「枝」(漢音シ・キ、呉音シ・ギ)は、 支、 とも当てる。 幹の対、 であり、 会意兼形声。支(キ・シ)は「竹のえだ一本+又(手)」で、一本のえだを手に持つさま。枝は「木+音符支」で、支の元の意味をあらわす、 とある(漢字源)。手足の意では、 肢(シ)、 指の意では、 跂(キ)、 の字が同系である。 和語「えだ」は、もとは、 かき数(かぞ)ふ二上山(ふたがみやま)に神(かむ)さびて立てる栂(つが)の木幹(もと)も枝(え)も同じ常葉にはしきよし……(万葉集)、 と、一語であり、平安時代以後は、 梅が枝(え)、 花の枝(え)、 等々と、複合語に残った(岩波古語辞典)。 「えだ」は、もちろん、和名抄に、 枝、條、衣太、 とあるように、 幹から分かれた部分、 の意だが、これをメタファに、 四肢、 の意でも、 本家から分かれた一族、 や 本体から文脈したもの、 の意でも使う。和名抄には、 肢、衣太、 とあり、 さらに、その他、 雉ひと枝奉らせたまふ(源氏)、 のように、 木の枝につけた贈物を数えるのや、 いづくともなく長櫃一枝持ち来たり(御伽草紙)、 一柄、ヒトエダ、長刀(饅頭屋本節用集)、 というように、 細長いものを数えるのにも使う。 古へは、心葉(ココロバ)として、贈物に生花、造花の花枝を添えたれば云ふ、 のが、始まりのようである(大言海)。で、大言海は、「えだ」を、 枝、 肢、 枝(接尾語)、 の三項に分ける見識を示す。 「えだ」は、もともと「え」一語だったとすると、語源はなかなか難しいが、「え(枝)」+「だ」の「だ」をどう考えるかになる。 エ(枝)にからだ(体)のダのついた語(岩波古語辞典・日本語源広辞典) 本言はエなり、エダは、枝出(えで)の轉か、小枝(コエダ)をコヤデとも云ふ、肢をもエと云ふは、身体の枝(エ)の義、又エダとも云ふは、枝手(エデ)の轉か(柄(エ)を、テとも云ふ)、ウタテ、ウタタ(大言海・日本語源広辞典)、 のいずれかと思われる。「うたた」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%9F)で触れたように、 うたた→うたて、 か うたて→うたた、 の転訛は、結構古く、両用されてきたことを思わせるので、あり得るとは思うが、それよりは、「て(手)」の古形は、 於子之中、自我手俣(タナマタ)、久岐斯(くきし)子也(古事記)、 天皇(すめらぎ)の神の御子のいでましの手火(たひ)の光そここだ照りたる(万葉集)、 にあるように、 た、 であった。とすれば、 枝(エ)+手(タ)→枝+手(ダ) なのではあるまいか。古形「た」は、 手(た)玉、 手(た)力、 手(た)枕、 手(た)挟む、 等々複合語の中に生きているのだから(岩波古語辞典)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「祐庵焼(ゆうあんやき)」は、 幽庵焼、 幽安焼、 柚庵焼、 等々とも当てられる、 鮎の祐庵焼、 という風に用いられる(たべもの語源辞典)、 和食の焼き物のひとつ、 で、 アマダイ、マナガツオ、イナダなどを使い、酒・醤油を四対六に合わせたものに漬けておき、焼き上がりにタレをもう一度つけて出す、 とある(仝上)、そのタレを、 幽庵地(醤油・酒・味醂の調味液にユズやカボスの輪切りを入れたもの)、 というらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E5%BA%B5%E7%84%BC%E3%81%8D)。汁気を切って蒸すと、 幽庵蒸し、 となる(仝上)。 江戸時代の茶人で、食通でもあった、 北村祐庵(堅田幽庵)、 が創案したとされる(仝上)。しかし、 江戸時代の料理本などの文献には幽庵焼きの記載はなく、また幽庵焼きで用いる味醂も非常に高価なものであった為、一般的に料理に用いられるようになるのは北村祐庵の死後、約百年後からである。よって幽庵焼きを北村祐庵が創案したとするのは疑念がある、 との説もあり(https://www.bimikyushin.com/chapter_1/01_ref/yuan.html)、 幽庵の時代は味醂は非常に高価な飲み物であった、 味醂の料理使用は幽庵の時代から100年後、 等々から、 料理に味醂が使われるようになった経緯をみると、1820年頃の江戸時代後期に入ってからやっと料理に味醂が使われるようになったことが分かる。北村祐庵の生きた時代は江戸時代中期(1648年(慶安元年)〜1719年(享保4年))であるので、味醂を使った料理が『料理通』などの本で紹介されるようになる約100年以上も前に、北村祐庵が「幽庵焼き」を創案したとするのはやはり無理があるだろう、 としている(仝上)。 北村祐庵については、「北村祐庵(堅田幽庵)」(https://www.bimikyushin.com/chapter_1/01_ref/yuan.html)が詳しいが、 江戸時代の茶人。美食家としても有名。諱は政従(まさより)、通称佐太夫(さだゆう)。別に道遂(どうずい)と号す。慶安元年(1648)、近江・堅田の豪農の北村家に生まれた。堅田幽庵、堅田祐安(北村祐庵、北村幽庵)と記されることもある、 とある(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E7%A5%90%E5%BA%B5)。 『近世畸人伝』によると、北村祐庵は、 味を見分ける事、易牙のようであったと書かれている。易牙とは、中国の春秋時代、斉の桓公に仕えた中華料理の基礎を作ったとも言われる料理人で、「淄澠の水を混ぜても、嘗め分けることができた」と『淮南子』に書かれている、 とあり(https://www.bimikyushin.com/chapter_1/01_ref/yuan.html)、 水の味に鋭敏であった、 とされ、 ある時下男が骨惜しみして指図通りの水を汲まず、近くの湖辺のものを持参したことを看破し、下男は恐れ入った、 というエピソードがある(仝上)。