恋ひ死なばたが名はたたじ世の中の常なきものと言ひはなすとも(古今和歌集)、 の、 言ひはなす、 の、 は、 は、係助詞、 言ひなす、 で、 事実と違うことを強く主張する意、 とあり、 恋死にではなく、無常の世だから亡くなるのもやむをえない、と、恋の相手が言うこと、 と注釈する(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。格助詞の、 は、 は、普通、 提題の助詞、 とされ、 その承ける語を話題として提示し、また、話の場を設定してそれについての解答・解決・説明を求める役割をする、 ので、 大和は国のまほろば、 というように、主格に使われることが多い(岩波古語辞典)が、その役の延長で、 わぎもこに恋ひつつあらずは秋萩の咲て散りぬる花にあらましを(万葉集)、 と、 前の語の表す内容を強調する、 という機能があり(広辞苑)、 言ひなす、 と同義で、 〜のように言う、 言いつくろう、 という意(http://www.milord-club.com/Kokin/uta0603.htm)とある。しかし、別に、個人的には、 言ひはな(放)す、 と解釈して、 言い放つ、 と同義の、 思ったことを遠慮なく言う、 人に憚らず言う、 意と取れなくもない気がする。さて、 言ひなす、 は、 言い做す 言ひ成す、 言ひ為す、 等々と当て、 ナス、 は、 意識的・技巧的に用いてする意(岩波古語辞典)、 意識的にする意(広辞苑)、 「なす」は強いてそのようにするの意(精選版日本国語大辞典)、 と、 作為、 の意があり、 あまの戸をあけぬあけぬといひなしてそら鳴きしつる鳥の声かな(後撰和歌集)、 と、 事実とは違うことを言いこしらえる、 意や、 いさや、うたてきこゆるよなれば、人もやうたていひなさんとてぞや(宇津保物語)、 と、 言いつくろう、 意など、冒頭の歌のように、 そうでないことを、事実らしく言う、 意で使うほか、 殿上人などの来るをも、やすからずぞ人々はいひなすなる(枕草子)、 と、 何でもないことをことさらに言う、 言い立てる、 意で使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。 なす、 は、 生す、 為す、 成す、 做(作)す、 就す、 等々と当てる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)が、 做す、 作す、 為す、 は、 為(す)るの他動詞、 成す、 就す、 は、 成るの他動詞、 生す、 は、 生(な)るの他動詞、 と、由来を異にするとある(大言海)。しかし、漢字をあてはめなければ、みな、 なす、 で、この始まりは、 皇(おほきみ)は神にしませば真木の立つ荒山中に海をな(生)すかも(万葉集)、 と、 なす(生・成)、 の、 作り出す、 意や、 おのがなさぬ子なれば心にも従はずなむある(竹取物語)、 と、 産む、 意など(岩波古語辞典)、 以前には存在しなかったものを、積極的に働きかけによって存在させる、 意(仝上)であったのではあるまいか、それが意味をスライドさらせ、 なす(成)、 は、 大君は神にし坐(ま)せば水鳥のすだく水沼(みぬま)を都となしつ(万葉集)、 と、 (別個のものに)変化させる、 意や、 鳥が音の聞こゆる海に高山を隔てになして沖つ藻を枕になし(万葉集)、 と、 (他のものに)代えて用いる、 意など、 既に存在するものに働きかけ、別なものに変化させる、 意で使う。この先に、 成すの義、 の(大言海)、 済(な)す、 の、 誠に世話にも申す如く、借る時の地蔵顔、なす時の閻魔顔とは、能う申したもので御座る(狂言「八句連歌」)、 と、 借金などを返済し終わる、 意までつながる(岩波古語辞典・大言海)。 いずれも、 意識的、 意志的、 な働きかけを意味する。その意味では、動詞に、そうした意志的・意識的なことであることを強調する意で、動詞に「なす」をつける使い方は、結構ある。たとえば、 見做す、 は、 雪を花と見なす、 と、 仮にそうと見る、 意、 返事がなければ欠席と見なす、 と、 判断してそうと決める、 意で使うし、 着做す、 黄の小袿(こうちぎ)、…なまめかしく着なし給ひて(夜の寝覚)、 と、 (上に修飾語を伴って)その状態に着る、 意で使うし、 聞き做す、 は、 年ごろそひ給ひにける御耳のききなしにや(源氏物語)、 と、 それとして聞きとる、 意で使うし、 思い做(成)す、 は、 身をえうなきものに思なして(伊勢物語)、 と、 意識的に、また、自分から進んで、そのように思う、 あえて思う、 思い込む、 意で使うし、 しなす(為成・為做)、 は、 おはしますべき所を、ありがたく面白うしなし(宇津保物語)、 と、 ある状態にする、 つくりなす、 意で使うし、 わびなす(侘為・詫為)、 は、 穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして(俳諧・春の日)、 と、 閑居を楽しむ、 意で使う(岩波古語辞典・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。 「做(作)」(サク・サ)は、 会意兼形声。乍(サク)は、刀で素材に切れ目を入れるさまを描いた象形文字。急激な動作であることから、たちまちの意の副詞に専用するようになったため、作の字で人為を加える、動作をする意をあらわすようになった。作は「人+音符乍(サ)」、 とある(漢字源)。正字が「作」、「做」は異字体である(字通・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%81%9A)。 会意形声。人と、乍(サク、サ つくる)とから成り、「つくる」意を表す。「乍」の後にできた字、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(人+乍)。「横から見た人の象形」と「木の小枝を刃物で取り除く象形」から人が「つくる」を意味する「作」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji365.html)あるが、 形声、正字は作で、乍(さ)声、做はその俗字。近世語にこの字を用いることが多い。明の〔字彙〕に至ってこの字を録している、 とし(字通)、 形声。「人」+音符「乍 /*TSAK/」。「なす」「つくる」を意味する漢語{作 /*tsaaks/}を表す字、 とし(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%9C)、いずれも、形声文字としている。。 「成」(漢音セイ、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。丁は、打ってまとめ固める意を含み、打の原字。成は「戈(ほこ)+音符丁」で、まとめあげる意を含む、 とある(漢字源)。また、同趣旨で、 会意兼形声文字です(戉+丁)。「釘を頭から見た」象形と「大きな斧」の象形から、大きな斧(まさかり)で敵を平定するを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、ある事柄が「なる・できあがる」を意味する「成」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji628.html)のは、この元になっている、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)が、 「戊」+音符「丁」、 と分析しているためだが、これは、 誤った分析、 とし(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%90)、 金文を見ればわかるように「戌」+「h(または十)」と分析すべき文字である。甲骨文字には「戌」+「丁」と分析できる字があるものの読み方には論争があり、字形上はこの字と西周以降の「成」に連続性はない、 としており(仝上)、また、同趣旨で、 形声。意符戉(えつ まさかり。戊は変わった形)と、音符丁(テイ)→(セイ)とから成る。武器で戦うことから、ひいて、なしとげる意を表す、 としている(角川新字源)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 君をのみ思ひ寝に寝し夢なればわが心から見つるなりけり(古今和歌集)、 の、 思ひ寝、 は、 人を思いながら寝ること、 で、ここは、 「思ひ」に、「君をのみ思ひ」と「思ひ寝」とが重なる、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 思ひ寝、 は、確かに、文字通り、 思い続けながら寝ること(学研全訳古語辞典)、 物を思いながら寝ること(精選版日本国語大辞典)、 人を思ひつつ寝ること(大言海)、 ではあるが、上記の、 君をのみ思ひ寝に寝し夢なればわが心から見つるなりけり(古今和歌集)、 や、 思ひ寝の夜な夜な夢に逢ふ事をただ片時のうつつともがな(後撰和歌集)、 というように、多く、 恋しい人のことを思いながら眠る場合に用いられる、 ので、 人を恋しく思いながら寝ること、 というのが正確のようだ(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。 似た歌に、新古今和歌集の、 物をのみ思ねざめの枕には涙かからぬあかつきぞなき(源信明)、 があり、 「物をのみ思ひ」から「思ひ寝」(あることを思いつめながら寝ること)へ、さらに「寝覚め」へと言葉を連鎖させる、 と注釈されている(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この、 思寝覚(おもいねざめ)、 は、 思ひ寝、 から覚めることをいう。 なお、「通ひ路」については触れた。 「寝(寢)」(シン)は、「寝(い)を寝(ぬ)」で触れたように、 会意兼形声。侵は、次第に奥深く入る意を含む。寝は、それに宀(いえ)を加えた字の略体を音符とし、爿(しんだい)を加えた字で、寝床で奥深い眠りに入ること、 とある。同趣旨で、 会意兼形声文字です(宀+爿+侵の省略形)。「屋根・家屋」の象形と「寝台を立てて横にした」象形と「ほうき」の象形(「侵」の略字で、人がほうきを手にして、次第にはき進む事から、「入り込む」の意味)から、家の奥にあるベッドのある部屋を意味し、そこから、「部屋でねる」を意味する「寝」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1262.html)が、別に、 形声。意符㝱(ぼう、む)(〈夢〉の本字。ゆめ。は省略形)と、音符𡩠(シム)(𠬶は省略形)とから成る。清浄な神殿・神室の意を表したが、古代には貴人の病者は神室に寝たことから、ねやの意に転じた。常用漢字は省略形による、 ともある(角川新字源)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 扈従登封(とうほう)途中作(宋之問)、 の、 登封(とうほう)、 は、 天子が名山(主として泰山)に登り、天地を祭って天下泰平を報告する、 という、所謂、 封禅(ほうぜん)の儀を行うこと、 である。このとき、 山頂に登封壇という祭壇がもうけられる、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。 封禅、 の、 封、 は、 土を盛り檀をつくりて天を祭る、 意、 禅、 は、 地を除ひて山川を祭る、 意とある(字源)が、 封と禅は元来別個の由来をもつまつりであったと思われる、 とあり(世界大百科事典)、 山頂での天のまつりを封、 山麓での地のまつりを禅、 とよび、両者をセットとして封禅の祭典が成立した(仝上)とある。その祭祀には、 とくに霊山聖域を選んで行う封禅(ほうぜん)と、主として都城の郊外で行われる郊祀とがあった、 とあり、 封禅、 は、 山上に土を盛り壇を築いて天をまつる封拝、 と、 山下に土を平らにし塼(ぜん)(また壇、禅)をつくって地をまつる禅祭、 とを併称する(仝上)とある。 「史記」に、 封禅書(https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7028)、 があるが、その中に、管仲のことばとして 古は泰山に封じ梁父に禪する者七十二家、而して夷吾(管仲)の記す所の者十有二。……周の成王、泰山に封じ社首に禪す。皆命を受けて、然る後に封禪することを得たり、 とある(字源)。十二家とは、 昔無懷氏封泰山、禪云云;虙羲(伏羲)封泰山、禪云云;神農封泰山、禪云云;炎帝封泰山、禪云云;黃帝封泰山、禪亭亭;顓頊封泰山、禪云云;帝嚳封泰山、禪云云;堯封泰山、禪云云;舜封泰山、禪云云;禹封泰山、禪會稽;湯封泰山、禪云云;周成王封泰山、禪社首:皆受命然後得封禪、 とある、 無懐、伏羲、神農、炎帝、黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜、禹、湯、周成王、 を指し、 泰山を封じ、それぞれ山を禅し、皆天命を受けた後に封禅を行った、 とある(https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7028)。ために、 封禅、 の、 封、 は、 泰山の山頂に土壇をつくって天を祭ること、 禅、 は、 泰山の麓の小丘(梁父山)で地をはらい山川を祀ること、 と解釈される(広辞苑)ようになる。つまり、 泰山の頂に天を祭る、 のが、 封、 麓の小丘梁父(梁甫)で地を祭る、 のが、 禅、 とされる(旺文社世界史事典)。 泰山では山頂に土を盛り、高い場所をさらに高くして、天に届け、という儀式を行って天を祭る、梁父では丘の土をはらい、地を祭って丘の下の霊と交わる儀式を行う、 のである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E7%88%B6%E5%90%9F)。 梁父、 はいわゆる古墳であり、昔、そこに霊が埋葬されたと伝えられていて、始皇帝も泰山と梁父で封禅の儀式を行ったとされる(仝上)。 『史記』の注釈書である『史記三家注』には、 此泰山上築土為壇以祭天、報天之功、故曰封。此泰山下小山上除地、報地之功、故曰禪、 と、 泰山の頂に土を築いて壇を作り天を祭り、天の功に報いるのが封で、その泰山の下にある小山の地を平らにして、地の功に報いるのが禅だ、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E7%A6%85)、続いて『五経通義』から、 易姓而王、致太平、必封泰山、 と、 王朝が変わって太平の世が至ったならば、必ず泰山を封ぜよ、 という言葉を引用している(仝上)。この背景にあるのは、戦国時代の斉や魯には五岳中の内、泰山が最高であるとする儒者の考えがあり、帝王は泰山で祭祀を行うべきであると考えていたことがある(仝上)。因みに、五岳は、 東岳泰山、 南岳衡山、 中岳嵩山、 西岳華山、 北岳恒山、 を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B2%B3)。 ところで、管仲は、封禅の条件として、 古之封禪、鄗上之黍、北里之禾、所以為盛;江淮之閨A一茅三脊、所以為藉也。東海致比目之魚、西海致比翼之鳥、然後物有不召而自至者十有五焉。今鳳皇麒麟不來、嘉穀不生、而蓬蒿藜莠茂、鴟梟數至、而欲封禪、毋乃不可乎?、 と挙げ、比目之魚、比翼之鳥、鳳凰、麒麟等々という瑞祥があらわれるといい、それがいまは現れていない状態で封禅を行うのかと、斉の桓公を諫めたとされる(史記・封禅書)。 史実として確認できる最初の封禅は、 秦の始皇帝28年(前219)、 漢の武帝の元封1年(前110)、 のそれが有名だが、秦の始皇帝のとき、既に古代の儀式については散逸しており、我流で、 山南から車に乗って泰山の頂上へ登り、封礼を行い、並びに石にそれまでの功績を称え刻み、その後に山の北から下山して梁父山へと行き禅を行った、 という(https://prometheusblog.net/2017/11/15/post-6346/#google_vignette)。それは、戦国時代に天帝を祭った際の様式を改変したものであった(仝上)とある。本来の、 天下太平を天に報ずる儀式、 という政治上の意味よりは、 不死登仙の観念、 が封禅にともなっているとされる(世界大百科事典)ことが面白い。たとえば、方士の李少君は漢の武帝に次のように述べている。 鬼神を駆使して丹砂を黄金に変え、その黄金で食器を作れば命がのび、命がのびれば東海中の蓬萊山の仙人にあうことができる。そのうえで封禅を行えば不死となる、 と(仝上)。背景には、 泰山は古くから鬼神の集まるところと考えられ、そこを天への通路とみなす信仰も存在した。鬼神と交わる術をもっぱらあやつった方士たちは、泰山のこのような宗教的な性格、ならびに《書経》舜典篇などで、泰山が帝王の巡狩の地として政治的に重要視されている事実に注目し、泰山において政治上の成功の報告を行うとともに不死登仙を求めるところの封禅の説をつくりあげた、 と考えられる(仝上)とある。この後、後漢の光武帝、唐の高宗や玄宗、宋の真宗等々も莫大な国費を投じて封禅を行ったとされる(仝上)。確かに、 封禅、 の意義は、初めは、 山神、地神に不老長寿や国運の長久を祈願する、 ところにあったかもしれないが、膨大な国費を投じて行われる国家的祭儀であったため、次第に、 帝王の威武を誇示する政治的な祭儀、 へと形を変えた(ブリタニカ国際大百科事典)といっていい。 「封」(漢音ホウ、呉音フウ)は、 会意兼形声。左側の字は、いねの穂先のように、△型にとがって上部のあわさったものを示す。封の原字は、それを音符とし、土を添えた。のち、「土二つ+寸(て)」と書き、△型に土を集め盛った祭壇やつかを示す。四方から△型に寄せ集めて、頂点であわせる意味を含む、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(土(丰)+土+寸)。「よく茂った草」の象形(草が密生するさまから、「より集まる」の意味)と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形(「長さの単位」を意味するが、ここでは、「手」の意味)から、土を寄せ集めて盛る事を意味し、そこから、「盛り土」、「土を盛って境界を作り、領土を与えて諸侯とする」を意味する「封」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1404.html)が、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である。楷書では偏が「圭」と同じ形となっているが、字形変化の結果同じ形に収束したに過ぎず、起源は異なる、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%81)、 形声。「寸」+音符「丰 /*PONG/」。「くに」を意味する漢語{封 /*p(r)ongʔ/}を表す字。もと「丰」が{封}を表す字であったが、「寸」を加えた、 とある(仝上)。異字体として、 𡉘(籀文)、𡊽(古字)、𡉚(古字)、𡊋(同字)、𭔵(俗字)、 を挙げている(仝上)。別に、 象形。草を手に持って地面に植える形にかたどる。草木を植えて土地の境界をつくることから、ひいて、とじこめる、土盛りする意を表す、 とする説もある(角川新字源)。 「禪(禅)」(漢音セン、呉音ゼン)は、「禅定」で触れたように、 会意兼形声。「示(祭壇)+音符單(たいら)」で、たいらな土の壇の上で天をまつる儀式、 とある(漢字源)。別に、 形声。示と、音符單(セン、ゼン)とから成る。天子が行う天の祭り、転じて、天子の位をゆずる意を表す。借りて、梵語 dhyānaの音訳字に用いる、 とも(角川新字源)、 形声文字です(ネ(示)+単(單))。「神にいけにえを捧げる台」の象形と「先端が両またになっているはじき弓」の象形(「ひとつ」の意味だが、ここでは、「壇(タン)」に通じ(同じ読みを持つ「壇」と同じ意味を持つようになって)、「土を盛り上げて築いた高い所」の意味)から、「壇を設けて天に祭る」を意味する「禅」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji1666.html)ある。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 簡野道明『字源』(角川書店) 昔人已乗白雲去(昔人(せきじん)已に白雲に乗じて去り) 此地空余黄鶴楼(此の地空しく余す 黄鶴楼) 黄鶴一去不復返(黄鶴(こうかく)一たび去って復た返らず) 白雲千載空悠悠(白雲千載 空しく悠悠たり) 晴川歴歴漢陽樹(晴川(せいせん)歴歴たり漢陽の樹) 芳草萋萋鸚鵡洲(芳草(ほうそう)萋萋(せいせい)たり鸚鵡(おうむ)洲) 日暮郷関何処是(日暮(にちぼ) 郷関 何れの処か是なる) 煙波江上使人愁(煙波(えんぱ) 江上 人をして愁(うれ)えしむ)(崔(さいこう)・黄鶴楼) の、 黄鶴楼(こうかくろう)、 は、 湖北省武昌の西端、揚子江岸、 にあった(前野直彬注解『唐詩選』)。 幾度も焼失と再建が繰り返され、現在、 元の地点から約1キロ離れた位置に再建された楼閣がある とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A5%BC)。 この黄鶴楼には、その名の由来となる伝説が残っている。 昔、辛という人の酒屋があった。その店へ毎日一人の老人が来ては酒を飲んで行く。金は払わないのだが、辛はいやな顔もせずに、ただで酒を飲ませ、それから半年くらいたって、ある日、老人は酒代の代わりにといって、橘(たちばな)の皮をとって、壁に黄色い鶴を描いて去っていった。その後、この店で酒を飲む客が歌を歌うと、節にあわせて壁の鶴が舞った。そのことが評判となって店が繁盛し、辛は巨万の富を築いた。十年ののち、再び老人が店に現れ、笛を吹くと白雲がわきおこり、黄色い鶴が壁を抜け出して舞い降りた。老人はその背にまたがり、白雲に乗って天上へと去った。辛はそのあとに楼を建てて、黄鶴楼と名付けた、 という(前野直彬注解『唐詩選』・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A5%BC)。また一説には、 仙人が黄色の鶴に乗って飛行する途中、この楼に降りて休んだところから名付けられた、 とも(前野直彬注解『唐詩選』)、閻伯瑾の「黄鶴楼記」には、 三国時代の蜀漢の政治家費禕が仙人に登り黄鶴に乗って飛来し、ここで休んだという伝説が記載されている、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A5%BC)。 伝説では、李白もこの楼に登り詩をつくろうとしたが、崔の詩以上のものは出来ないと言って、筆を投じた、という(前野直彬注解『唐詩選』)。しかし、李白には、 故人西辭黄鶴樓(故人 西のかた黄鶴楼を辞し) 煙花三月下揚州(煙花三月 揚州に下る) 孤帆遠影碧空盡(孤帆の遠影 碧空に尽き) 惟見長江天際流(惟だ見る 長江の天際に流るるを)(黄鶴楼送孟浩然之広陵) という詩がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A5%BC%E9%80%81%E5%AD%9F%E6%B5%A9%E7%84%B6%E4%B9%8B%E5%BA%83%E9%99%B5)し、 一為遷客去長沙(一たび遷客(せんかく)と為って長沙に去る) 西望長安不見家(西のかた長安を望めども家を見みず) 黄鶴楼中吹玉笛(黄鶴楼中 玉笛(ぎょくてき)を吹く) 江城五月落梅花(江城(こうじょう) 五月 梅花(ばいか)落つ)(与史郎中欽聴黄鶴楼上吹笛) という詩もある(https://kanbun.info/syubu/toushisen325.html)。また、宋代の陸游にも、 手把仙人緑玉枝 吾行忽及早秋期 蒼龍闕角帰何晩 黄鶴楼中酔不知 江漢交流波渺渺 晋唐遺跡草離離 平生最喜聴長笛 裂石穿雲何処吹(黄鶴楼) の詩がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A5%BC)。 なお、崔の「黄鶴楼」には及ばないとした李白が、崔の「黄鶴楼」に対抗しようという意図をもってつくったとされる伝説があるのが、「登金陵鳳皇台」とされる(前野直彬注解『唐詩選』)。即ち、 鳳皇臺上鳳皇遊(鳳皇臺上 鳳皇遊びしが) 鳳去臺空江自流(鳳去り臺空しゅうして江自(おのず)から流る) 呉宮花草埋幽徑(呉宮の花草 幽徑を埋(うず)め) 晉代衣冠成古丘(晉代の衣冠 古丘と成れり) 三山半落青天外(三山半ば落つ 青天の外) 二水中分白鷺洲(二水中分す 白鷺(はくろ)洲) 總爲浮雲能蔽日(總べて浮雲(ふうん)の能く日を蔽(おお)うが爲に) 長安不見使人愁(長安見えず 人をして愁(うれ)えしむ) と。金陵は、いまの南京、 劉宋の時代に、ある人が都の西南隅の山の上で珍しい鳥が群がるのを見た。美しい鳥なので、鳳皇(鳳凰)ということになり、それは瑞祥なので、それにあやかるために、山の上に台を築き、鳳皇台となづけた、 との故事がある(仝上)。 因みに、落語「抜け雀」は、http://sakamitisanpo.g.dgdg.jp/nukesuzume.htmlに詳しい。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 浅みこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ(古今和歌集)、 よるべなみ身をこそ遠くへだてつれ心は君が影となりにき(仝上) の、前者の、 浅み、 は、 浅しの語幹に接尾語「み」がついた形で、理由を表す。相手の気持ちの浅さと涙川の浅さの両義、 後者の、 よるべなみ、 は、 「無し」の語幹に、理由を表す接尾語「み」がついた形、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 若の浦に潮満ち来れば潟をなみ岸辺をさして鶴鳴きわたる(万葉集)、 の、 なみ、 も同じである。接尾語、 み、 には、 春の野の繁み飛び潜(く)くうぐひすの声だに聞かず娘子(をとめ)らが春菜摘ますと(万葉集)、 と、 形容詞の語幹に付いて体言をつくり、その状態を表す名詞を作る、 ものがあり、この場合、 浅み、 は、 深み、 と対になる(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。これは、 明るみ、 高み、 繁み、 のように、 明けされば榛(はり)のさ枝に夕されば藤の繁美(しげミ)にはろばろに鳴くほととぎす(万葉集)、 と、 そのような状態をしている場所をいう場合と、今日でも使う、 真剣みが薄い、 面白みに欠ける、 のように、 その性質・状態の程度やその様子を表わす場合とがある(精選版日本国語大辞典)。