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コトバ辞典


伏櫪


功成惠養随所致(功成って惠養、致る所に随い)
瓢瓢遠自流沙至(瓢瓢として遠く流沙より至る)
雄姿未受伏櫪恩(雄姿 未だ受けず伏櫪(ふくれき)の恩)
猛氣猶思戦場利(猛氣 猶思う戦場の利)(杜甫・高都御驄馬行)

の、

伏櫪、

の、

櫪、

は、

馬の飼料を入れるおけ。馬がかいばおけに首をつっこんで食べること。馬がうまやで養われることをいう、

とあり(前野直彬注解『唐詩選』)、魏の曹操の、

老驥は櫪に伏するも、志は千里に在り(歩出夏門行)、

にもとづく(仝上)とある。

伏櫪、

は、

老驥伏櫪(ろうきふくれき)、

と使われ、

老驥、伏櫪するも、志千里に在り、
烈士、暮年(ぼねん)、壮心(そうしん)已(や)まず(歩出夏門行)、

と、曹操「碣石篇」にあるのによる。

老驥、

は、

老いた駿馬、

の意、

櫪、

はくぬぎの木、

で、転じて、

根太、

の意で、

床下の横木に使うことから馬屋のこと、

とあり(四字熟語辞典)、つまり、

馬小屋で、かいば桶で養われる、

即ち、

老いて養われる、

の意になる(仝上)。で、

老いた駿(しゅん)馬(め)は馬小屋にくすぶっていても、千里を行く志があり、勇士は晩年になっても勇ましい心がなくならない)、

と詠(うた)う(四字熟語辞典)。

櫪馬、

は、

櫪馬非不、所苦常縶維(白居易)、

と、

厩に繋がれている馬、

となる(字源)。

曹操、

は、字は、

孟徳(もうとく)、

後漢末期の軍人・政治家・詩人、

で、魏の創始者、廟号は、

太祖、

諡号は、

武皇帝

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D)

ただ、

伏櫪、

には、別に、漢書・李尋傳に、

不伏櫪不可以趨通、

とあり、その注に、

伏櫪、謂伏槽歷而秣之、

とある。「歷」は「櫪」に通ず(字源)とあり、

伏歷、

は、

伏櫪、

と同義となる(仝上)。

「櫪」(漢音レキ、呉音リャク)は、

会意兼形声。「木+音符歷(レキ 並べる)」

とある(漢字源)。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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ほつえ


わが園の梅のほつえに鶯の音(ね)になきぬべき恋もするかな(古今和歌集)、

の、

ほつえ、

は、

秀つ枝、

の意で、

他よりも伸びた枝、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

秀(ほ)つ枝、

の、

つ、

は、

「の」の意の上代の格助詞、

で(精選版日本国語大辞典・大辞泉)、

上枝、
秀枝、

と当て、

はつえ、

とも言い、

うわえだ、

とも言う(仝上)。

下枝(しずえ)」で触れたように、

花橘は本都延(ホツエ)は鳥ゐ枯らし志豆延(シヅエ)は人とり枯らし三つ栗の中つえのほつもり赤らをとめを(古事記)、

と、

本都延(ホツエ 上枝)、
中つえ (ナカツエ 中つ枝)、
志豆延(シヅエ 下枝)、


とあり、

下の方の枝、
下の枝、
したえだ、

は、

下枝(しずえ)、

といい、

しずえだ、

とも訓む(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

上枝、

は、

上の方の枝、

の意で、

上枝(ほつえ)、

中つ枝の枝(え)の末葉(うらば)は下つ枝に落ち触らばへ(古事記)、

と、

中間の高さにある枝、

は、

中つ枝、

という(仝上)。

上枝、

の由来は、

ホ(秀)は、突き出ている意、ツは連体助詞(岩波古語辞典)、
秀(ほ)つ枝(え)の意(広辞苑)、
「ほ」は「秀」、「つ」は格助詞(大辞林)、
「ほ」は突き出る意、「つ」は「の」の意の上代の格助詞(学研全訳古語辞典)、
秀(ほ)之(つ)枝(え)の義、ホ(秀)は最上の義(松屋棟梁集・大言海・万葉集講義=折口信夫)、
穂枝の義(万葉集類林)、
ホノカナル梢の義(歌林樸樕)、

等々とあるが、

穂、

は、

秀、

とも当て、

稲の穂、山の峰などのように突き出ているもの、形・色・質において他から抜きんでていて、人の目に立つもの、

の意(岩波古語辞典)なので、

上枝、

は、

秀つ枝、

であろう。とすると、

下枝、

の語源は、

シヅはシヅム(沈)、シヅカ(静)、シヅク(雫)のシヅと同根、下に沈んで安定しているさま(岩波古語辞典)、
シモツエ(下枝)の約ソツエの転(名語記)、
シヅはシタ(下)の転(国語の語根とその分類=大島正健)、
シヅはホツに対する体言形容詞、エは枝の義(万葉集講義=折口信夫)、

などと諸説あるが、「下」から来たのではなく、

シヅはシヅム(沈)、シヅカ(静)、シヅク(雫)のシヅと同根、下に沈んで安定しているさま(岩波古語辞典)、

なのではあるまいか。

「秀」(漢音シュウ、呉音シュ)は、

会意。「禾(禾本科の植物)+乃(なよなよ)」で、なよなよした稲の穂がすらりと伸びていることを示す、

とある(漢字源)。別に、

会意。禾と、乃(だい)(のびる)とから成り、いねが長くのびる、「ひいでる」意を表す(角川新字源)、

会意文字です(禾+乃)。「穂先が茎の先端にたれかかる穀物」の象形と「のびた弓」の象形から、「長く伸びる」、「すぐれる」を意味する「秀」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1181.html)

等々ともあるが、しかし、

会意文字だがその起源は不明。「禾」と「乃」から構成されるが、「乃」は「引」が変化したものであるという説もある、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A7%80

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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がてに


あしひきの山ほとときすわがごとや君に戀ひつついねがてにする(古今和歌集)、

の、

がてに、

は、

できずに、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。また、

あは雪のたまればかてにくだけつつわがもの思ひのしげきころかな(古今和歌集)、

の、

かてに、

は、

動詞「克つ」からできた連語。「こらえかねて」の意。他の動詞につくと、

桜散る花のところは春ながら雪ぞ降りつつ消えがてにする(古今和歌集)、

と、

「がてに」の形になる、

とある(仝上)。

がてに、

は、

かてに、

の濁音化、

で(広辞苑)。のちに、

ガテは難シの語幹と混同され、ニは格助詞のように意識され、

動詞に付いて、

わが宿に咲ける藤波立ち返り過ぎがてにのみ人の見るらむ(古今和歌集)、

と、

…しがたく、

の意を表すようになる。

かてに、

は、

勝てに、
克てに、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、動詞の連用形に付き、

……することができる、
堪える、

意の、

下二段動詞「かつ」の未然形に打ち消しの助動詞「ず」の連用形の古形「に」の付いたもの、

で、上記の、

あわゆきのたまればかてにくだけつつわが物思ひのしげきころかな(古今和歌集)、

と、

こらえられず、
堪えかねて、

の意で使われた(岩波古語辞典・明解古語辞典)が、のちに、

語頭が濁音化し、一語と考えられ、ガテ(難)ニと意識された、

もので(大辞泉・学研全訳古語辞典)、

平安中期ごろ消滅した、

とある(岩波古語辞典)。そのため、

がてに、

は、

難てに、

と当て、

「かてに」の語源意識が薄れ、「難 (がた) し」の語幹と混同され、それに格助詞「に」の付いたものと意識されるようになったもの、

で、

春されば吾家(わぎへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さばしる君待ちがてに(万葉集)、

と、

すでに上代からその例がみられる(大辞泉)。ちなみに、

かつ(克・勝)、

は、

じっとこらえて相手に負けない、

意で、

…するに耐える、
…することができる、

の意味に使い、転じて、

物事を成し得る、

意となり、

大坂に継ぎ登れる伊辞務邏(イシムラ)を手越(たごし)に越さば越しかてむかも(日本書紀)、

と、

他の動詞の連用形に付く(岩波古語辞典)。多く、

未然形には打消の助動詞「ず」、終止形には打消の意志・推量を表わす助動詞「ましじ」が接続する、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「難」(漢音ダン、呉音ナン)は、

会意。「動物を火で焼き、かわかしてこちこちにするさま+隹(とり)」。鳥を火であぶることをあらわし、もと燃(ネン もやす)と同系のことば。やけただれるひあぶりのようにつらいことの意から、転じて、つらい災害ややりづらい事などをあらわす、

とあり(漢字源)、別に、

会意文字です。「火などの災いにあって祈るみこ」の象形と「尾の短いずんぐりした小鳥」の象形から、災いにでくわして、鳥をそなえて祈る事を意味し、そこから、「災い」を意味する「難」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1026.htmlが、

会意文字として解釈する説があるが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%A3

形声。「隹」(鳥)+音符「𦰩 /*NAN/」。鳥の一種を指す。のち仮借して「むずかしい」を意味する漢語{難 /*nan/}に用いる、

とも(仝上)、また、

もと、𪄿と書き、形声。意符鳥(とり)と、音符堇(キン)→(ダン)(は変わった形)とから成り、鳥の名を表す。艱(カン)に通じ、借りて「かたい」意に用いる。旧字は、意符が隹に変わったもの、

ともある(角川新字源)。

「克」(コク)は、

会意。上部は重い頭、またはかぶとで、下に人体の形を添えたもので、人が重さに耐えてがんばるさまを示す。がんばって耐え抜く意から、勝つ意となる。緊張してがんばる意を含む、

とあり(漢字源)、別に、

象形文字です。「重いかぶとを身につけた人」の象形から、「重さに耐える」、「打ち勝つ」を意味する「克」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1497.html)

象形。人が甲冑(かつちゆう)を着けた形にかたどり、甲冑の重さに耐える、ひいて「かつ」意を表す、

とも(角川新字源)あるが、

不詳。複数の説が存在するが定説はない、

とする(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%8B)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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寝(い)を寝(ぬ)


いもやすく寝られざりけり春の夜は花の散るのみ夢に見えつつ(新古今和歌集)、

の、

いもやすく、

は、

眠りも安らかに、

の意とあり、

「い」は「寝」、

で、

眠ること、

を、

寝(い)を寝(ぬ)、

といったとある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

寝を寝(いをぬ)、

は、

名詞「い(寝)」+動詞「ぬ(寝)」(デジタル大辞泉)、

つまり、

い(寝)を動詞ぬ(寝)の義(大言海)、

で、

イは睡眠、ヌは横になる、

意で(岩波古語辞典)、

家思ふと伊乎禰(イヲネ)ずをれば鶴(たづ)が鳴く葦辺も見えず春の霞に(万葉集)、

と、

横になって眠る、

つまり、

寝る、
眠りにつく、

意である(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。名詞、

い(寝)、

は、

人間の生理的な睡眠、類義語寝(ぬ)は、体を横たえること、ネブリ(眠)は時・所・形にかまわずする居眠り、

とあり(岩波古語辞典)、ふつう、

助詞「の」「を」「も」などを介して次に動詞「ぬ(寝)」がくる形をとる、

とあり、古くから独立性が弱く、

いを寝(ぬ)、
いの寝(ね)らえぬ、

など、助詞を介して、

玉手(たまで)さし枕(ま)き股長(ももなが)に伊(イ)は寝(な)さむを(古事記)、

と、

い…ぬ、

の形で用いられる。なお、「い」と「ぬ」とが直接結合した、

「いぬ」は、上記万葉集の表記から考えて、すでに一語化していたとみられる、

とある(精選版日本国語大辞典)。ちなみに、

寝の寝らえぬ(いのねらえぬ)、

は、

妹を思ひ伊能禰良延奴(イノネラエヌ)に暁(あかとき)の朝霧ごもり雁がねそ鳴く(万葉集)、

と、

眠りにつくことができない、
熟睡することができない、

意で、

「らえ」は上代の可能の助動詞「らゆ」の未然形。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。準体句を構成している、

とある(精選版日本国語大辞典)。

い(寝)、

は、

い(寝)をぬ(寝)、

の他、

い(寝)も寝(ね)ず、

などの句として使い(岩波古語辞典)、また、

熟寝(うまい)、
安寝(やすい)、
朝寝(あさい)、

など複合語を作る(仝上・岩波古語辞典)。

ぬ(寝)、

は、ナ行下二段活用で、

ね/ね/ぬ/ぬる/ぬれ/ねよ、

と活用するが、

寝(ね)る、

の文語形になり、

門(かど)に立ち夕占(ゆふけ)問いつつ吾(あ)を待つと寝(な)すらむ妹(いも)を逢(あ)いて早見む(万葉集)、

の、

動詞「ぬ(寝)」に上代の尊敬の助動詞「す」が付いて音変化した「ぬ(寝)」の尊敬語、

寝ていらっしゃる、

意の(デジタル大辞泉)、

な(寝)し、



「な」と同根、

とあり(岩波古語辞典)、

今造る久迩(くに)の都に秋の夜(よ)の長きにひとり寝(ぬ)るが苦しさ(万葉集)、

と、

横になる、
臥す、

という意になる。

「寝(寢)」(シン)は、

会意兼形声。侵は、次第に奥深く入る意を含む。寝は、それに宀(いえ)を加えた字の略体を音符とし、爿(しんだい)を加えた字で、寝床で奥深い眠りに入ること、

とある。同趣旨で、

会意兼形声文字です(宀+爿+侵の省略形)。「屋根・家屋」の象形と「寝台を立てて横にした」象形と「ほうき」の象形(「侵」の略字で、人がほうきを手にして、次第にはき進む事から、「入り込む」の意味)から、家の奥にあるベッドのある部屋を意味し、そこから、「部屋でねる」を意味する「寝」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1262.htmlが、別に、

形声。意符㝱(ぼう、む)(〈夢〉の本字。ゆめ。は省略形)と、音符𡩠(シム)(𠬶は省略形)とから成る。清浄な神殿・神室の意を表したが、古代には貴人の病者は神室に寝たことから、ねやの意に転じた。常用漢字は省略形による、

ともある(角川新字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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丹青


丹青不知老将至(丹青 老いの将(まさ)に至らんとするを知らず)
富貴於我如浮雲(富貴は我に於て浮雲(ふうん)の如し)(杜甫・丹青引贈曹将軍覇)

の、

丹青、

は、

赤と青、

で、

絵画をいう(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

丹青(たんせい)、

は、

丹砂と青雘(せいわく)、すなわち赤の絵具の材料になる石と青の絵具の材料になる土、

を指し、そこから、また、

赤い色と青い色、

をも意味する(精選版日本国語大辞典)。

丹碧、

ともいう(仝上)。転じて、

雖竹帛所載、丹青所畫、何以過子卿(漢書・蘇武傳)、

と、

絵具、
絵具の色、

で、

絵具を塗ること、
彩色、

の意で使い(仝上)、さらに、

毎疑丹青過實、今観此景、乃知良工苦心(客越志)、

と、

彩色畫、

の意でも使う(字源)。日葡辞書(1603〜04)には、

タンゼイ、エヲカク、

とあり(広辞苑)、

たんぜい、

とも訓み、

而習丹青之業以来、不致朝夕之恪勤(漢書・蘇武伝)、

と、

絵画、

また、

絵を描くこと、

の意でも使い(精選版日本国語大辞典)、当然ながら、

見嵩大師所持梵才三蔵真影。三蔵自作偈。小師徳嵩写予真乞讚。以偈答之。爾命丹青。絵予之相(「参天台五台山記(1072‐73)」)、

と、

絵を描く人、
画家、

意でも使う(仝上)。

まごころ、
不変のもの、
簡札、
歴史の書、

の意もある(字通)とあり、宋の文天祥「正気の歌」では、

天地有正気
雑然賦流形
下則為河獄
上則為日星
於人為浩然
沛乎塞蒼冥
皇路当清夷
含和吐明庭
時窮節乃見
一一垂丹青、

と、

歴史の書、

の意で使っている。

「丹」(タン)は、

会意文字。土中に掘った井型のわくの中から、赤い丹砂が現れ出るさまを示すもので、あかい物があらわれ出ることをあらわす。旃(セン 赤い旗)の音符となる、

とある(漢字源)が、

会意。「井」+「丶」、木枠で囲んだ穴(丹井)から赤い丹砂が掘り出される様、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B9、会意文字とも、

象形。採掘坑からほりだされた丹砂(朱色の鉱物)の形にかたどる。丹砂、ひいて、あかい色や顔料の意を表す、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「丹砂(水銀と硫黄が化合した赤色の鉱石)を採掘する井戸」の象形から、「丹砂」、「赤色の土」、「濃い赤色」を意味する「丹」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji1213.html、象形文字ともある。

参考文献;
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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積水


積水不可極(積水(せきすい) 極む可(べ)からず)
安知滄海東(安(いずく)んぞ滄海の東を知らんや)(王維・送秘書晁監(阿部仲麿)還日本国)

の、

積水、

は、

海のこと、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。「荀子」儒効篇に、

水を積む、これを海という、

とあるのにもとづく(仝上)とある。

勝者之戦、若決積水於千仞之谿者形也(孫氏)、

とあるように、

あつまりたまった水、

の意で、転じて、上記のように、

積水而為海(荀子)、

と、

海の異名、

ともなる(字源)。因みに、会社名の、

積水、

は、上記「孫子」の、

積水を千仞の谿(せんじんのたに)に決するがごときは、形なり、

に因んだものhttps://president.jp/articles/-/73?page=1という。

なお、

積水、

は、中国で、

北河(ふたご座の三星)の西北にある星の名、

としても使われている(漢書・李尋伝)とある(精選版日本国語大辞典)。

北河(ホクカ)、

は、

ふたご座の2つの1等星、

の名で、黄河最北端の河の流れを別けて南河(なんか)、北河(ほくか)とした、

とあるhttps://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1430291022251/index.html。古く、

匈奴が活躍した北方の地を東に流れる黄河は南北に分かれて東に流れますが、分かれた流れの北の部分を北河、南に流れる部分を南河と呼び、この流れに天の川を例えて呼んだ、

とある(仝上)。また、

積水星、

の位置については詳しく調べたものがありhttps://www.kotenmon.com/str/china/china_037.html、それに譲る。

なお、「積む」については触れた。

「積」(@漢音セキ・呉音シャク、A漢音呉音シ、慣用セキ)は、

会意兼形声。朿(シ・セキ)は、とげの出た枝を描いた象形文字で、刺(サス)の原字。責はそれに貝を加えて財貨の貸借が重なって、つらさや刺激を与えること。積は「禾(作物)+音符責」で、末端がぎざぎざと刺激するようにぞんざいに作物を重ねること、

とある(漢字源)。「集積」「積年」のように「つむ」意は、@の発音、掛け算の数値の「積」、「貯積」のように、貯える意は、Aの発音、とある(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(禾+責)。「穂先がたれかかる稲」の象形と「とげの象形と子安貝(貨幣)の象形」(「金品を責め求める」の意味)から、農作物を求め「集める・たくわえる・つむ」を意味する「積」という漢字が成り立ちました、

とするもの(https://okjiten.jp/kanji591.html)のほか、

形声。「禾」+音符「責 /*TSEK/」。「たくわえる」「つみあげる」を意味する漢語{積 /*tsek/}を表す字、

とするもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A9%8D)

形声。禾と、音符責(サク)→(セキ)とから成る。いねを重ねつむ、ひいて「つむ」意を表す、

とするもの(角川新字源)など、形声文字とする説もある。

「水」(スイ)は、

象形。みずの流れの姿を描いたもの、

とあり(漢字源)、他も、

象形。水流を象る。「みず」を意味する漢語{水 /*stujʔ/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B0%B4

象形。水が流れるさまにかたどり、河川・水液の意を表す(角川新字源)、

象形文字です。「流れる水」の象形から、「みず」を意味する「水」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji83.html)

等々ほぼ一致している。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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飼ふ


駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川(皇太后宮大夫(藤原)俊成)、

の、

花の露そふ、

は、

詠歌一体で制詞とされる、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

制詞、

とは、

制(せい)の詞(ことば)、

ともいい、

禁制の歌詞、

といい、歌学で、

聞きづらいとか、耳馴れないとか、特定の個人が創始した表現であるなどの理由から、和歌を詠むに当たって用いてはならないと禁止したことば、

とされ、鎌倉初期の歌論書『詠歌一体(えいがいったい)』で、藤原為家が説いている(精選版日本国語大辞典)とある。

水かはむ、

は、

馬に水を飲ませよう、

の意で、

馬に飼料や水を与えること、

を、

飼ふ、

という(久保田淳訳注『新古今和歌集』)とある。

飼ふ、

は、

養ふ、

とも当て(大言海)、

さ檜(ひ)の隈(くま)檜(ひ)の隈川に馬駐(とど)め馬に水令飲(かへ)吾外(よそ)に見む(万葉集)、

と、

食物や水をあてがう、

意であり、日葡辞書(1603〜04)にも、

エ(餌)ヲトリニカウ、

とある(広辞苑)。更に意味を広げて、

鉗(かなき)着け吾が柯賦(カフ)駒は引出せず(日本書紀)、

と、

食べ物や水などを与えて生命を養う、

つまり、

飼育する、

意でも使う(精選版日本国語大辞典)。さらに転じて、

人にくすりをかふて馬になす(狂言「人を馬(室町末‐近世初)」)、

と、

人や動物に毒や薬などを与える、

また、比喩的に用いて、

悪知恵などを授ける、

意でも使う(仝上)。

飼ふ、

の由来は、

支(か)ふと通ずるか、口に支ふ意、宛てがふ、土かふ同じ(大言海)、

とあるのが妥当に思える。他に、

食物をアテガフル意(和句解)、
ケフ(食触)の義(言元梯)、
家生の義(和語私臆鈔)、
キアフ(来合)の約、かう人の心とかわれる者の心の来合うこと(国語本義)、
カヒ(飼)はクハリ(配)イヒの義、クハの約か、リ、イを略す(和訓考)
クサハム(草喰)の反(名語記)、

等々あるが、

カフ、

の音からの解釈が多く、もともとの、

食物や水をあてがう、

という意とも反する気がする。

支(か)ふ、

は、

あななう、
支えんと當つ、
支柱をなす、
つっかう、

意で(大言海)、

心張り棒をかう、
鍵をかう、

と今でも使う。

あななう(扶翼)、

は、

彌(いや)務めに彌結(しま)りに阿奈々比(アナナヒ)奉り、輔佐(たすけ)奉らむ事に依りて(續日本紀)、

と、

助ける、
補佐する、

意で、

「たすく(助)」と併用されることが多い、

とある(精選版日本国語大辞典)。名詞、

あななひ(麻柱)、

は、

支柱、

の意である(大言海)。

「飼」(漢音シ、呉音ジ)は、

形声。「食+音符司」。司の本の意味は関係がない、

とある(漢字源)が、別に、

形声。「食」+音符「司 /*LƏ/」。「やしなう」を意味する漢語{飼 /*sləks/}を表す字。もと「食」が{飼}を表す字であったが、音符を加えたhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%BC

とあり、

会意で、食と、人(ひと)とから成る。は、形声で、食と、音符司(シ)とから成る。「やしなう」意を表す(角川新字源)、

会意兼形声文字です(食+司)。「食器に食べ物を盛り、それにふたをした」象形(「食べ物」の意味)と「まつりの旗・口の象形」(「祭事を司る(職務として行う)」の意味)から動物を「かう(養い育てる)」を意味する「飼」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji816.html

と、会意文字、会意兼形声文字とする説もある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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坎壈(かんらん)


