「ねぎらう」は、 労う、 犒う、 と当てる(広辞苑)。 乃(すなわ)ち自ら往き迎へてねぎらふ(欽明紀)、 百済国に遣して其の王を慰労(ねぎら)へしむ(神功紀)、 と(斉明紀では、「賜労(ねぎら)ふ」と当てている)、 骨折りを慰める、 労を謝する、 意である(広辞苑・岩波古語辞典)。「ねがふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483450086.html?1631819332)で触れたことと重なるが、「ねぎらう」は、 ネギはネグ(祈・労)と同じ、 とあるように(岩波古語辞典)、 ネ(祈)グと通ず(大言海)、 ネギ(祈願・労う)+らう(動詞化)(日本語源広辞典)、 ネ(祈)グから(国語の語根とその分類=大島正健)、 奈良時代の上二段動詞「ねぐ(労ぐ)」で、神の心を和らげて加護を祈る意。また相手の労苦をいたわる意(由来・語源辞典)、 等々、「ねぐ(祈・労)」と重なる。 「ねぐ」は、 祈ぐ、 労ぐ、 等々と当て、 神などの心を安め和らげて、その加護を祈る、 意であり(岩波古語辞典)、この名詞化が、「禰宜」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483417211.html?1631647344)で触れたように、 神の心を慰め和らげ祈請の事にあたる、 禰宜、 とする説もあり(日本語源広辞典・岩波古語辞典)、別に、「ねが(願)ふ」の、 ガフ[g(af)u]が縮約されてネグ(祈ぐ)に変化し、その連用形の名詞化、 が「禰宜」となったとする説(日本語の語源)もあるが、「願ふ」は、 祈(ね)ぐの延(大言海)、 ネギ(労)と同根、神などの心を慰め和らげることによって、自分の望むことが達成されるような取り計らいを期待する意(岩波古語辞典)、 ネグと同根。ネグは「禰宜」、「ねぎらふ」のネギと同源(日本語の年輪=大野晋)、 と、 願ふ、 祈ぐ、 労ぐ、 は、ほぼ重なるのである。別に、音韻変化からみた場合、 神仏に願い望むことをコフ(乞ふ・請ふ)という。カミコヒメ(神乞ひ女)は語頭・語尾を落としてミコ(巫女)になった。さらにいえば、心から祈るという意味で、ムネコフ(胸乞ふ)といったのが、ムの脱落、コの母韻交替[ou]でネカフ・ネガフ(願ふ)になった。ネガフ(願ふ)を早口に発音するとき、ガフ[g(af)u]が縮約されてネグ(祈ぐ)に変化した。その連用形の名詞化が『禰宜』である。また、カミネギ(神祈ぎ)はカミナギ・カンナギ(巫)に変化した(日本語の語源)、 あるいは、逆に、 ネ(祈)グの未然形ネガに接尾語フのついた語(広辞苑・日本語源広辞典)、 ネグ(祈)の延(大言海)、 ネギラフのネギと同源(日本語の年輪=大野晋)、 との両説があり、 ネガフ(願ふ)→ネグ(祈ぐ)、 に転訛したのか、あるいは、 ネグ(祈ぐ)→ネガフ(願ふ)、 に転嫁したのかは、はっきりしないが、 願ふ、 祈ぐ、 労ぐ、 は、音韻的にも同源のようなのである。 なお、同義の「いたわる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451205228.html)の、 イタは痛。イタハリと同根。いたわりたいという気持ち、 とあり(岩波古語辞典)、 (病気だから)大事にしたい、 大切に世話したい、 もったいない、 といった心情表現に力点のある言葉になっている。この言葉は、いまも使われ、 骨が折れてつらい、 病気で悩ましい、 気の毒だ、 大切に思う、 と、主体の心情表現から、対象への投影の心情表現へと、意味が広がっている。だから、たとえば、 イタイ(痛い)→イタム(傷む)→イタワシ(労わし)→イタワル(労わる)、 と、おおよそ、主体の痛覚から、心の傷みに転じ、それが他者へ転嫁されて、他者の傷みを傷む意へと、転じていったとみることができ、「ねぎらう」とは、まったく由来を異にしている。 「勞(労)」(ロウ)は、 会意。勞の上部は、火を周囲に激しく燃やすこと。勞は、それに力を加えた字で、火を燃やし尽くすように、力を出し尽くすこと。激しくエネルギーを消耗する仕事や、その疲れの意、 とある(漢字源)。別に、 会意。力と、熒(けい)(𤇾は省略形。家が燃える意)とから成る。消火に力をつくすことから、ひいて「つかれる」、転じて「ねぎらう」意を表す、 ともある(角川新字源)。さらに、 会意文字です(熒の省略形+力)。「たいまつを組み合わせたかがり火」の象形と「力強い腕」の象形から、かがり火が燃焼するように力を燃焼させて「疲れる」、また、その疲れを「ねぎらう」を意味する「労」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji719.html)。 「犒」(コウ)は、 形声。「牛+音符高」、 で、 飲食物を贈って、陣中の将兵をなぐさめる、またその飲食物、 の意とある(漢字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「いなご」は、 蝗、 稲子、 螽、 等々と当て(https://hyogen.info/word/909857・広辞苑)、 蝗虫(こうちゅう)、 とも言う(デジタル大辞泉)。 