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コトバ辞典


おらんだ煮


「おらんだ煮」

は、

食材を油で揚げたもしくは炒めた後、醤油、みりん、日本酒、出汁などを合わせて作る煮汁にトウガラシを加えて煮た料理、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E7%85%AE

油で揚げた後に煮ることで食材の外側と内側で異なる食感が発生する点、

が特徴で、食材には、

ナスやこんにゃくを用いることが多いが、鶏肉やジャガイモ、高野豆腐、魚を使用したオランダ煮も存在する、

とある(仝上)。「オランダ煮」は、

長崎県から日本全国へと広まった西洋の調理法とされ、江戸時代に出島からオランダとの貿易を通して伝わったことから「西洋風の」という意味合いでオランダ煮の名前がついたとされている、

とある(仝上)。油で揚げる、のが特色である。

そういえば、卓袱料理(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%8D%93%E8%A2%B1)も、その精進パターンの「普茶料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)も、「全て油をもって佳味とす」(料理山家集(1802))というものであった。その両者から発した「けんちん」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93)も、また油を使うところが特徴であった。

しかし、「オランダ煮」は、

タイを丸のまま揚げてから酒だけで長く煮ると、骨まで食べられるようになる。あとで醤油で味つけする、

と、料理をさす、とある(たべもの語源辞典)。端緒が何であったかはっきりしないが、


食材を油で揚げたり炒めた後に、醤油、みりん、出汁などの調味料で煮て味付けた料理、

であるようだhttps://macaro-ni.jp/40347

唐辛子を加えて煮ることも多く、甘辛い味付けが特徴です。油で揚げた後に煮る場合は、食材の外側と内側の異なった食感や、噛みしめたときにあふれる出汁もたのしめます、

とある(仝上)。

おらんだ飛竜頭(ひりゅうず)、
おらんだ味噌、
おらんだ餅、

と「おらんだ」の名のつくものの共通項は、

胡麻油とか、かやの油などを用いて揚げる、炒めること、

にあるらしい(たべもの語源辞典)が、

おらんだ卵、

は、浅葱を使っていることから、

おらんだ漬、

は、

辛子を使っているのでこの名がついた、とある(仝上)。洋風のめずらしい調理法をもちいたものに、

おらんだ、

と名をつけたようだが、それは鎖国になってからの話で、その前には、「南蛮煮」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E5%8D%97%E8%9B%AE%E7%85%AE)で触れたように、南方から渡来したものに、「南蛮」(スペイン・ポルトガルを指す)と付けられ、唐辛子も、

南蛮からし、
南蛮胡椒、

といい(仝上)、

南蛮菓子(カステラ、ボウル等々)、
南蛮黍(とうもろこしの異名)、

等々もある(大言海)。「南蛮煮」は、

葱、大根、魚、鳥の肉など、すべて油にて煮たるもの、

とあり(大言海)、

鯔(ぼら)その他のなま魚のこけらをとって、下洗いし、丸焼きにして、油で揚げ、ネギの五分切りを入れて、煮出し汁と醤油とで煮たもの、

また、

すべて煮汁に唐辛子を加えて用いるもの、

とし(たべもの語源辞典)、

前者の南蛮煮は、日本ネギを加えているので南蛮煮とよばれる、

ともある(仝上)。これは、

唐辛子、
と、
ネギ、

が鍵である。また「アチャラ漬」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%82%A2%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%A9%E6%BC%AC)で触れたように、「あちゃら漬」は、

蓮根・大根・筍・蕪などを細かく刻んで、唐辛子を加えた酢・酒・醤油・砂糖などに漬けた食品、

で(広辞苑)、近世初頭に、南蛮貿易を通して日本に入ったといわれる。「あちゃら漬」の「あちゃら」に似た音で「漬物」を表している言葉が、インドの「アチャール」、フィリピン・インドネシアの「アチャラ」、ネパールの「チャーレ」、アフガニスタンの「オチョール」など各地に見え、これらは同源と考えられる、

とある(語源由来辞典)ので、少なくとも、ポルトガル人の進出に合わせて伝搬したようだ。ただ、南蛮由来とされる料理、

オランダ煮、
南蛮漬け、

も唐辛子を使うことが特徴なのでhttps://oisiiryouri.com/acharazuke-gogen-imi-yurai/、「アチャラ漬」もそうした伝来のひとつとみられる。

こうみると、「オランダ煮」も、広く、

南蛮料理の一種、

と、みなされるが、鎖国後の、唯一の西洋である「オランダ」が、排除されたポルトガル・スペインの「南蛮」に代わったものとみていい。違いがあるとすると、必ずしも、

唐辛子、

ネギ、
に、

拘泥していないところのように見える。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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カニ


「カニ」は、

蟹(蠏)、

と当てる。「蟹(蠏)」(漢音カイ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。「虫+音符解(別々に分解する)」。からだの各部分がばらばらに分解する「カニ」、

である(漢字源)。本草和名に、

蟹、加爾、

と載る。

「カニ」の「ニ」は、ウニ(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%82%A6%E3%83%8B)で触れた、赤い色を表す「丹」の「ニ」である。で、

カニのカは殻のこと、「ニ」は「あか」である。殻が赤いからカニというとか、煮ると殻が赤くなるからだとか、背中が赤いからカニという、

とする説がある(たべもの語源辞典・日本釈名・東雅・柴門和語類集)。

カは背中(背中)カ。ニはニ(丹)の義(和句解)、
カニ(甲丹)の義(言元梯・日本語源広辞典)、
皮丹の義(名言通・和訓栞)、

等々も類似の説である。他には、

甲が堅く、よく逃げることからカタニゲ(堅逃)の略(本朝辞源=宇田甘冥)、
かたかたへ、のきさる意からカタノキの反(名語記)、
能力を兼ね備える意味の「かぬ」の変化(語源由来辞典)、
カニは海よりも川蟹の例が古くから見られることから「カハニハ(河庭)」が変化した(仝上)、

等々あるが、少し苦しい。

確かに、「カニ」の「ニ」が、

丹、

つまり、

赤、

である。「丹」は、

ニ(土)と同根、

とあり、土器の材料や顔料にする、

赤土、

を指した(岩波古語辞典)。だから、

カニのニは丹(あか)であるのは間違いない。カはカニが赤いという特徴をとらえたとき、どこが赤いかといえば、甲羅である。要するに、「カ」は、皮か甲か背中かと論じられているが、とにかくその甲羅をさしたものである、

として、

カニは甲赤(カニ)、

だとしたのはたべもの語源辞典である。確かに、甲羅で括れば、

甲+丹、

となる。

カニは世界で約五千種、国内でも千種ある、と言われるが、古事記にも、応神天皇の歌として、

この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿(ツヌガ)の蟹 横去らふ いづくに到る、

と詠われるほど馴染みのものだ。淡水の、

澤ガニ、

以外の、海水の、

毛ガニ、
ガザミ(ワタリガニ)、
イシガニ、
ズワテイガニ、

等々がある。わかりにくいのは、

ズワイガニ、

の語源である。

「ズワイガニ」は、オスとメスは大きさが異なるために多くの漁獲地域でオスとメスの名前が異なる。オスは、

エチゼンガニ、マツバガニ、ヨシガニ、タイザガニ、

等々、メスは、

メスガニ、オヤガニ、コッペガニ、コウバコガニ、セコガニ、セイコガニ、クロコガニ、

等々と呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%8B

「ズワイガニ」は、

「ズワイ」は、細い木の枝のことを指す古語「楚(すわえ、すはえ)」が訛ったものとされ、漢字で「津和井蟹」とも書かれる、

とある(日本語源広辞典・仝上)。「すわえ」は、

すはえの轉、

とあり(大言海)、「すはえ」は、

楚、
楉、
氣條、

等々と当て(岩波古語辞典・大言海)、

すくすくと生えたるものの意、

であり、

木の枝や幹などから真っ直ぐに細く伸びた若枝、

の意である(仝上)。訛って、

ずはえ、
ずはい、
すわい、

等々ともいう(大言海)。甲羅から伸びた脚の形を指して言ったものと思われる。

因みに、「越前ガニ」の名は、永正一五年(1511)3月20日の三条西実隆の日記に「伯少将送越前蟹一折」翌21日の日記には「越前蟹一折遣竜崎許了」と書かれているのが嚆矢とされ、既に安土桃山時代、越前ガニというブランド名が付き、京都まで運ばれていたことがわかるhttps://www.kani-echizen.com/blog/?p=126。「ズワスガニ」の初出は、江戸時代の享保年間の『越前国福井領産物』である、とか(仝上)。

また、山陰地方・鳥取県では、日本海で水揚げされる成長したズワイガニのオスのこと「松葉ガニ」と呼ぶが、これは、

細長い脚の形や脚の肉が松葉のように見える、
食べ終わったあとに残る筋が松の葉に似ている、
浜辺に落ちている松の葉を使って焼いたり茹でたりして食べた、
活きた松葉ガニの身を氷水につけると松の葉のように広がるため、

等々あるhttps://www.keichomaru.jp/?p=1123が、「ズワイガニ」が木の枝が真っ直ぐ伸びた意の楚蟹(すわえがに)」が転じたものであるように、松の葉のまっすぐ伸びたのに準えたとみていいのではないか。

ついでながら、「タラバガニ」は、「ズワイガニ」が、

十脚目ケセンガニ科(旧分類ではクモガニ科)ズワイガニ屬、

に対し、

十脚目(エビ目)異尾下目(ヤドカリ下目)タラバガニ科タラバガニ属、

で、生物学上はヤドカリの一種https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%90%E3%82%AC%E3%83%8Bで、カニではない。

「タラバガニ」は、

鱈場蟹、

と当てられ、

生息域がタラの漁場(鱈場[たらば])と重なる、

ことに由来している(日本語源広辞典・語源由来辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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うたた


「うたた」は、

転た、
漸た、

と当てる(岩波古語辞典・広辞苑)。「うたたね」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%AD)で触れたことだが、「うたた」は、

うたてと同根、

とある(広辞苑)が、大言海は、

ウタテの転、

とし、岩波古語辞典は、「うたて」を、

ウタタの転、

とし、

平安時代には多くは「うたてあり」の形で使われ、事態のひどい進行を諦めの気持で眺めている意、

とし、広辞苑も、

ウタタの転。物事が移り進んでいよいよ甚だしくなってゆくさま。それに対していやだと思いながら、諦めて眺めている意を含む、

としている。「うたた」と「うたて」は、

うたた→うたて、

うたて→うたた、

かは、両説あることになる。

「うたた」は、

ウタウタの約。ウタは、ウタ(歌)・ウタガヒ(疑)のウタと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。副詞としては事態がまっすぐに進み、度合いが甚だしいさま。「うたたあり」の形でも使い、のちに「うたて」と転じる、

とあり(岩波古語辞典)、「うたた」の「うた」は、

轉、

と当て、

ウタタ(轉)・ウタガヒ(疑)・ウタ(歌)のウタと同根、

とあり、

無性に(古事記「この御酒(みき)の御酒のあやにうた楽し、ささ」)、

の意味である(仝上)。なお「うた」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%86%E3%81%9F)については触れた。

「うたた」の意味は、

(事態が甚だしくてどうにもできず)不愉快である(古今集「花とみて折らんとすれど女郎花うたたあるさまの名にこそありけれ」)、
いよいよ、ますます(和漢朗詠集「飛泉うたた声を倍(ま)す」)、

(岩波古語辞典)という意だが、広辞苑は、

ある状態がずんずん進行して一層はなはだしくなるさま、いよいよ、ますます(「飛泉うたた声を倍(ま)す」)、
程度がはなはだしく進んで、常と違うさま、甚だしく、異常に、「うたたあり」の形では、いやだ、気に染まないの意になることが多い(「花とみて折らんとすれど女郎花うたたあるさまの名にこそありけれ」)、
程度が進んで変わりやすいさま、また何となく心動くさま、そぞろに(日葡辞書「ウタタゴコロ」)、

と三意を載せる。三者の意味が微妙に違う。その違いは、副詞としての意味、

いよいよ、
甚だしい、
そぞろに、

の三者に現れている。しかし、「うたて」は、

ウタタの転。物事が移り進んでいよいよ甚だしくなってゆくさま、それに対して嫌だと思いながら、諦めて眺めている意、

とあり(岩波古語辞典)、

度合いがとどめようもないさま、ますます、いよいよ激しく(万葉集「いつはなも戀ひずりありとはあらねどもうたてこころ戀ししげしも」)、
普通でなく、異様に(古事記「うたて物云ふ王子(みこ)ぞ。故(かれ)慎み給ふべし」)、
(こちらの気持にかまわずにどんどん進行していく事態に出会って)いたたまれないさま、なんともしょうがないさま(土佐日記「このあるじの、またあるじのよきを見るに、うたて思ほゆ」)、
いやで気に染まないさま、なじめず不快に(枕草子「鷺はいとみめも見苦し。まなこゐなどもうたてよろづになつかしからねど」)、
嘆かわしく、なさけなく(平家物語「あれ程不覚なる者共を合戦の庭に指しつかはす事うたてありや、うたてありやと言って」)、
(「あな〜」「〜やな」の形で軽く詠嘆的に)いやだ(宇津保「あなうたて、さる心やは見えし」)、

とあり(岩波古語辞典)、

片腹痛く、笑止、

の意味すらもつ(大言海)。ある意味、意に染まぬ進行に、

不愉快、
いたたまれない、
嫌で気に染まない、
なげかわしい、

といった気持を言外に表している。不快感から、嫌悪感、そして蔑み、へと意味が変わっていく感じである。

どんどん、
とか、
甚だしい、

という副詞的な背後にも、

どうにもならない、

という気持ちがある。「うたた」よりは、「うたて」の意味の外延の方が、広く大きい。これは、

うたた→うたて、

の転訛なのではないか、と思わせるが、大言海が、「片腹痛い」意味としたのは、古事記の、

うたて物云ふ王子(みこ)ぞ。故(かれ)慎み給ふべし、

なので、

うたた→うたて、

うたて→うたた、

の転訛は、結構古く、両用されてきたことを思わせる。

「うたた」「うたて」の語源であるが、

平安初期、「転」「転々」を、うたた・ウタウタと訓じるが、「観智院本名義抄」などは「転」をイヨイヨとも訓んでいる、

とある(日本語源大辞典)。「うた」(轉)で、

無性に、

の意味で使われていたことを思えば、

何となく、むしょうにの意のウタの畳語(時代別国語大辞典−上代編)、

もあるし、

ウタウタの約。ウタは、ウタ(歌)・ウタガヒ(疑)のウタと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。副詞としては事態がまっすぐに進み、度合いが甚だしいさま(岩波古語辞典)、
ウタ(自分の気持をまっすぐに表現する)のくりかえし、ウタウタの約(日本語源広辞典)、

という説なのではないか。「うたがふ」の「うた」は、

ウタは、ウタ(歌)・ウタタ(轉)などと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。カフは「交ふ」の意。従ったウタガフは、事態に対して自部の思う所をまげずにさしはさむ意」

という説(岩波古語辞典)もあり、気持ちの表出という意味で重なるような気がする。

ウツラ(移)ウツラの約(名語記・国語溯原=大矢徹)、
ウツリ・ウツシ(語幹)ウツから転じたウタの畳語。移の義から転々むの意を生じた(名語記・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健)、

は、「転」や「転々」を当て、意味が転じた後の、あと解釈に思える。

どうやら、「うたた」は、自分ではどうにもならない事態の進行を、不安と、諦めと、しかし不快感を持って見守る、ちょっと複雑な心象表現の言葉に思える。語源はともかくとして、その意味では、「転(轉)」の字が、

丸く回転する、

という意味で、「うたた」にこの字を当てた言外のニュアンスがよく伝わる気がする。その意味で、僕には、「うたたね」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba1.htm#%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%AD)に、

転寝

と、「転」をあてたのも意味があり、「うたた」のもつ、

(眠気が)どうにも止まらない諦め、

という含意があり、語源として、言葉の奥行を感じる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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うたがう


「うたた(転た)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%9F)で触れたように、「うたた」は、

ウタウタの約。ウタは、ウタ(歌)・ウタガヒ(疑)のウタと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。副詞としては事態がまっすぐに進み、度合いが甚だしいさま。「うたたあり」の形でも使い、のちに「うたて」と転じる、

とあり(岩波古語辞典)、「うたた」の「うた」は、

轉、

と当て、

ウタタ(轉)・ウタガヒ(疑)・ウタ(歌)のウタと同根、

とあり、

無性に、

の意味であり(仝上)、古事記に、

この御酒(みき)の御酒のあやにうた楽し、ささ、

という用例がある。で、「うたがふ」は、

ウタは、ウタ(歌)・ウタタ(転)などと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。カふは「交ふ」の意。従って、ウタガフは、事態に対して自分の思うところをまげずにさしはさむ意、

とし、

相手・対象に虚偽や誤りがあるのではないかと思い込む理由を持っていて、信じない(源氏物語「大将の御心を疑ひ侍らざりつる」)
対象の中に自分の見込むような事実があるのではないか、などと悪い方に推量する(源氏「怪し、なほいと欺くのみはあらじかしと疑ひはるるに」)、
もしやとおもいめぐらす(方丈記「山鳥のほろほろとなくを聞きても、父か母かと疑ひ」)、

等々の意味を見ると、「うたた」の、

自分の思いとは別のところで事態がひどく進むのを諦めがちに眺めている、

という心情と、「うふがふ」の、

事態の動きに対して内心は信じていない、

という心情と、映し合う気がする。なお「うた」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%86%E3%81%9F)で触れたが、「うた(歌)」は、

ウタフ(歌)の語幹。ウタフは手拍子をとって歌謡することから、打チ合フを語源とする(国語の語根とその分類=大島正健・国語学叢録=新村出)、
ウタフ(訴)の語根。これからウタフを経過して、ウタヒとウタヘとに分化した(万葉集講義=折口信夫・民俗学と日本文学研究史=高崎正秀)、
心情を声にあげ、言にのべてウタヘ(訴)出ること(日本語源=賀茂百樹)、
ウタガヒ(疑)・ウタタ(転)のウタと同根(岩波古語辞典)、

等々あるが、打ち合う、とともに、文脈から語源と想定できるのは、

ウタフ(訴)の語根、
心情を声にあげ、言にのべてウタヘ(訴)出ること、
ウタガヒ(疑)・ウタタ(転)のウタと同根、

とした。仮に、「うたた(転た)」の「うた」と「うた(歌)」と「うたがう(疑)」の「うた」が同根とするなら、その「うた」は、

無性に、

と意味がつながらなくてはならない。「無性に」は、

むやみに、
いちずに、
やたらに、

と、思いつめた感じである。それは、「うたた」が、

自分の気持をまっすぐに表現する意。副詞としては事態がまっすぐに進み、度合いが甚だしいさま。「うたたあり」の形でも使い、のちに「うたて」と転じる、

という、

(主観的な思いとは別に)事態がどんどん進んでしまう、

という動きと、主客の差はあるが、通じるところがある。「うたがう(ふ)」は、

疑う、

と当てる。「疑」(ギ)は、

会意兼形声。左側は、矣(アイ・イ)の元の形で、人が後ろを振り返って立ち止まるさま。疑は「子+止(足を止める)+音符矣」で、愛児に心惹かれてたちどまり、進みかねているさまをあらわす。思案に暮れて進まないこと、

とある(漢字源)。同趣旨は、

会意形声。「マ(=子)」+「疋(=止・足)」+音符「矣」、「矣」は人が振り返る様。子が気がかりで立ち止まり振り返る様、安心していない状況を意味https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%96%91

