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コトバ辞典


五濁(ごじょく)


一乗妙法説く聞けば、五濁我等も捨てずして、結縁(けちえん)ひさしく説きのべて、佛の道にぞ入れたまふ(梁塵秘抄)、

結縁(けちえん)、

は、

けつえん、

とも訓ますが、

仏道に縁を結ぶこと、

をいい、

未来に成仏する機縁を作ること、また、そのために写経や法会を営むこと、

をいう(精選版日本国語大辞典)。

五濁(ごじょく)、

は、

五つのにごり、
五濁のにごり、

ともいい、

世の中の五つの汚濁、

だが、

四劫(しこう)のうち、住劫の減劫に起こる五つの悪い現象、

をいい、

劫濁(こうじょく 梵語kalpa-kaṣāya) 時代の汚れ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること、
見濁(けんじょく dṛṣṭi-kaṣāya) 思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること、
煩悩濁(ぼんのうじょく kleśa-kaṣāya)貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)等の煩悩が盛んになること、
衆生濁(しゅじょうじょく sattva-kaṣāya) 衆生の資質が低下し、教えの理解力が劣化、十悪をほしいままにし、身心が衰え苦しみが多くなること、
命濁(みょうじょく āyuṣ-kaṣāya) 衆生の寿命が次第に短くなり、寿命が10歳まで短くなっていくこと、

をいう(広辞苑・http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E6%BF%81・精選版日本国語大辞典)。

四劫

とは、「」で触れたように、仏教で、

世界の成立から破滅に至る四大期、

をいい、

成劫(じょうこう・じょうごう) 衆生やそれが住する国土、草木などの衆生世間と器世間が成立する期間、
住劫(じゅうこう) 二つの世間が安穏に存続する期間、
壊劫(えこう) 衆生世間の破滅についで器世間も破滅する期間、
空劫(くうごう・くうこう) すべてが破滅し去って何一つない期間、

の四大時期をいう(精選版日本国語大辞典)。この世界が破滅して、一切が空無の状態のまま続く長い時間の、

空劫、

が終わると、また成劫(じょうごう)に入り、世界ができあがる(精選版日本国語大辞典)、とする。このように、「成劫」から「空劫」への流れを、

減劫(げんごう)、

といい、

人間の寿命が無量歳ないしは八万歳から年々、または100年に一歳ずつ減じて10歳に至る過程、

をさし、

10歳になると、また同じ過程を経て増加し、増加が極限に至ると、また減ずるという過程を繰り返す、

と考える(仝上)とあり、

減劫、

の逆を、

増劫(ぞうごう)、

と呼ぶ。つまり、「」で触れたことだが、

四劫は、循環する、

と説かれ(精選版日本国語大辞典)、

天地すでに分かれて後、第九の減劫(げんこう)、人寿(にんじゅ)二万歳の時、迦葉(かしょう)世尊西天に出世し給ふ時(太平記)、

と、

第九の減劫、

とは、

人間の寿命が百年毎に一歳減って八万歳から十歳になるまでを減劫、逆に十歳から八万歳になるまでを増劫という。それ十回ずつ繰り返される間この世が存続する、この九回目で、人の寿命が二万歳だった頃、

ということになる(兵藤裕己校注『太平記』注記)。

五濁悪世(ごじょくあくせ)、

というと、

五濁の現われた悪い世の中、

をいい、『阿弥陀経』や『法華経』では、

当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり、

と、

五濁悪世、

という表現をするhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E6%BF%81

五濁増(ぞう)

というと、

時がたつにつれて、五濁の度合が高まること、

をいい、

五濁増時(ごじょくぞうじ)、

という言い方もする。親鸞は、正信偈で、

五濁悪時群生海
応信如来如実言

といい、その時代を、

五濁の悪時、

と見なしていたhttps://jodo-shinshu.info/category/shoshinge/shoshinge18.html

「濁」(漢音タク、呉音ダク、慣用ジョク)は、

会意兼形声。蜀(ショク)は、目の大きい桑虫を描いた象形文字で、くっついて離れないの意を含む。觸(触 くっつく)、屬(属 くっつく)などと同系のことば。濁は「水+音符蜀」で、どろがくっついてにごっている水のこと。黷(トク きたない)とも縁が深い、

とある(漢字源)。別に、

形声。水と、音符蜀(シヨク→タク)とから成る。もと、川の名。借りて、水が「にごる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(氵(水)+蜀)。「流れる水」の象形と「大きな目を持ち植物(桑)についてむらがり動く不快な虫(いも虫)」の象形から、不快な水を意味し、そこから、「にごる」、「にごり」を意味する「濁」という漢字が
成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1337.html

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塵點劫


釈迦は第十六王子、塵點劫數の彼方(あなた)より、衣の裏に珠(たま)つつみ、磨けば佛(ほとけ)に成りたまふ(梁塵秘抄)、

の、

釈迦は第十六王子、

というのは、「大通智勝」で触れたが、

大通智勝如来には出家する前は王子で、さらに16人の息子(王子)がいた。その中に、

阿閦如来(あしゅくにょらい)、
阿彌陀如来、

がおりhttp://tobifudo.jp/butuzo/bosatu/daituchi.html

16人目の息子が、

釈迦如来の過去世の姿、

としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%9A%E6%99%BA%E5%8B%9D%E5%A6%82%E6%9D%A5ということによる。また、これも「大通智勝」で触れたことだが、

