又ぐしたてまつりたりしかば、なりはてんやうゆかしくて、思もかけず(宇治拾遺物語)、 にある、 ゆかし、 は、 知りたい、 という意味になる(中島悦次校注『宇治拾遺物語』拾遺)。「ゆかし」は、口語の、 ゆかしい、 で、 床しい、 懐しい、 等々と当てるが、当て字である。「ゆかし」は、 行か+し、 で(日本語源広辞典)、 行(ゆ)くの形容詞形、 であり、 良いことが期待される(岩波古語辞典)、 心が行きたい状態になる(日本語源広辞典)、 心、往かむとする意(大言海・本朝辞源=宇田甘冥)、 ゆか(往)しき義(名言通)、 ゆかまほしの略(志不可起)、 ユカシムルの義(日本語源=賀茂百樹)、 等々と、 心の中の〜したいという思いの表現、 とされ、 海づらもゆかしくて出で給ふ(源氏物語)、 と、 どんな様子か見たい、 逢いたい、 あるいは、 藤壺のまかで給へる三条の宮に、御有様もゆかしうて参り給へれば(仝上)、 と、 どんな様子か、誰であるか、知りたい、 等々、 見たい、 聞きたい、 知りたい、 逢いたい、 等々の、 何となく知らまほし、 という心情表現から、 見えぬものに心をやる、 という心の動きの、 奥ゆかし、 心ゆかし、 という(大言海)価値表現へと変じた、とみえる。色葉字類抄(1177〜81)には、 色、ゆかし、 とあるのは、そんな微妙な心情表現ではないか。 しのびて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひよすれば(徒然草)、 の、 好奇心を持つ、 は、隣接した意味だし、今日、 ゆかしい人柄、 などと使うのも、奥ゆかしさという価値表現につながる。それは、 山路来て何やらゆかしすみれ草(芭蕉)、 の、 何となく懐かしい、 何となく慕わしい、 何となく心が引かれる、 などともつながる価値表現になる。 「床」(慣用ショウ、漢音ソウ、呉音ジョウ)は、 会意文字。「广(いえ)+木」で、木でつくった家の台や家具を表す。もと細長い板を並べて張ったベッドや細長い板の台のこと。牀と同じ、 とある(漢字源)が、 「牀(シヤウ 板に足を付けたベンチ上の寝台)」の俗字、 のようである(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BA%8A・角川新字源)。日本の「ゆか」の意が強く「寝床(ねどこ)」「床屋」「床の間」などと異なり、「病床」のように、寝台や腰かけの意で使われる。別に、 会意兼形声文字です(广(爿)+木)。「屋根」の象形と「寝台を立てて横から見た象形と大地を覆う木」の象形(「ねだい」の意味)から、「ねだい」を意味する「床」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1179.html)。 「懷(懐)」(漢音カイ、呉音エ)は、 会意兼形声。褱(カイ)は「目からたれる涙+衣」の会意文字で、涙を衣で囲んで隠すさま。ふところに入れて囲む意を含む。懷は、それを音符とし、心を加えた字で、胸中やふところに入れて囲む、中に囲んで大切に温める気持ちをあらわす、 とある(漢字源・角川新字源・https://okjiten.jp/kanji1539.html)が、「懷」の字源には、 会意兼形声あるいは形声。「心」+音符「褱 /*KUJ/」。{懷 /*gruuj/}(思う、懐かしむ)を表す字、 とする上記説以外に、 音符の「褱」は形声文字、「衣」+音符「眔 /*KUJ/」。{懷 /*gruuj/}(いだく、つつむ)を表す字、 とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%87%B7)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) もとはいみじき悪人にて、人屋(ひとや)に七度ぞ入りたりける(宇治拾遺物語)、 の、 人屋、 は、 牢屋、 の意味(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)とある。 「人屋」は、 じんおく、 と訓ませると、 京中には辻風おびたたしう吹て、人屋多く転倒す(平家物語)、 と、 人の住む家屋、 の意となる(広辞苑)が、 ひとや、 と訓ませると、 獄、 囚獄、 とも当て、 罪人を捕らえて閉じ込めておく屋舎、 牢屋、 牢獄、 の意となる(仝上)。和名類聚抄(931〜38年)には、 獄、牢、囹圄、比度夜、牢罪人所也、 とある。また、霊異記(平安初期)の訓釋には、 囹圄、ヒトヤ、 とある。「囹圄」は、 れいご、 と訓ませる(「圄」の呉音)が、漢語では、 れいぎょ、 とも訓み(字源・大言海)、 牢屋、 の意で、 囹圉(レイギョ・レイゴ)、 ともいう(漢字源)。「囹」(漢音レイ、呉音リョウ)は、 領、 圄(漢音ギョ、呉音ゴ)は、 禦、 の意(唐代『初学記』)で、 囚徒を領録して禁禦する、 とある(字源・大言海)。前漢の経書『禮記(らいき)』月令篇に、 司に命じて、囹圄を省き、桎梏を去り、肆掠(しりやく)すること毋(な)く、獄を止めしむ、 とある(大言海・精選版日本国語大辞典)。 「ひと」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483976614.html?1651364003)で触れたように、「人」(漢音ジン、呉音ニン)は、 象形。人の立った姿を描いたもので、もと身近な同族や隣人仲間を意味した、 とあり、その範囲を、 四海同胞、 にまで広げ、それを仁と呼んだ(漢字源)、とある。 立っている姿には違いないが、 人が立って身体を屈伸させるさまを横から見た形にかたどる(角川新字源)、 人が立っている姿の側面を描いたもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%BA)、 ともある。 「屋」(オク)は、 会意文字。「おおって垂れた布+至(いきづまり)」で、上からおおい隠して、出入りをとめた意をあらわす。至は室(いきづまりの部屋)・窒(ふさぐ)と同類の意味を含む。この尸印は尸(シ しかばね)ではない。覆い隠す屋根、屋根で覆った家のこと、 とあり(漢字源)、 テント状の建物が原義、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B1%8B)が、 尸(居の省略形。すまい)と、至(矢がとどく所)とから成る。居住する場所を求めて矢を放つことから、住居の意を表す(角川新字源)、 会意文字です(尸+至)。「屋根」の象形(「家屋」の意味)と「矢が地面に突き刺さった」象形(「至(いた)る」の意味)から、人がいたる「いえ・すみか」を意味する「屋」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji464.html)、 ともある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「みづち(みずち)」は、 虬、 虯、 蛟、 蜃、 蜄、 鲛、 鮫、 螭、 等々、様々に当てられるようだ(https://kanji.jitenon.jp/yomi/914751.html)が、当て方は、 虬 33.3% 蛟 33.3% 大虬 11.1% 水蛇 11.1% とある(https://furigana.info/r/%E3%81%BF%E3%81%A5%E3%81%A1)。手元の辞書では、 蛟、虬、虯、螭、彲(字源)、 蛟、虬、虯、螭(広辞苑・デジタル大辞泉)、 蛟、虬、蛟龍(岩波古語辞典)、 蛟、虬、虯(大言海)、 と当てているが、後述のように、 「虬」(キュウ、ケ)は、「虯」(キュウ、ケ)に同じ、 「彲」(チ)は、「螭」(チ)に同じ、 とある(字源)ので、つまるところ、漢字は、 蛟、虯、螭、 ということになる。 「くちなわ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488045482.html?1652552920)で触れたように、「みづち」は、古くは、 みつち、 と清音、和名類聚抄(平安中期)に、 蛟、美豆知(みつち)、龍属也、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 蛟、大蛇、みつち、 天治字鏡(平安中期)に、 蛟、龍名、美止知、 とある(岩波古語辞典)。仁徳紀67年西暦(379)10月に、 是歳、於吉備中國川鳴河渡、有大虬(みつち)、令苦人、 という記事があり、 県守(あがたもり 笠臣(かさのおみ、笠国造)の祖)が、瓠(ヒサゴ)(瓢箪)を三つ浮かべ、大虬にむかって、そのヒサゴを沈めてみせよと挑戦し、もし出来れば撤退するが、出来ねば斬って成敗すると豪語した。すると魔物は鹿に化けてヒサゴを沈めようとしたがかなわず、男はこれを切り捨て、淵の底の洞穴にひそむその類族を悉く斬りはらったので、淵は鮮血に染まり、以後、そこは「県守淵(あがたもりのふち)」と呼ばれるようになった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%9F)。万葉集にも、 虎に乗り、古屋(ふるや)をこえて、青淵に、鮫(ミツチ 鮫は蛟なり)取り來(こ)む、剣太刀もが(境部王)、 とある(大言海)。 「みづち」は、 想像上の動物、蛇に似て四足をもち、毒気を吐いて、人を害する、 とあり(広辞苑)、 龍の角なきものを虬(みづち)と云ふ(大言海)、 虬竜(きゅうりゅう)(広辞苑)、 などとという付記は、後述のように漢字からの、誤伝も含めた、影響とみえる。 「みづち」の語源は、 ミは水、ツは助詞、チは靈で、水の霊(広辞苑)、 水神の義(類聚名物考)、 ミツチ(水之神)の義(琅玗記=新村出)、 と、「水の霊」ないし「水の神」とするものと、 チはヲロチ(大蛇)のチに同じ、威力あるものの意、朝鮮語mirï(龍)と同源(岩波古語辞典)、 ミは蛇の古称、ツチは尊称、蛇の主の義(蛇に関する民俗と伝説=南方熊楠)、 ミはヘミ(蛇)にて、ツは之なり、或は云ふ、合して水なり、チは靈の異称(大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、 と、「蛇」に拘らせるものに大別される。 「チ」は、「をろち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/469001407.html)、「ち(血)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465705576.html?1557945045)、「いのち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465724789.html)、等々で触れたように、 いかづち(厳(いか)つ霊(ち)。つは連体助詞。雷)、 をろち(尾呂霊。ヲは峰(あるいは尾)、ロは助詞、チは激しい勢いあるもの。大蛇)、 のつち(野之霊。野槌。野つ霊(チ)。野の精霊)、 いのち(イは息、チは勢力、息の勢い。命)、 と重なり、「ち(霊)」は、 原始的な霊格の一。自然物のもつはげしい力・威力をあらわす語。複合語に用いられる、 とされ(岩波古語辞典)、 神、人の霊(タマ)、又、徳を称へ賛(ほ)めて云ふ語。野之霊(ノツチ、野槌)、尾呂霊(ヲロチ、蛇)などの類の如し。チの轉じて、ミとなることあり、海之霊(ワタツミ、海神)の如し。又、轉じて、ビとなることあり、高皇産霊(タカミムスビ)、神皇産霊(カムミムスビ)の如し、 とある(大言海)ので、「チ」は、 霊、 とみるか、 神、 と見るかであり、「み」を、 水、 とみるか、 蛇、 とみるかも、ヤマタノオロチもそうだが、水の神は、多く、 龍、 か、 蛇、 に擬せられたり、 大雨を降らすなどの伝承が多く、水神もしくは水神の使わしめ、 と考えられ、たとえば、 水神は女神で水底で機(はた)を織っているという機織淵(はたおりぶち)などの伝説がある。民間伝承では水神を蛇体と伝えている例が多く、そのほかウナギ、タニシなどを水の主(ぬし)としている所もある。河童(かっぱ)は水神の零落した姿、 とされている(日本大百科全書)。ただ、柳田國男は、 ミヅチは蛟と書き又虬と書いている。だから蛇類ではないかという人もあろうが、それに答えては中国ではそう思っているというより他はない。日本のミヅチという語には水中の霊という以外に、何の内容も暗示されておらぬ、 という(『妖怪談義』)。つまり、その姿形は、「みづち」に当てた漢字のイメージが強いが、国内的には想定する史料がない、ということらしい。しかし、南方熊楠は、 わが邦でも水辺に住んで人に怖れらるる諸蛇を水の主というほどの意でミヅチと呼んだらしくそれに蛟虬等の漢字 を充てたはこれらも各支那の水怪の号故だ。現今ミヅシ(加能)、メドチ(南部)、ミンツチ(蝦夷)など呼ぶは河童なれど、最上川と佐渡の水蛇能く人を殺すといえば(『善庵随筆』)、支那の蛟同様水の主たる蛇が人に化けて兇行するものをもとミヅチと呼びしが、後世その変形たる河童が専らミヅシの名を擅にし、御本体の蛇は池の主淵の主で通れどミヅチの称を失うたらしい。かく蛇を霊怪視した号なるミヅチを、十二支の巳に当て略してミと呼んだは同じく十二支の子をネズミの略ネ、卯を兎の略ウで呼ぶに等し。また『和名抄』に蛇 和名 倍美(へみ)、蝮 和名 波美(はみ)とあれば蛇類の最も古い総称がミで、宣長の説にツチは尊称だそうだから、ミヅチは蛇の主の義ちょうど支那で蟒を王蛇と呼ぶ(『爾雅』)と同例だろう、 と(十二支考・蛇に関する民俗と伝説)し、「へび」の古名「へみ」、「蝮」の古名「はみ」の「み」から、「蛇」のイメージがあったと推測している。結局、 水の主、 すなわち、 蛇の主、 ということになりそうであるが、「蛇の主」にしろ「水の主」のいずれにしても、 水の神、 ということになる。因みに、蛇の古名である「へみ」「はみ」については、「くちなわ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488045482.html?1652552920)で触れた。 中国でいう「みづち」は、 蛟竜(こうりょう・こうりゅう)、 といい、 蛟龍は常に保深淵之中。若遊浅渚、有漁網釣者之愁(太平記)、 と、 「神龍忽ち釣者の網にかかる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485851423.html?1651386479)で触れたように、 まだ龍にならない蛟(みずち)。水中にひそみ、雲雨に会して天に上り龍になるとされる、 とあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 姿が変態する竜種の幼生(成長の過程の幼齢期・未成期)、 だとされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%9F%E7%AB%9C)。 積水の淵を成さば蛟龍生ず(『荀子』勧学篇)、 とある一方、 蛟龍は淵に伏寝するも、その卵は陵(おか)において割(さ)ける(『淮南子』暴族訓)、 ともあるが、 水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で應龍となる、 とある(志怪小説『述異記』)。想像上の動物なので実体ははっきりしない。「蛟」の字は、 その眉が交生するから(『述異記』)、 とある(仝上)。 「蛟」(漢音コウ、呉音キョウ)は、 会意兼形声。「虫+音符交(よじれる)」、 で、 みずち、想像上の動物の名、竜の一種、蛇に似て、からだがよじれ、四足をもつという。水を好み、大水を起こす、 とある(漢字源)。 蛟の眉相交わる、故に交に从(したが)ふ、 とある(字源)。 蛟蛇(こうだ)、 蛟螭(こうち)、 でも、 みずち、 の意であり、 蛟龍得雲雨(こうりょう、うんうをう)、 は、 劉備非久屈為人用者、恐蛟龍得雲雨、終非池中物也(呉史・周瑜傳)、 と、 英雄が一旦時に逢えば忽ち覇業を為す、 に喩える(字源)とある。別に、 蛟龍得水、 ともいう(仝上)。 「虬」(キュウ、ケ)は、「虯」(キュウ、ケ)に同じだが、 虬は角ある龍、螭は角なき龍、 とあり(字源)、 虯龍(キュウリョウ)、 でも、 有角曰虯龍(虬龍)(埤雅)、 と、 角のある龍、 の意となる(仝上)。また、 虯髯(キュウゼン)、 有勇力虯髯善射(五代史・皇甫遇傳)、 と、 みずちのごとく曲がれるほほひげ、 の意とされる。 「螭」(チ)は、 みずち、 の意だが、 龍の角なきもの、 の意である(仝上)。また、 一説に黄色の龍、 龍の雌、 ともある(仝上)。 蛟螭(コウチ)、 虯螭(キュウチ)、 ともいう。 「彲」(チ)は、螭に同じとあり、 龍に似て黄色、 とある(仝上)。なお「龍」には、 鱗あるを蛟龍、 翼あるを應龍、 角あるを虯龍(虬龍)、 角なきを螭龍、 未だ天に昇らざるを蟠龍、 とがある(仝上)、とされる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 南方熊楠.『南方熊楠作品集』(Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 南の京の永超僧は、魚なきかぎりは、時・非時もすべてくはざりけり(宇治拾遺物語) 道心、社僧となりて、……糧料など乏しくて、……心ざし有る人にたよりて、斎(とき)・非時を乞い侍る(曽呂利物語)、 などとある、 時(とき)、 は、 斎(とき)、 で、 仏家で、午前中に取る食事、午後は食しないと戒律で定めている、 とあり(広辞苑)、 斎食(さいじき)、 時食(じしょく)、 ともいい(広辞苑)、 食すべき時の食事、 の意で、 インド以来の戒律により午前中に食べるのを正時、 とし、午後は食すべき時ではない時刻の食の意で、 非時(ひじ)、 とある(デジタル大辞泉)が、正確には、 日中から後夜(ごや)までは食事をとってはならない定めだった、 ので、 非時者、従日中至後夜後分、名為非時、……従日中至後夜後分、明轉滅没、故名非時(薩婆多毘婆沙)、 と、 非時、 といい、この間に取る食事を、 佛經戒比丘非時食、蓋其法過午則不食也、西蜀僧招客暮食、謂之非時(老学庵筆記)、 と、 非時食(ひじじき)、 あるいは、 非食(ひじき)、 といった(字源・岩波古語辞典・広辞苑)。因みに、「後夜」は、仏語で、一日を昼夜六つ、 晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜、 に分けた、夜間の後の時分、 夜半から朝までの間、 をいう(精選版日本国語大辞典)。 「非時」については、 鑑真和尚、日本へ渡り給ひたりし昔は、寺寺はただ一食にて、朝食一度しけり(鎌倉後期の仏教説話集『雑談集』)、 とあり、続けて、 次第に器量弱くして、非時と名づけて、日中に食し、後には山も奈良も三度食す(仝上)、 ということで、 非時食、 という矛盾したものが生まれ、 正午過ぎの食事、 となる(大言海)。 つまり、 斎(とき)⇔非時、 の対となる。 在家でも、 特に八斎戒をまもる斎日には、正午を過ぎてからは食事をしない、 とある(精選版日本国語大辞典)。「八斎戒」とは、「六斎日(ろくさいにち)」(特に身をつつしみ持戒清浄であるべき日と定められた六日)などに、 在家信者が一昼夜の間だけ守ると誓って受ける八つの戒律、 つまり、 生き物を殺さない、 他人のものを盗まない、 嘘をつかない、 酒を飲まない、 性交をしない、 午後は食事をとらない、 花飾りや香料を身につけず、また歌舞音曲を見たり聞いたりしない、 地上に敷いた床にだけ寝て、高脚のりっぱなベッドを用いない、 の八戒。おもに原始仏教と部派仏教で行われた(仝上)、とある。 なお、 食すべき時の意、 の「斎(とき)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/460543513.html)については触れた。 「非」(ヒ)は、「非想非々想天」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485982512.html)で触れたように、 象形。羽が左と右とに背いたさまを描いたもの。左右に払いのけるという拒否の意味をあらわす、 とある(漢字源)。「羽」(ウ)の 二枚のはねをならべおいたもの、 と比べると、その意味が納得できる(仝上)。 「時」(漢音シ、呉音ジ)は、「とき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/460526964.html)で触れたように、 会意兼形声。之(シ 止)は、足の形を描いた象形文字。寺は「寸(て)+音符之(あし)」の会意兼形声文字で、手足を働かせて仕事をすること。時は「日+音符寺」で、日が進行すること。之(行く)と同系で、足が直進することを之といい、ときが直進することを時という、 とあり(漢字源)、日の移り変わり、季節、時期などの意を表すに至る(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(止+日)。「立ち止まる足の象形と出発線を示す横一線」(出発線から今にも一歩踏み出して「ゆく」の意味)と「太陽」の象形(「日」の意味)から「すすみゆく日、とき」を意味する漢字が成り立ちました。のちに、「止」は「寺」に変化して、「時」という漢字が成り立ちました(「寺」は「之」に通じ、「ゆく」の意味を表します)、 とあり(https://okjiten.jp/kanji145.html)、結果としては、同じになる。 「齋」(漢音セイ、呉音セ)は、「齋(斎)」(とき)(http://ppnetwork.seesaa.net/article/460543513.html)で触れたが、 会意兼形声。「示+音符齊(きちんとそろえる)の略体」。神を祭るとき、心身を清めととのえる意を表す、 とある(漢字源・角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(「祖先神」の意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する「斎」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji1829.html)。 なお、「時(とき)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/460526964.html)については触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 北のおとどよりわざとがましく集めたる鬚箱(ひげこ)ども、わりごなど奉れ給へり(源氏物語)、 破籠やうの物取り開き、舟人にも食はせなんどし給ふ(伽婢子)、 などの、 「わりご」は、 中にしきりのある箱、弁当箱、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。因みに、「鬚箱(ひげこ)」は、 竹や針金などで作った籠で、編み残した端が鬚(ひげ)のようにでているもの(広辞苑)、 竹をもって籠をつくり、其編みあまりを長く残しおくもの、残れるが恰も髭の如し、端午の幟の頭などに用ゐ、又は贈物などを入る(大言海)、 と、 竹編みの籠、 を言う。 「わりご」は、 破子、 破籠、 割籠、 割子、 樏、 等々と当て(広辞苑)、当て方を見ると、 割籠 71.4% 破子 14.3% 割子 7.1% 破籠 3.6% 食籠 3.6% と(https://furigana.info/r/%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%94)、 食籠、 とも当てるようだが、平安時代から、 ヒノキの薄い白木で折箱のように造り、内部に仕切りを設けて、同じ深さの蓋(かぶせぶた)をした弁当箱、 の意、また、それを換喩に、 なしまの丈六堂にて、ひるわりこくふに、弟子ひとり近邊の在家にて、魚をこひてすすめたりけり(宇治拾遺物語)、 と、 中に入れた食物、 も指す(仝上・岩波古語辞典)。 円形、三角形、四角形、扇形などさまざまな形につくり、その日限りに使い捨てた、 という(日本大百科全書)。古くは、 携行食には餉(かれいい)、すなわち干した飯を用い、その容器を餉器(かれいけ)、 といったが、『和漢三才図会』には、 わり子は和名加礼比計(かれいけ)、今は破子という、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。後世、 弁当容器としてメンツウ、メンパ、ワッパなどとよばれるヒノキの曲物(まげもの)をサクラの樹皮で留めたもの、 や、 メシゴウリなどとよばれるタケ、ヤナギの行李(こうり)、 が用いられ、これらを両手に持って開いたとき、蓋と身(み)がほぼ同形で二つに破(わ)った格好になるので、これを、 破子、 ともよんでいる(日本大百科全書)、とある。 蓋と身がちょうど同じ深さであるところから(思ひの儘の記)、 ワリケ(別笥)の義(言元梯)、 も同趣旨だが、別に、 器内に隔あれば、割子なり(大言海・嬉遊笑覧)、 と、器内の分割からきているとする説もある。あるいは、 ふたは一枚板かかぶせぶた、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E7%B1%A0)ので、当初は、 器内を分けていた、 ことから、その名が由来したが、後の、 メンパ、 ワッパ などから、 ほぼ同形で二つに破(わ)った格好、 からくる「破子」の意味に転じたということも考えられる。『和漢三才図絵』の、 わり子は和名加礼比計(かれいけ)、今は破子という、 とは、その意味のようだ。和名類聚抄(平安中期)にも、 樏子、破子、和利古、有障之器也、 とある。 因みに、現在も、平安時代由来の「わりご」を使っているのは、 小豆島わりご弁当 だけ(https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/warigo_bentou_kagawa.html)らしい。 「樏」(ルイ)は、 山道を行くときに用いる道具、人を乗せて運ぶかご、 の意で、 禹が山行に乗りし処のもの、 とある(字源)。しかし、わが国では、 雪中を行くに踏込まざるやうに編見て作りし履物、 つまり、 かんじき、 の意で使い(字源)。 わりご、 にも当てたらしい。旁の「累」(ルイ)は、 会意兼形声。「纍」の略体、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%AF)、 「纍」は「糸」+音符「畾」(ルイ・ライ)、「畾」はものが積みあがった様子を示す象形又は会意で、積み上がったものを連ねるの意、 とあり(仝上)、「纍」は、 畾を音符とし、糸を加えたのが原字で、糸でつなぐように、次々とつらなって、重なる意、 となる(漢字源)。その意味で、「木」で、 重ねる、 つなげる、 意から、 わりご、 や かんじき、 に当てたものではないかという気がする。 「破」(ハ)は、 形声(意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせて作られた文字)。「石+音符皮」。皮(曲線をなしてかぶせたかわ)とは直接関係はない、 とあり(漢字源)、 石が「やぶれる」こと、石で「やぶる」こと(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A0%B4)、 石が裂けくだける、ひいて、くだきやぶる意を表す(角川新字源)、 ともある。別に、 形声文字です(石+皮)。「崖の下に落ちている石」の象形(「石」の意味)と「獣の皮を手ではぎとる」象形(「皮」の意味だが、ここでは「波」に通じ(「波」と同じ意味を持つようになって)、「波(なみ)」の意味)から、 くだける波のように石が「くだける」を意味する「破」という漢字が成り立ちました、 との解釈もあり(https://okjiten.jp/kanji847.html)、「皮」と関連づけている。 「割」(漢音カツ、呉音カチ)は、 形声。害(ガイ)は、かご状のふたを口の上にかぶせることを示し、遏(アツ)と同じくふさぎ止めること。割は「刀+音符害」で害の原義とは関係ない、 とある(漢字源)が、 形声。刀と、音符(カイ)→(カツ)とから成る。切り分ける意を表す(角川新字源)、 とも、 会意兼形声文字です(害+刂(刀))。「刀」の象形と「屋根の象形ときざみつける象形と口の象形」(祈りの言葉を切り刻むさまから、「傷つける・殺す・断ち切る」の意味)から、刀で「たちきる」を意味する「割」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji982.html)、 ともある。 「子」(漢音呉音シ、唐音ス)は、 象形。子の原字に二つあり、一つは、小さい子供を描いたもの。もう一つは、子供の頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子(シ)の場合に用いた。のちこの二つは混同して子と書かれる、 とある(漢字源)が、見た限りでは、 象形。こどもが手を挙げている形にかたどり、おさなご、ひいて、若者の意を表す。借りて、十二支の第一位に用いる(角川新字源)、 象形文字。「頭部が大きく手・足のなよやかな乳児」の象形から「子」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji29.html)、 と「子ども」の象形説のみである。 「籠(篭)」(漢音ロウ、呉音ル)は、 会意形声。「竹」+音符「龍」、「龍」は丸く細長いものを意味し、竹でそのように編んだかごに当てた(藤堂明保)、 と、 壟(小高い丘)に通じ、土を運ぶもっこの意。又は、「寵」に通じ、抱え込むの意、 の二説がある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B1%A0)とされるが、 会意兼形声。「竹+音符龍(ロウ 円筒状で長い)」。大蛇のように細長い竹かご(漢字源)、 形声。竹と、音符龍(ロウ)とから成る。竹製の「かご」の意を表す(角川新字源)、 会意兼形声文字です(竹+龍)。「竹」の象形と「龍」の象形(「龍」の意味だが、ここでは、「つめこむ」の意味)から、「土を詰め込む竹かご(もっこ)」を意味する「籠」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1369.html)、 等々、前者の説しか見えなかった。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「千三(せんみつ)」という言葉がある。 