古くは、擬人化して、接尾語「まろ」を加えた、 いなごまろ(稲子麿)、 と呼んだ(日本語源大辞典・岩波古語辞典)。『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)には、 蚱蜢(さくもう) 以奈古末呂、 と載り(仝上)、平安末期の『梁塵秘抄』には、 茨小木の下にこそ、鼬が笛吹き猿奏でかい奏で、稲子麿賞拍子つく、さて蟋蟀(きりぎりす)は鉦鼓の鉦鼓のよき上手、 とある。また、 イナゴ、バッタ、キリギリス、 等々の俗称として、 祇園林も近ければねぎ殿といふ虫も有(浄瑠璃・弘徽殿鵜羽産家)、 と、 禰宜殿(ねぎどの)、 とも呼ぶ(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。 「いなご」は、 稲子の「子」は、殻子(カヒコ)、呼子鳥など云ふに同じ(大言海)、 イナカム(稲噛)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、 イネクキモリ(稲茎守)の義(日本語原学=林甕臣)、 イナクヒ(稲喰ひ)が語尾を落としてイナゴ(蝗)(日本語源広辞典)、 等々の説があるが、 稲の葉につく虫、 という意味で、「稲子」からきていると見るのでいいのではないか。イナゴは、 イネの成育中または稲刈り後の田んぼで、害虫駆除を兼ねて大量に捕獲できたことから、昔から内陸部の稲作民族に不足がちになるタンパク質・カルシウムの補給源として利用された、 とあるのだから(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B4)。 「いなご」にあたる漢字には、 螽(シュウ)、 蠜(ハン)、 蝗(コウ)、 等々がある。 蝗螽(こうちゅう)、 螽斯(しゅうし)、 も「いなご」を指す(字源)が、 「蝗」(こう)は、日本で呼ばれるイナゴを指すのではなく、ワタリバッタが相変異を起こして群生相となったものを指し、これが大群をなして集団移動する現象を飛蝗、これによる害を蝗害と呼ぶ、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B4)。日本では、 トノサマバッタが「蝗」、すなわち群生相となる能力を持つが、日本列島の地理的条件や自然環境では、この現象を見ることはほとんどない。そのため、「蝗」が漢籍によって日本に紹介された際、「いなご」の和訓が与えられ、またウンカやいもち病による稲の大害に対して「蝗害」の語が当てられた、 とある(仝上)。 もっとも、「螽斯」を、 きりぎりす、 とする説もある(漢字源)が、「螽斯」について、「太平記」に、 「螽斯の化行われて、皇后元妃の外、君恩誇る宮女、甚だ多かりしかば、宮々次第に御誕生ありて、十六人までぞおはしましける」 とあり、「螽斯」つまり「いなご」を、 後宮の女たちがお互いに嫉妬せずいなごのように子孫が増えること、 の意で使っている。出典は「詩経」(周南 「螽斯」)に、 螽斯羽(螽斯(しゅうしう)の羽) 詵詵兮(詵詵(しんしん)たり) 宜爾子孫(宜(むべ)なり爾(なんじの)子孫) 振振兮(振振たり) とある(https://ncode.syosetu.com/n0421gm/6/他)のによる。 「蝗」(漢音コウ、呉音オウ)は、 会意兼形声。「虫+音符皇(=徨、四方に広がる)、 とあり、 「螽」(漢音シュウ、呉音シュ)は、 会意兼形声。「虫+虫+音符冬(たくさんたくわえる)」で、幼虫を多く巣の中へたくわえて異常発生する虫のこと、 とある(漢字源)。いずれも「いなご」を指す。ただ、「蝗」は、 群れを成して四方に広がる、 含意があり、「螽」は、 一度にたくさん子を産む、 という含意があり、 子孫繁栄のしるし、 とされ(仝上)、 螽斯詵詵(シュウシセンセン)、 という言葉があり、 螽斯は蝗の類、はたおり、一回に九十九子を生む、詵詵は和らぎて多く集まる、夫婦和合して子孫の多きに喩ふ、 とあり(漢字源)、上述のように、 螽斯羽詵詵兮、 宜爾子孫振振兮(周南)、 と詠われ(仝上)、「蝗」と「螽」とは、微妙な意味の差がある。 なお、虫追いについては「実盛送り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482409402.html)で触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 兵藤裕己校注『太平記』(岩波文庫) 「もがり」は、 殯、 と当てる(広辞苑)。 あらき(殯・荒城)、 ともいう。日本古代の葬制で、 喪屋を造りて殯し哭く(神代紀)、 大君の命畏み大殯(あらき)の時にはあらねど雲隠ります(万葉集)、 と、 貴人の本葬をする前に、棺に死体を納めて仮にまつること、またその場所、 の意である。古代皇室の葬送儀礼では、 陵墓ができるまで続けられ、その間、高官たちが次々に遺体に向かって誄(しのびごと)をたてまつった、 とあり(百科事典マイペディア)、 殯の萌芽形態は、《魏志倭人伝》にすでに見えており、古代日本のみならず、中国南部から中部インド、メラネシア、ポリネシアなどに広く分布する複葬形式の一つと認められる、 ともある(世界大百科事典)。