ホーム 全体の概観 侃侃諤諤 Idea Board 発想トレーニング skill辞典 マネジメント コトバの辞典 文芸評論


コトバ辞典


健児(こんでい)


今聞く、大日本国(おおやまとのくに)の救将(すくいのきみ)廬原君臣(いおはらのきみおみ)、健児(こんでい)万余(よろづあまり)を率(い)て、正に海を越えて至らむ(日本書紀)、

の、

健児、

は、

けんじ、

と訓むと、

快馬健児、不如老嫗吹篪(洛陽伽藍記)、

と、

壮士、

と同義で、

血気盛んな若者、

の意であり、さらに、漢語では、

天下諸軍有健児(六典)、

と、

軍卒の職名、

として使われる(字源)が、我が国では、古く、

ちからひと、

と訓ませ、

乃ち健児に命(ことおお)せて、翹岐(ぎょうき)が前に相撲(すまひ)とらしむ(日本書紀・皇極天皇元年(641年)7月22日)、
今聞く、大日本国(おおやまとのくに)の救将(すくいのきみ)廬原君臣(いおはらのきみおみ)、健児万余(よろづあまり)を率(い)て、正に海を越えて至らむ(同・天智天皇2年8月13日)、

等々、

武勇者、
兵士、

の意味で用いられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%85%90が、後の、軍制に組み込まれた健児(こんでい)制度の謂いではない(日本大百科全書)。

こんでい、

と訓ませるのは、

奈良時代中期以降現れた兵士の一種、

の、

健児制度、

を指し、

一般の兵士の中から強健で武芸に秀でた300人を選んだもの、

をいい、

田租と雑徭(ぞうよう)が半分免除され、中男(ちゅうなん 17〜20歳男子)二人が馬子として付けられた、

とあり、

こんに、

とも訓ませ、天平宝字六年(762)には、

郡司の子弟、および良民の20〜40歳の中から選ぶこととした(精選版日本国語大辞典)とある。

健児(こんでい)、

は、

騎馬を自弁し、弓馬の術に長じた者が選抜され、騎馬の世話をする馬丁が国から支給された、

とあり、後世の武士の原型をなす(日本大百科全書)とされる。これは、

唐で府兵制の変質過程で募兵の一形式として軍鎮(ぐんちん)勤務のものとして「健児」が現れる、

とあるのを模倣した用語とみられる(仝上)。健児制度の初見は、近江国(滋賀県)志賀郡の大友吉備麻呂(きびまろ)で、725年(神亀2)から734年(天平6)まで健児であった。この間、735年には、

兵士300人を健児としたことや、翌年、健児、儲士(ちょし)、選士に対して田租(でんそ)、雑徭(ぞうよう)のなかばが免除となった、

という記事が残っている(仝上)。その後738年5月に、

東海、東山、山陰、山陽、西海諸道の健児を停止、

したとあり、約10年間の存在であった(仝上)。

軍団が私物化され農民の疲弊を招いた、
軍団の兵士は弓馬の心得あるものが少ない、

などが原因で、延暦11年(792)に軍団の制度が一部を除いて廃止されると、代わりに、質の向上を図るため、その代わりに設けた兵制をも、

健児(こんでい)、

という(精選版日本国語大辞典)。

郡司や富裕者、有位者の子弟を採用して健児とし、軍団の兵士と同様の任務につけ、国府におかれた健児所が彼らを統率した、

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、国衙(こくが)に健児所(こんでいどころ)を置いて所属させ、

各国の国府、兵庫、鈴蔵などを警備した、

という(精選版日本国語大辞典)。のち、

勲位を持つ者、さらには白丁(はくてい 無位無官の良民。口分田を支給されて租を納め課役を負担する者)、

をも採用し、その数は国の大きさによって違い、

約 20〜200人、

全国で、

3155人、

延喜式には、

3964人、

とあった。彼らは 60日交代で勤務し、徭役は免除された。その費用には健児田(こんでいでん 健児の食料にあてるため国衙で営作した田。不輸租田であった)からの収入があてられた(仝上)。健児所は平安末まで存続した。

健児、

という用語の採用は、農民兵士の義務制を否定し、郡司子弟からのみ募兵するという理念を表現するものであったと考えられる(日本大百科全書)とあり、

後世の武士の原型をなす、

とはその意味であろう。そのためか、

健児(こんでい)、

には、武家隆盛の、中世には、

健児童(こんでいわらわ)、

ともいい、

こんてい童(わらは)もしは格勤者(かくごしや)なんどにて召し使はれけるが(平家物語)、

と、

中間(ちゅうげん)、足軽などをさしていう語、

になっていく。なお、

健児、

を、

こんでい、
こんに、

と訓ませることについては、

和訓栞は、「コンデイ」は、

健児の転音、

とある。

コン、

は、

健の呉音、

ニ、

と訓むのは、

児の呉音、

で、

尼の字の漢音はヂ、デイ、呉音はニ、相通じるものか、

とある(大言海)。これだと、

コンニ、

と訓む理由はわかるが、

コンデイ、

と転じた理由ははっきりしない。

「健」(漢音ケン、呉音ゴン)は、

会意兼形声。建は「聿(筆の原字で、筆を手で立てて持つさま)+廴(歩く)」の会意文字で、すっくとたつ、からだをたてて歩くの意を含む。健は「人+音符建」。建が単に、たつのいとなったため、健の字でからだを高く立てて行動するの原義をあらわすようになった、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(人+建)。「横から見た人」の象形と「十字路の左半分を取り出し、それを延ばした」象形(「のびる」の意味)と「手で筆記用具を持つ」象形(「ふで」の意味)から、のびやかに立つ人を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「元気・健全」を意味する「健」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji570.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