卽今瓢泊干戈際(卽今 瓢泊す 干戈(かんか)の際)
屡貌尋常行路人(屡(しば)しば尋常行路の人を貌(えが)く)
途窮反遭俗眼白(途(みち)窮(きわ)まり反(かえ)って俗眼の白きに遭(あ)う)
世上未有如公貧(世上未だ公の如く貧しきは有らず)
但看古来盛名下(但し看よ古来盛名の下)
終日坎壈纏其身(終日坎壈の其身を纏(まと)うを)(杜甫・丹青引贈曹将軍覇)

の、

干戈、

は、

楯と矛、

で、

戦争、

の意、

坎壈(かんらん)、

は、

思うとおりにならなくて困窮すること、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

坎壈(かんらん)、

は、

志を得ないさま。望み通りにならず心が満たされないさま、

をいいhttps://kanji.jitenon.jp/kanjiy/13876.html

百度百科には、

坎壈是一个汉语词汇……意为困顿、不顺利(坎壈是一個漢語詞匯(彙)、……意為困頓、不順利)、

とある。

永井荷風は、「下谷叢話」で、

然レドモ九皐詩文ヲ以テ高ク自ラ矜持(きょうじ)シ世ニ售(う)ルコトヲ欲セズ。今四十ヲ過ギテナホ坎壈(かんらん)ヲ抱ク。コレラノ作アル所以(ゆえん)ナリ。方今在位ノ人真才ヲ荒烟(こうえん)寂寞(じゃくまく)ノ郷ニ取ラズ。吁(ああ)惜ムベキ哉 (新字新仮名)、

と使っておりhttps://furigana.info/r/%E3%81%8B%E3%82%93%E3%82%89%E3%82%93、空海は、『三教指帰(さんごうしいき)』で、

或るときは金巖(きんがん)に登つて雪に遇うて坎壈(かんらん)たり、或るときは石峯(せきほう)に跨(また)がって粮(かて)を絶つて轗軻(かんか)たり、

と使っているhttps://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/10/view/1737)

「坎」(漢音カン、呉音コン)は、「かん日」で触れたように、

会意兼形声。欠(ケン)は、人がからだをくぼませたさまを描いた象形文字。坎は「土+音符欠」。土にくぼんだ穴を掘ること、

とあり(漢字源)、

坎穽(カンセイ)、

は、

陥穽、

と書きかえられhttps://www.kanjipedia.jp/kanji/0001026100

坎、

は、

陥、

と書き換えられるものがある(仝上)とある。

「壈」(ラン)については、手元の漢和辞典(字源)には載らず、

坎壈(かんらん)、

としての用例のみが、かろうじて載る(https://kanji.jitenon.jp/kanjiy/13876.html)。で、

壈、

の「旁」の、

稟、

を調べてみた。

「稟」(@ヒン、Aリン)は、

会意文字。「禾(穀物)+屋根付きの丸い米蔵のかたちろ」。収納していた作物をあらわす。転じて、食糧のこと、

とあり(漢字源)、「さずかった食糧」「さずかる、うける(稟命、稟樂)」「天から授かった性質(天稟・稟性)」「申し上げる(稟告)」等々は、@の発音、こめぐら(米蔵 廩)の意は、二の発音となる(仝上)。他に、

会意形声。禾と、㐭(リム)(こめぐら)とから成る。「こめぐら」、転じて「うける」意を表す(角川新字源)、
会意文字です。「米蔵」の象形と「穂の先が茎の先端に垂れかかる稲」の象形から、「米蔵の中の穀物」、「扶持米」を意味する「稟」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2350.html)

とある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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齋院


忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野辺の露のあけぼの(式子内親王)、

の詞書に、

斎院に侍りける時、神館にて、

とある(新古今和歌集)。

斎院、

は、

賀茂社に奉仕する斎王。未婚の内親王・女王が卜定された、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

神館、

は、

神事の際に神官などが参籠する建物、

とあり、

ちはやぶる斎(いつき)の宮の旅寝には葵ぞ草の枕なりける(千載和歌集)、

があり、これは、

祭の使として神館に宿り、斎院女房に贈った詠、

なので、これを意識するか、とある(仝上)。式子内親王集によれば、

斎院退下後の詠と見られる、

とある(仝上)。なお、歌の中の、

葵、

は、

賀茂葵、

を指し、

二葉葵、

ともいい、

賀茂社の神事に用いられる、

とある(仝上)。

返さの日」で触れたように、

返さの日、

は、

祭の次の日、祭を終わって賀茂の斎院が紫野(賀茂の斎宮の御所があった)へ帰っていく、それを公卿が行列で送るのである、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

賀茂斎院(かものさいいん)、

は、

いつきのみや、

ともいい、

賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)、賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)からなる賀茂社に奉仕する、未婚の内親王または女王、

をいう(国史大辞典)。伊勢神宮の斎宮と併せて、

斎王(さいおう)、
斎皇女(いつきのみこ)、

と呼ばれ、

伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)、

だが、厳密には、

内親王の場合は「斎内親王」、
女王の場合は「斎女王」、

といい、両者を総称して、

斎王、

と呼んでいるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E7%8E%8B。伊勢神宮の斎王は特に、

斎宮(さいぐう)、

賀茂神社の斎王は特に、

斎院(さいいん)、

と呼んだ(仝上)。また、単に、

斎(いつき)、

ともいう(大言海)。

賀茂斎院制度の起源は、平安時代初期、

平城上皇が弟嵯峨天皇と対立して、平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は王城鎮守の神とされた賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を「阿礼少女(あれおとめ、賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)」として捧げると祈願をかけ、仁元年(810年)薬子の変で嵯峨天皇側が勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まり、

とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E9%99%A2・國史大辞典)。

伊勢神宮の、

斎王(斎宮)、

に倣い、歴代の斎王は、

内親王あるいは女王から占いによって選出され、賀茂川で禊を行い、宮中初斎院での二年の潔斎の後、三年目の四月上旬に、平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入し、再び賀茂川で禊をしてから、仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、年中祭儀や賀茂社での葵祭などに奉仕した、

とされる(仝上)。で、その御所の地名から、

紫野斎院(むらさきのさいいん)、

あるいは、

紫野院(むらさきのいん)、

とも呼ばれた(仝上)。特に重要なのは四月酉の日の賀茂祭で、

祭当日斎院は御所車にて出御され、勅使以下諸役は供奉し先ず下社へ次いで上社へ参向・祭儀が執り行われる。上社にては本殿右座に直座され行われた、

とあるhttp://www.genji.co.jp/yukari/aoi/saiin.html。この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、枕草子にも、

見物は、臨時の祭 行幸 祭の還さ 御賀茂詣で、

とある。「祭の還さ」が、

斎王の還御、

である(仝上)。祭り当日の夜は御阿礼所前の神館に宿泊され翌日野宮(紫野院)へ戻られたのである。

齋院制度は、

9世紀初めから13世紀初めまでの約400年間続き、35人が斎院をつとめた、

とある(国史大辞典)。

「斎(齋)」(漢音サイ、呉音セ)は、「斎」は「(とき)」で触れたように、

会意兼形声。「示+音符齊(サイ・セイ きちんとそろえる)の略体」。祭りのために心身をきちんと整えること、

である(漢字源)。別に、

形声。示と、音符齊(セイ、サイ)とから成る。神を祭るとき、心身を清めととのえる意を表す。転じて、はなれやの意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(『祖先神』の意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する「斎」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1829.htmlある。

とあり、やはり、心身を浄め整える意味がある。

「院」(慣用イン、漢音呉音エン)は、

会意兼形声。「阜(土もり)+音符完(丸く欠け目なくとりかこむ)」。周りを囲んだ土べい、

とある(漢字源)。別に、

形声。「阜」+音符「完 /*KON/」。「かきね」を意味する漢語{院 /*waan/}を表す字。音変化 *-on > *-wan の後に「完」が音符として充当されたhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%99%A2

形声。阜と、音符完(クワン)→(ヱン)とから成る。家の周囲にめぐらした土塀、また、その家の意を表す(角川新字源)、

会意兼形声文字です(阝+完)。「段のついた土山の象形」と「家の屋根・家屋と、冠をつけた人の象形」(「家の周囲の土塀」の意味)から「堅固な垣根・建物」を意味する「院」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji451.html)

等々とあり、ほぼ同趣旨である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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しきたへ


わが恋を人知るらめやしきたへの枕のみこそ知らば知るらめ(古今和歌集)、
しきたへの枕の下に海はあれど人をみるめはおひずぞありける(古今和歌集)、

の、

しきたへの、

は、

枕、床、袖などににかかる枕詞、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

しきたえ、

は、

敷栲、
敷妙、

と当て、

共寝するために敷く栲(たへ)、

の意(岩波古語辞典)で、

寝床に敷いて寝る衣、

をいう(大言海・岩波古語辞典)。

栲(たへ)、

は、

たく、

ともいい(大言海)、

楮(こうぞ)類の皮からとった白色の繊維、またそれで織った布(岩波古語辞典)、
梶(かじ)の木などの繊維で織った、一説に、織目の細かい絹布。布(精選版日本国語大辞典)、
殻の木の糸(祭に用ゐるときは木綿(ユフ)とも云ふ)を以て織りなせる布(大言海)、
古へかぢの木の皮の繊維にて織りし白布(字源)、

等々とあり、

コウゾの古名(デジタル大辞泉)、
「かじのき(梶木)」、または「こうぞ(楮)」の古名(精選版日本国語大辞典)、

ともあるのは、

カジノキとコウゾは古くはほとんど区別されていなかったようである。中国では「栲」の字はヌルデを意味する。「栲(たく)」は樹皮を用いて作った布で、「タパ」と呼ばれるカジノキなどの樹皮を打ち伸ばして作った布と同様のものとされる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

純白で光沢がある、

ため(仝上)、

色白ければ、常に白き意に代へ用ゐる

とあり(大言海)、

白栲(しろたへ)、
和栲(にぎたへ)、
栲(たへ)の袴、
栲衾(たくぶすま)、

などという(仝上・字源)。

栲、

は、

ハタヘ(皮隔)の義(言元梯)、
たへ(手綜)の義(日本古語大辞典=松岡静雄・続上代特殊仮名音義=森重敏)、

と、「織る」ことと関わらせる説もある(「綜(ふ)」については触れた)が、

堪(た)へにて、切れずの義か、又、妙なる意か、

とある(大言海)ように、

妙、

と同根とされる(岩波古語辞典)。また、

御服(みそ)は明る妙(タヘ)・照る妙(タヘ)・和(にき)妙(タヘ)・荒妙(あらたへ)に称辞竟(たたへごとを)へまつらむ(「延喜式(927)祝詞(九条家本訓)」)、

とあるように、

布類の総称、

として、

妙、

を当てている(精選版日本国語大辞典)例もある。

しきたへの、

は、枕詞として、

明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)は敷多倍乃(しきタヘノ)床(とこ)の辺去らず(万葉集)、

と、

「しきたえ」は敷物とする栲(たえ)、すなわち寝具の意となるところから、寝具として使われる「床」「枕」「手枕」、

などにかかり、また、

ますらをと思へる我も敷妙乃(しきたへノ)衣の袖は通りて濡れぬ(万葉集)、

と、

夜の衣や袖(そで)なども、下に敷いて寝るところから、「衣」「袖」「袂」「黒髪」、

などにかかり、夜床のある家の意からか、

留めえぬ命にしあれば敷細乃(しきたへノ)家ゆは出でて雲隠りにき(万葉集)、

と、

家、

にかかり、

寄る波の涼しくもあるか敷妙の袖師(そでし)の浦の秋の初風(新勅撰和歌集)、

と、

袖や床と同音を語頭にもつ地名「袖師の浜」「鳥籠(とこ)の山」「とこの海」、゛

などにかかる使われ方をする(精選版日本国語大辞典)。

しろたへ、

は、

白栲、
白妙、

と当て、

春過ぎて夏来にけらし白たへの衣干すてふ天の香具山(新古今和歌集)
卯の花の咲きぬる時は白たへの波もて結へる垣根とぞ見る(仝上)

などと詠われるが、

栲(たえ)で作った製品の意で、繊維製品を表わす、

ので、

やすみしし我が大君の獣(しし)待つと呉床(あぐら)にいまし斯漏多閉能(シロタヘノ)衣手(そて)着備ふ(古事記)、

と、

「衣(ころも)」「衣で」「下衣(したごろも)」「袖(そで)」「たもと」「たすき」「帯」「紐(ひも)」「領巾(ひれ)」「天羽衣(あまのはごろも)」「幣帛(みてぐら)」、

などにかかり、白栲のように真白なの意で、

まそ鏡照るべき月を白妙乃(しろたへノ)雲か隠せる天つ霧かも(万葉集)、

と、

「君が手枕(たまくら)」「雲」「月」「雪」「光」「砂」「鶴(つる)」「梅」「菊」「卯(う)の花」、

など、白いものを表わす語にかかる(精選版日本国語大辞典)。

栲、

は、

上代において、衣料の素材として用いられていたため、「白栲」は、「万葉集」では、

衣服に関する語の枕詞として多用される。実生活に即した語ではあるが、一方で「白妙」という美称的表記も用いられ、歌語としての萌芽が認められる、

とある(精選版日本国語大辞典)。時代が下ると、「栲」が生活に用いられることはなくなり、それに伴って「白栲」は観念的なものとなっていき、歌語としては白色のみが強く意識され、白の象徴としての枕詞になっていく(仝上)とある。

「敷」(フ)は、

会意兼形声。甫(ホ・フ)は、芽のはえ出たたんぼを示す会意文字で、平らな畑のこと。圃(ホ)の原字。旉(フ しく)は、もと「寸(手の指)+音符甫(平ら)」の会意兼形声文字で、指四本を平らにそろえてぴたりと当てること。敷はそれを音符とし、攴(動詞の記号)をそえた字で、ぴたりと平らに当てる、または平に伸ばす動作を示す、

とあり(漢字源・角川新字源)、

会意兼形声文字です(旉+攵(攴))。「草の芽の象形と耕地(田畑)の象形と右手の象形」(「稲の苗をしきならべる」の意味)と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「ボクッと打つ・たたく」の意味)から、「しく」を意味する「敷」という漢字が成り立ちました、

ともある(https://okjiten.jp/kanji1111.html)が、別に、

形声。「攴」+音符「尃 /*PA/」。「しく」を意味する漢語{敷 /*ph(r)a/}を表す字、

とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%95%B7)ある。

「栲」(こう)は、

会意兼形声。「木+音符考(まがる)」で、くねくねと曲がった木、

とある(漢字源)。
中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、

紵緒の旁(つくり)を省き、合して木篇としたるもの、

とあり(大言海)、「栲」は、

樗(アフチ 「楝(あふち)」に似たる一種の喬木、

で、

栲栳量金買斷春(盧延譲詩)、

と、

栲栳(カウラウ)、

は、柳條をまげて作り、物を盛る器、

とある(字源・漢字源)。

「妙」(漢音ビョウ、呉音ミョウ)は、「妙見大悲者」で触れたように、

会意文字。少は「小+ノ(けずる)」の会意文字で、小さく削ることをあらわす。妙は「女+少」で、女性の小柄で細く、なんとなく美しい姿を示す。細く小さい意を含む、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。女と、少(セウ→ベウ わかい)とから成り、年若い女、ひいて、美しい意を表す。また、杪(ベウ)・眇(ベウ)に通じて、かすかの意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(女+少)。「両手をしなびやかに重ね、ひざまずく女性」の象形と「小さい点」の象形(「まれ・わずか」の意味)から、奥床しい女性(深みと品位がある女性)を意味し、そこから、「美しい」、「不思議ではかりしれない」を意味する「妙」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1122.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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下紐


思ふとも恋ふともあはむものなれやゆふ手もたゆくとくる下紐(古今和歌集)、

の、

とくる下紐、

は、

下紐が解けるのは、思いを寄せる相手と逢える前兆と信じられていた、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

下紐(したひも)、

は、

装束の下、肌着の上に結ぶ帯、したおび、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

下裳(したも)などのひも(岩波古語辞典・大言海)、
下裳(したも)・下袴(したばかま)などの紐、下結(したゆう)紐(デジタル大辞泉)、
腰から下に着用する裳(も)や袴(はかま)などの紐(学研全訳古語辞典)、

等々とあり、

人に恋ひらるる時は、下紐、解くることありと言ひならはして、歌にむ多く其意に云へり、

とある(大言海)。また、

我妹子し吾(あ)を偲ふらし草枕旅之丸寝(たびのまろね)に下紐解けぬ(万葉集)、

と、

下紐が自然に解けるのは、相手から思われているか、恋人に会える前兆とする俗信があった、

が、また、

男女が共寝した後、互いに相手の下紐を結び合って、再び会うまで解かない約束をする習慣があった、

ともある(学研全訳古語辞典)。万葉時代には、

紐の結び、

の伝統があって、

恋人同士が別れる前に互いの魂を分け与えるという意味で、「下紐」を結び交わした。その結び目は再会するまで解けることなく維持されるのが原則であった。その「結び目」が解けたり切れたりするのは互いの魂の遊離を意味し、不吉なものであった、

といい、他方、

下紐解く、

ことを、

離れている二人が相手を思い、その強い思いが魂の片鱗である下紐の結び目に作用して自然に解けるという考え方をも有していた、

とあるhttps://www.earticle.net/Article/A280071)。これが、平安時代には、

思ふ心のしるし、

としての「下紐」信仰のみが影響力を持った、

とあり、不吉な意味はなくなり、「下紐」の表現は多様化して、

夜半の下紐(男女の間柄が親密なってうちとける様子)、
花の下紐(女性が男性に身をまかせる表現から花のつぼみが開く様子を表す表現として定着)、
下紐の関(片想いの障害物か、男女が逢ってはいるがそれにも関わらず存在する障害物の象徴)、

等々といった慣用句を産み出した(仝上)とある。

下紐(したひも)、

は、

日本書紀では、

遂(つひ)に美麗(うるは)しき小蛇(こをろち)有り。其(そ)の長(なか)さ大(おをき)さ衣紉(シタヒモ)の如(こと)し、

と清音だが、万葉集では、

うるはしと思ひし思はば之多婢毛(シタビモ)に結ひつけ持ちて止まず偲(しの)はせ、

と、

したびも、

と濁音である(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

下紐、

の意は、下ると、日葡辞書(1603〜04)では、

ふんどし、

の意、江戸時代には、

いつ見ならひけるつまなげ出しの居ずまひ、白羽二重の下紐(シタヒモ)を態と見せるはさもし(好色一代女(1686)、

と、

腰巻、

をいい(仝上)。

二布(ふたの)、
したへぼ、

ともいった(仝上)とある。

なお、

下紐の、

は、

物思(ものも)ふと人には見えじ下紐(したびも)の下(した)ゆ恋ふるに月そ経にける(万葉集)、

と、

「下紐」の「下」と同音の繰り返しで「下ゆ恋ふる」にかかり、また、下紐を解く意で、「解(と)く」と同音の地名「土岐(とき)」に、下紐を結う意で、「結(ゆ)ふ」と同音の「夕」にかかる、

枕詞として使われ、

男女が別れる時に互いに下紐を結び合い、再会して解き合うまでその紐を解かないという習慣、また信仰があったので、その恋の心を含ませて用いる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「紐」(慣用チュウ、漢音ジュウ、呉音ニュウ)は、

会意兼形声。「糸+音符丑(チウ ねじる、ひねって曲げる)」で、柔らかい寝(い)を寝(ぬ)含む、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(糸+丑)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と「手指に堅く力を入れてひねる」象形(「ひねる」の意味)から、ひねって堅く結ぶ「ひも」を意味する「紐」という漢字が成り立ちました、

ともある(https://okjiten.jp/kanji2650.html)が、

形声。糸と、音符丑(チウ)→(ヂウ)とから成る(角川新字源)、

と、形声文字とする説もある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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ゆたのたゆたに


いでわれを人なとがめそ大舟のゆたのたゆたにもの思ふころぞ(新古今和歌集)、

の、

ゆたのたゆたに、

は、

あが心ゆたにたゆたに浮き蓴(ぬなは)辺(へ)にも沖にも寄りかつましじ(万葉集)、

の、

「ゆたにたゆたに」の転、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。なお、

蓴(ぬなは)、

は、

スイレン科の水生の多年草の蓴菜(じゅんさい)、

である(仝上)。

ゆたのたゆたに、

は、

寛のたゆたに、

と当て、後世、

ゆだのたゆだに、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、

ゆらゆらとただよい動いて、
甚だ揺蕩(たゆた)ひて、

といった(仝上・大言海)状態表現の意で、それが、価値表現に敷衍して、

不安定で落ち着かないようす、

を表す(学研全訳古語辞典)。

ゆた、

は、

寛、

と当て、

かくばかり恋ひむものそと知らませばその夜(よ)はゆたにあらましものを(万葉集)、

と、

ゆったりしたさま、
余裕のあるさま、

の意で(岩波古語辞典)、さらに、上述の、

ゆたにたゆたに、

のように、

ゆったりして不定のさま、

の意になり(仝上)、

たゆたに、

は、

タは接頭語、

で、

ゆたに、

ともいい、

ゆた、

は、上述のように、

ゆるめやかでさだまらないさま、

の意となり(仝上)、

ゆらゆら、

の状態表現から、

気持の揺れて定まらないさま、

の価値表現としても使う(仝上)。動詞の、

たゆたふ、

は、

揺蕩(たゆた)ふ、
猶予ふ、
猶預ふ、

等々と当て(大言海・日本語源大辞典・岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

タは接頭語、ユタはゆるやかでさだまらないさま、

とある(岩波古語辞典)が、やはりもとは、

天雲の多由多比(タユタヒ)来れば九月(ながつき)のもみちの山もうつろひにけり(万葉集)、

と、

水などに浮いているものや煙などが、あちらこちらとさだめなくゆれ動く、
ひと所にとまらないでゆらゆらと動く、
ただよう、

という状態表現の意味だが、それをメタファにして、

常止まず通ひし君が使ひ来ず今は逢はじと絶多比(たゆタヒ)ぬらし(万葉集)、

と、

心が動揺して定まらなくなる、
ぐずぐずして決心がつかない状態になる、
躊躇(ちゅうちょ)する、
ぐずぐずする、

という価値表現の意で使う(精選版日本国語大辞典)。で、この意味の時は、

躊躇、
猶予(いざよう)、
依違(いい)、

と意味が重なる(仝上・大言海)。

たゆたふ、

の語源は、

タは接頭語、ユタはゆるやかでさだまらないさま(岩波古語辞典)、

以外に、

ユタユタの略、タヤタの活用語(万葉考)、
タユミ-タタフ(湛)の義(名語記)、
漂う意で、タユタユ(徒動徒動)の義(言元梯)、
タは接頭語、ユタはユタカ(裕)の語幹(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々あるが、上述の流れから見て、やはり、

タは接頭語、ユタはゆるやかでさだまらないさま、

からきていると見るのが妥当に思われる。

「寛」(カン)は、

会意兼形声。萈(カン)は、からだのまるい山羊を描いた象形文字。まるい意を含む。寛はそれを音符とし、宀(いえ)を加えた字で、中がまるくゆとりがあって、自由に動ける大きい家。転じて、ひろく中にゆとりのある意を示す、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(宀+莧(萈))。「屋根・家屋」の象形と「角と目とを強調した、やぎ」の象形から、小屋の中にゆったりとしているやぎのさまを表し、そこから、「ひろい」を意味する「寛」という漢字が成り立ちました、

