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コトバ辞典


五濁(ごじょく)


一乗妙法説く聞けば、五濁我等も捨てずして、結縁(けちえん)ひさしく説きのべて、佛の道にぞ入れたまふ(梁塵秘抄)、

結縁(けちえん)、

は、

けつえん、

とも訓ますが、

仏道に縁を結ぶこと、

をいい、

未来に成仏する機縁を作ること、また、そのために写経や法会を営むこと、

をいう(精選版日本国語大辞典)。

五濁(ごじょく)、

は、

五つのにごり、
五濁のにごり、

ともいい、

世の中の五つの汚濁、

だが、

四劫(しこう)のうち、住劫の減劫に起こる五つの悪い現象、

をいい、

劫濁(こうじょく 梵語kalpa-kaṣāya) 時代の汚れ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること、
見濁(けんじょく dṛṣṭi-kaṣāya) 思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること、
煩悩濁(ぼんのうじょく kleśa-kaṣāya)貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)等の煩悩が盛んになること、
衆生濁(しゅじょうじょく sattva-kaṣāya) 衆生の資質が低下し、教えの理解力が劣化、十悪をほしいままにし、身心が衰え苦しみが多くなること、
命濁(みょうじょく āyuṣ-kaṣāya) 衆生の寿命が次第に短くなり、寿命が10歳まで短くなっていくこと、

をいう(広辞苑・http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E6%BF%81・精選版日本国語大辞典)。

四劫

とは、「」で触れたように、仏教で、

世界の成立から破滅に至る四大期、

をいい、

成劫(じょうこう・じょうごう) 衆生やそれが住する国土、草木などの衆生世間と器世間が成立する期間、
住劫(じゅうこう) 二つの世間が安穏に存続する期間、
壊劫(えこう) 衆生世間の破滅についで器世間も破滅する期間、
空劫(くうごう・くうこう) すべてが破滅し去って何一つない期間、

の四大時期をいう(精選版日本国語大辞典)。この世界が破滅して、一切が空無の状態のまま続く長い時間の、

空劫、

が終わると、また成劫(じょうごう)に入り、世界ができあがる(精選版日本国語大辞典)、とする。このように、「成劫」から「空劫」への流れを、

減劫(げんごう)、

といい、

人間の寿命が無量歳ないしは八万歳から年々、または100年に一歳ずつ減じて10歳に至る過程、

をさし、

10歳になると、また同じ過程を経て増加し、増加が極限に至ると、また減ずるという過程を繰り返す、

と考える(仝上)とあり、

減劫、

の逆を、

増劫(ぞうごう)、

と呼ぶ。つまり、「」で触れたことだが、

四劫は、循環する、

と説かれ(精選版日本国語大辞典)、

天地すでに分かれて後、第九の減劫(げんこう)、人寿(にんじゅ)二万歳の時、迦葉(かしょう)世尊西天に出世し給ふ時(太平記)、

と、

第九の減劫、

とは、

人間の寿命が百年毎に一歳減って八万歳から十歳になるまでを減劫、逆に十歳から八万歳になるまでを増劫という。それ十回ずつ繰り返される間この世が存続する、この九回目で、人の寿命が二万歳だった頃、

ということになる(兵藤裕己校注『太平記』注記)。

五濁悪世(ごじょくあくせ)、

というと、

五濁の現われた悪い世の中、

をいい、『阿弥陀経』や『法華経』では、

当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり、

と、

五濁悪世、

という表現をするhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E6%BF%81

五濁増(ぞう)

というと、

時がたつにつれて、五濁の度合が高まること、

をいい、

五濁増時(ごじょくぞうじ)、

という言い方もする。親鸞は、正信偈で、

五濁悪時群生海
応信如来如実言

といい、その時代を、

五濁の悪時、

と見なしていたhttps://jodo-shinshu.info/category/shoshinge/shoshinge18.html

「濁」(漢音タク、呉音ダク、慣用ジョク)は、

会意兼形声。蜀(ショク)は、目の大きい桑虫を描いた象形文字で、くっついて離れないの意を含む。觸(触 くっつく)、屬(属 くっつく)などと同系のことば。濁は「水+音符蜀」で、どろがくっついてにごっている水のこと。黷(トク きたない)とも縁が深い、

とある(漢字源)。別に、

形声。水と、音符蜀(シヨク→タク)とから成る。もと、川の名。借りて、水が「にごる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(氵(水)+蜀)。「流れる水」の象形と「大きな目を持ち植物(桑)についてむらがり動く不快な虫(いも虫)」の象形から、不快な水を意味し、そこから、「にごる」、「にごり」を意味する「濁」という漢字が
成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1337.html

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塵點劫


釈迦は第十六王子、塵點劫數の彼方(あなた)より、衣の裏に珠(たま)つつみ、磨けば佛(ほとけ)に成りたまふ(梁塵秘抄)、

の、

釈迦は第十六王子、

というのは、「大通智勝」で触れたが、

大通智勝如来には出家する前は王子で、さらに16人の息子(王子)がいた。その中に、

阿閦如来(あしゅくにょらい)、
阿彌陀如来、

がおりhttp://tobifudo.jp/butuzo/bosatu/daituchi.html

16人目の息子が、

釈迦如来の過去世の姿、

としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%9A%E6%99%BA%E5%8B%9D%E5%A6%82%E6%9D%A5ということによる。また、これも「大通智勝」で触れたことだが、

塵点劫(じんでんごう・じんてんごう)、

は、

塵劫(じんこう)、
塵点、
塵点久遠劫(じんでんくおんごう)、

ともいい、

はかりきれない長い時間、

をいい、法華経化城喩品に、それを喩えて、

譬如三千大千世界 所有地種(譬えば三千大千世界の所有の地種を)
仮使有人 磨以為墨(仮使人あって磨り以て墨と為し)
過於東方 千国土 乃下一点(東方千の国土を過ぎて乃ち一点を下さん)
大如微塵(大さ微塵の如し)
又過千国土 復下一点(又千の国土を過ぎて復一点を下さん)
如是展転 尽地種墨(是の如く展転して地種の墨を尽くさんが如き)
於汝等意云何(汝等が意に於て云何)
是諸国土 若算師 若算師弟子(是の諸の国土を、若しは算師若しは算師の弟子)
能得辺際 知其数不(能く辺際を得て其の数を知らんや不や)
不也世尊(不也、世尊)
諸比丘 是人所経国土(諸の比丘、是の人の経る所の国土の)
若点不点 尽抹為塵(若しは点せると点せざるとを、尽く抹して塵となして)
一塵一劫(一塵を一劫とせん)
彼仏滅度已来(彼の仏の滅度より已来)
復過是数 無量無辺 百千万億 阿僧祇劫(復是の数に過ぎたること無量無辺百千万億阿僧祇劫なり)

とあり、

三千大千世界のあらゆる地の存在を構成する要素を集め、すりつぶして墨を作り、一千の国土を過ぎるごとにその墨の一点をたらし、墨をすべて使い尽くしてから、その過ぎ去ったあらゆる世界を微塵に砕いて、その一塵を一劫とした場合、微塵のすべてを合計した劫の長さを三千塵点劫という、

と(精選版日本国語大辞典・https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/3/07.htm)、

大通智勝仏の出世の久遠である、

たとえとしとている。

阿僧祇劫(あそうぎこう)、

とあるのは、

過去の无量阿僧祇劫に国王有りき(今昔物語)、

にあるように、

「劫」はきわめて長い時間、

の意で、

無限に長い時間、

をいう(精選版日本国語大辞典)とあるが、

阿僧祇劫

は、梵語、

asaṃkhyeya、

の音訳、

数えることができない、

意味で、意訳では、

無数、

となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%83%A7%E7%A5%87

阿僧祇がいくつを示すかは時代や地域により異なり、また、現在でも人により解釈が分かれる、

とあり(仝上)、日本では一般的に、

10の56乗、
あるいは、
10の64乗、

とされる(仝上)とある。仏典では、

成仏するまでに必要な時間の長さである、

三阿僧祇劫、

と表現されることが多い。『法華経』如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」には、たとえば、

譬如五百千万億那由他 阿僧祇 三千大千世界(譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を)
仮使有人 抹為微塵(仮使人あって抹して微塵と為して)
過於東方 五百千万億 由他阿僧祇国 下一塵(東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し)
如是東行 是微塵(是の如く東に行いて是の微塵を尽くさんが如き)
諸善男子 於云何(諸の善男子、意に於て云何)
是諸世界 可得思惟校計 知其数不(是の諸の世界は思惟し校計して其の数を知ることを得べしや不や)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/6/16.htm使われている(『華厳経』の中では、現在一般的な命数法とは別の定義となっているとある)。

上記の、

那由他(なゆた)、

は、梵語、

ナユタ、

の音訳、これも、『華厳経』の中では、現在一般的な命数法とは別の定義となっているが(時代や地域により異なる)、一般的には、

10の60乗、
あるいは、
10の72乗、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%94%B1%E4%BB%96らしい。

数の単位としては、元の朱世傑による数学書『算学啓蒙』があり、

那由他は阿僧祇(10の104乗)の万万倍で10の112乗、

となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%83%A7%E7%A5%87

化城喩品(けじょうゆほん)第七には、

譬如三千大千世界 所有地種(譬えば三千大千世界の所有の地種を)
仮使有人 磨以為墨(仮使人あって磨り以て墨と為し)
過於東方 千国土 乃下一点(東方千の国土を過ぎて乃ち一点を下さん)
大如微塵(大さ微塵の如し)
又過千国土 復下一点(又千の国土を過ぎて復一点を下さん)
如是展転 尽地種墨(是の如く展転して地種の墨を尽くさんが如き)
於汝等意云何(汝等が意に於て云何)
是諸国土 若算師 算師弟子(是の諸の国土を、若しは算師若しは算師の弟子)
能得辺際 知其数不能く辺際を得て其の数を知らんや不や()
不也世尊 諸比丘(不也、世尊。諸の比丘)
是人所経国土(是の人の経る所の国土の)
若点不点 尽抹為塵 一塵一劫(しは点せると点せざるとを、尽く抹して塵となして、一塵を一劫とせん)
彼仏滅度已来(彼の仏の滅度より已来)
復過是数 無量無辺 百千万億 阿僧祇劫(復是の数に過ぎたること無量無辺百千万億阿僧祇劫なり)
我以如来知見力故 観彼久遠 猶如今日(我如来の知見力を以ての故に、彼の久遠を観ること猶お今日の如し)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/3/07.htmある喩え話を、

三千塵点劫、

と称すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%99%BE%E5%A1%B5%E7%82%B9%E5%8A%ABが、上述、寿量品の、

五百千万億那由他阿僧祇、

を、

五百(億)塵点劫、

と称し、化城喩品の三千塵点劫よりもはるかに長遠であるかを示すようになった(仝上)とある。

仏言 我亦如是(仏の言わく、我も亦是の如し)
成仏已来(成仏してより已来)
無量無辺 百千万億 那由他阿僧祇劫(無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫なり)

とも(仝上)あり、釈尊の成道以来の久遠の時間を強調する所以である。親鸞は『浄土和讃』において、五百塵点劫を、

塵点久遠劫、

と呼び、阿弥陀仏をそれよりも古い仏、すなわち釈迦仏よりも昔に成道した仏としている(仝上)らしいる。

」については、既にふれたが゛、

慣用的に、

ゴウ、

とも訓むが、

コウ(コフ)、

が正しい(呉音)。

劫波(こうは)、
劫簸(こうは)、

ともいう(広辞苑)。「劫」は、

サンスクリット語のカルパ(kalpa)、

に、

劫波(劫簸)、

と、音写した(漢字源)ため、仏教用語として、

一世の称、
また、
極めて長い時間、

を意味し(仝上)、

刹那の反対、

だが、単に、

時間、
または、
世、

の義でも使う(字源)。インドでは、

梵天の一日、
人間の四億三千二百万年、

を、

一劫(いちごう)、

という。ために、仏教では、その長さの喩えとして、

四十四里四方の大石が三年に一度布で拭かれ、摩滅してしまうまで、
方四十里の城にケシを満たして、百年に一度、一粒ずつとり去りケシはなくなっても終わらない長い時間、

などともいわれる(仝上・精選版日本国語大辞典)。

「劫」(慣用ゴウ、漢音キョウ、呉音コウ)は、「」で触れたように、

会意。「力+去(くぼむ、ひっこむ)」で、圧力を加えて相手をあとずさりさせること、

とある(漢字源)。「脅」と同義で、

おびやかす、
力で相手をおじけさせる、

意だが、異字体「刧」とは本来別字ながら、

俗に誤りて、通用す、

とある(字源)。

「塵(𪋻)」(漢音チン、呉音ジン)は、

会意文字。「鹿+土」で、鹿の群れの走り去った後に土ぼこりが立つことを示す。下にたまる、ごく小さい土の粉のこと、

とある(漢字源)。

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四大声聞(しだいしょうもん)


四大声聞つぎつぎに、数多(あまた)の佛にあひあひて、八十随相(ずいさう)そなへてぞ、浄土の蓮(はちす)に上(のぼ)るべき(梁塵秘抄)、

の、

四大声聞、

とは、「声聞」で触れたように、

記別(釈迦が、未来における成仏を予言し、その成仏の次第、名号、仏国土や劫などを告げ知らせること)、

をあたえた(『法華経』授記品)、

摩訶迦葉(まかかしょう)、
須菩提(しゅぼだい)、
迦旃延(かせんねん)、
目連(摩訶目犍連(まかもっけんれん) もくれん)、

の四人のすぐれた仏弟子をいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E・馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)、

妙法蓮華経信解品第四に、

爾時 慧命須菩提。摩訶迦旃延。摩訶迦葉。摩訶目犍連(爾の時に慧命須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・摩訶目犍連)従仏所聞 未曾有法(仏に従いたてまつりて聞ける所の未曾有の法と)
世尊 授舎利弗(世尊の舎利弗に)
阿耨多羅三藐三菩提記 発希有心(阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたもうとに希有の心を発し)
歓喜踊躍(歓喜踊躍して)
即従座起 整衣服(即ち座より起って衣服を整え)
偏袒右肩 右膝著地(偏に右の肩を袒にし右の膝を地に著け)
一心合掌 曲躬恭敬(一心に合掌し曲躬恭敬し)
瞻仰尊顔 而白仏言(尊顔を瞻仰して仏に白して言さく)

とあるhttps://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/2/04.htm

慧命須菩提、
摩訶迦旃延、
摩訶迦葉
摩訶目犍連、

の、

慧命(えみょう)、

は、

さとりの智慧(ちえ)を生命にたとえた言葉、

で、

比丘(びく)の尊称、

摩訶、

も、

美称、

で、

偉大なの意で(精選版日本国語大辞典)、

須菩提、
迦旃延、
迦葉
目犍連、

は、いずれも、「富楼那の弁」で触れた、

十大弟子、

つまり、

舎利弗(しゃりほつ 智慧第一)、
目犍連(もくけんれん 略して目連 神通力(じんずうりき)第一)、
摩訶迦葉(まかかしょう 頭陀(ずだ(苦行による清貧の実践)第一)、
須菩提(しゅぼだい 解空(げくう すべて空であると理解する)第一)、
富楼那(ふるな 説法第一)、
迦旃延(かせんねん 摩訶迦旃延(まかかせんねん)とも大迦旃延(だいかせんねん)とも、論議(釈迦の教えを分かりやすく解説)第一)、
阿那律(あなりつ 天眼(てんげん 超自然的眼力)第一)、
優婆(波)離(うばり 持律(じりつ 戒律の実践)第一)、
羅睺羅(らごら 羅睺羅(らふら) (密行(戒の微細なものまで守ること)第一)、
阿難(あなん 阿難陀 多聞(たもん 釈迦の教えをもっとも多く聞き記憶すること)第一)、

である(日本大百科全書・https://true-buddhism.com/founder/ananda/)。

須菩提(しゅぼだい)、

は、梵語、

Subhūti、

の音訳、

善吉、善現、

などと訳す(精選版日本国語大辞典)。人とあらそうことがなかったので、

無諍第一、

といわれ、空は般若心経に出てくる「色即是空、空即是色」の空(くう)の理解が深かったので、

解空(げくう)第一、

といわれた。般若系経典では、釈尊の相手として登場する。お釈迦様に祇園精舎を寄進した須達多長者(すだったちょうじゃ)のおいとされる(http://tobifudo.jp/newmon/name/10daidesi/shobodai.html・仝上)。

迦旃延(かせんねん)、

は、梵語、

Kātyāyana、

の音訳(精選版日本国語大辞典)、

好肩、文飾、大剪剔種男、大浄志、

などと意訳され、摩訶(まか、Mahā=「偉大なる」の意)を冠して、

摩訶迦旃延、
大迦旃延、

などとも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%A6%E6%97%83%E5%BB%B6。「迦旃延」は、

婆羅門種の十姓の一つ、

であり、姓を以って名としている(仝上)。

目犍連(もくけんれん)、

は、梵語、

Mahāmaudgalyāyana、

の音訳、

菜茯根、采叔氏、讃誦、

と意訳、

摩訶目犍連、
大目犍連、
目連、

とも呼ばれ、

舎利弗(しゃりほつ)、

とともに、

釈迦の二大弟子、

とされ、

神通第一、

といわれる(精選版日本国語大辞典)。『盂蘭盆経』では、

彼が主人公となって餓鬼道に堕ちた母を救済する、

が、この伝承が、

盂蘭盆会(うらぼんえ)

のもとになっている(仝上)。舎利弗(しゃりほつ)と目犍連(もくけんれん)は釈迦に先立って亡くなった。

迦葉、

については、「摩訶迦葉」で触れたように、

仏教教団における釈迦の後継(仏教第二祖)、

とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集、経典の編纂事業)の座長を務め、

頭陀第一、

といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行ったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BF%A6%E8%91%89とある。

上述の妙法蓮華経信解品第四にある、

阿耨多羅三藐三菩提、

は、「阿耨(あのく)菩提」で触れたように、梵語、

アヌッタラー(無上の)・サムヤク(正しい、完全な)・サンボーディ(悟り)、

の意の、

anuttarā samyak-sabodhi、

の音写、

佛説是普門品時、衆中八萬四千衆、皆発無等等阿耨多羅三藐三菩提心(法華経)、

とある、

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)、

の、

阿は無、耨多羅は上、三は正、藐は等、三は正、菩提は悟り(大日経)、

と、

仏の仏たるゆえんである、このうえなく正しい完全なる悟りの智慧(ちえ)のこと、

を言う。

縁覚(えんがく 仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者)、
声聞(しょうもん 仏の教説に従って修行しても自己の解脱のみを目的とする出家の聖者)、

がそれぞれ得る悟りの智慧のなかで、

此三菩薩必定阿耨多羅三藐三菩提不退無上智道(顕戒論(820))

と、

仏の菩提(ぼだい)は、このうえない究極のものを示す、

とされ(日本大百科全書)、

無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)、
無上正真道(しょうしんどう)、
無上正遍知(しょうへんち)、

などと訳される(仝上・精選版日本国語大辞典)。

ただ、大乗仏教では、

声聞乗(声聞のための教え)、
縁覚(えんがく 独覚(どっかく))乗、

を二乗と称し、

菩薩(ぼさつ)乗、

を、三乗とするが、このうち二乗を小乗として貶称(へんしょう)し、声聞は仏の教えを聞いて修行しても自己の悟りだけしか考えない人々であると批判し(仝上)、小乗の、

声聞の菩提、
と、
縁覚の菩提、

は執着や煩悩を滅尽しているけれども、真の菩提ということはできず、大乗の仏と菩薩の菩提のみが、

阿耨多羅三藐(あのくたらさんみやく)三菩提(anuttarasamyak‐saṃbodhi)、

であるとしている(仝上)。

菩提(ぼだい)、

は、サンスクリット語、

ボーディbodhi、

の音写。ボーディは、

ブッドフbudh(目覚める)、

からつくられた名詞で、

真理に対する目覚め、すなわち悟りを表し、その悟りを得る知恵を含む、

とされ、その最高が、

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、

であり、

最高の理想的な悟り、

の意で、この語は、仏教の理想である、

ニルバーナnirvāa(涅槃(ねはん))、

と同一視され、のちニルバーナが死をさすようになると、それらが混合して、

菩提を弔う、

といい、

死者の冥福(めいふく)を祈る、

意味となった(仝上)。

なお、冒頭の、

八十随相(ずいさう)、

は、

八十随形好(はちじゅうずいぎょうごう)、

のことで、

仏の身にそなわっている八十種の特徴、

で、

仏菩薩の身に備わっているすぐれた形相のうち、繊細で見わけにくい八〇種の形相、

をいい、

八十随好、
八十種好、
随形好、
八十微妙(みみょう)種好、
八十小相、
相好、

などともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%AB%E5%8D%81%E9%9A%8F%E5%BD%A2%E5%A5%BD・広辞苑)。『婆沙論』には、

諸相の間にあり、諸相に随いて転じ仏身を荘厳して極めて妙好ならしむ、

とあり、『大般若経』には、

第一は仏の指の爪は狭長で薄く潤いがあり、光り輝いてきよらかである、…最後の第八〇は、手足および胸にはいずれも吉祥喜旋の相(卍字まんじ)がある、

あるように、

耳が肩まで届く程垂れ下がっている。(俗に福耳)、
耳たぶ(耳朶)に穴が空いている。(耳朶環状)、
のどに3本のしわがある。(三胴)、
眉が長い、
鼻の穴が見えない、
へそが深く、右回りに渦を巻いている、

等々、三十二相が顕著な特徴であるのに比べ、八十随形好は、

比較的小さな身体的特徴、

を表し、三十二相と重複するものもある(仝上)とある。

三十二相」のうち、「肉髻(にくけい)」、つまり「鳥瑟」、「白毫」については、触れた。

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一味の雨(いちみのあめ)


釈迦の御法(みのり)は唯一つ、一味の雨にぞ似たりける、三草二木は品々(しなじな)に、花咲き實なるぞあはれなる(梁塵秘抄)、

の、

一味の雨、

は、

一味の法の雨、

ともいい、妙法蓮華経薬草喩品第五の、

仏平等説 如一味雨(仏の平等の説は 一味の雨の如し)
随衆生性 所受不同(衆生の性に随って 受くる所不同なること)
 如彼草木 所稟各異(彼の草木の 稟(う)くる所各異るが如し)
仏以此喩 方便開示(仏此の喩を以て 方便して開示し)
 種種言辞 演説一法(種々の言辞をもって 一法を演説すれども)
於仏智慧 如海一滴(仏の智慧に於ては 海の一滴の如し)

あるいは、

仏所説法(仏の所説の法は)
譬如大雲 以一味雨(譬えば大雲の 一味の雨を以て)
潤於人華 各得成実(人華を潤して 各実成ることを得せしむるが如し)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/3/05.htm

雨が一様に草木を潤すように、仏説が広く流布することのたとえ、

とされ(広辞苑)、

一味、

には、仏語として、

我雨法雨 充満世間(我法雨を雨らして 世間に充満す)
一味之法 随力修行(一味の法を 力に随って修行すること)
彼如叢林 薬草諸樹(彼の叢林 薬草諸樹の)
随其大小 漸増茂好(其の大小に随って 漸く増茂して好きが如し)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/3/05.htm

仏説は時と所に応じて多様であるが、その本旨は同一であること、

という意味もある(広辞苑)。

三草二木(さんそうにもく)、

は、法華経薬草喩品に説く、

「三草」は上草・中草・下草の三、「二木」は大樹・小樹で、さまざまの植物が、雨の恵みを等しく受けるように、資質の異なる衆生(しゅじょう)が等しく仏陀の教えを受けて悟りをひらくことのたとえ、

とされ、また、

仏陀の教えはただ一つ、すなわち雨は同じであるが、それを受けて育つ植物が種々あるように、衆生の受け取り方はさまざまであるの意ともいう、

とある(精選版日本国語大辞典)。妙法蓮華経薬草喩品第五には、

譬如三千大千世界 山川渓谷土地(譬えば三千大千世界の山川・渓谷・土地に)
所生卉木叢林 及諸薬草 種類若干 名色各異(生いたる所の卉木・叢林及び諸の薬草、種類若干にして名色各異り)
密雲弥布。徧覆三千大千世界(密雲弥布して徧く三千大千世界に覆い)
一時等 (一時に等しくそそぐ)
其沢普洽 卉木叢林 及諸薬草(其の沢遍く卉木・叢林及び諸の薬草の)
小根小茎 小枝小葉 中根中茎 中枝中葉 大根大茎大枝大葉(小根・小茎・小枝・小葉・中根・中茎・中枝・中葉・大根・大茎・大枝・大葉に洽う)
諸樹大小 随上中下 各有所受(諸樹の大小、上中下に随って各受くる所あり)
一雲所雨。称其種性。而得生長。華果敷実(一雲の雨らす所、其の種性に称うて生長することを得て、華果敷け実なる)

とあるhttps://www.nichiren.or.jp/glossary/id156/

この、

三草二木の喩え、

は、「窮子」で触れたように、

法華七喩(ほっけしちゆ)、

の一つである。「七喩」とは、法華経に説く、

七つのたとえ話、

で、

法華七譬(しちひ)、

ともいい、三草二木(さんそうにもく)の他、

三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品 「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れた)
長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

があるhttp://www2.odn.ne.jp/nehan/page024.htmlhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9

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三界火宅


長者の門なる三車(みつぐるま)、羊鹿(ひつじしし)のは目も立たず、牛の車に心かけ、三界火宅を疾(と)く出でむ(梁塵秘抄)、

の、

三車、

は、「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れたように、妙法蓮華経譬喩諭品(ひゆぼん)第三の、

舎利弗 如彼長者 初以三車 誘引諸子(舎利弗、彼の長者の初め三車を以て諸子を誘引し)、
然後但与大車 宝物荘厳 安穏第一(然して後に但大車の宝物荘厳し安穏第一なることを与うるに)
然彼長者 有虚妄之咎(然も彼の長者虚妄の咎なきが如く)
来亦復如是(如来も亦復是の如し)
無有虚妄(虚妄あることなし)
初説三乗 引導衆生(初め三乗を説いて衆生を引導し)
然後但以大乗 而度脱之(然して後に但大乗を以て之を度脱す)
何以故(何を以ての故に)
如来 有無量智慧 力無所畏 諸法之蔵(如来は無量の智慧・力・無所畏・諸法の蔵あって)
能与一切衆生 大乗之法(能く一切衆生に大乗の法を与う)
但不尽能受(但尽くして能く受けず)
舎利弗 以是因縁 当知諸仏(舎利弗、是の因縁を以て当に知るべし)
方便力故 於一仏乗 分別三説(諸仏方便力の故に、一仏乗に於て分別して三と説きたもう)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/2/03.htm

