ホーム 全体の概観 侃侃諤諤 Idea Board 発想トレーニング skill辞典 マネジメント コトバの辞典 文芸評論


コトバ辞典


答拝(たっぱい)


おもての座敷に請じ入れて、答拝(たっぱい)すること限りなし(奇異雑談集)、

とある、

答拝(たっぱい)、

は、

中古、大饗(たいきょう)のおりなどに尊者が来たとき、主人が堂をおりて迎え、共に拝したことから転じて、丁寧な取り扱い、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「答拝(とうはい)」は、

君於士不答拝也、非其臣則答拝之、大夫於其臣、雖賤必答拝之(礼記)、

と、

先方の敬礼にむくいて拝礼する、

意の漢語である(字源)。「答拝」を、

タッパイ、

と訓ませるのは、

「たふはい」の変化した語(精選版日本国語大辞典)、
タフハイの転(岩波古語辞典)、
此の語、たふはいなれども、つめてたっぱいとよむ(大言海)、

とあり、漢語の音読の転訛ということである。『源氏物語』(第四十九帖)には、

あざやかなる御直衣御下襲(したがさね)などたてまつり引きつくろひて、下(お)りてたうのはいをしたまふ御さまどもとりどりにいとめでたく、

と、

たうのはい(答の拝)

とある。

『後松日記』(江戸後期の有職故実家・松岡行義)に、

賀儀ノ時、拜スル人來リテ、先ヅ殿ニ向ヒテ、拜セムトスル時ニ、主人モ庭ニ下リテ、コレニ答ヘテ拜スルコトナルベシト云フ、

とある。名目抄(塙保己一(はなわほきいち)編『武家名目抄』)には、

答拝(タウハイ)、尊者來家拜之時、降堂共拜スルヲ云フ也、

弾正臺式には、

凡親王大臣及一位二位、於五位以上答拝、於六位以下不須、

とあるので、昇殿を許される五位までは「答拝」するが、それ以下は「須(もち)いず」ということになる。

大臣大饗考に、関白殿答拝のことを示すなどあり、関白殿、御出あれば、下りあひて互いに拜することなり、

とあり(大言海)、俗に、

をがみたっぱいすると云ふ、

ともある(仝上)。この、

大饗の際など、身分の高い人が来臨した時に主人が堂を降りてともに拝礼する、

という意が、転じて、

たまのかぶりをちにつけて、たっはいめされておはします(説経節「さんせう太夫ろ」)、

と、

丁重なお辞儀、
丁寧なあいさつ、

の意に変わり、

あまりにわらはをちそうたっはいめされ候つる程に(御伽草子「彌兵衛鼠」)、
余人は知らず某へは、逆様に這つくばい、馳走答拝(タウハイ)すべき筈(浄瑠璃「伽羅先代萩」)、

などと、多く、

馳走答拝、

の形で、

手厚いもてなし、
丁重な取り扱い、
立派な待遇、

といった意でも用いる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。なお「馳走」については「ごちそうさま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447604289.htmlで触れた。

因みに、「大饗(たいきょう)」は、

だいきょう、

とも訓み、「大饗」は、


みあへ、

「大御饗」は、

おおみあへ、

と訓読される(精選版日本国語大辞典)。

もともとあった饗宴名に漢語があてられ成立した、

とみられる(仝上)。

饗(あへ)の大なるもの、

の意で、「饗(あへ)」は、

あふ(饗)、

の名詞形で、

饗応(きょうおう)する、
ごちそうする、

意である。「大饗」は、

平安時代、年中行事として、内裏または大臣の邸宅で行われた大きな饗宴、

で、

二宮(にぐう)の大饗、
大臣(だいじん)の大饗、

があり、二宮(にぐう)の大饗は、

禁中正月二日の公事なり、群臣、中宮東宮に拝礼して後に、玄輝門(げんきもん 内裏の内郭門の1つ)の西廊にて、中宮の饗宴を受けて禄を賜り、続いて東廊に移って東宮の饗宴を受けて禄を賜る、

とあり(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A5%97)、大臣の大饗は、

大臣に任ぜられたる人ある時にあり(任大臣大饗)。又大臣家にて、正月、面々次座の大臣以下の公卿を里亭(公卿の私邸。里は内裏に対する語)に招き請じて饗すること(正月大饗)、

とある(仝上)。因みに、「祿を賜る」とは、

功を賞し労をねぎらうために、布帛や金銭などを「禄物(ろくもつ)」や「かずけもの」として賜る、

の意とあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1373659198

室町時代には、この「大饗」の様式が変化して、

本膳料理、

が成立するが、「本膳料理」は「懐石料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.htmlで触れた。

「答」(トウ)は、「いらう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484667446.htmlで触れたように、

会意。「竹+合」で、竹の器にぴたりとふたをかぶせること。みとふたがあうことから、応答の意となった、

とある(漢字源)。別に、

形声。竹と、音符合(カフ)→(タフ)とから成る。もと、荅(タフ)の俗字で、意符の艸(そう くさ)がのちに竹に誤り変わったもの。「こたえる」意を表す、

とも(角川新字源)ある。

「拝(拜)」(漢音ハイ、呉音ヘ)は、

会意。両手を合わせる様。元は、「𢫶(上部は両手で、下部は「下」)」。古体「𢱭」は、「手」+「𠦪(『説文解字』においては音「コツ(忽)」)」、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8B%9D

「整った捧げ物」(藤堂明保)、
「花束」(白川静)、

と、「𠦪」の解釈が分かれる。

それらを両手に持ってささげる様、

の意で、「花束」も「捧げもの」の一つと見なせば、

「整った捧げもの+手」で、神前や身分の高い人の前に礼物をささげ、両手を胸もとで組んで敬礼することを示す(漢字源)、

会意。手と、𠦪(こつ は省略形。しげった草を両手で持つ)とから成る。両手に草を持って神にささげるさまにより、神にいのる、「おがむ」意を表す(角川新字源)、

会意文字です。「5本指のある手」の象形(「手」の意味)と「枝のしげった木」の象形から、邪悪なものを取り除く為に、たまぐし(神社を参拝した人や神職が神前に捧げる木綿をつけた枝の事)を手にして「おがむ」を意味する「拝」という漢字が成り立ちましたhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8B%9D

の諸説は、広く「捧げもの」とみられるが、別に、

会意形声。「𠦪」は「ヒ(比)・ヘイ(並)」の音を有する「腹を割いて晒した生贄」(山田勝美)、

とする説も、「捧げもの」説に含まれる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

上へ


面桶(めんつう)


水飲みたきよし申すほどに、おりて井をたづね、面桶(めんつ)に汲んで(奇異雑談集)、

にある、

面桶、

とあるのは、

飯を盛る曲物(まげもの)、めんつう、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「桶」を「つう」と訓ませるのは、

唐音、

の故である(広辞苑)。

面扶持(フチ)の意、

とある(大言海)。「面扶持」は、

家族の人数に応じて与えられた給与の米(扶持米)、

の意で、

飯を盛りて、一人ずつ、面前に當て配るに用ゐる器(棬物(ワゲモノ)なり)、即ち、曲物造りのべんたうばこ、

だからとしている(仝上)。書言字考節用集(江戸初期)も、

面桶、本朝行厨、就一人面、而與一器、故名、

とある。

わりご、
とんじき、

ともいう(仝上)。つまり、「面桶」は、

一人前ずつ飯を盛って配る曲げ物、

の意だが、江戸時代には、

乞食が施しを受ける器(陶器でも金属でも)を面桶(めんつう)と言うようになった、

とあるhttp://sadoukenkyu.blogspot.com/2017/02/blog-post.htmlので、

乞食の持つもの、

をもいうようになる(広辞苑)。

めんぱ、
めんつ、

ともいう(仝上・日本国語大辞典)。ただ、

面桶をとりて、かまのほとりにいたりて、一桶の湯をとりて、かへりて洗面架のうへにおく(正法眼蔵)、

と、「洗面」の項に「面桶」が出てくるので、

顔を洗う水を入れる桶、

でもあったらしい。大きさが同じかどうかはわからない。

茶道では、

建水(けんすい)、

といい、

面桶の形を模したもの、

である(精選版日本国語大辞典)。

茶席で茶碗を清めた湯や水を捨てる器、

をいい、

通称「こぼし」、

古くは、

水翻(みずこぼし)、
水覆(みずおおい)、
水下(みずこぼし)、
水翻・水飜(みずこぼし)、

とも書いた。もともと、

台子皆具(だいすかいぐ 台子茶道具を置くための棚物、茶道具一式が揃っている)の一つとして、中に蓋置(ふたおき)を入れて飾った、

とある。建水には、

金属、
陶磁、
木竹、

の3種類があるが、木竹は、

曲(まげ)、

といわれるもので、

もっとも素朴で清浄感のある、

木地(きじ)曲、

のほか、

塗曲、
蒔絵(まきえ)、
箔(はく)押しを施したもの、
竹や桜皮を周囲に張り巡らせたもの、

等々もある(日本大百科全書)。

江戸初期の茶人・久保長闇堂『長闇堂記』には、

一つるへの水さし、めんつうの水こほし、青竹のふたおき、紹鴎、或時、風呂あかりに、そのあかりやにて、数寄をせられし時、初てこの作意有となん、

とあるhttp://verdure.tyanoyu.net/kensui_mentuu.html

紹鴎や利休が工夫した、

とされるhttp://sadoukenkyu.blogspot.com/2017/02/blog-post.htmlが、藪内家第五世・藪内竹心(やぶのうち ちくしん)の著した茶書『源流茶話』(元禄時代)に、

古へこぼしハ合子、骨吐、南蛮かめのふたのたぐひにて求めがたき故に、紹鴎、侘のたすけに面通を物すかれ候、面通、いにしへハ木具のあしらひにて、茶湯一会のもてなしばかりに用ひなかされ候へハ、内へ竹輪を入れ、組縁にひさくを掛出され候、惣、茶たて終りて、面通の内へ竹輪を打入られ候は、竹輪を重て用ひ間敷の仕かたにて、客を馳走の風情に候、

とあり、紹鴎が茶席に持ち込んだとされhttp://verdure6.web.fc2.com/yogo/yogo_ke.html#genryuucyawa、また、江戸中期の『茶湯古事談』には、

面桶のこほしハ巡礼か腰に付し飯入より心付て紹鴎か茶屋に竹輪にふた置(竹蓋置)と取合せて置れしを、利休か作意にて竹輪も面桶も小座敷へ出しそめしとなん、

とあるhttp://verdure.tyanoyu.net/hutaoki_take.html。天正18年(1590)秀吉が小田原城攻めの後に湯治中の有馬温泉で催した茶会を、秀吉の同朋衆から有馬の阿弥陀堂に知らせた手紙に、

水こほしめんつう、……利休茶たう(茶頭)被仕候也、

とある(仝上)。

「面」(漢音ベン、呉音メン)は、

会意。「首(あたま)+外側をかこむ線」。頭の外側を線でかこんだその平面を表す、

とあり(漢字源)、

指事。𦣻(しゆ=首。あたま)と、それを包む線とにより、顔の意を表す(角川新字源)、
指事文字です。「人の頭部」の象形と「顔の輪郭をあらわす囲い」から、人の「かお・おもて」を意味する「面」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji541.html

も、漢字の造字法は、指事文字としているが、字源の解釈は同趣旨。別に、

仮面から目がのぞいている様を象る(白川静)、

との説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A2もある。

「桶」(漢音トウ、呉音ツウ)は、

会意兼形声。甬(ヨウ)は、通の元の字で、つつぬけになること。桶は「木+音符甬」、

とあり(漢字源)、「おけ」の意を表す(角川新字源)。別に、

会意兼形声文字です(木+甬)。「大地を覆う木」の象形と「甬鐘(ようしょウ)という筒形の柄のついた鐘」の象形(「筒のように中が空洞である」の意味)から、「中が空洞の木の器、おけ」を意味する「桶」という漢字が成り立ちました、

とする説もあるhttps://okjiten.jp/kanji2512.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


詮なし


しかしながら、皆夜の錦にして、詮なし。久しく見ることあたはずして去る(奇異雑談集)、

にある、

詮なし、

は、

詮無し、

とも当て、

しかたがない、
無益である(広辞苑)、

あるいは、

何かをしても報いられない、
かいがない(デジタル大辞泉)、

あるいは、

ある行為をしても、しただけの効果や報いがなにもない、
やる甲斐(かい)がない(日本国語大辞典)、

あるいは、

しかたがない、
かいがない、
無益だ(大辞林)、

といった意味になるが、

しかたがない、

と、

かいがない、

と、

無益である、

とは、意味が重なるようで、微妙に違う気がする。たとえば、

ある行為をしても、しただけの効果や報いがなにもない→やる甲斐がない→しかたがない→無益だ、

といった意味の変化だろうか。ある意味で、

効果や報いがなにもない、

という状態表現から、

やる甲斐がない→しかたがない→無益だ、

と価値表現へとシフトしていった、ということになる。

「詮」は物事の理の帰着するところ、

とあり(岩波古語辞典)、

詮、具説也、解喩也、

ともある(大言海)が、「詮」の漢語の意味ではなく、日本独自の使い方が背景にある。

「詮」(セン)は、

会意兼形声。全(ゼン)は「集めるしるし+工または玉」の会意文字で、物を程よくそろえること。詮は「言+音符全」で、ことばを整然ととりそろえて、物事の道理を明らかにすること、

とある(漢字源)。同趣旨だが、

会意形声。「言」+音符「全」。「全」は、「亼(覆いの下に集める)」+「工」又は「玉」で、工芸物などを集めそろえること。言葉を集め、道理に従い解く、集めたものを選り分ける(「銓」「選」と同義)の意、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A9%AEあり、別に、

会意兼形声文字です(言+全)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「入口の象形と握る所のある、のみの象形または、さしがねの象形」(入口の倉庫などに工具を保管する所から、「保つ、備わる」の意味)から、「備わっている説明」を意味する「詮」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji2134.htmlあるが、漢語では、

具説(大言海)、

つまり、

そなわる、

意で、「真詮」(しんせん)というように、

ことばや物の道理が整然とととのっている、また、物事に備わった道理、

を意味し、また、「詮解」(せんかい)、「詮釈」(せんしゃく)というように、

物事の道理をつまびらかにとく、ときあかす、

意であり、また、「詮衡」「擇言」というように、

えらぶ、言葉や物事をきれいにそろえて、よいもの、ただしいものを選ぶ、

という意味である(漢字源)。

解喩(大言海)、

は、

さとす、

という意味になる(字源)。しかし、わが国では、「詮」を、

詮じつめる、
詮ずる、

と、

筋道を追ってよく考える、つきつめて考える、

意や、

詮も尽き果てぬ、

というように、

為すべき手段、すべ、

の意や、

詮なきこと、

というように、

物事のしたかい、効果、甲斐、

の意や、

詮ずる所、此の趣をこそ披露仕り候はめ(平家物語)、

と、

所詮、結局、

という意で使い、

身の衰へぬる程も思ひ知られて、今更詮方無うこそおぼえさぶらへ(平家物語)、

と、

なすべき方法がない、
しかたがない、
こらえようがない、

意の、

せんかたない(為ん方無い・詮方無い)、

とも使う。

「詮」の日本的な意味を追うと、

筋道を追ってよく考える、つきつめて考える、

為すべき手段、すべ、

物事のした甲斐、

と、やはり、筋道を追っていく状態表現から、その手段、甲斐へと価値表現シフトし、

所詮、

と、

詰まる所、

へ行きつく(「甲斐」http://ppnetwork.seesaa.net/article/398819285.htmlについては触れた)。そこには、暗に、

無益、

というより、

諦め、

の含意がある気がする。

類義語「仕方がない」http://ppnetwork.seesaa.net/article/419038957.htmlで触れたように、「仕方がない」は、多く、

諦め、

の含意がある。語源的には、

「シカタ(手段。方法)+が+ない」

で、どうにもならない、やむを得ない、という意味である。

理不尽な困難や悲劇に見舞われたり、避けられない事態に直面したりしたさいに、粛々とその状況を受け入れながら発する日本語の慣用句、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E6%96%B9%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84。同義の表現として、

仕様がない、
やむを得ない、
せんない、
詮方ない、
余儀ない、
是非も無し、
是非も及ばず、

がある。どちらかというと、

他に打つ手がない、
そうする他ない、
避けて通れない、
逃げられない、
不可避の、

という色合いが濃い。「おのずから」そうなっているという、

「なるべくしてなった」という力、

を強く感じとっている、無常観にも通じるのかもしれない(「おのずからとみずから」http://ppnetwork.seesaa.net/article/415685379.htmlで「おのずから」については触れた)。信長が、本能寺で、

是非に及ばず

ということばも、それに近い。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


素襖


衣装は、花色(かしょく)事をつくす。上には捩(もじ)の透素襖(すきずおう)に、白袴にちぢみを寄せたり(奇異雑談集)、

にある、

捩(もじ)の透素襖(すきずおう)、

は、

麻糸をもじって目をあらく織った布で仕立てた、夏用の素襖。室町時代の略儀用上衣、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。ちなみに、「花色」は、

華美、

の意だが、

華飾、
花飾、
過飾、

とも当て、

華美に飾り立てること、

をいう(デジタル大辞泉)。

「素襖」(すあを、すあふ、すおう)は、

素袍、

とも当て、

直垂ひたたれの一種、

で、

大紋から変化した服で、室町時代に始まる、

とある(広辞苑)。

素は染めず、裏なき意あり、誤りて、素袍とも書す、然れども、襖も、袍も、うへのきぬなれば、借りて用ゐたるにや、

とし(大言海)。

狩襖(かりおう 狩衣)の、表、布にて、裏絹なるものの、裏をのぞきたるものと云ふ、されば布製にて、即ち、布衣(ほうい)なり、

とある(大言海)。江戸後期の武家故実書『青標紙』(あおびょうし)に、

素袍は、上古、京都にて、軽き人の装束にして、布にて拵へて、文柄も無く、ざっとしたる物故、素とも云ふ、襖は、袍と同じ、上に著たる装束の一體の名なり、

あるように、

もと庶人の常服であったが、江戸時代には平士(ひらざむらい)・陪臣(ばいしん)の礼服となる。麻布地で、定紋を付けることは大紋と同じであるが、胸紐・露・菊綴きくとじが革であること、袖に露がないこと、文様があること、袴の腰に袴と同じ地質のものを用い、左右の相引と腰板に紋を付け、後腰に角板を入れることなどが異なる。袴は上下(かみしも)と称して上と同地質同色の長袴をはくのを普通とし、上下色の異なっているのを素襖袴、半袴を用いるのを素襖小袴という、

とある(広辞苑)。

「直垂」(ひたたれ)は、

(水干と同様)袴の下に着籠めて着用する、

のが普通で、もともとは、

上衣、

の名称で、袴は別に、

直垂袴、

と言っていたが、袴に共裂(ともぎれ)を用いるに及んで、袴も含めて、

直垂、

と呼ぶに至り、単に、

上下(かみしも)、

とも呼んだ(有職故実図典)。

垂領(タリクビ)・闕腋(ケツテキ 衣服の両わきの下を縫いつけないで、開けたままにしておくこと)・広袖で、組紐(クミヒモ)の胸紐・菊綴(キクトジ)があり、袖の下端に露(ツユ)がついている上衣と、袴と一具となった衣服。古くは切り袴、のちには長袴を用いた、

とある(大辞林)。

水干((http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.html))が、

盤領(あげくび いわゆる詰め襟で、首の回りを囲む丸首式のもの)、

で、庶民の中でも上層が用いたのに対し、「直垂」は、一般庶民が用い、

身二幅、

で、

首より前は切り欠いて領(えり)を廻らし、

垂領(たりくび たれえり・すいりょう 襟を肩から胸の左右に垂らし、引き合わせて着用)、

にして引き合わせるもので、袖も細く、短い袴の下に付けた、

労働服、

であった(有職故実図典)。

で、上位の武士は水干を用い、その郎従等は直垂を着用したが、鎧の下に着るのに便利なことから(鎧(よろひ)直垂)、漸次上位の武士が用い、やがて、袖も大きく、体裁が整えられていく。もっとも、従来の直垂は、

袖細(そでぼそ)、

としてなお下層の料として用いられる。鎌倉時代以後は、武家の幕府出仕の服となり、室町時代からは礼装の簡略化とともに礼服に準じ、出仕の服となり、直垂から分化した、

大紋、
素襖、

よりも上級の礼服とされ(岩波古語辞典)、近世は侍従以上の礼服とされ、風折烏帽子(かざおりえぼし)・長袴とともに着用した。公家も内々に用いた。地質は精好(せいごう)、無紋、5カ所に組紐の菊綴(きくとじ)・胸紐があり、裏付きを正式とした(広辞苑)。

「直垂」の由来は、

もと、宿直(とのい)の時、直衣(トノイギヌ)の上に着たるものと云ふ。上に直(ヒタ)と垂るる意の名なるべし、身の前後共に短く、帯なく、袴に着込み、武士の専用となれるも、宿衛に必ず着たるに起これるなるべし、

とある(大言海)。江戸後期の有職故実書『四季草(しきくさ)』(伊勢貞丈)に、

古は官位なき侍も、式正の時は、素襖を脱ぎて直垂を着しけるなり……御当家(徳川家)に至りて、武家の礼服の階級を改めたまひて、四位の侍従已上は、精好の直垂、四品は狩衣、諸大夫は布直垂(大紋)、重き役人は布衣、其外は素襖と、御制法を立てられる、

とある。

ぬのひたたれ、
ぬのびたたれ、

ともいい、

大形の好みの文様または家紋を5カ所(正面肩下、両袖、背上)に刺繍や型染めなどで表した、平絹や麻布製の直垂、

をいう(広辞苑・岩波古語辞典)。室町時代に始まり、江戸時代には五位の武家(諸大夫)以上の式服と定められ、下に長袴を用いた。袴には、合引と股の左右とに紋をつける。

本名、ぬのびたたれ、布製の直垂にて、家の紋を大きくつくるもの、上の紋は五つ處なること、素襖のごとく、下は長袴にて、腰板に紋なく、合引と尻と股腋の左右とに紋あり、諸大夫の服とす、風折烏帽子に小さ刀、布直垂なり、

とある(大言海)。

「直垂」、「大紋」、「素襖」の構成は、

「直垂」は、通常、

烏帽子、
直垂、
大帷(おおかたびら 麻布製、単(ひとえ)仕立ての汗取ともよばれた夏の下着である帷が、中世後期より服装の簡略化とともに、小袖(こそで)の上に夏冬とも大帷と称して用いられた)、
小袖、
小刀(ちいさがたな 腰刀)、
末広(すえひろ 末広扇)、
鼻紙袋、
緒太(おぶと 鼻緒の太いもの)、

よりなるが、徳川時代は、

「直垂」(侍従以上の料)は、

風折烏帽子、
精好(せいごう 地合いが緻密で精美な織物)直垂、
白小袖、

「大紋」(諸大夫の料)は、

風折烏帽子、
大紋、
熨斗目小袖(腰の部分だけに縞や格子模様を織り出した絹織物の小袖)、

「素襖」(平士、陪臣の料)は、

侍烏帽子、
素襖、
熨斗目の小袖、

となっている。因みに、「風折烏帽子」は、

風で吹き折られた形の烏帽子、

の意で、

頂辺の峰(みね)の部分を左または右に斜めに折った烏帽子。左折りを地下(じげ)の料とし、右折りを狩衣着用の際の上皇の料とする。近世は紙製で形式化し、皺(しぼ)を立てて黒漆塗とする、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「烏帽子」は、直垂の場合、

折(おり)烏帽子、

が用いられた(有職故実図典)とある。折烏帽子は、風折烏帽子よりもさらに細かく折って、髻の巾子形(こじがた 巾子とは、頂上後部に高く突き出ている部分で、巻き立てた髻(もとどり)を納める壺形の容器)の部分だけを残して、他をすべて折り平めて動作の便宜を図ったもの(仝上)で、

侍烏帽子、

と呼ばれ、室町以降、形式化し、髪型の変化から、巾子が不要となったこともあり、江戸時代になると、烏帽子留で髷にとめるほどになっていく(仝上)。

なお、「狩衣」と「水干」は、「水干」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.html、「直衣(なほし)」は、「いだしあこめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488875690.html、烏帽子については「しぼ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475131715.htmlで触れた。

参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


襖(あを)


しろぎぬのあをといふ物きて、帯して、わかやかに、きたなげなき女どもの(宇治拾遺物語)、
無文(むもん 無地)の袴に紺のあらひざらしのあをに、山吹のきぬの衫(かざみ)よくさらされたるきたるが(仝上)、

の、

あを、

は、

襖、袷をいう、

とあり(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)、

皮まきたる弓持て、こんのあをきたるが、夏毛のむかばきはきて、葦毛の馬に乗てなむ来べき(仝上)、

とある、

あを、

は、

紺の襖、襖は裏付けの狩衣で武官の服、

とある(仝上)。因みに、「襖」を、

襖障子、
唐紙障子、

の意で、

ふすま、

とも訓ませているが、これはもともと、

臥す間、

から来ていて、当て字である(広辞苑)。

ここで、「襖」を、

アヲ、

と訓ませるのは、「襖」の字音、

アウの転(広辞苑・日本国語大辞典)、
アウをアヲと日本語化したもの(岩波古語辞典)、

とある。和名類聚抄(931〜38年)にも、

阿乎之、愚按、アウをアヲとするは、唇内音なる故に、和行(ワギャウ)の通なり、舊字も同じ、

とある。字音仮字用格(本居宣長)も、

和名抄に、襖子を阿乎之(アヲシ)とあるは、ウの韻を、ヲに転じて御國言の如く言ひなせる例なり、

としている。しかし、

「豪、爻、宵、肅の韻のウは、和行のウなり」とあり、然れども、漢字の韻の、ウなるもの數多あるに、古書中に、ヲとしたるもの數語あるのみ、釈然たらず、尚考究すべきなり、芭蕉の現今支那音は、バチャオなりと聞く、漢口(ハンカオ)、青島(チンタオ)などもあり、又簺(サイ)をサエ、才(ザイ)、財(ザイ)をザエ、弟(テイ)をテエ、佞(ネイ)をネエ、佩(ハイ)をハエ、表背(ヘウハイ 表装)をヘウホイ(宋音か)、ヘウホエなどあり。何れも漢字音なり。音轉なるか、是れ數語に限りて轉ずと云ふも、異(い)なるものにて、研究の問題なり、暫く、あづかりおく、