ちょっとすっきりしないので、別説を探すと、

象形文字。甲骨文では、「人が頭をあげ思いをこらしてじっと立つ」。象形から、「うたがう」、「とどまる」を意味する「疑」という漢字が成りたちました。金文になると、十字路の左半分・角のある牛・立ち止まる足の象形が追加され、人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる、すなわち、甲骨文と同じで「うたがう」、「とどまる」の意味を表しますhttps://okjiten.jp/kanji997.html

同じ説だが、

「疑う」という字は、ものの形を象って作られた象形文字。古代中国・殷の時代に記された甲骨文字を見ると、片方の手に杖を持った人が、後ろを振り返って立っている姿が描かれています。向かって左側の部分、カタカナの「ヒ」に似た文字が後ろを振り返る人。その下に書いた「矢」の部分が、杖を突いて立つ様子です。甲骨文字ではこれだけで「疑う」という意味を表していたのですが、その後、殷に続く周の時代に記された金文では、右側にカタカナの「マ」に似た文字と、その下にひきへん(疋)が添えられます。ひきへん(疋)は、膝から下の足の形をかたどった部首で、足を止めて迷っている様子を強調しているといわれますhttps://www.excite.co.jp/news/article/TokyoFm_eAwVIHrTm3/

ともある。「疑」は、どちらかというと、思案して先へ進めない、意である。和語「うた」とは真反対になる。

『大言海』は、「うたがふ」を、

語根のウタにて、疑の意を成すか、うつなし(決)を、うたなし(無疑)とも云ふ。ガフは行ふ意。あらがふ(爭)、下がふ(従)、

としていて、ちょっと意味不明だが、

ウタ(ウワ 空)+ガウ(行う)、空虚なことと推量する行為(日本語源広辞典)
ウタはウツ(空)の転、ウタガフは実のないことを推し量ること(国語の語根とその分類=大島正健)、
ウツ(空)の転で、虚偽の意(国語溯原=大矢徹)、
ウタカタ(虚象)を活用した語(和訓栞)、

等々の諸説と意図は同じようである。僕には、「空事」「虚事」という方にシフトした意味ではなく、こちらの思いとは別のところで事態が進んでいるのを、承服していない、という心の表現とする、

「うたた(転た)」と「うた(歌)」と「うたがう(疑)」の「うた」が同根、

とする説に与したい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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祇園豆腐


「祇園豆腐」とは、

田楽豆腐の一つ、

で、

薄く切って串に刺した豆腐を焼き、味噌だれで煮て、麩粉をかけたもの、

とある(広辞苑・たべもの語源辞典)。また、

焼きてくずあんをかけたるものあり、

ともある(近代世事談・大言海)。

京都の祇園神社(今の八坂神社)の南の楼門前、東西の二軒茶屋にて調理する田楽豆腐の名、

故に、この名がある、とある(大言海・広辞苑・たべもの語源辞典)。江戸時代、祇園神社の楼門の前に、

東には中村屋、西には藤屋という茶屋があった。神社社殿造営の際に、公費で改築された店で、「二軒茶屋」と称された、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E8%B1%86%E8%85%90、これらの茶屋で売られた豆腐料理が評判となり、各地で祇園豆腐の看板を掲出する店が出て、

江戸では明和頃、湯島に有名な祇園豆腐屋があった、

とある(仝上)。二百年前の献立に、

祇園豆腐に道明寺糒(ほしい)を振りかけて江戸料理に使っていた、

ともある(たべもの語源辞典)。

こがしの粉かけたるもの、

ともある(大言海)。「こがし(焦がし)」は、

米、麦を炒り焦がして、碾きて粉とせるもの、

で、

香煎、

の別名ともされる(広辞苑・大言海)。あるいは、

花柚(はなゆ)などで風味を添えることもある、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E8%B1%86%E8%85%90

現在は、「祇園豆腐」は、

木の芽田楽、

をいう(デジタル大辞泉)、とある。「木の芽田楽」は、

山椒の芽を味噌にすりまぜて豆腐に塗り、火に炙ったもの、

をいう(広辞苑)。「木の芽味噌」というのは、

漉味噌を鍋に入れ、煮出汁にてのばし、酒と砂糖とを加へて、火の上にて煉り、おろす鍋に、木の芽を細かく切りたるものを加へて、ざっと煉り、火よりおろして、玉子の黄身を加へて、よく交ぜ合わせたるを、魚肉・蔬菜などに塗(まぶ)したる、

を言い(大言海)、これを豆腐にぬりて焼いたものを、

木の芽田楽、

というので、「田楽豆腐」には違いないが、「木の芽」は、

山椒の若芽をすり込む、

ともあり(大辞林)、特に「山椒」は、

三月ころから新芽を吹くが、この新芽や若い葉を〈木の芽〉と呼び、煮物の香りづけや汁物の吸口に用いる。木の芽みそ、サンショウみそはみそにすりまぜたもので、木の芽あえはこれでたけのこやイカをあえたもの、木の芽田楽は豆腐にこれを塗った田楽である、

とあり(世界大百科事典)、厳密にいうと、「祇園豆腐」とは、「味噌」が少し違うようだ。

「田楽」は、「おでん」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%8A%E3%81%A7%E3%82%93)で触れたように、「おでん」に始まる。「おでん」は、

御田、

と当てる。

田楽(でんがく)」の「でん」に、接頭語「お」を付けた女房詞、

である。御所で使われたことばが、上流社会に通じたもので、それが民間に広がった。

田楽とは、

豆腐に限って言った、

ので(たべもの語源辞典)、「おでん」は、

豆腐、

と決まっていた。

「豆腐を長方形に切って、竹の串をさして炉端に立てて焼き、唐辛子味噌を付けて食べた。初めは、つける味噌は唐辛子味噌に決まっていた」

のであり、これが、

おでん、

であった(仝上)。「田楽」という名前の起こりは、

「炉端に立てて焼く形が田楽法師の高足の曲という技術の姿態によく似ているので、のちに、豆腐の焼いたものを田楽とよぶようになった、ともいう」

とある(仝上)。「高足」(たかあし、こうそく)とは、

「田楽で行われる、足場の付いた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸。鷺足(さぎあし)とも呼ばれる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%B6%B3。高足を串に見立てた意味がよくわかる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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甚平


「甚平」とは、

甚兵衛羽織のこと、

とある(広辞苑)。

綿入りの袖なし羽織(大言海)、
男子用の袖なし羽織(広辞苑)

とあるが、

半袖・筒袖で丈が短く、襟先と脇についた紐を結んで着る着物。男子の夏の室内着として用いられる、

ともある(語源由来辞典)。

もと関西地方に起こり、木綿製綿入り防寒着で、丈は膝を隠すくらいとし、前の打合せを付紐で留める。今、麻・木綿製で筒袖をつけた夏の家庭着にいう、

とある(広辞苑)。さらに、現代では主に男子の夏の室内着で、

木綿あるいは麻製で、単衣仕立て。脇の両裾に馬乗り(うまのり/スリット)がある。短い半袖や七分袖の筒袖・平袖で、袖口が広め。衿は「棒衿」で衽(おくみ)はないのがふつう。付け紐で結ぶので帯を必要としない。袖も身頃も全体的にゆったりして、風通しが良い作りなので、夏のホームウエアとして涼しく着られる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9A%E5%B9%B3。筒袖となって普及したのは大正時代、大阪であり、

丈が短く、袖に袂がなくて衿と身頃につけた付け紐は、右を表左は裏側で結び、ふつうの和服のように右前に着る。そろいの半ズボンをはくのが今では一般的であるが、昭和40年頃までは、甚平といえば膝を覆うぐらい長い上衣のみであった、

とある(仝上)。

つまり、

羽織→綿入り袖なし羽織→筒袖の木綿製綿入り防寒着→筒袖の夏の家庭着、

と転じて来たもののようである。いま、「甚平」は、夏の季語である。

甚兵衛、

とも書き、

じんべ、

ともいう。

その由来は、

甚兵衛羽織、

だが、「甚兵衛羽織」は、

下級武士向けの木綿綿が入った袖なし羽織で、陣羽織を真似てつくられた「雑兵用陣羽織」の意味から、「陣兵羽織」で、「甚兵衛羽織」になったとされる。その甚兵衛羽織を着物仕立てにしたもの(語源由来辞典)、

とか、

武士の着るラシャ織の陣羽織に対する下級武士の着る綿入れ袖なし防寒具(日本語源広辞典)、

といった説が立てられているが、どうも信じがたい。確かに、嘉永三年(1850)の 江戸見聞録『皇都午睡』にも、

世に、甚兵衛羽織とて、袖の無き羽織を、今云ふ、殿中羽織と同じきもの、甚兵衛と云ふ者、製し始たかとも思ひ居りしが、是は、陣兵羽織にて、大将軍は、陣羽織を著せらるれども、雑兵など、寒気の頃は、綿入れ袖なし羽織なりと著ざれば、甚難かるべし、其時の著用にて、陣兵羽織なるべし、

とあり、

陣羽織→陣兵羽織→甚兵衛羽織→甚兵衛→甚平、

と転訛したとする説(語源由来辞典)に思われるが、どうも信が置けない。第一、幕末の頃に、そう言われていたとすると、

江戸末期に庶民が着た「袖無し羽織(そでなしばおり)」が、「武家の用いた陣羽織(陣中で鎧・具足の上に着た上着)に形が似ていたことから」とする、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9A%E5%B9%B3の方が信憑性が高い気がする。とすると、普通一笑に付される、「甚兵衛羽織」の略とされるのだから、

甚兵衛という名の人が着ていたことから、

という説(仝上)を、

単に字面から言われたもので根拠がない、

とする説(語源由来辞典)こそ、根拠がない。第一、

陣兵羽織、

等々というものはないのではないか。雑兵が羽織を着したなどということは聞いたことがない。「足軽」は、各自が自前で甲冑武具を持つ余裕がないので、

御貸具足、
御貸刀、

等々を貸与され、

胴に籠手、陣笠または兜が一定の形式となり、胴の前後に合印の紋が朱漆描きか金箔で置かれる。雑用を弁じるため籠手には手甲を着けず、走り回るために佩楯、脛当もつけず脛巾に草鞋、

であり、股引は着けているが、素足である。そして、

打飼袋または兵糧袋、

を腰か襷にかける(図録日本の甲冑武具事典)。

だから、「雑兵物語」では、

とうがらしを磨りつぶして、尻から脚の爪先まで塗っておけば、こごえない、

と言っているのだ。

「陣羽織」は、

「室町殿日記」に具足羽織の語が見られ、「関八州古戦録」に袖なしの陣羽織と記されている点などから、初期は普通の羽織を陣中で着用しているうちに、人目を引くような羽織がつくられ、やがて活動しやすいように袖を取った形のものがつくられた、

とあり(図録日本の甲冑武具事典)、

始めは防寒用とか、小具足姿でくつろいだときに着たものであったものが、次第に自己表示のものとなり、戦場でも甲冑の上に着たままで働き、(中略)春冬秋は袷のもの、夏は単衣の薄いものなどを着るようになったのである。目立つことを主とするので多く好まれるのは緋羅紗、錦、更紗、鳥毛植、麻木綿に図案を描いたものまたは刺繍したものなどである、

らしく(仝上)、そして、

袖付の陣羽織は高級武将が用いたが、いちばん普及したのは袖なし陣羽織であるから、後世では陣羽織といえば袖なしを意味するようになり、むしろ袖付の方が特殊に思われるようになった、

とある(仝上)。「陣羽織」という言葉は、

江戸時代に定着したもので、しだいに軍陣の礼服の一種のようになり、威儀化、定式化し、非常の際の衣服ともなった。同時に戦時の役職を示す標識ともなり、幕府や諸藩において制服的な衣服として規定される陣羽織も生じた。多くは背に定紋、合印(あいじるし)などをつけ、肩章(けんしょう)様の太刀受(たちうけ)、立襟(たちえり)に、きらびやかな布地の返襟(かえしえり)、ぼたん掛けの板紐(いたひも)などの意匠で、少なからず当初の南蛮風俗の影響を残しつつ、ほぼ一定した形式として用いられた、

とある(日本大百科全書)。

「甚平」のもとになった「甚兵衛羽織」は、「陣羽織」とは無縁なところから始まったものと言っていいように思う。

甚兵衛という名の人が着ていたことから、

かどうかは別に、

甚兵衛羽織→甚平、

と略されたのに合わせて、

陣羽織、

を連想しただけなのではないか。

なお、「羽織」については「法被と半纏」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%A8%E5%8D%8A%E7%BA%8F)で触れた。

参考文献;
笠間良彦『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
吉田豊(現代語訳)『雑兵物語―雑兵のための戦国戦陣心得』(教育社新書)

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褌(ふんどし)


「褌」は、

ふんどし、

と訓ませるが、

はかま、

とも訓ませる。「袴」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%A2%B4)で触れたように、「褌」(コン)は、

会意兼形声。「衣+音符軍(丸く取り巻く)」。腰の周りにめぐらす布地、

である(仝上)。「褌」は、我国だけが「ふんどし」に当てるが、

ももひきの類、
したばかま、

の意で、やはり、股が割れたものを指す(漢字源)。なぜ「ふんどし」の当てたのかはわからない。日本書紀に、

はらみやすき者は、褌(はかま)を以て體(み)に觸(かから)ふに、すなわちはらみぬ、

とあるのを、岩波古語辞典は、「ふんどし」の意と採っている。

「ふんどし」は、「褌」の他、「袴」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%A2%B4)で触れたように、

犢鼻褌(たふさぎ)、
肌袴(はだばかま)、

とも言い、

下帯、
まわし、

とも言うが、「ふんどし」は、男性用ばかりではなく、女性の、

湯文字、
腰巻、

の意もある(広辞苑・江戸語大辞典)。

両脚を踏ん張って通すもの、

という意味(日本語源広辞典)で、

フミトオシ(踏通)の転(広辞苑・日本語源広辞典・大言海・筆の御霊・松屋筆記)、

とする説が大勢のようだが、

特に根拠はない、

とされる(語源由来辞典)。その他に、

フモダシ(絆)の義(嬉遊笑覧・俗語考)、
フントヲシ(糞通)の約(菊池俗語考)、
ホトシ(陰為)の義(言元梯)、
漢語「褌衣」の韓国語化「Hun-t-os」からhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128446587
犢鼻褌(たふさぎ)は「股塞ぎ(またふさぎ)」「布下げ(たふさげ)」「タブ(樹皮布)裂き」から(仝上)、

等々あるが、「ふみとおし」以上にはいかない。

「踏通(ふみとおし)」「踏絆(ふもだし・馬や犬を繋ぎ止める綱)」「絆す(ほだす・動かないよう縄等で繋ぎ止める)」から由来するという、

説が一般的https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%97なのだろう。

「ふんどし」を、

犢鼻褌(トクビコン)、

と当てた、

たふさき(ぎ)、

の由来については、

「股塞ぎ(またふさぎ)」「手ふさぎ(陰部を手で覆って隠す)」「布下げ(たふさげ)」「タブ(樹皮布)裂き」、

等々諸説ありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%97

アイヌ語で「タパ」と呼ぶのは同じ語源からくるのではないか、

ともされるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128446587が、はっきりしない。

室町時代には、

手綱(タヅナ)、

と呼ばれ、秀吉が山崎の合戦後、堅田に隠れた光秀重臣斎藤利三(内蔵助)捕縛を、信忠家臣の高木彦左衛門宛手紙で、

斉藤内蔵助、二人子共相連、たつな斗ニて落行候節、郷人(きゃうじん)おこり候て、両人之子共首切り、蔵助ハ生捕ニ仕)、なわかけ来候条、於天下車乗わたしニて首切、かけ申候事、

と報じた手紙にも「手綱」と使われている。手綱は、

古くは手拭の俗称で、馬の手綱のように長い布という意であった。材料は、古くは麻布が用いられたが、江戸時代からは木綿布が普通となり、一部では、縮緬、緞子も用いられた、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。江戸時代初期からは、

下帯(シタオビ)、

とも呼ばれ、

ふんどし、

の名称が確立したのは江戸時代末期とする説もある(仝上)が、文献がなくはっきりしない。

なお、「犢鼻褌」について、大言海には、

犢鼻は、脛の三里の上の灸穴の名と云ふ、

とあり、日本釈名に、

犢鼻褌、貫也、貫両脚、上繁腰中、下當犢鼻、

とある。和名抄には、

犢鼻褌、韋昭曰、今三尺布作之、形如牛鼻者也、松子、毛乃太乃太不佐岐(ものしたのたふさき)、一云水子、小褌也、

とあり、その形から、「犢鼻褌」と言うらしいと分かるが、下學集には、

犢鼻褌、男根衣也、男根如犢鼻、故云、

とあるので、その形が似ているのは、「褌」ではないらしい。しかし、鹽尻(天野信景)は、

隠處に當る小布、渾複を以て褌とす。縫合するを袴と云ひ、短を犢鼻褌と云ふ。犢鼻を男根とするは非也、膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に故也、

とする。結局、灸穴の名に落ち着く。史記・司馬相如伝には、

相如身自著犢鼻褌、與保庸雑作、滌器於市中、

とあるので、「犢鼻褌」は中国由来らしい。このためああでもないこうでもないと、百家争鳴というところか。

「ふんどし」の一種に、

3尺の白木綿の布の一端を三つ折り縫いにし、他方を紐が通るように縫って紐を通してT字形にし、腰にあてて、紐を前で結び、布を股ぐらを通して紐の下より引き出し、前に垂らして着す、

という(日本大百科全書)、

越中褌(えっちゅうふんどし)、

があるが、幕末の『守貞謾稿』は、

「紐を通したる方を背にし、紐を前に結び、無紐方を前の紐に挟む也」

と、その装着法を記している。しかし、

本格的に普及したのは明治末期、

で、江戸時代にも

隠居した武士、肉体労働を伴わない医者や神職、僧侶、文化人、商人の間で用いられていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E8%A4%8C。その由来には、

越中富山の置き薬の景品で全国に普及したことに由来する、
越中守だった細川忠興が考案した、
大阪新町の越中という遊女が考案した、

等々の説(仝上)があるが、これもはっきりしない。忠興は剃髪後、三斎と号したが、三斎は、

畚(もっこ)ふんどし、

の発案者にもされている。

布の両端をそれぞれに紐が通るように縫い、紐を通し、片方は足を踏み通して、片方で紐を結んで着す。

ものだが(日本大百科全書)、

土を運ぶ畚(もっこ)に形状が似ているためこの名がついた。

江戸中期の『明良洪範』には、三斎の言葉として、死者の下帯のことを、

功者なる心掛けの者は、下帯の結び目の前に緒を付け肩にかく、或は、前のたれのはしに緒を付けて首にかけ、もっこふんどしと申して用ひ候、此みな死後にも抜け落ちぬ用心なり、

と語っているとか。『守貞謾稿』には、

簣褌、もっこふんどしと云は、形簣に似たる故也、前後を縫いて、是に紐を通し、或は左、或は右に結ぶ。女形俳優等に用之由を聞く、

とあるので、この時期は、一般化していなかったことがわかる。

因みに、戊辰戦争では、新政府軍は、越後口での戦死者に、

木綿の半襦袢一枚・ふんどし一筋、

を賜ったという。せめて死に装束だけでも、ということだったようだ。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
保谷徹『戊辰戦争』(吉川弘文館)

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キクラゲ


「キクラゲ」は、

木耳、

とあてるが、「木耳(モクジ)」は、漢語である。

木に生ずる耳、

の意で、

木耳生于朽木之上、無枝葉(本草)、

とある(字源)。

春から秋にかけて、広葉樹のニワトコ、ケヤキなどの倒木や枯枝に発生する。主に日本、中国、台湾、韓国などの東アジアやミャンマーなどで食用とされている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2。特に中国料理では常用される。

