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コトバ辞典


円居


某(なにがし)の沙門、ただかりそめに座を立ちて帰らず。円居の僧不審して、寺へ戻りしかと人やりて見するに居ず(宿直草)、

にある、

円居、

は、

まどい、

と訓ませるが、

同席の、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

団居、

とも当て(広辞苑)、

連聲(レンジヤウ)に。まどゐ、

とあり(大言海)、

近世初期ごろまで「まとい」、

と清音であった(日本国語大辞典)。

円(マト)居(ヰ)の意、

とある(大辞林・岩波古語辞典)が、

纏居(まとゐる)にて、纏わり居(を)る意、

ともある(大言海)。

思ふどちまどゐせる夜は唐錦たたまく惜しき物にぞありける(古今集)、

と、

輪になって座ること、
くるまざ、
団欒、

の意であり、また、

この院にかかるまどゐあるべしと聞き伝へて(源氏物語)、

と、

(楽しみの)会合、
ひと所に集まり会すること、特に、親しい者同士の楽しい集まり、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。これを動詞化して、

まどゐる、

は、

円居る、
団居る、

と当て、

氏人のまどゐる今日は春日野の松にも藤の花ぞ咲くらし(宇津保物語)、
春ながら年はくれつつよろづ世を君とまどゐば物も思はじ(仝上)、

などと、

集まり居る、
車座になる、
団欒する、
親密な者同士が集まり居る、

などの意で使う(精選版日本国語大辞典・大言海・日本国語大辞典)。これも、

まとゐる、

と清音で、

連聲(レンジヤウ)に、まどゐる、

とある(大言海)。

円居、
団居、

は和製漢語で、漢語で、

まどゐ、

の意は、

大盆盛酒、圓坐相酌(晉書・阮籍(げんせき)傳)、

と、

圓坐(エンザ)、

と表記し、

車座に坐す、

意である(字源)。

「圓」(エン)の字は、「まる(円・丸)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.htmlで触れたように、

会意兼形声。員(イン・ウン)は、「○印+鼎(かなえ)」の会意文字で、まるい形の容器を示す。圓は「囗(囲い)+音符員」で、まるいかこい、

とあり(漢字源)、「まる」の意であり、そこから欠けたところがない全き様の意で使う。我が国では、金銭の単位の他、「一円」と、その地域一帯の意で使う。別に、

会意兼形声文字です(囗+員)。「丸い口の象形と古代中国製の器(鼎-かなえ)の象形」(「口の丸い鼎」の意味)と「周
意味)から、「まるい」を意味する「円」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji194.html

「円」は、「圓」の略体。明治初期は、中の「員」を「|」で表したものを手書きしていた。時代が下るにつれ、下の横棒が上に上がっていき、新字体採用時の終戦直後頃には字体の中ほどまで上がっていた、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%86%86

「居」(漢音キョ、呉音コ)は、

会意兼形声。「尸(しり)+音符古(=固。固定させる、すえる)」で、台上にしりを乗せて、腰を落ち着けること。踞(キョ しりをおろして構える)の原字、

とある(漢字源)。

「團(団)」(漢音タン、呉音ダン、唐音トン)は、

会意兼形声。專(セン=専)の原字は、円形の石をひもでつるした紡錘の重りを描いた象形文字で、甎(セン)や磚
(セン 円形の石や瓦)の原字。團は「囗(かこむ)+音符專」で、円形に囲んだ物の意を示す、

とある(漢字源)が、丸めたもの、ひいて「かたまり」の意を表す(角川新字源)ともある。別に、

会意兼形声文字です(囗+寸(專))。「周辺を取り巻く線」(「めぐる」の意味)と「糸巻きと右手の象形」(「糸を糸巻きに巻きつける」の意味)から、まるくなるようにころがす、すなわち、「まるい」、「集まり」を意味する「団」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji866.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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夫子


慕虎馮河して死すとも悔ゆる事なき者は与せじ、と夫子(ふうし)の戒めしもひとりこの人の爲にや(宿直草)、

にある、

夫子、

は、

孔子、

を指す(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。ちなみに、「慕虎馮河」は、ただしくは、

暴虎馮河、死而無悔者、吾不与也(論語・述而篇)、

である(仝上)。

「夫子」は、

孤實貪以禍夫子、夫子何罪(左伝)、

と、

先生、長者の尊称、

として使ったり、

夫子温良恭謙譲(論語)、

と、

師を尊び称す、単に子と云ふに同じ、

意に使ったり、

勖哉夫子(書・秦誓)、

と、

将士を指して云ふ、

意に使ったり、

信乎夫子不言不笑不取乎(論語)、

と、

大夫の位に在る者を呼ぶ敬称、

の意や、

必敬必戒、無違夫子(孟子)、

と、

妻、その夫を指す、

意など、意味の幅がある(字源)。我が国でもそれに準じた使い方になるが、

夫子自身、

という言い方で、

僕の事を丸行灯(まるあんどん)だといつたが、夫子自身は偉大な暗闇(クラヤミ)だ(夏目漱石・三四郎)、

と、

あなた・あの方などの意で、その当人をさす語、

としても使う。しかし、

夫(フウ)子とよめば孔子にまぎれてわるいぞ(「土井本周易抄(1477)」)、

とあるように、冒頭に上げた例もそうだが、

孔子の敬称、

として使われることが多い。

ところで「夫子」を、我が国では、

せこ、

とも訓ませ、

兄子、
背子、

とも当てる(広辞苑)。

コは親愛の情を表す接尾語、

とある(岩波古語辞典)。「せ」は、

兄、
夫、
背、

等々と当て(仝上)、

いも(妹)の対、

で(仝上)、

兄(エ)の転か、朝鮮語にもセと云ふ(大言海・和訓栞)、
セ(背)の高いところから(名言通)、
セ(兄)はエ(甲)の義、セ(夫)はテ(手)の義(言元梯)、

など、諸説あるが、「背」だとすれば、「背」の語源は、

ソ(背)の転(岩波古語辞典)、
反(ソレ)の約、背(ソ)と通ず(大言海)、

とあり、

本来「せ」は外側、工法を意味する「そ」の転じたもので、身長とは結びつかなかった。ところが、今昔物語に、「身の勢、極て大き也」とあるように、身体つき・体格を意味する「勢(せい)」が存在するところから、音韻上の近似によって、「せ(背)」と「せい(勢)」とが混同するようになった、

とある(日本語源大辞典)のが注目される。「せこ」に、

吾が勢(セコ)を大和へ遣るとさ夜深けて暁露に吾が立ち濡れし(万葉集)
我が勢故(セコ)が来べき宵なり(書紀)、

と、

女性が夫、兄弟、恋人など広く男性を親しんでいう語、

として使うとき、

勢、

を当てている(日本国語大辞典・精選版日本国語大辞典)。「せ」は、この、

身体つき・体格、

を意味する、

勢(せい)、

由来なのではないか、という気がする。勿論憶説だが。このいみの「せこ」は、

せな、
せなな、
せのきみ、
せろ、

等々という言い方もする。ただ、対の、

いも、

が、中古以降、

いもうと、

に変化したのに対応して、

せうと、

に変化し、

せ、

単独では使われなくなった(日本語源大辞典)、とある。「せこ」は、

沖つ波辺波立つともわが世故(セコ)が御船(みふね)の泊り波立ためやも(万葉集)、

と、

男性が他の親しい男性に対して用いる語、

としても使う(仝上)。

ちなみに「背子」を、

はいし、

と訓ませると、

奈良時代から平安時代初期に着用された女子朝服の内衣で、冬期に袍(ほう 朝服の上衣)の下、衣(きぬ)の上に着た袖(そで)なしの短衣。しかし袍はほとんど用いられなかったため、背子が最上衣として使われた、

とある(日本大百科全書)。

唐衣(からぎぬ)の前身、

であるため、

唐衣の異称、

の意もある(デジタル大辞泉)。「唐衣」は、背子(はいし)が変化し、

十二単(じゅうにひとえ)の最も外側に裳(も)とともに着用した袖(そで)幅の狭い短衣、

で、

袖が大きく、丈が長くて、上前・下前を深く合わせて着る、

とある(仝上)。

「夫」(漢音呉音フ、慣用フウ)は、

象形。大の字に立った人の頭に、まげ、または冠のしるしをつけた姿を描いたもので、成年に達した男をあらわす、

とある(漢字源)。別に、

象形。髷に簪を挿した人の姿https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%AB

象形。頭部にかんざしをさして、正面を向いて立った人の形にかたどる。一人まえの男の意を表す。借りて、助字に用いる(角川新字源)、

とあるが、

指事文字です。「成人を表す象形に冠のかんざしを表す「一」を付けて、「成人の男子、おっと」を意味する「夫」という漢字が成り立ちました、

とあるので、意味が分かるhttps://okjiten.jp/kanji41.html

「子」(漢音・呉音シ、唐音ス)は、

象形。子の原字に二つあり、一つは、小さい子どもを描いたもの、もう一つは子どもの頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子(シ)の場合に用いた。後この二つは混同して子と書かれる、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)

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まけ


されば心に懸からぬ怪異(けい)は更にその難無きものをや。なう、お目のまけを取り給へ、空には花は咲き候まじ(宿直草)

にある、

まけ、

は、

目に白いもやがかかっているように見えるのを指す、

とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、

目気、

とも当て、転じて、

膜、

とある(仝上)。ここでは、

まけ、

は、

比喩として使っている。

「まけ」は、

眚、
瞙、

などと当て(広辞苑)、

目気の意(広辞苑)、
マ(目)ケ(気)の意(岩波古語辞典)、
目気の義、脚(きゃく)の気と同趣(大言海)、

で、

眼病の一種、そこひ(広辞苑)、
ひ、眼の病、そこひ、外障眼(ウハヒ)(大言海)、

とある。「そこひ」は、

底翳、
内障、

と当て、

眼内ないし視神経より中枢側の原因で視力障害(翳=くもり)を起こす状態、

をいい、

で、こんにちの、

K内障(「黒そこひ」といった)、
白内障(「白そこひ」といった)、
緑内障(「青そこひ」といった)、

等々の総称である(広辞苑・デジタル大辞泉)。この対が、

うわひ(上翳・外内障)、

で、

ひとみの上に曇りができて物が見えなくなる眼病、

を指す(仝上)。

さて、「まけ」は、色葉字類抄(1177〜81)

瞙、まけ、目病也、

天治字鏡(平安中期)に、

眚、目生翳也、麻介、又、目暗、

とある。華厳音義私記(奈良時代末)に、

瞙、麻気(まけ)、

とあり、古くから知られていた。日葡辞書(1603〜04)には、

マケヲワヅラウ、

とあり、醒睡笑(江戸前期)に、

一度させばかすみはるる、二度させばまけも切る、

とある(仝上)

また、「まけ」は、別に、

ひ(目翳)、

ともいい、

隔、
重、
曾、

などと当て(大言海・日本国語大辞典)、

物を隔てるもの、
また、
事の重なること、

の意の、

ひ、

の語意に通じる(大言海)とし、

目翳、氷、をヒと云ひ、曾祖父(ヒオホヂ)、曾祖母(ヒオホバ)、孫(ヒコ)、曾孫(ヒヒコ)など云ふヒも是なり、

とあり(仝上)、

眼晴の上に、蠅翅の如きものを生じて物を隔て、明らかに見えぬもの、

を指し、和名類聚抄(平安中期)に、

目翳、比、目膚眼精上有物、如蠅翅是也、

と、

ひとみに翳(くもり)が生じ目が見えなくなる、

としている。「蠅翅」で、目に膜のかかった状態を言っているようである。

「目」(漢音ボク、呉音モク)は、「尻目」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486290088.htmlで触れたように、

象形。めを描いたもの、

であり(漢字源)、

のち、これを縦にして、「め」、ひいて、みる意を表す。転じて、小分けの意に用いる、

ともある(角川新字源)。

「気」http://ppnetwork.seesaa.net/article/412309183.htmlでも触れたが、「氣(気)」(漢音キ、呉音ケ)は、

会意兼形声。气(キ)は、息が屈折しながら出て来るさま。氣は「米+音符气」で、米をふかすとき出る蒸気のこと、

とあり(漢字源)、

食物・まぐさなどを他人に贈る意を表す。「餼(キ)」の原字。転じて、气の意に用いられる、

とある(角川新字源)。

「氣」は「气」の代用字、

とあるのはその意味であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B0%97。別に、

会意兼形声文字です(米+气)。「湧き上がる雲」の象形(「湧き上がる上昇気流」の意味)と「穀物の穂の枝の部分とその実」の象形(「米粒のように小さい物」の意味)から「蒸気・水蒸気」を意味する「気」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji98.html。「气」(漢音キ、呉音ケ)は、

象形。乙形に屈曲しつつ、いきや雲気の上ってくるさまを描いたもの。氣(米をふかして出る蒸気)や汽(ふかして出る蒸気)の原字。また語尾がつまれば乞(キツ のどを屈曲させて、切ない息を出す)ということばとなる、

とあり(漢字源)、

後世「氣」となったが、簡体字化の際に元に戻された。乞はその入声で、同字源だが一画少ない字、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B0%94

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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むさと


むさと物事機をかけまじき事なり。惣じて小事は身のたしなみ、心の納め様にも依るべし(宿直草)、

にある、

むさと、

は、

むやみに、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「むさと」は、

むざと、

ともある(広辞苑)が、

近世初期までは「むさと」と清音、

であった(精選版日本国語大辞典)。

人の国をむさと欲しがる者は、必ず悪しきぞ(「三略鈔(1534)」)、

と、

貪るように強く、

の意や、

矢ごろ矢たけと云ふ事。むさと云まじき事也(「弓張記(1450〜1500頃)」)、
Musato(ムサト)シタコトヲユウ(「日葡辞書(1603〜04)」)、

と、

とるべき態度・守るべき節度をわきまえず、無分別・不注意であるさまを表わす語、

として、

軽はずみに、思慮もなく、うっかりと、

の意や、

古今ぢゃと云うて、むさと秘すべきにあらず(「耳底記(1598〜1602)」)、
其村々ににくきもの在之とて、御検地などむさとあしく仕まじく候(「島津家文書(1594)」)、

などと、

正当な理由もなく、または、いいかげんに事を行なうさまを表わす語、

として、

みだりに、むやみに、やたらに、

の意や、

我らがやうな尊き知識などが、何とて、むさとしたる所へ寄るものか(咄本「昨日は今日の物語(1614〜24頃)」)、

と、

あまりれっきとしたものでないさま、ちゃんとしていないさまを表わす語、

として、

らちもない、取るに足らない、いいかげん、

の意で、

物をきかじ見じと云心、然どもむさとしては叶まい(「古文真宝彦龍抄(1490頃)」)、
Musato(ムサト)シテイル(「日葡辞書(1603〜04)」)、

と、

とりとめなく、無為に過ごすさまを表わす語として、

とりとめなく、漫然と、

の意や、

薄紅の一枚をむざと許りに肩より投げ懸けて(夏目漱石「薤露行(1905)」)、

と、

あっさりとむぞうさに事を行なうさまを表わす語、

として、

無造作に、

の意で使うなど、「むさと」の意味の幅はかなり広い(精選版日本国語大辞典・日本国語大辞典)。それは、「むさと」の語源を、

「むさ」は「むさい」の「むさ」と同じ(日本国語大辞典)、
まざまざのまざの転(大言海)、
ムサボル・ムサシと同根(岩波古語辞典)、

と見るのと関わる。ただ、「まざまざ」は、

正正、

と当て、

ありありと目に見えるさま、

の意で、「むさと」とは意味がずれすぎるのではあるまいか。「むさし(むさい)」は、

もとより礼儀をつかうて身を立つる人には心むさければ(「甲陽軍鑑(1632)」)、

と、

貪り欲する心が強い、また欲望意地などが強すぎてきたない、

といった意であり、そこから、

岳が胸中は定て泥と塵とが一斛(=石 さか)ばかりあるべきぞ、むさい胸襟ぞ(「四河入海(1534)」)、

と、外観の、

きたならしい、きたなくて気味が悪い、不潔である、

意で使う。「むさぼる」は、

ムサはムツト・ムサシ・ムサムサのムサと同じ、ホルは欲る意(岩波古語辞典)、
ムサとホル(欲)の意(大言海)、
ムサトホル・ムサムサホリス(欲)の義(和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)、
「むさ」は「むさい」「むさ」などの「むさ」か。「ぼる」は「欲る」の意(日本国語大辞典)、

とあり、「むさ」「むさむさ」とつながる。「むさむさ」も、

むさむさとした心もさっと晴れやかになったぞ(「四河入海(1534)」)、

と、

むさぼり欲する心が強いさま、また、心が満たされず、いらいらとおちつかないさま、

の意や、

下種(げす)しく荒くふとふとと聞こえ、むさむさと聞こゆる也(十問最秘抄(1383〜1386)」)、

と、

せま苦しい、窮屈なさまを表す語、

として、

むさくるしいさま、

の意や、

詞もつたなく、風情もなくて、ことごとしく具足おほく、むさむさと俗なる連歌が付にくき也(「九州問答(1376)」)、

と、

ごちゃごちゃとして、きたならしいさまを表す語、

として、

汚らしい、

意や、

つくものごとくなる髪、むさむさとたばね(仮名草子「東海道名所記(1659)」)、

と、

毛などが多くて、乱れているさまを表す語、

として、

むしゃむしゃ、もさもさ、

といった意で使うほかに、

むさむさと物をくひ(「役者論語・あやめ草(1776)」)、

と、

節度をわきまえず、無分別、不注意であるさまを表す語、

として、

うっかり、

の意や、

Musamusato(ムサムサト)ヒヲクラス(「日葡辞書(1603〜04)」)、

と、

いいかげんにするさま、また、物事をするのに熱心さのないさまを表す語、

として、

無為に、

の意でも使う(日本国語大辞典・精選版日本国語大辞典・広辞苑)。こうみると、

むさと、
むさし、
むさむさ、
むさぼる、

の「むさ」には、

欲心にのめり込む、

意とともに、

そのことで心がお留守になる、

意の両面がある気がする。その意味で、

「みずからを省みて恥じないこと」を表わす「無慙(むざん)」との意味の重なりから、「むざと」や「むざむざ」の語形が生じたと考えられる。明治以降「むざと」はほとんど使われなくなり、「むざむざ」のみが残る、

とある(精選版日本国語大辞典)のは意味があるのではないか。今日、

むざむざ、

は、

この蛸むざむざと喰ふも無慚のことなり(仮名草子「一休咄(1668)」)、

と、

価値あるものが不用意に、あるいは無造作に失われるさまなどを、無念に思い惜しむ気持を込めて表す語、

として、

惜しげもなく、
無造作に、

の意だけで使うが、清音の、

むさむさ、

は、上述したように、日葡辞書(1603〜04)に、

むさむさと日を暮らす、

とあるように、

物事をいい加減にするさま、または、興味も持たず、熱心さもなく物事とをするさま、

の意で、

何もしないで、あるいはたとえ何かしていてもいい加減にして、時を過ごす、

意の使い方をしていた。

しかし、今日でも、

あんな結構なものをむざむざ食うものではない(堺利彦「私の父」)、

と、

むしゃむしゃ、

と、

貪り喰う、

という含意がある(擬音語・擬態語辞典)。やはり、

むさ、

は、

貪るさま、

の擬態語からきているからではないか、という気がする。

「貪」(漢音タン、呉音トン、慣用ドン)は、「慳貪」http://ppnetwork.seesaa.net/article/490034144.html?1658600957でふれたように、

会意文字。今は「ふたで囲んで押さえたしるし+−印」の会意文字で、物を封じ込めるさまを示す。貪は「貝+今」で、財貨を奥深くため込むことをあらわす、

とある(漢字源)。財貨を欲ばる意(角川新字源)ともある。別に、

会意文字です(今+貝)。「ある物をすっぽり覆い含む」象形(「含」の一部で、「含む」の意味)と「子安貝(貨幣)」の象形から「金品を含み込む」、「むさぼる」、「欲張る」、「欲張り」を意味する「貪」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2202.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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雁股の矢


弓取り直し素引き(弦だけを引き試みること)さして、豬(い)の目透かせる雁股(かりまた)の矢を取り(宿直草)、

とある、

豬の目透かせる雁股の矢、

は、

心臓形の猪の目の透かし彫りを施し、鏃の先を二股に作って内側に刃を付けたものを取り付けた矢、狩猟用、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「鏑矢」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450205572.htmlで触れたように、「雁股」は、

狩股、

とも当て、

箭を放つ、鹿の右の腹より彼方に鷹胯(かりまた)を射通しつ(今昔物語)、

と、

鷹胯(かりまた)、

と当てたりする(精選版日本国語大辞典)。

先が叉(また)の形に開き、その内側に刃のある鏃。飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる、

とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。「雁股の矢」は、「雁股」の鏃をつけた矢のことだが、

かぶら矢のなりかぶらにつけるが、ふつうの矢につけるものもある、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

羽は旋回して飛ばないように四立てとする、

とある(仝上)。「四立(よつだて)」とは、

四立羽(よたてば)、

ともいい、矢羽の数による矧(は)ぎ方の一種で、

幅の広い鷲などの大羽を茎から割いて左右に、幅の狭い山鳥などの小羽を前後に添えて、回転せずに飛ぶようにした矢羽(やばね)の矧ぎ方、

をいい、雁股(かりまた)や扁平な平根(ひらね)の鏃(やじり)に用いる(精選版日本国語大辞典)。「平根」とは、

身幅が広く扁平で、重ねも薄い形状の鏃、

を指すhttps://www.touken-world.jp/search-bow/art0012450/。平根の鏃は、

射切ることを目的とし、主に狩猟などに用いられた、

が鏃としては大型で先端が鋭くないため、遠くまで飛んで刺さるという矢の役割には不適だったとされる(仝上)、とある。なお、「矧ぐ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/489305692.htmlについては触れた。

雁股箆(かりまたがら)、
雁股矢、

ともいい(仝上)、

燕尾箭(えんびや)、

ともいう(大言海)。

字鏡(平安後期頃)には、

鴈胯(かりまた)、

とある。

雁股の中でも、U字のように股が広いものは、

平雁股、

と呼ばれ、股が狭く浅いものは、

鯖尾(さばお)、

と呼ばれるhttps://www.touken-world.jp/search-bow/art0012451/とある。

「雁股」の由来は、

かりまた如何。鴈俣也。かりのとびたる称にて、さきのひろごれる故になづくる歟(名語記)
蛙股(カヘルマタ)の略転と云ふ(あへしらふ、あしらふ。あるく、ありく)、形、開きたる蛙の股の如し(大言海・貞丈雑記)、
雁の足の指に似ているところから(本朝軍器考)、

等々とされるが、はっきりしない。形からいえば、「蛙股」だが、「雁行」も、狩猟用を考えると、捨てがたい。

なお、「弓矢」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450350603.html、「はず」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450205572.htmlについては触れた。

「鴈(鳫)」(漢音ガン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。厂(ガン)は、厂型に形の整ったさまを描いた字。鴈は「鳥+人+音符厂」。厂型に整った列を組んで渡っていく鳥。礼儀正しいことから人が例物として用いたので、「人」を添えた。「雁」と同じ、

とあり(漢字源)、「雁」(漢音ガン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。厂(ガン)は、かぎ形、直角になったことをあらわす。雁は「隹(とり)+人+音符厂」。きちんと直角に並んで飛ぶ鳥で、規則正しいことから、人に会う時に礼物に用いられる鳥の意を表す、

とある(仝上・角川新字源)。別に、

会意兼形声文字です(厂+人+隹)。「並び飛ぶ」象形と「横から見た人」の象形と「尾の短いずんぐりした(太っていて背が低い)小鳥」の象形から「かりが並び飛ぶ」事を意味し、そこから、「かり」を意味する「雁」という漢字が成り立ちました。(「横から見た人」の象形は、人が高級食材として贈る事から付けられました。現在、日本ではたくさん捕り過ぎて数が減った為、狩猟は禁止されています。)、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2779.html

「股」(漢音コ、呉音ク)は、

形声。肉と、音符殳(シユ)→(コ)とから成る(角川新字源)、

字で、

もも、

の意で、

またぐとき∧型に開く、膝から上の内またの部分、

を指す(漢字源)。別に、

形声文字です(月(肉)+殳)。「切った肉」の象形と「手に木のつえを持つ」象形(「矛」の意味だが、ここでは、「胯(コ)」に通じ(「胯」と同じ意味を持つようになって)、「また」の意味)から、「また」を意味する「股」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2090.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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冥加


此の礫打たれし家主も自然と機にもかけざるは、理の常を得し冥加ならんか(宿直草)、

の、

冥加、

は、

冥賀人に勝れて、道俗・男女・宗と敬て、肩を並ぶる輩无し(今昔物語)、

と、

冥賀、

と当てたりするが、

孝衡曰、加護二種有、一、顕如、謂現身語、讃印其所作、二、冥加、謂潜垂覆摂、不現身語(鹽尻)、

と、

冥々のうちに受ける神仏の加護、
知らないうちに受ける神仏の恵み、

の意であり(日本国語大辞典)、

自他ともに知らざるを冥と云ふ、

とある(大言海)。また、

命冥加、

というように、

偶然の幸いや利益を神仏の賜うものとしてもいう。

以佛神力、増菩薩智慧、隠密難見、故曰冥加(大蔵法數)、
被冥加、汝不知恩(法華玄義)、

と、仏教語であり(字源)、

冥助(みようじよ)、
冥利(みようり)、

とも言う。「冥利」は、

神仏の助け、

の意であるが、

運、
幸せ、

の意もある(仝上)。同じく、「冥加」も、

男のみょうがに一度いつてみてへ(廻覧奇談深淵情)、

と、

神仏の目に見えぬ加護、

の意が転じて、

甲斐、、
しるし、

の意で使っている(江戸語大辞典)。本来、

神仏の目に見えぬ加護、

の意なのだから、

こは冥加(ミャウガ)なるおん詞、ありがたきまでにおぼへはんべり(読本「昔話稲妻表紙(1806)」)、

と、

ありがたくもったいないさま、
冥加に余るさま、

の意で使い、そうした意味で、

冥加涙(冥加のありがたさに出る涙)、

とか、

冥加に余(あま)る(冥加を過分に受けて、まことにありがたい)、

とか、

冥加に尽(つ)きる(神仏の加護から見放される、逆に冥加に余ると同義でも)、

とか、

冥加無し、

と、

兄に向つて弓を引かんが冥加なきとはことわりなり(保元物語)

神仏の冥加をこうむることがない、神仏から見放される、

意や、

さやうに冥加なきこと、何とてか申すぞ(御伽草子「文正草子」)、

と、

神仏の加護をないがしろにする、おそれおおい、

意や、

竹は悦び、アヽ冥加もない、有難い(浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」)、

と、

(「無し」が意味を失い、「冥加なり」を強めた言い方に転じて)冥加に余る、ありがたい、

意で使ったりする。また、

代物をつつませられ被下候間、各為冥加候間、代を被下候を斟酌申候へば(「実悟記(1580)」)、
今日吉日なれば薬代を冥加のためにつかはしたし(日本永代蔵)、

と、

神仏などの加護・恩恵に対してするお礼、報恩、

の意に広げて使い、

あの君七代まで太夫冥加(メウガ)あれ(「好色一代男(1682)」)、
吾妻を見込んで頼むとは、いとしらしい婆さん傾城めうが聞気でごんす(浄瑠璃「寿の門松」)、

と、

身分、また職業を表わす語の下に付けて自誓のことばとして用いる。その者として違約や悪事をしたら神仏の加護が尽きることがあっても仕方ない、

の意で使ったりする。「神の加護」の意が、それを受ける側の都合に合わせて、重宝にプラスにもマイナスにも当てはめられている、という感じで、江戸時代の気質をよく示している気がする。

