるい、丸く取巻く)」。茎が丸い管状をなし親株を中心にまるくとりまいた形をして繁る草、

とある(漢字源)。また、

会意兼形声文字です(艸+韋)。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「ある場所を示す文字とステップの方向が違う足の象形」(ある場所から別方向に進むさまから、「そむく、群を抜いて優れている」の意味)から、穂が出て他の草とは違って飛びぬけて高い「あし(水辺に生じる多年草)」を意味する「葦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2236.htmlが、

形声。「艸」+音符「韋 /*WƏJ/」、

と、形声文字とする説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%A6

「蘆」(漢音ロ、呉音ル)は、

会意兼形声。「艸+音符盧(ロ うつろな、丸い穴があく)、

とある(漢字源)が、他は、

形声。艸と、音符盧(ロ)とから成る(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%98%86・角川新字源)、

形声文字です(艸+戸(盧))。「並び生えた草」の象形と「虎の頭の象形と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形と角ばった土の塊の象形と食物を盛る皿の象形」(「轆轤(ろくろ)を回して作った飯入れ」の意味だが、ここでは、「旅」に通じ(同じ読みを持つ「旅」と同じ意味を持つようになって)、「連なる」の意味)から、連なり生える草「あし」を意味する「芦」(「蘆」の略字)という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2680.html

と、形声文字としている。

「葭」(漢音カ、呉音ケ)は、

会意兼形声。「艸+音符叚(上からかぶさる)」

とある(漢字源)が、別に、

形声。「艸」+音符「叚 /*KA/」。「アシ」を意味する漢語{葭 /*kraa/}を表す字、

(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%AD)、形声文字とする説もある。

なお、「葦」と「葭」の違いは、

アシの生えはじめ(漢辞海)、
葦のまだ穂のを出していないもの(説文解字)、
葦の未だ秀でざる者(字源)、

を、

葭、

生長したものを、

葦、

という(漢辞海)とあり、

葦未秀者為蘆(大載禮)、

と、

葦の未だ秀でざるものを、

蘆、

という(字源)らしいので、

蘆、

葭、

の意味は重なる。しかし、

蘆花、

とはいうが、

葦花、

とは言わない。

「鶴」(漢音カク、呉音ガク)は、「鶴髪」で触れたように、

会意兼形声。隺(カク)は、鳥が高く飛ぶこと、鶴はそれを音符とし、鳥を加えた字。確(固くて白い石)と同系なので、むしろ白い鳥と解するのがよい、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。鳥と、隺(カク)(つる)とから成る(角川新字源)、

会意兼形声文字です(隺+鳥)。「横線1本、縦線2本で「はるか遠い」を意味する指事文字と尾の短いずんぐりした小鳥の象形」(「鳥が高く飛ぶ」の意味)と「鳥」の象形から、その声や飛び方が高くて天にまでも至る鳥「つる」を
意味する「鶴」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2168.html

などともある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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いとなし


あはれともうしともものを思ふときなどか涙のいとなかるらむ(古今和歌集)、

の、

いとなかる、

は、

暇(いと)なしの連体形「いとなかる」と「流る」の掛詞、

とし、

いと、

が、

「流る」を修飾するという説はとらない、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)のは、

いと、

を、

いと+流る、

と見て、

たいそう、
はなはだしく、

の意とする説があるhttps://blog.goo.ne.jp/s363738n/e/ecfc49311cb873a05694c55ce8440cf2からである。

いとなし、

は、

暇無し、

と当て、

一歳(ひととせ)に二度(ふたたび)も来(こ)ぬ春なればいとく今日は花をこそ見れ(後拾遺)、

と、

休むひまがない、
絶え間がない、
忙しい、

の意で、

(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ、

と、ク活用である(広辞苑・学研全訳古語辞典)。

いとなし、

の、

いと、

は、

暇(いとま)、

の意(精選版日本国語大辞典)で、状態表現の、

絶え間ない、

の意の外延から、

少しばかり、

という価値表現でも使うようだ(大言海)。

いとなし、

は、要するに、

暇(いとま)なし、

と同義になる(仝上)。

いとまなし、

は、

暇無し、

と当て、

ひさかたの月は照りたり伊刀麻奈久(イトマナク)海人(あまの)漁火(いざり)はともし合へり見ゆ(万葉集)、

と、

絶え間がない、
とぎれる時がない、
ひっきりなし、

という状態表現の意から、

いとまなしや。姫松もつるもならびてみゆるにはいつかはみかのあらんとすらんと書き給ふ(宇津保物語)、

と、価値表現へとシフトし、

落ち着く時がない、
気ぜわしい、
くつろげない、
いとまあらず、

の意、さらに、

家に貧しき老母有り、只我独(ひとり)して彼を養ふ。孝養するに暇无し(今昔物語集)、

と、

物事をなしとげるには必要な時間が足りない、
時間のゆとりがない、
余裕がない、

の意で使う(精選版日本国語大辞典)。

いとまなし、

の、

イトはイトナム(營)・イトナシ(暇無)のイトと同根。休みの時の意。マは間。時間についていうのが原義。類義語ヒマは割目・すき間の意から転じて、する仕事がないこと、

とあり(岩波古語辞典)、

いとなむ

は、

イトナ(暇無)シ、

に由来し、

形容詞イトナシ(暇無)の語幹に動詞を作る接尾語ムのついたもの。暇がないほど忙しくするのが原義。ハカ(量)からハカナシ・ハカナミが派生したのと同類、

とあり(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、

営む、

と、

「營」の字を当てるが、測るとかつくる、などという抽象的なことではなく、ただ、

忙しく仕事をする、
暇がないほど忙しい、

という状態表現にすぎなかったとみられる。

いとなし(暇無し)、

自体が、上述のように、

休む間がない、たえまない、

という意で、

ひぐらしの声もいとなく聞ゆる、

というようなたんなる状態表現であったことから由来している(「はか」については触れた)。

なお、「いとま」については触れたし、

「いとま」=時間、

と区別する、

「ひま」=空間、

の「ヒマ」についても触れた。

「暇」(漢音カ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。右側の叚(音カ)は「かぶせる物+=印(下にいた物)」の会意文字で、下に物を置いて、上にベールをかぶせるさま。暇はそれを音符とし、日を加えた字で、所要の日時の上にかぶせた余計な日時のこと、

とあり(漢字源)、また、

会意兼形声文字です(日+叚)。「太陽」の象形と「削りとられた崖の象形と未加工の玉の象形と両手の象形」(「岩石から取り出したばかりの未加工の玉」の意味)から、かくれた価値を持つひまな時間を意味し、そこから、「ひま」を意味する「暇」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1290.htmlが、

形声。「日」+音符「叚 /*KA/」。「空き時間」「隙間の時間」を意味する漢語{暇 /*graas/}を表す字、

(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9A%87

形声。日と、音符叚(カ)とから成る。「ひま」の意を表す、

も(角川新字源)、形声文字とする。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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われから


海人(あま)の刈る藻にすむ虫のわれからと音をこそなかめ世をばうらみじ(古今和歌集)、

の、

われから、

は、

海藻などに棲みつく小さな節足動物、

とあり、

我から、

を掛ける(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

沖つ波うつ寄するいほりしてゆくへさだめぬわれからぞこは(古今和歌集)、

の、

われから、

も、

虫の名の「割殻」と「我から」を掛けている(仝上)。

われから、

は、

割殻、
破殻、

と当て(広辞苑・デジタル大辞泉)、

軟甲綱端脚目ワレカラ科 Caprellidaeに属する種類の総称、

とあるが、

端脚(ヨコエビ)目ワレカラ亜目 Caprellidea、

を総称してワレカラと呼ぶこともある(ブリタニカ国際大百科事典・日本語源大辞典・広辞苑)。

500種以上知られており、全て海産、特に岩礁の海藻やコケムシ類・ヒドロムシ類などに付着して生活、定置網の間などにもいる、

とある(仝上)。

身体はきわめて細い円筒状で、シャクトリムシに似て、体長1〜4センチメートル前後。頭部と7胸節からなる。胸部は7節からなり、第3、4節を除く各節から細長い付属肢が一対ずつ伸びる。第2節のものははさみ状。前足は特に大きくカマキリに似る。頭部・腹部は小さく、胸部の後6節が著しく伸長。多くの種で第4・5節には胸部付属肢はない。身体を屈伸して運動する、