学名(Auricularia auricula-judae)の内、「Auricularia」が、ラテン語で「小さい耳、耳たぶ」という意味の「auricula」という言葉に由来し、「auricula-judae」はラテン語で、「ユダの耳、ユダヤ人の耳」の意味になる。「ユダの耳」は、

ユダが首を吊ったニワトコの木からこのキノコが生えたという伝承に基づく。英語でも同様に「ユダヤ人の耳」を意味するJew's earという。この伝承もあってヨーロッパではあまり食用にしていない、

らしい(仝上・https://www.gaspo-kinokoya.com/blog/blog_detail/index/37.html・たべもの語源辞典)。中国では、

賓客をもてなすのにシロキクラゲの料理を出した。シロキクラゲは黄金と比較されるくらい高価であった、

とある(たべもの語源辞典)。シロキクラゲ(白木耳)、学名(Tremella fuciformis)は、

春から秋にかけて、広葉樹倒木や枯枝に発生する。形は不規則で、花びら状と表される。子実体はゼリー質で白く、半透明。キクラゲ同様、乾燥すると小さく縮み、湿ると元に戻る、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%AD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2。中国では「銀耳」と呼ばれて栽培され、シロキクラゲを利用した料理として中華料理の銀耳羹(シロキクラゲのスープ)などがある(仝上)。

「キクラゲ」は、また、

木海月、

とも当てるが、「クラゲ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2)で触れたように、「クラゲ」は、

水母、
海月、
水月、

等々と当てる。「水母(すいぼ)」「海月(かいげつ)」「水月(すいげつ)」は、いずれも、漢語である。「耳」という漢字にクラゲの意味は無いので、「キクラゲ」の音に当て字したものと思われる。

干したクラゲに似ているところからこの名がある、

とある(たべもの語源辞典)。「木耳」を、「キクラゲ」と訓ませるのは、

味は淡いが、噛むと音がして、干したクラゲ(水母)のような食感がある、

からである(仝上)。

「キクラゲ」は、古名、

キノミミ、

とある(大言海)。ために、一名、

ミミタケ、

とも言う。

形が人の耳に似ているから、

である(仝上)。室町末期の日葡辞書には、

耳茸(みみたけ)、

が載る(語源由来辞典)。

「キクラゲ」の地方名には、

沖縄本島のミミグイ、
鹿児島県沖永良部島のミングソ、
奄美大島のミングリ、
宮崎県西臼杵郡のミミナバ、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2が、いずれも自生するアラゲキクラゲを耳と関連づけている。

アラゲキクラゲ(荒毛木耳、Auricularia polytricha)は、「多毛」の意味で、漢語では、「毛木耳」である。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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擬製豆腐


「擬製豆腐」(ぎせいどうふ)は、

水切りした豆腐に野菜や卵などを加えて調理し、厚焼き卵のように焼いた料理、

を指す(広辞苑)。

義性豆腐、
義省豆腐、

とも当てるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E8%A3%BD%E8%B1%86%E8%85%90

ぎせどうふ、
ぎせ焼き、

とも言う。

精進料理の一種、

ともある(たべもの語源辞典)。

豆腐を用いた精進料理。崩した豆腐に下煮をしたごぼう、人参、椎茸、木耳、卵などを加えて焼くか蒸した料理、菰(こも)豆腐とも言う、

とあるhttp://gogen.bokkurigoya.com/archive/006553.php。一般的には、

豆腐以外の材料を混ぜて豆腐のような形に仕上げる、
あるいは、
豆腐を原料としながら卵焼きのような別の料理に見せる、

から「擬製」という字を当てる、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E8%A3%BD%E8%B1%86%E8%85%90。だから、

ほぐした豆腐を元のような四角い形に作る(世界の料理がわかる辞典)、
いちどこわしてしまった豆腐を、もとの豆腐のように似せてつくる(たべもの語源辞典)、

ところから「擬製」の名がついた、とするのである。しかし、江戸時代の国語辞書『俚言集覧』には、

江戸山王神社の別当、勧里院の僧正、義性がこの豆腐を考案した、
とか、
奈良県円照寺の義省尼が作った、

からとする説もある(大言海・http://gogen.bokkurigoya.com/archive/006553.php)。刺身の切れ端や野菜の面取りなどをする時に出てくる屑のことを「手くず」というのだそうだが、

その手くずを上手に利用するのが精進料理の真骨頂。お寺では豆腐に手くずを混ぜて、焼く、蒸す、揚げるなどの料理を生み出してきた。擬製豆腐、五目豆腐、けんちん揚げ、飛竜頭、けんちん汁など、表彰ものの手くず料理が勢ぞろいしていて、しかも脈々と受け継がれている、

ともあり(仝上)、「精進料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%96%99%E7%90%86)の系譜であることを考えると、寺院料理が発祥という説も考えられる気がする。確かに、

「がんもどき」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8D)

に似た感じがして、「精進料理」っぽい。となると、「擬製」は、

僧侶が卵のような動物性食品を食用とすることが禁じられていたとき、豆腐の中にひそかに卵を入れてわからないようにして用いていた。カムフラージュしてつくったという意味で擬製の字が使われた、

ということになる(日本大百科全書)。ただ、

中国などにも類似の料理が存在することから外来の調理法である可能性も高い、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E8%A3%BD%E8%B1%86%E8%85%90、「飛竜頭(がんもどき)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8D)、「けんちん汁」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93)、「けんちん揚げ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93)等々と考え合わせると、「普茶料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)なのかもしれない。

なお、天明二年(1782)に出版された料理本、『豆腐百珍』では、

ふはふは豆腐、

として、

鶏卵(たまご)ととうふ等分にまぜ、よくすり合せ、ふはふは烹(に)にする也。胡椒(こせう)の末(こ)ふる。鶏卵のふはふはと風味かわることなし。倹約を行ふ人専ら用ゆべし、

と載るhttp://textview.jp/post/cooking/30383

もとの豆腐のようであるが、遥かにおいしい豆腐になる、

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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吉備団子


「黍団子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90)で触れたように、「黍団子」(きびだんご)は、

黍の実の粉で作った団子、

である(広辞苑)。大言海には、

もちきびの粉に、米の粉をまぜ、水に捏ねて、まろめて蒸したるもの、

とある。

黍餻、

とも当てる(大言海)。「黍団子」の早期の用例として、『山科家礼記』に、長享二年(1488)三月一九日に、

黍團子、

の記述があり、室町末期の日葡辞書にも、「吉備団子」は、

黍の団子、

と定義されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90、らしい。だが、その黍団子と、

吉備団子、

と当てられる団子菓子は、全く別物である。

「吉備団子」は、

求肥をこねて、白砂糖をまぶした団子、岡山の名産。安政年間(1854〜60)創製で、本来黍の実の粉で製したので、吉備に因んで名づけられた、

とある(広辞苑)が、


嘉永・安政(1848〜60)頃に現れる。岡山藩の茶人家老伊木三猿斎(いきさんえんさい)が勧めて、四道将軍の一人である吉備津彦命を祀る吉備津神社の境内の茶店で売らせた、

ともあり(たべもの語源辞典)、

吉備津神社門前の名物であったきびだんごを、茶人でもあった備前国岡山藩池田家の家老、伊木忠澄(いぎただずみ)の勧めで、広栄堂の初代、浅次郎が茶席用の菓子として工夫し、1856(安政3)年に考案したものとされる、

とある(日本の郷土料理がわかる辞典)ので、「黍団子」だったものが、「吉備団子」と改良されたもののようでもある。

因みに、四道将軍(しどうしょうぐん、よつのみちのいくさのきみ)とは、『日本書紀』に登場する、北陸、東海、西道、丹波に派遣された皇族の将軍、

大彦命(おおびこのみこと)、
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、
吉備津彦命(きびつひこのみこと)、
丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%81%93%E5%B0%86%E8%BB%8D

「吉備団子」は、

昔は、黍で覆われた食品だった可能性もあるが、現在に至る製品は、餅米の粉を混ぜて求肥を作り、これを整形して小さく平な円形(碁石形)に仕上げる。黍の粉を混ぜて風味づけするが、使わないものもある。従来から桃太郎の「黍団子」と同一視する経歴があるが、黍は主原料ではない、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%A3%E5%AD%90、いまは、

求肥(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E6%B1%82%E8%82%A5)にきびの粉をまぜた菓子、

であり、

糯米(もちごめ)粉に上白糖と水飴(みずあめ)を加え、風味づけに少量の糯黍粉を混ぜ、湯炊きして半透明になるまで練り上げ、団子に丸めて表面にかたくり粉をまぶす。できあがりは淡い黄色みを帯び品のよい姿である。また表面にきな粉をまぶしたものもある、

という(日本大百科全書)。安政六年(1859)には、

江戸浅草で「日本一きび団子、昔屋桃太郎」の看板で黍団子を売り出したものがあったらしい(仝上)。

吉備津神社と黍団子という食べ物の間には、17世紀初頭までにはなにかしらのゆかりができていたらしい。細川幽斎(1610年没)が「備中吉備津宮にて詠める」と詞書で前置きした狂歌、

神はきねがならはしなれば先づ搗きて団子にしたき吉備津宮かな、

があり(寛文6年(1666)『古今夷曲集』)、この歌での「きね」は、

「巫女」と「杵」をかけており、黍粉に砕くためか黍餅を練るためかは不詳だが、ともかく「きびだんご」の製法は、杵で搗かれる手順があることが言及される。おそらく参詣者には「きびだんご」がふるまわれたことがあったのだろう、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90。この時期(安土桃山〜江戸初期)、吉備津神社の名物に、

きびだんご:吉備津 宮内の町並、

とあるhttps://fuuraiki.com/kibidango/

なお、団子(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%9B%A3%E5%AD%90)、と餅(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)の違いについては触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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インチキ


「インチキ」は、

陰痴気、

と当てたりする(隠語大辞典)が、

トランプでインチキする、
インチキな手を使う、

等々というように、

ばくちで、相手の目をぬすんで不正を行うこと、

の意と、それを広く、

いんちきな品物、
いんちき医者、

等々というように、

ごまかし、
手抜き、
不正、
無責任、
本物でないこと、
にせもの、

の意とがある(広辞苑・デジタル大辞泉)。

テキヤ仲間の語としては、大正以前からあったらしいが、一般化したのは昭和初期とみられる、

とか(日本語源大辞典)、

昭和初年ごろから「いかさま」にかわり一般語化したという、

とか(デジタル大辞泉)あるので、限定された前者の意が、一般的な不正の意に広がった、とみられる。

確かに、

初め博徒仲間の言葉であつた、

とあり(隠語大辞典)、

数人共謀して行う詐欺賭博のことを、

いんちきし、

ともいい、

数人共謀して行ふ詐欺賭博を云ふ。又は単に「虚偽」と云ふ様な軽い意にも用ひられる。「さぎとばく」に同意。
昔から博徒、スリ等の間に用ゐられて来たが、トリツクを使つたり、イカサマをしたりする事をいふ。インチキ賭博などいひ、今日では凡てのカラクリある出鱈目なものに使はれてゐる。例へばインチキ会社。インチキな品。学生間ではカンニングのこと、

とあるが、必ずしも、

不正手段で勝負を争ふこと、
いかさま、

のみを指さず、既に、広く、

ごまかしの事にいふ、

とあり(仝上)、広く、

ごまかし、

の意味でも使われていたようである。

「インチキ」の語源は、いくつかあり、

安斎随筆、印地鎗の図説に見える、遠江国小笠郡の方言で、餌を用いない釣針のことをインチキ(餌(え)無き鉤(ち)の意か)から(広辞苑)、
イカサマのイ(イカ)や穴一、一六勝負のイチなどに、排斥・軽侮の意をもつ接尾語チキが付いた(コンチキ、トンチキ、ヘンチキのチキ、またはポンツク、ケンツクのツク、トンテキのテキと同類)もの(国語学叢論=新村出・広辞苑・日本語源広辞典・語源由来辞典)、
原語遊戯の一つに、第一音節にンチキを付ける方法があり、それからイカサマをインチキといった(猫も杓子も=楳垣実)、
人を瞞着することをインチクという福井の方言が、テキヤによって全国に伝搬し、東京風に訛ってインチキとなった(すらんぐ=暉峻康隆)、
昭和初年マニラ辺にいた商社員がタガログ語で中国人の意のIntsikという語を輸入して、新聞社などから使い始めたとの説がある。しかし大正四年刊『隠語輯覧』にすでに掲載している語であるから、年代的に矛盾する(外来語辞典=楳垣実後)、

等々から考えて、普通には、

トンチキ、
コンチキ、
ヘンチキ、

のように「チキ」を付けたと見るのが妥当だが、「イン」が、「イカサマ」の「イ」というのは、どうなのだろう。代案はないのだが。

トンチキは「頓的(とんてき:バカみたいだ)」、ヘンチキは「変的(へんてき:ヘンだ)」が変化したものと見られる、

とある(笑える国語辞典)ので、憶説だが、

イカサマ的→イカ的→イン的→インチキ、

といった転訛がありえるかもしれない。それと、

「インテキ」という言葉はなさそうなので、「インチキ」の場合、トンチキやヘンチキにならって「インチキ」と変化したのではないか、

と推測すること(仝上)も可能である。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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トンチキ


「インチキ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%AD)で触れたように、

トンチキは「頓的(とんてき:バカみたいだ)」、ヘンチキは「変的(へんてき:ヘンだ)」が変化したものと見られる、

とある(笑える国語辞典)が、「トンチキ」を考えていくと、別の可能性もあると気づく。

「トンチキ」は、

頓痴気、

とも当てる。

まぬけ、
のろま、
とんま、

等々、人を罵って言う語である(広辞苑)。類語に、「トンテキ」がある。「トンテキ」は、

頓敵、
頓的、

と当てる(仝上)。

思慮のない軽はずみなこと、
ひょうきんなこと、
まぬけなこと、

とある(仝上)。微妙な意味差がありそうだが、これだけではわからない。大言海は、「トンチキ」を、

役に立たぬこと、
氣轉のきかぬひと、
とんま、
まぬけ、

とし、「トンテキ」を、

とびあがりもの、
へうきんもの、

としているので、どうやら、

剽軽さ、

に意味のウエイトがあるようだ。それが転じて、

まぬけ、

の意になったとみられる。延寶年間(1673〜81)『吉原失墜』に、

本庄下谷の住人ともなり、すぐれたる勇気のとんてきどもなり、

とあり、貞享年間(1684‐88)の江戸で頻発した大火の見聞記『天和笑委集』に、

元來此男、心あくまで軽く、しかもとんてきにして、憂き知らぬ者、

るので、当初は、必ずしも貶める意味だけではなかったように感じる。

「トンテキ」は、

頓的、

と当てるので、「インチキ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%AD)で触れた、「ヘンチキ」が、

「変的(へんてき)」が変化、

に当たる説と同類とみていい。しかし、「トンテキ」(頓的)という言葉が残っている以上、「トンチキ」が、

頓的、

の転訛と見る(暮らしのことば語源辞典)としてしまっていいかどうか。で、「トンチキ」は、

擬人名詞「とん吉」のキチを逆倒した語、こん吉をこんちきという類(江戸語大辞典・広辞苑)、
トン(とんま)+チキ(接尾語)(日本語源広辞典)、

とする説がある。ただ、「チキ」は、「的」の転訛とみると、後者の説は、「トンテキ」の転訛と同じことになる。だから、「トンチキ」の由来は、

トンテキ(頓的)→トンチキ、
とん吉→トンチキ、

のいずれかということになる。

「トンチキ」は、ことばの由来がはっきりしている。

芝居者隠語由来で、明和の初め頃(1764〜72)から流行語となった、

とある(江戸語大辞典)。

とんま、
まぬけ、

の意で、

とんちきとは、役に立たぬたはけの事(安永五年(1776)風俗問答)、

とし、

漢土(から)の廃人(とんちき)は菽(まめ)と麦とを分かたず、此方(こっち)の愚鈍(へんてこ)はあざとすべたを知らず、

の用例があり、さらに、

深川の岡場所語、きざな半可通や野暮な客を罵って言う語、

となり、他の岡場所にも広がり、当初の意と重なった、とある(仝上)。

ひやうたくれ、惡敷客を云(好ましくない客の意。明和七年(1770)『辰巳之園』)、

とあり、

ままここらへきてまはされるやうなとんちきじやァねへ(安永八年(1779)『駅舎三友』)、

という用例がある。さらに、意味は、

飛んだ、

という意になり、

ヲやヲやとんちき大さわぎだ(天明八年(1788)『女郎買之糠味噌汁』)、

といった副詞的な使い方に転じている。

ただ、「トンチキ」の用例を見る限り、「トンテキ」が江戸初期に比べて、百年位遅い時代になっている。そう考えると、他の

コンチキ、
ヘンチキ、

のチキ、また、

ポンツク、
ケンツク、

のツクと同類の使い方とみるなら、「トンチキ」だけが、

とん吉→トンキチ、

というよりは、やはり、

トンテキ(頓的)→トンチキ、

とみるのが妥当な気がしてならない。

高慢ちき、

の「チキ」でもあるが、

「てき」(てき)の転訛、

である。「的」は、

中国語の「的」(助詞「の」にあたる)をそのまま音読した語、

であり(広辞苑)、

名詞に添えて、その性質を帯びる、その状態をなす意を表す、

とある(仝上)。大言海は、

支那宋元以後の小説などに用ゐられし俗語、驀地、怪底などの、地、底と同意の語なり、

とある。で、

に就いての、上、
〜の振り、風、
の如き、様、

といった意味である。たとえば、「底」は、宋・元時代の俗語で、

〜の、という意味を表す(自然底事)、

とある(漢字源)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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「鯉」(リ)は、

会意兼形声。「魚+音符里(きちんと整理されてすじめがついている)」

とあり、うろこがきちんとならんでいる形からきているようだ(漢字源)。

「鯉」は、

中央アジア原産。もともとはユーラシア大陸が自然分布域だったが、移植によって世界の温帯・亜熱帯域に広く分布している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A4。日本列島には石器時代の貝塚から鯉の骨が発見されている(たべもの語源辞典)。

中国では2400年前(周の時代)からコイを飼育し、1650年前(晋の時代)には、赤、黒、白色のコイが飼育されていた、

とされている(日本大百科全書)。そのため、

大昔に中国から移入された(史前帰化動物)、

と考えられたが、しかし、

関東平野や琵琶湖に野生のコイが分布することや、古い地層から化石も発見されていることから、日本にももともと自然分布していたが中国からの移入がありそれが広まったとされる、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A4

『日本書紀』には、景行四年に、美濃に行幸し、弟媛(おとひめ)を妃にしたいと思ったが、弟媛が竹林に身を隠したので、弟媛を誘い出そうと、泳宮(ククリノミヤ 区玖利能弥揶)で鯉を池に放ち(鯉魚浮池)、朝夕、鯉を見て遊ばれた、とある。観賞用なのは、