(https://okjiten.jp/kanji1690.html)同趣旨たが、

形声。宀と、音符萈(クワン)とから成る。広い家、ひいて「ひろい」意を表す。常用漢字は省略形による、

と(角川新字源)、

形声。「宀」+音符「萈 /*KWAN/」。「ひろい」を意味する漢語{ェ /*kwhaan/}を表す字、

 (https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AF%AC)、形声文字とする説もある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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幕府


月卿臨幕府(月卿(げっけい)は幕府に臨み)
星使出詞曹(星使(せいし)は詞曹(しそう)より出でたり)(高適・送柴司戸充劉卿判官之嶺外)

の、

幕府、

は、

節度使(劉卿)は本来武官であるが、駐屯する地方の行政権をも委譲されており、その執務する役所を幕府という、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

月卿、

は、

朝廷にいる公卿、

を指し、「書経」洪範に、

卿士は惟(こ)れ月、

とあるのにもとづく。ここでは、劉卿をさすとある(仝上)。

星使、

は、

朝廷の使者、

をいい、

柴司戸をさす。柴は使者として行くわけではないが、朝廷の命令によって(劉節度使の判官、幕僚として)派遣されるから、使という、

とあり(仝上)、

詞曹、

は、

文学の才によって勤務する役所、ふつう翰林院をいう。これからみれば、柴は翰林から嶺南の判官に転任させられたらしい、

とある(仝上)。

永平の初、東平王蒼……東閤を開き、英雄を延(ひ)く。時に固、始めて弱冠、奏記して蒼に説きて曰く、……竊(ひそ)かに幕府新たに開かれ、廣く群俊を延(まね)くを見る。〜明智を收集し、國の爲に人を得、以て本朝を寧(やす)んずべし(後漢書・班固伝)、

とある(字通)、

幕府、

は、

古者出征為将師、軍還則罷、理無常處、以幕帟為府署、故曰幕府(史記・李牧伝、索隠注)、

将軍職、在征伐、所在為治、曰幕府(「故事(胡継宗)」)、

などともあり、もと、

将軍は軍旅の際、幕中で事を治めたから、

将軍の居所、または陣営、

をいい、

柳営、

のこと(広辞苑)とある。

柳営、

は、「漢書」周勃伝の、

中国漢の将軍周亜夫が匈奴(きょうど)征討の時に細柳という地に陣し、軍規正しく威令がよく行なわれた、

というの故事による(精選版日本国語大辞典)、

出征中の将軍の陣営、

つまり、

幕府、

である。「史記」李将軍傳に、

大将軍使長史急責廣、之幕府、対簿、

とあり、当然、

一定のところになく随処に幕を以て府とする、

ものである(字源)。中国では、

天子を輔佐する者や天子の委任を受けた者が、長官として府を開き属官を置いたが、野戦軍司令官の場合は帷幕(いばく)で府を設営するのでこれを幕府といった、

とあり(世界大百科事典)、幕府が、

官署の意味に用いられるようになるのは、後漢の明帝時代、東平王蒼が驃騎将軍となって自己の政庁を置き、天子を輔佐したときあたりからだという。三国以後になると、将軍号を帯びる者が各地に都督府を開き、1州ないし数州の軍事権を掌握した。都督府はしだいに州の行政権も握るようになった、

とある(仝上)。中唐以後には、

各地に節度使が配置されて数州を管轄したが、その政庁は使府とよばれた。属官には判官・推官など令制外の幕職官が置かれ、従来の州県官の権限をしのいで管轄地域の軍事と行政を掌握した。幕職官も節度使の意向によって任用された、

とあるのが、上記の詩の背景となる。

これを転用して、日本では、

幕府、

は、

左右近衛府、大将、唐名羽林大将軍、常は幕府と云ふ、又幕下と云ふ(職下抄)、

と、

皇居警固の陣、

である、

近衛府の唐名、

として用い、転じて、

近衛大将の居館、

また、

近衛大将、

をさす(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。さらに、

右近衛大将であった源頼朝が建久三年(1192)征夷大将軍となったあとも、ひき続いてその居館を幕府と呼称した、

ことから、

武家政権の首長およびその居館の呼称、

つまり、

将軍、公方の政令を発する所、

の意味で(精選版日本国語大辞典)、

朝廷、

に対し、

武家の政府、

の意味で使う(大言海)。で、

柳営、

も、同じ意味で使う。日本では、

鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府、

があるが、歴史学上の用語としては、抽象的に、

武家政権、

を意味し、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府を一貫して把握するものとされる。したがって政権の首長が征夷大将軍でない時期もその政権を「幕府」と称し、最近では首長の征夷大将軍任命をもって「幕府」の成立とはしない考え方がある、

とある(日本史小辞典)。現に、

1190年(建久1)源頼朝は右近衛大将に任ぜられ、やがて辞退したが、その居館を幕府、頼朝のことを幕下と呼ぶようになった、

けれども、

94年に頼朝は征夷大将軍の辞表を提出しているし、その子頼家が征夷大将軍になったのは、父のあとを継いで3年後である。1203年(建仁3)頼家の弟実朝が兄のあとを継ぐと同時に征夷大将軍に任ぜられ、それ以来武家政権の首長と征夷大将軍とが一体のように考えられるに至った。しかし鎌倉・室町幕府ではその首長が幼少のため、元服して征夷大将軍になるまで、征夷大将軍を欠くようなことは珍しくなく、とくに九条頼経、足利義政などは首長の地位についてから征夷大将軍となるまでの期間が6〜7年に及んでいる、

とある(世界大百科事典)。

「幕」(漢音バク、呉音マク)は、

会意兼形声。莫(マク・バク)は、四つの屮印(草)の間に陽が隠れるさまを示す会意文字で、暮の原字。隠れて見えない意を含む。幕は「巾(ぬの)+音符莫」で、物を隠して見えなくするおおい、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(莫+巾)。「草むらの象形と太陽の象形」(太陽が草原に没したさまから、「ない・覆い隠す」の意味)と「頭に巻く布きれをひもにつけて帯にさしこむ」象形から、「覆う為の布(まく)」を意味する「幕」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1005.htmlが、

形声。「巾」+音符「莫 /*MAK/」。「とばり」「覆いのぬの」を意味する漢語{幕 /*maak/}を表す字、

ともhttps://kakijun.jp/page/0881200.html

形声。巾と、音符莫(バク)とから成る。おおう布、「まく」の意を表す、

とも(角川新字源)、形声文字とする説がある。

「府」(フ)は、

会意兼形声。付(フ)は、人の背に手をぴたりとひっつけるさま。府は、「广(いえ)+音符付」で、物をびっしりとひっつけていれるくら、

とあり(漢字源)、同趣旨で、

会意兼形声文字です(广+付)。「屋根」の象形と「横から見た人の象形と、右手の手首に親指をあて脈をはかる象形(「手」の意味)」(人に手で「物をつける」の意味)から重要な書類をよせて(つけて)しまっておく、「くら」を意味する「府」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji572.htmlが、

形声。「广」(建物)+音符「付 /*PO/」。「蔵」を意味する漢語{府 /*p(r)oʔ/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BA%9C

形声。广と、音符付(フ)とから成る。文書などをしまっておく「くら」の意を表す、

とも(角川新字源)あり、形声文字とする。「府」は、

宝物や文書をしまう建物、

つまり、

くら、

の意だが、

政府、

というように、

役所、

も意味し、

唐から清代にかけての行政区画のひとつ、州の上位に位置し、州・県を統括する、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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うけ


伊勢の海に釣りする海人(あま)のうけなれや心一つを定めかねつる(古今和歌集)、

の、

うけ、

は、

釣りをするときの浮子、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

うけ、

は、

食、

と当てると、

保食神、此云宇気母知能加微(うけもちの神)(日本書紀)、

と、

食物、

の意(岩波古語辞典)、

筌、

と当てると、

うえ(へ)、

ともいい、

魚をとる道具、

で、

竹を筒状または底のない徳利状に編んだもの、

をいい、

槽、

と当てると(ケは笥の意)、

天の石屋戸(いはやと)にうけ伏せて踏みとどろこし(古事記)、

と、

たらいのような容器、

で(デジタル大辞泉)、

穀物を入れておくいれもの、祭儀の時、これを伏せてたたき、霊魂(たま)に活力を与える、

とあり(岩波古語辞典)、

うけを衝くは神遊びの義なり(江家次第)、

とある。

神遊

は、

神々が集まって楽を奏し、歌舞すること、

が、転じて、

神前で歌舞を奏して神の心を慰めること。また、その歌舞、

の意となる(精選版日本国語大辞典)。

神楽(かぐら)、

と同じ意味である(仝上)。

有卦、

と当てると、

陰陽道(おんようどう・おんみょうどう)で、人の生年を干支に配して、五行相生相剋の理によって定めた、吉事が続くという年回り、次の5年は無卦(むけ)の凶年が続く、

という意味になる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。

ここでの、

うけ、

は、

浮、
浮子、
泛子、

と当てる、

住吉(すみのえ)の津守網引(あびき)の浮(うけ)の緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは(万葉集)、

の、

うき(浮)、

つまり、

釣糸や(曳)網につけて波のまにまにうかしてある木片、

をいい(仝上・精選版日本国語大辞典)、

泛子(うき)の古語、

とあり(大言海)、

ちいさきひょうたん浮きて流れもあえず見えけるを、これぞと取あげしに、刀のうけに付て酒もり半に沈め置しと見えたり(浮世草子「武家義理物語(1688)」)、

と、「浮沓(うきぐつ)」のような、

浮かばせるための道具、

をもいう(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。この、

うけ、

は、四段活用の動詞、

浮く、

の他動詞形、

浮く、

の名詞形になる。

うく」で触れたように、

物が空中・水中・水面にあって、底につかず、不安定な状態でいる意。「心が浮く」とは、平安時代には不安な感じを伴い、室町時代以降には陽気な感じを表した、

とあり(岩波古語辞典)、その語源は、

本来二音節語と考えます。「水面または空中にある」意です。ウカレル(浮か+レル)は、他の刺激により心理的に浮いた状態になる意です。ウカブは「浮カ+ブ(継続)」で、浮いた状態になることを表します。ウカベルはもその一段化で、いずれも同源です(日本語源広辞典)、
ウはウヘ(上)の意(日本釈名・日本古語大辞典=松岡静雄)、
ウヘク(上来)の義(日本語原学=林甕臣)、
ウは海、または上か。クはかろくの上略か(和句解)、

等々とあるが、「うえ(上)」は、古形は、

ウハ、

である。

「下(した)」「裏(うら)」の対。稀に「下(しも)」の対。最も古くは、表面の意。そこから、物の上方・い位置・貴人の意へと展開。また、すでに存在するものの表面に何かが加わる意から、累加・繋がり・成行き等の意を示すようになった

とある(岩波古語辞典)。

ウハ→ウヘ→ウエ、

の転訛である。ならば、

ウハ→ウク、

もありそうな気がするが、音韻的には無理らしい。

「泛」(@漢音ハン・呉音ボン、A漢音ホウ・呉音フウ)は、

会意兼形声。乏は「止(あし)+/印」からなり、足の進行を/印でとめたさま。わくをかぶせられて進めないこと。泛は、「水+音符乏(ボウ)」で、かぶさるように水面に浮くこと、

とある(漢字源)。「与客泛舟」(蘇武)のように「うかぶ」「うかべる」、「泛論(=汎論)」のように、「おおう」「あまねし」の意は、@の発音、「泛駕之馬(ほうがのうま 暴れ馬)」というように、「覆(くつがえ)す」の意の場合は、Aの発音とある(仝上)。別に、

形声、「水」+ 音符「乏」、

と、形声文字とする説(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B3%9Bもある。

「浮」(慣用フ、呉音ブ、漢音フウ)の字は、「うく」で触れたように、

会意兼形声。孚は「爪(手を伏せた形)+子」の会意文字で、親鳥がたまごをつつむように手でおおうこと。浮は「水+音符孚」で、上から水を抱えるように伏せて、うくこと、

とある(漢字源)。沈の対である。我が国でのみの使い方は、「浮いた考え」とか「金が浮く」とか「浮いた気持ち」とか「考えが浮かぶ」とか「歯が浮く」というように、本来の「浮く」の意味に準えたような、「うかぶ」「うかれる」「あまりがでる」等の意味での使い方は、漢字にはない。しかし、

浮生、
浮言、
浮薄、

といった「とりとめない」意はあるので、意味の外延を限界以上に拡げたとは言える。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+孚)。「流れる水」の象形と「乳児を抱きかかえる」象形(「軽い、包む」の意味)から、「軽いもの」、「うく」を意味する「浮」という漢字が成り立ちました、

ともある(https://okjiten.jp/kanji1091.html)

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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獨夫


舊俗疲庸主(舊俗 庸主に疲れ)
群雄問獨夫(群雄 獨夫に問う)
讖歸龍鳳質(讖(しん)は龍鳳の質に帰し)
威定虎狼都(威(い)は虎狼の都を定めたり)(杜甫・行次昭陵)

の、

讖、

は、

予言、

龍鳳質、

の、

龍鳳、

は、

天子の象徴、

で、

天子になるべき素質、

の意で、

唐の太宗、

をさす(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

太宗がまだ若い頃、その姿を見た人が「龍鳳の姿」と評した故事を踏まえる、

とある(仝上)。

獨夫、

は、

暴虐無道の君主、

の意、

帝位にあっても、民心はすべて彼を離れ、完全な孤独の状態にあるから、こういう、

とあり、「書経」泰誓篇に、

獨夫受(紂の名)、

とあるのにもとづき、もと、

殷の紂王、

を指した(仝上)とある。「荀子」議兵には、

湯武の〜桀(けつ)・紂(ちう)を誅すること、獨夫を誅するが若(ごと)し。故に泰誓に獨夫紂と曰へるは、此れを之れ謂ふなり、

とある(字通)。ちなみに、桀(けつ)は、

夏の最後の帝、

で、

殷の湯、

に滅ぼされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%80

紂王(帝辛)、

は、

殷の最後の王、

で、

周の武王、

に滅ぼされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E8%BE%9B

夏の桀、
殷の帝辛(紂王)、
周の脂、、

は、暴君の代名詞となった(仝上)とある。

獨夫、

は、

どくふ、

と訓ますが、

どっぷ、

とも訓ませる(精選版日本国語大辞典)。

獨夫、

は、文字通り、

高祖は、領地とては一尺の地も持せず、独夫の牢人なりしかども(「集義和書(1676頃)」)、

と、

一人身の男、独身の男(字源・広辞苑)、
ただの一人の男(字通)、
独身のおとこ、ひとり身の男。また、官位や財産などのない、単なる市井の男、

といった意味(精選版日本国語大辞典)になるが、

六軍徘徊、群兇益振。是則孟津再駕之役、独夫(トッフ)所亡也。城濮三舎之謀、侍臣攸敗也(太平記)、

と、

悪政を行なって、国民から見はなされた君主、

を指し、

獨夫受(紂の名)、

とあるように、

紂王、

が象徴のようにされている。

「獨」(漢音トク、呉音ドク)は、

会意兼形声。蜀(ショク)は、目が大きくて、桑の葉にくっついて離れない虫を描いた象形文字。ひつじは群れをなし、犬は一匹で持ち場を守る。獨は「犬+音符蜀」で、犬や桑虫のように、一定の所にくっついて動かず、他に迎合しないこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(犭+虫(蜀))。「犬」の象形と「大きな目を持ち桑(植物)について群がる虫(いもむし)」の象形(「不快ないもむし」の意味)から、争う事が好きな不快な犬を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ひとり」を意味する「独」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji827.htmlが、

形声。「犬」+音符「蜀 /*TOK/」。「ひとつ」「他と異なる」を意味する漢語{獨 /*dook/}を表す字、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8D%A8

形声。犬と、音符蜀(シヨク)→(トク)とから成る。犬をたたかわせる意を表す。借りて「ひとり」の意に用いる。教育用漢字は俗字による、

も(角川新字源)、形声文字とする。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)

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人日


今年人日空相憶(今年(こんねん)の人日 空しく相憶(おも)う)
明年人日知何處(明年(みょうねん)の人日 知んぬ何れの處ぞ)(高適・人日寄杜二拾遺)

の、

人日(じんじつ)、

は、

陰暦の正月七日、

をいい、民間の風習で、

正月元日を鶏の日、
二日を狗(いぬ)の日、
三日を豚の日、
四日を羊の日、
五日を牛の日、
六日を馬の日、
七日を人の日、

とし、それぞれ該当するものの一年中の豊凶を占う。人日には七種の菜を羹(あつもの)にして食べたり(七草粥のもとであろう)、布や金箔で人形を切り抜いて飾ったり、親しい間で宴会をひらき、贈物をするなどの行事があった、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

人日、

は、

にんにち、

と訓むと、

作業量の単位の一つ、

の、

person-day、

の意で、

1人が1日働いた作業量を1としたもの、

をいい、

投入する人員の数と、1人あたりの作業への従事日数の積、

を表し、

1人で1日かかる仕事の量が「1人日」で、10人で5日かかれば50人日(10×5)、100人で半日かかっても50人日(100×0.5)、

となりhttps://e-words.jp/w/%E4%BA%BA%E6%97%A5.html

業務や事業の工数を測ったり見積もる際に用いられる、

とあり、分野や業界によっては、

人工(にんく)、

とも呼ばれる(仝上)。

じんじつ、

と訓むと、五節供の一つ、

陰暦正月七日の称、

である(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

東方朔占書曰、歳正月一日占雞、二日占狗、三日占羊、四日占猪、五日占牛、六日占馬、七日占人、八日占穀、皆晴明温和為蕃息安泰之兆、陰寒惨烈為疾病衰耗(宋代類書(事物を天文・地理・生物・風俗などに分類、名称や縁起の由来を古書に求めたもの)『事物紀原』)、

と(字源)、東方朔(前漢の武帝時代の政治家)の、

占書、

に見える中国の古い習俗で、

正月の一日から六日までは獣畜を占い、七日に人を占う、

ところから、

陰暦正月七日の称、

とされ(精選版日本国語大辞典)、

ひとのひ(人の日)、

ともいい(仝上)、また、

霊辰(れいしん)、
元七(がんしち)、
人勝節(じんしょうせつ)、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%97%A5

「人日吉兆、幸甚々々」(「看聞御記」応永二六年(1419)正月七日) 、

とある、

五節供の一つ、

で、

正月七日為人日、以七種菜為羹(南朝梁「荊楚歳時記(宗懍)」)、

と、

七種(ななくさ)の羹(あつもの)、

を祝うのが慣例である(仝上)。

この日には、

一年の無病息災を願って、また正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休める為、7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食する、

のだとされたが、これが日本に伝わって、

七草粥、

となった(仝上)。

七種粥」は、

七種粥、

とも当て、正月七日に、春の七草を入れて炊いた粥の意だが、

菜粥、

ともいう。

七種の節句(七日の節句)の日に邪気を払い万病を除くために、羹として食した、

とも(岩波古語辞典)、

羹として食ふ、万病を除くと云ふ。後世七日の朝に(六日の夜)タウトタウトノトリと云ふ語を唱へ言(ごと)して、此七草を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥と云ふ、

とも(大言海)あるので、当初は、粥ではなく、中国式の、

羹(あつもの)、

であったらしい。「羊羹」で触れたように、「羹」は、

古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して『植物性』の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して「動物性」の熱い汁物を「臛(かく)」といい、2つに分けて用いました、

とあるhttps://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/

中国の、

七種菜羹、

は、少なくとも平安時代初期には、無病長寿を願って若菜をとって食べることが貴族や女房たちの間で行われていた。ただ、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる、

とある(日本大百科全書)。偽書とされる「四季物語」には、

七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89。なお、平安時代の後期の文献に、

君がため夜越しにつめる七草のなづなの花を見てしのびませ、

の歌があるhttp://www.geocities.jp/tama9midorijii/ptop/kogop/kohakobe.htmlので、七草を摘むという風習は平安時代には既にあった(仝上)ようである。

人日、

に、

七種類の若菜で羹(あつもの)を頂く、

ということが習慣化したために、

子の日の祝い(ねのひのいわい)、

という前々にあった行事がまじりあってしまったhttps://plus.chunichi.co.jp/blog/oonishi/article/672/9881/とあるが、「子の日」については触れたように、

正月の初めの子の日に、野外に出て、小松を引き、若菜をつんだ。中国の風にならって、聖武天皇が内裏で宴を行ったのを初めとし、宇多天皇の頃、北野など郊外にでるようになった、

とあり(岩波古語辞典)、この宴を、

子の日の宴(ねのひのえん)、

といい、

若菜を供し、羹(あつもの)として供御とす、

とあり(大言海)、

士庶も倣ひて、七種の祝いとす、

とある(仝上)。また、

子の日に引く小松、

を、

引きてみる子の日の松は程なきをいかでこもれる千代にかあるらむ(拾遺和歌集)、

と、

子の日の松、

といい(仝上)、

小松引き、

ともいい、

幄(とばり)を設け、檜破子(ひわりご)を供し、和歌を詠じなどす、

という(大言海)。

子の日遊び、

は、

根延(ねのび)の意に寄せて祝ふかと云ふ(大言海)、
「根延(の)び」に通じる(精選版日本国語大辞典)、

とある。また、正月の初めの子の日に、

内蔵寮と内膳司とから天皇に献上した若菜、

を、

子の日の若菜(わかな)、

という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。どうやら、これも中国由来のところがあり、まじりあってしまうのはもっともだと思われる。

なお、

1月7日、

は、

白馬(あをうま)の節(せち)

と呼ばれる節供行事を行う日でもあった。

白馬(あをうま)の節、

は、

白馬の節会、
白馬の宴、

ともいい、

あおうま、
あおばのせちえ、

ともいい(精選版日本国語大辞典)。

正月七日、左右馬寮(めりょう)から白馬(あおうま)を庭に引き出して、天皇が紫宸(ししん)殿で御覧になり、その後で群臣に宴を賜わった。この日、青馬を見れば年中の邪気を除くという中国の故事によったもので、葦毛の馬あるいは灰色系統の馬を引いたと思われる、

とあり(仝上)、文字は「白馬」と書くが習慣により、

あおうま、

という(仝上)とある。まず、

青馬御覧の儀式、

があり、

馬寮(めりょう)の御覧より馬の毛付(けづき)を奏聞し(あをうまの奏)、

ついで、

左右の馬寮(めりょう)の官人、あをうまの陣(春華門(しゅんかもん)内)に並び、

順次、

七匹ずつ、三度、

牽きわたす、それを、主上、

正殿に出御ありて、御覧ぜられる、

といい、

春の陽気を助くるなり、

とされる。その後、

節会、

となる、という次第のようである(大言海)。

なお、五節句、

は、

重陽でも触れたように、

人日(じんじつ)(正月7日)、
上巳(じょうし)(3月3日)、
端午(たんご)(5月5日)、
七夕(しちせき)(7月7日)、
重陽(ちょうよう)(9月9日)、

である。正月七日の、七種粥、三月三日の、曲水の宴、上巳の日の、天児白酒については触れた。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)

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吹毛


烏孫腰間佩两刀(烏孫(うそん) 腰間に两刀を佩(お)ぶ)
刃可吹毛錦為帯(刃(やいば)は毛を吹く可く錦を帯と為す)(李頎・崔五丈図屏風各賦一物得烏孫佩刀)