『隋書』「東夷 俀國」には、 死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ、 とあり、また、『隋書』「東夷 高麗」(高句麗)には、 死者は屋内に於て殯し、3年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF)。倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にした(仝上)。 これは、 近親の者が諸儀礼を尽くして幽魂を慰める習俗、 とも、 死者のよみがえりに求める、 ともあり(世界大百科事典)、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬したので、 長い殯の期間は大規模な墳墓の整備に必要だった、 とも考えられる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF)、ともある。 あらきのみや(殯の宮)、 は、 あらきの場所を尊んでいう、 仮宮、 であるが、 もがりの宮、 あがりの宮、 ともいう。「あらき」は、また、 かりもがり(殯)、 とも言う(広辞苑)が、 仏、涅槃に入り給ひぬれば、阿難、仏の御身をかりもがりし奉りて(今昔物語集)、 と、要は、 死人を本葬する前、しばらくその死骸を棺に入れて安置すること、 である(仝上)。これは、 死者の霊を慰める、あるいは故人を偲ぶといった意味・意義のある行いである。日本古来、殯は「貴人の弔い方」として営まれてきた。現代においては、皇室でのみ(天皇、皇后の崩御した際にのみ)営まれる。現代の通夜(つや)は、殯を短縮・形式化した習わしとも言われている、 とある(実用日本語表現辞典)。 「もがり」の語源は、 喪あがりの意(広辞苑) もあがりの略、モは凶事、アガリは崩御(カンアガリ)の義(无火殯斂(ほなしあがり)のアガリと同じ(大言海)、 もあがり(喪上)の約、アガリはカムアガリのアガリで、貴人の死を言う(岩波古語辞典)、 モ(喪)+アガリ(神上り、崩御)(日本語源広辞典)、 が大勢の説だが、 モバカリ(喪許)の義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 カリモ(仮喪)の倒置(上代葬儀の精神=折口信夫)、 等々もある。しかし、 もあがり、 でよさそうである。因みに、无火殯斂(ほなしあがり)とは、 竊かに天皇の屍を収めて…豊浦宮に殯(もがり)して、无火殯斂〈无火殯斂、此をば褒那之阿餓利(ホナシアガリ)と謂ふ〉を為(書紀(720)仲哀九年二月)、 というように、 死を秘するために、灯火をたかないで殯(もがり)をすること、 とある(精選版日本国語大辞典)。 「あらき」は、 アラはアライミ(粗忌)のアラと同根。略式の意。キは棺(岩波古語辞典)、 ウラキ(新棺)の義。キはオクツキ(奥城)の意。説文「殯、死在棺、将遷葬柩、賓遇之」(大日本国語辞典・大言海・日本古語大辞典=松岡静雄・日本語源=賀茂百樹)、 アラカキ(荒籬)の略(万葉考・松屋筆記)、 等々の諸説あるが、「仮」の意味で、「アラ」は、荒・粗なのではないか。 「殯」(ヒン)は、 会意兼形声。「歹(死体)+音符賓(ヒン お客、側にいる相手)で、死体のそばにいる客として、しばらく身辺に安置すること、 とある(漢字源)。やはり、 於我殯(論語)、 と、 埋葬する前に、しばらくの間死体を棺に納めたまま安置する、 意である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「虎落笛(もがりぶえ)」というのは、 冬の烈風が柵・竹垣などに吹き付けて、笛のような音を発するのをいう、 とある(広辞苑)。 冬の烈風がこれに吹き付けるときに鳴る「ひゅーひゅー」という音、 を指す(日本大百科全書)が、 物理的には障害物の風下側にできるカルマン渦によって起こるエオルス音、 とある(百科事典マイペディア)。「カルマン渦」とは、 流体中を柱状物体が適当な速さで動く(物体が静止し流体が動いても同じ)と、物体の左右両側から交互に逆向きの渦が発生し、規則正しく2列に並ぶ。名称はカルマンにちなむ、 とあり(仝上)、同じ原理による、 むちの音、 電線に風が当たって生じる音、 等々を含めて「エオルス音」という(仝上)。 「虎落(もがり)」は、日葡辞書に、 モガリヲユウ、 とあるように、 軍(いくさ)などのときに、先端を斜めに削いだ竹を筋違いに組み合わせて、縄で繁く結い固めて柵としたもの、 とある(仝上)。 模雁、 茂架籬、 と当てることもある(世界大百科事典)。 矢来、 竹矢来、 と同じともある。竹を縦横に直交して組んだものは、 角矢来、 といい、切丸太を約30m間隔で掘立柱とし、根元には根がらみ貫(ぬき)、その上に通し貫を2本ほど水平に通して、縄で結びつけて固めたものは、 丸太矢来、 あるいは、 丸太柵、 ともいう(仝上)。ただ、「もがり」は、 モガリ竹ハ枝をソギてもくまじき也、又所々木の柱をたつる也(築城記)、 とあるように、 くいを打って横木を結び、それによせて竹の尖ったものを腰の高さに植え込んだもので、野獣の侵入を防ぐためのものであるが、防戦攻戦共に用いる。