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コトバ辞典


ねぎらう


「ねぎらう」は、

労う、
犒う、

と当てる(広辞苑)。

乃(すなわ)ち自ら往き迎へてねぎらふ(欽明紀)、
百済国に遣して其の王を慰労(ねぎら)へしむ(神功紀)、

と(斉明紀では、「賜労(ねぎら)ふ」と当てている)、

骨折りを慰める、
労を謝する、

意である(広辞苑・岩波古語辞典)。「ねがふ」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/483450086.html?1631819332で触れたことと重なるが、「ねぎらう」は、

ネギはネグ(祈・労)と同じ、

とあるように(岩波古語辞典)、

ネ(祈)グと通ず(大言海)、
ネギ(祈願・労う)+らう(動詞化)(日本語源広辞典)、
ネ(祈)グから(国語の語根とその分類=大島正健)、
奈良時代の上二段動詞「ねぐ(労ぐ)」で、神の心を和らげて加護を祈る意。また相手の労苦をいたわる意(由来・語源辞典)、

等々、「ねぐ(祈・労)」と重なる。

「ねぐ」は、

祈ぐ、
労ぐ、

等々と当て、

神などの心を安め和らげて、その加護を祈る、

意であり(岩波古語辞典)、この名詞化が、「禰宜」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/483417211.html?1631647344で触れたように、

神の心を慰め和らげ祈請の事にあたる、

禰宜、

とする説もあり(日本語源広辞典・岩波古語辞典)、別に、「ねが(願)ふ」の、

ガフ[g(af)u]が縮約されてネグ(祈ぐ)に変化し、その連用形の名詞化、

が「禰宜」となったとする説(日本語の語源)もあるが、「願ふ」は、

祈(ね)ぐの延(大言海)、
ネギ(労)と同根、神などの心を慰め和らげることによって、自分の望むことが達成されるような取り計らいを期待する意(岩波古語辞典)、
ネグと同根。ネグは「禰宜」、「ねぎらふ」のネギと同源(日本語の年輪=大野晋)、

と、

願ふ、
祈ぐ、
労ぐ、

は、ほぼ重なるのである。別に、音韻変化からみた場合、

神仏に願い望むことをコフ(乞ふ・請ふ)という。カミコヒメ(神乞ひ女)は語頭・語尾を落としてミコ(巫女)になった。さらにいえば、心から祈るという意味で、ムネコフ(胸乞ふ)といったのが、ムの脱落、コの母韻交替[ou]でネカフ・ネガフ(願ふ)になった。ネガフ(願ふ)を早口に発音するとき、ガフ[g(af)u]が縮約されてネグ(祈ぐ)に変化した。その連用形の名詞化が『禰宜』である。また、カミネギ(神祈ぎ)はカミナギ・カンナギ(巫)に変化した(日本語の語源)、

あるいは、逆に、

ネ(祈)グの未然形ネガに接尾語フのついた語(広辞苑・日本語源広辞典)、
ネグ(祈)の延(大言海)、
ネギラフのネギと同源(日本語の年輪=大野晋)、

との両説があり、

ネガフ(願ふ)→ネグ(祈ぐ)、

に転訛したのか、あるいは、

ネグ(祈ぐ)→ネガフ(願ふ)、

に転嫁したのかは、はっきりしないが、

願ふ、
祈ぐ、
労ぐ、

は、音韻的にも同源のようなのである。

なお、同義の「いたわる」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/451205228.htmlの、

イタは痛。イタハリと同根。いたわりたいという気持ち、

とあり(岩波古語辞典)、

(病気だから)大事にしたい、
大切に世話したい、
もったいない、

といった心情表現に力点のある言葉になっている。この言葉は、いまも使われ、

骨が折れてつらい、
病気で悩ましい、
気の毒だ、
大切に思う、

と、主体の心情表現から、対象への投影の心情表現へと、意味が広がっている。だから、たとえば、

イタイ(痛い)→イタム(傷む)→イタワシ(労わし)→イタワル(労わる)、

と、おおよそ、主体の痛覚から、心の傷みに転じ、それが他者へ転嫁されて、他者の傷みを傷む意へと、転じていったとみることができ、「ねぎらう」とは、まったく由来を異にしている。

「勞(労)」(ロウ)は、

会意。勞の上部は、火を周囲に激しく燃やすこと。勞は、それに力を加えた字で、火を燃やし尽くすように、力を出し尽くすこと。激しくエネルギーを消耗する仕事や、その疲れの意、

とある(漢字源)。別に、

会意。力と、熒(けい)(𤇾は省略形。家が燃える意)とから成る。消火に力をつくすことから、ひいて「つかれる」、転じて「ねぎらう」意を表す、

ともある(角川新字源)。さらに、

会意文字です(熒の省略形+力)。「たいまつを組み合わせたかがり火」の象形と「力強い腕」の象形から、かがり火が燃焼するように力を燃焼させて「疲れる」、また、その疲れを「ねぎらう」を意味する「労」という漢字が成り立ちました、

との解釈もある
https://okjiten.jp/kanji719.html

「犒」(コウ)は、

形声。「牛+音符高」、

で、

飲食物を贈って、陣中の将兵をなぐさめる、またその飲食物、

の意とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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いなご


「いなご」は、

蝗、
稲子、
螽、

等々と当て(https://hyogen.info/word/909857・広辞苑)、

蝗虫(こうちゅう)、

とも言う(デジタル大辞泉)。 

古くは、擬人化して、接尾語「まろ」を加えた、

いなごまろ(稲子麿)、

と呼んだ(日本語源大辞典・岩波古語辞典)。『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)には、

蚱蜢(さくもう) 以奈古末呂、

と載り(仝上)、平安末期の『梁塵秘抄』には、

茨小木の下にこそ、鼬が笛吹き猿奏でかい奏で、稲子麿賞拍子つく、さて蟋蟀(きりぎりす)は鉦鼓の鉦鼓のよき上手、

とある。また、

イナゴ、バッタ、キリギリス、

等々の俗称として、

祇園林も近ければねぎ殿といふ虫も有(浄瑠璃・弘徽殿鵜羽産家)、

と、

禰宜殿(ねぎどの)、

とも呼ぶ(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

「いなご」は、

稲子の「子」は、殻子(カヒコ)、呼子鳥など云ふに同じ(大言海)、
イナカム(稲噛)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、
イネクキモリ(稲茎守)の義(日本語原学=林甕臣)、
イナクヒ(稲喰ひ)が語尾を落としてイナゴ(蝗)(日本語源広辞典)、

等々の説があるが、

稲の葉につく虫、

という意味で、「稲子」からきていると見るのでいいのではないか。イナゴは、

イネの成育中または稲刈り後の田んぼで、害虫駆除を兼ねて大量に捕獲できたことから、昔から内陸部の稲作民族に不足がちになるタンパク質・カルシウムの補給源として利用された、

とあるのだからhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B4

「いなご」にあたる漢字には、

螽(シュウ)、
蠜(ハン)、
蝗(コウ)、

等々がある。

蝗螽(こうちゅう)、
螽斯(しゅうし)、

も「いなご」を指す(字源)が、

「蝗」(こう)は、日本で呼ばれるイナゴを指すのではなく、ワタリバッタが相変異を起こして群生相となったものを指し、これが大群をなして集団移動する現象を飛蝗、これによる害を蝗害と呼ぶ、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B4。日本では、

トノサマバッタが「蝗」、すなわち群生相となる能力を持つが、日本列島の地理的条件や自然環境では、この現象を見ることはほとんどない。そのため、「蝗」が漢籍によって日本に紹介された際、「いなご」の和訓が与えられ、またウンカやいもち病による稲の大害に対して「蝗害」の語が当てられた、

とある(仝上)。

もっとも、「螽斯」を、

きりぎりす、

とする説もある(漢字源)が、「螽斯」について、「太平記」に、

「螽斯の化行われて、皇后元妃の外、君恩誇る宮女、甚だ多かりしかば、宮々次第に御誕生ありて、十六人までぞおはしましける」

とあり、「螽斯」つまり「いなご」を、

後宮の女たちがお互いに嫉妬せずいなごのように子孫が増えること、

の意で使っている。出典は「詩経」(周南 「螽斯」)に、

螽斯羽(螽斯(しゅうしう)の羽)
詵詵兮(詵詵(しんしん)たり)
宜爾子孫(宜(むべ)なり爾(なんじの)子孫)
振振兮(振振たり)

とあるhttps://ncode.syosetu.com/n0421gm/6/他)のによる。

「蝗」(漢音コウ、呉音オウ)は、

会意兼形声。「虫+音符皇(=徨、四方に広がる)、

とあり、

「螽」(漢音シュウ、呉音シュ)は、

会意兼形声。「虫+虫+音符冬(たくさんたくわえる)」で、幼虫を多く巣の中へたくわえて異常発生する虫のこと、

とある(漢字源)。いずれも「いなご」を指す。ただ、「蝗」は、

群れを成して四方に広がる、

含意があり、「螽」は、

一度にたくさん子を産む、

という含意があり、

子孫繁栄のしるし、

とされ(仝上)、

螽斯詵詵(シュウシセンセン)、

という言葉があり、

螽斯は蝗の類、はたおり、一回に九十九子を生む、詵詵は和らぎて多く集まる、夫婦和合して子孫の多きに喩ふ、

とあり(漢字源)、上述のように、

螽斯羽詵詵兮、
宜爾子孫振振兮(周南)、

と詠われ(仝上)、「蝗」と「螽」とは、微妙な意味の差がある。

なお、虫追いについては「実盛送り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482409402.htmlで触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
兵藤裕己校注『太平記』(岩波文庫)

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もがり


「もがり」は、

殯、

と当てる(広辞苑)。

あらき(殯・荒城)、

ともいう。日本古代の葬制で、

喪屋を造りて殯し哭く(神代紀)、
大君の命畏み大殯(あらき)の時にはあらねど雲隠ります(万葉集)、

と、

貴人の本葬をする前に、棺に死体を納めて仮にまつること、またその場所、

の意である。古代皇室の葬送儀礼では、

陵墓ができるまで続けられ、その間、高官たちが次々に遺体に向かって誄(しのびごと)をたてまつった、

とあり(百科事典マイペディア)、

殯の萌芽形態は、《魏志倭人伝》にすでに見えており、古代日本のみならず、中国南部から中部インド、メラネシア、ポリネシアなどに広く分布する複葬形式の一つと認められる、

ともある(世界大百科事典)。『隋書』「東夷 俀國」には、

死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ、

とあり、また、『隋書』「東夷 高麗」(高句麗)には、

死者は屋内に於て殯し、3年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す、

とあり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF。倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にした(仝上)。

これは、

近親の者が諸儀礼を尽くして幽魂を慰める習俗、

とも、

死者のよみがえりに求める、

ともあり(世界大百科事典)、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬したので、

長い殯の期間は大規模な墳墓の整備に必要だった、

とも考えられる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF、ともある。

あらきのみや(殯の宮)、

は、

あらきの場所を尊んでいう、

仮宮、

であるが、

もがりの宮、
あがりの宮、

ともいう。「あらき」は、また、

かりもがり(殯)、

とも言う(広辞苑)が、

仏、涅槃に入り給ひぬれば、阿難、仏の御身をかりもがりし奉りて(今昔物語集)、

と、要は、

死人を本葬する前、しばらくその死骸を棺に入れて安置すること、

である(仝上)。これは、

死者の霊を慰める、あるいは故人を偲ぶといった意味・意義のある行いである。日本古来、殯は「貴人の弔い方」として営まれてきた。現代においては、皇室でのみ(天皇、皇后の崩御した際にのみ)営まれる。現代の通夜(つや)は、殯を短縮・形式化した習わしとも言われている、

とある(実用日本語表現辞典)。

「もがり」の語源は、

喪あがりの意(広辞苑)
もあがりの略、モは凶事、アガリは崩御(カンアガリ)の義(无火殯斂(ほなしあがり)のアガリと同じ(大言海)、
もあがり(喪上)の約、アガリはカムアガリのアガリで、貴人の死を言う(岩波古語辞典)、
モ(喪)+アガリ(神上り、崩御)(日本語源広辞典)、

が大勢の説だが、

モバカリ(喪許)の義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
カリモ(仮喪)の倒置(上代葬儀の精神=折口信夫)、

等々もある。しかし、

もあがり、

でよさそうである。因みに、无火殯斂(ほなしあがり)とは、

竊かに天皇の屍を収めて…豊浦宮に殯(もがり)して、无火殯斂〈无火殯斂、此をば褒那之阿餓利(ホナシアガリ)と謂ふ〉を為(書紀(720)仲哀九年二月)、

というように、

死を秘するために、灯火をたかないで殯(もがり)をすること、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「あらき」は、

アラはアライミ(粗忌)のアラと同根。略式の意。キは棺(岩波古語辞典)、
ウラキ(新棺)の義。キはオクツキ(奥城)の意。説文「殯、死在棺、将遷葬柩、賓遇之」(大日本国語辞典・大言海・日本古語大辞典=松岡静雄・日本語源=賀茂百樹)、
アラカキ(荒籬)の略(万葉考・松屋筆記)、

等々の諸説あるが、「仮」の意味で、「アラ」は、荒・粗なのではないか。

「殯」(ヒン)は、

会意兼形声。「歹(死体)+音符賓(ヒン お客、側にいる相手)で、死体のそばにいる客として、しばらく身辺に安置すること、

とある(漢字源)。やはり、

於我殯(論語)、

と、

埋葬する前に、しばらくの間死体を棺に納めたまま安置する、

意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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虎落笛


「虎落笛(もがりぶえ)」というのは、

冬の烈風が柵・竹垣などに吹き付けて、笛のような音を発するのをいう、

とある(広辞苑)。

冬の烈風がこれに吹き付けるときに鳴る「ひゅーひゅー」という音、

を指す(日本大百科全書)が、

物理的には障害物の風下側にできるカルマン渦によって起こるエオルス音、

とある(百科事典マイペディア)。「カルマン渦」とは、

流体中を柱状物体が適当な速さで動く(物体が静止し流体が動いても同じ)と、物体の左右両側から交互に逆向きの渦が発生し、規則正しく2列に並ぶ。名称はカルマンにちなむ、

とあり(仝上)、同じ原理による、

むちの音、
電線に風が当たって生じる音、

等々を含めて「エオルス音」という(仝上)。

「虎落(もがり)」は、日葡辞書に、

モガリヲユウ、

とあるように、

軍(いくさ)などのときに、先端を斜めに削いだ竹を筋違いに組み合わせて、縄で繁く結い固めて柵としたもの、

とある(仝上)。

模雁、
茂架籬、

と当てることもある(世界大百科事典)。

矢来、
竹矢来、

と同じともある。竹を縦横に直交して組んだものは、

角矢来、

といい、切丸太を約30m間隔で掘立柱とし、根元には根がらみ貫(ぬき)、その上に通し貫を2本ほど水平に通して、縄で結びつけて固めたものは、

丸太矢来、
あるいは、
丸太柵、

ともいう(仝上)。ただ、「もがり」は、

モガリ竹ハ枝をソギてもくまじき也、又所々木の柱をたつる也(築城記)、

とあるように、

くいを打って横木を結び、それによせて竹の尖ったものを腰の高さに植え込んだもので、野獣の侵入を防ぐためのものであるが、防戦攻戦共に用いる。竹串を一面に埋め込んだりもする、

と、

逆茂木、

同様に、防戦用に設けられる。その場合、

虎狩落とし、

とも当てる。そうした備えを、

虎落落としの備え、

というらしく(武家戦陣資料事典)、

もがり竹百間に付貮千三百本、但フス竹共、

とある(仝上)。かなりの量を使う。

敵が落とし込むような穴を掘って底に鋭い竹や鉄を植え、……表面には布を張ってその上に木の葉や砂を撒いてカムフラージュする(図説 日本戦陣作法事典)、

とも、

竹片の先を鋭くとがらせて、これをたくさん敵の方に向けて地に植えたもので、仕寄(しよせ)道(攻め口)の濠内や、敵の寄せそうな土地に設備する(図説日本合戦武具事典)、

ともある。だから、

「虎落は竹を筋違に組み合わせて埋め立て、繁く縄をもって結び固るなり」(海国兵談)……では塀の上に設ける「忍び返し」や「竹矢来」になってしまう、

とある(仝上)のである。つまり、「虎落」は、本来、

竹矢来、

とは異なると言っていい。矢来は、

矢来垣、

というように、

竹や丸太を縦横に粗く組んだ、仮の囲い、

であり、

やらい(遣)から、

というように、あくまで、

追い払う、

ための柵である(精選版日本国語大辞典)が、虎落は、攻撃的な意図が、削いだ竹尖にうかがえる。

ちなみに、「逆茂木」は、

木の枝を無数に並べて植え込んだもので敵の進出しそうな所へ設ける。植え方は先を敵の方へ向け一面に植えると引き抜きがたく、これを翦り払っていると其処を飛道具で撃つからうっかり近寄れない。これを撤去するには焼草を多量に積んで焼き落とすより他に方法がない、

とある(武家戦陣資料事典)。「逆茂木」は、

逆虎落(さかもがり)の約、

とされる。

敵の侵入を防ぐために、棘木(いばら)の枝の、鹿角の如くなるを、逆立て、垣に結った柵、

で、

鹿砦(ろくさい)、
鹿角砦(ろっかくさい)、

ともいう。まさに、「虎落」と同じ目的である。

なお、「虎落」は、

こらく、

と訓むと、中国では、

粗い割り竹を連ねて作る垣のこと、

とあり(学研全訳古語辞典・デジタル大辞泉)、

トラをふせぐ柵の意、

ともあるhttps://www.kanjipedia.jp/kotoba/0002042500。しかし、『漢書』鼂錯伝に、

為中周虎落、

とあり、師古註に、

虎落者、以竹篾相連遮落之也、

とあるので、

踏み込むと足に刺さり、転がり落ちると身体に刺さる危険な道具で、穴を掘って底に鋭い竹を無数に並べ、虎が落ちると捉える仕かけ、

からこの名がついた(図説日本合戦武具事典)とあるので、本来は攻戦的な「虎落落とし」に近い。とすると、「もがり」に、

虎落、

を当てたのは慧眼かもしれない。「もがり」は、

竹を並べ行馬のごとく、毎節に枝を存し、物をかけほすに便りするをいふは、曲りの義なるべし(和訓栞)、
マガリ(曲)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
もぎはもがり也、かり反ぎ也(和訓栞)、

等々もあるが、

捥木(もぎき)の義、夫木抄(鎌倉後期)に、「世の中は、關戸に防ぐ逆茂木の、もがれ果てぬる、身にこそありけれ」、これ、枝葉を捥がれたる竹木にわたれど、多くは竹なれば、タカモガリと云ふ(大言海)、
もがれ木の意(広辞苑)、

と、枝葉を払った竹を使うためだろう。ただ、

また竹の枝付きの立てかけたもの、

も「虎落」というらしい(日本大百科全書)が、これは、「虎落」が、本来の防御柵の意から、転じて、

枝のついた竹を並べて作った物干し、特に、高く設けた紺屋の干場、

を意味する(広辞苑)ようになってからのことだと思う。


昔は竹もがりの如くなりき、今は丸木を足場のようにつくれる、

とある(大言海)。

さらに、「もがり」は、

強請、
虎落、

と当てて、

金銀手に持たせ置かば、おそろしきもがりどもにかたられ(西鶴織留)、

と、

ゆすり、たかり、

の意で使うが、これは、

逆らう、
ゆする、

意の「もがる」の連用形からきている(デジタル大辞泉)。しかし、

虎落、

を当てたのは、どういう意図だったのか。

逆茂木、
逆虎落、

の意味からだろうか。

「虎」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482959788.htmlで触れたように、「虎」(漢音コ、呉音ク)は、

象形、虎の全体を描いたもの、

である(漢字源)が、

儿(元の形は「几」:床几)にトラの装束を被った者が座っている姿、

とする説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8E

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房)
笠間良彦『図説日本合戦武具事典』(柏書房)

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団七縞


「団七縞(だんしちじま)」は、

太い柿色の弁慶縞、

をいう(広辞苑)。

「団七」には、人形浄瑠璃・歌舞伎狂言の、

『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』(延享二年(1745)、大阪竹本座初演)、

の、

団七九郎兵衛、

の「団七」と、歌舞伎狂言の、

『宿無団七時雨傘(やどなしだんしちしぐれのからかさ)』(明和五年(1768)、大阪竹田芝居初演)、

の、

団七茂兵衛、

の「団七」と、二系統がある。

「団七縞」は、前者で、

義兄弟の契りを交わした団七九郎兵衛と一寸徳兵衛が、

団七九郎兵衛は柿色
一寸(いっすん)徳兵衛の浴衣は藍色、

と、お揃いの格子柄の浴衣を着て登場するhttps://www.suehiroya-suehiro.com/entry/2018/06/20/233000、とある。この、

帷子の模様、

の衣裳にちなんで呼ばれた(広辞苑)。

団七格子、

ともいい、

うすがきの団七じまのかたびら(文化十年(1813)『浮世風呂』)、

と、庶民の間で流行した(江戸語大辞典)。

嚆矢は、団七なる悪党が親殺しをした事件(雅俗随筆)を題材にした、

『宿無団七』(元禄十一年(1698)初代片岡仁左衛門初演)、

で、これ踏まえてできたのが、延享二年(1745)の魚売りの殺人事件(摂州奇観)を取り込んだ、浄瑠璃の、

『夏祭浪花鑑』

で、ここで、

団七九郎兵衛(だんしちくろべえ)、
釣船三婦(つりぶねのさぶ)、
一寸徳兵衛(いっすんとくべえ)、

の三人の侠客が描かれる。「団七」は、

文楽人形の中年の男のかしら(首)、

の名でもあるが、これは、この役に由来する(日本伝奇伝説大辞典)。それは、

太くたくましい立ち眉、ぎろりとしたどんぐり眼、横に張った小鼻、大きく開閉する目、ぐっと力んだところはいかにも豪快である。塗色は卵色。大団七と小団七とあって、大団七は「国性爺合戦」の和藤内、「御所桜堀河夜討」の武蔵坊弁慶などの時代物の荒立役に、小団七は「義経千本桜」のいがみの権太などに用いられる、

とあるhttps://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E5%9B%A3%E4%B8%83。もっとも、現在の団七の役には、「文七」をもちいる、とある(日本伝奇伝説大辞典)
 

文楽人形の頭(かしら)の「文七」とは、

大坂の侠客雁金文七(かりがねぶんしち)の人形に用いたのを始めとする。鋭い眼光と太い眉、引き締まった口もとをした主役の頭、

とある(精選版日本国語大辞典)。

『夏祭浪花鑑』は、歌舞伎でも演じられたが、これとは別に、明和五年(1768)に起きた、岩井風呂での殺人事件(伝奇作書)をもとに、団七茂兵衛を主人公に、元禄以来の団七狂言の系統に仮託したのが、

『宿無団七時雨傘』

であり、『夏祭浪花鑑』にあやかった作品ということになる(日本伝奇伝説大辞典)。この作品から、

団七、

には、

宿なし、

の意味が加わり、

上一入(ひとしほ)に富にこったる其末は皆団七(ダンシチ)の宿なしとなる(天保七年(1836)洒落本「意気客初心」)、

と使われる。

「弁慶縞」は、

弁慶格子、

ともいうが、

紺と浅葱、紺と茶など二種の色糸を経(たて)・緯(よこ)の双方に使用した、碁盤目の縦横縞としたもの、

である(広辞苑)が、

山伏姿の弁慶の舞台衣装にちなんだ名称、

とある。守貞謾稿は、

白紺、或いは、紺茶、又、紺と浅木等、紺茶を茶弁慶、紺浅木を藍弁慶と云ふ、

とする。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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だんびら


「だんびら」は、

段平、

とあて、

段平物、

という言い方もする(広辞苑)が、

平広、

とも当てる(江戸語大辞典)、とある。

刀の幅の広いこと、

を指すが、単に、

刀、

の意でも使う(広辞苑)。

だびら、
だんぴら、

ともいう。

透間に切込むだんびらに眉間をわられて頭転倒(づでんだう)(延享四年(1747)浄瑠璃「義経千本桜」)、
かんねんしろと水も溜まらぬダンビラ物を、半七めがけてぬきくれば(文久(1861〜64)「春秋二季種))

といった使い方をみると、どうも、

太刀、打刀などの刀の、幅広きモノの称、

とある(大言海)が、使用例は、広く、

刀、

そのものの意としか思えない(「かたな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450320366.htmlについては触れた)。

「だんびら」は、

「だびらひろ(太平広)」の変化した語(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)
ダビラビロの略転(貞丈雑記・松屋筆記・大日本国語辞典)、
タヒラヒロ(平広)の転(大言海)、
タヒラ(平)の変化した語か(俚言集覧)、

と諸説ある。確かに、江戸時代後期の有職故実書『貞丈雑記』にも、

太刀打刀なとでの幅広きを、だんびら物といふは、だびらひろという詞を略したるなり、……だびらひろといふは、太平広なるべし、大いに平くひろきなり、

とあり、

ダビラビロ(ダビラヒロ)→ダンビラ→だびら、

という転訛のようなのだが、どうも、もともとの意味が見えなくなっているのではないか、という気がする。確かに、

太平狭(だびらせば)、
太平広(だびらひろ)、

という言い方があるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1415878749らしいので、

刀の幅、

を指しているのには違いないが、日本刀の造り込みには、大別して、

鎬(しのぎ)造り、
と、
平(ひら)造り、

に分けられ、鎬造りは、ほとんどの日本刀はこの造り込みで作られており、

本造り、

ともいい、

鎬筋(刀身の側面(刃と棟の間)にある山高くなっている筋)と、横手(切先の下部にある線のことで、刀身と切先の境界線です。横手筋(よこてすじ)とも言う)のあるもので刀の基本形、

となるのに対して、平造りは、

鎬筋無く平面のもので、短刀や小脇差に多い、

とある(http://www.nihontou.net/kiso-meisyou1.htmhttps://www.touken-world.jp/tips/55304/他)。

その「平造り」の中で、

広い豪壮な平造り、

を、

大段平(おおだんびら)造り、

といい、

ダンビラ、

とも呼ばれているhttps://www.higotora.com/cp-bin/blogn/index.php?e=319、とある。そして、

平造りの御刀は、鎬造りでは鏡面仕上げされる鎬が無いため、地鉄の美しさ、鉄質の良さ、鍛えの質の高さを、存分に味わう事が出来ます、

ともあり(仝上)、。

大段平造り短刀、

を紹介している(仝上)。

こう考えると、「だんびら」は、

平造りの刀の一種、

を指していた、とみられる。ただ、「大段平」といった時、幅だけを指していない可能性もあり、

南北朝時代になると、馬上での打物戦(うちものせん)が盛んになります。打物とは、太刀や刀、薙刀(なぎなた)や槍など、打物と総称される武器での戦いです。そしてこの時代には太刀の刃長も伸びて三尺以上もある大段平(おおだんびら)が出現し、腰刀の刃長も伸びて二尺以上もある腰刀が現れます。こうして刃長が伸びた腰刀が後の刀へとつながったとする説もあります、

とあるhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/kubunn.htm。ただ、

寸法が長く、身幅が広く、反りがやや浅い大段平、

は、

大段平大切先、

と呼び、

南北朝に入ると、戦闘方法が歩兵による集団戦へと移行し、騎馬の主人の回りを従者の歩兵が囲むという形になってきたため、その歩兵を払いのけるための大太刀が出現しました。これは薙ぎ払うための刀ですので、長さは二尺八寸(約85センチ)前後が定寸で、四尺、五尺といったものまであり、身幅が広いので重量軽減のため重ねを薄くしているのが特徴です。……身幅が広いので切先は必然的に大切先となります。このように長寸で身幅が広く大切先となった太刀を大段平(おおだんびら)、大太刀(おおだち)と呼びます、

とあるhttps://nbthk-sword.com/tag/%E5%A4%A7%E6%AE%B5%E5%B9%B3/。ただ、このような大段平は長すぎるので、

普通は馬上の武将は持たず徒歩で従う従者に持たせておいて、持たせたまま柄を握って引き抜くというようにして使います。ですから戦いの途中で従者がやられたり追い払われると役に立たず、また大太刀に対抗する鎗や薙刀が多用されて馬上での戦いが不利になってきたので、この大太刀の流行はごく短期間で終わっています、

ともある(仝上)。

ちなみに、「太刀」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464272047.htmlで触れたように、「太刀」は、

刃長が二尺(約六〇センチ)以上、平安時代以降の鎬(しのぎ)(刃と峰との間に刀身を貫いて走る稜線)があり、反りをもった日本刀で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用する。馬上での戦いを想定したもので、反りが強く長大な物が多い、

のにたいして、「打刀(うちがたな)」は、

指し刃を上向きにして腰に差す。室町時代後期武士同士の馬上決戦から足軽による集団戦が主になるにつれ、徒戦(かちいくさ)(徒歩による戦い)に向いた打刀が台頭した。反りは刀身中央でもっとも反った形(京反り)で、腰に帯びたときに抜きやすい反り方、

である。

ところで、刺身の切り方に、

平造り、

というのがあるのは、

そぎ造り、

に対して、

同じ形の刺身が重なっている様、

を言うらしいhttps://tabetemoraitai-ryouriha-arunodesuga.com/%E5%88%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%88%87%E3%82%8A%E6%96%B9/。「ダンビラ」とは直接の関係ないとは思うが、「平(たいら)」に切るのを指している。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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仙人


