「とぶ」は、 跳ぶ、 飛ぶ、 と当て(広辞苑)、また、 翔ぶ、 と当てたりする。「とぶ」は、 鳥が空中を羽で飛行する意。類義語カケルは、鳥にかぎらず馬・龍・蠅などが宙を走り回る意、 とある(岩波古語辞典)。「かける」は、 翔る、 と当て、 礒(いそ)に立ち沖辺(おきへ)を見れば藻(め)刈り舟海人(あま)漕ぎ出(づ)らし鴨翔(かけ)る見ゆ(万葉集)、 と、 空中を飛び回る、 意や、 苦しきままにかけりありきて、いとねむごろに、おほかたの御後見を思ひあつかひたるさまにて、追従しありきたまふ(源氏物語)、 と、 飛ぶように走る、 意で、「飛ぶ」とは意味が重なる。「とぶ」には、 あしひきの山とび越ゆる雁がねは都に行かば妹に逢ひて来ね(万葉集)、 と、 鳥などが飛行する(岩波古語辞典)、 翼を動かして空を行く、翔る(大言海)、 意と、 真土山(まつちやま)越ゆらむ君は黄葉(もみちば)の散りとぶ見つつ(万葉集)、 と、 大地から離れ空に上がる、高く舞い上がる、空中を移動する(広辞苑)、 (空中を)舞う(岩波古語辞典)、 吹き上げられて散りゆく、翻る(大言海)、 意と、 獅子王の吼ゆる声の一たび発(おこ)る時には一切の禽獣、悉皆、驚き怖りてとび落ち走り伏して(地蔵十輪経)、 と、 (足ではずみをつけて地面・床などをけり)からだが空中にあがるようにする、はねる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、 空中にはねあがる、跳躍する(広辞苑)、 をどる、跳(は)ぬ(大言海)、 などの意があり、特に、「はねあがる」「はねる」意の場合、 ジャンプ競技でK点まで跳ぶ、 と、 跳ぶ、 を当てたりする(広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉・大言海)。 後は、そうした「とぶ」の意味をメタファとして、 ヤジが飛んだ、 礫が飛んだ、 火花が飛んだ、 事故現場へ飛ぶ、 心は故国に飛んでいる、 びんたがとぶ、 デマがとぶ、 染めがとぶ、 ヒューズがとぶ、 ページがとぶ、 五百飛んで六円、 等々と、 空中を通り、離れた所に達する、動き出しの強い力で遠いところまでゆく(広辞苑)、 遠くへだたる(岩波古語辞典)、 間を隔てる、間を置く(大言海)、 大急ぎで、また、あわててある所へ行く、かけつける(デジタル大辞泉) つながったものが切れる、あった者が消える(仝上)、 うわさ・命令などがたちまちひろがる(仝上)、 等々の意でも使う(仝上)。 「とぶ」は、 疾(と)を活用せる語か(大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、 トクフ(疾経)の義(名言通・和訓栞)、 トフ(速経)の義(言元梯)、 疾(ト)+ブで、早くとぶ(日本語源広辞典)、 と、「疾」あるいは「速」と絡ませる説、 トヲヒク(遠引)の反、またはトヲフル(遠経)の反(名語記)、 遠キニ-フル(歴)の義(柴門和語類集)、 と、「隔」てから解釈する説、 鳥(ト)+ブ、鳥のように早く飛ぶ意(日本語源広辞典)、 トブ(鳥羽)の義(和語私臆鈔)、 と、「鳥」と絡ませる説等々がある。確かに「と(鳥)」は、 とがり(鳥狩)、 となみ(鳥網)、 と使われるが、これは、 他の名詞の上について複合語を作る際、末尾のriと次の来る語の語頭の音とが融合した形、 で、 törikari→törkari→töngari→tögari、 と変化するもので、 鳥ぶ、 という変化はない(岩波古語辞典)ようだ。常識に考えれば、 疾(と)の活用、 ということに落ち着きそうだが、どうだろう。 因みに、 飛ぶ、 跳ぶ、 翔ぶ、 の使い分けを、 「飛ぶ」は空中を移動する時や速く移動する時に使われます、 「跳ぶ」は地面をけって高く上がるという意味です、 「翔ぶ」は翼を広げてとぶ、空高くとぶ、という意味です、 と説く説がある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%B6他)が、 地上から跳ねる、 のが、 跳ぶ、 で、 空を飛ぶ、 のが、 飛ぶ、 という使い分けて十分だろう。「翔ぶ」は、空駆ける意を含ませたいときに使うということだろうか。結局漢字の意味におぶさった使い方ということになる。 「跳」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。兆は、亀の甲を焼いて占うときに生ずるひびを描いた象形文字。左右二つに分かれる、ぱっと離れる意味を含む。跳は「足+音符兆」で、足ではねて体が地面から離れること、 とあり(漢字源)、「跳躍」といった使い方をする。同趣旨で、 会意兼形声文字です(足+兆)。「胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「占いの時に亀の甲羅に現れる割れ目」の象形(「きざし(前触れ)」の意味だが、ここでは、「弾け割れる」の意味)から、「はねあがる」、「おどる」、「つまずく」を意味する「跳」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1233.html)。 「飛」(ヒ)は、 象形。鳥の飛ぶ姿を描いたもので、羽を左右に開いて飛ぶこと、蜚(ヒ)と同じ、 とある(漢字源)。 三年不蜚、蜚将沖天(三年蜚バス、蜚ベバ将ニ天ニ沖(まっすぐ高く上がる)セントス)(史記)、 と、「蜚鳥」は「飛鳥」と同じである(仝上)。別に、 象形。鳥が羽を振ってとぶさまにかたどり、「とぶ」意を表す。角川新字源 象形。鳥のとぶ様を象る。音声的には、左右に分かれるを意味する「非」「扉」「排」と同系、「蜚」は同音同義。篆書以前の字体は確たる採取例がない、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%9B)。 「翔」(漢音ショウ、呉音ゾウ)は、 形声文字(意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせて作られた文字)。「羽+音符羊」、 とある(漢字源)。「羽」(ウ)は、「非想非々想天」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485982512.html)で触れたように、 二枚のはねをならべおいたもの、 を描いた象形文字である(仝上)。 「飛翔」と、「かける」「羽を大きく広げて飛びまう」「とびめぐる」意である(漢字源・字源)。「飛」との違いは、 翔而後集(翔リテ後ニ集ル)(論語)、 と、 鳥に限定していないように見えるが、 室中不翔(室中ニテ翔せず)(礼記)、 と、 鳥が飛ぶ、 意でも用いている(漢字源)。「翔禽」「翔天」「翔空」などと使う(字源)。 別に、 形声文字です(羊+羽)。「羊の首」の象形(「羊」の意味だが、ここでは「揚(ヨウ)」に通じ(同じ読みを持つ「揚」と同じ意味を持つようになって)、「あがる」の意味)と「鳥の両翼」の象形から、「かける・とぶ」を意味する「翔」という漢字が成り立ちました、 とあり(https://okjiten.jp/kanji1458.html)、飛ぶ意味があることは確かである。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「矧(は)ぐ」は、古くは、 ハク、 と清音、 とあり(広辞苑・岩波古語辞典)、 佩くと同語(広辞苑)、 刷くと同根(岩波古語辞典)、 とある。 淡海(あふみ)のや矢橋(やばせ)の小竹(しの)を矢着(やは)かずてまことありえめや恋しきものを(万葉集)、 と、他動詞四段活用に、 竹に矢じりや羽をはめて矢に作る、 意で(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典・広辞苑)、天正十八年(1590)本節用集に、 作矢、ヤヲハグ、 とある。さらに、それをメタファとして、 三薦(みすず)刈る信濃の真弓引かずして弦作留(をはぐる)わざを知ると言はなくに(万葉集)、 梓弓弦緒取波気(つらをとりはけ)引く人は後の心を知る人ぞ引く(万葉集)、 と、他動詞下二段活用に、 填(は)む、つくる、引き懸く(大言海)、 の意に、更に、 弛(はず)せる弓に矢をはげて射んとすれども不被射(太平記)、 と、 弓を矢につがえる(広辞苑)、 意でも使う。和漢音釈書言字考節用集(1717)には、 ツゲル、屬弓弩於弦、 とある。ここから、 いくさみてやはぎの浦のあればこそ宿をたてつつ人はいるらめ(鎌倉後期「夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)」)、 と、 戦(いくさ)見て矢を矧ぐ、 という諺が生まれる。 盗人を捕らえて縄を綯う、 難に臨んで兵を鋳る、 といった「泥縄」の意である(故事ことわざの辞典)。 「矧ぐ」と同根、同語とされる、 佩(は)く、 は、 着く、 穿く、 帯く、 などとも当て(広辞苑・大言海)、 細長い本体に物をとりつけたり、はめ込んだりする意、類義語オブ(帯)は巻き付ける意、 とあり(岩波古語辞典)、 やつめさす出雲健(いずもたける)がはける太刀つづら多(さわ)纏(ま)き真身(さみ)なしにあはれ(古事記)、 と、 太刀を身につける、 意や、 信濃道は今の墾道(はりみち)かりばねに足踏ましなむ履(くつ)はけ吾が背(万葉集)、 と、 袴、くつ、足袋などを着用する、 意の他に、 陸奥(みちのく)の安太多良真弓はじき置きて(弦ヲハズシテオイテ)反(せ)らしめきなば(ソセシテオイタナラ)弦(つら)はきかめかも(萬葉集)、 と、 弓弦を弓に懸ける、 意がある。同語で漢字を当て分けただけというのもうなずける。 佩く→矧く→矧ぐ、 と、漢字を当て分けることで、意味を際立たせることになったのではあるまいか。 「佩く」の語源は、 ハ(間)に着くるの義(国語の語根とその分類=大島正健)、 ヒク(引)に同じ(和語私臆鈔)、 フレキル(触着)の義(言元梯)、 等々とあるが、古く清音という難はあるが、 接ぐ、 綴ぐ、 と当てて、 板を接(は)ぐ、 布を接(は)ぐ、 というように、 間を繋ぎ合わす、 接(つ)ぐ、 着け合わす、 という意味で使う「はぐ」がある(大言海)。由来は、 ハ(閨jの活用(大言海)、 ハ(間)を着け合わす魏(国語の語根とその分類=大島正健)、 とされる(日本語源大辞典)。「矧ぐ」は、この「はぐ」とつながるのではないか。 柱(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473416760.html)で触れたように、「柱」の語源に、 ハシは屋根と地との間(ハシ)にある物の意、ラは助辞(大言海)、 ハシ(間)+ラ、屋根と地のハシ(間)に立てるものをいいます(日本語源広辞典)、 とする説を採るものが多い(古事記傳・雅言考・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹等々)。 「はし」と訓ませるものには「はし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473930581.html)で触れたように、 橋、 箸、 端、 梯、 嘴、 階、 などと当て分け、「端」は、 縁、辺端、といった意味、 で、 は、 とも訓ませ、 間、 の意味である。万葉集には、 まつろはず立ち向ひしも露霜の消(け)なば消(け)ぬべく行く鳥の争う端(はし)に渡會(わたらい)の斎の宮ゆ神風(かむかぜ)にい吹き惑はし(柿本人麻呂) くもり夜の迷へる閨iはし)に朝もよし城上(きのえ)の道ゆつのさはふ磐余(いわれ)を見つつ(万葉集)、 などの例があり、「はし」に「閨vと「端」を使っているし、古事記には、 關l(はしびと)穴太部王、 という例もあり、 端、 と 閨A は、「縁」の意と「間」の意で使っていたように思われる。だから、大言海は、「橋」を、 彼岸と此岸との閨iはし)に架せるより云ふ、 とし、国語大辞典も、 両岸のハシ(間)をわたすもであるところから、ワタシの略転、早く渡れるところからハヤシ(早)の中略、両岸のハジメ(初)からハジメ(初)へ通ずるものであるところから、 とある(http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/isibasi/hasi_k.html)。さらに、「はし」は、 現在「橋」と書くが、古くは「間」と書いていたことが多かった。もともと、ものとものとを結ぶ「あいだ」の意味から、その両端部の「はし」をも意味するようになった、 ともあり(仝上)、「はし(閨j」とする説は多く、 両岸のハシ(間)にわたすものであるところから(東雅・万葉集類林・和語私臆鈔・雅言考・言元梯・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹)、 この他、 ハザマ(狭間)・ハサム(挟)等と同源か。ハシラ(柱)・ハシ(端)とも関係するか(時代別国語大辞典)、 ハシラ(柱)の下略(和句解)、 ハシ(端)の義(名言通・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 橋は「端」と同源。「端」の意味から「間(あいだ)」の意味も持ち、両岸の間(はし)に渡す もの、離れた端と端を結ぶものの意味から(語源由来辞典)、 ハシ(間)です。隔たったある地点の閨iハシ)に渡すもの、の意です。高さのハシ、階、梯、谷や川を隔てた地点のハシ、橋、食べ物と口とのハシ、箸、いずれもハシ(閨jを渡したり、往復するものです(日本語源広辞典)、 と、「橋」と「箸」「梯」「階」ともすべてつなげる説まである。その意味で、 矧ぐ、 を、 ハ(閨jの活用(大言海)、 とする説は、「柱」が、 天と地のハシ(閨j、 であったことから類推するなら、弓の場合、弓を射る時、 下になる方の弭(はず)を「もとはず(本弭・本筈)」、 上になる方を(弓材の木の先端を末(うら)と呼ぶことので)「うらはず(末弭・末筈)」、 というが、もとはず(本弭・本筈)とうらはず(末弭・末筈)を、 は(接)ぐ、 といったのではないか。古く「はく」と清音であったのは難点だが、 は(間)→はく(接)→はぐ(接)→はぐ(矧)、 と変化したとみるのはいかがであろうか。 「矧」(シン)は、 会意文字。「矢+音符引」で、矢を引くように畳みかける意をあらわす、 とあり、 至誠感神、矧茲有苗(至誠神ヲ感ゼシム、イハンヤコノ苗ヲヤ)(書経)、 と、 いわんや、 の意味で使い、 況、 と同義である。これを、 矢を矧ぐ、 と、羽をつける意で用いたのは、 笑不至矧(笑ヒテ矧ニ至ラズ はぐきを現わすほどに大笑いせず)(礼記) にある、 はぐき、 の意からの連想なのだろうか。その理由が分からない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「ねたむ」は、 妬む、 嫉む、 と当てる(大辞泉・大言海)。「妬む」「嫉む」の「妬」「嫉」の字は、 そねむ、 とも訓ませ(広辞苑)、「妬」の字は、また、 うらやむ、 とも訓ませる(大言海)し、 妬く、 で、 やく、 とも訓ませる(広辞苑)。「ねたむ」は、 女は、今の方にいま少し心寄せまさりてぞ侍りける。それにねたみて、終に今のをば殺してしぞかし(源氏物語)、 と、 (負かされたり、他人の方が幸せであったり、まさっていたりする立場におかれて)相手をうらやみ、憎む、忌々しく思う、 意や、 翁、胸いたきことなし給ひそ。うるはしき姿したる使にも障らじと、ねたみをり(竹取物語)、 と、 悔しく思う、癪に障る、 意で使うが、 妻ねためる気色もなくて過ごしけり(鎌倉時代中期「十訓抄」)、 と、 男女間のことで嫉妬(しつと)する、 やきもちをやく、 と、より絞った意味でも使う。「ねたむ」の語源を、 うれたし(慨哉)と意通ず、 とし(大言海)、「うれたし」は、 心痛しの約轉か(何(いづく)、いづれ)、嫉(ね)し、恨めしと意通ず(大言海)、 ウラ(心)イタシ(痛)の約(岩波古語辞典)、 とある。「うらなう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html)で触れたように、「うら(占)」は、 事の心(うら)の意、 で(大言海)、「心(うら)」は、 裏の義。外面にあらはれず、至り深き所、下心、心裏、心中の意、 であり(仝上)、「うら」は、 裏、 心、 と当て、 平安時代までは「うへ(表面)」の対。院政期以後、次第に「おもて」の対。表に伴って当然存在する見えない部分、 である(岩波古語辞典)。その意味で、「ねたむ」を、 心痛む、 とする意図はわかるが、語意の範囲が広すぎないだろうか。別に、 相手の名、評判が高く、自分に痛く感じられる意のナイタシ(名痛)から(日本語の年輪=大野晋)、 ネイタム(性痛見)の義(日本語原学=林甕臣)、 ネイタム(心根痛)から変化した(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、 ムネイタム(無念甚)の義、またムネイタム(心痛)の義(言元梯)、 等々あるが、「痛む」の共通項以上にはいかない。さらに、 「ねたし」+接尾辞「む」 とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%9F%E3%82%80)。形容詞「ねたし」から動詞「ねたむ」が生まれたとする説である。「ねたむ」は、 形容詞ネタシ(妬)と語幹が共通する動詞で、 ウム(倦)−ウシ(憂)、 スズム(涼)―スズシ(涼)、 と同様の関係がある。またネタマシは、動詞ネタムを形容動詞化した派生語である、 とある(日本語源大辞典)。その意味では、動詞→形容詞なのか、形容詞→動詞なのかは即断できない。ちなみに、 ねたし(妬し)、 は、 相手に負かされ、相手にすげなくされなどした場合、またつい不注意で失敗した場合などに感じる、にくらしい、小癪だ、いまいましい、してやられたと思うなどの気持。類義語クヤシは、自分のした行為を、しなければよかったと悔やむ意。クチヲシは期待通りに行かないで残念の意、 とある(岩波古語辞典)。 別に、類義語「そねむ」と関連づけて、音韻変化から、 ムネイタム(胸痛む)は小開き母韻(下あごの開きが小さい)を落としてネタム(妬む)になった。「タ」が子交(子音交替)[ts]をとげて、ネサム・ネソム(嫉む、壹岐)になった。ネソムは音調上、安定性がないので転位してソネム(猜む、嫉む)になった。「自分よりまさっているものをうらみ憎む、嫉妬する」という意である。〈さまあしき御もてなし故こそすげのうそねみ給ひしか〉(源氏物語)、 とする(日本語の語源)ものもあり、語源ははっきりしないが、「ねたむ」と「そねむ」の関連性を音韻変化で後付けているのは説得力がある。 では「そねむ」からみていくとどうなるのか。「そねむ」は、 嫉む、 妬む、 猜む、 と当て(広辞苑)、 羨み極まりて、惡む、他の能を妬みて仇せむとす、 とあり(大言海)、「ねたむ」より悪感情が勝っているようで、 起逆、謀傾窺便、爰天且嫌之、地復憎之、訓釋「嫌、ソネミ」(日本霊異記)、 と、 嫌う、 憎む、 意、さらに、 参内し給ふ臣下をもそねみ給へば、入道の権威にはばかって、通ふ人もなし(平家物語)、 と、 厭に思って疎外する、 意で使い、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 嫌・憎、そねむ、 とあり、明らかに、嫌悪の情が表面に出てきている含意となる。だから、「そねむ」の由来を、 背き妬(ねた)むの略(大言海・名言通)、 相手をソネ(确・埆 石の多い、堅い瘦せ地)と思う意、ごつごつして、とがった、不快なものと思うのが原義(岩波古語辞典)、 等々とあるところからは、「ねたむ」に比べると、悪意がより出てきている。 「ねたむ」の関東地方の方言に、 やっかむ、 というのがある。 うらやむ、 ねたむ、 意で使うが、 焼噛む、 の転訛とする説がある(江戸語大辞典)が、 焼き、ねたむ、 から、たとえば、 yaki-netamu→yakkamu と転訛したのではあるまいか。「ねたむ」の類義語には、 羨む、 妬む、 とあてる、 うらやむ、 がある(大言海)。 花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露を悲しぶ心(古今和歌集・序)、 と、 人の様子を見て、そのようにありたいと思う、 意や、 群臣百寮、無有嫉妬(ウラヤミネタム)(推古紀)、 と、 ねたむ、 そねむ、 の意でも使う。字鏡(平安後期頃)に、 佒、懟(うらむ)也、心不服也、宇良也牟(ウラヤム)、又、阿太牟(アダム)、 とある。因みに、「あだむ」は、 仇む、 と当てる、 仇と思う意、 の、 この監(げん)にあだまれてはいささかの身じろぎせむも所せく(源氏物語) と、 敵視する、 意となる(岩波古語辞典)。 「うらやむ」のの語源は、 ウラ(心)ヤム(病)が原義(岩波古語辞典・広辞苑)、 心病む(ウラヤム)の義にて、他を見て心悩む意なるべし、怨むと、粗、同意(大言海・和訓栞)、 と、ほぼ、 心(ウラ)病む、 意としている。これは、 優れている相手のように自分もありたいと憧れ、自分を卑しみ傷つく意。類義語のネタムは優位にある相手を傷つけようと思う意、ソネムは、良い状態の相手を、そね(确)のような石のごつごつした、とがった、嫌なものと思う意、 とある(岩波古語辞典)。なお、 妬く、 を、 やく、 と訓ませるのは、「火をつけて燃やす」意の、 焼く、 をメタファに、 冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らねかもわが情(こころ)焼く(万葉集)、 と、 心・胸などを熱くする、 意で使うが、それを更に絞って、 妬く代わりには手があるだらう(浮世床)、 と、 焼餅を焼く、嫉妬する、 意で使う(広辞苑・岩波古語辞典)。 こうみると、 うらやむ→ねたむ→そねむ、 と相手への悪感情が勝るが、 先に昇進した同期生をねたむ(そねむ)」など、うらやみ憎む意では相通じて用いられ、「順調な出世をそねみ、ねたまれる」のように重ねて使われることもある、 ともある(大辞泉)。 こうした心の内の思いの先は、結局、 うらむ、 へと行き着く。「うらむ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474030946.html)で触れたように、「うらむ」は、 恨む、 怨む、 憾む、 と当て、その語源は、 心(うら)見るの転、 とされる(大言海・岩波古語辞典)。 ウラミのミは、miであった。従って、ウラミの語源はウラ(心の中)ミル(見る)と思われる、 とある(岩波古語辞典)。上述したように、「うら(占)」は、 事の心(うら)の意、 で(大言海)。「心(うら)」は、 裏の義。外面にあらはれず、至り深き所、下心、心裏、心中の意、 となり、「うら」は、 裏、 心、 と当て、「かお」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450292583.html)の項でも触れたように、「うら(心・裏・裡)」は、 顔のオモテに対して、ウラは、中身つまり心を示します、 とし、 ウラサビシ、ウラメシ、ウラガナシ、ウラブレル等の語をつくります。ウチウラという語もあります。後、表面や前面と反する面を、ウラ(裏面)ということが多くなった語です、 ということになる(日本語源広辞典)。「うらむ」は、 相手の心のうちをはかりかね、心の中で悶々とする、 というのが原意であったと考えられるが、 相手の仕打ちに不満を持ちながら、表立ってやり返せず、いつまでも執着して、じっとと相手の本心や出方をうかがっている意。転じて、その心を行為にあらわす意、 とある(岩波古語辞典)ので、ほとんど行動に出る寸前というところだが、まだ、しかし、心の内にとどまっているのは、「ねたむ」「そねむ」「うらやむ」と、「うらむ」も同じなのである。 「嫉」(漢音シツ、呉音ジチ)は、 会意兼形声。疾は「疒(やまい)+矢」からなり、矢のようにきつくはやく進行する病を意味する。嫉は「女+音符疾」。女性にありがちな、かっと頭にくる疳の虫、つまりヒステリーのこと、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AB%89)。別に、 会意兼形声文字です(女+疾)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形と「人が病気で寝台にもたれる象形と矢の象形」(人が矢にあたって傷つき、寝台にもたれる事を意味し、そこから、「やまい」の意味)から、女性の病気「ねたみ」を意味する「嫉」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2076.html)。 「妬」(漢音ト、呉音ツ)は、 形声。「女+音符石(セキ)」で、女性が競争者に負けまいとして真っ赤になって興奮すること。石の上古音は妬(ト・ツ)の音になりうる音であった、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(女+石)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形と「崖の下に落ちている石」の象形(「石」の意味だが、ここでは、「貯」に通じ(「貯」と同じ意味を持つようになって)、「積もりたくわえられる」の意味)から、夫人(妻)の夫に対する積もった感情「ねたみ」を意味する「妬」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2077.html)。 「猜」(サイ)は、 会意。「犬+青(あおぐろい)」。もと、くろ犬のこと。くろ犬(中国では、人になつかないといわれている)のような疑い深いことをあらわす、 とある(漢字源)。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)の注に、 ある種の犬を元は表す、 というはその意味で、 犬が懐かない様を言った、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8C%9C)。 「青」を音符とするのは説文解字来であるが「青」を音符をする漢字と音が大きく違うため、青黒い犬を表した会意文字、 とする説も成り立つ(仝上)、とある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「区々」は、 くく、 とも、 まちまち、 とも訓ませる(広辞苑)。色葉字類抄(1177〜81)に、 區區、クク、 とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 區、マチマチ、 とある。 意見が区々(くく)に分かれる、 と まちまちであること、 の意と、 悲むらくは、公の、ただ古人の糟粕を甘んじて、空しく一生を、區々の中に誤る事(太平記)、 と、 小さくてつまらぬさま、 の意で使う(広辞苑・大言海)。「區々」は、 以區區之齊在海濱(区区の斉を以て海濱に在り 史記・管晏傳)、 と、 小さい、 意で使っており、漢語である。だから、 且夫王者之用人。唯才是貴。朝為廝養。夕登公卿。而况区区生徒。何拘門資(「本朝文粋(1060頃)」)、 と、 面積、数量などがわずかであること、 それをメタファに、 物事の価値が少ないこと、とるにたりないこと、 の意や、 行人の毎日区々として、名利の塵に、奔走するを(「中華若木詩抄(1520頃)」)、 と、 小さなことにこだわること、こせこせすること、 の意や、 区々心地無煩熱、唯有夢中阿満悲(「菅家文草(900頃)」)、 と、 ものごとや意見などが一つ一つ別々でまとまっていないこと、 の意や、 区々渡海麑、吐舌不停蹄(仝上)、 と、 けんめいなさま、 の意で使う(精選版日本国語大辞典)が、何れも漢文系の文章で使われている。 「区々」を、 まちまち、 と訓ませる場合も、意味はほぼ同じで、 甄(あきらか)に道芸を崇め、区(マチマチ)に玄儒を別(わか)てり(「三蔵法師伝承徳点(1099)」)、 八方門の区(マチマチニ)別れたる十二部の綜要なり(「唐西域記巻十二平安中期点(950頃)」)、 それ出陣の道のまちまちなりとは申せども(平家物語)、 などと、 それぞれ異なること、 個々別々、 の意である(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。「区々」に、 まちまち、 と訓じたのが何に因るのかは、 マ(間)チ(道)を重ねたもの(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、 ワカチワカチ(分々)の義(言元梯)、 田間の町のように一所ずつ分かれている意(日本釈名)、 区々の訓、街衢の意(和訓栞)、 の諸説だけでははっきりしないが、漢語「区々」は、 秦以区々之地、致萬乗之權(賈誼(かぎ)、過秦論)、 と、 小さい、狭い、 意であり、そこから転じて、 答蘇武書、區區竊慕之耳(李陵)、 と、 おのれの心を謙していう、 とある(字源)。あるいは、 区々之心(くくのこころ)、 と、 小さくつまらぬ心、 の意、また、 おのれの心を謙していふ、 とあり、略して、 區區、 ともいう(仝上)とあるのを見ると、漢語「区々」には、 まちまち、 個々別々、 の意はない。とすると、「まち」からきたと考えるのが自然である。「まち」は、 町、 区、 と当て、 土地の区画・区切り、仕切りの意、 とあり(岩波古語辞典)、 田の区画、 市街地を道路で区切った、その一区画、 宮殿・寺院・邸宅内の一区画、 (「坊」と当て)都城の条坊制の一区画、 物を売る店舗、市場、 などといった意味があり(岩波古語辞典・大言海)、和名類聚抄(平安中期)には、 町、未知(まち)、田區也、 字鏡(平安後期頃)には、 町ハ、田區ノ畔埓(かこい)也、 とあり、さらに、和名類聚抄(平安中期)には、 坊、萬知、別屋也、 とも、また 店家、俗云東西町是也、坐売物舎也、 ともあり、平安末期『色葉字類抄』には、 市町(いちまち)、人皇廿代持統天皇之時、諸国市町始也、 ともある。