また、当時の文化人として芸道のあらゆる分野に造詣深く、特に作庭・茶室設計・茶器製作に独特の手腕を発揮し、 天和元年(1681)頃、幽安が師の庸軒と共に創った「天然図画亭(てんねんずえてい)」(居初氏庭園)は、入母屋造りの草庵式と書院式を融合させた茶室「図画亭」と琵琶湖と湖東連山を借景にした枯山水庭園で、大津市指定文化財・国の名勝に指定されている、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E7%A5%90%E5%BA%B5)。 享和三年(1803)『新選庖丁梯(かけはし)』には、巻頭には料理の心得と茶人北村祐庵伝。続いて、珍しい盆や椀など器物の図と説明があるが(http://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/sp/2005/e-tenji/list1/017.html)、その小伝に、 庭園の作意にも秀で、物の味を知ること、海内の一人者で、魚肉、きのこ、野菜はもちろんのこと、木・竹・水・石といえども、なめれば、ただちに、その出所の善悪を分かつこと神の如し、 とある(たべもの語源辞典)、とか。「利休煮」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%88%A9%E4%BC%91%E7%85%AE)で触れたように、「利休」を冠する、 利久煮 利休蒸、 利休焼、 利休和、 利休蒲鉾、 利休善哉、 利休煎餅、 利休醤(びしお)、 等々に利休考案のものはひとつもない(たべもの語源辞典)のと同様、「祐庵焼」も、「味きき」伝説の祐庵に名を借りた物なのだろう。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「はんぺん」は、 はんぺい、 とも言う。で、 半片、 半平、 と当てる。 半片、 半平、 が古く、少し後に、 半弁、 と素材などから当てた、 鱧餅、 等々と表記される(語源由来辞典)とあるが、 近世中期から後期にはハンペイが用いられることが多い。明治以降、東京地方では、ハンベンとすることが多く、次第にこちらの語形が定着した、 とある(日本語源大辞典)。江戸語大辞典には、 はんぺい(半平)、 はんぺん(半片)、 両方載り、 半平と名をかへさかなうつて來る(天明五年(1785)「柳多留」)、 時に半ぺん菜を入る安す料理(文化八年(1811)「柳多留」)、 という用例からみると、「半平」の方が古い(江戸語大辞典)。幕末の『守貞謾稿』には、 半平、江戸の半平は、半圓と方形と二種あり、 とあるので、両用されてきた、というのが正しいのかもしれない。 享保年間の『近世世事談』に、 慶長中、駿府の膳夫半平と云ふものに始まる、 とあるのは、どう考えても間違いである。また、 日本橋室町の「神茂」の祖先である神崎屋茂三郎が創製した、 とするのも、津田宗及の天正三年(1575)七月二十六日の手記に、 仕立ある折敷、かまほこのはんへん、 と「ハンペン」が出てくるので、当たらない。また、「はんぺん」の名は室町末期の料理書、『運歩色葉集』(1548)や『今古調味集』(1580)に見られるとある(https://www.kibun.co.jp/contact/faq/history/faq102.htm)が、 豆腐料理として「はんぺん」が中世後期の「節用集」などにみられ、「はんぺん」との関係は明らかではない、 とされる(日本語源大辞典)。 ただ、宗及の記述する「かまほこのはんぺん」は、「蒲鉾」の由来と関わる。 「竹輪」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%AB%B9%E8%BC%AA)で触れたが、「蒲鉾」の名は、 親指の太さくらいの丸竹のまわりに、魚肉のすり身を厚保さ四分(1.2センチ)ばかりに丸くつけ、竹とともに湯煮して、揚げ、竹を抜いて用いた、 からである(たべもの語源辞典)。大言海には、 鯛、鱧、鮫などの肉を、敲き擂りて、鹽、酒などを加へて泥(デイ)とし、竹串を心とし、円く長く塗りつけて、炙りたるもの。形、色、蒲槌(かまぼこ)の如くなれば、名としたり、 とある。蒲槌(ほつい)とは蒲の穂のことである。これを意識して、形作ったか、結果として蒲の穂に似たかは、はっきりしないが、 蒲鉾、 つまり、蒲の穂に似ているから、「蒲鉾」となった。 室町時代に、すり身を竹に塗りつけて焼き、儀式に用いたのが始まり、 とある(日本語源大辞典)。その後江戸時代、この竹輪蒲鉾とは別に、 板付蒲鉾、 がつくられるようになる。 板付蒲鉾が蒲鉾になると、竹輪蒲鉾は、竹輪という別な食品になってしまった、 とある(たべもの語源辞典)。もとは、いずれも、 蒲鉾、 であが、中央にさした竹を抜いて、きったきりくちが竹の輪に似ているので、 竹輪、 と別にされた。「はんぺん」は、 竹輪蒲鉾を縦二つに切って平らにしたもの、 で、それを、 半片(ハンペン)、 と呼んだものである(たべもの語源辞典)。だから「かまほこはんぺん」である。安政六年(1859)の『蒹葭堂雜禄(けんかどうざつろく)』に、 竹輪……二つに割りて板に付けたるを半片(ハンペン)と云ひ、……後に蒲鉾と云ひ習はせしが、京師にては、其の名残りにて、半平と云ふものあり(浪花にてスリミと云ふ物なり)、 とあり、さらに、 京師にて半平と號くるものに、浪花にて葛餡をかけて販ぐに、安平(アンペイ)と號せり、これ半片に餡をかくるよりしての名なるべし、 とあり、 安平、 と呼ぶものもあったらしい(大言海)。 江戸の「はんぺん」には、 円形中高のものと方形の二種があった、 とある(たべもの語源辞典)のは、「かまぼこはんぺん」からみるとあり得るので、 蒲鉾と同く磨肉也。椀の蓋等を以って製之、蓋、半分に肉を量る、故に半月形を以って名とす(守貞謾稿)、 中国語の方餅(fangpin)から(外来語辞典=楳垣実・外来語辞典=荒川惣兵衛)、 という説は成り立たない。また、 ハモの肉で作るところからハモヘイ(海鱧餅)の訛(嬉遊笑覧)、 魚肉のみではなく半分は山芋がまじったものであるから(たべもの語源辞典)、 も、考え過ぎではあるまいか。 