塵点劫(じんでんごう・じんてんごう)、

は、

塵劫(じんこう)、
塵点、
塵点久遠劫(じんでんくおんごう)、

ともいい、

はかりきれない長い時間、

をいい、法華経化城喩品に、それを喩えて、

譬如三千大千世界 所有地種(譬えば三千大千世界の所有の地種を)
仮使有人 磨以為墨(仮使人あって磨り以て墨と為し)
過於東方 千国土 乃下一点(東方千の国土を過ぎて乃ち一点を下さん)
大如微塵(大さ微塵の如し)
又過千国土 復下一点(又千の国土を過ぎて復一点を下さん)
如是展転 尽地種墨(是の如く展転して地種の墨を尽くさんが如き)
於汝等意云何(汝等が意に於て云何)
是諸国土 若算師 若算師弟子(是の諸の国土を、若しは算師若しは算師の弟子)
能得辺際 知其数不(能く辺際を得て其の数を知らんや不や)
不也世尊(不也、世尊)
諸比丘 是人所経国土(諸の比丘、是の人の経る所の国土の)
若点不点 尽抹為塵(若しは点せると点せざるとを、尽く抹して塵となして)
一塵一劫(一塵を一劫とせん)
彼仏滅度已来(彼の仏の滅度より已来)
復過是数 無量無辺 百千万億 阿僧祇劫(復是の数に過ぎたること無量無辺百千万億阿僧祇劫なり)

とあり、

三千大千世界のあらゆる地の存在を構成する要素を集め、すりつぶして墨を作り、一千の国土を過ぎるごとにその墨の一点をたらし、墨をすべて使い尽くしてから、その過ぎ去ったあらゆる世界を微塵に砕いて、その一塵を一劫とした場合、微塵のすべてを合計した劫の長さを三千塵点劫という、

と(精選版日本国語大辞典・https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/3/07.htm)、

大通智勝仏の出世の久遠である、

たとえとしとている。

阿僧祇劫(あそうぎこう)、

とあるのは、

過去の无量阿僧祇劫に国王有りき(今昔物語)、

にあるように、

「劫」はきわめて長い時間、

の意で、

無限に長い時間、

をいう(精選版日本国語大辞典)とあるが、

阿僧祇劫

は、梵語、

asaṃkhyeya、

の音訳、

数えることができない、

意味で、意訳では、

無数、

となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%83%A7%E7%A5%87

阿僧祇がいくつを示すかは時代や地域により異なり、また、現在でも人により解釈が分かれる、

とあり(仝上)、日本では一般的に、

10の56乗、
あるいは、
10の64乗、

とされる(仝上)とある。仏典では、

成仏するまでに必要な時間の長さである、

三阿僧祇劫、

と表現されることが多い。『法華経』如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」には、たとえば、

譬如五百千万億那由他 阿僧祇 三千大千世界(譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を)
仮使有人 抹為微塵(仮使人あって抹して微塵と為して)
過於東方 五百千万億 由他阿僧祇国 下一塵(東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し)
如是東行 是微塵(是の如く東に行いて是の微塵を尽くさんが如き)
諸善男子 於云何(諸の善男子、意に於て云何)
是諸世界 可得思惟校計 知其数不(是の諸の世界は思惟し校計して其の数を知ることを得べしや不や)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/6/16.htm使われている(『華厳経』の中では、現在一般的な命数法とは別の定義となっているとある)。

上記の、

那由他(なゆた)、

は、梵語、

ナユタ、

の音訳、これも、『華厳経』の中では、現在一般的な命数法とは別の定義となっているが(時代や地域により異なる)、一般的には、

10の60乗、
あるいは、
10の72乗、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%94%B1%E4%BB%96らしい。

数の単位としては、元の朱世傑による数学書『算学啓蒙』があり、

那由他は阿僧祇(10の104乗)の万万倍で10の112乗、

となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%83%A7%E7%A5%87

化城喩品(けじょうゆほん)第七には、

譬如三千大千世界 所有地種(譬えば三千大千世界の所有の地種を)
仮使有人 磨以為墨(仮使人あって磨り以て墨と為し)
過於東方 千国土 乃下一点(東方千の国土を過ぎて乃ち一点を下さん)
大如微塵(大さ微塵の如し)
又過千国土 復下一点(又千の国土を過ぎて復一点を下さん)
如是展転 尽地種墨(是の如く展転して地種の墨を尽くさんが如き)
於汝等意云何(汝等が意に於て云何)
是諸国土 若算師 算師弟子(是の諸の国土を、若しは算師若しは算師の弟子)
能得辺際 知其数不能く辺際を得て其の数を知らんや不や()
不也世尊 諸比丘(不也、世尊。諸の比丘)
是人所経国土(是の人の経る所の国土の)
若点不点 尽抹為塵 一塵一劫(しは点せると点せざるとを、尽く抹して塵となして、一塵を一劫とせん)
彼仏滅度已来(彼の仏の滅度より已来)
復過是数 無量無辺 百千万億 阿僧祇劫(復是の数に過ぎたること無量無辺百千万億阿僧祇劫なり)
我以如来知見力故 観彼久遠 猶如今日(我如来の知見力を以ての故に、彼の久遠を観ること猶お今日の如し)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/3/07.htmある喩え話を、

