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コトバ辞典


くびったけ


「くびったけ」は、

首っ丈、
頸っ丈、

と当て、

くびたけの促音化、

とある(広辞苑)。

彼女に首ったけ、

というように、

ある思いに深くとらわれること、特に、異性に心をひかれ夢中になること、またそのさま、

の意(デジタル大辞泉)だが、今日、もはや死語に近いかもしれない。

もともとは、

くびたけ、

であり、

首丈、
首長、
首尺、

と当て、

足元から首までの高さ、

の意で、

思い何くびたけ沈む池の鴨(沙金袋)、

という句がある。それをメタファに、

頸丈まで深くはまり溺れる、

意で、

すっかり色香に迷って惚れ込む、

意になり、

くびったけ、

と使われる(岩波古語辞典)。

「くびたけ」は、濁って、

くびだけ、

とも言われるが(仝上)、「くびたけ」と同様に、

炬燵に首ッたけ(享和二年(1802)「綿温石奇効果条」)、

と、

足元から首のところまで、

の意と同時に、

あのお姫様にやあ、範頼様が首ッたけだそうだ(元治元年(1864)「谷凱歌小謡曲」)、

と、

深く惚れ込んでいる、

意でも使うが、もうひとつ、

帰りてへは首ッたけだが(安永九年(1780)「多佳余字辞」)、

と、

その気持ちが十分ある、

意の、

やまやま、

という意味でも使われていたようである。近世前期からら上方では、

「くびだけ」の形で用いられ、文字通り首までの長さを表し、さらに「首丈沈む」「首丈嵌まる」などの言い回しにも見られるように、この上なく物事が多くつもる意、あるいは、深みにはまる意から、異性に惚れ込む意で用いられた、

とある(日本語源大辞典)ので、

首まで沈み込む、
首まで嵌まる、

という状態表現が、それをメタファに、

思いの深さ、

を言い表すようになった、とみられる。近世中期以降、

江戸を中心に「くびったけ」の形で用いられるようになった、

とある(仝上)。

「くびったけ」と同義の言葉に、江戸では、

くびっきり(首っ切り)、

という言い方も使われた(江戸語大辞典)。やはり、

足元から首のところまで、

の意で、

炬燵に首ッきりはいって居たりする(寛政六年(1794)「金々先生造化夢」)、

と使い(仝上)、また「くびったけ」と同様、

近頃は旦那に首ッきりと云ふもんだから(天保十年(1840)「娘太平記操早引」)、

と、

深く惚れ込んでいること、

の意でも使った(仝上)。

「くびったけ」の「くび」は、

頸、
首、

と当てる(広辞苑)が、大言海は「くび」の項を、

首、

頸、

で分けて立てている。「頸(くび)」は、

凹(くぼ)みの約(和訓栞)、陰門をツビと云ふも、窄(つぼ)の約なり。後(うしろ)くぼ、項(うなじ)のくぼ、ぼんのくぼの名もあり、

とし、

頭(かしら)と體(からだ)と細く接ぎ合ふ所、

の意とし、「首(くび)」は、

頸(くび)より上の部を云ふ意より移る、

とし、

かしら、あたま、

に意とする(「あたま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454155971.htmlについては触れた)。

というのは、「くび」は、古くは、

頭と胴とをつなぐくびれた部分。のち頸部切り取った頭部すなわち頸部から上全体をもいうようになった、

とあるので、「くび」の対象が、頸部から頭部全体に広がって

頸→首、

となったからなのである(岩波古語辞典)。「かぶり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463972279.htmlで触れたことだが、これは、「あたま」が、

当間(あてま)」の転で灸点に当たる所の意味や、「天玉(あたま)」「貴間(あてま)」の意味など諸説あるが未詳。 古くは「かぶ」「かしら」「かうべ(こうべ)」と言い、「かぶ」は 奈良時代には古語化していたとされる。「かしら」は奈良時代から見られ、頭を表す代表 語となっていた。「こうべ」は平安時代以降みられるが、「かしら」に比べ用法や使用例が狭く、室町時代には古語化し、「あたま」が徐々に使われるようになった。「あたま」は、もとは前頭部中央の骨と骨の隙間を表した語で、頭頂や頭全体を表すようになったが、まだ「かしら」が代表的な言葉として用いられ、「つむり」「かぶり」「くび」などと併用されていた。しだいに「あたま」が勢力を広げて代表的な言葉となり、脳の働きや人数を表すようにもなった、

とあり(語源由来辞典)、

かぶ→かしら→こうべ→(つむり・かぶり・くび)→あたま、

と変遷した中で、「あたま」の呼称の中で、「くび」も使われている。

「くびったけ」の「たけ」は、「たけ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461350623.htmlで触れたように、

丈、
長、

と当てると、

物の高さ、縦方向の長さ、

となり、

動詞「たく(長く)」と同源、

であり、

岳、
嶽、

と当てると、

くて大きい山、

の意となり、

「たか(高)」と同源(中世「だけ」とも)、

とある(以上広辞苑)。しかし、「たけ(長・闌)」は、

タカ(高)と同根。高くなるものの意、

とあり(岩波古語辞典)、単に物理的な長さ、高さだけではなく、時間的な長さ、高まりも指し、「たけなわ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456786254.htmlで触れたように、

長く(タク)は、高さがいっぱいになることの意で使います。時間的にいっぱいになる意のタケナワも、根元は同じではないかと思います。春がタケルも、同じです。わざ、技量などいっぱいになる意で、剣道にタケルなどともいいます、

という意味も持つ(日本語源広辞典)。だから、

タカ(高)と同根。高い所の意、

である「たけ(岳・嶽)」ともほぼ重なる。

丈も
長も、
岳も、
嶽も、

かつては、「たけ」だけで済ませていた。文脈依存の文字を持たない祖先にとって、その区別は、その場にいる人にわかればいいのである。そう考えると、「たけ(茸)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461300903.html?1535312164も、「たけ(竹)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461199145.htmlも、すべて、

たけ、

であり、長さ、さ、という含意を込めていたのではないか。

さて「首」(漢音シュウ、呉音シュ)は、

象形。頭髪のはえた頭部全体を描いたもの。抽(チュウ 抜け出る)と同系で、胴体から脱け出したくび。また道(頭を向けて進む)の字の音符となる、

とある(漢字源)。

別に、

象形文字です。「髪と目を強調した」象形から「くび」を意味する「首」という漢字が成り立ちました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji15.html

「頸」(漢音ケイ・ギョウ、呉音キョウ)は、

会意兼形声。巠は機織り機のまっすぐなたて糸を描いた象形文字で、經(経)の原字。頸はそれを音符とし、頁(あたま)を加えた字で、まっすぐたてに通るくび筋、

とある(漢字源)。

「丈」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、会意。手の親指と他の四指とを左右に開き、手尺で長さをはかることを示した形の上に+が加わったのがもとの形。手尺の一幅は一尺をあらわし、十尺はつまり一丈を示す。長い長さの意を含む、

とある(漢字源)。

別に、

象形文字です。「長い棒を手にする」象形から、長さの単位「十尺(約3.03メートル。ただし、周代の制度では、約2.25メートル)」を意味する「丈」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1320.html

なお、「くびったけ」の類義語、「ぞっこん」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456564500.htmlについては触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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くどく


「くどく」は、

口説く、

と当てる。

また泣く泣く口説き申しけるには(保元物語)、

というように、

うらみがましくくどくどという、
愚痴っぽく言う、

という意味と、

経読み仏くどきまゐらせるるほどに(讃岐典侍日記)、

と、

心のうちを切々と訴える、

特に、

神仏に祈願して訴える場合にいう、

意味と、

此方よりくどきても埒のあかざることもあるに(好色一代男)、

と、

異性に思いのたけを訴えて言い迫る、

意とがある(広辞苑・岩波古語辞典)。

「くどく」の「くど」は、

くどくど、くだくだの語幹を活用せしむ。苛々(いらいら)、いららぐ。連連(つらつら)、つららぐ、

とある(大言海)。「くどくど」は、

長ったらしいさま、
冗長なさま、

の意で、

話、文章が長々しくて煩わしい、
同じ事を繰り返す、

といった状態表現であるが、そこから、

何をくどくどして居るぞ(虎寛本狂言・靱猿)、
とか、
ああ、由ないことをくどくどと思うた事かな(狂言記・布施無)、

といったような、

ぐずくず、

くよくよ、

といった、

振舞いや思い切りの悪さを意味する価値表現の言葉として使われる。「くどくど」は、古く、

ぐとぐとと埒明かずといへば(仮名草子・悔草)、

と、

ぐとぐと、

と言ったり、

あそこのすみへいってもぐどぐど、ここのすみへ行ってもぐどぐどと、同じことを云ひて(虎明本狂言・宗論)、

と、

ぐどぐど、

といったりする(擬音語・擬態語辞典)。日葡辞書にも、

ぐどぐどとする、

と載る。これが方言に残り、

徳島県で「ぐとぐと」、山形・新潟・香川・愛媛で「ぐどぐど」というところがある、

とある(仝上)。類義語に、

くだくだ、
たらたら、
ぐだぐだ、

がある。「くどくど」が、

不必要なことを繰り返す、

のに対して、「くだくだ」は、

無用のことをわざと長々説明する様子、
要領を得ない様子、

であり、「ぐだぐだ」は、

長々とだらしなく言い続ける様子、

と、似ているのに対して、「たらたら」は、

不平・文句・お世辞などを並べ立てる様子、

を表すという違いがある(擬音語・擬態語辞典)。

「くどくど」は、「長い」の語幹を重ねた「ながなが」と同様、

形容詞「くどい」の語幹を繰り返した語、

とある(擬音語・擬態語辞典)が、「くどくど」は、

くだくだの転訛、

ともある(日本語源広辞典)。

「くだくだ」は、

刀を抜き、くだくだに斬りてぞ投げ出しける(仮名草子・智恵鑑)、

と、

細かに打ち砕いたさま、

つまり、

こなごな、

の意(岩波古語辞典)だが、

くだくだしゃべる、

というように、

言い方が明快さを書き、しつこくて長たらしいさま、

の意でも使う。

くだくだし、

という形容詞は、

クダはクダク(砕)と同根、

とあるので、

いかにも細かい、

という状態表現であるが、

くだくだしきなほ人の中らひに似たる事に侍れば(源氏)、

と、

いかにも細々しくて煩わしい、

という価値表現としても使う(仝上)。名義抄には、

細砕、クダクダシ、

と載る。

古語のくだくだしは、(「くどくど」の)語源に近い言葉です、

とある(日本語源広辞典)が、

こまごまと煩わしい、

意味が、

喋り方に転用されることはあり得る。現に、

クダクダシしい文章、

は、

くだくだしい物言い、

とも言い変えられる。

こうみると、「くどく」が、

くどくど、
ぐとぐと、
ぐどぐど、
くだくだ、
ぐだくだ、

といった擬態語から来たと見るのでよさそうに見えるのだが、異説がある。

口(言葉)+説く、

で、

ことばで説得する、

意とする説がある(日本語源広辞典・和句解・和訓栞)。

反復する擬態語が、動詞を作る時は、チラチラする、ヒラヒラする、グラグラする、の形を取り、大言海のような(苛々(いらいら)、いららぐ。連連(つらつら)、つららぐ等々)例は見られません。口を、クという音韻で表すことは他にも例があります(口調、異口同音)、

として、

口+説く、

を語源とするものである。確かに、

口説、
口舌、

と当てる「くぜつ」もある。「口説」は、

くぜち、

とも訓ませ、

おしゃべり、
言い争い、

の意もあり(日葡辞書に、「クゼツノキイタヒト」とある)。さらに、「口説」には、

男女間の言い争い、
痴話げんか、

の意もある(広辞苑)。ただ、「くぜち(口舌)」は、

口舌(こうぜつ)の呉音、

とある。「ク」と訓むことだけから、

口+説く、

とするのには決め手が欠ける。意味だけからいうなら、やはり、

くどくど、
ぐとぐと、
ぐどぐど、
くだくだ、
ぐだくだ、

等々の擬態語由来とみるのが妥当なのではないか。さらに、「くどくど」が、

形容詞「くどい」の語幹を繰り返した語、

とすれば、例えば、

くどい→くどくする→くどく、

と、形容詞から動詞化することはあり得る。

また、

「口説く」は当て字、

ともある(デジタル大辞泉)。当て字から語源を遡るのは先後逆となる。この当て字は、

口説(くどき)、

と呼ばれる、

琵琶法師の、平家語る曲節(ふし)、

の意で、

語る半ばに、特に調子を変えて、書簡などを語るところ、

を指す(大言海)。この、

平曲、

が、謡曲、浄瑠璃、長唄などへと流れていく。「平曲」では、

説明的な部分をいう。地の部分で、最も普通に用いられる曲節。旋律的でなく、また、音を装飾したり伸ばしたりすることもなく、語るような口調。中音域で、テンポも中庸。歌詞の内容は雑多であるが、多くの曲はこれで始まる、

意から、謡曲で、

拍子に合わない語りの部分。散文的である点は平曲と同じであるが、内容は悲嘆、述懐などで落ち着いた調子。音域も低い、

となり、浄瑠璃、歌舞伎音楽では、

悲嘆、恋慕、恨み、懺悔などを内容とする部分。特に恋する相手に心中の思いを訴えるものが多い。いわゆる「さわり」と呼ばれる曲中の聞きどころで、詠嘆的、抒情的。テンポが遅く旋律が美しい、

ものへと変じていく(精選版日本国語大辞典)。今日の「口説き」のイメージは、浄瑠璃の心情表現のイメージが強い。この「口説き」は、

くり返して説くという意味の動詞「くどく」の名詞化、

であり(世界大百科事典)、

口説く、

と当てたのは、この、

くどき、

からのような気がする。

「口」(漢音コウ、呉音ク)は、

象形、人間の口やあなを描いたもの、

である(漢字源)。別に、

会意文字です(卜+口)。「うらないに現れた形」の象形と「口」の象形から、「うらない問う」を意味する「占」という漢字が成り立ちました。また、占いは亀の甲羅に特定の点を刻んで行われる事から、特定の点を「しめる」の意味も表すようになりました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1212.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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おかぼれ


「おかぼれ」は、

岡惚れ、

と当てるが、「うぬぼれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/440529875.htmlで触れたように、「岡惚れ」の「岡」は、

岡目八目、

の岡であり、

傍目八目、

とも当てるように、

他人のすることを脇から見ていることをホカミ(外見、他見)といったのが、オカミ・オカメ(傍見、岡目)になって、第三者の立場でものを見ることをいう、

とある(日本語の語源)。「おかめ(をかめ)」を、

傍目(ヲカメ)、傍見(ヲカミ)、

とする(大言海)の他、

ホカメ(外目)、

とする(古今要覧稿・両京俚言考)ものもある。いずれも、同じ趣旨だが、この「岡」は、

傍の意だが、一説に、本に対する仮の意、

があるとするものもある(江戸語大辞典)。

「岡目八目」は、

当局者(当事者)迷、

の逆で、

傍で見ている者の方が、打っているひとより八目も先を見越している、という意だが、中国では、

当事者迷、旁观者清、

というらしい。

「岡惚れ」は、江戸期から使われたようだが、今日死語かもしれない。

傍から惚れる、

意で、

ちょっと接しただけで惚れること、深く接して人物を知ったうえでもないのに惚れること、

だが(江戸語大辞典)、

相手の心も知らず自分だけ密かに思慕すること、

の方がいい解釈に思える(岩波古語辞典)。だからか、

本惚れに対する仮惚れ、

の意とある(仝上)。また、

傍惚(おかぼ)れ、

とも当てる。

おかっぽれ、

と表記した方が、その軽さをよく言い表している。

で、他人が仲の好いのをはたでねたむことをホカヤキ(傍妬き)といったのが、

オカヤキ(傍妬き)、

に転音したのもこの類だ(日本語の語源)。これは、

岡焼餅、

ともいい、

本焼餅に対する仮焼餅、

の意で、

岡目焼餅(外目焼餅とも当てる)、

とも言うらしい(江戸語大辞典)。

やはり、「岡」を当てる、

岡持ち、

は、ホカモチバコ(他持ち箱)の転らしい(日本語の語源)。

また「岡」を当てる、俗に、

岡っ引き、

という、

町同心の手先に使われ、違法者を探知して、捕吏の手引きをする者、

つまり、目明しの異称である、

岡引、

は、

傍にいて手引すること、一説に、同心の捕縛するのが本引きで、これに対して仮引きの意、

とある(江戸語大辞典)。

「岡場所」の「岡」も、

公許の吉原に対して、その外の(「わきの」)場所、

の意で、やはり、

本場所に対して、仮場所の意、

があり、

寛延・宝暦頃(1748〜64)から言い始めた呼称で、官許の遊里すなわち吉原以外の私娼地、

とある。別に、

さと・くるわ(廓)の対、

とある(江戸語大辞典)。全盛を極めたのは、安永・天明(1772〜1789)期と化政期(1804〜30)とで、その数86ヵ所に及んだ、という。後に、

品川・新宿・板橋・千住、

の四宿が準官許地とされ、それ以外は、寛政(1787〜93)・天保(1841〜43)両度の改革で禁廃された(仝上)、とある(仝上)。

「岡惚れ」は、

傍から惚れる、

でいいと思うが、異説がある。

ヲカは、小高い岡から遠望するという意(すらんぐ=暉峻康隆)、

はまだいいとして、

オカはカオ(顔)の倒置語で、カオボレ(顔惚)の意、また、岡は岡場所とする説もある(ことばの事典=日置昌一)、

というのはどうだろう。

「岡」(コウ)は、

会意。岡は「山+网(つな)」。网は網(モウ あみ)の原字であるが、ここでは綱(コウ つな)を示すと考えたほうがよい。固く真っ直ぐな意を含む、

とある(漢字源)が、別に、

形声文字です(网+山)。「網」の象形(「網」の意味だが、ここでは、「亢」に通じ(「亢」と同じ意味を持つようになって)、「アーチ形」の意味)と「山」の象形から、「アーチ形の山」、「丘」を意味する「岡」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1952.html

「傍」(漢音ホウ、呉音ボウ)は、

会意兼形声。方は鋤の柄が両わきに張り出た形を描いた象形文字。旁は、それに二印(ふたつ)と八印(ひらく)を加え、両側に二つ開いた両脇を示す。傍は「人+音符旁(ボウ)」で、両脇の意。転じて、かたわら、わきの意を表す、

とある(漢字源)が、別に、

会意兼形声文字です〈人+旁〉。「横から見た人」の象形と「帆(風を受けるための大きな布)の象形と柄のある農具:すきの象形(並んで耕す事から「並ぶ・かたわら」の意味)」(「左右に広がった部分・かたわら」の意味)から、「かたわら」、「よりそう」を意味する「傍」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1175.html

なお、「ほれる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/446808988.htmlについては触れた。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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白雨


「白雨」は、

はくう、

と読ますが、

しらさめ、

とも訓まし、

ゆうだち、

とも訓ます(雨のことば辞典)。ただ、

しろあめ、

と訓むと、

霙(みぞれ)、

を指し、冬の雨になる。

「白雨(はくう)」は、

白く見える雨、

とある(大言海・類語新辞典)。これは、

積乱雲から降ってくる夏の雨で、雨脚が太く強いため、雨滴が空中で分裂したり、地面に当たってしぶきとなるので、白く煙ったようになるところからその名がある、

とある(雨のことば辞典)。

李白の詩に、

白雨映寒山(白雨寒山を映(おお)い)、
森々似銀竹(森々として銀竹に似たり)、

とあり(大言海・雨のことば辞典)。「銀竹」とは、

光線を浴び、光輝いている雨、

の意であり、

強い雨脚に雲間からの光が当たり輝いている様子が、まるで銀色の竹のようだ、

というのである(雨のことば辞典)。

蘓武の詩にも、

K雲翻墨未遮山(K雲墨を翻して未だ山を遮らず)、
白雨跳珠亂入船(白雨珠を跳らせて亂れて船に入る)、

とある(字源)。あるいは、

明るい空から降る雨、

の意かもしれない(デジタル大辞泉)。「夕立」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456384452.htmlについては触れたが、

俄雨(にわかあめ)、
村雨(むらさめ)、
驟雨(しゅうう)、
繁雨(しばあめ)、

等々もほぼ同義となる。

「村雨」は、

群雨、
叢雨、
不等雨、

とも書く

ひとしきり強く降ってはやみ、また降り出す雨、

で、

群れた雨https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E9%9B%A8
群雨(むらさめ)、不等雨(むらさめ)の義(箋注和名抄・大言海)、
ムラムラに降って、降らぬところもあるところから(日本釈名・東雅)、
ムラのある雨、降ってもすぐやむ雨(日本語源広辞典)、

等々という雨の降り方の、

繁粗むら気な雨、

を指している(雨のことば辞典)。「村雨」は、

秋に俄に降り出す雨(日本類語大辞典)、

ともあり、必ずしも夏季と限定されたことばではない(雨のことば辞典)、とある。

「繁雨(しばあめ)」は、雨の降り方が、

一時断続的に激しく降る雨、

で、

屡雨、
芝雨、

とも当てる。「俄雨」「村雨」と同義である。

「俄雨」は、

俄に降ってきてすぐやむ雨(広辞苑)、

で、

早雨(そうう)、
急雨(はやさめ/きゅうう)、
懸雨(けんう)、
驟雨(しゅうう)、
過雨(かう)、

とも言う(広辞苑・大言海・雨のことば辞典)。「懸雨(けんう)」も、

急に降り出す雨、

だが、

「懸」はかかる、ぶらさがる、また枝や葉が垂れ下がったものをいう。雨が、急に降りかかる、

意である(雨のことば辞典)。「驟雨(しゅうう)」は、

夏の俄雨、

で、「夕立」と重なるが、歳時記などでは、

夕立と別に驟雨を詠む、

ことも多くなったとある(仝上)。

急に降り出して、間もなく止む雨、

という意味では、

通り雨、

も、「俄雨」と同義である。

雲の流れに沿って雨脚が通り過ぎていく雨、

であり、

つうう、

とも訓み、

過雨(かう)、

ともいう。

俄に、ひとしきり降る雨、

でもあるが、

雨が通り過ぎるように降る、

という意味でもある(雨のことば辞典)。

なお、「白驟雨(はくしゅうう)」は、

雨脚を白くしぶかせて降る秋の驟雨、

になる(雨のことば辞典)。また、

黒雨(こくう)、

というと、

真っ黒な雨雲から降ってくる雨、

で、

空が暗くなってしまうような土砂降りの雨や豪雨、

を指す(仝上・精選版日本国語大辞典)。

因みに、「あめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459999594.htmlで触れたように、「雨」の語源は、大別すると、

「天(あま)」の同源説、

「天水(あまみづ)」の約転とする説、

にわかれる。しかし、

雨が多く、水田や山林など生活に雨が大きく関係している日本では、古くから雨のことを草木を潤す水神として考えられた。雨が少い場合は、雨乞いなどの儀式が行われ、雨が降ることを祈られた。「天」には「天つ神のいるところ」との意味があり、そのため雨の語源と考えられている、

とあるhttp://www.7key.jp/data/language/etymology/a/ame2.htmlように、「天」そのものと見るか、その降らせる水にするかの違いで、両者にそれほどの差はない。雨は、

天(アメ、アマ)と共通の語源、

であり、

アマ(非常に広大な空間)から落ちてくる水、

である(日本語源広辞典)。

参考文献;
倉嶋厚・原田稔編『雨のことば辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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半夏生


「半夏生(はんげしょう)」は、禮記に、

仲夏之月(陰暦五月)、小暑至る、鵙(げき モズ)初めて鳴き、反舌(はんぜつ モズの異称)声無し。是の月や、…鹿角落ち、蝉始めて鳴き、半夏生じ、木槿栄く、

とあり(大言海・https://www.tomiyaku.or.jp/file_upload/100058/_main/100058_02.pdf)、「半夏生(はんげしょう)」は、

雑節の一つ、

で、

七十二候の一つ「半夏生」(はんげしょうず)、

から作られた暦日(暦法に基づいて定められた、暦の上の一日)である。

夏至から十一日目の称、

であり、太陽暦では七月二日(〜七日日)頃までの5日間に当たる。現在の暦では、

太陽の黄道が100度に達するとき、

とされる(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)。

田植えの終る頃、

で、この日を、

出梅(つゆあけ)、

といい、田植えの限とした(大言海)。一説には、

半夏(はんげ)、烏柄杓(カラスビシャク)が成長する頃、

とも、また、

半夏生(ハンゲショウ、カタシログサ)の葉が半分白くなって化粧しているようになる頃、

とも言われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%A4%8F%E7%94%9F・岩波古語辞典)。

近世には、

この朝毒気が降るといって、井戸に蓋をし、野菜を食べず、諸事を忌む日とした、

とある(岩波古語辞典)。南北朝、安倍晴明に仮託された陰陽道指南書『簠簋内傳』(ほきないでん)に、

半夏生、五月中十一日目、可註之、此日不行不浄、不犯婬欲、不食五辛酒肉日也、

とあるとか(大言海)。また、『俳諧歳時記』(享和三年(1803)刊)には、

半夏生、五月中より十一日なり。世俗、この日を期として竹の子を食わず、是竹節蟲を生ずるのゆゑ也、

とある。「竹節蟲(たけのふしむし)」は、

ななふし、

とも訓ませ、

七節、

とも当てる。

体長7〜10センチ。体や脚は細長く、竹の枝に似て、緑色または褐色。翅(はね)はない。コナラ・クマイチゴなどの葉を食べる、

とある(デジタル大辞泉)。「暦注」(暦本に記入される事項)の吉凶によれば、

この日は万物の生気を損耗するので、草木の種をまくには悪い日で決して成長しない、

とされる(広瀬・前掲書)

半夏(はんげ)の乾燥させた根茎は、『本草綱目』(1590)に、

蓋し夏の半に相当するという意味、

とされ、夏の半ばに生えるところから名付けられたという古くから使われる重要な生薬で、根茎を売って小銭をためたところから別名、

ヘソクリ、

ともよばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%93%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%AF

半夏生は、

半化粧、

とも言われる。名前は、

半夏生の頃に花を咲かせることに由来する、

とする説と、

葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」、

とする説とがあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6

「雑節(ざっせつ」は、二十四節気、五節句などの暦日のほかに、

季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた特別な暦日、

を指し、

節分(各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日)、
彼岸(春分・秋分を中日(ちゅうにち)とし、前後各3日を合わせた各7日間)、
社日(しゃにち 産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日)、
八十八夜(立春を起算日(第1日目)として88日目)、
入梅(梅雨入りの時期)、
半夏生(はんげしょう 夏至から数えて11日目)、
土用(四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間)、
二百十日(立春を起算日として210日目)、
二百二十日(立春を起算日(第1日目)として220日目)、

等々指した(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E7%AF%80)。

七十二候(しちじゅうにこう)は、

一年を72に分けた五日ないし六日を一候、

とするものだが、

二十四節気をさらに五日ないし六日ずつの3つに分けた期間、

になる。二十四節気の一気が、

15日、

なので、一候は、わずか五日程度、

そんなに気候が変わるわけはない、

はずである(内田正男『暦と日本人』)。

「二十四節気」は「をざす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481844249.htmlでも触れたが、

1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けたもの、

で、

「節(せつ)または節気(せっき)」

「気(中(ちゅう)または中気(ちゅうき)とも呼ばれる)」

が交互にあるhttps://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter3/s7.html。例えば、

春は、

立春(りっしゅん 正月節)、
雨水(うすい 正月中)、
啓蟄(けいちつ 二月節)、
春分(しゅんぶん 二月中)、
清明(せいめい 三月節)、
穀雨(こくう 三月中)、

で、夏の、

立夏(りっか 四月節)、
小満(しょうまん 四月中)、
芒種(ぼうしゅ 五月節)、
夏至(げし 五月中)、
小暑(しょうしょ 六月節)、
大暑(たいしょ 六月中)、

のうち、七十二候の「半夏生(はんげしょうず)」は、夏至の三等分、

初候 乃東枯(なつかれくさかるる 夏枯草が枯れる)、
次候 菖蒲華(あやめはなさく あやめの花が咲く)、
末候 半夏生(はんげしょうず 烏柄杓が生える)、

となる。中国由来だが、日本の気候風土に合うように何度も改訂され、今日は、明治七年(1874)の「略本暦」によっている。「半夏生(はんげしょうず)」は、中国由来のままである。

「半夏生」は、真夏の最中なので、

半夏正、

とも書く(広瀬・前掲書)。また、この時期は、

梅雨の真っ盛り、

なので(内田・前掲書)、この頃降る雨を、

半夏雨(はんげあめ)、
半夏水(はんげすい)、

といい、此の大雨で起こる洪水を、

半夏水(はんげみず)、

という(雨のことば辞典)。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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歯固め

 

かつての暦には日々の吉凶、禁忌などを記載した暦注というものがあった。たとえば、正月三箇日だと、第一日(元日、また元日が陽が悪いと二日になる)、

はかため(歯固め)・くらひらき(蔵開)・ひめはしめ(火水始)・きそはしめ(着衣始)・ゆとのはしめ(湯殿始)・こしのりそめ(輿乗初)、万よし、

第二日には、

馬のりそめ・ふねのりそめ・弓はしめ・あきなひはしめ・すき(鋤)そめ、万よし、

等々とある。

だいたい初日に入るものと、二日目に入るものと決まっているが、年によってどちらかになるものとがある、

とある(内田正男『暦と日本人』)。だから、享保五年(1720)の『天朝天文』(源慶安)は、

門出に凶とある日、主命なれば発足するに何事もなく帰国すること毎度なり。また役目なれば金神の方の国土に行きて在宅するに何の災いなきこと主人持し人々皆これなり、

と、「儒・仏・神ともに学者の用いざる」ような、「日に依って吉凶善悪」に振り回されることを嘲笑っている。

さて、この正月の「歯固め」は、

歯固(よはひかため)を、ハと読める語なるべし、

とある(大言海)ように、

正月から三日までの間、歯(よはひ)すなわち年齢を固める意味で歯の根を固め、健康増進を願って食べる食物、

のこと(岩波古語辞典)で、

元日に、餅鏡(もちひかがみ)に向かいて見る儀、後に、これを鏡餅に居ると云ふ、

とある(大言海)。「鏡餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.htmlで触れたように、大言海は、ここから、

元旦の歯固(はがため)のモチヒカガミを略して、カガミと云ひしに、再び、下に、モチを添えたる語ならむ、

と、「鏡餅」の語源を、

もちかがみ→かがみ→かがみもち、

としているが、室町後期の『世諺問答(せいげんもんどう)』(一条兼良)に、

元日の歯固めとて、鏡餅に向ふことは、歯と云ふ文字をよはひと読むなり。齢を固むる心なり。古今集の、あふみやの、鏡の山を、たてたれば、かねてぞ見ゆる、君が千歳は、の歌を吟ず(鏡餅の名も是より起る、御歯固めの餅は、近江國の火切(ヒギリ)の里より貢するを用ゐる)、

とあるので、深くつながることは確かである。『源氏物語』にも、

歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り混ぜて、千年の蔭にしるき年のうちの祝ひ事どもして(初音巻)、

とある。

中国の『荆楚歳時記』(525年)に、

年頭に膠牙餳(こうがとう)という堅いあめを食べる風習、

が記されている(世界大百科事典)。日本にもこの風が伝わったもので、「歯固めの具」としてさまざまなものが用いられた。

たとえば、宮中では、正月に天皇へ供える膳には、

大根(おおね)・未噌漬瓜(みそづけうり)・糟漬瓜・鹿宍(しかのしし)・猪宍(いのしし)・押鮎(おしあゆ)・煮塩鮎(にしおあゆ)の七品をそろえる、

と定められていた(日本食生活史)。天皇は見るだけであったのは神供の形式であろう(世界大百科事典)、とされる。

平安末期の『江談抄』に、

元三之閨A供御薬御歯固、鹿或盛也、近代以雉盛之也(以上、今の雑煮餅也)。江家次第、一、供御薬「内膳自右青瑣門、供御歯固具……大根一坏、串刺二坏、押鮎一坏、煮鹽鮎一坏、猪宍一坏、鹿宍一坏」、

とある(大言海)。「歯固めの祝ひ」は、「供御薬儀(ミクスリヲクウズルギ)」と呼ばれる年中行事の一部として、

元日早朝に屠蘇(数種の薬草を組み合わせた屠蘇散を酒に浸してつくった薬酒)と共に硬い食べ物を口にして長寿を願う儀式、

なのであるhttp://heian.cocolog-nifty.com/genji/2006/01/post_2393.html。この七品が、平安後期には、「江家次第」によると、鹿宍の代わりに鴫(しぎ)を、猪宍の代わりに雉子を用いるように変わる。仏教と陰陽道の影響で、肉食を戒める傾向が強まったためである。なお、「屠蘇」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479283275.htmlについては触れた。

さらに、平安中期からは、

鏡餅、

も加えられるようになり、朝廷、公卿の家では、

五歳までの子の頭に餅を載せ、前途を祝う儀式をした、

とある(岩波古語辞典)。どの時点からか、「歯固め」における、

歯固めの具、

が、前述の、

大根・未噌漬瓜・糟漬瓜・鹿宍・猪宍・押鮎・煮塩鮎、

等々に代わって、

神前に供えた鏡餅を元日の朝食べて歯固めをする、

と、鏡餅を食べることに意味が変わっていったように見え、

年神に供えた鏡餅をそのまま歯固めと呼ぶところ、

すらあり、これを夏季まで保存し、6月1日に食べるところもある(百科事典マイペディア)、とある。

地方によってさまざまであるが、

くり、かや、大根、串柿、かぶ、するめ、昆布、

等々を「歯固めの具」として口にしたり(ブリタニカ国際大百科事典)、

元旦に串柿、搗栗、豆などを茶うけとして家族一同で茶を飲むこと(長野県の上、下伊那郡)、
正月に搗栗や飴を食べる(広島県や鳥取県など)、

だったりする(日本大百科全書)が、全国的に大根は共通して用いられているらしい。ただ、東日本を中心に、6月1日を、

歯固めの日、

として、

正月神前に供えた鏡餅を干して保存しておいたものを食べる、

地方がある。江戸末期の『諸国風俗問状答(といじょうこたえ)』にも、伊勢国白子(しろこ)領の答書によると、正月の鏡餅をしまっておいて食べる(日本大百科全書)とある。

「鏡開き」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473083486.htmlで触れたように、「鏡開き」は、

正月十一日に鏡餅を下げて雑煮・汁粉などに作って祝う行事。もと武家で男子は具足、女子は鏡台に供えた鏡餅を下ろして祝ったのが、一般の風習となったもの、

であり(江戸語大辞典)、一般に、

正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される、

ようになるのは江戸時代になってからであり、その意味で、「鏡餅」を「歯固めの具」とするのは、かなり新しい、と思われる。

正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される、

という「雑煮」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481191464.htmlも、「鏡餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.htmlと深くつながる。だから、「歯固め」に鏡餅がセットになった時から、正月の雑煮餅を祝う風習へと変化したという流れもありうるのである。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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鬼門


「鬼門(きもん)」は、

北東(艮=うしとら 丑と寅の間)の方位、

をいう。陰陽道で、鬼が出入りするといって、万事に忌み嫌う方角で、これをメタファに、

あそこは鬼門だ、

などと、

ろくなことがなくて嫌な場所、また、苦手とする相手・事柄、

についても言う(広辞苑)。

鬼門方向の造作、移徒(わたまし 転居)は絶対避けること、これを犯せば禍がたちどころに至る、

と広く世間に言われている(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)とある。

この逆が、

裏鬼門(うらきもん)、

で、南西(坤=ひつじさる 未と申の間)を指す。これは、

人門、

という。これに対して、

北西(乾=いぬい 戌と亥の間)、

を、

天門、

東南(巽=たつみ 辰と巳の間)、

を、

風門、

という(広瀬・前掲書)。

比叡山は御所の鬼門に当たるので、多くの宗徒をおいて天下安全をまもらせた(仝上)が、江戸城は、鬼門にあたる方角に神田明神と寛永寺を配置、裏鬼門にあたる方角に増上寺を配置して守らせているhttps://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5390

一般家庭では、艮(うしとら)の方角に桃の木を植えて、是に注連縄(しめなわ)を引き、清浄にすべき、とつたえている(広瀬・前掲書)が、これは「鬼門」の由来とかかわる。

「鬼門」は、「山海経(せんがいきょう)」に、

東海の度朔山という所に三千里にわたって枝を張る大きな桃の木があって、東北に当たる所で繁った枝が少し切れて、多数の鬼がここから出入りしたので、これを鬼門といった。天帝が神荼(しんた)と欝塁(うつるい)という二神を遣わして鬼門に出入りする鬼を監視させた。そこで二神は出入りする鬼をとらえて、これを虎の餌にしたという。このことによって、黄帝は桃板を門の戸に立て、その上に神荼と欝塁の像を描いて凶鬼を防いだ、

とある(仝上)。民間道教的な習俗らしいが、中国に日本的な「鬼門」の考え方はなく、日本だけで「鬼門」を深く嫌う、とある(仝上)。

「オニ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.htmlの「鬼」(キ)の字は、

大きなまるい頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字、

とある(漢字源)。中国語では、本来、

おぼろげなかたちをしてこの世に現れる亡霊、

を指す。中国では、

魂がからだを離れてさまようと考え、三国・六朝以降は泰山の地に鬼の世界(冥界)があると信じられた、

ともあり、仏教の影響で、餓鬼のイメージになっていった、と見られる(台湾では鬼門は「この世とあの世をつなぐ」ものとされ、旧暦7月(鬼月)に鬼門が開くといわれる)。

和語「おに」も、「鬼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.htmlで触れたように、

和名抄「四声字苑云、鬼(キ)、於爾、或説云、穏(オヌノ)字、音於爾(オニノ)訛也、鬼物隠而不欲顕形、故俗呼曰隠也、人死魂神也」トアリ、是レ支那ニテ、鬼(キ)ト云フモノノ釋ニテ、人ノ幽霊(和名抄ニ「鬼火 於邇比」トアル、是レナリ)即チ、古語ニ、みたま、又ハ、ものト云フモノナリ、然ルニ又、易経、下経、睽卦ニ、「戴鬼一車」、疏「鬼魅盈車、怪異之甚也」、史記、五帝紀ニ、「魑魅」註「人面、獣身、四足、好感人」、論衡、訂鬼編ニ、「鬼者、老物之精者」ナドアルヨリ、恐ルベキモノノ意ニ移シタルナラム。おにハ、中古ニ出来シ語トオボシ。神代記ナドニ、鬼(オニ)ト訓ジタルハ、追記ナリ、

とある(大言海)。どうやら、鬼が島の鬼や、桃太郎の鬼は、後世のもので、そもそも「オニ」と訓んでいなかった。

恐ろしい形をした怪物。オニという言葉が文献にあらわれるのは平安時代に入ってからで、奈良時代の万葉集では、「鬼」の字をモノと読ませている。モノは直接いうことを避けなければならない超自然的な存在であるのに対して、オニは本来形を見せないものであったが、後に異類異形の恐ろしい怪物として想像された。それには、仏教・陰陽道における獄卒鬼・邪鬼の像が強く影響していると思われる、

とある(岩波古語辞典)。今日の「鬼」は、仏教や陰陽道の齎したものといっていい。『仮名暦略註』には、

鬼門、凡そ、方位の四隅に四門あり、……艮を鬼門とす、鬼門とは、陰惡の気の聚る所にして、百鬼出入りする門戸なり。故に、此方を犯す時は、百鬼善く世人を殺害す、

とある。まさに俗信である。

山片蟠桃は、

鬼門ということは、最澄、比叡山を開かんが為に言い出す処、あゝ憎むべし。山海経に曰く「東海度朔山に大桃樹り。蟠屈三千里、其の東北を鬼門という。万鬼の集まる所なり。二神あり、黄帝之を象り、桃枝を戸に立つ」と、これ鬼門の始めなり。史記にもこのことを云う。最澄、桓武帝をあざむき、王城の鬼門を守ると云うて、比叡山を創立す。東海度朔山は碣石(河北省)の東北にして、日本より西なり、……日本の東北にあらず、

と書く(「夢の代」)。最澄云々は誤解らしいが、下らぬ俗信にご立腹である。

しかし、この方角は、

陽神がきて、陰気が去っていく場所であるから、これを暦の節気に当てはめてみると、除夜に当たる。冬陰の殺気が退いて、春陽の生気が来る日であるからである。そこでわが国では、この日の夜には、家ごとに陽神の福を迎え、陰鬼の毒を追う行事を執り行う、

とある(広瀬・前掲書)。この、

福は内、鬼は外、

という節分の豆撒きは、宮中で大晦日の夜、悪魔を払い、疫癘を除くための、

追儺(ついな)の義式、

に由来する(仝上)。追儺は、

儺(だ、な)、
あるいは、
大儺(たいだ、たいな)、
駆儺。
鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、
儺祭(なのまつり)、
儺遣(なやらい)、

等々とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BA

中国では、

熊の皮をかぶり黄金の四つ目の面をつけ、黒衣に朱裳(しゅしょう)を着した方相(ほうそう)氏という呪師が矛と盾を手にして、宮廷の中から疫鬼を追い出す作法を行った、

という(『周礼(しゅらい)』)。日本には、追儺は陰陽道の行事として取り入れられ、文武天皇の慶雲(きょううん)三年(706)に、諸国に疫病が流行して百姓が多く死んだので、土牛をつくって大儺(おおやらい)を行ったというのが初見(日本大百科全書)とある。『延喜式』によると、

宮中では毎年大晦日(おおみそか)の夜、黄金の四つ目の面をかぶり黒衣に朱裳を着した大舎人(おおとねり)の扮する方相氏が、右手に矛、左手に盾をもって疫鬼を追い払ったという(仝上)。

