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コトバ辞典


みこし入道


さてさて、あやうきことかな、夫(それ)こそ見こし入道にて候はん(百物語評判)、

にある、

見こし入道、

は、

背が高く、首が伸びる大入道の妖怪。人が見上げれば見上げるほど、背が高くなるといわれる、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、必ずしも、

首が伸びる大入道、

とは限らないようだ。

「見こし入道(にゅうどう)」は、

見越し入道、
見越入道、

とも当て、

大なる法師の、鉄棒を杖にしたる、

という像とあり(大言海)、

見上げ入道、
次第高、
高入道、
入道坊主、

等々の呼名もある(デジタル大辞泉)。

首が長く、背の高い入道姿で、金棒などを持っている妖怪。人が見上げれば見上げるほど背が高くなり、また首が長くなる(精選版日本国語大辞典)、

ともあるが、

路上に現れ、出会ったものが目線を上げるほど巨大化するとされる(デジタル大辞泉)、

ともある。市井雑談集(1764年)には、見越入道の出現と思って肝をつぶした著者に、

此の所は昼過ぎ日の映ずる時、暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也、初めて見たる者は驚く也、

と語ったとある(世界大百科事典)。

多くの伝承があるが、

夜道や坂道の突き当たりを歩いていると、僧の姿で突然現れ、見上げれば見上げるほど大きくなる、見上げるほど大きい、

から、

見上げ入道、

の名がついた。そのまま見ていると、死ぬこともあるが、

見こした、
みぬいた、
見越し入道みこした、

などと言えば消える、

とか、

見越し入道に飛び越されると死ぬ、喉を締め上げられる、

といいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E8%B6%8A%E3%81%97%E5%85%A5%E9%81%93、それで、

見こし入道、

ともいい、

主に夜道を一人で歩いていると現れることが多い、

とされ、

四つ辻、石橋、木の上、

等々にも現れる(仝上)というものである。

妖怪画では、鳥山石燕『画図百鬼夜行』の「見越」は、首が長めになっているが、これは背後から人を見る格好で、ろくろ首のように首の長さを強調していない(仝上)。

しかし、江戸時代のおもちゃ絵などに描かれたものは、

首の長いろくろ首かとさえ思える見越し入道、

も決して珍しくない(仝上)し、十返舎一九『信有奇怪会』では、

首の長い見越し入道、

が描かれている(仝上)。

この首の長さは、時代を下るにつれて誇張され、江戸後期には、

首がひょろ長く、顔に三つ目を備えているものが定番、

となり、妖怪をテーマとした江戸時代の多くの草双紙でも同様に首の長い特徴的な姿で描かれ、その容姿から、

妖怪の親玉、

として登場する(仝上)、とある。

多く、

入道、
坊主、

とあることについては、

土着の信仰に根ざす生活をしていた日本人は、仏教に対して畏敬の念を持ちながらも、忌避の感情を捨てきれず、村落の外から入ってくる僧侶を異形(いぎよう)の者として畏怖の念を抱いていたので、そうした感情が複合して、入道ということばは、種々の妖怪と結びつけられるようになった。あいきょうもある小僧・小坊主に対して大入道は妖怪変化の王であり、見越(みこし)入道のように、仰ぎ見ればどこまでも大きくなっていく怪物などが語り伝えられた、

とあり、

入道は強大であるが、どこかうさんくさく得体の知れないものと感じられているが、それは日本人の仏教に対する感情の深層の反映でもあろう、

と説かれている(世界大百科事典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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彭侯


併しながら草木に精なきといふにはあらず。又草木の精もこだまと申すべし。唐土(もろこし)にても彭侯(ほうこう)と云ふ獣(けだもの)は、千歳を経し木の中にありて、状(かたち)、狗(いのこ)の如しと云へり(百物語評判)、

にある、

彭侯、

は、

古代中国で信じられた、樹木に宿る妖精、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。上記「百物語評判」では、つづいて、

むかし呉の敬淑(けいしゅく 陸敬淑)と云ひし人、大いなる樟樹(くすのき)をきりしに、木の中より血ながれ出で、あやしみ見れば、中に獣有りしが、彭侯ならんとて、煮て喰らひしに、味ひ狗のごとしといふ事、『捜神記』に見えたり。是れ、ただちに樹神(こだま)なるべし(仝上)、

とある(仝上)。『捜神記』は、

4世紀に東晋の干宝(かんぽう)が著した志怪小説集、

だが、干宝は、

当代一流の学者・文章家で、超自然的な摂理の虚妄でないことを明らかにしようとして本書を著した、

とされ、

神仙、方士(ほうし)、占卜(せんぼく)、風神、雷神など天地の神々、吉兆、凶兆、孝子烈女、妖怪(ようかい)、異婚異産、死者の再生、幽鬼幽界、動物の報恩復仇(ふっきゅう)、

等々多彩な内容で、

中国の説話の宝庫、

とされ、唐代の伝奇など、後世の小説に題材を提供した(日本大百科全書)とされる。同書によれば、中国の聖獣・白沢が述べた魔物などの名を書き記した、

白沢図、

の中に、彭侯の名があると記述している。

「彭侯」は、江戸時代の日本にも伝わっており、上記に引用した、怪談集、

古今百物語評判、

のほか、江戸時代中期編纂の日本の類書(百科事典)、

和漢三才図絵(わかんさんさいずえ 寺島良安)、

鳥山石燕による妖怪画集、

今昔百鬼拾遺、

にも中国の妖怪として紹介されている。

『和漢三才図会』では『本草綱目』からの引用として、彭侯を、

木の精、
または、
木魅(木霊)、

としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E4%BE%AFが、山中の音の反響現象である山彦は、

木霊(木の霊)が起こす、

と考えられたことから、かつて彭侯は山彦と同一視されることもあった。江戸時代の妖怪画集である『百怪図巻』や『画図百鬼夜行』などにある、犬のような姿の山彦の妖怪画は、この彭侯をモデルにしたという説もある、とされる(仝上)。

鳥山石燕は、『画図百鬼夜行』で、「木魅」を、

百年の樹には神ありてかたちをあらはすといふ、

と記し(画図百鬼夜行)、「彭侯」を、

千歳(ざい)の木には精あり、状(かたち)黒狗(くろいぬ)のごとし。尾なし、面(おもて)人に似たり。又山彦とは別なり、

と、「彭侯」と「木魅」は、重ねながら、「山彦」とは、区別している。

「こだま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433340757.htmlで触れたように、「こだま」は、

木霊
とか
木魂
とか
木魅
とか


と当て、

樹木の精霊、
やまびこ、反響、
歌舞伎囃子の一つ。深山または谷底のやまびこに擬す、

とある(広辞苑)。語源は、

「木+タマ(魂・霊)」

とある。

木の精霊、やまびこのこと。反響を。タマシイの仕業と見ている言葉、

とある(仝上)。和名類聚抄(平安中期)には、

文選、蕪城賦云、木魅、山鬼、今案、木魅、即、樹神也、内典云、樹神、古太萬、

とある。

「やまびこ」は、

山彦、

と当て、

山の神、山霊、
山や谷などで、声、音の反響すること、

とあり、語源は、

山+ヒコ(精霊・彦・日子)、
山響(やまひびき)、

で、山間での音の反響を指す。こう見ると、鳥山石燕のいうように、、

樹木の精霊

山霊

とは同義かどうかは疑問になる。箋注和名抄(江戸後期)は、「木魅」を、

涅槃経、如来性起品に見ゆる、樹神の文意を考ふるに、葉守の神にて、こだまにあらず、こだまは、天狗の類にて、木魅を充つるを、近しとすとあり(諸書に、樹神(こだま)とあるは、和名抄に據れるなり)、

としているが。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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つるべおろし


それは俗にいへるつるべおろしと云ふ、ひかり物なり(百物語評判)、

とある、

つるべおろし、

は、

垂直に上下する妖怪、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、本文は続いて、

其の光り物は大木の精にて、即ち木生火(もくしょうか 五行相生説では木は火を生ずる)の理なり。さて昼も顕はれず、わきへも見えざる事は、火は暗きを得て色をまし、明らかなるにあひて光を失ふ。常の事なり。就中(なかんずく)、木の下の暗き所にあらはれ見ゆるなるべし。(中略)其の火のうちにて陰火(いんか)、陽火(ようや)のわかちあり、陽火は物を焼けども、陰火は物を焼くことなし。(中略)此のつるべおとしとかやも、陰火なり、

と解釈している(百物語評判)。

「つるべ」とは、

釣瓶、

と当て、言うまでもなく、

縄や竿の先につけて井戸の水をくみ上げる桶、

をいい、

つるべおけ、

ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。後には、

滑車の先に桶を結び桶の重さを利用して水を汲み上げる、

スタイルとなるが、

豊玉姫の侍者玉の瓶(ツルヘ)を以て水を汲む(神代紀)、

とあるように古くから使われている。

瓶を使う井戸を、

釣瓶井戸、

といい、縄を付け滑車にかけて使う釣瓶を、

縄釣瓶、

といい、

二岐釣瓶 縄の両端に付けて上部の滑車で交互に上げ下げする釣瓶、
竿釣瓶 竹竿の片方に水かごを付けて上げ下げする釣瓶、
はね釣瓶 竹竿の片方に重石を付けて上げ下げする釣瓶、
投げ釣瓶 縄の一端に付け一方の端を持って水中に投げ込む釣瓶、

といった種類があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E7%93%B6らしい。

「つるべ」の語源は、

吊瓶(つるへ)の義(大言海)、
ツル(蔓)へ(瓶)の意(岩波古語辞典)、

とされ、

連るぶ、

とし、

続けざま、

という意とするhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E7%93%B6ものもあるが、それは滑車を使うようになってのことではないか。

釣瓶落とし・釣瓶下し、
あるいは、
釣瓶おろし、

という言い回しは、釣瓶を井戸へ落とす感覚でわかるが、

釣瓶打ち・連るべ打ち、

というのは、滑車のそれで、手でくみ上げている感覚とは程遠い気がする。和名類聚抄(平安中期)には、

罐、楊氏漢語抄云、都留閇、汲水器也、

とある。

「つるべおろし」は、

釣瓶下ろし、

と当てるが、

釣瓶落とし(つるべおとし)、

ともいい、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、

釣瓶火(つるべび)、

としている(鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』)が、これは、上記『百物語評判』で、

西岡の釣瓶おろし、

として、

京都西院の火の玉の妖怪が描かれたもの、

が原典としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E7%93%B6%E7%81%ABとある。

木の精霊が青白い火の玉となってぶらさがったもの、

とする見方があるようである(仝上)が、

通行人が通ると木の上から降りてきて、食べてしまうという妖怪、

または、

大きな釣瓶を落として通行人を掬い、食べてしまう、

とも言われているhttps://mouryou.ifdef.jp/100wa-mi/tsurube-otoshi.htm

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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富楼那(ふるな)の弁


浄土の荘厳(しょうごん)のおごそかなるさま、独り来て独り行くのことわり、富楼那の弁をかつて一時ばかり説き聞かせ給ふほどに(新御伽婢子)、

にある、

富楼那の弁をかつて、

とは、

釈迦十大弟子のうち、弁舌第一といわれた、富楼那(ふるな)のような巧妙な弁舌を駆使して、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、上記の、

独り来て独り行く、

は、

人の死の道理、

の意とある(仝上)。

富楼那 ( ふるな )の弁、

とは、

弁舌第一といわれた富楼那のような巧妙な弁舌、

の意で、

すらすらとよどみなくしゃべる、

ことのたとえとして使われ(精選版日本国語大辞典)、

舎利弗が知恵、富楼那の弁舌、なほし及ぶところにあらず(宝物集)、
阿難の才覚、舎利弗の知恵、富楼那の弁舌にて(風姿花伝)、

などと、

富楼那の弁舌、舎利弗(しゃりほつ)の知恵、目連(もくれん)が神通、

という言い方もする(故事ことわざの辞典)。

巧みでよどみない話術の富楼那、知恵のすぐれた舎利弗、何でもできる力を具えた目連、

と、

十大弟子の長所をいうが、それを包み込む、

釈迦の教え、

の広大であることの謂いでもある(仝上)。最初期には特定の弟子はいなかったとされるが、大乗経典では十大弟子の呼称が固定し、

舎利弗(しゃりほつ 智慧第一)、
目犍連(もくけんれん 略して目連 神通力(じんずうりき)第一)、
摩訶迦葉(まかかしょう 頭陀(ずだ(苦行による清貧の実践)第一)、
須菩提(しゅぼだい 解空(げくう すべて空であると理解する)第一)、
富楼那(ふるな 説法第一)、
迦旃延(かせんねん 摩訶迦旃延(まかかせんねん)とも大迦旃延(だいかせんねん)とも、論議(釈迦の教えを分かりやすく解説)第一)、
阿那律(あなりつ 天眼(てんげん 超自然的眼力)第一)、
優婆(波)離(うばり 持律(じりつ 戒律の実践)第一)、
羅睺羅(らごら 羅睺羅(らふら) (密行(戒の微細なものまで守ること)第一)、
阿難(あなん 阿難陀 多聞(たもん 釈迦の教えをもっとも多く聞き記憶すること)第一)、

をいう(日本大百科全書、https://true-buddhism.com/founder/ananda/他)。

「富楼那」は、正式には、

富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)、

で、

パーリ語でプンナ・マンターニープッタ(Puṇṇa Mantānīputta)、
サンスクリット語でプールナ・マイトラーヤニープトラ(Pūrṇa Maitrāyanīputra)、

略称として、

富楼那、

他の弟子より説法が優れていたので、

説法第一、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%BC%9F%E5%AD%90。音写では、

富楼那弥多羅尼弗多羅、

とも表記するが、

弥多羅尼(ミトラヤニー)とは母親の名であり、弗多羅(プトラ)は「子」、

を意味する。漢訳では、

満願子、
満願慈、
満足慈、
満厳飾女子、
満見子、

等々と記されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%A5%BC%E9%82%A3

「富楼那」は、

十大弟子の中では一番早く弟子となった人、

で、富楼那と呼ばれた人は複数いたとされるが、

各地に赴き、よく教化の実を挙げ、9万9000人の人々を教化した、

とも伝えられるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%A5%BC%E9%82%A3。なお、法華経(授記品)に、

佛告諸比丘、汝等見是富楼那彌多羅尼子不、我常稱其於説法人中、最為第一、

とある。

「富楼那」については、https://true-buddhism.com/founder/punna/に詳しい。

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八功徳水


西方にあり、八功徳水(はちくどくすい)といふ(新御伽婢子)、

の、

八功徳水、

は、

はっくどくすい、

とも訓ませるが、

極楽浄土にある七宝の池、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。阿弥陀経に、

また舎利弗、極楽国土には七宝(しっぽう)の池あり。八功徳水(はっくどくすい)そのなかに充満(じゅうまん)せり。池の底にはもつぱら金(こがね)の沙(いさご)をもつて地(じ)に布(し)けり。四辺の階道(かいどう)は、金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・玻璃(はり)合成(ごうじょう)せり。上に楼閣(ろうかく)あり。また金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・赤珠(しゃくしゅ)・碼碯(めのう)をもつて、これを厳飾(ごんじき)す。池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色(しょうしき)には青光(しょうこう)、黄色(おうしき)には黄光(おうこう)、赤色(しゃくしき)には赤光(しゃっこう)、白色(びゃくしき)には白光(びゃっこう)ありて、微妙(みみょう)香潔(こうけつ)なり、

とあるのを指しhttp://www.smj.or.jp/posts/houwa907.html

その(七宝の池)中に充満せり。その水清く涼しくて味(あぢはひ)甘露の如し(孝養集)、

とある、「七宝の池」は、

宝池をよめるはちす咲くたからの池にうく舟のまづ面影に浮びぬるかな(「草庵集(1359頃)」)、

と、

宝(たから)の池、

ともいい、

極楽浄土にある七宝で飾られた池で、そこには八功徳の水がたたえられている、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「八功徳水」は、

八つの功徳を持つといわれる霊水、

をいうが、

八池水、
八定水、
八昧水、
八支徳水、

ともいいhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%AB%E5%8A%9F%E5%BE%B3%E6%B0%B4、親鸞が、

七宝(しっぽう)の宝池(ほうち)いさぎよく 八功徳水(はっくどくすい)みちみてり 無漏(むろ)の依果(えか)不思議なり 功徳蔵(くどくぞう)を帰命(きみょう)せよ(浄土和讃)

と称えており、無量儒経には、

八功徳水、湛然盈満、清浄、香潔、味如甘露、

とあるが、その「八つの功徳」については、たとえば、

清、冷、軽、美、香、飲む時に適う、飲み已(をは)って患(うれへ)なし、臭からず、

の八種とあり(岩波古語辞典)、書言字考節用集(1717)には、

清浄、清冷、甘美、軽輭、美、香、飲無厭、潤沢、安和、飲時除飢渇一切患、飲已長養四大、

とあるが、「八つの功徳」は、経典によって異なり、倶舎論(くしゃろん)は、

須弥山をとりまく七内海に満ちる水、

として、

七中皆具八功徳水。一甘。二冷。三軟。四輕。五清淨。六不臭。七飮時不損喉。八飮已不傷腹、

と、

甘・冷・軟・軽・清浄・不臭・飲時不損喉(のどを損しない)・飲已不傷腹(腹を痛めない)、

の八徳としhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%AB%E5%8A%9F%E5%BE%B3%E6%B0%B4

『称讃浄土経』(『仏説阿弥陀経』の異訳)は、

何等名爲八功徳水。一者澄淨、二者C冷、三者甘美、 四者輕輭、五者潤澤、六者安和、七者飮時除飢渇等无量過患、 八者飮已定能長養諸根四大、揄v種種殊勝善根、

と、

澄浄(ちょうじょう 澄み切っていて、底まで明らかに見える)・清冷(しょうりょう 清くて冷たい)・甘美(かんみ 甘くて美味しい)・軽軟(きょうなん 軽くて軟(やわ)らかい)・潤沢(じゅんたく 色艶があって、よく潤す)・安和(あんわ 身にも心にも心地が良い)・飲む時飢渇(きかつ)等の無量の過患(かげん)を除く(飲むと飢えや病気をいや)・飲み已(おわ)りて定(さだ)んで能(よ)く諸根(しょこん)四大(しだい)を長養(ちょうよう)し種々の殊勝の善根を増益(ぞうやく)す(飲むと心身を健やかに育てる)、

とするhttp://shinshu-hondana.net/knowledge/show.php?file_name=hakkudokusui

『観経疏』(善導 ぜんどう)には、

此水即有八種之コ。一者C淨潤澤、即是色入攝。二者不臭、即是香入攝。三者輕。四者冷。五者輭、即是觸入攝。六者美、是味入攝。七者飮時調適。八者飮已無患、是法入攝。此八コ之義已在『彌陀義』中廣説竟。

と、

清浄(しょうじょう)・潤沢(にんたく 清浄で光っている)・臭(くさ)からず・軽(かろ)し・冷(すず)し・軟やわらか・(やわらかい)・美(うま)し・(甘美かんびである)飲む時調適(じょうちゃくす 飲んでいるときに心地がよい)・飲みをはりて患(うれひ)なし、

とあるhttp://www.smj.or.jp/posts/houwa907.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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化生


いかさま化生(けしょう)の類ならんと、恐れてすすまず(新御伽婢子)、

化生、

は、

変化、幽霊の類、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

化生、

は、

かせい、

と訓ませると、

汝天地の中に化生して(太平記)、

と、

形を変えて生まれること、

の意味で、

化身に同じ、

ともあり(広辞苑)、また、

変質形成、

の意で、

赤星病にかかったナシの葉での海綿組織から柵(サク)状組織への変化、

のように、

ある特定の器官に分化した生物の組織・細胞が再生や病理的変化に伴って著しく異なった形に変化する、

意で使う(大辞林)。また、

水面無風帆自前、徒弄化生求子戯(玩鴎先生詠物百首(1783)・泛偶)、

と、西域から中国に伝わった風俗の、

七夕の日に、女性が子を得るまじないとして水に浮かべる蝋作りの人形、

の意味もある(精選版日本国語大辞典)。

けしょう、

と訓ませると、

無而忽現、名化生(瑜加論)、

と、仏語の、

四生の一つ、

で、

湿生化生(ケシャウ)はいさ知らず体を受けて生るる者、人間も畜生も出世のかどは只一つ(浄瑠璃「釈迦如来誕生会(1714)」)、

と、

母胎や卵殻によらないで、忽然として生まれること、

をいい、

天界や地獄などの衆生の類、

を指す(精選版日本国語大辞典)。

「四生」(ししょう)は、「六道四生」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486172596.htmlで触れたように、生物をその生まれ方から、

胎生(たいしょう 梵: jarāyu-ja)母胎から生まれる人や獣など、
卵生(らんしょう 梵: aṇḍa-ja)卵から生まれる鳥類など、
湿生(しっしょう 梵: saṃsveda-ja)湿気から生まれる虫類など、
化生(けしょう upapādu-ka)他によって生まれるのでなく、みずからの業力によって忽然と生ずる、天・地獄・中有などの衆生、

の四種に分けた(岩波仏教語辞典)ひとつ。その意味から、

後時命終。悉生東方。宝威徳上王仏国。大蓮華中。結跏趺坐。忽然化生(「往生要集(984〜85)」)、

と、

極楽浄土に往生する人の生まれ方の一つ、

として、

弥陀の浄土に直ちに往生すること、

の意、さらに、

其の柴の枝の皮の上に、忽然に彌勒菩薩の像を化生す(「異記(810〜24)」)、

化身、
化人、

の意で、

仏・菩薩が衆生を救済するため、人の姿をかりて現れること、

の意として使うが、ついには、

まうふさが打ったる太刀もけしゃうのかねゐにて有間(幸若「つるき讚談(室町末‐近世初)」)、

と、

ばけること、

の意となり、

化生のもの、
へんげ、
妖怪、

の意で使われるに至る(精選版日本国語大辞典・広辞苑・大辞林)。で、

化生の者(もの)、

というと、

ばけもの、
へんげ、
妖怪、

の意の外に、それをメタファに、

美しく飾ったり、こびたりして男を迷わす女、

の意でも使う。

「化」(漢音カ、呉音ケ)は、

左は倒れた人、右は座った人、または、左は正常に立った人、右は妙なポーズに体位を変えた人、いずれも両者を合わせて、姿を変えることを示した会意文字、

とある(漢字源)が、別に、

会意。亻(人の立ち姿)+𠤎(体をかがめた姿、又は、死体)で、人の状態が変わることを意味する、

とかhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%96

会意形声。人と、𠤎(クワ 人がひっくり返ったさま)とから成り、人が形を変える、ひいて「かわる」意を表す。のちに𠤎(か)が独立して、の古字とされた、

とか(角川新字源)、

指事文字です。「横から見た人の象形」と「横から見た人を点対称(反転)させた人の象形」から「人の変化・死にさま」、「かわる」を意味する「化」という漢字が成り立ちました、

とかhttps://okjiten.jp/kanji386.htmlとある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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偕老のふすま


夜半の鐘に枕をならべては、偕老のふすまをうれしとよろこび、横雲の朝(あした)に鳥の鳴く時は、別離の袂をしぼりて、悲しとす(新御伽婢子)、

の、

偕老のふすま、

は、

夫婦共に老いるまで連れ添おうという、睦まじいかたらい、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、「ふすま」は、前に触れたように、

衾、
被、

と当てるかつての寝具で、

御ふすままゐりぬれど、げにかたはら淋しき夜な夜なへにけるかも(源氏物語)、

と、

布などで作り、寝るとき身体をおおう夜具、

で(広辞苑)、雅亮(満佐須計 まさすけ)装束抄(平安時代末期の有職故実書)には、

御衾は紅の打たるにて、くびなし、長さ八尺、又八幅か五幅の物也、

とあるように(一幅(ひとの)は鯨尺で一尺(約37.9センチ))、

八尺または八尺五寸四方の掛け布団、袖と襟がない、

とある(岩波古語辞典)が、

綿を入れるのが普通で、袖や襟をつけたものもある(日本語源大辞典)とある。そうなると、袖のついた着物状の寝具、

掻巻(かいまき)、

に近くなる。『観普賢経冊子(かんふげんきょうさっし)』(平安時代)の図を見ると、余計にそう見える。また、

御張台(みちょうだい)に敷く衾は、紅の打(うち)で襟のついていないもの、襟にあたるところに紅練糸(ねりいと)の左右撚(よ)り糸で三針差(みはりざし)といって縫い目の間隔を長短の順に置いた縫い方をする、

ともある(雅亮装束抄)。この起源を、日本書紀の天孫降臨の際に本文に、

高皇産霊尊が瓊瓊杵尊を「真床追衾」を以て覆い、天磐座を放ち天八重雲を排分けて降臨させたとあり、一書では高皇産霊尊が瓊瓊杵尊に「真床覆衾」を着せて、天八重雲を排分けて、天下し奉ったことに由来する、

という説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%BE。平安時代などには、結婚時に、夫婦となった二人にこれを掛ける、衾覆い(同衾)という儀式に使われることもあった(仝上)という。

その意味では、

偕老のふすま、

は、

偕老同衾、

と、ほぼ同義と見ていい。

「偕老」は、

老を偕(とも)にするの意、

で、

夫婦が老年になるまで、生活を共にすること、
また、
その仲がむつまじいこと、

をいうが、ほぼ同義の、

偕老同穴、

は、「同穴」が、

死んで穴を同じくして葬られること、

から、

生きては共に老い、死しては同じ穴に葬られる、

意に対して、「偕老のふすま」は、

生きては共に老い、

に意味の比重がある、という違いだろう。

偕老同穴は、詩経・邶風・撃鼓の、

死生契闊、與子成説、執子之手、與子偕老(子(し)の手を執りて子と偕(とも)に老いん)、

や、

詩経・王風・大車の、

穀(=生)則異室、死則洞穴(穀(い)きては則ち室を異にすとも、死しては則ち穴を同じうせん)、

等々を典拠とし(字源)、

生きては共に老い、死しては墓穴を同じくして葬られる、

意で、

偕老の契(ちぎ)り、
同穴の契り、

という言い方もする。

因みに、この「偕老同穴」にちなむ名を持つ、

カイロウドウケツ科の六放海綿類の一群、

がある。

単体で円筒状で、全長三〇〜八〇センチ。広い胃腔をもつ。上端の口は半球状に膨出した節状板で覆われ、ガラス質の骨格は格子状、下端は延びて長い根毛になり深海底に立つ。胃腔中にドウケツエビがすみ、多く雌雄一対が共にいることからこのエビに「偕老同穴」の名がつき、のち海綿の名となった、

とある(広辞苑)。

しかし、「偕老洞穴」という言葉に、むしろ、

老妻の我を覩(み)る顔色(がんしょく)同じ(百憂集行)、

という一節を、ふと、思い出す。杜甫は嘆く、

即今倐忽已五十(即今倐忽(しゅくこつ)にして已(すで)に五十)
坐臥只多少行立(坐臥(ざが)のみ只だ多くして行立(こうりゅう)少(まれ)なり)
将笑語供主人(強(し)いて笑語(しょうご)を将(もっ)て主人に供し)
悲見生涯百憂集(悲しみ見る生涯に百憂(ひゃくゆウ)の集まるを)
入門依旧四壁空(門に入れば旧に依って四壁(しへき)空(むな)し)
老妻覩我顔色同(老妻の我を覩(み)る顔色(がんしょく)同じ)
痴児未知父子礼(痴児(ちじ)は未だ父子(ふし)の礼を知らず)
叫怒索飯啼門東(叫怒(きょうど)して飯(はん)を索(もと)め 門東に啼く)

http://itaka84.upper.jp/bookn/kansi/265.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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家に杖つく


我にひとしき他国の男一人ありて、家に杖つくばかりの老人にむかひ、物がたりする有り(新御伽婢子)、

のある、

家に杖つく、

は、

五十歳をさす、

と(高田衛編・校注『江戸怪談集』)あり、

五十杖於家、六十杖於郷、七十杖於国、八十杖於朝(「礼記」王制)、

を引く。

昔、中国では五十歳になると、家の中で杖をつくことを許された、

とある(精選版日本国語大辞典)。

六十歳は村里で杖をつくことが許され、
七十歳は国都で杖をつくことが許され、
八十歳以上の老臣には天子が杖を賜わり、朝廷で杖をつくことが許された、

ということらしい。で、七十歳を指して、

国中どこでも杖を突くことを許された、

という意味で、

国に杖突く、

という言い方もある。『論語』には、

郷人飮酒、杖者出、斯出矣(郷人(きょうじん)の飲酒するときは、杖者(じょうしゃ)出(い)ずれば、斯(すなわ)ち出(い)ず)、

と、

杖者、

とあり、

六十歳以上の老人、

と注記がある(貝塚茂樹訳注『論語』)。郷で杖を突く以上の年齢という意味になる。

「いへ(え)」は、

家族の住むところ、家庭・家族・家柄・家系をいうのが原義。類義語ヤ(屋)は、家の建物だけをいう(岩波古語辞典)、
上代の文献では「家屋」はヤと表現されることが多く、イエ(いへ)はむしろ「家庭」の意味合いが強かった(精選版日本国語大辞典)、