真実なのは千のうちわずか三つだけ、 という意で、 今は千といふ事三つもまことなしとて千三といふ男あり(西鶴「本朝桜陰比事」)、 と、 うそつき、 ほらふき、 さらに、単に、 嘘、 の意でも使う(広辞苑・大言海)。先後は分からないが、 千三屋、 という言葉があり、 千口の中、僅か三口だけ、相談が調ふ、 という意で、 地所の売買、 貸金、 等々の周旋を業とする人、 を指す(仝上)。「千三屋」とは、 地所の売買、又は貸金その他の周旋を業とするもの。千口の中にて相談纏り口銭でも取り得るものはただの三個位に過ぎぬとの意なり。その人をいふ、 とある(隠語大辞典)。 千三、 と同義の言葉に、 万のうちで、真実なのはわずかに八つだけという意で、 世に万八といふ事はこの男より始まりける(浄瑠璃「神霊矢口渡」)、 と、 万八(まんぱち)、 という言葉がある。これは、「千三」が、上述の『本朝桜陰比事』が元禄二年(1689)刊で使われていたが、 万八、 は、 明和・安永(1764〜1780)の頃の流行語、 とあり(江戸語大辞典)、 いつはりうそといふを、江戸尾張辺上野にて万八といふ、近年のはやり詞也、 とある(安永四年(1775)刊の「物類称呼」)。ただ、 江戸両国の萬屋八郎兵衛の略字に起こる、 ともある(大言海)。これは、文化十四年(1817)3月23日に、 両国柳橋の萬屋八郎兵衛の料理店「萬八楼」で大酒大食大会が開かれた、 という記録の「萬屋八郎兵衛」とつながりそうである。その記録では、酒組では、 小田原町堺屋忠蔵(68歳):三升入り盃三杯、 芝口の鯉屋利兵衛(30歳):三升入り盃六杯半、 小石川天掘屋七右衛門(73歳):五升入り丼鉢を一杯半飲み、 菓子組では、 神田丸屋勘右衛門(56歳):饅頭50、羊羹7棹、薄皮餅30、茶19杯、 八丁堀伊予屋清兵衛(65歳):饅頭30、鶯餅80、松風煎餅30、沢庵漬5本、 飯組(万年味噌の茶漬け)では、 和泉屋吉蔵(73歳):54杯と唐辛子58、 小日向上総屋茂左衛門(49歳):47杯、 三河島の三右衛門(41歳):68杯と醤油二合、 蕎麦組(二八蕎麦並盛り)では、 新吉原桐屋惣左衛門(42歳):57杯、 浅草鍵屋長介(49歳):49杯、 池之端山口屋吉兵衛(38歳):68杯、 となっているとか(兎園小説、http://denmira.jp/?p=8630)。しかし、これと、 万八、 という言葉の流行とはつながらない。ただ、柳橋「万八楼」は、 書画会、 を開き、即売会をやったとされていたことで知られていた(https://tukitodora.exblog.jp/13885579/)らしく、この大食い大会は、 「千住酒合戦」(文化十二年(1815)10月21日)の二年後、 に開かれたと、滝沢馬琴の『兎園小説』に出てくる話なのだが、これ自体、 馬琴が当時の文人たちに呼びかけ、毎月1回、身辺で見聞きした珍談・奇談を披露し合う「兎園会」で出たおもしろ話をまとめたもの、 で(http://www.jlogos.com/d013/14625122.html)、 明らかに他のものから「書き写した」記録、 も多く、 この大食い大会の話は、 浜町小笠原家の家臣某が実見した、 というの添え書きのある、 仲間の一人関思亮(海棠庵)が披露したもの、 とされる(https://tukitodora.exblog.jp/13885579/)。話半分としても、その飲食量は半端ではない。 どうやら「作り話」のようなのです、 とあり(仝上)、 他の話と違って名前の知れた人が一人も出てこないところが「作り話」と言われる所以なんでしょう、 としている(仝上)。あるいは、ここから、 万八、 という言葉が出たのかもしれない。因みに、「千住酒合戦」は、文化十二年(1815)10月21日、 日光街道千住宿の中屋六右衛門が自らの還暦を祝って開催した酒合戦、 で、 参加者それぞれの酒量に応じ、江ノ島盆(五合)、鎌倉盆(七合)、万寿無量盆(一升五合)、緑毛亀盃(二升五合)、丹頂鶴盆(三升)の盃が用意され飲むというもので、酒肴としてカラスミ・花塩・さざれ梅、蟹と鶉(うずら)の焼き鳥、羹として鯉にハタ子をそえたものが添えられ、これも半端ない量だが、 新吉原の伊勢屋言慶(62歳):三升五合余、 千住の松勘:全ての酒を飲み干した、 下野小山の左兵衛:七升五合、 料理人の太助:終日茶碗酒をあおった上で丹頂鶴盆(三升)飲み干す、 五郎左衛門妻の天満屋みよ女:万寿無量盆(一升五合)で酔った顔も見せず、 菊屋おすみ:緑毛亀盃(二升五合)、 等々の記録が、大田南畝の観戦記録(『後水鳥記』)に著され(http://denmira.jp/?p=8630)、江戸食文化史に名高い。この、 「後水鳥記」がもてはやされたので、その二番煎じをねらった、 のではないか、という(https://tukitodora.exblog.jp/13885579/)のは当たっているのかもしれない。 なお、大食い大会とは関係ないのかもしれないが、 万八、 は、 酒の異称、 とあり(広辞苑)、 満鉢の義、マンは満を引くのまん、はちは鉢にて、肴の意と云ふ、 とあり(大言海)、 しこみぬる、酒のかはるは、ういこんだ(男だての気ちがひくわうまん八がすきだと見えた)、種彦云、まん八とは酒の事なり、下に見えたる百韵の末の詞書に、吉田なにがし、……酒鉢とれば、まんはちをまくらふべき事をなん思ふ、……とあるに合わせてみるべし、 とある(足薪翁記(柳亭種彦)・奴とは)。「満を引く」は、 皆引満挙白(さかづき)(漢書)、 と、 酒をなみなみとついだ杯をとって飲む、 意となる(広辞苑)。 「万(萬)」(慣用マン、漢音バン、呉音モン)は、 象形。萬(マン)は、もと、大きなはさみを持ち、猛毒のあるさそりを描いたもの。のち、さそりは萬の下に虫を加えて別の字となり、萬は音を利用して、長く長く続く数の意に当てた。「万」は卍の変形で、古くから萬の通用字として用いられている、 とあり(漢字源)、 「万」の異字体は「萬」、 とされたり、 「萬」は「万」の旧字、 とされたりするが、「万」は、 古くから「萬」に通ずるが、「萬」との関係は必ずしも明らかでない、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%87)。 「万」はもとの字は「萬」に作る(白川静)、 「万」と「萬」とは別字で、「万」は浮き草の象形(新潮日本語漢字辞典・大漢語林。「万」と「萬」が古くから通用していることは認めている)、 「卍」が字源(大漢和辞典 西域では萬の數を表はすに卍を用ひる。万の字はその變形である)、 象形、蠆(さそり)の形。後に、数の一万の意味に借りられるようになった。現在でも、「万」の大字として使用される(角川新字源・漢字源)、 象形。もと、うき草の形にかたどる。古くからの略字として用いられていた(角川新字源)、 等々と諸説あり(仝上・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%90%AC)、「中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)は、 「萬」を「蟲なり」とするが、虫の名前は挙げず、説文解字注(段注)はサソリの形に似ているからその字であろう、 というが、白川静は「声義ともに異なる」と指摘する(仝上)。しかし、 「萬」が蠍の象形で、10000の意味は音の仮借、 という立場は、藤堂明保『学研 新漢和大字典』、諸橋轍次『大漢和辞典』、『大漢語林』、『新潮日本語漢字辞典』等々多くの辞典が支持する(仝上)、とある。数字の万としての用法はすでに卜文にみえる(白川)ようである(仝上)。 「八入」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484945522.html)で触れたように、「八」(漢音ハツ、呉音ハチ)は、 指事。左右二つにわけたさまを示す(漢字源)、 指事。たがいに背き合っている二本の線で、わかれる意を表す。借りて、数詞の「やつ」の意に用いる(角川新字源)、 象形文字です。「二つに分かれている物」の象形から「わかれる」を意味する「八」という漢字が成り立ち、借りて、数の「やっつ」の意味も表すようになりました(https://okjiten.jp/kanji130.html)、 などと説明される。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) みづからは、渡りたまはむこと明日とての、まだつとめておはしたり(源氏物語)、 の、 つとめて、 は、名詞で、 早朝、 の意であり、また、 つとめて少し寝過ぐしたまひて、日さし出づる程に出でたまふ(源氏物語)、 つとめて、さても昨日いみじくしたる物かなといひて、いざまたおしよせんといひて(宇治拾遺物語)、 と、 (前夜、事のあった)その翌朝、 の意でも使う(岩波古語辞典)。「夙に」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485537261.html)で触れたように、平安時代の漢和辞典『新撰字鏡』(898〜901)にも、 暾、日初出時也、明也、豆止女天(つとめて)、又阿志太(あした) とある(「暾」(カン)は、日の出の意。暾将出兮東方(暾トシテマサニ東方ニ出ントス (楚辞))。 ツトは夙の意、早朝の意から翌朝の意となった、 とあり(岩波古語辞典)、また、 「つとむ(勤・務・努)」の「ツト」もツトニ(夙に)のツトと同根、 とある(仝上)。ついでながら、「つとむ」は、 ツト(夙)を活用した語、 で、 早朝からコトを行う意、 となり(日本古語大辞典=松岡静雄・大言海・日本語の年輪=大野晋・岩波古語辞典)、 磯城島(しきしま)の大和(やまと)の国に明(あき)らけき名に負ふ伴(とも)の緒(を)心つとめよ(大伴家持)、 と、 気を励まして行う、 精を出してする、 努力する、 という意で使われるのにつながる(岩波古語辞典・大言海)。 「あした」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/447333561.html)で触れたように、「あした」は、 上代には昼を中心とした時間の言い方と、夜を中心にした時間の言い方とがあり、アシタは夜を中心にした時間区分のユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタの最後の部分の名。昼の時間区分(アサ→ヒル→ユフ)の最初の名であるアサと同じ時間を指した。ただ「夜が明けて」という気持ちが常についている点でアサと相違する。夜が中心であるから、夜中に何か事があっての明けの朝という意に多く使う。従ってアルクアシタ(翌朝)ということが多く、そこから中世以後に、アシタは明日の意味へと変化しはじめた、 とあり、上代の時間の言い方は、 昼を中心にした時間の区分、アサ→ヒル→ユフ、 夜を中心にした時間の区分、ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 と分けられている。そこで、「アサ」→「アシタ(翌朝)」が同じ「朝(あした)」なのと、「つとめて」の、 早朝→翌朝、 という変化は重なっている。類聚名義抄(11〜12世紀)は、 旦、ツトメテ、アシタ、アケヌ、 朝、ツトメテ、 夙、ツトメテ、アシタ、ハヤク、 平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)は、 朝、ツトメテ、 夙、ツトメテ、アシタ、ハヤク、 としている。つまり、 早朝を表す「つと(夙)」から派生した語、 のようである(日本語源大辞典)。 冬はつとめて、雪の降りたるは言ふべくもあらず、霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし(枕草子)、 雨うち降りたるつとめてなどは、世になう心あるさまにをかし(仝上)、 男、いとかなしくて、寝ずなりにけり、つとめて、いぶかしけれど(伊勢物語)、 などと、 「夙に」が漢文訓読調であるのに対して、「つとめて」は平安朝の和文に多く用いられている、 とある(日本語源大辞典)。 ただ、「夙に」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485537261.html)で触れたように、 つとに、 と、 つとめて、 と、 つとむ、 の「ツト」が同根なのはわかるが、「ツト」そのものの語源は、 ツトはハツトキ(初時)の上下略(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 ハツド(初時)ニの略(大言海)、 直ちにの意のツから(国語の語根とその分類=大島正健)、 ツトは日出の意の韓語ツタと同語(日本古語大辞典=松岡静雄)、 等々があるものの、限定できない。新撰字鏡(898〜901)のいう、 暾、日初出時成り、明也、豆止女天(つとめて)、又阿志太(あした)、 という説明から、 日初出時、 の、 初時、 特に、「初」とつなげたくなるが、断定は難しい。「つとめて」は、 つとに→つとむ→(つとめる)→つとめて、 といった転訛なのではあるまいか。 「夙に」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485537261.html)で触れたように、「夙」(漢音シュク、呉音スク)は、 会意。もと「月+両手で働くしるし」で、月の出る夜もいそいで夜なべすることを示す、 とあり(漢字源)、「夙昔(シュクセキ)」と「昔から」の意、「夙興夜寝、朝夕臨政」(夙に興き夜に寝て、朝夕政に臨む)と、「朝早く」の意である(仝上)。「早朝」の意の「つとめて」に当てたわけである。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 神佛によし、かん日、くゑ日など書きたりけるが、やうやうすゑざまになりて(宇治拾遺物語)、 にある、 神佛によし、 かん日、 くゑ日、 は、 いずれも、 暦注にある事項、 で、「暦注」とは、内田正男『暦と日本人』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481941578.html)で触れたように、 古暦の日付の下に付した注記、 つまり、 日時、方角の吉凶禍福に関する事項、 のことで、 暦本に記される事項、天象、七曜(木・火・土・金・水の五惑星と太陽と月)、干支、朔望、潮汐、二十四節気、 といった科学的・天文学的な事項や年中行事のほか、注記は二段に分かれ、 中段、 は、 北斗七星の星の動きを吉凶判断に用いた十二直(建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉)、 下段は、 選日(十干十二支の組合せによってその日の吉凶を占う)・二十八宿(月・太陽・春分点・冬至点などの位置を示すために黄道付近の星座を二八個定め、これを宿と呼んだもの)・九星(一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫)、 と、日の吉凶に関する諸事項を記した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6%E6%B3%A8・広辞苑他)。「十二直(じゅうにちょく)」は、古代中国で、 北斗七星の指す方角を月別に表示した一二の語、 で、 建(たつ)・除(のぞく)・満(みつ)・平(たいら)・定(さだん)・執(とる)・破(やぶる)・危(あやう)・成(なる)・納(おさん)・開(ひらく)・閉(とず)、 の12を言い、 のちに暦家がこの語を利用して一二日ごとに循環するものとし、干支と合わせてそれによって日の吉凶をいうようになり、 建除(けんじょ)十二神、 と呼んだが、日本では、古く奈良・平安時代の具注暦に見え、室町・江戸時代の仮名暦では、 十二直、 十二客(かく)、 と呼んでその吉凶を暦の中段に記入し大いに流行した(精選版日本国語大辞典)、とある。因みに、「仮名暦」は、漢字で書いた真名暦・具注暦に対して女子用のものとして発生した、が、のち暦の主流を占め、版暦として流布した(仝上)とある。 「神仏によし」とは、 神事、仏事によし、 の意で、神事は、 神社にお参りしたり、神道の行事をおこなうこと、 仏事は、 お寺にお参りしたり、仏教の行事をおこなうこと、 で、 それらをするのに良い日、 という意味になる(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11196377716)。 「かん日」は、 坎日、 と当て、 かんにち、 とも かんのひ、 とも訓ませ、 正月一日、坎日なりければ、若宮の御戴餅(いただきもちい)のこと停まりぬ(紫式部日記)、 と、 諸事に凶であるとして外出を忌む日、 とされる(広辞苑)。 九坎日、 ともいい、 1月の辰(たつ)、2月の丑(うし)、3月の戌(いぬ)、4月の未(ひつじ)、5月の卯(う)、6月の子(ね)、7月の酉(とり)、8月の午(うま)、9月の寅(とら)、10月の亥(い)、11月の申(さる)、12月の巳(み)の日、 をさす(ブリタニカ国際大百科事典)。 因みに、「坎」とは、 八卦の一つ、 卦の形は☵であり、初爻は陰、第2爻は陽、第3爻は陰で構成される。または六十四卦の一つであり、坎為水。坎下坎上で構成される、 とあり、 実際の占断で坎の卦がでると病勢は重症か、かなりの困難を考えなければいけない、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8E)。 「くゑ日」は、 凶会日、 と当て、 くえにち、 とも、 くえび、 とも訓み、 凶会(くえ)、 ともいい、 ことに人に知られぬもの、凶会日。人の女親の老いにたる(枕草子)、 と、 陰陽相克して、万事に凶である日、 とされる(広辞苑)。「くゑ日」は、 宣明暦(中国暦の一つ。正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)。日本においては中世を通じて823年間継続して使用された)時代には、一年に82回も頻出した暦法で、貞享暦(渋川春海によって編纂された初めての和暦。貞享二年(1685)に宣明暦から改暦、宝暦四年(1755)までの70年間使用された)になって整理されたとはいうものの、なお年間70回も顔を出す。凶会を注する日は、月毎に特定の干支の日として定められている。貞享暦の場合、正月は辛卯(かのとう、しんぼう)、甲寅甲寅(きのえとら、こういん)、二月は、己卯己卯(つちのとう、きぼう)・乙卯乙卯(きのとう、いつぼう)・辛酉辛酉(かのととり、しんゆう)……というようになっている……。『仮名暦略註』には、「倭暦に註する所の惡日なり。華本(中国暦)にいまだ其名目を考へず。然れども大抵吉事に用ふべからず」としている。悪事の集まる凶日ということであろう、 とある(広瀬秀雄『日本史小百科 暦』)。 下段に載るその他の吉凶暦注には、 受死日(じゅしにち じゅしび)、●をつけるので、俗に黒日(くろび)、辷日(まろぶひ)とも、大悪日、 十死日(じゅうしにち)、本来は天殺日(てんさつび)と書く。受死日に次ぐ惡日、 五墓日(ごむにち ごむび)、五墓とは五行の墓の意、土を動かす、地固め、開店、葬送、墓を作る、種まき、旅行、祈祷は、凶、 帰忌日(きこにち、きこび)、旅行先からの帰宅、里帰り、貸し出した物の返却、移転、金銭の貸し出し、嫁取りなどは凶、 血忌日(ちいみにちちいみび)、鍼灸、手術、死刑執行、狩猟、魚獣を殺すなど血を見ることや、奉公人の雇い入れは凶、 重日(じゅうにち、じゅうび)、巳の日(陽が重なる日)と亥の日(陰が重なる日)に当たり、吉事は良いが凶事には用いてはいけない、 等々約22箇条ある(仝上・https://saijigoyomi.com/kadan/)。 内田正男『暦と日本人』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481941578.html)で触れたように、暦注の大半は、暦ともに中国から伝来した、陰陽五行説、十干十二支(干支)に基づいたものであるが、特に最後の改暦となった、 明治五年の改暦、 以後、旧暦が廃止され、東京天文台も研究対象としていないので、それまでは、曲がりなりにも、天文方とかかわりがあり、たとえば江戸時代は、 暦を立てるのに必要な、二十四節気や、朔、あるいは日食・月食などの天文学的計算は幕府の天文方で行い、これを京都の幸徳井家(土御門の次席のような立場にある)に送って暦注を付け、これを再び天文方が検査して、京都の大経師が彫刻し刷上げた写本暦を幕府から領主・奉行を経て暦屋に渡し、各地の暦屋でそれぞれ実用上の板木をほり、それを天文方が検閲する、 という手続きを毎年とっていた。その肝心の官許の暦法すら、江戸中期の、有職故実家・伊勢貞丈は、 吉日、凶日、日に吉凶はなきことなり。吉日にも悪事をすれば刑罰免れがたし、凶日にも善事を行へば、褒賞せらる。(中略)是にて考うべし、暦に日の吉凶を記すは、吉凶もなき日に、強いて吉凶を付けたるなり、 といい、江戸後期の儒家・中井竹山は、 世に中段と称する、建徐(たつ・のぞく 十二直)の名は暦法に古く見へたることなれども、是又甚だの曲説にて、その外、下段と称する吉日、凶日、みな言ふに足らざることどもとす、 といい、以後旧暦を廃することになった明治五年改暦の布告で、 特に中下段ニ掲ル所ノ如キハ率(オオム)ネ妄誕無稽ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセズ、 と、消されたはずの「旧暦」が、明治十年代後半から、一枚刷りの暦などに、六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)が載り始めた、とある。 六曜は、本家中国では六百年も前に暦書から消えたもので、江戸時代もほとんど載らなかった代物である。この決め方は、 六曜は旧暦の月日で決まる。正月は先勝で始まるから、毎年元日はかならず先勝、七月一日も必ず先勝である。あとは二日友引、三日先負、四日仏滅、五日大安、六日赤口、そして七日はまた先勝である、 となる。この順を晦日まで続けて行けばいい。しかし、 晦日というのは旧暦では、小の月なら二九日、大の月なら三〇日のことで、その月が二九日か三〇日かどちらであるかは毎年計算によって決まるから暦を見ないと分からない、 うえに、 いずれにしても正月は毎年五日、一一……がよい日(大安)で、よい日の前日は必ず悪い日(仏滅)だということになってあまり面白味はない、 もので、江戸時代にはやらなかったはずである。旧暦だと、毎年、同じ月日の下に同じ六曜が載ることになるが、今日の六曜は、太陽暦のカレンダーにつけられている。 (上述の順で)割り当ててあると、旧暦の月替りの所で順序が狂うのが、しろうとには分からなくなるから迷信に神秘性を与える上でつごうがよい、 らしいのである(内田正男・前掲書)。迷信の迷信たる代表のような六曜にしてこれである。今日神社でもらう「神社暦」に、頁数を割いている「九星」は、本来、昔の暦注には載らず、暦注解説書にも説明されていないものらしく、 星といっても、これも天文学とは何の関係もない、 もので、縦・横・斜めの総和が15になる、いわゆる「魔方陣」の、 九つの星を年によってぐるぐる回しして、どの星の生れはどのうのと、大いに技巧をこらしたもの、 で、ある意味、「数字のおあそびに理窟をこじつけたもの」でしかない(内田正男・前掲書)。ぐるぐる回すだけで、運否占うのは確かに滑稽である。 なお、暦、暦注については、 渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482927759.html)、 広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482349187.html)、 でも触れた。また、北斗七星の斗柄が、十二支のいずれかの方角を指す。陰暦の正月は寅の方角を指し、二月は卯を指し、順次一年間に十二支の方角を指す「建(をざ)す」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481844249.html)についても触れた。 「坎」(漢音カン、呉音コン)は、 会意兼形声。欠(ケン)は、人がからだをくぼませたさまを描いた象形文字。坎は「土+音符欠」。土にくぼんだ穴を掘ること、 とあり(漢字源)、 「坎穽(カンセイ)」は、「陥穽」「と、陥」に書きかえられるものがある、 と(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9D%8E)、「陥」と同系である。 参考文献; 内田正男『暦と日本人』(雄山閣) 広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社) 渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』(雄山閣) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 無下(むげ)に候し時も、御あと(御あとべ 御床の傍)にふせさせおはしまして、夜中暁、大つぼ(大坪 便器)まゐらせなどし候しその時は(宇治拾遺物語)、 にある、 無下(むげ)に候し時、 は、 病気のひどかった時、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。この 無下、 は、 無気、 とも当てる(日本語源大辞典)、平安末期『色葉字類抄』に、 「無気、ムケナリ、無下同」と「無気」「無下」の字をあてているが、共に同じ意味のことばであるかどうか明らかでない、 が、 中世以降の文献で漢字で書かれる場合、意味の自然さからか、「無下」の表記が普通である、 とある(精選版日本国語大辞典)。多くは、 「むげの」の形で連体修飾、 に用いられ(仝上)、 それよりは下は無し、との意か、或は云ふ、無碍の音、或は云ふ、一向(ヒトムケ)の意と、さらば、ケは清音なり、 とあり(大言海)、 一向(ひたふる)なること、 これより下の無きこと、 一概、 いと、わりなきことのかぎりを云ふ、 とある(仝上)ので、たとえば、 今はむげの親ざまにもてなして扱ひ聞こえ給ふ(源氏物語)、 と、 まったくそうであること、 一向、 ひたすら、 の意や、 天下の物の上手といへども、始めは不堪のきこえもあり、むげの瑕瑾もありき(徒然草)、 と、 まったくひどいこと、 何とも言いようのないこと、 の意や、 故院の御時に、大后の、坊の初めての女御にて、いきまき給ひしかど、むげの末に参り給へりし入道の宮に、しばしは圧され給ひにきかし(源氏物語)、 と、 論外、 問題にならないこと、 の意や、 むげの者は手をすりて拝む(宇治拾遺物語)、 と、 はなはだしく身分の低いこと、 きわめていやしいこと、 の意や、 今迄心をむげにした恨みもつらみも許してたも(近松「重井筒」)、 と、 無駄、 むなしいこと、 の意でも使う(岩波古語辞典・広辞苑・デジタル大辞泉)。「むげ」は、上記の、 それよりは下は無し、との意か、或は云ふ、無碍の音、或は云ふ、一向(ヒトムケ)の意と、さらば、ケは清音なり(大言海)、 一向はひたすらの意であるところからムケ(向)の意か(雅言考)、 とされるが、この名詞「むげ」を、 無下に、 無下の、 と、副詞として使う場合、 むげに今日明日(会いたいと)おぼすに、女がたも……人知れず待ち聞え給ひけり(源氏物語)、 と、 むやみに、 ひたすら、 の意と、 むげに絶えて御いらへ聞え給はざらむもうたてとあれば(仝上)、 と、 すっかり、 まったく、 の意と、 射落とさむことはむげに易けれども(保元物語)、 と、 問題なく、 論外に、 の意と、 むげに世を思ひ知らぬやうにおぼほれ給ふなむ、いとつらき(仝上)、 と、 全然、 ちっとも、 の意と、さらに、 むげに断るわけにもいかない、 と、今日の、 一概に、 通り一遍に、 の意と使われるが、こうした使い方を見てみると、 「無碍に」の意、無下は当て字、否定表現、また否定的な意味の語を修飾して、全然、まるでの意味で使う、 とある(岩波古語辞典)ように、 無下、 と当てる用法には、 下は無し、との意、 あるいは、 一向(ヒトムケ)の意、 のように(大言海)、 一向(ひたふる)なること、 の意で、「ひたぶる(頓・一向)」(古くは「ひたふる」か)の、 態度が一途で、しゃにむに積極的に、あたりかまわず振舞うさまをいうのが原義。後に広く使われて、一途の意、 の(岩波古語辞典)、 親ののたまふことをひたふるにいなび申さむ事のいとほしさに(竹取物語)、 と、 もっぱらそのことに集中するさま、 いちず、 ひたすら、 の意や、 大菩提に於て永(ヒタフルニ)退転せじ(守護国界主陀羅尼経平安中期点)、 と、 完全にその状態であるさま、 すっかり、 まったく、 の意と重なる部分がある(精選版日本国語大辞典・仝上)ことは確かだが、「むげ」に、 無碍、 無礙、 と当て(明末の漢字字典『正字通(せいじつう)』には、碍、俗礙字、とある)、 無障礙、 ともいう仏教用語の、 障りや妨げが無く自由自在であること。融通無礙。阿弥陀仏がもつ十二の光の功徳(十二光)に無礙光がある。また諸仏の智慧を無礙智、理解力を無礙解、弁舌力を無礙弁といい、各々それを法・義・辞・楽説の四つに細分する(法無礙智・義無礙智・辞無礙智・楽説無礙智の如く。これを四無礙智(仏・菩薩のもつ4種の自由自在な理解能力と表現能力を智慧の面から示した言葉。法無礙智は教えに精通している、義無礙智は教えの表す意味内容に精通している、辞無礙智はいろいろの言語に精通している、この3種をもって自在に説く楽説無礙智)という)、 とある(世界宗教用語大事典)、 無碍、 意味の影があり、 無下、 は当て字で、 無碍、 をとり、副詞、 無下に、 も、 無下は当て字、 で、 無碍に、 を正とし(岩波古語辞典)、 「無下」は和製漢字、 で、 とらわれることなく自由である、という意味を表す仏語「無碍」が語源、 とする説もあり(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)、「無碍」の音から「無下」を当てたということはありえ、 とらわれることなく自由である→問題ない→まったく→いちず→ひどい、 と、意味を野放図に広げているようにも見える。ま、憶説だが、「無下」の意味に「無碍」の意味の翳がある。ただ、とはいえ、 融通無碍、 は、 融通無下、 とは表記できないので、 無下、 と 無碍、 には、今日でも、 無下にする、 無下に扱う、 無下に突き放す、 無下に断る、 の、 手ひどく、 そっけなく、 通り一遍に、 といった意と、 自由無碍、 闊達無碍、 の、 考えや行いにとらわれずに、思うがままにすること、 といった意との意味の差は厳然としてある。 