「仙人」は、

僊人、

とも当てる(広辞苑)が、「仙」は「僊」の俗字である。「仙」は、

もとも「僊」「遷」につくり、僊人とは遷り棲む人を意味し、遷り棲む所が山であるところから「䙴」を「山」に改め、「仙人」の語ができた、

とある。中国最古の字書(後漢)『説文解字(せつもんかいじ)』に、「䙴」は、

高きに升(のぼ)るなり、

とあり、遷も、

高きに登渉する、

とある。僊の本義も、

飛揚升高、

で、いずれも、

高い所に昇ること、

であった(日本大百科全書)。そこで僊人とは、

人間が高い所に昇って姿を変えた者と考えていた、

と思われる。仙の字も、後漢末の辞典『釋名』には、

老而不死曰仙、仙僊也、僊入山也

とある(仝上・大言海)ので、世俗を離れて山中に住み、修行を積んで昇天した人を仙人と考えていた、と思われる。『史記』封禅書では、

僊人、

『漢書』芸文志では、

神僊、

と表記している(仝上)。

平安時代の漢字字書『類聚名義抄』では、

「僊」をヒジリ、「神仙」を「イキボトケ」、

平安末期の古辞書『伊呂波字類抄』では、「仙人」を、

亦僊と作す、

とあり、鎌倉末期の辞書『平他字類抄(ひょうたじるいしょう)』では、「仙」を、

ヒシリ、セン、

と訓し、鎌倉初期の歌学書『八雲御抄』では、「仙」を、

山人ともいふ、

と訓じている(仝上)。

いわゆる「仙人」と呼ぶものには、

道教における神仙、
と、
仏教における仙人、

とに大別される(日本伝奇伝説大辞典)。

道教の「仙人」は、

神仙(しんせん)、
真人(しんじん)、
仙女(せんにょ)、

ともいい、

中国本来の神々や修行後、神に近い存在になった者たちの総称。神仙は神人と仙人とを結合した語とされる。仙人は仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得たもの、

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA

漢民族の古くからの願望である不老不死の術を体得し、俗世間を離れて山中に隠棲し、天空に飛翔することができる理想的な人をいう、

とか(日本大百科全書)とあるが、

戦国時代から漢代にかけて、(仙人の住むという東方の三神山の)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に金銀の宮殿と不老不死の妙薬とそれを授ける者がいて、それを渇仰する、

神仙説、

がさかんになり、『史記』秦始皇本紀には、

斉人徐市(じょふつ)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ、

と記されている。この斉人の方士「徐市」は、徐福ともいい、始皇帝の命を受け、3、000人の童男童女と百工を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出した、とされる。因みに、「瀛洲(えいしゅう)」は、転じて、日本を指し、「東瀛(とうえい)」ともいう。

六朝(りくちょう)以後は、

道教に摂取され道家の理想とする想像上の人物、

を指すようになった(日本伝奇伝説大辞典)、とある。だから、仙人や神仙は、

もともと神である神仙たちは、仙境ではなく、天界や天宮等の神話的な場所に住み暮らし、地上の山川草木・人間福禍を支配して管理、

するものであったが、道教の不滅の真理を悟り、

自分の体内の陰と陽を完全調和し、道教の道(タオ)を身に着けて、その神髄を完全再現することができる、

というものに変わったことになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA。六朝時代、服用する仙薬などによっていろいろな段階があるとされ、晋の『抱朴子(ほうぼくし)』では、

天仙、
地仙、
尸解仙(しかいせん 魂だけ抜けて死体の抜け殻となるもの)、

の三つに区分し、

案ずるに仙経に云はく、上士は形を挙げて虚に昇る、これを天仙と謂ひ、中士は名山に遊ぶ、これを地仙と謂ひ、下士は先ず死して後に脱す、之を尸解仙と謂ふ、

とある(日本伝奇伝説大辞典)。

仙人になる方法として、

導引(どういん 呼吸運動)、房中術(ぼうちゅうじゅつ)、薬物、護符、精神統一、

などがあるとしている(日本大百科全書)。仙人の伝を記した最初の書は、前漢末に劉向(りゅうこう)が撰したとされる『列仙(れつせん)伝』では、

赤松子(せきしょうし)、
馬師皇(ばしこう)、
黄帝(こうてい)、
握佺(あくせん)、

等々70余人が記されている。その後も、葛洪(かっこう)撰『神仙伝』、沈汾(ちんふん)撰『続仙伝』、杜光庭(とこうてい)撰『仙伝拾遺(せんでんしゅうい)』、曽慥(そぞう)撰『集仙伝』等々があり、清の『古今図書集成』「神異典」には、上古より清初までの仙人1153人が網羅されている、とか(仝上)。

仙人の方術には、

身が軽くなって天を飛ぶ、
水上を歩いたり、水中に潜ったりする、
座ったままで千里の向こうまで見通せる、
火中に飛び込んでも焼けない、
姿を隠したり、一身を数十人分に分身したりして自由自在に変身する忍術を使う、
暗夜においても光を得て物体を察知する、
猛獣や毒蛇などを平伏させる、

等々があるとかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA。この「方術」、なんとなくしょぼい感じがするのは、ぼくだけだろうか。

仏教における仙人、つまり、

インドの仙人、

は、

梵語Ṛṣi、

の訳で、

大仙、
仙聖、
仙、

とも称し(日本伝奇伝説大辞典)、

聖仙、
聖人、
賢者、

とも漢訳されている(日本大百科全書)。インドにおいては、「リシ」とは、

ヨーガの修行を積んだ苦行者であり、その結果として神々さえも服さざるをえない超能力(「苦行力」と呼ばれる)を体得した超人、

であり、また、

神秘的霊感を以て宗教詩を感得し詠むという。俗界を離れた山林などに住み、樹木の皮などでできた粗末な衣をまとい、長髪であるという、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B7。「中阿含」には、

七古仙、

「仏本行集」には、

七大仙、

等々が載るが、ヒンズー教の経典『マハーバーラタ』では、

マリーチ、
アトリ、
アンギラス、
プラハ、
リトゥ、
プラスティヤ、
ヴァシシュタ、

が七聖賢とされている。彼らは基本、

外道(仏道以外)の修行者で、世俗との交わりを断ち、山中にてむ諸道の法を修め、悟りを得た者、

をいい、その修行は、

仙聖とは梵行を修する人なり(大方等大集経)、
王は阿私仙の言を聞きて歓喜雀躍し、即ち仙人に随ひて所須を供給し、菓を採り水を汲み、薪を拾ひ食を設け、乃至身を以て床座と為す(法華経)、

とある(日本伝奇伝説大辞典)。

中国およびインドの仙人は日本にも伝わり、天平年間(729〜749)に三仙人、

大伴(おおとも)仙人、
安曇(あずみ)仙人、
久米(くめ)仙人、

の伝説がみえている(日本大百科全書)とあり、虎関師錬(こかんしれん)の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』神仙の項には、

白山明神(はくさんみょうじん)、
新羅(しんら)明神、
法道(ほうどう)仙人、
陽勝(ようしょう)仙人、

等々13人が記されている(仝上)。大伴(おおとも)仙人、安曇(あずみ)仙人、久米(くめ)仙人という名を見ると、「久米仙人」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483162515.htmlで触れたように、『扶桑略記』にも、

本朝往年有三人仙。飛龍門寺。所謂大伴仙、安曇仙、久米仙也。大伴仙草庵。有基無舎、余両仙室。于今猶存、

とあり、古代氏族とのつながりを推測させる。

本来は、道教の仙人と仏教の仙人は別ものであるが、「久米仙人」が、久米寺創建とつながるように、わが国では区別されていない。たとえば、『日本霊異記』の役小角(えんのおづぬ)説話では、

孔雀博士の呪法を修め不思議な霊術の力を身につけ、現世で仙人になって天を飛んだ、

とあるように、道教の仙人が仏教の中に取り入れられている(日本伝奇伝説大辞典)。

「仙」(セン)は、

会意。「人+山」で、山中に住む人を表す会意兼形声と考えてもよい。仙は僊の後に作られた略字、

で、

長生きした末、魂が体から抜け去って空中に帰した者、

の意で、秦から後漢のはじめにかけては「僊人」と書いた。さらに、

人間界を避けて山中に入り霞と露を食べて不老不死の術を修行した者、

の意で、三国・六朝の頃から、「仙人」と書くようになった、とある(漢字源)。

「僊」(セン)は、

会意兼形声。西(セイ・セン)の原字は、水が抜け出るざるを描いた象形文字。䙴(セン)は「両手+人のしゃがんだ形+音符西(みずがぬけるざる)」の会意兼形声文字で、人が修行のすえ、ざるや穴からぬけでるように、魂の抜け去る術を心得ること。僊はそれを音符として人を加えた字で、その修行を積んだ人を示す、

とある(仝上)。つまり、仙人を指す。

「遷」(セン)は、

会意兼形声。䙴(セン)は「両手+人のしゃがんだ形+音符西(みずがぬけるざる)」の会意兼形声文字で、人がぬけさる動作を示す。遷はそれを音符とし、辶を加えた字で、そこから脱け出し中身が他所へうつること、

とあり(漢字源)、「うつる」意だが、

もとの場所・地位をはなれて、中身だけが他へ移る(「遷移」「左遷」等々)、

意であり

魂が肉体から離れて、自在に遊ぶようになった人、

つまり仙人も意味する(仝上)。

別に、
形声。辵と、音符䙴(セン)とから成る。高い所に上がる意を表す。転じて「うつす」意に用いる、

とする説(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「2人が両手で死体の頭部をかかえ移す」象形(「移す」の意味)から、「移す」を意味する「遷」という漢字が成り立ちました、

とする説https://okjiten.jp/kanji1965.htmlもある。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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助六


「助六」は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物、およびこれを主人公とした作品の通称だが、もともとは、

延宝(1673〜81)または宝永(1704〜11)頃、大坂千日寺であったという町人萬屋(よろずや)助六と島原の遊女揚巻(あげまき)の心中事件、

で、ただちに、浄瑠璃・歌舞伎に脚色・上演された(広辞苑・日本大百科全書)。

助六は、

侠客、
あるいは、
男伊達、

とされる。

島原の遊女揚巻のもとに通い詰め、親に勘当される。親からもらった縁切金千両で揚巻を請け出し、二人の間にできていた子供を親の門前に捨て子し心中した、

との巷説が伝わる(団十郎の芝居)、という(日本伝奇伝説大辞典)。これを見る限り、伊達とも粋とも関係なく、放蕩息子の成れの果てのようにしか見えない。しかし、

京坂の助六は、江戸の幡随院長兵衛と並び称されるほどの侠客だったという。これが総角(あげまき)という名の京・嶋原の傾城と果たせぬ恋仲になり、大坂の千日寺で心中した、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD

浅草の米問屋あるいは魚問屋の大店に大捌助六(おおわけすけろく)あるいは戸澤助六(とざわすけろく)、心中ではなく喧嘩で殺された助六の仇を気丈な総角が討ったものだとする説、

等々異説も多く、真相はやぶの中。ただ、芝居では、

江戸の古典歌舞伎を代表する演目のひとつ。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた。歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つ、

とされる(仝上)。

事件直後、京坂では事実に沿った情話として脚色され、

『大坂千日寺心中』(元禄十三年(1700) 竹本内匠利太夫)、
『助六心中紙子姿』(宝永三年(1706) 安達三郎左衛門)
『萬屋助六二代(かみこ)』(享保二十年(1735) 並木丈助)、
『紙子仕立両面鑑(かみこじたてりょうめんかがみ)』(安永五年(1768) 菅(すが)専助)、

と人形浄瑠璃として上演され、『助六心中紙子姿』は、大阪で、同じ宝永三年(1706)、

『京助六心中』

として、歌舞伎で上演される。この宝永三年を、

十三回忌の上演、

とすると、

助六・揚巻の心中事件は元禄七年(1694)、

と考えられる(日本伝奇伝説大辞典)、としている。

上方での助六像は、

当時の名優坂田藤十郎の夕霧劇における紙衣姿の芸や、「傾城仏の原」の長せりふを取り入れ、和事味の濃い形象として創り上げられた、

とある(仝上)。この素材が江戸に移され、

男伊達としての助六像、

が創成され、

心中情話、

から、

男伊達の敵討もの、

へ変貌する。その嚆矢は、正徳三年(1713)の、

『花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)』

で、

(説経浄瑠璃の)愛護若の世界に揚巻助六心中を組み込んだもの、

で(日本伝奇伝説大辞典)、助六には、二代目市川団十郎が扮した。この助六が、江戸中の評判になり、髪の結い方まで、

助六風、

が流行った、という(仝上)。この段階では、助六は、

大道寺田畑之助、

という名であったが、享保元年(1726)の、

『式例和曾我(しきれいやわらぎそが)』

で、

助六実は曽我五郎時致(ときむね)、

とされ、

曽我もの、

の中に取り込まれることになり、以後踏襲されていく(仝上)。この時の二代目団十郎の紛争は、

紫の鉢巻、蛇の目傘に紙子姿、

で、上方の傾城買いやつしを、江戸風に演じて成功した、という。

助六は日本一の色男、

と川柳に詠まれた、

伊達な風俗、
威勢のいい啖呵、
侠気と雅気、

の助六像は、江戸庶民に愛され続け、助六狂言は幕末まで50回以上上演され、天保三年(1832)七代目団十郎によって、市川家の家の芸とされた、とある(仝上)。この年の、

『助六所縁江戸櫻』(すけろくゆかりのえどざくら)

で、

七代目の倅・八代目市川團十郎の襲名披露興行で、八代目は外郎売で登場、この興行ではじめて「歌舞妓狂言組十八番之内」の表現が使われる。後の「歌舞伎十八番」である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD

現行助六の扮装は、

紫縮緬の鉢巻きを締め、杏葉(ぎょうよう)牡丹の紋をつけた紅絹(もみ 真赤に無地染めにした薄地の平絹)裏の黒小袖、緋縮緬の襦袢を「一つ前」(一つにまとめて前を合わせること)に着る。一つ印籠、尺八、鮫鞘の脇差を腰につけ、蛇の目傘を持つ。顔は白粉地で、紅でめばりを入れる「剥身隈(むきみぐま)」という隈取り。高さ二尺四寸の大下駄をはき、左小褄を取って出る、

というのが定形だが、当時の十八大通https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%A4%A7%E9%80%9Aの一人、蔵前の札差、

大口屋暁雨の吉原通い、

を写したとされる(日本伝奇伝説大辞典)。

大口屋暁雨は、

実在が確認できる人物で、寛延から宝暦(1748〜1764)年間に江戸の芝居町や吉原で豪遊して粋を競った18人の通人、いわゆる「十八大通」の一人に数えられている、

とある。二代目團十郎の贔屓筋だったことから、二人は親交を深めるようになり、江戸では次第に「團十郎の助六は大口屋を真似たもの」という噂が広まる。暁雨の方も助六そっくりの出で立ちで吉原に出入りし、「今様(いまよう)助六」などと呼ばれてご満悦だったという、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD)。

なお、「伊達」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482098884.html、「いなせ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html、については、触れた

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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助六寿司


「助六寿司」は、

いなり寿司と巻物を詰め合わせたもの、

をいうhttps://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-967/らしい。

由来は、「助六」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483608359.html?1632685332で触れた歌舞伎の「助六」で、はじめて「歌舞妓狂言組十八番之内」の表現が使われた、天保三年(1832)の『助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)』が著名だが、助六の愛人の「揚巻」の、

揚巻の「揚」を油揚げのいなり寿司、
揚巻の「巻」を海苔で巻いた巻き寿司、

と準えて、この二つを詰め合わせたものを、

助六寿司、

と呼ぶようになった、とされる(仝上・語源由来辞典)。また、一説には、

助六のする紫の鉢巻を巻き寿司、
揚巻を油揚げを使ったいなり寿司、

に見立てたともされ(https://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-967/・語源由来辞典)、

揚巻の名にちなみ、この演目の幕間に出すために作られた弁当、

という説もある(仝上)。

江戸前寿司においては、単に「海苔巻き」と言えばかんぴょう巻きを意味するが、「かんぴょう」を「おかる」と呼んだのも、仮名手本忠臣蔵の「お軽勘平」からきたというhttp://onoguchi.co.jp/blog/2018/08/06/947/。これも、似た由来である。

ただ、稲荷寿司と巻き寿司の詰め合わせのことを「助六」と呼ぶようになったのは江戸時代中期からとされ、この背景には、倹約令が出され、江戸前の魚を使った握り寿司に代わって安価な稲荷寿司や巻き寿司が江戸の人々に親しまれていた、という経緯があり、この二つを詰め合わせた寿司折が登場し、油揚げの「揚げ」と巻き寿司の「巻き」から、

揚巻、

と呼ばれるようになったhttps://macaro-ni.jp/56491とする説があり、これに、当時大流行していた「助六由縁江戸桜」に登場する、

揚巻、

とが重なり、歌舞伎の助六の人気にあやかって、

助六、

と呼ぶようになった(仝上)とある。どうも経緯から見ると、こちらの方がありそうだが、どうなのだろう。

「歌舞妓狂言組十八番之内」の表現が使われた『助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)』は天保三年(1832)である。「いなりずし」の発案は、天保四年(1833)の天保の飢饉の後、天保七、八年(1836、7)と飢饉があった、その頃、

名古屋で油揚げの中に鮨飯を詰める稲荷鮨が考えた、

とある(たべもの語源辞典)。異説では、

愛知県豊川市にある豊川稲荷の門前町で、天保の大飢饉の頃に考え出された、

ともある(由来・語源辞典)。

1836(天保7)年の天保の大飢饉の直後に幕府から「倹約令」が出て、当時流行っていた握り寿司などを禁止された時期がありました。その時、油揚げを甘辛く煮て、質素だけれどもおいしい「いなり鮓」(当時は「いなり“鮓”」と明記されていました)が広く食べられるようになったようです。…もっとも、当時は飢饉ですからお米ではなく、おからを詰めていたそうです、

ともあるhttps://www.gnavi.co.jp/dressing/article/21424/。飢饉に「おから」の「いなりずし」が流行ったのである。これが嚆矢である。

また、海苔巻きは、延享三年(1750)刊行「料理山海郷」で、料理として紹介され、天明七年(1787)刊行『七十五日』では、既に江戸の手を汚さない寿司として、すし屋メニューの一つとなっていることが紹介されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%8B%94%E5%B7%BB%E3%81%8D。海苔巻きの方が早いようだが、いずれにしても、「助六」芝居の流行期と対比すると、「いなりずし」の成立はその後だし、「巻ずし」の成立はかなり早い。芝居の流行にあやかって、洒落て、

助六寿司、

と、歌舞伎の「助六」に準えた、ということはありえるのではないか。その方が江戸ッ子らしい。

なお、「すし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456254952.html、「稲荷ずし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469221526.htmlについては触れた。

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をとこ


「をとこ」は、

男、

と当て、古くは、

をとめ(少女)の対、

とされる(岩波古語辞典・広辞苑)。つまり、

「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」などと同様、「こ」「め」を男女の対立を示す形態素として、「をとめ」に対する語として成立した、

もので(精選版日本国語大辞典)、

ヲトは、ヲツ(変若)・ヲチ(復)と同根、若い生命力が活動すること。コは子。上代では結婚期に達している若い男性。平安時代以後、「をんな(女)」の対で、男性一般をいう。類義語ヲノコは男の子の意で、もとは、健児・従者・召使の意、

とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。ただ、「をとこ」と「をのこ」とは、

「をとこ」は、古くは「をとめ」と対応して年若い男性をさし、のちに広く「をんな」に対するものとして性を意識して用いるようになった。これに対し、類義語「をのこ」は、男性を意味しても性の意識は少なく、「をとこ」が「夫」を意味することがあるのに対して、「夫」の意味はない、

との説明もある(学研全訳古語辞典)。

いずれにせよ、「をとこ」は、

をとめらにをとこたち添ひ踏みならす西の都は万代(よろづよ)の宮(続日本紀)、

と、

をとめの対、

の、「若い男性」の意から、

秋野には今こそ行かめもののふのをとこをみなの花にほひ見に(万葉集)、

と、

をみな・をんなの対、

の、「(一人前の)男性」の意へと広がったことになる。

「をと」は、

をつの名詞形、

であり、「をつ」は、

変若つ、
復つ、

と当て、

変若(お)つること、

つまり、

もとへ戻ること、
初へ返ること、

で、

我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(大伴旅人)、

と、

若々しい活力が戻る、
生命が若返る、

意であり(仝上・大言海)、

若い、
未熟、

の含意である。もともと「を」は、

雄、
牡、
男、
夫、

等々と当て、

め(牝・雌・女・妻)の対、

で、

高円の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ牡(を)鹿出て立つらむか(万葉集)、

と、

上代では動植物・神・人を問わず広く使われたが、平安時代以後は複合語の中に用いられ、「をのこ(健児・従者)「をのわらは(男の童)」「しずのを(賤の男)」「あらを(荒男)」など、卑しめられ、低く扱われる男性を指すことが多くなり、男性一般を表すには「をとこ」がこれに取って代わった、

とある(岩波古語辞典)。

漢字「男」(漢音ダン、呉音ナン)は、最古の部首別漢字字典『説文解字』に、

男丈夫也、从田从力、言用力於田成、、

とある(大言海・字源)。

田力に从(従)い、力を田に用いる、

で、

会意。「田(はたけ、狩り)+力」で、工作や狩りに力を出すおとこを示す、

とある(漢字源)。

別に、

会意文字です(田+力)。「耕作地」の象形と「力強い腕」の象形から、耕作地を力強い腕で耕しているさま(様)を表し、そこから、「おとこ」を意味する「男」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji31.html

なお「子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.htmlについては触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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「め」は、「をとこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483673592.html?1633030409で触れたように、

牝、
雌、
女、
妻、

等々と当て、

雄、
牡、
男、
夫、

等々と当てる、

「を」の対、

である(岩波古語辞典)。「め」は、

女神、
女鹿、
雌蕊、
手弱女(たおやめ)、

等々と、

多く複合語として使う。動植物の雌の意。人間にも、男と一対をなす女の意で使うが、多くは女を見下げたり卑下したりする気持ちでいう。また、妻を指す場合もあるが平安時代には受領以下の人の妻をいうことが多く、天皇・貴族の正妻を指すことはほとんどない。軽侮の意を表す接尾語メも、これの転用、

とある(仝上)。接尾語「め」は、

奴、

と当てる。

やつ奴、
とか
畜生奴、

あるいは、

私奴、

と、謙遜の意を表したりする。

「を」は、

上代では動植物・神・人を問わず広く使われたが、平安時代以後は複合語の中に用いられ、「をのこ(健児・従者)「をのわらは(男の童)」「しずのを(賤の男)」「あらを(荒男)」など、卑しめられ、低く扱われる男性を指すことが多くなり、男性一般を表すには「をとこ」がこれに取って代わった、

とある(岩波古語辞典)が、「め」も、

古くは女性一般を意味していたが、平安時代以降、「をんな」と次第に交代し「め」は待遇度が低下して、女性の蔑称として用いられることとなった、

とある(日本語源大辞典)。

「め」は、

メ(愛)ずべき意か(本朝辞源=宇田甘冥・国語の語根とその分類=大島正健・大言海・日本語源広辞典)、

とある。しかし、「を」は、それと対になる説がない。

ヲ(尾)と同義(言元梯)、
オホ(大)、また、ヲモ(重)の反(名語記)、

等々だが、倭名抄に、

尾、乎(を)、鳥獣尻長毛也、

とある(岩波古語辞典)。単なる連想だが、「め」の語源説に、

ミ(陰)の義(言元梯)、

がある。「を」と「め」は対だと思うので、

ヲ(尾)と同義(言元梯)、
ミ(陰)の義(言元梯)、

なら、意味は通じる気がするのだが、語呂合わせのような気がしないでもない。対になる「を」が見当たらないが、「め」は、「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453951631.htmlで触れたように、「目」と「芽」と「見」とがつながる。「め」(女)も、「目」、「芽」、「見」とつながるような気がする。

「女」(漢音ジョ、呉音ニョ、慣用ニョウ)は、

象形、なよなよしたからだつきの女性を描いたもの、

とある(漢字源)が、

象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す、

とあり(角川新字源)、

象形文字です。「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形から、「おんな」を意味する「女」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji32.html)。甲骨文字から見ると、後者のように感じる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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をっと


「を(お)っと」は、

夫、
良人、

等々と当てる(広辞苑)が、「夫」は、「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.html?1633116498で触れたように、

を、

とも訓ます。古く、「夫」を、

を、

といった(大言海)ので、

夫人(ヲヒト)の転なるヲウトの急呼(大言海)、

とするが、多くは、

ヲヒト(男人)の音便形(岩波古語辞典)、
ヲヒト(男人)の略(俗語考・菊池俗語考)、

あるいは、

ヲヒト(雄人)の転(国語の語根とその分類=大島正健)、
ヲヒト(雄人)の促音化(日本語源広辞典)、

である。要は、「を」に当てる、

雄、
牡、
男、
夫、

のどれを取るかの差に過ぎない。平安初期(868年頃)の『令集解』に、

夫、俗に呼比止(をひと)と云ふ、

とあり、平安期(898〜901頃)の漢和辞典『新撰字鏡』には、

をうと(夫)、

が載る。『白氏文集天永四年点』(1113)には、

聟(ヲフト)塩商たること十五年、

と訓じ、平安末期(11世紀末〜12世紀頃)の『名義抄』にも、

「聟」の訓として「をひと」が用いられている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB

要は、

ヲヒト→ヲフト→ヲウト→オット、

と転訛したことになる。別に、

ヲサヒト(長人)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々もあるが、

「め(女)」の対、

の「を」でいいのではあるまいか。

また、「夫」は、

ひこぢ、

とも訓ませる(広辞苑・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

其の比古遅(ヒコヂ)〈三字は音を以ゐよ〉答へて歌ひたまひしく(古事記)、

と、

「ひこ」は男子の美称。「じ」は敬称、

で、

りっぱな夫、

の意である(仝上)。

彦男、

とも当てる(岩波古語辞典)。

また、「つま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/443211797.htmlで触れたように、「夫」は、

ツマ、

とも訓み、

妻、

とも当てる。「つま」は、

妻、
夫、
端、
褄、
爪、

と当てて、

爪、

を「つま」と訓むのは、「つめ」の古形だが、

端(ツマ)、ツマ(妻・夫)と同じ、

とある(岩波古語辞典)。「端」は、

物の本体の脇の方、はしの意。ツマ(妻・夫)、ツマ(褄)、ツマ(爪)と同じ、

とあり(仝上)、「つま(妻・夫)」は、

結婚にあたって、本家の端(つま)に妻屋を立てて住む者の意、

で、「妻」も「端」につながり、「つま(褄)」も、

着物のツマ(端)の意、

で、「つま(端)」につながる。しかし、「つま(端)」には、

詰間(つめま)の略。間は家なり、家の詰の意、

とあり(大言海)、「間」には、

家の柱と柱との中間(アヒダ)、

の意味がある(仝上)。さらに、「つま(妻・夫)」は、

連身(つれみ)の略転、物二つ相並ぶに云ふ、

とあり、「つま(褄)」も、

二つ相対するものに云ふ、

とあり(大言海)、「つま(妻・夫)」の語意に同じ」なのである。「夫」、「妻」を、ともに、

ツマ、

と呼んだのは、「つま」を、

はし(端)、

とする説よりは、

あいだ、

とする説の方に分があるように思える。「連身」は、

ツレ(連)+マ(身)、

で、後世の「連れ合い」である。上代には、

夫も妻もツマ、

と言っていたことは、「端」説では説明がつかない。上代対等であった、

夫、

妻、

が、時代とともに、「妻」を「端」とするようになった結果、

つま(端)、

語源説になったのではあるまいか。

「夫」(漢音・呉音フ、慣用フウ)は、

象形。大の字に立った人の頭に、まげ、または冠のしるしをつけた姿を描いたもので、成年に達したおとこをあらわす、

とある(漢字源)が、髷に簪を挿したとする説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%ABが目立つ。頭部にかんざしをさして、正面を向いて立った人の形にかたどる(角川新字源)ともある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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めのこ・をのこ


「めのこ」は、

女の子、

「をのこ」は、

男の子、

と、それぞれ当て(広辞苑)、

「めのこ」

「をのこ」

とは対である。「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.html?1633116498で触れたように、「め」は、

牝、
雌、
女、
妻、

等々と当て、「を」は、

雄、
牡、
男、
夫、

等々と当て、

「を」と「め」は対、

である(岩波古語辞典)。「め」は、

女神、
女鹿、
雌蕊、
手弱女(たおやめ)、

等々と、

多く複合語として使う。動植物の雌の意。人間にも、男と一対をなす女の意で使うが、多くは女を見下げたり卑下したりする気持ちでいう。また、妻を指す場合もあるが平安時代には受領以下の人の妻をいうことが多く、天皇・貴族の正妻を指すことはほとんどない。軽侮の意を表す接尾語メも、これの転用、

とあり(仝上)、「を」も、

上代では動植物・神・人を問わず広く使われたが、平安時代以後は複合語の中に用いられ、「をのこ(健児・従者)「をのわらは(男の童)」「しずのを(賤の男)」「あらを(荒男)」など、卑しめられ、低く扱われる男性を指すことが多くなり、男性一般を表すには「をとこ」がこれに取って代わった、