また、 道の後(しり)古波陀(こはだ)をとめは争はず寝しくをしぞもうるはし美(ミ)思ふ(古事記)、 というように、形容詞の語幹に付いて、後に、動詞「思ふ」「す」を続けて、感情の内容を表現する、 ものなどがあるが、上記の、 浅み、 の、 み、 は、 若の浦に潮満ち来れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る(万葉集)、 と、 形容詞の語幹、および助動詞「べし」「ましじ」の語幹相当の部分に付いて、 (…が)…なので、 (…が)…だから、 と、 原因・理由を表す(学研全訳古語辞典)。多く、 上に「名詞+を」を伴うが、「を」がない場合もある、 とある(仝上)。この、 み、 は、従来、 接尾語、 として説かれているが、 瀬を早み、 風をいたみ、 などと使われる「み」は、その機能から見て、 接続助詞、 と考えたいとする説もある(岩波古語辞典)。 「浅(淺)」(セン)は、 会意兼形声。戔(セン)は、戈(ほこ)二つからなり、戈(刃物)で切って小さくすることを示し、小さく、少ない意を含む。淺は、「水+音符戔」で、水が少ないこと、 とあり(漢字源)、 会意兼形声文字です(氵(水)+戔)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「矛を重ねて切りこんでずたずたにする」象形(「薄く細かに切る」の意味)から、うすい水を意味し、そこから、「あさい」を意味する「浅」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji167.html)が、 形声。「水」+音符「戔 /*TSAN/」。「あさい」を意味する漢語{淺 /*tshanʔ/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B7%BA)、 形声。水と、音符戔(セン)とから成る。「あさい」意を表す。教育用漢字は省略形の俗字による(角川新字源)、 と、形声文字とする説もある。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 位竊和羹重(位は和羹の重きを竊(ぬす)み) 恩叨酔酒深(恩は酔酒の深きを叨(みだ)りにす)(張説(ちょうえつ)・恩制賜食於麗正殿書院宴賦得林字) の、 和羹、 は、 宰相、 の意、 羹は肉入りのスープのような料理、和はその味をととのえたもの。殷の高宗が名宰相の傅説(ふえつ)を任命したとき、「もし和羹をつくろうとするときは、そちが味を調えよ」といった故事から、天下の政治を料理の味つけにたとえて、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。 和羹(わこう)、 は、 和羹如可適、以此作塩梅(「書経」説命)、 と、 肉や野菜など種々のものを混ぜて味を調和させた羹(あつもの)、 を言う(精選版日本国語大辞典)。「羊羹」で触れたように、 羹、 は、 古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して「植物性」の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して「動物性」の熱い汁物を「臛(かく)」といい、2つに分けて用いました、 とあり(https://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/)、「あつもの」は、 臛(カク 肉のあつもの)、 懏(セン 臛の少ないもの)、 と載る(字源)。その、 塩梅、 の意をメタファに、上記のように、 君主を助けて天下を宰領すること、また、その人、 つまり、 天下を調理する、 という意で、 宰相、 を言う(精選版日本国語大辞典・字源)。で、上述の、 若作和羹、爾惟鹽梅(書経・説命)、 によって、 和羹塩梅(わこうあんばい)、 という四字熟語があり、 「和羹」はいろいろな材料・調味料をまぜ合わせ、味を調和させて作った吸い物、 で、 「塩梅」は塩と調味に用いる梅酢、 をいい、この料理は、 塩と、酸味の梅酢とを程よく加えて味つけするものであることから、上手に手を加えて、国をよいものに仕上げる宰相らをいう、 とある(新明解四字熟語辞典)。 傅説(ふえつ)、 は、 紀元前10世紀ごろの人、 で、伊尹や呂尚と並んで、名臣の代表として取り上げられる。「書経」の「説命(えつめい)」に、 中国殷の武丁(高宗)の宰相。武丁が聖人を得た夢を見、その夢に従って捜したところ見い出して、宰相にした、 という(精選版日本国語大辞典)。『史記』殷本紀には、 武丁夜夢得聖人名曰説、以夢所見視群臣百吏、皆非也。於是廼使百工営求之野、得説於傅険中。是時説為胥靡、築於傅険。見於武丁。武丁曰是也。得而与之語、果聖人、挙以為相、殷国大治。故遂以傅険姓之、号曰傅説、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%85%E8%AA%AC)、 夢に「説」という名前の聖人を見たため、役人に探させたところ、傅険という名の岩屋で罪人として建築工事にたずさわっているのが発見された。傅険で見つかったので傅を姓とした、 という(仝上)。『史記』封禅書には、 後十四世、帝武丁得傅説為相、殷復興焉、稱高宗、 と、 傅説を用いることで、衰えていた殷はふたたび盛んになり、武丁は高宗とよばれるようになった、 とある(仝上)。『国語』楚語上には、 昔殷武丁……如是而又使以象夢求四方之賢、得傅説以来、升以為公、而使朝夕規諫、曰:若金、用女作礪。若津水、用女作舟。若天旱、用女作霖雨。啓乃心、沃朕心。若薬不瞑眩、厥疾不瘳。若跣不視地、厥足用傷、 と、 武丁が夢に見た人間の姿を描いて役人に探させ、傅説を得て公となし、自分に対して諫言させた、 とある(仝上)。傅説は、『荘子』大宗師に、 傅説得之(=道)、以相武丁、奄有天下、乗東維、騎箕・尾、而比於列星、 と、 星になった、 と言われ、尾宿に属する星に傅説の名がある(仝上)。『荀子』非相には、 傅説之状、身如植鰭、 とある。なお、『書経』説命(えつめい)篇は後世の偽書とされ、近年清華簡の中から戦国時代の本物の説命(傅説之命)が発見され、それによると、 傅説ははじめ失仲という人に仕えていた。殷王は傅説の夢をみて、役人に探させたところ、傅巌で城壁を築いていた傅説を弼人が発見した。天は傅説に失仲を討たせた。王は傅説を公に就任させ、訓戒を与えた、 とある(仝上)。 「羹」(漢音コウ、呉音キョウ、唐音カン)は、 会意文字。「羔(まる蒸した子羊)+美(おいしい)」、 とある(漢字源)。しかし、 「羔」+「美」と説明されることがあるが、これは誤った分析である。金文の形をみればわかるように、この文字の下部は「鬲」の異体字に由来しており「美」とは関係がない、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%B9)、 会意。「𩱧」の略体で、「羔」+「𩰲火」(「鬲」の異体字)、 とする(仝上) 羮(俗字)、 𩱁(同字)、 は異字体である(仝上)。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 簡野道明『字源』(角川書店) 豈知玉殿生三秀(豈知らんや 玉殿の三秀(さんしゅう)の生ずるを) 詎有銅池出五雲(詎(いずく)んぞ有らん 銅池(どうち)に五雲の出ずるは)(王維) のタイトル、 大同殿生玉芝竜池上有慶雲百官共覩聖恩便賜宴楽敢書卽事(大同殿に玉芝生じ、竜池の上に慶雲有り、百官共に覩(み)る。聖恩、便(すなわ)ち宴楽を賜う。敢て即事を書す)、 にある(前野直彬注解『唐詩選』)、 玉芝、 は、 霊芝、 とされ、おそらく、 一種の菌、 であろう(仝上)とある。 天宝七載(748)、八載に、大同殿の柱に玉芝が生えた、 といい、竜池(興慶宮の中にある池)に、 慶雲、 つまり、 瑞雲、 が現れた。瑞祥があった時は、 天子は百官に許可を与えて見物させ、臣民もこれにあやかるようにとの恩恵を施すのが慣例、 という。このときは、さらに、天子が、集まった臣下に祝宴を与えるという、 聖恩、 を加えた。この宴席に加わった著者が、見たままを即興的に歌った詩、これが、 即事、 である。これは天子の命令によりつくる、 応制、 ではないので、 敢、 と言った(仝上)とある。詩に、 三秀、 とあるのは、 玉芝、 のことで、「楚辞」三鬼の歌に、 三秀を山間に采(と)る、 とあり、後漢の王逸の注に、三秀は、 芝草なり、 とあるのをふまえる(仝上)とあり、また、 一年に三度花が咲くので、この名がついたともいう、 とある(仝上)。 玉芝、 は、 奇麗な霊芝、 という意味で、漢代の「十洲記(海内十洲記)」(東方朔)に、 鐘山在北海、生玉芝及神草四十餘種、 とある。東方朔については、人日で触れた。 因露寝、兮産霊芝、象三徳兮應瑞圖、延寿命兮光此都(班固・霊芝歌)、 とある、 霊芝(れいし)、 は、 芝草、 ともいい(広辞苑)、 王者慈仁の時に生ずる、 とされ(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)、日本でも、 紀伊国伊刀郡、芝草を貢れり。其の状菌に似たり(天武紀)、 押坂直と童子とに、菌羹(たけのあつもの)を喫(く)へるに由りて、病無くして寿し。或人の云はく、盖し、俗(くにひと)、芝草(シサウ)といふことを知らずして妄に菌(たけ)と言へるか(皇極紀)、 とある。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 芝は神草なり、 とあり(http://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/tatuta/kinoko/kinoko60.htm)、 三秀、 芝草、 の他、 霊芝、一名壽濳、一名希夷(続古今註)、 と、 寿潜、 希夷、 菌蠢、 といった別名もある(仝上・字源)。『説文解字』には、 青赤黄白黒紫、 の六芝、 とあり、『神農本草経』や『本草網目』に記されている霊芝の種類は、延喜治部省式の、 祥瑞、芝草、 の註にも、 形似珊瑚、枝葉連結、或丹、或紫、或黒、或黄色、或随四時變色、一云、一年三華、食之令眉壽(びじゅ)、 とあるように、 赤芝(せきし)、 黒芝(こくし)、 青芝(せいし)、 白芝(はくし)、 黄芝(おうし)、 紫芝(しし)、 とある(https://himitsu.wakasa.jp/contents/reishi/)が、紫芝は近縁種とされ、他の4色は2種のいずれかに属する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9D)とある。 担子菌類サルノコシカケ科(一般にマンネンタケ科とも)、 のキノコで、 北半球の温帯に広く分布し、山中の広葉樹の根もとに生じる。高さ約10センチ。全体に漆を塗ったような赤褐色または紫褐色の光沢がある。傘は腎臓形で、径五〜一五センチメートル。上面には環状の溝がある。下面は黄白色で、無数の細かい管孔をもつ。柄は長くて凸凹があり、傘の側方にやや寄ったところにつく、 とあり(精選版日本国語大辞典)、乾燥しても原形を保ち、腐らないところから、 万年茸(まんねんだけ)、 の名がある。これを、 成長し乾燥させたものを、 霊芝、 として用いる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9D)が、後漢時代(25〜220)にまとめられた『神農本草経』に、 命を養う延命の霊薬、 として記載されて以来、中国ではさまざまな目的で薬用に用いられ、日本でも民間で同様に用いられてきたが、伝統的な漢方には霊芝を含む処方はない(仝上)とある。 参考文献; 簡野道明『字源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) あやなくてまだきなき名のたつた川渡らでやまむものならなくに(古今和歌集)、 の、 あやなし、 は、 道理がない、 説明がつかない、 意である(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 あやなくも曇らぬ宵をいとふかな信夫(しのぶ)の里の秋の夜の月(新古今和歌集)、 では、 わけのわからないことに、 と訳注している(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 あやなし、 は、 文無し、 と当て、 あや(文)、 は、新撰字鏡(898〜901)に、 縵(マン 無地の絹)、傷ル文也、阿也奈支太太支奴(アヤナキタダキヌ)、 また、 腡(ラ)、掌内文理也、手乃阿也(てのあや)、 とあり、 水の上にあや織りみだる春の雨や山の緑をなべて染むらむ(新撰万葉集)、 と、 物の表面のはっきりした線や形の模様、 の意で、それをメタファに、 槇を折るに其の木の理(あや)に随ふ(法華経玄賛平安初期点)、 と、 事物の筋目、 の意で使う(岩波古語辞典)。「易経」繋辞に、 天地之文、 とあり、疏に、 若青赤相雜、故称文也、 とあり、和訓栞には、 韻瑞に、日月、天之文也、山川、地之文也、言語、人之文也、ト見ユ、 とある(大言海)。だから、 あやなし、 の、 あや、 は、 模様、筋目の意、 で(岩波古語辞典)、 あやなし、 は、 模様・筋目がないの意(広辞苑)、 文理(あや)なしの義、文目(あやめ)も分(わ)かず、理(すじ)立たずの意なり(大言海)、 で、 春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる(古今和歌集)、 いかでか三皇(さんこう)今上あまたおはします都の、いたづらに亡ぶるやうはあらんと、頼もしくこそ覚えしに、かくいとあやなきわざの出で来ぬるは(増鏡) などと、 筋が通らない、理屈に合わない、不条理なことである、無法である、 意で使うほか、 知る知らぬなにかあやなくわきていはん思ひのみこそしるべなりけれ(古今和歌集)、 と、 そうする理由がない、そうなる根拠がない、いわれがない、 意や、その派生で、 さすがに、心とどめて恨み給へりし折々、などて、あやなきすさび事につけても、さ思はれ奉りけむ(源氏物語)、 と、 無意味である、あっても意味がない、かいがない、とるにたりない、 などの意や、 向ふの方より久兵へは歎きにかるい思ひとも、いづれあやなししばらくも宿に独はいられづと(浄瑠璃「八百屋お七」)、 と、 物の判別もつかない、あやめもわからない、不分明である、 などの意や、 また人聞くばかりののしらむはあやなきを、いささか開けさせたまへ。いといぶせし(源氏物語)、 と、 わきまえがない、無考えである、 の意で使われる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。 あやなし、 は、 会話文に用いられる場合、女性が話者であることはないという。女性の語としては、和歌の中で機知をきかせるのに留まったようである、 とあり、 和語として上代に用例が見いだせないのは、漢語に由来する可能性を示唆する、 との説があり(仝上)、平安時代後期の漢詩文集「本朝文粋」立神祠に、 無文之秩紛然、 とあり、この、 「無文」は形容詞「あやなし」の語義に近い、 とある(仝上)。
「文」(漢音ブン、呉音モン)は、 しのぶれど恋しき時はあしひきの山より月の出でてこそ來れ(古今和歌集)、 の、 あしひきの、 は、 山にかかる枕詞、 である(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 阿志比紀能(アシヒキノ)山田を作り山高み下樋(したび)を走(わし)せ(古事記)、 けふのためと思ひて標(しめ)し足引乃(あしひきノ)峰(を)の上(へ)の桜かく咲きにけり(万葉集)、 あしひきの山より出づる月待つと人にはいひて妹待つ我を(万葉集) などと、奈良時代は、 あしひきの、 と清音、後に、 あしびきの、 と濁音化、 あしひきの、 の、 キ、 は、 kï、 の音の仮名で、 あしひきの、 は、 足引の、 と当てるが、 四段活用の引きではなく、ひきつる意を表す上二段活用の「ひき」であろう、 とある(岩波古語辞典)。平安時代の歌人たちは、 アシヒキのアシを「葦」の意に解していたらしい、 とある(仝上)。枕詞として、 「山」および「山」を含む熟合語、「山」と類義語である「峰(を)」などにかかる、 が(精選版日本国語大辞典)、 語義、かかりかた未詳、 とある(仝上)。 あしひきの、 の由来については、諸説あり、 「ヒ」の母交[iu]を想定してアシフキ(葦葺き)としただけですぐに解ける。〈茅屋(かかや)ども、葦葺ける廊(らう)めく屋(や)などをかしうしつらひなしたり〉(源氏物語)とあるが、アシフキノヤ(葦葺きの屋)をヤマと言い続けて「山」の枕詞としたものであるが、いつしかアシヒキ(足引)に母交をとげたのであった(日本語の語源)、 国土創造の時、神々が葦を引いた跡が川となり、捨てた所が山となったので、葦引きの山という(古今集註)、 古くはヤの音を起こす枕詞らしく、アシフキノヤ(葦葺屋)か、馬酔木の木から山を連想したとする説(豊田八千代)は参考すべき説(万葉集講義=折口信夫)、 という説は、上述の平安時代の解釈をもとにしており、音韻からも、ちょっといただけない気がする。 「あしびきの」で触れたように、 平安時代のアクセントからは、「葦」と理解すべきとの指摘もある、 万葉初期では、「き」が「木」と表記される例もあり、その表記には、植物のイメージがあるかも知れない、 などととし(http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68193)、「あし」が「葦」と重なる例として、石川郎女が大伴田主に贈った歌を挙げ、 我が聞きし耳によく似る葦の末(うれ)の足ひく我が背(せ)つとめ給(た)ぶべし、 で、 足の悪い田主を「葦の末の足ひく我が背」と、足をひきずる様子が柔らかく腰のない葦の葉に喩えられている、 としている(仝上)。しかし、これは「足」を「葦」と解釈した故で、先後が違う気がする。 推古天皇が狩りをしていた時、山路で足を痛め足を引いて歩いた故事から(和歌色葉)、 天竺の一角仙人は脚が鹿と同じだったので、大雨の山中で倒れて、足を引きながら歩いた故事から(仝上)、 国土が固まらなかった太古に、人間が泥土に足を取られて山へ登り降りするさまが脚を引くようであったから(仝上)、 大友皇子に射られた白鹿が足を引いて梢を奔った故事から(古今集注)、 アシヒキキノ(足引城之)の意。足は山の脚、引は引き延ばした意、城は山をいう(古事記伝)、 足敷山の轉。敷山は裾野の意(唔語・和訓栞)、 足を引きずりながら山を登る意(デジタル大辞泉)、 「ひき」は「引き」ではなく、足痛(あしひ)く「ひき」か(広辞苑)、 『医心方』に「脚気攀(あしなへ)不能行」を「攣」をアシナヘともヒキとも訓ませた(岩波古語辞典)、 等々は、「引く」説、他に、 冠辞考に、生繁木(オヒシミキ)の約轉と云へり(織衣(おりきぬ)、ありぎぬ。贖物(あがひもの)、あがもの。黄子(きみ)、きび)、上古の山々は、樹木、自然に繁かりし故に、山にかかる、萬葉集「垣(かき)越しに犬呼び越して鳥猟(とがり)する君青山の繁き山辺(やくへ)に馬休め君 (柿本人麻呂)」。他に、語源説種々あれど、皆憶測なり(大言海)、 アオシゲリキ(青茂木)の約か(音幻論=幸田露伴)、 イカシヒキ(茂檜木)の意か(万葉集枕詞解)、 も同趣の主張になる。他に種々説があり、たとえば、 悪しき日來るの意、三方沙弥が山越えの時、大雪にあい道に迷った時、「あしひきの山べもしらずしらかしの枝もたわわに雪のふれれば」と詠じたところから(和歌色葉)、 アソビキ(遊処)の音便(日本古語大辞典=松岡静雄)、 アスイヒノキの意。アスは満たして置く義の動詞、イヒは飯、キは界限する義の動詞クから転じた名詞「廓(キ)」(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 あはしひくいの(会はし引くいの)。「は」は消音化し「くい」が「き」になった。「あはし(会はし)」は「あひ(会ひ)」の尊敬表現。お会いになりの意。「い」は指示代名詞のそれ。古い時代、「それ」のように漠然とことやものを指し示す「い」があった。「お会ひになり引くそれの」のような意だが、お会いになり引くそれ、とは、お会いになり(私を)引くそれであり、それが山を意味する(https://ameblo.jp/gogen3000/entry-12447616732.html)、 等々がある。しかし、何れも理窟をこねすぎる。 語義、かかりかた未詳、 というところ(精選版日本国語大辞典)が妥当なのかもしれない。 「足」(@漢音ショク・呉音ソク、A漢音シュ・呉音ス)は、 象形。ひざからあし先までを描いたもので、関節がぐっと縮んで弾力をうみだすあし、 とあり(漢字源)、「跣足(せんそく)」、「鼎足(ていそく)」、「捷足」(しょうそく)」、「高足」、「過不足」、「充足」等々は@の発音、「足恭(そくきょう・しゅきょう)」の、「あまり……しすぎるほど」「十二分に」の意ではAの発音となる(仝上)。 他に、 象形。ひざから足先の形。「あし」を意味する漢語{足 /*tsok/}を表す字、 も(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B6%B3)、 象形。ひざの関節から下の部分の形にかたどる。ひざから足首までの部分の意を表す。借りて「たす」意に用いる、 も(角川新字源)、象形文字とするが、 指事文字です(口+止)。「人の胴体」の象形と「立ち止まる足」の象形から、「あし(人や動物のあし)」を意味する「足」という漢字が成り立ちました。また、本体にそなえるの意味から、「たす(添える、増す)」の意味も表すようになりました、 と(https://okjiten.jp/kanji14.html)、指示文字とする説もある。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 迸水定侵香案湿(迸水(ほうすい)定めて香案を侵(おか)して湿(うるお)い) 雨花應共石牀平(雨花(うか)は応(まさ)に石牀(せきしょう)と共に平らかなるべし)(王維・過乗如禅師蕭居士嵩丘蘭若) の、 雨花、 は、 雨のように降る花、 の意で、 天竺の維摩居士が方丈の室で説法すると、天女が、天花をまきちらしたという、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。「方丈」で触れたように、 維摩居士宅……躬以手板、縦横量之、得十笏(尺)、故號方丈(釋氏要覧)、 と、天竺の維摩居士の居室が、 方一丈であった、 ので、 方丈、 という。 天花、 は、 指揮如意天花落(如意を指揮すれば天花落ち) 坐臥阮[春草深(阮[(かんぼう)に坐臥すれば春草深し)(李頎・題璿講魔池) の、 天上の花、 の意(前野直彬注解『唐詩選』)である。 天華、 とも当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 てんか、 てんげ、 とも訓み、 第九随心供仏楽者、彼土衆生、昼夜六時常持種々天華、供養無量寿仏(往生要集)、 と、 天上界に咲くという霊妙な花、 をいい、それに喩えて、 かの塔のもとには……四種の天華ひらけたり(平治物語)、 と、 天上界の花にもたとえられる霊妙な花、 の意でも使う(仝上)。文字通り、 天上の神々たちの世界に咲く霊妙な華、 の意であるが、 釈尊が法を説くとき、しばしば天から雨のごとく降ったり、梵天が釈尊の上に散じて供養したりする華でもある、 とあり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A9%E8%8F%AF)、『大智度論』に、 天竺国の法として、諸の好き物を名づけて、みな天物と名づく。是れ人の華と非人の華とは天上の華に非ずと雖も、其の妙好なるを以ての故に名づけて天華と為す、 とあり、また義山『観無量寿経随聞講録』に、 吹諸天華とは、天は称美の言にして、天香等と云うが如し、 と、メタファとして、単にすばらしく妙なる華の意としても使われる。 四種の天華、 とは、 「四華」、 といい、妙法蓮華経序品第一に、仏陀が、 為諸菩薩説大乗経 名無量義 教菩薩法 仏所護念、 と、 諸の菩薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念を説きおわった、 とき、 是時天雨曼陀羅華 摩訶曼陀羅華 曼殊沙華 摩訶曼殊沙華(是の時に天より曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして)、 而散仏上 及諸大衆(仏の上及び諸の大衆に散じ) と(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/01-2.htm)あり、 曼陀羅華(まんだらけ 色が美しく芳香を放ち、見るものの心を悦ばせるという天界の花) 摩訶曼陀羅華(まかまんだらけ 摩訶は大きいという意味。大きな曼荼羅華) 曼殊沙華(まんじゅしゃけ この花を見るものを悪業から離れさせる、柔らかく白い天界の花) 摩訶曼殊沙華(まかまんじゅしゃけ 摩訶は大きいという意味。大きな曼殊沙華) の、 四華(しけ)、 をいう(仝上)とある。これを、 雨華瑞(うけずい)、 といい、 此土六瑞((しどのろくずい)、 のひとつとされ、『法華経』が説かれる際に、 花が雨ふってくる瑞相、 とされる(仝上)。因みに、法要中にする、 散華、 という花びらに似せた紙を散じるのは、この意味である(仝上)。「六瑞」「四華」については、「四華」で詳しく触れた。 「天」(テン)は、「天知る」で触れたように、 指事。大の字に立った人間の頭の上部の高く平らな部分を一印で示したもの。もと、巓(テン 頂)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らに広がる意を含む、 とある(漢字源)。別に、 象形。人間の頭を強調した形から(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%A9)、 指事文字。「人の頭部を大きく強調して示した文字」から「うえ・そら」を意味する「天」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji97.html)、 指事。大(人の正面の形)の頭部を強調して大きく書き、頭頂の意を表す。転じて、頭上に広がる空、自然の意に用いる(角川新字源)、 等々ともある。 「花」(漢音カ、呉音ケ)は、「はな」でも触れたが、 会意兼形声。化(カ)は、たった人がすわった姿に変化したことをあらわす会意文字。花は「艸(植物)+音符化」で、つぼみが開き、咲いて散るというように、姿を著しく変える植物の部分、 とある(漢字源)。「華」は、 もと別字であったが、後に混用された、 とあり(仝上)、また、 会意兼形声文字です。「木の花や葉が長く垂れ下がる」象形と「弓のそりを正す道具」の象形(「弓なりに曲がる」の意味だが、ここでは、「姱(カ)」などに通じ、「美しい」の意味)から、「美しいはな」を意味する漢字が成り立ちました。