竹串を一面に埋め込んだりもする、 と、 逆茂木、 同様に、防戦用に設けられる。その場合、 虎狩落とし、 とも当てる。そうした備えを、 虎落落としの備え、 というらしく(武家戦陣資料事典)、 もがり竹百間に付貮千三百本、但フス竹共、 とある(仝上)。かなりの量を使う。 敵が落とし込むような穴を掘って底に鋭い竹や鉄を植え、……表面には布を張ってその上に木の葉や砂を撒いてカムフラージュする(図説 日本戦陣作法事典)、 とも、 竹片の先を鋭くとがらせて、これをたくさん敵の方に向けて地に植えたもので、仕寄(しよせ)道(攻め口)の濠内や、敵の寄せそうな土地に設備する(図説日本合戦武具事典)、 ともある。だから、 「虎落は竹を筋違に組み合わせて埋め立て、繁く縄をもって結び固るなり」(海国兵談)……では塀の上に設ける「忍び返し」や「竹矢来」になってしまう、 とある(仝上)のである。つまり、「虎落」は、本来、 竹矢来、 とは異なると言っていい。矢来は、 矢来垣、 というように、 竹や丸太を縦横に粗く組んだ、仮の囲い、 であり、 やらい(遣)から、 というように、あくまで、 追い払う、 ための柵である(精選版日本国語大辞典)が、虎落は、攻撃的な意図が、削いだ竹尖にうかがえる。 ちなみに、「逆茂木」は、 木の枝を無数に並べて植え込んだもので敵の進出しそうな所へ設ける。植え方は先を敵の方へ向け一面に植えると引き抜きがたく、これを翦り払っていると其処を飛道具で撃つからうっかり近寄れない。これを撤去するには焼草を多量に積んで焼き落とすより他に方法がない、 とある(武家戦陣資料事典)。「逆茂木」は、 逆虎落(さかもがり)の約、 とされる。 敵の侵入を防ぐために、棘木(いばら)の枝の、鹿角の如くなるを、逆立て、垣に結った柵、 で、 鹿砦(ろくさい)、 鹿角砦(ろっかくさい)、 ともいう。まさに、「虎落」と同じ目的である。 なお、「虎落」は、 こらく、 と訓むと、中国では、 粗い割り竹を連ねて作る垣のこと、 とあり(学研全訳古語辞典・デジタル大辞泉)、 トラをふせぐ柵の意、 ともある(https://www.kanjipedia.jp/kotoba/0002042500)。しかし、『漢書』鼂錯伝に、 為中周虎落、 とあり、師古註に、 虎落者、以竹篾相連遮落之也、 とあるので、 踏み込むと足に刺さり、転がり落ちると身体に刺さる危険な道具で、穴を掘って底に鋭い竹を無数に並べ、虎が落ちると捉える仕かけ、 からこの名がついた(図説日本合戦武具事典)とあるので、本来は攻戦的な「虎落落とし」に近い。とすると、「もがり」に、 虎落、 を当てたのは慧眼かもしれない。「もがり」は、 竹を並べ行馬のごとく、毎節に枝を存し、物をかけほすに便りするをいふは、曲りの義なるべし(和訓栞)、 マガリ(曲)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 もぎはもがり也、かり反ぎ也(和訓栞)、 等々もあるが、 捥木(もぎき)の義、夫木抄(鎌倉後期)に、「世の中は、關戸に防ぐ逆茂木の、もがれ果てぬる、身にこそありけれ」、これ、枝葉を捥がれたる竹木にわたれど、多くは竹なれば、タカモガリと云ふ(大言海)、 もがれ木の意(広辞苑)、 と、枝葉を払った竹を使うためだろう。ただ、 また竹の枝付きの立てかけたもの、 も「虎落」というらしい(日本大百科全書)が、これは、「虎落」が、本来の防御柵の意から、転じて、 枝のついた竹を並べて作った物干し、特に、高く設けた紺屋の干場、 を意味する(広辞苑)ようになってからのことだと思う。
「団七縞(だんしちじま)」は、 太い柿色の弁慶縞、 をいう(広辞苑)。 「団七」には、人形浄瑠璃・歌舞伎狂言の、 『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』(延享二年(1745)、大阪竹本座初演)、 の、 団七九郎兵衛、 の「団七」と、歌舞伎狂言の、 『宿無団七時雨傘(やどなしだんしちしぐれのからかさ)』(明和五年(1768)、大阪竹田芝居初演)、 の、 団七茂兵衛、 の「団七」と、二系統がある。 「団七縞」は、前者で、 義兄弟の契りを交わした団七九郎兵衛と一寸徳兵衛が、 団七九郎兵衛は柿色 一寸(いっすん)徳兵衛の浴衣は藍色、 と、お揃いの格子柄の浴衣を着て登場する(https://www.suehiroya-suehiro.com/entry/2018/06/20/233000)、とある。この、 帷子の模様、 の衣裳にちなんで呼ばれた(広辞苑)。 団七格子、 ともいい、 うすがきの団七じまのかたびら(文化十年(1813)『浮世風呂』)、 と、庶民の間で流行した(江戸語大辞典)。 嚆矢は、団七なる悪党が親殺しをした事件(雅俗随筆)を題材にした、 『宿無団七』(元禄十一年(1698)初代片岡仁左衛門初演)、 で、これ踏まえてできたのが、延享二年(1745)の魚売りの殺人事件(摂州奇観)を取り込んだ、浄瑠璃の、 『夏祭浪花鑑』 で、ここで、 団七九郎兵衛(だんしちくろべえ)、 釣船三婦(つりぶねのさぶ)、 一寸徳兵衛(いっすんとくべえ)、 の三人の侠客が描かれる。