三千塵点劫、

と称すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%99%BE%E5%A1%B5%E7%82%B9%E5%8A%ABが、上述、寿量品の、

五百千万億那由他阿僧祇、

を、

五百(億)塵点劫、

と称し、化城喩品の三千塵点劫よりもはるかに長遠であるかを示すようになった(仝上)とある。

仏言 我亦如是(仏の言わく、我も亦是の如し)
成仏已来(成仏してより已来)
無量無辺 百千万億 那由他阿僧祇劫(無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫なり)

とも(仝上)あり、釈尊の成道以来の久遠の時間を強調する所以である。親鸞は『浄土和讃』において、五百塵点劫を、

塵点久遠劫、

と呼び、阿弥陀仏をそれよりも古い仏、すなわち釈迦仏よりも昔に成道した仏としている(仝上)らしいる。

」については、既にふれたが゛、

慣用的に、

ゴウ、

とも訓むが、

コウ(コフ)、

が正しい(呉音)。

劫波(こうは)、
劫簸(こうは)、

ともいう(広辞苑)。「劫」は、

サンスクリット語のカルパ(kalpa)、

に、

劫波(劫簸)、

と、音写した(漢字源)ため、仏教用語として、

一世の称、
また、
極めて長い時間、

を意味し(仝上)、

刹那の反対、

だが、単に、

時間、
または、
世、

の義でも使う(字源)。インドでは、

梵天の一日、
人間の四億三千二百万年、

を、

一劫(いちごう)、

という。ために、仏教では、その長さの喩えとして、

四十四里四方の大石が三年に一度布で拭かれ、摩滅してしまうまで、
方四十里の城にケシを満たして、百年に一度、一粒ずつとり去りケシはなくなっても終わらない長い時間、

などともいわれる(仝上・精選版日本国語大辞典)。

「劫」(慣用ゴウ、漢音キョウ、呉音コウ)は、「」で触れたように、

会意。「力+去(くぼむ、ひっこむ)」で、圧力を加えて相手をあとずさりさせること、

とある(漢字源)。「脅」と同義で、

おびやかす、
力で相手をおじけさせる、

意だが、異字体「刧」とは本来別字ながら、

俗に誤りて、通用す、

とある(字源)。

「塵(𪋻)」(漢音チン、呉音ジン)は、

会意文字。「鹿+土」で、鹿の群れの走り去った後に土ぼこりが立つことを示す。下にたまる、ごく小さい土の粉のこと、

とある(漢字源)。

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四大声聞(しだいしょうもん)


四大声聞つぎつぎに、数多(あまた)の佛にあひあひて、八十随相(ずいさう)そなへてぞ、浄土の蓮(はちす)に上(のぼ)るべき(梁塵秘抄)、

の、

四大声聞、

とは、「声聞」で触れたように、

記別(釈迦が、未来における成仏を予言し、その成仏の次第、名号、仏国土や劫などを告げ知らせること)、

をあたえた(『法華経』授記品)、

摩訶迦葉(まかかしょう)、
須菩提(しゅぼだい)、
迦旃延(かせんねん)、
目連(摩訶目犍連(まかもっけんれん) もくれん)、

の四人のすぐれた仏弟子をいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E・馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)、

妙法蓮華経信解品第四に、

爾時 慧命須菩提。摩訶迦旃延。摩訶迦葉。摩訶目犍連(爾の時に慧命須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・摩訶目犍連)従仏所聞 未曾有法(仏に従いたてまつりて聞ける所の未曾有の法と)
世尊 授舎利弗(世尊の舎利弗に)
阿耨多羅三藐三菩提記 発希有心(阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたもうとに希有の心を発し)
歓喜踊躍(歓喜踊躍して)
即従座起 整衣服(即ち座より起って衣服を整え)
偏袒右肩 右膝著地(偏に右の肩を袒にし右の膝を地に著け)
一心合掌 曲躬恭敬(一心に合掌し曲躬恭敬し)
瞻仰尊顔 而白仏言(尊顔を瞻仰して仏に白して言さく)

とあるhttps://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/2/04.htm

慧命須菩提、
摩訶迦旃延、
摩訶迦葉
摩訶目犍連、

の、

慧命(えみょう)、

は、

さとりの智慧(ちえ)を生命にたとえた言葉、

で、

比丘(びく)の尊称、

摩訶、

も、

美称、

で、

偉大なの意で(精選版日本国語大辞典)、

須菩提、
迦旃延、
迦葉
目犍連、

は、いずれも、「富楼那の弁」で触れた、

十大弟子、

つまり、

舎利弗(しゃりほつ 智慧第一)、
目犍連(もくけんれん 略して目連 神通力(じんずうりき)第一)、
摩訶迦葉(まかかしょう 頭陀(ずだ(苦行による清貧の実践)第一)、
須菩提(しゅぼだい 解空(げくう すべて空であると理解する)第一)、
富楼那(ふるな 説法第一)、
迦旃延(かせんねん 摩訶迦旃延(まかかせんねん)とも大迦旃延(だいかせんねん)とも、論議(釈迦の教えを分かりやすく解説)第一)、
阿那律(あなりつ 天眼(てんげん 超自然的眼力)第一)、
優婆(波)離(うばり 持律(じりつ 戒律の実践)第一)、
羅睺羅(らごら 羅睺羅(らふら) (密行(戒の微細なものまで守ること)第一)、
阿難(あなん 阿難陀 多聞(たもん 釈迦の教えをもっとも多く聞き記憶すること)第一)、