喜見(きげん)の城(じょう)


忉利(たうり)は尊き處なり、善法堂には未申(ひつじさる)、圓生樹より丑寅(うしとら)に、中には喜見(きげん)の城(じやう)立てり(梁塵秘抄)、

の、

喜見城(きけんじょう)、

は、梵語、

Sudarśana、

の訳語、

帝釈天(たいしゃくてん)の居城、

とされ、

須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、七宝で飾られ、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊び戯れるというので、楽園などのたとえにされる、

とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑・デジタル大辞泉)。

善見城(ぜんけんじょう)、
喜見、
喜見宮、
喜見城宮、

等々とも呼ばれる(仝上)。

善法堂(ぜんぽうどう)、

とは、

善法、

ともいい、

忉利天(とうりてん)の中にあるといわれる、帝釈天(たいしゃくてん)の善見城外の堂。三十三天がここに集まる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

圓生樹、

は、

在忉利天善見城之東北(俱舍論)、

とあり、

城外東北有圓生樹、是三十三天受欲樂所也。其圓生樹盤根、深廣五十踰繕那、聳乾上昇、枝葉傍布、高廣量、等百由繕那、挺葉開花、妙香芬馥、順風熏滿百由繕那、逆風時猶徧五十、

ともある(仏学大辞典)。

忉利天」は、

梵語、多羅夜登陵舎(トラーヤストリンシャ Trāyastriſśa)の音写、

で、また、

怛利耶怛利奢、

に作り、

三十三天、

と漢訳する(大言海・デジタル大辞泉)。唐代の『慧苑音義』(慧苑・撰述 22年)には、

忉利、訛言、正云怛利耶怛利奢、言怛利耶者此云三也、怛利舎十三也、謂須弥山頂、四方各有八天城、當中有一天城、帝釈所居、総数有三十三處、

とあり、

忉利天者……住蘇迷蘆山(Sumeru の音訳、須彌山)頂、山頂有宮、名善見白、亦名喜見城、……更加是帝釈所住、喜見城成三十三天也(天台宗の僧源信(恵心僧都942〜1017)「三界義(11C初)」)、

ともある。つまり、原意は、

三十三、

つまり、

三十三種の天(または天神)からなる世界、

を意味するので、

三十三天、

と意訳された(日本大百科全書)。

欲界、

の、

六欲天、

は、上から、

他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、
化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん) 六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、
兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある。菩薩がいる場所、
夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、
忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん) 六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、
四大王衆天(しだいおうしゅてん) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、

となる(精選版日本国語大辞典・http://yuusen.g1.xrea.com/index_272.html)が、

忉利天、

は、

欲界の六天のうちの第二、

須弥山(しゅみせん)の頂上にあり、

帝釈天は、

中央の喜見城(きけんじょう)の、

殊勝殿(しゅしょうでん)、

に住み、四方の峰に八天があるので、

三十三天、

ともいう(広辞苑・デジタル大辞泉・日本大百科全書)。『慧苑音義』には、

この天、須弥山の頂に在り、四方に各八天の住処あり中央の善見城を加ふるゆゑに三十三天となる、帝釈天王の居所である、

に続いて、

往昔迦葉仏入滅の時一女人あり発心して塔を修す、また三十二人ありてこれを助修す、この功徳によりて女人は忉利天王に転生し、其助修者は皆輔臣となつたと、三十三天ある所以である、