「方相氏」(ほうそうし)とは、

「周礼」に見える周代の官名。黄金四目の仮面をかぶり、玄衣、朱裳を着用し、手に戈と楯を持って悪疫を追い払うことをつかさどったとされる。日本では、追儺の時に宮中の悪鬼を追い、また、葬送の時に、棺を載せた車を先導する役をした(「江家次第」 精選版日本国語大辞典)、

という。

舎人が鬼の紛争をして、これを内裏の四門をめぐって追いまわす。殿上人は桃の木の弓、葦の矢で鬼を射る、

とある(広瀬・前掲書)。

これが、民間で行われる二月の節分の豆撒きにつながるが、大晦日に豆撒きを行う例もある。この除夜の追儺はおそらく大祓(おおはらえ)の観念とも結び付いて展開したものと思われるが、そのほか、寺の修正会(しゅじょうえ)や修二会(しゅにえ)の際にもこの鬼やらいの式が行われた、とある(仝上)。

ただ、日本の民俗における鬼に対する観念は、豆撒きも鬼を追い払うのでなく神への散供(さんぐ)と考えられ、単に疫鬼、悪鬼というだけでなく、むしろ悪霊を抑える力強い存在(善鬼)とみるようなところがある(日本大百科全書)、とする考え方は、日本の俗信化した「鬼門」の考え方とは相いれない所があるように思える。

確かに、昔話に登場する「鬼」も、ほとんど恐ろしいイメージで統一されているが、

鬼という国語が意味するものは、荒ぶる神と同様な超人的な神霊であった。各地の伝承には自然地形を創造した神、山の神として信仰される鬼の姿が見いだされる。風神・雷神といった荒々しい神も、多く鬼のイメージでとらえられている、

とあり(日本昔話事典)、「鬼」と「神」は表裏になる。しかし、「オニ」は、もともと、

隠(おに)で、姿が見えない、

意という(広辞苑)。『和名抄』に、姿の見えないものを意味する漢語「隠(おん)」が転じて、「おに」と読まれるようになったとあることは、前述した。見えないものに「鬼」の字を当てたのには、それなりに意味があった。なぜなら、「鬼」の字は、前述の通り、

大きなまるい頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字、

であり(漢字源)、中国語では、本来、

おぼろげなかたちをしてこの世に現れる亡霊、

を指すからである。それをかつては、わが国では、

もの、

と呼んだ。

存在物、物体を指す「もの」という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して「もの」と使う、存在一般を指すときにも「もの」という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も「もの」といった。
古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった(大野晋は「『もの』という言葉」)、

のでありhttp://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm、折口信夫は、

かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった(「鬼の話」)、

といっているので、「得体が知れない存在物」で「物」としかいいようのないもの(藤井貞和)が、

神と鬼とに分化、

していったとも見えるが、平安時代以前は、

「かみ」「たま」「もの」の三つであって「おに」は入らない(大和岩雄『鬼と天皇』)、

ともあるhttp://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm

ということは、ぼくには、「もの」が「かみ」「かま」「もの」に分化(というより、「もの」から「かみ」と「たま」が分化)し、さらに「もの」から「おに」が分化していった、というように見える。

そして、「鬼」については、

民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。

という5種類に分類(馬場あき子)されるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC。この、わが国の「鬼」像の、

神から凶漢まで、

の奥行きの中で見たとき、「鬼門」は、どこか、限定された底の浅い「鬼」像でしかないことに気づかされる。

もうひとつ、こういう「鬼」像とは別に、「鬼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/430051927.htmlで触れたように、『日本書紀』が、

まつろわぬ「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」、

としている、得体の知れぬ「カミ」や「モノ」、あるいは、

化外の民、

が鬼として観念されていることを忘れてはならない。つまり、

鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在だという。鬼のイメージが多様なのは、社会やその時代によって異界のイメージが多様であるからで、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者であり、山に住む異界の住人であれば鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がる(岡部隆志)、

ということでもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC。昔話の「鬼退治」の背景にはこんなこともあることも留意しておく必要がある。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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夜半


「夜半」は、

やはん、

と訓むが、

よは、

にも当てる(広辞苑)。

夜中、
真夜中、

の意であり、

子の時、
夜九ツ、

いまの午後十二時である(大言海)。「よわ」は、

夜、
夜は、

とも当て(大言海・岩波古語辞典)、

ヨマ(夜閨jの義(大言海・万葉考・雅言考・言元梯・国語の語根とその分類=大島正健)、
ヨフカ(夜深)の義(名語記・三余叢談・名言通・松屋筆記・日本語原学=林甕臣)、
ヨヒyofi(宵)、その母音交替形ユフyufu(夕)等々と同根(岩波古語辞典)、

等々の諸説があるように、

本来、現在のヨル(夜)の意で使用されたと考えられる。後に、ヨワは「夜半」と表記され、ヨナカ(夜中)の意で使用された、

とある(日本語源大辞典)。「夜半」という感じに引きずられて、「夜中」の意味に転化したと見える。

その意味では、

夜中、

も、

夜の最中(大言海)、
夜のなかば(広辞苑)、

という意味で、「夜半」のように、

子の時、
夜九ツ、

と、限定された時間ではなく、

宵の後で、暁にならないころ(広辞苑)、
宵が過ぎて、まだ暁に至らない時間(岩波古語辞典)、

という意味になり、上代の夜の時間区分、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

の「ヨナカ」に当たる(岩波古語辞典)。「よひ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481438111.htmlで触れたように、「よる」中心にした時間の区分、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

のうち、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)、

と分けられ、

当時の日付変更時点は丑の刻(午前二時頃)と寅の刻(午前四時頃)の間であったが、「よなか」と「あかとき」(明時、「あかつき」の古形)の境はこの時刻変更点と一致している、

とある(日本語源大辞典)が、「よ」は、

よひ、
よなか、
よべ(昨夜)、

と「よ」は、「よる」が「ひる」に対し、暗い時間帯全体を指すのに対し、

特定の一部分だけを取り出していう、

とある(仝上)。「よべ」は、昨晩の意だが、昨晩を表す語としては、古代・中古には、

「こよひ」と「よべ」とがあった。当時の日付変更時刻は丑の刻と寅の刻の間(午前三時)であったが、「こよひ」と「よべ」はその時を境としての呼称、日付変更時刻からこちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、

とある(仝上)。つまり、「よる」の古形、

よ、

が、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、

と区分されたことになるが、「よなか」が、

よべ→こよひ、

と、境界線を挟んで、使い分けられていたことになる。

この時間感覚は、

世俗の一昼夜と云ふは、明六つ時を一日の初めとし、次の朝の六つ時を終とす、

と(貞享暦(じょうきょうれき)の元文五年(1740)暦のことわり書)あるように、

夜明け(明け六ッ)から一日が始まると考えた(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)ので、その境目が、「夜中」になる。それは、前夜に当たる「夜半」を過ぎて、「アカツキ」前までを指している。

しかし「夜半」は、漢語である。

飼V人、夜半生其子、遽取火而視之、汲汲然惟恐其似己也(荘子)
夜半有力者、負之而走(仝上)、

と、やはり「夜中」の意である(字源・大言海)。

「夜」(ヤ)は、

会意兼形声。亦(エキ)は、人のからだの両脇にある脇の下を示し、腋(エキ)の原字。夜は「月+音符亦の略体」で、昼(日の出る時)を中心にはさんで、その両脇にある時間、つまり「よる」のことを意味する、

とある(漢字源)。ただ、

会意。「大」+「月」(白川静)、

とする説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%9Cもあり、

また、

会意兼形声文字です(亦+夕)。「人の両脇に点を加えた文字」(「脇の下」の意味)と「月」の象形から、月が脇の下よりも低く落ちた「よる」、「よなか」を意味する「夜」という漢字が成り立ちました、

と、やはり、「月」と絡める説があるhttps://okjiten.jp/kanji155.html

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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深更


「深更(しんこう)」は、

夜の深(ふ)けたること、
夜更け、

の意であり(大言海)、

深夜、

のことである(広辞苑)。

月明深夜古樓中(元稹)、
とか
樓鼓辨深更(曹伯啓)、

などと詩にあるように、

深夜、

深更、

も漢語である(字源)。

「更」(漢音コウ、呉音キョウ)は、

会意。丙は股(もも)が両側に張り出したさま。更は、もと「丙+攴(動詞の記号)」で、たるんだものを強く両側に張って、引き締めることを示す、

とある(漢字源)。

「更」は、

「㪅」の略字、

とありhttps://okjiten.jp/kanji1319.html、また、

𠭍、

とともに、異字体ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9B%B4ので、その意味がよくわかる。

別に、

会意文字です(丙+攴)。「重ねた台座」の象形と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「手で打つ」の意味)から、台を重ねて圧力を加え固め平らにする事を意味し、そこから、「さらに(重ねて)」、「あらためる」、「かえる」を意味する「更」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1319.htmlように、「更」は、「更新」「更改」というように、「変わる」「改まる」という意であり、「変更」「更代(=交代)」というように、「代わる」である。

しかし、「更」には、

初惠遠以山中不知更漏、乃取銅葉製器(唐國史補)、

とある、

「更漏」(こうろう)というように、

時を報ずる漏刻(みずどけい)、

の意があり(字源)、

更は、漏刻のかはる義、字典「因時變易刻漏曰更」、

とある(大言海)。「刻漏」とは「漏刻」の意である。それが「變易」すること、つまり変わることを「更」というとある。これは、中国にて、

一夜を、五つに分くる称、

の謂いであり、

初更、又一更、甲夜(こうや)は、午後八時、九時なり、
二更、又乙夜(いつや)は、十時、十一時なり、
三更、又丙夜(へいや)は、十二時、午前一時なり、
四更、又丁夜は、二時、三時なり、
五更、戊夜(ぼや)は、四時、五時なり、

とあるものの踏襲である。これを、

五夜(ごや)、

という(仝上)。また、

五更、

ともいい、

戊夜、

ともいう(仝上)。これを、

一夜五更、

というが、

漢魏以来、謂為甲夜、乙夜、丙夜、丁夜、戉夜、……亦云一更、二更、三更、四更、五更、皆以五為節(顔氏家訓)、

とある。ある意味、「更」は、夜全体を指しているので、「深更」は、その、

深まる夜、

の意でもある。「更」とは、

一更ごとに夜番が更代(交代)する義、

であり(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)、

午後7時ないし8時から、午前5時ないし6時に至るまで、順次2時間を単位に、

初更(甲夜、一鼓)、
二更(乙夜、二鼓)、
三更(丙夜、三鼓)、
四更(丁夜、四鼓)、
五更(戊(ぼ)夜、五鼓)、

と区切ったところから由来する(仝上)。

漏刻のかはる時(大言海)、

だから交替するのかもしれない。「漏刻」は、

管でつながった四つまたは三つの箱を階段上に並べ、いちばん上の箱に水を満たし、順に流下して最後の箱から流出する水を、浮箭(=矢 ふせん)を浮かべた容器に受け、矢の高さから時刻を知る、

とあり(百科事典マイペディア・世界大百科事典)、

1昼夜48刻に分け、4刻を1時(とき。辰刻)にはかる、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。「漏」は、

計時用の漏壺を指し、

刻は、

時間の単位(1日は100刻が標準であるが、120刻、96刻、108刻とした時期があった)、

を意味する(仝上)、とある。日本の漏刻は、中国で発明・使用されたものを真似て、

斉明六年(660)中大兄皇子が製作したという所伝が初見。令制では陰陽寮に2人の漏刻博士があり、漏刻によって時刻をはかり、守辰丁(しんてい、ときもり)に鐘鼓を打たせて時を報じた、

とある(仝上)ので、一更、二更……を、一鼓、二鼓……と呼んだものと思われる。

「更」を、

歴(れき)、
経(けい)、

ともいった(仝上)、とあるのは、漏刻の水の流れからきたものと思える。

さらに、各一更の時間を、

五等分して、その各分割を一点、二点、三点、四点、五点と称える。もちろん各点は、一更の五分の一に当たる時間帯になる、

とあり(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)、「夜半」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482364862.html?1625688276は、三更の中央(三更三点の中央)、

に当たる。詩文などで、「夜半」を言うのに、

三更、

というのは、この意味である。

ただ、

一更、二更、三更、四更、五更、

も、

一点、二点、三点、四点、五点、

も、時刻点を指す言葉ではなく、夜間を五等分した時間帯、をいうので、何時に当たるかには幅がある。特に、江戸時代貞享暦(じょうきょうれき)が使われる時代(1684年以降)は、夜間は、

日暮れから翌日の夜明けまで、

を指したが、江戸初期は、

日没から日出まで、

を指し、季節によって、日暮、夜明けの時刻は異なるので、「更」の長さも異なる。便宜上、日没から日出まで夜間とした、更点時間帯と現在の時刻制度とは、年間を通してかなり変動する。

で、例えば、現在の時刻で、一更は、

春秋は午後六時から八時半頃まで、夏は午後七時半から九時頃まで、冬は午後五時から七時半頃まで。戌(いぬ)の時、

二更は、

現在のおよそ午後九時から一一時頃。また、午後一〇時から午前零時頃、亥の刻、

三更は、

春は午後一〇時四〇分頃から零時五〇分頃まで、夏は午後一一時前頃から零時三〇分頃まで、秋は午後一〇時頃から零時三〇分頃まで、冬は午後一〇時二〇分頃から零時五〇分頃まで。子(ね)の刻、

四更は、

春は午前一時頃から三時頃まで、夏は午前零時半頃から二時すぎまで、秋は午前零時半頃から二時半すぎまで、冬は午前一時頃から三時すぎまで。丑(うし)の刻、

五更は、

春は午前三時頃から五時頃まで、夏は午前二時頃から四時頃まで、秋は午前二時半すぎから五時頃まで、冬は午前三時二〇分すぎから六時頃まで。寅の刻、

と、幅を持たせた時間帯になる(精選版日本国語大辞典)。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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弦月


「弦月(げんげつ)」は、

弓張月、

略して、

弓張、

とも言う。漢語である。後漢末の『釋名(くみょう)』に、

弦、半月之名也、其形一旁曲、一旁直、若張弓施弦也、

とある(字源・大言海)ように、

半月、

であり、

上弦の月、

下弦の月、

とがある。

「ついたち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481987745.html?1623608969で触れたように、「ついたち」は、漢語でいうと、

朔日(さくじつ)、

である。太陽太陰暦、つまり旧暦での、

毎月の初日(第一日)、

を指す。この「朔」の字を、

ついたち、

と訓ませた(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』・字源)。

朔(サク)、

というと、

月が太陽と同方向になった瞬間、

のことであるが、この「朔」の発生した日が、

朔日、

になる。この時の天にある月を「新月」という。但しこの日には、月は太陽と同方向にあるので、実際には月は見えない。「ついたち」の語源である「つきたち(月立ち)」は月の旅立ちの意味である。それは、

この日から月が毎日、天上を移り動く旅が始まり、第三日ぐらいには、夕方西空に低く、細い、いわゆる三日月が見え、一日、一日と日が経つに従って、月は満ち太りながら、夕方見える天上の位置は、東へ東へと移っていく。そこで毎日の月の入りの時刻はおそくなる。第七日か第八日になると、夕方の月は真南に見え、その時の月の形は、右側が光った半月で、これを「上弦の月」といい、この日を「上弦の日」または略して、単に「上弦」という。
上弦から七日か八日経つと満月の日となって、夕方に東からまんまるな「満月」が登ってきて、終夜月を見ることができる。月が西に沈むのは日の出の頃である。満月は毎月の第十五日ごろである。
満月を過ぎると、月の出は段々おそくなり、夕方にはたいてい月は見えない。その代わり、日の出の頃にまだ西の空に月が残っているのが見える。残月であり、この時の月は右側が欠けた形になっている。
第二十二、三日頃には、日出の頃の月は真南に見え、右半分が欠けた半月である。これを「下弦の月」といい、この日が「下弦」である。
それより以後、月はますます日出の太陽に近づき、第二十九日か第三十日には、月は太陽に近づきすぎるので、その姿は見えない。この日が「晦日」である、

という経緯を辿る(広瀬・前掲書)。要するに、

朔(新月)より望(満月)に至る閧ネるを、上(かみ)の弓張(上弦)と云ふ、陰暦、七、八、九日の頃なり。望より晦に至る閧ネるを、下(しも)の弓張(下弦)と云ふ、二十二、三、四の頃なり、

となる(大言海)。これらの「上」「下」は、月相における順序が先・後であることを意味し、1か月を3旬に分けたときの上旬・(中旬)・下旬と同様の用法であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%9C%88

新月から次の新月までの1朔望月(約1ヶ月間)の中で、

最初に半月となる1つ目(太陽-地球-月とで成す角度が90度)を上弦の月(じょうげんのつき)、上弦月(じょうげんげつ)または単に上弦(じょうげん)と表現し、次に半月となる2つ目(太陽-地球-月とで成す角度が270度)を下弦の月(かげんのつき)、下弦月(かげんげつ)、または単に下弦(かげん)と表現する、

ということになる(仝上・広瀬・前掲書)。

「弓張月」の名は、

上弦・下弦ともにいう、

とされる(広辞苑・和訓栞・岩波古語辞典)が、

『大和物語』にある凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の、
てる月を弓はりとしもいふ事は 山べをさしてい(入、射)ればなりけり、
という醍醐帝への答申歌によると、弓張月というものは、山辺を指して没していくようすが、弓に矢をつがえて、山辺を指して射るようにみえるものだとしていることになる、

とある(広瀬・前掲書)。なぜなら、

上弦の月は夜半頃に西山に没するが、下弦の月が西山にかかるのは正午頃である、

からである(仝上)。確かに、弓張り月は、

上弦と下弦の両方の月を指す言葉かもしれないが、このことばで思い浮かべるのは、夕方見える上弦の月と解さざるを得ない、

という説明(仝上)は、説得力がある。

至日(しじつ)といえば夏至の日、冬至の日を共に指し得るが、実際の用例は冬至の日であるのと同趣である、

と(仝上)。

現実に、

同じ月相の月でも、昇った直後と沈む直前とでは上下がほぼ逆になる。ただし、深夜と早朝を除く通常の生活時間帯に見える月の形は、上弦の月(18〜24時)の弦は上にあり、下弦の月(6〜12時)の弦は下にある、

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%9C%88

さて、「弦」(漢音ケン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。玄は、一線の上に細い糸の端がのぞいた姿で、糸のほそいこと。弦は「弓+音符玄」で、弓の細い糸。のち楽器につけた細い糸は絃とも書いた、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(弓+玄)。「弓」の象形と「両端が引っ張られた糸」の象形から、「弓づる」を意味する「弦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1648.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)

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実盛送り


「実盛(さねもり)送り」は、特に、中部以西でいうが、

実盛祭、

ともいう(日本伝奇伝説大辞典)、

虫送り、

のことである。

ウンカ、ニカメイチュウなど、主として稲の害虫を村外に追放する呪術的な行事。毎年初夏のころ定期的に行う例と、害虫が大発生したとき臨時に行うものとがある、

とある(日本大百科全書)。

虫除け、
稲虫送り、

ともいい、

稲虫を数匹とって藁苞に入れ、松明を先頭にして行列を組み、鉦や太鼓をたたきながら、田の畦道を回って村(集落の意)境まで送って行く。そこで藁苞を投げ捨てたり、焼き捨てたり、川に流したりする。理屈からいえば、村外に追放しても隣村に押し付けることになるが、村の小宇宙の外は他界であり、見えなくなったものは消滅したと考えたのである、

とある(仝上)が、上総國大谷村の例では、

虫除けは村から村へと「虫除明神巡行」がおこなわれるが、大谷村へは隣村の川谷村から虫除明神が送られてくる。安政五年の場合、虫除明神が川谷村から送られてきたのは六月十日であった。虫除明神を迎え神事を執行するのは神官であるが、大谷村には神官がいないため、他所より来てもらっている……。十日の八つ半時(午後2時)頃神官が大谷村に到着すると、それを待っていたかのように川谷村から村境まで虫除明神がきているので迎えに来てほしいと連絡があった。神官・名主八郎兵衛・組頭そして若者中は早速迎えに行き、虫除明神を天王様(大杉神社の疱瘡や疫病除け・水上交通の守護神アンバサマ(安母様)の分霊を祀っている)に納め、神官に酒食を供している。翌十一日は名主・与頭が同席し、昨夜より泊まっている神官に朝食を供し、その後天王様で宝楽が行われ、……「虫除明神」の(村内の)巡行が始まり……虫除明神を次村へ送っている、

と、至極のんびりしたものである(山本光正『幕末農民生活誌』)が、別に静かだったわけではなく、

神社の前に集まり、焚火をして、一本一本各人が松明を持ち、田んぼの道を行列をくんで、青年達が太鼓を叩き、笛を吹きながら村境まで行って、松明をひとまとめにして、太鼓・笛で囃したてて燃え尽きたと同時に帰ってきた、

ともある(仝上)。

こうした呪術的儀礼は、

稲に虫がつくのは悪霊の所為と考え、あるいは、不幸な死を迎えた人間の怨霊の仕業と考え、虫をとらえたり、その人間をかたどった人形をつくり、高く掲げて田畑を回り、村境や川、海、山などにまで送り出す、

ものだ(ブリタニカ国際大百科事典・日本伝奇伝説大辞典)が、

中世の御霊信仰(ごりょうしんこう)と深い関係にある、

と考えられている(仝上)。御霊信仰(ごりょうしんこう)は、

人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする、

信仰のことであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった、

とある(仝上)例を見ると、ある意味で、非業の死に追いやった側に、恐れが大きいのかもしれない。

「虫送り」に、斎藤別當実盛https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F%E7%9B%9Bが結びつけられたのは、

実盛が敵に襲われ深田に落ちて困っているのを農民が助けなかった、

からとも、あるいは、

実盛が稲の株につまずいて倒れたのが原因で敵に討たれた、

ために、その恨みによりイナゴなどの害虫となって稲を食い荒らすと信じられたから、とされ(江戸語大辞典・日本伝奇伝説大辞典・世界大百科事典)、稲を害する蝗・浮塵子(うんか)の類に、

実盛蟲、

の名を付けている(大言海・江戸語大辞典)が、

倭俗に、実盛蟲と称するあり、いなごに似て、小也、青色也、首は兜を着たるが如し、稲葉を食て、大に害す、夜、松明をともし、鐘鼓を鳴らして逐之、

とあり(大和本草)、

横から見ると、烏帽子をかぶった武士の姿に見える、

ともあるhttp://m.zukan.net/blog/2008/08/86-1.xhtml、「ウンカ」のようである。

ただ、江戸後期の『用捨箱』(柳亭種彦)には、

青色の蟲を夕顔別當と云ふも、夕顔の花の中へ潜り入り、我物顔にふるまふ故の名なり、……蝗(イナムシ)を、実盛と云ふも、原(もと)は、稲別當など云ひしを、坂東の農民、長井別當の名高きより、戯れに、実盛と、隠語のやうに云ひたるが、遂に、諸国へわたりしにはあらずや、

と書く(大言海)。長井別當とは、越前の住人でのち武蔵国長井に移り、長井別当と称した、斎藤別當実盛のことである。この説で言うなら、別當つながりで、

夕顔別當→稲別當→斎藤別當→実盛、

と、斎藤別當になったことになるらしい。実否は別にして、ありえる面白い説だ。勿論背景に御霊信仰があってのことだが。

そんなことで、「虫送り」には、

帯刀の侍姿の藁人形(実盛人形)を担ぎ歩く、

例もあるし、実盛が、木曾義仲の部将・手塚太郎光盛によって討ち取られたとされているため、

実盛と手塚太郎の人形が争う形をとる、

例もある。

「虫」は、「蟲」の略字とされているが、本来は別字である。

「虫」(漢音キ、呉音ケ)は、「まむし」の意であり、爬虫類の意味も表すが、

象形。蛇の形を描いたもの、

であり、

「蟲」(漢音チュウ、呉音ジュウ)は、「昆虫」の意であり、動物の総称で、「羽虫」は鳥類、「毛虫」は獣類、「甲虫」は亀類、「麟虫」は魚類、「裸虫」は人間と、動物の総称でもあり、

会意。虫を三つ合わせたもので、多くの蛆虫。転じていろいろな動物を表す、

とある(漢字源)。「蟲」(チュウ)は、別の字であるが、のち「虫」の字を「蟲」の略字としてもちいたものである(仝上)。

参考文献;
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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風祭


「風祭(かざまつり)」は、

稲作に被害が生じないよう風神に祈る風鎮めの祭り、

とある。立春から数えて210日目の「二百十日」と、220日目の「二百二十日」。昔から強い風が吹くまたは天気が荒れる日とされ、(稲の花が咲き身をつけるころである)8月1日の八朔も含めて三大厄日とされているhttps://weathernews.jp/s/topics/201807/310145/という。

二十四節気の「処暑」(八月二十三日から九月六日頃)のうち、七十二候「禾乃登」(こくものすなわちみのる)の頃(九月二日から六日頃)が、稲が実り、穂を垂らす頃なので、この日を中心にして風の害を防ぐための風鎮めが広く行われた。古く、万葉集にも、

山嵐の風な吹きそ打越へて名に負へる杜(=龍田神社)に風祭せな、

と詠われる。

風の神祭、

とも、また神社やお堂にお籠りする、

風日(かざひ)待ち、
風籠り、

等々とも言う(風と雲のことば辞典)が、

富山で行われる、

おわら風の盆、

(上記歌の「杜」である)奈良県龍田大社で行われる、

風鎮大祭、

長野県の、

とうせんぼう祭り、

長野県諏訪神社の、

薙鎌を立てての風祭、

熊本県阿蘇神社の、

風鎮祭、

等々も「風祭」である(仝上)。

風三斗、

という諺があり、

お風が吹くと稲の収穫が一反歩当たり、三斗も減る、

といったり、

ひと吹き百万石、

といい、

台風が一度上陸すると、稲が強風や冠水に見舞われて、百万石減産となる、

といわれる。出穂直後の柔らかい稲穂は特に強風に弱いのだという(風と雲のことば辞典)。

上総國望陀郡大谷村では、

風除(よ)け、

といい、風除けを行う日は特に決まっていなかったらしいが、数日前から名主、組頭らが風除け準備の御神酒手配をしている。その数が、

酒壱本代金三分弐朱 十駄十八両弐分銀三匁、

と、途方もない数である。家数五十六戸、二三九人の人口の村である。で、

安政五年(1858)の場合には六月十七日に風除けを行い、二百十日は七月二十四日であった。元治元年(1864)の場合、風除けは七月二十六日に行われ、二百十日は七月晦日であった。元治元年(1864)の風除けは、……若者中の(村内)三社に神楽奉納が行われたが、このほかに持明院で宝楽亀頭が行われている。七月晦日には名主八郎兵衛が村役人や勘定人を呼び寄せ風除け御神酒を振舞い、持明院にも酒食を渡している、

とある(山本光正『幕末農民生活誌』)が、

風籠り、風日待などといって、神社やお堂に忌籠(いみごも)り精進(しょうじん)する形が最も一般的で、各戸から1人ずつ出て飲食しながら祈願したり、念仏を称えたり、100万遍の数珠繰りをする、

とか(ブリタニカ国際大百科事典)、

獅子舞(ししまい)や囃子(はやし)を奉納して無事を祈ること、大注連縄(おおしめなわ)を村の入口に張り渡して風の悪霊の入来を防ぐこと、大声で騒ぎたてたり、藁人形に悪神を負わせて辻や村境に送り出そうとする、

とか、

社寺からの風除(よ)けの神札を田畑に立てることや、草刈鎌を庭先高く掲げて吹く風を切り払おうとする呪術、

とか(日本大百科全書)、あるいは、

関東から東北にかけては、風穴ふたぎといって団子をつくって家々の神棚に供える(ブリタニカ国際大百科事典)、

等々を行う。

風神は、古くは、神代紀に、

唯有朝霧而薫満之哉、乃吹撥之気化為神、號曰級長邊命、亦曰級長津彦命、是風神也、

とあるように、

伊弉諾尊・伊弉冉尊の子、級長津彦(しなつひこ)尊、

が、

風の神、

とされる(『古事記』は志那都比古神(しなつひこのかみ)、『日本書紀』は級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記、神社の祭神として志那戸辨命、志那都比売神、志那都彦神等々とも)。

龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神は天御柱命・国御柱命であるが、社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神、国御柱命は志那都比売神(しなつひめのかみ)のこととしている。志那都比古神は男神、志那都比売神は女神である。伊勢神宮には内宮の別宮に風日祈宮(かざひのみのみや)、外宮の別宮に風宮があり、どちらも級長津彦命と級長戸辺命を祀っている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%84%E3%83%92%E3%82%B3。後世は、

風神雷神、

と、雷神と対になし、

風袋を担いで天空を駆ける姿、

をイメージされるようになる(風と雲のことば辞典)。

また、風の神様を、

風の三郎、
風の又三郎、

とも言い、新発田近辺の阿賀北地域では、子供たちが、

「風の三郎さん 風吹いてくりやんな くりやんな」

と唱和して地域を練り歩いた風習もみられたhttps://www.heri.co.jp/01mon/pdf/ni-gaku/1709-ni-gaku.pdf、とあり、風祭の一種である。地域によっては、

富山県には風の神を祀る「ふかぬ堂」という風神堂が十数か所あるし、新潟県には風の三郎なるものを祀る小祠、

がある(日本大百科全書)し、

風袋を背負っている風神の石像、

も少なくない(仝上)、とある。

かつては、山から吹き下ろす風を求めて「たたら」に利用しようとする製鉄業者などの風に対する別の観念の存在したことも、予想される、

ともあるのは興味深い(仝上)。

参考文献;
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)
倉嶋厚監修『風と雲のことば字典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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風の祝


「風の祝(はふり)」は、

風の神を祭る祝(はふり)、

を指し、

風を鎮めるために、風神を祀る神官、

とある(広辞苑・大言海)。

風の祝子(はふりこ)、

ともいう(仝上)、とある。最初に風鎮めの神事を行ったのは持統天皇五年(691)とされる(風と雲のことば辞典)。

鎌倉中期の教訓説話集、『十訓抄』(じっきんしょう/じっくんしょう)に、

信濃國は、きはめて風はやき所なり、これによりて、諏訪明神の杜に、風の祝といふものを置きて、深くこめすゑて、いはひ置きて、百日の闡ク重することなり、

とある(大言海)。平安末期の歌人『散木奇歌集』(源俊頼の自撰(家集)に、

けさみればきそ路の桜咲きにけり風のはふりにすきまあらすな、

とある(精選版日本国語大辞典)が、この歌が、後に『清輔袋草紙』に収められた際、選者の藤原清輔は、

信濃國は極風早き所也、仍(よっ)てスハ(諏方)の明神の社に、風祝と云物を置て、是を春の始に、深物に籠(こもり)居て、祝して百日之間尊重するなり、然者(しかれば)其年凡(およそ)風閑にて、農業爲吉也、自らすきま(隙間)もあり、日光も令(漏れ)見つれば、風不納(おさまらず)……、

とあるhttp://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16253850.html。で、「すきまあらすな」と詠んだものらしい。

「はふり」は、

祝、

と当て(岩波古語辞典は「はぶり」と訓ませる)、

神主・禰宜の次位で、祭祀などにしたがった人、

の意とされ(岩波古語辞典・広辞苑)、

祝子(はふりこ)、
祝人(はふりと)、

ともいい(「祝人」も「はふり」と訓ますこともある)、

巫女、

にもいう、とある(仝上)。

「はふり」は、

はぶる(放る)と同根。罪・けがれを放(ばふ)る人、

の意(岩波古語辞典)とあり、大言海も、

穢れを放(はふ)る義か、

としている。「はふる」に当てる漢字には、いくつかあり、

葬(はぶ)る、
屠(はぶ)る、
放(はぶ)る、
羽振(はぶ)る、
羽触(はふ)る、
溢(はふ)る、

なのか(岩波古語辞典)、

葬(はふ)る、
屠(はふ)る、
放(はふ)る、
投(はふ)る、
羽振(はぶ)る、
溢(はふ)る、

なのか(大言海)、濁音の有無ははっきりしないが、

放る、

には、

かかる道の空(=道端)にてはふれぬべきやあらむ(源氏)、

と、「捨てる」意で、

大君を島にはぶらば(古事記)、

と、放ち捨てる意とある(明解古語辞典)。また、

葬る、

も、

言さへぐ、百済の原ゆ、神葬(かみはふ)り、葬りいまして(万葉集)。

とある(大言海)が、名義抄には、

殯、ハブル、

とある(岩波古語辞典)。ここからだけ判断するのは臆断かもしれないが、古く、

はふる→はぶる→はうぶる→はうむる→ほうむる、

と転訛したのではあるまいか。とすると、濁音か否かを少し脇に置くなら、

祝(はふ)り、

は、

放(はふ)るの連用形の名詞化、

であり(日本語源大辞典)、「放(はふ)る」は、

葬(はふ)る、

に通じる。「葬る」は、

古へ、死者を野山へ放(はふ)らかしたるより起こると、

とある(大言海)。さらに、

屠(はふ)る、

も、

切りはふる、

とあり(大言海)、

切ってばらばらにする、
放り出す、

意であり(岩波古語辞典)、

放る、

とも当てている(仝上)。その意味で、

溢る、
も、
羽振る、

も、意味は「放る」とつながる、といえる。大言海は、逆に、「放(はふ)る」が、

溢(はふ)るの転、

としているほどである。

「祝(祝)」(漢音シュク・シュウ、呉音シュク・シュ)は、

会意。「示(祭壇)+兄(人の跪いたさま)」で、祭壇でのりとを告げる神職を表す、

とある(漢字源)。

会意。示と、兄(神にのりとをささげる人)とから成る。神を祭る意を表す。転じて「いわう」意に用いる、

という説(角川新字源)と通じる。

別に、

会意文字です(ネ(示)+口+儿)。「神にいけにえをささげる為の台」の象形と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)と「ひざまずく人」の象形から「幸福を求めて祈る」・「いわう」を意味する「祝」という漢字が成り立ちました、

との説明https://okjiten.jp/kanji682.htmlは、より具体的である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
金田一京助・春彦監修『明解古語辞典』(三省堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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「かぜ」は、

風、
風邪、

と当てるが、「風」の意味に、いわゆる「風が吹く」の意や、「風」をメタファにした、「風向き」の意や、〜風といった「やり方」の意といった「風」の意味の外延の中に、

風を引く、

として、「風邪」の意もある(広辞苑)。「風」は、

空気の流動、

の意だが、

奈良朝以前には、風は生命のもとと考えられ、風にあたると受胎すると思われていた。転じて、風が吹くと恋人が訪れてくるという俗信があった。また、明日香・初瀬など、それぞれの山々に風神がいて風を吹かすものとされていた、

とある(岩波古語辞典)。

「かぜ」は、平安時代末期の古辞書『色葉字類抄』に、

風、かざ、

とあるように、古形が、

カザ

であり、

風向(かざむ)き、
風車(かざぐるま)、
風穴(かざあな)、
風花(かざはな)、
風音(かざおと)、
風雲(かざぐも)、
風祭(かざまつり)、
風花(かざはな)、

等々と、複合語だけに残っている、

とある(岩波古語辞典)。ただ、大言海は、逆に、「かざ」は、

かぜ(風)の転、

とし、

早稲(わせ)、わさだ(早稲田)。船(ふね)、ふなばたなどの例、

としている。確かに、複合語となることで、

kazehana→kazahana、

と、

a→e、

間の母音交換は、「手綱」の、

tetuna→taduna、

というような音韻変化はあり得る(日本語の語源)ので、是非は判別しがたいが、大言海は、「かぜ」は、

気風(かじ)の転、

とし、「気(か)」は、

気(け)の転、

とし、

竹、たかむら。酒、さかづき、

を例とし、

か(香)、か(臭)、かをる(薫)、かまく(感)、かぶる(感染)などのカ、

とする。そして、「風(じ)」は、

かぜ(風)の古名、

とする。神代紀に、

吹撥之気、化為神、號曰級長戸邊(しなとべ)命、

を例に挙げ、

「荒風(あらし)」、「旋風(つむじ)」、「風巻(しまき)」、転じて「ち」。「東風(こち)」「速風(はやち)」。叉転じて「て」。「疾風(はやて)」、

と、

し(じ)→ち→て、

と転じたとする。「し→じ→ぢ→ち」を考えると、

si→di→ti→te、

という転訛はありえるかもしれない。

ち(風)→て(風)、

の転嫁が認められる(岩波古語辞典)のなら、

し(風)→じ(風)→ぢ(風)→ち(風)、

もあり得るのかもしれない。

さらに、「か」は、

アキラカ・サヤカ・ニコヤカなど、接尾語のカと同根、

とあり、

カ細し、カ弱し、

のように、

目で見た物の色や性質などを表す形容詞の上につき、見た目に……のさまが感じ取れる意を表す、

とあり(岩波古語辞典)、

転じてケ(気)となる、

と、結果として大言海とは真逆ながら、

カ⇔ケ、

の転訛を言っており、「け(気)」は、

潮気立つ荒磯にはあれど行(ゆ)く水の、過ぎにし妹(いも)が、形見とぞ来(こ)し(万葉集)、

のように、

霧・煙・香・炎・かげろうなど、手には取れないが、たちのぼり、ゆらぐので、その存在が見え、また感じられるもの、

を示すとある。「かぜ」を、

気風(かじ)の転、

とする大言海説に、一応の理が立つ気がする。

「カ(気)+ゼ(風)」で、空気の動きの意(日本語源広辞典)、
カは大気の動き、ゼは風、すなわちジと同胞語で、カジ(気風)の転(音幻論=幸田露伴)、

とするのも、同趣旨である。

キハセ(気馳)の義(日本語原学=林甕臣)、

も、似た発想である。

中国古代の「風」は、大気の物理的な動きとともに、肉体に何らかの影響を与える原因としての大気、またその影響を受けたものとしての肉体の状態を意味した。日本での「かぜ」は、もともと大気の動きである、

とある(日本語源大辞典)。

因みに、「風邪」との関係については、

(風邪の)意の用例は平安初期からみられ、おそらくは中国語「風」の移入か、

とみている(仝上)。「風」には、「風疾」とか「風者百病之長邪」という言い方をする(漢字源)。

(風邪が)風の影響をうけるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患なども表していた。又、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、日葡辞書から知られる。「風邪」は、漢籍では病気名とはいえず、日葡辞書でも、「Fûja」は、「ヨコシマノカゼ」で、体に影響する「悪い風」とされている。近世では「風邪」は一般に、「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである、

とある(仝上)。因みに、「風邪(フウジャ)」は漢語、

かぜひき、

をさす(字源)。

大難之将生也、猶風邪之中人(道徳指帰論)、

とある(仝上)。

「風」(漢音ホウ、呉音フウ・フ)は、

会意兼形声。風の字は大鳥の姿、鳳の字は大鳥が羽搏いて揺れ動くさまを示す。鳳(おおとり)と風の原字は全く同じ。中国では、おおとりを風の遣い(風師)と考えた。風はのち「虫(動物の代表)+音符凡(ハン・ボン)」。凡は広く張った帆の象形。はためきゆれる帆のように揺れ動いて、動物に刺激を与える「かぜ」をあらわす、

とある(漢字源)。同趣旨の解釈は、

もと、鳳(ホウ、フウ)(おおとり)に同じ。古代には、鳳がかぜの神と信じられていたことから、「かぜ」の意を表す。のち、鳳の鳥の部分が虫に変わって、風の字形となった、

がある(角川新字源)。ただ、これと真逆なのが、

形声。「虫」(蛇、竜)+音符「凡」を合わせた字で、「かぜ」を起こすと見なされた蛇が原義(「虹」も同様で意符が「虫」)。「凡」は「盤」の原字で、盥盤の側面の象形。「虫」に代えて「鳥」を用いた文字が「鳳」であり、両方とも「かぜ」の使いとされた、

という解釈https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8。別に、

会意兼形声文字です(虫+凡)。甲骨文では「風をはらむ(受ける)帆」の象形(「かぜ」の意味)でしたが、後に、「風に乗る、たつ(辰)」の象形が追加され、「かぜ」を意味する「風」という漢字が成り立ちました、

と「帆」を始原とする説もあるhttps://okjiten.jp/kanji100.html。しかし、「風」の字の変遷を見る (https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8)と、原字は、「鳳」に見える。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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神楽


「神楽」は、文字通り、

神前に奏される歌舞、

つまり、

手に榊などの採物(とりもの)を持ち、そこへ神を招き、歌舞を捧げて、神を楽しませて、天に送る舞楽、

で(岩波古語辞典)、

神座(かむくら・かみくら)の転、

とされる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。

カミ(ム)クラ→カングラ→カグラと転じたる語、

とある(大言海)。「座(くら)」は、

神おろしをするところ。この舞楽に使う榊や篠などに神が降下するので、その榊・篠・杖・弓などをカミクラと称したのが、後にこの舞楽全体の名となった、

とある(岩波古語辞典)。「採物」とは、

神楽の時、舞人が手に持って舞うもの。本来、神の降臨する場所、すなわち神座(かぐら)としての意味を持ち、森の代用としての木から、木製品その他の清浄なものにも広がった。榊葉(さかきば)・幣(みてぐら)・笹・弓・剣・ひさごなどが使われる、

とある(仝上)。かつては、

神が降臨した際に身を宿す「依り代」としての巨石や樹木、高い峰を祭祀の対象物、

とし、やがて、人の手が加えられた、

神座、

が設けられhttp://www.tohoku21.net/kagura/history/kigen.html、神座に、神を迎え、祈祷の祭祀を行うことになる。さらにそれが「採物」に代用されるようになる、ということになる。で、「神楽」は、

神座遊(かみくらあそび)の略にて、神座の音楽、

意となる(岩波古語辞典)。

神座を設けて神々を勧請(かんじょう)して招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の古い形で、古くは、