某長者の邸宅に火災があつたが、小児等は遊戯に興じて出ないので、長者はために門外に羊鹿牛の三車あつて汝等を待つとすかし小児等を火宅から救ひ出したといふ比喩で、羊車はこれを声聞乗に、鹿車はこれを縁覚乗に、牛車はこれを菩薩乗に喩へた、この三車には互に優劣の差のないではないが、共にこれ三界の火宅に彷復ふ衆生を涅槃の楽都に導くの法なので、斯く車に喩へたもの、

で(仏教辞林)、

火宅にたとえた三界の苦から衆生を救うものとして、声聞・縁覚・菩薩の三乗を羊・鹿・牛の三車に、一仏乗を大白牛車(だいびゃくごしゃ)にたとえた、

三車一車、

による、

すべての人が成仏できるという一乗・仏乗のたとえに用いられる、

とある(仝上)。ただ、法相宗では、

羊・鹿・牛の三車、

の一つとして声聞乗の羊車、縁覚乗の鹿車に対して菩薩乗にたとえたとするが、天台宗では、

羊車(ようしゃ)・鹿車(ろくしゃ)・牛車(ごしゃ)の三つ(三車)に、大白牛車(だいびゃくごしゃ)を加えたもの、

を、

四車(ししゃ)、

とし、この説が一般にもちいられている(精選版日本国語大辞典)とある。だから、三車は、

羊鹿牛車(ようろくごしゃ)、
みつのくるま、

などともいう(仝上)。

三界火宅、

は、同じ、妙法蓮華経譬喩諭品(ひゆぼん)第三の、

三界無安 猶如火宅(三界は安きことなし 猶お火宅の如し)

と、

迷いと苦しみに満ちた世界を、火に包まれた家にたとえた、

三界火宅、

のたとえで、それは、妙法蓮華経譬喩諭品(ひゆぼん)第三の、

長者 見是大火 四面起(長者是の大火の四面より起るを見て)
即大恐怖 作是念(即ち大に驚怖して是の念を作さく)
我雖能於此 所焼之門 安穏得出(我は能く此の所焼の門より安穏に出ずることを得たりと雖も)
而諸子等 於火宅内 楽著嬉戯(而も諸子等、火宅の内に於て嬉戲に楽著して)
不覚不知 不驚不怖 (覚えず知らず驚かず怖じず)
火来逼身 苦痛切己 心不厭患(火来って身を逼め苦痛己を切むれども心厭患せず)
無求出意出(でんと求むる意なし)
舎利弗 是長者 作是思惟(舎利弗、是の長者是の思惟を作さく)
我身手有力(我身手に力あり)
当以衣[] 若以几案従舎出之(当に衣・を以てや若しは几案を以てや、舎より之を出すべき)
復更思惟(復更に思惟すらく)
是舎唯有一門 而復狭小(是の舎は唯一門あり而も復狭小なり)
諸子幼稚 未有所識(諸子幼稚にして未だ識る所あらず)
恋著戯処(戲処に恋著せり)
或当堕落 為火所焼(或は当に堕落して火に焼かるべし)
我当為説 怖畏之事(我当に為に怖畏の事を説くべし)
此舎已焼(此の舎已に焼く)
宜時疾出 無令為火 之所焼害(宜しく時に疾く出でて火に焼害せられしむることなかるべし)
作是念已(是の念を作し已って)
如所思惟 具告諸子 汝等速出(思惟する所の如く具に諸子に告ぐ、汝等速かに出でよと)
父雖憐愍 善言誘諭(父憐愍して善言をもって誘諭すと雖も)
而諸子等 楽著嬉戯 不肯信受(而も諸子等嬉戲に楽著し肯て信受せず)
不驚不畏 了無出心(驚かず畏れず、了に出ずる心なし)
亦復不知 何者是火 何者為舎 云何為失(亦復何者か是れ火、何者か為れ舎、云何なるをか失うと為すを知らず)
但東西走戯 視父而已(但東西に走り戲れて父を視て已みぬ)
爾時長者 即作是念(爾の時に長者即ち是の念を作さく)
此舎已為大火所焼(此の舎已に大火に焼かる)
我及諸子 若不時出 必為所焚(我及び諸子若し時に出でずんば必ず焚かれん)
我今 当設方便(我今当に方便を設けて)
令諸子等 得免斯害(諸子等をして斯の害を免るることを得せしむべし)
父知諸子 先心各有好所(父諸子の先心に各好む所ある)
種種珍玩 奇異之物 情必楽著(種々の珍玩奇異の物には情必ず楽著せんと知って)
而告之言(之に告げて言わく)
汝等所可 玩好 希有難得(汝等が玩好するところは希有にして得難し)
汝若不取 後必憂悔(汝若し取らずんば後に必ず憂悔せん)
如此種種 羊車鹿車牛車 在門外(此の如き種々の羊車・鹿車・牛車、今門外にあり)
可以遊戯(以て遊戲すべし)
汝等於此火宅 宜速出来(汝等此の火宅より宜しく速かに出で来るべし)
随汝所欲 皆当与汝汝が所欲に随って皆当に汝に与うべし()
爾時諸子 聞父所説 珍玩之物(爾の時に諸子、父の所説の珍玩の物を聞くに)
適其願故 心各勇鋭 互相推排(其の願に適えるが故に、心各勇鋭して互に相推排し)
競共馳走 争出火宅(競うて共に馳走し争うて火宅を出ず)

で(仝上)、

舎利弗。爾時長者。各賜諸子。等一大車(舎利弗、爾の時に長者各諸子に等一の大車を賜う)

とあり、

其車高広 衆宝荘校 周帀欄楯 四面懸鈴(其の車高広にして衆宝荘校し、周帀(しゅうそう)して欄楯あり。四面に鈴を懸け)

又其上に於いて幰蓋(けんがい)を張り設け、亦珍奇の雑宝を以って之れを厳飾(ごんじき)し、宝繩絞絡(ほうじょう・きょうらく)して、諸の華纓(けよう)を垂れた豪華なもので、

駕以白牛(駕するに白牛を以てす)
膚色充潔 形体・好 有大筋力 (膚色充潔に形体・好にして大筋力あり)
行歩平正 其疾如風(行歩平正にして其の疾きこと風の如し)
又多僕従 而侍衛之(又僕従多くして之を侍衛せり)

と(仝上)、

「あるところに大金持ちがいました。ずいぶん年をとっていましたが、財産は限りなくあり、使用人もたくさんいて、全部で百名ぐらいの人と暮らしていました。主人が住んでいる邸宅はとても大きく立派でしたが、門は一つしかなく、とても古くて、いまにも壊れそうな状態でした。ある時、この邸宅が火事になり、火の回りが早く、あっという間に火に包まれてしまいました。主人は自分の子どもたちを助けようと捜しました。すると、子供たちは火事に気付かないのか、無邪気に邸宅の中で遊んでいます。この邸宅から外に出るように声をかけますが、子どもたちは火事の経験がないため火の恐ろしさを知らないのか、言うことを聞きません。そこで主人は以前から子供たちが欲しがっていた、おもちゃを思い出します。羊が引く車、鹿が引く車、牛が引く車です。主人は子どもたちに『おまえたちが欲しがっていた車が門の外に並んでいるぞ!早く外に出てこい!』と叫びます。それを聞いた子どもたちが喜び勇んで外に出てくると、主人は三つの車ではなく、別に用意した大きな白い牛が引く豪華な車(大白牛車)を子どもたちに与えました。」

という話https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=103で、これは、

主人が仏で、子どもがわれわれ衆生、邸宅の中(三界)に居る子どもは火事が間近にせまっていても、目の前の遊びに夢中で(煩悩に覆われて)そのことに気付きません。また、主人である父(仏)の言葉(仏法)に耳を傾けることをしません。そこで、主人は子どもに三車(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教え)を用意して外につれ出し助け、大きな白い牛が引く豪華な車(一乗の教え)を与えた、

というもので、

われわれ衆生をまず、三乗の教えで仮に外に連れ出し、そこから更に、これら三乗の教えを捨てて一乗の教えに導こうとする仏の働き(方便)を譬え話に織り込んで、説いている、

と解釈されている(仝上)。これが、

大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)

の由来でもある。

言諸子在火宅内時、長者許賜門外三車。所以諸子楽得三車。諍出火宅

ともある(法華義疏)

なお、「三界」は、

三有(さんう)、

ともいい(大辞林)、

一切衆生(しゅじょう)の生死輪廻(しょうじりんね)する三種の世界、すなわち欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)と、衆生が活動する全世界を指す、

とある(広辞苑)。つまり、仏教の世界観で、

生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域、

を、欲界(kāma‐dhātu)、色界(rūpa‐dhātu)、無色界(ārūpa‐dhātu)の3種に分類したもので(色とは物質のことである。界と訳されるサンスクリットdhātu‐はもともと層(stratum)を意味する)、「欲界」は、

もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む領域、

で、ここには、

地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天、

の六種の、

生存領域(六趣(ろくしゅ)、六道(ろくどう))、

があり、欲界の神々(天)を、

六欲天、

という。「色界」は、

性欲・食欲・睡眠欲の三欲を離れた生きものの住む清らかな領域、

をいい、

絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、

四禅天、

に大別される。「四禅天」(しぜんてん)は、

禅定の四段階、

その領域、とその神々をいい、「初禅天」には、

梵衆・梵輔・大梵の三天、

「第二禅天」には、

少光・無量光・光音の三天、

「第三禅天」には、

少浄・無量浄・遍浄の三天、

「第四禅天」には、

無雲・福生・広果・無想・無煩・無熱・善見・善現・色究竟の九天、

合わせて十八天がある、とされる。

「無色界」は、

最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界、

であり、

空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処、

の四天から成り、ここの最高処、非想非非想処を、

有頂天(うちょうてん)、ただ、「非想非々想天」で触れたように、「有頂天」には、

色界(しきかい)の中で最も高い天である色究竟天(しきくきょうてん)、

とする説、

色界の上にある無色界の中で、最上天である非想非非想天(ひそうひひそうてん)

とする説の二説がある(広辞苑)。

三界火宅、

は、

法華七喩(ほっけしちゆ)、

の一つである。この他に、

長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)
三草二木(さんそうにもく、薬草喩品 「一味の雨」で触れた)
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

がある。

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舎利佛(しゃりほつ)


上根(こむ)舎利佛先ず悟り、菩提樹果二人出でて、そらをかげに隠れつつ、八相佛になりたまふ(梁塵秘抄)、

の、

舎利佛(しゃりほつ)、

は、梵語、

Śāriputra、

の音訳、シャーリプトラは、

シャーリ(巴: サーリ)は母親の名前「シャーリー(鶖鷺)」から、プトラは「息子」、

を意味し、

舎利子(しゃりし)、
鶖鷺子(しゅうろし)、
身子、

等々と漢訳される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E5%88%A9%E5%BC%97・精選版日本国語大辞典)。

四大声聞」、「摩訶迦葉」、「富楼那の弁」でも触れたように、「舎利佛」も、釋迦の、

十大弟子、

つまり、

舎利弗(しゃりほつ 智慧第一)、
目犍連(もくけんれん 略して目連 神通力(じんずうりき)第一)、
摩訶迦葉(まかかしょう 頭陀(ずだ(苦行による清貧の実践)第一)、
須菩提(しゅぼだい 解空(げくう すべて空であると理解する)第一)、
富楼那(ふるな 説法第一)、
迦旃延(かせんねん 摩訶迦旃延(まかかせんねん)とも大迦旃延(だいかせんねん)とも、論議(釈迦の教えを分かりやすく解説)第一)、
阿那律(あなりつ 天眼(てんげん 超自然的眼力)第一)、
優婆(波)離(うばり 持律(じりつ 戒律の実践)第一)、
羅睺羅(らごら 羅睺羅(らふら) (密行(戒の微細なものまで守ること)第一)、
阿難(あなん 阿難陀 多聞(たもん 釈迦の教えをもっとも多く聞き記憶すること)第一)、

の(日本大百科全書・https://true-buddhism.com/founder/ananda/他)ひとりであり、

十六羅漢(らかん)、

の一人である(精選版日本国語大辞典)。「十六羅漢」とは「四向四果」で触れた、釈尊が般涅槃のとき、

一六の阿羅漢とその眷属に無上の法を付属した、

と言われ、釈迦の弟子でとくに優れた16人、

賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ 跋羅駄闍 ばらだしゃ)、
迦諾迦伐蹉(かにゃかばっさ)、
迦諾迦跋釐墮闍(かにゃかばりだじゃ、諾迦跋釐駄 だかはりだ)、
蘇頻陀(そびんだ)、
諾距羅(なくら 諾矩羅 なくら)、
跋陀羅(ばっだら)、
迦理迦(かりか、迦哩 かり)、
伐闍羅弗多羅(ばっじゃらほつたら、弗多羅 ほつたら)、
戍博迦(じゅばくか)、
半託迦(はんだか、半諾迦 はんだか)、
囉怙羅(らごら、羅怙羅 みらごら)、
那伽犀那(ながさいな)、
因掲陀(いんかだ)、
伐那婆斯(ばつなばし)、
阿氏多(あした)、
注荼半託迦(ちゅうだはんたか)、

をいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AD%E7%BE%85%E6%BC%A2

「舎利佛」は、

中インドのマガダ国のバラモンの家に生まれ、もとウパティッサUpatissaと称した。若いころから学問に優れ、当時もっとも有名な論師の一人で徹底した懐疑論者のサンジャヤSañjayaの弟子となり、目犍連(もくけんれん)(目連(もくれん))と親しむ。のち仏弟子のアッサジAssajiに出会い、その教えを聞いて翻然と悟り、目連およびサンジャヤの弟子250人とともに仏弟子となる、

とあり(日本大百科全書)、釈迦の直弟子の中でも上首に座し、十大弟子の筆頭に挙げられ、

智慧第一、

と称され、親友かつ修行者として同期であった神通第一の目連と併せて、

二大弟子、

と呼ばれる(仝上)。、

釈迦の教説を理論づける働きも果たした、

ともされ、釈迦にかわって説法する例も少なくない(仝上)とある。釈迦入滅以前に没したといわれ、仏教外の資料には舎利弗を仏と扱う例もみられる(仝上)とある。のちの、大乗経典では、舎利弗は、

部派仏教(いわゆる小乗)の代表、

として、また、

最高の仏弟子、

として引用されている(仝上)ともある。

なお、

上根(じょうこん)、

は、

上機、

ともいい、

上機根(じょうきこん)、

の意で、

すぐれた能力・資質。すぐれた能力のあること、また、その人、

をいい、対語は、

下根(げこん)、

で、

下機(げき)、
下機根、

ともいい、

機根の劣った者、教えを受ける者としての資質が低い者、

をいう。「機根」については触れた。

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十界十如


十界十如は法算木、法界唯心(ゆひしん)覚(さと)りなば、一文一偈を聞く人の、仏に成らぬは一人無し(梁塵秘抄)、

の、

十界十如(じっかいじゅうにょ)

は、天台宗で説く、

十界と十如是、

をいい、

一念三千の理において、密接に関係する十界と十如を強調したもの、

とある(精選版日本国語大辞典)。これでは何のことかわからない。

十界(じっかい)、

とは、中国天台宗の祖智(ちぎ)が教義としてまとめた、

迷いと悟りの両界を十に分けたもの、

をいい(仝上・日本大百科全書)、

十法界(じっぽうかい)、
十界論、
十方界、

ともいう(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%95%8C)。

迷いの生存、

は、「六道の辻」、「六道四生」で触れたように、

地獄(じごく)界(あらゆる恐怖に苛まれた状態)、
餓鬼(がき)界(眼前の事象に固執する餓鬼の状態)、
畜生(ちくしょう)界(動物的本能のままに行動する状態。欲望のままに行動する状態)、
阿修羅(あしゅら)界(修羅 会話を持たず「武力」をもって解決を目指す状態)、
人間界(平常心である状態。だが、人間的な疑心暗鬼を指す)、
天上界(天道 諸々の「喜び」を感じる状態。主に瞬間的な喜びを指す)、

の六種(仝上)、

を、

六道、

という。

迷界、

ともいう

地獄界・餓鬼界・畜生界、

を、

三悪趣(三悪道)、

三悪趣に「修羅界」を加え、

四悪趣(しあくしゅ)、

ともされ、三悪道に対し、

阿修羅界・人間界・天上界、

の三種を、

三善道、

ともいわれる(仝上)。六道での生存はその行為の業(ごう)によってそれぞれの世界に転生するので、

六道輪廻(ろくどうりんね)、

という。

十界(じっかい)、

は、

天台宗の教義において、

人間の心の全ての境地を十種に分類したもの、

で、上記の「六道」に、

悟りの境界、

として、

声聞・縁覚・菩薩・仏、

の四つを付加したものである。

十界論、
十方界、
十法界(じっぽうかい)、

とも言われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%95%8C・日本大百科全書)。

天台宗が加えた

悟りの境界、

の、

聞(しょうもん)界(仏法を学んでいる状態)、
縁覚(えんがく 独覚 どくかく)界(仏道に縁することで、自己の内面において自意識的な悟りに至った状態)、
菩薩(ぼさつ)界(仏の使いとして行動する状態)、
仏界(悟りを開いた状態)、

の四界は、

四聖(ししょう)、
悟界(ごかい)、

ともいい、「迷いの生存」と「「悟りの境界」をあわせて、

六凡四聖(ろくぼんししょう)、

ともいう。「声聞」(しょうもん)と「縁覚」(えんがく)と呼ばれる小乗の、

阿羅漢による世界、

を、

「菩薩界」は、大乗の、

菩薩による世界、最後はそれらを越える存在として、仏陀や諸仏を指す、

如来の世界、

を表している(仝上)。天台智は、

すべての生存を十界で代表させ、仏界以外は迷いと苦しみの世界や不完全の悟りであるが、十界おのおのが互いに他の九界を含み具備しているから、十界の生存であるすべての衆生(しゅじょう)は一切成仏(いっさいじょうぶつ)する、

と説く。これを、

十界互具(ごぐ)、

といい、あわせて百界とし、一瞬間の心のうちに三千の世界が具しているという、

天台一念三千(いちねんさんぜん)、

の基となる(仝上)。

十如(じゅうにょ)、

は、したがって、

じゅうにょぜ(十如是)の略、

で、妙法蓮華経方便品第二の、

仏所成就(仏の成就したまえる所は)
第一希有 難解之法(第一希有難解の法なり)
唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相(唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり)
所謂諸法 如是相 如是性 如是体 是力 如是作 如是因 是縁 是果 是報 是本末究竟等(所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/02.htm

一切の事物の実相には十種の如是があるとするもの、

で、天台宗では、一念三千の基本とし、十如是のうち、

相は相状、性は内的本性、体は相・性の本体・主体、力は潜在的能力、作はその力の顕現、因は直接原因、縁は間接原因、果は結果、報は後世の報果、本末究竟等は以上の九つが一つに帰結し、そのまま実相に外ならない、

とし、十如是は、

そのまま一つである、

と、

迷いも悟りもすべて修め尽し、現象と本体とが互いに一体化して区別なく、仮のものと真実とがとけあって一つになっていること(一如)を表わしている、

とした(精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典)。

一念三千(いちねんさんぜん)、

とは、智(ちぎ)の『摩訶止観(まかしかん)』の、

此の三千は一念の心に在り、若(も)し心無くば已(や)みなん、介爾(けに)も心あらば即ち三千を具す、

とあるにもとづく(世界大百科事典)、

一念の心に三千の諸法を具えることを観(かん)ずること、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E4%B8%89%E5%8D%83)

一念、

とは、

凡夫・衆生が日常におこす瞬間的な心(念)、

をいい(仝上)、

三千、

とは、

迷悟の十界が互いにそなわり合って百界となり、そのそれぞれが実相の十種(十如是)をそなえて千となり、さらにそれが衆生、国土、五陰の三世間にわたっているから三千となり、この三千で宇宙のいっさいの現象(諸法)を表現する、

つまり、

百界(十界互具[じっかいごぐ])・十如是(じゅうにょぜ)・三世間(さんせけん)のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの、

となるhttps://spi2002.web.fc2.com/sidout7.html

一念三千の法門なんどを、胸中に学し入て持たるを、道心と云也(正法眼蔵随聞記)、

と、

人の平常持ち合わせている心に、三千という数に表現された全宇宙の事象が備わっている、

とする天台宗の基本的な教義で(精選版日本国語大辞典)、

現象する世界の諸相を三千の数に整理して表し、そしてそうしたものからなるこの世界が人間のそのときどきの心(一念)と変わるものでないこと、すなわち、すべては自己完結的にそれ自身であり続けえず、不二相即の関係にたつことを教えたもの、

とある(日本大百科全書)。なお、

三世間(さんせけん)、

は、

三種世間(さんしゅせけん)
三種の世間、

ともいい、

「世間」は壊れるべきものの意で、また、そのようなものにつなぎとめられている現象など、

をいい、

生きものとしての衆生世間、
その生きものの住む場所としての国土世間、
この二つを構成する五蘊(ごうん)についていう五陰(ごおん)世間の三つ(器世間(国土世間)・衆生世間・智正覚世間(仏の智身)の三つ)、

をいう(精選版日本国語大辞典)。「五陰」は、

五蘊(ごうん)、

ともいい、

Skandha、

の訳。「蘊」はあつまり、

の意。

色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)、

の五つをいい、

五衆(ごしゆ)、

ともいう(大辞林)。

仏教では、いっさいの存在を五つのものの集まり、

と解釈し、生命的存在である「有情(うじよう)」を構成する要素を、

色蘊(しきうん 五根、五境など物質的なもののことで、人間についてみれば、身体ならびに環境にあたる)、
受蘊(じゅうん 対象に対して事物を感受する心の作用のこと)、
想蘊(そううん 対象に対して事物の像をとる表象作用のこと)、
行蘊(ぎょううん 対象に対する意志や記憶その他の心の作用のこと)、
識蘊(しきうん 具体的に対象をそれぞれ区別して認識作用のこと)、

の五つとし、この五つもまたそれぞれ集まりからなる、とする。いっさいを、

色―客観的なもの、
受・想・行・識―主観的なもの、

に分類する考え方である(日本大百科全書)。仏教では、あらゆる因縁に応じて五蘊がかりに集って、すべての事物が成立している(ブリタニカ国際大百科事典)とする。

色蘊(rūpa)

には、

肉体を構成する五つの感覚器官(五根)、

と、

それら感覚器官の五つの対象(五境)、

と、

行為の潜在的な残気(無表色 むひようしき)、

とが含まれる(世界大百科事典)。また、

受蘊(vedanā)、
想蘊(saṃjñā)、
行蘊(saṃskāra)、

の三つの心作用は、

心王所有の法、

あるいは、

心所、

といわれ、

識蘊(vijñāna)、

は心自体のことであるから、

心王、

と呼ばれる(ブリタニカ国際大百科事典)。仏教では、

あらゆる因縁に応じて五蘊がかりに集って、すべての事物が成立している、

と考えているから、

五蘊仮和合、
五蘊皆空、

などと説かれる(仝上)。

なお、仏教における、

生類すべての境地、迷いと悟りの世界である十界、

を描いたものを、

十界図(じっかいず)、

という。

浄土教美術、

の一つである(マイペディア)。中国、日本では、六道に重きをおいた、

六道絵、

として盛行し、日本で十界図と称される作例は、むしろ源信の『往生要集』によった、

六道絵の一種、

と解されている(ブリタニカ国際大百科事典)。

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紫磨黄金


釈迦の御法(みのり)は多かれど、十界十如ぞすぐれたる、紫磨(しま)や金(こむ)の姿には、我らは劣らぬ身なりけり(梁塵秘抄)、

の、

紫磨や金、

は、

紫磨黄金(しまおうごん)、

のこととある(佐々木信綱校訂『梁塵秘抄』)。

紫磨黄金、

は、

紫磨金(しまごん)、

ともいい(「ごん」は「金」の呉音)、

紫磨、
紫金(しこん)、

ともいう、

紫色を帯びた純粋の黄金、

で、

最上質の黄金をいう、

とある(精選版日本国語大辞典)。

閻浮提の如しとは閻浮は樹の名にしてその林、繁茂し、この樹は林中において最も大なり。提は名づけて洲となす。この洲の上にこの樹林あり。林中に河あり。底に金の沙あり。名づけて閻浮檀金となす(大智度論)、

とあり、

(閻浮提州の)香酔山(こうすいせん)の南、雪山の北に位置し無熱池のほとりにある閻浮樹林を流れる川から採取されるのでこの名称がある、

ともあり(ブリタニカ国際大百科事典・https://yoji-jukugo.com/%E7%B4%AB%E7%A3%A8%E9%BB%84%E9%87%91/)、

閻浮檀金(えんぶだんごん・えんぶだごん)、

は、

サンスクリット語の「Jambūnada-suvarṇa」の音訳、

閻浮那陀金、
閻浮那他金、

とも書かれ、

仏教の経典の中で登場する架空の金の名称、

である(https://yoji-jukugo.com/%e9%96%bb%e6%b5%ae%e6%aa%80%e9%87%91/・精選版日本国語大辞典)が、

閻浮樹の林を流れる川の底に産する砂金、

とも、

閻浮提(えんぶだい)の閻浮樹の下にあるという金塊、

とも、また、広く、

良質の金、

をもいう(仝上)。『寂照堂谷響集』は、

紫磨、

を、

金之精、

紫磨金を、

上金、

と解釈しているhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%B4%AB%E7%A3%A8%E9%87%91とし、仏典では、

(仏の三十二相の一つとして)沙門瞿曇くどんの身、黄金色にして紫磨金のごとし(中阿含)、
行者の身、紫磨金色となる(観経)、
無量寿仏の身は、百千万億の夜摩天の閻浮檀金の色のごとし(仝上)

などとあって、往生人の、

佛の特徴、

のひとつとされているようである(仝上)。『往生要集』には、

譬如閻浮檀金。除如意宝。勝一切宝菩提之心、

とある。因みに、

紫金台(しこんだい)、

というと、

紫色を帯びた黄金である紫金(紫磨金しまごん)の蓮台のこと、

をいいhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%B4%AB%E9%87%91%E5%8F%B0

(上品中生の者の往生相として)命終らんと欲する時、阿弥陀仏、観世音・大勢至・無量の大衆と与に眷属に囲繞せられて、紫金台を持して行者の前に至りたまい、…行者自ら見れば紫金台に坐せり。…一念の頃のごときに、すなわちかの国の七宝池の中に生ず。この紫金台は大宝華のごとし(『観経』)

と、紫金台に乗って往生することが説かれている(仝上)。

閻浮」で触れたように、

贍部洲(せんぶしゅう)、

は、

閻浮提(えんぶだい)、
贍部(せんぶ)、

ともいい、須弥山の南にあるので、

南閻浮提(なんえんぶだい)、
南閻浮洲(なんえんぶしゅう)、

ともいうが、金輪際で触れたように、ここが、古代インドの世界観における人間が住む大陸に当たるとされ、ひいては人間界のことをさす(広辞苑・大辞林・大辞泉・日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。インド亜大陸を示している、とされる。