と、

ワ行のウをヲとした例は少ない、

として疑問を呈するものもある(江戸時代後期の国学者、関藤政方(まさみち)『傭字例』)。で、

アウシ(襖子)を日本語風にした語(字音仮字用格・和訓栞)、
アマオホヒ(雨掩)の略(本朝辞源=宇田甘冥)、

とするものもあるのだが、どんなものだろうか。

「したうづ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488529163.htmlで触れたように、朝服である「束帯」には、

盤領(まるえり)の上着、

である、

袍(ほう)、

を着るが、「袍」には、文官用の、

縫腋(ほうえき)の袍、

と、武官用の、

闕腋(けってき)の袍、

があり、「縫腋(ほうえき)の袍」は、

袖の下から両腋(りょうわき)を縫いつけた袍。裾の襴(らん)が、蟻先(ありさき)の名で左右に張り出し、背に「はこえ」がある、

もので、

まつわしのうえのきぬ、
もとおしのほう、

ともいい(広辞苑)、

「闕腋の袍」は、

襴(らん)がなく袖から下両腋を縫わないで開け、動きやすくした袍、

をいい、

わきあけのきぬ、
わきあけのころも、

ともいう(仝上)。因みに、「襴」は、

裾に足さばきのよいようにつける横ぎれ。両脇にひだを設けるのを特色とし、半臂(はんぴ)や袍に付属するが、袍はひだを設けずに外部に張り出させて蟻先(ありさき)といい、ひだのあるのを入襴(にゅうらん)と呼んで区別した、

とある(精選版日本国語大辞典)。「半臂」は、「したうづ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488529163.htmlで触れた。

「襖」は、武官用の、

腋のあいた無襴の盤領(あげくび)の上着、

をいう。令義解(718)に、「襖」は、

謂無襴之衣也、

とある。「襖」を、

狩衣、

の意とするのは、

狩衣が、

狩襖(かりあお)、

といったため、「狩」が略されて、「襖」と呼んだためである(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

狩襖、

と呼んだのは、狩衣が、

闕腋(けってき)、

つまり、

両方の腋(わき)を縫い合わせないで、あけ広げたままのもの、

だからである。

束帯については、「いだしあこめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488875690.htmlで触れた。

「襖」(オウ・アウ)は、

会意兼形声。「衣+音符奧(燠、ぬくみがこもる、あたたかい)」、

とあり(漢字源)、

うわぎ(袍・表衣)の意で、長きを袍、短きを襖といふ、

とある(字源)。我が国では、

襖(ふすま)、

の意で用いる。

襖(中古の武官の朝服)、
素襖、

等々、「表衣」の意に用いているのは原義に叶っている。。別に、

形声文字です(衤(衣)+奥)。「身体に纏(まつ)わる衣服の襟元(えりもと)」の象形(「衣服」の意味)と「屋根・家屋の象形と種を散りまく象形と区画された耕地の象形(「探・播」に通じ(「探・播」と同じ意味を持つようになって)、「詳しく知る」の意味)と両手の象形」(「目が届かず、手で詳しく知る事ができない」、「奥」の意味)から、身体の形を覆い隠す服「皮衣(かわごろも)」を意味する「襖」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2731.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

上へ


かざみ


無文(むもん 無地)の袴に紺のあらひざらしのあをに、山吹のきぬの衫(かざみ)よくさらされたるきたるが(宇治拾遺物語)、

とある、

衫(かざみ)、

とあるのは、普通、

汗衫、

と当てる。「かざみ」の訓みは、「汗衫」の、

字音カンサンの転(広辞苑・大辞林)、
字音「かんさん」の音変化(大辞泉)、
音読「かんさむ(かんさん)」の変化(日本国語大辞典)、
字音カンサムの転(岩波古語辞典)、

などとある。たとえば、

かんさむ→kansamu→kasamu→kasami→kazami、

といった転訛だろうか。「汗衫(かざみ)」は、

汗衫(かにさむ)の略轉、

とあり、「汗衫(かにさむ)」は、

汗衫(かぬさむ)の轉、蘭(らぬ)、ラン。錢(ぜぬ)、ぜに。約轉してかざみと云ふは、衫(サム)の転。燈心、とうしみ、

とある(大言海)。天治字鏡(平安中期)には、

汗衫、加爾佐无(かにさむ)、

とある。岩波古語辞典には、

kansam→kanzami→kazami

とあるが、むしろ、

かむさむ→かぬさむ→かにさむ→かざみ、

kamusamu→kanusamu→kanisamu→ka(ni)samu→kazami、

であったのかもしれない。

「汗衫」は、ふるくは、

汗取りの単(ひとえ)の單衣、

とある(仝上・広辞苑)。奈良時代には一般の男女が、

布(麻)製で窄袖(さくしゅう)の単(ひとえ)の汗衫を着た、

とある。

平安期以降、「汗衫」は、

後宮奉仕の童女の正装、

となり、

表着(うわぎ)の上に着る後部の長い単(ひとえ)の服、

で(岩波古語辞典)、

闕腋(けってき 衣服の両わきの下を縫いつけないで、開けたままにしておくこと)の制で、裾を長く引き、下に袙重(あこめかさね)、単(ひとえ)をつけ、濃(こき)の袴に白の表袴(うえのはかま)を重ねてはくのを例とする、

とある(日本語源大辞典)。衵については、「いだしあこめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488875690.htmlで触れた。

「承安五年節絵」(じょうあんごせちのえ)にある「童女」は、

扇をかざして顔をおおいし、汗衫の闕腋の裾を長く引いている。この汗衫は、面を白、裏を濃(こき)とした躑躅重(つつじかさね)で、表地に松竹亀の吉祥文を一面に散らしている。唐衣(からぎぬ)のように襟を返して仰け頸に着け、二幅の後身(うしろみ)と各一幅の前身(まえみ)の裾は長くなびかせている、

とある(有職故実図典)。

童女の「汗衫」には、

晴(はれ)と褻(け)の2種、

があり(日本大百科全書)、形式は、

身頃(みごろ)が二幅単(ふたのひとえ)仕立て、垂領(たりくび 今日の和服のように襟の両端が前部に垂れ下がった形)と盤領(あげくび 詰め襟で、首の回りを囲む丸首式のもの)とがあった、

とあり(仝上)、晴には、

裾を長く引くのを特色とし、下に数領の衵(あこめ)を襲(かさ)ね単を着て、長袴(ながばかま)の上に表袴をはく、

褻には、

切袴(足首までの長さの裾括(すそくくり)の緒を入れない袴)の上に、対丈(ついたけ 身の丈と同じ長さの布で仕立てる)のものを用いた、

とある(仝上)。

枕草子に、

など、汗衫は。尻長(しりなが)と言へかし、
汗衫は春は躑躅(つつじ)、桜、夏は青朽葉(くちば)、朽葉、

とあり、源氏物語に、

菖蒲襲(さうぶがさね)の衵(あこめ)、二藍(ふたあゐ)の羅(うすもの)の汗衫着たる童(わら)べぞ、西の対のなめる、

とある(仝上)。

「汗」(漢音カン、呉音ガン)は、

形声。干(カン)は、敵を突いたり、たてとして防いだりする棒で、桿(カン こん棒)の原字。汗は「水+音符干」で、かわいて熱したときに出る水液、つまりあせのこと、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(氵(水)+干)。「流れる水」の象形と「先がふたまたになっている武器」の象形(「おかす・ほす」の意味だが、ここでは、「旱(かん)」に通じ(同じ読みを持つ「旱」と同じ意味を持つようになって)、「ひでり」の意味)から、「ひでりで、あせが出る」を意味する「汗」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1079.html

「衫」(漢音サン、呉音セン)は、

会意兼形声。「衣+音符彡(サン 三。こまごまといくつもある)」、

とあり、「汗衫」(カンサン)の下着、「衫子」(サンシ)と、婦人用のツーピースの上着、「半衣」ともいう、とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

上へ


ふすま


「ふすま」に当てる漢字は、

襖障子、唐紙の意の、

襖、

かつての寝具で、掛け布団のように体にかける、

衾、
被、

小麦を製粉したときに篩い分けられる皮の屑の意の、

麩、
麬、

がある。「麩」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471767846.htmlについては触れたが、この語源が、

中国語で麩fuはフスマで、小麦粉を取った屑皮の部分をいう。中国から僧侶が麩を伝えてきたとき、その名も音もそのまま日本のものとした、

とある(たべもの語源辞典)が、それを「ふすま」と呼んだについては、

麦の被衾(ふすま)の義か(大言海)、
含ス+マ(もの)、内容物を含むもの、つまり胚芽を中に包んでいたものの意(日本語源広辞典)、

と、「衾」との関りから類推したらしい、と思わせるところがあり、「衾」との関連が深い。

「衾」は、

被、

とも当てるように、

御ふすままゐりぬれど、げにかたはら淋しき夜な夜なへにけるかも(源氏物語)、

と、

布などで作り、寝るとき身体をおおう夜具、

で(広辞苑)、雅亮(満佐須計 まさすけ)装束抄(平安時代末期の有職故実書)には、

御衾は紅の打たるにて、くびなし、長さ八尺、又八幅か五幅の物也、

とあるように(一幅(ひとの)は鯨尺で一尺(約37.9センチ))、

八尺または八尺五寸四方の掛け布団、袖と襟がない、

とある(岩波古語辞典)が、

綿を入れるのが普通で、袖や襟をつけたものもある(日本語源大辞典)とある。そうなると、袖のついた着物状の寝具、

掻巻(かいまき)、

に近くなる。『観普賢経冊子(かんふげんきょうさっし)』(平安時代)の図を見ると、余計にそう見える。また、

御張台(みちょうだい)に敷く衾は、紅の打(うち)で襟のついていないもの、襟にあたるところに紅練糸(ねりいと)の左右撚(よ)り糸で三針差(みはりざし)といって縫い目の間隔を長短の順に置いた縫い方をする、

ともある(雅亮装束抄)。

なお、紙でつくったものは、

紙衾、

といい、

民間にては、皆用ゐたりとぞ、

とある(大言海)。

和名類聚抄(平安中期)に、

衾、布須萬、

類聚名義抄(11〜12世紀)に、

衾、ふすま、被、フスマ、

とあり、その語源は、

臥裳(ふすも)の転かと云ふ、或いは、臥閨iふすま)の衣の略(大言海)、
フスモ(臥裳・臥衣)の転(箋注和名抄・言元梯・名言通・和訓栞)、
フシマトフ(臥纏)の義(日本釈名・東雅)
伏す+間+着の略(日本語源広辞典)、
含ス+マ(もの)、含んで包み隠す意(仝上)、

と、その使用実態からきているように見える。

その「衾」に由来するらしいのが、

木で骨を組み、両面から紙や布を貼ったもの。部屋の仕切り、防寒等のためのもので、夏は風を通すために取り外すこともある、

という(広辞苑)、

襖(ふすま)、

である。

襖障子、

というが、

衾障子の義、

ともあり(大言海)、

唐紙障子、

略して、

からかみ、

ともいう。嬉遊笑覧(江戸後期)に、

古の障子と云へるは、多くは、衾障子のことにて、今いふ障子は明り障子なり、さて又ふすま障子といふよしは、衾をひろげたらんやうに張りたる故なり、

とあり、さらに、

衾障子も、今はふすま、又はただ唐紙にて通用す、

とあり、江戸時代中期編纂の日本の類書(百科事典)『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』(寺島良安)には、

寝間(ふすま)障子、以障子格両面張塞、不見明、而可以隔寝間及防風、又有鈕鐉(ヒキテカキガネ)而可禦盗、

とあり、

障子という言葉は中国伝来であるが、「ふすま」は唐にも韓にも無く、日本人の命名である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%96。「ふすま障子」が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始め、寝所は、

衾所(ふすまどころ)、

といわれたとあり(仝上)、「衾」は元来「ふとん」「寝具」の意である。このため、

衾所の衾障子、

と言われた(仝上)。だから、「襖」を、

カミフスマ(紙衾)に似るより云ふとか、或いは衾に代へて寒さを防ぐ意か(大言海)、
臥ふす間の意(広辞苑)、
伏す間、襖障子の略(日本語源広辞典)、
含す+ま(もの)(仝上)、

と、「襖」も、「衾」とのかかわりをみるのは当然に見える。また、

ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していた、

ところからも、

衾障子、

と言われたとする説もある(仝上)。「襖」の字を当てたのは、「襖」が、

衣服のあわせ、綿いれ、

の意で、襖の原初の形態は、

板状の衝立ての両面に絹裂地を張りつけたものであった、

と考えられる(仝上)。この両面が絹裂地張りであったことから「ふすま」の表記に「襖」を使用した、と見なしている(仝上)。

当初は、「襖」が考案された当初、表面が絹裂地張りであったため、

襖障子、

と称されたが、のちに、唐紙が伝来して障子に用いられて普及していく。そこで、本来別ものの、

襖障子、

と、

唐紙障子、

が混同され、絹張りでない紙張り障子も襖と称されていった(仝上)とある。

「襖」(オウ・アウ)については、「襖(あを)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491799848.html?1664133764で触れた。

「衾」(漢音キン、呉音コン)は、

会意兼形声。「衣+音符今(とじあわせる、ふさぐ)で、外気と体との間をふさいで体温をたもつ夜着、

とあり(漢字源)、

寝る時に被る大きい夜着、転じて、かけぶとん、

の意である(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

上へ


らふたく


女臈の容儀、美しいともいはんかたなくらうたきが、髪はながながと押下げ、眉太うはかせ、数々の衣装、七つ八つ引きかさね給ひ、てぶり(=てぶら 素手)の手をさしのべ(義殘後覚)、

とある、

らうたき、

は、

上品、優美なさま、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「手ぶり」は、

手振り、

と当て、この訛りが、

てぶら、

つまり、

素手、

の意である。文語で、

らふたく、

は、現代語では、

ろうたける、

となり、

臈(掾j長く、
臈(掾j闌く、

と当てる(岩波古語辞典)。「臈」は、

掾A

と同じで、異体字、

臘、

が正字とあり(字源)、

掾A
臈、

は俗字とあり(仝上・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%87%88)、現代中国の簡体字では、

腊、

と書く(仝上)。

唐代、7、8世紀の『干禄字書(かんろくじしょ)』に、

臘、俗作掾A

とある。「臘」は、古代中国の、

冬至後、第三戌の日の祭、転じて年の意となる、

とある(大言海)。それを、

臘祭(蜡祭)、

といい、

その年に生じた百物を並べまつって年を送る祭、

とあり、

臘月(ろうげつ)、

と、

臘祭は年末に行ふ、故に陰暦十二月の異名、

でもある(漢字源)。また「臈」は、

年の意、

に転じたこともあり、

我生五十有七矣、僧臘方十二(太平廣紀)、

とあるように、

僧臘(そうろう)、
法臘(ほうろう)、
夏臘(げろう)、
戒臘(かいろう)、

などと、

僧の得度以後の年数を数ふる、

にも云ふ(字源・漢字源・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%98)。

出家する者、髪を剃り受戒してより、一夏九旬の閨A安居(あんご)勤行(ごんぎょう)の経るを云ふ、これを、年掾A法掾A僧掾A戒揩ネどといふ、僧の位は受戒後の揩フ數に因りて次第す、之を搦氈iらふじ)と云ふ(僧の歳を記するに、俗年幾許、法臘幾許と云ふ、臘は安居の功(安居の功は、陰暦4月16日から7月15日までの3か月間の修行、この期間を一夏(いちげ)という)より數ふ)、又、在俗の人にも、年功を積むことに称ふ。極掾iきょくろう・ごくろう)、上掾A中掾A下揩ニ云ふは、上位、中位、下位と云ふが如し、

とあり(大言海・デジタル大辞泉)、そこから、身分の高きを、

上掾A

といい、さらに、転じて、

女房の通称、

として、

二位、三位の典侍、

といい、公卿の女を、

小上掾A

と云ふ(大言海)とある。「女房」は、

「房」は部屋、

の意で、

宮中・院中に仕える女官の賜っている部屋、

の意味から、

一房を賜っている高位の女官、

で、

上掾E中掾E下揩フ三階級、

がある。その意味で、「掾vは、年功を積んで得た、

序列、
階級、
地位、

の意味に転じ、

すぐれた御揩ヌもに、かやうの事はたへぬにやありむむ(源氏物語)、

と、

年功のある人、

の意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。

「ろうたく」の「たく」は、「たけ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461350623.htmlで触れたように、「たく(長く・闌く)」は、

タカ(高)の動詞化、

で、

高くなる、

意であり(岩波古語辞典)、単に物理的な長さ、高さだけではなく、時間的な長さ、高まりも指し、「たけなわ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456786254.htmlで触れたように、

長く(タク)は、高さがいっぱいになることの意で使います。時間的にいっぱいになる意のタケナワも、根元は同じではないかと思います。春がタケルも、同じです。わざ、技量などいっぱいになる意で、剣道にタケルなどともいいます、

という意も持つ(日本語源広辞典)。だから、

タカ(高)と同根。高い所の意、

である、

たけ(岳・嶽)、

ともほぼ重なる。その意味では、「たけ(茸)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461300903.html?1535312164とも、「たけ(竹)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461199145.htmlとも重なって、長さ、さ、という含意を込めていたのではないか、と思える。だから、

たける(たく)、

は、

高くなる、
盛りになる、

という意味をメタファに、

坂東育ちの者にて、武勇の道にたけて候へ(保元物語)、

と、

(一つのことに)長ずる、

という意になり(岩波古語辞典)、

西大寺の静然上人、腰かがまり眉白く、まことに徳たけたる有りさまにて(徒然草)、

と、

円熟する、
熟達する、

意でも使う(広辞苑)。

そうみると、

ろうたく(ろうたける)、

は、直接的には、「臘」の、

僧侶が受戒した後に安居の功+積んだ年数(たけた)、

となり(日本語源広辞典)、

らふたけて来ておいらんの苦労なり(誹風柳多留)、

と、

年功を積む、経験を重ねる、

意(広辞苑)だけでなく、

この薄の歌は、すけまさが「なびく」「まねく」と言ひたるわたり、らふたけたるやうなり(源順集)、

と、

年功を積み、物事に巧みになる、

という意(岩波古語辞典)になる。それが、女性に転用されると、

いか程にもらふたけて劫いりたるやうにみえて(風姿花伝)、

と、

洗練されて上品である、

意で使われる(仝上)

「臈(掾E臘)」(ロウ)は、

会意兼形声。巤は、動物のむらがりはえた頭上の毛の総称で、多く集まる意を含む。臘はそれを音符とし、肉を添えた字で、百物を集めてまつる感謝祭である、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
樹藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

上へ


らふたし


「ろふたく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491876714.html?1664392604で触れたように、

ろふたける(搨キける)、

という言葉がある。

ろうたけた女性、

というように、女性の上品さをいう言葉だが、似た言葉に、

臈(らふ)たし、

という言葉がある。しかし、これは、

ろうたく生垣から、二階を振仰ぐ(泉鏡花「婦系図」)、

と、

かわいらしい、
美しく気品がある、
臈たける、

意で使うが、

らうたしの「らう」を、「臈たける」の「ろう(臈)」と解してできた語か、

とある(精選版日本国語大辞典・大辞林)ように、誤解の産物らしい。

「らうたし」は、現代語では、

ろうたし、

と表記する。

労甚(いた)しの意(広辞苑)、
労(らう)痛(いた)しの約、弱いもの、劣ったものをいたわってやりたいと思う気持ち、類義語イトホシは、無力なものを見るのがつらく、目をそむけたいの意。ウツクシは、小さいもの、幼いものが好ましくて可愛い意(岩波古語辞典)、
労(らう)、甚(いた)しの義にて、いたはる意より移る(大言海)、
「労(ろう)いたし」の変化した語。シク活用の「うつくし」が、特に弱々しさという限定をつけず、愛情を感じる対象、美を感じる対象を賛美する心情表現の語であるのに対して、ク活用の「らうたし」は、いつくしみの感情を起こさせる、弱々しく痛々しい、または、いじらしいものの可憐な状態を表わす属性表現の語である(精選版日本国語大辞典)、

などとある。「労」(ラウ)は、漢語からきていると思われる。

漢字「労」(ラウ・ロウ)は、

会意。勞の上部は、火を周囲に激しく燃やすこと、勞は、それに力を加えた字で、火を燃やし尽すに、力を出し尽すこと。激しくエネルギーを消耗する仕事やその疲れの意、

とあり(漢字源)、

「勞」は、「熒」+「力」の会意文字、力を出しつくして燃え尽きた様https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8A%B4

会意。力と、熒(けい 𤇾は省略形。家が燃える意)とから成る。消火に力をつくすことから、ひいて「つかれる」、転じて「ねぎらう」意を表す(角川新字源)、

会意文字です(熒の省略形+力)。「たいまつを組み合わせたかがり火」の象形と「力強い腕」の象形から、かがり火が燃焼するように力を燃焼させて「疲れる」、また、その疲れを「ねぎらう」を意味する「労」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji719.html

などとある。で、

労苦而功高(史記)、

と、「労苦」というように、はげしい仕事の疲れの意、

有事、弟子服其労(糊有れば、弟子労に服す)(論語)、

と、「労働」「激しい仕事」の意、そこから、

報功臣之労(功臣の労に報ゆ)(曹囧)、

と、「つらい仕事をやり遂げた苦労」「功労」の意や、そこから、「慰労」の意で、

労之来之(これを労ひこれを来す)(孟子)、

と、「ねぎらう」、「なぐさめる」意でも使う。

和語で「労(ラウ・ロウ)」も、その意味の幅を出ておらず、

御労の程はいくばくならぬに、さみだれになりぬるうれへをし給ひて(源氏物語)、

と、

骨折り、苦労、

の意や、

愍(めぐみ)の労を加ふと雖も、寝食穏(やす)からず(将門記)、

と、

いたわり、

の意や、

宮仕への労もなくて、今年加階し給へる(源氏物語)、

と、

功績、実績、年功、

の意や、

大和琴にもかかるてありけりと聞き驚かる。深き御労のほどあらはに聞えて面白きに(仝上)、

と、

修練の功、永年の苦労のたまもの、

といった意味で使う。だから、「労」を、

功労の意、

とのみにしてしまう(大言海)のは問題があるかもしれない。

「いたし」は、「いたわる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451205228.html、「いたい」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454441352.htmlで触れたが、「痛し」は、

神経に強い刺激を受けたときの感じで、生理的にも心理的にもいう、

とある(岩波古語辞典)。「甚し」は、

甚だしい、酷い、

意となる。

いたし(痛)、
いたし(痛切甚)、
いたし(傷)、

と項を分けた大言海は、「いたし(痛)」は、

至るの語根を活用せしむ(涼む、すずし。憎む、にくし)。切に肉身に感ずる意、

であり、「いたむ」と同様に、痛覚が出自である。それが、転じて、

事情の甚だしきなり。字彙補「痛、甚也、漢書、食貨志、市物痛騰躍」(痛快、痛飲)、

とある。「いたし(傷)」は、身体の痛覚が転じて、

切に心に悩むなり。爾雅、釋訓「傷、憂思也」、

とある。そう考えると、

痛む、

の「イタ」は、主体の痛覚から、心の傷みに転じ、それが他者へ転嫁されて、他者の傷みを傷む意へと、転じていったと見ることができる。

「労いたし」の転訛である「らうたし」は、以上の「ろう」と「いたし」の語意の幅から、どちらかというと、

いたわる、

意へとシフトし、

いたく面瘦せ給へる、つくろひ給へなど、いとらうたしと、さすがに見奉り給ふ(源氏物語)、

と、

かばい、いたわってやりたい、

意や、

御車添ひをばいみじうらうたくさせ給ひ、御かへり見ありしは(大鏡)、

と、

大事にしてやりたい、

意や、

これがいとらうたく舞ひつること語りになむ物しつる。みな人の泣きあはれがりつること(かげろう日記)、

と、

いじらしい、

意などと使うことになる(岩波古語辞典)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


三明六通


はやく屋の内を浄め、精進を潔斎にせよ。三明六通を得て、芥毛頭のこさず三界一覧にするなり(「義殘後覚(ぎざんこうかく)」)、

に、

三明六通(さんみょうろくつう)、

とあるのは、

仏教語。三種の智と六種の自在な神通力、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「三明(さんみょう)」は、

婆羅門教(とヒンドゥー教)の根本聖典である三つのヴェーダ(知識)、すなわち、

リグ・ヴェーダ(神々への韻文讃歌(リチ)集。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録)、
サ―マ・ヴェーダ(『リグ・ヴェーダ』に材を取る詠歌(サーマン)集。インド古典音楽の源流)、
ヤジュル・ヴェーダ(散文祭詞(ヤジュス)集。神々への呼びかけなど)、

をいう、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80・岩波古語辞典)。それが、仏教では、

仏・阿羅漢が備えている三つの智慧、

とし、

宿命(しゅくみょう)明(パーリ語 pubbe-nivāsānussati-ñāṇa 宿命通 自他の過去世を知る能力)、
天眼(てんげん)明(同 dibba-cakkhu-ñāṇa 天眼通 自他の未来世を知る能力)、
漏盡(ろじん)明(同 āsavakkhaya-ñāṇa 漏盡通 現世の苦相を悟り煩悩を尽きさせる能力)、