神遊(かみあそび)、

とも称した、とある(日本大百科全書)。「遊ぶ」は、

楽しきわざをして、神の御心を和み奉ること、

とあり、「あそび」に、

神楽、

を当て(大言海)、

瑞垣の神の御代よりささの葉を手(た)ぶさに取り手遊びけらしも(神楽歌)、

とあるように、

神楽を演ずる、

意でもある(岩波古語辞典)。本来神楽は、

招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%A5%BDのはその意味である。この起源は、

天照大御神の、天岩屋戸に隠(こも)りたまひし時、神々集まりて、岩屋の前に、榊・幣など種種の設けをして、天鈿女(うずめの)命、桙(ほこ)と篠とを採り、わざをぎの態をしなどして、慰め奉り、遂に、大神を出し奉りし事、

に始まる、とされる(大言海)。「わざをぎ」は、

伎楽(大言海)、
俳優(岩波古語辞典・広辞苑)、

と当てるが、古くは、

ワザヲキ、

と清音(広辞苑)、

ワザヲキ(業招)が原義(岩波古語辞典)、
神為痴態(ワザヲコ)の転と云ふ、ワザは神わざ(為)、わざ歌(童謡)のワザなり。ヲコは可笑(おか)しと通ず(大言海)、

とその由来の解釈は少し異なる(大言海は「俳優」と当てるのは、「俳優侏儒、戯於前」(孔子家語)、神代紀に、ワザヲキに俳優の字を充てたるに因りて誤用せる語、としている)が、

天鈿女命、則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天の石窟戸(いわやど)の前に立たして、巧みに俳優(わざをき)す(日本書紀)、

とあるような、岩戸隠れで天鈿女命が神懸りして舞った舞い、

に淵源する、

手振り、足踏みなどの面白くおかしい技をして歌い舞い、神人をやわらげ楽しませること、またその人、

とあり(広辞苑)、

役者、

の意味にもなる(嬉遊笑覧)ので、

俳優、

と当てる方が妥当に思える。ほぼ、

神遊び、

と意味は重なる。考えれば、「あそぶ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464241062.htmlで触れたように、「あそぶ」自体が、

神楽(かみあそび)→神楽(あそび)→奏楽(あそび)→遊び、

と転じてきたものなのであり、

足+ぶ(動詞化)(日本語源広辞典)
アシ(足)の轉呼アソをバ行に活用したもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、

語源としているのである。

神楽は、

宮中の御神楽(みかぐら)すなわち内侍所御神楽(ないしどころのみかぐら)

と、

民間に行われる里神楽、

に大別されるようである。民間の神楽は、今日、

巫女が祈祷の舞を舞う巫女神楽、
神座となるべき採物をとって舞う採物神楽(出雲流神楽)、
清めの湯立てを主とする湯立神楽(伊勢流神楽)、
獅子を権現と崇め獅子を舞わすことによって祈祷する獅子神楽(山伏神楽・太神楽(だいかぐら))、

の四系統とされる(日本伝奇伝説大辞典)。

「豪農のくらし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105で触れた、旧上総國滂沱郡大谷村(現千葉県君津市)の小さな村にも神楽はあり、

村の祈祷において重要な役割を果たしていたのが神楽であった。大谷村の神楽は伊勢系のようであるが、ほとんどの神事・祈祷に関わっていたといってよい。神楽は若者中によって演じられる、

とある(山本光正『幕末農民生活誌』)。

因みに、「神楽」は、万葉集の諸歌では、

神楽波(ささなみ)の滋賀、

等々と、

「ささ」とよみ、鎮魂の呪具たる採物(とりもの)の笹の葉ずれの音(本居宣長)、

とか、

鈴の音(本田安次)、

等々とされ(世界大百科事典)、まだ神楽は形が整ってはいなかったhttp://www.tohoku21.net/kagura/history/kigen.html、とみられている。

神事芸能を内容とする初見は大同二年(807)撰の『古語拾遺』の、

猨女(さるめの)君氏、供神楽之事、

である。猨女君は天鈿女命の子孫であり、鎮魂を司っていたので、ここに出てくる神楽も、鎮魂祭を指しているものとされている(仝上)。

神楽の文字が使われ出すのは、

石清水(いわしみず)八幡宮の初卯の神楽や、賀茂神社臨時祭の還立(かえりだち)の神楽のように9世紀末から10世紀初頭にかけてである、

とある(世界大百科事典)。

宮中では先行神事芸能としての琴歌神宴が行われており、10世紀に入って御遊(ぎよゆう)ないし御神楽(みかぐら)が清暑堂において行われ、1002年(長保4)に内侍所(ないしどころ)御神楽が成立した、

とされている(仝上)。

参考文献;
旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』(河出書房新社)
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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わざ


「わざ」は、

技、
業、

と当てる。大言海は、

所為、
態、
事、

を当てているが、意味によっては、

藝、
術、

を当てる(日本類語大辞典)ことがあるのは、推測できる。ただ、

こめられている神意をいうのが原義、

とあり(岩波古語辞典)、

もと、神のふりごと(所作)の意。それが精霊にあたる側の身ぶりに転用されたもの(国文学の発生=折口信夫)、

とあるのも同趣旨になる(日本語源大辞典)。「ワザ」は、

ワザハヒ(災)・わざをき(俳優)のワザ、

とある(岩波古語辞典)のは、

ワザワヒ(禍)の転用、曲之靈が禍を為すむというところからか(国語の語根とその分類=大島正健)、

と同趣旨で、「災害」「災い」を神の「しわざ」と考え、そこに神意を読み取る側の受け止め方ということになる。だから、単なる、

行為、

行事、

ではなく(大言海)、

人妻に吾(あ)も交はらむ、吾妻に人も言問へ、此の山を領(うしは)く神の昔より禁(いさめ)ぬわざそ(万葉集)、



神意の込められた行事・行為、
とか、
深い意味のある行為・行事、

というのがもとの用例に近い(広辞苑・岩波古語辞典)。

事柄に込められている神意(日本語源広辞典)、

つまり、

神わざ、

と受け止めた、という意味である。「かみわざ」は、

神業、
神事、

と当てる。古くは、

カムワザ、

と訓み、

神のしわざ、

の意だが、180度ひっくり返って、

神に関する公事、神事、

の意になる(広辞苑)。

だから、「わざ」は、

あしひきの山にしをれば風流(みやび)なみわがするわざをとがめたまふな(万葉集)、

と、単なる、

しわざ、
行い、

の意味にも使う(広辞苑)が、

意識的に何事かすること、

ならひ学びてなしうるわざ、

というような含意から、

それ失せたまひて、安祥寺にて御わざをしけり(伊勢物語)、

と、

仏事・法要、

の意味だったり、

釣魚(つり)するを以て楽(わざ)とす。……遊鳥(とりのあそび)するを樂(わざ)とす(書紀)、

と、

仕事、
職とすること、

の意となり(岩波古語辞典・広辞苑)、それがさらに極まれば、

闌(た)くるといふ事をわざよと心得て上手の心位とは知らざるか(至花道)、

と、

方法、
技術、

となり、

藝、
腕前、

の意となっていく(広辞苑)。このときは、

技、

を当て、それ以外は、

業、

を使うのが普通(広辞苑)、とある。天治字鏡(平安時代)には、

伎、和佐、

とある(大言海)。

ただ、「わざ」を神意とつなげず、

為す、

という意味から、

「態」の転用でシワザ(為態)の意から(日本古語大辞典=松岡静雄・日本語源=賀茂百樹)、
ワ(腕)サマ(様)からの転(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、

とする説がある。しかし、当てる漢字はともかく、

ワザヲキ

の「ワザ」であることを考えると、「神」との関り抜きの説は、採りがたい気がする。

「伎」(漢音キ、呉音ギ)は、

会意兼形声。支は、細かく分かれた枝を手(叉)に持つ姿。古くはキと発音した。伎は「人+音符支(キ・シ)」で、人間の細かいわざ、技をあやつる人の意を表す、

とある(漢字源)。「技」(細かいわざ)、「岐(細かい分かれ道)」と同系。「わざ」の意では、「技」と同義である(仝上)。

別に、

会意兼形声文字です(人+支)。「横から見た人」の象形と「竹や木の枝を手にする」象形(「枝を支え持つ」の意味)から、枝を持って演ずる事を意味し、そこから、「わざおぎ(映画・演劇などで、劇中の人物を演ずる人)」を意味する「伎」という漢字が成り立ちました、

とあるのが、具体的であるhttps://okjiten.jp/kanji2093.html

「技」(漢音キ、呉音ギ)は、

会意兼形声。支(シ)は、細い枝を手にもつさま。技は「手+音符支」で、細い枝のような細かい手細工のこと、

とある(漢字源)。

別に、

会意兼形声文字です(扌(手)+支)。「5本指のある手」の象形と「竹や木の枝を手にする」象形(「木の枝をささえ持つ」の意味)から、枝を持ちたくみにふるまう事を意味し、そこから、「わざ」を意味する「技」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji775.html

「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、

象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる、

とある(漢字源)。

象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる(角川新字源)、

象形。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji474.html

とある説明がわかりやすい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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わざをぎ


「わざを(お)ぎ」は、「神楽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482498778.html?1626461046で触れたように、

伎楽、
俳優、
伶、

等々と当てる(大言海・岩波古語辞典・広辞苑)が、古くは、

ワザヲキ、

と清音(広辞苑)、

ワザ(業)ヲキ(招)が原義(岩波古語辞典)、

とある。「をぐ」は、

招く、

と当て、

神や尊重するものなどを招き寄せる、

意とある(仝上)。

正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅ををきつつ楽しき終へめ(万葉集)、

とあるように、神に限った使い方をするわけではない。

「わざ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482526535.html?1626633416は、

こめられている神意をいうのが原義、

であり(岩波古語辞典)、

もと、神のふりごと(所作)の意。それが精霊にあたる側の身ぶりに転用されたもの(国文学の発生=折口信夫)、

とあるのも同趣旨になる(日本語源大辞典)。「ワザ」は、

ワザハヒ(災)・わざをき(俳優)のワザ、

とある(岩波古語辞典)のは、

ワザワヒ(禍)の転用、曲之靈が禍を為すむというところからか(国語の語根とその分類=大島正健)、

と同趣旨で、「災害」「災い」を神の「しわざ」と考え、そこに神意を読み取る側の受け止め方ということになる。だから、単なる、

行為、

行事、

ではなく(大言海)、

人妻に吾(あ)も交はらむ、吾妻に人も言問へ、此の山を領(うしは)く神の昔より禁(いさめ)ぬわざそ(万葉集)、


神意の込められた行事・行為、
とか、
深い意味のある行為・行事、

というのがもとの用例に近い(広辞苑・岩波古語辞典)。

事柄に込められている神意(日本語源広辞典)、

つまり、

神わざ、

と受け止めた、という意味である。

ワザは神意。神の為すこと。オギは招ぎで、神意を招くのが原義(古事記伝・嬉遊笑覧・日本芸能史ノート=折口信夫)、

とするのはその意味である。

ワザヲキ(態招・伎招)の義。身振りなどで神を招くところから(筆の御霊・言元梯・名言通・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・日本の祭り=柳田国男・芸能辞典)、
ワザの原義は神意、威力ある神霊、また、それを発現させる呪術のことで、オギはヲグ(招く)の名詞形(世界大百科事典)、
ワザ(事柄の中の人力の及ばない神意)+オキ(招く)、神を招く人。神意を招き寄せるため、神前で滑稽な芸をすること(日本語源広辞典)、

とするのも同趣である。しかし、大言海は、

神為痴態(ワザヲコ)の転と云ふ、ワザは神わざ(為)、わざ歌(童謡)のワザなり。ヲコは可笑(おか)しと通ず、

とし、

神憑(かんがかり)の可笑しき態(わざ)、

とする。そして、「わざをぎ」に、

俳優

と当てるのは、

孔子家語(こうしけご)・相魯篇「俳優侏儒、戯於前」。神代紀に、ワザヲキに俳優の字を充てたるに因りて誤用せる語、

とする。その是非はともかく、「わざをぎ」が、

天鈿女命、則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天の石窟戸(いわやど)の前に立たして、巧みに俳優(わざをき)す(日本書紀)、

とある、

天照大神の天岩屋戸に隠(こも)りたまひし時、其前にて天鈿女命の為したる態を云ふ、

に淵源する、

手振り、足踏みなどの面白くおかしい技をして歌い舞い、神人をやわらげ楽しませること、

であるとするなら、「語義」は別として、大言海説もまんざら悪くはない気がする。

ただ、そうした、

神懸りして舞った舞い、

自体から、

それをする人、

の意になったとするなら、

俳優、

と当てるのは、かなり後世のことではないかという気はする。その意味で、「俳優」の意味に、

滑稽なしぐさで歌舞などを演じる芸人、

が最初に来るのは、その由来に因っている(広辞苑)。

「俳」(漢音ハイ、呉音ベ)自体、

会意兼形声。非は、羽が右と左に逆に開いたさま。扉(ヒ 左右に開くとびら)と同系のことば。俳は「人+音符非」で、右と左に分かれて掛け合いの芸を演じる人、のち役者をいう、

とあり(漢字源)、

右と左とで並んで掛け合いの芸をしてみせる人、道化役、

の意味がある。「優」(漢音ユウ、呉音ユ)は、

会意兼形声。憂の原字は、人が静々としなやかなしぐさをするさまを描いた象形文字。憂は、それに心を添えた会意文字で、心が沈んだしなやかな姿を示す。優は「人+音符憂」で、しなやかにゆるゆるとふるまう俳優の姿、

とあり(漢字源)、やはり役者の意である。「俳優」は、

倡優(しょうゆう)、

とも当て、

滑稽な動作をして歌い舞い、神や人を慰め楽しませること。また、それをする人。道化師・芸人・役者・俳優などといった職業人の古称、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BF%B3%E5%84%AA、古く中国では、

君主の側にはべって主人を楽しませることを職掌とする者、

を指し、

優、
優人、
倡優、
優倡、
俳倡、

ともいい(字源・仝上)

小人・巨人等、何らかの身体的特徴を持ち、歌・音楽・雑伎などを身に付けていた、

ともある(仝上)。

朔好詼諧、武帝以俳優蓄之(漢書)、

とあるのもそれであるが、起源は、天鈿女命の所作である、

神を招(お)ぐわざ、

と同様と考えていいのだろう。

「わざをぎ」と訓ませる「伶」(漢音レイ、呉音リョウ)は、

会意兼形声。令は、清らかなお告げ、伶は「人+音符令(レイ)」で、澄んだ音の音楽を奏する人、清らかな姿をした俳優などのこと。清澄の意を含む、

とある(漢字源)。「伶優」とすると、役者の意になる。蘓武の詩に、

力盡病騏驥、伎窮老伶優、

とある(字源)。別に、

会意兼形声文字です(人+令)。「横から見た人」の象形(「人」の意味)と「頭上に頂く冠の象形とひざまずく人の象形」(「ひざまずき神意に耳を傾ける」の意味)から、「わざおぎ」を意味する「伶」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2321.htmlが、このほうが「わざをぎ」の原義に近い気がする。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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わざわひ


「わざわひ(い)」は、

災い、
禍、
殃、

等々と当てる(広辞苑)。

ワザは鬼神のなす業(わざ)、ハヒはその状(さま)をらわす、

とあり、

其の殃(わざはひ)に罹らむ(法華経)、

というように、

傷害・疾病・天変地異・難儀などをこうむること、
悪い出来事、
不幸な出来事、

の意である(仝上)。「わざ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482526535.html?1626633416は、

こめられている神意をいうのが原義、

であり(岩波古語辞典)、

もと、神のふりごと(所作)の意。それが精霊にあたる側の身ぶりに転用されたもの(国文学の発生=折口信夫)、

とあるのも同趣旨になる(日本語源大辞典)。「ワザ」は、

ワザハヒ(災)・わざをき(俳優)のワザ、

とある(岩波古語辞典)のは、

ワザワヒ(禍)の転用、曲之靈が禍を為すむというところからか(国語の語根とその分類=大島正健)、

と同趣旨で、「災害」「災い」を神の「しわざ」と考え、そこに神意を読み取る側の受け止め方ということになる。だから、単なる、

行為、

行事、

ではなく(大言海)、

人妻に吾(あ)も交はらむ、吾妻に人も言問へ、此の山を領(うしは)く神の昔より禁(いさめ)ぬわざそ(万葉集)、



神意の込められた行事・行為、
とか、
深い意味のある行為・行事、

というのがもとの用例に近い(広辞苑・岩波古語辞典)。

事柄に込められている神意(日本語源広辞典)、

つまり、

神わざ、

と受け止めた、という意味である。だから、「わざ」は、

人力の及ばない不気味な神意(日本語源広辞典)、
隠された神意(岩波古語辞典)、
神為(わざ)を活用す(大言海)、
神のしわざ(名言通)、
鬼神の行為(江戸語大辞典)、

ということになる。

問題なのは、「わざわひ」の「はひ」である。多く、

サキハヒ(幸)・ニギワヒ(賑)・ケハヒ(気配)のハヒに同じ、

とされる(大言海・岩波古語辞典)。その「ハヒ」は、

言霊のさきはふ国と語りつぎ言ひ継がひけり(山上憶良)、

と、接尾語として、

辺りに這うように広がる意を添えて動詞をつくる(岩波古語辞典)、

とある。だから、

そのさまをいう語(江戸語大辞典)となる。この「はふ」は、

這ふ、
延ふ、

と当て、

這い経るの意、

とある(大言海)。

這ふ⇔延ぶ、

と、

這ふは、延ふに通じ、延ふは這ふに通ず、

とあり(仝上)

蔓草や綱などが物に絡みついて伝わっていく、

意で(岩波古語辞典)、「ハヒ」は、この、

「はふ」の連用形です。 「はふ」 は 「延ふ」 で 〈蔓が延びていくように、物事が進む、広まる、行きわたる〉 というような意味、

とするのが大勢の解釈となるhttps://mobility-8074.at.webry.info/201508/article_18.html

だから、

「にぎはひ」の「ハヒ」、

も、

「さきはひ」の「ハヒ」、

も、

「けはひ」の「ハヒ」、

も、

這ふ、
延ふ、

の「ハヒ」で、「にぎはひ」は、

和やかな状態が打ち続き盛んになる意、人々が寄り集まり、和やかに繫盛する意(日本語源広辞典)、

となり、「さきはひ」は、

サク(咲)・サカユ(栄)・サカル(盛)と同根、生長の働きが頂点に達して、外に形を開く意(岩波古語辞典)、
サキ(幸、霊力)+ハフ(這)。よい獲物が続けてとれる、栄え続ける(日本語源広辞典)、
「幸、又福を訓むも、先の字に通えり」(和訓栞)、万葉集に見える幸延國の義なるべし、幸(サキ)の動く意なり(大言海)、

となり、「けはひ」(「気配」は後世の当て字)は、

ケ(気)+ハヒ(事のひろがり)。何となく感じられるさま(日本語源広辞典)、
ケは気、ハヒは延の義(和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)、
ケ(気)ハヒ(延)の義。ハヒは、辺り一面に広がること、何となく、辺りにスー感じられる空気(岩波古語辞典)、

となり、「ハヒ」を、

延ふ、
這ふ、

から来た、

広がる、
延びる、

という状態表現の言葉と見る。しかし、「ハヒ」を「ハフ」とつなげるのは音韻の類似性から来た付会なのではないか、という気がする。

だから、異説がある。

サチイハフ(幸祝ふ)は「イ」を脱落してサチハフ(幸ふ)になった。〈サチハヘ給はば〉(祝詞)。サチハフ(幸ふ)も子交(子音交替)[tk]をとげてサキハフ(幸ふ)になった。「栄える。幸運にあう」という意である。〈しきしまのやまとの国は言霊のサキハフ国ぞ〉(万葉集)。(中略)サキハフ(幸ふ)は、キハ[k(ih)a]の縮約でサカフ[fu](栄ふ)になり、さらにサカウ(kawu)を経てサカユ[ju](栄ゆ)に転音した。……サキハフ(幸ふ)の連用形サキハヒ(幸ひ)は子音[k]を脱落してサイハヒ(幸)になった、

とある(日本語の語源)。

この説に従うなら、「ハヒ」=「ハフ(這・延)は成立しない。

「サキハヒ」が、

サチイハヒ(幸祝ひ)、

なら、「ワザハヒ」は、

ワザイハイ(業祝ひ)、

と、神意を承けて祝う意となり、「ニギハヒ」は、

ニギイハイ(和祝ひ)、

とになるが、そもそも、

和(にぎ)を活用す、和(なぎ)に通ず、荒るるに対す(大言海)、

とするなら、

にぎはふ、

は一語であり、「にきはふ」は、「荒(あら)」の対である、

やわらぐ、

意の、

にぎ(和)、

を活用したものなのだとすると、「ハヒ」説は適用できない。「ニギ」を活用した動詞には、四段活用の、

にぎはふ(賑)、

の他に、

にぎぶ(賑 上二段活用)、
にぎははす(賑 他動詞)
にぎほほす(賑 形容詞)、

等々があり(大言海)、「ニギ」と「ハヒ」を分ける説自体が成り立たないかもしれない。

「ケハひ」も、また、

キイハヒ(気祝ひ)、

といえなくもない。「け(気)」は、

霧・煙・香・炎・かげろうなど、手には取れないが、たちのぼり、ゆらぎのでその存在が見え、また感じ取れるもの、

である(岩波古語辞典)。

「いはふ」は、

祝ふ、
斎ふ、

と当て、原義は、

吉事・安全・幸福を求めて、吉言を述べ、吉(よ)い行いや呪(まじない)をする、

意である。「わざわひ」の場合、ことに、

隠された神意に呪(まじない)する、

意の、

わざ+いはい、

はあり得る気がする。そして、憶説ながら、

サチイハフ→サチハフ(幸ふ)→サキハフ(幸ふ)、

とした転訛に倣うなら、

ワザイハフ(業祝ふ)→ワザハフ→ワザハヒ→ワザワイ、

という転訛もあり得るのかもしれない。もちろん、憶説に過ぎないが。

「わざはひ」に当てた漢字を見ておくと、

「災」(サイ)は、

会意兼形声。巛(サイ)の原字は、川をせき止める堰を描いた象形文字。災は「火+音符巛」で、順調な生活を阻んで留める大火のこと。転じて、生活の進行をせき止めて邪魔をする物事、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です。「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「川のはんらんをせきとめる為に建てられた良質の木」の象形(「わざわい」の意味)から、火事のような「わざわい」を意味する「災」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji95.html

「禍(禍)」(漢音カ、呉音ガ・ワ)は、

会意兼形声。骨の字の上部は、関節骨がはまりこむまるい穴のこと。咼(カ 丸い穴)はそれと口印(穴)を合わせた字で、まるくくぼんだ穴のこと。禍は「示(祭壇)+音符咼」で、神の祟りをうけて思いがけない穴(落とし穴)にはまること、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(ネ(示)+咼)。「神にいけにえを捧げる台」の象形と「肉を削り取り頭部を備えた人の骨の象形と口の象形」(「削られ、ゆがむ」の意味)から、神のくだす「わざわい」を意味する「禍」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1667.htmlほうが、「禍」の字の背景がよくわかる。

「殃」(漢音ヨウ、呉音オウ)は、

会意兼形声。央(オウ)は、大の字に立った人の首の部分を枷でおさえつけたさま。真ん中を押さえて、くぼめる意を含む。殃は「歹(死ぬ)+音符央」で、人をおさえつけてじゃまをし、死なせることを示す、

とある(漢字源)。

「災」「禍」「殃」の違いは、

「禍」は、福の反なり、不仕合せにあふなり。淮南子「禍者福之所倚、福者禍之所伏」、
「災」は、時のまわりあわせなり、天地よりなすわざわひなり。左傳「天災流行」、また人火曰火、天火曰災と註す、
「殃」は、神の咎をうける義。易経「積不善之家、必有餘殃」、

とある(字源)。その意味で、「わざわひ」の「わざ」を神意とするなら、「禍」「災」よりは、「殃」を当てる方が正確なのかもしれない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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いはふ


「いはふ(いわう)」は、

祝う、
齋(斎)う、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

吉事・安全・幸福を求めて、吉言(よごと)をのべ、吉(よ)い行いや呪(まじな)いをする意が原義、

とあり(岩波古語辞典)、

類義語イツクは、神聖なものを大切に護り、それに仕える義、

とある(仝上)。しかし、「祝ふ」は、

吉事を祈り喜ぶ、

意だが(日本語源大辞典)、「齋ふ」は、

穢れを浄め、忌みつつしんで、よいことを求める、また、吉事を求めて神事を行う、

と区別する(仝上)。で、大言海は、「齋ふ」と「祝ふ」を別項立て、「斎ふ」は、

いまふ(齋)と通ず(齋(サイ)は、齋戒(ものいみ)なり)、かはち、かまち。しまし、しばし、

とし、

いつく(齋)、
いまふ(忌)、
斎祀、

と同義とし、

祝部(はふり)等が齋経(イハフ)社の黄葉(もみぢば)も標縄(しめなは)越えて散るといふものを(万葉集)、

と、

齋(い)み清まはり、謹みて祀る、

意とする。それが、広がり、

大船(おほぶね)に真梶(まかぢ)しじ貫きこの吾子を唐国(からくに)へ遣る伊波敝(いは)へ神たち(万葉集)、

と、

齋(いは)ひて守りまさむ、

意となり、さらに、

ちはやぶる神の御坂に幣(ぬさ)まつり伊波負(いはふ)命は母(オモ)父(チチ)がため(万葉集)、

と、

齋き守る、

意が、

祈願する、

という含意にシフトしている。だから、「祝ふ」は、この、

(「齋ふ」)の転、凶を齋(いは)ひ清めて、吉ならしる、

意となり、

ことほぐ、

意の、

真幸(まさき)くて妹が斎(いは)はば沖つ波千重(ちえ)に立つとも障りあらめやも(万葉集)、

と、

吉あらしめんとす、

という意になり、さらに、

鶴亀につけて、君を思ひ人をもいはひ(古今集・序)、
君がためいはふ心の深ければ聖(ひじり)の御代にあとならへとぞ(後撰集)、

と、

祝す、
賀す、

意となっていく。

「いつく(齋)」は、

イツ(稜威)の派生語。神や天皇などの威勢・威光を畏敬して、汚さぬように潔斎して、これを護り奉仕する意、後に転じて主人の子をを大切にして仕え育てる意、

とある(岩波古語辞典)。「いつ」は、

稜威、
厳、

と当て、

自然・神・(神がこの世に姿を現した)天皇が本来持つ、盛んで激しく恐ろしい威力、

とあり、

神霊の威光・威力、

を指す。漢書・李廣伝に、

威稜憺平隣国、

とあるのに、

李奇曰、神霊之威曰稜、

とある(大言海)。こうみると、「齋く」を、

イは齋(い)むの語根(齋垣(いみがき)、いがき。齋串(いみぐし)、いぐし)。ツクは、附くなり。かしづくと同じ。齋(い)み清まりて事(つか)ふる、

意(大言海)とするのと、

神や天皇などの威勢・威光を畏敬して、汚さぬように潔斎して、これを護り奉仕する(岩波古語辞典)、

とは重なる。

いまふ(忌)、

と同義としたのも、「いまふ(忌)」が、

忌むに反復・継続の接尾語ヒのついた形(岩波古語辞典 ヒは四段活用の動詞を作り、何回も繰り返す意を表す)、
イムの未然形の、イマを活用す(大言海)、

と解釈は異なるものの、

不吉なものとして避け嫌う、

意である。「いむ」は、

忌む、
齋む、

と当てるが、「いむ」は、

齋(イ)を活用、

した語であり、「齋」(い)は、

神聖であること、

の意であり、

ユユシなどのユの母音交替形、

である。「いむ」も、本来、

凶穢(けがれ)を浄め、慎む。神に事ふるに云ふ、

の、

齋(い)む、

が先で、それ故、

禁忌(タブー)、

の意から、

忌む、

の、

穢れを避け、嫌う、

意になった(大言海)。

神聖なもの・死・穢れたものなど、古代人にとって、はげしい威力をもつ触れてはならないもの、

となった(岩波古語辞典)のである。だからこそ、

汚さぬように潔斎して、これを護り奉仕する、

必要がある。で、「齋く」が、「いむ」から由来したとすると、「いはふ」もまた、

凶事を避け、吉事を招くところからイム(忌・齋)の延言(冠辞考続貂・和訓集説・国語の語根とその分類=大島正健)、
不浄を忌み嫌って、ハフリ(祝)マツル義から、イミハフ(忌栄・齋延)の約轉(言元梯・名言通・両京俚言考)、

という説はあり得るが、

イム(忌・斎)と同根、

とされる、

い(齋)、

があり、

イ(斎)に動詞化のハフのついた語(角川古語大辞典・小学館古語大辞典)、
イはユ(齋)と同語。ハフは行為を意味する活用語尾(日本古語大辞典=松岡静雄)、

が妥当だと思われる。ここで、「わざわひ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482558802.html?1626806502で問題となった「はふ」(這・延)が登場する。ただ、ここでは、

齋(いつ)く、

が転化して、

傳く、

とあてる「いつく」が、

神に云ふ語(齋く)の、愛護の意に移りたるなり、集韻「傳 音附近(チカヅク)也」、説文「相(タスク)也」、

とあり(大言海)、

かしづく、
大切にする、

意とある。「いはふ」の意味の広がりと重なるとみていい。この場合は、その意味では、

い(齋)+はふ(這・延)、

はあるのではないか、という気がする。「はふ」は、

さきはひ、
わざはひ、
にぎはひ、
あじはふ、

の、

辺りに広がる、

意である(岩波古語辞典)。

「祝」の字については、「風の祝」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482454191.html?1626201854で触れたように、

「祝(祝)」(漢音シュク・シュウ、呉音シュク・シュ)は、

会意。「示(祭壇)+兄(人の跪いたさま)」で、祭壇でのりとを告神職を食を表す、

とある(漢字源)。

会意。示と、兄(神にのりとをささげる人)とから成る。神を祭る意を表す。転じて「いわう」意に用いる、

という説(角川新字源)と通じる。別に、

会意文字です(ネ(示)+口+儿)。「神にいけにえをささげる為の台」の象形と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)と「ひざまずく人」の象形から「幸福を求めて祈る」・「いわう」を意味する「祝」という漢字が成り立ちました、

との説明https://okjiten.jp/kanji682.htmlは、より具体的である。

「齋(斎)」(とき)http://ppnetwork.seesaa.net/article/460543513.htmlで触れたが、

「齋」(漢音セイ、呉音セ)は、

会意兼形声。「示+音符齊(きちんとそろえる)の略体」。祭のために身心をきちんと整えること、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(「祖先神」の意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する「斎」という
漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1829.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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「時(とき)」は、幅広く「時間」を表し、

過ぎていく時間、
時刻、
時分、
期限、
時節、
時候、
時期、
時世、
時機
時代、
時勢、

等々と意味の幅が広い(岩波古語辞典・広辞苑)。ために、「とき」に当てると漢字も、

世、
刻、
季、
期、
秋、
節、
辰、
齋、

等々少なくない(字源)。

「月」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444490307.htmlで触れたように、「月(つき)」は、

「古形ツクの転」

とあり(岩波古語辞典)、その語源は、

説1は、「毎月、光が尽きる」の尽きが語源、
説2は、「日につぐ明るさ」の次ぎが語源、
説3は、「トキ(時)」と同じ語源。満ち欠けが月という「単位時間」を表すツキ、

の三説あり、「とき(時)」の語源も、

説1は、「月の音韻変化」説。月の満ち欠けによって、時の動きを示すという説、
説2は、「解ける・溶けるのトキ」語源説。溶けていく過程に時間の移り行きを示すという説、
説3は、「疾き」説。早く過ぎ去るを示すトキ(疾き)で、時間の進行を示すという説、

の三説で、「とき」の説1が、「つき」の説3と同じ説ということになる(日本語源広辞典)。言語学上、

月と時が関係ある、

とされるのは、聖書に

ヱホバは月を作りて時をつかさどらせたまへり、

にあるように、

太陰が時の計測の基準となった、

ことに起因している(渡邊敏夫『暦のすべて』)といわれ、英語の time は、

「潮の満干」を意味する tide と同一の語根 ti- を持つ、

とされるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11138393646

ただ、固有の暦法をもたない、古代日本で、時間という抽象概念を月とつなげたかどうか、些か疑問である。

常(とこ)の転(大言海・東雅)、
疾(とく)の意(大言海・名語記・和句解・日本釈名・名言通・柴門和語類集)、

のいずれかということになるが、正直しっくりこない。

辰(とき)の義(言元梯)、

もあるが、

星辰、

というように、

星座、
星宿、

の意味で使うのは、中国暦が入ってきて以降のことかと思われる。

「時」(漢音シ、呉音ジ)は、

会意兼形声。之(シ 止)は足の形を描いた象形文字。寺は「寸(手)+音符之(あし)」の会意文字で、手足をはたらかせて仕事をすること。時は「日+音符寺」で、日がしんこうすること。之(いく)と同系で、足が直進することを之といい、ときが直進することを時という、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(止+日)。「立ち止まる足の象形と出発線を示す横一線」(出発線から今にも一歩踏み出して「ゆく」の意味)と「太陽」の象形(「日」の意味)から「すすみゆく日、とき」を意味する漢字が成り立ちました。のちに、「止」は「寺」に変化して、「時」という漢字が成り立ちました(「寺」は「之」に通じ、「ゆく」の意味を表します)、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji145.html

なお「とき」と訓ませる「斎」((http://ppnetwork.seesaa.net/article/460543513.html))については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』

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くら


「くら」には、

座、

とあてる「くら」の他、

鞍、

とも当て、

蔵、
倉、
庫、

とも当てる。どうも三者は、関連がありそうに思える。

「座」(漢音サ、呉音ザ)は、

会意兼形声。坐(ザ)は「人二つ+土」の会意文字で、人々が地上にすわって頭が高低ででこぼこするさまを示す。座は「广(いえ)+音符坐」で、家の中ですわる場所のこと、坐は動詞、座は名詞であったが、当用漢字で座に統一された、

とある(漢字源)。「すわる場所」の意から、「台座」のように、「器物を載せる台」の意や、星々の(集まる)場所の意味で、「星座」と使ったりする。

しかし、あくまで「座」は、

席、

の意で、

矢庫(やぐら 矢倉)、

のような、「くら(倉)」の意で使ったり、

高御座(たかみくら)、

というように、

位(くらい)、

の意で使ったり、

歌舞伎座、

のような芝居小屋の意や、

材木座、

のように、

商人の同業者組合の意や、

銀座、

のような、貨幣鋳造の機関の意で使うのは、わが国だけである。

和語「くら(座)」も、

御手座(みてぐら)、
矢座(やぐら→櫓・矢倉)、
鳥(と)座、
千座(ちくら)、

等々、

人や物を載せる台、また、物を載せる設備、

の意で使われることが多い(岩波古語辞典)。「御手座(みてぐら)」は、もとは、清音で(広辞苑)、

元来は神が宿る依代として手に持つ採物(とりもの)をさした。その後幣(ぬさ)の字を当てたため、幣帛(へいはく)と混用され、布帛、紙、金銭、器具、神饌(しんせん)など神に奉献する物の総称の意にも用いられた、

とあり(百科事典マイペディア)、記紀や風土記にみえる「磐座(いわくら)」が、

本来、神のいる場所をたたえる語であった。やがて祭りに際して神の依り代とされた岩石を特定してさすものと認識されるようになり、さらには石そのものを神体として祭祀対象とするようになる、

と、

依代の採物→神への奉献するもの、

となったように、

依代の岩→神体→神、

と、意味が広がったのに似ている。

「高御座(たかみくら)」は、もともと、

天皇のすわる高い座(人や物を載せる高い所)、

の意であったが、それ自体が、

高御倉天の日継(ひつぎ)と天皇(すめろぎ)の神の命(みこと)の聞こし食(を)す国のまほらに(万葉集)、

と、

皇位、

そのものを意味するように広がっている。これは、「くらい(位)」が、

座居(くらゐ)、

と当て、「くら(座)」に居ること、つまり、

高くしつらえた席に居ること、

から、

位階、

の意に転じたのと似ている。

「くら」が、

物を置く場所、

の意だから、その義の、

座、

を当てたと思われる。そこから、「物を納め置く」、

倉(蔵・庫)、

や、「人を乗せる」、

鞍、

へつながったと思えるが、その「くら」自体の由来は、

ク(処)から出た語か(日本古語大辞典=松岡静雄)、

がもっともらしく思えるが、

キヲル(来居)の義(茅窓漫録・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
キアル(来在)の義(名言通)、
クはクム(組)、ラはハシラ(柱)の略(和訓栞)、
クはクダル(下)関係ある語(国語の語根とその分類=大島正健)、

となると、どうも語呂合わせになっていて、はかばかしくない。

なお、「座」の字の成り立ちについては、上述とは別に、

会意兼形声文字です(广+坐)。「屋根」の象形(「家」の意味)と「向かい合う人の象形と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(「すわる」の意味)から、家屋の中の「すわる場所」を意味する「座」という漢字が成り立ちました、

という説があるhttps://okjiten.jp/kanji1050.html。ここから考えると、もともと「座」にはない、

くら、

の意を持たせたのは、

磐座、
御手座、

のような、

座居(くらゐ)、

の、

いる場所の意から、一方で、

座居(くらゐ)→位、

と位階になり、他方で、

座居(くらゐ)→くら→それが居る場所→物を載せる場所・装置、

と、それぞれ転化したのではないか。だから、

座(くら)→座居(くらゐ)、

ではなく、

座居(くらゐ)→座(くら)、

が生まれたのではないか、と憶測したくなる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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「くら」と当てる漢字、

座、

については「くら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482602676.html?1627065402で触れたように、

御手座(みてぐら)、
矢座(やぐら→櫓・矢倉)、
鳥(と)座、
千座(ちくら)、

等々、

人や物を載せる台、また、物を載せる設備、

の意で使われる(岩波古語辞典)が、

蔵、
倉、
庫、

とあてる「くら」は、その意味の延長線上で、

荒城田(あらきだ=新墾田)の鹿猪田(ししだ)の稲を倉に上げてあな干稲々々志(ひねひね)し我(あ)が恋(こ)ふらくは(万葉集)、

と、

穀物、商品、家財などを火災・水湿・盗難などから守り、保管・貯蔵するための建物、

の意で使うとみていい(広辞苑・日本語源広辞典・日本古語大辞典=松岡静雄・言葉の根しらべの=鈴木潔子他)。

土蔵、
倉庫、

と同義である(広辞苑・岩波古語辞典)。

物を納め置く座(クラ)の義、物置座の意、

とある(大言海)のが正確かもしれない。

古くは、校倉あり、又板蔵あり、皆木製なり。壁を土にて厚く塗り固めたるを塗籠(ぬりごめ)又は土倉、土蔵と云ふ、また穴蔵あり、

とある(仝上)。これで由来は尽きていそうだが、異説はある。

置くの義(日本釈名・東雅・和訓栞)、
オクラ(置坐)の義(言元梯)、
岩窟の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
内部が暗いところから(和句解・家屋雑考)、

等々。しかし「くら」が、

座→倉・蔵・庫→鞍、

と、当て分けたと考えるのが自然に思える。

ただ、漢字では、「くら」の意の漢字は少なくなく、たとえば、「米蔵」の意では、

囷(キン・コン こめぐら)、
庾(ユ こめぐら)、
廩(リン こめぐら、穀蔵を倉、米蔵を廩と云ふ)、
牢(ロウ こめぐら、=廩)、
倉(ソウ こめぐら、穀蔵。丸きを囷と云ひ、方を倉と云ふ)、

の漢字があり、他に、

府(フ 朝廷の文書または財貨の蔵、ぜにぐら、府庫)、
廥(カイ まぐさぐら)、
窖(コウ あなぐら)、

と「くら」を使い分け、

座(ザ 席、居場所)、

には「くら」の意はなく、

庫(コ・ク 兵車(いくさぐるま)を入れ置くところ、武庫、兵庫。転じて、広く楽器・祭器・文書等のくら)、
蔵(ゾウ・ソウ 物品を納めて置く所)、

も、特定の意味があった(字源)。なぜ、「座」に、

くら、

の意が生まれたかは、「くら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482602676.html?1627065402で憶測したように、

座居(くらゐ)→くら→それが居る場所→物を載せる場所・装置、

から転化したと思えるが、その意味で、そこから、「くら」の意味が、

倉、
蔵、
庫、

と当て分けて、

倉庫、

の意となったと思われる。本来の漢字の意味とは別に、

倉、
蔵、
庫、

の使い分けは厳密ではないが、

武器庫、
書庫、

という使い方には、「庫」の意味が生きている気がするが、

宝庫、

となると、本来は「宝府」が正しいと思われる。

「倉」(ソウ)は、

会意。倉は「食の略体+口印(入れる所)」で、食糧となる新穀や青草を入れる納屋。転じて、青草の青い色の意となり、蒼(ソウ 青草の色)・滄(ソウ 青い水)・愴(ソウ 青ざめる)などの言葉を派生させる、

とある(漢字源)。ただ、別に、

象形。(建物を示す)の中にとびらのある形にかたどる。穀物を納めておく「くら」の意を表す、

とか(角川新字源)、

象形文字です。「穀物をしまう為のくら」の象形から「くら」を意味する「倉」という漢字が成り立ちました、

とありhttps://okjiten.jp/kanji723.html、象形文字の可能性がある。

「蔵(藏)」(漢音ゾウ、呉音ソウ)は

形声。艸は収蔵する作物を示す。臧(ソウ)は「臣+戈(ほこ)+音符爿(ソウ・ショウ)」からなり、武器をもった壮士ふうの臣下。藏は「艸+音符臧」で、臧の原義とは関係がない、

とある(漢字源)。「秘蔵」とか「収蔵」とか「珍蔵」という言葉があり、「物を納めて蓄える」という意味が強い。

別に、

形声文字です(艸+臧)。「並び生えた草」の象形と「矛(ほこ)の象形としっかり見開いた目の象形」(「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「かくしてしまう」の意味)から、「かくす・かくしてしまう場所」、「くら」を意味する「蔵」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji965.html