「はんぺん」は、 関東周辺のみで食されていた地域色の強い食品であった、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E7%89%87)、 戦後になって東京の紀文食品が「紀文のはんぺん」として全国的に販売するようになって以降はこの白いはんぺんが「はんぺん」として定着したが、現在も消費の殆どは関東周辺である、 とあり、 静岡県では、イワシなどを丸ごと用いて作った青灰色のいわゆる黒はんぺんを「はんぺん」と呼び、白いはんぺんは「白はんぺん」と区別して呼称する、 とある(仝上)。焼津市近隣では、昔から、 はんべ(半平)、 と呼んできた(仝上)、という。魚の練り物を揚げたものの総称として、 はんぺん、 と呼ぶ地域もあり、いわゆる「薩摩揚げ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%81%95%E3%81%A4%E3%81%BE%E6%8F%9A%E3%81%92)と同じだと他の地方の人が誤解することが多い、とある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「羽二重」は、 経糸(たていと)に生糸、緯(ぬきいと)に濡らした生糸を織り込んだ、緻密で肌触り良く光沢のある平組織の上質な白生地、 をいう(広辞苑)が、それを、 地合いを引き締め光沢を出すために、よこ糸を水で湿らせて柔らかくする「湿緯(しめよこ)」という羽二重独特の製織法、 という(テキスタイル用語辞典)。 非常に柔らかく、握ったり結んだりすると、キュッキュッという絹ならではの摩擦音「絹鳴り」がするのが特徴、 とある(仝上)。 享保二年(1717)の『書言字考節用集』に、 光絹(又作、輕光)湖紬、羽二重(和俗所用)はぶたへ、、 とあるように、 光絹(こうきぬ)、 とも呼ばれる。それは、 通常の平織りが緯糸と同じ太さの経糸1本で織るのに対し、羽二重は経糸を細い2本にして織るため、やわらかく軽く光沢のある布となる。織機の筬(おさ)の一羽に経糸を2本通すことから、 この名がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E4%BA%8C%E9%87%8D)。平安時代の『古語拾遺』には、 衣服謂之白羽(篤胤云、羽は蓋し布帛の総名)、 とあり、江戸中期の『和漢三才図絵』には、 光絹(はぶたへ)、光繪、俗云、羽二重、按光絹出京師、而繪之最上、以為御服出於加賀者、名加賀光絹、稍劣、但馬之産次之、 とある。羽二重が始まったのは近世からで、 明治10年頃から京都や群馬県桐生などで機織り機の研究が進められ、明治20年頃には福島県川俣、石川県、福井県などで生産されるようになった。明治時代、日本の絹織物の輸出は羽二重が中心であり、欧米に向けてさかんに輸出され、日本の殖産興業を支え、羽二重は国内向けのものと輸出向けのものがあり、輸出されるものを「輸出羽二重」と呼んだ、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E4%BA%8C%E9%87%8D)。別に、 明治4年。「五箇条の御誓文」の草案者である由利公正公が欧州から絹織物数種を持ち帰った。それを福井の有志に見せて新しい絹織物の考案を依頼し、羽二重製織の技術研究が始まりました。そもそも一年中いつでも昼と夜の乾湿の差が少ない福井地方は、まさに最高の条件をそなえた土地でした。明治20年頃には技術の基礎も確立し、福井県は名実ともに世界一の生産地となったのです、 と福井の羽二重の由来を説くものもある(http://www.fukukinu.jp/habutae/knowhow.html)。 「羽二重」の言葉の由来は、 和名抄に、「帛、波久乃岐奴」とあり、帛栲(ハクタヘ 栲は白布)の訛(大言海・日本語源広辞典)、 埴生帛(はぶたへ)の義、下総國、埴生(はぶ)郡ょり始めて製出す、因りて名あり(大言海)、 ふつうの絹糸を二重に合わせたような絹であるところから(三省録)、 羽振妙の義(和訓栞)、 ハクウタヘ(白羽布)の義(名言通)、 等々ある。「光絹」の名が、正式で、俗に、 羽二重、 と言ったとすると、 帛栲(ハクタヘ)、 か 白羽布(ハクウタヘ)、 か、 何れも同義だが、どちらかなのではないかと思うが、しかし、「光絹」の由来とつながる、 撚りのない生糸で織られた羽二重は、鳥の羽根のようなふわっとした風合いであること、また、たて糸を2本引き揃えて製織することから“二重”という意味にとり「羽二重」という名が生まれた、 とする(http://www.fukukinu.jp/habutae/knowhow.html)のが妥当かもしれない。 ところで、「羽二重」に因んだ、「羽二重餅」というものがある。 「求肥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%B1%82%E8%82%A5)で触れたように、江戸時代の初期に、 葛粉・蕨粉・玉砂糖の三味を糯米粉に入れて火にかけて煉り、さらに水飴を混ぜて煉って冷ましてから菱型に切った。糯米を主材料にしたので求肥餅とよばれたが、次第に餅より飴に発達して文化・文政(1804〜30)のころにはその技術は最高となり、加工品もできた。餡を求肥で包んだものは、羽二重餅といった、 という(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317673943)。文化年間(1804〜18)の滑稽本『浮世床』にも、 紅毛やうかん、本やうかん、最中まんぢゅに、羽二重もち、 とあり、おなじみのものであった。ただ、この「羽二重餅」は、 外皮が羽二重のように滑らかできめ細かく搗いてある餅、 を指す(たべもの語源辞典)。いわゆる、 羽二重餅、 は、福井の名物、松岡軒の特製品である(仝上)、とあるが、 弘化四年(1847)錦梅堂(きんばいどう)で作られた、 ともあり(http://nyancoroge.info/mame_habutae)、背景には、 「名産品の羽二重を彷彿とさせるような土産物を」という、福井の人たちの思いがあったようです。