「まち」の由来は、 陂H(マチ)の義にて、田閧フ路の略の意と云ふ(大言海)、 田閧フ路をいうマチ(間道・間路)の義(日本釈名・東雅・箋注和名抄・筆の御霊)、 ヒノミチ(間道)の略か(玄同放言)、 マチ(間道・間路)の義(俚言集覧・和訓栞・語簏・柴門和語類集・国語の語根とその分類=大島正健)、 ミチ(道)と同原同義(日本古語大辞典=松岡静雄)、 マチ(間地)の義か(和句解)、 マチ(間所)の義(言元梯)、 間処の義(国語の語根とその分類=大島正健)、 等々、区分の「道」を取るか、分かれた「土地」をとるかで別れるようだ。「みち」は、古く、 ち、 といい、 道、 方向、 と当て、 青丹よし奈良の大路(おほち)は行きよけどこの山道は行き惡しかりけり(万葉集)、 大坂に遇ふや嬢子(をとめ)を道(みち)問へばただには告(の)らず当麻路(たぎまぢ)を告る(万葉集)、 と、 道、また、道を通っていく方向の意、独立して使われた例はない、「……へ行く道」の意で複合語の下項として使われる場合は多く濁音化する、 とあり(岩波古語辞典)、「みち」は、 ミは神のものにつく接頭語、チは道・方向の意の古語。上代すでにチマタ・ヤマヂなどの複合語だけに使われ、また、イヅチのように方向を示す接頭語となっていた。当時は、人の通路にあたるところには、それを領有する神や主がいると考えられたので、そのミコシヂ(み越路)・ミサカ(ミ坂)・ミサキ(み崎・岬)などミを冠する語例が多く、ミチもその類。一方ミネ(み嶺)・ミス(み簾)など一音節語の上にミを冠した語は、後に、そのまま普通の名詞となったものがあり、ミチも同様の経過をとって、通路の意で広く使われ、転じて、人の進むべき正しい行路、修業の道程などの意に展開し、また、人の往来の意から、世間の慣習・交際などの意に用いた(岩波古語辞典)、 ミは発語、チは通路なり、古事記「味御路(ウマシミチ)」、神代紀「可恰御路(ウマシミチ)」と見ゆ(大言海)、 などとあり、和名類聚抄(平安中期)に、 大路、於保美知、 とある。他方、同じ「ち」と訓む、 地、 は、古く、呉音で、 雲の上より響き、地(ヂ)の下よりとよみ、風・雲動きて、月・星さわぐ(宇津保物語)、 と、 ヂ、 と訓ませていた(岩波古語辞典・明解古語辞典)。こう見ると、「まち」の、「ち」は、 路・道、 の「ち」のようである。 「區(区)」(漢音ク・オウ、呉音ク・ウ)は、 会意。「匸印+狭いかっこ三つ」で、こまごまとして狭い区画をいくつも区切るさま、 とあり(漢字源)、「区々」は、 こまごまと狭苦しいさま、 転じて、 自分のことをへりくだっていうことば、 とある(漢字源)が、 会意。匸(かくす)と、品(多くの物)とから成る。多くの物をしまいこむことから、くぎる、区分けする意を表す、 とか(角川新字源)、 「區」の略体。「區」は、「品(物の集合)」に「匸(かくしがまえ:「かくす」「わける」)」を併せた、会意文字。同系語に「躯」「駆」など、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%BA)、 会意文字です(匸+品)。「四角な物入れ」の象形と「品(器物)」の象形から、多くの物を「くわけする」を意味する「区」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji477.html)、「品(物)」「品(器物)」と「物」とする説が多数派である。 なお「ちまた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464423994.html)については触れたことがある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 簡野道明『字源』(角川書店) せっかく今の時世にはやらぬ化物の話をしようという人も、鍔目があわぬと嘲られるのは厭だから、つい足のところは略してしまうようなことになる(柳田國男「一目小僧その他」)、 と、 鍔目が合わぬ、 という言い回しがあるらしい。ただし、この言葉では辞書には載らない。「鍔」は、 鐔、 とも当て、 刀剣の柄(つか)と刀身との境目に挟み、柄を握る手を防護するもの。平たくて中央に孔をうがち、これに刀心を通し、柄を装着して固定する。円形・方形その他大小種々ある、 とあり(広辞苑)。古くは、 つみは、 といった。 「鍔目(つばめ)」は、 熊手を切て払ふ太刀、つばめに成ても天皇のお名を大事と(浄瑠璃「持統天皇歌軍法(1713)」)、 と、 つばぎわ(鍔際)、 の意とある(精選版日本国語大辞典)。「鍔際」は、 ずばと抜いて切かかる刀の鍔際(ツバギハ)むずと取(浄瑠璃「平仮名盛衰記(1739)」)、 と、 刀身と鍔との相接するところ(精選版日本国語大辞典)、 刀の刀身と鍔が接する部分のこと(https://www.meihaku.jp/sword-basic/swords-word/)、 を指し、 鍔目(つばめ)、 の他に、 つばもと、 ともいい、これをメタファに、 無分別人、跡先をふまず……左様の人は、必つはきは(鍔際)にて、をくるるといへど(甲陽軍鑑「(17世紀初)」)、 太夫もさらさら身の捨つるを、つばきはになって少しも惜しまぬに(浮世草子「諸艶大鑑」)、 などと、 いよいよという場合、 せとぎわ、 間際、 の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。鍔際とは、 物事が差し迫り追い詰められるかどうかという状態のことを表現した言葉です。「切羽詰まる」状況よりも少し前の状態と言えます。また、「瀬戸際」(せとぎわ)と同じ意味で使われることが多いです、 とある(https://www.meihaku.jp/sword-basic/swords-word/)。 「つばもと」(鍔元)」は、 太刀は抜きたりけるが、鐔本(つばもと)までそり返りたりしを(「平治物(1220頃か)」)、 と、 つばぎわ(鍔際)、 と同義である(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 因みに、「切羽」とは、 切刃、 とも当て、 刀の鍔つばの表裏、柄つかと鞘さやとに当たる部分に添える板金いたがね。中ほどに刀身を貫く孔を設ける。太刀の鍔には鍔の周縁にそってややせまい板金を加え、大切羽(おおせっぱ)という、 とあり(広辞苑)、これをメタファに、 生きる死ぬるの切羽ぞと(浄瑠璃「雪女五枚羽子板」)、 と、 最後の土壇場、 の意でも使い、 切羽際(せっぱぎわ)、 切羽詰まる(せっぱつまる)、 等々と言う言い回しもある(仝上)。 「切羽」の構成は、 太刀に用いる切羽の枚数は6〜8枚です。片側に「大切羽」(おおせっぱ 最も大きな切羽)を1枚、「小切羽」(しょうせっぱ・こせっぱ)を2枚、また「中切羽」とも言われる「簓切羽」(ささらせっぱ 小切羽より厚く、縁に深い刻みがある切羽)を小切羽の間に1枚挟むこともあります、 とある(https://www.touken-world.jp/tips/51062/)。「大切羽」は、 おおぜっぱ、 ともいい、 太刀の鍔に付属する金具。鍔と切羽(せっぱ)との間、表裏にそれぞれ入れる。革鍔に切羽がくいこむのを防ぐために鍔より小形の鉄や銅の板を加えたのが例となる、 とあり、「小切羽」は、 太刀の鐔に付随する大切羽に対して、通常の切羽をいう、 とある(精選版日本国語大辞典)。 「切羽」の役割は、 鍔がずれてしまうことを防ぐためと言われていますが、この他にも「激しい斬り合いで目釘(めくぎ:柄(つか)と茎(なかご 刀身の中でも柄に納める部分)を固定するための留め具)が折れるのを防ぐため」、「斬るときに手へ伝わる衝撃を和らげるため」、「柄の握り具合を調整するため」、「鎺(はばき:刀剣が鞘から抜けないようにするための金具)や縁(ふち:鍔を挟んで鎺の反対側に取り付ける金具)の底から穴の縁が見えないようにするため」等々、 様々ある(https://www.touken-world.jp/tips/51062/)が、「切羽」にからめては、 切羽脛金(はばき)、 という言葉がある。 先(さつき)にから切羽脛金する通り、銀(かね)渡したら御損であらう(浄瑠璃「五十年忌歌念仏」)、 と、 ぬきさしならない談判、詰め開き、 の意で使うが、それは、「はばき」が、 鍔元を固める金具、 の意で、 刀に手をかけて談判することから、 とある(広辞苑)。「はばき」は、 鎺、 鈨、 とも当て、 「刀身」と「鞘」(さや)を固定する他に、鞘に収めた刀身が鞘と直に触れるのを防ぐ役割、 がある(https://www.touken-world.jp/search-habaki/)。 では、「鍔目」の意味が分かってみると、 鍔目が合わぬ、 という言い方が、 鍔際が合わぬ、 鍔元が合わぬ、 でも、何となく、 整合性をもたせる、 辻褄を合わせる、 筋を通す、 といった意味がくみ取れなくもなく、 帳簿の最終的な収支がきちんと合わないこと、 の意から、 ある物事についてつじつまが合わず、整合性がとれない、 意で使う、 帳尻が合わない、 や、 漢詩を作るときに守るべき平声字と仄声字の配列が合わない、 意から、転じて、 物事の筋道がたたない、 意で使う、 平仄が合わない、 と同じような意味で使われていると見えなくもない。しかし、 鍔目が合わない、 は、 当て字ではあるまいか。思い当たるのは、 燕(つばめ)が合わない、 という言い回しである。「燕合わせ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/417370670.html)で触れたことだが、 燕合わせ は、 燕算用(つばめさんよう)、 とも言い、 (絶句の)三の句で転換するほどに、一・二の句と断ちたるやうなれども、四の句で燕を合するほどに、よく一・二と相続する也(三体詩賢愚抄)、 と、 しめ、 合わせ数えること、 合計すること、 という意味である。略して、 つばめ、 燕算、 とも言う。燕算用は、 毎月の胸算用せぬによつて、燕の合わぬ事ぞかし(井原西鶴「世間胸算用」)、 と、 収支の決算、 しめ、 の意で、「つばめ」は、 秋のかり春はつばめて返す也(雨旦 文化八年(1811)「柳多留」)、 の、 まとめる、 合算する、 意の、 つばめるの連用形名詞、 とある(江戸語大辞典)。 つばめ 算用の都合をツバメと云(俚言集覧)、 とあり、 燕、 自体が当て字で、 つばめが合う、 は、 こころづくしにつばめもあい(嘉永六年(1853)「切られ与三」)、 と、 総計ができる、 帳尻が合う、 つじつまが合う、 意となる(仝上)。 ついでながら、「鍔(つば)」の語源は、 古言、ツミハの略。留刃(とめは)の転か、或は抓刃(つみは)の義かと云ふ(大言海)、 とあり、和名類聚抄(平安中期)には、 神代紀鐔を訓みて都美波(つみは)と為す、劔鼻也、 類聚名義抄(11〜12世紀)には、 鐔 ツミハ、タチノツハ、 色葉字類抄(1177〜81)には、 鐔、ツハ、ツミハ、劔口也、 とあり、江戸中期「本朝軍器考」(新井白石)には、「つば」は、 都美波(つみは)の音の詰まったもの、 とある。つまり、古くは、 つみは、 あるいは、 つみば、 といったらしい(岩波古語辞典・大言海)。その語源は、 敵の刀の刃を止めるものであるところからトメハ(止刃・留刃)の義(名言通・和訓栞・日本語源=賀茂百樹)、 ツカと身とにハサマル部分であるところから(日本釈名)、 ツミはツミ(錘)に似るところから(名語記)、 などとあるがはっきりしない。 つみは→つば、 の転訛は、 (tumiha→)tumiba→tu[mi]ba→tuba、 というのが分かりやすいが、如何だろうか。 「鍔」(ガク)は、 会意兼形声。「金+音符咢(ガク ごつごつする)」。かたい物に、ごつごつとつきささるやいば、 とあり(漢字源)、刀の「刃」、「刀の峰」の意で、「鍔」の意で使うのはわが国だけの用法となる。 「鐔」(漢音タン・シン、呉音ドン・ジン)は、 会意兼形声。「金+音符覃(タン 深く入り込む)」。刀の身に深くはめこむ、つば、 とあり(仝上)、これが「つば」に当たる。 なお、「燕」については、「ツバメ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458420611.html)、「玄鳥」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484842852.html)で触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「てづつ」は、 手筒、 と当て、 片手であつかえる鉄砲、短銃(広辞苑・大辞林)、 片手に持って撃つ小銃、ピストルの大形のもの(大辞泉)、 等々とあり、 短筒(たんづつ)、 という言い方もあり、 銃身の短い火縄銃、 を指す(デジタル大辞泉・https://www.seiyudo.com/2252.htm)。 銃身が短い火縄銃というと、馬上からの射撃に用いる、 馬上筒(騎兵銃)、 があるが、短筒は、それよりもさらに銃身が短く、片手で扱うことができる、まさに、 火縄銃版の拳銃、 であり(仝上)、馬上筒と同じく、騎兵銃として用いられたが、 火縄に常に火を点す必要上、懐に隠すのは困難であり、後世の拳銃のような護身用、携帯用としての使用は困難であった、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%B8%84%E9%8A%83)。 「手筒」を、 てづつ(てずつ)、 と訓ませて、 てづつといふ文字をだに書きわたし侍らず、いとてづつにあさましく侍り(「紫式部日記(1010頃)」)、 さほどにてつつにていかにして下の句をば思ひ寄りけるにかとおぼえ侍なり(「無名抄(1211頃)」)、 針道ちがひ着にくしと、手づつのうき名は取るまいとよ(「浄瑠璃・薩摩歌(1711頃)」)、 と、 拙劣なこと、 たなこと、た、そのさま、 不器用、 不細工、 不調法、 の意で使う(岩波古語辞典・明解古語辞典)。近代でも、 とうていこの人の作とは思われぬ手筒な歌でありました(柳田國男「女性と民間伝承(大正十五年)」)、 と、同じ意味で使っていた。昨今は、ほぼ使われず死後である。この言葉は、 日本はゆゆしくてづつなる国かな(「今鏡(1170)」)、 と、少し広げて、 不便なこと、 融通がきかないこと、また、そのさま、 の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。 この由来は、 手の約(つづ)しき意、 とある(大言海)。「つづし」は、 約し、 と当て、 いづつし、 ともいい、 夜目のいすすき、伊豆都志伎事なく(伊は発語、豆都は清濁転倒、眠の足らぬことなくの意)(大殿祭祝詞)、 と、 些か不足なり、 今少し足らず、 の意、とある(大言海)。「いづつし」は、 つづし(約)、 ともいい、 イは発語、ツツシは約(つづ)しなり、発語の下に、連声(れんじゃう)にて、清濁転倒するなり、てづつ、くちづつと云ふ語も、手約(てづつ)、口約(くちづつ)なり。屈む(くぐむ)、さくぐむ。被る(かぶる)、かがふるの、サも、カも、発語なれば、此の語の如し、ほぞ(臍)、とぼそ(戸臍、樞)、偶違(すみちがひ)、すぢかひ(筋違)も同例なり、 とあり(仝上)、 取葺ける萱(かや)の噪(そそき)無く、御床(みゆか)つひの響(さやぎ)(無く)、夜女(よめ 夜目)の伊須須伎(いすすき)伊豆都志伎(いづつしき)事無く、平(たいら)けく、安(やすら)けく護り奉(まつ)る神の御名を白(まを)さく(睡眠(ねむり)の寝つかれぬことなく、足らはぬことなく、平安に熟睡しまふ意なり)、 と(「大殿祭祝詞(おほとのほがひののりと 御殿(みあらか)の造れる賀詞(ほがひごと))」)、 足らはぬ、 の意(ハ行四段活用の動詞「足らふ」の未然形である「足らは」に、打消の助動詞「ず」の連体形が付いた形)、 つまり、 足らない、 意となる。しかし、「いつし」を、 いついつし(稜威)の約、 とし、上の同じ例の、 夜女のいづつしきことなく、 の、 いづつし、 を、 夜目にも恐ろしいものが見えるような恐怖を言うらしい、 とする(岩波古語辞典)異説もあるが、大言海説に従うなら、 手筒(てづつ)、 は、 浄衣(じょうえ)は狩衣よりつづしくすべし(「装束寸法口伝抄(1362〜68)」)、 の、「つづし」の用例から見ても、 手約(てづつ)、 の当て字ということになる。平安時代には、口下手の意で、 口づつ、 という語もあり(精選版日本国語大辞典)、上記のように、これも、 口約(くちづつ)、 の意と思われる(大言海)。鎌倉時代になると、 手づつ、 は、 手の意が失せて、 拙劣、 の意だけとなり、 口てづつ、 という語を生み、江戸時代になると、「手づつ」を訛って、 手づち、 といい、その連想から、 槌の子 ともいった(精選版日本国語大辞典)、とある。ただ、 槌の子、 は、 大方は針手の利かぬ槌の子は、遣手になって果つるも多し(浮世草子「禁短気」)、 と、 裁縫が下手なこと、 の意に限定していたようである(岩波古語辞典)。これは、 木槌、 の意の、 槌の子、 には、 年越の夜は独寝をせぬものなど言ひて、好ける田舎の下女(げす)ばらは槌のこを(俳句「山の井」)、 と、 近世、年越しの夜に独身の女は槌の子を抱いて寝る風習があった、 ことに起因していると思われる(仝上)。 「手」(漢音シュウ、呉音シュ・ス)は、 象形。五本の指ある手首を描いたもの、 で(漢字源)、また、手に取る意を表す(角川新字源)。「手写」「手植」というように「手」ないし「てずから」の意だが、「下手(手ヲ下ス)」「着手」のように仕事の意、「名手」「能手」というように「技芸や細工のうまい人」の意、「技手」「画手」と、「技芸や仕事を習得した人」の意でも使う。 しかし、わが国では、独自に、 「指し手」「舞手」と、字の書き方、筆跡、駒の指し方、舞の手さばき、武道の術、琴、笛、鼓などの奏法、 「奥の手」と、方法・手段、 「行く手」「搦め手」「上手(かみて)」「下手(しもて)」と、方向、 「手の者」と、部下、配下、 「二手(ふたて)」と、組、隊、 「深手」「浅手」と、傷、 「手を切る」と、付き合いや関係、 「酒手」と、代金、 「山手」「野手」「河手」と、利用税、 「織手」「話し手」「嫁のもらい手」と、その動作をする人、転じて、名手、上手などの意でも、 「厚手」「薄手」「古手」と、品種、品質、 「手箱」「手槍(てやり)」「手文庫」「手帳」と、持ち運び、取扱いに適する小型のもの、 「手織」「手料理」「手描(てがき)」「手打ち」と、手作り、自作、 等々様々な意味に使い分けている(仝上)。 「筒」(漢音トウ、呉音ズウ)は、 会意兼形声。「竹+音符同(つつぬけ)」、 とあり(漢字源)、別に、 会意形声。「竹」+音符「同」。「同」は、上部「凡」(盤、四角い板)+「口(穴)」で穴のあいた板。竹の茎の部分を言う、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AD%92)、 会意兼形声文字です(竹+同)。「竹」の象形と「上下2つの同じ直径のつつ」の象形から、「内部になにもない竹のつつ」を意味する「筒」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji1765.html)ある。「筒」は、「竹の管」「円柱状で中が空洞になっている」意だが、我が国では、「筒」で、 大筒、短筒のように、銃身、砲身の意から、小銃、大砲の意、 で使う。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「もどる」は、 戻(戾)る、 と当てる(広辞苑)が、 帰る、 とも当てる(大言海)ように、意味は、大きく二つのようだ。ひとつは、 筑紫舟恨みをつみてもどるには葦辺に寝てもしらねをぞする(平安末期の私家集「散木奇(さんぼくき)歌集」)、 と、 ある場所からいったん移ったものが、もとへかえる、 意と、 また水に戻るも早し初氷(「俳諧古選付録(宝暦十三年(1763))」)、 と、 以前の状態に復する、 意とがある(日本語源大辞典)。前者は、 来た道を戻る、 と、 進んだ方向と逆の方向へ引き返す、 意や、 ただいま戻りました、 と、 帰宅する、 意になり、後者の意では、 貸した金が戾る、 という言い方や、 夜業(よなべ)さしよにもこの油の高さでは、儲ける程皆戾る(浄瑠璃「女腹切」)、 と、 得た利益がなくなる、 意で使う(広辞苑・デジタル大辞泉)。 「もどる」は、 モドは、モドク(擬)・モヂル(捩)と同根、物がきちんと収まらず、くいちがい、よじれるさま、 とあり(岩波古語辞典)、 もとる(悖る)と同根、 ともある(仝上)。しかし、 モトホルの転、 ともある(広辞苑)。柳田國男は、「戻る」には、 元来引き返す、遁げて行くという意味はなかったように思います。漢字の戻も同様ですが、日本語の「戻る」という語は古くは「もとほる」といって、前へも行かず後へも帰らず、一つ処に低徊していることであったのです、 と指摘した(「女性と民間伝承)上で、いわゆる「戻橋」についても、 橋占、辻占を聴くために、人がしばらく往ったり来たりして、さっさと通ってもしまわぬ橋というのでありました、 ことを傍証として挙げている(仝上)。 「もとほる」は、 廻る、 徘徊、 などと当て(岩波古語辞典・大言海)、新撰字鏡(898〜901)に、 邅、毛止保留(もとほる)、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 紆、モトホル、マツフ・メグル、 纏、マツハル・モトホル、 色葉字類抄(1177〜81)に、 繚、モトヲル、繞、旋、 等々とあり、多く、それを説明する漢字が、 邅(テン めぐる)、 紆(ウ めぐる)、 纏(テン まとう、まつわる、からまる)、 と、 よじれる、 くいちがう、 意ではなく、 めぐる、 や、それからの派生と思われる、 からまる、 の意としていたと見え、 神風の伊勢の海の生石(おひし)に這ひ廻(もと)ろふ細螺(しただみ)のい這ひもとほり撃ちてし止まむ(古事記)、 と、 ぐるぐると一つの中心をまわる、 めぐる、 まわる、 という意味である(岩波古語辞典・大言海)。また、 モトホルに反復・継続の接尾語ヒのついた形の、 大石に這ひもとほろふ細螺(しただみ)(仝上)、 と、 母登富理、 茂等倍屡、 とあるのを、「もとほる」ではなく、 と、 母登富呂布、 もとほろふ、 とし(仝上)、同じ歌を、どちらとも訓んでいる。 いずれにしても、 ぐるぐる回る、 意である。「もどる」と同根とされる「もぢる」は、 舞ふべき限り、すぢりもぢり、ゑい声を出して(宇治拾遺物語)、 と、 ねじる、 よじる、 意であるし、同じく「もどく」は、 狙った所、収まるべき所に物事がきちんと収まらず、はずれ、くいちがうさま、 とあり、 この七歳なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文を作りかはしければ(宇津保物語)、 と、 似て非なる真似をする、まがえる、 の意や、 世の人に似ぬ心の程は皆人にもどかるまじく侍るを(源氏物語)、 さからって非難する、 とがめる、 意で、色葉字類抄(1177〜81)にも、 嫌、もどく、反謗也、 とあり、どうも「もどる」とは語感が異なる気がする。 「もどく」を、 戻るの他動詞、戻り説くの意、 とし、 避難する、 逆らう、 意とし、上記宇津保物語の、 この七歳なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文を作りかはしければ(宇津保物語)、 を上げている(大言海)のは、「もどる」との関係から見ると、これなら意味はつながる。 いずれにせよ、「もどる」の意味からすれば、 モト(元・本)へ帰る意(和句解・国語溯原=大矢徹・国語の語根とその分類=大島正健)、 本取るの意(大言海)、 元+ル、元を活用させた語。もとの状態に帰る意(日本語源広辞典)、 といった説までが、語源としては、意味が通る気がする。 「戻(戾)」(漢音レイ、呉音ライ)は、諸説があり、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 会意。「戸」+「犬」、犬が扉の下で体を曲げるさまで曲がったこと、 とあるが、藤堂説は、 会意。「戸(とじこめる)+犬」で、暴犬が戸内にとじこめられて暴れるさまを示す。逆らう意から「もとる」という訓を派生した、 とあり(漢字源)、白川(静)説は、 扉の下に生贄の犬を埋めた呪術、 とする(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%BE)。 いずれも禁忌を意味。音は「辣(ラツ)」「剌(ラツ)」に通ずる。「もどる」「もどす」に当てるのは日本のみで、これは、訓読「もとる」に引かれたものか、 とある(仝上)。確かに、「暴戾」(荒々しく、道理に反する行い)「乖戾」(道理に反している)と「悖る」意や、「鳶飛戾天」(鳶飛ンデ天ニ戾ル)と、「はげしく動いてやっと届く」といった意味があり、「もどる」に当たる意味はない。 別に、 会意。戶と、犬(いぬ)とから成り、犬が戸の下を身をくねらせてくぐりぬける、転じて「もとる」「いたる」意を表す(角川新字源)、 会意。(戶(戸)+犬)。「片開きの戸」の象形と「耳を立てた犬」の象形から戸口にいる犬を意味し、そこから、「あらあらしい」、「そむく(もとる)」を意味する「戻」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1395.html)、 といった解釈も、「もとる」の意味の説明しかない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れそめにし我ならなくに(古今集)、 とある、 「しのぶもじ(ぢ)ずり」は、 忍綟摺り、 信夫綟摺り、 と当てる(大言海・学研全訳古語辞典)が、 信夫文字摺、 とも当てたりする(柳田國男「女性と民間伝承」)。 しのぶずり(忍摺・信夫摺)、 あるいは、 もじずり(捩摺)、 とも言い(広辞苑)、 しのぶの乱れ、 などともいう(大言海)。 春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず(伊勢物語)、 と、 忍摺り模様の乱れの意から、転じて、ひそかに人を恋い慕う心の乱れ、 の意のメタファとしても使う(岩波古語辞典)。 摺込染(すりこみぞめ)の一種。昔、陸奥国信夫(しのぶ)郡から産出した忍草の茎・葉などの色素で捩(もじ)れたように文様を布帛(ふはく)に摺りつけたもの、 で、 捩摺(もじずり)、 ともいうのは、 忍草の葉を布帛に摺りつけて、捩(もじ)れ乱れたような模様を染め出したもの、 とも、 ねじれ乱れたような文様のある石(もじずりいし)に布をあてて摺りこんで染めたもの、 ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 延喜時代より、信夫郡の産物として、陸奥絹の一種の乱れ模様を捺したるを貢ぎしたり、 とあり(大言海)、平安末期の歌学書「和歌童蒙抄」には、 戻摺とは、陸奥の信夫郡にて摺り出せる布なり、打ちちがへて、乱りがはしく摺れり、 とあり、平安末期の歌学書「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)には、著者顕昭の注に、 陸奥の信夫郡に、もぢずりとて髪を乱るやうに摺りたるを、しのぶずりと云ふ、 とある。 「摺込み染め」というのは、 布や反物の表面に模様を彫った型紙を置いて、染料液・樹脂顔料を含ませた刷毛を用いて染料刷り込んでいく手法、 とあり(http://www.mikisenryouten.co.jp/beginner/technical/tec_surikomi.html)、 再現性が難しい ともある(仝上)。ただ、 忍草の茎・葉などの色素で捩(もじ)れたように文様を布帛(ふはく)に摺りつける 方法とは別に、 ねじれ乱れたような文様のある石(もじずりいし)に布をあてて摺りこんで染める、 方法が、 文知摺石(別名 鏡石)、 で有名な文知摺観音堂(福島県 http://antouin.com/about/fumonin.html)のある「かわまた織物展示館」で再現された、とある(https://www.town.kawamata.lg.jp/site/kanko-event/silkpia-orimono.html)。しかし、顕昭の、 髪を乱るやうに摺りたる、 と言う「しのぶずり」には見えない。 「忍」(漢音ジン、呉音ニン)は、 会意兼形声。刃(ニン・ジン)は、刀の刃のある方を、ヽ印で示した指示文字で、粘り強くきたえた刀の刃。忍は「心+音符刃」で、粘り強くこらえる心、 とあり(漢字源)、「忍耐」「堅忍不抜」と、「つらいことをねばり強くもちこたえる」意の「しのぶ」の意や、「有不忍人之心」(人に忍びざる之心有り)など、堪える意の「しのぶ」の意で、 人に目立たないようにする、 意の「しのぶ」の意は、わが国だけの用例である。当然「忍者」「忍術」という意味も、本来ない。 「綟」(漢音レイ、呉音ライ)は、 形声。「糸+音符戻(レイ)」。訓読みの「もぢる」は、「糸+戻(ねじる)」の会意文字とみて当てた読み方、 とあり(漢字源)、 草で染めた色、萌黄色、またその絹、 の意であるが、我が国では、 もじる、 と訓み、 もじり織、 綟摺り、 等々と使う。 「摺」(漢音ショウ・ロウ、呉音ショウ・ロウ)は、 会意兼形声。習は、羽を重ねること。摺は「手+音符習」で、折り重なること、 とあり(漢字源)、「たたむ」意で、「手摺(シュショウ)」は、折りたたんだ文書の意になる。 する、 意で使うのは我が国だけである。別に、 会意兼形声文字です(扌(手)+習)。「5本指のある手」の象形と「重なりあう羽の象形と口と呼気(息)の象形」(「繰り返し口にして学ぶ」、「重ねる」の意味)から「(手で)折りたたむ」を意味する「摺」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2469.