なお「むげ」に、 無価、 と当て、 むか、 とも訓ませるのは、 無価の香を焚きて、もろもろの世尊に供養じ奉る(栄花物語)、 と、 価値をもってはかることができないほど貴重なこと、 の意であり、仏教用語である。転じて、 無価の大宝、 というように、 莫大、 至大、 の意でも使う(広辞苑・大言海)。 「無」(漢音ブ、呉音ム)は、「無作の大善」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485585699.html)で触れたように、 无、 とも書き、 形声。原字は、人が両手で飾りを持って舞うさまで、のちの舞(ブ・ム)の原字。無は「亡(ない)+音符舞の略体」。古典では无の字で無をあらわすことが多く、今の中国の簡体字でも无を用いる、 とあり(漢字源)、 音を仮借したもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1)、 もと、舞(ブ)に同じ。借りて「ない」意に用いる。のち舞とは字形が分化し、さらに省略されて無の字形となった(角川新字源)、 「人の舞う姿」の象形から「まい」を意味していましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「ない」を意味する「無」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji730.html)、 等々とあり、「舞」を略して借字したということのようだ。 「下」(漢音カ、呉音ゲ)は、「下火(あこ)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485809024.html)で触れたように、 指事。おおいの下にものがあることを示す。した、したになる意を表す、上の字の反対の形、 とある(漢字源)が、 指事。高さの基準を示す横線の下に短い一線(のちに縦線となり、さらに縦線と点とを合わせた形となる)を書いて、ものの下方、また、「くだる」の意を表す、 ともある(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%8B)。 「碍」(漢音ガイ、呉音ゲ)は、 会意。「石+得(みつかる)の略体」で、行く手をさえぎるように見える意志を表す、 とあり(漢字源)、 「礙」の俗字、 とある(字源)。 「礙」(漢音ガイ、呉音ゲ)は、 会意兼形声。疑はためらって足を止めること。礙は「石+音符疑」で、石が邪魔して足を止めること、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) そのすみは、したうづがたにぞありける(宇治拾遺物語)、 の、 したうづかた、 は、 襪型、 であり、 したうづ、 は、 したぐつの音便、 靴の下に履く足袋、いまの靴下、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。 「したうづ(したうず)」は、 下沓、 襪、 と当て、 しとうず(しとうず)、 とも言う(広辞苑・岩波古語辞典)。 類聚名義抄(11〜12世紀)には、 襪、したうづ、 とあり、名目抄(塙保己一(はなわほきいち)編『武家名目抄』)には、 襪、したうつ、 とある。 下履の義、 であり(大言海)、 沓(くつ)を履くときに用いる布帛(ふはく)製の履物(靴下の類)、 だが、 礼服(らいふく)には錦(にしき)、 束帯には白平絹(しろひらぎぬ)、 を用いる。 足袋に似ているが底布・指の分かれはなく、足首につけた紐(ヒモ)で結ぶ、 とある(広辞苑・デジタル大辞泉・学研全訳古語辞典)。なお、「襪」を履くのは、 礼服、 束帯、 の時だけで、衣冠・直衣(のうし)・狩衣などでは穿くことができず、老齢、病気以外、 礼服・束帯以外の装束では素足が基本、 とされる(有職故実図典)。 「礼服(らいふく)」は、 隋・唐の制を参考に、大宝(たいほう)の衣服令(りょう)で、朝服に加えて礼服を制定し、養老(ようろう)の衣服令によって改修された、 もので(有職故実図典)、 即位、大嘗祭(だいじょうさい)、元日朝賀等の重要な儀式、 に着用、 文官、武官、女官の別、 さらに、 天皇は冕冠(べんかん 冠の上部に五色の珠玉を貫いた糸縄(しじょう)を垂らした冕板(べんばん 方形の薄い板。両端に連珠の糸縄を一二流(東宮は九流)ずつ垂らす)をつけた)、赤地に竜文の衣、皇太子は黄丹(おうに)の衣、 と定められていた(仝上・百科事典マイペディア)。 文官の礼服は、 礼服冠(らいふくのかん)、衣(きぬ 大袖の下に小袖)、白袴(しろのはかま 下袴として大口(おおぐち 裾愚痴を括らずひろがっている)を使用)、帯(皇太子は白、他はすべて絛帯(くみのおび))、褶(ひらみ 裳(も)の一種。袴の上から腰にまとう)、綬(じゅ 乳の下から結んで垂れる白の絛帯(くみおび)で、平緒のように組んだもの平組みの帯 五位以上佩用))、玉佩(ごくはい・ぎょくはい 三位以上は付加)、牙(げ)の笏(しゃく)、襪(しとうず)、舃(せきのくつ)、 などからなり、武官の礼服は、 礼冠、緌(老懸 おいかけ)、位襖(いおう 「襖」は、わきを縫い合わせない上衣)、裲襠(うちかけ・りょうとう 長方形の錦(にしき)の中央にある穴に頭を入れ、胸部と背部に当てて着る貫頭衣)、白袴、行縢(むかばき 袴(はかま)の上から着装。「向こう脛巾(はばき)」から転じた)、大刀(たち)、腰帯、靴(かのくつ)、 などからなり(広辞苑・有職故実図典・精選版日本国語大辞典他)、 五位以上の所用で、衣は当色(とうじき 身分や位階に相当した色)によって区別があった、 とある(仝上)。 因みに、「玉佩」は、 腰に帯びるもの。上部及び中間部に金銅の花形の盤を設け、これに五色の玉を貫いた五筋の組糸を垂らし、各組糸の先端にも小さい花形の盤をつける。歩くと沓(くつ)の先端に当たって鳴る、 「綬」は、 礼服の付属具。乳の下から結んで垂れる白の絛帯(くみおび)で、平緒のように組んだもの、 「懸緒」は、 おいかけ(老懸・緌)、 ともいい、 冠につけて顔面の左右に覆いかけるもの。馬の尾の毛などで作り、本(もと)を束ね、先端を平らに開いて半月形とし、懸緒(かけお)で左右につけるのを普通とする、 とある(仝上・精選版日本国語大辞典)。 また「舃(せきのくつ)」は、 爪先が高くなっているので「鼻高履」ともいいました。中国からの舶載によるもので、男子用は黒革でつくられ、裏は赤地錦、女子用は錦(にしき)か緑の裂(きれ)でつくられ、金銀で飾りました。いずれも礼服着用の際に用いるもの、 とある(http://www.so-bien.com/kimono/syurui/sekinokutu.html)。「舃」(セキ)は「履(くつ)」の意である。 また、「靴(かのくつ)」は、 靴の沓、 とも当て、 牛革製黒塗の深沓様式で、立挙(たてあげ)を靴氈(かせん)と呼ぶ赤地または青地の錦で飾り、靴の上から足先を統べる靴帯(かたい)という金銅金具の帯をつけ、ホ具(かこ)に責金(せめがね)を入れ、着用後、ホ具によって締めた、 とあり(広辞苑・有職故実図典)、 毛の沓(くつ)、 靴(か)、 ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。本来武官のものだが、平安時代になると文官も使用した(有職故実図典)。なお「沓」については、「水干」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.html)で触れた。 「束帯」は、 飾りの座を据えた革の帯で腰を束ねた装束、 の意(有職故実図典)で、『論語』の公冶長篇の、公西華(字は赤)についての孔子の、 赤也何如(赤や何如)、 子曰、赤也、 束帯立於朝(赤(せき)は束帯して朝に立ち)、 可使與賓客言也(賓客と言(ものい)わしむべし)、 の言葉にある、 束帯立於朝、 に由来するとされ(仝上)、 公家(くげ)男子の正装。朝廷の公事に位を有する者が着用する。養老(ようろう)の衣服令(りょう)に規定された礼服(らいふく)は、儀式のときに着用するものとされたが、平安時代になると即位式にのみ用いられ、参朝のときに着る朝服が礼服に代わって儀式にも用いられ、束帯とよばれるようになった、 とある(有職故実図典・日本大百科全書)。 その構成は、下から、 単(ひとえ 肌着として用いた裏のない衣。地質は主に綾や平絹)・袙(あこめ 「あいこめ」の略。下襲(したがさね)と単(ひとえ)との間に着用)・下襲(したがさね 内着で、半臂(はんぴ)または袍(ほう)の下に着用する衣。裾を背後に長く引いて歩く。位階に応じて長短の制がある)・半臂(はんぴ 内衣で、袖幅が狭く、丈の短い、裾に襴(らん)をつけたもの)・袍(ほう 上着。「うえのきぬ」)を着用、袍の上から腰の部位に革製のベルトである石帯(せきたい)を当てる。袴(はかま)は大口袴・表袴の2種類あり、大口を履き、その上に表袴を重ねて履く。冠を被り、足には襪(しとうず)を履く。帖紙(たとう)と檜扇(ひおうぎ)を懐中し、笏(しゃく)を持つ。公卿、殿上人は魚袋(ぎょたい)と呼ばれる装飾物を腰に提げた、 とあり、武家も五位以上の者は大儀に際して着用した。その構成は、 冠、袍、半臂、下襲(したがさね)、袙(あこめ)、単(ひとえ)、表袴、大口(おおぐち)、石帯(せきたい)、魚袋(ぎょたい)、襪(しとうず)、履(くつ)、笏(しゃく)、檜扇(ひおうぎ)、帖紙(たとう)、 よりなる。文官用と武官用、および童形用の区別がある。文官は、 有襴(うらん 両脇が縫いふさがり,裾に襴(らん 縫腋(ほうえき)の裾に足さばきのよいようにつける横ぎれ。両脇にひだを設ける)がついた)の袍または縫腋の袍とよばれる上着を着て、通常は飾太刀(かざりたち)を佩(は)かぬが、勅許を得た高位の者は儀仗(ぎじょう)の太刀(たち)を平緒(ひらお)によって帯び、 武官は、 冠の纓(えい)を巻き上げて、いわゆる巻纓(けんえい)とし、緌(おいかけ)をつけた緒を冠にかけてあごの下で結んで留める。そして無襴の袍または闕腋(けってき)の袍といわれる、両脇(わき)を縫い合わせずにあけた上着を着て、毛抜形(柄(鉄製)と刀身とが接合され一体となるよう作られている)と称される衛府(えふ)の剣〈たち〉を佩く。弓箭(きゅうせん)を携え、箭(や)を収める具として胡籙(やなぐい)を後ろ腰に帯びる、 とある(仝上・日本大百科全書)。 因みに、「半臂」は、 袍(ほう)や位襖(いおう)の下に着用した朝服の内衣で、袖幅が狭く、丈の短い、裾に襴(らん)をつけたもの、 で、 「石帯」は、 袍(ほう)の腰に締める帯。牛革を黒漆で塗り、銙(か)とよぶ方形または円形の玉や石の飾りを並べてつける。三位以上は玉、四位・五位は瑪瑙(めのう)、六位は烏犀角(うさいかく)を用いた、 「魚袋(ぎょたい)」は、 朝服である束帯着用のときに腰に帯びる。中国、唐の魚符の制に倣った、朝廷に出入するときの証契(通行証)が装飾品となった。着け方は、普通、石帯の第一、第二の石の間に結んで右腰に下げる、 もので(仝上)、 鮫皮で包んだ長方形の小箱の表側に殿上人は銀、公卿は金の小さな魚の形6個、裏側に1個を飾り、その上に紫か緋(ひ)の組紐をつけた、 とあり(仝上・精選版日本国語大辞典)、 金魚袋は三位以上の者が用い、銀魚袋は四位・五位の者が用いた、 という(仝上)。 「襪」(慣用ベツ、漢音バツ、呉音モチ)、 は、 会意兼形声。「衣+音符蔑(見えない、隠してみえなくする)」。足先を隠す足袋や靴下、 とある(漢字源)。「韈」も同義となる。 「沓」(漢音トウ、呉音ドウ)は、 会意。「水+曰(いう)」で、ながれるようにしゃべることをあらわす。重ね合わせる意を含む、 とある(漢字源)。「靴」の意で使うのはわが国だけである。「鞜」は靴の意である。 「沓」については「水干」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.html)で触れた。 参考文献; 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) 貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫) 飯(いひ)・酒・くだ物どもなどおほらかにしてたべ(宇治拾遺物語)、 我も、子供にも、もろともに食はせんとて、おほらかにて食ふに(仝上)、 などの、 おほらか、 は、 たっぷりと、 の意である(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。 大から、 多らか、 と当て、 分量の多いさま、 たっぷり、 の意で、 「おほし」+接尾辞「らか」、 からきている(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%BB%E3%82%89%E3%81%8B)。 おほし、 は、 大し、 多し、 で、 オホ(大)の形容詞形。容積的に大きいこと、また、数量的に多いこと。さらに、立派、正式の意。平安時代に入って、オホシは数量的な多さにだけ使い、他の意味にはオホキニ・オホキナルの形を用いるように分化し、中世末期からオホイ(多)とオホキイ(大)との区別が明確になった。平安時代の仮名文学では、数の多さをいうオホシは連用形オホクの他はオホカリの諸活用形を使い、容積を表すにもオオキナリという終止形は使わない。おそらく、終止形オホシとオホキナリによって数量と容積とを区別することは漢文訓読体の文体的特徴と見られたので、女性語としてはそれを避けたものとみられる、 とあり、「おほし」自体に、 おほき海の水底(みなそこ)深く思ひつつ裳引(もび)き平(なら)しし菅原(すがはら)の里(石川女郎) 御文を面がくしにひろげたり、いとおほしくて(源氏物語)、 と、 容量の多さ、大きさ、 の意から、 所獲の功徳は其の量(はか)り甚だおほけむ(金光明最勝王経平安初期点)、 と、抽象的な、 分量の大きさ、 の意に、さらに、それをメタファに、 酒の名を聖(ひじり)と負(お)ほせし古(いにしへ)の大(おほ)き聖の言(こと)のよろしさ(大伴旅人)、 の、 立派である、 の意で使っている。この「おほし」の意味の幅が、 おほらか、 にもつながっていて、 容量の大きさ、 を、メタファに、 どこの鐘か、おほらかに空に響いて(里見ク『大道無門』)、 おおらかな人柄、 などというように、今日、 ゆったりとしてこせこせしない、 鷹揚、 の意でも使う。ちなみに、接尾語「らか」は、 まだらか、 うららか、 あららか、 あさらか、 なだらか、 たからか、 などと、たとえば、 時となく雲居雨降る筑波嶺をさやに照らしていふかりし国のまはらをつばらかに示し給へば(万葉集)、 と、 擬態語・形容詞語幹などを承けて、見た目に、〜であるさま、の意で使う。 とある(岩波古語辞典)。 「大」(漢音タイ・タ、呉音ダイ・ダ)は、「大樹」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/487425798.html)で触れたように、 象形。人間が手足を広げて、大の字に立った姿を描いたもので、おおきく、たっぷりとゆとりがある意。達(タツ ゆとりがある)はその入声(ニッショウ つまり音)に当たる、 とある(漢字源)。 「多」(タ)は、 会意。夕、または肉を重ねて、たっぷりと存在すること、 とあり(大言海)、いずれも会意文字としつつ、 夕(=肉)」を重ねて数多いことを意味する(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%9A)、 夕+夕。「切った肉、または、半月」の象形から、量が「おおい」を意味する「多」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji156.html)、 夕の字を二つ重ねて、日数が積もり重なる、ひいて「おおい」意を表す。一説に、象形で、二切れの肉を並べた形にかたどり、物が多くある意を表すという(角川新字源)、 と、微妙なニュアンスの差はあるが、 夕、または肉説、 をとる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 身の色は五色にて、角の色は白き鹿(しか)一(ひとつ)ありけり。深き山にのみ住て人に知られず、……また烏あり、此かせきを友として過ごす(宇治拾遺物語)、 の、 かせき、 は、 鹿の異名、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)が、 越国白き鹿(カセキ)一頭(ひとつ)を献れり(「日本書紀(720)」推古紀)、 一箇蒜(ひとつのひる)を白きかせぎに弾きかけ給ふ(景行紀)、 と、多く、 かせぎ、 といい、 鹿の古称、 である(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。 この由来を、雄の頭部の樹枝状の、 角が桛木(かせぎ)に似ているところから(デジタル大辞泉・広辞苑)、 と、 角桛木に似たれば名とす、桛は工字型を成すに、古製なるは、両端、外に反りたり、空也の徒の桛杖(かせづえ)は、頭に鹿角をつけたり、 ともある(大言海)。「桛杖(かせづえ)」は、 鹿杖、 とも当て、 鹿の角を頭につけた杖、空也上人の徒が創めたものという、 とある(広辞苑)。 わさづの(わさ角)、 杈椏杖(またぶりづえ)、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 「桛木(かせぎ)」は、 紡錘(つむ)でつむいだ糸をかけて巻く工字形の木。織機に付属して、経(たていと)を巻いておくもの、 で、 かせ(桛・綛)、 ともいい(「桛」「綛」は国字)、 紡錘つむで紡いだ糸を巻き取るH形またはX形の道具、 ともある(デジタル大辞泉)。 今日でも、「糸巻とり」を、 かせくり器、 と呼んでいる。 その形状は、「桛木」を図案化した「桛木紋」から推定できるが、どうも、鹿の角には見えない。 「桛杖(かせづえ)」は、上述したように、空也の徒の、 鹿の角を頭につけた杖、 の意もあるが、 鹿杖をつきてはしりまはりておこなふなりけり(宇治拾遺物語)、 と、 鹿杖、 あるいは、 鹿背杖、 とも当て、「鹿の角を頭につけた杖」とは逆に、 末端が叉(また)になった木の杖、 で(広辞苑)、 杈椏杖(またぶりづえ)、 わさづの、 あるいは、 帷(かたびら)計を着て中結て足駄を履て杈杖と云物を突て(今昔物語)、 と、 杈杖、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 また、 鹿杖、 あるいは、 杈椏杖(またぶりづえ)、 は、 末端が叉(また)になった木の杖、 の意の他に、 木の杖の上端に手をそえる架(かせ)を設けたもの、 であるため、別に、 杖の頭の丁字形をしたもの、 を、 鐘を打つ撞木(しゅもく)の形状に似るところから、 撞木杖、 ともいう(仝上)。取手の丁字形と杖先の叉(また)がセットになったものが多かったからであろうか。 しかし、撞木杖は、能の小道具でもあり、 頭の部分が丁字形をした杖、 であり、 検校および別当以上に用いることを許された、 とある(精選版日本国語大辞典)。ただ、同じく、 かせづえ、 ともいうのがややこしいし、また、 先に突きやすくするための叉(また)を設けたもの、 も、空也の徒の、 鹿の角を上端につけた杖、 も、ともに、皆、 杈椏杖(またぶりづえ)、 鹿杖、 桛杖(かせづえ)、 という(精選版日本国語大辞典)のは、まぎらわしい。というか、結構いい加減な使い方なのである。 しかし、この、 末端が叉(また)になった木の杖、 の、 杈椏杖(またぶりづえ)、 こそ、 桛木(かせぎ)、 とつながっていると思える。 確かに、平安後期の『散木奇歌集』(源俊頼家集)に、 山に遊び歩きけるに、鹿のひしる(叫ぶ)聲のしければ、 として、 桛(かせ)かけてひしる牡鹿の聲聞けば狙ふ我身ぞ遠ざかりぬる とあり、「かせぎ」と「桛木」との関連が根深い気がするが、「杈椏杖(またぶりづえ)」を、 先に突きやすくするための叉(また)を設けたもの、 をいうところから気づくのは、「桛木」「桛(かせ)」には、 大猿ありければ、木に追ひのぼせて射たりけるほどに、あやまたずかせぎに射てけり(「古今著聞集(1254)」)と、 と、 木の股(また)、 の意味、また、 股のある木で作って、柱などが傾くのを支え、または物を高い所へ上げるのに用いるもの、 の意味もあることである。「さすまた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484234894.html)で触れたように、 「さすまた」は、 杈首叉(さすまた)の義、 とあり(大言海)、「杈首(さす)」は、 叉手、 とも当て、「こまねく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484220493.html?1636055164)で触れたように、 杈首股、 と当て、訛って、 さんまた、 といい、それに、 三脵、 三叉、 と当て(広辞苑・大言海)、また、 みつまた、 またふり、 またざお、 さまた、 脵棹(またざお)、 等々ともいう(仝上)。この古名「またふり」は、 杈椏に山橘作りてつらぬき添えたる枝に(源氏物語)、 と、 杈椏、 と当て(大言海)、 またぶり、 ともいい(岩波古語辞典)、和名類聚抄(平安中期)には、 杈椏、末太布里、 字鏡(平安後期頃)には、 萬太保利、 とあるように、 またほり、 ともいい(大言海)、 木や竿のさきを二またにしたもの、 を、 杈杖(またふり)、 という。つまり、 杈椏杖(またぶりづえ)、 の、 杈椏(またぶり)、 は、この、 叉(また)になった木の枝、 に由来するのである。 「鹿」を「かせぎ」といった、 かせぎ、 は、この、 杈杖(またふり)、 杈椏(またふり)、 の意の、 桛木(かせぎ)、 からきているのではあるまいか。この形は、「桛木」の持つ意味の、 末端が叉(また)になった木の杖、 の、 桛杖(かせづえ)、 つまり、 杈椏杖(またぶりづえ)、 とも重なる。だから、「かせぎ(鹿)」の由来を、 枝の三またになったところを切って柱などのカセに用いるさんまたぎ(三又木)をカセギといい、鹿の角がそれに似ているところから(擁書漫筆・比古婆衣)、 とするのは、まさにそれなのである。 ただ別の視点から見ると、「鹿」の古名には、「かせぎ」のほか、和名類聚抄(平安中期)に、 鹿、加、 とある、 妻恋ひに鹿(か)鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく(万葉集)、 秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿(か)鳴かむ山そ高野原の上(仝上)、 という、 か(鹿)、 がある。これは、 鳴く声を名とす、「カヒヨとぞ鳴く」などいふ(大言海・広辞苑・松屋筆記・雅語音声考)、 とされる(日本語源大辞典)。「鹿」は、 ししおどり(鹿踊)、 ししおどし(鹿威)、 というように、 肉・宍(しし)」と同語源、 で、和名類聚抄(平安中期)に、 肉、之之、肌膚之肉也、 とあり、 二、三食用の獣類を、日本語でシシといった、 と(柳田國男『一目小僧その他』)、 猪(いのしし)や鹿など食肉用の野獣の総称、 で、 ゐのしし(豬の肉) と区別して、 是の日に鹿(カノシシ)有て忽に野中より起(お)きて、民の中に入て仆れ死せぬ(仁徳紀)、 と、 かのしし(鹿の肉)、 といった。この「か(鹿)」に鑑みると、 かせぎ、 の「か」を「鹿」と考え、 カセキ(鹿柵)の意(和訓栞)、 と、「せき」を別に考え、 「か(鹿)」+「せき」 とする説もあり得る。「せき(柵)」が妥当とは思わないが、たとえば、「せく」には、 塞く、 があり、 セシ(狭)と同根、 とある(岩波古語辞典)。角からそう考える説も、まんざら憶説とばかりは言えない気がする。 「しか(鹿)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461284450.html)については触れたが、「しか」は、 其(かの)苞苴(ほうしょ つと)は何の物そ。対へて言はく、牡鹿(シカ)なり。問ひたまはく、何処(いつこ)の鹿(シカ)そ(仁徳紀)、 と、 めか(女鹿)にたいしていうせか(夫鹿・雄鹿)の転、 とされる(広辞苑・大言海・万葉集講義=折口信夫・日本語源広辞典・精選版日本国語大辞典)。この場合も、「か(鹿)」から考えられている。「鹿」の古名、 かせぎ、 もまたその可能性はある。 女鹿(めか)に対す、かせぎと云ふも、鹿夫君(かせぎみ)なりと云ふ、 とある(大言海)のも、「か(鹿)」から考える「か+せぎ」とする別説といえる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大なる銀の提(ひさげ)に銀のかひをたてて、おもたげにもてまゐりたり(宇治拾遺物語)、 御膳まゐるほどにや、箸、かひなど、とりまぜて鳴りたる、をかし(枕草子)、 侍、かひに飯をすくひつつ、高やかに盛り上げて(今昔物語)、 などとある、 かひ、 は、 匙、杓子の類、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。 因みに、「ひさげ」は、「とっくり」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474699082.html)でも触れたが、 提子、 と当て、 金属にて鍋の如く造り、酒を盛りて盃に注ぐ器、注口あり、鉉(つる)有りて提(ひさ)ぐべし、 とあり、『類聚名義抄』(11〜12世紀)に、 提、ひさげ、 『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』(平安時代後期)に、 提一口三升納、 とある(大言海・日本大百科全書)。 さて、「かひ」は、 匙、 匕、 と当て、 食物をすくう具、 つまり、 さじ、 の意である(広辞苑)。平安時代には、「かひ」が使われているが、 さじ、 の呼称は鎌倉時代の茶道の隆盛以降で、「茶匙」(さじ)の文字があてられ、銀、銅、陶磁器、木、竹などを材料とした、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。 和名類聚抄(平安中期)に、 匙、匕、和名賀比、所以取飯也、 字鏡(平安後期頃)に、 枸(杓の誤か)、杯也、加比、 匕、薬乃加比、 ともある。その由来は、 もと貝殻を用いたところから(デジタル大辞泉)、 貝の転用、古く実際に貝を使った(岩波古語辞典)、 その形が貝に似ていることから(和訓栞・名言通・和訓栞)、 古く貝殻を用いていたところから(精選版日本国語大辞典・国語大辞典)、 等々、 貝(かひ)、 とするものがある一方、 殻(かひ)を用ゐたるに起これるか、形の似たるにより云ふか、沖縄にて、匙をケエと云ふ(大言海)、 と、 殻(かひ)、 とするものもある。「たまご」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481618276.html)で触れたように、 かひ、 に当てるものには、 卵、 殻、 貝、 等々あり、「貝」は、 介、 とも、 殻、 とも当てる(岩波古語辞典)。「貝(かひ)」は、和名類聚抄(平安中期)に、 貝、加比、水物也、 とあり、 殻(カヒ)あるものの義、貝(バイ)の字はこやすがひなり(大言海)、 であり、「卵(かひ)」も、 殻(かひ)あるものの義、 であり、「殻(かひ)」は、和名類聚抄(平安中期)に、 殻、和名與貝(かひ)、同虫之皮甲也、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 稃、イネノカヒ、 とあるように、 卵(かひ)、貝(かひ)などすべて云ふ(大言海)、 米のもみ殻(岩波古語辞典)、 と「殻」のあるものを指す(大言海・岩波古語辞典)。だから、 貝(かひ)、 も、 殻(かひ)、 に収斂する。因みに、「匙」を、 さじ、 と訓ませるのは、 茶匙の字音から(広辞苑・日本釈名)、 茶匙(さじ)は音訳(「茶」のサは唐音、「匙」のジは呉音)(漢字源)、 茶匙(さじ)の字音、匙(ヒ)、匕(ヒ)は、同じくして、飯杓子(めしじゃくし)なり、其形を、小さく作りたるものとおぼしく、茶録に、茶匙見えてあれば、元来は、末茶の用の物なりしを、種々の物にも用ゐることとなれるならむ(大言海)、 「さ」は「茶」の漢音で、「さじ」は「茶匙」の字音(日本語源大辞典)、 等々とあり、 飯杓子の如くして、小さきもの、 であり(大言海)、 中世の茶道、香道では「香匙(きょうじ)」、 といった使い方をするし、 匙を投げる、 は、 調剤用の匙を投げ出す意、 から、 医者がこれ以上治療の方法がないと診断する、 医者が病人を見放す、 となる(日本語源広辞典・精選版日本国語大辞典)。 「匙」(漢音シ、呉音ジ、慣用ヒ)は、 会意兼形声。是(シ・ゼ)は「まっすぐなさじ+止(足)」の会意文字で、匙の原字。のち「これ」という意の指示詞や、是非の是に用いられるようになったため、匕印(すきまに差し込むさじ)を添えた匙(シ)の字によって、原義を表すようになった。匙は「匕+音符是」、 とある(漢字源)。別に、 象形文字です。「匕」は「妣(ヒ)」の原字です「年老いた女性」の象形から、「亡き母」を意味する「匕」という漢字が成り立ちました。また、「比(ヒ)」に通じ(同じ読みを持つ「比」と同じ意味を持つようになって)、「亡き父と並ぶ人」の意味も表します。更に、箸(はし)と並ぶもの「さじ(スプーン)」の意味をも表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2824.html)。 「匕」(ヒ)は、 象形。匕は、「妣(ヒ 女)」の原字で、もと細かいすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。匙(シ)の字に含まれる。また、この字全体を二またのスプーンを描いた象形文字と見てもよい。先端が薄くとがり、骨と肉とのすき間に差し込める食事用のナイフ。少しくぼみをつけるとスプーンともなり、もっぱら切り突くのに用いれば匕首(あいくち)となる、 とある(漢字源)が、「牝鶏の晨す」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/487851012.html)で触れた、「牝」(漢音ヒン、呉音ビン)の字の、 会意兼形声。「ヒ」(ヒ)は、女性の姿を描いた象形文字で、妣(ヒ 女の先祖)の原字。牝は「牛+音符ヒ」で、めすの牛。女性の性器が左右両壁がくっついて並んださまをしていることからでたことば、 とあり(漢字源)、 「尼」「牝」の「ヒ」形は女性器を象ったものだが、さじの意の「匕」とは別源、また「化」「死」「北」等の「ヒ」形は人を象ったもので、これも別源・別形、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%95)のと比較した時、上記「匕」の解釈では、「匕」(ヒ)が「ヒ」(ヒ)と重なっていて矛盾するような気がする。