冥加の為に奉納す、

と、

「冥加」には、「神の加護」の御礼を形にする、

神仏の利益(りやく)にあずかろうとして、また、あずかったお礼として、社寺に奉納する金銭、

としての、

冥加金(冥加銭)、

の意があり、

冥加永、

ともいう(「永」は、永楽銭のこと)が、略して、

ヤアさっきに渡した此銀を、ヲヲ表向で請取たりゃ事は済む。改めて尼御へ布施せめて娘が冥加(メウガ)じゃはいのふ(浄瑠璃「新版歌祭文(お染久松)(1780)」)、

と、

冥加、

ともいい、その同じ名を借りて、

運上と云も冥加と云も同様といへども、急度定りたる物を運上と云(「地方凡例録(1794)」)、

と、

本来は商・工・漁業その他の営業者が幕府または藩主から営業を許され、あるいは特殊な保護を受けたことに対する献金、

を、

冥加金(冥加銭)、

略して、

冥加、

と名づけ、のちには、幕府の財政補給のため、

営業者に対して、年々、率を定めて課税し、上納させた金銭、

になり(日本国語大辞典・精選版日本国語大辞典)、運上と一括して取り扱われる例が多いとされる(仝上)。江戸時代の田制、税制についての代表的な手引書「地方凡例録(じかたはんれいろく)」によると、各種の運上と並んで、

醬油屋冥加永、
質屋冥加永、
旅籠屋(はたごや)冥加永、

があり、醬油屋冥加は、

その醸造高に応じて年々賦課、
質屋は軒別に賦課、
旅籠屋冥加は飯盛女を置く宿屋に対して年々賦課、

という(精選版日本国語大辞典・世界大百科事典)。本来は各種営業に対する課税の中で、一定の税率を定めて納めさせるものを、

運上、

と称し、免許を許されて営業する者が、その利益の一部を上納するものを、

冥加(みようが)、

と呼んで区別していた。前者は小物成(こものなり 雑税)に属し、後者は献金に属するが、現実には運上も冥加も同一の意味に混同して使われる場合が多い、とある(仝上)。

「冥」(漢音メイ、呉音ミョウ)は、

会意。「冖(おおう)+日+六(入の字の変型)」で、日がはいり、何かにおおわれて光のないことを示す。また冖(ベキ おおう)はその入声(つまり音 ミャウ)にあたるから、冖を音符と考えてもよい、

とある(漢字源)。別に、

会意。「冖」(覆う)+「日」+「六」(穴の象形)を合わせて、日が沈んで「くらい」こと、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%86%A5

会意。冖と、日(ひ、明かり)と、(六は変わった形。両手)とから成る。両手で明かりをおおうことから、「くらい」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(冖+日(口)+六(廾))。「おおい」の象形と「場所を示す文字」と「両手でささげる」象形から、ある場所におおいを両手でかける事を意味し、そこから、「くらい(光がなくてくらい、道理にくらい)」を意味する「冥」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1619.htmlあり、「六」の解釈が分かれる。

「加」(漢音カ、呉音ケ)は、

会意。「力+口」。手に口を添えて勢いを助ける意を示す、

とある(漢字源)。

会意。力と、口(くち、ことば)とから成る。ことばを重ねて人をそしる意。転じて、「くわえる」意に用いる、

が、意味をよく伝える(角川新字源)が、さらに、

会意文字です(力+口)。「力強い腕」の象形(「力」の意味)と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)から、力と祈りの言葉である作用を「くわえる」を意味する「加」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji679.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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昴星(ぼうせい)


天漢(天の川)恣(ほしいまま)に横たはりて、昴星(ぼうせい)うつべき露なし(宿直草)、

にある、

昴星、

は、和名、

すばる星、

である(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「すばる」は、

二十八宿の西方第四宿で昴(ぼう)、

をいい、

おうし座にある散開星団プレアデスの和名、

で、

距離四〇八光年。肉眼で見えるのは六個で、六連星(むつらぼし)、

ともいい、古くから、

王者の象徴、農耕の星、

として尊重された。

九曜の星、
すばるぼし、
すまる、
すまるぼし、
大梁、

等々とも呼ぶ(精選版日本国語大辞典)。「大梁」(たいりょう)は、

古代中国で、天の赤道を十二次に区分した一つ。ほぼ黄道十二宮の金牛宮にあたる。二十八宿の胃・昴・畢にあたる。中心はすばる星、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

昴星(すばるぼし)のこと、

とされる(日本国語大辞典)。

「昴(ぼう)」は、

嘒彼小星、惟參與昴(召南)、

と、

二十八宿の一つ、西方第四宿、

の、

昴宿(ぼうしゅく)、

を指す。「二十八宿(にじゅうはっしゅく)」は、周代初期(前1100頃)中国で、

月・太陽・春分点・冬至点などの位置を示すために黄道付近の星座を二八個定め、これを宿と呼んだもの、

で(精選版日本国語大辞典)、

二八という数は月の恒星月二七・三日から考えられた、

といわれ、中国では、

蒼龍=東、
玄武=北、
白虎=西、
朱雀=南、

の四宮に分け、それをさらに七分した(仝上)。

二十八舎(にじゅうはっしゃ)、

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%AE%BF

角宿(東方青龍七宿の第一宿。距星はおとめ座α星(スピカ))を起宿として天球を西から東に不均等分割したもので、均等区分の十二次と共に天体の位置を表示する経度方向の座標として用いられた、

とある(仝上)。二十八宿は、

角(かく すぼし)、
亢(こう あみぼし)、
氐(てい ともぼし)、
房(ぼう そいぼし)、
心(しん なかごぼし)、
尾(び あしたれぼし)、
箕(き みぼし)、
斗(と ひきつぼし)、
牛(ぎゅう いなみぼし)、
女(じょ うるきぼし)、
虚(きょ とみてぼし)、
危(き うみやめぼし)、
室(しつ はついぼし)、
壁(へき なまめぼし)、
奎(けい とかきぼし)、
婁(ろう たたらぼし)、
胃(い えきえぼし)、
昴(ぼう すばるぼし)、
畢(ひつ あめふりぼし)、
觜(し とろきぼし)、
参(しん からすきぼし)、
井(せい ちちりぼし)、
鬼(き たまおのほし)、
柳(りゅう ぬりこぼし)、
星(せい ほとおりぼし)、
張(ちょう ちりこぼし)、
翼(よく たすきぼし)、
軫(しん みつかけぼし)、

となる(仝上)。

「すばる」の由来は、

とうに忘れられてきたが、江戸の国文学者狩谷棭斎、平直方などの考証により、これは〈統(す)べる星〉の意味で、六星が糸で統べたように集まったもの、

とするのが定説となっている(世界大百科事典)らしい。『古事記』に、

五百津之美須麻流之珠(いおつのみすまるのたま)、

『万葉集』に、

須売流玉(すまるのたま)、

『日本紀竟宴和歌』(延喜六(906)年)に、

儒波窶(すばる)の玉、

などと、上代人の髪や手首の玉飾を、この星団に名づけたもので、

すまる、

が転じて、

すばる、

となったとみられる(仝上)、とある。和名類聚抄(平安中期)に、

昴星、六星、火神也、須八流、

とある。ただ、

一所により合って統べ括られたような形である、

と、

すべる、

から来たとする見方(名語記・箋注和名抄・和訓栞・嬉遊笑覧・日本語源広辞典)のほかに、

御統(ミスマル)に似たれば云ふかと云ふ(大言海)、

とする、

御統(ミスマル)、

由来とする説もあり、「御統(ミスマル)」

は、

天なるや弟棚機(おとたなばた)の項(うな)がせる玉の美須麻流(ミスマル)美須麻流(ミスマル)に穴玉はや(古事記)、

と、

多くの勾玉・管玉を一本の緒に貫いて環状にしたもの。上代、首または腕にまいて飾りとした、

とあり(仝上)、

みすまろ、

ともいい、

「み」は接頭語、「すまる」は「すばる(統)」に同じ、

とある(精選版日本国語大辞典)。要は、

御統(ミスマル)、

そのものに見立てるか、

糸で統べる、

を採るかの差である。

「昴」(漢音ボウ、呉音ミョウ)は、

形声。「日(ほし)+音符卯(バウ)」。卯は、おし開く意を含むが、すばるをなぜボウと呼ぶかは不明、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(日+卯)。「太陽」の象形と「左右に開いた門」の象形(すべてのものが冬の門から飛び出す「陰暦の2月」の意味)から、冬一番早く東(卯)の空から上がってくる星「すばる」を意味する「昴」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2482.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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一葉の舟


只かき乱したる心も解(ほど)けて、己が糸筋素直ならば、一葉の舟の例(ため)しにも乗らなん(宿直草)、

とある、

一葉の舟、

は、

舟の起源は、中国の貨狄(かてき)が蜘蛛が柳の一葉から作った舟を皇帝に献じたことからであるとする伝説。謡曲『自然居士』など、

とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、

こがくれに浮べる秋の一葉舟(ヒトハブネ)さそふあらしを川をさにして(「廻国雑記(1487)」)、

と、

一葉の舟、

で、

ひとはのぶね、

と訓ませ、

一艘の舟、

意である(精選版日本国語大辞典)。

「一葉」は、

きりのひと葉、

の意で、

見一葉落、知歳之将暮(淮南子)、
一葉落知天下秋(文禄)、

と(『書言故事』(宋・胡継宗撰)註に、「一葉者、梧桐也」とあり、「一葉草(ひとはぐさ)」は桐の異称である)、

梧桐の一葉の落つるを見て秋の來るを知る、事物のきざしを見て大勢を察すべきに喩ふ、

と使う(字源)が、

駕一葉之扁舟(赤壁賦)、

と、

小舟に喩ふ、

とある(仝上)。

謡曲『自然居士』のあらすじは、

放下僧(ほうかぞう 大道芸の一種である放下を僧形で演ずる遊芸人)である自然居士は、ある少女が美しい着物と供養を願う書付を差し出すのを目にします。書付には両親の供養のために着物を捧げるとありました。そこへ男たちがやってきて少女を連れ去ります。着物は、少女が身を売って得たものだったのです。居士は少女が連れ去られたと聞き、説法を中止して跡を追い、舟の出る大津に急行します。居士は、着物と引き替えに少女を返すよう求めると、一度買い取った者は返さぬ掟があると断られますが、こちらにも身を売った者を見殺しにできぬ掟があり、自分も少女といっしょに行くしかないと言って舟から下りず、男たちを屈服させます。男たちは腹いせに、評判の舟の曲舞(くせまい)、ささら舞(ささらという和楽器を使った舞)、羯鼓(かっこ 鼓(つづみ)を横にしたような雅楽の打楽器「羯鼓」を身に付けて撥(ばち)で打ちながらの舞)と、次々に芸を見せることを要求しますが、居士は少女のために拒むことなく演じて見せ、ついに少女を連れ戻すことに成功します、

というものだがhttp://www5.plala.or.jp/obara123/u1205jinen.htm、「舟」の起源を語る部分は、

黄帝(こうてい)が烏江(おうこう)を隔てて攻めあぐねているとき、臣下の貨狄(かてき)が、庭の池の上に柳の葉が落ち、それに蜘蛛が乗っているのを見て舟を考案し、これによって烏江を渡って蚩尤を滅ぼしたという概要で、謡曲では、次のように語られる。

シテ さあらば舟の起を語って聞かせ申し候べし。
サシ上 ここに又蚩尤(しいう)といへる逆臣(げきしん)あり。
地謡上 彼を亡ぼさんとし給ふに。烏江(おおがう)といふ海を隔てゝ。攻むべき様もなかりしに。
クセ下 黄帝の臣下に。貨狄と云へる士卒あり。ある時貨狄・庭上(ていしやう)の。
    池の面(おもて)を見渡せば。折節秋の末なるに。
    寒き嵐に散る柳の一葉(ひとは)水に浮みに。又蜘蛛といふ虫。
    これも虚空に落ちけるが其一葉の上に乗りつゝ。
    次第々々にさゝがにのいとはかなくも柳の葉を。吹きくる風に誘はれ。
    汀(みぎは)(に寄りし秋霧)の。
    立ちくる蜘蛛の振舞げにもと思ひそめしよりたくみて舟を造れり。
    黄帝これに召されて。烏江を漕ぎ渡りて蚩尤を安く亡ぼし。
    御代を治め給ふ事。一万八千歳(いちまんはつせんざい)かや。
シテ上 然れば舟のせんの字(舩)を。
地謡上 きみにすすむと書きたり。
    さて又天子の御舸(おんか)を龍舸(りようか)と名づけ奉り。
    舟を一葉と云ふ事此御宇より始まれり。又君の御座舟を。
    龍頭鷁首(りようどうげきしゆ)と申すも此御代(みよ)より起れり。
ワキ  我等が舟を龍頭鷁首と御祝ひ祝着申して候。
    とてものことにさゝらを摺つて御(おん)見せ候へ。

とあるhttp://www5.plala.or.jp/obara123/u1205jinen.htm。因みに、「クセ」とは、

能の一曲は、いくつもの小段(しょうだん)が連なって構成されている。「クセ」はその小段の名称のひとつ。シテに関する物語などが、主に地謡(じうたい)によって謡われ、一曲の中心的な重要部分をなしている。主にクセの中ほどから後半で、節目の一句か二句をシテやツレなどが謡うことが多く、これを「上ゲ端〔上羽〕(あげは)」と呼ぶ。この上ゲ端が2回出てくる長いものを二段グセ、上ゲ端のないものを片グセと呼ぶ。また、シテが舞台中央に座したまま進行するものを「居グセ」、シテが立って舞を舞うものを「舞グセ」と呼んでいる。中世に流行した「曲舞(くせまい)」という芸能を取り入れたものといわれ、名称もそこからきているという、

とありhttps://db2.the-noh.com/jdic/2008/07/post_24.html、「さし」とは、

能・狂言の型のひとつ。扇や手で前方を指す型で頻繁に用いられる。具体的に何かを指し示す場合と、特に対象を明示せず型として行う場合がある。足の動きを加えたり、左右の手を使うなど応用の型も多く、サシをしながら数足前に出る「サシコミ/シカケ」、右手に持った扇を身体の前で大きく回してから正面にサス「巻ザシ」、左前方を左手でサシた後に右手でサシ、その右手を横一直線に線を引くように身体の向きを右前方に変える「サシ分ケ」など様々なヴァリエーションがある、

とあるhttps://db2.the-noh.com/jdic/2021/06/post_545.html。ついでに、「シテ」は、

仕手、
為手、

とあて、

能の主役、

であり、

一曲のなかで絶対的な重さをもつ演者であると同時に、演出、監督の権限を有する。つねに現実の男性の役であるワキに対し、シテは女・老人・神・鬼・霊などにも扮し、能面をつける特権をもつ。前後2段に分かれ、シテがいったん楽屋などに退場(中入)する能では、中入前を前シテ、中入後を後(のち)ジテとよぶ、

とある(日本大百科全書)。伝説では、

舟を一葉といふこと、この御宇より始まり、

とあるが、蚩尤は黄帝から王座を奪わんと乱を起こし、

兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風・雨・煙・霧などを巻き起こして黄帝と涿鹿の野で戦った(涿鹿の戦い)。濃霧を起こして視界を悪くしたり魑魅魍魎たちを駆使して黄帝の軍勢を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示して霧を突破し、妖怪たちのおそれる龍の鳴き声に似た音を角笛などを使って響かせてひるませ、軍を押し進めて遂にこれを捕え殺した、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%A9%E5%B0%A4、また、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、

篆形作「□(金文文字)」、船也。象形、

と字様説明し、注釈書『大徐本(986)』も、

「□(金文文字)」、舩(船)也。古者共鼓、貨狄刳木為舟、剡木為楫、以濟不通。象形。凡舟之屬皆从舟。(職流切)、

『段注本(1815)』も、

「□(金文文字)」、船也。古者共(鼓)、貨狄刳木為舟、剡木為楫、以濟不通。象形。凡舟之屬皆从舟。(職流切)、

とあり(「□」の部分は、後述の「舟」の金文(青銅器の表面に鋳込む、乃至刻まれた文字)文字が入る)、『自然居士』の伝説とは異なるようだ。

「葉」(ヨウ・ショウ)は、

会意兼形声。枼(エフ 木にはがしげるさま)は、三枚の葉が木の上にある姿を描いた象形文字。葉はそれを音符とし、艸を加えた字で、薄く平らな葉っぱのこと、薄っぺらなの意を含む、

とあり(漢字源)、蝶、牒、喋、諜の同系語https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%89とある。原字は「世」で木に新しい葉が3枚のびている様子(「sh-」音が共通)、「枼」はそれが木から伸びることを示したもの(仝上)、とある。だから、借りて、よ(世)の意に用いる(角川新字源)ということになる。

「舟」(漢音シュウ、呉音シュ)は、

象形。中国の小舟は長方形の形で、その姿を描いたものが舟。周・週と同系のことばで、まわりをとりまいたふね。服・兪・朕・前・朝などの月印は、舟の変形したもの、

とある(漢字源)。

「船」(漢音セン、呉音ゼン)は、

会意兼形声。㕣(エン)は、「ハ(水が流れる)+口(あな)」からなり、くぼみにそって水が流れるさま。船はそれを音符とし、舟を加えた字で、水流にしたがって進むふね、

とある(漢字源)。なお、「舩」は「船」の俗字。別に、

会意形声。「舟」+音符「㕣」。「㕣(エン)」は「ハ(水が流れる様)」+「口(穴)」で水が穴に向かって流れる様で「沿(水流に沿う)」や「鉛(柔らかく流れる金属)」の同系語で、舟が水の流れに従うことを言う、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%B9

会意兼形声文字です(舟+㕣)。「渡し舟」の象形と「2つに分かれている物の象形と谷の口の象形」(「川が低い所に流れる」の意味)から、川に沿って下る「ふね」を意味する「船」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji187.html

「舟」と「船」の区別は、「ふね」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463391028.htmlで触れたように、

小形のふねを「舟」、やや大型のふねを「船」、

とするが、「船」と「舟」の違いは、あまりなく、

千鈞得船則浮(千鈞も船を得ればすなはち浮かぶ)(韓非子)、

と、

漢代には、東方では舟、西方では船といった、

とある(漢字源)。今日は、

動力を用いる大型のものを「船」、手で漕ぐ小型のものを「舟」、

と表記するhttp://gogen-allguide.com/hu/fune.htmlとし、

「舟」や「艇」は、いかだ以外の水上を移動する手漕ぎの乗り物を指し、「船」は「舟」よりも大きく手漕ぎ以外の移動力を備えたものを指す。「船舶」は船全般を指す。「艦」は軍艦の意味である。(中略)つまり、民生用のフネは「船」、軍事用のフネは「艦」、小型のフネは「艇」または「舟」の字、

を当てるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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果報


身も逸(はや)らば、心の外(ほか)に越度(おつど)もあるべし。思案して五輪を切らざるは、ああ果報人かな(宿直草)、

とある、

果報人、

は、

幸運な人、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「果報」には、

此の所にて皆死すべき果報にてこそ有るらめ(太平記)、

と、

因果応報、

つまり、

前世での善悪さまざまの所為が原因となって、現世でその結果として受ける種々の報い、

という仏語の意味と、

この道に、二の果報あり。声と身形也(風姿花伝)、

と、

報いがよいこと、

つまり、

幸福なさま、
幸運、

の意とがある(広辞苑・日本国語大辞典)。前者は、「一業所感」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.htmlで触れた、サンスクリット語のカルマンkarmanの訳語である、

業(ごう)、

である。

一つの行為は、原因がなければおこらないし、また、いったんおこった行為は、かならずなにかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この系列はどこまでも続く)を総称して、業という、

とある(日本大百科全書)、後者の「幸運」の意には、

前世の善行によるこの世でのしあわせ、

そういう含意もある(岩波古語辞典)。

「果報」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444397156.htmlでも触れたが、「果報」は、

因縁の応報(むくい)。結果。多くは、善きに云ふ、

とあり(大言海)、

仏教で言う「因縁」と深いつながりがあります。あらゆるものが成り立つには、必ずそうあらしめる要因があり、これを因縁と言います。因とは、ものが成立する直接的原因、縁とは、それを育てるさまざまな条件のことです。例えば、花が咲くには、種がなければなりません。それが花の因です。しかし、種があっただけでは、花は咲きません。土や水、光や気候、その他さまざま、花を咲かせるのにふさわしい条件が整った時に咲くのです。因と縁が実ると、それに合った結果が出ます。その結果のことを果報と言います、

とあるhttp://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=53。「因縁(インエン・インネン)」は、

譬へば、穀(もみ)を地に植うれば、稻を生ず。穀は因なり、地は縁なり、稲は果なり。然して、これを行ふことを業(ごふ)と云ふ。因りて、因縁、因果、因業など、人事の成立(なりゆき)は、皆因(ちなみ)あり、縁(よ)る所ありて、果(はて)に至ること、予め定まれりとす、

とある(大言海)。

「果報」は、

サンスクリット語のビパーカvipākaの訳語、

で、

異熟、

とも訳す(ブリタニカ国際大百科事典)。

先に原因となる行為があり、それによって招かれた結果を報いとして得ることをいう。行為は、心に思い、口にいい、身体で行うの3種に分かれ、たとえ身体を動かさなくても行為はあった、と考えられる。この原因と結果とを結ぶものが業(ごう カルマンkarman)で、ときに業がその行為・結果・報いのみをさし、また責任などの全体を含む場合もある、

とされ(日本大百科全書)、仏教では一般に、

善因には善果が、あるいは心の満足という楽果が、また悪因には悪果が、あるいは後ろめたい心という苦果が伴う、

とし(仝上)、

人間として生れたことを、

総報、

男女、貧富などの差別を受ける果を、

別報、

という(ブリタニカ国際大百科事典)とある。またこの世で行なった行為が、この世で報いとなることを、

(順)現報、

次の世に結果が現れることを、

(順)生報、

未来世以後に受けるものを、

(順)後報、

という(仝上)ともある。

「果報」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444397156.htmlで触れたことだが、「果報」をこう見てみると、

予め定まれりとす(大言海)、

という意味が重い。だから、

果報は寝て待て、

という諺は、

幸運は自然とやってくるのを気長に待つべきだ、焦らないで、待てばいつかは必ずやってくる、ということ(ことわざ辞典)、

という意味でも、

幸運は人力ではどうすることもできないから、焦らないで静かに時機のくるのを待(広辞苑)て、

という意味でもない。

果報とは、仏語で前世での行いの結果として現世で受ける報いのこと。転じて、運に恵まれて幸福なことをいう。「寝て待て」といっても、怠けていれば良いという意ではなく、人事を尽くした後は気長に良い知らせを待つしかないということhttp://kotowaza-allguide.com/ka/kahouwanetemate.html

という意味も少し違う。

自分の努力だけではどうにもならない因縁に寄るのだから、じたばたしても仕方がない、

つまりは、

寝て待つしかない、

という含意ではないか。俗に、運のよいことを、

果報、

それを受けた者を、

果報者、

とよび、逆に、不幸なことを、

因果(いんが)、

不幸な者を、

因果者、

と称する(日本大百科全書)。また、

運があまりよすぎて、かえって不測のわざわいを受けること、

を、

果報負(かほうまけ)、

といい、また

果報焼(かほうやけ)、

ともいう(日本国語大辞典・広辞苑)。

「果」(カ)は、

象形。木の上に丸い実がなったさまを描いたもので、丸い木の実のこと、

とあり(漢字源)、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)にも、

木實也。从木、象果形在木之上、

とあるが、別に、

会意、「木」と「田」(農地)を合わせて、農地たる木からの産物「くだもの」のこと、

とする説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9E%9C。また、「菓(クワ)」の原字。借りて、思いきりがよい、また、「はたす」意に用いる(角川新字源)ともある。

「報」(漢音ホウ、呉音ホ・ホウ)は、

会意。「手かせの形+ひざまずいた人+て」で、罪人を手で捕まえてすわらせ、手かせをはめて、罪に相当する仕返しを与える意を表わす。転じて、広く、仕返す、お返しの意となる、

とある(漢字源)。別に、

会意。「㚔」+「𠬝」。「㚔」は手械(てかせ)の象形、「𠬝」は「服」の原字で「平げる」「服従させる」こと。手械で服従させ、刑罰で「むくいる」ことhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A0%B1

会意形声。幸(刑具)と、𠬝(フク)→(ホウ 王命のしるしを手に持つ)とから成り、罪人に罰を加える意を表し、ひいて「むくいる」意に用いる(角川新字源)、

会意文字です。「手かせ」の象形と「右手とひざまず人の象形」(「従う」の意味)から、罪人を刑に従わせる、「さばく」を意味する「報」という漢字が成り立ちました。(転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「むくいる」、「しらせる」の意味も表すようになりました。)https://okjiten.jp/kanji857.html

等々ともある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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血気の袖どち群れつつ話す(宿直草)、
肝太き袖は顔眺めらるるわざよ(仝上)、

などにある、

袖、

は、

血気さかんな若者たち、
肝太き人、

と、

「袖」は「人」の意、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「袖」に人の意はないので、ここでは、

袖、

で、例えば、

着物、

をいえば、換喩になり、象徴的に

人、

をいえば、提喩になる。慣行的にそういう言い回しがあったのかもしれないが、よくわからない。確かに、「袖」は、

袖摺り合うも他生の縁、

とか、

袖にする、

とか、

袖の下、

とか、

袖を絞る、

とか、メタファとして使うケースが多いが、「袖」を「人」とする例はあまり見ない気がするのだが。

「そで」は、

衣の左右の手を入るる所の総名、上代の下民は筒袖(つつそで 袂(たもと)がなく、筒のような形をした袖)なり、肱(かひな)に當る所をたもととす、

とある(大言海)。和名類聚抄(平安中期)に、

袖、曾天、所以受手也、

字鏡(平安後期頃)に、

袂、袖末也、曾氐、

類聚名義抄(11〜12世紀)に、

袂、ソデ、タモト、

とある。続日本紀(しょくにほんぎ 延暦16年(797年)完成)に、

和銅元年閏八月「制、自今以後、衣襟口(ソデグチ)、闊八寸已上、一尺已下、随人大小為之、

とある。「そで」は、

衣手(ころもで)、
衣袖(いしゅう)、

ともいう。

「そで」の由来は、

衣手(そて)の義、或は衣出(そいで)の義(大言海)、
ソ(衣)テ(手)の意、奈良時代にはソテ・ソデの両形がある(岩波古語辞典)、
ソデ(衣手)説(東雅・安斎随筆・燕石雑志・箋注和名抄・筆の御霊・言元梯・名言通・和訓栞・弁正衣服考)、

と、

衣の左右に出た部分をいうところからソデ(衣出)説(日本釈名・関秘録・守貞謾稿・柴門和語類集・上代衣服考=豊田長敦)、

の二説が大勢で、その他、

ソトデ(外出)の義、またシモタレ(下垂)の反(名語記)、
ソはスボマルの意、テは手(槙のいた屋)、
外手(そで)(日本大百科全書)、

などもある。ただ、「ソテ(衣手)」説は、

上代特殊仮名遣では、「そ(衣)」は乙類音で、「そで」の「そ」は甲類音であるから疑問、

とされる(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)。確かに、それは、

難点だが、他に適した説が見つかりません、

と(日本語源広辞典)、承知の上で、

ソ(衣)+手、

説を採るものもある。音韻的難があるとしても、意味的には、

そて(衣手)、
か、
そで(衣出)、

しか有力な説はないようである。ただ、

衣服の身頃(みごろ)の外にあって腕を覆う部分をいい、別に袂(たもと)ともいう。たもとは元来、手元(たもと)からきている。また袖の字は、通す意味の抽(ぬく)からきており、衣の手を通す部分の意、袂の夬(けつ)はひらく意からきており、衣の口のひらいているところの意味とされる、