である(日本大百科全書・https://true-buddhism.com/founder/ananda/)。

須菩提(しゅぼだい)、

は、梵語、

Subhūti、

の音訳、

善吉、善現、

などと訳す(精選版日本国語大辞典)。人とあらそうことがなかったので、

無諍第一、

といわれ、空は般若心経に出てくる「色即是空、空即是色」の空(くう)の理解が深かったので、

解空(げくう)第一、

といわれた。般若系経典では、釈尊の相手として登場する。お釈迦様に祇園精舎を寄進した須達多長者(すだったちょうじゃ)のおいとされる(http://tobifudo.jp/newmon/name/10daidesi/shobodai.html・仝上)。

迦旃延(かせんねん)、

は、梵語、

Kātyāyana、

の音訳(精選版日本国語大辞典)、

好肩、文飾、大剪剔種男、大浄志、

などと意訳され、摩訶(まか、Mahā=「偉大なる」の意)を冠して、

摩訶迦旃延、
大迦旃延、

などとも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%A6%E6%97%83%E5%BB%B6。「迦旃延」は、

婆羅門種の十姓の一つ、

であり、姓を以って名としている(仝上)。

目犍連(もくけんれん)、

は、梵語、

Mahāmaudgalyāyana、

の音訳、

菜茯根、采叔氏、讃誦、

と意訳、

摩訶目犍連、
大目犍連、
目連、

とも呼ばれ、

舎利弗(しゃりほつ)、

とともに、

釈迦の二大弟子、

とされ、

神通第一、

といわれる(精選版日本国語大辞典)。『盂蘭盆経』では、

彼が主人公となって餓鬼道に堕ちた母を救済する、

が、この伝承が、

盂蘭盆会(うらぼんえ)

のもとになっている(仝上)。舎利弗(しゃりほつ)と目犍連(もくけんれん)は釈迦に先立って亡くなった。

迦葉、

については、「摩訶迦葉」で触れたように、

仏教教団における釈迦の後継(仏教第二祖)、

とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集、経典の編纂事業)の座長を務め、

頭陀第一、

といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行ったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BF%A6%E8%91%89とある。

上述の妙法蓮華経信解品第四にある、

阿耨多羅三藐三菩提、

は、「阿耨(あのく)菩提」で触れたように、梵語、

アヌッタラー(無上の)・サムヤク(正しい、完全な)・サンボーディ(悟り)、

の意の、

anuttarā samyak-sabodhi、

の音写、

佛説是普門品時、衆中八萬四千衆、皆発無等等阿耨多羅三藐三菩提心(法華経)、

とある、

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)、

の、

阿は無、耨多羅は上、三は正、藐は等、三は正、菩提は悟り(大日経)、

と、

仏の仏たるゆえんである、このうえなく正しい完全なる悟りの智慧(ちえ)のこと、

を言う。

縁覚(えんがく 仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者)、
声聞(しょうもん 仏の教説に従って修行しても自己の解脱のみを目的とする出家の聖者)、

がそれぞれ得る悟りの智慧のなかで、

此三菩薩必定阿耨多羅三藐三菩提不退無上智道(顕戒論(820))

と、

仏の菩提(ぼだい)は、このうえない究極のものを示す、

とされ(日本大百科全書)、

無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)、
無上正真道(しょうしんどう)、
無上正遍知(しょうへんち)、

などと訳される(仝上・精選版日本国語大辞典)。

ただ、大乗仏教では、

声聞乗(声聞のための教え)、
縁覚(えんがく 独覚(どっかく))乗、

を二乗と称し、

菩薩(ぼさつ)乗、

を、三乗とするが、このうち二乗を小乗として貶称(へんしょう)し、声聞は仏の教えを聞いて修行しても自己の悟りだけしか考えない人々であると批判し(仝上)、小乗の、

声聞の菩提、
と、
縁覚の菩提、

は執着や煩悩を滅尽しているけれども、真の菩提ということはできず、大乗の仏と菩薩の菩提のみが、

阿耨多羅三藐(あのくたらさんみやく)三菩提(anuttarasamyak‐saṃbodhi)、

であるとしている(仝上)。

菩提(ぼだい)、

は、サンスクリット語、

ボーディbodhi、

の音写。ボーディは、

ブッドフbudh(目覚める)、

からつくられた名詞で、

真理に対する目覚め、すなわち悟りを表し、その悟りを得る知恵を含む、

とされ、その最高が、

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、

であり、

最高の理想的な悟り、

の意で、この語は、仏教の理想である、

ニルバーナnirvāa(涅槃(ねはん))、

と同一視され、のちニルバーナが死をさすようになると、それらが混合して、

菩提を弔う、

といい、

死者の冥福(めいふく)を祈る、

意味となった(仝上)。

なお、冒頭の、

八十随相(ずいさう)、

は、

八十随形好(はちじゅうずいぎょうごう)、

のことで、

仏の身にそなわっている八十種の特徴、

で、

仏菩薩の身に備わっているすぐれた形相のうち、繊細で見わけにくい八〇種の形相、

をいい、

八十随好、
八十種好、
随形好、
八十微妙(みみょう)種好、
八十小相、
相好、

などともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%AB%E5%8D%81%E9%9A%8F%E5%BD%A2%E5%A5%BD・広辞苑)。『婆沙論』には、