その後、六朝時代(184〜589)に「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「左右の人が点対称になるような形」の象形(「かわる」の意味)から、草の変化を意味し、そこから、「はな」を意味する「花」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji66.html)が、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 として(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8A%B1)、 形声。「艸」+音符「化」。「華」の下部を画数の少ない音符に置き換えた略字である、 とされ(仝上)、 形声。艸と、音符(クワ)とから成る。草の「はな」の意を表す。もと、華(クワ)の俗字、 とある(角川新字源)。 「華」(漢音カ、呉音ケ・ゲ)は、「花客」で触れたように、 会意兼形声。于(ウ)は、h線が=につかえてまるく曲がったさま。それに植物の葉の垂れた形の垂を加えたのが華の原字。「艸+垂(たれる)+音符于」で、くぼんでまるく曲がる意を含む、 とあり(漢字源)、 菊華、 と、 中心のくぼんだ丸い花、 を指し、後に、 広く草木のはな、 の意となった(仝上)とする。ただ、上記の、 会意形声説。「艸」+「垂」+音符「于」。「于」は、ものがつかえて丸くなること。それに花が垂れた様を表す「垂」を加えたものが元の形。丸い花をあらわす、 とする(藤堂明保)説とは別に、 象形説。「はな」を象ったもので、「拝」の旁の形が元の形、音は「花」からの仮借、 とする説もある(字統)。さらに、 会意形声。艸と、𠌶(クワ)とから成り、草木の美しい「はな」の意を表す、 とも(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AF)、 会意兼形声文字です。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「木の花や葉が長く垂れ下がる象形と弓のそりを正す道具の象形(「弓なりに曲がる」の意味)」(「垂れ曲がった草・木の花」の意味から、「はな(花)」を意味する「華」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji1431.html)ある。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 紅の色には出でじ隠れ沼(ぬ)の下にかよひて恋は死ぬとも(古今和歌集)、 の、 隠れ沼、 は、萬葉集では、 隠(こも)り沼(ぬ)の下(した)ゆ恋(こ)ふればすべをなみ妹(いも)が名告(なの)りつ忌(い)むべきものを(万葉集)、 と、 隠沼(こもりぬ)、 で、「下」にかかる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 隠沼(かくれぬ)、 は、 「こもりぬ(隠沼)」の誤読による語か(精選版日本国語大辞典)、 隠沼(こもりぬ)を誤読して出来た語か(デジタル大辞泉)、 万葉集の「隠沼(こもりぬ)の誤読から生れた語(岩波古語辞典)、 等々とあり、 隠れの沼、 ともいい、 隠れた沼、 つまり、 草などに覆われて上からはよく見えない沼、 をいう(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。 隠沼(こもりぬ)、 の、 ヌ、 は、 ヌマと同じ意味で、複合語に使う形、 とあり(岩波古語辞典)、 埴安(はにやす)の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人はまとふ(万葉集)、 と、 堤などで囲まれて水が流れ出ない沼、 の意や、 味鳧(あぢ)の住む須沙(すさ)の入江の許母理沼(コモリぬ)のあな息づかし見ず久(ひさ)にして(万葉集)、 と、 草木などが茂っている下に隠れて水の見えない沼、 意で使うが、基本、 流れのとどこおった沼(ぬま)のこと、 をいう(https://art-tags.net/manyo/eleven/m2441.html)。 ぬ(沼)、 は、和名類聚抄(931〜38年)に、 沼、奴、 とあり、語源に、 粘滑(ヌメル)の義(大言海)、 ナグの反。波の立たない意(名語記)、 粘り気あるいは水気のある意を表す語幹(国語の語根とその分類=大島正健)、 朝鮮語nop(沼)と同源か(岩波古語辞典)、 等々あるが、はっきりしない。では、 ぬま(沼)、 の語源はというと、天治字鏡(平安中期) 渭、奴萬、 字鏡(平安後期頃)に、 淇、水名、奴萬、 とあり、 沼閧フ義か(大言海)、 人の股までぬかるところからヌクマタの義(日本声母伝)、 ナメラマ(滑間)の義(言元梯)、 ヌカルマ(渟間)の義(志不可起)、 ヌメリ(滑)の義(名言通)、 ヌルミヅタメ(滑然水溜)の義、あるいはイネミズタメ(稲水溜)の義(日本語原学=林甕臣)、 水底の泥のさまからヌメ(黏滑)の義(箋注和名抄・日本語源=賀茂百樹)、 ヌはヌルの反で、ヌルキ水の義(名語記)、 雨の降らぬ間も水の有るところからか(和句解)、 等々あるが、付会に過ぎる気がする。上代には、沼を指す語として、 ヌマ、 と、 ヌ、 があるが、 ヌマ、 が、 沼(ぬま)二つ通(かよ)は鳥が巣我(あ)が心二(ふた)行くなもとなよ思はりそね(万葉集)、 と、単独で用いるが、上述のように、 ヌ、 は、 隠沼乃(こもりぬの)、 隠有小沼乃(こもりぬの)、 など、ほとんど複合語中に見られるので、 ヌはヌマの古形、 と考えられる(日本語源大辞典)とある。 「隱(隠)」(漢音イン、呉音オン)は、 会意兼形声。㥯の上部は「爪(手)+工印+ヨ(手)」の会意文字で、工形の物を上下の手で、おおいかくすさまを表す。隱はそれに心を添えた字を音符とし、阜(壁や土塀)を加えた字で、壁でかくして見えなくすることをあらわす。隠は工印を省いた略字、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です。「段のついた土山」の象形(「丘」の意味)と「上からかぶせた手の象形と工具の象形と手の象形と心臓の象形」(「工具を両手で覆いかくす」の意味)から、「かくされた地点」を意味する「隠」という漢字が成り立ちました。また、「慇(イン)」に通じ(同じ読みを持つ「慇」と同じ意味を持つようになって)、「いたむ(心配する)」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1278.html)。 「沼」(ショウ)は、 会意兼形声。刀は、曲線状にそったかたな。召は、手を曲げて招き寄せることで、招の原字。沼は、「水+音符召」で、水辺がゆるい曲線をなしたぬま、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(氵(水)+召)。「流れる水」の象形と「刀の象形と口の象形」(神秘の力を持つ刀をささげながら、祈りを唱えて神まねきをするさまから「まねく」の意味)から、河川の流域が変わって、その結果、水をまねき入れたようにできた「ぬま」を意味する「沼」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1081.html)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 冬の池に住むにほどりのつれもなくそこにかよふと人に知らすな(古今和歌集)、 の、 にほどり、 は、 かいつぶり、 の意とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 つれもなく、 は、 つれなくに「も」がはさまった形、 で、 素知らぬ様子で、 の意(仝上)。 にほどり、 は、 鳰鳥、 と当て、 鳰(にほ)、 ともいい(岩波古語辞典)、 カイツブリの古名、 である(仝上)。 和名類聚抄(931〜38年)には、 鸊鵜(へきてい)、邇保、 字鏡(平安後期頃)には、 鸊鷉(へきてい)、邇保、 鳰、邇保、 色葉字類抄(1177〜81)には、 鷸、ツラリ又カイツムリ、鶏属也、 とある。 カイツブリ、 は、 鳰(にお)、 鸊鷉(へきてい)、 鸊鵜(へきてい)、 かいつむり、 いっちょうむぐり、 むぐっちょ、 はっちょうむぐり、 息長鳥(しながどり)、 とも呼び、室町時代、 カイツブリ、 と呼ぶようになる。 カイツブリ、 は、 学名Tachybaptus ruficollis、 カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属、 に分類される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%96%E3%83%AA)。全長約26cmと、日本のカイツブリ科のなかではいちばん小さい(仝上)とある。 夏羽では首は赤茶色、冬羽では黄茶色です。足には各指にみずかきがあり、潜水は大得意で、足だけで泳ぎます。小魚、ザリガニ、エビ類、大きな水生昆虫などを食べています。日本では全国に分布しています。水ぬるむ春、池や沼や湖で、そこに浮いていたかと思うとアッという間にもぐってしまい、あちらの方でポッカリ浮かびあがる潜水の名手。水草を積み重ねて水面に浮巣をつくり、夏のはじめ、綿毛のようなかわいいヒナを連れて泳いでいます、 とある(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1402.html)。 その巣は、 鳰の浮巣、 と呼ばれる(日本語源大辞典)。また、 鳰(にほ)、 は、 鏡の山に月ぞさやけきにほてるや鳰のさざ波うつり来て(菟玖波集)、 と、 鳰(にお)の海、 の意で使われ、 におのみずうみ、 ともいい、 琵琶湖の異称、 である(精選版日本国語大辞典)。 また、後述のように、 鳰、 という漢字も、その生態から、 入(ニフ)をニホに用ゐ、入鳥の合字(田鶴、鴫の類)、 と作字された(大言海)ように、 にほ、 の語源も、 鳰は水に潜りて、水面に浮び出でざまに、長く息をつくという(仝上)生態から、 水に入る意から、入(ニフ)を用いる(大言海)、 水中に潜入するため、ニフドリ(入鳥)と言ったのが、ニホドリ(鳰鳥)・ニホ(鳰)になり、「袖中抄」(顕昭)に「ニとミとかよへり」とあるように、ニフドリがニホドリに転音した。さらに「ニ」が子交[nm]をとげてミホドリ(鳰鳥)になったった。略してニホ(鳰)、ミホ(鳰)という。 (日本語の語源)、 と見なされる。だから、 カイツブリ、 の語源も、 通音に、カイツムリとも云ふ。掻きつ潜りつ(カ(掻)キツ-ムグ(潜)りつ)の音便約略ならむか、或は、ツブリは、水に没する音(大言海)、 小魚を捕食するため水中に潜入するので、カヅキモグリ(潜き潜り)鳥と呼ばれていたが、「ヅキ」の転位でカツキモグリに転音し、モグ[m(og)u]が縮約されて、カキツムリ・カイツブリ(鳰)に転音した(日本語の語源)、 カイは、たちまちの義。ツブリは水に没する音(東雅・閑田次筆・俚言集覧・俗語考)、 カイ・ミヅムグリ(掻水潜)の約轉(言元梯)、 かしらが丸くて貝に似ているところから(和句解)、 水に入る習性から、カキツボマル(掻莟)の義(名言通)、 繰り返し頭から潜る掻き頭潜(つぶ)り(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%96%E3%83%AA)、 瓢箪のような体の形などから櫂(かひ)と瓢(つぶる)(仝上)、 と、多くその生態からとみているようだが、 水を「掻きつ潜(むぐ)りつ)が転じた、「カイ」は、たちまちの意で、潜る時の水音が「ツブリ」に転じたとする説が有力、 とある(仝上)。 かい、 は、 掻、 と当てる接頭語で、 掻き曇り、 掻き消し、 など、 掻きまわしたように、一面……になる、 意の、 掻きの音便、 で、その意味の派生で、 かいころび、 かいくぐり、 と、 ちょいと、ひょいと、軽くなどの気持を添える使い方、 があり、この、 かいつぶり、 のかい、 も、その、 ひょいと、 の意で、 ひょいと潜る、 意と見ていい(岩波古語辞典)。この、 にほどり、 は、冒頭の歌のように、 にほどりの、 で、枕詞として使われ、 いざ吾君(あぎ)振熊(ふるくま)が痛手負はずは邇本杼理能(ニホドリノ)淡海(あふみ)の海に潜(かづ)きせなわ(古事記)、 と、カイツブリがよく水にもぐることから、 かづく、 にかかり、転じて、 爾保杼里能(ニホドリノ)葛飾(かづしか)早稲(わせ)を饗(にへ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも(万葉集)、 と、同音の地名、 葛飾(かづしか)、 にかかり、息が長い意で、 爾保杼里乃(ニホドリノ)息長河(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽きめやも(万葉集)、 と、地名、 息長(おきなが)、 にかかる(精選版日本国語大辞典)。また、カイツブリが水に浮かんでいるところから、 思ひにし余りにしかば丹穂鳥(にほどりの)なづさひ来しを人見けむかも(万葉集)、 と、 なづさふ、 にかかり、また、カイツブリは繁殖期には雌雄が並んでいることが多いので、 爾保鳥能(ニホどりノ)二人並び居語らひし心背きて家離(ざか)りいます(万葉集)、 と、 二人並びゐ、 にかかる(仝上)。いずれも、万葉歌は、 カイツブリの生態を様々にとらえて修辞に利用しているので「葛飾」に懸かる場合を除き、枕詞でも直喩の性格が強い、 とある(精選版日本国語大辞典)。 「鳰」(ニホ)は、国字。 形声、「鳥+音符入(ニフ)」。水の中に入ることからニフの音を取って、名付けた、 とあり(漢字源)、 入(ニフ)をニホに用ゐ、入鳥の合字(田鶴、鴫の類)。水に入る意、 とある(大言海)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 鳰の海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(新古今和歌集)、 の、 鳰の海、 は、 琵琶湖の別名、 鳰の湖、 とも当て(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、 におのみずうみ、 とも訓み、 鳰(にほ)、 ともいう(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。 鳰の海の、 は、また、 近江の国の枕詞、 でもある(仝上)。 鳰、 については、「にほどり」で触れたように、 カイツブリの古名、 である。 鳰の海、 は、 湖辺の地名に仁保、または邇保から、萍(うきくさ)の跡、 との説もあるが、 琵琶湖に鳰鳥が多いところから、 ともあり(日本語源大辞典)、その名の由来ははっきりしない。 琵琶湖、 という呼称自体、いつ頃から琵琶湖とよばれたのかはつまびらかではない(日本歴史地名大系)とあり、古くは、 淡海(あふみ)の海(み)夕波千鳥 汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ(柿本人麻呂)、 と、 淡海、 淡海の海、 とも呼ばれていた。琵琶湖のある、 近江、 という国名は、遠江(とおとうみ)国(古称は、とほつあふみ(遠淡海)、琵琶湖を「近つ淡海」というのに対する)の、 浜名湖、 に対して都に近い、 近つ淡海、 つまり、 あはうみ、 から転じたものとされている(仝上)。 鹽海、 に対して、 アハウミ(淡海)、 であり、その アハウミ、 という琵琶湖の古称から、 近江、 に転訛したということである(名語記・万葉代匠記・和字正濫鈔・日本釈名・語意考・可成三註)。で、 近江海(おうみのみ)、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。もっとも、 淡海、 は借字で、 オフミ(大水)の訛、 とする説もある(日本古語大辞典=松岡静雄)が。ちなみに、 琵琶湖、 の呼称は、 ビワ(琵琶または枇杷)の形に似ているから(和漢三才図絵)、 竹生島には弁才天をまつり弁才天は妙音天女ともいい、枇杷につうじるところから(笈埃随筆)、 湖水を琵琶湖と名づくハ、竹生島の天女音楽を好み給ふ故、海を琵琶湖と名づく、因みて神を妙音天女と名づく(淡海録)、 湖海者琵琶形也(竹生島縁起)、 形が琵琶に似るところから(精選版日本国語大辞典)、 アイヌ語の「貝を採るところ」を意味する語に由来し、ビワ(ビハ)は水辺や湿原がある場所を指す(吉田金彦)、 などと、多く、その形からきているという説のようである(日本語源大辞典)。 古くは、 淡海の海瀬田の済(わたり)に潜(かづ)く鳥目にし見えねば 憤(いきどほろ)しも(日本書紀)、 いざ吾君(あぎ)振熊(ふるくま)が痛手負はずは鳰鳥(にほどり)の淡海の湖に潜(かづ)きせなわ(古事記) と、 淡海の海、 淡海の湖、 と使われ、 鳰の海、 を詠んだものは、冒頭の、 鳰の海や月の光のうつろへば波の花にも秋はみえけり(藤原家隆)、 の他、 しなてるや鳰の海に漕ぐ舟のまほならねども逢い見し物を(源氏物語) 我がそでの涙やにほの海ならんかりにも人をみるめなければ(千載集)、 と、新古今集、玉吟集(壬二(みに)集)などに見られ、比較的新しい。 淡海、 は、 「続日本紀」養老元年(七一七)九月一二日条に「淡海」とあり、六国史でも、淡海が公的な名称と考えられる(日本歴史地名大系)とある。 湖水、 という呼び名があるが、「山槐記」元暦二年(1185)七月九日条に、 近江湖水流北、 「石山寺縁起」巻一に、 水海(すいかい)、 とあるが、この、 近江湖水、 または、単に、 湖水、 という呼称は長く通用していた(仝上)とある。 琵琶湖、 という呼称は、元禄期(1688〜1704)の「淡海録」に、 琵琶湖、 とあり、東海道分間延絵図は、 近江湖水、 に注記し、 一名琵琶湖、 とするので、江戸中期までには琵琶湖の呼称はほぼ定着していた(仝上)とみられる。琵琶湖には、また、 細波(さざなみ)、 という呼称もあり、 近江の国の風土記引きて言わく、淡海の国は淡海を以ちて国の号と為す。故に一名を細波国と言ふ。目の前に湖上の漣(さざなみ)を向ひ観るが所以なり、 とある(https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/kendoseibi/koutsu/12389.html)。 なお、「かいつぶり」については、「にほどり」で触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 満つ潮の流れひるまを逢ひがたみみるめの浦によるをこそ待て(古今和歌集)、 おほかたはわが名もみなとこぎ出でなむ世をうみべたにみるめ少なし(仝上)、 の、 みるめ、 は、 みるめ(海松布)と見る目(逢う折)との掛詞、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 みるめ、 は、 海松布、 水松布、 と当て、 海藻ミル、 のこと、和歌では多く、 「見る目」とかけて用いられる、 とある(精選版日本国語大辞典)。 みるめ、 の、 メ、 は、 アラメ・ワカメのメと同じ、海藻類の総称、 とあり(岩波古語辞典)、 メ、 に、 布、 の字を当てるについては、「昆布」で触れたように、 (昆布は)蝦夷(アイヌ)の語、kombuの字音訳なり、夷布(えびぬのと云ふも、それなり、海藻類に、荒布(あせめ)・若布(わかめ)・搗布(かぢめ)など、布の字を用ゐるも、昆布より移れるならむ、支那の本草に、昆布を挙げたり、然れども、東海に生ず、とあれば、此方より移りたるなるべし、コフと云ふは、コンブの約なり(勘解由(かんげゆ)、かげゆ。見参(げんざん)、げざん)、廣布(ひろめ)と云ふは、海藻の中にて、葉の幅、最も広きが故に、名とするなり、 とある(大言海)。『続日本紀』に、 霊亀元年十月「蝦夷、須賀君古麻比留等言、先祖以来貢献昆布、常採此地、年時不闕、云々、請於閉村、便達郡家、同於百姓、共率親族、永不闕貢」(熟蝦夷(にぎえみし)なり。陸奥、牡鹿郡邊の地ならむ、金華山以北には、昆布あり、今の陸中の閉伊郡とは懸隔セリ)」 とあり、アイヌと関わることはありそうである。和名類聚抄(931〜38年)には、 本草云、昆布、生東海、和名比呂米、一名、衣比須女、 とあり、色葉字類抄(1177〜81)には、 昆布、エビスメ、ヒロメ、コブ、 とある。本草和名には 昆布、一名綸布(かんぽ)。和名比呂女、一名衣比須女、 ともあり、 昆布、 は、古くは、 ヒロメ(広布)、 エビスメ、 等々と呼んだ。因みに、後漢代の「本草」(神農本草経)には、 綸布、一名昆布、出高麗如捲麻、黄黒色、柔韌可食、今海苔紫菜皆似綸、恐卽是也、 とある(字源)。この、 昆布、 の音読、 コンブ、 訛って、 コブ、 とする説(日本語源大辞典)もありえる気がする。いずれにしろ、 布、 の字当てる、 メ、 は、 志賀(しか)の海女(あま)は藻(め)刈(か)り塩(しほ)焼き暇(いとま)無(な)み櫛笥(くしげ)の小櫛(をぐし)取りも見なくに(万葉集)、 藻、 昆布、 海布、 等々と当て、 モ(藻)の転か(岩波古語辞典)、 芽の義かと云ふ、或は云ふ、藻の轉(大言海)、 とある。 藻、 は、和名類聚抄(931〜38年)に、 藻、毛、一名毛波、一本水中菜、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 藻、モ、モハ、 とあるように、 モハの略、 とあり(大言海)、この、 モハ、 の略が、 メ、 に転訛した可能性は高い。 芽 は、 モエ(萌)の約(名語記・古事記伝・言元梯・松屋筆記・菊池俗語考・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・大言海)、 か、 メ(目)の義(名語記・九桂草堂随筆・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・岩波古語辞典・国語溯原=大矢徹・国語の語根とその分類=大島正健)、 と別れるが、 草木の種や根・枝から出て新しい葉や茎になろうとする、 という説もあり得ると思うのは、 見る目、 に掛ける、 目(メは、古語マ(目)の転)、 は、 芽と同根、 とされるからだ。いずれとも判別は難しい。個人的には、 モ(藻)→メ(海布)、 の気がするが。 海藻、 ミル、 は、 海松、 水松、 と当て(岩波古語辞典)、 ミルメ(海松布)の略、分岐して生えているところからマル(散)と同義か(日本語源=賀茂百樹)、 ムルの転。ムルはマツラクの反、松に似ているところから(名語記)、 海に居て形が松に似ているから(https://www.flower-db.com/ja/flowers/codium-fragile)、 「水松」を「うみまつ」と読ませ、「俗にいう海松」と説明している(和漢三才図絵)。 とあり、 海松色 海松模様、 とも言われるので、「松」に加担したいが、これは後世の謂いで、おそらく、 ミルメ(海松布)の略、 かと思われる。 ミルは、 学名:Codium fragile、 世界中の温かい海に生息する緑藻という海藻の一種、日本各地の海の潮間帯下部〜潮下帯の岩礁に生息し、色は深緑で二分枝しながら長さ40cm程に成長します。枝の断面は太さ1cm程で丸く長いのが、人間の指の様に見えます。以前は食用として食べられていましたが現在では日本では食用としていません、 とある(https://www.flower-db.com/ja/flowers/codium-fragile)。 大宝律令で朝廷へ納める税には、海松も納税品の一つとされてたし、神饌(しんせん、みけ)にも用いられ、萬葉集でも、 御食(みけ)向(むか)ふ淡路の島に直(ただ)向ふ敏馬(みぬめ)の浦の沖辺(おきへ)には深海松(ふかみる)摘み浦廻(うらみ)には名告藻(なのりそ)刈り深海松(ふかみる)の見まく欲しけど名告藻(なのりそ)おのが名(な)惜(を)しみ間使(まつか)ひも遣(や)らずて我(われ)は生けりともなし、 と詠われている(仝上)。 因みに、 海松色(みるいろ)、 は、 海松(ミル)の色、 を言い、 くすんだ黄緑色、 で(https://woman.mynavi.jp/kosodate/articles/16490)、 海松色、 に合う色のひとつに、 若草色(わかくさいろ)、 があり、 この二つを組み合わせることで、清々しい若さを感じさせる配色になります、 とある(https://woman.mynavi.jp/kosodate/articles/16490)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 陸奥の安積(あさか)の沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ(古今和歌集)、 の、 花かつみ、 は、 菖蒲、あやめ、薦(こも)等々の説があるが、いかなる植物か不明、 とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、 花かつみ、 は、 「かつ」「かつて」にかかる序詞、 として用いる(広辞苑)とある。この、 みちのくの安積の沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたむ(古今和歌集)、 を本歌とする、 野辺はいまだあさかの沼に刈る草のかつ見るままに茂る頃かな(新古今和歌集)、 では、 刈る草、 で、 本歌の花かつみを暗示する、 とし(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、 花かつみ、 は、 真菰とも野花菖蒲、 ともいうとし、 後者か、 としている(仝上)。 はなかつみ、 は、 花勝見、 と当て(広辞苑)、 水辺の草の名、秋、ヨシに似た穂が出る、 とあり(岩波古語辞典)、一説に、 マコモ、 とあり(仝上・広辞苑)、 諸説、区々なれど、菰(マコモ)なりと云ふ、 ともある(大言海)。この故は、 かつみ、 は、 勝見、 と当て、 かつみぐさの略、 で、 マコモの異称、 とされる(仝上)からである。 「刈菰」で触れたように、 真菰刈る淀の沢水雨降ればつねよりことにまさるわが恋(古今和歌集)、 などと詠われる、 真菰、 は、 真薦、 とも当て、「ま」は、 接頭語(岩波古語辞典)、 まは発語と云ふ(大言海)、 マは美称の接頭語(角川古語大辞典・小学館古語大辞典)、 とあり、色葉字類抄(1177〜81)に、 菰、マコモ、コモ、 とあり、 こも(薦・菰)、 のことで、 かつみ、 はなかつみ、 まこもぐさ かすみぐさ、 伏柴(ふししば)、 ともよぶがイネとは異なる(広辞苑・大言海)。 真菰、 は、古くから、 神が宿る草。 として大切に扱われ、しめ縄としても使われてきた(https://www.biople.jp/articles/detail/2071)。 「こも」は、 薦、 菰、 と当て、 まこも(真菰)の古名、 とある(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)。 