とある(仏教辞典)。ちなみに、三十三天は、中央の、

喜見城(きけんじょう)天(善見城天)、

のほか、

善法堂天(ぜんぽうどう 善見城の南西に善法堂があり、ここに天人が定期的に集まり会議を開く)、
山峯天(さんぽうてん 北東の外側にある)、
山頂天(さんちょうてん 北西の外側にある)、
鉢私地天(はっしちてん 北西にある)、
倶吒天(くたてん 北東にある)、
雑殿天(ぞうでんてん 北西の外側にある)、
歓喜園天(かんぎえんてん 北方にある。ここには善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ歓喜園と如意池がある。ここへ入ると自然に歓喜の心が生じるとされる。「かんぎおん」とも)、
光明天(こうみょうてん 北東の外側にある)、
波利耶多天(はりやたてん 北東の外側にある)、
離険岸天(りけんがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、
谷崖岸天(こくがいがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、
摩尼蔵天(まにぞうてん 北東の外側にある)、
旋行天(せんぎょうてん 北東にある)、
金殿天(こんでんてん 北東の外側にある)、
鬘影天(まんえいてん 南東にある)、
柔軟天(じゅうなんてん 南東の外側にある)、
雑荘厳天(ぞうしょうごんてん南東の外側にある)、
如意天(にょいてん 南東にある)、
微細行天(びさいぎょうてん 南東の外側にある)、
歌音喜楽天(かおんきらくてん 南の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ粗悪園(悪口園)と如意池がある)、
威徳輪天(いとくりんてん 南西の外側にある)、
月行天(げっこうてん 南西にある)、
閻摩那娑羅天(えんまやさらてん 南西の外側にある)、
速行天(そっこうてん 南西の外側にある)、
影照天(えいしょうてん 西の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ雑林園と如意池がある)、
智慧行天(ちえぎょうてん 西の外側にある)、
衆分天(しゅうぶんてん 西の外側にある)、
曼陀羅天(まんだらてん 北西にある)、
上行天(じょうぎょうてん 北西にある)、
威徳顔天(いとくがんてん 北西の外側にある)、
威徳燄輪光天(いとくえんりんこうてん 北西にある)、
清浄天(しょうじょうてん 北西の外側にある)、

とあるhttps://jiincenter.net/toriten-33ten/

須弥山」については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


帝釈天


梵天」で触れたように、

帝釈天は梵天と並んで諸天の最高位を占め、仏法の守護神とされる(広辞苑)。

密教では十二天の一つとされるが、「大梵天」で触れたように、

十二天、

は、

仏教の護法善神である「天部」の諸尊12種の総称、

で、十二天のうち、特に八方、

東西南北の四方と東北・東南・西北・西南、

を護る諸尊を、

八方天、

あるいは、

護世八方天といい、更に、

天地を護る諸尊、

を加えて、

十天、

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%A4%A9。すなわち、

東方の帝釈天(たいしゃくてん インドラIndra)、
南方の焔魔天(えんまてん ヤマYama)、
西方の水天(バルナVaruna)、
北方の毘沙門天(びしゃもんてん バイシュラバナVaiśravaa、クベーラKuvera)、
東南方の火天(アグニAgni)、
西南方の羅刹天(らせつてん ラークシャサRākasa)、
西北方の風天(バーユVāyu)、
東北方の伊舎那天(いしゃなてん イーシャーナĪśāna)、
上方の梵天(ぼんてん ブラフマーBrahmā)、
下方の地天(ちてん プリティビーPthivī)、
日天(にってん スーリヤSūrya)、
月天(がってん チャンドラCandra)、

をいう(日本大百科全書)。

帝釈天、

は、梵語。

Śakro devānām Indraḥ、

の音写、

釈迦提桓因陀羅(釈迦提婆因達羅)、

の訳語、

梵天帝釋の略、

とあり(大言海)、

天帝釈、
釈提桓因、
帝釈、
帝釈天王、

などともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

梵云、釋迦提婆因達羅、釋迦姓也、此飜為能、提婆天也、因達羅帝也、正云能天帝、……此在妙高山(須弥山)頂而住、三十三天之帝主也(『妙法蓮華経玄贊(唐の慈恩大師窺基著)』)、

とある。

四天王」で触れたように、もとはバラモン教の神で、インド最古の聖典『リグ・ベーダ』のなかでは、

雷霆神(らいていしん)、

であり、

武神、

である。ベーダ神話に著名な、

インドラIndra、

が原名、天衆をひきいて阿修羅(あしゅら)を征服し、密教では、

十二天の一つで、また八方天の一つ、

として東方を守り、

須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の善見城(ぜんけんじょう)に住し、四天王を統率し、人間界をも監視する、

とされる(日本大百科全書)。「是生滅法」で触れた、『大乗涅槃経(だいじょうねはんぎょう)』聖行品(しょうぎょうぼん)にある、

雪山童子(せっさんどうじ)、

の説話で、帝釈天が羅刹(らせつ 鬼)に身を変じて童子の修行を試し励ます役割を演じている(仝上)。

善見城(ぜんけんじょう)、

は、喜見の城でも触れたように、

喜見城(きけんじょう)、

ともいい、梵語、

Sudarśana、

の訳語、

帝釈天(たいしゃくてん)の居城、

とされ、

須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、七宝で飾られ、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊び戯れるというので、楽園などのたとえにされる、

とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑・デジタル大辞泉)。

善見城(ぜんけんじょう)、
喜見、
喜見宮、
喜見城宮、

等々とも呼ばれる(仝上)。帝釈天は、

殊勝殿(しゅしょうでん)、

に住み、忉利天は、四方の峰に八天があるので、

三十三天、

ともいう(広辞苑・デジタル大辞泉・日本大百科全書)。『慧苑音義』には、

この天、須弥山の頂に在り、四方に各八天の住処あり中央の善見城を加ふるゆゑに三十三天となる、帝釈天王の居所である、

に続いて、

往昔迦葉仏入滅の時一女人あり発心して塔を修す、また三十二人ありてこれを助修す、この功徳によりて女人は忉利天王に転生し、其助修者は皆輔臣となつたと、三十三天ある所以である、