「団七」は、 文楽人形の中年の男のかしら(首)、 の名でもあるが、これは、この役に由来する(日本伝奇伝説大辞典)。それは、 太くたくましい立ち眉、ぎろりとしたどんぐり眼、横に張った小鼻、大きく開閉する目、ぐっと力んだところはいかにも豪快である。塗色は卵色。大団七と小団七とあって、大団七は「国性爺合戦」の和藤内、「御所桜堀河夜討」の武蔵坊弁慶などの時代物の荒立役に、小団七は「義経千本桜」のいがみの権太などに用いられる、 とある(https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E5%9B%A3%E4%B8%83)。もっとも、現在の団七の役には、「文七」をもちいる、とある(日本伝奇伝説大辞典)
文楽人形の頭(かしら)の「文七」とは、 「だんびら」は、 段平、 とあて、 段平物、 という言い方もする(広辞苑)が、 平広、 とも当てる(江戸語大辞典)、とある。 刀の幅の広いこと、 を指すが、単に、 刀、 の意でも使う(広辞苑)。 だびら、 だんぴら、 ともいう。 透間に切込むだんびらに眉間をわられて頭転倒(づでんだう)(延享四年(1747)浄瑠璃「義経千本桜」)、 かんねんしろと水も溜まらぬダンビラ物を、半七めがけてぬきくれば(文久(1861〜64)「春秋二季種)) といった使い方をみると、どうも、 太刀、打刀などの刀の、幅広きモノの称、 とある(大言海)が、使用例は、広く、 刀、 そのものの意としか思えない(「かたな」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450320366.html)については触れた)。 「だんびら」は、 「だびらひろ(太平広)」の変化した語(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典) ダビラビロの略転(貞丈雑記・松屋筆記・大日本国語辞典)、 タヒラヒロ(平広)の転(大言海)、 タヒラ(平)の変化した語か(俚言集覧)、 と諸説ある。確かに、江戸時代後期の有職故実書『貞丈雑記』にも、 太刀打刀なとでの幅広きを、だんびら物といふは、だびらひろという詞を略したるなり、……だびらひろといふは、太平広なるべし、大いに平くひろきなり、 とあり、 ダビラビロ(ダビラヒロ)→ダンビラ→だびら、 という転訛のようなのだが、どうも、もともとの意味が見えなくなっているのではないか、という気がする。確かに、 太平狭(だびらせば)、 太平広(だびらひろ)、 という言い方がある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1415878749)らしいので、 刀の幅、 を指しているのには違いないが、日本刀の造り込みには、大別して、 鎬(しのぎ)造り、 と、 平(ひら)造り、 に分けられ、鎬造りは、ほとんどの日本刀はこの造り込みで作られており、 本造り、 ともいい、 鎬筋(刀身の側面(刃と棟の間)にある山高くなっている筋)と、横手(切先の下部にある線のことで、刀身と切先の境界線です。横手筋(よこてすじ)とも言う)のあるもので刀の基本形、 となるのに対して、平造りは、 鎬筋無く平面のもので、短刀や小脇差に多い、 とある(http://www.nihontou.net/kiso-meisyou1.htm・https://www.touken-world.jp/tips/55304/他)。 その「平造り」の中で、 広い豪壮な平造り、 を、 大段平(おおだんびら)造り、 といい、 ダンビラ、 とも呼ばれている(https://www.higotora.com/cp-bin/blogn/index.php?e=319)、とある。そして、 平造りの御刀は、鎬造りでは鏡面仕上げされる鎬が無いため、地鉄の美しさ、鉄質の良さ、鍛えの質の高さを、存分に味わう事が出来ます、 ともあり(仝上)、。 大段平造り短刀、 を紹介している(仝上)。 こう考えると、「だんびら」は、 平造りの刀の一種、 を指していた、とみられる。ただ、「大段平」といった時、幅だけを指していない可能性もあり、 南北朝時代になると、馬上での打物戦(うちものせん)が盛んになります。打物とは、太刀や刀、薙刀(なぎなた)や槍など、打物と総称される武器での戦いです。そしてこの時代には太刀の刃長も伸びて三尺以上もある大段平(おおだんびら)が出現し、腰刀の刃長も伸びて二尺以上もある腰刀が現れます。こうして刃長が伸びた腰刀が後の刀へとつながったとする説もあります、 とある(http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/kubunn.htm)。ただ、 寸法が長く、身幅が広く、反りがやや浅い大段平、 は、 大段平大切先、 と呼び、 南北朝に入ると、戦闘方法が歩兵による集団戦へと移行し、騎馬の主人の回りを従者の歩兵が囲むという形になってきたため、その歩兵を払いのけるための大太刀が出現しました。これは薙ぎ払うための刀ですので、長さは二尺八寸(約85センチ)前後が定寸で、四尺、五尺といったものまであり、身幅が広いので重量軽減のため重ねを薄くしているのが特徴です。