中国では、鯉が滝を登りきると龍になる登龍門という言い伝えがあり、古来尊ばれた、

のが日本に伝わった(仝上)からではないか。中国では、

魚の王、

とされ、

魚王、
李本、
健魚、
稚龍(ちりょう)、
世美公(せいびこう)、

と呼ばれ、

頭より尾に至るまで一条の鱗が三十六枚、

ということで、

六六魚(ろくろくぎょ)、
六六鱗(ろくろくりん)、

とも呼ばれる(たべもの語源辞典)、とある。「六六鱗」とは、

脇鱗皆三十六、毎鱗に小黒點あり、

とあり(字源)、

ふつうのコイは側線上の有孔鱗数が32〜39枚くらいで,昔,コイにロクロクリン(六六鱗)という別名があったのは側線鱗数36枚の個体が多く見られたことによる、

とある(世界大百科事典)。

六六変じて九九鱗となる、

といわれるのは、

鯉の滝登り、

からきている。「九九鱗」とは、

龍の鱗が八十一ある、

との伝説に基づく。鯉が出世魚とされたのは、

登竜門、

のからきている。

中国の黄河は崑崙に発して積石山を経て、龍門に至るが、ここは奔流すこぶる急で、春三月諸魚が登ろうとしてみな斃死するが、鯉だけが登ることが出来て、龍になる、

というのである(たべもの語源辞典)。「龍門」とは、

夏朝の君主禹がその治水事業において山西省の黄河上流にある龍門山を切り開いてできた急流のこと、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E9%BE%8D%E9%96%80が、「登竜門」の初出は、

膺は声明をもって自らを高しとす。士有り、その容接を被る者は、名付けて登龍門となす、

という諺からきている。この諺は『後漢書』李膺伝の故事に由来する。それによると、

李膺は宦官の横暴に憤りこれを粛正しようと試みるなど公明正大な人物であり、司隷校尉に任じられるなど宮廷の実力者でもあった。もし若い官吏の中で彼に才能を認められた者があったならば、それはすなわち将来の出世が約束されたということであった。このため彼に選ばれた人のことを、流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説になぞらえて、「龍門に登った」と形容したという、

とある(仝上)。

さて、和語「こい(ひ)」は、何から来たか。語源説は、

鯉は川魚の王であるから小位(こい)、鯛は海の魚の最上のものだから大位(たい)である、
鯉は姿形を鯛と比較して小平(こひら)だからコヒラ、略してコヒ、
コヒゲ(小髭)の、ゲが略されてコヒとなった、
コヒは乞の意、
鯉の味が良いために、戀いしたうものだから、
鯉の雌雄が互いに恋して離れないので戀(コヒ)を名とした、
鯉の背が美しいから、コミ(甲美)、
鯉の身が超えているからコエ(肥)、
鯉の味が他の魚よりまさっているからコエ(越)、
滋味という義のコアヂ、
コトハリの転訛、
淡水魚の意の、クヒノウオと呼んだものが、コヒに転訛した、

等々多数ある(たべもの語源辞典・日本語源大辞典)。このほか、

「コ(コケ、コケラ、うろこ)+ヒ(接尾語 魚)」で、鱗の魚(日本語源広辞典)、

がある。確かに、

ヒは魚介の名に多い音(東雅)、

で、

エイ(ヒ)、
カレイ(ヒ、カラエヒの転)、
タイ(ヒ)、
かい(ヒ、貝)、

等々「イ(ヒ)」を末尾とする名前はあるが、

その義不詳、

とされ(東雅)、ちょっと気になる面白い説だが、「ヒ」の由来の確かめようはない。

たとえば、「鯛」の語源は、「鯛」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%BF%E3%82%A4)で触れたように、「延喜式」に、

平魚、

とあり、

平らな魚,タイラウオが略されてタイとなった(たべもの語源辞典)、
平魚(タヒラヲ)の意と云ふ。延喜式に平魚(タヒ)とある(大言海)、

等々「たい」の「い(ひ)」を接尾語と扱っていない以上、この説を採れない気がする。

現在のところコイの語源は不明である、

とされている(日本大百科全書)のもやむを得ない。

なお、鯉は祝魚として用いられたが、鯉の腹部にある第五の鰭を「ことどめ(子留)のひれ」と呼ぶので、結婚の祝儀に限って鯉を用いてはいけない、とされてきた(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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濃い


「濃い」(濃し)は、

「浅し」「薄し」の対、

とあり(岩波古語辞典)、

物の濃度・密度が大きい、

意であり、

色が深い(⇔淡い 高向利春「花の色はただひとさかり濃けれども 返す返すぞ 露は染めける」古今和歌集)、
味・匂い・化粧などが強い(⇔「淡い 苦く渋くして滋(こ)き味はひ無けむ」金光明最勝王経平安初期点)、
生えているものの密度が高い(「果実も並に滋(こ)き繁くして大地に充満せしめ」仝上)、
液状の濃度が高い(「見れば沈丁子を濃く煎じて入れたり」宇治拾遺)、
霧やもやなどの濃度が大きい(「霧が濃い」「濃い靄」)

さらに、それをメタファに、

物事の程度が強い、

意に広がり、

何かの様子が強く表れている(「疲労の色が濃い」「敗色が濃い」)、
可能性・必然性の度合が大きい(「犯罪の疑いが濃い」)、
情愛の気持ちが強い(「情が濃い」)、
その人の個性がはっきりしていて、強い印象を受ける。目鼻立ちがはっきりしている顔や、特異な個性を持つ人など、広範に用いられ、必ずしも不快感を伴うとは限らない(「濃い顔」「濃いいメンバーが集まる」)、

さらに、

人間関係が密接である。交わりが深い(「などてかくはあひがたき紫を心に深く思ひそめけむ、濃くなりはつまじきにや」源氏)、

や、特に

紅色・紫色が深い(「かのしるしの扇は、桜の三重がさねにて、濃き方に、霞める月を書きて」源氏)、

意で使う等々といった意味の広がりをもつ(広辞苑・大辞林)

上代には、語幹「こ」の複合語がみられるのみで、形容詞としての確例は見えない。中古以降は、主として色や味について用いられる、

とある(日本語源大辞典)。「こ」は、

濃、

と当て、接頭語として、

濃紫(こむらさき)、
濃酒(こさけ/こざけ)、
濃染(こぞめ)、

等々色や液汁のこいことを示す(大言海・岩波古語辞典)。「こさけ」は、

醴、

とも当て、

濃い酒、

の意で、

ひとよざけ、

とも言うが、字類抄は、

醴、あまざけ、

とある(大言海)。「濃紫」は、

濃い紫色。赤みが少なく、ほとんど黒または紺に見える紫色、

で、とある(岩波古語辞典)。

三位以上の袍(ほう)の色などに用いた、

とある(デジタル大辞泉)。「濃染」は、

濃く染めてあること、

で、

ふかぞめ、

とも訓ませる(岩波古語辞典)。「こい」は、この「こ」の形容詞化とみられる。

その語源を、

こる(凝る)と語根、相通ずる、

とする(大言海)のに似ているのが、

「コ(凝固)+シ」で、煮凝りのように濃い意、

で(日本語源広辞典)、古く、江戸後期に、

コリシキ(凝如)の義(名言通)、

という説があった。「凝る」の語源には、

コはコ(濃)の義で、コム(込)のコと同じ(国語の語根とその分類=大島正健)、

という説があり、

物の濃度・密度が大きい、

意の「濃い」と通じる気がする。

コマヤカと義通い、細かい物の密集する有様をいう(国語の語根とその分類=大島正健)、

とも通じるのではないか。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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凝る


「凝る」は、

こる、

と訓ませるが、

こごる、

とも、

しこる、

とも訓ませる。「こる」は、

散り散りにある同質のものがひとつに寄り固まる(広辞苑)、
液体など、流動性をもって定まらないものが、寄り固まって一体となる(岩波古語辞典)、

意であり、

ひとところに集まり寄る、凝結する、
冷えて固まる、凍る、

の意から、それをメタファに、

傾注する、熱中する、

意となり、

意匠などに工夫を施す、
筋肉などが張ってかたくなる、

という意となる。「こごる」は、

固まって堅くなる、

意だが、

コゴユ(凍)・コゴシ(凝)と同根、

とあり(岩波古語辞典)、「こごゆ」は、

コゴシ(凝)・コゴリ(凝)と同根、

で、

寒さで身体の各部分が堅くなる意、

であり、「こごし」は、

コゴゆ(凍)・こごる(凝)と同根、

で、

凝り固まっている、

意で、それから、

ごつごつしている、
けわしい、

という意で使われる。「しこる」は、

痼る、

とも当て、

固まる、

意だが、それをメタファに、

意地を張る、

意でもあり、また、

飲みしこる、

というように、

一事に夢中になる、
ふける、

意であり、「こる」「こごる」「しこる」「こごゆ」はつながっている。当然、「こほり」(氷)とも関わるとみていい。「こる」の語源諸説をみると、その関係が見える。

コル(固)の義(言元梯)、
コはコ(濃)の義で、コム(込)のコに同じ(国語の語根とその分類=大島正健)、
コは所、学ぶ所や好む所に心が集中することをいうところから(国語本義)、
コホル(氷)の義(名言通)、
コオ(冱)に諧調のラ行音を添えた語コオリを活用した語コオルから(日本語原学=与謝野寛)、
カル(離)から(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々の中で、「こほり」との関係が注目される。抽象度の高い解釈よりは、具体物を表現したものの方が、和語にふさわしい。「こほる」は、

氷る、
凍る、

とあて、

平安仮名文では、コホリ・ツララは、水面に張り詰めた氷にいうことが多く、ヒ(氷)は固まりの氷に言うことが多い、

とある(岩波古語辞典)。「こほり」の語源諸説は、

水が凝り固まったものであるところからコル(凝)の転(滑稽雑誌所引和訓義解・類聚名物考)、
コゴリから(円珠庵雑記)、
コリヒ(凝氷)の義(和訓栞)、
ココリ(氷凝)の義(言元梯)、
コリヲレ(凝折)の転(柴門和語類集)、
コハリ(強)の義(名言通)、

等々と、どうやら「こる」「こごる」とつながる。

「こごる」の語源諸説をみると、

コイコル(凍凝)の義(大言海)、
コイコユ(凍凍)の義(和訓栞)、
語幹コゴは動詞クグム(屈・曲)のクグに由来する(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
コゴエ・コゴシと同根(岩波古語辞典)、

等々、「こごゆ」との関係が気になる。

「こごゆ」の語源諸説を見ると、

コイコユ(凍凍)と重ねて意を強めた語で上二段活用が下二段活用に変化した語(大言海)、
コゴユルは古くコイといい、コホリイル(氷入)の義(名言通)、

等々、「こい」「こゆ」とつながる。「こい」は、

寒い、
凍い、

と当て、

凍える、

意であり(岩波古語辞典)、「こゆ」は、

此語(下二段)活用は違えど「凝る」(四段)と通ず、

とあり、「こる(凝)」へと戻ってくる。ちなみに「しこる」は、

シ(接頭語)+コル(凝る)、

のようである(日本語源広辞典)。

こう見てくると、抽象的な言葉より、具体的な指示に基づいた言葉の方が古いのだとすると、

こる→こゆ(氷)→こほる、

よりは、具体的な「凍る」のを見て、

こゆ→こほる→こる、

という変化なのではないか、という気がする。すくなくとも、「凝る」は、

凍ゆ(凍える)、
あるいは、
氷る(氷る)、

とつながり、それが語源のように思われる。憶説ではあるが。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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薄い


「薄い」(うすい・うすし)は、

厚し、
濃し、
深し、

の対、

とあり(岩波古語辞典)、

淡い、

とも当てる(広辞苑)。「薄」(漢音ハク、呉音バク)は、

会意兼形声。甫(ホ)は、平らな苗床に苗の生えたことを示す会意文字で、圃(ホ)の原字。溥(ハク)は、甫を含んだ文字で、水が平らに広がること。薄は、「艸+音符溥」で、草木が閧あけずにせまって生えていること。間がせまれば、厚さがうすく平らである、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(艸+溥)。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「流れる水の象形と糸巻きを手で巻きつける象形(「しき広げる」の意味)」(「水があまねく広がる」の意味)から、「草が広がる草原」、「うすい」を意味する「薄」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1429.html。漢字では、薄は、

厚いの反。分(ブ)のうすきなり、転じて徳のうすきにも用ふ。薄徳、薄俗の如し、

とある(字源)ので、厚さの意であるとみられるが、味・密度・濃度の程度の意にも用いる(薄粧、薄酒)ので、「薄」の字をあてたのは慧眼と見るべきだろう。

「淡」(漢音タン(ム)、呉音ダン(ム))は、

形声。炎はもと、火を三つ合わせた会意文字。淡は水にそれを音符としてそえた字で、火が盛んに燃えるという原義には関係がない。澹と同じく、静かに安定して、刺激のないこと、

とある(漢字源)が、別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+炎)。「流れる水」の象形と「燃え上がる炎」の象形から、日光を受けて水面からさかんにもえあがる「かげろう(水面・地面から炎のような揺らめきが立ちのぼる現象)」を意味する「淡」という漢字が成り立ちました、

とする「炎」に意味のあるとする説もあるhttps://okjiten.jp/kanji1339.html

「淡」は、「あわい」という意で、

淡は、あはしとも訓む。濃の反なり、色または味のうすきなり、

とあり(字源)、「色や味がうすい」意であり(漢字源)転じて、欲望が薄い意でも使う。その意味では、「薄」と異なり、意味を限定して当てることになる。

「うすい」は、

ものの厚さ、気体・液体・色彩の密度・濃度、物事の程度、作用などが少ないこと。

とあり(岩波古語辞典)、

「薄い」は、厚みがすくないさまや、色・味・匂いなどが濃くないさま、情愛や新稿が深くないさま、経験が乏しいさまなど多くの意味があるが、このような意味の派生ととれる使い方は古くからされており、時代による変化が少ない言葉である、

ともあり(語源由来辞典)、意味の幅は、古来あまり変化がないらしい。たとえば、

ものの厚みが少ない(万葉集「わが背子が着ける衣(きぬ)し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで」)、
ものの密度・濃度が少ない(古今集「さほ山のははそ(柞)の色はうすけれど秋は深くもなりにけるかも」)、
ものの程度が強く(不覚・烈しく)ない(万葉集「佐保河にこほりわたれる薄氷(うすらび)のうすき心をわが思はなくに」)、
薄弱である(上杉憲実記「次第次第に味方はうくなり」)、
短命である(匠材集「うすき生命、短き事也、薄命」)、

等々(岩波古語辞典)。

「うすい」の語源は、

ウシナフ(失)・ウス(失)と同根(岩波古語辞典)、
失ス+シ(日本語源広辞典)、
色が失せる意で、ウスル(失)から(国語の語根とその分類=大島正健)、
ウスはウセ(失)の転(国語本義)、
「うす(失す)」の形容詞化と考えられるが、音からすれば、「うす(失す)」が妥当(語源由来辞典)、

等々と、「うす」の転訛と見る説が多数である。「うす」(失・亡)を見ると、

ウスシ(薄)と同根(岩波古語辞典)、

は当然として、

ウス(薄)から出た詞(俚言集覧)、

がある。ただ、「うすい」を、

ウ(空)+ス(透)+シ(日本語源広辞典)、
ウスシ(空透)の意(言元梯・名言通・日本語原学=林甕臣)、
ウヘから見えスク(透)意(和句解)、

と、「空」「透」と関わらせる説があり、「うす」にも、

ウツ(空)と同根(言元梯)、

とする説もあり、語源の限定はしかねるものの、

うす(失)

うすい(薄)

とかつながっていること、そして「うしなわれる」ことと「うすい」とが意味でつながることは確かである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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クワイ


「クワイ」は、

慈姑、

と当てる。オモダカ科の水生多年草であるオモダカの変種(栽培品種)とされ、中国原産である(広辞苑)。別名、

田草、
燕尾草、
クワエ、

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%A4。ただ、後述するように、田草、燕尾草の呼称は、クロクワイとの混同と思われる。

平安初期に日本に渡来した、

とある(たべもの語源辞典)が、

クワイは奈良時代には中国から渡来していた(慈仙と呼ばれていた)、

ともあるhttp://www2.odn.ne.jp/shokuzai/A2003/Kuwai.htm

青森県亀ヶ岡の泥炭層から三つの壺にいっぱい詰まったクロクワイが発見された。縄文式土器文化時代の人たちもすでに食用にしていた、

とされる(たべもの語源辞典)。このクワイは、後述する「クロクワイ」であり、渡来したのが、今日の「クワイ」、「シロクワイ」を指す。

実は、平安時代中期の辞書『和名鈔』には、

烏芋 久和井、生水中澤冩之類也、

とあるが、大言海は、

烏芋は、本草和名に、久呂久和井とありて、當らず、

とする。「烏芋」は、

クワイ、

とも訓むが、

オオクログワイ、
クログワイ、

と訓み、別種となる。しかし、室町時代の「庭訓往来」にも、

烏芋−久和井、

と併記されているように、室町時代まではクワイは烏芋(クログワイ)の事を指していたようである。やがて江戸時代の『料理物語』(1643)、『毛吹草』(1645)などで、

クワイにクロとシロの2種類がある、

と書かれる時代を経て、ようやく『和漢三才図会』(1712)で、

烏芋−クロクワイ、
慈姑−シロクワイ、

と整理されるに至ったhttp://www2.odn.ne.jp/shokuzai/A2003/Kuwai.htm。江戸時代になって、「クワイ」が食用として普及してからのようである。

「クワイ」は、

クロクワイと区別してシロクワイと呼ばれる、

とある(たべもの語源辞典)。両者の区別は、「クロクワイ」は、

カヤツリグサ科ハリイ属。烏芋(からすいも)、田唐芋(たがらいも)とも呼ばれます。日本では関東、北陸から九州の池・沼の岸辺に自生しているストロー状の草。芋の方は中身は白いのですが表面は黒っぽい。生食もされたようです。中国料理でよく炒め物に使われるシャリシャリした歯ごたえのクワイは、近縁のイヌクログワイ(オオクログワイ、シログワイとも呼ばれるので混乱します)です、

とありhttp://www2.odn.ne.jp/shokuzai/A2003/Kuwai.htm、「シロクワイ」つまり「クワイ」は、

オモダカ科オモダカ属の多年生の水生植物。オモダカ(面高)は全国の水田で普通に見られた雑草です。世界中の温帯・熱帯に広く分布していますが、食用として改良を加えたのは中国です。 麦畑の雑草だった大根を食用に改良したのも中国。この知恵と努力には本当に頭が下がります。 白クワイ、青クワイ、吹田クワイの3種があります、

とある(仝上)。

青色の方が味が良い、

らしい(たべもの語源辞典)。

さて、「クワイ」の語源であるが、

噛破集(クヒワレキ)の義にして、葉の形に云ふか(大言海)、
クリワカレヰ(栗分率)の義(名言通)、
根は黒くて丸く、葉は藺(いぐさ)に似ているところからクワヰ(黒丸藺)の義か(和字正濫鈔)、
クアヰ(顆藍)の義(言元梯)、
味が栗に似ているところから、クハヰグリの略、ハヰは若い意(滑稽雑誌所引和訓義解)、
水生であるところからカハイモ(河芋)の転略か(和語私臆鈔)、
食べられるイ(燈心草)の意(牧野新日本植物図鑑)、
クワ(固、コワ)+ヰ(ヱ えぐい)。えぐみのある固い芋(日本語源広辞典)、
農機具の鍬に似ていることから「鍬芋」(くわいも)、それが転訛してクワイとなったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%A4