とある(仏教辞)。ちなみに、三十三天は、中央の、

喜見城(きけんじょう)天(善見城天)、

のほか、

善法堂天(ぜんぽうどう 善見城の南西に善法堂があり、ここに天人が定期的に集まり会議を開く)、
山峯天(さんぽうてん 北東の外側にある)、
山頂天(さんちょうてん 北西の外側にある)、
鉢私地天(はっしちてん 北西にある)、
倶吒天(くたてん 北東にある)、
雑殿天(ぞうでんてん 北西の外側にある)、
歓喜園天(かんぎえんてん 北方にある。ここには善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ歓喜園と如意池がある。ここへ入ると自然に歓喜の心が生じるとされる。「かんぎおん」とも)、
光明天(こうみょうてん 北東の外側にある)、
波利耶多天(はりやたてん 北東の外側にある)、
離険岸天(りけんがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、
谷崖岸天(こくがいがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、
摩尼蔵天(まにぞうてん 北東の外側にある)、
旋行天(せんぎょうてん 北東にある)、
金殿天(こんでんてん 北東の外側にある)、
鬘影天(まんえいてん 南東にある)、
柔軟天(じゅうなんてん 南東の外側にある)、
雑荘厳天(ぞうしょうごんてん南東の外側にある)、
如意天(にょいてん 南東にある)、
微細行天(びさいぎょうてん 南東の外側にある)、
歌音喜楽天(かおんきらくてん 南の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ粗悪園(悪口園)と如意池がある)、
威徳輪天(いとくりんてん 南西の外側にある)、
月行天(げっこうてん 南西にある)、
閻摩那娑羅天(えんまやさらてん 南西の外側にある)、
速行天(そっこうてん 南西の外側にある)、
影照天(えいしょうてん 西の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ雑林園と如意池がある)、
智慧行天(ちえぎょうてん 西の外側にある)、
衆分天(しゅうぶんてん 西の外側にある)、
曼陀羅天(まんだらてん 北西にある)、
上行天(じょうぎょうてん 北西にある)、
威徳顔天(いとくがんてん 北西の外側にある)、
威徳燄輪光天(いとくえんりんこうてん 北西にある)、
清浄天(しょうじょうてん 北西の外側にある)、

とあるhttps://jiincenter.net/toriten-33ten/

帝釈天の像形は一定でないが、古くは、

高髻で、唐時代の貴顕の服飾を着け、また外衣の下に鎧を着けるもの、

もあるが、平安初期以降は密教とともに、

天冠をいただき、金剛杵(こんごうしょ)を持ち、象に乗る姿、

が普及した(精選版日本国語大辞典)。

帝釈天に仕える、

四天王(してんのう 梵語Caturmahārāja)、

は、「深沙大王」で触れたように、

六欲天の第1天、
四大王衆天(しだいおうしゅてん、四王天)の主、
大王(しだいおう)、

もいい、

東方の持国天(じこくてん)、
南方の増長天(ぞうちょうてん)、
西方の広目天(こうもくてん)、
北方の多聞天(たもんてん)、

の四神をいい、帝釈天に仕え、それぞれ須弥山・中腹に在る四天王天の四方にて仏法僧を守護し、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で共に仏法を守護するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B

八部鬼衆、

は、

四天王に仕え仏法を守護する8種族の鬼神です。乾闥婆(けんだつば)、毘舎闍(びしゃじゃ)、鳩槃荼(くばんだ) 、薜茘多(へいれいた)、那伽(ナーガ、龍神)、富單那(ふたんな) 、夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)、

をいいhttps://jiincenter.net/8bukishu/

もとは古代インドの鬼神でしたが、仏教に帰依して仏法の守護神となりました。また、どれも集団の名であり、個別の神をさすものではありません、

とある(仝上)。『仁王経合疏』によると、

乾闥婆(けんだつば 古代インドのガンダルヴァ。香陰と訳す。酒や肉を食さず、ただ香をもってその陰身を保つ。東方を守護する持国天の眷属。
毘舎闍(びしゃじゃ 啖精気と訳す。人および五穀の精気を食す。東方を守護する持国天の眷属)、
鳩槃荼(くばんだ 形と訳す。その陰茎甕形に似た厭魅鬼である。南方を守護する増長天の眷属)、
薜茘多(へいれいた 餓鬼と訳す。常に飢餓・涸渇に切迫せられた鬼神である。南方を守護する増長天の眷属)、
那伽(ナーガ、龍 水属の王とされる。西方を守護する広目天の眷属)、
富單那(ふたんな 臭餓鬼と訳す。これ主熱の病鬼である。西方を守護する広目天の眷属)、
夜叉(やしゃ 勇健鬼と訳す。地行夜叉・虚空夜叉・天夜叉の3種類がある。北方を守護する多聞天の眷属)、
羅刹(らせつ 捷疾鬼と訳す。北方を守護する多聞天の眷属)、

