おもての座敷に請じ入れて、答拝(たっぱい)すること限りなし(奇異雑談集)、 とある、 答拝(たっぱい)、 は、 中古、大饗(たいきょう)のおりなどに尊者が来たとき、主人が堂をおりて迎え、共に拝したことから転じて、丁寧な取り扱い、 の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。 「答拝(とうはい)」は、 君於士不答拝也、非其臣則答拝之、大夫於其臣、雖賤必答拝之(礼記)、 と、 先方の敬礼にむくいて拝礼する、 意の漢語である(字源)。「答拝」を、 タッパイ、 と訓ませるのは、 「たふはい」の変化した語(精選版日本国語大辞典)、 タフハイの転(岩波古語辞典)、 此の語、たふはいなれども、つめてたっぱいとよむ(大言海)、 とあり、漢語の音読の転訛ということである。『源氏物語』(第四十九帖)には、 あざやかなる御直衣御下襲(したがさね)などたてまつり引きつくろひて、下(お)りてたうのはいをしたまふ御さまどもとりどりにいとめでたく、 と、 たうのはい(答の拝) とある。 『後松日記』(江戸後期の有職故実家・松岡行義)に、 賀儀ノ時、拜スル人來リテ、先ヅ殿ニ向ヒテ、拜セムトスル時ニ、主人モ庭ニ下リテ、コレニ答ヘテ拜スルコトナルベシト云フ、 とある。名目抄(塙保己一(はなわほきいち)編『武家名目抄』)には、 答拝(タウハイ)、尊者來家拜之時、降堂共拜スルヲ云フ也、 弾正臺式には、 凡親王大臣及一位二位、於五位以上答拝、於六位以下不須、 とあるので、昇殿を許される五位までは「答拝」するが、それ以下は「須(もち)いず」ということになる。 大臣大饗考に、関白殿答拝のことを示すなどあり、関白殿、御出あれば、下りあひて互いに拜することなり、 とあり(大言海)、俗に、 をがみたっぱいすると云ふ、 ともある(仝上)。この、 大饗の際など、身分の高い人が来臨した時に主人が堂を降りてともに拝礼する、 という意が、転じて、 たまのかぶりをちにつけて、たっはいめされておはします(説経節「さんせう太夫ろ」)、 と、 丁重なお辞儀、 丁寧なあいさつ、 の意に変わり、 あまりにわらはをちそうたっはいめされ候つる程に(御伽草子「彌兵衛鼠」)、 余人は知らず某へは、逆様に這つくばい、馳走答拝(タウハイ)すべき筈(浄瑠璃「伽羅先代萩」)、 などと、多く、 馳走答拝、 の形で、 手厚いもてなし、 丁重な取り扱い、 立派な待遇、 といった意でも用いる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。なお「馳走」については「ごちそうさま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/447604289.html)で触れた。 因みに、「大饗(たいきょう)」は、 だいきょう、 とも訓み、「大饗」は、 みあへ、 「大御饗」は、 おおみあへ、 と訓読される(精選版日本国語大辞典)。 もともとあった饗宴名に漢語があてられ成立した、 とみられる(仝上)。 饗(あへ)の大なるもの、 の意で、「饗(あへ)」は、 あふ(饗)、 の名詞形で、 饗応(きょうおう)する、 ごちそうする、 意である。「大饗」は、 平安時代、年中行事として、内裏または大臣の邸宅で行われた大きな饗宴、 で、 二宮(にぐう)の大饗、 大臣(だいじん)の大饗、 があり、二宮(にぐう)の大饗は、 禁中正月二日の公事なり、群臣、中宮東宮に拝礼して後に、玄輝門(げんきもん 内裏の内郭門の1つ)の西廊にて、中宮の饗宴を受けて禄を賜り、続いて東廊に移って東宮の饗宴を受けて禄を賜る、 とあり(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A5%97)、大臣の大饗は、 大臣に任ぜられたる人ある時にあり(任大臣大饗)。又大臣家にて、正月、面々次座の大臣以下の公卿を里亭(公卿の私邸。里は内裏に対する語)に招き請じて饗すること(正月大饗)、 とある(仝上)。因みに、「祿を賜る」とは、 功を賞し労をねぎらうために、布帛や金銭などを「禄物(ろくもつ)」や「かずけもの」として賜る、 の意とある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1373659198)。 室町時代には、この「大饗」の様式が変化して、 本膳料理、 が成立するが、「本膳料理」は「懐石料理」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.html)で触れた。 「答」(トウ)は、「いらう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484667446.html)で触れたように、 会意。「竹+合」で、竹の器にぴたりとふたをかぶせること。みとふたがあうことから、応答の意となった、 とある(漢字源)。別に、 形声。竹と、音符合(カフ)→(タフ)とから成る。もと、荅(タフ)の俗字で、意符の艸(そう くさ)がのちに竹に誤り変わったもの。「こたえる」意を表す、 とも(角川新字源)ある。 