閻浮提、

は、サンスクリット語の、

ジャンブ・ドゥビーパJambu-dvīpa、

に相当する俗語形からの音写語なので、他に、

剡浮洲(えんぶしゅう)、

とも音訳されるが、文字通りには、

ジャンブ(ムラサキフトモモ)の島、

を意味https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E6%B5%AE%E6%8F%90し、

ジャンブ樹jambuすなわちフトモモの木rose-apple treeの繁茂する島(ドゥビーパdvīpa)、

の意である(日本大百科全書)。

閻浮提、

は、

三辺がおのおの2000由旬(ゆじゅん ヨージャナ。1ヨージャナは約7キロメートル)、

残りの1辺がわずかに、

3.5由旬、

で、インド亜大陸に比していると見られるのはその形からのようである。

なお、この中央には、金剛座が屹立し、そこで菩薩たちが、

金剛喩定(ゆじょう すべての煩悩を断ち切る堅固な心)、

を修習すると説かれている(仝上・倶舎論)。

閻浮提、

には、

大国16、
中国500、
小国10万、

が存在するといわれている(ブリタニカ国際大百科事典)。

閻浮(Jambu)樹、

と呼ばれる常緑の大きな木があることから、

閻浮提、

とよばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E6%B5%AE%E6%8F%90が、

閻浮樹(えんぶじゅ)、

というのは、

閻浮提(えんぶだい)の雪山(せっせん)の北、香酔山(こうすいせん)南麓の無熱池(むねっち)のほとりに大森林をなすという想像上の大樹、

で(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、

常緑樹で、高さ百由旬(ゆじゅん)ある、

とされる(精選版日本国語大辞典)。

由旬(ゆじゅん)、

は、

Yojana、

の音訳、古代インドで用いた距離の単位の一つで、

約七マイル(約11.2キロ)あるいは九マイル、

という。

牛車の1日の行程、

をさし、

帝王の軍隊が一日に進む行程、

といわれ、中国では、六町を一里として四〇里(一里は約405m)または三〇里、あるいは一六里にあたる、

「閻」(エン)は、「閻浮」で触れたように、

会意兼形声。臽(エン・カン)は、「人+臼(あな)」の会意文字で、くぼんだ穴をあらわす。閻はそれを音符とし、門を加えた字で、入り口となる穴のあいた門のこと、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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四華(しけ)


釈迦の法華経説くはじめ、白毫(びゃくごう)光(ひかり)は月の如(ごと)、曼陀曼珠の華ふりて、大地も六種(むくさ)に動きけり(梁塵秘抄)、

の、

六種(むくさ)、

は、

我が果報をば天地の知れる也と。此く説給ふ時に、大地六種に震動し(今昔物語)、

とも使われ、

六種震動(ろくしゅしんどう)、

のことで、

如今此経、天雨四花、地有六種震動(「法華義疏(7C前)」)、

と、

大地が六とおりに震動すること、

で、

六種動、
六震、

ともいい、

地面の動揺や隆起をいう動・起・涌と、そのとき起こる音をいう覚(または撃)・震・吼との六種、

また、

地面が前後左右に上下することを六種に数える、

とあり、

仏が説法をする時の瑞相、

とする(精選版日本国語大辞典)。

曼陀曼珠の華ふりて、

とあるのは、妙法蓮華経序品第一に、仏陀が、

為諸菩薩説大乗経 名無量義 教菩薩法 仏所護念、

と、

諸の菩薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念を説きおわった、

とき、

是時天雨曼陀羅華 摩訶曼陀羅華 曼殊沙華 摩訶曼殊沙華(是の時に天より曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして)
而散仏上 及諸大衆(仏の上及び諸の大衆に散じ)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/01-2.htmあり、

曼陀羅華(まんだらけ 色が美しく芳香を放ち、見るものの心を悦ばせるという天界の花)
摩訶曼陀羅華(まかまんだらけ 摩訶は大きいという意味。大きな曼荼羅華)
曼殊沙華(まんじゅしゃけ この花を見るものを悪業から離れさせる、柔らかく白い天界の花)
摩訶曼殊沙華(まかまんじゅしゃけ 摩訶は大きいという意味。大きな曼殊沙華)

の、

四華(しけ)、

をいう(仝上)とある。これを、

雨華瑞(うけずい)、

といい、

此土六瑞((しどのろくずい)、

のひとつとされ、『法華経』が説かれる際に、

花が雨ふってくる瑞相、

とされる(仝上)。因みに、法要中にする、

散華、

という花びらに似せた紙を散じるのは、この意味である(仝上)。

法華経は、これに続いて、

普仏世界 六種震動

と、

六種震動、

をいうが、これも、

地動瑞(ちどうずい)、

といい、これも、

六瑞、

のひとつである。ついでに、

此土六瑞(しどのろくずい)、

の、「此土」は、此の世、つまり、

娑婆世界、

の意、「他土」は、このとき、佛が、白毫相の光を放って、

照らされた(此の世以外の)東方一万八千の世界、

でありhttp://gmate.org/V03/lib/comp_gosyo_210.cgi?a=cfbbbff0

それぞれ、

此土の六瑞、
他土の六瑞、

というらしい(https://piicats.net/shido.htm)。、此土六瑞の第一は、

為諸菩薩説大乗経 名無量義 教菩薩法 仏所護念(妙法蓮華経序品第一)、

の、

説法瑞(せっぽうずい)、

第二は、

仏説此経已 結跏趺坐 入於無量義処三昧 身心不動(仝上)、

の、

入定瑞(にゅうじょうずい 定は三昧(samadhi)のこと)、

第三は、上述の、

雨華瑞(うけずい)、

第四は、上述の、

地動瑞(ちどうずい)、

第五は、

爾時会中比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷 天 竜 夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦楼羅 緊那羅 摩・羅伽 人非人 及諸小王 転輪聖王 是諸大衆 得未曾有 歓喜合掌 一心観仏(仝上)、

とある、

衆喜瑞(しゅうきずい その場にいたものたちが瑞相を喜んで一心に仏をみること)、

第六は、

爾時仏放眉間白毫相光 照東方万八千世界 靡不周遍 下至阿鼻地獄 上至阿迦尼・天(仝上)、

とある、白毫相光の、

放光瑞(ほうこうずい 釈尊の眉間から光が放たれ、東方一万八千の世界を普く照らし、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の世界を映しだした)、

をいうhttps://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/01-2.htm。ちなみに、放光瑞で照らされ映し出された東方一万八千の世界の、

他土の六瑞、

は、

於此世界 尽見彼土 六趣衆生、

と、

見六趣瑞(六趣(その世界の六つのめでたい出来事の前兆)が釈尊の眉間から映し出されたを見る瑞)、

又見彼土 現在諸仏

と、

見諸仏瑞(諸仏を見る瑞)、

及聞諸仏 所説経法

と、

聞諸仏説法瑞(諸仏の説法を聞く瑞)、

并見彼諸比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷 諸修行得道者

と、

見四衆得道瑞(四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)の修行し得道する者を見る瑞)、

復見諸菩薩摩訶薩 種種因縁 種種信解 種種相貌 行菩薩道

と、

見行瑞(種々の因縁・種々の信解・種々の相貌あって菩薩の道を行ずるを見る瑞)、

復見諸仏 般涅槃者 復見諸仏 般涅槃後 以仏舎利 起七宝塔

と、

見帰涅槃瑞(諸仏の般涅槃したもう者を見、復諸仏般涅槃の後、仏舎利を以て七宝塔を起つるを見る瑞)、

とされるhttps://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/01-2.htm

さて、瑞兆(ずいちょう)として天から降るという、

四華、

である、

曼陀羅華、
摩訶曼陀羅華、
曼殊沙華、
摩訶曼殊沙華、

は、

4種の蓮(はす)の花、

とされ、

白蓮華、
大白蓮華、
紅蓮華、
大紅蓮華、

に当てられているが、そのひとつ、

曼陀羅華(まんだらけ・まんだらげ)、

は、梵語、

Māndārava

の音写、

天妙華、
適意華、
悦意華、
白華、

などと訳す、

天上に咲くという芳香を放つ白い花、

だが(精選版日本国語大辞典)、『阿弥陀経』に、

昼夜六時に、曼陀羅華を雨ふらす、

とあり、

意に適う花や心を悦ばせる花といわれ、また様々な色に変化する花ともいわれる、

ともhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9B%BC%E9%99%80%E7%BE%85%E8%8F%AF、色が美しく芳香を放ち、見る者の心を喜ばせることから、

悦意華(えついか)、

ともよばれ(日本大百科全書)、四華の一つ、

白蓮華、

にあたる(精選版日本国語大辞典)とある。もとは、

サンゴ樹Erthrina Indica、

をさし、インドラ天Indra(東方を守護する天王)の五種樹木の一つとされた。日本では、

チョウセンアサガオ、

の別名になっている(仝上)。

摩訶曼陀羅華(まかまんだらけ)、

は、梵語、

mahā-māndārava、

の音訳、摩訶は、

大きい、

という意味で、

大きな曼陀羅華、

の意、

摩訶曼陀羅の花、

ともいい、

天上に咲くという芳香のある、大きな白い花、

で、四華の一つ、

大白蓮華、

にあたる(精選版日本国語大辞典)とされる。

曼殊沙華(まんじゅしゃげ)、

は、梵語、

manjusaka

の音訳、神々が下界へ意のままに雨のように降らせることから、

如意花(にょいか)、

ともよばれ、その純白の花(梵語マンジュシャカは「赤い」意ともいわれ、赤いとも言われる)を見る者は黒い悪業(あくごう)を離れるという(日本大百科全書)。日本では、彼岸(ひがん)のころに墓地などに咲く赤い、

ヒガンバナ、

の別名となった(仝上・精選版日本国語大辞典)。四華の一つ、

紅蓮華、

にあたる(精選版日本国語大辞典)とされる。

摩訶曼殊沙華(まかまんじゅしゃけ)、

は、

mahā-mañjūṣaka

の音訳、「摩訶」は大きいという意味なので、

大きな曼殊沙華、

になる。

天上に咲くという、大きな赤い(一説に白い)花。見るものの心を和らげるという天華、

で、四華の一つ、

大紅蓮華、

にあたる(精選版日本国語大辞典)。なお、

四華、

を、

しか、

と訓ませると、

早春に咲く四種類(梅、寒菊、水仙、蝋梅)の花、

の意や、

葬儀で使用される白い蓮花。または、その造花、

の意となる。この場合は、

しけ、

とも訓む。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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真如


積もれる罪は夜の霜、慈悲の光にたとへずば、行者の心をしづめつつ、実相真如を思ふべし(梁塵秘抄)、

の、

行者(ぎょうじゃ)、

は、

修行者、
行人(ぎょうにん)、

ともいい(「行人」を「こうじん」と訓むと、道を行く人の意になるが、これでも意味の範囲内にあるように思う)、

仏道を修行する人、

の意で、念仏の人を、

念仏行者、

真言を行ずる人を、

真言行者、

などという(精選版日本国語大辞典)。

真如(しんにょ)、

は、梵語

Tathatā、

の訳、原義は、

あるがままであること、
そのような状態、

という意味でhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82

一切存在の真実のすがた、
この世界の普遍的な真理、

の意(広辞苑・精選版日本国語大辞典)とされ、金剛経新註に、

不為曰真、不異曰如、

とある。『金剛般若経』では、

「真」とは真実、「如」とは如常、

の意味とし、

諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言う、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82。大般若経には、

常如其性、不虚妄、不變易、故名真如、

大乗仏教に属する論書『大乗起信論』(だいじょうきしんろん 六世紀半頃)には、

真如之體、離名字相、離心縁相、離言説相、故名離言真如、

明代の仏教書『大蔵法數』には、

真如者、乃真実無妄之理、

とある。これらを、

一切法のありのままのすがた。如々や如実、如などとも言われる。真実にして虚妄がないことを真といい、変わることなく常住することを如という。永遠に変わることのない真実は言葉などで示すことができないが、あえてそれを真如と称した、

とまとめているhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%9C%9F%E5%A6%82のがわかりやすい。

真如は一切法の本性であり、万有の本体であり、如来の法身の自性でもある。人為的な判断や分別を通して認知されたすがたではなく、差別的な相を超えた無分別の立場で捉えられる絶対なるものである、

とし(仝上)、だから、

法、仏性、自性清浄心、如来蔵、法身、法界、法性、実相、実際、勝義、円成実性、涅槃、

などは真如の同義異語(同体異名)といえる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82・仝上)とする。

上述の『大乗起信論』では、

依言真如(えごんしんにょ)、
と、
離言真如(りごんしんにょ)、

を立てる(広辞苑)とあり、

真如とは、本来、言葉で説明し尽くすことのできない、言葉を離れたものです。これを「離言真如」といいます。真如は言葉で表現できないのですが、言葉に依らねば、伝えることができないので、言葉で真如を表すしかありません。これを「依言真如(えごんしんにょ)」と言います、

とあるhttps://1kara.tulip-k.jp/buddhism/2016111246.html

仏の教えは文字やことばでは説明することも思い量ることもできないことを身をもって示したという、

維摩の一黙、雷の如し、

という逸話が、その間の事情を説明しているとされる。

いっさいの存在の本性である真如は、差別相を超えた絶対の一であるということを、

真如平等、

というが、

真如は一味平等であるが、この真如より染浄の縁にしたがって、一切万有の生滅の相が生ずるということ

を、

真如縁起、

といい、

如来蔵縁起、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

明月の光が闇を照らすように、真理が人の迷妄を破ること、

を、

真如の月、

といい、

煩悩が解け去ってあらわれてくる心の本体を月にたとえいう語、

であり、転じて、

一片の雲もない明月、

をもいう(仝上)。

万有の本体で、永久不変、平等無差別なもの、

を、

真如実相、

という(仝上)。

「真如」と「実相」は、同体のものに異なる立場から名づけたもの、

で、

涅槃、
身、
佛性、

も同義になる。冒頭引用の、

実相真如、

も、同義異語を並べて強調した形になる。

「眞(真)」(シン)は、

会意文字。「匕(さじ)+鼎(かなえ)」で、匙(さじ)で容器に物をみたすさまを示す。充填の填(欠け目なくいっぱいつめる)の原字。実はその語尾が入声に転じたことば、

とあり(漢字源)、

会意。匕(ひ)(さじ)と、鼎(てい)(かなえ)とから成り、さじでかなえに物をつめる意を表す。「塡(テン)」の原字。借りて、「まこと」の意に用いる(角川新字源)、

会意文字です(匕+鼎)。「さじ」の象形と「鼎(かなえ)-中国の土器」の象形から鼎に物を詰め、その中身が一杯になって「ほんもの・まこと」を意味する「真」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji505.html

等々と同趣旨が大勢だが、

形声。当初の字体は「𧴦」で、「貝」+音符「𠂈 /*TIN/」。「𧴦」にさらに音符「丁 /*TENG/」と羨符(意味を持たない装飾的な筆画)「八」を加えて「眞(真)」の字体となる。もと「めずらしい」を意味する漢語{珍 /*trin/}を表す字。のち仮借して「まこと」「本当」を意味する漢語{真 /*tin/}に用いる、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%9F

甲骨文字や金文にある「匕」(さじ)+「鼎」からなる字と混同されることがあるが、この文字は「煮」の異体字で「真」とは別字である。「真」は「匕」とも「鼎」とも関係がない、

とある(仝上)。

「如」(漢音ジョ、呉音ニョ)は、

会意兼形声。「口+音符女」。もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもないものをさす指示詞に当てる。「A是B」とは、AはとりもなおさずBだの意で、近称の是を用い、「A如B(AはほぼBに同じ、似ている)」という不足不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を指示する「如(もし)」も、現場にないものをさす働きの一用法である、

とある(漢字源)。別に、

形声。音符「女 /*NA/」+羨符「口」。「もし〜なら」「〜のような、ごとし」を意味する助詞の{如 /*na/}を表す字。もと「女」が仮借して{如}を表す字であったが、「口」(他の単語と区別するための符号)を加えた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82

会意。女と、口(くち)とから成り、女が男のことばに従う、ひいて、したがう意を表す。借りて、助字に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(女+口)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「従順な女性」の意味)と「口」の象形(「神に祈る」の意味)から、「神に祈って従順になる」を意味する「如」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1519.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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空寂


大品般若は春の水、罪障氷の解けぬれば、萬法空寂(くざく)の波立ちて、真如の岸にぞ寄せかくる(梁塵秘抄)、

の、

空寂、

は、

くうじゃく、

とも訓ませ、

万物は皆実体がなく空であるということ、

の意(広辞苑)で、また、

この世のものは有形、無形のいずれにかかわらず、その実体、自性はなく、空(くう)であるということ、

をさとって、

一切の煩悩、執着を離れた無心の境地、

をもいう(精選版日本国語大辞典)。「空」は、

この世の有形・無形の一切のものは、固定した実体がないこと、

「寂」は、

ひっそりと静かな意。煩悩や執着のない静寂なあり方が本性であること、

を意味する(新明解四字熟語辞典)。源信の『往生要集』に、

我所有三惡道、與彌陀佛萬徳、本來空寂、一體無礙(むげ)、

とある。転じて、広く、

ひっそりと寂しいさま、

の意でも使う(広辞苑)。

一庵空寂地、香火讀楞嚴(李俊民)、

とあり、「空寂」は、

寂寥、

と同義で使われている(字源)。

空寂、

を強調した、

空空寂寂(くうくうじゃくじゃく)、

という表現もあり、

執着や煩悩ぼんのうを除いた静かな心の境地、

の意であり、

空虚で静寂なさま、

の意の他、

何もない、

をメタファに、

無駄か。お前にゃ空々寂々だ(二葉亭四迷「あいびき」)、

と、

思慮や分別のないさま、

の意でも使う。

空空漠漠(くうくうばくばく)、
荒涼索漠、
四顧寥郭、

も同義語である(学研四字熟語辞典・四字熟語辞典)

「空」(漢音コウ、呉音クウ)は、「空がらくる」で触れたように、

会意兼形声。工は、尽きぬく意を含む。「穴+音符工(コウ・クウ)」で、突き抜けて穴があき、中に何もないことを示す、

とある(漢字源)。転じて、「そら」の意を表す(角川新字源)。

「寂」(漢音セキ、呉音ジャク)は、

会意兼形声。叔(シュク)は、「つるのまいた豆のかたち+小+又(手)」の会意文字で、細く小さい意を含む。寂は「宀(いえ)+音符叔」で、家の中の人声が細くちいさくなったさまを示す、

とある(漢字源)。別に、

形声。宀と、音符叔(シユク)→(セキ)とから成る。ひっそりしている、「さびしい」意を表す(角川新字源)、

形声文字です(宀+叔)。「屋根・家屋」の象形と「枝のついている豆」の象形(「豆」の意味だが、ここでは、「弔」に通じ(「弔」と同じ意味を持つようになって)、「いたみあわれむ(かわいそうに思う)」の意味)と「右手」の象形から、屋内がいたましく「さびしい」を意味する「寂」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1363.html

ともある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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般若


般若十六善神は、十六會(ゑ)をこそ守るなれ、もとより無漏(むろ)の法門は、中道にこそ通ふなれ(梁塵秘抄)、

の、

般若、

は、梵語、

prajñāの俗語形paññā、

の音写語(広辞苑)、

鉢羅若那、

の、

般は音、若は鉢の音便、

ともあり(大言海)

智慧・慧、

と訳し(広辞苑)、

あらゆる物事の本来のあり方を理解し、仏法の真実の姿をつかむ知性のはたらき、
最高の真理を認識する知恵、

の意(仝上・精選版日本国語大辞典)とするが、般若心経の註に、

般若者、梵語、此曰智慧、逐諸境界、心背眞、故不知无我、我即愚痴全體也、離愚痴謂智、有其方便謂慧、智者慧之體、慧者智之用也、衆生本来具足矣、

とあり、

智者慧之體、
慧者智之用、

と別けている。

三学・六波羅蜜の一つ、

である(広辞苑)。「三学(さんがく)」は、「禅定」で触れたように、

仏道修行者が修すべき三つの基本的な道、

つまり、

戒学(戒学は戒律を護持すること)、
定学(精神を集中して心を散乱させないこと)、
慧学(煩悩を離れ真実を知る智慧を獲得するように努めること)

をいう。この戒、定、慧の三学は互いに補い合って修すべきものであるとし、

戒あれば慧あり、慧あれば戒あり、

などという(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)。この三学が、大乗仏教では、基本的実践道である六波羅蜜に発展する。「波羅蜜(はらみつ)」は、

サンスクリット語のパーラミター pāramitāの音写、

で、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」は、

大乗仏教の求道者が実践すべき六種の完全な徳目、

布施波羅蜜(施しという完全な徳)、
持戒波羅蜜(戒律を守るという完全な徳)、
忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ 忍耐という完全な徳)、
精進波羅蜜(努力を行うという完全な徳)、
禅定波羅蜜(精神統一という完全な徳)、
般若波羅蜜(仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳)、

を指し、般若波羅蜜は、他の波羅蜜のよりどころとなるもの、とされる(仝上)。この、

般若波羅蜜、

の意である。「般若」には、他に、、

大般若経の略、

があり、冒頭引用の、

般若、

はこの意である。

般若経、

は、

智慧の完成(般若波羅蜜)を説く経典群の総称、

で、梵本・漢訳・蔵訳合わせて10系統以上、60種異常が現存する厖大な経典群であり、漢訳だけでも『正蔵』の般若部に四二部776巻が収められている。大乗仏教の先駆経典であり、

空・発菩提心・六波羅蜜などを説き、智慧の完成へ導く菩薩の実践が示されている、

とあるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E7%B5%8C

十六會、

とあるのは、

玄奘訳大般若経600巻をその内容などによって分けた16の分類、

を指し、

四処十六会(ししょじゅうろくえ)、

などと言い、

会は会座(えざ)のことで、大勢の人の集まりを意味し、四つの場所で16回に分けて説かれた、と言う意味になりますが、歴史的な史実ではありません、

とあるhttp://tobifudo.jp/newmon/okyo/shingy.html。四処とは、

王舎城の鷲峯山(耆闍崛山)、
舎衛国の給孤独園、
他化自在天宮(「三界」の欲界六天の最上位)、
竹林精舎の白鷺池、

とされているhttp://tobifudo.jp/newmon/okyo/shingy.html

般若十六善神(じゅうろくぜんしん)、

は、

十六尊の大般若経を守るとされる護法善神、

をいい、

十六大薬叉将、
十六夜叉神、
十六神王、
十六善神、

ともいい、一説によれば、十六善神は、

金剛界曼荼羅外金剛部院にある、護法薬叉の十六大護と同一、

とも、

四天王と十二神将(「薬師如来」で触れた)とを合わせたもの、

ともいわれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%96%84%E7%A5%9Eとある。

十六善神は、

16体の夜叉(やしゃ)神、

として、普通、釈迦、または釈迦三尊とともに描かれる場合が多く、また、正面に玄奘三蔵と深沙大将が左右対称で描かれる場合がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%96%84%E7%A5%9E

国土安穏、除災招福のため大般若経600巻を転読する大般若会(え)の本尊として懸用される、

とあるhttps://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/collection/selection/shaka/

最後に、「般若」は、能面のひとつとして、

2本の角、大きく裂けた口をもつ鬼女の面。女性の憤怒ふんぬと嫉妬しっととを表し、「葵上あおいのうえ」「道成寺」などに用いる、

般若面、

の意で使う(デジタル大辞泉)が、

このお面と、仏教用語の「般若」の間に直接的な関係はない、

とされるhttps://mag.japaaan.com/archives/187362。ただ、その由来には、

謡曲「葵の上」に、婦人の怨霊、人を悩ますを、僧祈りて、、経文(般若経)を唱ふ、祈りをこめられ、怨霊「あら恐ろしの般若聲や」と云ひて消ゆ。般若経に、菩薩の魔怨を摧伏することありと云ふ。般若聲は経文の聲なるを誤りて、怨霊の聲としたるか(山本北山『膳庵随筆』)、

とか、

十六善神は、般若経の守護神なれば云ふと云へど、男女の違いあり、

とか、

昔、或女房の、妬心深きを済度せむとして、般若坊と云ふ僧の打ちし面ありしよる起こる、其面、現に金春の家にありと。外面如菩薩、内心如夜叉の意を表せるかと云ふ、

等々の諸説ある(大言海)。江戸時代後期の随筆『嬉遊笑覧』(喜多村信節)に、

金春の家に、伝来の鬼女の古面、南都の般若坊の作と云ふ、

とある。

知恵の意の「般若」から、

般若の智水(ちすい)、

というと、

清澄な水にたとえて、聡明で事理に通じていることをいい、

般若の船(ふね)、

というと、

船にたとえて、迷いの此岸(しがん)からさとりの彼岸(ひがん)に導く般若(知慧)をいい、

般若声(こえ)、

というと、文字通り、

鬼女が発するような恐ろしい声、嫉妬に狂った声、

にもいうが、

知徳に満ちた仏の声、
や、
般若経を読誦する声。また、悪霊調伏の経文の声から、転じて、読経の声、

をいい(日本国語大辞典)。

般若面(づら)、

というと、

嫉妬に狂った女の顔をたとえて、般若の面に似た恐ろしい顔、

をいう(日本国語大辞典)。

「般」(漢音ハン、呉音バン)は、

会意文字。左側の「舟」は「舟」の形ではない。「殳(動物の記号)+板の形」で、板(ハン)のように、平らに広げることをあらわす。のちに「舟+殳」の形に書くようになった、

とある(漢字源)。しかし、別に、

会意。舟と、殳(しゆ)(たたく)とから成る。舟べりを棒でたたいて、舟をめぐらせる意。ひいて「めぐる」意に用いる(角川新字源)、

会意文字です(舟+殳)。「渡し舟」の象形と「手に木のつえを持つ」象形から、大きな舟を動かす事を意味し、そこから、「はこぶ」を意味する「般」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1222.html

ともある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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五人比丘


一夏の間を勤めつつ、晝夜に信心怠らず、拘隣(くりむ)比丘ぞ最初には、諦理(たいり)を悟りて道成りし(梁塵秘抄)、

の、

拘隣比丘、

は、釋迦が成道後に鹿野苑(ろくやおん)で初めて行った説法を聞いて弟子となった、

五人の比丘(出家修行者)、

の一人である。その五人とは、

アージュニャータ・カウンディンニャ(梵語Ājñāta-kauṇḍinya、パーリ語Añña-kodañña阿若憍陳如、俱隣、拘隣)、
アシュヴァジット(梵語Aśvajit、パーリ語Assaji馬勝、阿説示)、
ヴァーシュパ(梵語Vāṣpa、パーリ語Vappa婆沙波、婆頗)、
マハーナーマン(梵語Mahānāman、パーリMahānāma摩訶那摩、摩訶男)、

とあるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E6%AF%94%E4%B8%98が、

阿若・憍陳如(あにゃ・きょうちんにょ、アジュニャータ・カウンディンニャ、アンニャーシ・コンダンニャ)、
阿説示(あせつじ、アッサジ)、
摩訶摩男(まかなまん、マハーナーマン)、
婆提梨迦(ばつだいりか、バドリカ、バッディヤ)、
婆敷(ばしふ、ヴァシュフ、ワッパ、ヴァッパ)

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%94%E4%B8%98、微妙に違う。

ともかく、彼らは最初、釈尊と共に苦行を行じていた苦行仲間であるが、

苦行は真の道にあらずと考えて苦行を放棄し、釈尊を見捨て、ベナレス(バラナシ)に立ち去った人、

である。しかし、成道後の釈尊の説法を聞いて、

まずアージュニャータ・カウンディンニャが、続いて他の四人も悟りを開き、五人は釈尊の弟子となった、

とあるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E6%AF%94%E4%B8%98。『無量寿経』諸本の冒頭に、釈尊の弟子を列挙する最初に、彼らが登場する(仝上)とある。これで、出家者の集団、つまり、

仏教教団、

が成立し、

真理を悟った仏、仏が説いた法、その仏と法に基づいて修行する僧伽

の、

三宝、

が誕生した(仝上)される。『今昔物語』巻五第29話には、

今昔、天竺の海辺の浜に、大なる魚、寄りたりけり。其の時に、山人の行き通ずる五人有りけり。此の大魚を見て寄て、魚の肉を切取て、五人して食てけり。其れを始として、世の人、御名聞き継て来て、此の魚の肉を切取て食てけり。其の魚と云は、今の釈迦仏に在ます。大魚の身と成て、山人の道行かむに、我が肉を与へむと也。今の仏と成給て後、先づ、其の魚の肉を切取て食せし五人を先に教化して、道を成じ給ふ成けり。所謂る、其の五人と云は、拘隣(憍陳如)・馬勝比丘・摩訶男・十力迦葉・拘利太子、此等也となむ、語り伝へたるとや、

と、この五人を、

拘隣(くりむ 憍陳如)、
馬勝比丘、
摩訶男、
十力迦葉、
拘利太子、

と記している。『法華文句』には、

俱隣(拘隣、阿若憍陳如 あにゃきょうじんにょ)、
頞鞞(あんぴ)、
跋提(ばっだい)、
十力迦葉(じゅうりきかしょう)、
拘利(くり)、

とあるので、今昔物語は、これに依ったものかもしれない。

拘隣(くりむ)比丘ぞ最初には、諦理(たいり)を悟りて、

と冒頭にあるのは、最初に悟りを開いた逸話による。

拘隣(くりむ)、

は、サンスクリット(梵)語の音写は、

阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)、

で、

阿若俱隣(あにゃくりん)、

とも言い、釋迦の、

最初の弟子、

である。

シッダッタ太子が出家したのを知り、他の4人を促して同行したという。あるいは、太子が出家し尼連禅河(ネーランジャナー)の畔の山中で苦行する際、浄飯王の要請で仲間四人と共に随行した。しかるに釈迦は6年に及び苦行をしたが、これでは真の悟りを得ないと了知し、苦行林を出て河畔の地主・村長の娘・スジャーター(善生)による乳がゆの供養を食した。憍陳如たちはそれを見て太子は苦行に耐えられず修行をやめたと思い込み、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑に去ってしまった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%8B%A5%E3%83%BB%E6%86%8D%E9%99%B3%E5%A6%82

阿若・憍陳如、

は、

阿若多・憍陳如、阿若多・憍陳那、阿若・憍隣、阿若・拘隣、阿若・倶隣、

等々と音写され、

了本際、知本際、已知、解了、了教、無知、火器、

等々と訳し、

憍陳如、憍陳那、憍隣、拘隣、倶隣、

と略称されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%8B%A5%E3%83%BB%E6%86%8D%E9%99%B3%E5%A6%82

阿説示(あせつじ)、

は、

阿湿貝、阿輸波祇、阿説多、

等々と音写し、

馬勝、馬師、馬星、馬宿、無勝、

等々と訳すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%AA%AC%E7%A4%BA

摩訶摩男(まかなまん)、

は、

摩訶那摩、摩訶摩男、

等々と音写、

大名、

等々と訳すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E7%94%B7

婆提梨迦(ばつだいりか)、

は、

跋提梨迦、婆帝梨迦、跋陀羅、跋多婆、

等々と音写し、

跋提、婆提、跋直、

等々と略し、

小賢、賢善、有賢、仁賢、最勝、善勝、

等々と訳すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A9%86%E6%8F%90%E6%A2%A8%E8%BF%A6

婆敷(ばしふ)、

は、

婆沙波、婆湿渡、婆婆、愛波、

等々とも音写し、

正語、気息、長気、禅気、涙出、起気、

等々と訳すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A9%86%E6%95%B7

悟りを開いた後(成道)、ヴァーラーナスィー(波羅奈国)のサールナート(仙人堕処)鹿野苑(施鹿林)において、元の5人の修行仲間(五比丘)に初めて仏教の教義を説いた、

のを、

初転法輪(しょてんぽうりん)、

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E8%BB%A2%E6%B3%95%E8%BC%AA)が、釋迦は、この五人の前に、

アージーヴィカ教徒の修行者ウパカ、

に対して説法し、失敗したとされるhttps://true-buddhism.com/founder/gobiku/。ただ、後に、ウパカは、釈迦に帰依して出家したとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E8%BB%A2%E6%B3%95%E8%BC%AAらしいが。

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三草二木


花嚴経は春の花、七所八會(ゑ)の苑(その)ごとに、法界唯心色深く、三草二木法(のり)ぞ説く(梁塵秘抄)。

の、

花嚴経(けごんきょう)、

は、

華厳経、

とも当て、大乗仏教の仏典の一つ、

大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)、

のことで(精選版日本国語大辞典)、梵語、

Buddhāvataṃsaka-nāma-mahāvaipulya-sūtra(ブッダーヴァタンサカ・ナーマ・マハーヴァイプリヤ・スートラ)、

は、

大方広仏の、華で飾られた(アヴァタンサカ)教え、

の意で、

大方広仏、

つまり時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた創作経典、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8C。元来は、

雑華経(ぞうけきょう、梵語Gaṇḍavyūha Sūtra、 ガンダヴィユーハ・スートラ)、

すなわち、

様々な華で飾られた・荘厳された(ガンダヴィユーハ)教え、

とも呼ばれていた、

インドで伝えられてきた様々な独立した仏典が、4世紀頃に中央アジア(西域)でまとめられたものである、

と推定されている(仝上)。

釈迦が悟りを開いて後二七日目に、海印三昧に入って毘盧遮那法界身(びるしゃなほっかいしん)を現じ、蓮華蔵世界に住して、文殊(もんじゅ)などすぐれた菩薩に対して仏の悟りの内容を示した、

もので、

一切の世界を毘盧遮那仏の顕現とし、どんな小さな微塵も全世界を映し、一瞬の中に永遠を含むと説き、一即一切、一切即一の世界観を展開している、

とある(精選版日本国語大辞典)。

大日如来」で触れたように、密教においては大日如来と同一視される、

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、

は、梵語、

Vairocana(ヴァイローチャナ)、

の音訳、

で、

光明遍照(こうみょうへんじょう)、

を意味し(大言海)、

毘盧舎那仏、

とも表記され、略して、

盧遮那仏(るしゃなぶつ)、
遮那仏(しゃなぶつ)、

とも表されhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E7%9B%A7%E9%81%AE%E9%82%A3%E4%BB%8F、華厳経において、

中心的な存在として扱われる尊格、

である。華厳経には、

東晉の仏駄跋陀羅訳の六十巻本(六十華厳経、旧訳華厳経とも)、
唐の実叉難陀訳の八十巻本(八十華厳経、新訳華厳経とも)、
唐の般若訳の四十巻本(四十華厳経、貞元経とも)、

の三つがある(精選版日本国語大辞典)。

七所八會、

は、

七処八会(しちしょはちえ)、

と表記し、華厳経の、

説法の場所と会座の数、

をいい、

釈迦は寂滅道場菩提樹下で正覚を成じて後、三七日(即ち21日間。ただし華厳宗では二七日即ち14日間とする)にわたって華厳経の説法をした、

とされているが、これが、7つの場所で合計8回行なわれたので、

七処八会、

という(http://gmate.org/V03/lib/comp_gosyo_210.cgi?a=bcb7bde8c8acb2f1)

釈尊が説法を行った場、

を、

会座(えざ)、

といい、転じて、

説法や法会の行われる場所や聴衆の座る席、

をいうが、経典の説かれる場所と会合とを区別する場合、説法の場所を、

処、

会合を、

会、

という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BC%9A%E5%BA%A7)とある。『法華経』は、

霊鷲山と虚空との二処で三度説かれているから二処三会、

『六十華厳』(東晉の仏駄跋陀羅訳の六十巻本)は、

寂滅道場から重閣講堂までの七処で八度説かれているから七処八会、

『無量寿経』の会座は王舎城耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、『阿弥陀経』は舎衛国祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)、『観経』は王宮会(おうぐうえ)と耆闍会(ぎじゃえ)という二つの会座をもち、

一経二会、

といわれる(仝上)とある。

法界(ほっかい)、

は、梵語、

dharma-dhātu、

の訳(dhātuは本来「要素・成分」を意味する語だが、仏教用語としては、これに「界」や「性」の意味が付加された)、初期仏教では、

十八界、

の一つ、

あるいは、

六境、

のひとつ、

法境、

十二処、

のひとつ、

法処(ほっしょ)、

のことで、

意識の対象となるものすべてをいう、

とある(精選版日本国語大辞典)。しかし、大乗仏教ではと、

単なる意識の対象ではなく、宗教的な本源を意味する、

つまり、

この全宇宙の存在を法(真理)、

とみなし、

真如、

と同じ意味で使われるようになり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%B3%95%E7%95%8C・精選版日本国語大辞典)、華厳教学では、

事法界(相対・差別の現象界)、理法界(絶対・平等の実体界)、
理法界(絶対・平等の実体界)、
理事無礙法界(現象界と実体界が本来一如で差別のないこと)、
事事無礙法界(現象界と実体界が本来一如であるから、現象界の個々の事象も互いに差別はなく、相即無礙であること)、

という四種を立てて、世界のあり方を説明する(仝上)。したがって、「法界」は、

万物を包含する全世界・全宇宙、

の意味でも使用される(仝上)とある。

因みに、「六境」とは「六根五内」で触れたように、

六根(目、耳、鼻、舌、身、心)をよりどころとする六種の認識の作用、

すなわち、

六識(ろくしき 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)、

の総称、

つまり、

六界、

による認識のはたらきの六つの対象となる、

色境(色や形)、
声境(しょうきょう=言語や音声)、
香境(香り)、
味境(味)、
触境(そっきょう=堅さ・しめりけ・あたたかさなど)、
法境(意識の対象となる一切のものを含む。または上の五境を除いた残りの思想など)、

を、

六境(ろっきょう)、

という。

十二処(じゅうにしょ)、

は、

十二入、

ともいい、

六根と六境をあわせた一二の法、

のことをいいhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%87%A6

十八界(じゅうはっかい)、

は、

六根・六境・六識の一八種の法、

のことhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%8C)をいう。

三草二木(さんそうにもく)、

は、「一味の雨」で触れたように、『法華経』薬草喩品の、

上草・中草・小草と大樹・小樹が等しく慈雨の潤沢を受けるように、機根の異なる衆生(しゅじょう)が等しく仏陀の教えを受けて悟りを開く、

のをたとえた語である(広辞苑)。また、

仏陀の教えはただ一つ、すなわち雨は同じであるが、それを受けて育つ植物が種々あるように、衆生の受け取り方はさまざまである、

のにたとえたともいう(精選版日本国語大辞典)。「三草」は、

上草・中草・下草の三、

「二木」は、

大樹・小樹、

を指す(仝上)。妙法蓮華経薬草喩品第五には、

譬如三千大千世界 山川渓谷土地(譬えば三千大千世界の山川・渓谷・土地に)
所生卉木叢林 及諸薬草 種類若干 名色各異(生いたる所の卉木・叢林及び諸の薬草、種類若干にして名色各異り)
密雲弥布。徧覆三千大千世界(密雲弥布して徧く三千大千世界に覆い)
一時等 (一時に等しくそそぐ)
其沢普洽 卉木叢林 及諸薬草(其の沢遍く卉木・叢林及び諸の薬草の)
小根小茎 小枝小葉 中根中茎 中枝中葉 大根大茎大枝大葉(小根・小茎・小枝・小葉・中根・中茎・中枝・中葉・大根・大茎・大枝・大葉に洽う)
諸樹大小 随上中下 各有所受(諸樹の大小、上中下に随って各受くる所あり)
一雲所雨。称其種性。而得生長。華果敷実(一雲の雨らす所、其の種性に称うて生長することを得て、華果敷け実なる)

とあるhttps://www.nichiren.or.jp/glossary/id156/。この、

三草二木の喩え、

は、「窮子」で触れたように、

法華七喩(ほっけしちゆ)、

の一つである。「七喩」とは、法華経に説く、

七つのたとえ話、

で、

法華七譬(しちひ)、

ともいい、三草二木(さんそうにもく)の他、

三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品 「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れた)
長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

があるhttp://www2.odn.ne.jp/nehan/page024.htmlhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9

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五つの須弥


眉の間の白毫は、五つの須彌(しみ)をぞ集めたる、眼(まなこ)の間の青蓮は、四大海(しだいかい)をぞ湛へたる(梁塵秘抄)、

の、

白毫(びゃくごう)、

は、既にふれたように、

仏三十二相の一で、眉間の白毫(白い毛)は右旋して光明を発する、

といい(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)、

眉間白毫相(みけんびゃくごうそう)、

と呼び(広辞苑)、

世阡阯L白毫相、右旋柔軟、如覩羅綿(兜羅綿)、鮮白光浄踰珂雪等(大般若経)、

と、

眉間にある右旋りの白い毛のかたまり、

であって、

眉間の白毫は、右に旋(めぐ)りて婉転して五須弥山の如し(眉間白毫、右旋婉転、如五須弥山)、

とあり(観無量寿経https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000reb.html)、

普段は巻き毛であり、伸ばすと1丈5尺(約4.5メートル)ある、

とされhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD%E6%AF%AB

釈迦牟尼佛、放大人相肉髻(にっけい)光明、及放眉間白毫相光、徧照東方八萬億那由他(なゆた)恆河沙(ごうがしゃ)等諸佛世界(法華経)、

と、

説法の前などに、仏はそこから一条の光を放ち、あまねく世界を照らす、

というhttps://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000reb.html。また、

白毫者、表理顕明称白、教無繊隠為毫(嘉祥法華義疏)、

と、仏の眉間にある白い毛は、仏の教化を視覚的に表象したものとされ、

仏像では水晶などをはめてこれを表す、

とある(広辞苑)。初期の仏陀像にすでに、

小さい円形が眉間に浮彫りされている、

とある(日本大百科全書)。冒頭に、

五つの須彌(しみ)をぞ集めたる、

とあるのは、観無量寿経に、

間白毫、右旋婉転、如五須弥山、

にあるのに依る。

この白毫の光明を観ずることで、

無量億劫(おっこう)の生死の罪が滅せられる、

と説かれるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%99%BD%E6%AF%ABとある。仏教美術では、「白毫」は、

如来と菩薩、

に付け、

明王、天部、童子、

などには付けないhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%AF%ABとされ、仏画では、

白い丸や渦巻き、

で表され、仏像では、

丸い膨らみ、

や、

水晶・真珠、

等々の宝石がはめ込まれる(仝上・広辞苑)。

冒頭の、

眼の間の青蓮、

とある、

青蓮(しょうれん)、

は、

眼晴青蓮あざやかに、面門頻婆うるはしく(「浄業和讚(995〜1335)」)、

と使われ、

五茎の青蓮華を五百の金銭をもて買取して(「正法眼蔵(1231〜53)」)、
菩薩目、如廣大青蓮華様(法華経)、

とある、

青蓮華(しょうれんげ)、

の略かと思われるが、

青色の蓮華、

の意だが、

仏・菩薩の目、

にたとえる(精選版日本国語大辞典)とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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龍樹


南(なむ)天竺の鐵塔を、龍樹や大士の開かずば、まことの御法(みのり)を如何(いか)にして、末の世までぞ弘めまし(梁塵秘抄)、

の、

大士

は、「不軽大士(ふきょうだいじ)」で触れたように、

だいし、
だいじ、

と訓ませ、梵語、

Mahāsattva、

の訳、

摩訶薩(まかさつ)、
摩訶薩埵(まかさった)、

と音写され、

すぐれた人、
偉大な人、
立派な人、

を意味しhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A7%E5%A3%AB

大士、ダイシ、

とある「書言字考節用集(1717)」の註に、

法華文句、稱菩薩為大士、亦曰開士、出智度論、

とあり、また、

正士、

とも訳され、

菩薩の異称、

とされる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。特に『般若経』では、

自利利他のために菩提を求める姿勢が理想とされ、無執着(智慧)、輪廻を厭わない救済行・不住涅槃(方便)が尊重されhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A7%E5%A3%AB、自利のために菩提を求める、

小乗仏教者、
あるいは、
外教者、

と区別するために、

菩薩大士、
菩薩摩訶薩、

と呼ばれる(仝上)とある。「菩薩」については「薩埵」で触れたが、自利よりも利他を優先させ、

菩薩乗、

ともいわれる大乗仏教では、

覚りを求める心を起こせば、あらゆる衆生が菩薩となることができる、

とし、

菩薩、

は覚りを求める心を起こし、さらに自分以外のあらゆる衆生を救い導き、覚りを開かせようと誓った存在であり、覚りと衆生をともに気にかける存在であるとする。だから、

大乗の菩薩、

は、観音菩薩など高位の菩薩が多数存在する。このような菩薩は仏になれるにもかかわらず、あらゆる衆生を救い導こうという誓いのもと、自ら地獄等の悪趣に赴き教化活動をなす(仝上)存在とされる。

龍樹(りゅうじゅ)、

は、梵語、

Nāgārjuna(ナーガールジュナ)、

漢訳名で、

150〜250年頃の南インドのバラモン出身の僧。部派仏教から後に大乗仏教に転じ、空(くう)の思想を説いた、

とされる、

中観派の祖、

であり(広辞苑)、

龍猛(りゅうみょう)、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9とあるが、

龍猛(りゅうみょう)、

は、梵語

Nāgārjuna、

密教で、7世紀頃の祖の一人、

とされ、

真言密教では付法の第3祖、伝持の第1祖とする、

が、龍樹(りゅうじゅ)との混同が多く、実在の人物か疑問視される(広辞苑・大辞林)ともある。両人を別人とする説には、

古龍樹が中観の祖、
新龍樹が密教の祖、

とするものもある(仝上)が、中国・日本の諸宗はすべて竜樹の思想を承けているので、

八宗(はっしゅう)の祖、

と称され(広辞苑)、真言宗では、龍猛が、

付法の八祖、

大日如来(だいにちにょらい)→金剛薩埵(こんごうさった)→龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)→龍智菩薩(りゅうちぼさつ)→金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)→不空三蔵(ふくうさんぞう)→恵果阿闍梨(けいかあじゃり)→弘法大師)、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9

第三祖、

とされ、浄土真宗では、龍樹が、

七高僧(インドの龍樹・天親、中国の曇鸞・道綽・善導、日本の源信・源空)、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%AB%98%E5%83%A7

第一祖、

とされ、

龍樹菩薩、
龍樹大士、

と尊称される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9)とある。因みに、

中観派(ちゅうがんは)、

は、梵語、

Mādhyamika(マーディヤミカ)、

で、インド大乗仏教において、龍樹を祖師とする、

瑜伽行派(唯識派)と並ぶ二大学派のひとつでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE

大乗仏教の基盤であり、般若経で強調された、

空の思想、

を哲学的に基礎づけ、後世の仏教思想全般に決定的影響を与えた(世界大百科事典)とされる。

「中論」「十二門論」「大智度論」「十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」

等々の著書があるとされるが、「中論」では、冒頭で、

不生にして不滅、不常にして不断、不一にして不異、不来にして不出なる、よくこの因縁を説き、よく諸の戯論を滅する仏を、我諸説中の第一なりと稽首して礼す、

と、

不生不滅(ふしょうふめつ)、不常不断(ふじょうふだん)、不一不異(ふいつふい)、不来不出(ふらいふしゅつ)、

という8つの否定、

八不(はっぷ)、

を説き、

因縁所生の法、我即ちこれ空なりと説く、

とし、「大智度論」で、だから、

この法皆因縁和合より生ずるが故に無性なり、
無性なるが故に自性空なり、

と説き、

仏法の中には、諸法は畢竟空にしてまた断滅せず。生死相続すといえども、またこれ常ならず。無量阿僧祇劫の業因縁は過ぎ去るといえども、また能く果報を生じて滅せず。もし諸法すべて空ならば、この品(般若波羅蜜経往生品中に往生を説くべからず、いかんが智有る者、前後相違せん。もし死生の相は実有ならば、いかんが諸法は畢竟空なりと言わん。但諸法中の愛着、邪見、顛倒を除かんが為の故に畢竟空と説く。後世を破せんが為の故に説くにあらず。汝は天眼の明無きが故に後世を疑い、自ら罪悪に陥らんと欲す。この罪業の因縁を遮せんが故に、種々に往生を説く、

https://true-buddhism.com/history/nagarjuna/

不常不断、

をとく。

一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと、

と、

縁起

無自性(空)

が主張の根幹にあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)。つまり、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという、

独立した不変の実体(=自性)、

はなく、すべての存在は、

無自性、

であり、

空、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9と。それを、

概念を離れた真実の世界(第一義諦、paramārtha satya)、
言語や概念によって認識された仮定の世界(世俗諦 、saṃvṛti-satya)、

という二つの真理に分けた(仝上)。

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恒沙


法華経此のたび弘めむと、佛に申せど許されず、地より出でたる菩薩たち、其の數六萬恒沙(ごうしゃ)なり(梁塵秘抄)、

の、

恒沙、

は、

ごうじゃ、

とも訓ますが、

恒河沙(ごうがしゃ)、

の略、

恒河(ガンジス川)の砂、

の意で、

無限の数量のたとえ、

として使われ、

諸仏の数は、恒河沙のごとく多い、

といわれたりし、

恒河、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

恒沙、

は、数の単位として、

10の52乗(一説に10の56乗)、

ともされる(デジタル大辞泉)。上述の引用の、

其の數六萬恒沙なり、

は、その意味のようである。ただ、

恒河沙を単位としてとらえるのは日本・中国においてであり、インド撰述の文献においては比喩として理解するのが妥当であろう、

ともあるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%81%92%E6%B2%B3%E6%B2%99

恒沙、

には、別に、

毎日恒沙の定に入(い)り、三途の扉を押しひらき、猛火の炎(ほのを)をかきわけて、地蔵のとこそ訪(と)ふたまへ(梁塵秘抄)、

と使われる。この場合は、天台宗で説く、

三惑、

の一つ、

塵沙(じんじゃ)の惑の異称、

のことではないかと思う。

無数の一々の事理に迷い、他の教化をさえぎる煩悩、

の意である(仝上)。

三惑(さんわく)、

は、連声(れんじょう)で、

さんなく、
さんまく、

とも訓ますが、天台大師智が、

一切の惑(迷い・煩悩)、

を三種に立て分けたもので、

見思惑(けんじわく=見惑と思惑)、
塵沙惑(じんじゃわく)、
無明惑(むみょうわく)、

を総称していう(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

見思惑、

は、

見惑と思惑のこと、

で、見惑は、

後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い、

思惑は、

生まれながらにもつ感覚・感情の迷い、

をいい、

この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至る、

とされるという(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%8F%E3%81%8F)

塵沙惑、

は、

菩薩が人々を教え導くのに障害となる無数の迷い。菩薩が衆生を教化するためには、無数の惑を断じなければならない故にこういう、

とある(仝上)。塵沙は無量無数の意である。

無明惑、

は、

仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている、

とある(仝上)。

見思惑、

は、

声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき迷いであるゆえに、

通惑、

ともいい、

塵沙・無明、

の二惑は別して菩薩のみが断ずる惑なので、

別惑、

ともいう(仝上)。小乗では、

見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達する、

としているが、大乗では、

菩薩のみがさらに塵沙・無明の二惑を次第に断じていくとする(仝上)。天台宗では、三惑は、

即空・即仮・即中、

円融三観によって断ずることができると説いているとある。

即空・即仮・即中、

については、円融三観で触れた。

上述の、

恒沙の定

とある、

定(じょう)、

は、

禅定」で触れたように、

もとsamādhi の訳語で、心を一つの対象に注いで、心の散乱をしずめること、

であり(精選版日本国語大辞典)。「定」と訳す、

Samādhi、

は、

三昧

とも訳されたりし、

如来。無礙力無畏禅定解脱三昧諸法皆深成就故。云広大甚深無量(法華義疏)、

と、

散乱する心を統一し、煩悩の境界を離れて、静かに真理を考えること、

である(岩波古語辞典)。

入定(にゅうじょう)三昧、

ともいう(大言海)。なお、

三惑、

には、

我に三不惑有り、酒・色・財なり(後漢書・楊秉伝)、

に由来する、

われに三惑あり、一には酒にまどひ、二は色にまどひ、三はたからにまどふ(「蒙求和歌(1204)」)、

と、

酒・色・財、

をも指す(精選版日本国語大辞典・字通)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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十惡五逆


弥陀の誓ひたのもしき、十惡五逆の人なれど、一たび御名(みな)を称(とな)ふれば、来迎引接(らいごういんぜう)疑はず(梁塵秘抄)、

の、

十惡五逆、

は、

業障(ごうしょう)」で触れたが、「五逆」(ごぎゃく)は、

五逆罪、

ともいい、仏教で説く、

五種の重罪、

ともいい、この五つの重罪を犯すと、もっとも恐ろしい無間地獄(むけんじごく)に落ちるので、

五無間業(ごむけんごう)、

ともいう。その数え方に諸説あるが、代表的なものは、

所謂五逆罪、是指殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出佛身血。若犯其中之一、即墮無間地獄、

と(「和合僧」とは、僧衆によって構成される教団のこと。五人以上の僧が和合したものをいう)、

母を殺すこと、
父を殺すこと、
悟りを開いた聖者(阿羅漢)を殺すこと、
仏の身体を傷つけて出血させること(仏身を傷つけること)、
仏教教団を破壊し分裂させること(僧の和合を破ること)、