とあり(日本大百科全書)、

そで(衣出)、
そで(外手)、

なのかもしれない。

和服では、

袂(たもと)の長さや形によって、大袖、小袖、広袖、丸袖、角袖、削(そぎ)袖、巻袖、元祿袖、振袖、留袖、筒袖などの種類があり、袂を含んでいうことがある、

が、洋服では、

長短により長袖、七分袖、半袖などの別があり、袖付や形によっても種々の名称がある、

なお、「袖」は、衣の袖をメタファに、いろんなものを袖と呼ぶ。たとえば、

その車の有様言へばおろかなり。……そでには置口にて蒔絵をしたり(栄花物語)、

と、

牛車の部分、

を、

袖、

と呼ぶ。

牛車(ぎっしゃ)の部分の箱の出入り口の左右にあって、前方または後方に張り出した部分。前方にあるのを前袖、後方にあるのを後袖(あとそで)、また、表面を袖表(そでおもて)、あるいは外(そと)、内面を裏、あるいは内(うち)と呼ぶ、

とある(精選版日本国語大辞典)。また、

義盛之所射箭、中于国衡訖、其箭孔者、甲射向之袖二三枚之程、定在之歟(吾妻鏡)、

と、

鎧の袖、

とも使い、

鎧袖一触、

という言い方もある。

通常、

袖の緒(お)で胴に結びとめる。左を射向(いむけ)の袖、右を馬手(めて)の袖という。その大小、形状により、大袖、中袖、小袖、広袖、壺袖(つぼそで)、丸袖、置袖、最上袖(もがみそで)などの種類がある、

とある。また、

文書(もんじょ)や書巻の初めの端の余白となっている部分、

を、

袖、

といい、後の端の部分を、

奥、

という(仝上)。また、建物などの、

主要部のわきに付属する小型のもの、

を、

袖石、
袖柱、
袖塀(そでべい)、
袖垣(そでがき)、

等々と呼んだりもする。舞台の、

両わきの部分、

を、

袖、

と呼ぶのも同じメタファである。

「袖」(漢音シュウ、呉音ジュ)は、

会意兼形声。「衣+音符由(=抽。ぬき出す)」。そこから腕がぬけ出て出入りする衣の部分、つまりそでのこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(衤(衣)+由)。「身体にまつわる衣服のえりもと」の象形と「底の深い酒つぼ」の象形(「穴が深く通じる」の意味)から、人が腕を通す衣服の部分、「そで」を意味する「袖」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2061.html

「袂」(漢音ベイ、呉音マイ、慣用ヘイ)は、

会意。「衣+夬(切り込みを入れる、一部を切り取る)」。胴の両脇をきりとってつけたたもと、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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六十万決定往生


定めて六十万決定(けつじょう)往生のひとにやと、殊勝の思ひをなす(宿直草)、

にある、

六十万決定往生、

とは、

時宗祖一遍が念仏札に記した言葉、一切衆生が極楽往生できることを示す、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

この念仏札は、

一遍上人が熊野本宮の証誠殿から受けた神詞「人々の信不信をとはず賦算すべし」によるもので、7.5×2cmほどの板に「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と記されたもの、

で、この札配りを、

賦算(ふさん)、

といい、

御化益(ごけやく)、

ともいう、時宗独特の行事である(広辞苑・デジタル大辞泉)。

念仏よりやさしい、往生のあかしとして始められた、

という。

一遍上人は、北は陸奥国江刺から南は薩摩国・大隅国に至る諸国を遍歴し、

生涯に約250万1千人(25万1千人とも)に配られた、

と記録されているhttp://www.jishu.or.jp/ippensyounin-osie/gohusan、とある。

「六十万人」の意味には、

第一、一遍の偈(『一遍聖絵』第三)、「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華」の四句の首字をとったものと解されている、

第二、『一遍聖絵』第三では、「六」は「南無阿弥陀仏」の六字名号を、「十」は、阿弥陀如来が悟りを開いてからの十劫という長い時間を、「万」は、報身仏である阿弥陀如来の「万徳」(あらゆる徳)を、「人」は、一切衆生が往生して、安楽世界の人となることを意味するとする、

との二つの説がある(『一遍上人全集』)らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A6%E7%AE%97。どちらにしても、60万人というのは象徴的な意味と見ていい。

法然の浄土宗では、

念仏をとなえる衆生の努力を重視、

し、親鸞の真宗では、

阿弥陀仏の絶対的な力を説く、

のと異なり、一遍はそうした信仰を、

賦算(ふさん 紙の念仏の札を会う人々にくばること)、
踊念仏(踊りつつ念仏をとなえて法悦の境地を体験すること)、
遊行(ゆぎよう 定住せず各地を修行と布教のために巡り歩くこと)、

という方法によって実践した(世界大百科事典)とされるが、「踊念仏」は、

弘安二年(1279)、信濃国の伴野(佐久市)を訪れたとき、空也の先例にならって踊念仏を催したが、それが予想外の人気を集めたため、その後一遍の赴く所では必ず踊念仏が行われて、数多くの庶民がそれに加わるようになった、

とある(世界大百科事典)ように、

当初、これは、意図的ではなく自然発生的に行われ、しだいに形式化されていった、

と考えられているhttp://www.jishu.or.jp/ippensyounin-osie/8087-2

一遍は、念仏往生の鍵は信心の有無、浄や不浄、貴賤や男女に関係するのではなく、すべてを放下(ほか)し、〈空〉の心境になって、名号(みようごう 念仏)と一体に結縁(けちえん)することにあると説いた。寺を建てたり新しい宗派を開いたりする意志を持たず、一遍は生涯を廻国遊行(ゆぎよう)の旅に過ごし、念仏に結縁した人びとに往生決定の証明として念仏を書いた紙の札を与え(賦算)、彼らに阿弥号をつけた。時衆に〈某阿弥陀仏〉と称する人が多いのはこのためである、

ともある(世界大百科事典)。

「賦」(フ)は、

会意兼形声。武は「止(あし)+戈(ほこ 武器)」の会意文字で、敵を探し求めて、むりに進むの意味を含む。賦は「貝+音符武」で、貧しい財貨を無理に探り求めること、

とあり(漢字源)、「貢賦」「賦役」「賦課」「賦租」等々、徴発の意味である。別に、

形声文字です(貝+武)。「子安貝(貨幣)」の象形と「矛(ほこ)の象形と立ち止まる足の象形」(「矛を持って戦いに行く」の意味だが、ここでは、「莫+手という漢字」に通じ、「さぐり求める」の意味)から、「貨幣を求めてとりたてる」を意味する「賦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1295.html。「賦算」は、

算(念仏札)を賦(配)る、

意とされるhttp://www.jishu.or.jp/ippensyounin-osie/8087-2が、「賦」の、

布、
敷、
頒、

と類義で、

わかつ、
遍く配る、

という意からきている(漢字源)。

「算」(漢音呉音サン、唐音ソン)は、

会意。「竹+具(そろえる)」むで、揃えて数えるの意、

とあり(漢字源)、数取りの竹をそろえて「かぞえる」意を表す(角川新字源)とある。別に、

会意文字。「竹」+「目」+「廾」(両手)を合わせて、目と両手を用い、竹の器具で「かぞえる」こと、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AE%97

象形と両手の象形」(「両手で備える(準備する)」の意味)から、「竹の棒を両手で揃(そろ)える、数(かぞ)える」を意味する「算」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji229.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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ひぐらし


一日(ひくらし)此の寺に参りしに、人目の関の閑有りて、仏前の錢二十文盗みしかば(宿直草)、

にある

一日(ひくらし)、

は、普通、

日暮、

と当て、

ひぐらし、

と訓むが、古くは、

ひくらし、

と清音で(広辞苑)、

つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば(徒然草)、

と、

朝から夕暮れまでの一日中、

の意である(岩波古語辞典)。

ひねもす、
終日、
日がな、

と同義である。「ひねもす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/445249637.html、「日がな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/438065587.htmlについては触れた。

また、その意味をメタファに、

その日暮らし、

の意でも使い、日光東照宮の陽明門の異称を、

日の暮れるのも気づかずに見とれてしまうほどの美しい門、

の意で、

日暮の門(ひぐらしのもん)、

といったりする(仝上)。近世初期の上方で、元祿〜享保年間(1688〜1736)に盛行した、

鉦(かね)を首にかけ、念仏踊、浄瑠璃、説経などの詞章を節を付けて歌い歩いた門付け芸人、

を、

日暮の歌念仏(ひぐらしのうたねんぶつ)、

というのは、「日暮」を、姓のように称し、歌念仏の、

日暮林清、

説経浄瑠璃の、

日暮小太夫などが知られていたから(精選版日本国語大辞典)とある。

「日暮」に、

蜩、
茅蜩、

と当てると、早朝・夕方および曇天時に「カナカナ」と高い金属音をたてて鳴く、蝉の、

ヒグラシ、

である。和名類聚抄(平安中期)に、

茅蜩、比久良之、

とあり、箋注和名抄(江戸後期)には、

此蟲将暮乃鳴、故有是名、今俗、或呼加奈加奈、

とあるが、

今こんといひて別れしあしたより思ひくらしの音をのみぞなく(古今集)、

と、

日暮らし、

と掛けて使うこともある(日本語源大辞典)。

なお「日暮」を、

ひぐれ(「ひくれ」とも)、
にちぼ、
じつぼ、

などと訓み、

夕暮れ、

の意で使う。

「日」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463232976.htmlで触れたように、「日」(呉音ニチ、漢音ヅツ)の字は、

太陽の姿を描いた象形文字、

である(漢字源)。

「暮」(漢音ボ、呉音モ・ム)は、

会意兼形声。莫(マク・バク)は、「艸+日+艸」の会意文字で、草原の草むらに太陽が没するさま、莫が「ない」「見えない」との意の否定詞に専用されるようになったので、日印を加えた暮の字で、莫の原義をあらわすようになった、

とある(漢字源)。「暮」の対は、「初」「朝」「旦」、「暮」の類義語は「夕」「晩」。我が国で、

その日暮らし、

とか、

思案に暮れる、

という使い方をするが、「暮」の原義にはない。別に、

会意兼形声文字です(莫+日)。「草むらの象形と太陽の象形」(太陽が草原に沈むさまから「日暮れ」の意味)と「太陽」の象形から、「日暮れ」を意味する「暮」という漢字が成り立ちました(「莫」が原字でしたが、禁止の助詞として使われるようになった為、「日」を付し、区別しました。)、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1065.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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かなぐる


左の耳を探りて、爰に座頭の耳有りとて、かなぐりて行く。痛しなんども愚かなり(宿直草)、

の、

かなぐりて、

は、

荒々しく取って、引きちぎって、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「かなぐる」は、

抛棄、

と当てたりする(大言海)が、字鏡(平安後期頃)には、

敺(=駆)、カナグル、

とある。

いと愛敬なかりける心もたりける物かなとて、腹だちかなぐりて起くれば、帯刀笑ふ(落窪物語)、

と、

荒々しく払いのける、

意や、

死人の髪をかなぐり抜き取る也けり(今昔物語)、

と、

荒々しく引きぬく、乱暴に奪いとる、ひったくる、

といった意で使い、

激しく動作する、

ことを表現している。

カイ(掻)ナグルの約か、着ているものを無理にはがしたり、離したりする動作が荒々しく行われるに言う(岩波古語辞典)、
掻(カ)き殴(ナグ)るの略(引きさぐ、提(ひさ)ぐ)(大言海)、
カキナゲ(掻投)の義(俚言集覧)、
糸筋の幾本かをつかねて繰り寄せるカナ-繰るが語源か、カナは東北・京都の方言で糸の意(小学館古語大辞典)、
カイノクル(掻退)の義(言元梯)、

等々諸説あるが、「かく(掻く)」は、

月立ちてただ三日月の眉根掻(かき)気(け)長く恋ひし君に逢へるかも(万葉集)、

と、

爪を立て物の表面に食い込ませて引っかいたり、弦に爪の先をひっかけて弾いたりする意、「懸く」と起源的に同一、

とある(岩波古語辞典)ように、

爪を立ててこする、

意である(日本国語大辞典)が、

其の身手を運(カキ)、足を動かし(西大寺本金光明最勝王経平安初期点)、

と、

腕や手首を上下、または左右に動かす、

意や、

朝なぎにい可伎(カキ)渡り(万葉集)、

と、

水を左右へ押し分ける、

意や、

朝寝髪可伎(カキ)もけづらず(万葉集)、

と、

くしけずる、

意や、

琴に作り加岐(カキ)ひくや(古事記)、

と、

琴の弦をこするようにしてひく、

意のように、

手、爪、またはそれに似たもので物の表面をこすったり払ったりする。また、そのような動作をする、

意で使う(仝上)。とすると、「かき」は、動作を示し、「なぐる」は、

殴る、
投ぐ、
退く、

などよりは、

横ざまに払って切る、

意の、

薙ぐ、

に近いのではあるまいか。勿論憶説ではあるが。

「なぐる」は、現代語では、単独での用例はなく、

かなぐり捨てる、

と、複合形で用いるが、古典語では、単独に用いるだけでなく、

かなぐり捨つ、

のほかにも、

かなぐり落とす、
かなぐり散らす、
かなぐり取る、
かなぐり抜く、

などと複合する形もあり、また、

かなぐり付く、
かなぐり見る、

のような、

ひったくる、

といった意の、離脱とは反対の、

接着する行為、

と関わる用法もある(精選版日本国語大辞典)。

「敺」(オウ、ク)は、

為淵敺魚者、獺也(孟子・離婁)、

と使う、

「驅」の古字、

とある(字源)、

「駆」の異体字、

である。

「驅」(ク)は、

会意兼形声。「馬+音符區(小さくかがむ)」。馬が背をかがめてはやがけすること。まがる、かがむの意をふくむ、

とある(漢字源)。「駈」は異字体である。別に、

形声文字です(馬+区(區))。「馬」の象形と「くぎってかこう象形と多くの品物の象形」(「多くの物を区分けする」意味だが、ここでは、「毆(オウ)」に通じ(同じ読みを持つ「毆」と同じ意味を持つようになって)、「うつ」の意味)から、馬にムチを打って「かる(速く走らせる、追い払う)」を意味する「駆」という漢字が成り立ちました。のちに、「区」が「丘(丘の象形)」に変化して「駈」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1230.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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麁相(そそう)


また麁相(そそう)にして、左の耳に文字ひとつも書かずして是をおとす(宿直窟)、

にある、

麁相、

は、

粗相、
疎相、
疏相、

とも当て、

扇なども、賜はせたらんは、そさうにぞあらむかしなど思て、……我絵師にかかせなどしたる人は(「栄花物語(1028〜92頃)」)、

と、

そまつなこと、粗略なこと。また、そのさま、

の意であり、

石を袂にひろひ入岩ほの肩によぢのぼれば、かけあがって和藤内いだきとめて、ヤイこりゃそさうすな心てい見付た(浄瑠璃「国性爺合戦(1715)」)、

と、

そそっかしいこと、軽率なふるまいをするさま、

の意で、

粗忽(そこつ)、

と同義なる。その意味の流れから、

傍輩衆(ほうばいしゅう)と狂ひやして、麁相(ソサウ)で柱へ前歯を打つけやして、つい欠(かけ)やした(咄本「都鄙談語(1773)」)、

と、

あやまちをすること、失敗するさま、しくじり、不注意、

の意で使うし、その意味の外延から、

内の首尾を聞合せず案内するも麁相(ソサウ)なりと軒に立寄うかがへば(浄瑠璃「大経師昔暦(1715)」)、

と、

ぶしつけであること、また、そのさま、失礼、非礼、

の意でも使う。「粗忽」「しくじり」の派生としてか、

無念ながらも嬉しかりけりみどり子が我にだかれつささうして(俳諧「新増犬筑波集(1643)」)、

と、

おもらし、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。また、

粗相火(そそうび)、

というと、

失火の意になる。

「粗相」の語源として、

仏教語の「麁相(そさう」)」、事物の無常な姿をとらえた「生・住・異・滅」の四相にならって、人の「生・住・老・死」を「麁四相」ともいう。無常な姿を表す四相にならったものであることや、人の一生には弱い部分があふれていることから、「麁相」は軽率なさまや過ちなどの意味で使われるようになった(語源由来辞典)、
仏教語の「四相(しそう)」、物事や生物の移り変わる姿を四つの段階、
一、生相(しょうそう) これは事物が生起すること。
一、滅相(めっそう) これは事物が崩壊すること。
一、住相(じゅうそう) これは事物が安住すること。
一、異相(いそう) これは事物が衰退すること。
の「生・住・異・滅」の「四相」を、人の生涯の生・住・老・死の各相に当てはめたものを「麁四相(そしそう)」と言います。人の生涯には無常さがあり、弱きところもあり、軽率な時があったり、間違いも起きます。「麁四相」が「麁相」となり、軽率なさまや過ちなどの意味合いで使われるようになりました
https://www.yuraimemo.com/931/
仏教では、この世を「生・住・異・滅」としてとらえたうえで、人間には一生には「生・住・老・死」の四相があるとされ、これを「麁の四相(刹那の四相)」といいます。この「麁」は生きていく人間の煩悩に通じるものがあるとされ、あるいは煩悩ゆえに人間らしい失敗や過ちのことを「麁相」だとして仏様は許してくださるだろうということからこの言葉が広まったとされています
https://zatugakuunun.com/yt/kotoba/5353/
仏教語、麁相(荒い形相)、転じてしそこない、不注意、おもらしの意に(日本語源広辞典)、

等々、仏教語「麁の四相」からきているとする説が、

他の説は見当たらず、不注意なあやまちを意味する言葉の中で、大小便を漏らす意味として使われるのは「粗相」ぐらいであることから、人の「生・住・老・死」を意味する言葉を語源と考えるのは妥当と思われる(語源由来辞典)、

等々とされている。確かに、「滅相」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/437604353.htmlで触れたように、

「麤四相、生相、老相、病相、死相。細四相、生相、住相、異相、滅相」(大乗法數)とみえたり、

とあり(大言海)、「四相」は、

生、老、病、死を一期の四相と云ひ、生、住、異、滅を有為の四相と云ひ、我相、人相、衆生相、壽者相を識境の四相と云ふ。即ち、我相とは、自己の我の実在するを執するもの、人相とは他人の我の実在するを妄執するもの、衆生相とは、衆生界、又は自己心識の作出ものなるを知らずして、以前より実在するものと信ずるもの、壽者相とは、自己の、この世に住する時間の長短に執着するもの、

とある(仝上)。つまり、

事物が出現し消滅していく四つの段階。事物がこの世に出現してくる生相(しようそう)、持続して存在する住相、変化していく異相、消え去っていく滅相、

の「四相」を、人間の一生に当てはめたものを、

生・老・病・死、

衆生が外界に対して実在すると誤解・執着する四つの誤った相を、

我・人・衆生・寿者、

の、

識境の四相、

という(大辞林・大言海)。

仏教において、因果関係のうちに成立する現象(有為の法)が現在の一瞬間のうちに呈する、

生(しょう:生起する)、
住(じゅう:生起した状態を保つ)、
異(い:その状態が変異する)、
滅(めつ:消滅する)、

の4つの相状を「刹那の四相」といい(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%9B%B8・精選版日本国語大辞典)、「生住異滅」を、転じて「生老病死」と類義に、

人間が生まれ、成長し、老いて死ぬ意、または事物が生成変化して消滅する、

という衆生の生涯を生・老・病・死ととらえるのを、

一期の四相、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。確かに、

麤四相、

は、

生相、老相、病相、死相、

を指している(大言海)が、仮に、

麁四相、

だとしても、ここから、

無常な姿を表す四相にならったものであることや、人の一生には弱い部分があふれていることから、「麁相」は軽率なさまや過ちなどの意味で使われるようになった、

として(語源由来辞典)、

失敗、
粗忽、
粗略、

の意味に転換するとみるのは無理筋ではないだろうか。それこそ、

麁相、

な解釈に思えてならない。「麁」「疏」「疎」「粗」の意味が通底することからの、当て字に過ぎない気がしてならない。

「麁」(漢音ソ、呉音ス)は、

麤、

の俗字。「粗」と同義、「疏」(疎)と類義、「細」「密」と対義である。

本字は、鹿を三つあわせたもの、互いの間が、すけたままざっと集まっていることをあらわす、

とある(漢字源)。「麤疎」(=麤疏 ソソ)で、

王敦怒曰、君麤疎邪(晉書・謝鯤傳)、

と、

そそっかしい、

つまり、

疎忽、

の意である(字源)。

「粗」(漢音ソ、呉音ス)は、「精」「密」の対語、「疎」(疏)と類義語。

形声。「米+音符且(ショ・シャ)」で、もと、ばらつくまずい玄米のこと。且の意味(積重ねる)とは直接の関係はない、

とある(漢字源)。粒子のそろっていない、品質の低い穀物の意
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B2%97ともある

「疎」(漢音ソ、呉音ショ)は、

会意兼形声。疋(ショ)は、あしのことで、左と右と離れて別々にあい対する足。間をあけて離れる意を含む。疎は「束(たば)+音符疋」で、たばねて合したものを、一つずつ別々に話して間をあけること、

とある(漢字源)。「踈」は「疎」の異字体。「疎」は、「疏」と同義、「密」「親」「精」の対語である。別に、

形声文字です(疋+束)。「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味だが、ここでは、「疏(ソ)」に通じ(同じ読みを持つ「疏」と同じ意味を持つようになって)、「離す」の意味)と「たきぎを束ねた」象形(「束ねる」の意味)から、「束ねたものを離す」を意味する「疎」という漢字が成り立ちました。「疏」は「疎」の旧字です、

ともある
https://okjiten.jp/kanji1968.html

「疏」(漢音ソ、呉音ショ)

会意兼形声。「流(すらすらと流す)の略体+音符疋(ショ)」

とある(漢字源)。「疏」は「疎」と同義、別に、

会意。疋と、㐬(とつ 子どもが生まれる)とから成る。子どもが生まれることから、「とおる」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「子が羊水と共に急に生れ出る象形」(「流れる」の意味)から、足のように二すじに分かれて流れ通じる事を意味し、そこから、「通る」、「空間ができて距離が遠くなる」を意味する「疏」という漢字が成り立ちました、

ともある
https://okjiten.jp/kanji1968.html

「相」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

会意。「木+目」の会意文字で、木を対象において目でみること。AとBが向き合う関係を表す、

とある(漢字源)。別に、

会意。目と、木(き)とから成り、目で木を見る、ひいて「みる」意を表す。借りて、すがた、あいたがいの意に用いる、

ともある(角川新字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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依怙


昨日の商ひに油二合五勺の依怙(えこ)あるによりて(宿直草)、

にある、

依怙、

は、

不正なもうけ、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「依怙」は、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、

依、倚也、
怙、恃成、

とあり、

依(よりかかる、頼る)+怙(頼む)、

で(日本語源広辞典)、

哀しい哉、王土の民 瞻仰するも依怙するところ無し(魏・明帝・櫂歌行)、

と、

依りかかり、頼りにする

意であり(字通)、仏教で、

観世音の浄聖は、苦悩と死厄とに於て、能く為に依怙と作(な)らん(法華経普門品)、
厥友邪必其人邪也。厥友正必其人正。依怙心相移故(法華経譬喩品)、

と、

依りたのむこと、

の意で使い、中世頃から、転じて、

頼りとする者を支援する、

という意味でも使われ、

庁の下部(しもべ)の習ひ、かやうの事につゐてこそ、自らの依怙も候へ(平家物語)、
依怙なくすみやかに決断すれば、世間にほまれ有て、立身することあり(「集義和書(1676頃)」)、

と、

愛する方へのみ私すること、

つまり、

一方にかたよってひいきすること、

かたびいき、
えこひいき、
かたちはひ(カタは片、チハヒは力をふるって仕合せを与えること ひいきにすること)、

の意で使い、その実利が、私される意へと広がり、

たばかつてするはかりことは一旦のゑこにはなれども(天草本伊曾保物語)、

と、

私利、

あるいは、

わがまま、

の意で使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典・大言海)。で、「贔屓(ひいき)」も、本来は、

巨靈贔屓(張衡・西京賦)、

と、

盛んに力を用いる貌、
大いに力を入れること、

の意であった(仝上・字源)が、

対象が限定されることによって、

自分の気に入った者に特に力添えすること、

の意に転じ、「依怙」「贔屓」がほぼ同じ意になり、

依怙贔屓、

と、重ねて用いる用法も生じたと思われる(仝上)、とある。

江戸時代初期から、

と思われる(語源由来辞典)。

なお、「依怙」は、

ただ儒者の依怙(イコ)甚しきを笑のみ(随筆「孔雀楼筆記(1768)」)、

と、

いこ、

とも訓ませ、

公平でないこと、

の意で使う(仝上)。

「依」(漢音イ、呉音エ)は、

会意兼形声。衣は、両脇と後ろの三方から首を隠す衿(エリ)を描いた象形文字。依は「人+音符衣(イ)」で、何かのかげをたよりにして、姿を隠す意を含む。のち、もっぱら頼りにする意に傾いた、

とある(漢字源)。別に、形声とする説もある(角川新字源)。他に、

会意。人と衣を組み合わせた(人に衣を添えた)形。衣には人の霊が取り憑くと考えられたので、霊を授かる・引き継ぐときに、霊が取り憑いている衣を人により添えて、霊を移す儀式をした。それで「よる、よりそう」の意味になる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BE%9D

会意兼形声文字です(人+衣)。「横から見た人」の象形と「衣服のえりもと」の象形から、人にまとわりつく衣服を意味し、そこから、「よる」、「もたれかかる」を意味する「依」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1101.htmlある。

「怙」(漢音コ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。古は、固く枯れた骸骨を描いた象形文字。固い意を含む。怙は「心+音符古」で、心中に固いよりどころがあること、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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依怙地


「依怙地」は、

いこじ、

とも、

えこじ、

とも訓み、

意固地、

とも当て(広辞苑)、

そんなにたのんできたものを、かさねへといってはいこじのよふだ(洒落本「婦身嘘(1820)」)、

と、

意地を張ってつまらないことに頑固なこと、また、そういう性質、

をいい、

かたいじ(片意地)、

ともいう。「依怙地(いこじ)」は、

依怙地(えこじ)の音変化(江戸語大辞典・精選版日本国語大辞典)、
意気地(いきじ)」の変化(大辞林・日本国語大辞典・日本語源広辞典・江戸語大辞典)、
依怙意地の略、偏意地(カタイヂ)の意(大言海)、

と、

意気地→依怙地(いこじ)、
依怙地(えこじ)→依怙地(いこじ)、

二説があることになる。「意気地(いきじ)」は、

自分の意志や面目などをどこまでも守り通そうとする気持、
自分自身や他人に対する面目から、自分の意志をあくまで通そうとする気構え、

の意、つまり、

意地、

だが、この、

いきじ(意気地)、

が転訛して、

いくじ、

と訓み、

物事をなしとげようとする気力、態度、意地、
心の張り、

の意で使う。「意気」は、

一以意気許知己、死亡不相負(後漢書・江表傳)、

と、

こころもち、
意気込み、

の意であり、

吏士皆人色、而廣意気自如、益治軍事(史記・李将軍傳)、

と、

意気自如(=自若)、

とか、

擁大蓋、策駟馬、意気揚揚、甚自得也(史記・晏嬰傳)、

と、

意気揚々、

と使う(字源)。

意地を張る、

というように、我が国で、

我意を通そうとする、

意で使う、

意地、

は、漢語では、

意地有喜有憂(俱舎論頌釋)、

と、単なる、

こころ、

の意で、

地は心の在る場所、

の意味になる(仝上)。しかし、この「意気」「意地」を、

「意気」「意地」はともに自分の意志をどうしても通そうとする気持ち、「強情」という意味の漢語である。これを重ねた「意気意地」は、語中の「意」を落としてイキヂ(意気地)になった。「物事をやりとげようとする気の張り、気力」という意味である。さらに、キが母交(母音交替)[iu]をとげてイクジ(意気地)に転音した。「気力に掻けて苦に立たない人、ふがいない人」をイクヂナシ(意気地無し)という。「壹岐判官知康と申すイクヂナシ」(承久記)。さらに、クが母交をとげてイコヂ(依怙地)になった。「がんこに意地を張ること、堅(片)意地」の意である。土佐ではこの……イコヂショウ(依怙地性)がイゴッソウに転音している。(中略)イコヂ(依怙地)はエコヂ(依怙地)に転音して、「片意地、意地っぱり」をいう、