「拝(拜)」(漢音ハイ、呉音ヘ)は、 会意。両手を合わせる様。元は、「𢫶(上部は両手で、下部は「下」)」。古体「𢱭」は、「手」+「𠦪(『説文解字』においては音「コツ(忽)」)」、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8B%9D)、 「整った捧げ物」(藤堂明保)、 「花束」(白川静)、 と、「𠦪」の解釈が分かれる。 それらを両手に持ってささげる様、 の意で、「花束」も「捧げもの」の一つと見なせば、 「整った捧げもの+手」で、神前や身分の高い人の前に礼物をささげ、両手を胸もとで組んで敬礼することを示す(漢字源)、 会意。手と、𠦪(こつ は省略形。しげった草を両手で持つ)とから成る。両手に草を持って神にささげるさまにより、神にいのる、「おがむ」意を表す(角川新字源)、 会意文字です。「5本指のある手」の象形(「手」の意味)と「枝のしげった木」の象形から、邪悪なものを取り除く為に、たまぐし(神社を参拝した人や神職が神前に捧げる木綿をつけた枝の事)を手にして「おがむ」を意味する「拝」という漢字が成り立ちました(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8B%9D)、 の諸説は、広く「捧げもの」とみられるが、別に、 会意形声。「𠦪」は「ヒ(比)・ヘイ(並)」の音を有する「腹を割いて晒した生贄」(山田勝美)、 とする説も、「捧げもの」説に含まれる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 水飲みたきよし申すほどに、おりて井をたづね、面桶(めんつ)に汲んで(奇異雑談集)、 にある、 面桶、 とあるのは、 飯を盛る曲物(まげもの)、めんつう、 とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「桶」を「つう」と訓ませるのは、 唐音、 の故である(広辞苑)。 面扶持(フチ)の意、 とある(大言海)。「面扶持」は、 家族の人数に応じて与えられた給与の米(扶持米)、 の意で、 飯を盛りて、一人ずつ、面前に當て配るに用ゐる器(棬物(ワゲモノ)なり)、即ち、曲物造りのべんたうばこ、 だからとしている(仝上)。書言字考節用集(江戸初期)も、 面桶、本朝行厨、就一人面、而與一器、故名、 とある。 わりご、 とんじき、 ともいう(仝上)。つまり、「面桶」は、 一人前ずつ飯を盛って配る曲げ物、 の意だが、江戸時代には、 乞食が施しを受ける器(陶器でも金属でも)を面桶(めんつう)と言うようになった、 とある(http://sadoukenkyu.blogspot.com/2017/02/blog-post.html)ので、 乞食の持つもの、 をもいうようになる(広辞苑)。 めんぱ、 めんつ、 ともいう(仝上・日本国語大辞典)。ただ、 面桶をとりて、かまのほとりにいたりて、一桶の湯をとりて、かへりて洗面架のうへにおく(正法眼蔵)、 と、「洗面」の項に「面桶」が出てくるので、 顔を洗う水を入れる桶、 でもあったらしい。大きさが同じかどうかはわからない。 茶道では、 建水(けんすい)、 といい、 面桶の形を模したもの、 である(精選版日本国語大辞典)。 茶席で茶碗を清めた湯や水を捨てる器、 をいい、 通称「こぼし」、 古くは、 水翻(みずこぼし)、 水覆(みずおおい)、 水下(みずこぼし)、 水翻・水飜(みずこぼし)、 とも書いた。もともと、 台子皆具(だいすかいぐ 台子茶道具を置くための棚物、茶道具一式が揃っている)の一つとして、中に蓋置(ふたおき)を入れて飾った、 とある。建水には、 金属、 陶磁、 木竹、 の3種類があるが、木竹は、 曲(まげ)、 といわれるもので、 もっとも素朴で清浄感のある、 木地(きじ)曲、 のほか、 塗曲、 蒔絵(まきえ)、 箔(はく)押しを施したもの、 竹や桜皮を周囲に張り巡らせたもの、 等々もある(日本大百科全書)。 江戸初期の茶人・久保長闇堂『長闇堂記』には、 一つるへの水さし、めんつうの水こほし、青竹のふたおき、紹鴎、或時、風呂あかりに、そのあかりやにて、数寄をせられし時、初てこの作意有となん、 とある(http://verdure.tyanoyu.net/kensui_mentuu.html)。 紹鴎や利休が工夫した、 とされる(http://sadoukenkyu.blogspot.com/2017/02/blog-post.html)が、藪内家第五世・藪内竹心(やぶのうち ちくしん)の著した茶書『源流茶話』(元禄時代)に、 古へこぼしハ合子、骨吐、南蛮かめのふたのたぐひにて求めがたき故に、紹鴎、侘のたすけに面通を物すかれ候、面通、いにしへハ木具のあしらひにて、茶湯一会のもてなしばかりに用ひなかされ候へハ、内へ竹輪を入れ、組縁にひさくを掛出され候、惣、茶たて終りて、面通の内へ竹輪を打入られ候は、竹輪を重て用ひ間敷の仕かたにて、客を馳走の風情に候、 とあり、紹鴎が茶席に持ち込んだとされ(http://verdure6.web.fc2.com/yogo/yogo_ke.html#genryuucyawa)、また、江戸中期の『茶湯古事談』には、 面桶のこほしハ巡礼か腰に付し飯入より心付て紹鴎か茶屋に竹輪にふた置(竹蓋置)と取合せて置れしを、利休か作意にて竹輪も面桶も小座敷へ出しそめしとなん、 とある(http://verdure.tyanoyu.net/hutaoki_take.html)。