とされる。前二者は、

恩田(おんでん 恩に報いなければならないもの)に背き、

後三者は、

福田(ふくでん 福徳を生み出すもの)に背く、

もので、仏法をそしる謗法罪(ぼうほうざい)とともに、もっとも重い罪とされる(日本大百科全書・広辞苑)。

「十悪」(じゅうあく)は、

離為十悪(南斉書・高逸伝論)、

とあるように、

身、口、意の三業(さんごう)が作る十種の罪悪、

の意で、「十惡」は、

十惡業、

ともいい、

殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)・妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・邪見(じゃけん または愚癡ぐち)、

をいい、

殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)、

を、

一是殺人奪命、二是不與而取、包括盜竊、搶竊、三是邪淫、指於家室之外發生兩性關係、這三種都是行為、故稱為身惡、

とある、

身悪、

を、

身三(しんさん)、

といい、

妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)、

を、

一是妄言、包括狂妄語、虛浮語、欺騙語等;二是兩舌、即挑撥離間、搬弄是非、造謠中傷等;三是惡口、指惡言惡語、粗暴語、出口傷人之語等;四是綺語、指髒話、雜穢語、粗話等。由於這四種都是出自口的語言行為、故稱為「口惡」、

とある、

口惡、

を、

口四(くし)、

といい、

貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見(じゃけん)、

を、

一是貪慾、指貪財、貪色、貪名、貪圖享受等各種貪慾;二是瞋恚、指的是憎惡、慍怒、仇恨和記恨等;三是邪見、指不信佛法、不信因果、並宣揚之、

とある、

意惡、

を、

意三(いさん)、

といい、

げに嘆けども人間の、身三・口四・意三の、十の道多かりき(謡曲・柏崎)、

と、

身三口四意三(しんさんくしいさん)、

という言い方をする(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。この逆が、

十善(じゅうぜん)、

で、

十悪を犯さないこと、

で、

不殺生・不偸盗(ちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不綺語(きご)・不悪口(あっく)・不両舌・不貪欲・不瞋恚(しんい)・不邪見、

といい、

十善業、
十善戒、
十善業道、

という(仝上)。また、

邪見、邪思維、邪語、邪業、邪命、邪精進(又叫邪方便)、邪念、邪定、

を、

八邪、

とする言い方もあるhttp://www.fodizi.tw/fojiaozhishi/3347.html

正道やその前段階である善根をさまたげる三つのさわり、

を、

三障(さんしょう)、

というが、それは、

煩悩障(ぼんのうしょう 貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)などの煩悩)、
業障(ごうしょう 五逆、十悪などの行為)、
報障(異熟障すなわち地獄、餓鬼、畜生の苦報など)、

をいい、「四障」(ししょう)という言い方もあり、それは、

悟りを得るための四つの障害、

の意で、

仏法を信じない闡提(せんだい 闡提障)、
我見に執着する外道(外道障)、
生死の苦を恐れる声聞(声聞障)、
利他の慈悲心がない独覚(独覚障)、

の四つを言うが、一説に、

惑障(物に迷うこと=煩悩)、
業障(悪業のさわり)、
報障(悪業のむくい)、
見障(邪見)、

ともある。ついでに「五障」というのもあり、

修道上の五つの障害、

を指し、

煩悩障(煩悩(ぼんのう)のさわり)、
業障(ごつしよう 悪業のさわり)、
生障(しようしよう 前業によって悪環境に生まれたさわり)、
法障(ほつしよう 前生の縁によって善き師にあえず、仏法を聞きえないさわり)、
所知障(しよちしよう 正法を聞いても諸因縁によって般若波羅蜜(はんにやはらみつ)の修行ができないさわり)、

をいう(仝上・世界大百科事典)。ただ、信、勤、念、定、慧の五善根にとってさわりとなる、

欺、怠、瞋、恨、怨、

を五障ということもある(仝上)。こうした、

悪業(あくごう)によって生じた障害、

を、

悪業のさわり、

つまり、

業障(ごうしょう・ごっしょう)、

という。

「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、「一業所感」で触れたように、

象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる。厳(ガン いかつい)・岩(ごつごつしたいわ)などと縁が近い、

とある(漢字源)が、別に、

象形。楽器などをかけるぎざぎざのついた台を象る。苦労して仕事をするの意か、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%AD

象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji474.html

ぎざぎざのとめ木のついた台、

が、

のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板、

と特定されたものだということがわかる。

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浄飯王(じょうぼんのう)


釈迦牟尼佛は薩埵(さた)王子、彌勒文殊は十二の子、浄飯王(じゃうほん)王は最初の王、摩耶はむかしの夫人なり(梁塵秘抄)、

の、

浄飯王(じょうぼんおう・じょうぼんのう)、

は、梵語、

Śuddhodana(シュッドーダナ)、

の訳、

前6世紀ごろの中インドのヒマラヤ山麓にあった加毗羅衛 (かびらえ 迦毘羅かぴら) 国の城王、

で、

シャカ族の長、

であり、

釈迦牟尼 (しゃかむに) の父、

摩耶 (まや)、

は、その妃、つまり、

釈迦牟尼の生母、

で、

拘利 (くり) 族の王女、

である(広辞苑)。

さか仏、まやふ人と申ける、うみおきてうせたまひにけれは、てて上ほんわうと申す、ひとりやしなひて(「成尋母集(1073頃)」)、

とあるが、

摩耶夫人は釈迦を生んで7日後に亡くなったので、摩耶の妹である摩訶波闍波提をまた娶って、釈迦の乳母となった、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E9%A3%AF%E7%8E%8B)

釈迦、

は、梵語、

Śākyamuni(シャーキャムニ)、

の音訳、

釈迦牟尼、

釈迦族の聖者、

の略である(世界大百科事典)。釈迦は、

一六歳頃に耶輸陀羅(ヤショーダラー梵語Yaśodhar)と結婚し、羅睺羅(ラーフラ梵語Rāhula)が生まれ、二九歳で出家し、三五歳で覚りを開き仏陀となり、その後、四五年間にわたり伝道の旅を続け、八〇歳で入滅した、

とされるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%87%88%E5%B0%8A

なお、浄飯王般涅槃経には、

浄飯王が病み、仏に見(まみ)えんことを欲すると、仏はナンダ、ラーフラ、アーナンダを率いて来て見舞い、浄飯王は死して四天王がその棺を担いだ、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E9%A3%AF%E7%8E%8B)という。

今昔物語集巻2第1話 仏御父浄飯王死給時語に、その最後についての記述がある。

今昔、仏の御父、迦毗羅国の浄飯王、老に臨て、病を受て、日来を経る間、重く悩乱し給ふ事限無し。身を迫(せむ)る事、油を押すが如し。「今は限り」と思して、御子の釈迦仏・難陀・孫の羅睺羅・甥の阿難等を見ずして死なむ事を歎き給へり。

此の由を、仏の御許に告奉らむと為るに、仏の在ます所は舎衛国也。迦毗羅国より五十由旬の間なれば、使の行かむ程に、浄飯王は死給ぬべし。然れば、后・大臣等、此の事を思悩ぶ程に、仏は霊鷲山に在して、空に、父の大王の病に沈て、諸の人、此の事を歎き合へる事を知給て、難陀・阿難・羅睺羅等を引将て、浄飯王の宮に行き給ふ。

而る程に、浄飯王の宮、俄に朝日の光の差入たるが如く、金の光り隙無く照耀く。其の時に、浄飯王を始て若干の人、驚き怪しむ事限無し。大王も此の光に照されて、病の苦び忽ちに除て、身の楽び限無し。

暫く在て、仏、虚空より、難陀・阿難・羅睺羅等を引将て、来り給へり。先づ、大王、仏を見奉て、涙を流し給ふ事、雨の如し。合掌して喜給ふ事限無し。仏、父の御傍に在して、本経を説給ふに、大王、即ち阿那含果を得つ。大王、仏の御手を取て、我が御胸に曳寄せ給ふ時に、阿羅漢果を得給ぬ。其の後、暫く有て、大王の御命、絶畢(たえはて)給ひぬ。其の時に、城の内、上中下の人、皆哭き悲む事限無し。其の音、城を響かす。

其の後、忽ち七宝の棺(ひつぎ)を作て、大王の御身には香油を塗て、錦の衣を着せ奉りて、棺に入れ奉れり。失せ給ふ間には、御枕上に、仏・難陀、二人在します。御跡の方には、阿難・羅睺羅、二人候ひ給ふ。

かくて、葬送の時に、仏、末世の衆生の、父母の養育の恩を報いざらむ事を誡しめ給はむが為に、御棺を荷はむと為給ふ時に、大地震動し、世界安からず。然れば、諸の衆生、皆俄に踊り騒ぐ。水の上に有る船の、波に値へるが如し。其の時に、四天王、仏に申し請て、棺を荷ひ奉る。仏、此れを許して、荷はしめ給ふ。仏は香炉を取て、大王の前に歩み給ふ。

墓所は霊鷲山の上也。霊鷲山に入むと為るに、羅漢来て、海の辺りに流れ寄たる栴檀の木を拾ひ集めて、大王の御身を焼き奉る。空響かす。其の時に、仏、無常の文を説給て、焼き畢奉りつれば、舎利を拾ひ集めて、金の箱に入て、塔を立て、置き奉けりとなむ、語り伝へたるとや(https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku2-1)

冒頭の、

彌勒文殊は十二の子、

は、調べたが、よく分からない。ただ、十二という數から、

十二菩薩、

の意かと思うが、該当する(と勝手に想定した)のは、偽経とされる、唐代の、

『円覚経』(えんがくきょう)、

正式名称、

『大方広円覚修多羅了義経』(だいほうこうえんがくしゅたらりょうぎぎょう)、

で、

文殊師利、普賢、普眼、金剛蔵、弥勒、清浄慧、威徳自在、弁音、浄諸業障、普覚、円覚、賢善首、

の十二菩薩の為に如来が大円覚の妙理を説いた、

とあるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/47/1/47_1_38/_pdf/-char/jaところの、十二の菩薩だが、どうなのだろう。

参考文献;
鎌田茂雄「円覚十二菩薩の形成」(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/47/1/47_1_38/_pdf/-char/ja)

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巫鳥(しとど)


常に消えぬ雪の島、螢こそ消えせぬ火はともせ、巫鳥(しとど)といへど濡れぬ鳥かな、一聲なれど千鳥とか(梁塵秘抄)、

の、

巫鳥(しとど)、

は、

鵐、

とも当て、

しととどり、

ともいい、古くは、

しとと、

と清音、

ホオジロ類の鳥、

で、

ホオジロの異称、

ともあるが、

ホオジロ・ホオアカ・アオジ・クロジなどの総称の古名、

とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

胡子鶺鴒(あめつつ) 千鳥ま斯登登(シトト)何(な)ど開(さ)ける利目(とめ)(古事記)、
巫鳥、此をば芝苔苔(しとと)といふ(日本書紀)、

等々と古くから知られている。

巫鳥の字は、古語拾遺に、片巫(かたかうなぎ)に、志止止鳥と注せるに起こるか、あるいはかうないしとどなども云へり、

とある(大言海)が、

巫鳥、

の由来は、

その鳴き声から(名語記・和句解・言元梯)、
イシタタキ(石叩)の上略下略形(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

ともある(日本語源大辞典)。ただ、鳴き声https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1487.htmlは、地鳴きは、

チチッ チチッ、

と二声をだし(仝上)、さえずりは、独特で、

ピッピチュ・ピーチュー・ピリチュリチュー、

などと聞こえhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%AA%E3%82%B8%E3%83%AD、この鳴き声から、

一筆啓上仕候(いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)
源平つつじ白つつじ、

などと、

聞きなし(聞き做し 鳥や動物の鳴き声を人の言葉や文字に置き換える)、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%AA%E3%82%B8%E3%83%ADので、どうも、

しとと、

という名の語感とは違う気がする。

ホオジロ、

は、

頬白、黄道眉、画眉鳥、

とあて、

スズメ目ホオジロ科ホオジロ属、

に分類される、スズメとほぼ同じ大きさの鳥である(仝上)。

翅に、黒き縦の斑あり、脚、掌、黒く、眼に菊座の如き圏(わ)あり(大言海)、
目に菊座のような輪がある(岩波古語辞典)、

とあり、それが、

鵐目(しとどめ)、

の由来となっている。

鵐目(しとどめ)、

は、

刀の鞘の(提緒を通す)栗形、或いは、和琴、筝など、諸の器の、孔(通絃孔)ある處の縁に填むる金具の名、

で、

しとどの目の如し、

という(大言海)とあり、

日本刀の「頭」(柄(つか)を補強するために、その先端部に装着される金具)や「栗形」(くりがた 下緒(さげお)を通すために、日本刀の差表側の鞘口付近に付けられた穴のある突起物)にある、緒紐を通すための穴、

をいいhttps://www.touken-world.jp/word/equipment/page/5/その形状が「鵐」の目に似ていることから、この名称が付けられている(仝上)という。ただ、

金属、革、木などの製品にあけた穴のふちを飾る覆輪(ふくりん)、

を指す(精選版日本国語大辞典)との説もある。

菊座、

に似せているとすると、

甲冑・鞍・太刀・調度などを金・銀・錫 (すず) などで縁取りし、飾りや補強としたもの、

という、

覆輪(伏輪 ふくりん)、

が正確ではないか。オスだとわかりにくいが、ホオジロのメスをみると、確かに、菊座のような環が見える。

「鵐」(漢音ブ、呉音ム)は、

鳥の名とあり、ふなしうづら、しとと、とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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醫王


薬師醫王の浄土をば、瑠璃の浄土と名づけたり、十二の船を重ね得て、我ら衆生を渡いたまへ(梁塵秘抄)、

の、

瑠璃の浄土、

とは、「
薬師如来」で触れたように、

阿弥陀如来の西方極楽浄土、

とならぶ浄土のひとつ、

薬師如来の東方浄瑠璃浄土、

で、東方にある薬師如来の浄土をいい、

大地は瑠璃、すべての建物・用具が七宝造りで、日光・月光をはじめ、無数の菩薩が住むという世界、

とされ(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、

東方浄瑠璃国土、
瑠璃光土、

ともいう(大言海)。

十二の船、

は、「
般若」で、

般若の船(ふね)、

を、

船にたとえて、迷いの此岸(しがん)からさとりの彼岸(ひがん)に導く般若(知慧)、

をいったように、薬師如来の、

十二の本願、

を船に譬えたものと思われる。薬師如来は、

菩薩としての修行時代に、

十二の本願、

を立て、それが達成されないかぎり仏にならないと誓った。その本願とは衆生の病気をなおして災難をしずめ、苦しみから救う、というもので、それが、

薬師如来、

の名の起源となった(仝上)。大乗仏教における信仰対象である如来の一尊で、かつては、現世利益を与える仏として、

朝観音・夕薬師、

といわれるほど庶民に信仰され(広辞苑)、民間では、

眼病などの治療に効験がある、

と信じられていた(日本大百科全書)。

十二の本願(誓願・大願)、

は、

自身の光明照耀(こうみょうしょうよう)に依って、一切衆生をして三十二相八十随形(ずいぎょう)を具せしむるの願(衆生をことごとく薬師如来のごとくにすること)、
衆生の意に随うて光明を以て種々の事業を成弁せしむること(迷いの衆生をすべて開暁(かいぎょう)させること)、
衆生をして欠乏を感ぜしめず、無尽の受用を得せしむること(衆生の欲するものを得させること)、
邪道を行ずる者を誘引して皆な菩提道に入らしめ、大乗の悟りを開かしむること(衆生をすべて大乗に安立させること)、
衆生をして梵行を修して清浄なることを得、決して悪趣に堕せしめざること(三聚戒(さんじゅかい)を備えさせること)、
六根具足して醜陋(しゅうろう)ならず、身相端正(しんそうたんせい)にして諸の病苦なからしむること(いっさいの障害者に諸根を完具させること)、
諸病悉除(いっさいの衆生の病を除くこと)、
女(にょ)を転じて男(なん)と成し、丈夫の相を具して成仏せしむること(転女成男(てんにょじょうなん)させること)、
外道の邪見に捕らえられて居る者を正見に復(ふく)せしめ、無上菩提を得せしむること(正しい見解を備えさせること)、
もろもろの災難(さいなん)刑罰(けいばつ)を免れしめ、一切の憂苦を解脱せしむること(獄にある衆生を解脱(げだつ)させること)、
飢渇(きかつ)に悩まされ、食を求むる者には、飯食(ばんじき)を飽満せしめ、又、法味(ほうみ)を授けて安楽を得せしむること(飢渇(きかつ)の衆生に上食を得させること)、
所求満足の誓いで、衆生の欲するに任せて衣服珍宝等一切の宝荘厳(ほうしょうごん)を得せしめんとすること(衣服に事欠く衆生に妙衣を得させること)、

とある(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A6%82%E6%9D%A5・日本大百科全書)。このために、「薬師如来」は、

大醫王、
醫王善逝(いおうぜんぜい)、
醫王仏、

とも呼ばれ(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)、

醫王、

というと、

薬師如来の異称、

ともされる。広い意味で、

醫王、

は、

仏や菩薩

を指し、阿含経典では、

釈尊、

を、

大医王、

と呼び
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8C%BB%E7%8E%8B、その四つの徳を、

一には善く病を知り、二には善く病源を知り、三には善く病の対治を知り、四には善く治病を知る、

とあり(仝上)、

医者が病人を救うように、仏が人々を救う、

たとえとして、そう呼ぶが、まさに、だからこそ、

薬師如来、

そのものをも指す、と思われる。薬師の十二誓願の第七に、

諸病悉除(いっさいの衆生の病を除くこと)、

とあることから、特に日本でこのように呼称されるようになった(仝上)という。

なお、

醫王山王(いおうさんのう)、

というと、

年来(としごろ)医王山王に首をかたぶけ奉て候身が(平家物語)、

と、

醫王、つまり、薬師如来の、山王はその垂迹(すいじゃく)、

をいい、特に、

比叡山延暦寺の根本中堂の本尊である薬師如来と、滋賀県大津市坂本にある日吉神社の日吉山王権現をさす、

とある(精選版日本国語大辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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郢曲(えいきょく)


今様・朗詠(うたい)、風俗・催馬楽なんど、ありがたき郢曲どもありけり(平家物語)、

とある、

郢曲(えいきょく)、

は、

客有歌於郢中者其始曰下里巴人、國中屬而和音數十人(宋玉、對楚王問)、

とある、

俗曲、

の意(字源)、

郢(エイ)、

は、

春秋時代、楚の都、淫風の盛んなりし地名、

で、今の、

湖北省江陵県の西北、

とあり(仝上)、

郢で、卑俗な歌曲が流行り、それを郢曲と称したことから、

俗曲の意、

だが、それを借りて、

梁塵秘抄の郢曲の詞こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただいかに言ひすてたることぐさも、皆いみじく聞こゆるにや(徒然草)、

と、

平安後期、神楽・催馬楽(さいばら)・風俗歌(ふぞくうた)・今様を含む)朗詠など歌い物の総称、

とあり(岩波古語辞典・大言海)、鎌倉時代には、

早歌(そうか)、

も含む(広辞苑)とあるが、平安初期には、

朗詠、催馬楽(さいばら)、神楽歌(かぐらうた)、風俗歌(ふぞくうた)など宮廷歌謡、

の総称であったが、平安中期には、

今様歌(いまよううた)、

末期からは、

神歌(かみうた)、足柄(あしがら)、片下(かたおろし)、古柳(こやなぎ)、沙羅林(さらのはやし)などの雑芸(ぞうげい)、

も包括し広義に及んだ(日本大百科全書)とあり、狭義には、

朗詠、

のみをさした(仝上)とある。また別に鎌倉時代の、

早歌(そうが 別名宴曲 えんきょく)を示すこともある(仝上)とある。上記「徒然草」に、

梁塵秘抄の郢曲の詞、

とあるのは当時の雑芸をさす(仝上)という。この、

郢曲、

という言い方は、

〈歌〉本位の、いわゆる旋律的に歌われる声曲、

を、多少謙譲の意味をこめて、ひらたく言うときに使う用語と思われる(仝上)とある。ただ、上記の時代に成立、発展した声曲であっても、

久米歌、東遊など祭祀用歌舞、
仏教儀式における声明(しようみよう)、
語り物の平曲、猿楽、

等々のように、歌以外のものと深くかかわった声曲は、含まれていない(世界大百科事典)とある。

平安末期成立の、

郢曲抄(えいきょくしょう)、

は、

神楽・催馬楽(さいばら)以下、今様・足柄・片下(かたおろし)・田歌などの謡い方、歌謡の由来などの雑記、

で、別名、

梁塵秘抄口伝集巻第11、

とされている(仝上)が、後白河法皇撰の、

本編10巻、
口伝集10巻、

とは異なり、

口伝集 巻11から巻第14、

は、もとは別の書であったと考えられ、

郢曲抄、

とも称されているのが本来の形のようである。

五節(ごせち)の殿上淵酔(てんじょうえんずい)で歌われた、

朗詠、今様、雑芸、

などをとくに、

五節間郢曲、

と称し、鎌倉時代の早歌と結んで貴族の宴席で愛好された(仝上)らしい。

郢曲を伝承する家には敦実(あつざね)親王・源雅信(まさのぶ)を祖とする源家(げんけ)、藤原師長(もろなが)・源博雅を祖とする藤家(とうけ)の二家があったが、室町時代中期に藤家は断絶し、現在は源家の流れを汲む綾小路家がその命脈を保っている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A2%E6%9B%B2・日本大百科全書)という。

なお、「梁塵秘抄」については触れた。また「今様」については、馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』が詳しい。

「郢」(漢音エイ、呉音ヨウ)は、

形声。「邑+音符呈」、

とある(漢字源)。

春秋時代の楚の都、郢は享楽的な都であったという。そのため、「俗・みだら」の意に使われることがある(角川新字源)とある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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甲乙(かんおつ)


其ふりつよからぬやうにして、聲のかすりなく、甲乙ただしく唱ものなり(梁塵秘抄口伝集巻11)、

の、

甲乙、

は、

こうおつ、

と訓ませると、

来十月、明年正月、四月節中、並甲乙日也(「小右記」和元年(1012)六月一六日)

と、

十干の甲と乙、

つまり、

きのえときのと、

の意であったり、

是以除普明国師之外、龍湫・性海・太清三大老、甲乙再住、或一月、或半月而各告退(「空華日用工夫略集(1387)」)、

と、

ものの順序、

をいい、

第一と第二、

の意であり、また、

甲乙つけがたい、

というように、

すぐれていることとおとっていること、

つまり、

優劣、
上下、

の意や、さらには、

甲乙人、

というように、

特定の物権などに無関係な第三者の総称、

として、

たれかれ、
某々、

の意や、

はや甲乙人ども乱れ入りけりと覚えて(太平記)、

と、

名をあげるまでもない者、
一般の人、

つまり、

凡下(ぼんげ)、

の意で使うが、

かんおつ、

と訓ませると、

甲乙の位のただしきも息也(「曲附次第(1423頃)」)、

と、

邦楽で高音と低音、

つまり、

甲(かん)と乙(おつ)、

の意となる。

かるめる、

つまり、邦楽で、

(法華経を讀合ふ)弁慶がかうの聲、御曹司の乙の聲、人違へて、二の巻、半巻ばかりぞ讀まれたり(義経記)、

と、

高い調子の「かる」と低い調子の「める」、

の意で、

上下、

とも当て(デジタル大辞泉)、

音階音より音が上がることまたは上げること(かる)と、下がることまたは下げること(める)、

の意で、

かりめり、
めりかり、

という言い方もする。

甲、

を、

かん、

と訓ませるのは、音便で、

夾纈(カフケチ)、法師が、和名抄(931〜38年)に、加宇介知、保宇之とあれば、甲(カフ)も、夙くより、カウと発音せしこと知るべし、そのカウの、カンとなしたるなり、庚申(カウシン)を、カンシンと云ひ、強盗(ガウタウ)を、ガンダウと云ふ例にて、甲乙(カフオツ)をも、カンオツと云ひしなり、

とあり(大言海)、

かふおつ、

とも訓ませる(仝上)とある。

甲は聲の始め也、……一調子高きを、甲の音とす。乙は、聲の終り也、……三調子下がるを、乙の音とす(竹豐故事)、

とあり、この「甲(かん)」は、

甲處(かんどころ)、
甲走った聲、

という言い方に残っている。

「甲」(漢音コウ、慣用カン、呉音キョウ)は、

多数の説があるが、いずれも憶測の域を出ず、定説は無い、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%B2

かつて金文の形を根拠に亀の甲羅と解釈する説があったが、原字は十字形であるため、これは誤った分析である。甲骨文字の形を見ればわかるように、「龜」とは全く異なる形をしている、

とある(仝上)。しかし、

象形。もと、鱗を描いた象形文字。のち、たねをとりまいた堅い殻を描いた象形文字。被せる意を含む(漢字源)、

象形。よろいの形にかたどる。「よろい」の意を表す。借りて、十干(じつかん)の第一位に用いる(角川新字源)、

象形文字です。「尾をひいた亀の甲羅」の象形から「甲羅」、「殻」を意味する「甲」という漢字が成り立ちました。(借りて、「きのえ(木の兄)(十干の第一位)」の意味も表すようになりましたhttps://okjiten.jp/kanji1653.html

等々と諸説がある。

「乙」(漢音イツ、呉音オツ・オチ)は、

指事。つかえ曲がって止まることを示す。軋(アツ 車輪で上から下へ押さえる)や乞(キツ 息がつまる)などに音符として含まれる、

とある(漢字源)が、別に、

へらとして用いた獣の骨を象る、

とか(白川静説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%99)、

象形。草木が曲がりくねって芽生えるさまにかたどる、

とか(角川新字源)、

象形文字です。「ジグザグなもの」の象形から、物事がスムーズに進まないさま・種から出た芽が地上に出ようとして曲がりくねった状態を表し、そこから、「まがる」、「かがまる」、「きのと」を意味する「乙」という漢字が成り立ちました、

とかhttps://okjiten.jp/kanji1506.htmlあるが、十干(じつかん)の第二位に用いるうちに、原義が忘れられたhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%99ようである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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平調(ひょうじょう)