「庫」(漢音コ、呉音ク)は、

会意。「广(いえ)+車」で、車や兵器を入れて屋根をかぶせたくら。屋根をかぶせてかばう意味を含む、

とある(漢字源)。

別に、

会意兼形声文字です(广+車)。「屋根」の象形と「車」の象形から車を入れる「くら」を意味する「庫」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji484.html。「武庫」「兵庫」の意から、「宝庫」となり、「倉庫」と、意味が広がったと見える。
 

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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やぐら


「やぐら」は、

櫓、
矢倉、
矢蔵、
兵庫、

等々と当てる。「倉」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482616330.html?1627152341で触れたように、文字通り、

兵庫、

は武器庫の意なので、

閑曠(いたずら)なる所に兵庫(やぐら)を起造(つく)り(幸徳紀)、

と、

武器を納めて置く倉、

の意と考えられる(広辞苑)が、

矢を射るべき座(くら)の義、

とする考え方(大言海)もある。中世の城郭では専ら、

矢蔵、
矢倉、

と記され(西ケ谷恭弘『城郭』)、

飛道具武器である弓矢を常備していた蔵である。敵の来襲に即応できるように、塁上の角や入口に建てられた門上にその常備施設として作られたことに由来する、

とある(仝上)ので、臨戦態勢の中では、すぐに射かけられるように、高い所に「矢倉」が設置されたものと考えられる。だから、「やぐら」の意は、

四方を展望するために設けた高楼、

の意と(広辞苑)なり、

城郭建築では敵情視察または射撃のため城門・城壁の上に設けた、

という意に転じていく。既に、古代城郭に櫓があったことは、

鞠智(きくち)城の「不動倉」(文徳実録)、
秋田城の「城櫓二十七基、槨棚櫓六十一基」(三代実録)、

等々と、平安時代の歴史書に記述がある(西ケ谷恭弘・前掲書)。ただ、その構造は分からないという。

中世の櫓建築の構造が分るのは、『後三年合戦絵詞』(貞和三年(1347)成立)の、

金沢柵の櫓、

で、

土塁の塀上に舞台状の出張りをつくり、掻楯(かいだて 垣楯 楯を垣のように並べたもの)をめぐらし見張り台としている、

とあり(仝上)、その櫓下の塀には拳大の石を縄で吊るした石落としがある。

『一遍上人絵伝』(正安元年(1299)成立)には、筑前国の武士の館が描かれ、館の門は、

櫓づくりの矢倉門、

で、

門上に舞台を作り、四方に低い板塀をめぐらし、掻楯を巡らしている。その後ろには、小さな切妻小屋があり、弓束が備えられている(仝上)。まさに、

矢倉、

が、

弓矢の兵庫、

であるとともに、

弓を射かける座、

でもあることを示していて、

櫓・矢倉・矢蔵は、見張り台として物見が置かれ、矢・弓などが常備され、戦闘面では、敵が最も集中する門、塀のコーナー、出張り部分に構えられた、

もの(西ケ谷恭弘・前掲書)で、

高(たか)櫓(矢倉)、
出(だし)櫓、
向(むかい)櫓、

等々と呼ばれ、

井楼(せいろう)、

と呼ばれる組み上げ式のものもあった。

これが恒常的な施設になっていくのは、戦国時代以降で、

走(はしり)櫓、
井戸櫓、
千貫櫓、

等々と呼ばれ、やがて、寺院建築の影響を受けて、

城郭の宮殿化に伴う装飾と実践を兼ね備えた設備、

となって、

隅櫓、
多聞櫓、

等々恒常化した建築物となっていく。

室町時代以降、井楼のように、軍船の上部構造物の「やぐら」が造られ、高く組み上げてつくった構造物を「やぐら」と呼ぶようになった。それが、

火の見櫓、

につながり、芝居・相撲・見世物など、興行の入口に設け、染幕を廻らしたものにも使う(広辞苑)。これは、

興行の官許の印、

であり、官許を得て興行を始めることを「櫓をあげる」といった。櫓には五奉行をかたどった5本の毛槍を横たえ大幣束を立て、興行主の紋を染め抜いた幕を張りめぐらした。開閉場を知らせる太鼓をこの上で打鳴らしたが、これを櫓太鼓といい、相撲興行でも用いられる、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。「櫓をあげる」ことができたのは、

正徳四年(1714)9月以降幕末まで、中村座の中村勘三郎、市村座の市村羽左衛門、森田座の森田勘弥の3人の座元だけである、

である(世界大百科事典)。

相撲の場合、

相撲場の正面に、高く床を設け、幕を張り、太鼓を撃ちて人を集むる、

とあり、その太鼓が、

櫓太鼓、

となる(大言海)。炬燵の「やぐら」も、

炬燵櫓、

といったもので、木で組んだところからいったものとみられる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%93・広辞苑)。

「やぐら」と訓ませる漢字には、「櫓」以外に、

譙(ショ・ショウ 城門の上の物見、城樓)、
樓(ロウ ものみやぐら、城樓)、

がある(字源)。「譙樓」と使うし、「樓櫓」と使うので、ほぼ同義と見ていい。

「櫓」(漢音ロ、呉音ル)は、

会意兼形声。「木+音符魯(ロ 太い、大きく雑な)」で、太い棒、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(木+魯)。「大地を覆う木」の象形と「魚の象形(「鹵(ロ)」に通じ(「鹵」と同じ意味を持つようになって)、「おろか」の意味)と口の象形」(「考えが足りない言い方」の意味だが、ここでは「露(ロ)」に通じ、「むきだしになる」の意味)から、屋根がなくむきだしになっている「物見やぐら」を意味する「櫓」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2506.html

参考文献;
西ケ谷恭弘『城郭』(近藤出版社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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「座(くら)」は、「くら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482602676.htmlで触れたように、

御手座(みてぐら)、
矢座(やぐら→櫓・矢倉)、
鳥(と)座、
千座(ちくら)、

等々、

人や物を載せる台、また、物を載せる設備、

の意で使われる(岩波古語辞典)が、

蔵、
倉、
庫、

とあてる「くら」は、その意味の延長線上で、さらに、

人や荷物を乗せるために牛馬の背に置く、

鞍、

も、

座(くら)の意から、

とある(広辞苑)ように、

馬上の座(くら)、

であり、「座(くら)」の意味の外延上にある。

「鞍」は、

狭義には鞍橋(くらぼね)、

をいう(仝上)、とある。「鞍橋」は、

鞍瓦、

とも当て、

前輪(まえわ)、後輪(しずわ)を居木(いぎ)に取り付け、座の骨組みをなす部分、

をいい(仝上)、近代以前は、

馬の背に韉(したぐら 鞍)をかけ、鞍褥(くらしき)を重ねて鞍橋(くらぼね)をのせ、鞍覆(くらおおい)を敷いて両側に障泥(あおり 泥除け)を下げる、

という形で馬具を整える(世界大百科事典)。

この鞍橋のことを一般に、

鞍、

という。

本来革製であったが、木製の鞍は中国の漢代に現れ(百科事典マイペディア)、日本へは古墳時代に中国から、

木製の地に金銅製や鉄製の覆輪および地板などを施した鞍、

が伝来、正倉院に朝鮮鞍式(大陸系)のものと和鞍式の二種類が残っている(ブリタニカ国際大百科事典)。平安時代には儀礼用の唐鞍(からくら)や移鞍(うつしくら)、日常用の水干鞍などと、多様な発展をとげ、公家用の鞍橋の装飾には螺鈿(らでん)、沃懸地(いかけじ)、蒔絵など官位に応じて定めがある(仝上)、という。

「鞍」(アン)は、

会意兼形声。「革(かわ)+音符安(上から下へ重みをかける)」、

とある(漢字源)。

別に、

会意兼形声文字です(革+安)。「頭から尾までをはいだ獣の皮」の象形(「革」の意味)と「屋根・家屋の象形と安らぐ女性の象形」(「安らぐ」の意味)から馬などの背に置いて、乗る人を安定させる皮製の馬具「くら」を意味する「鞍」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2266.html

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
笠間良彦『図説日本合戦武具事典』(柏書房)

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遊ぶ


「遊ぶ」というと、梁塵秘抄の、

遊びをせむとや生まれけむ戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ遊ぶ子供の声聞けば我が身さへこそゆるがるれ、

という歌を連想する。まさに、

遊びに興じる、

という「遊び」の、

遊戯(遊び戯れる)、

の意味だ。

日常的な生活から別の世界に身心を解放し、その中で熱中もしくは陶酔すること。宗教的な諸行事・狩猟・音楽・有楽などについて広範囲に用いる、

という(岩波古語辞典)のは、かなり後のことではあるまいか。「遊び」を、

神遊び、

つまり、

神楽を演ずる、

意で使うのは、「神楽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482498778.html?1626461046で触れたように、神楽の由来である、

神前での舞や音楽、

と関わるからではあるまいか。

大言海は、「あそぶ」を、四項に分けてのせる。ひとつは、

遊、
游、

と当て、

己が楽しいと思ふことをして、心をやる、

と、

梅の花手折りかざして阿蘇倍ども、飽き足らぬ日は今日にしありけり(万葉集)、

と、いわゆる「遊びたわむれる」意とし、第二に、

神楽、

と当て、

葬送の時にするは、天岩屋戸の故事の遺風にて、死者の、奏楽をめでて、かへりくる事もやと、悲しみのあまりにするわざなりと云ふ、

とし、

瑞垣(みづかき)の神の御代より篠(ささ)の葉を手(た)ふさに取りて遊びけらしも(神楽歌)、

と、天鈿女命が岩戸の前で篠を持って舞ったことに由来する、

神遊びをする、
神楽をする、

の意とし、第三には、

奏楽、

と当て、

遊ぶより移る、楽は遊ぶ事の中に、最も面白きものなれば、特に云ふなりと云ふ、

とし、

時は水無月のつごもり、……宵は、あそび居りて、夜更けて、やや涼しき風ふけり(伊勢物語)、

と、

死者ありて管弦せしは、(第二項の)あそぶの遺風なりしなるべしと云ふ、

と注記する。第四に、

遊、
游、

と当て、

漢籍見訓みの語。遊(ユウ)の訓読、

とある。和語「あそぶ」にはない、漢字「遊」の、

志於道、拠於徳、依於仁、遊於藝(道に志し特に拠り仁に依り芸に遊ぶ)(論語)、

と、

学術を学ぶ、

意で使った。

どうやら、天鈿女命が天岩屋戸の前で、伏せた桶を踏みとどろかして踊りながら神々を哄笑させた「神遊び」を淵源とする、と考えると、「あそぶ」が、

上代以来、管弦のほか、歌舞、狩猟、宴席など、

にも言うが、本来は、

祭祀に関わるもの、

とみていいのではないか(日本語源大辞典)。その意味で、

日常性などの基準からの遊離が原義、

という(仝上)のは妥当に思える。

だから、「あそぶ」の語源を、足(アシ)から転じたとして、

足+ぶ(動詞化)の変化(日本語源広辞典)、
アシ(足)の転呼アソをバ行に活用したもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と動作に限定するのは、天鈿女命の舞踏から考えて、あり得るとは思うが、どうなのだろう。微妙に祭祀からは外れる気がする。といって、

遊、游の漢字atから来たもの(語源類解=松村仁三)、
アソブ(息進振)の義(日本語源=賀茂百樹)、
もと禁中御遊のことをいった、あかすべ(明方)の義(名言通)、
遊ぶの「あそ」は「うそ」に通じ、内容の無い空虚な「嘘(うそ)」こそが遊ぶの原点https://narayado.info/japanese/asobu.html
アソフ(天染歴)の意(柴門和語類集)、
アソはアサオ(朝起)で、朝廷の遊びからおこった(国語本義)、
アススム(弥進)の義(言元梯)、

等々では語呂合わせが過ぎる。むしろ、

かしこしわが大君、なほしその大琴あそばせ(古事記)、

と、

アソブの未然形に尊敬の助動詞シのついた(岩波古語辞典)、

〜なさる、

意で使う、

遊ばす、

が気になる。

貴人が音楽の演奏・狩り・遠出などをなさる意。転じて、広く貴人の行為の尊敬語として使う、

とある(仝上)。単なる「足運び」由来の「あそぶ」なら、尊敬語に転じるものだろうか。憶説だが、祭祀とのかかわりがあればこそではあるまいか。

因みに、「遊び」について、平安中期の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』は、雜藝(ぞうげい)類に、

競馬(くらべうま 和名久良閉宇麻=くらへうま)、
鞦韆(しゅうせん 和名由佐波利=ゆさはり ブランコのこと)、
雙六(すごろく 俗云須久呂久=すくろく)、
相撲(和名須末比=すまひ)、

等々23種、雜藝具に、

鞠(和名萬利=まり)、
紙老鴟(しろうし 世間云師勞之=しろうし。凧のこと)、
獨樂(和名古末都玖利=こまつくり。こまのこと)、

等々10種の「遊び」を挙げている(日本大百科全書)。

漢字「遊」(漢音ユウ、呉音ユ)は、

会意兼形声。原字には二種あって、ひとつは、「氵+子」の会意文字で、子供がふらぶらと水に浮くことを示す。もうひとつは、その略体を音符とし、吹き流しの旗の形を加えた会意兼形声文字(斿)で、子供が吹き流しのようにぶらぶら歩きまわることを示す。游はそれを音符とし、水を加えた字。遊は、游の水を辶(足の動作)に入れ替えたもの。定着せずに、揺れ動くの意を含む、

とあり(漢字源)、原義は、「きまったところに留まらず、ぶらぶらする」意である。別に、

会意形声。「辵」+音符「斿」、「斿」は「㫃」+音符「汓」、「汓」は子供が水に浮かぶ様、「㫃」は旗を持って進む様子であり、あわせて旗などがゆらゆら動く様を言う。「游」と同音同義、「游」は説文解字に採録されているが、「遊」は採録されておらず、「游」の水のイメージを、「辵」に替え陸上の意義にしたものかhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%8A

とあるのは、同趣旨だが、別に、

辵と、ゆれうごく意と音とを示す斿(ゆう)とから成り、ゆっくり道を行く、ひいて「あそぶ」意を表わす(新字源)、

会意兼形声文字です(辶(辵)+斿)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「旗が風になびく象形」と「乳児(子供)の象形」から子供が外で「あそぶ」を意味する「遊」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji416.html

等々の解釈もある。
 

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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雨乞い


「雨乞い」は、

雨+コヒ、

で、

ひでりの時、降雨を神仏に祈る、

意だが、別に、

請雨(あまごひき・あまひき・しょうう)、
祈雨(きう)、
雩(あまひき)、

等々ともいう(広辞苑・大言海)。「雩」は、

「あま」は、雨の意。「ひき」は、引き寄せるの意か、

とある(精選版日本国語大辞典)。ただ大言海は、「雩」の訓みは、

名義抄に、「雩、アマゴヒ、アマヒキ」とあるは、ここの請雨(あまごひき)の訓の、落字ならむか、

とし、本来、

請雨(あまごひき)不崇朝、遍雨天下(持統紀)、

と、

あまごひき、

と訓むとしている。

例えば、「請雨法」というと、

密教で、日照りのとき、諸大竜王を勧請 (かんじょう) して降雨を祈る修法、

つまり、

請雨経法、

を指し(デジタル大辞泉・広辞苑)、「祈雨法」(きうほう)というと、

雨乞いのために、密教で大雲輪経、大孔雀経等に基づいて降雨を祈る修法、

つまり、

請雨経法(しょううきょうのほう)、

を指す(精選版日本国語大辞典)というように、流儀があったらしい。

「雨乞い」には、

お籠り・踊・貰い水・千駄焚き、あるいは水神を怒らせる、

等々の仕方があり(岩波古語辞典)、たとえば、「雨乞踊」は、

鉦や太鼓をうちならし、念仏踊などをして、ひでりをもたらした邪霊を追い散らす、

「千焚き」「千駄焚(せんだた)き」は、

山上に薪をたくさん積み上げ、火を焚いて騒ぐ、

「貰い水」は、

水神が住むと伝える池や泉の水をもらいうけ、これを氏神や水源地にまいたりする、

「百升洗い」は、

升をたくさんあつめて、これを水神が住む池で洗ったりする、

等々(世界大百科事典)がある。

「豪農の暮らし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105)で触れたように、文久元年(1861)日照りがひどく、上総國望陀郡大谷村では、次のような雨乞いが続く。

六月八日、殿様(九代黒田直和)が浦田村の「妙見寺」(現久留里神社)で雨乞い祈祷を行い、大谷村では一軒に付き一人が代参することになり、四ツ時(午前十時頃)神楽を持参して参詣、帰路村宿エビス屋で御神酒を飲む、八ツ半頃(午後二時)雨が降り、
九日、昼から「御しめり祝」になり、村一同休みとし年寄りは百万遍(百万回の念仏を唱えること)、若衆は村内三社(白山様、愛宕様、妙見様)に神楽奉納、
十日、大暑天気、
十一日、御天気、
十二日、大暑御天気、
十三日より三日間殿様が妙見様で雨乞祈祷をするというので、村役人相談のうえ判頭中(各戸の主人)が代参、
十九日には、三度目の殿様による雨乞祈祷が妙見様で行われることになり、朝方から名主を中心に村方の対応が相談され、「男は残らず出、白山様(白山神社)より妙見様へ弁当付にて神楽持参参納」と決まる、
二十日は神楽と百万遍(念仏)、
二十一日は若者の「千垢離(せんごり)」(何度も水垢離をとる)、
二十四日は殿様の四度目の雨乞祈祷を愛宕神社で行い、村中の家主・若者総出で七つ半時(午前五時頃)に村を出立し、愛宕神社に参って神楽を奉納、三社に百万遍を奉納。夜に入って若者中が山神社へ籠り雨乞祈願、
二十五日、若者たちは天王様へ巡行、
二十七日、上々天気、相模の大山へ雨乞いのため二名を代参に出す、
七月一日、藩主より各村が妙見様と愛宕様に雨乞を祈祷するよう命ずる。大谷村では一軒一人が代参に出かけ、村内では神楽と百万遍、
三日、大山代参が帰村、
四日、雨降り、
五日、村一同「御しめり祝」になり、一軒一人代参を出し、白山様、愛宕様、妙見様の村内三社に詣でる、

と、ようやく窮地を脱する。

日本の「雨乞い」の型は、

@山頂で火をたく型、
A踊りで神意を慰め雨を乞う型、
B神社、神(仏)像、滝つぼなど、神聖なものに対する禁忌を犯し(たとえば汚す等)、神(仏)を怒らせて降雨を強請する型、
C神社に参籠(さんろう)し降雨を祈願する型、
D神社や滝つぼなどの聖地から霊験ある神水をもらってきて耕地にまく型、

の五つに分けられる、とする(日本伝奇伝説大辞典・日本民族辞典)。他に、

@氏神社境内の雨壺(小池)を清掃して注連縄を張るなど、祭場・祭具の浄化、
A雨乞天神の神輿を諸方に渡すなど、神出御、
B滝壺の岩に味噌を塗りつけたり、川に木刀を流すなど、神饌(しんせん 供物)・幣物(へいもつ 進物)、
C村中が出て氏神にお百度を踏むなど、神態(かみぶり かみわざ)、
D村人全員が集まって踊るなど、芸能、

とする整理もある(高谷重夫『雨乞習俗の研究』)。

宮中にては、

祈雨の御祭事を、雨乞の祭と云ひ、又蔵人を遣され、御神泉苑にて、雨乞せしめらるるを、雨乞の使いと云ひ、又、陰陽師をして、五龍祭を行はせらるるを、雨乞の祭と云ふ、

とある(大言海・日本伝奇伝説大辞典)。古くは、皇極天皇元年(642)、

戊寅。羣臣相謂之曰。随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。蘇我大臣報曰。可於寺寺轉讀大乘經典。悔過如佛所訟。敬而祈雨。庚辰。於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像。屈請衆僧。讀大雲經等。于時。蘇我大臣手執香鑪。燒香發願。辛巳。微雨。壬午。不能祈雨。故停讀經。八月甲申朔。天皇幸南淵河上。跪拜四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。(或本云。五日連雨。九穀登熟。)於是。天下百姓倶稱萬歳曰至徳天皇(書紀)、

とあり、

旱魃ありしを、百済僧道蔵雨乞ひして雨を得(天武十二年)、
神名樋山の石神は多岐都比古神にして、旱天に雨乞する時は必ず雨を降らし給ふ(出雲國風土記)、

等々もある。

「雨」(ウ)は、

象形。天から雨の降るさまを描いたもので、上から地表を覆って降る雨、

とある(漢字源)。

因みに、「あめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459999594.htmlで触れたように、和語「あめ」の語源は、大別すると、

「天(あま)」の同源説、

「天水(あまみづ)」の約転とする説、

にわかれる。しかし、

雨が多く、水田や山林など生活に雨が大きく関係している日本では、古くから雨のことを草木を潤す水神として考えられた。雨が少い場合は、雨乞いなどの儀式が行われ、雨が降ることを祈られた。「天」には「天つ神のいるところ」との意味があり、そのため雨の語源と考えられている、

とあるhttp://www.7key.jp/data/language/etymology/a/ame2.htmlように、「天」そのものと見るか、その降らせる水にするかの違いで、両者にそれほどの差はない。雨は、

天(アメ、アマ)と共通の語源、

であり、

アマ(非常に広大な空間)から落ちてくる水、

である(日本語源広辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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しび


「しび」は、

鮪、

と当てる。

マグロの成魚、

を指す(広辞苑)。「まぐろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451639508.htmlで触れたように、成長の度合いに応じて、「まぐろ(ホンマグロ・クロマグロ)」は、

かきのたね(稚魚)、
メジ(30〜60センチの幼魚)、
シビ(成魚)、

等々という呼び名があるが、その呼び名は多様、たとえば、東京では、

コメジ(マグロの子)→メジ(4キロ〜5キロ)→大メジ(7.5キロ)→チューボー(11〜18キロ)→コマグロ(37キロ近く)→マグロ(56キロ以上)→大マグロ(それ以上)、

といい(たべもの語源辞典)、他に、

ヨコ・ヨコワ・メジ(幼魚)→ヒッサゲ・大メジ・チュウボウマグロ(20kg前後〜40kg前後)→クロマグロ・クロシビ(大きな成魚)、

とかhttps://www.olive-hitomawashi.com/column/2018/01/post-828.html

カキノタネ→ガンパァ、デンプク、シビコ→メジ、コメジ、マメジ、大メジ→チュウボウ(中鮪)、ダルマ→マグロ、

とかhttp://www.tcs-net.ne.jp/~webm/sawada/maguro.html等々、様々な名を持つ。

「しび」も、クロマグロ以外、

マグロ・ビンナガ・キハダ・メバチなどの類(岩波古語辞典)、
キハダ・ビンナガの別名(デジタル大辞泉)、
(沖縄で)メバチの別名(広辞苑)、
(行き・気縄で)ビンナガの別称(仝上)、

でもある。「しび」は、縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土し、

大魚(おふを)よし斯毘(シビ)突く海人よ其が離(あ)れば うら恋しけむ志毘(シビ)突く志毘(古事記・歌謡)、

と詠われ、「大魚よし」は「鮪」の枕詞とされるほど、古い(岩波古語辞典)。これほどの大きな魚は、まとめて、

しび、

といっていたのかもしれない。「しび」の語源は、

繁肉(ししみ)の約転(大言海)、
「シビ(脹れる意)」です。よく肉ののった魚の意(日本語源広辞典)、
シシベニ(肉紅)の義(日本語原学)、
煮ると白くなるところからシロミ(白身)の義(名言通)、
ときによりシブイ(渋い)味がしてしびれるところから(本朝辞源)、

等々とあるが、「まぐろ」と限定している気配はない。

「まぐろ」は、

鮪、
黒漫魚、
金鎗魚、
眞黒、
𩻩、

等々と当てられ、

眼が黒いことから「眼黒(まぐろ)」とする説
と、
背が黒く海を泳ぐ姿が真っ黒な小山に見えることから「真黒(まぐろ)」とする説、

とがある。大阪では、

マグロをメグロと呼んでいる、

とか、滝沢馬琴編纂『兎園小説余禄』に、

天保三年壬辰の春二月上旬より三月に至りて目黒魚(まぐろうお)最下直なり、

とある等々(たべもの語源辞典他)からみて、「目黒」説が有力と思われる。

「しび」は、随筆『慶長見聞集』で、

しびと呼ぶ声の響、死日と聞えて不吉なり、

とするなど、その扱いはいいものとはいえなかったが、それは、「まぐろ」が、

総じて下賤の食用なれど、きわだを上、かじきを中、しびを下とする、

とされ(江戸語大辞典)、

延享(1744〜48)の初頃は、さつまいも、かぼちゃ、まぐろは甚下品にて、町人も表店住の者は食する事を恥る躰なり、

とあるなど、江戸で、

マグロは下品なたべもの、

とされたためである(たべもの語源辞典)。天保二年(1831)の『宝暦現米集』に、文政(1818〜30)から天保二年までに流行したものとして、

塩まぐろを止て、すき身が売れる、

とある(仝上)。「塩まぐろ」というのは、

魚を三枚におろして皮に庖丁をいれ、塩をたっぷりまぶしてすりこんだもの、

で、

初まぐろ根津へへなへなかつぎ込み、

と(根津は岡場所(私娼地)を指す)川柳で歌われるほど、最下級の魚であった(仝上)。

これを鮨ネタに使い始めたのは、

天保の頃、マグロが非常な大量で江戸市中にだぶついて捨てるような安価だったので、夷屋という鮨屋がマグロ鮨
握ったところ、珍物好きの江戸ッ子の人気になった、

とある(仝上)が、これは赤身で、トロhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/453836534.htmlは脂肪が多く、

しつこい下品な味、

とされた。

「鮪」(イ)は、

会意兼形声。「魚+音符有(外側を囲む)」。大きく外枠を描いて回遊する魚、または外枠の大きい魚の意、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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まくはうり


「まくは(わ)うり」は、

真桑瓜、

と当てる。漢名は、

甜瓜(てんか)、
香瓜(こうか)

他に、

味瓜(あじうり)、
都瓜(みやこうり)、
甘瓜(あまうり)、
梵天瓜(ぼんてんうり)、
唐瓜(からうり)、
麝香瓜、

等々ともいい(広辞苑)、

まくわ、
ふり、
ほぞち(熟瓜)、
いつつのいろ、

等々の名もある(たべもの語源辞典・精選版日本国語大辞典)。古くは、「うり」とは、

まくはうり、

を指したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%A6%E3%83%AA

約2000年前の弥生時代の遺跡である唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町)では、土器に付着したウリの種子が見つかっている。橿原神宮外苑(奈良県橿原市)の上代井遺構からはウリの皮が、平城宮跡東方官衙地区(奈良市)からは種が、また西大寺食堂院井戸(奈良市)からは「瓜」と書かれた木簡と種が、それぞれ出土している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%BE%E3%81%8F%E3%82%8F

「まくはうり」の名は、

二世紀頃から美濃国真桑村(岐阜県真正町、現本巣市)が良品の産地であった、

ことに由来する(仝上・広辞苑)。『嬉遊笑覧』に、

真桑瓜は農州真桑村の種を京都当時辺に栽ゑし故、夫を真桑瓜といひしが、今は一般にしか呼ぶなり、

とあり、

真桑村の種、

由来とする説(嬉遊笑覧・重訂本草綱目啓蒙)もあるが、同じことで、『御湯殿の上の日記』の天正三年(1575)六月二十九日に、

信長より美濃のまくわと申す名所のうりとて、二籠(ふたかご)進上、

とあり、『物類称呼』(1775)にも、

「真桑瓜は美濃国真桑村の産を上品とす、故に名づくとぞ、

とあり、

真桑村の産の物が上質だったから、

とする(塩尻拾遺・安斎随筆・本朝食鑑・箋注和名抄・天野政徳随筆・晴翁漫筆・壺蘆圃漫筆)のでいいようである。

山上憶良の、

瓜食(は)めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆいづくより来りしものぞ眼交(まなかひ)にもとなかかりて安眠(やすい)し寝(な)さぬ、

の「うり」も、これである。現在、

まくはうり、

と呼ぶのは、果皮が黄色の、

金マクワ、

を指す(たべもの語源辞典)。

「瓜二つ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/458844314.htmlで触れたように、

和語「うり」は、

朝鮮語ori と同源(岩波古語辞典)、
朝鮮語oi-ori(瓜)と同源(世界言語概説=河野六郎・万葉集=日本古典文学大系)、

とする説もあるが、

潤(うる)に通ず(あるく、ありく)。實に光澤あり(大言海)
ウルオウ(潤)の変化(日本語源広辞典)、

等々、水分の多さから来ているとしている説は多い。他にも、

ウルミ(熟実)の意か(東雅)、
口の渇きをウルホスより生じた語か(名言通・和訓栞)、
ウム(熟)ランの反(名語記)、

とあるが、そのみずみずしさの感覚から来た、と見たい。

「瓜」(漢音カ、呉音ケ)は、

象形文字で、

蔓の間にまるいうりがなっている姿を描いたもので、まるくてくぼんでいる意を含む、

とある(漢字源)。

なしの皮は下司にむかせろ、うりの皮は大名にむかせろ、

とか、

うりの皮は大名にむかせよ、柿の皮は乞食にむかせよ、

等々という諺がある(たべもの語源辞典・故事ことわざの辞典)。「うり」の皮は、厚めに向いたのが美味とされた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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おちゃをひく


「おちゃをひく」は、

お茶を引く、

あるいは、

お茶を挽く、

と当て、

お茶引き、
お茶っ引き、

ともいう(江戸語大辞典)。

「おちゃっぴい」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437429337.htmlで触れたように、「おちゃっぴい」には、

(「おちゃひき」の転)働いても金にならないこと、
多弁で、滑稽な真似をする娘、おませな小娘、

の意味があり(広辞苑)、「おちゃっぴい」を、

おちゃひきの促訛、

とし、

お茶をひいた芸娼妓、売れ残った芸娼妓、

から来たとする説があった(江戸語大辞典)。

で、「おちゃをひく」は、

遊女や芸妓が客がなくひまで遊んでいる、

という意味とされ(広辞苑)、これが、

芸者、芸人などにも映りて云ふ、

と(大言海)、広がった。この由来には、いくつもの説がある。

暇なときには、葉茶臼にかけて粉にする仕事をしていたから(広辞苑)、
遊女が、客のないときに茶臼(ちゃうす)で葉茶をひく仕事をさせられたところから(デジタル大辞泉)、
売れ残った女郎に罰として茶をひかせたことから。また茶は静かにひくので居眠りが出る。遊女の売れ残りも暇で眠気に見えるので、戯言(ざれごと)でいったもの(麓の色)、
芸娼妓が客がなくて遊んでいることをいう。もとは留守番をしているものが茶を挽く習慣があったから(隠語大辞典)、

等々は代表的だが、

お茶を挽いた妓は大赦にあうた罪人をみるやうなここちで(娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい))、
お茶を引きても苦にせず(まさり草)、

などの例を見ると、開店休業状態の意のように見える(岩波古語辞典・広辞苑)。

茶を留守居の者に挽かせる習いがあり、茶を挽くといえば寂しい様子を連想するようになったところから(嬉遊笑覧)、

も同趣旨だろう。少し変形は、

湯女の、客なき者、客に供すべき散茶(ちらし)を碾きしに起こるとおぼしく、湯女の、新吉原に入りて、遊女となりしより(散茶(さんちゃ)と呼びき)、遍く行はるるやうになれるとなるべし(大言海)、

で、「散茶」とは、

ひいて粉にした茶、

つまり、

粉茶、

のことで、

散茶女郎、

というのがあり、

吉原の遊女の階級で、太夫・格子に次ぎ、梅茶の上、

とされ(広辞苑)、

昔、通常飲むお茶は、茶葉を袋に入れてそれを湯の中で振って抽出したが、散茶はそのまま湯を足すだけで飲めるため、「袋を振る必要がない=振らない=客を断らない」という意味で、散茶女郎と呼ばれた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E8%8C%B6%E5%A5%B3%E9%83%8E

しかし、「茶を挽く」については別の説があり、

娼妓などの、客なくして休業することなり。これ徳川時代の初に、評定所に遊女を召し、茶弁当の給仕せしむ。爲に遊女、休業して、其の進むべき茶を挽きしに起こると云ふ(大言海)、
評定所の給仕をした吉原町の遊女が、前日から客を取らないで休み、茶などを挽かねばならなかったところから出た語(江戸づくし稿)、

等々とある。これだと、「茶を挽く」のは、客がないからではなく、公儀の御用の爲ということになる。

古の遊女は茶の湯の嗜みがあり、歴々の茶のお相手をしたので、それに召されず暇な傾城をこういうようになった(異本洞房語園)、
吉原の遊女の太夫が月に1回お奉行様にお茶を入れに行っていました。お奉行様の前で展茶(抹茶)を引くところから「お茶をひく」になり、そのとき太夫は商売が出来ないわけで、「お茶をひく」が暇をこいてるになったhttp://www.ocha.tv/varieties/nihoncha_varieties/maccha/

等々も、御上の御用で休業という意味では同趣になる。しかし、この場合、「お茶を挽く」のもつ、ちょっとみじめな含意はない。その他に、

大名お抱えの盲芸人が暇なときに茶を臼で挽いていたことから(岩波古語辞典)、
昔、中国で妃たちに主君が茶を献じさせ、夜伽の番を決めたもので、お茶を主君が召しあがった者がその夜の撰に入り、お茶を引いた者はその撰にもれたことから(ことばの事典=日置昌一)、

等々もある。後者の例は、

昔、支那で宮中に仕へるあまたの美妃が茶を献じて夜伽の番が決る。即ち茶を献じ得た者が其の夜の撰に入り、茶を引いた者が撰に洩れた。夜伽の番に当らないこと。客が無く張店を引く娼妓、座敷に招かれぬ芸者を、現今お茶を引いたといふ、

と付会する説もある(隠語大辞典)が、「お茶を引いた」というのは、「挽く」とは別の意味になる。

どれが妥当かは判別できないが、

元来、遊里のみにいう語にあらず、茶を挽くには平静閑暇の時をたっとぶところから、転じて徒然閑寂の意となり、これが遊里にはいったのであろう、

とあり(江戸語大辞典)、

茶の湯を習ふたしるしがあつて御茶ばかりひいているゆへか、どふやらにがい顔色(明和七年(1770)「蕩子筌枉解」)、

の用例もあり、遊里の言葉と限定するのは難があるのかもしれない。

「茶」(慣用チャ、唐音サ、漢音タ、呉音ジャ)は、

会意兼形声。もと「艸+音符余(のばす、くつろぐ)」。舒(ジョ くつろぐ)と同系で、もと緊張をといてからだをのばす効果のある植物。味がほろにがいことから、苦荼(クト)ともいった。のち、一画を減らして、茶と書くようになった、

とある(漢字源)。

「荼」(漢音ト、呉音ド)は、

会意兼形声。もと「艸+音符余(のばす、ゆるやかにする)」。からだのしこりをのばす薬効のある植物のこと。のち、一画を省いて茶と書き、荼(にがな)と区別するようになった、

とある(漢字源)。別に、

もと、荼(ト)に同じで、のげし、ちゃの意を表したが、のちに荼と区別して、「ちゃ」にはもっぱら省略形の茶を用いるようになった、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(艸+余の省略形)。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「先の鋭い除草具」の象形(「自由に伸びる」の意味)から、伸びた新しい芽を摘(つ)んで飲料とする「ちゃ」を意味する「茶」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji141.html

なお、「茶」には、「茶々を入れる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/440686901.htmlで触れたように、「茶化す」「茶々を入れる」「ちゃらかす」「ちゃにする」等々といった、

おどける、
ふざける、

という含意がある。「茶」の項自体、

遊里用語、交合、
人の言うことをはぐらかすこと、
ばかばかしい、

という意味が載り(江戸語大辞典)、それを使った、

茶に受ける(冗談事として応対する)、
茶に掛かる(半ばふざけている)、
茶に為る(相手のいうことをはぐらかす、愚弄する)、
茶に成る(軽んずる、馬鹿を見る)、
茶を言う(いい加減なことを言う)

等々という使われ方を載せていて、

ちゃかす(茶化す)、

はその流れにある。その含意の延長線上に、

「お茶を濁す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453997241.html
「茶目」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453974476.html
「臍で茶を沸かす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/441330515.html
「茶々を入れる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/440686901.html
「お茶の子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451394732.html
「茶番」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435545540.html
「ちゃら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/439115094.html

等々の言葉がある。「お茶を挽く」にも、どこかそんな「からかう」含意があるような気がしてならない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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おっしゃる


「おっしゃる」は、

仰る(デジタル大辞泉)、
仰しゃる(広辞苑)、
被仰る(大言海)、

等々と当てる。

言うの尊敬語、
仰せられる、

という意である。命令形と、「ます」のつく連用形は、

おっしゃい、

となる(広辞苑)。

仰有る、

とも当てる(デジタル大辞泉)ので、

オオセアルの約、オオシャルの約(広辞苑)、
仰せらるの約、おっしゃるの急呼、四段活用に転ず、イラセラルルの、イラッシャルとなると同じ(大言海)、
仰せ+ラルの変化(日本語源大辞典)、
御仕遣(おしゃる)の意(新編常陸国誌=中山信名)、

とあり、

仰せ+ある(有)説、

仰せ+らる説、

に分かれる。どちらとも決めがたく、

室町時代に現われた「おしゃる」(「おほす」+「やる」)が、江戸時代に「おっしゃる」となったとする説がある一方、二つとも同時的に例があるため共に「おほせある」また、「おほせらる」からと見る説もある。成立時期は、近世前期と見られる、

とある(日本語源大辞典)。

もとになった、

おほす(おおす)、

は、

仰す、
課す、
負す、

と当て(岩波古語辞典)、

オフ(負)の古い他動詞形。人に背負わせる意が原義。転じて、人に課し命じる意。さらに転じて貴人が名を付ける意、

とある(仝上)。

上位者が命令して負わせる、

意である(日本語源広辞典)。

仰す、

は、

命令を相手に背負わせる意(広辞苑)、
命令を負(おほ)する意(大言海)、

で、

言いつける、

意となる。

おほす(負)、

は、

背に負わしむ、

おほす(課)、

は、

徴す、
課す、

となる。「おほす」には、

生す、

と当て、

生(お)ひしむ、

もある(大言海)。

山吹は撫でつつ於保佐(おほさ)むありつつも君来(き)ましつつかざしたりけりおほしむ(万葉集)、

と、

これも、「おほす」の流れにあるように感じる。

「おっしゃる」は、言うの尊敬語には違いないが、「仰す」の原義「負ふ」のもつ、上の者が下の者に背負わせる、という含意が底流しているように感じられる。

「仰」(漢音ギョウ、呉音ゴウ、慣用コウ)は、

会意兼形声。卬(ギョウ あおぐ)は、高くたって見下ろす人と低くひざまずいて見上げる人との会意文字。仰はそれを音符とし、⇆の方向にかみ合う動作を意味する、

とあり(漢字源・角川新字源)、「あおぐ」意である。別に、

会意兼形声文字です(人+卬)。「横から見た人」の象形と「立つ人の象形とひざまずく人の象形」(「立つ人をあおぎ見る(上方を見る)」の意味)から、「あおぐ(頭をあげて見る)」、「見上げる」を意味する「仰」という漢字が成り立ちました、

という解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1104.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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虎が雨


「虎が雨」は、

陰暦5月28日に降る雨、

をいう。

この日曾我十郎が死にそれを悲しんで愛人の遊女虎御前の涙が雨となって降ると伝える、

とある(広辞苑)。

虎雨、
虎の涙雨、
虎が涙、
虎少将の涙雨、
曽我の雨

ともいう(雨のことば辞典)。

赤穂浪士の討ち入り、
伊賀越えの仇討ち、

と並ぶ、

曾我兄弟の仇討ち、

に因むhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1。『吾妻鑑』28日条に、

曽我十郎祐成(すけなり)・同五郎時致(ときむね神野の御旅館に推參し工藤左衛門尉祐経(つけつね)を殺戮す、

とある(仝上)。祐経を討ち果たすが、兄祐成は、戦いの最中討ち取られ、弟時致は捕らえられ、翌日処刑された。以来、命日には、虎御前の悲しんで泣く涙雨が降ると伝えられる。この日付は、

太陽暦の月遅れでいうなら6月28日に当たり、東京の雨の特異日として知られる、

とあり(雨のことば辞典)、一年で最も雨の降りやすい日となっている、という(仝上)。

この日は、必ずしも曽我兄弟の伝承とは関わるものではなく、この日を、

牡丹餅祈祷、

などと称して祭る所もあり、この日までに田植えを終えるものとして、

さのぼりの日、

とするところも多い(日本伝奇伝説大辞典)、とある。「さのぼり」とは、

早上り(サは稲の意)、

と当て(広辞苑)、

田植えがすんだ祝い、

たとえば、

田植えが終わって田の神を送る行事、または、そのときに行う飲食の行事のこと、

をいいhttps://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/syoukai/gaiyo/archive/gyouji/june/?p=7

田の神には、きれいに洗った早苗三把と神酒、五目飯や朴葉寿司などを供えて祭り、田植えが終了したことを感謝します。そして、巡り来る秋の豊かな実りを願って、山へ帰る田の神を送る、

とある(仝上)。

さなぶり、
しろみて、

ともいう(広辞苑)。「さのぼり」の逆が、

さおり(早降り サは稲の意)、

田植えを始める日の祝い、

になる(仝上)。

早苗饗(さなぶり)、

という呼び方は、東北や関東に多く、四国や九州では、

早昇(さのぼり)、

と北陸、山陰、山陽では、

代満(しろみ)て、

という、とある(https://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/syoukai/gaiyo/archive/gyouji/june/?p=7・デジタル大辞泉)。