の称とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E9%80%9A・岩波古語辞典)。「明」は、「智」の意であり(仝上)、

三明は過去・現在・未来にかかわる智慧、

の意である。雜阿含経(漢訳四阿含のうちの一つ)に、

世尊告諸比丘、有無学三明、何等為三、無学宿命智證通、無学天眼智證通、無学漏盡智證通、

とある。で、

三明の覚路(かくろ)、

とは、

三明は仏となる近道であるところから、仏となるべき道、仏門、

をいい、

三明の月(つき)、

は、

三明の徳が円満で、一切をくまなく照らすことを月にたとえる、

意として使う(広辞苑・日本国語大辞典)。

「六通」(ろくつう)は、

六神通(ろくじんずう)、

ともいい、「三明」に、

天耳通(てんにつう 六道衆生の声を聞くこと)、
他心通(たしんつう 六道衆生の心中を知ること)、
神足通(じんそくつう 種々の神変を現ずること)、

の三つを加えたものをいう(日本国語大辞典)。観無量寿経等に説かれ、仏や小乗の証果である阿羅漢が得る、

神通力、

をいい、

止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E9%80%9A

天耳(てんに)通(同 dibba-sota-ñāṇa 世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力)、
他心(たしん)通(同 ceto-pariya-ñāṇa 他人の心の中をすべて読み取る力)、
神足(じんそく)通(パーリ語 iddhi-vidha-ñāṇa 自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力)、

で、漏尽通を除く五つを、

五通、

と呼ぶこともある(仝上)、とある。

「三」(サン)は、「三会」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484736964.htmlで触れたように、

指事。三本の横線で三を示す。また、参加の參(サン)と通じていて、いくつも混じること。また杉(サン)、衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで模様を成すの意も含む、

とある(漢字源)。また、

一をみっつ積み上げて、数詞の「みつ」、ひいて、多い意を表す、

ともある(角川新字源)。

「明」(漢音メイ、呉音ミョウ、唐音ミン)は、

会意。「日+月」ではなく、もと冏(ケイ 窓)+月」で、あかり取りの窓から、月光が差し込んで物が見えることを示す。あかるいこと、また、人に見えないものを見分ける力を明という、

とある(漢字源)。

古くは「朙」、「冏(囧)」(ケイ まどの意)+「月」、月光が窓からさす様、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%98%8E

「日」+「月」で明るい、

と解するのは俗解とする(仝上)。しかし、

もと、明・朙の二体があり、ともに会意。明は、日と月(つき)とから成り、「あかるい」意を表す。朙は、月と囧(けい 窓の形)とから成り、窓に月光がさしこむことから、「あかるい」意を表す。のち、明の字形に統一された、

ともある(角川新字源)。

「六道四生」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486172596.html?1648323250で触れたように、

「六」(漢音リク、呉音ロク)は、

象形。おおいをした穴を描いたもの。数詞の六に当てたのは仮借(カシャク 当て字)、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%AD)が、

象形。屋根の形にかたどる。借りて、数詞の「むつ」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「家屋(家)」の象形から、転じて数字の「むつ」を意味する「六」という漢字が成り立ちました、

とも(https://okjiten.jp/kanji128.html)あり、「穴」か「家」だが、甲骨文字を見ると、「家」に思える。

「通」(漢音ツ・トウ、呉音ツウ)、

は、

会意兼形声。用(ヨウ)は「卜(棒)+長方形の板」の会意文字で、棒を板に通したことを示す。それに人を加えた甬(ヨウ)の字は、人が足でとんと地板を踏み通すこと。通は「辶(足の動作)+音符甬」で、途中でつかえて止まらず、とんとつき通こと、

とあり(漢字源)、

会意形声。「辵」+音符「甬」(現代音はヨウであるが、「痛」等に見られるように「ツウ」の音もあった)。「甬」は、「勇」「踊」の原字、「人」+「用」で、人が足踏みをするの意、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%9A。又は、

「桶」の原字で、先が見通せること、

との説(白川静)もある(仝上)。別に、

形声。辵(または彳(てき))と、音符甬(ヨウ→トウ)とから成る。つきとおる、まっすぐにとおっている、ひいて「かよう」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(辶(辵)+甬)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「甬鐘(ようしょう)という筒形の柄のついた鐘」の象形(「筒のように中が空洞である」の意味)からつつのように空洞で障害物なくよく「とおる」を意味する「通」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji367.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


三界


はやく屋の内を浄め、精進を潔斎にせよ。三明六通を得て、芥毛頭のこさず三界一覧にするなり(「義殘後覚(ぎざんこうかく)」)、

にある、

三界、

は、

三千世界に同じ、全ての世界、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「三界」(さんがい)は、

三有(さんう)、

ともいい(大辞林)、

一切衆生(しゅじょう)の生死輪廻(しょうじりんね)する三種の世界、すなわち欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)と、衆生が活動する全世界を指す、

とある(広辞苑)。つまり、仏教の世界観で、

生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域、

を、欲界(kāma‐dhātu)、色界(rūpa‐dhātu)、無色界(ārūpa‐dhātu)の3種に分類したもので(色とは物質のことである。界と訳されるサンスクリットdhātu‐はもともと層(stratum)を意味する)、「欲界」は、

もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む領域、

で、ここには、

地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天、

の六種の、

生存領域(六趣(ろくしゅ)、六道(ろくどう))、

があり、欲界の神々(天)を、

六欲天、

という。「色界」は、

性欲・食欲・睡眠欲の三欲を離れた生きものの住む清らかな領域、

をいい、

絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、

四禅天、

に大別される。「四禅天」(しぜんてん)は、

禅定の四段階、

その領域、とその神々をいい、「初禅天」には、

梵衆・梵輔・大梵の三天、

「第二禅天」には、

少光・無量光・光音の三天、

「第三禅天」には、

少浄・無量浄・遍浄の三天、

「第四禅天」には、

無雲・福生・広果・無想・無煩・無熱・善見・善現・色究竟の九天、

合わせて十八天がある、とされる。

「無色界」は、

最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界、

であり、

空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処、

の四天から成り、ここの最高処、非想非非想処を、

有頂天(うちょうてん)、

と称する(広辞苑・日本大百科全書・世界大百科事典)。ただ、「非想非々想天」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485982512.htmlで触れたように、「有頂天」には、

色界(しきかい)の中で最も高い天である色究竟天(しきくきょうてん)、

とする説、

色界の上にある無色界の中で、最上天である非想非非想天(ひそうひひそうてん)

とする説の二説がある(広辞苑)。

因みに、「生死輪廻」(しょうじりんね、しょうじりんえ)は、

「生死」も「輪廻」も梵語 saṃsāra の訳語、

である(精選版日本国語大辞典)。

ところで、「三界」のもつ意味から、

三界無安、猶如火宅(法華経譬喩品)、

と、

三界火宅(苦悩の絶えない凡夫の世界を火焔の燃える居宅にたとえていう)、
三界無安(現世は苦痛に満ちていて、少しも安心ができない)、
三界の首枷(くびかせ 断ちがたいこの世の愛着や苦悩)、

とか、

三界諸天(三界にある諸種の天。欲界の六天、色界の四禅天、無色界の四天のこと)、

とか、

三界に家無し(どこにも安住の家がない)、

とか、

方々をさまよいあるく者を、

三界坊(乞食坊主、流浪人)、

とか、華厳経によって、

三界の一切存在は自分の心に映ずる現象で、自分の心の外に三界はない、

という意味の、

三界所有、唯是一心(八十華厳経)、

と、

三界唯心(さんがいゆいしん)、
三界一心(さんがいいっしん)、
三界唯一心(さんがいゆいいっしん)、

とかというが、「三界」には、仏語で、

過去・現在・未来の三世、

をいうこともあり、

島隠れ行くとは三界流転の心なり(御伽草子「小町草子」)、

と、

三世にわたって因果が連続して迷いつづける、

意の、

三界流転(さんがいるてん)、

という言い方もする(広辞苑・大辞林・精選版日本国語大辞典)。

また「三界」は、メタファとして、

遠く離れた場所、

の意で、場所の名に添えて、

親許三界、
江戸三界、
郭(くるわ)三界
唐三界、

等々と使い、

〜くんだり、

の含意で、また時間を示す語に添えて、

茶は土瓶で拵(こしら)へりや一日三界余る(浮世風呂)、

と、その意味を強めて、

それが長い間である気持を表す、

意でも使う(仝上)。

「界」(漢音カイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。介(カイ)は「人+ハ印」の会意文字で、人が両側からはさまれて中に介在するさま。逆にいうと、中にわりこんで、両側にわけること。界は「田+音符介」で、田畑の中に区切りを入れて、両側にわける境目、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。「田+音符「介」(たすける、仲立ち)で、農地を仲立ちする「さかい」、さかいで区切られた「空間」のこと、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%95%8C

会意兼形声文字です(田+介)。「区画された狩猟地・耕地」の象形と「よろいに入った人」(「区切る」の意味)の象形から「区切る・さかいめ」を意味する「界」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji465.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


三千世界


「三界」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491997710.html?1664651664)で触れたように、

はやく屋の内を浄め、精進を潔斎にせよ。三明六通を得て、芥毛頭のこさず三界一覧にするなり(「義殘後覚(ぎざんこうかく)」)、

の、

三界、

は、

三千世界に同じ、全ての世界、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。しかし、「三界」の、

界と訳されるサンスクリットdhātuはもともと層(stratum)を意味する、

とあり(世界大百科事典)、仏教の世界観で、

全世界、

を示しているには違いないが、「三界」は、

心の状態を層、

として表現しているのに対して、「三千世界」は、それを、

空間的な広がり、

として表現していて、微妙に違う気がする。

「三千世界」は、『釋氏要覧』(宋代)に、

須弥山有八山、遶外有大鐵圍山、周廻圍繞、幷、一日月、晝夜回轉、照四天下、名一國土、積一千國土、名小千世界、積千箇小界、名中千世界、積一千中千世界、名大千世界、以三積千、故三千大千世界、

とあるように、

三千大千世界、

の意であり、

三千界、
三千、
一大三千大千世界、
一大三千界、

という言い方もする(精選版日本国語大辞典)。

われわれの住む所は須弥山(しゅみせん)を中心とし、その周りに四大州があり、さらにその周りに九山八海があるとされ、これを一つの、

小世界、

という。小世界は、下は風輪から、上は色(しき)界の初禅天(しょぜんてん 六欲天の上にある四禅天のひとつ)まで、左右の大きさは鉄囲山(てっちせん)の囲む範囲である。「小世界」の大きさは、

直径が太陽系程の大きさの円盤が3枚重なった上に、高さ約132万Kmの山が乗っています、

とあるhttp://tobifudo.jp/newmon/betusekai/uchu.html。この層は、

三輪(さんりん)、

と呼ばれ、

虚空(空中)に「風輪(ふうりん)」という丸い筒状の層が浮かんでいて、その上に「水輪(すいりん)」の筒、またその上に同じ太さの「金輪(こんりん)」という筒が乗っている。そして「金輪」の上は海で満たされており、その中心に7つの山脈を伴う須弥山がそびえ立ち、須弥山の東西南北には島(洲)が浮かんでいて、南の方角にある瞻部洲(せんぶしゅう)が我々の住む島、

http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=90、三つの円盤状の層からなっている。いちばん下には、

円盤状つまり輪形の周囲の長さが「無数」(というのは10の59乗に相当する単位)ヨージャナ(由旬(ゆじゅん 1ヨージャナは一説に約7キロメートル)で、厚さが160万ヨージャナの風輪が虚空(こくう)に浮かんでいる、

その上に、

同じ形の直径120万3450ヨージャナで、厚さ80万ヨージャナの水輪、

その上に、

同形の直径は水輪と同じであるが、厚さが32万ヨージャナの金でできている大地、

があり、その金輪の上に、

九山、八海、須弥四洲、

があるということになる(日本大百科全書)。

「須弥山」をとりまいて、

七つの金の山と鉄囲山(てっちさん)があり、その間に八つの海がある。これを九山八海という。

周囲の鉄囲山(てっちせん)にたたえた海水に須弥山に向かって東には半月形の毘提訶洲(びだいかしゅう、あるいは勝身洲)、南に三角形の贍部洲(南洲あるいは閻浮提)、西に満月形の牛貨洲(ごけしゅう)、北に方座形の倶盧洲(くるしゅう)、

がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1、「贍部洲(せんぶしゅう)」は、インド亜大陸を示している、とされる(以上、「金輪際」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482019842.htmlで触れた)。

この一小世界を1000集めたのが一つの、

小千世界、

であり、この小千世界を1000集めたのが一つの、

中千世界、

であり、この中千世界を1000集めたのが一つの、

大千世界、

である。この大千世界は、小・中・大の3種の千世界からできているので、

三千世界、

とよばれ、

1000の3乗(1000×1000×1000)、

すなわち、

10億の世界、

を意味する(日本大百科全書)、とある。この世界全体の中心に存在するのか、

大毘廬舍那如来(だいびるしゃなにょらい)、

つまり、

大仏、

でありhttp://tobifudo.jp/newmon/betusekai/uchu.html、この三千世界は、

一仏の教化の及ぶ範囲、

とされた(新明解四字熟語辞典)。ゆえに、1つの三千大千世界を、

1仏国土(buddhakṣetra)、

ともよぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%83%E5%A4%A7%E5%8D%83%E4%B8%96%E7%95%8C。我々が住んでいる世界を包括している仏国土、

三千大千世界、

は、

娑婆(サハー、sahā)、

である。阿弥陀如来が教化している極楽(sukhāvatī)という名前の仏国土は、サハー世界の外側、西の方角にあるため西方極楽浄土と呼ばれる(仝上)、とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


目かれ


かばかりに尋常に優しくは有るらんと、見れども見れども目かれせず。かくて舞を始めけるに、面白さ云はん方なし(「義殘後覚(ぎざんこうかく)」)、

とある、

目かれせず、

は、

見あきない、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「目かれ」は、

めかる、

の、

名詞形、

だと思う。「めかる」は、

目離る、

と当て、

見る目を離(か)るる義、

と、

目、離(はな)る、

ことで(大言海)、ラ行下二段活用、

語幹 か
未然形 れ
連用形 れ
終止形 る
連体形 るる
已然形 るれ
命令形 れよ

の、連用形の名詞化と思われる。「めかれ」は、

めかるとも、思ほえなくに、忘らるる、時し無ければ、面影に立つ(伊勢物語)、

と、

見ることを止む、

意で、そこから、

さしならびめかれず見奉り給へる年頃よりも(源氏物語)、

と、

疎遠になる、

意でも使う(岩波古語辞典)。で、名詞形でも、

思へども身をし分けねばめかれせぬ雪のつもるぞわが心なる(伊勢物語)、

と、

見る人のなくなること(大言海)、
あるいは、
関係の深い人や物から離れて、それを見ずにいること(岩波古語辞典)、
あるいは、
会わないでいること、疎遠になること(学研全訳古語辞典)、

の意で使う。その意味では、

目かれせず、

を、

見あきない、

意としたのは、

目を離さない→目を離せない→見飽きない、

とかなりの意訳になる。

ところで、「離る」は、「かる」以外に、

あかる(離る・別る 自・ラ行下ニ段 散り散りになる、別々になる)
ある(散る・離る 自・ラ行下ニ段 あらける(散ける・粗ける)、離れ離れになる。遠のく、うとくなる)、
さかる(離る・放る 自・ラ行四段 「さく(離)」に対する自動詞、離れる、へだてる、間遠くなる、遠ざかる)、
はなる(離る・放る 自ラ下二・はなれる、自ラ四下二段活用より古い活用とも、上代東国方言とも 離れる)、

等々とも読ませるが、意味は、「はなればなれ」「離れる」と、「離」の含意の内に収まっているようだ。

「離る(かる)」は、

切るると通ず(大言海)、
「か(涸・枯)れる」と同源(広辞苑・日本国語大辞典)

と、分かれるが、

空間的・心理的に、密接な関係にある相手が疎遠になり、関係が絶える意。多くの歌に使われ、「枯れ」と掛詞になる場合が多い。類義語アカルは散り散りになる意、ワカルは一体となっていたものごと・状態が、ある区切り目をもって別の者になる意、

とある(岩波古語辞典)が、原意の、

切るると通ず(大言海)、

から、「枯れる」に掛けられるに至ったのではあるまいか。で、

朝に日(け)に見まく欲(ほ)りするその玉をいかにせばかも手ゆ離(かれ)ずあらむ(万葉集)、
宿をばかれじと思ふ心深く侍るを(源氏物語)、

と、

空間的に遠くなる、離れる、

意と、それをメタファに、

珠に貫(ぬ)く楝(あふち)を家に植ゑたらば山霍公鳥(ホトトギス)可礼(カレ)ず来むかも(万葉集)、
山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば(古今集)、

と、

時間的、心理的に遠くなる、間遠になる。また、関係が絶える、

意で使う(日本国語大辞典)。

「離」(リ)は、

会意。離は「隹(とり)+大蛇(「离」は大蛇)の姿(それの絡んだ形)」で、蛇と鳥が組つ離れつ争うことを示す。ただしふつうは麗(きれいに並ぶ)に当て、二つ並んでくっつく、二つ別々になるの意をあらわす、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%A2)。別に、

形声。隹と、音符(チ、リ)とから成る。の意を表す。借りて「はなれる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(离+隹)。「頭に飾りをつけた獣」の象形と「尾の短いずんぐりした小鳥」の象形から、「チョウセンウグイス」の意味を表したが、「列・刺」に通じ(「列・刺」と同じ意味を持つようになって)、切れ目を入れて「はなす」を意味する「離」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1304.htmlある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


多生曠劫


まことに渠(かれ)を討たせ給はん事は、多生曠業(たしょうこうごう)は経るとも、叶ひ給ふべからず(義殘後覚)、

にある、

多生曠業、

は、

輪廻し生を易(か)えて過ごす、きわめて長い歳月、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

多生曠業をば隔つとも、浮かび上がらんこと難し(平家物語)、

も併せて引かれているが、平家物語には、

つくづくものを案ずるに、娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。人身は受け難く、仏教には逢ひ難し。このたび泥梨(ないり 地獄)に沈みなば、多生曠劫をば隔つとも、浮かび上がらん事難かるべし、

とあり、どうやら「多生曠業」は当て字で、本来、

多生曠劫、

と表記するのが正確らしい。「多生曠劫(たしょうこうごう)」は、

多生広劫、

とも当て、

多生曠劫互に恩愛を結で、一切の男女は皆生々の父母なり(「愚迷発心集(1213頃)」)、
この一日を曠劫多生にもすぐれたるとするなり(正法眼蔵)、

などと、

長い年月多くの生死を繰り返して輪廻する、

意の仏語で、

多生劫、
広劫多生、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。「多生」は、

何度も生をかえてこの世に生まれかわること、

つまり、

多くの生死を繰り返して輪廻する、

意(広辞苑)だが、「多生」は、

今生(こんじょう)、

に対し、

前世、また来生、

の意で(岩波古語辞典)、

来生に生まれ出づること、
今生以外の諸の世界に生まれること、

であり(大言海)、

多生に生まれ出でたる際に結びし因縁、

を、

多生の縁(えん)、

という(「他生」とするは誤用)。

草の枕の一夜の契りも、他生の縁ある上人の御法(謡曲「遊行柳」)、

と、

袖振り合うも多生の縁

も、

互いに見も知りもせぬ人に逢うて世話になるも、皆(多くの生を経る間に結ばれた)因縁による、

という意になる(仝上)。

「曠劫(こうごう)」は、

非常に長い年月、

の意の仏語。

永劫(えいごう)、

と同義。「劫」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485308852.htmlで触れたように、「劫」は、慣用的に、

ゴウ、

とも訓むが、

コウ(コフ)、

が正しい(呉音)。

劫波(こうは)、
劫簸(こうは)、

ともいう(広辞苑)。「劫」は、

サンスクリット語のカルパ(kalpa)、

に、

劫波(劫簸)、

と、音写した(漢字源)ため、仏教用語として、

一世の称、
また、
極めて長い時間、

を意味し(仝上)、

刹那の反対、

だが、単に、

時間、
または、
世、

の義でも使う(字源)。インドでは、

梵天の一日、
人間の四億三千二百万年、

を、

一劫(いちごう)、

という。ために、仏教では、その長さの喩えとして、

四十四里四方の大石が三年に一度布で拭かれ、摩滅してしまうまで、
方四十里の城にケシを満たして、百年に一度、一粒ずつとり去りケシはなくなっても終わらない長い時間、

などともいわれる(仝上・精選版日本国語大辞典)。

「曠」(コウ)は、

会意兼形声。廣(広)は「广(部屋)+音符黄」の形声文字で、広々として何もない広間。曠は「日+音符廣」で、もと黄(輝く光)・晃(あかるい光)と同じ。廣や幌(コウ 外枠が広く中が何もない)と同系の言葉として用い、何もなくて、広くあいている意、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


いかさま


いかさま人の一念によって、瞋恚のほむらと云ふものは、有るに儀定たる由(義殘後覚)、

にある、

いかさま、

は、

如何様、

と当て、「いかもの」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484310550.htmlで触れたように、

イカサマ(いかにもそうだ)と相手に思い込ませることから(ことばの事典=日置昌一)、

等々が由来として、

いかさまもの、

つまり、

いかさま博奕、

というように、

いんちき、
まがいもの、
まやかしもの、

等々の意で使うが、ここでは、

たしかに、

の意で、

発語、

として使っている(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。ちなみに、「発語」は、

はつご、
ほつご、

とも訓み、

蔵人弁為隆年号勘文三通、於内大臣可定申者、……各撰申、但新宰相依初度被免発語(「中右記(1106)」)、

と、

漢語であり、

言い出す、
言い始める、

意で、

言い出しの言葉、
言い始めの言葉、

として使い、そこから、

さて、
そもそも、
およそ、
いざ、

等々の

文句のはじめに置かれることば、
文章や談話で、最初に用いられることば、

としても用い、その延長線上で、

地口といふものも、発語(ホツゴ)の文字が同字なれば、冠(かぶり)と申て忌(いむ)げにござる(滑稽本・浮世風呂)、

と、

五七五形式の地口などの最初の五文字、

にもいい、さらには、

さ霧、か弱し、た易し、み雪、

等々語調を整えたり、ある意味を添えたりするために語のはじめに付ける「お」「か」「さ」「た」「み」等々の接頭語についても使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

インチキの意の「いかさま」は、

欺罔、

と当て、

いかがわしき情態の意なるか、語彙、イカサマ「人を欺きて、何(いか)さま尤もと承引かしむることに云へり」、イリホガなるべし。いかさま師は、いかさま為(し)なり、イカモノは、イカサマモノの中略なり(つばくらめ、つばめ。きざはし柿、きざがき)、

とある(大言海)。「いりほが」は、

鑿、
入穿、

と当て、

和歌などで、巧み過ぎて嫌味に落ちること、
穿鑿しすぎて的を外すこと、

とある(広辞苑)。いかにも、という感じが過ぎると、いかがわしくなるという意であろうか。しかし、

如何様、

は、本来、名詞としては、

磯城島(しきしま)の大和の国にいかさまに思ほしめせか(万葉集)、
この女君、いみじくわななき惑ひて、いかさまにせむと思へり(源氏物語)、

などと、

不審・困惑の気持をこめて使うことが多い(岩波古語辞典)、
状態、方法などについて疑問の意を表わす(精選版日本国語大辞典)、

と、

どのように、
どんなふう、

の意で、あるいは、副詞として、

「いかさまにも」の略から(精選版日本国語大辞典)、
何方(いかさま)に思ひても然りと云ふ意にてもあるか(大言海)、

と、

何様(いかさま)、事の出来るべきことこそ(保元物語)、

と、

自分の考えや叙述、推測などのたしかさを表わす語、

として(精選版日本国語大辞典)、

いかにも、
しかり、
てっきり、
きっと、
たしかに、
どう見ても、

という意や、

常の衣にあらず、いか様とりて帰り古き人にも見せ、家のたからとなさばやと(謡曲「羽衣(1548頃)」)、

と、

意志の強さを表わす語、

として(精選版日本国語大辞典)、

ぜひとも、
なんとしても、
なんとかして、

という意で使い(仝上・岩波古語辞典)、さらに、感嘆詞としても、

さりとも、きらるるまでは有まじ。誰々も、よきやうに申なしたまはば、いかさま、とほき国にながしおかれぬとおぼえたり(「曾我物語(南北朝頃)」)、

と、

相手の意見を肯定して感動的に応答することば、

としても、

いかにも、
そのとおり、
ほんとに、
なるほど、
ごもっとも、

の意で使い(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、冒頭の「発語」は、この感嘆詞の意味とも、副詞の意味とも取れる。

ともかく、このような使い方の「いかさま」という言葉だから、

いかがなものか、

という解釈が生まれてくると思われる。「如何様」を「インチキ」の意の「イカサマ」に当てたのは、当て字と思え、この派生で「如何物」という「いかがわしいものという意味にも広がったと思える。