イネ科の大形多年草。各地の水辺に生える。高さ一〜二メートル。地下茎は太く横にはう。葉は線形で長さ〇・五〜一メートル。秋、茎頂に円錐形の大きな花穂を伸ばし、上部に淡緑色で芒(のぎ)のある雌小穂を、下部に赤紫色で披針形の雄小穂をつける。黒穂病にかかった幼苗をこもづのといい、食用にし、また油を加えて眉墨をつくる。葉でむしろを編み、ちまきを巻く、 とあり、漢名、 菰、 という(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。 マコモの種子、 は米に先だつ在来の穀粒で、縄文中期の遺跡である千葉県高根木戸貝塚や海老が作り貝塚の、食糧を蓄えたとみられる小竪穴(たてあな)や土器の中から種子が検出されている、 とある(日本大百科全書)。江戸時代にも、『殖産略説』に、 美濃国(みののくに)多芸(たぎ)郡有尾村の戸長による菰米飯炊方(こもまいめしのたきかた)、菰米団子製法などの「菰米取調書」の記録がある、 という。中国では、マコモの種子を、 波漂菰米沈雲K(波は菰米(こべい)を漂わして沈雲(ちんうん)黒く)(杜甫・秋興)、 と、 菰米、 と呼び、 色は黒く、食用に供するので米という、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。 古く『周礼(しゅらい)』(春秋時代)のなかで、 供御五飯の一つ、 とされている。なお、茎頂にマコモ黒穂菌が寄生すると、伸長が阻害され、根ぎわでたけのこ(筍)のように太く肥大する。これを、 マコモタケ、 という。内部は純白で皮をむいて輪切りにし、油いためなど中国料理にする。根と種子は漢方薬として消化不良、止渇、心臓病、利尿の処方に用いられる(マイペディア)。(マイペディア)。その故か、 かつみ、 の由来は、 糧實(カテミ)の転(竪(タテ)、たつ)、實の食糧に充つべき意かと云ふ、 とある(大言海)。 たしかに、 かつみ、 は、 まこも、 だとして、しかし、あえて、それに「花」を冠させて、 花かつみ、 と言ったのには、理由がなければならない。「花」の印象が薄い点では、 ショウブ、 も、 マコモ、 と、どっこいどっこいな気がする。では、 花しょうぶ、 なのか。ただ、 ノハナショウブ、 は、 かきつばた、 とは違い、水辺に生えない。どれかとは決め手がない。 マコモ、 ショウブ、 以外に、 デンジソウ、 ヒメシャガ、 という説もあるらしい(https://www.tamagawa.ac.jp/agriculture/teachers/tabuchi/theme/02/02_2.html)が。 なお、「あやめ」「かきつばた」「ショウブ」については、「あやめぐさ」、「何れ菖蒲」で触れた。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 西望瑤池(ようち)降王母(西のかた瑤池を望めば王母(おうぼ)降(くだ)り) 東來紫氣滿函關(東來の紫氣(しき) 函關(かんかん)に滿つ)(杜甫・秋興三) の、 王母、 は、 西王母(せいおうぼ・さいおうぼ)、 のこと、 瑤池、 は、 崑崙山中にあるという、伝説の池、 で、 この池のほとりに西王母の住居があり、むかし周の穆(ぼく)王が西方を旅行したとき、この池のほとりで西王母のもてなしを受けたと伝えられる、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。 東來紫氣滿函關、 の、 函關、 は、 函谷関、 のこと、 これを越えて西に進めば、長安に至る、 とあり(仝上)、 東來紫氣、 とは、函谷関の関守の伊喜(いんき)が、 紫の気が近づくのを見て、老子の到来を予測した、 という故事にもとづく(仝上)とある。漢の劉向の「列仙伝」に、 老子が西方へ旅行しようとして函谷関まできたとき、関守の伊喜が東方から仙人が近づいているのを認め、老子の到来を予知した、 という (仝上)。 「崑崙山(こんろんさん)」、 は、 こんろんざん、 とも訓ませ、 中国古代の伝説上の山、 で、「崑崙」は、 昆侖、 とも書き、 霊魂の山、 の意で、 崑崙山(こんろんさん、クンルンシャン)、 崑崙丘(きゅう)、 崑崙虚(きょ)、 崑山、 ともいい(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%91%E5%B4%99・ブリタニカ国際大百科事典)、中国の古代信仰では、 神霊は聖山によって天にのぼる、 と信じられ、崑崙山は最も神聖な山で、大地の両極にあるとされた(仝上)。中国北魏代の水系に関する地理書『水経(すいけい)』(515年)註に、 山在西北、……高、萬一千里、 とあり、中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』には、 崑崙……高萬仞、面有九井、以玉為檻、 とあり、その位置は、 瑶水(ようすい)という河の西南へ四百里(山海経)、 とか、 西海の南、流沙(りゅうさ)のほとりにある(大荒西経)、 とか、 貊国(はくこく)の西北にある(海内西経)、 と諸説あり、 その広さは八百里四方あり、高さは一万仞(約1万5千メートル)、 あり、 山の上に木禾(ぼっか)という穀物の仲間の木があり、その高さは五尋(ひろ)、太さは五抱えある。欄干が翡翠(ひすい)で作られた9個の井戸がある。ほかに、9個の門があり、そのうちの一つは「開明門(かいめいもん)」といい、開明獣(かいめいじゅう)が守っている。開明獣は9個の人間の頭を持った虎である。崑崙山の八方には峻厳な岩山があり、英雄である羿(げい)のような人間以外は誰も登ることはできない。また、崑崙山からはここを水源とする赤水(せきすい)、黄河(こうが)、洋水、黒水、弱水(じゃくすい)、青水という河が流れ出ている、 とある(http://flamboyant.jp/prcmini/prcplace/prcplace075/prcplace075.html)。『淮南子(えなんじ)』(紀元前2世紀)にも、 崑崙山には九重の楼閣があり、その高さはおよそ一万一千里(4千4百万キロ)もある。山の上には木禾があり、西に珠樹(しゅじゅ)、玉樹、琁樹(せんじゅ)、不死樹という木があり、東には沙棠(さとう)、琅玕(ろうかん)、南には絳樹(こうじゅ)、北には碧樹(へきじゅ)、瑶樹(ようじゅ)が生えている。四方の城壁には約1600mおきに幅3mの門が四十ある。門のそばには9つの井戸があり、玉の器が置かれている。崑崙山には天の宮殿に通じる天門があり、その中に県圃(けんぽ)、涼風(りょうふう)、樊桐(はんとう)という山があり、黄水という川がこれらの山を三回巡って水源に戻ってくる。これが丹水(たんすい)で、この水を飲めば不死になる。崑崙山には倍の高さのところに涼風山があり、これに昇ると不死になれる。さらに倍の高さのところに県圃があり、これに登ると風雨を自在に操れる神通力が手に入る。さらにこの倍のところはもはや天帝の住む上天であり、ここまで登ると神になれる、 とある(仝上)。初めは、 天上に住む天帝の下界における都、 とされ、 諸神が集り、四季の循環を促す「気」が吹渡る、 とされていたが、のちに神仙思想の強い影響から、古代中国人にとっての、 理想的な他界、 とされ、女仙の、 西王母(せいおうぼ)、 が居を構え、その水を飲めば不死になるという川がそこの周りを巡っているという、 地上の楽土、 とされた。黄帝の崑崙登山や、上述のように、西周(せいしゅう)の穆(ぼく)王が、この山上に西王母を訪ねた伝説がある(日本大百科全書)。 西王母(せいおうぼ、さいおうぼ)、 は、 中国で古くから信仰された女仙、女神、 で、 姓は緱(あるいは楊)、名は回、字は婉姈、一字は太虚、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%8E%8B%E6%AF%8D)。神にも、 姓と名、 はともかくとして、 字、 があるとするのが、中国らしい。 西王母(せいおうぼ)、 の、 王母、 は、 祖母や女王のような聖母、 といった意味であり、 西王母、 は西方にある崑崙山上の天界を統べる母なる女王の尊称、 である。天界にある、 瑶池と蟠桃園、 の女主人でもあり、すべての女仙を支配する、 最上位の女神、 とさけれ、 東王父(とうおうふ)、 に対応する(仝上)とある。ついでに、「蟠桃園」とは、 西王母の桃園、 で、 夭々灼々として桃は樹に盈ち 歴々累々として果は枝を圧す、玄都凡俗の種にあらず、瑤池の王母みずから栽培せるもの(西遊記)、 という。山海経では、 西方の崑崙山に住む神女、 で、 人面・虎歯・豹尾・蓬髪、 の(精選版日本国語大辞典)、 半人半獣、 で、 不老長寿、 をもって知られ(デジタル大辞泉)、 三青鳥が食物を運ぶ、 とある(マイペディア)が、のち漢代になると西王母は神仙思想と結びついて、 仙女化、 し、淮南子では、 不死の薬をもった仙女、 とされ、さらに周の穆王(ぼくおう)が西征してともに瑤池で遊んだといい(列子・周穆王)、長寿を願う漢の武帝が仙桃を与えられたという伝説ができ、漢代には、 西王母信仰、 が広く行なわれた(精選版日本国語大辞典)とある。『漢武内伝』には、 前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は墉宮玉女たち(西王母の侍女)とともに天上から降り、三千年に一度咲くという仙桃七顆を与えた、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%8E%8B%E6%AF%8D)。本来、 両性具有、 から、男性的な要素が対となる男神の、 東王父(とうおうふ)、 に分離し、両者で不老不死の支配者という性格が与えられていったことになる(仝上)。 雀西飛竟未廻(青雀(せいじゃく) 西に飛んで竟(つい)に未(いま)だ廻(かえ)らず) 君王長在集靈臺(君王(くんのう)は長(つね)に集霊台に在り)(李商隠・漢宮詞) の、 青雀、 は、 西王母の使者の鳥、 で、 「漢武故事」(班固)によると、 漢の武帝のとき、この鳥が西方から飛来し、西王母の訪問を予告した、 とあり(前野直彬注解『唐詩選』)、 やがて西王母があらわれ、武帝と一夕の宴を共にしたが、不老長生の術は教えずに去った、 という(仝上)。「漢武故事」には、 王母遣使謂帝曰、七月七日我當暫來。帝至日、掃宮內、然九華燈。七月七日、上於承華殿齋。日正中、忽見有青鳥從西方來、集殿前。上問東方朔。朔對曰、西王母暮必降尊像。上宜灑掃以待之。……有頃、王母至。……下車、上迎拜、延母坐、請不死之藥。母曰、……帝滯情不遣、欲心尚多。不死之藥、未可致也。……母既去、上惆悵良久(王母使いを遣し帝に謂て曰く、七月七日我当に暫く来たるべし、と。帝、日至るや、宮内を掃め、九華灯を然(もや)す。七月七日、上(しょう)は承華殿に於いて斎(ものいみ)す。日正(まさ)に中(ちゅう)するに、忽ち青鳥有り、西方より来りて、殿前に集まるを見る。上(しょう)は東方朔(とうほうさく)に問う。朔は対えて曰く、西王母、暮れに必ず尊像を降(くだ)さん。上(しょう)は宜しく灑掃(さいそう)し以て之を待つべし、と。……頃(しばら)く有りて、王母至る。……車を下くだれば、上(しょう)迎えて拝し、母(ぼ)を延(ひ)きて坐(すわら)しめ、不死の薬を請う。母(ぼ)曰く、……帝は滞情(たいじょう)遣らず、欲心尚お多し。不死の薬は、未だ致す可からざるなり、と。……母(ぼ)既に去り、上(しょう)は惆悵(ちゅうちょう)たること良(やや)久しうす) とある(https://kanbun.info/syubu/toushisen435.html)。この、 青鳥、 とは、『山海経』西山経の、 又西二百二十里、曰三危之山。三青鳥居之(又西二百二十里を、三危の山と曰う。三青鳥之に居る)、 の、 三青鳥、 のことで、郭璞(かくはく)の注に、 三鳥主爲西王母取食者。別自棲息於此山也(三青鳥は西王母の為に食を取るを主つかさどる者。別に自ら此の山に棲息するなり)、 とある(仝上)。結局、武帝は不老不死の薬を所望したが西王母は与えず、去って行ったことになる。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 乗興杳然迷出處(興に乗じては杳然として出処に迷い) 對君疑是泛虚舟(君に対して疑うらくは是れ虚舟を泛べしかと)(杜甫・題張氏隠居) の、 虚舟、 は、 人の乗っていない舟、 の意で、「荘子」山木篇に、 舟で川をわたるとき、「虚舟」がきて衝突したのでは、短気な人でも怒りようがないとあるのにもとづく、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。 虚舟(きょしゅう)、 は、文字通り、 以忠信而済難、若乗虚舟以渉川也(易経)、 と、 からぶね(空船)、 つまり、 人の乗っていない舟、 の意だが、それをメタファに、 願早収綸旨、莫繋小僧虚舟之心(「本朝文粋(1060頃)」)、 と、 胸中になんのわだかまりもないたとえ、 で、 虚心、 の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。 「荘子」山木篇にあるのは、 方舟而済于河、有虚船来触舟、雖有惼心之人不怒、 で、同じ趣旨の言葉が『淮南子』詮言訓(淮南王劉安(前179〜前122)が招致した数千の賓客と方術の士に編纂された思想書)にも、 方船濟乎江、有虚舟従一方來、雖有忮心、必無怨色、 とあり、 虚舟舟に触るとも人怒らず、 ということわざとなっている。即ち、 無心の行為は、人の感情を害することはない、 と(故事ことわざの辞典)。同趣旨のことわざに、 怒気有る者も飄瓦は咎めずとて、身が達のやうな短気が軒下を通る時、屋根の瓦が落ちかかって、小鬢さきをいはされても、相手は瓦、ひとり腹は立てられまい、この譬がよい教訓(浄瑠璃「男作五雁金」)、 と、 怒気ある者も飄瓦(ひょうが)は咎めず、 というのがある(仝上)。荘子は、 方舟而濟於河、有虚船來觸舟、雖有惼心之人不怒、 に続いて、 有一人在其上、則呼張歙之、一呼而不聞、再呼而不聞、於是三呼邪、則必以惡聲隨之。向也不怒而今也怒、向也?而今也實。人能虚己以遊世、其孰能害之、 とあり、 ぶつかってきた舟に人が乗っているなら、その人は声をかける。一回声をかけても聞こえないなら、二度、三度目の声をかけ、今度は必ず、怒る。要は、虚心であれば、だれが害し得るか、という、 虚舟の喩、 である。ところで、この、 虚舟、 を、 うつろぶね、 と訓み、訛って、 うつお(ほ)ぶね、 というと、 かの変化(へんげ)のものをばうつせほぶねにいれて流されけるとぞきこえし(平家物語)、 と、 空舟、 とも当て、 大木をくり抜いて造った舟、 つまり、 丸木舟、 の意となる(広辞苑)。また、 うつろぶね、 は、江戸時代、享和三年(1803)2月22日、常陸国への漂着したという、今でいう、 未確認物体、 で、文政年間の「弘賢随筆」には、 うつろ舟の蛮女、 として、図が付されている(https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hyoryu/contents/12.html)。 後年に曲亭馬琴は、虚舟事件を扱う談話の1つとして兎園小説『虚舟の蛮女』を表したが、似た話は、各地にあり、柳田國男は論文「うつぼ舟の話」で「兎圓」は各地の伝説であり、実際事件ではないと断じた。「うつろ舟」については、https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/koubunsho/tenji32.htmlやhttps://web-mu.jp/history/12733/等々が詳しい。 「虚(虛)」(漢音キョ、呉音コ)は、「虚空無性」で触れたように、 形声。丘(キュウ)は、両側におかがあり、中央にくぼんだ空地のあるさま。虚(キョ)は「丘の原字(くぼみ)+音符虍(コ)」。虍(とら)とは直接関係がない、 とあり(漢字源)、呉音コは「虚空」「虚無僧」のような場合にしか用いない、ともある。別に、 形声。意符丘(=。おか)と、音符虍(コ→キヨ)とから成る。神霊が舞い降りる大きなおかの意を表す。「墟(キヨ)」の原字。借りて「むなしい」意に用いる、 とも(角川新字源)、 形声文字です。「虎(とら)の頭」の象形(「虎」の意味だが、ここでは「巨」に通じ(「巨」と同じ意味を持つようになって)、「大きい」の意味)と「丘」の象形(「荒れ果てた都の跡、または墓地」の意味)から、「大きな丘」、「むなしい」を意味する「虚」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1322.html)。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 君てへば見まれ見ずまれ富士の嶺(ね)のめづらしげなく燃ゆるわが恋(古今和歌集)、 の、 てへば、 は、 といへばの縮まった形、 で、 まれ、 は、 「AまれBまれ」の形で、AであろうとBであろうと、 の意、土佐日記に、 とまれかうまれ、とく破(や)りてむ、 の例がある(仝上)。 まれ、 は、 もあれの約、 で(広辞苑)、 もあれ、 は、 係助詞「も」にラ変動詞「あり」の命令形「あれ」の付いた「もあれ」の変化したもの、 とされ(精選版日本国語大辞典)、 にてもあれ、 の意で(大言海)、多くの場合、 ひとにまれ、鬼にまれ、かへし奉れ(蜻蛉日記)、 と、 …(に)まれ…(に)まれ、 の形で用いられ、 …(で)あろうと、 …でも、 の意となる(仝上・広辞苑)。 なお、 稀、 希、 と当てる、 まれ、 は、 古形マラの転、事の起こる機会や物が少なくて不安定、まばらであるさま。類義語タマサカは、出会いの偶然であるさま、 とあり(岩波古語辞典)、 まれに来て飽きかず別るる織女(たなばた)は立ち歸るべき道なからなむ(新撰万葉集)、 と、 めったにないさま、 の意や、だから、 里はなれ心すごくて、海士の家だにまれになど(源氏物語) と、 少ないさま、 の意でも使う。この、 まれ、 は、 阯L(まあれ)の約かと云ふ(大言海)、 阯L(まある)の義(言元梯・名言通・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)、 マは間の義(国語本義)、 など、 マ(閨j、 と絡める説があるが、意味からはそんな気がする。 「稀」(漢音キ、呉音ケ)は、 会意兼形声。希は「爻(交差した糸の模様)+巾(ぬの)」の会意文字で、まばらな織り方をした薄い布。稀は「禾(作物)+音符希」で、穀物のまばらなこと。古典では、希で代用する、 とある(漢字源)。もと、 「希」が{稀}を表す字であったが、「禾」を加えた、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A8%80)。 人生七十古來稀(杜甫・曲江) と詠われた、「稀」である。 「希」(漢音キ、呉音ケ)は、 会意文字。「メ二つ(まじわる)+巾(ぬの)」で、細かく交差して負った布。すきまがほとんどないことから、微小で少ない意となり、またその小さいすき間を通して何かを求める意となった、 とある(漢字源)。同趣旨だが、 会意。布と、(㐅は省略形。織りめ)とから成り、細かい織りめ、ひいて微少、「まれ」の意を表す。借りて「こいねがう」意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意文字です(爻+布)。「織り目」の象形と「頭に巻く布きれにひもをつけて帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)から、織り目が少ないを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「まれ」を意味する「希」という漢字が成り立ちました(また、「祈(キ)」に通じ(同じ読みを持つ「祈」と同じ意味を持つようになって)、「もとめる」の意味も表すようになりました)、 ともある( https://okjiten.jp/kanji659.html)が、 糸と糸がまばらに折り重なったさまを象る象形文字が原字で、のち布を表す「巾」を加えて「希」の字体となる。「まばら」を意味する漢語{稀 /*həj/}を表す字。のち仮借して「のぞむ」を意味する漢語{希 /*həj/}に用いる、 と(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%8C)、象形文字とする説もある。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 太平時節身難遇(太平の時節 身(み) 遇い難し) 郎署何須笑二毛(郎署(ろうしょ)何(なん)ぞ須(もち)いん二毛を笑うを)(韓愈・奉和庫部盧四兄曹長元日朝廻) の、 郎署(ろうしょ)、 とは、 尚書省の郎中・員外郎のつとめる役所、 をいい、 漢代では宿衛の役人のつとめるところで、漢の武帝が郎署の前を通ったとき、ここにつとめたまま昇進することもなく年をとった顔駟という運の悪い老人に会ったという故事をふまえる、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。『漢武故事』によると、 顔駟は、文帝・景帝・武帝の3代に仕えた。最初の文帝は学問を好んだが、顔駟は武芸が得意だった。次の景帝は老成した者を好んだが、その時まだ顔駟は若年だった。次の武帝は若者を好んだが、その時すでに顔駟は老人になっており、結局ずっと不遇だった、 とあり、これを知った武帝は、顔駟を都尉に抜擢した(物語要素事典)という。 二毛、 は、 白い毛と黒い毛、 を言い、 白髪まじりの老人、 をいう。「礼記」檀弓篇に、 古之侵伐者、不斬祀、不殺氏A不獲二毛(古(いにしえ)の侵伐する者は、祀を斬(た)たず、氏iれい)を殺さず、二毛を獲(とら)えず)、 とあるのにもとづく(仝上)とある。漢代の「左伝」(春秋左氏傳)僖公廿二年にも、 公(僖公)曰君子不重傷、不禽二毛、古之爲軍也、不以阻隘也、寡人雖亡國之余、不鼓不成列 とあり、 班白、 と同義とあり(字源)、その註に、 二毛、頭白有二色、 とある(大言海)。左伝の他、上述のように、前漢の「禮記」に、 古之侵伐者、不斬祀、不殺氏A不獲二毛、 とあるほかに、前漢代の「淮南子(えなんじ)」にも、 古之伐國不殺黃口(幼兒)、不獲二毛(老人)、於古為義、於今為笑、 とあり、一種、儒者の君子論の中に位置づけられるらしい。これに対して、上述の左伝で、司馬子魚(公子目夷)は、 君未知戦、 と決めつけ、 君は今だ戦を知らず、勍敵の人、隘にして列を成さざるは、天の我を賛くるなり、阻にして之に鼓うつ、亦可ならざらんや。猶懼るること有り、且つ、今の勍き者は皆我が敵なり、胡耇(耆)に及ぶと雖も獲なば則ち之を取らん、二毛において何か有らん、恥を明にし戦を教ふるは、敵を殺さんことを求むるなり、傷つくとも未だ死するに及ばざれば、如何ぞ重ねること勿らんや、若し傷を重ぬるを愛(いとし)まば、則ち傷くること勿きに如かんや、其の二毛を愛まば、則ち服(したが)ふに如かんや、三軍は利を以て用ゐるなり、金鼓は聲を以て気(たす)くるなり、利にして之を用ゐば、隘に阻するも可なり、聲盛にして志を致さば、儳に鼓うたんも可なり、 と反論しているという(http://nippon-chugoku-gakkai.org/wp-content/uploads/2019/09/27-05.pdf)。なお、 軍中に用いる鐘と太鼓、 について、 進むに鼓を用い、とどまるに鐘を用いる、 とあり(https://chdict.conomet.com/word/%E9%87%91%E9%BC%93)、 金鼓、 は、 金鼓斉鳴、 と、 鐘と太鼓がいっしょに鳴る、 つまり、 激戦のさま、 の意とある(仝上)。 「二」(漢音ジ、呉音ニ)は、 指事文字。二本の横線を並べたさまを示すもので、二つの意を示す、 とあり(漢字源)、 貮(弐)、 は、 古文の字体で、おもに証文や公文書で改竄・誤解を防ぐために用いる、 とある(漢字源)。 「毛」(慣用モ、漢音ボウ、呉音モウ)は、「吹毛の咎」で触れたように、 象形。細かいけを描いたもので、細く小さい意を含む、 とある(漢字源)。別に、 象形文字です。「けの生えている」象形から「け」を意味する「毛」という漢字が成り立ちました、 ともある(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji228.html)。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 関口順「春秋時代の『戦』とその残像」(http://nippon-chugoku-gakkai.org/wp-content/uploads/2019/09/27-05.pdf) 此地別燕丹(此の地 燕丹(えんたん)に別わかれしとき) 壯士髮衝冠(壮士 髪(はつ) 冠を衝けり) 昔時人已沒(昔時(せきじ) 人已に没し) 今日水猶寒(今日(こんにち) 水猶なお寒し)(駱賓王・易水送別) の、 髪衝冠、 は、 怒髪冠(天)を衝く、 のたとえで知られる、 髪が逆立って、冠を押し上げる、 意で、 悲憤慷慨の極致に達した時の形容、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。 戦国の末期、燕の太子丹は秦王(のちの始皇帝)に怨みを抱き、荊軻という剣客を送って暗殺させようとした。荊軻の出発にあたり、丹は臣下とともに喪服をつけ、易水のほとりで送別の宴を張ったが、そのとき荊軻が、 風蕭蕭兮易水寒(風蕭蕭として易水寒し) 壯士一去兮不復還(壯士一たび去って復た還(かえ)らず) と詠ったので、人々はみな目を怒らせ、 髪尽(ことごと)く上りて冠を指した、 とある(仝上)。その場面は、「史記」卷八十六・刺客列傳第二十六に、 太子及賓客知其事者、皆白衣冠以送之。至易水之上、既祖、取道、高漸離撃筑、荊軻和而歌、爲變徴之聲、士皆垂涙涕。又前而爲歌曰 風蕭蕭兮易水寒、壯士一去兮不復還、復爲偵゚慷慨、士皆瞑目、髮盡上指冠。於是荊軻就車而去、終已不顧(太子及び賓客その事を知る者は、皆白衣冠を以つて之を送る。易水(えきすい)の上(ほとり)に至り、既に祖して、道を取る。高漸離(こうぜんり)筑を撃ち、荊軻、和して歌ひ、変徴(へんち)の聲(せい)を為す。士皆涙を垂れて涕泣す。又前(すす)みて歌を為(つく)りて曰く、風蕭蕭しょうしょうとして易水寒く、壮士一たび去りて復た還らず、と。復た羽聲(うせい)を為して慷慨す。士皆目を瞋(いか)らし、髮盡(ことごと)く上がりて冠を指す。是に於いて荊軻車に就きて去る。終に已に顧みず) とある(http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/keika1.html)。 怒髪冠(天)を衝く、 は、史記・藺相如(りんしょうじょ)傳に、 相如視秦王無意償趙城、乃前曰、璧有疵、請指示王、王授璧、相如因持璧却立倚柱、怒髪上衝冠、 とある。しかし、 怒髪上衝冠、 については、 怒にて句すべきを、古来誤読して怒を髪の形容詞とす、 とある(字源)。