と、音韻変化から、

意気地、
依怙地、

の関係を見る説もある(日本語の語源)。しかし、「意気意地」を端緒とするのは如何であろうか。むしろ、

意気地、

は当て字で、「依怙」(えこ・いこ)の、

一方に偏って贔屓する、

という意味から、

かたくなな意地っ張り、

を、

依怙地、

といったのではあるまいか。その意味で、

依怙意地の略、偏意地(カタイヂ)の意(大言海)、

と見る説が妥当に思えてならない。

なお、「依怙」http://ppnetwork.seesaa.net/article/490986646.html?1661367536については触れた。また、「意地」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163489.htmlについても触れた。

「意」(イ)は、

会意。音とは、口の中に物を含むさま。意は「音(含む)+心」で、心中に考えめぐらし、おもいを胸中に含んで外へ出さないことを示す、

とある(漢字源)。別に、

会意。心と、音(おと、ことば)とから成り、ことばを耳にして、気持ちを心で察する意を表す。ひいて、知・情のもとになる意識の意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(音+心)。「刃物と口の象形に線を一本加え、弦や管楽器の音を示す文字」(「音」の意味)と「心臓の象形」から言葉(音)で表せない「こころ・おもい」を意味する「意」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji435.html

「気」http://ppnetwork.seesaa.net/article/412309183.htmlでも触れたが、「氣(気)」(漢音キ、呉音ケ)は、

会意兼形声。气(キ)は、息が屈折しながら出て来るさま。氣は「米+音符气」で、米をふかすとき出る蒸気のこと、

とあり(漢字源)、

食物・まぐさなどを他人に贈る意を表す。「餼(キ)」の原字。転じて、气の意に用いられる、

とある(角川新字源)。

「氣」は「气」の代用字、

とあるのはその意味であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B0%97。別に、

会意兼形声文字です(米+气)。「湧き上がる雲」の象形(「湧き上がる上昇気流」の意味)と「穀物の穂の枝の部分とその実」の象形(「米粒のように小さい物」の意味)から「蒸気・水蒸気」を意味する「気」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji98.html。「气」(漢音キ、呉音ケ)は、

象形。乙形に屈曲しつつ、いきや雲気の上ってくるさまを描いたもの。氣(米をふかして出る蒸気)や汽(ふかして出る蒸気)の原字。また語尾がつまれば乞(キツ のどを屈曲させて、切ない息を出す)ということばとなる、

とあり(漢字源)、

後世「氣」となったが、簡体字化の際に元に戻された。乞はその入声で、同字源だが一画少ない字、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B0%94

「固」(漢音コ、呉音ク)は、「闘諍堅固」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486212308.htmlで触れたように、

会意兼形声。古くは、かたくひからびた頭蓋骨を描いた象形文字。固は「囗(かこい)+音符古」で、周囲からかっちりと囲まれて動きの取れないこと、

とあり(漢字源)、似た説に、

会意形声。「囗(囲い)」+音符「古」、「古」は、頭蓋骨などで、古くてかちかちになったものの意。それを囲んで効果を確実にしたもの、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9B%BAが、別に、

形声。囗(城壁)と、音符古(コ)とから成る。城をかたく守る、ひいて「かたい」意を表す、

とか(角川新字源)、

(囗+古)。「周辺を取り巻く線(城壁)」の象形と「固いかぶと」の象形(「かたい」の意味)から城壁の固い守り、すなわち、「かたい」を意味する「固」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji598.html、説がわかれている。

「地」(漢音チ、呉音ジ)は、

会意兼形声。也(ヤ)は、うすいからだののびた蠍を描いた象形文字。地は「土+音符也」で、平らに伸びた土地を示す、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(土+也)。「土の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)と「蛇」の象形(「うねうねしたさま」を表す)から、「うねうねと連なる土地」を意味する「地」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji81.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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方人(かたうど)


関の東に幽霊の方人(かたうど)して命を失う者あり(宿直草)、

にある、

方人して、

は、

味方して、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「かたうど」は、

かたひとの転(岩波古語辞典)、
かたびとの音便(広辞苑)、
かたひとの音便(大言海)、
かたひとのウ音便(学研全訳古語辞典)、

などとある。

なぞなぞ合せしける、かたうどにはあらで、さやうのことにりやうりやうじ(らうらうじ 巧みである)かりけるが(枕草子)、

と、

左右に分かれてする競技で、一方の組に属する人、

の意で、

歌読、是則・貫之、かたひと、兼覧(かねみ)の大君・きよみちの朝臣(二十巻本「延喜十三年亭子院歌合(913)」)、

と、

歌合わせでは、初め一方の組の応援者をさしたが、のちにはそれぞれの組の歌人をさすようになった、

とある(学研全訳古語辞典)。その意から転じて、

あはや、此国にも平家のかたうどする人ありけりと、力付きぬ(平家物語)、

と、

ひいきすること、
味方をすること、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。「歌合」は、

当座歌合、
兼日歌合、
撰歌合、
時代不同歌合、
自歌合、
擬人歌合、

等々種々あるらしいが、その構成は、人的構成にのみ限っていうと、王朝晴儀の典型的な歌合にあっては、

方人(かたうど 左右の競技者)、
念人(おもいびと 左右の応援者)、
方人の頭(とう 左右の指導者)、
読師(とくし 左右に属し、各番の歌を順次講師に渡す者)、
講師(こうじ 左右に属し、各番の歌を朗読する者)、
員刺(かずさし 左右に属し、勝点を数える少年)、
歌人(うたよみ 和歌の作者)、
判者(はんじや 左右の歌の優劣を判定する者。当代歌壇の権威者または地位の高い者が任じる)、

などのほか、

主催者、
和歌の清書人、
歌題の撰者、

などが含まれる(世界大百科事典)、とある。

なお、「方人(ホウジン)」は、

子貢方人(ヒトヲクラブ)、子曰、賜也賢乎哉、夫我則不暇(論語)、

と、漢語である(字源)。

人と己を引き比べる、

意とある(仝上)。

人を方(ただ)す(貝塚茂樹)、
人を方(たくら)ぶhttps://kanbun.info/keibu/rongo1431.html

等々の訓があるが、

人を比較し、論評する、

意である(貝塚茂樹訳注『論語』)。

「方」(ホウ)は、

象形、左右に柄の張り出た鋤を描いたもので、⇆のように左右に直線状に伸びる意を含み、東←→西、南←→北のような方向の意となる。また、方向や筋道のことから、方法の意が生じた、

とある(漢字源)が、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)は、

舟をつなぐ様、

とし、

死体をつるした様、

とする説(白川静)もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%B9。ために、

角川新字源
象形。二艘(そう)の舟の舳先(へさき 舟の先の部分)をつないだ形にかたどる。借りて、「ならべる」「かた」「くらべる」などの意に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「両方に突き出た柄のある農具:すきの象形」で人と並んで耕す事から「ならぶ」、「かたわら」を意味する「方」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji379.html

「人」(漢音ジン、呉音ニン)は、

象形。ひとの立った姿を描いたもので、もと身近な同族や隣人仲間を意味した、

とある(漢字源)。別に、

象形。人が立って身体を屈伸させるさまを横から見た形にかたどり、「ひと」の意を表す、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「横から見たひと」の象形から「ひと」を意味する「人」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji16.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

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なづさふ


一入(ひとしお)惜しみ可愛(かわゆ)くさふらへ、其れ様もなづさふ者なれば、不憫に思し候はんか(宿直草)、

にある、

なづさふ者、

は、

馴れ親しんだ者、

の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

なづさふ、

は、現代表記では、

なずさう、

となるが、

三重の子が 挙(ささ)がせる美豆多麻宇岐(瑞玉盞 ミヅタマウキ)に浮きし脂落ちなづさひ(古事記)、
鵜飼が伴は行く川の清き瀬ごとに篝(かがり)さしなづさひのぼる(万葉集)、

などと、

水に浸り、もまれる
水に浮かびただよう、

意と、

懐む、

と当てたりして(大言海)、

常にまゐらまはしう、なづさひ見奉らばやとおぼえ給ふ(源氏物語)、
幣にならましものをすべ神の御手に取られて奈津佐波(ナツサハ)ましを奈津佐波(ナヅサハ)ましを(「神楽歌(9C後)」)、

などと、

(水にひたるように)相手に馴れまつわる、
なつく、
なじむ、

意とがある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

両者の由来を異なるとする説があり、前者を、

なづむ(泥む)と同根(岩波古語辞典)、
渋滞(なづ)むに通ずと云ふ(大言海)、
ナヅミサハフ(難狭匍匐)の略(雅言考)、

とし、後者を、

懐(なづ)き副(そ)ふの意(大言海)、
ナツキス(懐為)の義(名言通)、
なつそひ(狎着添)の義(言元梯)、

等々とするが、無理筋の気がする。

なづさふの延、

とされ、

狎れる、
馴染む、

意の、

幣帛(みてぐら)にならましものを皇神(スメカミ)の御手に取られてなづさはるべく(神楽歌)、

と、

なづさはる、

がある(大言海)。「なづさふ(なずさう)」は、

「なずさわる」「なずむ」同根。万葉集においては、船や水鳥が浮いている意として用いられており、本来は歌語であったらしい。平安朝以降慣れ親しむの意に用いられた用例が多いが、水にひたるように相手に慣れまつわるところから生じたものか、

とする(日本語源大辞典)、

水にひたる→メタファとして→水にひたるように相手に慣れまつわる、

と転化したものと見ていいようだ。字鏡(平安後期頃)に、

蹈、踐也、布彌(フミ)奈豆佐不、

とあるのは、その転化の過程のように見える。

なお、「なずむ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/428971428.htmlについては触れた。

「泥」(漢音デイ、呉音ナイ)は、「なずむ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/428971428.htmlでも触れたが、

会意兼形声。尼(ニ)は、「尸(ひとのからだ)+比(ならぶ)の略体」で、人と人とが身体をよせてくっついたさまを示す会意文字(この含意は「昵懇」の昵に残る)。泥は「水+音符尼」で、ねちねちとくっつくどろ、

とある(漢字源)。ねちねちとくっついて動きが取れない、という意味を含み、「拘泥」という用例につながる(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+尼)。「流れる水」の象形と「人の象形と人の象形」(「人と人とが近づき親しむ」の意味)から、「ねばりつくどろ」を意味する「泥」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1992.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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白馬(あをうま)の節


睦月(むつき)に若ゆく寿きて、白馬(あをうま)の節(せち)の明けの日、子どもどち呼びて(宿直草)、

にある、

白馬の節の明けの日、

は、

正月八日、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「白馬の節」は、

白馬の節会、
白馬の宴、

といい、

あおうま、
あおばのせちえ、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

正月七日、左右馬寮(めりょう)から白馬(あおうま)を庭に引き出して、天皇が紫宸(ししん)殿で御覧になり、その後で群臣に宴を賜わった。この日、青馬を見れば年中の邪気を除くという中国の故事によったもので、葦毛の馬あるいは灰色系統の馬を引いたと思われる。文字は「白馬」と書くが習慣により「あおうま」という、

とある(仝上)。まず、

青馬御覧の儀式、

があり、

馬寮(めりょう)の御覧より馬の毛付(けづき)を奏聞し(あをうまの奏)、

ついで、

左右の馬寮(めりょう)の官人、あをうまの陣(春華門(しゅんかもん)内)に並び、

順次、

七匹ずつ、三度、

牽きわたす、それを、主上、

正殿に出御ありて、御覧ぜられる、

といい、

春の陽気を助くるなり、

とされる。その後、

節会、

となる、という次第のようである(大言海)。はじめは、

豊楽院(ぶらくゐん)で、後に紫宸殿で行われるようになった、

という(岩波古語辞典)。「青馬」の「青毛」とは、

黒色の、潤沢にして、青み立ちて見ゆるもの、古へに云ひし、黒緑なり、

とあり(大言海)、

あをうま、
あを、

という(仝上)とある。ただ、

古代において、アヲは、黒と白との中間的範囲の広い色名で、灰色もその範囲に含めていた、

とある(日本語源大辞典)。「あを」http://ppnetwork.seesaa.net/article/429309638.htmlで触れたように、

一説に、古代日本では、固有の色名としては、アカ、クロ、シロ、アオがあるのみで、それは、明・暗・顕・漠を原義とする、

といい(広辞苑)、本来「あを」は、

灰色がかった白色を言うらしい

とある(仝上)。そのため、「青」の範囲は広く、

晴れ渡った空のような色、
緑色、

などともある。語源を見ると、

アオカ(明らか)、

される。その意味で、「あを」が、

黒と白との中間的範囲の広い色名、

なのであり、

あを→しろ、

というの変化は、色感覚としては、そんなに変わりなかったのかもしれない。

ところで、ここでの「馬」は、

陽獣にして、青は、青陽の春の色なりと云ふに起これる事なるべし、

とある(大言海)。和訓栞には、

禮記に、春を東郊に迎へて、青馬七尺を用ふと見えたり、

とある。

「白馬の節会」は、

弘仁二年(811)嵯峨天皇の時から儀式として整うようになった、

とされ(仝上)、

初めに御弓奏(みたらしのそう)、
白馬奏(あおうまのそう)、

があり、のちに諸臣に宴が設けられた(日本大百科全書)。この行事は、

平安末ごろから衰え、応仁の乱(1467〜1477)で中絶、1492年(明応1)に再興して、明治初年まで行われた、

という(仝上)。当初は、馬の数は、

21頭、

とされたが、衰亡に伴って減っていった(岩波古語辞典)とあり、この儀式よりも、

五節句の一つ、

七種粥を祝う正月7日の節句である、

七草の節句、

が盛んになった、ともある(仝上)。

もとは、

青馬、

と書いていたが、村上天皇(在位946〜967)のとき、

白馬、

と書き改めたが、訓みは、

あおうま、

のままという(仝上)。白馬節会が始まった当初は、中国の故事に従い、

ほかの馬よりも青み(鴨の羽の色)をおびた黒馬(「アオ」と呼ばれる)、

が行事で使用されていたが、醍醐天皇の頃になると、

白馬または葦毛の馬、

が行事に使用されるようになったが、読み方のみそのまま受け継がれたため、

白馬(あおうま)、

となったとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A6%AC%E7%AF%80%E4%BC%9A。しかし、これは、馬の色がとくに変わったというより、行事の日本化のため、上代の色彩感が平安時代になると、白を重んじる結果である(日本大百科全書)、とある。

「青馬」から「白馬」へと文字表記が変わったことについて、本居宣長は『玉勝間(1795〜1812)』は、

貞観儀式には、青岐(あをき)馬とさへあり、初は、青馬を牽かせられたるに、後に白毛の馬となり、文には白馬(はくば)と書きながら、語には、なほ、古へのままあをうまと訓めりしなり、

と、馬が「青馬」から「白馬」にかわったから、と主張しているが、江次第鈔(室町時代)には、

七日節会……今貢葦毛馬也、

とあり、同時期の康冨記(外記局官人・中原康富の日記)にも、

貢葦毛、

とあり、やはり、「白馬」ではなく

葦毛、

とある。「葦毛」とは、

葦の芽生えの時の青白の色に基づいていう、

もので、

白い毛に黒色・濃褐色などの差し毛のあるもの、

をさし、

栗毛、青毛、鹿毛、の原毛色に後天的に白色毛が発生してくるもの。馬の年齢が進むに従い、色を変えていくので、広く、白毛に黒毛または他の色の差毛(さしげ)のあるもの、

で、

白葦毛、
黒葦毛、
赤葦毛、
山鳥葦毛、
連銭葦毛、
腹葦毛、

等々の種類がある(広辞苑・日本国語大辞典)。つまり、

馬の毛色自体の変化というよりも、灰色系統の色目範囲が青から白に移行したこと、

であり、背景には、

白馬の神聖視、

があるとみられ、

意識的に(「あをうま」に)「白馬」の文字表記を選択した、

とみられる(日本語源大辞典)、とするのが妥当のようである。

「白」(漢音ハク、呉音ビャク)は、「白毫」http://ppnetwork.seesaa.net/article/490150400.htmlで触れたように、

象形。どんぐり状の実を描いたもので、下の部分は実の台座。上半は、その実。柏科の木の実のしろい中身を示す。柏(ハク このてがしわ)の原字、

とある(漢字源)が、

象形。白骨化した頭骨の形にかたどる。もと、されこうべの意を表した。転じて「しろい」、借りて、あきらか、「もうす」意に用いる、

ともあり(角川新字源)、象形説でも、

親指の爪。親指の形象(加藤道理)、
柏類の樹木のどんぐり状の木の実の形で、白の顔料をとるのに用いた(藤堂明保)、
頭蓋骨の象形(白川静)、

とわかれ、さらに、

陰を表わす「入」と陽を表わす「二」の組み合わせ、

とする会意説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD。で、

象形文字です。「頭の白い骨とも、日光とも、どんぐりの実」とも言われる象形から、「しろい」を意味する「白」という漢字が成り立ちました。どんぐりの色は「茶色」になる前は「白っぽい色」をしてます、

と並べるものもあるhttps://okjiten.jp/kanji140.html

「(青)」(漢音セイ、呉音ショウ)は、「青鳥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486120021.htmlで触れたように、

会意。「生(あおい草の芽生え)+丼(井戸の中に清水のたまったさま)」で、生(セイ)・丼(セイ)のどちらかを音符と考えてよい。あお草や清水のような澄み切ったあお色、

とある(漢字源)が、

会意形声。丹(井の中からとる染料)と、生(セイ は変わった形。草が生えるさま)とから成り、草色をした染料、「あお」「あおい」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意。「生」と「丹」を合わせた字形に由来する、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%91

会意兼形声文字です。「草・木が地上に生じてきた」象形(「青い草が生える」の意味)と「井げた中の染料(着色料)」の象形(「井げたの中の染料」の意味)から、青い草色の染料を意味し、そこから、「あおい」を意味する「青」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji137.htmlあり、「生」と「丹」とする説が大勢のようだ。

「馬」(漢音バ、呉音メ、唐音マ)は、

象形文字。「うま」をえがいたもの、

である(漢字源)。

古代中国で馬の最もたいせつな用途は戦車を弾くことであった。むこうみずに突き進むことの意を含む、

とある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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保呂乱す


誉れ世に高きも夫婦の中の善し悪しにあり。ああ保呂乱すべからず(宿直草)、

にある、

保呂乱す、

は、

取り乱す、

意とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、

鷹が両翼の下の羽毛である保呂羽を乱す意から、

ともある(仝上)。「保呂」は、

保呂羽(ば)の略、

で、

鷹(たか)や鷲(わし)の翼の下にある羽、矢羽として珍重された、

とある(広辞苑)。「保呂羽」は、

含(ほほ)みたる羽の意、

とある(大言海)。「ほほむ」は、

ふふ(含)む、

に同じで、

ふくらむ、

意である(広辞苑)。類聚名義抄(11〜12世紀)に、

含、フクム・ククム・フフム、

とあり、

鳥の両翼の下にある羽、隙を補ふものの如し、

という(大言海)。和名類聚抄(平安中期)に、

倍羅麽(麼)、鳥乃和岐乃之多乃介乎、為倍羅麽也、……今俗謂保呂羽、訛也、

とある。

保呂乱す、

は、もと鷹匠用語で、

鷹が保呂羽を乱す、

意とあり、

前後を忘じ母衣を乱して咎を酒に塗るたぐひ(文化七年(1810)「当世七癖上戸」)、

と、

取り乱した言動をなす、

意や、

信玄の母衣を勝頼みだす也(文化五年(1808)「柳多留」)、

と、

身代をなくす、

意で使ったりする(江戸語大辞典)。この「保呂」の他に、

母衣、
保侶、
幌、
縨、

等々と当てて、

矢を防ぐために鎧(よろい)の背にかける、袋状の布製防具、

をも言う(日本国語大辞典)。

甲冑の背につけた幅の広い布で、風にはためかせたり、風をはらませるようにして、矢などを防ぐ具とした。五幅(いつの 約1.5メートル)ないし三幅(みの 約0.9メートル)程度の細長い布である、

とある(日本大百科全書)。

本来は、

雨湿を避けたり、防寒のために用いた、

とある(武家戦陣資料事典)が、後世、平和な江戸時代になると、

保呂は胎内の子のつつまれし胞衣(えな)なり、

などという俗説が生まれ、広く信じられたらしい。しかし、

(母衣の)母の字に付きて後に作為したる僞説、

である。どうやら、南北朝時代には、

錦や金銀襴の厚地のものもあって、一種のマント代わりと軍容を増すためのもの、

であり、

騎走したとき靡くのが格好良いのであり、また裾の方を腰に結びつけると風をはらんで丸くなり、美観と勇壮に見えるので主将とか、いわゆる洒落た武士が用いるところであった、

が、徒歩の場合や、風のないときはふくらまないので、室町時代から、

保呂串で球状につくりそれに母衣をまぶせて、いつもふくらんでいるように見せた、

とあり(仝上)、

竹籠(たけかご)を母衣串(ほろぐし)につけてこれを包み、背後の受け筒に挿した、

のである。室町時代末期からは、

指物としての母衣となり、主将、物頭、使番、剛勇で特に許されたものの用いるものとなった(仝上)。

で、「母衣」も、

保呂衣(ほろぎぬ)、
懸保呂(かけぼろ)、
保呂指物(ほろさしもの)、
矢保呂、

等々と区別して呼ばれたりするようになる(世界大百科事典)。

たとえば、使番の集団を、

母衣衆、

というのは、織田信長が創めたものだが、豊臣秀吉の黄母衣衆、赤母衣衆、腰母衣衆、大母衣衆も、

着用が許される名誉の軍装、

である。考えてみれば、矢はともかく鉄炮の時代、防具として役立ちそうもないものだから、

一種美装と誉れ、

の証しだったのではないか。

この「ほろ」の語源は、「保呂」の、

含(ほほ)みたる羽の意、

と同じく、

ほ(含)ろの義(日本語源=賀茂百樹)、

でいいのではあるまいか、

ヤホロの轉、ヤホロは矢ふくろの意(塩尻)、

は、戦国期に、

背に負うた矢を包む母衣状の矢母衣(やぼろ)、

を使うようになってからのことで、先後逆で、由来とは考えにくい。

フクロの略転(燕石雑記・和訓栞)、

は、母衣を串や籠で象るようになって以降の話であるし、

胎児を守るホロ(胞衣)の意を、敵の矢から守る物に転用した(壒嚢抄)、

に至っては俗説に過ぎない。

なお、「保呂」とよばれるものに、

一番の母衣なんぞは顔ほどもあったよ、母衣とは丸髷へ入れる形(かた)さ(文化十四年(1817)「四十八癖」)、

と、

女髪の丸髷を結うとき、髷を大きくするために入れる張り子の型、最も大形なるを一番という、

とある(江戸語大辞典)。「母衣」を籠などで象ってふくらませたのに準えた、と思われる。

参考文献;
笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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繋念無量劫


正直に思ひ入る一念さりとは恐し。繋念無量劫(けねんむりょうこう)、いかがや贖(あがな)わん(宿直草)、

にある、

繋念無量劫、

は、

仏語、一つの事に執着した一念は、限りない罪業に等しい、

の意(高田衛編・校注『江戸怪談集』)とある。

一念無量劫(いちねんむりょうごう)、

とも、

一念五百生(いちねんごひゃくしょう)、

ともいい、

一念五百生繋念無量劫(いちねんごひゃくしょうけねんむりょうごう)、

ともつづけ、

もし妄想に強くとらわれるときは、はかり知れない長い時間にわたってその罪を受ける、
ただ一度妄念(もうねん)を起こしても量り知れない長期にわたってその報いを受ける、

という意で(精選版日本国語大辞典)、

一ねんむりゃうがうと成る事、今にはじめざる事にて候へば(「曾我物語(南北朝)」)、

と、

男女の愛情についていうことが多い、

とある(仝上)。「無量」は、

はかりしれなく大きいこと、
限りもなく多いこと、
莫大であること、

の意で、

無量劫、

で、

ひじょうに長い時間、限りのない時間、

つまりは、

永劫、

の意で、「無量光」というと、

阿弥陀仏の光明が与えるめぐみの、過去・現在・未来にわたって限りがないこと、

をたたえた言い方になる。

「劫」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485308852.htmlで触れたように、「劫」は、慣用的に、

ゴウ、

とも訓むが、

コウ(コフ)、

が正しい(呉音)。

劫波(こうは)、
劫簸(こうは)、

ともいう(広辞苑)。「劫」は、

サンスクリット語のカルパ(kalpa)、

に、

劫波(劫簸)、

と、音写した(漢字源)ため、仏教用語として、

一世の称、
また、
極めて長い時間、

を意味し(仝上)、

刹那の反対、

だが、単に、

時間、
または、
世、

の義でも使う(字源)。インドでは、

梵天の一日、
人間の四億三千二百万年、

を、

一劫(いちごう)、

という。ために、仏教では、その長さの喩えとして、

四十四里四方の大石が三年に一度布で拭かれ、摩滅してしまうまで、
方四十里の城にケシを満たして、百年に一度、一粒ずつとり去りケシはなくなっても終わらない長い時間、

などともいわれる(仝上・精選版日本国語大辞典)。

「繋念」は、

懸念、
係念、
掛念、

とも当て(精選版日本国語大辞典)、

ケンネンの最初のンを表記しない形、

とある(広辞苑)。平安末期『色葉字類抄』に、

係念、ケネム、

とあり、仏語で、

一つのことにだけ心を集中させて、他のことを考えないこと、
一つのことに心をかけること、

の意で、転じて、

無心無事なるは、真身のあらはるる姿を、繋念の情生ずるは、本心を忘るる時也(「梵舜本沙石集(1283)」)、

と、やはり仏語で、

あることにとらわれて執着すること、

つまり、

執念、

の意でも使う。それが転じて、日葡辞書(1603〜04)では、

気にかかって不安に思うこと、また、そのさま、
気がかり、
心配、

の意になり、


俺(わが)うへには眷念(ケネン)せで、とくとく帰路に赴き給へ(読本「近世説美少年録(1829〜32)」)、

と使い、

拙者が懸念(ケネン)には、若君を鎌倉近処には隠し置きますまい(歌舞伎「男伊達初買曾我(1753)」)、

と、

気をまわして考えること、
推察すること、

の意でも使ったりする(精選版日本国語大辞典)。

「懸念」は、訛って、

けんね、

とも言い、更に訛って、

けんにょ、

ともいう(広辞苑)が、

懸念もない(けんにょもない)、

は、

この男けんによもなき顔して我が名は与太夫とは言はず(「懐硯(西鶴 1687)」)、

と、

思いもよらない、
意外である、

の意や、

はつたとにらむ顔附はけんによもなげにしらじらし(浄瑠璃「曾根崎」)、

と、

知らぬふりをする、
平然としている、

意で使う(精選版日本国語大辞典)。

「懸」(漢音ケン、慣用ケ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。県は、首という字の逆形で、首を切って宙づりにぶらさげたさま。縣(けん)は「県+糸(ひも)」の会意文字で、ぶらさげる意を含み、中央政庁にぶらさがるひもつきの地方区のこと。懸は「心+音符縣」で、心が宙づりになって決まらず、気がかりなこと。また、縣(宙づり)の原義をあらわすことも多い、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(縣+心)。「大地を覆う木の象形と糸の象形と目の象形」(木から髪または、ひもで首をさかさまにかけたさまから、「かける」の意味)と「心臓」の象形から、「心にかける」、「つり下げる」を意味する「懸」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1856.html