天正18年(1590)秀吉が小田原城攻めの後に湯治中の有馬温泉で催した茶会を、秀吉の同朋衆から有馬の阿弥陀堂に知らせた手紙に、 水こほしめんつう、……利休茶たう(茶頭)被仕候也、 とある(仝上)。 「面」(漢音ベン、呉音メン)は、 会意。「首(あたま)+外側をかこむ線」。頭の外側を線でかこんだその平面を表す、 とあり(漢字源)、 指事。𦣻(しゆ=首。あたま)と、それを包む線とにより、顔の意を表す(角川新字源)、 指事文字です。「人の頭部」の象形と「顔の輪郭をあらわす囲い」から、人の「かお・おもて」を意味する「面」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji541.html)、 も、漢字の造字法は、指事文字としているが、字源の解釈は同趣旨。別に、 仮面から目がのぞいている様を象る(白川静)、 との説(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A2)もある。 「桶」(漢音トウ、呉音ツウ)は、 会意兼形声。甬(ヨウ)は、通の元の字で、つつぬけになること。桶は「木+音符甬」、 とあり(漢字源)、「おけ」の意を表す(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(木+甬)。「大地を覆う木」の象形と「甬鐘(ようしょウ)という筒形の柄のついた鐘」の象形(「筒のように中が空洞である」の意味)から、「中が空洞の木の器、おけ」を意味する「桶」という漢字が成り立ちました、 とする説もある(https://okjiten.jp/kanji2512.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) しかしながら、皆夜の錦にして、詮なし。久しく見ることあたはずして去る(奇異雑談集)、 にある、 詮なし、 は、 詮無し、 とも当て、 しかたがない、 無益である(広辞苑)、 あるいは、 何かをしても報いられない、 かいがない(デジタル大辞泉)、 あるいは、 ある行為をしても、しただけの効果や報いがなにもない、 やる甲斐(かい)がない(日本国語大辞典)、 あるいは、 しかたがない、 かいがない、 無益だ(大辞林)、 といった意味になるが、 しかたがない、 と、 かいがない、 と、 無益である、 とは、意味が重なるようで、微妙に違う気がする。たとえば、 ある行為をしても、しただけの効果や報いがなにもない→やる甲斐がない→しかたがない→無益だ、 といった意味の変化だろうか。ある意味で、 効果や報いがなにもない、 という状態表現から、 やる甲斐がない→しかたがない→無益だ、 と価値表現へとシフトしていった、ということになる。 「詮」は物事の理の帰着するところ、 とあり(岩波古語辞典)、 詮、具説也、解喩也、 ともある(大言海)が、「詮」の漢語の意味ではなく、日本独自の使い方が背景にある。 「詮」(セン)は、 会意兼形声。全(ゼン)は「集めるしるし+工または玉」の会意文字で、物を程よくそろえること。詮は「言+音符全」で、ことばを整然ととりそろえて、物事の道理を明らかにすること、 とある(漢字源)。同趣旨だが、 会意形声。「言」+音符「全」。「全」は、「亼(覆いの下に集める)」+「工」又は「玉」で、工芸物などを集めそろえること。言葉を集め、道理に従い解く、集めたものを選り分ける(「銓」「選」と同義)の意、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A9%AE)あり、別に、 会意兼形声文字です(言+全)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「入口の象形と握る所のある、のみの象形または、さしがねの象形」(入口の倉庫などに工具を保管する所から、「保つ、備わる」の意味)から、「備わっている説明」を意味する「詮」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji2134.html)あるが、漢語では、 具説(大言海)、 つまり、 そなわる、 意で、「真詮」(しんせん)というように、 ことばや物の道理が整然とととのっている、また、物事に備わった道理、 を意味し、また、「詮解」(せんかい)、「詮釈」(せんしゃく)というように、 物事の道理をつまびらかにとく、ときあかす、 意であり、また、「詮衡」「擇言」というように、 えらぶ、言葉や物事をきれいにそろえて、よいもの、ただしいものを選ぶ、 という意味である(漢字源)。 解喩(大言海)、 は、 さとす、 という意味になる(字源)。