の、

吹毛、

は、

刃の上に毛をふきつけると、毛が二つに切れて落ちる、刃の鋭いことをいう。吹毛の剣という名の名刀もある、

と注記がある(前野直彬注解『唐詩選』)。

吹毛(すいもう)、

は、文字通り、

毛を吹くこと、

で、

きわめてたやすいことのたとえ、

にいい(精選版日本国語大辞典)、

吹毛の咎

で触れたように、

をりふしにつけては、吹毛の咎を争うて、讒を構ふること休む時なし(太平記)、
関白為汝猶有不快御気色。毎事似可有吹毛。能々可用心云々(「春記」(参議兼春宮権大夫藤原資房(1007〜57)の日記)長暦二年(1038)一二月一二日)、

などと、

毛を吹いて隠れた疵(きず)を探す、

意から、

無理に欠点をさがすこと、

また、

他人の弱点をあばいて、かえって自分の欠点をさらけだすこと、

の意で使い、これは、

毛を吹いて疵を求める、

とか、

毛を吹いて過怠の疵を求む、

などという諺の、

毛を吹いて隠れた疵を求める、

つまり、

好んで人の欠点を指摘する、

あるいは、

他人の弱点を暴いて、かえって自分の欠点をさらけ出す、

意から来ていて(故事ことわざの辞典)、

吹毛求疵(すいもうきゅうし)、
吹毛之求(すいもうのもとめ)、
洗垢索瘢(せんこうさくはん)、
披毛求瑕(ひもうきゅうか)、

等々という四文字熟語ともなっている(新明解四字熟語辞典)。出典は、

不吹毛而求小疵、不洗垢而察難知(韓非子)、

とある(故事ことわざの辞典)。この意味の、

吹毛(すいもう)、

は、だから、

あらさがし、

の意である(広辞苑)。しかし、

吹毛、

は、

吹毛の剣、

の略ともされ、

吹きかけた小さな毛をも切る剣、

の意から、

吹毛の剣を提示し、虚空を載断す(太平記)、


と、

非常に鋭利な剣、
よく切れる剣、
利剣、

の意でもあり、略して、

吹毛、

ともいう(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・広辞苑)。

「吹」(スイ)は、「吹毛の咎」で触れたように、

会意。「口+欠(人の体をかがめた形)」。人が体を曲げて口から息を押し出すこと、

とある(漢字源)。別に、

「口」と「欠(あくび)」から構成され、口から息を吐くことを表す(説文)、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%B9

口と、欠(けん)(大きく口を開けたさま)とから成り、大きく息をはく意を表す、

ともある(角川新字源)。

「毛」(慣用モ、漢音ボウ、呉音モウ)は、

象形。細かいけを描いたもので、細く小さい意を含む、

とある(漢字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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すがらに


恋ひ死ねとするわざならしむばたまの夜はすがらに夢に見えつつ(古今和歌集)、

の、

すがらに、

は、

……の間ずっと、

の意とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

すがら、

は、

ぬばたまの夜は須我良(スガラ)にあからひく日も暮るるまで嘆けどもしるしを無み(万葉)、

と、

多く「に」を伴い、副詞的に用いる、

が(精選版日本国語大辞典)、

名詞に付いて、

をみ衣摺り捨てて着つる露けさは春の日すから又ぞ忘れぬ(「公任集(1044頃)」)

と、初めから終わりまで続く意を表わし、

ずっと、

の意のほか、

いかなりけん契りにかと、道すがらおぼさる(源氏物語)

と、何かをするついでに、の意を表わし、

その途中、

意、

只身すがらにと出立侍るを(芭蕉「奥の細道」)、

と、それだけである意を表わし、

そのまま、

の意などと使う(仝上)。

語源から見ると、

スガは「過ぐ」と同源、ラは状態を表す接尾語(広辞苑)、
過ぐと同根(岩波古語辞典)、
「過ぎ+ながら」の略(日本語源広辞典)、

とする説があるが、

ずっと、

の意と、

その途中、
そのまま、

の意とは幅がありすぎるので、別に、

盡(すぐ)るるまで、
通して、

の意の、

すがら、

は、

スガは、盡(すが)るより転ず(大言海)、

とし、

ながら、
ついでに、
そのまま、

の意の、

すがら、

は、

直従(すぐから)の約、

と、語源を区別する説もある(大言海)。

しな、すがり、すがり」で触れたが、たとえば、

道すがら、

という場合、

道を通りながら、歩きながら、みちみち、途中(広辞苑)、

とあるが、

行く路すがら(大言海)、

とあるので、通り過ぎる、というニュアンスが強いのかもしれない。この場合、語源的には、

過ぎ+ながら、

と、

通りすごしていく、

という意味になる。「すがら」は、

途切れることなくずっと、

という時間経過を示していて、

名月や池をめぐりと夜もすがら、

で、それが空間的に転用されと、

道すがら、

になったと考えられ、当然、

途中、

という意味合いが出てくる。たとえば、

行きしな、

なら、

途中で立ち止まるとか、立ち寄る、

というニュアンスがあるが、

道すがら、

は、

みちみち、眺めた、

という感じなのではないか。

通りすがり、

は、

たまたま通り合わせて、通るついで、通りがけ、

という意味になる。「すがり」は、ここは(どこにも載っていなかったので)想像だが、

過ぐ+り(ある動作が継続中であることを表す助詞)、

で、

ちょうど(たまたま)通り過ぎつつある、

という意味なのではないか。そこでの出会いが、たまたまなのは同じだが、

道すがら、

には何か(そのことに)意味が主体側に見え、

通りすがり、

には行き過ぎていく側には(袖擦り合う程度で、他に)何の意味も見出さない、

というニュアンスがある気がする。しかし、

夜もすがら、

と同義で、

夜すがら、

だと、

この夜須我浪(よスガラ)に眠(い)も寝ずに今日もしめらに恋ひつつそ居る(万葉集)、

と、

夜の間ずっと、
夜通し、
一晩中、
終夜、

という意味になる。確かに、

ずっと、

と、

その途中、

と、

そのまま、

の意味の幅は大きいが、

過ぎていく間、

の、

すべて、

なのか、

その経過中、

なのか、

その最中なのか、

と考えれば、

過ぎ+ながら、

の、

初めから終わりまで、

の何處をとっているかの差にすぎないのかもしれない。ちなみに、

すがる(盡)、

は、字鏡(平安後期頃)に、

羸、須加留、ツカルル、

中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、

羸、疲也、

とあり、

末枯(すが)るの略、

とし、

末になり、
盡んとす、
消えむとす、

の意とある(大言海)。しかし、この、

すがる、

は、

鳴きすがる声を聞けども郭公あかでぞ結ぶ山の井の水(「草根集(そうこんしゅう)」)、

の、

盛りを過ぎる、
衰える、

意の、

すがる、

ではないか。この名詞形が、

青梅は匂ひの玉のすがりかな(俳諧・鷹筑波)、

と、

盛りを過ぎて尽きようとするもの、

の意の、

すがり、

で、この意味の幅は、

すがら、

のそれと重なる気がする。憶説だが、

過がる、

とあてたのではないか。

なお、「ついでに」の意味の、

行きしなの「しな」、
道すがらの「すがら」、
通りすがりの「すがり」、
通りがかりの「かかり」、
行きがかりの「かかり」、
行きがけの「かけ」、

については、「しな、すがり、すがら」で触れた。似た意味の、

「〜のついでに」「〜かたがた」

の意で使う、

花見がてら、

の、

がてら

についても触れた。

「過」(カ)は、

会意兼形声。咼は、上に丸い穴のあいた骨があり、下にその穴にはまりこむ骨のある形で、自由に動く関節を示す象形文字。過は「辶+音符咼」で、両側にゆとりがあって、するするとさわりなく通過すること。勢いあまっていきすぎる意を含む、

とある(漢字源)。しかし、他は、

形声。「辵」+音符「咼 /*KWAJ/」。「すぎる」「こえる」を意味する漢語{過 /*kwaaj/}を表す字、

(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%8E)

形声。辵と、音符咼(クワ)とから成る。ゆきすぎる、ひいて、度を越す意を表す。転じて「あやまち」の意に用いる、

も(角川新字源)、

形声文字です(辶(辵)+咼)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「肉を削り取り頭部を備えた人の骨の象形と口の象形」(「えぐる」の意味だが、ここでは「越」に通じ(「越」と同じ意味を持つようになって)、「遠方に過ぎゆく」の意味)から「すぎる」、「度(限度)を超す」を意味する「過」という漢字が成り立ちました、

(https://okjiten.jp/kanji733.html、形声文字とする。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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ゆふつけどり


逢坂のゆふつけ鳥もわがごとく人や恋しき音(ね)のみなくらむ(古今和歌集)、
恋ひ恋ひてまれに今宵ぞあふ坂のゆふつけ鳥は鳴かずもあらなむ(仝上)、
たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへて鳴く(仝上)、

の、

ゆふつけどり、

は、

諸説あるが、都の四方の関で祓いをするために用いられた、木綿をつけた鳥のことか、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。なお、上記の二首目の歌では、

「ゆふつけ鳥」から明け方の「鶏」へと意味が転じる。鶏が鳴くころには、男は女のもとから去らねばならない、

と注記がある(仝上)。

ゆうつけどり、

は、

木綿付鳥、
木綿着鳥、

と当て、

訛って、

ゆうづけどり、

とも、

ゆうつげどり、

ともいい、それには、

夕告鳥、

と当て(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・大言海)、略して、

ゆふつけ、

ともいう(大言海)。

ゆうつけどり、

については、

鶏に木綿(ゆう)をつけ、都の四境の関で祓いをしたことから(広辞苑)、
騒乱のあった時、鶏に木綿(ゆう)を付けて都の四境の関で祓いをしたことから(岩波古語辞典)、
世の乱れたとき、四境の祭といって、鶏に木綿(ゆう)をつけて、京城四境の関でまつったという故事に基づく(精選版日本国語大辞典)、
古へ、世の中に騒乱ある時に、四境の祭とて、鶏に木綿(ユフ)を着けて、京城四境の関に至りて、祭らせらると云ふ(大言海)
昔、世の中が乱れたとき、鶏に木綿 (ゆう) をつけて都の四境の関所で祓 (はらえ) をしたところから(デジタル大辞泉)、

等々とあり、

木綿をつけた鶏、

また、

鶏の異称、

とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。12世紀初頭の作歌の手引書「俊頼髄脳」(源俊頼)では、

ゆふつけどりとは鶏の名なり。鶏に木綿をつけて山に放つまつりのあるなり、

と説明されていたが、12世紀半ばの歌学書「奥義抄」(藤原清輔)は、それを、

疫病流行の際に朝廷が四方の関で行う四境祭の儀式である、

と説き、「袖中抄」「顕昭古今集注」もこれを継承した。上記諸説はこれにもとづいている。また、1221年までに成った、従来の歌学書を編集・集大成した「八雲御抄」(順徳天皇)では、

ゆふつけどり、付木綿相坂ニ祓故也、

とある。

相坂(おうさか)、

とは、古代の近江国の関、

逢坂関、

のことで、

四境の関所、

の一つである。四堺(しさかい)は、

平安京のある山城国の四維(北西、南西、南東、北東の隅)にあたる大枝・山崎・逢坂・和邇の4つの地点、

をいい、四境の関所は、

大枝―現在の京都府亀岡市の老ノ坂峠。山陰道の入り口で丹波国との国境、
山崎―現在の京都府大山崎町大山崎・大阪府島本町山崎。山陽道の入り口で摂津国との国境、
逢坂―現在の滋賀県大津市の逢坂山(逢坂関で知られる)。東海道及び東山道の入り口で近江国との国境、
和邇―現在の滋賀県大津市和邇。北国街道(及び愛発関経由で北陸道)の入り口で近江国との国境、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A0%BA。由来はともかく、四境で、祓いを行っていた名残りのようである。

「緜(綿)」(漢音ベン、呉音メン)は、

会意文字。「木+帛(しろぎぬ)」で、白布をつくるわたの木。緬(メン 長くつづく)と同系で、細く長く続く意を含む、

とある(漢字源)が、別に、「綿」は、

「緜」の異体字、

で、「緜」は、

会意。系(糸をつなぐ)と、帛(はく)(きぬ)とから成り、糸を連ねて絹を作る、ひいて「つらなる」意を表す。教育用漢字は俗字による、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「頭のしろい骨の象形と頭に巻く布にひもをつけ帯にさしこむ象形」(「白ぎぬ」の意味)と「つながる糸を手でかける象形」(「つなぐ」の意味)から、白ぎぬを作る時につながってできる、「まわた(くず繭などを煮て引き伸ばして作った綿)」を意味する「綿」という漢字が成り立ちました。「綿」は「緜」の略字です、

ともある(https://okjiten.jp/kanji744.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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涸鱗


早發雲臺仗(早(つと)に雲臺(うんだい)の仗を発し)
恩波起涸鱗(恩波を涸鱗(こりん)に起こさんことを)(杜甫・江陵望幸)

の、

雲臺仗、

の、

雲臺、

は、

後漢の宮中にあった台の名、

で、

明帝のとき、前代の名将二十八人の肖像をここに描かせた。ここでは、そのような名将たちに指揮された儀仗隊の意、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

涸鱗、

は、

水を離れて、かわいてしまった魚、

の意で、

困窮の状態にある作者自身をたとえたもの、

とあり、これは、「荘子」外物篇の、

車の轍に落ちた鮒が通行人に救いを求め、わずかな水でもよいからすぐに持ってきてほしい、さもなければ自分は乾物になってしまうだろうといった、

という寓話を踏まえる(仝上)とある。

涸鱗、

は、

枯鱗、

とも当てる(精選版日本国語大辞典)。これは、

轍魚

で触れたように、

義貞が恩顧の軍勢等、病雀花を喰うて飛揚の翅(つばさ)を展(の)べ、轍魚の雨を得て噞喁(げんぐう 魚が水面に口を出して呼吸すること)の唇を湿(うるお)しぬと(太平記)、

と、

困窮に迫られているものの喩え、

に言う(広辞苑)、

轍鮒(てつぷ)、

とも言い、

轍鮒之急、
涸轍之鮒、

とも言うが、これは、『荘子』外物篇に、

莊周家貧、故往貸粟於監河侯、監河侯曰、諾我將得邑金、將貸子三百金、可乎、莊周忿然作色曰、周昨來、有中道而呼者、周顧視、車轍中、有鮒魚焉、周問之曰、鮒魚來、子何為者邪、對曰、我東海之波臣也、君豈有斗升之水而活我哉、周曰、諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、可乎、鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、君乃言此、曾不如早索我於枯魚之肆、

とあるのによる(字源)。常與は水、の意。貧乏な莊周(荘子)が、

貸粟、

を頼んだところ、監河侯が、

諾我將得邑金、將貸子三百金、

と悠長なことを言ったのに対し、轍の鮒を喩えて、莊周が、

昨來、有中道而呼者、

見ると、

車轍中、有鮒魚焉、

その轍の鮒に、

君豈有斗升之水而活我哉、

と、一斗一升の水が欲しいと求められたのに対し、

諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、

と間遠な答えをしたところ、

鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、

と鮒が憤然として、そのように言うなら、

枯魚之肆、

つまり干物屋で会おうと言われたといって、監河侯をなじったのに由来する(故事ことわざの辞典)。これは、

籠鳥の雲を戀ひ、涸魚(かくぎょ)の水を求むる如くになって(太平記)、

とある、

涸魚(かくぎょ・こぎょ)、

ともいう、

水がない所にいる魚、

の意で、

今にも死にそうな状態、必死に助けを求めている状態などのたとえ、

として使われ、「轍魚」似た意味であるが、「轍魚」より事態は深刻かもしれない。

涸轍(こてつ)、
涸鮒(こふ)、

ともいい、

涸轍鮒魚(略して涸鮒)、

とも言い、出典は、上記「轍魚」と同じく『荘子』である(字源)。

小水之魚(しょうすいのうお)、
焦眉之急(しょうびのきゅう)、
風前之灯(ふうぜんのともしび)、
釜底游魚(ふていのゆうぎょ)、

も似た意味になるhttps://yoji.jitenon.jp/yojii/4389.html

後の千金

で触れたように、『宇治拾遺物語』に、「後ノ千金ノ事」と題して、まるで隣家にちょっと借米に行ったような話に変わっているが、

今はむかし、もろこしに荘子(さうじ)といふ人ありけり。家いみじう貧づしくて、けふの食物たえぬ。隣にかんあとうといふ人ありけり。それがもとへけふ食ふべき料(れふ)の粟(ぞく 玄米)をこふ。あとうがいはく、「今五日ありておはせよ。千両の金を得んとす。それをたてまつらん。いかでか、やんごとなき人に、けふまゐるばかりの粟をばたてまつらん。返々(かへすがへす)おのがはぢなるべし」といへば、荘子のいはく、「昨日道をまかりしに、あとに呼ばふこゑあり。かへりみれば人なし。ただ車の輪のあとのくぼみたる所にたまりたる少水に(せうすい)に、鮒(ふな)一(ひとつ)ふためく。なにぞのふなにかあらんと思ひて、よりてみれば、すこしばかりの水にいみじう大(おほ)きなるふなあり。『なにぞの鮒ぞ』ととへば、鮒のいはく、『我は河伯神(かはくしん)の使(つかい)に、江湖(かうこ)へ行也。それがとびそこなひて、此溝に落入りたるなり。喉(のど)かはき、しなんとす。我をたすけよと思てよびつるなり』といふ。答へて曰く、『我今二三日ありて、江湖(かうこ)といふ所にあそびしにいかんとす。そこにもて行て、放さん』といふに、魚のはく、『さらにそれまで、え待つまじ。ただけふ一提(ひとひさげ)ばかりの水をもて喉をうるへよ』といひしかば、さてなんたすけし。鮒のいひしこと我が身に知りぬ。さらにけふの命、物くはずはいくべからず。後(のち)の千のこがねさらに益(やく)なし。」とぞいひける。それより、「後(のち)の千金」いふ事、名誉せり、

と載せている。「かんあとう」は、監河候(かんかこう)の誤りとされ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、

魏文侯、

とあり、詳しく伝わらないが、

河を監督する役人、

ともありhttps://j-trainer.blogspot.com/2021/04/blog-post_5.html

官職、

であるらしい(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。

うろこ」で触れたように、「鱗」(リン)は、

会意兼形声。粦(リン)は、連なって燃える燐の火(鬼火)を表す会意文字。鱗はそれを音符とし、魚を加えた字で、きれいに並んでつらなるうろこ、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(魚+粦)。「魚」の象形(「魚」の意味)と「燃え立つ炎の象形と両足が反対方向を向く象形」(「左右にゆれる火の玉」)の意味から、「左右にゆれる火の玉のように光る魚のうろこ」を意味する「鱗」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2354.html

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)

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入れ紐


よそにして恋ふればくるし入れ紐の同じ心にいざ結びてむ(古今和歌集)、

の、

入れ紐、

は、

玉状に結んだ紐を、もう一本の輪状にした紐に通して結ぶもの。袍、直衣、狩衣などに用いた。しっかりと結びつけられることの喩え、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

入れ紐の、

は、

「同じ」または「結ぶ」にかかる枕詞、

である(広辞苑)。

入れ紐、

は、

袍(ほう)・直衣(のうし)・狩衣(かりぎぬ)などの頚上(くびかみ)の紐の、一方を結び玉にし(雄紐)、他方を輪にして(雌紐)、さしいれてかけておくもの(広辞苑)、
「直衣(なほし)」や「狩衣(かりぎぬ)」「袍(はう)」などの首回りや裾(すそ)についている紐。紐の先が輪になっている側(女紐(めひも))に、結び玉になっている側(男紐(おひも))をかけてとめる(学研全訳古語辞典)、
狩衣(かりぎぬ)、直衣(のうし)、袍(ほう)など、装束の盤領(まるえり)の頸紙(くびかみ)の開閉に用いる紐。結び玉にした雄紐を輪形の雌紐に差し入れて、留める(精選版日本国語大辞典)、
狩衣、直衣、袍などの頚圍(クビカミ)、又裾などに、一方に付きたる、雌紐とて、輪にしたるに、一方に付きたる、雄紐とて、結び玉にしたるを、其輪に差し入れて懸けおくもの(大言海)、
結び玉にしたる紐(雄紐)を、輪にしたる紐(雌紐)にさし入れて、離れないようにしたもの。狩衣・直衣・袍など、装束の首・裾の部分についている紐にいう(岩波古語辞典)、

等々とある。

うへのきぬ

で触れたように、

袍(ほう)、

は、

束帯や衣冠などの時に着る盤領(まるえり)の上衣、

で、

束帯や衣冠に用いる位階相当の色による、

位袍、

と、位色によらない、

雑袍、

とがあり、束帯の位袍には、

文官の有襴縫腋(ほうえき 衣服の両わきの下を縫い合わせておくこと)、



武官の無襴闕腋(けってき)、

の二種がある(精選版日本国語大辞典)。

前身(まえみ)と後身(うしろみ)との間の腋下を縫い合わせた袍、

である、

縫腋袍(ほうえきのほう)、

の、

後身は二幅、前身は一幅半ずつ、右を下前(したまえ)、左を上前(うわまえ)と称して、内側の半幅を裾開きに斜めに仕立てて登(のぼり)と呼んでいる。近世のいわゆる衽(おくみ)である。中央は、丸く刳り、それに沿って下前の端から上前の端まで襟を立てて首上(くびかみ)とし、(中略)首上の上前の端と、肩通りとに紐をつけて入れ紐といい、前者は丸く蜻蛉(とんぼ)結びとし、後者は羂(わな)として掛け解しに用い、それぞれ受緒(うけお)と蜻蛉と呼ぶ。この形式を一般に盤領(まるえり)といっている、

とある(有職故実図典)。

蜻蛉(とんぼ)結び、

は、

トンボが羽を広げた形に結ぶ、

紐の結び方をいう。

袍、

の語の初見は養老(ようろう)の衣服令(りょう)にみられ、

イラン系唐風の衣、

で、詰め襟式の、

盤領(あげくび)、

で、奈良時代から平安時代初期にかけての袍は、

生地(きじ)の幅が広かったため、身頃(みごろ)が一幅(ひとの 鯨尺八寸(約三〇センチメートル)ないし一尺(約三八センチメートル)のはば)と二幅(ふたの)のもの、袖(そで)が一幅と、それに幅の狭いものを加えた裄(ゆき)の長いものがみられる、

とあり(日本大百科全書)、平安時代中期以後、服装の和様化とともに、

袍の身頃は二幅でゆったりとし身丈が長く、袖は、奥袖とそれよりやや幅の狭い端袖(はたそで 袖幅を広くするため、袖口にもう一幅ひとのまたは半幅つけ加えた袖)を加えた二幅仕立て、袖丈が長い広袖形式となった、

とある(仝上)。

「袍」については、「したうづ」、「襖(あを)」で、「狩衣」については「水干」、「直衣」は「衣冠束帯」で触れた。

「紐」(慣用チュウ、漢音ジュウ、呉音ニュウ)は、「下紐」で触れたように、

会意兼形声。「糸+音符丑(チウ ねじる、ひねって曲げる)」で、柔らかい寝(い)を寝(ぬ)含む、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(糸+丑)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と「手指に堅く力を入れてひねる」象形(「ひねる」の意味)から、ひねって堅く結ぶ「ひも」を意味する「紐」という漢字が成り立ちました、

ともある(https://okjiten.jp/kanji2650.html)が、

形声。糸と、音符丑(チウ)→(ヂウ)とから成る(角川新字源)、

と、形声文字とする説もある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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おりはへて