急なる音を一段にめらして、一絲と立をき、平調の時はめぐりを合はせて(梁塵秘抄口伝集11巻)、

の、

めらせして、

は、

甲乙」で触れたように、

かるめる、

の、

める、

ではないか。つまり、

音が下がる、

意で、

かるめる、

は、邦楽で、

(法華経を讀合ふ)弁慶がかうの聲、御曹司の乙の聲、人違へて、二の巻、半巻ばかりぞ讀まれたり(義経記)、

と、

高い調子の「かる」と低い調子の「める」、

の意で、

上下、
甲乙(かんおつ)、

とも当て(デジタル大辞泉)、

音階音より音が上がることまたは上げること(かる)と、下がることまたは下げること(める)、

の意で、

かりめり、
めりかり、

という言い方もする。

平調、

は、

へいちょう、

と訓ますと、

唯美くしてゐるばかりでは余り平調(ヘイテウ)で面白くない(内田魯庵「文学者となる法」)、

と、

穏やかな調子、平常の状態、
また、
安定し落ち着いていること、

の意で使うが、

漢代には、俗楽(清商三調、相和楽など)の音階で、唐の俗楽二十八調の制定で、調名となった、

という、

中国音楽の調名の一つ、

で、日本の雅楽の、

六調子・十二律の一つ、

である、

平調、

のもとになるもの、

をいうが、また、

唐には、平調を用る。金は宝成故也(「わらんべ草(1660)」)、

と、

中国の調弦法の一つ、

で、

わが国の三味線の本調子に当たり、中国の音階名では、最低弦(一の糸)から、合(ほう)・四(すい)・六(りゅう)の調子、

の意でも使う。日本の雅楽の、

六調子・十二律の一つ、

である、

平調、

は、

ひょうじょう、

と訓ませ、

奥深かに箏の音少許聞ゆ、律に被立て平調の音なり(今昔物語)、

と、

雅楽十二律の音名の一つ。基音である壱越(いちこつ)から三番目の音。中国十二律の大簇(たいそう)、西洋音楽のホ音に相当する、

とあり、また、

箏の琴は中の細緒の堪へがたきこそ所せけれとて、ひょうてふにおし下して調べ給ふ(源氏物語)、

と、

雅楽の六調子の一つ。平調の音を主音、すなわち宮音とする調子、

とある(精選版日本国語大辞典)。

十二律については、「十二調子」(じゅうにちょうし)は、

十二律の俗称、

で、「十二律」は、『前漢志』や『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』には、

4000年前黄帝の代に、伶倫(れいりん)が命を受け昆崙山(こんろんざん)の竹でつくった、

とあるが、中国では、

黄鐘(こうしょう)を基音、

として、

黄鐘(こうしょう)を三分損一して林鐘(りんしょう)、次に益一して太簇(たいそく)、

と、以下同様にして得て、

黄鐘(こうしょう)、大呂(たいりょ)、太簇(たいそく)、夾鐘(きょうしょう)、姑洗(こせん)、仲呂(ちゅうりょ)、蕤賓(すいひん)、林鐘(りんしょう)、夷則(いそく)、南呂(なんりょ)、無射(ぶえき)、応鐘(おうしょう)、

となる。前漢の京房(けいぼう)はこれを反復して、

六十律、

南朝宋の銭楽之(せんらくし)は、

三百六十律、

を求めた(仝上)という。日本では天平七年(735)吉備真備が『楽書要録』で伝えたのち、平安時代後期より雅楽調名に基づいて、

壱越(いちこつ)、断金(たんぎん)、平調(ひょうじょう)、勝絶(しょうせつ)、下無(しもむ)、双調(そうじょう)、鳧鐘(ふしょう)、黄鐘(おうしき)、鸞鏡(らんけい)、盤渉(ばんしき)、神仙(しんせん)、上無(かみむ)、

の名称が決められた(仝上)。ただ、中国では、

標準音の絶対音高が時代によって異なるので、律名をそのまま絶対的な音名ということはできない、

ようだが、日本独自の、

十二律、
十二調子、

は、

壱越 (いちこつ)がほぼ洋楽のニ音に相当し、以下、順に半音ずつ高くなっていくので、律名は音名といってもさしつかえない、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。しかし、

雅楽や声明、

を除けば、この12の律名はあまり用いられず、普通は、もっと実用的な、

一本(地歌・箏曲・長唄・豊後系浄瑠璃などでは黄鐘〈おうしき〉イ音、義太夫節では壱越ニ音)、
二本(変ロ音または嬰ニ音)、
三本(ロ音またはホ音)、

という名称が使われている(仝上)。

六調子(ろくちょうし・りくちょうし)、

は、

壱越(いちこつ)調・平(ひょう)調・双調・黄鐘(おうしき)調・盤渉(ばんしき)調・太食(たいしき)調、

をいう(仝上)。

壱越(いちこつ)、

は、

十二律の基音(第1律)で、洋楽のd(ニ音)とほぼ同じ高さの音、

で、雅楽でこの音を主音とする調子を、

壱越調、

といい、日本に伝来したとき、調の主音は、

壱越(いちこつ ニ)、平調(ひようぢよう ホ)、双調(そうぢよう ト)、黄鐘(おうしき イ)、盤渉(ばんしき ロ)、

の五つであり、

壱越は唐の古律の太簇(たいそう)であるが、俗律の黄鐘(こうしよう)とも考えられたので、日本ではこれを基準音とみなし、これを宮として以下4声を順次並べて徴調の五声音程の新五声(徴・羽・宮・商・角を宮・商・角・徴・羽と呼びかえたもの)を生じた、

とある(世界大百科事典)。「五声」については、「十二調子」で触れた。

「平」(漢音ヘイ、呉音ビョウ、慣用ヒョウ)は、

象形。浮草が水面にたいらに浮かんだ姿を描いたもの。萍(へい 浮草)の原字。また、下から上昇する息が一線の平面につかえた姿とも言う、

とある(漢字源)。借りて「ひらたい」、たいらにするの意に用いる(角川新字源)。

「調」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、「調楽」で触れた。

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白拍子


今様の會終夜ありて候、亂舞、猿楽、白拍子、品々しつくしき(梁塵秘抄口伝集10巻)、

とある、

白拍子(しらびょうし)、

は、

もとは雅楽の拍子の名で、笏拍子だけで等しい間隔で奏される拍の連続に当てて歌い奏する歌舞の名称、後に、白い水干に烏帽子姿で今様・短歌体歌謡等を歌いかつ舞う遊女が成立、その芸能の呼称ともなり、独自長歌謡を生む。仁和三年(1168)に平時忠らの今様の会のあとで乱舞して水白拍子を歌った(異本口伝集)記事もあり、宮廷をはじめとして寺社の延年でも行われた。楽器は、鼓・銅拍子など、

とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。因みに、

延年(えんねん)、

は、

寺院において大法会の後に僧侶や稚児によって演じられた日本の芸能。単独の芸能ではなく、舞楽や散楽、台詞のやりとりのある風流、郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽、白拍子、小歌など、貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの総称、

とあり、

平安時代中頃より行われたと言われている。能の原型である猿楽との関連は深く、互いに影響を与えあったのは間違いない、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%B9%B4

笏拍子(しゃくびょうし)、

は、

神楽(カグラ)・催馬楽(サイバラ)などで拍子をとるための楽器。初め二枚の笏を用いたが、のち笏を縦にまん中で二つに割った形となった。主唱者が両手に持ち、打ち鳴らして用いる、

とある(大辞林)。

主な歌い手がこれを打ち合わせて拍子をとる、

という(日本国語大辞典)。

白拍子、

は、雅楽の、

拍子、

の名で、

笏拍子(サクハウシ)のこと、

とある(大言海)。

神楽に用ゐて節をなすもの、

で、

形、笏の如く、二枚相撃ちて、音を発す、……俗に、

シャクビャウシ、

というとある(仝上)。和名類聚抄(平安中期)に、

拍子、俗云、百誦、拍板楽器名也、

とある。

おとどは、さくはうしおどろおどろしからず、打鳴らしたまひて(源氏物語)、

と、打楽器で、

普通の拍子、
または、
伴奏を伴わない、

意のようである(岩波古語辞典)。のちに、雜藝(ぞうげい・さづげい)で、

当世風の即興的な歌舞、

の名となり、さらに、

その舞を得意とした雜藝の専業者の呼称、

としても使われるようになる(仝上)。「雜藝」は、

平安後期から鎌倉時代にかけて流行した歌謡の総称、

で、催馬楽(さいばら)など古典的、貴族的なものに対して、

今様(いまよう)・沙羅林(さらりん)・法文歌・神歌など民間から出たもの、

をいう(デジタル大辞泉)。「梁塵秘抄」に収録されている歌謡が代表的。

白拍子、

の舞手は、初期には、男性によって演じられたが、院政・鎌倉時代には女性に限るようになり、

水干・烏帽子、白鞘巻をさした男装で、今様を歌いながら舞を舞った、

とあり(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、伴奏には、

扇拍子・鼓拍子、

を用い、

鼓、時には笛・銅鈸子(どびょうし)、

も用い、後に早歌(そうか)・曲舞(くせまい)などの生まれる素地となり(広辞苑)、曲舞を通して能楽にも影響を与え、女舞・女猿楽・女歌舞伎に芸系を伝え(大辞林)、能の『道成寺』にも取り入れられ、その命脈は歌舞伎舞踊(『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』など)にも受け継がれた(日本大百科全書)とある。

たとへばその頃都に聞へたる白拍子上手、祇王、祇女とておととい(姉妹)刀自(とじ)と云ふ白拍子が女なり(平家物語)、

と、

白拍子、シラビャウシ、妓女也(室町末期の節用集「伊京集」)、

とあるように、

遊女という身分の低さにもかかわらず、貴族階級の間で絶大な人気があった、

とある(仝上)。

鳥羽院の頃に、島の千歳、和歌の前、二人の遊女、舞始めたりと云ふ(平家物語)、

とも、或いは、

通憲入道(みちのり 信西入道)、作りて、磯の禅師に舞はしめた(徒然草)、

ともある(大言海・日本大百科全書)。源義経の妾とされる、

静御前(しずかごぜん)、

は磯の禅師の娘とされているし、平清盛(きよもり)寵愛の、

祇王(ぎおう)・祇女(ぎじょ)・仏御前(ほとけごぜん)・千手(せんじゅ)、

後鳥羽天皇寵姫、

亀菊(かめぎく)、

等々の名はいずれも白拍子の名手として知られている(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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示現


神社に参りて今様歌ひて、示現かぶること度々なる(梁塵秘抄口伝集第10巻)、

の、

示現(じげん)、

は、仏語、

為衆生故、示現八相、随縁在厳浄国土、転妙法輪度諸衆生(「往生要集(984〜85)」)、

と、

仏菩薩が衆生救済のために、種々に身を変えてこの世に現われること、

をいい(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

現化(げんげ)、

ともいい(仝上)、「観音勢至」で触れたように、観音は、

衆生の求めに応じて種々に姿を変える

とされ、

観音の普門示現(ふもんじげん)、

といい、法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、

衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼(せま)らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救う。(観音は)神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の諸(もろもろ)の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種々の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦は、以て漸く悉く滅せしむ、

と(観音経・普門品偈文)、

観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身する、

と説かれておりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9

三十三観音、

といい、その

三十三身、

は、「三十四身」で触れたように、

三十三種の異形(いぎょう)、

といい、すなわち、

辟支仏(びゃくしぶつ)・声聞(しょうもん)・梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門天・小王・長者・居士(こじ)・宰官(さいかん)・婆羅門(ばらもん)・比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・龍・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅迦(まごらか)・執金剛、

をいう(精選版日本国語大辞典)。西国三十三所の観音霊場はその例になるが、その形の異なるに従い、

千手(せんじゅ)、十一面、如意輪(にょいりん)、准胝(じゅんてい)、馬頭(ばとう)、聖(しょう)、

を、

六観音、

不空羂索(ふくうけんさく・ふくうけんじゃく)、

を含めて、

七観音、

というなど様々の異称がある(マイペディア)。

示現、

は、

佛菩薩が衆生を救うために種々の姿に身を変えてこの世に出現する、

意をメタファに、

観音に祈り申しける夜の夢に、……と見て、夢覚ぬ。何なる示現にか有らむと恠(怪)み思て(今昔物語)、

と、

神仏が霊験を示し現わすこと、
夢の中に化身となって現われ、告知すること、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。

示現、

に似た言葉に、

応作

があり、

応化(おうげ・おうけ)、

と同義で、

応現(おうげん)、

ともいい、

仏・菩薩が衆生を救うためにいろいろに姿を変えて出現すること、

とある(広辞苑)が、

応現の働(精選版日本国語大辞典)、
応現、変化の謂い(大言海)、

の意とあるので、

阿彌陀仏五濁(ごぢょく)の凡愚をあはれみて、釈迦牟尼仏としめしてぞ、迦耶城(かやじゃ)には応現する(「三帖和讚」(1248~60頃)・諸経讃)、
舟より道に下れば老公見えず。其舟忽に失せぬ。乃ち疑はくは、観音の応化なることを(「霊異記(810~824)」)、

などと、

仏、菩薩などが衆生に応じた姿を現わす、その働き、

という意味がわかりやすいように思える(精選版日本国語大辞典)。

示現、

が、

仏菩薩が衆生救済のために、種々に身を変えてこの世に現われること、

という、

出現、

を言うとすると、

応作、

は、

仏菩薩などが衆生に応じた姿を現わす、その働き、、

という、

作用、

のことを指し、微妙に異なるように思える。

「示」(@漢音シ、呉音ジ、A漢音キ、呉音ギ)は、

象形。神霊の降下してくる祭壇を描いたもの。そこに神々の心が示されるので、しめすの意となった、後、ネ印に書かれ、神社、祇など、神や祭りに関することをあらわす(@の発音は、指示、顕示、訓示等々の、「示す」意、Aの発音は、神示(神祇)と、地の神、祭壇に祀る神の意、となる)、

とある(漢字源)。

象形。先祖の神主(位牌)を象るhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A4%BA

象形。祭事で、神の座に立てて神を招くための木の台の形にかたどる。もと、神を祭る意を表した。借りて、「しめす」意に用いる(角川新字源)、

象形文字です。「神にいけにえをささげる台」の象形から、「祖先の神」を意味する「示」という漢字が成り立ちました。また、「指(シ)」に通じ(同じ読みを持つ「指」と同じ意味を持つようになって)、「しめす」の意味も表すようになりましたhttps://okjiten.jp/kanji821.html

も同趣旨。

「現」(漢音ケン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。「玉+音符見」で、玉が見えることを示す。見は「みる」「みえる」を意味したが、特に「みえる」の意味をあらわすため、現の字が作られた、

とある(漢字源)。別に、

形声。玉と、音符見(ケン、ゲン)とから成る。玉の光沢があらわれ出る、ひいて、「あらわれる」意を表す(角川新字源)、

会意兼形声文字です(王(玉)+見)。「3つの玉を縦のひもで貫き通した」象形(「玉」の意味)と「大きな目と人の象形」(「見る」の意味)から、玉の光があらわれる事を意味し、そこから、「あらわれる」を意味する「現」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji865.html)、

とあるが、ただ、

形声。「玉」+音符「見 /*KEN/」。「玉の光」を意味する漢語{現 /*geens/}を表す字。のち仮借して「あらわれる」を意味する漢語{現 /*geens/}に用いる。かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8F%BE

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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伽陀


この所僧中伽陀の音ヲ別、一句ごとに畢也(梁塵秘抄口伝集11)、

の、

伽陀、

は、

偈陀、

とも表記し、梵語

gāthā、

の音写、

偈(げ)、

に同じ(広辞苑)とあり、

偈、

も、梵語、

Gāthā、

の音写、これを、

伽陀、

とも音写する(広辞苑)。漢語では、

頌(じゅ)、

あるいは、

讃(さん)、

とも翻訳され(仝上・精選版日本国語大辞典)、

仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの、

をいい、

偈頌(げじゅ)、
諷誦(ふじゅ)、

ともいう(仝上)。梵語、

Gāthā、

は、原意は、

歌、

で、梵語(サンスクリット語)のシラブル(音節)の数や長短などを要素とする韻文、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E9%99%80。古来インド人は、詩を好む民族で、仏典においても、

詩句でもって思想・感情を表現するもの、

が多くこれが漢語では、

三言四言あるいは五言などの四区よりなる詩句で訳出された(日本大百科全書)。だから、

伽陀、

は、

四句づつなることが多ければ、

四句(しく)、

とも云ふ、

とあり(大言海)、

四句の偈

は、

要偈(ようげ)、
伝法要偈(でんぼうようげ)、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。「四句の偈」は、

四句の文(しくのもん)、

ともいい、「雪山偈(せっせんげ)」(「是生滅法」で触れた)である、

諸行無常、
是生滅法、
生滅滅已、
寂滅為楽、

といった、

四句からなる偈の文句、

をいう(精選版日本国語大辞典)。これに対して散文部分を、

長行、

という(精選版日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%88)とある。

漢語では、三言四言あるいは五言などの四句よりなる詩句で訳出され、たとえば、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)で、

諸悪莫作(しょあくまくさ)、
諸善(しょぜん 衆善)奉行(ぶぎょう)、
自浄其意(じじょうごい)、
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)、

とか、法身偈(ほっしんげ)で、

諸法従縁生(しょほうじゅうえんしょう)、
如来説是因(にょらいせつぜいん)、
是法従縁滅(ぜほうじゅうえんめつ)、
是大沙門説(ぜだいしゃもんせつ)、

と共に、「雪山偈」(「是生滅法」で触れた)も仏教の根本思想を簡潔に表現したもの(日本大百科全書)とされる。

伽陀、

つまり、

偈、

は、

声明(しょうみょう)の一つ、

とされ、声明では各種法要などで法要の趣旨に合った偈に、

定型の旋律をつけて唱える、

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BC%BD%E9%99%80

早はや上げ、早下げなどの伽陀独特の特徴的な旋律がある、

とある(仝上)。伽陀は、

法要の開始部分(前伽陀 ぜんかだ)と終結部分(後伽陀 ごかだ)とに唱える、

とある(仝上)。

声明、

は、

古代インドの五明(ごみょう)の一、

で、

文字・音韻・語法などを研究する学問、

を意味するが、

仏教の経文を朗唱する声楽の総称、

をいい、

言葉をもって仏を供養し讃歎することから抑揚をつけて行われた、

とありhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A3%B0%E6%98%8E、インドに起こり、中国を経て日本に伝来し、。中国では、

経唄(きょうばい)、梵唄、梵讃、唄匿(ばいのく)、梵音、

等々と呼ばれ(仝上)、日本では、天平勝宝四年(七五二)の東大寺大仏開眼供養会で四箇法要が行われ、

梵唄(ぼんばい)、

が唱えられたようである。法要儀式に応じて種々の別を生じ、また宗派によってその歌唱法が相違するが、平安時代に帰国僧によってもたらされた(仝上)、

天台声明と真言声明、

が声明の母体となっている(精選版日本国語大辞典)とある。

声明の曲節、

は、

平曲・謡曲・浄瑠璃・浪花節・民謡、

などに大きな影響を与えた(仝上)とされる。因みに、

五明(ごみょう)、

は、インドにおける五つの学問の分類で、

五明処、

ともいい、

@内明処(自宗の教えを明確にする学問、すなわち教理学)
A因明処(論理によって真偽を明確にする学問、すなわち論理学)
B声明処(言葉の使用法を明確にする学問、すなわち言語学や文法学)
C医方明処(病を治すための学問、すなわち医学や薬学)
D工業明処(工巧明ともいう。建築や技術に関する学問、すなわち工学や芸術)、

とされhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E6%98%8E、この五つは、

仏教徒の五明、

であり、外道(仏教以外の諸宗)では、A〜Dは同じで@が符印明とされるもの、またB〜Dまでは同じで@・Aがそれぞれ符印明・呪術明とされるものがある(仝上)とある。

なお、

伽陀、

は、広義には、上述の通り、

韻文体の歌謡、漢文の詩句、偈文など、

をいうが、狭義には、原始経典を分類した、

九分教(くぶきょう)、
十二部経(じゅうにぶんきょう)、

などの一つをさし、

経文の一段、または全体の終わりにある韻文体の詩句、

をいう(精選版日本国語大辞典)とされる。

十二分教、

は、

(1)契経(教説を直接散文で述べたもの) 、
(2)応頌(散文の教説の内容を韻文で重説したもの)、
(3)諷頌(最初から独立して韻文で述べたもの)、
(4)因縁 (経や律の由来を述べたもの)、
(5)本事(仏弟子の過去世の行為を述べたもの)、
(6)本生(仏の過去世の修行を述べたもの)、
(7)希法(仏の神秘的なことや功徳を嘆じたもの)、
(8)譬喩(教説を譬喩で述べたもの)、
(9)論議(教説を解説したもの)、
(10)自説(質問なしに仏がみずから進んで教説を述べたもの)、
(11)方広 (広く深い意味を述べたもの)、
(12)記別(仏弟子の未来について証言を述べたもの)、

と(日本大百科全書)、仏教の経典の形態を形式、内容から12種に分類したものをいうが、九種の分類法である、

九部経、

がより古い形態とされているが、その九種については諸説あり、

戒律制定の事情を述べるニダーナ(因縁(いんねん)物語)、
過去仏の世のできごとを物語るアバダーナ(過去世物語)、
解釈説明の形式ウパデーシャ(釈論)、

を加えたものとする(仝上)他、

因縁 諸経の因縁を説くもの、
譬喩 譬え話となるべき過去の物語
論議 教法、

あるいは、

譬喩(教説を譬喩で述べたもの)、
論議(教説を解説したもの)、
自説(質問なしに仏がみずから進んで教説を述べたもの)、

を加えたもの(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%88%86%E6%95%99・ブリタニカ国際大百科事典)等々諸説ある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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拍子をうつとて、笏のさへ舞をばなをしもつめて拍子をとり、刻笏の音にさへよと打に(梁塵秘抄口伝11)、

の、

笏(しゃく)、

は、

さく、

とも訓まし、

束帯着用の際、右手に持って威儀を整えた板片、

である(広辞苑)。唐制の、

手板(しゅはん)、

にならい、もとは、

裏に紙片を貼り、備忘のため儀式次第などを書き記した、

とある(仝上)。今日では、衣冠・狩衣・浄衣などにも用いる(仝上)。(「衣冠」は「宿直」で、「束帯」は「したうず」で、「狩衣」は「水干」で触れた。「浄衣」は、神事・祭祀・法会など宗教的な儀式の際に着用され、仏教(僧侶の僧衣)や神道(神職の神事服)をさす)。令制では、

初令天下百姓右襟、職事主典已上把笏。其五位以上牙笏。散位亦聴把笏。六位已下木笏(養老三年(719)二月乙巳)、

と、

五位以上は牙笏(げしゃく)、

と規定されたが、象牙(ぞうげ)の入手が困難なため、平安時代になると牙笏は礼服のみに用いられ、延喜式では、

聴五位已上、通用白木笏(大同四年(809)五月)

白木、

が許容され、以後礼服以外はすべて一位(いちい)・柊(ひいらぎ)・桜・榊(さかき)・杉などの木製となった(仝上)とある。長さは、

1尺3〜5寸、幅上2寸2〜3分、下1寸5分、厚さ2〜3分、

形は、

天皇は上下ともほぼ方形、臣下は上円下方として上が丸みを帯び、下部がしだいに幅狭くなり端が方形、

を例とした(日本大百科全書)とある。なお、神職は装束に関係なく木笏を常用(仝上)という。

なお、引用の笏は、「白拍子」で触れた、

笏拍子(しゃくびょうし・さくほうし)、

の意かと思われ、

神楽(かぐら)歌・催馬楽(さいばら)などで、主唱者が拍子を取る打楽器、

で、

初め二枚の笏を用いたが、のち笏を縦にまん中で二つに割った形となった。主唱者が両手に持ち、打ち鳴らして用いる、

とある(大辞林)。歌舞伎囃子や能「道明寺」の特殊演出などにも転用された(広辞苑)とある。

「笏」(漢音コツ、呉音コチ、慣用シャク)は、

形声、「竹+音符勿(モツ)」、

で(漢字源)、日本で、前述のように、

シャクと訓むのは、コツが「骨」に通じるのを忌み、また日本で用いた笏の長さが、ほぼ一尺だったので、「尺」の音を借りたもの、

とある(漢字源・広辞苑)。なお、

笏を納める袋、

は、

笏袋(しゃくぶくろ)、

といい、

保存用で錦の類を用い、裏をつけて作る、

とある(精選版日本国語大辞典)。

笏取り直す、

というと、

あわてて笏を持ち直す。転じて、はっと気がついて姿勢を改め、威儀を正す、

意、

笏紙(しゃくがみ・しゃくし)

というと、

古く、朝廷で公事を行う時、

忽忘(こつぼう)、

に備え(大言海)、公卿が備忘のために儀式の次第などを書いて、笏の裏に貼りつけた紙、

をいい、

笏の木、

は、

笏の素材とされたため、いちい(一位)の異名、

である(精選版日本国語大辞典)。

「勿」(漢音ブツ、呉音モチ)は、

象形。さまざま色の吹き流しの旗を描いたもの。色が乱れてよく分からない意を示す。転じて、広く「ない」という否定詞となり、「そういう事がないように」という禁止のことばとなった、

とあるが、別に、

象形。弓のつるが切れたさまにかたどる。弓のつるを鳴らして魔よけを行うことから、否定・禁止の助字に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「弓の弦(つる)をはじいて、払い清める」象形から、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「禁止。〜してはいけない。〜するな。」を意味する「勿」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji2378.html

象形。刀で物を二つに切るさまを象る。「きる」を意味する漢語{刎 /*mənʔ/}を表す字。のち仮借して否定の副詞{勿 /*mət/}に用いる、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8B%BF。言葉の意味の流れからは、

魔除けの弦鳴らし→禁止、

がすんなり通る気がするのだが。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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五乗


出家して、五天竺修行して、五乗の道を定めて、達摩掬多師として定給(梁塵秘抄口伝集11)、

の、

五天竺、

とは、

古代インドを東・西・南・北・中の五つに分けた総称、

で(精選版日本国語大辞典)、

五天、
五印度、
五竺、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。また、

達摩掬多(だるまきくた)、

とは、

六世紀末頃、インド那爛陀寺の僧。善無畏の師。宋高僧伝によると、定門の秘鑰を掌り、如来の密印を佩びており、顔は40歳位だが実は800歳であったといわれている。善無畏に密教の奥義を伝授し、神通力で善無畏を助け、中国に密教を弘めさせたといわれる、

とあるhttps://gmate.org/V03/lib/comp_gosyo_210.cgi?a=c3a3cbe1b5c5c2bf

真言密教は、「龍樹」でも触れたが、

大日如来、

が法門(おしえ)、を、灌頂(かんじょう)という儀式を通して、

金剛薩多(こんごうさった)、

に授け、

金剛薩多、

から、

龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)→金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)→不空三蔵(ふくうさんぞう)→善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)→一行禅師(いちぎょうぜんじ)→恵果和尚(けいかかしょう)→弘法大師、

と、真言の、

伝持の八祖(でんじのはっそ)、

とされ、日本に真言密教がつたわったとされるhttps://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/hasso%20sousyou.htmlが、この中の、インドのマカダ国の生まれの、