「繋(繫)」(漢音ケイ、呉音ケ・ゲ)は、

形声、𣪠(毄)が音を表す、

とあり(漢字源)、

「糸」+音符「𣪠(毄 ケキ→ケイ」の形声。「系」「係」「継」と同系、

とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B9%8B・角川新字源)。別に、

会意兼形声文字です。「車の象形と手に木のつえを持つ象形」(「車がぶつかりあう」の意味)と「より糸」の象形(「糸」の意味)から「つなぐ」、「つながる」を意味する「繋」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2657.html

「掛」(慣用カ、漢音カイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。圭(けい)は、△型に高く土を盛るさま。転じて、∧型に高くかけること。卦(カ)は、卜(うらない)のしるしをかけること。掛は「手+音符卦」で、∧型にぶらさげておくこと、

とある(漢字源)が、別に、

形声。手と、音符卦(クワ→クワイ)とから成る。手で物をひっかける意を表す。もと、挂(クワイ)の俗字、

とも(角川新字源)、

形声文字です(扌(手)+卦)。「5本の指のある手」の象形と「縦横の線を重ね幾何学的な製図の象形と占いの為に亀の甲羅や牛の骨を焼いて得られた割れ目の象形」(「占いの時に現れる割れ目の形」の意味だが、ここでは、「系」に通じ(「系」と同じ意味を持つようになって)、「かける」の意味)から、「手で物をひっかける」を意味する「掛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1604.html

「係」(漢音ケイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。系は、ずるずる引くさまと、糸の会意文字。係は「人+音符系」で、ひもでつなぐこと、系の後出の字、

とある(漢字源)。

「系」は「糸(紐など)」でつないでずるずると引く様https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BF%82
人と、系(ケイ つなぐ)とから成り、人の「つながり」の意を表す。「系」の後にできた字(角川新字源)、

ともあり、

会意兼形声文字です(人+系)。「横から見た人の象形」と「つながる糸を手でかける象形」(「つながり」の意味)から「人と人とをつなぐ・つながり」を意味する「係」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji394.html

「念」(漢音デン、呉音ネン)は、

会意兼形声。今は「ふさぐしるし+−印」からなり、中に入れて含むことをあらわす会意文字。念は「心+音符今」で、心中深く含んで考えること。また吟(ギン 口を動かさず含み声でうなる)とも近く、経をよむように、口を大きく開かず、うなるように含み声でよむこと、

とある(漢字源)。別に、

形声。心と、音符今(キム、コム)→(デム、ネム)から成る。心にかたくとめておく意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(今+心)。「ある物をすっぽり覆い含む」事を示す文字(「ふくむ」の意味)と「心臓」の象形から、心の中にふくむ事を意味し、そこから、「いつもおもう」を意味する「念」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji664.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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はふはふ


其の中にひとり負けて、はふはふの有様なり(宿直草)、

とある、

はふはふ、

は、

頼みをかけ奉りて、這ふ這ふ参り候ひつるなり(今昔物語集)、

と、

這ふ這ふ、

と当てるが、

はふはふの有様、

で、

さんざんの有様、

の意とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、現代語では、

ほうほう、

と表記する(広辞苑)。書言字考節用集(享保二(1717)年)には、

匍匍、ハフハフ、

とある。

「はう(這)」の終止形が重なって成立した語、

で(日本国語大辞典)、

はうようなかっこうでやっと進むさま(学研全訳古語辞典)、
やっとのことで歩くさま(デジタル大辞泉)、

など、

這うようにしてやっと進むさま、

を言い、

散々な思いをして何とか逃げおおせる様子、
失敗(しくじ)りてそこそに逃げる様子、

を(大言海)、

這々の体(這う這うの体)、

と表現する(広辞苑)。日葡辞書(1603〜04)にはき、

ハウハウノテイデニゲタ、

とある。「はふはふ」は、もともと、

太刀を抜き、杖に突き、はふはふ参り、縁へ上らんとしけれども(義経記)、

と、

這うようにして、かろうじて歩く、

という状態表現から、

希有にしてたすかりたるさまにて、はうはう家に入りにけり(徒然草)、
ほうほうと逃げてぞ残りける(伊曾保物語)、

と、

散々な目にあってかろうじて逃げだすさま、

という価値表現や、

大白衣にて、はうはう仁和寺へ参り(平治物語)、
馬を捨てて、はふはふ逃ぐる者もあり(平家物語)、

と、

あわてふためいて、
取るものも取りあえずに、

という価値表現に転じた(大辞林・日本国語大辞典・広辞苑)。

「這」(慣用シャ、漢音呉音ゲン)は、

会意兼形声。「辶(足の動作)+官符言(かどめをつけていう)」で、かどめのたったあいさつをのべるためにでていくこと、

とあり(漢字源)、「迎」と類義語で、

むかえる、
出迎えて挨拶する、

意である。

老人が人を出迎える時によろばいでてくるということから、這の字を当てた、

のではないか、とある(仝上)。

はう、

つまり、

手足を地面につけて進む、

意で使うのは、我が国だけである。

ただ、「這」は、

宋の時代に、「これ」「この」という意味の語を「遮個」「適個」と書き、その遮や適の草書体を誤って這と混同した。「這個」(シャコ これ)、「這人」(シャジン この人)で、指示代名詞の、

これ、
この、

の意で使い(仝上)、

現代中国では、"zhè"の音で近称の指示代名詞として用いられ(簡体字:这)、元の音(yán)及び意味は失われている。これは、宋代に「これ」「この」という意味の語を遮個・適個と書き、その遮や適の草書体を誤って這と混同したことによる、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%99。別に、

会意兼形声文字です(辶+言)。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」、「道」の意味)と「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつし(慎・謹)んで)言う」の意味)から、「道を言う」を意味し、そこから「この」、「これ」を
意味する「這」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2752.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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三つ瀬の川


三つ瀬の川を瀬踏みして、手を取りて渡すは、初めて会ふ男の子なりと世話にも云ひならはせり(宿直草)、

に、

三つ瀬の川、

は、

三瀬川(みつせがわ)、

とも表記し、

死出の山、三途の河をば、誰かは介錯申すべき(保元物語)、

の、

三途の川、

の意である。

死後7日目に冥土(めいど)の閻魔(えんま)庁へ行く途中で渡るとされる川、

である。偽経「十王経」が説くところでは、

死出の山、

に対する語とされ、

川中に三つの瀬があって、緩急を異にし、生前の業(ごう)の如何によって渡る所を異にする、

といい(広辞苑)、

葬頭河曲(さうづがはのほとり)、……有大樹、名衣領樹、影住二鬼、一名脱衣婆、二名懸衣翁(十王経)、

と、

川岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があり、脱衣婆(だつえば)がいて亡者の着衣をはぎ、それを懸衣翁(けんえおう)が大木にかける。生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が違うので、それを見て、緩急三つの瀬に分けて亡者を渡らせる、

という(日本大百科全書)。「三途」については、『金光明経』では、

地獄・餓鬼・畜生の三途の分かれる所、

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、「三途(さんづ)」とは、

三塗、

とも当て、

死者が生前の悪業に応じて苦難を受ける火途・刀途・血途の三つをいい、これを地獄・餓鬼・畜生の三悪道に当てる、

とある(岩波古語辞典)。

「十王経」では、

葬頭河曲。於初江辺官聴相連承所渡。前大河。即是葬頭。見渡亡人名奈河津。所渡有三。一山水瀬。二江深淵。三有橋渡、

と、

緩急三つの瀬があり生前の罪によって渡るのに三つの途(みち)がある、

とし、生前の業ごうによって、

善人は橋を渡る(デジタル大辞泉)、

が、他は、

川の上にあるのを山水瀬(浅水瀬ともいう)といい、水はひざ下までである。罪の浅いものがここを渡る。川の下にあるのは強深瀬(江深淵)といい、流れは矢を射るように速く、波は山のように高く、川上より巌石が流れ来て、罪人の五体をうち砕く(世界大百科事典)、

とある。

「十王経(じゅうおうきょう)」は、

中国の民間信仰と仏教信仰との混合説を示す偽経、

とされ、諸本があるが、唐代の、

閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経、

や、平安時代末期の、

地蔵菩薩発心因縁十王経、

などが流布した(仝上)とある。

死後、主として中陰期間中に、亡者が泰広王、初江王、宋帝王など、10人の王の前で、生前の罪業を裁かれる次第を述べ、来世の生所と地蔵菩薩の救いを説いて、遺族の追善供養をすすめるもの。期間はさらに百ヵ日、一周忌、三周忌に延長される、

といい(「中陰」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485912319.htmlについては触れた)、

中世の中国で、泰山信仰や、冥府信仰が流行するのに伴って、仏教側で考えだしたものらしい、

ともある(仝上)。「十王経」などの説く「十王」は、

地獄において亡者の審判を行う10尊、

をいい、

閻魔大王、

はその一人になる(「十王」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8Bに詳しい)。

「三途の川」は、

葬頭河(そうずか)、
渡り川、

とも称するが、「さうづ」というは。

三(サム)の音便、

とあり(大言海)、

葬頭河とは借字、

とあり、

そうずがわ(三途川・葬頭川)、
しょうずがわ(三途川)、

とも訓むのは転訛と思われる(広辞苑)。

因みに、「三途の川」に対する、

死出(しで)の山、

とは、

死後、越えて行かなければならない山、

つまり、

冥途、

とされる(精選版日本国語大辞典)が、「十王経」に、

閻魔王国境死天山南門、亡人重過、両基根逼、破膝割膚、折骨漏髄死而重死、故曰死天、従此亡人向入死山、

とあり、この、

死天山、

から出た語といわれる。これによれば、

閻魔王国との境に死天山の南門があり、死者はこの山に行きかかり、さらに死を重ねるほどの苦しみにあう、

という(精選版日本国語大辞典)。

しでの山ふもとを見てぞ帰りにしつらき人よりまづこえじとて(古今集)、

にあるように、「古今和歌集」以来、

「しでの山」は、「あの世」と「この世」とを隔てる山として理解されており、やはり両者を隔てる川「みつせ川(三途川)」とともに、しばしば、

又かへりこぬ四手(シデ)の山(ヤマ)、みつ瀬川(平家物語)、

と並べて用いられた(精選版日本国語大辞典)。

「三」(サン)は、「三会」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484736964.htmlで触れたように、

指事。三本の横線で三を示す。また、参加の參(サン)と通じていて、いくつも混じること。また杉(サン)、衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで模様を成すの意も含む、

とある(漢字源)。また、

一をみっつ積み上げて、数詞の「みつ」、ひいて、多い意を表す、

ともある(角川新字源)。

「瀬」(ライ)は、

形声。瀬は「水+音符頼(ライ)」で、頼は音符としてのみ用い、その原義(他人になすりつける)とは関係がない。激しく水の砕ける急流のこと、

とあり(漢字源)、我が国では、「逢瀬」と、「場合」の意や、「立つ瀬」と立場、の意で使う。別に、

形声文字です(氵(水)+頼(ョ))。「流れる水」の象形と「とげの象形と刀の象形と子安貝(貨幣)の象形」(「もうける・たよる」の意味だが、ここでは、「刺」に通じ(「刺」と同じ意味を持つようになって)、「切れ目が入る」の意味)から、「水がくだけて流れる、急流」を意味する「瀬」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1464.html

「途」(漢音ト、呉音ド)は、

会意兼形声。「辶+音符余(おしのばす)」で、長くのびるの意を含む、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(辶(辵)+余)。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「先の鋭い除草具の象形」(「自由に伸びる」の意味)から、「どこまでも伸びている道」を意味する「途」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1135.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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三諦円融


三諦(さんたい)円融(えんにゅう)の妙理を問ふに、果たして台密の極談(ごくだん)、その弁懸河(けんが とどこおることなくすらすら語る)なり(宿直草)、

の、

「三諦円融(さんたいえんにゅう・さんだいえんにゅう)」は、

円融三諦(えんにゅうさんたい・えんにゅうさんだい)、

ともいい(「えんゆう」は「えんにゅう」と連声になることが多い)、また、

不思議の三諦、

ともいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E8%AB%A6%E5%86%86%E8%9E%8D

天台に説く、「諦」は真理の意。諸法は空・仮・中三諦に解釈されるが、本来真実としては区別なく、絶対的同一であること、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。天台宗で説く三つの真理は、

空諦(くうたい 一切存在は空である)、
仮諦(けたい 一切存在は縁起によって仮に存在する)、
中諦(ちゅうたい一切存在は空・仮を超えた絶対のものである)、

とされ、それぞれ、

独立の真理(隔歴(きゃくりゃく)三諦)、

とみるのでなく、

その本体は一つで三者が互いに円満し合い融通し合って一諦がそのままただちに他の二諦である、

として、

即空・即仮・即中、

とする(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)をいう。円融と隔歴の関係は、

無差別と差別、
絶対と相対、

という関係に近い(精選版日本国語大辞典)とある。この、

一切の存在には実体がないと観ずる空観(くうがん)、

と、

一切の存在は仮に現象するものであると観ずる仮観(けがん)、

と、

この空仮の二観を別々のものとしない中観(ちゅうがん)、

との三観を、

一思いの心に同時に観じ取ること、

を、

一心三観(いっしんさんがん)、

という(精選版日本国語大辞典)。一瞬の心のうちに、

空観、仮観(けかん)、中観の三観が成立する、

というのは、

竜樹の思想を実践しようとするもの、

である(百科事典マイペディア)、ともされる。

「圓融」(えんゆう 「えんにゅう」と連声になることが多い)は、漢語で、

公家之費、敷於民者、謂之円融(長編)、

と、

あまねくほどこす、

あるいは、

靈以境生、境因円融(符載銘)、

と、

なだらかにして滞りなし、

の意(字源)だが、天台宗・華厳宗では、

一切存在はそれぞれ個性を発揮しつつ、相互に融和し、完全円満な世界を形成していること、

つまり、

円満融通、

をいう(広辞苑)。

「三諦」(さんたい・さんだい)は、

有諦・無諦・第一義諦、

とも、また、

空諦・色諦・心諦、

ともいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E8%AB%A6%E5%86%86%E8%9E%8Dが、この三諦の真理を観ずる智慧として、

空観・仮観・中道観、

の三観を立てる。三諦と三観は、

所観の境、

と、

能観の智、

の関係だが、本来的には三観と三諦は同体であり、不二である(仝上)、とある。これを、

観法の側面、

から見ると、

一切の存在には実体がないとする空観、一切の存在は仮に現象するものであるとする仮観、空観と仮観の二観を別のものではないとする中道観の三観を順序や段階を経ずに一心のなかに同時に観じとること、

を、

一心三観、

といい、観法の究極的な目標とする。これに対して、

真理の側面、

から見ると、

空・仮・中の三諦が究極においてはそれぞれ別のものではなく、相互に障ることなく完全に融けあっているということ、

となる(仝上)。つまり、

相即無礙、

である(仝上)。

「圓」(エン)の字は、「まる(円・丸)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.htmlで触れたように、

会意兼形声。員(イン・ウン)は、「○印+鼎(かなえ)」の会意文字で、まるい形の容器を示す。圓は「囗(囲い)+音符員」で、まるいかこい、

とあり(漢字源)、「まる」の意であり、そこから欠けたところがない全き様の意で使う。我が国では、金銭の単位の他、「一円」と、その地域一帯の意で使う。別に、

会意兼形声文字です(囗+員)。「丸い口の象形と古代中国製の器(鼎-かなえ)の象形」(「口の丸い鼎」の意味)と「周
意味)から、「まるい」を意味する「円」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji194.html

「円」は、「圓」の略体。明治初期は、中の「員」を「|」で表したものを手書きしていた。時代が下るにつれ、下の横棒が上に上がっていき、新字体採用時の終戦直後頃には字体の中ほどまで上がっていた、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%86%86

「融」(漢音ユウ、呉音ユ)は、

形声。「鬲(ふかしなべ)+音符蟲の略体」で、なべてぐつぐつととかしたように、平均し調和したコロイド状(微細な粒子となって他の物質の中に分散している状態)になること。蟲の原義(へび・むし)には関係がない、

とある(漢字源)。別に、

形声、「鬲」は鼎(かなえ)で、鼎の中で「とかす」ことhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%9E%8D

形声、蒸気が立ちのぼる意を表す。ひいて「とおる」、転じて、物が「とける」意に用いる(角川新字源)、

会意兼形声文字です(鬲+虫)。「古代、中国の金属製の器、鼎」の象形と「頭が大きくてグロテスクなまむし」の象形から、鼎から虫がはい出るように蒸気が立ち上るさまを表し、そこから「とける」を意味する「融」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1380.html

等々ともある。

「三」(サン)は、「三会」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484736964.htmlで触れたように、

指事。三本の横線で三を示す。また、参加の參(サン)と通じていて、いくつも混じること。また杉(サン)、衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで模様を成すの意も含む、

とある(漢字源)。また、

一をみっつ積み上げて、数詞の「みつ」、ひいて、多い意を表す、

ともある(角川新字源)。

「諦」(漢音テイ、呉音タイ)は、

会意兼形声、「言+音符帝(しめくくる)」、

とあり(漢字源)、

形声。言と音符帝(テイ)明らかにする意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(言+帝)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「木を組んで締めた形の神を祭る台」の象形(「天の神、天下を治める、みかど」の意味だが、ここでは、「しめくくる」の意味)から、「言葉で締めくくり、明らかにする」を意味する「諦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2135.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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八識


智は是万代の宝、八識不忘(ふもう)の田地(でんち)に納む。師、訝しくは試みに問へ(宿直草)、

に、

八識不忘の田地、

とあるは、

唯識大乗の見地から、小乗仏教を合わせて、人間のもつ八種の悟性をいう。「田地」はそれを納める心、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

八識(はっしき)、

は、唯識(ゆいしき)宗で、

色・声(しょう)・香・味・触(そく)・法、

の六境を知覚する、

眼(げん)識・耳(に)識・鼻識・舌識・身識・意識、

の、

六識(ろくしき)、

に、

末那識(manas まなしき)、
阿頼耶識(ālaya-vijñāna あらやしき)、

を加えたものをいう(広辞苑・大言海)。天台宗では、

阿摩羅識(amala-vijñāna あまらしき)、

を立て、全九識とし、真言宗では、

乾栗陀耶識(紇哩陀耶識 hṛdaya-vijñāna けんりつだやしき)、

を立て、

十識、

とするhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%AD%98。「識」は、

サンスクリット語でビジュニャーナvijñāna、パーリ語でビンニャーナviññāa、

で、

心(チッタcitta)、意(マナスmanas)と同義、

とある(日本大百科全書)が、

心の異名にて、了別の義。心境に対して、了別する故に識と云ふ、

とある(大言海)のが正確ではないか。「了別」(vijñapti りょうべつ)とは、

ものごとを認識する働き、

をいい、

八識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)すべてに通じる働き、

http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%B9%E3%81%A4、識の業として、

了別外器、
了別依止、
了別我、
了別境界、

の4種があり、このなかの、

了別外器と了別依止は阿頼耶識、
了別我は末那識、
了別境界は六識、

の働きをいう(仝上)ともある。

「末那識(まなしき)」は、

意の常態、

とある(大言海)が、

眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のこと、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98、これを、

マナス(manas 思い量る意)、

もしくは、

クリシュタ・マナス(klia-manas 染汚意)と呼んだ(日本大百科全書)。それは、

第八の阿頼耶識(あらやしき)を対象として我執を起し、我見、我癡、我慢、我愛を伴って我執の根本となる「けがれた心」である、

からとされる(ブリタニカ国際大百科事典)。

その「阿頼耶識(あらやしき)」は、

一切諸法の種子を含蔵して、その根本となるもの、

とある(大言海)が、

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識、

の七識が表層的、意識的であるのに対し、「阿頼耶識」は、

深層心理的、無意識的な認識、

であり、

前七識とその表象、つまり自我意識、意識ある存在者、自然などのあらゆる認識表象を生み出すとともに、それらの表象の印象を自己のうちに蓄える、

ことから、

種子、

に例えられ、

刻々に変化しながら成長し、成熟すると世界のあらゆる現象を生み出し、その果実としての印象を種子として自己のなかに潜在化する。世界は外的な実在ではなく、個体の認識表象である、

とある(日本大百科全書)。

「阿摩羅識(あまらしき)」は、

けがれが無い無垢識・清浄識、また真如である真我、如来蔵、心王、

であるとし、すべての現象はこの阿摩羅識から生れると位置づけた。したがってこれを、

真如縁起、

などともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%91%A9%E7%BE%85%E8%AD%98

真如は絶対なる真我なれば「識」とは言い難いが、前の八識に隋縁生起する本源なることから阿摩羅識と名づけられた。したがって法性宗における、

仏性の異名、

である(仝上)とする。

「乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」は、

最深層にある宇宙意識、

であるが、「仏性」を超えた物を何と呼んでいいのか。「識」の次元とは異次元のように思われる。

「八入」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484945522.htmlで触れたように、「八」(漢音ハツ、呉音ハチ)は、

指事。左右二つにわけたさまを示す(漢字源)、

指事。たがいに背き合っている二本の線で、わかれる意を表す。借りて、数詞の「やつ」の意に用いる(角川新字源)、

象形文字です。「二つに分かれている物」の象形から「わかれる」を意味する「八」という漢字が成り立ち、借りて、数の「やっつ」の意味も表すようになりましたhttps://okjiten.jp/kanji130.html

などと説明される。

「識」(漢音ショク、呉音シキ、漢音・呉音シ)は、

会意兼形声。戠の原字は「弋(棒ぐい)+Y型のくい」で、目印のくいをあらわす。のち、口または音を揃えた字となった。識はそれを音符とし、言を加えた字で、目印や名によって、いちいち区別して、その名をしるすこと、

とある(漢字源)が、

会意形声。「言」+音符「戠」、「戠」は「幟・織」の原字で「戈」に飾りをつけたもので、標識を意味する、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AD%98

形声。言と、音符戠(シヨク)とから成る。意味をよく知る、記憶する意を表す。ひいて「しるし」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(言+戠)。「取っ手のある刃物・口の象形」(「(つつしん)で言う」の意味)と「枝のある木に支柱を添えた象形とはた織り器具の象形」(はたを「おる」の意味)から、言葉を縦横にして織り出して、物事を「見分ける」、「知る」を意味する「識」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji787.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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芝が眉宇


才(ざえ)も徳(とこ)も尊(たと)うして、また美僧なり。芝が眉宇(びう)も色を失う(宿直草)、

とある、

芝が眉宇、

は、

唐の房琯(ぼうかん)が紫芝の眉を誉めた故事により、立派な眉をもつ顔。眉宇は眉だけでなく、仏者の尊顔の意がある、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「眉宇」は、

決意を眉宇に漂わせる、

というように、

眉のあたり、

を意味し(広辞苑・字源)、また、

聲名赫赫(かくかく)として、窮塞(きうさい)に在り、
眉宇堂堂として、眞に丈夫(梅尭臣・劉謀閣副に贈る)、

と、

眉つき、

の意でも使う(字通)。

「宇」は軒(のき)。眉(まゆ)を目の軒と見たてていう語、

とあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

太子曰、僕病未能也、然陽気見於眉宇之閨i枚乗)、

と、

眉端、額をいふ、眉の面における家に宇(のき)のある如し、故にいふ(字源)、
宇は簷(のき)、眉の顔面にあるは、家に簷あるが如ければ云ふ(大言海)、

などとある。

芝が眉宇、

は、多く、

芝眉(しび)、

あるいは、

芝宇、

ともいい、さらに、

紫眉、

紫宇、

ともいう(字源)。

宇は眉宇、

の意とあり(仝上)、

人の顔色をたたへ称す、

とある(仝上)。つまり、

遠く手諭を承け、芝眉に對するが如し。復(ま)た渥儀を荷ふ。安(いづく)んぞ敢て濫(みだ)りに拜せん。唯だ心に良友の至愛を銘するのみ(顔氏家蔵尺牘)、

と、

貴人の相。尊称に用いる、

のである(字通)。この由来は、

元徳秀、字紫芝、質厚少縁飾、房琯毎見徳秀、歎息曰、見紫芝眉宇、使人名利之心都盡(唐書・卓行傳)、

とある(字源)。

「眉」(漢音ビ、呉音ミ)は、

象形。目の上の眉があるさまを描いたもので、細くて美しいまゆ毛のこと、

とある(漢字源)。

まゆ毛を美しくかざりたてたさまにかたどる(角川新字源)、

ともある。

「宇」(ウ)は、

会意兼形声。于は大きく曲がるさまを示す。宇は「宀(やね)+音符于(ウ)」で、大きくて丸い屋根のこと、

とある(漢字源)が、

形声。宀と音符于(ウ)とから成る。屋根のひさし、家の四方のすみ、ひいて、上からおおう所の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(宀+于)。「屋根・家屋」の象形と「弓の反りを正す為の道具」の象形(「弓なりに曲がってまたがる」の意味)から、家屋の外で、またぐように覆う部分「軒(のき)」を意味する「宇」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji992.htmlある。「宇」は、「屋根」よりは「軒」の意ではないか。

「芝」(シ)は、

会意兼形声。「艸+音符之(シ すくすくのびる)」。之は、象形。足の先が線から出て進みゆくさまを描いたもの。進みゆく足の動作を意味する。先(跣(セン)の原字。足先)の字の上部は、この字の変型である。「これ」という言葉に当てたのは音を利用した当て字。是(シ これ)、斯(シ これ)なども当て字で之(シ)に近いが、其・之、彼・此が相対して使われる、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(艸+之)。「並び生えた草」の象形と「立ち止まる足の象形と出発線を表す線」(出発線から一歩踏み出していく事を示し、「ゆく」の意味)から、地面などから、足を突き出したように生える、「しば」、「霊芝(れいし)」を意味する「芝」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1204.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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入相の鐘