この日は、田の神、水の神に感謝して神送りする祭日、

と考えられていたが、

御霊(ごりょう)送り、

とも響き合い、曽我御霊の伝承と結びついた(日本伝奇伝説大辞典)という見方がある。たとえば、

御霊の音が似ているために「五郎(ごろう)」の名を冠したものも多く見られ、全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0。柳田國男は、曾我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」としている(仝上)。奥羽南部地方では、「虎が雨」の日、

三粒でも雨が降ると、曽我の雨といって、曽我五郎が苗代を踏み荒らすといい、それを防ぐために苗じるしの竹を立てる、

とある(雨のことば辞典)。まさに、五郎は御霊と化している。

ところで、『吾妻鏡』によると、虎御前は、

則今日遂出家、赴信濃国善光寺、時年十九歳也、

とあるが、

出家して律師と号していた曾我兄弟の末弟が兄たちに連座して鎌倉へ呼び出され、7月2日に甘縄で自害、

したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1、とある。

参考文献;
倉嶋厚・原田稔編『雨のことば辞典』(講談社学術文庫)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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虎石


「虎石」は、

とらいし、

とも、

とらがいし、

と訓ます。「虎が雨」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482781423.html?1628103511で触れた、

曽我十郎の愛人であった虎御前が化したもので、美男でなくては持ちあげられないと伝える石、

である(広辞苑)。

虎ヶ石、
寅子石、
虎子石、

等々とも呼ばれる(日本昔話事典)。

本来は、虎の斑点がはいった石や、猛虎が嘯くような形の名石で、

虎斑の石、

と呼ばれる場合もあるが、『曽我物語』の流布によって、虎石といえば虎御前に因ませるものが多い(仝上)。たとえば、


富士の裾野へ仇討ちに赴いた十郎を心配するあまり、大磯の虎御前はこの地にたどりつき、いつまでも富士の裾野の方を眺め暮らし、遂に石と化した(足柄峠の伝説)、

とある(仝上)。『曾我物語』では、虎御前は曾我兄弟の死後、箱根で出家し廻国に出て、熊野その他各地の霊場を巡って兄弟の菩提を弔い曾我の里に帰って一周忌を営み、のちに2人の骨を首にかけ信濃の善光寺に納めたとされる。伝説としては、兄弟を弔って諸国を廻国して没した虎御前をまつったとする虎石も多く、福島県から鹿児島県にまで分布している(仝上・世界大百科事典)。

大磯の「虎石」は、

美男が持てば軽く持ち上がり、醜男では持ち上がらない、

とされるが、長野県上水内郡古里村の「虎御前石」は、

雨乞いの祈願に験ある霊石、

とされ、

雨が降る前兆には石の重さが十倍になる、

という(日本昔話事典)。静岡県富士市厚原の「虎ヶ石」は、

小川の中流にあり、この石を洗って祈願するといかなる病も治癒する、

と伝わり、福島県信夫郡山村では、

大磯の虎がやってきて、この石の面を麦の穂で撫でれば思う人の俤が見えると語った、

と伝わるなど、各地に種々の伝承がある。これらは、古の、

石占、

の面影を伝える、とする(仝上)。「石占」とは、

石の長さや重さをもって神意を問うもの、

で、

特定の行法をもつ巫女が従事した、

とされる。霊山の麓などに、

廻国行脚の比丘尼が石に化した、

と伝える、

姥石、

の伝説と重なるものと思われる(仝上)。だから、

各地に虎御前や曽我兄弟の墳墓が多く見られるのも、石占を職業とする多数の巫女の足跡を示すもの、

と推測されている(仝上)。『本朝神仙伝』や『元亨釈書』には聖山の禁を犯して吉野山に登ろうとした都藍尼(とらんに)の伝説を伝え、高野山、立山、白山にも同様な都藍尼の登山の伝説があることからすると、虎石、虎ヶ塚などの遺跡は、本来、

トラ、トラン、トウロなどと称された廻国の巫女の足跡、

ではないかと考えられている(仝上・世界大百科事典)。

虎ヶ塚、
虎小路、
虎石塚、

等々、大磯の虎石や曾我兄弟と無関係なものが結びつけられているが、

巫女石、
比丘尼石、
女房石、
遊女石、

等々とも呼ばれ、

結界の禁を破ったために石に化した、

とされる。こうした「姥石」の伝承に、『曽我物語』の流布によって虎越前に結びつけられたもののようである。

因みに、「都藍尼」(とらんに)とは、

「本朝神仙伝」によれば、大和吉野山の麓にすみ、仏法を学ぶとともに仙術も習得。女人禁制とされていた女人禁制の金峰山(きんぷせん)に、自分の術の力でのぼってみせるといい、挑戦するが、雷にあうなどしてはたせなかったという、

とある(日本人名大辞典)。同様の話は、

白山の融の姥(とおるのうば)、
立山の止宇呂(とうろ)、

等々とあり、たとえば、富山県中新川郡立山町では、

若狭小浜の尼僧が女人結界を犯し、伴った姉は杉と変じて美女杉となり、童女が恐れて進まないのを罵ったため、この尼僧の額には角が生え、石と化した、

とか、長野県上水内郡戸隠村では、

女人禁制の山に尼僧が登ったため石に化し、比丘尼石になった、

等々の伝承は、立山、戸隠などの霊山に残り、多くは、前述の、

トラ、トラン、トウロなどと称された廻国の巫女の足跡、

と重なるように、

登宇呂(とうろ)、
融(とおる)、

という尼僧とされるケースが多い(日本昔話事典)。いずれも、

禁制を犯して立ち入ろうとした女性が石と化した伝説、

となっている。虎石伝説は、こうした比丘尼伝説、姥石伝説の上に上書きされた感じである。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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「石」は、岩石の意だが、

岩より大きく、砂より大きい鉱物質のかたまり、

とある(広辞苑)。ある意味、

何らかの原因で岩が割れていくらか小さくなったもの、

であり、小さな石は、

小石、

石より小さいが砂よりも大きいのは、

砂利、

などと呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3、ともある。ありふれた物なので、

木石、

の意で、

濡れ事かいもく石じゃ(評判・役者大鑑)、

と、

くだらないもの、

の意で使うが、

石頭、

のように、

融通の利かないものの喩えにも使うし、

石下戸、

というように、

まったく、からっきし、

の意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。「石」にまつわる諺も多い。

石に立つ矢、
石にかじりついても、
石の上にも三年、

のように、

固い意思の意で使うこともあるが、

石が流れて木の葉が沈む、
石に花咲く、

のように、

ありえないことの喩えにも、

石に灸、
石に謎をかける、

と、無益な意にも、

石で手を詰める、

と、進退窮まる意にも使う(広辞苑・故事ことわざの辞典)。

和語「いし」は、

イサゴ(砂=石子)・イソ(磯)・イスノカミ(石の上)・イシ(石)の、isago、iso、isu、isiに共通なis-という形が「石」の意の語源であろう(岩波古語辞典)、

というのが一番説得力がある。たとえば、「いさご」は、

砂、
砂子、

と当て、

微小な石、

つまり、

すなご、

とある(仝上)。新撰字鏡には、

磣、石微細而随風飛也、伊佐古(いさご)、又須奈古(すなこ)、

とある(仝上・大言海)し、「いそ(磯)」も、

石の轉なり、石をイソとも訓む(大言海・和訓栞・俚言集覧・南留別志)、
イソ(石)から出た語(万葉集講義=折口信夫)、
イソ(石添)の義(桑家漢語抄・和句解・日本釈名)、
イソ(石所)の義(言元梯)、

等々「いそ(磯)」を石」と絡める説は多いのである。「いしのかみ(石の上)」は、

いそのかみ(石の上)、

ともいい、「旧(ふ)る」「降る」にかかる枕詞として使われ、「いし」「いそ」が、転訛しやすい証に見える。他の説に、

イは発語の詞。シは沈むの意(仙覚抄)、
イは発語。シは下の意(東雅・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
イは発語。シはシメ(締)の略(名言通)、

等々、「イ」を発語とする説が多いが、「シ」の説明がこじつけに見える。

「い」は「岩」、「し」は小さいもの表し、岩の小破片から生じた語(語源由来辞典)、

は、説明になっていない。それなら、

イワの小断片だから、イシ(日本語源広辞典)、

の方が、「いわ(岩)」を、

イワ(ハ)、イシ、イソなどのイに、岩石関連の語根がある(仝上)、

とセットにしてみると、「いわ」も「いし」と関わることがわかって、説得力がある。

イと小の義をもつシとを結んで、岩の小破片から生じた物の名とした語(国語の語根とその分類=大島正健)、

も同趣旨である。こう見ると、「いし」が「いそ」「いわ」「いさご」と関わる言葉だということが、一層はっきりとしてくるように思われる。どうやら、

is-

が、関連語に共通する「語根」に思える。

「石」(漢音セキ、呉音ジャク、慣用シャク・コク)は、

象形。崖の下に口型のいしはのあるさまを描いたもの、

とある(漢字源)。

象形、「厂」(カン:崖)+「口」(いしの形)、山のふもとに石が転がっているさまを象る(『説文解字』他通説)。会意、「厂」(崖)+「口」(祭祀に用いる器)(白川)、

とあるのも同趣旨https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%B3である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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「岩」は、

磐、
巌、

とも当てる(広辞苑)。

岩石、

の意だが、

石の大きいもの、特に加工せず表面がごつごつしているもの、

とある(仝上)。ただ、「いは(わ)」は、

石、

も当てている(岩波古語辞典)ので、大きさは相対的な意味しかないように見えるが、古事記に、

訓石、云伊波、

とあり(大言海)、和名抄に、

磐、大石也、以波、

とある(仝上)ので、「石」と「磐」を、大きさで区別していたのかもしれない。

「石」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482824936.html?1628363773で触れたように、「石」は、

イワ(ハ)、イシ、イソなどのイに、岩石関連の語根がある、

とあり(日本語源広辞典)、和語「いし」は、

イサゴ(砂=石子)・イソ(磯)・イスノカミ(石の上)・イシ(石)の、isago、iso、isu、isiに共通なis-という形が「石」の意の語源であろう(岩波古語辞典)、

とされるので、「いわ」の語根「イ」も、「いし」の、

is-

とのつながりが想定される。その意味で、「いわ」について、

イは接頭語。ハはホ(秀)から分化した語か。山の石すなわち岩の意で、磯の石すなわちイシに対する語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ハはハフ(延)の同義語で、拡がっている物を連想させる。その上にイを添えて、具体的に己が思想に浮かんでいる物の名とし、はじめて岩という語となる(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々の諸説の「イ」も、「接尾語」ではなく、別の視界で見えてくるかもしれない。

ただ、「岩」「巌」「磐」は、

いはほ(いわお)、

とも訓ませる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。ために、「いわ」の語源に、

イハホ(石秀)の略言(和句解)、

という説がある。「いはほ」については、

岩秀(いはほ)の義(大言海)、ホは秀出の意(古事記伝・言元梯・和訓栞)、
ホは穂の意(広辞苑)、

とあるので、むしろ、「いは」という言葉があって、それに「ほ」をつけて「いはほ」としたと見た方が自然な気がする。

「岩」はまた、

依代、

でもあり、神霊の代わりとして祀り、

磐座(磐倉・岩倉 いわくら)、
神籬(ひもろぎ)、

として信仰の対象とされた。

そうしたことの名残りか、岩にはいろいろの奇瑞(きずい)伝説がつきまとっている。

おらび岩、
鸚鵡(おうむ)岩、
呼ばわり岩、

等々、この岩に向かって呼びかけると山彦となって返ってくるといわれている。

雨乞(あまご)い、

に効果のあるという岩石も各地にある。長野県南佐久郡田口村(現佐久市)の、

雨乞岩、

は天狗がいるといわれ、ここで雨乞いをする。同県東筑摩郡広丘(ひろおか)村(現塩尻市)には田川の水流の中に、

雨降石、

というのがあり、この石を動かすと雨が降るという(日本大百科全書)。

「岩」(漢音ガン、呉音ゲン)は、

会意。「山+石」。もと「巌(巖)」の俗字、

とある(漢字源)。別に、

会意文字です(山+石)。「連なった山」の象形と「崖の下に落ちている、石」の象形から、山を形成する「いわ」を意味する「岩」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji111.html

「巌(巖)」(漢音ガン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。厳(嚴)の下部は、「厂(崖)+音符敢(カン)」の形声文字で、角だった崖のこと。嚴はそれに口二つを添えて、角張って厳しい言行を示す。巌は「山+音符嚴(ゲン)」で、いかつい岩。岩とまったく同じ、

とある(漢字源)。

別に、

会意形声。元字の巖は、「山」+音符「嚴」(ごつごつしたもの)であり、その略字体である「岩」は、「山」+「石」の会意、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B2%A9。「嚴」(ごつごつしたもの)の意がわかりやすい。さらに、

会意兼形声文字です(山+厳)。「連なった、やま」の象形(「山」の意味)と「口の象形×2」(「きびしくつじつまを合わせる」、「きびしい」の意味)から、厳しい山を意味し、そこから、「高い」、「険しい」、「いわお」を意味する「巌」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2431.html

「磐」(漢音バン、呉音ハン)は、

会意兼形声。「石+音符般(ハン 平らに広げる)」、

とある(漢字源)。「岩」ではあるが、「盤石」というように、「平らに大きくすわった石」の意がある。

別に、

会意兼形声文字です(般+石)。「渡し舟の象形と手に木のつえを持つ象形」(「大きな舟を動かす」、「大きい」の意味)と「崖の下に落ちている、いし」の象形から、大きい石「いわ」を意味する「磐」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2618.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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「磯」は、

礒、

とも当てる。

浜つ千鳥浜よは行かず伊蘇(イソ)伝ふ(古事記)、

と、

海・湖などの水際で、石の多いところ、

あるいは、

伊蘇(イソ)の間(ま)ゆたぎつ山川絶えずあらば又もあひ見む秋かたまけて(万葉集)、

と、

水中から露出している岩石、

と意で(広辞苑)、

岩石で構成された海岸のこと、

とあり、

砂浜海岸、

と対比される、

岩石海岸、

のこととありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF

磯場(いそば)、
磯浜、

等々という、とある(仝上・世界大百科事典)。

岩礁性の海辺は、海藻をはじめ魚介類のかっこうの生息地となり、また砂浜に比べて海水の透明度が高いところから、古来より、もりややす、あるいはかぎで魚を突くミツキ、カナギ、イソネギなどと各地で呼ばれる磯漁の舞台、

とある(仝上)。

「いそ」に当てる「礒」(ギ)は、

会意兼形声。「石+音符義(かどばる)」、

で、「碕礒(キギ)」というように、

石の貌(字源)、
石の角張って突き出たさま(漢字源)、

をいい、本来、「礒」には、

いそ(磯)、

の意はない。玉篇(中国南北朝時代)には、

磯(キ)、水中の磧(イシハラ)也、本邦の古書に、多く礒の字を用ゐたり。唐韻「礒(ギ)、石巌也」等々あるより通用したるものか、

とあり(大言海)、これは、和語「いそ」の語源がかかわっているように思う。

「石」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482824936.html?1628363773で触れたように、和語「いそ」は、

イサゴ(砂=石子)・イスノカミ(石の上)・イシ(石)の、isago、iso、isu、isiに共通なis-という形が「いそ」の意の語源であろう(岩波古語辞典)、

とある。「いそ」と「いし」は同根である。だから、「岩のかたち」をいう、「礒」を、「「いそ」と訓ませたのではないか。また、

イシの轉(南留別志・俚言集覧・和訓栞)、
イソ(石)から出た語(万葉集講義=折口信夫)、

ともある。特に、「石」を「イソ」「イシ」と訓むについては、「降る」「振る」に掛かる枕詞、

石の上、

を、

いそのかみ、

とも、

いすのかみ、

とも、

訓ませる(岩波古語辞典)。和訓栞は、「いそ」は、

イシの転なり、石をイソとも讀む(あしこ、あそこ。石上(いそのかみ))、

としている(大言海)。

「いし」も「いそ」も、あるいは「いわ」も、同根と考えると、「いそ」に、

礒、

を当てるのは自然に思える。

イソ(石添)の義(桑家漢語抄・和句解・日本釈名)、
イシソヒ(石添)の義(名言通)、
イソ(石所)の義(言元梯)、

等々も同趣と見ていい。

「磯」(漢音キ、呉音ケ)は、

会意兼形声。「石+音符幾(近い、すれすれ)」で、みずぎわに近い石。また、波にもまれて石がすり減る、

とある(漢字源))。「磯」も、「波打ち際」の意はなく、「水が石に激しく当たる」意であり、海岸の意よりは、「石が流れに現われる川原」の意である。ただ、別に、

形声文字です(石+幾)。「崖の下に落ちている、いし」の象形と「細かい糸の象形と矛(ほこ)の象形と人の象形(「守る」の意味)」(「戦争の際、守備兵が抱く細かな気づかい」、「かすか」の意味だが、ここでは「機(キ)」に通じ(同じ読みを持つ「機」と同じ意味を持つようになって)、「布を織る機械:はた」の意味)から、はたで織り物を織る時のような音のする「いそ」を意味する「磯」という漢字が成り立ちました、

という全く異なる解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2619.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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さすが


「さすが」は、

流石、
石流、
遉、

等々と当て字するが、中世の当て字(岩波古語辞典)で、和訓栞に、

世に、流石の字を、さすがと云ふ辞に用たり。流石は、晋の孫楚の故事に因れり、さすがによく牽合せりと云へり、

とあり(大言海)、晋書孫楚伝の、

漱石枕流(石に漱ぎ流れに枕す)、

の、

石に枕し流れに漱ぐというべきところを、「石に漱ぎ流れに枕す」と言い誤り、「石に漱ぐ」とは歯を磨くこと、「流れに枕す」とは耳を洗うことと強弁した故事、

から(広辞苑)、そのこじつけを「さすが」とみて、「流石」と当て字した(日本語源広辞典)、とある。

通俗に、流石の字を當つ、是は、小石は急流に流れはすれど、淀み淀みして流るる義にして、躊躇ふ意なるべし(孫楚が漱石枕流の説は付会甚だし)、有繋の字を當てたるあるは、繋る所ある義にて、関心の意にもあるか、

と見る説(大言海)もある。「さすが」の表記は、

中古は平仮名書きが普通であったが、中世では、「流草 サスガニ 大小同 流石 同 有繋 同」(運歩色葉集)など多様な漢字表記がなされた。特に「蒙求」の「孫楚漱石」にもとづくとされる「流石」の表記は近世期に一般化し、近代以降へと続いた、

ものである(日本語源大辞典)。

「遉」(漢音テイ、呉音チョウ)も、

会意兼形声。「辶+音符貞(占ってきく、たずねる)」、

で(漢字源)、

偵に通ず、

とあり(字源)、「うかがう」「たずねる」意で、「さすが」に当てるのは、わが国だけの用例となる。この字を当てた理由は、

偵に通じて、増韻「偵、廉視(かんがへみる)也」とあれば、熟視、熟慮、の意にもあらむか、

とする説(大言海)もある。

「さすが」は、

奈良時代の「しかすがに」のシカスガにあたる、平安時代以後の形。前にあった様子や事情から当然予想されるのとは相違矛盾する事態が現れた場合に使う語。当然の予想と相違する、よい事態が現れた場合にも使うところから、「何といっても、たいしたもの」という賞賛にも使うようになった、

とある(岩波古語辞典)。意味としては、

ある情況を一応認めはするが、事柄の本質から、それとは違う情況を認めるさま。そうはいうものの、そういってもやはり、

と、

しかるべき原因が当然の帰結を生んだこと、本性が発揮されたこと、実力や評判に背かないことについて感嘆するさま、何といっても、そういってもやはり、

となる(日本語源大辞典)。「しかすがに」は、

「シカ(然)する(為る)からに(接助)」は、流音を落としてシカスガニ(然すがに)になった。〈雪は降りつつシカスガニわがへの園に鶯ぞ鳴く〉(万葉集)、

とされ、さらに、シカ[s(ik)a]が縮約されて「さすが」になったことになる(日本語の語源)。

中古における「しか」と「さ」の副詞の交替によって「しかすがに」から副詞「さすがに」へ転じ、次に語尾を活用させて形容動詞となり、さらに「に」が付属語のように解された結果「さすが」が独立して副詞化した。中古では「さすがに」が「さすが」や形容動詞「さすがなり」よりも多く用いられており、中世から「に」を伴わない「さすが」が多くなる、

とある(日本語源大辞典)。「しかすがに」の、「しか」は、

然、スは有りの意の古語。ガは所の意。アリカのカの転。ニは助詞。平安時代以後、サスガニとなる(岩波古語辞典)、
然(しか)スルカラニの約略(大言海)、

と、少し解釈は異なるが、

そうであるところでの意が古い意味、転じてそうではあるが、それでも(岩波古語辞典)、
しかしながらに、然(さ)は云ふものの、然(しか)はあれども(大言海)、

と意味は重なる。「しか(然・爾)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480132942.htmlで触れたように、「しか」は、

シはサと同義の副詞、カは接尾語、

とある(広辞苑)が、

指示代名詞「し」+接尾語「か」から(デジタル大辞泉)、
指示語「し」に接尾語「か」のついたもの(日本語源大辞典)、

とあるので、「し」は指示詞とみていい。さらに、

代名詞シと状態を示す接尾語カとの複合。すでに述べた状態を指示する語。上代では歌にも使われたが、平安時代には漢文訓読に使い、平安女流文学ではこれに当たる語は「さ」で、「しか」は男性の言葉として使われることが多い、

とある(岩波古語辞典)。そして、

和文では平安以後「さ」が多くなるが、「さ」が発生した後でも、「しか」は漢文訓読語として、依然として使われた。室町以後は一般には減少し、「かく」から変じた「こう」や、「さ」から変じた「そう」などがこれに代わっていく、

とある(日本語源大辞典)。

指示語「し」+接尾語「か」

の、接尾語「か」は、

カアヲ・カボソシなど接頭語のカと同根、

とあり、確かに、

物の状態・性質を表す擬態語などの下につき、それが目に見える状態であることを示す、

とあるが(仝上)、

のどか、
ゆたか、
なだらか、

等々の用例から見ると、ちょっと違う気がして、少し疑問が残る。といって、

其気(そけ)の転(大言海)、
シは発語、カは古語カレ(故)のカと相通ず(国語の語根とその分類=大島正健)、
シカ(息香)の義。息は水、香は火をいい、万事は皆水火をもととするため、種々品々をさしてシカという(柴門和語類集)、
イカスガ、またはサスガの略(類聚名物考)、

というと、あまりにもひねくりすぎて首をかしげる。

ただ、「か」が、

接頭語「か」と同根、

とある(岩波古語辞典)。接頭語「か」は、

アキラカ・サヤカ・ニコヨカなど、接尾語カと同根、

とあり、

か細し、
か弱し、

等々のように、

目で見た物の色や性質などを表す形容詞の上につき、見た目に……のさまが感じられるという意を表す、

とあり、

転じて、ケ(気)となる、

とある。接尾語「か」も、

後に母音変化を起こして、「け」となり、「あきらけし」「さやけし」などのケとして用いられ、「さむげ」などのゲに転じた、

とある(仝上)。とすると、

其気(そけ)の転(大言海)、

はあり得るが、しかし「しか」の「し」が指示詞なら、「か」は、

ありか(有處)、
すみか(住處)、
かくれが(隠處)、

の、

處、

とあてる接尾語「か」ではあるまいか。「か」は、

處(こ)に通ず、

とあり(大言海)、「しか」は、

指示「し」+か(處)、

の方が、意味が一貫する気がする。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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土用


「土用」は、梅雨明けの夏の土用だけを言っているが、

暦法で、立夏の前18日を春の土用、立秋の前18日を夏の土用、立冬の前18日を秋の土用、立春の前18日を冬の土用といい、その初めの日を土用の入りという、

と(広辞苑)、一年に四度あり、春の土用は、二十四節気の、

清明の後の十三日(四月十七日)より十八日間にして、終れば立夏、

夏の土用は、同じく、

小暑の後十三日(七月廿日)より立秋に至る、

秋の土用は、同じく、

寒露の後十三日(十月廿日)より立冬に至る、

冬の土用は、同じく、

小寒の後十三日(一月十七日)より立春に至る、

とある(大言海)。

本来土用は五行説をもっともらしく成立させるために考え出されたもので、五行の五から四季の四を引くと一余ってしまう。これではうまく対応させられないので土用なるものを案出した。
一年三六五日を五で割って七三日、この七三日を、春と木、夏と火、秋と金、冬と水とを結びつけた各にあてがう。五行の真ん中の土の七三日を四分の一に分け、一八日余りとし、これを各季節の終わりに配当して、これを、土が司る土用とした、

とある(内田正男『暦と日本人』)。

この由来は中国だが、

太陽系の天体、水星・金星・火星、木星・土星の五星は古来から知られた惑星で、天空上におけるその運行は複雑で、……古代人にとっては五惑星の運行は神秘的なもので、五星の運行が地上百般の現象と、何らかの関係があるのではなかろうか、という考えから、森羅万象がすべて五惑星の木・火・土・金・水の精気によって影響されるという思想が生まれた(渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』)。

これが、五行説である。中国では、立春、立夏、立秋、立冬にそれぞれ始まる春・夏・秋・冬にも、木・火・土・金・水の五行を割り当てようとした。そこで、春・夏・秋・冬の、

各季の五分の一の長さをその終わりから削り取って、五行の中央に位置する土の支配するところとする、

つまり、

各季の長さ91.310日からその五分の一の18.262日をとって、土の司るところ、

としたものである(仝上)。したがって、

各季節九十一日余の終り十八日余が土に属する、

ということになった。だから、

春の土用、
夏の土用、
秋の土用、
冬の土用、

とあるのだが、夏の土用が、五行説からいってももっとも土気が旺んなるため、今日夏の土用だけが、普通に言われるようになった、と思われる。

夏の土用の入りは大体七月二十日ころであるが、夏の土用に入って最初の丑の日が、

土用丑、

である。夏の土用に入って三日目を、

土用三郎、

といい、古来、

この日の天候が快晴なら豊年、雨ならば凶年、

とされてきた(仝上)。

今日の暦では、太陽が黄経、

27度に達した時が春の土用の入り、
117度に達した時が夏の土用の入り、
207度に達した時が秋の土用の入り、
297度に達した時が冬の土用の入り、

とされる(仝上)。

「土用」の語源は、

土王の義。王の字を避けて用をもちいる(梅窓筆記・和訓栞・日本語源広辞典)、

と、

ドワウ(土旺)の訛り(大言海)、

の二説あるが、

土旺用事の略、

とある(渡邊・前掲書)。「土旺用事」とは、

土(つち)が旺(さかんに)なり用事(働き・支配)をする、

意でhttps://madokawindow.com/557.html

土がもっとも働く時、

である。五行説から考えれば、これが妥当ではないか。

古来、土用の期間は土いじりをしてはいけないと言われてきました。……陰陽道の神の中の一人に土公神(どくしん・どくじん)という神様がいます。土公神は土を司る神様で、土用の期間は土を支配するとされていたため、土公神が土を支配している期間は土いじりをしてはいけないと言われていますhttps://kishimojin.net/archives/12139

とも、

土用の間は土の気が盛んになるとして動土・穴掘り等の土を犯す作業や殺生が忌まれた。ただ土用に入る前に着工して土用中も作業を続けることは差し支えないとされ、「土用の間日(まび)」には土用の障りがないとされたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8

ともある。

なお、暑い時期に栄養価の高いウナギを食べるという習慣は古代に端を発するらしいが、土用の丑の日に食べる習慣となったのは、文政五年(1822〜23)当時の話題を集めた『明和誌』(青山白峰著)によれば、安永・天明の頃(1772〜88年)よりの風習である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8%E3%81%AE%E4%B8%91%E3%81%AE%E6%97%A5

「土」(慣用ド、漢音ト、呉音ツ)は、

象形。土を盛った姿を描いたもの。古代人は土に万物を生み出す充実した力があると認め、土をまつった。このことから、土は充実したの意を含む。また、土の字は社の原字であり、やがて土地の神や氏神の意となる。のち、各地の代表的な樹木を形代として土に代えた、

とある(漢字源)。

参考文献;
渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』(雄山閣)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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「虎」について、南方熊楠は、こんなことを言っている。

「虎の記載を学術上七面倒に書くより『本草綱目』に引いた『格物論』(唐代の物という)を又引するが一番手軽うて 解りやすい。いわく虎は山獣の君なり、状猫のごとくにて大きさ牛のごとく黄質黒章、鋸牙鉤爪鬚健にして尖り舌大きさ掌のごとく倒に刺を生ず、項短く鼻ふさがる、これまでは誠に文簡にして写生の妙を極め居る。さてそれから追々支那人流の法螺を吹き出していわく、夜視るに一目は光を放ち、一目は物を看る、声吼ゆる事雷のごとく風従って生じ百獣震え恐るとある。しかし全くの虚譚でもないらしく思わるるは予闇室に猫を閉じ籠めて毎度験すと、こちらの見ようと、またあちらの向きようで一目強く光を放ち、他の目はなきがごとく暗い事がしばしばあった。また虎嘯けば風生ずとか風は虎に従うとかいうは、支那の暦に立秋虎始めて嘯くとあるごとく、秋風吹く頃より専ら嘯く故虎が鳴くのと風が吹くのと同時に起る例が至って多いのだろう。」

と(「十二支考 虎に関する史話と伝説民俗」『南方熊楠作品集』)。同書には、種々虎伝承を伝えているが、たとえば、

人あり係蹄(わな)を置きて虎を得たるに、虎怒りて蹯(あしのうら)を決(き)って去る、虎の情その蹯を愛せざるにあらざれど、環寸(わずか)の蹯を以て七尺の躯を害せざる者は権なりとあって虎の決断を褒め居る(『戦国策』)、

とか、

廬陵の婦人蘇易なる者善く産を看る、夜たちまち虎に取られ、行く事六、七里、大壙(おおあな)に至り地に置き蹲りて守る、そこに牝虎あり難産中で易を仰ぎ視る、因って助けて三子を産ましめると虎がまた易を負うて宅へ還し、返礼に獣肉を易の門内に再三送った(『捜神記』)、

とか、

晋の郭文かつて虎あり、たちまち口を張って文に向うたんで視ると口中に骨哽(たて)り、手を以て去(と)ってやると明日鹿一疋持ち来って献じた。また都区宝という人父の喪で籠りいた時里人虎を追う、虎その廬に匿れたのを宝が簔で蔵しやって免がれしめた、それから時々野獣を負ってくれに来た(『淵鑑類函』)。

とか、

壮士水碓(みずぐるま)を守りしが虎に攫まれ上に坐らる、水碓飛ぶがごとく輪るを虎が見詰め居る内にその人甦った、手足圧えられて詮術(せんすべ)ない、ところが虎の陽物翹然(にょっきり)口に近きを見、極力噛み付いたので虎大いに驚き吼え走ってその人脱るるを得た(『五雑俎』)、

等々。虎と人間の生活が密接だった古代の中国や朝鮮とは異なり、日本には虎はいない。しかし、万葉集に、虎を詠ったものが三首ある。

虎に乗り古屋(ふるや)を越えて青淵(あをふち)に蛟龍(みつち)捕(と)り来(こ)む剣太刀(つるぎたち)もが(境部王)、

いとこ汝背(なせ)の君居(を)り居りて物にい行(ゆ)くとは韓国(からくに)の虎といふ神を生け捕りに八(や)つ捕(と)り持ち来(き)、その皮を畳み(たたみ)に刺し八重畳(やへたたみ)平群(へぐり)の山に四月(うづき)と五月(さつき)との間(ま)に薬猟(くすりがり)も仕(つか)ふる時にあしひきのこの片山に二つ立つ櫟(いちひ)が本(もと)に梓弓(あづさゆみ)八つ手挟(たばさ)み、ひめ鏑(かぶら)八つ手挟み、獣(しし)待つと我が居る時にさを鹿の来立(きた)ち嘆(なげ)かく……(乞食者)、

……太刀(たち)取り佩(は)かし大御手(おほみて)に弓取り持たし御軍士(みいくさ)を率(あども)ひたまひ斉(ととの)ふる鼓(つづみ)の音は雷(いかづち)の声(おと)と聞くまで吹き響(な)せる小角(くだ)の音も敵(あた)見たる虎(とら)が吠(ほ)ゆると諸人(もろひと)のおびゆるまでに捧げたる幡(はた)の靡(なびき)は……(柿本人麿)

日本人にとって虎の皮は海外との交易で輸入される唐物の代表とされ、『続日本紀』などに記録されている渤海使の献進物の中にも虎の皮が含まれている、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9

我が国にはいないにもかかわらず、「強いもの」「何より恐ろしいもの」の代表として虎の入ったことわざや慣用句が膾炙している。たとえば、

雲は龍に従い風は虎に従う、
竜虎、
虎に翼、
虎を野に放つ、
虎の尾を踏む、
虎穴に入らずんば虎子を得ず、
虎視眈々、
前門の虎後門の狼、
虎の子渡し、
虎の威を借る狐、
張子の虎、
虎は千里往って千里還る、
虎は死して皮を留め人は死して名を残す
虎の子、
虎の巻、

等々。そして昔話にも、虎は構成要素とするものが、

狐と獅子と虎、
古屋の漏り、

があり、実際に見たことがないので、非常に恐ろしい獣として扱われている(日本昔話事典)。

そう考えると、和語「とら」は、外来語由来として、

タイ語系南方語起源か(広辞苑)、
朝鮮の古語、ツルポオムのツルの転は、トラなり。此のツルは毛の斑、蔓の義、彎曲の線にて、国語のツルと暗合す。ポオムは虎豹の類を称する語(白鳥庫吉の説)、
朝鮮語ホーラから(名言通・日本語源=賀茂百樹)、
トは虎をいう楚国の方言オト(於莵)から、ラは助語(箋注和名抄)、
朝鮮語から済州島を経て入ったタンラ(耽羅)の音韻変化(日本語源広辞典)

といった諸説がある。決め手はないのだが、

恐ろしくてトラ(捕)まえられぬから(和句解)、
逆に、
人を捕る意から(日本釈名・和訓栞)、
トル(採)義(言元梯)、
トリクラヒ(捕食)の義(日本語原学=林甕臣)、

といったこじつけから、

朝鮮語ホーラもしくはツルを起源として、「捕らえる」という日本語的解釈から「トラ」となった(語源由来辞典)、

というひねった解釈もある。しかし、外来由来とみて、

ホーラ、
ないし、
ツル、

の転訛と見るのが順当なのだろう。和漢三才図絵には、

虎、保牟、

とある。

因みに、酔っぱらいを「虎」というのは、

四つ這いになって手が付けられない様子から(猫も杓子も=楳垣実)、
酒を女房詞でササというところから、ササを笹と解して、笹に酔うものの意で虎といった(すらんぐ=暉峻康隆)、
酔った者が張り子の虎のように首を左右に振るところから(上方語源辞典=前田勇)、
酔って暴れるところが猛獣ににているところから(たべもの語源抄=坂部甲次郎)、

と諸説ある。酔っぱらいの意の「虎」は、江戸時代から使われている、とある(日本語俗語辞典)。とすると、

水墨画に見られるように笹の横には虎がいることから、

と見立てるのが洒落ているとは思う。

「虎」(漢音コ、呉音ク)は、

象形、虎の全体を描いたもの、

である(漢字源)。

別に、

儿(元の形は「几」:床几)にトラの装束を被った者が座っている姿、

とする解釈もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8E

なお、
「虎の尾」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454576631.html
「虎嵎を負う」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456719697.html
で、虎について触れたことがある。

参考文献;
南方熊楠『南方熊楠作品集』(Kindle版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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とらえる


「虎」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482959788.html?1629140731で触れたように、和語「とら」の語源説に、

恐ろしくてトラ(捕)まえられぬから(和句解)、
逆に、
人を捕る意から(日本釈名・和訓栞)、
トル(採)義(言元梯)、
トリクラヒ(捕食)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々と、「捕らえる」と関連づける説がある。その是非は別として、「とらえる」は、

捕(ら)える、
捉える、
執える、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)、文語は、

とらふ(下二段)、

である(広辞苑)。「とらふ」は、

トリ(取)アフ(合)の約(岩波古語辞典)、
ト(取)リア(敢)ウの約(広辞苑)、
トリ堪(ア)フ。無理に……するの意の補助動詞アフ(下二段)が接して約音現象を起こしたものか(時代別国語大辞典-上代編)、
トリサヘヲフ(取塞追)の義、またトリオサヘル(取押然)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々の諸説がある。ただ、

トル(取)の義から(和句解・名言通・国語の語根とその分類=大島正健)、
取る、又捕るの延(大言海)、

等々といった、「取る」の転訛とするには、「捕らえる」の意味の、

手でしっかりつかむ、しっかり握る、

意から、

人や動物を取り押さえて逃げないようにする、
召しとる、捕縛する、

と、より強い含意に広がり、それをメタファに、

視野・知識などの中にしっかり納める、

意となり、そこから、

好機などを自分のものとする、
物事の本質・特徴などを把握する、
映像・音などをはっきり感じ取る、
ある部分を取り立て問題にする、

等々の意につながっていく(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%89%E3%81%88%E3%82%8B・広辞苑・デジタル大辞泉)のを見ると、「取る」とは違うニュアンスがあり、

トリ(取)アフ(合)の約、

よりは、

ト(取)リア(敢)ウの約(広辞苑)、
トリ堪(ア)フ。無理に……するの意の補助動詞アフ(下二段)が接して約音現象を起こしたもの、

等々意識的に「つかむ」意味が強調されているように思われる。

わが命長く欲しけく偽りをよくする人を執(とら)ふばかりを(万葉集)、

の「とらふ」には、そんな執着が感じられる。

接頭語「取り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444210858.htmlで触れたように、「とる」は、

取る、
採る、
捕る、
執る、
撮る、
録る、

等々と当て、

て(手)と同源(広辞苑)、
手の活用(大言海)、
タ(手)の母音交換形トを動詞化した(岩波古語辞典)、

で、

ものに積極的に働きかけ、その物をしっかり握って自分の自由にする意。また接頭語としては、その動作を自分で手を下してしっかり行い、また、自分の方に取り込む意。類義語ツカミは、物を握りしめる意。モチ(持)は、対象を変化させずそのまま手の中に保つ意、

とある(岩波古語辞典)。だから、「とる」は、

手+る(動詞をつくる機能のル)、

で、

@物の全体をしっかり手中に収めて自分のものにする、
A手を動かして、物事を思う通りに操作する、
B物事を手許へ引き寄せて、こちらの自由にする、
C物事をこちら側の要求・基準に合うように決定する、

と用例を分けられる(岩波古語辞典)ことからみると、「とらふ」は、意識的につかむ意の「取る」をさらに、強化しているという含意と見える。

「捕」(漢音ホ、呉音ブ)は、

形声。「手+音符甫(ホ)」で、手を対象にぴったり当てること、

とあり(漢字源)、「逮捕」「捕縛」等々と使う。別に、

会意兼形声文字です(扌(手)+甫)。「5本の指のある手」の象形と「草の芽の象形と耕地(田畑)の象形」(「田に苗を一面に植える」の意味)から、苗を手にとる事を意味し、そこから、「しっかり手にとる」を意味する「捕」という
漢字が成り立ちました、

とありhttps://okjiten.jp/kanji1216.html、「甫」の意味がよくわかる。

「捉」(漢音サク、呉音ソク)は、

会意兼形声。足(ソク)は、伸縮するあしのこと。蹙(シュク)・縮(シュク)と同系で、ぎゅっと縮む意を含む。捉は「手+音符足」で、手の筋肉を具っと縮めてつかむこと、

とある(漢字源)。「補足」等々という使い方をする。別に、

形声文字です(扌(手)+足)。「5本の指のある手」の象形と「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味だが、ここでは、「束(ソク)」に通じ(同じ読みを持つ「束」と同じ意味を持つようになって)、「たばねる」の意味)から、「手で縛る」、「とらえる」を意味する「捉」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2068.html
 

「執」(慣用シツ、呉・漢音シュウ)は、

会意。「手かせ+人が両手を出して跪いた姿」で、すわった人の両手に手かせをはめ、しっかりとつかまえたさまを示す、

とある(漢字源)。「執着」といった使い方をする。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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八百比丘尼


「八百比丘尼」は、

やおびくに、

と訓むが、

はっぴゃくびくに、

とも訓ませ、

白比丘尼(しらびくに)、

とも呼ばれる、

800歳まで生きた長命の比丘尼、その姿は17〜8(あるいは15〜6)歳の様に若々しかった、

といわれる、

長寿伝説、

の一つである。「白比丘尼」のシラ(白)は、

再生するという古語であり、シラ比丘尼の長寿は、巫女の特つ霊力とかかわるものであろう、

とされる(朝日日本歴史人物事典)が、別に、

少女の白肌のままだったから、

ともされる(世界宗教用語大事典)。

「八百比丘尼」が、全国を旅したという伝説は各地に残っていて、八百比丘尼伝説は、

北海道と九州南部以南を除くほぼ全国に分布している、

といわれhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC、日本海側では、能登・越後から出雲・隠岐にかけて分布していて、

海上交通によって伝播されたもの、

とされる(日本伝奇伝説大辞典)。太平洋側では、土佐須崎、播磨・安芸、内陸部の会津・尾張にも伝えられ、その伝説は、

全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BCが、これら伝説の中心と目されているのは、北陸から能登地方である(朝日日本歴史人物事典)。

長寿の原因を、多くの伝説は、

人魚、

わずかな例では、

九穴の貝(「あわび」とされる)、

を食したことに帰している(日本伝奇伝説大辞典)。若狭の伝承によると、

今浜の須崎村において余所から来た漁師が人魚を調理して村人たちに馳走した。村人たちは怪しんで食べる真似をした。一人の者が肉を袖に入れて持ち帰り棚にのせておいたところ、その妻が食べてしまった。容色が若返って海仙になり、七世余り生きながらえて諸国を遊行ののち小浜に住んだ(笈埃随筆)、