イカガの略にサマ(様)を継ぎ合わせた語(両京俚言考)、

とまでいくと、「インチキ」の意に当てた「如何様」という言葉を前提の解釈でしかない。

「如何様」は、

いかよう、

とも訓ませるが、この意味は、

抑(そもそも)、いかやうなる心ざしあらん人にか、あはんとおぼす(竹取物語)、

と、

物事の状態、程度、方法などを疑い問う意、

を表わし、

いかなるさま、
どのよう、
どんなこと、
どのくらい、
どれほど、

という意や、

あなおほけな。又いかやうに限りなき御心ならむ(源氏物語)、

と、

物事の状態、程度などのはなはだしさを強調する、

意を表わし、

どのよう、
どれほど、

の意や、

何様(いかやう)にても我が子は被噉(くらはれ)なむずるにこそ有けれ(今昔物語集)、

と、

物事の状態を不定のままにいう、

ことから、

どういうさま、
どのよう、

の意で使い、どうやら、「いかよう」と訓むときは、

たしかに、
とか
ぜひとも、

の含意はない。これは、漢語、

如何(いかん)、

の、

如之何(コレヲイカンセン)、
如其仁(ソノ仁をイカンセン)、

と、

いかんせん、
どうしようか、

の意で使う意味の範囲を出でいないためと思われる(字源・漢字源)。

「如」(漢音ジョ、呉音ニョ)は、

会意兼形声。「口+音符女」。もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもないものを指す指示詞に当てる。「A是B」とは、AはとりもなおさずBだの意で、近称の是を用い、「A如B(AはほぼBに同じ、似ている)」という不則不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を指示する「如(もし)」も、現場にないものをさす働きの一用法である、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。「口」+音符「女」。「女」は「若」「弱」に共通した「しなやかな」の意を有し、いうことに柔和に従う(ごとし)の意を生じた。一説に、「口(神器)」+音符「女」、で神託を得る巫女(「若」も同源)を意味し、神託に従う(ごとし)の意を生じた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82)、

会意。女と、口(くち)とから成り、女が男のことばに従う、ひいて、したがう意を表す。借りて、助字に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(女+口)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「従順な女性」の意味)と「口」の象形(「神に祈る」の意味)から、「神に祈って従順になる」を意味する「如」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1519.htmlある。

「何」(漢音カ、呉音ガ)は、

象形。人が肩に荷をかつぐさまを描いたもので、後世の負荷の荷(になう)の原字。しかし普通は、一喝(いっかつ)するの喝と同系のことばに当て、のどをかすらせてはあっとどなって、いく人を押し止めるの意で用いる。「誰何(スイカ)する」という用例が原義に近い。転じて、広く相手に尋問することばとなった、

とある(漢字源)。

象形。甲骨文字や金文から見ると物を担いだ人を象ったものと判断される、「荷」の原字。のちに、形声文字として「人」+音符「可」と解されるようになった。喉を詰まらせて出す音(「呵」→「歌」、同系:「喝」)で、人を呼びとめたりすることを表し(誰何)、そこから、対象に関する疑問詞の用法となる、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%95同趣旨である。

「様」(ヨウ)は、

形声。羕は、「永(水がながく流れる)+音符羊」の形声文字(意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせて作られた文字)で、漾(ヨウ ただよう)の原字。様はそれを音符としてそえた字で、もと橡(ショウ)と同じく、クヌギの木のこと。のち、もっぱら象(すがた)の意に転用された、

とある(漢字源)。もと、橡(シヤウ)の異体字。借りて、かたち、ようすの意に用いる(角川新字源)ともある。別に、

会意兼形声文字です。「大地を覆う木の象形」と「羊の首の象形と支流を引き込む長い川の象形」(「相」に通じ、「姿・ありさま」の意味または、「長い羊の角」の意味)から、木や羊の角が目立つ姿をしている事から「ありさま」を意味する「様」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji424.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


禅定


不孝無残のともがらが、懺悔のこころもなき身として、禅定するこそもったいなし(善悪報ばなし)、

にある、

禅定、

は、仏教語で、

霊山に登り修行すること、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、ちょっとわかりづらい。「禅定」に、

禅定する、

という言い方があり、これは、

かくて立山禅定(ゼンヂャウ)し侍りけるに(「廻国雑記(1487)」)、

と、

修験(しゅげん)道で、富士山・白山・立山などの霊山に登って修行すること、

の意で使い(広辞苑)、この背景に、

高い山が信仰登山の対象となったところから、「禅定」が、

客人宮は、十一面観音の応作、白山禅(セン)定の霊神也(太平記)、

と、

高い山の頂上、
霊山の頂上、

の意を持ったためと思われる。もっとも、この場合、

ぜっちょうの訛音ならむ(和訓栞)、

と、絶頂の転訛とする説もあるが(大言海)。

「禅定」は、本来、

禅に同じ、

とある(岩波古語辞典)。「禅」は、

梵語dhyānaの音写、

とされ、その音訳、

禅那の略、

で(大言海)、

静慮、定・禅定などと訳す、

とある(岩波古語辞典)。つまり、「禅定」には、

禅と定、

の意味が重なっているらしく、

「禅」と「定」の合成語、

とあり(精選版日本国語大辞典)、「禅定」は、

dhyānaの訳語であるが、また、dhyāna を音訳した「禅那」を略した「禅」を「定」と合成したもので、「定」はもとsamādhi の訳語で、心を一つの対象に注いで、心の散乱をしずめるのが「定」、その上で、対象を正しくはっきりとらえて考えるのが「禅」、

とある(仝上)。「定」と訳すSamādhiは、「三昧」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491525087.html?1663354987で触れたように、「三昧」とも訳されたりする。「禅定」は、

心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想、また、その心の状態、

をいい(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

禅定に入る、

という言い方をする(仝上)が、

如来。無礙力無畏禅定解脱三昧諸法皆深成就故。云広大甚深無量(法華義疏)、

と、

散乱する心を統一し、煩悩の境界を離れて、静かに真理を考えること、

である(岩波古語辞典)。

入定(にゅうじょう)三昧、

ともいう(大言海)。「入定」は、

禅定(ぜんじょう)の境地にはいること、

をいう。

これは、大乗仏教の修行法である、

六波羅蜜の第五、

また、

三学(さんがく 戒・定・慧)の一つ、

である(精選版日本国語大辞典)とされ、仏道修行の、

三学、
六波羅蜜、

の一つとされる。「三学(さんがく)」は、

仏道修行者が修すべき三つの基本的な道、

つまり、

戒学(戒学は戒律を護持すること)、
定学(精神を集中して心を散乱させないこと)、
慧学(煩悩を離れ真実を知る智慧を獲得するように努めること)

をいう。この戒、定、慧の三学は互いに補い合って修すべきものであるとし、

戒あれば慧あり、慧あれば戒あり、

などという(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)。この三学が、大乗仏教では、基本的実践道である六波羅蜜に発展する。「波羅蜜(はらみつ)」は、

サンスクリット語のパーラミター pāramitāの音写、

で、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」は、

大乗仏教の求道者が実践すべき六種の完全な徳目、

布施波羅蜜(施しという完全な徳)、
持戒波羅蜜(戒律を守るという完全な徳)、
忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ 忍耐という完全な徳)、
精進波羅蜜(努力を行うという完全な徳)、
禅定波羅蜜(精神統一という完全な徳)、
般若波羅蜜(仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳)、

を指し、般若波羅蜜は、他の波羅蜜のよりどころとなるもの、とされる(仝上)。

なお、禅定の四段階については、「三界」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491997710.html?1664651664で触れた。なお、「三昧」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491525087.html?1663354987で触れたように、「三昧」は、

梵語samādhiの音訳、

で、

定(ジョウ)・正定(セイジョウ)・等持・寂静(大言海)、

と訳し、

心を一所に住(とど)めて、動かざること、妄念を離れて、心を寂静にし、我が心鏡に映じ来る諸法の実相を、諦観する、

意で、

禅定(ゼンジョウ)、

ともいう(大言海)。

「禪(禅)」(漢音セン、呉音ゼン)は、

会意兼形声。「示(祭壇)+音符單(たいら)」で、たいらな土の壇の上で天をまつる儀式、

とある(漢字源)。別に、

形声。示と、音符單(セン、ゼン)とから成る。天子が行う天の祭り、転じて、天子の位をゆずる意を表す。借りて、梵語 dhyānaの音訳字に用いる、

とも(角川新字源)、

形声文字です(ネ(示)+単(單))。「神にいけにえを捧げる台」の象形と「先端が両またになっているはじき弓」の象形(「ひとつ」の意味だが、ここでは、「壇(タン)」に通じ(同じ読みを持つ「壇」と同じ意味を持つようになって)、「土を盛り上げて築いた高い所」の意味)から、「壇を設けて天に祭る」を意味する「禅」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1666.htmlある。

「定」(漢音テイ、呉音ジョウ)は、「定力」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485898873.htmlで触れたように、

会意兼形声。「宀(やね)+音符正」で、足をまっすぐ家の中に立ててとまるさまを示す。ひと所に落ち着いて動かないこと、

とある(漢字源)が、

形声。宀と、音符正(セイ)→(テイ)(𤴓は誤り伝わった形)とから成り、物を整えて落ち着かせる、ひいて「さだめる」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意形声。「宀」+音符「正」、「正」は「一」+「止(=足)」で目標に向け進むこと、それが、屋内にとどまるの意。「亭」「停」「鼎」「釘」と同系、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%9A

会意兼形声文字です(宀+正)。「屋根・家屋」の象形と「国や村の象形と立ち止まる足の象形」(敵国へまっすぐ突き進むさまから、「まっすぐ」の意味)から、家屋がまっすぐ建つ、すなわち、「さだまる」を意味する「定」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji520.htmlある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


善知識


ある知識の云はく、さやうに霊の來るには、経帷子を着て臥し給はば、別の仔細あるまじ(善悪報ばなし)、

にある、

知識、

は、

善知識、徳ある僧、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「知識」は、多く、

智識、

とも当て(広辞苑)、

ある事項について知っていること。また、その内容(仝上)、
知ること。認識・理解すること。また、ある事柄などについて、知っている内容(大辞泉)、
知恵と見識。ある事柄に対する、明確な意識と、それに対する判断。また、それを備えた人(日本国語大辞典)、

等々と言った意味で使われる。しかし、「知と智」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444368042.htmlで触れたが、「知」と「智」は異なる。

「知」は、

会意文字。「矢+口で、矢のようにまっすぐに物事の本質を言い当てることをあらわす、

とあり(漢字源)、「知」は「識」と同じく、

生知、
學知、

と、

し(識)る、

意味で(字源)、

知覚、

ともあり(大言海)、

知は識より重し、知人知道心といへば、心の底より篤と知ることなり、知己・知音と熟す。識名・識面は、一寸見覚えあるまでの意なり、相識と熟す、

とあり(字源)、「知識」は、

衆所知識(維摩経)、

と、

知恵と見識、

の意である(仝上)。また、「智」の字は、

会意兼形声。知とは「矢+口」の会意文字で、矢のようにすぱりと当てて言うこと。智は「曰(いう)+音符知」で、知と同系、すぱりと言い当てて、さといこと、

とあり(漢字源)、

とあり、

才智、
多智、

と、

ちゑ、
事理に明か、賢き人、

の意で、

愚、
闇、

の反とある(字源)。ただ、「智」は、

知の優れている意に用いる、「知(チ)」の後にできた字、

とある(角川新字源)。後世の後知恵(特に儒家の)ような気がする。

「智識」は、

日誦數千語、而智識恆出長老之上(宋史・李庭芝傳)、

と、

ちゑ、

とある(仝上)。「知と智」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444368042.htmlで触れたように、この「ちゑ」に当てる、「智慧」と「知恵」は、「知恵」は、

自身の心から生じるもの、

であり、

人がその人生においてさまざまな経験を積み重ねていく中で、否が応でも生じる弊害や苦悩、迷いを克服していく過程のなかにおいて、あらゆる学問などを通じて培った「知識」を、如何に自身の心で消化して、自分のものとする、

であり、「智慧」は、

仏様からのもの、

であり、御本尊と正面から向き合い、仏道修行する中で、仏様の命の境涯(仏界)に縁して、自身の心(命)にも在る「仏界」を認識していくこと、

であり、それが、

仏様からの答え、

であり、

御仏智、

であるhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211290417とされる。「智識」の、「ちゑ」とはそういうものである。

後漢末の辞典『釋名』(しゃくみょう)には、

智、知也、無所不知也、

とあるので、あまり「知」と「智」の区別はなくなっているが、儒教と仏教が区別した。あるいは、「知」と「智」は、

曰う、

の有無の差でしかなかったのかもしれない。「曰」とは、

「口+乚印」で、口の中から言葉が出てくることを示す、

とある(漢字源)。つまり、

口に出す、

あるいは、

口に出せる、

かどうかに意味があったのかもしれない。儒教では、

五常・三徳の一、

をいい、「五常」とは、

仁・義・礼・智・信、

をいい、三徳は、

智・仁・勇、

をいう(岩波古語辞典)。「禅定」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492219327.html?1665083714で触れたが、大乗仏教の求道者が実践すべき六種の徳目、

六波羅蜜、

つまり、

@布施波羅蜜 檀那(だんな、Dāna ダーナ)は、分け与えること、
A持戒波羅蜜 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること、
B忍辱波羅蜜 羼提(せんだい、Kṣānti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと、
C精進波羅蜜 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること、
D禅定波羅蜜 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること、
E智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、Prajñā プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧、

の第六に「智」があり、

前五波羅蜜は、般若波羅蜜を成就するための手段、

であるとともに、

般若波羅蜜による調御によって成就される、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C

「慈悲」と対とされる。龍樹の、

布施・持戒 -「利他」
忍辱・精進 -「自利」
禅定・智慧 -「解脱」

の解脱の位置にある。知らざる所無し、とはまさにこれを指す。「知」とは区別される。

そういう「智」を前提に、仏教では、「智識」を、

わが朝の偏方に智識をとぶらひき(正法眼蔵)、

と、

人を仏道に導く縁となる人、
仏法の指導者、

をいい、これを、

善智識、

という(岩波古語辞典)。またその意味の外延から、

結縁のために、堂塔や仏像などの建立に私財を寄進すること。また、その人や金品、知識物、

の意でも使う(岩波古語辞典)。

だから、「善智識」は、

ぜんちしき、

あるいは

ぜんぢしき、

とも訓ませるが、

善法、正法を説いて人を仏道にはいらせる人。外から護る外護、行動を共にする同行、教え導く教導の三種がある、

とあり(日本国語大辞典)、

高徳の僧のこと、

をいい、

真宗では法主(ほっす)、
禅宗では師僧(師家)、

を尊んでいう(仝上)。摩訶止観(まかしかん)は三種の善知識を説き、

一は外護(げご)の善知識でパトロンとなるもの、
二は同行(どうぎよう)の善知識で友人のこと、
三は教授の善知識で指導者をさす、

とある(仝上)。この反対が、

惡智識、

で、

悪法、邪法を説いて人を悪に誘い入れる邪悪な人、また、悪い師友、

をいう。

「善」(漢音セン、呉音ゼン)は、

会意。羊は、義(よい)や祥(めでたい)に含まれ、おいしくみごとな供え物の代表。言は、かどある明白なものの言い方。善は「羊+言二つ」で、たっぷりとみごとである意を表わす。のちひろく「よい」意となる、

とある(漢字源)。別に、

本字は、会意。誩(けい 多くのことば)と、羊(ひつじ。神にささげるいけにえ)とから成る。神にささげるめでたいことば、ひいて「よい」意を表す。善は、その省略形、

とあり(角川新字源)、

会意文字です(羊+言+言)。「ひつじの首」の象形と「2つの取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「原告と被告の発言」の意味)から、羊を神のいけにえとして、両者がよい結論を求める事を意味し、そこから、「よい」を意味する「善」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1003.html

「知」(チ)は、上述したように、

「矢+口」で、矢のようにまっすぐに物事の本質を言い当てることをあらわす、

とあり(漢字源)、別に、

会意。「矢」(まっすぐ射抜くの意、又は神器)と「口」(「言う」又は祝詞を入れる神器)で物事をまっすぐに言い当てることなど、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%A5

会意。矢(すばやい)と、口(ことば)とから成る。ことばを即座に理解する、「しる」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(矢+口)。「矢の象形」と「口の象形」から矢をそえて祈り、神意を知る事から「しる」を意味する「知」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji376.htmlある。

「智」(チ)は、

会意兼形声。知は「矢+口」の会意文字で、矢のようにすぱりと当てて言うこと。智は「曰(いう)+音符知」で、知と同系、すぱりと言い当てて、さといこと、

とあり(漢字源)、別に、

会意形声。口・白(ことば、いう。曰は変わった形)と、𥎿(チ 知は省略形。しる)とから成る。知恵の意を表す。また、知の優れている意に用いる。「知(チ)」の後にできた字、

とも(角川新字源)、

会意文字です(知+日)。「矢の象形と口の象形」(矢をそえて祈り、神意を知る事から「知る」の意味)と「太陽」の象形から、「知恵のある人、賢い人」を意味する「智」という漢字が成り立ちました。また、太陽の象形ではなく、「口と呼気の象形」(「発言する」の意味)という説もある、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2490.html。「智」のほうが「知」の後からできたというのが面白い。

「識」(漢音ショク、呉音シキ、漢音・呉音シ)は、「八識」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491238963.htmlで触れたように、

会意兼形声。戠の原字は「弋(棒ぐい)+Y型のくい」で、目印のくいをあらわす。のち、口または音を揃えた字となった。識はそれを音符とし、言を加えた字で、目印や名によって、いちいち区別して、その名をしるすこと、

とある(漢字源)が、

会意形声。「言」+音符「戠」、「戠」は「幟・織」の原字で「戈」に飾りをつけたもので、標識を意味する、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AD%98

形声。言と、音符戠(シヨク)とから成る。意味をよく知る、記憶する意を表す。ひいて「しるし」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(言+戠)。「取っ手のある刃物・口の象形」(「(つつしん)で言う」の意味)と「枝のある木に支柱を添えた象形とはた織り器具の象形」(はたを「おる」の意味)から、言葉を縦横にして織り出して、物事を「見分ける」、「知る」を意味する「識」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji787.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

上へ


しま


「しま」は、

島、

のほか、

嶋、
嶌、

とも当てるが、

周囲を水で囲まれた陸地、

をいい、分布の状態から、

諸島、
列島、
孤島、

などと、また、成因から、

陸島(りくとう)、
洋島(ようとう)、

に区別され、洋島には、

火山島、
珊瑚島、

などがある(広辞苑)とされる。「陸島」は、

大陸棚上に位置する島、

をいい、

大陸島、

ともいう。「陸島」に対するのが、

洋島、

で、

大洋底からそそり立っている島、

をいい、

海洋島、

ともいう(日本大百科全書)。

この「しま」の語源には、

四面、局(かぎ)られて、狭(せま)、又は、縞(しま)の義、梵語にも四摩と云ふとぞ、朝鮮語に、しむ(大言海)、
朝鮮語siem(島)と同源(岩波古語辞典)、
セマ・セバ(狭)の義(日本釈名・箋注和名抄)、
シマ(締)の義(日本声母伝・類聚名物考・名言通・本朝辞源=宇田甘冥・国語の語根とその分類=大島正健)、
水中にスムベキ(居可)所の意で、スミの転語(東雅・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
シはス(洲)の転で、マはムラ(村)の反(日本釈名)、
スマ(洲間)の義(和語私臆鈔・言元梯)、
シホウ(四方)から見えるヤマ(山)の義(和句解)、
本来は邑落(ゆうらく)を意味する語(島の人生=柳田國男)、
本来は宮廷領を意味する語(万葉びとの生活=折口信夫)、
シマ(独立した所)の意(日本語源広辞典)、

等々様々な説があるが、

「しま」の「ま」は、「浜」「沼」「隈」「まま(崖)」など、ある地勢・地形を表す語の第二音節に共通し、それは地名「有馬・入間・笠間・勝間・群馬・相馬・志摩・但馬・筑摩・野間・播磨・三間」などにも多く認められるところから、地形を表す形態素、

とみる説がある(日本語源大辞典)。この方が説得力がある気がする。

simaが水と陸の境を意味していた、

とする説http://www.jojikanehira.com/archives/15258565.htmlも、その流れでみると意味深い。

「島」には、

島物の略、

として、

織柄の一種、二種以上の色糸を用いて、たて・よこに種々の筋をあらわした模様、織物、

の意があるか、これは、

戦国末期から安土桃山時代に、ポルトガル等から伝わり、「南蛮諸島のもの」と呼ばれた、

ことからくるものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%BEで、近世前期までは、

縞、

ではなく、

島、

と書いた(岩波古語辞典)による。いまひとつ、

(美濃では)民居の集合、……部落または大字のことらしい(島の人生)、

と、柳田國男が言っているのは、折口信夫の、

本来は宮廷領を意味する語、

とする説とも関わる気がするが、はっきりしない。「しま」の意味に、

このしまはよその者には渡せない
此のしま初めての祝儀とて先づ嚊が手元へ二両投げければ(浮世草子「諸艶大鑑」)、

などと、

ある限られた地域、

をいい、それが、

やくざの縄張り、

などをいう「しま」と繋がっているのかもしれない。また、

取り付く島もない、

というように(「けんもほろろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/420594101.htmlで触れた)、「しま」には、

頼りや助けとなる物事。よすが、

の意があり、

航海に出たものの、近くに立ち寄れるような島はなく、休息すら取れない、

といった状況を指し、

困り果てる様子にたとえていっている。なお、

律令制時代の8世紀から9世紀にかけて、国(令制国)と同格の行政機関として「島(嶋)」が置かれていた。長を「島司」、役所を「島府」と言い、国分寺に相当する「島分寺」が建立された。島司は国司に相当する官職であり、中央から派遣された官吏である、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6、701年制定の大宝律令では、

壹伎島・対馬島・多褹島、

の3島が置かれていた(仝上)という。

「嶋」(トウ)は、

会意兼形声。「山+音符鳥(チョウ)」で、渡り鳥が休む海の小さい山、

のこと、

とある(漢字源)。元の形は、

㠀、

で、まさに、

渡り鳥が止まる場所の意から、波のあいだにうかぶ山、

となる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B3%B6・角川新字源)。

なお、「島」は「島台の略」という意もあるが、「島台」については「すはま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473834956.html、「蓬莱」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488165402.htmlで触れた。

参考文献;
柳田國男「海南小記(柳田国男全集1)」(ちくま文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

上へ



かしこを見れば、其の長(たけ)五尋(ひろ)ばかりもあるらんと覚しき、鰐(わに)と云ふ物、五、六十ばかり、舟の前後を打ち囲みてぞ見へにける(善悪報ばなし)、

にある、

鰐、

は、

鮫類の古名、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「さめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/452936180.htmlで触れたように、

ふか(鱶),

とも言い、古くは,

わに,

とも言ったのは確かだし、

山陰道にては,鮫を,和邇(わに)と云ふ、神代紀に、鰐(わに)とあるは、鮫なるべし、

とする(大言海)のが一般的なのだが、和名類聚抄(平安中期)は、

鰐、和仁、似鱉(スッポン)有四足、喙長三尺、其利歯、虎及大鹿渡水、鰐撃之、皆中断、

とし、明らかに「ワニ」を知っていたことがわかる。さらに、

鮫、佐米、

と別項を立てている。字鏡(平安後期頃)も、

鮫、佐女、

とする。そう考えると、

爬虫類のワニは日本近海では見ることがないので、上代のワニは、後代のワニザメ・ワニブカ等の名から、サメ・フカの類と考えられている、

とする(日本語源大辞典)のは如何なものだろうか。

豊玉姫説話の「古事記」で「化八尋和迩」とあるところが、「日本書紀」で「化為龍」その一書の「化為八尋大熊鰐」にあたる。また、「新撰字鏡」「和名抄」で「鰐」にワニの訓を注するが、記紀ではワニの脚については記すところがない、

ゆえに(精選版日本国語大辞典)、


おそらく強暴の水棲動物として「鰐」の字がえらばれたまま、中国伝来の四足の知識が定着し、近世に至って爬虫類としての実体に接することになったものと思われる、

とする(日本語源大辞典)のも、折口信夫ではないが、

ワニが日本にいないから和邇はサメだとするのは、短気な話で、日本人の非常に広い経験を軽蔑している、

ものではないか(古代日本文学における南方要素)。現実に、幕末の『南島雑話』(薩摩藩士・名越左源太)には、

ワニが現れた奄美大島の風俗、

を描き、

蛇龍、

として、

ワニ、

を紹介しているし、『和漢三才図会』も鰐(わに)と題してワニの絵が描かれている。また、歌川国芳が、朝比奈三郎義秀を描いた浮世絵(天保14(1843)年)にも、吾妻鏡で、朝比奈が鮫を捕らえたという伝承をもとに、鰐にして描いている。

古い中国語で、

イリエワニ、

指す語であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%8B「鰐」という字・概念が日本に輸入されたものとみていいのだが、「イリエワニ」は、

インド南東部からベトナムにかけてのアジア大陸、スンダ列島からニューギニア島、及びオーストラリア北部沿岸、東はカロリン諸島辺りまでの広い範囲、

に分布し、

海水への耐性が強く、海流に乗って沖合に出て、島嶼などへ移動することもある、

とされ、海流に乗って移動する生態から、日本では、

奄美大島、
西表島、
八丈島、

等々でも発見例があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AF%E3%83%8B。なお、「鰐」の「サメ」説、「ワニ」説の詳細については、「和邇」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E9%82%87に詳しい。

では「わに」という訓の由来は何か。

その口の様子から、ワレニクキ(割醜)の義(名言通・大言海)、
ワタヌシ(海主)の約(たべもの語源辞典)、
アニ(兄)の転訛。畏敬すべきものを表わす(神代史の研究=白鳥庫吉)、
オニ(鬼)の転(和語私臆鈔)、
口を大きくあけて物を飲み込むところから、ウマノミ(熟飲)の反(名語記)、
口をワンと開くところから(言元梯)、
ツングースの一支族オロッコ族が海豹(アザラシ)をいうバーニの転(神話学概論=西村真次)、