つまり、 怒、髪上衝冠、 で、本来、 冠を衝くほどの怒り、 という喩えだったという意味のようである。藺相如(りんしょうじょ)については、「刎頸の交わり」で触れた。 なお、陶淵明に「詠荊軻」という詩がある(https://tao.hix05.com/Hinshi/hinshi03.html)。 燕丹善養士(燕丹善く士を養ひ) 志在報強秦(志は強秦に報ゆるに在り) 招集百夫良(百夫の良を招集し) 歳暮得荊卿(歳暮に荊卿を得たり) 君子死知己(君子 知己に死す) 提劍出燕京(劍を提げて燕京を出づ) 素驥鳴廣陌(素驥 廣陌に鳴き) 慷慨送我行(慷慨して我が行を送る) 雄髮指危冠(雄髮 危冠を指し) 猛氣衝長纓(猛氣 長纓を衝く) 飮餞易水上(飮餞す易水の上) 四座列群英(四座群英を列ぬ) 漸離撃悲筑(漸離 悲筑を撃ち) 宋意唱高聲(宋意 高聲に唱ふ) 蕭蕭哀風逝(蕭蕭として哀風逝き) 淡淡寒波生(淡淡として寒波生ず) 商音更流涕(商音に更に流涕し) 羽奏壯士驚(羽奏に壯士驚く) 心知去不歸(心に知る去りて歸らず) 且有後世名(且つは後世の名有らんと) 登車何時顧(車に登りては何れの時か顧みん) 飛蓋入秦庭(蓋を飛ばして秦庭に入る) 凌脂z萬里(凌獅ニして萬里を越え) 逶逶過千城(逶逶として千城を過ぐ) 圖窮事自至(圖窮まって事自から至り) 豪主正征營(豪主正に征營す) 惜哉劍術疏(惜しい哉劍術疏にして) 奇功遂不成(奇功遂に成らず) 其人雖已沒(其の人已に沒すると雖も) 千載有餘情(千載餘情有り) なお、荊軻については、井波律子『中国侠客列伝』、司馬遷『史記列伝』で触れた。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 簡野道明『字源』(角川書店) さむしろに衣かたしき今宵もやわれを待つらむ宇治の橋姫(古今和歌集)、 の、 さむしろ、 は、歌語で、 「さ」は、「さ夜」「さ衣」などと同じ接頭語、 とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、 かたしき、 は、 衣を重ねて供寝するのではなく、一人寝で、自分の衣だけを敷く、 とある(仝上)。 「後朝(きぬぎぬ)」で触れたように、 男女互いに衣を脱ぎ、かさねて寝る、 朝に、 起き別るる時、衣が別々になる、 のを、 きぬぎぬ、 と言い、 我が衣をば我が着、人の衣をば人に着せて起きわかるるによりて云ふなり、 とある(古今集註)。 橋姫、 は、 宇治橋を守る女神、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)が、「宇治の橋姫」で触れたように、 橋に祀られていた女性の神、 で(日本伝奇伝説大辞典)、 その信仰から、 橋姫伝説が生まれた、 とある(仝上)。 思案橋(橋を渡るべきか戻るべきか思いあぐねたとされる)、 細語(ささやき)橋(その上に立つとささやき声が聞こえる)、 面影橋(この世のものではない存在が、見え隠れする)、 姿不見(すがたみず)橋(声はすれども姿が見えない)、 等々と言われる伝説の橋には、 橋姫、 が祀られている(日本昔話事典)。「橋」も「峠」と同じく、 信仰の境界であり、ここに外からの災厄を防ぐために、祀られたものらしい(仝上)。主に、 古くからある大きな橋では、橋姫が外敵の侵入を防ぐ橋の守護神として、 祀られている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB)。「橋姫」信仰は、広く、 水神信仰、 の一つと考えられ、 外敵を防ぐため、橋のたもとに男女二神を祀ったのがその初めではないか、 とある(日本伝奇伝説大辞典)。つまり、 境の神、 としての、 道祖神、 塞(さえ)の神、 の性格を持ち、 避けて通れぬ橋のたもとに橋姫を祀り、敵対者の侵入を阻止し、自分たちの安全を祈った、 ものとみられる(仝上)。この歌では、 実際に宇治にいる女性というよりは、遠く離れてなかなか会えない女性の比喩か、 と注釈される(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 かたしく、 は、 片敷く、 と当て、 吾が恋ふる妹はあはさず玉の浦に衣片敷(かたしき)ひとりかも寝む(万葉集)、 と、 寝るために自分ひとりの着物を敷く、 つまり、 独り寝をする、 意や、 よるになれども装束もくつろげ給はず、袖をかたしゐてふし給ひたりけるが(平家物語)、 と、 腕や肘(ひじ)を枕にして独り寝する、 意であり、 かたしきごろも(片敷衣) というと、 岩のうへにかたしき衣ただひとへかさねやせまし峯の白雲(新古今和歌集)、 と、 独り寝の衣、 の意となるが、これは、古く、 男女が共寝するとき、互いの着物の袖を敷きかわして寝たところからいう、 とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。ただ、 かた、 が接頭語的に用いられて、 天飛ぶや領巾(ひれ)可多思吉(カタシキ)ま玉手の玉手さしかへあまた夜もいも寝てしかも(万葉集)、 と、 寝るために着物などを敷く、 意でも使う(仝上)。 かたしく、 は、 「万葉集」に詠まれ、平安時代には「古今‐恋四」以来、歌語として盛んに用いられたが、 袖・衣を片敷く、 と詠む例が多いが、「新古今集」の頃から、旅寝の歌などで、 伊勢の浜荻・草葉・露・真菅・岩根・紅葉などをかたしくという表現が目立ちはじめ、新古今和歌集では、冒頭の歌のように、 独り寝をする、 意で使い、 涙・夢・嵐・波・雲・風・梅の匂などをかたしくといった感覚的な表現が出現する、 とある(精選版日本国語大辞典)。さらに、後には、 片敷く、 の文字通り、 ふる雪に軒ばかたしくみ山木のおくる梢にあらしふくなり(寂蓮集) の、 傾く、 意や、 庭には葎(むぐら)片敷(カタシキ)て、心の儘に荒たる籬(まがき)は、しげき野辺よりも猶乱(源平盛衰記)、 と、 一方にのびひろがる、 意で使われたりするに至る(仝上)。 「片」(ヘン)は、 象形。片は、爿(ショウ 寝台の長細い板)の逆の形であるともいい、また木の字を半分に切ったその右側の部分であるとも言う。いずれにせよ、木のきれはしを描いたもの。薄く平らなきれはしのこと、 とある(漢字源)。他に、 象形。枝を含めた木の片割れを象る(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%89%87)、 象形。木を二つ割りにした右半分の形にかたどり、板のかたほう、また、割る意を表す(角川新字源)、 など、同趣旨だが、別に、 指事文字です。「大地を覆う木の象形の右半分」で、「木の切れはし」、「平たく薄い物体」を意味する「片」という漢字が成り立ちました、 と(https://okjiten.jp/kanji951.html)、指示文字とする説もある。 「敷」(フ)は、 会意兼形声。甫(ホ・フ)は、芽の生え出たタンポポを示す会意文字で、平らな畑のこと。圃の原字。敷の左側は、もと「寸(手の指)+音符甫(平ら)」の会意兼形声文字で、指四本を平らにそろえてぴたりと当てること。敷はそれを音符とし、攴(動詞の記号)を添えた字。ぴたりと平らに当てる、または平らに伸ばす動作を示す、 とある(漢字源)が、また、 会意形声。攴と、旉(フ)(しく)とから成る。しきのべる意を表す、 も(角川新字源)、 会意兼形声文字です(旉+攵(攴))。「草の芽の象形と耕地(田畑)の象形と右手の象形」(「稲の苗をしきならべる」の意味)と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「ボクッと打つ・たたく」の意味)から、「しく」を意味する「敷」という漢字が成り立ちました、 も(https://okjiten.jp/kanji1111.html)同趣旨だが、別に、 形声。「攴」+音符「尃 /*PA/」。「しく」を意味する漢語{敷 /*ph(r)a/}を表す字、 と(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%95%B7)、異なる説もある。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 君や來むわれや行かむのいさよひに真木の板戸もささず寝にけり(古今和歌集)、 の、 真木、 は、 杉や檜など、固くて建築に適した木、 で(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、 いさよひ、 は、 物事や行動が思うように進まないこと、転じて、なかなか出てこない十六夜の月をいう、ここは両方の意、 とある(仝上)。 いさよふ、 は、上代は清音だが、鎌倉時代以降、 いざよふ、 と濁音化するが、 山の端にいさよふ(不知世經)月の出でむかと我が待つ君が夜はくたちつつ(万葉集)、 もののふの八十氏河の網代木にいさよふ(不知代経)波の行方知らずも(万葉集)、 と、 (波・雲・月・心などが)ぐずぐずして早く進まない、 動かず停滞している、 意で使う(岩波古語辞典)。この名詞形、 いさよひ、 は、冒頭の歌のように、 ためらう、 いざよう、 意で使い、転じて、 (十六夜)月の出を早くと待っても、月がいざよふ、 という気持から、 はかなくも我よのふけをしらずしていさよふ月を待わたる哉(木工権頭為忠百首)、 と、 陰暦十六日夜の月、また、その夜、 の意となる(仝上)。で、 いざよふつき、 に(古くは「いさよう月」)、 猶予月、 とあてる(精選版日本国語大辞典)。 十六夜の月、 については「いざよい」で触れたように、 満月よりも遅く、ためらうようにでてくるのでいう、 とある(広辞苑)。大言海は、 日没より少し後れて出づるに因りて、躊躇(いさよ)ふと云ふなり。イサヨフは、唯、やすらふの意の語なれど、特に此の月に云ふなり。…和訓栞、いさよひ「ヨヒを、青に通ハシ云ふ也」。十七夜の月を立待の月と云ひ、十八夜の月をゐまち(居待)の月と云ふ、 とする。この、 いさよふ、 の語源は、岩波古語辞典が、 イサはイサ(否)・イサカヒ(諍)・イサヒ(叱)と同根。前進を抑制する意。ヨヒはタダヨヒ(漂)のヨヒに同じ、 とし、大言海が、 不知(いさ)の活用にて、否(イナ)の義に移り、否みて進まぬ意にてもあらむか。ヨフは、揺(うご)きて定まらぬ意の、助動詞の如きもの、タダヨフ(漂蕩)、モコヨフ(蜿蜒)の類、 とし、また、 いなと通へり。否の義なりと云へり(和訓栞)、 を引き、 萬葉集「不言(イナ)と言はむかも」の古写本に、不知に作れりと云ふ、同「不聴(イナ)と云へど」(不聴許の意)、此語は、清音にて、いさ知らず、と熟語となるべき語なり、さるに常に然(しか)言馴れては、終に下略して「いさ」とのみも云ふ、因りて、不知の字を、直ちに、「いさ」に用ゐるに至れり、足引きの山、ぬばたまの夜、なるを、足引きの(山の)木間(このま)、ぬばたまの(夜の)月、と云ふが如し、 としていて、微妙に違う。 「よひ」は、 ただよひ、 かがよひ、 もごよひ、 などの「よひ」で、動揺し、揺曳する意(岩波古語辞典)として、「いさ」は、 否、 不知、 と当て、 イサカヒ・イサチ・イサヒ・イサメ(禁)・イサヨヒなどと同根。相手に対する拒否・抑制の気持ちを表す、 とあり(仝上)、相手の言葉に対して、 さあ、いさ知らない、 さあ、いさわからない、 という使い方をしたり、「いや」「いやなに」「ええと」など、相手をはぐらかしたりするのに使う(岩波古語辞典)、とある。これだと、月が、 はぐらかしている、 という含意になる。どちらとも決めかねるが、個人的には、「はぐらかす」よりは、「出しぶる」意味の方がいいような気がするが、月を主体にすれば、「はぐらかす」になり、見る側からみれば「出しぶる」になるので、同じことと言えばいえる。別に、 「いさ」は感動詞「いさ」と同根。「よふ」は「ただよふ(漂)」などの「よふ」か、 とする説(日本語源大辞典)もある。「いさ」は、 さあ、 と人を誘うときや、自分が思い立った時、 の言葉だが(岩波古語辞典)、通常、 いざ、 と濁る。大言海は、この、 いさ、 に、 率、 去来、 と当て、 イは、発語、サは誘う声の、ささ(さあさあ)の、サなり。いざいざと重ねても云ふ。…発語を冠するによりて濁る。伊弉諾尊、誘ふのイザ、是なり。率の字は、ひきゐるにて、誘引する意。開花天皇の春日率川宮も、古事記には、伊邪川(いざかはの)宮とあり、 とする。そして、 「いさ」(不知)と「いざ」(率)と混ずべからず、 としている(大言海)。やはり、感嘆詞は、無理があるかもしれない。因みに、 いざ、 に、 去来、 と当てるのは、「帰去来」からきている。帰去来は、 かへんなむいざ、 と訓ませるが、 訓点の語、帰りなむ、いざの音便。仮名ナムは、完了の助動詞。來(ライ)の字にイザを充(あ)つ。來(ライ)は、助語にて、助語審象に「來者、誘而啓之之辞」など見ゆ(字典に「來、呼也」、周禮、春官「大祝來瞽」。來たれの義より、イザの意となる)。帰去来と云ふ熟語の訓点なれば、イザが語の下にあるなり。史記、帰去来辞(ききょらいのことば)、など夙(はや)くより教科書なれば、此訓語、普遍なりしと見えて、古くより上略して、去来の二字を、イザに充て用ゐられたり、 とある(大言海)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 宿昔青雲志(宿昔(しゅくせき) 青雲の志) 蹉跎白髪年(蹉跎(さた)たり 白髪の年) 誰知明鏡裏(誰か知らん 明鏡の裏) 形影自相憐(形影(けいえい) 自ら相憐まんとは)(張九齢・照鏡見白髪) のタイトル、 照鏡、 とは、 鏡に顔をうつしてみること、 とあり(前野直彬注解『唐詩選』)、 ある日、鏡を見たら、頭のしらがが目についた。わが身の老いの実感と、なすこともなく過ぎ去った生涯への追想をこめた詩、 と注釈がある(仝上)。また、 形影(けいえい)、 は、 形は姿、影はその影、 の意で、ここでは、魏の曹植が、 躬を責むる詩を上(たてまつ)る表、 で、 形影相弔(とむら)い、五情愧赧(きたん)す、 とあるのを踏まえ、 鏡にうつった影、 の意とある(仝上)。 蹉跎(さた・さだ)、 は、 時機を失すること、 むなしく時を過ごしてしまうこと、 とあり(仝上)、 蹉跎歳月(さたさいげつ)、 という四字熟語もある(四字熟語辞典)。 蹉跎、 は、「楚辞」九懐に、 楚辞曰、驥垂雨耳兮、中阪蹉跎、 とあり、西京賦薛綜注に、 廣雅曰。蹉跎、失足也、 とある(和名類聚抄)ように、 顛躓、 と同義で、 つまづく、 足を失ひたふる、 意だが(字源)、転じて、 欲自修而年已蹉跎(晉書・周處傳)、 と、 時機を失う、 意となり、さらに、それを敷衍して、冒頭のように、 蹉跎白髪年、 と、 不幸せにて志を得ず、 の意で使われる(字源)。 蹉跎白髪(さたはくはつ)、 は同義になり、 翫歳愒日(がんさいけいじつ)、 無為徒食(むいとしょく)、 も類似の意味になる(仝上)。 翫歳愒日(がんさいけいじつ)、 の、 「翫」と「愒」はどちらも貪(むさぼ)る、 という意味で、「春秋左氏伝」昭公元年が出典、 歳を翫(むさぼ)り日を愒(むさぼ)る、 とも訓読し、 人々を治める者が行ってはならないことを述べたもの、 とある(仝上)。 無為徒食(むいとしょく)、 の、 「無為」は何もしないこと、「徒食」は働かないで食べること、 で、 何もしないでただ過ごすこと、 の意となり、少し意味がずれる。むしろ、 酔生夢死(すいせいむし)、 飽食終日(ほうしょくしゅうじつ)、 遊生夢死(ゆうせいむし)、 が似た意味になり、 走尸行肉(そうしこうにく)、 というと、 走る屍骸と歩く肉、 という意味で、 生きていても役に立たない人、 と、人を侮蔑するときに使う(仝上)。 「蹉」(サ)は、 会意兼形声。「足+音符差(ちぐはぐ、くいちがう)」 とあり(漢字源)、「蹉跌」というように、躓く意であり、賓客不得蹉(賓客は蹉するを得ず)と、やり過ごす意、である。 「跎」(タ、ダ)は、餘り辞書に載らず、やはり、躓く意である。徒然草に、 日暮れて塗(みち 途)遠し。吾が生已に蹉跎(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり、 と使われている。この元は、唐書・白居易傳にある詩「念佛偈」らしい。それは、 餘年七十一 不復事吟哦 看經費眼力 作福畏奔波 何以度心眼 一聲阿彌陀 行也阿彌陀 坐也阿彌陀 縱饒忙似箭 不廢阿彌陀 日暮而途遠 吾生已嗟跎 但夕清淨心 但念阿彌陀 達人應笑我 多卻阿彌陀 達又作麼生 不達又如何 普勸法界眾(衆) 同念阿彌陀 とあるものらしいのだが、 日暮れて塗(みち)遠し、 のフレーズは、 年を取ってしまったのに、まだ目的を達するまでには程遠いたとえ、 として、 日暮れて塗(みち)遠し。われ、故に倒行(とうこう)してこれを逆施(ぎゃくし)するのみ と、「史記」伍子胥伝にある(デジタル大辞泉)。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 簡野道明『字源』(角川書店) 坐観垂釣者(坐(そぞ)ろ釣りを垂るる者を観ては) 徒有羨魚情(徒らに魚を羨むの情有り)(孟浩然・臨洞庭上張丞相) の、 羨魚情(せんぎょのじょう)、 は、 魚を欲しがる気持ち、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。 「漢書」董仲舒(とうちゅうじょ)伝に、 淵に臨んで魚を羨むば、退いて網を結ぶに如かず、 とあるのに拠る。 希望ばかりしているよりは、その希望がかなえられるように、自分で行動すべきだという教え、 とある(仝上)。淮南王劉安(紀元前179〜122年)が編纂させた思想書『淮南子(えなんじ)』に、 臨河而羨魚(河に臨んで魚を羨む)、 とあるが、前漢・武帝の時代なので、80年ころ成立の『漢書(かんじょ)』(前漢書)より、こちらのが古いようだ。 羨魚情、 は、 臨淵羨魚(りんえんせんぎょ)、 と、四字熟語となっており、上記漢書の、 臨淵而羨魚、不如退而結網(淵に臨んで魚を羨む、退いて網を結ふに如かず) にもとづき、 池のそばに立ってのぞきこんでいるだけでは、魚は手に入らないので、家に帰って網を作れ、 という意から(学研四字熟語辞典)、 願望を達成するには有効な手段を考えるべきだ、 という意とある(仝上)。 臨河而羨魚、 も、 臨河羨魚、 となる。他に、 臨淵之羨(りんえんのせん)、 羨魚結網(せんぎょけつもう)、 臨淵之羨(りんえんのせん)、 臨河羨魚(りんがせんぎょ)、 という四字熟語になっている。 「臨」(リン)は、「莅む」で触れたように、 会意。臣は、下に伏せてうつむいた目を描いた象形文字。臨は「臣(ふせ目)+人+いろいろな品」で、人が高いところから下方の物を見下ろすことを示す、 とある(漢字源)。別に、 形声。意符臥(ふせる)と、音符品(ヒム)→(リム)とから成る。物をよく見定める意を表す。転じて「のぞむ」意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意文字です(臥+品)。「しっかり見開いた目」の象形と「のぞきこむ人」の象形と「とりどりの個性を持つ品」の象形から、とりどりの個性を持つ品をのぞき込む事を意味し、そこから、「のぞむ」、「みおろす」を意味する「臨」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1072.html)。 「羨」(@漢音セン・呉音ゼン、A漢音呉音エン・慣用セン)は、 会意文字。「羊+よだれ」で、いいものをみてよだれを長く垂らすこと。羊はうまいもの、よいものをあらわす、 とあり(漢字源)、「臨河而羨魚」の、「うらやむ」意や、以羨補不足(羨(あま)れるを以て足らざるを補う)の、「あまる」の意の場合は、@の発音、「羨道(エンドウ)」の、墓の入口から墓室へ通じる長く伸びた地下道の意の場合は、Aの発音、とある(仝上)。別に、 会意形声。羊と、㳄(セン)(よだれを流す)とから成り、羊の肉などのごちそうに誘発されてよだれを流す、ひいて「うらやむ」意を表す(角川新字源)、 会意兼形声文字です(羊+次)。「羊の首」の象形(「羊」の意味)と「流れる水の象形と人が口を開けている象形」(「口を開けた人の水「よだれ」の意味)から、羊のごちそうを見て、よだれを流す事を意味し、そこから、「うらやむ」、「うらやましい」を意味する「羨」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2179.html)、 も、会意兼形声文字とするが、これを否定し、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 として、 形声。「羊」+音符「㳄 /*LAN/」、 と、形声文字とする説(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%A8)もある。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 遺却珊瑚鞭(遺却(いきゃく)す 珊瑚(さんご)の鞭) 白馬驕不行(白馬(はくば)驕(おご)りて 行(ゆ)かず) 章台折楊柳(章台(しょうだい) 楊柳(ようりゅう)を折る) 春日路傍情(春日(しゅんじつ)路傍の情)(崔国輔・長楽少年行) の、 章台、 は、唐詩では、 遊里の代名詞、 のように使い(前野直彬注解『唐詩選』)、 折楊柳、 は、 揚柳の枝を折って鞭のかわりとする、 意味だが、唐詩では、 楊柳の枝を折る、 というと、 思う人との別れに際して形見に送る、 とか、または、 女を男になびかせる とかの意味がある(仝上)とあり、ここでは、 次の句と結んで、後者の意味を言外にこめ、路傍の人に向かっておこしたあだし心をあらわしていると考えられよう、 との注釈がある(仝上)。別に、 折楊柳、 には、 遊女を相手に遊ぶ、 という意味もある(https://mausebengel.blog.fc2.com/blog-entry-571.html)とある。この詩自体、 白馬にまたがった貴公子がこれから遊里に繰り込もうとする説、 貴公子が遊里をぞめきながら、左右の妓女たちに戯れている説、 思う女のもとを立ち出でた貴公子が道端の娘にふと心を動かしたとする説、 等々があり、確定していない、とあり(前野直彬注解『唐詩選』)、また、 珊瑚鞭を忘れてしまい、遊郭であそぶしかないとする説、 まである(https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900034364/KJ00004164468.pdf)。注釈者は、 読者の想像力にまかせて、ただ春の日の色町の雰囲気を、美しく歌い上げた、 と解釈している(前野直彬注解『唐詩選』)。この詩は、いろんな意味で、有名で、たとえば、山東京伝が、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名描いた、浮世絵に『吉原傾城新美人合自筆鏡』(天明四(1784)年)がある。当時評判だった遊女の姿を描いているが、他は自作の歌を書いているが、松葉屋の瀬川は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いている。 また、吉増剛造は、自分の詩の中で、 涙ぐんで長安をおもい 唐詩をくちずさむ 珊瑚ノ鞭ヲ遺却スレバ、白馬驕リテ行カズ 章台楊柳ヲ折ル、春日路傍ノ情(疾走詩篇) と、この詩の一節を写している。 楊柳、 とは、 楊はカワヤナギ、柳はシダレヤナギ、 の意(広辞苑・字源)で、 昔我往矣、楊柳依依、今我来思、雨雪霏霏(詩経・小雅)、 と、 柳、 を指す。 カワヤナギ(川柳)、 は、 川のほとりにある柳、 で、ふつう、 ネコヤナギ、 をいい(精選版日本国語大辞典)、 シダレヤナギ(枝垂柳)、 は、 イトヤナギ(糸柳)、 ジスリヤナギ、 などの別名があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%80%E3%83%AC%E3%83%A4%E3%83%8A%E3%82%AE)、ふつう、 柳、 というと、これを指す。 そして、一般に、 柳を折る、 というと、昔、中国で、 柳の枝を折って旅に出発する人を見送った、 ことから、 旅に出発する人を見送る、 ことを意味する(デジタル大辞泉・ことわざ辞典)。もともと、 早春の寒食や清明などの節日には、家々では競って柳の枝を買って門や軒端に挿し、あるいは枝を髪に結んだり輪にして頭にいただいたりした、 とあり、これに類するのが、 折楊柳、 の習俗で、 親戚知友が遠方に旅立つときには、城外まで見送り、水辺の柳の枝を折り取り環(わ)の形に結んで贈った。〈環〉は〈還〉で、旅人の無事帰還を祈る意味とされているが、実際には日本の魂(たま)むすびの古俗と同じく、旅人が旅に疲れて魂を失散させないよう、しっかりとつなぎとめる意味であった、 とある(世界大百科事典)。また、山口素堂の、 弱笠痩節寄一身(弱笠痩飾に一身を寄す) 離鍵回首悩吟身(離莚回首して吟身を悩ます) 河邊楊棚無由折(河邊の楊柳折るに由し無し) 早動翠條迎老身(早く翠條を動かして老身を迎ふ)、 の、 楊柳折る、 について、六朝時代の地誌『三輔黄図』を参考にすれば、 漠代、長安の人が客を送って鰯橋に至り―長安の東にあった―春の柳の枝を折って環に結んで別れる慣わしがあった、 とある(黄東遠「山口素堂の漢詩文の特色について」)。それが漢詩に反映され、 折楊柳、 といえば、 悲しみを思い起こさせる「送別」、 または、 六朝・唐の詩人たちに歌われた「送別を奏する曲」、 に転じていく(仝上)、とある。 送別の歌、 と、 女性を靡かせる手段、 との関係がよく見えないが、 旅人が旅に疲れて魂を失散させないよう、しっかりとつなぎとめる、 というかつての習慣の意味が、 思い人をつなぎとめる、 意味に変じた、ということのようだ。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 黄東遠「山口素堂の漢詩文の特色について」(https://core.ac.uk/download/56630493.pdf)