とあり、ハードよりソフトを指していたと思われ、和名類聚抄(平安中期)に、

家、人所居處也、伊閉、

とある。その語源は、

イホ(盧)と同根か(岩波古語辞典)、
寝戸(いへ)の義(へ(戸)は乙類)にて、宿所の意かと云ふ(大言海・日本語源広辞典・家屋雑考)、
イ(一族)+へ(隔て、甲類へ)、一族を隔てるもの、一族を仕切るものもの意(日本語源広辞典)
イヘ(睡戸)の義(日本語原学=林甕臣)、
「い」は接頭語で「へ」は容器を意味し、人間を入れる器を表す(日本古語大辞典=松岡静雄)、
イハ(岩)の転、フエ(不壊)の意(和語私臆鈔)、

等々諸説あるが、「いへ」が、ハードではなくソフトを意味したとすると、「器」説は消えるように思う。

「つゑ(え)」は、

丈、

とも当てるが、

突居(ツキスヱ)の略、或いは突枝(ツキヱ)の略、ツの韻よりキヱはゑに約まる(大言海・日本語源広辞典)、
ツクヱダ(突枝)の義(和句解・日本釈名)、
ツはツク(突・衝)の語幹、ヱはエ(枝)の転(日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健)、
ツキ--ヲエ(小枝)の義(雅言考)、

と諸説あるものの、ほぼ「つく」に絡ませている。

「家」(漢音カ・コ、呉音ケ・ク)は、

会意文字。「宀(やね)+豕(ぶた)」で、大切な家畜に屋根をかぶせたさま、

とある(漢字源)。ただ、別に、

「豕」は生贄の犬で、建物を建てる際に犠牲を捧げたことによる(白川静)、

とする説もありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%B6、同趣旨の、

会意。宀と、豕(し いけにえのぶた)とから成る。もと、いけにえをささげて祖先神を祭る「たまや」の意を表した。ひいて、「いえ」の意に用いる、

とする説(角川新字源)の他に、

会意文字です(宀+豕)。「家の屋根・家屋」の象形と「口の突き出ている、いのしし」の象形から「いのしし等のいけにえを供える神聖な所」を表し、そこから、そこを中心とする「いえ」を意味する「家」という漢字が成り立ちました、

とするものもあるhttps://okjiten.jp/kanji265.html

「杖」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、

会意兼形声。丈は「十+攴(て)」の会意文字で、手尺の幅(尺)の十倍の長さをあらわす。杖は「木+丈」で、長い棒のこと、

とある(漢字源)。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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黄泉


自ら参り侍らんが、司録神(しろくじん)に申せし暇(いとま)の限りは近ければ、又黄泉(よみじ)に帰るなり(新御伽婢子)、

にある、

黄泉、

を、

よみじ、

と訓ませているが、これは、

黄泉路、
冥途、

とも当て、

黄泉よみへ行く路、
冥土へ行く路、

の意(広辞苑・日本語の語源)で、また、

冥土、
あの世、

そのものをも指し、

よみ(黄泉)、

と同義でも使う(仝上)。因みに、司録神の「司録」は、

司命(しみょう)、

ともに、

閻魔庁(えんまのちょう)の書記官をいい、

閻魔卒(えんまそつ)、

は、閻魔に仕えて罪人を責める獄卒で、閻魔付きの鬼である。

黄泉、

は、漢語で、

こうせん、

と訓み、

中国で、「黄」は地の色にあてるところから、

蚓上食槁攘(乾土)、下飲黄泉(孟子)、

と、

地下の泉、

の意だが、転じて、

誓之曰、不及黄泉、無相見也(左伝)、

と、

使者の行くところ、
よみじ、
冥途、

の意でも使う(字源)。

黄泉、

を当てた、和語、

よみ、

は、

下方、
黄泉、

と当てて、

したへ
したべ、

と訓ませ、

下の方の意、

で、

稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ (謝礼の)贈物、まいない)は為(せ)む黄泉(したへ)の使負(つかひお)ひて通(とほ)らせ(万葉集)、

と、

死者の行く世界、
黄泉、

の意で使う。「よみ」を、

泉下、
九泉、

というのに通じる(大言海)。

さて、和語「よみ」は、

ヤミ(闇)の転か。ヤマ(山)の転とも(広辞苑)、
ヤミ(闇)の轉(仙覚抄・万葉集類林・冠辞考続貂・言元梯・国語の語根とその分類=大島正健・神代史の新研究=白鳥庫吉)、
ヨモツ(黄泉)のヨモ(ヨミの古形、ツは連帯助詞)の転、ヤミ(闇)の母音交替形(岩波古語辞典)、
夜見(ヨミ)の義にて、暗き處の意、夜の食國(ヲスクニ)を知ろしめす月読命(つくよみのみこと)のよみも夜見か、闇(やみ)と通ず(大言海)、
梵語Yami、中国語ヨミ(預見)で閻魔または夜摩の訛転(外来語辞典=荒川惣兵衛)、

と(なお、「よもつ」は、「つ」は「の」の意の格助詞。「黄泉(ヨミ)の」の意(日本国語大辞典・大辞林)で、「よもつ国」「よもつ醜女(しこめ)」「黄泉つ平坂(ひらさか)」「黄泉つ竈食(へぐい 黄泉の国のかまどで煮炊きしたものを食うこと、黄泉の国の者となることを意味し、現世にはもどれなくなると信じられていた)」「黄泉つ軍(いくさ)」「黄泉つ神(かみ)」「黄泉つ国(くに)=よみ(黄泉)」などと使う)、ほぼ、

死者の魂が行くという地下の世界をヤミ(闇)といった。「ヤ」が母交(母音転換)[ao]をとげてヨミ(夜見、黄泉)の国に転音し、そこへ行く道をヨミヂ(冥途)といった(日本語の語源)、

と、

闇(やみ)、

に収斂する。だから、

よみじ、

も、

ヤミジ(闇路)の義(日本釈名・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、
ヨミヂ(夜見地)の義(柴門和語類集)、
ヨミト(泉門)の転(河海抄)、

と、「よみ」の説の延長にある。

因みに、古事記で、

イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入った、

という、

黄泉国の出入口を、

黄泉比良坂(よもつひらさか)、

といい、出雲国に存在する、

伊賦夜坂(いぶやざか)、

に擬されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B3%89。また、出雲国風土記では、

黄泉の坂・黄泉の穴、

とあり、

人不得不知深浅也夢至此磯窟之辺者必死、

とされ、

猪目洞窟(出雲市猪目町)、

に比定されている(仝上)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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盂蘭盆会


文月(ふみづき)は、諸寺より始めて、在家に至って、盂蘭盆会の仏事を営み、なき人の哀れをかぞへて、しるしの墓に詣でて(新御伽婢子)、

にある、

盂蘭盆会、

は、

梵語ullambana、倒懸(とうけん)と訳され、逆さ吊りの苦しみの意とされるが、イランの語系で霊魂の意のurvan、

とする説もあり(広辞苑)、また最近では、

盂蘭盆を「ご飯をのせた盆」である、

とする説(辛嶋静志)もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86%E4%BC%9A

「盂蘭盆会」は、また、

盂蘭盆供(供(く)を読まず)、

とも言い、略して、

盂蘭盆、
うらんぼん、

さらに略して、

盆、
お盆、

また、

歓喜会、
精霊会(しようりようえ)、
魂祭(たままつ)り、
盆祭、

等々とも言い(大言海・日本国語大辞典他)、

盂蘭盆経の目連(もくれん)説話、

に基づき、もと中国で、

苦しんでいる亡者を救うための仏事で七月一五日に行われた、

が、日本に伝わって、

初秋の魂(タマ)祭りと習合し、

祖先霊を供養する仏事、

となった(大辞林)。江戸時代からは、

一三日から一六日、

にかけて行われ、現在では、一三日夜に迎え火をたいて霊を迎えいれ、一六日夜に送り火で霊を送る。

ふつう、迎え火をたいて死者の霊を迎え、精霊棚(しようりようだな)を作って供物をそなえ、僧による棚経(たなぎよう)をあげ、墓参りなどをし、送り火をたいて、霊を送る、

が、現在は、地方により陰暦で行う所と、一月遅れの八月一五日前後に行う所とがある(大辞泉・日本国語大辞典)。因みに、棚経とは、

お盆の時期に菩提寺の住職が、檀家の家を一軒一軒訪ね、精霊棚(しょうりょうだな)や仏壇の前でお経を読むこと、

をいい、棚経の棚とは、

精霊棚(盆棚 お盆に仏壇の前に設置する供養の棚)、

をいうhttps://www.bonchochin.jp/bonchochin3-5.html

ただこの行事の典拠になった、

盂蘭盆経、

は、

西晋の竺法護(じくほうご)訳の経典と伝えるが、インドに素材を求めた後代の中国偽経、

で、釈迦の十大弟子の一人、

目連が餓鬼道の母を救う孝行説話が中心、

となり(仝上)、たとえば、

(目連)法眼を以て、其亡母の、地獄の餓鬼道に在りて、頭下足上(づげそくじゃう)の苦を受け居るを見て、救はむことを釈迦に請ひ、其教に因りて、餓鬼に施さむの心にて、七月十五日、百味の飲食(おんじき)を供へて衆僧に供養し、母の倒(さかしま)に懸かるを解かむ(解倒懸(げたうけん)と云ふ)としたりと云ふ、十六日に行ふは、僧の自恣の日を期したるなるべし、

とある(大言海)。「頭下足上」は、

地獄へ堕ちてゆく時は頭を下にして、足を上にして真っ逆様に落ちてゆく、

のをいい、

頭下足上にして二千年を経て下に向かいて行けども、いまだ無間地獄に至らず、

というように、落ち続けている状態であるhttp://aki-ryusenji.jugem.jp/?eid=271

また、「自恣」とは、

一般に夏安居(げあんご)の最後の日(七月一五日)に、集会した僧が安居中の罪過の有無を問い、反省懺悔(ざんげ)しあう作法、

で(精選版日本国語大辞典)、「安居」とは、

仏教の出家修行者たちが雨期に1か所に滞在し、外出を禁じて集団の修行生活を送ること、

をいい、

サンスクリット語バルシャーバーサvārāvāsaの訳、

で、

雨(う)安居、
夏(げ)安居、

ともいい、4か月ほどインドの雨期のうち3か月間(4月16日〜7月15日、または5月16日〜8月15日)は、修行者は旅行(遊行 ゆぎょう)をやめて精舎(しょうじゃ)や洞窟(どうくつ)にこもって修行に専念した(日本大百科全書)とある。つまり、

旧暦7月15日、

は、仏教では安居が開ける日である「解夏」にあたり、

仏教僧の夏安居の終わる旧暦7月15日に僧侶を癒すための施食を行う、

つまり、本来、

安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事、

が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付加された、

と考えられるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86%E4%BC%9A

唐代から宋代には中国の民俗信仰を土台として盂蘭盆、施餓鬼と中元節が同じ7月15日に行われるようになり、儀礼や形式、作法などにも共通性が見られるようになるなど道教の行事との融合が進んだとされる(仝上)が、日本では、斉明天皇三年(657)に、

須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けた、

記され、同五年7月15日(659)には京内諸寺で『盂蘭盆経』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されているのが古い例となる(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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不興


一念をはげみて、敵の命をとれ。相かまへて忘失せば、不興するぞ(新御伽婢子)、

の、

不興、

は、

勘当、親子の縁を切って追放すること、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「不興」は、

ふきょう、

あるいは、

ぶきょう、

とも訓ませ、その場合、

あまりに何もかも一つ御事にて、無興なるほどなれば(「愚管抄(1220)」)、
旨酒高会も無興(ブケウ)して、其の日の御遊はさて止みにけり(太平記)、

などと、

無興、

とも表記する(精選版日本国語大辞典)。

不興、

は、文字通り、

不興其藝不能楽學(礼記)、

と、

面白からず、
興味なし、
しらける、

の意である(字源)。で、

不興をかこつ、

という言い方をする。しかし、我が国では、

ふけうしたてまつりて、こもりをりてこひかなしび(「宇津保物語(970〜999頃)」)、

と、

機嫌を悪くする、
機嫌が悪い、
また、
立腹、

といった意味で使い(精選版日本国語大辞典)、さらに限定して、

主従三世の契り絶え果て、永く不興と宣へば(大観本謡曲「巴(室町末)」)、
久しく父為義が不興を得て豊後のかたに身を寓(よ)せし(椿説弓張月)、

と、

主君や父母の機嫌をそこね勘気を蒙ること、
勘当を受けること、

の意で使い(仝上・広辞苑)、

不興を買う、
不興をこうむる、

という言い方をする。また、その特殊な使い方として、

あづまやが思はく余り不興(フケウ)ととどむる折から(浄瑠璃「平家女護島(1719)」)、

と、男女関係での、

つれないこと、
無愛想なこと、
かわいがらないこと、

といった意味にも使ったりする(仝上)。

「興」(漢音キョウ、呉音コウ)は、

会意文字。舁は「左右の手+左右の手」で、四本の手で担ぐこと。興は「舁+同」で、四本の手で同じく動かして、一斉に持ち上げおこすことを示す、

とある(漢字源)が、

舁(よ 両手で持ち上げる)と、同(ともにする)とから成る。力を合わせて持ち上げる、「おこす」「おこる」意を表す、

とあるのが分かりやすい(角川新字源)。同趣旨ながら、

会意文字です(舁+同)。「4つの手」の象形(「4つの手で物をあげる」の意味)と「上下2つの筒」の象形(同じ直径のつつが「あう・同じ」の意味)から、力を合わせて物をあげる事を意味し、そこから、「おこす」、「始める」、「よろこぶ」を意味する「興」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji815.html

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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かぞいろ


つづきて知らぬ位牌あり。「いづれぞ」と問ふに、父母(かぞいろ)の二人也(新御伽婢子)、

にある、

かぞいろ、

は、

かぞいろは、

ともいい、

父母、
両親、

の意で、古くは、

かそいろ(は)、

と、

清音(広辞苑)、

「かぞ」(父)+「いろは」(生母)、

であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%9E%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AF

父母、

は、

故、天稚彦の、親(チチハハ)、属(うからやから)、妻、子(こ)、皆、謂(おも)はく(神代紀)、

と、

ちちはは、

とも訓み、日葡辞書(1603〜04)には、

Chichifaua(チチハワ)、

とあり、

ちちはわ、

とも訓んだ(精選版日本国語大辞典)。上代東国方言では、

等知波波(トチハハ)え斎(いは)ひて待たね筑紫なる水漬(みづ)く白玉取りて来(く)までに(万葉集)、

と、

とちはは、

とも訓ませた(仝上)。また、

近くをだにはなたずててははのかなしくする人なりければ(「大和物語(947〜57頃)」)、

と、

ててはは、

とも、「父母(ふぼ)」が訛って、

身躰髪ふは父母(フホ)のたまはれる処也(「百座法談(1110)」)、

と、

ふほ、

とも、

夫母(ブモ)の諫にもかかはらず(「源平盛衰記(14C前)」)、

と、

ぶも、

とも訓ませた(「も」は「母(ボ)」の呉音)。

其(そ)れ父母(カゾイロ)の既に諸子(もろもろのみこたち)に任(ことよせ)たまひて(神代紀)、
かぞいろとやしなひ立てし甲斐もなくいたくも花を雨のうつをと(「信長公記(1598)」)、

と、

「かぞいろ」(古くは「かそいろ」)は、

故其の父母(カソイロハ)二はしらの神(神代紀)、
かぞいろは何に哀と思ふらん三年(みとせ)に成ぬ足立ずして(「太平記(14C後)」)、

と、

「かぞいろは」(古くは「かそいろは」)の、「かぞ」(古くは「かそ」)は、

いろ(生母)の対、

で、

父、

を指し、「いろ」は、

母を同じくする(同腹である)ことを示す語、

で、

同母兄弟(いろせ)、
同母姉妹(いろも)、
同母弟・妹(いろど)、

等々と使う(岩波古語辞典)。

「かぞ」の由来は、

小児に起れる語なるべし、畏(かしこ)の略転か、小児語には、下略して訛れる多し(大言海)、
世次を数えるのは父をもってするところから、数ふる義か(円珠庵雑記)、
数えることを教えるところからか(和訓栞)、
動詞カサヌ(層)の語幹カサと同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
カズ(一)の転(言元梯)、
家呂の義で、ロは助語(百草露所引賀茂真淵説)、
家尊の音(類聚名物考)、
カタセコの反(名語記)、

と諸説あるが、はっきりせず、また、

「ちち」との相違も不明、

とある(日本語源大辞典)。なお、「父」については「おやじ」で触れたように、古くは、「父」を、

ち、

と言っており、それに、

父、

と当てるのは、古く、古事記にも、

甘(うま)らに聞こし以ち食(を)せまろが父(ち)(古事記)、

とあり、この場合、「ち」は、父親の意だけではなく、

男性である祖先・親・親方などに対する親愛の称、

で(広辞苑)、

チチ、オヂのチ、祖先、男親の意、

として使われた(岩波古語辞典)。で、

おほぢ(祖父)、
おぢ(「おぼぢ」の転)、
おぢ(小父)

のように他の語の下に付く場合は連濁のため「ぢ」となることがある(デジタル大辞泉)。いずれにしても、

もとは「ち」に父の意があったことは(上記の古事記から)わかる。「ち」はまた「おほぢ」(祖父)「をぢ」(叔父、伯父)の語基である、

とある(日本語源大辞典)ように、「ち」を父親の意味でも使っていたことに変わりはない。では、いつごろから、「ちち」と使っていたのかというと、

労(いた)はしければ玉鉾(たまほこ)の道の隈廻(くまみ)に草手折(たお)り柴(しば)取り敷きて床(とこ)じものうち臥(こ)い伏して思ひつつ嘆き伏せらく国にあらば父(ちち)取り見まし家にあらば母(はは)取り見まし……、

と万葉集にある。「ち」も「ちち」も、ほぼ同時期に使われていたと思われる。ただ、

歴史的には、チ・チチ・テテ・トトの順で現われる、

とある(日本語源大辞典)ので、「ち」が先行していたようであるが、

常に重ねてちちと云ふ、

ともあり(大言海)、

母(おも)、母(はは)との対、

とあるところを見ると、

ちち、

はは、

は対である。こう見ると、古くから「ちち」と「かぞ」とは並行して使われており、どう区別していたのかははっきりしない。

では、「いろ」はどうかというと、「同母(いろ)」で触れたように、

イラ(同母)の母音交替形(郎女(いらつめ)、郎子(いらつこ)のイラ)。母を同じくする(同腹である)ことを示す語。同母兄弟(いろせ)、同母弟(いろど)、同母姉妹(いろも)などと使う。崇神天皇の系統の人名に見えるイリビコ・イリビメのイリも、このイロと関係がある語であろう、

とある(岩波古語辞典)。この「いろ」が、

イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
色の語源は、血の繋がりがあることを表す「いろ」で、兄を意味する「いろせ」、姉を意味 する「いろね」などの「いろ」である。のちに、男女の交遊や女性の美しさを称える言葉となった。さらに、美しいものの一般的名称となり、その美しさが色鮮やかさとなって、色彩そのものを表すようになった(語源由来辞典)、

と、色彩の「色」とつながるとする説もあるが、

其の兄(いろえ)~櫛皇子は、是讃岐国造の始祖(はじめのおや)なり(書紀)、

と、

血族関係を表わす名詞の上に付いて、母親を同じくすること、母方の血のつながりがあることを表わす。のち、親愛の情を表わすのに用いられるようになった。「いろせ」「いろと」「いろも」「いろね」など、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

異腹の関係を表わす「まま」の対語で、「古事記」の用例をみる限り、同母の関係を表わすのに用いられているが、もとは「いりびこ」のイリ、「いらつめ」のイラとグループをなして近縁を表わしたものか。それを、中国の法制的な家族概念に翻訳語としてあてたと考えられる、

とされる(仝上)。

「いろ」の由来は、

イラ(同母)の母音交替形(岩波古語辞典)、
イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

など以外に、

イは、イツクシ、イトシなどのイ。ロは助辞(古事記伝・皇国辞解・国語の語根とその分類=大島正健)、
イロハと同語(東雅・日本民族の起源=岡正雄)、
イヘラ(家等・舎等)の転(万葉考)、
イヘ(家)の転(類聚名物考)、
蒙古語elは、腹・母方の親戚の意を持つが、語形と意味によって注意される(岩波古語辞典)、
「姻」の字音imの省略されたもの(日本語原考=与謝野寛)、

等々あるが、蒙古語el説以外、どれも、「同腹」の意を導き出せていない。といって蒙古語由来というのは、いかがなものか。

イロハと同語、

であり、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

母、イロハ、俗に云ふハハ、

とある。つまり、

イロは、本来同母、同腹を示す語であったが、後に、単に母の意とみられて、ハハ(母)のハと複合してイロハとつかわれたものであろう(岩波古語辞典)、
ハは、ハハ(母)に同じ、生母(うみのはは)を云ひ、伊呂兄(え)、伊呂兄(せ)、伊呂姉(セ)、伊呂弟(ど)、伊呂妹(も)、同意。同胞(はらから)の兄弟姉妹を云ひしに起これる語なるべし(大言海)

とあるので、「いろ」があっての「いろは」なので、先後が逆であり、結局、

いら、
いり、

とも転訛する「いろ」の語源もはっきりしない。

「父」(「父の意」の意;慣用ホ、漢音フ、呉音ブ、「年老いた男」の意;慣用ホ、漢音呉音フ)は、

会意文字。父は「おの+又(手)」で、手に石おのを持って打つ姿を示す。斧(フ)の原字。もと拍(うつ)と同系。成人した男性を示すのに、夫(おっと)という字を用いたが、のち、父の字を男の意に当て、細分して、父は「ちち」を、夫は「おとこ、おっと」をあらわすようになった。また甫をあてることもある。覇(ハ おとこの長老)・伯(長老)もこれと同系、

とある(漢字源)が、

おのを持った手を象る象形文字で(ただし普通おのは「斤」と描かれるためこの分析は不自然である)、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%B6。で、

会意。(手)と、h(おの)とから成る。「斧(フ)」の原字。武器を手に持っているさまにより、一族をとりしまる者、ひいて「ちち」の意を表す、

ともある(角川新字源)が、

象形文字です。「手にムチを持つ」象形から、「一族の統率者、ちち」、「男子の総称」を意味する「父」という漢字が成り立ちました。古来、子供の為にムチや斧を持って獲物を狩りに行く男性の姿から「父」という漢字が生まれました、

とする説もあるhttps://okjiten.jp/kanji27.html

「母」は「同母(いろ)」で触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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かづらきの神


かづらきの神も在(ま)さば、岩橋をわたし給へと、独り言して力なく過ごし(新御伽婢子)、

にある、

かづらきの神、

は、

葛城の神、

と当て、

修験道祖といわれる役の行者のこと。葛城の山に岩橋を架けたという伝説がある、

と注記される(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、役の行者と葛城の神は異なり、明らかに間違っている。

「葛城の神」は、後世、

かつらぎの神、

とも訓ませ、

奈良県葛城山(かつらぎさん)の山神、

で、

一言主神(ひとことぬしのかみ)、

とされ(精選版日本国語大辞典)、昔、

役行者(えんのぎょうじゃ)の命で葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋をかけようとした一言主神が、容貌の醜いのを恥じて、夜間だけ仕事をしたため、完成しなかったという伝説から、恋愛や物事が成就しないことのたとえや、醜い顔を恥じたり、昼間や明るい所を恥じたりするたとえなどにも用いられる、

とある(仝上)。この橋を、

かづらきや渡しもはてぬものゆゑにくめの岩ばし苔おひにけり(「千載和歌集(1187)」)、

と、

久米岩橋(くめのいわばし)、

という。橋が完成しないのに怒った行者は葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)を召し捕らえ、見せしめに呪術で葛で縛って、谷底に捨て置いた、との伝説がある。これを基にしたのが、能の、

葛城(かず(づ)らき)、

であるhttps://noh-oshima.com/tebiki/tebiki-kazuraki.html。因みに、「役の行者」とは、7世紀後半の山岳修行者で、本名は、

役小角(えんのおづぬ)、
あるいは、
役優婆塞(えんのうばそく)、

ともいい、

修験道(しゅげんどう)の開祖、

で、『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇三年(699)5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在した人物で、

大和国(奈良県)葛上(かつじょう)郡茅原(ちはら)郷に生まれ、葛城山(かつらぎさん 金剛山)に入り、山岳修行しながら葛城鴨(かも)神社に奉仕し、陰陽道(おんみょうどう)神仙術と密教を日本固有の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立した、

とされる(日本大百科全書)。吉野金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流されることになる。この経緯が、

葛城山神の使役、

呪縛(じゅばく)、

として伝えられたものとみなされる(仝上)。

葛城(かづらき)の神もしばしなど仰せらるるを、いかでかは筋かひ御覧ぜられむとて、なほ臥(ふ)したれば、御格子(みかうし)も参らず(枕草子)、

は、この伝説を踏まえて、恥ずかしがって明るくなると引っ込んでしまう清少納言を、中宮が冗談でこう呼んだのである。

「一言主神」は、

大和葛城の鴨氏の祭神、

である。延喜式神名帳には、

葛城坐一言主神社、

とあり、

吉凶を一言で託宣する神、

とされる(日本伝奇伝説大辞典)。初出は、古事記・雄略天皇条に、天皇が葛城山に巡幸された折、向こうの山の尾根から天皇や従者と似た服装の人々が登るのに出会い、天皇が、服装の無礼を責めると、対等の態度をとり、尊大なので、

その名告(の)れ、ここにおのおの名を告りて放たん、

と、告られると、

吾先に問はえき、故、吾先に名告をせむ。吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり、

と申し、天皇は恐れ畏み、

恐(かしこ)し、輪が大神、うつしおみあらんとは覚らざりき、

と言い、太刀や弓矢、衣服を献上して和がなり、一言主神は馳せの山口まで還幸を見送った、とされる。こうした伝承について、

名を告ることは古代信仰観上服属を意味する、

として、

葛城氏と雄略天皇とが対立し、葛城氏が敗北した経緯を語るもの、とする説がある(仝上)。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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阿育王の七宝


倩(つらつら)思ふに阿育王(あいくおう)の七宝も命尽きんとする時、是をすくふ価なく(新御伽婢子)、



阿育王(あいくおう)、

は、古代インドの、

アショカ(アショーカ)王、

のことで、

父王の没後、兄弟を殺し、摩掲陀国王となった。その莫大な材の中の七つの宝、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「七宝」とは、『南伝大蔵経』に、

輪宝・象宝・馬宝・マニ宝・玉女宝・居士宝・将軍宝、

とあるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1956/32/1956_32_4/_pdf

摩掲陀国は、

マガダ国、

を指し、仏典上、

摩訶陀国、

と表記されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%83%80%E5%9B%BD

アショカ王の「阿育」は、

サンスクリット語Asoka(パーリ語Asoka)に相当する音写、

無憂王(むうおう)、

とも漢訳するhttps://true-buddhism.com/history/ashoka/のは、アショカの名前は花の、

アソッカ(無憂樹)、

に由来するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B。また、

阿輸迦(あゆや)王、
阿輸迦(あしゆか)王、

ともいう(精選版日本国語大辞典・大辞泉)。

マウリヤ朝第3代の王、

で、

インド亜大陸をほぼ統一、

し、西はアフガニスタンから東はバングラデシュまで各地にアショーカ王の碑が残る(仝上)。

釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れた、

という伝説があり、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。

アショカ王が建立したとされる柱あるいは塔は、

アショーカ王の柱、
アショーカ・ピラー、
アショーカ塔、
阿育王塔、

等々と呼ばれるが、表面に碑文が刻まれており、仏教の歴史の解明にかかせない貴重な資料とさるれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B。また、釈尊の遺骨(舎利)をインド各地に分配して、

八万四千もの仏塔、

を建てたとされるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B

アショーカは99人の兄弟を殺した、

とされるが、アショーカ王時代の記録には、

彼の兄弟が何人も地方の総督の地位にあったこと、

が記されており、少なくとも兄弟の殆どを殺害したという仏典の伝説とは一致しない。また、仏教だけではなく、広くさまざまな宗教を保護したことがわかっている(仝上)。

アショカ王の財力については、

当時インド最大の鉄鉱石の産地、

であり、

肥沃なガンジス平原の中央に位置し、

農産物のほか鉱産物にも恵まれていた(仝上)とされ、こうした経済力を背景にマウリヤ朝はインド亜大陸のほぼ全域を統一できたとされるので、膨大であったとは推測できる。

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新発意(しぼち)


此の後、新発意(しぼち)と喝食(かつしき)と、つれだちて縁に出でたるよる(新御伽婢子)、

の、

新発意、

とは、

出家したばかりの小坊主、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。なお、「喝食」については「沙喝」で触れたように、禅宗用語で、正確には、