とあるhttps://jiincenter.net/8bukishu/

八部衆、

と名称が似ており、また鬼神名も一部重複するため間違われやすい。八部衆も八部鬼衆も天部に位置し仏法を守護する護法善神に属するという点では同じであるが、八部鬼神は四天王の配下とされる点で異なる(仝上)。

「八部衆」については、「妙見(めうけん)大悲者」でも触れたが、

天部、

とは、

仏教の尊像の4区分、

如来、菩薩、明王、天、

の第4番目にあたるのを、

天部、

といい、

諸天部、

ともいい、

インド古来の神が天と訳されて仏教に取入れられ、護法神となったもの、

で、

貴顕天部と武人天部、

があり、前者は、

梵天王、帝釈天、吉祥天、弁財天、伎芸天、鬼子母神(訶梨帝母)、大黒天、

後者は、

毘沙門天(多聞天)などの四天王や仁王、韋駄天、深沙大将、八部衆、十二神将、二十八部衆、

等々である(精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典)。

帝釈天、

は、天部の最高位に属するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E5%A4%A9。なお、

八部衆、

とは、

八つの種族、

という意味で、『舎利弗問経』を基本に、『法華経』や『金光明最勝王経』などの説により、

天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆、

の八つを指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%83%A8%E8%A1%86

天(Deva、てん 梵天、帝釈天を初めとする、いわゆる「天部」の神格の総称。欲界の六天、色界の四禅天、無色界の四空処天のこと。光明・自然・清浄・自在・最勝の義を有す。古代インドにおける諸天の総称。天地万物の主宰者、
龍(Naga、りゅう 「竜」、「竜王」などと称される種族の総称。蛇を神格化したもので、水中に棲み、雲や雨をもたらすとされる。また、釈尊の誕生の際、灌水したのも竜王であった。人面人形で冠上に龍形を表す)、
夜叉(Yaksa、やしゃ 古代インドの悪鬼神の類を指すが、仏法に帰依して護法善神となったもの)、
乾闥婆(Gandharva、けんだつば 香を食べるとされ、神々の酒ソーマの守り神とも言う。仏教では帝釈天の眷属の音楽神とされている。インド神話におけるガンダルヴァである)、
阿修羅(Asura、あしゅら 古代インドの戦闘神であるが、インド・イラン共通時代における中央アジア、イラン方面の太陽神が起源とも言われる。通常、三面六臂に表す)、
迦楼羅(Garuda、かるら ガルダを前身とする、竜を好んで常食するという伝説上の鳥である。鳥類の一種を神格化したもの)、
緊那羅(Kimnara、きんなら 音楽神であり、また半身半獣の人非人ともいう。人にも畜生にも鳥にも該当しない。仏教では乾闥婆と同様に帝釈天の眷属とされ、美しい声で歌うという)、
摩睺羅伽(Mahoraga、まごらが 緊那羅とともに帝釈天の眷属の音楽神ともいう。または廟神ともいわれる。身体は人間であるが首は蛇である。大蛇(ニシキヘビとも)を神格化したもの)、

とある(仝上)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


僧伽


摩犂山(まれいさん)のこねにこそ、かうふてゐる蒔き直し、僧伽(そうぎや)の種(たね)に生(お)いにけり、やうれ香(かう)とぞ匂ふなる(梁塵秘抄)、

の、

僧伽、

は、

そうが、

とも訓ませ、梵語、

saṃgha(サンガ)、

の音訳、

集団・会合。

の意(デジタル大辞泉)で、

和合衆、
衆、

と訳し(広辞苑・大辞林)、

和合僧、
僧祇(そうぎ)、

ともいい、

僧といふは略言なり。つぶさには僧伽といふ。梵言の僧伽、ここには衆和合といふ(「十善法語(1775)」)、

と、略して、

僧、

ともいう。普通は、

仏教修行者の集団、
僧侶の集団、

の意で、

四人以上の和合体、

をさすが、広義には、

在家を含む仏教教団全体、

をいうこともある(精選版日本国語大辞典)。

saṃgha(サンガ)、

は、政治史の上では、

古代インドの部族共和制国家、

の呼称として用いられる。

部族共和制国家、

とは、

専制王をもたず、部族集会で選出された首長や代表者に行政権がゆだねられる国家をいう。同じく集団を意味するガナgaṇaの名でも呼ばれ、英語ではリパブリックrepublicと訳される。仏教成立時代のリッチャビ族や釈迦(シャーキヤ)族の国家は、この種の国家を代表するものである、