という(仝上・デジタル大辞泉)。ワレカラ科Caprellidaeに属するものを呼ぶことが多いとされ、ワレカラ科は日本からは約60種知られ、たとえば、

マルエラワレカラCaprella acutifrons、

は、体長1〜3cm。えらは円形。体色はすむ海藻などで異なる。浅海の海藻や定置網の漁網などに着き、ふつうに見られる。

クビナガワレカラC.aequilibra、

は、体長1cm内外。世界的に広く分布し、日本各地で見られる。

オオワレカラC.kroeyeri、

は、北方系で、ワレカラ中最大、体長6cmくらいになる。

ワレカラモドキProtella gracilis、

は、

浅海のヒドロ虫や海藻の間にすみ、体長2cmくらい(世界大百科事典)とある。

われから、

の和名は、

割れ殻、

の意で(岩波古語辞典)、

乾くにしたがいその体が割れるから、

という(広辞苑・デジタル大辞泉・日本語源大辞典)。

「殼(殻)」(漢音カク、呉音コク)は、

会意兼形声。「殳(動詞の記号)+音符壳(貝がらをひもでぶらさげたさま)」で、かたいからを、こつこつたたくこと、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(壳+殳)。「中が空になっている物」の象形と「手に木のつえを持つ」象形(「うつ・たたく」の意味)から、「たたいて実を取り出した、から」を意味する「殻」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1416.htmlが、

形声。「殳」+音符「𡉉 /*KOK/」。「たたく」「うつ」を意味する漢語{殼 /*khrook/}を表す字。のち仮借して「から」を意味する漢語{殼 /*khrook/}に用いるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AE%BC

形声。殳と、音符(カウ)→𡉉 (カク)(壳は変わった形)とから成る。上から下へ打ちおろす意を表す。借りて「から」の意に用いる(角川新字源)、

も、形声文字としている。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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しながどり


しなが鳥猪名(ゐな)野をゆけば有馬山ゆふ霧立ちぬ宿はなくして(新古今和歌集)、

の、

しなが鳥、

は、

猪名(ゐな)にかかる枕詞、

とあり、

猪名野、

は、

摂津國の枕詞、現在の兵庫県伊丹市を中心に、川西市・尼崎市にまたがる猪名川流域の地、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この原歌は、萬葉集の、

しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿りはなくて(一本に云ふ、猪名の浦廻(うらみ)を漕ぎ来れば)、

とある(仝上)。

しなが鳥、

は、

息長鳥、

と当て、

カイツブリの別名、

つまり、

にほどり

とも(広辞苑・大言海)、あるいは、

ひどりがも(緋鳥鴨)の異名、

とも(精選版日本国語大辞典)、また歌語としては、

イノシシの異名、

ともあり(日葡辞書)、枕詞としては、

雌雄が居並ぶからともいい、シリナガドリ(尻長鳥)の約と見て、それが「居る」の意からとも、また雌雄が率ゐる(相率いる)意からとも言い、

大海(おほうみ)にあらしな吹(ふ)きそしなが鳥(どり)猪名(ゐな)の港(みなと)に舟(ふね)泊(は)つるまで(万葉集)、

と、同音を持つ地名、

猪名(いな)、

に、また、水に潜って出てきたときの息をつぐ声から、

しなが鳥 安房(あは)に継ぎたる 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の ひろき吾妹(わぎも)(万葉集)、

と、

あは(安房)、

にかかる(仝上・デジタル大辞泉・岩波古語辞典)。

しながどり、

の、

し、

は、

息(いき)、

此の鳥、水底より浮び出て阿阿と息つきの長き意、

とあり(大言海)、

し(息)、

は、

複合語になった例だけ見える、

とあり、また、

しな(科長)戸の風の天の八重雲吹き放つ事の如く(祝詞・大祓詞)、

と、

風、

の意もある(岩波古語辞典)。

かいつぶり、

については、「にほどり」で触れたように、

鳰(にお)、
鸊鷉(へきてい)、
鸊鵜(へきてい)、
かいつむり、
いっちょうむぐり、
むぐっちょ、
はっちょうむぐり、
息長鳥(しながどり)、

等々とも呼び、室町時代、

カイツブリ、

と呼ぶようになる。

「息」(漢音ショク 呉音ソク)は、

会意文字。「自(はな)+心」で、心臓の動きにつれて、鼻からすうすうといきをすることを示す。狭い鼻孔をこすって、いきが出入りすること。すやすやと平静にいきづくことから、安息・生息の意となる。また、生息する意から、子孫をうむ→むすこの意ともなる、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%81%AF・角川新字源)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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伊勢の浜荻


神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらむ荒き浜辺に(読人しらず)

の、

伊勢の浜荻、

は、

蘆に同じとされる、

とあり(新古今和歌集)、

浜に生える荻とする説もある、

とある(仝上)。原歌は、萬葉集の、

碁檀越(ごだんおち)が伊勢の国に行ったときに、留守をしていた妻が作った歌(碁檀越徃伊勢國時留妻作歌一首)、

神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也将為荒濱邊尓(神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらむ荒き浜辺に)、

である(仝上)。

伊勢の浜荻、

は、

伊勢の国の浜地に生える荻、

の意だが、萬葉集に詠まれた、

伊勢の浜荻、

を、古くから、

アシと誤る俗説があり、

住吉社歌合の俊成の判詞にも、

伊勢島には浜荻と名付くれど、難波わたりには蘆とのみ言ひ、吾妻の方には葭(よし)といふなる、

とある(岩波古語辞典)。ために、

草の名も所によりて変るなり難波の蘆(あし)は伊勢の浜荻(菟玖波集)、
伊勢の浜荻名を変へて、葦(よし)といふも蘆(あし)といふも、同じ草なり(謡曲「歌占(1432頃)」)、

と、俗に、

蘆の異名、

として使っている(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。江戸後期の歌論書『歌袋』に、

御抄(八雲御抄 鎌倉初期の歌学書)、竝に童蒙抄(藤原範兼 平安末期)に、伊勢國にては蘆を濱荻と云ふなどと云へるは、誤りなり、

とある(大言海)。しかし、この誤解から、

風俗・習慣などは、土地によって違うことのたとえ、

として、

難波の葦は伊勢の浜荻、

という諺も生まれている(故事ことわざの辞典)。

荻(オギ)、

は、和名類聚抄(931〜38年)に、

荻、乎木(おぎ)、

とあり、

イネ科の多年草。各地の池辺、河岸などの湿地に群生して生える。稈(かん)は中空で、高さ一〜二・五メートルになり、ススキによく似ているが、長く縦横にはう地下茎のあることなどが異なる。葉は長さ四〇〜八〇センチメートル、幅一〜三センチメートルになり、ススキより幅広く、細長い線形で、下部は長いさやとなって稈を包む、秋、黄褐色の大きな花穂をつける、

とある(精選版日本国語大辞典)。

おぎよし、
ねざめぐさ(寝覚草)、
めざましぐさ(目覚し草)、
かぜききぐさ(風聞草)、
風持草、
文見草、

等々の異名がある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

ススキ、

によく似ているが、

オギは地下茎で広がるために株立ちにならない(ススキは束状に生えて株立ちになる)、

ため、

茎を1本ずつ立てる、

し、ススキと違い、

オギには芒(のぎ)がない、

うえ、

ススキが生えることのできる乾燥した場所には生育しないが、ヨシよりは乾燥した場所を好む。穂はススキよりも柔らかい、

という違いがあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AE

芒(のぎ)、

は、コメ、ムギなどイネ科の植物の小穂を構成する鱗片(穎)の先端にある棘状の突起のこと、

をいい、

のげ、
ぼう、
はしか、

とも言う。ススキのことを芒とも書くが、オギ(荻)には芒がないhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%92

をぎ(荻)、

の由来は、

霊魂を招き寄せるということから、ヲグ(招)の意(花の話=折口信夫)、
招草の意、風になびく形が似ているところから(古今要覧稿)、
風に吹かれてアフグところから、アフギの約(本朝辞源=宇田甘冥)、
オは大、キはノギ(芒)のある意(東雅)、
ヲキ(尾草)の義(言元梯)、
ヲギ(尾生)の義(名言通)、
ヲソクキ(遅黄)パムの略語(滑稽雑誌所引和訓義解)、