喝食行者(かつじきあんじゃ、かっしきあんじゃ)、

といい、「喝」とは、

称える、

意で、禅寺で規則にのっとり食事する際、

浄粥(じようしゆく)、
香飯香汁(きようはんきようじゆ)、
香菜(きようさい)、
香湯(こうとう)、
浄水、

等々と食物の種類や、

再進(再請 さいしん お替わり、食べ始めてから五分〜十分くらいしたところで再び浄人が給仕にやって来る)、
出生(すいさん 「さん」は「生」の唐宋音。「出衆生食」の略。自分が受けた食事の中からご飯粒を七粒ほど(「生飯(さば)」)取り出し施食会(せじきえ)を修し、一切の衆生に施すこと)、
収生(しゆうさん 出生の生飯(さば)を集める)、
折水(せつすい 食べ終わった器にお湯を入れて器を洗い、それを回収する)、

等々と食事の進め方を唱えhttp://chokokuji.jiin.com/他)

食事の種別や進行を衆僧に知らせること、

また、

その役名、

をいい、本来は年齢とは無関係であるが、禅宗とともに中国から日本に伝わった際、

日本に以前からあった稚児の慣習が取り込まれて、幼少で禅寺に入り、まだ剃髪をせず額面の前髪を左右の肩前に垂らし、袴を着用した小童が務めるものとされた、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9D%E9%A3%9F・精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。

「新発意」は、

「しんぼち」の撥音の無表記、

つまり、

シンボチのンを表記しない形、

である(広辞苑・デジタル大辞泉)が、

シンボツイの転、

とある(岩波古語辞典)ので、

シンボツイ→シンボチ→シボチ、

という転訛の流れの中で、

しんぽっち、
しんぼち、

とも訓ませhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%96%B0%E7%99%BA%E6%84%8F、あるいは、

しかも、もろもろの新発意(シンホツイ アラタニココロヲヲコス)の菩薩、ほとけの滅後におきて、もしこの語をきかば(「本仮名書き法華経(鎌倉中)」)、

と、

しんぼつい、

とも、

文政六年癸未四月真志屋五郎作新発意(シンボッチ)寿阿彌陀仏(森鴎外「寿阿彌の手紙(1916)」)、

と、

しんぼっち、

とも訓ませる(精選版日本国語大辞典)。

新たに発心(ほっしん)して仏門にはいった者、
仏門にはいってまもない者、

を指すので、必ずしも「小坊主」を指すわけではない。浄土真宗では、

得度した若い男子、

を新発意と呼ぶ。

「発意」(ほつい・はつい)は、漢語で、

卓然発意、忍苦受忍(浄住子)、

と、

心を起こす、

意で(字源)、和語では、

住民の発意による投票、

というように、

思いつくこと、
考え出すこと、
発案、

の意で、訛って、

ほっち、
ほち(ホッチの約)、

と、

発心(ほっしん)、

と同義で使う(広辞苑)。「発意」の意味を、仏門へ入る意に限定したのが、

新発意、

で、

初めて道心(菩提心ぼだいしん)を発おこして仏道に入ること、またその修行者、

を指すことになるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%96%B0%E7%99%BA%E6%84%8F

菩提が新発意した場合、

新発意の菩薩は五十二位中十信の位にあるもので、仏道修学の日が浅いことから、

新学の菩薩、

といい、『維摩経』中には、

其の神通を得たる菩薩は、即ち自ら形を変じて四万二千由旬と為し、獅子座に坐す。諸の新発意の菩薩及び大弟子は皆昇ること能わず、

とあり、『大智度論』には

般若波羅蜜随喜の義は新学の菩薩の前に説くべからず。何を以ての故に。若し少福徳善根の者ありて、是れ畢竟空の法を聞かば、即ち空を著して是の念を作さん、

とあり、『安楽集』に、

新発意の菩薩は機解軟弱なり。発心すと雖いえども、多く浄土に生ぜんと願ず、

と、それぞれ新発意の菩薩の立場を示している(仝上)とある。

「発(發)」(漢音ハツ、呉音ホツ・ホチ)は、

会意兼形声。癶(ハツ)は、左足と右足とがひらいた形を描いた象形文字。それに殳印(動詞の記号)を加えた字(音ハツ)は、左右にひらく動作をあらわす。發はそれを音符とし、弓を加えた字で、弓をはじいて発射すること。ぱっと離れてひらく意を含む、

とある(漢字源)。

形声。意符弓(ゆみ)と、音符癹(ハツ)とから成る。弓を射る、転じて、「おこる」意を表す。教育用漢字は省略形による、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(弓+癶+殳)。「弓」の象形と「上向きの両足」の象形と「手に木のつえを持つ」象形から「弓を引きはなつ」を意味する「発」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji526.htmlが、ほぼ趣旨は同じである。

「意」(イ)は、

会意文字。音とは、口の中に物を含むさま。意は「音(含む)+心」で、心中に考えをめぐらし、おもいを胸中にふくんで外に出さないことをしめす、

とある(漢字源)。別に、

会意。心と、音(おと、ことば)とから成り、ことばを耳にして、気持ちを心で察する意を表す。ひいて、知・情のもとになる意識の意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(音+心)。「刃物と口の象形に線を一本加え、弦や管楽器の音を示す文字」(「音」の意味)と「心臓の象形」から言葉(音)で表せない「こころ・おもい」を意味する「意」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji435.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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夢は五臓の煩い


夢は五臓の虚よりなすなれば、はかなく、跡(あと)なき事のみにて、誠すくなし(新御伽婢子)、

の、

夢は五臓の虚、

は、

夢は五臓の煩(わづら)ひ(譬喩尽)、

の謂いのようである(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。『譬喩尽(たとへづくし)』とは、松葉軒東井編の、

江戸後期の諺語辞典、

で、

天明六年(一七八六)序。寛政一一年(一七九九)頃まで増補、

とあり、

ことわざを中心に、詩歌・童謡・流行語・方言などの類に至るまで広く集めたもの、

とある(精選版日本国語大辞典)。

夢は五臓の疲れ、

ともいうが、

夢を見るのは、五臓の疲れが原因であることにたとえる、

とある(故事ことわざの辞典)。五臓とは、

肝臓・心臓・脾臓(ひぞう)・肺臓・腎臓(じんぞう)、

の五つをいう(仝上)。このことわざは、

悪い夢を見た人へのなぐさめとして用いることが多いようです、

とあるhttps://kotowaza.avaloky.com/pv_nig02_02.html

ゆめ」については触れたことがあるが、

イメ(寝目)の転(広辞苑・岩波古語辞典)、
寝目(イメ)、又は寝見(イミ)の転(大言海)、
イメ(寝用)の転(卯花園漫録)、
イミネの略転か(日本釈名)、
ユはユウベ(夕)、ミはミル(見る)の意(和句解・日本釈名)、
ヨルミエの反(名語記)、
ユはユルム、しまりのない事を目で見る意から(日本声母伝)、

などとあり、

イは寝、メは目。眠っていて見るものの意(岩波古語辞典)、
寝見(イミエ)の約、沖縄にてはいまもイメ、イミと云ふ(大言海)、

と解釈できる。「い」は、

寝、
睡眠、

などと当て(大言海・岩波古語辞典)、

目を閉じて寝入ること、
寝るの、臥すことを、広く云ふと、稍異なり、寝寐(イス)ると重ねても云ふ、

とあり(大言海)、

人間の生理的な睡眠、類季語寝(ネ)はからだを横たえること、ネブリ(眠)は時・所・形かまわずする居眠り、

とある(岩波古語辞典)、「い(寝)」は、「臥す」とは違うということである。「い(寝)」は、

朝寝(アサイ)、
熟寝(ウマイ)、
安寝(ヤスイ)、

と熟語としての他、

玉手(たまで)差し枕(ま)き股長(ももなが)に寝(い)は寝(な)さむをあやにな恋ひ聞こし(古事記)、

と、

寝(イ)を寝(ネ)、
寝(イ)も寝ず、

といった句としても使う(仝上)とある。「な(寝)」は、「ぬ(寝)」と同じで、「ぬ(寝)」は、

なす(寝)のナと同根、

とあり(仝上)、

今造る久邇(くに)の都に秋の夜の長きに独り宿(ぬる)が苦しさ(万葉集)

と、

横になる、

意である(仝上 下二段活用 ね・ね・ぬ・ぬる・ぬれ・ねよ)。

「なす(寝)」は、

動詞「ぬ(寝)」に上代の尊敬の助動詞「す」が付いて音の変化したもの、

で(精選版日本国語大辞典)、

門に立ち夕占(ゆふけ)問ひつつ吾(あ)をまつとな(寝)すらむ妹(いも)を逢ひて早見む(万葉集)、

と、

「ぬ(寝)」の尊敬語、

で、

おやすみなさる、

の意とある(仝上)。因みに、

寝ぬ(いぬ)、

という言い方もあり、

名詞「い(寝)」と動詞「ぬ(寝)」との複合語、

で、

夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寐宿(いね)にけらしも(万葉集)、

と、

寝る、
眠る、

意となる(精選版日本国語大辞典)。

「夢」(漢音ボウ、呉音ム)は、

会意文字。上部は、蔑(ベツ 細目 大きな目の上に、逆さまつげがはえたさまに戈を添えて、傷つけてただれた眼で、よく見えないこと、転じて、目にも留めないこと)の字の上部と同じで、羊の赤くただれた目。よく見えないことを表わす。夢はそれと冖(おおい)および夕(つき)を合わせた字で、よるの闇におおわれて物が見えないこと、

とある(漢字源)。別に、

象形。角(つの)のある人が寝台に寝ている形にかたどり、悪夢の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(瞢の省略形+夕)。「並び生えた草の象形と人の目の象形」(「目がはっきりしない」の意味)と「月」の象形(「夜」の意味)から、「ゆめ」、「暗い」を意味する「夢」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji172.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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時めく


家、時めきて田園多く、子供五人持てり(新御伽婢子)、

の、

時めきて、

は、

繫栄していて、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「時めく」は、

今を時めく、

といった使い方をするが、

「めく」は接尾語、

で、「ときめく」で触れたように、

名詞・形容詞語幹・副詞について四段活用の動詞をつくる(岩波古語辞典)、
体言・副詞などについて、五段活用の動詞をつくる。特にそう見える、そういう感じがはっきりする(広辞苑)、
名詞・形容詞・形容動詞の語幹や擬声語・擬態語などに付いて「〜のようになる」「〜らしくなる」「〜という音を出す」などの意の動詞を作る接尾辞https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%81%E3%81%8F
名詞や副詞、形容詞や形容動詞の語幹に付いて、…のような状態になる、…らしいなどの意を表す。「夏めく」「なまめく」「ことさらめく」「時めく」「ちらめく」「ひしめく」「ざわめく」(大辞林)、

等々とある。で、「時めく」は、

東宮の学士になされなどして、ときめく事二つなし(宇津保物語)、

と、

よい時機にあって声望を得、優遇される(岩波古語辞典)、
よい時に遭(あ)って全盛をほこる、よい時機にめぐりあって世間にもてはやされる(精選版日本国語大辞典)、

といった意味で使い、その派生で、

みささぎや、なにやときくに、ときめきたまへる人々、いかにと思ひやりきこゆるに、あはれなり(「蜻蛉日記(974頃)」)、
いつれの御時にか、女御更衣あまたさふらひ給けるなかに、いとやむことなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり(源氏物語)、

と、

主人・夫などから、特別に目をかけられる、
寵愛(ちょうあい)をうけて、はぶりがよくなる、

意や、

春宮に立たせ給ひなんと、世の人時明(トキメキ)あへりしに(太平記)、

と、

にぎやかにうわさする、

意でも使う(精選版日本国語大辞典)。「もてはやす」という語感であろうか。

この「時めく」と、

胸がときめく、

という、

一夜のことや言はむと、心ときめきしつれど(枕草子)、

と、

喜びや期待などで胸がどきどきする、

意で使う「ときめく」との関係については、「ときめく」で触れたように、「時めく」の、

語源は、「時+めく(そういう様子になる)」です。「良い時期に巡り合い、栄える」意味です。現代語では、喜びや期待などで、胸がどきどきする意です。トキメキは、その名詞形です、

と(日本語源広辞典)、

時めく→ときめく、

とする説がある。これでいくと、状態表現としての「栄えている」という、客体表現から、主体の感情表現に転じたということになる。しかし、どの辞書(広辞苑・大辞林・大辞泉・日本国語大辞典・岩波古語辞典)も、

時めく、

ときめく、

とは、別項を立てて区別している。

むしろ、「ときめく」は、どこか擬音語ないし擬態語の気配があるが、擬音語、

どきどき、

について、

「どきどき」は「はらはら」「わくわく」と合わせて使うことも多い。…また、「どきどき」からできた語に期待や喜びなどで心がおどる意の「ときめく」がある、

とある(擬音語・擬態語辞典)。「どきどき」は、

激しい運動や病気で心臓が鼓動する音、
あるいは
心臓の鼓動が聞こえるほど気持ちが高ぶる、

の意味で、心臓の「ドキドキ」の擬音語である。

とすると、「ときめき」は、

どき(どき)めき→ときめき、

と、転訛したことになる。さらに、

どきめき→時めき、

と転訛したということもありえる。他に、

動悸+めく、

とする説が、

「ときめき」は、「ときめく(動詞)」の名詞です。「ときめく」は、喜び・期待などで胸がドキドキすることで、「動悸」に「めく」がついた「動悸めく」がなまったものじゃないでしょうか。「○○めく」とは、○○のように見える、○○の兆しが見える、という意味。(春めく・おとぎ話めく・きらめく・さんざめく、など)、

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115078051、さらに、

「ときめくっていうのは、「何かに心が揺り動かされて喜びとか期待を感じてドキドキする様子」の事を指して使われる表現だね。これと同じように語尾に「めく」がくっついている言葉っていうのは「◯◯みたいに見える」というような意味で使われる事が多いんだよね。「ときめく」の場合は、「とき」というのが「動悸」からきているという説があるんだよね。つまり「ドキドキしているように見える」という意味から「動悸めく」という言葉が生まれて、そこから派生して「ときめく」という表現になったと考えられるね、

等々があるhttp://www.lance2.net/gogen/z581.html。つまり、「ときめく」は、

動悸めく→ときめく、

の転訛とする。こう見ると、接尾語「めく」を中心に考えると、

時+めく、
動悸+めく、

と、「ときめく」と「時めく」が二系統でできたとする考え方もあるが、いまひとつ、元々擬音語のドキドキからきた、

どきどき+めく(あるいは、どき+めく)、

が、主体の、

いまの興奮状態を指し示す、

状態表現から、

その状態を外からの視線で見て、

もて囃されている、

と、客体表現に転じた、と見ることもできる。『語感の辞典』には、「ときめき」について、こうある。

心臓がドキドキする意から。宝くじに当たったことを知った瞬間の喜びより、それによる素晴らしい未来を想像して昂奮する方に中心がある、

ここにある語感は、いまの主体表現としての、

興奮した状態、

を、未来の主体表現、あるいは、未来の状態表現、

そういう状態にいる自分、

という含意がある。そこからは、外部の、他者の状態表現に転じやすくはないだろうか。

「時」(漢音シ、呉音ジ)は、「」で触れたように、

会意兼形声。之(シ 止)は足の形を描いた象形文字。寺は「寸(手)+音符之(あし)」の会意文字で、手足をはたらかせて仕事をすること。時は「日+音符寺」で、日がしんこうすること。之(いく)と同系で、足が直進することを之といい、ときが直進することを時という、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(止+日)。「立ち止まる足の象形と出発線を示す横一線」(出発線から今にも一歩踏み出して「ゆく」の意味)と「太陽」の象形(「日」の意味)から「すすみゆく日、とき」を意味する漢字が成り立ちました。のちに、「止」は「寺」に変化して、「時」という漢字が成り立ちました(「寺」は「之」に通じ、「ゆく」の意味を表します)、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji145.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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一念五百生


一念五百生(ごひゃくしょう)、繋念無量劫(けねんむりょうこう)、恋慕執着(しゅうじゃく)の報ひをうけん事浅ましきかな(新御伽婢子)、

にある、

一念五百生、

は、

小さな思いが五百年もの間の報いをよび無量な業をつくる、の意の仏語、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

隔生則忘(きゃくしょうそくもう)」で触れたように、「隔生則忘」は、

隔生即忘、

とも当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

そも隔生則忘とて、生死道隔てぬれば、昇沈苦楽悉くに忘れ(源平盛衰記)、
隔生則忘とは申しながら、また一年五百生(しょう)、懸念無量劫の業なれば、奈利(泥犂(ないり) 地獄)八万の底までも、同じ思ひの炎にや沈みぬらんとあわれなり(太平記)、

と、

普通一般の人は、この世に生まれ変わる時は、前世のことを忘れ去る、

という仏教用語である(仝上)。これを前提にしている。

「隔生」とは、

「きゃく」は「隔」の呉音、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

法門の愛楽隔生にも忘るべからざる歟(「雑談集(1305)」)、
二世の契をたがへず、夫の隔生(ギャクシャウ)を待つと見へたり(浮世草子「当世乙女織(1706)」)、

などと、

生(しょう)を隔てて生まれかわること、

の意の仏語である(仝上)。

一念五百生、

は、

一念五百生繋念無量劫、

とつづけても言う。「繋念無量劫」の「繋念」は、

けいねん、

とも訓ませ、

執着心、
執念、

無量劫は、

非常に長い時間、

をさす(故事ことわざの辞典)。

「五百生」とは、

五百は、度数の多きを云ふ、

とあり(大言海)、

人は、五百回も六道の迷界で生まれかわること、

また、転じて、

五百生犬の身のくるしみをうけ(「観智院本三宝絵(984)」)、

と、

幾度も生まれかわる、非常に長い時間、

をいい(精選版日本国語大辞典)、

若佛子、故飲酒、而生酒過失無量、若自身手過酒器、與人飲酒者、五百世無手、何況自飲(大乗経典『梵網経』)、

と、

五百世(ごひゃくせ)、

ともいう(仝上)。

「一念五百生(いちねんごひゃくしょう)」は、

一ねん五百しゃうとて、もろもろの仏のいましめそしり給へる女に契りを結び侍るなり(仮名草子「女郎花物語(1592〜1615頃)」)、

と、

わずか一度、心に妄想を抱いただけで、その人は五百回もの回数にわたって輪廻(りんね)し、その報いを受けるということ、

になる(精選版日本国語大辞典)が、「一念」は、

一ねむのうらめしきも、もしは哀れとも思ふにまつはれてこそは(源氏物語)、

と、

ひたすらに思いこんでいること、
執心、
執念、

の意だが、

ただ今の一念において直ちにする事の甚だしき難き(徒然草)、

と、

きわめて短い時間、

つまり、

60刹那、
あるいは、
90刹那、

をいう(広辞苑)ので、

ほんの一瞬の妄念が永遠の時間輪廻し続ける、

と、

一念、

五百生生、

を対に対比している。「繋念無量劫」も、同趣旨である。

因みに、「隔生則忘」は、生まれ変わり、つまり、

輪廻転生、

が前提になっている。輪廻転生とは、

六道(ろくどう/りくどう)、

と呼ばれる六つの世界を、

生まれ変わりながら何度も行き来するもの、

と考えられているhttps://www.famille-kazokusou.com/magazine/manner/325。六道は、

地獄(罪を償わせるための世界。地下の世界)、
餓鬼(餓鬼の世界。腹が膨れた姿の鬼になる)、
畜生(鳥・獣・虫など畜生の世界。種類は約34億種[9]で、苦しみを受けて死ぬ)、
修羅(阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界)、
人間(人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる)、
天上(天人が住まう世界)、

の六つhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93。で、

六道輪廻、

ともいう。大乗仏教が成立すると、六道に、

声聞(仏陀の教えを聞く者の意で、仏の教えを聞いてさとる者や、教えを聞く修行僧、すなわち仏弟子を指す)、
縁覚(仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者を指す)、
菩薩(一般的には菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)を意味する)、
仏(「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味する)、

を加え、六道と併せて十界を立てるようになったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

ところで、「五百生」に関連して、

対面同席五百生(たいめんどうせきごひゃくしょう)、

という言葉があるhttps://michinarumichini.amach.net/taimen-douseki-gohyakushou/。仏陀のことばとされ、

対面したり同席したりする人は過去世で500回は関わりを持っている、

という意味である。

袖振り合うも多生の縁、

である。「多生曠劫(たしょうこうごう)」で触れたように、

長い年月多くの生死を繰り返して輪廻する、

意で、

何度も生をかえてこの世に生まれかわること、

つまり、

多くの生死を繰り返して輪廻する、

意(広辞苑)だが、「多生」は、

今生(こんじょう)、

に対し、

前世、また来生、

の意で(岩波古語辞典)、

来生に生まれ出づること、
今生以外の諸の世界に生まれること、

であり(大言海)、

多生に生まれ出でたる際に結びし因縁、

を、

多生の縁(えん)、

という(「他生」とするは誤用)。「曠劫(こうごう)」も、

非常に長い年月、

の意で、

永劫(えいごう)、

と同義になる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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けつらふ


紅粉翠黛(こうふんすいたい)たる顔にいやまさりて、けつらひ、愁(うれ)へる眼(まなこ)、涙に浮き腫れたり(新御伽婢子)、

にある、

けつらひ、

は、

つくろい、粧い、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。紅粉翠黛は、

美しい顔の色、みどりのまゆずみをほどこした美しい眉、

とある(仝上)。「紅顔翠黛」と同義である。

「けつらひ」は、

けつらふ(う)、

の名詞化であるが、「けつらふ」は、辞書によっては載らなず(大言海・岩波古語辞典)、

けすらふ、

で載る(仝上)。ただ、

けつらふ、

は、

けすらふ、

と同じとある(広辞苑)。「けつらふ」は、

けづらふ、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、

けすらふ、

は、

けずらふ、

ともいう(岩波古語辞典)。そして、「けすらふ」は、

擬ふ、

と当てる(大言海・岩波古語辞典)。

これをみると、

たけぶ(咆ぶ)→さけぶ(叫ぶ)、
くたす(腐す)→くさす(貶す)、
ちゃ(茶)→さ(茶)、

などと、

タ行(t)→サ行(s)間の子交(子音交替)

が起こったと見ることができる。たとえば、

「けつらふ」は、

我可然者と云れうとてみなけつらうたぞ(「寛永刊本蒙求抄(1529頃)」)、

と、

つくろった様子や態度をする、
きどる、

の意や、

まづは㒵(かほ)しろしろとけつらひて(「浮世草子・好色旅日記(1687)」)、

と、

つくろう、
めかす、
粧(よそお)う、
化粧する、

意で使う(精選版日本国語大辞典)。「けすらふ」は、

色色に染めたる物をかづきて身をけずらふ(「孝養集(平安後期)」)、

と、

粧ふ、
化粧する、

意で使う。易林節用集(1597)には、

擬、ケスラフ、姣、同、

とある。ただ、語源はわからない。

「擬」(漢音ギ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。疑は「子+止(足)+音符矣(人が立ち止まり、振り返る姿)」からなる会意兼形声文字で、子どもに心が引かれて足をとめ、どうしようかと親が思案するさま。擬は「手+音符疑」で、疑の原義をよく保存する。疑は、「ためらう、うたがう」意に傾いた、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(扌(手)+疑)。「5本の指のある手」の象形と「十字路の左半分の象形(のちに省略)と人が頭をあげて思いをこらしてじっと立つ象形と角のある牛の象形と立ち止まる足の象形」(「人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる」の意味)から、「おしはかる」を意味する「擬」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1783.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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是生滅法


既に半夜(はんや まよなか、子(ね)の刻から丑(うし)の刻まで)の鐘、是生滅法(ぜしょうめつほう)の響きを告げ、世間静かなるに(新御伽婢子)、

とある、

是生滅法、

は、

万物はすべて変転し生滅する、不変のものは一つとしてないという、涅槃経の四句偈のひとつ、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。普通、

是生滅法、

は、

ぜしょうめっぽう、

と訓ませ、

諸行無常(しょぎょうむじょう)、
是生滅法(ぜしょうめっぽう)、
生滅滅已(しょうめつめつい)、
寂滅為楽(じゃくめついらく)、

の四句偈(げ)の一つで(諸行は無常なり 是れ生滅の法なり 生滅を滅し已(お)わりて 寂滅を楽となす)、涅槃経の、「雪山童子」の説話で、

釈尊は過去世に雪山で修行していたので雪山童子(せっせんどうじ 雪山大士)と呼ばれるが、雪山に住していたとき帝釈天が羅刹(ラークシャサ)の形をして現れてこの偈の前半を説いたとき、さらに後半を教えてもらうために身を捨てた、

という伝説があるので(自分の身命を施す菩薩行の代表例として引用されることが多い)、

雪山偈(せっせんげ)、

と呼び(「雪山」はヒマラヤを指すとされる)、

諸行無常偈、
無常偈、

ともいいhttp://www.joukyouji.com/houwa0604.htm、偈の全体の意味は、三法印(仏教の根本にある三つの概念)の、

諸行無常(あらゆる物事(現象)は変化している。変化しない、固定的な物事は存在しない)、
諸法無我(あらゆる存在(ダルマ 法)の中には我(アートマン)は無い)、
涅槃寂静(煩悩の炎の吹き消されたさとりの境地(ニルヴァーナ 涅槃)は心が安らかに落ちついた(至福の)状態である)、

に近いとされ、法然は、

かりそめの色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはする、

と詠い、俗説に、

いろはにほへとちりぬるを(色は匂えど散りぬるを)、
わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)、
うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)、
あさきゆめみしゑひもせす(浅き夢見じ酔ひもせず)、

の、

いろはうた、

がこれを訳したものと言われ(仝上)、「無上偈」は、

諸行无常、是生滅法と云ふ音(こゑ)風のかに聞こゆ(「観智院本三宝絵(984)」)、
とか、
初夜の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり(光悦本謡曲「三井寺(1464頃)」)、
とか、
初夜の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり、晨朝(しんちょう)の響きは生滅滅已、入相(いりあい)は寂滅為楽と響くなり(長唄「娘道成寺」)、

等々と使われる(仝上・精選版日本国語大辞典)、

因みに、「偈」(げ サンスクリット語ガーターgāthāの音写の省略形)は、漢語では、

頌(じゅ)、
あるいは、
讃(さん)、

とも翻訳される、

仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの、

をいい、

偈陀(げだ)、
伽陀(かだ)、

とも音写し、意訳して、

偈頌(げじゅ)、

ともいい、対して散文部分を、

長行、

という(精選版日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%88)とある。古来インド人は詩を好み、仏典においても、詩句でもって思想・感情を表現したものがすこぶる多い。漢語では、これを三言四言あるいは五言などの四句よりなる詩句で訳出される。たとえば、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)で、

諸悪莫作(しょあくまくさ)、
諸善(しょぜん 衆善)奉行(ぶぎょう)、
自浄其意(じじょうごい)、
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)、

とか、法身偈(ほっしんげ)で、

諸法従縁生(しょほうじゅうえんしょう)、
如来説是因(にょらいせつぜいん)、
是法従縁滅(ぜほうじゅうえんめつ)、
是大沙門説(ぜだいしゃもんせつ)、

と共に、「雪山偈」も仏教の根本思想を簡潔に表現したもの(日本大百科全書)とされる。四句から成るものが多いため、単に、

四句、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

「偈」(漢音ケイ・ケツ、呉音ゲ・ゲチ)は、

会意兼形声。「人+音符曷(カツ 声をからしてどなる)」、

とある(漢字源)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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かねこと