等々をみると、どうも「サメ」を指して言っていたのではないか、という気もしてくる。確かに、

古事記・日本書紀両方にあるトヨタマヒメのお産の話にある陸上で腹ばいになり、のたうつ動物が鮫のはずはない、

という(黒沢幸三「ワニ氏の伝承その一・氏名の由来をめぐって」)ように和邇・鰐はサメでは説明できないのはたしかだが、実物をしらない哀しさ、どこかでサメと混同してしまう部分があったのかもしれない。。

「鰐(鱷)」(ガク)は、

会意兼形声。「魚+咢(ガク ガクガクとかみあわせる)」

とあり(漢字源)、なお、

「咢(ガク)」や異体字「噩(ガク)」、

は、

おどろかす、

意も表すhttp://www.nihonjiten.com/data/46586.htmlとある。「鰐」の異字体「鱷」は、

兪至潮、問民疾苦、皆曰、惡渓有鱷漁(ガクギョ)、食民畜産、且盡、民以是窮(唐書・韓愈傳)、

と載る(字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


水手(かこ)


水手(かこ)をはじめ舟中の人々、こはいかなる事やらんと慌てためく所に(善悪報ばなし)、

に、

水手、

とあるのは、

船頭、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、あまり正確ではない。

「水手」は、

加子、
水夫、
楫子、

とも当て(広辞苑・岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、和名類聚抄(平安中期)に、

水手、加古、

とあり、

ふなのり、
舟を操る人、

の意である(広辞苑)が、「かこ」は、

「か」は楫(かじ)、「こ」は人の意(広辞苑・大辞林・大辞泉・日本国語大辞典)、
「か」は「かぢ(楫)」の古形、「こ」は人の意(学研全訳古語辞典)、
檝子(カヂコ)の略(大言海)、
櫂の原語カにコ(子)のついたもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、どうやら、

楫(舵)を取る人、

の意で、「か」は、

八十楫(やそか)懸け島隠(しまかく)りなば吾妹子(わぎもこ)が留まれと振らむ袖見えじかも(万葉集)、

と、

楫、

と当て、

かぢの古形、

であり、

櫓(ろ)、

の意で、

楫子、
楫取り、

等々、複合語の中にのみ見える(岩波古語辞典)とある。「水手」(すいしゅ)は、

便合與官充水手、此生何止略知津(蘇軾)、

と、

漢語で、

船乗り、

の意である。ために、

水手・水主、

は、

水手(すいしゅ)梶取(かんど)り申しけるは、此の風は追風(おひて)にて候へども(平家物語)、

と、

すいしゅ、

とも訓ませる。

「船頭」というと、文字通り、

船の長(おさ)、
船乗りの頭(かしら)、

つまり、

船長、

になるが、今日の一般通念では、

小さい漕(こ)ぎ船の漕ぎ手や船乗り、

をさす。しかし古くは、

梶取(かじと)り、

とよばれ、南北朝時代からしだいに、

船頭、

が並称され始め、室町時代には、船頭といえばもっぱら、

商船の長、

をさし、船の運航指揮をとる一方で自ら積み荷の荷さばきや売買も行う、

船主、

であり、

商人、

であった。近世になって、廻船業でも漁業でも、上は千石船から下は小型の「はしけ」に至るまで、すべて船の長を、

船頭、

と呼ぶに至った。船頭のなかでも、船持ちの者を、

船主船頭、
とか、
直(じき)船頭、

とよんだが、経営規模や商取引の機構が拡大・複雑化するとともに1人の船頭が海上作業と商売とを兼ねることが困難となり、役割の分化がおこった。その結果、船主は陸上で経営の指揮をとり、船頭は船主に雇われて航海や海上作業の指揮を専門とするようになった(日本大百科全書)とある。

そうした役割分担は、船内でもあり、北前船を例にとると、

船頭(船長)、
表仕(おもてし 舵取り 航海長)、
親仁(おやじ 水夫長)、
賄い(まかない 事務長、日本海側では知工(ちく))、
片表(かたおもて 副航海長)、
楫子(かじこ 操舵手)、
炊(かしき 炊事係)、

と分かれるhttp://www.oceandictionary.jp/subject_1/je-bunya/wasen-je.htmlより)

其節の儀は当時船中表役・知工・親父役・水主の者共追々出代り私壱人の外存候もの無御座候(「異船探微(江戸末)」)、

とあるように、

表役・親父(仁)・知工、

は、

船方三役、

と呼び、

ばれて船頭を補佐する首脳部になる。

「親仁(おやじ)」は、

親父、

とも当て、

舵取り、

を担当し、船内取締りや船務の監督指揮をも務め、「表仕(おもてし)」は、

舳仕(おもてし)、

とも当て、

表、
表役、

ともいい、

船首にあって目標の山などを見通し、また、磁石を使うなどして針路を定める役で、現在の航海長に相当する。

「知工(ちく)」は、積荷の出入りや運航経費の帳簿づけなど船内会計事務をとりしきる役で、一般に日本海側で使われ、太平洋側では、

賄(まかない)、

と称し、廻船問屋などの交渉で上陸する仕事が多いため、

岡廻り、
岡使い、

とも呼ばれた(精選版日本国語大辞典)。

こうした役割分担に伴って、「水手」は、かつては、

凡(すべ)て水手(ふなこ)を鹿子(カコ)と曰ふこと、蓋し始め是(か)の時に起れり(日本書紀)、

と、

船を操る人、
楫(かじ)取り、
船乗り、
船頭、

広く使っていたが、近世になると、

御城米相廻候時、送状御城米員数之儀は不及申、粮米并船頭水主何人乗、何年造之船荒増之船道具、俵口合数等可書付(「財政経済史料(1673)」)、

と、

船頭以外の船員、

または、

船頭、楫(かじ)取り、知工(ちく)、親仁(おやじ)など幹部を除く一般船員、

意で使うようになる。要は、

船乗り、

の意であり、

櫓櫂を漕ぎ、帆をあやつり、碇、伝馬、荷物の上げ下ろしなど諸作業をする、

ものである。ただ、「船頭」も、明治期以降、大型船から小型漁船まで船の長は一般に、

船長、

とよび、船頭といえば、

渡し船やその他の小舟を操作する人、

限られるようになった(精選版日本国語大辞典)。その意味では、「水手」が、

舟を漕ぐ人、

の意で、

船頭、

でも間違いではないが。

なお「水手」を、

みずて、

と訓むと、文字の書き方の一つの、

文字の尾を長くひいて水の流れたように書くもの、

の意となる(仝上)。

「水」(スイ)は、「曲水」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486925604.htmlで触れたように、

象形。水の流れの姿を描いたもの、

である(漢字源)。

「てづつ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/489491846.htmlで触れたように、「手」(漢音シュウ、呉音シュ・ス)は、

象形。五本の指ある手首を描いたもの、

で(漢字源)、また、手に取る意を表す(角川新字源)。「手写」「手植」というように「手」ないし「てずから」の意だが、「下手(手ヲ下ス)」「着手」のように仕事の意、「名手」「能手」というように「技芸や細工のうまい人」の意、「技手」「画手」と、「技芸や仕事を習得した人」の意でも使う。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

上へ


肝胆


其の時、僧肝胆を砕き、祈らるるとき、かの女房の口より、赤き蛇一すぢ這い出て(善悪報ばなし)、

にある、

肝胆を砕く、

は、

精魂こめて、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

摧肝胆、住悪心、偏忘他事、有御念願(『玉葉(1186)』)、
山王大師に百日肝胆(カンタン)を摧(クタイ)て祈申ければ(平家物語)、

などと、

肝胆を摧く

とも当てるが、

懸命になって物事をする、
心を尽くす、

意である(精選版日本国語大辞典)。あるいは、

真心を尽くす、

意ともある(大言海)。

「肝胆」は、

肝(きも)と胆(い)、

つまり、

肝臓と胆嚢、

の意で、転じて、

心の中、
心の底、

また、

誠の心、

の意で使う(日本国語大辞典)。

肝腎、

も、

肝臓と腎臓、

の意で、転じて、

心を云ふ、

とあり(字源)、

肝心(かんじん)、

と同義で、

揚雄平生學、肝腎困雕鐫(チョウセン 彫り刻む)(陳與義)、

と、

肝要、

の意で、

物事の主要なるに喩ふ、

とある(仝上)。

(肝腎は)肝心(きもこころ)の音読みか、人体の至要なるものなれば、挙げて云ふにか、肝胆、肺肝など云ふも同じ、

とある(大言海)。

「肝胆」を使った成句は多く、

肝胆相照(肝胆相照らす)、

は、

握手出肝胆相示(韓愈・柳子厚墓誌銘)、

と、

互いに心を示して隠す所なし、

の意である(字源)。

肝胆傾(肝胆傾く)、

は、

江湖一見十年舊、談笑相逢肝胆傾(曾鞏詩)、

と、

まごころを傾け尽す、

意である(仝上)。

披肝胆(肝胆を披(ひら)く)、

は、

披肝胆、決大計(漢書・路温舒傳)、

と、

まごころを打ち明ける、

意で、

披肝(肝を披(ひら)く)、

と同義である。

肝胆楚越(肝胆も楚越)、

は、

自其異者視之、肝胆楚越也。自其同者視之、万物皆一也(荘子)、

に由来し、

物は見方によりて、肝胆の如く密接せるものも、楚越の如くに遠く隔たる、

意で、

見方によっては近い関係にあるものも遠く、遠いものも近く見える、

に喩える(仝上・日本国語大辞典)。

肝胆地塗(肝胆地(ち)に塗(まみ)る)、

は、

使天下之民肝脳地塗、父子暴骨中野(史記・劉敬傳)、

と、

肝脳地塗(肝脳地(ち)に塗(まみ)る)、

と同義で、

惨殺せられて肝臓や脳が地にまみれる、

意である(字源・精選版日本国語大辞典)。

肝胆寒し、

は、

敵の肝胆を寒からしむ、

などと使い、

怖れてぞっとする、

意である(広辞苑)。

肝胆を砕く、

は、

肝胆を出(い)だす、

ともいい、

心労のかぎりをつくす、
心を尽くす、

意である(仝上)。

「肝」(カン)は、

会意兼形声。干(カン)は、太い棒を描いた象形文字。幹(カン みき)の原字。肝は「肉+音符干」で、身体の中心となる幹(みき)の役目をする肝臓。樹木で、枝と幹が相対するごとく、身体では、肢(シ 枝のようにからだに生えた手や足)と肝とが相対する、

とある(漢字源)。

形声文字です(月(肉)+干)。「切った肉」の象形と「先がふたまたになっている武器」の象形(「おかす・ふせぐ」の意味だが、ここでは「幹」に通じ、「みき」の意味)から、肉体の中の幹(みき)に当たる重要な部分、「きも」を意味する「肝」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji291.html

「胆(膽)」(タン)は、

形声。・(セン・タン)は、「高いがけ+八印(発散する)+言」の会意文字。瞻(セン 高い崖の上から見る)、譫(セン 上ずったでたらめを言う)などの原字。膽は、それを単なる音符として加えた字で、ずっしり重く落ち着かせる役目をもつ内臓。胆は、もとあぶら・口紅の意だが、今は、膽に代用する、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です(月(肉)+旦(・))。 「切った肉」の象形と「屋根の棟(最も高い所)から、ひさし(屋根の下端で、建物の壁面より外に突出している部分)に流れる線の象形と音響の分散を表した文字と取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「くどくど言う」の意味だが、ここでは、「ひさし」の意味)から、肝臓をひさしのようにして位置する器官、「きも」を意味する「膽」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji292.htmlが、「胆」と「膽」の由来を区別し、「胆」は、

形声。肉と、音符旦(タン)とから成る。はだぬぐ意を表す。もと、但(タン)の別体字。一説に、膻(タン)の俗字という、

とし、「膽」は、

形声。肉と、音符・(セム→タム)とから成る。「きも」の意を表す。古くから、膽の俗字として胆が用いられていた、常用漢字はこれによる、

と説明するものもある(角川新字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

上へ


梁塵


梁塵、

とは、文字通り、

建物の梁(はり)の上につもっている塵(ちり)、

の意だが、

虞公韓娥といひけり。こゑよく妙にして、他人のこゑおよばざりけり。きく者めで感じて、涙おさへぬばかりなり。うたひける聲のひびきにうつばりの塵たちて、三日ゐざりければ、うつばりのちりの秘抄とはいふなるべし、

と、

梁塵秘抄、

となづけた所以を書いている(梁塵秘抄)通り、

舞袖留翔鶴、歌声落梁塵(「懐風藻(751)」)、

と、

梁塵を動かす、
梁(うつばり)の塵を動かす、
梁(うつばり)の塵も落ちる、

という故事を生んだ、

歌う声のすぐれていること、
素晴らしい声で歌うこと、

の意、転じて、

音楽にすぐれている、

の意で使われる(広辞苑)。これは、『文選』(もんぜん 南北朝時代の南朝梁の昭明太子蕭統によって編纂された詩文集)の成公綏「嘯賦」の李善注に引く、劉向の「七略別録」に、

劉向別録曰……漢興以来善雅歌者、魯人虞公、発声清哀、遠動梁塵(文選)、

と、みえる故事に由来する(故事ことわざの辞典)。

虞公(ぐこう)、

は、

善く歌するに魯人あり。發聲哀、歌梁塵を動かす、

と評されるほど、中国漢代、美声で知られたらしい。

虞公韓娥、

と併記される美声が、

韓娥(かんが)、

という人で、

昔韓娥東之齊、匱糧、過雍門、鬻歌假食、既去、而餘音繞梁欐、三日不絶(列子)、

と、虞公の上を行き、

既に去りて、餘音梁欐を繞(めぐ)り、三日絶えず、

とあるほどの、

古の歌伎の名、

とある(字源・字通)。

余音(よいん)、梁欐(りょうれい)を繞(めぐ)りて三日絶えず、

もまた、故事となっており、ここから、

繞梁(ぎょうりょう)、

という言葉も、

歌声のすぐれて妙なるに云ふ、

意で使う(字源)。

似た故事に、

遏雲(あつうん)、

がある。これも、

薛譚(せつたん)學謳於秦(しんせい)、未窮之技、自謂蓋之矣、遂辭歸、秦弗止、餞於郊衢撫節悲歌、聲振林木、響遏行雲、薛譚乃謝、求反、終身不敢言歸(列子)、

の、

餞於郊衢撫節悲歌、聲振林木、響遏行雲(郊衢に餞(はなむけ)し、節を撫して悲歌す。聲は林木に振ひ、聲は行雲を遏(とど)む)、

と、秦の餞けの歌声が、

響遏行雲、

に依っている(字源・故事ことわざの辞典)。

流れる雲もとどまるほどの妙曲、

の意で、

遏雲(あつうん)の曲、
雲を遏(とど)め梁を遶(めぐ)る、

という言い方もするようだ。

「梁」(漢音リョウ、呉音ロウ)は、

会意。もと「水+両側に刃のついた刀の形」からなる会意文字。のちさらに木を加えた。左右の両岸に支柱を立て、その上にかけた木の橋である。両岸にわたるからリョウといい、両と同系、

とある(漢字源)。別に、

会意文字です(氵(水)+刅+木)。「流れる水」の象形と「水の流れを石でせきとめた」象形と「大地を覆う木」の象形から、「やな(木や石で水流をせきとめて、一か所だけ流れるようにして魚を捕える仕掛け)」を意味する「梁」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2515.html

「塵」(漢音チン、呉音ジン)は、

会意文字。「鹿+土」で、鹿の群れの走り去った後に土ぼこりが立つことを示す。下にたまる、ごく小さい粉のこと、

とある(漢字源)。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)

上へ


村雨


ひとつ神鳴とどろきて稲妻ひかり、村雨おびただしくして眼(まなこ)も眩むばかりなりけるが(善悪報ばなし)、

にある、

村雨、

は、

叢雨、
群雨、

とも当て、

群になって降る雨、
群がって降る雨、

の意で、

激しくなったり弱くなったりして降る雨(日本国語大辞典)、
ひとしきり強く降ってやむ雨、強くなったり弱くなったりを繰り返して降る雨(大辞林)、
一しきり強く降って来る雨(広辞苑)、

などとあり、

にわか雨、
驟雨(しゅうう)、
白雨、
繁雨(しばあめ)、
過雨(かう)、
通り雨、

等々ともいう(広辞苑・大言海)。万葉集にも、

庭草(にはくさ)に村雨降りてこほろぎの鳴く声(こゑ)聞けば秋づきにけり、

とあるように古くから使われる。

不等雨(むらさめ)、

とも書かれるように、

降り方が激しかったり、弱くなったりする雨、

をいうようである。

ひとしきり強く降ってはやみ、また降り出す雨、

ともある(雨のことば辞典)。和名類聚抄(平安中期)には、

暴雨、白雨、無良左女、

類聚名義抄(11〜12世紀)には、

白雨、むらさめ、

とある。

人しれずもの思ふ夏の村雨は身よりふりぬるものにぞ有りける(古今集)、

と、夏のイメージが強く、地方によっては夕立の意味とするところもあり、

秋に俄に降り出す雨(類語大辞典)、

としたりするが、「村雨」の名は、むしろ降り方なのではないか。語源を見ると、

「群がって降る雨」の意(広辞苑・日本国語大辞典)、
ムラサメ(群雨)の義(箋注和名抄・言元梯・大言海)、
ムラムラに降って、降らぬところもあるところから(日本釈名・東雅・大言海)、

とあり、

ざっと群がって降る、

意と、

不等雨、

と当てたように、

激しくなったり弱くなったりして降る、

意の両義がある。

「村消え」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485321558.htmlで触れたように、

村消ゆ、

は、

斑消ゆ、
叢消ゆ、
群消ゆ、

とも当て(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、

(雪などが)あちこちとまばらに消えている、
一方は消え、一方は残る、

意である(広辞苑・岩波古語辞典)。

同じ使い方は、「すそご」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484482055.htmlで触れた、縅(おどし)や染色に、

同じ色で、所々に濃い所と薄い所のあるもの、

を、

村濃(むらご)、

というが、これも、

斑濃、
叢濃、

とも当て、

むら(斑)、

の意、

ここかしこに叢(むら)をなすこと(大言海)、

つまり、

色の濃淡、物の厚薄などがあって、不揃い、

の意である(広辞苑)。「村」自体が、

群(ムレ)と同根、

とされるところからも、

ひとつところに集まる、

意があるが、それとともに、

斑、

の字も当てるところから、

まだら、

の含意もある。「村雨」に、両義があるのも当然かもしれない。なお、

パラパラと降ってすぐにやむにわか雨、

は、

小村雨、

という(雨のことば辞典言葉)とある。また、「雨」を、

ハルサメ(春雨)・コサメ(小雨)・ムラサメ(叢雨)・キリサメ(霧雨)・ヒサメ(氷雨)、

等々、サメと訓むについては、

アメ(雨)に[s]が添加されてサメという、

とある。同様の音韻変化は、

あまねし(遍し)→サマネシ(万葉集)、
ミイネ(御稲)→ミシネ(神楽歌)、

がある(日本語の語源)とする。

なお、「白雨」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482287636.htmlについては触れた。

「村」(ソン)は、「村消え」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485321558.htmlで触れたように、

会意兼形声。寸は、手の指をしばしおし当てること。村は「木+音符寸」で、人々がしばし腰を落ち着けた木のある所をあらわす、

とある(漢字源)が、

会意兼形声文字です(木+寸)。「大地を覆う木」の象形(「木」の意味)と「右手の手首に親指をあて、脈を測(はか)る事を示す文字」(脈を「測る」の意味だが、ここでは、「人」の意味)から、木材・人が多く集まる「むら」を意味する「村」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji173.html

「雨」(ウ)は、「雨乞い」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482692535.htmlで触れたように、

象形。天から雨の降るさまを描いたもので、上から地表を覆って降る雨、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


目代


女、ありのままに申しける。其のまま目代へ訴たへ、、やがて死罪に行ひけり(善悪報ばなし)、

にある、

目代、

は、

代官、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「目代(もくだい)」を、

代官、

の意で使うのは、室町時代以降で(広辞苑)、江戸時代は、むしろ、

目付(めつけ)の称、

とある(仝上)。「目代」は、

めしろ(目代・眼代)、

とも言い、

眼代(がんだい)、

ともいう(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。もともと「目代」は、

日本の古代末・中世において、地方官たる国守の代官として任国に下向(げこう)し、在庁官人を指揮して国務を行う人、

を指す(日本大百科全書)とあり、

本来は国守が私的に設けた政務補助者の総称であり、11世紀前半までは人数も1人とは限らず、

分配(ぶはい)目代、
公文(くもん)目代、

等々と称して国務を分掌していた。それが、11世紀後半に各国に留守所(るすどころ)ができ、その国の在地の領主である在庁官人が実質的に国務を切り回し、国守が遙任(ようにん)と称して任国に下向しなくなると、留守所の統轄者たる庁目代だけが目代といわれるようになる(仝上)とある。だから、平安・鎌倉時代の

国守の代理人。任国に下向しない国守の代わりに在国して執務する私的な代官(精選版日本国語大辞典)
地方官の代理人。遥任(ようにん)や知行国の制が盛んになると、国司・知行国主はその子弟や家人(けにん)を目代として任国に派遣、国務を代行させた。目代は在庁官人を率い地方で実権を振るった(百科事典マイペディア)、

等々と説明され、

鎌倉時代以降、国司制度の衰退とともに消滅した、

とある(旺文社日本史事典)。鎌倉時代の法制解説書『沙汰未練書』に、

目代トハ、国司代官也、

とある。つまり、「目代」は元来、国司の四等官の、

守(かみ)、介(すけ)、掾(じよう)、目(さかん)、

のうち第四等官の目の代官の意味ともいわれる。で、「目代」の由来を、

目は佐官(岩波古語辞典)、
「めしろ(目代)」の音読か。「目」は「佐官」の意とも(日本国語大辞典)、
律令制下の地方官の代官。もともと人の耳目に代る意味(ブリタニカ国際大百科事典)、
人の目に代わる意(デジタル大辞泉・大辞林)、
主人の耳目のかわりをする者の意(日本国語大辞典)、
目は見守る意、後の目付の如し、国司の目(サクワン)の代、の意とするはあらず(大言海)、

とするのは、多く、

代理人、
身代わり、

の意で、本来は、

その子弟や家人(けにん)を目代として任国に派遣、国務を代行させた、

が、転じて、

本来なら役職上、現地に下向して執務しなければならない人物の代理として派遣された代官、

どの役人を指すようになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E4%BB%A3。そうなると、「目代」はその事務能力によって登用されたので、たとえば、伊豆守小野五友(いつとも)は、目代に、傀儡子(くぐつ)出身のものをつけ、

傀儡子目代、

と言われたとある(今昔物語)。つまり、その職の正員(しょういん)の代わりに、

現地で執務する人、

を目代と称するようになっている。当然ながら、

この者を目代にして庫裏に置き使はれ候へ(咄本「醒睡笑」)、

と、広く、

代理人、
代理、

の意味でも使われるようになり、

父御様母御様はござらず。目代になるこの乳母はぐるなり(浄瑠璃「鑓の権三重帷子」)、

と、

監督、
後見、
目付、

の意味にも使われていく。

「目」(漢音ボク、呉音モク)は、「尻目」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486290088.htmlで触れたように、

象形。めを描いたもの、

であり(漢字源)、

のち、これを縦にして、「め」、ひいて、みる意を表す。転じて、小分けの意に用いる、

ともある(角川新字源)。

「代」(漢音タイ、呉音ダイ)は、

形声。弋(ヨク)は、くいの形を描いた象形文字で、杙(ヨク 棒ぐい)の原字。代は「人+弋(ヨク)」で、同じポストに入るべき者が互い違いに入れ替わること、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(人+弋)。「横から見た人の象形」と「2本の木を交差させて作ったくいの象形」から人がたがいちがいになる、すなわち「かわる」を意味する「代」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji387.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

上へ


虚空無性


虚空無法に山をめがけて走りゆく(善庵報ばなし)、

とある、

虚空無法、

は、

めったやたら、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「めったやたら」は、

滅多矢鱈、

と当て、

無闇矢鱈(むやみやたら)、

と同義で、そのことは「むやみやたら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468093147.htmlで触れた。

ここに、

虚空(こくう)無法、

とあるのは、普通、

虚空無性、

あるいは、

虚空無天、

といい、

虚空無量、
虚空無意気、

とも(岩波古語辞典)、

虚空やたら、

という言い方もする(精選版日本国語大辞典)。

むやみやたら、
むちゃくちゃ、

の意である(「むちゃくちゃ」は、「めちゃくちゃ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475079100.html))で触れた)。「虚空」は、

きょくう、

とも訓むが、

こくう、

と訓ませるのは、「こ」は、

「虚」の呉音、

だからで、「虚空」は、もともと、

サンスクリットのアーカーシャākāśaの漢訳、

で(世界大百科事典)、

古来インド哲学では万物が存在する空間、

あるいは、

世界を構成する要素、実体として重要な概念の一つ、

とされるが、一般には、

三密遍刹土、虚空厳道場(「性霊集(835頃)」)、
われらこそ虚空へもえとばね鳥は空をとぶことをえたり(「百座法談(1110)」)、

などと、

天と地の間、
空、
空間、

という意とされ、また仏語の、

借虚空譬喩。以釈此義也(法華義疏)、
此経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり、……虚空の万象を含めるが如し(日蓮遺文)、