聞くところによると、ほぼ同時期に、福井の複数の菓子屋さんから同時多発的に販売が始まった、 ともある(https://www.kansendo.com/habutaemochi/)。 「求肥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%B1%82%E8%82%A5)そのものが普及した後のことだから、この発想が取り立てて珍しいものではないのだろう。 糯米(もちごめ)と砂糖と水飴とで柔らかく求肥に練り上げたものを取粉引きの厚い箱に、厚さ三ミリくらいに流し込み、冷やしてから包丁で長さ六センチくらいの短冊型に切る、 という(たべもの語源辞典)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「ぬた」は、 饅、 と当てる(広辞苑)。 沼田、 とも当てる(たべもの語源辞典)。 饅和え、 饅韲え、 あるいは、 かきあえ、 ともいい(広辞苑)、 ぬたなます(饅膾)、 ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AC%E3%81%9F)。つまり、「ぬた」は、 饅膾(ぬたなます)の略称 である(仝上)が、大言海は、 沼田和へ膾(なます)の略、 としているので、「ぬた」は、正式には、 沼田和へ膾(なます)の略、 である。 魚介や野菜などを酢味噌で和えたもの、 で(広辞苑)、 酢味噌和え、 ともいい(世界の料理がわかる辞典)、 なます(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%99)の一種、 である。室町末期の日葡辞書にも、 「Nuta」(饅)の見出しで「Namasu(膾)などを調理するのに用いる一種のソース。または、酢づけ汁(escaueche)。Nutanamasu(饅膾)この酢づけ汁で作ったNamasu、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AC%E3%81%9F)、室町時代末期までに料理として成立していたとうかがえる。 「ぬた」に当てる、「饅」(漢音バン、呉音マン)は、 会意兼形声。「食+音符曼(マン 上に丸くかぶさる)」で、丸く薄皮をかぶった蒸しパン、 で(漢字源)、「小麦粉をねって丸く付加したもの」を意味し、「饅頭」の「饅」である。これを「ぬた」に当てた経緯がはっきりしない。『字源』も『漢字源』も、「饅」の意は載せない。ネット上では、 @食品の「饅頭(マンジュウ)」に用いられる字、 Aぬた。魚肉や野菜を酢みそであえた料理、 とある場合がある(https://www.kanjipedia.jp/kanji/0006593900)が、そう訓ませたところから後世の判断で、我国だけの使い方なのではないか。 だから、 沼田、 の当て字が正しいのかもしれない(たべもの語源辞典・大言海)。「沼田」は、 沼地、 泥土、 の意で、おそらく、それをメタファに、 酢味噌に和えた状態、 をも意味させたのではあるまいか(岩波古語辞典)。 ぬた打つ、 とか、 ぬたくる、 と泥まみれになる状態の言葉も、それと関わる(仝上)。 沼田和え(大言海)、 沼田膾(俚言集覧)、 泥に似ているところから泥濘の義、ヌタナマスの略(猪に関する民俗と伝説=南方熊楠)、 はその説だし、 ヌト(泥所)の意(言元梯)、 も同趣である。 味噌のどろりとした感じが沼田に似ている、 ところからの名である(たべもの語源辞典)。万葉集に、 醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗きかてて鯛願我れにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)、 とある「醤酢」は、酢味噌を指し、鯛の刺身と蒜(ノビル・アサツキ・ニンニクなどの総称)との「ぬた」らしい。「蒜(ひる)」については「あさつき」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%A4%E3%81%8D)で触れた。 「あえる」は、 和へる、 饅へる、 と当て、「あふ」は、 合ふ、 である。 雜ぜ合わせる、 一緒にする、 意になる。和名抄に、 俗に云、阿閉豆久利、……此あへづくりは、料理の書に、のたあへと云ふものにあたれり、
とある。 「ニンニク」は、 大蒜、 葫、 と当てる(広辞苑)が、 蒜、 忍辱、 とも当てている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%82%AF)。室町時代の文明本節用集には、 荵蓐、ニンニク、或云蒜、或云葫、 とある。漢名は、 葫(コ)、 蒜(サン)、 葷菜(グンサイ)、 麝香草(ジャコウソウ)、 莙蒿菜(クンコウサイ)、 等々(たべもの語源辞典)。「葫」(漢音コ、呉音ゴ)は、 会意兼形声。艸+音符胡(コ えびす、西域)、 で、大蒜(ダイサン)、にんにく、大ビルなどを指す。「蒜」(サン)は、 会意兼形声。祘(サン)は。高さの揃った計算用の棒のこと。蒜はそれを音符とし、艸を加えた字で、算木のように、高さがそろってのびる草、 であり、にんにく、ノビルなどを指す(漢字源)。 