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) あるにもあらず手ににぎられたる物をみれば、わらすべといふ物ただ一筋にぎられたり(宇治拾遺物語)、 の、 わらすべ、 は、 わらしべ、 の転訛、 藁稭、 と当て、 わらしび、 とも訛るが、 稲の穂の芯、 の意で、 わらくず、 わらみご、 ともいい、その意味では、 藁の細いもの、 の意の、 わらすぢ(藁筋)、 とも重なり、「わらすぢ」は、 わらしべ、 の意でも使う(広辞苑・日本語の語源)。「しべ(稭)」は、『和玉篇』(室町初期)に、 筵、わらしべ、 とあり、 藁の穂の芯、 の意で(広辞苑)、 藁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、頸もちぎるばかり引きたるに(徒然草)、 と、「しべ」は、 藁蘂の義(大言海)、 とあり、いわゆる、 蘂、 蕊、 蕋、 と当てる「しべ」、和名類聚抄(平安中期)の、 蕊、和名之倍(しべ)、花心也、 とある、 花蕊、 つまり、 おしべとめしべの総称、 と繋がっている。「しべ」は、 シメ(締)の転、総べ括る意か(大言海)、 シメスベの略で、花の中心を占める義(本朝辞源=宇田甘冥)、 心辨の音か(和訓栞)、 等々諸説あるが、いずれにしても、 芯、 の意なので、本来は、 にごり酒などをしべの先にて請けのみ(狂言・夷毘沙門)、 と、 藁の穂の芯、 の意になるが、広く、 打藁のくず、 くずわら、 の意でも使う(広辞苑)。だから、 わらみご(藁稭)、 の「みご」は、 稭、 稈心 と当て、 藁の外側の葉や葉鞘(はざや)を取り除いた茎の部分、 を意味する(デジタル大辞泉)。因みに、「稈」(カン)は、 稲、竹などのイネ科植物を主とする単子葉植物の茎、 を指す(精選版日本国語大辞典)。「みご」は、 身子の義、 ともあり(大言海)、 みご箒、 ということばがあるように、 穂を着くる茎を云ひ、強靭にして種々の用に供せられる、 とある(仝上)。 「藁」は、江戸後期の箋注和名抄に、 藁、和良、禾莖也、 とあり、 和和良にて、散乱の義(大言海)、 ワラワラから(日本語源=賀茂百樹)、 ばらばらにする意の、ワラ(散)クルから(国語の語根とその分類=大島正健)、 バラバラのバラの転bara→ wara(日本語源広辞典)、 などとあるように、 ばらばらの状態、 を表現する擬態語由来と見られ、 玉に貫き消(け)たず賜らむ秋萩の末(うれ)わわらばに置ける白露(万葉集)、 と、 ほつれ乱れた葉、 やぶれそそけた葉、 の意の わわらば、 という言葉もある。もっとも、「わわらば」は、別に、 玉に貫き消たず賜(たば)らむ秋萩の末(うれ)和久良葉に置ける白露、 と、 和久良葉(わくらば)、 ともあり、諸本は、 和々良葉、 とあって、多く、 わわらば、 と訓ませるが、諸説ある(精選版日本国語大辞典)、ともあるが。 「かひ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488608272.html?1654280160)で触れたことと重なるが、「かひ(殻)」は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 稃(もみがら)、いねのかひ、 とあるように、 貝(かひ)、卵(かひ)などすべて(の殻に)いふ、米のもみ殻をも云ふ、 ので、 藁の穂の芯、 という意味で、 から(殻の莖・幹)の転、kwaraのkの脱落でwara(日本語源広辞典)、 も捨てがたいが。 「藁」(コウ)は、 会意兼形声。「艸+音符稾(コウ 立ち枯れ)で、きびやこうりゃんのたちがれ、 とある(漢字源)。どうやら、 きびがら(黍殻)、 を指したらしい。別に、 形声文字です(艸+高+木)。「並び生えた草」の象形と「高大な門の上の高い建物の象形(「高い」の意味だが、ここでは「確」に通じ(「確」と同じ意味を持つようになって)、「堅い」の意味)と大地を覆う木の象形」(木が堅くなる「枯れる」の意味)から、枯れた草「わら」を意味する「藁」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2716.html)。 「稭」(カイ・カツ)は、 皮を取り去った藁、 の意であり、「わらしべ」である。それによってつくった「筵」の意でもある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) もとは紙ぎぬ一重ぞきたりける。さて、いとさむかりけるに(宇治拾遺物語)、 とある、 紙ぎぬ、 は、 紙衣、 と当て、 かみこ、 かみころも、 かみきぬ、 などと訓み、 紙子、 とも当て、 かみこ、 ともよませる。 紙製の衣服、 の意で、 生漉(きすき・きずき 楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などを用い、他の物をまぜないで、紙を漉くこと)の腰が強い、 とされる(日本大百科全書)、 かみこ紙と云ふ一種の白き紙、 を(大言海)、糊(のり)で張り合わせ、着物仕立てにした、 保温用の衣服、 で(広辞苑・岩波古語辞典)、 紙を糊で張り合わせて、その上に柿渋を引いたりするため、紙自体がこわばりやすいので、これを柔らかくするために、張り合わせたあと、渋を引いてから天日で乾燥させ、そのあと手でよくもんで夜干しをする。翌日また干して、夕刻に取り込み、再度もむ。これを何回か繰り返して、こわばらないように仕上げ、 て(日本大百科全書)、 渋の臭みを去ってつくった とある(広辞苑)。もとは、 律宗の僧が用いた、 が、後には一般の貧しいものの、 防寒用、 となり、元禄(1688〜1704)の頃には、 肩・襟などに金襴・緞子などをもちい、種々の染込みなどをした贅沢品も作られ、 遊里などでも流行した(広辞苑・岩波古語辞典)、とある。糊は、 江戸時代にはワラビの根からとったものであり、現在はこんにゃく糊を使用する、 とある(日本大百科全書)。 渋を用いずして白き、 を、 白紙子、 といい、 破れやすい部分には別に、 火打(ひうち)、 という三角形の紙を貼る(大言海)、とある。古代から僧衣として用いられ、その伝統を引いて今日も、奈良・東大寺の二月堂の修二会(しゅにえ)の際に着用されている(日本大百科全書)。 紙子四十八枚、 という言葉がある。「紙衣」は、 胴の前後に二十枚、左右の袖に四枚、裏に二十四枚の紙を用いて作る、 からである(岩波古語辞典)。もっとも、 身上は紙子四十八枚ばらばらとなつて(西鶴織留)、 というように、紙子を着る貧しさをいう喩えとして言うのだが。 さて、「紙衣」は、漢語で、 しい、 と訓ませると、 紙の衣、死者に用いる、 とあり(字通)、宋史・棲真伝に、 食はざること一月、〜十二月二日を以て、紙衣を衣(き)て磚塕(せんたふ)に臥して卒(しゆつ)す。〜歳久しきに及んで、形生けるが如し。衆始めてき、傳へて以て尸解(しかい 仙化の一、人がいったん死んだのちに生返り、他の離れた土地で仙人になること)と爲す、 とある(仝上)。ために、古く、 紙衣、 を、訛って、 しえ、 といった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%A1%A3)らしい。 「かみこ」は、 紙衣(かみころも)の略か、紙小袖(かみこそで)の略か、 とあり(大言海)、古くは、 かみぎぬ、 といい、中世末から、 かみこ、 と呼ぶようになった(日本語源大辞典)。 古へ、麻布なりしに起こる(大言海)、 という、 布子(ぬのこ)、 綿の入った、 綿子(わたこ)、 などのように「こ」は愛称(日本語源大辞典)と思われる。 「紙衣」は、 秀吉公、白紙子の御羽折、紅梅の裏御襟(続武家閑談)、 とあるように、貴賤を問わず着用しており、豊臣秀吉の小田原出陣の際には、 駿河宇津山にて馬の沓の切れたのを見た石垣忠左衛門という者が沓を献じたところ、秀吉手ずから紙衣の羽織を賜わった、 とあり(一話一言)、必ずしも貧者のみのものではなかったが、 綴り詫びたる素紙子(すがみこ)や、垢に冷たきひとへ物に(宿直草)、 と、 近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられたもののようである。「素紙子」は、 すかみこ、 とも訓ませ、 柿渋を引かないで作った安価な紙子、 で(デジタル大辞泉)、 白紙子、 ともいい、 安価なところから貧乏人が用いた(精選版日本国語大辞典)。 また、紙衾(かみぶすま・かみふすま)、 というものもあり、 紙子作った粗末な夜具、 で、 槌(う)ちたる藁を綿に充(あ)て、紙を外被(かは)として、蒲団に製せるもの、 で(大言海)。別に、 天徳寺(てんとくじ)、 ともいうが、江戸時代、 江戸西窪、天徳寺門前にて、売りたれば名とす、 とある(仝上)。 日向ぼこりを、天道ぼこりと云ひし如く、日の暖なるを、天徳寺と云ふ、寺にかけて、戯として云ひしかと云ふ。紙衾は隠語とす。戯とは、どうしだもんだ、広徳寺の門だの類、 とある(仝上)。幕末の守貞謾稿には、 天徳寺、江戸困民、及武家奴僕、夏紙張を用ふ者、秋に至りて賣之、是にわらしべを納れて周りを縫ひ、衾として再び賣之、困民奴僕等、賈之て布團に代りて、寒風を禦ぐ也、……享保前は是を賣歩行く、享保以来廃して、今は見世店に賣るのみ、 とある。確かに、 紙子賣、 が居て、 引賣りやもみぢの錦紙子賣(誘心集)、 時なるを紙子賣る聲初時雨(柳亭筆記)、 などと、 初冬の頃、市中を売りて歩くを業とする者、 が居た。また、 紙子頭巾(かみこずきん)、 というのは、 紙子紙(かみこがみ)で作った頭巾、 で、防寒用であったが、浪人などが多く使用した(精選版日本国語大辞典)。 紙子羽織(かみこばおり)、 というものは、紙子の羽織。金襴や緞子などを施した奢侈品もあったが、多くは、 安物で貧乏人が着用した、 とある(仝上)。 なお、「紙子」には、 紙子着て川立ち、 紙子着て川へ陥(はま)る、 などと、 無謀なことのたとえ、 としていう諺もある。 「紙」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465665211.html)で触れように、「紙(帋)」(シ)の字は、 会意兼形声。氏は匙(シ さじ)と同じで、薄く平らなさじを描いた象形文字。紙は『糸(繊維)+音符氏』で、繊維をすいて薄く平らにしたかみ、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(糸+氏)。「より糸の象形」と「鋭い刃物で目を突き刺しつぶれた目の象形」から繊維の目をつぶして、平たくなめらかにした「かみ」を意味する「紙」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji369.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) ひきいでたるをみれば、ふくたいといふ物を、なべてにも似ず、ふときいとして、あつあつとこまかにつよげにしたるをもてきたり(宇治拾遺物語)、 その蔵にぞ、ふくたいのやれ(破れ)などは、をさめて、まだあんなり(仝上)、 とある、 ふくたい、 は、異本には、 たいといふもの、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)とある。 たい、 は、和名類聚抄(平安中期)に、 玄弉三蔵表云、衲袈裟一領、俗云能不(のふ)、一云太比(たひ)、 とあり(仝上)、 衲(のう)、 つまり、 衲衣(なふえ・のうえ 納衣)、 言い換えると、 衲袈裟(なふげさ・のうげさ)、 の意味ではないかとし、「ふくたい」を、 服体(和訓栞)、 腹帯、 服衲、 とさまざまに当てる説があるとした上で、 胴着、 と見ている(仝上)。「衲(のう)」は、旧仮名遣いで、 なふ、 と表記し、 暑げなるもの 随身の長の狩衣。衲(のふ)の袈裟。出居(いでゐ)の少将(枕草子)、 とある、 衲の袈裟、 つまり、 衲衣、 の意であり、それを提喩として、 僧、 の意で、僧自身が、 小衲、 拙衲、 と使ったり、僧を、 衲僧、 衲子(のっす)、 老衲、 野衲(やのう)、 と言ったりする。「衲」には、 補綴、 の意があり(広辞苑)、「衲衣」は、 衲子(のっす)の行履(あんり)、旧損(くそん)の衲衣等を綴り補うて捨てざれば、物を貪惜(とんじゃく)するに似たり(正法眼蔵随聞記)、 と、 朽ち古びたぼろ布を集め綴って作った法衣(ほうえ)、 を意味する。「衲衣」は、 納衣、 とも当てるが、佛祖統紀(咸淳五年(1269) 南宋・僧志磐撰)の慧思傳、注に、 五納衣、謂、納受五種舊弊以為衣也、俗作衲字失義、 とあり、 納に作を正しとなす、 とある(大言海)。大乗義章(だいじょうぎしょう 慧遠(523〜92年)著)に、 言納衣者、朽故破弊縫納供身、 とあり、 人の捨てて顧みざる布帛を繕い集めて作れる法衣、 である(大言海)。 衲袈裟、 糞掃衣(ふんぞうえ)、 とも言い、 比丘は、これを着するを十二頭陀行の一とする故、それを着る僧の称、 ともなる(仝上)。因みに、 糞掃衣残闕、 が東京国立博物館に残っている。この糞掃衣は、 不定形なさまざまな色の平絹を何枚か重ね合わせ、細かく刺し縫いして七条の袈裟に仕立てている。裂の表面は、ちょうど小波(さざなみ)がたったように波皺(なみしわ)状にみえ、一部には表面が擦れて下から別色の裂がわずかにのぞき、これらが相互に相まって微妙な色合いを呈し、一種独特な雰囲気を醸し出している、 とある(https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100636&content_part_id=000&content_pict_id=000)。「七条の袈裟」とあるのは、 二長一短の七条の袈裟、 をさし、 古くは布きれや使い古しの布を継ぎ合わせて作られていました。そのため、小さい面積の布を数枚継ぎ合わせたものを縫製して仕立てます。この継ぎ合わせた一枚を条といいます。腰に巻きつけるだけのものは、 五条袈裟、 と言われ、5枚の布から作られます。条は5~25までの枚数を用いて袈裟を縫製しますが、奇数の枚数のみが使われます。条の数が大きくなると、それだけ一条の幅が小さくなります。 二長一短、 というのは、2枚の長い布と1枚の短い布を組みあわせて、七条に継ぎ合わせてあるという意味です、 とある(https://en-park.net/words/7926)。 「糞掃衣」というのは、 サンスクリットのパンスクーラpāsukūlaの訳、 で、 糞塵(ふんじん)中に捨てられた布を拾い集めてつくった袈裟。袈裟として、もっとも理想的なもので尊重される、 とある(日本大百科全書)。しかし、 衲衣と同一にみるのは中国に至ってからで、インドではまったく区別されている、 とあり、衣財(えざい)は、貪著(どんじゃく)の心を除くための衣財で 10種の衣があり、牛嚼(ごしゃく)衣、鼠噛(そこウ)衣、焼衣、月水(がっすい)衣、産婦衣、神廟(しんびょう)中衣、塚間(ちょうけん)衣、求願(ぐがん)衣、受王職衣、往還衣(おうげんえ)、 をあげている(「四分律(しぶんりつ)」)。同一視されてからは、糞掃衣は、 衣財についての名称、 衲衣は、 製法についての名、 としているようで(仝上)、「衲衣」は、 衣財(えざい)を細小に割截(かっせつ)し、縫納してつくるところから、 いい、5種の衣財(有施主衣、無施主衣、往還(おうげん)衣、死人衣、糞掃衣)による衲衣を、 五納衣、 という(仝上)ともある。 ちなみに、「法衣(ほうえ)」とは、 如法(にょほう)の衣服の略称、 で、 法服、 僧服、 僧衣、 衣(ころも)、 ともいい、 僧尼が着ける衣服、 で、インドにおける意味は、截しない一枚の布では、欲望がおこるため、それを小さく切り、一枚の長い布と短い布をつなぎ合わせて1条とし、 安陀会(あんだえ 5条つないだもの(布を10枚縫い合わせる))、 鬱多羅僧衣(うったらそうえ 7条つないだもの(布を21枚縫い合わせる))、 僧伽梨衣(そうぎゃりえ 9〜13条は長い布を二枚、短い布を一枚、15〜19条は三長一短、21〜25条は四長一短に区画。25条衣は125枚の割截した布が必要)、 の、 三衣(さんえ・さんね)、 をさし、 安陀会(あんだえ)、 は、寺内で掃除など雑行のときに着用し、もっとも身近に着けた。 鬱多羅僧衣(うったらそうえ)、 は、 誦経(じゅきょう)したり講義を聞くときに着用し、 僧伽梨衣(そうぎゃりえ)、 は、宮や集落に入って乞食(こつじき)説法するときに着用した(日本大百科全書)。 一枚の方形の生地に仕立てた、 ので、 方衣、 ともいう。仏制に衣と称するのは、 袈裟、 の意だが、後世に袈裟と衣とを分けて、袈裟を、 三衣、 と称し、 衣、 と別物とした(啓蒙随録)とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A2%88%E8%A3%9F)。 「袈裟」は、 カーシャーヤ(kāṣāya)の音訳、 で、 赤褐色、 を意味する(仝上)、 仏教修行者と他宗教の修行者とを見分けるために定められた制服、 である(仝上)。だから、もとは、 色名で、衣の名称ではなかったが、比丘の衣が不正色(ふせいじき 濁色)であったところから衣の名となった、 という(日本大百科全書)。その形は、 田の畦畔(けいはん)が整然としているのから、長い布と短い布をつなぎ合わせてつくった、 とあり、袈裟の条相が田の畦(あぜ)をかたどっており、田に種を播(ま)けば秋に収穫があるように、仏を供養(くよう)すればかならず諸々の福報を受ける、 という意味から、袈裟は、 福田衣(ふくでんえ)、 ともいわれる(仝上)。 ただ、後世、上半身を覆う、 偏衫(へんざん)、 腰より下をまとう、 裙子(くんず)、 上下を一つにした、 直裰(じきとつ)、 等々僧の身に着けるものすべてを仏法の衣服として法衣(ほうえ)と称したので、インドの仏教教団で着用した袈裟とはかなりかけ離れたものに変わっている(仝上)。 ちなみに、「衲衣」は、 十二頭陀行(「頭陀」はdhūta の音訳。払い除くの意)、 の一つとされるが、それは、 衲衣・但三衣・常乞食・不作余食(次第乞食)・一坐食・一揣食・住阿蘭若処・塚間坐・樹下坐・露地坐・随坐(または中後不飲漿)・常坐不臥、 となる。本来は、「乞食」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/454711838.html)で触れたように、 衲衣、 ではなく、 糞掃衣、 なのかもしれない。 「衲」(漢音ドウ、呉音ノウ)は、 会意兼形声。「衣+音符内(中に入れ込む)」、 で、「繕う」意だが、 破れ目を縫い込めた衣、 の意から、 僧侶の衣服の意、 とある(漢字源)。 「納」(漢音ドウ、呉音ノウ、唐音ナッ・ナ・ナン、慣用トウ)は、 会意兼形声。内(ナイ)は「屋根のかたち+入」の会意文字で、納屋の中に入れ込むこと。納は「糸+音符内(ナイ)」で、織物を貢物としておさめ、蔵に入れ込むことを示す、 とある(漢字源)が、 形声。糸と、音符內(ダイ)→(ダフ)とから成る。しめった糸の意を表す。転じて「いれる」意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(糸+内)。「より糸」の象形と「家屋の象形と入り口の象形」(「いれる・はいる」の意味)から、水の中に入れひたした糸を意味し、そこから、「おさめる」、「入れる」を意味する「納」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji986.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 凡そけだかくしなしなしう、をかしげなる事、ゐ中人(なかびと)の子といふべからず(宇治拾遺物語)、 にある、 しなしなし、 は、 上品で、 の意とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。「しなしなし」は、普通、 田舎びたるされ心もてつけて、しなじなしからず(源氏物語)、 と、 しなじなし、 といい、 品々し、 と当て、 いかにも品格が高い、 上品である、 という意で使う(広辞苑・岩波古語辞典)。 品格、 を、 しな、 と訓ませるのと繋がっている(大言海)。 品、 を、 しな、 と訓ませると、 品、 科、 階、 と当て、 階段のように順次に高低の差別・序列のあるもの、転じて、序列によって判定される物の良否、 の意味で(岩波古語辞典)、 層をなして重なったもの、 の、 階段、 種類、 地位、 品位、 巧拙、 事の次第、 といった意味の幅がある。「品」を漢語の音で訓んで、 品がある、 というのは、漢字のもつ意味からきているが、 しなじなし、 には、「品」を大宝令で、「三品(さんぼん)の親王」というように、一品(いっぽん)から四品(しほん)まで、親王に賜った位がある。この「品」のもつ意味の翳がある気がする。 なお、似ているが、 五体をも弱弱と、心に力を持たずして、しなしなと身をあつかふべし(「花鏡(1424)」)、 の、 しなしな、 は、 しなやかなさま、 で、 靭(しな)ひ、撓む状に云ふ語、 とある(大言海)ように、 撓(たわ)む、 意の、 しな(撓)ふ、 からきている。その転訛したのが、 萎れる、 意の、 しな(萎)ぶ、 とある(仝上)。ただ「しなふ」は、 しなやかな曲線を示す意、類義語たわむは加えられた力を跳ね返す力を中に持ちながらも、押され曲がる意、しなう(萎)は萎れる語で別語、 ともある(岩波古語辞典)。確かに、 しな(撓)ふ、 と しな(萎)ぶ、 では、語意も語感も異なる気がするが、「しなしな」には、上記の、 心に力を持たずして、しなしなと身をあつかふべし(花鏡)、 の、 しないたわむさま、 の意が、江戸時代になると、 おかねや、其様にしなしなして居ちゃァならねへヨ(人情本「氷縁奇遇都の花(1831)」)、 と、 張りのないさま、 元気のないさま、 の意で使い、 「しなやか」「しなふ」の語幹を重ねた語、 とある(江戸語大辞典)ように、「しなしな」が、 しな(撓)ふ→しな(萎)ぶ、 と、意味が変化したようなのである。だから今日、擬態語、 しなしな、 は、 柔らかく弾力があって撓んだり身をくねらせる、 意と共に、 張りがなく、しぼんでいる様子、 の意があるが、 しなしなになっていく、 という言い方で、今日、 しぼむ、 意で使うことが多い(擬音語・擬態語辞典)とある。もはや、両者を別語とは見なしていないようである。 「品」(漢音ヒン、呉音ホン)は、 会意文字。口三つを並べて、いろいろの名の物をあらわしたもの。一説に、口ではなく、四角い形三つでいろいろな物を示した会意文字、 とある(漢字源)。「物品」「品級」「人品」「品評」などと使う。別に、 会意。口(しなもの)を三つ並べて、区別して整理された多くの物、ひいて、しなわけ、物の値うちの意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(口+口+口)。「色々な器物」の象形から、とりどりの個性を持つ「しな」を意味する「品」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji535.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) まめやかにさいなみ給へば、殿上の人々したなきをして、みなわらふまじきよしいひあへり(宇治拾遺物語)、 にある、 したなき、 は、 舌鳴、 と当て、 恐れるさま、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)が、あまり辞書には載らない言葉で、ネットで検索しても、 下泣き、 は出るが、 舌鳴、 は出ない。わずかに、 舌鳴き、 舌哭き、 と当てて、 舌打ち、 の意としている(岩波古語辞典・広辞苑)。 上記の宇治拾遺の引用は、 青常(あをつね)の君、 などと陰であだなして嗤っているのを父の重明親王が、 まめやかにさいなみ給ふ、 つまり、 真顔で咎めた、 のだから、 舌打ち、 というよりは、 恐縮した、 という意味の方が近い。 「舌打ち」は、 舌を上あごに当てて、弾き鳴らす、 ことで、 失敗して舌打ちする、 というように、 思うようにならない時や、いまいましいときのしぐさ、 なのだが、小動物の注意を引くなどの行う場合は「舌打ち」とは呼ばれずに、 舌を鳴らす、 などと呼ばれることも多いともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8C%E6%89%93%E3%81%A1)。 「舌鳴」は、語の意味からいうと、 舌で鳴く、 か 舌が鳴く、 で、本来は、 舌打ち、 の意だったのだろうと、推測できる。その意味では、 心の中では承服していないが、親王に咎められたので不承不承したがった、 という含意なのかもしれない。「舌鳴き」に近い言葉に、 この為体(ていたらく)にした振ひ、慌しく船を返して(弓張月)、 と、 舌をふるふ、 という言葉がある。 舌を振ふ、 と当て、 兵どもこれを聞いて物も云はず、舌を振りて怖(お)ぢあへり 舌を振る、 ともいい、 恐れおののく、 意であるが、これだと、少し強すぎるようだが、この方が文脈に適う気がする。。 因みに、 天だむ軽のをとめの甚(いた)泣かば人知りぬべし波佐の山の鳩の下泣きに泣く(古事記)、 とある、 下泣き、 は、 まめやかに六借(むつか)らせ給ひければ、殿上人共皆したなきをして(今昔物語)、 と、 隠(しの)びて泣く、 つまり、 忍び泣き、 の意で、 「した」は心の意(デジタル大辞泉・広辞苑)、 シタは隠して見せない意(岩波古語辞典)、 心泣(したなき)の義(大言海)、 などとされる。「下」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463595980.html)は、 「うは」「うへ」の対。上に何か別の物がくわわった結果、隠されて見えなくなっているところが原義。類義語ウラは、物の正面から見たのでは当然見えないところ。シモは、一連の長いものの末の方をいう、 とあり、 その上や表面に別の物が加わっているところ、 の意で(岩波古語辞典)、 内側、 物の下部、 の意があり、 隠れて見えないところ、 の意で、 物陰、 (人に隠している)心底、 という意味がある。これは、「うらなう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html)で触れたように、「心=裏」とする説に通じ、 ココロ(心)はココロ(裏)の義。ココロ(神)はカクレ(陰)の義(言元梯)、 諸物に変転するところから、コロコロ(転々)の義(百草露)、 ココはもとカクス・カクル(隠)の語幹カクと同源のカカ。本来隠れたもの・隠しているものの義(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 等々とあり、 下泣き、 を、 心泣(したなき)、 としたのとつながる。だから、大言海は、 した、 に、 下、 舌、 とは別に、 心、 を当てる「した」を一項立て、 胸の下の義か、 とし、 したにのみ恋ふれば苦し紅の末摘花の色に出でぬべき(古今集)、 と、 心の底、 心中、 心裏、 の意としている。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「した」に当てるのには、 下、 舌、 簧、 がある。「下」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463595980.html)については触れた。ここでは、 舌、 簧、 である。「舌」は、言うまでなく、 大きなる鹿、己が舌を出して、矢田の村に遇へりき(「播磨風土記(715頃)」)、 と、 口腔底から突出している筋肉性の器官。粘膜に覆われ、非常によく動き、食物の攪拌(かくはん)・嚥下(えんげ)を助け、味覚・発音、をつかさどる、 口中の器官の一つであり、 べろ、 あるいは、方言では、 したべろ(舌べろ)、 したべら、 したびろ、 などともいう(広辞苑・デジタル大辞泉)。和名類聚抄(平安中期)には、 舌、之太、 とある(大言海)。