しかし、わが国では、「詮」を、 詮じつめる、 詮ずる、 と、 筋道を追ってよく考える、つきつめて考える、 意や、 詮も尽き果てぬ、 というように、 為すべき手段、すべ、 の意や、 詮なきこと、 というように、 物事のしたかい、効果、甲斐、 の意や、 詮ずる所、此の趣をこそ披露仕り候はめ(平家物語)、 と、 所詮、結局、 という意で使い、 身の衰へぬる程も思ひ知られて、今更詮方無うこそおぼえさぶらへ(平家物語)、 と、 なすべき方法がない、 しかたがない、 こらえようがない、 意の、 せんかたない(為ん方無い・詮方無い)、 とも使う。 「詮」の日本的な意味を追うと、 筋道を追ってよく考える、つきつめて考える、 ↓ 為すべき手段、すべ、 ↓ 物事のした甲斐、 と、やはり、筋道を追っていく状態表現から、その手段、甲斐へと価値表現シフトし、 所詮、 と、 詰まる所、 へ行きつく(「甲斐」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/398819285.html)については触れた)。そこには、暗に、 無益、 というより、 諦め、 の含意がある気がする。 類義語「仕方がない」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/419038957.html)で触れたように、「仕方がない」は、多く、 諦め、 の含意がある。語源的には、 「シカタ(手段。方法)+が+ない」 で、どうにもならない、やむを得ない、という意味である。 理不尽な困難や悲劇に見舞われたり、避けられない事態に直面したりしたさいに、粛々とその状況を受け入れながら発する日本語の慣用句、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E6%96%B9%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84)。同義の表現として、 仕様がない、 やむを得ない、 せんない、 詮方ない、 余儀ない、 是非も無し、 是非も及ばず、 がある。どちらかというと、 他に打つ手がない、 そうする他ない、 避けて通れない、 逃げられない、 不可避の、 という色合いが濃い。「おのずから」そうなっているという、 「なるべくしてなった」という力、 を強く感じとっている、無常観にも通じるのかもしれない(「おのずからとみずから」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/415685379.html)で「おのずから」については触れた)。信長が、本能寺で、 是非に及ばず ということばも、それに近い。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 衣装は、花色(かしょく)事をつくす。上には捩(もじ)の透素襖(すきずおう)に、白袴にちぢみを寄せたり(奇異雑談集)、 にある、 捩(もじ)の透素襖(すきずおう)、 は、 麻糸をもじって目をあらく織った布で仕立てた、夏用の素襖。室町時代の略儀用上衣、 とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。ちなみに、「花色」は、 華美、 の意だが、 華飾、 花飾、 過飾、 とも当て、 華美に飾り立てること、 をいう(デジタル大辞泉)。 「素襖」(すあを、すあふ、すおう)は、 素袍、 とも当て、 直垂ひたたれの一種、 で、 大紋から変化した服で、室町時代に始まる、 とある(広辞苑)。 素は染めず、裏なき意あり、誤りて、素袍とも書す、然れども、襖も、袍も、うへのきぬなれば、借りて用ゐたるにや、 とし(大言海)。 狩襖(かりおう 狩衣)の、表、布にて、裏絹なるものの、裏をのぞきたるものと云ふ、されば布製にて、即ち、布衣(ほうい)なり、 とある(大言海)。江戸後期の武家故実書『青標紙』(あおびょうし)に、 素袍は、上古、京都にて、軽き人の装束にして、布にて拵へて、文柄も無く、ざっとしたる物故、素とも云ふ、襖は、袍と同じ、上に著たる装束の一體の名なり、 あるように、 もと庶人の常服であったが、江戸時代には平士(ひらざむらい)・陪臣(ばいしん)の礼服となる。麻布地で、定紋を付けることは大紋と同じであるが、胸紐・露・菊綴きくとじが革であること、袖に露がないこと、文様があること、袴の腰に袴と同じ地質のものを用い、左右の相引と腰板に紋を付け、後腰に角板を入れることなどが異なる。袴は上下(かみしも)と称して上と同地質同色の長袴をはくのを普通とし、上下色の異なっているのを素襖袴、半袴を用いるのを素襖小袴という、 とある(広辞苑)。 「直垂」(ひたたれ)は、 (水干と同様)袴の下に着籠めて着用する、 のが普通で、もともとは、 上衣、 の名称で、袴は別に、 直垂袴、 と言っていたが、袴に共裂(ともぎれ)を用いるに及んで、袴も含めて、 直垂、 と呼ぶに至り、単に、 上下(かみしも)、 とも呼んだ(有職故実図典)。 垂領(タリクビ)・闕腋(ケツテキ 衣服の両わきの下を縫いつけないで、開けたままにしておくこと)・広袖で、組紐(クミヒモ)の胸紐・菊綴(キクトジ)があり、袖の下端に露(ツユ)がついている上衣と、袴と一具となった衣服。