善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)、

が、密教を学んだのが、

達磨掬多(だるまきくた)、

とされ、80才のときに唐の長安に渡り、大日経(だいにちきょう)をはじめとする真言宗にとって重要な経典を翻訳したとされる(仝上)。

五乗(ごじょう)、

の、

「乗」はのりもの。衆生を彼岸に運載する教え、

の意で、五種の教法の総称。一般に、

人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗、

をいう(広辞苑)が、

仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、

あるいは、

声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗、天上乗、

と、宗派により名称、説き方が異なる(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

一乗」は、サンスクリット語、

エーカ・ヤーナeka-yāna(一つの乗り物)、

の訳語、

「一」は唯一無二の義、
「乗」は乗物、

の意、

開闡一乗法、導諸群生、令速成菩提(法華経)、

と、

乗物の舟車などにて、如来の教法、衆生を載運して、生死を去らしむる、

とあり(大言海)、乗(乗り物)は、

人々を乗せて仏教の悟りに赴かせる教え、

をたとえていったもので、

真の教えはただ一つであり、その教えによってすべてのものが等しく仏になる、

と説くことをいう(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)とある。「声聞」で触れたように、

悟りに至るに三種の方法、

には、

声聞乗(しょうもんじょう 仏弟子の乗り物)、
縁覚乗(えんがくじょう ひとりで覚(さと)った者の乗り物)、
菩薩乗(ぼさつじょう 大乗の求道(ぐどう)者の乗り物)、

の三つがあり、

三乗、

といい、『法華経』では、この三乗は、

一乗(仏乗ともいう)、

に導くための方便(ほうべん)にすぎず、究極的にはすべて真実なる一乗に帰す、

と説き(仝上)、

三乗方便・一乗真実、

といい、それを、

一乗の法、

といい、主として、

法華経、

をさす(仝上)。

声聞」は、

梵語śrāvaka(シュラーヴァカ)、

の訳語、

声を聞くもの、

の意で、

釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子、

である(精選版日本国語大辞典)のに対して、

縁覚(えんがく)、

は、

梵語pratyeka-buddhaの訳語、

で、

各自にさとった者、

の意、

独覚(どっかく)、

とも訳し、

仏の教えによらず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者、

をいう(仝上・日本大百科全書)。

菩薩、

は、

サンスクリット語ボーディサットバbodhisattva、

の音訳、

菩提薩埵(ぼだいさった)、

の省略語であり、

bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩埵、人)、

より、

悟りを求める人、

の意であり、元来は、

釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿、

をさしている(仝上)とされる(「薩埵」については触れた)。つまり、部派仏教(小乗)では、菩薩はつねに単数で示され、

成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊、

だけを意味する。そして他の修行者は、

釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした(仝上)。

阿羅漢、

とは、

サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、

で、

尊敬を受けるに値する者、

の意。

究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、

をいう。部派仏教(小乗仏教)では、

仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、

をさし、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、

無学(むがく)、

ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教では、

個人的な解脱を目的とする者、

とみなされ、

声聞、
独覚(縁覚)、

を並べて、二乗・小乗として貶しており、

悟りに至るに三種の方法、

である、

三乗、

を、

声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、

とし、大乗仏教では、

菩薩、

を、

修行を経た未来に仏になる者、

の意で用いている。

悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、

また、仏の後継者としての、

観世音、
彌勒、
地蔵、

等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。で、大乗仏教では、「阿羅漢」も、

小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩)には及ばない、

とされた。

一乗妙法」で触れたように、

仏の真実の教えは一つであり、すべての衆生が平等に仏になれると説く教え、

であるとするのが、

一乗、

であるのに対して、

声聞・縁覚・菩薩のそれぞれに、固有な三種の覚りへの道があるとするのが、

三乗、

であるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E4%B9%97。上述のように、

天台宗、
華厳宗、

では、

一乗が真実であり三乗は方便である、

と主張したが、

法相宗、

では、

三乗真実・一乗方便、

と主張した(仝上)とある。この場合、

一乗、
と、
三乗、

の中の、

菩薩乗、

が同一か否かという点でも見解が分かれる(仝上)とある。

四乗(しじょう)、

という場合、

声聞(しょうもん)乗・縁覚(えんがく)乗・菩薩乗・仏乗、

をいいhttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E4%B9%97

五乗(ごじょう)、

という場合、

仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、

あるいは、

声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗(人乗)、天上乗(天乗)、

の五種の教法の総称をいう(精選版日本国語大辞典)。

宗派によって異なるが、天台宗の教学では、人間の心の境涯を、

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏、

の十の世界(十界)に分け、

声聞と縁覚、

を小乗の教法として、

二乗、

と呼び、

菩薩・仏、

の大乗の教法と分け、

声聞・縁覚・菩薩、

を、

三乗、

人間界から菩薩界までを、

五乗、

と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97とある。

「乘(乗)」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、「一乗」で触れたように、

会意文字。「人+舛(左右の足の部分)+木」で、人が両足で木の上にのぼった姿を示す。剩(ジョウ 剰 水準より上にのほける→あまり)の音符となる、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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衣冠束帯


太神宮の祭主神宮寺に衣冠束帯を被下(「神道集(1358頃)」)、

とある、

衣冠束帯(いかんそくたい)、

は、

天皇以下、公家くげの正装、

を指すが、朝廷での公事・儀式などでの正装である、

束帯(そくたい)、

と、その略装である、

衣冠(いかん、いくわん)

の違いが意識されなくなった江戸時代中期に民間で呼ばれ始めたとされる(精選版日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E5%86%A0%E6%9D%9F%E5%B8%AF)が、別に、平安時代末期以降、

宮中での束帯の着用機会が減少し、衣冠や直衣(のうし・なおし・なほし)の着用が拡大した結果、参内(内裏に参上すること)するにあたって束帯の代用とする衣冠を指して、

衣冠束帯(いくわんのそくたい)、

束帯の代用とする直衣を指して、

「直衣束帯(なほしのそくたい)、

というようになったことに始まるという説もある(仝上)。

もともと、大宝令を改修した養老令(718)の衣服令では、即位・朝賀などの朝廷の儀式に際して着用する、五位以上の、

礼服(らいふく)、

と、

諸臣の参朝の際に着用する、

朝服(ちょうふく)、

が定められ、

すべて唐風をそのままに採用、

した(有職故実図典)とされる。

礼服、

は、

即位式、大嘗会、元日節会などの大儀に着用せし正装、

で(大言海)、文官の礼服は、

礼冠(らいかん)、衣(大袖と小袖)、褶(ひらみ)、白袴(しろのはかま)、絛帯(くみのおび)、綬(じゅ)、玉佩(ぎょくはい)、牙(げ)の笏(しゃく)、襪(しとうず)、せきのくつ、

武官の礼服は、

礼冠、位襖(いおう)、裲襠(りょうとう)、白袴、行縢(むかばき)、大刀(たち)、腰帯、靴(かのくつ)、

女官の礼服は、

宝髻(ほうけい)、衣、紕帯(そえのおび)、褶および裙(うわも)、錦の襪(しとうず)、せきのくつ、

からなり(「したうづ」「せきのくつ」は「したうづ」で触れた)、

天子の礼服は、

冕服(べんぷく)、

といい、

袞衣 (こんえ) と冕冠 (べんかん) 、

とからなる礼服(デジタル大辞泉)で、聖武天皇の天平四年(732)正月から用いられた(有職故実図典)。

袞冕(こんべん)、

ともいい、袞衣は、

袞龍御衣(こんりょうのぎょい)の略、

で、龍のぬいとりをつけた礼服で、中国皇帝の

冕服や袞服、

に相当するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%9E%E8%A1%A3。「冕冠」の、

冕(べん)とは、もと中国に由来する冠の一種で、冠の前後に旒(りゅう)と呼ばれる玉飾りを垂らしたものを指す、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0、和名類聚抄(平安中期)に、

冕 続漢書輿服志云冕 音免和名玉乃冠 冠之前後垂旒者也、

とあり、

五彩の玉を貫いた糸縄を垂れた冕板(べんばん)をつけていた、

ので、

袞冕(こんべん)、

と呼ばれる。なお、衣服令では、

礼服の冠は、冠と書し、朝服の冠は頭巾と書す、

とある(大言海)。礼服の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E6%9C%8D_(%E5%AE%AE%E4%B8%ADに譲る。

唐風模倣の礼服は、平安時代以降の和風化に伴い、使用範囲を減じて、

即位の大礼、

だけの使用となった(有職故実図典)。なお、鎌倉、室町時代には、武家は、

直垂(ひたたれ)、

をもって正装とし、「素襖」で触れたように、江戸時代には、侍従以上は直垂、四品は狩衣、大夫は大紋、重役は布衣、無位無官の士は素襖を以て礼服と定む、

とある(大言海)。なお、「直垂」「大紋」については「素襖」で、「狩衣」「布衣」については「水干」で触れた。

朝服、

は、参朝して事務に当たる一般官人が着用した衣服、

で、飛鳥時代から平安時代にかけて着用された装束を、特に、

朝服、

といい、和風化に伴って変化した朝服を、

束帯(そくたい)、

という(有職故実図典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%9C%8D)。

朝服、

は、上着には官位相当の色(当色 とうじき)の区別があり、形式はイラン系唐風服装の影響が強い(日本大百科全書)もので、文官は、

頭巾(ときん)、衣(きぬ)、笏(しゃく)、白袴(しろばかま)、腰帯(ようたい)、白襪(しろしとうず)、烏皮履(くりかわのくつ)、

で、

頭巾は天武朝の漆紗冠(しっしゃかん 針金の芯に漆紗を貼り、幞頭の垂紐も漆で固めたもの)と同じ、後世の冠の前身で、五位以上の者は黒羅(くろら)、六位以下は黒縵(かとり)(平絹)でつくられたもの。衣は裾(すそ)に襴(らん)という部分を加えた上着で、当色が定められている。笏は五位以上は象牙(ぞうげ)、六位以下は木製を用いる。腰帯は黒革製で、ホ具(かこ)といわれるバックルで留め、その飾りは五位以上が金銀装、六位以下が烏油(くろづくり)、

とある(日本大百科全書)。「襪(したうづ)」は靴下のことで白絹製、烏皮履は黒革製の沓(くつ)。

武官は、

頭巾、位襖(いおう)、笏、白袴、腰帯、横刀(たち)、白襪、脛巾(はばき)、履、

という構成で、

頭巾は、五位以上の者が黒羅製を、六位以下の者が黒縵製を用い、黒の緌(おいかけ)を顔の両側にかける。位襖は無襴衣で両脇(わき)を縫わずにあけた上着で、位によって色を異にしている。笏、白袴、腰帯は文官のものと同じ。横刀は平組(ひらぐみ)の紐(ひも)で帯びる太刀(たち)で、五位以上の者が金銀装、六位以下の者が烏装(くろづくり)。集会のときには、身分によって錦(にしき)の裲襠(りょうとう)を着け、赤脛巾を巻き、弓箭(ゆみや)を帯び、あるいは挂甲(けいこう)という鎧(よろい)を着け、槍(やり)を持つ。このときに、衛士(えじ)は位襖ではなく、桃染衫(あらぞめのさん)を着て白布帯、白脛巾を用い、草鞋(そうかい)を履き、横刀に弓箭または槍を持つ、

とあり、女子は、五位以上の者が、礼服の構成から宝髻(ほうけい)、褶(ひらみ)、舃(せきのくつ)を省き、

衣、紕帯(そえのおび)、纈裙(ゆはたのも)は礼服と同じで、そのほか白襪、烏皮履、

とし、六位以下の者が、

義髻(ぎけい毛)、衣、紕帯、纈紕裙(ゆはたのそえのも)、白襪、烏皮履、

の構成である。衣は文官と同様、色が礼服と同じという意で、形は異なったと思われる。紕帯は縁どりをした帯で、纈裙は絞り染めのロングスカート。帯も裙も身分により配色が異なる。義髻はかもじのことで、纈紕裙は緑色と縹(はなだ)色の絞り染めの絹を細く裁ち、縦にはぎ合わせた裙。初位の者の裙には絞り染めをしない、

とある(仝上・有職故実図典)。衣服令によると、文官の袍(表衣 うえのきぬ))が、

衣、

と呼ばれるのに対し、武官の袍は、

襖、

と呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%9C%8D。この「襖」が闕腋袍(けってきのほう わきあけ)であったとみられる(仝上)。

朝服が、唐風を脱して、わが国独自の服装である、

束帯、

へと変じていく。現在、飛鳥時代から平安時代にかけて着用された装束を特に、

朝服、

といい、これ以降、国風文化発達に伴って変化した朝服を、

束帯(そくたい)、

と称するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%9C%8D

「束帯」は「したうづ」で触れたように、

飾りの座を据えた革の帯で腰を束ねた装束、

の意(有職故実図典)で、『論語』の公冶長篇の、公西華(字は赤)についての孔子の、

赤也何如(赤や何如)、
子曰、赤也、
束帯立於朝(赤(せき)は束帯して朝に立ち)、
可使與賓客言也(賓客と言(ものい)わしむべし)、

の言葉にある、

束帯立於朝、

に由来するとされ(仝上)、

公家(くげ)男子の正装。朝廷の公事に位を有する者が着用する。養老(ようろう)の衣服令(りょう)に規定された礼服(らいふく)は、儀式のときに着用するものとされたが、平安時代になると即位式にのみ用いられ、参朝のときに着る朝服が礼服に代わって儀式にも用いられ、束帯とよばれるようになった、

とある(有職故実図典・日本大百科全書)。

その構成は、下から、

単(ひとえ 肌着として用いた裏のない衣。地質は主に綾や平絹)・袙(あこめ 「あいこめ」の略。下襲(したがさね)と単(ひとえ)との間に着用)・下襲(したがさね 内着で、半臂(はんぴ)または袍(ほう)の下に着用する衣。裾を背後に長く引いて歩く。位階に応じて長短の制がある)・半臂(はんぴ 内衣で、袖幅が狭く、丈の短い、裾に襴(らん)をつけたもの)・袍(ほう 上着。「うえのきぬ」)を着用、袍の上から腰の部位に革製のベルトである石帯(せきたい)を当てる。袴(はかま)は大口袴・表袴の2種類あり、大口を履き、その上に表袴を重ねて履く。冠を被り、足には襪(しとうず)を履く。帖紙(たとう)と檜扇(ひおうぎ)を懐中し、笏(しゃく)を持つ。公卿、殿上人は魚袋(ぎょたい)と呼ばれる装飾物を腰に提げた、

とあり、武家も五位以上の者は大儀に際して着用した。その構成は、

冠、袍、半臂、下襲(したがさね)、袙(あこめ)、単(ひとえ)、表袴、大口(おおぐち)、石帯(せきたい)、魚袋(ぎょたい)、襪(したうづ)、履(くつ)、笏(しゃく)、檜扇(ひおうぎ)、帖紙(たとう)、

よりなる。文官用と武官用、および童形用の区別がある。文官は、

有襴(うらん 両脇が縫いふさがり、裾に襴(らん 縫腋(ほうえき)の裾に足さばきのよいようにつける横ぎれ。両脇にひだを設ける)がついた)の袍または縫腋の袍とよばれる上着を着て、通常は飾太刀(かざりたち)を佩(は)かぬが、勅許を得た高位の者は儀仗(ぎじょう)の太刀(たち)を平緒(ひらお)によって帯び、

武官は、

冠の纓(えい)を巻き上げて、いわゆる巻纓(けんえい)とし、緌(おいかけ)をつけた緒を冠にかけてあごの下で結んで留める。そして無襴の袍または闕腋(けってき)の袍といわれる、両脇(わき)を縫い合わせずにあけた上着を着て、毛抜形(柄(鉄製)と刀身とが接合され一体となるよう作られている)と称される衛府(えふ)の剣〈たち〉を佩く。弓箭(きゅうせん)を携え、箭(や)を収める具として胡籙(やなぐい)を後ろ腰に帯びる、

とある(仝上・日本大百科全書)。

「衣冠」は、

略式の朝服、

の称で、

束帯、

を、

晝装束(ヒノサウゾク)、

というのに対して、

宿直(とのゐ)装束、

という(大言海)。「宿直」で触れたように、

宿装束
宿直衣(とのいぎぬ)、

ともいい、その姿を、

宿直姿、

といい(仝上・日本大百科全書)、枕草子に、

うへのきぬの色いときよらにて革の帯のかたつきたるを宿直姿にひきはこえて紫の指貫(さしぬき)も雪に冴え映えて、

とあるように、文官も武官も、

縫腋(ほうえき)の袍(ほう)のはこえ(後ろ腰の袋状にたくし上げた部分)を外に出して着る、すなわち、

衣冠(いかん)姿、

であった(仝上)。ただ、平安時代末期の仮名文の平安装束の有職故実書『雅亮(まさすけ)装束抄』(源雅亮)には、

とのゐそうぞくといふは、つねのいくはんなり、さしぬきしたはかまつねのことし、そのうへにわきあけをきて、かりぎぬのをびをするなり、

とあって闕腋(けってき 衣服の両わきの下を縫い合わせないであけておくこと)の袍も用いたようである。

「袍(ほう)」は、「したうづ」で触れたように、

束帯や衣冠などの時に着る盤領(まるえり)の上衣、

で、

束帯や衣冠に用いる位階相当の色による、

位袍、

と、位色によらない、

雑袍、

とがあり、束帯の位袍には、文官の有襴縫腋(ほうえき 衣服の両わきの下を縫い合わせておくこと)と武官の無襴闕腋(けってき)の二種がある(精選版日本国語大辞典)。

束帯、

は、

石帯で体を締め付けるなどして窮屈であったため、宿直(とのい)には不向きであったので、宿直装束が生まれた。「石帯」は、「したうづ」で触れたように、

袍(ほう)の腰に締める帯。牛革を黒漆で塗り、銙(か)とよぶ方形または円形の玉や石の飾りを並べてつける。三位以上は玉、四位・五位は瑪瑙(めのう)、六位は烏犀角(うさいかく)を用いた、

ものである。「衣冠」の構成は、束帯と同じであるが、束帯の下着類を大幅に省いて、共布のくけ紐で袍を締め、袴もゆったりとした指貫とした。 着用するには、まず下着を着て指貫をはき、単、袍を着る。垂纓の冠をかぶり、扇を持つ。神詣以外の衣冠着用時に笏は持たない。また、太刀を佩用する場合でも平緒は用いない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E5%86%A0

「指貫」は「」で触れたように、

裾を紐で指し貫いて絞れるようにした袴、

で、「いだしあこめ」で触れたように、

袴の一種。八幅(やの)のゆるやかで長大な袴で、裾口に紐を指し貫いて着用の際に裾をくくって足首に結ぶもの。朝儀の束帯の際に略儀として用いる布製の袴ということから布袴(ほうこ)ともいうが、次第に絹製となり、地質・色目・文様・構造なども位階・官職・年齢・季節によって異なった、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

横開き式の袴で前後に腰(紐)がつけられ、前腰を後ろで、後ろ腰を前で、もろわなに結ぶ。裾口(すそぐち)に通した緒でくくり、すぼめるようにしてある、

もので(日本大百科全書)、

衣冠、または直衣、狩衣の時に着用する、

とある(広辞苑)。なお、

衣冠、

が、

宿直衣(とのいぎぬ)、

であるのに対して、普段着を、

直(ただ)の衣、

という意味で、

直衣(のうし)、

という。「いだしあこめ」で触れたように、「直衣(なほし)」は、

衣冠が宿衣(とのいぎぬ)なのに対して、直(ただ)の衣の意で、平常の服であることからきた名、

である。束帯、衣冠のように当色(とうじき 位階に相当する服色)ではなく、好みの色目を用いたことにより、

雜袍(ざつぽう)、

と呼ばれた。ただ、

雜袍聴許、

を蒙っての参内、あるいは院参などの場合は、一定の先例にしたがった(有職故実図典)、とある。その場合の

直衣姿、

は、

冠、
直衣付当帯、
衣(きぬ)、
指貫、
下袴、
檜扇(ひおうぎ)、
浅沓、

となっている(仝上)。

「狩衣」は「水干」で触れたように、

「狩衣」は、奈良時代から平安時代初期にかけて用いられた襖(あお)を原型としたものであり、

両腋(わき)のあいた仕立ての闕腋(けってき 両わきの下を縫い合わせないであけておく)であるが、袍(ほう)の身頃(みごろ)が二幅(ふたの)でつくられているのに対して、狩衣は身頃が一幅(ひとの)で身幅が狭いため、袖(そで)を後ろ身頃にわずかに縫い付け、肩から前身頃にかけてあけたままの仕立て方、

となっている(日本大百科全書)。平安時代後期になると絹織物製の狩衣も使われ、布(麻)製のものを、

布衣(ほい)、

と呼ぶようになり、

狩衣は、上皇、親王、諸臣の殿上人(てんじょうびと)以上、

が用い、

地下(じげ 昇殿することを許されていない官人)は布衣を着た。狩衣姿で参内することはできなかったが、院参(院の御所へ勤番)は許されていた(岩波古語辞典)、とある。ただ、近世では、有文の裏打ちを、

狩衣、

とよび、無文の裏無しを、

布衣、

とよんで区別した(デジタル大辞泉・広辞苑)。「」は、「束帯」の盤領(まるえり)の上着のうち、武官用の、

闕腋(けってき)の袍、

である、

襴(らん)がなく袖から下両腋を縫わないで開け、動きやすくした袍、

をいう。令義解(718)に、「襖」は、

謂無襴之衣也、

と、

左右の腋を開け拡げているために、

襖、

というが、「襖」を、

狩衣、

の意とするのは、野外狩猟用に際して着用したので、

狩衣が、

狩襖(かりあお)、

といったため、「狩」が略されて、「襖」と呼んだためである(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。狩衣姿の構成は、

烏帽子、
狩衣、
当帯(あておび 腰に帯を当てて前に回し、前身(衣服の身頃のうち、前の部分)を繰り上げて結ぶ)、
衣(きぬ 上着と肌着(装束の下に着る白絹の下着)との間に着た、袿(うちき)や衵(あこめ)など)、
単(ひとえ 肌着として用いた裏のない単衣(ひとえぎぬ)の略。平安末期に小袖肌着を着用するようになると、その上に重ねて着た)、
指貫(さしぬき)、
下袴(したばかま)、
扇、
帖紙(じょうし 畳紙(たとうがみ)、懐紙の意)、
浅沓(あさぐつ)、

とされている(有職故実図典)が、晴れの姿ではない通常は、衣、単は省略する(有職故実図典)。色目は自由で好みによるが、当色以外のものを用い、袷の場合は表地と裏地の組合せによる襲(かさね)色目とした。

礼服、束帯については、「したうづ」で、「衣冠」は「宿直」で、「直衣」は「いだしあこめ」で、「狩衣」は「水干」)で、それぞれ触れた。

参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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催馬楽


蓮華王院寶蔵にひしてとめおくところの催馬楽を、あらあらこのふみにしるしおきぬ(梁塵秘抄口伝集第11)、

の、

催馬楽、

は、古代歌謡の一種で、

奈良時代に民謡であったものを、歌詞をとって、平安時代に至って外来楽である宮廷の唐楽(とうがく)風の雅楽の曲調にあてはめて歌曲としたもの、唐楽の音調で、笏拍子(しゃくびやうし)・和琴(わごん)・竜笛(りゅうてき)・篳篥(ひちりき)・笙(しやう)・箏(そう)・琵琶などの楽器を伴奏とし、歌のリーダー (句頭)が曲の冒頭部分を独唱し、次に全員の拍節的な斉唱となる声楽曲、

とあり(岩波古語辞典・広辞苑・ブリタニカ国際大百科事典)、冒頭部を除き、曲全体は、

拍節的なリズムをもち、おなじ雅楽歌謡の朗詠に比べると躍動感のある曲趣を感じさせる。歌詞の中に種々の軽妙なはやしことばを伴う、

のが特色と(世界大百科事典)ある。歌の内容は、

恋愛歌、祝儀歌などさまざまで、饗宴の性格により歌われる歌が決っていて、のちには一種の故実として固定化した、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。中古の初め、

少なくとも貞観元年(八五九)以前に譜が選定され、宮廷、貴族の宴遊や寺院の法会(ほうえ)などに歌われた。笏拍子(しゃくびょうし)を打って歌い、和琴(わごん)、笛などを伴奏に用い、旋律の違いで、律と呂(りょ)とに分かれる、

とあり、六国史(りっこくし)の一つ、勅撰歴史書『三代実録』(清和(せいわ)(在位858〜876)、陽成(ようぜい)(在位876〜884)、光孝 (こうこう)(在位884〜887)の時代30年を収めた編年体の実録)貞観(じょうがん)元年(859)10月23日のくだりに、

(八十余歳で薨去した尚侍の)広井少修徳操、挙動有礼、以能歌見称、特善催馬楽、諸大夫、及少年好事者、多就而習之(広井女王少(わか)くして徳操を修む。挙動礼り、歌を能くするを以て称せらる。特に催馬楽歌を善くす、諸大夫及び少年好事者、多く就きて習ふ)、

とあるのが文献上の初見とされ、その20〜30年前の仁明(にんみょう)天皇のころが催馬楽流行の一頂点であったらしい(日本大百科全書)。源家と藤家との二流派を生じたが、応仁の乱後廃絶し、歌詞は律は『我が駒』『沢田川』など25首、呂(りょ)は『あな尊と』『新しき年』など36首が残る。寛永三年(一六二六)に再興され、明治時代には「伊勢海(いせのうみ)」「更衣(ころもがえ)」など六曲が行なわれ、大正以後数曲が復興された(精選版日本国語大辞典)という。

催馬楽、

の語源については、梁塵秘抄口伝集一に、

催馬楽は、大蔵の省(つかさ)の国々の貢物納めける民の口遊(くちずさ)みに起これり。……催馬楽は、公私(おほやけわたくし)のうるはしき楽(あそび)の琴の音、琵琶の緒、笛の音につけて、我が国の調べともなせり、

とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)には、

催馬楽、律我駒曲、是也、

とあり、郢曲秘抄(梁塵秘抄口伝集第11)には、

催馬楽、本、路頭巷里之謡謌也、然而後、好事之士女、取以為弾琴歌曲、故其歌因來、其有古代、有中世……遂翫之於宮中已久矣、

とあり、

室町時代の音楽暑「體源抄」は、

催馬楽と云ふは、催馬楽と云ふ楽あり、それより事起り、此楽の唱歌に、こまをもよほすと云ふ琴のりける、やがて、歌になして、國國より歌ひ出したり、我駒(わがこま)と云ふ催馬楽、是なり、故に馬を催す、と書きたるなり、

等々とある。ために、

催馬と云ふは、律歌の第一曲の題を、我駒(わがこま)と云ひ、その歌に、「いで我が駒、早く行きこせ」(早く打ちて得させよ)とありて、馬を催す心なるをとりて、数曲の題名としたるなりと云ふ(大言海)、
譜本の律旋冒頭にある『我が駒(こま)』の歌詞「いで我が駒早く行きこそ」によったとする(日本大百科全書)、