諸相の間にあり、諸相に随いて転じ仏身を荘厳して極めて妙好ならしむ、

とあり、『大般若経』には、

第一は仏の指の爪は狭長で薄く潤いがあり、光り輝いてきよらかである、…最後の第八〇は、手足および胸にはいずれも吉祥喜旋の相(卍字まんじ)がある、

あるように、

耳が肩まで届く程垂れ下がっている。(俗に福耳)、
耳たぶ(耳朶)に穴が空いている。(耳朶環状)、
のどに3本のしわがある。(三胴)、
眉が長い、
鼻の穴が見えない、
へそが深く、右回りに渦を巻いている、

等々、三十二相が顕著な特徴であるのに比べ、八十随形好は、

比較的小さな身体的特徴、

を表し、三十二相と重複するものもある(仝上)とある。

三十二相」のうち、「肉髻(にくけい)」、つまり「鳥瑟」、「白毫」については、触れた。

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一味の雨(いちみのあめ)


釈迦の御法(みのり)は唯一つ、一味の雨にぞ似たりける、三草二木は品々(しなじな)に、花咲き實なるぞあはれなる(梁塵秘抄)、

の、

一味の雨、

は、

一味の法の雨、

ともいい、妙法蓮華経薬草喩品第五の、

仏平等説 如一味雨(仏の平等の説は 一味の雨の如し)
随衆生性 所受不同(衆生の性に随って 受くる所不同なること)
 如彼草木 所稟各異(彼の草木の 稟(う)くる所各異るが如し)
仏以此喩 方便開示(仏此の喩を以て 方便して開示し)
 種種言辞 演説一法(種々の言辞をもって 一法を演説すれども)
於仏智慧 如海一滴(仏の智慧に於ては 海の一滴の如し)

あるいは、

仏所説法(仏の所説の法は)
譬如大雲 以一味雨(譬えば大雲の 一味の雨を以て)
潤於人華 各得成実(人華を潤して 各実成ることを得せしむるが如し)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/3/05.htm

雨が一様に草木を潤すように、仏説が広く流布することのたとえ、

とされ(広辞苑)、

一味、

には、仏語として、

我雨法雨 充満世間(我法雨を雨らして 世間に充満す)
一味之法 随力修行(一味の法を 力に随って修行すること)
彼如叢林 薬草諸樹(彼の叢林 薬草諸樹の)
随其大小 漸増茂好(其の大小に随って 漸く増茂して好きが如し)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/3/05.htm

仏説は時と所に応じて多様であるが、その本旨は同一であること、

という意味もある(広辞苑)。

三草二木(さんそうにもく)、

は、法華経薬草喩品に説く、

「三草」は上草・中草・下草の三、「二木」は大樹・小樹で、さまざまの植物が、雨の恵みを等しく受けるように、資質の異なる衆生(しゅじょう)が等しく仏陀の教えを受けて悟りをひらくことのたとえ、

とされ、また、

仏陀の教えはただ一つ、すなわち雨は同じであるが、それを受けて育つ植物が種々あるように、衆生の受け取り方はさまざまであるの意ともいう、

とある(精選版日本国語大辞典)。妙法蓮華経薬草喩品第五には、

譬如三千大千世界 山川渓谷土地(譬えば三千大千世界の山川・渓谷・土地に)
所生卉木叢林 及諸薬草 種類若干 名色各異(生いたる所の卉木・叢林及び諸の薬草、種類若干にして名色各異り)
密雲弥布。徧覆三千大千世界(密雲弥布して徧く三千大千世界に覆い)
一時等 (一時に等しくそそぐ)
其沢普洽 卉木叢林 及諸薬草(其の沢遍く卉木・叢林及び諸の薬草の)
小根小茎 小枝小葉 中根中茎 中枝中葉 大根大茎大枝大葉(小根・小茎・小枝・小葉・中根・中茎・中枝・中葉・大根・大茎・大枝・大葉に洽う)
諸樹大小 随上中下 各有所受(諸樹の大小、上中下に随って各受くる所あり)
一雲所雨。称其種性。而得生長。華果敷実(一雲の雨らす所、其の種性に称うて生長することを得て、華果敷け実なる)

とあるhttps://www.nichiren.or.jp/glossary/id156/

この、

三草二木の喩え、

は、「窮子」で触れたように、

法華七喩(ほっけしちゆ)、

の一つである。「七喩」とは、法華経に説く、

七つのたとえ話、

で、

法華七譬(しちひ)、

ともいい、三草二木(さんそうにもく)の他、

三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品 「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れた)
長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

があるhttp://www2.odn.ne.jp/nehan/page024.htmlhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9

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三界火宅


長者の門なる三車(みつぐるま)、羊鹿(ひつじしし)のは目も立たず、牛の車に心かけ、三界火宅を疾(と)く出でむ(梁塵秘抄)、

の、

三車、

は、「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れたように、妙法蓮華経譬喩諭品(ひゆぼん)第三の、