この、「舌」をメタファに、 せめののしりければ、あらがひて、せじと、すまひ給ひけれど(宇治拾遺物語)、 にある、 すまふ、 は、 争ふ、 抗ふ、 拒ふ、 などと当て、 相手の働きかけを力で拒否する意、 で(岩波古語辞典)、 人の子なれば、まだ心いきほひなかりければ、とどむるいきほひなし。女もいやしければ、すまふ力なし(伊勢物語)、 と、 争ふ、 負けじと張り合ふ、 抵抗する、 為さんとすることを、争ひて為させず、 という意味と、 もとより歌の事は知らざりければ、すまひけれど、しひてよませければ、かくなむ(仝上) 草子に歌ひとつ書けと、殿上人におほせられければ、いみじう書きにくう、すまひ申す人々ありけるに(枕草子)、 と(大言海)、 拒む、 ことわる、 辞退する、 と、微妙に意味のずれる使い方をする(広辞苑)。この名詞、 すまひ、 は、 相撲、 角力、 と当て、 乃ち采女を喚し集(つと)へて、衣裙(きぬも)を脱(ぬ)きて、犢鼻(たふさぎ)を着(き)せて、露(あらは)なる所に相撲(スマヒ)とらしむ(日本書紀)、 と、 互いに相手の身体をつかんだりして、力や技を争うこと(日本語源大辞典)、 つまり、 二人が組み合って力を闘わせる武技(岩波古語辞典)、 要するに、 すもう(相撲)、 の意だが、今日の「すもう(相撲・角力)」につながる格闘技は、上代から行われ、「日本書紀」垂仁七年七月に、 捔力、 相撲、 が、 すまひ、 と訓まれているのが、日本における相撲の始まりとされる(日本語源大辞典)。「捔力」は、中国の「角力」に通じ、 力比べ、 を意味する(日本語源大辞典)。字鏡(平安後期頃)にも、 捔、知加良久良夫(ちからくらぶ)、 とある(日本語源大辞典)。中古、天覧で、 儀式としての意味や形式をもつもの、 とみられ、 其、闘ふ者を、相撲人(すまひびと)と云ひ、第一の人を、最手(ほて)と云ひ、第二の人を、最手脇(ほてわき)と云ふ、 とあり(大言海)、これが、制度として整えられ、 勅すらく、すまひの節(せち)は、ただに娯遊のみに非ず、武力を簡練すること最も此の中に在り、越前・加賀……等の国、膂力の人を捜求して貢進せしむべし(続日本紀)、 とある、 相撲の節会、 として確立していく(仝上)。これは、平安時代に盛行されたもので、 禁中、七月の公事たり、先づ、左右の近衛、力を分けて、國國へ部領使(ことりづかひ)を下して、相撲人(防人)を召す。廿六日に、仁壽殿にて、内取(うちどり 地取(ちどり))とて、習禮あり、御覧あり、力士、犢鼻褌(たふさぎ 下袴(したばかま 男が下ばきに用いるもの)の上に、狩衣、烏帽子にて、取る。廿八日、南殿に出御、召仰(めしおほせ)あり、力士、勝負を決す。其中を選(すぐ)りて、抜出(ぬきで)として、翌日、復た、御覧あり、 とあり(大言海)、その後、 承安四年(1174)七月廿七日、相撲召合ありて、その後絶えたるが如し、 とある(仝上)。また、別に、 相撲の節は安元(高倉天皇ノ時代)以来耐えたること(古今著聞集)、 ともある(日本語の語源)。高倉天皇は在位は、応保元年(1161)〜治承四年(1181)、承安から安元に改元したのが1175年、安元から治承に改元したのが1177年なので、安元から治承への改元前後の頃ということか。なお、「犢鼻褌(たふさぎ・とくびこん)」については「ふんどし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477980525.html)で触れた。 スマヒの勝ちたるには、負くる方をば手をたたきて笑ふこと常の習ひなり(今昔物語)、 とあるように、禁中では、相撲の節会は滅びたが、民間の競技としては各地で盛んにおこなわれていた(日本語源大辞典)とある。また、「すまひ(相撲)」は、武技の一のひとつとして、昔は、 戦場の組打の慣習(ならはし)なり。源平時代の武士の習ひしスマフも、それなり、 と、 組討の技を練る目的にて、武芸とす。其取方は、勝掛(かちがかり 勝ちたる人に、その負くるまで、何人も、相撲こと)と云ふ。此技、戦法、備わりて組討を好まずなりしより、下賤の業となる(即ち、常人の取る相撲(すまふ)なり)、 とあり(大言海)、どうやら、戦場の技であるが、そういう肉弾戦は、戦法が整うにつれて、下に見る傾向となり、民間競技に変化していったものらしい。 ところで、「すまひ」は、動詞「すまふ」の名詞化とされているが、上代に動詞としての使用例は見られず、名詞形「すまひ」も、 一般に格闘技全般を表したか、すもう競技にかぎられたものか明らかでない、 とある(日本語源大辞典)。上代は、古事記の、 然欲爲力競、 として、 建御名方神(タケミナカタ)が建御雷神(タケミカヅチ)の腕を摑んで投げようとした、 とあるのが、いわば「すまひ」の原型とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2)、今日の「相撲」というよりは「格闘」を指していたと思われる。 和名類聚抄(平安中期)には、 相撲、角觝、須末比、 類聚名義抄(11〜12世紀)には、 角觝、スマヒ、 とある。中古では、上記の例のように、「すまひ」は、 競技またはその行事、 を指し、「すまふ」は、 負けまいとして張り合う、 意で使い、中古和文の仮名書き例は、 すまふ、 のみであるが、中世には、 すまう、 も使用されるようになる(文明本節用集・運歩色葉・日葡辞書等々)。中世末には、「すまふ」より「すまう」の方が、より日常的な語形となっていたと考えられる(日本語源大辞典)、とある。 確定的な文献がないため、 動詞「すまふ」が名詞化して「すもう」になったか、「すまふ」の連用形「すまひ」がウ音便化されたか、 は、っきりしないとある(語源由来辞典)。ただ、「すまふ」を、 セメアフ(攻め合ふ)という語は、セの母音交替[eu]、メア〔m(e)a〕の縮約の結果、スマフ(争ふ)に変化した。「あらそふ。負けまいと張り合う。抵抗する」意の動詞である。〈女も卑しければスマフ力なし〉(伊勢)。〈秋風に折れじとスマフ女郎花〉(後拾遺集)、 とみなし、それが、 スマフ(相撲ふ)に転義、そして、二人が組み合い力を戦わせて勝負することをいう。その名詞形のスマヒ(相撲。角力)は力比べの競技のことをいう。〈当麻蹶速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)とをスマヒとらしむ〉(垂仁紀)、 と、名詞に変化したとみている説もある(日本語の語源)。いきなり名詞というより、 動詞→名詞化、 の方が自然な気はする。 なお、「すもう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455706928.html)については触れたことがある。 「争」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、 会意文字。「爪(手)+一印+手」で、ある物を両者が手で引っ張り合うさまを示す。反対の方向に引っ張り合う、の意を含む、 とある(漢字源)が、別に、 会意。爪と、尹(いん 棒を手に持ったさま)とから成る。農具のすきをうばいあうことから、「あらそう」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です。「ある物を上下から手で引き合う」象形と「力強い腕の象形が変形した文字」から力を入れて「引き合う」・「あらそう」を意味する「争」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji714.html)。 「抗」(漢音コウ、呉音ゴウ)は、 会意兼形声。亢(コウ)とは、人間のまっすぐに立ったのどくびの部分を示した会意文字。抗は「手+音符亢」で、まっすぐたって手向かうこと、 とある(漢字源)が、別に、 会意形声。「手」+音符「亢」、「亢」は人が直立することの象形又は会意。真っ直ぐに立って、手向かうこと。「杭(真っ直ぐなくい)」「航(真っ直ぐに進む)」「坑(真っ直ぐなあな)」と同系、「工(穴をあけ通す)」とも近縁か、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8A%97)、 形声。手と、音符亢(カウ)とから成る。高くあげる意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(扌(手)+亢)。「5本指のある手」の象形と「盛りあがったのどぼとけ」の象形(「のど・たかぶる」の意味)から、「手を高くあげる」、「こばむ」を意味する「抗」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1076.html)。 「拒」(漢音キョ、呉音ゴ)は、 会意兼形声。巨(キョ)は、取手のついた定規のかたちを描いた字。定規は上線と下線とが距離をおいて隔たっている。拒は「手+音符巨」で、間隔をおし隔てて、そばに寄せないこと、 とある(漢字源)が、 持ち手の付いた定規(「矩」)を象る。定規の両端をへだてる、 とあるのがわかりやすい(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8B%92)。別に、 形声文字です(扌(手)+巨)。「5本の指のある手」の象形と「とってのあるさしがね・定規」の象形(「さしがね・定規」の意味だが、ここでは、「却」に通じ(「却」と同じ意味を持つようになって)、「しりぞける」の意味)から、「手でしりぞける」を意味する「拒」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1784.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 直衣(なほし)のながやかにめでたきすそより、青き打ちたる(砧で打って光沢を出した)いだし袙(あこめ)して、指貫も青色のさしぬきをきたり(宇治拾遺物語)、 の、 いだし袙(あこめ)、 とあるのは、 直衣の下から下着(袙)の裾を出るようにして、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。 出衣(いだしぎぬ)、 ともいい、 貴族の男子の晴れの姿の折の、風流な衣服の着方の称。「直衣(なほし)」や「狩衣(かりぎぬ)」などの裾(すそ)から、下着の「衵(あこめ)」「袿(うちき)」などの裾を、わざとのぞかせて着るしゃれた着方をいい、それぞれ「出だし衵」「出だし袿」などとも呼ぶ、 とある(学研全訳古語辞典)。「出衣(いだしぎぬ)」は、 直衣の下、下着の衵(あこめ)の重ねを美麗に仕立て、前身を指貫(さしぬき)に着籠めずに、裾先を袍(ほう)の襴(らん)の下からのぞかせる、 という、いわば、 おしゃれな着方、 らしい(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「いだしぎぬ」の、 きぬと云ふは、衣服にて、仕立ては小袖の如し、此の語は、出褄(イダシヅマ)、出衵(イダシアコメ)、出袿(イダシウチギ)などの総称、 として用いている(大言海)。 出衣と申候は、直衣の衣冠等を、著(ちゃく)する時、風流のため、衣の裾を、聊、袍(ほう)の裾に見せ候やうに著成(きな)す事に候、是を出衣(いだしぎぬ)とも、出袿(いだしうちき)とも申す(新井白石と野宮定基の「新野問答」(黄門白石問答(こうもんはくせきもんどう)等々ともいう)、 とある(大言海)。ただ、「出衣」には、別に、 牛車の簾(すだれ)の下から女房装束の裾先を出して装飾とすること、寝殿の打出(うちで)のように装束だけを置いて飾りとするが、童女の車は実際に乗って童女装束の汗衫(かざみ)や袴の裾を出す、 ことにもいう(学研全訳古語辞典)。 「あこめ」は、 衵、 袙、 と当て、和名類聚抄(平安中期)に、 袙、阿古女岐奴、 とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 衵、アコメキヌ、アコメ、 とあり、 あこめぎぬ、 の下略して、 あこめ、 という(大言海)。 装束の表着(うわぎ)と単(ひとえ)の間にこめて着る衣の略装です。男子は、腰下丈で、脇あきで、表袴(うえのはかま)に着込め、下襲(したがさね)を重ねますが、女子は、単と同様、脇は縫い合わせ、裾を長くひき、袴の上に重ねました。平絹(へいけん)の裏をつけた袷(あわせ)仕立てで、表は、固地綾に小葵(こあおい)や菱(ひし)文の浮き線綾などで、季節によって美を競いました、 とある(http://www.so-bien.com/kimono/syurui/akome.html)。だから、「あこめ」は、 装束の表着(うわぎ)と単(ひとえ)の間にこめて着る衣の略装(仝上)、 下襲(したがさね)の下、単(ひとえ)の上に重ねて着用し、間籠(あいこめ)の意(有職故実図典・日本語の語源)、 単と下襲の間に着こむる故に、あひこめの訓にて、あこめと云ふ也(貞丈雑記)、 単と下がさねとの間に込めて着るので「間+込め」の音韻変化(日本語源広辞典)、 等々、「込」か「籠」の違いはあるが趣旨は同じである。 もとは、防寒の具と見られるが、藤原時代の末から、 いわゆる打袙(うちあこめ 打衣(打衣) 砧で打ち、つやを出した)となり、表の地質を板引(いたびき 絹の張り方 砧打ちの手間を省くために、蝋などの植物性の混合物で生地をコートして艶と張りを持たせる)にするに及んで、強装束(こわしょうぞく 厚めの布地や糊を張ってこわばった生地を使って仕立てたもの)の衣紋の形を整えるのに役立つようになった、 とある(有職故実図典)。鎌倉時代になると、下襲(したがさね)の裏にも板引が施されるようになり、「あこめ」を省くようになったが、夏だけは他が皆薄物であるため、形を整えるために、(あこめの)裏地を除いた、 引倍木(ひへき)、 と称するものを用いた(仝上)という。 因みに、「下襲」とは、 下襲衣(したがさねきぬ)の略、 で、 半臂(はんぴ)の下、あるいは、直接袍の下に襲ねた。垂領(たりくび 領(えり)の左右を垂らして、引き違えて合わせる着用法)で、腋を闕腋(けってき 腋があいている)風にあけ、二幅の後身(うしろみ)の裾は時代の下降とともに長さを加え、下襲の尻とも、単に裾(きょ)とも称している、 とあり(有職故実図典)、 前より後ろ身頃が長く、「袍」の裾から出して着用、 する(http://www.so-bien.com/kimono/%E7%A8%AE%E9%A1%9E/%E4%B8%8B%E8%A5%B2.html)。 「半臂」(はんぴ)は、 昔、束帯のとき、袍(ほウ)と下襲(したがさね)の間につける胴衣。身二幅で袖がない短い衣で、着けると臂(ひじ)の半ばまで達するのでこの名がある。裾に足さばきをよくするために襴(らん)という幅七寸(約二一センチメートル)の絹をつけるのを特色とする、 が(精選版日本国語大辞典)、後世、胴と襴を別にした切(きり)半臂(山科流)と、そのまま付属したのを用いる続(つづき)半臂(高倉流)とになる(仝上)。 「袍(ほう)」は、 束帯や衣冠などの時に着る盤領(まるえり)の上衣、 で、 文官の有襴縫腋(ほうえき 両脇の下を縫ったもの)と武官の無襴闕腋(けってき)の二種がある。盤領(まるえり)で、身幅二幅、袖幅一幅半を例とする。地質は、冬は綾、夏は縠織(こめおり)。五位以上は家流による有紋、地下は無紋。文官の縫腋はまつはしのきぬといい、武官の闕腋はわきあけのころもともいう、 とある(精選版日本国語大辞典)。 「直衣(なほし)」は、 衣冠が宿衣(とのいぎぬ)なのに対して、直(ただ)の衣の意で、平常の服であることからきた名、 である。束帯、衣冠のように当色(とうじき 位階に相当する服色)ではなく、好みの色目を用いたことにより、 雜袍(ざつぽう)、 と呼ばれた。ただ、 雜袍聴許、 を蒙っての参内、あるいは院参などの場合は、一定の先例にしたがった(有職故実図典)、とある。その場合の 直衣姿、 は、 冠、 直衣付当帯、 衣(きぬ)、 指貫、 下袴、 檜扇(ひおうぎ)、 浅沓、 となっている(仝上)。 「指貫」は、 袴の一種。八幅(やの)のゆるやかで長大な袴で、裾口に紐を指し貫いて着用の際に裾をくくって足首に結ぶもの。朝儀の束帯の際に略儀として用いる布製の袴ということから布袴(ほうこ)ともいうが、次第に絹製となり、地質・色目・文様・構造なども位階・官職・年齢・季節によって異なった、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 横開き式の袴で前後に腰(紐)がつけられ、前腰を後ろで、後ろ腰を前で、もろわなに結ぶ。裾口(すそぐち)に通した緒でくくり、すぼめるようにしてある、 もので(日本大百科全書)、 衣冠、または直衣、狩衣の時に着用する、 とある(広辞苑)。 「狩衣」については、は「水干」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.html)で触れた。 「衵」(漢音ジツ、呉音ニチ)は、 会意兼形声。「衣+音符日(柔らかく暖かい、ねっとりした)」 とあり(漢字源)、柔らかい普段着、の意であるが、これを、「あこめ」に当てた。 「袙」(漢音バク・ハ、呉音ミャク・ヘ)は、 会意兼形声。「衣+音符白」で、白い布のこと、 とあり(仝上)、 布の頭巾。昔武人が頭に巻いて飾りとし、同時に貴賤の別をあらわす目印とした とある。「あこめ」に、 衵、 を誤用したことから慣用化したものとある(仝上)。いずれの字も原義とは異なっている。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) みれば額に角おひて目一つある物、あかきたふさきしたる物出来て、ひざまづきてゐたり(宇治拾遺物語)、 の、 たふさき、 は、 たふさぎ、 たうさぎ、 とふさぎ、 とも表記し、古くは、 わが背子が犢鼻(たふさき)にする円石(つぶれし)の吉野の山に氷魚(ひを)ぞ懸有(さがれる)(万葉集)、 とあり、色葉字類抄(1177〜81)にも、 犢鼻褌、たふさき、 と、 清音で、現代表記では、 とうさぎ、 となり、 犢鼻褌、 犢鼻、 褌、 と当てる(広辞苑・大言海・日本語源大辞典)。別に、 したおび、 はだおび、 まわし、 すましもの、 ちひさきもの、 したも、 したのはかま、 はだばかま、 とくびこん(犢鼻褌)、 等々ともいう(大言海)。いまでいう、 ふんどし(褌) のようなものとされ、 今の越中褌のようなもの、まわし、したのはかま(岩波古語辞典)、 股引の短きが如きもの、膚に着て陰部を掩ふ、猿股引の類、いまも総房にて、たうさぎ(大言海)、 肌につけて陰部をおおうもの、ふんどし(広辞苑)、 等々とあるので、確かに、 ふんどし、 のようなのだが、「ふんどし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477980525.html)で触れたことだが、 犢鼻(とくび)、 と当てたのは、それをつけた状態が、 牛の子の鼻に似ていること(「犢」は子牛の意)、 からきている(日本語源大辞典)とする説もあり、確かに、和名類聚抄(平安中期)に、 犢鼻褌、韋昭曰、今三尺布作之、形如牛鼻者也、衳子(衳(ショウ)は下半身に穿く肌着、ふんどしの意)、毛乃之太乃太不佐岐(ものしたのたふさき 裳下(ものしたの)犢鼻褌)、一云水子、小褌也、 とあり、下學集(文安元年(1444)成立の国語辞典)にも、 犢鼻褌、男根衣也、男根如犢鼻、故云、 とある。しかし、江戸中期の鹽尻(天野信景)は、 隠處に當る小布、渾複を以て褌とす。縫合するを袴と云ひ、短を犢鼻褌と云ふ。犢鼻を男根とするは非也、膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に至る故也、 とする。つまり、「ふんどし」状のものを着けた状態ではなく、「したばかま」と言っているものが正しく、現在でいうトランクスに近いものらしいのである。記紀では、 褌、 を、 はかま、 と訓ませているので、日本釈名に、 犢鼻褌、貫也、貫両脚、上繁腰中、下當犢鼻、 と言っているのが正確のようである。「すまふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488850813.html?1655057522)で触れたが、相撲の節会では、禁中、 力士、犢鼻褌の上に、狩衣、烏帽子にて、取る、 とあり(大言海)、 右相撲犢鼻褌上著狩衣、開紐夾狩衣前(「江家次第(1111頃)」)、 ともある。この恰好なら、 したばかま、 つまり、 トランクス、 の方が似合いそうである。 また、「犢鼻」(とくび)は、 脛の三里の上の灸穴の名と云ふ、 とある(大言海)。 足の陽明胃経の35番目のツボ、 で、その位置は、 膝前面、膝蓋靭帯外方の陥凹部、膝を屈曲したとき、膝蓋骨外下方の陥凹部、 にある(https://www.higokoro.com/acupuncture-points/1576/)。その位置が、 子牛の鼻に見えるからその名がつけられた、 らしい(http://www.sun-seikotsuhari.com/blog/2017/04/post-111-438921.html)。上記で、鹽尻が、 膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に至る故也、 といっているのは、その「犢鼻」の位置を言っているのである。 「犢鼻褌」に「犢鼻」を当てたのは、この、 灸穴の名、 から来ているようである。「たふさぎ」に当てた、 犢鼻褌、 は、漢音で、 トクビコン、 さるまた、 の意で、 相如身自著犢鼻褌、與保庸雑作、滌器於市中(史記・司馬相如伝)、 少孤食、愛學、閉戸読書、暑月惟著犢鼻(北史・劉畫傳)、 などと、 褌は貫、両脚を貫きて腰に繋ぐ、 とある(字源)。これもトランクス様である。 たふさき(ぎ)、 の由来については、 マタフサギ(股塞)の略(和字正濫鈔・漫画随筆・物類称呼・雅言考・言元梯・名言通・松屋筆記・和訓栞・大言海)、 タフサギ(手塞)の義(東雅・貞丈雑記・秋長夜話)、 タは助語、フサグ意(筆の御霊)、 といった諸説だが、上記の、 犢鼻(とくび)、 の意味から見れば、 マタフサギ(股塞)の略、 なのではあるまいか。 イメージとしては、 鬼が履いている虎柄のパンツ、 あるいは、 風神・雷神のはいている下着、 である。因みに、「追儺」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485463935.html)で触れたように、追儺の鬼は、裸ではない。 「犢」(漢音トク、呉音ドク)は、 形声、旁の字が音を表す、 とのみしかない(漢字源)が、別に、 形声。「牛」+音符「𧶠(イクまたはショク、古形は「𧷏・𧷗」、「賣(=売)」ではない)」、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8A%A2)。 子牛、 の意である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 簡野道明『字源』(角川書店) 若き僧綱(そうごう)・有職(ゆうそく)などが庚申して遊けるに、うへの童(わらは)のいとにくさげなるが、瓶子などしありける(宇治拾遺物語)、 に 庚申して、 とあるのは、 庚申待、 の意で、 庚申の夜、語り明かす行事、 とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。「庚申」は、十干十二支の組合せの一つで、 かのえさる、 の日で、60日または60年ごとに巡ってくるが、この日の、 夜ごもりの慎みをしたり、種々の禁忌を守る信仰行事、 を、 庚申待(こうしんまち)、 あるいは、 庚申、 庚申会、 庚申祭、 御申待(おさるまち)、 などという。 一年、六度、庚申を祭り、其夜は、眠らずと云ふは、人、生れて、腹中に三尸蟲ありて、身を離れず、人を害さむとす、此蟲、庚申の夜、人の罪咎を天に告ぐ(江戸時代の百科事典『年中重寶記』)、 とされ、ために、 晝の申の刻七ッ(今の午後四時)より始めて、夜の寅の刻七ツ(今の午前四時)に至る、七刻の間を待ちて、猿田彦大神を祭り、供物七種を備進す、或は云ふ、道家に、此の夜寝れば、三尸蟲、人命を短くするとて、夜を守ることあり。略して、庚申、佛家に、青面金剛を、庚申に祭るといふ、 とあり(大言海)、道教、仏教の入り交じった民間信仰らしいことがうかがえる。平安中期編纂の児童向けの学習教養書『口遊』(くちずさみ)には、 彭侯子、彭常子、命兒子、悉入窈冥之中、去離我身(謂之庚申夜誦)、今案、毎庚申勿寝而呼、其名、三尸永去、萬福自來、 とあり、平安時代院政期末の故実書『簾中抄(れんちゅうしょう)』にも、 庚申夜ノ誦、彭侯子、彭常子、命兒子、離我身、夜モスガラ、イネズシテ、コレヲ唱フレバ、三尸サリ、萬福キタル、 とある。中国では、 守庚申、 守庚申会、 といわれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B0%B8)、仏教と結びついて唐の中頃から末にかけてひろまったとされ、平安時代に貴族たちの間で行われていた「庚申待」は中国の「守庚申」にかなり近いものであった、という(仝上)。 もともとは道教の説で、 庚申の夜は三尸の虫が身体から脱け出して天に昇り、天帝にその人の罪過を報告するので、虫が脱け出さないように一晩中起きている、 とし、これを、 守庚申(しゅこうしん)、 と呼び、 この夜は徹夜する、 という作法は、奈良時代に輸入され、この慣習は、宮廷を中心に行われ、平安貴族にも受け継がれてゆくが、徐々に行事の中心は遊楽にシフトし、 徹夜するために仲間が集まり、酒食の宴を催す、 ということも生じ、中世になると、公家と武家が共同の庚申待を行ったり、町衆の寄合などにも、 夜を徹した連歌合や和歌合、 等々が行われ、 宗教的な場から逃避的な楽しみの場、 になっていく(日本伝奇伝説大辞典・日本昔話事典)。室町後期には、僧侶によって、 庚申縁起、 などが作られ、民間に普及し始め、仏教色の濃い、 庚申待供養の塔、 が建てられ、日本的なものに変質し、農村の村落社会の、 庚申さん、 と呼ばれる、 百姓の神さん、 と言われるようになる(仝上)。江戸時代になると、全国的に、 庚申講、 が組織され、 仲間が集まって供養しながら酒食をもてなす、 のが習慣となっていく(庚申塔は供養を三年目に行ったしるしである)。庚申講が、 申待(さるまち)、 と書かれたところから、猿の信仰と重なり、 猿を神使いとする日吉(ひえ)山王二十一社、 と結びつき、猿から、 猿田彦神、 が連想され、記紀の伝承から、 八衢神(やちまたのかみ)、 とされ、庚申塔を、 道祖神、 と重ねて扱うようになっていく(仝上)。 因みに、古代伝承上、 八衢比売神(やちまたひめのかみ)、 と、 八衢比古神(やちまたひこのかみ)、 とは、 集落や道の要所にすわり、とともに邪神・悪霊の侵入をふせぐ、 とされ、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が檍原(あわきがはら)で禊(みそぎ)をしたときに、投げ棄てた御褌(みはかま たふさぎの意)から化生した神、 道俣神(ちまたのかみ)、 は、この両神をさしているともいう(https://www.wikiwand.com/ja/%E9%81%93%E4%BF%A3%E7%A5%9E)。「道俣神(ちまたのかみ)」の、ちまたは、「ちまた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464423994.html)で触れたように、 「道(ち)股(また)」の意、 であり、 道の分かれるところ、 分れ道、 の意である。 佛家は、以上の神道系の庚申信仰に対して、 六臂の青面金剛(しょうめんこんごう)、 が付会され、 阿弥陀三尊を表したりするものもある(日本伝奇伝説大辞典・日本昔話事典)。このため、「庚申待」の説明に、 庚申の夜、仏家では帝釈天(たいしゃくてん)および青面金剛(しょうめんこんごう)を、神道では猿田彦を祀る(広辞苑)、 などと説明されることになる。青面金剛(しょうめんこんごう)は、 青面金剛明王、 とも呼ばれるが、 インド由来の仏教尊格ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊格、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%9D%A2%E9%87%91%E5%89%9B)とされ、 三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う、 とあり、 三尸(さんし)を押さえる神、 とされている(仝上)。 しかし、あくまで庚申信仰行事は、 種々の本尊の礼拝や供養、 ではなく、 眠らずに謹んで夜を明かすこと、 であり、このためのタブーとされた俗信は多い。たとえば、 この夜にできた子は、泥棒になる、 とされ、 この夜は婚姻はしない、 夫婦は同衾しない、 とか、身を慎むべきことして、 庚申の仕事は無駄仕事、 庚申の夜なべは後戻りする、 などと言われ(日本昔話事典)、 清浄な身体で夜明かしする、 のを心掛ける。そのため、 話は庚申の晩に、 という諺があるように、 眠気をさます話題が求められ、種々の口承文芸の語り継がれる場にもなった(仝上)。 「三尸」は、「むし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450968686.html)でも触れたが、人間の体内にいると考えられていた虫で、 此蟲、其人の隠微なる罪咎を知り、庚申の夜に、人の眠るを窺ひて、出でて、天帝に讒す、 といい(大言海)、 三虫(さんちゅう)、 三彭(さんほう)、 伏尸(ふくし)、 尸虫(しちゅう)、 尸鬼(しき)、 尸彭(しほう)、 などともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B0%B8)、 上尸、 中尸、 下尸、 の三種類があり、日本では『大清経』を典拠とした三尸を避ける呪文が『庚申縁起』などに採り入れられ広まった。中唐の柳宗元の詩文に対する解説・注釈書『柳文抄』の、罵尸蟲文・序に、 有道士言、人皆有尸蟲三、處腹中、伺人微失誤、輙籍記(=記帳)、日庚申幸其人之昏睡、出讒于帝以求饗、以是、人多謫過疾癘夭死、 とある。また日本に現存する最古の医学書『醫心方』(いしんほう)には、 大清経、曰、三尸、其形、顔似人、長三寸許、上尸名彭踞(ほうきょ)、黒色、居頭、……中尸名彭躓(ほうしつ)、青色、居背、……下尸名彭蹻(ほうきょう)、白色、居腹、 とある。 「庚」(漢音コウ、呉音キョウ)は、 象形。Y型にたてた強い心棒を描いたもの(漢字源)、 象形。Y字型に立てた強い心棒(「午」=「杵」)を両手で持つ形(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BA%9A)、 とする説と、 象形。かね状の楽器をつるした形にかたどる。借りて、十干(じつかん)の第七位に用いる(角川新字源)、 象形文字です。「きねを両手で持ち上げる象形または、植物の生長が止まって新たな形に変化しようとする象形」から、「十干の第七位」を意味する「庚」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2442.html)、 などの説とに分かれている。 「申」(シン)は、 会意文字。もと、いなずま(雷光)を描いた象形文字で、電の字の原字。のち「臼(両手)+h印(まっすぐ)」のかたちとなり、手でまっすぐのばすこと。伸(のばす)の原字、 とある(漢字源・角川新字源)。稲妻の象形は同じだか、 象形。稲妻を象る。電(伸びる稲妻)の元字。そこから、「伸」(のびる)、神(かみ)の意が生じ、その神に、願い事などをすることから「もうす」の意が生じた。紳、引、呻と同系(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%B3)、 象形文字です。「いなびかり(雷)の走る」象形から「のびる」・「天の神」を意味する「申」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji500.html)、 の解釈もある。 参考文献; 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「ひまち」は、 日待(ち)、 と当てるが、この、 マチ、 は、 待ち、 と当てているが、 祭りと同源(精選版日本国語大辞典)、 マツリ(祭)の約(志不可起・俚言集覧・三養雑記・桂林漫録・新編常陸風土記-方言=中山信名・綜合日本民俗語彙)、 とあり、その「まつり」は、 奉り、 祭り、 と当て、 神や人に物をさしあげるのが原義。類義語イワヒ(祝)は一定の仕方で謹慎し、呪(まじない)を行う義。イツキ(斎)は畏敬の念をもって守護し仕える義、 とある(岩波古語辞典)。だから、 待つこと、 は、本来、 神の示現や降臨を願って待ちうけ、これを祭る、 という素朴で原初的な意味の、 神祭のありかた、 を示していたものとみられる(日本昔話事典)。