等々とある。

すすき(薄、芒)、

については、由来も含めて、「尾花」で触れたが、
「すすき」の語源説は、

ススは、スクスクと生立つ意、キは、木と同じく草の體を云ふ、ハギ(萩)、ヲギ(荻)と同趣。接尾語「キ」(草)は、芽萌(きざ)すのキにて、宿根より芽を生ずる義ならむ。萩に芽子(ガシ)の字を用ゐる。ヲギ(荻)、ハギ(萩)、
ヨモギ(艾)、フフキ(蕗)、アマキ(甘草)、ちょろぎ(草石蠶)、等々(大言海・日本語源広辞典)、
「スス」は「ササ(笹)」に通じ、「細い」意味の「ささ(細小)」もしくは「ささ(笹)」の変形、キは葉が峰刃のようで人を傷つけるから(東雅・語源由来辞典)、
スス(細かい・細い)+キ(草)、細かい草の意(日本語源広辞典)、
スは細い意で、それが叢生するところからススと重ねたもの、キは草をいう(箋注和名抄)、
ススキ(進草)の義(言元梯)、
スス(進)+クの名詞化、花穂がぬきんでて動く(すすく)意、つまり風にそよぐ草の意(日本語源広辞典)、
煤生の訓(関秘録)、
スはススケル意、キはキザスの略か(和句解)、
スクスククキ(直々茎)の義(名語記・日本語原学=林甕臣)、
茎に紅く血の付いたような部分があるところから、血ツキの轉(滑稽雑誌所引和訓義解)、
秋のスズシイときに花穂をつけるところから、スズシイの略(日本釈名)、
サヤサヤキ(清々生)の義(名言通)、
中空の筒状のツツクキ(筒茎)といい、ツの子交[ts]、茎[k(uk)i]の縮約の結果、ススキ(薄)になった(日本語の語源)、

等々多いが、理屈ばったもの、語呂合わせを棄てると、

すすき、

の、

すす、

は、

「ササ(笹)」に通じ、「細い」意味の「ささ(細小)」もしくは「ささ(笹)」の変形、

で、「き」は、

草、

と当てる接尾語、

ヲギ(荻)、ハギ(萩)、ヨモギ(艾)、フフキ(蕗)、アマキ(甘草)、

等々の「き」「ぎ」に使われているものと同じ、と見るのが妥当かもしれない。とみると、

をぎ(荻)、

の、

き、

も同様と考えれば、

を、

は、

おほ(大)の対の「を」(小)、
を(尾)、
を(緒)、

のいずれかだろう(岩波古語辞典)が、ま、

尾、

とするのが無難な気がする。

「荻」(漢音テキ、呉音ジャク)は、

会意兼形声。「艸+音符狄(低く刈りたおす、低くふせる)」、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(艸+狄)。「並び生えた草」の象形と「耳を立てた犬の象形と人の両脇に点を加えた文字(「脇、脇の下」の意味)」(「漢民族のわきに住む異民族(価値の低い民族)」の意味)から、稲と違って価値の低い草「おぎ」を意味する「荻」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2686.html

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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帚木(ははきぎ)


園原(そのはら)や伏屋(ふせや)に生(お)うる帚木(ははきぎ)のありとは見えて逢はぬ君かも(新古今和歌集)、

の、

帚木、

は、

遠くから森の中に帚のような梢が見えるが、近付くと森の他の木々にまぎれて見えなくなるという、伝説の木、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

園原や伏屋、

は、

信濃國の枕詞、

であり(仝上)、上記伝説の木は、

信濃国(長野県)園原、

にあるとされた(精選版日本国語大辞典)。

帚木、

は、

ははきぎ、

と訓ませるが、

はわきぎ、

と訓ませた時代もあり(仝上)、

ははきぎをまたすみがまにこりくべてたえしけぶりのそらにたつなは(「元良親王集(943頃)」)、

と、

ほうきぎ(箒木)、

つまり、

ホウキグサ(帚草)、

に同じ(大言海・仝上)とある。また、冒頭の歌のように、

信濃国(長野県)園原(そのはら)にあって、遠くからはほうきを立てたように見えるが近寄ると見えなくなるという伝説上の樹木、

の意でもあり、転じて、

情けがあるように見えて、実のないこと、
姿は見えるのに会えないこと、

また、

見え隠れすること、

等々のたとえとして使われる(仝上)。

また、語頭の二音が同じところから

大后の宮、天の下に三笠山と戴かれ給ひ、日の本には、ははきぎと立ち栄えおはしましてより(「栄花物語(1028〜92頃)」)、

と、

母の意にかけていう、

とある(仝上)。

ホウキギ、

については「玉箒(たまはばき)」で触れたように、

玉箒、

は、

玉箒刈り来(こ)鎌麻呂(かままろ)室(むろ)の樹と棗(なつめ)が本(もと)とかきは(掃)かむため(万葉集)、

と、

ゴウヤボウキ、
または、
ホウキグサ、

の古名であり、

ホウキグサ、

は、

ほうきぎ(箒木)、

といい、古名、

ハハキギ、

で、

アカザ科の一年草、中国原産。茎は直立して高さ約1メートルとなり、下部から著しく分枝し、枝は開出する。これで草箒(くさぼうき)をつくるのでホウキギの名がある。葉は互生し、倒披針(とうひしん)形または狭披針形で長さ2〜4.5センチメートル、幅3〜7センチメートル、基部はしだいに狭まり、3脈が目だち、両面に褐色の絹毛がある。雌雄同株。10〜11月、葉腋(ようえき)に淡緑色で無柄の花を1〜3個束生し、大きな円錐(えんすい)花序をつくる。花被(かひ)は扁球(へんきゅう)形の壺(つぼ)状で5裂し、裂片は三角形、果実期には、花被片の背部に各1個の水平な翼ができて星形となる。種子は扁平(へんぺい)な広卵形で、長さ1.5ミリメートル、

とある(日本大百科全書)。

なお、「ほうき」については触れた。

「帚」(慣用ソウ、漢音シュウ、呉音ス)は、「玉箒(たまはばき)」で触れたように、

象形、柄つきのほうきうを描いたもので、巾(ぬの)には関係がない。巾印は柄の部分が変形したもの。掃(ソウ はく)・婦(ほうきをもつ嫁)の字の右側に含まれる、

とある(漢字源)。「箒」(慣用ソウ、漢音シュウ、呉音ス)は、帚の異体字である。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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がに