とある(世界大百科事典)が、インドで古く、

商工業者たちの組合団体、

を意味し(世界大百科事典)、それが、

仏教教団、

をさす名称となった。厳密な意味での「サンガ(僧伽)」は、

仏法を信じ、仏道を実践する、少なくとも4人以上、

で構成される、

男子出家集団(比丘(びく)僧伽)、
女性出家集団(比丘尼(びくに)僧伽)、

であり、男女在家(ざいけ)信者を含む教団全体、

パリシャド(四衆)、

と区別されてきたが、明治以後の日本では、在俗の男女信者を含んだ仏教集団全体も「僧伽」と呼ばれるようになっている(山川世界史小辞典)とある。「サンガ」は元来、

集団、共同体、

の意味で、

修行者の集り、教団、

を指すが、中国では転じて、

個々の修行者、

を、

僧、

とよぶにいたり、その、

複数形をあらわす僧侶、

が、日本では個人を指す語に転化した(世界大百科事典)とある。いわゆる、

仏法僧、

と訳される、

三宝(さんぼう 仏(ほとけ)・法(ほとけの教え)と僧(ほとけに従う弟子たちの集団))、

の、

僧、

は、

僧伽の略、

であるから、個々の僧を指していたのではない(仝上)。

因みに、

仏陀(釈迦)と法(ダルマ)と僧伽(そうぎゃ、さんが)、

を指す、

三宝(さんぽう)、

は、梵語、

tri-ratna、
あるいは
ratna-traya、

の訳語、、『宝性論』では、この三つが、

@世の中に稀有なものであり、A清らかで、B力を備え、C出世間を荘厳し、D最上の存在であり、E移り変わらないという六点を具える、

から宝とすると説き、大乗の『涅槃経』、『南本涅槃経』、や『維摩経』などは、

仏は、すなわち是れ法、法はすなわち是れ僧なり、

と、

仏・法・僧が実は本性として等しい、

と主張するhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E5%AE%9D

「僧」(ソウ)は、

形声。「人+音符曾(ソウ 曽)で、梵語を音訳するために作られた字。後漢には「桑門」と書き、三国時代以後には、「僧」と書く、

とある(漢字源)。

「伽」(慣用カ・ガ、漢音キャ、呉音ギャ)は、

形声。「人+音符加」、梵語のガの音を、音訳するために作られた字。「伽藍」「伽羅」などに使う、

とある(漢字源)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


弾呵(だんか)


蓮華陸地に生(お)いずとは、暫く弾呵(たんか)の詞(ことば)なり、泥水(でいすい)掘り得て後(のち)よりぞ、妙法蓮華は開(ひら)けたる(梁塵秘抄)、

弾呵(たんか)、

とあるのは、

だんか、

とも訓まし、

弾は弾劾、呵は呵責(かしやく)、

を意味(日本大百科全書)し、

弾訶、

とも当て(精選版日本国語大辞典)、

小乗の教えにとどまっているのを叱ること、

とあり(大辞林)、

彼等を一々不品行、不徳義として弾呵するのは縄墨(ぜうぼく)の見(けん)であらうが(中村春雨「欧米印象記(1910)」)、

と、

しかり、とがめること、
非難すること、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

大乗仏教では、大乗経典を指して、

方等経(ほうどうきょう)、

と呼び、天台宗では、

浄土三部経(『無量寿経(むりょうじゅきょう)』、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』、『阿弥陀経(あみだきょう)』)、『大日経』・『金剛頂経』・『金光明経』・『維摩経』・『勝鬘経』・『解深密経』、

等々がそれにあたるとし、それを、

弾呵(たんか、だんか)の教え、

といい、『維摩経』では、

釈迦の弟子で阿羅漢(声聞)とされる舎利弗たちが、在家である維摩詰にやり込められる模様、

を述べるなど、小乗の修行者を厳しく弾劾・呵責、している(梅田愛子「『維摩経』における声聞の扱いについて」・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E7%AD%89%E7%B5%8C)。

方等(ほうとう・ほうどう)、

は、

方広、

ともいい、

毘仏略、

と音訳する梵語(サンスクリット語)、

vaipulya(バイプルヤ)、

の訳語で、本来、

広い、
とか、
大きい、

の意味をもち、

方広、
広大、

などと訳す(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。

大乗では非常に重要な意味をもつように喧伝(けんでん)されているのは、「方等」が、

仏所説や如来所説の十二部経(じゅうにぶきょう)の一つとされ、後世に製作された大乗経典が、十二部経の方等にあたり、したがって大乗経典は仏説であると主張された、

ためであろう(仝上)としている。それは、

パーリ語の九分(くぶん)教ベーダッラvedalla(教理問答)のかわりに、サンスクリット語の十二分教ではバイプルヤvaipulya(方等)と置き換え、このバイプルヤがすなわち大乗の経典をさすとし、後世発達した経典の権威づけのために、九分十二分教の転釈が行われた(仝上)とみられている。

因みに、十二部経(じゅうにぶきょう サンスクリット語: dvādaśāṅgadharmapravacana)は、仏教の経典の形態を形式、内容から12種に分類したものをいい、