当然、そこに集まる者は、 厳重な物忌、精進潔斎、 が要求され、村落にあって近隣同信のものが同じ場所に集まり、 一夜厳重に物忌して夜を明かす、 という行事を、 まちごと(待ちごと)、 と総称した(仝上)。 庚申の日、 甲子の日、 巳の日、 十九夜、 二十三夜、 等々があり、 庚申(こうしん)待ち、 甲子(きのえね)待ち、 十九夜講、 二十三夜講、 等々と呼ばれる。「庚申待」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488918266.html?1655318574)については触れたが、この中でも一番普遍的な形のものが、 日待ち、 であり、 日祭の約(大言海)、 とあるように、 「まち」は「まつり(祭)」と同語源であるが、のちに「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意にした、 ともいわれ(精選版日本国語大辞典)、 日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもの、 で(日本史辞典)、 ある決まった日の夕刻より一夜を明かし、翌朝の日の出を拝して解散する、 ものだが、元来、神祭の忌籠(いみごもり)は、 夜明けをもって終了する、 という形があり、「日待」もその例になる(世界大百科事典)とある。その期日は土地によってまちまちで、 正・五・九月の一日と十五日(日本昔話事典)、 1、5、9月の16日とする所や、月の23日を重んずる所もある。なかでも6月23日が愛宕権現(あたごごんげん)や地蔵菩薩(ぼさつ)の縁日で、この日を日待とするのもある。また庚申講(こうしんこう)や二十三夜講の日を日待とする所もある(日本大百科全書)、 一般に正・5・9月の吉日(広辞苑・大辞泉・大辞林)、 正月・五月・九月の三・一三・一七・二三・二七日、または吉日をえらんで行なうというが(日次紀事‐正月)、毎月とも、正月一五日と一〇月一五日に行なうともいい、一定しない(精選版日本国語大辞典)、 1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的(日本史辞典)、 旧暦1・5・9月の15日または農事のひまな日に講員が頭屋(とうや(とうや その準備、執行、後始末などの世話を担当する人))に集まる(百科事典マイペディア)、 等々と、正・五・九月以外は、ばらつく。 江戸初期の京都を中心とする年中行事の解説書『日次紀事』には、 凡良賤、正五九月涓吉日、主人斎戒沐浴、自暮至朝不少寝、其間、親戚朋友聚其家、雜遊、令醒主人睡、或倩僧侶陰陽師、令誦経咒、待朝日出而獻供物、祈所願、是謂日待……待月其式、粗同、凡日待之遊、 とある。これは町家の例だが、村々でも似ていて、 その前夜の夕刻から当番の家に集まる。(中略)当番に当たったものは、一晩中、神前の燈明の消えないように注意し、カマドの灰はすべて取り出して塩で清め、柴でなくて薪を使うとか、家中の女は全部外に出して、男手だけで料理を用意したともいう。集まるものも必ず風呂に入り、清潔な着物で出席した、 とも(日本昔話事典)、あるいは、 講員は米を持参して当番の家に集まり、御神酒(おみき)を持って神社に参詣する。香川県木田(きた)郡では、春と秋の2回、熊野神社の祭日に餅(もち)と酒を持参して本殿で頭屋2人を中心として、天日を描いた掛軸を拝む。土地によっては日待小屋という建物があって、村の各人が費用を持参する例もある。変わったものに鳥取市北西部に「網(あみ)の御日待」というのがあり、9月15日に集まって大漁を祈願するという、 とも(日本大百科全書)、また、 家々で交代に宿をつとめ、各家から主人または主婦が1人ずつ参加する(世界大百科事典)、 ともある。もともとは、 神霊の降臨を待ち、神とともに夜を明かす、 ことが本来の趣旨だったからと思われる(日本昔話事典)。しかし、「待つ」という言葉の含意から、 日の出を待って拝む、 に力点が移った(仝上)とされ、 御日待(おひまち)、 影待(かげまち)、 とも呼ばれるが(精選版日本国語大辞典)、後には、大勢の男女が寄り集まり徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなる(仝上)。だから、 単に仲間の飲食する機会、 を「日待」というところも出てくる。ただ、 マチゴトとして神とともにあったことから、その席には神と人の合歓(ごうかん いっしょに喜ぶこと)をめぐる口承文芸が伝承される場、 となり、やがては夜を徹して眠気を払うための話題が求められ(日本昔話事典)、様々な話を語り、伝え合うことになった(日本昔話事典)。 この「日待ち」と対になるのが、 月待(ち)、 で、 十九夜待、 二十三夜待、 二十六夜待、 は、日待と区別して月待と呼ぶ(世界大百科事典)。「月待」も、 月祭(つきまつり)の約、 とある(大言海)。 マチは待ちうけること(日本昔話事典)、 まち設けて物する意、稲荷待(稲荷祭)なども同じ(大言海) で、「日待」で、上述の『日次紀事』に、 待月其式、粗同、 とあったように、 神の示現や降臨を願って待ちうけ、これを祭る、 ことは同義だか、「月待」は、 特定の月齢の日を忌籠りの日と定め、同信の講員が集まって飲食をし、月の出を待って拝む行事、 で、「日待」と同様、 原始以来の信仰、 と見られ(日本昔話事典)、實隆公記(室町時代後期)に、 今夜待月看経、暁鐘之後参K戸、就寝(延徳二年(1490)九月二十三日)、 と、 室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94)。待つのは、 十三夜、 十五夜、 十七夜、 十九夜、 二十三夜、 などで(仝上・日本大百科全書)、十五夜の宴や名月をめぐる句会や連歌会などは、「月待」の行事から派生したとみられる。 十九夜に馬頭観音、 二十三夜に勢至観音、 をまつるところが多いのは、 修験道の七夜待ち、 といい、 十七夜に聖観音(千手観音)、 十八夜に千手観音(聖観音)、 十九夜に馬頭観音、 二十夜に十一面観音、 二十一夜に准胝観音(じゅんでいかんのん、じゅんていかんのん)、 二十三夜に勢至観音、 を拝むのに由来している(日本昔話事典)らしい。とりわけ、「二十三夜待ち」は、 三夜待ち、 三夜講、 といい、 正・五・九・十一月、正・六・九月、または正・十一月の二十三夜に営んだ(仝上)とある。そのスタイルは、 村落員全部の加入する講と女子のみの講とがあり、後者は子安観音の信仰と重なっている(仝上)、 月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなど、さまざまである。日を1日ずらして、男子の二十三夜に対し、女子だけ二十二夜に集まり、安産祈願を行う所もある(日本大百科全書)、 などとあり、二十三夜待はもっとも古く、實隆公記にあるように、 15世紀ごろに京都の公家社会では行われ、正月、5月、9月の月待が重視され、その夜は家の主人は斎戒沐浴して、翌朝まで起きているのが本来であった、 とあり(世界大百科事典)、 神道的に行う場合は月読(つくよみ)尊の掛軸を床の間に飾り、仏教的に行う場合は勢至(せいし)菩薩の掛軸を飾った、 とある(仝上)。村々でも、 十三夜塔、 十四夜塔、 十七夜塔、 十八夜塔、 十九夜塔、 二十夜塔、 二十一夜塔、 二十二夜塔、 二十三夜塔、 二十六夜塔、 等々「月待」の供養として立てた塔(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94)がさまざま残されているが、 村の四つ辻に、講員が拠出しあって建てた、 二十三夜塔、 が、 十九夜観音、 子安観音、 などとともにきわめて多い(日本昔話事典・百科事典マイペディア)、とある。 「日」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463232976.html)で触れたように、「日」(呉音ニチ、漢音ヅツ)の字は、 太陽の姿を描いた象形文字、 である(漢字源)。 「月」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444490307.html)で触れたが、「月」(漢音ゲツ、呉音ゴチ)は、 象形、三日月を描いたもので、まるくえぐったように、中が欠けていく月、 とある(漢字源)。 「待」(漢音タイ、呉音ダイ)は、 会意兼形声。寺は「寸(て)+音符之(足で進む)」の会意兼形声文字で、手足の動作を示す。待は「彳(おこなう)+音符寺」で、手足を動かして相手をもてなすこと、 とある(漢字源)が、「待つ」という意味がここからは出てこない気がする。別に、 形声。彳と、音符寺(シ)→(タイ)から成る。道に立ちどまって「まつ」意を表す(角川新字源)、 形声文字です(彳+寺)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「植物の芽生えの象形(「止」に通じ、「とどまる」の意味)と親指で脈を測る右手の象形」(役人が「とどまる」所の意味)から歩行をやめて「まつ」を意味する「待」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji514.html)、 とある。 参考文献; 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 山科の石田の社の皇神(すめかみ)に奴左(ヌサ)取り向けて吾れは越えゆく相坂山を(万葉集)、 このたびは幣(ぬさ)も取りあへず手向(たむけ)山紅葉(もみぢ)の錦神のまにまに(菅原道真)、 とある、 「ぬさ」は、 幣、 と当て、 麻・木綿・帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、または祓(はらえ)にささげ持つもの、 の意で、 みてぐら、 にぎて、 ともいい、共に、 幣、 とも当てる。「ぬさ」は、 祈總(ねぎふさ)の約略なれと云ふ、總は麻なり、或は云ふ、抜麻(ぬきそ)の略轉かと(大言海)、 とあり、「ねぎふさ」に、 祈總(ねぎふさ)を当てるもの(国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、 と 抜麻(ねぎふさ)を当てるもの(雅言考)、 があり、「抜麻」を、 抜麻(ねぎあさ)と訓ませるもの(日本語源広辞典・河海抄・槻の落葉信濃漫録・名言通・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、 があり、その他、 ヌはなよらかに垂れる物の意。サはソ(麻)に通じる(神遊考)、 抜き出してささげる物の義(本朝辞源=宇田甘冥)、 ユウアサ(結麻)の略(関秘録)、 等々、その由来から、「ぬさ」が、元々、 神に祈る時に捧げる供え物、 の意であり、また、 祓(ハラエ)の料とするもの、 の意、古くは、 麻・木綿(ユウ)などを用い、のちには織った布や帛(はく)も用い、或は紙に代えても用いた、 とあり(大言海・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉他)、 旅に出る時は、種々の絹布、麻、あるいは紙を四角に細かく切ってぬさぶくろに入れて持参し、道祖神の神前でまき散らしてたむけた、 ともある(精選版日本国語大辞典)。後世、 紙を切って棒につけたものを用いるようになる、 とある(仝上)。 「にぎて」は、 下枝に白丹寸手(にきて)、青丹寸手を取り垂(し)でて(古事記)、 と、 にきて、 と清音、 平安以降ニギテと濁音、 とあり(岩波古語辞典)、 和幣、 幣帛、 幣、 と当て(広辞苑・大言海)、 にきたへ(和栲・和布・和妙)の約(広辞苑・大言海・和訓栞・神遊考)、 テは接尾語で、手で添える物の意、あるいはタヘ(栲)の転か(岩波古語辞典)、 ニキは和の意。テはアサテ・ヒラデ・クボデなどのテと同じく「……なるもの」の意(小学館古語大辞典)、 ニキは和の義、テは、是を執って神に見せる義(東雅)、 ニギは和、テは手の義(日本語源=賀茂百樹)、 とある。「にきたへ」(和栲)は、 片手には木綿(ゆふ)取り持ち、片手には和栲(にきたへ)まつり平(たひら)けくま幸(さき)くいませと天地(あめつち)の神を祈(こ)ひ祷(の)みまつり(万葉集)、 と、 「荒稲(あらしね)」の対、平安時代以後はニギタヘと濁音、 打って柔らかくした布、神に手向ける、 意である(岩波古語辞典)が たへ→て、 の音韻変化は考えにくく、 「くぼて」「ながて」の「て」と同様に「……なるもの」の意、 と見るべきとされ(日本語源大辞典)、「にき」は、 和魂(にきたま)、 の、 やわらかい、 おだやか、 という意になる(広辞苑)。斎部(いんべ)氏の由緒記『古語拾遺』(807)に、 和幣、古語、爾伎底、 神衣、所謂和衣、古語、爾伎多倍、 と別けて記している(大言海)。「にぎて」は、 木綿(ゆふ)の布、麻の布を神に供ふる時の称、後に、絹、又、後に布の代わりに紙を用ゐる。 とあり(仝上・岩波古語辞典)、 白和幣(しらにぎて 白幣)は木綿の糸似て作り、色白ければ云ひ、青和幣(あをにぎて 青幣)は麻の糸にて作り、稍、青みれば云ふ、古語拾遺に穀(カヂ)を植えて白和幣を造り、麻を植えて青和幣を作る、 とある(仝上)。「にきて」は、神代紀に、 枝下懸青和幣、 とある注に、 和幣此云、尼枳底、 とあるように、 榊の枝などに取り懸けて神をまつるしるしとする、 とあり(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、 棒につけたものを用いるようになる、 と「ぬさ」と変わらなくなる。 「みてぐら」は、 幣、 幣帛、 などと当てる。古くは、 みてくら、 と清音、その由来は、 御手座の意(本居宣長・広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉・日本釈名・東雅・日本語源=賀茂百樹・日本の祭=柳田國男)、 御手座の義、置座(おきぐら)に手向ける義、或は云ふ、御栲座(みたへぐら)の約、或は云ふ、充座の義とか、いかがか(大言海)、 ミテ(充)クラ(座)、たくさんの供物を案上に置いて献上すること。クラとは、物をのせたり、物をつける台となるものをいう(賀茂真淵)、 ミ(御)タヘ(栲)クラ(台)の約、ミは接頭語、タヘは古代に用いられた織物の総称で、タヘがテとなった(敷田年治)、 御手向クラの義(箋注和名抄)、 マテクラ(真手座)の義(類聚名物考・名言通)、 ミテは天王の御手の意、クラは神にクレ(遣)るの意(雅言考)、 等々とされ、 元来は神が宿る依代(よりしろ)として手に持つ採物(とりもの)、 を指し(百科事典マイペディア)、 祭人が手に持って舞うことにより、神がそこに降臨すると信ぜられた神座をいう。それが祭場に常に用意されるところから、神への供物と考えられるようになった、 とあり(岩波古語辞典)、 神に奉納する物の総称、 として、 布帛・紙・玉・兵器・貨幣・器物・獣類、 のちには、 御幣(ごへい)、 をもいうようになる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。それは、「みてぐら」に、 幣の字を当てたため、幣帛(にぎて)と混用される、 に至ったもののようである。だから、「みてぐら」は、 絹布などを串に挟みて奉るを云ふ、後には、紙にも代ふ、木綿(ゆふ)の布の遺なるべし。今は、紙を長く段々に切りたるを、みてぐら、又、幣帛(へいはく)と云ひ、紙をたたみて、水竹に挟みたるを、幣束(へいそく)、又御幣(ごへい)とも云ふ、切りたるは御衣(みけし)に裁ちたる意、切らぬは裁たず、たたみながら獻ずる意と云ふ、 とあり(大言海)、これでは、 ぬさ、 も にぎて、 も、 幣帛(へいはく)、 も 幣束、 も、 御幣、 も、 ほぼ同義になってしまっている。 因みに、「幣」は、 稚(わか)ければ道行き知らじ幣(末比 まひ)は為(せ)む黄泉(したへ)の使負(つかひお)ひて通(とほ)らせ(万葉集)、 と、 まひ(まひ)、 と訓ませ、 神への供え物、 という「ぬさ」などの意味を広げて、 謝礼として奉るもの、 贈り物、 まいない、 といった意味でも使っている(デジタル大辞泉)。 念のため、 幣帛、 幣束、 御幣、 の意味を確認しておくが、「幣」は、 麻(麻布)、 「帛」は、 絹(白絹、絹布)、 を意味し、両者は捧げ物の代表的な事物であることから、本来、「幣帛」は、 神々への捧げ物の「総称」、 を意味する(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3)。古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だったからである。『延喜式』の祝詞の条に、幣帛として、 布帛、衣服、武具、神酒、神饌、 などがある。しかし、幣帛は、同時に、 神の依り代、 とも考えられていたため、 串の先に紙垂を挟んだ依り代や祓具としての幣束・御幣、 なども「幣帛」と呼ぶ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%B8%9B)とある。で、結局、「幣帛」は、 みてぐら、 にぎて、 ぬさ、 と同義になり(大言海)、 充座(みてぐら)、 礼代(いやじり)、 ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3)、 宇豆乃幣帛(うずのみてぐら)、 布刀御幣(ふとごへい)、 大(おお)幣帛、伊都(いつの)幣帛、 安(やす)幣帛、 足(たる)幣帛、 豊(とよ)幣帛 等々と、「幣帛」を「みてぐら」と訓ませ、「みてぐら」の美称として使われて、結局、 布帛をさしたり、あるいは、紙垂(しで)を串(くし)に刺した幣束、 をいうようになり、 御幣(ごへい)、 ということなる(日本大百科全書)。 「幣束」は、 神に捧げるもの、 の意で、 ほぼ「にきて」、「ぬさ」と区別がつかないが、今日、 裂いた麻や畳んで切った紙を、細長い木に挟んで垂らしたもの、 をいい(広辞苑)、 御祓に用い、又、神体とするも、是は誤れるなり。其大なるものを、 はらひぬさ(祓幣)、 という(大言海)。「みてぐら」で 紙をたたみて、水竹に挟みたるを、幣束(へいそく)、又御幣(ごへい)とも云ふ、 とあった(大言海)とおり、「御幣」は、 幣束の尊敬語、 である。 白色、または金銀、五色の紙を幣串に挟んだもの、 であり(広辞苑)、 捧げ物としての御幣の中心は、両側に長く折り下げられた部位(紙垂)ではなく、串に挿(はさ)まれた部分、そのものにある、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3)。 折り畳んだ布を串(=「幣挿木」(へいはさむき))に挿んで捧げる形式、 が登場するのは、奈良時代後半から平安時代前期にかけてで、これが、結局、 御幣、 につながることになる。幣挿木が神々への捧げ物だと示すため、捧げ物本体である「幣帛」とともに、神聖性を表現する「木の皮の繊維(これを「木綿」という)や麻」を、串に挿んで垂らした、 ので、ある意味では、「幣」が「木」に挟まれてからは、御幣への一本道になる。 「木綿・麻」の代わりに、細長く折り下げた紙を両側に垂らす形式、 が見られるようにもなるのが中世(13世紀末頃)。これが、 紙垂(しで)、 である。 榊(玉串・真榊)の他、神前に御幣を捧げる形、 が普及・定着化したのは、室町時代から江戸時代にかけて、中世以降の御幣は、 捧げ物本体である「幣紙」(へいし) と 神聖性を示す「紙垂」(しで) と それらを挿む「幣串」(へいぐし) から成るようになる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3)。なお、長い棒や竹の先端に幣束を何本か取付けたもののことを、特に、 梵天(ぼんてん)、 という(仝上)らしい。 いまでは、 紙垂、 が御幣の象徴として認識されているが、元来の捧げ物としては、その中心である、 幣帛、 である。だから、柳田國男をして、 「ヌサまたは捧げ物は、出来るかぎり清く汚れなくして、元は最も神の御座に近く進(まい)らせんとして、時としては眼に見えぬ零体の所在を標示する樹枝や斎串(いわいぐし)の木に、直接結(ゆ)わえつける習わしがあった……。花や芒の葉のような自然物を、しでで目じるしとする場合はそうであるまいが、木綿(ゆう)・麻・帛・白紙の類を用いるときは、シデとヌサを混同し、また時としては兼用せられた。紙などは近世得やすくなったので、細く長く翦って垂れて、もっぱらシデの用に供することになったのに、なお二つの境を明らかにし得ず、ゴヘイというような新しい日本語が生まれて、……殊に迷惑というべきは特殊のミテグラ、すなわち幣帛を取り付けたる斎串が珍重せられて、それをトヨミテグラ、ウズノミテグラなどと呼んだのが原因となってか、『日本書紀』の傍訓が幣帛をミテグラと読ましめた……。」 と嘆かしめることになる。しかし、この混同、同一化は、実に古い歴史がある。 因みに、「しで」は、 垂、 紙垂、 四手、 などと当て、 「垂づ(しづ)」の連用形、「しだれる」と同根である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E5%9E%82)、 垂ヅの義(大言海)、 シヅル(垂)・シズム(沈)のシヅと同根、シダル(垂)の他動詞形から(岩波古語辞典)、 シダレ(垂)の反(類聚名物考・嬉遊笑覧)、 など、動詞、 しづ(垂)、 からきているとあるように、 玉串、注連(しめなは)などに、垂(し)でかくるもの、古へ、多くは、木綿(ゆふ)を用ゐ、木綿四手など云ふ、紙を切りて用ゐるを紙四手と云ふ、 とある(大言海)。 神に捧げるヌサの一種、 とある(岩波古語辞典)ように、「しで」の初出は、前出の、 天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて、上枝に八尺の勾玉の五百津の御すまる(美須麻流)の玉を取り著け、 中枝に八尺鏡を取り繋け、下枝には白丹寸手、青丹寸手を取り垂でて(古事記)、 と、岩戸の前で賢木の枝に下げた、 白丹寸手(しらにきて)、 青丹寸手(あをにきて)、 つまり「にぎて」で触れた、 白和幣(しらにぎて 白幣)は木綿の糸似て作り、色白ければ云ひ、青和幣(あをにぎて 青幣)は麻の糸にて作り、稍、青みれば云ふ、 である(大言海)。ここで、すでに、「にぎて」と「しで」は、区別が曖昧になっている。 「しで」は、祓具として、 玉串、 祓串、 御幣、 につける他に、注連縄に垂らして神域・祭場に用いる場合は、 聖域、 を表す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E5%9E%82)。もともと、串に挿む紙垂は、 四角形の紙、 を用いたが、のちに、その下方両側に、紙を裁って折った紙垂を付すようになり、さらに後世には紙垂を直接串に挿むようになった(日本大百科全書)が、その断ち方・折り方にはいくつかの流派・形式があり、主なものに吉田流・白川流・伊勢流がある、とされる(仝上)。この形の由来については、 無限大の神威説(白い紙を交互に切り割くことによって、無限大を表わす)、 と 雷説(雷(稲妻)を表わしている)、 があるとされる(仝上)。 「幣」(漢音ヘイ、呉音ベ)は、 会意兼形声。敝の左側は「巾(ぬの)+八印二つ」の会意文字で、八印は左右両側に分ける意を含む。切り分けた布のこと。敝(ヘイ)は、破って切り分ける意。幣は「巾(ぬの)+音符敝」で、所用に応じて左右にわけて垂らし、または、二枚に切り分けた布のこと、 とある(漢字源)。別に、 形声。巾と、音符敝(ヘイ)とから成る。祭りや贈り物用の布、ひいて、礼物、また礼物の帛(はく)・玉などの財物に代えて銭が用いられるようになったことから、「ぜに」の意を表す、 とも(角川新字源)、 形声文字です(敝+巾)。「破れた衣服の象形とボクっという音を表す擬声語と右手の象形」(「破れる」の意味だが、ここでは、「拝」に通じ(「拝」と同じ意味を持つようになって)、「おがむ」の意味)と「頭に巻く布きれにひもを付けて、帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)から、「神に拝み捧げる布」を意味する「幣」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2025.html)。「幣帛」(神にささげる白絹)として使われる。「ぬさ」「みてぐら」に当てたのは字義にかなっている。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「つややか」は、 艶やか、 と当て、 見やれば、木の間より水のおもてつややかにて、いとあわれなるここちす(かげろう日記)、 などと、 表面が美しく光って見えるさま、 光沢(つや)有りて、麗しく光って、 の意から、 桃の木わかだちて、いとしもとがちにさし出でたる、片つ方は青く、いま片枝は濃くつややかにて、蘇枋(すおう)の日かげに見えたるが(枕草子)、 と、 艶があって美しいさま、 にシフトし、さらに、 かしこまりてはなはだしう置きたれば、つややかなることはものせざりけり(かげろう日記)、 と、 色めいた感じのするさま、 の意へ変化していく(岩波古語辞典・大言海)。類聚名義抄(11〜12世紀)に、 暉、つややかにして、 色葉字類抄(1177〜81)に、 光、つややかなり、 とある。暉(キ)は、輝と同義で、「光」「輝く」意(漢字源)なので、原義は、 表面が美しく光って見えるさま、 になる。で、「つややか」に、 瑩瑩、 と当てるもの(大言海)もある。「瑩」(エイ)も、「光」「あきらか」の意(漢字源)である。 「つややか」は、 「つや」(艶)+接尾辞「やか」 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A4%E3%82%84%E3%82%84%E3%81%8B)。「やか」は、 奈良時代に、柔らかな感触を表す接尾語ヤがあって、ニコヤ・ナゴヤ・タワヤ・フハヤなどと擬態語の下に使われた。さらにその下に、目に見える状態の意から転じた接尾語カを加えて成立した語、 とあり(岩波古語辞典)、 しづやか、 さはやか、 しめやか、 こまやか、 そびやか、 つづやか、 など、 擬態語・擬音語を承けて、 あなうたて、このひとのたをやかならましかばと見えたり(源氏物語)、 と、 感じとして……である、 見た印象として……らしいさま、 の意で使う場合と、 つややか、 あてやか、 ふさか、 きはやか、 など、 名詞を承けて、 いとにほひやかに、うつくしげなる人の、いたう面やせて(仝上)、 と、 いかにも……の感じがするさま、 いかにも……らしいさま、 の意で使う場合、さらに、 あをやか、 ちかやか、 をかしやか、 など、 形容詞の語幹を承けて、形容詞のような直截的な断定を下すのを避けて、用例は少ないが、 なぎさにちひさやかなる舟よせて(仝上)、 と、 ……の感じである、 など意で使う(仝上)。「やか」の類義語に、 いふかりし国のまほらばをつばらかに示し給はば(万葉集)、 と、 らか、 がある。「らか」は、 音のするさま、……という(見た目の)状態の意を表わし、古くはヤカとは相違していた。もともと奈良時代に、耳に聞く音のさま、目で見る物のさまを表わす接尾語ラがあって、カワラ・ヤララ・ツブラ・ハダラ・アカラ・ウスラなど、擬音語・擬態語及び形容詞語幹の下についた。さらにその下に接尾語カがついてラカが成立した。ヤカもラカも、その下にナリをともなって形容詞として働く。既に奈良時代に「はなやかに」「つばらかに」などの例があるが、平安時代初期から中期にかけてヤカ・ラカによる形容詞は盛んにつくられ、漢文訓読体・和文脈の両法に多い。ヤカとラカは、承ける語幹を異にするのが原則で、ニコヤカはニコラカとはならず、ツブラカはツブヤカとはならないが、ヤカとラカの意味上の区別は平安中期に至っては次第に明瞭でなくなる。平安中期以降は、ヤカ・ラカに代わって接尾語ゲが使われるようになり、鎌倉時代の軍記物語などでは、ヤカ・ラカを含む語の使用は激減した、 とある(仝上)。 なお、「つややか」の「つや」は、 艶、 と当てるが、 ツヤ(擬態語)、ツヤツヤのツヤ、 からきているとする(日本語源広辞典)。 つやつや、 は、 艶々、 とあて、平安時代から使われている(擬音語・擬態語辞典)とあるので、ありえるかもしれない。 「つや」は、 濃き衣のいとあざやかなる、つやなど月にはえて、をかしう見ゆる(枕草子)、 と、 ものの表面の美しくみずみずしい光沢、 の意だが、平安女流文学では、衣服について言う、とある(岩波古語辞典)。その意味から、 笛達者にて……拍子につやありて能く吹く(近代四座訳者目録)、 と、 美しくなめらかなこと、 の意で使うが、 つやのある声、 と言うように、 若々しく張りのある感じ、 の意や、 つやのある話、 と言うように、 味わいのある、 の意や、 つやもなくぞ言ひたりける(浄瑠璃・京童)、 と、 愛想、 愛嬌、 世辞、 の意で使い(広辞苑・岩波古語辞典)、 つやを云ふとは世辞を云ふ、 意とあり(大言海)、たとえば、 つやを付けて言う、 という言い回しは、 少し艶をつけて気に障(あ)てない様に言ひもしませうが(春色湊の花)、 と、 お上手をまぜて言う、 意となる(江戸語大辞典)。さらに、 艶もの、 艶ごと 艶ものがたり、 艶だね、 というように、江戸時代になると、 男女の情事に関したること、 色めいたこと、 の意でも使うようになる(大言海・広辞苑・江戸語大辞典)。これは、「艶」を当てたため、後述のように、漢字「艶」の意味の翳かと思われる。ただ、この意で、 つややか、 とはいわない。 また、「艶」を、 エン、 と漢字の音で訓むと、意味が変わる。 漢字としての意味は、美色。奈良時代には、華麗で輝くような男女の美しさにこの字を使う。平安時代の漢詩文では「艶情」「妖艶」など魅力的な美を言う。女流文学では、ハナヤカナリ・イロウ(彩)などがこれの意味に近い。しかし、それらの和語では表わしきれない、これこそが魅力的な、風情のある情景だ、しゃれて粋な感じだ、人の気をひく派手な様子だ、という場合の形容にこれを使う。進んでは思わせぶりな男女の振舞いをいう。和文脈でこの語を使ったのは清少納言・紫式部など限られた人で、漢文の素養によって、この漢語を、文学語として和文にも取り入れたものらしく、人によって異なった状況にこれを用いた。中世になると、歌謡などで、「艶にやさしい」と使うことが多く、優美さの一つの姿を言う、 とある(岩波古語辞典)。