明けたてば蝉のをりはへ鳴きくらし夜は蛍の燃えこそわたれ(古今和歌集)、

の、

をりはへ、

は、

ある事柄の時間がずっとつづくこと、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

をりはへ、

は、

折り延ふ、

と当てる、

をりはふ、

の連用形で、多く、

鶯(うぐひす)ぞをりはへて鳴くにつけて、おぼゆるやう(蜻蛉日記)、

と、

連用形、または、それに「て」を添えた形で、

をりはへて、

と用いる(学研全訳古語辞典・精選版日本国語大辞典)とあり、

長く続ける、
いつまでも続ける、
時間を延ばす、
しつづける、

の意である(仝上)。さらに、

おりはふ(折延)、

が、

春がすみしのにころもををりはへていくかほすらむあまのかごやま(「月清集(1204頃)」)、

などと、

「衣」「錦」などの縁語として使われたため、

織り延ふ、

と意識されて、

織り延ふ、

と当てて使うに至り、

織って長くする、
織って長くするように、長く続ける、

意で、

連用形を副詞的に用いることが多い、

とある(精選版日本国語大辞典)。

織延、

は、

おりのぶ、

とも訓み、

女は麻布を織延(ヲリノベ)、足引の大和機(やまとばた)を立て(浮世草子「日本永代蔵(1688)」)、

と、

布の長さや幅に織り詰まりや織り縮みができないように、織り詰まりの割合を定めて、修正しながら規定の丈(たけ)や幅に織り上げる、

意で使う(仝上)。

折る、

は、

鯨魚(いさな)取り海をかしこみ行く船の楫(かぢ)引き折(をり)て(万葉集)、

とか、

手ををりてあひ見し事を数ふればとをといひつつ四つは経にけり(伊勢物語)、

と、

二つに折ったり、指を折ったりする意で、その連用形の名詞化は、

物そのものを折る、

意の、

折り目、
折れ目、

の意になるが、それをメタファに、

時の流れの中で、曲り目、変わり目となる辞典、

の意で(岩波古語辞典)、

季冬(しはすふゆ)の節(ヲリ)にして、風亦烈(はげ)しく寒(さむ)し(日本書紀)、

と、

時節、
季節、

の意や、

さて七度めぐらむをり引きあげて、其をり子安貝はとらせ給へ(竹取物語)、

と、

機会、
場合、
際、


の意で使う(精選版日本国語大辞典)。

はふ、

は、

延ふ、
這ふ、

と当て、

谷狭(せば)み峰に波比(はひ)たる玉かづらたえむの心我が思(も)はなくに(万葉集)、

と、

蔓草や綱などが、物にからみついて伝わっていく、
張り渡す、

意や、

神風(かむかぜ)の伊勢の海の大石(おひし)には這(は)ひもとほろふ細螺(しただみ)のい這ひもとほり撃ちてしやまむ(古事記)、

と、

動物が腹部を物の表面につけて伝うように移動する、

意で使う(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。

をりはへ、

は、だから、

ある事柄の時間がずっと引き延ばされる、

意となる。

「折」(漢音セツ、呉音セチ)は、「壺折」でふれたように、

会意。「木を二つに切ったさま+斤(おの)」で、ざくんと中断すること、

とある(漢字源)。別に、

斤と、木が切れたさまを示す象形、

で、扌は誤り伝わった形とある(角川新字源)。また、

会意文字です(扌+斤)。「ばらばらになった草・木」の象形と「曲がった柄の先に刃をつけた手斧」の象形から、草・木をばらばらに「おる」を意味する「折」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji670.html

「延」(エン)は、「ふりはへて」で触れたように、

会意文字。「止(あし)+廴(ひく)+ノ印(のばす)」で、長く引きのばして進むこと、

とある(漢字源)。別に、会意文字ながら、

会意。「彳(道路)」+「止 (人の足)」で、長い道のりを連想させる。「のびる」を意味する漢語{延 /*lan/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BB%B6)

会意文字です(廴+正)。「十字路の左半分を取り出しさらにそれをのばした」象形と「国や村の象形と立ち止まる足の象形」(「まっすぐ進む」の意味)から、道がまっすぐ「のびる」を意味する「延」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1012.html

と、構成を異にするが、

形声。意符㢟(てん)(原形は𢓊。ゆく、うつる)と、音符𠂆(エイ)→(エン)とから成る。遠くまで歩く、ひいて、「のびる」意を表す(角川新字源)、

と形声文字とする説もある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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葛かづら


神奈備の御室の山の葛かづら裏吹き返す秋は來にけり(新古今和歌集)、

の、

神奈備の御室の山、

は、

「神奈備」も「御室」も神の降臨する場所の意だが、ここでは大和の国の枕詞と考えられている、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

御室、

は、

神の降り来臨する場所、

の意(岩波古語辞典)だが、

三室山(御室山 みむろのやま)、

というと、

我(あ)が衣色取り染めむ味酒(うまさけ)三室山(みむろのやま)は黄葉しにけり(万葉集)、

と、

奈良県桜井市の三輪山(みわやま)、

か、

たつた川もみぢばながる神なびのみむろの山に時雨ふるらし(古今和歌集)、

と、

奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町の神奈備山(かんなびやま)、

をさし、ふもとを龍田川が流れ、紅葉・時雨の名所として知られた(精選版日本国語大辞典)とある。

神奈備

も、

神をまつる神聖な場所、
神のいらっしゃる場所、

の意で、古代信仰では、

神は山や森に天降(あまくだ)るとされたので、降神、祭祀の場所である神聖な山や森、

をいうところからきている(精選版日本国語大辞典)。もともと固有名詞ではないが、特に、

龍田、
飛鳥、
三輪、

が有名で、《延喜式》の出雲国造神賀詞(かむよごと)には、

大御和乃神奈備、
葛木乃鴨乃神奈備、
飛鳥乃神奈備、

とあり、万葉集にも、

三諸乃かんなび山、
かんなびの三諸(之)山(神)、
かんなびの伊波瀬(磐瀬)之社、

が見える。

葛かづら、

は、

葛の蔓、

とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、

葛はマメ科の蔓性多年草。秋の七草のひとつ、

で、

秋風の吹き裏返す葛の葉のうらみてもなほ恨めしきかな(古今和歌集)、

と、

風に翻る葉裏が目立つところから、「裏」また「怨み」と詠われることが多い、

とある(仝上)。

葛の葉

で触れたように、

葛の葉、

は、

風に白い葉裏を見せることから、

秋風の吹き裏返す葛の葉のうらみてもなほうらめしきかな(古今集)、

と、

「裏見」に「恨み」を掛けて詠むのが和歌の常套で、

恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉、

の歌で名高い、浄瑠璃(『信田森女占』、『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』)などになった、

信田妻(しのだづま)、

の物語https://dic.pixiv.net/a/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89がある。



は、

くず、
かずら、
つづら、

と訓ませるが、

つづら、

と訓ませると、

ツヅラフジなどの野生の蔓植物の総称、

だが、

ツヅラフジの別称、

でもあり(動植物名よみかた辞典)、

かずら、

と訓ませると、

蔓性植物の総称、

とある(仝上)。しかし、

くず、

と訓むと、秋の七草の「くず」である。ここでは、

くず、

と訓ませる「葛」である。

くず、

は、

くずかずら、

ともいうが、むしろ、

くず葛(かづら)と云ふが、正しきなるべし、

とある(大言海)。類聚名義抄(11〜12世紀)にも、

葛、カヅラ、クズカヅラ、

とある。だから、冒頭の、

葛かづら、

は、

くず、

のことを言っているのだが、枕詞として、葛の蔓を繰る意から、

くずかづらくる人もなき山里は我こそ人をうらみはてつれ(伊勢大輔集)

と、「来る」に掛かったり、冒頭の、

神なびのみむろの山のくずかづらうら吹きかへす秋は来にけり(新古今和歌集)、

と、葛の葉が風に裏返るので裏・裏見の意から、「うら」「うらみ」にかかる場合、

葛の蔓、

の意ともなる(岩波古語辞典)。ただ、この場合は、

繰る、

ではなく、

うら吹きかへす、

とあるので、

葛の葉、

の意味だと思うが。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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しのぐ


奥山の菅(すが)の根しのぎ降る雪の消(け)ぬとかいはむ恋のしげきに(古今和歌集)、

の、

しのぐ、

は、

覆いかぶさる、おさえつける、

意とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

しのぐ、

は、

凌ぐ、

とあてるが、

ふみつけ、おさえる意が原義(岩波古語辞典)、
物事をおのれの下に押し伏せる意(広辞苑)、

などとあるように、上記の歌のように、

押しふせる、
下に押えるようにする、
おおいかぶせる、
なびかす、

意で、それをメタファに、

宇陀の野の秋萩師弩芸(シノギ)鳴く鹿も妻に恋ふらく我れには益(ま)さじ(万葉集)、

などと、

山、波などの障害物などを押しわけ、かきわけ、押しつけるようにして進む、

意や、さらに、それをメタファに、

よろづのゆゑさはりをしのぎて思ひたち給へる御まゐり(宇津保物語)、

と、

辛抱して困難・障害なことをのりこえる、のりきる、

意で使い、その状態表現から、価値表現へと転じて、

雪しのく庵のつまをさし添へて跡とめて来ん人を止めん(山家集)、

と、

たえる、
我慢する、
また、
たえしのんでもちこたえる、

意や、下に踏みつける意から、

村(ふれ)に君(きみ)あり、長(ひとこのかみ)有りて谷に自(みつか)ら疆(さかひ)を分ちて用(も)て相淩躒(あひシノキきしろふ)(日本書紀)、

と、

あなどる、
見くだす、
圧倒する、

意でも使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。

この由来は、

しのぶ(忍)の他動の意の、しぬぐ(凌)の転(大言海)、
シノビク(忍来)の義(名言通)、
シノビユクの義(和句解)、

と、

しのぶ(忍)、

と関わらせる説がある。ただ、

しぬぐ(凌)、

は、上記歌の万葉仮名は、

宇陀乃野之秋芽子師弩芸鳴鹿毛妻尓恋楽苦我者不益(宇陀の野の秋萩凌ぎ鳴く鹿も妻に恋ふらく我には益まさじ(万葉集)、

とある、

「しのぐ」の「ノ」当たる甲類の万葉集仮名「怒」「努」「弩」などを江戸時代に「ヌ」と読み誤ってつくられた語、

とあるので、

しぬぐの転訛、

はありえないようだ。他には、

オシノケク(推退来)の義(日本語原学=林甕臣)、
オシノク(推除)の略(和語私臆鈔)、

と、おしのける系、

シノニ、シノノニ(撓)と同源(小学館古語大辞典)、

と、「しのに」系がある。前者は、ちょっとこじつけの気がするが、

しのに、

は、「心もしのに」で触れたように、

秋の穂(ほ)をしのに押しなべ置く露(つゆ)の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは(万葉集)、

と、文字通り、

(露などで)しっとりと濡れて、草木のしおれなびくさま、

の意(広辞苑・精選版日本国語大辞典)で、それをメタファに、

淡海(あふみ)の海夕浪千鳥(ゆふなみちどり)汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思(おも)ほゆ(万葉集)、

と、

心のしおれるさまなどを表わす語、

として、

しおれて、
しっとり、しみじみした気分になって、
ぐったりと、

といった意味で使う(仝上)。どうも、「しのに」は、

主体の心理的状態、内的状態、

を言っているのに対して、「しのぐ」は、

主体の物理的状態、外的状態、

を言っているように思え、ちょっと差があるのだが、

主体から客体へ、

と状態表現を転移し、それを価値表現へと転化していくことはありえるのかもしれない。また、

しのに、

も、

しぬに、

と用いるのは、

淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば情毛思努爾(こころモシノニ)古(いにしへ)思ほゆ、

の万葉仮名、

情毛思努爾(こころモシノニ)、

の、

努、

などを、

ヌと読み誤ってつくられた語、

である(岩波古語辞典)。その点でも、

しのに、

と、

しのぐ、

との関連を感じなくもない。

しのぶ、

は、

忍ぶ、
隠ぶ、

と当て、

万代(よろづよ)に心は解けてわが背子がつみし手見つつ志乃備(シノビ)かねつも(万葉集)、

と、気持を抑える、痛切な感情を表わさないようにする意で、

じっとこらえる、
我慢する、

という意味や、動作を目立たないようにする、隠れたりして人目を避ける意で、

凡(おほ)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振り痛き袖を忍(しのび)てあるかも(万葉集)、

と、

隠す、
秘密にする、

という意味で使い、さらに、

辱(はぢ)を忍(しのび)辱を黙(もだ)して事もなく物言はぬさきに我は寄りなむ(万葉集)、

と、

我慢する、
忍耐する、

意でも使うが、この意味は、

感情を抑えてじっと堪える、

意からの転義とも考えられるが、

外部からの働きかけに耐える、

という意味は、和語「しのぶ」には本来なく、「しのぶ」に、漢字、

忍、

の訓として定着したことで、

漢語「忍」のいみが和語「しのぶ」に浸透していき、次第に我慢という意味が色濃くなった、

とあり(日本語源大辞典)、どうも、

しのぶ、

の転義はなさそうに思える。

因みに、

しのぐ、

の連用形の名詞化、

しのぎ、

は、

往生は一人のしのきなり。一人々々仏法を信じて後生をたすかる事なり(蓮如上人御一代記聞書)、

と、

困難なことや苦しみなどをがまんして切りぬけること、
また、
その方法や手段、

の意や、囲碁で、攻められた場合、

最強の抵抗をするか、うまくかわすかして、主力の石を生かしたり、脱出したりすること、

の意があるが(精選版日本国語大辞典)、

ヤクザ・暴力団の収入や収入を得るための手段、

をいう、

シノギ、

も、ここから来たのではないかと疑う。他に、

糊口をしのぐ(飯をのり状の粥にして食いつなぐこと)、
鎬(しのぎ)を削る(両者の刀の鎬が削れるほどの激しい戦いのこと)、

の意からという説もある(日本語俗語辞典)が。

「凌」(リョウ)は、

会意兼形声。夌(リヨウ)は「陸(おか)の略体+夂(あし)」の会意文字で、力をこめて丘の稜線をこえること。力むの力と同系で、その語尾がのびた語。筋骨をすじばらせてがんばる意を含む。凌はそれを音符とし、冫(こおり)を加えた字。氷の筋目の意、

とある(漢字源)が、よく分からない説明だ。別に、

会意兼形声文字です(冫+夌)。「氷の結晶」の象形(「凍る、寒い」の意味)と「片足を上げた人の象形と下向きの足の象形」(「高い地をこえる、丘に登る」の意味)から「(氷が丘のように盛り上がって)凍る」、「氷」、「しのぐ」を意味する「凌」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://www.kanjipedia.jp/kanji/0007160400

形声。冫と、音符夌(リヨウ)とから成る、

と、形声文字とする説(角川新字源)もある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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たぎつ


おろかなる涙ぞ袖に玉はなす我はせきあへずたぎつ瀬なれば(古今和歌集)、

の、

たぎつ、

は、

水が激しく流れる、

意である(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

たぎつ、

は、

滾つ、
激つ、

と当て、現代でも使う、

たぎる(滾・沸)、

と同語源とあり(精選版日本国語大辞典)、

たき(滝)と同源、

とある(岩波古語辞典)。

たぎつ、

は、古くは、

たきつ、

と清音で、

高山の石本(いはもと)たぎちゆく水の音には立てじ恋ひて死ぬとも(万葉集)、

と、

水がわきあがり、逆巻き流れる、水があふれるように激しく流れる。

意から、これをメタファに、

嘆きせば人知りぬべみ山川のたぎつ心を(瀧情乎)塞(せ)かへてあるかも(万葉集)、

と、

心がたかまる、
心がわきかえる、
激情がおしよせる、
いらだつ、

といった意で使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。万葉仮名で、

滝、

と当てているように、

「滝(たぎ・たき)」「たぎる(滾)」と同根の語で、名詞形は「たぎち」(精選版日本国語大辞典)、

とされ、

たぎつ、

は、

滝の活用(大言海・言元梯)、

とする。他に、

タは勢いを示し、強声、強音を表す語(国語の語根とその分類=大島正健)、
タは当たる意のタギ入義(国語本義)、

ともあるが、

タやすい、
タもとはり、
タ遠み、

などと使う(岩波古語辞典)接頭語とは異なる気がする。

滝の活用、

が、自然な気がするが、どうだろう。なお、「滝」については、

滝川

で触れた。

動詞「たぎつ」の連用形の名詞化が

たぎち(滾・激)、

で、

川の瀬の激(たぎち)を見れば玉かも散り乱れたる川の常かも(万葉集)

と、

水が激しく流れること、
水などのわきあがること、
激流、
奔流、

の意で使う(精選版日本国語大辞典)。

たぎつ瀬に根ざしとどめぬ浮草の浮たる恋もわれはするかな(古今和歌集)、

の、

たきつ瀬、
たぎつ瀬、

の、

「つ」は「の」の意の格助詞、

で、

水の激しく流れる瀬、
また、
滝、

の意で、枕詞として、「はやし」にかかる(仝上)。

たぎつ、

と同源の、

たぎる、

は、

滾る、
沸る、

は、

わきいづる涙の川はたぎりつつ恋ひしぬべくもおぼほゆるかな(宇津保物語)、

と、

川の水などが勢い激しく流れる、
さかまく、

意や、それをメタファに、

ココロノ taguiru(タギル)(日葡辞書)、

と、

怒り・悲しみ・焦慮などの感情が激しくわきあがる、
また、
心がわきたつ、

意は同じだが、その外、

この水、あつ湯にたぎりぬれば、湯ふてつ(大和物語)、

湯などが煮えたつ、
沸騰してわきかえる、

意や(にえたぎる(煮え滾る)と使う)、それをメタファに、

其の役たぎらぬ人は何時からも役替(やくがへ)してみたがよし(評判「二挺三味線大阪」)、

と、

熱中する、

意でも使う(岩波古語辞典)。この名詞形が、

たぎり(滾・沸)、

になる(精選版日本国語大辞典)。

「滾」(コン)は、

会意兼形声。「水+袞(エン・コン まるい)」、

とある(漢字源)。「滾滾」と、「水がぼこぼこと転がるように流れるさま」の意である。

「袞」(コン)は、

会意文字。もと「衣+公(おおやけ)」で、公式の衣類をあらわす、まるくてゆったりとしている意を含む、

とある(仝上)。

袞袞(コンコン)、

というと、

あとからあとから続いて絶え間ない、

意であり、

不尽長江滾滾来(杜甫・登高)、

の、

滾々(コンコン)、

も、

水が盛んに流れるさま、

をいう(仝上・字源)。

「激」(慣用ゲキ、漢音ケキ、呉音キャク)は、

会意兼形声。敫は「白+放」の会意文字で、水が当たって白いしぶきを放つこと。激はそれを音符として、水印を加えて、原義を明示したもの、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+敫)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「白い骨と柄のある農具:すきの象形と右手の象形とボクッという音を表す擬声語」(「うつ・たたく」の意味)から、水が岩などにあたって、「はげしい」を意味する「激」という漢字が成り立ちました、

と「擬声語」とするものhttps://okjiten.jp/kanji913.html)の他、

「会意形声文字」と解釈する説があるが、誤った分析である、

として、

形声。「水」+音符「敫 /*KEWK/」。「はげしい」を意味する漢語{激 /*keewk/}を表す字、

とかhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%BF%80

形声。水と、音符敫(ケウ)→(ケキ)とから成る。水が岩などにはげしくあたってしぶきをあげる、ひいて「はげしい」意を表す、

とか(角川新字源)、形声文字とするものがある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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帰去来


已矣哉(已んぬるかな)
帰去来(かえりなん)(駱賓王・帝京篇)

の、

帰去来、

については、蔡國強展「帰去来」に触れた「帰去来」で取り上げたことがある。

帰去来、

は、陶淵明の、

歸去來兮(かえりなんいざ)
田園 将(まさ)に蕪(あ)れなんとす胡(なん)ぞ帰らざる
既に自ら心を以て形の役と爲(な)す
奚(なん)ぞ惆悵(ちゅうちょう)として獨(ひと)り悲しむ

とはじまる、

帰去来辞、

の、

帰去来兮、田園将蕪、胡不帰、

による語。

「去」「来」、

は助辞。

かえりなんいざ、

と訓じ、

さあ帰ろう、

と自らを促す意である。

官職を辞し、郷里に帰るためにその地を去ること。また、それを望む心境、

を意味する(精選版日本国語大辞典)。

きこらい、

とも訓ませる。

詩「帰去来辞」は、四段に分れ、それぞれ異なる脚韻をふむ、

とある。

歸去來辭(陶潜)

は、次のようであるhttps://kanbun.info/syubu/kikyorainoji.html

歸去來兮(帰りなんいざ)
田園將蕪胡不歸(田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす胡(なん)ぞ帰らざる)
既自以心爲形役(既に自ら心を以て形の役と爲(な)す)
奚惆悵而獨悲(奚(なん)ぞ惆悵(ちゅうちょう)として獨(ひと)り悲しむ)
悟已往之不諫(已往(いおう)の諫(いさ)むまじきを悟り)
知來者之可追(来者(らいしゃ)の追ふ可(べ)きを知る)
實迷途其未遠(実に途(みち)に迷ふこと其(そ)れ未だ遠からず)
覺今是而昨非(今の是にして昨の非なるを覚りぬ)
舟遙遙以輕颺(舟は遙遙として以て輕(かろ)く颺(あ)がり)
風飄飄而吹衣(風は飄飄として衣を吹く)
問征夫以前路(征夫(せいふ)に問ふに前路を以てし)
恨晨光之熹微(晨光(しんこう)の熹微(きび)なるを恨む)

乃瞻衡宇(乃(すなわち)衡宇(こうう)を瞻(み)て)
載欣載奔(載(すなわ)ち欣(よろこ)び載(すなわ)ち奔(はし)る)
僮僕歡迎(僮僕(どうぼく)歓(よろこ)び迎(むか)え)
稚子候門(稚子(ちし)門(もん)に候(ま)つ)
三逕就荒(三径(さんけい)荒(こう)に就(つ)くも)
松菊猶存(松菊(しょうきく)猶お存(そん)す)
攜幼入室(幼(よう)を携(たずさ)えて室(しつ)に入(い)れば)
有酒盈吹i酒有(あ)りて(たる)に盈(み)つ)
引壺觴以自酌(壺觴(こしょう)を引(ひ)きて以(もっ)て自(みずか)ら酌(く)み)
眄庭柯以怡顏(庭柯(ていか)を眄(み)て以(もっ)て顔を怡(よろこ)ばす)
倚南窗以寄傲(南窓(なんそう)に倚(よ)りて以(もっ)て寄傲(きごう)し)
審容膝之易安(膝を容(い)るるの安(やすん)じ易(やす)きを審(つまび)らかにす)
園日渉以成趣(園(えん)は日に渉(わた)りて以(もっ)て趣(おもむき)を成し)
門雖設而常關(門(もん)は設(もう)くと雖(いえど)も常に関(とざ)せり)
策扶老以流憩(策(つえ)もて老(おい)を扶(たす)けて以(もっ)て流憩(りゅうけい)し)
時矯首而游觀(時に首(こうべ)を矯(あ)げて遐觀(かかん)す)
雲無心以出岫(雲は無心にして以(もっ)て岫(しゅう)を出(い)で)
鳥倦飛而知還(鳥は飛ぶに倦(う)みて還(かえ)るを知る)
景翳翳以將入(景(ひかり)は翳翳(えいえい)として以(もっ)て将に入(い)らんとし)
撫孤松而盤桓(孤松(こしょう)を撫(ぶ)して盤桓(ばんかん)す)