仏教ではネ「ニンニク」「ニラ」「ネギ」「ラッキョウ」「ノビル」など、臭気の強い五種の野菜を「五葷(ゴクン)」「五辛(ゴシン)」などといい、これを食べると情欲・憤怒が増進する食品として、僧侶たちは食べることを禁じられていた、 とあり(語源由来辞典)、「五葷」は、 五辛、 とも言うとあるので、ほぼ同じ意味らしいが、挙げているものが、 忍辱(にんにく)、野蒜(のびる)、韮(にら)、葱(ねぎ)、辣韮(らっきょう)(「五葷」 精選版日本国語大辞典)、 にら、ねぎ、にんにく、らっきょう、はじかみ(しょうが、さんしょう)(「五辛」 ブリタニカ国際大百科事典)、 忍辱(にんにく)、葱(ねぎ)、韮(にら)、浅葱(あさつき)、辣韮(らっきょう)(「五辛」 精選版日本国語大辞典)、 と、微妙に違うのは、楞厳経(りょうごんきょう)だと、 大蒜(ニンニク)、小蒜(ラッキョウ)、興渠(アギ)、慈葱(エシャロット)、茖葱(ギョウジャニンニク)、 梵網経(ぼんもうきょう)では、 葱(ネギ)、薤(ラッキョウ)、韮(ニラ)、蒜(ニンニク)、興渠(アギ:アサフェティダ)、 楞伽経(りょうがきょう)では、 大蒜(ニンニク)、茖葱(ギョウジャニンニク)、慈葱(エシャロット)、蘭葱(ニラ)、興渠(アギ)、 と違うためだが、 辛味や臭気の強い五種の野菜、 ということで、『説文解字』に、「葷」は、 臭菜也。从艸軍声(臭い野菜。部首は草冠で音は軍)、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E8%91%B7%E9%A3%9F)、本来はネギ属の植物を指していたものと思われる(仝上)。「らっきょう」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%82%A6)で触れたように、「葷(クン)」(「艸+音符軍(なかにこもる、むれる)」)は、 ねぎ、にら、などにおいの強い菜、また味の辛い菜、 の意味である(漢字源)。 不許葷酒入山門 とあるように、 肉や生臭い野菜を食べたり酒を飲んだりした者は、修行の場に相応しくない、 としたためと思われる。仏語「忍辱」は、仏様の境涯に到るための六つの修行、 六波羅蜜、 の一つ(https://www.rokuhara.or.jp/rokuharamitsu/)、 さまざまな苦難や他者からの迫害に耐え忍ぶこと、 であり、 内心能安、忍外所辱境、故名忍辱、 とある(大言海) この背景から、「にんにく」は、 忍辱、 と当て、 五葷のひとつである「ニンニク」を、僧侶たちが隠し忍んで食べたことから、「忍辱」の語を隠語として用いた、 という「ニンニク」の由来説がある(大言海・語源由来辞典・たべもの語源辞典)。隠語は、 忍辱(にんじゅく)、 で、音からニンニクと称せられた、 ともされる(たべもの語源辞典)。 臭気なく行者も食ふべしとて行者ニンニクなり、 とある(大言海)。 ニホヒニクム(匂惡・匂憎)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・名言通・柴門和語類集)、 は、少し無理筋ではあるまいか。日本書紀の日本武尊の条に、 以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之、 という節があり、蒜を以て白い鹿に弾き飛ばしたとある。この「一箇蒜」は、ニンニクである。 「ニンニク」は、古名、 おほびる(大蒜)、 といい、和名抄に、 葫、於保比流、 とある。「ひる」は、和名抄に、 蒜、比流、大小蒜総名也、 大蒜、葫、於保比流、 小蒜、古比流、一云米比流、 澤蒜、禰比流、 とある。本草和名をみると、 葫、於保比流、 蒜、古比流、 とあるので、「葫」はおおびる、「蒜」はこびる、と使い分けていた気配である(大言海)。 朝鮮語pïl(蒜)と同源(岩波古語辞典)、 という説がある。しかし、日本書紀をみるまでもなく、 日本には太古から自生していた、 とされる(たべもの語源辞典)。とすると、 根の味辛く、口に疼(ひひら)ぐ意(大言海・箋注和名抄・名言通)、 味のヒラヒラするところから(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 ニはニホヒ(匂)、ニクはニクム(嫌)の略、ニニクをニンニクと称した(たべもの語源辞典)、 等々味か匂いからきていると見るのが妥当ではあるまいか。同じ匂いの強い「ニラ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%83%8B%E3%83%A9)は、古名「かみら(韮)」が、 カは香、臭気ある意、 とし、 カミラ→ミラ→ニラ、 と転じた(岩波古語辞典)とする説があった。やはり「匂い」由来ではあるまいか。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「奈良漬」は、 糟漬の一種、上等の酒糟に、瓜、茄子、胡瓜、守口大根などを漬けたるものにて、上品なるものとす。初、大和の奈良より製し出したるものと云ふ、 とある(大言海)。醒睡笑(元和、安楽庵策傳)に、 瓜の糟づけ、奈良づけと云ふ事は、かす(糟)がの(春日野)があればよいといふ縁なり、 ともじっている(仝上・たべもの語源辞典)。 漬物の中でも高級なもので、一貫目(3.75キログラム)の酒糟に瓜二本という割合に漬けるのが良いとされるほどに贅沢なものである、 とし、 大阪の淀屋辰五郎が四斗樽(約72リットル)一挺の糟に瓜二本ずつを漬けて得意がったという話がある、 ともあり(たべもの語源辞典)、 糟が多いほどうまいものができる、 ということらしい(仝上)。奈良漬けは、粕漬として、平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも、 進物(たてまつりもの)加須津毛瓜(かすづけけうり)、加須津韓奈須比(かすづけかんなすび)、 と記された貢納品伝票があり、正倉院文書には、 生姜と瓜の粕漬、 が記されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%BC%AC%E3%81%91)とあるし、平安中期の延長五年(927)編纂の延喜式にも、 粕漬瓜九斗、粕漬冬瓜一石、粕漬茄子等、 とあり、「粕漬」という名で、瓜、冬瓜・ナスが記載されていた、とある(仝上・「奈良の食文化についての実態調査報告書」)。この背景にあるのは、 奈良では古くから酒造りが行われており、室町時代(1338〜1573)になると「南都諸白」と呼ばれる良酒の産地となり、質のよい酒粕を使った野菜の粕漬が作られるようになった、 という酒造が盛んであったことがある(仝上)。