とある(岩波古語辞典)。「め」も、

古くは女性一般を意味していたが、平安時代以降、「をんな」と次第に交代し「め」は待遇度が低下して、女性の蔑称として用いられることとなった、

とある(日本語源大辞典)。

で、「めのこ」は、

女の子、

と当てるが、

男(をとこ)女(メノコ)を呼(よ)ひて王子(みこ)と曰ふ(書紀)、

と、

おんなの子ども、女児、

の意だけではなく、古くから、

吐大羅(とら)人、妻(め)舎衛婦人(メノコ)と共に来(もう)けり(斉明紀)、

と、

おんな、

の意で使う。特に、

身分の高くない女性、

の意とある(岩波古語辞典)。「め」がそうなったように、

その家のめのこども出でて、浮海松(うきみる)の浪によせられたるを拾ひて、家の内にもて來ぬ(伊勢物語)、

と、

召使いの女、

の意ともなる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

女児の意では、だからか、

めのこご(女の子子)、
めこ(女子)、
めなご(女子・女児)、

等々を使う。

「をのこ」も、

すべてをのこをば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ(徒然草)、

と、

男の子、男児、

の意でも使うが、

鶏が鳴く東男(あづまをのこ)は出で向ひかへり見せずて勇みたる猛き軍士とねぎたまひ任(ま)けのまにまに(万葉集)、

と、

成人男性、

の意で使い、特に、

(ヲは)平安時代以後は、低い者として扱う男性を指すことが多い。ヲノコも多くは軍卒・侍臣・下男などの意。男の意と見られる場合も、尊敬の対象とはならない男性を指し、類義語ヲトコのような、結婚の相手としての男性の意に用いない、

とあり(岩波古語辞典)。

宿直人(とのゐびと)めくをのこなまかたくなし(生頑なし)き、出で来たり(源氏)

と、

下男、召使、

の意で使われ(仝上)、

宮中(殿上)や貴人に仕える男性を指すのに用いられたことで、この用法も含めて広く、世代的身分的に下の存在の男性と認識されたところが、類義語「おとこ(をとこ)」との違いであったとみられる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

をのこご(男子)、

も、

八(や)つ、九(ここの)つ、十(とを)ばかりなどのをのこごの、声は幼げにて文読みたる、いとうつくし(枕草子)、

と、

男児、

の意だが、

むつましき人なれど、をのこごにはうち解くまじきものなり(源氏)、

と、

男性、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

その意味では、上代のヲ・メは、十世紀には、

ヲトコ・ヲンナ、

へと移行していたと見られるが、

を(男)→をとこ、
め(女)→をんな、

と変化したというよりは、

を→をのこ→をとこ、
め→めのこ→をんな、

と、「をのこ」「めのこ」を並行して使っていたと思われる。ただ、

をのこ、
めのこ、

が、相手を低く見る意の方へシフトしていくにつれて、

をとこ、
をんな、

が、男性、女性の汎称として浮上してきた、と見ることができそうである。

「子」(漢呉音シ、唐音ス)は、

象形。子の原字に、二つあり、一つは、小さい子供を描いたもの。もう一つは、子供の頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子(シ)の場合に用いた。のちこの二つは混同して子と書かれる、

とある(漢字源)。他は、

象形文字です。「頭部が大きく手・足のなよやかな乳児」の象形から、「こ」を意味する「子」という漢字が成り立ちました、

とするhttps://okjiten.jp/kanji29.html

なお「子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.htmlについては触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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をとめ


「をとこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483673592.html?1633030409で触れたように、「をとめ」は、古くは、

をとこの対、

である(岩波古語辞典)。

「おとめ」は、

少女、
乙女、

と当てる(広辞苑・大言海)。和名類聚鈔(平安中期)は、

少女、乎止米、

類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう 11〜12世紀)は、

少女、ヲトメ、

と、それぞれしている。

「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」などと同様、「こ」「め」を男女の対立を示す形態素として、「をとこ」に対する語として成立した、

もので(精選版日本国語大辞典)、

ヲトは、ヲツ(変若)・ヲチ(復)と同根、若い生命力が活動すること。メは女。上代では結婚期にある少女。特に宮廷に奉仕する若い官女の意に使われ、平安時代以後は女性一般の名は「をんな(女)」に譲り、ヲトメは(五節の)舞姫の意、

とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

風のむた寄せ來る波に漁(いさり)する海人(あま)のをとめが裳の裾濡れぬ(万葉集)、

と、

少女、

の意から、

藤原の大宮仕へ生れつがむをとめがともは羨(とも)しきろかも(万葉集)、

宮廷につかえる若い官女、

の意でも、

(五節の舞姫を見て詠める)あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめの姿しばととどめむ(古今集)、

と、

舞姫、

の意でも使われる。

少女子、

とあてる、

をとめご、

も、

少女、

の意と、

天人の舞を舞う少女、舞姫、

の意がある(岩波古語辞典)。

「をとめ」の「をと」は、「をとこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483673592.html?1633030409で触れたように、

をつの名詞形、

であり、「をつ」は、

変若つ、
復つ、

と当て、

変若(お)つること、

つまり、

もとへ戻ること、
初へ返ること、

で、

我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(大伴旅人)、

と、

若々しい活力が戻る、
生命が若返る、

意であり(仝上・大言海)、

若い、
未熟、

の含意である。となると、

小之女(ヲツメ)の転(大言海・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)、
小姥(ヲトメ)の義(大言海)、
ヲノメ(少女)から(名言通)、

は採れまい。

古代では、「をとこ」―「をとめ」で対をなしていたが、「をとこ」が男性一般の意となって、女性一般の意の「をんな」と対をなすように変わり、それに伴って、平安時代には「をとめ」も「少女」と記され、天女や巫女を表すようになった、

とある(日本語源大辞典)。だから、

乙女、

は当て字で、

「おとうと」の「おと」と同じく年下の意であるが、「お」と「を」の区別が失われて用いられるようになった当て字、

とある(仝上)。そうなると、

ワ行の方が若く、ア行の方が老いた女をあらわします、

とある(日本語源広辞典)ように、古くは、

ヲ(袁)とオ(於)を以て老少を区別する(古事記伝)、

と、

老若の違い、

があったらしいのが、「お」と「を」の区別が失われ、

おみな(嫗)⇔をみな(女)

の区別がつかなくなった。

「乙」(漢音イツ、呉音オツ・オチ)は、

指示。つかえ曲がって止まることを示す。軋(アツ 車輪で上から下へ押さえる)や吃(キツ 息がつまる)などに音符として含まれる、

とある(漢字源)が、別に、

象形。草木が曲がりくねって芽生えるさまにかたどる。借りて、十干(じつかん)の第二位に用いる、

ともあり(角川新字源)、さらに、

指事。ものがつかえて進まないさま(藤堂)。象形:へらとして用いた獣の骨を象る(白川)。十干に用いられるうち、原義が忘れられた、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%99

さらに、

象形文字です。「ジグザグなもの」の象形から、物事がスムーズに進まないさま・種から出た芽が地上に出ようとして曲がりくねった状態を表し、そこから、「まがる」、「かがまる」、「きのと」を意味する「乙」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1506.html。つまり、「乙」を、象形文字とする説と指事文字(形で表すことが難しい物事を点画の組み合わせによって表して作られた文字)とする説がある。形があるからそれを象れるが、形がないから、点画の組み合わせによって表して作ったということになるので、なぞる形の有無にすぎまい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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をんな


「をんな」は、

女、

と当てるが、

ヲミナの音便、

とある(広辞苑・大言海)。

平安時代以後の語。ヲミナの音便形として成立し、それまで女の意を代表していたメ(女)という語が、女を卑しめ見下げていう意味にかたよった後をうけて、女性一般を指し、特に「をとこ(男)」の対として結婚の関係をもつ女をいう、

とある(岩波古語辞典)。類聚名義抄(11〜12世紀)は、

女、ヲムナ、

色葉字類抄(1177〜81)も、

女、ヲムナ、

としている。

をみな→をうな→をむな→をんな、

といった転訛といったところであろうか。

多くは、

ヲミナの音便、

とする(大言海・箋注和名抄・古語類語=堀秀成)が、

ヲミは小身の義、ナは大人(オトナ)の名の如し(大言海・語源由来辞典)、
ヲは小さいことで、古くは若い女のこと(六歌仙前後=高崎秀美)、
接頭語ヲ(小)とオミナ(成人の女)との複合か(岩波古語辞典・日本語源広辞典)、

等々といったところが語源になる。それ以外に、

オウナ(嫗)の転、オイオンナ(老女)の義(和訓栞)、
ヲミナ(麻績女)から(類聚名物考)、

とするものがあるが、「おうな」の「お」と、「をんな」の「を」は区別されていたはずである。

「をみな」は、

古くは美女・佳人の意であったが、後に女一般を指す。音韻変化してヲウナ・ヲンナに転じると、女性一般名称となる。類義語メ(女)は、女を卑しめ見下げる気持ちで使う、

とある(岩波古語辞典)。新撰字鏡(898〜901)には、

嬢、婦人美也、美女也、良女也、肥大也、乎美奈(をみな)、

とあり、天治字鏡(平安中期)にも、

娃、美女㒵、宇豆久志美奈、嬢、乎美奈、

字鏡(平安後期頃)にも、

娃 宇豆久志乎美奈、嬢、乎美奈、

とあり、

童女有りて、その形姿(かほ)美麗(よ)かりき。……その嬢子(をとめ)に舞せしめたまひき……。呉床居(あぐらゐ)の神の御手もち弾く琴に舞するをみな常世にもがも(万葉集)

と使われるが、万葉集で、「ヲミナヘシ」の「ヲミナ」に、

ことさらに衣は摺らじをみなへし(佳人部為)佐紀野(さきの)の萩ににほひて居(を)らむ、
我が里に今咲く花のをみなへし(娘部四)堪(あ)へぬ心になほ恋ひにけり、

等々と、多く、

佳人、美人、姫、

の字が当てられている(岩波古語辞典)。つまり、「をみな」は、古くは、

美人、

に限定して使われていたもののようである。それに対し、「め」が女性一般であった、ということになる。

ところで、

「をみな」は、年齢の上では「嫗(おみな・おうな)」の対義語にあり、性別では少年を意味する「をぐな」と対になる語であった、

とある(語源由来辞典・日本語源広辞典)。しかし「をぐな」は、

童男、

と当て、

男の子、

をさす。「をみな」の対とは思えない。「をぐな」は、

マゲウナ(曲項)の約略か、古へ、男女とも幼き時は髪を曲げて項(うなじ)に置けり、髫髪(ウナヰ)の如し(大言海)、
オキナ(翁)に対するヲグナ(小人)から(日鮮同祖論=金沢庄三郎)、
ヲキ(少子)ネの転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ヲコナ(小児男)の転(言元梯)、
ク(児)はコ(児)の母音交替形デ、ヲ(男)+ク(児)+ナ(接尾語、オキナ、オミナ、ヲミナなどのナ)(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、

等々、「をぐな」の語源を見る限り、「男児」を指し、「美人」の意であった「をみな」の対はありない気がするが、

古代では男女の呼称を、大小を表わすオとヲでいう、

オキナ━オミナ、
ヲグナ━ヲミナ、

と、若返る意の動詞ヲツを構成要素とする、

ヲトコ━ヲトメ、

があって、前者は年長・年少の男女を意味し、後者は結婚適齢期の男女を意味した。ところが「古事記」では同じ女性をヲトメともヲミナとも呼んでおり、「万葉‐四三一七」では「秋野には今こそ行かめもののふの乎等古(ヲトコ)乎美奈(ヲミナ)の花にほひ見に」とヲトコとヲミナが対になっているから、年少の女性の意と適齢期の女性の意が混同されて、ヲトコ━ヲミナという対が生じたらしい。そしてヲトコが男性一般をいうようになったのに伴ってヲミナも平安時代にヲンナと変化し、女性一般を指すようになった、

とある(精選版日本国語大辞典)。しかし、古く「をみな」が「をみなへし」の「をみな」の「美人」の意として使っていたことを考えると、「ヲミナ」が、どこかで、男女の童子の意として、

ヲグナ━ヲミナ、

と、対として使われ、例えば、前述の、

童女有りて、その形姿(かほ)美麗(よ)かりき。……その嬢子(をとめ)に舞せしめたまひき……。呉床居(あぐらゐ あぐらをかいてすわる意)の神の御手もち弾く琴に舞するをみな常世にもがも(万葉集)

を見ると、「童女」「をとめ」「をみな」が重なっているように見えるように、「年少の女性の意と適齢期の女性の意が混同されて」(仝上)、

ヲトコ━ヲミナ、

の対へ変化し、

ヲトコ━ヲンナ、

へと対が転化していったということと思う。この背景にあるのは、結婚適齢期が16、7歳なのか、18、9歳なのか、あるいはもっと若いのか等々、時代によって微妙に異なることがあるのではないか。その辺りは調べがつかないが、それと関わって、童女を、いくつまでとみなすかが変わる気がする。

因みに、「うなゐ」は、

髫、
髫髪、

等々と当て、和名類聚抄(平安中期)に、

髫髪、宇奈為、俗用垂髪二字、謂童子垂髪也、

とある。

ウナは項(ウナ)。ヰは神がうなじにまとめられている意、

で、

子供の髪を、垂らしてうなじにまとめた髪、またその髪形をする十二、三歳までの子供。その先、年齢がいくと、髪をあげて「はなり」「あげまき」にした、

とある(岩波古語辞典)。「はなり(離り)」は、

少女が肩までつくように垂らしていた「うなゐ」の髪を、肩から離れる程度に上げること、

であり、「あげまき(総角・揚巻)」は、

うなゐ、

にしていた童子の髪を、十三、四歳を過ぎてから、両分し、頭上の左右にあげて巻き、輪を作ったもの、はなりともいう、

とある(仝上)。

「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.html?1633116498で触れたように、

「女」(漢音ジョ、呉音ニョ、慣用ニョウ)は、

象形、なよなよしたからだつきの女性を描いたもの、

とある(漢字源)が、

象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す、

とあり(角川新字源)、

象形文字です。「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形から、「おんな」を意味する「女」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji32.html。甲骨文字・金文から見ると、後者のように感じる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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をなご


「をなご」は、

女子、

と当てる。

ヲンナゴの約、

とある(広辞苑・大言海)。

下京に妹が居りまらする。是にもをなごが一ぴきござあるが是も姪のうちでごらあらうずる(狂言「粟田口」)、

と、

女の子、

の意であるが、後に、年代が下がるにつれて、広く、

をなごの道を教へ込み(浄瑠璃「堀川波鼓」)、

と、女性一般に転じ、さらには、

高嶋屋のをなごによびかけられて(西鶴「好色一代男」)、

と、

女中、
下女、

の意味になっていく。

「をんな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483783606.html?1633635501で触れたように、女性の一般称は、

ヲンナ、

であるが、

文献や語源からすると、ヲンナやその原型としてのヲミナの方が古くて奈良時代から見られるのに対して、ヲンナゴから転じたヲナゴの形は室町時代から見られる、

とある(日本語源大辞典)。

をみな→をんな→をんなご→をなご、

と転訛したとみられるので、

ヲンナ、

が一般化した時点で、

ヲンナ子、

としたものと思われる。しかし、

後から生れたヲナゴが、その後勢力拡大してヲンナを圧倒、

した(仝上)ため、

方言の分布を見ると、関東・中部のヲンナをはさんでその両脇にヲナゴの大領域がある、

とされ(仝上)、

近畿、山陽、四国、九州、奥羽、下越、佐渡で使われる。奄美の「うなぐ」、沖縄の「いなぐ」も、「おなご」と同系列。南琉球では「みどぅむ(女供)」、出雲周辺、隠岐、飛騨、北能登などでは「女房」、北陸で「女郎」、関東の一部で「尼」、「おんな」は関東、東海、美濃、信越での言い方。「おなご」と「おんな」の境界の名古屋では「おんなご」、

とある(大阪弁)。ただ現在では、

逆にヲンナが共通語形として通用しているが、方言形の全国的な傾向としては、ヲナゴが女性の卑称として残るという現象が見られる、

とある(日本語源大辞典)。

「子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.htmlで触れたように、「子」は、

親に対して子、

であると同時に、

親が子を呼びしに起こりて、自らも呼びし語なるべし、男之子(オノコ)、男子(ナムシ)の子(シ)なり。左傳、昭公十二年、注「子、男子之通称也」。白虎通、號「子者、丈夫之通称也」。和漢暗合あり、

という(大言海)ように「男の通称」であるが、

女(をみな)も子と云ふこと、特に多し。女之子(メノコ)、女子(ニョシ)の子(シ)なり、

ともあり(仝上)、男女ともに使う。「親」に対して「子」という意味で、「子」は、様々なメタファとしての意味は多い。

「子」の語源は、

小(コ)と同源か、

とあり(広辞苑)、

小の義にて、稚子(チゴ)より起れる語なるべし、

とある(大言海)。

とみると、「をなご」は、「をなご」が女性一般を指すようになったために、

をなご+子、

で女児を指したが、それが、いつか、女性一般に転じていくのは、「めのこ」「をのこ」が、この意から、一般称に転じていくのに似た経過ということになる。

「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.html?1633116498で触れたように、

「女」(漢音ジョ、呉音ニョ、慣用ニョウ)は、

象形、なよなよしたからだつきの女性を描いたもの、

とある(漢字源)が、

象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す、

とあり(角川新字源)、

象形文字です。「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形から、「おんな」を意味する「女」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji32.html。甲骨文字・金文から見ると、後者のように感じる。

「子」(漢呉音シ、唐音ス)は、「めのこ・をのこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483735199.html?1633376365で触れたように、

象形。子の原字に、二つあり、一つは、小さい子供を描いたもの。もう一つは、子供の頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子(シ)の場合に用いた。のちこの二つは混同して子と書かれる、

とある(漢字源)。他は、

象形文字です。「頭部が大きく手・足のなよやかな乳児」の象形から、「こ」を意味する「子」という漢字が成り立ちました、

とするhttps://okjiten.jp/kanji29.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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おみな・おきな


「おきな」は、

翁、

と当て、

男の老人、老爺、

を意味し、その対は、

おみな、

で、

嫗、

と当て、

老女、

の意である(広辞苑)。神代紀に、

(ひとりの)老翁(おきな)と老婆(おみな)ありて、

とあるが、「老翁」を、

ろうおう、

と訓むと、

老いた男性、老爺、

の意だが、対になるのは、

老婆、

の意の、

老媼(ろうおう)、

になる。同義で、

老嫗(ろうう)、

とも言う。老翁は、また、

老叟(ろうそう)、

ともいう。これは皆漢語である。

出門老嫗、喚雞犬(徐照詩)、

誰念三千里、江湖一老翁(老叟)(張説詩)、

等々とある(字源)。

さて、和語「おきな」は、

キは男性を示し、ナは人の意。キとミで男女を区別する例は、神名イザナキ(伊邪那岐/伊弉諾/伊耶那岐)とイザナミ(伊邪那美/伊弉冉/伊耶那美/伊弉弥)など。奈良・平安時代を通じて、和文脈では「おきな」は軽侮の対象になっていることが多いが、漢文脈では「おきな」は敬意を含んで使われた。中世ではオキナの対語として「うば」が使われることがある、

とある(岩波古語辞典)。和文脈では、

老人、

ではなく、

じじい、老いぼれ、

という語感だが、漢文脈では、

古老、長老、

という語感になるのだろう。「おきな」は、「若い人」に対して、相対的な年寄りを指すこともある。「うば」は、

姥、
嫗、

と当てるが、

老婆、

の意の他に、

祖母、

の意もある。漢語では、

老姥(ろうぼ)、

は、

姆、

に同じで、

年老いたるばば、

の意になる(字源)。

「をんな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483783606.html?1633635501でも少し触れたが、「おきな」の語源は、一筋縄にはいかないようだ。

オキナ、オミナに対してヲグナ、ヲミナがあることから、オ(大)、ヲ(小)の差がキ(ク)、ミ(ム)の上につけられていたことがわかる。老若制度から出た社会組織上の古語であったらしい(翁の発生=折口信夫)、
オキナはヲグナに対する語で、オ、ヲで大小老若を示す。キナ、クナは明らかでないが、フナ、クナは男性を指す語。あるいは、ナは親愛の意を添える接尾語か(物語文学序説=高崎正秀)、
オは大、キはコと同じく男子の称呼で、メ(ミ)と対立する。ナはネの転呼で敬称(日本古語大辞典=松岡静雄)、
オはヲ(小)に対するオ(大)。オキナはオグナ(大人)、ヲグナはヲグナ(小人)で、クナ、キナは朝鮮語のkamt(人)といったする語である(日鮮同祖論=金沢庄三郎)、
ヲキナは大男汝で、ヲトコ(小男)の老年に及んだ物の意(日本語源=賀茂百樹)、

等々と、

オ=大、
ヲ=小、

とする説がある。しかし、「をんな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483783606.html?1633635501で触れたように万葉集で、「ヲミナヘシ」の「ヲミナ」に、

ことさらに衣は摺らじをみなへし(佳人部為)佐紀野(さきの)の萩ににほひて居(を)らむ
我が里に今咲く花のをみなへし(娘部四)堪(あ)へぬ心になほ恋ひにけり

と、多く、

佳人、美人、姫、

の字が当てられている(岩波古語辞典)。つまり、「をみな」は、古くは、

美人、

に限定して使われていたもののようである。それを、「おみな」に対して、「小」とするのは、年長、年少の含意なのだろうか。その他、

おきなびと(翁人)の略、おきなびとは、大成人(おほきなりびと)の略か(おとな、おみな)、或いは、息長人(おきながびと)の略なりとも云ふ(継体即位前紀、註「此云那」、和名鈔、「豊後國、日高郡、比多」)(大言海)、
オはオイ(老)のオ、キは男性をあらわす語。ナはセナ(兄)、オトナ(大人)のナと同じく人の義(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々がある。「ナ」は、

おとな(大人)の「ナ」(大言海)、

でいいと思うが、上述のように、

イザナキ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)、
カムロキ(神漏伎)・カムロミ(神漏美)、

等々の「キ」と「ミ」で性を分けたと見るのが妥当なのだろう。

「お」と「を」は、ぼくには、

「養老戸令」では「六十六為耆」とある。オはオホに同じく「年上」の意から「老(おゆ)」の意。オキナとオミナ(音便形オウナ)との対にみられるように、キとミとの対で男・女を表わす、

とある(精選版日本国語大辞典)のが妥当に思える。礼記に、

年齢六十を耆(おきな)と云ふ、

とある(岩波古語辞典)のに因るのだろう。もっとも、大小も、老少も、「を」「お」だけで区別したと思われるので(文字を持たない時は、当事者にはそれで十分区別できたのだろうから)、文脈によって読み取るほかはないが、この場合は、老少の違いとみていいのではないか。

「おみな」は、

ミは女性を示し、ナは人の意。キとミで男女を区別する例は、イザナキとイザナミなどがある、

とされ(岩波古語辞典)、

オホメナリ(大女成)の略転(大言海)、
オホメ(大女)の転、ナはネに通じる敬称(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ヲミナ(童女)に対するご、オとヲは大小老若を示す(物語文学序説=高崎正秀)、

等々、オとヲを、

大小の違い、

というよりは、

ヲミナ(女)に対する語で、ヲ(袁)とオ(於)を以て老少を区別する(古事記伝)、

と、

老若の違い、

と採る方が妥当と思えることは上述した通りである。

なお、「おみな」は、その音便形、

おうな、

に転嫁し、

媼、
嫗、

と当てる(岩波古語辞典)。

「翁」(漢音オウ、呉音ウ)は、

形声。「羽+音符公」。もと、鳥の首の羽毛の意。「おきな(長老)」の意は、公(長老)と同系統の言葉に当て、老人に対する尊称に用いる

とある(漢字源・角川新字源)

別に、

会意兼形声文字です(公+羽(秩j)。「2つに分れているものの象形、又は、通路の象形と場所を示す文字」(みなが共にする広場のさまから、「おおやけ」の意味、また「項(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「項」と同じ意味を持つようになって)、「くび」の意味)と「鳥の両翼」の象形から、「老人を尊んで言う、おきな」、「鳥の首筋の羽」を意味する
「翁」という漢字が成り立ちました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1456.html

「嫗」(漢音呉音ウ、慣用オウ)は、

会意兼形声。「女+音符區(ク 小さくかがむ)」。背中の屈んだ老婆、

とある(漢字源)。

「媼」(オウ)は、

会意兼形声。右側は、小さい枠の中にこもってふさがる意を含む。媼は、それと女を合わせた字で、老いて体の小さく屈んだ女のこと、

とある(漢字源)。

「叟」(漢音ソウ、呉音ス)は、

会意。「臼(かまど)+又(手)」。かまどのなかを手で捜す意を示し、捜(ソウ)の原字。老人の意を示す叟は仮借てきな用法である、

とある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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一筆


「一筆」は、

一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ(本多作左衛門重次)、

のそれでも、

一筆書き、

のそれでもなく、

一筆認めます、

のそれでもなく、

一区切りの田畑・宅地、

の意の、「一筆」である。

いっぴつ、
とも
ひとふで、

とも訓ますが、どうも歴史的には、

イッピツ(ippitsu)、

らしく(歴史民俗用語辞典)、

検地帳にその所在・品等・面積・名請人を一行に書き下したから(広辞苑)、
検地帳には、一場所ずつ、その田畑の所在、石高、面積、所有者などをひとくだりにしるしたところから(精選版日本国語大辞典)、

等々とあり、転じて、

一区切りの田畑、宅地の記録、

の意となり、さらに、

ひとくぎりの田畑・宅地を示す語、

となった(「地方凡例録(1794)」)、とある。これは検地帳面上に、

田・畑・屋敷をその広狭にかかわらず、一場所かぎり、一廉(かど)ずつ書き載せたことから唱えられたものである、

ということのようである(図解単位の歴史辞典)。

一筆限、

とも(国史大辞典)、

一枚(いちまい)、

ともいう(広辞苑)。「名請人」とは、

検地帳の登録人、

で、

高請人、
竿請(さおうけ)人、
名請百姓(なうけびゃくしょう)、

もいう(広辞苑・デジタル大辞泉)。

戦国末期から江戸時代を通じての検地において、一筆ごとに確立された分米(ぶんまい)すなわち石高(こくだか)の保有者として検地帳に登録され、その石高を請け負って年貢を負担する義務を負う者、

を指す。荘園制下の検注帳の登録人は、

名請人(みょううけにん)とよび、

年貢公事(くじ)を負担する義務を負っていた、とある(日本大百科全書)。いわゆる、江戸時代の、

高持(たかもち)百姓、
本百姓、

に当たる。

「一筆」は、今日でも使われ、

土地の個数を表す言葉。土地登記の上で一つの土地とされたもの、

を指し、

一筆の土地ごとに登記記録を作成することとされている(不動産登記法)。

また、数筆の土地を合わせて1筆にすることを、

合筆(がっぴつ)、

それに対して、1筆の土地として表示されている土地を数筆の土地に分けることを、

分筆(ぶんぴつ)、

という(ブリタニカ国際大百科事典)し、田畠は現在も幾筆と数える(国史大辞典)らしい。

なお、「ふで」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463219646.htmlで触れたように、和語「ふで」の語源は、

文(ふみ)+手(て)、

らしく、和名類聚抄(931〜38年)は、

布美天、

とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)は、

フテ、
フムデ、
フミデ、

とある。

フミテ→フンデ→フデ、

と転じたとされる(大言海)。ただ、「ふで」の語源説には、

「筆」の音ヒツの転(国語学通論=金沢庄三郎)、

とする説があり、筆の音の、

ヒツ→ヒツヅ→フヅ→フドゥ→フドェ→フデ、

と転訛したとする説も捨てがたい。文字を持たない先祖が、文字と道具を一緒に輸入したと考えられなくもないから。

「ふで」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463219646.htmlで触れたように、「筆」(漢音ヒツ、呉音ヒチ)の字は、

会意。「竹+聿(ヰツ→ヒツ 手で筆をもつさま)」で、毛の束をぐっと引き締めて、竹の柄をつけた筆、

とある(漢字源・角川新字源)。また、「聿」は象形文字で、それのみで「ふで」の意味。竹製であることを強調したものか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AD%86)、ともある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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常陸坊海尊


「常陸坊海尊」は、

海存、

と当てたり(日本伝奇伝説大辞典)、

快賢、
荒尊、

とするものもある(世界大百科事典)。秋元松代の戯曲『常陸坊海尊』でも知られる、源義経の家臣である。

『源平盛衰記』巻四十二、延慶本『平家物語』第六末にその名が見え、前者ではもと叡山の僧であったとし、『義経記』では、もと園城寺の僧であったとする。義経の都落ちに同道して弁慶とともに大物(だいもつ)の浦で活躍し、衣川での義経の最期には、朝から物詣でに出て帰らず居合わせなかった、

とされる(仝上)が、比較的信頼のおける『吾妻鏡』には登場せず、確かな史料が存在しない。

『義経記』には、「頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事」の中で、

御曹司の郎党には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸坊、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同四郎忠信これらを先として三百騎馬の腹筋馳せ切り、

とあるのが初見とされhttp://www.st.rim.or.jp/~success/kaison.html、頼朝との兄弟対面よりも前には、義経の郎党となっていたようだし、『源平盛衰記』の屋島の合戦の記事には、

武蔵坊・常陸坊、旧山法師にて究竟の長刀の上手にて、

と記され、『義経記』では、大物の浦で、海尊と弁慶は褐の直垂を纏い、弁慶はその上に黒革縅、海尊は黒糸縅の鎧を身につけ、小舟を駆って、敵船に突入、

するという活躍をしているhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793ので、その武勇は確かだったと考えられるが、『義経記』では、たとえば、文治三年(1187)、義経一同が関所で関守に疑われ、弁慶の機転で何とか切り抜けることに成功するシーンが有名だが、常陸坊は、

先に出でたりけるが、後を顧みければ、判官と武蔵坊は未だ関の縁にぞ居給へり、

と、さっさと関所を出てしまっている等々、二、三ヶ所で、

誰よりも先に逃げようとする、

と記され、この時点で、

逃げ上手、
生き上手、

としての海尊像がすでに成立していた、とされる(仝上)。茨城の民話では、衣川の合戦に際し、

十一人の近臣と戦に加わらず近くの山寺に行っていた、

と伝わり、この件が、

義経一行が難題に直面した際に、常陸坊はいち早く姿を消す(常陸坊を初めとして残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰らずして失せりにけり)とあるように、肝心な時には何時もどこかに身を隠してしまう、卑怯者といわれる所以、