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「しとぎ」は、 粢、 糈、 と当て、 神前に供える餅の名、 とある(広辞苑)が、「山神祭文」に、 今日山に入らず、明日山に入らずとも、幸ひ持ちし割子を、一神の君に参らせん。かしきのうごく、白き粢の物をきこしめせとてささげ奉る、 とある(柳田國男「山の人生」)。 古くは水に浸した生米をつき砕いて、種々の形に固めた食物。後世は、糯米(もちごめ)を蒸し、少し舂(つ)いて餅とし、楕円形にして供えた、 とあり(仝上・大辞泉)、古代の米食法で、 生で食べるという点から、餅(もち)以前の正式の米の食法、 とされ(日本大百科全書)、 しとぎ餅、 ともいい(仝上)、 粢餠(しへい)、 し、 とも、また、卵形の形状から、 鳥の子、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。地方によっては、 しろもち(白餅)、 からこ、 おはたき、 なまこ、 等々とも呼ぶ(世界大百科事典)。津軽地方では、 神棚には不浄火が混じるのをきらい、生のしとぎを供えたと言われています。神棚に供した後、いろりの熱灰をかけて焼いて食べた、 とある(https://www.umai-aomori.jp/local-cuisine/about-local-cuisine/shitogimochi.html)。 「団子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html)で触れたように、「しとぎ」は、 中に豆などの具を詰めた「豆粢」や、米以外にヒエや粟を食材にした「ヒエ粢」「粟粢」など複数ある。地方によっては日常的に食べる食事であり、団子だけでなく餅にも先行する食べ物、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。ただ、東北地方北部では、 年中行事において神の去来を示すとき、 に神供として用いることが多いが、静岡県沼津市付近では、 疫病神を送るとき、 しとぎを用いている。 地の神、田の神を送るとき、 に神供とする地方もある。四国・九州地方では、 死の直後死者の枕元(まくらもと)に供える白団子をしとぎとよんでいる。あるいは死者に供える団子だけをしとぎとよぶ所もある、 とあり、しとぎを供えることによって死者として確認するのである。また、しとぎは、 祭りに関与した神人(じんにん)が、これを食することによって神人から常人の状態に戻るとされている、 など、広義の意味の、 生と死の境界時に用いる転生の意義をもつ食物、 といえる(日本大百科全書)とあり、「しとぎ」は、 穀物を火食することを知らぬ時代からの食物とされているが、他方、火の忌みを厳しく考えた時代、火の穢(けがれ)を避ける方法として考えられた食物であったかもしれない、 ともある(仝上)。 和名類聚抄(平安中期)には、 粢餅・粢、之度岐(しとき)、祭餅也、 字鏡(平安後期頃)には、 糈、志止支、 とある。団子状にかためられる「しとぎ」であるが、「団子」は、 穀類の粉を水でこねて小さく丸めて蒸し、または茹でたもの、 をいう。「団子」は、 かつては常食として、主食副食の代わりをつとめた。団子そのものを食べるほか、団子汁にもする。また餅と同様に、彼岸、葬式、祭りなど、いろいろな物日(モノビ 祝い事や祭りなどが行われる日)や折り目につくられた、 とある(日本昔話事典)。柳田國男によると、 神饌の1つでもある粢(しとぎ)を丸くしたものが原型とされる。熱を用いた調理法でなく、穀物を水に浸して柔らかくして搗(つ)き、一定の形に整えて神前に供した古代の粢が団子の由来とされる、 としている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。「粢(しとぎ)」が「団子」となったのは、 米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)とよび、粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)といった。団粉(だんご)とも書くが、この字のほうが意味をなしている。団はあつめるという意で、粉をあつめてつくるから団粉といった。団喜の転という説もあるが、団子となったのは、団粉とあるべきものが、子と愛称をもちいるようになったものであろう、 とある(たべもの語源辞典)。「団子」は、 中国の北宋末の汴京(ベンケイ)の風俗歌考を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある、 とされる(日本語源大辞典)。その「団子」の「シ」が唐音「ス」に転訛し、 ダンシ→ダンス(唐音)、 となり、 ダンス→ダンゴ、 と、重箱読みに転訛したともみられる。つまり「団子」は、「しとぎ」を始原とする神饌由来である。 ところで、「団子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html)でも触れたが、 団子、 と 餅、 の違いは、 餅はめでたいとき、 団子は仏事、 にとする所もあるが、この傾向は全国的ではない(日本大百科全書)し、上記のように、 米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、 粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、 とする説(たべもの語源辞典)もあるが、 団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)、簡単ではない。もともと、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、中国では、 小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品、 つまり、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして、ついてつくった食品」に「餅」を当てるのは、我が国だけである。 餻、 餈、 も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、 餌(ジ)、 と同じであり、 もち、だんご(粉餅)、 の意である。「餈」(シ)は、 稲餅、飯餅、 「餅」は、 小麦団子、 とある(仝上)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、 餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり、 とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、 餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯(もち)といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ、 とある(たべもの語源辞典)。つまり、「餅」の字は本来、小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチの借字として「餅」の字を使った、という経緯があり、もともと「団子」と「餅」の区別は、結構あいまいなのである。 「しとぎ」という言葉の由来は、 米を白くなるまでとぐところから、シロトギ(白浙・白磨・白遂)の略(大言海・和句解・日本釈名・東雅・和語私臆鈔・和訓栞)、 シラトギ(白研)の義(名言通)、 洗米の意のシネトキの略(俚言集覧)、 粉を湿らせてこねる意のシトネルと関係があり、原義は、米を水に浸して粉にする、あるいは粉を水で湿してかたくこねる意(綜合民俗語彙)、 朝鮮語stök(粢)と同源(岩波古語辞典)、 等々ある。是非の判断はできないが、「とぐ」よりも、「こねる」ほうに意味があり、 粉を湿らせてこねる意のシトネルと関係がある、 とする説に与したい。なお、「しとぎ」に当てる。 粢、 と、 糈、 で区別し、「粢(しとぎ)」は、 米粉やもち米から作る、米を粉状にして水で練っただけの加熱しない餅のこと、 だが、「糈」(奠稲、供米、くましね)は、 精米した舂米(つきしね)を神前に捧げるために洗い清めた米、 を指し、そのまま奉じる場合は「粢」と同様に「しとぎ」と言い、 かしよね、 おくま、 ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3)としている。 なお、「餅」については、「餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html)、「もち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456276723.html?1583742170)、「団子」については、「すいとん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481242675.html)、「「団子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html)で触れた。 「粢」(シ)は、 会意兼形声。「米+音符次(ざっととりそろえる)」。もと、粗雑なあら米のこと、 とあり(漢字源)、 精白していない穀物、 の意で、 神前に供える穀物、 をいう(仝上)。六穀、 黍(モチキビ)・稷(キビ)・稲・梁(オオアワ)・麦(まこも)、 の総称でもある(仝上)が、 米でつくった餅、 の意、更に、 穀物でかもし赤くなるので保存した酒、 の意もある(仝上)。 「糈」(ショ)は、 かて(糧)、 の意で、 神前に供える精米、 の意である(字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 世の中になほいと心憂きものは、人ににくまれんことこそあるべけれ。誰てふもの狂ひか、我、人にさ思はれんとは思はん(枕草子)、 にある、 もの狂ひ、 は、 物狂ひ、 と当て、古くは、 ものくるい、 と清音(大辞泉)、 正気でなくなること、 何かの原因で正常な判断ができなくなること、 の意で、 「もの(=霊・魂)」がついて、正気が狂う(大辞泉)、 鬼祟(もの)に狂ふ意といふ(大言海)、 とある(仝上)。 「もの」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462101901.html)は、 形があって手に振れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、普遍の慣習・法則の意を表す。また、恐怖の対象や、口に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている、 とあり(岩波古語辞典)、「オニ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.html)で触れたように、折口信夫は、 極めて古くは、悪霊及び悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを「もの」と言った。万葉などは、端的に「鬼」即「もの」の宛て字にしてゐた位である、 とし(『国文学』)、『大言海』も、「もの(物)」を四項に区分し、そのひとつ「もの」は、「者」の意より移り、 神の異称、 転じて、 人にまれ、何にまれ、魂となれるかぎり、又は、靈ある物の幽冥に屬(つ)きたる限り、其物の名を指し定めて言はぬを、モノと云ふより、邪鬼(あしきもの)と訓めり。又、目に見えぬより、大凡に、鬼(万葉集七十五、「鬼(モノ)」)、魂(眞字伊勢物語、第廿三段、「魂(もの)」)を、モノと云へり、 としているが、大野晋は「『もの』という言葉」と題した講演で、 「もの」という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す「もの」という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して「もの」と使う、存在一般を指すときにも「もの」という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も「もの」といった。古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった、 とする(http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)。折口信夫が、古代の信仰では かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものと、の四つが代表的なものであった、 とする(『鬼の話』)のに対し、 「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、もの」は、平安時代なら適用するが、それ以前は、「かみ」「たま」「もの」の三つであって「おに」は入らない、 とする説も(大和岩雄『鬼と天皇』)あり(http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)、ぼくには、憶説ながら、 もの、 としか呼べないものの中から、 かみ、 と、 たま(霊)、 と もの、 が分化し、さらに「もの」から、 おに(鬼)、 が分化していった、というように見える。いずれにしろ、 その意味で、「もの狂い」の「もの」は、神なら、 神降ろし、 つまり、 神の託宣を聞くために、巫女などがわが身に神霊を乗り移らせること、 の意となり、霊なら、 憑依、 といい、あるいは、 狐憑き、 のように、 狐の霊に取り憑かれ精神が錯乱した状態、 に陥る。 だから、「もの狂い」には、現象として、 正気でなくなること、 の意だが、その因ってきたるものが、 神の乗り移ったもの、 なのか、 霊の憑依したもの、 なのか、 によって、 神かがる状態、 なのか、 もの(靈)に憑かれた状態、 なのかが違ってくる。いずれにしろ、一種狂乱状態をメタファに、 ものに憑かれた状態、 を表現するのが、「能」「狂言」の、 物狂い、 であり、 子や夫と別れるなどの精神的打撃により一時的に心の均衡を失った主人公がそれを自覚しながら周囲の風物に敏感に反応し、おもしろく戯れ歌い舞うこと、 を、 物狂い能、 という(大辞泉)。 「能の謡の五百以上もある曲目において、その半数までが神と人、もしくは精霊と人との交錯であり混同であって、必ず一人のシテが前後二つの舞を舞うことになっている」(柳田國男「女性と民間伝承」) とされる能の演目の、 神・男・女・狂・鬼、 の五種類の、四番目、 「隅田川」 「班女」 「蘆刈」 等々の、 狂乱物、 狂い物、 と呼ばれるものである。 「物」(漢音ブツ、呉音モツ・モチ)は、「もの」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462101901.html)で触れたが、 会意兼形声。勿(ブツ・モチ)とは、いろいろな布でつくった吹き流しを描いた象形文字。また、水中に沈めて隠すさまという。はっきりと見分けられない意を含む。物は、「牛+音符勿」で、色合いの定かでない牛。一定の特色が内意から、いろいろなものをあらわす意となる。牛は、物の代表として選んだにすぎない、 とあり(漢字源)、 天地間に存在する、有形無形のすべてのもの、 を意味する(字源)。そこから、コトに広がり、 物事、 へと意味を拡げる。上記の、 「牛」+音符「勿」。勿は「特定できない」→「『もの』の集合」の意(藤堂明保説)、 の他に、 犂で耕す様(白川静説)があるが、 古い字体がなく由来が確定的ではない(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%89%A9)とある。別に、 形声。牛と、音符勿(ブツ)とから成る。毛が雑色の牛の意から、転じて、さまざまのものの意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(牜(牛)+勿)。「角のある牛」の象形と「弓の両端にはる糸をはじく」象形(「悪い物を払い清める」の意味)から、清められたいけにえの牛を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「もの」を意味する「物」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji537.html)。 「狂」(漢音キョウ、呉音ギョウ)は、「狂骨」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485097166.html)で触れたように、 会意兼形声。王は二線の間に立つ大きな人を示す会意文字、また末広がりの大きなおのの形を描いた象形文字。狂は「犬+音符王」で、大げさにむやみに走り回る犬、あるわくを外れて広がる意を含む、 とあり(漢字源)、別に、 形声。犬と、音符王(ワウ)→(クヰヤウ)とから成る。手に負えないあれ犬の意を表す。転じて「くるう」意に用いる、 とも(角川新字源)、 形声文字です(犭(犬)+王)。「耳を立てた犬」の象形と「支配権の象徴として用いられたまさかりの象形」(「王」の意味だが、ここでは、「枉(おう)」に通じ(同じ読みを持つ「枉」と同じ意味を持つようになって)、「曲がる」の 意味)から、獣のように精神が曲がる事を意味し、そこから、「くるう」を意味する「狂」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1163.html)。「王」を示す甲骨文字がかなりの数あって、「王」(オウ)の字の解釈には、 「大+―印(天)+−印(地)」で、手足を広げた人が天と地の間に立つさまをしめす。あるいは、下が大きく広がった、おのの形を描いた象形文字ともいう。もと偉大な人の意、 とある(漢字源)他、諸説あり、中でも、 象形文字。「大」(人が立った様)の上下に線を引いたもの。王権を示す斧/鉞の象形(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8E%8B)、 象形文字です。「古代中国で、支配の象徴として用いられたまさかり」の象形から「きみ・おう」を意味する「王」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji189.html)、 と、「まさかり」「おの」と見る説が目につく。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) これも今はむかし、筑紫にたうさかのさへと申す斎(さい)の神まします(宇治拾遺物語)、 とある、 さへ、 は、 塞(斎)の神、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。 道祖神(だうそじん・どうそじん)、 のことである(仝上)。訛って、 道陸神(どうろくじん)、 ともいい、 さいのかみ、 さえのかみ、 と訓ませ、 道の神、 賽の神、 障の神、 幸の神、 とも当て、 久那止(岐神 くなど)の神、 手向(たむけ)の神、 布那止(ふなど)の神、 仁王さん(におうさん)、 塞大神(さえのおおかみ)、 衢神(ちまたのかみ)、 とも呼ばれたりする(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9E)。和名類聚抄(平安中期)に、 道祖、佐倍乃加美、 とある。 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉(よみ)の国に訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女(よもつしこめ)をさえぎり、 これよりな過ぎそ、 と言い(日本書紀)、 止めるために投げた杖から成り出た神、 とされ、一書に、その杖を、 岐神(ふなとのかみ)、 別の一書に、 クナトノサヘノカミ、 ともいう(日本伝奇伝説大辞典) 久那止(くなど)の神、 布那止(ふなど)の神、 の名は、ここに由来する。「さえの神」は、したがって、 障(さ)への神の意で、外から侵入してくる邪霊を防ぎ止める神(岩波古語辞典) 路に邪魅を遮る神の意(大言海)、 邪霊の侵入を防ぐ神、行路の安全を守る神(広辞苑)、 さへ(塞)は遮断妨害の意(道の神境の神=折口信夫・神樹篇=柳田國男)、 等々という由来とされ、近世には、 集落から村外へ出ていく人の安全を願う、 悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神、 としてだけでなく、 五穀豊穣、 夫婦和合・子孫繁栄、 生殖の神、 縁結び、 等々、 性の神、 としても信仰を集めた。また、ときに、 風邪の神、 足の神、 などとして子供を守る役割をしてきたことから、道祖神のお祭りは、どの地域でも子供が中心となってきた、とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9E・日本昔話事典・大辞林)。中国では、もともと、 祖餞、崔寔(さいしょく 四民月令の著者)四民月(しみんげつれい 後漢時代の年中行事記)令曰、祖道神也、……故祀以為道祖、 と(「文選」李善註)、 行路神、 として祀られていたらしいが、平安期の御霊信仰の影響で、 境の神、 としての信仰が盛んになった(日本昔話事典)。 「庚申待」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488918266.html)で触れたように、庚申講が、 申待(さるまち)、 と書かれたところから、猿の信仰と重なり、 猿を神使いとする日吉(ひえ)山王二十一社、 と結びつき、猿から、神道系では、 猿田彦神、 が連想され、記紀の伝承から、 八衢神(やちまたのかみ)、 とされ、庚申塔を、 道祖神、 と重ねて扱うようになっていった(日本伝奇伝説大辞典・日本昔話事典)。仏教系では、本地は、 地蔵菩薩、 とし、地蔵和讃の、 賽の河原、 とも関連があるとみられる(日本昔話事典)。 「境の神として日本に古くから有名であったのは、道祖すなわちサエノカミであります。あるいは道のはたの道六神(どうろくじん)などといって、東部日本では……その祭に参加する者は少年に限っております。仏法の方ではそれを地蔵菩薩の垂迹と考えており、その地蔵もまたちいさいものの保護者でありました。後世はサエノカハラは地獄に行く路にあるような話が行われましたが、そこでもこの菩薩は境の神であり、また幼き者の救い主として拝まれていました。サエというのも道祖と書くのもともに外部の害敵を遮ぎり防ぐ意味で、すなわちセキの神という誤解のよって来たるところであります。 ただ地蔵は僧でありますゆえに、早くから単独の像にして祭りましたが、道祖神の方は男女の二人の神であり、もとは女を主として男をこれに配していたようであります。現在でもこの男女二体以外に、別に子安と称して女性ばかりを拝む道の神もあります。」 というように(「柳田國男「女性と民間信仰」)、 峠や辻・村境などの道端に祀られる「さえの神」は、様々な役割を持った神であり、決まった形はなく、 神名や神像を刻んだもの、 銘を石に刻んだもの、 単身の神像、 男女二体の神像、 丸石・陰陽石・自然石、 男根形の石、 等々様々な形のものがある(日本昔話事典)。一般には神来臨の場所として、伝説と結びついた樹木や岩石があり、 七夕の短冊竹や虫送りの人形を送り出すところ、 であり、また、 流行病のときには道切りの注連縄(しめなわ)を張ったり、 あるいは、 小正月に左義長などの火祭、 も、ここで行うことがある(仝上・ブリタニカ国際大百科事典) 「塞」(漢音サイ、漢音・呉音ソク)は、 会意兼形声。「宀(やね)+工印四つ+両手」の形が原形。両手でかわらや土を持ち、屋根の下の穴をふさぐことを示す会意文字。塞はそれを音符とし、土を加えた字で、隙間のないようにかわらや土をぴったりあわせつけること、 とある(漢字源)「厄塞」(ヤクソク 運勢がふさがって悪い)、「塞于天地之閨v(天地ノ間ニ塞ガル)などと使う。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 松坂屋甚太夫が女房、うはなりうちの事(諸国百物語)、 にある、 「うはなりうち(うわなりうち)」とは、 後妻打(ち)、 と当て、 あさましや、六条の御息所(ミヤスドコロ)ほどのおん身にて、うはなりうちの御ふるまひ(謡曲「葵上」)、 と、 本妻や先妻が後妻をねたんで打つ、 意味で、 室町時代、妻を離縁して後妻をめとった時、先妻が意趣を晴らそうと、親しい女たちを語らって、予告して後妻の家を襲い、家財などを打ち荒らす習俗があった、 とあり(広辞苑・岩波古語辞典)、 輔親の家に雜人多く至りて濫行をなす。女方宇波成打(うはなりうち)と云々(「御堂関白日記(1012)」)、 と、平安時代から見られ、室町時代に多く見られ(仝上)、天正初期(1570年代半ば)の『林逸節用集』に、 嫌打、ウハナリウチ、 とある。 相当打(さうたううち)、 騒動打、 ともいう(広辞苑)。 最古の記述は寛弘七年(1010)二月、 藤原道長の侍女が夫の愛人の屋敷を約30人の下女と共に襲撃した、 というのがある(平安中期「権記(藤原行成日記)」)し、北条政子が、 源頼朝の愛妾亀の前に後妻打ちをした(吾妻鏡)、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A6%BB%E6%89%93%E3%81%A1)。「うはなりうち」の習俗は、寛永(17世紀前半)を過ぎた頃にはすでに絶えていたらしい(仝上)。 前妻が後妻をねたむこと、 は、 須勢理毘売命(スセリビメノミコト)甚(いた)くうはなりねたみしたまひき(古事記)、 と、 うはなりねたみ(後妻嫉妬)、 といい、平安末期『色葉字類抄』に、 妬 ウハナリネタミ、 とある。 うはなり(うわなり)、 は、 後妻、 次妻、 と当て、 ある女房、うはなりをたちまちとり殺さんと思ひ(御伽草子・火桶の草紙)、 と、一夫多妻のころの制度で、 あとに迎えた妻。上代は前妻または本妻以外の妻をいい、のちには再婚の妻をいう、 とあり(デジタル大辞泉)、 第二夫人や、めかけなどを云うことが多い、 とある(岩波古語辞典)。和名抄には、 後妻、宇波奈利、 とあるが、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 妬、ウハナリ、 とあり、「うはなり」そのものが、 妬み、 をも意味していたようだ(大言海・柳田國男「女性と民間伝承」)。 宇陀(うだ)の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし 鯨障(さや)る 前妻(こなみ)が 菜乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻(うはなり)が 菜乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね ええ しやこしや こはいのごふぞ ああ しやこしや こはあざわらふぞ(古事記)、 うはなりこなみ、一日一夜よろづのことをいひ語らひて(大和物語)、 などとあるように、「うはなり」は、 嫡妻、 前妻、 と当てる、 こなみ、 の対である。「こなみ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478998852.html)で触れたことだが、 山彦冊子(橘守部 天保二年(1831))に、コナミは、着馴妻(こなれめ)の轉(着物、ころも。雀、すずみ)。ウハナリは上委積妻(ウハナハリメ)の轉(なげかはし、なげかし)。古へ、二妻(ふたづま)を、衣を、二重着るに譬えたり、とあり(和訓栞、コナミ「熟妻(こなめ)、或は、モトツメと読めり」、ウハナリ「ウハは、重なる義也、ナリは並(ならび)の義、ラ、ビの反(かえし)、リ」)。仁徳紀廿二年正月、「天皇納八田皇女将為妃、皇后御歌『夏蟲の譬務始(ヒムシ 夏蠶(ナツコ))の衣二重着て隠み宿りは豈良くもあらず』」、萬葉集「おおよそに吾し思はば下に着て馴れにし衣を取りて着めやも」「紅の濃染の衣下に着て、上らに取り着ば言成さむかも」。何れも、二妻のことを云へりなりと云ふ、 とあり(大言海)、「こなみ」「うはなり」ともに、着物に喩えた、と見る。「うはなり」の「うは」は、 ウハヲ(上夫)・ウハミ(褶)・ウハ(上)などのウハと同根、後から加えられるものの意、 とあり(岩波古語辞典)、 うはづつみ(上包)、 うはつゆ(上露)、 うはぬり(上塗り) 等々同趣の言葉が多く、これは、重ねるという意味にもなり、同趣旨の説が多い。 ウヘニアリ(上在)の転(名語記・俚言集覧)、 後にきてウヘ(上)ニナルという意か(和句解)、 ウハは上で、重なる意。ナリは並の義(和訓栞・名言通・日本語源=賀茂百樹)、 ウハ(上)ナリ‐メ(女)の略。ウハナルは下に着た着物の上にもう一重重ねる義(山彦冊子)、 ウハナリ(上也)の義(言元梯)、 ウハは後の意(古事記傳)、 しかし、「なり」の説明が得心がいかない。単純に考えれば、 上成、 なのだが、そうあけすけには言うまいから、 ならぶ(並)、 が妥当なのかもしれない。対して、後の夫の意の、 後夫(うはを)、 といい、和名類聚抄(平安中期)に、 後夫、宇波乎(ウハヲ 上夫)、一云、伊萬乃乎宇止(いまのをうと)、 とある。対して、前夫は、 之太乎(したを 下夫)、 で、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 前夫、シタヲ、一云、モトノヲトコ、 和名類聚抄(平安中期)に、 前夫、之太乎、 とわかりやすい言い方になっている。なお、「うはなり」に、 嫐、 の字を当てると、 歌舞伎十八番の一つ。