舎利弗 如彼長者 初以三車 誘引諸子(舎利弗、彼の長者の初め三車を以て諸子を誘引し)、
然後但与大車 宝物荘厳 安穏第一(然して後に但大車の宝物荘厳し安穏第一なることを与うるに)
然彼長者 有虚妄之咎(然も彼の長者虚妄の咎なきが如く)
来亦復如是(如来も亦復是の如し)
無有虚妄(虚妄あることなし)
初説三乗 引導衆生(初め三乗を説いて衆生を引導し)
然後但以大乗 而度脱之(然して後に但大乗を以て之を度脱す)
何以故(何を以ての故に)
如来 有無量智慧 力無所畏 諸法之蔵(如来は無量の智慧・力・無所畏・諸法の蔵あって)
能与一切衆生 大乗之法(能く一切衆生に大乗の法を与う)
但不尽能受(但尽くして能く受けず)
舎利弗 以是因縁 当知諸仏(舎利弗、是の因縁を以て当に知るべし)
方便力故 於一仏乗 分別三説(諸仏方便力の故に、一仏乗に於て分別して三と説きたもう)

https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/2/03.htm

某長者の邸宅に火災があつたが、小児等は遊戯に興じて出ないので、長者はために門外に羊鹿牛の三車あつて汝等を待つとすかし小児等を火宅から救ひ出したといふ比喩で、羊車はこれを声聞乗に、鹿車はこれを縁覚乗に、牛車はこれを菩薩乗に喩へた、この三車には互に優劣の差のないではないが、共にこれ三界の火宅に彷復ふ衆生を涅槃の楽都に導くの法なので、斯く車に喩へたもの、

で(仏教辞林)、

火宅にたとえた三界の苦から衆生を救うものとして、声聞・縁覚・菩薩の三乗を羊・鹿・牛の三車に、一仏乗を大白牛車(だいびゃくごしゃ)にたとえた、

三車一車、

による、

すべての人が成仏できるという一乗・仏乗のたとえに用いられる、

とある(仝上)。ただ、法相宗では、

羊・鹿・牛の三車、

の一つとして声聞乗の羊車、縁覚乗の鹿車に対して菩薩乗にたとえたとするが、天台宗では、

羊車(ようしゃ)・鹿車(ろくしゃ)・牛車(ごしゃ)の三つ(三車)に、大白牛車(だいびゃくごしゃ)を加えたもの、

を、

四車(ししゃ)、

とし、この説が一般にもちいられている(精選版日本国語大辞典)とある。だから、三車は、

羊鹿牛車(ようろくごしゃ)、
みつのくるま、

などともいう(仝上)。

三界火宅、

は、同じ、妙法蓮華経譬喩諭品(ひゆぼん)第三の、

三界無安 猶如火宅(三界は安きことなし 猶お火宅の如し)

と、

迷いと苦しみに満ちた世界を、火に包まれた家にたとえた、

三界火宅、

のたとえで、それは、妙法蓮華経譬喩諭品(ひゆぼん)第三の、

長者 見是大火 四面起(長者是の大火の四面より起るを見て)
即大恐怖 作是念(即ち大に驚怖して是の念を作さく)
我雖能於此 所焼之門 安穏得出(我は能く此の所焼の門より安穏に出ずることを得たりと雖も)
而諸子等 於火宅内 楽著嬉戯(而も諸子等、火宅の内に於て嬉戲に楽著して)
不覚不知 不驚不怖 (覚えず知らず驚かず怖じず)
火来逼身 苦痛切己 心不厭患(火来って身を逼め苦痛己を切むれども心厭患せず)
無求出意出(でんと求むる意なし)
舎利弗 是長者 作是思惟(舎利弗、是の長者是の思惟を作さく)
我身手有力(我身手に力あり)
当以衣[] 若以几案従舎出之(当に衣・を以てや若しは几案を以てや、舎より之を出すべき)
復更思惟(復更に思惟すらく)
是舎唯有一門 而復狭小(是の舎は唯一門あり而も復狭小なり)
諸子幼稚 未有所識(諸子幼稚にして未だ識る所あらず)
恋著戯処(戲処に恋著せり)
或当堕落 為火所焼(或は当に堕落して火に焼かるべし)
我当為説 怖畏之事(我当に為に怖畏の事を説くべし)
此舎已焼(此の舎已に焼く)
宜時疾出 無令為火 之所焼害(宜しく時に疾く出でて火に焼害せられしむることなかるべし)
作是念已(是の念を作し已って)
如所思惟 具告諸子 汝等速出(思惟する所の如く具に諸子に告ぐ、汝等速かに出でよと)
父雖憐愍 善言誘諭(父憐愍して善言をもって誘諭すと雖も)
而諸子等 楽著嬉戯 不肯信受(而も諸子等嬉戲に楽著し肯て信受せず)
不驚不畏 了無出心(驚かず畏れず、了に出ずる心なし)
亦復不知 何者是火 何者為舎 云何為失(亦復何者か是れ火、何者か為れ舎、云何なるをか失うと為すを知らず)
但東西走戯 視父而已(但東西に走り戲れて父を視て已みぬ)
爾時長者 即作是念(爾の時に長者即ち是の念を作さく)
此舎已為大火所焼(此の舎已に大火に焼かる)
我及諸子 若不時出 必為所焚(我及び諸子若し時に出でずんば必ず焚かれん)
我今 当設方便(我今当に方便を設けて)
令諸子等 得免斯害(諸子等をして斯の害を免るることを得せしむべし)
父知諸子 先心各有好所(父諸子の先心に各好む所ある)
種種珍玩 奇異之物 情必楽著(種々の珍玩奇異の物には情必ず楽著せんと知って)
而告之言(之に告げて言わく)
汝等所可 玩好 希有難得(汝等が玩好するところは希有にして得難し)
汝若不取 後必憂悔(汝若し取らずんば後に必ず憂悔せん)
如此種種 羊車鹿車牛車 在門外(此の如き種々の羊車・鹿車・牛車、今門外にあり)
可以遊戯(以て遊戲すべし)
汝等於此火宅 宜速出来(汝等此の火宅より宜しく速かに出で来るべし)
随汝所欲 皆当与汝汝が所欲に随って皆当に汝に与うべし()
爾時諸子 聞父所説 珍玩之物(爾の時に諸子、父の所説の珍玩の物を聞くに)
適其願故 心各勇鋭 互相推排(其の願に適えるが故に、心各勇鋭して互に相推排し)
競共馳走 争出火宅(競うて共に馳走し争うて火宅を出ず)