……身幅が広いので切先は必然的に大切先となります。このように長寸で身幅が広く大切先となった太刀を大段平(おおだんびら)、大太刀(おおだち)と呼びます、 とある(https://nbthk-sword.com/tag/%E5%A4%A7%E6%AE%B5%E5%B9%B3/)。ただ、このような大段平は長すぎるので、 普通は馬上の武将は持たず徒歩で従う従者に持たせておいて、持たせたまま柄を握って引き抜くというようにして使います。ですから戦いの途中で従者がやられたり追い払われると役に立たず、また大太刀に対抗する鎗や薙刀が多用されて馬上での戦いが不利になってきたので、この大太刀の流行はごく短期間で終わっています、 ともある(仝上)。 ちなみに、「太刀」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464272047.html)で触れたように、「太刀」は、 刃長が二尺(約六〇センチ)以上、平安時代以降の鎬(しのぎ)(刃と峰との間に刀身を貫いて走る稜線)があり、反りをもった日本刀で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用する。馬上での戦いを想定したもので、反りが強く長大な物が多い、 のにたいして、「打刀(うちがたな)」は、 指し刃を上向きにして腰に差す。室町時代後期武士同士の馬上決戦から足軽による集団戦が主になるにつれ、徒戦(かちいくさ)(徒歩による戦い)に向いた打刀が台頭した。反りは刀身中央でもっとも反った形(京反り)で、腰に帯びたときに抜きやすい反り方、 である。 ところで、刺身の切り方に、 平造り、 というのがあるのは、 そぎ造り、 に対して、 同じ形の刺身が重なっている様、 を言うらしい(https://tabetemoraitai-ryouriha-arunodesuga.com/%E5%88%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%88%87%E3%82%8A%E6%96%B9/)。「ダンビラ」とは直接の関係ないとは思うが、「平(たいら)」に切るのを指している。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「仙人」は、 僊人、 とも当てる(広辞苑)が、「仙」は「僊」の俗字である。「仙」は、 もとも「僊」「遷」につくり、僊人とは遷り棲む人を意味し、遷り棲む所が山であるところから「䙴」を「山」に改め、「仙人」の語ができた、 とある。中国最古の字書(後漢)『説文解字(せつもんかいじ)』に、「䙴」は、 高きに升(のぼ)るなり、 とあり、遷も、 高きに登渉する、 とある。僊の本義も、 飛揚升高、 で、いずれも、 高い所に昇ること、 であった(日本大百科全書)。そこで僊人とは、 人間が高い所に昇って姿を変えた者と考えていた、 と思われる。仙の字も、後漢末の辞典『釋名』には、 老而不死曰仙、仙僊也、僊入山也 とある(仝上・大言海)ので、世俗を離れて山中に住み、修行を積んで昇天した人を仙人と考えていた、と思われる。『史記』封禅書では、 僊人、 『漢書』芸文志では、 神僊、 と表記している(仝上)。 平安時代の漢字字書『類聚名義抄』では、 「僊」をヒジリ、「神仙」を「イキボトケ」、 平安末期の古辞書『伊呂波字類抄』では、「仙人」を、 亦僊と作す、 とあり、鎌倉末期の辞書『平他字類抄(ひょうたじるいしょう)』では、「仙」を、 ヒシリ、セン、 と訓し、鎌倉初期の歌学書『八雲御抄』では、「仙」を、 山人ともいふ、 と訓じている(仝上)。 いわゆる「仙人」と呼ぶものには、 道教における神仙、 と、 仏教における仙人、 とに大別される(日本伝奇伝説大辞典)。 道教の「仙人」は、 神仙(しんせん)、 真人(しんじん)、 仙女(せんにょ)、 ともいい、 中国本来の神々や修行後、神に近い存在になった者たちの総称。神仙は神人と仙人とを結合した語とされる。仙人は仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得たもの、 とか(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA)、 漢民族の古くからの願望である不老不死の術を体得し、俗世間を離れて山中に隠棲し、天空に飛翔することができる理想的な人をいう、 とか(日本大百科全書)とあるが、 戦国時代から漢代にかけて、(仙人の住むという東方の三神山の)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に金銀の宮殿と不老不死の妙薬とそれを授ける者がいて、それを渇仰する、 神仙説、 がさかんになり、『史記』秦始皇本紀には、 斉人徐市(じょふつ)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ、 と記されている。この斉人の方士「徐市」は、徐福ともいい、始皇帝の命を受け、3、000人の童男童女と百工を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出した、とされる。