古くは切り袴、のちには長袴を用いた、 とある(大辞林)。 水干((http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.html))が、 盤領(あげくび いわゆる詰め襟で、首の回りを囲む丸首式のもの)、 で、庶民の中でも上層が用いたのに対し、「直垂」は、一般庶民が用い、 身二幅、 で、 首より前は切り欠いて領(えり)を廻らし、 垂領(たりくび たれえり・すいりょう 襟を肩から胸の左右に垂らし、引き合わせて着用)、 にして引き合わせるもので、袖も細く、短い袴の下に付けた、 労働服、 であった(有職故実図典)。 で、上位の武士は水干を用い、その郎従等は直垂を着用したが、鎧の下に着るのに便利なことから(鎧(よろひ)直垂)、漸次上位の武士が用い、やがて、袖も大きく、体裁が整えられていく。もっとも、従来の直垂は、 袖細(そでぼそ)、 としてなお下層の料として用いられる。鎌倉時代以後は、武家の幕府出仕の服となり、室町時代からは礼装の簡略化とともに礼服に準じ、出仕の服となり、直垂から分化した、 大紋、 素襖、 よりも上級の礼服とされ(岩波古語辞典)、近世は侍従以上の礼服とされ、風折烏帽子(かざおりえぼし)・長袴とともに着用した。公家も内々に用いた。地質は精好(せいごう)、無紋、5カ所に組紐の菊綴(きくとじ)・胸紐があり、裏付きを正式とした(広辞苑)。 「直垂」の由来は、 もと、宿直(とのい)の時、直衣(トノイギヌ)の上に着たるものと云ふ。上に直(ヒタ)と垂るる意の名なるべし、身の前後共に短く、帯なく、袴に着込み、武士の専用となれるも、宿衛に必ず着たるに起これるなるべし、 とある(大言海)。江戸後期の有職故実書『四季草(しきくさ)』(伊勢貞丈)に、 古は官位なき侍も、式正の時は、素襖を脱ぎて直垂を着しけるなり……御当家(徳川家)に至りて、武家の礼服の階級を改めたまひて、四位の侍従已上は、精好の直垂、四品は狩衣、諸大夫は布直垂(大紋)、重き役人は布衣、其外は素襖と、御制法を立てられる、 とある。 ぬのひたたれ、 ぬのびたたれ、 ともいい、 大形の好みの文様または家紋を5カ所(正面肩下、両袖、背上)に刺繍や型染めなどで表した、平絹や麻布製の直垂、 をいう(広辞苑・岩波古語辞典)。室町時代に始まり、江戸時代には五位の武家(諸大夫)以上の式服と定められ、下に長袴を用いた。袴には、合引と股の左右とに紋をつける。 本名、ぬのびたたれ、布製の直垂にて、家の紋を大きくつくるもの、上の紋は五つ處なること、素襖のごとく、下は長袴にて、腰板に紋なく、合引と尻と股腋の左右とに紋あり、諸大夫の服とす、風折烏帽子に小さ刀、布直垂なり、 とある(大言海)。 「直垂」、「大紋」、「素襖」の構成は、 「直垂」は、通常、 烏帽子、 直垂、 大帷(おおかたびら 麻布製、単(ひとえ)仕立ての汗取ともよばれた夏の下着である帷が、中世後期より服装の簡略化とともに、小袖(こそで)の上に夏冬とも大帷と称して用いられた)、 小袖、 小刀(ちいさがたな 腰刀)、 末広(すえひろ 末広扇)、 鼻紙袋、 緒太(おぶと 鼻緒の太いもの)、 よりなるが、徳川時代は、 「直垂」(侍従以上の料)は、 風折烏帽子、 精好(せいごう 地合いが緻密で精美な織物)直垂、 白小袖、 「大紋」(諸大夫の料)は、 風折烏帽子、 大紋、 熨斗目小袖(腰の部分だけに縞や格子模様を織り出した絹織物の小袖)、 「素襖」(平士、陪臣の料)は、 侍烏帽子、 素襖、 熨斗目の小袖、 となっている。因みに、「風折烏帽子」は、 風で吹き折られた形の烏帽子、 の意で、 頂辺の峰(みね)の部分を左または右に斜めに折った烏帽子。左折りを地下(じげ)の料とし、右折りを狩衣着用の際の上皇の料とする。近世は紙製で形式化し、皺(しぼ)を立てて黒漆塗とする、 とある(精選版日本国語大辞典)。 「烏帽子」は、直垂の場合、 折(おり)烏帽子、 が用いられた(有職故実図典)とある。折烏帽子は、風折烏帽子よりもさらに細かく折って、髻の巾子形(こじがた 巾子とは、頂上後部に高く突き出ている部分で、巻き立てた髻(もとどり)を納める壺形の容器)の部分だけを残して、他をすべて折り平めて動作の便宜を図ったもの(仝上)で、 侍烏帽子、 と呼ばれ、室町以降、形式化し、髪型の変化から、巾子が不要となったこともあり、江戸時代になると、烏帽子留で髷にとめるほどになっていく(仝上)。 なお、「狩衣」と「水干」は、「水干」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.html)、「直衣(なほし)」は、「いだしあこめ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488875690.html)、烏帽子については「しぼ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475131715.html)で触れた。 