泣く涙雨と降らなむ渡り川水まさりなば帰りくるがに(古今和歌集)、

の、

渡り川、

は、

三途の川(三つ瀬の川)、

を指し、

がに、

は、

命令や願望の表現をうけて、理由や目的を表す、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

がに、

は、

上代の終助詞「がね」から(大辞林)、
一説に「がね」の方言的転化という(広辞苑)、

などとあり、

おもしろき野をばな焼きそ古草に新草(にいくさ)まじり生ひは生ふる我爾(ガニ)(万葉集)、

と、

「がね」の上代東国方言、

であるらしい。平安時代には、都でも使われた(岩波古語辞典)とある。

動詞・助動詞の連体形に付き、願望・命令・禁止などを表す文と共に使われ、その理由・目的、

を表し、

…するだろうから、
…するように、

の意で使われる(広辞苑)。

がね、

は、

ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね(万葉集)、

と、動詞の連体形に付き、

願望・命令・意志などの表現を受けて、目的・理由、

を表し、

之根(ガネ)の義、云々せしむ、其れが根本と云ふ意より転じて、其れが為にの意となる、

とあり(大言海)、

…するように、
…するために、
…の料であるから、

の意で使われる(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)。

将来に対する判断・意志決定の根拠を示す、

とあり(岩波古語辞典)、

梅の花我は散らじあをによし奈良なる人の来つつみるがね(万葉集)、

と、

二つの文があって、はじめの文の終わりに表明された意志・命令の、理由・目的を示すために、後の文の文末に置かれる、

とある(岩波古語辞典)。中古以降の、

がに、

は、この上代の「がね」を母胎として、ほぼその意味・用法を継承しているが、それはさらに、

ゆふぐれのまがきは山と見えななむ夜はこえじと宿りとるべく(古今和歌集)、

のような同様の表現効果を持つ、「べし」の連用止めの用法にとって代わられるようになり、中世以降は擬古的な用例に限られる(精選版日本国語大辞典)とある。

なお、

がに、

には、いまひとつ、

之似(ガニ)の義、何々に似るばかりに、

の意とする(大言海)、連体形接続の、

がに、

とは意味・用法が異なる、

わが屋戸(ヤド)の夕影草の白露の消(ケ)ぬがにもとな思ほゆるかも(万葉集)、
秋田苅る借廬もいまだ壊(コホ)たねば雁が音寒し霜も置きぬがに(万葉集)、

と使われる、

終止形接続の助詞、

があり、

自然に推移する意の自動詞や、自然にそうなってしまう意の助動詞「ぬ」、

を承けることが多く、

ぬがに、

の形をとる(広辞苑・デジタル大辞泉・岩波古語辞典)。

疑問の助詞「か」と格助詞「に」との結合、

とされ(岩波古語辞典・仝上)、下の動作の程度を様態的に述べるのに用いられる。

…せんばかりに、
…するかのように、
…しそうに、

等々の意で使われる(仝上)。

がね、

が、

中古以降は、終止形接続の副助詞「がに」を吸収する形で連体形接続の「がに」に変化する、

とある(精選版日本国語大辞典)が、中古以降の「がに」は、上代の「がね」の語義・用法をほぼそのまま受け継いでいる(仝上)ともある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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はつか


跡をだに草のはつかに見てしかな結ぶばかりのほどならずとも(新古今和歌集)、

の、

はつか、

は、

僅か、

と当て、

わずか、
いささか、

の意とある(広辞苑)。

はつか、

の、

はつ、

は、

ハツ(初)と同根(岩波古語辞典)、
「はつはつ」と同語源で、「か」は接尾語(精選版日本国語大辞典)、

とあるが、

はつはつ、

は、

ハツ(初)と同根、

とあり(岩波古語辞典)、同じことを言っているようである。

はつはつ、

は、

波都波都(ハツハツ)に人を相見ていかにあらむいづれの日にかまたよそに見む(万葉集)、

と、

あることが、かすかに現われるさま、
ちょっと行なわれるさま、

の意で、副詞的にも用い、

ほんのちらっと、

の意で、

はつか、

と同義(精選版日本国語大辞典)とある。

はつか、

は、

春日野の雪間をわけて生ひいでくる草のはつかに見えし君はも(古今和歌集)、

と、

物事のはじめの部分がちらりと現われるさま、
瞬間的なさま、
かすか、
ほのか、

の意で、特に、

視覚や聴覚に感じられる度合の少ないさまを表わす、

とある(仝上・岩波古語辞典)。それが、時間的な表現にシフトして、

今宵の遊びは長くはあらで、はつかなるほどにと思ひつるを(源氏物語)、

と、少しの時間であるさまの、

しばらくの間、
ちょっと、

の意で使い(仝上)、その、

少し、

を、

わずか(僅か)、

と混同して、量的にシフトさせ、

其勢はつかに十七騎(平家物語)、

と、分量の少ないさまの、

ほんの少し、
わずか、

の意で用いるに至る(仝上)。

ハツ、

は、事物の周縁部を意味する語ハタ(端)と母音交替の関係にあるものか。上代にはハツカの例は見出せないが、ハツカと共通の形態素を持ち、意味的にも関連性が認められるハツハツが視覚に関して使用されることが多いという傾向が認められるので、ハツカの原義は、物事の末端を視覚的にとらえたさまを表わすところにあったと推測される。この点で、物事の分量的な少なさを表わすワヅカとの意味上の差異は明確であるが、後世には両語を混同して用いることも多くなる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「僅」(漢音キン、呉音ゴン)は、

会意兼形声。堇(キン)は、火の上で動物の皮革をかわかすさまを示す会意文字。もと乾(カン)・艱(カン ひでり)と同系で、かわいて水分がとぼしくなることから、ほとんどないの意に転じ、わずかの意となる。僅はそれを音符とし、人をそえた字で、ほとんどない、わずかの意を含む、

とある(漢字源)が、

形声。「人」+音符「堇 /*KƏN/」。「わずか」を意味する漢語{僅 /*ɡrəns/}を表す字、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%83%85

形声。人と、音符堇(キン)とから成る。才能がおとっている意を表す。転じて「わずか」の意に用いる、

も(角川新字源)、

形声文字です(人+菫)。「横から見た人」の象形と「腰に玉を帯びた人の象形(「黄色」の意味)と土地の神を祭る為に、柱状に固めた土の象形」(「黄色のねば土」の意味だが、ここでは、「斤(キン)・巾(キン)」に通じ、「小さい」の意味)から、才能の劣る人の意味を表し、そこから、「わずか」、「少し」を意味する「僅」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji2094.html、形声文字とする。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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空おぼれ


さみだれは空おぼれするほととぎす時に鳴く音は人も咎めず(新古今和歌集)、

の、

空おぼれ、

は、

空とぼけること、

とあり、

さみだれの縁語、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

空おぼれ、

は、

物などいふ若きおもとの侍を、そらおぼれしてなむかくれまかりありく(源氏物語)、

と、

わざととぼけたさまをよそおうこと、

つまり、

空とぼけ、

の意である(広辞苑)。なお、「とぼける」については触れた。また、

御心のやうにつれなく、そらおぼめきしたるは、世にあらじな(源氏物語)、

と、

そらおぼめき、

というのも同義とある(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)が、

虚(そら)に、おぼめくこと、
知らぬ顔をすること、

とある(大言海)ので、微妙に意味がずれるようだ。

おぼめく、

は、

朧(おぼ)めく意か(大言海)、
オボはオボロ(朧)のオボと同根。メクは、春メク・秋メクのメクと同じで、それらしい様子を表す(岩波古語辞典)、

などとあり、

ぼんやりした、はっきりしない状態、動作、

を表わす(精選版日本国語大辞典)。で、

ゆめのごとおぼめかれゆく世の中に何時(いつ)訪はむとかおとづれもせぬ(後拾遺)、

と、

はっきりしない、
たしかでない、
ぼんやりする、

意で(広辞苑・大言海)、主体の気持に転じて、

いかなることかあらむとおぼめく(源氏物語)、

と、

気がかりに思う、
不審に思う、

意や、

いかに聞こしめしたるにか、おぼめかせ給ふにも(かげろふ日記)、

と、

ほのめかす、
ぼんやりあらわす、

意でも使い(岩波古語辞典)、そこからさらに、

わかやかなるけしきどもして、おぼめくなるべし、ほととぎす言問ふ声はそれなれどあなおぼつかなさみだれの空(源氏物語)、

と、

知っていながらよくわからないようなふりをする、
そらとぼける、

意でも使う(岩波古語辞典・広辞苑)ので、

そらおぼめき、

は、

そら、

で、その「ことさら」ぶりを強調している感じになる。

空がらくる

で触れたように、

空(そら)、

は、

天と地との間の空漠とした広がり、空間、

の意だが(岩波古語辞典)、

アマ・アメ(天)が天界を指し、神々の国という意味を込めていたのに対し、何にも属さず、何ものもうちに含まない部分の意、転じて、虚脱した感情、さらに転じて、実意のない、あてにならぬ、いつわりの意、

とあり(仝上)、

虚、

とも当てる(大言海)。で、由来については、

反りて見る義、内に対して外か、「ら」は添えたる辞(大言海・俚言集覧・名言通・和句解)、
上空が穹窿状をなして反っていることから(広辞苑)、
梵語に、修羅(スラ Sura)、訳して、非天、旧訳、阿修羅、新訳、阿蘇羅(大言海・日本声母伝・嘉良喜随筆)、
ソトの延長であるところから、ソトのトをラに変えて名とした(国語の語根とその分類=大島正健)、
ソラ(虚)の義(言元梯)、
間隙の意のスの転ソに、語尾ラをつけたもの(神代史の新研究=白鳥庫吉)、