因みに、「瀛洲(えいしゅう)」は、転じて、日本を指し、「東瀛(とうえい)」ともいう。 六朝(りくちょう)以後は、 道教に摂取され道家の理想とする想像上の人物、 を指すようになった(日本伝奇伝説大辞典)、とある。だから、仙人や神仙は、 もともと神である神仙たちは、仙境ではなく、天界や天宮等の神話的な場所に住み暮らし、地上の山川草木・人間福禍を支配して管理、 するものであったが、道教の不滅の真理を悟り、 自分の体内の陰と陽を完全調和し、道教の道(タオ)を身に着けて、その神髄を完全再現することができる、 というものに変わったことになる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA)。六朝時代、服用する仙薬などによっていろいろな段階があるとされ、晋の『抱朴子(ほうぼくし)』では、 天仙、 地仙、 尸解仙(しかいせん 魂だけ抜けて死体の抜け殻となるもの)、 の三つに区分し、 案ずるに仙経に云はく、上士は形を挙げて虚に昇る、これを天仙と謂ひ、中士は名山に遊ぶ、これを地仙と謂ひ、下士は先ず死して後に脱す、之を尸解仙と謂ふ、 とある(日本伝奇伝説大辞典)。 仙人になる方法として、 導引(どういん 呼吸運動)、房中術(ぼうちゅうじゅつ)、薬物、護符、精神統一、 などがあるとしている(日本大百科全書)。仙人の伝を記した最初の書は、前漢末に劉向(りゅうこう)が撰したとされる『列仙(れつせん)伝』では、 赤松子(せきしょうし)、 馬師皇(ばしこう)、 黄帝(こうてい)、 握佺(あくせん)、 等々70余人が記されている。その後も、葛洪(かっこう)撰『神仙伝』、沈汾(ちんふん)撰『続仙伝』、杜光庭(とこうてい)撰『仙伝拾遺(せんでんしゅうい)』、曽慥(そぞう)撰『集仙伝』等々があり、清の『古今図書集成』「神異典」には、上古より清初までの仙人1153人が網羅されている、とか(仝上)。 仙人の方術には、 身が軽くなって天を飛ぶ、 水上を歩いたり、水中に潜ったりする、 座ったままで千里の向こうまで見通せる、 火中に飛び込んでも焼けない、 姿を隠したり、一身を数十人分に分身したりして自由自在に変身する忍術を使う、 暗夜においても光を得て物体を察知する、 猛獣や毒蛇などを平伏させる、 等々があるとか(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA)。この「方術」、なんとなくしょぼい感じがするのは、ぼくだけだろうか。 仏教における仙人、つまり、 インドの仙人、 は、 梵語Ṛṣi、 の訳で、 大仙、 仙聖、 仙、 とも称し(日本伝奇伝説大辞典)、 聖仙、 聖人、 賢者、 とも漢訳されている(日本大百科全書)。インドにおいては、「リシ」とは、 ヨーガの修行を積んだ苦行者であり、その結果として神々さえも服さざるをえない超能力(「苦行力」と呼ばれる)を体得した超人、 であり、また、 神秘的霊感を以て宗教詩を感得し詠むという。俗界を離れた山林などに住み、樹木の皮などでできた粗末な衣をまとい、長髪であるという、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B7)。「中阿含」には、 七古仙、 「仏本行集」には、 七大仙、 等々が載るが、ヒンズー教の経典『マハーバーラタ』では、 マリーチ、 アトリ、 アンギラス、 プラハ、 リトゥ、 プラスティヤ、 ヴァシシュタ、 が七聖賢とされている。彼らは基本、 外道(仏道以外)の修行者で、世俗との交わりを断ち、山中にてむ諸道の法を修め、悟りを得た者、 をいい、その修行は、 仙聖とは梵行を修する人なり(大方等大集経)、 王は阿私仙の言を聞きて歓喜雀躍し、即ち仙人に随ひて所須を供給し、菓を採り水を汲み、薪を拾ひ食を設け、乃至身を以て床座と為す(法華経)、 とある(日本伝奇伝説大辞典)。 中国およびインドの仙人は日本にも伝わり、天平年間(729〜749)に三仙人、 大伴(おおとも)仙人、 安曇(あずみ)仙人、 久米(くめ)仙人、 の伝説がみえている(日本大百科全書)とあり、虎関師錬(こかんしれん)の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』神仙の項には、 白山明神(はくさんみょうじん)、 新羅(しんら)明神、 法道(ほうどう)仙人、 陽勝(ようしょう)仙人、 等々13人が記されている(仝上)。大伴(おおとも)仙人、安曇(あずみ)仙人、久米(くめ)仙人という名を見ると、「久米仙人」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483162515.html)で触れたように、『扶桑略記』にも、 本朝往年有三人仙。飛龍門寺。所謂大伴仙、安曇仙、久米仙也。大伴仙草庵。有基無舎、余両仙室。于今猶存、 とあり、古代氏族とのつながりを推測させる。 本来は、道教の仙人と仏教の仙人は別ものであるが、「久米仙人」が、久米寺創建とつながるように、わが国では区別されていない。