と、

一切のものの存在する場所としての空間、

の意や、

過ぎにし秋の頃、虚空に失ひ候つるを(御伽草子「花世の姫」)、

と、

不確かでつかみどころのないこと、
事実無根であること、
むなしく実体のないこと、

の意や、

ええ汝は虚空の事と思ひ、この事いなとならば七代まだその家を亡ぼし(御伽草子「七夕」)、

と、

途方もないこと、
常識はずれ、

の意の他に、

一向人も不付して虚空に駄を付は(「大乗院寺社雑事記(1475)」)、

と、

思慮分別のないこと、
むやみ、
やたら、
むてっぽう、

の意でも使った(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)ので、「虚空無性」は、その意の、

虚空に「無性」を重ねて意味を強めた語、

として使われたとみられる(仝上)。江戸時代、

ぶざ、こくうとしがみつく(「寸南破良意(1781)」)、

と、「虚空と」で、

やたらと、
むやみに、
めちゃくちゃに、

の意で使い、「虚空に」でも、

客をくるめる事上手なり、こくうにはまる人おほし(「擲錢青楼占(1774)」)、

と、ほぼ同義で使っている(江戸語大辞典)。それを強調する意味で、

こくうむせうにありがたい事はり(イかり)なり(「真女意題(1781)」)、

と、「無性」をつけて強めた言い方もある。だから、

是よりらんちきの大さはぎとなり、ざしきのしやれにはあごのかけがねもはずし、こくうむてんのお先まつくらとなる(仲街)、

の「無天」も同趣旨と見ていい。

時平がたこくうむてんにびくびくし(「柳多留(1808)」)、
さきはいづく虚空むてんに帰る雁(俳諧「小町踊(1665)」)、

と、「虚空無天」に「に」を付けて、副詞としても使う(江戸語大辞典)。冒頭の、

虚空無法に、

も、

虚空無天、
虚空無性、

に倣った使い方なのかもしれない。

「虚(虛)」(漢音キョ、呉音コ)は、

形声。丘(キュウ)は、両側におかがあり、中央にくぼんだ空地のあるさま。虚(キョ)は「丘の原字(くぼみ)+音符虍(コ)」。虍(とら)とは直接関係がない、

とあり(漢字源)、呉音コは「虚空」「虚無僧」のような場合にしか用いない、ともある。別に、

形声。意符丘(=。おか)と、音符虍(コ→キヨ)とから成る。神霊が舞い降りる大きなおかの意を表す。「墟(キヨ)」の原字。借りて「むなしい」意に用いる、

とも(角川新字源)、

形声文字です。「虎(とら)の頭」の象形(「虎」の意味だが、ここでは「巨」に通じ(「巨」と同じ意味を持つようになって)、「大きい」の意味)と「丘」の象形(「荒れ果てた都の跡、または墓地」の意味)から、「大きな丘」、「むなしい」を意味する「虚」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1322.html

「空がらくる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/487876311.htmlで触れたように、「空」(漢音コウ、呉音クウ)は、

会意兼形声。工は、尽きぬく意を含む。「穴+音符工(コウ・クウ)」で、突き抜けて穴があき、中に何もないことを示す、

とある(漢字源)。転じて、「そら」の意を表す(角川新字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

上へ


窈窕


双頭の牡丹灯を肩にかかげて先に行けば、後に窈窕(ようじょう)たる美女一人従つて、西に行く(奇異雑談集)、

にある、

窈窕、

は、

美しくたおやかなさま、原字左訓「みやびめ」、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「窈窕」は、ふつう、

ようちょう、

と訓ませる(広辞苑)。「窈窕」を、

ヨウジョウ、

と訓ませるのは、「窕」の呉音である。

「嬋娟」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486699363.htmlで触れたように、

白楽天の詩に、

嬋娟雨鬢秋蝉翼
宛轉雙我遠山色
笑随戯伴後園中
此時興君未相識(新楽府・井底引銀瓶)、

とある、

「嬋娟」と併記して、

嬋娟窈窕(嬋妍窈窕)、

と使う。「窈窕」の「窈」は、「奥深し」「静香」「うるわし」「しとやか」、「窕」は、「美しい」「器量が良い」「奥ゆかしい」「静か」「ふかい」といった意味(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AA%88%E7%AA%95)なので、

窈窕淑女、君子好逑(詩経)、

と、

美しく嫋(たお)やかなさま、

の意だが、これは、

云有第三郎、窈窕世無雙(古詩)、

と、

男子のしとやかなるさま、

にもいい(字源)、

入則亂髪壊形、出即窈窕作態(入りては則ち髮を亂し形を壞(やぶ)り、出でては則ち窈窕として態を爲す)(後漢書・列女傳)、

と、

艶めきたる貌、

に特定しても使う(仝上)が、

既窈窕以尋壑、亦崎嶇而経丘(陶淵明・帰去来辞)

と、

山水などの奥深いさま、

にもいう(仝上)。その漢語の意味のまま、

三千の美人君の命に依て戦ひを習はす戦場へ出たれども、窈窕(ようてう)たる婉嫋(えんじゃく)、羅綺(らき)にだもたへざる体(てい)なれば(太平記)、

と、

しとやかで奥ゆかしいさま、
美しくたおやかなさま、
上品なさま、
また、
そのような美女、

の意や、

詩のこころは、松桂の、しげりたる中に、ある寺なれば、窈窕と、をくふかふして、一点の塵埃をも、ひくことは、ないぞ(「三体詩素隠抄(1622)」)、

と、

山水などの奥深いさま、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

なお、

窈窕ぶ、

を、

時に彼の妻紅の襴染(すそぞめ)の裳を著て窈窕(サビ)(日本霊異記)、

と、

さふ、

と訓ませ、

しなやかで美しくふるまう、
奥ゆかしくふるまう、

意で使う例がある(精選版日本国語大辞典)が、

「古び、さびれる」の「さびる(寂)」から、(古びて)しっとりとした味わいを持つのように変化した語か、

とある(仝上)。で、そこから、

此ほとりなるさぶるこ(遊女)にたはれて(「こがねぐさ(1830頃)」)、

と、

さぶる児、

という使い方もあるらしい。

動詞「さぶ」は「霊異記」の「窈窕」について興福寺本訓釈に二字あわせて「佐備」とあるところから「しなやかで美しくふるまう」の意とされる、

とあり、

「さぶる」は、上二段動詞「さぶ」の連体形。しなやかな美女の意、

で、

うかれめ、
遊女、
さぶるおとめ、

の意とされる(仝上)。

南風(みなみ)吹き雪消溢(はふ)りて射水川(いみづかは)流る水沫(みなわ)の寄る辺(へ)なみ左夫流其児(さぶるそのこ)に(万葉集)、

には、

言佐夫流者遊行女婦之字也、

と注があり、その反歌の一首、

里人の見る目恥づかし左夫流児(さぶるこ)にさどはす君が宮出(みやで)後風(しりぶり)、

と、

遊女の名、

として用いられている(仝上)。どうも、

窈窕ぶ、

と、

さぶる児、

の「さぶ」とは、意味から見ても、得んがりそうにも見えるが、由来が違う気がしてならない。

「窈」(ヨウ)は、

会意兼形声。幺(ヨウ)は、細くしなやかな糸を描いた象形文字。幼はそれに力を加え、力のか細いことを示す。窈は「穴(あな)+音符幼」で、穴が奥深くて、かすかなこと、

とある(漢字源)。「ふかし」「おくぶかし」「しずか」「深く遠し」「うるはし」「ウルハシキ心」といった意味を持つ(字源)。

「窕」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、

形声。兆は、二つにわかれることで、この場合は、単なる音符。窕は「穴+音符兆」、

とあり(漢字源)、「うつくしく、よし」「おくゆかし」「しとやか」「しずか」「ほそし」「ものさびし」「遥かに遠き貌」(杳窕)といった意味がある(字源)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

上へ


丫鬟


月のあきらかなるに、丫鬟(あかん)の童女一人あり、双頭の牡丹灯を肩にかかげて先に行けば、後に窈窕(ようじょう)たる美女一人従つて、西に行く(奇異雑談集)、

にある、

丫鬟、

は、

丫環、

とも当てhttps://kokugo.jitenon.jp/word/p60790

丫頭(アトウ)、
丫髻(アケイ)、
鴉鬟(アカン)、

ともいい(字源)、

頭髪を両脇にまとめた少女の髪型、転じて、少女をいうことがある、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「丫」は、

あげまき(総角・揚巻)、

の意とあり、転じて、

頭をあげまきにした幼女、

また、

年少の侍女、
腰元、
婢、

とある(精選版日本国語大辞典)。中国語では、清末から中華人民共和国成立以前のいわゆる旧社会の言葉で、

小間使い、
侍女、

の意で、

腰元、

の意の、

小鬟、

と同義とある(中日辞典)。

「あげまき」については、「みずら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484777081.htmlで触れたが、

上代の幼童の髪の結い方の名。髪を中央から左右に分け、両耳の上に巻いて輪をつくり、角のように突き出したもの。成人男子の「みずら」と似ているが、「みずら」は耳のあたりに垂らしたもの。中国の髪形「総角(そうかく)」がとり入れられたものか、

とある(日本国語大辞典)。

「丫鬟」の「丫」は、

また(叉)、

の意で、

物の先の分かれて上に出るもの、

の意である(字源)。

きのまた(歧枝)、

の意の、

草木の枝のごときものに喩えて、

つのがみ(角髪)、
あげまき(総角・揚巻)、

にも言う(仝上)。

「丫」(ア)については、

象形。木の枝分れを象る、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%AB

「鬟」(漢音カン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。下部の字(カン)は、まるい、取り巻くの意を含む。鬟は、それを音符と四、髟(髪の毛)を加えた字、

で(漢字源)、みずらの意である、

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)

上へ


上元


是は三元下降の日といふて、一年に三度天帝あまくだりて、人間の善業悪業を記する日也。正月十五日を上元(じょうげん)といふ。此の夜を元宵(げんしょう)とも元夕(げんせき)ともいふなり。七月十五日を中元といふ。十月十五日を下元といふなり(奇異雑談集)、

とある、

上元の夜、

は、「元宵」「元夕」の他に、

灯節(とうせつ)、
三元三看、

ともいう(高田衛編・校注『江戸怪談集』・字源)。「灯節」(とうせつ)は、

元宵節(げんしょうせつ)、

ともいい、

十三より以て十七に至る、

とある(字通)。

上元の夕に燈を張り夜を照らす、

のを、

燈夕(とうせき)、

という(字源)とある。「元宵節」は、

元月(正月)の最初の宵(夜)であること、

からと命名されたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AE%B5%E7%AF%80とある。

上元、
中元、
下元、

を、

三元、

というが、「元」というのは、

暦の見方の1つ、

で、

各年月日時を干支で表した干支暦において、六十干支が一周した期間を一元として、上元・中元・下元と繰り返される。合わせて三元となるが、上元はその最初の期間のこと、

をいう(占い用語集)とある。で、「三元」は、本来、

歳・日・時の始め(元は始の意)である正月1日、

を指したが、六朝末期には道教の祭日である、

上元・中元・下元、

を意味し、それぞれ正月・7月・10月の15日を指すようになった(世界大百科事典)。三元は、

天官・地官・水官のいわゆる三官(本来、天曹(てんそう)すなわち天上の役所を意味したが、しだいにいっさいの衆生とすべての諸神を支配する天上最高の神となる)、

つまり、

三元大帝、

を意味し、それぞれの日にすべての人間の善悪・功過を調査し、それに基づいて応報したという(仝上)。「上元」は、

天官(人に福を賜う神)の誕生日、

とみなし、北魏以来、祭日となる。この夜(元宵)に灯籠を飾る(張灯)ようになったのは、ほぼ隋代以後と考えられ、灯節、元宵節とも呼ばれる。張灯の期間は、唐代では前後3日間、宋以後は一般に5日間となり、清末・民国以後、急速に衰えた、とある(仝上)。

「中元」は、道教では、

善悪を判別し人間の罪を許す神(地宮)を祭る贖罪(しょくざい)の日、

とみなし、道士が経典を読んで亡者を済度した。また仏教では、盂蘭盆経(うらぼんきよう)等に見える目連(もくれん)尊者の孝行譚(たん)により、六朝後期以来、寺院では盛大な、

盂蘭盆会(うらぼんえ)、

が開かれ、迷える亡者を済度した。このため後世、

鬼節(鬼は亡霊の意)、

とも呼ばれ、六朝の終りには、中元はすでに道教・仏教共通の祭日となり、家々では墓参に出かけ、各寺院では、供養を受けに訪れる諸霊の乗る法船を作り、夜それを焼いた(仝上)、とある。日本ではこれが、

お盆、

の行事となり、さらに、目上の人やお世話になった人等に贈り物をする、

お中元、

が派生した(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%85%83)。

「下元」は、古代中国では、

先祖の霊を祀る行事、

だったが、後に、

物忌みを行い経典を読み、災厄を逃れるよう祈る日、

となった(仝上)。

日本では、

下元、

は取入れられなかったが、上元は、中元とともに定着し、

小正月、
女正月、

の名称もあり、

左義長(さぎちょう)、
ドンド焼き、

等々種々の民間行事が行われ、特に、この日は、

小正月、

に当たり、

小豆粥、

を食べると、一年中の災難が避けられるという「あずき粥」の習俗は全国的な広がりをもった(ブリタニカ国際大百科事典)。なお、「あずき粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473475996.html、「小豆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/477537850.htmlについては触れた。

「下元」は、日本では取りいれられなかったが、

この前後の日に、収獲を感謝する、

十日夜(とおかんや)、
亥の子、

などが行われ、日本に伝わった、

下元、

が各地の収獲祭と結び付いたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%85%83と考えられている。

なお、「亥の子」については「亥の子餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481713055.htmlで触れた。

「元」(漢音ゲン、呉音ゴン、慣用ガン)は、

象形。兀(人体)の上に丸い●印を描いたもので、人間のまるい頭のこと。頭は上部の端にあるので、転じて、先端、始めの意となる(漢字源)。別に、

指事。儿と、二(頭部を示す)とから成り、人の頭、ひいて、おさ、「もと」などの意を表す、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「かんむりをつけた人の象形」で「かしら・もと」を意味する「元」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji355.htmlある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


天冠


日本にかんざしといふは、天冠(てんがん)なり。楊貴妃の能に見えたり(奇異雑談集)、

とある、

天冠、

は、

てんかん、

とも訓ませ、

能の装具。女神、天女、宮女などに用いる金色で透彫りのある輪状の冠。簪があり、左右に瓔珞を垂れる、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「瓔珞」http://ppnetwork.seesaa.net/article/445068497.htmlは、もともとは、

インドの貴族男女が珠玉や貴金属に糸を通してつくった装身具。頭・首・胸にかけるもの、

であったが、それが、

仏像の装飾、

ともなり、

仏像の天蓋、また建築物の破風などにつける垂飾、

へと、意味の適用が広がった。

「天冠」は、確かに、

本来は仏像や皇族が被る宝冠、

を言ったが、今日では、例の、葬式のときに、近親者または死者が額に当てる、

死装束の白い三角の布、

を示す場合が多い(https://dic.pixiv.net/a/%E5%A4%A9%E5%86%A0・デジタル大辞泉)とある。類聚名義抄(11〜12世紀)には、

天冠、テンクワン、

和名類聚抄(平安中期)には、

天冠、俗訛云天和、

とある。

「天蓋」は、もともと、

幼帝が即位のときにつける礼冠(らいかん)、

をいい、

円頂で中央に飾りを立てる、

もので、この形が「三角の布」に似ている。それが、

宍色菩薩天冠銅弐枚(天平一九年「大安寺伽藍縁起并流記資財帳(747)」)、

と、

仏や天人などがつける宝冠。仏像がつけている冠、

をもいうようになる。また、

冠の一種、

として、

騎射または舞楽などに童が用いた金銅の飾りの額当(ひたいあて)の金物、

とも言うようになり、

角こそはへずと、せめて天冠(テングヮン)の下に瘤でもはやし(浮世草子「国姓爺明朝太平記(1717)」)、

と、広く、

高貴な人のつける冠、

もいうに至る。

能の装具、

というのは、能のかぶり物で、

金属製の輪状になった冠で、雲形や唐草模様の透かし彫りがある。中央には月や鳳凰などの立物をつけ、左右に瓔珞(ようらく)をたれ、女神、天女、官女などの役に用いる物、

を指す(精選版日本国語大辞典)。

この「天冠」は、舞楽の場合は、

金銅または銀銅で山形に作られ、唐草模様の透し彫があり、左右に剣形の飾りがあり、挿頭花(かざし)をさし、五彩の唐打の総角(あげまき)をつける。「迦陵頻(かりようびん)」「胡蝶」で童舞の舞人が用い、

能の天冠は、

金属製の輪状になった冠で、雲形または唐草模様の透し彫があり、中央に日輪・月輪・鳳凰(ほうおう)・白蓮・蝶・蔦紅葉などの立て物をつけ、左右に瓔珞(ようらく)を垂らす。

とあり(世界大百科事典)、

左方は金銅金具、右方は銀銅金具で、唐草の透し彫があり挿頭花をさし、童髪(どうはつ 70cmほどの黒長髪の鬘(かつら))をつける、

とある(仝上)。

「冠」(カン)は、

会意兼形声。「冖(かぶる)+寸(手)+音符元」で、頭の周りを丸く囲むかんむりのこと。まるいかんむりを手で被ることを示す、

とある(漢字源)。同趣旨だが、

会意形声。冖と、寸(手)と、元(グヱン→クワン 首(こうべ)の意)とから成り、かんむりを手で頭に着ける、また、「かんむり」の意を表す、

とも(角川新字源)、また、

会意兼形声文字です(冖+元+寸)。「おおい」の象形と「かんむりをつけた人」の象形と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形から、「かんむりをつける」、「かんむり」を意味する「冠」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1616.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


沙喝


僧廿人ばかり、沙喝(しゃかつ)あり。寺の霊宝に硯一面あり(奇異雑談集)、

とある、

沙喝、

は、

沙弥と喝食、

とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、「喝食」は、

僧になりたらば、喝食に指をさされ、法師になりたらば、児(ちご)どもに笑はれず(太平記)、

と、

禅寺の稚児、

を意味する(兵藤裕己校注『太平記』)。「喝食」は、

かつじき、
かっしき、
かしき、
かじき、

とも訓ませるが、禅宗用語で、正確には、

喝食行者(かつじきあんじゃ、かっしきあんじゃ)、

といい、「喝」とは、

称える、

意で、禅寺で規則にのっとり食事する際、

浄粥(じようしゆく)、
香飯香汁(きようはんきようじゆ)、
香菜(きようさい)、
香湯(こうとう)、
浄水、

等々と食物の種類や、

再進(再請 さいしん お替わり、食べ始めてから五分〜十分くらいしたところで再び浄人が給仕にやって来る)、
出生(すいさん 「さん」は「生」の唐宋音。「出衆生食」の略。自分が受けた食事の中からご飯粒を七粒ほど(「生飯(さば)」)取り出し施食会(せじきえ)を修し、一切の衆生に施すこと)、
収生(しゆうさん 出生の生飯(さば)を集める)、
折水(せつすい 食べ終わった器にお湯を入れて器を洗い、それを回収する)、

等々と食事の進め方を唱え(http://chokokuji.jiin.com/他)、

食事の種別や進行を衆僧に知らせること、

また、

その役名、

をいい、本来は年齢とは無関係であるが、禅宗とともに中国から日本に伝わった際、

日本に以前からあった稚児の慣習が取り込まれて、幼少で禅寺に入り、まだ剃髪をせず額面の前髪を左右の肩前に垂らし、袴を着用した小童が務めるものとされた、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9D%E9%A3%9F・精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。庭訓往来抄」には、

故に今に至るまで鉢を行之時、喝食、唱へ物を為る也、

とあり、「雪江和尚語録」によれば、後世は有髪の童児として固定し、

7、8歳から12、13歳の小童が前髪を垂らし袴(はかま)を着けて勤めるのが一般の風習となった、

ようである(仝上)。しかし、室町時代には本来の職掌から離れて、

稚児の別称、

となり、中には禅僧や公家・武家の衆道の相手を務めるようになった(仝上)ともある。江戸時代には訛って、

がっそう、

と呼ぶ地域もあり、上方ではまだ髪を結んでいない幼児の頭を、

がっそう頭、

と称した(仝上)ともある。ただ、

沙喝、

だけでも、

勾下春屋小師度弟僧沙喝共二百三十余人名字(空華日用工夫略集)、

と、

禅家で、剃髪して沙彌となり、喝食(かっしき)の服を着ている童のこと。食堂(じきどう)で大衆に食事の案内をする者、

の意があり、

沙彌喝食(しゃみかっしき)、

という言い方もするらしい(精選版日本国語大辞典)。

なお、能面で、

喝食、

というのは、上記の「喝食」に似せて作った、

額に銀杏(いちょう)の葉形の前髪をかいた半僧半俗の少年の面、

で、「東岸居士(とうがんこじ)」「自然居士(じねんこじ)」「花月(かげつ)」などに用いるが、前髪の大きさにより大喝食、中喝食、小喝食の種類がある(精選版日本国語大辞典)。

「沙弥」は、

梵語śrāmaṇera、

の音訳、

室羅末尼羅(シラマネエラ)の略、

で、

さみ、
しゃみ、

と訓ませ、

求寂、
息慈、
息悪、

と訳し、

息惡行慈の意、

で、

初めて仏門に入り、髪を剃りし男子の称、即ち得度式のみ終わりたるもの、

を指し、女子は、

沙弥尼、

という。つまり、

為沙門者、初修十戒、沙彌(魏書・釋老志)、

と、

比丘(びく)となるまでの修行中の僧修行中の僧、

をいう(大言海)。因みに、十戒(じっかい)とは、

沙弥および沙弥尼が守るべきとされる10ヶ条の戒律をいい、

不殺生(ふせっしょう):生き物を殺してはならない、
不盗(ふとう):盗んではならない、
不婬(ふいん):性交渉をしてはならない、
不妄語(ふもうご):嘘をついてはならない、
不飲酒(ふおんじゅ):酒を飲んではならない、

の五戒に、

不著香華鬘不香塗身(ふじゃくこうげまんふこうずしん):化粧をしたり装飾類を身に付けてはならない、
不歌舞倡妓不往観聴(ふかぶしょうぎふおうかんちょう):歌や音楽、踊りを鑑賞してはならない、
不坐高広大床(ふざこうこうだいしょう):大きく立派なベッドに寝てはいけない、
不非時食(ふひじじき):正午以降に食べ物を摂ってはならない、
不捉持生像金銀宝物(ふそくじしょうぞうこんごんほうもつ):お金や金銀・宝石類を含めて、個人の資産となる物を所有してはならない、

を加えたものhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%88%92_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29をいう。

「沙弥」は、年齢によって3種に分け、

7〜13歳を駆烏(くう)沙弥、
14〜19歳を応法沙弥、
20歳以上を名字沙弥、

という(百科事典マイペディア)とある。日本では、

本来、20歳未満で出家し、度牒(どちよう 出家得度の証明書、度縁)をうけ、十戒を受け、僧に従って雑用をつとめながら修行し、具足戒をうけて正式の僧侶になる以前の人、

をさす(世界大百科事典)。また、日本では、

修行未熟者、

の意味から、

形は法体でも、妻子をもち、世俗の生業に従っているもの、つまり入道とか法師とよばれる人、

をも沙弥といった。中世の沙弥には武士が多いが、

沙門、

つまり、

僧、

とは明確に区別された(百科事典マイペディア)とある。「比丘」「比丘尼」となるための「具足戒」の「具足」は、

近づくの意で、涅槃に近づくことをいう。また、教団で定められた完全円満なものの意、

であり(仝上)、「具足戒」は、

比丘、比丘尼が受持する戒律。四分律では、比丘は250戒、比丘尼は348戒、

を数える(「八百比丘尼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482992577.html?1629313561で触れた)。

「沙」(漢音サ、呉音シャ)は、

会意。「水+少(小さい)」で、水に洗われて小さくばらばらになった砂、

とあるが、別に、

象形。川べりに砂のあるさまにかたどる。水べの砂地、みぎわの意を表す

とも(角川新字源)、

会意文字です(氵(水)+少)。「流れる水」の象形と「小さな点」の象形から、水の中の小さな石「すな(砂)」を意味する「沙」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2096.html

「弥(彌)」(漢音ビ、呉音ミ)は、

形声。爾(ジ)は、柄のついた公用印の姿を描いた象形文字で、瓕の原字。彌は「弓+音符爾」で、弭(ビ 弓+耳)に代用したもの。弭(ゆはず)は、弓のA端からB端に弦を張ってひっかける耳(かぎ形の金具)のこと。弭・彌は、末端まで届く意を含み、端までわたる、遠くに及ぶ等々の意となった、

とある(漢字源)。別に、

「彌」は、「弓」+音符「爾(印の象形文字で「璽」の原字)」の形声文字で、「弭(弓の端にあり弦をかける金具「耳」)」に代用したもの(『韻會』)、「弓が弛む」という意味を表したもの(『説文解字』における「瓕」の解字)、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%A5

形声。弓と、音符璽(ジ→ビ 爾は省略形)とから成る。弓がゆるむ意を表す。ひいて、長びく、「わたる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(弓+日+爾)。「弓」の象形と「太陽」の象形と「美しく輝く花」の象形から、時間的にも空間的にも伸びやかに満ちわたる事を意味し、そこから、「あまねし(行き渡る)」を意味する「弥」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2192.html

「喝(喝)」(漢音カツ、呉音カチ)は、

会意兼形声。曷(カツ)は口ではっとどなって、人をおしとどめる意。喝は「口+音符曷」。その語尾のtが脱落したのが、呵(カ)で、意味はきわめて近い、

とある(漢字源)。別に、

形声。口と、音符曷(カツ)とから成る。のどがかわいて水をほしがる意を表す。借りて「しかる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(口+曷)。「口」の象形と「口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形」(「高々と言う」の意味)から、「声を高くして、しかる」、「怒鳴りつける」、「さけぶ」を意味する「喝」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1622.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