なお、当時の酒はどぶろくを指していて、 粕とは搾り粕ではなくその容器の底に溜まる沈殿物の染(おり)に野菜を漬けこんだものであった、 とされる(仝上)。当時は、上流階級の保存食・香の物として珍重され、高級食として扱われていた、ともある(仝上)。 「奈良漬」という言葉は、明応元年(1492)『山科家礼記』に、宇治の土産として、 ミヤゲ、ナラツケオケ一、マススシ一桶、御コワ一器、 とあるのが初見とされる。慶長八年(1603)の日葡辞書にも、 奈良漬は奈良の漬物の一種であり、香の物の代わりに使う、 とある(仝上)、とか。 「奈良漬」の代表は、 越瓜(しろうり)、 である(たべもの語源辞典)、とある。 白瓜、 とも当て、 ウリ(メロン)の品種、 で、 アサウリ、 ツケウリ、 カタウリ、 モミウリ、 とも言い、 完熟すると皮の色が白っぽくなることにちなむ。身が緻密で味が淡白であるため、奈良漬けなどの漬物での利用が適している、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%AA)。 江戸時代に入り、 奈良中筋町に住む漢方医糸屋宗仙が、慶長年間(1596〜1615)に、シロウリの粕漬けを、 奈良漬、 という名で売り出し(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%BC%AC%E3%81%91)、これが奈良漬という言葉を広めた(仝上)。綱吉の時代には、浅草の観音の門前で「奈良漬を載せたお茶漬け」が評判となり、大当たりし、「奈良漬」は、 白瓜のほか、なす、小型のスイカ、きゅうりなども素材として用いられ、幕府への献上物や東大寺に参拝する人々にみやげ物として売り出され、奈良を訪ねる旅人によって一般に普及され始めた。江戸時代の川柳に、「奈良漬にひょっとおの字をつける下女」、「ほんのりと嫁奈良漬の船に酔い」の句が残っている。また、野菜の粕漬が酒造家の副業として全国に広がり、各地方独特の素材を使った漬け方が考案された、 ことで(「奈良の食文化についての実態調査報告書」)、瓜の粕漬から野菜の粕漬の総称となる。幕末の『守貞謾稿』には、 酒の粕には、白瓜、茄子、大根、菁を専らとす。何国に漬たるをも粕漬とも、奈良漬とも云也。古は奈良を製酒の第一とする故也、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%BC%AC%E3%81%91)、銘醸地奈良の「南都諸白」から生まれる質のよい酒粕に負うところが大きい(仝上・たべもの語源辞典)、という。 「南都諸白」は、 なんともろはく、 と訓ませ、 平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級な日本酒として名声を揺るぎなく保った、奈良(南都)の寺院で諸白でつくられた僧坊酒の総称、 であり、 菩提山正暦寺が産した「菩提泉(ぼだいせん)」 を筆頭として、 山樽(やまだる)、 大和多武峯酒(やまとたふのみねざけ)」、 等々が有名で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E8%AB%B8%E7%99%BD)、僧坊酒全盛の時代が終わってからも、奈良流の造り酒屋がその製法を引き継ぎ、江戸時代に入ってもこのブランドで下り酒の販路に乗せていた(仝上)。 因みに、「諸白」とは、 麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E7%99%BD)、 現在の清酒では当たり前の手法であるが、精米が困難であった時代には玄米を用いて酒造りが行われていた、 とある(http://www.nada-ken.com/main/jp/index_mo/557.html)。 室町時代(1338〜1573)に、奈良の寺院において、麹米・掛米とも白米を用いる南都諸白が考案されるまで、 は、麹米には玄米、掛米には白米を用いた片白と呼ばれる濁り酒が一般的であった、とある(仝上)。 参考文献; 「奈良の食文化についての実態調査報告書〜奈良漬・茶がゆの魅力度向上策の提言(中小企業診断協会 奈良支部) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「とろろ汁」に、 薯蕷汁、 と当てている(大言海)。 いもじる、 とろろ、 とろ、 ともいう(仝上)。とろろ汁は飯がよく進むことから、「飯(いい)やる」を「言いやる」に掛けて、 言伝(ことづて)汁、 という異称がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%8D%E3%82%8D)、とか。 ヤマイモ(薯蕷)、又は、仏掌薯(つくねいも)を擂りて、熱き味噌汁、又は、清澄(すまし)汁に溶かしたもの、 とある(仝上・広辞苑) 盪(トウ)汁の義、 とある(大言海)。 ヤマノイモやヤマトイモをおろし金ですりおろし、擂鉢に入れてすって、清(すまし)汁か味噌汁を加えて、すりのばし、この中に卵を割り入れる。出すときに、きざみ葱・青海苔などを薬味にする(たべもの語源辞典)、 生の山芋または長芋をすり下ろしたもの(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%8D%E3%82%8D)、 ともあり、汁物にしてとろろ汁、吸物にして吸いとろ、麦飯にかけて麦とろ、などとして食べられる。とろろを鮪のぶつ切りにかけた料理を山かけといい、山かけ蕎麦や山かけうどん等々がある(仝上)。 梅若菜まりこの宿のとろろ汁、 と芭蕉が江戸に下る弟子の乙州(おとくに)に与えた句がある、「鞠子の宿」の「とろろ汁」は、参勤交代の大名に気に入られたので有名になった、という(たべもの語源辞典)。慶長元年(1596)創業の丁子屋(ちょうじや)は、鞠子宿の名物とろろ汁を提供する店の一つで、創業以来400年間場所を変えずに営業している。 「とろろじる」の「とろろ」については、 トロトロの略(たべもの語源辞典)、 とある。 