尚有綈袍贈(尚お綈袍(ていほう)の贈有り) 應憐范叔寒(應(まさ)に范叔(はんしゅく)の寒を憐みしなり) 不知天下士(天下の士たるを知らずして) 猶作布衣看(猶お布衣(ふい)の看(かん)を作(な)せり)(高適・詠史) の、 范叔、 は、「史記」范睢蔡澤列傳に、 睢者、魏人也、字叔、 とあり、 范睢(はんしょ)、 のこと、 天下士、 とは、 一国一城にとどまらず、天下全体を対象とするほどの才能を持った士、 のことで、ここでは、 范睢、 を指す(前野直彬注解『唐詩選』)。この詩は、「史記」范睢蔡澤列傳の次のような史実をうたっている(仝上)。つまり、 戦国時代の范睢は魏の大夫須賈(しゅこ)に仕えたが、その供をして斉へ行ったとき、斉王が范睢の弁舌に感じて黄金などを与えたのを、須賈は范が斉王に内通したと疑い、帰国後宰相にその旨を告げ、過酷な刑に処した(史記には、「使舍人笞擊睢、折脅摺齒、睢詳死、即卷以簀、置廁中」とある)。范は、辛うじて逃げ出し、変名して秦に仕え、宰相に至った。そこへ須が使者に来たので、范はわざとみすぼらしい身なりをし、会いに行ったところ、須は寒いだろうと同情して、綈袍(綿入れの上着)をめぐんだ。その後、須は宰相を訪問し、范であることを知って驚き、謝罪すると、范は綈袍をくれたのは昔なじみを思う心がまだ残っていた証拠だといって、須を許した、 という(仝上)。このエピソードから、 綈袍恋恋(ていほうれんれん)、 という熟語ができ、 友情のあついこと、また友情の変わらないことのたとえ、 として使う(デジタル大辞泉)。史記には、須賈が范叔に綈袍をめぐむところを、 范叔一寒如此哉、乃取其一綈袍以賜之 と記し、 范叔一寒此の如きか、 といったことが、上記詩の、 應憐范叔寒、 の意味である。なお、「史記」范睢蔡澤列傳は、https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7079に詳しい。 布衣(ふい)、 は、 葛や麻などで織った着物、 をいい(前野直彬注解『唐詩選』)、 これを着るのは無位無官の人、 なので、 布衣、 は、 平民、 を意味する(仝上)。 布衣(フイ・ホイ)、 は(フは呉音、ホは漢音)、 王蠋布衣也(史記・田単傳)、 と、 官位なき人、 の意だが、古えは、 庶人は布を衣る、故に云ふ、 とある(字源)。 布、 は、 綿布、 麻布、 など、植物の繊維にて織りたるもの、 をいう(仝上)。で、 布衣之位、 というと、 賤しき身分、 布衣之友、 というと、 身分地位に関せずして交わる友、 の意味になる(仝上)。 布衣、 より起こって天下を統一した人物として、 漢の高祖、 明の洪武帝、 が例に挙げられるが、「史記」高祖紀に、 高祖之れを嫚罵(まんば)して曰く、吾(われ)布衣を以て、三尺の劍を提げて天下を取る。此れ天命に非ずや。命は乃ち天に在り。扁鵲(へんじやく)と雖も何ぞ益あらんと、 とある(字通)。日本でも、色葉字類抄(1177〜81)に、 布衣 ホイ、ホウイ、 とあり、 庶民の着用する麻布製の衣服、 を指し(広辞苑)、 官服、 に対して、 平服、 を言い、 朝服、 に対して、 常着、 を言い、 それを着ている者、 その身分、 を言うので、転じて、 平民、 をさす(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。平安時代以降、 麻布製の狩衣の総称、 として使う(広辞苑)のは、古く、 狩衣、 は、 布製のため、 布衫(ふさん)、 とも言われ、 布衣(ほうい)、 と呼ばれたためである(有職故実図典)。が、次第に、絹・綾・織物の類を用いて、華麗に仕立てられるようになっても、なお、布衣の名は残ったが、江戸時代、上皇が初めて狩衣を着用するのを、 布衣始(ほういはじめ)、 という(とある)。ただ、普通は、地質は絹でも、織模様のある高級な有文ものを、 狩衣、 無地の狩衣を、 布衣、 と区別し(仝上)、後者は、 布衣、 を、 ふい、 と訓ませ(世界大百科事典)、 六位以下の服なれば、転じて、六位以下の官人の称、 ともなり(字源)、武家では、 無位無官の幕臣、諸大名の家士が着用した、 とある(広辞苑)。 「狩衣」は「水干」で触れたように、奈良時代から平安時代初期にかけて用いられた襖(あお)を原型としたものであり、 両腋(わき)のあいた仕立ての闕腋(けってき 両わきの下を縫い合わせないであけておく)であるが、袍(ほう)の身頃(みごろ)が二幅(ふたの)でつくられているのに対して、狩衣は身頃が一幅(ひとの)で身幅が狭いため、袖(そで)を後ろ身頃にわずかに縫い付け、肩から前身頃にかけてあけたままの仕立て方、 となっている(日本大百科全書)。平安時代後期になると絹織物製の狩衣も使われ、布(麻)製のものを、 布衣(ほい)、 と呼ぶようになり、 狩衣は、上皇、親王、諸臣の殿上人(てんじょうびと)以上、 が用い、 地下(じげ 昇殿することを許されていない官人)、 は、 布衣、 を着た。狩衣姿で参内することはできなかったが、院参(院の御所へ勤番)は許されていた(岩波古語辞典)、とある。 ただ、近世では、上述したように、有文の裏打ちを、 狩衣、 とよび、無文の裏無しを、 布衣、 とよんで区別した(デジタル大辞泉・広辞苑)。「襖」は、「束帯」の盤領(まるえり)の上着のうち、武官用の、 闕腋(けってき)の袍、 である、 襴(らん)がなく袖から下両腋を縫わないで開け、動きやすくした袍、 をいう。令義解(718)に、「襖」は、 謂無襴之衣也、 と、 左右の腋を開け拡げているために、 襖、 というが、「襖」を、 狩衣、 の意とするのは、野外狩猟用に際して着用したので、 狩衣が、 狩襖(かりあお)、 といったため、「狩」が略されて、「襖」と呼んだためである(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 狩衣姿の構成は、 烏帽子、 狩衣、 当帯(あておび 腰に帯を当てて前に回し、前身(衣服の身頃のうち、前の部分)を繰り上げて結ぶ)、 衣(きぬ 上着と肌着(装束の下に着る白絹の下着)との間に着た、袿(うちき)や衵(あこめ)など)、 単(ひとえ 肌着として用いた裏のない単衣(ひとえぎぬ)の略。平安末期に小袖肌着を着用するようになると、その上に重ねて着た)、 指貫(さしぬき)、 下袴(したばかま)、 扇、 帖紙(じょうし 畳紙(たとうがみ)、懐紙の意)、 浅沓(あさぐつ)、 とされている(有職故実図典)が、晴れの姿ではない通常は、衣、単は省略する(有職故実図典)。色目は自由で好みによるが、当色以外のものを用い、袷の場合は表地と裏地の組合せによる襲(かさね)色目とした。 なお、「素襖」「直垂」「大門」などについては「素襖」で、「水干」「狩衣」については「衣冠束帯」で触れた。 「布」(漢音ホ、呉音フ)は、 形声。もと「巾(ぬの)+音符父」で、平らに伸ばして、ぴたりと表面につくぬののこと、 とある(漢字源・角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%83)。別に、 会意兼形声文字です(ナ(父)+巾)。「木づちを手にする」象形と「頭に巻く布にひもをつけて帯にさしこむ」象形から、木づちでたたいてやわらかくした、「ぬの」を意味する「布」という漢字が成り立ちました。また、「敷(フ)」に通じ(同じ読みを持つ「敷」と同じ意味を持つようになって)、「しく」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji799.html)。なお、別に、 形声、古い字形は父に従い、父(ふ)声。『説文解字』に「枲(あさ)の織(おりもの)なり」とあって、ぬの。木綿が作られる以前は、麻布・褐布が普通であった。蚕は卜文にみえ、また金文に「毳布(ぜいふ)」の名がみえるが、みな富貴の人の用いるもので、のちの世になっても、布衣とは身分のないものをいう。布衣は粗衣、わが国では「ほい」とよむ。敷(ふ)と通用する、 とある(字通)。 「衣」(漢音イ、呉音エ)は、「衣手」で触れたように、 象形。うしろのえりをたて、前野えりもとをあわせて、肌を隠した着物の襟の部分を描いたもの、 とある(漢字源)。別に、 象形。胸元を合わせた上衣を象る(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A1%A3)、 象形。衣服のえりもとの形にかたどり、「ころも」の意を表す(角川新字源)、 象形文字です。「身体に着る衣服のえりもと」の象形から「ころも」を意味する「衣」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji616.html)、 とあり、「えり」を示していたことは共通している。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
御狩(みかり)する交野(かたの)の御野(みの)に降る霰あなかままだき鳥もこそたて(新古今和歌集)、 の、 まだき、 は、 鷹狩の準備ができていないのに早くもの意、 とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、 あなかま、 は、 しずかに、 などと制止することば、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 人々笑ふ、あなまはとて脇息に寄りおはす(源氏物語)、 とある、 あなかま、 の、 アナは感動詞、カマはカシカマシ・カマビスシのカマに同じ、人の話し声のうるささや、話の内容の不快さが神経にさわった時、話を止めようとすることば、 で、大体、 同輩か目下、 に使う(岩波古語辞典)。 かまびすし(囂し)、 かしかまし(囂し) やかまし(いや(彌)かま(囂)しの転)、 カマシ(囂)、 の語幹、 カマ、 と同じであり(仝上・広辞苑)、 ああ、やかましい、 と、 人を制止する語、 とある(仝上)。 シク活用、 の形容詞だが、 あな、かま、 という慣用句があり、古くは、 ク活用、 であった可能性が高い(岩波古語辞典)とある。後世は、 あながま、 と濁音化する(精選版日本国語大辞典)。 あなかまたまへ、 というと、 たまへ、 は、 丁寧な命令、 を表わし、 あなかまたまへ、夜声はささめくしもぞかしましき(源氏物語)、 と、 (やかましい)静まりなさい、 黙りなさい、 の意味で使う(仝上)。 「囂」(菅温・呉音ゴウ、ギョウ)は、 会意、「口四つ+頁(あたま)」、 とあり(漢字源)、「囂々」(ゴウゴウ、キョウキョウ)と、がやがやしゃべる、やかましい意である。「嗷」(ゴウ)と同義である。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 避賢初罷相(賢を避けて初めて相(しょう)を罷め) 樂聖且銜杯(聖を樂しんで且(しばら)く杯を銜(ふく)む) 為問門前客(為めに問う 門前の客) 今朝幾個來(今朝(こんちょう) 幾個(いくこ)か來(きた)れると)(李適・罷相作) の、 避賢、 は、 賢者の道を避ける、 意で(前野直彬注解『唐詩選』)、漢の丞相石慶が辞任するとき、 賢者の道を避けん、 といった故事にもとづく。 自分のような不肖の者が高い地位にいては、賢者の登用される道をふさぐだけだから、それをさけて辞任する、 という意味になる(仝上)。 樂聖、 は、 魏の太祖が禁酒令を出したとき、禁をおかそうとする酒のみが、隠語を用い、清酒を聖人、濁酒を賢人とよんだ、 という故事があり、ここでは、 ものにこだわらぬ聖人の道を楽しむという意味と、清酒を楽しむという意味を掛けて用いている、 とある(仝上)。杜甫の詩「飮中八仙歌」に、 左相日興費萬錢(左相(さしょう)の日興(にっきょう) 万銭(ばんせん)を費す) 飮如長鯨吸百川(飲むこと長鯨(ちょうげい)の百川(ひゃくせん)を吸うが如し) 銜杯樂聖稱避賢(杯(はい)を銜(ふく)み聖(せい)を楽しみ賢(けん)を避(さ)くと称す) とある、 左相、 とは、上記詩の作者、 李適之(りてきし)、 で、 樂聖稱避賢、 は、ここでは、 酒のみの符牒である、清酒を聖人、濁酒を賢人といったのと、酔えば聖人になったような気がして、うるさいことをいう賢人はごめんだという意味とを掛けて、しゃれたもの、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。 李適之(りてきし)、 は、 左丞相李適之(694〜747)。唐の太宗の子、恒山王李承乾(りしょうけん)の孫にあたる皇族の子孫。天宝元年(742)、左相(宰相)となったが、のちに、玄宗黄帝の信任を得ていた政敵李林甫(りりんぽ)と対立、失脚し、最後は自殺した。『全唐詩』には「李適之。天寶元年為左丞相」とある、 という(https://kanbun.info/syubu/toushisen027.html・前野直彬注解『唐詩選』)。 聖は清酒、賢は濁り酒、 は、『魏志』徐邈(じょばく)伝に、 徐邈字景山、燕國薊人也。太祖平河朔、召為丞相軍謀掾、試守奉高令、入為東曹議令史。魏國初建、為尚書郎。時科禁酒、而邈私飲至於沈醉。校事趙達問以曹事、邈曰:「中聖人。」達白之太祖、太祖甚怒。度遼將軍鮮于輔進曰:「平日醉客謂酒清者為聖人、濁者為賢人、邈性脩慎、偶醉言耳。」竟坐得免刑。後領隴西太守、轉為南安。文帝踐阼、歴譙相、平陽・安平太守、潁川典農中郎將、所在著稱、賜爵關内侯、 とあり、 時に科(条令)で酒造を禁じていたが、徐邈は私かに飲んで沈酔するに至った。校事(糾察官)の趙達が曹事(職務)を問うと、徐邈は「聖人(の教え)に中ったのだ」。趙達がこれを曹操に白(もう)すと、曹操は甚だ怒った。度遼将軍鮮于輔が進言するには「平日(平素)より酔客は酒の澄んだものを聖人、濁ったものを賢人と謂っております。徐邈の性は修慎であり、偶々酔って言っただけでしょう」、 として、刑を免じられたとの逸話に因っている(http://home.t02.itscom.net/izn/ea/kd3/27a.html)。李適之については、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%81%A9%E4%B9%8Bに詳しい。 ちなみに、杜甫の七言古詩に詠まれた 飲中八仙、 とは、 中国唐代の八詩、 の、 賀知章、 汝陽王李璡(りしん)、 李適之(りてきし)、 崔宗之(さいそうし)、 蘇晋、 李白、 張旭(ちょうきょく)、 焦遂(しょうすい)、 の八人の酒豪を指す。よく、人物画の画題として取り上げられる。 なお、 落ちぶれて、家が寂れる、 ことを、 門前雀羅(もんぜんじゃくら)、 といい、 人が訪ねてこないので、門前に雀(すずめ)が群がり、これを捕える網(雀羅)を張ることができる、 という(https://www.minyu-net.com/serial/yoji-jyukugo/yoji0217.html)らしい。 「賢」(漢音ケン、呉音ゲン)は、 会意兼形声。臤は、「臣(うつぶせた目)+又(手、動詞の記号)」の会意文字で、目をふせて身体を緊張させること。賢はそれを音符とし、貝(財貨)を加えた字で、がっちりと財貨の出入りをしめること。緊張してぬけめのないかしこさをあらわす、 とある(漢字源)。別に、 会意形声。貝と、臤(ケン)(かたい)とから成り、かたい良質の貝の意を表す。転じて「まさる」「かしこい」意に用いる(角川新字源)、 会意兼形声文字です(臤+貝)。「しっかり見開いた目の象形(「家来」の意味)と右手の象形」(神のしもべとする人の瞳を傷つけて視力を失わせ、体が「かたくなる」の意味)と「子安貝(貨幣)」の象形(「財貨」の意味)から、しっかりした財貨の意味を表し、そこから、「かしこい」、「まさる」、「すぐれている」を意味する「賢」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1641.html)、 と、何れも会意兼形声文字とすあるが、 形声。「貝」+音符「臤 /*KIN/」。「優れた人」を意味する漢語{賢 /*giin/}を表す字、 と(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B3%A2)、形声文字とする説もある。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 強欲登高去(強(し)いて登高(とうこう)し去らんと欲するも) 無人送酒來(人の酒を送り来(きた)るもの無し) 遙憐故園菊(遥かに憐(あわ)れむ故園の菊) 應傍戰場開(応(まさ)に戦場に傍(そ)うて開くべし)(岑参・行軍九日思長安故園) の、 行軍、 は、 臨時の軍司令部、 九日、 は、 九日の節句、 つまり、五節句の一つである、 九月九日、 の、 重陽(ちょうよう)の節句、 を指す(前野直彬注解『唐詩選』)。 登高(とうこう)、 は、 重陽の節句の行事、 であり、 親しい人々が集まって山や丘に登り、そこで酒宴を開くことをいう、 とある(仝上)。だから、ここでの、重陽の節句に飲む、 酒、 は、 傲睨傾菊酒(傲睨(ごうげい)して菊酒を傾けたり)(蕭穎士・重陽日陪元魯山徳秀登北城曯) とある、菊花を浮かべた、 菊酒(きくしゅ)、 で、 寿命を伸ばす力がある、 と言われた(仝上)。 登高、 は、文字通り、 君子之道、辟如自邇、辟如登高、必自卑(「礼記」中庸)、 と、 高いところに登ること、 の意味だが(字源・広辞苑)、特に、 陰暦九月九日、丘に登り、菊酒を飲む行事、 をいう(広辞苑)。唐代の『蒙求』に、 九月九日、汝家當有災厄、急宜去。令家人各作絳嚢盛茱萸以繋臂、登高山飮菊酒、此禍可消、景如言、擧家登高夕還、 とある。「重陽」で触れたように、九月九日の重陽(ちょうよう)の節句で、中国では、一族で丘に登るが、これを、 登高、 といい、 重陽、 は、 都城重九後一日宴賞、號小重陽(輦下歳時記)、 と、 重九(ちょうきゅう)、 ともいう(字源)。 歳往月來、忽復九月九日、九為陽數、而日月竝應、故曰重陽(魏文帝、輿鐘繇書)、 と、 陽數である、 九が重なる、 意である。これを吉日として、 茱萸(しゅゆ)を身に着け、菊酒を飲む習俗、 が漢代には定着し、五代以後は朝廷での飲宴の席で、 賦詩(詩などを吟詠する)、 が行なわれた(精選版日本国語大辞典)。「茱萸」(しゅゆ)は、 ごしゅゆ(呉茱萸)(または、「山茱萸(さんしゅゆ)」)の略、 とされ(精選版日本国語大辞典)、 呉茱萸、 は、古名、 からはじかみ(漢椒)、 結子五、六十顆、……状似山椒、而出于呉地、故名呉茱萸(本草一家言)、 とあり、中国の原産の、 ミカン科の落葉小高木、 で、古くから日本でも栽培。高さ約3メートル。茎・葉に軟毛を密生。葉は羽状複葉、対生。雌雄異株。初夏、緑白色の小花をつける。紫赤色の果実は香気と辛味があり、生薬として漢方で健胃・利尿・駆風・鎮痛剤に用いる、 とある(広辞苑)。 からはじかみ、 川薑(かわはじかみ)、 いたちき、 にせごしゅゆ、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 重陽宴、題云、観群臣佩茱萸(曹植‐浮萍篇)、 と、昔中国で、この日、 人々の髪に茱萸を挿んで邪気を払った、 あるいは、昔、重陽節句に、 呉茱萸の実を入れた赤い袋(茱萸嚢(しゅゆのう)、ぐみぶくろ)を邪気を払うために腕や柱などに懸けた、 ので、 茱萸節、 ともいうように、 茱萸、 を節物とした(大言海)。重陽節の由来は、梁の呉均(ごきん)著『続斉諧記』の、 後漢の有名な方士費長房は弟子の桓景(かんけい)にいった。9月9日、きっとお前の家では災いが生じる。家の者たちに茱萸を入れた袋をさげさせ、高いところに登り(登高)、菊酒を飲めば、この禍は避けることができる、と。桓景はその言葉に従って家族とともに登高し、夕方、家に帰ると、鶏や牛などが身代りに死んでいた、 との記事の逸話をもってするとある(世界大百科事典)。この逸話に、重陽節の。 登高、 茱萸、 菊酒、 の三要素が挙げられている。重陽節は、遅くとも3世紀前半の魏のころと考えられる(仝上)とある。呉茱萸は、重陽節ごろ、芳烈な赤い実が熟し、その一房を髪にさすと、邪気を避け、寒さよけになるという。その実を浮かべた茱萸酒は、菊の花を浮かべた略式の菊酒とともに、唐・宋時代、愛飲された(仝上)とある。呉自牧の『夢粱録』には、 陽九の厄(本来、世界の終末を意味する陰陽家の語)を消す、 とある(仝上)という。 こうした行事が日本にも伝わり、『日本書紀』武天皇十四年(685)九月甲辰朔壬子条に、 天皇宴于旧宮安殿之庭、是日、皇太子以下、至于忍壁皇子、賜布各有差、 とあるのが初見で、嵯峨天皇のときには、神泉苑に文人を召して詩を作り、宴が行われ、淳和天皇のときから紫宸殿で行われた(世界大百科事典)。 なお、五節句、 は、重陽で触れたように、 人日(じんじつ)(正月7日)、 上巳(じょうし)(3月3日)、 端午(たんご)(5月5日)、 七夕(しちせき)(7月7日)、 重陽(ちょうよう)(9月9日)、 をいう。 登高、 は、多くの詩人が歌っているが、たとえば、杜甫の「登高」という詩がある。 風急天高猿嘯哀 渚C沙白鳥飛廻 無邊落木蕭蕭下 不盡長江滾滾來 萬里悲秋常作客 百年多病獨登臺 艱難苦恨繁霜鬢 潦倒新停濁酒杯(https://kanbun.info/syubu/toushisen217.html) し、王維にも、「九月九日憶山東兄弟」という詩がある。 獨在異郷爲異客 毎逢佳節倍思親 遙知兄弟登高處 遍插茱萸少一人(https://kanbun.info/syubu/toushisen344.html) 「登」(漢音呉音トウ、慣用ト)は、 会意文字。もと「癶(上に登る両足)+豆(たかつき、容器)+持ち上げている両手」。上にのぼる、上にあげる意を含む、 とある(漢字源)が、別に、 原字は「豆」+「𠬞」で、食器に盛られた食べ物を捧げるさまを象る。「すすめる」「ささげる」を意味する漢語{烝 /*təng/}を表す字。「登」はそれを音符にもつ形声文字で、「癶」は上方向に登っていく足の形。「のぼる」「あがる」を意味する漢語{登 /*təəng/}を表す字、 とする(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BB)、形声文字説、 象形。ふみ台に乗って車にのぼる形にかたどる。「のぼる」意を表す、 とする(角川新字源)、象形文字説、 会意兼形声文字です(癶+豆)。「上向きの両足」の象形と「祭器」の象形と「両手」の象形から祭器を持ち「あげる」を意味する「登」という漢字が成り立ちました、 とする(https://okjiten.jp/kanji533.html)、会意兼形声文字説と別れる。 「高」(コウ)は、 象形。台地にたてたたかい建物を描いたもの。また槁(コウ 乾いた枯れ木)に通じて、かわいた意をも含む、 とある(漢字源)。別に、 象形。原字は「京」と同じ形で、高い建物(望楼、物見櫓の類)を象る。区別のために羨符「口」を増し加えて「高」となる。「たかい」を意味する漢語{高 /*kaaw/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AB%98)、 象形。たかい楼閣の形にかたどり、「たかい」、ひいて、とうとい意を表す(角川新字源)、 象形文字です。「高大な門の上の高い建物」の象形から「たかい」を意味する「高」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji158.html)、 と、何れも象形文字とする。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 簡野道明『字源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) しきしまの大和にはあらぬ唐衣ころも経ずしてあふよしもがな(古今和歌集)、 の、 しきしまの、 は、 「やまと」にかかる枕詞、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 しきしま、 は、 敷島、 磯城島、 志貴嶋、 などと当て、 都を倭(やまと)の国の磯城郡の磯城島に遷す(日本書紀・欽明一年)、 と、 欽明天皇の、大和国、磯城郡、磯城島に、宮居したまへるに起こる、 とある、 大和国磯城郡の地、 で、 崇神・欽明両天皇の宮があったと伝承される地、 とされ、 大三輪町金屋辺り、 とされる(岩波古語辞典・大言海)。 秋津島の如し、 とある(大言海)。これは、 秋津洲、 が、 大和の一地名アキヅ(「秋津」 奈良時代、葛城地方の別名)が広がって日本全国を謂うようになった、 のと同趣ということである(岩波古語辞典・日本歴史地名大系)。この、 しきしま、 の語源は、 イシキシマ(石城島)の義(日本語原学=林甕臣)、 シキシマ(敷版間)の義(柴門和語類集)、 シキはサキ(幸)の転声(和語私臆鈔)、 イザナギ・イザナミの赤白の神が滓を固めて造った國というところから、色嶋の義。また、東夷・南蛮・西戎・北狄の四将軍の城があるところから、四城嶋の義か(古今集注)、 と諸説あるが、はっきりしない。ただ、 敷島、 と当てるのは、 おしなべて今朝の霞の敷島やまともろこし春を知るらむ(続拾遺集)、 敷島の三輪の社の(曾丹集・序)、 など、平安時代の後半と、比較的新しい(日本語源大辞典)ようだ。また、 しきしま、 は、 礒城嶋能(しきしまノ)やまとの国の石上(いそのかみ)ふるの里に紐解かず丸寝(まろね)をすれば(万葉集)、 と、 大和、 かかる枕詞として使われることから広がって、 志貴嶋(シキしまの)やまとの国は言霊(ことだま)の助くる国ぞま幸(さき)くありこそ(万葉集)、 と、 大和国、 日本(やまと)、 の別称として使われる(岩波古語辞典)し、 言ふよりも聞くぞかなしきしきしまの世にふるさとの人やなになり(蜻蛉日記)、 と、大和の国の地名「布留(ふる)」の意で、「布留」と同音の「経る」「古」などにかかり(精選版日本国語大辞典)、さらに転じて、和歌のことを、 敷島(磯城島)の道(みち)、 といい、そころから、 年を経て祈る心をしきしまの道ある御代に神もあらはせ(新後撰)、 と、 「道(方面の意)」と同音の「道」にかかる枕詞としても使われる(仝上)。 「敷」(フ)は、「しきたへ」で触れたように、 会意兼形声。甫(ホ・フ)は、芽のはえ出たたんぼを示す会意文字で、平らな畑のこと。圃(ホ)の原字。旉(フ しく)は、もと「寸(手の指)+音符甫(平ら)」の会意兼形声文字で、指四本を平らにそろえてぴたりと当てること。敷はそれを音符とし、攴(動詞の記号)をそえた字で、ぴたりと平らに当てる、または平に伸ばす動作を示す、 とあり(漢字源・角川新字源)、 会意兼形声文字です(旉+攵(攴))。「草の芽の象形と耕地(田畑)の象形と右手の象形」(「稲の苗をしきならべる」の意味)と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「ボクッと打つ・たたく」の意味)から、「しく」を意味する「敷」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1111.html)が、別に、 形声。「攴」+音符「尃 /*PA/」。「しく」を意味する漢語{敷 /*ph(r)a/}を表す字、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%95%B7)ある。 「磯」(漢音キ、呉音ケ)は、「磯」で触れたように、 会意兼形声。「石+音符幾(近い、すれすれ)」で、みずぎわに近い石。また、波にもまれて石がすり減る、 とある(漢字源))。「磯」も、「波打ち際」の意はなく、「水が石に激しく当たる」意であり、海岸の意よりは、「石が流れに現われる川原」の意である。ただ、別に、 形声文字です(石+幾)。「崖の下に落ちている、いし」の象形と「細かい糸の象形と矛(ほこ)の象形と人の象形(「守る」の意味)」(「戦争の際、守備兵が抱く細かな気づかい」、「かすか」の意味だが、ここでは「機(キ)」に通じ(同じ読みを持つ「機」と同じ意味を持つようになって)、「布を織る機械:はた」の意味)から、はたで織り物を織る時のような音のする「いそ」を意味する「磯」という漢字が成り立ちました、 という全く異なる解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2619.html)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) み吉野の大川の辺(へ)の藤波のなみに思はばわが恋ひめやは(古今和歌集)、 の、 藤波、 は、 連なって風に揺れる藤の様子を言う語、 で、 「藤」は「淵」の掛詞になることがある。