修多羅(しゅたら、sūtra、契経(かいきょう)教説を直接散文で述べたもの)、
祇夜(ぎや、geya、重頌(じゅうじゅ)散文の教説の内容を韻文で重説したもの)、
和伽羅(わがらな、vyākaraṇa、授記仏弟子の未来について証言を述べたもの)、
伽陀(かだ、gāthā、諷頌(ふじゅ)/偈 最初から独立して韻文で述べたもの)、
優陀那(うだな、udāna、自説経 質問なしに仏がみずから進んで教説を述べたもの)、
伊帝曰多伽(いていわったか、ityuktaka、itivr̥ttaka、本事(ほんじ)、如是語とも 仏弟子の過去世の行為を述べたもの)、
闍多(じゃーたか、jātaka、本生(ほんじょう)仏の過去世の修行を述べたもの)、
毘仏略(びぶつりゃく、vaipulya、パーリ語: vedalla、方広(ほうこう)広く深い意味を述べたもの)、
阿浮陀達磨(あぶだだつま、adbhutadharma、未曾有法(みぞうほう)仏の神秘的なことや功徳を嘆じたもの)、
尼陀那(にだな、nidāna、因縁)経や律の由来を述べたもの)、
阿婆陀那(あばだな、avadāna、譬喩(ひゆ)教説を譬喩で述べたもの)、
優婆提舎(うばだいしゃ、upadeśa、論議 教説を解説したもの)、

で、9種の分類法、

九部経、

がより古い形態とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%83%A8%E7%B5%8C・ブリタニカ国際大百科事典)。

十二分教(じゅうにぶんきょう)、
十二分聖教(じゅうにぶんしょうぎょう)、

ともいう(仝上)。

なお、

一説に「啖呵を切る」などの啖呵は、これから出たのではとする、

など(世界宗教用語大事典)、

弾呵、

が、

啖呵を切る、

の、

啖呵、

の語源とする説があるが、啖呵で触れたように、語源には、

「弾呵(だんか)」の転
と。
「痰火(たんか)」の転、

の二説があり、

痰火、

は、痰の出る病、あるいは咳を伴って激しく出る痰をいい、のどや胸につかえた痰が切れて、胸がすっきりした状態を「痰火を切る」ということから、「痰火」に「啖呵」をあて、…「啖呵を切る」というようになった、

といわれる(日本大百科全書)。

弾呵(だんか)、

は、上述のように、維摩居士(ゆいまこじ)が十六羅漢や四大菩薩を閉口させた故事による、自分だけが成仏すればよいとする小乗の修行者の考えを強くたたき、しかりつけることをいい、転じて「啖呵」の字をあて、相手を激しくののしることの意となった、

とされる(仝上)。しかし、

弾呵が「責める」の意味とすれば、「切る」は必要ない言葉となるため、何を表しているか不明である、

というように(語源由来辞典)、

痰火(たんか)から転じたとする説が有力である、

とされる(日本大百科全書)。

啖呵を切る、

の「啖呵」は、もともと「痰火」と書き、体内の火気によって生ずると考えられていた咳と一緒に激しく出る痰や、そのような病気のことをいう。「切る」は、その啖呵(痰火)を治療・治すこと、

とする(語源由来辞典)のが妥当な気がする。

痰火が治ると、胸がすっきりするところから、香具師などの隠語で、品物を売るときに歯切れのよい口調でまくしたてることを、

啖呵を切る、

と言い、相手をやりこめる意味にもなった(仝上)ものと考えていい。

啖呵、

は当て字である(デジタル大辞泉)。

「弾(彈)」(漢音タン、呉音ダン)は、

会意兼形声。單(単)は、両耳のついた平らな団扇を描いた象形文字で、ぱたぱたとたたく、平面が上下に動くなどの意味を含む。彈は「弓+音符單」で、弓や琴の弦が上下に動くこと、転じて、張った紐や絃をはじいて上下に振動させること、

とある(漢字源)。別に、

形声。「弓」+音符「單 /*TAN/」。「はじく」「発射する」を意味する漢語{彈 /*daan/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BD%88

形声。弓と、音符單(タン)とから成る。石つぶてなどを飛ばす弓、ひいて、「はじく」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(弓+単(單))。「弓」の象形と「先端がY字形になっているはじき弓」の象形から「はじき弓」を意味する「弾」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1411.html

「單」(@漢音・呉音タン、A漢音セン、呉音ゼン)は、

象形。籐(とう)の弦を編んで拵えたはたきを描いたもの。はたきは両側に耳があり、これでぱたぱたとたたき、ほこりをおとしたり、鳥や小獣をたたきおとしたりする。獣(獸)の字に意符として含まれる、

とある(漢字源)。@音は、「単位」のようにひとつとか、ひとえの意味のとき、A音は、平らげる意のときとある(仝上)。別に、

象形。狩猟用具の一種を象る。本義は不明。のち仮借して「ひとつ」「ひとえ」を意味する漢語{單 /*taan/}に用いる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%96%AE

象形。先がふたまたになっている武器の形にかたどる。借りて、ひとつの意に用いる、

とも(角川新字源)。

象形文字です。「先端が両またになっているはじき弓」の象形から「ひとつ」を意味する「単」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji654.htmlあり、武器系と見る説が多い。

「呵」(カ)は、

会意兼形声。「口+音符可」。可の原字は、¬ に曲がったさまを示す。それに口を加えて、呵となった。息がのどもとで屈曲し、はあ、かっと摩擦を帯びつつでること、

とある。

「訶」(カ)は、

会意兼形声。可はかぎ型に曲がる、まっすぐにいかず、かどでまさつをおこすという基本義をもつ。曲りなりにも承知すること。訶は「言+音符可」で、のどもとに強い摩擦をおこして怒鳴ること。喝(カツ どなる)は、その語尾が転じた語、