たとえば、紫式部は、 夕闇すぎておぼつかなき空の気色の曇らはしきりに、うちしめしたる宮の御けはひもいと艶なり(源氏物語)、 と、 情景・景色を眺めて個人の印象として、風情があるさま、 の意で、 鈍色の紙の、いとかうばしう艶なるに(仝上)、 と、 粋な、しゃれいる、 の意で、 近う呼び寄せ奉り給へるに、かの御移り香の、いみじう艶にしみかへり給へれば(仝上)、 と、 はっきりと目につくさま、はっきりと匂うさまも の意で、 いたう言こめたれば、例の艶なると憎み給ふ(源氏物語)、 いとこそ艶に、われのみ世にはもののゆゑを知り、心深き、類(たぐひ)はあらじ(紫式部日記)、 と、 あでやかな魅力的なさま、また思わせぶりなさま、 の意でと、様々な含意を使い分けている(岩波古語辞典・広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「艶(艷)」(エン)は、「色ふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484562978.html)で触れたように、 会意。「色+豐(ゆたか)」で、色つやがゆたかなことをあらわす。色気がいっぱいつまっていること、 とあり(漢字源)、「艷話(えんわ)」のように、エロチックな意味もあるので、「つや」に、男女間の情事に関する意で「艶物(つやもの)」という使い方はわが国だけ(仝上)だが、語義から外れているわけではない。別に、同趣旨の、 本字は、形声で、意符豐(ほう ゆたか)と、音符𥁋(カフ)→(エム)とから成る。旧字は、会意で、色と、豐(ゆたか)とから成り、容色が豊かで美しい意を表す。常用漢字は俗字による、 とする(角川新字源)ものの他に、「豔・豓」と「艷」を区別して、「豔・豓」は、「艶」の旧字とし、 会意兼形声文字です(豐+盍)。「草・木が茂っている象形と頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)の象形」(「豊かに盛られた、たかつき」、「豊か」の意味)と「物をのせた皿にふたをした」象形(「覆う」の意味)から、顔形が豊かで満ち足りている事を意味し、そこから、「姿やしぐさが色っぽい(異性をひきつける魅力がある)」、「顔・形が美しい」を意味する「豔・豓」という漢字が成り立ちました、 とし、「艶(艷)」は、 会意文字です(豊(豐)+色)。「草・木が茂っている象形と頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)の象形」(「豊かに盛られた、たかつき」、「豊か」の意味)と「ひざまずく人」の象形と「ひざまずく人の上に人がある」象形(「男・女の愛する気持ち」の意味)から、「男・女の愛する気持ちが豊か」を意味する「艶」という漢字が成り立ちました、 とする説明もある(https://okjiten.jp/kanji2086.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 「ねんごろ」は、 懇ろ、 と当てる。 ネモコロの転(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、 とある。「ねもころに」は、 ネを根、 と見るのは同じだが、その解釈は、 根モコロの意、モコロは、同じ状態にある意、草木の根が、こまやかに絡み合って土の中にあるのと同様にの意(岩波古語辞典)、 ネは根なり、モコロは如の義、物の極(きはみ)と等しくの意ならむ(大言海・日本語源広辞典) ネは根、ゴロは如の義。草木の根の行き渡るがごとき心配りの意(万葉集類林・俚言集覧・日本語源=賀茂百樹・和訓栞)、 コロはカラム(絡)のカラ、根も絡みつく程に(小学館古語大辞典・古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、 と、「根」の絡み合って張っている如くとする説と、 ネ(根)+も+コロ(凝・凝りかたまる)、心根が凝り固まる程に真心をこめての意(日本語源広辞典)、 ネ(根)モ−ゴロ(凝)の転(国語の語根とその分類=大島正健)、 と、「根」が固まっている状態とする説、 に大別され、いずれも、 根の如く密に絡み合う、 意だが、前者は、 根の如く、 に、後者は、 密に絡み合う、 に重点がある(語源由来辞典)とする。その他に、 ネモは字音語ネム(念)、コロは形容詞クルシ(苦)の語根(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 ネは系、モコロは庶兄弟姉妹の意、近親者の転義(日本古語大辞典=松岡静雄)、 等々もあるが、大勢は、 根の状態、 になぞらえていると思われる。「ねもころ」に、 懇、 の他に、 惻隠、 とも当てている(岩波古語辞典)ように、本来は、 見渡しの三室の山の巖菅(いはほすげ)ねもころ我は片思ひする(万葉集)、 と、 こまやかに情の絡むさま、 の意や、 あしひきの山に生ひたる菅(すげ)の根のねもころ見まく欲しき君かも(仝上) と、 こまやかに、周到にものをみるさま、 の意や、 菅の根の君が結びてし我が紐の緒を解く人はあらじ(仝上)、 こまやかに心を遣うさま、 の意等々、 こまやかな心情表現、 を示す言葉である。上代には、副詞、 ねもころごろに、 と、 ねもころのコロを重ねて、 用いられ、 慇懃に、 惻隠惻隠に、 懇、 などと当て、「ねもころ」と似たように、たとえば、 菅の根のねもころごろにわが思へる妹に縁(よ)りては言の忌みもなくありこそと斎瓮(いはひべ)を斎ひ(仝上) と、 こころこまやかに、 とか、 菅の根のねもころごろに照る日にも乾(ひ)めや我が袖妹に逢はずして(仝上)、 すみずみまで、至らぬところなく、 といった意味で使われた(岩波古語辞典)。中古に入って、 ネモコロ→ネムコロ→ネンゴロ、 と転じていく(日本語源大辞典)。で、 ねんごろ、 も、 ただ片時のほど、いと聞き侍らまほしきを、必ず聞かせ給へど、ねんごろに聞こえ給へば(宇津保物語)、 と、 こまやかに心遣いするさま、 真心を持ちて、 といった意味から、少しずつ、 地蔵を田の中の水に押しひたしてねんごろに洗ひけり(徒然草)、 と、 念入りに、 丁重に、 といった意や、 さる仲らひといふなかにも心かはしてねんごろなれば(源氏物語)、 と、 こまやかに情愛のからみあっていること、 仲が親密であること、 といった意へとシフトし、江戸時代になると、 鼓の師匠源右衛門とねんごろしてござらぬかと(浄瑠璃・堀川波鼓)、 と、 男女がひそかに情を通じる、 意へと意味を広げていく(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)。江戸時代の用例では、 番頭が念頃(ねんごろ)に申てくれまする(お染久松色読取)、 と、 親切、 丁寧、 の意か、 私は、……お絹さんとは別けての御懇情(ごねんごろ)(軒並娘八丈)、 と、 親密な間柄、 の意が主となっていく(江戸語大辞典)。たとえば、 懇ろ切る、 というと、 おのれは傾城なれば飽いた時は懇ろ切る(浄瑠璃・用明天王職人鑑)、 と、 男女の関係を絶つ、 意になり(広辞苑)、 懇ろ分(ねんごろぶん)、 というと、 ねんごろな関係にある人 の意だが、特に、 衆道の兄弟分、 を指したらしい(仝上)。 今日の用例でいうと、 懇ろになる、 というと、ほぼ、 男女が仲の良い親しい関係になる、 意で、含意として、 肉体関係が入ってくる場合がある、 とある(語感の辞典)。 「懇」(コン)は、 会意兼形声。貇(コン)は深くしるしをつける意を含む。懇はそれを音符とし心を加えた字で、心を込めて深く念をおすこと、 とあり(漢字源)、「懇切」「懇情」などと使う。別に、 会意兼形声文字です(貇+心)。「獣が背を丸くして獲物に襲いかかろうとする象形と、人の目を強調した象形(「とどまる」の意味)」(「ふみとどまる」の意味)と「心臓」の象形から、一定の範囲内に心をふみとどめておく事を意味し、そこから、「ねんごろ(心がこもっているさま)」を意味する「懇」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1580.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「花客」は、 カカク(クワカク)、 と訓ませ、 華客、 とも当て、 花をみる人、 花見客、 の意だが、 客の美称、 で、 おとくい、 とか 顧客、 の意で使い、さらに、 花客を作らんが為め殊に手土産などに気を注ぐ事(三宅雪嶺「偽悪醜日本人(1891)」)、 大事なお花客(とくい)である(泉鏡花「薄紅梅」)、 赤毛布(あかゲット)が上花客(じょうとくい)でなくなった(夢野久作「街頭から見た新東京の裏面」)、 などと、 とくい →92.3%、 おとくい→7.7%、 とも訓ませる(https://furigana.info/w/%E8%8A%B1%E5%AE%A2)。 ただ、岩波古語辞典、江戸語大辞典などには載らず、大言海に、 商家などにて、得意の客、得意先、買い付けのひと、 の意と載るが、用例が、近代以降のものしか見当たらない。 「花客」は、平安後期の書簡文および教科書「明衡往来」(藤原明衡)に、 乃時(ナイジ すぐその時)刑部大輔平所召古今和歌集。或花客借取。未被返送、 と、 客人、 来訪者、 の意で使われている(背精選版日本国語大辞典)。 その意味で、 客人→顧客、 の意味の変化は納得できるが、『字源』には、「花客」は、 顧客、 花主、 華客、 と同義とあり、 とくい、 の意とある。漢語なのかどうかははっきりしないが、 顧客、 は、わが国だけの使い方でもある(字源)が、「顧」には、 客の来訪を丁寧にいう語、 とあり、 来て目をかけてくださる意から、 顧客、 惠客(おいでくださる)、 と使う(漢字源)。それを、わが国で、意訳して、 御得意、 の意に転じて使っているのかもしれない。その意味で、 花(華)客、 にも、和風漢字の感じがなくもない。「花」は、漢字では、 桃李花、 落花流水、 と、 牡丹、 をさす(漢字源)、あるいは、 洛陽の人は単に牡丹を花と言ふ、 とあり(字源)、日本では、「花」の含意は、特に、 桜の花、 を指し、そこから、 盛り、 栄えること、 時めくこと、 といった意味を含み、 花代(祝儀)、 花形、 花盛り、 といった言い方をする。何となく、 花客、 は、それとつながる気がしてならない。勿論憶説だが。 「花」(漢音カ、呉音ケ)は、「はな」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449051395.html)でも触れたが、 会意兼形声。化(カ)は、たった人がすわった姿に変化したことをあらわす会意文字。花は「艸(植物)+音符化」で、つぼみが開き、咲いて散るというように、姿を著しく変える植物の部分、 とある(漢字源)。「華」は、 もと別字であったが、後に混用された、 とある(仝上)。別に、 会意兼形声文字です。「木の花や葉が長く垂れ下がる」象形と「弓のそりを正す道具」の象形(「弓なりに曲がる」の意味だが、ここでは、「姱(カ)」などに通じ、「美しい」の意味)から、「美しいはな」を意味する漢字が成り立ちました。その後、六朝時代(184〜589)に「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「左右の人が点対称になるような形」の象形(「かわる」の意味)から、草の変化を意味し、そこから、「はな」を意味する「花」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji66.html)。 「華」(漢音カ、呉音ケ・ゲ)は、 会意兼形声。于(ウ)は、h線が=につかえてまるく曲がったさま。それに植物の葉の垂れた形の垂を加えたのが華の原字。「艸+垂(たれる)+音符于」で、くぼんでまるく曲がる意を含む、 とあり(漢字源)、 菊華、 と、 中心のくぼんだ丸い花、 を指し、後に、 広く草木のはな、 の意となった(仝上)とする。ただ、上記の、 会意形声説。「艸」+「垂」+音符「于」。「于」は、ものがつかえて丸くなること。それに花が垂れた様を表す「垂」を加えたものが元の形。丸い花をあらわす、 とする(藤堂明保説)とは別に、 象形説。「はな」を象ったもので、「拝」の旁の形が元の形、音は「花」からの仮借、 とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AF)。さらに、 会意形声。艸と、𠌶(クワ)とから成り、草木の美しい「はな」の意を表す、 ともある(角川新字源)。ただ、西周の金文(きんぶん)をみると、どの説もぴたりとこないのだが。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「あまのじゃく」は、 天邪鬼、 天邪久、 などと当て、昔話「瓜子姫」などに出てくる、 他人の心中を察することが巧みで、口まね、物まねなどして人に逆らい、人の邪魔をする悪い精霊、 とされる(広辞苑・岩波古語辞典)が、 妖怪(ようかい)とも精霊とも決めがたい、 ともある(日本大百科全書)。「瓜子姫」の話は、 子宝に恵まれない老夫婦が川で拾った瓜から小さな女の子が生れる。美しく成長したのち、殿様の嫁に望まれるが、あまのじゃくが老夫婦の留守中に姫を木に縛りつけ、嫁入りを妨げる。しかし鳥がそれを助け、姫は無事に嫁入りをし、幸福な結末を得る、 といった筋だが、別に、 東日本ではじいさんとおばあさんが町に買い物にでている間に天邪鬼にだまされて、連れ去られ殺されてしまうという結末になっているものが多いが、言葉巧みに柿の木に上らされ墜落死するという筋のものや、ただ殺されるのみならず剥いだ生皮を天邪鬼がかぶり、着物を着て姫に成りすまし老夫婦に姫の肉を料理して食わせるといった陰惨な話も伝えられる。西日本では対照的に、木から吊るされたり降りられなくなっているだけで死んではおらず、助けられるという話になっていることが多い、 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8A%E3%81%93%E3%81%B2%E3%82%81%E3%81%A8%E3%81%82%E3%81%BE%E3%81%AE%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%8F)等々様々のバリエーションがある。しかし、「あまのじゃく」は、 神の計画の妨害者であり、しかも通例は「負ける敵」、 で、 意地が悪くて常に神に逆らうとはいうものの、もとより神に敵するまでの力はなく、しかも常に負けるものの憎らしさと可笑味とを具えていた、 とあり(柳田國男「桃太郎の誕生」)、 神の引き立て役、 で(日本昔話事典)、その特徴を、第一に、 彼の所行というものが、いつの場合にもぶち壊しであり、また文字通りの邪魔であって、いまだかつてシテの役にまわったことはなく、相手なしには何事も企てていないこと、 第二に、 彼の存在がただ興味ある語りごとの中にのみ伝わっていること、 第三に、 その事蹟が、憎らしいとは言いながらも常に幾分の滑稽をおびていたこと、 を挙げている(柳田・前掲書)。昔話、民話では、アマノジャクの代わりに、 山母(やまはは)、 山姥(やまうば・やまんば)、 とされたり、近世には、 アマノジャクもまた山の神、 とされたりしたが、この混同は、 山の反響が人の声を真似るのを、……土地によってこれをヤマンボともいえば、あるいはまたアマノジャクともいう、 ということかららしく、「あまのじゃく」も、 山の中の魔物、 とひとくくりにされ、 アマノジャクの方が原(もと)の形、 であろうと推定している(仝上)。 「あまのじゃく」は、 アマノザコ、 アマノジャコ、 アマンジャク、 アマノザク、 アマンジャメ、 アマノジャキ、 アマンシャグメ、 アマノサグメ、 などとも言い(精選版日本国語大辞典・日本昔話事典)、古事記の、 (天若日子が葦原中国を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として8年も経って戻らなかったため、使者として遣わされた)鳴女(なきめ)、夫より降りて、天若日子(あめわかひこ)の門に居て、天神(あまつかみ)の詔を告(の)る、「天佐具間(あまのさぐめ)、聞此鳥言而語天若日子言、此鳥者、其鳴音甚惡、故可射殺云進(いひすすむ)」(鳴女は、天神の御使の雉の名なり)、 にある、 天佐具間(あまのさぐめ)、 あるいは、神代紀の、 天探女、此云阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)、 の、 天探女(あまのさぐめ)の転、 とされる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典・壒嚢抄・俗語考等々)。確かに、『日本書紀』の注釈書『日本書紀纂疏』(にほんしょきさんそ 一条兼良)には、 稚彦(わかひこ)之侍婢也(口訣(口伝)「天探女者、従神讒女也」、 とあり、 忌部家古説に、探女、探他心多邪思也、 ともあるので、 少なくともその名称は神代史の天之探女を承け継いだものということはまず確か、 とされる(柳田・前掲書)が、しかし、 難波高津は、天稚彦、天降りし時、屬(つ)きて下れる神、天探女、磐船に乗て爰に至る、天磐船の泊つる故を以て、高津と號(なづ)く、 ともあり(万葉代匠記)、 「天之探女の何物であるかが、きわめてうろんであったことも昨今のことではなかった。『日本書紀』の一書にはこれを国神(くにつかみ)と記しているのに、『倭名鈔』は鬼魅(きみ)類に編入している。後世の諸註にもあるいはこれに従神(じゅうしん)といい、また天稚彦(あめのわかひこ)の侍女であったと解しているが、果たして万葉集の歌(久方の天之探女之石船(いはふね)の泊てし高津は浅(あ)せるにけるかも)の歌にあるごとく、石船に乗って天降った神ならば、國神であったはずはないので、つまりは今あるわずかな記録ばかりでは、どうしてもその本体を突き留める途がなかった」 としている(柳田・前掲書)ように、「天探女」の実像ははっきりしない。ただ、「あまのさぐめ」の語源が、 ザグはサグル(探)の語根(古事記伝・大言海)、 サグはこまっしゃくれるという意のサクジルと同義(俚言集覧)、 サグメは巫女の名であろう(日本古語大辞典=松岡静雄)、 とあるなど、その名が表すように、 天の動きや未来、人の心などを探ることができるシャーマン的な存在、 と見られ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%82%AA%E9%AC%BC)、天探女の、 他者の邪念を探ってそそのかしたことから、人の意向に逆らう邪悪な存在、心理を表す、 という意の言葉に転じ、 何事でも人の意に逆らった行動をすること、またその人、 を指すようになっていったと思われる(日本語源大辞典)とある。それ故、 瓜子姫譚を始め数多くの民間説話にも、負け滅びる悪役や、相手の意に逆らう悪戯者として登場するが、特に、他者の意を測り(サグル)、それを模倣する(モドク)ことで相手に違和感や反発を覚えさせる型のものが、上代神話の天探女と、人に逆らう、素直でないものという現在の意味と連なる、 とされている(仝上)。日葡辞書(1603〜04)には、 アマノザコAmanozaco――ものをいうといわれる獣(けだもの)の名。また出しゃばって口数の多い者、 とあり、「あまのじゃく」というものから、ちょうど、そのことばが、意味として分離しつつある過渡と見える。 むしろ、「あまのじゃく」イメージは、民間に広まった説話・伝承の影響の方が大きいのかもしれない。 かつては莖一面についていた五穀の実をしごいて穂先だけちょっぴり残したのも、 田畑に雑草の種、野山には人の困る茨の種をまいて歩いたのも、 一年中しのぎやすい気候だったのに夏冬をつくったのも、 橋や池の完成を邪魔して妨げたのも、 赤い根の穀物、菜類は、人間にはもったいないと手でしごいて赤くしたのも、 すべて「あまのじゃく」のしわざであった。こうして「あまのじゃく」は、 百姓の讐(かたき)、 となる(柳田・前掲書)。だから、 九州の方では毘沙門天、東国ではまた路の傍の庚申さんが、足下に踏みつけられている醜い石の像を「あまのじゃく」と思っている者はおおいのである、 とある(仝上)。仏教由来の「あまのじゃく」とされるものは、 毘沙門の鎧の前に鬼面あり。其名如何常には是を河伯面と云。……或書に云。河伯面、是を海若(アマノジャク)と云(「壒嚢鈔( あいのうしょう 1445〜6)」) とあるように、人間の煩悩を表す象徴として、 四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)や執金剛神(金剛杵を執って仏法を守護する)に踏みつけられている悪鬼、 また、 四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面、 とも称されるが、これは鬼面の鬼が中国の、 河伯(かはく 海若とも)、 という水鬼に由来し(『荘子』秋水篇)、同じ中国の水鬼である、 海若(かいじゃく)、 が「あまのじゃく」と訓読されるように、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになった、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%82%AA%E9%AC%BC・日本大百科全書)。なお、「執金剛神」については、「那羅延」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486035712.html)で触れたし、「庚申」については「庚申待」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488918266.html?1655318574)で触れた。 江戸時代の『和漢三才図会』では或る書からの引用として、 スサノオが吐き出した体内の猛気が天逆毎(あまのざこ)という女神になった、 とあり、これが、 天邪鬼 や 天狗、 の祖先としている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%82%AA%E9%AC%BC)。 天逆毎(あまのざこ)は、 スサノオが体内にたまった猛気を吐き出し、その猛気が形を成すことで誕生したとされる。姿は人間に近いものの、顔は獣のようで、高い鼻、長い耳と牙を持つ。物事が意のままにならないと荒れ狂う性格で、力のある神をも千里の彼方へと投げ飛ばし、鋭い武器でもその牙で噛み壊すほどの荒れようだとされている、 とし(和漢三才図絵)、鳥山石燕は、『今昔画図続百鬼』に、それを引用して、 或る書に云ふ、素戔嗚尊は猛気胸に満ち、吐て一の神を為す。人身獣首、鼻高く耳長し。大力の神と雖も、鼻に懸て千里を走る。強堅の刀と雖も、噛み砕て段々と作す。天の逆毎(ざこ)と名づく。天の逆気を服し、独身にして児を生む。天の魔雄(さく)と名づく、 と記す。天魔雄(あまのさく)は、後に、 九天の王となり、荒ぶる神や逆らう神は皆、この魔神に属した。彼らが人々の心に取り憑くことによって、賢い者も愚かな者も皆、心を乱されてしまう、 されている(先代旧事本紀大成経)。ただ、この記事は、『先代旧事本紀大成経』に依ると思われるが、同署は偽書とされており、これに基づいたとみられる『和漢三才図絵』の記述は、疑わしいとみられている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%80%86%E6%AF%8E)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 柳田國男『桃太郎の誕生』(ちくま文庫) 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫) 「祇園」は、 祇陀林(ぎだりん)、 という。 中印度、舎衛城(しゃえいじょう シュラーヴァスティー 古代インドのコーサラ国にあった首都)の南、祇陀太子(ぎだたいし)の園林、頭を取りて祇園と云ひ、須達長者(すだつちょうじゃ)がこの地を買い、広大なる寺を建てたるを、祇陀林(ぎだりん)寺、又祇園精舎と云ふ、須達の異称を、給孤独とも云ふに因りて、給孤独園(ぎっこどくおん)、略して孤独園とも云ふ。これを釈迦に献じたれば、釈迦多く、この園にて説教せりと云ふ、 とある(大言海・広辞苑)。従って、「祇園精舎」は、阿弥陀経に、 舎衛(しゃえい)国祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)、 とあるように、 祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)の略、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%B2%BE%E8%88%8E)。「須達」、つまり、 スダッタ(Sudatta 須達多)、 が、 給孤独者、 あるいは、 給孤独長者(アナータピンディカ Anāthapiṇḍada)、 と呼ばれていたのは、 身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、 とあり、元々、釈迦の大口支援者であったらしい(仝上)。 なお、「精舎」は、 サンスクリット語Vihāra(ヴィハーラ、ビハーラ)、 で、 仏教の比丘(出家修行者)が住する修道施設、 つまり、 寺院、 僧院、 のことである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E8%88%8E・岩波古語辞典)。 また、「祇園」には、 祇園精舎、 の意の他に、 行疫神(ぎょうえきしん)である牛頭天王(ごずてんのう)に対する信仰、 である、 祇園信仰、 の意があり、 災厄や疫病をもたらす御霊(ごりよう)を慰め遷(ウツ)して平安を祈願するもので、主として都市部で盛んに信仰された。祇園祭・天王(てんのう)祭・蘇民(そみん)祭などの名で各地で祭りが行われる、 とある(大辞林)。因みに、行疫神(ぎょうやくじん・ぎょうえきしん)とは、 流行病をひろめる神、 で、 厄病神、 ともいい、 疫病神、 疱瘡神、 と同趣の神になり、 疫病(エヤミ、トキノケと称した)などの災厄は古くは神のたたりや不業の死をとげた者の怨霊や御霊(ごりよう)のたたりと観念され、厄病神も御霊の一つの発現様式、 と見なしていた(世界大百科事典)。なお、「怨霊」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/407475215.html)については、触れたことがある。 牛頭天王(ごずてんのう)は、もともと、 祇園精舎(しょうじゃ)の守護神、 であったが、 蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B)、 武塔天神(むとうてんじん)、 あるいは、京都八坂(やさか)神社(祇園(ぎおん)社)の祭神として、 祇園天神、 ともいう(日本大百科全書)。「ごづ」は、 牛頭(ぎゅうとう)の呉音、此の神の梵名は、Gavagriva(瞿摩掲利婆)なり、瞿摩は、牛と訳し、掲利婆は、頭と訳す、圖する所の像、頂に牛頭を戴けり、 とあり(大言海)、 忿怒鬼神の類、 とし、 縛撃癘鬼禳除疫難(『天刑星秘密気儀軌』)、 とある(大言海)。これが、 素戔嗚を垂迹、 としたのは、鎌倉時代後半の『釈日本紀』(卜部兼方)に引用された『備後国風土記』逸文にある、 蘇民将来に除疫の茅輪(ちのわ)を与えし故事による、 とある(仝上)。すなわち、 備後國風土記曰、疫隅國社、昔北海坐志(マシシ)武塔神、南海神之女子乎(ムスメヲ)、與波比爾(ニ)出坐爾(ニ)、日暮多利(タリ)、彼所爾(ニ)、蘇民将来、巨旦将来二人在支(アリキ)、兄蘇民将来甚貧窮、弟巨旦将来富饒、屋倉一百在支、爰仁(ココニ)武塔神借宿處、惜而不借、兄蘇民将来借奉留(ル)、即以粟柄為座、以粟飯等饗奉留(ル)、饗奉既畢、出坐後爾(ニ)、経年率八柱子、還来天(テ)詔久(ク)、我将奉之為報答、曰、汝子孫其家爾(ニ)在哉止(ト)問給、蘇民将来答申久(マヲサク)、己女子與斯婦侍止(サモラフト)申須(ス)、即詔久(ク)、以茅輪令着於腰上、随詔令着、即夜爾(ソノヨルニ)、蘇民與女人二人乎(ヲ)置天(テ)、皆悉許呂志保呂保志天伎(コロシホロボシテキ)、即時仁(ソノトキニ)詔久(ツク)、吾者、連須佐能雄神也、後世仁(ノチノヨニ)疫気在者、汝蘇民将来之子孫(ウミノコ)止云天(トイヒテ)、以茅輪着腰上、随詔令、即家在人者将免止(ト)詔伎(キ)、 とある(釈日本紀)。要は、 北海の武塔天神が南海の女のもとに出かける途中で宿を求めたとき、兄弟のうち、豊かであった弟の巨旦将来(こたんしょうらい)はこれを拒み、貧しかった兄蘇民将来(そみんしょうらい)は髪を厚遇した。のちに武塔天神が八柱の子をともなって再訪したとき、蘇民将来の妻と娘には恩返しとして、腰に茅の輪を着けさせた。その夜、巨旦将来の一族はすべて疫病で死んだ。神は、ハヤスサノオと名のり、後世に疫病が流行ったときは、蘇民将来の子孫と称して茅の輪を腰につけると、災厄を免れると約束した、 というものである(日本伝奇伝説大辞典)。で、平安末期『色葉字類抄』は、 牛頭天王の因縁。天竺より北方に国有り。その名を九相と曰ふ。其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。其の国の中に城有り。牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ、 とあり、 沙渇羅(娑伽羅、沙羯羅 しゃがら)竜王の娘と結婚して八王子を生み、8万4654の眷属神をもつ、 とある(世界大百科事典)。 『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(簠簋(ほき)内伝)』(安倍晴明編)には、 北天竺摩訶陀国、霊鷲山の丑寅、波尸城の西に、吉祥天の源、王舍城の大王を名づけて、商貴帝と号す。曾、帝釈天に仕へ、善現に居す。三界に遊戯す。諸星の探題を蒙りて、名づけて天刑星と号す。信敬の志深きに依りて、今、娑婆世界に下生(げしょう)して、改めて牛頭天王と号す。元は是、毘盧遮那如来の化身なり、 とあり、さらに、 簠簋内傳に、蘇民が事を以て、印度の伝説に基づくとなしたり、然れば、蘇民は、元印度の神にて、疫疾を祓うことを司りしを、両部習合の説、我国に行われて、素戔嗚尊の本地を、牛頭天王となししより、蘇民が事を付会することとなり、遂に、祇園社の摂社として、蘇民が祠を設くるに至りしなるべし、 ということになる(日本百科大辞典・大言海)。 奈良時代から平安時代にかけて天災や疫病の流行が続いたが、それを、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする、 御霊信仰(ごりょうしんこう)、 を背景に、それを鎮めるために、 祇園御霊会(御霊会)、 が始まり、 牛頭天王、 が、貞観十一年(869)清和天皇の代、感神院(かんしんいん 八坂神社)に勧請(かんじょう)され、祇園御霊会は、 10世紀後半には京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになり、祇園社の6月の例祭として定着、天延三年(975)には朝廷の奉幣を受ける祭となる。