等々諸説あるが、どうも、意味の転化をみると、

ソラ(虚)

ではないかという気がする。それを接頭語にした「そら」は、

空おそろしい、
空だのみ、
空耳、
空似、
空言(そらごと)、
空惚け(そらぼけ・とらとぼけ・そらぼれ)、
空おぼれ、
空腕、
空心、
空言、

等々、いずれも、

何となく、
〜しても効果のない、
偽りの、
真実の関係のない、
かいのないこと、
根拠のないこと、
あてにならないこと、
徒なること、

などと言った意味で使う(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)。

なお、

空おぼれ、

には、

空とぼけ、

の意の他に、それが常態と見なして、後世、

人違(ひとたがへ)なりけるかと、なみならず驚くものから、惘然(ソラオボレ)して立在(たたずむ)折から(読本「手摺昔木偶(1813)」)、

と、

気ぬけすること、
あっけにとられること、

の意でも使う例がある(精選版日本国語大辞典)。こうみてくると、

空おぼれ、

の、

おぼれ、

は、

空おぼめき、

の、

おぼ、

と同じで、

おぼろ(朧)、

の、

おぼ、

ではないかと思われる。

おぼろ、

の、

おぼ、

は、

オボホレ(溺)・オボメクのオボと同根。ロは状態を示す接尾語、

とある(岩波古語辞典)、

ぼんやりしているさま、
はっきりしないさま、

の、

おぼ、

である(仝上)。

「空」(漢音コウ、呉音クウ)は、「空がらくる」で触れたように、

会意兼形声。工は、尽きぬく意を含む。「穴+音符工(コウ・クウ)」で、突き抜けて穴があき、中に何もないことを示す、

とある(漢字源)。転じて、「そら」の意を表す(角川新字源)。別に、

会意兼形声文字です(穴+工)。「穴ぐら」の象形(「穴」の意味)と「のみ・さしがね」の象形(「のみなどの工具で貫く」の意味)から「貫いた穴」を意味し、そこから、「むなしい」、「そら」を意味する「空」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji99.html

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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諒闇


水のおもにしづく花の色さやかにも君が御影の思ほゆるかな(新古今和歌集)、

の、

詞書に、

諒闇の年、池のほとりの花を見てよめる、

とある、

諒闇、

は、

天皇が父母の喪に服すこと、または、天皇の崩御による国全体の喪、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。なお、歌の、

しづく、

は、

沈く、

と当て、

水の底に沈み着くこと、

とある(岩波古語辞典)。

諒闇、

は、

ロウアン、
リョウアン、

と訓ませ(漢音リョウ、呉音ロウ)、

高宗諒闇三年不言、善之也(禮記・喪服篇)
高宗諒陰三年不言、何謂也(論語・憲問篇)、
諒闇既終(後漢書)、

等々、

諒陰、

ともいい、

亮闇、
亮陰、
涼陰、
梁闇、

等々とも当て(大言海・漢辞海)、

天子喪に在るの室、又、其の喪に在る閧フ稱、

とあり(字源)、

天子が父母の藻に服したまふ期閨A

をいい(大言海)、

諒は信、闇は黙の義(字源・大言海)、
「諒」はまこと、「闇」は謹慎の意、「陰」はもだすと訓じ、沈黙を守る意(デジタル大辞泉)、
まことに暗しの意(広辞苑)、
「諒」はまこと、「闇」は謹慎の意、「陰」は「もだす」と訓じ、沈黙を守る意。一説に、「梁闇」の二字と同じで、むねとする木に草をかけたもので、喪中に住む小屋の意(精選版日本国語大辞典)、

などとあり、

物言わざること、謹慎の意、

である(大言海)。

中国に倣い、日本でも、

以諒闇(みおもひ)之際、盛福自由(綏靖即位前紀)、

と、

みおもひ、
みおものおもひ、
みあがりのほど、

などと呼び(大言海)、

倚盧(いろ 諒闇の期間天子が籠る仮の屋)にますこと十三日、心喪に服せらるるは一年、又、天子の御忌中、上下四民(士農工商)も心喪に服するものなり、

とある(仝上)。

諒闇、

の以上の由来から、転じて、

大神、岩戸を閉ぢさせ給て、世海、国土、常闇となて、りゃうあんなりしに、思はずに明白となる切心は(「拾玉得花(1428)」)、

と、

ひじょうに暗い、

意で使ったりする(精選版日本国語大辞典)。

「諒」(漢音リョウ、呉音ロウ)は、

会意兼形声。「言+音符京(キョウ・リョウ=亮 あきらか)」。明らかに物を言う、転じてはっきりわかること、

とある(漢字源)。「亮」と同義で、「まこと」「偽りのない真実」「明白なこと」の意、「諒(=了)承」「諒(=了)解」と、是認する意、転じてあっさり認めること意である(仝上)。

しかし、

形声。「言」+音符「京 /*RANG/」https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AB%92

形声。言と、音符京(ケイ、キヤウ)→(リヤウ)とから成る。相手の意を思いはかる、転じて「まこと」の意を表す(角川新字源)、

形声文字です(言+京)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつし(慎・謹)んで)言う」の意味)と「高い丘の上に建つ家の象形」(「都(みやこ)」の意味だが、ここでは「量(リョウ)」に通じ(「量」と同じ意味を持つようになって)、「量(はか)る」の意味)から「相手の気持ちを量る」、「思いやる」、「まこと」を意味する「諒」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2740.html

と、他はいずれも、形声文字としている。

「闇」(漢音アン、呉音オン)は、

会意兼形声。「門+音符音(オン・アン 口をとじて声だけ出す。ふさぐ)」で、入口を閉じて、中を暗くふさぐこと。暗とまったく同じ言葉、

とあり(漢字源)、「門を閉める」意から、「闇夜(=暗夜)」と、「暗い」意である。しかし、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%97%87

形声。「門」+音符「音 /*ɁUM/」。「門をとじる」を意味する漢語{闇 /*ʔuums/}を表す字。のち仮借して「やみ」を意味する漢語{闇 /*ʔuums/}に用いる、

も(仝上)、

形声。門と、音符音(イム)→(アム)とから成る。門を「とじる」意を表す。転じて「くらい」意に用いる、

も(角川新字源)、

形声文字です(門+音)。「左右両開きになる戸」の象形(「門」の意味)と「取っ手のある刃物の象形と口に一点加えた文字」(「音」の意味だが、ここでは、「暗」に通じ(「暗」と同じ意味を持つようになって)、「暗い」の意味)から、「門を閉じて暗くする」、「暗い」、「光がない」を意味する「闇」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji2193.html、いずれも、形声文字とする。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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うちつけに


うちつけにさびしくもあるかもみぢ葉も主(ぬし)なき宿は色なかりけり(古今和歌集)、

の、

うちつけに、

は、

急に、

の意とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

うちつけ、

は、

打付け、

と当て、

吹く風になびく尾花をうちつけに招く袖かとたのみけるかな(貫之集)、

と、

副詞として、

うちつけに、

と、

突然に、
だしぬけに、
卒爾に、
端的に、
さしあてて、

といった意味(大言海・広辞苑)の状態表現から、価値表現に転じて、

さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にて(源氏物語)、

と、

遠慮のないさま、
露骨、
むき出し、

といった意味(広辞苑)でも使う。

うちつけ、

の、

うち、

は、

打ち

で触れたように、接頭語として、動詞に冠して、

打ち興ずる、
打ち続く、

のように、

その意を強め、またはその音調を整える、

ほかに、

打ち見る、

のように、

瞬間的な動作であることを示す、

使い方をする(広辞苑)。

うちつけ、

は、後者になるが、

平安時代ごろまでは、打つ動作が勢いよく、瞬間的であるという意味が生きていて、副詞的に、さっと、はっと、ぱっと、ちょっと、ふと、何心なく、ぱったり、軽く、少しなどの意を添える場合が多い。しかし和歌の中の言葉では、単に語調を整えるためだけに使ったものもあり、中世以降は単に形式的な接頭語になってしまったものが少なくない、