等々諸説ある(日本語源大辞典・たべもの語源辞典)。

クワ(固、コワ)+ヰ(ヱ えぐい)、

も捨てがたいが、たべもの語源辞典は、

クワイは根が黒くて丸く、葉が藺(いぐさ)に似ているところから、クワイ(黒丸藺)という説を採りたい、

とする。

一つの根に毎年一二子を生じ慈母が諸子に乳を与えるようであるところから慈姑と書いてクワイとした。慈姑の姑は母のことである、

とする(たべもの語源辞典)。これが縁起物として重宝された由来でもあるが、

食える藺という意味でクワイになったという説が正しそうです。かなで"くわゐ"と書くのはこの名残なのでしょう、

を取る説もあるhttp://www2.odn.ne.jp/shokuzai/A2003/Kuwai.htm。しかし、「クワイ」は、

地栗、

の別名がある。となれば、

味が栗に似ているところから、クハヰグリの略、ハヰは若い意、

も捨てがたい。僕は、個人的には、

クワ(固、コワ)+ヰ(ヱ えぐい)、

とする説が、自分の実感とあう気がする。

炊いて加工する時は、蓚酸石灰を含んでえぐいので、炊く前に茹でこぼす必要があります。本草食鑑(1697年)にも、「煮熟で食べると、麻渋が抜けて、喉を刺激しない。灰湯で煮るのも佳い」とあります、

とあるのだからhttps://ameblo.jp/tachibana2007/entry-10155482913.html

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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おてんば


「おてんば」は、

御転婆、
於転婆、

等々と当てる(広辞苑)が、もちろん当て字である。

おてんま、

ともいう(江戸語大辞典)が、その場合、

御傳馬(おてんま)、

と当てている(仝上)。

少女や若い娘が。つつしみなく活発に行動すること、またそういう女性、

の意である(広辞苑)。

転婆、

という言葉もある。これは、

軽々しくてつつしみのない女、出しゃばりの女、

と少し「おてんば」より、意味の範囲が広くなる。さらに、男性も含めた、

そそっかしいこと、かるはずみなこと、またそういう人、

にもいう(仝上)、と意味の外延がさらに広がり、

親不孝なこと、またそういう人、

の意でも使う(仝上)。

「転婆」の表記は「書言字考節用集」にみえるが、この表記を男性に対して使用するのをはばかったのか、「天馬」という表記も見られる、

とあり(日本語源大辞典)、「転婆」が定着したのは、明治以降とみられる。

「おきゃん」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%82%83%E3%82%93)で触れたが、

蘭語 otembaar、

を語源とする(大言海)とし、

女の出過ぎたるもの。たしなみなき女。あばずれもの等々、

の意で、「てんば」は,

此語,古来,仏蘭西語なりと云ひ,又,顚婆なりと云ひ,又,天馬なりと云ひ,又傳播の意義の変転したるものなりと云ふが,皆あらず,蘭語にぞある、

とする(仝上)。しかし,蘭語説は,すこし疑わしい。

江戸語大辞典は、

蘭語説は非、

とするし、語源由来辞典は、

「おてんば」が18世紀中頃から使われているのに対して、18世紀初頭には「てんば」が使われているためオランダ語説は成り立たず、「てんば」に「お」がついたと考えるのが妥当である、

とする。日本語源大辞典も、

同様の意を表し得る「てんば」が既に近世前期にあるので、「てんば」を先行する語とみる方が自然であろう、

としている。江戸語大辞典は、

「お」は丁寧または軽侮の意を表す接頭語、

とするし、

てんばと同じ、

で、

江戸語としてはこの形がむしろ普通で、かつ女の身にいう、

とする。これは、

「書言字考節用集」に「女児所言」、「志不可起」に「女のしとやかになく、さわがしく、不行作なるをてんば女と云ふ」とあり、もとは女性を対象とした語であったが、男性に対しても使用された。「てんば」が上方語であるのに対して、江戸語ではお「てんば」といい、女性にだけ限定されている、

とある(日本語源大辞典)。

江戸語としては多く女にいうため、擬人名詞化して「お」を冠してもいう、

ともある(江戸語大辞典)ところをみると、上方で、

てんば、

が男性にも使われるのに対して、江戸では、

おてんば、

は、女性に限定していた、ということになる。いまも、「おてんば」は、女性に使う語感があるのはこのためかと思われる。

「おてんば」が「てんば」からきたことは明らかのように思えるのだが、意味の広がりからみると、ことはそう簡単ではないようだ。たとえば、

「大言海」はオランダ語 ontembaaar から「おてんば」が生まれたとする。しかし、同様の意味を表わしうる「てんば」が既に近世前期にあるので、「てんば」を先行する語とみる方が自然か。ただし、「てんば」は「おてんば」より広い意味を持ち、「しくじること」「親不孝で従順でないこと」などの意で、男女を問わず用いられ、現在でも西日本の各地にそれらが残っている。したがって、「てんば」に接頭語「お」を加えることによって「おてんば」になったと、単純にとらえることもできない。この点については、上方で用いられていた「てんば」が江戸語として使用されるに際し、オランダ語 ontembaaar が何らかの形で作用し、新語形「おてんば」を生じると同時に、意味の特定がなされたとの説もある、

とあり(日本国語大辞典)、蘭語説を一蹴しきれないのである。その意味で、

てんば→おてんば、

のみとは言えず、「おてんば」の語源は語源で、考える必要がなくもない。たとえば、

中世末期から近世にかけ、機敏なさまを「テバシ」や「テバシカイ」と言っていたため、この「テバ」が語源になり、「てばてば」や「お転婆」が生まれた(江戸東京語118話=杉本つとむ・語源由来辞典)、
女の子がでしゃばって足早に歩く様子をいうテバテバにオをつけて、オテバだなあといった言葉から(国語研究=金田一京助)、
オテンマ(御伝馬)から出た語。小荷駄馬と比べて御伝馬は飼養がよく楽をしているので、常に勢いよく跳ね回るところから(話の大事典=日置昌一・日本語源広辞典)、

等々からみると、古い、

テバシ、

テバシカイ、

の「テバ」の転訛というのは、ひとつ面白い気がする。これは、「転婆」の語源にもなりえる。

「てんば」については、

天馬からか(志不可起)、
「伝播」より出て、言いふらす義からでしゃばりの意に転じた(近松語彙=上田万年)、
「顛婆」で、ものぐるわしき婆(難波土産)、

等々しかなく、確かに、

「てんば」が何を語源とするかは判然とせず、

である(日本語源大辞典)。しかし、

テバシカイ、

は、室町末期の日葡辞書に、

物事を非常にてきぱきと行い、それと同時に敏捷である、

とあり、「西鶴織留」に、

此手はしき事、

とあるので、機敏なさまをいう、

テバシ、

テバシカイ、

とつながると見るのが、現時点では最も自然に思われる。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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伝法


「伝法」は、

デンポウ、
デンボウ、

と訓ませる。

仏法を師から弟子に伝える、

という意味(広辞苑)がある(だから「伝法院」の名がある)が、ここでは、

伝法な、

といった言い回しをする、

無銭で、芝居や見世物を見物すること、またその人、

の意であったり、そこから広がって、

悪ずれして乱暴な言行をすること、またその人、

の意で使う「伝法」である。

無頼漢、
ならず者、

と同義で使われたりする(仝上)。さらには、

勇み肌、

という意にもなっていく。

「いなせ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%9B)で触れたことがあるが、「伝法」は、

江戸浅草伝法院の下男などが、寺の威光を頼んで無無法なふるまいをしたからいう、

とある(仝上)。大言海は、「でんばう」は、

錢の出ぬ坊の義、

とし、

江戸、浅草寺別當、観音院を、寛永三年より智楽院と称せしを、同七年以降、七世の別當昂公然より、傳法院と改称したり。其院の仲間ども、寺の威を藉りて、観音境内の見世物を、無銭にて観たるより起こりし語。一説に、傳法院の奴輩の亡状より起こりて、仮名はでんぼうなりとも云ふ、

とある。原意は、

芝居、見世物に、木戸銭を払はず、入りてみること、

を指す。たしかに、「いなせ」や「だて」や「鉄火肌」と似た意味になっているが、どちらかといえば、かなり「しょぼい」連中である(なお「しょぼい」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%BC%E3%81%84)は触れたことがある)。

江戸語大辞典をみると、そうした無銭で感激する連中を、芝居者の隠語で、

伝法、

といったらしい。たとえば、

茶屋のかくしことばが大がいでんぼうとは、むかし油虫といひたる事(享和三年(1803)「三座例遺誌」)、
でんぼうとは、只見る見物のこと(伝奇作書後集)、

等々とある。それを指す、

伝法見物(でんぼうけんぶつ)、

という言葉もある。それが、

小言、苦情、

の意に転じ、

よつぴてでんぼうをいいの(芝居でぶうぶういふ通言也)、今はねやした(寛政初年(1789)「玉の幉」)、

と使われ、当然、

悪ずれして、粗暴な言動をなす者、

の意となり、

江戸ででんぼう、上方で、もうろくなどといふあばづれがあれど(文化十年(1813)「浮世風呂」)、

と使われ、それを、囃すものがいるから、

勇み肌、いなせ風を好むこと、またその人、

の意となり、この意で使うようになって、勇み肌の意の意で、

伝法肌(でんぼうはだ)、

と使われたり、それを好むものを、

伝法(でかぼう)好き、

等々といい(江戸語大辞典)、「伝法」を、

でんぽう、

と訓ませるようになり、

浮虚者(うはきもの)めは、でんぽうの方へ、ころげ込むテ(こころいきがいさみでいいといふから、これにて閉口さ)(文化十一年(1814)「素人狂言紋切形」)、

さらには、

虚言、うそ、

の意でも使われる(仝上)。

でんぼう、虚言を云、武蔵忍あたりの俗言なり(俚言集覧)、

これは、無銭の意に戻った感じである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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金山寺味噌


「金山寺味噌」は、

径山寺味噌、

とも当てる。

中国径山寺の製法を伝えたのでこの名があるという、

とある(広辞苑)。

嘗味噌(なめみそ)の一種、

ともある(仝上)。

大豆と大麦の麹に塩を加え、これに細かく刻んだ茄子、瓜などを入れ。密閉して熟成させたもの、

である。

和歌山県有田郡湯浅待ちの名産、

という。紀州味噌工業協同組合における、「紀州金山寺味噌の定義」は、

金山寺味噌麹の原料は、大豆・裸麦(大麦)・米の三種類を、全量麹で使用したものに限る、
金山寺味噌の具材(野菜)は、白瓜または真桑瓜、茄子、生姜、紫蘇の四種類を必ず使用していること、
金山寺味噌麹と具材を仕込み時に漬け込み、熟成させたものであること、

等々と定めているらしいhttp://www.kinzanjimiso.jp/about.html

「醤油」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E9%86%A4%E6%B2%B9)で触れたように、「醤油」と「味噌」は深くつながる。「なめみそ」とは、

ひしお(醤・醢)、

の意で、「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

「会意兼形声。『酉+音符将(細長い)』。細長く垂れる、どろどろした汁」

で(漢字源)、

肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、

の意と、

ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、

の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(仝上)。

「醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、中華料理の分野では、日本語でも、

ジャン、

と読むことが多い。「ひしお」は、醤の日本語の訓読みである。延喜三年(903)の『和名抄』に、醤の和名に

比之保」(ひしほ)、

が当てられている。「ひしお」は、

大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、

の意だが(日本語源大辞典)、

「醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。

「醤油は、醤からしみだし、絞り出した油(液)」

の意(たべもの語源辞典)の意であるが、室町時代に醤は「漿醤」となって、それに「シヤウユ」との訓読みが当てられた。現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞ったたまり醤油で、江戸時代に現代の醤油の製法が確立したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4

「日本では、塩を海水からとったので、塩がすぐ溶けてしまう。そこで塩の保存法として食料品と塩とを合わせた。草醤(漬物になる)・魚醤(肉醤、塩辛になる)、そして穀醤(味噌になる)があり、奈良時代に中国から唐醤(からびしお)が入り朝鮮から高麗醤(こまびしお)が入ってくる」

ことで、

「701年(大宝元年)の大宝律令に官職名として『主醤』(ひしおのつかさ)という記載が現れる。なおこの官職は、宮中の食事を取り扱う大膳職にて醤を専門に扱う一部署であった。主醤が扱ったものには、当時『未醤』(みさう・みしゃう)と書いた(現代の)味噌も含まれていた。このことから味噌も醤の仲間とされていたことがわかる。
醤の日本語の訓読みである『ひしお』の用例は平安時代の903年(延喜3年)に遡る。同年の『和名抄』(日本最古の辞書)において、醤の和名に『比之保』(ひしほ)が当てられている。また927年(延長5年)に公布された『延喜式』には、醤の醸造例が記され、『京の東市に醤を売る店51軒、西市に未醤を売る店32軒』との旨の記述もある。」

ということになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4

「多聞院日記」の1576年の記事では、

「固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当する」

と考えられる(仝上)。つまり、

「味噌ができると、その汁を『たれみそ』と称して用いた。『たまりみそ』とも『うすだれ』ともいった。醤油の現れる前は、たれみそが用いられた」

つまり、「たまり醤油」である。この「たまり」が「金山寺味噌」と関わる。「たまり」の発祥は、

「後堀河天皇の安貞二年(1228)に紀伊国由良、興国寺の開山になった覚心(法燈国師)が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝えた。そして諸国行脚の途中、和歌山の湯浅の水がよいので、ここで味噌をつくり、その槽底に沈殿した液がたべものを煮るのに適していることを発見した。後、工夫して文暦元年(1234)に醤油を発明した」

と伝える(たべもの語源辞典)、とある。同趣は、

「醤油は中国からもたらされた穀醤,宋の時代に伝わった径山寺みそ,日明貿易で中国から輸入されたという説があるが,紀州湯浅での醤油は径山寺味噌から発しているという説が有力である。この説は三世紀に宋で修業をおさめた僧(覚心)が径山寺味噌をひろめ,その製作工程中の上澄み液や樽の底にたまった液を集めて調味料として利用したというものである。」

があるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を、

「紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型」

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。しかし、その他に、

「伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型」

とする説等々もある(仝上)。いずれにしても、経緯は別にして、

浙江省杭州にあった能仁興聖万寿禅寺(通称徑山寺)にて作られていたなめみその製法を体得し、帰国。高野山を経て、開山した紀州由良(現:和歌山県日高郡由良町)の鷲峰山興国寺の周辺に伝えた、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E5%91%B3%E5%99%8C。2008年3月20日には、和歌山県岩出市の根来寺旧境内から、約430年前の金山寺みそが見つかった(仝上)、という。

「味噌」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%91%B3%E5%99%8C)については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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伝法焼


「伝法焼」というものがある。

転法焼、
天保焼、

とも書く、とあり(たべもの語源辞典)、

土器焼、

ともいいhttps://www.recipe-ru.com/denpo-yaki-sample

たべもの語源辞典には、

伝法焼という一種の陶器があって、この陶器で焼いた料理、

を指す(仝上)、とある。伝法とは、

焙烙(ほうろく)という器の名称、

でありhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99_M/020.html

京都伏見稲荷山の伝法が池の底土で作った土器を使って料理したこと、

が「伝法」の由来とする伝承もあるらしい(https://www.recipe-ru.com/denpo-yaki-sample・日本語源大辞典)。「伝法焼」とは、その焙烙に、

ネギを敷き、その上にカツオ・マグロなどの刺身を並べて焼いた料理、

とある(デジタル大辞泉)。後に、

土器で料理したもの、

を一般に伝法焼というようになり、また

貝殻に詰めて焼くもの、

も「伝法焼」と呼ばれることもある(日本語源大辞典)。

「焙烙」とは、

素焼の浅い皿型の土器。灰焙烙といい,茶道で用いるものもある。火のあたりがやわらかいので,茶,ゴマ,豆などを炒るのに適する、

茶葉・豆・ごま・塩などをいるための土鍋。

とあり(百科事典マイペディア)、素焼きの浅く丸い皿形のものの他、

やや小型の丸い鉢形で筒状の持ち手のついたものがある、

ともある(食器・調理器具がわかる辞典)。

炮烙、炮碌、

とも書き、

ほうらく、

とも訓ませ(関東では「ほうろく」)、

炒鍋(いりなべ)、

ともいう(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%99%E7%83%99)。

伝法焼の原型は、

焙烙焼、

ともあるが、伝法焼は、

焙烙焼、

とはかなり異なる、ともあるhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99_M/020.html

「焙烙焼」は、正確には、

焙烙蒸、

といい、

焙烙という素焼きの平たい土鍋を用いて材料を蒸し焼きにするから、

焙烙蒸、

という(たべもの語源辞典)、とある。京都では、文字通り、

ホウラク、

といい、

焙烙の底に塩と松葉を敷いて、松茸と骨切りしたハモを入れて焙烙をかぶせて蒸し焼きにし、果実酢をしぼりかけて熱いうちに賞味する、

とある(仝上)。讃岐には、瀬戸内海のタイ・サワラ・マツタケ・ハマグリ・クルマエビ・タマゴなどを並べ入れて蒸し焼きにした名物料理がある、という(仝上)。

大言海には、「焙烙蒸」は、

多く松茸に云ふ、

とある。

因みに、「焙烙」は、

火炙器(ホイロキ)の義(燕居雑話)、
炒り焦がすことをホイロ(火色)をかけるなどというところから、ホイロキ(火色器)の義(物類称呼・俚言集覧)、
ホイログ(火色具)の義(名言通)、
焙炉具の字音から(外来語辞典=荒川惣兵衛)、
中国古代に殷の紂王が行った火炙りの刑を炮烙といい、あぶり焼く意から(語源大辞典=堀井令以知)、

等々の語源説があるが、たべもの語源辞典は、

炮は、ヤクとかアブルで、焙もアブルなので、同じに用いられている。烙はヤクである。火であぶって焼くということで、炮烙(あぶりやく)の字音そのままの名称、

とする。

炮烙、

は漢語で、

炮烙之刑、

があり、史記・殷紀に、

紂乃重辟刑、有炮烙之刑、

とある(字源)。しかし、ここから採ったとすると、ちょっと首をかしげる。

一方「伝法焼」は、

土器(かわらけ)、

で料理したものを指す(たべもの語源辞典)。享和元年(1801)の『料理談合集』には、伝法焼とは、

ごとうかわらけに、ねぎの白根をせんに切って敷いて、これを火にかけて少し焼いてから、カツオ・マグロなどを刺身のように切って、その上に並べて焼く。色が変わったら返して、下地をこしらえておいてかける、

とある(仝上)。『料理早指南』(1801)には、

焙烙にネギの白根を敷き、その上に鰹、鮪などの作り身を並べて焼き、煮返した下地をかけた料理、

とある(精選版日本国語大辞典)。確かに、「伝法焼」と「焙烙焼」は、別物である。しかし、

現在では玉子に具を入れて蒸し焼にしたものが多く、炮烙や貝殻を器に使うこともある、

とあるhttps://www.recipe-ru.com/denpo-yaki-sampleので、差はなくなっている。なお、

伝法な、

で使う「伝法」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E4%BC%9D%E6%B3%95)とは、まったく由来が異なる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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五家宝


「五家宝」(ごかぼう)は、

五荷棒、
五嘉宝、

とも書き(たべもの語源辞典)、

糯米(もちごめ)を蒸して水飴などで固めて棒状にし、青黄粉などを表面にまぶしたもの、

で、

熊谷の名産、

とされ(広辞苑)、

草加煎餅せんべい、
川越の芋菓、

とともに、

埼玉三大銘菓、

といわれているhttps://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/meibutsu/gokabo.html、とか。その製法は、

もち米を一旦もちについてから薄くのばし、細かく砕いて煎り、あられ状にしたものをタネにします。五家宝の口ざわりに関わるのがタネならば、風味や外観を決定するのがきなこです。きなこの風味が五家宝の旨みを決定するといってもよいでしょう。タネをまとめて円筒状にし、より板(のし板)で長くのばしてから切ります。この工程は、飴の製法とも似ています、