女も遠くしたひ又の日をかねことし、あかで別るる横雲の空など、名残り惜しみ(新御伽婢子)、

の、

かねこと、

は、

約束、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

かねこと、

は、

兼ね言、
兼言、
予言、

などと当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

ゆゆしきかねことなれど、尼君その程までながらへ給はむ(源氏物語)、

と、

前もって先を見越して言う言葉、予言、

の意で、その意味の外延として、

必ずこれをいひつけにもなど宣はせし御かねことどもいと忘れがたくて(栄花物語)、

と、

前もって言い置いた言葉、
豫(かね)て言ひ置ける言(ことば、)、
豫約の詞、

つまり、

約束、

の意でも使う(岩波古語辞典・大言海)。また、

昔せし我がかね事の悲しきは如何契りしなごりなるらん(「後撰和歌集(951〜53)」)、

と、

かねごと、

とも訓ませる(大言海・精選版日本国語大辞典)。

兼ぬ、

は、

口語で、

兼ねる、

で、

現在のあり方を基点として、時間的・空間的に、一定の将来または一定の区域にわたる意、

とあり、

御子(みこ)の継(つ)ぎ継ぎ天(あめ)の下知らしまさむと八百万(やおよろず)千年(ちとせ)をかねて定めけむ奈良の都はかぎろひの春にしなれば(万葉集)、

と、

現在の時点で、今からすでに将来のことまで予定する、
見込む、

という意で使う(岩波古語辞典)。で、その延長線上で、

あらたまの年月(としつき)かねてぬばたまの夢(いめ)にし見えむ君が姿は(万葉集)、

と、

時間的に今から長期にわたる、

意で使い、それを空間的に使うと、

一町かねて辺りに人もかけられず(大鏡)、

と、

現在点を中心に一定の区域にわたる、

と、空間的か外延の広がりに使い、それを抽象化すれば、

一身に数芸をかねたれば(保元物語)、

と、

併せ持つ、

意となり、

大臣の大将をかねたりき(平治物語)、

と、

兼職、

の意となる(仝上)。それを心理的に援用すれば、

また人のこころをもかねむ給へかし(源平盛衰記)、

と、

(あちこちに)気を使う、
気をつかって人の気持ちをおしはかる、

意で使う。これの応用が、他の動詞の連用形に接続し複合動詞として用い、

納得しかねる、
何とも言いかねる、

と、

〜しようとして、できない、〜することがむずかしい、

意や、「〜しかねない」などの形で、

悪口も言い出しかねない、

などと、

〜するかもしれない。〜しそうだ、

の意で使う(デジタル大辞泉)。

「兼」(ケン)は、

会意文字。「二本の禾(いね)+手」で、一書に併せ持つさまを示す、

とある(漢字源)。別に、

会意。秝(れき 二本のいね)と、又(ゆう 手)とから成り、二本のいねを手でつかむ、あわせもつ意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「並んで植えられている稲の象形と手の象形」から、並んだ稲をあわせて手でつかむさまを表し、そこから、「かねる」を意味する「兼」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1327.html。趣旨は同じである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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一跡


我が一跡を掠め取り、身の佇(たたず)み(置き所)もならず、所さへ追ひ失はれし(新御伽婢子)、

の、

一跡、

は、

財産のすべて、

あひかまへて、小分の(少額の)かけにし給ふな。身代一跡と定めらるべし(仝上)、

の、

身代一跡、

は、

全財産、

と、それぞれ注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

一跡、

の、

跡は、後裔(あと)の義、跡目と云ふ語も、これより出づ、

とある(大言海)ように、

其上大家の一跡、此の時断亡せん事勿体無く候(太平記)、

と、

家筋のつづき、
一系統、

という意味が本来の意で、転じて、

相摸入道の一跡(セキ)をば、内裏の供御料所に置かる(太平記)、

と、

後継ぎに譲る物のすべて、
遺産、

の意となり、転じて、

家一跡は申すに及ばず、女共の身のまはりまで、打ち込(ご)うでござるによって(狂言「子盗人」)、
博奕、傾城狂ひに一跡をほつきあげ(仮名草子「浮世物語(1665頃)」)、

などと、

全財産、
身代、

の意となった(仝上・精選版日本国語大辞典)。その意から、

ねぢぶくさ取出し、一跡(イッセキ)に八九匁あるこまがねの中へ銭壱弐文入れて(浮世草子「傾城色三味線(1701)」)、

と、

全体、
ありったけ、

の意(仝上)となり、視点が讓る側から、譲られる側に転じて、

身が一せきのせりふの裏を食はすしれ者(浄瑠璃「嫗山姥(1712頃)」)、

と、

自分だけが相伝した物、

さらに、

自分の占有、
特有、
独自、

の意に転じていく(仝上)。で、

一跡に、

と使うと、

一跡に一人ある子を、さんざん折檻して(浮世草子「石山寺入相鐘」)、

と、

ありったり、

の意で使う(岩波古語辞典)。

「跡」(漢音セキ、呉音シャク)は、

会意文字。亦は、胸幅の間をおいて、両脇にある下を指す指事文字。腋(エキ)の原字。跡は「足+亦」で、次々と間隔をおいて同じ形のつづく足あと、

とあり(漢字源)、「一跡」の意味に適う当て字になっている。別に、

会意兼形声文字です(足+亦)。「胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「人の両わきに点を加えた文字」(「わき」の意味だが、ここでは、「積み重ねる、あと」の意味)から、「積み重ねられた足あと」を意味する「跡」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1232.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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あなめ


小野小町が、秋風の吹くにつけても、あなめあなめなどと歌の上の句をつらねしためし、世をもつて伝へ知る所也(新御伽婢子)、

の、

あためあなめ、

とは、

小町の髑髏の目に薄が生え、夜になると、こういったという説話(袋草紙)から。あゝ、目が痛いの意。『通小町』にも「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とは言はじ薄生ひけり」、

とあると注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「あなめ」は、『江家次第』(大江匡房 平安時代後期の有職故実書)に、

小野小町の髑髏どくろの目から薄すすきが生えて「あなめあなめ」と言ったとある、

のが初見(広辞苑)で、

あな、目痛し、

あるいは、

あやにく、

の意という(仝上)とある。『江家次第』には、

(在五中将(「在五」は在原氏の五男の意。位が近衛中将であったところからいう、在原業平(ありわらのなりひら)のこと)、陸奥に到りて、小野小町の屍を求めしに)終夜有聲、曰、秋風之、吹仁付天毛(ふくにつけても)、阿那目、阿那目、後朝求之、髑髏目中有野蕨、在五中将、涕泣曰、小野止波不成(とはならじ)、薄生計理(すすきおひけり)、卽歛葬、

とあり、袖中抄(しゅうちゅうしょう 12世紀末)では、

あなめ、あなめとは、あなめいた、あなめいた、と云ふ也、

とあり、さらに、『和歌童蒙抄』(藤原範兼(のりかね) 平安末期の歌学書)には、

野中を行く人あり、風の音のやうにて、此歌を詠ずる聲聞ゆ、其薄を取捨てて、其頭を、清き處に置き歸る、其の夜の夢に、吾れは、小野小町と云はれし者なり、嬉しく、恩をかうぶりぬると云へり、

とあり、

此の小野を、玉造の小野と云ひし由、

とある(大言海)等々多少の異同がある。この「玉造」とは、『宝物集』(平康頼(やすより)説 鎌倉初期の仏教説話集)に、

玉造小町子壮衰書(たまつくりこまちこそうすいしょ 平安後期の漢詩文作品)、

が出典であるとして、

老後の衰えと貧窮、若年時の色好みと栄花、

が述べられているが、この、

玉造小町子、

と、

小野小町、

は新井白石が『牛馬問』で、問題視して初めて、混同が指摘されるまで、同一視されてきて、古く、『袋草紙』(藤原清輔 平安末期の歌学書)でも、小野は、

住所ノ名カ、

とし、「玉造」を、

その姓、

としている。そうした同一視の中で、『十訓抄』(じっきんしょう/じっくんしょう 鎌倉中期の教訓説話集)や『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう 橘成季編の鎌倉時代の世俗説話集)に代表される、

若く、男性との交渉が盛んであった頃は比類のない驕りの生活で、衣食にも贅を尽くし、和歌を詠じての日々であった。多くの男たちを見下し、女御や后の位をのぞんだものの、両親、兄弟をつきつぎに失い、一人破れ屋に住む身となり、文屋康秀(ふんや の やすひで 平安時代前期の官人・歌人)の任国(三河)下向にも随行し、ついに山野を浪々することになった、

という(日本伝奇伝説大辞典)、

小町伝説、

が形成されていく。因みに、親密だった文屋康秀は、三河掾として同国に赴任する際に小野小町を誘った際、小町は、

わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ、

と返事したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B1%8B%E5%BA%B7%E7%A7%80。この逸話をもとにした話が、『古今著聞集』や『十訓抄』載せられるようになったようである。

こうした伝説の中には、『奥義書』(藤原清輔(『袋草紙』の著者) 平安末期の歌学書)で、謡曲『通小町』を淵源とするらしい、

深草の四位の少将が、小町の「車の榻(しじ 牛車(ぎっしゃ)に付属する道具の名。牛を取り放した時、轅(ながえ)の軛(くびき)を支え、または乗り降りの踏台とするもの)に百夜通え」という言を実行し、思いの叶う百日目を目前の九十九日目に生命絶えた、

という説話が載るが、この女性の態度は、

平安朝の女性としてはこうした男性拒否の姿勢は一般的、

で、必ずしも「小町」と結びつけられていなかったのに、古今集や伊勢物語の古注釈で、

男を拒否する強い女としての小町、

として、この、

百夜通い説話、

が、小野小町と一体化されていくことになる(仝上)。

こうして出来上がった小町伝説が、謡曲の『卒塔婆小町』や浄瑠璃、歌舞伎などの「小町」物になっていくことになる。

柳田國男は、各地に伝わる小町伝説に、「神話上の隘路」で度触れたように、和歌を媒体とした、

霊験唱導者、

の存在を想定していた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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頼母子


大欲不道の男あり。隣郷に、頼母子(たのもし)といふ事をむすび置きて、或る時そこへ行きぬ(新御伽婢子)、

とある、

頼母子、

は、

無尽、

ともいい、

一定の期日に一定の掛け金を出し合い、全員に順々に一定の融通をする組合、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、正確には、「頼母子」は、

憑子、
憑支講、
頼子講、

とも当て、

一定の期日ごとに講の成員があらかじめ定めた額の掛金を出し、所定の金額の取得者を抽選や入れ札などで決め、全員が取得し終わるまで続けるもの。鎌倉時代に成立し、江戸時代に普及した。明治以降、農村を中心として広く行なわれた、

のを言い(精選版日本国語大辞典)、

頼母子講、

は、

頼母子の組合、

を指す(大言海)が、「頼母子」のみでも、

頼母子講、

の意味で使われる。「講」は、

もともと寺や寺院に集まって宗教教育を行っていた「講義」の意味、

とされ、時代とともに、次第に宗教色が薄れて、

単なる集まり、

を指すようになったhttps://www.nihon-jm.co.jp/mujin/history/index.htmlとある。

鎌倉時代の建治元年(1275年)12月の高野山文書に、高野山中のある寺院の風呂場の修繕資金を調達する為に、

憑支(たのもし)、

が組織されたとあり、この憑支(たのもし)の当て字が、

頼母子、

になる。

母と子のように相互に頼む(依存する)、

という相互扶助の意味となるhttps://www.nihon-jm.co.jp/mujin/history/index.htmlが、鎌倉時代には、

憑支・無尽銭、

の名称が文献に現れ、室町時代に下ると広く普及して民間一般に行われていた(日本大百科全書)とある。

色葉字類抄(平安末期)には、

頼、たのもし、

室町時代の意義分類体の辞書『下學集』には、

憑子(たのもし)、日本俗、出少錢取多錢、謂之憑子也、

節用集にも、

日本世俗、出少銭取多銭也、又云合力、

建武式目(延元元年/建武3年11月7日(1336年12月10日)、室町幕府の施政方針を示した式目)には、

無尽錢、田乃毛志、

とある。

「頼母子」は、

貸稲(いらしいね・たいとう)の遺風なり、

とあり(大言海)、律令以前、

春に貸されて、秋に稲にて利息を納めしめられる、

もので、

出挙稲(すいことう)、

といい(仝上)、色葉字類抄(平安末期)に、

出挙、イラシ、

とあり仝上)、

処処の貸稲を罷(や)むべし(孝徳紀)

と載る。「無尽」は、

無尽錢、

ともいい、

質物を伴う貸し金で、「無尽銭土倉」という質屋もあり、おそらくは「無尽財」の名による寺院の貸付金に由来する、

とあり(日本大百科全書)、本来は由来を異にし、鎌倉時代の、

無利子の頼母子という互助法、

に対し、室町時代の、

土倉が担保をとり、利子をとったもの、

を無尽といったとの違いがあった(旺文社日本史事典)とされるが、室町時代以後は頼母子と同義に用いられるに至った(仝上)。だから、「頼母子」の由来は、

たのもしい(頼)(精選版日本国語大辞典)、
タノム、タノミの意(日本大百科全書)、
相救いてたのもしき意(大言海)、

等々と、互助の含意が由来になっている。

江戸時代以後は、明治・大正期にも及んで頼母子・無尽は多彩な発展を示し、根幹の仕組みは共通ながら種々の型が生じ、大別すると、

仲間の共済互助を本義とするか、
金融利殖を主目的とするか、

の両型に分けられ、明治期に入っては営業無尽とよばれる専門業者による形を分派させた(仝上)。

仲間の共済互助を本義とする頼母子・無尽には、

社寺建立その他公共的事業の資金調達を主目的とするもの、
と、
個人的融資救済を主旨とするもの、

があり、両者とも通例「親無尽(親頼母子)」の形をとり、

特定者への優先的給付を旨とした。それを親、講元、座元、施主などといい、趣旨に賛同しての加入者を子、講衆、講員などとよんだ。社寺寄進はもちろん個人融資でも、親は初回「掛金」の全額給付を受けるほか、初回を「掛捨(かけすて)」と称し「親」の掛金を免除するのがむしろ通例であった、

とある(日本大百科全書)。こうした特定者の救済互助の仕組みが頼母子・無尽の原型で、社寺への寄進行為とのかかわりも深かった。しかし2回目以後は講員相互の金融に移り、一定の講日に参集して所定の「掛金」を拠出しあい、特定者への給付が順次行われて満回に至る(仝上)とある。発起人を、

親、
講元、

称したが、別段特権はなく、むしろ信用度が仲間を集める要因であり、またそうでなければ頼母子講は発起できなかった(仝上)とある。

江戸時代には、主として関西では、

頼母子、

関東では、

無尽と称される傾向があり、その仕組みは、概略、

@発起人である講親(こおうや)が、仲間である講中(こうちゅう)を募集して一つの講を結成。
A講運営の円滑化のため、掟や定めを作成、
B月一回ないし年一回、会合を開き、一口あたり(一人一口と限らない)の掛け金を持ち寄る、
C初回は講親が、第二回以降後は、抽せん・くじ引きまたは入札によって、講中が各回の掛け金獲得。
D全口が掛け金を取得したときをもって満会と称し、講を解散する、

となりhttps://komonjyo.net/life/mujin.html、落札者は、

入札(いれふだ、にゅうさつ)やくじ引きに再び参加する権利を失いますが、掛け金を納める義務は負います。これは講に対する債務の弁済にあたるところから、落札した者に質物の差し入れ、また落札によって受ける金銭の利子支払いを求められ、

決め方は、

抽せん、
と、
入札、

とがあり、

抽せん・くじ引きは関東、入札は関西に多い、

とされ、入札の場合は、

資金を欲するものが低い入札価格をつければ落札者になりえる、

が、余り低い入札価格では結果的に高利資金となってしまい互助の意味がなくなる(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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十二調子


宮(きゅう)商(しょう)角(かく)徴(ち)羽(う)の五音(ごいん)にもこえ十二調子にもはづれ、音楽、糸竹(しちく 「糸」は琴、琵琶などの弦楽器、「竹」は笙(しょう)、笛などの管楽器の総称)にものらぬとぞ(新御伽婢子)、

の、

五音、

は、

日本、中国で称した五音階、

で、

五声(ごせい)、

ともいう(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。また、

十二調子(じゅうにちょうし)、

は、

雅楽に用いられた十二の音、一オクターブ間を一律(約半音)の差で十二に分けたもの、

と注記がある(仝上)。「十二調子」は、

十二律の俗称、

とある(広辞苑)。

五音、

は、日本・中国の音楽で、低音から、

宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)、

の5音を言い、また、その構成する音階をも指す(広辞苑)。五音(ごいん)に、

変徴(へんち 徴の低半音)・変宮(へんきゅう 宮の低半音)、

を加えた7音を、

七音(しちいん)、
または、
七声(しちせい)、

といい(仝上)、西洋音楽の階名で、宮をドとすると、商はレ、角はミ、徴はソ、羽はラ、変宮はシ、変徴はファ#に相当し、

宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮はファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミに相当、



西洋の教会旋法のリディアの7音に対応する、

とあり(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A3%B0)、

日本の雅楽や声明(しょうみょう)も使用する、

とする(仝上)。なお、「五声」は、

三分損益法(さんぶんそんえきほう)、

に基づいている(仝上)とある。『史記』に、

律數 九九八十一以為宮 三分去一 五十四以為徵 三分益一 七十二以為商 三分去一 四十八以為羽 三分益一 六十四以為角、

とあるが、これは、

完全5度の音程は振動比2:3で振動管の長さは2/3となる。すなわち、律管の3分の1を削除すると5度上の音ができ、加えると5度下の音ができる。前者を三分損一(去一)法、後者を三分益一法と称し、両者を交互に用いるのが三分損益法である、

とあり(日本大百科全書)、

5度上の音を次々に求めるピタゴラス定律法と同じ原理、

で、日本では、

損一の法を順八、益一の法を逆六、

といい、別名、

順八逆六の法、

と称する(仝上)とある。つまり、古代ギリシャでも古代中国でも音楽は盛んだったが、二つの異なる文化が、

周波数比が2:3である二つの音はよく調和する、

という全く同じ現象に到達していたのであるhttps://www.phonim.com/post/what-is-temperament。現代では周波数が2:3であるような音は、

完全5度、

と呼ばれている(仝上)。

日本へは奈良時代にこの中国の五声が移入されたが、平安時代になると日本式の五声が生まれ、中国の五声の第五度(徴)を宮に読み替えた音階で、西洋音階のド・レ・ファ・ソ・ラに相当する。中国の五声を、

呂(りょ)、

日本式の五声を、

律(りつ)、

とよぶのが習わしとなった(仝上)。

因みに、音階中の各音の音程関係を規程する基準を、

音律、

というが、中国、日本の音律は、

十二律、

である。

「十二律」は、『前漢志』や『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』には、

4000年前黄帝の代に、伶倫(れいりん)が命を受け昆崙山(こんろんざん)の竹でつくった、

とあるが、中国では、

黄鐘(こうしょう)を基音、

として、

黄鐘(こうしょう)を三分損一して林鐘(りんしょう)、次に益一して太簇(たいそく)、

と、以下同様にして得て、

黄鐘(こうしょう)、大呂(たいりょ)、太簇(たいそく)、夾鐘(きょうしょう)、姑洗(こせん)、仲呂(ちゅうりょ)、蕤賓(すいひん)、林鐘(りんしょう)、夷則(いそく)、南呂(なんりょ)、無射(ぶえき)、応鐘(おうしょう)、

となる。前漢の京房(けいぼう)はこれを反復して、

六十律、

南朝宋の銭楽之(せんらくし)は、

三百六十律、

を求めた(仝上)という。日本では天平七年(735)吉備真備が『楽書要録』で伝えたのち、平安時代後期より雅楽調名に基づいて、

壱越(いちこつ)、断金(たんぎん)、平調(ひょうじょう)、勝絶(しょうせつ)、下無(しもむ)、双調(そうじょう)、鳧鐘(ふしょう)、黄鐘(おうしき)、鸞鏡(らんけい)、盤渉(ばんしき)、神仙(しんせん)、上無(かみむ)、

の名称が決められた(仝上)。ただ、中国では、

標準音の絶対音高が時代によって異なるので、律名をそのまま絶対的な音名ということはできない、

ようだが、日本独自の、

十二律、
十二調子、

は、

壱越 (いちこつ)がほぼ洋楽のニ音に相当し、以下、順に半音ずつ高くなっていくので、律名は音名といってもさしつかえない、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。しかし、

雅楽や声明、

を除けば、この12の律名はあまり用いられず、普通は、もっと実用的な、

一本(地歌・箏曲・長唄・豊後系浄瑠璃などでは黄鐘〈おうしき〉イ音、義太夫節では壱越ニ音)、
二本(変ロ音または嬰ニ音)、
三本(ロ音またはホ音)、

という名称が使われている(仝上)とある。

西洋音楽の音律理論は古代ギリシアのピタゴラス音律に始まり、求め方は十二律と同じだが、12番目の音は厳密には基準音より、わずかに高く、その差を、

ピタゴラスのコンマ、

といい、この、

長3度、長6度の不協和問題、

となり、これを解決するために、3倍と2倍のみを使って作った音律である、

ピタゴラス律、

に対し、基準の音から簡単な整数倍で作る、

純正律、

純正律が考案されていくことになる(仝上)。

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述懐奉公


それがし、述懐奉公いたしける事、身におぼせえたる科(とが)なれば、ちからなし(平仮名本・因果物語)、

とある、

述懐奉公、

とは、ここでは、

公然とお上の非を訴えること、

という意味で使われている(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、

述懐奉公身を持たず、

という諺があり、

不平不満をいだきながらする奉公、

をいい、

(主人や君主に)奉公するのに気持ちよく働かず、愚痴ばかり言っていると、結局身の破滅になる、

という意味で使う。

述懐奉公身の仇(あだ)、

ともいう(故事ことわざの辞典・精選版日本国語大辞典)。同義で、

不足奉公(ふそくぼうこう)は両方の損、

という言い方もある(仝上)。

述懐、

は、漢語である。

依人而異事、雖似偏頗、代天而授官、誠懸運命、ナド、述懐ノ詞ヲ書過グセルニヨリテ(古今著聞集)、

と、

懐(おもひ)を述べ云ふこと(大言海)、

つまり、

己の思いを述べる、

意で(字源)、

述志、

と同じである(仝上)。古くは、

シュックヮイ、

と、清音。近世末頃から、

ジュックヮイ、

と濁る(岩波古語辞典)。本来、

思いをのべること、

の意から、漢詩では、

五言。述懐。一絶……道徳承天訓、塩梅寄真宰(「懐風藻(751)」)、
譴を蒙りて外居し、聊かに述懐(しゅっかい)し、敬みて、金吾将軍に簡す。一首(「文華秀麗集(818年)」)、

などと、

痛切な想いを述べること、特に、憂愁・忿懣・不平・愚痴・恨みなどに関する場合が多い、

と、思いの中身が結構シフトして使われ、そこから、

述懐の心もやさしく見えし上、ことがらも希代の勝事にてありき(「後鳥羽院御口伝(1212〜27頃)」)、
おんな共も花みにやらぬと申てしゅっくゎひ致す程に(虎明本狂言「猿座頭(室町末〜近世初)」)、

と、ほぼ、

ぐち、
不平、
不満を洩らすこと、
うらみを言うこと、

の意へと移っていく。江戸語大辞典では、

じゅっかい、

と訓ませ、

古くはしゅっくゎいと読んだ、なお残存する、

とあり、

しゅつくゎいをいつてうづらへおりる也(天明元年(1781)「柳多留」)、

と、

愚痴をこぼすこと、
泣きごとを言うこと、

と共に、

島台ほど述懐な物は御座らぬ(天明九年(1789)「四つの梅」)、

と、

なさけない、
愚痴の出る、

意とを載せている(江戸語大辞典)。

「述」(漢音シュツ、呉音ジュツ、ズチ)は、

会意兼形声。朮(ジュツ)は、穂の茎にもちあわのくっついたさまを描いた象形文字で、中心軸にくっついて離れない意を含む。述は「辶+朮」で、従来のルートにそっていくこと、

とある(漢字源)が、別に、

形声。辵と、音符朮(シユツ)とから成る。人について行く、したがう意を表す。借りて、「のべる」意に用いる、

とあり(角川新字源)、また、

会意兼形声文字です(辶(辵)+朮)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「もちきび(とうもろこし)の穂」の象形から、もちきびの穂が整然と並び続く事を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、先人の言行を「受け継ぐ」を意味する「述」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji737.html

「懐(懷)」(漢音カイ、呉音エ)は、

会意兼形声。褱(カイ)は、「目からたれる涙+衣」の会意文字で、涙を衣で囲んで隠すさま。ふところに入れて囲む意を含む。懷はそれを音符とし、心を加えた字で、胸中やふところに入れて囲む、中に囲んで大切に温める気持ちを表す、

とある(漢字源)。別に、

形声。「心」+音符「懷/*KUJ/」。{懷/*gruuj/}(思う、懐かしむ)を表す字、

という説、

音符の「褱」は形声文字、「衣」+音符「眔/*KUJ/」。{懷/*gruuj/}(いだく、つつむ)を表す字、

の二説をあげるものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%87%B7

会意兼形声文字です(忄(心)+褱)。「心臓」の象形(「心」の意味)と「衣服のえりもとの象形と目から涙が垂れている象形」(「死者をなつかしみおもう」の意味)から、「なつかしく思う」を意味する「懐」という漢字が成り立ちました、

とするものhttps://okjiten.jp/kanji1539.htmlがある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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松明


平野海道を、もどりけるに、弓削のかたより、大いなる明松(たいまつ)をともして来る(平仮名本・因果物語)、

にある、

明松(たいまつ)、

は、普通、

松明、
炬、

などと当て(広辞苑)、

炬火、
松炬(しょうきょ)、

などともいい(大言海)、

ついまつ、
しょうめい(松明)、
たてあかし、
たきあかし、
ともしび、
うちまつ、
続松(ついまつ)、

あるいは、略して、

まつ、

ともいい(仝上・広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

松のやにの多い部分や竹・あしなどをたばね、火をつけて照明に用いたもの、

をいう(広辞苑)。「松明(しょうめい)」は、

松明夜當燈(載石屛)、

と、漢語で、

松の木の心の油のあるものをもやすをいふ、

とあり(字源)、

忽然白蝙蝠、來樸松炬明(皮日休、入林屋堂詩)、

と、

松炬(しょうきょ)、

ともいう(仝上)。「たいまつ」で触れたように、

松明(しょうめい)は、通鑑、唐肅宗紀、註「松枯而油存、可燎之為明」という語句アリ、正字通「滇人以松心為炬、號曰松明」、

とある(大言海)。

「たいまつ」は、

松明(まつほ)にて作れる炬火、

で(仝上)、「炬火」は、

「炬」は、かかげる火の意、

である。「炬火」は、

こか、

とも訓ませ、

たいまつの火、

の意(広辞苑)だが、

薪を束ねて立てて火を点じ、灯火とするもの、

で、

たてあかし、

ともいい、どちらかというと、

かがりび、

に近くなる(精選版日本国語大辞典)。「たてあかし」は、

立明、
炬火、

とあて、

庭上に人々をならべ、かかげ持たせて照明とした松明(たいまつ)、

をいうが、また、

庭上に立てて用いる松明、

とあり(仝上)、これが、

炬火(こか)、

あるいは、

たちあかし、
あるいは、
たてあかし、

で、

炬火(きょか)、

が、

たいまつ、

になるが、「きょか(炬火)」を、

たいまつ、
かがり火、

と並べるもの(広辞苑)もあり、あまり厳密とは思えないが、平安時代には、「たいまつ」は、単に、

まつ、

とも言い、庭上で立てて使う場合は、

たてあかし、
たちあかし、

とも呼んだ(日本語源大辞典)。また、

ついまつ(続松)、

と記した例も多く、両者は同じように使われていたらしい。鎌倉・室町時代になると、

まつび、
まつあかし、
あかしまつ、

などと新しい呼び名も生まれる(仝上)、とある。確かに、和名類聚抄(平安中期)は、「たてあかし」を、

炬火、太天阿加之、束薪灼之、

とし、「たいまつ」は、

松明者、今之續松乎、

と区別している。ついでながら、「続松」(ついまつ)は、

つぎまつ、
つきまつ、

とも訓み(平安末期『色葉字類抄』)、

松を続けて燃やす意の「つ(継)ぎまつ(松)」のイ音便(学研全訳古語辞典)、
つぎまつの音便、續松明(つぎたいまつ)の略と云ふ(大言海)、

などとあるが、どうも本来は、

松明の燃え尽きんむとする時、続ぎ足すべく用意する松明の名ならむ、

とある(江家次第・大言海)。ただ、古来マツはひで(脂の多い根)を裂いて台上で燃やしたり、松脂をこねて蝋燭にして照明にし、平安時代の、続松(ついまつ)も、

松脂蝋燭、

らしい(世界大百科事典)ともある。「たいまつ」は、本来は、

脂(やに)の多い松材、

の意なので、それを、

続松(ついまつ)、
肥松(こえまつ)、

と言ったらしい(日本大百科全書)ので、「たいまつ」の原形に近いものなのかもしれない。

「たいまつ」は、

手に持って照明としたもの、

をいうので、古くは、手に持つ灯火を、

たび、

と呼び、

秉炬、
手火、

と当てた(いまもタイといっている地方がある)。のちに、

炬火、
焚松、
松明、

などと書いてタイマツとよぶようになった(日本大百科全書)とあるのが分かりやすい。和漢三才図会によると、

タケを心にマツ、クヌギ、スギなどを細く割って作り、もとを鉄の帯で巻く、

あり、

約1mで1時間もつ、

とある。

なお、「たいまつ」の語源は、「たいまつ」で触れたように、

焼(た)き松の音便(大言海)、
タキマツ(焚松)の音便(広辞苑・大辞泉・学研全訳古語辞典)、
タキマツ(焼松・焚松・燔松)の(名語記・日本釈名・類聚名物考・箋注和名抄・俗語考・柴門和語類集・日本語原学=林甕臣・大言海)、

と、ほぼ、

焚く松、

の意となるようである。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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すごろく


存生(ぞんじょう)のとき、かの腰元と、つねづね双六(すごろく)を好きて、うたれしが(諸国百物語)、

とある、

双六、

は、

盤双六、

を指し、

当時の双六は、貴人の遊びで、双六盤に二人が向い合い、相互に筒に入れた二個の采(さい)を振り出し、出た采の目によって、自分の駒を相手の陣営に進める遊び、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、古い形の、

バックギャモンhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%A2%E3%83%B3

の一種で、

盤上に白黒一五個ずつの駒(コマ)を置き、筒から振り出した二つの采(サイ)の目の数によって駒を進め、早く敵陣にはいった方を勝ちとする、

とある(大辞林)。「双六盤」は、

中間に横に1条の間地を設け、縦に左右各12の長方形の地を設けたもの。厚さ4寸、縦8寸、横1尺2寸を一つの規準とするほか、大きさは一定しない、

とある。采筒は、

長さ10センチメートル、

で、二個の采の目には慣用の呼称があり、同じであった場合、

重一(でっち)、
重二(じゅうに)、
朱三(しゅさん)、
朱四(しゅし)、
重五(でっく)、
畳六(じょうろく)、

等々と呼ぶ(日本国語大辞典)とある。日本には、

武烈(ぶれつ)天皇時代(6世紀初め)に朝鮮半島を経由して渡来した、

とも、

遣唐使吉備真備(きびのまきび)が天平七年(735)に唐土からもたらした、

とも言われ、『日本書紀』持統紀に、

三年(689)十二月丙辰、禁断雙六(すごろくをきんだんす)、

と禁令が発せられており、すでに賭博の具として流行していたことされる(日本大百科全書)。

平安時代は、

上手が黒、

江戸時代は、

上手が白とされたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%94%E3%82%8D%E3%81%8Fとある。中古以来、賭博(トバク)として行われることが多かったが、文化文政時代には衰微していた(仝上)。

なお、「とばく」、「ばくち」については前に触れた。

すごろく、

には、由来の異なる、

盤双六、
と、
絵双六、

とがあり、「盤双六」は、

エジプトまたはインドに起こり、中国から奈良時代以前に伝わった、

が(大辞林)、「絵双六」は、盤双六の影響を受けて発達した遊戯で、

紙面を多数に区切って絵を描いたものを用い、数人が順にさいを振って、出た目の数だけ区切りを進み、早く最後の区切り(上がり)に達した者を勝ちとする遊び、

で、

回り双六、
と、
飛び双六、

とがある(大辞泉)が、

かなり早い段階で(賭博の道具でもあった)盤双六とは別箇の発展を遂げていった、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%94%E3%82%8D%E3%81%8F、最古のものとされる浄土双六は、

絵の代わりに仏教の用語や教訓が書かれており、室町時代後期(15世紀後半)には、

浄土双六、

が遊ばれていたとされる。江戸時代の元禄年間には、

道中双六、
野郎双六(芝居双六)、

等々絵入りの双六が遊ばれるようになり、後期になると勧善懲悪や立身出世などのテーマ性を持ったものや浮世絵師による豪華な双六も出現した(仝上)が、近代以降は特に正月の子供の遊びとなる(広辞苑)。

「すごろく」の語源は、

すぐろくの転(岩波古語辞典)、

とあり、

中世以前はスグロクの語形が一般的であったが、のちにスゴロクに転じた、

とある(日本語源大辞典)。

「すぐ」は「双」の古い字音(sung)を写したもの、

とある(日本国語大辞典・岩波古語辞典)が、

唐音ならむ(大言海)、
朝鮮語のサグロクから転訛したもの(日本大百科全書)、

ともある。漢語では、

雙六(そうりく)、

と呼び、

雙陸に同じ、

とある(字源)。

天竺に出て、婆羅塞戯と名づく、支那に入り、初、六箸を投じ、白棊(ゴ)、黒棊、各、六を行(ヤ)る、故に、名とす。又、二つの盤に、六の目の雙び出たるを勝とするより、名ありとも云ふ、

とある(大言海)。『涅槃経(ねはんぎょう)』には、

波羅塞戯(ばらそくぎ)、

とあり(日本大百科全書)、これを嚆矢とするとする説である。

「双(雙)」(ソウ)は、

会意。雙は、「隹(とり)+隹+又(ユウ 手)」で、二羽ひとつがいの鳥を手で持つことを指す。双は、又(て)を二つ書いた略字、

とある(漢字源)。別に、

隹一つが一羽の鳥を手に持つのに対して、二羽の鳥を手で持つことから、一つがいの鳥の意。転じて、対になるものの意に用いる、

とある(角川新字源)。

会意文字です(隹+隹+又)。「2羽の尾の短いずんぐりした小鳥」の象形と「右手」の象形から、2羽の鳥を手にする事を意味し、そこから、「ふたつ」、「ペア(2つで1組のもの)」を意味する「双」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1713.html

「六」は、「六道四生」で触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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三尊


西の方より、三尊(さんぞん)、その外廿五の菩薩たち、笙、篳篥(ひちりき)、管弦にて、光を放って来迎ありければ(諸国百物語)、

の、

三尊、

は、

さんそん、

と訓ませると、

3人の尊ぶべきもの、

つまり、

君と父と師、

の意となる(広辞苑・大言海)。天治字鏡(平安中期も漢和辞書)には、

三尊者、父、師、君也、

和名類聚抄(平安中期)には、

師、徐廣雑記云、人有三尊、非父不生、非師不學、非君不仕、故曰三尊也、

とある。

さんぞん、

と訓ませると、

佛家にて、中尊(ちゅうそん 中央に立つ尊像。左右に脇士を従え、まん中に立っている仏像)の左右の二挟侍(きょうじ 脇侍)との称、

で、

阿弥陀如来と観音、勢至の二菩薩(阿弥陀三尊)、
釈迦如来と文殊、普賢の二菩薩(釈迦三尊)、
薬師如来と日光天、月光天(薬師三尊)、

との如き、とある(大言海・広辞苑)。因みに、上記の、

二十五菩薩、

とは、

仏遣二十五菩薩、常守護行人(「往生要集(984〜85)」)、

と、

阿彌陀仏を念じて極楽往生を願う者を守護し、その臨終の時には迎えに来るという二五の菩薩、

をいい、すなわち、

観音・勢至・薬王・薬上・普賢・法自在・師子吼(ししく)・陀羅尼・虚空蔵・徳蔵・宝蔵・山海慧(さんかいえ)・金蔵・金剛蔵・光明王・華厳王・衆宝王・日照王・月光王(がっこうおう)・三昧王(ざんまいおう)・定(じょう)自在王・大自在王・白象王・大威徳王・無辺身、

の菩薩を指す(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

釈迦三尊(しゃかさんぞん)、

は、

釈迦如来像を中尊とし、その左右に両脇侍(きょうじ)像を配した造像・安置形式、

を称するが、両脇侍として配される尊像の種類は一定ではなく、

文殊菩薩と普賢菩薩、
梵天と帝釈天、
薬王菩薩と薬上菩薩、
金剛手菩薩と蓮華手菩薩、

などの例がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8Aとあるが、日本では左脇侍(向かって右)に騎獅の文殊菩薩、右脇侍(向かって左)に乗象の普賢菩薩を配する例が多い(仝上)。法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像(国宝)の脇侍は寺伝では、

薬王菩薩、
薬上菩薩、

と称しており、興福寺の中金堂の本尊釈迦如来の脇侍像(鎌倉時代、重要文化財)も、

薬王菩薩、
薬上菩薩、

と呼ばれている(仝上)とある。

方広寺の釈迦三尊像は、釈迦如來を中心に、

向かって右に文殊菩薩(左脇侍)、左に普賢菩薩(右脇侍)、

が並ぶ
http://www.houkouji.or.jp/shakasanzonzou.html

阿弥陀三尊(あみださんぞん)、

は、『無量寿経』『観無量寿経』をもとに、

阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する仏像安置形式、

で、観音菩薩は、

阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身、

勢至菩薩は、

「智慧」をあらわす化身、

とされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%B8%89%E5%B0%8Aとある。

薬師三尊(やくしさんぞん)は、

薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E4%B8%89%E5%B0%8A、薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の古例であるとともに、最高傑作の一つとされる(仝上)。

この他に、

左右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を配した

不動三尊(ふどうさんぞん)、

中尊に弥勒如来(弥勒菩薩が釈尊寂滅後5億7千6百万年のちに悟りを開いた姿)、右脇侍(向かって左)大妙相(だいみょうそう)菩薩、左脇侍(向かって右)法苑林(ほうおんりん)菩薩を配した、

弥勒三尊、

等々がある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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火定(かじょう)


汝、早く此の娑婆を立ちさりて、火定(かじょう)に入るべし。その時来迎して、西方へ救ひとらん(諸国百物語)、

とある、

火定(かじょう)、

は、

火中禅定、

ともいい、

自ら焼身して、弥陀の世界にはいること、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

火化、

ともいう(広辞苑)。

「西方」とは、いうまでもなく、

西方浄土、

の意である(仝上)。「禅定」で触れたように、

本来、

禅に同じ、

とある(岩波古語辞典)。「禅」は、

梵語dhyānaの音写、

とされ、その音訳、

禅那の略、

で(大言海)、

静慮、定・禅定などと訳す、

とある(岩波古語辞典)。つまり、「禅定」には、

禅と定、

の意味が重なっているらしく、

「禅」と「定」の合成語、

とあり(精選版日本国語大辞典)、「禅定」は、

dhyānaの訳語であるが、また、dhyāna を音訳した「禅那」を略した「禅」を「定」と合成したもので、「定」はもとsamādhi の訳語で、心を一つの対象に注いで、心の散乱をしずめるのが「定」、その上で、対象を正しくはっきりとらえて考えるのが「禅」、

とある(仝上)。「定」と訳すSamādhiは、「三昧」で触れたように、「三昧」とも訳されたりする。「禅定」は、

心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想、また、その心の状態、

をいい(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

禅定に入る、

という言い方をする(仝上)が、

如来。無礙力無畏禅定解脱三昧諸法皆深成就故。云広大甚深無量(法華義疏)、

と、

散乱する心を統一し、煩悩の境界を離れて、静かに真理を考えること、

である(岩波古語辞典)。

入定(にゅうじょう)三昧、

ともいう(大言海)。「入定」は、

禅定(ぜんじょう)の境地にはいること、

をいう。

これは、大乗仏教の修行法である、

六波羅蜜の第五、

また、

三学(さんがく 戒・定・慧)の一つ、

である(精選版日本国語大辞典)とされ、仏道修行の、

三学、
六波羅蜜、

の一つとされる。「三学(さんがく)」は、

仏道修行者が修すべき三つの基本的な道、

つまり、

戒学(戒学は戒律を護持すること)、
定学(精神を集中して心を散乱させないこと)、
慧学(煩悩を離れ真実を知る智慧を獲得するように努めること)、

をいう。この戒、定、慧の三学は互いに補い合って修すべきものであるとし、

戒あれば慧あり、慧あれば戒あり、

などという(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)。この三学が、大乗仏教では、基本的実践道である六波羅蜜に発展する。

火の中に身を投げ入れて死ぬこと、

とある、

火定、

に対して、

仏道修行者がみずから穴を掘り、土中に埋もれながら入定(にゅうじょう)すること、

を、

土定(どじょう)、

といい、

極楽往生を信じ、みずから海や川に身を投じて死ぬこと、

を、

水定(すいじょう)、

という(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

入定(にゅうじょう)、

は、上述したように、

禅定(ぜんじょう)の境地にはいること、

つまり、

心を統一集中させて、無我の境地にはいること、

だが、その意味を敷衍して、

大師の御入定の様を覗き見奉らせ給へば(「栄花物語(1028〜92頃)」)、

と、

高僧の死、

をもいう(仝上)。

入定、

の対が、

禅定(ぜんじょう)から、もとの平常の状態にもどること、

で、

出定(しゅつじょう)、

という(仝上)。

「火」(漢音呉音カ、唐音コ)は、

象形、火が燃えるさまを描いたもの、

で(漢字源)、転じて「燃える」、「焼く」こと。更に転じて「火災」のこと(角川新字源)とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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かづき


二八ばかりなる女掾iじょろう 十六歳くらいの貴婦人)、薄絹にかぶりを着し(諸国百物語)、

の、

かぶり、

は、

頭に被るもの、

の意(高田衛編・校注『江戸怪談集』)だが、

上には惣鹿子(そうかのこ 全体を鹿子絞(かのこしぼり)にした着物)の小袖を着て、練りのかづきにて(仝上)、

の、

練りのかづき、

の、

練り絹で作った被き物、上から冠る着物、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)のと同じ意味かと思う。

かづき、

は、

かつぎ(かずき)、

ともいい、

「かぶる」意の動詞「かづ(ず)く(被)」の連用形の名詞化、

で(精選版日本国語大辞典)、本来は、

かづき、

で、後世「かつぎ」と転訛した(仝上)。「かづく」は、

かづく(潜)と同根(岩波古語辞典)、
頭突(かぶつ)くの約か、額突ぬかつ)く、頂突(うなづ)くの例(大言海)、

などとあり、

すっぽりと頭に被る、

意である。

つぼ折」で触れたように、「かづき」は、

かづく衣服であるので、

被衣、
被き、

と当て、

女子が外出に頭に被(かづ)く(かぶる)衣服、

のことだが、平安時代からみられ、女子は素顔で外出しない風習があり、衣をかぶったので、

その衣、

を指し、多く単(ひとえ)の衣(きぬ)が便宜的に用いられ、

衣かずき(衣被き・被衣)、
きぬかぶり(衣被り)、

ともよばれた。なお、この衣は腰のあたりで帯で結ぶ場合もあり、ただ手で前につぼねることもあって、これに市女笠(いちめがさ)をかぶった姿を、

壺装束(つぼしようぞく)、

と称したことは「つぼ折」で触れた。

日本では上代において、

おすひ(襲)、

という被り物があり、

上代の上着の一種。長い布を頭からかぶり、全身をおおうように裾(すそ)まで長く垂らしたもの、

で(学研全訳古語辞典)、男も女もともにこれをかぶりはおったことがあったので、「かづき」も、もこうした風習のなごりであろう(世界大百科事典)とある。

元来は、

袿(うちき)、

をそのままかずき、漸次背通りより襟を前に延長して、かずき易いように仕立てるのを常とした(広辞苑)。「袿」については「小袿(こうちき)」で触れた。

室町時代から小袖(こそで)を用いるようになると、これを、

小袖かづき、

といい、武家における婚礼衣装にも用いられた(仝上)とある。近世、宮中でも、小袖形式になり、紺絽(ろ)に白、紺、縹(はなだ)の三色の雁木(がんぎ)形段文様とされ、

御所かづき(被衣)、

と称し、民間の上流階級では、色も文様も自由なものを用い、

町かづき(被衣)、

とよびhttp://www.so-bien.com/kimono/syurui/kazuki.html、衿肩あきを前身頃に9cmほど下げて、頭にかぶりやすいような形に仕立て、着方は、頭の両脇を内側から手で支えた(仝上)。ただ、慶安四年(1651)、浪人がこの、

被衣姿、

で老中を暗殺しようとした『由井正雪の乱』以降、宮中以外の女性のかぶり物は禁止され、これにより、結髪と髪飾りが発達した(仝上)とある。しかし、『昔々物語』(元禄二年(1689)、『八十翁疇昔話』)には、

明暦の頃まで針妙腰元かつぎを戴きありきしに、万治の頃より江戸中かづき透(すき)と止み、酉年大火事以後より此事断絶に及びしなり、

とあり、江戸時代後期の随筆『嬉遊笑覧』には、

昔は後世の如くかつぎとて別につくりしにはあらずと見ゆ。もと常服を着たりしたるべし、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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二八ばかりなる女掾iじょろう)、薄絹にかぶりを着し、はなやかに出で立ち(諸国百物語)、
年の頃十八、九ばかりなる、女掾iじょろう)、肌には白き小袖、上には惣鹿子(そうかのこ 全体を鹿子絞(かのこしぼり)にした着物)の小袖を着て、練りのかづきにて(仝上)、

の、

二八ばかりなる女掾A

は、

十六歳くらいの貴婦人、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「女掾vは、

じょうろう、

とも訓ませるが、この場合は、

上臈女房、
上女房、

の意とみていい。「女掾vの「掾vは、「らふたく」で触れたように、

臘、

が正字とあり(字源)、

掾A
臈、

は俗字(仝上・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%87%88)で、

唐代、7、8世紀の『干禄字書(かんろくじしょ)』に、

臘、俗作掾A

とある。「臘」は、古代中国の、

冬至後、第三戌の日の祭、転じて年の意となる、

とある(大言海)。それを、

臘祭(蜡祭)、

といい、

その年に生じた百物を並べまつって年を送る祭、

とあり、

臘月(ろうげつ)、

と、

臘祭は年末に行ふ、故に陰暦十二月の異名、

でもある(漢字源)。「臘」は、

年の意、

に転じて、

我生五十有七矣、僧臘方十二(太平廣紀)、

とあるように、

僧臘(そうろう)、
法臘(ほうろう)、
夏臘(げろう)、
戒臘(かいろう)、

などと、

僧の得度以後の年数を数ふる、

にいう(字源・漢字源・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%98)。

出家する者、髪を剃り受戒してより、一夏九旬の閨A安居(あんご)勤行(ごんぎょう)の経るを云ふ、これを、年掾A法掾A僧掾A戒揩ネどといふ、僧の位は受戒後の揩フ數に因りて次第す、之を搦氈iらふじ)と云ふ(僧の歳を記するに、俗年幾許、法臘幾許と云ふ、臘は安居の功(安居の功は、陰暦4月16日から7月15日までの3か月間の修行、この期間を一夏(いちげ)という)より數ふ)、又、在俗の人にも、年功を積むことに称ふ。極掾iきょくろう・ごくろう)、上掾A中掾A下揩ニ云ふは、上位、中位、下位と云ふが如し、

とあり(大言海・デジタル大辞泉)、そこから、身分の高きを、

上掾A

といい、さらに、転じて、

女房の通称、

として、

二位、三位の典侍、

をいい、公卿の女を、

小上掾A

と云ふ(大言海)とある。「女房」は、

「房」は部屋、

の意で、

宮中・院中に仕える女官の賜っている部屋、

の意味から、

一房を賜っている高位の女官、

で、

上掾E中掾E下揩フ三階級、

がある。その意味で、「掾vは、年功を積んで得た、

序列、
階級、
地位、

の意味に転じ、

すぐれた御揩ヌもに、かやうの事はたへぬにやありけむ(源氏物語)、

と、

年功のある人、

の意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。

だから、

上臈女房、

の意である「女掾vは、

身分や地位の高い貴婦人、

の意となる。

「上掾v(じゃうらふ・じょうろう)は、元来、

僧侶の夏安居(げあんご)修行の回数を数える、

「掾vから、

修行の年数を多く積んだ僧、年功を積んだ高僧、

の意から、

右衛門督殿(うゑもんのかみどの)の上(かみ)に着き給ふ上揩ヘ一人もおはせざりつるものを(平治物語)、

と、

地位・身分の高い人、

の意に転じ、

あるなかの上揩ネれど、おほやけに世をしづめ、久しう仕うまつりたる人の女なり(宇津保物語)、

と、

上女房の略、
身分の高い女性、貴婦人、

の意となり、具体的には、

二位・三位の典侍(ないしのすけ)や大臣の女、

を指し(世界大百科事典)、江戸時代は、

大奥に仕えた上級の御殿女中をさす職名、

となった(大辞泉)が、

わかい上揩フおやさしい、年寄りと思し召し、嫁子もならぬ介抱(浄瑠璃「冥途の飛脚」)、

と、単に、

女性、特に、若い女性、

を指しても使い、はては、

われあまた上揩持ちて候ふ中に(謡曲「班女」)、

と、

遊女、
女郎、

の意でも使う(広辞苑・大辞泉)。この場合、

女郎(ぢょらう)、

と当てるのではないか。この「女郎」は、

上掾iじゃうらふ)

女掾iじゃうらふ・じょらふ)、

上郎(じょらふ)

女郎(ぢょらう)、

と転訛したもので、

ジョロー、

の発音は江戸初期には行われており、遊女の

女郎、

も、貴族の、

上掾A

も、一時期、

ジョーロー、
ジョロー、

の両方が使われ(日本語源大辞典)、「上掾vから「女郎」に到る過渡期には、

内裏上掾A

を、

内裏女郎、

と表記した例もある(仝上)。「女郎」の表記が定着したのは江戸初期である(仝上)。だから「女郎」にも、

日の目も遂に身給わぬ女郎達や御端(はした)也(西鶴「好色一代男」)、

と、

身分の高い女性、

の意で使う例がある(岩波古語辞典)。この「女郎」の語源は、

女童(メハラハ)をメロと約して、女郎の字を当てて、音読セル語ナラム(大言海)、
メラ、メラハ、ワラハなどに当てた女郎の字音ヂョラウから(俚言集覧)、

とあるところから見ると、

女郎、

は、「女児」を指した語のようである。

「中掾iちゅうろふ)」は、

臈(修行の年数)の多少によって上・中・下に分けた、中の位の僧、

の意だが、

官位の中位の者、

を指し、具体的には、

中掾A内侍(ないし 内侍司(ないしのつかさ)の女官。特に掌侍(ないしのじょう)の称)外不着織物類也、是昔號命婦、侍臣女已下也、諸太夫両家子、醫陰陽道等猶號中掾i禁秘御抄)、

と、

掌侍の称、

で、

小上揩フ下、下揩フ上にあるもの、即ち、内侍、にあらざる侍臣已下の女をいう、

とある(大言海)のは、

上揩ヘ公卿の家の娘がなるのが例であり、稀に摂家出身の女房が存在した場合には大上掾iおおじょうろう)と呼ばれ、その他の上揩ナある小上掾iこじょうろう)とは区別された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%EF%A8%9Fところによる。中揩ヘ五位以上、下揩ヘ六位官人か社家(しゃけ 代々特定神社の奉祀を世襲してきた家(氏族)のこと)出身の女性が就くこととされていた(仝上)。

なお、「中掾vは、江戸時代、

江戸幕府の大奥の女官、武家大名の女中、

を指すようになる(広辞苑)。

「下掾iげらふ)」

臈(修行の年数)が少ない僧、

の本来の意から、

おなじ程、それより下揩フ更衣たちは、まして安からず(源氏物語)、

と、

年功を積むことが浅くて地位の低いこと、また、その人、

を指したり、

下搶蘭[(げろうにょうぼう)の略、

で使い、下位の意味から、

下揩ネれども都ほとりといふ事なれば(大鏡)、

と、

下衆、
下種、
下郎、

の意で使うに至る(岩波古語辞典)。

「臈(掾E臘)」(ロウ)は、「らふたく」で触れたように、

会意兼形声。巤は、動物のむらがりはえた頭上の毛の総称で、多く集まる意を含む。臘はそれを音符とし、肉を添えた字で、百物を集めてまつる感謝祭である、

とある(漢字源)。

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篳篥


西の方より、三尊(さんぞん)、その外廿五の菩薩たち、笙、篳篥(ひちりき)、管弦にて、光を放って来迎ありければ(諸国百物語)、

の、

笙、篳篥(ひちりき)、管弦、

は、

笙、篳篥(ひちりき)とも古代の吹奏楽器、管弦は絃楽器、管楽器の総称、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「管楽器」としては、

竜笛(りゅうてき)、
高麗笛(こまぶえ)、
神楽笛(かぐらぶえ)

等々の、

笛(ふえ)、

の他、

篳篥(ひちりき)、
笙(しょう)、
古代尺八(雅楽尺八)、

などがあり、「絃楽器」としては、

箏(そう・しやう)、

があるhttps://www.geidankyo.or.jp/12kaden/entertainments/instrument.html

「箏」は、

箏の琴(しやうのこと)、

とよばれる(シヤウは呉音、サウノコトとも)、

十三絃琴、

である(岩波古語辞典)。

「笙(しょう)」は、

笙の笛、

ともいい(シヤウは呉音、サウノフエとも)、

いい(岩波古語辞典)、

その形が翼を立てて休んでいる鳳凰に見立てられ、別名、

鳳笙(ほうしょう)、

とも呼ばれhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%99

木製椀型の頭かしらの周縁に、長短17本の竹管を環状に立て、うち2本は無音、他の15本それぞれの管の外側または内側に指孔、管の脚端に金属製の簧(した)がある。頭にある吹口から吹き、または吸って鳴らす、

もので、

単音で奏する本吹の法(催馬楽さいばらや朗詠の伴奏などに用いる)、
と、
6音または5音ずつ同時に鳴らす合竹あいたけの法(唐楽の楽曲に用いる)、

とがある(広辞苑)。「笙」(呉音ショウ、漢音セイ、唐音ソウ)は、

鼓瑟吹笙、吹笙鼓簧(詩経)、

とあるように、

この字も楽器も、奈良時代、雅楽とともに伝わってきたものである(広辞苑)。

「篳篥(ひちりき)」は、

推古朝末期に中国より伝来、

し(広辞苑)、

大小の篳篥があった、

とされるが、平安中期からは、小篳篥のみ奏され(仝上)、

小は長さ6寸(約18.2センチメートル)の竹管の表に7孔、裏に2孔をあけ、その間に樺かばの皮を巻き、上端に蘆製の舌(蘆舌ろぜつ)を挿入する。舌の中途に籐でつくった帯状の責せめをはめて、音色・音量を調節し、縦にして吹く、

とある(仝上)。雅楽の、

主要旋律楽器、

で、初め唐楽、のち高麗楽および東遊などの日本古来の楽舞や催馬楽・朗詠に至る各種の歌曲の伴奏にも用いられる(仝上)。原名は、

悲篥、

とあり(大言海)、

其聲、悲壮なれば名とすと云ふ、

とある(仝上)。

した」で触れたことだが、雅楽器の笙(しやう)・篳篥(ひちりき)などの竹管のそれぞれのもとにつけられている廬舌(ろぜつ)、つまりリードと呼ぶ吹き口から息を吐きまた吸って、振動させる、

のを、特に、

簧の字をしたとよむ、笙篳篥に通ずる歟(「塵袋(1264‐88頃)」)、
宇殿の芦名物にて、ひちりきの舌にもちゆ(「謡曲拾葉抄(1741)」)、

などとあるように、

簧、

と当て(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、和名類聚抄(平安中期)に、

簧、俗云之太、

類聚名義抄(11〜12世紀)に、

簧、シタ、笙舌、

色葉字類抄(1177〜81)に、

簧、シタ、中舌也、於管頭、横横施其中也、

とある。

「篳」(漢音ヒツ、呉音ヒツ)は、

会意兼形声。「竹+音符畢(ヒツ びっしりと締めつける、とじる)」

とある(漢字源)。「葦簀(よしず)」の意味で、「篳篥」の、

乾燥した蘆(葦、あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む、

という製法https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%B3%E7%AF%A5を考えるとうなづける。

「篥」(漢音リツ、呉音リチ、慣用リツ)は、

会意兼形声。「竹+音符栗(リツ 肌を刺す栗の毬)」、

とある(漢字源)が、「篳篥」にしか使われていない(仝上・字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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行水


もはや帰り候。女体にて身けがれて有り、行水(ぎょうずい)させ給へ(諸国百物語)、

の、

行水、

とは、

行水を使う、
カラスの行水、

と使う、

暑中などに、湯や水を入れたたらいに入って、身体の汗を流し去ること、

という意(広辞苑)だが、

行水(こうすい)、

は、

天下之言性也、則故而已矣。故者以利爲本。所惡於智者、爲其鑿也。如智者若禹之行水也、則無惡於智矣。禹之行水也、行其所無事也(孟子)

と、

水をやる、水を治め通ずる、

意(字源)や、

輒使行水(梁・高僧伝)、

と、

神仏に祈る時。水を浴びて身を浄める、

意(仝上)の漢語である。

「鉢から手を離して」を意味する古代インド言語のパーリー語を漢訳する際、

手自斟酌。食訖行水(自ら手に水を汲み、食事の後に終えて手を洗うこと)、

と訳され、

行水、

の字が当てられ(語源由来辞典)、ここから、潔斎のために清水で体を洗い清める行の意味で用いられ(仝上)、

修行人の行(ギヤウ)をするに、身を清むることより起これる語なり、水は湯水なり、水風呂も、湯水風呂なり、

となり(大言海)、

朝行水、念誦(ねんじゅ)の後、角殿へ参る(明月記)、
…講始也、……先是、行水、装束了(仝上)、
先帝をば、法皇になし奉るべしとて、……毎朝の御行水をめして(太平記)、

等々と、

神事や仏事などの前に、きよらかな水で身体を清めること、

つまり、

潔斎(けっさい)するに湯浴みすること、

の意で使い、転じて、

ただ湯を盥に盛りて、身の汗などを洗い拭ふこと、

の意となる(仝上)。湯ではなく水の行水を、

みづきぎゃうずゐ、

という(仝上)らしい。

「行水」は、古くは、

宗教的な意味から、穢(けがれ)をはらうため水浴をしてこれを禊(みそぎ みそそぎ)といい、行を行う前提としての精神的浄化行為であった、

とある(日本大百科全書)。これが祭事前の潔斎となり、平安時代には、

行水、

とよび、滝に打たれることなどもその一種であった(仝上)。単に、手を洗い、口をすすぐのみでも、

行水、

と称されることもあったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%B0%B4ともある。中世には現代の意味が生じ、江戸時代以降、一般家庭でもたらいなどに湯や水を入れて沐浴をすることが普及し、水上生活者のために小舟に据風呂(ぶろ)を設けた、