なほ入相の鐘に花を惜しみし春の夕暮れ、來し方なつかしく、その里、かれこれと歩(あり)くに(宿直草)、

とある、

入相(いりあい)の鐘、

は、

日没のとき、寺で勤行(ごんぎょう)の合図につき鳴らす鐘、また、その音、

の意であり、

三井の晩鐘、

というように、

晩鐘(ばんしょう)、

ともいい(この対が、暁鐘。)、

登攀春黛裡、拝頂暮鍾辰(杜甫)、

と、

暮鐘(ぼしょう)、

あるいは、

くれのかね、

ともいう(広辞苑・日本国語大辞典)。

「いりあひ」は、

或る夕ぐれの入りあひばかりの事なるに寝屋入り(善悪報いばなし)、

と、

日没、

の意である(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。また、

間に y の音がはいって「いりやい」と読まれる場合もある、

ともある(精選版日本国語大辞典)。

日の、山の端に入る頃、

つまり、

たそがれ、
薄暮、

の意である(大言海・字源)。類聚名義抄(11〜12世紀)に、

日没、イリアヒ、

とある。漢語の「入相」は、

にゅうしょう、

と訓ませ、

イリテショウタリ、

と、訓読し、

州郡の官より、朝廷に入りて宰相となること、

とある(字源)。「いりあひ」に、

入相、

と当てたのは当て字だが、その由来ははっきりしない。

入り(日の入る)+あい(接続詞 ちょうどそのころ)、

とある(日本語源広辞典)。「あふ」は、

逢、
合、
会、
嫁、
遇、
和、
饗、

等々と当て(大言海)、

楽浪(ささなみ)の志賀(しが)の大わだ淀(よど)むとも昔の人にまたも逢(あ)はめやも(万葉集)、

と、

二つのものが互いに寄っていきぴったりとぶつかる、

という、

出会う、
とか
対面する、

意や、

折にあひたる羅(うすもの)の裳あざやかに(源氏物語)、

と、

二つのものが近寄ってしっくりと一つになる、

という、

調和する、
とか、
ピッタリ一つになる、

意がある動詞「あふ」と関連する接続詞に、

相、

を当て、

相飲み、
相あらそひ、

と、

互いに、

の意や、

相栄え、
相寝、

と、

一緒に、
ともどもに、

の意で使う(岩波古語辞典)。しかし、接続詞であるより、動詞「あふ」で、

入りてあふ、

の意と考えれば、

日の、山の端に入る頃、

という意味(大言海)と重なる気がするのだが。別に、思い付きとしつつ、

村や集落で、山の柴草や山菜をとる為に、相互いの民が共同で立ち入る事が出来る山を、入相の山といいます。
入相の山に沈む陽から、転用されたものではないでしょうか、

とあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q143445679のも、意味は同じである。

なお、

入相一里、

という諺がある。

入相の鐘を聞いてから、日が暮れるまでにはまだ一里は歩ける、

という意味らしい(故事ことわざの辞典)。

「たそがれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479991859.html、「逢魔が時」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.htmlについては触れたことがある。

「入」(慣用ジュ、漢音ジュウ、呉音ニュウ)は、「八入」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484945522.htmlで触れたように、

指事。↑型に中へ突き進んでいくことを示す。また、入口を描いた象形と考えてもよい。内の字に音符として含まれる、

とある(漢字源)。ために、

象形。家の入り口の形にかたどり、「いる」「いれる」意を表す(角川新字源)、
象形。「入り口」の象形から「はいる」を意味する「入」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji177.html

と、象形説もある。

「相」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、「麁相」http://ppnetwork.seesaa.net/article/490932051.html?1661281209で触れたように、

会意。「木+目」の会意文字で、木を対象において目でみること。AとBが向き合う関係を表す、

とある(漢字源)。別に、

会意。目と、木(き)とから成り、目で木を見る、ひいて「みる」意を表す。借りて、すがた、あいたがいの意に用いる、

ともある(角川新字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ひらたけ


小一條の社にありける藤の木に、平茸(ひらたけ)多くはえたりけるを、師に取り持ち來て(今昔物語集)、

にある、

平茸、

は、

榎の木などに生え、形は象の耳に似て、表面は褐色、裏面は白色、なま椎茸のようで味がよいという。ひじり好むもの、ひらの山こそ尋ぬなかれ、弟子やりて、松茸、平茸、なめすすき……(梁塵秘抄)、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。『梁塵秘抄』のくだりは、

聖の好むもの、比良の山をこそ尋ぬなれ、弟子やりて、松茸、平茸、滑薄(なめすすき 榎茸(えのきたけ))、さては池に宿る蓮のはい(蔤 蓮根)、根芹(ねぜり)、根ぬ菜(ねぬなは じゅんさい)、牛蒡(ごんぼう)、河骨(かわほね・こうほね)、独活(うど)、蕨、土筆(つくづくし)、

とある「ものづくし」の一節であるhttp://false.la.coocan.jp/garden/kuden/kuden0-2.html

「平茸」は、

あわびたけ、
かきたけ、

ともいい(たべもの語源辞典)、会津地方では、

カンタケ、

東北地方では、一般に、

ワカエ、

の名で親しまれ(日本大百科全書)、秋田県鹿角、岩手県釜石、青森県上北では、

ムキダケ、

熊本県では、

クロキノコ、

と呼ばれる(たべもの語源辞典)。

春から秋にかけて広葉樹の枯れ木に重なり合って発生する。カサは直径5〜15センチの半円形、灰色または鼠色で、片側に柄がある。このカサの色や形は、発生する場所で異なる。肉は白く柔らかく、汁、煮物、焼いて田楽、あえ物、油いためなどにする、

とある(たべもの語源辞典)が、別名、

四季きのこ、

と言われ、年中発生しているように思われているが、本当の、

ひらたけ、

は、晩秋から採取できるものを言い、春から秋にかけて 採取できるのは、

うすひらたけ、

を指し、

一般的に採取され「ひらたけ」と呼ばれているのは、「うすひらたけ」のことをいう、

とあるhttp://www.sansaikinoko.com/hiratake.htm

だから、「ひらたけ」は、

かんたけ(寒茸)、

ともいい、

晩秋ブナの枯れ木などに折り重なって発生し、肉厚も十分で、ボリュームがあり、色は灰黒色が多いのですが、中には灰白色、茶褐色も時にはあります、

とある(仝上)。野生の「ひらたけ」は、

傘が半円形または扇形で、側方に短い茎をつける。幅5〜15センチメートル。表面は滑らかで、若いときは青黒いが、まもなく色あせてねずみ色から灰白色になる。ひだは白く茎に垂生。茎には白い短毛が生えている。胞子紋は淡いピンク色を帯びる。晩秋から冬にかけて、広葉樹の枯れ木に重なり合って群生する、

とある(日本大百科全書)。

カンタケ、

ともよぶのは、しばしば雪の下からでも生える故らしい(仝上)。かさが、

表面は平滑、

なのが名前の由来らしく、

マツタケに似てやせて、カサが薄く平たいのでこの名がついた、

とある(たべもの語源辞典)。

「うすひらたけ」は、春から秋にかけて発生し、

傘の表面は灰色、ヒダは白色で、茎が無いのが特徴、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%92%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%82%B1。野生のものは、梅雨時期から初秋にさまざまな広葉樹の倒木や切り株の上に折り重なる様にして群生する。野生のウスヒラタケは小型で薄く、傘の色は白〜淡黄色のものが多い(仝上)という。「ひらたけ」との違いは、

発生時期が違うのと、きのこが小型で肉が薄く、傘の色も白に近い淡黄色、

で区別ができるhttp://www.sansaikinoko.com/hiratake.htmとある。

「ひらたけ」は、平安時代中期には食用にされていたが、

近来往々食茸有死者、永禁断食平茸、戒家中上下、

とある(藤原実資『小右記』)ように、毒キノコによる死亡事故の多発を理由に家中にヒラタケを食べることを禁じる旨が記されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%82%B1

「ひらたけ」に外見が似ているのに、

つきよたけ(月夜茸)、

という毒きのこがある。別名、

わたり、

といい、『今昔物語集』には、「平茸」を御馳走すると偽って「わたり」を食わせて殺そうとしたが、相手は「わたり」と承知の上で、

年来、此の老法師は、未だかくいみじく調美せられたるわたりをこそ食ひ候はざりつれば、

と嘯いたとあり、

此の別當は、年来わたりを役(やく)と食ひけれども酔はざりける僧にてありけるを、知らで構へたりける事の、支度たがひてやみにけり。されば、毒茸を食へどもつゆ酔はぬ人の有りけるなりけり、

と結んでいる(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

このきのこは、

「うすひらたけ」ととても似かよっている「毒キノコ」です。 特に幼菌は傘を割って中の「シミ」を確認しないとわからないほどです。「うすひらたけ」より身が厚かったり、色が濃かったりして注意をすればわかります、

とあるhttp://www.sansaikinoko.com/hiratake.htmが、

ひだと柄の境がはっきりしており、ひだは柄に垂生せず(稀に垂生することがある)、一種の臭気があり、柄の基部の肉は常に暗紫色である。新鮮なツキヨタケはひだが全面にわたって発光することから夜間に白く発光する、

ともある(たべもの語源辞典)。

「たけ(茸)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461300903.html、「しめじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480249609.html、「マツタケ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479944235.htmlについては触れた。

「平」(漢音ヘイ、呉音ビョウ、慣用ヒョウ)は、

象形。浮草が水面にたいらに浮かんだ姿を描いたもの、萍(ヘイ うきくさ)の原字。下から上昇する息が、一線の平面につかえた姿ともいう、

とある(漢字源)。後者の説は、

「于」+「八」の会意、気が立ち上り天井につかえ(于)、それが分かれる(八)、又は、斧(于)で削る(八)様、

とする(白川静)説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B9%B3

「茸」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、

会意。「艸+耳(柔らかい耳たぶ)」。柔らかい植物のこと、

とある(漢字源)。

会意兼形声文字です(艸+耳)。「並び生えた草」の象形と「耳」の象形(「耳」の意味)から、耳のような草が「しげる」、耳のような形をした「きのこ」を意味する「茸」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2684.htmlのも同趣旨。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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錦木


夜に増し日に添ひ、錦木(にしきぎ)も千束(ちくさ)になり、浜千鳥のふみ行く跡の潮干の磯に、隠れ難くぞ侍る(宿直草)、

にある、

錦木も千束になり、

の、

錦木、

は、落葉低木の、

ニシキギ、

ではなく、

男が女に逢おうとする時、女の家の門にこれを立て、女に応ずる心があれば取り入れ、取り入れなければ男がさらに加えて、千束を限りとする風習があった、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

錦木はたてながらこそ朽ちにけれ狭布(けふ)の細布(ほそぬの)胸あわじとや(能因法師)、
思いかね今日(けふ)たちそむる錦木の千束にたらであうよしもがな(大江国房)、
たてそめてかへる心は錦木の千束(ちづか)まつべき心地こそせね(西行)、

などと詠われる題材になっているらしい。平安後期から中世にかけて、

(上記風習を念頭に)好んで和歌に詠まれた、

し、

文を付けて贈る習慣、

があり、

錦木にかきそへてこそ言の葉も思ひ染めつる色は見ゆらめ(顕昭 六百番歌合・恋)、

のような歌も残っている(精選版日本国語大辞典)とあり、

恋文の雅称、

として「錦木」は使われたりする。ちなみに、

狭布(けふ)の細布(ほそぬの)、

は、

歌語として「今日」をかけ、また、幅もせまく、丈(たけ)も短くて胸をおおうに足りないところから、「胸合はず」「逢はず」の序詞とする、

と解釈されている(精選版日本国語大辞典)。「細布」は、

新羅……調貢(みつぎものたてまつ)れり。金銀銅鉄鹿の皮細布(ホソヌノ)の類(たくひ)、各数有り(日本書紀)、

と、

細い糸で織った高級の布、

だが、

幅のせまい布。奥州の特産、

であったらしい(仝上)。「千束」は、上記引用では、

ちくさ、

と訓ませているが、

ちつか、
ちづか、

と訓み、

千たば、

の意である(仝上)。

「錦木」は、

昔、奥州で、男が恋する女に会おうとする時、その女の家の門に立てた五色にいろどった一尺(約三〇センチメートル)ばかりの木。女に応ずる意志があれば、それを取り入れて気持を示し、応じなければ男はさらに繰り返して、千本を限度として通ったという。また、その風習(精選版日本国語大辞典)、

五色に彩った30センチメートルばかりの木片。昔の奥州の風習で、男が女に逢おうとする場合に、女の家の門に立てて、女に応ずる心があればそれを取り入れ、取り入れなければ男がさらに加え立てて千束を限りとするという(広辞苑)、

いわゆる奥州錦木伝説にまつわる錦木。五彩の木片の束であるとも、5種類の木の小枝を束ねたものともいわれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E6%9C%A8

等々とあるが、錦木は、

楓木(かえでのき)、酸木(すのき)、かば桜、まきの木、苦木(にがき)の五種の木の枝を三尺(約90cm)あまりに切り一束(ひとたば)としたものである、

とあるhttps://www.city.kazuno.akita.jp。これは別名、

仲人(なこうど)木、

といい、

縁組に用いられるもの、

とあるhttps://www.city.kazuno.akita.jp/soshiki/sangyokatsuryoku/kankokoryu/gyomu/2/3/densetu/8293.html。そのもとになる説話は、「錦木塚物語」として、

ある日、若者は赤森の市で政子姫の美しい姿に心をうばわれてしまう。毎日毎日、若者は政子姫の門前に錦木を立てた。当時は、女の家の門前に錦木が立てられ、家の中に入れられると、男の気持ちが通じたものとする風習があったという。若者は姫の姿を見てから雨の降る日も風の吹く日も雪のふぶく日も、錦木を運んだ。しかし、錦木はむなしく積み重ねられるだけであった。姫は機織はたおる手を休め、そっと若者の姿を見つめるようになった。いつの間にか、姫は若者の心をあわれむようになっていた。しかし若者が門前に錦木をいくら高く積んでも、姫は若者の心を受け入れることはできなかった。なぜなら……、

と、載る(仝上)。

この伝説をもとにした謡曲『錦木』(世阿彌)は、

旅僧の一行が陸奥の狭布(きょう)の里で、細布を持った女と錦木を持った男に会う。二人は細布と錦木のいわれを語り、三年間女の家の門に錦木を立てて求婚し続けたというその男の塚に案内して消える。夜もすがら僧たちが弔っていると、二人の幽霊が現れ、男が錦木を立て続けた様子を見せ、仏果を得た喜びの舞を舞い、夜明けと共に消え失せる、

というあらすじで(http://www5.plala.or.jp/obara123/u1184ni.htm・精選版日本国語大辞典)、僧が、錦木の謂れを、夫婦と思しきこの男女から聴くシーンは、

ワキ 「猶々錦木細布の謂れ 御物語り候え」
シテ 「語って 聞かせ申し候べし。昔よりこの所の 習いにて。男女の媒(なかだち)にはこの 錦木を作り。
   女の家の門に立てつる しるしの木なれば。美しくいろどり飾りてこれを 錦木(にしきぎ)という。
   さるほどに逢うべき夫の 錦木をば取り入れ。逢うまじきをば 取り入れねば。
   或いは百夜三年まで錦木 立てたりしによって。三年の日数重なるを以って千束(ちつか)とも詠めり。
   又この山陰に 錦塚とて候 これこそ三年まで錦木立てたりし人の 古墳なれば。
   取り置く錦木の数ともに塚に 築き籠めて。これを錦塚と 申し候。」
ワキ 「さらば其の 錦塚を見て。故郷の物語にし候べし教えて 給はり候え」
シテ 「おういでいでさらば 教え申さん」

と、錦木の由来を語ると、僧たちを錦塚へと案内するhttp://www5.plala.or.jp/obara123/u1184ni.htm。僧たちが、かの男女を弔うべく読経を始めると、男の亡霊(後シテ)が現れ、懺悔のため、昔の有り様を再現して見せる。

地クリ げにや陸奥の狹布の郡の習いとて。所からなることわざの。世に類いなき有様かな
シテ 申しつるだに憚りなるに。猶も昔をあらはせとの。
地  お僧の仰せに従いて。織る細布や錦木の。千度百夜を経るとてもこの執心はよもつきじ。
シテ 然れども今逢いがたき縁によりて
地  妙なる一乗妙典の。功力をえんと懺悔の姿。夢中に猶も。あらわすなり。
地クセ 夫は錦木を運べば女は内に細布の。機織る虫の音に立てて問うまでこそなけれども。
   たがいに内外にあるぞとわ。知られ知らるる中垣の。草の戸ざしは其のままにて。
   夜は既に明けければすごすごと立ち帰りぬ。さる程に思いの数も積もり来て。
   錦木は色朽ちてさながら苔に埋れ木の。人知れぬ身ならばかくて思いもとまるべきに。
   錦木は朽つれども。名は立ちそいて逢う事は。涙も色に出でけるかや。恋の染め木とも。
   この錦木を詠みしなり。
シテ 思いきや。ひぢのはしがきかきつめて。
地  百夜も同じ丸寝せんと。詠みしだにあるものを。せめては一年待つのみか。
   二年余りありありてはや陸奥の今日まだも。年くれないの錦木は。千度にならばいたづらに。
   我も門邊に立ちをり錦木と共に朽ちぬべき。袖に涙のたまさかにもなどや見みえや給はぬぞ。
   さていつか三年はみちぬ。あらつれなつれなや
地  錦木は
シテ 千束になりぬいまこそは。
地  人に知られぬ閨の中見め。
シテ 嬉しやな。今宵鸚鵡のさかづきの。
地  雪を廻らす舞の袖かな 舞の袖かな(仝上)。

この伝説の「錦木塚」は、

秋田県鹿角市十和田錦木地区、

にあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E6%9C%A8%E5%A1%9A

因みに、「ニシキギ」は、

ニシキギ科の落葉低木。コマユミ(小真弓)の変種とされ、枝にコルク質の翼のある点が母種と異なる。初夏、帯黄緑色の小花を多数開く。果実は刮ハさくかで、晩秋熟し、裂けて橙紅色の種子を現す。紅葉美しく、観賞用。材は細工用、

とあり(広辞苑)、

鬼箭木、
五色木、

ともいい、「錦木」の名を付けられる所以はある。

「錦」(漢音キン、呉音コン)は、

会意兼形声。「帛(絹織り)+音符金」。錦糸を織り込んだ絹織物。のち布帛の最高のものを錦といった、

とある(漢字源)。色糸で織った五色にかがやく絹の意(角川新字源)ともある。別に、

会意兼形声文字です。「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(「土中に含まれる金属」の意味)と「頭の白い骨の象形と頭に巻く布にひもをつけて帯にさしこむ象形」(「白ぎぬ」の意味)から、金・銀・銅など5色の金属があるように、5色の糸で美しく織り出した「にしき」を意味する「錦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2115.html

「木」(漢音ボク、呉音モク)は、「千木」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485451726.htmlで触れたように、

象形。立ち木の形を描いたもの、

である(漢字源)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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不立文字


此の寺のきしねに沿ふてしばし休らふに、不立(ふりゅう)文字の霊場に読経の声も幽かに聞こえ(宿直草)、

にある、

不立文字の霊場、

は、

禅宗の寺、経論を行わないので、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)「経論」とは、仏教における、

三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)、

つまり、

仏陀の言葉の集成である経、
修行者のとるべき行動、態度を規定した律、
仏教教理の説明、解釈、研究の集成である論、

のうち、

仏陀の言葉の集成である経、
仏教教理の説明、解釈、研究の集成である論、

を行わないという意味である(精選版日本国語大辞典)。それが、

不立文字、

と関わる。禅宗史伝『正宗記(伝法正宗記(でんぽうしょうしゅうき))』(北宋)に、

初祖安禅在少林、不傳経教、但傳心、後人若悟真如性、密印由来妙理深、

とある。

「不立文字」(ふりゅうもんじ・ふりつもんじ)は、

禅門は、文字、言句に依りて宗旨を立せず、直に仏の心印を單傳して、自己の心地を開明するを本旨とする、

とある(大言海)。

悟りは文字・言説をもって伝えることができず、心から心へ伝えるものである、

という意の、

以心伝心、

と、故に、

仏の悟りは経論以外に、別に、佛祖の心印を伝え、以心伝心にて、師弟、相承す、

ということをいう、

教外別伝(きょうげべつでん)、

と共に、

禅宗の立場を示す標語。その故に、禅宗を、

不立文字宗、
不立文字の教、

などともいう(大言海)とある。禅宗の灯史「五燈會元」(南宋代)に、

世尊在霊山會上、拈華示衆、此時人天百萬、悉皆罔措、獨有金色頭陀、破顔微笑、世尊言、吾有正法眼蔵、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、教外別傳、附嘱大迦葉、

とあり、禅宗の語録『碧巌録』(宋代)第一則に、

達磨遥観此地有大乗根器、遂泛海、得得而來、單傳心印、開示迷途、不立文字、直指人心、見性成仏、若恁麼未得、辨有自由分、

ともある。

字典『祖庭事苑』(宋代)に、

吾祖教外別伝之道、不立文字、直指人心(ジキシニンシン)、見性成仏(ケンショウジョウブツ)、

とある、

不立文字(文字に(依って)立たない)、
教外別伝(言葉の教え以外で別に伝わる)、
直指人心(人の心を(ここに大事なものがある、と)直に指さす)、
見性成仏(仏に成る本性を見る)、

を、

四聖句、

とするhttp://www.yougakuji.org/archives/365とある。

文字に(依って)立たない。誰かがこのように書いているから、と鵜呑みにしない(不立文字)、
禅宗には根本経典がなく、言葉の教え以外で別に伝わる(教外別伝)、

故に、

座禅、

という、

経験・体験・実感、

を重んじ、

人の心を(ここに大事なものがある、と)直に指さす(直指人心)、
仏に成る本性を見る。よく自分と向き合う(見性成仏)、

という解釈がなされる(仝上)。

不立文字、

は、禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わる。

文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない、

という戒めを、唐代の中国の禅僧である慧能がこれを強調し、

禅の真髄、

として重視したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%AB%8B%E6%96%87%E5%AD%97とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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郎等


助延が郎等どもの陵じ(乱暴する)もてあそびけるに、其の郎等の中に年五十ばかりなるありける郎等の(今昔物語集)、

にある、

郎等、

は、

郎党、

とも当て、

ろうどう、

とも、

ろうとう、

とも訓ませる。

郎は揩フ当字にて、使はるるもの、即ち、武士の黨の者の中にて、然るべきものを老黨と云ひしに起る、其次なるを若黨と云ひき、

とある(大言海)が、

漢語の「郎」は、元来、官職名であったが、転じて、男子・若者の意をも表わした。しかし、従者の意はない、

とあり(精選版日本国語大辞典)、平安時代は、

なほかみのたちにて、あるじしののしりて、郎等までにものかづけたり(土佐日記)、

と、

従者、身分的に主人に隷属する従僕、

の意であったが、平安末期・鎌倉時代の武家社会で、

斉明已乗船離岸、但捕郎等藤原末光(「小右記(985)」)、
院宣の御使泰定は、家子二人、郎等十人具したり(平家物語)、

と、主人と血縁関係のある家の子と区別して、

主人と血縁関係のない従者、

の意で使った。しかし江戸時代初期に区別が失われ、「とう(等)」と「たう(党)」がトウと同音になった結果、

郎党、

の表記も現われた(仝上)という経緯のようである。

国語辞典『下学集(かがくしゅう)』(室町時代)には、

郎等(らうとう)、

の注に、

等或作徒、

とあり、中山忠親の日記『山槐記』(平安末〜鎌倉初期)には、

郎等五人相具、又郎従十人相従(郎等ハ近侍ノ義、郎従は外様ノ随身)、

とある(治承三年(1179年)三月三日)。

「家子郎等」という、「家子」は、

主人と血縁関係にある者、

を指し、

自己の所領を持ち独立の生計を営みながら、主家と主従関係で結ばれている者、

である。平安中期〜鎌倉時代の武士団は、

惣領家(そうりょうけ)に率いられた庶家(しょけ 血縁者)と、惣領家・庶家それぞれに従属している非血縁者という二つの要素からなっていたが、前者の庶家の長を「家子」とよび、後者を「郎党」(郎等)、ときに「郎従」とよぶのが慣例であった。このため「家子」は、惣領家の従者でなく、惣領とともに所領の共同知行(ちぎょう)に携わる者というのがその本来の姿であった、

が、室町時代以降、所領の嫡子単独相続制が始まると、

家子、

も惣領の扶持(ふち)を受ける従者の一種と化し、「郎党」との区別がしだいにあいまいになっていった、

とある(日本大百科全書)。

「郎等」は、

主人と血縁関係のない従者、

だが、地位の高い者を、

郎等、

低い者を、

従類、

といった。家子・郎等・従類などを合わせて、

郎従(ろうじゅう)、

という言い方もする。

従類、

は、郎党の下の、

若党、
悴者(かせもの)、

を指す。家子・郎等・従類は、皆姓を持ち、合戦では最後まで主人と運命を共にする(精選版日本国語大辞典)。

若党、

は、

譜代旧恩ノ若党、

とも言われ、悴者(かせもの)と同じく、名字を有し、主人と共に戦う下層の侍。この上に郎党、下に悴者がいる。

中世では年輩の侍(さむらい)である老党に対し、主人の身辺に仕えた若輩(じゃくはい)の侍、

をいった、

若侍、

を指し(大言海)、

主人の側近くに仕えて雑務に携わるほか、外出などのときには身辺警固、

を任とした。

悴者(かせもの)、

は、

かせきもの、

ともいい、

賤しい者の意で、姓をもつ侍身分の最下位になる。

地侍、

もそれに当たり、若党ともども、主人と共に戦う下層の侍になる。

この下に、

中間(仲間)、

がおり、その下に、

小者(こもの)、
荒子(あらしこ)、

がいる。戦場で主人を助けて馬を引き、鑓、弓、挟(はさみ)箱等々を持つ、

下人(げにん)、

である。身分は、

中間→小者→荒子、

の順。

あらしこ、

が武家奉公人の最下層。姓は持たない。中間の上が、悴者(かせもの)、若党(わかとう)、郎等となる。

中間・小者・荒子、

は、いわゆる、

雑兵、

で、

「あらしこ」は、

嵐子、
荒師子、

とも記し、原義は、

荒仕事をする卑しい男、

で、武士の最下層に位置し、

戦場での土木・大工・輜重などの雑役、死体の片付け、炊事など、

に従事したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%AD%90_%28%E6%AD%A6%E5%A3%AB%29。天正19年(1591年)の豊臣秀吉の身分統制令では、

奉公人、侍、中間、小者、あらし子に至る、去七月奥州江御出勢より以後、新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者(『小早川文書』)、

として武士身分に位置付けられ、新規に百姓・町人になることが禁じられている(仝上)。

「小者」は、

雑役に従事し、戦場では主人の馬先を駆走した、

が、将軍出行のときは数名が随従し、草履(ぞうり)持ちなどをつとめた、

とある(精選版日本国語大辞典)。「中間」は、

仲間、

とも表記し、

身分は侍と小者の間に位する、

のでいうらしいが、

中間男、

ともいい(仝上)、

中間男(はしたもの)の字を略して音読せしもの、

とある(大言海)。いわゆる、

足軽、

に重なる部分がある(「足軽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.htmlで触れた)。奈良興福寺の塔頭多聞院主英俊(えいしゅん)は、明智光秀の死を、

惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階(やましな)ニテ一揆にタタキ殺サレ了、首ムクロモ京ヘ引了云々、浅猿々々、細川ノ兵部大夫ガ中間(ちゅうげん)にてアリシヲ引立之、中國ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此(多聞院(たもんいん)日記)、

と、光秀が中間であったと記している。一族である家子以外の臣下の、

郎等→若党→忰者→中間→小者→あらしこ、

という身分は、室町幕府では、

番衆(ばんしゅう)→走衆(はしりしゅう)→中間→小舎人→小者→雑色→公人(くにん)、

となっており、「番衆」は、

将軍近習、

であり、後に5番編成の直属軍である奉公衆へと発展する。江戸時代にも、

書院番、
奏者番、
使番、

などの将軍近侍・警固の役職に番衆制度として残る。「走衆」は、

将軍が外出する時、徒歩で随行し、前駆や警護をつとめた者、

である。「走衆」は、徒歩で戦う、

徒士(かち)、

つまり若党、忰者に当たるのではないか。

番衆・走衆、

は苗字のある侍である。

ところで、「足軽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.htmlで触れたように、戦国時代の武士団の構成は、

かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた、

@武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
A武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
B夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである。