とか、

小浜の長者たちの集まりがあって、今度は海辺の人の所で催すことになった。その日、長者たちは迎えの船に乗り込んだ。途中水中に潜るように感じたが、無事家に到着した。ふと炊事場をのぞくと少女のようなのを俎上にのせて料理している。みなが焼き物に箸をつけずにおくと、帰り際に土産を持たせてくれた。その焼き物を高橋長者の娘が食べてしまい、数百年も歳をとらず生きて八百比丘尼と呼ばれた。海辺の人とは竜宮城の人で、焼き物は人魚の肉であった(拾椎雑話)、

とある(仝上)。別に尾張の伝説では、

昔この辺りが浜辺であったころ、漁師が首から上が人間で後は魚という奇魚を捕らえた。土地のものが気味悪がっていると、通りがかりの旅人が災難を逃れるための庚申祭を教えてくれた。その通りに祭事を営んだところ、小娘が奇魚の肉片を食べて不老長寿の身となる。やがて、髪をおろして諸国を巡り歩いたのちに若狭の国に至り、八百歳にしていきながら洞窟に入った、

とある(仝上)。若狭小浜の空白寺(くういんじ)は八百比丘尼が最後に住んだところとされ、門前に入定窟とされる洞窟がある。

『康冨記』(文安六年(1449)5月26日の記事に、若狭国から上洛し、

白髪の巫女めいた老尼が都に現れ、みずから若狭白比丘尼とも八百歳老尼とも称した、

という話が載り、

二百余歳の比丘尼、

とある(日本昔話事典)。この話は、当時かなり喧伝され、『臥雲日件録』『唐橋綱光卿記』等々にも記されている。

自らをその長命の女と称して巡行している女、

がいたらしいことを推測させる記事で、源平の時代を見てきたように話すものもいた、ともある。

ただ、比丘尼伝承で、釣で手に入れたという話は少数派で、多くは、

異人饗応譚、

とされる(仝上)。たとえば、

ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定(にゅうじょう)する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる、

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC

父親が山中で異人に会い、招かれて隠れ里に行ったが、人魚の肉を御馳走され、食べずに持ち帰ったのを何も知らない娘が食べて長命を得た(本朝神社考)、

とか(日本昔話事典)、といったものとされる。しかも「庚申講」の肴とされるところに、この伝説が、

庚申講の夜に語られたもの、

と思わせる(日本伝奇伝説大辞典)、とある。新潟県佐渡市南部の旧羽茂(はもち)町地域の八百比丘尼伝説では、

庚申講に加わった男が次の講に人々を招く。台所をのぞくと人魚を料理している。だれも手をつけないが、ある人が捨て忘れて家に持ち帰ったのを、その家の娘が食べてしまう。娘は年をとらないわが身をかえってはかなみ、生地を離れて諸国を巡り、八百歳で若狭の地で入定した、

とされている(日本大百科全書)。

殆どの伝承で、八百比丘尼は、最後に空印寺の岩窟に籠って入定(にゅうじょう)することになっているが、「八百比丘尼」は、

岩窟の前に椿の花を挿し、この枝が枯れたら私も死ぬだろうと言い残して中に消えた、

という。この椿の木について、

八百比丘尼を名乗り、唱導ないしこの物語の伝播に与った……比丘尼がおり、所々に実を播き枝を指し、その成長ぶりをみて神意を卜する風習があったのではないか、

とする説(柳田國男)、また、

女の唱導者が椿を持ち歩いて春の言触れをした、

とする説(折口信夫)などがあり、この唱導者は、

熊野念仏比丘尼と山から里へ鎮魂に訪れるいわゆる山姥の結合したもの、

とみる見方もある(仝上)。

北陸から東北地方にかけての沿岸部には、椿がまとまって茂る聖地が点在している。椿は、春の到来を告げる花とみなされ、椿の繁茂する森は信仰の対象となっていた。旅をする遍歴の巫女が、椿の花を依代にして神霊を招いたものと想像されている、

とある(朝日日本歴史人物事典)のが妥当かもしれない。また、

この比丘尼たちが地に挿した箸や杖が老木になった、

という伝承も多く残り、彼女たちが残したとされる塚や石塔も多い。これは、

巡行する巫女・修験者たちが木を植え、石を立てる風習を持ち、挿木取木の秘術を知っていた、

とする説もある(日本昔話事典)。

因みに、「比丘尼」とは、

パーリ語 bhikkhunī、サンスクリット語 bhikṣuṇīの音訳(苾蒭尼(びっしゅに)とも音訳する)、

つまり、

出家して具足戒(三四八戒)を受けた女子、

である(精選版 日本国語大辞典)、

尼(あま)、
尼僧、

をいう。

びくにん、

ともいう。具足戒とは、

「具足」は近づくの意で、涅槃に近づくことをいう。また、教団で定められた完全円満なものの意とも、

あり(仝上)、

比丘、比丘尼が受持する戒律。四分律では、比丘は250戒、比丘尼は348戒を数える、

とある。

具戒、
大戒、

ともいう。日本では一般に、

出家得度して剃髪し染衣を着け、尼寺にあって修行する女性、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BCとあり、

尼法師、
尼御前(あまごぜ)、
尼前(あまぜ)、

とも呼ばれる。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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人魚


人魚の食いそこね、

という言い伝えがある。「八百比丘尼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482992577.html?1629313561で触れたように、

人魚の肉を食べると長命で、いつまで経っても歳をとらずにいる、

という言い伝えがある。これを指している(日本昔話事典)。

人魚の肉(あるいは九穴の貝、大じゃの肉)の料理を密かに覗き見た者が不気味に思って食べずに持ち帰り、たまたまそれを食べた一人が不老不死の寿命を得た、

といった類の話で、その中で名高いのが、

八百比丘尼(やおびくに)、
あるいは、
白比丘尼(しろびくに)、

と呼ばれる伝説である。この背景には、人魚の肉が、

不老不死の妙薬、

とする俗信があったと思われる。

「人魚」というと、

上半身が人間の女、下半身は魚体、

ということになる(広辞苑)が、この人魚像は、

おそらく西洋からの導入であり、江戸期以降に《和漢三才図会》や《六物新志》などの文献がこれを広めたらしい、

とある(世界大百科事典)。

最古の地理書『山海経(せんがいきょう)』(前4世紀〜3世紀頃)には、

氐人(テイジン)国在建木西、其為人、人面而魚身、無足(海内南経)、

あるいは、

鯪鯉、人面、手足、魚身、在海中(海内北経)、

あるいは、

决决(ケツケツ)之水出焉、而東流注于河、其中多人魚、其状如䱱魚、四足、其音如嬰児、食之無癡疾(北山経)

とあり(日本伝奇伝説大辞典)、手足があったりなかったりする。「建木」(けんぼく)は、

中国の伝説にある巨木である。天と地を結ぶ神聖な樹だと考えられている。天地の中央に立っているとされ、『淮南子』(えなんじ)では、都広(とこう)山に生えており衆帝がこれによって上下をすると記されている。『山海経』では都広は天下の中央に位置する、

と記述されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%9C%A8、とある。

「䱱魚(ていぎょ)」は、

オオサンショウウオ科の魚、

を意味するが、「さんしょううお」の意では、

鯢(ゲイ)、

にもその意もあり、

䱱魚、
鯢魚、

は、「さんしょううお」を指す。そして、「鯢魚」の漢名に、

人魚、

がある(大言海)。

その面、猴に似て、其聲、小児の啼くが如し、

とある(仝上)。

貝原益軒編纂の『大和本草』(宝永七(1709)年)には、「䱱魚(ていぎょ)」は、

名人魚此類二種アリ江湖ノ中ニ生シ形鮎ノ如ク腹下ニツハサノ如クニ乄足ニ似タルモノアリ是䱱魚ナリ人魚トモ云其聲如小兒又一種鯢魚アリ下ニ記ス右本草綱目ノ說ナリ又海中ニ人魚アリ海魚ノ類ニ記ス、

とし、「鯢魚(げいぎょ)」は、

おおさんしょううお、

と訓まし、

溪澗ノ中ニ生ス四足アリ水中ノミニアラス陸地ニテヨク歩動ク形モ聲モ䱱魚ト同但能上樹山椒樹皮ヲ食フ国俗コレヲ山椒魚ト云四足アリ大サ二三尺アリ又小ナルハ五六寸アリ其色コチニ似タリ其性ヨク膈噎ヲ治スト云日本處〻山中ノ谷川ニアリ京都魚肆ノ小池ニモ時〻生魚アリ小ナルヲ生ニテ呑メハ膈噎ヲ治ス、

とあるhttps://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2019/06/post-58535d.html

「鯪魚(リョウギョ)」は、たぶん、

鯪鯉、

で、

リョウリ、

と訓むが、

イシゴヒ、
センザンコウ、

と訓ませ、

穿山甲(センザンコウ)、

の別名とされる。「鯪」は、

鯉、

の意(字源)で、「鯪鯉」は、

陸に棲息、甲鱗、鯉に似る故に名とす、

とある(大言海)。

形似亀而短小、又似鯉魚、有四足(本草)、

ともある。ややこしいのは、この「鯪鯉」の漢名にも、

人魚、

があることである(大言海)。ただ、これは、

陸鯪と混同したため、

ではないか、としている(仝上)が。

我が国では、推古二十七年(619)四月に、

近江國言、於蒲生河有物、其形如人、

とあり、七月に、

摂津国有漁夫、沈網於堀江、有物入網、其形如児、非魚非人、不知所名、

とある(日本書紀)。これが初出とされる(『和漢三才図会』(正徳三(1713)年)。これを受けて、

太子謂左右曰、禍始于此、夫人魚者瑞物也、今无飛莵出人魚、是為国禍、汝等識之、

とされた(聖徳太子伝暦)、とある。つまりは、人魚は、

祥瑞、

とされもするが(嘉元記)、

不吉、

とされもする(北條五代記)、ということである(日本伝奇伝説大辞典)。

平安時代中期の『和名抄』には、

人魚、一名鯪魚、魚身人面者也、

とある。

穿山甲(センザンコウ)、

はわが国にはいないので、「人魚」と目されたのは、

䱱魚、
鯢魚

と考えるのが、常識的なのだろう。

『古今著聞集』には、伊勢国別保の浦人が、

大いなる魚の、かしらは人のやうにてありながら、歯はこまかにて魚にたがはず、口さしいでて猿に似たりけり、身は世の常の魚にてありける、

というものを三匹捕らえ、平忠盛に献上したが、忠盛は恐れて浦人に返した。浦人はそれを食べたが、味は良かったものの、格別の異常はなかった、とある(日本伝奇伝説大辞典)。古い時代は、怪獣のように見なしていたように見える。

ただ、若狭国の乙見村の漁師が、

頭は人間にして、襟に鶏冠のごとくひらひらと赤きものをまとひ、それより下は魚、

なるものを見つけ、櫂で打ったところ死んでしまった。ところが、その後、大風・海鳴り・大地震が起こり、御浅岳のふもとから海辺まで地が裂けて、乙見村が陥没してしまった、とある(諸国里人談)。「人魚」を、

水神、

とみなしていた例もある(日本伝奇伝説大辞典)。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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よわ


「夜半」は、

やはん、

と訓むが、

よは(わ)、

とも訓ます。「夜半(やはん)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482364862.htmlで触れたように、「よは」は、

夜、
夜は、

とも当て(大言海・岩波古語辞典)、

平安・鎌倉時代、多く和歌に使う雅語、

とあり(岩波古語辞典)、

風吹けば沖つ白波たつた山夜半(よは)にや君がひとり越ゆらむ(古今集)、

と、

夜、
真ふけ、
夜中、

の意である(広辞苑・岩波古語辞典)。語源は、

ヨマ(夜閨jの義(大言海・万葉考・雅言考・言元梯・国語の語根とその分類=大島正健)、
ヨフカ(夜深)の義(名語記・三余叢談・名言通・松屋筆記・日本語原学=林甕臣)、
ヨヒyofi(宵)、その母音交替形ユフyufu(夕)等々と同根の語(岩波古語辞典)、

等々の諸説があるように、

本来、現在のヨル(夜)の意で使用されたと考えられる。後に、ヨワは「夜半」と表記され、ヨナカ(夜中)の意で使用された、

とある(日本語源大辞典)。

「よる」の表現には、

よ(夜)、
と、
よる(夜)、

がある。

「よ」が複合語を作るのに対して、「よる」は複合語を作らない、

が(仝上)、古代の夜の時間区分の、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

うち、「よる」は、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)、

と区分され(岩波古語辞典)、

当時の日付変更時点は丑の刻(午前二時頃)と寅の刻(午前四時頃)の間であったが、「よなか」と「あかとき」(明時、「あかつき」の古形)の境はこの時刻変更点と一致している、

とある(日本語源大辞典)が、「よる」の古形、

よ、

が、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、

と区分されたことになり、「よなか」が、

よべ→こよひ、

と、境界線を挟んで、使い分けられていた。

「よべ」は、昨晩の意だが、昨晩を表す語としては、古代・中古には、

「こよひ」と「よべ」とがあった。当時の日付変更時刻は丑の刻と寅の刻の間(午前三時)であったが、「こよひ」と「よべ」はその時を境としての呼称、日付変更時刻からこちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、

とある(仝上)。

「よ」は、

よひ、
よなか、
よべ(昨夜)、

と、「よる」が「ひる」に対し、暗い時間帯全体を指すのに対し、

特定の一部分だけを取り出していう、

とある(仝上)。とすると、「よは」は、

「よ」+「は」

で、「は」は、はっきりしないが、

端、

とあてる「は」なら、

邊に通ず、

とある(大言海)、

はた、へり、

の意の「は」か、

半(ハン)の音か、

とある(大言海)、

はした、

の意の「は」か、

と考えられ、「よる」の「へり」「はし」の意であり、

よひ、
よなか、
よべ(昨夜)、

のように、特定の時間を指していたのかもしれない。たとえば、「夜半(やはん)」が、

子の時、
夜九ツ、

という限定された時間を指しているように、「よは」も、

ここに壯夫《をとこ》ありて、その形姿《かたち》威儀《よそほひ》時に比《たぐひ》無きが、夜半《さよなか》の時にたちまち來たり(古事記)、

と、

さよなか、

と訓ませているように、かなり限定した時間を指していたように思える。

「よは」に当てた、

夜半、

は、漢語である。

飼V人、夜半生其子、遽取火而視之、汲汲然惟恐其似己也(荘子)
夜半有力者、負之而走(仝上)、

と「夜中」の意である(字源・大言海)。だから、「夜半(やはん)」に引きずられて、広く「夜中」の意味に転化したようである。

「夜半」を、

よなか、

と訓ませるのはそれだろう。

ちなみに、「よ」は、

ヨルの古形、「ひ(日・昼)」対、

太陽の没しているくらい時間、

を指し(岩波古語辞典)、

ヨ(節)の義、日(ヒル)と日(ヒル)との中間の意。闇(やみ)ヤに通ず(大言海・東雅)、
ヨ(間)の義、昼と昼の閧フ義(言元梯)、

等々が語源とみられ、「よる」は、

昼の対、

で(岩波古語辞典)、

あかねさす昼は物思ひぬばたまのよるはすがらに音のみし泣かゆ(万葉集)

と、

奈良時代は副詞的に独立した形用いた、

が、

よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、
よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、

等々が語源とみられる。

「よは」は、

平安・鎌倉時代、多く和歌に使う雅語、

とされるように、

夜半の月(よわのつき 秋の季語)、
夜半の春(よわのはる 春の季語)、
夜半の夏(よわのなつ 夏の季語)、
夜半の秋(よわのあき 秋の季語)、
夜半の冬(よわのふゆ 冬の季語)、

等々と使われているhttps://word-dictionary.jp/posts/4535

「夜」については、「夜半」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482364862.htmlで触れたので、「半」に触れておく。「半」(ハン)は、

会意。「牛+八印」で、牛は、物の代表、八印は両方に分ける意を示し、何かを二つに分けること、八(両分する)はその入声(ニッショウ 音)にあたるから、「牛+音符八」の会意兼形声と考えてよい、

とある(漢字源)。

別に、

会意文字です(八+牛)。「二つに分かれているもの」の象形と「角のある牛」の象形から牛のような大きな物を二つに「わける・はんぶん」を意味する「半」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji348.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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夜っぴて


「夜っぴて」は、

夜通し、
一晩中、

という意味になる(広辞苑)。

ヨッピトイの転、

とある(仝上)。「夜っぴとい」は、

夜一夜(よひとよ)の促訛、

とある(江戸語大辞典)。「夜一夜(よひとよ)」は、

夜一夜とかく遊ぶやうにて明けにけり(土佐日記)、

と使われ、

夜通し、
一晩中ずっと、

の意味である(岩波古語辞典)。

「夜っぴて」は、

夜っぴとへ、
とか、
夜っぴとい、
とか
夜っぴてへ、

と訛ったり、

よっぴと、

と略されたりする(江戸語大辞典)。

平安時代、「よもすがら」「よすがら」が主として改まった場面や静かな雰囲気を背景に使われ、和歌でも用いられたのに対して、「よひとよ」は日常的で、ややにぎやかな雰囲気を背景に使われる傾向があり、古くは和歌には使われなかった、

とある(日本語源大辞典)。

夜がな夜っぴて、

という使い方もする。「夜がなよっぴて」は、

夜がな夜一夜(よひとよ)、

ともいい、

日がな一日、

と対になる。「日がな」の「がな」には、諸説あるが、

だにの意に似たる辞、
あるいは、
おおかた、

とする説(大言海)がいい、要は、「日がな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/438065587.htmlで触れたように、

朝から晩まで、終日、

の意で、

日+がな(強め)+一日、

ということなのだろう(日本語源広辞典)。

ひねもす、
ひもすがら、

という同義になる。「ひねもす」は、

日+助詞モ+ス(接尾語スガラの下略)、

とある。「すがら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/420311540.htmlは、

一説に、スガは『過ぐ』と同根、ラは状態を表す接尾語、

とあり(広辞苑)、

名月や池をめぐりと夜もすがら、

というように、

初めから終わりまで途切れることなくずっと、

という時間経過を示していて、それが空間的に転用されと、

道すがら、

になったと考えられる。

何よりのお楽しみ、間(ま)がな隙(ひま)がな耽溺された(三田村鳶魚『武家の生活』)、

という用例がある。

間がなすきがな

という言い回しも載る(大言海)。「すき」は「隙」なのだろう。

少しの暇さえあれば、きりなしに、ひまさえあれば、

という意味になる。

「夜っぴて」の類義語、「夜もすがら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472977426.htmlは、

終夜、

とも当て(広辞苑)、

夢ぢにも露やおくらむよもすがらかよへる袖のひちてかわかぬ(古今集)、

と使われ、

夜も盡(すがら)の意、ひねもすの対、

ともある(大言海)。「ひねもす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/445249637.htmlは、

終日、

と当て、

朝から晩まで、
一日中、

という意味で、

ひもすがら、

とも言う。まさに、古代の昼を中心にした時間の区分、

アサ→ヒル→ユフ、

の昼間を指す(岩波古語辞典)。

ちなみに、「夜」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442052834.htmlの時間区分は、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

となる(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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タイマン


「タイマン」は、

怠慢、

ではなく、

タイマン、

と表記される。広辞苑には載らない。

対マン、

とも表記され、

助太刀無用の1対1の喧嘩、

とあり(実用日本語表現辞典)、

1対1で何かを行うことを、

サシで、

と言うこともあるが、こちらは、

差し向かい、

の略とされる(仝上)、とある。

man対manからできた語(デジタル大辞泉)、
man to manを変形させた「マン対マン」の上略(語源由来辞典)、

ともあり、どうやら、

マンツーマン(man to man)→マン対マン→対マン→タイマン、

と転訛したもののようであるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3

不良少年少女が用いる語で、一対一の喧嘩のこと、

とあり、「一騎打ち」や「決闘」との違いは、

タイマンでは武器を持たずに己の拳で殴り合うことにある、

とあるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3。したがって、

タイマンは拳一つで成り上がる不良たちの掟(ルール)のため、一対一という形式を守っても武器や凶器を使って戦うことはシャバい(カッコ悪い)行為に当たり、例えそれで勝ったとしても周囲からリスペクト(尊敬)を集めることはできない、

ともある(仝上)。これが流行ったのは、1980年代で、

「ツッパリ」と呼ばれる不良少年が好んで使った言葉である。当時は学校同士やグループ同士のケンカの際、最後は相手の権力者(大将・番長)とタイマンでケリをつけることが美徳とされた、

とあり(日本語俗語辞典)、一般化したのは、本宮ひろ志の漫画など当時の不良やツッパリ漫画でよく使われたからだ、ともある(仝上)。

正しいタイマンのやり方、

というのがあるらしく、

@メンチを切る(タイマンしたい相手の目を見て睨むこと ガンつける、とも)、
Aタンカ(啖呵)を切る、
B殴る、

とある(https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3に譲る)。

これが、広く、

一対一での勝負や交渉、

の意にも使われるようになり、

一騎打ち、

の意と重なるようになる(デジタル大辞泉)。したがって、

「クエスト対象のモンスターとタイマンする」

というように、

対戦ゲームやFPSなどゲームにおいて、対戦相手や敵キャラと、仲間を呼んだり退いたりせずに1対1で戦うこと、

の意で広く使われているhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3

同義語「さし」は、

さしで話す、

と使うが、「さし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447797237.htmlで触れたように、

差し向いの略(江戸語大辞典・大言海)、

であり、「差し」は、接頭語で、

動詞に冠して語勢を強めあるいは整える、

とある(広辞苑)が、

遣るの意なる差すの連用形。他の動詞の上に用ゐること、甚だ多く、次々に列挙するが如し。……又、差しを、指す、フす、刺すなど、四段活用の動詞に、當字に用ゐることも、多し、

とある(大言海)。

「さし」は、

射し・差し
刺し・挿し、
鎖し・閉し、
注し・点し、
止し、

等々と当て、後から「さし」に漢字を当てたにしても、同じ「さし」でも、区別があったから、異なる漢字を当てたと考えることができる。

最も古くは、自然現象において活動力・生命力が直線的に発現し作用する意。ついで空間的・時間的な目標の一点の方向へ、直線的に運動・力・意向が働き、目標の内部に直入する意、

とあり(岩波古語辞典)、一番多いのは、

差し、

だが、

その職務を指して遣はす意ならむ。此語、さされと、未然形に用ゐられてあれば、差の字音には非ず、和漢、暗合なり。倭訓栞「使をさしつかはす、人足をさすなど、云ふはこの字なり」、

とあり(大言海)、

当てる、遣わす、
押しやる、
突きはる、
将棋を差す、

といった意味で、

「刺す」と同源。ある現象や事物が直線的にいつの間にか物の内部や空間に運動する意、

とある(広辞苑)。

差し遣わす、
差し送る、
差し送る、
差し入れる、
差しかかる、

といった使い方になる。行動のプロセスそのものの意でもあるので、この使い方が一番多いのかもしれない。しかし、「さし」を加えることで、単に、強調する、ということではないはずだ。

渡す、
のと、
差し渡す、

のとでは、「渡す」ことに強いる何かを強調しているし、

出す、

差し出す、

も同じだ。

貫く、

刺し貫く、

でも、ただ貫いたのではなく、ある一点を目指している、という意味が強まる。

仰ぐ、

差し仰ぐ、

では、両者の上下の高さがより強調されることになる。「さし」が、

空間的・時間的な目標の一点の方向へ、直線的に運動・力・意向が働き、目標の内部に直入する意(岩波古語辞典)、

として強調されるということは、

自分の意思、
か、
他人の意思、

が強く働いている含意を強めているように思う。

許す、

差し許す、

あるいは、

控える、

差し控える、

と、意味なく、強調しているのではない。

差し向かい、

の「さし」も、意思が入っている、と考えると、納得がいく。

漢字「差」(漢音サ、呉音シャ)は、

会意兼形声。左はそばから左手で支える意を含み、交叉(コウサ)の叉(ささえる)と同系。差は「穂の形+音符左」。穂を支えると、上端はX型となり、そろわない。そのジグザグした姿を示す、

とある(漢字源)。

会意形声。「禾」+音符「左」、刈り取るために穂を左手でまとめるの意。支えた手と刈り取る刃物が交叉することか、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%AEのも、

会意兼形声文字です。「ふぞろいの穂が出た稲」の象形と「左手」の象形と「握る所のあるのみ(鑿)又は、さしがね(工具)」の象形から、工具を持つ左手でふぞろいの穂が出た稲を刈り取るを意味し、そこから、「ふぞろい・ばらばら」を意味する「差」という漢字が成り立ちました、

とあるのもhttps://okjiten.jp/kanji644.html、同趣旨。別に、

もと、会意。左(正しくない)と、𠂹(すい)(=垂。たれる)とから成り、ふぞろいなさま、ひいて、くいちがう意を表す。差は、その省略形、

との解釈もある(角川新字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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与太


与太者、
与太話、
与太郎、

等々と使われる、

与(與)太、

は、

与太婆アさまには困るよう(滑稽・旧観帖)、

と、

知恵の足りない者、
役に立たない者、
おろかもの、

の意か、

でたらめを言う、

意で、

与太を飛ばす、

というように、

でたらめ、
ふざけた、くだらないことば、

の意で使う(広辞苑)、とある。

ヨタ(知恵のたりないもの)をとばす、

と絵解きするものもある(日本語源広辞典)。

さらに、「よた」には、

Yota(ヨタ)ニ ツキアウナ(1886年「改正増補和英語林集成」)、

という用例もあり、

素行不良の者、ならず者、

と、ほぼ、

よた者、

の意でも使うようになっている(精選版 日本国語大辞典)。

「与太」の語源には、

「よたろう(与太郎)」の略(精選版日本国語大辞典)、

と、

「よたんぼう(酔坊)」の略(大言海)、

とがあり、

よたを飛ばすとは、つまらぬことをやり散らすの意、

とする(仝上)。しかし、「よたんぼう」は、

酔うた坊の訛(江戸語大辞典)、
擬人語、酔倒れに、坊を添えたる語(大言海)、

とあり、

よたんぼうの懦弱(たわい)なし(安永十年(1781)「傾城異見之規矩」)、

と、

酔っぱらい、

の意であり(仝上)、あるいは、酔っぱらいの「よたをとばす」ことが、もともと「よた」の始原なのかもしれないが、「よた」の使われ方の中には、「酔っ払い」の含意は消えている。

与太郎、

というと、落語などで出てくる、

愚か者、

の代名詞だが、

操り・浄瑠璃社会の隠語、

ともあり(広辞苑・江戸語大辞典)、

うそ、でたらめ、
うそつき、

の意とし、

おまへもえぐい与太郎云ひじゃ(天明四年(1784)「二日酔巵觶」)、

の用例の原注に、

「与太郎とはうそつきの事」(大阪下りの芸妓の言)、

とあり(江戸語大辞典)、

与太郎あがく、

という言い回しが、

操り・浄瑠璃社会の隠語として、

嘘を言う、

意で、

おめーが昨夜(よんべ)癪をおこして大さわぎをしたと与太郎あがいたらの、きもをつぶしたよ(文化九年(1812)四十八癖)、

などと使われている。

与太者、

というと、今日では、

愚か者、
役に立たない者、
なまけもの、

の意味よりは、

よたもん、

と言ったりして、

手の付けられない不良の徒、
素行不良の若者、
やくざもの、

という意味が強い(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。この意味で使い出したのは、比較的新しく、「よた」に「与太者」の意味が付き加わり出した時期から見ると、明治前後と思われ(改正増補和英語林集成(1886))、大正頃は多く、

よたもん、

といわれ、昭和にはいっては、

よた公(こう)、

ともいわれた、とある(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。

漢字「與(与)」(ヨ)は、

会意兼形声。与は牙(ガ)の原字と同形で、かみあった姿を示す。與はさらに四本の手を添えて、二人が両手で一緒に物を持ち上げるさまを示す。「二人の両手+音符与」で、かみあわす、力を合わせるなどの意を含む、

とある(漢字源)。

会意形声。「与」+音符「舁」、「与」はものがかみ合っている姿を意味し「牙」の原字に共通。「舁」は四方から手を差し伸べものを担ぐ様、

とあるのが上記説明を補足してくれるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%87

別に、

旧字は、会意形声。舁(よ)(持ち上げる。は変わった形)と、(ヨ)(くみあう。は変わった形)とから成る。力を合わせて仲間になる、ひいて、ともにする、転じて「あたえる」意を表す。借りて、助字に用いる。常用漢字は與の略字として用いられていたのの変形による(角川新字源)、

会意兼形声文字です(牙+口+舁)。「かみ合う歯」の象形と「口」の象形と「持ち上げる手」の象形と「ひきあげる手」の象形から、手や口うらを合わせて互いに助け合う事を意味し、そこから、「くみする(仲間になる)」、「あたえる」を意味する「与」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1356.html

等々の解釈もある。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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夜泣石

「夜泣石」は、

夜になると石が泣き出す、という伝説を有する石、

のことで、旧東海道沿いにある、

小夜の中山の夜泣石、

は古くから知られている(広辞苑)。

遠江国掛川市佐夜鹿の小夜の中山(さよのなかやま)峠にある石、

である。夜になると泣くという伝説があり、

遠州七不思議、

のひとつhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%B3%A3%E3%81%8D%E7%9F%B3_%28%E5%B0%8F%E5%A4%9C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%B1%B1%29、とある。因みに、七不思議には、

夜泣き石(掛川市佐夜鹿、小夜の中山)
桜ヶ池の大蛇(御前崎市佐倉)
池の平の幻の池(浜松市天竜区水窪町池の平)
子生まれ石(牧之原市西萩間、大興寺)
三度栗(菊川市三沢)
京丸牡丹(浜松市天竜区春野町)
波小僧(遠州灘)
片葉の葦(菊川市三沢)
天狗の火(御前崎市)
能満寺のソテツ(吉田町片岡、能満寺)
無間の鐘(掛川市東山、粟ヶ岳)
柳井戸(浜松市北区引佐町)
晴明塚(掛川市大渕)、

が当てられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B7%9E%E4%B8%83%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0、とか。

「夜泣石」は、

うなり石、
おなり石、

などとしても知られ、岩が泣き声をあげるだけでなく、

人に話しかけたり、音を発したりする、

ものもある。これを、

岩に神霊や精霊が宿り、その想うところを表現しようとするとき鳴動する、

と考えられ、

岩自体を神格化、

してきた背景に根ざしている(日本昔話事典)、とみられる。

「小夜の中山の夜泣石」は、京都東山から鎌倉に赴くまでの道中の体験や感想を記した、仁治三年(1242)の『東関紀行』以来、多くの文献に載り、安永二年(1773)の「煙霞綺談」西村白鳥(西村白鳥)、文化二年(1805)の『石言遺響』(曲亭馬琴)等々にも似た話が載る。

妊婦が山賊に殺されて、石の下に埋められてから子を産んだ。その幽霊が夜毎に子の食物を買い歩き、その悲しみの声と赤児の声が旅人を悩ませた、

という(仝上)。この話が、いわゆる、

子育て幽霊、

という昔話の話材なっていく。「子育て幽霊」は、

飴買い幽霊、

ともいい、岡本綺堂『中国怪奇小説集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/444432230.htmlで触れたように、中国の志怪小説(「志怪」とは、「怪を志(しる)す」)由来と思われ、小夜の中山の夜泣石の伝説も、中国から輸入されたものらしく、宋の洪邁の「夷堅志」のうちに同様の話がある。

馬琴の記したものによると、この話は、

生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。
そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%B3%A3%E3%81%8D%E7%9F%B3_%28%E5%B0%8F%E5%A4%9C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%B1%B1%29、因縁話に変わっている。なお、久延寺の和尚が飴で子を育てたという伝説から、

子育て飴、

という、琥珀色の水飴が小夜の中山の名物となっている(仝上)、という。

一般的には、

女人が非業の死をとげた、

という伝説だが、これに、本来別個の

赤児の伝説、

とが結合して、夜泣石が子育ての信仰の対象となり、夜泣きが治るとか、丈夫になるなどの霊験を伝えることになった(日本昔話事典・日本伝奇伝説大辞典)、とみられる。

長野県更級郡上山田町には、

姥塚の夜泣石、

があり、姥捨山に捨てられた老婆が石に化して、たびたび鳴動して夜泣した、といい、福井県丹生郡朝日町では、比丘尼が谷外に突き落とされ大石の下になって死に、以来大石は夜泣きするといい、長野県下伊那郡上郷村には、

子泣石、

があり、

山崩れで子供が大石に押しつぶされ、その石から毎夜子供の啼く声がするという。こうした岩石は、総じて、

境の神、

を象徴し、道祖神的な役割を担っているのではないか、という見方もある(日本昔話事典)。類似の伝説に、木が夜泣する(その木を削ると夜泣を止める呪いになる)という

夜泣松、

石に向かって声を出すと、木魅のように音が返ってくる、

鸚鵡石、

等々もある(日本昔話事典)。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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子育て幽霊


「子育て幽霊」は、

飴買い幽霊、

ともいい、

妊婦が死んで埋葬されてから出産し、幽霊となって飴などを買い求めてその子を育てる、

という話で、

東北から奄美大島まで全国に分布している(日本昔話事典)。落語では、

幽霊飴、

となっている。この話の典型例は、

一文商いの飴屋へ、毎晩決まった時刻に、一文をもった女が飴を買いに来る。六晩目に、不思議に思った飴屋の主人が女の後をつけると、墓場にきて、そこに赤子の泣き声がする。棺の中の六道銭を使って毎夜飴を買って育てていたが、今夜で錢が尽きたという、女の嘆く声を聞いて、墓の主に知らせる。墓を掘ると、赤子が目をぱちくりしていたので、連れてきて育て、改めて母親を弔う(越後黒姫)、

で、この基本形に、細部で各地各様の変形が見られ、多く、特定の寺院や人名と結び付けた伝説の形をとる(仝上)、とある。

幽霊の買い求めるものには、飴のほか、

団子、
餅、
菓子、
砂糖、
牛乳、
乳の粉、
酢、

等々、代金も、一文から、

二文、
三文、
六文、
一厘、
一銭、
十銭玉、

等々、時代を反映して、さまざま。そして、赤子が、

高僧になった、

とする例も多い(仝上)。有名なのは、

通幻寂霊(つうげん じゃくれい (1322〜91年))、

で、通幻の門下には通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出し、全国に開基した寺院8900寺とされる。

因みに、「六道銭」とは、

死者を葬る時棺にいれる六文の錢、

の意で、俗に、

三途の川の渡し錢、

とされるが、

金属の呪力で悪例の近づくのを避けようとしたのが起源、

とある(広辞苑)。これは中国由来の考え方で、六道銭と呼ぶのは仏教による。

日本国内における墓地への銭貨の埋納は、和同開珎の時代にすでに見られるが、数は5枚の整数倍で、結界または土地神(土公神)に対する土地購入の対価と考えられている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93%E9%8A%AD。六道思想が広まった中世以降、6枚の例が増えるが、6枚が通例となったのは、近世になってからである(仝上)。

「夜泣石」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483101232.html?1629920079で触れたことと重なるが、岡本綺堂『中国怪奇小説集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/444432230.htmlにある、宋代の『夷堅志』「餅を買う女」とほとんど同じ話である。それは、次のような話である。

街に近い餅屋へ毎日餅を買いにくる女があって、彼女は赤児をかかえていた。それが毎日かならず来るので、餅屋の者もすこしく疑って、あるときそっとその跡をつけて行くと、女の姿は廟のあたりで消え失せた。いよいよ不審に思って、その次の日に来た時、なにげなく世間話などをしているうちに、隙をみて彼女の裾に紅い糸を縫いつけて置いて、帰るときに再びそのあとを附けてゆくと、女は追ってくる者のあるのを覚ったらしく、いつの間にか姿を消して、赤児ばかりが残っていた。糸は草むらの塚の上にかかっていた。近所で聞きあわせて、塚のぬしの夫へ知らせてやると、夫をはじめ一家の者が駈けつけて、試みに塚を掘返すと、女の顔色は生けるがごとくで、妊娠中の胎児が死後に生み出されたものと判った。夫の家では妻のなきがらを灰にして、その赤児を養育した。

まさに、「子育て幽霊」と話の骨子は同じである。

日本各地につたわる話を、

説法による真実性を増すためにでっちあげ説、
飴の販売促進のための飴屋による宣伝説、
禁忌を破り子を生した僧の外分を保つための保身説、
墓場に捨てられた赤子が拾われた場合の出所説、

等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E5%B9%BD%E9%9C%8Aと、話の由来をあげつらうことはできるが、江戸時代(寛文年間1660年代)に、

『伽婢子(おとぎぼうこ)』
『狗張子(いぬはりこ)』

が、志怪小説の翻案として出されている。中国で志怪小説『夷堅志』に取り上げられたのが、宋代なので、日本で流布する600年前になる。やはり、中国伝来と考えていいようである。

別に、「子育て幽霊」の話は、親の恩を説くものとして多くの僧侶に説教の題材として用いられたりもしており、

死女が子供を生む話はガンダーラの仏教遺跡のレリーフにも見られ、日本で流布している話の原型は『旃陀越国王経』であるとされる。幽霊があらわれて7日目に赤ん坊が発見される件に注目し、釈迦を生んで7日で亡くなった摩耶夫人のエピソードとの関連を指摘する、

という説もある(仝上)。それが、中国の志怪小説に流れ、それが日本で流布する原型になった、ということなのかもしれない。因みに、

ゲゲゲの鬼太郎、

も、死んだ母親から墓場で生まれたとされ、元々は、

墓場の鬼太郎、

であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%81%AE%E9%AC%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E、とか。

「子育て幽霊」伝説の多くは、「異常死葬法」の発生を説くものがある。曰く、

身ごもって死んだときにはその子を育てるだけの金を棺に入れる、
六文銭を入れる、
死んだに妊婦は胎児と見ふたつにして葬る、

等々こうした習俗の理由説明を説いている(日本昔話事典)。

なお、妊婦の妖怪「うぶめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/432495092.htmlについては触れた。

なお、「あめ(飴)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460068884.htmlで触れたように、「飴」(漢呉音イ、漢音シ、呉音ジ)は、

会意兼形声。「食+音符台(人工を加えて調整する)」。穀物に人工を加て柔らかく甘くした食物、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です(食+台)。「食器に食べ物を盛りそれに蓋をした」象形と「農具:すきの象形と口の象形」(「大地にすきを入れて柔らかくする、やわらか」の意味)から、やわらかな食品「あめ」を意味する「飴」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2275.html

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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久米仙人


「久米仙人(くめのせんにん)」は、

久米寺の開祖、

と伝えられる人であるが、

大和の国の人、……吉野郡の龍門寺に籠りて、仙の法を行ひ、仙人と成りて、空に昇りて、飛渡る閧ノ、吉野川の邉に、若き女の、衣を洗ふとて、衣を掲げて、白き脛をあらはしたるを見て、心、穢れて其女の前に落ち、遂に夫婦と成りて、凡人となりしと云ふ、

とある(大言海)。

『和州久米寺流記』には、

毛堅仙、

『本朝神仙伝』には、

堅仙人、

とあるが、久米仙人に関する話は、

『七大寺巡礼私記』
『和州久米寺流記』
『元亨釈書』
『扶桑略記』

等々の仏教関係だけでなく、

『今昔物語集』
『徒然草』
『発心集』

その他にも記述があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E4%BB%99%E4%BA%BA。『徒然草』第八段「世の人の心惑はす事」には、

世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし、

とある。仙人は、「手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば」、

心穢れて、

通力を失ったのである。

しかし、普通の人となった「仙人」は、高市郡(たけちこおり)の都を設営するたって、その工事に、人夫として駆り出されることになる。

『今昔物語』巻11第24話「久米仙人始造久米寺語」では、

然る間、久米の仙、其の女と夫妻として有る間、天皇、其の国の高市の郡に都を造り給ふに、国の内然るに(ぶ)を催して、其の役とす。然るに、久米、其の夫に催出されぬ。余の夫共、久米を、「仙人、々々」と呼ぶ。行事官の輩有て、是を聞て問て云く、「汝等、何に依て彼れを仙人と呼ぶぞ」と。夫共、答て云く、「彼の久米は、先年龍門寺に籠て、仙の法を行て、既に仙に成て空に昇り飛び渡る間、吉野川に女、衣を洗ひて立てりけり。其の女の褰(かか)げたる脛白かりけるを見下しけるに、本其の心穢れて忽ち其の女の前に落て、即ち其の女を妻として侍る也。然れば、其れに依て仙人とは呼ぶ也」。
行事官等、是を聞て、「然て止事無かりける者にこそ有なれ。本仙の法を行て、既に仙人に成にける者也。其の行の徳、定て失給はじ。然れば、此の材木、多く自ら持運ばむよりは、仙の力を以て、空より飛しめよかし」と、戯れの言に云ひ合へるを、久米、聞て云く、「我れ、仙の法を忘れて年来に成ぬ。今は只人にて侍る身也。然許の霊験を施すべからず」と云て、心の内に思はく、「我れ、仙の法を行ひ得たりきと云へども、凡夫の愛欲に依て、女人に心を穢して、仙人に成る事こそ無からめ。年来行ひたる法也。本尊、何(いかで)か助け給ふ事無からむ」と思て、行事官等に向て云く、「然らば、若やと祈り試む」と。行事官、是を聞て、「烏滸(をこ)の事をも云ふ奴かな」と思乍ら、「極て貴かりなむ」と答ふ。
其の後、久米、一の静なる道場に籠り居て、身心清浄にして、食を断て、七日七夜不断に礼拝恭敬して、心を至して此の事を祈る。然る間、七日既に過ぬ。行事官等、久米が見えざる事を、且は咲ひ且は疑ふ。然るに、八日と云ふ朝に、俄に空陰り暗夜の如く也。雷鳴り雨降て、露物見えず。是を怪び思ふ間、暫許(とばかり)有て、雷止み空晴れぬ。其の時に、見れば、大中小の若干の材木、併ら南の山辺なる杣より空を飛て、都を造らるる所に来にけり。其の時に、多の行事官の輩、敬て貴びて久米を拝す、