たとえば、『日本霊異記』の役小角(えんのおづぬ)説話では、 孔雀博士の呪法を修め不思議な霊術の力を身につけ、現世で仙人になって天を飛んだ、 とあるように、道教の仙人が仏教の中に取り入れられている(日本伝奇伝説大辞典)。 「仙」(セン)は、 会意。「人+山」で、山中に住む人を表す会意兼形声と考えてもよい。仙は僊の後に作られた略字、 で、 長生きした末、魂が体から抜け去って空中に帰した者、 の意で、秦から後漢のはじめにかけては「僊人」と書いた。さらに、 人間界を避けて山中に入り霞と露を食べて不老不死の術を修行した者、 の意で、三国・六朝の頃から、「仙人」と書くようになった、とある(漢字源)。 「僊」(セン)は、 会意兼形声。西(セイ・セン)の原字は、水が抜け出るざるを描いた象形文字。䙴(セン)は「両手+人のしゃがんだ形+音符西(みずがぬけるざる)」の会意兼形声文字で、人が修行のすえ、ざるや穴からぬけでるように、魂の抜け去る術を心得ること。僊はそれを音符として人を加えた字で、その修行を積んだ人を示す、 とある(仝上)。つまり、仙人を指す。 「遷」(セン)は、 会意兼形声。䙴(セン)は「両手+人のしゃがんだ形+音符西(みずがぬけるざる)」の会意兼形声文字で、人がぬけさる動作を示す。遷はそれを音符とし、辶を加えた字で、そこから脱け出し中身が他所へうつること、 とあり(漢字源)、「うつる」意だが、 もとの場所・地位をはなれて、中身だけが他へ移る(「遷移」「左遷」等々)、 意であり 魂が肉体から離れて、自在に遊ぶようになった人、 つまり仙人も意味する(仝上)。 別に、 形声。辵と、音符䙴(セン)とから成る。高い所に上がる意を表す。転じて「うつす」意に用いる、 とする説(角川新字源)、 会意兼形声文字です。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「2人が両手で死体の頭部をかかえ移す」象形(「移す」の意味)から、「移す」を意味する「遷」という漢字が成り立ちました、 とする説(https://okjiten.jp/kanji1965.html)もある。 参考文献; 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「助六」は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物、およびこれを主人公とした作品の通称だが、もともとは、 延宝(1673〜81)または宝永(1704〜11)頃、大坂千日寺であったという町人萬屋(よろずや)助六と島原の遊女揚巻(あげまき)の心中事件、 で、ただちに、浄瑠璃・歌舞伎に脚色・上演された(広辞苑・日本大百科全書)。 助六は、 侠客、 あるいは、 男伊達、 とされる。 島原の遊女揚巻のもとに通い詰め、親に勘当される。親からもらった縁切金千両で揚巻を請け出し、二人の間にできていた子供を親の門前に捨て子し心中した、 との巷説が伝わる(団十郎の芝居)、という(日本伝奇伝説大辞典)。これを見る限り、伊達とも粋とも関係なく、放蕩息子の成れの果てのようにしか見えない。しかし、 京坂の助六は、江戸の幡随院長兵衛と並び称されるほどの侠客だったという。これが総角(あげまき)という名の京・嶋原の傾城と果たせぬ恋仲になり、大坂の千日寺で心中した、 ともあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD)、 浅草の米問屋あるいは魚問屋の大店に大捌助六(おおわけすけろく)あるいは戸澤助六(とざわすけろく)、心中ではなく喧嘩で殺された助六の仇を気丈な総角が討ったものだとする説、 等々異説も多く、真相はやぶの中。ただ、芝居では、 江戸の古典歌舞伎を代表する演目のひとつ。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた。歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つ、 とされる(仝上)。 事件直後、京坂では事実に沿った情話として脚色され、 『大坂千日寺心中』(元禄十三年(1700) 竹本内匠利太夫)、 『助六心中紙子姿』(宝永三年(1706) 安達三郎左衛門) 『萬屋助六二代(かみこ)』(享保二十年(1735) 並木丈助)、 『紙子仕立両面鑑(かみこじたてりょうめんかがみ)』(安永五年(1768) 菅(すが)専助)、 と人形浄瑠璃として上演され、『助六心中紙子姿』は、大阪で、同じ宝永三年(1706)、 『京助六心中』 として、歌舞伎で上演される。この宝永三年を、 十三回忌の上演、 とすると、 助六・揚巻の心中事件は元禄七年(1694)、 と考えられる(日本伝奇伝説大辞典)、としている。 上方での助六像は、 当時の名優坂田藤十郎の夕霧劇における紙衣姿の芸や、「傾城仏の原」の長せりふを取り入れ、和事味の濃い形象として創り上げられた、 とある(仝上)。この素材が江戸に移され、 男伊達としての助六像、 が創成され、 心中情話、 から、 男伊達の敵討もの、 へ変貌する。その嚆矢は、正徳三年(1713)の、 『花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)』 で、 |