不肖


その身不肖なるゆへに、世に聞こえざるなり。弟子聖鎮、先師を反異するのみ(奇異雑談集)、

にある、

不肖、

は、

ここでは、めだたない、の意、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「反異」は、

世評を否定し、真実を述べること、

とある(仝上)。

普通、今日、「不肖」は、

不肖、私にお命じ下さい、

と、

自分の謙称、

か、

「肖」は似る意。天に似ない、賢人に似ない、あるいは父に似ないの意、

で、

不肖の弟子、
とか、
不肖の子、

等々と、

師に似ず劣っていること、
また、
父に似ないで愚かなこと、

として用いているが、「不肖」は、漢語であり、

子曰、道之不行也、我知之矣、知者過之、愚者不及也、道之不明也、我知之矣。賢者過之、不肖者不及也(中庸)、

と、

人は天の生ずる所なり、故に天に似ざる義、人に如かざるをいふ、

とある(字源)。また、

堯知子丹朱之不肖不足授天下(史記・五帝紀)、

と、

一説、父に似ざる不才者、

の意ともあり、さらに、

自己の謙称、

としても用い、

不佞(ふねい)、

とも同義とある(仝上)。「不佞」は、

才能のないこと、
また、
そのさま、

の意と共に、

自分の謙称、

としても使い(広辞苑)、

不才、

ともいう。

「不肖」は、漢語の意味の範囲で、

肖は似る、

意で、「不肖」は、

人肖天地之貌(漢書・刑法誌)注、「庸妄之人謂之不肖、言其状䫉無所象似䫉、古貌字」、

と、

人の物に似ざること、

を意味し、さらに、上にも挙げたが、

堯知子丹朱之不肖不足授天下(史記・五帝紀)、

と、

父に似ざること、
不似、

の意、さらに、

今夫朝廷之所、不學、郷曲之所、不譽、非其人不肖也、其所以官之者、非其職也(淮南子)、

と(大言海)、

才智の劣れること、愚かであること、
また、
そのさまやその人、

の意で、

貝鞍置いて乗りたりけるが進み出で、身不肖に候へども、形のごとく系図なきにしも候はず(保元物語)

と、

諸事について、劣ること、至らないこと、未熟なこと、

等々にいう(仝上・精選版日本国語大辞典)。さらに、

身の不肖なるにつけても、又公方を憚る事なれば、竊に元服して、継父の苗字を取り、曽我十郎祐成とぞ名乗りける(曽我物語)、

と、

不運、
不幸せ、

の意でも使う。「不肖」の、

おろかもの、

の意の延長線上で、

来書乃有遇不遇之説、甚非所似安全不肖也(蘇軾・與陳傳道書)、

と、

己が身を、才鈍しと謙遜する自称の代名詞、

としても使う(大言海)。ほぼ、漢語の意味の範囲にあるが、「不肖」を、

めだたない、

と訳するのは、かなりの意訳ではないだろうか。むしろ、字義通りなら、

才智の劣れること、愚かであること、

の意でも十分意味は通じる気がする。

なお、「不肖」について、平安末期『色葉字類抄』は、

「不肖 フセウ ホエス」とは別に「不屑(モノノカスナラス) 同 フセウ」、

ともあり、室町時代の「文明本節用集」では、

「不肖」に「ニタリ」の訓と「屑同。肖ハ似也」、

の注記がある。しかし、

「屑」の字音は「セツ」であり、本来「肖」とは別字である。あるいは、「いさぎよしとせず」と訓ずる「不屑」との意味上の近似から混同したものか、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「不」(漢音フツ、フウ、呉音フ、ホチ、慣用ブ)は、

象形。不は菩(フウ・ホ つぼみ)などの原字で、ふっくらとふくれた花のがくを描いたもの。丕(ヒ ふくれて大きい)・胚(ハイ ふくれた胚芽)・杯(ハイ ふくれた形のさかずき)の字の音符となる。不の音を借りて口篇をつけて、否定詞の否(ヒ)がつくられたが、不もまたその音を利用して、拒否する否定詞に転用された。意向や判定を打ち消すのに用いる。また弗(フツ 払いのけ拒否する)とも通じる、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%8D)。別に、

象形。花の萼(がく)の形にかたどる。「芣(フ 花の萼)」の原字。借りて、打消の助字に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「花のめしべの子房」の象形から「花房(はなぶさ)」を意味する「不」という漢字が成り立ちました。(借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「否定詞」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji729.html

「肖」(ショウ)は、

会意兼形声。小は、ちいさく削った破片を描いた象形文字。肖は「肉+音符小」で、素材の肉を削って原型に似た小形のものを作ることを示す。小さい小形のものの意を含む、

とあり(漢字源)、「肖像」と、かたどる、似る意、「不肖」と、子が親に似ず愚かなことの意、「申呂肖矣」と、小さい意で使う(仝上)。別に、

会意形声。「肉」+音符「小」。「小」は細かく分けること、素材を細かく分け新たに形作ること、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%82%96

会意兼形声文字です(小+月(肉))。「小さな点」の象形(「小さい」の意味)と「切った肉」の象形から、骨肉の中の幼い小さいものを意味し、そこから、「似る」、「小さい」、「素材を細かく分け新たに形を作る」を意味する「肖」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1923.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

上へ


白日に人を談ずる事なかれ

 

諺に曰はく、白日に人を談ずる事なかれ。人を談ずれば害を生ず。昏夜(こんや)に鬼を話(かた)る事なかれ。鬼を話れば怪いたる(「伽婢子(おとぎぼうこ)」)、

とある、

白日に人を談ずる事なかれ、

は、その由来を、

白日無談人、談人則害生、昏夜無話鬼、話鬼則怪至(竜城録)、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。『竜城録』は、

志怪小説、

で、唐中期の、

柳河東集(柳宗元)、

に収められている、

怪異譚、

を撰述したものである。他に、

「羆説」「李赤伝」「黔之驢」「黄渓記」「非国語・嗜芰」「羆説」「太白僊去」

が収められているhttp://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.22.07.12zuitou.htmとある。なお、「志怪小説」については、「志怪」http://ppnetwork.seesaa.net/article/434978812.htmlで触れた。

ここで、

鬼、

とあるのは、「日本」の「オニ」ではなく、

おぼろげな形でこの世に現れる亡霊、

つまり、

幽霊、

を指す(漢字源)。中国では、

魂がからだを離れてさまようと考え、三国・六朝以降、泰山の地下に鬼の世界(冥界)があると信じられた、

という(仝上)。

さて、この、

白日に人を談ずる事なかれ、

は、寛文六年(江戸1661年)刊行の『伽婢子』(浅井了意)に載る、

怪を話せば怪いたる、

に出てくる。鷗外にも『百物語』があるが、それは、

百物語には法式あり。月暗き夜行燈(あんどん)に火を点じ、其の行燈は青き紙にて貼りたて、百筋の灯心を点じ、一つの物語に、灯心一筋づつ引きとりぬれば、座中漸々暗くなり、青き紙の色うつろひて、何となく物凄くなり行く也。それに話(かたり)つづくれば、必ず怪しき事、怖ろしき事現はるるとかや、

というもので、

臘月(ろうげつ 陰暦十二月)の初めつ方、風烈しく雪降り、寒き事日比(ひごろ)に替はり、髪の根滲むるにぞぞっと覚え、

るほどの中、

下京辺りの人、五人集り、

「いざや百話せん」

と、法の如く火をともし、面々皆青き小袖着て、並み居て語るに、

六、七十に及ぶ、

頃、

窓の外に火の光ちらちらとして、蛍の多く飛ぶが如く、幾千万ともなく、終に座中に飛び入りて、丸く集まりて鏡の如く鞠の如く、又別れて砕け散り、変じて白くなり固まりたる形、径(わたり)五尺ばかりにて天井に着きて、畳の上にどうと落ちたる。其の音いかづちの如くにして消え失せたり、

と、あまりのことに、

五人ながら俯(うつぶ)して死に入りける、

という。つまりは、

気絶した、

のである。で、冒頭の、

白日に人を談ずる事なかれ、

という故事につながるのである。これが、『伽婢子』の掉尾で、こう締めくくられる。

物語り百条に満てずして、筆をここに留む、

と。『伽婢子』は、全六十八条である。

「白」(漢音ハク、呉音ビャク)は、「白毫」http://ppnetwork.seesaa.net/article/490150400.htmlで触れたように、

象形。どんぐり状の実を描いたもので、下の部分は実の台座。上半は、その実。柏科の木の実のしろい中身を示す。柏(ハク このてがしわ)の原字、

とある(漢字源)が、

象形。白骨化した頭骨の形にかたどる。もと、されこうべの意を表した。転じて「しろい」、借りて、あきらか、「もうす」意に用いる、

ともあり(角川新字源)、象形説でも、

親指の爪。親指の形象(加藤道理)、
柏類の樹木のどんぐり状の木の実の形で、白の顔料をとるのに用いた(藤堂明保)、
頭蓋骨の象形(白川静)、

とわかれ、さらに、

陰を表わす「入」と陽を表わす「二」の組み合わせ、

とする会意説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD。で、

象形文字です。「頭の白い骨とも、日光とも、どんぐりの実」とも言われる象形から、「しろい」を意味する「白」という漢字が成り立ちました。どんぐりの色は「茶色」になる前は「白っぽい色」をしてます、

と並べるものもあるhttps://okjiten.jp/kanji140.html

上へ


牛王


さまざまに、弔(とぶ)らひをいたし、門(かど)にも窓にも、牛王(ごおう)を押して、防げども、さらに止まらず(平仮名本・因果物語)、

にある、

牛王(ごおう)を押して、

は、

護符を貼りつけて、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

社寺の発行する魔除けの護符を「牛王」といった、

とある(仝上)。つまり、「牛王」は、

牛王宝印、

の意である。

熊野三社・手向山(たむけやま)八幡宮・京都八坂神社・高野山・熱田・白山・富士浅間・東大寺・東寺・法隆寺、

等々から出す、

厄除け、降魔の護符、

で、

牛王宝印、
牛玉宝印、

または、頒布の所の名を上に冠して、

〇〇宝印、

としるしてあり(広辞苑・日本国語大辞典)、図柄はきまっていないが、

七五羽の烏を図案化した熊野牛王、

が有名で、

烏(からす)の絵を用いた書体で書かれる、やや特殊なものである、

とされる(仝上)。また、略して、

牛王、
宝印、

ともいい、災難よけに、

身につける、
戸口に貼る、
木の枝に挟む、
病人に用いる、

などと用いた。中世以降は、武士は、

起請文(きしょうもん)を書くのにこの牛王宝印の裏に署す、

のに広く使用した(広辞苑・大辞林・日本大百科全書)。『吾妻鏡』元暦(げんりゃく)二年(1185)五月廿四日の源義経欸状(所謂腰越状)に、

以諸神、諸社、牛王寶印之裏、不插野心之旨、奉請驚日本國中大小神祇冥道、雖書進數通起請文、猶以無御宥免、

と、源義経が大江広元を通じて兄頼朝に対して異心なきことを、牛王宝印の裏に起請文を書いて差し出し(仝上)、また、

諸神諸社の牛王宝印の裏をもって野心をさしはさまざる旨、……数通の起請文を書き進ずといへども(平家物語)、

などともある。

牛頭天王信仰に関連する護符、

とされるが、牛玉宝印の「牛玉」とは、牛の胆嚢内にできた胆石、

牛黄(ごおう)、

に由来し、その起源から、

牛頭天王と関連するものではない、

とする説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8Bが、牛王と牛黄とはまったく別物だという説もあり、『和漢三才図会』など江戸時代の諸書は、

牛王はウブスナ(生土)の生の字の下部の一が誤って土の字の上についたもの、

だとし、仏教では、

牛頭天王(ごずてんのう)、

に由来すると説く説もあり、はっきりしない(日本大百科全書)。大言海は、

ゴは、牛(ギュウ)の呉音(牛蒡(ごばう)、牛頭(ゴヅ))、ホウも寶の呉音、牛王とは、阿弥陀如来の一称、寶印とは、如来の紇哩(キリク 種子)の梵字、共に印に刻して押すに因りて云ふ、此物、天竺、支那にては聞かず、わが国にて出す佛寺は、華厳宗、真言宗なるが多し、或は、牛王寶命とも記す、生土寶印の字畫の、上下に離合したるにて、生土(ウブスナ)の神の寶命なりなど云ふ説は、論ずるに足らず、又、牛黄(ゴワウ)と混じて説くも、謂れなし、

としている。合類節用集(元禄三(1690)年)にも、

寶印、刻如来種子(しゅじ)梵字印之、故名、蓋、据十一面神呪経説、

とあり、さらに、

牛王、据釋氏説、則牛王者、如来之一称也、見涅槃経、智度論、

ともある。また寂照堂谷響集(元禄二(1689)年)には、

諸寺、諸社、牛王寶印者、西竺、中華、不聞此事、……今謂牛王者、佛之異名、故、涅槃経第十七云、如来、名大沙門、人中牛王、人中丈夫、……寶印者、刻佛種子梵字印之、……本由十一面呪経而起、十一面頂上佛面、即、阿弥陀也、彼佛種子、梵書紇哩(キリク)字、有禳災除疫之功能、

ともある。江戸時代の説だが、牛王寶印の代表である、「熊野午王宝印」について、

三所権現と申すのは、証誠殿(しょうじょうでん)、中の宮、西の宮の三所のことである。証誠殿と申すのは、本地は阿弥陀如来、昔の喜見聖人がこれである。また、中の宮と申すのは、昔の善財王のことである。西の宮と申すのは、本地は千手観音、昔の五衰殿の女御がこれである、

https://www.mikumano.net/setsuwa/honnji6.html、阿弥陀如来を本地とする、としている。

牛王とは、阿弥陀如来の一称、

を、まんざらの異説ともしがたい気がする。

なお、「牛頭天王」については、「祇園」http://ppnetwork.seesaa.net/article/489081573.htmlで触れたように、牛頭天王(ごずてんのう)は、もともと、

祇園精舎(しょうじゃ)の守護神、

であったが、

蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B

武塔天神(むとうてんじん)、

あるいは、京都八坂(やさか)神社(祇園(ぎおん)社)の祭神として、

祇園天神、

ともいう(日本大百科全書)。

「ごづ」は、

牛頭(ぎゅうとう)の呉音、此の神の梵名は、Gavagriva(瞿摩掲利婆)なり、瞿摩は、牛と訳し、掲利婆は、頭と訳す、圖する所の像、頂に牛頭を戴けり、

とあり(大言海)、

忿怒鬼神の類、

とし、

縛撃癘鬼禳除疫難(『天刑星秘密気儀軌』)、

とある(大言海)。

その裏面は起請文を記す用紙、

とされた(仝上・大辞泉・日本国語大辞典)。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視されたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8Bとある。

「牛」(漢音ギュウ、呉音グ、慣用ゴ)は、

象形、牛の頭部を描いたもの。ンゴウという鳴き声をまねた擬声語でもあろう、

とある(漢字源)。別に、

象形。羊と区別し、前方に湾曲して突き出たつののあるうしの頭の形にかたどり、「うし」の意を表す、

ともある(角川新字源)。

「王」(オウ)は、諸説あり、

会意。「大+−印(天)+−印(地)」で、天と地の間に立つさまを示す(漢字源)、
「大」(人が立った様)の上下に線を引いたものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8E%8B

あるいは、

下が大きく広がった斧の形を描いた象形文字(漢字源)、
象形、王権を示す斧/鉞の象形https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8E%8B
象形。大きなおのを立てた形にかたどり、威力の象徴としての、かしらの意を表す(角川新字源)、
古代中国で、支配の象徴として用いられたまさかり(が正義(制裁)を取り行う道具)の象形https://okjiten.jp/kanji189.html

等々とあり、

もと偉大な人の意、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


小袿(こうちぎ)


年のころ廿(はたち)ばかりと見ゆ。白き小袿(こうちぎ)に紅梅の下襲(したがさね)、匂ひ世の常ならず(伽婢子)、

とある、

小袿、

は、

女房装束の上着、高貴な女性の平常着、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。古くは、

こうちき、

と清音(精選版日本国語大辞典)で、

婦人の礼服、裳、唐衣(からぎぬ)など着ぬ上に、打掛けて着るものにて、小袖の如く、廣袖にて、裏あり、地は、綾にて、色、種々なりと云ふ、

とある(大言海)。

これだとわかりにくいが、「小袿」は、

女房装束の略装、

で、高貴の女子が、

内々に用いた、

とある(有職故実図典)。女房装束のうち、

唐衣(からぎぬ)、
裳(も)、

を除いた、いわゆる、

重袿(かさねうちき)、

に、

袿、

の姿で、

上衣の袿が、下の重袿をおめらかす(ずらす。特に、衣装などの表の端に下襲(したがさね)の端をのぞかせる)ために、特に小袿に仕立てられた、

ので、

小袿、

と呼ばれた(仝上)、とある。

垂領(たりくび)、広袖(ひろそで)形式で、袿(うちき)より袖幅がやや少なく、身丈が短い。袿を数領重ねた上に着て、改まったときには唐衣(からぎぬ)のかわりに小袿を着て裳(も)を腰につける、

ともある(日本大百科全書)。ために、実体は、

表着(うわぎ)、

と変わらず、

表着の時はどこまでも唐衣の下着として用いられたのに対し、小袿は褻の際ではあるが、唐衣と同様、最上の料、

として用いられ、仕立・地質・文様・色目などにも、最上着としての体裁を整え、

表着とは別個の存在、

となり、

袖口・襟・衽(おくみ 着物の左右の前身頃(まえみごろ)に縫いつけた、襟から裾までの細長い半幅(はんはば)の布)・裾回しに裏地を返しておめらかす他、「おめり」(衣服などの表地の周縁に裏地をずらしてのぞかせる部分)と表地との間に、さらに今一色裂地を挟んで中部(なかべ)とし、重ねの飾りを副えて、小袿の特色とした、

という独特の着方に発展した(有職故実図典)。「小袿」が、こうして、

略儀の最上着、

となることによって、

唐衣、

を略して、代わりに裳を付ける例もあり、『枕草子』に、

裳の上に小袿をぞ著給へる、

と、関白藤原道隆の北の方の着方を載せているが、これは特例のようで、本来は、

五衣(いつつぎぬ 袿を五枚重ねて着る)、

の上に着用するのが本義で、改まった時には、

表着、

をも内に着籠めるのを例にした(仝上)とある。因みに、「五衣」は、

五領襲(かさ)ねて組み合わせた袿、

のことだが、元来、襲ねる枚数に規定はなかったが、平安時代末ごろより五領が適当となり、それを、

五衣、

と呼ぶようになった。五領の配色に趣向をこらし、

五領同色にしたもの、
襲ねる袿の上から順次、色目を濃くしたり淡くしたりした「匂(にお)い」、
うち二領を白にした「薄様(うすよう)」、
五領各異色の組合せにしたもの、

等々いろいろな襲(かさね)色目のものが用いられた(日本大百科全書)らしい。

「小袿」姿のよく知られているのは、『春日権現霊験記』第一巻第三段にみえる、

竹林上の貴女の姿、

で、これは藤原吉兼が夢中に拝した春日大明神の神影とされる(仝上)。

なお、近世になると、小袿は袿とまったく同形で、中倍(なかべ)といわれる絹地を、表地と裏地の間に挟んで仕立てたものを称している(日本大百科全書)という。

ちなみに、女房装束(十二単)は、

唐衣(からぎぬ 男性の束帯に相当する女性の第一正装。唐衣はその一番上に着る衣。唐服を模したところから唐衣と言われる。上半身を羽織るだけの短い衣で、背身頃は前身頃の約三分の二の長さ、袖丈より短い)、
表着(うはぎ・うえのきぬ 唐衣の下に着る。袿であるが、多くの袿の一番上に着るのでこの名があり、下に着る五衣(いつつぎぬ)の襲(かさね)を見せるため少し小さめに作られている)、
打衣(うちぎぬ 表着の下に着る袿で、打衣の名称はもと紅の綾を砧でうって光沢を出したことからつけられたが、のちには打つ代わりに「板引き」といって布地に糊をつけ、漆塗りの板に張り、よく干して引きはがして光沢を出すようになった)、
五衣(いつつぎぬ 袿を五枚重ねて着るので五衣とよばれるが、形や大きさは表着と変わらない)、
単衣(ひとえ 形は袿と同じだが、裄と丈が他の袿より大きく長く仕立てられている。常に単衣仕立て)、
長袴(ながばかま 筒形で、裾は後ろに長く引く。表裏とも緋色の精好地(せいこうじ 地合いが緻密で精美な織物の精好織の略称))、
裳(も 奈良時代には腰に巻いたものだったが、平安時代になって衣服を数多く重ね着するようになり、腰に巻くことができなくなったため、腰に当てて結び、後ろに垂れて引くものになった)、

からなりhttp://www.wagokoro.com/12hitoe/、髪型は大垂髪(おすべらかし 下げ髪。髻(もとどり)から先のほうの髪を背側にすべらせ,長く垂れ下げたもの)が基本とある。

「袿」は、

打着の義、上に打掛けて着る服の意、褂とも書くは、掛衣の合字、

とあり(大言海)、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

ウチキと清音の指示がある。アクセントによると、内着の意ではなく、打ち着(ちょっと着る)の意、

とある(岩波古語辞典)。和名類聚抄(平安中期)も、

袿、宇知岐、布陣の上衣也、

とある。

儀式の時は、この上に唐衣、及び裳を着る。三領、五領、七領と重ねて着る。其の下なるをかさねうちぎと云ひ(これも略してうちぎと云ふ)、最も上なるうちぎは、紅の打衣(うちぎぬ)にて、下に重ぬるに、次第に上なるを短くす、のちに云ふ、五衣(いつつぎぬ)、是なり、

とある(大言海)。

盛夏には、単物(ひとえもの)を数領襲ねる、

単襲(ひとえがさね)、

5月と9月には、

ひねり襲、

といって、表地、中陪地、裏地をそれぞれ縁をよりぐけ仕立てで単物とし、3枚あわせて一領としたものも用いた、

とある(日本大百科全書)。

「袿」(漢音ケイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。「衣+音符圭(ケイ=掛 ひっかける)」、

とあり、「うちかけ」の意だが、我が国では、

襲(かさね)の上に来た衣服、

をいい、男子の場合も、

直衣、狩衣の下に着た、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

上へ


匂ひ


年のころ廿(はたち)ばかりと見ゆ。白き小袿(こうちぎ)に紅梅の下襲(したがさね)、匂ひ世の常ならず、月にえいじ、花に向かひて(伽婢子)、

にある、

匂ひ、

は、

かさねの色目が美しく取りあわされている様子、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。これだとわかりにくいが、「匂ひ」は、いわゆる、

襲(かさね)の色目、

のうち、

同系色のグラデーション、

を指すhttp://www.kariginu.jp/kikata/5-2.htm

「襲の色目」は、

女房装束の袿の重ね(五衣)に用いられた襲色目の一覧、

をいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%B2%E3%81%AE%E8%89%B2%E7%9B%AE

「小袿」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492871391.html?1666725543で触れたように、

正式の女房装束はこの上に「表着」や「小袿」、さらに「唐衣」を着用しますから、表面に表れる面積では「五衣」は少ないのですが、袖などに表れるこの部分の美しさを女房たちは競いました、

とあるhttp://www.kariginu.jp/kikata/5-2.htm。平安時代は、グラデーションを好んだようで、その配色の方法で、「匂ひ」の他、

薄様(うすよう グラデーションで淡色になり、ついには白にまでなる配色)
村濃(むらご ところどころに濃淡がある配色です。「村」は「斑」のこと)
単重(ひとえがさね 夏物の、裏地のない衣の重ねです。下の色が透けるので微妙な色合いになる)、

等々がある(仝上)。なお、「村濃」については、「すそご」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484482055.htmlで触れた。冒頭の、

紅梅の下襲(したがさね)、

は、

紅梅色から朱色に戻る袿を濃淡に従ってそろえたもの、

をいい、これに対して、

柿(かき)、桜、山吹、紅梅、萌黄(もえぎ)の五色をとり交わしつつ云々(いい)。三色着たるは十五ずつ……、多く着たるは十八、二十にてでありける(栄花物語)、

というのは、濃淡を含めた異系統の数色による襲色目になる(日本大百科全書)。

「卯の花」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472739320.htmlで触れたように、十二単などにおける色の組み合わせを、

色目、

といい、襲(かさね)装束における色づかいについていわれることが多いので、

かさね色目、

などともいいhttp://www.kariginu.jp/kikata/kasane-irome.htm

衣を表裏に重ねるもの(合わせ色目、表裏の色目)、
複数の衣を重ねるもの(襲色目)、
経糸と緯糸の違いによるもの(織り色目)、

の三種類ある(http://www.kariginu.jp/kikata/kasane-irome.htm・日本大百科全書)。「重色目」は、

表の色と裏の色の組み合わせ、

で、

当時の絹は薄かったので裏地が透けたため複雑な色彩、

になったhttps://costume.iz2.or.jp/color/

男性の直衣(のうし)などでも「桜の直衣」などというように、衣服の表地と裏地の二色の配合によるもので、袷(あわせ)仕立ての場合当然現れる色目、

になる(日本大百科全書)。春夏秋冬のシーズン色と雑(四季通用)がある。「織り色目」は、

織物の経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の違い、

によるもので、経緯の糸の太さと密度を同じにして織った場合には、いわゆる、

玉虫、

になって、光線のぐあいでひだの高低にしたがって、2色が交錯して見える。また経緯(たてよこ)の太さを変え、そのいずれかを浮かせて文様を織り出せば、いわゆる、

二色の綾(あや)、

になって、地と文様の色が相対する。紫、縹(はなだ)などの経綾地に緯に白を配して文様を表した、

緯白(ぬきじろ)の綾、

などが、男性の指貫(さしぬき)などに多くみられる。また緯糸に数色の色を入れて、これを、

浮織、

に織ったものが、男性の狩衣(かりぎぬ)や女性の表着(うわぎ)や唐衣(からぎぬ)、袿(うちき)などに用いられた、とある(仝上)。

「襲」(漢音シュウ、呉音ジュウ)は、

会意兼形声。「龍」は、もと龍を二つならべた字(トウ)で、重ねる意を表わす。襲はそれを音符とし、衣を加えた字で、衣服を重ねること、

とある(漢字源)。

上へ


定業(じょうごう)