ここでは掛詞ではないが、「川」「淵」「波」という連想を呼ぶか、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 藤波、 は、 藤浪、 とも当て(精選版日本国語大辞典・学研全訳古語辞典)、 藤靡(フヂナミ)の義、 とあり(大言海)、 藤の花房が風に靡いて揺れる様子を波に見立てて言う語、 で、転じて、 藤および藤の花、 についてもいうが、平安時代には、「ふじ」の音にかけて、 ちはやぶる賀茂の川辺のふぢなみは懸けて忘るる時の間ぞ無き(梁塵秘抄)、 この二人の摂政殿たち、みな御子おはしますなれば、ふぢなみのあと絶えず(今鏡)、 などのように、藤原氏の繁栄を歌意にこめる場合がある(仝上・学研全訳古語辞典)。 また、枕詞として、 藤波の、 は、 藤のつるが物にまといつくことから、 磯城島の大和の国に人さはに満ちてあれども藤波の思ひまつはり若草の思ひつきにし君が目に恋ひや明かさむ長きこの夜を(万葉集)、 と、 まつはり、 に掛かり、また、 波と同音から、 冒頭の、 み吉野の大川野辺のふぢなみのなみに思はば我が恋ひめやは、 では、序詞の一部として、 並み、 を導き出している(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。また、波の縁語、 藤波の寄ると頼めし言の葉を、 と、 立つ、寄る などにもかかる(仝上)。 「藤」(漢音トウ、呉音ドウ)は、「藤衣」で触れたように、 会意兼形声。「艸+音符滕(トウ のぼる、よじれてのぼる)」、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(艸+滕)。「並び生えた草」の象形と「渡し舟の象形と上に向かって物を押し上げる象形と流れる水の象形」(「水がおどり上がる、湧き上がる」の意味)から、「つるが上によじ登る草」を意味する「藤」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2100.html)。 「波」(ハ)は、「重波(しきなみ)」で触れたように、 会意兼形声。皮は「頭のついた動物のかわ+又(手)」の会意文字で、皮衣を手でななめに引き寄せて被るさま。波は「水+音符皮」で、水面がななめにかぶさるなみ、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(氵(水)+皮)。「流れる水の象形」と「獣の皮を手ではぎとる象形」(「毛皮」の意味)から、毛皮のようになみうつ水、「なみ」を意味する「波」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji405.html)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 知有前期在(前期の在(あ)ること有(あ)るを知れども) 難分此夜中(分(わか)ち難(がた)し 此の夜の中(うち)) 無將故人酒(故人(こじん)の酒を将(もっ)て) 不及石尤風(石尤(せきゆう)の風に及ばずとすること無(な)かれ)(司空曙・別盧秦卿) の、 前期、 は、 将来の再会の期、 前途の期限、つまり旅程、 とするなどの説があるが、ここでは、前者が正しい(前野直彬注解『唐詩選』)とある。梁の沈約(しんやく)の「范安城に別る」という詩に、 生平少年の日 手を別(わか)つに前期を易(やす)しとせり とあるのを踏まえる(仝上)とある。 石尤風(セキイウフウ)、 は、 旅人の行く手をはばむ向かい風、 を言う。伝説に因ると、南朝、宋の武帝の「丁都護歌」に、 願わくは石尤の風と作(な)り、 四面 行旅を断たん、 とある(仝上)。伝説に因ると、 石氏の女、嫁して尤氏の婦となる。尤遠く出でて歸らず、妻之を憶ひ、病みて死するに臨み、歎じて曰く、吾其の行を阻むる能はざりしを恨む、今より凡そ商売の遠行する者あれば、吾常に大風を起こし、天下の婦人の為に、之を阻むべしと、自後商旅船を発して、打頭の風に値へば、曰く、これ、石尤風なり、 とある(江湖紀聞)。 打頭(だとう)、 は、 常時低頭誦軽史 忽然欠伸屋打頭(蘓武)、 と、 頭を打つ、 意だが、 打頭風(だとうふう)、 は、 船怕打頭風(元稹)、 と、 逆風、 の意である(字源)。これを止めるには、 ある時、呪(まじな)いを行うものが言った。 「百銭くれれば、この風を追い返してみせよう」 ある人が百銭を与えて呪いをさせてみると、はたして風が止んだ。 後に聞いたところによると、 「石の奥様のために尤郎を呼び戻しますので、どうか舟を進ませて下さい」 と紙に書いて水に沈めれば、風が止むとのことであった。 とある(https://huameizi.com/text02/feng.htm)。 「尤」(漢音ユウ、呉音ウ)は、 会意文字。「手のひじ+−印」で、手のある部分に、いぼやおできなど、思わぬ事故の生じたことを示す。災いや失敗がおこること。肬(ユウ こぶ)、疣(ユウ こぶ)の原字。特異の意から転じて、とりわけ目立つ意となる、 とあり(漢字源)、「君無尤焉(君に尤無し)」と、咎、失敗の意、「不尤人(人を尤めず)」と、咎める意、「汝時尤小(汝時に尤も小なり)」と、もっともの意、「尤者(ゆうなるもの)」と、すぐれている意で使う(仝上)。別に、 象形。手の指にいぼができている形にかたどる。いぼの意を表す。「肬(イウ)」の原字。ひいて、突出している意に用いる、 と象形文字とする説(角川新字源)、 指事文字です。「手の先端に一線を付けてた文字」から、「異変(異常な現象)としてとがめる」を意味する「尤」という漢字が成り立ちました、 と指示文字とする説(https://okjiten.jp/kanji2423.html)に分かれる。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 簡野道明『字源』(角川書店) 勸酒金屈巵(君に勧(すす)む金屈卮(きんくつし)) 満酌不須辞(満酌(まんしゃく)辞するを須(もち)いず) 花発多風雨(花発(ひら)けば風雨多く) 人生足別離(人生 別離足(おお)し)(于武陵・勧酒) は、「花に嵐」で触れたように、井伏鱒二が、 コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ と訳した(井伏鱒二『厄除け詩集』)。井伏は、 講演のため林(芙美子)とともに尾道へ行き、因島(現尾道市)に寄ったが、その帰り、港で船を見送る人との別れを悲しんだ林が「人生は左様ならだけね」と言った。井伏は『勧酒』を訳す際に、この“せりふ”を意識した、 という。僕は、この訳詩を、田中英光の、 『さようなら』 で知った。太宰治が、それを、絶筆、 『グッドバイ』 に、 「グッド・バイ」作者の言葉、 として、 私の或る先輩はこれを「サヨナラ」ダケガ人生ダ、と訳した。まことに、相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい。 題して「グッド・バイ」現代の紳士 淑女の、別離百態と言っては大袈裟だけれども、さまざまの別離の様相を写し得たら、さいわい、 と記したといういわくつきである。 金屈巵、 は、 黄金製の酒盃の一種で、椀のような形をし、柄がついており、それを持って飲むもの、 で、 贅沢な酒器である、 とある(前野直彬注解『唐詩選』)。この大杯は、 四升入る、 とある(字源・https://kanbun.info/syubu/toushisen294.html)。 卮、 は、 木を円筒状に曲げ、漆をぬった酒器、 で(漢辞海)、 ジョッキのような持ち手がつくことが多く、ふたがつくものもある。大きなものは一斗(=二リットル弱)入り、ふつうは二升(=400ミリリットル弱)程度の容積、 とあり(仝上)、 殿上では純金、廊下では純銀のものを用いた、 とある(https://plaza.umin.ac.jp/~linglan/cgi-bin/sb/log/eid34.html)。なお、 唐詩選では、 金屈巵、 とあるが、『全唐詩』等では、 卮、 に作る(仝上)とあり、 卮、 が正字、 巵、 は異体字(仝上)とある。 「卮(巵)」(シ)は、 会意文字。人の字の変形と、卩(人のひざまずいた形)を合わせて、主君より臣下に酒杯を賜ることを示す、 とあり(漢字源)、史記に、 賜之卮酒(コレニ卮酒を賜へ)、 とある。上述したように、 四升入りのまるい大杯、 で、玉で作ったのを、 玉卮(ギョクシ)、 その大杯についだ酒を、 卮酒(シシュ)、 という(仝上)。 「杯(盃)」(漢音ハイ、呉音ヘ)は、 会意兼形声。不は、花の下の丸くふくらんだ萼(ガク)、またはつぼみを描いた象形文字。杯は「木+音符不」で、ふっくらとふくらんだ形の器、 とあり(漢字源)、もと、 桮、 につくる(字源)とあり、 「木」から構成され、「否」が音、 とある(漢辞海)。 盃、 は、俗字である(仝上)。 杯、 は、 飲み物・吸い物を入れる中ほどのふくれた器、 で、 さかずき、 という訓は酒を入れる器にしか使わない(漢字源)とある。挙杯(きょはい 杯ヲ挙グ)という。別に、 会意兼形声文字です(木+不(否))。「大地を覆う木」の象形と「花のめしべの子房の象形と口の象形」(「〜しない(否定詞)」の意味だが、ここでは、「ふっくらと大きい」の意味)から、「ものを入れる為のふっくらとした木製の器」、「さかずき(酒を入れて飲む器)」を意味する「杯」という漢字が成り立ちました。のちに、「杯」の「木」が「皿(食物を盛る皿の象形)」に変化して「盃」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1425.html)が、 形声。「木」+音符「不 /*PƏ/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%AF)、 形声。木と、音符否(ヒ)→(ハイ)(不は省略形)とから成る。「さかずき」の意を表す(角川新字源)、 は、形声文字としている。 「觴」(ショウ)は、 形声。「角」+音符「𬀷 /*LANG/」、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A7%B4)。 酒卮(さかづき)の総称、 とある(仝上・字源)。なお「濫觴」については触れた。 「盞」(漢音サン、呉音セン)は、 会意兼形声。「皿+音符戔(けずる、小さい)」で、小さい意を含む、 とあり(漢字源)、 小さい杯、 の意である(仝上・字源)。 酒盞(しゅさん)、 といい、 醆、 と同義(漢辞海)。 「觚」(漢音コ、呉音ク)は、 形声。「角+音符瓜(カ・コ)」 で、中国の量(かさ)の単位で、 二升(約0.38リットル)、 はいるさかずき(漢字源)とある。古え、 稜(カド)ありしといふ、 とある(字源)。 青銅製の酒器、 で、 ラッパ状、 とある(漢辞海)。なお、 二升入の酒杯、 は、「角」篇に「單」(シ)である。 「爵」(漢音シャク、呉音サク)は、 象形、スズメの形をした酒器を描いたもの。小さい鳥を雀(ジャク)といい、小さくかみくだくのを嚼(シャク)という。爵はスズメと同系で、スズメの形になぞらえた器なので、シャクと称した、 とある(漢字源)。別に、 象形。(典礼にもちいる)三本足で、柱と流し口、取っ手のある酒器の形にかたどる。酒を温めるのに用いた。中国古代の宮廷の祭礼では、神酒を受けるのに、身分によって順序・量の区別があったので、転じて、位の意に用いる、 ともある(角川新字源・漢辞海)。 醆、 盞 に同じとある(字源)。 「嵬」(慣用カイ、漢音ガイ、呉音ゲ)は、 会意兼形声。鬼は丸く大きい亡霊の姿。嵬は「山+音符鬼」で、大きい岩石の盛り上がった山、 とあり(漢字源)、俗に、杯、の意で使う。宋代、 背嵬軍(将軍の後ろから大杯を以て従う従卒)、 と、 まるい大杯、 の意で使う。 「白」(漢音ハク、呉音ビャク)は、「白毫」で触れたように、 象形。どんぐり状の実を描いたもので、下の部分は実の台座。上半は、その実。柏科の木の実のしろい中身を示す。柏(ハク このてがしわ)の原字、 とある(漢字源)が、 象形。白骨化した頭骨の形にかたどる。もと、されこうべの意を表した。転じて「しろい」、借りて、あきらか、「もうす」意に用いる、 ともあり(角川新字源)、象形説でも、 親指の爪。親指の形象(加藤道理)、 柏類の樹木のどんぐり状の木の実の形で、白の顔料をとるのに用いた(藤堂明保)、 頭蓋骨の象形(白川静)、 とわかれ、さらに、 陰を表わす「入」と陽を表わす「二」の組み合わせ、 とする会意説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD)。で、 象形文字です。「頭の白い骨とも、日光とも、どんぐりの実」とも言われる象形から、「しろい」を意味する「白」という漢字が成り立ちました。どんぐりの色は「茶色」になる前は「白っぽい色」をしてます、 と並べるものもある(https://okjiten.jp/kanji140.html)。 白、 は、 とっくり、さかずきなどの酒器。中がうつろなことから、 とあり(漢字源)、 罰として酒を飲ませるのに用いる杯、罰杯、 ともある(漢辞海) 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 太宰治『太宰治全集』(Kindle版) 簡野道明『字源』(角川書店) 戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂) 昔思ふ庭にうき木を積みおきて見し世にも似ぬ年の暮かな(新古今和歌集)、 の、 うき木、 は、 流木など拾い集めて楽しびたる体也(新古今抜書抄)、 年の暮れに、年木とて、薪を積むことあるをよめるなり……浮木の名を借りて、浮きこといへるなり(美濃)、 など諸説あるが不明(久保田淳訳注『新古今和歌集』)とある。 うき木、 は、 浮木、 と当て、 うきき、 と訓ませ、後世は、 うきぎ、 とも訓み、 ふぼく(浮木)、 と同じ、つまり、 水上に浮いている木、 流木、 で、日葡辞書(1603〜04)に、 マウキ(盲亀)ノフボクアエルガゴトシ、 とある、 盲亀の浮木(ふぼく)、 は、 浮木(うきき)の亀、 とも、 浮木に会える亀、 とも、 一眼の亀浮木に逢う、 ともいい(広辞苑・故事ことわざの辞典)、 遇うことのむつかしさ、 特に、 迷っている衆生が仏法のすくいにめぐりあうことのたとえ、 として、 仏法にめぐりあうことの難しさを、盲目の亀が大海の浮木に出会うこと、 あるいは、 大海で盲目の亀が浮木の孔に入ることの困難さ、 に喩えた(岩波古語辞典・広辞苑)。で、 劫(こふ)つくす御手洗川の亀なれば法(のり)の浮木にあはぬなりけり(拾遺集)、 と、 のり(法)の浮木、 ともいう(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。「法華経」「涅槃経」などに、 生世為人難、値佛世亦難、猶如大海中、盲亀遇浮孔(世に生まれて人と為ること難し、佛世に値(あ)ふも亦難し、猶大海中にて盲目の浮孔に遇うが如し)(涅槃経) 大海中有一盲亀、壽無量劫、百年一遇出頭、復有浮木、正有一孔、漂流海浪、隋風東西、盲亀百年一出、得遇此孔、至海東浮木、或至海西、違繞亦爾、……凡夫漂流五趣海、還復人身、甚難於此(雑阿含経)、 佛難得値(あふ)、如優曇波羅華、又如一眼之亀値浮木孔(法華経) などとあり、この、 盲亀、 は、「法華経」妙荘厳王本事品第27の、 盲亀浮木の譬え、 として、 海中から百年に一度しか浮かび上がってこない盲目の亀が、海面に首を出した時、流れただよっている浮木の一つしかない穴に首がちょうどはいる、 というめったにない僥倖の喩えとして使われている(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。で、 目しひたる亀の浮木にあふなれやたまたまえたる法のはし舟(玉葉集) などと詠われ、 盲亀浮木(もうきふぼく)、 と、 めったにめぐり合うことができない、 意の四字熟語にもなっている。なお、 浮木、 は、 天の川通ふ浮木に言問はむもみぢの橋は散るや散らずや(新古今和歌集)、 と、 ふね、 の意、あるいは、和名類聚抄(931〜38年)に、 査、唐韻云楂 鋤加反 字亦作査槎 宇岐々、水中浮木也、 とあり、 いかだ、 の意でも使う(広辞苑)。「槎(いかだ)」については触れた。 「浮」(慣用フ、呉音ブ、漢音フウ)の字は、「うく」で触れたように、 会意兼形声。孚は「爪(手を伏せた形)+子」の会意文字で、親鳥がたまごをつつむように手でおおうこと。浮は「水+音符孚」で、上から水を抱えるように伏せて、うくこと、 とある(漢字源)。沈の対である。我が国でのみの使い方は、「浮いた考え」とか「金が浮く」とか「浮いた気持ち」とか「考えが浮かぶ」とか「歯が浮く」というように、本来の「浮く」の意味に準えたような、「うかぶ」「うかれる」「あまりがでる」等の意味での使い方は、漢字にはない。しかし、 浮生、 浮言、 浮薄、 といった「とりとめない」意はあるので、意味の外延を限界以上に拡げたとは言える。別に、 会意兼形声文字です(氵(水)+孚)。「流れる水」の象形と「乳児を抱きかかえる」象形(「軽い、包む」の意味)から、「軽いもの」、「うく」を意味する「浮」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1091.html)。 「龜(亀)」(@漢音呉音キ、A漢音キョウ・呉音ク、B漢音キン・呉音コン)は、 象形。かめを描いたもので、外から丸く囲う意を含み、甲羅でからだ全体をかこったかめ、 の意(漢字源)だが、「龜卜」「龜紋」「亀裂」と、「かめ」の意の場合は、@の音、「龜茲」(キュウジ・クジ)は国の名はAの音、「不亀手(フキンシュ)と、ひびわれ、の意の時はBの音となる(仝上)。別に、 象形。亀を横から見た形を象る。「カメ」を意味する漢語{龜 /*kwrə/}を表す字、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%9C)、 象形。甲羅をもつかめの形にかたどり、「かめ」の意を表す、 とか(角川新字源)、 象形文字です。「かめ」の象形から「かめ」を意味する「亀」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji329.html)、象形説ではあるが、微妙に異なるが。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 芙蓉不及美人粧(芙蓉も及ばず 美人の粧(よそお)い) 水殿風來珠翠香(水殿(すいでん) 風来たって珠翠(しゅすい)香(かんば)し) 卻恨含情掩秋扇(却って恨む 情を含んで秋扇(しゅうせん)を掩(おお)い) 空懸明月待君王(空しく明月を懸けて君王を待ちしを)(王昌齢・西宮秋怨) の、 美人、 は、 班婕、(はんしょうよ)、 をさし、 珠翠、 は、 真珠や翡翠、 で、 宮殿の飾り、 とする説、 髪飾り、 とする説があるが、ここでは、 髪飾り、 を採る(前野直彬注解『唐詩選』)とある。 秋扇(しゅうせん)、 は、 秋の扇、 の意で、 扇は秋になれば見捨てられるところから、捨てられた女性、 に喩える。班婕、は、 長信宮に退いたのち、「怨歌行(おんかこう)」という詩をつくり、自分を秋の扇にたとえて、見捨てられた嘆きをうたった、 といい、 扇を掩(おお)う、 とは、 仕舞い込む、 ことで、 自ら身を引いたことをいう、 とある(仝上)。 班婕、、 の、 婕、、 は、 宮中の女官に与えられる称号の一つ、 で、彼女の名ではない(仝上)。彼女は、 漢の成帝の寵愛を受けた女性で、才色兼備の賢女として名高い。のちに趙飛燕姉妹が入内し、天子の愛を独占し始めたので、長信宮に住む皇太后に奉仕したいと願い出て、自ら天子の傍を離れた、 という(仝上)。しかし、 怨歌行(おんかこう)、 では、 新裂齊紈素 皎潔如霜雪 裁爲合歡扇 團團似明月 出入君懷袖、動搖微風發 常恐秋節至、涼風奪炎熱 棄捐篋笥中、恩情中道絶 詠い、 新しく斉の国産の白絹を裂くと、潔白で、まるで雪や霜のようだ、それを絶ち切って会わせ貼りの円扇を作ったら、まんまるで満月ようである。この扇は、いつも我が君の懐や袖に出入りして、動かすたびに、そよ風を起こしていた。然し心にかかるのは、秋の季節が訪れて、涼風が暑さを奪い去ると、わが身は秋の扇として、箱の中に投げ込まれ、君の、お情けも中途で絶えてしまうことです、 と、扇を自身に比し、歎いた(http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/hansh.html)。 彼女は、唐代の詩評「詩品」において、詩作者として、 無名人(古詩十九首の作者)・李陵 (りりょう)・曹植(そうしょく)・劉驕iりゅうてい)・王粲(おうさん)・阮籍(げんせき)・陸機(りくき)・潘岳(はんがく)・張協(ちょうきょう)・左思(さし)・謝霊運(しゃれいうん)という新人たちと共に「上品」に選ばれている、 とある(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054891727588)。こんな彼女は、詩人の題材となり、多くの詩人にうたわれたが、例えば、王維は、 班婕、、 と題して、 怪來粧閣閉(怪しむ 妝(粧)閣(しょうかく)閉ざして) 朝下不相迎(朝(ちょう)より下(くだ)るも相迎えざるを) 總向春園裏(総(すべ)て春園(しゅんえん)の裏(うち)に向い) 花闖ホ語聲(花間(かかん) 笑語(しょうご)の声) と詠っている。 秋扇、 は、 班婕、の故事から、 班如扇(はんじょせん)、 班女扇 (はんにょがあふぎ)、 ともいう(大言海)。 秋扇、 は、 時に適せず役に立たないもの、 の喩えでもあるので、 冬扇、 ともいい(広辞苑)、「論衡」逢遇の、 作無益能、納無補之説、以夏進炉、以冬奏扇、 による、 夏炉冬扇、 冬扇夏炉、 という言い方もある。 「扇」(セン)は、 会意文字。「戸(とびら)+羽(はね)」で、戸や羽のように、ぱたぱたと平らな面がうごいてあおぐこと、 とある(漢字源)が、別に、 会意。戶と、秩i開閉する)とから成り、開閉するとびら、転じて「おうぎ」、あおぐ意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(戸+羽)。「片開きの戸」の象形と「鳥の両翼」の象形から、鳥のように、「広がったり閉じたりする、とびら」、「広げた羽のような、おうぎ」を意味する「扇」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji1394.html)ある。 中国では、うちわ式のもののみを用い、折り畳み式のは、明代に日本から輸入したもの、 とあり、 団扇(だんせん)、 は、 うちわ、 摺扇(しょうせん)、 が、 おりたたむ扇子、 麾扇(きせん)、 は、 指揮するために持つ扇子、軍配、 をいう(漢字源)。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 朝ごとの閼伽井の水に年暮れてわが世のほどの組まれぬるかな(新古今和歌集)、 の、 閼伽井、 は、 佛に奉る水を汲む井戸、 をいう(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 汲まれるぬるかな、 の、 汲む、 は、 水の縁語、 とあり、 れ、 は、 自発の助動詞「る」の連用形、 とある(仝上)。 閼伽、 は、梵語、 Arghaの音訳、 価値あるもの、 供え物、 の意(岩波古語辞典)で、 佛に供すべき香水を盛る器、 の名で、 閼伽杯、 などという(大言海)。希麟音義(唐代)に、 閼伽、梵語、卽盛香水杯器之総名也、 とあり、佛祖統紀(南宋)にも、 閼伽、此云器、凡、供養之器、皆称曰阿伽、 慧林音義(784年)にも、 閼伽盛水器也、 とあり、 これが、転じて、 佛に供ふる水、 を、 閼伽水、 をいう(大言海)。 盌(モヒ)が水(モヒ)となり、笥(ケ)が食(ケなりしが如し、 とある(仝上)。で、 閼伽、 は、 功徳水、 と訳し、 阿伽、 とも書き、 阿伽水、 阿伽の水、 ともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%96%BC%E4%BC%BD)とある。釋名義集(南宋代)に、 阿伽、此云水、 とある。和名類聚抄(931〜38年)には、 内典云、閼伽、梵語也、……蒸煮雑香、以其汁供養佛也、 とあり、 香を煮出した香水、 を、 閼伽、 といった(仝上)。で、 閼伽、 は、 塗香(ずこう)・華鬘(けまん)・焼香・飯食(ぼんじき)・灯明と共に本尊に献供する六種供養の一つ、 とされ、観随『蓮門六時勤行式』(1857年)には、 香華灯燭阿伽茶湯は時剋を論ぜず供すべし。阿伽は井花水(朝最初に汲むを云)を善とす、 とあり、 元日・春分の朝に汲む若水はこれにあたる、 とある(仝上)。 閼伽を汲む専用の井戸、 が、 閼伽井、 で、 東大寺二月堂の若狭井、 が有名である(仝上)。その他、 園城寺金堂わきの井、 秋篠寺の閼伽井、 など著名な井戸が現存する(世界大百科事典)。 また、閼伽井の建物、または閼伽棚のための一室を、 閼伽井屋、 といい、閼伽を汲む桶を、 閼伽桶、 というが、これが転じて墓参用の桶をもいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%96%BC%E4%BC%BD)。 「閼」(@漢音アツ・呉音アチ・慣用ア、A漢音呉音エン)は、 会意文字。「門+於(つかえてとまる、とどこおる)」、 とあり(漢字源)、遏(アツ)と同義の、ふさぐの意は@の音、漢代匈奴の王単于(ゼンウ)の正妻の称号、閼氏(エンシ)はAの音(アツシとも訓む)、とある(仝上)。 「伽」(慣用カ・ガ、漢音キャ、呉音ギャ)は、「僧伽」で触れたように、 形声。「人+音符加」、梵語のガの音を、音訳するために作られた字。「伽藍」「伽羅」「僧伽」などに使う、 とある(漢字源)。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 簡野道明『字源』(角川書店) 霜落荊門江樹空(霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空し) 布帆無恙挂秋風(布帆(ふはん)恙無(つつがな)く 秋風に挂(か)く) 此行不爲鱸魚鱠(此の行(こう) 鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず) 自愛名山入剡中(自(みずか)ら名山(めいざん)を愛して剡中(せんちゅう)に入(い)る)(李白・秋下荊門) の、 布帆無恙(ぶよう)、 の、 布帆(ふはん)、 は、 布の帆、 で、 布帆無恙、 は、 布の帆に異常がない、 という意、 無事な船旅、 をいう(前野直彬注解『唐詩選』)。