とある(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。いわゆる、

雑兵、

に、侍と武家の奉公人(下人)と動員された百姓も混在していたことになる。

なお、「名簿」http://ppnetwork.seesaa.net/article/489961008.htmlで触れたことだが、

罪軽応免、具注名簿、伏聴天裁……但名簿雖編本貫、正身不得入京(「続日本紀」宝亀元年(770)七月癸未)、

と、

古代・中世に、官途に就いたり、弟子として入門したり、家人(けにん)として従属したりする際主従関係が成立する時、服従・奉仕のあかしとして従者から主人へ奉呈される官位・姓名・年月日を記した書き付け(名札)、

を「名簿」という(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)が、武家の中で、所謂、代々主従関係を結んでいる譜代の家人(けにん)を中心とした直属の家人の他に、

名簿(みようぶ)を提出するのみのもの、

や、

一度だけの対面の儀式(見参の礼)で家人となったもの、

もあり、

家礼(けらい)、

と呼ばれて主人の命令に必ずしも従わなくてよい、服従の度合の弱い家人がある(仝上)。この場合、「家人」が、

郎等、
若党、
忰者、

のどれを指しているかはっきりしないが、

平将門が藤原忠平に名簿を呈した(将門記)、

とか、

平忠常が源頼信に名簿を入れて降伏した(今昔物語集)、

と見られるので、時代背景によって異なるが、

若党、
忰者、

といった下級武士ではなさそうである。ただ、上記『山槐記』にあった、

郎等ハ近侍ノ義、郎従は外様ノ随身、

とあるので、

外様の随身、

とあるのはその意と思われる。

「郎(カ)」(ロウ)は、

会意兼形声。良は粮の原字で、清らかにした米、郎は「邑(まち)+音符良」で、もとは春秋時代の地名であったが、のち、良に当て、男子の美称に用いる、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(良+阝(邑))。「穀物の中から特に良いものだけを選びだす為の器具」の象形(「良い」の意味)と「特定の場所を示す文字と座りくつろぐ人の象形」(人が群がりくつろぎ住む「村」の意味)から、良い村を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「良い男」を意味する「郎」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1482.html

「党(黨)」(トウ)は、「悪党」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485549242.htmlで触れたように、

形声。「K+音符尚」。多く集まる意を含む。仲間で闇取引をするので黒を加えた、

とある(漢字源)が、「黨」の字源には、

形声。儿と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。もと、西方の異民族の名を表したが、(「党」は)古くから俗に黨の略字として用いられていた、

と、

形声。意符K(=黒。やみ)と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。さえぎられてはっきりしない意を表す。借りて、「なかま」の意に用いる、

の二説あるらしく(角川新字源)、

形声文字、音符「尚」+「人」。部族の一つ、タングート(党項)族を指す。黨の略字(別字衝突)。「なかま」「やから」の意味。意符「人」から通じて略字として用いられるようになったか、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%9A、前者をとり、

形声文字です(尚(尙)+K)。「神の気配を示す文字と家の象形と口の象形」(「強く願う」の意味だが、ここでは「堂」に通じ(「堂」と同じ意味を持つようになって)、「一堂に集まった仲間」の意味)と「上部の煙だしに「すす」がつまり、下部で炎があがる」象形(連帯感を示す色(黒)だと考えられている)から、「村」、「仲間」を意味する「党」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji1038.html、別の解釈である。

「等」(トウ)は、

形声。「竹+音符寺」で、もと竹の節、または竹簡の長さが等しくそろったこと。同じものをそろえて順序を整えるの意となった。寺の意味(役所、てら)とは直接の関係はない、

とある(漢字源)。別に、

形声文字、「竹」+音符「寺」(「待」「特」の音と同系)。原義は竹の節がそろっていることで、竹の節々が「おなじ」「ひとしい」ことhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AD%89

形声。竹と、音符寺(シ)→(トウ)とから成る。竹の札をそろえる、ひいて「ひとしい」、転じて、順序・等級の意を表す(角川新字源)、

形声文字です(竹+寺)。「竹」の象形(「竹簡-竹で出来た札」の意味)と「植物の芽生えの象形(「止」に通じ、「とどまる」の意味)と親指で脈を測る右手の象形」(役人がとどまる「役所」の意味)から、役人が書籍を整理するを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ひとしい」を意味する「等」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji532.html

などともある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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古則話頭


憂うることなかれ、ただ汝がいにしへの知るところの、古則話頭、よく憶持してわするる事なく(奇異雑談集)、

とある、

古則話頭(こそくわとう)、

は、

禅宗で、古則・公案の一節、または、その一則、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。似た言葉で、

酒掃(さいそう)をいたし、古則法問を糾明し、夜話坐禅おこたる事なく、つとめ申しさふらひしが(奇異雑談集)、

とある、

古則法問(こそくほうもん)、

は、

禅宗修行者が瞑想すべき先人の教えと、仏法についての問答と、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「酒掃」は、当て字、普通は、

洒掃、

と表記し、

水をそそぎ、塵を掃っての掃除、禅宗の修行の一つ、

とある(仝上)。

「古則」(こそく)は、

古人が残した法則、

の意で、

参禅者の手本となるものの総称、

をいい、

古則公案、

と併称する(日本国語大辞典・広辞苑)とあるが、「話頭」は、一般には、

話のいとぐち、

や、また、

話頭を転ずる、

と、

話の内容、話題、

の意だが、禅宗では、

古則、公案、

のこととあるhttp://www.rinnou.net/cont_01/words.htmlので、

古則話頭、

も、

古則公案、

と同義になるが、「話頭」には、

学道の人、話頭を見る時、目を近け、力を尽して、能々是を可看(正法眼蔵随聞記)、

あるように、

禅宗で、古則・公案の一節。または、その一則のこと、

に限定されるので、

特定(特別)の一節、

を意味している(精選版日本国語大辞典)。

ちなみに「公案」とは、

元来は公府の案牘、

という意で、

国家の法令または判決文、

をさすが、禅宗では、

祖師の言行や機縁を選んで、天下の修行者の規範としたもので、全身心をあげて究明すべき問題のこと。修行の正邪を鑑別する規準でもある、

とありhttp://www.rinnou.net/cont_01/words.html

高僧が、史中より、宗旨の本色をあらはして、依標とするに足る語を、弟子に、悟道(ごどう)上の問題として示すもの、碧巌集に、古則、又は、本則といへる、是なり、

とある(大言海)。無門関に、

遂将古人公案、作敲門瓦子(がす)、随機導引學者、

と(西村恵信訳『無門関』)、

門を敲(たたく)瓦子(がす)と作(な)す、

とある。門が開けば無用となるもの(西村恵信訳『無門関』)、とある。「公案」は、

具体的には、祖師の言葉・言句・問答などをさす。禅の問答は、時と所を異にして第三者のコメントがつくのがふつうで、はじめになにも答えられなかった僧にかわる代語や、答えても不十分なものには別の立場から答えてみせる別語など、第2次・第3次の問答をうみだした、

とあるhttp://www.historist.jp/word_j_ko/entry/033038/

公案中の緊要の一句を特に、

話頭、

というhttp://www.rinnou.net/cont_01/words.htmlと、「話頭」の意味は限定されている。だから、

古則話頭、
と、
古則公案、

が重なるのである。

因縁話頭(いんねんわとう)、

ともいう。元来は、

祖師の言行を簡潔に記し、仏道修行上の指針手引としたものであったが、中国唐代にすでに語録として記録されている。宋代にはとくに臨済宗で、師家が学人を悟道(ごどう)に導くために、

趙州(じょうしゅう)無字、

の公案などを学人に示して工夫参究させる禅風が盛行し、

圜悟克勤(えんごこくごん)、
大慧宗杲(だいえそうごう)、

らにより大成された(日本大百科全書)とある。こうした公案を参究して段階的に修行者を大悟徹底させる禅風を、

公案禅、
看話禅(かんなぜん)、

とよぶ(仝上)。公案集に、

碧巌録(へきがんろく)、
従容録(しょうようろく)、
無門関、

などがあり、また、

景徳伝燈録(けいとくでんとうろく)、

には1700余人の祖師の伝記があり、

千七百則の公案、

と称されている(仝上)。この多くは、

中国禅宗が斜陽に向かう宋時代の所産、

とされる(西村恵信訳『無門関』)。宋代の禅僧たちは、

禅宗の命脈を護るための自浄努力として、修行生活の行儀作法を規制した各種の『清規』(生活規則)や、禅の法灯護持のために自家の家風の特質を宣揚したややデモンストレーティブな語録も多く産んだのである、

とある(仝上)。

いずれも唐代禅者の語録や史伝を基礎とするもので、独創性という点においては乏しい、

けれども、

宋代禅者たちによる護法のためのそういう創意工夫があったがゆえに、禅宗が現代にまで存在しえた、

とされる(仝上)。日本の禅宗も、

初期の曹洞(そうとう)宗を除き大方は公案禅が採用され、その手引書も多くつくられた、

とあり、その手引書を、

密参録(みっさんろく)、
門参(もんさん)、

というとある(日本大百科全書)。宋代禅者たちの、

「看話禅」(かんなぜん、かんわぜん 古人の古則話頭を鑑として弟子を開悟に導く指導方法)、

と呼んで始まった起死回生の手段もそれなりの功を奏し、その後の禅宗史の発展にとって貴重な命綱となった(西村恵信訳『無門関』)ことは否定できないとしても、これって、「不立文字」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491347637.html?1662665083で触れた、

不立文字、

と矛盾しないのだろうか。結局、

教外別伝、

といいつつ、別の、

経典、

になっているような気がするのだが。

なお、「無門関」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473155387.htmlについては触れた。

「古」(漢音コ、呉音ク)は、

象形。口印は頭、その上は冠か髪飾りで、まつってある祖先の頭蓋骨を描いたもの。克(重い頭をささえる)の字の上部と同じ。ひからびてかたい昔のものを意味する、

とある(漢字源)。別に、

「干」(盾たて)+「口」(神器)で、神器の上に盾をおいて神意を長持ちさせる意の会意(白川静)、

とする説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%A4、あるいは、

会意。口と、十(おおい)とから成り、何代も語り伝える昔のことの意を表す、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「固い兜(かぶと)」の象形から「固くなる・古い・いにしえ」を意味する「古」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji210.html

「則」(ソク)は、

会意。「刀+鼎(かなえ)の略形」。鼎にスープや肉を入れ、すぐそばにナイフをそえたさま。そばにくっついて離れない意を含む。即(そばにくっつく)と同じ。転じて、常によりそう法則の意となり、さらにAのあとすぐBがくっついておこる意をあらわす助詞となった、

とある(漢字源)。

会意。「貝(元は「鼎」)」と「刀」を合わせて、鼎かなえで煮物をする脇に取り分ける刃物を置き、場に「のっとる」こと。音は「即」等と共通https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%89%87)、

会意。刀と、鼎(てい 貝は誤り変わった形。かなえ)とから成り、かなえを供えた前で、犠牲の動物を切ることから、規定・模範の意を表す。借りて、助字「すなわち」の意に用いる(角川新字源)、

はほぼ同趣旨、別に、

会意文字です(貝+刂(刀))。「鼎」(かなえ-中国の土器)」の象形と「刀」の象形から、昔、鼎に刀で重要な法律を刻んだ事から「法律」、「法則」、「規則」を意味する「則」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji754.html

参考文献;
西村恵信訳『無門関』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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五蘊


肉身は地水火風空の五蘊、かりに和合して、実なる物にあらざるなり(奇異雑談集)、

とある、

五蘊(ごうん)、

は、

集まって肉体を形成する五つの要素、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、これでは何のことかわからない。

「中陰」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485912319.htmlで触れたように、「五蘊」は、

五陰(ごおん)、

ともいい(「おん」は「陰」の呉音)、「蘊(うん)」(「陰(おん)」)は、

集まりの意味、

で、

サンスクリット語のスカンダskandhaの音訳、

である(精選版日本国語大辞典)。

五陰(ごおん)は、旧訳(くやく)、

とあり(広辞苑)、同じく、

五衆(ごしゆ)、

ともいう(大辞林)。

仏教では、いっさいの存在を五つのものの集まり、

と解釈し、生命的存在である「有情(うじよう)」を構成する要素を、

色蘊(しきうん 五根、五境など物質的なもののことで、人間についてみれば、身体ならびに環境にあたる)、
受蘊(じゅうん 対象に対して事物を感受する心の作用のこと)、
想蘊(そううん 対象に対して事物の像をとる表象作用のこと)、
行蘊(ぎょううん 対象に対する意志や記憶その他の心の作用のこと)、
識蘊(しきうん 具体的に対象をそれぞれ区別して認識作用のこと)、

の五つとし、この五つもまたそれぞれ集まりからなる、とする。いっさいを、

色―客観的なもの、
受・想・行・識―主観的なもの、

に分類する考え方である(日本大百科全書)。仏教では、あらゆる因縁に応じて五蘊がかりに集って、すべての事物が成立している(ブリタニカ国際大百科事典)とする。

色蘊(rūpa)

には、

肉体を構成する五つの感覚器官(五根)、

と、

それら感覚器官の五つの対象(五境)、

と、

行為の潜在的な残気(無表色 むひようしき)、

とが含まれる(世界大百科事典)。また、

受蘊(vedanā)、
想蘊(saṃjñā)、
行蘊(saṃskāra)、

の三つの心作用は、

心王所有の法、

あるいは、

心所、

といわれ、

識蘊(vijñāna)、

は心自体のことであるから、

心王、

と呼ばれる(ブリタニカ国際大百科事典)。

仏教では、

あらゆる因縁に応じて五蘊がかりに集って、すべての事物が成立している、

と考えているから、

五蘊仮和合、
五蘊皆空、

などと説かれる(仝上)。字典『祖庭事苑』(宋代)には、

變礙曰色、領納曰受、取像曰想、造作曰行、了知曰識、亦名五蘊、

とある。

「五」(ゴ)は、

指事。×は交差をあらわすしるし。五は「上下二線+×」で、二線が交差することを示す。片手の指で十を数えるとき、→の方向に数えて、五の数で←の方向に戻る。その転回点にあたる数を示す。また語(ゴ 話をかわす)、悟(ゴ 感覚が交差してはっと思い当たる)に含まれる、

とある。(漢字源)。互と同系https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%94ともある。別に、

指事文字です。「上」・「下」の棒は天・地を指し、「×」は天・地に作用する5つの元素(火・水・木・金・土)を示します。この5つの元素から、「いつつ」を意味する「五」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji127.html

「蘊」(ウン)は、

会意兼形声。「艸+糸+音符温(ウン 中にこもる)の略体」、

とある。「積み貯える」意の、「蘊蓄」「余蘊」、「物事の奥底」の意の。「蘊奥(うんおう・うんのう)」等々と使う。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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四苦八苦


人間の事は、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(をんぞうゑく)、共(とも)に我身に知られてさぶらふ。四苦八苦、一つとして残る所さぶらはず(平家物語)、

にある、

四苦八苦、

は、仏語で、

生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせたもの、

をいい(広辞苑)、

人生の苦の総称、

を言う(仝上)。転じて、

弱り切ったお初を見れば、両手を伸ばして断末魔の四く八く哀れというも余りある(浄瑠璃「曾根崎心中」)、

と、

非常な苦しみ、

の意や、

弁解に四苦八苦する、

と、

さんざん苦労する、

意で使う(仝上)。釈迦は、

人生の現実を直視して、自らの思うままにならぬもの・ことの満ちあふれているさまをつきとめ、それを苦とよんだ。それは自己の外部だけではなくて、自己の内にもあり、究極は人間の有限性とそれから発する自己矛盾とに由来する、

とし、その「苦」を、

生苦(jāti dukkha しょうく)人は生まれる場所、条件を選べないなど、衆生の生まれることに起因する苦しみ、
老苦(jarāpi dukkha)衆生の老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していく苦しみ、
病苦(byādhipi dukkha)様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる、
死苦(maraṇampi dukkha)衆生が免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%8B%A6%E5%85%AB%E8%8B%A6

生老病死、

の、

四苦、

とし(https://www.nichiren.or.jp/glossary/id154/・日本大百科全書)。さらに、

愛別離苦(あいべつりく 愛するものと別れなければならない苦しみ)、
怨憎会苦(おんぞうえく 怨(うら)み憎むものと出会わなければならない苦しみ)、
求不得苦(ぐふとっく 求めるモノゴトが手に入らない苦しみ)、
五蘊盛苦(ごうんじょうく 五陰盛苦(ごおんじょうく) 自分の心や、自分の身体すら思い通りにならない苦しみ)、

の四つを加えて(「五蘊(五陰)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491410283.html?1662923683については触れた)、

八苦、

とした(仝上)。仏教では、

これらは避けようとしても避けられず、むしろそれら苦のありのままをそのまま知り体験を深めることによって、それからの超越、

すなわち、

解脱(げだつ)、

を説く(仝上)。

生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり、
怨憎するものに曾(会)ふは苦なり、愛するものと別離するは苦なり、求めて得ざるは苦なり、
略説するに五蘊取蘊は苦なり、

とある(南伝大蔵経)。

「四」(シ)は、「六道四生」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486172596.html?1648323250で触れたように、

会意。古くは一線四本で示したが、のち四と書く。四は「口+八印(分かれる)」で、口から出た息がばらばらに分かれることを表す。分散した数、

とある(漢字源)。それは、

象形。開けた口の中に、歯や舌が見えるさまにかたどり、息つく意を表す。「呬(キ)(息をはく)」の原字。数の「よつ」は、もとで4本の横線で表したが、四を借りて、の意に用いる(角川新字源)、

とか

指事文字です。甲骨文・金文は、「4本の横線」から数の「よつ」の意味を表しました。篆文では、「口の中のに歯・舌の見える」象形となり、「息」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「よつ」を意味する「四」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji126.html

とか、

象形。口をあけ、歯と舌が見えている状態。本来は「息つく」という意味を表す。数の4という意味はもともと横線を4本並べた文字(亖)で表されていたが、後に四の字を借りて表すようになったhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9B%9B)、

とかと、「指事」説、「象形」説とに別れるが、趣旨は同じようである。

「八入」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484945522.htmlで触れたように、「八」(漢音ハツ、呉音ハチ)は、

指事。左右二つにわけたさまを示す(漢字源)、

指事。たがいに背き合っている二本の線で、わかれる意を表す。借りて、数詞の「やつ」の意に用いる(角川新字源)、

象形文字です。「二つに分かれている物」の象形から「わかれる」を意味する「八」という漢字が成り立ち、借りて、数の「やっつ」の意味も表すようになりましたhttps://okjiten.jp/kanji130.html

などと説明される。

「苦」(漢音コ、呉音ク)は、

会意兼形声。古は、かたい頭骨を描いた象形文字で、ふるい、固く乾いたの意を含む。苦は「艸+音符古」で、口がこわばってつばが出ない感じがする、つまり、苦い味のする植物のこと、

とある(漢字源)。

そのようなものを飲む、辛く苦しいことを意味する、

の意もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A6。別に、

会意兼形声文字です(艸+古)。「並び生えた草」の象形と「固いかぶと(兜)」の象形(「固い」の意味)から、固い草⇒にがい草を意味し、さらに転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)「にがい・くるしい」を意味する「苦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji262.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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闡提(せんだい)


闡提(せんだい)半月二根無根のたぐひなるは、世に多きものなりとのたまへば(奇異雑談集)、

にある、

闡提半月二根無根、

は、

仏教で、到底成仏し得ぬ者である闡提の身、半陰陽の者と、男根と女根(陰)の二根いずれも持たない者、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

闡提、

は、

一闡提(いつせんだい)の略、

とあり、

一闡提、

は、

梵語icchantikaの音写、

詳しくは、

一闡底迦(いっせんていか)、

と音写され、

闡提、

と略称された(日本大百科全書)。原意は、

名聞利養を欲求しつつある人、

とするが、その語源については種々に論議があり、

欲する者、

の意で、

他人の得る世俗的な利益をみてこれに嫉妬して、それを得ようと願う者、

の意味であった(ブリタニカ国際大百科事典)ともある。仏教では、

仏教の正しい法を信ずることなく、悟りを求めないために成仏の素質や縁を欠く者、
仏教の正法を毀謗(きぼう)し、救われる望みのない人、

を意味し(世界大百科事典)、これが、

極欲(ごくよく)、
信不具足(しんふぐそく 信をもたない者)、
断善根(だんぜんこん 善行を断じた者)、

等々と漢訳され(仝上)、

釈尊遮闡提、得人身徒不作善業、聖教嘖空手(「願文(785)」)

と、

解脱の因を欠き、成仏することのできない者、

の意だが(広辞苑)、『楞伽経』では、

この「闡提」には、もとより解脱(げだつ)の因を欠く、

断善闡提、

と、菩薩が衆生(しゅじょう 生きとし生けるもの)を救済する大悲(だいひ)を行って故意に悟りに入らない状態にある、

大悲闡提(または菩薩闡提)、

の2種にわける(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。

地蔵菩薩、
十一面観音、

のように、

一切のかよわき命総てを救うまではこの身、菩薩界に戻らじ、

との誓願を立て、人間界へ下りた一部の菩薩について、

一斉衆生を救うため、自ら成仏を取り止めてあえて闡提の道を取った仏、

として、一般の闡提とは区別して、

大慈大悲闡提(または大悲闡提)、

と呼称する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%97%A1%E6%8F%90・仝上)とする。

別に、しばらくは成仏できないが仏の威力(いりき)によって成仏するに至る、

有性(うしょう)闡提、

と、けっして成仏することのできない、

無性(むしょう)闡提、

とに分ける場合もある(日本大百科全書)ともある。

一闡提が仏陀になり得るかどうかについては古来重要な論争があった(仝上)が、

衆生の根機をえらばねば、五逆闡提もみなうまる、このゆゑわれら本願に、帰して御(み)なを称念す(「浄業和讚(995〜1335)」)、

と、

中国や日本では一闡提でさえも最終的には成仏できるとする説が次第に強くなり、盛んに議論された、

とあり広辞苑)、大乗涅槃経では、

一切衆生悉有仏性、

を説き、いかなる人も成仏する可能性をもつことを強調する天台宗・華厳宗その他大乗の諸宗はこれを肯定するが、法相宗はこれを否定する(世界大百科事典)とある。

「闡」(セン)は、

会意兼形声。「門+音符單(ひとえ、平ら、奥がない)」、

とあり、「闡発(せんぱつ)」と、あける、開く意と、「闡明」と、明らかにする、意とで使う(漢字源)。

闡は、開也、明也、大也と註す。暗を開き、明らかにするなり、闡幽と用ふ、

とある(字源)。「闡提」の「闡」が音写の所以である。

「提」(漢音テイ、呉音ダイ)は、

会意兼形声。是(ゼ・シ)は「まっすぐなさじ+止(あし)」の会意文字で、まっすぐ進むことをあらわす。提は「手+音符是」で、まっすぐに↑型にひっぱる、差し出すこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(扌(手)+是)。「5本指のある手」の象形と「柄の長く突き出たさじの象形と立ち止まる足の象形」(「柄の長く突き出たさじ」の意味)から「手にさげて持つ」を意味する「提」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji773.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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業障


我々は、男身にはかに変じて女身になり候こと、あさましき進退、業障(ごうしょう)深重(じんじゅう)に候(奇異雑談集)、

にある、

業障、

は、

仏教で、悪業をつくって正道を邪魔する三障、または四障の一つ、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「深重」(しんじゅう)は、

古くは「じんじゅう」、

とあり、

幾重にもつみ重なる、

意である(精選版日本国語大辞典)。

業障(ごうしょう)、

は、

ごっしょう、

とも訓み、

悪業のさわり、

の意で、

悪業(あくごう)によって生じた障害、

であり、

五逆、十悪などの悪業による罪、

とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。「五逆」(ごぎゃく)とは、

五逆罪、

ともいい、仏教で説く、

五種の重罪、

ともいい、この五つの重罪を犯すと、もっとも恐ろしい無間地獄(むけんじごく)に落ちるので、

五無間業(ごむけんごう)、

ともいう。その数え方に諸説あるが、代表的なものは、

母を殺すこと、
父を殺すこと、
悟りを開いた聖者(阿羅漢)を殺すこと、
仏の身体を傷つけて出血させること(仏身を傷つけること)、
仏教教団を破壊し分裂させること(僧の和合を破ること)、

とされる。前二者は、

恩田(おんでん 恩に報いなければならないもの)に背き、

後三者は、

福田(ふくでん 福徳を生み出すもの)に背く、

もので、仏法をそしる謗法罪(ぼうほうざい)とともに、もっとも重い罪とされる(日本大百科全書・広辞苑)。

「十悪」(じゅうあく)は、

離為十悪(南斉書・高逸伝論)、

とあるように、

身、口、意の三業(さんごう)が作る十種の罪悪、

の意で、

殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)、

の、

身三(しんさん)、

妄語(もうご)・両舌(りょうぜつ)・悪口(あっく)・綺語(きご)、

の、

口四(くし)、

貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見(じゃけん)、

の、

意三(いさん)、

をいい、

げに嘆けども人間の、身三・口四・意三の、十の道多かりき(謡曲・柏崎)、

と、

身三口四意三(しんさんくしいさん)、

という言い方をする(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。この逆が、

十善(じゅうぜん)、

で、

十悪を犯さないこと、

で、

不殺生・不偸盗(ちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不綺語(きご)・不悪口(あっく)・不両舌・不貪欲・不瞋恚(しんい)・不邪見、

といい、

十善業、
十善戒、
十善業道、

という(仝上)。

「三障」(さんしょう)は、

正道やその前段階である善根をさまたげる三つのさわり、

の意で、

煩悩障(ぼんのうしょう 貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)などの煩悩)、
業障(ごうしょう 五逆、十悪などの行為)、
報障(異熟障すなわち地獄、餓鬼、畜生の苦報など)、

をいい、「四障」(ししょう)は、

悟りを得るための四つの障害、

の意で、

仏法を信じない闡提(闡提障)、
我見に執着する外道(外道障)、
生死の苦を恐れる声聞(声聞障)、
利他の慈悲心がない独覚(独覚障)、

の四つを言う(「闡提」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491461201.html?1663096126については触れた)が、一説に、

惑障(物に迷うこと=煩悩)、
業障(悪業のさわり)、
報障(悪業のむくい)、
見障(邪見)、

ともある。ついでに「五障」というのもあり、

修道上の五つの障害、

を指し、

煩悩障(煩悩(ぼんのう)のさわり)、
業障(ごつしよう 悪業のさわり)、
生障(しようしよう 前業によって悪環境に生まれたさわり)、
法障(ほつしよう 前生の縁によって善き師にあえず、仏法を聞きえないさわり)、
所知障(しよちしよう 正法を聞いても諸因縁によって般若波羅蜜(はんにやはらみつ)の修行ができないさわり)、

をいう(仝上・世界大百科事典)。ただ、信、勤、念、定、慧の五善根にとってさわりとなる、

欺、怠、瞋、恨、怨、

を五障ということもある(仝上)。

こうみると、冒頭の、

仏教で、悪業をつくって正道を邪魔する三障、または四障の一つ、

という注記は少し訂正が必要である。「業障」は、

三障のひとつ、

ではあるが、

四障のひとつ、

とするには異説があるようだ。

「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、「一業所感」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.htmlで触れたように、

象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる。厳(ガン いかつい)・岩(ごつごつしたいわ)などと縁が近い、

とある(漢字源)が、別に、

象形。楽器などをかけるぎざぎざのついた台を象る。苦労して仕事をするの意か、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%AD

象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji474.html

ぎざぎざのとめ木のついた台、

が、

のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板、

と特定されたものだということがわかる。

「障」(ショウ)は、

形声、「阜(壁や塀)+音符章」で、平面をあてて進行をさしとめること。章の原義(あきらか)には関係ない、

とある(漢字源)。遮るの「障害」、防ぐの「堤障」、進行を止めるの「故障」「障壁」、さわりの「罪障」等々と使う。別に、

形声文字です。「段のついた土山」の象形(「丘」の意味)と「墨だまりのついた大きな入れ墨ようの針」の象形(「しるし」の意味だが、ここでは「倉(ショウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「かくしおおう」の意味)から、丘でかくし「へだてる」を意味する「障」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji989.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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洒掃