我不慮に、木の枝にかかる事、定業未だ来たらぬ故なるべし(諸国百物語)、

にある、

定業、

は、

じょうごう(ぢやうごふ)、

と訓ませ(「ていぎょう」と訓むと、定職の意になる)、

与えられた寿命、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)のは、意訳で、正確には、

苦楽の果報を受けることが決定している業、

また、

果報を受ける時期が決定している業、

をいい(広辞苑)、この意味で、「寿命」の意が出てくるし、

この業によってもたらされた果報、

についてもいう(広辞苑)とある。

決定業(けつじようごう)、

の略とある(日本国語大辞典)。「業」は、「一業所感」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.htmlで触れたように、

サンスクリット語のカルマンkarmanの訳語、

で、

羯磨(かつま)、

とも当てられる(広辞苑)。

もともとクル(為(な)す)という動詞からつくられた名詞であり、行為を示す、

が、しかし、

一つの行為は、原因がなければおこらないし、また、いったんおこった行為は、かならずなにかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この系列はどこまでも続く)を総称して、

業、

という、とある(日本大百科全書)。それはまず素朴な形では、

いわゆる輪廻思想とともに、インド哲学の初期ウパニシャッド思想に生まれ、のち仏教にも取り入れられて、人間の行為を律し、また生あるものの輪廻の軸となる重要な術語、

となり、

善因善果・悪因悪果、さらには善因楽果・悪因苦果の系列は業によって支えられ、人格の向上はもとより、悟りも業が導くとされ、さらに業の届く範囲はいっそう拡大されて、前世から来世にまで延長された、

とある(仝上)。

現在の行為の責任を将来自ら引き受ける、という意味に考えてよいであろう。確かに行為そのものは無常であり、永続することはありえないけれども、いったんなした行為は消すことができず、ここに一種の「非連続の連続」があって、それを業が担うところから、「不失法」と術語される例もある、

との解釈(仝上)は、「業」を身に受けるという主体的解釈に思える。仏教では、

三業(身・口・意の三つで起こす「身業」(しんごう)・「口業」(くごう)・「意業」(いごう)をいう)、

といい、

その行為が未来の苦楽の結果を導く働きを成す、

とし、

善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生む、

としている(広辞苑)。だから、業による報いを、

業果(ごうか)や業報(ごうほう)、

業によって報いを受けることを、

業感(ごうかん)、

業による苦である報いを、

業苦(ごうく)、

過去世に造った業を、

宿業(しゅくごう・すくごう)または前業(ぜんごう)、

宿業による災いを、

業厄(ごうやく)、

宿業による脱れることのできない重い病気を、

業病(ごうびょう)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD。で、自分のつくった業の報いは自分が受けなければならないゆえに、

自業自得、

ということになる。

だから、「定業」は、

善悪の報いを受ける時期が定まっている行為、

をいい、『往生要集(984〜985)』に、

造五逆不定業、得往生、造五逆定業、不往生(五逆の不定業(果報を受ける時期が決まっていない業)を造れるものは往生することを得るも、五逆定業を造れるものは往生せず)、

とあり、

定業亦能転(じょうごうやくのうてん)、

といい、

その報いを受ける時期が定まっている行為でさえも、よく転じて報いを免れることができるという、

意味で、これを、

菩薩の願い、

とされる(仝上)とある。業を受ける時期の遅速によって、

生きているうちに果を受ける順現業(じゅんげんごう)、
次に生まれかわって果を受ける順生業(じゅんしょうごう)、
第三回目の生以後に果を受ける順後業(じゅんごごう)、

の三種があり、、

三時業、
または、
三時、

という(精選版日本国語大辞典)。「定業」の対になるのが、

すくひ助けたるに、定業の命のびたるは、此の童子に雲泥のちがひあり。助くる迄こそなからめ、非業(ひごう)の命をとらぬ迄のこころ、大人は自らも弁え(伽婢子)、

にある、

非業、

で、

前世の業因によらないこと、

つまり、

業因によって定まっていない果のこと、

で、

非命業、

をいい、

非業の死、
非業の最期、

というように、特に、

前世から定められた業因による寿命の終わらないうちに死ぬこと、
災難などで尋常でない死にかたをすること、

の意で使う。また、

非命、

も同義で、

天の命ずるところでないこと、

特に、

病死、老死、

あるいは、

災害、事故、戦いなどで不慮の死をとげること、

をいい、

横死、

という言い方もする(精選版日本国語大辞典)。

「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、「一業所感」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.htmlで触れたように、

象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる。厳(ガン いかつい)・岩(ごつごつしたいわ)などと縁が近い、

とある(漢字源)が、別に、

象形。楽器などをかけるぎざぎざのついた台を象る。苦労して仕事をするの意か、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%AD

象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji474.html

ぎざぎざのとめ木のついた台、

が、

のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板、

と特定されたものだということがわかる。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


つぼ折


其の様、地白の帷子(かたびら)をつぼ折り、杖を突きて山の頂に登る(伽婢子)、

にある、

つぼ折り、

は、

着物の褄を折って前の帯にはさむ、

意とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、

かいどる(搔い取る)、

と同義とある(仝上)が、「かいどる」は、

小袖(こそで)の、しほしほとあるをかいどって(太平記)、

と、日葡辞書(1603〜04)にも、

イシャウノスソヲカイトル、

とあり、

カキトルの音便、

なので、

着物の裾や褄などを手でつまんで持ち上げる、
手でからげる、
手で引き上げる、

意で(広辞苑・学研全訳古語辞典)、「つぼ折り」とは微妙に差がある気がする。「つぼをる」は、

窄折、

と当て、

つぼめ折るの義、

ともある(大言海)。なお、

帷子、

は、「帷子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470519897.htmlで触れたように、

裏をつけない衣服、

つまり、

ひとえもの、

の意である。

「つぼおり」は、

壺折、

と当て、

小袖、打掛などの着物の両褄を折りつぼめ、前の帯にはさみ合わせて、歩きやすいように着る、

意で(精選版日本国語大辞典)、これは、

壺装束(つぼそうぞく・つぼしょうぞく)

からきており、

「つぼ」は「つぼおり(壺折)」の意、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

平安時代から鎌倉時代頃にかけて、中流以上の女性が徒歩(かち)で旅行または外出するときの服装。小袖の上に、小袿(こうちぎ)、または袿を頭からかぶって着(「かずき」という)、紐で腰に結び、衣の裾を歩きやすいように、折りつぼめて手に持ったり、手でからげて持ったりして歩く。垂髪を衣の中に入れ、市女笠(いちめがさ)を目深くかぶる、

とある(仝上)。「小袿」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492871391.html?1666725543については触れた。

腰帯で中結(なかゆい)し、余りを腰に折り下げる。腰部が広く、裾のすぼんだ形状から、

壺装束、

といい、このようなたくし方を、

壺折(つぼおり)、

という(広辞苑)とある。

壺装束のとき、普通、

袴(はかま)は履かないが、乗馬の際は指貫(さしぬき)か狩袴(かりばかま)を履いた。履き物は緒太(おぶと)という草履(ぞうり)か、草鞋(わらじ)を履き、乗馬には深沓(ふかぐつ)の一種の半靴(ほうか)を履いた、

とある(日本大百科全書)。「緒太(おぶと)」は「水干」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.htmlで触れたように、

裏の付いていない、鼻緒の太い草履、

である(精選版日本国語大辞典)。

なお、「かづき」は、

被衣、

と当て、

女子が外出に頭に被(かづ)く(かぶる)衣服、

のことだが、

平安時代から鎌倉時代にかけて女子は素顔で外出しない風習があり、袿(うちき)、衣の場合を、

衣(きぬ)かづき(被)、

といった。室町時代から小袖(こそで)を用いるようになると、これを、

小袖かづき、

といい、武家における婚礼衣装にも用いられた(仝上)とある。

吉野山の花を雲と見給ひ、立田川の紅葉を錦と見しは万葉の古風、市女笠着てつぼほり出立の世もありしとかや(浮世草子「紅白源氏物語(1709)」)、

とある、

「市女笠(いちめがさ)」は、

縫い笠の一種。縁(ふち)の張った形に縫い、頂部に巾子(こじ)という高い突起をつくった菅笠(すげがさ)、

をいい、初め市に物売りに出る女がかぶったところからこの名がある。しかし、平安時代も中期以後には上流婦人の外出に着装されるようになり、旅装としての壺装束(つぼしょうぞく)を構成するようになった、

とある(仝上)。また、雨天の行幸供奉(ぐぶ)には公卿(くぎょう)にも着用されるようになり、

局笠(つぼねがさ)、
窄笠(つぼみがさ)、

等々ともよばれた。当時のものは周縁部が大きく深いので肩や背を覆うほどであったが、鎌倉時代以後のものはそれが小さく浅くなり、安土桃山時代では、その先端をとがらせ装飾を施すようになり、江戸時代になると黒漆の塗り笠になって、やがて廃れていった(仝上)、とある

また、市女笠の周縁に薄い麻布(カラムシ(苧麻)の衣)をたらし、これを、

虫の垂衣(たれぎぬ)、
(むし)の垂絹(たれぎぬ)、

といった(仝上)。この服装が後に変化して、

被衣(かつぎ)風俗、

となったともある(ブリタニカ国際大百科事典)

なお「壺折」は、能では、

ざひ人のやうにとりつくらふて下され……ツボ折作物コシラヱル内ニ(波形本狂言・鬮罪人)、

と、

能の女装の衣装のつけ方の名称、

をいい、

唐織り(花鳥などを美しく織出した小袖)や舞衣などの裾を腰まであげをしたようにくくり上げて、内側にたくしこんで着ること、

の意である(精選版日本国語大辞典)。

たとえば王妃の役なら、天竺の旋陀夫人(《一角仙人》のツレ)も、唐の楊貴妃(《楊貴妃》のシテ)も、日本の白河院の女御(「恋重荷(こいのおもに)」のツレ)も、みな、かぶり物は天冠、着付は摺箔、袴は大口、上衣は唐織を壺折(つぼおり)に着るという扮装になる、

とある(世界大百科事典)。「天冠」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492730251.html?1666293816については触れた。

また、歌舞伎では、

時代狂言の貴人や武将が上着の上に着る衣装、

で、

打掛のように丈長(たけなが)で、広袖の羽織状をなした華麗なもの、

をいい、

壺折衣装、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

表着である唐織などの裾を膝上ほどの高さにし、両衿を胸の前でゆったり湾曲させた着方、

で、

丈の余分は腰の部分で折り込む。壺折には2種類あり、ひとつは、

腰巻の上に着て女性の外出着姿を表わす、

もうひとつは、

高貴な女性の正装などにも用いられる着方で、大口袴の上に着る優美なものである、

とあるhttps://db2.the-noh.com/jdic/2010/04/post_187.html

「壺」(漢音コ、呉音グ・ゴ)は、

象形。壺を描いたもの。上部の士は蓋の形、腹が丸くふくれて、瓠(コ うり)と同じ形をしているので、コという、

とあり、壼(コン)は別字、

とある(漢字源)。

「折」(漢音セツ、呉音セチ)は、

会意。「木を二つに切ったさま+斤(おの)」で、ざくんと中断すること、

とある(漢字源)。別に、

斤と、木が切れたさまを示す象形、

で、扌は誤り伝わった形とある(角川新字源)。また、

会意文字です(扌+斤)。「ばらばらになった草・木」の象形と「曲がった柄の先に刃をつけた手斧」の象形から、草・木をばらばらに「おる」を意味する「折」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji670.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ


面(おも)なし


知康、昨日今日の者にてあれども、声悪しからぬうへに、面なく歌ふほどに、習ひたるほどよりは上手めかしき所ありて、悪しくもなし(佐々木信綱校訂『梁塵秘抄』)、

にある、

面(おも)な(無)し、

は、

恥じる様子がないさま、
あつかましい、
押しが強く平気である、

意とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。

顔の意味の「おも」と形容詞「なし」とが結び付いてできた語、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

臣未だ勅の旨を成さずして、京郷(みやこ)に還(まてこ)ば、労(ねぎら)へられて往きて、虚しくして帰れるなり。慚(はつか)しく悪(オモナイ)こと安(いずく)にか措(お)かむ(「日本書紀(前田本訓)」)、
はしたなかるべきやつれをおもなく御らんじとがめられぬべきさまなれば(源氏物語)、

などと、

(自分自身の事柄に関して)恥ずかしく、人に合わせる顔がない、
面目ない、
おもはゆい、

という意味である。上代では、すべてこの意であったが、中古になると、この意の例はまれになり、一般に第三者の立場からの、

おもなき事をば、はぢを捨つるとは言ひける(竹取物語)、
すこし老いて、物の例知り、おもなきさまなるも、いとつきづきしくめやすし(枕草子)、

と、

(他人の言動に関して)恥ずべきさまである、
恥知らずである、
あつかましい、
臆面(おくめん)もない、

また、

物怖じしない、

の意を表わすものとなった(精選版日本国語大辞典)。ただし、

中世、近世の擬古的文章では、再び、

(自分自身の事柄に関して)恥ずかしく、人に合わせる顔がない、

意にも用いられるようにもなっている(仝上)、ともある。つまり、自分自身の、

自責(自己評価)の価値表現、

から、

他責(他者評価)の価値表現、

へと180度転換したことになる。その意味で、上述の引用の「面なし」について、

例えば『今昔物語集』に「はかばかしくもなからむ言を、面無くうち出でたらむは」と使われるように、否定的な語感を拭い切ることはできない。それによる「上手めかしきところ」も、あくまで「めかす」のである。選び取られたこれらの言葉のニュアンスは、実質とは別の押しの強さで己の位置を築いた知康(平知康 北面、左衛門尉)の本質と通底するところである、

と、

押しが強く平気である、

との含意を補足している(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。

この、

(自分自身の事柄に関して)恥ずかしく、人に合わせる顔がない、

の意の、

面なし、

の対になるのは、

面立(おもだた)し、

になる。「おもだたし」は、

おもたたし、

ともいい、

世間に対して顔が立つように感じる、

意とあり(岩波古語辞典)、

面目の意か、目ダタシキと同意(河海抄)、

とも、

面立(オモタテ)しの轉(轉(ウタテ)、うたた)にて、オモテオコシなどとも同意の語なるか、或は、重立つの未然形の、オモダタを活用させたる語か、うらやむ、うらやまし(大言海)、

ともあるが、いずれも、主体の、

面目が立つ、

意と重なり、

大すにまじらはんに、をもたたしく侍るべきもなく(宇津保物語)、

と、

身の光栄に思う、
面目が立つ、
はれがましい、

意で、主体的感情という意味で、

面なし、

と対になる。さらに、それが、

おもたたしき腹にむすめかしづきてげにきずなからむとおもひやりめでたきがものし給はぬは(源氏物語)、

と、客体評価へと転じていくのも「面なし」の意味変化と似ている。

「面」(漢音ベン、呉音メン)は、「面桶」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491684942.htmlで触れたように、

会意。「首(あたま)+外側をかこむ線」。頭の外側を線でかこんだその平面を表す、

とあり(漢字源)、

指事。𦣻(しゆ=首。あたま)と、それを包む線とにより、顔の意を表す(角川新字源)、
指事文字です。「人の頭部」の象形と「顔の輪郭をあらわす囲い」から、人の「かお・おもて」を意味する「面」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji541.html

も、漢字の造字法は、指事文字としているが、字源の解釈は同趣旨。別に、

仮面から目がのぞいている様を象る(白川静)、

との説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A2もある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

上へ


声聞(しょうもん)


四大声聞(しだいしょうもん)いかばかり、喜び身よりも余るらむ、我らは後世の仏ぞと、たしかに聞きつる今日なれば(梁塵秘抄)、

とある、

声聞、

は、

教えを受ける者、
修行者、
弟子、

の意とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。「四大声聞」とは、

記別(釈迦が、未来における成仏を予言し、その成仏の次第、名号、仏国土や劫などを告げ知らせること)、

をあたえた(『法華経』授記品)、

摩訶迦葉(まかかしょう)、
須菩提(しゅぼだい)、
迦旃延(かせんねん)、
目連(摩訶目犍連(まかもっけんれん) もくれん)、

の4人のすぐれた仏弟子をいう(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)ので、「声聞」は、元来は、

仏在世の弟子のこと、

をさす(広辞苑)。

「声聞」は、

梵語śrāvaka(シュラーヴァカ)、

の訳語、

声を聞くもの、

の意で、

弟子、

とも訳す(精選版日本国語大辞典)。

縁覚、
菩薩、

と共に、

三乗、

の一つとされる(仝上)。「声聞」が、

釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子、

であるのに対して、

縁覚(えんがく)、

は、

梵語pratyeka-buddhaの訳語、

で、

各自にさとった者、

の意、

独覚(どっかく)、

とも訳し、

仏の教えによらず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者、

をいう(仝上・日本大百科全書)。

「菩薩」は、

サンスクリット語ボーディサットバbodhisattva、

の音訳、

菩提薩埵(ぼだいさった)、


の省略語であり、

bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩埵、人)、

より、

悟りを求める人、

の意であり、元来は、

釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿、

をさしている(仝上)とされる(「薩埵」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485883879.htmlについては触れた)。つまり、部派仏教(小乗)では、

菩薩はつねに単数で示され、成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊、

だけを意味する。そして他の修行者は、

釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした(仝上)。

「阿羅漢」とは、

サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、

で、

尊敬を受けるに値する者、

の意。

究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、

をいう。部派仏教(小乗仏教)では、

仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、

をさし、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、

無学(むがく)、

ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教の立場からは、

個人的な解脱を目的とする者、

とみなされ、

声聞を独覚(縁覚)と並べて、この2つを二乗・小乗として貶している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E。ちなみに、「乗」とは、

「乗」は乗物

の意で、

世のすべてのものを救って、悟りにと運んでいく教え、

を指し、「三乗」とは、

悟りに至るに3種の方法、

をいい、

声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、

の三つをいう(仝上)。大乗仏教では、

菩薩、

を、

修行を経た未来に仏になる者、

の意で用いている。

悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、

また、仏の後継者としての、

観世音、
彌勒、
地蔵、

等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。で、大乗仏教では、「阿羅漢」も、

小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩)には及ばない、

とされた。つまり、「声聞」の意味は、

縁覚・菩薩と並べて二乗や三乗の一つに数える、

ときには、

仏陀の教えを聞く者、

という本来の意ではなく、

仏の教説に従って修行しても自己の解脱のみを目的とする出家の聖者のことを指し、四諦の教えによって修行し四沙門果を悟って身も心も滅した無余涅槃(むよねはん 生理的欲求さえも完全になくしてしまうこと、つまり肉体を滅してしまって心身ともに全ての束縛を離れた状態。)に入ることを目的とする人、

のことを意味するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E

因みに、「四諦(したい)」は、

「諦」はsatyaの訳。真理の意、

で、迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理、

苦諦、
集諦(じったい)、
滅諦、
道諦、

の四つで、

四聖諦(ししょうたい)、

ともよばれる。苦諦(くたい)は、

人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実、

集諦(じったい)は、

その苦はすべて自己の煩悩(ぼんのウ)や妄執など広義の欲望から生ずるという真実、

滅諦(めったい)は、

それらの欲望を断じ滅して、それから解脱(げだつ)し、涅槃(ねはん ニルバーナ)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実、

道諦(どうたい)は、

この悟りに導く実践を示す真実で、つねに八正道(はっしょうどう 正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう))による、

とするもの(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。

「聲(声)」(漢音セイ、呉音ショウ)は、磬(ケイ)という楽器を描いた象形文字。殳は、磬をたたく棒を手に持つ姿。聲は「磬の略体+耳」で、耳で磬の音を聞くさまを示す。広く、耳をうつ音響や音声をいう、

とある(漢字源)。

「聞」(漢音ブン、呉音モン)は、

会意兼形声。門は、とじて中を隠すもんを描いた象形文字。中がよく分からない意を含む。聞は「耳+音符門」で、よくわからないこと、隔たっていることが耳にはいること、

とある(漢字源)。

「ききわける意を表す」(角川新字源)、
「隔たりを通して耳をそばだて聞く」https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%81%9E

意とあり、「問」と同系で反対の動作を表す(仝上)とある。

上へ


纏頭


感に堪へずして、唐綾の染付なる二衣を纏頭にしてき。折節に付けては興がりておぼえき(梁塵秘抄口伝集)、

にある、

纏頭、

は、

てんとう、

と訓ませるが、古くは、

てんどう、

と訓ませた(広辞苑)。

歌舞・演芸などをした者に、褒美ほうびとして与えること、及びそのもの、

のことを言い、もとは、

衣服をぬいで与え、それを受けた時、頭にまとった、

ところからいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

かずけもの、
引出物、

の意である(仝上・岩波古語辞典)。これは、

出羅錦二百匹、為子儀纏頭之費(奮唐書・郭子儀傳)、

と、漢語であり、

はな、
かづけもの、

の意とある。ちなみに、「はな」は、「引出物」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479132660.htmlで触れたが、

纏頭、

とも当て、

芸人などに出す当座の祝儀、

の意でもあり、

芸者の揚代(あげだい)の称、

つまり、

花代、

の意でもある(広辞苑)。『資治通鑑』(北宋・司馬光)後梁紀の註に、

舊俗賞歌舞人、以錦綵置之頭上、謂之纏頭、

とあり、

直截頭上に置いたもの、

だと知れ、

もと上位の人が下位の者に着物を与えるとき、頭にかぶせる風習があった、

とある(日本大百科全書)。中国伝来ということである。しかし、わが国では、少しずつ意味を転じ、

今朝召実厳纏頭、依儲事等殊致丁寧也(「高野山文書(1148)」)、

と、

当座の祝儀として与える金銭、

つまり、

はな、
ぽち(京坂方言 心づけ)、
チップ、

の意となり(で、「纏頭」を「はな」とも訓ませる)、さらに、この言葉の語感からか、

六月廿八日小所領一所雖分得候、未得秋分程、事々纏頭候了(「醍醐寺文書(1280)」)、
臨時の客人、纏頭の外他なし。卒爾の経営、周章の至り忙然たり(庭訓往来)、

などと、

いそがしいこと、
また、
あわてること、

の意でも使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

「引出物」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479132660.htmlでも触れたが、「かずけもの」は、

被け物、

と当て、

人の労をねぎらい、功を賞して与える衣服類、

をいい、

衣服類を相手の左肩にうちかけて与えた、

といい、

もらった者はこれを左肩に掛けて退く、

という(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

纏頭(てんとう)、

ともいい、

力を尽したること少なからず、しかるにいまだ祿給はらず(竹取物語)、

と、

祿(ろく)、

ともいい、さらには、

さもしくかづけ物にはあらず(浮世草子「色里三所世帯」)、
匂ひはかづけ物(西鶴・一代男)、

などと、

ごまかし物、

の意でも使うに至る。これは「被(かづ)く」に、

頭に被る、

意からのメタファで、

病にかづけて寺へ引き込み(三体詩抄)、

と、

かこつける、

意や、

よからぬ事は皆、田舎者になづくる(仮名草子「仕方咄」)、

と、

転嫁する、

意など(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)のとの関連から来たものではあるまいか。なお、

かづけわたの事あり、衣筥(ころもばこ)の蓋に綿を入れて、簀子(すのこ)の北の方に、内持の廊下と云ひて、簾(みす)をかけて出す、蔵人、御導師の肩にかづくるなり(建武年中行事)、

とある、

被綿(かづけわた)、

は、

綿の被物、

の謂いで、

御佛名(ミブツミヤウ)を修したる僧に賜ふに云ふ、

とある(大言海)。

「纏」(漢音テン、呉音デン)は、

会意兼形声。「糸+音符廛(テン ある所にへばりつく)」。ひもや布を一か所にへばりつくようにまきつけること、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(糸+廛)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と「屋根の象形と区画された耕地の象形と2つに分れているものの象形と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(「1家族に分け与えられた村里の土地」の意味だが、ここでは、「帯」に通じ(「帯」と同じ意味を持つようになって)、「おびる」の意味)から、「糸を帯びる」、「まとう」を意味する「纏」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2660.html。後者の説の方が、「まとう」の意の「纏」の説明としてはわかりやすい気がする。別に、

形声。声符は廛(てん)。廛は(ふくろ)の中にものを入れてまとめ、それを建物に収納する意。説文解字に「繞(めぐ)らすなり」とあり、縄をめぐらしてまとめくくることをいう。次条に「繞(ぜう)は纏(まと)ふなり」とあって互訓。繞り歩くことを躔(てん)という、

ともある(字通)。

「頭」(漢音トウ、呉音ズ、慣用ト、唐音ジュウ)、

は、

会意兼形声。「頁(あたま)+音符豆(じっと立つ高い木)」で、まっすぐ立っているあたま、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(豆+頁)。脚が長く頭が膨らんだ食器(たかつき)の象形と人の頭を強調した象形から「あたま・かしら」を意味する「頭」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji21.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

上へ

ご質問・お問い合わせ,あるいは,ご意見,ご要望等々をお寄せ戴く場合は,sugi.toshihiko@gmail.com宛,電子メールをお送り下さい。
Copy Right (C);2024-2025 P&Pネットワーク 高沢公信 All Right Reserved