とある(仝上)。

糯米(もちごめ)を蒸して水飴などで固める、

ところは、

糯米や粟などを蒸した後、乾かして炒ったものを水飴と砂糖で固めた菓子、

である「おこし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.htmlと似ている。だから、

おこし種を水飴などで固め棒状にした芯をきな粉に水飴などを混ぜた皮で巻き付け、さらにきな粉を表面にまぶしたものであり、青色のものは青大豆を用いて製造されている、

という表現にもなるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%AE%B6%E5%AE%9D

享保年間(1716〜36)、上州邑楽(おうら)郡五箇村の人がはじめて製し、五箇棒と呼んだのが起こり

とある(広辞苑・たべもの語源辞典)が、

その後中絶していたのを、文化(1804〜18)の頃、武州埼玉郡の鳥海亀吉が再興して不動岡五箇棒と名づけ(たべもの語源辞典)、

また、

天保(1830〜44)のころ大里郡玉井村の清水庄次郎が製したのを、江戸の吉原へ売り込んだのが、吉原棒と称して、珍重された(仝上)、

等々ともあるが、『熊谷市史』によれば「吉原殿中」は、

水戸藩第九代藩主の徳川斉昭(1800〜60)の側女が干飯にきな粉をまぶしたものを斉昭に茶菓子として献上したところ、これを気に入り側女の名前から名付けられた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%AE%B6%E5%AE%9D。その水戸藩の銘菓「吉原殿中」を元に、

文政(1818〜29)年間に水戸出身の水役人が武蔵国の熊谷宿付近に移住して茶屋を開き、故郷の「吉原殿中」を改良し「五嘉棒」として販売した、
あるいは、
群馬県の菓子商が「吉原殿中」を参考に「五ケ宝」として販売し、評判を聞いた武蔵国大里郡玉井村(後の熊谷市)の者が模倣した、
あるいは、
天保14年(1843年)に玉井村出身の者が熊谷宿で店を構え「五嘉棒」を改良して後の「五家宝」の基礎を作った、

等々とされる(仝上・熊谷市史)。

熊谷市のホームページhttps://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/meibutsu/gokabo.htmlにある、

熊谷で“五嘉棒”の名で売り出されたのが文政年間(1818〜29)でした。中山道の宿場町として栄え、市も開かれていた熊谷では、五家宝の原料となる「石原米」と称する良質の米がとれ、田畔あぜではきなことなる大豆が豊富に作られており、水飴の原料となる大麦も多く収穫され、生産に適していたようです。その後“五嘉宝”“五箇宝”の字があてられましたが、「五穀は家の宝である」という祈りを込めて現在の“五家宝”とつけられました、

とするのは、水戸藩の「吉原殿中」系統ということになる。

また、加須市のホームページhttps://www.city.kazo.lg.jp/soshiki/sangyoukoyou/syoukoushinkou/5653.htmlでは、

文化(1804 - 1817年)年間に、武蔵国不動ヶ岡不動尊總願寺の門前で「五家宝」として売られてきた、

としているし、その他、

天明の大飢饉(1782 〜88年)の際に武蔵国奈良村(後の熊谷市)の名主が被災者に焼き米を提供し、後に江戸の菓子職人に焼き米を使った菓子の開発を依頼したとする(仝上)、

等々とあるが、大田南畝の随筆『奴凧』(1821年)に、

安永6年(1777年)に日光参詣の道中で食べた「五荷棒」と比べ、今年(1820年)もらった秩父の「五かぼう」は形が大きくおこし米でできている、

という記述があるように、江戸時代より北関東の各地で同名異字の五家宝が作られており、製法も時代や地方によって様々なものがあったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%AE%B6%E5%AE%9Dのが実情のようだ。

因みに、水戸の銘菓として知られる「吉原殿中」(よしわらでんちゅう)は、

もち米から作ったあられを水飴で固め丸い棒のようにして、きな粉をまぶした菓子、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F%E6%AE%BF%E4%B8%AD、「五家宝」の由来といわれるだけあって、よく似ているが、

埼玉の五家宝と比較して吉原殿中の方が大きい(8cm程度)、

とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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すっとこどっこい


「すっとこどっこい」は、

ばかやろう、

と同類の罵り言葉であるが、元は、

ばかばやしの囃しことば、

である(広辞苑)。「馬鹿囃子(ばかばやし)」は、

神社などの祭礼の山車(だし)などの上で奏する祭り囃子、

で、

大太鼓・締太鼓(付太鼓)・笛・摩鉦(すじがね チョンギリ)を用いるにぎやかな囃子で、多くおかめ・ひょっとこなどの面をつけて踊る、

とあり(大言海・http://www.worldfolksong.com/kotowaza/suttoko-dokkoi.html)、

屋台囃子、

ともいう(デジタル大辞泉)。特に、関東での、

祭囃子(まつりばやし)の一つ、

とされ、

おかめや「ひょっとこ踊り」も合わせて演じられる、

とあるhttp://www.worldfolksong.com/kotowaza/suttoko-dokkoi.html。囃子詞は、例えば、北海道民謡『ソーラン節』でいえば、

ヤーレン ソーラン、

ハー ドッコイショー ドッコイショ、

のように、歌詞の合間に合いの手のように入れる意味のない掛け声で、現在、「すっとこどっこい」をそのまま囃子詞として用いている地域はないが、それに類似した、

トコドッコイ、

という掛け声を屋台の曳き回しの際に用いている地域が遠州地方にある(仝上)、という。名古屋市に伝わる座敷歌『名古屋甚句』(なごやじんく)では、囃子詞(ことば)として、

トコドッコイ、

が、

アーエ 宮の熱田の 二十五丁橋で エー
アー 西行法師が腰をかけ 東西南北見渡して
これほど涼しいこの宮を
誰が熱田と ヨーホホ アー 名を付けた エー
トコドッコイ ドッコイショ

と用いられている、とある(仝上)。「馬鹿囃子」は、

若囃子(わかばやし)の転訛、

とある(大言海)。「若囃子」は、

享保(1716〜36)の頃、武蔵葛西金町、香取明神の神主能勢環、村内の若者を集めて若囃子と云ふ一風の囃子を教へ、祭礼に出す。後宝暦三年(1753)、千住に賣女屋の許可あり、代官伊奈半左衛門、若者共の遊興を憂へて、大いに彼の囃子を奨励してより盛んになり、宝暦十二年(1762)より江戸の山王、及、神田明神の祭礼の山車に用ゐられたり。然るに千住の賣女屋、営業の邪魔なるより、罵りて此若囃子を馬鹿囃子と云ひしより、一般に馬鹿囃子の名、弘まれり。若殿様をばかとのさまなどと云ふが如し、

とある(大言海)。この囃子は、

大太鼓一人、締(しめ)太鼓(付太鼓)二人、ちゃんぎり(摩鉦(すりがね))一人、笛一人、別に、手替三人にて、囃子八枚と云ひ、後に祭礼終日につき、大太鼓、ちゃんぎり、手替各一人、笛手替二人にて、一組合十二人になると云ふ、

ものであり(仝上)、

鎌倉拍子、
品川拍子、

などをとって撃った、という(仝上)。「鎌倉拍子」はわからなかったが、「品川拍子」は、

神輿が渡御するときの囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる桶胴の締め太鼓を竹で作った撥でたたき、俗称トンビと呼ばれる篠笛によって演奏されます、

とありhttp://yukiwakai.or2.ne.jp/daibyoushi/index.htm、多くの曲目があるが、普通は、

「打込み」「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四(し)(仕)丁目(ちょうめ)」「屋台」(切(きり))の順で演奏する、

とある(日本大百科全書)。

こうした「若囃子」は、

里神楽から脱化したもの(広辞苑)、
里神楽から変じたもの(大言海)、

という。「里神楽」は、

禁中の御神楽(みかぐら)に対して、諸社や民間で行う神楽、

を指す。

さて、「すっとこどっこい」の語源だが、

「すっとこ」は「裸体」、「どっこい」は「どこへ」の意で、裸同然の格好でうろつく者を罵ったところからきた(日本語俗語辞典)、

という説がある。「すっとこ」自体に、

はだかのこと、
醜い男をののしっていう、

の意味があることはある(精選版 日本国語大辞典)。別に、「すっとこ」には、

すっとこ被(かぶり)、

という言葉があり、

馬鹿囃子のひょっとこなどが被る手ぬぐいのかぶり方。手ぬぐいを広げて頭をすっぽり包み、顔を出して、顎の部分でその手ぬぐいを結ぶ。ひょっとこかぶり、

の意とする(仝上)。「すっとこ」は、

多くおかめ・ひょっとこなどの面をつけて踊る、

という馬鹿囃子につながってくるhttp://www.worldfolksong.com/kotowaza/suttoko-dokkoi.html。別に、「すっとこかぶり」は、

素男被り(すっとこかぶり)、

とも当て、

頬被りの形で、手拭をぴったりと額に付け、顔の横は耳を隠さずに出すようにする。安来節どじょうすくい踊りの時や滑稽芸で人を笑わせるためや、歌舞伎などの演劇で三枚目を暗示させるために用いる被り方。異説として、この「すっとこ被り」を逆さにして、顎から回し頭頂部で結んだ滑稽を演出した被り方を南瓜被り・唐茄子被りと言う説もある、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%8B%AD、「素」と当てるところには、

はだか、

の意の「すっとこ」の含意もある。

ついでながら、「ひょっとこ」は、

潮吹き面(しおふきめん)、

ともいい、

竈(かまど)の火を竹筒で吹く火男(ひおとこ)の転(広辞苑・江戸語大辞典)、
大小不釣り合いの目と、徳利の如き口の意(大言海)、

と、両説あるが、後者は、

火吹竹で火を吹くため口を尖らした、

お面の様子を言っているので、

火男は東北地方の竈神といい、火男の神像はヒョウトクとも呼ばれる、

とあり(日本語源大辞典)、「火男」説が優勢のようである。その由来は、

舞楽に登場する「二の舞」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E4%BA%8C%E3%81%AE%E8%88%9E)に登場する滑稽な役の面が神楽へ移行したのが、滑稽な道化役としてのひょっとこのはじまり、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%93、里神楽(さとかぐら)では、

一連の番数の神楽のほかに番外として舞われる「もどき」と称される踊りにひょっとこの面をつけた踊りが舞われた、

とある(仝上)。

「すっとこ」は、「すっとこ被り」「ひょっとこ」とつながる、ちょっと道化役の語感があるが、「どっこい」は、

民謡などの囃子詞、

として、

やっとこどっこい、ほいさっさ、
お山繁昌と啼く烏、はあ、どっこい、どっこい、

等々とよく使われ、

どっこいしょ、

という言い方も、

草津よいとこ、一度はおいで、どっこいしょ、

というようにもする。「どっこいしょ」は、

力を入れたり、弾みをつけたりする時に発する掛け声、

の意もある。これは、「どっこい」の由来が、

相手の狙いをそらし、または防ぎとめようとする際に自然に発する相撲の掛け声ドコ(何処)へから(毎日のことば=柳田国男)、
「何処へ行くか、遣らぬ」というさえぎりとどめるときの掛け声、「どこえ」の掛け声化した語(江戸語大辞典)、

とする説があるように、両者が掛け合う間合いの含意があり、だから、

どっこい・どっこい、

に、

一方がドッコイと掛け声をかけて力を出すと、他方もドッコイと同じくらいの力を出す意から(上方語源辞典=前田勇)、

両者が綱引きあって釣り合っているようなニュアンスがある。それが、

不意に姿勢が崩れかけて「おっと」と言い、姿勢を崩してなるものかと踏ん張る「どっこい」と言う(実用日本語表現辞典)、

おっとどっこい、

のように、力んだり、弾みをつけるところにも、掛け声の間合いの感じが残っており、囃す合いの手、

どっこい、
どっこいしょ、



力む、あるいは弾む、

どっこいしょ、

とはつながっていて、まるで、

「道化役」をからかい気味に、

ひょっとこ、(もっと)やれやれ、(もっと)やれやれ、

と囃しているように感じられる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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はやす


「はやす」は、

囃す、

と当てる。「囃」(ソウ)は、

会意兼形声。「口+音符雜(ゾウ まじえる)」、

で、

そばから合いの手をいれる、
音楽や舞の拍子を取る時の掛け声、

の意であり(漢字源)、

祇園囃子、
馬鹿囃子、

のように、

歌に合わせて調子を取る鳴り物、
歌なしで楽器のみにて奏する音楽、

の意の(字源)、いわ/ゆる、

おはやし、

の意で使うのは、我国だけのようである。

「はやす」は、

手を打ち鳴らしたり、囃子詞(はやしことば)を唱えたりして、歌舞の調子をとる(一人が歌い、一人がはやす)、
囃子を奏する(笛・太鼓ではやす)、
うまくさそって気分を起こさせる、調子にのせる(声にはやされて踊り出す)、
からかったり、冷やかしたり、ほめたりする言葉を大声で唱える、盛んにいう(いたずらっ子たちがはやす)、
株や商品の市場で、有望なものとして皆が取りざたする(建設株がはやされている)、

といった意味の幅を持つ(広辞苑・大辞林)。その語源は、

ハエ(映)の他動詞形。ハヤシ(早)・ハヤリ(流行)と同根、(前進の)勢いを激しくする意。他から光や音をそのものに加えて、その物が本来持っている美しさ・立派さ・勢いを輝かし、力あらしめる意、

とある(岩波古語辞典)。

栄やすの意、

とある(大言海)のは、この言葉が、

囃、助舞聲、

とある(玉篇)ように、漢字「囃」の原義と近いところの、

聲を出して歌曲の調べを助く、
声をかけて、鼓、笛の音を添えて栄えしむ、

という意味(大言海)から起こったのだということをうかがわせる。その意味では、

映ゆ、
栄ゆ、

と当てる「はゆ」が、

生ゆ(古語大辞典)、

晴る(大言海)、

に通ずるとされるように、

他からの光や力を受けて、そのものが本来持つ美しさ・立派さがはっきり表れる、

意であったものが、他動詞となって、

映えさせる、

側になったということになる。だから、名詞化されて、

はやすこと、

の意となった時、

囃、
囃子、

と当て、

能楽・歌舞伎・長唄・民俗芸能など各種の芸能で、拍子、をとり、または情緒をそえるために伴奏する音楽。笛・太鼓・鼓・三味線・鉦などの楽器を用いる(広辞苑)、

意となったのは当然だが、あるいは、

囃、

が本来の意味で、そこから動詞化したのかもしれない。だから、

ハヤシ(拍やし 拍子)、

を語源とするというのが、妥当かもしれない。「拍子」は、漢語の、

ビャクシの音便、

であり、

打楽器の間一種、木で作った釈のようなかたちのもの。二枚で打ち合わせ掌音を出す。神楽・催馬楽などで、歌を歌う人が、曲節の間でこれを打って調子を整える、

とある(岩波古語辞典)ので、まさに、

囃す、

役割である。

「囃子」は、

能楽は、大鼓・小鼓・太鼓・笛の四器で四拍子(シビョウシ)、
神楽囃子は、笛・太鼓を主とし、しばしば鉦を加える、
歌舞伎囃子は、能の小鼓、大鼓、太鼓の四拍子囃子が使われていたが、三味線の登場とともに、三味線が歌舞伎音楽の中心的地位を占める、

とある(岩波古語辞典・http://dev-enmokudb.co-site.jp/phraseology/phraseology_category/kabuki_no_ongaku)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ゆたか


「ゆたか」は、

豊か、
裕か、

と当てる(日本語源広辞典・大言海)。「豊(豐)」(漢音ホウ、呉音フ、慣音ブ)は、

会意兼形声。峰、鋒などの、丰は、△型にみのった穂を描いた象形文字。豐はその字(ホウ)を音符とし、山と豆(たかつき)を加えて、たかつき(高坏)の上に山盛りに△型をなす穀物を盛ったことを示す。のち、上部を略して豊と書く、

とある(漢字源)。「丰」(漢音ホウ、呉音フウ)は、

象形。封の原字、草の穂が(三角形に)茂るさま。夆(逢の原字、峰、鋒、蜂の音符)、邦、豐の音符となる、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B0

「ゆたか」は、

豊富・富裕なさま、
広々と余裕のあるさま、
不足なく整っているさま、
六尺豊か、というように他の語について、不足のないことを表す、

といった意味の幅がある(岩波古語辞典 大言海は、他の語につくのは、接尾語として別項を立てている)が、どうやら、

物の豊かさ、
から、
心の余裕、

の意に広がったように見える。

「ゆたか」の語源は、

「ゆた」+接尾辞「か」

とみられるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%9F%E3%81%8Bが、「ユタ」は、

擬音語に基づく、

とする説がある(広辞苑)。日本語源広辞典は、

ユタ(のびやか・ゆったり)の形容動詞化、

とし、

ユタカ→ユタケシ→ユタカナリ、

と変化したとするが、それは、「ユタカ」の形容詞形、

ゆたけし、

を前提にした話で、「ゆたか」の語源とは別のことではないか。確かに「ゆた」は、

寛、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

かくばかり恋ひむものそと知らませばその夜はゆたにあらましものを、

と万葉集にあるように、

ゆるやかなさま、
ゆったりとしたさま、

の意で載る(仝上。

しかし、「ゆたか」は、たとえば、

「この子をみつけて後に竹取るに、ふしをへだてて、よごとにこがねある竹を見つくること重なりぬ。かくて翁やうやうゆたかになりゆく」(竹取物語)

というように、

物事の満足りること、
富裕、

の意であり、せいぜい、

嬉しさを何に包まん唐衣袂ゆたかに裁てと言わましを(古今和歌集)、

と、

ゆるやか、

の意である。時系列は前後するが、

ゆた、

の心理的な「ゆるやかさ」と、

ゆたか、

の物理的な「ゆるやかさ」とは、乖離がある。この「ゆた」が「ゆたか」の語源とは思えず、むしろ、「ゆたか」の意味が心理的なものに広がった後のことばなのではないか、と思え、

擬音語に基づく、

という説が、意味ありげに見えてくる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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こけら


「こけら」は、

杮、

と当てる(広辞苑)。「かき」の、

柿、

とは別字である。「かき(柿)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%8B%E3%81%8D)で触れたように、

「柿(柹)」の字は,

「右側はもと市ではなく,つるの巻いた棒の上端を一印で示した字(音シ)。上の棒の意を含む。柿の元の字はそれに木を加えたもの。かきの皮を水につけ,その上澄みからしぶをとる。」

とある(漢字源)。これは,

「もともとカキという字は『柹』という風に書き、つくりの部分は『し』という音読みで、『一番上』という意味を持っている字です。カキは、皮を水につけて、その上澄みからしぶをとっていたためこの字になりました。そのあと、形が変化し、『柿』という字になったのです。これと似たようなものに『姉』があります。これも『あね』が一番上のため「姊」という字になり、「姉」に変化したんです。」

という説明がよくわかるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10146565810。ただ,「柹」の字については,『大言海』が,

「正しくは,杮なり,柹は俗字なり。然れども,市(イチ)にて通用す。」

としている。「柿」(シ かき)と「杮」(ハイ こけら)」の区別は,正直つかない。ただ、「杮(こけら)」(漢音ハイ、呉音ホ)の字は、

会意兼形声。「木」+音符「巿」。「巿(フツ:『市』とは別字、『朮』から、右肩点を除いた形が本来の字体)」は「肺」の旁に見られる文字で、左右に切り分けるの意、

であり、「柿(かき)」(漢音シ、呉音ジ)は、

会意兼形声。元の字体は「柹」、旁は、「姊(=姉)」などに見られる蔓の巻いた棒の上部を指したもので「上方の」「上位の」を意味する語。柿の皮を水につけ上澄みから渋を取ったことによるもの、

でありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%AE、「柿(かき)」の「市」は、

「亠(なべぶた)」+「巾」で、「柿」は、九画、

で、

「柿(こけら)」の「市」は、

「市」で、八画、

であり、「柿(かき)」の、「市」は、「なべぶた」と巾の間に隙間があり、「柿(こけら)」は一本に通っている、という違いがあるhttps://eigobu.jp/magazine/kokera。大言海も、

杮の旁の中の竪畫は、上下を貫けり、コケラブキをカキブキとも云ふは、果(くだもの)のカキの字と見誤りて讀むなり、

としている。

「こけら」は、

木屑、

とも当て(広辞苑)、

木材を削るとできる木の細片、また木材を細長く削り取った板、

の意で、

杮板(こけらいた)の略、

でも使う。大言海は、

コケは、木削(コケヅリ)の下略(弓削(ゆけづり)、ゆげ)、ラは、添えたる辞(苔(コケ)をコケラとも云ひ、鱗(コケラ)をコケとのみも云ふ)、

とし、本来は、

木材を、斧又手斧にて、削りて落ちたる細片、いまコバと云ふ、

それが転じて、

特に板屋を葺くのに用ゐる薄き板、大小、種々なり、檜、槙、椹(さはら)などの材にて、長方形に削り成す、長さ六七寸、又、尺余の者あり、幅三寸許、厚さ一分許、こけら板とも云ふ。そぎいた、くれ、こばいた、やねいた。此の板にて屋根を葺きたるを、こけら葺きといふ、

とする。他の、

「木の切屑」のことをコケラ(和名抄)というのはコギレ(木切れ)の転である。また、ケケラ(名義抄)というのはキギレ(木切れ)の点である(日本語の語源)、
コヘラ(木片)の義(言元梯)、
コケは細小の義、ラは助語(類聚名物考)、
コは木、ケラは削ラヌの意(和句解)、

等々、何れも意味は同じである。

削ぎ落す意味の動詞「こく(扱)」や、肉が削ぎ落ちた状態になる動詞「こく(痩)」と同源か。木の表面を削ぎ落したことでできる木片を指し、魚の表面を削ぎ落すことでできる「鱗(こけら)」も同語原、

とある(日本語源大辞典)し、また、

キ音(木・今・金・欣・勤・期・近)をコと発音する例は多い。コノミ(木の実)・コケラ(木切れ)・キコル(木伐る)・ココン(古今)・コンジョウ(今生)・コンゴウ(金剛)・ゴンク(欣求)・ゴンギョウ(勤行)・マツゴ(末期)・ムゴ(無期)・サイゴ(最期)・コノエ(近衛)、

とあり(日本語の語源)、i→oと母音交替することが多い(仝上)、

コギレ(木切れ)→コケラ、
か、
コケヅリ(木削り)→コケラ、

ということになる。

鱗(うろこ)を、

こけら、

と訓ませるのは、

こけら、

に似ているというより、

こけら葺きの形に似る、

というべきだろう(大言海)。「こけら葺き」は、

屋根を、こけらにて葺く、

意(仝上)で、

薄く短い板を重ねて葺く。曲線的な造形も可能で、優美な屋根をつくることができ、主に書院や客殿、高級武家屋敷などに用いられた。耐用年数は25年程度とされる。また、瓦葺の下地として用いられることもあり、土居葺あるいはトントン葺と呼ばれる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%91%E3%82%89%E8%91%BA

「こけらおとし」は、

新しい劇場・舞台ではじめて催される公演のこと、

を指すが、

「こけら」とは木材を加工した時に出てくる木くずのこと。劇場などの新築や改築工事の最後に、内外装の「こけら」を払い落とした(掃除した)、

ことから、完成後初めての興行を言うようになったhttp://www.smile-labo.jp/article/15297536.html

また、「こけらずし」というのがあるが、

魚肉を飯に載ること、コケラ葺の如き意、飯を魚腹に籠めたる鮨に対する語、

とあり(大言海)、

薄く切った魚肉などを飯の上に並べた姿が、こけら板(屋根を葺くのに用いるスギやヒノキなどの薄い削り板)に似ていることから付いた名である、

ともある(語源由来辞典)ので、「飯鮨」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%A3%AF%E9%AE%A8)に対して、飯の上にコケラのように並べたからいうものと思われるが、

魚腹に飯を詰めた丸鮨などに対して言う、

ともある(江戸語大辞典)ので、よく分からないが、

米に恵まれなかった南予の沿岸沿いの人達が、すし飯の代わりにおからを使い、酢でしめた魚を巻いて握ったもの、

を「丸ずし」といった、とあるhttps://www.pref.ehime.jp/nan53123/yawatahama-hc/hokenjo/resipi/04resipi03.htmlのは、郷土料理化したもののようである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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こしき


「こしき」は、

甑、

と当てる。

米などを蒸すのに用いる器。瓦製で、形は丸く、底に蒸気を通す穴がある。のちの蒸籠(せいろう)にあたる、

とある(広辞苑)。

「甑」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

会意兼形声。曾(ソウ 曽)は蒸籠をのせて蒸す、こしきを描いた象形文字。上部のハ印は、湯気の出るさま。いくえにも重ねる意を含み、「かつての経験が重なっている」意の副詞となった。甑は「瓦(土器)+音符曾」で、曾の原義(こしき)を表す、

とあり(漢字源)、

せいろうを上に重ねて、下から火をもやし蒸気で穀物を蒸す器具、

の意である。「曾」(漢音ソウ・ソ、呉音ゾ・ゾウ)は、

象形。「ハ印(湯気)+せいろう+こんろ」をあわせてあり、うえにせいろうを重ね、下にこんろを置き、穀物をふかすこしきの姿を描いたもので、甑の原字、

とある(仝上)。「粥」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%B2%A5)で触れたように、弥生時代、米を栽培し始めるが、この時は、

脱穀後の米の調理は、…玄米のママに食用にした。それも粥にしてすすったのではないかと想像される。弥生式土器には小鉢・碗・杯(皿)があるし、登呂からは木匙が発見されている、

とある(日本食生活史)。七草粥は、この頃の古制を伝えている(仝上)、とみられる。

弥生時代の終わりになると、甑(こしき)が用いられ、古墳時代には一般化する(日本食生活史)。

3世紀から4世紀にかけて朝鮮半島を伝い、日本にも伝来した、

と見られhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91、「甑」は、中国で、

新石器時代に袋状をなした三脚を有する鬲(れき)や、底部に若干の穴をほったこしき(瓦+曾)、また鬲と甑を結合させた甗(こしき)などがあった。甑は漢代に使用され、それが南満・朝鮮半島を経て、米の流入とともにわが国に伝わった、

とある(日本食生活史)。「鬲(れき)」は、

古代中国において用いられた中空構造の三足を持った沸騰機。3本の足の中の空間に水を入れ、その上に甑(こしき/そう)を載せて火にかけ、水を沸騰させることで粟や稲などを蒸した。鬲と甑を1つと看做した場合には甗(げん)とも称する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%B2

「甑」は、

こそき、

ともいい、

土製の甑のほかに、木製のものもあったので、

橧、

とも当てる(仝上)。

甕(かめ)に似た器の底に1つ、あるいは2つ以上の穴をあけ、これを湯沸しの上に重ね、穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているもの。弥生時代以来使われるようになり,平安時代以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって,江戸時代からのせいろうに引継がれた、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

内に麻布のような粗織の布をしき、洗った米を入れてかたく蓋をし、湯をたぎらせた壺に重ねて仕掛ける。下から火をたくと、壺の湯はさかんに湯気をあげ、湯気は甕底の穴をとおって米を蒸す、

のである(日本食生活史)。

古墳時代の遺物に、

竈と釜と甑の一揃いになったもの、

が、発見されており、

土師器(はじき)の竈の上に須恵器の釜が載り、その上に下部に蒸気穴のある甑を置く蒸し器のセットである。釜の底部は黒く焼けた跡がある。この三点を組み立てた高さは約80センチである。土師器は、弥生式土器の流れをくむ黄褐色または赤褐色の土器で、整形された粘土素地を大気中の酸化焔で焼成されるため、多孔質で硬化の度合いは低い。これに対し、須恵器は半密閉の竈の還元焔で、時間をかけて焼かれるので、陶器に近い硬さをもつ帯青灰色の土器である、

とあるhttp://www.sakaiminato.net/c817/roadmap/bunkazai/doki/

「こしき」の語源としては、

カシキ(炊)の転(大言海・東雅)、

似たものに、

米をかしぐ器の意(名語記・日本釈名)、
動詞「かし(炊)く」と同源か(小学館古語大辞典)、
カシキ(炊)からできた(時代別国語大辞典−上代編)、
炊籠(カシキコ)からコシキになった(たべもの語源辞典)、

等々がある。その他、

カシキ(粿器)の意(言元梯)、
コシキ(越器)の義。ものを蒸す時、火気を中にへだてて上へ越すところから(和句解・柴門和語類集)、
木の葉を敷いたり覆ったりしたので木敷(こしき)(たべもの語源辞典)。
出産時のまじないや合図に用いたことからコシキ(児敷)(和訓栞)、

等々があるが、たべもの語源辞典が言う通り、

炊器(かしき)が、コシキになった、

とするのが妥当なのだろう。

参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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呉汁


「呉汁」というものがある。

豆汁、

とも当てる(広辞苑)。

水にひたして柔らかくした大豆をひいた「ご」(豆汁)を入れた味噌汁、

とある(仝上)。

醐汁、

とも当てるが、

呉汁、

も共に当て字である(たべもの語源辞典)。

「ご」は、

豆汁、

と当て、

水に浸した大豆をひきつぶして乳状にしたもの、

で、

豆油、

とも当て、

まめあぶ、

ともいい(デジタル大辞泉)、

豆腐の原料や染物または油絵の彩料に用いる、

とある(広辞苑)。中国でいう、

豆汁(とうじゅう)、

は、中国語で、

豆汁儿、
酸豆汁儿、

といい、

緑豆を煮てから、すりおろして作った豆乳を乳酸発酵させた、少し酸味のある飲料、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E6%B1%81、別のものである。で、

大豆を水に浸し、すりつぶしたペーストを、

ご(豆汁)、

といい、「ご(豆汁)」を味噌汁に入れたものを、

呉汁、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%B1%81のだが、擂り潰した枝豆を入れた味噌汁は、

青呉汁、
あるいは
枝豆呉汁、

というのだそうである(仝上)。「ご(豆汁・豆油)」の語源は、

糊の義か(名語記)、
豆汁をいうコウ(膏)からか(袂草)、
コミヅ(濃水)の下略(鈴木棠三説)、

等々あるが、はっきりしないが、「濃い」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E6%BF%83%E3%81%84)は、古くは接頭語「こ」として、

濃、

と当て、接頭語として、

濃紫(こむらさき)、
濃酒(こさけ/こざけ)、
濃染(こぞめ)、

色や液汁の濃いことを示す(大言海・岩波古語辞典)。この「こ」(濃)はまた、「こ(凝)」と通じる。「濃い」の「こ」の転訛の可能性が高い気がする。

さて、「呉汁」は、

大豆を水につけて軟らかくなったら、擂鉢に入れてかきまわすと豆の表皮がむけるから水を加えて浮いた皮を流す。皮がなくなったら、さらによくすりつぶし、裏漉しにかけて、鍋に入れ、煮出汁を加えてのばす。具には蓮のごく若い葉をつまみ、塩ゆでにしたものを碗に盛っておく。ほうれん草でもよい。鍋の大豆汁に味噌を加えて汁をつくって碗に盛る、

とある(たべもの語源辞典)が、

秋に収穫された大豆が出回る秋から冬が旬で、呉汁に入れる大豆以外の具材は、人参、大根、牛蒡、玉葱等の根菜類、豆腐、厚揚げ、油揚げ等の大豆加工品、葱、芹、唐辛子等の薬味、芋がら、こんにゃく、椎茸、煮干し、鶏肉等で地域毎に様々である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%B1%81

擂り潰した大豆と野菜類が豊富に入った呉汁は栄養価が高く体が温まり、冬場の郷土料理として日本各地で昔から親しまれている(仝上)が、大豆を擂らずに、おからをそのまま使って、油揚げやネギを入れた味噌汁を作ることも多かった、という(仝上)。一説に、

厚木地方の農家で、大豆打ちをしたときにこぼれた豆が雨の降られてふくれているのを利用したのが起こり、

という(たべもの語源辞典)。しかし、各地にあるので、何処と地域は限定できまい。

「呉汁」に、

豉汁、

と当てる説もあるが、「豉」は、「納豆」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%B4%8D%E8%B1%86)で触れたように、

中国では、納豆を「鼓(し)」といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキ(久喜)としてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である、

とあり(たべもの語源辞典)、「ご」とは別物である。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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こじり


「こじり」は、

鐺、

と当てる。「鐺」(漢音ソウ・トウ、呉音ショウ・トウ)は、

会意兼形声。「金+音符當(あてる、おしあてる)」

で、

こて、
なべ、

といった意であり、

こじり、

の意で用いるのは、我国だけである(漢字源)。

「こじり」は、

璫、

とも当てる(広辞苑)。「璫」(トウ)は、「みみかざり」の意だが、

椽頭(たるきのはし)の飾り、

の意があり、中国では、「こじり」の意は、「璫」の字を当てる(字源)。

さて、「鐺(こじり)」は、ふつう、

刀の鞘の末端につける装飾の金具、

の意で使う(仝上)が、もともと

垂木(たるき)の端、またその飾り、

の意である(仝上)。その意の「こじり」に、大言海は、

木尻、

と当て、

椽(たるき)の端、榱(スイ たるきの意)端、

とする。和名抄には、

榱、椽、太流岐、

とある。垂木(たるき)は、

古くは垂木(たりき)、又は、へぎ、

とある(大言海)。建築における小屋組構造材で、軒桁−母屋−棟木の上に等間隔に渡され、

頂上の棟木から垂らすように斜めに取り付けられているから「垂木」と呼ばれる、

とあるhttp://www.yaneyasan13.net/rafter

一つ草堂あり、津堂と云ふ、其の堂の軒の椽の木尻、皆焦がれたり、

と(今昔物語)ある。たとえば、仏教建築で、

十餘閧フ瓦ぶきの御堂あり、たるきのはしばしは金の色なり(栄花物語)、

とあるように、

我が国の垂木は朱色を塗るだけで、一切の文様はありません。ただ、垂木の「鼻・木口」には銅板の透かし彫りに金メッキした「飾金具(青矢印)」を取り付けるかまたは、黄色で装飾いたしました、

とあるhttps://www.eonet.ne.jp/~kotonara/tarukinooha.htmのが、「椽端」である。

それが転じて、

木尻の飾りもの、

の意とも使われ(大言海)、

璫、

を当てるのは、もともと「こじり」の意で使うのは、「璫」の字をもってするからである。たとえば、班固・西都賦に、

裁金璧以飾璫、

とあり、その註に、

璫、椽端の飾り、

とあり、和名抄にも、

璫、古之利、

とあるところを見ると、「璫」と「鐺」が混同された、とみられる。しかし、「璫」が、

刀剣の鞘尻、多くは、其端を、金属(かね)、角、等々にて包み、飾りたるものに云ふ、

ようになって、あるいは、

金當の合字、

という(大言海)のが正解なのかもしれない。「鞘尻」の意の「鐺」には、

小尻(広辞苑)、
戸尻(図録日本の甲冑武具事典)、

とも当てる。

「こじり」と似た意味で、

石突(いしづき)、

がある。もっぱら、

矛・槍・長刀(なぎなた)の柄の端を包んだ金具、

の意で使われるが、もともとは、

太刀の鞘尻を包んだ金具、

の意であった(広辞苑)。「太刀」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E5%A4%AA%E5%88%80)で触れたように、佩刀が,

太刀(たち),

であり、腰に佩く。腰に差すのは、

打刀(うちがたな)、

であり、太刀が主に馬上合戦用なのと違い、徒戦(かちいくさ)用に作られた刀剣である。武士の主流になっていく。

太刀は、後下りに佩くものなり、……太刀を佩きて蹲踞すれば、鞘尻は必ず石へつく、……庭上には、必ず甃(いしだたみ)あるべきゆえ、石づきと云へルカ(刀剣略説)、

とある(大言海)。さらに、

鐺の字を書きたるあるは、かなものの當るといふ二合字なり、

とし(仝上)、「いしづき」にも、

鐺、

を当てていることになる。古くは、

鐺金(こじりがね)、

ともいった(図録日本の甲冑武具事典)らしい。

これが転じて、

戈、槍、長刀などにも云ふ、

ようになる(仝上)。これがさらに転じて、今日、

杖、蝙蝠傘などの柄の地に突く部分に嵌めた金具、

にも云うが、既に古く、

樫の木の棒の一丈余りに見えたるを八角に削って両方に石突をいれ(太平記)、

という用例もある。

なお、「長刀」は、「薙ぐ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba14.htm#%E8%96%99%E3%81%90)、「槍」は、「やり」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%82%84%E3%82%8A)、 「刀」は、「かたな」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%AA)、「太刀」は、「太刀」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E5%A4%AA%E5%88%80)、で、それぞれ触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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こんこんちき


「こんこんちき」は、

狐の異称、

だが、いまではほぼ使わない。

江戸時代には、「江戸ッ子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-3.htm#%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%83%E5%AD%90)が、

大違いのこんこんちきさ、
とか、
あたりきしゃりきのこんこんちき、
とか、
合点承知のこんこんちき、

といったように、

他の語の下に着けて語彙を強調する語、

としても使われた(広辞苑)。また、「すっとこどっこい」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%81%99%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%93%E3%81%A9%E3%81%A3%E3%81%93%E3%81%84)で触れた、

ばか囃子などの拍子を表わす語、

でもあった(大辞林・精選版日本国語大辞典)。

「こんこんちき」は、

こんこん(狐の鳴き声)+チキ(人)、

とする説もある(日本語源広辞典)が、

こんこんとこんちきの合成語、

とする説(江戸語大辞典)もある。「こんちき」は、

こんきちの下半を転倒した語、

で(仝上)、

彼(あ)の爺は野狐(こんちき)か古狸(ももんじ)のばけたのかもしれねへわい(安政四年(1857)「七偏人」)、

と使われている。

コンチキは、戯れか、語路滑らかならぬためか、吉(きち)を倒に云ふなり(變ちき、鈍ちき、高慢ちき)、

とする(大言海)。ただ、「トンチキ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%AD)で触れたように、「変ちき」「高慢ちき」の「ちき」は、「的」の転訛と見る方が妥当と思うが。

「こんきち」は、

狐吉、

とも当て(大言海)、

こんこん、

という狐の鳴き声から、擬人化したもの。

三浦屋の遊女吉野、度々子を産みしとて、子を易くたびたび生める故にこそこんきちさまとひとは云ふなり(寛文(1661〜73)「吉原袖かがみ」)、

と使われる。

鳴聲を狐として、擬人したる語(石部金吉、膝吉、臑吉)、

とある(大言海)。「こんこん」は、

狐の鳴き声、

の他、

木質系を軽く打つ音、
軽い咳をする音、
雪のしきりに降る音、

という意もある擬音語であるが、咳の音や雪の音として使われるのは、近代になってからのようで、

かたいものを軽く続けて打ったときに出る音、

は、室町時代からみられる(擬音語・擬態語辞典)とあるが、

狐の鳴き声、

としての擬音は、古く、奈良時代からみられる(仝上)、とある。万葉集に、

さし鍋に湯沸かせこども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より來む狐に浴(あ)むさむ、

という歌があり(長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ))、

狐の声「こむ」に、「來(こ)む」(来るであろう)を掛けている、

とある(仝上)。狐の声、

こんこん、

は、しばしば、

來ん来ん(来よう来よう)、

に掛けて聞かれる(仝上)、とある。たとえば、

こんこんと言ひし詞の跡なきはさてさて我をふる狐かも(寛文一二年(1672)「後撰夷曲集」)、

といったように。

ただ、狐の声は、室町時代から江戸時代にかけては、

くわいくわい、

という別の聴き方があり、狂言では、

命を助けうほどに、くわいくわいと啼け(「寝代」)、

とあり、「こんこん」と「くわいくわい」を合体させた、

こんくわい、

と、「後悔」の意味を掛けた聴き方もあったらしい(仝上)。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ごんすけ