参考文献; 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) しろぎぬのあをといふ物きて、帯して、わかやかに、きたなげなき女どもの(宇治拾遺物語)、 無文(むもん 無地)の袴に紺のあらひざらしのあをに、山吹のきぬの衫(かざみ)よくさらされたるきたるが(仝上)、 の、 あを、 は、 襖、袷をいう、 とあり(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)、 皮まきたる弓持て、こんのあをきたるが、夏毛のむかばきはきて、葦毛の馬に乗てなむ来べき(仝上)、 とある、 あを、 は、 紺の襖、襖は裏付けの狩衣で武官の服、 とある(仝上)。因みに、「襖」を、 襖障子、 唐紙障子、 の意で、 ふすま、 とも訓ませているが、これはもともと、 臥す間、 から来ていて、当て字である(広辞苑)。 ここで、「襖」を、 アヲ、 と訓ませるのは、「襖」の字音、 アウの転(広辞苑・日本国語大辞典)、 アウをアヲと日本語化したもの(岩波古語辞典)、 とある。和名類聚抄(931〜38年)にも、 阿乎之、愚按、アウをアヲとするは、唇内音なる故に、和行(ワギャウ)の通なり、舊字も同じ、 とある。字音仮字用格(本居宣長)も、 和名抄に、襖子を阿乎之(アヲシ)とあるは、ウの韻を、ヲに転じて御國言の如く言ひなせる例なり、 としている。しかし、 「豪、爻、宵、肅の韻のウは、和行のウなり」とあり、然れども、漢字の韻の、ウなるもの數多あるに、古書中に、ヲとしたるもの數語あるのみ、釈然たらず、尚考究すべきなり、芭蕉の現今支那音は、バチャオなりと聞く、漢口(ハンカオ)、青島(チンタオ)などもあり、又簺(サイ)をサエ、才(ザイ)、財(ザイ)をザエ、弟(テイ)をテエ、佞(ネイ)をネエ、佩(ハイ)をハエ、表背(ヘウハイ 表装)をヘウホイ(宋音か)、ヘウホエなどあり。何れも漢字音なり。音轉なるか、是れ數語に限りて轉ずと云ふも、異(い)なるものにて、研究の問題なり、暫く、あづかりおく、 と、 ワ行のウをヲとした例は少ない、 として疑問を呈するものもある(江戸時代後期の国学者、関藤政方(まさみち)『傭字例』)。で、 アウシ(襖子)を日本語風にした語(字音仮字用格・和訓栞)、 アマオホヒ(雨掩)の略(本朝辞源=宇田甘冥)、 とするものもあるのだが、どんなものだろうか。 「したうづ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488529163.html)で触れたように、朝服である「束帯」には、 盤領(まるえり)の上着、 である、 袍(ほう)、 を着るが、「袍」には、文官用の、 縫腋(ほうえき)の袍、 と、武官用の、 闕腋(けってき)の袍、 があり、「縫腋(ほうえき)の袍」は、 袖の下から両腋(りょうわき)を縫いつけた袍。裾の襴(らん)が、蟻先(ありさき)の名で左右に張り出し、背に「はこえ」がある、 もので、 まつわしのうえのきぬ、 もとおしのほう、 ともいい(広辞苑)、 「闕腋の袍」は、 襴(らん)がなく袖から下両腋を縫わないで開け、動きやすくした袍、 をいい、 わきあけのきぬ、 わきあけのころも、 ともいう(仝上)。因みに、「襴」は、 裾に足さばきのよいようにつける横ぎれ。両脇にひだを設けるのを特色とし、半臂(はんぴ)や袍に付属するが、袍はひだを設けずに外部に張り出させて蟻先(ありさき)といい、ひだのあるのを入襴(にゅうらん)と呼んで区別した、 とある(精選版日本国語大辞典)。「半臂」は、「したうづ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488529163.html)で触れた。 「襖」は、武官用の、 腋のあいた無襴の盤領(あげくび)の上着、 をいう。令義解(718)に、「襖」は、 謂無襴之衣也、 とある。「襖」を、 狩衣、 の意とするのは、 狩衣が、 狩襖(かりあお)、 といったため、「狩」が略されて、「襖」と呼んだためである(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 狩襖、 と呼んだのは、狩衣が、 闕腋(けってき)、 つまり、 両方の腋(わき)を縫い合わせないで、あけ広げたままのもの、 だからである。 束帯については、「いだしあこめ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488875690.html)で触れた。 「襖」(オウ・アウ)は、 会意兼形声。「衣+音符奧(燠、ぬくみがこもる、あたたかい)」、 とあり(漢字源)、 うわぎ(袍・表衣)の意で、長きを袍、短きを襖といふ、 とある(字源)。我が国では、 襖(ふすま)、 の意で用いる。 襖(中古の武官の朝服)、 素襖、 等々、「表衣」の意に用いているのは原義に叶っている。。別に、 形声文字です(衤(衣)+奥)。「身体に纏(まつ)わる衣服の襟元(えりもと)」の象形(「衣服」の意味)と「屋根・家屋の象形と種を散りまく象形と区画された耕地の象形(「探・播」に通じ(「探・播」と同じ意味を持つようになって)、「詳しく知る」の意味)と両手の象形」(「目が届かず、手で詳しく知る事ができない」、「奥」の意味)から、身体の形を覆い隠す服「皮衣(かわごろも)」を意味する「襖」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2731.