元禄十二年(1699)中村座の「一心五界玉」で初代市川団十郎が初演、 の演目で、 うわなり打ち、 を題材に、 甲賀三郎(こうがのさぶろう)を間にはさんで、先妻と後妻がうわなり打ちをし、先妻が恨みから鬼と化したのを三郎が退治する、 というもので(https://www.eg-gm.jp/e_guide/memo/a/memo_uwanari.html)、 元となる資料が極端に少なく、昭和六十一年一月上演の際には、元禄十二年に初代市川團十郎が演じたときの評判記のわずか数行の記事から構想し、同時代の近松門左衛門の「弘徽殿鵜羽産屋(こきでんうのはのうぶや)」からストーリーと人物を借りて脚本が作られました、 とある(仝上)。 「妻」(漢音セイ、呉音サイ)は、 会意文字。「又(て)+かんざしをつけた女」で、家事を扱う成人女性を示すが、サイ・セイということばは、夫と肩をそろえる相手をあらわす、 とあり(漢字源)、「糟糠之妻」「荊妻(ケイサイ)」というように、「夫の配偶者」の意である。別に、 象形、(婚礼の)髪飾りをつけた女性。又は、「又」(手、動作)+「女」で会意とも。「夫」をそろうの意で「斉」等と同系、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%BB)、 象形。かんざしをさし、手で髪を調えている女の形にかたどり、「つま」となった者の意を表す、 とも(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji42.html)ある。 「嫐」(漢音ドウ、呉音ノウ)は、 会意文字。「女+男+女」、 としかなく、「なやむ」「うるさい」意とある(漢字源)。 嬲、 の異体字ともある(https://kakijun.jp/page/9B6B200.html)が、「嬲」(ジョウ)は、 なぶる、 からかう、 意で、意味を異にする(字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) かまどのけむり賑々と立鼻の下建立の場と打見へて(雑俳「雲鼓評万句合(1745)」)、 人道の道徳のと云うが頭巾を取れば皆鼻の下喰う殿(でん)の建立だ(内田魯庵「社会百面相(1902)」)、 などとある、 鼻の下くう殿建立(でんこんりゅう)、 は、 鼻の下の建立、 鼻下建立(はなのしたのこんりゅう)、 ともいい、「鼻の下」は、 口、 の謂いだが、それをメタファに、 食べて行くこと、 生計、 の意でも使う。「くう」は、 食う、 の意で、 宮、 に掛けたもので、 社寺が社殿堂宇の建立修繕の名のもとに寄進を募るのも、実は神官僧侶の生活のためである、 という諷刺である(故事ことわざの辞典・広辞苑)。似た言い方に、 食う膳の勧化(かんげ)、 という言い方もある。「勧化」は、 勧進、 の意で、 鼻の下くう殿建立、 と同義になる。また、 冥土で亡者の罪の軽重を糺す十人の判官、 十王(じゅうおう)、 のうち、 閻魔王、 が有名で、閻魔だけを指すことがあるため、 九王、 に、 食おう、 をかけた、 十王が勧進も食おうがため、 という言い方もある。あるいは、 仏法も念仏も、要は世帯を維持し腹を一杯にするためのものだ、 という意味で、 世帯仏法腹念仏、 という言い方もする(仝上)。 「鼻」は、「はな」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449051395.html)で触れたように、 端(はな)の義、 端と同源、 で(岩波古語辞典・大言海)、「はな(端)」に、 初、 とも当て、「物事の最も先なるところ。まっさき。はじめ」と意を載せる。「はな(花・華)」も、同源である(日本語源広辞典)。 「はな(鼻・端)」は、 著しく目立つ意の、ハナ で(大言海)、顔の真ん中で著しく目立つ、ところからとする。ほかに、 フタアナ(二穴)は、フタ[f(ut)a]が熟訳されてハアナ・ハナになった(日本語の語源)、 ハジメノアナ(初穴)の義(和句解・日本釈名)、 ハアナ(方穴)の義(言元梯)、 等々「穴」にこだわる説もあるが。 「鼻」(漢音ヒ、呉音ビ)は、 形声。自ははなの形を描いた象形文字で、 「自」(鼻の象形)+音符「畀(ヒ)」、 で、 狭い鼻腔の特色に名づけたことば、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BC%BB・角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です。甲骨文では「はな」の形をした象形文字でしたが、後に、「畀(ヒ こしき(米などを蒸す為の土器)の中敷きと台の象形で「蒸気(空気)を通過させる」の意味)」が追加され「鼻」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji9.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「歌占(うたうら)」は、 巫女(みこ)や男巫(おとこみこ)が神慮を和歌で告げること、また、その歌による吉凶判断、 とあり(大辞泉)、 恵心僧都、巫女に心中の所願を占へとありければ、歌占に和讃を唱へて、「十万億の国国は、海山隔てて遠けれど、心の道だに直(なほ)ければ、つとめて至るとこそ聞け」と占ひたりければ(鎌倉初期の説話集『古事談』)、 と、 巫女などの口から出る歌を手掛かりに占いを行うこと、 である(岩波古語辞典)。本来は、神との交信をする行為、つまり、 巫(かんなぎ、古くはかむなき)、 であったが、後に、中世、 男巫(みこ)の候が、小弓に短冊を付け歌占を引き候が(謡曲「歌占」)、 と、 白木の弓に、歌を書いた多くの短冊を下げ、その一つを当人に引かせ、出た歌によって神慮をうかがう占い(岩波古語辞典)、 となり、さらに近世になると、 七月七日「不論男女七人会同、各書旧歌百首、都合為一巻、用歌占(「長秋記(1133)」)、 とあるように、 草紙や百人一首を開いて出た歌などによって吉凶を占う(広辞苑・大辞林)、 ものに変わっていく。 この「歌占」を主題にし、 伊勢の神職度会(ワタライ)家次が、歌占をして諸国を巡るうち、自分を尋ねる我が子幸菊丸と再会し、里人の所望で地獄巡りの曲舞(クセマイ)を舞う、 という能の「歌占」になる。それは、 加賀国 白山の麓に住む男(ツレ)は、父を捜す幼子(子方)を連れ、最近評判の占い師(シテ)のもとを訪れる。聞けば、彼はもと伊勢の神官で、かつて故郷を去った神罰により頓死し、三日後に蘇生した経験をもつという。彼はさっそく男と幼子の悩みを占うが、その中で、幼子は既に父と再会しているとの結果が出る。訝りつつも幼子の素性を尋ねる占い師。そうするうち、実はこの占い師こそ、幼子の父であったことが判明する。 この再会も神慮ゆえと、帰郷を決意した占い師。彼はその名残りにと、男の求めに応じ、頓死の折に体験した地獄の様子を舞って見せる。しかしこの舞は、神の憑依を招き寄せる恐ろしい舞であった。舞ううちに狂乱状態となって責め苛まれ、これまでの無沙汰を神に詫びる占い師。やがて正気に戻った彼は、我が子を連れ、故郷へと帰ってゆくのだった、 という概要(http://www.tessen.org/dictionary/explain/utaura)で、 弓につけた短冊を選ばせ、その歌で占う、 中世の風俗と、頓死して3日目に蘇生し、地獄を見た恐怖で白髪となっている、 シテの舞う地獄巡りの曲舞(くせまい)、 が眼目(日本大百科全書)とある(「歌占」については、https://www.nousyoukai.com/blank-26に詳しい)。因みに曲舞(くせまい)は、 久世舞、 九世舞、 とも書き、『七十一番職人尽歌合(しょくにんづくしうたあわせ)』に、 白拍子(しらびょうし)と曲舞とが対(つい)になっている ので、囃子(はやし)、服装などの類似から、その母胎は白拍子舞にあるのではないかといわれている(仝上)。服装は、児(ちご)は水干(すいかん)、大口(おおくち)、立烏帽子(たてえぼし)、男は水干のかわりに直垂(ひたたれ)を着け、扇を持ち鼓にあわせて基本的には一人舞を舞った、 とあり、南北朝時代から室町時代にかけて流行した中世芸能の「曲舞」を、大和(やまと)猿楽の観阿弥(かんあみ)が自流の能の謡のなかに取り入れて独自の芸風を確立したとされる(仝上)。 その「歌占」の度会(わたらい)家次の後裔と称する伊勢の北村某という旧家に、 「持ち伝えた歌占の弓というものは、長さ三尺ばかりの木の弓で、取柄には赤地の絹を糸にて巻き、弓の本末(もとうら)に一種の歌が書いてありました。 神ごころ種とこそなれ歌うらのひくもしら木のたつた山かな ……意味がいっこうにはっきりせぬ歌ですが、謡の方には、「引くも白木の手束(たづか)弓」とありますから、これだけはもう誤っているのです。 なおそれ以外に八枚の短冊に歌が書いて、弓の弦に結びつけてありました。歌占を引くというのはすなわちこの短冊の一枚を、多分目でもつぶって手にとること、あたかも今日のおみくじのごときもので、かの「歌占」の男みこの、 小弓に短冊を付け歌占を引き候が、けしからず正しき由を申し候ふ程に云々、 と言われていたのは、疑いもなくこの事であります」 とあり(柳田國男「女性と民間伝承」)、歌は、たとえば、 鶯のかひこの中のほととぎすしやが父に似てしやが父に似ず、 といった類である(仝上)。上記に「本末(もとうら)」というのはよくわからないが、弓の場合、 弓を射る時、下になる方の弭(はず)を「もとはず(本弭・本筈)」、 上になる方を(弓材の木の先端を末(うら)と呼ぶことので)「うらはず(末弭・末筈)」、 というが、何処を指しているのかはっきりわからない。文意からすると、「歌占」の短冊とは別に、弓の上になる方(うらはず)辺りにつけた短冊に書いてあるということだろう。なお「弓」については「弓矢」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450350603.html)で触れた。 「うた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448852051.html)で触れたことだが、「うた」は、古代特別な意味、神事や呪術性という意味を持っていると考えると、 ウタフ(訴)の語根。これからウタフを経過して、ウタヒとウタヘとに分化した(万葉集講義=折口信夫)、 という、 ウタフ(訴)、 ではないかという気がする。語源から考えれば、 ウタフ(ウ)、 は、色ふ、境ふ、等々と同趣で、 歌を活用せしむ、 でいいと思うのだが(大言海・日本語源広辞典)、もう少し踏み込んで、、 ウタガヒ(疑)・ウタタ(転)のウタと同根で、自分の気持ちをまっすぐに表現する意、 とし、 ウタ(歌)アヒ(合)の約で、もとは唱和する意か、 とする(岩波古語辞典)説もある。なお、「うらなう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html)、「うたがう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477908236.html)については触れた。 「歌」(カ)は、 会意兼形声。可は「口+⏋型」からなり、のどで声を屈折させて出すこと。訶(カ)・呵(カ のどをかすらせて怒鳴る)と同系。それを二つ合わせたのが哥(カ)。歌は「欠(からだをかがめる)+音符哥」で、のどで声を曲折させ、からだをかがめて節をつけること、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(哥+欠)。「口の象形と口の奥の象形×2」(「口の奥から大きな声を出す、うたう」の意味)と「人が口を開けている」象形(「口を開ける」の意味)から、「人が口をあけ大きな声でうたう」を意味する「歌」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji220.html)。 「占」(セン)は、「うらなう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html)で触れたように、 「卜(うらなう)+口」。この口は、くちではなく、あるものある場所を示す記号。卜(うらない)によって、ひとつの物や場所を選び決めること、 とある(漢字源)。「卜」(漢音ボク、呉音ホク)は、 亀の甲を焼いてうらなった際、その表面に生じた割れ目の形を描いたもの。ぼくっと急に割れる意を含む、 とあり(仝上)、これは、 亀卜(きぼく)、 というが、 亀の腹甲や獣の骨を火にあぶり、その裂け目(いわゆる亀裂)によって、軍事、祭祀、狩猟といった国家の大事を占った。その占いのことばを亀甲獣骨に刻んだものが卜辞、すなわち甲骨文字であり、卜という文字もその裂け目の象形である。亀卜は数ある占いのなかでも最も神聖で権威があったが、次の周代になると、筮(ぜい 易占)に取って代わられ、しだいに衰えていった、 とある(世界大百科事典)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 柳田國男「女性と民間伝承(柳田國男全集10)」(ちくま文庫) 「影向(ようごう)の松」という名の松が、今日、 影向のマツ 善養寺(江戸川区東小岩)境内に生育している樹齢は600年以上のクロマツの巨木、 影向の松 善福院(三重県伊賀市)境内に生育している松(現在三代目)、 影向の松 春日大社(奈良県奈良市)境内に生育しているクロマツ(平成に入って枯れたため現在後継樹を育成)、 影向の松 不洗観音寺(岡山県倉敷市)境内に生育している推定樹齢200年のクロマツ、 があるらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E5%90%91%E3%81%AE%E6%9D%BE)。 春日大社影向の松には、 春日大明神が降臨し万歳楽(まんざいらく)を舞ったとされ、能舞台の鏡板の松はこの松を描いたものとされる、 という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BD%B1%E5%90%91)。 「影向」は、 ようごう、 と訓ませ、また、 ようこう、 とも訓むが、 えいこう、 えこう、 とも、 えいきょう、 などとも訓む(広辞苑・字源・大言海)。これは、「影」が、 漢音エイ、呉音ヨウ、 「向」が、 漢音キョウ、呉音コウ、 と発音するため、 ようこう、 ようごう、 の訓みは、呉音によっている。『文明本節用集』(ぶんめいほんせつようしゅう 室町時代の文明年間以降に成立)には、 影向、ヤウガウ、 とある。 「影向」は、 誠に来迎引摂(らいごういんじょう)の悲願も、この所に影向を垂れ(平家物語)、 と、 神または仏が現れること、 また、 神仏が一時応現すること、 の意で(広辞苑・岩波古語辞典)、 衆生済度のため化身となり出現すること、 を意味する(大辞林)が、 神仏が本来の居場所を離れ有縁の人前に姿をとって赴くこと、 とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BD%B1%E5%90%91)のが、正確な意味に思える。この、 神仏が仮の姿となって、この世に現れること、 あるいは、 姿を見せずに現れること、 を、 権現、 という(世界大百科事典)。 神仏の影向は、中世の社寺縁起にしばしばみられ、それにちなんだ伝承地は各地に残されている。また、中世の絵画には、神仏の影向を具体的に描いたものが多くみられ、人々は、そのような神仏の具体的な姿を信仰の対象とした(仝上)、という。 「影向の松」の名も、 この松が枝を多くのばし、まるで母親が両手を広げて子どもたちを抱えるようなその姿に由来する、 とされる(https://www.city.kurashiki.okayama.jp/5547.htm)。 影とは、物の陰影なり、本体ありて、その陰(影)を他面に対向せとむるを影向と云ふ、即ち、月影の水面に映ずるが如し、 とある(大言海)。 「播州飾磨(しかま)の了覚寺という寺にも、孤松一名折居松というのがあって、和泉(式部)の手栽(てうえ)ともいえばまたこの松を栽えた時に、ちょうど彼女が生まれたから折居松だともいっていたそうであります。生まれたから折居松は意味がないようですが、折居は宛て字であって、実は降臨松であったらしいのであります。神木へ神が御降りになると称して、その下で祭りをした風習の盛んであった頃には、その木を影向松(ようごうまつ)とも、星降りの松とも、勧請(かんじょう)の木ともまた腰掛木ともいっておりました。今でも無数にその名の木が諸国に残っておりますが、その神を顕わしたのは通例は樹の下に立たしめた童男童女でありました。」 とあり(柳田國男『女性と民間伝承』)、 「神は高い空から、清い地の上に御降りなされるものという信仰から、枝ぶりの尋常でない木をもって神意を暗示するもの」 と考え、 枝垂れ木、 笠木(笠松)、 と呼んだりした(仝上)。また、各地には、 仏や神が姿を現した霊石、 を、 影向石(ようごういし)、 と呼ぶ、 神仏が顕現した事蹟が存在し、その地に寺社が建立されることも多い、 とあり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BD%B1%E5%90%91)、 知恩院の影向石、 は、建暦二年(1212)法然の臨終に際し、瑞相や紫雲が立ちこめる奇瑞が現れたが、そのときに賀茂大明神がこの石に降臨した、 といわれる(仝上)。こうした由来からか、 影向石、 は、 拝み石、 とも言い、 遠くの神(神社)を遙拝したり、来臨する神を遥拝したりする場所にある石、また、その石にまつわる伝説、 を指す(精選版日本国語大辞典・日本伝奇伝説大辞典)。南高諏訪神社(福島県信夫郡)の「拝み石」は、 倭健命がここで諏訪を遥拝した、 と伝え、四天王寺(大阪市)南大門の「拝み石」は、 紀州の熊野神社に向かって礼拝する目印、 とされ、岡山県久米郡福渡町にある、 三尊石仏岩、 は、 弥陀三尊の来迎を拝んだ、 と伝承される(仝上)。 遥拝の場所を示す石、 であるか、 神仏の影向を伝える石、 であるか、いずれにしても、この背景には、 神が天上から岩石の上に降臨し、また遠来の神が石に一時休息して人界に来臨する、 という考えがあり、 腰掛石、 影向石、 降臨石、 勧請石、 と呼ぶ「石」は、 影向松、 降臨松、 勧請の木、 神代杉、 等々の「木」と同様に、 神の依代、 と考えていいようである(仝上)。 影向寺(野川)の影向石は、 江戸時代の初め万治年間に、当時の薬師堂が火を被ると、本尊薬師如来は自ら堂を出て、影向石の上に被災を逃れたと伝えられています。石に神仏が馮依しているとして爾来影向石と称されようになり、寺名も養光寺から影向寺と改めた、 とされる(http://www.miyamae-kankou.net/historyculture-category/2009-11yougouji/)。 こうした経緯からか、 庭園を眺めたり礼拝したりする場所に置く平たい石、 も、 お墓の手前に敷かれている板状の石、 も、 拝み石、 と呼ぶようである(精選版日本国語大辞典)。なお、歌舞伎(享保16年11月(京・早雲座)初演)の外題、 影向石、 は、 えいごうせき、 と通称するようである(歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典)。 「影」(漢音エイ、呉音ヨウ)は、 会意兼形声。景は「日(太陽)+音符京」からなり、日光に照らされて明暗のついた像のこと。影は「彡(模様)+音符景」で、光によって明暗の境界がついたこと。とくに、その暗い部分、 とあり(漢字源)、別に、 会意兼形声文字です(景+彡)。「太陽の象形と高い丘の上に建つ家」の象形(「光により生ずるかげ」の意味)と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様・色どり」の意味)から、「かげ」を意味する「影」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1289.html)。「景」(漢音ケイ・エイ、呉音キョウ・ヨウ)は、 形声。京とは、高い丘にたてた家をえがいた象形文字。高く大きい意を含む。景は「日+音符京」で、大きい意に用いた場合は、京と同系。日かげの意に用いるのは、境(けじめ)と同系で、明暗の境界を生じること、 とある(仝上)。 「向」(漢音キョウ、呉音コウ)は、「背向(そがい)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482178677.html)で触れたように、 会意。「宀(屋根)+口(あな)」で、家屋の北壁にあけた通気口を示す。通風窓から空気が出ていくように、気体や物がある方向に進行すること、 とある(漢字源)。別に、 会意。「宀」(屋根)+「口」(窓 又は 窓に供えた神器)、 ともあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%91)、さらに、 象形文字です。「家の北側に付いている窓」の象形から「たかまど」を意味する「向」という漢字が成り立ちました。「卿(キョウ)」に通じ、「むく」という意味も表すようになりました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji487.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 「きっちょむ話」は、 吉四六話、 と当て、 大分県中南部に伝承されている笑い話、とんちばなし、 で、 「きっちょむ」は吉右衛門の転訛(広辞苑・大辞泉)、 「きっちょむ」という名は「きちえもん」が豊後弁によって転訛したもの(デジタル大辞泉)、 とされるように、 地元では、明暦から元禄(1655〜1704)の頃酒造業を営み、豊後国野津院(現在の大分県臼杵市野津地区、旧大野郡野津町)の庄屋でもあった初代廣田吉右衛門(ひろた きちえもん)がモデル、 とされるが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%9B%9B%E5%85%AD・日本昔話事典)、正徳五年(1715)の墓と目されるものも同様、確かな資料はない(仝上)。 「きっちょむ話」は、 おどけ者、 狡猾者、 和尚と小僧、 大話、 あわて者、 けちん坊、 愚か村、 愚か婿、 等々、 笑い話の各種の型を網羅している、 とされ(日本昔話事典)、 二百数十話、 にも及ぶが、 他地方に伝承されている笑話、 『醒睡笑』、『軽口居合刀』、『露休置土産』等々、近世出版された咄本収録の話、 等々も多く、さらに、 明治以降活字化される過程で脚色や創作が加えられている、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%9B%9B%E5%85%AD・日本昔話事典)。1926年(大正15年)に「きっちょむ会」を発足させた柳田國男は、 「吉右衛門……の逸話と伝えたものの数は、百や百五十では済むまいけれども、その中には明々白々に二種類の話があって、一人の所業としては如何(どう)しても合点が行かない。例を挙げて言うならば……天昇りの話のほかに、キッチョンはつまらぬ掛物の絵を持って来て、騙して高い金で愚か者へ売りつけた。傘を手に持つ画中の人物が、雨の降る日にはその傘を開くと謂うのであった。勿論ウソだから怒って談じ込むと、先生は平気で『あんたは飯をくわせたか、飯を食わせなければ何もせぬのは当たり前だ』と答えたと謂う。この話は西洋に二人椋助譚(ににんむくすけだん)などにもあるところの、黄金を糞する駒の話の同類で、他の地方では『金を食わせたか、食わせずに糞するわけがない』と答えたことになっていてその方が自然に聴こえる。」 と書き(「吉有会記事」)、 狡知譚、 と 愚者譚、 が一人の所業に集約されているのに首をかしげているが、しかし、これほど広範に「きっちょむ」に集約されるのは他の地方には見られない、ともしている。因みに、「天昇り」という話は、 怠け者の吉四六は田の代掻き(しろかき 田に水を入れた状態で、土の塊を細かく砕く作業)を楽に行う方法は無いかと考え、田の真ん中に高いハシゴを立てる。そして町の衆に「天に昇ってくる」と言い回る。天昇り当日、吉四六がはしごを登りだすと、集まった町の衆は「危ない危ない」と言いながら田んぼの中で右往左往する。吉四六もはしごの上でふらついてみせる。しばらくすると「皆がそんなに危ないというなら天昇りはやめじゃ」とはしごを降りてくる。結局、町の衆が右往左往して田の中を踏み付け回ったおかげで、田は代掻きされた状態になった、 というもの(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%9B%9B%E5%85%AD)である。 しかし、豊前の中津市に入ると、 吉吾話(きちごばなし)、 となり、八代に行くと、 彦市、 となり、岩手の紫波郡にも、 モンジャの吉、 と呼ばれる、 うそつきの民間英雄、 が居て(紫波郡昔話)、柳田國男は、 隠れた地下水脈、 がある(仝上)と指摘している。事実、笑話の主人公に、 吉、 という名のついた地域は、豊前中津の他に、 熊本、 東北、 四国、 と広がり、 咄の者の通り名、 になっているようである(日本昔話事典)。 実在の吉右衛門の「吉」から「きっちょむ」話が吉右衛門に収斂されたように、 「吉」の通り名に擬せらるべき実在人物がいた、 ことが、伝承をまつます強化したのではないか、と推測されている(仝上)。 臼杵の「吉四六」と比べ、中津の「吉吾」は、近世の宇佐道中唄に、 中津吉吾に欺されて、小祝地蔵に目を抜かれ、 という一節があり、 吉四六が豊後人にとっておどけ者の印象が強いのに対し、吉吾はややずるい人間というイメージがある、 といったように(仝上)、地域ごとに多少の差はあるようだが。 参考文献; 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 柳田國男『不幸なる芸術・笑の本願』(岩波文庫) 「ほほえむ」は、 微笑む、 頬笑む、 と当てる(広辞苑)が、正確には、「頬」と「頰」とがあり、 微笑む、 頰笑む、 頬笑む、 となる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%BB%E3%81%BB%E3%81%88%E3%82%80)。さらに、 忍笑、 とも当てる(大言海)。 御手は、いとをかしうのみなりまさるものかなと独りごちて、うつくしと、ほほゑみ給ふ(源氏物語)、 と、 声を出さずに笑う、 にっこりとする、 意だが、古くは、 苦笑・冷笑などにもいう、 とあり(大辞林)、 もの恐ろしくこそあれと、いと若びて言へば、げにとほほゑまれ給ひて(仝上)、 と、 微苦笑する、 意でも使い(岩波古語辞典)、 メタファとして、 ほかには盛りすぎたる桜も、今さかりにほほゑみ(仝上)、 と、 蕾つぼみがわずかに開く、 にも言う(岩波古語辞典)。 「ほほえむ」の語源は、 含(ほほ)み笑む意、 あるいは、 頬笑む、頬に其気色の顕はるるの意、 とある(大言海)が、 頬にそのヱマヒがまず現れるから(柳田國男「笑の本願」)、 と、 頬笑む、 の意と考えられる(日本語源大辞典)。因みに、「ゑまひ」は、 ゑまふの名詞形、 で、「ゑまふ」は、 笑まふ、 と当て、 笑むに反復・継続の接尾語フ(四段活用の動詞をつくり反復・継続の意を表わす)のついたもの(岩波古語辞典・明解古語辞典・広辞苑)、 動詞「ゑむ」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」(日本国語大辞典・学研全訳古語辞典・デジタル大辞泉・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%91%E3%81%BE%E3%81%B5)、 ゑむの延(大言海) 等々諸説あるが、 さ馴らへる鷹は無けむと心には思ひ誇りて恵麻比(ヱマヒ)つつ渡る間に(万葉集)、 と、 ほほえむ、 意であり、また、 梅柳常より殊に敷栄え咲万比(ヱマヒ)開て鶯も聲改めて(続日本後紀)、 と、 花が開く、 意でも使う(岩波古語辞典)。 中世の辞書類では、文明本節用集では、 頬(ホウ)―忍笑(ホホ・シノビワラヒ) 永禄五年本節用集では、 頬(ホフ)―忍咲(ホホエン)、 易林本節用集では、 頬(ホフ)―微笑(ホホヱム)、 と、 ほお(頬)、 と ほほゑむ、 の語形が異なる(日本語源大辞典)のは、 複合語中に古形が保存されがちであり、単独語が形を変えやすいため、 としている(仝上)。 「ほほえむ」と関係があると思われるのは、 えくぼ(靨)、 で、 ヱ(笑)クボ(窪)の意(岩波古語辞典)、 笑窪の義(大言海・和訓考・箋注和名抄)、 ヱクボ(咲凹)から(言元梯)、 と、「ゑむ」と関わらせる。和名類聚抄(平安中期)には、 靨、惠久保、面小下也、 とある。 うぶ飯(めし)、 または、 産の飯、 という、生まれた赤児の前に据える、 高盛りの飯、 の風習があるが、男子だと、 盛り飯の上になるたけ重い石か金属の類を載せる、こうすると首の骨が強くなると言い伝える、 女子だと、 高く盛った飯の両側に、指または箸の先で附いて辰の穴をあける、その児の頬にエクボができて、愛嬌がよくなる、 という(柳田國男「女の咲顔」)。これも、女子の「ゑみ」と関わるらしい。 「わらふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html?1494102077)が、 ワラ(割・破る)+ふ(継続)(日本語源広辞典)、 顔がワラ(散)クル意(大言海)、 相好が崩れ、破顔する義で、ワルル(破)からか(国語の語幹とその分類)、 口を大きく開く意の、ワル(割)から岐(わか)れた(名言通・女の咲顔=柳田國男)、 などと、 割れ、破れ、散る、 という眼前の表情変化から来た言葉であった(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html?1494102077)ように、「えむ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449771882.html)も、 心に愛ずることありて、顔にあらはれて、にこやかなる。