トロトロした汁の意(類聚名物考・俗語考・日本語源=賀茂百樹・音幻論=幸田露伴)、 も同じである。 トロロは動詞トトロク(盪)の語幹に由来する(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、 は、大言海の、 盪汁の義、 と同じ意味である。これも、「とろく」 盪く、 蕩く、 固まっているものが溶解する、 意とすれば、同趣である。 「トロ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%83%88%E3%83%AD)で触れたように、擬態語の、「とろ」は、 トロトロ、 からきており、 固形物がとけてやわらかくなったり、液状の物が粘り気を帯びている様子、 を意味する(擬音語・擬態語辞典)。同じ擬態語「とろっ」「とろり」「とろとろ」と比べると、 「とろり」よりも、「とろっ」の方が状態を瞬間的にとらえて切れのある感じを表す。また、「とろり」と比べて「とろーり」の方が持続的でより滑らかに流れる感じを表す。「とろり」が状態を一回で切り取って把握するのに対して、「とろとろ」は何度も繰り返して継続的な感じを表す、 とある。「とろろ汁」の「とろとろ」はこれだろう。 ところで、「とろろ汁」に使う「薯」は、 とろろいも、 といい、 薯蕷芋、 薯蕷藷、 と当てるが、その種類は、 ヤマノイモ、 ナガイモ、 ツクネイモ、 等々があり(広辞苑)、 ヤマノイモとナガイモは全くの別種であるが、ともにヤマノイモ属であり、区別せず広義でヤマノイモ(山芋)と呼ぶ、 こともあり、しかも、一般に山芋と呼ばれるものには、大きく分けて、 ヤマノイモ、 ジネンジョ、 ダイジョ、 の3つの種類に分かれる(https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/tukuneimo.htm)、という。「ナガイモ」は、 長芋群(細長い棒状の山芋)、 いちょう芋群(関東地方では「大和芋」とよばれているねばち形や手のひら状に広がった形のナガイモ)、 つくね芋群(「丹波いも」「大和いも」「伊勢いも」などね握りこぶしのように固くてゴツゴツした塊形)、 の3群に分けられる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2)、とある。栽培種になって、ますます品種がややこしいが、「ヤマイモ」にも、 よくスーパーで見かける長いナガイモ群、 関東で大和芋として売られていることもあるイチョウのような形のイチョウイモ(銀杏いも)群、 塊状のヤマトイモ群、 の3つに分けられる(https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/tukuneimo.htm)、とある。 「やまいも」は、 山芋、 薯蕷、 とあて、 ヤマノイモ(山の芋)、 と同じである。鎌倉時代に編纂された字書『字鏡(じきょう)』には、 薯蕷、山伊母、 と載る。山野に自生するので、 自然生(じねんじょう)、 自然薯(じねんじょ)、 と言った。これは、里芋に対して、山地にあるから ヤマイモ、 と言ったのである。漢名は、 薯蕷(じょよ)、 とされるが、牧野富太郎が、これはナガイモの漢名としている(たべもの語源辞典)のは、 古くは中国原産のナガイモを意味する漢語の薯蕷を当ててヤマノイモと訓じた、 からである。「やまいも」は、 日本特産で、英名はジャパニーズ・ヤム(Japanese yam)、中国名は、日本薯蕷(にほんしょよ)、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%A2)。 「ながいも」は、 長薯、 とあて、古く中国から伝来し、畑で栽培された。漢名は、 山薬(さんやく)、 薯蕷(しょよ)、 とされるが、中国では、 同種のナガイモは確認されていない。日本で現在流通しているナガイモは日本発祥である可能性もある、 とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2)。 「ヤマトイモ」(大和いも)は、 ヤマノイモ科のつる性多年草の芋で、奈良県在来のツクネイモの品種である。関東などでは、イチョウ芋を「やまと芋」と呼ぶ、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%81%84%E3%82%82)。 芋が球形をしたものをツクネイモ群と称し、表皮が黒いものは大和いも、白いものは伊勢いもと呼ばれるが、いずれも中身は白色である、 とある。大和いもを含むツクネイモ群は、 大陸から渡来したナガイモの一種で、山に自生する日本原産のヤマノイモとは別の種、 とされる(仝上)。つくねいもの名前が最初に登場するのは『清良記』(1654年頃)で、 江戸時代の『本草綱目啓蒙』および『成形図説』に「大和イモ」「大和芋」の名が現れるが、この頃は「仏掌薯(つくねいも)」を指していた。1924年(大正13年)の『本場に於ける蔬菜栽培秘法』(三農学士編 柴田書房)にも「大和蕷薯〔ママ〕 一名仏掌薯(ツクネイモ)」の項があり、この頃まで「仏掌薯(つくねいも)」が「大和いも」と呼ばれていた、 とされる(仝上)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 「いも」は、 芋、 薯、 藷、 蕷、 等々と当てる(広辞苑・大言海)。 サトイモ、ツクネイモ、ヤマノイモ、ジャガイモ、サツマイモなどの総称、 で(広辞苑)、 植物の根や地下茎といった地下部が肥大化して養分を蓄えた器官である。特にその中で食用を中心に利用されるものを指すことが多い。但し、通常はタマネギのような鱗茎は含めない、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B)。 「芋」(ウ)は、 会意兼形声。「艸+音符于(ウ 丸く大きい)」 とあり、「いも」の総称。とくにサトイモをさす、とある(漢字源)。 「薯」(漢音ショ、呉音ジョ)は、 会意兼形声。「艸+音符署(ショ 集まる、中身が充実する)」。