行水船(ぎょうずいぶね)、

も現れた(仝上・広辞苑)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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牛頭馬頭(ごずめず)


如来の庭(誓願時阿弥陀堂の前の庭)にて、とし四十ばかりなる女を、牛頭馬頭(ごずめず)の鬼、火の車より引き下ろして、いろいろ呵責して、又、車に乗せ(諸国百物語)、

の、

牛頭馬頭、

は、

地獄に居る牛頭、馬頭の鬼、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「火の車」は「火車(かしゃ)」で触れたように、

火が燃えている車。生前に悪事をした亡者を乗せて地獄に運ぶ、

という。

「牛頭馬頭」の、

ごづめづ、

は、

何れも、字音の呉音なり、

とある(大言海・岩波古語辞典)。

「牛頭馬頭」は、『大智度論(だいちどろん)』『大仏頂首楞厳経(大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経 だいぶっちょうしゅりょうごんきょう)』、『十王経(じゅうおうぎょう)』などが出典で、牛頭は、

梵語gośīrṣa(ゴーシールシャ)、

馬頭は、

梵語aśvaśīrṣa(アシュヴァシールシャ)、

の漢訳語。

牛頭鬼馬頭鬼(ごずきめずき)、
牛頭獄卒馬頭羅刹(ごずごくそつめずらせつ)、

とも表記され、

中国では、

牛頭馬面、

ともいい(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E9%A6%AC%E9%A0%AD)、

牛頭馬頭等諸獄卒、手執器杖、駆令入山間(「往生要集(984〜5)」)、

と、

手に鉄叉を持って罪人を突いたり焼いたりする地獄にいるとされる、最下級の獄卒(ごくそつ 冥卒 地獄で罪人を責めさいなむ鬼)、

で(世界大百科事典)、

頭が牛や馬の形で、からだは人間の形をしている、

ことからいうが、また、

地獄に落ちて、牛あるいは馬の頭の形をしている罪人、

をいうとするもの(阿毘曇論)もある(仝上)。「牛頭」と「馬頭」は、

衆合地獄、

と呼ばれる場所にいるとされるhttps://biz.trans-suite.jp/19131。仏教では、地獄には八相になる八大(八熱)地獄があり、その周りにはさらに16の小さな地獄があるとし、その十六小地獄のひとつに、

衆合地獄、

があり、その地獄には、

殺生や盗み、邪淫(じゃいん)の罪を犯した者だけが落ちる、

という。その衆合地獄で、

「牛頭」は手に棒を持ち、「馬頭」は「叉」(さ)と呼ばれる武器の一種を持って罪人を山へと追い立てます。するとその山と山の距離が縮まっていき、最後には山同士がくっつき、罪人たちは山に挟まれて骨が砕かれ血の海となる、

とある(仝上)。「八熱地獄」の「衆合地獄」については「衆合叫喚」で触れた。なお、

牛頭馬頭、

は、それをメタファに、

地獄の獄卒のように情け容赦のない人のこと、

を指す四字熟語になっている(学研 四字熟語辞典)。

ただ、「鬼」は、

鬼と言ふ語は、仏教の羅卒と混同して、牛頭ゴヅ・馬頭メヅの様に想像せられてしまうた(折口信夫「鬼の話」)、

とあるように、「」で触れたことだが、本来、

隠の古い字音onに母音iを添えた語。ボニ(盆)・ラニ(蘭)の類、

で、(岩波古語辞典)、

隠(おに)で、姿が見えない、

意(広辞苑)となり、和名類聚抄(平安中期)に、

鬼、和名於爾(おに)、或説云、穏字、音於爾訛也、鬼物隠而不欲顕形、故俗呼曰隠也、人死魂神也、

とあり、それを受けて、

和名抄二十一「四声字苑云、鬼(キ)、於爾、或説云、穏(オヌノ)字、音於爾(オニノ)訛也、鬼物隠而不欲顕形、故俗呼曰隠也、人死魂神也」トアリ、是レ支那ニテ、鬼(キ)ト云フモノノ釋ニテ、人ノ幽霊(和名抄ニ「鬼火 於邇比」トアル、是レナリ)即チ、古語ニ、みたま、又ハ、ものト云フモノナリ、然ルニ又、易経、下経、睽卦ニ、「戴鬼一車」疏「鬼魅盈車、怪異之甚也」、史記、五帝紀ニ、「魑魅」註「人面、獣身、四足、好感人」、論衡、訂鬼編ニ、「鬼者、老物之精者」ナドアルヨリ、恐ルベキモノノ意ニ移シタルナラム。おにハ、中古ニ出来シ語トオボシ。神代記ナドニ、鬼(オニ)ト訓ジタルハ、追記ナリ、

とあり(大言海)、

恐ろしい形をした怪物。オニということばが文献にあらわれるのは平安時代に入ってからで、奈良時代の万葉集では、「鬼」の字をモノと読ませている。モノは直接いうことを避けなければならない超自然的な存在であるのに対して、オニは本来形を見せないものであったが、後に異類異形の恐ろしい怪物として想像された。それには、仏教・陰陽道における獄卒鬼・邪鬼の像が強く影響していると思われる、

とある(岩波古語辞典)。漢字「鬼」の字は、

大きなまるい頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字、

で、中国語では、

おぼろげなかたちをしてこの世に現れる亡霊、

つまりは、

亡霊、

を指す。『漢字源』には、

中国では、魂がからだを離れてさまようと考え、三国・六朝以降は泰山の地に鬼の世界(冥界)があると信じられた、

とあり(漢字源)、やはり、仏教の影響で、餓鬼のイメージになっていった、と見られる。

仏教の思想に基づく地獄の獄卒は、六朝以後の中国の小説類にも散見され、日本でも地獄の登場する説話や、地獄の様子を描いた『六道輪廻図』、『六道道』、『十王図』、『地獄草紙』などの絵画にその姿が描かれ、馴染みのイメージが形成されていったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E9%A6%AC%E9%A0%ADようである。

なお、剣道用語に、

牛頭馬頭(ごづめづ)、

があり、

牛の頭は大きく馬の頭は小さい、

意で、牛頭馬頭とは、

大技小技のこと、

で、剣道では、

大技だけでもいけないし、小技ばかりに偏しても駄目である。大技小技を織りまぜてやれという教え、

とある(剣道用語辞典)。意図はわかるが、本来の意味とはかけ離れていてこじつけに見える。

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いらだかの数珠


僧、これを見て、「ぜひ真の姿を顕さずば、いでいて目に物みせん」とて、いらだかの数珠にて叩き給へば(諸国百物語)、

とある、

いらだかの数珠、

は、

玉が角ばっている数珠、木製、揉むと高い音を発する、修験僧の持つ物、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

いらだかの数珠、

は、

いらたかの数珠、

ともいい、

苛高数珠、

と当て、

山臥大に腹を立て……澳(おき)行く船に立ち向かって、いらたか誦珠(シュス)をさらさらと押揉(おしもみ)て(太平記)、

と、

いらたか誦珠、

とも当て、「数珠」は、

珠数、

とも当て、

念珠(ねんじゅ)、

とも言い、

いらたか念珠、

ともいう。約して、

いらたかずず、
いらたか、

ともいう(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。また、「いらたか」は、

最多角、
伊良太加、
刺高、

などとも表記する(仝上)。

そろばんの玉のように平たく、かどが高くて、粒の大きい玉を連ねた数珠。修験者が用いるもので、もむと高い音がする、

とあり(仝上)、

通常は、数珠をもむときには音をたててはならないとされているが、修験道では悪魔祓いの意味で、読経や祈禱の際に、この数珠を両手で激しく上下にもんで音をたてる、

とある(世界大百科事典)。

「いらたか」は、

角が多い意(仝上)
高くかどばった意(精選版日本国語大辞典)、

とされるが、

もみ摺る音の高く聞こえることに由来する、

とする説(世界大百科事典)もある。しかし、これは後付け解釈ではないか。

「いらだか」は、

苛高、
刺高、

と当て、

いらたか、

とも訓ませる(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)。

イラはイラ(刺)と同根、

とある。「いら」で触れたように、「いら」は、

刺(広辞苑・大言海・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)、
莿(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

などと当て、

とげ、

の意と、

苛、

と当て、

苛立つ、
いらいら、
いらつく、

等々と使う、

かどのあるさま、
いらいらするたま、
甚だしいさま、

の意とがある(広辞苑)。この「いら(苛)」は、

形容詞、または、その語幹や派生語の上に付いて、角張ったさま、また、はなはだしいさま、

を表わし、

いらくさし、
いらひどい、
いらたか、

等々とつかわれる(精選版日本国語大辞典)とあり、

イラカ(甍)・イラチ・イラナシ・イララゲ(苛)などの語幹、

ともある(岩波古語辞典)ので、

苛、

と当てる「いら」は、

莿、
刺、

とあてる「いら」からきているものと思われる。

「いら」は多くの語を派生し、動詞として「いらつ」「いらだつ」「いらつく」「いららぐ」、形容詞として「いらいらし」「いらなし」、副詞として「いらいら」「いらくら」などがある、

とある(日本語源大辞典)。この「いら」の語源には、

イガと音通(和訓栞)、
イラは刺す義(南方方言史攷=伊波普猷)、
イタ(痛)の転語(言元梯)、

等々の諸説がある。ただ、

刺刺、

と当てる、

いらら、

という言葉がある(大言海)。平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)に、

木乃伊良良、

とあり、

草木の刺、

の状態を示す「擬態語」と考えると、

いら、

はそれが由来と考えていい。

『字鏡』には、

莿、木芒、伊良、

とある。「芒」(ぼう)は、

のぎ、

で、

穀物の先端、草木のとげ、けさき、

の意である(漢字源)。

どう考えても、「いら」の由来を「揉む音」とするのは無理筋ではあるまいか。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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けうがる


武家に宮仕へさする上は、かねて覚悟の事なれども、かやうにけうがる責め様あるべき(諸国百物語)、

とある、

けうがる、

は、

残忍で面白半分な、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「けうがる」は、

希有がる、

とあてる、

けうがる、

かと思うが、この「けう」は、

希有、

と当て、

千歳希有(漢書・王莽傳)、

とある、漢語で、

きいう、
けう、

で、

稀有、

とも同義である(字源)。それをそのまま、

「琉球風炉に、チンカラ、なぞといふがありヤス」「ハテけうな名じゃな」(洒落本「文選臥坐(1790)」)、

と、

めったにないこと、
珍しいこと、

の意で使うが、

是に希有の想を発して禅師に白して言はく(「日本霊異記(810〜24)」)、
いとあやしうけうのことをなんみ給へし(源氏物語)、

と、

不思議なこと、

の意や、

射手ども、けうのにぞ言ひあへりける(平家物語)、

と、

めったにないほど素晴らしいこと、

の意や、

御房は希有(けうの)事云ふ者かな(「今昔物語(1120頃)」)、

と、逆に、

(多く悪い事について)意外であること、とんでもないこと、

の意で使い、

正俊けうにしてそこをば遁れて鞍馬の奥に逃げ籠りたりけるが(平家物語)、

と、

やっとのことで、
九死に一生を得て、

と、かろうじて危地を脱した場合にも使う。この「けう」は、

「け」「う」は「希」「有」の呉音、

であるが、訛って、

けぶ、

ともいい、漢音の、

きゆう、

とも訓ます。「けう」は、

仏典を通じて受け入れられた語、

と見られるが、中世には、上述のように、「希有にして」「希有の命を生きる」のような慣用句が生じて、九死に一生を得るの意味で、軍記物語に多く用いられる(精選版日本国語大辞典)。

「けうがる」の、

「がる」は接尾語、

で、「希有」の意味から、

そこより水湧(わ)き出(い)づ。けうがりて、方二、三尺深さ一尺余ばかり掘りたれば(古本説話集)、

と、

珍しいことだと思う、
不思議に思う、

の意で使うが、室町時代、

きょうがる、

と発音されるに至り、

興がる、

と混同されて、

判官南都へ忍び御出ある事、けうがる風情(ふぜい)にて通らんとする者あり(義経記)、

と、

風変わりで興味深く感じる、
興味を覚える、

意で使うようになる(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。その意味で、

残忍で面白半分な、

という上記の訳注は、かなりの意訳になる。

興がる、

は、

興がありの約まれる語なるべし、やうがりと云ふ語もあり、仮名本に多く、ケウガリと書けり(大言海)、
「興が有る」が変化して一語化したもの(精選版日本国語大辞典)、

などとあり、「興」を、

古き仮名文に、多くは、

けう、

と記し、だから、「きょうがる」も、

けうがる、

と表記する(大言海)ことからきた混同のように思える。

ただ、「興がる」は、

お前に参りて恭敬礼拝して見下ろせば、この滝は様かる滝の、けうかる滝の水(「梁塵秘抄(1179頃)」)、
けうがるかな。無証文事論ずるやうやはある(「明月記」建暦二年(1212)一一月一五日)、

と、

普通の在り方と異なる、
異常である、
風変わりである、
奇妙である、
常軌を逸している、
また、
予想と違う。意外である。普通と違っているので面白かったりあきれたりするさまである、

意や、

あやしがりて、すこしばかりかひほりて見に、そこよりみづわきいづ。けうがりて、ほう二三尺ふかさ一さくよばかりほりたれば(「古本説話集(1130頃)」)、

と、

不思議に思う、
あやしがる、

意や、

それそれ又ひかりたるはとおどしかけて興がりけるに(浮世草子・「武道伝来記(1687)」)、

と、

興味深く感じた気持を態度などに表わす、
おもしろがる、

意などで使うなど、

見なれぬことに面白がったり、意外さや不審さを抱いたりする、

意に用い、中世から近世初めには、

常識に反した突飛な言動を指して、

も用い、近世では、

とんでもないことの意で常軌を逸したことをなじる気持で使う、

例が多い(精選版日本国語大辞典)とあり、意味の上からも、表記の上からも、

希有がる、
と、
興がる、

とは重なるところが多いようである。

「希」(漢音キ、呉音ケ)は、

会意文字。「メ二つ(まじわる)+巾(ぬの)」で、細かく交差して織った布。すきまがほとんどないことから、微小で少ない意となり、またその小さいすきまを通して何かを求める意になった、

とある(漢字源)。別に、多少の異同はあるが、

会意。巾+爻(まじわる)で、目を細かく織った布を意味。隙間がほとんどないこと、即ち、「まれ」であることを意味。「のぞむ」は、めったにないことをこいねがうことから、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%8C

会意。布と、(㐅は省略形。織りめ)とから成り、細かい織りめ、ひいて微少、「まれ」の意を表す。借りて「こいねがう」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(爻+布)。「織り目」の象形と「頭に巻く布きれにひもをつけて帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)から、織り目が少ないを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「まれ」を意味する「希」という漢字が成り立ちました。また、「祈(キ)」に通じ(同じ読みを持つ「祈」と同じ意味を持つようになって)、「もとめる」の意味も表すようになりました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji659.htmlある。

なお、「興」(漢音キョウ、呉音コウ)は、「不興」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)

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卒都婆の杖


夜道旅道には、迷ひの物(さまよう霊や変化)に逢はぬためとて、卒都婆の杖をつねづね拵へ持ちけるが(諸国百物語)、

にある、

卒都婆の杖、

は、

卒都婆は、墓の後ろに供養のため、経文を書いて立てる長い板、「一見卒都婆、永離三悪通」(謡曲「卒都婆小町」)。卒都婆の杖は、とくにあつらえて、そのような経文を書き入れた六角棒、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。あまり辞書に載らないが、修行僧や、修験者が持つ杖を、

錫杖(しゃくじょう)、

といい、また四国八十八カ所などの巡礼の遍路が持つ杖を、

金剛杖(こんごうじょう、こんごうづえ)、
または、
遍路杖(へんろじょう)、

という。杖は、

卒都婆、

の意味に加え、

弘法大師(空海)の身代り、

との意味https://www.weblio.jp/content/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%9D%96も持つという。確かに、遍路の白衣が死に装束とされたように、杖も、

道中で行き倒れたときに「墓標」とする意味、

があったhttps://ohenro.konenki-iyashi.com/category3/entry44.htmlとある。

その名残が、金剛杖の上部にあり、

四角に削られた4つの面には「梵字」で「空・風・火・水・地」の5文字、

が書かれており、

五輪の塔、

を表しているもので、墓標に掲げられた文字と同じ意味(仝上)である。

卒都婆、

は、

卒塔婆、
率塔婆、
卒堵婆
窣堵婆、

などとも表記し(広辞苑・大言海)、

そとうば、
そとば、

と訓ませる(仝上)が、

梵語stpaの音訳、

で、

藪斗婆、
窣都婆、

とも音写され、

高顕の義(大言海)、
頭の頂、髪の房などの義(日本国語大辞典)、

などとされ、

廟、
方墳、
円塚、
霊廟、
墳陵、

などと意訳する(大言海・日本国語大辞典)。本来、

仏舎利を安置したり、供養・報恩をしたりするために、土石や塼(せん)を積み、あるいは木材を組み合わせて造られた築造物、

つまり、

塔、

の意で、

塔婆、

ともいう(仝上)。それが転じて、

供養のため墓の後ろに立てる細長い板、

を指し、

板塔婆(いたとうば、いたとば)、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%A1%94%E5%A9%86、上部は、

五輪卒都婆(五輪塔)、

を模して上部が塔状になっており、上から、

空(宝珠)・風(半円)・火(三角)・水(円)・地(四角)の五大、

を表す(仝上)とある。

「五輪卒都婆」は、

五輪塔、
五輪の石、
五輪の石塔、

ともいい、

卒塔婆の一つ、

だが、平安中期ごろ密教で創始された塔形で、

石などで、方・円・三角・半月・団(如意珠 にょいしゅ)の五つの形をつくり、それぞれ地・水・火・風・空の五輪(五大)にあて、下から積みあげた形のもの。多くはその表面に五大の種子(しゅじ)、すなわち梵字(ぼんじ)を刻む。これはもと大日法身の形相を表示したもの、

とある(精選版日本国語大辞典)。

仏陀の骨や髪または一般に聖遺物をまつるために土石を椀形に盛り、あるいは煉瓦を積んで作った建造物、

である、

梵語stūpa、

の、

塔(とう)、

は、

卒塔婆、
塔婆、

ともいうが、中国に伝えられて楼閣建築と結びつき、独特の木造・塼せん造などの層塔が成立し、日本では、

木造塔、

が多く、三重・五重の層塔や多宝塔・根本大塔などがある。地中や地表面上の仏舎利収容部、心柱、頂上の相輪に本来の塔の名残が見られる(広辞苑)とある。

なお、卒塔婆を使った死者供養の古層と言える形態に、枝や葉のついた生木を依代として墓前に刺す、

梢付塔婆(うれつきとうば)、
葉付塔婆、

などと呼ばれる風習があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%A1%94%E5%A9%86。これらは神式葬祭に使われる、

玉串の原型、

とも言われ、12世紀に密教と真言宗の教えが習合し、五輪塔を墓碑や供養塔として建てる風習が現れた。『餓鬼草紙』や『一遍聖絵』などには林立する木製の五輪卒塔婆が描かれている(仝上)。

日本紀略(にほんきりゃく 平安時代に編纂された歴史書)康保(こうほう)四年(967)に、

五畿内幷伊賀伊勢等廿六箇國、可立率都婆六十基之由被下宣旨、高七尺、径八寸、

とあり、同永祚永祚(えいそ)元年(989)には、

摂政(兼家)於吉田、被立千本率都婆、

とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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法華経五の巻


右の手に水晶の珠数をつまぐり、左の手に法花経の五の巻を持ち、すでに広庭に出でられければ(諸国百物語)、

にある

法花経五の巻、

は、

法華経巻五は、「提婆達多品(だいばだったぼん)」。竜王の娘が、その徳行のゆえに菩提をとげる話が載り、女人成仏を説く条として古来有名、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「五の巻」は、

第五の巻(だいごのまき)、
五巻(ごのまき)、

とも表記し、この巻には、

悪逆な提婆達多(だいばだった)の成仏の予言や八歳の龍女が成仏することを説いて、法華経の広大な功徳を讚える提婆品、

が収められ(精選版日本国語大辞典)、この「提婆品(だいばぼん)」は、

悪人成仏、
女人成仏、

の根拠となる(岩波古語辞典)ので、

わづかに請じ寄せ給し法師してもよみ講せさせ給し提婆品、最勝王経、ここにして日々にかの御ためによません(宇津保物語970〜999頃)」)、

などと、

特に重視され、法華八講などには第五巻を講ずる日は、

五巻日(ごかんのひ)、

といって薪行道(たきぎのぎょうどう)が行なわれる(精選版日本国語大辞典)とある。この日は、

法華八講では3日目、
三十講では13日目、

にあたり、悪人成仏、女人成仏を説く提婆品(だいばぼん)が講説され、特別な供養が行われる(デジタル大辞泉)。「法華八講」は、

法華経八巻を八座に分けて、一日を朝・夕の二座に分け、一度に一巻ずつ修し、四日間で講じる法会、

で(仝上)、起源は中国だが、日本では延暦一五年(796)年に奈良の石淵寺の勤操が4日間『法華経』を講義したのを最初とされる(ブリタニカ国際大百科事典)。さらに、

開経(導入)の無量義経、結経(補足)の観普賢経(かんふげんきよう)を加えて10座とした講讃が、

法華十講、

法華経28品に開結2経を加えて30日間に講ずる講讃が、

法華三十講、

となる(世界大百科事典)。「提婆品(だいばぼん・だいばほん)」は、

提婆達多品(だいばだったぼん)の略、

法華経二十八品中の第十二品。「妙法蓮華経」巻五の最初の品名。提婆達多や龍女の成仏を説くことにより、法華経の中でも功徳の勝れた一章として重視されている、

とある(仝上)。この、

提婆達多(だいばだった)、

は、

原名デーバダッタDevadattaの音写語、

で、略して、

提婆(だいば)、
また、
調達(じょうだつ)、
あるいは、
天授(てんじゅ)、

と訳す。ゴータマ・ブッダ(釈迦)と同時代の仏教の異端者。で、ブッダの従兄弟(いとこ)または義兄弟といわれ、出家してブッダの弟子となったが、のちブッダに反逆し、仏教教団の分裂を図った。マガダ国のアジャータシャトル(阿闍世 あじゃせ)王子を唆し、父王を殺させて王位につかせ、自らはブッダを殺害しようとしたが失敗し、やがて悶死(もんし)した、

とされ(日本大百科全書)仏典では、

生きながら地獄におちた極悪人、

とされるが、仏教から分立した禁欲主義的な宗教運動の組織者でもある(精選版日本国語大辞典)。

法華経は、サンスクリット原典は、

サッダルマ・プンダリーカ・スートラSaddharmapundarīka-sūtra、

といい、

妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)の略称、

だが、原題は、

「サッ」(sad)は「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)は「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)は「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)は「たて糸:経」の意、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C

白蓮華のごとき正しい教え、

の意となる(世界大百科事典)。

この漢訳は、

竺法護(じくほうご)訳『正(しょう)法華経』10巻(286)、
鳩摩羅什(くまらじゅう)訳『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』7巻(406)、
闍那崛多(じゃなくった)他訳『添品(てんぼん)妙法蓮華経』7巻(601)、

三種が存在する。『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』が最も有名で、通常は同訳をさす。詩や譬喩・象徴を主とした文学的な表現で、一乗の立場を明らかにし、永遠の仏を説く(日本大百科全書)とある。

ただ、現行の『妙法蓮華経』は「提婆達多品(だいばだったぼん)」を加えているが、羅什訳原本にも他書にもなく、それを除くと、すべてのテキストが27章からなる(仝上)とある。

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正行(しょうぎょう)


歌をよみ、詩をつくり、経論(きょうろん 仏の説いた経、それを祖述した論)、正行(しょうぎょう)まで、残らず読みわきまへ、慈悲の心ざし深かりし娘也(諸国百物語)、

にある、

正行、

は、

弥陀への読誦、観察、礼拝、称名、賛嘆の五つの行為を「正行」というが、本文はこれを経典の一つに誤解している、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。ただ、校注者が言っている、

読誦(どくじゆ)・観察・礼拝・称名・讚歎供養(さんたんくよう)、

の五つは、特に、

浄土門、

で、念仏者が修すべきこととされ、

称名を正定業(しょうじょうごう)とし、読誦・観察・礼拝・讃歎供養を助業(じよごう)、

とする、

弥陀浄土に往生する5種の正しい行い、

をいい、唐の僧、善導が観経に拠ってこの説をたてた(広辞苑・大辞泉)とされる。『観経疏』(善導)の就行立信釈(じゅぎょうりっしんしゃく)は、

行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。正行と言うは、専ら往生経に依りて行を行ずる者、これを正行と名づく。何者かこれなる。一心に専らこの『観経』、『弥陀経』、『無量寿経』等を読誦し、一心にかの国の二報荘厳に専注、思想、観察、憶念し、もし礼するには、すなわち一心に専らかの仏を礼し、もし口に称するには、すなわち一心に専らかの仏を称し、もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す。またこの正の中に就いて、また二種有り。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に、時節の久近(くごん)を問わず、念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に。もし礼誦(らいじゅ)等に依るをば、すなわち名づけて助業とす。この正助二行を除いて已外、自余の諸善を、ことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心常に親近して、憶念断えざれば名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずれば、すなわち心常に間断す。回向して生ずることを得べしといえども、すべて疎雑の行と名づく、

と説くhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%AD%A3%E8%A1%8C%E3%83%BB%E9%9B%91%E8%A1%8C。「正行」の反対が、

雑行(ぞうぎょう)、

で(「ぞう」「ぎょう」はそれぞれ「雑」「行」の呉音)、

阿弥陀仏以外の仏菩薩の名を称えるなど、正行(しょうぎょう)以外の諸善、また、それらを修めること

いい、『往生礼讃』(善導)は、

もし専を捨てて雑業を修せんと欲する者は、百の時希に一二を得、千の時希に三五を得。何を以ての故に。すなわち雑縁乱動し正念を失するに由るが故に。仏の本願と相応せざるが故に。教えと相違するが故に。仏語に順ぜざるが故に。係念相続せざるが故に。憶想間断するが故に。回願慇重真実ならざるが故に。貪・瞋・諸見の煩悩来たりて間断するが故に。慚愧・懺悔の心有ること無きが故なり…また相続してかの仏の恩を念報せざるが故に。心に軽慢を生じて業行をなすといえども常に名利と相応するが故に。人我みずから覆いて同行の善知識に親近せざるが故に。ねがいて雑縁に近づき往生の正行を自障し障他するが故なり、

と、雑行には一三の失があると説く(仝上)。『選択集』(法然)は、親疎対・近遠対・有間無間対・不回向回向対・純雑対の五番相対を立てて両者の価値を相対的に区別し、「正行」は、これを実践する行者と阿弥陀仏との関係が、

@親しく、
A近しく、
B憶念が間断しておらず、
Cことさら回向する必要がなく、
D往生のための純粋な実践である、

が、「雑行」は、阿弥陀仏との関係が

@疎く、
A遠く、
B憶念が間断しており、
C回向しないかぎり往生行とはならず、
D他方の諸仏浄土への往生行であり極楽への純粋な往生行ではない、

とし、

然らば西方の行者、雑行を捨て正行を修すべきなり、

と結論づけている(仝上)。この意図は、

他力本願、

の趣旨で、「雑行」は、

私たちの行う善を阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行、

いい、阿弥陀仏の救いに役立てようとする、

自力の心、

なので、「雑行」は、

自力の心でする諸善万行、

をいうhttps://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0425.htmとある。たとえば、

これだけ親に孝行しているから、
これだけ他人に親切しているから、
これだけ世の中のために尽くしているから、

阿弥陀仏は助けてくださるだろう等々と思ってやっているすべての善を、

雑行、

というのだからである(仝上)と。

浄土門でいう「正行」は、以上のようなものだが、その元々の意味は、

正行是法明門、至彼岸故(「正法眼蔵(1231〜53)」)、

と、

悟りを得るための正しい行い、

あるいは、

仏教の実践修行としての正しい行い、

を指し(広辞苑・日本国語大辞典)、

八正道の一つ、

である、

正精進、

をいう(仝上)。

八正道(はっしょうどう)、

は、「正念に往生す」で触れたことだが、

八聖道(八聖道分)、
八支正道、
八聖道支、

ともいい、仏教を一貫する八つの実践徳目で、これによって悟りが得られ、理想の境地であるニルバーナ(涅槃 ねはん)に到達されると説く。つまり、

(1)正見(しょうけん 梵語samyag-dṛṣṭi) 正しいものの見方、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ること、
(2)正思(しょうし 正思惟(しょうしゆい) 梵語amyak-saṃkalpa) 正しい思考、出離(離欲)、無瞋、無害を思惟すること、
(3)正語(しょうご 梵:語samyag-vāc) 正しいことば、妄語、離間語、粗悪語、綺語を避けること、
(4)正業(しょうごう 梵語samyak-karmānta) 正しい行い、殺生、盗み、非梵行(性行為)を離れること、
(5)正命(しょうみょう 梵語samyag-ājīva) 正しい生活、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むこと(命は単なる職業というよりも、生計としての生き方をさす)、
(6)正精進(しょうしょうじん 梵語samyag-vyāyāma) 正しい努力、「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を起こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践を努力すること、
(7)正念(しょうねん 梵語samyak-smṛti) 正しい集中力、四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいること、
(8)正定(しょうじょう 梵語samyak-samādhi) 正しい精神統一、禅定(ぜんじょう)、正しい集中力(サマーディ)を完成すること。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られる、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93・世界大百科事典)。因みに、「四諦(したい)」とは、