笑ひを含む、 と(大言海)表情の変化を意味するが、声のある、 わらふ、 に対し、 ゑむ、 は、聲がない(柳田・前掲書)など、両者は区別されていた、と見られる。「ほほゑむ」は、その「ゑむ」が、頬に現われている、と見ているようである。あるいは、 靨、 に「ゑむ」の象徴を見ていたのかもしれない。 なお、にっこりと、 といった、 笑みを含んださま、 に言う、 ゑみゑみ、 と訓む(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)、 笑笑、 については触れたことがある(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481859499.html)。 「微」(漢音ビ、呉音ミ)は、 会意兼形声。𣁋(音符ビ)は「−線の上下に細い糸端の垂れたさま+攴(動詞のしるし)」の会意文字で、糸端のように目立たないようにすること。微はそれを音符とし、彳(行く)を添えた字で、目立たないようにしのび歩きすること、 とあり(漢字源・角川新字源)、「衰微」「微細」といったように「かすか」、「小さくて目立たない」意である。別に、 会意兼形声文字です。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「植物が芽を出し発芽した象形と植物の根の象形」(「もののはじめ・先端」の意味)と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「手でうつ」の意味)から、「人目につかずに行く」、「かすか」、「わずか」を意味する「微」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1249.html)。 「笑」(ショウ)は、「わらう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html?1494102077)で触れたように、 会意文字。夭(ヨウ)は、細くしなやかな人。笑は「竹+夭(ほそい)」で、もと細い竹のこと。正字は「口+音符笑」の会意兼形声文字で、口を細くすぼめて、ほほとわらうこと。それを誤って咲(わらう→さく)と書き、また略して笑を用いる、 とある(漢字源)。「咲」(ショウ)は、 会意兼形声。夭(ヨウ)は、なよなよと細い姿の人を描いた象形文字。笑(ショウ)は、細い竹。細い意を含む。咲はもと、「口+音符笑」で、口をすぼめてほほとわらうこと。咲は、それが変形した俗字。日本では、「鳥なき花笑う」という慣用句から、花がさく意に転用された。「わらう」意には笑の字を用い、この字(咲)を用いない、 とある(仝上)。 「頬」(キョウ)は、 会意兼形声。「頁(あたま)+音符夾(キョウ はさむ)」。顔を両側からはさむほお、 で(漢字源・https://okjiten.jp/kanji2198.html)、 頰、 が正字、「頬」は俗字(https://kakijun.jp/page/hoo16200.html)。 「靨」(ヨウ)は、 面+音符厭(エン・ヨウ 抑えつける、くぼむ)、 で、 咲媚看婦靨(咲媚婦ノ靨ヲ看ル)(梅尭臣)、 と、 えくぼ、 の意である(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 柳田國男「不幸なる芸術・笑いの本願け」(岩波文庫) 「腰折(こしを)れ」は、 奈良坂のさがしき道をいかにして腰折れどもの越えて来つらん(古今著聞集)、 と、文字通り、 年老いて腰の折れかがむこと、 また、 その人、 の謂いだが、それをメタファに、 今めきつつ、こしをれ哥好ましげに、若やぐ気色どもは(源氏物語)、 のように、 腰折れ歌、 の、 和歌の第三句(腰の句)の詠み方に欠点のあるもの、 の意味で使い(広辞苑・岩波古語辞典)、 第三句と第四の句との間の続かない歌(広辞苑)、 第三句と第四句の接続が不都合なもの(岩波古語辞典)、 と、 5・7・5・7・7の第3句目の〈5〉を腰句と呼ぶが、中心となるこの句の出来の可否が作品的価値を左右するところから、腰句が折れた短歌、下手な短歌という意味になる、 とする(世界大百科事典)。 ややもせば、腰はなれぬばかり、折れかかりたる歌をよみいで、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくも覚えはべるわざなり(紫式部日記)、 と、 腰のところで、離れてしまうほど、うまく整わない、 といっている(https://sorahirune.blog.fc2.com/blog-entry-275.html)のは、つまり、 上の句(かみのく) 上の方の5・7・5の3句 初句+第二句+腰の句、 と、 下の句(しものく) 下の方の7・7の2句 第四句+第五句、 の、関節役が「腰の句」なので、鎌倉中期の歌論書『悦目抄』(藤原基俊)は、 腰折に、あまたの品あり、一には、縁の字を、腰にすゑずして、なまじひに、かたがたにすゑたる也、一には、発句、後句に、物を言ひきりて、腰をば、別々になしたる也、 という。つまり、次へとつなぐ役割なのに、つながらなかったり、発句と、続く後句で、完結してしまっているのを、言っているらしいのだが、江戸後期の百科事典『類聚名物考』は、 本と末との間の細りて続かぬを云ふ。蜂腰(ほうよう)の意に同じ、蜂腰も腰のほそき物なればなり、 とし、江戸後期の『俗語考』(橘守部)は、 (藤原)家隆卿の詞に云、今時の歌は、よき歌といへども、皆、腰の句、折れたり、古の歌の腰の彊く続きたるを見れば誇りがたし、 と書き、鎌倉時代の歌論書『無名抄』(むみょうしょう 鴨長明)は、藤原俊成の、 夕されば、野辺の秋風、身にしみて、鶉(うずら)鳴くなり、深草の里、かの歌は、夕されば、野辺の秋風、身にしみてといふ腰の句の、いみじう無念におぼゆる也、 と書く。 鶉鳴くなり深草の里、 と続く下句は、『伊勢物語』(123段)の、 深草に住みける女を、やうやう飽きがたにや思ひけむ、 と、 年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ と詠み、女は、 野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ と、答えたというエピソードをふまえている。歌のことはよくわからないが、 夕されば、野辺の秋風、身にしみて、 で、 物を言ひきりて、腰をば、別々になしたる(悦目抄)、 と見えなくもない。で、 腰折れ、 あるいは、 腰折れ歌は、 下手な歌、 の意味となる。ただ、歌人でもあった柳田國男は、こう書いている。 「和歌に腰折れという批評の意味が、少しばかり昔は今と違っていた。即ち、下手は下手でも目的のある下手、とぼけて笑わせて落ちを取ろうという趣旨で、わざと様式を破り用語を慎まず、自ら柿の本の正統に対立して、栗の本と名のるほどの勇敢さであった。これを歌道の上から無心と名づけたのは、多分は万葉期の無心所着歌(こころのつくところのなきうた)の伝統を認めたもので、連歌などの集会は帰って有心一式のものよりは、しばしば栗の本の無心に腰を折らせた方が興味が濃(こま)やかであった」 と(「笑の文学の起源」)、定家流の有心意識に対する無心の技巧という面もあったとしているのは興味深い。 「腰折れ」は、 下手な歌、 の代名詞だが、あえて、自詠の歌を、 事よろしき時こそ、こしをれかかりたる事も、思ひ続けけれども、かくも、云ふべきかたも覚えぬままに、 かけてこそ 思はざりしか この世にて しばしも君に わかるべしとは いとど人めも見えず、さびしく心ぼそくうちながめ(更級日記)、 と、 謙遜して 言う場合にも使う。 わづかなる腰折れ文作ることなど習ひはべりしかば(源氏物語)、 の、 腰折れ文(ぶみ)、 も、 下手な文章、 の意にも、また、 自作の文章を謙遜して、 も言う(広辞苑)。 漢語に、 折腰(セツヨウ 腰を折る)、 があるが、これは、 吾不能為五斗米折腰事郷里小児(晉書・隠逸傳)、 と、 腰を屈む、 つまり、 人に下るに云ふ、 意でしかない(字源)。 「腰折れ」は、老人の腰の曲がったのに準えているので、それをメタファに、横に折れ曲がったり、腰のあたりが折れていたりする意で、 腰折れ松(横に折れまがって生えている松)、 腰折滝、 腰折れ地蔵、 腰折れ屋根、 等々でも使い、 景気が腰折れした、 などと、 景気や経済活動が、成長・回復・現状維持の状態から、はっきりとした悪化の局面に転じる、 意で使ったりする。 江戸時代の、髷に、 腰折島田(こしおりしまだ)、 というのもあり、 中央がひじょうにへこんでいて、根が低くなったもの、 を指したらしい(精選版日本国語大辞典)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 柳田國男『不幸なる芸術・笑の本願』(岩波文庫) 「へったくれ」は、 規則もへったくれもあるか、 というように、 多く「…も―も」の形で、下に否定の語を伴う文脈でいうことが多い、 使い方で(広辞苑・大辞林)、 取るに足りないと思うものをののしっていう語、 であり(仝上)、 つまらないと思う、 価値を認めない、 軽んじる気持ち、 を表す語である(仝上・大辞泉)。古語辞典の類には載らないが、江戸時代から用例が見られ、 イヤ置け置け。断りもへったくれも入らぬ(浄瑠璃「小野道風青柳硯(1754)」)、 下女の恋文もへッたくれもいらず(「柳多留(1785)」)、 と、 現代風に、「…もへったくれも」の形で、下に否定の語を伴って、否定文脈で使う場合以外に、 おぐしだのへったくれのとそんな遊(あそば)せことばはみつとむねへ(浮世風呂) それよしか、何院だらうが、へッたくれだらうが、オ歴々の御身分の事、平人は死んだ時ばかりの名聞だ(浮世床)、 と、 ……のへったくれのと、 ……だろうがへったくれだろうが、 と、対比して用いて、意味を強める、 という使い方でも用いている。由来については、 安房にて、愚者を、へうたくれと云ふ(大言海)、 ひょうたくれの訛(江戸語大辞典)、 ヘタキレ(端切)の訛かヘタクレ(蔕塊)の促呼(上方語源辞典=前田勇)、 「続日本紀」に見られる惡奴の名クナタブレを屎(くそ)タフレと誤って、その対音に屁タクレと言ったものをさらにヒョウタクレと音便に言ったか(野乃舎随筆)、 並立を表すハタコレ(将此)の転訛(日本語の語源)、 といった諸説があるが、「ひょうたくれ」「へうたくれ」は、 明和頃(1764〜72)、深川の岡場所語、 とあり、 ひやうたくれ、悪敷客を云(明和七年(1770)「辰巳之園」)、 と、 不粋客の侮称、 とあり(江戸語大辞典)、転じて、 おらんだにて馬鹿をヘケレンツウといへば、かみがたにてあほうそろまといふ、江戸にてひやうたくれと言しも今はうすどんとひゐきの沙汰によびけらし(天明二年(1782)「通人の寝言」)、 と、 ばか、 あほう、 といった、 人を罵る語、 としても使う。「安房で云々」との関連を考えると、「ひょうたくれ」「へうたくれ」が「へったくれ」の由来の可能性が高い。たとえば、 知恵もひやうたくれもいらぬ、ぶんのめして通るまでの事(天明初年(1781)「通増安宅関」)、 と、 ひやうたくれ、 を、 へったくれ、 と同義に使った例もある(もっとも、へったくれ→ひやうたくれ、と転訛したということもありえなくもないが)。 他方、大阪弁で、 へったくれ、くそ、 という言い方があり、 「へったくれ」は、ヘチマのまくれた形の「へちまくれ」から、 とし(大阪弁)、 「くそ」は係助詞「こそ」の転、 で、 あれもこれも、の不特定のものの強調を示す。価値を認めたくないものに対して、辞めるもへったくれもあるかい、愛想もくそもあれへんわ、と使う。どうもこうもないという意味。単体では使わない、 とする説がある(https://www.weblio.jp/cat/dialect/osaka)。つまり、 へちまくれの転訛、 という説である。同趣旨の説は、 「へちまくれ」とは、「へちま」+「まくれ」で、「まくれているヘチマ」という意味です。ヘチマは、昔大切な水を入れる水筒の役割をしていましたが、まくれているヘチマは使い物になりませんでした。まくれているヘチマは、「不要な(とるにたらない)もの」だったのです。「でも○○と言っても、お前ではとるにたらない」という意味で、「でもも、へったくれもない」ということになった様です、 ともある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1118607276)。大阪から伝わった言葉でないとすると、大阪弁の「へったくれ」と江戸の「ひやうたくれ」は別由来かもしれない。 ハタコレ(将此)の転訛、 とする説は、武士を嘲罵する言葉として、上記の、 おぐしだのへったくれのとそんな遊(あそば)せことばはみつとむねへ(浮世風呂) それよしか、何院だらうが、へッたくれだらうが、オ歴々の御身分の事、平人は死んだ時ばかりの名聞だ(浮世床)、 等々「浮世床」「浮世風呂」で使われているとして、 「ハタコレモ(将此も)は並列をあらわすことばで、『武士もハタコレ(自分たち)も違いがあるものか』といった。高いものを低いものと同等に引き下げて平等を主張するときの慣用句である。これを早口に発音するときヘタクレ・ヘッタクレ・ヘッチャクレに転音し、「違いが」を落とし、武士を嘲罵することばとして浮世床の類に用例が多い」 と詳説している(日本語の語源)。ここで、注目すべきは、 「取るに足らぬ者、愚者」という意の名詞になって東京・千葉方言として残っている、 とあることだ(仝上)。地理的に、上述の、 深川の岡場所語、 とする説との関連が気になる。 もうひとつ、柳田國男は、全く別の語源として、 「神社に従属した小区域の地名に手倉田(たくらだ)というものが諸国に存する。羽後の雄物(おもの)川の岸には「言語道断」と文字に書いて、タクラダという村さえあった。タクラダ・タクラは多く地方の方言で愚か者を意味し、ノンダクレとかヘッタクレとかいう普通語もそれから出ている。或いはまた馬鹿をオタカラモノと呼ぶ土地もある。手倉田・田倉田は即ち彼らに田を給し、神役を勤めさせた名残かと思われる。三河の山村の花祭の囃しの詞に、笛に合わせて一同がターフレタフレと囃すのも、やはり一つの語の変化であって、いわゆるクナタフレが神に仕え、その愚かさを役に立てたこと、今の馬鹿囃しの火男(ひょっとこ)などと、本の趣旨を同じくする者かと思う。」 と、神の前で「笑わせる」職分役という民間習俗からきているという説を述べている(「笑の文学の起源」)。さらに、 「タクラという語は少なくとも方言ではなかった。今も複合語としては標準語の中にも通用している。たとえば泥酔者をノンダクレ、是をもう少し悪い発音にかえて、ドンダクレという語は田舎にあり、関西の方では是をヱヒタクレという者が多く、ヨッタクレという語もまだ東京には少し残っている。それからまたヒョウタクレという語があり、東日本の方言集には多く採録されていて、愚人を意味する。」 とあり(「たくらた考」)、この説によれば、 ひやうたくれ、 も、 へったくれも、 も、 のんだくれ、 の「たくれ」も、 たくらた、 由来ということになる。「たくらた」は、 癡、 とも当て、 癡の字をばたくらたと読むなり。世間の人のたくらたと云ふは、愚癡の癡なり(法華経直談鈔)、 と、 愚か者、 の意味である(岩波古語辞典)。「たくらた」の由来を、柳田國男が、 ふざけきった俗説、 と一蹴した、 たくらだ(田蔵田)は麝香鹿に似た、芳香のない動物、せっかくとらえても、麝香鹿のかわりにはならず無駄に死ぬばかりである、 とする説(運歩色葉集)を取って、 獣の名、麝香に似たるものにて、人の麝香を猟る時、此獣、出でて人に殺さる。故に我が事ならで、好みて死するを田蔵田という(節用集大全)、 とする説(大言海)もあるが、これはいただけない。柳田國男は、 タクラフ(較)という動詞から出たタクラにタを添えたもの。またタクラは、タクラブ(較)と同源で、いたずらに人の真似をしてしくじり笑われる物を言った、 とする説を立てる(「たくらた考」)。あくまで、 神に使える役、 由来を取る。「たくらふ」は載らないが、 タクラブ(較ぶ)という語が源の一つ、 のものとある(仝上)「たくらぶ」は、 タは接頭語、 で、 た比ぶ、 た較ぶ、 と当て(岩波古語辞典)、 較、タクラブ、 とある(室町末期書写「黒本節用集」)ように、 比較する、 意であるところから、 二人相対しての動作、 を意味する、と推測している(柳田・仝上)。 比較する、 という意味は、江戸時代の、「へったくれ」の用法の、 ……のへったくれのと、 ……だろうがへったくれだろうが、 と、対比して用いる使い方とぴたりと符合する。これが、 神前での道化役、 からきているとすると、 手倉田、手倉森という名の地名、 が全国にある、 たくらた、 から、各地域ごとに、 へったくれ、 も、 ひやうたくれ、 も、 へちまくれ、 も転訛したものということになる。底流として、 愚か者、 意が通底していたということになる。この説の前では、他の諸説は、その転訛に過ぎなくなってくる気がする。 「癡(痴)」(チ)は、 会意文字。疑は、とどまって動かないこと。癡は「疒+疑」で、何かにつかえて知恵の働かないこと、 とあり(漢字源)、当用漢字の、 痴、 は、 知(チ)を音符とした俗字、 である(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(疒+疑(知))。「人が病気で寝台にもたれかかる」象形(「病気」の意味)と「人が頭をあげ思いこらしてじっと立つ象形と十字路の左半分・角のある牛・立ち止まる足の象形」(人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる、すなわち、「じっと立ち止まってためらう」の意味)から、「物事にうまく対応できない病気」、「愚か」、「狂う(正常でなくなる)」を意味する「痴」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1469.html)。「痴」については、 会意形声、「疒」+ 音符「知」で、言い当てる(=知)力を失うこと、 と解釈される(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%97%B4)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 柳田國男『不幸なる芸術・笑の本願』(岩波文庫) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「佯狂(ようきょう)して奴(ど)と為(な)る」は、 狂人を装って下僕となった、 という意味である。 「佯狂」は、 箕子(きし)被髪佯狂而為奴(史記・宋世家)、 と、 イツワリキョウス、 と読ませ、 狂人のふりをする、 意であり(「被髪」は束ねずに乱れた髪の毛の意)、 陽狂不識駿(後漢書・丁鴻傳)、 と、 陽狂、 あるいは、 紂怒、……剖比于觀其心、箕子懼、乃詳狂為奴(史記・殷紀)、 と、 詳狂、 などとも当て(大言海・デジタル大辞泉・字源)、箕子(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E5%AD%90)の、 殷の紂王の臣下である箕子は、暴政を行う紂王を諫めたが聞き入れられなかった。君主のもとを去れば、君主の悪が公になってしまい、また、自分自身を弁解することにもなってしまうと考えた箕子は、髪を乱し、狂ったふりをして奴隷となった、 という故事に基づき(https://yoji.jitenon.jp/yojif/2860.html)、 被髪佯狂(ひはつようきょう)、 と、四字熟語にもなっているし、 狂人のふりをして俗世を避ける、 狂人を装って隠遁する、 意の、 佯狂避世、 という成語もあり(白水社中国語辞典)、今日、 阳(陽)狂、 と表記する(仝上)。 佯狂、 陽狂、 詳狂、 と当てる「佯」「陽」「詳」は、「偽」と同義だが、各字義の差は、 偽は、人為にて、天真にあらざるなり、いつわりこしらへたるなり、虚偽、詐偽と用ふ。「太子有淳古之風、而末世多偽、恐不了家事」(晉紀)、 詐は、詐欺と連用す、欺きだますこと、誠実の反なり。「巧詐不如拙誠」(説苑・貴徳)、 譎は、權詐なり、正しからず、詐謀を設けていつはるなり、すべて言行器服などのあやしく異様なるをいふ。 詭は、譎に同じくして、あやしくて正からざる義、詭巧、詭変と用ふ。「兵者詭道也」(孫子)、 佯・陽は、同音同義。内心は然らずして、うはべをいつはるなり。「箕子佯狂為奴」(史記)、 詳は、佯に同じ。後世は用いず、史記に佯狂を一本詳狂に作る、 矯は、よい加減に誣(し)いて(=強いて)いつはる、矯詔と用ふ。「矯誣上天」(書経)、 贋は、にせものなり、真の反。「魯以贋鼎往」(韓非子)、 などとある(字源)。 箕子の逸話は、「十八史略」に、 紂、有蘇氏を伐つ。有蘇、妲己(だっき)を以って女(めあ)はす。寵あり。其の言、皆從ふ。賦税を厚くし、以って鹿臺之財を實(み)て、鉅橋(倉庫)の粟を盈つ。沙丘の苑臺を廣め、酒を以って池と為す、肉を懸けて林と為し、長夜の飮を為す。百姓、怨望し、諸侯畔く者り。紂、乃ち刑辟を重くす。銅柱を為(つく)り、膏を以って之を塗り、炭火の上に加へ、罪有る者をして之に縁らしむ。足、滑かにして跌き火の中に墜つ。妲己と之を觀で大いに樂しむ。名づけて曰く炮烙の刑と。淫虐なること甚し。庶兄微子數しば諌むれども從はず。之を去る。比干、諌めて三日去らず。紂、怒りて曰く、吾聞く、聖人の心に、七竅(しちきょう 人の顔にある七つの穴)有りと。剖(さ)きて其の心を觀んと。箕子、佯狂して奴と為る。紂之を囚ふ。殷の大師其の樂器祭器を持ちて周に奔る云々、 とある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1359744118)。これを見ると、上記の、 剖比于觀其心、 の意味が分かる。 微子、 比干、 箕子、 は、 殷の三仁、 と言われていた。 「佯」(ヨウ)は、 形声。佯は「人+音符羊」で、外面の姿の意を含む。羊は音だけを示し、ここでは意味に関係がない、 とある(漢字源)。 「陽」(ヨウ)は、 会意兼形声。昜(ヨウ)は、太陽が輝いて高く上がるさまを示す会意文字。陽は「阝(阜=丘)+音符」で、明るい、はっきりしたの意を含む、 とある(漢字源)。別に、 台上に玉を置き、その光がさす様、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%99%BD)、 会意兼形声文字です(阝+昜)。「段のついた土山」の象形と「太陽が地上にあがる」象形から、丘の日のあたる側、「ひなた」を意味する「陽」という漢字が成り立ちました、 ともある(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji547.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 「名簿」は、 めいぼ、 と訓むと、 会員名簿、 のように、 該当した人々の姓名・住所などを記した帳簿、 の意であり(広辞苑)、 汝父納名簿於我、以獲克敵(日本外史)、 と、 名を書き連ねた帳簿(精選版日本国語大辞典)、 人の名前を書き載せたる帳面(字源)、 などの意である。これは漢語である。しかし、 みょうぶ、 と訓ませる(呉音)と、 名符、 とも当て、 罪軽応免、具注名簿、伏聴天裁……但名簿雖編本貫、正身不得入京(「続日本紀」宝亀元年(770)七月癸未)、 と、 古代・中世に、官途に就いたり、弟子として入門したり、家人(けにん)として従属したりする際主従関係が成立する時、服従・奉仕のあかしとして従者から主人へ奉呈される官位・姓名・年月日を記した書き付け(名札)、 の意で(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、 官位の請願・秘伝の授受などに際しても下位者から上位者へ差し出された、 とある(仝上)。また、 平安時代、貴族社会の風習として、貴人にはじめて会う際の礼として提出したり、弟子として師事する場合に提出したりした。また地方豪族の子弟らが京に上り、縁故をもとめて権門勢家に姓名を記して提出、主従関係を結ぶ慣習があった、 とあり、 平将門が藤原忠平に名簿を呈した(将門記)、 とか、 平忠常が源頼信に名簿を入れて降伏した(今昔物語集)、 とか、武士の間でもその風が行われている(世界大百科事典)とある。なお、武家の中では、所謂、代々主従関係を結んでいる譜代の家人(けにん)を中心とした直属の家人の他に、 名簿(みようぶ)を提出するのみのもの、 や、 一度だけの対面の儀式(見参の礼)で家人となったもの、 もあり、 家礼(けらい)、 と呼ばれて主人の命令に必ずしも従わなくてよい、服従の度合の弱い家人がある(仝上)、とされる。 「名簿」は、 名付(なづ)き、 名書(なぶみ)、 二字(にじ)、 名札(なふだ)、 などともいい、これを、 名簿を捧ぐ、 二字を奉る、 などといい(大言海)、 名刺、 と同じ(字源)ともある。 名刺、 は、 古者削竹木以書姓名、故曰刺、後以紙書、謂之名紙(畱青日札)、 と、 名帖、 名片、 と同じとある(字源)。また、 いかでかく仕(つかまつ)らではさぶらはんとて、名簿(みやうぶ)を書きてとらせたりければ、講師は、思かけぬなりといへば、けふよりのちは仕まつらんずればまゐらせ候なりとて(宇治拾遺物語)、 と、 あるのについて、 名簿を人に贈るのはその人に敬意を表する意である、 ともある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。因みに、 二字、 というのは、 人名は普通漢字二字で書かれる、 ところから、 実名、 または、 名告り(名乗りは当て字)、 の意味がある(岩波古語辞典)から、「名簿」と同義にいう。 「名」(漢音メイ、呉音ミョウ)は、 会意文字。「夕(三日月)+口」で、薄暗い闇の中で自分の存在を声で告げることを示す。よくわからないものを分からせる意を含む、 とある(漢字源)が、この、 会意。夕暮れ(「夕」)に呼ぶ「口」事から、 の藤堂(明保)説以外に、 神器(「口」)に肉(「夕」)を供え名付けの儀式を表わす、 とする白川(静)説がある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%8D)。しかし、みる限り、 会意。口と、夕(ゆうぐれ)とから成り、夕方の暗やみで、人に自分の名をなのることにより、「な」の意を表す(角川新字源)、 会意文字です(夕+口)。「月」の象形(「夜明け」の意味)と「口」の象形から、夜明けに雄の鳥が鳴く事を意味し、それが転じて(派生して、新しい意味が分かれ出て)、「な・なのる」を意味する「名」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji182.html)、 と、「夕+口」説が大勢であった。 「簿」(慣用ボ、漢音ホ・ハク、呉音ブ・バク)は、 会意兼形声。甫(ホ・フ)は、平らな苗床をあらわす会意文字。溥(ホ)は水が平らにひろがること。簿は「竹+音符溥」で、薄い竹札や帳面。竹冠は、昔、竹に文面を書いていたために添えたもの、 とある(漢字源・角川新字源)。別に、 形声。竹と、音符溥(ホ)とから成る。帳簿の意を表す。会意兼形声文字です(竹+溥)。「竹」の象形と「流れる水の象形と糸巻きを手で巻きつける象形」(「水があまねくに広がる」の意味)から、「竹を薄く削って作った冊子(ノート)」を意味する「簿」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1764.html)。 「符」(漢音フ、呉音ブ)は、 会意兼形声。付は「人+寸(手)」の会意文字で、手が相手のからだにぴたりとくっつくことをあらわす。符は「竹+音符付」で、両片がぴたりとくっつく竹の割符、 とある(漢字源)。「神府」「護身符」のように「ふだ」の意もある。別に、 会意兼形声文字です(竹+付)。「竹」の象形と「横から見た人の象形と右手の手首に親指をあて脈をはかる象形」(「つける」の意味)から、両方を付け合わせて証拠とする竹製の「わりふ」を意味する「符」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1703.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 太刀をもえ差しあへず、腋にはさみてにぐるを、けやけきやつかなといひて、走(はしり)かかりてくるもの、はじめのよりは走のとくおぼえければ(宇治拾遺物語)、 とある、 けやけし、 は、 殊勝な奴、 生意気な奴、 と矛盾した意味が載る(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。「けやけし」は、 尤(けや)けし、 異(けや)けし、 などと当てる(大言海)。漢語に、 治行尤異なるを以て、中二千石に秩す(漢書・宣帝紀)、 とあり、 尤異(ユウイ)、 は、 特にすぐれる、 また、 特に珍奇なもの、 の意とある(字源・字通)。この字を「けやけし」に当てた理由かと思われる。 「けやけし」は、 ケ(異)に接尾語ヤカがついたケヤカの形容詞形。アキラカ・アキラケシの類。変わっているさまである、特別だ、すぐれているの意(岩波古語辞典)、 ケヤカを転じて(赤(アケ)、あか。宅(やけ)、やか)活用せしめし語。静やか、しずやけしもあり(大言海)、 とあり、色葉字類抄(1177〜81)に、 尤、けやけし、尤物(ゆうぶつ)、 とある。「尤物(ゆうぶつ)」は、 夫有尤物足以移人(左伝) 尤は異なり、人の最も優れたる者、後世には美女の義とす、 とある(字源)。 