これは、 晋の顧ト之(こがいし)が、江陵の地方官として在任中、休暇をとって江南へ帰ろうとした際、長官は布の帆を貸してくれたが、途中で大風にあい、難破してしまった。そのとき、ト之は長官に手紙を送り、 行人安穏布帆無恙(行人は安穏、布帆も恙無し)、 と書いた故事(「晉書」顧ト之傳)にもとづいている(仝上)。 鱸魚、 は、 すずき、 と訓ずるが、 実はハゼに似て、もっと大きな魚、 とあり、 鱠、 は、 生魚の料理、 で、 さしみのようなもの、 とある(仝上)。これは、 晉の張翰(ちょうかん)が都の洛陽で任官したが、秋風が吹くと、郷里の呉郡(江蘇省呉県、作者の旅行く方角である)の名物、蓴菜(じゅんさい)の羹(あつもの)と鱸魚の鱠(なます)の味を思い出し、官位を捨てて帰った、 という故事を踏まえる(仝上)。 『世説新語』排調篇に、 顧長康作殷荊州佐、請假還東。爾時例不給布颿。顧苦求之、乃得發、至破冢、遭風大敗。作牋與殷云、地名破冢、眞破冢而出。行人安穩、布颿無恙(顧長康、殷荊州の佐(さ)作(た)りしとき、假(か)を請うて東に還る。爾(そ)の時、例として布颿(ふはん)を給せず。顧、苦(ねんごろ)に之を求めて、乃ち発するを得たるも、破冢(はちょう)に至るや、風に遭いて大敗す。牋(せん)を作って殷に与えて云う、地、破冢(はちょう)と名づく、真に冢(ちょう)を破りて出ず。行人安穏、布颿(ふはん)恙(つつが)無し) とある(https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%96%E8%AA%AA%E6%96%B0%E8%AA%9E/%E6%8E%92%E8%AA%BF)。なお、 颿、 は、 帆、 の異字体である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%86)。 恙無し、 で触れたように、 恙、 は、 田野で人をさし、発病させる寄生虫、つつがむし を指し、 無恙(ブヨウ)、 と言うと、 つつがむしにやられない意のことから、無事で日を過ごすこと、 を意味する(漢字源)が、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、 恙、憂也、 とあり、中国最古の字書『爾雅』(秦・漢初頃)釈詁下篇の注には、 今人云無恙謂無憂也(今人無恙と云うは、憂いの無きを謂うなり)、 とある。漢・六朝から、 相手の安否を尋ねる手紙の常套句となった、 という(仝上)。そういえば、『隋書』倭国伝に、 日出いづる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無なきや(日出處天子致書日沒處天子。無恙)、 とあった(大言海)。 後漢末の志怪書の走りのような『風俗通義』には、 無恙は、俗に疾を説くなり。凡そ人、相見し及び書問する者は、曰く、疾無きや、と。按ずるに上古の時、草居し路宿す。恙は噬(か)む虫なり。人の心を食らう。凡そ相労問(ろうもん)する者は曰く、恙無きや、と。疾と為すに非ざるなり、 とあり(https://kanbun.info/syubu/toushisen322.html・大言海)、易経傳にも、 上古、草居露宿、恙、噬蟲也、善食人心、 とあるが、 人の心を食らう蟲、 とは、 據なきことなり、……其恙を、……蟲の名とするは全く誤れり、 とする見解(大言海)がある。 恙、 には、 病気、やまい、 の意があり、 恙病(ようへい)、 で、 病気、 清恙(せいよう)、 で、 ご病気、 恙憂(ようゆう)、 で、 心配、 微恙(びよう) で、 輕い病気、 を指した(漢字源・字源・漢辞海)。 なお、「恙無し」、「なます」については触れた。 「帆」(漢音ホ、呉音ボン)は、 会意兼形声。凡(ハン)は、支柱の間に張った帆を描いた象形文字で、帆の原字。帆は「巾(ぬの)+音符凡」で、凡がおよその意に転用されたため、その原義を表すために作られた、 とある(漢字源)。別に、 会意形声。巾と、風(フウ)→(ハム)(かぜ。凡は省略形)とから成る。風を受ける布、「ほ」の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(巾+凡)。「頭に巻く布きれにひもをつけて帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)と「風を受ける帆」の象形から、「ほ(風を受けて舟を走らせる布)」を意味する「帆」という漢字が成り立ちました。(「凡」が「すべて・およそ」の意味で用いられるようになった為、「巾」を付けて区別しました)、 とも( https://okjiten.jp/kanji1445.html)ある。 「恙」(ヨウ)は、 形声。「心+音符羊」 とあり、 ツツガムシ、 の意とある(漢字源)が、 伝説上の害虫、 とし、 上古より、人の心を食うとされ、これに噛まれることをおそれた、漢代頃から、(上述のように)人をねぎらう語として「無恙」が書簡などに用いられた、 とある(漢辞海)。で、この、 恙、 は、現実の ツツガムシ、 とは別のものを指していた可能性がある。で、 越後国に、害虫に、つつがと名づくるは、(拠なき説の)誤りを受けたるなり、 とある(大言海)のが正しいようだ。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) 初春(はつはる)の初子(はつね)のけふの玉箒(たまばはき)手に取るからにゆらぐ玉の緒(読人知らず)、 の、 玉箒、 は、 玉を飾りにつけた箒、 で、 玉箒、 の、 タマ、 は、「玉の緒」の「タマ」と同じく、 魂、 で、 タマを掃き寄せる道具、 の意(岩波古語辞典)、 后が養蚕をする際に用いるものとされ、初子の日に辛鋤とともに飾られた、 という(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 冒頭の新古今和歌集の元歌は、万葉集巻20の、 初春(はつはる)の初子(はつね)の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺らく玉の緒(始春乃波都祢乃家布能多麻婆波伎手尓等流可良尓由良久多麻能乎)、 という大伴家持の歌である(仝上)。この歌は、天平勝宝二年(750)正月東大寺から献上した玉箒を詠ったもので、辛鋤とともに、正倉院に現存する(岩波古語辞典)。 辛鋤、 は、多分、「犂牛(りぎゅう)」)で触れた、 唐鋤、 犂、 と当て、 柄が曲がっていて刃が広く、牛馬に引かせて田畑を耕すのに用いる、 もので、 牛鍬(うしぐわ)、 ともいい(精選版日本国語大辞典)、 四辺形の枠組をもつこの種の長床犂は、中国から朝鮮半島を経て由来したものと考えられ、わが国古来から用いられた代表的型式の犂である、 とある(農機具の種類)。 初子(はつね)の日、 は、 その月の最初の子(ね)の日、 を言うが、特に、 正月の最初の子(ね)の日、 を言い、「子の日」で触れたように、正月の初めの子の日には、 若菜生ふる野辺といふ野辺を君がため万代しめて摘まんとぞ思ふ(新古今和歌集)、 と、 野外に出て、小松を引き、若菜をつんだ。中国の風にならって、聖武天皇が内裏で宴を行ったのを初めとし、宇多天皇の頃、北野など郊外にでるようになった、 とあり(岩波古語辞典)、古く、初子の日には、 天皇から親王・諸王・臣下に辛(からすき)と玉箒(たまほうき)を賜る行事、 があり、 辛鋤、 は、 田畑を耕すもの、 玉箒、 は、 蚕の床を掃くものもの、 で、 天子と皇后が率先して農耕蚕織をする、 という中国の制度を取り入れた儀礼で、宮中では宴会が行われ、この宴を、 子の日の宴(ねのひのえん)、 といい、 若菜を供し、羹(あつもの)として供御とす、 とあり(大言海)、 士庶も倣ひて、七種の祝いとす、 とある(仝上)。「七草粥」で触れたように、 羹として食ふ、万病を除くと云ふ。後世七日の朝に(六日の夜)タウトタウトノトリと云ふ語を唱へ言(ごと)して、此七草を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥と云ふ、 とある(大言海)、当初は、粥ではなく、 羹(あつもの)、 であり、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる、 子の日に引く小松、 を、 引きてみる子の日の松は程なきをいかでこもれる千代にかあるらむ(拾遺和歌集)、 と、 子の日の松、 といい(仝上)、 小松引き、 ともいい、 幄(とばり)を設け、檜破子(ひわりご)を供し、和歌を詠じなどす、 という(大言海)。 子の日遊び、 は、 根延(ねのび)の意に寄せて祝ふかと云ふ(大言海)、 「根延(の)び」に通じる(精選版日本国語大辞典)、 とある。また、正月の初めの子の日に、 内蔵寮と内膳司とから天皇に献上した若菜、 を、 子の日の若菜(わかな)、 という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 玉箒、 は、 玉箒刈り来(こ)鎌麻呂(かままろ)室(むろ)の樹と棗が本(もと)とかきはかむため(万葉集)、 と、 ゴウヤボウキ、 または、 ホウキグサ、 の古名、 だが、上代、 正月初子の日に、蚕室を掃くのに用いた箒の称、 である(広辞苑)。 コウヤボウキ(高野箒)、 の和名は、かつて高野山で竹などの有用植物を植えることを禁じたため、落葉したコウヤボウキの枝を集めて箒をつくったことに由来する、 とあり(https://www.tokyo-shoyaku.com/ohana.php?hana=577)、 キク科 コウヤボウキ属、 で、 里山や山地の林内、林縁などの乾いた場所に多く生育する落葉小低木で、樹高は50cm程度、日本特産と考えられています。茎は細いながらも木化して固くなり、同一の茎が2年間生きるので、樹木(木本植物)に分類されます、 とある(仝上)。 1年目の茎には葉が互生するが、2年目の茎には1年目の葉がついていた場所に数枚の葉が出るので、大きく印象が異なってしまう。2年目の茎は秋に枯死する。花は1年目の枝の咲きに付き、白〜淡紅色。開花期は10月ころで、13個前後の小花からなる、 とある(http://www1.ous.ac.jp/garden/hada/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/compositae/kouyabouki/kouyabouki.htm)。 ホウキグサ、 は、 ほうきぎ(箒木)、 といい、古名、 ハハキギ、 アカザ科の一年草、中国原産。茎は直立して高さ約1メートルとなり、下部から著しく分枝し、枝は開出する。これで草箒(くさぼうき)をつくるのでホウキギの名がある。葉は互生し、倒披針(とうひしん)形または狭披針形で長さ2〜4.5センチメートル、幅3〜7センチメートル、基部はしだいに狭まり、3脈が目だち、両面に褐色の絹毛がある。雌雄同株。10〜11月、葉腋(ようえき)に淡緑色で無柄の花を1〜3個束生し、大きな円錐(えんすい)花序をつくる。花被(かひ)は扁球(へんきゅう)形の壺(つぼ)状で5裂し、裂片は三角形、果実期には、花被片の背部に各1個の水平な翼ができて星形となる。種子は扁平(へんぺい)な広卵形で、長さ1.5ミリメートル、 とある(日本大百科全書)。 玉箒(たまばはき)、 は、 たまばわき、 とも訓ませ(デジタル大辞泉)、上述のように、古代、正月の子(ね)の日に、蚕室を掃くのに用いた、 繭(まゆだま)やガラス玉などの玉を飾りつけた箒(ほうき) を言うが、中国の制に倣い、 帝王が耕作をするのに用いる「辛鋤(からすき)」、 に対し、 皇妃が養蚕をする意味を表すもの、 として、正月の初子(はつね)の日に飾ったのち、臣下に賜い、宴を開いた(日本大百科全書)。また、 箒をつくる草の名、 ということで、 コウヤボウキ、 ホウキグサ、 タムラソウ、 ハコネグサ、 等々の植物の別名としても使われる(仝上・デジタル大辞泉)。 憂いを払うタマバワキ、 といい、憂いを掃き除く意から酒の異名でもある(仝上)。室町時代の意義分類体の辞書『下學集』にも、 掃愁帚、酒異名也、 とあるが、 これは、蘇東坡の、 應呼釣詩鈎、亦號掃愁帚(飲酒詩)、 からきている(大言海)。 のちには、 うつくしき玉箒をもち木陰をきよめ給ひ候は(光悦本謡曲「田村(1428頃)」)、 と、 たまを美称、 と見なして、 美しいほうき、 の意に転じる(仝上・精選版日本国語大辞典)。 なお、「ほうき」で触れたように、「ほうき」は、 帚、 とも当てる。 ほうき、 は、玉箒(たまはばき)の、 ハハキの転、 で、 語形としては「十巻本和名抄−四」「色葉字類抄」「観知院本名義抄」などには「ハハキ」とある。節用集や下學集の中には「ハハキ」「ハワキ」とするものがあるが、室町時代には「ハウキ」が優勢となっていた。「日葡辞書」では、「Foqi(ハウキ)」となっている一方、「fauaqigui(ハウキギ)」「tambauaqi」(タマバワキ)などハワキの形も見られる、 とあり(日本語源大辞典)、 ハハキ→ハワキ→ハウキ→ホウキ、 といった変化になろうか。 ははき、 は、 羽掃きあるいは葉掃きか(岩波古語辞典)、 ハハキ(羽掃)の義(箋注和名抄・俚言集覧・和訓栞)、 羽掃(ハハキ)の義、羽箒(ハバウキ)を元とす(大言海)、 落葉を掃き寄せる道具をハハキ(葉掃き)といったのがホホキ・ホフキ・ホウキ(箒)になった(日本語の語源)、 等々とあり、 羽掃き、 か 葉掃き、 に由来するようだ。 玉箒、 の用途から考えても、 古くは実用的なお掃除道具ということ以上に、神聖なものとして考えられており、箒神(ははきがみ)という産神(うぐがみ、出産に関係のある神様)が宿ると言われていました。日本最古の書物『古事記』には、「玉箒」や「帚持(ははきもち)」という言葉で表現されており、実用的な道具としてではなく、祭祀用の道具であった、 と考えられる(http://azumahouki.com/know/history/)。 「帚」(慣用ソウ、漢音シュウ、呉音ス)は、 象形、柄つきのほうきうを描いたもので、巾(ぬの)には関係がない。巾印は柄の部分が変形したもの。掃(ソウ はく)・婦(ほうきをもつ嫁)の字の右側に含まれる、 とある(漢字源)。「箒」(慣用ソウ、漢音シュウ、呉音ス)は、帚の異体字である。 参考文献; 久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 克重陰蓋四鄰(緑樹(りょくじゅ)重陰(ちょういん) 四隣(しりん)を蓋(おお)う) 青苔日厚自無塵(青苔(せいたい) 日に厚うして自(おの)ずから塵(ちり)無し) 科頭箕踞長松下(科頭(かとう)にして箕踞(ききょ)す 長松(ちょうしょう)の下(もと)) 白眼看他世上人(白眼(はくがん)もて看る 他の世上の人)(王維・与盧員外象過崔処士興宗林亭) の、 崔処士、 の、 処士、 は、 士大夫の階層に属しながら、官職につかずにいる人、 をいい(前野直彬注解『唐詩選』)、 科頭、 は、 かぶりものをつけないこと、 で、 髪を結わず、うずまき形に巻いて止めただけのあたまをもいう。寝るとき以外は、冠か頭巾をかぶるのが、当時の士大夫の習慣であり、それをつけないのは、身分だの礼節だのにこだわらない、野人の風格を示す、 とある(仝上)。 箕踞、 は、 両足を投げ出した形ですわること、 で、 無作法な座り方、 であり、 これも野人の風格である、 とある(仝上)。 白眼、 は、 しろめ、 の意たが、晋の阮籍(げんせき)は、 俗士の訪問を受けると白眼で応対した、 という。 目の白い部分を多く出して、にらむようにした、 とある(仝上)。ここから、 軽蔑・冷淡・不快などの感情をもって人に接すること、 を、 白眼で見る、 というようになる(仝上)。 「晋書」阮籍傳には、 籍又能為青白眼、見禮俗之士、以白眼對之。及嵇喜來弔、籍作白眼、喜不懌而退。喜弟康聞之、乃齎酒挾琴造焉、籍大ス、乃見青眼、 とあり、嵇喜(けいき)に対しては、 白眼を作(な)し、 喜の弟嵇康(けいこう)が、酒を齎し琴を携えていくと、 阮籍大いに悦び乃ち青眼を見(あらわ)す、 とあるところを見ると、単なる酒好きとしか思えないが、この前後は、 籍雖不拘禮教、然發言玄遠、口不臧否人物。性至孝、母終、正與人圍棊、對者求止、籍留與決賭。既而飲酒二斗、舉聲一號、吐血數升。及將葬、食一蒸肫、飲二斗酒、然後臨訣、直言窮矣、舉聲一號、因又吐血數升。毀瘠骨立、殆致滅性。裴楷往弔之、籍散髮箕踞、醉而直視、楷弔喭畢便去。或問楷、「凡弔者、主哭、客乃為禮。籍既不哭、君何為哭」。楷曰、「阮籍既方外之士、故不崇禮典。我俗中之士、故以軌儀自居」。時人歎為兩得。籍又能為青白眼、見禮俗之士、以白眼對之。及嵇喜來弔、籍作白眼、喜不懌而退。喜弟康聞之、乃齎酒挾琴造焉、籍大ス、乃見青眼。由是禮法之士疾之若讐、而帝每保護之(籍禮教に拘はらざると雖も、然れども發言は玄遠にして、口に人物を臧否せず。性は至孝にして、母の終に、正に人と棊を圍むに、對ふ者止むることを求むれども、籍留めて與に決賭す。既にして酒二斗を飲み、聲一號を舉げ、數升を吐血す。將に葬せんとするに及び、一蒸の肫を食べ、二斗の酒を飲み、然る後に訣に臨み、直だ窮まれると言ひ、聲一號を舉げ、因りて又吐血すること數升。毀瘠して骨立し、殆ど性を滅するに致る。裴楷 往きて之を弔し、籍髮を散して箕踞し、醉ひて直視す。楷弔喭し畢はりて便ち去る。或ひと楷に問ふ、「凡そ弔ふ者は、主は哭し、客は乃ち禮を為す。籍 既に哭さず、君何為れぞ哭くか」と。楷曰く、「阮籍 既に方外の士にして、故に禮典を崇ばず。我俗中の士して、故に軌儀を以て自ら居る」と。時人歎じて兩りもて得たりと為す。籍又能く青白眼を為し、禮俗の士を見るに、白眼を以て之に對ふ。嵇喜來たりて弔するに及び、籍白眼を作し、喜懌ばずして退く。喜の弟の康 之を聞き、乃ち酒を齎し琴を挾して焉に造るに、籍大いにスび、乃ち青眼を見す。是に由り禮法の士之を疾むこと讐が若く、而して帝每に之を保護す) とある(http://3guozhi.net/sy/m049.html)。阮籍は、 210〜263(建安15〜景元4)年、中国魏晋時代の人で竹林七賢の一人である。名家に生まれたが、権謀術数と下克上の政官界を厭い世俗を離れて生活した。彼には本来、世を済わんとする志があったが、魏晋交代の乱世において政治生命の全きを保ち得ない名士が多いのをみて、ついに世事に関与するのを避けて飲酒を常とし、嘯や弾琴を好んだという。彼の思想の根幹には、当時の作為と欺瞞におおわれてしまった儒教的礼法が自由な人間性を抑圧する事への極度な嫌悪があり、彼は自信をもって礼法に従わなかった。まさに「任誕=やりたい放題」そのものであった、 といい(https://www.happycampus.co.jp/doc/226/#google_vignette)、その礼法を嫌う阮籍の人となりをよく表すエピソードとして、上述の、 白眼視、 を挙げられる(仝上)という。 竹林の七賢、 とは、魏で、249年に司馬懿が実権を握り、司馬昭、司馬炎と三代がかりで権力を簒奪して晋(西晋)を建国したと混乱期、 貴族の中でそのような政治の場面から身を避けて隠遁し、竹林に集まって酒を飲んだり、楽器を奏でたりしながら、きままに暮らす人々が現れた。彼らは老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れて、権力者の司馬氏からの招聘も断り、自由に議論するを好んだ、 という、 阮籍(げんせき)、 嵆康(けいこう)、 山濤(さんとう)、 向秀(しょうしゅう)、 劉怜(りゅうれい)、 阮咸(げんかん)、 王戎(おうじゅう)、 をさす(https://www.y-history.net/appendix/wh0301-072.html)。彼らの議論は、 清談、 とい、以後の、 六朝の文化人の理想、 とされたが、党派をつくったわけでも、七人が同時に集まっていたということではなく、この七人を、 竹林の七賢、 とまとめたのは、5世紀中頃編纂された『世説新語』からという(仝上)。『世説新語』は南朝宋の劉義慶の著で、学者・文人・芸術家・僧侶など、魏・晋時代の名士たちの言行・逸話を集めたものである。 「白」(漢音ハク、呉音ビャク)は、「白毫」で触れたように 象形。どんぐり状の実を描いたもので、下の部分は実の台座。上半は、その実。柏科の木の実のしろい中身を示す。柏(ハク このてがしわ)の原字、 とある(漢字源)が、 象形。白骨化した頭骨の形にかたどる。もと、されこうべの意を表した。転じて「しろい」、借りて、あきらか、「もうす」意に用いる、 ともあり(角川新字源)、象形説でも、 親指の爪。親指の形象(加藤道理)、 柏類の樹木のどんぐり状の木の実の形で、白の顔料をとるのに用いた(藤堂明保)、 頭蓋骨の象形(白川静)、 とわかれ、さらに、 陰を表わす「入」と陽を表わす「二」の組み合わせ、 とする会意説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD)。で、 象形文字です。「頭の白い骨とも、日光とも、どんぐりの実」とも言われる象形から、「しろい」を意味する「白」という漢字が成り立ちました。どんぐりの色は「茶色」になる前は「白っぽい色」をしてます、 と並べるものもある(https://okjiten.jp/kanji140.html)。 「眼」(漢音ガン、呉音ゲン)は、「一翳眼にあれば」で触れたように、 会意兼形声。艮(コン)は「目+匕首(ヒシュ)の匕(小刀)」の会意文字で、小刀でくまどった目。または、小刀で彫ったような穴にはまった目。一定の座にはまって動かない意を含む。眼は「目+音符艮」で、艮の原義をあらわす、 とあり(漢字源)、「まなこ」、ひいて、目全体の意を表す(角川新字源)。別に、 会意形声。「目」+音符「艮」、「艮」は「匕」(小刀)で目の周りに入墨をする様で、そのように入墨を入れた目、または、小刀でくりぬいた眼窩(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%BC)、 会意兼形声文字です(目+艮)。「人の目」の象形と「人の目を強調した」象形から「眼」という漢字が成り立ちました。「人の目」の象形は、「め」の意味を明らかにする為、のちにつけられました(https://okjiten.jp/kanji12.html)、 などともある。 参考文献; 前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫) ゆふだすき千歳をかけて足引の山藍の色は変らざりけり(新古今和歌集)、 の、 ゆふだすき、 は、 木綿でつくった襷、 で、 神事をおこなうときにかける、 とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。 山藍の色、 は、 神事に着る小忌衣を染める山藍の青い色、 を言い、 青摺(あをずり)、 というとある(仝上)。 青摺、 は、 萩又は露草の花にて衣に色を摺り出す、 という、 宮城野の野守が庵に打つ衣萩が花摺露や染むらむ(壬生集)、 の、 花摺 に対する語(大言海)とされ、 藍摺、 ともいう(仝上)。 山藍を以て、種々なる模様を摺りつけ染めたる衣、 で、上代は、 服著紅紐青摺衣(古事記)、 百官人等、悉給著紅紐之青摺衣服(仝上)、 と、 朝服として、右肩に紅紐(あかひも)を着けた、 とある(仝上)。「朝服」については、「衣冠束帯」で触れた。 後には、 近衛の官人、臨時祭の舞人などの服にせり、 とあり、但し舞人は赤紐を左肩につく(大言海)という。さらに、上述のように、 小忌衣も青摺なり、 とある(仝上)。 山藍、 は、略して、 やまゐ、 ともいい、 トウダイグサ科の多年草、丈40センチ、山野の陰地に自生。葉は長楕円形、雌雄異株。春上部の葉の付け根に緑白色の小花を穂状につける、 とあり(広辞苑)、古は、 此生葉の緑汁を以て、青色を染む、 とあり、これが、小忌衣の、 青摺、 である(大言海)。 紅の赤裳すそひきて山藍もて摺れる衣着てただ独りい渡らす子は若草の夫かあるらむ(万葉集)、 とある古い染色法だが、 色落ちが早く、蓼藍(たであい)を使った藍染(あいぞめ)が平安期以降に普及したこともあり、徐々にすたれていきました、 とある(https://irocore.com/yamaaizuri/)が、日本古来の純潔な染料植物として今でも神事に使用され、大切にされている(仝上)とある。 その「青摺」で模様を染めつけた、 小忌衣、 は、 をみのころも、 をみ、 ともいい、 小忌人(をみびと)が神事に奉仕するため、装束の上から着る一重の衣、 で、 形は狩衣に似ており、束帯(そくたい)の袍(ほう)の上、または女房装束の唐衣(からぎぬ)の上に着装する白の麻布製で、身頃(みごろ)には春草、梅、柳、鳥、領(えり)に蝶(ちょう)、鳥などを山藍摺(やまあいずり 青摺)で表す。右肩には赤黒二筋の紐を垂らす。冠には日陰蔓をつける、 とある(岩波古語辞典・日本大百科全書)。「肩衣」については「法被と半纏」で、「袍」については、「衣冠束帯」、「日陰蔓(ひかげのかずら)」については、「さがりごけ」で触れた。 小忌人(をみびと)、 は、 小忌人の木綿(ゆふ)かたかけて行く道を同じ心に誰ながむらむ(公任集)、 と、 小忌の役をする人、 で、 小忌、 とは、 大嘗会(だいじやうゑ)、新嘗祭(しんじやうゑ)などの大祀のとき、とくに厳重に行う斎戒(ものいみ)、 をいい、小忌の役を務める、 をみびと、 も、「をみびと」の着る、 衣、 も、 小忌、 といい(岩波古語辞典)、で、「青摺」は、 小忌摺(おみずり)、 ともいう。 なお、各種の小忌衣については、別に譲る(https://www.japanesewiki.com/jp/Shinto/%E5%B0%8F%E5%BF%8C%E8%A1%A3.html)。 なお、現代では神社の参拝者が「ちゃんちゃんこ」のような白い衣を服の上にはおり、これを「小忌衣」と呼んでいるようである(http://www.kariginu.jp/kikata/1-7.htm)。 「忌」(漢音キ、呉音ゴ)は、 会意兼形声。己(き)は、はっと目立って注意を引く目じるしの形で、起(はっと立つ)の原字。忌は「心+音符己」で、心中にはっと抵抗が起きて、すなおに受け入れないこと、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(己+心)。「三本の横の平行線を持つ糸すじを整える糸巻き」の象形(「糸すじを整える」の意味)と「心臓」の象形から、心を整える事を意味し、そこから、「かしこまる」、「いむ」を意味する「忌」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1499.html)。 参考文献; 高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) |
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