と後日譚を記す。で、

其の後、此の事を天皇に奏す。天皇も是を聞き給て、貴び敬て、忽に免田卅町を以て久米に施し給ひつ。久米、喜て、此の田を以て其の郡に一の伽藍を建たり。久米寺と云ふ是也。
其の後、高野の大師、其の寺に丈六の薬師の三尊を、銅を以て鋳居へ奉り給へり。大師、其の寺にして大日経を見付て、其れを本として、「速疾に仏に成るべき教也」とて、唐へ真言習ひに渡り給ける也。然れば、「止事無き寺也」となむ、語り伝へたるとや、

と久米寺創建譚へつながるのである。『七大寺巡礼私記』、『和州久米寺流記』によると、

聖武天皇(在位 724〜49)の命により東大寺に大仏殿を建立(竣工 758)する際、久米仙人は俗人として夫役につき、材木の運搬に従事していた。周囲の者が彼を仙人と呼んでいるのを知った担当の役人は、……「仙人ならば神通力で材木を運べないか」と持ち掛けた。七日七夜の修行ののち、ついに神通力を回復した彼は8日目の朝、吉野山から切り出した材木を空中に浮揚させて運搬、建設予定地に着地させた、

ということになっているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E4%BB%99%E4%BA%BA。別に、『和州久米寺流記』では、その後百数十年、久米寺に住んだ久米仙人と妻はどこかへ飛び去ったという後日談を記し(仝上)、

ある日忽然と久米仙がいずかたかへ飛び去った後、残された妻は久米を恋い慕って死し、七箇日に当たる日、久米が帰って妻のために呪願すると、妻は蘇生し夫婦とも西方を指して飛び去った、

とあり、

世に伝へて云はく、仙人は十一面観音、嫗は大勢至菩薩なり、

と割注があるという(日本伝奇伝説大辞典)。

ただ、『扶桑略記』は、

本朝往年有三人仙。飛龍門寺。所謂大伴仙、安曇仙、久米仙也。大伴仙草庵。有基無舎、余両仙室。于今猶存、

と、仙人は三人であると記し、久米仙が、飛行中落下し、その大和国高市郡に精舎を建て、丈六の金銅薬師仏と日光月光像を鋳て据え奉った、とあるのみで、女人も、川の名も示さないで、久米寺創建の旨のみ記す(日本伝奇伝説大辞典)。

ここに出る、

大伴、安曇、久米、

は、古代氏族の名であり、久米寺は、大和志料によると、

白橿村大字久米にあり、

とあり、現在の橿原市久米町にある。畝傍山の南にあるこの辺りは、古く久米部が居住していたらしい。大和平定の功により、久米部が賜った地という(守屋俊彦「久米の仙人」)。久米寺は、氏族久米部の氏寺ではなかったか、という推測も成り立つ(仝上)。

『元亨釈書』では、

入深山学仙法。食松葉服薛荔。一且騰空。飛過故里。会婦人以足踏浣衣。其脛甚白。忽生染心。即時墜落、

とあり、この地が「故里」であったとある。『和州久米寺流記』では、だから、

此毛堅仙常自龍門嶽飛通葛木峯。於其途中久米河有洗布之下女。仙見其股色愛心忽発。通力立滅落于大地畢、

と、故里の久米川に落ちたことになる(仝上)。だから、この、

久米の仙人が、久米川のあたりで女の白いはぎをみて落下した、

というのが、原形ではないか(仝上)、という推測が成り立つようだ。

ただ、この久米仙人説話については、『菩薩処胎経』(巻第七緊陀羅品第三十)にある、

ある人、深山にあって仙人の法を学び能く成就して五百の弟子をもっていたが、仏の出世を聞きこれを拝せんものと山を出て空を飛び、王宮の後園の浴池を過ぎたとき、多くの采女たちが池で洗浴するのを見て染愛の心をおこし、通力を失って薗中へ墜落した、

という話が、酷似しているとして、

久米の事と甚だ相似せり、

と記しているものがある(元禄十五(1702)年『本朝高僧伝』)、という(日本伝奇伝説大辞典)。仏典由来ということは、あり得るかもしれない。

参考文献;
佐藤弘夫『日本人と神』(講談社現代新書)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
守屋俊彦「久米の仙人」(甲南女子大学研究紀要)

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おのづから


「おのづから(おのずから)」は、

自(づ(ず))から、

あるいは、

自然、

と当てる(岩波古語辞典)が、

己(おの)つ柄(から)、

の意(広辞苑・岩波古語辞典)とあり、

ツは連体助詞、

カラは生まれつきの意(岩波古語辞典)、
「から」はそれ自身の在り方の意(広辞苑)、
オノ(己)+ヅ(の)+から(原因)で、自分自身から(日本語源広辞典)、

あるいは、

己之従(オノヅカラ)の義、其物事のあるままよりの意(大言海)、
オノレ(己)ヅカラの義(名語記・名言通)、
オノレ(己)カラの義、ツは休め字(和句解・日本釈名)、

は、ほぼ同趣旨、また、

オノテカラ(己手故)の義(言元梯)、
オノガテカラ(己手自)の義(俚言集覧)、
オノレミヅカラ(己自)の義(雅言考)、

等々は、「おのづから」の語意から推し量ったように感じられる。

「おのづから」は、

山辺(やまのへ)の五十師(いし)の御井(みゐ)はおのづから成れる錦(にしき)を張れる山かも(万葉集)、

のように、

自然の力、生まれつきの力、

の意であり、そこから、抽象化した、

この言葉の歌のやうなるは楫取(かじとり)のおのづからのことばなり(土佐日記)、

と、

もとからあったもの、ありのままのもの、

の意となり、

あながちに(更衣を)お前さらずもてなせ給ひしほどにおのづから軽きかたにも見えしを(源氏物語)、

と、

自然の成り行きで、成り行きから当然に、

の意となり、そこから、

おのづから來などもする人の簾(す)の内に人人あまたありて物など言ふに、ゐ入りて(枕草子)、

と、それを内からではなく、外から見れば、

たまたま、

の意へと転じていくのはあり得る。つまり、

物事がもとからあったそのままに→物事が行われていくうちにひとりでに→自然に→(外から見れば)たまたま、

と意味が少しずつシフトしていく形になる。

「おのづ(ず)から」の「づから(ずから)」は、

み(身)づから、
手づから、
心づから、

等々と共通で、

連体格を示す「つ」と体言「から」、

で(日本語源大辞典)、「つ」は、

奈良時代に多く用いられた助詞で、位置とか、存在の場所とかを示すことが多い、

とある(岩波古語辞典)。

天つ神、
國つ神、
内つ宮、
外つ宮、

等々と使われたが、平安時代になると「つ」は、

目(ま)つ毛、
わたつみ、

等々にのみ用例として残るだけになっている(仝上)。「から」は、語源は、

名詞「から」、

とされる。この「から」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464302432.htmlは、前に触れたように、

族、
柄、

と当てるが、

満州語・蒙古語のkala、xala(族)と同系の語。上代では「はらから」「やから」など複合した例が多いが、血筋・素性という意味から発して、抽象的に出発点・成行き・原因などの意味にまで広がって用いられる。助詞カラもこの語の転、

であり、

この語は現在も満州族。蒙古族では社会生活上の重要な概念であるが、日本の古代社会には、ウヂ(氏)よりも一層古く入ったらしく、奈良時代以後、ウヂほどには社会組織の上で重要な役割を果たしていない。なお朝鮮語ではkyöröi(族)の形になっている、

とあり(岩波古語辞典)、助詞「から」は、この名詞「から」由来で、

「国から」「山から」「川から」「神から」などの「から」である。この「から」は、国や山や川や神の本来の性質を意味するとともに、それらの社会的な格をも意味する。「やから」「はらから」なども血筋のつながりを共有する社会的な一つの集りをいう。この血族・血筋の意から、自然のつながり、自然の成り行きの意に発展し、そこから、原因・理由を表し、動作の出発点・経由地、動作の直接続く意、ある動作にすぐ続いていま一つの動作作用が生起する意、手段の意を表すに至ったと思われる、

とある(仝上)。だから、「おのづから」の「おの」は、

「おの(己)」は反射指示(「……自身」)、

であり、「おのづから」は、

他からの作用の有無にかかわらずそれ自身の本質によって、

の意となる(日本語源大辞典)、とある。

「おのづから」に当てる、

自(づ)から、

は、

みづから、

とも訓ませる。

ミ(身)ツカラの転、ツは助詞、からはそれ自体の意(広辞苑)、
身つからの意。ツは連体助詞。カラは自体の意(岩波古語辞典)、
ミツカラ(身之自)の義(東牖子・大言海)、

等々とあり

万葉集に入らぬ古き歌、みづからのをも奉らしめ給ひてなん(古今集)、

と、

自分自身、

の意で使う(広辞苑)。「みづから」の「つ」も「から」も「おのづから」の「づから」と同じである。

竹内整一『「おのずから」と「みずから」』http://ppnetwork.seesaa.net/article/415685379.htmlで、「おのづから」と「みづから」については対比したが、

「おのずから」が、

「オノ(己)+ヅ(の)+カラ(原因、由来)」

で、ひとりでに、という意味なのに対して、「みづから」は、

「身+つ(助詞)」

で、それ自体、つまり、自分から、の意となる。しかし、

みずから

おのずから

も、

自から、

と当てることについて、そこには、

「おのずから」成ったことと、「みずから」為したことが別事ではないという理解がどこかで働いている、

のではないかという指摘があった。その一例として、

「われわれは、しばしば、『今度結婚することになりました』とか『就職することになりました』という言い方をするが、そうした表現には、いかに当人「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても、それはある『おのずから』の働きでそう“成ったのだ”と受けとめるような受けとめ方があることを示しているだろう。」

を挙げる(竹内整一『「おのずから」と「みずから」』)。そこには、諸々の出来事は、

「『おのずから』の働きで成って行くのであって、『みずから』はついに担いきれない」

という、責任が取りきれない、という考え方に通じていく。それを、

「『みずから』は『おのずから』に解消されてしまっている」

との指摘であった。それと似た例は、

すいません、

がある。「すいません」http://ppnetwork.seesaa.net/article/398895440.htmlで触れたように、「すいません」には、「済まない」ことを済ませよう(済ませてもらおう)とする、何となく曖昧な(心理的な)逃げがあって、本当の詫びとは思えないところがあるように、僕は感じる。謝る意思があるなら、

御免なさい、

か、感謝なら、

ありがとう(ございます)、

であり、どこかニュートラルな(心理的な)逃げの表現に思えてならない

「自」(漢音ジ、呉音シ)は、

象形。人の鼻を描いたもの。「私」がというとき、鼻を指さすので、自分の意に転用された。また出生のさい、鼻を先にして生れ出るし、鼻は人体の最先端にあるので、「……からおこる、……から始まる」という起点をあらわすことばとなった、

とある(漢字源)。

「己」(漢音キ、呉音コ)は、

象形。己は、古代の土器のもようの一部で、屈曲して目立つ目印の形を描いたもの。はっと注意をよびおこす意を含む。人から呼ばれてはっと起立する者の意から、おのれを意味することになった、

とある(漢字源)。この解釈に対して、

糸巻きの象形で、自分の意味は仮借による(白川)、

と対立説を挙げhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%B1

象形。先端を引き出した糸筋の形にかたどり、糸のはし、ひいて、はじめの意を表す。「紀(キ)」の原字。借りて、「おのれ」の意に用い、また、十干(じつかん)の第六位に用いる、

との解釈もある(角川新字源)。

更に、この「糸巻」説は、

象形文字です。「3本の横の平行線を持ち、その両端に糸を巻き、中の横線を支点とする糸巻き」の象形。「紀」の原字で、糸すじを分ける器具の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「おのれ(自分)」を意味する「己」という漢字が成り立ちました、

とも詳説されるhttps://okjiten.jp/kanji974.htmlが、穿ち過ぎではないか。甲骨文字を見ると、

土器に書かれた矢印で、注意を呼び起こすことから、自分を意味するようになった、

とする説(漢字源)が妥当に思えるが。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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時雨の化


「時雨」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471497019.htmlで触れたように、「時雨」は、

しぐれ、

ではなく、

じう、

と訓ます。というか、「時雨」は、漢語であり、

ほどよいときに降るよき雨、

を意味し、禮記にも、

天降時雨、山川出雲、

とある。それが転じて、

時雨之化(じうのか)、

というように、

教化の普く及ぶをいう。草木の好雨を得て発生するに喩う、

意で使う、とある(字源)。由来は。『孟子』(盡心)の、

君子之所以教者五、有如時雨之化者、有成徳者、有達財者、有答問者、有私淑艾者、此五者、君子之所以教也、

である。「しぐれ」の意で使うのはわが国だけである。

「しぐれ」は、

日本海側や京都盆地、岐阜、長野、福島などの山間部では突然、空がかげったかと思うとハラハラと降りだし、短時間でサッとあがり、また降り出すといった雨、

とあるhttps://japanknowledge.com/articles/kkotoba/37.html。これは、

大陸から日本海や東シナ海を渡って吹いてくる冬の北西季節風の気温は、海面の温度よりもはるかに低い。すると、この風は海面から水蒸気をもらうとともに、下から暖められて対流を起こし、団塊状の積雲や積乱雲をたくさんつくる。冬型気圧配置の日に、テレビの気象衛星の雲画像で、日本海や黄海・東シナ海に白い「雲の筋」がたくさん映っているが、それはこれらの雲が風に流されて無数の行列になったものである。(中略)その「雲の行列」の一つ一つが通過するたびに、1〜2時間の周期で降ったりやんだりを繰り返す、

ためである(雨のことば辞典)。これが雪になると、

雪しぐれ、

となり、霧なら、

霧しぐれ、

となる(芭蕉の句に、霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き、と詠んでいる)。

「しぐれ」は、

時雨雲が来るとにわかに暗くなって冷たい雨が降り、あたりは荒涼とした冬景色になる。雲が過ぎると、先刻の雨がうそのように青空から日が射して、

の繰り返しである(仝上)。11月初旬の立冬の前後、

大陸性高気圧が勢力を増し、北西の季節風が吹き始める。これが「木枯し」となるわけだが、この風が中央脊梁山脈にあたって吹き上げ、冷やされた空気が雲をつくり降雨する。これの残りの湿った空気が風で山越えしてくるときに降る急雨が時雨なのである、

とありhttps://japanknowledge.com/articles/kkotoba/37.html

したがって江戸の昔から、一時的に軽い雨脚で降り過ぎていく雨を時雨といったりしてきたが(「深川は月も時雨るる夜風かな」杉風)、本来の意味では関東平野に時雨はない、

とある(仝上)。しかし、「しぐれ」は、

時雨(しぐれ)の雨、間(ま)なくな降りそ、紅(くれなゐ)に、にほへる山の、散らまく惜(を)しも時待ちて、ふりし時雨の、雨止みぬ、明けむ朝(あした)か、山のもみたむ

と、万葉集にうたわれているように、古くからある言葉だが、

初冬の景物、

として固定化するのは鎌倉以降である、という(仝上)。特に、

神無月ふりみふらずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける(後撰集)、

の歌から、神無月の景物として固定化することになった、ともある(仝上)。それが、

世にふるもさらに時雨の宿りかな(宗祇)、
世にふるもさらに宗祇のやどり哉(芭蕉)、
笠もなきわれを時雨るるかこは何と(同)、
旅人と我が名呼ばれん初霽(しぐれ)(同)、
時雨るるや我も古人の夜に似たる(蕪村)、

等々と、俳諧の時代になって、

秋時雨、梅雨時雨、初時雨、朝時雨、夕時雨、小夜時雨、北時雨、北山時雨、むら時雨、片時雨、横時雨、片時雨、山茶花しぐれ、

等々、時雨のさまざまな様態を示す言葉が生まれ、さらに涙、松風、木の葉、川音、虫の音等々を時雨と見立て、

涙の時雨、袖時雨、袂の時雨、松風の時雨、木の葉の時雨、川音の時雨、蝉時雨、虫時雨、露時雨、

等々がつくり出された、とある(仝上・雨のことば辞典)。これを、

偽物のしぐれ、

というらしい(雨のことば辞典)が、

見立て、

は歌の本領ではないのか。「偽」とは、どうなのだろう。たとえば、

しぐれ、
青葉しぐれ、

のように、

木々の青葉から滴り落ちる水滴を「しぐれ」に見立てた言葉や、

梅雨時雨、

と、梅雨の季節の、降ったりやんだりを指す言葉は見立てだが、「しぐれ」時期にも、

時雨明かり、
時雨傘、
時雨癖、
時雨心地、
時雨月、
時雨虹、
時雨(の)色、
時雨三日、

と、さまざまな「しぐれ」風景に関わる詞が作り出されている。「しぐれ」のもつイメージが喚起するものだろう。

こうみてくると、「しぐれ」の語源は、

志ぐれの雨の略、

とあり(大言海)、その動詞「志ぐる」は、

志は、風雨(シ)、クルは、暮る、時雨と書くは、時(しばしば)降る雨の意。時鳥(ほととぎす)の如し、

とする説もある(仝上)が、もっとシンプルに、

「過ぐる」から出た語で、通り雨の意(広辞苑・日本語源広辞典)、
過ぎ行く雨であるところから、スグル(過)の転(語源をさぐる=新村出)、

あるいは、

「秋の末から冬の初めにかけて降ったり止んだり定めなく降る通り雨をスギフル(過ぎ降る)雨といった。ギフ[g(if)u]の縮約でスグル・シグル(時雨る、下二)になった〈けしきばかりうちシグレて〉(源氏 紅葉賀)。連用形の名詞化がシグレ(時雨)である。〈長月のシグレにぬれとほり〉(万葉)(日本語の語源)、

という、

すぐる→しぐれ、

と転訛したとみるのが、自然のように思われる。

「しぐれ煮」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471476208.htmlというものがある。これは、

生姜を加えた佃煮の一種、

貝類のむきみにショウガ・サンショウなどの香味を加えて醤油・砂糖などで煮しめた料理、

というように(広辞苑)、今日は、生姜を入れた佃煮を、「時雨煮」と呼んでいるが、本来は、

蛤のむき身に生姜を加え、佃煮にしたもの、

を指す(たべもの語源辞典)。時雨蛤の命名は、芭蕉の高弟(で、芭蕉の遺書を代筆した)各務支考(かがみしこう)だとされる。

「時雨とは、晩秋から初冬にかけて降ったり止んだりする雨、曇りがちの空模様を言う。通り雨の『過ぐる』が語原とも。しぐれは『し』と『くれ』に分けて、『くれ』は『暗し』と解釈し、『し』を『しばし』とか、『し』は風のことだと説いたりする。蛤の佃煮を食べていると蛤の味が醤油の辛さのうちに通り過ぎていく。この時雨煮は、簡単にのみこめるものではないから、降ったり止んだりする時雨のように口中で味の変化、過程を楽しめる。これが時雨煮とした理由と考えられる」

とする説(たべもの語源辞典)は、なかなか趣がある。

口中で味が変化することから時雨にたとえた、

とするのは「しぐれ」に適っている。一般的には、

時雨饅頭
時雨餅

等々、「しぐれ」と名づけるには、「そぼろ」になっているのがみそである。「そぼろ」は、

ばらばらで細かいこと、

を意味するが、そぼ降る雨というような、

雨がしとしと降るさま、

の意である。しかし、「時雨煮」はそぼろではない。

時雨は「しぐれ色」と称して、時雨で色づいた草木の色を取り上げることもある。だから、時雨煮とは、しぐれ色に煮上げたものと考える人もある。蛤とか牡蠣とか、時雨煮にするとき醤油で煮染めるとか、生姜を加えて佃煮にするとか、どんなものを煮ても味を濃くして口に入れたとき味が変わっていく、通り過ぎていく味を感ずるこの味つけが時雨煮の本領なのである、

という、味わいから来たとする説(たべもの語源辞典)を考えると、「しぐれ煮」とは、なかなか巧い命名に思える。。

参考文献;
倉嶋厚・原田稔編『雨のことば辞典』(講談社学術文庫)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)

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かんなび


「かんなび」は、

神奈備、
神南備、
神名火、
神名備、

等々と当てる(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)が、

かむなび、
かみなび、

とも訓ませる(仝上)。

神の鎮座する山や森、神社の森、

を指し、

「かん」は「神」、「な」は「の」の意、「び」は「辺」と同じくあたりの意(日本語源大辞典)、

とされ、

神の杜の約なり、かんなみの転(大言海)、
神の山の意、カムはカミ(神)の形容詞的屈折、ナはノ、ビはもり、むれなどという山の意の語が融合したミの音転か(万葉集辞典=折口信夫)、
神嘗の義で、神をまつった所をいうか。また、カンノモノ(神社)の約であるカンナミの転か(和訓栞)、

も同趣旨とみていい。「な」は、

「の」の母音交替形、

とされ、

まなこ(目な子)、
たなごころ(手な心=掌)、
かむながな(神な随)、

等々、

直前に来る母音がア列・ウ列・イ列の甲類の場合、

とある(岩波古語辞典)。

「かんなび」は、固有名詞に転じ、

大和國飛鳥のかんなび、
同國龍田のかんなび、

が有名で(大言海)、また、

神奈備山、

というと、

神の鎮座する山。神社のある山、

の意から、その意の、

各地の山の異称、

となり、『出雲国風土記』には、

意宇郡の神名樋野 松江市の茶臼山に比定、
秋鹿郡の神名火山 通説では松江市の朝日山に比定、
楯縫郡の神名樋山 出雲市の大船山に比定、
出雲郡の神名火山 出雲市の仏経山に比定、

の四ヵ所が載りhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%82%99、その他、

明日香村にある三諸山(みもろやま)、
斑鳩町にある三室山(みむろやま)、
京都田辺町薪にある甘南備山、

が知られている(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)が、

大和の三輪山(みわやま)、

がもっとも著名で(日本大百科全書)、

大和(奈良県)、出雲(いずも)に多いため、出雲系の神を祀ったものであろうとする説、

が有力としている(仝上)。

この山容が円錐形または笠形の美しい姿をして目につきやすいので、神霊が宿るにふさわしいものと考えている、

ともある(仝上)。

「かんなび」は、

みもろ、

とも呼ぶ。「みもろ」は、

御諸、
三諸、

と当て(広辞苑)、

神木・神山・神社など、神の鎮座するところ、

の意である。

ミは接頭語、モロはモリ(杜)と同じ、神の降下してくるところ(岩波古語辞典)、
ひろもぎ(神籬)の略転。……大和の三輪、龍田をも云ふ。かんなびのみもろは、神(カン)の杜(モリ)の御杜(みもり)なり、御杜木はひもろぎを云ふ。此のひもろが後にみむろと転じたるなり。かかれば後世、建物出来て、神社の奥殿を室(ムロ)と云ふも、是なり(大言海)、

とあるところを見ると、「かんなび」の方が広い神域、「みもろ」は限定された依代を指していた可能性が高い。だから、「かんなび」は、

神奈備に神籬(ひもろぎ)立てて斎へども(万葉集)、

というように、

神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域、

を指し、

神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域や、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や神体山、特徴的な岩(夫婦岩)や滝(那智滝)がある神域、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%82%99とあるのは、その意味である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ひもろぎ


「ひもろぎ」に当てる漢字には、

神籬、

胙、
膰、
脤、

とがある。

「神籬」は、古くは、

ひもろき、

と清音、

神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常盤木(ときわぎ)を植えめぐらし、玉垣で囲んで心性を保ったところ、後には、室内・庭上に常盤木を立て、これを神の宿るところとして神籬と呼んだ。現在、普通の形式は、下に荒薦(あらむしろ)を敷き、八脚案(やつあしのつくえ)を置き、さらに枠を組んで中央に榊の枝を立て、木綿(ゆう)と垂(しで)とを取り付ける、

とある(広辞苑)。

伊勢神宮の心御柱(しんのみはしら)、
上賀茂社の〈みあれ〉、

も神籬の一種とされる(百科事典マイペディア)。

また、「ひもろぎ」は、

ひぼろぎ、

ともいう(仝上)。和名抄に、

神籬、比保路岐、

とある。「神籬」は、

神の降下を待つところとして作るもの(岩波古語辞典)、

つまり、

神祭りをするにあたり、神霊を招くための憑坐(よりまし)、依代(よりしろ)、

なのである。また、

古代祭祀、また現在でも地鎮祭などでは社殿がなく、その神祭りの場合のみ神霊の降臨を願うとき、神霊の宿り坐(ま)す神聖な場、またそのしるしが必要となるが、それのこと。『日本書紀』天孫降臨の条に、天児屋命(あめのこやねのみこと)・太玉(ふとだま)命に天津(あまつ)神籬を持ち降臨、皇孫のため奉斎せよと勅されたとあり、同じく垂仁天皇の条に、新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)が持ちきたった神宝のなかに熊(くまの)神籬一具とあるのをみると、神祭りをするための祭具をさして称することがすでに古くあったかとみられる、

とあり(日本大百科全書)、日本書紀に、

吾(高皇産霊尊)は則ち天津神籬及天津磐境(いわさか)を起樹(おこした)てて、当に吾孫の為に斎ひ奉らむ、

ともある。ただ、古代、

神をめぐる空間の構造を、

磐座、
神籬(ひもろぎ)、
磐境(いわさか)、

と区別されていて、日本書紀では、

天孫の座を磐座と呼び、神体・依代(よりしろ)・神座の意に、神籬は柴垣・神垣の意に、磐境は結界・神境の意に用いている、

ともある(世界大百科事典)。古代、

神社を建てて社殿の中に神を祀るのではなく、祭りの時はその時々に神を招いて執り行った。その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち、古くはその場所が神籬と呼ばれた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%AC。「神籬」と当てた時、「籬」は竹や柴で作られた垣根を意味するので、書紀の時代には、「場所」を指していた意味が、「場所」を限る「垣」に意味が変わっている可能性があるが。

そうみると、「神籬」は、

ヒは霊力の意。モロはモリ(森・杜)の古形。神の降下してくる所。キは未詳(岩波古語辞典)、
ヒ(霊力)+モロ(森・杜)+キ(城)、神の降りる座(日本語源広辞典)、
ヒはヒ(靈)の義で神をいう。モロキは内外を守り限る義で守る所(東雅)、

と、神の依る「もり」とみる説があり、他に、

ヒは敬称的接頭辞、モロキは室木の義(神代史の研究=白鳥庫吉)、
柴室木(フシムロギ)の約轉、秘(ひめ)室木の略轉、秀(ひ)室城の転(大言海)、
フシムロギ(柴室木)の約轉(古事記伝・名言通)、

と、「室木」と特定する説があるが、

「ひもろぎ(き)」の「ぎ(き)」は、上代、(上代特殊仮名遣の)甲類であるから、乙類である「木・城」(き)とは別と考えられる、

とある(日本語源大辞典)ので、「木」「城」ではなく、前者に軍配が上がる。

また、

胙、
膰、
脤、

と当てる「ひもろぎ」は、

神の降下を待つところ、

としてつくった「神籬」に、

供えるもの、

を指す。漢字の「胙」は、

神に供える肉、

「脤」は、

神に供える生肉、

「膰」は、

神に供える焼いた肉、

を意味する。

ヒフルキ(干経肉)の義(大言海・言元梯)、
日を経て食するところからヒフルギ(日経食)の義(日本釈名)、

という説はあるが、「神の降下を待つところ」の「ひもろぎ」が、そこに供えるものも「ひもろぎ」と呼ぶようになったと考えるのでいいのではあるまいか。同じように、

ひぼろぎ、

とも言うのだから。

「籬」(リ)は、

会意兼形声。「竹+音符離(リ 別々のものをくっつける)」、

とあり、竹や柴(しば)などをあらく編んだ垣根、「まがき」の意。「垣籬(えんり)」「籬垣(りえん)」も、竹や柴の垣根を意味する。

「胙」(漢音ソ、呉音ゾ)は、

形声。「肉+音符乍」で、重ねた御供えの肉、

とある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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いわくら


「岩」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482839020.htmlで触れたように、「岩(磐)」は、

依代、

であり、神霊の代わりとして祀り、

磐座(いわくら)、
神籬(ひもろぎ)、

として信仰の対象とされた。「いわ(は)くら」は、

磐倉、
岩倉、
岩座、
磐座、

等々と当て、

神の鎮座するところ、

である。古事記には、

離(おしはなち)天之岩位(いわくら)、

とあり、神武紀には、

瓊瓊杵尊闢天關(あまのいはくら)……戻止(いたります)、

とあり、「天關」「岩位」等々とも当てている。記紀や風土記をみると、本来は、

神のいる場所をたたえる語、

であったが、

やがて祭りに際して神の依り代とされた岩石を特定してさすものと認識されるようになり、さらには石そのものを神体として祭祀対象とするようになる、

と変わっていく(日本大百科全書)。考古学的に磐座が明確になるのは古墳時代以降で、

沖ノ島遺跡(福岡県)、
天白(てんぱく)遺跡(静岡県)、
三輪山ノ神遺跡(奈良県)、

等々があり、巨石の周囲からさまざまな祭祀に用いられた遺物が出土する(仝上)。

たとえば、三輪山ノ神遺跡は、

古来より神のこもる山と仰がれた三輪山の西麓にあり、三輪山祭祀遺跡群の一つで、磐座を伴う。1918年(大正7)地元農民の開墾に際し偶然に発見された。磐座は長さ1.8メートル、幅1.3メートルの巨石(安山岩)を中心に数個の石よりなり、素文銅鏡、硬玉製勾玉(まがたま)、滑石(かっせき)製勾玉、臼玉(うすだま)、管玉(くだたま)、双孔円板(そうこうえんばん)、子持(こもち)勾玉、さらに土製の臼(うす)、杵(きね)、匏(ひさご)、柄杓(ひしゃく)、匙(さじ)、箕(み)、案(あん 物をのせる台)などの模造品が出土した、

とされる(日本大百科全書)。

天白磐座遺跡(てんぱくいわくらいせき)は、

渭伊神社(延喜式内社)後背の薬師山(円錐形、標高41.75メートル)山頂において、巨岩群を神の依代(磐座)とした古代祭祀遺跡である。(中略)磐座は西・東・北の巨岩3つを主体として構成された大規模なものになる。特に西岩の西壁直下では、古墳時代の手づくね土器200以上・滑石製勾玉・鉄矛・鉄刀・鉄鏃・鉇など、古墳時代前期後葉から平安時代中期の祭祀遺物が検出されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%99%BD%E7%A3%90%E5%BA%A7%E9%81%BA%E8%B7%A1

「いわくら」の「いわ(は)」は、

堅固の意(広辞苑)、
堅固なるを稱(たた)ふる語(大言海)、
イハは堅固さをほめた語(岩波古語辞典)、

等々とあるが、「岩」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482839020.htmlで触れたように、「石」が、

イワ(ハ)、イシ、イソなどのイに、岩石関連の語根がある、

とあり(日本語源広辞典)、和語「いし」は、

イサゴ(砂=石子)・イソ(磯)・イスノカミ(石の上)・イシ(石)の、isago、iso、isu、isiに共通なis-という形が「石」の意の語源であろう(岩波古語辞典)、

とされるので、「いわ」の語根「イ」も、「いし」の、

is-

とのつながりが想定される。その意味で、「いわ」について、

イは接頭語。ハはホ(秀)から分化した語か。山の石すなわち岩の意で、磯の石すなわちイシに対する語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ハはハフ(延)の同義語で、拡がっている物を連想させる。その上にイを添えて、具体的に己が思想に浮かんでいる物の名とし、はじめて岩という語となる(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々の諸説の「イ」も、「接尾語」ではなく、「石」と同根と見ると、別の視界で見えてくる。

「くら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482602676.html?1627533042でふれたように、「くら」に当てる「座」(漢音サ、呉音ザ)は、

会意兼形声。坐(ザ)は「人二つ+土」の会意文字で、人々が地上にすわって頭が高低ででこぼこするさまを示す。座は「广(いえ)+音符坐」で、家の中ですわる場所のこと、坐は動詞、座は名詞であったが、当用漢字で座に統一された、

とある(漢字源)。「すわる場所」の意から、「台座」のように、「器物を載せる台」の意や、星々の(集まる)場所の意味で、「星座」と使ったりする。

和語「くら(座)」も、

御手座(みてぐら)、
矢座(やぐら→櫓・矢倉)、
鳥(と)座、
千座(ちくら)、

等々、

人や物を載せる台、また、物を載せる設備、

の意で使われることが多い(岩波古語辞典)。「御手座(みてぐら)」は、もとは、清音で(広辞苑)、

元来は神が宿る依代として手に持つ採物(とりもの)をさした。その後幣(ぬさ)の字を当てたため、幣帛(へいはく)と混用され、布帛、紙、金銭、器具、神饌(しんせん)など神に奉献する物の総称の意にも用いられた、

とあり(百科事典マイペディア)、

依代の採物→神への奉献するもの、

と転じたように、「いわくら」も、

本来、神のいる場所をたたえる語であった。やがて祭りに際して神の依り代とされた岩石を特定してさすものと認識されるようになり、さらには石そのものを神体として祭祀対象とするようになる、

と、

依代の岩→神体→神、

と、意味が広がった。

「ひもろぎ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483241202.html?1630696658で触れたように、古代、

神をめぐる空間の構造を、

磐座(いわくら)、
神籬(ひもろぎ)、
磐境(いわさか)、

と区別されていて、日本書紀では、

天孫の座を磐座と呼び、神体・依代(よりしろ)・神座の意に、神籬は柴垣・神垣の意に、磐境は結界・神境の意に用いている、

とある(世界大百科事典)。

磐座(いわくら)→神籬(ひもろぎ)→磐境(いわさか)、

と、

磐座を中心とした祭祀場で、「いわくら」を囲む、

神籬、

さらに、そこを神聖清浄な場所として保存する「神域」を限る、

磐境(いわさか)、

がある。

「さか」とは神域との境であり、、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。つまり磐境は、石を環状に配置した古代の遺跡であるストーンサークル(環状列石)と同じもので、そこを神聖清浄な場所として保存するための境界石を人工的に組んで結界を形成して「神域」を示している、

のではないかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E5%BA%A7

なお、漢字「岩」「磐」については、「岩」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482839020.htmlでふれたが、「岩」(漢音ガン、呉音ゲン)は、

会意。「山+石」。もと「巌(巖)」の俗字、

とある(漢字源)。「磐」(漢音バン、呉音ハン)は、

会意兼形声。「石+音符般(ハン 平らに広げる)」、

とある(漢字源)。「岩」ではあるが、「盤石」というように、「平らに大きくすわった石」の意がある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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自分


「自分」というのは、

自分の事は自分でせよ、

というように、名詞として、

自身、

の意である(漢語では「自身」(字源)を使う用例がある)が、「自分」は、また自称としても使う(広辞苑)。この場合、「自分」を文字通りに解すれば、

自らの分、

ということになり、

おのが分、

ということになる。室町末期の日葡辞書には、

ジブンニカナワヌ、

と載り、

自分自身の能力、

の意で使っている(広辞苑)、とある。

近世以降に広く知られるようになった語、

とあり、用法としては、

「おのれ」に近く、関西圏では「自分」を二人称でも用いる。

「おのれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473275230.htmlは、

オノ(己)+レ(接尾語)、

で、「レ」は、「ワレ(我)」や「カレ(彼)」の「レ」と同じである。この場合も、

自分自身、

を指すが、

卑下していうことが多い、

とある(岩波古語辞典)。「自分」も、そんな語感のようであるが、江戸時代は、

武士詞、

とある(江戸語大辞典)。たとえば、

「自分共も役目なれば、私づくで容赦はならぬ」(天保元年(1830)「寝覚之繰言」)

と使われる(仝上)。さらに、尊敬の接頭語「ご」を付けて、

「御自分様(御貴殿様)」(宝暦四年(1754)「世間御旗本容気」)、

と、

貴殿、

の意で二人称としても使っている(仝上)。

「分」http://ppnetwork.seesaa.net/article/424082581.htmlで触れたように、「分」は、

分を弁える、

の意味で使う。意味は、

各人にわけ与えられたもの。性質・身分・責任、

等々の意味で、

分限・分際、応分・過分・士分・自分・性分・職分・随分・天分・本分・身分・名分、

等々という使われ方をする。

「分」の字は、

「八印(左右にわける)+刀」

で、二つに切り分ける意を示す。

分は合の反対。物を別々にわける義(字源)、

とあり、「分割」「分別」「分配」「区別」「分裂」等々と「分ける」「分かれる」意だが、

ポストに応じた責任と能力、

の意の、

本分、
持ち前、
つとめ、、

の意でも使う(漢字源・字源)。

天人の分に明らかなり(荀子)、

と、

けじめ、

の意も含む。「身の程」「分際」という言葉と重なるのかもしれない。それはある意味、

生まれつきのもの、固有の性質、
所属する部分、担当する部分、

の意の、

「持前」とも重なる。

分を守る、
とか
分を弁える、
とか
分に余る、
とか
分にすぎる、

といった、

分際、
身の程、

は、ある意味「慎み」につながり、それは、

控えめに振る舞うこと、
江戸時代、武士や僧侶に科した刑罰の一つ。家の内に籠居 (屏居)して外出することを許さないもの、謹慎、
物忌み、斎戒 (さいかい) 。

といった意味があるが、上にか天にか神にか、分を超えたことへの戒めととらえることができる。

己(おのれ)の分を尽くす、

というと、

本分、

につながる。「けじめ」という言葉は、

ケ(段・分段)+チ(つ・の)+目(日本語源広辞典)、
ワカチメ(分目)の義(類聚名物考・名言通・和訓栞)、

等々と、

分け目、区別、

の意味で、そこから準えて、

道徳や規範によって行動・態度に示す区別、節度ある態度、

という意味に敷衍されている。「分」、「身の程」と近いが、差異というか切れ目に着眼しているので、目線が外からの色合いが強い。分、身の程は、内からの自分での弁え、ということになる。

潔さとは、分を守ることの徹底に見る。

「自分」と一人称を使うとき、そうした、

おのれの分を慎んでいる、

という含意が、本来あるのかもしれない。

「分」(漢音・呉音フン、慣用プ、呉音ブン)は、

会意。「八印(左右に分ける)+刀」で、二つに切り分ける意を示す。払(フツ 左右に分けてはらいのける)は、その入声(ニッショウ つまり音)に当たる。また、半・班(わける)・判(わける)・八(二分できる数)・別とも縁が深い、

とある(漢字源)。

「自」(漢音ジ、呉音シ)については「おのづから」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483178122.html?1630350682で触れたが、

象形。人の鼻を描いたもの。「私」がというとき、鼻を指さすので、自分の意に転用された。また出生のさい、鼻を先にして生れ出るし、鼻は人体の最先端にあるので、「……からおこる、……から始まる」という起点をあらわすことばとなった、

とある(漢字源)。

なお、一人称の、「われ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473288508.html、「やつがれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482208626.html、「おのれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473275230.html
については触れたし、「われ(我)」、「てめえ(手前)」、「な(むぢ)(汝)」、「おのれ(己)」等々の「一人称」が「二人称」に転じることについては、「二人称」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442523895.htmlで触れた。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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「私」は、

わたくし、

と訓ませる。名詞である。

公(おほやけ)の対、

である(岩波古語辞典)。

個人のこと、

を意味する。

背私謂之公(私ニ背クヲ公ト謂フ)、

である(韓非子)。

私事(わたくしごと)、

は、

公事(おほやけごと)、

の対である(仝上)。

また、「わたくし」は、

自称、

にも使うが、

目上の人に対してへりくだって言う語(岩波古語辞典)、
男女とも丁寧な言い方として、多く目上の人に対して用いる。また改まった言い方をする時などに用いる(日本語源大辞典)、
尊長より同輩に通じて、謙して用ゐる(大言海)、

等々、どちらかというと謙譲の含意がある。

「わたくし」は中世前期頃まで、「公(おおやけ)」に対する「個人」の意味で用いられ、一人称の代名詞として用いられ始めたのは、中世後期以降である。「わたし」は近世以降に見られる語で、近世では女性が用いた、

とある(語源由来辞典)。「わたし」は、

「わたくし」が約まったもので(watakushi→watashi)、

「わたし」が約まって、

わし(watashi→washi)、

あるいは、

あたい(atashi→atai)、

となる。どんどんくだけていく(広辞苑・日本語の語源・語源由来辞典)。

「わたくし」の語源は、

ワ(吾・我)+タ(つ)+くし、私+の+しるし(個人的の意)(日本語源広辞典)、
我盡(われつく)しの轉(大言海)、
ワガタメニカクシ(我爲隠)の義(日本語原学=林甕臣)、
ワはワレ(吾)の意、シはウシ(大人)、イマシ(汝)等のシと同根か(国語の語根とその分類=大島正健)、
ワトクシ(吾等具)の義(言元梯)、

等々、一人称「わ(吾・我)」と関わらせる説が多い。一人称には、もうひとつ「あ(吾・我)」があるが、

アは、すでに奈良時代から類義語ワ(我)よりも例が少なくて、用法も狭い。平安時代になると、「あが」という形のいくつかを残すだけで、アは主格や目的格などの場合は使われない。アとワは、「あが衣(ころも)」「わが衣(きぬ)」などと、似た対象についても使ったが、アは、多くの場合、「あが君」「あが主(ぬし)」など親密感を示したい相手に対して使い、ワは「わが大君」「わが父母」など改まった気持ちで向き合う相手に対して用いた、