変わっている→際立っている→特別だ→すぐれている、 といった意味の外延は、 奇(く)し、異(け)しの語根、 である、 ケ(異)、 の意味の幅の、 妹が手を取石(とろし)の池の波の間ゆ鳥が音けに鳴く秋過ぎぬらし(万葉集)、 と、 普通と異なるさま、 いつもと変わっているさま、 の意や、 ありしよりけに恋しくのみおぼえければ(伊勢物語)、 と、 ある基準となるものと比べて、程度がはなはだしいさま。きわだっているさま、格別なさま、 の意で、 多く、連用形「けに」の形で、特に、一段と、とりわけ、 などの意で用いられるし、 御かたちのいみじうにほひやかに、うつくしげなるさまは、からなでしこの咲ける盛りを見んよりもけなるに(夜の寝覚)、 と、 能力、心ばえ、様子などが特にすぐれているさま、ほめるべきさま、興の惹かれるさま、 の意(日本国語大辞典・岩波古語辞典)を色濃く反映しており、 末代には、けやけきいのちもちて侍る翁なりかし(大鏡)、 と、 特別だ、希有だ、 という意から、 めざましかるべき際(きは)はけやけうなども覚えけれ(源氏物語)、 と、 風変わりだ、異様だ、変わっている、 意や、 貫之召し出でて歌つかうまつらしめ給へり。…それをだにけやけきことに思ひ給へしに(大鏡)、 と、 きわだってすぐれている、すばらしい、 意でも使う。ちょっと解釈がぶれているのが、上述の、 太刀をもえ差しあへず、腋にはさみてにぐるを、けやけきやつかなといひて、走(はしり)かかりてくるもの、はじめのよりは走のとくおぼえければ(宇治拾遺物語)、 の「けやけき」の意味で、前述注記(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)では、 殊勝な奴、生意気な奴、 の意とされたが、 はなはだ優れている、すごい、 の意の例とされている説(岩波古語辞典)もあり、逆に、同趣旨の、 生意気である、しゃくにさわる。 とするものもある(https://manapedia.jp/text/5612)。価値の両面なので、 すぐれている⇔しゃくにさわる、 きわだってすぐれている⇔生意気だ、 と背反する意味と見ていいのかもしれない。さらに、 人の言ふほどのことけやけく否びがたくて、万(よろづ)え言ひ放たず(徒然草)、 と、 非常にはっきりしているさま、 つまり、 きっぱりと、 の意でも使う(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。「けやけし」は、江戸時代には、 近曾(ちかごろ)身上やけやけくなるかと見えしに、いく短く程もなく凋落(おちぶれ)て(新累解脱物語)、 いとけやけき僧の香染(かうぞめ)の浄衣(ころも)を穿き(古乃花双紙)、 などと、 高貴である、 意で使われている(江戸語大辞典)。 (「けやけし」は)平安中期以前に見られる「……けし」という語は、「けく・けし・けき」の三形式にしか活用しない。後に「……かに」「……かなり」に取ってかわられ……歌ことばとして残っているに過ぎない、 とある(日本語源大辞典)のは、如何なものだろうか。 因みに、「けやけし」は、ク活用で、 未然形 けやけく けやけから 連用形 けやけく けやけかり 終止形 けやけし ◯ 連体形 けやけき けやけかる 已然形 けやけけれ ◯ 命令形 ◯ けやけかれ と変化する(https://manapedia.jp/text/5612)。ク活用は、文語形容詞の活用の型の一つで、 「よし」「高し」などのように、語尾が終止形の「し」にあたる部分で「く・き・けれ」のように変化する、 もので、この活用に属する形容詞の多くは、客観的な性質や状態的な属性概念を表わす。「赤し・おもしろし・清し・けだかし・少なし・高し・強し・遠し・のどけし・はかなし・広し・めでたし」などがあり、現代語では、終止形・連体形とも活用語尾は「い」となる(精選版日本国語大辞典)、とある。 「尤」(漢音ユウ、呉音ウ)は、 会意文字。「手のひじ+−印」で、手のある部分に、いぼやおできなど、思わぬ事故の生じたことを示す。災いや失敗が起こること。肬(ユウ こぶ)・疣(ユウ いぼ)の原字。特異の意から転じて、とりわけ目立つ意となる、 とあり(漢字源)、「尤(とが)める」意であるが、目立つ意から、「尤者(ユウシャ ユウナルモノ)」「尤物(ユウブツ すぐれたもの)」と使う。我が国で、「君の言うことは尤もだ」という意の「もっとも」で使うのは、「尤」の字義からは出てこない。むしろ「けやけし」に「尤けし」と当てた使い方の方が、字義に叶っている。別に、 象形。手の指にいぼができている形にかたどる。いぼの意を表す。「肬(イウ)」の原字。ひいて、突出している意に用いる(角川新字源)、 指事文字です。「手の先端に一線を付けてた文字」から、「異変(異常な現象)としてとがめる」を意味する「尤」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2423.html)、 という解釈もある。 「異」(イ)は、 会意文字。「大きなざる、または頭+両手を出したからだ」で、一本の手のほか、もう一本の別の手をそえて物を持つさま。同一ではなく、別にもう一つとの意、 とある(漢字源)が、別に、 象形文字。鬼の面をかぶって両手を挙げた形(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%95%B0)、 象形。人が大きな仮面をかぶって立っているさまにかたどる。神に扮する人、ひいて、常人と「ことなる」、また、「あやしい」意を表す(角川新字源)、 象形文字です。「人が鬼を追い払う際にかぶる面をつけて両手をあげている」象形で、それをかぶると恐ろしい別人になる事から、「ことなる」、「普通でない」を意味する「異」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji972.html)、 等々異説が多い。「異類」「異端」と、同じではない意、「異邦」「異日」と、別の意、「異様」と、異なる、あやしい意、「変異」「天変地異」と、常、正の対、普通とは異なる意などで使う。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「ののめく」は、 喧く、 呼く、 等々と当て(大言海)、 見る人皆ののめき感じ、あるひは泣きけり(宇治拾遺物語)、 将軍こそ御船に被召て落ちさせ給へと、ののめき立って、取る物も取り不敢(太平記)、 などと、 声高に呼び騒ぐ、 ののしり騒ぐ、 わいわい言う、 声高に呼ぶ、 わめく、 ののしる、 等々の意味になる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 「めく」は接尾語、 で、名詞・形容詞語幹・副詞について四段活用の動詞をつくり、 春めく、 今めく、 しぐれめく なまめく、 というように、 本当に……らしい様子を示す、 本当の姿を最もよく示す、 そういう感じがはっきりする、 といった意味や、 親めく、 なまめく、 罪人めく、 わざとめく、 というように、 一見……らしく見える姿を示す、 意や、 擬音語・擬態語について、 そよめく、 ざわめく、 きらめく、 ひしめく、 というように、 ……の音を立てる、 ……という動作をする、 そのような状態になる、 という意味を表す(岩波古語辞典)。 「ののめく」は、 ののしる、 と同根とある(仝上)。 「訇る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485476446.html)で触れたように、「ののしる」は、 ノノは大音・大声を立てる意。シルは思うままにする意。類義語サワグは、音・声と動きが一所に起こる意、 とある(岩波古語辞典)。平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)に、 聒、喧語也、左和久、又乃乃志留、 (「聒」(カツ)は、「やかましい」意であり、「喧」(ケン)は、「喧嘩」「喧噪」の「喧」であり、「やかましい」「さわがしい」意である)、色葉字類抄(1177〜81)には、 訇、ノノシル、𨋽訇、ノノシル、大声也、 とあり、「ののしる」は、 ノノ(騒がしい音を立てる)+シル(占有する)(日本語源広辞典)、 ノノは大音・大声を立てる意。シルは思うままにする意(岩波古語辞典)、 と、「のの」は 擬声(音)語、 である。ただ、 罵(の)る、 という言葉があり、これは、 宣(の)る、 告(の)る、 の転化したものとされる(大言海)。この、 のる、 の、 の、 は、「のる」が、 神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に対して正式に表明するのが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さない、みだりに口にすべきでない事柄(占いの結果や自分の名など)を、神や他人に対して明かし言う義。進んでは、相手に対して悪意を大声で言う義(岩波古語辞典)、 本来、単に口に出して言う意ではなく、呪力をもった発言、ふつうは言ってはならないことを口にする意。ノロフ(呪)の語もこの語から派生したもの(日本語源大辞典)、 などという意であったことから考えると、単なる、 騒音、 ではなく、 聖なる声(音)、 だったのかもしれない。それが、 聖→俗→邪(穢)、 と転化したのかもしれない。 「喧」(漢音ケン、呉音コン)は、 形声。「口+音符宣(セン・ケン)」。口々にしゃべる意。歡(歓 口々に喜ぶ)とも縁が近い、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(口+宣)。「口」の象形と「屋根・家屋の象形と、物が旋回する象形(「めぐりわたる」の意味)」(部屋で、天子が家来に自分の意思をのべ、ゆきわたらせる事から、「のべる」、「広める」の意味)から、「大声で述べる・広める」事を意味し、そこから、「やかましい、うるさい」を意味する「喧」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2396.html)。 「呼」(漢音コ、呉音ク)は、 会意兼形声。乎は、息が下から上へ伸びて、八型に分散するさま。呼は「口+音符乎」。乎・呼は同系だが、乎が文末の語気詞に専用されたため、呼の字で、その原義を示すようになった、 とある(漢字源)。別に、 息をはく意を表す。借りて、大声で「よぶ」意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意形声。「口」+音符「乎」、「乎」は気が上がってきて、のどで支えその上で散じることを象る。「乎」が感嘆の助詞等に用いられるようになったため、「口」をつけ原義を意味した、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%BC)、 会意兼形声文字です(口+乎)。「口」の象形と「舌の象形と人を呼ぶ合図に吹く小さな笛の象形」(「よぶ」の意味)から、「よぶ」を意味する「呼」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji976.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) つゆ計りも人に物をあたふる事をせず、慳貪に罪深くみえければ(宇治拾遺物語)、 慳貪の心深くして…物を悋しむこと限り無し(今昔物語集)、 とある、 慳貪(けんどん)、 は、 正韻(洪武正韻 1375年)「慳、音堅」、廣韻((1008年))「悋(ヲシム)也」、 とあり(大言海)、 己が物を慳(ヲシ)み、他の物を貪ること(仝上)、 つまり、 物を惜しみむさぼること、けちで欲ばりなこと、 の意である(広辞苑)。 慳貪愚痴にして、家内の者に情(つれ)なくあたりけるが(善悪報ばなし)、 と使う、 慳貪愚痴、 は、仏教語で、 貪欲で無慈悲冷酷で物の道理を知らぬこと、 の意とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、あるいは、 文覚が持つ所の刀は、人を切らんとにはあらず、放逸邪見の鬼神を切り、慳貪無道の魔縁を払はんとなるべし(源平盛衰記)、 と、 慳貪無道、 等々とも使う(精選版日本国語大辞典)。で、転じて、 慳貪邪心にして、先祖の弔ひをだにもなさず(仝上)、 と、 慳貪邪心、 と使い、 苛(かじ)きこと、 情愛なきこと、 じゃけん の意となる(大言海・日本国語大辞典)。江戸時代には、 おいらんがわたくしをアノよふにけんどんになさいますから(廻覧奇談深淵情)、 と、 つっけんどん(突慳貪)、 の意で使う(江戸語大辞典)。 「慳貪」は、「二八蕎麦」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479200852.html)で触れたように、 倹飩、 とも当てて、 江戸時代、蕎麦、饂飩、飯、酒などを売るとき、一杯盛り切りにしたもの、 を言い(広辞苑)、 けんどん饂飩、 けんどん蕎麦切(略して、けんどん蕎麦)、 等々と使ったが、 汁にて煮たる饂飩を、塗箱に、一杯盛切(もりきり)にて賣るもの、蕎麦切にも云ふ。初は下民の食なりき、後には、歴々も食ひ、大名けんどんなど云へり。これを賣る家をけんどん屋と云ふ。移りては、一杯盛切にて賣る物の称ともなれり、 とあり(大言海)、 けんどん酒、 けんどん奈良茶飯、 などあり、 けんどん屋、 も、 慳貪の名前に云如く強ひざるの意を表し始め蕎麦に号け次に飯に移り又酒に移り(「守貞謾稿(1837〜53)」)、 と、 うどん、そば、酒、飯などを売る時、一杯ずつの盛りきりで、代わりを出さない、 ものを総称するようになる(精選版日本国語大辞典・江戸語大辞典)。 或書云寛文四年慳貪蕎麦切始て製之。下賤の食とす(守貞謾稿)、 とあるのは、「昔昔昔昔物語(1732)」に、 寛文辰年(1664)、けんどん蕎麦切と云ふ物出来て、下下買喰ふ、貴人には喰ふものなかりしが、近年、歴歴の衆も喰ふ、結構なる座敷へ上るとて、大名けんどんと云ひて、拵へ出す、 とあるのを指し、嬉遊笑覧(1830)には、 大名けんどんと云ふは、一代男に、川口屋の帆かけ舟の重箱、……帆かけ舟は、諸大名の舟を、五色の漆にて絵にかきたるなり、西国の大名、難波にて艤して出立つ故、其船どもの相印を見習へり、大名けんどんの名、ここに起こる、 とある。「けんどん」の由来については、 倹約饂飩の略にて一人前一杯にて、かはりもなき意と云ふ、和訓栞「旅店の麺類を云ふは、倹飩也と云へり」、多くは當字に、慳貪と書く(大言海)、 給仕も入らず、挨拶するものもあらねば、そのさま慳貪なる心、又、無造作にして、倹約にかなひたりとて、倹飩と書くと云ふ(「近代世事談(1734)」)、 盛りきりで出すという吝嗇なところから、ケンドン(慳貪)の義(守貞謾稿・嬉遊笑覧)、 盛りきりのうどんは、オントウ(穏当)でなくケンドン(慳貪)であるという洒落から、オントウ(穏当)は昔の音の近いウンドン(饂飩)の意をかけた(善庵随筆)、 ケントン(見頓)の義。頓は食の意で見る間にできる食事の義(けんどん争ひ所収山崎美成説)、 箱に入れてところどころに持ち出せるものの意で、けんどん(巻飩)の義。書籍に似たその容器を書巻に擬しての古称(けんどん争ひ滝沢馬琴説)、 等々があるが、「慳貪」の意味に、出発点の、 倹約饂飩、 をかけたとする説が一番すっきりする。考え落ちは過ぎると語呂合わせになる。 ただ、「けんどん」には、 外に持運ぶに膳を入る箱はけんどん箱なるをやがてけんとんとばかりいひ(嬉遊笑覧)、 と、 けんどんばこ(慳貪箱)」の略、 としても使うが、「けんどん箱」とは、 上下左右に溝があって、蓋または戸(扉)のはめはずしができるようにしたもの、 の意で(江戸語大辞典)、 此箱、口は横にありて、上下に、一本溝あり、板の蓋を、先づ、上の溝にはめて、後に下の溝におとすやうにして、はめはづしす、これを、けんどん蓋と云ひ、略して、けんどんとのみも云ひ、移しては、小さき袋戸棚、又は、本箱などの戸の、同じ製なるものにも云ふ、 とある(大言海)。つまり、出前用の岡持ちのふたが、 けんどん、 になっていることから「けんどん箱」とも呼ぶようである。蕎麦屋・うどん屋のことを「けんどん屋」と呼ぶのは、この「けんどん」に由来するとする説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B9%E9%A3%A9)。上記「けんどん」の語源説で、 けんどん争ひ、 とあるのは、 山崎美成・曲亭馬琴らが関わっていた好事家の集まり「耽奇会」に出品された「大名けんどん」(装飾を施した豪華なけんどん箱)という道具の「けんどん(箱)」の名称の由来をめぐっての美成と馬琴の論争、 を指す(仝上)。美成は、 かつて「けんどん屋」と呼ばれる接客の簡易な(「つっけんどん」な)形態の外食店が存在し(論争時点では名称が廃れていた)、そこから盛り切り蕎麦を「けんどんそば」と呼ぶようになり、「けんどんそば」を運搬する箱を「けんどん箱」と呼ぶようになった、 と主張し、馬琴は、 箱のほうを「けんどん」と称したのが先である、 と主張した(仝上)。「けんどん」が、 盛り切りうどん、 を指したのだとすれば、普通に考えれば、食い物から出たと考えられるが、「岡持ち」の箱の構造を「けんどん」というにいたった説明にまでは届かないのではないか。「けんどん蓋」も、 蝶番などの金具を使わず簡易に開閉できる構造、 からきた(https://wp1.fuchu.jp/~kagu/search/regist_ys.cgi?mode=enter&id=204)とされる。いずれも、 慳貪、 という言葉からきている。個人的には、それぞれ、別由来のような気がしてならない。 「慳」(漢音カン、呉音ケン)は、 会意兼形声。「心+音符堅(かたい)」で、心が妙にひめくれて堅いこと、 とあり(漢字源)、「慳吝」と、けちけちする意、あるいはいこじな意味はあるが、 邪慳、 というような、いじわる、の意はこの字にはない。 「貪」(漢音タン、呉音トン、慣用ドン)は、 会意文字。今は「ふたで囲んで押さえたしるし+−印」の会意文字で、物を封じ込めるさまを示す。貪は「貝+今」で、財貨を奥深くため込むことをあらわす、 とある(漢字源)。財貨を欲ばる意(角川新字源)ともある。別に、 会意文字です(今+貝)。「ある物をすっぽり覆い含む」象形(「含」の一部で、「含む」の意味)と「子安貝(貨幣)」の象形から「金品を含み込む」、「むさぼる」、「欲張る」、「欲張り」を意味する「貪」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2202.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 李直(すゑなほ)少将といふ人ありけり。病みつきてのち、すこしおこたりて、内(うち 内裏)にまゐりたり(宇治拾遺物語)、 とある おこたる、 は、 病勢が衰えて、 の意とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。「おこたる」は、 怠る、 惰る、 慢る、 などと当てるほか、 堕、 嬾、 懈、 懶、 等々かなりの数の漢字に当てる(https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1836)。類聚名義抄(11〜12世紀)には、 為すべき業を為(せ)ず、怠ける、 の意の、 怠、惰、慢、懈、オコタル、 があり、さらに、 油断して過つ、 意、 でも、 過、オコタル、 とある(大言海)。「おこたる」は、 オコはオコナフ(行)のオコと同根。儀式や勤行(ごんぎやう)など、同じ形式や調子で進行する行為。タルは垂る、中途で低下する意。オコタルは同じ調子で進む、その調子が落ちる意、 とあり(岩波古語辞典)、故に、 休む、なまける、が基本の意だが、これはある状態で進行していたものがとまることで、そこから病気がよくなる、の意も生まれてくる、 とあり(全文全訳古語辞典)、大きく二つの用法があるようである。ひとつは、 他動詞ラ行四段、 で、 をかしき物は、日毎におこたらず君達に、まめなるものは北の方にと夜中暁にも運び奉り給へば(落窪物語)、 と、 しなくてはならない事をしないで、なまける、 精を出さないでいる、 意と、 今よりは疎からず、あなたなどにも物し給て、をこたらんことは、おどろかしなども物し給はんなん、嬉しかるべき(源氏物語)、 と、 油断する、 注意を払わないでいる、 意と、 身づからおこたると思ひ給ふる事侍らねど、さるべき身の罪にてかくあさましきめを見侍れば(栄花物語)、 と、 いい加減にして、過失をおかす、 あやまりをおかす、 意であり、いまひとつは、 自動詞ラ行四段、 で、 御迎への人々まゐりて、をこたり給へるよろこび聞こえ、内裏(うち)よりも御とぶらひあり(源氏物語)、 日ごろ、月ごろ、しるき事ありて悩みわたるが怠りぬるもうれし(枕草子)、 などと、 病気がよくなる、 病気や苦しみがなおる、 意と、 夕には深山に向って宝号を唱ふるに、感応おこたる事なし(平家物語)、 と、 事態がもとにもどる、 事態がおさまる、 意で使う(日本国語大辞典)。ただ、自動詞の用法は、 他動詞の転義で、現代にはない用法、 とあり、他動詞は、 …をおこたる、 の形をもとるが、自動詞にはその用法がない。自動詞、他動詞を通じ、「おこたる」べき内容、対象が明示されない場合が多い、とある(仝上)。 「おこたる」の由来は、 オコタル(起垂)義で、たゆむ意か(和訓栞・大言海・日本語源広辞典)、 興垂の義か。タルはタユと、興は行と義通う(俚言集覧)、 オコナヒタユル(行絶)の義(名言通)、 ヲコ(自来)タエルの略(紫門和語類集)、 オコナル(行撓)の転(言元梯)、 オクルル(後)に通う(国語の語根とその分類=大島正健)、 ヲコはヲカコトの反。タルは為ス義(名語記)、 オソナル(遅成)の転か〔和語私臆鈔〕 寝入ってオクル(起)事、たるむ故からか(和句解)、 等々諸説あるが、上述の、 オコはオコナフ(行)のオコと同根。儀式や勤行(ごんぎやう)など、同じ形式や調子で進行する行為。タルは垂る、中途で低下する意。オコタルは同じ調子で進む、その調子が落ちる、 とする説(岩波古語辞典)に説得力がある気がする。因みに、「おこなふ(行)」は、 オコはオコタル(怠)のオコと同根。儀式や勤行(ごんぎやう)など、同じ形式や調子で進行する行為。ナフは、アキナフ(商)、ツミナフ(罪)などのナフに同じ、 とある(岩波古語辞典)。「ナフ」は、名詞を承けて四段活用の動詞をつくり、 行う意の接尾語、ウラナフ・トモナフ・ウベナフ・トキナフのナフの類、 とあり、「たる(垂)」は、 自分で自分を支える力をなくして、下方へだらりと伸びている、またその先が切れて下に落ちる、 とある(仝上)。意味として、 行くのをやめる、 という語意になろうか。だから、 したたる、 垂れ下がる、 意の他に、 歩び極(ごう)じてただたりにたりゐたるを(今昔物語)、 と、 力を落としてぐったりする、 つかれる、 意でも使う。 ところで「おこたる」には、同訓異字が多い。その差を、漢字では、 怠(タイ)は、心のたるむこと、心にしまりがなくだらけ、なすべきことをせずなまける義。「怠慢」と連用す、敬の反なり、「怠業」「怠惰」「怠慢」「倦怠」など、 解(カイ)は、勤の反、精をださぬなり、又じだらくなり、夙夜匪(非)解、以事一人(詩経)、 懈(ケ・カイ)は、解に同じ、緊張が解けておこたる、心がたるむ、 惰(ダ)は、懈に同じ、心がゆるんでやる気がおこらない、意欲がわかずなるがままにすごす義、臨祭不精(曲禮)、「惰気」「惰眠」「怠惰」など、 慢(マン)は、心ゆるみてなまける、心が散っておろそかにする義、偸慢懈怠多暇日(説苑)、「怠慢」など、 嬾(ラン)は、仕事をそのままほうっておく、ものぐさをする、「嬾婦」など、 懶(ラン)は、気持が集中しない、ものうい、やる気がおこらない。「懶惰」「懶婦」「老懶」など、 堕(ダ)は、心がゆるんで何もしない。だらしなくすごす。「堕落」「怠堕」など、 等々とある(日本国語大辞典・字源)。 「怠」(漢音タイ、呉音ダイ)は、 会意兼形声。台(タイ)は、人工を加えて、和らげる意を含む。怠は「心+音符台」で、人が緊張を和らげ、心をたるませること。怡(イ 心を和らげで喜ぶ)も「心+音符台(イ)」からなるが、怠とは異なる、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(台+心)。「農具:すきの象形と口の象形」(「大地にすきを入れてやわらかくする」意味だが、ここでは「止」に通じ(「止」と同じ意味を持つようになって)、「とどまる」の意味)と「心臓」の象形から、心がとどまる事を意味し、そこから、「おこたる」、「なまける(怠惰)」、「あなどる」を意味する「怠」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1578.html)。 「惰」(漢音ダ、呉音タ)は、 会意兼形声。墮(堕ダ 落ちる)の原字は、「左印二つ(不整合なこと)+阜(おか)」からなり、丘が崩れ落ちることを示す。惰は、「心+音符墮の略体」で、緊張を抜いてだらりと落ちるような気持ちを示す、 とある(漢字源)が、別に、 会意形声。心と、隋(ダ くずれる)とから成り、かろんじる、あなどる、ひいて、なまけおこたる意を表す。常用漢字は省略形の俗字による(角川新字源)、 会意兼形声文字です(忄(心)+隋の省略形)。「心臓」の象形と「左手の象形と工具の象形と切った肉の象形」(「緊張がとけてくずれる」の意味)から、心の緊張が解けて慎みがない事を意味し、そこから「おこたる」、「なまける」を意味する「惰」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1705.html)、 等々ともある。 「慢」(慣用マン、漢音バン、呉音メン)は、 会意兼形声。曼(マン)とは、目を覆い隠すさま。長々とかぶさって広がる意を含む。慢は「心+音符曼」で、ずるずるとだらけて延びる心のこと、 とある(漢字源)。別に、 会意形声。「心」+音符「曼」。『曼』は「冒」+「又(=手)」で、だらりとした長い布で顔を覆う様。心がだらりとして緊張しておらず、動きが「おそい」こと(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%85%A2)、 形声。心と、音符曼(バン、マン)とから成る。「あなどる」意を表す(角川新字源)、 会意兼形声文字です(忄(心)+曼)。「心臓」の象形と「帽子の象形と目の象形と両手の象形」(目の上下に手をあてて目を切れ長にみせるような化粧のさまから、擬態語として「とおい・長い」の意味)から、心がのびたるんで「おこたる」を意味する「慢」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1265.html)、 等々ともある。 「嬾」(ラン)は、 会意兼形声。頼(ライ)は、きっぱりと自分で処理せずにずるずると引き延ばすこと。また、他人に頼ること。嬾は「女+音符頼」で、女性がだらだらと物事を延引するさま、きっぱりとしまりをつけないこと、 とある(漢字源)。「嬾惰(らんだ)」と使う。 「懈」(漢音カイ、呉音ケ、慣用ゲ)は、 会意兼形声。解(カイ)は、ばらばらに解き放すこと。懈は「心+音符解」で、心の緊張がとけてだらけること、 とある(漢字源)。「懈怠(カイタイ)」「怠懈(タイカイ)」などと使う。 「懶」(ラン・ライ)は、 会意兼形声。頼の本字は「人+貝+音符剌(ラツ もとる)からなり、ずるずると負債を押し付けること。懶(ラン)は「心+音符頼」で、他人任せの、物憂い気持ちのこと、 とある(漢字源)。「放懶(ホウラン)」「老懶(ロウラン)」と使う。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) こころばせある人だにも、物につまづき倒るることは、常の事也(宇治拾遺物語)、 とある、 こころばせ、 は、 思慮ある人、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。「こころばせ」は、 心馳(せ)、 と当て、 「心馳せ」の意、活動的な気持ちを、さっと外にはしらせること。また、その走らせ方によって、感じとられる、その人の気立て(岩波古語辞典)、 心馳の義、心の動く状を云ふ、こころざしに同じ。類推して、顔様(かほばせ)、腰支(こしばせ)など云ふ語あり、かほつき、こしつきにて、こころばせも、こころつきなり(大言海)、 などとあり、色葉字類抄(1177〜81)にも、 志操、ココロバセ、 ともある。「はせ」の「はす」は、 馳す、 と当て、 ハシル(走)と同根、 とある。たしかに、「かほ(顔)ばせ」は、 ハセはココロバセ・コシバセのハセに同じ、 で、 顔の印象、顔つき、 であり(岩波古語辞典)、和名類聚抄(平安中期)には、 顔面、面子、加保渡世(かほばせ)、加保都岐、 とあり、「こし(腰)ばせ」も、 ハセはココロバセ・コシバセのハセに同じ、さっと示す動きによって感じられる印象、 で、 腰つき、 の意となり(仝上)、和名類聚抄(平安中期)に、 遊仙窟(中国唐代の伝奇小説)……細細腰支、古之波勢(こしはせ)、 とあり、これは遊仙窟(醍醐寺本・鎌倉期点)に、 細細腰支(こしはせ)、とあり、古今集註に、 舞のこしはせは柳の糸の如くたをやかであるべし、 とあるのと重なる。字典(康熙字典)に、 支、與肢通、 ともある。 「こころばせ」は、 心の動く状態、 をいうのだから、 乳母のいとさし過ぐしたるこころばせの余り、おいらかに渡さむを、便なし、などは言はで、心にまかせ、率(ゐ)てはふらかしつるなめり(源氏物語)、 と、 気をきかせること、 機転、 の意や、 色におはしますなれば、こころばせあらむ(仝上)、 と、 気持の素早い動き、 よく気がつくこと、 の意や、 こころばせまことにゆゑありと見えぬべく、うち読み、走り書き、掻いひく爪音、手つき口つき皆たどたどしからず(仝上)、 と、 さっと気持ちの働くような教養、素養、 の意と、 さまかたちなどのめでたかりしこと、こころばせのなだらかに目やすく憎みがたかりしことなど(仝上)、 と、 気立て、 の意と、あきらかに目に見える心の動きを指している、と思われる。