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) 無文(むもん 無地)の袴に紺のあらひざらしのあをに、山吹のきぬの衫(かざみ)よくさらされたるきたるが(宇治拾遺物語)、 とある、 衫(かざみ)、 とあるのは、普通、 汗衫、 と当てる。「かざみ」の訓みは、「汗衫」の、 字音カンサンの転(広辞苑・大辞林)、 字音「かんさん」の音変化(大辞泉)、 音読「かんさむ(かんさん)」の変化(日本国語大辞典)、 字音カンサムの転(岩波古語辞典)、 などとある。たとえば、 かんさむ→kansamu→kasamu→kasami→kazami、 といった転訛だろうか。「汗衫(かざみ)」は、 汗衫(かにさむ)の略轉、 とあり、「汗衫(かにさむ)」は、 汗衫(かぬさむ)の轉、蘭(らぬ)、ラン。錢(ぜぬ)、ぜに。約轉してかざみと云ふは、衫(サム)の転。燈心、とうしみ、 とある(大言海)。天治字鏡(平安中期)には、 汗衫、加爾佐无(かにさむ)、 とある。岩波古語辞典には、 kansam→kanzami→kazami とあるが、むしろ、 かむさむ→かぬさむ→かにさむ→かざみ、 kamusamu→kanusamu→kanisamu→ka(ni)samu→kazami、 であったのかもしれない。 「汗衫」は、ふるくは、 汗取りの単(ひとえ)の單衣、 とある(仝上・広辞苑)。奈良時代には一般の男女が、 布(麻)製で窄袖(さくしゅう)の単(ひとえ)の汗衫を着た、 とある。 平安期以降、「汗衫」は、 後宮奉仕の童女の正装、 となり、 表着(うわぎ)の上に着る後部の長い単(ひとえ)の服、 で(岩波古語辞典)、 闕腋(けってき 衣服の両わきの下を縫いつけないで、開けたままにしておくこと)の制で、裾を長く引き、下に袙重(あこめかさね)、単(ひとえ)をつけ、濃(こき)の袴に白の表袴(うえのはかま)を重ねてはくのを例とする、 とある(日本語源大辞典)。衵については、「いだしあこめ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488875690.html)で触れた。 「承安五年節絵」(じょうあんごせちのえ)にある「童女」は、 扇をかざして顔をおおいし、汗衫の闕腋の裾を長く引いている。この汗衫は、面を白、裏を濃(こき)とした躑躅重(つつじかさね)で、表地に松竹亀の吉祥文を一面に散らしている。唐衣(からぎぬ)のように襟を返して仰け頸に着け、二幅の後身(うしろみ)と各一幅の前身(まえみ)の裾は長くなびかせている、 とある(有職故実図典)。 童女の「汗衫」には、 晴(はれ)と褻(け)の2種、 があり(日本大百科全書)、形式は、 身頃(みごろ)が二幅単(ふたのひとえ)仕立て、垂領(たりくび 今日の和服のように襟の両端が前部に垂れ下がった形)と盤領(あげくび 詰め襟で、首の回りを囲む丸首式のもの)とがあった、 とあり(仝上)、晴には、 裾を長く引くのを特色とし、下に数領の衵(あこめ)を襲(かさ)ね単を着て、長袴(ながばかま)の上に表袴をはく、 褻には、 切袴(足首までの長さの裾括(すそくくり)の緒を入れない袴)の上に、対丈(ついたけ 身の丈と同じ長さの布で仕立てる)のものを用いた、 とある(仝上)。 枕草子に、 など、汗衫は。尻長(しりなが)と言へかし、 汗衫は春は躑躅(つつじ)、桜、夏は青朽葉(くちば)、朽葉、 とあり、源氏物語に、 菖蒲襲(さうぶがさね)の衵(あこめ)、二藍(ふたあゐ)の羅(うすもの)の汗衫着たる童(わら)べぞ、西の対のなめる、 とある(仝上)。 「汗」(漢音カン、呉音ガン)は、 形声。干(カン)は、敵を突いたり、たてとして防いだりする棒で、桿(カン こん棒)の原字。汗は「水+音符干」で、かわいて熱したときに出る水液、つまりあせのこと、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(氵(水)+干)。「流れる水」の象形と「先がふたまたになっている武器」の象形(「おかす・ほす」の意味だが、ここでは、「旱(かん)」に通じ(同じ読みを持つ「旱」と同じ意味を持つようになって)、「ひでり」の意味)から、「ひでりで、あせが出る」を意味する「汗」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1079.html)。 「衫」(漢音サン、呉音セン)は、 会意兼形声。「衣+音符彡(サン 三。こまごまといくつもある)」、 とあり、「汗衫」(カンサン)の下着、「衫子」(サンシ)と、婦人用のツーピースの上着、「半衣」ともいう、とある(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「ふすま」に当てる漢字は、 襖障子、唐紙の意の、 襖、 かつての寝具で、掛け布団のように体にかける、 衾、 被、 小麦を製粉したときに篩い分けられる皮の屑の意の、 麩、 麬、 がある。