とあり(岩波古語辞典)、

さっと(打ちいそぎ、打ちふき、打ちおほい、打ち霧らしなど)、
はっと、ふと(打ちおどろきなど)、
ぱっと(打ち赤み、打ち成しなど)、
ちょっと(打ち見、打ち聞き、打ちささやきなど)、
何心なく(打ち遊び、打ち有りなど)、
ぱったり(打ち絶えなど)、

といった意味でつかわれる。これが訛ると、

uti→buti→bunn、

と、

ぶつ、
ぶち、
ぶん、

となることもあり、

うちつけ、

も、

ぶっつけ、

と訛る。

下二段(自動詞下一段、他動詞下二段)の動詞、

打ち付く、

は、

打ち着く、

とも当て、文字通り、

天雲に羽うちつけて飛ぶ鶴(たづ)のたづたづしかも君しまさねば(万葉集)、

と、

打ち当てる、

意だが、

形容動詞なり活用(精選版日本国語大辞典)、

とも、

名詞(岩波古語辞典)、

ともあり、副詞としては、

うちつけに、

と使い、

うちつけの、
うちつけながら、
うちつけなる、

等々とも使う、

うちつけ、

は、

物をぱっと打ち付けるように瞬間的で、深い理由・考えもないさま、

という含意で、時間的な意味にシフトさせて、たとえば、

男、うちつけながら、いとたつ事をもがりければ(大和物語)、

と、

突然、唐突、だしぬけ、

の意や、

うちつけなるさまにやと、あいなくとどめ侍りて(源氏物語)、

と、

突然で失礼なさま、卒爾(そつじ)、ぶしつけ、

の意、

郭公(ほととぎす)人松山になくなれば我うちつけにこひまさりけり(古今和歌集)、

と、

ふとしたきっかけで、どうしようもなく、にわかに心の進むさま、

の意や、

さればうちつけに海は鏡のおもてのごとなりぬれば(土佐日記)、

と、

即座、てきめん、現金なさま、

の意、

うちつけにまどふ心ときくからに慰めやすくおもほゆるかな(大和物語)、

と、

軽率なさま、

うちつけに濃しとや花の色を見ん置く白露のそむる許(ばかり)を(古今和歌集)、

と、

ちょっと見、

の意と、心理的な唐突感へとシフトしていき、前述の、

うちつけのすきずきしさなどは、このましからぬ御本性にて(源氏物語)、

と、

むきだし、露骨、無遠慮、

と、価値表現へとシフトしていく(精選版日本国語大辞典)。さらには、後世には、

こりゃ、おまつどのには打ちつけぢゃわいの(歌舞伎「梅柳若葉加賀染(1819)」)、

ぴったりなさま、
よく似合うさま、

の意でも使うが、これは、後述の、

うちつけ、

の転訛、

打ってつけ、

で、今日も使う(仝上)。

うちつけ、

が、なまると、前述したように、

ぶっつけ(打付)、

となるが、これは、

ぶつける、

意から、

ぶっつけ本番、

のように、

いきなり、

の意や、

ぶっつけに物を言う、

と、

遠慮なし、

の意、

ぶっつけから失敗、

と、

最初、初め、

の意で使うのは、現代でもあるし、これがさらに、前述のように、

うってつけ(打付)、

となると、

「うつ(打)」の原義の、強く物事にあてる、釘で打ち付けたようにぴったり合う、

の意から、

もってこい、
あつらえむき、

の意になる(精選版日本国語大辞典)。

「打」(唐音ダ、漢音テイ、呉音チョウ)は、

会意兼形声。丁は、もと釘の頭を示す□印であった。直角にうちつける意を含む。打は「手+音符丁」で、とんとうつ動作を表す、

とある(漢字源)が、

形声。「手」+音符「丁 /*TENG/」。「うつ」を意味する漢語{打 /*teengʔ/}を表す字、

(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%93)

形声。手と、音符丁(テイ)→(タ)とから成る。手で強く「うつ」意を表す、

も(角川新字源)、形声文字とする。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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常陸帯


東路の道のはてなる常陸帯(ひたちおび)のかことばかりも逢はむとぞ思ふ(新古今和歌集)、

の、

常陸帯、

は、

常陸國鹿島神宮の祭礼で、男女の縁結びの占(うら)に用いられる帯、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

かこと、

は、

帯を締めて留める金具の「かこ」と、申し訳・口実の「かこと」の掛詞、

である(仝上)。

常陸帯、

は、

鹿島の帯、

とも、

帯占(おびうら)、

ともいうが(広辞苑・デジタル大辞泉)、

なぞもかく別れそめけん常陸なるかしまのおびの恨めしの世や(「散木奇歌集(1128頃)」)、

などとあり、

常陸國鹿島神社で、正月十四日の祭礼の日に、布帯に男女おのおのその意中の者の名を書いたものを神前に供え、禰宜がこれを結んで縁を定めた帯占、その結び方によって男女の縁のよしあしを占った、

もので(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、後世、

肥立帯の意にかけて、鹿島神宮から常陸帯の安産の守を授けるに至った、

とある(仝上)。

この由来は、

神功皇后(じんぐうこうごう 第十四代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后)が お腹に子を宿しながら、急逝された天皇に代わって三韓征伐(さんかんせいばつ)に行かれるとき、鹿島大神のご加護を願って腹帯を付けられました。凱旋帰国後、無事に応神天皇(おうじんてんのう 全国の八幡神社の主祭神)をお産みになり、その腹帯を常陸の国の鹿島神宮に進納されたと伝わっています、

とありhttp://www.kashimajinja.or.jp/yurai/、この腹帯が、

常陸帯(ひたちおび)、

と呼ばれるもので、現在も殿外不出の神宝として本殿に祀られ鹿島神宮の安産信仰の拠り所となっている(仝上)、とある。で、今日、安産祈願のお守りとなっている。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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久米路の橋


いかにせむ久米路(くめぢ)の橋の中空に渡しもはてぬ身とやなりなむ(新古今和歌集)、

の、

久米路の橋、

は、

葛城の久米の岩橋、
久米の岩橋、

ともいい、

葛城山の東、高市郡に、久米郷、久米川あり、

とあり(大言海)、

大和国の歌枕、

で、

役(えん)の行者が葛城山の一言主神(ひとことぬしのかみ)に命じて、葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に架けさせようとしたが、醜貎を恥じた神が夜しか働かなかったので完成しなかったという伝説の橋、

である(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。後撰集にある、

葛城や久米路の橋にあらばこそ思ふ心を中空にせめ(読人しらず)、

も似た発想であるが、架橋の工事が中断したという伝説から、多く、

男女の仲の成就しないたとえ、

として使われる(岩波古語辞典)。

葛城山、

は、

大和葛城山(やまとかつらぎさん)、

といい、

奈良県西部の御所(ごぜ)市と大阪府南河内郡千早赤阪村の境にある山。ただしその南の金峰山のことともいう、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%91%9B%E5%9F%8E%E5%B1%B1)、大和の枕詞である。

金峰山(きんぷせん)、

は、

奈良県の大峰山脈のうち吉野山から山上ヶ岳までの連峰の総称である。金峯山とも表記し、「金の御岳(かねのみたけ)」とも呼ばれ、吉野山の金峯山寺は修験道の中心地の一つであり、現在は金峯山修験本宗の総本山である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B3%B0%E5%B1%B1

一言主神、

に当てられているが、

かづらきの神

のことで、

かづらきの神、

は、

葛城の神、

後世、

かつらぎの神、

とも訓ませ、

奈良県葛城山(かつらぎさん)の山神、

で、

一言主神(ひとことぬしのかみ)、

とされ(精選版日本国語大辞典)、昔、

役行者(えんのぎょうじゃ)の命で葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋をかけようとした一言主神が、容貌の醜いのを恥じて、夜間だけ仕事をしたため、完成しなかったという伝説から、恋愛や物事が成就しないことのたとえや、醜い顔を恥じたり、昼間や明るい所を恥じたりするたとえなどにも用いられる、

とある(仝上)。この橋を、

かづらきや渡しもはてぬものゆゑにくめの岩ばし苔おひにけり(「千載和歌集(1187)」)、

と、

久米岩橋(くめのいわばし)、

という。橋が完成しないのに怒った行者は葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)を召し捕らえ、見せしめに呪術で葛で縛って、谷底に捨て置いた、との伝説がある。これを基にしたのが、能の、