名をば何と申して、酒掃(さいそう)をいたし、古則法問を糾明し、夜話坐禅をおこたる事なく(奇異雑談集)、

とある、

「酒掃」は、「古則話頭」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491390938.html?1663096955でも触れたように、

水をそそぎ、塵を掃っての掃除、禅宗の修行の一つ、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、

酒掃、

は当て字で、本来は、

塵を掃ひ、水を洒(そそ)ぐこと(大言海)、

意の、

洒掃、

あるいは、

灑掃、

と当てる。「洒掃」は、

夙興夜寝、洒掃廷内(詩経)、

と漢語で、

洒掃応対、

とも使い、

子游曰、子夏之門人小子、當洒掃應對進退、則可矣、抑末也、本之則無、如之何(論語)、

と、

水をまきてはらひきよめ、尊長者の呼ぶに応じ、問いに応ふ、皆年少者の職、

とある(字源)。ここで「応対」は、

来客に対する応対、

の意で、広く、

年少者が学ぶべき、日常生活に必要な家事や作法のこと、

の意で使い(四字熟語辞典)、

洒掃薪水、

という言い方もする(仝上)。『論語』の上記、子游の主張は、

抑末也、本之則無、

と、

洒掃応対、

という末梢的なことだけで、根本的なことはない、

という批判にある。それに対して、子夏は、

子夏聞之曰、噫、言游過矣、君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉、譬諸草木、區以別矣、君子之道、焉可誣也、有始有卒者、其唯聖人乎、

と、

君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉、譬諸草木、區以別矣

と、

草木と同じく育て方は一様ではない、

と反論している(貝塚茂樹訳注『論語』)。しかし、この、

洒掃、

を、

普請作務のところに、かならず先赴す(正法眼蔵)、

と(「普請」とは「衆を普く請す」こと)、

一作務・二看誦(経)・三坐禅、

のひとつ、

作務(さむ)、

として、

行持(ぎょうじ 仏道修行)のひとつとしたのが、禅宗ということになる。禅宗では、「洒掃」を、

しゃそう、

と訓ませるらしいhttp://chokokuji.jiin.com/%E3%80%8E%E6%B4%92%E6%8E%83%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%9D%E3%81%86%E3%80%8F/が、作務は、

作業勤務の略、

と言われ、日課である洒掃(作務)は、静の坐禅に対して、

動の坐禅、

といわれ、

仏の行(ぎょう)として取り組む、

とし、

作務の時は作務に徹する、

ことで、作務が分別する心を生じさせない、

仏行三昧(ぶつぎょうざんまい)、

として、自らが仏として現れる、とある(仝上)。

(作務は)禅院では坐禅と同じく大切な修行です。事務仕事から労働作業に至るまで、日常の様々な労務が作務として行われます。特に小食(朝食)後に行われる作務のことを「日天作務(にってんさむ)」と言い毎日欠かさず行われます。作務の中でも代表的なものが清掃で、水を用いて洗ったり、箒で掃いたりすることから「洒掃(しゃそう)」と言います、

とある(仝上)。

「洒」(漢音サイ・セイ・サ、呉音セ・サイ・シャ)は、

会意兼形声。西は、目の荒い笊を描いた象形文字。栖(ざるのような鳥の巣)の原字。笊の目の間から、細かく水が分散して出ていく。洒は「水+音符西」で、さらさらと分散して水を流すこと、

とあり(漢字源)、「洗」「灑」と同義。「洒掃」と「サイ」と訓むが、「洒脱」と「シャ」とも訓む。

「灑」(漢音サイ・サ、呉音セ・シャ)は、

会意。麗(レイ)は、鹿の角が二本並んで美しいさま。灑は「水+麗(きれいさっぱり)」で、水を流してさっぱりさせること、洒(サイ・シャ)とまったく同じ、

とあり(漢字源)、「灑掃」と「サイ」とも訓むが、「灑脱」(=洒脱)、「瀟灑」(=瀟洒)と「シャ」とも訓む。

「掃」(ソウ)は、

会意兼形声。帚(シュウ・ソウ)は、ほうきを持つさまを示す会意文字。掃は「手+音符箒」で、ほうきで地表をひっかくこと、

とある(漢字源)。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)

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三昧


宵より夜の明くるまで三昧を鉦(かね)うちたたきて念仏して通りけり(「義殘後覚(ぎざんこうかく)」)、

とある、

三昧、

は、

墓場、

とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、

無縁の聖霊を弔はんために、夜な夜な五三昧をめぐり、念仏を思ひ立つ(奇異雑談集)、

は、

平安末期に著名だった洛中の五ヵ所の死体捨て地。五三昧所(ごさんまいしょ)の略、世塚、三条河原、千本、中山、
鳥辺野の五所、

とある(仝上)。「三昧」は、

三昧場の略、

である。

三昧所、

の意とある(大言海)。「三昧」は、

梵語にて、定(ジョウ)の義、入定(ニュウジョウ 入滅)、火定(カジョウ 荼毘)などより云ふ語、

とある(仝上)。で、

荼毘所、

の意もある(仝上・岩波古語辞典)。「定」は、

心を一処に定めて動くことがない、

の意であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%A7。合類節用集(江戸時代)に、

三昧場(サンマイバ)、本朝俗、斥葬所云爾、西域所謂、尸陀林、是乎、

とある。「尸陀林(しだりん)」は、

寒林、

とも訳し、

中インドのマガダ国の王舎城の北方にあった死者の埋葬所、

をいい、転じて、

死体を埋葬する場所、

を尸陀林というようになり、

屍陀林、

の字をあてている(ブリタニカ国際大百科事典)、とある。

「三昧」は、

梵語samādhiの音訳、

で、

三摩地(サンマジ)、
三摩提(サンマダイ)、

とも当て(大言海)、原意は、

心を一か所にまとめて置くこと、

をいい、

定(ジョウ)・正定(セイジョウ)・等持・寂静(仝上)、

あるいは、

定(ジョウ)・正定(セイジョウ)・止息、寂静、正受(ショウジュ)(大言海)、

平等・正受・正定(字源)、

等々とも訳す。中国の字典『祖庭事苑(そていじえん)』(宋代)には、

亦云正受、謂正定不亂、能受諸法、

とある。

心を一所に住(とど)めて、動かざること、妄念を離れて、心を寂静にし、我が心鏡に映じ来る諸法の実相を、諦観する、

意で、

禅定(ゼンジョウ)、

ともいう(大言海)。金剛経・註に、

導云真一、儒云致一、釋云三昧、

とある。で、

法華経を読誦(どくしょう、古くは、とくしょう)して、専心に、其妙理を観念すること、

を、

法華三昧(ほっけざんまい・ほっけさんまい)、

というが、転じて、

途中にして此の二人の沙彌、俄に十八変を現じ、菩薩普現三昧(ざんまい)に入て、光を放て、法を説き、前生の事を現ず(今昔物語集)、

と、

精神を統一、集中することによって得た超能力、

の意で使ったりするが、

晩来狩野大炊助来云、此五六十日在大津。与京兆同所。件々彼三昧話之。実異人也(蔭凉軒日録)、

と、

物事の奥義を究め、その妙所を得ること、

の意でも使う。

高眠得茶三昧、夢断已窓明(陸游詩)、

の注解に、

得妙處曰得三昧、柳子厚詩、共傾三昧酒(註「三昧、唐言、正受」)(書言故事)、

ともある。そこから、

専心、

の意の、

俗に、他念なく、其の事を行ふこと、一途に其の事に心を傾くること、

の意で使い(大言海)、江戸後期の『俗語考』(橘守部)に、

歌三昧、仏三昧など平語にも云へり、

江戸中期の国語辞書『俚言集覧』(太田全斎)には、

俗、常に、他念なき事を云へり、……又俗に、何三昧と云ふ語あり、酒狂にて、刃物を抜きたるを刃物三昧と云ふ類なり(是れは、ややもすれを行ふ意なり)、婆さんは、念仏ざんまい、

とある。さらに転じて、

紙子着て川へ陥(はま)らうが、油塗て火に焼(くば)らうが己(うぬ)がさんまい(女殺油地獄)、

と、

心のままなること、勝手、放題、

の意ですら使う。

しかし、「三昧」は、本来、仏教語として、念仏や誦経の場に用い、

阿彌陀三昧、
法華三昧、

といった用い方、また、

一心不乱に仏事を行なう、

意の、

三昧、

で使うのが一般的であった。そこから、広く、

精神を統一、集中する、

意が派生し、近世以降、この仏教的意味の翳から離れて、

ある一つのことだけを(好き勝手に)する、
心のままである、

といった意味を派生し、

ざんまい、

と濁音化し、

放蕩三昧、
悪行三昧、

等々、多く名詞と結びついて用いられるようになった(精選版日本国語大辞典)とある。たとえば、

朝夕弓矢三昧ぞ(古活字本荘子抄)、

と、

その事に専心、または熱中する、

意を表わしたり、

遺恨あらば折こそあらめ、今、時宗に向っての太刀ざんまい(浄瑠璃・頼朝浜出)、

と、

そのことをもっぱら頼りにしたり、その方向に一方的に傾いたりする、

意を表わしたりした(仝上)。

 
 

 
(「三」 https://kakijun.jp/page/0302200.htmlより)

「三」(サン)は、「三会」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484736964.htmlで触れたように、

指事。三本の横線で三を示す。また、参加の參(サン)と通じていて、いくつも混じること。また杉(サン)、衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで模様を成すの意も含む、

とある(漢字源)。また、

一をみっつ積み上げて、数詞の「みつ」、ひいて、多い意を表す、

ともある(角川新字源)。

 
 

 
(「昧」 https://kakijun.jp/page/mai09200.htmlより)

「昧」(漢音バイ、呉音マイ)は、

会意兼形声。未(ミ・ビ)は、小さくて見えにくい梢のこと。昧は「日+音符未」、

とある(漢字源)。「暗」「冥」は類義語、「くらい」意である。別に、

会意形声。「日」+ 音符「未」で、未まだ日ひが昇らず「くらい」こと、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%98%A7

会意兼形声文字です(日+未)。「太陽」の象形と「木に若い枝が伸びた」象形(「若い、まだ小さい、はっきり見えない」の意味)から、「暗い」、「夜明け」を意味する「昧」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji2073.htmlある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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東司


僧は入る由して、脇へはづして、東司(とうす)のうちに隠れ居て、よく見れば(奇異雑談集)、

にある、

東司、

は、

禅家での称、厠のこと、

である(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

登司、

とも当てる(大言海・精選版日本国語大辞典)。

スは唐音、


とある(岩波古語辞典)。

東浄(とうちん)、

ともいう。

チンは唐宋音、

である(世界宗教用語大事典)。もと、本堂の両側にあって、

東司(東浄)、
西司(西浄)、

といい、使用者は役職により分けられており、

東序者知事。西序者頭首。此謂両班也(「禅林象器箋(1741)」)、

とあるように、禅家で、

仏殿・法堂でならぶ諸役僧の座位を東西に分け、

「東序」は、、

法堂・仏殿の東側に並ぶ、都寺(つうす)・監寺(かんす)・副寺(ふうす)・維那(いの)・典座(てんぞ)・直歳(しっすい)などの六知事(雑事や庶務をつかさどる六つの役職)、

のいるところを指し、

東班、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。「西序」(せいじょ)は、

中央の仏壇に向かって左すなわち西側に並ぶ、首座、書記、知浴、知殿等の六頭首(ちょうしゅ 知事に対して修道の方面を掌る)、

のいるところをさす(デジタル大辞泉・仝上)が、のち西司をも東司と呼ぶようになった、とある(仝上)。

東司、

の語を使うのは曹洞宗で、臨済宗では、

雪隠、

といい、

烏蒭沙摩(ウズサマ)の真言は東司にて、殊に誦すべきなり、……不動明王の垂迹として不浄金剛と號して、東司の不浄の時、鬼若し人を悩ます事あらば、守護せん爲御誓なり(鎌倉後期の仏教説話集「雑談集」)、

とあるように、

不浄を清める烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう・うすしまみょうおう)、

が祀られ、

登司同郭登、厠神也(明『事物異名』)、

と、東司はもともと、

便所の守護神、

のことを指した(仝上)。因みに、「烏蒭沙摩」は、

烏枢沙摩、
烏枢瑟摩、
烏瑟娑摩、

とも表記し、

不浄潔金剛、
火頭金剛、
穢積(迹)金剛、
不壌金剛、
受触金剛、

ともいう。

いっさいの不浄や悪を焼きつくす霊験のある明王として、死体や婦人の出産所、動物の血の汚れを祓う尊としての信仰が主流、

で、

真言宗や禅宗では東司(とうす)すなわち便所の守護神としてまつられている場合が多い、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E6%9E%A2%E6%B2%99%E6%91%A9%E6%98%8E%E7%8E%8B・世界大百科事典)。

日常すべて修行とする禅においては、

便所すら心身練磨の道場であり、禅堂・浴室とともに、静謐を旨とし、私語を交わしたり、高声を発してはならない、

三黙道場、

の一つとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8F%B8。使用にあたっては入り方・衣のさばき方・しゃがみ方などの作法や、唱える偈文などが細かく規定されている(仝上)という。

「東司」の遺構で、現存かつ実際に使用されているものの一つに、

東福寺の東司、

がある。室町時代唯一、日本最大最古の禅宗式の東司とされる(仝上)。

「東司」は、寺院を構成する七つの施設である、

七堂伽藍、

の一つであるが、伽藍は、

サンスクリット語 saṃghārāmaの音写である僧伽藍の略、

で、

インド本来の意味は、修行者たちが住する園林、

であるが、中国、日本では一般に、

僧侶の住む寺院堂舎の称、

で、後世、一つの伽藍には7種の建物を備えなければならないとし、「七」は、

数量を表すのではなく、必要なものがみな備わっている、

という意味で(旺文社日本史事典)、これを、

七堂伽藍、

という。七堂の名称や配置は時代や宗派によって一定していないが、鎌倉時代の『古今目録抄』には、

塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂(じきどう)、

の7種を伽藍としており、普通は、この、

塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・僧房・食堂(じきどう)、

をいうが、禅宗では、

法堂・仏殿・山門・僧堂・庫院・西浄・浴室、

をいい、曹洞宗の永平寺では、

法堂(はっとう)・仏殿・僧堂・庫院(くいん 台所)・東司・三門・浴室、

をさす。南都六宗では、

金堂(こんどう)・講堂・塔・食堂(じきどう)・鐘楼(しょうろう)・経蔵・僧坊、

をいい、天台宗では、

中堂・講堂・戒壇堂・文殊楼(もんじゅろう)・法華堂・常行堂・双輪橖(そうりんどう)、

をいう(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。

「東」(漢音トウ、呉音ツウ)は、

象形。中に芯棒を通し、両端をしばった袋の形を描いたもの。「木+日」の会意文字と見る旧説は誤り。囊(ノウ ふくろ)の上部と同じ。太陽が地平線を通して突き抜けて出る方角。「白虎通」五行篇に、「東方者動方也」とある、

とある(漢字源)。別に、

象形。両端を縛った袋の形を象る。もと「束」と同字で、「しばる」「たばねる」を意味する漢語{束 /*stok/}を表す字。のち仮借して「ひがし」を意味する漢語{東 /*toong/}に用いる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%B1

象形。上下をくくったふくろの形にかたどる。借りて、日がのぼる方角の意に用いる(角川新字源)、

とも、

象形文字です。「袋(ふくろ)の両端を括(くく)った」象形から、袋を動かし万物を眠りから動かす太陽の方角「ひがし」を意味する「東」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji148.htmlが、「束」の象形が、なぜ「東」とされたのかよくわからない。

「司」(漢音呉音シ、唐音ス)は、

会意。「人+口」。上部は、人の字の変型。下部の口は、穴のこと。小さい穴からのぞくことをあらわす。覗(シ のぞく)や伺(シ うかがう)・祠(シ 神意をのぞきうかがう→まつる)の原字。転じて、司祭の司(よく一事をみきわめる)の意となった、

とある(漢字源)。別に、

象形。天から降りて来た神に、口でことばを告げる形にかたどる。「祠(シ まつる)」の原字。まつることから転じて、「つかさどる」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「まつりの旗」の象形と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)から、祭事をつかさどる、すなわち、「つかさどる(役目とする)」を意味する「司」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji620.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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雑談


ある人、雑談(ぞうたん)にいはく、女人の執心、忽ちに蛇になりし事(奇異雑談集)、

などとある、

雑談、

は、

用談に対す、

とあり(大言海)、

種々の要用(ようよう)ならぬ話、

つまりは、

重要であること、
必要であること、

とは関わらない、

むだ話、
とりとめのない話、

つまり、今日でいう、

雑談(ざつだん)、

である。

「雑談(ザツダン)」は漢語である。

よもやまの話、

の意で(「四方山話」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456319981.htmlについては触れた)、

相見無雑言、但道桑麻長(陶濳)、

と、

雑言(ゾウゲン)、

も同義である。

「悪行雑言」というような、ののしる意で「雑言」を使うのはわが国だけで、「罵詈雑言」http://ppnetwork.seesaa.net/article/443722588.htmlで触れたように、わが国でも、

諷諫の後、已に雑言(ざふごん)に及び、風月の事、和歌の興、言雜せらるるの間(中右記)、

と、

雑談、

の意で使っているが、後に、

無益(むやく)の殿ばらの雑言かな(平家物語)、

と、

悪態、
悪口、

の意に転じている。億説かもしれないが、どうやら、日本で、

雑談→よもやま話→わけのわからない物言い→うわごと→讒言→悪口、

といったように変じたらしいのである。「雑言」の意味変化と並ぶように、「雑談」も、

夫婦の語ひなんどとは勿躰至極の雑談(ザフダン)(浄瑠璃・「丹生山田青海剣(1738)」)、

と、

種々の悪口。無礼な言葉。雑言(ぞうごん)、

の意で使われた例もあるが、あまり一般的ではないようだ。

「雑談」という表記は平安期の古記録に見いだせ、

ざふたん、

つまり、

ぞうたん、

と訓ませるが、日葡辞書にも、

Zǒtan(ザウタン)、

とあり、古くは、

ゾウタン、

と訓み、江戸時代中期ごろから、

ゾウダン、

の訓みが出現し、明治になって、

ザツダン、
ゾウダン、

が並用され、

ザツダン、

が一般化するのは明治中期から末期にかけてである(精選版日本国語大辞典)とある。

此の雑談(ぞうたん)、奇異の儀にあらずといへども、火焔の中において、その真実をみる事、ふしぎにあらずや(奇異雑談集)、

とある「雑談」は、

世間話(せけんばなし)、

に近く、この形式の、

口承形式で伝えられてきた民話、

との関連で、

説話文学、

とつながり、平安末から鎌倉初期の三井寺(みいでら)関係の説話集、

雑談鈔、

鎌倉末期の無住編の説話集、

雑談集(ぞうたんしゅう)、

がある。また、鎌倉時代以降、芸道の同好の士が寄合で交わした芸談も、

雑談(ぞうたん)、

といい、其角の俳諧評釈書に、

雑談集、

があるが、南北朝期の頓阿(とんあ・とんな)の歌論書『井蛙抄(せいあしょう)』は、

雑談記、
和歌雑談聞書、

などと呼ばれることがあり、戦国時代の猪苗代兼載(いなわしろけんさい)の歌論・連歌論書も、

兼載雑談、

である(百科事典マイペディア)。なお、

雑談のなかで語られた芸の秘訣や苦労話など、有用な談話を書き留めてまとめたものを、

聞書、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%AB%87とある。

「雑(雜)」(慣用ザツ・ゾウ、漢音ソウ、呉音ゾウ)は、

会意兼形声。木印の上は衣の変形、雜は、襍とも書き、「衣+音符集」で、ぼろぎれを寄せ集めた衣のこと、

とある(漢字源)。混ぜ合わせることを意味する、ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%9C)。別に、

形声。意符衣(ころも)と、音符集(シフ→サフ)とから成る。いろいろのいろどりの糸を集めて、衣を作る意を表す。ひいて「まじる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(衣+集)。「衣服のえりもと」の象形(「衣服」の意味)と「鳥が木に集まる」象形(「あつまる」の意味)から、衣服の色彩などの多種のあつまりを意味し、そこから、「まじり」を意味する「雑」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji875.html

「談」(漢音タン、呉音ダン)は、

会意兼形声。「言+音符炎(さかんな)」で、さかんにしゃべりまくること、

とある(漢字源)。おだやかに「かたる」意(角川新字源)ともある。ただ、「炎」は、

火が盛んに燃える様で、盛んに話すの意、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AB%87

会意兼形声文字です(言+炎)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「燃え立つ炎」の象形(「盛んに燃え上がる炎」の意味)から、さかんに交わされる言葉、「かたり」を意味する「談」という漢字が成り立ちました、

と考えられるhttps://okjiten.jp/kanji448.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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竜灯


毎月に三度参詣し、通夜して仏前に夜もすがら横寝せず、称名念仏し給へば、竜灯をしげくみるといへり(奇異雑談集)、

にある、

竜灯は、

夜、海上に光が連なって見える現象(大辞泉)、
海中の燐火の、時として、燈火の如く連なり光りて現るるもの(大言海)

をいい、

竜神が神仏にささげる灯火といい伝え、各地の神社に伝説があるが、特に九州の有明海や八代海で、盆の前後や大晦日に見られるものが有名、

とあり、

蜃気楼現象で、漁火の光の異常屈折現象、

ともいわれ、

不知火(しらぬい)、

ともいい(日本国語大辞典)、

磐城(福島県浜通り)の閼伽井(アカヰ)の火、最も名あり(大言海)、

という、

怪火、

の意と共に、

神社に奉納する灯籠。
神社でともす灯火、

つまり、

神灯、

の意もある(広辞苑・仝上)。上述の「奇異雑談(ぞうたん)集」には、つづいて、

竜灯とは、橋立の切戸(きれと)二丁ばかりの中に、俄かに一段ふかき所あり。是を竜宮の門なりといひつたへたり。天気よく波風なき夜、切戸よりともし火出でて、文殊の御前にまゐる。無道心の人は、みる事まれなり。あるひはみて漁火なり、といふ人もあり。文殊堂の前、二十間ばかり南に、高き松あり。その上に竜灯住(とま)るなり。半時ばかりありて消ゆ。あるひははやくも消ゆるなり。もし松の上に童子ありて、ともし火をささぐる事あり、是をば天灯(てんどう)といふなり。昔は天灯しげかりしが、今は稀なりといへり、

と説いている(奇異雑談集)。ここの「文殊」とは、九世戸の文殊堂のことで、

五台山知恩寺、文殊堂周辺には海が入り込み、切戸の文殊とも称された。久世戸の呼称は、切戸・渡の意と、「くし(奇)び」の意が重なって成立したものらしい、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「松の灯火」は、

竜とか竜神などが火を献じ、松の木の頂にそれを点じたという由来をもつ松を、

竜灯松、

と呼ぶものと関りがありそうである。多くは、

松の木、

で、杉だと、

竜灯杉、

と呼ばれ、そういう名称を持つ木は各地に伝わる(日本伝奇伝説大辞典)。その一つに、

枝幹屈曲して、龍の臥せるが如く、實に数百歳の樹なり、この所より海上にうかぶ龍燈を拝するが故に名とす、龍燈は、正月元日より三日、又は六日、風静かに波穏かなるとき、大宮の沖手に現ず、

とある(厳島図会・龍燈杉)。

「竜灯」は、

龍燈、
龍灯、

等々とも表記されるが、

竜が水と密接な関係を持ち、海の神そのものとして、水の管理を司る農業神の性格をもっている、

とされる点から考えると、「海上の火」とは、

海神の化身である竜の献じた火、

を意味していると解釈される(仝上)。柳田國男は、その由来を、

「竜燈と云ふ漢語はもと水辺の怪火を意味して居る。日本でならば筑紫の不知火、河内の姥が火等に該当する。時あつて高く喬木の梢の辺を行くなどは、怪火としては固より怪しむに足らぬが、常に一定の松杉の上に懸かると云ふに至つては、則ち日本化した竜燈である。察する所五山の学僧などが試に竜燈の字を捻し來つて此燈の名としたのが最初で、竜神が燈を献じたと云ふ今日の普通の口碑は、却つて其後に発生したものであらう。各地の山の名に燈籠塚山、又地名として燈籠木などと云ふのがあるが、竜燈松の昔の俗称は多分それであらふと思ふ」(竜燈松伝説)

とし、更に、竜燈松(杉)は、

神の降臨の際の目印とした柱松(柱の上に柴などをとりつけておき、下から小さいたいまつを投げて点火させる、盆の火焚き行事)に発展する、

と考え、これが、

トンド焼、
左義長、

の風習につながる、と見なした(日本伝奇伝説大辞典)。

しかし、南方熊楠は、龍灯伝説の起源を、

インド、

とし、

自然の発火現象を人心を帰依せしめんとした僧侶が神秘であると説き、それが海中から現れ空中に漂う怪火を龍神の灯火とする伝承があった中国に伝わって習合し、更に中国に渡った僧侶によって日本に伝来、同様の現象を説明するようになった、

とし、また左義長や柱松は、

火熱の力で凶災を避けるもの、

龍灯は、

火の光を宗教的に説明したもの、

で、

熱と光という火に期待する効用を異にした習俗、

であると説いたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%87%88とある。是非は判断がつかないが、中国同様に、龍神の灯火とみるわが国では、たやすく受け入れられたとみられる。

「龍」(漢音リョウ、呉音リュウ、慣用ロウ)は、「神龍忽ち釣者の網にかかる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485851423.htmlで触れたように、

象形。もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それにいろいろな模様を添えて、龍の字となった、

とある(漢字源)。別に、

象形。もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、「龍」となった。意符としての基本義は「うねる」。同系字は「瀧」、「壟」。古声母は pl- だった。pが残ったものは「龐」などになった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D

「灯(燈)」(@漢音呉音トウ、A漢音テイ、呉音チョウ、唐音チン)は、

音によって意味が異なり、@は「燈」(=鐙)、「灯火」「法灯」というように、ともしび、あかり、ひ、それを喩えとした仏の教え、の意であり、Aは「灯」、ひ、ともしび、ひと所にとめておくあかり、

の意とあり、@「燈」は、

会意兼形声。登は「両足+豆(たかつき)+両手」の会意文字で、両手でたかつきを高くあげるように、両足で高くのぼること。騰貴(のぼる、あがる)と同系のことば。燈は「火+音符登」で、高くもちあげる火、つまり高くかかげるともしびのこと、

とあり、A「灯」は、

会意兼形声。灯は「火+音符丁(=停、とめおく)で、元(ゲン)・明(ミン)以来、燈の字に代用される、

とある(漢字源)。同趣旨は、

(A)形声。火と、音符丁(テイ)とから成る。もと、燃えさかる火の意を表したが、俗に燈の意に用いる。教育用漢字はこれによる、
(B)形声。火と、音符登(トウ)とから成る。「ともしび」の意を表す、

ともある(漢字源)。「燈」を「灯」の旧字と見なして、

会意兼形成文字です(火+登)。「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「上向きの両足の象形と祭器の象形と両手の象形」(祭器を持って「上げる」、「登る」の意味)から、「上に登る火」を意味する「燈」という
漢字が成り立ちました、

とする説があるhttps://okjiten.jp/kanji96.htmlが、上述の説明からみて、「燈」→「灯」と略字化したと見るのは、明らかに誤っているのではないか。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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