とある(漢字源)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


慈氏


釈迦の月は隠れにき。慈氏の朝日はまだ遥かなり、そのほど長夜の闇(くら)きをば、法華経のみこそ照らいたまへ(梁塵秘抄)

の、

慈氏、

とは、

捨身他世、昇於天上、見慈氏尊、得三菩提(「大日本国法華経験記(1040〜44)」)、

と、

慈氏尊、

とも、

正念にして慈氏菩薩を念じ奉り給ふ間(今昔物語)、

と、

慈氏菩薩、

ともいい、梵語、

Maitreya(マイトレーヤ)、

の訳、梵語、

Maitrī、

慈しみ、

を語源としhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9

慈悲深い、

の意であり、

Maitreya、

音写、

彌勒、

つまり、

彌勒菩薩の異称、

である(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。別に、

クシャーナ朝下で用いられた言語でミイロはイランの太陽神ミスラMithraに由来し、したがってベーダの契約神ミトラMitraと関連する。インド仏教徒はMiiroをMitraに還元し、mitraが友を意味し、派生語maitreyaが〈友情ある〉を意味することから、弥勒を〈慈氏〉(Maitreyaの意訳語)ととらえたものと思われる、

ともある(世界大百科事典)。

今為彌勒雖無可慊。為文殊有妨。猶不欲顕彼時答問(「法華義疏(7C前)」)、

と、

彌勒、

ともいい、

彌勒慈尊、
彌勒天、
彌勒龍樹、

という呼び方もする(精選版日本国語大辞典)。

彌勒」は、「出世」で触れたように、

釈迦牟尼仏に次いで仏になると約束された菩薩、

で、

於是衆生。歴年累月。蒙教修行。漸漸益解。至下於王城始発中大乗機上、称会如来出世之大意(法華義疏)、

と、

兜率天(とそつてん)に住し、釈尊入滅後56億7千万年後この世に下生(げしょう)して、龍華三会(りゅうげさんね)の説法によって釈尊の救いに洩れた衆生をことごとく済度するために出世する(衆生済度のため世界に出現する)、

未来仏、

とされる(広辞苑)。

下生のときにはすでに釈迦仏の代りとなっているので菩薩ではなく仏となっており、そのために、

将来仏、
当来仏、

とも呼ばれる(ブリタニカ国際大百科事典)。

兜率天」は、かつて釈迦がここにいて、ここから下界へ下ったが、

六欲天の第四なり、須弥山の頂上十二万由旬に在り、摩尼宝殿又兜率天宮なる宮殿あり、無量の諸天之に住(画題辞典)、

し、

内外二院あり(広辞苑)、内院は、

将来仏となるべき菩薩が最後の生を過ごし、現在は弥勒(みろく)菩薩が住む、

とされ、

弥勒はここに在して説法し閻浮提に下生成仏する時の来るのを待っている、

とされている(仝上)。日本ではここに四十九院があるという。外院は、

天人の住所、

である(広辞苑)。

六欲天の第四、

というのは、

欲界(kāma‐dhātu)、
色界(rūpa‐dhātu)、
無色界(ārūpa‐dhātu)、

の三種に分類した、

三界、

のひとつである「欲界」が、

他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、
化楽天(けらくてん、楽変化天 らくへんげてん)六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、
兜率天(とそつてん、覩史多天 としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある、
夜摩天(やまてん、焔摩天 えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、
忉利天(とうりてん 三十三天 さんじゅうさんてん)六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、
四大王衆天(しだいおうしゅてん、四天王の住む場所) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、

からなる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%AC%B2%E5%A4%A9・精選版日本国語大辞典)、六欲天の、

第四天、

である。

「兜率天」は、

夜摩天の上にあり、この天に在るもの五欲の境に対し、喜事多く、聚集して遊楽す、故に喜楽集とも訳し、又兜卒天宮とは、此の兜率天にある摩尼宝殿をいふ、また三世法界宮ともいふ、この天に内院外院の二あり、外院は定寿四千歳にして内院にはその寿に限なく火水風の二災もこれを壊すこと能はざる浄土である、この内院にまた四十九院あり、補処の菩薩は弥勒説法院に居す、余の諸天には内院の浄土なく兜率には内院の浄土ありと『七帖見聞』に説かれている、

とあり(仏教辞林)、この天の一昼夜は、

人界の四百歳に当たる、

という(精選版日本国語大辞典)。この天は、

下部の四天王、忉利天、夜摩天三つの天が欲情に沈み、

また反対に、

上部の化楽天・他化自在天の二天に浮逸の心が多い、

のに対して、

沈に非ず、浮に非ず、色・声・香・味・触の五欲の楽において喜足の心を生ずる、

故に、弥勒などの、

補処の菩薩、

の止住する処となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C%E7%8E%87%E5%A4%A9。七宝で飾られた四九重の宝宮があるとされる、

兜率天の内院(ないいん)、

は、

一生補処(いっしょうふしょ)の位、