四聖諦、
四真諦、
苦集滅道、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6、人間の生存を苦と見定めた釈尊が、そのような人間の真相を四種に分類して説き示したもので、「諦」は、

梵語catur-ārya-satyaの訳、

で、

4つの・聖なる・真理(諦)、

を意味し、すなわち、

@苦諦(くたい、梵語duḥkha satya) 人間の生存が苦であるという真相。苦聖諦ともいう。人間の生存は四苦八苦を伴い、自己の生存は、自己の思いどおりになるものではないことを明かす。
A集諦(じったい、じゅうたい、梵語samudaya satya) 人間の生存が苦であることの原因は、愛にあるという真相。苦集聖諦ともいう。この愛とは、渇愛といわれるもので、ものごとに執着する心であり、様々なものを我が物にしたいと思う強い欲求である。このような欲求に突き動かされて行動することが、苦の原因であることを明かす、
B滅諦(めったい、梵語nirodha satya) 苦の原因である渇愛を滅することにより、苦がなくなるという真相。苦滅聖諦ともいう。渇愛を滅することで、生存に伴う苦しみが止滅し、覚りの境地に至ることを明かす、
C道諦(どうたい、梵: mārga satya) 渇愛を滅するための具体的な実践が八正道であるという真相。苦滅道聖諦ともいう。渇愛を滅し、苦である生存から離れるために行うべきことが、八正道であることを明かす。これが仏道、すなわち仏陀の体得した解脱への道となる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E8%AB%A6、この第四の「道諦(どうたい)」は、かならず、

八正道、

を内容とした。逆にいえば、

八正道から道諦へ、そして四諦説が導かれた、

とあり(日本大百科全書)。しかも四諦は原始仏教経典にかなり古くから説かれ、とくに初期から中期にかけてのインド仏教において、もっとも重要視されており、八正道―四諦説は、後代の部派や大乗仏教においても、けっして変わることなく、出家・在家の別なく、

仏教者の実践のあり方、

を指示して、今日に至っている(仝上)とある。

正鵠を射る」で触れたように、「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

会意。「一+止(あし)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(まっすぐに進の原字)、

とあり(漢字源)、「邪」の反対の意(字源)だが、「正」は、

的、

の意で、

射侯の中、弓の的の中の星、

の意である(仝上)。

終日射侯、不出正兮(齊風)、

と使われる。「射侯(しゃこう)」とは、

矢の的。侯は的をつける十尺四方の布、

とある(広辞苑)。ただ、別に、

「止」が意符、「丁」が声符の形声字で、本義は{征(討伐する)}。従来は、「−」(目標となる線)+「止」からなり「目標に向けてまっすぐ進むこと」を表すとされたが、甲骨文・金文中でこの字の上部は円形もしくは長方形で書かれ、それらの部分(すなわち「丁」字)が後に簡略化されて棒線となったに過ぎないことから、この仮説は誤りである、

との指摘https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3があり、

会意。止と、囗(こく=国。城壁の形。一は省略形)とから成り、他国に攻めて行く意を表す。「征(セイ)」の原字。ひいて、「ただす」「ただしい」意に用い、また、借りて、まむかいの意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji184.html

「行」(「ゆく」「おこなう」意では、漢音コウ、呉音ギョウ、唐音アン、「人・文字の並び、行列」の意では、漢音コウ・呉音ゴウ・慣用ギョウ)は、

象形。十字路を描いたもので、みち、みちをいく、動いで動作する(おこなう)などの意を表わす。また、直線をなして進むことから、行列の意ともなる、

とある(漢字源)。別に、

象形。四方に道が延びる十字路の形にかたどり、人通りの多い道の意を表す。ひいて「ゆく」、転じて「おこなう」意に用いる、

とも(角川新字源)ある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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鎧通し


二尺七寸の正宗の刀に、一尺九寸の吉光の脇指を指しそへ、九寸五分の鎧通しを懐にさし(諸国百物語)、

の、

鎧通し、

は、

短刀、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、確かに、

短刀の一種、

ではあるが、

鎧通し、

は、

戦場で組み打ちの際、鎧を通して相手を刺すために用いた分厚くて鋭利な短剣、

で、

反りがほとんどなく長さ九寸五分(約二九センチ)、

のものをいい、

馬手差(めてざ)し、
めて、

ともいう(大辞泉・大辞林)、

とあるが、厳密には少し違うようだ。

短刀、

は、

長さ一尺(約30.3cm)以下の刀の総称、

で、その「突き刺す」という用途から、

刺刀(さすが)、

佩用上(差し方)から、

懐刀・腰刀(こしがたな)、

拵えの形状から、

鞘巻(さやまき)、
合口または匕首(共にあいくちと読む。後者は中国語に由来)、

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E5%88%80・広辞苑)。基本は、

合口(合口拵/匕首拵 あいくちごしらえ)、

と呼ばれるように、鍔をつけない。この点が、後世の脇差(打刀の大小拵えの小刀)と異なる(仝上)。

突き刺すのに用いるところから、

刺刀(さすが)、

と呼ばれるものは、

刺刃、

とも表記されたりする(中国語では「刺刀」は「銃剣」のことをいう)が、

鎌倉時代、上位の騎馬武者に付き従う徒歩で戦う下級武士たちの間で、駆け回るのに便利な小型の剣として刺刀が流行した。彼らの主要武器は薙刀であったが、これを失ったときや乱戦になって薙刀などの長い武器が使えなくなった時に用いられ、

役割は、

脇差、

と同じであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E5%88%80が、南北朝時代には、長大な、

大太刀、

などの大きな刀が人気を集め、刺刀も長大化し、

打刀(うちがたな)、

に発展していき、戦国時代になると、

槍などを使った徒歩による大規模集団戦に移行し、太刀から打刀に主流が変わり、

刺刀、

から、

脇差、

へと変わっていく(仝上)。「太刀」「打刀」については「かたな」で触れた。それにあわせ、刺刀の役割は、反りがなく重ね(刀身の断面形状)が厚い、

鎧通し、

の形式に発展していくことになる(仝上)。抜きやすいよう右腰に口を帯の下に差した刺刀は、

妻手指(えびらさし)、
または、
馬手差(めてざし 右手差しの意味)、

と呼ばれる。「鎧通し」と「馬手差」の違いは、

鍔の有無と栗型(刀の鞘口に近い差表(さしおもて)に付けた孔のある月形(つきがた)のもの。下緒(さげお)を通し、また、帯に深く差しこまないための当たりとする)、

とある(絵でみる時代考証百科)。

「刺刀」から発展したものが、

脇差(わきざし、わきさし)、

で、

古くは太刀の差し添えとして使われ、打刀と同じく刃を上にして帯に差した。いわゆる、大小は、

長い打刀と短い脇差、

の2本差しで構成されたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%B7%AE。脇差も、

主兵装(本差)が破損などにより使えない時に使用される予備の武器、

を指した(仝上)。

鎧通し、

が、

「馬手差し」(めてざし)

とも呼ばれるのは、上記の経緯から、

甲冑を着用した相手と対峙する際に用いられた短刀、

だが、

右手で逆手に持って使用する、

ためで、

相手と組み合ったときに相手に奪われる恐れがあったため、腰に差す際は通常の刀剣と違って柄が後ろ、鐺(こじり鞘の先端部)が前に来るように身に着けた、

とあるhttps://www.touken-world.jp/tips/56904/

刃長寸5分(約28.8p)以下というのは、

肘までの長さ、

ということらしい。城攻の際は、

石垣の間に差して足場に利用した、

ともある(仝上)。

懐剣、

は、

隠剣(おんけん)、
懐刀(ふところがたな)、

とも呼ばれ、脇差を佩用できないときに懐に隠し持つ短刀のことをいうhttps://www.touken-world.jp/tips/53769/。刀剣鑑定家「本阿弥家」(ほんあみけ)では、4寸(約12cm)から5寸(約15cm)までの長さの短刀を懐剣として折紙に記載していた(仝上)という。

刀子(とうす 切削するための工具の一種)、
小柄小刀(こづかこがたな 日本刀に付属する小さい刀)、

も懐剣に分類されるらしい(仝上)。

身の長さが一尺(約30cm)を超えるが短刀の様式を持つものは、特に、

寸延短刀(すんのびたんとう)、

と呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E5%88%80。現在の登録制度では、

脇差、

に分類されるが、短刀用途として作刀されたため、短刀の一種と見なされているhttps://www.touken-world.jp/tips/53769/

合口、

というのは、上述したように、

鍔(つば)の無い短刀のこと、

で、

鍔が無いために、柄と鞘がぴったり納まる様子から来ている、

が、

匕首(あいくち、ひしゅ)、

とも当てるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%95%E9%A6%96のは、中国の「匕首」(ひしゅ)と混同されたためだが、

「匕」は、もと、さじの意、

で(精選版日本国語大辞典)、暗器(身につけられる小さな武器)ではあるが、

横から見たときに匙のような形の刃先を持つ短刀、

なので、両者は、厳密には異なるようだ。ヤクザが用いていて、

ドス、

俗称されるのは「匕首」であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%95%E9%A6%96。「ドス」というのは、

人を脅すために懐に隠し持つことから、「おどす(脅す)」の「お」が省略された語、

とある(語源由来辞典)。

因みに、拵えの、

鞘巻(さやまき)、

は、

鞘に葛藤(つづらふじ)のつるなどを巻きつけたもの、

をいう(デジタル大辞泉)が、中世には、

その形の刻み目をつけた漆塗り、

をいう(仝上)。

参考文献;
名和弓雄『絵でみる時代考証百科』(新人物往来社)

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みそみそ


数の蛇ども、集(たか)りかかって噛み殺し、みそみそとして、山のかたへ皆帰りて、別の事もなかりしと也(諸国百物語)、

の、

みそみそとして、

は、

落胆して、すごすごと、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「みそみそ」は、

味噌のような状態になることによるか、

とあり(広辞苑)、

破れくずれたさま(広辞苑)、
細かくくずれるさま、ぐしゃぐしゃ(大辞泉・岩波古語辞典)、
破れ崩れたる状に云ふ語、メチャメチャ(大言海)、

等々と、

物が細かくくずれるさまを表わす語、

で(精選版日本国語大辞典)、上記引用のように、

「と」を伴って用いる、

こともある(仝上)。そうした擬態語から、

物尽きたりと云ふ事もなくて、みそみそとして、さて止みにけり(「愚管抄(1220)」)、

と、

ひっそり、ひそひそ(岩波古語辞典)、
勢いなどが弱まって静かになるさま、ひっそり(大辞泉)、

と、

物事の勢いなどが弱まって静かになるさまを表わす語、
弱弱しくくず折れるようなさまを表わす語、

との状態表現へシフトし、それをメタファにすれば、上記の引用のように、

すごすご、

というように、価値表現へとシフトしていくことはあり得ると思える。

なお、

みそみそ、

に、

味噌味噌、

と当て、「大上臈御名之事」(16C前)に、

あへもの、みそみそ、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

和物(あえもの)をいう女房詞、

とある。これなら、

物が細かくくずれるさまを表わす語、

というのが、

和える、

つまり、

混ぜ合わせた状態、

から来た擬態語というのは意味が通じる気がする。

「みそみそ」が、

味噌、

から来たというが、

味噌」で触れたように、「味噌」自体が、

肉の肉醤、魚の魚醤、果実や草、海草の草醤、穀物の穀醤、

等々の、

醤(ひしお)、

のペースト状にしろ、奈良時代の文献にある、

未醤(みさう・みしょう)、

という、まだ豆の粒が残っている醤(ひしお)にしろ、

大豆を蒸してつき砕き、麹(こうじ)と塩を加えて発酵させた、

ペースト状にしろ、

みそみそ、

の、

物が細かくくずれるさまを表わす語、

という意味とはちょっと乖離があるような気がするのだが。

参考文献;
大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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集(たか)る


船人もみな、子たかりてののしる(土佐日記)、
数の蛇ども、集(たか)りかかって噛み殺し、みそみそとして、山のかたへ皆帰りて、別の事もなかりしと也(諸国百物語)、

などの、

集(たか)る、

は、

集まる、

意で、「古事記(712)」にも、

蛆(うじ)多加礼(タカレ)ころろきて、

と使われているが、

羶によて蟻がたかる(「古活字本荘子抄(1620頃)」)、

と、

寄り集まる、
むらがり集まる、

意や、転じて、

しばしば御ゆだんあるまじく候、おこりたかり候物にて候(「醍醐寺文書(室町時代)」)、

と、

病気になる、
病気がうつる、
病気がひろがる、

意や、さらに、

通りがかった仲間がそれを見つけて、男にたかる(川端康成「浅草紅団(1929〜30)」)、

と、

人をおどしたり、泣きついたりして金品をせしめる、
恐喝(きょうかつ)する、
また、
食事などをおごらせたり遊興の費用を出させたりする、

という意でも使う。今日は、ほぼこの意で使う。

立ちかかる意かと云ふ、

という語源(大言海)から見ると、

寄り集まる、

という状態表現が、価値表現へ転じ、客体表現から主体表現、つまり、

何かに集まっているから、我身に集まってくる、

という、

他人事から我が事、

に転じた、と見える。

集、

という漢字の読み方には、

集(あつ)む(まる)、
集(つど)ふ(う)、
集(すだ)く、

とも訓ませる。

「すだく」は、

すたく、

とも訓ませ、

夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥は簀竹(すだけ)ど君は音もせず(万葉集)、
むぐらおひて荒れたるやどのうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり(伊勢物語)、
藻にすだく白魚やとらば消ぬべき(芭蕉)、

などと、

多くのものが群がり集まる、

意と、

我やどにいたゐの水やぬるむらん底のかはづぞ声すだくなる(「曾丹集(11C初)」)、
答ふる者は夏草に、すだける虫の声ならで、外に音せん物もなし(浄瑠璃「源頼家源実朝鎌倉三代記(1781)」)、

などと、

多くの虫や鳥などが集まって鳴く、
多く集まってさわぐ、

意がある(精選版日本国語大辞典)。「すだく」で触れたように、本来は、

「ツドフ(集ふ)」と「スダク(集く)」と同源の語の変化(日本語源広辞典)。
「集(つど)ひ挈(た)くの約。集ひ居て動く義(大言海)

とあり、元々、

集まる、多く集う、

という意味で、

誤りて、鳴く、

とする(大言海)。だから、意味として、

虫集く、

は、

集まっている、

という意味だけで、

鳴く、

意味は本来なかった。因みに、「挈(た)ぐ」は、

手揚(たあ)ぐの約か、

として、

揚ぐ、もたぐ、

の意味とする(大言海)が、他の辞書には載らない。もし、この説通りなら、

ただ集まる、

という意味だけではなく、

もたげる、

という含意がある。だから、ただ集まる意味に、

騒ぐ、
あるいは、
騒がしい、

という含意が、もともとあった、と考えるべきなのかもしれない。「すだく」と、

つどふ(う)、

が同源とすると、あえて、

つどふ、

と使い分けて、含意を異にしたかったからということなのかもしれない。「つどふ」は、

国国の防人つどひ舟(ふな)乗りて別るを見ればいともすべなし(万葉集)、

と、

(一人の意向によって召し寄せられて)集合する、

意や、

ももしきの大宮人はいとまあれや梅をかざしてここにつどへり(万葉集)、

と、

(一つのものを中心に)寄り合う、会合する、

意や、

是を以ちて八百万の神、天安の河原に神集ひ集(ツドヒ)て〈集を訓みて都度比(ツドヒ)と云ふ〉(古事記)、

と、

ある目的をもって集まる、

意で使う。その語源は、

ツヅ(粒・珠)アフ(合)の転で、一つの緒に多くの珠が貫かれるのが原義か、類義語アツマルは、同質のものが寄り合う意(岩波古語辞典)、
ツ(津)+トフ(問・訪)、港や津に船や人が集まる意(日本語源広辞典・名言通・日本古語大辞典=松岡静雄)、
津訪(と)ふの義、舟に起こる(大言海)、
船がツに集まる意からで、ツはツ(津)、ドフは語尾(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々あるが、由来は、

集(ツトツテ)于卓淳、撃新羅(神功紀)、

とあるように、

船が集まる、

という特殊な用例から来たのかもしれない。

「あつむ(まる)」は、

国邑の人民を召し集(アツメ)て(地蔵十輪経元慶点)、
これよりさきの歌を集めてなむ、万葉集となづけ(古今集・序)、

と、

散らばっている同質のものを一つ中心に寄せる、
一つにまとめる、

意で、

統率するために集合させる意、

の「つどふ」と区別している(岩波古語辞典)。転じて、

大伴、我家にありと有(ある)人あつめて(竹取物語)、

と、

多くの物や人を一箇所に寄せ合わせる、
まとめる、

意で使い(精選版日本国語大辞典)、転じて、

其人数をまつめ候時は、入がいを吹候者(上杉家文書)、

と、

纏める、
集める、

と当て、

まつめる、

とも訛る(仝上)。この語源は、

アは発語、因て、ツメとも、ツムともよめり、積むと義同じ(大言海・和訓栞)、
厚(あつ)むの活用(長むる、廣むる)(大言海)、
アツム(弥積)の義(言元梯)、
アマタ-ツム(積)から(和句解)、

等々、

積む、

と絡ませる説が多い(日本語源大辞典)。

集む、

で、

あぢきなしなげきなつめそうき事にあひくる身をばすてぬものから(古今集)、

と、

つむ、

と訓ませる用例(なげきを集める、ではなく、嘆き詰める、の意とする見解が現在は多いが)もあり、

あつめる、

意で、多く、

掻きつむ、
刈りつむ、

などと熟して用いられる(精選版日本国語大辞典)。

こうみてみると、確かに、「つどふ」→「すだく」と転訛したのかもしれないが、

あつむ、
つどう、
すだく、
たかる、

は、元々別々のものについて個別に言い、微妙に使い分けていたものだと思われる。それを「集」の字を当てたために、

あつまる、

という意味に収斂していったのではあるまいか。

「集」(漢音シュウ、呉音ジュウ)は、

会意文字。元は、「三つの隹(とり)+木」の会意文字「雧」で、たくさんの鳥が木の上にあつまることをあらわす。現在の字体は、隹二つを省略した略字体、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%86)。別に、意味は同じだが、

会意。雥(そう 多くの鳥。隹は省略形)と、木(き)とから成る。たくさんの鳥が木の上に止まるさまにより、多くの鳥が「あつまる」意を表す、

ともある(角川新字源)。

異字体として、

雧(古体)、

の他に、
㠍、
㯤、
䧶、
亼、
雦、
𠍱、

等々があり、「集」は、

聚、
輯、

の代用字としても使われる。したがって、「つどう」、「あつむ(まる)」に、

聚、

の字も当てる(大言海)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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四天王


仏神三方、天神地祇、上は梵天帝釈、四大(しだい)の天王、日月星宿も御照覧候へ(諸国百物語)、

の、

仏神三方、天神地祇、上は梵天帝釈、四大の天王……、

は、

起請文、

などの、

誓いをとなえるための、神道、仏教の神々の名を上げる慣用語、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。この嚆矢は、鎌倉時代の御成敗式目の末尾にある北条泰時(やすとき)らの連署起請文の、

梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・四大天王・惣(そう)日本国中六十余州大小神祇(じんぎ)、特伊豆・筥根(はこね)両所権現(ごんげん)、三島大明神・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)・天満(てんまん)大自在天神、部類眷属(けんぞく)神罰冥罰(みょうばつ)各可罷蒙者也、仍起請文如件、

で、その後のモデル(日本大百科全書)となり、形式の整った中世のものは、

「敬白」「起請文之事」などと冒頭に置き、末尾は、「仍起請文如件」と結んで、署名判と年月日を記す。内容は、宣誓の具体的な事柄を記しもしそれに違背すればと書いて、神文(しんもん=誓詞)となり「梵天帝釈四大天王総而日本国中大小神祇」以下神仏名を列挙し、その罰をわが身に受ける旨を記す、

という構成をとる(精選版日本国語大辞典)。なお、

梵天は、梵天王、帝釈は、帝釈天で、共に護法神、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。この中の、

四大の天王、

とは、

四天王、

つまり、

持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)、天地四隅の守護神、

とある(仝上)。なお「三方」については、「公卿(くぎょう)」で触れたように、

神供(じんぐ)や食器を載せるのに用いる膳具、折敷の下に台をつけたもの、

で、普通白木を用い、

三方に穴をあけたものを、

三方(さんぼう)、

四方に穴のあけたのを、

四方、

穴をあけないのを、

公卿、

という(広辞苑)。

「四天王」は、略して、

四天、

ともいうが、「四天」は、

四時の天、

つまり、

春を蒼天(そうてん)、夏を昊天(こうてん)、秋を旻天(びんてん)、冬を上天(じょうてん)を総称、

していう意味になるが、また、仏語の、

四天下(してんげ)、

の略で、

須彌山(しゅみせん)を囲む八重の海・山の、最も外側の海の四方にあるという四つの大陸。東方の弗婆提(ふつばだい・ふばだい)、西方の瞿陀尼(くだに)または倶耶尼(くやに)、南方の閻浮提(えんぶだい)、北方の鬱単越(うったんおつ)または倶留(くる 瞿盧とも)の総称、

の意でもある。だから、四方、つまり、

東西南北、

の意で使い、それをメタファに、

蚊帳は、たうか、ろりん、ろけん、ほら、四天(シテン)ちへりは錦織或は金入織物のしつ(「評判記・色道大鏡(1678)」)、

と、

蚊屋の上部の四方のへり、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。なお、「須弥四洲(しゅみししゅう)」については、「金輪際」で触れた。

また、「四天」を、

よてん、

と訓ませると、

歌舞伎で、勇士・山賊・海賊・捕手などの激しく体を動かす役の着る、広袖で左右の裾が割れている衣装、

をいい(精選版日本国語大辞典)、

衽(おくみ 左右の前身頃の端につけたした半幅の布)がなく、裾の両脇に切れ目(スリット)が入っている、

のが特徴で(世界大百科事典)、

きらびやかな織物に馬簾(ばれん)という飾りふさのついたものと、木綿地で馬簾のつかないものとがある。また、黒一色の黒四天、赤系統の染模様で役者が手に花枝や花槍を持って出る花四天などの種類がある、

とある(精選版日本国語大辞典)。

してん、

と訓むことは忌まれてきたらしい(世界大百科事典)が、

仏像の四天王の衣装からとった説、
黄檗(おうばく)宗の僧衣が裾のあたりで四つに裂けていて、四天と呼ぶのを移したとする説、

があり、仏教由来であることは間違いないようである(仝上)。

さて、四天王の略である、

四天、

は、

四大王(しだいおう)、
護世四王、

ともいい、仏教観における、

須弥山・中腹に在る四天王天の四方にて仏法僧を守護している四神、

つまり、

東方の持国天、
南方の増長天、
西方の広目天、
北方の多聞天(毘沙門天)、

を指し、

六欲天の第1天、四大王衆天(四王天)の主。須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で共に仏法を守護、

し、

持国天は、東勝身洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
増長天は、南贍部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多(へいれいた)を眷属とする。
広目天は、西牛貨洲を守護する。龍神、富単那を眷属とする。
多聞天は、北倶盧洲を守護する(毘沙門天とも呼ぶ。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B

夜叉、羅刹を眷属とする。なお、「欲界」については、「三界」、「四天」については、「非想非々想天」でも触れた。

この「四天王」に擬して、

臣下、弟子などのなかで最もすぐれているもの四人の称。また、ある道、ある部門で才芸の最もすぐれているもの四人の称、

についても、四天王像が甲冑をつけ、武器をとり、足下に邪鬼を踏む武将姿であるところから、最初は優れた武将に対し、

源頼光の四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)、
源義経の四天王(鎌田盛政・鎌田光政・佐藤継信・佐藤忠信)、
織田信長の四天王(柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・明智光秀)、
徳川家康の四天王(井伊直政・本多忠勝・榊原康政・酒井忠次)、

等々といったが、後に芸道その他にも広く用い、

和歌の四天王(頓阿(とんあ)、兼好、浄弁、慶運)、

などという(精選版日本国語大辞典・大言海)。なお、八部衆(はちぶしゅう)は、

仏教を守護する異形の神々、

で、

天竜八部衆、
竜神八部、

ともいい、

天(天部)、竜(竜神・竜王)、夜叉(やしゃ 勇健暴悪で空中を飛行する)、乾闥婆(けんだつば 香(こう)を食い、音楽を奏す)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら 金翅鳥で竜を食う)、緊那羅(きんなら 角のある歌神)、摩羅迦(まごらか 蛇の神)、

の八つをいう(百科事典マイペディア)。「迦楼羅」については「迦楼羅炎」で触れた。

なお「帝釈天(たいしゃくてん)」は、

梵天(ぼんてん)と並び称される仏法の守護神の一つ、

で、もとはバラモン教の神で、インド最古の聖典『リグ・ベーダ』のなかでは、

雷霆神(らいていしん)、

であり、

武神、

である。ベーダ神話に著名な、

インドラIndra、

が原名、阿修羅(あしゅら)との戦いに勇名を馳せ、仏教においては、

十二天の一つで、また八方天の一つ、

として東方を守り、

須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の善見城(ぜんけんじょう)に住し、四天王を統率し、人間界をも監視する、

とされる(日本大百科全書)。「是生滅法」で触れた、『大乗涅槃経(だいじょうねはんぎょう)』「聖行品(しょうぎょうぼん)」にある、

雪山童子(せっさんどうじ)、

の説話で、帝釈天が羅刹(らせつ 鬼)に身を変じて童子の修行を試し励ます役割を演じている(仝上)。

「八方天」(はっぽうてん)とは、

八天、

ともいい、

四方・四隅の八つの方位にいて仏法を守護するという神、

つまり、

東方の帝釈天、南方の閻魔天、西方の水天、北方の毘沙門天、北東方の伊舎那天、南東方の火天、南西方の羅刹天、北西方の風天、

の総称(精選版日本国語大辞典)。「十二天(じゅうにてん)」とは、

一切の天龍・鬼神・星宿・冥官を統(す)べて世を護る一二の神、

をいい、

四方・四維の八天に、上下の二天および日・月の二天を加えたもの、

で、

東に帝釈天、東南に火天、南に閻魔天、西南に羅刹天、西に水天、西北に風天、北に多聞天(毘沙門天)、東北に大自在天、上に梵天、下に地天、および日天、月天、

の総称(仝上)である。

帝釈天の像形は一定でないが、古くは、

高髻(こうけい 髪を全部引きあげて頭上に髻(もとどり)を結ぶ)、

で、唐時代の貴顕の服飾を着け、また外衣の下に鎧を着けるものもあるが、平安初期以降は密教とともに、

天冠をいただき、金剛杵(こんごうしょ)を持ち、象に乗る姿、

が普及した(仝上)「金剛杵」は「金剛の杵(しょ)」で触れた。また、帝釈天の眷属「那羅延」については触れたことがある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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羅刹女


われは羅刹女(らせつにょ)と申す、鬼のゆかりにて候ふが、男には女の姿をなし、女には男の姿をなして、ひとをたぶらかし来たれと教えて(諸国百物語)、

の、

羅刹女、

は、

ひとをたぶらかして血肉を食うという鬼女、非常に美しい容貌をもつ、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

羅刹私(らせつし)、
羅刹斯(らせつし)、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、

女の羅刹、

である(デジタル大辞泉)。仏教では、

第一羅刹女誓救。第二従仏告諸羅刹女以下(「法華義疏(7C前)」)、

と、仏教の護持神として、

十羅刹女、

という、

法華経に説かれる法華経受持の人を護持する十人の女、

がある(精選版日本国語大辞典)。

初め、人の精気を奪う鬼女であったが、後に鬼子母神らとともに仏の説法に接し、法華行者を守る神女となったとされ、

藍婆(らんば 梵語Lambā)、
毘藍婆(びらんば 梵語Vilambā)、
曲歯(こくし 梵語Kūṭadantī)、
華歯(けし 梵語Puṣpadantī)、
黒歯(こくし 梵語Makuṭadantī)、
多髪(たほつ 梵語Keśinī)、
無厭足(むえんぞく 梵語Acalā)、
持瓔珞(じようらく 梵語Mālādhārī)、
皐諦(こうたい 梵語Kuntī)、
奪一切衆生精気(だついっさいしゅじょうしょうけ 梵語Sarvasattvojohārī)、