「こころばせ」と似た言葉に、 こころばえ、 がある。「心ばえ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html)は、 心延(へ)、 と当て、 「ばえ」は心の働きを外部に及ぼすことの意(デジタル大辞泉)、 「はえ」は、動詞「はえる(延)」の名詞化で、くりのべることの意。心の働きを外部におし及ぼすことをいう(日本国語大辞典)、 「心延へ」の意、辺りにただよわせて、何かの形で現わしている様子から察せられる気持ち、本性、または趣向、心構えなど(岩波古語辞典)、 などとあり、 外に伸ばすこと。つまり、心のはたらきを外におしおよぼしていくこと、 なのだが、その、 心の働き延ぶる意、 を、万葉集の、 さ百合花後(ゆり)も逢はむと下延(は)ふる心しなくは今日(けふ)も経(へ)めやも(大伴家持) の、 下延(したは)ふる、 の、 心の中でひそかに思う。 含意とする(大言海)。「こころばせ」が、 現に働いている心の動き、 とするなら、「こころばえ」は、その、 心の中の構え、 を指していると思われる。 心の状態が、外へ広がっている、写し出されている、 というニュアンスで、そこから、 ある対象を気づかう「思いやり」 や、 性格が外に表れた「気立て」 の意となる。 なお、「こころ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/454373563.html)については触れた。 「心」(シン)は、 象形、心臓を描いたもの。それをシンというのは、沁(シン しみわたる)・滲(シン しみわたる)・浸(シン しみわたる)などと同系で、血液を細い血管のすみずみまで、しみわたらせる心臓の働きに着目したもの、 とある(漢字源)。別に、 象形。心臓の形にかたどる。古代人は、人間の知・情・意、また、一部の行いなどは、身体の深所にあって細かに鼓動する心臓の作用だと考えた、 ともある(角川新字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「憤る」は、 いきどおる、 と訓ませるが、 守殿(かうのとの)、など人々まゐり物はおそきとて、むづかる(宇治拾遺物語)、 と、 むづかる(むずかる)、 と訓ませ、 近世末までは、むつかる、 と清音とあり(大辞林)、 叱る、 意とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)が、 心知れる人々は、あな憎、例の御癖ぞ、と見たてまつりむつかるめり(源氏物語)、 などと、 不機嫌で小言や文句を言う、 機嫌をわるくする、 ぶつぶつ文句を言う、 の意とあり(岩波古語辞典・広辞苑)、さらに、 鬱悶(むつか)しく思ひて憤(いきどお)る、 心の中にいきどほる、 むかつく、 とある(大言海)のが正確なのではあるまいか。また、 若君の泣き給へば例はかくもむつからぬに、いかなればかからん(大鏡)、 と、 子どもがただをこねる、 子供がじれて泣く、 すねてさからう、 意でも使う。これは、現代でも、 むずかる赤ん坊、 赤ん坊がむずかる、 等々と使い、 京阪では現在まで「むつかる」だが、東京では「むずかる」、 とある(日本国語大辞典)。また、 渋面をつくる、 にがむ、 意でも使う(大言海)ともある。 「むづかる」は、色葉字類抄(1177〜81)に、 憤、ムツカシ、ムツカル、 とあるように、 ムツク、ムツカシと同根、 である(岩波古語辞典・大辞泉)。 「むつく」(口語では「むつ(憤)ける」)は、 憤く、 と当て、 俗にむづく、 とあり(大言海)、 明神、御気色まことにすさまじげにむつけたる体におはしければ(雑談集)、 と、 不満に思う、 気にくわないと思う、 意と、 醒き風吹かよひ、人の身にあたるといなや、むつける程に草臥つきて(武家義理物語)、 と、 健康を損ねる、 気分がすぐれず衰弱する、 意でも使う(日葡辞書「ムツクル」)。 「むつかし」(「むづかし」、口語は「むつかしい」「むずかしい」)は、 難し、 と当て、 大方いとむつかしき御気色にて(源氏物語)、 と、 不機嫌である、 意や、 女君は、暑くむつかしとて、御髪(みぐし)すまして(仝上)、 と、 うっとおしい、 意や、 手にきり付きて、いとむつかしきものぞかし(堤中納言物語) と、 気味が悪い、 いやな感じだ、 見苦しい、 意や、 暮ゆくに客人(まらうど)は帰り給はず、姫君いとむつかしとおぼす(源氏物語)、 と、 厄介だ、 うるさくて応対が面倒、 の意や、さらに、 山伏という前句(は、付句わするのが)むつかし(俳句・昼網)、 と、 困難である、 という意でも使うが、これは、上記の用例から、転じて、 煩わしく入りまざりて解き得難し、 成就しがたし、 の意になったもの(大言海)と見られる。その意味で、 (後白河)法皇夜前より又むつかしくおはします(明月記)、 と、 重態である、 意も、そうした意味の転化の一環と思われる。だから、「むつかし」は、 憤(むづか)るより転じた(大言海・瓦礫雜考・和訓栞・上方語源辞典=前田勇・日本語の年輪=大野晋)、 と見る見方は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 憤懣、むつかし、 とあることからも妥当に思える。しかし、「むづかる」の語源を、 ムヅムヅと気に障って憤る意(国語の語根とその分類=大島正健)、 と、擬態語とみる説がある。ただ、表記が、 むずむず、 で、「むづむづ」でないことや、 かぶと引き寄せうち着て、緒をむずむずと結ひ(平治物語)、 と、 ぐいぐいと力をいれるさま、 の意や、 堀河の板にて桟敷を外よりむずむずと打ちつけてけり(愚管抄)、 と、 遠慮会釈ないさま、 の意で使い(岩波古語辞典)、現代の、 あっと言わせてやりたくて、むずむず身悶えしていた(太宰治「清貧譚」)、 と、 今すぐやりたいことがあるのに、それが出来なくてもどかしく思う、 意や、 汗でむずむずするのと蚤が這ってむずむずするのは(夏目漱石「吾輩は猫である」)、 と、 虫などが這いまわるような刺激を感じる、 意のような、 不快感、 の意はない(擬音語・擬態語辞典)のが難点。 「憤」(漢音フン、呉音ブン)は、 会意兼形声。奔(ホン)は「人+止(あし)三つ」の会意文字で、人がぱっと足で走り出すさま。賁(フン)は「貝(かい)+音符奔(ひらく、ふくれる)の略体」の会意兼形声文字で、中身の詰まった太い貝のこと。憤は「心+音符賁」で、胸いっぱいに詰まった感情が、ぱっとはけ口を開いて吹き出すこと、 とある(漢字源)。「憤慨」「発憤」等々と使う。 会意兼形声文字です(忄(心)+賁)。「心臓」の象形と「人の足跡が3つ並んだ象形と子安貝(貨幣)の象形」(「貝殻の模様がさかんに走る」の意味)から、心の中を何かが走り回る事を意味し、そこから、「いきどおる」を意味する「憤」という漢字が成り立ちました、 も同趣旨である(https://okjiten.jp/kanji2021.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
「ふね」は、 さまざまの花をふらし、白毫の光、聖の身をてらす(宇治拾遺物語)、 とある、 白毫(びゃくがう)、 は、 仏三十二相の一で、眉間の白毫(白い毛)は右旋して光明を発するという、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。 眉間白毫相(みけんびゃくごうそう)、 と呼ぶ(広辞苑)が、「白毫」は、 世阡阯L白毫相、右旋柔軟、如覩羅綿(兜羅綿)、鮮白光浄踰珂雪等(大般若経)、 と、 眉間にある右旋りの白い毛のかたまり、 であって、 眉間の白毫は、右に旋(めぐ)りて婉転して五須弥山の如し(眉間白毫、右旋婉転、如五須弥山)、 とあり(観無量寿経 https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000reb.html)、 普段は巻き毛であり、伸ばすと1丈5尺(約4.5メートル)ある、 とされ(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD%E6%AF%AB)、 釈迦牟尼佛、放大人相肉髻(にっけい)光明、及放眉間白毫相光、徧照東方八萬億那由他(なゆた)恆河沙(ごうがしゃ)等諸佛世界(法華経)、 と、 説法の前などに、仏はそこから一条の光を放ち、あまねく世界を照らす、 という(https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000reb.html)。また、 白毫者、表理顕明称白、教無繊隠為毫(嘉祥法華義疏)、 と、仏の眉間にある白い毛は、仏の教化を視覚的に表象したものとされ、 仏像では水晶などをはめてこれを表す、 とある(広辞苑)。初期の仏陀像にすでに、 小さい円形が眉間に浮彫りされている、 とある(日本大百科全書)。 三十二相、 は、 「三十二相」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/425075772.html)で触れたように、 如来変化之身、具此三十二相、以表法身衆徳圓極、人天中尊、衆聖之王也(「大蔵法數(だいぞうほっす)」)、 と、 仏がそなえているという32のすぐれた姿・形、 すなわち、 手過膝(手が膝より長い)、 身金色 眉間白豪(はくごう) 頂髻(ちょうけい)相(頭頂に隆起がある) という意味であるが、転じて、 三十二相足らひたる、いつきしき姫にてありける(御伽草子「文正草子」)、 と、 女性の容貌・風姿の一切の美相、 の意味になる(広辞苑)。 釈迦如来の身体に具したる、異常なる表象(しるし) は、 三十二大人(だいにん)相、 三十二大丈夫(だいじょうふ)相、 三十二大士(だいじ)相、 大人相、 四八(しはち)相、 等々ともいう(日本大百科全書)。また、 三十二相八十随形好(ずいぎょうこう) あるいは、 三十二相八十種好(はちじっしゅごう)、 あるいは、 八十随形好(はちじゅうずいぎょうこう)、 とも言い、仏の身体に備わっている特徴として、 見てすぐに分かる三十二相と、微細な特徴である八十種好を併せたもの、 で、両者をあわせて、 相好(そうごう) という(仝上)。「相好」は、 相好を崩す、 と、 顔つき、顔かたち、 の意で、 仏以外にも用いる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「白」(漢音ハク、呉音ビャク)は、「白波」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485227350.html)で触れたように、 象形。どんぐり状の実を描いたもので、下の部分は実の台座。上半は、その実。柏科の木の実のしろい中身を示す。柏(ハク このてがしわ)の原字、 とある(漢字源)が、 象形。白骨化した頭骨の形にかたどる。もと、されこうべの意を表した。転じて「しろい」、借りて、あきらか、「もうす」意に用いる、 ともあり(角川新字源)、象形説でも、 親指の爪。親指の形象(加藤道理)、 柏類の樹木のどんぐり状の木の実の形で、白の顔料をとるのに用いた(藤堂明保)、 頭蓋骨の象形(白川静)、 とわかれ、さらに、 陰を表わす「入」と陽を表わす「二」の組み合わせ、 とする会意説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD)。で、 象形文字です。「頭の白い骨とも、日光とも、どんぐりの実」とも言われる象形から、「しろい」を意味する「白」という漢字が成り立ちました。どんぐりの色は「茶色」になる前は「白っぽい色」をしてます、 と並べるものもある(https://okjiten.jp/kanji140.html)。 「毫」(漢音コウ、呉音ゴウ)は、 会意兼形声。高は、高台にある建物を描いた象形文字。毫は「毛+音符高の略体」で、丈の高い毛のこと、 とある(漢字源)が、 ほそげ、 細い毛、 ともある(https://www.kanjipedia.jp/kanji/0002351100)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 心みにこの花を一房とりて食たりければ、天の甘露もかくやあらんとおぼえて(宇治拾遺物語)、 にある、 天の甘露、 とは、 中国で仁政の感応である祥瑞として、天から降る甘い露、 の意とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。もともとは、 天地相ひ合し、以て甘露をす(老子)、 と、 中華世界古代の伝承で、天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体、 を指し、後世、 則ち風に随ひて松林と葦原とに飄(ひひ)る。時の人、曰はく、甘露(カムロ)なりといふ(日本書紀)、 と、 王者が高徳であると、これに応じて天から降るともされ、また神話上の異界民たる沃民はこれを飲んでいる、 とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%9C%B2)。ちなみに、「沃民(ようみん、よくみん)」は、 中国に伝わる伝説上の人種、 で、『山海経(せんがいきょう)』によると、 沃民国は白民国の南、女子国の北にあり、沃民人は人間の姿をしているが鳳凰(ほうおう)の卵や甘露をつねに飲食しており、欲しいと思う食物は住んでいる土地で思うままに入手することが出来た、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%83%E6%B0%91)、とある。 さらに、後に、インドから仏教が伝来すると、 インド神話の伝承で不死の霊薬とされたアムリタ(梵語amṛta)を、阿蜜㗚多と音訳、不死、神酒などとも訳すが、漢訳仏典では中国の伝承の甘露と同一視し、甘露、あるいは醍醐と訳した、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%9C%B2・精選版日本国語大辞典)。「amṛta」は、 不死・天酒、 の意で、 ソーマの汁、 を指し、 天上の神々の飲む、忉利天(とうりてん 須弥山の頂上)にある甘い霊液。不死を得る、 といい、これを飲むと、 苦悩を去り、長寿になり、死者をもよみがえらせる、 といい(精選版日本国語大辞典)、転じて、 我、甘露(かんろ)の法門を開て彼(かの)阿羅邏仙(あららせん)を先づ度せむ(今昔物語集)、 と、 仏の教え、 仏の悟り、 にたとえ(広辞苑)、 涅槃(ねはん)、 をもいう(日本大百科全書)、とある。ソーマ(soma)は、 ヴェーダなどのインド神話に登場する神々の飲料、ゾロアスター教の神酒ハオマと同起源、 とあり、 飲み物のソーマは、ヴェーダの祭祀で用いられる一種の興奮飲料であり、原料の植物を指すこともある。ゾロアスター教でも同じ飲料(ハオマ)を用いることから、起源は古い、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%9E・広辞苑)。 こうした「甘露」の意味から、転じて、 於甘露(カンロ)之乳水醍醐之上味、難及料棟(れうけん)候(新撰類聚往来)、 などと美味の意で用いる(広辞苑)。いまでも、 ああ甘露、甘露、 などと使う。この意味の転用で、 喫梵天(梵天瓜)甘露(蔭凉軒日録・文明一九年(1487)六月二八日)、 と、 瓜の異称、 や、 甘露酒、 甘露水、 甘露煮、 等々にも使い、また、 夏、カエデ・エノキ・カシなどの樹葉から甘味のある液汁が垂れて樹下を潤すもの。その木につくアブラムシが植物内の養分を吸収して排泄する、ブドウ糖に富む汁、 の意でもあり、その排出する甘露をアリ類が好み、アブラムシを保護するところから、「アリの牧場」とみて、 アリマキ、 と称す(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。なお、 甘露が降ろかとて口開いてもいられず、 と、 幸運を待って何もしないわけにはいかない、 意のことわざもある(故事ことわざの辞典)。 「甘」(カン)は、 会意文字。「口+・印」で、口の中に・印で示した食物を含んで味わうことを示す。長く口中で含味する、うまい(あまい)物の意となった、 とある(漢字源)が、 口に物を入れ長く味わう、 という説(藤堂明保)以外に、 首枷(鉗)などの象形文字で、「あまい」の意は、同音の植物名「苷」より、 とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%98)。別に、 指事文字です。「口中に横線を引いた文字」から、食物を口にはさむさまを表し、そこから、「あまい」、「うまい」を意味する「甘」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1100.html)。 「露」(漢音ロ、呉音ル、慣用ロウ)は、 形声。「雨+音符路(ロ)」で、透明の意を含む。転じて、透明にすけて見えること、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(雨+路)。「雲から水滴が滴(したた)り落ちる」象形と「胴体の象形と立ち止まる足の象形と上から下へ向かう足の象形と口の象形」(人が歩き至る時の「みち」の意味だが、ここでは、「落」に通じ、「おちる」の意味から、落ちてきた雨を意味し、そこから、「つゆ(晴れた朝に草の上などに見られる水滴)」を意味する「露」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji340.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 砌(みぎり 軒下の敷石)に苔むしたり。かみさびたる事かぎりなし(宇治拾遺物語)、 にある、 かみさびたる、 は、 神々しい、 意とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。なお、「砌」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485070263.html)については触れたことがある。 「神(かみ)さびる」は、 かんさびる、 とも訓まし、文語で、 神さぶ、 は、 かみさぶ、 かんさぶ、 かむさぶ、 かみしむ、 とも訓む(明解古語辞典)が、「かみさぶ」は、 カムサブの転(岩波古語辞典)、 かんさぶ、古くは「かむさぶ」と表記(精選版日本国語大辞典)、 とされ、 「万葉集」では「かむさぶ」がふつうで、「かみさぶ」は挙例が唯一の例である。「かみ(神)」の「み」に「美」が用いられるのは上代特殊仮名遣としても異例。防人の歌でもあり、東国語形とも考えられる、 とある(精選版日本国語大辞典)。「カミ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/436635355.html)でも触れたように、上代特殊仮名遣によると、 「神」はミが乙類(kamï) 「上」はミが甲類(kami) で、 「神」のミは「微」の乙類の音、 「上(カミ)」のミは「美」の甲類の音、 であるが、 「神(kamï)」と「上(kami)」音の類似は確かであり、何らかの母音変化が起こった、 とする説もある。 で、「神さぶ」は、 難波門(なにはと)を榜ぎ出て見れば神かみさぶる(可美佐夫流)生駒高嶺(たかね)に雲そたなびく(万葉集) と、 神々(こうごう)しい様子を呈する、 古色を帯びて神秘的な様子である、 古めかしくおごそかである、 といった意味である(広辞苑)が、 ひさかたの天つ御門(みかど)をかしこくも定めたまひて神佐扶(かむさぶ)と磐隠(いはがく)りますやすみししわが大君の(万葉集)、 と、 神らしく行動する、 神にふさわしい振舞いをする、 意でも使った。普通に考えると、神々しいという言葉の派生として、それに似た振舞い、という意味の流れになるのかと思う。転じて、 いそのかみふりにし恋のかみさびてたたるに我は寝(い)ぞ寝かねつる(古今集)、 と、 古風な趣がある、 古めかしくなる、 年を経ている、 意となり、さらに、 あけの玉墻(たまがき)かみさびて、しめなはのみや残るらん(平家物語)、 と、 荒れてさびしい有様になる、 意に転じ、あるいは、 かみさびたる翁にて見ゆれば、女一(にょいち)の御子の面伏(おもてぶせ)なり(宇津保物語)、 と、単に、 老いる、 意でも使う。だんだん神秘性が薄れ、ただの古ぼけたものになっていく感じである。 「神さぶ」の「さぶ」については、 然、 と当て、 上二段の自動詞、 で、 然帯(さお)ぶの約なるべし(稲置(イナオキ)、いなぎ。馬置(うまおき)、うまき)、都(みや)び、鄙(ひな)ぶも、都帯(みやお)び、鄙帯(ひなお)ぶの約なりと思ふ。翁さぶ、少女(おとめ)さぶは、翁然(おきなぜん)、少女然(しょうじょぜん)(学者然、君子然)の意、 とし、 他語の下に熟語となりて、其気色ありの意を成す語、めくと云ふに同じ、神さぶ、翁さぶ、貴人(うまびと)さぶ、少女(おとめ)さぶなど、皆、神めく、翁めくなどの意なり、 とする説もある(大言海)が、 「さぶ」は接尾語、 とするのが大勢で(日本国語大辞典・精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)、 名詞に付いて、そのものらしくふるまう、そのものらしくなる意を表す。上接する名詞は、人や神、または、これに準ずる語であることが多い。「乙女さぶ」「うま人さぶ」「翁さぶ」など、 とあり(日本国語大辞典)、 サは漠然と方向や様子を示す語、ブは行為を人に示す意、カナシブ(悲しぶ・哀しぶ)、ウレシブ(嬉しぶ)のブと同じ(岩波古語辞典)、 状態・方向を表す「さ」に、接尾語「ぶ」の付いたもので、そのような状態になる、ある方向に進むの意(日本国語大辞典)、 あるいは、 「さびる(寂)」「さぶ(窈窕)」の、古びる、古びてしっとりとした味わいを持つなどの意から、そのものの属性を発揮すべくしっとりとふるまうの意を表すように変化したもの(日本国語大辞典)、 ともあり、どちらともいえないが、 体言について、上二段活用の動詞をつくり、そのものにふさわしい、そのものらしい行為・様子をし、またそういう状態にあることを示す、 とある(仝上)。 「めく」は、 見來(みえく)を約して四段活用、 ともある(大言海)が、 名詞・形容詞語幹・副詞について四段活用の動詞をつくり、 雨(あま)そそぎもなほ秋のしぐれめきてうちそそげば(源氏物語)、 と、 本当に……らしい様子を示す、 ……の本当の姿を尤もよく示す、 意と、 親めく、 なまめく、 など、 一見……らしく見える姿を示す、 という使い方をする。「さぶ」の然るべく見える意と重なる所は多い気がするが、 神さぶ、 と 神めく、 では、「めく」ただそう見えるのに対して、「さぶ」は、然る可く見えるので、ただそう見えるとは少し含意が異なる気がする。 なお、「神」については、「神道」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/430465963.html)でも触れた。 「神」(漢音シン、呉音ジン)は、 会意兼形声。申は、稲妻の伸びる姿を描いた象形文字。神は「示(祭壇)+音符申」で、稲妻のように不可知な自然の力のこと、のち、不思議な力や、目に見えぬ心のはたらきをもいう、 とある(漢字源)。日・月・風・雨・雷など自然界の不思議な力をもつもの、 天のかみ、 で、 祇(ギ 地の神)、鬼(人の魂)に対することば、 とある(仝上)。「申」(シン)は、 会意文字。稲妻(電光)を描いた象形文字で、電(=雷)の原字、のち、「臼(両手)+h印(まっすぐ)」のかたちとなり、手でまっすぐのばすこと、伸(のばす)の原字、 とある(仝上)。 「神」の字は、別に、 会意兼形声文字です(ネ(示)+申)。「神にいにしえを捧げる台の象形」と「かみなりの象形」から、天の「かみ」を意味する「神」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji426.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 金田一京助・春彦監修『明解古語辞典』(三省堂) 大槻文彦『大言海』(冨山房) こんのあを(襖)きたるが、夏毛のむかばきをはきて、葦毛の馬に乗りてなむ來(く)べき(宇治拾遺物語)、 にある、 むかばき、 は、 行縢、 行騰、 と当て(広辞苑)、 鹿・熊・虎・豹等の毛皮を用ゐ、長さ三尺六寸、一片に製して、腰に着け、両の股脚、袴の前面に垂れ被うふもの、 で(大言海)、 奈良時代には短甲に付属し、平安初期には鷹飼が用い、平安末期から武士が狩猟・旅行に当たって騎馬の際に着用した、 とある(広辞苑)。現在も、 流鏑馬(ヤブサメ)、 の装束に用いている(大辞林)。 袴をはいていても、乗馬していばらの道を通れば足を痛めることが多いので、武士はこれをはくことによって、その災いから逃がれることができた、 とある(日本大百科全書)。「夏毛」は、 特に鹿の夏の毛、 をいい、 夏の半ば以後、暗褐色から黄色に変わり、白斑が鮮やかに出る。その毛は、筆、毛皮は行縢によいとされた、 とある(岩波古語辞典)。 因みに、「短甲」は、 平安初期頃まで行われた甲よろいの代表的な形式。鉄板を革紐や鉄鋲でとじつけて作り、胴部をおおう短いもの、 の意である(仝上)。 「したうづ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488529163.html)で触れたように、 隋・唐の制を参考に、大宝(たいほう)の衣服令(りょう)で、朝服に加えて礼服を制定し、養老(ようろう)の衣服令によって改修され(有職故実図典)、 即位、大嘗祭(だいじょうさい)、元日朝賀等の重要な儀式に着用した、 礼服(らいふく)、 の、武官の礼服は、 礼冠、緌(老懸 おいかけ)、位襖(いおう 「襖」は、わきを縫い合わせない上衣)、裲襠(うちかけ・りょうとう 長方形の錦(にしき)の中央にある穴に頭を入れ、胸部と背部に当てて着る貫頭衣)、白袴、行縢(むかばき 袴(はかま)の上から着装)、大刀(たち)、腰帯、靴(かのくつ)、 と規定されていた(広辞苑・有職故実図典・精選版日本国語大辞典他)。 「むかばき」は、 向脛(むかはぎ)にはく意(広辞苑)、 ムカ(向)ハク(穿)の意(岩波古語辞典・小学館古語大辞典)、 向脛巾(ムカハバキ)の約、向着の義、向は、向股の如し(大言海)、 両股に着くので、ハハキはハキハキ(脛着)の義(東雅)、 向股佩の義(類聚名物考)、 股佩の義(古今要覧稿)、 等々ある。多少の違いはあるが、多く、 脛(はぎ)、 に関わらせた説である。 向脛(むかはぎ)、 というのは、 脛の前面、 つまり、 むこうづね、 を指し(広辞苑)、 向は、両脛相向かふなり、向股(むかもも)の如し、 とある(大言海)。字鏡(平安後期頃)に、 骹(コウ、脛)、脛骨也、脛也、疾也、牟加波支、 とある。 「脛巾(はばき)」は、 行纏、 脛衣、 とも当て、 古く、旅行・外出のときなどに、すねに巻きつけ、紐で結んで、動きやすくしたもの。藁や布で作られ、後世の脚絆(きゃはん)にあたる、 とある(広辞苑・大辞林)。「はばき」も、 ハギハキ(脛穿・脛佩)の義(大言海・箋注和名抄・和句解)、 脛巾裳(はばきも)の略(日本国語大辞典)、 ハキマキ(脛巻)の義(言元梯)、 などとされる。位置から見ると、 膝より下の、足首から上、 を指す、 脛(はぎ)、 ではなく、 膝から上、股までの部分、 である、 股(もも 腿)、 ではないかという気がするが、諸説から見ると、 向脛巾(ムカハバキ)の約、 あるいは、 向脛(むかはぎ)にはく、 というのが実態に叶う気がする。 「縢」(漢音トウ、呉音ドウ)は、 形声。糸をのぞいた部分が音をあらわす、 とある(漢字源)。 なわ、ひも、おび、 など、 互い違いによじりあわせたひも、 の意で、 縢(かが)る、 と訓ませ、 糸などでからげて縫い合わせる、 糸を組んで編み合わせる、 意で使う(精選版日本国語大辞典)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) さらば此御祭の御きよめするなりとて、四目(しめ)引きめぐらして、いかにもいかにも人なよせ給ひそ(宇治拾遺物語)、 にある 四目、 は、 注連(しめ)、 の当て字、 注連縄、 の意で、 聖場の標とするためにひきめぐらす縄、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。 「注連」は、 標、 とも当て、 動詞「占む」の連用形の名詞化、 で、 物の所有や土地への立ち入り禁止が、社会的に承認されるように、物に何かを結いつけたり、木の枝をその土地に刺したりする意、 とあり(岩波古語辞典)、 大伴の遠(とお)つ神祖(かむおや)の於久都奇(奥津城 おくつき=墓所)はしるく之米(標 シメ)立て人の知るべく(万葉集)、 と、 神の居る地域、また、特定の人間の領有する土地であるため、立入りを禁ずることを示すしるし、 とあり、 木を立てたり、縄を張ったり、草を結んだりする、 が、 双葉(ふたば)よりわが標(し)めゆひし撫子の花のさかりを人に折らすな(後撰集)、 と、 恋の相手を独占する気持や、恋の相手が手のとどかないところにいることなどを、比喩的に表現するのにも用いる、 とある(日本国語大辞典)。で、「しめ(標)」は、 標刺(さ)す 所有しているしるしをたてる。目じるしをつける、 標の内(うち) 神あるいは特定の人間が領有するため立入りを禁じている地域の内。神社の境内、宮中など、 標の内人(うちびと) 神社、または、神事に奉仕する人。宮中に仕える人、 標の外(ほか) 神あるいは特定の人間が領有する地域の外。神社の境内、内裏などの外。転じて、比喩的な意味で男女の間が隔たっていること、相手が手のとどかないところにいることなどにも用いる、 標結(ゆ)う 占有、道標のしるしとして草などを結ぶ。縄などを張って立入りを禁ずる。また、反対に、出て行くのを止める意にも用いる、 などと使う(仝上)。