根が充実してふといいも、 とある。「藷」と同じで、「いも」の意。「薯蕷」(ショヨ)は「ナガイモ」、「蕃薯」(バンショ)は「さつまいも」、「甘藷」も「さつまいも」になる(漢字源・字源)。 「藷」(ショ)は、 会意兼形声。「艸+音符諸(ショ あつまる、中身が充実する)」、 とあり、「薯」と同じで、根が充実したいも、を指し(漢字源)、「甘藷」(カンショ さつまいも)と使う。「藷藇」(ショショ)は「やまのいも(やまいも)」の意になる(字源)。 「いも」は、鎌倉時代に菅原為長によって編纂された字書、字鏡(じきょう)に、 蕷、芋、伊毛、 と載り、古く、 使掘薯蕷(武烈紀)、 とあり、この場合、 山芋、 を指すと思われる(岩波古語辞典)。古くは、「いも」は、 山芋・里芋をさし、江戸時代中頃からさつま芋、末期からじゃがいもをいう、 とある(仝上)。 和語「いも」の語源は、古くは、 うも(芋・薯蕷)、 と言ったとあり(大言海・岩波古語辞典)、 沖縄にては、ウム、 とある(大言海)。語源説は、古名「うも」なら、 ウモの転(岩波古語辞典)、 ウモの転、ウヲ、いを(魚)、根塊に就きての名か(大言海)、 ウモ(埋も)の音韻変化(日本語源広辞典・日本古語大辞典=松岡静雄)、 ウヅムから埋むの転。土に埋めて蓄えるから(滑稽雑誌所引和訓義解)、 が、大勢のようだが、 ウヅマリミ(埋実)の義(日本語原学=林甕臣)、 も同趣と見ていい。 うむ(埋)の転訛、 とするのが妥当だろう。ただ、異説はある。 子をもつから、イモ(妹)となぞらえた(和訓栞・和句解)、 オモ(母)の転呼(言元梯)、 ウマシ(旨)の転(和語私臆鈔)、 イモのイはイキ(息)、イノチ(命)、スカル(怒)などのイとは共通で、内在するちからをいう。モはモモ(桃・腿)、モミ(籾)などのように、まるみのある身、まるい実をいう。イモはモが本体で、内容の充実したまるい物をいう意味になる(南島叢考=宮良当壮)、 しかし、どうしても、語呂あわせの屁理屈にしか見えない。複雑に考えれば考えるほど実態から乖離するのは、語源論の基本だと思う。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「さうらふ」は、 候、 と当てる。 目上の人のそばに控える、仕える、 「あり」の謙譲語、ありの丁寧語、おります、ございます、 の意だが(広辞苑)、助動詞として、 聞こえさうらふ、 義経にて候、 というように、 動詞及びある種の助動詞の連用形に、「に」「で」などの助詞について、目下の者が自分に関することを目上の者に述べるのに用いた。鎌倉時代以降は「侍り」などと同じく丁寧な言い方に用いられた。今日の「ます」「ございます」にあたる。のちにはいわゆる「候文」として書簡などに用いられる、 とあり(広辞苑)、 言葉遣いを丁寧・丁重にするために添える、 形で使われる(岩波古語辞典)。「さうらふ」は、 さもらふ、さむらふ、さぶらふの転、 とされる(大言海)。 「候」(漢音コウ、呉音グ)は、 会意兼形声。侯の右側は、たれた的(まと)と、その的に向かう矢との会意文字で、的をねらいうかがう意を含む。侯は、弓矢で警護する武士。転じて、爵位の名となる。候は「人+音符侯」で、うかがいのぞく意味をあらわし、転じて身分の高い人の機嫌や動静をうかがう意となる、 とあり(漢字源)、「さうらふ」に似ているが、別に、 会意形声。「人」+音符「矦(=侯)」、「侯」は矢で的を狙う軍人、時代が下って王の側近を意味するようになり、「候」に元の「ねらう」等の意が残った、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%80%99)。 「斥候」の「うかがう」意であり、「候門」のように「待つ」意であり、「時候」のように「きざし」の意であるが、身分の高い人の傍近くに仕えて機嫌をうかがう意の「さぶらふ」意でもある。 「さうらふ」に転訛した「さぶらふ」は、 候ふ、 侍ふ、 とあてるが、 さもらふの転。じっとそばで見守り待機する意。類義語ハベルは、身を低くして貴人などのそばにすわる意、 で(岩波古語辞典)、「さもらふ」は、 「様子を伺い見る」が古い意味である。……主人の側に仕えて、絶えず主人の意向を見守っていたことに発する語である。それが「さぶらふ」となって、貴人の命を伺い待つ意として使われ、やがて、広く丁寧の意を表すのに用いられるようになった、 とある(仝上)。 「居り」「有り」の謙譲語。また丁寧にいう語としても使われた、 が(広辞苑)、丁寧語としては、 奈良・平安時代にはバベル(侍)が使われていたが、次第にサブラフがとって代わった、 とあり(岩波古語辞典)、 鎌倉・室町時代には、男性は「さうらふ」、女性は「さぶらふ」「さむらふ」と使うという区別があった、 (平曲指南抄・ロドリゲス大文典)、とある(仝上・広辞苑)。 「さぶらふ」に転訛した「さもらふ」は、 候ふ、 侍ふ、 と当て、 サは接頭語、モラフは、見守る意の動詞モ(守)ルに反復・継続の接尾語フが付いた形、 とある(岩波古語辞典)。そしてこの接尾語「フ」は、 四段活用の動詞を作り、反復・継続の意を表す。例えば、『散り』『呼び』といえば普通一回だけ散り、呼ぶ意を表すが、『散らふ』『呼ばふ』といえば、何回も繰り返して散り、呼ぶ意をはっきりと表現する。元来は四段活用の動詞アフ(合)で、これが動詞連用形のあとに加わって成立したもの。その際の動詞語尾の母音の変形に三種ある。@[a]となるもの。例えば、ワタル(渡)がウタラフとなる。watariafu→watarafu。A[o]となるもの。例えば、ウツル(移)がウツロフとなる。uturiafu→uturofu。B[ö]となるもの。例えば、モトホル(廻)がモトホロフとなる。mötöföriafu→mötöföröfu。これらの相異は語幹の部分の母音、a、u、öが、末尾の母音を同化する結果として生じた、 とある(仝上)。とすると、「モリ(守)に反復・継続の接尾語ヒのついた形」の 「もる+あふ」 つまり、「もらふ」である。接頭語「さ(sa)」を付けると、 |