としているhttps://nyorokolog.hatenablog.com/entry/2019/09/29/214838

衣川合戦を生き延びた「海尊」は、

仙人となり、あるいは人魚の肉などを食して不老長寿となり、400年位生きていた、

とも伝えられ(朝日日本歴史人物事典)、

富士山に入り、飴のようなものを食べて不死を得た話(柳田国男「東北文学の研究」)、
枸杞を常食したため長寿となった(林羅山『本朝神社考』)、

等々ともされる。『本朝神社考』(林羅山)には、

江戸時代初期に残夢という老人が、源平合戦や義経を見てきたように語っていたのを人々が海尊だと信じていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8Aし、天和三年(1683)に江戸から東海道を旅したという大森固庵らによる紀行『千草日記』では、3月14日の条に三保の松原に現われた残夢について綴られているhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793

『義経記』の注釈書である『義経記評判』の頭注「ひたち坊」に姿を見せる残夢は、「義経は醜男、弁慶は美僧」などと、それまでの言い伝えとは違う義経主従の人相を語ったという。さらに自分は海尊だと名乗り、義経の最期の地となった衣川を訪れた際に、老翁から貰った赤い果物を食して長生になったと告げた、

とあり(仝上)、

『清悦物語』には、常陸坊海尊として、義経の従者であった清悦とともに登場する。海尊は清悦ら仲間4人で衣川に行き、山伏から「にんかん」という赤魚を振る舞われ、長生を得た、

とある(仝上)。

生存説は東北地方中心に多く、たとえば、大杉神社(茨城県稲敷市)では、

文治年間には巨体、紫髭、碧眼、鼻高という容貌の常陸坊海存(海尊)が登場し、大杉大明神の御神徳によって数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は御眷属としては烏天狗のみとしておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました、

と、天狗になり、神と同一視されているhttps://nyorokolog.hatenablog.com/entry/2019/09/29/214838

「常陸坊海尊」については、別に、遍照寺(真岡市)の古寺誌に、

文治中、藤原泰衡追悼の軍功により賞与を仝地に賜り、故に奥州伊達の地に移る。これより先、常陸坊海尊なる者藤原秀衡の命を受け源義経の子、経若を懐にして中村に来り、念西に託す。念西、伊達に移るに由り常陸冠者為宗を伝とし中村家を為村に譲り、為宗我が子とし成人の後、中村を続かしむ。後、中村蔵人義宗と言ふ。又左衛門尉朝定と改む、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A、義経の子を託されたとされる。託された、念西とは、

平治年間(1159〜60年)に中村城に入った中村小太郎朝宗の子・宗村を指す。宗村は剃髪して、念西(中村常陸入道念西)と名乗ったのだ。文治中の奥州合戦の軍功により奥州伊達の地を賜り、その地に移り、奥州伊達氏の祖となった。その際に念西は、子の為宗に中村家を譲った。義経の子・経若(のちに中村蔵人義宗、さらに左衛門尉朝定と改名)は、この為宗の子として成人し、家を譲られ、中村城主となったという、

とあるhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793。ただ、『義経記』は、

義経の妻と3歳の男子と、合戦の7日前に生まれた女子の3人、

を、傅役の十郎権頭兼房が刺し殺し、義経の後を追ったとあり、『吾妻鏡』には、

義経の22歳の妻と4歳の女子が、義経に殉じた、

と記されている(仝上)。

柳田国男は、海尊について、

「義経記成長の事情を窺い知る端緒として、最初に我々の心づく特色の一つは、いよいよ泰衡が背き和泉夫婦が忠死を遂げて、主従わずかに一三人で、寄手の三万余騎と激戦するほどの大切な日に、あいにくその朝から近きあたりの山寺を拝みにでて籠城の間に合わず、そのまま還って来なかった者が十一人あったという点である。その十一人の大部分は名が伝わらぬが、ただ一人だけ知れているのは、常陸坊海尊であった。それがその通りの歴史であったとすれば、是非もないが、人の口からだんだん大きくなった物語としては、かような挿話は見たところ別に必要もないので、もし必ずそう語るべきであったとすれば、別に隠れた理由が何かあったはずである」

と書き(「東北文学の研究」)、足利時代の下半期に、

常陸坊海尊が、まだ生きているという風説が諸国、

にあり、

この噂が一箇所一口ではないために、かえって始末が悪い、

と、義経記の海尊像が一人歩きを始めた、と記しているhttp://www.st.rim.or.jp/~success/kaison.html

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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うどんげ


大村由己の「惟任退治記」のラストに、

偈に曰く
四十九の夢一場、威名什麽(なんま)の存亡とか説かん
請ふ看よ火裡(かり)烏曇鉢(うどんばち)、吹作(すいさく)す梅花遍界香(こうば)し、

とある。「烏曇鉢(うどんばち)」とあるのは、

優曇鉢、

のことで、

梵語のウドゥンバラ(uumbara)音写で、

優曇婆羅、
烏曇跋羅、
優曇鉢華、

等々とも当てる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%92・百科事典マイペディア)。略して、

優曇、
憂曇、

といい、

瑞祥、

の意とあり(岩波古語辞典)、

霊瑞花、
空起花、
起空花、

などを意味するhttps://www.visiontimesjp.com/?p=4622

3000年に一度しか花を開かないというインド伝説上の植物、

とされ、

優曇華、
または、
憂曇華、

ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%92・百科事典マイペディア)。その花を、

うどんげばな、

という。

仏教では、

その花が開くとき、

金輪王が出現する、

といい、また、

如来が世に出現する、

と伝え(広辞苑)、経典の中では、

難値難遇(なんちなんぐう)、

つまり、

仏に会い難く、人身を受け難く、仏法を聞き難い、

という、

とてもめったに出会うことのできない稀な事柄や出来事を喩える話、

とされhttp://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=78、『大般若経』では、

如来に会うて妙法を聞くを得るは、希有なること優曇華の如し、

と説き、

『法華経』では、

仏に値(あ)いたてまつることを得ることの難きこと、優曇婆羅の華の如く、また、一眼の亀の浮木の孔(あな)に値うが如ければなり、

と説き、大海に住む百年に一度海面に頭を出す一眼の亀が、風に流されてきた一つの孔のある浮き木の孔の中にたまたま頭をつっこむという、

めったにない幸運で仏の教えにめぐりあうこと、

に喩えるhttp://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=78。『金光明経』には、

希有、希有、佛出於世、如優曇華時一現耳、

とある(大言海)。また、『法華文句』には、

優曇華は、霊瑞の意を示し、三千年に一度現れる。この花が現れたときに、金輪王(轉輪聖王)がこの世に現れる、

とあり、『慧琳音義』には、

この花は天上の花であり、 人間世界には存在しない。もし、如来佛がこの世に下り、金輪王がこの世に現れれば、その偉大な福徳力によって、初めてこの世に優曇華の花が見られる、

とあるhttps://www.visiontimesjp.com/?p=4622

 ある時、弟子たちが釈迦牟尼佛の説法を聞いた後、女弟子の蓮華色が「世尊。将来、轉輪聖王が下界に現れ伝法すると仰いましたが、人々はどのようにその時を知るのでしょうか?」と丁重に尋ねた。釈迦牟尼佛は「その時になると、優曇婆羅という花が広範囲に咲き、轉輪聖王がこの世で法を伝え、衆生を救い済度していることを示します」と明らかにした。釈迦牟尼佛はさらに「この花は人間界の花ではなく、轉輪聖王の一種の吉兆のようなものです。仏によってその象徴は異なりますが、この花は吉兆であり、この尊佛が下界のどこかに現れて説法し、衆生を済度することを予告するものです。あなた達は多くの善根功徳(ぜんごんくどく)を蓄えなさい。あなた達が聖王に出会うまで、私もあなた達に付き添います。あなた達が轉輪聖王の伝法と済度を得ることができれば、私も安心できます。」と続けた、

という(仝上)。

ただ、「うどんげ」が何かについては、いくつかの説がある。ひとつは、

クワ科イチジク属のフサナリイチジク(Ficus glomerata)、

が曇華の元になった植物ではないかともいわれている。

花がくぼんだ花軸の中にあって、外からは見えない。このためインドの伝説では、3000年に1度しか花を開かない、あるいは、如来や転輪聖王(てんりんじようおう)が出現した時だけ花を開くといわれた、

とある(世界大百科事典)。

インド原産で、ヒマラヤ、インド、セイロン島などに分布。葉は長さ一〇〜一八センチメートルの先がとがった楕円形。花は小形で壺状の花托に包まれ、外からは見えない。果実は長さ約三センチメートルの倒卵形で食用となり、葉は家畜の飼料となる。仏教では、花が人の目に触れないため、咲いたときを瑞兆とみた、

ともある(精選版日本国語大辞典)。

また「うどんげ」は、

バショウの花、

の異称である。

芭蕉、

と当て、

ショウガ目/バショウ科/バショウ属、

で、

中国原産というバナナの仲間。樹木のようにも見えるが草、多年草である、

とある。

さらに、「うどんげ」は、

クサカゲロウの卵、

を指す。「クサカゲロウ」は、

草蜉蝣、
臭蜉蝣、

と当て、

アミメカゲロウ目(脈翅目)クサカゲロウ科、

に分類されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%82%A6。一般的には、

成虫は黄緑色の体と水滴型で半透明の翅をもつ、

とある(仝上)。

「クサカゲロウ」が、

他の物に産み付けられた昆虫クサカゲロウの卵塊、

を、

優曇華、

いうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%92のである。

二センチメートルくらいの白い糸状をした柄の先に丸い卵をつけたものを、一箇所にかためて産みつけるので、花のように見える。草木の枝や葉などのほか、家の天井などにも見られ、吉凶の前兆とされる、

という(精選版日本国語大辞典)。

「華」(漢音カ、呉音ゲ、ケ)は、

会意兼形声。于は、(ウ |線が=線につかえてまるく曲がったさま。それに植物の葉の垂れた形の垂を加えたのが鼻の原字。「艸+垂(たける)+音符于)で、くぼんで丸く曲がるの意を含む、

とある(漢字源)。

別に、

会意形声。艸と、𠌶(クワ)(はな。・は省略形)とから成り、草木の美しい「はな」の意を表す、

とも(角川新字源)、

象形。「はな」を象ったもので、「拝」の旁の形が元の形、音は「花」からの仮借、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AF

会意兼形声文字です。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「木の花や葉が長く垂れ下がる象形と弓のそりを正す道具の象形(「弓なりに曲がる」の意味)」(「垂れ曲がった草・木の花」の意味)から、「はな(花)」を意味する
「華」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1431.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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素っ破抜く


秘密や醜聞、不祥事などを突き止め、暴露するスクープ、

の意の、

「すっぱ抜く」の由来を、

すっぱ(忍び)が、思いがけないところに立ち入り、情報を掴むことに由来する、

と、あった(平山優『戦国のしのび』)。「すっぱぬく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435604474.htmlで触れたように、それは俗説と思われるのだが、れっきとした著書でまで、そう言及されたのには少し驚く。改めて、もう一度整理してみたい。

「すっぱぬく」は、

素(っ)破抜く、
透(っ)波抜く、

等々と当てる(広辞苑・大言海・デジタル大辞泉・江戸語大辞典)。ふつう、

刀などをだしぬけに抜く、
突然人の隠し事などを暴く、
人の意表に出る、出し抜く、

という意味が載る(広辞苑)。この語源を、

忍者(スッパ)の思ひかけぬ所に立ち入るに譬へ云ふか(大言海・デジタル大辞泉・松屋筆記)、

とする説が少なくない。朝日新聞すらが、

ある日突然、不正などを明るみに出すことを「すっぱ抜く」と言います。記者のあいだでは、いわゆる特ダネを報じることを「抜く」と言い、「抜かれた」記者は急いで追っかけ取材をします。私たちが省略してしまうこの「すっぱ」、実は意外な意味があるのですが、ご存じでしょうか。
 正解は抜き足、差し足、忍び足……の、忍者です! 漢字では「素破」「透波」と書きます。日本国語大辞典の「素破抜(すっぱぬく)」の項には、「スッパ(忍者)が思いがけないところに立ち入るのにたとえていうか」と語源説が載っています。世界大百科事典によれば、忍者はほかにも「忍(しのび)」「かまり」「間諜」「乱波(らっぱ)」「隠密」などさまざまな呼ばれ方をしていたようです、

としているhttp://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2012020800002.htmlのである。さらには、「すっぱ抜く」の二つの意味を調整するためか、

(「すっぱ」は)戦国時代に武家に雇われた忍びの者のこと。「抜く」は刀を抜くこと。忍者は刃物をいきなり抜くことから、江戸時代にはいきなり刃物を抜く意で用いられていた。のちに、出し抜いて暴く意味へと転じ、新聞や雑誌などのメディアで多く用いられるようになった、

とする説明さえある(由来・語源辞典)。

しかし、「忍者」については、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して「忍者」「忍びの者」が一般化したが、

江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」)「透破(すっぱ、とっぱ)」「突破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」「細作(さいさく)」、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%80%85、とされる。室町末期の日葡辞書には、

Xinobi(忍び)、

と表記されており(仝上)、室町初期(14世紀中ごろ)の『太平記』でも、「忍び」が使われていて、

すっぱ、

という呼び方自体が、「忍び」の意味として一般的ではないようなのである。

「すっぱぬく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435604474.htmlで触れたように、語源説には、

すっぱり+抜く、

と、秘密がすっぽりと筒抜けでわかる意、とする擬態語語源説と、

すっぱ(透波)+抜く、

で、忍者が秘密を嗅ぎつけて、うまく手に入れるという忍者語源説との、二つがある(日本語源広辞典・日本語源大辞典)。しかし、前にも触れたように、

透波抜き、

を語源としたというには、少なくとも、「透波」「素波」で、「忍者」を指しているという共通認識が世の中になければ、この言葉の含意は通じないのではないか。三田村鳶魚は、

素刃抜きの喧嘩、

という言い方をしていた(江戸ッ子)し、江戸語大辞典には、

すっぱぬき(素破抜)みんなで迯(にげ)たで持ったもの(明和七年(1770)「柳多留」)、

と、

だしぬけに刀を抜く意と、

言立ての芸にもならずすっぱ抜(文化十一年(1814)「俳諧觽」)、

と、人の秘密を暴露する意が載る。少なくとも、「すっぱぬく」は、ここでは、忍者の「すっぱ」とは無縁である。

どう考えても、三田村鳶魚が、

素刃、

を当てたように、意味的には、

いきなり刃物を抜く、

意で用いていたという方が妥当ではないだろうか。

「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.htmlで触れたように、江戸時代の『武家名目抄』の職名に、透波の説明があり、

透波又称乱波、突破、……これ常に忍の役するものの名称にして一種の賤人なり。ただ忍(しのび)とのみよへる中には庶士の内より役せらるるもあれど、透波とよばるる種類は大かた野武士強盗などの中りよ ひ出されて扶持せらるるものなり。されば間者(間諜)、かまり夜討などには殊に便あるが故に、戦国のならひ、大名諸家何れもこれを養置しとみゆ。透波、よみてすつはとし、乱波これをらつはと云、さて其名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし、今俗にとつは、すつは、又らつひなという詞のあるは、この遺言なり……、

とあり、

其名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし、

とあり、まったく由来が異なり、しかも関東では乱波といい、甲斐より以西では透波と呼んだ、とある。「すっぱぬく」で使えるほど、「すっぱ」が人口に膾炙していたとは思えない。「すっぱ」に、「透波」「素波」の字を当てて、考え落ちのように、透波=忍者の行動が語源とこじつけた、というように思えてならない。

むしろ、擬音語、

すっぱり、

が、

鮮やかに思い切りよく切り離す様子。一刀で完全に断ち切り、傷口が見事に一直線になる感じ。江戸時代にすでに使われていた、

とあり(擬音語・擬態語辞典)、さらに、

物事や動作を次々と躊躇なく行う様子、

の意で、

すっぱすっぱ、

という擬音語もある。

すっぱ抜く、

は、この、

すっぱ、

すっぱり、

という擬音語由来と考えた方が自然ではないか。

「すっぱ抜く」は「すっぱのように人の秘密を暴く」ことだが、古い言葉では刀をスッパリ抜くことも「すっぱ抜く」といっていた。これは「すっぽ抜ける」と同じ意味で、「すっぱ抜く」の語源としてはこちらが本来のものらしい。これから忍者の「すっぱ」への連想が働いて「すっぱ抜く」という用法が生まれたとも考えられる、

とするhttp://www.jlogos.com/d046/12670503.htmlのが常識的な見解に思える。

ただ付言しておくと、「すっぱ」には、

透波、
素波、

と当て、忍びの意の他に、

水破、すっぱ、すり也(和漢通用集)、

とあり、

詐欺師、
すり、
かたり、

の意で使われたり、

よき物取とて、信州のすっぱと上州のわっぱども集まって(加沢記)、
すっぱ、盗人を云ふ也(俳諧・反故集)、

等々と、

盗賊、

の意でも使う(岩波古語辞典・大言海)意味では、人口に膾炙していたと思われる。室町末期の『日葡辞書』にも、

Suppa(素波、水破)、

は、

欺瞞、虚言、

の意で、

Suppana mono(素波・水破な者)、

は、

浮浪者、人をだます者、

の意とある。ただ、ここから、どう意味の外延を広げても、

忍び仕事、

をする意や、

虚言、

の意からは、真逆の、

突然、人の隠し事などを暴く、

意の、

すっぱ抜く、

が出てくる可能性は、僕は低いと見る。

なお、忍者やその作戦行動については、
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.html
「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.html
で触れた。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(歴史新書y)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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参宮松


「参宮松」というのは、

人間に代わって伊勢参りをした、

と伝えられる松の木をいう(日本伝奇伝説大辞典)らしい。

「参宮」は、

神社に参詣すること、

だが、

特に伊勢神宮に参拝すること、

を指す(広辞苑)。「伊勢参り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482469437.htmlについては触れた。

実は、「參(参)」(漢音呉音サン・シン、呉音ソン)は、

象形。三つの玉のかんざしをきらめかせた女性の姿を描いたもの。のち彡印(三筋の模様)を加えた參の字となる。入り交じってちらちらする意を含む、

とある(漢字源)。他に、

形声。意符晶(厽は変わった形。ひかりかがやく)と、音符㐱(シム)→(サム)とから成る。星座(オリオン座の三つ星)の意を表す。借りて、三(サム みつ)の意に用いる。教育用漢字は省略形の俗字による、

とあり(角川新字源)、さらに、

会意兼形声文字です。「頭上に輝く三星」の象形と「豊かでつややかな髪を持つかんざしを付けた女性の象形」(「密度が高い」の意味)から、「三度(みたび)・加わる・参加する」を意味する「参」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji706.html

いずれにしても、「參」には、「参加」「参政」といった「まじわる」「加わる」、お目にかかる意の「参観」の意はあるが、

神社などに参る、

意や、「降参」の意の、

参る、

という意味はなく、わが国だけの使い方らしい。例えば、

神社にお参りに行く、

意の、

参詣、

は、

王嘉遷于倒獣山、公侯以下咸躬往参詣(晉書・藝術伝)、

というように、

某所に集まり到る、

意とあり(字源)、

参宮、

は、漢語にはない使い方ということになる。

さて、参宮松とされる松の木は、秋田県河辺郡雄和町水沢集落にある、樹高30メートル、樹齢四百年以上と言われた赤松、という(日本伝奇伝説大辞典)。

口碑によると、文政四年(1823)のある日、土崎港下四ツ屋から五人の一行が、松右衛門という人を尋ねてやってきた。しかし、水沢には、そういう人が居ない。その訳を尋ねると、昨年伊勢参りをした折、

「気品の高い白髪の老人の世話になり、無事に帰ることができた。その時に老人が、自分は水沢の松右衛門という者だが、秋の彼岸までには帰国するので一度遊びにくるようにといわれたので尋ねてきた」

という。この話を聞いた水沢の人には思い当たることがあった。水沢の守り神にしている松の老木が、昨年の春の彼岸ごろから急に勢いがなくなり、いろいろ手当てをしたが枯れ始めてしまった。しかし、秋の彼岸ごろから再び元気を取り戻した、ということがあった。水沢の人たちは、

「おそらく松右衛門とは老松の精でしょう。ひところ枯れだしたのは伊勢参りに出かけられたためでしょう」

と言った、とある(仝上)。で、この松を、

伊勢参りの松、
とか、
松右衛門の松、

と呼ぶようになった、という。「参宮松」というのは民話にもあるが、それは、男女二人連れが松の木だったという話で、少し趣が違うようであるhttp://hukumusume.com/douwa/pc/minwa/10/26a.htm

この水沢集落は、大永年間(1521〜28年)に加賀から落ちのびてきた集落と言われ、総本家の伊藤宅にある「真宗大谷派同朋道場」とよばれる仏間を中心に、真宗の進行で結ばれ、死後も十二戸の集落全員が参宮松の根元にある、「総墓」に入る、とある(仝上)。「総墓」の墓石は、文政八年(1825)と刻まれているが、もともとは、松が墓標だった。そのことが参宮松の伝承を生んだのでは、とされている(仝上)。

現在の水沢集落は、

集落の東側に「八幡神社」を配し、西側に「総墓」と呼ばれる伊藤家の一族の共同の墓地があり、周囲から集落を守っている感じです、

とあるhttps://www.kensoudan.com/firu-naka-e/mizusawa2.htmlが、「参宮松」の伝承の記述は、見つからなかった。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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猿蟹合戦


「猿蟹合戦」は、

昔噺のひとつ、

で、成立は、

室町末期、

とされる(広辞苑)。基本の筋は、

猿の柿の種と自分の握り飯とを交換した蟹は柿の種をまく。柿の木に実を結ぶと猿は親切ごかしに樹上に登って熟したものは自分で食べ、青く固い柿を投げて蟹を殺す。蟹の子は臼、杵、栗、蜂、牛糞の助けで仇を討つ、

と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%90%88%E6%88%A6・仝上)、

猿と蟹の柿の種と握り飯の交換、
蟹のまいた柿の種の急速な生長、
柿の実を独り占めにする猿、
青い柿を投げつけられた死ぬ蟹、
栗、蜂、牛の糞、臼などの助太刀による子蟹の仇討、

という型が、一般に知られている。室町末期から江戸初期にかけて成立した代表的な五つの昔話、

桃太郎、
かちかち山、
舌切り雀、
花咲爺(はなさかじじい)、

とされる(仝上)。

この昔話は二段からなり、前段は

動物の分配競争、

であり、後段は、

旅する動物、

である(日本大百科全書)とされ、「動物の分配競争」は、

動物昔話の重要な部分をなしており、

連鎖譚(たん)、

として東南アジアには顕著な例が分布している。「かちかち山」の前段も、この種の連鎖譚からの分化とされる(仝上)。後段の「旅する動物」は、

グリム兄弟の昔話集の「ブレーメンの音楽隊」の話など、ヨーロッパにも多い昔話である。「猿蟹合戦」とはやや異なった、卵を盗まれた小鳥が、仲間の協力で仇を討つ「雀の仇討」は、日本のほか、類話が古代インドの『パンチャタントラ』や中国大陸にもある。「猿蟹合戦」のように、動物の戦闘隊の型をとる「旅する動物」の類話は、東アジアから北アメリカの先住民に多い。主人公に動物などが協力するという型は、「桃太郎」の骨子とまったく同じで、「猿蟹合戦」の後段には、黍団子など「桃太郎」の要素との交流も現れている、

との解釈がある(仝上)。

この後半の、

蟹の子の仇討、

部分は、後世の改作とされ(日本伝奇伝説大辞典)、

その背後には、岩手県上閉伊郡に伝わる「雀の仇討」や広島県山県郡の「雀話」がある、

とされる(仝上)。「雀の仇討」は、

竹やぶに巣をつくっている雀の卵を山姥が取って食べ、親雀まで食べられてしまう。ひとつだけ藪に落ちた卵が成長して、稲穂を集めて団子を作り、とちの実、針、蟹、臼、牛、蜂、栗、糞、腐れ縄、百足などが団子をもらう約束で供に加わり、仇討を果たす、

というもの(仝上・日本昔話事典)、「雀話」は、討手は子供を鬼に食われた「親雀」になっており、

栗、蜂、臼、牛の糞、などと鬼退治に行く、

という(仝上)、「桃太郎」に近い話になっている。その他、

猿と蟇(ひき)の寄合田(よりあいだ)、
猿と蟹の寄合餅(よりあいもち)、

等々もある。これは、「猿と雉子」になったりするが、東北地方に分布し、

一緒に田を作る相談がまとまったのに、田打ち、田植え、稲刈りになると、猿が口実を設けて働かず、食べる時になって、自分に都合いいように分配し、猿蟹合戦のように合戦譚になっていく(日本昔話事典)。

前半の「柿争い」の部分は、

猿と蟹と柿、
猿と蟹と餅、

等々、独立して語られている(仝上)。「猿と蟹と柿」は、

伝承の少ない話型のひとつ、

とされ、

たいてい猿と蟹がむすびと柿の種を交換することに始まり、両者の形状の由来譚、

となっている(日本昔話事典)。

蟹のまいた種がすぐに大きくなって実がなると、猿がいいところだけ食べて蟹に青い実を投げつける、

というのは「猿蟹合戦」と同じだが、

蟹の甲羅に爪型があるのは柿をぶつけられた跡(鹿児島県甑島)、

とか、

熟れた柿を独り占めしている猿に、その袋に柿を一杯詰めて枯枝の先にぶら下げたらおもしろいだろうと言われ、猿がその通りにすると、枯枝が折れて落ちた袋を持って蟹は穴に逃げ込む。怒った猿が穴に尻を押しつけ、柿を戻さないと糞を垂れると脅す。その尻を蟹が挟んで離さない。猿は許してもらう代わりに尻の毛を蟹にやる。だから蟹の手には毛があり、猿のしりは赤い(福岡県八女郡)、

等々、由来譚となっている(日本伝奇伝説大辞典)。

喧嘩のもとになった物は、柿と餅だが、

合戦譚をもつ型、

合戦譚をもたない型、

の分布状況が異なり、

「もつ型」の場合、

餅が争いの原因となるのが、青森・岩手・秋田、
柿が争いの原因となるのが、東北・関東・北陸・山陽・四国、

「もたない型」の場合、

餅が争いの原因となるのが、東北・関東・関西・山陽・九州、
柿が争いの原因となるのが、本州・四国の全域、

とある(日本昔話事典)。

関敬吾は、形式論から、

仲間の一人が他を欺いて虐待するという二動物の闘争譚である前半と、爆発、突刺、潤滑、重圧の機能を持つ四種の援助者によって仇を討つ後半からこの昔話は成り立ち、中心モチーフは後半にある、

とみているのに対して、柳田国男は、内容と分布状況から、

前半を重視し、この昔話は古くは猿と蟇(ひき)が餅を争う昔話で、その後、蟇が蟹に変化したり、合戦部分を借入したりしたのであり、その時代は下る生成論を示し、もとは前半部分が独立した昔話ではなかったかと推定した、

とされる(仝上)。

「猿」(漢音エン、呉音オン)は、

会意兼形声。「犬+音符爰(エン ひっぱる)。木の枝を引っ張って木登りをするさる。猿は音符を袁(エン)にかえた、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(犭(犬)+袁(爰))。「耳を立てた犬」の象形と「ある物を上下から手をさしのべてひく」象形(「ひく」の意味)から、長い手で物を引き寄せてとる動物「さる(ましら)」を意味する「猿」という漢字が成り立ちました。「猿」は「猨」の略字です、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1815.html

「猿」に当てる漢字には、「猴」(漢音コウ、呉音グ)もあるが、これは、

「犬+音符侯(からだをかがめてうかがう)」。さるが、様子をうかがう姿から来た名称、

とある(漢字源)。「猿猴(えんこう)」で、「さる」なのだが、両者の区別はよく分からない。孫悟空の場合、通称は、

猴行者、

で、自らは、

美猴王(びこうおう)、

と名乗ったので、「猿」ではなく、「猴」である。「猴」は、

人に似て能く坐立す。顔と尻とには毛がなく赤し、尾短く、性躁にして動くことを好む、

とある(字源)が、猿のかしらは、

山多猴、不畏人、……投以果実、則猴王・猴夫人食畢、羣猴食其余(宋史・闍婆國傳)、

と、

猴王、

という(字源)。「猿」と「猴」は区別していたのかもしれない。

この他に、「さる」の意で、

體離朱之聰視、姿才捷于獼猿(曹植・蝉賦)、



獼猿(ビエン)、

や、「おおざる」の意で、

淋猴即獼猴(漢書・西域傳・註)、



獼猴、

という使い方をする、

獼(ビ)、

がある。「獼」自体、

おおざる、

の意で、

母猴、
淋猴、

ともいう(漢字源)、とある。日本でも、色葉字類抄(1177〜81)に、

獼猴 みこう、びこう、

と載り(精選版日本国語大辞典)、

後生に此の獼猴の身を受けて、此の社の神と成るが故に(「霊異記(810〜824)」、戦国策・斉策)、
海内一に帰すること三年、獼猴(みごう)の如くなる者天下を掠むこと二十四年、大凶変じて一元に帰す(「太平記(1368〜79)」)
仏家には、人の心を猿にたとへられたり。六窓獼猴(ミゴウ)といふ事あり(仮名草子「東海道名所記(1659〜61頃)」)、

等々と使われる(仝上)。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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ひこ


「ひこ」は、

彦、

と当てる(広辞苑)が、

比古、
日子、
毘古、

等々とも当てhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%93

姫(ひめ)、

の対である(岩波古語辞典)。

名は天邇岐志国邇岐志(あめにぎしくににぎし)天津彦(あまつひこ)彦番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)そ。此の子を降すべし(古事記)、