とある(岩波古語辞典)。「わたくし」が「わ」の流れだとすれば、

改まった気持ちで向き合う相手に対して用いた、

という含意はそのまま残っていることになる。

「あ」の語源は、

漢語のア(我)、朝鮮古語のアと暗合(大言海)、
呼ばれてこたえる音声から(本朝辞源=宇田甘冥・国語の語根とその分類=大島正健)、
叫ぶ声から。ウ(自)・オ(己)と同系(日本語源=賀茂百樹)、

等々あるが、「わ」については、

平安時代には、「わが」という形以外ほとんど使われない、

とされ(岩波古語辞典)、語源としては、「われ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473288508.htmlで触れたように、

漢語のア(我)、朝鮮古語のアと暗合(大言海)、

しかない。結局はっきりしないので、

ワが、ワれ、ワぎもこ、ワたくしのワが同根(日本語源広辞典)、

ということ以上は言えないのだが、「わぎも(吾妹)」「あが君」の「あ」や「わ」には、へりくだった含意はない。とすれば、

わたくし、

には、その含意の由来する語源なのではないか。とすると、

ワ(吾・我)+タ(つ)+くし、私+の+しるし(個人的の意)(日本語源広辞典)、
我盡(われつく)しの轉(大言海)、

にその可能性を感じるのだが、どうだろうか。

さて、漢字「私」(シ)は、

会意兼形声。厶(シ)は、自分だけのものを腕でかかえこむさま。私は「禾(作物)+音符厶」で、収穫物を細分して、自分のだけをかかえこむこと。ばらばらに細分する意を含む、

とある(漢字源)。一説に、

形声で、禾と音符厶(シ)とから成り、いねの一種の意を表す、

という(角川新字源)。

会意形声。禾(稲の意)+音符「厶」(腕を回して物をとる様で「わたくしする」の意)。私有の稲の意味から、わたくしする(自分のものにする)の意味になった。なお、「公(おおやけ)」は「厶」を開く(「八」)ことからと言われる、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A7%81のが「厶」の意味をよく示している。

なお、一人称の、「われ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473288508.html、「やつがれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482208626.html、「おのれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473275230.html
「自分」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483288122.html?1630956077、については触れたし、「われ(我)」、「てめえ(手前)」、「な(むぢ)(汝)」、「おのれ」等々の一人称が二人称に転じることについては、「二人称」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442523895.htmlで触れた。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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おれ


「おれ」は、

汝、
己、

と当て(岩波古語辞典)、

二人称、

で、

おれ熊曾建(くまそたける)二人、伏(まつろ)はず礼(いや)無しと聞しめして、おれを取殺(と)れと詔りたまひて(古事記)、

と、

相手を卑しめていう語(広辞苑)、
相手を低くみていう語(岩波古語辞典)、

である。それが転じて、

相手が同等または目下の時に使う(岩波古語辞典)、
目上にも目下にも用いた(広辞苑)、

一人称、

となり、男性では、

おれとわごりょ(我御寮・我御料)はよいなかながら(宗安小唄集)、

女性では、

おれがいつも申すはそれよ(御伽草子・乳母草紙)、

と、

男女共に用いる、

とある(岩波古語辞典)。現代では、

主として男が同輩以下のものに対して用いる、荒っぽい言い方、

とある(広辞苑)が、女性でも使う例がある。一人称の「おれ」は、

俺、
己、
乃公、

等々とあてる(広辞苑・デジタル大辞泉)。「乃公」http://ppnetwork.seesaa.net/article/445042814.htmlは、

わが輩、おれさま、

といった意味で、男性が、

自分自身を尊大にいう言葉、

つまり、相手に対して、

「乃(=汝、お前)」の「公(=主君)」

と位置関係を設定して、上から目線で言う言葉らしい。

乃公出でずんば蒼生を如何せん、

といった使い方をするので、「おれ」に「乃公」を当てた時は、「おれ」に、

おれさま(俺様・己様)、

という含意があることになる。

「おれ」は、

おのれの略、

とされることがあるが、

上代から中古にかけて主として用いられた、

二人称の「おれ」は、

上代の「おのれ」という反射指示の語形とは語源的には直接関係が少ない、

と考えられている(日本語源広辞典)とある。あるいは、古代、二人称の「おのれ」と「おれ」は併用されていたのかもしれない。だから、

自称の代名詞「あれ」や沖縄方言の指示代名詞「うり」、朝鮮語の自称「うり」との語源関係を想定する、

説もある(仝上)という。

自称の「おれ」は、

中世以降使われ。近世以降多用された、

とあり(仝上)、

貴賤男女の別なく使われたが、近世の後半期頃から女性の使用が絶えた。同等もしくは目下に対する使用例が多いが、目上に対する用例もあり、江戸期までは、現代語のようにくだけた言葉とは言えない

とある(日本語源大辞典)。

この「おれ」は、「おのれ」とは別に成立し、

二人称→一人称、

に転じたものとみていいようである。そう考えると、

オノレの略(名語記・大言海・かた言・和字正濫鈔・類聚名物考・一話一言・日本語源広辞典)、

説は消えて、むしろ、

アレ(吾)の転(言元梯)、
「吾」の別音woに補音レを添えたもの(日本語原考=与謝野寛)、

もあり得るが、「あれ」は、「われ」(ware)の語頭のwが落ちたものとすると、一人称にも、二人称にも使っていたけれども、二人称→一人称への転用が確認できない。

「二人称」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442523895.htmlで触れたように、「二人称」には、

お前、
ぬし、
君、
なんじ、

等々のように、かつては、相手への尊称や敬称であったものが、相手を貶める言い方になっているものと、

われ(我)、
てめえ(手前)、
な(むぢ)(汝)

等々のように、かつては、自分のことを指していた呼称が、相手へ転化されたものと、

そち、
そなた、
そこもと、
あなた、

等々のように、方向を指していた言葉が転じたものと、

おたく(お宅)、

のように、家や組織や分野など、その人の所属を二人称に代替したもの(今日の「オタク」の語源でもある)があるが、

二人称→一人称、

への転用の例はあまり聞かない。

「おのれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473275230.htmlでふれたように、「おのれ」は、

オノ(己)+レ(接尾語)

で、「レ」は、「ワレ(我)」や「カレ(彼)」の「それ(其れ)」の「レ」と同じである(大言海、岩波古語辞典)。さらに、

オノ+レ、

の「オノ(己)」も、また、「おのれ」と同様、一人称の、

であり、二人称の、

おまえ、

の意もあり、

アナ(己)の母音交替形、

とし、

感嘆詞アナの母音交替形、

とする説(岩波古語辞典)は、「アナ(己)」は、「あながち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/430713882.htmlで触れたように、

アナ(オノレの変化)+勝ち、

であり、

オノ(己)の母音交替形。アナガチのアナに同じ。日本書紀神代巻に「大己貴」を「於褒婀娜武智(おほあなむち)」と訓注しており、「己」をアナと訓む。母音アが脱落するとナ(汝)になる、

とし、同じ二人称「うぬ」は、

オノの轉(岩波古語辞典)、

あるいは、

オノレの略轉(大言海・日本語の語源)、

とする。一人称「うぬ(己)」は、一人称、

うら、

にも転じる。

と、みると、「おら」は、

おのれ→おのら→おいら→おら(大言海)、
おのれ→おれ→うれ→うら(仝上)、

がありうるが、「おのれ」の転訛でないとするなら、たとえば、

あれ→おの→うぬ→うら→おら、

と転じたとみてもいい。この「おら」は、

一人称で、

自分自身、

を指し、仲間や目下の者とざっくばらんに話す時に用いられる。「俺」「己」「乃公」などと当てるので「おれ」と重なる。こうみると、

おのれ→おれ、

ではないとするなら、確かに、上述の、

自称の代名詞「あれ」の転訛、

もありうるが、「あれ」は、「われ」(ware)の語頭のwが脱落した形とされる(岩波古語辞典)ので、強いて言えば、

ware→are→ore、

となるが、どうなのだろうか。それが無理筋なら、

おの→おれ、

と見るしかないのだが。

「俺」(エン)は、

会意兼形声文字です(人+奄)。「横から見た人」の象形と「両手両足を伸びやかにした人の象形と稲妻の象形」(雷雲が人の頭上を覆うの意味から、「覆う」の意味)から「われ(我)」、「おれ」、「自分」を意味する「俺」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2092.html

なお、一人称の、
「われ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473288508.html
「やつがれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482208626.html
「おのれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473275230.html
「私」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483303361.html?1631041960
「自分」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483288122.html?1630956077
については触れたし、「われ(我)」「てめえ(手前)」「な(むぢ)(汝)」「おのれ」等々の一人称が二人称に転じることについては、「二人称」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442523895.htmlで触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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けじめ


「けじめ(けぢめ)」は、

区別、
差別、
数、
分、

等々と当てられたりする(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%91%E3%81%98%E3%82%81・精選版日本国語大辞典・漢字源・大言海)。その語源として、

ケ(段・分段)+チ(つ・の)+目、

とする説がある(日本語源広辞典)ように、

公私のけじめ、

とか、

思ふをも思はぬをもけぢめ見せぬ心なむありける(伊勢物語)、

という、

分け目、区別、

の意味で(岩波古語辞典・広辞苑)、

物事の差、二つ以上のものの間にある質的または量的な差、優劣、大小、多少などの差、比較される一方の立場に立って他との違いをいう場合が多い、

とある(精選版日本国語大辞典)。そこから、

うちつぎて、世の中のまつりごとなど、殊に変はるけぢめもなかりけり(源氏)、

と、

連続したものが変化したときに認められる、前と後との質的な違い、物事の移り変わり、変動、

の意や、

雪はところどころ消え残りたるが、いとしろき庭のふとけぢめ見えわかれぬほどなるに(源氏)、

と、

二つ以上の物事について、内容、外観などによって区別をつけること、差を弁別すること、

の意や、

さるべき御かげどもにおくれ侍りてのち、春のけぢめも思ひ給へわかれぬを(源氏)、

と、

変化の境目、境界、

の意や、

廂の、中の御障子を放ちて、こなたかなた御几帳ばかりをけぢめにて(源氏)、

と、間を隔てるもの、境を分けるもの、

等々の意へと広がり、こうした、「区別」「境界」に準えて、

上達部みな乱れて舞ひ給へど、夜に入りてはことにけぢめも見えず(源氏)、

守るべき規範や道徳などにより、行動や態度などにつける区別、その場その場にかなった行動をとること。節度ある態度、

といった意味に敷衍され、

幼長のけじめ、
けじめを守る、
けじめをつける、

等々として使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・広辞苑)。室町末期の『日葡辞書』には、

Qegimega(ケヂメガ)ミエタ、

と載る。

「けじめ」の語源としては、上記の、

ケ(段・分段)+チ(つ・の)+目(日本語源広辞典)、

があるが、他に、

結目(けちめ)にて、碁の結(けち)より、別目(わけめ)の意か、或いは掲焉(けちえん)のけちか(大言海)、

とする説がある。囲碁の「結」(けち)は、

闕(けち)、

で、

囲碁の終盤戦で、まだ決まらない目を詰め寄せること、

つまり、

駄目を詰める、

意である。

「けち」の「ち」は漢字の入声音「t」を仮名表記するとき字音の後に母音「i」を添えたもので、「質(しち)」「節(せち)」と同様、

とある(精選版日本国語大辞典)。ただ、「決着」の意味に関してだが、

囲碁の特定の世界での語であり、一般の用語で決着の意味に用いた例は見出しがたい、

とある(仝上)。「価値がない」の意の、

ダメ(駄目)、

が囲碁用語から転じたように、囲碁の世界の言葉が広く使われる例はなくはないのだが、

「けぢめ」の語が見られるのは平安時代で、時代的には問題なく囲碁用語からとも考えられるが、「区別」という意味になったという点で説得力に欠ける、

とする(語源由来辞典)のはどうだろう。「駄目を詰める」のは、終局時に地の整理をする時、

白黒どちらの陣地にもならない交点(ダメ)を「ダメ詰め」をして、白と黒の境界線をハッキリさせること、

をいうhttps://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/school/end02.html

つまり、白黒の区別を明確にするという意味で、「けじめ」の含意と重なるのである。

また、

或いは掲焉(けちえん)のけちか(大言海)、

とする「掲焉」は、

けつえん、
けちえん、

と訓ますが(「掲」をケチと訓むは呉音)、

著しいさま、目立つさま、

で、

人の様体、色合ひなどさへ掲焉に顕れたるを見渡すに〈紫式部日記〉、

と使われるが、「意味」から逆に推測したものなのではないだろうか。

このほかに、

ワカチメ(別目)の義(類聚名物考・名言通・和訓栞)、
ワカチマ(分間)の義(言元梯)、

と、「分」「別」とのかかわりを説く説もある。類聚名義抄(平安末期)に、

分、けじめ、

とある(語源由来辞典)とある。しかし、これは、「けじめ」という言葉が既にあったことを意味するので、

わかちめ(分目)の意味から生じた語(仝上)、

の証にはなるまい。第一、

わかちめ→けぢめ、

では音韻的にも無理がある。やはり、

結目(けちめ)にて、碁の結(けち)、

より由来したと見るのが、音韻的にも、意味的にも無理がなさそうである。江戸時代、

けじめをとる、

を、

雪は白しけじめをとるか竦み鷺(俳諧・鸚鵡集)、

と、

優劣・異同などを明白にする、

意で使い(岩波古語辞典)、

けじめを食ふ(けぢめを食はす)、
けじめる(「きじめる」とも)、

を、

汝等にけぢめを食ふ様な、そんな二才ぢゃあねえぞ(三人吉三廓初買)、

と、

差別待遇をされる、阻害し卑しめられる、

意で使う(広辞苑・江戸語大辞典)。江戸中期の『俚言集覧』に、

愚案、又俗に人に逼迫して卑しめ陵(しの)くやうの事をケヂメを食すと云、又キヂメルとも云、

とある(江戸語大辞典)。

「けじめ」に当てる「數(数)」(慣用スウ、漢音ス、呉音シュ)は、

会意。婁(ル・ロウ)は、女と女を数珠つなぎにしたさまを示す会意文字。數は「婁(じゅずつなぎ)+攴(動詞の記号)」で、一連の順序につないでかぞえること、

とある(漢字源)。別に、

「數」は攴+婁の会意文字で、攴は算木を手に取るという意味である動作をなす事を表し、婁は摟(ひきだす)をあらわす。又は、複数の女性(おそらく奴隷であろう)が数珠つなぎにされた様を表し、複数のものを数えることを意味(藤堂)、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%95%B0。さらに、

会意文字です(婁+攵(攴))。「長い髪を巻きあげて、その上にさらに装備を加えた女性」の象形(「途切れず続く」の意味)と「ボクっという音を表す擬声語と右手の象形」(「ボクっと打つ、たたく」の意味)から、続けて打つ事を意味し、そこから「責める」、「かぞえる」を意味する「数」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji230.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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こなから


「こなから」は、

小半、
二合半、

などと当てる(広辞苑)。

半分の半分、

つまり、

四半分、

の意と、米や酒の、

一升の四半分、つまり、4分の1、二合五勺(約4.5デシリットル)、

の意である(仝上・デジタル大辞泉)。そこから、「こなから」は、

こなからざけ(小半酒)、

の意で、

少量の酒、

の意でも使う。また、

こなからいり(小半入)、

というと、

二合五勺入りの容器、

を指し、

小半入りの徳利、
小半枡、

などともいう(仝上)。なお「とっくり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474699082.htmlについては触れた。

この「こなから」に当てる

小半、

を音読みして、

こはん(小半)、

とも言う(仝上)。だから、

半斤の半分を、

小半斤(こはんきん 四半斤)、

豆腐の半挺の半分を、

小半挺(こはんちょう)、

一時(いっとき)の四分の一を、

小半刻(こはんとき 30分)、

などというのと同じ、とある(大言海)。

なお、「こなから」は、

二合半、

の意味から、関西では、

二号はん=お妾さん、

の意味でも使うという。

半分、

を、

なから、

といい、その半分なので、

こなから、

となるので、

小+なから、

で、この接頭語「小(こ)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/445760046.htmlは、

体言・形容詞などの上に付く、

が、意味は幅広く、

物の形・数量の小さい意(「小舟」「小島」「小人数」等々)、
事物の程度の少ない意(「小雨」「小太り」等々)
年が若い意(「小犬」「小童」等々)、
数量が足りないが、ややそれに近い意(「小一里」「小一時間」等々)、
半分の意か(「小なから」「小半金」等々」)、
いうにいわれない、何となくの意、またその状態表現を憎む意(「小ぎれい」「小憎らしい」「小汚い」等々)、
軽んじ、あなどる意(「こざかしい」「小わっぱ」等々)
(体の部分を表す語について)その動作を軽く言う意(「小耳」「小腹」「小腰」等々)、
語調を整える意(「夕焼け小焼け」「大さむ小さむ」等々)、

等々があり(広辞苑)、「小」は、

「お」(「小川」「小暗い」等々)、
「しょう」(「小心」「小社」等々)、
「さ」(「小夜」「小百合」)等々、

とも訓ますが、訓み方は変わっても、この意味の変化は、「小さい」「少ない」という、

状態表現、

が、そのことに価値表現を含めて、貶めたり、蔑んだり、逆にみずからを謙ったり、という価値を加味した、

価値表現、

へと変るのは、一貫している。

「なから」は、

中ら、
半ら、

と当て、

ラは漠然と場所・方向を示す接尾語。従って、ナカラは、明確にはとらえられない途中、中頃を指すのが原義。のち、ナカバ(ちょうど半分)との区別を次第に失った、

とある(岩波古語辞典)。だから、

おおよそ半分、

という感じなので、時間に用いても、

およそ半分の頃合い、

の意となり、

中半尺(なからはんじゃく)、

というと、

中途半端、
生半可、

という意だし、

なからじに(半死)、

は、

半死半生、

という意になる(仝上・江戸語大辞典)。


「小」(ショウ)は、

象形。中心のh線の両脇に点々をつけ、棒を削って小さく細く削ぐさまを画いたもの、

とある(漢字源)が、ちいさい点を三つ重ねて、水滴・火花などのように、ちいさいものの意を表す、ともある(漢字源)。

「半」(ハン)についてはは、「よわ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483039167.html?1629658969で触れたように、

会意。「牛+八印」で、牛は、物の代表、八印は両方に分ける意を示し、何かを二つに分けること、八(両分する)はその入声(ニッショウ 音)にあたるから、「牛+音符八」の会意兼形声と考えてよい、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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かんなぎ


「かんなぎ」は、

巫、
覡、

と当てるが、

かむなぎ、
かみなぎ、
かうなぎ、

等々とも訓ませる(デジタル大辞泉・広辞苑)。古くは、

かむなき、

とある(仝上)。

神に仕え、神楽を奏して神慮をなだめ、また神意を伺い、神おろしを行いなどする人、

とあり(仝上)、

巫女(みこ)、

の謂いだが、

(「かみなぎ」は)女子の、神に奉仕し、神楽に舞ひなどする者、多くは少女なり、又、かみおろしなどするものあり、専ら音便に、かんなぎと云ふ。…官に仕ふる者を、御神(ミカン)の子と云う、

とある(大言海)。日本では、

普通女性、

だが、男子の「かんなぎ」は、特に、

をかんなぎ(覡)、

女を、

めかんなぎ(巫)、

というとある(広辞苑)が、男を、

男巫(ヲノコカンナギ)(大言海)、
をのこかむなぎ(岩波古語辞典)、

というともある。平安中期の『和名類聚鈔』には、

覡、祝女也、加无奈支、男、男覡也、乎乃古加无奈岐、

とあり、後漢の漢字辞典『説文解字』には、

巫、祝也、女能事無形以舞、降神者也、

とか(大言海)、

能く齋肅(さいしゅく)して神明に事(つか)ふるなり、男に在りては覡と曰ひ、女に在りては巫と曰ふ、巫に従ひ、見に従ふ、

ともあるhttps://jigen.net/kanji/35233ので、本来は、男女で、覡、巫を使い分けていたものと思われる。

平安後期の漢和辞典『字鏡』には、

祓の字を女偏に作れる字に、「加牟奈支」(祓女の合字にて、巫女なり)、

とあり(大言海)、平安時代写本の『天治字鏡』には、

同字(祓の字を女偏に作れる字)に、「加美奈支」、

とあり、同じく、

巫、加无奈支、

とある(仝上)。

「かんなぎ」は、

カムは神、ナギは、なごめる意。神の心を音楽や舞でなごやかにして、神意を求める人(岩波古語辞典)、
神の祈(ネギ)の転、禰宜(ネギ)と同意か、(大言海)、
神和(かんなぎ)の義(桑家漢語抄・東雅・円珠庵雑記・箋注和名抄・名言通・和訓栞・大言海)、
カミノネギ(神祈)の転(東雅)、
かむ(神)+なぎ(なごめる)から(漢字源)、

という、「ナギ」に着目する説がある。「なぎ」は、

神の心を安め和らげて、その加護を祈る、

意の、

ねぐ(祈ぐ・労ぐ)、

の転訛とみる(「禰宜」は、「ねぐ」の名詞形)か、

ナゴヤカ(和)のナゴと同根、

の、

やわらぐ、おだやかになる、

意の、

なぐ(凪ぐ・和ぐ)、

かの二説があるが、常識的には、

神の心を慰め和らげ祈請の事にあたる者、

の意である「禰宜」とつながる、

ねぐの転訛、

ではあるまいか。「なぐ(和)」も、「ねぐ(祈)」に通じる気がする。

それとは別に、「猫も杓子も」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451814115.htmlで触れたように、音韻の変化から、

神仏に願い望むことをコフ(乞ふ・請ふ)という。カミコヒメ(神乞ひ女)は語頭・語尾を落としてミコ(巫女)になった。
さらにいえば、心から祈るという意味で、ムネコフ(胸乞ふ)といったのが、ムの脱落、コの母韻交替[ou]でネカフ・ネガフ(願ふ)になった。
ネガフ(願ふ)を早口に発音するとき、ガフ[g(af)u]が縮約されてネグ(祈ぐ)に変化した。その連用形の名詞化が『禰宜』である。また、カミネギ(神祈ぎ)はカミナギ・カンナギ(巫)に変化した、

と、「ねがふ」から「ねぎ」「かんなぎ」となったとする説がある(日本語の語源)。似たものに、

神意を招請する意の「神招ぎ(かみまねぎ)」という語から、

という説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%ABもあるが、いずれも「ねぐ」とつながるのではないかと思う。

この他の語源説として、

神の子、御神(みかん)の子の転か(水(み)の本(もと)、みなもと。鉤(かぎ)、ホ具(かご))(大言海)
カミノアギの転。アギは朝鮮語で子の義(日鮮同祖論=金沢庄三郎)、
神の子の意で、カムノアギの転。アギのアは接頭語、ギはコ(子)の転で、男子の敬称(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々、「神の子」とつなげる説があるが、これは、音韻から見ると、

巫女(みこ)、

につながるのではないか、という気がする。

「巫」(慣用フ、漢音ブ、呉音ム)は、

会意。「工+人二人」。工印を玉の形と解する説もあるが、神を招く技術を示したものであろう。原字にはもうひとつあり、それは「工+召(招く)二つ+両手」の会意文字で、神を招く手ぶりを示す。目に見えない神を手ぶり足ぶりして呼ぶこと、

とある(漢字源)。別に、

形声。工(降ろす)の転音が音を表し「くだす」を意味する。人人は召の略字で、巫女が声を上げて神を呼ぶ招魂のことで巫祝の意。また巫女が舞う時の両袖からの象形という説もある、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%AB、「工」の意味はこれでよくわかるが、甲骨文字の印象とは少しかけ離れていて、少し後の秦の、簡牘文字(戦国時代)の「巫」の字の説明に妥当する気がする。

「甲骨文字」の説明としては、

上の横線は天、下の横線は地を、そして中央の縦線は天から地へ神霊や精霊を降臨させること、左右のヒトは踊る巫祝を表している、

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB

象形。神を地上に招くための工形の道具を交差させた形にかたどる。神おろしをする人、「みこ」の意を表す、

とか(角川新字源)の方が近いのではないか。別に、

象形文字です。「神を祭るとばり(仕切り)の中で、人が両手で儀式で使う道具をささげる」象形から「神を招き求める者:みこ」を意味する「巫」という漢字が成り立ちました、

とする説https://okjiten.jp/kanji2365.htmlもあるが、この字にあたる原字は見当たらなかった。

「覡」(慣用ゲキ、漢音ケキ、呉音ギャク)は、

会意。巫は、両手で玉を神の前にささげて神意を求めることを示す会意文字。覡は「巫+見」で、神意を探してみようとする人のこと、

とある(漢字源)。「巫」は神意を求める行為を指し、「覡」はそれをする人の意ということになるが、漢字では、「巫」は女性、「覡」は男性を指す(仝上)、と区別したらしいことは、上述した。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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巫女


「巫女」は、

みこ、
ふじょ、

と訓ますが、

神子、

とも当て(広辞苑)、

舞姫(まいひめ)、
御神子(みかんこ)、

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E5%A5%B3、とある。

神に仕え、神楽・祈祷を行い、または神意をうかがって神託を告げるもの、

を指す。多くは、

未婚の少女、

とされる(仝上)。

かんなぎ、

ともいう(「かんなぎ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483366329.html?1631388073については触れた)が、

あがたみこ、
あづさみこ、
いちこ、

等々とも呼ぶものもある(大言海)。柳田國男や中山太郎の分類によると、

おおむね朝廷の巫(かんなぎ)系、

と、

民間の口寄せ系、

に分けられ、「巫(かんなぎ)系」巫女は、関東では、

ミコ、

京阪では、

イチコ、

といい、口寄せ系巫女は、

京阪では、

ミコ、

東京近辺では、

イチコ、
アズサミコ、

東北では、

イタコ、

と呼ばれる、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E5%A5%B3。柳田は、「もともとこの二つの巫女は同一の物であったが、時代が下るにつれ神を携え神にせせられて各地をさまよう者と、宮に仕える者とに分かれた」とした(仝上)。

この原型となる「神に仕える女性」として、

邪馬台国の卑弥呼、
天照大神、
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、
倭姫命(やまとひめのみこと)、
神功(じんぐう)皇后、

等々を見ることができ、沖縄の、

のろ、
ゆた、

もそれである(日本大百科全書)。

朝廷の巫(かんなぎ)系である、

宮廷や神社に仕え、神職の下にあって祭典の奉仕や神楽をもっぱら行うもの、

には、

神祇官に仕える御巫(みかんなぎ)(大御巫、坐摩(いがすり)巫、御門(みかど)巫、生島(いくしま)巫)、
宮中内侍所(ないしどころ)の刀自(とじ)、
伊勢神宮の物忌(ものいみ)(子良(こら))、
大神(おおみわ)神社の宮能売(みやのめ)、
熱田神宮の惣(そう)ノ市(いち)、
松尾神社の斎子(いつきこ)、
鹿島神宮の物忌(ものいみ)、
厳島(いつくしま)神社の内侍(ないし)、
塩竈(しおがま)神社の若(わか)、
羽黒神社の女別当(おんなべっとう)、

等々があり、いずれも処女をこれにあてた、とされる(仝上)。

民間の口寄せ系である、

神霊や死霊の口寄せなどを営む呪術的祈祷師、

には、

市子(いちこ)、

という言葉が一般に用いられており、東北地方では、巫女のことを一般に「いたこ」といい、これらの巫女はほとんど盲目である。そのほか、

関東の梓(あずさ)巫女、
羽後(うご)の座頭嬶(ざとうかか)、
陸中の盲女僧、
常陸の笹帚(ささはた)き、

等々の称がある、とされる(仝上)。

「いちこ」は、

降巫(岩波古語辞典)、
市子(日本語源大辞典)、
巫子(仝上・江戸語大辞典)、
神巫(大言海)、

等々と当て、

巫女、

の意で、

イチは巫女をあらわす語、コは子、

とあり(岩波古語辞典)、「イチ」は、

和訓栞、イチ「神前に神楽をする女を、イチと云ふは、イツキの義にや、ツ、キ、反チなり」。斎巫(いつきこ)なり。松尾神社に斎子(いつきこ)あり、春日神社等に、斎女(イツキメ)あり、此語、口寄せする市子とは、全く異なり、

とあり(大言海)、

略してイチとのみも云ひ、一殿(イチドノ)とも云ふ、

とある(仝上)。あくまで、ここでは「いちこ」は、

巫女、

の意で、

神前に神楽する舞姫、神楽女(かぐらめ)、

の意とする。この「いちこ」のひとつに、

あづさみこ、

がある(岩波古語辞典)とされるが、「梓(あづさ)」は、

カバノキ科の落葉高木、

で、

古く呪力のある木とされた、

とあり(岩波古語辞典)、古代の「梓弓」の材料とされ、和名抄には、

梓、阿豆佐、楸(ひさぎ、きささげ)之属也、

とある。白井光太郎による正倉院の梓弓の顕微鏡的調査の結果などから、

ミズメ(ヨグソミネバリ)、カバノキ科の落葉高木、

が通説となっている、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93

「梓弓」は、

古くは神事や出産などの際、魔除けに鳴らす弓(鳴弦)として使用された、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93%E5%BC%93

梓弓の名に因りて、万葉集に、弓をアヅサとのみも詠めり、今も、神巫に、其辞残れり、直に、あづさみことも云へり、神を降ろすに、弓を以てするば和琴(わごと)の意味なり(和訓栞)、

と、

神降ろしに用いる、

が、

その頃はべりし巫女のありけるを召して、梓弓に、(死人の靈を)寄せさせ聞きにけり(伽・鼠草子)、

と、

梓の弓をはじきながら、死霊や生霊を呼び出して行う口寄せ、

をも行う(岩波古語辞典)。「あがたみこ」は、

縣巫、
縣御子、

等々と当て(岩波古語辞典・大言海)、

祈祷・占い・口寄せ、竈祓(かまはらひ)などを業として、主に地方を回る巫女、売色もした、

とあり(岩波古語辞典)、

市子と云ふは、(「あづさみこ」と比して)、品格甚だ違へり、これは市街巫(イチコ)の意なるべく、縣巫(あがたみこ)と云ふも、田舎巫の意なり、

とするが、しかし、

巫女の、小弓に張れる弦を叩きて、神降をし、死霊・生霊の口寄せをする、

「あづさみこ」は、

髑髏(しゃれこうべ)を懐中し居るなり、これをアヅサとのみも云ひ、又、市子とも、縣巫(あがたみこ)とも云ふ、何れも賤しき女にて、賣淫をもしたりと云ふ、

とある(大言海)。こうなると、

あづさみこ、
あがたみこ、
いちこ、

は、ほとんど市井の巫女の意で、江戸時代に、

いちこ(巫子)、

は、

生霊・死霊の口寄せをする女、梓巫子(あずさみこ)、神子(みこ)、略して「いち」とのみもいい、促呼して「いちっこ」ともいう、

のと重なってくる(江戸語大辞典)。

「巫女」の語源は、

御子(みこ)の義(名語記)、
神子(かみこ)の上略(名言通・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日鮮同祖論=金沢庄三郎)、

とされるが、何れも、原義的には同じとみていい。

ただ、「猫も杓子も」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451814115.htmlで触れたように、

「神仏に願い望むことをコフ(乞ふ・請ふ)という。カミコヒメ(神乞ひ女)は語頭・語尾を落としてミコ(巫女)になった。
 さらにいえば、心から祈るという意味で、ムネコフ(胸乞ふ)といったのが、ムの脱落、コの母韻交替[ou]でネカフ・ネガフ(願ふ)になった。
 ネガフ(願ふ)を早口に発音するとき、ガフ[g(af)u]が縮約されてネグ(祈ぐ)に変化した。その連用形の名詞化が『禰宜』である。また、カミネギ(神祈ぎ)はカミナギ・カンナギ(巫)に変化した、

と、和語の音韻変化とする説もある。

「巫」(慣用フ、漢音ブ、呉音ム)は、「かんなぎ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483366329.html?1631388073で触れたように、

会意。「工+人二人」。工印を玉の形と解する説もあるが、神を招く技術を示したものであろう。原字にはもうひとつあり、それは「工+召(招く)二つ+両手」の会意文字で、神を招く手ぶりを示す。目に見えない神を手ぶり足ぶりして呼ぶこと、

とあり(漢字源)、さらに、

形声。工(降ろす)の転音が音を表し「くだす」を意味する。人人は召の略字で、巫女が声を上げて神を呼ぶ招魂ことで巫祝の意。また巫女が舞う時の両袖からの象形という説もある、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%AB、「工」の意味はこれでよくわかる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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禰宜


「禰宜(ねぎ)」は、

神主の下、祝(はふり)の上に位置する神職、伊勢神宮では、少宮司(ショウグウジ)の次、宮掌(クジョウ)の上位、宮司の命を受け祭祀に奉仕し、事務をつかさどる、

とある(広辞苑)。ただ、「禰宜」は、

イナゴ、

の異称でもあり、和漢三才図会(1712)には、

ばった(飛蝗)の異名、

とある。「飛蝗」は、

関東にては䘀螽(イナゴ)類の総称、

とある(大言海)。

古くは「禰宜」は、神主と祝(はふり)の中間に位置したが、現在の神職制によれば、禰宜は、

宮司(ぐうじ)・権(ごん)宮司の下、権禰宜の上に位置する、

とある(日本大百科全書)。

禰宜を初めて置いたのは神宮(伊勢神宮)であり、大宮司の下に10人(現在は12人)置かれ、中世以降は荒木田(あらきだ)氏(内宮(ないくう))と度会(わたらい)氏(外宮(げくう))が世襲した、

とある(仝上)。著名な大社にはたいてい禰宜が置かれているが、賀茂神社、松尾社、日吉社、平野社では禰宜は第一の神職とされ、香取神宮、鹿島神宮ではその上に大禰宜が置かれhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B0%E5%AE%9C、宇佐(うさ)神宮には女禰宜もいた、とある(日本大百科全書)。「禰宜」は、

年齢的にある程度成熟し、知識や経験が豊富な者が務めることが多く、一般に、祭祀では重要な役割を果たす、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B0%E5%AE%9C

「禰宜」の語源は、

祈(ねぎ)の義、我が身、人の上を神に祈る、或いは神を労(ねぐ)の義か(大言海)、
祈ぎ・労ぎ(神の加護を祈る)(日本語源広辞典)、
祈(ね)ぐの連用形(広辞苑)、
ネガフ(願ふ)を早口に発音するとき、ガフ[g(af)u]が縮約されてネグ(祈ぐ)に変化した。その連用形の名詞化である(日本語の語源)、
ねぐ(労)の連用形の名詞化(日本語源大辞典)、
「和ませる」の意味の古語「ねぐ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B0%E5%AE%9C

等々、「願ふ」「祈ぐ」「労ぐ」の三説に分かれるようである。

ネギ(祈)の義。自他のことを神に祈る者であるところから(万葉代匠記・万葉集類林・円珠庵雑記・雅言考・俗語考・大言海・「ほ」「うら」から「ほがひ」へ=折口信夫・八重山古謡=宮良当壮・宮良当壮・猫も杓子も=楳垣実)、
ネギゴト(祈)から(南嶺子=百草露)、

と、「祈ぐ」が多数派の見えるが、

ネガヒ(願)の義(名言通)、
ネガヒ(願)の約。ガヒの反はギ(日本声母伝・俚言集覧・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本古語大辞典=松岡静雄)、

とする説も少なくない。

しかし、「ねが(願)ふ」は、

ネグ(労)と同根、神などの心を慰め和らげることによって、自分の望むことが達成されるような取計らいを期待する意。類義語イノルは、タブーとなっていることを口にする意。神の名とか仏の名号とかを口にして呼ぶのが原義、

とあり(岩波古語辞典)、「ねぐ」は、

祈ぐ、
労ぐ、

と当て、

神などの心を安め和らげて、その加護を祈る、

意であり、「労ぐ」も、

ねぐ(祈)から(国語の語根とその分類=大島正健)、

とあり、「願ふ」は、

祈(ね)ぐの延、

と(大言海)、

願ふ、
祈ぐ、
労ぐ、

の語源は、ほぼ重なるのである。つまり、

神などの心を安め和らげて、その加護を祈る、

ことであり、

神の心を慰め和らげ祈請の事にあたる者、

を、

ねぎ、

としたとみていい。「禰宜」は当然、当て字である。

「ねぐ」(労)について、

他の心を慰めいたわる意を原義とし、上位に対するとき願う意に、下位に対するときねぎらう意になるとする、

説があり(時代別国語大辞典・上代編)、

「禰宜」も、この上二段活用動詞の連用形の名詞化とすれば、「宜」が乙類の文字であるのとよく合う、

ともある(精選版日本国語大辞典)。

因みに、「権禰宜」(ごんねぎ)は、

禰宜の下位にあたる最も一般的な職階。宮司および禰宜が一般的に、1社に1人ずつと決められているのに対して、権禰宜には人数制限は特に設けられていない。権禰宜の下位に「出仕」などの職階が置かれることもあるが、それらは神職には含まれない、

とある(実用日本語表現辞典)が、この「権」は、

実に対して仮(かり)、

の意味があり、

権大納言、

といったように、

官位を示す語に冠して、定員外に権(かり)に置いた地位を示す、

意であり、

本来のものに準ずる、

意を持つので、「禰宜」に準ずるという意になる。

「禰(祢)」(漢音デイ、呉音ネ・ナイ、慣用ネイ)は、

会意文字。「示+音符爾(シ・ニ 近い、身近な)」、

とあり(漢字源)、別の解釈では、

形声文字です(示(ネ)+爾)。「神にいけにえをささげる台」の象形(「祖先の神」の意味)と「美しく輝く花」の象形(「美しく輝く花」の意味だが、ここでは、「邇(ジ)」に通じ(同じ読みを持つ「邇」と同じ意味を持つようになって)、「近い」の意味)から、自分に最も近い先祖「父のおたまや」を意味する「禰」という漢字が成り立ちました、

と、より詳細であるhttps://okjiten.jp/kanji2621.html

「宜」(ギ)は、

会意文字。「宀(やね)+多(肉を盛ったさま)」で、肉をたくさん盛って、形よくお供えをするさまを示す。転じて、形がよい、適切であるなどの意となる、

とある(漢字源)。別に、

会意文字です(宀+且)。「屋根・家屋」の象形と「まないたの上に肉片をのせた」象形から、出陣にあたり、屋内で行われる儀礼にかなった調理を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「よろしい」を意味する「宜」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1366.html。「ねぎ」に当てた、「禰」も「宜」も、共に「御供え」の意があり、ふさわしい字を当てたものだと感心させられる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ねがふ


「ねがふ(う)」は、

願ふ、

と当てるが、「禰宜」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483417211.html?1631647344で触れたように、

「ねが(願)ふ」は、

ネグ(労)と同根、神などの心を慰め和らげることによって、自分の望むことが達成されるような取計らいを期待する意。類義語イノルは、タブーとなっていることを口にする意。神の名とか仏の名号とかを口にして呼ぶのが原義、

とあり(岩波古語辞典)、「ねぐ」は、

祈ぐ、
労ぐ、

と当て、

神などの心を安め和らげて、その加護を祈る、

意であり、「労ぐ」も、

ねぐ(祈)から(国語の語根とその分類=大島正健)、

とあり、「願ふ」は、

祈(ね)ぐの延、

と(大言海)、

願ふ、
祈ぐ、
労ぐ、

は、ほぼ重なるのである。別に、音韻変化から、

神仏に願い望むことをコフ(乞ふ・請ふ)という。カミコヒメ(神乞ひ女)は語頭・語尾を落としてミコ(巫女)になった。さらにいえば、心から祈るという意味で、ムネコフ(胸乞ふ)といったのが、ムの脱落、コの母韻交替[ou]でネカフ・ネガフ(願ふ)になった。ネガフ(願ふ)を早口に発音するとき、ガフ[g(af)u]が縮約されてネグ(祈ぐ)に変化した。その連用形の名詞化が『禰宜』である。また、カミネギ(神祈ぎ)はカミナギ・カンナギ(巫)に変化した(日本語の語源)、

あるいは、逆に、

ネ(祈)グの未然形ネガに接尾語フのついた語(広辞苑・日本語源広辞典)、
ネギラフのネギと同源(日本語の年輪=大野晋)、

等々との説があり、

ネガフ(願ふ)→ネグ(祈ぐ)、

に転訛したのか、あるいは、

ネグ(祈ぐ)→ネガフ(願ふ)、

に転嫁したのかは、はっきりしないが、

願ふ、
祈ぐ、
労ぐ、

は、音韻的にも同根のようなのである。さらに、当然予想の範囲内のことだが、「ねぎらう」(労う・犒う)も、

ネギはネグ(祈・労)と同じ、

とあるように(岩波古語辞典)、

ネギ(祈願・労う)+らう(動詞化)(日本語源広辞典)、
ネグ(祈)から(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々、「ねぐ(祈・労)」と重なる。

「願」(慣用ガン、漢音ゲン、呉音ゴン)は、

会意兼形声。「頁(あたま)+音符原(グヱン まるい泉、まるい)」。元の意味はまるい頭のことで、頑(ガン まじめだが融通のきかない)と同じ。融通の利かない意から、転じて、生まじめの意(愿と書く)になり、さらに生まじめに考える、一心に求めることをあらわすようになった、

とある(漢字源)。また、「愿」と同意で心からねがうことhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A1%98ともあり、「大きな頭の意」を表す(角川新字源)ともある。

別に、

形声文字です(原+頁)。「崖・岩の穴から湧き出す泉」の象形(「みなもと」の意味だが、ここでは「愿(ゲン)」に通じ(同じ読みを持つ「愿」と同じ意味を持つようになって)、「きまじめ」の意味)と「人の頭部を強調」した象形(「かしら(頭)」の意味)から、きまじめな頭を意味し、そこから、自分の主張を曲げず、ひたすら「ねがう」を意味する「願」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji650.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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