で(仝上)、

舎利弗。爾時長者。各賜諸子。等一大車(舎利弗、爾の時に長者各諸子に等一の大車を賜う)

とあり、

其車高広 衆宝荘校 周帀欄楯 四面懸鈴(其の車高広にして衆宝荘校し、周帀(しゅうそう)して欄楯あり。四面に鈴を懸け)

又其上に於いて幰蓋(けんがい)を張り設け、亦珍奇の雑宝を以って之れを厳飾(ごんじき)し、宝繩絞絡(ほうじょう・きょうらく)して、諸の華纓(けよう)を垂れた豪華なもので、

駕以白牛(駕するに白牛を以てす)
膚色充潔 形体・好 有大筋力 (膚色充潔に形体・好にして大筋力あり)
行歩平正 其疾如風(行歩平正にして其の疾きこと風の如し)
又多僕従 而侍衛之(又僕従多くして之を侍衛せり)

と(仝上)、

「あるところに大金持ちがいました。ずいぶん年をとっていましたが、財産は限りなくあり、使用人もたくさんいて、全部で百名ぐらいの人と暮らしていました。主人が住んでいる邸宅はとても大きく立派でしたが、門は一つしかなく、とても古くて、いまにも壊れそうな状態でした。ある時、この邸宅が火事になり、火の回りが早く、あっという間に火に包まれてしまいました。主人は自分の子どもたちを助けようと捜しました。すると、子供たちは火事に気付かないのか、無邪気に邸宅の中で遊んでいます。この邸宅から外に出るように声をかけますが、子どもたちは火事の経験がないため火の恐ろしさを知らないのか、言うことを聞きません。そこで主人は以前から子供たちが欲しがっていた、おもちゃを思い出します。羊が引く車、鹿が引く車、牛が引く車です。主人は子どもたちに『おまえたちが欲しがっていた車が門の外に並んでいるぞ!早く外に出てこい!』と叫びます。それを聞いた子どもたちが喜び勇んで外に出てくると、主人は三つの車ではなく、別に用意した大きな白い牛が引く豪華な車(大白牛車)を子どもたちに与えました。」

という話https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=103で、これは、

主人が仏で、子どもがわれわれ衆生、邸宅の中(三界)に居る子どもは火事が間近にせまっていても、目の前の遊びに夢中で(煩悩に覆われて)そのことに気付きません。また、主人である父(仏)の言葉(仏法)に耳を傾けることをしません。そこで、主人は子どもに三車(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教え)を用意して外につれ出し助け、大きな白い牛が引く豪華な車(一乗の教え)を与えた、

というもので、

われわれ衆生をまず、三乗の教えで仮に外に連れ出し、そこから更に、これら三乗の教えを捨てて一乗の教えに導こうとする仏の働き(方便)を譬え話に織り込んで、説いている、

と解釈されている(仝上)。これが、

大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)

の由来でもある。

言諸子在火宅内時、長者許賜門外三車。所以諸子楽得三車。諍出火宅

ともある(法華義疏)

なお、「三界」は、

三有(さんう)、

ともいい(大辞林)、

一切衆生(しゅじょう)の生死輪廻(しょうじりんね)する三種の世界、すなわち欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)と、衆生が活動する全世界を指す、

とある(広辞苑)。つまり、仏教の世界観で、

生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域、

を、欲界(kāma‐dhātu)、色界(rūpa‐dhātu)、無色界(ārūpa‐dhātu)の3種に分類したもので(色とは物質のことである。界と訳されるサンスクリットdhātu‐はもともと層(stratum)を意味する)、「欲界」は、

もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む領域、

で、ここには、

地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天、

の六種の、

生存領域(六趣(ろくしゅ)、六道(ろくどう))、

があり、欲界の神々(天)を、

六欲天、

という。「色界」は、

性欲・食欲・睡眠欲の三欲を離れた生きものの住む清らかな領域、

をいい、

絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、

四禅天、

に大別される。「四禅天」(しぜんてん)は、

禅定の四段階、

その領域、とその神々をいい、「初禅天」には、

梵衆・梵輔・大梵の三天、

「第二禅天」には、

少光・無量光・光音の三天、

「第三禅天」には、

少浄・無量浄・遍浄の三天、

「第四禅天」には、

無雲・福生・広果・無想・無煩・無熱・善見・善現・色究竟の九天、

合わせて十八天がある、とされる。

「無色界」は、

最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界、

であり、

空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処、

の四天から成り、ここの最高処、非想非非想処を、

有頂天(うちょうてん)、ただ、「非想非々想天」で触れたように、「有頂天」には、

色界(しきかい)の中で最も高い天である色究竟天(しきくきょうてん)、

とする説、

色界の上にある無色界の中で、最上天である非想非非想天(ひそうひひそうてん)

とする説の二説がある(広辞苑)。

三界火宅、

は、

法華七喩(ほっけしちゆ)、

の一つである。この他に、

長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)
三草二木(さんそうにもく、薬草喩品 「一味の雨」で触れた)
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

がある。

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舎利佛(しゃりほつ)


上根(こむ)舎利佛先ず悟り、菩提樹果二人出でて、そらをかげに隠れつつ、八相佛になりたまふ(梁塵秘抄)、

の、

舎利佛(しゃりほつ)、

は、梵語、

Śāriputra、

の音訳、シャーリプトラは、

シャーリ(巴: サーリ)は母親の名前「シャーリー(鶖鷺)」から、プトラは「息子」、

を意味し、

舎利子(しゃりし)、
鶖鷺子(しゅうろし)、
身子、

等々と漢訳される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E5%88%A9%E5%BC%97・精選版日本国語大辞典)。

四大声聞」、「摩訶迦葉」、「富楼那の弁」でも触れたように、「舎利佛」も、釋迦の、

十大弟子、

つまり、

舎利弗(しゃりほつ 智慧第一)、
目犍連(もくけんれん 略して目連 神通力(じんずうりき)第一)、
摩訶迦葉(まかかしょう 頭陀(ずだ(苦行による清貧の実践)第一)、
須菩提(しゅぼだい 解空(げくう すべて空であると理解する)第一)、
富楼那(ふるな 説法第一)、
迦旃延(かせんねん 摩訶迦旃延(まかかせんねん)とも大迦旃延(だいかせんねん)とも、論議(釈迦の教えを分かりやすく解説)第一)、
阿那律(あなりつ 天眼(てんげん 超自然的眼力)第一)、
優婆(波)離(うばり 持律(じりつ 戒律の実践)第一)、
羅睺羅(らごら 羅睺羅(らふら) (密行(戒の微細なものまで守ること)第一)、
阿難(あなん 阿難陀 多聞(たもん 釈迦の教えをもっとも多く聞き記憶すること)第一)、

の(日本大百科全書・https://true-buddhism.com/founder/ananda/他)ひとりであり、

十六羅漢(らかん)、

の一人である(精選版日本国語大辞典)。「十六羅漢」とは「四向四果」で触れた、釈尊が般涅槃のとき、

一六の阿羅漢とその眷属に無上の法を付属した、

と言われ、釈迦の弟子でとくに優れた16人、

賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ 跋羅駄闍 ばらだしゃ)、
迦諾迦伐蹉(かにゃかばっさ)、
迦諾迦跋釐墮闍(かにゃかばりだじゃ、諾迦跋釐駄 だかはりだ)、
蘇頻陀(そびんだ)、
諾距羅(なくら 諾矩羅 なくら)、
跋陀羅(ばっだら)、
迦理迦(かりか、迦哩 かり)、
伐闍羅弗多羅(ばっじゃらほつたら、弗多羅 ほつたら)、
戍博迦(じゅばくか)、
半託迦(はんだか、半諾迦 はんだか)、
囉怙羅(らごら、羅怙羅 みらごら)、
那伽犀那(ながさいな)、
因掲陀(いんかだ)、
伐那婆斯(ばつなばし)、
阿氏多(あした)、
注荼半託迦(ちゅうだはんたか)、

をいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AD%E7%BE%85%E6%BC%A2

「舎利佛」は、

中インドのマガダ国のバラモンの家に生まれ、もとウパティッサUpatissaと称した。若いころから学問に優れ、当時もっとも有名な論師の一人で徹底した懐疑論者のサンジャヤSañjayaの弟子となり、目犍連(もくけんれん)(目連(もくれん))と親しむ。のち仏弟子のアッサジAssajiに出会い、その教えを聞いて翻然と悟り、目連およびサンジャヤの弟子250人とともに仏弟子となる、

とあり(日本大百科全書)、釈迦の直弟子の中でも上首に座し、十大弟子の筆頭に挙げられ、

智慧第一、

と称され、親友かつ修行者として同期であった神通第一の目連と併せて、

二大弟子、

と呼ばれる(仝上)。、

釈迦の教説を理論づける働きも果たした、

ともされ、釈迦にかわって説法する例も少なくない(仝上)とある。釈迦入滅以前に没したといわれ、仏教外の資料には舎利弗を仏と扱う例もみられる(仝上)とある。のちの、大乗経典では、舎利弗は、

部派仏教(いわゆる小乗)の代表、

として、また、

最高の仏弟子、

として引用されている(仝上)ともある。

なお、

上根(じょうこん)、

は、

上機、

ともいい、

上機根(じょうきこん)、

の意で、

すぐれた能力・資質。すぐれた能力のあること、また、その人、