歸去來兮(帰りなんいざ)
請息交以絶遊(請(こ)う交(まじわ)りを息(や)めて以(もっ)て游(ゆう)を絶(た)たん)
世與我以相遺(世と我と相(あい)遺(わ)するに)
復駕言兮焉求(復(また)駕(が)して言(ここ)に焉(なに)をか求もとめん)
ス親戚之情話(親戚の情話(じょうわ)を悦(よろこ)び)
樂琴書以消憂(琴書(きんしょ)を楽しみて以(もっ)て憂(うれ)いを消さん)
農人告余以春及(農人(のうじん)余(われ)に告ぐるに春の及べるを以(もっ)てし)
將有事於西疇(将(まさ)に西疇(せいちゅう)に事(こと)有らんとす)
或命巾車(或は巾車(きんしゃ)を命じ)
或棹孤舟(或は孤舟(こしゅう)に棹(さお)さす)
既窈窕以尋壑(既に窈窕(ようちょう)として以(もっ)て壑(たに)を尋(たず)ね)
亦崎嶇而經丘(亦崎嶇(きく)として丘を経(ふ))
木欣欣以向榮(木は欣欣(きんきん)として以(もっ)て栄(えい)に向(むか)い)
泉涓涓而始流(泉は涓涓(けんけん)として始めて流る)
羨萬物之得時(万物の時を得たるを善(よみ)し)
感吾生之行休(吾が生の行々(ゆくゆく)休(きゅう)するを感ず)

已矣乎(已(やん)ぬるかな)
寓形宇内復幾時(形を宇内(うだい)に寓(ぐう)すること復(また)幾時(いくとき)ぞ)
曷不委心任去留(曷(なん)ぞ心に委(ゆだ)ねて去留(きょりゅう)を任(まか)せざる)
胡爲遑遑欲何之(胡為(なんす)れぞ遑遑(こうこう)として何(いず)くにか之(ゆ)かんと欲(ほっ)する)
富貴非吾願(富貴(ふうき)は吾(わが)願(ねが)いに非(あら)ず)
帝ク不可期(帝郷(ていきょう)は期す可(べ)からず)
懷良辰以孤往(良辰(りょうしん)を懐(おも)いて以(もっ)て孤(ひと)り往(ゆ)き)
或植杖而耘耔(或は杖(つえ)を植(た)てて耘耔(うんし)す)
登東皋以舒嘯(東皋(とうこう)に登りて以(もっ)て舒嘯(じょしょう)し)
臨C流而賦詩(清流(せいりゅう)に臨みて詩を賦(ふ)す)
聊乘化以歸盡(聊(いささ)か化(か)に乗(じょう)じて以(もっ)て尽(つ)くるに帰し)
樂夫天命復奚疑(夫(か)の天命を楽しみて復(また)奚(なん)ぞ疑わん)

第1段は、官吏生活をやめ田園に帰る心境を精神の解放として述べ、
第2段は、なつかしい故郷の家に帰り着き、わが子に迎えられた喜び、
第3段は、世俗への絶縁宣言をこめた田園生活の楽しさ、
第4段は、自然の摂理のままに終りの日まで生の道を歩もうという気持、

をうたいあげている(ブリタニカ国際大百科事典)。陶淵明の代表作であると同時に、六朝散文文学の最高傑作の一つとされる(仝上)。

陶淵明(とう えんめい 興寧3年(365)〜元嘉4年(427))、

は、中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は、

元亮、

または、名は、

潜、

字が、

淵明、

死後友人からの諡にちなみ、

靖節先生、

または自伝的作品「五柳先生伝」から、

五柳先生、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E

無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだ、

という逸話がある。この「無弦の琴」は、『菜根譚』にも記述があり、

存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできない、

と記し、無弦の琴とは、

中国文化における一種の極致といった意味合いが含まれている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
Web漢文大系(https://kanbun.info/syubu/kikyorainoji.html)
漢詩の朗読(https://kanbun.info/syubu/kikyorainoji.html)

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すがる


すがる鳴く秋の萩原朝立ちて旅行く人をいつとか待たむ(古今和歌集)、

の、

すがる、

は、

じが蜂、

のこととある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

腰が細いことから女性の形容となる、

とあり、

梓弓(あづさゆみ)末の珠名(たまな)は胸別(むなわけ)の広き吾妹(わぎも)腰細の須軽娘子(すがるをとめ)のその姿(かほ)の端正(きらきら)しきに(万葉集)

の、

須軽娘子(蜾蠃少女・蜾蠃娘子 すがるをとめ)、

は、

じがばちのように腰細(こしぼそ)でなよやかな美しい少女、

という(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、

細腰の美女、珠名娘子(たまなおとめ)の形容、

だが、平安後期になると、

すがる伏す木(こ)ぐれが下の葛まきを吹き裏反へす秋の初風(山家集)、

と、

鹿、

と理解されてゆく(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。冒頭の歌の、

鳴く、

とあるのは、

蜂の羽音、

で、

珍しい例であり、この例などが「すがる」を鹿と理解させてゆく原因であるかもしれない、

ともある(仝上)。

珠名娘子(たまなのいらつめ)、

は、『万葉集』に登場する女性で、上記歌(高橋虫麻呂)は、

しなが鳥安房に継ぎたる梓弓末の珠名は胸別けの広き我妹(わぎもこ)腰細の蝶嬴娘子(すがるをとめ)のその姿(かほ)のきらきらしきに花のごと笑みて立てれば玉桙の道行く人はおのが行く道は行かずて呼ばなくに門に至りぬさし並ぶ隣の君はあらかじめ己妻(おのづま)離(か)れて乞はなくに鍵さへ奉る人皆のかく惑へればうちしなひ寄りてぞ妹はたはれてありける、

が全文で、珠名は、

豊かな胸とくびれた蜂のような腰を持つ晴れやかな女性、

で、

蝶嬴娘子(すがるおとめ)、

と呼ばれ、

花が咲くように微笑み、立っていれば、道行く人は自分の行べきであった道を行かず、呼ばれもしないのに珠名の家の門に来た。珠名の家の隣の主人は、あらかじめ妻と別れて、頼まれないのに予め自分の家の鍵を珠名に渡すほどであった。男たちが皆自分に惑うので、珠名は、たとえ夜中であっても、身だしなみを気にせずに、男達に寄り添って戯れた、

という伝説を詠んだ歌に登場しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%A0%E5%90%8D%E5%A8%98%E5%AD%90

すがる、

は、

蜾蠃、

と当て、

じがばち(似我蜂)の古名(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・大言海)、
ジバチの異称(広辞苑)、

また、

はち(蜂)の異名(精選版日本国語大辞典)、
草木の花に睦(むつ)れて、露を吸う虻の類までを云ふ(大言海)、
広く蜂や昆虫の総称(岩波古語辞典)、

ともあり、

すがれ、

ともいう(広辞苑)とある。

すがる、

は、

じがばち科。じがばち。蜂。体長2センチ程の狩人ばち。蝶や蛾の幼虫を捕え地中の穴にたくわえる。黒色。腹部はくびれて細長く、赤色の帯がある。どろで巣をつくる、

とあるhttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_yougo&pkey=20072

ジバチ、

は、

土中に営巣する、

ので似た生態だが、

昆虫綱膜翅(まくし)目のスズメバチ科に属するクロスズメバチ類の俗称、

で、

女王・雄16mm、働きバチ12mm内外。ややかわいた地中に球形の大きな巣を作り、その中に数段の幼虫室を作る。幼虫はよく肥大し、脂肪に富むため食用にされる、

とある(日本大百科全書・マイペディア)ので、違うのではないかと思うが、日本では地方によって、

ヘボ、
ジバチ、
タカブ、
スガレ、

などと呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%83%A1%E3%83%90%E3%83%81とあるので、

すがる、

と呼ばれる地域もあるようだ。

ジガバチ、

は、

似我蜂、
細腰蜂、

と当て、

雌は幼虫の餌シャクトリムシなどを捕えて地中の穴に貯え、産卵後、穴をふさぐ、

が、

獲物を運ぶとき羽音がじがじがと聞こえ、他の虫を自分の巣に入れて似我似我と言い聞かせて育てると考えた、

ところから、

ジガバチ、

の名がついたという(精選版日本国語大辞典)。

すがる、

以外に

こしぼそばち、
じが、

とも呼ばれ(仝上)、

すがる、

という名の由来も、

鳴く聲を名とせる(大言海)、

とする説がある。

「蜂」(漢音ホウ、呉音フ・フウ)は、

会意兼形声。夆は、△型をなす意を含む。蜂はそれを音符とし、虫を加えた字で、女王蜂を中心に△型の集団をなして移動するハチ、

とある(漢字源)が、他は、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%9C%82

形声。「虫」+音符「夆 /*PONG/」。「はち」を意味する漢語{蜂 /*ph(r)ong/}を表す字。「蠭」の音符を変更した字である、

と(仝上)、

形声。意符䖵(こん)(多くの虫。虫は省略形)と、音符逢(ホウ)(夆は省略形)とから成る。「はち」の意を表す、

と(角川新字源)、

形声文字です(虫+夆)。「頭が大きくてグロテスクなまむし」の象形(「虫」の意味)と「下向きの足の象形と草木の葉の寄り合い茂る」象形(「足が一点に寄り合っていく、逢う」の意味だが、ここでは、「鋒(ほう)」に通じ、「矛先」の意味)から、矛先のような針のある虫「はち」を意味する「蜂」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji331.html、形声文字とする。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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通ひ路


春霞中し通ひ路なかりせば秋來る雁は帰らざらまし(古今和歌集)、

の、

通ひ路、

は、

空と地上とをつなぐ路、

とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

春くれば雁かへるなり白雲の道ゆきぶりにことやつてまし(仝上)、

の、

白雲の道、

と同じく、

雁の通り道、

の意である(仝上)。

住の江の岸に寄る波夜さへや夢の通ひ路人目よくらむ(仝上)

の、

夢の通路、

は、

夢の中の想う相手へ通う路、

で、

思いやるさかひははるかになりやするまどふ夢路にあふ人のなき(仝上)

の、

夢路、

に同じで、

夢の中の路が思いを寄せる人へとつながる、

意であり(仝上)、

夏と秋とゆきかふ空のかよひぢはかたへ涼しき風や吹くらむ(仝上)

の、

空のかよひぢ、

は、

天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ(仝上)

の、

雲の通ひ路、

と同じ(仝上)とあり、

雲の中を通る天と地上をつなぐ道、

の意となる(仝上)。

通ひ路(かよひぢ)、

は、文字通り、

妹らがりと我が通路の篠すすき我れし通はば靡け篠原(万葉集)、

と、

通う道、
往来する道、

の意で(大言海)、

茲(ここ)より西は浜なり。……通道(かよひぢ)の経るところなり(出雲風土記)、

と、

駅路の公道、

の意などで使うが、それをメタファに、

人知れぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちも寝ななん(伊勢物語)、

と、

恋人の所へ通う道、

の意となる(精選版日本国語大辞典)。

通路、

を、

つうろ、

と訓ませると、

北無通路(晉書)、

と、

漢語で、日本でも、

阿波国、境土相接、往還甚易。請就此国、以為通路。許之 (続日本紀)

と、

通行のための道路、

の意や、そこから広げて、

然者此谷可有通路事、地下難叶之由可申也(政基公旅引付)、

と、

道を往き来すること、

の意や、それをメタファに、

あすすぐに返弁し向後房とはつうろせぬ(浄瑠璃「心中重井筒」)、

と、

交際すること、
手紙などのやりとりをすること、

等々の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

「通」(漢音ツ・トウ、呉音ツウ)は、

会意兼形声。用(ヨウ)は「卜(棒)+長方形の板」の会意文字で、棒を板にとおしたことを示す。それに人を加えた甬(ヨウ)の字は、人が足でとんと地板をふみとおすこと。通は「辶(足の動作)+音符甬」で、途中でつかえてとまらず、とんとつきとおること、

とある(漢字源)。別に、

形声。「辵」+音符「甬 /*LONG/」。「とおる」を意味する漢語{通 /*hloong/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%9A

形声。辵(または彳(てき))と、音符甬(ヨウ)→(トウ)とから成る。つきとおる、まっすぐにとおっている、ひいて「かよう」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(辶(辵)+甬)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「甬鐘(ようしょう)という筒形の柄のついた鐘」の象形(「筒のように中が空洞である」の意味)からつつのように空洞で障害物なくよく「とおる」を意味する「通」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji367.htmlが、ほぼ趣旨は同じである。

「路」(漢音ロ、呉音ル)は、

形声。各は「夂(足)+口(かたい石)」からなり、足が石につかえて、ころがしつつ進むことを示す。路は「足+音符各(ラク・カク)で、もと連絡みちのこと、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です(足+各)。「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「下向きの足、口の象形」(神霊が降ってくるのを祈る意味から「いたる」の意味)から人が歩きいたる「みち」を意味する「路」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji550.html

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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さゆ


笹の葉に置く霜よりも一人寝(ぬ)るわが衣手ぞさえまさりける(古今和歌集)、

の、

さゆ、

は、

冷える、凍る、

意である(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

さやけし

で触れたことだが、

サユ(冴)は、

さやけしと同根、

であり(岩波古語辞典)、

さやか(分明・亮か)のサヤと同根、

とある(仝上)。

さや、

は、

清、

と当て、

あし原のしけしき小(を)屋に菅畳、いやさや敷きてわが二人寝し(古事記)、

と、

すがすがしいさま、

の意だが、やはり、

日の暮れに碓井の山を越ゆる日は背(せ)なのが袖もさや振らしつ(万葉集)

と、

ものが擦れ合って鳴るさま、

の意もあり(岩波古語辞典)、

冷たい、
凍(冱)る、

意をメタファに、

(光や音が)冷たく澄む、

意でも使う(仝上)。だから、

冴ゆ、

は、

沍(さ)ゆ、

とも当て、

さざ浪や志賀の唐崎さえて比良 (ひら) の高嶺にあられ降るなり(新古今和歌集)、

と、色葉字類抄(1177〜81)に、

冴、サユ、凍、サユ、

とあるように、

冷え込む、
冷たく凍る、

意だが、それをメタファに、

山かげや岩もる清水音さえて夏のほかなるひぐらしの声(千載集)、
雪うち散りつつ、いみじく激しくさえ凍る暁がたの月の、ほのかに濃き掻練(かいねり)の袖に映れるも(更科日記)、
浜名の橋を渡り給へば松の梢に風冴えて入江に騒ぐ波の音(平家物語)

等々と、

光、音、色などが、冷たく感じるほど澄む、

また、

まじりけがないものとしてはっきり感じられる、澄みきる、

意で(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)、

冴ゆる夜、
冴ゆる月、
冴ゆる星、
冴ゆる風、
声冴ゆる、
影冴ゆ、

等々と使い、さらに、それをメタファに、

万葉はげに代もあがり、人の心もさえて(「毎月抄(1219)」)、
眠られぬ儘に過去(こしかた)将来(ゆくすゑ)を思ひ回らせば回らすほど、尚ほ気が冴(サエ)て眠も合はず(浮雲)、

と、

気持が純粋で澄みきる、
目や頭の働き、神経、気持などがはっきりする、

意で使ったり、

さえた腕の職人だ、
包丁さばきがさえる、

というように、

技術があざやかである、
すぐれている、

意でも使う(仝上・デジタル大辞泉)。

冱、堅凍也、
冴同冱、

とある(宋代の漢字を韻によって分類した韻書『集韻(しゅういん)』)ように、

冴、

は、

冱、

の異字体である。

「冴(冱)」(漢音コ、呉音ゴ)は、

形声文字。「冫(こおり)+音符牙」

とあり(漢字源)、

形声文字です(冫+互(牙))。「氷の結晶」の象形と「木枠を交差させて組んだ縄巻器」の象形(「互いに」の意味だが、ここでは、「固(コ)」に通じ(同じ読みを持つ「固」と同じ意味を持つようになって)、「かたまる」の意味)から、「凍る」、「寒い」、「ふさぐ」、「ふさがる」を意味する「冱」という漢字が成り立ちました。のちに、「互」の形が「牙」に変化して「冴」という漢字が成り立ちました。「冱」は「冴」の旧字(以前に使われていた字)です、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2184.html。しかし、

形声。声符は互(ご)。〔玉篇〕に「寒(こご)ゆるなり」とみえ、寒さのため冰り、ものが凝り固まることをいう。「荘子」斉物論に、至人の徳を称して「河漢冱るも寒(こご)えしむること能はず」という。わが国では寒さのさえることをいい、冴の字を用いるが、字形を誤ったものであろう。互に連互する意があり、広く結氷してゆく状態をいう、

とあり(字通)、

冱、

が正字とする。同様、

形声。冫と、音符互(ゴ)(牙は誤った形)とから成る、

とする(角川新字源)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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五節の舞


天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ(古今和歌集)、

の詞書(ことばがき)にある、

五節の舞姫をみてよめる、

の、

五節の舞、

とは、

大嘗会・新嘗会で行われる少女舞、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

五節の間にきまって歌われる歌謡の一つで、「びんだたら」と呼ばれていた。びんざさら(楽器)をゆるがしてならせばこそ、おもしろやの意で、元は田楽の歌謡か、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、

鬢だたら

で触れたが、

五節(ごせち)、

は、その謂れを、

「春秋左伝‐昭公元年」の条に見える、遅・速・本・末・中という音律の五声の節に基づく、

とも(精選版日本国語大辞典・芸能辞典)、

天武天皇が吉野宮で琴を弾じた際、天女が舞い降り、五度歌い、その袖を五度翻しそれぞれ異なる節で歌った、あるいは、天女が五度袖を挙げて五変した故事による、

とも(壒嚢抄・理齋随筆)いわれる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、

新嘗祭(にいなめまつり・しんじょうえ)・大嘗会(おおなめまつり・だいじょうえ)に行われた少女舞の公事、

をいい、毎年、

十一月、中の丑・寅・卯・辰の四日間にわたる、

とされ(岩波古語辞典)、丑の日に、

五節の舞姫の帳台の試み(天皇が直衣・指貫を着て、常寧殿、または官庁に設けられた帳台(大師の局)に出て、舞姫の下稽古を御覧になる)、

があり、寅の日に、

殿上の淵酔(えんずい・えんすい 清涼殿の殿上に天皇が出席し、蔵人頭以下の殿上人が内々に行う酒宴。《建武年中行事》などによると、蔵人頭以下が台盤に着し、六位蔵人の献杯につづいて朗詠、今様、万歳楽(まんざいらく)があったのち装束の紐をとき、上着の片袖をぬぐ肩脱ぎ(袒褐)となる。ついで六位の人々が立ち並び袖をひるがえして舞い、拍子をとってはやす乱舞となる)、

があり、その夜、

舞姫の御前の試み(天皇が五節の舞姫の舞を清涼殿、または官庁の後房の廂(ひさし)に召して練習を御覧になる)、

があり、卯の日の夕刻に、

五節の童女(わらは 舞姫につき添う者)御覧(清涼殿の孫廂に、関白已下大臣両三着座。その後、童女を召す。末々の殿上人、承香殿の戌亥の隅のほとりより受け取りて、仮橋より御前に参るなり。下仕、承香殿の隅の簀子、橋より下りて参る。蔵人これに付く。殿上人の付くこともある)、

があり、辰の日に、

豊明(とよのあかり)節会の宴(豊明は宴会の意で、豊明節会とは大嘗祭、新嘗祭(にいなめさい)ののちに行われる饗宴。新嘗祭は原則として11月の下の卯の日に行われ、大嘗祭では次の辰の日を悠紀(ゆき)の節会、巳の日を主基(すき)の節会とし、3日目の午の日が豊明節会となる。新嘗祭では辰の日に行われ、辰の日の節会として知られた。当日は天皇出席ののち、天皇に新穀の御膳を供進。太子以下群臣も饗饌をたまわる。一献で国栖奏(くずのそう)、二献で御酒勅使(みきのちよくし)が来る。そして三献では五節舞(ごせちのまい)となる)、

があり、正式に、

五節の舞、

が、

吉野の国栖が歌笛を奏し、大歌所(おおうたどころ)の別当が歌人をひきいて五節の歌を歌い、舞姫が参入して庭前の舞台で五度袖をひるがえして舞う(大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4〜5人(大嘗祭では5人)の舞姫によって舞われる)、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9Ehttps://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki45・大言海・精選版日本国語大辞典)。後世、大嘗会にだけ上演され、さらにそれも廃止された。

豊明(豊の明かり とよのあかり)、

は、

豊は称辞なり、あかりは、御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義と云ふ(大言海)、
夜を日をついてせ酒宴するところから(和訓栞)、
タユノアケリ(寛上)またはタヨナアケリ(手弥鳴挙)の義か(言元梯)、
アカリは供宴に酔いしれて顔がほてっている様子から、トヨはそれを賛美する語(国文学=折口信夫)、

と諸説あるが、素直に、

御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義、

を採りたい。

昨日神ニ手向奉リシ胙(ひもろぎ 神に供える肉)ヲ、君モ聞食(きこしを)シ、臣ニモ賜ハン為ニ、節会ヲ行ハルルナリ(室町時代「塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)」)、

と、

祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事(共飲共食儀礼)、

である、

直会(なおらい 神社における祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒をいただき神饌を食する行事)、

の性格があり、

大嘗祭の祝詞の「千秋五百秋(ちあきのながいほあき)に平らけく安らけく聞食(きこしを)して、豊明に明り坐(ま)さむ」や中臣神寿詞の「赤丹(あかに)の穂に聞食して、豊明に明り御坐(おは)しまして」などの例を引き、「豊明に明り坐す」という慣用句が、宴会の呼称として固定したものであり、「豊は例の称辞、明はもと大御酒を食て、大御顔色の赤らみ坐すを申せる言」と説く本居宣長『古事記伝』の解釈が最も妥当とみられる、

とある(国史大辞典)。

なお、五節句、

は、

重陽でも触れたように、

人日(じんじつ)(正月7日)、
上巳(じょうし)(3月3日)、
端午(たんご)(5月5日)、
七夕(しちせき)(7月7日)、
重陽(ちょうよう)(9月9日)、

である。正月七日の、七種粥、三月三日の、曲水の宴、上巳の日の、天児白酒については触れた。
 

「節(節)」(漢音セツ、呉音セチ)は、「折節」で触れたように、

会意。即(ソク)は「ごちそう+膝を折ってひざまずいた人」の会意文字。ここでは「卩」の部分(膝を折ること)に重点がある。節は「竹+膝を折った人」で、膝を節(ふし)として足が区切れるように、一段ずつ区切れる竹の節、

とある(漢字源)。別に、

形声。「竹」+音符「即」(旧字体:卽)、卽の「卩」(膝を折り曲げた姿)をとった会意。同系字、切、膝など、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AF%80

会意兼形声文字です(竹+即(卽))。「竹」の象形と「食べ物の象形とひざまずく人の象形」(人が食事の座につく意味から、「つく」の意味)から、竹についている「ふし(茎にある区切り)・区切り」を意味する
「節」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji554.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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みがくる


川の瀬になびく玉藻のみがくれて人に知られぬ恋もするかな(古今和歌集)、

の、

みがくる、

は、

水隠る、

で、万葉集では、

青山の岩垣沼の水隠りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ、

の、

水隠り、

は、

みずこもり、

と訓み、古今集時代には、

みがくる、

と訓んだか (高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、とある。

みがくる、

は、

見隠る、

と当てると、

このむねとの者の行かん方を見んと思ひて、尻にさしさがりて、みがくれみがくれ行くに(古今著聞集)

と、

見えたり隠れたりする、

意となり、

雪ふれば青葉の山もみかくれて常磐の名をや今朝はおるらん(散木奇歌集)、

と、

物陰に身がかくれる、
物の陰にかくれて身が見えなくなる、

意となる。

水隠(みがく)る、

は、

みがくれのほどといふともあやめぐさなほ下刈らん思ひあふやと(蜻蛉日記)