葛城(かず(づ)らき)、

であるhttps://noh-oshima.com/tebiki/tebiki-kazuraki.html。因みに、「役の行者」とは、7世紀後半の山岳修行者で、本名は、

役小角(えんのおづぬ)、
あるいは、
役優婆塞(えんのうばそく)、

ともいい、

修験道(しゅげんどう)の開祖、

で、『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇三年(699)5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在した人物で、

大和国(奈良県)葛上(かつじょう)郡茅原(ちはら)郷に生まれ、葛城山(かつらぎさん 金剛山)に入り、山岳修行しながら葛城鴨(かも)神社に奉仕し、陰陽道(おんみょうどう)神仙術と密教を日本固有の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立した、

とされる(日本大百科全書)。吉野金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流されることになる。この経緯が、

葛城山神の使役、

呪縛(じゅばく)、

として伝えられたものとみなされる(仝上)。

一言主神、

は、

大和葛城の鴨氏の祭神、

である。延喜式神名帳には、

葛城坐一言主神社、

とあり、

吉凶を一言で託宣する神、

とされる(日本伝奇伝説大辞典)。初出は、古事記・雄略天皇条に、天皇が葛城山に巡幸された折、向こうの山の尾根から天皇や従者と似た服装の人々が登るのに出会い、天皇が、服装の無礼を責めると、対等の態度をとり、尊大なので、

その名告(の)れ、ここにおのおの名を告りて放たん、

と、告られると、

吾先に問はえき、故、吾先に名告をせむ。吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり、

と申し、天皇は恐れ畏み、

恐(かしこ)し、我が大神、うつしおみあらんとは覚らざりき、

と言い、太刀や弓矢、衣服を献上して和がなり、一言主神は馳せの山口まで還幸を見送った、とされる。こうした伝承について、

名を告ることは古代信仰観上服属を意味する、

として、

葛城氏と雄略天皇とが対立し、葛城氏が敗北した経緯を語るもの、とする説がある(仝上)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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曹司


君が植ゑし一(ひと)むらすすき蟲の音のしげき野辺ともなりにけるかな(古今和歌集)、

の詞書に、

藤原利基朝臣の右近中将にてすみはべりける曹司(ざうし)の、身まかりてのち、人も住まずなりけるに、……、

とある、

曹司(ざうし)、

は、

そうじ、

とも訓ませ、

与えられた部屋、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

貴人の子弟は、独立するまで邸の中に部屋を与えられる。ここはどこの邸ともわからない、

とある(仝上)。そこから、

部屋住み、

の意で、

曹司住み、

という言い方があり、

曹司住み、

を略して、

曹司、

も、

部屋住みの公達、

の意で使われる(広辞苑)。ただ、

曹司、

は、奈良・平安時代、

神祇官曹司災(続日本紀)、

とあるように、

官司内に設けられた、執務のための正庁。また、執務のための部屋、

を言い、

先参朝堂、後赴曹司(弾正臺式)、

とある。転じて、

もとよりさぶらひ給ふ更衣のざうしを、ほかにうつさせ給ひて(源氏物語)、

と、

宮中または官司などに設けられた、上級官人や女官などの部屋、

をいい、

つぼね、

ともいう。『伊勢物語』で、

思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ
といひて、曹司におり給へれば、例の、この御(み)曹司には、人の見るをも知でのぼりゐければ、この女思ひわびて里へゆく、

とある、

曹司、

は、

女の局、

を意味し(石田穣二訳注『伊勢物語』)、さらに、

殿の内に年比曹司して候ひつる人々(栄花物語)、

と、

宮中や貴族の邸内に部屋をもらって仕えること。また、その人、

をいい、

ここから転じて、

独立していない公達(きんだち)が、親の邸内に与えられた部屋、

の意になったと思われる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

曹司住み、

は、

本来は、

此五位は、殿の内に曹司住にて有ければ(今昔物語集)、

とあるのように、

つぼねにさがって休息していること、

の意味である(仝上)。なお、

江家先祖音人卿、預判文章博士菅原是善卿、皆是、東西曹司之祖宗、試場評定之亀鏡也(「本朝文粋(1060頃)」)、

とある、

曹司、

は、平安時代の大学寮文章院の、

東曹・西曹、

をいい、

文章生の寄宿舎のごときものをいう(世界大百科事典)、

とも、

大学寮の教室の称。区画して東西にありて、東曹、西曹の称あり、菅原氏、大江氏の二家、分れて教へたり、大学の南隣なる勧学院を、南曹と称しき(大言海・精選版日本国語大辞典)、

ともあるが、いずれも、部屋を指している。原義に近い使い方と言える。

「曹」(漢音ソウ、呉音ゾウ)は、

会意文字。「東(ひがしではなく、袋の形)二つ+口、または日」で、袋を並べて同じものが並んだことを示す。口印は、裁判の際、口で論議することを表す。法廷で取り調べをする、何人も居並ぶ属官のこと。高級でない多くの仲間を意味する(漢字源)。「獄曹」「軍曹」等々「下級の役人」の意、「我曹」「汝曹」と「ともがら」の意、「局」と同義の「つぼね」の意等々とある(仝上)。

゙、𣍘、

は異字体、

𣍘、

は、

「曹」の古字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9B%B9。別に、

会意。「東」を二つ並べたもの+羨符「口(金文では甘、楷書では曰に変化)。{曹 /*dzuu/}を表す字で、「一対」「組」「ともがら」を意味する、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9B%B9

会意文字です(東+東+口)。「袋の両端をくくった」象形(「裁判で原告と被告がそれぞれ誓いを示す矢などの入った袋を持って向き合う」意味)と「口」の象形(「裁判官」の意味)から、「つかさ(裁判官、役人)」を意味する「曹」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1983.htmlあるが、

会意形声。曰と、㯥(サウ)(法廷で、東に位置する原告・被告。は省略形)とから成る。原告・被告の意から、「ともがら」の意を表す、

と(角川新字源)、会意兼形声とする説もある。『字通』には、

会意。正字は𣍘に作り、㯥+曰(えつ)。東は橐(たく)の初文。㯥は「説文」に「闕」として、その声義を欠く字であるが、𣍘の字形によっていえば、裁判の当事者がそれぞれ提供するものを橐(ふくろ)に入れて並べる形。「周礼」秋官、大司寇によると、束矢鈞金を出す定めであった。曰は盟誓を収める器で、自己詛盟をして獄訟が開始される。これを両造という。「大司寇」に「兩造を以て民の訟を禁ず。束矢を朝に入れしめて、然る後に之れを聽く。兩劑(りやうざい 契約・盟誓)を以て民の獄を禁ず。鈞金を入れしめて、三日にして乃ち朝に致し、然る後に之れを聽く」と規定している。「説文」に「獄の兩曹なり。廷の東に在り。㯥に從ふ。事を治むる者なり。曰に從ふ」とするが、「説文」は㯥と曰の形義を理解していない。㯥はいわゆる両造にして束矢鈞金を入れる橐の形、曰は自己詛盟としての誓約を入れる器である。曹はもと裁判用語。法曹を原義とし、のち官署のことに及ぼして分曹・曹司のようにいう、

とある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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たく縄


うちはへて苦しきものは人目のみしのぶの浦の海人のたく縄(新古今和歌集)、

の、

たく縄、

は、

楮(こうぞ)の樹皮で作った縄、

をいう(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

うちはへて、

は、

長く、
引き続いて、

の意で、

たく縄の縁語、

とあり、

苦しき、

は、

たく縄の縁語「繰る」を掛ける、

とある(仝上)。

はへて、

は、

みしぶ(水渋)つき植ゑし山田にひたはへてまた袖濡らす秋は來にけり(新古今和歌集)、

と使われ、この、

ひた、

は、

引板

で、

鳴子、

の意(仝上)、

はへて、

は、たぶん、

延へて、

とあて、

(引板の縄を)引いて延ばして、

の意(仝上)となる。

うち、

は、「打ち」で触れたように、接頭語として、動詞に冠して、

打ち見る、

のように、

瞬間的な動作であることを示す、

使い方の他に、多く、

打ち興ずる、
打ち続く、

のように、

その意を強め、またはその音調を整える、

という使い方をする(広辞苑)。この、

うちはへて、

は、

引き延ばす、

意を強調している。

たく縄、

は、

栲縄、

と当て、後世、

たぐなわ、

とも訓ませ、

楮(こうぞ)などの皮でより合わせた縄、

をいい、

海女(あま)が海中にはいる際の命綱などとして用いた、

とある(精選版日本国語大辞典)。

以千尋栲縄(たくなは)、結為百八十紉(神代紀)、

とあるように、

栲を綯へる縄、

である(大言海)。また、

栲縄の、

は、

栲縄(たくなは)の長き命を欲(ほ)りしくは絶えずて人を見まく欲(ほ)りこそ(万葉集)、
地(つち)の下(した)は、底津石根(そこついはね)に焼き凝らして、栲縄(タクナハ)の千尋縄(ちいろのなは)の打ち莚(むしろ)し(古事記)、