と、

男子の美称、

だが、

此の速秋津彦(はやきつひこ)・速秋津姫の二柱の神、河海に因りて持ち分けて生める神の名は(古事記)、

と、

男子、

をも指す(岩波古語辞典)。「ひこ」は、魏書・東夷伝の、

始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗(ひこ)と曰ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ、

とある「卑狗」は、彦と推定されている(仝上)。

「ひこ」は、

日子の義、日は美称。ヒメも同じ。相対す。中国最古の字書『爾雅』(漢初)、「美女為媛、美士為彦」。男子を美(ほ)めて呼ぶ語(大言海)、
ヒコ(日子)の義、ヒは美称(東雅・類聚名物考・俚言集覧・和訓栞・柴門和語類集・日本語原学=林甕臣)、
ヒは日・太陽。ムスヒ(産霊)・ヒモロキ(神籬)のヒと同じ。コは男子の意。太陽の子、あるいは太陽の神秘的な力をうけた子の意。尊称として男神の名に冠せられ、また男の名前の下につけて使われた。後に、一般的に男の尊称。なお「彦」の字は美男の意(岩波古語辞典)、

と、

日子、

とする説が多い。

ヒイデタル-コ(子)の意(日本釈名)、
ヒ(日)の子孫の義(燕石雑記・本朝辞源=宇田甘冥)、
ヒは神聖なの意、コは男の意(日本国家の起源=大野晋)、
ヒコ(靈子)の義(名言通)、
ホコ(陽子)の義(言元梯)、

等々も同趣旨とみられる。さらに、

ヒコネ・ヒコナの略。コナはクナで、朝鮮語で人の意のkanと同源(日鮮同祖論=金沢庄三郎)、

の他に、

ヒは、ヒコ(孫)・ヒヒコ(曾孫)と同語源で、それ故に尊く、美称ともなる(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

というのがある。たしかに、「ひこ」は、

孫、

と当てて、和名類聚抄(平安中期)にある、

子之子為孫、無万古(むまこ)、一云、比古、

とある(岩波古語辞典)。しかし、同語源というのはどうだろうか。

ヒは隔てるとともに継承の意を表す(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

という意味から「同源」としているようだが、

「こ」は男子を表す。「ひ」は後代の「御」に相当する、敬意を表す接頭辞、

との説もありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%93

その意味では、

神の尊称、

孫の美称、

では意味が違い過ぎる気がする。

「ひこ」(孫)は、

ヒは物を隔つる義、曽孫を更にヒヒコと云ふもこれなり(大言海)、

他には載らないが、大言海は、「ひ」を、

隔、
重、

と当て、

重(へ)と通ず、

とし、

物を隔つるもの、又、コトの重なること、

とし、

ヒオホヂ(曾祖父)、
ヒオホバ(曽祖母)、
ヒヒコ(曾孫)、

を例示している。他にも、

ヒコ(隔子)の義(箋注和名抄・俗語考・日本語源=賀茂百樹)、

ともあり、

コ(子)にヒを冠したものと考えられ、類例にヒヒコ(曾孫)などがあり、ヒは一代隔てた親族を表すと思われる、

とある(日本語源大辞典)。ただ、

このヒは、ヒコ(彦)・ヒト(人)・ヒメ(姫)などとの関連も考えられる、

ともある(仝上)。もしそうだとすると、

ヒは隔てるとともに継承の意を表す(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

の意味から、

ヒコ(彦)→ヒコ(孫)、

へと「ヒ」の意味が分岐したことになる気がする。

「彥」(ゲン)は、

会意兼形声。厂(ガン)は、厂型にくっきりとけじめのついたさま。彥「文(模様)+彡(模様)+音符厂」で、くっきりと浮き出た男の顔、

とあり(漢字源)、「美男子」の意である。そこから転じて、才徳の優れた青年の意を表すhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BD%A6。別に、

会意兼形声文字です(文+厂+彡)。「人の胸を開いて、そこに入れ墨の模様を書く」象形(「模様」の意味)と「削り取られた崖」の象形と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様・飾り」の意味)から、崖から得た鉱物性顔料の意味を表し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、それを用いる「美青年」、「才徳のすぐれた男子」、「男子の美称」を意味する「彦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1730.html

なお「子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.htmlについては触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ひめ


「ひめ」は、

姫、
媛、

と当てる(広辞苑)が、

日女、
比売、

とも当てhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%81

「め」は女性を表す。「ひ」は後代の「御」に相当する、敬意を表す接頭辞、

であり(仝上)、

ひこ(彦)の対、

とある(仝上・広辞苑)。

「ヒメ」の古形は「ヒミ」と考えられる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1、『上宮記』は、

推古天皇の別名「豊御食炊屋姫」(とよみけかしきやひめ)を「等已彌居加斯支移比彌」(とよみけかしきやひみ)と記している。阿波国には波尓移麻比彌神社(はにやまひめ)があり、ヒメは比彌(ひみ)と記されている、

として、古代において、

ヒメとヒミは通用していたと思われる、

という(仝上)。

「ひめ」は、上代には、

またの名は比売多多良伊須気余理(たたらいすけより)比売(古事記)、

と、

女性の美称、尊称、

の意(岩波古語辞典)で、

地神(土着)系の女性(メやベ)と区別される、天孫・天神系(天皇やその伴造)の女性を意味した、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1、4世紀まで、

速津媛(はやつひめ 豊国速見地方)、
八女津媛(やめつひめ 筑紫国八女地方)、

等々地域の女性首長の尊称として使われた(仝上)。平安期になると、

この皇女(みこ)は昔名高かりける姫、手書き歌よみなり(宇津保物語)、

と、

貴人の娘、

を指し、そこからだろうか、

ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ世経(ふ)るとも色は変らじ(古今集)、
とか、
姫鏡、小鏡也(俳諧・乳母)、
とか、
姫百合、

等々と、

他の語に冠して、かわいらしい、きゃしゃで小さいの意を表し、さらに、その意から、

強飯(こはいひ)、

に対して、

姫飯(ひめいひ)、

と、

飯(めし)の意でも使うに至り、終には、江戸期には、

おやま、遊女なり、……女中、姫、などと唱ふ(浪花聞書)

と、

遊女、

の意にまで変化する(岩波古語辞典)。

「ひこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483945574.html?1634499550で触れたように、「ひめ」も、

日女の意(広辞苑・大言海・日本語源広辞典・和句解・類聚名物考・俚言集覧・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥・日本語原学=林甕臣)、

とするのが大勢で、

ヒは日・太陽、ムスヒ(産霊)・ヒモロキ(神籬)のヒと同じ。メは女子の意、

とある(岩波古語辞典)。「め(女)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.htmlについては、触れた。

霊+メ(女)で、神の娘(日本語源広辞典)、
ヒメ(霊女)の義(箋注和名抄・俚言集覧・名言通・日本語源=賀茂百樹・日本国家の起源=大野晋)、

もほぼ同趣旨とみていい。

ひめ(日陰)の義(柴門和語類集)、
ヒイデタル女の義(日本釈名・柴門和語類集)、

等々は少しその変形か。

なお、古代国家成立以前には、

ヒメ・ヒコ制、

という

兄弟姉妹(姫と彦)による二重支配体制、

があったとされ(世界大百科事典)、

祭祀的・農耕従事的・女性集団の長のヒメ(あるいはミコ、トベを称号とした)、

軍事的・戦闘従事的・男性集団の長のヒコ(あるいはタケル、ワケあるいはネを称号とした)、

が共立的あるいは分業的に一定地域を統治していた(高群逸枝)、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%92%E3%82%B3%E5%88%B6

「姫」(キ)は、

形声。姫の右側は臣(シン)とは別字で、もと頤(イ あご)の左側と同じ。頤の原字。姫は、女にそれを音符としてそえたもの。あるいは、あごの張った女性の意味か、

とあり(漢字源)、和語で使う「身分の高い女性の尊称」の意はなく、「姫妾(きしょう)」というように、身分の高い人の「めかけ」の意や、宮廷につかえる貴婦人の意である。しかし、

会意形声。「女」+音符「臣」、「臣」は、貴人の前で目を伏せた様で、貴人の前でかしこまること。「説文解字」には見えず、「康煕字典」には掲載があるものの、引用は「集韻」からのみであり稀用の文字と考えられる。現代中国語での使用例はほとんどない。日本では、「姬」の新字体となり、別字衝突が発生している、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A7%AB

旧字は、形声。女と、音符𦣝(イ)→(キ)とから成る。もと、周王朝の姓。転じて、貴婦人の意に用いる。常用漢字は、もと「シン」の音で、「つつしむ」意を表す別字であるが、姬の省略形として採用された、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「2つの乳」の象形と「両手をしなやかに重ねた女性」の象形から、「子を養い育てる事ができる女性」、「ひめ」を意味する「姬・姫」という漢字が成り立ちました。「姫」はもと、別字(女+臣(「しっかり開いた目」の象形で「家来」の意味))で「慎む」の意味を表しましたが、のちに、「姬」の略字として用いられるようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1389.html

「媛」(漢音呉音エン、呉音オン)は、

会意兼形声。爰(エン)は、両手の間に接触の仲立ちをする物をはさんでゆとりをあけたさま。媛は「女+音符爰」で、優美なゆとりあるゆかしい女、

とあり(漢字源)、「ひめ」の意である。別に、

会意形声。「女」+音符「爰」。「爰」は「爪」「又」(ともに手を意味)の間に物を引っ張る様子。魅力があって気を引く女性の意か、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AA%9B

会意兼形声文字です(女+爰)。「両手をしなびやかに重ね、ひざまずく女性」の象形と「あるものを上下からさしのべてひく」象形(「ひく」の意味)から、「心のひかれる美しい女性」を意味する「媛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1124.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ひと


「ひと」は、



と当てるが、

生物としての人間。社会的に一人前の人物として認められている人間。また、特に自分が深い関心や愛情を抱いている人物。また、社会的に無視できない人物をいう、

とある(岩波古語辞典)。

わくらばにひととはあるを人並に吾(あれ)も作(なれ)るを綿もなき布肩衣(ぬのかたぎぬ)の海松(みる)のごとわわけさがれるかかふのみ肩にうち掛け(山上憶良)、

と、物や動物に対して人間の意、

いつしかも人と成り出でて悪しけくも善けくも見むと大船の思ひ頼むに思はぬに邪しま風のにふふかに覆ひ来れば(万葉集)、

と、一人前の人間の意、

人柄は、宮の御人にて、いとよかるべし(源氏物語)、

と、深い関心・愛情の対象としての人間の意、

汝をと吾(あ)をぞひとそ離(さ)くなるいで吾君(あがきみ)人の中言(なかごと)聞きこすなゆめ(万葉集)、

と、社会的に自分と対立する人間(岩波古語辞典)、他人の意、あるいは、

これは、君もひとも見を合はせたりといふなるべし(古今集序)、

と、

大君一人に対し、天が下の人、つまり臣の意(大言海)、等々で使われる。

「ひと」は、「ヒ(霊)」とからめて、

ヒ(靈)のト(止)まる所の意、またヒト(靈処)の義(大言海・東雅・名言通・本朝辞源=宇田甘冥)、
ヒト(靈者)の義(日本古語大辞典=松岡静雄)、
「精神を持った存在、ヒト(靈処)、ヒト(靈者)、すぐれた存在、ヒ(秀)+ト(人)の意(日本語源広辞典)、
ヒト(秀者)の義(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々とする説があるが、「ひこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483945574.html?1634499550で触れた、

ヒは系譜を継ぐ意で用いるヒコ(孫)・ヒヒコ(曾孫)と同源、トはタミ(民)のタと同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

もあるが、ヒ(日)と関わらせ、

日の友の義(日本釈名・柴門和語類集)、
ヒト(日与)の義、日と与(とも)に生きる意(和訓栞)、
日の徳の止まるの略、また日に等しの略(国語蟹心鈔)、

等々とするよりは、「ひこ」が、

日+子、

なら、それと準じて、

甲類ヒ(霊・日)+乙類ト(止・留・処・所・跡・迹)で、「霊の留どまるところのものとの旨か、

とするhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%A8のが順当に思えるが、確定していないようだ。

「ヒ(日)」は、太陽の意だが、「ヒ(靈)」は、

太陽神の信仰によって成立した観念、

とあり(岩波古語辞典)、両者はつながる。

「ひと」に対する「もの」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462101901.htmlについては触れたが、「もの」は、

形があって手に振れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、普遍の慣習・法則の意を表す。また、恐怖の対象や、口に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている、

とある(岩波古語辞典)。「オニ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.htmlで触れたように、折口信夫は、古代の信仰では

かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった、

としている(鬼の話)が、大野晋は、

「もの」という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す「もの」という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して「もの」と使う、存在一般を指すときにも「もの」という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も「もの」といった、

とし(「もの」という言葉http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)、「もの」としか呼べないもののなかから、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と分化していった、としている。

「人」(漢音ジン、呉音ニン)は、

象形。人の立った姿を描いたもので、もと身近な同族や隣人仲間を意味した、

とあり、その範囲を、

四海同胞、

まで広げ、それを仁と呼んだ(漢字源)、とある。

なお、「こと」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462119208.htmlについても触れた。

立っている姿には違いないが、

人が立って身体を屈伸させるさまを横から見た形にかたどる(角川新字源)、
人が立っている姿の側面を描いたものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%BA

というところだろう。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ひこばえ


「ひこばえ」は、

蘖、

と当てる。

「孫(ひこ)生え」の意、

とある(広辞苑)。

切り株や木の根元から出る若芽、

をいう(仝上)。新撰字鏡(898〜901頃)に、

荑、死木更生也、比古波江、

とある(精選版日本国語大辞典)。

余蘖・余孽(よげつ)、

ともいう。これは、春の季語である。

太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて、

ひこばえ(孫生え)、

というらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%96。訛って、

ひこばゆ、
ひこばう、

等々ともいう(精選版日本国語大辞典)。「ひこ」に、

孫、

を当てることは、「ひこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483945574.html?1634499550で触れたが、和名類聚抄に、

子之子為孫、無万古(むまこ)、一云、比古、

とある。これは、

ヒは物を隔つる義、曽孫を更にヒヒコと云ふもこれなり(大言海)、

とし、

他には載らないが、大言海は、「ひ」を、

隔、
重、

と当て、

重(へ)と通ず、

とし、

物を隔つるもの、又、コトの重なること、

とし、

ヒオホヂ(曾祖父)、
ヒオホバ(曽祖母)、
ヒヒコ(曾孫)、

を例示している。

なお、「ひこばえ」は、樹木の切株の新芽を言うが、刈り取った稲の株から生えるのを、

穭(ひつじ)、

という(広辞苑)。「ひつじ」は、訛って、

ひづち
ひつぢ、
ひつち、
ひずち、

等々とも言うが、

稲孫、

と当て(精選版日本国語大辞典)、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

穭、ヲロカオヒ、俗に云、ヒツチ、

とあるように、室町時代までは、

ひつち、

といった(岩波古語辞典)。これは、

刈れる田におふるひつちの穂にいでぬは世を今更に秋はてぬとか(古今集)、

と、秋である。「をろかおひ」は、

疎生、
穭、

と当て、

刈りあとの株から生えたひこばえ、再生稲、ひつじ、

とある(広辞苑)。

「ひづち」の由来は、

刈れる後の乾土(ヒツチ)より生ふれば名とするか(大言海)、
秣、ヒツチ、稲の再生して実なるを云、秋田をかり、水をおとして後、干土(ヒツチ)より出て、みのるものなればヒツチと云(日本釈名)、

とある(大言海)。「ひづち」は、さらに、

稲の二番生(ばえ)、
ままばえ、
再熟稲(さいじゅくとう)、
おろかおひ(おい)、

等々ともいう(仝上)とあるので、

ただ新芽が出るだけではなく、実のなる、

のを指しているようだ。で、学術的には、

再生イネ、

といい、一般には、

二番穂、

とも呼ばれ、

穭稲(ひつじいね)、
穭生(ひつじばえ)、

等々ともいい、稲刈りのあと穭が茂った田を、

穭田(ひつじだ)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%AD%ABとある。

「蘖(櫱)」(漢音ゲツ、呉音ゲチ)は、

会意兼形声。草冠の下の字(ゲツ)は、途中で切る、刈り取るの意を含む。蘖はそれを音符として、草と木をそえたもの、

とあり(漢字源)、「切株」「ひこばえ」の意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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なぞらえる


「なぞらえる」は、

準える、
准える、
擬える、

等々と当てる(広辞苑)。

おとにのみこふればくるしなでしこのはなにさかなんなぞらへてみん(「歌仙家集本家持集(11世紀)」)、

というように、

ある物事を類似のものと比較して、仮にそれとみなす、

つまり、

同類なす、
擬する、
見立てる、

という意味だが、さらに、あくまで思考の中での「類比」から、現実、

ならい従う、

となり、

ことの詞(ことば)につきてなぞらへ試みるに、奈良の御世より広まりたると侍る。赤人・人丸が逢ひ奉れる御世と聞えたり(「今鏡(1170)」)、

まねる、
似せる、

という意味でも使う(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。

今はなほ昔のかたみになずらへて(源氏物語)

なずらえる、

ともいう。

文語で言ふと、

なぞらふ、

で、

なぞらふの母音交替形、

が、

なずらふ、

とある(岩波古語辞典)。また、室町時代頃からヤ行にも活用し、

なぞらゆ、

とも言った(精選版日本国語大辞典)。

中古以来、「なずらえる」「なぞらえる」の両形がある。古辞書では、古くは「なずらう」の形が圧倒的だが、やがて「なぞらう」がふえてくる。しかし、「なぞう(なそう)」という語形が上代にあり、「なぞらう」はこれからの派生語と考えられるので、「なずらう」の方が古いとも断じにくい、

とある(仝上)ように、「なぞらふ」は、

なぞふの延、あとふ、あとらふの類、

とある(大言海)。あるいは、

「逆ふ」から「さからふ」の語形が生じた如く、「なぞふ」から「なそらふ(←なぞらふ→なずらふ)」が生まれたと考えられる、

ともある(小野寛「なそふ考」)。「なぞふ」は、

準ふ、
准ふ、
比ふ、

等々と当て(岩波古語辞典)、奈良時代までは、

うるはしみ吾(あ)が思(も)ふ君はなでしこが花になそへてみれど飽かぬかも(大伴家持)、

と、

なそふ、

と清音であった(仝上)が、平安時代以後は濁音化した(精選版日本国語大辞典)。語源については、

竝配(なみそ)ふの意、

しか見当たらない(大言海)。

ナゾラフがどのようにして成立したのかは未詳。ナゾフと関係があるとすればラフは接尾語的なものということになるが、ラフは平安時代には発達していない。また、ナゾルから作用継続性動詞としてナゾラフが派生したことも考えられるが、ナゾルが現れるのははるかに時代がくだってから、

とある(精選版日本国語大辞典)ように、意味的には、

書いてある文字の上をなすって書く、
そっくり真似をする、

意の「なぞる」から、

なぞる→なぞらふ→なぞゆ→なぞらえる、

といった転訛が連想されるが、無理筋のようだ。

「准」(漢音呉音シュン、慣用ジュン)は、

会意兼形声。準は「水+十(集め揃える)+音符隹(スイ ずっしり、落ち着く)」の会意兼形声文字。水を落ち着けて水面を平らにそろえること。水準・平均の意を含む。准はその略字、

とあり(漢字源)、「標准(標準)」の「平らにならす」意と、「准用」「准拠」と「基準となる事柄に比べ合わせる」「拠る」意があり、「准后(ジュゴウ)」と「そのものに次ぐ」意、「平均する意から、同等にそろえて扱う意」の意、「准許」「批准」と「許す」意がある(仝上)。もと、准は、官庁の公文書では、準と区別して、主に、ゆるす、よる意に用いる(角川新字源)とある。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+隼)。「流れる水」の象形と「鳥の象形の下に一(横線)を加え、人が腕にとまらせた狩りに使う鳥」を示す文字(「はやぶさ」の意味)から、はやぶさの形をしている水準器(一定の物体の地面に対する角度を確認する器具)の意味を表し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「なぞらえる(仮にそれとみなす)」を意味する「准」という漢字が成り立ちました。「准」は「準」の略字です、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1595.html

「準」(慣用ジュン、漢音呉音シュン、漢音セツ、呉音セチ)は、

会意兼形声。隹(スイ)とは、ずんぐりと下体の太った鳥を描いた象形文字。淮(ジュン)は「水+音符隹」の会意兼形声文字で、水がずっしりと下にたまること。準は「十印(そろえる)+音符淮」で、下に溜まって落ち着いたみずの水面を基準として高低を揃えることを示す、

とあり(漢字源)、水準器の「みずもり」(水面が平らになるものを利用して水平かどうかをはかる)の意。そこから派生して、「準則」のような「尺度」の意、「たいらなさま」の「平準」、よりどころにする、なぞらう意の「準拠」「準用」の意、次ぐもの(主となるものに似ている)意の「準用」の意等々に使う。

「擬」(漢音ギ、呉音キ)は、

会意兼形声。疑は「子+止(あし)+音符矣(人が立ち止まり、振り返る姿)」からなる会意兼形声文字で、子供に心が引かれて足を止めてどうしようかと親が思案するさま。擬は「手+音符疑」で、疑の原義をよく保存する。疑は「ためらう、うたがう」意に傾いた、

とあり(漢字源)、「擬案(案を擬す)」のように「じっと思案する」「おしはかる」意と、「模擬」「擬古」のように「なぞらえる」意もある(仝上・角川新字源)。別に、

会意兼形声文字です(扌(手)+疑)。「5本の指のある手」の象形と「十字路の左半分の象形(のちに省略)と人が頭をあげて思いをこらしてじっと立つ象形と角のある牛の象形と立ち止まる足の象形」(「人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる」の意味)から、「おしはかる」を意味する「擬」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1783.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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そぞろ


「そぞろ」は、

漫ろ、

と当てる(広辞苑)。あるいは、

不覚、

とも当てる(大言海)。その意味の幅は広い。例えば、『太平記』で、ランダムに引っ張っても、

城より打ち出でて、そぞろなる敵ども皆城の中へぞ引き入れける、

では「無関係な」という意味、

そぞろに思ひ沈ませ給ひける御心の遣る方なしに、

は、「何となく」といった意味、

これ程の打ちこみの軍(いくさ)に、そぞろなる前懸けして討死したりとても、さしたる高名ともいはるまじ、

は、「意味のない」といった意味、

そぞろなる長活きして、武運の傾(かたぶ)かんを見んも、老後の恨み、臨終の障(さわ)りともなりぬべければ、

は、「漫然と」といった意味等々といった具合で、意味のつながりが見えにくい。

「そぞろ」は、

すずろの母音交替形、

とあり(岩波古語辞典)、「すずろ」は、やはり、

漫ろ、

と当て、

これという確かな根拠も原因も関係ない、とらえ所のない状態、人の気分や物事の事情にもいう、

とある(仝上)。だから、まずは、

男すずろに陸奥(みち)の国まで惑ひいにけり(伊勢物語)、

と、

何ということもなく、
漫然と、

という意味であり、それとつながって、

人の妻(め)のなる物怨(ゑん)じしてかくれたるを(枕草子)、

と、

これという根拠もなく、
理由もなく、

という意味で使われるのは意味のつながりがある。そこから敷衍すれば、

すずろなる眷属(けぞう)の人をさへ惑は給ひて(源氏物語)、
すずろなる者に、何か多く賜(た)ばむ(大和物語)、

と、

無関係な、
関りのない、

意につながるのも無理ではない。また、「漫然と」の意味と繋がって、

不覚(すずろ)に眼を転(めぐ)らす(遊仙窟鎌倉期点)、

と、

無意識に、
思わず、

という意味もあり得る。そうした、「漫然と」とか「無関係に」という意味からすれば、

うたてある主(ぬし)のみもとに仕うまつりて、すずろなる死(しに)をすべかめるかな(竹取物語)、

と、

思いがけない、
不意に、

という意味も外延につながってくる(岩波古語辞典)。

衣(きぬ)などにすずろなる名どもを付けけむ、いとあやし(枕草子)、

と、

興趣のない、
面白くない、

意(デジタル大辞泉)は、「関係ない」という意味と関わるし、このほかの、

すずろなる酒のみは衛府司のするわざなりけり(宇津保物語)、

の、

あるべき程度を超えているさま、
むやみ、
やたら、

の意や、

すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞こえ(徒然草)、

思慮のない、
軽率、

の意で使うのは、ある意味で、

意識的でない、
自覚的でない、

という広く括った意味の外延の中に入ると思える。その意味で、「そぞろ」の、

まことに盗人(ぬすびと)もなければ、障子のそぞろに倒れかかりたりけるなりけりと(今昔物語)、

なんということなく、

の意や、

一目見しより恋となり、明け暮れ思ひわづらひて、心もそぞろになり果てて(猿源氏草紙)、

と、

そわそわする、
心ここにない、

意で、その意味では、「無意識」という意味の範囲に入ってくる(岩波古語辞典・広辞苑)。因みに、

漫心(すずろこごろ・そぞろごころ)、

というと、

そわそわと落ち着かない、

意となる(仝上)。

「すずろ」と「そぞろ」は、いずれも上代にはなく、

中古の仮名文では、「すずろ」が「そぞろ」より多く用いられている、

と、平安期に登場した言葉のようである。「すずろ」、その転訛の「そぞろ」の、

すす、
そそ、

については、

スズロは、スズログの意、

「すずろぐ」は、

漫、
不覚、

と当て、

ススは進むの語幹、ロクは動揺の義、進むに通ず、かびろく同趣、

とする(大言海)のが一つの説である。「かびろく」については、

かひろく、

ともあり(岩波古語辞典)、

転、
𦨖、

と当て、

ゆらゆらと揺れ動いて安定を欠く、

意だが(岩波古語辞典)、

カヒロは擬態語。擬態語に接尾語クを添えて動詞化する例に、さわく・とよく・とどろくなどがある(仝上)、

に対して、

揺、
蕩、

と当て、

カビは、頭(カブ)の転(粒、つび、つぶ)、ロクは動揺する意(おどろく、すずろく)。傾(かぶ)くも頭(かぶ)の活用なり。俗に、頭の動くをやっこをふると云ふいなり。カビロクの他動には、カブラカスと云ふ(大言海)、

とあり、是非の判別はつかないが、「すずろ」を、

進む、

からきているという説である。

ものが衝動的に進む意のススル(進)が存した(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

も同趣だろう。他には、

すさぶ、

とする説がある(日本語源大辞典)。「すさぶ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473819467.htmlは、前に触れたように、

荒ぶ、
進ぶ、
遊ぶ、

と当て、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう意。また、気の向くままに何かをする意、

であり、意味の幅は、

勢いのままに盛んに〜する、勢いのままに荒れる(「朝露に咲きすさびたるつき草の日くたつなへに、消(け)ぬべく思ほゆ」万葉集)、
気の向くままに〜する、興にまかせて〜する(「もろともに物など参る。いとはかなげにすさびて」源氏)、
もてあそぶ(「窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとど短きうたた寝の夢」新古今)
勢いのままに進みはてて衰える(「雲間なく降りもすさびぬ五月雨筑摩の沼の水草なみよる」堀河百首)

と(岩波古語辞典)、「すずろ」「そぞろ」の、「不覚」の含意とは真逆である。しかも、「すさぶ」は、

進み荒(さ)ぶるの約、

とする(大言海)。「おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう」意から考えて、元々は、

すすむ、

の意に、

愈々進む、

の意を持たせたのではあるまいか。とすると、

すすむ→すさむ→すさぶ、

と音韻変化した(日本語源広辞典)と考えられ、さらに

すすむ、

の、

ススは、ススシキホヒ・ススノミのススと同根。おのずと湧いてくる勢いに乗って進行・行動する意、

とする(岩波古語辞典)なら、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう、

意とほぼ重なるのである。要は、「すずろ」の、

「すさぶ」語源説、

は、

「すすむ」語源説、

とほぼ重なり、いずれも、「すずろ」の「不覚」の意とは真逆なのである。考えてみれば、

てすさび、

という使い方を考えても、「漫然と」「無意識」の意とつながるとは思えない。となると、「すす」は、

気ぜわしく物や体を突き動かす擬態語、
あるいは、
脈絡が断絶している状態を示す擬態語、

とする(日本語源大辞典)のが妥当なのではないか。

貧乏ゆすり、

を考えても、「不覚」「無意識」の動作そのものなのだから。と言って、

意識を離れる意で、「ソラ」と同根(日本語源広辞典)、
ソソ(空空)の義(言元梯)、
ソソロ(空空)義(言元梯)、

は、ちょっと同意しかねる。「そぞろ→すずろ」の転訛ならあり得るが、「すずろ→そぞろ」の転訛なら、「すす」の説明になっていない気がする。

「漫」(漢音バン、呉音マン)は、

会意兼形声。曼(マン)は「冒の字の上部(かぶせるおおい)+目+又」の会意文字で、ながいベールを目にかぶせたさま。ながい、一面をおおうなどの意を含む。漫は「水+音符曼」で、水が長々と続く、また水が一面におおうなどの意、

とあり(漢字源)、「みちる」「一面を覆う」意だが、「漫談」「冗漫」と、「とりとめがない」意もある。で、水がひろがる、から転じて、とりとめがない意を表す(角川新字源)、とある。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+曼)。「流れる水」の象形と「帽子の象形と目の象形と両手の象形」(目の上下に手をあてて目を切れ長にみせるような化粧のさまから、擬態語として「とおい・長い」の意味)から、「どこまでものびる広い水」、「勝手きまま」を意味する「漫」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1264.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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苛斂誅求


「苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)」は、

租税などをきびしく取り立てる、

意であり(広辞苑)、

苛酷(むご)く収斂(とりた)て、厳しく責め徴(はた)る、

意となる(大言海)が、少し広げて、

むごい取り立て、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

苛求、
苛斂、
誅求、

とも言う。

「苛」はむごい、また、責め立てる意。「斂」はおさめる、集める意。「誅」は責める意、

とある(新明解四字熟語辞典)。

左傳(戦国時代)・襄公三十一年に、

誅求無厭、

とあり、旧唐書(945年)・穆宗紀に、

苛斂剥下、人皆咎之、

とあり、新五代史(1053年)・袁象先傳に、

誅斂其民、積貨千万、

とある(大言海・広辞苑)。

苛税、

は、

厳しい取り立て、

だが、

苛求、

というと、

厳しく求める、

意となる(字源)。

ただ、漢和辞書には、

苛斂誅求、

は見当たらず、

「苛斂誅求」と二つ重ねる例は、日本では二〇世紀初めから現れています、

と(四字熟語を知る辞典)、新しい用例のようである。

「苛斂誅求」の類義語に、

頭会箕斂(とうかいきれん)、

がある。「頭会」は、

人数を数える、

意、「箕斂」は、

農具の箕ですくうこと、

で、

人数を数えて、箕ですくうように手当たり次第にかき集める、

という意味になるhttps://yoji.jitenon.jp/yojij/4807.html

また、過酷な税金という意味では、

苛捐酷税(かえんこくぜい)、

という言葉がある(四字熟語を知る辞典)。

「苛」(漢音カ、呉音ガ)は、

会意兼形声。可は「¬印+口」からなり、¬型に曲折してきつい摩擦をおこす、のどをかすらせるなどの意。苛は「艸+音符可」で、のどをひりひりさせる植物。転じてきつい摩擦や刺激を与える行為のこと、

とあり(漢字源)、「からし」の意で、「ひりひりする」「きつい」などの意があり、「苛刻」「苛政」「苛責(呵責)」などと使われる。別に、

形声。艸と、音符可(カ)とから成る。小さい草の意を表す。転じて、せめる、むごい意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意形声。「艸」+音符「可」、「可」は直角に曲げ摩擦を起させるの意、摩擦を起しひりひりするからい草が原義、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%9B

会意兼形声文字です(艸+可)。「並び生えた草」の象形と「口と口の奥の象形」(口の奥から大きな声を出すさまから「良い」の意味だが、ここでは、「呵(カ)」に通じ(同じ読みを持つ「呵」と同じ意味を持つようになって)、「大声で責める」の意味)から、「大声で責める」、「厳しくする」を意味する「苛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2098.html

「斂」(レン)は、

会意兼形声。僉(セン ケン)は、多くの物を壺に寄せ集めたさまを象形文字。のちに「集めるしるし+二つの口+二人の人」の会意文字で示し、寄せ集めることを示す。のち、「みな」の意の副詞に転用された。斂は「攴(動詞の記号)+音符僉」で、引き絞ってあつめること、

とあり(漢字源)、「収斂」というように使う。

「誅」(チュウ)は、

会意兼形声。「言+音符朱(ばっさりと木の株を切る)」で、相手の罪を言明してばっさりと切り殺すこと、

とある(漢字源)。「罪不容誅」(罪誅を容されず)、「誅伐」「筆誅」等々、死刑や、滅ぼす、責めるという意である。

別に、

会意形声、「言」+音符「朱」。「朱」はまさかりで木を伐ることを象った指事文字で、「言」を合わせて罪を「せめる」こと、罪をせめて「ころす」こと、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AA%85。この方が、意味がクリアな気がする。

「求」(漢音キュウ、呉音グ)は、

象形。求の原字は、頭や手足のついた動物の毛皮を描いたもの。毛皮はからだに引き締めるようにしてまといつけるので、離れたり散ったりしないように、ぐいと引き締めること。裘(キュウ 毛皮)はその原義を残した言葉、

とある(漢字源。)「もとめる」「散らないように引き締める」意で、「求心」「追求」「探求」等々と使う。別に、

象形。かわごろもを腰で締める様子、又は丸めて運ぶこと。「裘」の原字。皮衣をぎゅっとまとめる。「まとめる」ことから、自分の下に引き寄せるなどの意が生じた、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B1%82のが、よく意図がわかる。

別に、

象形文字です。「裂いた毛皮」の象形から「皮衣(レザージャケット)」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「もとめる」を意味する「求」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji711.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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宇治の橋姫


「橋姫」は、

橋に祀られていた女性の神、

で(日本伝奇伝説大辞典)、

その信仰から、

橋姫伝説が生まれた、

とある(仝上)。

思案橋(橋を渡るべきか戻るべきか思いあぐねたとされる)、
細語(ささやき)橋(その上に立つとささやき声が聞こえる)、
面影橋(この世のものではない存在が、見え隠れする)、
姿不見(すがたみず)橋(声はすれども姿が見えない)、

等々と言われる伝説の橋には、

橋姫、

が祀られている(日本昔話事典)。「橋」も「峠」と同じく、

信仰の境界であり、ここに外からの災厄を防ぐために、祀られたものらしい(仝上)。主に、

古くからある大きな橋では、橋姫が外敵の侵入を防ぐ橋の守護神として、

祀られているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB。「橋姫」信仰は、広く、

水神信仰、

の一つと考えられ、

外敵を防ぐため、橋のたもとに男女二神を祀ったのがその初めではないか、

とある(日本伝奇伝説大辞典)。つまり、

境の神、

としての、

道祖神、
塞(さえ)の神、

の性格を持ち、

避けて通れぬ橋のたもとに橋姫を祀り、敵対者の侵入を阻止し、自分たちの安全を祈った、

ものとみられる(仝上)。

ただ、水神は女性の神であるので、安産や小児の安全を祈る信仰や習俗と関係し、橋姫の信仰も、

母子神信仰、

の形をとり、橋姫が乳児を抱いてやってきて、たまたま通りかかった者にその乳児を抱かせるという、

産女(うぶめ)伝説、

が各地に残り(仝上)、また、橋姫が、

遠くの橋や沼の神と姉妹であり、旅の者に托して音信を交わしたり、使いの者が危険な目に遭ったり、財宝を授かったり、

という話もあり、また橋姫は嫉妬深いことも、顕著な特徴で、

妬婦伝説、

とつながり(仝上)、

女性の嫉妬に関係した謡を詠うことを禁じたり、婚礼の行列が渡ってはいけない、

という橋も各地にあり、禁を破ると

不幸を招き婚姻が破綻する、

という。これは、

土地の神は一般にほかの土地の噂を嫌うという性格や、土地の信者の競争心などが、橋姫が女神であるために嫉妬深いという説に転化した、

とする説(仝上)と、

「愛らしい」を意味する古語の「愛(は)し」が「橋」に通じ、愛人のことを「愛し姫(はしひめ)」といったことに由来する、

とする説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%ABなどがある。

橋姫伝説、

で知られているのは、

宇治の橋姫伝説、

で、

たまひめ(玉姫)、

とも呼ばれ(大言海)、「宇治の橋姫」は、

嵯峨天皇の代、嫉妬のために宇治川に身を沈めて鬼となり、京中の男女を食い殺した、

という「鬼」と化した橋姫と、

橋を守るという女神、宇治橋の橋姫神社の女神とされ、男神との恋愛説話がある、

という「女神」としての橋姫の、二様の意味が載る(広辞苑)が、「橋姫」は、

多様な伝承と側面、

を持ち、その主なものが、

源綱(渡辺綱)が一条戻橋で遭遇し斬った「嫉妬の鬼」、
宇治橋そばの橋姫神社に祭られている「橋の守り神」、

の二つになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB

多く、和歌では、

さむしろに衣かたしき今宵もやわれを待つらん宇治の橋姫(古今和歌集)、
千早ぶる宇治の橋守汝をしそあはれとは思ふ年を経ぬれば(仝上)、
あじろ木にいさよふ波の音ふけてひとりや寝ぬる宇治の橋姫(新古今和歌集)、
はしひめのかたし袖もかたしかで思はざりけりものをこそ思へ(實方集)、
橋姫の朝餉のそでやまがふらむかすみも白き宇治の阿波(新続古今集)、
橋姫の心をくみて高瀬さす棹(さお)のしづくに袖ぞ濡れける(源氏物語)、

等々と詠われており(大言海)、いまでははっきり分からないが、

背後に橋姫に関する伝承が存在した、

ことをうかがわせ(日本伝奇伝説大辞典)、その記載の最古は、平安末期の歌学書『奥義抄』の「さむしろに」の歌の注釈として見え、物語としては室町時代の『御伽草子絵巻』に載り、概略こんな話である。

昔、都を離れ、難波のあたりに住む中将がいた。彼には二人の妻がいて、本妻を宇治の橋姫といい、つわりに苦しんでいた。七色のわかめがほしいと頼むので、海上に漕ぎ出して探し求めるが見つかるはずもなく、日が暮れてきた。で仕方なく、笛を取り出し、青海波という曲を吹くと、急に波風が強くなり、夢路を辿るような気分になった。
三年後、橋姫は行方不明の夫を探して海辺へ行き、灯のともる一軒の家を見つけて案内を乞うと、一人の老尼がいた。その老婆との話の中で、橋姫は、夫の中将が龍王にとらえられてその婿になっていることや、老婆がその龍王の草を預かる者であることを知る。老婆は、中将が今夜この家に来るはずであると告げ、また火にかけた鍋を決して見るなと言いおいて出ていく。橋姫はその戒めを守って待っていると、老婆が帰ってきて、今あなたの夫がくるから、ここからのぞいて見よという。その通りに、ひどくやつれた夫が、みるめ・かぐはなという化け物と一緒にやってきた。中将は、化け物たちの進める盃もとらず、「さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫」と繰り返し歌う。化け物たちが立ち去った後、二人は久しぶりに対面を果たすが、中将は我身の不幸を嘆き、再会を約して別れていった。夜が明けたので、老婆は、橋姫に道を教えて帰す。
橋姫は、もう一人の妻にこのことを語ると、この妻も老婆の家にやってくるが、見てはならぬという鍋の中をのぞいてしまい、また現れた夫が「さむしろに」と橋姫の歌を詠うので、嫉妬して門の外へ飛び出すと、今まであった家も人もたちまち消えてしまった。このことを聞いた橋姫は、海辺の家のあったところへ行ってみるが、その跡形もなく、秘密を話したことを後悔した、

と(仝上)。『奥義抄』で、「さむしろに」の歌の注釈としてこの話を載せたけれども、物語の中で「さむしろに」の歌が使われているところを見ると、逆に、この歌に付会したものとも見える。もともとは、

男が竜神に愛でられて婿になったが、竜宮の火を忌み、海辺の老婆の家に食事にやってきて、そこで橋姫と会い、物語したあと泣く泣く別れるが、やがて橋姫と再び結ばれる、

という話が(毘沙門堂蔵『古今集註』に引かれる)『山城国風土記』にあり、

本来、宇治という漁業の地に、水死した漁民の妻の悲しみ、世人の妻への同情が橋姫信仰と結びついてうまれたもの、

という説があり(仝上)、

原型は、男女の情愛の美しさを主題とした、この地方の橋姫伝説をもとに作られたもの、

ということになる。

もうひとつの「橋姫」伝説である、

源綱(渡辺綱)が一条戻橋で遭遇し斬った「嫉妬の鬼」、

の話は、『平家物語』の読み本系異本の『源平盛衰記』に載り、

嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄漿黒(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB。で女は、

さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類境界、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取らんとては男に変じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける、

という状態となり、渡辺綱が、所用の帰路、

一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く、

となる(仝上)。その腕は、

雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり、

という。以後この「鬚切」は、「鬼丸(おにまる)」と呼ばれるようになったとされる(仝上)。綱の時代は嵯峨天皇の御世の200年近く後になる。退治したのが、200年後ということか。

この話の「戻橋」を羅生門に代えたのが、能の「羅生門」になる(日本伝奇伝説大辞典)。「橋姫」の呪いの儀式が、

丑の刻参り、

のルーツとされる、らしい(仝上)。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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千鳥足


「千鳥足」は、普通は、

左右の足の踏みどころを違えて歩く千鳥ような足つき、

に喩えて、

酒に酔った人の足取り、

の意で使う(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)とあるが、

千鳥は、前三指のみなれば、両足を打ち交へて走り、歩みの乱るるものなれば云ふとぞ、

とあり(大言海)、

路を行くに、右へ片寄り、又、左へ片寄りて歩むこと。又、歩むに両脚を左右に打ちちがへて行くこと、

とある(仝上)。

現に確かめた人は、

基本的にジグザグに歩くの……ですが、……ジグザグにも歩くし、ときどき左右の足を交差させても歩いています。特に、ゆっくり歩くときや方向を変えるときに交差しています、

とありhttps://blog.goo.ne.jp/fagus06/e/d978fc891dd2f9f928eb12167bd1e857

足を打ち交えて歩く、
意と、
歩み方がジグザグ、

の二つの意味があるようである(仝上)。『太平記』に、

この比(ころ)、殊に時を得たる者どもよと覚しき武士の、太き逞しき馬に千鳥足を踏ませ、(中略)五、六十騎が程、野遊びして帰りける、

とあるのは、注(兵藤裕己校注『太平記』)に、

千鳥のように足を交差させた乱れた足並み、

とあり、

足を打ち交えて歩く、

のを、馬の足並みの乱れ、と解釈している。

あるいは、

敵五十騎ばかり、われ先に討たんと懸かりけるに、河村(弾正)、千鳥足を踏んで散々に戦ふ(太平記)、

とあるのは、注(兵藤裕己校注『太平記』)に、

千鳥のように細かく足を移動して、

とあるように、細かな足さばきを指すようである。この場合は、乱れというよりも、右に左に細かくかわしながら、と、ただ一人で(徒で)騎乗の多くの敵に対応していると見える。

千鳥掛け、

あるいは、

千鳥縢(かがり)、

という言葉があるが、

紐や糸を交互に斜めに交差させてかがる、

意である。その意味では、「じぐざぐ」よりは「足を打ち交える」の意ではないか、という気がする。もっとも、

しほがれの難波の浦のちとりあし蹈み違へたる路も恥づかし(「新撰六帖(1244頃)」)、

という使い方をみると、「踏み違へ」たのには、ジグザグ歩きもあり得る気がして、どちらとも定めがたい。

「千鳥足」には、もうひとつ、

馬の足並みがはらはらと千鳥の羽音のようであること、

の意がある(広辞苑)が、別に、

馬の足並みが千鳥の飛ぶ姿のようであること、

の意もあり(デジタル大辞泉)、ここでも、

馬の足並みが揃足よりはげしく千鳥の飛ぶ姿のようであること。また、その歩き方。一説に、その馬の足並みの音が千鳥の飛ぶ羽音に似ているところからという(五武器談)、

と(精選版日本国語大辞典)、

羽音、

飛ぶ姿、

の二説がある。しかし、必ず引かれる用例は、入洛する護良(もりよし)親王の行列の、

(護良親王は)侍十一人に諸口を押させ、千鳥足を踏ませて、小路を狭しと歩ませける、

という描写である(太平記)。注には、

馬を悠然と歩ませるさま、

とある(兵藤裕己校注『太平記』)。しかし、

馬の脚並みの、はらはらとして、千鳥の飛ぶ羽音の如くなるを云ふ(五武器談・大言海)、
と、
馬の脚並みの、ばらばらと、千鳥が飛ぶ羽音のように乱れる(岩波古語辞典)、

と、同じ羽音説でも、微妙に含意が異なる。用例が、どの辞書にも、『太平記』の上記を引くところを見ると、他にはあまり用例がないのかもしれない。ただ、護良親王が、馬をばたつかせているとは思えない描写なので、

馬を悠然と歩ませるさま、

の意が適しているとは思うが、しかし、それを、

千鳥足、

というには、千鳥の、

羽音、

の激しい足並み音なのか、

飛ぶ姿、

の群がりゆく姿なのか、いずれとも決めがたいが、

荒々しさ、

を喩えているのには変わりがないように思う。同じ『太平記』に、

千鳥足を踏ませ、

という同じフレーズが、あるときは堂々になり、別には乱れになる、という両義なのは、文脈もあるが、片や、

武士の野遊びの帰り、

片や、

護良親王の入洛の行軍、

との差なのかもしれない。荒々しい馬の脚並みが、片方では、乱れに見え、他方では、鼻息荒く堂々と乗りこなすさまに見える、というような。

その姿で、

ハクサンチドリ、

という、花の付き方が千鳥の飛ぶ姿に似ていることから名付けられた花がある。これは明らかに飛ぶ姿に準えているのだが、護良親王のくだりの「千鳥足」は、あるいは、堂々と馬を御している、

人馬一体の姿、

を言っているのかもしれない。なお、歌舞伎の立回りに、

千鳥、

というのがあるが、これは、

主役に一人一人斬ってかかり、左右に代わる代わる入れ替わるもの、

とあり(江戸語大辞典)、「ジグザグ」ではなく「左右に打ち交(ちが)え」の意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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千鳥


「千鳥」は、その字の通り、

朝狩(あさかり)に五百(いほ)つ鳥立て夕狩に千鳥踏み立て許すことなく追ふごとに(万葉集)、

と、

多くの鳥、

の意である(岩波古語辞典・広辞苑)が、この場合、「千」は、

郡飛する意、

となる(大言海)。別に、

チドリ目チドリ科の総称、

の意があり、この場合、

鵆、
鴴、

とも当てる。

この「千鳥」の由来は、

数多く群れを成して飛ぶからか、また、鳴き声から(広辞苑)、
交鳥(チガエドリ)の義、飛ぶ状より云ふ、或いは云ふ、鳴く声を名とす。鵆は鴴の異体なり、但し(中国南北朝期(439〜589)の漢字字典)『玉篇』には、「鵆、荒鳥」とあり、チドリは國訓(大言海)、
鳴き声から(日本語源=賀茂百樹・音幻論=幸田露伴)、
チ(擬声、チョチョ・チンチン)+鳥。チチと鳴く鳥の意(日本語源広辞典)、

と、鳴き声とする説が多い。他に、

チヂドリ(千々鳥)の義(日本語原学=林甕臣)、
チガヘドリ(交鳥・差鳥)の義(名言通)、

もある。「チガヘ」というのは、「千鳥足」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/484098057.html?1635363915で触れたように、

路を行くに、右へ片寄り、又、左へ片寄りて歩むこと。又、歩むに両脚を左右に打ちちがへて行く、

こと(大言海)からきているが、

鳴き声をチと聞いて、

しほ山のさしでの磯に住む千鳥君がみ代をばやちよとぞ鳴く(古今集)、

のように、祝賀の意を持たせることがある。後世には、

ちりちり(虎明本狂言「千鳥」)、
チンチン(松の葉・ちんちんぶし)、

と聞きなす、

とある(日本語源大辞典)。「千鳥」の由来は、鳴き声でいいようであるが、今日、僕には、さえずりは、

チ、チ、チ、

と聞こえ。地鳴きは、

ピウ ピウ、

と聞こえる
https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1523.html

古くからなじみの鳥らしく、

淡海の海(み)夕波千鳥 汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ(柿本人麻呂)、
思ひかね妹(いも)がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり(紀貫之)、

等々と歌に詠まれてきたが、

和柄や家紋としても、意匠化されてきた。

波に千鳥、

は氷屋の暖簾にまだ見かけるし、

着物の柄にも、例えば、

千鳥格子、

というのがある。

「鵆」は、「ちどり」に当てた、国字とある(字源)。「鴴」(コウ)は、

すずめ(荒鳥)、

の意である。これを、

ちどり、

と訓ませ、

鵆、

とつくったものらしい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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行蔵


『太平記』に、

而(しか)るに今、戦功未だ立たざるに、罪責忽ちに来たる。(中略)今より後、勲業孰(たれ)が為に策(はか)らん。行蔵世に於て軽(かろ)し。綸宣儻(も)し死刑を優(ゆう)せらるれば、永く竹園(皇族)の名を削り、速やかに桑門(僧侶)の客と為らん、

と、流罪に際しての護良親王(もりよししんのう)の御書(おふみ)にある。「行蔵」は、

世に出て道を行うこと隠遁して世に出ないこと、

の意、つまり、

出処進退、

の意である(広辞苑)。

この言葉は、「行蔵は我ニ存す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476090186.html、松浦玲『勝海舟』http://ppnetwork.seesaa.net/article/476090186.html等々で触れたが、海舟が使った言葉として広く知られる。

海舟が嗣子小鹿を亡くす直前(明治二五年の正月末)、福沢諭吉は、ひそかに脱稿した『痩我慢の説』を、榎本武揚と勝海舟に送り付けた。二人とも反応しなかったので、二月五日付で、諭吉は、再度、

過日呈した瘦我慢の説一冊、いずれ時節を見計い世に公にするつもりだが、事実に間違いや立論の不当のところ「『無御伏蔵』御意見を承って置きたい、

と返事を催促し、尚書として、

草稿は極秘とし、二三の親友以外には見せていない、

と断った。榎本は、

昨今別而多忙に付、其中愚見可申述候、

と躱したが、海舟は、

行蔵は我ニ存す、毀誉は他人之主張、我に与らず我に関せずと存候、

と有名な返事を書き、尚書についても、

各人へ御示御座候とも毛頭異存無之候

と突き放した。

「行蔵」の出典は、『論語』述而篇、

用之則行、舎之則蔵(之を用うれば則ち行い、之を舎(す)つれ則ち蔵(かく)る)、

とされる(字源)。有名な、

暴虎馮河、

の出てくる節である。すなわち、

子謂顏淵曰、用之則行、舍之則藏。唯我與爾有是夫。子路曰、子行三軍、則誰與。子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不與也。必也臨事而懼、好謀而成者也(子、顏淵に謂いて曰く、之を用うれば則ち行ない、之を舎つれば則ち藏る。唯我と爾と是有るかな。子路曰く、子、三軍を行なわば、則ち誰と與(とも)にかせん。子曰く、暴虎馮河し、死して悔いなき者は、吾與にせざる也。必ずや事に臨みて事懼(おそ)れ、謀を好みて成さん者也)、

と。「暴虎馮河」とは、

何も武器を持たずに虎と組み討ちをし、大河を歩いて渡る、無謀な冒険の典型、

の意(貝塚茂樹)である。

「暴」は「搏」に同じで、打つ、なぐる意。「馮」は川などを徒歩で渡る意、

とある(新明解四字熟語辞典)。この「河」は、元来は中国の黄河をさす。要は、

血気にはやって向こう見ずなことをすること、

である。ぼくの中では、西郷の、

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり、

という言葉が重なる。勿論、いい意味でではない。ある意味、鳥羽伏見も、博打のようなものだ。かろうじて(江戸焼き討ちという)テロの論理が、常識人の幕府側を乗せた。

それはさておき、「行蔵」は、ときどき使われるが、頻度は多くなく、用例に出るのは、上記『太平記』と、

去来不失候。可謂識行蔵(経国集(827)・詠燕)、

である(精選版日本国語大辞典)。存外に、

重い含意、

と見た。たとえば、『太平記』に、

三朝礼儀の明堂、云(ここ)に捨てて、野干(やかん 狐)尸(かばね)を争ふ地と為り、八宗論談の梵席、永く絶えて、鬼神舌を暢ぶる声に替へたり、笑うてかの行蔵を問ふに、何か似たる(所)ぞ。譬へば、猶調達(ちょうだつ 釈迦の従兄弟)が衆を萃(あつ)めて、提羅(だいら 比丘、比丘尼)が供(く)を貪(むさぼ)って利門(りもん 利欲に結びつく道)を開きしが如し、

とある。この「行蔵」は、「行い」だが、ただの「ふるまい」ではなく、「仏道を修める」とか「仏事を行う」という意で使われている。

「行」(漢音コウ。ゴウ、呉音ギョウ、唐音アン)は、

象形。十字路を描いたもので、みち、みちをいく、動いて動作する(おこなう)などの意を表す。また、直線をなして進むことから、行列の意ともなる、

とあり(漢字源)、別に、

四方に道が延びる十字路の形にかたどり、人通りの多い道の意を表す。ひいて「ゆく」、転じて「おこなう」意に用いる、

ともある(角川新字源)。「歩行」「走行」「行為」等々、「行は止の反、歩き進む」(字源)意であり、

行有余力則以學文(行ひて余力有らば、則ち以て文を学ぶ)、

であるが(論語)、「徳行」「修行」「勤行」等々のように、和語の「しわざ」「ふるまい」といった含意の、

心にあるを徳と言ひ、之を施すを行といふ

と、単なる行いではない意味を「行」に込めることがある(字源)。

「倉」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482616330.htmlで触れたように、「蔵(藏)」(漢音ゾウ、呉音ソウ)は

形声。艸は収蔵する作物を示す。臧(ソウ)は「臣+戈(ほこ)+音符爿(ソウ・ショウ)」からなり、武器をもった壮士ふうの臣下。藏は「艸+音符臧」で、臧の原義とは関係がない、

とある(漢字源)。「秘蔵」とか「収蔵」とか「珍蔵」という言葉があり、「物を納めて蓄える」という意味が強いが、特に、

見えぬようにくらへかくしいるる、

意(字源)とあり、世の中から「隠れる」含意がある。別に、

形声文字です(艸+臧)。「並び生えた草」の象形と「矛(ほこ)の象形としっかり見開いた目の象形」(「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「かくしてしまう」の意味)から、「かくす・かくしてしまう場所」、「くら」を意味する「蔵」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji965.html

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
兵藤裕己校注『太平記』(岩波文庫)

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おおわらわ


「おおわらわ」は、

大童、

と当てる(広辞苑)。

髪の髻(もとどり)がとけてばらばらになった姿、

で、

かぶとも落ちて大童(おほわらは)になり給ふ(平治物語)、

と、

子供のかぶろ頭、

に喩えていっている(岩波古語辞典)状態表現であったが、そこから、

なほ弓を強く引かんために、着たる鎧を脱ぎ置いて、脇い立て(わいだて 大鎧の一部。草摺と壺板(どうの右側の合わせ目に当てる防具)から成る)ばかりを大童になり(太平記)、

と、

兜を脱いで乱れ髪で働くさま、

と価値表現へと転じた。今は、その延長で、

力の限り奮闘するさま、

あるいは、

事に臨んでいっしょうけんめいに活動するさま、
夢中になって事をすること、

の意で使い、どちらかというと、

検査のすんだ荷物を大童(オオワラワ)でスーツケースに詰めこんで、

と、

ばたばたとしゃかりきになっている、

といった含意もある(精選版日本国語大辞典)。

室町末期の日葡辞書には、

Vōuaraua

を、
髪はばらばらに解け、着物はしまりなくはだけなどして、身なりの乱れている、

意とした(日本大百科全書)。

もともと、「大童」には、

長季は宇治殿若気也。仍大童まで不加首服云々(「古事談(1212‐15頃)」)、

と、

年長者で理髪をせず、加冠しないままに幼童の風を残している姿、

を意味し(仝上)、また、

元服以前の男子年少者はなにもかぶらず、頂(いただき)を露(あら)わしたままでいた。これを童(わらわ)といい、年齢的には成長していても、加冠の式を経ない者は大童(おおわらわ)と呼んで、一人前とはみなされなかった、

ともある(世界大百科事典)ので、こちらに喩えたともいえる。

「かぶろ」は、

禿、

と当て、

かむろ、

ともいい、この場合は、

子供の髪型、髪の末を切りそろえ、結ばないで垂らしておく、おかっぱのような髪型、

をいい、その場合、

きりかぶろ、

とも言う。

ただ、武士が兜をかむる場合、時代とともに変化があり、

平安時代後期頃までは、髻(もとどり)を頭上に立てたまま用いた。この場合に烏帽子は髻を包むように縮めておき、兜の天辺の穴から出してかむった、

とある。平治物語絵巻などに、

兜の頂上から黒いものが出ているのは髻を包んだ烏帽子の先端が出ている態を描いたもの、

とある(図録日本の甲冑武具事典)。それで、

天辺の穴から外へ突き出した烏帽子に包まれた髻が心棒になって兜がぐらつかない、

という(仝上)。そのため、この天辺の穴は大きく、源平盛衰記などで、

兜を傾けて突進せよ、ただしあまり傾けて天辺射さすな、

などの指示があるのは、この穴に矢を射込まれるためだという。しかし、鎌倉時代頃から、

兜をかむるときには髻を解いて乱髪にしたので、天辺の穴は小さくなり、やがて天辺の穴は換気用、神の座す場所などと意味が変わった、

とある(仝上)。「大童」の用例から見ると、『太平記』は、乱髪で兜をかぶっていたとみられるが、それ以前は、烏帽子も脱いで、まさに乱髪そのものの状態ということになる。

この、「おほわらは」の、

ワラハは、被髪(わらは)にて、童子の髪風なり、大人の被髪なれば、オホと云ふか、

とあり(大言海)、「わらは」は、

被髪、

と当て、

わわら端(ば)の略、額髪の下端などの、わわらに乱れて垂りてある状を云ふ、

とある(大言海)。その髪型から、

被髪(わらは)にてあれば名とす、

として、その髪型のものを、

童、

と当て、

童子(十歳前後)の略、

の意となったもののようである(仝上)。「わわら」は、

わわらば(散乱葉)、

と当てる、

ほつれ乱れた葉、

の意に使い、

わわく、

という動詞は、

ほつれ乱れる、

意である。類聚名義抄(11〜12世紀)に、

弊、ヤブル・ツビタリ・ワワケタリ、

とある。「わわく」の「わわ」は、

ほつれる、
乱れる、

という擬態語の可能性がある。

わわくる、
わわし、

は、

騒ぐ、
やかましい、

意である。

「童」(慣用ドウ、漢音トウ、呉音スウ)は、

会意兼形声。東(トウ 心棒を突き抜けた袋、太陽が突き抜けてくる方角)はつきぬく意を含む。「里」の部分は、「東+土」。重や動の左側の部分と同じで、土(地面)つきぬくように↓型に動作や重みがること。童は「辛(鋭い刃物)+目+音符東+土」で、刃物で目を突きぬいて盲人にした男のこと、