と、

水中に隠れること、
水の中に入って姿が見えなくなること、

の意である(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・大言海)。

「水」(スイ)は、「曲水の宴」で触れたように、

象形。水の流れの姿を描いたもの、

である(漢字源)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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倭文(しづ)の苧環


いにしへの倭文(しず)の苧環(をだまき)いやしきもよきも盛りはありしものなり(古今和歌集)、

の、

倭文(しづ しず)、

は、

日本古来の織物の一つで、模様を織り出したもの、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。奈良時代は、

ちはやぶる神のやしろに照る鏡しつに取り添へ乞ひ禱(の)みて我(あ)が待つ時に娘子(おとめ)らが夢(いめ)に告(つ)ぐらく(万葉集)、

と、

しつ、

と清音で、後にも、新古今和歌集でも、

それながら昔にもあらぬ秋風にいとどながめをしつのをだまき、

と、

しつ、

と、

詠われる。

苧環、

は、

倭文(しつ)を織るのに用いる苧環、

とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、上記歌では、

「いとど」に糸を掛け、「ながめをしつ」から「糸」の縁語「しつのをだまき」(倭文(しつ)を織るのに用いる苧環)へと続けた、

と注釈される(仝上)。

倭文(しづ)の苧環、

は、「伊勢物語」のなかでも、

古(いにしへ)のしづのおだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな、

とも歌われている。

倭文、

は、

古代の織物の一つ、

で、

穀(かじ)・麻などの緯(よこいと)を青・赤などで染め、乱れ模様に織ったもの(広辞苑)、
梶木(かじのき)、麻などの緯(よこいと)を青、赤などに染め、乱れ模様に織ったもの(精選版日本国語大辞典)、
栲(たへ)、麻、苧(からむし)等、其緯(ヌキ 横糸)を、青、赤などに染めて、乱れたるやうの文(あや)に織りなすものといふ(大言海)、
カジノキや麻などを赤や青の色に染め、縞や乱れ模様を織り出した日本古代の織物(デジタル大辞泉)、

等々とあり、多少の差はあるが、

上代、唐から輸入された織物ではなく、それ以前に行われていた織物、

を指している(岩波古語辞典)。で、

異国の文様、

に対する意で、

倭文、

の字を当てた(デジタル大辞泉)といい、

あやぬの(文布・綾布)、
しずはた(機)、
しづり(しつり)、
しずの、
しずぬの、
しとり(しどり)、
しづおり、

等々とも言う。

しづり(しずり)、

は、古くは、

しつり、

で、

しづおり(倭文織)、

の変化した語、

しどり、

は、古くは、

しとり、

で、やはり、

しつおり(倭文織)、

の変化した語、いずれも、

倭文、

と当てる。

しつぬの(倭文布)、

は、

しづぬの(倭文布)、

ともいい、

しづり、

ともいう(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・広辞苑)。後世、

織り目の細かい布の総称、
打って柔らかくしてさらした布、

である、

にきたえ、

に対して、

木の皮の繊維で織った、織り目の粗い布の総称、

として、

あらたえ、

という(仝上)。「藤衣」で触れたように、古え、賎民の着たる粗末なる服を、

和栲(にぎたへ)、

に対し、

麁栲(あらたへ)、

といい(大言海)、

和栲(にぎたへ)、

は、

和妙、

とも当て、平安時代になって濁り、以前は、

片手には木綿(ゆふ)取り持ち片手にはにきたへ奉まつり平けくま幸くいませと天地の神を祈(こ)ひ祷(の)み(万葉集)、

と清音で、

打って柔らかにした布、

をいい、

神に手向ける、

ものであった(岩波古語辞典)。

麁栲(あらたへ)、

は、

荒妙、
粗栲、

とも当て、

木の皮の繊維で織った、織目のごつごつした織物、

をいい、

藤蔓などの繊維で作った(デジタル大辞泉・仝上)。平安時代以降は、

麻織物、

を指した(仝上)。

倭文、

は、

中国大陸から錦(にしき)の技法が導入されるまで、広く使われたわが国の在来織物で、『万葉集』『日本書紀』などによると、

帯、手環(たまき 現在のブレスレット)、鞍覆(くらおおい)、

等々、

装飾的な部分に使われている(日本大百科全書)とあり、生産は物部(もののべ)氏のもとにある倭文部(しずりべ)であり、各地の倭文神社はその分布を伝える。『延喜主計式(えんぎしゅけいしき)』によると、

その生産地は駿河(するが)国と常陸(ひたち)国で、合計してわずか62端(長さ4丈2尺、幅2尺4寸、天平(てんぴょう)尺による)しか献納されておらず、用途は自然神(風・火など)の奉献物に使われている、

と(仝上)、特殊な用途になっていることがわかる。

しず、

の由来は、

沈むの語根、沈(しず)の義なりと云ふ、或は云ふ、線(すぢ)の転なりと(大言海)、
縞織の義か(筆の御霊)、
おもしの意のシズムル(鎮)の略(類聚名物考)、
糸をしずめて文様を織り出すところからシヅミ(沈)の略(名言通)、

等々あるが、織りとの関係でいうと、

しず(沈)、
か、
すじ(線)、

かと思うが、当初、

しつ、

だということを考えると、ちょっといずれも妥当とは思えない。

苧環(おだまき)、

は、

苧手巻、

とも当て(大言海)、

おだま、

ともいい、

糸によった麻を、中を空虚にし、丸く巻きつけたもの、

をいい(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、

績苧(うみを)の巻子(へそ)、其の形、外圓く、内虚にして、環の如くなれば云ふ、
麻手巻の義、

とある(大言海)。

布を織るためには、まず植物の繊維を糸状にする必要がある。古代では材料に麻(あさ)、楮(こうぞ)、苧(お)、苧麻(からむし)などが使われる。つまり、

おだ-まき、

ではなく、

お-たまき(手巻)、

ということのようであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A7%E7%92%B0

苧(お)、

は、

アサ(麻)、

の異名で、また

アサやカラムシの茎皮からとれる繊維、

をいい、

苧環、

とは、

つむいだアサの糸を、中を空洞にして丸く巻子(へそ)に巻き付けたもの、

をいう(日本大百科全書)。

綜麻(へそ)、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A7%E7%92%B0。布を織るのに使う中間材料で、次の糸を使う工程で、糸が解きやすいようになかが中空になっている(仝上)。

因みに、「へそくり」で触れたように、その語源として、

へそは紡いだ麻糸をつなげて巻き付けた糸巻である綜麻(へそ)をいい、『綜麻繰』とする説、

がある。

「苧」(漢音チョ、呉音ジョ)は、

会意兼形声。「艸+音符竚(チョ じっとたつ)の略体」、

とある(漢字源)。麻の一種の「からむし」である。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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澪標


君恋ふる涙の床(とこ)にみちぬればみをつくしとぞわれはなりぬる(古今和歌集)、

の、

みをつくし、

は、

水脈(みを)つ串、

で、

水先案内のため、水脈の標識として立てた杭、

で、

わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしてもあはむとぞおもふ(後撰集)、

と、

難波のものがよく知られる、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

みをつくし(みおつくし)、

は、

澪標、

と当て、後世は、

みおづくし、

ともいい、

みおじるし、

とも訓ませる(デジタル大辞泉)。

れいひょう、

とも訓ませると、漢語であり(仝上・字源)、

(水先案内のために)通行する船に水脈や水深を知らせるために目印として立てる杭、

をいい(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)、水深の浅い河口港に設けるが、古来、

凡難波津頭海中立澪標、若有舊標朽折者、捜求抜去(延喜式)、

と、

難波のみおつくし、

が有名である(仝上・岩波古語辞典)。

澪標、

は川の河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟(船)の航行が不可能な場所が多く座礁の危険性があるため、比較的水深が深く航行可能な場所である澪との境界に並べて設置され、航路を示した、

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%AA%E6%A8%99、同義語に、

澪木(みおぎ)、
水尾坊木(みおぼうぎ)、

などがあり、後世、

ほんぎ、

ともいい、

土砂が堆積する三角洲の河口付近に設置され、満潮時には行き交う舟の運行指標となった、

とある(仝上)。上方の難波に倣い、関東でも、

小間物町の野地豊前が洲崎に水路標を設置し、満潮時の可航水路を漁師に示した、

とあり、江戸時代初期の三浦浄心『慶長見聞集』「江戸河口野地ぼんぎの事」で、

天正19(1591)卯の年事也、洲崎に澪(みを)しるしを立る、是を俗にぼんぎと云ふ、

とあり、

隅田河口を運行する漁師に喜ばれた、

ので、野地の名をとり、

野地ほんぎ、

と通称された(仝上・大言海)とあるように、

ぼんぎ、

ともいうが、これは、

ぼうぎ(棒木)の音便、

で、江戸の川口の

澪弋(ミヲグイ)、

のことを呼ぶ(大言海)。

多く、和歌では、

身を尽くし、

にかけて用いることが多い(仝上)。

みおぎ、
みおぐい、
みおぼうぎ、
みおじるし、
みおのしるし、
みおぐし、

等々ともいう(仝上)。この由来は、

澪の串の意(精選版日本国語大辞典)、
水脈(みを)の串の意(岩波古語辞典・広辞苑)、
「澪(みお)つ串(くし)」で、「つ」は助詞「の」の意(デジタル大辞泉)、
水脈之杙(みをつくし)の義、澪の字は、字鏡(平安後期頃)に、落なりとあり、落潮の尺度を知らしめむための標なり(大言海)、
水尾之材・水尾之杙の義(翁草・閑田次筆・名言通・比古婆衣・日本語原学=林甕臣)、
ミヲ(水尾)ジルシの義(万葉代匠記・万葉集類林)、

などとあるが、

杙、
ないし、


とする説が大勢である。因みに、

みを、

は、

澪、
水脈、
水尾、

と当て、

三輪山の山下(やました)響(とよ)みゆく水の水尾(みを)し絶えずは後(のち)も吾が妻(万葉集)、

と、

海や川の中で、水の流れる筋、

をいうが、特に、

堀江よりみを(水脈)さかのぼる楫(かぢ)の音の間なくぞ奈良は恋しかりける(万葉集)、

と、

船の航行できる深い水路、

をいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

みを、

は、

みよ、

ともいい、その由来は、

ミ(水)ヲ(緒)の意(広辞苑・岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、
水緒(ミヲ)にて、流れの筋の意か、或は云ふ水尾の義、尾は引き延べたるを云ふ、山の尾の如し、澪は、水零の合字(大言海)、

と、

水路、

の意味のようである。そこから敷衍して、現代では、

航行する船が背後にのこす長い帯のような航跡(ミオ)を辿るように(死霊)、

と、

航路あとに出来る水の筋、
航跡、

の意でも使う(広辞苑)。

「澪」(漢音レイ、呉音リョウ)は、

会意兼形声。「水+音符零(やせほそる)」、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+零)。「流れる水」の象形と「雲から水滴がしたたり落ちる象形と頭上に頂く冠の象形とひざまずく人の象形(「人がひざまずいて神意を聞く」の意味」(神の意志によって「雨が降る」の意味)から「(神の)川」を意味する「澪」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2566.htmlが、

形声。「水」+音符「零」、中国においては地名(河川名)以外の用法はごくまれ、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%BE%AA

「標」(ヒョウ)は、

会意兼形声。票は「要(細くしまった腰、細い)の略体+火」の会意文字で、細く小さい火のこと。標は、「木+音符票」で、高くあがったこずえ、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です(木+票)。「大地を覆う木」の象形と「人の死体の頭を両手でかかげる象形と燃え立つ炎の象形」(「火が高く飛ぶ」の意味)から「木の幹や枝の先端」を意味する「標」という漢字が成り立ちました(転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、高くて目につく「しるし」・「めじるし」の意味も表すようになりました)。「標」は略字です、

とある( https://okjiten.jp/kanji718.htmlが、

形声。木と、音符票(ヘウ)とから成る。木の「こずえ」の意を表す。借りて「しるし」の意に用いる、

と(角川新字源)、形声文字とするものもある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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玉の緒


死ぬる命生きもやするとこころみに玉の緒ばかりあはむといはなむ(古今和歌集)、

の、

玉の緒、

は、

玉に通した緒、

で、

「短い」、「切れやすい」ことから、はかなさの象徴、

ここでは、

ほんのわずかの時間、

の意(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。

玉の緒(たまのを)、

は、文字通り、

始春(はつはる)の初子(はつね)の今日の玉箒(たまばはき)手に執(と)るからにゆらく多麻能乎(タマノヲ)(万葉集)、

と、

玉を貫き通した緒、

で、

首飾りの美しい宝玉をつらぬき通す紐、

または、

その宝玉の首飾りそのもの、

をも指し、

玉飾り、

ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。中古以後には、転じて、

草木におりた露のたとえ、

として用いられるようになり(精選版日本国語大辞典)、

玉をつなぐ緒が短いところから、

も、

さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと(万葉集)、
逢ふことは玉の緒ばかり思ほえてつらき心の長く見ゆらむ(伊勢物語)、

と、

短いことのたとえ、

に用いるようになる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。さらに、

魂(たま)を身体につないでおく緒、

つまり、

魂の緒、

の意で、

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(新古今和歌集)、
ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に長き契をいかが結ばむ(源氏物語)、

と、

生命。いのち、

の意で使い、枕詞として、

玉の緒の、

は、

玉の緒が切れる、

の意で、

新世(あらたよ)に共にあらむと玉緒乃(たまのをノ)絶えじい妹と結びてし言(こと)は果さず(万葉集)、

と、「絶ゆ」にかかり、また、

玉の緒が長いように、

の意で、

相思はずあるらむ子故玉緒(たまのをの)長き春日を思ひ暮さく(万葉集)、

と、「長し」にかかり、

玉の緒が短いように、

の意で、

伊勢の海の浦のしほ貝拾ひ集め取れりとすれど玉の緒の短き心思ひあへずなほあらたまの(古今和歌集)、

と、「みじかし」にかかり、

玉の緒が乱れる、

の意で、

ちひさす宮路を行くに吾が裳は破(や)れぬ玉緒(たまのを)の思ひ乱れて家にあらましを(万葉集)、

と、「思ひみだる」にかかり、

玉の緒をくくる、

意で、

玉緒之(たまのをの)くくり寄せつつ末(すゑ)つひに行きは別れず同じ緒にあらむ(万葉集)、

と、「くくり寄す」「継ぐ」「間も置かず」にかかり、

緒を縒(よ)る、

の意で、

うつつには逢ふことかたし玉の緒の夜は絶えせず夢に見えなん(拾遺集)、

と、「夜」に続き、

まそ鏡見れども飽かず珠緒之(たまのをの)惜しき盛りに(万葉集)、

と、玉の緒の「緒(を)」と同音を含む「惜し」にかかり、

生命、

の意で、

玉緒之(たまのをの)うつし心や年月(としつき)のゆきかはるまで妹に逢はざらむ(万葉集)、

と、「現(うつ)し心」にかかり、

魂の緒の命、

の意で、

逢ふことも誰がためなればたまのをの命も知らず物思ふらん(続後撰集)、

と、「いのち」にかかる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

「緒」(漢音ショ、呉音ジョ、慣用チョ)は、

会意兼形声。「糸+音符者(シャ 集まる、つめこむ)」。転じて糸巻にたくわえた糸のはみ出た端の意となった、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(糸+者(者))。「より糸」の象形と「台上にしばを集め積んで火をたく」象形(「煮る」の意味)から、繭(まゆ)を煮て糸を引き出す事を意味し、そこから、「いとぐち(糸の先端)」を意味する「緒」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1798.htmlが、

形声。糸と、音符者(シヤ)→(シヨ)とから成る。糸のはじめ、「いとぐち」の意を表す。常用漢字は省略形による、

と(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B7%92)、形声文字とする説もある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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白露


金天方粛殺(金天 方(まさ)に粛殺)、
白露始専征(白露(はくろ) 始めて専征す)(陳子昂・送別崔著作東征)

の、

金天(きんてん)、

は、五行思想による、

秋の天、

をさす(前野直彬注解『唐詩選』)。五行思想によれば、

万物を構成する五つの元素、木・火・土・金・水のうち、土を除く四つは、それぞれ四季に配当して考えられ、春は木、夏は火、秋は金、冬は水、

となる(仝上)。

粛殺、

は、

秋の気が草木を枯らすこと、

で、

白露(はくろ)、

は、

陰暦七月に降りる霜。秋の到来を告げるものとされ、前漢の経書『禮記』月令(がつりょう)篇、孟秋の月(初秋)に、

涼風至、白露降、寒蝉鳴(涼風 至り、白露 降り、寒蝉 鳴く)

とあるのにもとづく(仝上)とあり、

陰暦七月、

を指す(仝上)。

白露、

は、文字通り、

蒹葭蒼蒼、白露為霜(詩経・秦風、蒹葭篇)、

と、

しらつゆ、

つまり、

白く光って見える露、

で、

秋草(あきくさ)に置く白露(しらつゆ)の飽(あ)かずのみ相(あい)見るものを月(つき)をし待たむ(万葉集)、

と、

露の美称、

だが(広辞苑・大言海)、

處暑後十五日、斗指庚、為白露節(孝経緯)、

と、

二十四節気のひとつ、

で、

処暑→白露→秋分、

と続く。

太陽の黄経が165度の時、秋分前の15日、すなわち、太陽暦の9月8日(2024年は9月7日)頃に当たり、この頃から秋気がようやく加わる、

とあり(広辞苑)、

夜中に大気が冷え、草花や木に朝露が宿りはじめる頃。降りた露は光り、白い粒のように見える時期、

であるhttps://www.543life.com/season/hakuroので、

白露、

と、名付けられたと見られるhttps://koyomigyouji.com/24-haku.htm)。『暦便覧(こよみべんらん)』(寛政10(1798)年)では、

陰気やうやく重りて、露にごりて白色となれば也、

としている。

をざす」で触れたように、

二十四節気をさらに3つに分けた、

七十二侯、

では、白露の間は、略本暦(伊勢神宮)では、

初侯 草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃
白露と同じ意味で、草の露が白く輝いて見える頃。

次侯 鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃
セキレイが鳴く頃。

末侯 玄鳥去(つばめさる)9月17日頃
春にやってきたツバメが、子育てを終え南へ帰っていく頃

ただ、日本で中世を通じて823年間継続して使用された、唐の「宣明暦」では、

初候 鴻雁来 雁が飛来し始める

次候 玄鳥帰 燕が南へ帰って行く

末候 羣鳥養羞 多くの鳥が食べ物を蓄える

となっている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%80%99)

なお、「」については触れた。

「白」(漢音ハク、呉音ビャク)は、「白毫」で触れたように、

象形。どんぐり状の実を描いたもので、下の部分は実の台座。上半は、その実。柏科の木の実のしろい中身を示す。柏(ハク このてがしわ)の原字、

とある(漢字源)が、

象形。白骨化した頭骨の形にかたどる。もと、されこうべの意を表した。転じて「しろい」、借りて、あきらか、「もうす」意に用いる、

ともあり(角川新字源)、象形説でも、

親指の爪。親指の形象(加藤道理)、
柏類の樹木のどんぐり状の木の実の形で、白の顔料をとるのに用いた(藤堂明保)、
頭蓋骨の象形(白川静)、

とわかれ、さらに、

陰を表わす「入」と陽を表わす「二」の組み合わせ、

とする会意説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD。で、

象形文字です。「頭の白い骨とも、日光とも、どんぐりの実」とも言われる象形から、「しろい」を意味する「白」という漢字が成り立ちました。どんぐりの色は「茶色」になる前は「白っぽい色」をしてます、

と並べるものもあるhttps://okjiten.jp/kanji140.html

「露」(漢音ロ、呉音ル、慣用ロウ)は、「つゆけし」で触れたように、

形声。「雨+音符路」で、透明の意を含む。転じて、透明に透けて見えること、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(雨+路)。「雲から水滴が滴(したた)り落ちる」象形と「胴体の象形と立ち止まる足の象形と上から下へ向かう足の象形と口の象形」(人が歩き至る時の「みち」の意味だが、ここでは、「落」に通じ、「おちる」の意味から、落ちてきた雨を意味し、そこから、「つゆ(晴れた朝に草の上などに見られる水滴)」を意味する「露」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji340.html

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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とけい


俊秀公置斗景計晷。及申刻則先鳴鐘集大衆(室町中期「蔭凉軒日録 (いんりょうけんにちろく)」)

の、

晷(キ)、

は、

日の影、
日の光、

の意味で、

柱の影によって時間をはかる日時計、

の意味があり、

晷刻(きこく)、

は、

時刻、

の意である(字源)。

斗景、

は、今日、

時計、

と当てるが、ここでは、

日時計、

の意味のようである。

時計、

という字を当てたのは、初見は、貞享三年(1686)の、

時計師、

であり(京羽二重)、続いて元禄三年(1690)の「人倫訓蒙図彙」「江戸惣鹿子名所大全」に見える(橋本万平『日本の時刻制度』)とある。ヨーロッパで、一四世紀に機械時計が製作され、それがキリスト教宣教師によって日本にもたらされたのは、天文二〇年(1551)にフランシスコ=ザビエルが大内義隆に献上したのが最初と言われている(精選版日本国語大辞典)。

とけい、

に多く当てるのは、

土圭、

で、中世、

日時計、

の意味で用いた(広辞苑)とある。

土圭(どけい)、

は、

周代の緯度測定器(広辞苑)、
周代に用いられた、立てた棒の影の長さを測る粘土製の緯度測定器(大辞林)、
方角や日影を測るための磁針を指す昔の中国の表現(大辞泉)
土地の方向・寒暑・風雨の多少あるいは時間などを、その日影によって測定する器具(精選版日本国語大辞典)、
古へ、支那にて、方角、日晷を測る磁針を、土圭と云ふ(大言海)、

等々とあるが、「周礼」地官・大司徒に、

土圭の灋(はふ 法)を以て、土深を測り、日景を正し、以て地の中を求む。日南するときは則ち景短く、暑多し、

とあり(字通)、

土圭測景(張衡・東京賦)、

とあるので、

日影を観測する器、

つまりは、

日時計、

のようである。江戸中期の『和漢三才図絵』にも、土圭は、

晷(日影)によって時刻を知るもの也、

とある(橋本・前掲書)。ただ、

土圭と呼ばれた八尺の長さの棒を立て、その影の正午における長さによって一年の長さを知る日晷が用いられていたが、これが日時計の役をしたというはっきりした記録は残っていない、

とある(仝上)ので、むしろ、土地に垂直に立てた棒で、

冬至点、

を知り、その影の長さによって冬至の日やあるいは一年の長さを知るために使用された、

という(仝上)、

周代の緯度測定器(広辞苑)、

というのが正確かもしれない。勿論それによって、時刻を知ることも可能ではあるが。

土圭、

には、

土景、
土計、

の字があてられることもあるが、中国では、時打ち時計である機械時計には、「土圭」ではなく、

自鳴鐘、

が使用され、日本でも江戸時代に「自鳴鐘」が使われたが、和語の「ときはかり」(日葡辞書)の漢字表記と思われる「時計」が広く用いられていた。ただ「時計」が字音的表記でないため、

時器、
時辰儀、
時辰表、

が使用され、

とけい、

と訓ませた(仝上、日本語源大辞典、橋本万平・前掲書)とある。なお機械時計は、

土圭、

とは表記しない。その表記はあくまで「時計」である。ザビエルがもたらしたによって機械式で鐘を鳴らす時計、いわゆる、

時打ち時計、

も、

土圭、

という表記は使われなかったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%9C%AD。それらは別物だから、「時器」「時辰儀」「時辰表」などが使用された(仝上)とあり、