をいう(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%BE%85%E5%88%B9%E5%A5%B3)。

羅刹、此鬼行速、牙爪鋒芒、食人血肉、故云可畏也(慧琳音義)、

とある、

羅刹(らせつ)は、

サンスクリット語のラークシャサrākasa、
パーリ語のラッカサrakkhasa、

の音写で(日本大百科全書)、

速疾鬼、
可畏、

と訳す(精選版日本国語大辞典)。「ラークシャス」は、

古くは悪魔的な力、

の意味で用いられることがしばしばで、その他の邪悪な力と対等なものとして挙げられ、

打破する、
焼く、

などの動詞とともに現れ、打ち破るべき対象とされる(世界大百科事典)とあり、

インド神話に現れる悪鬼、

の一種。もとは、害する者、守る者の意。通力によって姿を変え、人を魅惑し血肉を食うという。

水をすみかとし、地を疾く走り、空を飛び、また闇夜(やみよ)に最強の力を発揮し夜明けとともに力を失うといわれ、しばしば夜叉(やしゃ)と同一視される、

とある(日本大百科全書)。のちに仏教では守護神となり、

十二天、

の一つに数えられ、像は神王形で甲冑をつけ、刀を持ち白獅子に乗った姿で描かれる(仝上)。

因みに、十二天とは、「四天王」でも触れたが、12の天部は四方(東西南北)と四維(南東、南西、北西、北東)の8方と上方、下方の10方位に配置される十尊と日天(につてん)、月天(がつてん)で、

帝釈天(たいしやくてん 東)、
火天(かてん 南東)、
閻魔天(えんまてん 南)、
羅刹天(らせつてん 南西)、
水天(すいてん 西、バルナ)、
風天(ふうてん 北西)、
毘沙門天(びしやもんてん 北)、
伊舎那天(いしやなてん 北東)、
梵天(ぼんてん 上)、
地天(ちてん 下)、
日天、
月天、

となる(世界大百科事典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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奪衣婆


奪衣婆、

は、「三つ瀬の川」で触れたように、偽経「十王経」が、

葬頭河曲(さうづがはのほとり)、……有大樹、名衣領樹、影住二鬼、一名脱衣婆、二名懸衣翁(十王経)、

と説く、

川岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があり、脱衣婆(だつえば)がいて亡者の着衣をはぎ、それを懸衣翁(けんえおう)が大木にかける。生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が違うので、それを見て、緩急三つの瀬に分けて亡者を渡らせる、

という(日本大百科全書)、

三途(さんず)の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取り、衣領樹(えりょうじゅ)の上にいる懸衣翁(けんえおう)に渡すという鬼婆、

をいう(広辞苑)。

脱衣婆、

とも当て、

葬頭河(しょうずか・そうずか)の婆(はば)、
奪衣鬼、
脱衣婆(鬼)、
葬頭河婆(そうづかば)、
正塚婆(しょうづかのばば)、
姥神(うばがみ)、
優婆尊(うばそん)、

とも言う(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86)。

懸衣翁、

は、

その衣を衣領樹に掛け、その枝の高低によって罪の軽重を定める、

という(ブリタニカ国際大百科事典)。

亡者の生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が異なる、

のだとされる(世界大百科事典)。奪衣婆の初出は、中国の偽経、

仏説閻羅王授記四衆逆修七往生浄土経(略して『預修十王生七経』)、

をもとに、日本で12世紀末で成立した偽経、

仏説地蔵菩薩発心因縁十王経、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86とされるが、『地蔵十王経』と内容が類似する、

十王経図巻、

が中国に存在するため、同経は単純に日本撰述とは言えない、

ようである(清水邦彦『「地蔵十王経」考』)。ただ、

「奈河津」「奪衣婆」、

といった語句、あるいは、

閻魔と地蔵との関係、

を除き、十王の本地仏といった発想は、中国の、

仏説預修十王生七経

には見られないなどから、その文言の多くは日本で形成されたと考えられる(仝上)とある。ただ、

『仏説閻羅王授記四衆逆修七往生浄土経』は日本に招聘された中国僧によって10世紀には説かれており、『法華験記』(1043年)には、奪衣婆と同様の役目を持つ「媼の鬼」という鬼女が登場することから、奪衣婆の原型は地蔵十王経成立以前から存在していたと考えられる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86ので、そうした奪衣婆像の集大成としてまとめられたものと見える。

多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれており、鎌倉時代以降、説教や絵解の定番の登場人物となるが、ただ、江戸末期になると、

民間信仰の対象、

とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立され、民間信仰における奪衣婆は、

疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目がある

といわれた(仝上)。

宗円寺(世田谷区)、
正受院(新宿区)、

は、奪衣婆を祀る寺として知られる(仝上)。柳田國男は、

奪衣婆信仰は日本に古くからあった姥神信仰が習合変化したもの、

としている(妹の力)し、『甲子夜話』の、

関の姥神(うばかみ)、

を紹介し、

関の姥神は当時咳の病を祈る神として居るが、実は三途の川の奪衣婆と共に道祖神の一変形である、

とする説を紹介し(山島民譚集)、この時期(江戸末期)に、

野路や里中の露台から取上げられて仏堂の奥に遷された姥神は、殆ど残らず新しい様式に作り換へられて居る。尾張熱田の裁断橋はもとは領地の地境の意味であらうが其の南の詰の姥子堂は今は時宗の僧侶の管守に帰し安阿弥作と云ふ奪衣婆の像が置いてある。此は川の名の精進川と云ふのから起こったのかも知れぬ。奥州外南部の恐山の地獄から出て北海へ流るる正津川の川口近く、茲にも正津川の婆とて同じ像を祀った姥堂がある、

と各地の例を挙げている(仝上)。

なお『十王経』の、

十王、

とは、

初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(四十九日)、百ヶ日、一周忌、三回忌の節目毎に死者の生前の行いを審判する十人の冥府の王、

を指すhttps://www.kyohaku.go.jp/old/jp/theme/floor2_2/f2_2_koremade/butsuga_20180612.htmlとあり、インドの仏教においては、臨終から七日ごと、七週にわたって法要が行われていました。これが現在の葬送にも引き継がれている、

四十九日、

で、仏教が中国に伝わった後、儒教の、

百日忌・一周忌・三回忌の服喪期間、

とミックスされ、ローカル化し、九世紀頃に『預修十王生七経』という偽経が作られ、

十王信仰、

が成立した(仝上)。十王は、

 初七日 泰広王(本地 不動明王) 殺生について取り調べる。
 二七日 初江王(本地 釈迦如来) 偸盗(盗み)について取り調べる。
 三七日 宋帝王(本地 文殊菩薩) 邪淫の業について取り調べる。
 四七日 五官王(本地 普賢菩薩) 妄語(うそ)について取り調べる。
 五七日 閻魔大王(本地 地蔵菩薩) 六道の行き先を決定する。
 六七日 変成王(本地 弥勒菩薩) 生まれ変わる場所の条件を決定する。
 七七日 泰山王(本地 薬師如来) 生まれ変わる条件を決定する。
 百箇日 平等王(本地 観音菩薩)
 一周年 都市王(本地 勢至菩薩)
 三周年 五道転輪王(本地 阿弥陀如来)

となり、本地仏との対応関係は鎌倉時代に考え出されたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8Bようであるhttp://www2q.biglobe.ne.jp/~kamada/juo.htm。特に、十王のうちの閻魔王は、地蔵菩薩の姿を変えた存在と考えられ、

閻魔王は罪を憎んで苛烈な審判を下す反面、地蔵は人を憎まず地獄に落ちた者にも地獄に分け入って慈悲を垂れます、

とある(仝上)。

生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰もあり、それを、

預修、

と呼んでいた(仝上)とある。


「三途川」については「三つ瀬の川」で触れた。

参考文献;
蜩c國男『増補 山島民譚集』(東洋文庫)
清水邦彦『「地蔵十王経」考』https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/51/1/51_1_189/_pdf/-char/en

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加持


何とてさやうに加持し給ふぞ。とてもかなはぬ事也。はやはや止め給へ(諸国百物語)、

の、

加持、

は、

加持祈祷、

の意で、

祭壇に護摩の火をたき、陀羅尼を唱え、印を結び、心を三昧にむける、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「加持(かぢ・かじ)」は、

梵語adhiṣṭhānaaの訳語、

で、原意は、

下に立つ、
支えとなる、

で、

所持、
加護、
護念、

などとも訳す(日本国語大辞典)仏語である。真言要記に、

加、諸仏大悲、來加行者持、行者信心、以感佛因、

とあり、それを、

「加」は、力を與ふること、「持」は、守りて失はざること(大言海)、
「加」は佛が衆生に応ずること、「持」は衆生がその仏の力を受けてうしなわないこと(岩波古語辞典)、
「加」は仏の大悲が衆生の宗教的素質に応ずることであり、「持」は信心する衆生が仏の加被力を受持すること(日本大百科全書)、

などとし、

加持の「加」は仏の慈悲の心がいつも衆生に注がれていることを意味し、その慈悲の心を良く感じ取ることができることを「持」と言う、

とあるhttps://www.homemate-research-religious-building.com/useful/glossary/religious-building/1994601/。それを、弘法大師は、

加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表す、

といったhttps://www.yuushouji.com/okajiとある。それは、

仏さまがいつ何時でも私たちを見守ってくれるという“慈悲の心”が「加」であり、私たちが仏さまを信じ、精進努力していこうという“信心”が「持」であります。そして、この慈悲と信心が一つになったとき、加持の力が生ずる、

と(仝上)解釈されている。だから、

願いを持つ人の想いを仏に届け、仏に加護を求める行為、

なのであり、代表的なのは、

祭壇を組んで火を焚き、護摩木をくべて「真言」(マントラ)と呼ばれる経を唱える、

スタイルである(仝上)。「加持」は、本来、

菩薩が人びとを守ること、
加護すること、

の意(八十華厳経)であるが、真言密教の、

(「加」を仏、菩薩の大悲のはたらき、「持」を人の信心と解して)菩薩の力が信じる人の心に加わり、人がそれを受けとめること。また、真言行者が口に真言を誦し、意(こころ)に仏、菩薩を観じ、手に印を結んで、この三密(さんみつ)を行ずるとき、仏、菩薩の三密と平等相応して、相互に融け合い、一体となること、

という、

真言密教の修行法、

を指し、さらに、転じて、

真言密教で行なう修法上の呪禁の作法、

つまり、

三密相応させて、欲するものの成就を得る、

という

真言密教の祈祷、

である、

行者が手に印を結び、陀羅尼(だらに)を唱え、心を三昧にすることで、これによって事物を清めたり、願いがかなうように仏に祈ること(岩波古語辞典)、
印相を結び、独鈷、三鈷、五鈷を用ゐ、陀羅尼を唱へながら、観想を以て、佛力の加護を祈る呪法(大言海)、

をいい、さらに転じて、

行者を請して率て来て加持せしむるにやや久(ひさしく)ありて焼せむる事をまぬかれぬ(「観智院本三宝絵(984)」)、

と、民間信仰と混合して、

祈祷、

と同義に用い、

わざわいを除くため、神仏に祈ること、

つまり、

病人加持(病気治癒)、
井戸加持(井戸水の清め)、
帯(おび)加持(安産の祈祷)
虫切加持(子供の夜泣き・疳の虫封じ)、
ほうろく加持(頭痛除けと暑気払い)、

などを言うようになる(精選版日本国語大辞典)。

密教では、空海の、

加持者表如来大悲与衆生信心。仏日之影現衆生心水曰加。行者心水能感仏日名持(「即身成仏義(823〜824頃)」)、

という、

即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)、

により、仏の大悲(だいひ)が衆生に加わり、衆生の信心に仏が応じて感応道交(かんのうどうこう)しあう、

ということを、

加持感応、

といい、

仏の大悲が衆生の宗教的素質に応ずるのが「加」であり、信心する衆生が仏の加被力を受持するのが「持」、

とし、本来、仏と衆生の本性とは、

平等不二、

であるとされ、仏の境地が衆生に直接体験されると考える。

行者の功徳力

如来の加持力

法界力、

の三力によって、われわれの行為とことばと心とが仏のそれらと合一することを、

三密(さんみつ)加持、

という。すなわち、

行者が手に仏の印契(いんげい)を結び(身密 しんみつ)、
仏の真言(しんごん)を唱え(口密 くみつ)、
心が仏の境地と同じように高められれば(意密いみつ)、

この身のままで仏になれる(即身成仏)と説く(日本大百科全書)。

しかし一般には、「加持」は、上述のように、

祈祷(きとう)、

の意に用いられ、

加持祈祷、

と並称されるが、「加持祈祷」は、

加持、

祈祷、

と言う2つの用語を合わせた言葉で、

加持と祈祷は多少概念が異なる、

とあるhttp://web.flet.keio.ac.jp/~shnomura/hayatine/kaisetu.htm。「加持」は、

護念・加護と相応し、かかわり合うことを意味する仏教の言葉、

であるが、「祈祷」は、

自己を崇拝対象にゆだねる宗教行為をさす諸宗教にみられる概念、

である(仝上)。

「加持祈祷」は、密教と密接な関係を持つ、

修験道、

で広く行なわれ、修験道の祈祷は、基本的には、

修法者が印契や真言によって崇拝対象と同化した上で守護や除魔をはかる、

というものである。

修験道の加持には、大別して、

帯加持・武具加持など加持の対象物に超自然力を付与する加持、
と、
土砂加持・病者加持など除魔を目的とする加持、

があるとされている(仝上)。「加持祈祷」というと、山岳信仰に仏教(密教)や道教(九字切り)等の要素が混ざりながら成立した、

修験道、

が思い起こされるのは、象徴的である。

因みに、「陀羅尼」とは、

サンスクリット語ダーラニーdhāraīの音写、

で、

陀憐尼(だりんに)、
陀隣尼(だりんに)、

とも書き、

保持すること、
保持するもの、

の意で、

総持、
能持(のうじ)、
能遮(のうしゃ)、

と意訳し、

能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力、

をいい(日本大百科全書)、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず、

サンスクリット語原文を音読して唱える、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC。ダーラニーとは、

記憶して忘れない、

意味なので、本来は、

仏教修行者が覚えるべき教えや作法、

などを指したが、これが転じて、

暗記されるべき呪文、

と解釈され、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった(仝上)。だから、

一種の記憶術、

であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることをいい、それは、

暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事、

を目的とし(仝上)、

種々な善法を能く持つから能持、
種々な悪法を能く遮するから能遮、

と称したもので、

術としての「陀羅尼」の形式が呪文を唱えることに似ているところから、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった

とある(精選版日本国語大辞典)のは、

原始仏教教団では、呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典のなかにも取入れられた。『孔雀明王経』『護諸童子陀羅尼経』などは呪文だけによる経典で、これらの呪文は、

真言 mantra、

といわれたからだが、普通には、

長句のものを陀羅尼、
数句からなる短いものを真言(しんごん)、
一字二字などのものを種子(しゅじ)

と区別する(日本大百科全書)。この呪文語句が連呼相槌的表現をする言葉なのは、

これが本来無念無想の境地に至る事を目的としていたためで、具体的な意味のある言葉を使用すれば雑念を呼び起こしてしまうという発想が浮かぶ為にこうなった、

とする説が主流となっている(仝上)とか。その構成は、多く、

仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次に、タド・ヤター(「この尊の肝心の句を示せば以下の通り」の意味、「哆地夜他」(タニャター、トニヤト、トジトなどと訓む)と漢字音写)と続き、本文に入る。本文は、神や仏、菩薩や仏頂尊などへの呼びかけや賛嘆、願い事を意味する動詞の命令形等で、最後に成功を祈る聖句「スヴァーハー」(「薩婆訶」(ソワカ、ソモコなどと訓む)と漢字音写)で終わる、

とある(仝上)。

『大智度論(だいちどろん)』には、

聞持(もんじ)陀羅尼(耳に聞いたことすべてを忘れない)、
分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する)、
入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声によっても左右されることがない)、

の三種の陀羅尼を説き、

略説すれば五百陀羅尼門、
広説すれば無量の陀羅尼門、

があり、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』は、

法陀羅尼、
義陀羅尼、
呪(じゅ)陀羅尼、
能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼(忍)、

の四種陀羅尼があり、『総釈陀羅尼義讃(そうしゃくだらにぎさん)』には、

法持(ほうじ)、
義持(ぎじ)、
三摩地持(さんまじじ)、
文持(もんじ)、

の四種の持が説かれている(仝上)。しかし、日本における「陀羅尼」は、

原語の句を訳さずに漢字の音を写したまま読誦するが、中国を経たために発音が相当に変化し、また意味自体も不明なものが多い、

とある(精選版日本国語大辞典)。

なお、「陀羅尼」は、訛って、

寺に咲藤の花もやまんたらり(俳諧「阿波手集(1664)」)、

と、

だらり、

ともいう。

なお、「独鈷」については「金剛の杵」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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検校


奥嶋検校といふ人、そのむかし六十余まで、官一つもせざりし故、方々、稼ぎに歩くとて(諸国百物語)、
過分に金銀をまうけ、七十三にて、検校になり、十老の内までへ上り、九十まで生きられて(仝上)、

とある、

検校、

は、

座頭官位の最高職、

で、

十老、

は、

検校の中の長老職、全国座頭の惣頭職、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「検校」は、

建業、

とも表記する(精選版日本国語大辞典)。

座頭の官位、

は、

座頭、
勾当、
別当、
検校、

の四階級からなり、金で官位を買うのが普通、

ともある(仝上)。

「検校」は、

此の語、撿挍、檢挍、檢校と三使用あり、語原に従ひて、檢校(検校)と定む、

とある(大言海)が、

撿挍(けんこう)、

は漢語で、

唐代の官名(唐書・百官志)、

とあり、

檢挍、

と同じとある(字源)。「検校(けんげう)」は、

点検典校、

の意からきており(日本大百科全書)、

点検し勘校する、

意として(広辞苑)、あるいは、

殿、左の馬寮うまづかさの検校(けんげう)し給ふ(宇津保物語)、

などと、

検査し監督する、

意で使うが、中国では、

経籍(けいせき)をつかさどる官名、

などに用いる。因みに、「経籍」は、

きょうしゃく、

とも、また、

「Physica……カノガクモンヲ スル qiǒjacu(きゃうじゃく)(「羅葡日辞書(1595)」)、

と、

きょうじゃく、

とも訓ませ、

経典やそのほかの文書、

の意である(精選版日本国語大辞典)。南北朝以来、

検校御史、
検校祭酒、

など、

正官を授けられずその任にあたるとき、仮官として検校の字を冠する、

という(世界大百科事典)。宋代には、

検校太師から検校水部員外郎まで多くの名目的な、

検校官、

があり、武官に文官の肩書として与え、また文官を武官に任命するときこれを加えた。元代の中書省には、

検校官、

という公文書を扱う官があり、明代の各官庁にも置かれ、清代には各府に置かれた(仝上)とある。

日本では、

事務を検知校量する、

ことから、

郡司、検校を加へず、違ふこと十事以上ならば即ちその任を解く(続日本紀)、

と、

平安・鎌倉時代の荘官(しょうかん)の職名に用いられた(仝上)。特に僧職の名として用いられる場合が多く、

寺社の事務を監督する職掌、

をいい(日本大百科全書)、

(石清水八幡の)馬場殿の御所あきたり。検校などが籠りたる折もあけば(「問はず語り(鎌倉時代の中後期)」)、

と、

東大寺・高野山・石清水・春日、

など重要な寺社に置かた(大辞林)、常置の職としては、寛平八年(896)、

東寺の益信(やくしん)が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)検校に任ぜられた、

のが初出で、

高野山(こうやさん)、熊野三山、無動寺、

などにおいても、一山を統領する職名で、

法会(ほうえ)や修理造営の行事を主宰する者、

の呼称としても用いられる(仝上)。

いわゆる、

琵琶・管弦、および按摩・鍼治などを業とした盲人に与えられた官位の総称、

の意の、

盲官(もうかん)、

としての、

検校、

は、

仁明天皇(810〜50年)の子である人康(さねやす)親王が若くして失明し、そのため出家して山科に隠遁した。その時に人康親王が盲人を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えた。人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の二官が与えられた、

のが嚆矢とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A1。室町時代には、

明石覚一(覚一検校)、

によって組織化されたといわれる盲目の琵琶法師(びわほうし)仲間、

当道(とうどう)座、

の長老も検校とよばれ、紫衣を着し、両撞木(モロシユモク)の杖をもつことが許された(大辞泉)。『師守(もろもり)記』貞治(じょうじ)二年(1363)の、

覚一(かくいち)検校、

が初見とされる(日本大百科全書)。

「当道(とうどう)」というのは、

その芸能が〈平曲〉としてとくに武家社会に享受され、室町幕府の庇護を受けるに及んで、平曲を語る芸能僧たちは宗教組織から離脱して自治的な職能集団を結成、宗教組織にとどまっていた盲僧と区別して、みずからを、

当道、

と呼称した(世界大百科事典)ことからきている。「当道」は、

特定の職能集団が自分たちの組織をいう語、

だが、したがって、狭義には特に、

室町時代以降に幕府が公認した盲人の自治組織、

をいい(ブリタニカ国際大百科事典)。そののち、

妙観、師道、源照、戸嶋、妙聞、大山、

の六派に分かれ、一種の「座」として存在し、その内部で階級制を生じ、

検校、別当、勾当、座頭、

の別を立て(仝上)、特に最高位の検校は、

職検校、
または、
総検校、

といい、1人と定められ、職屋敷を統括した(仝上)とある。江戸時代には当道座が幕府によって認められ、

惣(そウ)検校、

の下に、

検校・別当・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)、

の官位があり(日本大百科全書)、さらに細分して、

16階73刻、

に制定された(ブリタニカ国際大百科事典)。

江戸には関八州の盲僧を管轄する、

惣録(そうろく)検校、
総検校、

も置かれ、

平曲のほか地歌、箏曲(そうきょく)、鍼灸(しんきゅう)、按摩(あんま)、

などに従事する者で官位を目ざす者は試験を受け、多額の金子(きんす)を納めてこの職名が授けられた(日本大百科全書)。検校になるためには、1000両を要するといわれ、総検校は10万石の大名と同等の格式があった(ブリタニカ国際大百科事典)。

因みに、「平曲」というのは、

平家琵琶、
平語(へいご)、
平家、

とも呼ばれた、

琵琶を弾きながら、《平家物語》の文章を語る語り物音楽、

をいい(世界大百科事典)、

《平家物語》の詞章の改訂に着手した如一の弟子で〈天下無雙(むそう)の上手〉といわれた明石覚一(あかしかくいち)がさらに改訂・増補を重ね、〈覚一本〉とよばれる一本を完成し、一方流平曲の大成者として以後の平曲隆盛の基盤をつくった、

とされる(仝上)。

江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となったようだ。

平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられたが、それには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認された。最低位から検校になるまでには総じて、

719両、

が必要であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A1という。

江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となり、また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる。

学者として有名な検校には、「群書類従」の編者、

塙保己一(保己一)、

音楽家としては、生田流箏曲の始祖、

生田検校(幾一)、

山田流箏曲の始祖、

山田検校(斗養一)、

鍼で管鍼法を確立した、

杉山和一(和一)、

地歌の「京流手事物」を確立、多くの名曲を残した、

松浦検校(久保一)、

将棋の戦法のひとつである石田流三間飛車の創始者、

石田検校、

等々がいるが、

勝海舟、男谷信友の曽祖父、

米山検校(銀一 男谷検校)、

もいる(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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目に一丁字


「目に一丁字」は,

目に一丁字なし,
とか,
目に一丁字を識らず,

といった言い方をする。この場合,

いっちょうじ,

とは訓まず,

いっていじ,

と訓ませる。『広辞苑』には,

「『丁』は『个(か)』の古い書体を誤読したもの。『个』は『箇』に同じ」

とあり,「一丁字」は,

ひとつの文字,

という意味になる。『大言海』にも,

「一丁字は,一个字の誤写」

として,

「正字通,一ノ部,丁『五代史,唐張弘靖曰,転訛無事,汝輩挽兩石弓,不如識一丁字云々,按續世説,一丁,作一个,因形相似,傳寫譌(あやまって)為丁』

を載せる。因みに,「箇(个・個)」の項で,

「『ケ』とも記すは,个の譌(アヤマリ)とも思へど,箇を省きて,竹冠の一片を取るなるべし」

とある。片仮名の作り方と同じである。

「丁」の字は, 「一張羅」(
http://ppnetwork.seesaa.net/article/453524007.html)で触れたように,象形文字で,

「甲骨・金文は特定の点,またはその一点に打ち込む釘の頭を描いたもの。篆文はT型に書き,平面の一点に直角にくぎをあてたさま。丁は釘(テイ くぎ)の原字」

で,チョウともテイともトウとも訓む。十干の「丁(ひのと)」であり,「(年順・時・役目に)あたる」とか荘丁というように「壮年の男」とか,園丁というように「人夫」の意味になる。日本語で使うような,

紙数を数える一丁,
町の通路,
距離の単位,

は,日本だけの用法となる。

「一丁字なし」には出典があり(
https://kanbun.info/koji/itteiji.html),

には,

『唐書』張弘靖伝,
『資治通鑑』

とされ,『大言海』と同じく,

「今天下太平。汝曹能挽兩石弓、不若識一丁字。」

を載せる。

両石の弓を挽くも,一丁字を識るに若しかず,

と。しかし,司馬光が『資治通鑑』に,こう載せるには,「一丁字を識る」という言葉が,膾炙していたからのことと思われる。この出典があるはずである。

『旧唐書』張弘靖について,

「安禄山の乱がようやく終息したころの唐の国に張弘靖というひとがいました。父も祖父も中書令を務めたという文官の家系ですが、幽州の節度使に任命されます。節度使は、一定地域の文政と軍政両方の長ということになりますが、唐代後期の実態は地方の治安を保っているのは軍隊の力によっていましたので、軍隊を統率することが最大の任務でした。しかし、張弘靖本人も軍人の労苦などは知らないタイプだったのですが、その取り巻きたち(韋雍・張宗厚という名前が遺っている)は日夜酒を嗜み、毎晩のように住居中に灯りをつけさせるなど質実の風習を持っていた幽州軍団には理解のできない振る舞いをした。さらに、このあたりの軍隊はほとんど薊人という蛮人から構成されていたのですが、この薊人どもをバカにして、
今天下無事。汝輩挽得両石力弓、不如識一丁字。
今、天下事無し。汝輩は両石の力弓を挽(ひ)き得るとも、一丁字を識るに如かず。
いまは(安史の乱も治まり)天下に軍隊が活躍するような事件はない。おまえらは、いくら両石の(ものを持ち上げるような)チカラでやっと引ける弓を引くすごい怪力を持っているといったって、(内地の)わずか一つの「丁」という字を書けるやつにもかなわないのだ。
これが、無学文盲の者を「目に一丁字も無い」と言う言い回しの初見なのだそうです。」

とある(
http://www.geocities.jp/kanreisai/nikki.18.11.20.htm)。この出典から考えると,「个」の誤写というのは,正しいのか。原典を写すときに,「个」を誤写したというよりは,そもそも「丁」の字すら知らない,という言い方に意味があるのかもしれない。

しかし。おなじところで,二つの説を載せている。ひとつは,「个」を誤写説。いまひとつは,「十」の誤写説。

宋の王勉夫は,

「按続世説書此个字、蓋个与丁相似、伝写誤焉。・・・僕又観蜀志・南史、皆有所識不過十字之語、史通謂王平所識、僅通十字。恐是十字、亦未可知。十与丁字又相似。其文益有拠也。」(「野客叢書」巻二十一)

と書いている(
http://www.geocities.jp/kanreisai/nikki.18.11.20.htm)由で,

「按ずるに『続世説』にこれを『个』(コ)字に書す、蓋し『个』と『丁』と相似て、伝写して誤るなり。・・・僕また『蜀志』『南史』を観るに、皆『識る所十字に過ぎず』の語有り、『史通』に謂う『王平の識る所、僅かに十字に通ずるのみ』と。恐るらくはこれ十字ならんか、また未だ知るべからず。『十』と『丁』字また相似る。その文ますます拠る有るなり。」

と,

「『个』(コ)字に書す、蓋し『个』と『丁』と相似て、伝写して誤るなり」

の,「一个字も知らず」か,

「『十』と『丁』字また相似る。その文ますます拠る有るなり。」

の,「十文字も知らず」か,

ということになる。王勉夫は,「十」の誤写説を取るらしいが,「个」の誤写説を一般に取っているのが,かえってよくわかる気がする。

参考文献;
http://www.geocities.jp/kanreisai/nikki.18.11.20.htm
http://blog.q-q.jp/201004/article_13.html
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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