この「しめ」は、 シメ(閉)の義(大言海)、 シメ(締)の義(国語の語根とその分類=大島正健)、 自分が占めたことを標す義(国語溯原=大矢徹)、 これを張って出入りをイマシメるところから(和句解・柴門和語類集・日本釈名)、 等々の説があるが、 シメクリナハの約であるシメナハの略(東雅・大言海)、 とし、 元、縄を結び付けて、標(しるし)せし故に(即ち、しめなは)、結ふと云ふ、 と、 しめなわ(注連縄)の略、 としても使う(大言海・日本国語大辞典・広辞苑)。 「しめくりなは」は、 注連縄、 尻久米縄、 端出縄、 などと当て、 「しめなは」の古語、 で(広辞苑)、 布刀玉(ふとだま)の命、尻久米(クメ 此の二字は音を以ゐよ)縄を其の御後方(みしりえ)に控(ひ)き度(わた)して白言(まを)ししく(古事記)、 と、 端(しり)を切りそろえず、組みっぱなしにした縄、 の意である(仝上)。『日本書紀』七段本書に、 端出之縄、 とあり、注記に、 縄、亦云く、左縄(ひたりなは)の端出(はしいたす)といふ。此には斯梨俱梅儺波(しりくめなは)と云ふ、 と記す(精選版日本国語大辞典)。「くめ」は、多く、 「組む」の意、 と取る(評釈その他)が、 「籠」の意と取る説(次田新講)、 「出す意の下二段他動詞クムの連用形」と取る説(新編全集)、 「籠(こめ)」で、わらのしりを切り捨てないでそのままこめ置いたなわの意(日本国語大辞典)、 もある(http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/kojiki/%E5%A4%A9%E3%81%AE%E7%9F%B3%E5%B1%8B%E2%91%A2/)。確かに、「籠(こめ)」よりは、「組む」の、 藁の端を出したままにした縄を組む、 の方が実態に叶う気はする。やはり、 上代、縄を引き渡して、内側にはいることを禁じ、清浄な地を区画する標としたもの、 どあり、 後、神前に引き、また、新年の時などの飾り、 とした、 しめなわ、 である。 「しめなは(わ)」は、 標縄、 注連縄、 七五三縄、 〆縄、 などと当て、 祝部(はふり)らが斎(いは)ふ社の黄葉(もみぢば)もしめなは越えて散るといふものを(万葉集) と、 神前または神事の場に不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄、 の意だが、一般には、新年に門戸に、また、神棚に張り、 左捻よりを定式とし、三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎を捻り放して垂れ、その間々に紙垂(かみしで)を下げる。輪じめ(輪飾り)は、これを結んだ形である、 とある(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E9%80%A3%E7%B8%84)。ただし、出雲大社では、本殿内の客座五神の位置などから左方を上位とする習わしがあり、右綯いの縄(左方が綯い始めになっている縄)が用いられている(仝上)。 しめ(標)、 章断(しとだち)、 ともいう。 古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E9%80%A3%E7%B8%84)。また、 御霊代(みたましろ)、 依り代(よりしろ)、 として神がここに宿る印ともされ、巨石、巨樹、滝などにも注連縄は張られる。また日本の正月に、家々の門や、玄関や、出入り口、また、車や自転車などにする注連飾りも、注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持つ、とある(仝上)。この起源は、古事記で、 天照大神が天岩戸から出た際に二度と天岩戸に入れないよう岩戸に注連縄を張った、 とされる(仝上)のによる。 なお、「ぬさ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488951898.html)で触れたが、「しで」は、祓具として、 玉串、 祓串、 御幣、 につける他に、注連縄に垂らして神域・祭場に用いる場合は、 聖域、 を表す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E5%9E%82)。もともと、串に挿む紙垂は、 四角形の紙、 を用いたが、のちに、その下方両側に、紙を裁って折った紙垂を付すようになり、さらに後世には紙垂を直接串に挿むようになった(日本大百科全書)が、その断ち方・折り方にはいくつかの流派・形式があり、主なものに吉田流・白川流・伊勢流がある、とされる(仝上)。この形の由来については、 無限大の神威説(白い紙を交互に切り割くことによって、無限大を表わす)、 と 雷説(雷(稲妻)を表わしている)、 があるとされる(仝上)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 男、しわびて、我身は、さは観音にこそありけれ、ここは法師になりなんと思ひて(宇治拾遺物語)、 いみじくほうけて、物もおぼえぬやうにてありければ、しわびて法師になりてけり(仝上)、 とある、 しわぶ、 は、 当惑して、 途方に暮れて、 などの意とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。 「しわぶ」は、 為侘ぶ、 と当て、 どうしてよいか始末に苦しむ、 途方に暮れる、 しあぐむ、 の意とある(広辞苑)。 「しわぶ」は、 為(す)+わぶ(侘)、 「わぶ」(上二段活用、口語「わびる」は、上一段活用)は、 失意・失望・困惑の情を動作・態度にあらわす意、 とあり(岩波古語辞典)、 うらわぶ(心侘)の略、 とある(大言海)。「わぶ」は、 ちりひぢ(塵泥)の数にもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらむ妹がかなしさ(万葉集)、 と、 気落ちした様子を外に示す、 がっくりする、 意や、 国の司、民つかれ国滅びぬべしとなむわぶると聞し召して(大和物語)、 と、 困りきる、 迷惑がる、 意や、 男五条わたりなりける女を得ずなりにけることとわびたりける人の返りごとに(伊勢物語)、 と、 恨みかこつ、 悲観して嘆く、 意や、 さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふとわび居る時に鳴きつつもとな(万葉集)、 と、 気力を失って沈みこむ、 淋しく心細い思いをする、 意や、 古は奢れりしかどわびぬれば舎人が衣も今は着つべし(拾遺和歌集物名)、 と、 失意の境遇にいる、 零落している、 意や、 その御薬、まづ一度の芸、一つ勤むるほどたまはりてよ…としきりにわぶる(福富長者物語)、 と、 (助けてくれるよう)嘆願する、 意や、 我幼少より少しの業をしたこともない、偏へに御免を蒙れ、とわぶれども各々憤り深うして(天草本伊曾保物語)、 と、 (「詫びる」と書く)(困惑のさまを示して)過失の許しを求める、 あやまる、 謝罪する、 意や、 此の須磨の浦に心あらん人は、わざともわびてこそ住むべけれ(謡曲・松風)、 と、 閑静な地で生活する、 俗事から遠ざかる、 意などで使うが、他に、 里遠み恋ひわびにけりまそ鏡面影さらず夢(いめ)に見えこそ(万葉集)、 と、 (動詞連用形に付いて)その動作や行為をなかなかしきれないで困る、 の意を表し、 …する気力を失う、 …しかねて困惑する、 …しあぐむ、 意で使う。日葡辞書(1603〜04)に、 ヒトヲタヅネワブル、 マチワブル、 とあるが、 待ち侘びる、 恋ひわぶる、 などと使う。「しわぶ」(しわびる)の、 す(為)の連用形+わぶ、 の、「す」(口語する)は、 「ある」が存在性を叙述するのに対して、「する」は最も基本的に作用性・活動性を叙述すると見られる、 とあり(精選版日本国語大辞典)、活用は、 未然形-(口語)し、せ、さ(文語)せ 連用形-(口語・文語共に)し 終止形-(口語)する、(文語)す 連体形-(口語・文語共に)する 仮定形-(口語・文語共に)すれ 命令形-(口語)しろ、せよ(文語)せよ で(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%82%BA)、 ・口語の未然形には、打消の「ず」「ぬ」が付くときの形「せ」のほか、打消の「ない」が付くときの形「し」がある。また、使役や受身が付くとき、多く「させる」「される」となるが、その「さ」も未然形として扱うことが多い。 ・打消の「ず」が付くとき、「せ」でなく「し」となる場合もある(の「軽躁な者は軽躁な事を為まいと思ったとて、なかなか為(シ)ずにはをられまい」(二葉亭四迷「浮雲」)、 ・命令形は、古くから「せよ」が使われて今日に至っているが、室町時代ごろから「せい」が、江戸時代以降は「しろ」が使われるようになる。また、これらの命令形は、放任の意にも用いられることがある。→せよ・しろ、 ・過去の助動詞「き」へ続ける場合は変則で、終止形「き」には連用形の「し」から、連体形「し」および已然形「しか」には未然形の「せ」から続く。すなわち、「しき」「せし」「せしか」となる、 とある(精選版日本国語大辞典)。 なお、「わび・さび」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471270345.html)については触れた。 「為」(イ)は、 会意文字。爲の原字ば「手+象」で、象に手を加えて手なずけ、調教するさま。人手を加えて、うまく仕上げるの意。転じて、作為を加える→するの意となる。また原形をかえて何かになる意を生じた、 とある(漢字源)。 「侘」(漢音タ、呉音チャ)は、 会意兼形声。「人+音符宅(タク じっとどまる)」、 で、 たちどまる、 がっかりして立ち尽くす、 意である(漢字源)。我が国では、 わぶ、 と訓ませ、 俗事からとおざかり、静寂な風情をたのしむ、 その目的がなかなか達せられず、迷っている(「待ち侘びる」など)、 わび(「わび」「さび」のわび)、 の意で使い、しかも、「佗」(漢音タ、呉音ダ)を、「侘」の訓を誤ってこちらに当てたため、「佗」も、「侘」と同じ意味で使う(仝上)。 「侘」(漢音タ、呉音ダ)は、 会意兼形声。它(タ)は、蛇を描いた象形文字。蛇の害を受けるような変事の意から、変わった、見慣れないなどの意となり、六朝時代から後、よその人、他人、彼の意となる。侘は「人+音符它(タ)」。它で代用することが多い、 とある(漢字源)。「他」は「侘」の俗字である。別に、 会意兼形声文字です(人+也・它)。「横から見た人」の象形と「へび」の象形(「蛇(へび)、人類でない変わったもの」の意味)から、「見知らない人、たにん」を意味する「他」という漢字が成り立ちました。(「佗」は俗字です。)、 ともある(https://okjiten.jp/kanji248.html)。「他」は、 古くは「佗」、(他の)「也」は蠍の象形であり、しばしば「它」と混用されたため「侘」を「他」と書くようになった、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BB%96・漢字源)。「侘」で触れたように、我が国では、「侘」の訓を誤って当てたため、「侘住居(わびずまい)」などと、「わび」の意で用いている。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 晡時になりて、油、灯心、抹香を携へ、仏前形(かた)ばかり飾り、看経(かんきん 経文の黙読)やうやう時移れば(宿直草)、 とある、 哺時(ほじ)、 は、 通常、 晡時、 と当てる。 申(さる)の刻、午後四時頃の日暮れ時、 の意である(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。転じて、 日暮時、 夕方、 の意でも使う。 「晡時」は、 餔時、 とも当てる(日本国語大辞典)。 「餔」(漢音ホ、呉音フ・ブ)は、 会意兼形声。「食+音符甫(平らにのばしてあてがう)」。敷(平らにのばす)と同系で、粉を薄くのばして焼いただんご。また、補(あてがう)と同系で、ひもじさをおさえるおやつ、 とある(漢字源)。 餔其糟(屈原・漁夫)、 とあり、 くらう、 意であるが、 又一に、哺に作る、 とあり(字源)、 古、哺と通ず、 とある(仝上)。また、 ゆうげ、 の意味もあり、 申の刻(午後四時頃)の食事、 の意味もある(仝上)。 餔時、 は、上記から、 餔(ゆうめし)の時、七ッ時、即ち午後四時(淮南子)、 とある(仝上)。 「哺」(漢音ホ、呉音フ)は、 形声。「口+音符甫」で、口中にぱくりととらえて、ほほやくちびるでおさえること、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(口+甫)。「口」の象形と「草の芽の象形と耕地(田畑)の象形」(「広い、しき広げる」の意味)から、「口中に食物を広げる、含む、食う」を意味する「哺」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2147.html)が、いずれにしても、「口に含む」意で、音から「晡」「餔」と通字となったものかと推測される。 「晡」(ホ)は、 餔に通ず、 とあるが、解字は何処にも載らないので、勝手な解釈だが、 日+音符甫、 だが、「甫」(漢尾ホ、呉音フ)は、 会意。「屮(芽ばえ)+田」で、苗を育てる畑。つまり苗代(ナワシロ)のこと、平らに広がる意を含む、 とあり(漢字源)、陽が、 広く平らに広がる、 傾いた頃を指している会意文字ではないか、と憶測する。 晡、 自体で、 申の刻、今の午後四時、 の意で、さらに、 朝晡頒餅餌、寒暑賜衣装(白居易)、 と、 ゆうべ、 暮方、 の意もある。で、 晡下(ほか)、 で、 七つ下がり、午後四時過ぎ、 を意味し、 晡時(ほじ)、 で、 日至於悲谷、是謂晡時(淮南子)、 と、 午後四時、 を指し、 晡夕(ほせき)、 で、 晡夕之後、精神恍惚、若有所喜(宋玉・神女賦)、 と、 薄暮、 を意味する(字源)。つまり、 哺時、 は、 餔時、 に通じ、 晡時、 と同義ということになる。で、「晡」を、 ゆうがた、 と訓ませるとするものもある(https://kanji.club/k/%E6%99%A1)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) さりながら興隆仏法のため、一殺多生の善とはこれらをや申すべき。退治し給へ申さん(宿直草)、 とある、 一殺多生、 は、 仏教で一人を殺すことによって多くの人を助けること、 と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。 「一殺多生」は、 いっせつたしょう、 あるいは、 いっさつたしょう、 と訓ませる(日本国語大辞典)。元は大乗仏教経典の一つ、 瑜伽師地論、 の漢訳文に記された四字熟語であった。 瑜伽師地論(ゆがしじろん)、 は、 ヨーガ行者の階梯についての論、 の意で、 唐・玄奘漢訳(全100巻)、 は、 瑜伽行(ゆがぎょう)派(唯識(ゆいしき)学派)の主要文献の一つ、 とされ、 瑜伽行者の境(きょう)・行(ぎょう)・果(か)を17地に分けて説明する本地分(ほんじぶん 漢訳1〜50巻)、 その要義を解明する摂決択分(しょうけっちゃくぶん 同51〜80巻)、 など五部に分かれ、阿頼耶識(あらやしき)、三性説(さんしょうせつ)、その他あらゆる問題を詳細に論究している、 いわば、 大乗仏教の百科全書、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E5%B8%AB%E5%9C%B0%E8%AB%96・日本大百科全書)。 謡曲『鵜飼(うかい)』に、 ある夜忍び上って鵜を使ふ。狙ふ人々ばっと寄り、一殺多生の理にまかせ、かれを殺せと言ひあへり、 とあるのは、 一人を殺して多くの鮎を助くる意、 とある(大言海)。本来、仏教において殺生(せっしょう)は罪悪であるが、出典では、 菩薩が大盗賊を殺す事例、 をあげて功徳を説いている(新明解四字熟語辞典)。しかし、日本では戦前の右翼団体「血盟団」の指導者である井上日召が、 一人一殺、 を説き、「一殺多生の大慈大慈の心に通ずる」と、テロ正当化に使ったために、ひどくイメージが悪い。 危険思想につながりかねないので現代では疑問視される、 とある(世界宗教用語大事典)。 「一」(漢音イツ、呉音イチ)は、「一業所感」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.html)で触れたように、 指事。一本の横線で、一つを示す意のほか、全部をひとまとめにする、一杯に詰めるなどの意を含む。壱(イチ)の原字壹は、壺に一杯詰めて口をくびったたま、 とある(漢字源)。 「殺」(漢音サツ・サイ、呉音セツ・セチ・セイ、慣用サツ)は、 会意文字。「乂(刃物で刈り取る)+朮(もちあわ)+殳(動詞の記号 行為)」で、もちあわの穂を刈り取り、その実を殺ぎ取ることを示す、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AE%BA・角川新字源)。別に、 会意文字です。「猪(いのしし)などの獣」の象形と「手に木の杖を持つ」象形から「ころす・いけにえ」を意味する「殺」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji201.html)、 会意 㣇(たたり)をなす獣の形と殳(しゅ)とを組み合わせた形。殳は杖(つえ)のように長い戈(ほこ)。㣇をひきおこす獣を戈で殴(う)って殺す形で、これによって祟(たたり)を殺(そ)ぎ(へらし)、無効とする行為を殺といい、減殺(げんさい・へらすこと)がもとの意味である。「殺」の左偏の小点は㣇をなす獣の耳の形。甲骨文字と金文はその獣の形だけをかき、のちの蔡(さい・ころす)の字にあたる用法である。殺は「ころす」の意味に用いた、 とも(https://jyouyoukanji.stars.ne.jp/j/4/4-075-satsu-korosu.html)あり、 甲骨文の当時は、単に木の枝をとってくるだけのものであったが、次第に祭祀を伴う殺戮を示すようになりそれと共に字形も複雑さを増すようになったが、現代中国の漢字の簡体化で「杀」となり、甲骨文字の字形に接近してきました、 とある(https://asia-allinone.blogspot.com/2021/05/p152.html)。 「多」(タ)は、 会意文字。夕、または肉を重ねて、たっぷりと存在することを示す、 とある(漢字源)。つまり、 会意文字。夕の字を二つ重ねて、日数が積もり重なる、ひいて「おおい」意を表す、 説(https://okjiten.jp/kanji156.html・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%9A・角川新字源)と、 象形で、二切れの肉を並べた形にかたどり、物が多くある意を表す、 説とがある(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji156.html)。 「生」(漢音セイ、呉音ショウ)は、「なま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484932208.html)で触れたように、 会意。「若芽の形+土」で、地上に若芽の生えたさまを示す。生き生きとして新しい意を含む、 とある(漢字源)。 ただ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 土の上に生え出た草木に象る、 とあり、現代の漢語多功能字庫(香港中文大學・2016年)には、 屮(草の象形)+一(地面の象形)で、草のはえ出る形、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%9F)ため、 象形説。草のはえ出る形(白川静説)、 会意説。草のはえ出る形+土(藤堂明保説)、 と別れるが、 象形。地上にめばえる草木のさまにかたどり、「うまれる」「いきる」「いのち」などの意を表す(角川新字源)、 象形。「草・木が地上に生じてきた」象形から「はえる」、「いきる」を意味する「生」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji33.html)、 とする説が目についた。甲骨文字を見る限り、どちらとも取れる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 如何様(いかさま)にも闍維(しゃゆい)の規式(荼毘の作法)にて来たる。殊勝(すしょう)に覚えしに、さはなくて堂内に来たり(宿直草)、 とある、 殊勝、 は、 おごさかなさま、 の意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。普通は、 しゅしょう、 と訓ます。 「殊勝」は、漢語であり、 「殊」は「とくに」、「勝」は「すぐれる」、 という意味になり(https://imikaisetu.goldencelebration168.com/archives/6421)、 天然殊勝、不關風露冰雪(朱熹・梅花詞)、 と、 とりわけすぐれる、 意で(字源)、仏教語として、文字通り、 殊に勝れていること、 として使い、仏の威徳を、 殊勝にして希有なり(無量寿経)、 と表現し、阿弥陀仏がかつて菩薩の時に立てた一切衆生を救う誓願を、 無上殊勝の願を超発せり、 と称讃している。また、仏の教法を、 殊勝の法をききまいらせ候ことのありがたさ(蓮如『御文(おふみ)』)といい、仏のすぐれた智慧を、 殊勝智、 と呼んで讃嘆(さんたん)する、とある(https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000rvf.html・大言海)。そこから、場の雰囲気が甚だ厳粛なことを、 殊勝の気、 と表現したりする(仝上)。日葡辞書(1603〜04)では「殊勝」を、 Cotoni sugururu(殊に勝るる)、 とし、 すぐれたことをほめるのに用いる語、 として、イエズス会の宣教師は、 説教や、神聖なこと、信心に関することに用いる、 と説明している(仝上)。 まずは、したがって、 その後の法厳、法花の功徳殊勝なる事をしりて(今昔物語)、 と、 特にすぐれていること、 ひじょうに立派なこと、 格別、 の意で使い、その派生で、 いつ参てもしんしんと致いた殊勝な御前で御ざる(虎寛本狂言・因幡堂)、 と、 神々しいこと、 おごそかであること、 心うたれること、 の意で使い、客体から主体に転じて、 今お取越とて、殊勝にお文をいただき(浮・西鶴諸国はなし)、 と、 心がけがしっかりしていること、 けなげなさま、 神妙なようす、 感心、 の心情表現に転じ、 殊勝な心がけ、 といったふうに使い、さらには、 いかな九文きなかでも勘忍ばしめさるなと真顔にいひしもしゅせうなり(浄・五十年忌歌念仏)、 と、 もっともらしいさま、 とってつけたようなようす、 の意でも使う(日本国語大辞典)。 殊勝顔(殊勝らしい顔つき)、 殊勝ごかし(殊勝なふりをして相手をだますこと)、 等々という言い方もする。 「殊」(漢音シュ、呉音ズ・ジュ)は、 会意兼形声。朱は、木を−印で切断するさまを示す指事文字(形で表すことが難しい物事を点画の組み合わせによって表して作られた文字)で、切り株のこと。殊は「歹(死ぬ)+音符朱」で、株を切るように切断して殺すこと。特別の極刑であることから、特殊の意となった。誅(チュウ 胴切りにして殺す)と同系、 とある(漢字源)が、この解釈は、 甲骨文字や金文などの資料と一致していない記述が含まれていたり根拠のない憶測に基づいていたりするためコンセンサスを得られていない、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AE%8A)。別に、 形声。「歹」(「死」の略体)+音符「朱 /*TO/」。「死ぬ」を意味する漢語{殊 /*do/}を表す字、 とする説もある(仝上)。 「勝」(ショウ)は、 会意文字。朕(チン)は「舟+両手で持ち上げる姿」の会意文字で、舟を水上に持ち上げる浮力。上に上げる意を含む。勝は「力+朕(持ち上げる)」で、力を入れて重さに耐え、物を持ち上げること。「たえる」意と「上に出る」意とを含む。たえ抜いて他のものの上に出るのがかつことである、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(朕+力)。「渡し舟の象形と上に向かって物を押し上げる象形」(「上に向かって上げる」の意味)と「力強い腕の象形」(「力」の意味)から、「力を入れて上げ、持ち堪(こた)える」を意味する「勝」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「かつ、まさる」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji207.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 某(それがし)は御身上おぼつかなく、慮外にも御馬に乗り参り候と云ふ(宿直草)、 とある、 慮外、 は、 異常な、 一風変わった、 と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。 「慮外」は、漢語である。文字通り、「意外」、「考慮の外」あるいは「思慮の外」と訓めば、 事乖慮外(事、慮外に乖(そむ)く(暗殺された))(晉書・毛璩傳) と、 意外、 思いがけぬ、 の意味になる(字通・字源)。日本でも、 慮外の事により、遠国にまかり向ふ(小右記)、 と、 思いのほか、 思いがけない、 の意でも使い、その意味の外延で、 「身共がついで遣らふ」「是は慮外に御座るが、其儀成らば一つつがせられて被下い」(虎寛本狂言「素袍落(すおうおとし)」)、 と、 (思いがけないありがたいことの意から)主に、話しことばに用いて、ありがたい、かたじけない、恐縮だなど、感謝の意を表す、 意でも使う(日本国語大辞典・精選版日本国語大辞典)が、ほとんど、 一年(ひととせ)の慮外馬咎め射殺し候ひし男の子の小さき男こそ殿に候ふなれ(今昔物語)、 仏法興隆のところに、度々りょぐゎいして罪作るこそ心得ね(義経記)、 などと、 思いもよらない不法・不当な態度や行為について、 いい、 もってのほか、 不心得なこと、 不躾、 無礼、 不埒なこと、 などの意で使う(岩波古語辞典・大言海・字源・広辞苑)。 慮外な振舞い、 慮外千万(せんばん)、 慮外者、 等々という使い方をし、さらに、その意味の延長線上で、 慮外ながらこしをかけまらする(虎明本狂言・鎧)、 慮外ながら申し上げます、 などと、 (「ながら」「なれど」を伴って)無礼をわびる、 意を表し、 失礼ですが、 おそれいりますが、 の意で、 不躾ながら、 卒爾ながら、 と同義で使う(仝上)。これは、漢語にはない意味である(「卒爾」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444309990.html)については触れた)。 思いがけない→思いがけなくありがたい→おもいもよらぬこと→不躾、無礼、 といった意味の変化と見られ、意味の筋を辿れなくもないが、本来の、 慮外、 の、 思いがけない、 意外、 の意を大きく外していった。 「慮」(漢音リョ、呉音ロ)は、 形声、「心+音符盧の略体」で、次々と関連したことをつらねて考えること、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です。「虎(とら)の頭の象形と小児の脳の象形」(「考えをめぐらす」の意味)と「心臓」の象形から、「心をめぐらせる」、「深く考える」を意味する「慮」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1171.html)。 「外」(漢音ガイ、呉音ゲ、唐音ウイ)は、「象外(しょうがい)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/487489631.html)で触れたように、 会意、「夕」(肉)+「卜」(占)で、亀甲占で、カメの甲羅が体の外にあることから、 とする「龜甲」占い由来とする説と、 「卜」+音符「夕」で、占で、月の欠け残った部分を指した会意形声とも(藤堂明保)、 とする「月」占い説とがある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%96)。 会意兼形声。月(ゲツ)は、缺(ケツ 欠ける)の意を含む。外は「卜(うらなう)+音符月」で、月の欠け方を見て占うことを示す。月が欠けて残った部分、つまり外側の部分のこと。龜卜(キボク)に用いた骨の外側だという解説もあるが従えない、 とか(漢字源)、 会意。夕(ゆうべ)と、卜(ぼく うらない)とから成る。通常は昼間に行ううらないを夜にすることから、「そと」「ほか」「よそ」、また、「はずれる」意を表す、 とか(角川新字源)は、「月」占い説、 形声文字です(夕(月)+卜)。「月の変形」(「刖(ゲツ)に通じ、「かいて取る」の意味)と「占いの為に亀の甲羅や牛の骨を焼いて得られた割れ目の象形」から、占いの為に亀の甲羅の中の肉をかいて取る様子を表し、そこから、「はずす」を意味する「外」という漢字が成り立ちました、 ある(https://okjiten.jp/kanji235.html)のは、「龜甲」占い説になる。ただ、甲骨文字と金文(青銅器に刻まれた文字)とでは、かたちが異なり、途中で変じたのかもしれない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) |
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