土圭、



時計、

は別物だと考えたほうがよい(仝上)とある。

「土」(慣用ド、漢音ト、呉音ツ)は、

象形文字。土を盛った姿を描いたもの、古代人は土に万物を生み出す充実した力があると認めて土をまつった。このことから、土は充実したの意を含む。また土の字は、社の原字であり、やがて土地の神や氏神の意となる。各地の代表的な樹木を形代(かたしろ)として土盛りにかえた、

とあり(漢字源)、別に、

象形文字です。「土の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形から「つち」を意味する「土」という漢字が成り立ちました。古来から日本人は、土に神が宿っていると信じ、信仰の(崇める)対象としてきました。現在でも「家」を建てる前には、その土地の神(氏神)を鎮め、土地を利用させてもらうことの許しを得る為に地鎮祭が行われています、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji80.html。ただ、

土、

の異字体に、

𡈽、

があるが、これは、

指示文字。土と士を区別する為に、一点加えた、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%F0%A1%88%BD

象形。土地の神を祭るために設けたつち盛りの形にかたどり、つちの神、ひいて「つち」の意を表す。「社(シヤ)(社)」の原字。俗字は、漢代の石碑で、「士」との混同を避けるために点を付けたもの、

とある(角川新字源)。

「圭」(漢音ケイ、呉音ケ)は、

会意文字。圭は「土+土」で、土を盛ることを示す。土地を授ける時、その土地の土を三角の形に盛り、その上にたって神に領有を告げた。その形をかたちどったのが圭という玉器で、土地領有のしるしとなり、転じて、諸侯や貴族の手に持つ礼器となった。その形は、また、日影をはかる土圭(どけい 日時計の柱)の形ともなった、

とある(漢字源)が、

楷書の形に基づいて「土」×2と解釈する説があるが、誤った分析である。甲骨文字の形や金文の形を見ればわかるように、「土」とは関係がない。楷書では「封」の偏と同じ形だが、字形変化の結果同じ形に収束したに過ぎず、起源は異なる、

とし、

会意。戈の刃、およびそれをモデルとした玉を象る。古代の玉の一種を指す漢語{珪 /*kwee/}を表す字、

とする(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%AD)。他に、

象形。⌂形の瑞玉(ずいぎよく)の形にかたどる(角川新字源)、

象形文字です。「縦横の線を重ねた幾何学的な製図」の象形から「上が円錐形、下が方形の玉(古代の諸侯が身分の証として天子から受けた玉)」を意味する「圭」という漢字が成り立ちました、

(https://okjiten.jp/kanji2248.html)、象形文字とする説もある。

参考文献;
橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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時正


はなのさかりは、とうじ(冬至)より百五十日とも、じしゃう(時正)ののち、なぬか(七日)ともいえど、りっしゅん(立春)より七十五日、おおようたがわず(徒然草)、

の、

時正(じしゃう)、

は、

昼夜の時間が正しく同じ、

の意で(岩波古語辞典)、

二月と八月とに、昼も五十刻、夜も五十刻、昼夜単長なきを時正と云ふなり(安土桃山時代の謡曲解説書『謡抄(うたいしょう)』・当麻)、

と、

一日の昼と夜との長さが同じであること、

で、

彼岸の中日、

つまり、

春分・秋分の日、

を言い(精選版日本国語大辞典)、

この日を彼岸の初日とする(岩波古語辞典)、

とある(仝上)。また、

十日晴、時正初日なり、令持斎。……十三日……時正中日、……十六日、晴、時正結願也(応永二五・二『看聞御記』)、

と、

彼岸の七日間、

をもいう(仝上)。この日、

太陽は卯の時の真中に出て、酉の真中に沈む、

が(橋本万平『日本の時刻制度』)、中世の「具注暦」には、その時刻を、それぞれ、

卯時正、
酉時正、

と書いている(仝上)という。

すべての辰刻(「辰」も「刻」も、時(とき)の意で、時刻の意)で、丁度真中に当たる時刻を、其の時の正刻(きっかりその時刻)と言うのであるが、暦の中で、日の出入の時刻を示しているものでは、この彼岸の日だけがこの表現を使っており、特異な日として目立つ、

とし(仝上)、これが、

時正、

の由来としている(仝上)。ただ、「類聚名物考」では、

けふ出る春の半の朝日こそまさしく西の方はさすらめ(爲家「歌林拾葉」)、

を引いて、

彼岸の中日には、太陽は真東より出て真西に入るので、西方浄土の真の方角は、この日でなければ知る事が出来ない。即ち、この日は、正しい西の方向を知るのに大事な日であるから、特に時正の日という、

とある(仝上)。ちょっとこじつけのようである。

「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

会意文字。「一+止(あし)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(まっすぐに進む)の原字、

とある(漢字源)が、この説のもとになった、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、

「一」+「止」、

と説明されているが、甲骨文字の形や金文の形を見ればわかるように、この字の上部はかつて円形もしくは長方形で書かれ、それらの部分(すなわち「丁」字)が後に簡略化されて横棒となったに過ぎないことから、「一」+「止」は誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3

形声。「止」+音符「丁 /*TENG/」。「討伐する」を意味する漢語{征 /*teng/}を表す字。のち仮借して「ただしい」を意味する漢語{正 /*tengs/}に用いる、

とある(仝上)。別に、

会意。止と、囗(こく)(=国。城壁の形。一は省略形)とから成り、他国に攻めて行く意を表す。「征(セイ)」の原字。ひいて、「ただす」「ただしい」意に用い、また、借りて、まむかいの意に用いる、

と(角川新字源)、

会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji184.html、会意文字とする説もある。

参考文献;
橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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王莽時(わうまがどき)


逢魔が時」で触れたように、

逢魔が時、

は、王莽(おうもう)の故事に付会して、

一説に王莽時(わうもがとき)とかけり。これは王莽前漢の代を簒(うば)ひしかど、程なく後漢の代になりし故、昼夜のさかひを両漢の間に比してかくいふならん、

とある(鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』)。

おうまがとき、

を、

わうまがとき、

と掛けたとも見える。

王莽時、

は、

おうもうどき、
おもうどき、
おもとき、
おまがどき、
等々と呼ばれ(橋本万平『日本の時刻制度』)、

俗に黄昏をわうまがどきと云ふを、或人の曰く、是れ王莽が時と云ふ事也、

とある(志不可起)。和訓栞は、これを、

羅山人(林羅山)の説に倭俗黄昏を称して王莽時といふといへり、前漢後漢の間の閏位正を乱る意を取て名とす、たそがれ時のごとし、

としている(日本語源大辞典)。羅山文集には、

國俗謂黄昏為王莽時、言晝前漢、夜後漢也、以日気已没夜気未萌故也、

とあるが、大言海は、

附會極まれり、羅山の時、此の語ありしを證す、

と付記している。因みに、

正閏(せいじゅん)、

とは、

正と閏、

つまり、

正位・正統とそうでないもの、

の意で、

閏位、

で、正統でない帝位のことになる(精選版日本国語大辞典)。

逢魔が時

は、

おおまがとき(大禍時)の転。禍いの起きる時刻の意、

とあり(広辞苑)、

夕暮れの薄暗い時、黄昏、

の意とあり、

おまんがとき、
おうまどき、

とも言い、

大魔時、
大禍時、
逢魔時、

等々と当てるが、

おほまが時、

は、

おまんが時の転訛、

で、

おまんが時、

は、

おまんが紅、

と同じで、

あま(尼)が紅、

からきており、日没の頃の夕焼けの色が空を染める時をさす(橋本万平・前掲書)とあり、この「あま」は、

尼、

ではなく、

天、

の転化としている(仝上)。しかし、どうもこの説も違うようだ。

おまんが紅(おまんがべに)、

は、

おまんが紅(ベニ)は夕日をてらし(洒落本「当世爰かしこ(1776)」)、

と、

夕日で空が赤くなること、

をいい、

おまんが紅、

は、

賀の祝おまんが紅をつける也(「柳多留(1815)」)、

と、江戸時代の享保(1716〜36)の頃、

江戸の京橋中橋にあったお満稲荷で売っていた紅粉、

をいう(精選版日本国語大辞典)らしい。「嬉遊笑覧(1830)」には、

おまんとは天が紅の時なるを女子の名にとりていへり、或説に中ばしにおまんいなりとて、べにを供へて願がけする社あり、享保の頃はやれりといへり、

と(仝上)、

おまんいなりの紅、

とする。だとすると、どちらにしても、もともとは、この紅から、

夕焼け時、

を、

おまんがとき、

といったところからきて、

「が」が助詞、「ま」が「魔」と意識され、さらに「魔に逢う」の意識も生じて、

大魔時、
逢魔時、

となり、また、漢の王莽(おうもう)に付会して、

王莽時、

とも書かれたという流れになる(仝上)。

この時刻は、古くは、

暮れ六つ、
酉の刻、

などといい、現在の、

17時〜19時頃、

とされる(http://abcd08.biz/usimitudokioumagatokikimon/)

それにしても、

たそがれ(誰彼時)、

については、類義語が一杯ある。

あれは誰時、
かいくらみ時、
いりあい
昏鐘鳴(こじみ)、
むつうちどき、
雀色時、
秉燭(へいしょく)、
火点頃、
夕まぐれ、
桑楡(そうゆ)、

等々。

「入相」については「入相の鐘」、夕方については、「ゆふ」、「ゆうまぐれ」、「逢魔が時」、「たそがれ」で、それぞれ触れた。また、王莽については、「挂冠」で触れた。

参考文献;
橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房)
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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槎(いかだ)


舟凌石鯨度(舟は石鯨(せきげい)を凌いで度(わた)り)
槎拂斗牛囘(槎(いかだ)は斗牛(とぎゅう)を回(めぐ)る)(宋之問・奉和晦日幸昆明池応制)

の、

槎、

は、

筏(いかだ)、

石鯨、

は、

漢代、昆明池に石の鯨をおいた。大きさは三丈、雷雨のときは尾やひれをふるわせてほえたという、

とあり、この詩の唐代には残っていないが、

まだそれが水中にあるものとしてうたった、

と注記する(前野直彬注解『唐詩選』)。

斗牛、

は、

北斗星と牽牛星、または天空を区分した二十八宿のうちの、斗宿と牛宿。ここでは、昆明池のほとりにあったという、牽牛と織女の石像を指す、

とあり(仝上)、この背景にあるのは、

黄河の下流に住む人が、毎年七月七日に上流から槎が流れ下るのを不審に思い、それに乗ったところ、槎はまた川をさかのぼっていった。やがて川ばたで牛にみずをかう男の姿が見え、また女が機を織っている。そこから引き返し、物知りの人に尋ねたところ、君は天の川までさかのぼったので、見たのは牽牛星と織女星だと教えられた、

という古い物語(仝上)とある。

鳳凰樓下交天杖(鳳凰楼下 天杖交わり)
烏鵲橋頭敞御筵(烏鵲(うじゃく)橋頭 御筵敞(ひら)く)
(中略)
今朝扈蹕平陽館(今朝(こんちょう)蹕(ひつ)に扈(したが)う 平陽館)
不羨乗槎雲漢邊(槎に雲漢(うんかん)の辺(ほと)りに乗ずるを羨まず)(蘇頲・奉和初春幸太平公主南荘応制)

の、

烏鵲橋、

は、

鵲の橋」で触れた、

陰暦七月七日の夜、牽牛(けんぎゅう)、織女(しょくじょ)の二星が会うときに、鵲が翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋、

とは異なり、

カササギが土砂を運んで天の川を埋め、牽牛と織女の逢う橋を造る、

意とされ(前野直彬注解『唐詩選』)、ここでは、

太平公主の邸宅を天上界に見立てて、こう言ったもの、

と注釈する(仝上)。

雲漢、

は、

天の川、

の意で、

乗槎、

は、上述の、

いかだに乗って黄河をさかのぼり、天の川に至った、

という故事を指している(仝上)。さらに、

傳聞銀漢支機石(傳え聞く 銀漢支機(しき)の石)
復見金輿出紫微(復た見る 金輿(きんよ)紫微より出ずるを)
織女橋邊烏鵲起(織女橋邊(きょうへん) 烏鵲(うじゃく)起(た)ち)
仙人樓上鳳凰飛(仙人樓上 鳳凰飛ぶ)
(中略)
今日還同犯牛斗(今日還(ま)た牛斗(ぎゅうと)を犯せしに同じ)
乗槎共泛海潮歸(槎(さ)に乘りて共に海潮(かいちょう)に泛(うか)んで歸らん)(李邕(りよう)・奉和初春幸太平公主南荘応制)

でも、公主を織女星に、南荘を天の川のほとりに見立てており、上述の、槎に乗って天の川を遡った人は、

支機石、

をもらって帰った、という故事が背景にある。

銀漢、

は、

天の川、

のこと、

支機石、

は、

天上の織女が機(はた)の支えに使った石、

である。

犯牛斗、

の、

牛斗、

は、上述の、

斗宿と牛宿、

の二つの星座を言い、この人が、

黄河をさかのぼって天の川……に入ったとき、地上の占星術者が、牛斗のあたりに客星が辶したのを観察した、

という故事にもとづいている(前野直彬注解『唐詩選』)。

「槎」(漢音サ、呉音シャ)は、

会意兼形声。「木+音符差(ふぞろいな)」で、枝がぎざぎさになった木のこと、

とあり(漢字源)、

長短不揃いな材木を並べてつなぎ、水に浮かべるいかだ、

の意である(仝上)。

奉使虚隨八月槎(杜甫)、

とあり、

桴(いかだ)、

と同義(字源)とある。後述するように、「いかだ」の、

大を、

筏、

小を、

桴、

とする(仝上)。

「方」(ホウ)は、「方人(かたうど)」で触れたように、

象形、左右に柄の張り出た鋤を描いたもので、⇆のように左右に直線状に伸びる意を含み、東←→西、南←→北のような方向の意となる。また、方向や筋道のことから、方法の意が生じた、

とある(漢字源)が、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)は、

舟をつなぐ様、

とし、

死体をつるした様、

とする説(白川静)もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%B9。ために、

象形。二艘(そう)の舟の舳先(へさき 舟の先の部分)をつないだ形にかたどる。借りて、「ならべる」「かた」「くらべる」などの意に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「両方に突き出た柄のある農具:すきの象形」で人と並んで耕す事から「ならぶ」、「かたわら」を意味する「方」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji379.html

方、

には、

方舟而済於河(舟を方(なら)べて河を済(わた)る)、

と(荘子)、

並べる、

意があり、

漢之廣不可方(周南)、

と、

木や竹をならべてしばってつくったいかだ、

の意で、「泭」「筏」と同じ(字源)とある。

「枋」(@ホウ、A漢音ヘイ・呉音ヒョウ)は、

形声。「木+音符方」、

とあり(漢字源)、@は、

まゆみ(檀)の一種、車を造るのに用いる、

とあり、Aは、

柄、

と同義で、

道具の柄、

の意(仝上)。

方舟投枋(兵法)、

と、

いかだ、

の意もあり、

桴、

と同じとある(字源)。つまり、「小さい」筏ということになる。

「柎」(フ)は、

形声。「木」+音符「付 /*PO/」。漢語{柎 /*p(r)o/}を表す字、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9F%8E

うてな、
花の咢、

の意で、

いかだ、

の意もある。

「桴」(@慣用フ・漢音フウ・呉音ブ、Aフ)は、

会意兼形声。@は「木+音符孚(手でかばってもつ)」で、手で持つばち、
Aは「木+音符浮の略体」で、木を組んで水に浮かべるいかだ、

とある(漢字源)。

乗桴浮於海(桴に乗りて海に浮かばん)、

と(論語)、

竹を編みて舟に代用するいかだ、

をいい、前述したように、その「大」を、

筏、

「小」を、

桴、

とする(字源)。

「楂」(サ)は、

「浮楂」「星楂」と使い、「査」「槎」と同じ、

とある(字源)。「査」と同じく、

山楂子(さんざし)、

の意もある(https://kanji.jitenon.jp/kanjiy/12138.html)

「査」(@漢音サ・呉音ジャ、A漢音サ・呉音シャ)は、

会意兼形声。「木+音符且(ソ、シャ)」。もと、阻(ソ はばむ)と同系で、往来をはばむ木の柵。調査の意に用いるのは、もと華南の方言が介入したもの、

とある(漢字源)。@は、「調査」の、「しらべる」意、木の柵の意だが、

長短ふぞろいの材木を組んで水に浮かべるいかだ、

の意があり、

槎、

に当てた用法とある(仝上・https://kanji.jitenon.jp/kanjib/704.html)。Aは、山査(サンサ)、つまりさんざしの意で使う。別に、

形声。「木」+音符「且 /*TSA/」。「いかだ」を意味する漢語{槎 /*dzraaj/}を表す字。のち仮借して「しらべる」を意味する漢語{査 /*dzree/}に用いるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9F%BB

形声。木と、音符且(シヨ、シヤ)→(サ)とから成る。木を組んだいかだの意を表す。「楂(サ)」の原字。借りて「しらべる」意に用いる(角川新字源)、

会意兼形声文字です(木+且)。「大地を覆う木」の象形と「台上に神のいけにえを積み重ねた」象形(「つみかさねる」の意味)から、木をかさねた、「いかだ」を意味する「査」という漢字が成り立ちました。のちに、「察(cha)」に通じ(同じ読みを持つ「察」と同じ意味を持つようになって)、「調べる」の意味も表すようになりましたhttps://okjiten.jp/kanji831.html

などともある。

「泭」(フ)は、

木や竹で編んだ筏(いかだ)、

の意でhttps://kanji.jitenon.jp/kanjiy/15505.html

小筏、

を指し、

桴、

と同義(字源)とある。

「篺」(ハイ)は、

竹で作ったいかだ、

の意で、

筏、桴と同じ、

とある(字源)。大にも小にも用いるという意か。

「筏(栰)」(慣用バツ、漢音ハツ、呉音ボチ)は、

形声。「竹+音符伐」、

とあり(漢字源)、

木や竹を並べて組み、浮かべて水を渡る、

いかだ、

で、

大を筏、
小を桴、

というのは、前述した(字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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ひつ


夢路にも露やおくらむ夜もすがらかよへる袖のひちて乾かぬ(古今和歌集)、
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ(仝上)、

の、

ひつ、

は、

ひづ(ひず)、

古くは、

ひつ、

とあり、

濡れる、

意である(広辞苑)。

ひつ、

は、

漬つ、
沾つ、

と当て(広辞苑)、

室町時代まではヒツと清音、

で(岩波古語辞典)、江戸期には、

朝露うちこぼるるに、袖湿(ヒヂ)てしぼるばかりなり(雨月物語)、

と、

ひづ、

と濁音化した(デジタル大辞泉)。

奈良時代から平安時代初期、

は(岩波古語辞典)、

相思はぬ人をやもとな白たへの袖(そで)漬(ひつ)までに哭(ね)のみし泣かも(万葉集)、

と、

四段活用、

であったが、平安中期に、

袖ひつる時をだにこそなげきしか身さへしぐれのふりもゆくかな(蜻蛉日記)、

と、四段活用から、

上二段活用、

になった(大言海・精選版日本国語大辞典・仝上)とされる。この他動詞、

ひつ、

は、

手をひてて寒さもしらぬいづみにぞくむとはなしにひごろへにける(土佐日記)、

と、

下二段活用、

で、

水につける、
ひたす、
ぬらす、

意である(仝上)。

上代から中古にかけて和歌に多く用いられた語、

で、平安期には、すでに歌語としての性格を備えていたと思われる。鎌倉期に入ると、藤原俊成の歌論書「古来風体抄」に、

ひぢてといふ詞や、今の世となりては少し古りにて侍らん、

とあるように、古風な言葉と認識されるようになった(精選版日本国語大辞典)とある。

なお、「ひたす(漬・沾・浸)」については触れた。

「漬」(漢音シ、呉音ジ)は、

会意兼形声。朿(シ・セキ)は、ぎざぎざにとがった針やいばらのとげを描いた象形文字。責は「貝(財貨)+音符朿(シ・セキ)」の会意兼形声文字で、財貨を積み、とげで刺すように相手をせめること。債(サイ 積んだ借財でせめる)の原字。漬は「水+音符責」で、野菜を積み重ねて塩汁につけたり、布地を積み重ねて染液につけたりすること、

とある(漢字源)が、他は、

形声。「水」+音符「責 /*TSEK/」。「ひたる」「つかる」を意味する漢語{漬 /*dzeks/}を表す字、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%BC%AC

形声。水と、音符責(サク)→(シ)とから成る。水中に物を「ひたす」意を表す、

も(角川新字源)、

形声文字です(氵(水)+責)。「流れる水」の象形と「とげの象形と子安貝(貨幣)の象形」(「金品を責め求める」の意味だが、ここでは、「積(セキ)」に通じ(同じ読みを持つ「積」と同じ意味を持つようになって)、「積み重ねる」の意味)から、水の中に積む、すなわち、「ひたす」を意味する「漬」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji1991.html、形声文字とする。

「沾(霑)」(@テン、Aチョウ)は、

会意兼形声。「水+音符占(しめる)」で、ひと所に定着する意味を含む、

とある(漢字源)。「霑」は、「沾」の異字体https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9C%91である。@は、「沾汚」と、よごれがしみつく意、「沾襟」と、「ひたす」の意、Aは「沾沾(チョウチョウ)」は、表面を取り繕う意(仝上)。


参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ふりづ(振出)


紅のふり出でつつ泣く涙には袂のみこそ色まさりけれ(古今和歌集)、

の、

ふり出づ、

は、

紅に染色するとき、よく染まるように水の中で衣を振る、声を振り絞る意の、「ふりいづ」とかける、

とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

思い出づるときはの山のほととぎす韓紅(からくれなゐ)のふり出(で)てぞ鳴く(仝上)、

の、

ふり出(づ)、

は、

ふりいづの約、

であり(岩波古語辞典)、

紅に染色するとき、水の中でよく染まるように衣を振る、

意だが、その、

ふりいづ、

と、聲を振り絞る意の、

ふりいづ、

の掛詞(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。

ふりいづ、

は、

振り出づ、

と当て、

雪かきたれて降る。かかる空にふりいでむも人目いとほしう(源氏物語)、

と、文字通り、

振り切って出かける、

意だが、それをメタファに、

鈴虫のふりいでたるほど、はなやかにをかし(源氏物語)、

と、

声を高く張り上げる、

意でも使い、さらに、冒頭の、

紅のふり出でつつ泣く涙には袂のみこそ色まさりけれ(古今和歌集)、

と、

紅を水に振り出して染める、

意でも使うが、和歌では、多く、

声を高く張り上げる、

意に掛けて使う(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。

「振」(シン)は、

会意兼形声。辰(シン)は、蜃(シン はまぐり)の原字で、貝が開いてぴらぴらとふるう舌の出たさまを描いた象形文字。振は「手+音符辰」で、貝のように、小きざみにふるえ動くこと、

とあり(漢字源)、同趣旨で、

会意兼形声文字です(扌(手)+辰)。「5本の指のある手」の象形と「二枚貝が殻から足を出している」象形(「ふるえる」の意味)から、「ふるう」を意味する「振」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1390.htmlが、

形声。「手」+音符「辰 /*TƏN/」。「ふる」「ふるう」を意味する漢語{振 /*təns/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8C%AF

形声。手と、音符辰(シン)とから成る。すくう、たすける意を表す。もと、賑(シン)の本字。ひいて、さかんにする意に用いる、

とも(角川新字源)ある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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