「麩」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471767846.html)については触れたが、この語源が、 中国語で麩fuはフスマで、小麦粉を取った屑皮の部分をいう。中国から僧侶が麩を伝えてきたとき、その名も音もそのまま日本のものとした、 とある(たべもの語源辞典)が、それを「ふすま」と呼んだについては、 麦の被衾(ふすま)の義か(大言海)、 含ス+マ(もの)、内容物を含むもの、つまり胚芽を中に包んでいたものの意(日本語源広辞典)、 と、「衾」との関りから類推したらしい、と思わせるところがあり、「衾」との関連が深い。 「衾」は、 被、 とも当てるように、 御ふすままゐりぬれど、げにかたはら淋しき夜な夜なへにけるかも(源氏物語)、 と、 布などで作り、寝るとき身体をおおう夜具、 で(広辞苑)、雅亮(満佐須計 まさすけ)装束抄(平安時代末期の有職故実書)には、 御衾は紅の打たるにて、くびなし、長さ八尺、又八幅か五幅の物也、 とあるように(一幅(ひとの)は鯨尺で一尺(約37.9センチ))、 八尺または八尺五寸四方の掛け布団、袖と襟がない、 とある(岩波古語辞典)が、 綿を入れるのが普通で、袖や襟をつけたものもある(日本語源大辞典)とある。そうなると、袖のついた着物状の寝具、 掻巻(かいまき)、 に近くなる。『観普賢経冊子(かんふげんきょうさっし)』(平安時代)の図を見ると、余計にそう見える。また、 御張台(みちょうだい)に敷く衾は、紅の打(うち)で襟のついていないもの、襟にあたるところに紅練糸(ねりいと)の左右撚(よ)り糸で三針差(みはりざし)といって縫い目の間隔を長短の順に置いた縫い方をする、 ともある(雅亮装束抄)。 なお、紙でつくったものは、 紙衾、 といい、 民間にては、皆用ゐたりとぞ、 とある(大言海)。 和名類聚抄(平安中期)に、 衾、布須萬、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 衾、ふすま、被、フスマ、 とあり、その語源は、 臥裳(ふすも)の転かと云ふ、或いは、臥閨iふすま)の衣の略(大言海)、 フスモ(臥裳・臥衣)の転(箋注和名抄・言元梯・名言通・和訓栞)、 フシマトフ(臥纏)の義(日本釈名・東雅) 伏す+間+着の略(日本語源広辞典)、 含ス+マ(もの)、含んで包み隠す意(仝上)、 と、その使用実態からきているように見える。 その「衾」に由来するらしいのが、 木で骨を組み、両面から紙や布を貼ったもの。部屋の仕切り、防寒等のためのもので、夏は風を通すために取り外すこともある、 という(広辞苑)、 襖(ふすま)、 である。 襖障子、 というが、 衾障子の義、 ともあり(大言海)、 唐紙障子、 略して、 からかみ、 ともいう。嬉遊笑覧(江戸後期)に、 古の障子と云へるは、多くは、衾障子のことにて、今いふ障子は明り障子なり、さて又ふすま障子といふよしは、衾をひろげたらんやうに張りたる故なり、 とあり、さらに、 衾障子も、今はふすま、又はただ唐紙にて通用す、 とあり、江戸時代中期編纂の日本の類書(百科事典)『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』(寺島良安)には、 寝間(ふすま)障子、以障子格両面張塞、不見明、而可以隔寝間及防風、又有鈕鐉(ヒキテカキガネ)而可禦盗、 とあり、 障子という言葉は中国伝来であるが、「ふすま」は唐にも韓にも無く、日本人の命名である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%96)。「ふすま障子」が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始め、寝所は、 衾所(ふすまどころ)、 といわれたとあり(仝上)、「衾」は元来「ふとん」「寝具」の意である。このため、 衾所の衾障子、 と言われた(仝上)。だから、「襖」を、 カミフスマ(紙衾)に似るより云ふとか、或いは衾に代へて寒さを防ぐ意か(大言海)、 臥ふす間の意(広辞苑)、 伏す間、襖障子の略(日本語源広辞典)、 含す+ま(もの)(仝上)、 と、「襖」も、「衾」とのかかわりをみるのは当然に見える。また、 ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していた、 ところからも、 衾障子、 と言われたとする説もある(仝上)。「襖」の字を当てたのは、「襖」が、 衣服のあわせ、綿いれ、 の意で、襖の原初の形態は、 板状の衝立ての両面に絹裂地を張りつけたものであった、 と考えられる(仝上)。この両面が絹裂地張りであったことから「ふすま」の表記に「襖」を使用した、と見なしている(仝上)。 当初は、「襖」が考案された当初、表面が絹裂地張りであったため、 襖障子、 と称されたが、のちに、唐紙が伝来して障子に用いられて普及していく。そこで、本来別ものの、 襖障子、 と、 唐紙障子、 が混同され、絹張りでない紙張り障子も襖と称されていった(仝上)とある。 「襖」(オウ・アウ)については、「襖(あを)」 |