などと、

なが(長)、
ちひろ(千尋)、

に掛かる枕詞である(広辞苑)。

「栲」(コウ)は、

会意兼形声。「木+音符考(まがる)」で、くねくねと曲がった木、

とあり(漢字源)、「ぬるで」の意とある(仝上)。「栲栳(コウロウ)」というと、「竹とか柳の枝を曲げて編んで作った、物を入れる器具」とあり、我が国では、「たへ」と訓ませ、かじきなどの皮の繊維で織った白い布、転じて広く布をいい、「白栲(しろたへ)」「和栲(にぎたへ)」「粗栲(あらたへ)」などと使う。なお、「栲」の異体字は、
𣐊、
𣑥、
𣛖、
であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A0%B2

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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引折(ひきをり)


ためしあればながめはそれと知りながらおぼつかなきは心なりけり(新古今和歌集)、

の、

ためし、

は、在原業平 が、女車に対して、

見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなくけふやながめくらさむ(古今集・伊勢物語・大和物語)、

と詠み入れた例をさす(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

冒頭の歌の詞書に、

前大納言隆房中将に侍りける時、右近馬場の引折(ひきをり)の日まかれりけるに、物見侍りける女車よりつかはしける、

とある、

右近馬場の引折の日、

とは、

右近衛府の舎人(とねり)が馬場で競馬・騎射をする五月六日、

をいい、ここでは治承四年(1180)のこと(仝上)とある。天皇が武徳殿に臨幸して衛府の官人の騎射を御覧になるのが例であり、これを、

騎射の節、

ともよぶ(日本大百科全書)。騎射に先だつ4月28日(小の月は27日)には、天皇が櫪飼(いたがい)(馬寮(めりょう)の厩(うまや)で飼養)・国飼(諸国の牧から貢進)の馬を武徳殿で閲する、

駒牽(こまひき)の儀、

がある(仝上)。

引折、

は、平安時代、

近衛の馬場で騎射(うまゆみ)の真手番(まてつがい)を行うこと、

をいい、

左近衛は五月五日、右近衛は五月六日、

を、

引折の日、

という(広辞苑)。

真手番、

は、

真手結、

とも当て、

手番(てつがひ)、
手結(てつがひ)、

ともいい、

つがい、

は、

手は射手、結は番(つがう)(2人を組み合わせる)、

意で(世界大百科事典・大言海)、平安時代、

射礼(じゃらい)・賭射(のりゆみ)・騎射(うまゆみ)などの行事で、競技者を左右二組に分け、一人ずつ組み合わせて、射技の優劣を競わせること、

をいい、当日の競技を、

真手結(真手番 まてつがい)、

前日に行う練武を、

荒手結(荒手番)、

という(広辞苑)。

真手結(真手番)、
荒手結(荒手番)、

の、

真、

は、

真正に厳密(オゴソカ)にする、

意で、

荒、

は、

粗(アラ)、

で、

真に対して軽い、

意で、

真忌(まいみ)、
荒忌(あらいみ)、

という言い方と同例(大言海)とある。

射礼(じゃらい)、

は、

大射、

ともいい、古代、

正月十七日に建礼門前で行われた弓射の行事、

をいい、これより先に、

十五日に兵部省で親王以下五位異状よび六衛府の者から射手を選出する手番(てつがい)を行い、当日は天皇が豊樂(ふらく)院で観覧、終了後に、能射の者に禄を給した、

という(広辞苑)。

代の始には、豊楽にてあり(公事根源)、

とある。

賭射(のりゆみ)、

は、平安時代の宮中年中行事の一つ、

で、

錢を賭物(のりもの)にして、射中てたるもの、

とあり(大言海)、

射礼、

の翌日、一般に正月十八日、

天皇が弓場殿(ゆばどの)で、左右の近衛府・兵衛府の舎人らが弓を射る競技を観覧した。勝った方には、

大将、射手に還饗(かへりあるじ 饗応)あり、

とあり、負けた方には、

罰杯(罰酒)を課した、

という(仝上・広辞苑)。

騎射、

は、

馬弓術(ウマユミ)の義、

で、色葉字類抄(平安末期)に、

騎射、マユミ、

とあり、

騎射、
馬射、

を、

まゆみ、

と訓ませ、

馬弓、
馬射、

とも当て、

うまゆみ、

ともいい、

歩弓(かちゆみ)
歩射(ぶしゃ)、

に対する言葉で、

馬上で行う弓矢の競技、

をいい、宮廷では、

武徳殿前にて、端午の節会(せちえ)に行う近衛の武官の騎射、

をいい、武家では、

流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)、

の、

騎射三物 (みつもの)、

が、武芸の修練を兼ねた遊びとして盛んに行われた(仝上・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。和名類聚抄(931〜38年)に、

騎射、宇末由美、
歩射、加知由美、

とある。

騎射三物(きしゃみつもの)、

は、「流鏑馬」で触れたように、

武士の騎射稽古法は、平安時代〜鎌倉時代に成立し、

犬追物、
笠懸、
流鏑馬、

の三種を指す。

笠懸(かさがけ)、

は、

疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、

騎射の技術・鍛錬法のことで、流鏑馬と比較して笠懸はより実戦的で標的も多彩であるため技術的な難度が高いが、格式としては流鏑馬より略式となり、余興的意味合いが強い(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%87%B8)とある。

犬追物(いぬおうもの)、

は、鎌倉時代から始まったとされる日本の弓術の作法・鍛錬法で、

40間(約73m)四方の馬場に、1組12騎として3組、計36騎の騎手、検分者(審判)を2騎、喚次役(呼び出し)を2騎用意し、犬150匹を離しその犬を追いかけ何匹射たかを競う。矢が貫かないよう「犬射引目」(いぬうちひきめ)という特殊な鏑矢を使用した。

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E8%BF%BD%E7%89%A9)

流鏑馬(やぶさめ)は、

日本の古式弓馬術で、行われた騎射の一種、馬術と弓術を組み合わせたもの、

であり、

距離2町(約218m)の直線馬場に、騎手の進行方向左手に3つの的を用意する。騎手は馬を全力疾走させながら3つの的を連続して射抜く、

ものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC

「引」(イン)は、

会意文字。「弓+|印」で、|印は直線状に↓と引くさまを示す、

とある(漢字源)。別に、

会意。「弓」と、それに添えられた弓を引くことを連想させる短い筆画から構成される[字源 1]。「ひく」を意味する漢語{引 /*linʔ/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%95)

会意。弓と、h(こん)(ひっぱる)とから成り、弓をひく、ひいて「ひく」意を表す(角川新字源)、

とあるが、

指事文字です。「ゆみ」の象形に縦線を添え、ひいて張り伸ばした弓を示し、そこから、「ひく」を意味する「引」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji246.html

と、指事文字とする説もある。

「折」(漢音セツ、呉音セチ)は、「壺折」で触れたように、

会意。「木を二つに切ったさま+斤(おの)」で、ざくんと中断すること、

とある(漢字源)。別に、

斤と、木が切れたさまを示す象形、

で、扌は誤り伝わった形とある(角川新字源)。また、

会意文字です(扌+斤)。「ばらばらになった草・木」の象形と「曲がった柄の先に刃をつけた手斧」の象形から、草・木をばらばらに「おる」を意味する「折」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji670.html

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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