とあり(漢字源)、「刃物々目を突きぬいて盲人にした奴隷」の意とあり、僕と同類で、「童僕」(男の奴隷や召使)と使うが、「童子」というように「わらべ」の意もある。別に、

形声。意符辛(入れ墨の針。立は省略形)と、音符重(チヨウ)→(トウ)(里は変わった形)とから成る。目の上(ひたい)に入れ墨をされた男子の罪人の意を表す。借りて「わらべ」の意に用いる、

ともあり(角川新字源)、

会意兼形声文字です(辛+目+重)。「入れ墨をする為の針」の象形と「人の目」の象形と「重い袋」の象形から、目の上に入れ墨をされ重い袋を背負わされた「どれい」を意味する「童」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「未成年者(児童)」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji530.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
笠間良彦『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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かむろ


「かむろ」は、「おおわらわ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484158438.html?1635709470で触れたように、

禿、

と当て、本来、

かぶろ、

といい、

子供の髪型、髪の末を切りそろえ、結ばないで垂らしておく、おかっぱのような髪型、

をいい(岩波古語辞典)、その髪型から、

童子(十歳前後)、

の意となったもののようである(仝上)。「かぶろ」が、

バ行音がマ行音と交換した「かむろ」は、室町後期からみえはじめる、

とある(日本語源大辞典)。

「かぶろ」は、本来、

カミ(髪)ウロ(粗)の約カムロの転、

とある(岩波古語辞典)ように、

頭(かしら)の髪無くしてかぶろなり(今昔物語)、
碧樹路深うして山禿(かぶろ)ならず(新撰朗詠集)、

等々と、

頭に髪のないさま、

を言い、

剃髪した頭、
はげ頭、
はげ山、

などにいう(仝上)。「禿」の漢字を当てたのは、漢字の意味(はげ)からきている。「頭髪のはげたる意」の「かぶろ」は、

童丱形(かぶろなり はげ山)の略、頭に髪なきは、山に草木なきが如し、

とある(大言海)。和名類聚抄(平安中期)には、

禿、無髪也、加不路、

とある。「かぶろなり」は、他には載らないが、

童丱形(かぶろなり はげ山)の義、童山とも書くも、則ち是れなり、童丱(カブロ)の、髻なく、頂圓きに似たる故に云ふなり、

とある(大言海)。「丱」(カン・ケン)は、あげまき(古代の童子の、頭髪を左右に分けて頭上に巻き上げ、角状に両輪をつくった髪の結い方)の意が転じて、おさない意。で、「丱女」(カンジョ)、「丱童」(カンドウ)、童丱(ドウカン)等々と使う。

天治字鏡(平安中期)には、

禿、加夫呂奈理、色葉字類抄(1177〜81)には、

禿、カブロナリ、童山无草木也、

とある。そこで、童の髪型の「かぶろ」は、

童丱、

と当て、

被(かぶり)の転、ひりふ、ひろふ。ちりばふ、ちろぼふ(散)、

とし、

多く、禿(かぶろ)と混じて、当字に、禿の字を記す、

とする(大言海)。しかし、この大言海説は無理がある気がする。「はげ」の意の「カブロ」の項で、

童丱形(かぶろなり はげ山)の義、童山とも書くも、則ち是れなり、童丱(カブロ)の、髻なく、頂圓きに似たる故に云ふなり、

と書いていたところを見ると、もともと、

童丱(カブロ)の、髻なく、頂圓きに似たる、

から「はげ」を「かぶろ」といったのではないのか。だから、

そもそもは、幼児が髪を生やし始める髪置き後、あまり時を経ず、十分に髪が密集していない程度の状態をはげ頭に見なし、その髪型の幼児をも指した、

と見るのが妥当なのではあるまいか(日本語源大辞典)。その後、

「童」を仲介として、ワラハとカブロの連想関係が強まり、次第に広く子供の短めの垂髪およびその髪型の子どもをさすようになった、

とみられる(仝上)。「わらは」については、「大童」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484158438.html?1635709470で触れたように、

被髪、

と当て、

わわら端(ば)の略、額髪の下端などの、わわらに乱れて垂りてある状を云ふ、

である(大言海)。因みに、「髪置」とは、

小児がはじめて髪を伸ばす儀式、

を言い、

多くは、三歳に行い、近世、元禄以降、十一月十五日に定まった、

とある(岩波古語辞典)。

なお、「かぶろ」は、江戸時代、

遊女の見習いをする少女、

の意でも使う(日本語源大辞典)「廓ことば」である。

遊里で一人前の遊女になるための修業をしている6、7歳から13、14歳までの少女たちのこと。これを過ぎると吉原では振袖新造(ふりそでしんぞう)から番頭新造となり、さらに太夫(たゆう)となった。禿は髪を額のところで切り、残りを肩のあたりまで垂らして切りそろえたので切り禿ともいう。江戸末期の禿の服装は、桃色縮緬(ちりめん)か絖(ぬめ)の無地の表着に花魁(おいらん)の定紋を5か所つけ、帯はビロード、袖は広袖。浮世絵では花かんざしの華麗な服装で描かれている。太夫の道中では、女郎の格によりお伴(とも)の禿も3人、2人、1人の区別があった、

とあり(日本大百科全書)、禿を経ない遊女を、

つき出し、

といった(ブリタニカ国際大百科事典)とあるので、「かぶろ」は、

吉原などの遊所で、大夫、天神など上級の遊女に仕え将来遊女となるための修業をしていた、

のである(仝上)。『江戸花街沿革誌』(1894)に、

七八歳乃至十二三歳の少女後来遊女となるべき者にして遊女に事へ見習するを禿といふ。…禿の称号は吉原のみ用ひ、岡場所などにては豆どん、小職などと云ひ慣はしたり、

とある(仝上)。

「禿」(トク)は、

会意。「禾(まるいあわ)+儿(人の足、人)」で、丸坊主の人を表す、

とあり、「はげ」の意である。かむろ、かぶろと訓ませ、童子の髪型の意で使うのはわが国だけである。

別に、

「禾(粟が丸く穂を垂れるさま→まるい)」+「儿(人)」、

とする説明もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A6%BF

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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くらう


飲食する、

意の言葉には、

食う、
食む、
食べる、

等々がある。

「食べる」は、「食う」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479896241.html?1612555520で触れたように、

平安時代には、和文脈にクフ、漢文脈にクラフが用いられ、待遇表現としてのタブ(のちにはタブルを経てタベル)も登場する。室町時代には、クラフが軽卑語、クフが平常語となり、タブルも丁寧語としての用法から平常語に近づいていった。江戸時代には、待遇表現としてのメシアガルなどが増加し、現在の用法とかなり近くなった。現在では、上位の者から下位の者が物をいただくの意から転じた「たべる」の方が上品な言い方とされる、

とあり(日本語源大辞典)、「たまふ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479566809.htmlで触れたように、「たまふ」は、

タマフの受動形。のちにタブ(食)に転じる語、

である下二段動詞として、

(飲み物などを)いただく、

の意味に転じたので、

「たべる(たぶ)」はもともと謙譲・丁寧な言い方であった、

のが、敬意がしだいに失われ通常語となったものである。そのため、現代語では、食する意では「食う」がぞんざいで俗語的とされ、一般に「食べる」を用いる(デジタル大辞泉)に至ったためである。

「たまふ」と同義に、

たぶ(賜)、
たうぶ(賜)、

がある。「たぶ」は、

タマフの轉、

であり(岩波古語辞典)、「たうぶ」も、

「たまふ」あるいは「たぶ」の音変化で、主として平安時代に用いた、

とあり、「たぶ」も、

「たまふ」の訛ったもので、

tamafu→tamfu→tambu→tabu

という転訛と思われる(岩波古語辞典)。

「食う」は、「かむ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464032673.htmlで触れたように、

カム(醸)と同根。口中に入れたものを上下の歯で強く挟み砕く意。類義語クフは歯でものをしっかりくわえる意、

であり(岩波古語辞典)、古くは、「醸す」を、

かむ(醸)、

といっていた(大言海)。そして、

カム(噛む)は上下の歯をつよく合わせることで、「噛み砕く」「噛み切る」「噛み締める」などという。カム(噛む)はカム(咬む)に転義して「かみつく。かじる」ことをいう。人畜に大いに咬みついて狂暴性を発揮したためオホカミ(大咬。狼)といってこれをおそれた。また、人に咬みつく毒蛇をカムムシ(咬む虫)と呼んで警戒した。カム(咬む)はハム(咬む)に転音した。(中略)カム(噛む)はカム(嚼む)に転義して食物を噛み砕くことをいう。米を嚼んで酒をつくったことからカム(醸む)の語がうまれた。(中略)カム(嚼む)はカム(食む)に転義した。(中略)カム(食む)は母交(母音交替)[au]をとげてクム・クフ(食ふ)に転音した、

と(日本語の語源)、

カム(噛む)

カム(嚼む)

カム(醸む)

カム(食む)

クム(食む)

クフ(食ふ)、

と、「カム(噛む)」から「カム(醸む)」を経て「クム・クフ(食ふ)」への転訛を、音韻変化から絵解きして見せる。そして、「かむ」は、

「動作そのものを言葉にした語」です。カッと口をあけて歯をあらわす。カ+ムが語源です、

と(日本語源広辞典)、擬態語説を採るものがある。あるいは、

カは、物をかむ時の擬声音(雅語音声考・国語溯原=大矢徹・音幻論=幸田露伴・江戸のかたきを長崎で=楳垣実)、

ともあり(日本語源大辞典)、

かむ行為の擬態語、擬音語、

というのが、オノマトペの多い和語の由来としては、一番妥当に思える。だから、

「噛む」

「醸す」

「食う」

は、殆ど由来を重ねているhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/479896241.html?1612555520

「食う」の意味では、上代、

はむ、

が使われていた「はむ」は、「食う」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479896241.html?1612555520で触れたように、

食む、
噬む、

と当て(岩波古語辞典)、

歯を活用す(大言海)、
「歯」を動詞化した語。歯をかみ合わせてしっかり物をくわえる意。転じて、物を口に入れて飲み下す意。クフが口に加える意から、食べる意に転じた類(岩波古語辞典)、
歯の動詞化(日本語源広辞典)、
ハは歯の義(国語本義)、
ハフクム(歯含)の義、またハム(歯見)の義(日本語原学=林甕臣)、

とあるように、「はむ」もまた「かむ」とつながっている。

で、「くらう(ふ)」は、

飲食する動作を卑しめて言う語、

で(岩波古語辞典)、

食らう、
喰らう、

等々と当て、

楫取り者のあはれも知らで、おのれ(己)し酒をくらひつれば、早く往なむとて(土佐日記)、

と、

がぶがぶ飲む、
かぶりつく、

といった、

飲む、食うのぞんざいな言い方、

とされ、「食う」と同様、それをメタファに、

生活する、
暮らしを立てる、

意でも使う(広辞苑)。神代紀には、

夫須噉(くらふ)八十木種皆能播生、

とあり、必ずしも貶めた言い方ではないし、字鏡(平安後期頃)には、

喫、囓、久良不、又波牟、

とあり、「くらう」と「はむ」が並んで載っているが、

「土佐日記」「宇治拾遺」「徒然草」などに見られる例では、身分の低いもの(楫取り)が情緒なく粗野に飲食する様子や、動物でも恐怖感を伴うような獣(虎・猫また)が人を食う様子を表し、「日葡辞書」でも「下賤な人や動物についていう」とある。「くふ」に比べて、侮蔑・嫌悪などのマイナス感情を伴う用い方が中世末期には定着していたと考えられる、

とある(日本語源大辞典)。ために、中古仮名文学作品には「くらふ」はほとんどみられない(仝上)が、

漢文訓読では「くふ」より「くらふ」の方が多い。「くらふ」は当時の卑俗語としての用例が影響したと解釈されている、

とある(仝上)。

「くらう」の語源は、

クヒアフル(噛合)の約、咥(くは)ふと通ずるか(半(なかば)、なから。荒廃(あばら)、疎疎(あらら)。意、通ず)。食ふ(くふ、くらふ同趣の活用)も、噛(く)ふより移るなり(大言海)、
ク(口・含)+ラ(開口音)+フ(継続)、口を開けて食べる意(日本語源広辞典)、
クル(牽)の義、ルはラフの反(和訓栞)、
クフ(口触)から、ラは助言(言元梯)、
クチアル(口有)の義(名言通)、

等々があるが、いまひとつピンとこないが、「咥(くは)ふと通ずる」とある「くはふ」は、

銜ふ、
啣ふ、
咥ふ、

等々と当て、

筆の尻をくはへて(源氏物語)、

と、

口または歯で軽くはさんで支えもつ、

意であり(広辞苑)、

クヒ(食)アフ(合)の約(岩波古語辞典)、
クヒアフル(噛合)の約(大言海)、
クは物の中へ入り込む義(国語の語根とその分類=大島正健)、

と、口に入るところを語源としている。確かに、これが一番近いとはいえるのだが。

「食」(漢音ショク・呉音ジキ、漢音シ・呉音ジ、漢音呉音イ)は、

会意。「あつめて、ふたをするしるし+穀物を盛ったさま」をあわせたもの。容器に入れて手を加え、柔らかくして食べることを意味する、

とある(漢字源)のは、

象形又は会意。たべものを盛った器「皀」に蓋(「亼」)をする様又は蓋をすること、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%9F

象形。容器に食物を盛り(=㿝)、上からふたをしたさま(=亼)にかたどり、食物、ひいて「くう」意を表す、

と(角川新字源)同趣旨になる。

「喰」は、

会意。「口+食」。食の別体として、「くう」という訓をあらわすために作られた日本製漢字、

である(字源・漢字源)。

その動作性を強調した会意文字。国字なので、音読みは本来無いが、「食」の音を当て「木喰(もくじき 僧侶が用いたため呉音読み)」など固有名詞に用いた、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%96%B0が、

《康煕字典・備考・丑集・喰》:「《龍龕》音餐。又音孫。」、中国本土においても一部の書物に同系の文字が見られ、字形の衝突が生じている。餐の異体字、

ともある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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つかねる


「つかねる(つかぬ)」は、

束ねる、

と当てる。

蜷(みな)の腸(わた)か黒し髪をま櫛もちここにかき垂れ取束(とりつかね)挙げても纏(まき)み(万葉集)、

と、

集めて一つにして括る、

つまり、

たばねる、

意で、やはり、

束ねる、

と当てる(広辞苑)。そのメタファで、

三軍をつかねる、

と、

すべてをつかさどる、
総轄する、

意でも使うが、

雖然、貴賤手をつかね、緇素(しそ 僧俗)足をいただく(平家物語)、

と、

手をそろえて一つにする、また、腕をくむ、

意で使い、この場合、

手をつかねる、

は、

手をこまねく、

と同義で使う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)ので、

為すべきことなくてありぬ(大言海)、

つまり、

拱手傍観、
あるいは、
袖手傍観、

の含意となる。で、

拱手、
束手、

という言い方もする(仝上)。

「つかねる」の「つか」は、

ツカ(束・柄)と同根(岩波古語辞典)、
握(つか)の活用、
ツカム(掴)と同根(小学館古語大辞典)、
「つかねる(束)」「つかむ(掴)」と同源(精選版日本国語大辞典)、

とあり、「つか」とかかわる。「つか」は、

一にぎり指四本の幅、

で(岩波古語辞典)、

十束(とつか)剣抜きて(古事記)、

などと、

古代の単位で和数詞について「八束(やつか)」「十束(とつか)」などと用いる、

後世は、

君は実盛を大矢とおぼしめし候歟。わづかに十三束こそ仕候へ。……大矢と申ぢゃうの物の、十五束におとってひくは候はず(平家物語)、

などと、

矢の長さの場合だけに用いる。ただし、音読して「そく」という、

とある(精選版日本国語大辞典)。たとえば、

強弓の手足りなりければ、……三人張に、十四束(そく)三伏(みつぶせ)曳きしぼり、真前(まっさき)に進む敵を射けるに(太平記)、

とある場合、

三人がかりで張る強い弓に、十四束三伏の長い矢(束は一握りで、親指を除く四指、伏は指一本の幅)。矢は十二束を標準とした、

と解説がある(兵藤裕己校注『太平記』)。

この「つか」からの喩えで、

少しの間、

の意の、

束の間、

があることは、「つかのま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/458802835.htmlで触れた。

「束」(漢音ショク、呉音ソク)は、

会意。「木+ᄋ印(たばねるひも)」で、焚き木を集めて、その真ん中にひもを丸く回して束ねることを示す、

とある(漢字源)。「たばねる」や「たば」の意で、「つか」の意で長さの単位にするのはわが国だけの使い方であり、「ほんのひとにぎりの間」という「束の間」も、わが国だけである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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こまねく


「こまねく」は、

拱く、

と当てる。

こまぬくの音変化、

とされ、

左右の手を胸の前で組み合わせる、

意から、

腕を組む、

意へ広がり、転じて、

手をこまねく、

というように、

何もしないで見ている、
傍観する、

意で使われる(広辞苑)。類聚名義抄(11〜12世紀)には、

拱、コマヌク、ウダク、イダク、タムダク、

とある。「いだく」は、

抱く、

と当て、

子を抱きつつ下(お)り乗りす(土佐日記)、

と使うが、

うだくの転、

とあり(岩波古語辞典・大言海)、「うだく」は、

熱き胴の柱をうだかして立つ(霊異記)、

と、

むだくの転。ムは身の古形、タクは腕を働かして何かをする意。従って、ムダクは相手の体を両手で抱えて締める意。ウダクは平安時代の漢文訓読体に多くの例があるが、平安女流文学ではイダクだけが使われた、その後、ウダクは亡びてイダクだけが使われるようになった(岩波古語辞典)、

あるいは、

腕纏(ま)くの約と云ふ、転じて、ムダク、イダクともなる(大言海)、

とある(岩波古語辞典)。「むだく」は、古く、万葉集に、

上つ毛野(かみつけ)の安蘇(あそ)の真麻(まそ)群(むら)かき抱(むだ)き寝(ぬ)れどあかぬをあどか我がせむ、

と詠われる。「むだく」は、

拱く、

と当て、

たうだくの転、

であり、

拱く、
手抱く、

と当て、

タはテ(手)の古形。ムダクは身抱くが原義、抱く意、

であり(岩波古語辞典)、

手にて身を抱く、

意である(大言海)。

こう見ると、「いだく」と同様「うだく」も「むだく」も、「抱く」意である。「こまねく」と「抱く」はほぼ同義に使われていたように思える。ただ、「腕組み」は、「たむだく」、つまり手で、「我が身を抱く」という意味に広げられなくもないが。

「こまねく」は、現存する中国最古の字書『説文解字(100年頃)』には、

拱、斂手(手をおさむる)也、

礼記・玉藻篇「垂拱」疏には、

沓(かさぬる)手也、身俯則宜手沓而下垂也、

とあり(大言海)、

拱の字の義(両手をそろえて組むこと)に因りて作れる訓語にて、組貫(くみぬ)くの音轉なるべしと云ふ(蹴(く)ゆ、こゆ。圍(かく)む、かこむ。隈床(くまど)、くみど。籠(かたま)、かたみ)、細取(こまどり)と云ふ語も、組取(くみとり)の転なるべく、木舞(こまひ)も、組結(くみゆひ)の約なるべし、

とする(大言海)ように、「こまねく」は、もともと、

子路拱而立(論語)、

と、

両手の指を組み合わせて敬礼する

意であり、

拱手、

と言えば、

遭先生于道、正立拱手(曲禮)、

と、

両手の指を合わせてこまぬく、人を敬う礼、

であり(字源)、

中国で敬礼の一つ。両手を組み合わせて胸元で上下する、

とあり(広辞苑)、

中国、朝鮮、ベトナム、日本の沖縄地方に残る伝統的な礼儀作法で、もとは「揖(ゆう)」とも呼ばれた。まず左右の人差し指、中指、薬指、小指の4本の指をそろえ、一方の掌をもう一方の手の甲にあてたり、手を折りたたむ。手のひらを自身の身体の内側に向け、左右の親指を合わせ、両手を合わせることで敬意を表す。一般的には、男性は左手で右手を包むようにするが、女性は逆の所作となる。葬儀のような凶事の場合は左右が逆になる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B1%E6%89%8B

ただ、「こまねく」には、わが国で、

天皇授璽綬禅位、……古人大兄、避座逡巡、拱手辞而曰(孝徳即位前紀)、

とあるのを、

両手を腹の上にて組合す、敬礼なり、

とする解釈もある(大言海)。

「こまねく」は、また、

斂手(れんしゅ)、

ともいい、

手を斂(をさ)む、

といい、

世祖曰、貴戚且斂手以避二鮑(後漢書・鮑永傳)、

と、

手を出さず、おそれつつしみて、ほしいままにせず、

の意があり、この意味と関わらせると、「拱手」にも、

天水隴西、拱手自服(後漢書・公孫述傳)、

と、

手を組みゐて、何事もせず、

の意で使われるようになる意味も分かる気がする(字源)。

このためか、「手をこまねく」にも、

両手の指を胸の前で組み合わせて敬礼する中国で行なわれた挨拶の方法、

の意もあるが、日葡辞書(1603〜04)には、

腕組みをする、

意が載るので、古くから、

腕組みをする、

意でも使われ、

膝を組み、手を叉(コマヌ)き、忙然として居たりける(「椿説弓張月(1807〜11)」)、

と、腕組みしながら、

深く考えこむ、深く考えに沈む、

意でも使われるが、

いつれも手をこまぬき棹だちになりて(「仮名草子・智恵鑑(1660)」)、

と、

手だしをせずにいる、何もしないで見ている、

と、

手をつかねる、

意でも使われてきた(精選版日本国語大辞典)。最近、「手をこまねく」が、

何もせずに傍観している、

意よりも、

準備して待ち構える、

意で解釈される傾向にあるというが、「手をこまぬく」が、

深く考えこむ、

意でも使われてきた経緯を見ると、別段驚くほどの変化ではない気がする。

なお、禅宗での礼法に、

叉手(しゃしゅ・さしゅ)、

という、

左手のこぶしを胸に会うて、右手でおおう(兵藤裕己校注『太平記』)、

とか、

胸の前で、十指と二つの掌を合わせること(デジタル大辞泉・広辞苑)、

といわれるもので、

衆家きたりてたちつらなれば叉手して揖(いっ)すべし(「正法眼蔵(1231〜53)」)、

という礼法で、これも、一種の

拱手、

とされる。広く、東アジアで、

貴人をはじめ神仏などへの敬意の所作であり、立った姿勢で両手を胸のまえで重ねるようにして表す、

というものhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%89%E6%89%8Bの系列かと思われる。面白いことに、これにも、

両手を胸の前で重ね合わせる、

意から、

侍者は住持のあとに叉手して行ぞ(「百丈清規抄(1462)」)、

と、

手をこまぬくこと、腕をくむこと、

の意となり、転じて、

手を束(つか)ねて何もしない、

意でも使われる(精選版日本国語大辞典)。「叉手」は、

叉首、

ともいい、「叉手」に準えて、

切妻造の屋根の左右の端に、合掌型に交叉して組んだもの、

をもいう(広辞苑・大言海)。なお、

さすまた(刺股・指叉)、

の「さす」もこの「さす」である(仝上)。「叉手」の「叉」は、

あざふ、

と訓ます。

アザ(交)アフ(合)の約、

とある。

組み合わせる、交叉させる、

意である(岩波古語辞典)。

「拱」(漢音キョウ、呉音ク)は、

会意兼形声。共は、両手をそろえて物をささげるさま。拱は「手+音符共」で、両手をそろえて組むこと。共が「そろえる、いっしょ」の意に転用されたため、拱の字が原義をあらわした、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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さすまた


「さすまた」は、

刺股、
指股、
刺叉、
指叉、
刺又、
刺俣、

等々と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

江戸時代、罪人を捕らえるのに用いた三つの道具の一つ。木製の長柄の先端に鋭い月型の金具をつけた道具。喉頸にかけて取り押さえる、

とある(広辞苑)。「三道具(みつどうぐ)」とは、江戸期に、犯人逮捕の際などに用いたという長柄(ながえ)の武器で、

寄道具(よりどうぐ)、

ともいい(日本大百科全書)、

突棒(つくぼう)、
刺股(さすまた)、
袖搦(そでがらみ)、

を一組としていう(精選版日本国語大辞典)。関所、番所などに常備したので、

番所の三つ道具、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。江戸初期の『四条河原(がわら)遊楽図屏風(びょうぶ)』の歌舞伎の小屋、能楽の小屋の櫓(やぐら 入口)の脇の竹矢来(たけやらい)に沿って立て並べているようすが描かれている(仝上)、とある。

「突棒」(つくぼう)は、

長い柄の先をT字形の鉄製として、鉄釘(てつくぎ)を植えてある武器、

で、室町時代から、『文明(ぶんめい)本節用集』にもみえ、『洛中洛外図屏風』(上杉家本)にも描かれる(日本大百科全書)。

鉄把(てっぱ)、
撞木(しゅもく)、

ともいう(仝上)。

「袖搦(そでがらみ)」は、

長い柄の先端に、とげの出た鉄叉(てっさ 物を絡みつけるための鉤針(かぎばり)状の鉄鉤)を上下に向けてたくさんつけ、それに続く柄の部分にも、相手が握れないように鉄釘を打ち付け、たもの。頭髪や衣服に絡んで引き倒す武器。柄の長さは7尺5寸(2.3m)、

で(仝上)、

狼牙棒(ろうげぼう)、

という中国の武具に由来するという(仝上)。

「さすまた」は、

杈首叉(さすまた)の義、

とあり(大言海)、「杈首(さす)」は、

叉手、

とも当て、「こまねく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484220493.html?1636055164で触れたように、

両手を胸の前で重ね合わせる、

意であるが、それに準えて、

切妻造の屋根の左右の端に、合掌形に交叉して組んだもの、

をもいう(広辞苑・大言海)。

二木の上下、両端、上は空を指し、下は開き、千木と搏風(破風)との形をなす、其の叉の上に、棟木を承く。農家の茅葺の丸太合掌を、今も、サスと云ふ。転じて、殿宅の搏風(破風)の名となる、今も、神社の妻飾の搏風を杈首棹(ザヲ)と云ひ、其の中央の束柱を杈首束(さすづか)といふ、

とある(仝上)。この「杈首」には、いまひとつ、

さすまた、

の意があり、

杈首股、

と当てる(仝上)。これが訛って、

さんまた、

といい、

三脵、
三叉、

と当て(広辞苑・大言海)、

高い所に物を懸けるのに用いる、先端がY字形にした棒、

で、

みつまた、
またふり、
またざお、

等々ともいう(仝上)。「叉」は、

あざふ、

と訓ます。

アザ(交)アフ(合)の約、

とある。

組み合わせる、交叉させる、

意である(岩波古語辞典)。

「叉」(漢音サ、呉音シャ)は、

象形。手の指の間に物をはさんだ形を描いたもの。Y型をなしていて、物を挟み、または突くものをすべて叉という、

とある(漢字源)。

「指の間に物をはさんだ」象形から、「はさみとる」、「さすまた」を意味する「叉」という漢字が成り立ちました、

も同趣旨https://okjiten.jp/kanji2386.htmlだが、

手の指を組み合わせた形にかたどる。転じて「また」の意を表す(角川新字源)、

は少し含意を異にする。

「杈」(サ、サイ)は、

枝、

の意であるが、それをメタファに、

やす(先端が叉になっている漁具)、

を指し、さらに、

さらい(さらひ)、

と訓ませると、

くまで、

の意となる(字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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吹毛の咎


加之、以吹毛之咎、損土民等(しかのみならず、吹毛の咎を以て、土民らを損ねる)、

とある(貞応元年(1222)の関東御教書)、「吹毛(すいもう)の咎(とが)」とは、

をりふしにつけては、吹毛の咎を争うて、讒を構ふること休む時なし(太平記)、

というように、

取るに足らない欠点、

を咎めだてる意だが、「吹毛」とは、

毛を吹いて疵を求める、

とか、

毛を吹いて過怠の疵を求む、

などという諺の、

毛を吹いて隠れた疵を求める、

つまり、

好んで人の欠点を指摘する、

あるいは、

他人の弱点を暴いて、かえって自分の欠点をさらけ出す、

意から来ていて(故事ことわざの辞典)、

吹毛求疵(すいもうきゅうし)、
吹毛之求(すいもうのもとめ)、
洗垢索瘢(せんこうさくはん)、
披毛求瑕(ひもうきゅうか)、

等々という四文字熟語ともなっている(新明解四字熟語辞典)。出典は、

不吹毛而求小疵、不洗垢而察難知(韓非子)、

とある(故事ことわざの辞典)。

「吹毛(すいもう)」とは、だから、

毛を吹いて隠れた傷をもとめるような、あらさがし、

の意である(広辞苑)。

吹毛の難、

も、

翁が心の中に思ふ事をありのままに申せば、さだめて吹毛の難もおほく侍らん(「筑波問答(1357‐72頃)」)、

と、

取るに足らない欠点を探し出し、非難する、

意となる(仝上)。

ただ、「吹毛」は、文字通り、

毛を吹く、

意であり、

きわめてたやすいことのたとえ、

として、

わけもないこと、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。そして、

吹きかけた小さな毛をも切る、

意から、

吹毛の剣(けん)、

という言い方をし、

吹毛の剣を提示し、虚空を載断す(太平記)、

と、

鋭利な剣、

の意でも使う。なお、

ほっす(払子)の異名、

としても、「吹毛」を使うらしい(文明本節用集)