と、

諸国から朝廷に貢物を運搬するときにうたった歌で、馬をかり催す、

意とした「梁塵愚案抄」説に依拠したもの、さらに、そこから、

名称は馬子歌の意、あるいは前張さいばりの転などといわれるが定説はない(広辞苑)
諸国から貢物を大蔵省に納める際、貢物を負わせた馬を駆り催すために口ずさんだ歌であったからとする説(日本大百科全書)、
馬子歌に起因するという説(世界大百科事典)、
大嘗会に神馬を牽(ひ)くさいにうたった歌(和訓栞)
神馬を奉る時、神が馬に乗って影向するよう催し歌ったところから(河社かわやしろ)、

と、少し広く馬子歌ないし、馬に関わるとした説があるが、「催馬楽」の文字から「馬」と絡めているようにも見えるものもある。他に、

唐楽曲の催馬楽(さいばらく、あるいは催花楽)の曲調に唱ったから(岩波古語辞典・日本語の語源)、
催神楽(かぐら)歌の「さきはりに衣は染めん」という詞からサイハリ(前張)が出て、それがカグラ(神楽)のラに引かれてサイバラとなり、催馬楽の字を当てるようになった(折口信夫=催馬楽考)、
神楽の前張を好事家が催馬楽と書いたことによる(賀茂真淵=催馬楽考)、
薩摩に催馬楽村があり、その付近では都曇答蝋、鼓川、轟小路などの地名があり、ここに住んでいた楽人がうたいはじめた歌謡https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%AC%E9%A6%AC%E6%A5%BD
ラは「楽」の字音、サイバはサルメ(猿女)の訛。神楽(かみあそび)に対してサルメ-ラ(楽)といった(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々諸説あるが、確かなところは不明である。しかし、平安末期の「梁塵秘抄口伝集一」の説が、時代的には近く、妥当なのではあるまいか。その意味で、は駒歌とするのも適切に思えるのだが。

郢曲」、「梁塵秘抄」については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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律呂


諸呂・律にうつされるは、寛平の御時に催馬楽を調子定給とかや(梁塵秘抄口伝集第12)、

にある、

律呂(りつりょ)、

は、

雅楽の十二律の律の音と呂の音、

をいい、転じて、

音律(音高の相対的な関係の規定)、
楽律(楽音を音律の高低に従って並べた音列、十二律や平均律など)、

さらに、

律旋と呂旋、

すなわち、

施法(せんぽう 音の配列、主音の位置などから区別される旋律の法則、モード)、

の意で使う(精選版日本国語大辞典)が、

呂律(りょりつ)、

ともいい、訛って、

ろれつ、

とも訓む。「呂律(ろれつ)」は、

呂律(ろれつ)が回らない、

で言う、

ろれつ、

である。「呂律が回らない」は、

酒に酔いなどして言語がはっきりしないさま、

にいう(広辞苑)が、

リョリツの転、

で、

ことばの調子。物を言うときの調子、

の意とあり、「リョリツ(呂律)」が、

具体的な呂の音、律の音という音階を言っていたものが、

音階一般、

に転じ、さらに、「ろれつ」と転じて、

ことばの調子、言い方、

にまで変じた、ということらしい。

十二調子

つまり、

十二律、

は、

中国や日本の雅楽に用いられた一二の音、

をいい、

一オクターブ間を一律(約半音)の差で一二に分けたもの、

で、一二のそれぞれの名は、中国では、

黄鐘(こうしょう)・大呂(たいりょ)・太簇(たいそう)・夾鐘(きょうしょう)・姑洗(こせん)・仲呂(ちゅうりょ)・蕤賓(すいひん)・林鐘(りんしょう)・夷則(いそく)・南呂(なんりょ)・無射(ぶえき)・応鐘(おうしょう)、

日本では、

壱越(いちこつ)・断金(たんぎん)・平調(ひょうじょう)・勝絶(しょうせつ)・下無(しもむ)・双調(そうじょう)・鳧鐘(ふしょう)・黄鐘(おうしき)・鸞鏡(らんけい)・盤渉(ばんしき)・神仙(しんせん)・上無(かみむ)、

その基音(黄鐘および壱越)は、

長さ九寸の律管が発する音、

とされた(精選版日本国語大辞典)。

十二調子」で触れたように、日本・中国の音楽で、低音から、

宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)、

の5音を、

五音(ごいん)、

と言い、また、その構成する音階をも指す(広辞苑)。五音に、

変徴(へんち 徴の低半音)・変宮(へんきゅう 宮の低半音)、

を加えた7音を、

七音(しちいん)、
または、
七声(しちせい)、

という(仝上)。西洋音楽の階名で、宮をドとすると、商はレ、角はミ、徴はソ、羽はラ、変宮はシ、変徴はファ#に相当し、

宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮はファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミに相当、



西洋の教会旋法のリディアの7音に対応する、

とあり(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A3%B0)、

日本の雅楽や声明(しょうみょう)も使用する、

とする(仝上)。なお、「五声」は、

三分損益法(さんぶんそんえきほう)、

に基づいている(仝上)とある。『史記』に、

律數 九九八十一以為宮 三分去一 五十四以為徵 三分益一 七十二以為商 三分去一 四十八以為羽 三分益一 六十四以為角、

とあるが、これは、

完全5度の音程は振動比2:3で振動管の長さは2/3となる。すなわち、律管の3分の1を削除すると5度上の音ができ、加えると5度下の音ができる。前者を三分損一(去一)法、後者を三分益一法と称し、両者を交互に用いるのが三分損益法である、

とあり(日本大百科全書)、

5度上の音を次々に求めるピタゴラス定律法と同じ原理、

で、日本では、

損一の法を順八、益一の法を逆六、

といい、別名、

順八逆六の法、

と称する(仝上)とある。つまり、古代ギリシャでも古代中国でも音楽は盛んだったが、二つの異なる文化が、

周波数比が2:3である二つの音はよく調和する、

という全く同じ現象に到達していたのであるhttps://www.phonim.com/post/what-is-temperament。現代では周波数が2:3であるような音は、

完全5度、

と呼ばれている(仝上)。

日本へは奈良時代にこの中国の五声が移入されたが、平安時代になると日本式の五声が生まれ、中国の五声の第五度(徴)を宮に読み替えた音階で、西洋音階のド・レ・ファ・ソ・ラに相当する。中国の五声を、

呂(りょ)、

日本式の五声を、

律(りつ)、

とよぶのが習わしとなった(仝上)。なお、日本では、

律呂、

が、音程(二つの音の高さの隔たり)の意味の他に、

音律(音の高さのこと)、

の意味や、

音階(一定の音程(音の間隔)で高さの順に配列した音の階段)、

の名称としてつかわれたりしているのでややこしい。

十二律呂、

という場合は、

十二律を六つずつに分けたもの、

をいい(世界大百科事典)、

音律の意味では、十二律の、奇数番目の六つの音律を、陽の音のとして、雅楽では、

律、

といい、

壱越(いちこつ)、平調(ひょうじょう)、下無(しもむ)、鳧鐘(ふしょう)、鸞鏡(らんけい)、神仙(しんせん)、

の、

六音を、

六律、

偶数番目の六つの音律を、陰に属する音として、

呂、

といい、

断金(たんぎん)、勝絶(しょうせつ)、双調(そうじょう)、黄鐘(おうしき)、盤渉(ばんしき)、上無(かみむ)、

の六音を、

六呂、

といい、併せて、

六律六呂、

という。その両者をあわせたものを、

十二律呂、

とよび、

律呂、

は、

その略称で、

楽律、

ともいう(日本大百科全書)。

また、旋法または音階を二分類するための用語としては、時代によって内容の規定は異なるが、現在では、

壱越調(いちこつちょう)、双調(そうぢょう)、太食調(たいしきちょう)の3調子、

が、

第一音宮から商・角・嬰角・徴(ち)・羽(う)・嬰羽・宮の順で、各音の間隔が一音・一音・半音・一音・一音・半音・一音となるもの、

で、

洋楽のソ・ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソに当たる、

呂旋(りょせん)、
呂旋法、

また、

平調(ひょうぢょう)、黄鐘調(おうしきちょう)、盤渉調(ばんしきちょう)、

の3調子が、

第一音宮から商、嬰商、角、徴(ち)、羽(う)、嬰羽、宮の順で、各音の間隔が、一音、半音、一音、一音、一音、半音、一音となるもの、

で、洋楽のレ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・レに当たる、

律旋(りっせん)、
律旋法、

に分類されている(仝上・精選版日本国語大辞典)。この場合、

十二律の個々の音を二分類する律呂とは意味が異なる、

ので、たとえば、

壱越調は呂旋、

に属し、

壱越の音は律、

ということになる(仝上)。

「律」(漢音リツ、呉音リチ)は、

会意文字。聿(イツ)は「手の形+筆の形」の会意文字。律は「彳(おこない)+聿(ふで)」で、人間の行いの基準を、筆で箇条書きにするさまを示す。リツということばはきちんとそろえて秩序だてる意を含む、

とある(漢字源)。別に、

字源
形声。「彳」+音符「聿 /*RUT/」。「道理」「きまり」を意味する漢語{律 /*rut/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BE%8B

形声。彳と、音符聿(イツ、ヒツ)→(リツ)とから成る。均一にならす、ひいて、おきての意を表す(角川新字源)、

会意文字です(彳+聿)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「手で筆記用具を持つ」象形から、人が行くべき道として刻みつけられている言葉を意味し、そこから、「おきて」を意味する「律」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji966.html

等々ともある。

「呂」(漢音リョ、呉音ロ)は、

象形。一連に連なった背骨を描いたもの。似たものが一線上に幷意を含む。また、転じて、並んだ音階をも呂という、

とある(漢字源・角川新字源・https://okjiten.jp/kanji2079.html)が、

象形。金属のインゴッドを2つ重ねたさまを象る。ある種の金属を指す単語漢語{鑪 /*raa/}を表す字。[字源 1]
『説文解字』では背骨の形を象ると解釈されているが、これは誤った分析である、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%82

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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朗詠


朗詠のことを、とりどり語り侍りき(梁塵秘抄口伝集第十二)、

の、

朗詠、

は、漢語で、

朗詠長川(孫綽、遊天台山賦)、

と、

朗吟、

と同義で、

清くほがらかに歌う、

意(字源)だから、和語でも、

和歌を朗詠する、

というように、

詩歌を声高くうたう、

意でも使う(広辞苑)が、特に、

漢詩文の秀句を訓読みに和げて歌ひし節、

をいい(字源)、平安中期以降、管弦の遊びの折などに、

漢詩文の二節一連のものに曲節をつけてうたう自由なリズムの謡物、

をいう(大辞林)。元来、

嵯峨天皇(九世紀)以来、詩文専ら行われて、詩を朗詠せしが、醍醐天皇(十世紀)の頃より、和歌大いに起りて、歌をも朗詠せり、

と(大言海)、和歌もその対象となり(岩波古語辞典)、中世以降、

雅楽化、

された(デジタル大辞泉)。

竜笛(りゅうてき)・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)の伴奏で、数人が旋律をつけて独唱・斉唱、

し(「竜笛」・「篳篥」・「笙」については、「篳篥」で触れた)、

拍節がないこと、音高が固定していないこと、

が特徴とある(広辞苑)。朗吟するための詩歌、歌曲を集めたものに、藤原公任の、

和漢朗詠集、

藤原基俊の、

新撰朗詠集、

などがある(広辞苑)。なお、催馬楽・今様などを含めて、広義には、「郢曲(えいきょく)」に含まれる(学研古語辞典・日本大百科全書)。地方の民謡を詞章とした拍節的(一定の時間単位で繰り返されるアクセントの周期的反復)な、

催馬楽

に対して、

朗詠、

は二節一連の漢詩を用い、自由拍子で拍節はない。

漢詩を一ノ句から三ノ句に分け、各句の初めを独唱、「付所(つけどころ)」の指示がある箇所からは笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・竜笛(りゅうてき)(各一管)の付奏により斉唱で謡われる、

とある(仝上)。

源雅信が一定の曲節をつけたという『極楽尊』『徳是北辰(とくはこれほくしん)』などを、

根本七首、

と称し、のちに曲目が増え、藤原宗忠・忠実(ただざね)らの『朗詠九十首抄』、藤原公任(きんとう)の『和漢朗詠集』につながる(仝上)。宇多天皇の孫にあたる源雅信(920〜93)が、そのうたいぶりのスタイルを定め、一派を確立し、雅信を流祖とする源家(げんけ)と、《和漢朗詠集》《新撰朗詠集》の撰者藤原公任、藤原基俊などの流派である藤家(とうけ)の2流により、それぞれのうたいぶりや譜本を伝えた(世界大百科事典)が、藤家(とうけ)は絶えた(日本大百科全書)とある。

210種の詞章があったというが、現在は14種、

とされる(山川日本史小辞典)。

2の句の音域が高くて困難なことから、

二の句がつげぬ、

という言回しがうまれたともいう(仝上)とある。

二の句、

とは、雅楽の朗詠で三段階あるうちの二段目の句、

のことで、

一段目は低音域、二段目は高音域、三段目は中音域で、二の句は高音域である。高音のまま詠じ続けて、息切れしやすく難しいことから、声に出せないさまを「二の句が継げない」と言うようになった、

とある(語源由来辞典)。

「朗」(ロウ)は、

会意兼形声。良は、きれいに精白したこめをもたらすことを示す会意文字。清らかで曇りがない意を含む。粮(リョウ)の原字。朗は「月+音符良」で、月が澄んでいること、

とある(漢字源)。

形声。月と、音符良(リヤウ、ラウ)とから成る。月光が明るい、ひいて「あきらか」「ほがらか」の意を表す(角川新字源)、

会意兼形声文字です(良+月)。「穀物の中から特に良いものだけを選び出す器具」の象形(「よい」の意味)と「欠けた月」の象形から、良い月を意味し、そこから、「あかるい」を意味する「朗」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1073.html

ともある。

「詠(漢音エイ、呉音ヨウ)は、

会意兼形声。「言+音符永(ながい)」、

とあり(漢字源)、

会意形声。言と、永(ヱイ)(ながい)とから成り、声を長く引いて「うたう」意を表す(角川新字源)、

会意兼形声文字です(言+永)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「支流を引き込む長い流域を持つ川」の象形(「いつまでも長く続く・はるか」の意味)から、口から声を長く引いて「(詩歌を)うたう」を意味する「詠」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1238.html

ともある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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神遊


神遊の歌に、唐神楽拍子唱こと申はべりき(梁塵秘抄口伝集第14)、

の、

神遊(かみあそび)、

は、

神々が集まって楽を奏し、歌舞すること、

を言うが、転じて、

神前で歌舞を奏して神の心を慰めること。また、その歌舞、

の意となる(精選版日本国語大辞典)。

神楽(かぐら)、

と同じ意味である(仝上)。

神楽、

は、

神前に奏される歌舞、

で、

神座を設けて神々を勧請(かんじょう)して招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の古い形、

とされ、古くは、

神遊(かみあそび)、

とも称したhttps://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1389。「古今集」には、

神がきのみむろの山のさかき葉は神のみまへにしげりあひにけり
ちはやぶる賀茂のやしろの姫小松よろづ世ふとも色はかはらじ

等々http://www.milord-club.com/Kokin/kan/kan20.htm

神あそびのうた、

が十余首収められている(精選版日本国語大辞典)。

神楽」で触れたように、本質的には、

招魂の鎮魂(たましずめ)作法、

であり、文字通り、

神前に奏される歌舞、

つまり、

手に榊などの採物(とりもの)を持ち、そこへ神を招き、歌舞を捧げて、神を楽しませて、天に送る舞楽、

で(岩波古語辞典)、

神座(かむくら・かみくら)の転、

とされる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。

カミ(ム)クラ→カングラ→カグラと転じたる語、

とある(大言海)。「座(くら)」は、

神おろしをするところ。この舞楽に使う榊や篠などに神が降下するので、その榊・篠・杖・弓などをカミクラと称したのが、後にこの舞楽全体の名となった、

とある(岩波古語辞典)。「採物」(とりもの)とは、

神楽の時、舞人が手に持って舞うもの。本来、神の降臨する場所、すなわち神座(かぐら)としての意味を持ち、森の代用としての木から、木製品その他の清浄なものにも広がった。榊葉(さかきば)・幣(みてぐら)・笹・弓・剣・ひさごなどが使われる、

とある(仝上)。かつては、

神が降臨した際に身を宿す「依り代」としての巨石や樹木、高い峰を祭祀の対象物、

とし、やがて、人の手が加えられた、

神座、

が設けられhttp://www.tohoku21.net/kagura/history/kigen.html、神座に、神を迎え、祈祷の祭祀を行うことになる。さらにそれが「採物」に代用されるようになる、ということになる。で、「神楽」は、

神座遊(かみくらあそび)の略にて、神座の音楽、

意となる(岩波古語辞典)。

神座を設けて神々を勧請(かんじょう)して招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の古い形で、古くは、だから、

神遊(かみあそび)、

とも称した(日本大百科全書)。「遊ぶ」は、

楽しきわざをして、神の御心を和み奉ること、

とあり、「あそび」に、

神楽、

を当て(大言海)、

瑞垣の神の御代よりささの葉を手(た)ぶさに取り手遊びけらしも(神楽歌)、

とあるように、

神楽を演ずる、

意でもある(岩波古語辞典)。本来神楽は、

招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだった、

のはその意味である。この起源は、

天照大御神の、天岩屋戸に隠(こも)りたまひし時、神々集まりて、岩屋の前に、榊・幣など種種の設けをして、天鈿女(うずめの)命、桙(ほこ)と篠とを採り、わざをぎの態をしなどして、慰め奉り、遂に、大神を出し奉りし事、

に始まる、とされる(大言海)。「わざをぎ」は、

伎楽(大言海)、
俳優(岩波古語辞典・広辞苑)、

と当てるが、古くは、

ワザヲキ、

と清音(広辞苑)、

ワザヲキ(業招)が原義(岩波古語辞典)、
神為痴態(ワザヲコ)の転と云ふ、ワザは神わざ(為)、わざ歌(童謡)のワザなり。ヲコは可笑(おか)しと通ず(大言海)、

とその由来の解釈は少し異なる(大言海は「俳優」と当てるのは、「俳優侏儒、戯於前」(孔子家語)、神代紀に、ワザヲキに俳優の字を充てたるに因りて誤用せる語、としている)が、

天鈿女命、則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天の石窟戸(いわやど)の前に立たして、巧みに俳優(わざをき)す(日本書紀)、

とあるような、岩戸隠れで天鈿女命が神懸りして舞った舞い、

に淵源する、

手振り、足踏みなどの面白くおかしい技をして歌い舞い、神人をやわらげ楽しませること、またその人、

とあり(広辞苑)、

役者、

の意味にもなる(嬉遊笑覧)ので、

俳優、

と当てる方が妥当に思える。ほぼ、

神遊び、

と意味は重なる。考えれば、「あそぶ」で触れたように、「あそぶ」自体が、

神楽(かみあそび)→神楽(あそび)→奏楽(あそび)→遊び、

と転じてきたものなのであり、そもそも、「あそぶ」は、

天照大御神が、思ず、顔をのぞかせたり、
死者が帰ってきたいと思ったり、

するほど、楽しいことであるのに違いはない。神事由来だが、天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑(かみがか)りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊ったことに淵源するように、厳かさよりは、底抜けの楽しさがある気配である。だから、「あそぶ」の語源は、

足+ぶ(動詞化)(日本語源広辞典)
アシ(足)の轉呼アソをバ行に活用したもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、

辺りなのではないか。

「神(~)」(漢音シン、呉音ジン)は、「神さびる」で触れたように、

会意兼形声。申は、稲妻の伸びる姿を描いた象形文字。神は「示(祭壇)+音符申」で、稲妻のように不可知な自然の力のこと、のち、不思議な力や、目に見えぬ心のはたらきをもいう、

とある(漢字源)。日・月・風・雨・雷など自然界の不思議な力をもつもの、

天のかみ、

で、

祇(ギ 地の神)、鬼(人の魂)に対することば、

とある(仝上)。「申」(シン)は、

会意文字。稲妻(電光)を描いた象形文字で、電(=雷)の原字、のち、「臼(両手)+h印(まっすぐ)」のかたちとなり、手でまっすぐのばすこと、伸(のばす)の原字、

とある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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鎮魂


鎮魂、

は、

生者の肉体から離れようとする霊魂を肉体に、また、死者の場合は肉体以外のあるべき場所に戻すことにより、生者は活力を取り戻し、死者は災いをなさないようにする、

という、

日本古来の呪術、

をいう(広辞苑・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%82%81)とあるが、特に、

鎮魂の祭、

の略ともある(仝上)。

鎮魂(たましずめ)、ちんこんさいのことなり、

とある(梁塵秘抄口伝集第14)のは、その意味である。元々、

鎮魂(ちんこん、たましずめ)、

の語は、

(み)たましずめ、

と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式、

を指すものであったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E9%AD%82とあり、広義には、

魂振(たまふり)、

を含めて鎮魂といい、宮中で行われる鎮魂祭では、

鎮魂(たましずめ)、
魂振(たまふり)、

の二つの儀が行われている(仝上)。「魂鎮」は、職員令義解の「鎮魂祭」註に、

招離遊之運魂、鎮身體之中府、

とあるように、

魂を身体の中府に鎮めること、

であり、「魂振」は、

衰弱した魂を呪物や体の震動によって励起すること、

をいうhttps://www.miyajidake.or.jp/gokitou/shintou

鎮魂祭(ちんこんさい)、

は、

みたまふり、

または、

みたましずめ、

と訓ませ、

おほむたまふり、

ともいう(大言海)、

古代宮廷祭祀の一つ、

で、宮中で、

新嘗祭の前日夕刻、

に天皇の鎮魂を行う儀式であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E9%AD%82%E7%A5%AD。宮中三殿に近い綾綺殿にて、

神祇官八神殿(はっしんでん)の神々と大直日神(おおなおびのかみ)の神座を設けて執行する、

とある(https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=689)。初見は、天武紀十四年(685)十一月に、

是日、為天皇招魂之(ミタマフリシキ)

とある(大言海は、「人の魂は、遊離すると信ぜられて、然り」と付記している)。かつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていた。

この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式と考えられる。また、新嘗祭(または大嘗祭)という重大な祭事に臨む天皇の霊を強化する祭でもある、

とあり(仝上)、一般に、

天皇の魂を体内に安鎮せしめ、健康を祈る呪法、

と考えられている(仝上)。この神事には、

神座の前に天皇の御衣の箱、

を安置し、

御巫(みかんなぎ)・猿女(さるめ)ら神祇官の巫女たちが神楽舞をし、次に御巫が宇気槽(うきふね・うけふね)を伏せた上に立ち、琴の音に合わせて桙(ほこ)で槽を撞く。一撞きごとに神祇伯(じんぎはく)が木綿(ゆう)の糸を結ぶ所作を十回くり返す。同時に女蔵人が御衣の箱を開いて振り動かす行為もあった、

とあり(仝上)、御巫・猿女らが、神祇伯の結んだ御玉緒の糸は、

斎瓮(いわいべ)に収めて神祇官斎院の斎戸(いわいど)の神殿(祝部殿・斎部殿)に収められ、毎年十二月にそこで祭りがあった、

とある(仝上)。またこの神事の御巫らの行う、

宇気槽撞き、

神楽舞、

は、その共通要素から、『古語拾遺』(807年)に、

凡(およ)そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺趾(あと)なり、

とあるように、日本神話の岩戸隠れの場面において天鈿女命(あめのうずめのみこと)が槽に乗って踊ったという伝承に基づくとされ、かつては、天鈿女命の後裔である猿女君の女性が行っており、、

猿女の鎮魂、

とも呼ばれていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E9%AD%82%E7%A5%ADとあり、天岩戸神話における、

天宇受売命の舞、

との関連が言われている(仝上)。

魂振(たまふり)、

は、

招魂(たまふり)、

とも当て(日本書紀)、

たましずめは、鎮むる方に付て云ひ、たまふりは振動(ふるひうご)かして、勢いあらしむるに云ふ(遊離せぬやうに力をつくるなり)、

とある(大言海)ように、鎮魂の儀の後、

天皇の衣を左右に10回振る魂振の儀、

が行われる。これは饒速日命が天津神より下された、

十種の神宝を用いた呪法、

に由来するとされる。平安初期の『先代旧事本紀』には、

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種の神宝を使って神武天皇の心身の安鎮を祈った、

との記述があり、

所謂(いはゆる)御鎮魂祭は此よりして始(おこ)れり、

としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E9%AD%82%E7%A5%AD

神輿(みこし)を激しく揺さぶること、

や、

神社の拝殿で手を打つこと、

なども、

魂振、

の一種https://www.homemate-research-religious-building.com/useful/glossary/religious-building/2047901/と考えられるとある。

十種神宝(とくさのかんだから)、

は、『先代旧事本紀』(九世紀頃成立、『旧事紀』(くじき)あるいは『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう)に、

天璽瑞宝十種(あまつしるし・みずたから・とくさ)、

と称して登場する、霊力を宿した十種類の宝をいい、

沖津鏡(おきつかがみ)、
辺津鏡(へつかがみ)、
生玉(いくたま)、
死返玉(まかる・かへしのたま)、
足玉(たるたま)、
道返玉(ち・かへしのたま)、
蛇比礼(へひのひれ)、
蜂比礼(はちのひれ)、
品々物之比礼(くさぐさのもののひれ)、
八握剣(やつかのつるぎ)、

とされるhttps://dic.pixiv.net/a/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9Dらしい。

たま(魂・魄)」で触れたように、

「魂」(漢音コン、無呉音ゴン)の字は、

会意兼形声。「鬼+音符云(雲。もやもや)、

とあり、

たましい、
人の生命のもととなる、もやもやとして、決まった形のないもの、死ぬと、肉体から離れて天にのぼる、と考えられていた、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(云+鬼)。「雲が立ち上る」象形(「(雲が)めぐる」の意味)と「グロテスクな頭部を持つ人」の象形(「死者のたましい」の意味)から、休まずにめぐる「たましい」を意味する「魂」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1545.html

「鎮」(チン)は、

会意兼形声。眞(真)は「人+音符鼎(テイ・テン)」からなり、穴の中に人を生き埋めにしてつめること。填(テン つめる)の原字。鎮は「金+音符眞」で、欠けめなくつまった金属の重し、

とある(漢字源)。別に、

形声。「金」+音符「真 /*TIN/」。「おもり」「おさえる」を意味する漢語{鎮 /*trins/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%8E%AE

形声。金と、音符眞(シン)→(チン)とから成る。金属製のおもしの意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(金+真(眞))。「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「金属」の意味)と「さじの象形と鼎(かなえ)-中国の土器の象形」(「つめる」の意味)から、いっぱいに詰め込まれた金属「おもし」、「おさえ」を意味する「鎮」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「しずめる」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1732.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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