後の祇園祭である。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0)。 祇園社の由来については、 牛頭天皇、初て播磨国明石浦(兵庫県明石市一帯の海岸)に垂迹し、広峯(広峯神社 兵庫県姫路市広嶺山)に移る。其の後、北白川東光寺(岡崎神社 京都市左京区岡崎東天王町)に移る。其の後、人皇五十七代陽成院元慶年間(877〜885)に感神院に移る、 とある(吉田兼倶『二十二社註式』)。また、 託宣に曰く、我れ天竺祇園精舎守護の神云々。故に祇園社と号す(『二十二社記』)とあり、 祇園天神、 婆利采女(ばりさいにょ)、 八王子、 を祭って、承平五年(953)六月十三日、 観慶寺を以て定額寺と為す、 と官符に記され、別名、 祇園寺、 といった(http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/12.html・日本伝奇伝説大辞典)。「祇園天神」とは、 武塔天神と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた、牛頭天王(ごずてんのう)、 のことであり、「婆利采女」とは、 牛頭天王の妃の名。沙伽羅(しゃがら)龍王の三女、 とされる。「八王子」とは、『備後国風土記』逸文にある、 武塔神の八柱の子、 であり、牛頭天王と同一視されているから、 婆利采女との間の子、 ということになる(精選版日本国語大辞典・http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/12.html)のだが、八坂神社、つまり祇園社の祭神、 祇園の神、 は、 素戔嗚尊、 少将井の宮(奇稲田姫命 くしなだひめのみこと)、 八柱御子神(やはしらのみこがみ)、 で、この八柱は、 素戔嗚の五男三女、 とある(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE)。ただ、別に、八柱御子神は、 天照大神の五男三女神、 ともある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・大言海)。普通に考えると、素戔嗚尊、奇稲田姫命の子供ということだろう。 「祇」(漢音キ、呉音ギ)は、 会意兼形声。「氏+音符示(キ・シ 祭壇)」で、氏神としてまつる土地神。示(キ)と同じ、 とあり、「神祇(ジンギ)」「地祇(チギ 地の神)」と使う。 祇攪我心(ただ我が心を攪すのみ)、 と、「祗(シ)」や只(シ)と同じに用いる場合、「祇」を「祗」の字と混用したもの、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(示(ネ)+氏)。「神にいけにえをささげる台」の象形(「祖先の神」の意味)と「刃物で目を突き刺しつぶれた目」の象形(「目をつぶされた被支配族」、「人間」の意味)から、人々の「神(かみ)」を「祇」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2620.html)。 「園」(漢音エン、呉音オン)は、「竹園」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486160699.html)で触れたように、 会意兼形声。袁(エン)は、ゆったりとからだを囲む衣。園は「囗(かこし)+音符袁」、 とある(漢字源)。別に、 形声。囗と、音符袁(ヱン)とから成る。果樹・野菜などを植える「その」の意を表す、 とも(角川新字源)、 形声文字です。「周辺を取り巻く線」(「囲(かこ)い」の意味)と「足跡・玉・衣服」の象形(衣服の中に玉を入れ、旅立ちの安全を祈るさまから、「遠ざかる」の意味だが、ここでは、「圜(えん)」に通じ(同じ読みを持つ「圜」と同じ意味を持つようになって)、「巡る」の意味)から、囲いを巡らせた「その」を意味する「園」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji270.html)ある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 「後の千金」(のちのせんきん)は、 せっかくの援助も、時を失してはなんの効果もないことのたとえ、 にいう。「轍魚」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484816260.html)で触れた、『荘子』外物の、 莊周家貧、故往貸粟於監河侯、監河侯曰、諾我將得邑金、將貸子三百金、可乎、莊周忿然作色曰、周昨來、有中道而呼者、周顧視、車轍中、有鮒魚焉、周問之曰、鮒魚來、子何為者邪、對曰、我東海之波臣也、君豈有斗升之水而活我哉、周曰、諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、可乎、鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、君乃言此、曾不如早索我於枯魚之肆、 による(字源)。常與は水、の意。貧乏な莊周(荘子)が、 貸粟、 と頼んだところ、監河侯が、 諾我將得邑金、將貸子三百金、 と悠長なことを言ったのに対し、轍の鮒を喩えて、莊周が、 昨來、有中道而呼者、 見ると、 車轍中、有鮒魚焉、 その轍の鮒に、 君豈有斗升之水而活我哉、 と、一斗一升の水が欲しいと求められたのに対し、 諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、 と間遠な答えをしたところ、 鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、 と鮒が憤然として、そのように言うなら、 枯魚之肆、 つまり干物屋で会おうと言われたといって、監河侯をなじったのに由来する(故事ことわざの辞典)。これを、『宇治拾遺物語』に、「後ノ千金ノ事」と題して、まるで隣家にちょっと借米に行ったような話に変わっているが、 今はむかし、もろこしに荘子(さうじ)といふ人ありけり。家いみじう貧づしくて、けふの食物たえぬ。隣にかんあとうといふ人ありけり。それがもとへけふ食ふべき料(れふ)の粟(ぞく 玄米)をこふ。あとうがいはく、「今五日ありておはせよ。千両の金を得んとす。それをたてまつらん。いかでか、やんごとなき人に、けふまゐるばかりの粟をばたてまつらん。返々(かへすがへす)おのがはぢなるべし」といへば、荘子のいはく、「昨日道をまかりしに、あとに呼ばふこゑあり。かへりみれば人なし。ただ車の輪のあとのくぼみたる所にたまりたる少水に(せうすい)に、鮒(ふな)一(ひとつ)ふためく。なにぞのふなにかあらんと思ひて、よりてみれば、すこしばかりの水にいみじう大(おほ)きなるふなあり。『なにぞの鮒ぞ』ととへば、鮒のいはく、『我は河伯神(かはくしん)の使(つかい)に、江湖(かうこ)へ行也。それがとびそこなひて、此溝に落入りたるなり。喉(のど)かはき、しなんとす。我をたすけよと思てよびつるなり』といふ。答へて曰く、『我今二三日ありて、江湖(かうこ)といふ所にあそびしにいかんとす。そこにもて行て、放さん』といふに、魚のはく、『さらにそれまで、え待つまじ。ただけふ一提(ひとひさげ)ばかりの水をもて喉をうるへよ』といひしかば、さてなんたすけし。鮒のいひしこと我が身に知りぬ。さらにけふの命、物くはずはいくべからず。後(のち)の千のこがねさらに益(やく)なし。」とぞいひける。それより、「後(のち)の千金」いふ事、名誉せり、 と載せた。「かんあとう」は、監河候(かんかこう)の誤りとされ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 魏文侯、 とあり、詳しく伝わらないが、 河を監督する役人、 ともあり(https://j-trainer.blogspot.com/2021/04/blog-post_5.html)、 官職、 であるらしい(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。「河伯(かはく)」は、和名類聚抄(平安中期)に、 河伯、一云水伯、河之神也、和名、加波乃加美、 とある(仝上)。 「後の千金」は、 後の千金より今の百金、 後の千金よりも今の百文、 等々ともいうが、 明日の百より今の五十、 という言い方もある。 明日になればたくさん手に入るかもしれないが、不確実なことに期待するより、量は少なくとも今日手に入る確実なことの方がよい、 という意味で、 時を失してはなんの効果もない、 という含意よりは、 末の百両より今の五十両、 聴いた百文より見た一文、 と、 遠い不確実なことより手近な確実さを取る、 と、少し意味がシフトしていく。 先の雁より手前の雀、 先の雁より前の雲雀、 もその意味になる。しかし、 不応遠水救近渇、空倉四壁雀不鳴(陳師道詩・通俗編)、 とある、 遠水(えんすい)渇(かつ)を救わず、 もその意味になるが、 失火而取水於海、海水雖多、火必不滅矣、遠水不救近火也(韓非子・説林上篇)、 とある、 遠水は近火を救わず、 も、 遠くにあっては急の役は立たない、 と、意味が、 急場の用にシフトしている。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 「けんけん」は、辞書(広辞苑)を引くと、 件件(あの件、この件)、 娟娟(うるわしいさま、しなやかなさま)、 涓涓(小川など、水が細く流れるさま)、 眷眷(いつくしんで目をかけるさま、ねんごろに思うさま)、 拳拳(ささげ持つさま、うやうやしくつつしむさま)、 喧喧(やかましいさま、がやがや)、 蹇蹇(なやみ苦しむさま、忠義を尽くすさま)、 等々同音異議の言葉が並ぶが、ここでは、子どもの遊びの、片足でぴょんぴょん跳ぶ、 片足跳び、 の意の「けんけん」であるが、「けんけん」には、 犬や雉などの鳴き声、 の擬音語、 や、日葡辞書(1603〜04)に、 Qenqẽto(ケンケント)モノヲイウ、 と載るように、 つんけん、 と同義で、 つっけんどんなさま、 無愛想なさま、 の意もある(仝上・大辞林)。その他に、相撲の手の一つ、 「掛投げ」の俗称、 としても言われる(「相撲講話(1919)」)。 片足跳びの「けんけん」は、 上方から広がった新しい言い方、 とあり(大阪弁)、 片足を上げることから、犬芸のちんちんはここからきている、 とも(仝上・擬音語・擬態語辞典)、 関西畿内の方言、 とも(隠語大辞典)あり、柳田国男は、 京都を中心とする新しい文化の発信地から次第に列島の南北にその文化の波が伝播し新旧の言葉が同心円状に分布する、 という考えを提示している(「シンガラ考」)。確かに、江戸語大辞典には、「けんけん」は載らず、 東京でももともとは「ちんちん」と言った、 とあり(大阪弁)、福沢諭吉も、 東京にて子供の戯に片足を揚げて片足にて飛ぶ、之を称してチン/\モガ/\と云ふ、 と、明治30年(1897)に言っている(田端重晟宛書簡)が、江戸時代から、 ちんがちがちがちんがらこ、走り走り走り着きて(明和六年(1769)「隈取安宅末(長唄)」)、 と、 ちんがらこ、 とか、あるいは、 ちんちんもんがら、チンガラコとも云、一足にて躍り行を云(江戸中期(1795以降)「俚言集覧」)、 と、 ちんちんもんがら、 とか、あるいは、「ちんちんもがら」の転訛で、 足を上げてふるっても踵へぴつたりくつ附いて放れぬゆゑ、ちんちんもぐらではねてゐる足元へ(安政四年(1857)「七偏人」)、 と、 ちんちんもぐら、 ちんちんもぐらこ、 といい(江戸語大辞典・精選版日本国語大辞典)、さらに、 ちんちんがいこ、 とも訛り、 ちんぐらはんぐら、 ちんちんまごまご、 とも言い、 略して、 ちんちん、 といった(仝上)。 「けんけん」の語源は、 蹴る蹴るの転か(あるめり、あんめり。なんてん、なるてん)(大言海)、 足踏の音からか(綜合日本民俗語彙)、 とあるが、どうだろう。 片足飛びの所作は、かつて戦場等で実際に必要とされた武術の一種であったが、やがて子供がそれをまねて自分たちの遊びに取り入れていったと考えられている。万一、戦さの場で片足を負傷した場合でも、この片足飛びの技を身につけていれば敵から逃れることも可能であった。また負け戦さで退却する軍の最後尾について決死の覚悟でなんとか味方の友軍を守る役割を担うことをシンガリ(殿)をつとめるというが、この言葉もやはり片足飛びを意味するチンガラやシンガラ系統の方言のーっとされている、 と、片足飛びを、 しんがら、 とする説がある(飯島吉晴「『片足飛び』遊びの呼称とその意味」)。確かに、柳田國男は、 (片足飛びをシンガラまたはチンガラと呼んだのは)単なる童詞の章句に依るといふ以上に、最初は一本足の足踏みの頭に響く感覚を、誰かが始めて斯くの如く形容し、それを成程と承認した群が、段々に其使用を流行させたので、発生の過程はほぼ他の色々の民間文芸、例ば諺や小唄なども同じであった、 とし、 郷里の播州中部(兵庫県福崎町)では、かれの子供時代まで、 ジンジン、 という言葉と、 ケンケン、 という言葉とが併存していたとしている(柳田・前掲書)。 チンガラ、 シンガラ、 は、こう見ると、「頭に響く感覚」(柳田)なのかどうかは別にして、 擬音語、 あるいは、 擬態語、 に由来するのではないかという気がする。 これと類似する、 チンチン(吉野)、 チンチンガエコ(大垣)、 チンココ(遠州)、 チンギリコッコ(甲州)、 シンシンサ(横手)、 などという分布をみると、江戸の、 ちんがらこ、 ちんちんもんがら、 ともつながってくる(仝上)。で、 チンギリコッコ、 の、コッコは、鬼ゴッコのゴッコと同じく真似または仕草の意味で、 事(コト=儀式・行儀)を子供が訛って発音した言葉、 で、他地方でナンゴやナゴという遊戯やナドという類例を意味する言葉とも同じもの(仝上)、とある。柳田國男によれば、 チンギリ、 チンギリコ、 シンガリコ、 チンガラ、 チンギチョンギ、 チンガラポツチャ、 チンキリカイコ、 チンココ、 チンチンコロ、 等々といった「チンガラ系統」とされる方言に、江戸の、 ちんちんもんがら、 は含まれ、かつて子供たちは、 ヅンガラモンガラとかチンコロマンコロ、あるいは「しんがらかいたからかいたお寺の前でからかいた」などと唱えながら、片足遊びをしていた、 とみられるとする(仝上)。他方、 けんけん、 は、 ケンケンパタ(伊豆賀茂郡)、 アシケンケン(常陸)、 ケンチョケンチョ(下総)、 テンテンカラカラ(上総)、 ケッケナゲ(江刺)、 ケンケンパネ(気仙)、 ケンケンブツ(越中)、 ケンケンツクック(伊勢)、 などに分布、 京都を包含し、しかもチンガラ区域を南北から囲緯して、 山城、近江、阿波、岡山、山口、壱岐、越中、伊豆、 に広がる。新たに「けんけん」が全国を席巻する中で、折衷的に、 アシケンケン、 アシコンコン、 が千葉、茨城、埼玉など関東地方の一部に、 イッケンケン、 イケンチョ、 が、伊勢や近江などに、また、全く別由来で、 ギッチョ、 ギッチョンチョン、 という呼び名が名古屋や広島などに見られる、とある(仝上)。これは、今日差別用語として禁じられている、跛行を意味する「びっこ」とか「ちんば」に由来するとみられる。しかし、全国的にいうと、 けんけん、 が今日標準化してしまったのかもしれない。 ただ、今日よく、 けんけん、 は、 石けり、 と同義で使われているが、これは、明治時代以降に欧米諸国から輸入された、 「ホップスコッチ Hopscotch」系の遊び から派生したもので(仝上・http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/warabeuta/ishikeri-game.html)、昭和期に流行し、昭和40年代頃まで人気があったし、 けん→片足、ぱ→両足、 の、 けんぱ、 けんけんぱ、 ちょんぱ、 ちんぱっは、 などと呼ばれる遊びも、やはり明治時代にヨーロッパから伝わったもので、昭和40年代ごろまで子どもたちのあいだでとても人気があり(仝上)、「けんけん」が、片足跳びの名称として定着していったのには、 石けり、 や けんぱ、 の定着があずかっていると思える。 参考文献; 飯島吉晴「『片足飛び』遊びの呼称とその意味」(https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3209/KOJ000802.pdf) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「よりまし」は、 尸童、 寄坐 憑坐、 憑子、 神子、 依巫、 寄りまし、 等々とあてる(広辞苑・大言海・大辞泉・日本語源大辞典・岩波古語辞典他)。その由来を、 神霊の寄り坐し(岩波古語辞典)、 神霊の憑坐(よりまし)の義か(大言海)、 依巫(よりまし)の義(和訓栞)、 寄在(よりまし)の義(俚言集覧)、 等々とする(岩波古語辞典・日本語源大辞典)ように、 依代(よりしろ 憑代 神霊が寄りつくもの)となるもの、 の意で、依代は、多く、 憑依(ひょうい)物としての樹木・岩石・動物・御幣・人間、 等々で、この場合、 人間の神霊が宿り憑く者、 の意で(岩波古語辞典)、 子供、 である場合が多い。神意を伺おうと、験者や巫女が神降ろしをする際、 男女の幼童の上に神霊を招いて乗移らせ、神の依りますところとして、神の意志は清純な童子の口をかりて託宣(たくせん)として示される、 のであり(仝上・世界大百科事典)、室町中期の用字集「饅頭屋本節用集」には、 降童、ヨリマシ、 とある。 寄り、 寄体(よりがら)、 とも(日本語源大辞典)、 かんこ(神子) かむなぎ(巫) みかんこ(御坐・御神子)、 みかむのこ(御坐 御神の子の転)、 ともいい(大言海)、「かんなぎ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483366329.html)で触れたように、 (「かみなぎ」は)女子の、神に奉仕し、神楽に舞ひなどする者、多くは少女なり、又、かみおろしなどするものあり、専ら音便に、かんなぎと云ふ。又、かうなぎ。みこ。官に仕ふる者を、御神(ミカン)の子と云う、 とある(大言海)。 御神(みかん)の子→巫女(みこ)、 とつながるように、「巫女」と重なる。 「尸童」の「尸」は、 かたしろ(形代)、 の意、「かたしろ」は、 人形(ひとがた)、 ともいい(日本大百科全書)、 神霊が依り憑く(よりつく)依り代の一種。人間の霊を宿す場合は人形を用いるなど、神霊が依り憑き易いように形を整えた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E4%BB%A3)が、多く児童をあてたので、 尸童、 と書き、「よりまし」とよぶのは、 神霊がその童子によりつくことから、 いう(日本大百科全書)。よりましに立てられた童子に対して祈祷を行うと、神霊がこれにのりうつって託宣をする。古代の祭りはこの尸童が主体であった(仝上)とあり、 伊勢の斎王(いつきのみこ)、 は大和朝廷がたてたよりましであったとされる(仝上)。現在でも各地の祭礼にみられ、神幸の際に行列の中心になり、美しく着飾らせ(稚児舞)たり、人形を用い、馬に乗せて尸童とすることもあり、また祈り終ってから川に流すこともある。 神霊ではなく死霊がついた場合は、 尸者(ものまさ)、 と呼ばれる(仝上)とある。 「尸位素餐」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486247452.html)で触れたように、「尸」(シ)は、 象形。人間がからだを硬直させて横たわった姿を描いたもの。屍(シ)の原字。また、尻(シリ)・尾の字におけるように、ボディを示す音符に用いる。シは矢(まっすぐなや)・雉(チ まっすぐに飛ぶきじ)のように、直線状にぴんとのびた意味を含む、 とあり(漢字源)、 魂去尸長留(魂は去りて尸は長く留まる)、 と(古楽府)、「しかばね」の意味だが、 弟為尸則誰敬(弟、尸となせばすなはち誰をか敬せん) と(孟子)、 かたしろ、 古代の祭で、神霊の宿る所と考えられた祭主、 の意味で、 孫などの子供をこれに当てて、その前に供物を供えてまつった。のち、肖像や人形でこれに代えるようになった、 とある(仝上)。のちに、 死体のみならず、精神と切り離された肉体そのものを指すようになった、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%B8)。 「童」(慣用ドウ、漢音トウ、呉音スウ)は、「大童」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484158438.html)で触れたように、 会意兼形声。東(トウ 心棒を突き抜けた袋、太陽が突き抜けてくる方角)はつきぬく意を含む。「里」の部分は、「東+土」。重や動の左側の部分と同じで、土(地面)つきぬくように↓型に動作や重みがること。童は「辛(鋭い刃物)+目+音符東+土」で、刃物で目を突きぬいて盲人にした男のこと、 とあり(漢字源)、「刃物々目を突きぬいて盲人にした奴隷」の意とあり、僕と同類で、「童僕」(男の奴隷や召使)と使うが、「童子」というように「わらべ」の意もある。別に、 形声。意符辛(入れ墨の針。立は省略形)と、音符重(チヨウ)→(トウ)(里は変わった形)とから成る。目の上(ひたい)に入れ墨をされた男子の罪人の意を表す。借りて「わらべ」の意に用いる、 ともあり(角川新字源)、 会意兼形声文字です(辛+目+重)。「入れ墨をする為の針」の象形と「人の目」の象形と「重い袋」の象形から、目の上に入れ墨をされ重い袋を背負わされた「どれい」を意味する「童」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「未成年者(児童)」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji530.html)。 「憑」(漢音ヒョウ、呉音ビョウ)は、 会意兼形声。馮(ヒョウ・フウ)は、「馬+冫(ヒョウ こおり)」の会意兼形声文字。冫(にすい)は、氷の原字で、ぱんとぶつかり割れるこおり。馬が物を割るような勢いでぱんとぶつかること。憑は「心+音符馮」で、AにBをぱんとぶつけて、あわせること。ぴたりとあわせる意からくっつける意となり、AとBとあわせてぴたりと符合させる証拠の意となった、 とあり(漢字源)、「憑欄(欄に憑る)」と、「寄りかかる」意や、「憑付(ヒョウフ)」と「たのむ」意や、「憑拠(ヒョウキョ)」と「あかし」の意で使い、 暴虎馮河(論語)、 のように、「がむしゃらに黄河をわたろうとする」意で使う。 憑依、 のように、 霊などが乗り移る、 狐が憑く、 の使い方はわが国だけのようだ(仝上)。漢語「憑依」は、 神所憑依、将在徳矣(左伝)、 と、 のりうつる、 意に近いが、 よりたすく、よりかかる、 意で、含意が異なる。 「坐」(漢音サ、呉音ザ)は、 会意。「人+人+土」で、人が地上に尻をつけることを示す。すわって身たけを短くする意、 とある(漢字源)。別に、 象形。土の上に二人の人が向かい合っているさまにかたどる。「すわる」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(人+人+土)。「向かい合う人の象形と、土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形(「土」の意味)」から、向かい合う2人が土にひざをつけて「すわる」を意味する「坐」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2404.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 只今の太政大臣の尻はけるとも、此の殿の牛飼にも触れてんや(「落窪物語(10C末)」)、 とある、 「ける」(カ行下一段活用)は、 蹴る、 と当てる(広辞苑)が、 蹶る、 とも当てる(大言海)。 「ける」の古形は、 帯刀どもして蹴させやましと思ひしかと(大鏡)、 殿上人、鞠けさせて御覧ずる(栄花物語)、 と、 け(蹴 カ行下一段活用)、 の形で使われるが、この「け」は、 馬(むま)の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてむ踏み破(わ)らせてむ(「梁塵秘抄(1179頃)」)、 とある、 古形くゑ(蹴)の転(岩波古語辞典)、 古音くゑの約(大言海)、 であり、 若沫雪(あわゆき)以蹴散(くゑはらかす)、此、云、倶穢簸邏邏箇須(クヱハララカス)(日本書紀・神代紀)、 雷電霹靂、蹴裂(くゑさき)其磐、令通水(日本書紀・神功紀)、 と、 くう(蹴 ワ行下二段活用)、 に遡る(仝上)。 くう→くゑ→け、 と、古形「け」になったと思われるが、この「くう」は、 クユル、コユルと転じ、口語調に、クヱル、クエルとなり、また約まりて、ケルとなる(大言海)、 クヱル(蹴)の語は、クヱ[k (uw)e]の縮約でける(蹴る)という下一段動詞になった(日本語の語源)、 と、 くゑる(ワ行下一段活用)、 となるが、これは、 上代のワ行下二段活用「くう(蹴)」の未然・連用形「くゑ」が合拗音化して下一段活用の「くゑる」に変わり(その前に「くゑる」の語形を推定する考えもある)、さらにそれが直音化して「ける」になったものと推測される。ただし「くゑる」を本来の語形として、上代より下一段動詞であったとする説もある、 とあり(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、さらに、「ける」の古語には、 毬(まり)打(クユル)(別訓 くうる)侶(ともがら)に預(くはは)りて(日本書紀・皇極紀)、 と、 くゆ(蹴 ヤ行下二段活用)、 もあり、 くう(蹴)の転(移(うつ)る、ゆつる)、又、転じて、コユとなる(黄金(こがね)、くがね。いづく、いずこ)、 とある(大言海)ので、 くう→くゑ→け、 の転訛とは別に、 くう→くゆ→くゆる→くゑる→くゑる→ける、 という転訛もあったことになる。 しかも、蹴爪(けづめ)の古語「あごゆ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484128942.html)で触れたように、「ける」の転訛の系譜には、もう一つあって、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 蹴、化(け)ル、クユ、コユ、 とある、「くゆ」とは別の、 こゆ(蹴 ヤ行下二段活用)、 がある。蹴爪(けづめ)の古語「あごえ」は、 アは足、コエは蹴るの意のコユの名詞形、 であり(岩波古語辞典・大言海)、 「こゆ」は、 蹴、 と当て、 越ゆと同根、足の先を上げるのが原義、 とある(大言海)、「越ゆ」は、 コユ(蹴)と同根、目的物との間にある障害物をまたいで、一気に通り過ぎる意、 ともある(岩波古語辞典)。だから、「くう」は、 ケ(蹴)の古形コユとクユとが平安時代に混交したものか、 とする見方もある(岩波古語辞典)。字鏡(平安後期頃)に、 蹢、萬利古由、 蹹、古由、 天治字鏡(平安中期)に、 蹴然、豆萬己江、(爪蹴 つまこえ)、 和名類聚抄(平安中期)に、 蹴鞠、末利古由、 とある。つまり、「くう」が、混交の結果なのか、古形のひとつなのかは別として、「ける」に至るには、 くゆ形の転訛、 と、 こゆ系の転訛、 があり、 (くう→)くゆ、こゆ→くゆる、こゆる→くゑる、くえる→ける、 といった二系統の転訛を経てきたことになる。 これは、「くゆ」が、 毬(まり)打(クユル)(別訓 くうる)侶(ともがら)に預(くはは)りて(日本書紀・皇極紀)、 と、 脚の爪先で物を突きやる、 意なのに対して、 「こゆ」が、「越え」と同源のゆえに、 脚の指をもちて地を蹴(コエ)て、足を壊(こわ)りつ(「小川本願経四分律平安初期点(810頃)」)、 と 足の先を上げるのが原義、 とあり(岩波古語辞典)、原点は微妙に違ったのかもしれないが、平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、 距、足角也、阿古江、 和名類聚抄(平安中期)には、 距、鶏雉脛、有岐(また)也、阿古江、 類聚名義抄(11〜12世紀)には、 距、アコエ、コユ、 とあるように(大言海)、「蹴爪」の意の「あごえ」では、 蹴る、 との意味の差は消えているように見える。 今日の「ける」は、ラ行五(四)段活用になっているが、江戸中期までは「けら」「けり」等の用例がみられないところから、四段活用の「ける」が登場するのは江戸時代後半からとみられている(日本語源大辞典・大辞林)。ただ、 現代語でも「け散らす」「け飛ばす」などの複合語には下一段活用が残存しており、命令形も「けれ」のほか「けろ」も用いられる、 し(デジタル大辞泉)、 「けたおす(蹴倒す)」「けちらす(蹴散らす)」など複合語、 にも、「け…」という古語の「け」の古形が残っている(大辞林)。ちなみに、「ける」のカ行下一段活用は、 未然形 け(蹴)・連用形 け(蹴)・終止形 け(蹴)る・連体形 け(蹴)る・已然形 け(蹴)れ・命令形け(蹴)よ、 となる。 「蹴」(慣用シュウ、漢音シュク、呉音スク)は、 会意兼形声。「足+音符就(シュウ 間隔を詰める、近づく)」 とあり(漢字源)、「ける」意味だが、別に、 会意兼形声文字です(足+就)。「胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「丘の上に建つ家の象形と犬の象形」(高貴な(身分が高い)人の家に飼われた番犬のさまから、「つき従う・つける」の意味)から、ある物に足をつける事を意味し、そこから、「ける」、「ふむ」を意味する「蹴」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1461.html)。 「蹶」(漢音ケツ・ケイ、呉音コチ・ケ)は、 会意兼形声。「足+音符厥(ケツ くぼんでひっかかる)」。くぼみに足をひっかけてかばっとはねおきること、 とある(漢字源)。つまずく意で、「蹶起」というように「たつ」意もあるが、これを「ける」に当てたのは、呉音「け」の音からではないかと勘繰りたくなるほど、「蹴る」の意味はこの字にはない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) |
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