「吹」(スイ)は、

会意。「口+欠(人の体をかがめた形)」。人が体を曲げて口から息を押し出すこと、

とある(漢字源)。別に、

「口」と「欠(あくび)」から構成され、口から息を吐くことを表す(説文)、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%B9

口と、欠(けん)(大きく口を開けたさま)とから成り、大きく息をはく意を表す、

ともある(角川新字源)。

「毛」(慣用モ、漢音ボウ、呉音モウ)は、

象形。細かいけを描いたもので、細く小さい意を含む、

とある(漢字源)。

別に、

象形文字です。「けの生えている」象形から「け」を意味する「毛」という漢字が成り立ちました、

ともある(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji228.html

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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そうなし


「そう(さう)なし」は、

左右無し、

と当てる(広辞苑)。「左右」は、

とかくの意、

とあり、

この一条殿、さうなく道理の人にておはしましけるを(大鏡)、

と、

とやかく言うまでもない、

の意である(広辞苑・岩波古語辞典)。

サウは左右(とかく)の字の音読なり、

とある(大言海)。「とかく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455357293.htmlは、

左右、
取捨、
兎角、

と当てるが、その「左右」の「サユウ」は、

右の呉音(ユウ)、

とある(仝上)。つまり、「とかく」に当てた「左右」の訓みが、

サユウ→サウ、

と転訛したものということになる。ただ、漢字源では、

呉音ウ、漢音ユウ、

とあるので、呉音そのまま、

サウ、

かもしれない。

「そうなし」は、

とやかく言うまでもない、

の状態表現から、たとえば、

なほこの事さうなくてやまん、いとわろかるべし(枕草子)、

と、

どちらとも決めかねる、

と価値表現へシフトし、

かの太刀はまことに吉き太刀にてありければさうなく(弓と)さし替へてけり(今昔物語)、

と、

ためらわない、

と、より価値表現へと意味を広げた使い方がされているが、これは、

左右なく止まらざりければ、余所へなほ動いて(太平記)、

の、

すぐには、

の意や、

左右なく事行くとも覚えず(仝上)、

と、

たやすく、

という使い方へとつながるように思われる。

「左右(さう)」は、本来、

みぎとひだり(右と左)、

の意味だが、

山のさうより月日の光さやかにさし出て世を照らす(源氏物語)、

と、転じて、

かたわら、

の意となり、「左右(とかく)」の、

とかくのこと、あれこれ、

の意から、

人からもさうに及ばぬ上、和漢ともに人にすぐれ(保元物語)、

と、

とやかく言うこと、

の意となり、それが、

御左右遅しとぞ責めたりける(太平記)、

しらせ、たより、

あるいは、

諸事御左右に随ふべし(庭訓往来)、

と、

指示、命令、

の意に広がり、

軍(いくさ)の左右を待つと見るは僻事か(平治物語)、

と、

(あれやこれやの)どちらに落ち着くかという結果、決定、決着、

の意で使われ、

彼の国見て参れと云ひしに、未だ其の左右をば申さぬか、いかに(古今序注)、

と、

結果・状況についての知らせ、音信、

の意にも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。だから、

是非の左右に及ばざる間(太平記)、

と、

よしあしの裁定がなされていない、

という意にまで使う。因みに江戸時代は、

傍より女房が御はじめ申すと、盃手に取り左右するよふな手つきをすれば(明和八年(1771)「遊婦多数寄」)、

と、

合図、

の意で使っている(江戸語大辞典)。

この「左右(そう)」が、「とかく」に当てた、

左右、

の音読みなのだとすると、本来は、

とかく、とやかく言うこと、

とかくの命(おほせ)、指図、

とかくの知らせ、

といった「とかく」の含意を持っていると言える。それは、「そうなし」が、

サウナクは、左右(とかく)の論なくにて、たやすく、言ふまでもなきの意となるなり、此語は、形容詞なれど、サウナク、サウナキとのみ用ゐられて、サウナシ、サウナケレバの形は見えぬやうになり、

と(大言海)、「とかく」の否定の形を持っているのと重なる。

「とかく」は、

指示副詞トカクとの複合語。トはあれ、あのように、の意。カクはこう、このようにの意。状態とか立場・条件などが、あれこれと二つまたはそれ以上あって不確定なさま、

とある(岩波古語辞典)。つまり、

と(副詞・ああ)+かく(副詞・こう)、

であり、

「トカク申すべきにあらず」トカクして出立ち給ふ(竹取物語)、此の二語の間に、他の語を挿みて用ゐること多し。「とニかくニ」「とテモかくテモ」「とニモかくニモ」「とヤかく」「とサマかうサマ」など、その意推して知るべし、

とある(大言海)ように、

とにかく、
とにかくに、
とにもかくにも、

は、

とかく、

に,言葉の語調や言葉を強調する意味で,「に」や「も」を足したというところのようである。「とかく」も、

あれやこれや、

の状態表現から、

どうのこうの、

と価値表現へ転じ、

いずれにせよ、

となり、

ともすれば、

の意へと転じていく。どうやら「そうなし」も「左右」も、「とかく」(あるいは「とにもかくにも」「とにかく」に等々)に置き換えていくと、たとえば、

そうなし→とかくなし、
左右→とかく、

と置き換えても、ある程度意味が重なる。「左右」の読みから、言葉の意味は広がったが「とかく」の意味の幅をそれほどは超えていないようである。

「左」(サ)は、

会意。「ひだり手+工(しごと)」で、工作物を右手に添えて支える手、

とある(漢字源)が、工と、ナ(サ)(=ひだり手)とから成り、工具を取るひだり手、ひいて、ひだり側の意を表す。また、左手は右手の働きを助けるので、「たすける」意に用いる(角川新字源)がわかりやすい。

ただ、この字源は、金文時代の説明にはなっているが、甲骨文字を見ると、そのもとになって「手」を示している字があるはずで、その説明がない。「手」は、五本指の手首を描いたもので、この「左手」とは合わない。しかし、

「左」という字は、甲骨文字ではまるで左手を上に上げた形状をしている。甲骨文字の右の字と相反する。金文と小篆の「左」の字は、下に一個の「工」の字を増やしたものである。ここでの工の字は工具と見ることが出来る、

とあるのでhttps://asia-allinone.blogspot.com/2012/07/blog-post_5.html、「手」を簡略化したものとみられる。

「右」(漢音ユウ、呉音ウ)は、

会意兼形声。又は、右手を描いた象形文字。右は、「口+音符又(右手)」で、かばうようにして物を持つ手、つまり右手のこと。その手で口をかばうことを意味する、

とある(漢字源)。

別に、

会意形声。口と、又(イウ 𠂇は変わった形。たすける)とから成る。ことばで援助することから、みちびく、「たすける」意を表す。のちに、又・佑(イウ)と区別して、「みぎ」の意に用いる、

とある(角川新字源)。

更に、

会意兼形声文字です(口+又)。「右手」の象形(「右手」の意味)と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)から、「神の助け」、「みぎ」を意味する「右」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji118.html

なお、「とにかく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455357293.htmlで「とかく」には触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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参る


「参る」は、

まゐ(参)い(入)るの約、

とあり(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)、

「まゐく(参来)」「まゐづ(参出)」「まゐたる(参到)」などと関連して、「まゐ」と「いる」の結合と考えられる、

とある(日本語源大辞典)。「まゐる」の、

マヰは宮廷や神社など多くの人が参集する尊貴な所へ、その一人として行く意。イルは一定の区域の内へ、外から進みこむ意。従ってマヰルは、宮中や神社など尊い所に参入するのが原義、転じて、参上する、差し上げる意、

とある(岩波古語辞典)が、

貴人の居所に入って行くのが原義(日本語源大辞典)、

と、もう少し絞り込んだ見方もある。「まゐ」は、

参ゐ、

と当て、

貴き所へ行き向かふ意を云ふ敬語。常に他の動詞に冠せられて、接頭語の如く用ゐる。罷るの反なり。音便に、まう、

とあり(大言海)、万葉集に、

斯(か)くしてやなほや退(まか)らむ近からぬ道の閧なづみ参(まゐ)来て(大伴家持)、

と使われているが、

連用形だけが残っていて、活用種類は不明、

とある(岩波古語辞典)が、

終止形が「まう」のワ行上二段活用、

とする説もある(精選版日本国語大辞典)。

「まゐいる」の意味から考えれば、

一日(ひとひ)には千たび参りし東(ひむかし)の大き御門(みかど)を入りかてぬかも(万葉集)、

というような、

参内する、

とか、

御娘の春宮に参り給ふべき御料(宇津保物語)、

と、

入内する、
宮仕えに上がる、

とか、

清水にねむごろに参りつかうまつらましかば(更級日記)、

と、

参詣する、

とか、

二条の后に忍びて参りけるを(伊勢物語)、

と、

(貴人の所へ)参上する、

という、

行くの謙譲語、

としての使い方が原意に沿ったものになる。その意味で、

古き世の一の物と名ある限りは、みなつどひまゐる御賀になむあめる(源氏物語)、

と、

物などが貴人の所へ到来する、

という意で使うのは、人の延長線上にある。さらに、「行く」意の謙譲語として、

我らがやうなる愚痴な者は、合点が参らぬ(狂言・腹立てず)、

という使い方になり、

お宅のほうへ参ります、

等々と使うのも範囲内のことになる。その意味では、

取手、打ちこかして、参ったのと云ふて引込む(狂言・文相撲)、

の、

降参する、

意や、

彼の毒舌には参る、

の、

閉口する、

意や、

さすがにだいぶ参ってきた、

の、

へばる、

意も、

彼女にすっかり参っている、

と、

心を奪われる、

意も(広辞苑)、相手の軍門に降る、という意味では、「行く」の意味の外延に入る、と言えばいえる。また、

此方へ参られよ、

と、「来る」意を、こちらがへりくだって用いることもある。

その意味で、手紙の脇づけに用いる、

不便(ふびん)とおぼしめしやり給ひ候べく候。かしこ。くらさままゐる(御伽草紙・ふくろうの草子)、

という、

〜さままゐる、

も、含意は、

みもとに、

で、「行く」という意味を込めているといってよさそうである。

「行く」意の自動詞「参る」が、

「何かを奉仕するために参上する」ところからか、あるいは、「物が参る」のを、それに関与する人物の奉仕する動作として表したところからか、

他動詞化して、

物などを上位者・尊者に勧める意の謙譲語で、その動作を敬う、

意となり(日本語源大辞典)、

親王に馬の頭(かみ)大御酒参る(伊勢物語)、

と、

差し上げる、

意や、

此方を下げて相手を敬うという意味では、

はかばかしう物なども参らぬ積もりにや(源氏物語)、

と、

召しあがる、

という意でも使う(岩波古語辞典)。ある意味で、謙譲は、相手を上げて、自分を下げるのだから、その視点から相手を見れば、尊敬語となるので、

食ふ、飲む、着る、用ゐる、勧めるなどの敬語、

として使うことになる(大言海)。

この「参る」は、

まゐらす、

という形で(下二段活用)、

参らす、
進らす、

と当て、

御手水など参らする中将の君(源氏物語)、
遊びものども参らせよ(大鏡)、

と、

差し上げる、
獻ずる、

意で使うが、これは、

まいる(参)に、使役の助動詞「す」の付いた「さし上げさせる」「奉仕させる」の意の「まいらす」が、その使役される者を表に出さないで、「さし上げる」動作そのものを表わすように変化して一語化した、

とされる(精選版日本国語大辞典)。これは、転じて、

見まゐらすれ、
問ひまゐらせ候、

というように、

〜して差し上げる、
お〜する、

意で、

動詞の連用形に接続して謙譲の意を添える、

使い方をする(岩波古語辞典)。この、補助動詞としての用法は、

院政時代から「聞こゆ」「奉る」に代わって盛んになった。室町時代には「まらする」「まいする」の形を生じて、謙譲語・丁寧語に用いられたが、あらたまった場面などの謙譲語としては「まいらする」も使用された、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「まゐらす」は、中世に、

まらす、

に転じる(岩波古語辞典)。

本来は下二段活用、終止形は「まらす」のはずであるが、室町時代末ごろ連用形に「まらし」の形も現われ、サ行変格活用としても用いられ、終止形も「まらする」が普通となった、

ともある(精選版日本国語大辞典)。この「まらする」は、

現代語の丁寧の助動詞「ます」の祖形にあたる、

とされる(精選版日本国語大辞典)。

おにがまいって、人をくひまらする程に、用心なされひ(狂言・伯母が酒)、
奥山の朴木(ほおのき)よなう、一度はさやになしまらしょ、一度はさやになしまらしょ(「閑吟集(1518)」)、

と、謙譲語や丁寧語として使われるが、室町時代末期には、

本動詞としては接頭語「お」を付けた「おまらす」の方が普通になって、「まらす」はほとんどみられなくなり、もっぱら補助動詞として用いられる。江戸時代に入ると、語形は「まする」さらには「ます」に変化し、謙譲語としての用法はすたれて、丁寧の助動詞として発達する、

とある(精選版日本国語大辞典)。

まゐらす→まらす→まるする→まっする→まする→ます、

といった転訛らしい。

「います」から転じた「ます(在・坐)」や「申(ま)す」から転じた語形と混合、

したとある(広辞苑)。

「参宮松」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483915572.html?1634326454で触れたように、「參(参)」(漢音呉音サン・シン、呉音ソン)は、

象形。三つの玉のかんざしをきらめかせた女性の姿を描いたもの。のち彡印(三筋の模様)を加えた參の字となる。入り交じってちらちらする意を含む、

とある(漢字源)。他に、

形声。意符晶(厽は変わった形。ひかりかがやく)と、音符㐱(シム)→(サム)とから成る。星座(オリオン座の三つ星)の意を表す。借りて、三(サム みつ)の意に用いる。教育用漢字は省略形の俗字による、

とあり(角川新字源)、さらに、

会意兼形声文字です。「頭上に輝く三星」の象形と「豊かでつややかな髪を持つかんざしを付けた女性の象形」(「密度が高い」の意味)から、「三度(みたび)・加わる・参加する」を意味する「参」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji706.html。いずれにしても、「參」には、「参加」「参政」といった「まじわる」「加わる」、お目にかかる意の「参観」の意はあるが、

神社などに参る、

意や、「降参」の意の、

参る、

という意味はなく、わが国だけの使い方らしい。例えば、

神社にお参りに行く、

意の、

参詣、

は、

王嘉遷于倒獣山、公侯以下咸躬往参詣(晉書・藝術伝)、

というように、

某所に集まり到る、

意とあり(字源)、

参宮、

は、漢語にはない使い方ということになる。

「進」(シン)は、

会意。「辶+隹(とり)」で、鳥が飛ぶように前へ進むことをあらわす、

とある(漢字源)が、

会意形声。「辵」+音符「閵」、「閵」は、「躪(躙)」の古形で「踏む・踏みにじる」の意を有する。進退に関して鳥占をした事によるとも(白川静)、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%B2

会意文字です(辶(辵)+隹)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と、「鳥の象形」から、鳥が飛んでいく、「すすむ」を意味する「進」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji414.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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いかもの


「いかもの」は、

如何物、

と当てると、

如何物食(いかものぐ)い、

の「いかもの」になるし、

嚴物、

と当てると、

嚴物造(づく)り、

の「いかもの」になる。と、一応は区別がつくのだが、どうもそうはいかないようだ。

もともとは、「いかものづくり」は、

嚴物作、
怒物作、
嗔物造、

等々と当てて、

鍬形打ったる甲の緒をしめ、いかものづくりの太刀を佩き(「平治物語(鎌倉初期)」)、

と、

見るからに厳めしく作った太刀、

を指し(岩波古語辞典)、

龍頭の兜の緒をしめ、四尺二寸ありけるいか物作りの太刀に、八尺余りの金(かな)さい棒脇に挟み(太平記)、

では、

金銀の装飾をしていかめしく作った太刀、

と注がある(兵藤裕己校注『太平記』)。

イカモノは、形が大きくて堂々としているもの、

とある(岩波古語辞典)だけでなく、

事々しく、大仰なさま、

をも言っているようである。

「いかめし」は、

厳めし、

と当て、

イカシ(厳)と同根、外に内部のエネルギーが見えるさま、見るからに巨大で、角張り盛んなるさま、

の意である(岩波古語辞典)。

厳見(いかみえ)の約、イカメを活用した語、

とある(大言海)のは、意味は同じである。「いかものづくり」に、

いかにも大仰な、

という含意があるのは、

いかめしげに作った太刀(明解古語辞典)、

という解釈からもうかがえる。大言海は、

富樫記には、鬼物作とあり、古製と、後世の製と、異なりや否やを知らず、姑(しばら)く、貞丈雑記に拠る、

と、その太刀の特徴を詳らかにしないとし、貞丈雑記(江戸後期)の、

いかもの作りの太刀も、銀包みにて、帯取(おびとり)を通す所に、銀の細長輪を七つ入れて、帯取を通すなり一の足、二の足、合わせて、輪十四なり、……鞘には鹿の皮の尻鞘を懸くるなり、一体、慄慄しく、いかつらしく見ゆる故に、いか物作りと云ふ、

という記述に依拠する、としている。

「いかものぐい」は、

常人の食べないものを、わざと食べること、

の意で、

我々にあたへたまへかし、いか物くいにせんとて、口なめずりして(御伽草子「きまん国物語(室町末)」)、

と、

ゲテモノ食い、
悪食(あくじき)、

とも言い(精選版日本国語大辞典)、それをメタファに、

てんぽいか物喰(ものグヒ)に、こむさくろくはおもへど(浮世草子「好色産毛(1695頃)」)、

と、

普通の人が相手にしないような異性を好んで、またはわざと愛する、

意で使い、さらには、

日本人は……思想的に走りを好んで半熟を生噛りにし、イカモノ食ひに舌打ちして得意になる穉(稚)気がある(内田魯庵「読書放浪(1933)」)、

と、

普通の人と違った趣味、または嗜好(しこう)をもつ、

意でも使う(精選版日本国語大辞典)。で、この「いかもの」は、

普通と違っていてどうかと思われるもの、いかがわしいもの、

の意で、その意味で、

本物に似せたまがいもの、にせもの、

の意でも使い、

偽物、

とも当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

イカサマモノの略(広辞苑・すらんぐ=暉峻康隆・大言海)、
イカガモノ(如何物)の略(俚言集覧)、
イカ(如何)にモノ(物)をつけた語、いかがと思われる語(上方語源辞典=前田勇)、
「以下者」は江戸時代の大奥女中の中で、将軍夫人に対面できない身分の低い女中のこと。そのような人たちが食べる下等なものという意味からhttps://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-02-2-0002.html

等々あるが、

如何物師、

という言葉があり、これは、

麽物師(イカモノシ)は即ち是を晒して直ちに新衣を作る(松原岩五郎「最暗黒之東京(1893)」)

と、

いかさまし(如何様師)、

の意とある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。つまりこの「いかもの」は、

いかさまもの、

の意であり、「いかさま」は、

欺罔、

と当て、

いかがわしき情態の意なるか、語彙、イカサマ「人を欺きて、何(いか)さま尤もと承引かしむることに云へり」、イリホガなるべし。いかさま師は、いかさま為(し)なり、イカモノは、イカサマモノの中略なり(つばくらめ、つばめ。きざはし柿、きざがき)、

とある(大言海)。「いりほが」は、

鑿、
入穿、

と当て、

和歌などで、巧み過ぎて嫌味に落ちること、
穿鑿しすぎて的を外すこと、

とある(広辞苑)。いかにも、という感じが過ぎると、いかがわしくなるという意であろうか。

如何様、

は、

磯城島(しきしま)の大和の国にいかさまに思ほしめせか(万葉集)

と、

どのように、

の意や、

何様(いかさま)、事の出来るべきことこそ(保元物語)、

と、

いかにも、
しかり、

という意で使う「いかさま」にも当てる。だから、

いかがなものか、

という解釈が生まれてくると思われる。しかし、「如何物」は、「如何様」を「インチキ」の意の「イカサマ」に当てた当て字と思える。

しかし、やっかいなことに、これで、

如何物、
と、
嚴物、

の区別がついたことにはならないのである。

大言海は、「いかものぐい」に、

嚴物喰い、

と当て、

厳厳(いかいか)しき物喰い、

とし、

慶安、寛文の際に、旗本奴の水野十郎左衛門等、勇侠、殺伐を振舞ひ、其党下の者共も、猛威を示さんと、蚯蚓など食ひし事ある、是なり。柔弱を賤しみ、剛毅を衒ひしなり、江戸時代、剣術の寒稽古に、未明に粥を作り、悪戯に、馬沓(ひづめの裏につけるわら製の履き物)を刻みて、粥の中に投じたるを忍びて食ひしなど云ふこともありき、

とし、俚言集覧の、

いかものぐひ 百物、能毒に拘らず、妄りに食ふことを云ふ、

を引く。ここでは、

嚴物、

如何物、

が区別されていない。

ことごとしさ、

で括っているのだろうか。しかし、江戸語大辞典は、

如何物、

を、

いかさまものの中略とも嗔(いか)めしき物とも、

と両説あるとしながら、

如何物食い、

と、

嚴物作り、

とは区別している。「嚴物作り」とは、

普通以上にいかめしく、仰々しく作ること、

とある。既に、

如何物、

と紛らわしいと言えばいえる。

広辞苑には、

如何物、
如何物食い、

は載るが、「嚴物」は載らない。岩波古語辞典には、

嚴物作り、

は載るが、「如何物」「如何物食い」は載らない。江戸語大辞典には、

如何物、
如何物食い、
嚴物作り、

が載る。江戸時代までは、区別がついていたが、刀が不要になって以降、区別がつかなくなってきたのかもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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澆季


「太平記」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484264044.html?1636314250で触れたように、「澆季(ぎょうき)」は、

世、澆季になりぬと云へども、天理も未だありけるにや、

とか、

世すでに澆季に及ぶと云へども、信心まことある時は、

等々と、たびたび使われる。

「澆」は軽薄、「季」は末の世(広辞苑)、

の意で、

道徳が衰え、人情が浮薄となった時代、

で、

末世、

の意とある(仝上)。「澆」は、中国最古(100年頃)の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、

澆、薄也、季、末也、

とある(大言海)。

世の末となり、人情軽薄なる時代、

の意である(仝上)

澆は、うすしと訓む。次第に薄くなる義、漓(醇の反、薄い酒。転じて人情世態のうすきに用ふ)に同じ、後漢書「澆醇散樸」、

とある(字源)。「樸」は、「朴」と同じ、「質樸(シツボク)」「純樸(ジュンボク)」「素樸(ソボク)」と使う。

「澆季」を使う熟語に、

澆季溷濁(ぎょうきこんだく)、
澆季之世(ぎょうきのよ)、
澆季末世(ぎょうきまっせ)、

等々がある。いずれも、

思いやりなどの人らしい感情が薄くなり、善悪や正邪の基準がおかしくなって、世の中が乱れること、

であり、まさに、いまの、

いまだけ、金だけ、自分だけ、

の時代そのものでもある。

「澆」(慣用ギョウ、呉音・漢音キョウ)は、

会意兼形声。堯(ギョウ)の原字ば、人が高く荷を担いださま。のち「土三つ(うずたかく盛った土)+人のからだ」を組み合わせたもの。背の高い人、崇高な巨人を示した会意文字(聖天子堯も「高い巨人」の意を踏まえている)。澆は、「水+音符堯」で、高いところから水をふりかけること、

とある(漢字源)。「澆灌(ギョウカン)」と「注ぐ」という意と、「はらはらとふりかける水のようにすくないさま」で、「澆季」「澆薄」と「薄い」意で使う(仝上)。「うすい」意の漢字は、

薄、厚の反、分(ぶ)のうすきなり、総じて徳のうすきにも、薄徳、薄俗などと使う、
菲、野菜の粗末なるものなり、転じて菲薄の義に用ふ、
涼、薄と同じ、涼徳は薄徳に同じ、
漓、醇の反、薄い酒。転じて人情世態のうすきに用ふ、
澆は、うすしと訓む。次第に薄くなる義、漓に同じ、
偸、苟且(こうしょ かりそめ、また、いいかげん)なり、又、薄なり、佻(チョウ 軽い)なり、人情・風俗などの次第に変わりて薄らぐをいう、
淡、あはしと訓む。濃の反なり、色叉は味のうすきなり、

と、使い分けられている(字源)。

「季」(キ)は、

会意。「禾(穀物の穂)+子」。麦やあわの実る期間。作物のひと実りする三ヶ月間。収穫する各季節のすえ、禾に子を加えて、すえの子を意味する。のちに広く、末(すえ)の意に用いる、

とある(漢字源)。他に、

会意形声。子と、稚(チ)→(キ)(おさない。禾は省略形)とから成る。末っ子の意を表す。ひいて、おさない意に、また、循環する「とき」の意に用いる、

という解釈(角川新字源)、さらに、

会意文字です(禾+子)。「穀物」の象形と「頭部が大きくて手・足のなよやかな幼児」の象形から、穀物の霊に扮して(装って)舞う年少者を意味し、そこから、「若い・末の子」を意味する「季」という漢字が成り立ちました、

という解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji667.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)

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亢龍悔い有り


「亢龍」は、

こうりゅう、
とも、
こうりょう、

とも訓ます(広辞苑)。

天に高く昇りつめた龍、

つまり、

昇り龍、

である(仝上)。

亢龍悔い有り、

という言い方をする。

栄達を極めた者には、もはやのぼりる道もなく、凋落しかないという悔いがある、

つまり、

物事は絶頂を極めると、必ず衰えること、

をいう(仝上)。

禅師(俊明極)、勅使に向かって、この君(後醍醐帝)亢龍の悔いありと云へども、二度(ふたたび)帝位を践(ふ)ませ給ふべき御相ありとぞ申されける(太平記)、

の用例が有名である。

「亢龍の悔い有り」は、易経の引用で、『易経』周易上経・乾卦に、

亢龍有悔、

とあるのによる。「乾」には、

乾、元亨利貞(乾は、元(おお)いに亨(とお)りて貞(ただし)しきに利(よ)ろし)。
初九、潜龍。勿用(潜龍(せんりょう)なり。用うるなかれ)。
九二、見龍在田。利見大人(見龍田に在り。大人を見るに利ろし)。
九三。君子終日乾乾。夕タ若。持ル咎(君子は終日乾乾(けんけん)し、夕べにタ若(てきじゃく)たり。氏iあや)うけれど咎なし)。
九四。或躍在淵。无咎(あるいは躍(おど)りて淵に在り。咎なし)。
九五。飛龍在天。利見大人(飛龍天に在り。大人を見るに利ろし)。
上九。亢龍有悔(亢龍悔いあり)。
用九。見羣龍无首。吉(群龍首(かしら)なきを見る。吉なり)。

とある。太平記は、上記の文に続いて、

されば、君(後醍醐帝)、武臣のために囚はれて、亢龍の悔いに遭ひ給ひけれども、かの禅師の相し申したる事なれば、再び九五の聖位を践ませ給はん事、疑ひなしと思し召しけるによって、なほ落髪の御事は、暫らくあるまじき由を強ひて仰せ出だされける、

とある。この「九五」は、易経の、

九五。飛龍在天。利見大人。

であり、

天子の位をいう、

とある(兵藤裕己注)。易の占筮については他https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E7%B5%8Cに譲るが、

上九。亢龍有悔

については、こうある。

上九は陽剛居極。天を昇りつめて降りることを忘れた龍。勢位を極めておごり亢(たか)ぶれば、却って悔いを残すことにもなる、

と(高田真治・後藤基巳訳『易経』)。さらに、

九五。飛龍在天。利見大人。

については、

陽剛中正、飛んで点に昇った龍。才徳が充実し志を得て人の上に立った者にもたとえられようが、なお在下の大人賢者(九二)を得てその助けを借りることを心掛けるとよい(彖伝、文言伝は大人をこの九五の君とする)、

とある(仝上)。ちなみに、

初九、潜龍。勿用。

は、

初九は最下の陽剛、たとえれば地下に潜む龍、才徳があっても軽々しくこれを用いることなく、修養して時機の到来を待つべきである、

九二、見龍在田。利見大人。

は、

九二は陽剛居中。龍が田(地上)に姿を現したように、その才徳もようやく明らか。目上の大人(九五)に認められれば、おのれを伸ばす好機会である、

九三。君子終日乾乾。夕タ若。持ル咎。

は、

九三は下卦の極。警戒を要する危位。君子たる者、終日つとめはげみ、夕べにまた反省してタ(おそ)れ慎むことを忘れなければ、危ないながら咎は免れる、

九四。或躍在淵。无咎。

は、

九四は下卦から上卦にのぼったはじめ。将来の躍進を目前にして、なお深淵に臨む時の心構えで身を慎めば咎を免れる。

用九。見羣龍无首。吉。

は、

用九。むらがる龍が姿を現しながらもその頭を示さぬよう、才徳をひけらかすことなく従順で控え目にすれば吉、

とある(仝上)。

「亢」(コウ)は、

会意。「大(人の姿)の字の略形(亠。人の首にあたるところ)+‖印(まっすぐな首の線)」で、直立するの意味を含む。頏(コウ のど)・抗(コウ 立ってふせぐ)・杭(コウ まっすぐにたったくい)に含まれる、

とあり(漢字源)、「亢然」というように、「たかぶる」「すくっとたつ」意である。別に、

象形文字で、のどの膨れた形を象る。気分が高くなると、のどの活動が高くなることから、「たかぶる」という意味になった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%A2

「龍」(漢音リョウ、呉音リュウ、慣用ロウ)は、

象形。もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それにいろいろな模様を添えて、龍の字となった、

とある(漢字源)。別に、

象形。もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、「龍」となった。意符としての基本義は「うねる」。同系字は「瀧」、「壟」。古声母は pl- だった。pが残ったものは「龐」などになった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D

参考文献;
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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