「ごんすけ」は、

権助、

と当てる。

江戸時代、下男や飯炊き男などに多い名であったところから、

下男、
しもべ、

の意とされる(広辞苑)。

釈迦も孔子も於三(おさん)も権助も(浮世風呂)、

と使われる。「おさん」は、

御三、
御爨、

とも当て、

おさんどん、

とも呼ばれる、江戸語の、

飯炊き女、
女中、
下女、

を指し(仝上)、広く、

腰元や台所で働くむ下女、

を指す(日本語源大辞典)、由来は、貴族の邸の奥向きで、下婢(かひ)の居るところである、

御三の間の略、

とする説(大言海)と、かまどをいう、

御爨、

に掛けた洒落とする説(広辞苑・日本語源大辞典)等々があるが、何れも、「かまど」と関わるとみていい。「おさん」と「権助」が並んでいるところを見ると、「権助」は、確かに、

人名、

ではあるが、下男の代名詞のように使われている、とみていい。

下男・飯焚男の通名・異称(江戸語大辞典)、
元々「権助」という名前は個人名というより、地方出身の商家の使用人、特に飯炊きの総称で、職業名を示す普通名詞だったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%8A%A9

等々とあるのは、そのためかと思われる。『権助芝居』『権助魚』『権助提灯』等々、江戸落語ではおなじみである。しかし、『隠語大辞典』には、

無宿浮浪ノ窃盗犯人、
浮浪窃盗犯を云ふ(関東)、

とあるので、余りいいイメージはなさそうである。ちなみに、

権七、

というのも、

下男・飯焚男の通名・異称、

である(江戸語大辞典)らしい。これは、少し転じて、

安っぽい男、

の意となり、後述の、

居候、

の意の、

権八、

に代えて使ったりする(寛文十二年(1672)風俗通「まだ居候の権七だ」)。

同じ「権」つく名でも、

権太、

となると、

わるもの、
ごろつき、

の代名詞であり、それが、

いたずらで手に負えない子供、

つまり、

腕白小僧、

にも使う。浄瑠璃「義経千本桜」の鮨屋の段の人物、

いがみの権太、

に由来するらしい。

食客を権八と云ふ例なり、

とある(大言海)。権八は、

白井権八、

で、

侠客幡随院長兵衛の家の食客だったところから、

居候、
食客、

の代名詞として使われている(広辞苑)。これも、歌舞伎「傾情吾嬬鑑」で演じられたことからきている(大言海)。

それにしても、「権(權)」(漢音ケン、呉音ゴン)は、

はかり、
はかりごと、

の意で、

形声。雚(カン)が音をあらわし、元、木の名。しかし一般には棒ばかりのおもりの意に用い、バランスに影響する重さ、重さをになう力の意となる。バランスを取ってそろえる、

とあり(漢字源)、「権衡」と使われ、「権謀」とつかわれ「権力」と使われるが、別に、

形声文字です(木+雚)。「大地を覆う木」の象形(「木」の意味)と「2つの冠毛と両眼が強調された水鳥」の象形(「こうのとり」の意味だが、ここでは「援」に通じ(同じ読みを持つ「援」と同じ意味を持つようになって)、を意味する「権」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji940.html

たすける、

という含意がある。仏教の「権化」「権現」等々とも使い、

かりの、
かりそめの、

という意味もある。そこから、

権中納言、

というような、

定員のほかに仮に任じた官位、

の意や、

権僧正、

というような、

最上位の次の地位、副(そえ)、

の意味がある。「権助」の「権」は、

仮名、

の含意がある。柴田勝家は、通称、

柴田権六、

といった。「通称」は、

仮名(けみょう)、

であり、

江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた名、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D_(%E9%80%9A%E7%A7%B0)。「権助」「権太」「権八」は、下男、悪漢、居候の代名詞であった。「権」の字のもつ、まさに、仮に人間界に現われた菩薩を言う「権化」のような、

かりそめの名、

である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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かかし


「かかし」は、

案山子、

と当てる。

かがし、

とも言う。

鹿驚、

とも当てる(岩波古語辞典)。当初は、

田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近づけないようにしたもの。獣の肉を焼いて串に刺したり、毛髪、ぼろ布などを焼いたものを竹に下げたりして田畑に置く、

意で(日本語源大辞典)、そのため、

かがし、

ともある(岩波古語辞典)。元来、

かがし、
または、
かがせ、

で、焼いた獣肉を串に刺して田畑に立て、その臭気を嗅がせて退けた(江戸語大辞典)、ともある。そのため、「かかし」の語源は、

嗅がしの意(岩波古語辞典・類聚名物考・卯花園漫録・柳亭記・俚言集覧・年中行事覚書=柳田国男)、
ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語(松屋筆記・大言海)、

とする説が大勢である。この「かがし」の意が転じて、

竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形。弓矢を持たせたり、蓑や笠をかぶせたりして田畑などに人が立っているように見せかけ、作物を荒らす鳥や獣を防ぐもの、

の意となった(日本語源大辞典)とする。この説によると、人形の意で使われるようになったのは、

比較的新しく、中世頃から、

とある(仝上)。しかし、古く、

あしひきの山田の曾富騰(ソホド)、

と古事記にあるように(岩波古語辞典)、

そおど(そほど)、
そおづ(そほづ)、

と呼ばれ人形があった。「そほづ」は、

そほどの転、

とされる(仝上)。共に、

案山子、

と当てられる。「案山子」は、漢語で、

アンザンシ、

と訓み、

かかし、とりおどし、

の意であり、

案山は、几(キ 机)の如く平たく低き山の義。山田なり、山田を守る主たる義、

とある(字源)。傳燈禄、道膺禅師傳、または會元、五祖常戒禅師の章に、

「主山高、案山低」とありて、案山は低くして机の如く、平らなる山の義なるべく、案山の閧ノ、耕地ありて、其邉に、鳥おどしのありしより、

とある(字源・大言海)。「梅園日記」(1845)にも、

隨斎諧話に、鳥驚の人形、案山子の字を用ひし事は、友人芝山曰、案山子の文字は、伝燈録、普燈録、歴代高僧録等並に面前案山子の語あり、注曰、民俗刈草作人形、令置山田之上、防禽獣、名曰案山子、又会元五祖師戒禅師章、主山高案山低、又主山高嶮々、案山翠青々などあり、按るに、主山は高く、山の主たる心、案山は低く上平かに机の如き意ならん、低き山の間には必田畑をひらきて耕作す、鳥おどしも、案山のほとりに立おく人形故、山僧など戯に案山子と名づけしを、通称するものならんといへり、徂徠鈴録に主山案山輔山と云ことあり、多くの山の中に、北にありて一番高く見事な山あるを主山と定めて、主山の南にあたりて、はなれて山ありて、上手につくゑの形のごとくなるを案山とし、左右につゞきて主山をうけたる形ある山を輔山といふとあり、又按ずるに、此面前案山子を注せる書、いまだ読ねども、ここの人の作と見えて取にたらず、此事は和板伝燈録巻十七通庸禅師傳に、僧問。孤廻廻、硝山巍巍時如何、師曰孤迥峭巍巍、僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会とあり、和本句読を誤れり、面前案山子也不会を句とすべし、子とは僧をさしていへり、鹿驚の事にあらぬは論なし、

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%8B%E3%81%97・大言海・日本語源大辞典)、

僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会、

というのは、中国禅僧の用いた語で、それをかりて、「かかし」に当てた、と思われる(日本語源大辞典・大言海)。

しかし、もともと、古くから、

そほど、
そほづ、

という「人形の人形」があったのだとすると、

かがし(嗅)→かかし、

の転訛はおかしいことになる。「そほづ」「そほど」の語源は、「そほず」は、

雨露にぬれそぼち、山田に立っているところからソボチビト(濡人)の義(和訓栞・大言海)、
シロヒトタツ(代人立)の反(名語記)、

が語源、「そほど」は、

山田の番人などが日に照らされ、風雨に打たれて皮膚が赭色(そおいろ 赤土の色)をしていたところからソホビト(赭人)の転か(少彦名命(すくなびこなのみこと)の研究=喜田貞吉)、
朱人(ソオビト)の約(角川古語辞典)、
神の名ソホド(曾富騰)から(北辺随筆)、
ソホはソホフル・ソホツのソホか。またドは人の意か(時代別国語大辞典−上代編)、

等々の語源説があり(日本語源大辞典)、いずれと決め手はない。しかし「そほづ」は、

久延毘古(くえびこ)、

ともいい、古事記に、

久延毘古(くえびこ)は、今に山田のそほどといふそ、

とある(古語大辞典)。

此神者、足雖不行、盡知天下之事神也、

とある。このとき、「そほど」「そほづ」は、

かたしろ、

ではないか。「かたしろ」とは、

形代、

と当て、

本物の形の代わり、

の意で、

禊・祓などに用いる紙製の人形で、神を祭る時、神霊の代わりとしては据えたもの、

である(古語大辞典)。とすると、神体の代わりに据えた、

カタシロは語尾を落としてカタシになるとともに、「タ」の子交(子音交替)[th]で、カカシ(関東)・カガシ(関西)になった、

とする説(日本語の語源)が、注目されてくる。「そほど」「そほづ」との関連が見えてこないのが難点であるが、ひとがたの人形だったところは、「形代」らしい。

大言海は、「かかし」を、

鹿驚、

とあてる「かかし」と、

案山子、

と当てる「かかし」を区別している。前者は、

ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語、

とし、後者は、

鹿驚(カガシ)を立鹿驚(タチカガシ)と用ゐたるを、略したる語、

とする。そして、

鹿驚、

は、獣肉を焼いて串に刺した、

かがし(嗅)、

とし、後者を、

山田のそほづ、

とする。これは見識である。いずれも、役目は、

鳥おどし、
獣おどし、

であるが、

獣の臭い、
と、
神体の形代、

とではギャップがありすぎる。本来異なる由来だったものが、共に、漢語、

案山子、

を当てたことで、

かがし、

そほづ、

が混同されていった、ということではあるまいか。

安永四年(1775)の『物類称呼』は、

関西より北越辺かがしと云ふ。関東にてカカシト清みて云ふ、

とする。

江戸時代後半には「かかし」が勢力を増した、

とある(日本語源大辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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釈迦豆腐


「釈迦豆腐」は、

葛粉揚げ、
釈迦揚げ、

とも言う。江戸時代の料理本『豆腐百珍』に、佳品のひとつとして、

釈迦とうふ、

中骰にきり笊籬(いかき)にてふりまはして角とり葛をあらりと米粒ほどに碎き豆腐に纏しつけ其まゝ煠るなり、

とあるhttp://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1127

豆腐をサイの目に切って角を取り、葛を米粒大に砕いて豆腐にまぶし、油で揚げるものである。別に、

豆腐を中賽に切って、ざるに入れて振り回して、角をとる、

とある(たべもの語源辞典)が、これは、後述の「霰豆腐」と混同したもののようである。

葛を米粒大に砕いて豆腐にまぶし、油で揚げる、

とあるが、

米粒大位の大きさに砕いて豆腐にまぶしてくっつけてから、卵白をといてとうふにまぶしつけてから、油で揚げる、

ともある(仝上)。

「釈迦豆腐」は、

葛粉の粒々を釈迦の螺髪に似せた、

ところからの命名らしい(仝上)。「螺髪(らほつ 呉音で「ホツ」と訓む)」は、

螺(にし)状をした、仏像の髪型、

をいう。

螺髻(らけい)、

ともいう(広辞苑)。

同じ『豆腐百珍』の尋常品の一つとして、

霰豆腐(あられどうふ)、

というのがある。これは、

よく水をおししぼり小骰(さい)に切り笊籬(ゐかき)にてふりまはし角とりて油にてさつと煠(あけ)る也 調味好ミしだひ、

とありhttp://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1127

少し大きなるを松露(しやうろ)とうふといふ、

とある。

この系譜では、今日、

揚げ出し、

と言われるものがある。豆腐だと、

揚げ出し豆腐、

になるが、近世においては、

豆腐に限らず、茄子、大根、芋などについても衣をつけずに揚げ、これを「揚げ出し」と呼びました、

とある(語源由来大全)が、現在では、

揚げ出し、

は「揚げ出し豆腐」を指すのが一般的のようである。「揚げ出し豆腐」は、

片栗粉を豆腐にまぶして揚げたものと、小麦粉をまぶして揚げたものがある、

ようだがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E3%81%92%E5%87%BA%E3%81%97%E8%B1%86%E8%85%90、その「揚げ出し」の由来は、

油で揚げただけで他に手を加えずに出すところから、
揚げることによって水分を出すところから、
出し汁につけて食べることに由来する、

等々ある。

揚げただけで出す、

というところかもしれない。戦前まで、東京都台東区下谷元黒門町(現在の上野池之端)にあった老舗料理屋「揚出し」は、朝早くから揚げ出し豆腐を供し、風呂にも入れるということで吉原帰りの客に有名だった。同店は洋画家の小絲源太郎の生家、

とある(仝上・https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1038693185)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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野球


「野球」というのは、正岡子規が命名したものと思っていたが、そうではないらしい。確かに、

打者、
走者、
死球、
飛球、
四球、
直球、

等々、子規が訳した野球用語は多い(明治29年に新聞「日本」に連載した
随筆「松蘿玉液(しょうらぎょくえき)」)、とされるhttp://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html。しかし、「野球」は、確かに、

野球、

という言葉を、子規は表記しているが、これは、子規の幼名、

升(のぼる)、

にちなんで、

野球(のぼーる)、

という雅号を用いていたもので、「ベースボール」の訳として使用したわけではない。子規自身、その連載の中で、

「ベースボールいまだかつて訳語あらず」

と書いているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2、とある。

子規が、「野球」という言葉を使ったのは確かであるが、それは、雅号としてであり、明治23年(1890)に使い始めている、ということは、「野球」が「ベースボール」の訳として登場するより前であったことは確かである。しかし、子規が野球に夢中であったことは知られており、

東大予備門(のちに一高)ベースボール部で捕手としてプレイした、

といわれる。ために、

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
国人(くにびと)ととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゝしも
若人(わかひと)のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如しくものはあらじ
九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす
九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来きたる人の手の中に
なかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに
打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする
今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな

等々を明治31年(1898)に新聞『日本』に発表(歌集『竹の里歌』(明治37年)所収)しているが、このとき、「野球(のぼーる)」の雅号を使っている。ただ、まだ、この時点では、「野球」という言葉は一般化していなかったようであるhttps://plaza.rakuten.co.jp/meganebiz/diary/201303040003/

野球は、

1871年(明治4年)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科(その後、旧制第一高等学校)で、

教えたのが始まりでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2、その後、

打球鬼ごっこ、
玉遊び、
底球、

等々と訳されたが、定着せず、初めて「野球」と日本語に訳したのは、

中馬庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ)、

とされる。明治27年(1894)秋、第一高等中学校(1894年第一高等学校に改称)の野球部員であった中馬庚は、彼らが卒業するにあたって「校友会雑誌号外」に書いた文章中に、

野球、

という言葉が登場する(仝上)、という。

「Ball in the field」という言葉をもとに「野球」と命名しました。ベースボールは野原でするので「野球」と説明したhttp://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html
「Ball in the field」という言葉を元に「野球」と命名し、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%A6%AC%E5%BA%9A

という。

同僚で名投手の青井鉞男が「千本素振り」をやっている所に中馬がベースボールの翻訳を「Ball in the field−野球」とすることを言いに来た、

と言われているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2。中馬は、第一高等中学校で名二塁手として活躍し、卒業時に描いた「ベースボール部史」は、

翌明治28年(1895年)2月に、学制改革で第一高等学校となったことから「一高野球部史」として発行されました。中馬は、明治30年(1897年)に一般向けの野球専門書「野球」を出版。これは日本で刊行された最初の野球専門書で、日本野球界の歴史的文献と言われています。明治30年代には一般にも「野球」という言葉が広く使われるようになった、

とあるhttp://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html。ただ、「ベースボール」の訳語として「野球」が、雑誌や新聞で使われるようになるのはそれから5年ほど後のことになる、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%A6%AC%E5%BA%9A

ちなみに、中馬庚は昭和45年(1970年)には野球殿堂入り(特別表彰)を果たし、子規も、2002年に野球殿堂入りを果たしているhttp://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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重詰


「重詰」は、

料理などを重箱に詰めること、またその料理、

であり(広辞苑)、「重箱」は、

食物を盛る箱型の容器で、二重、三重、五重に積み重ねられるようにしたもの、多くは漆塗りで、精巧なものは蒔絵、螺鈿をほどこす、

で(仝上)、略して、

重、

ともいう(大言海)。「重箱」は、室町時代にその名が見られるが、

一般庶民に普及したのは江戸時代で、本格的に重箱が製造されてからである。武家や大名のもとでは、漆塗や蒔絵の豪華なものも作られた。また、狩りなどに出かけるときに持ち運びに便利なものも使用された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E7%AE%B1。もとは、

中国の食籠(じきろう、六角形や八角形の重ねて使用する容器)、

が、日本に伝来して重箱になった、とある(仝上)。

酒肴を、

鉢肴(はちざかな)、

と呼んだらしいが、それは、

鉢という器にさかなを盛ってだしたから、

という(たべもの語源辞典)。「会席料理」は「懐石料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%87%90%E7%9F%B3%E6%96%99%E7%90%86)で触れたが、「会席料理」では、たとえば、

先付(さきづけ) 前菜
椀物(わんもの) 吸い物、煮物
向付(むこうづけ) 刺身、膾
鉢肴(はちざかな) 焼き物、焼魚
強肴(しいざかな) 炊き合せ等
止め肴 原則として酢肴(酢の物)、または和え物
食事 ご飯・止め椀(味噌汁)・香の物(漬物)
水菓子 果物

として出されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%B8%AD%E6%96%99%E7%90%86ように、「鉢肴」は、

会席料理に使われる言葉、

で、

食事の中盤に出される焼物、

で、懐石料理のメインの一品目にあたる。

魚の切り身を焼いたものや、一口サイズにカットされた肉などを出されることが多く、酒のつまみとして提供されるものであるため、ボリュームはそれ程多くありません、

とあるhttps://www.cookdoor.jp/japanese-food/dictionary/21471_japan_021/。それが、やがて、「鉢肴」と並んで、酒肴として、

重肴(じゅうざかな)、

というものが現れる(たべもの語源辞典)。

重箱に詰めた酒のさかな、

の意である。で、

重箱肴、

という名称になり、

重詰、

となっていく(たべもの語源辞典)、という。「重詰」は、

時節の見舞いに贈ったり、花見遊山に携えたりした、

が(仝上)、「重詰」にする料理の品数は、基本的に、

三種、五種、七種、九種などの奇数とした、

とある(仝上)。

賀客饗応の用に供したものに、

喰積(くいつみ)、

というものがあった。江戸などで一般に用いられた、

取肴(とりざかな)、

で、「取肴」とは、

正式の日本料理の饗膳のとき、三度目に出す酒に添えてすすめる酒の肴。主人自身が漁猟したものや遠来の珍品などの心尽しの物を主人が取ってすすめるところからこの名がある、

とあり(精選版日本国語大辞典)、転じて、

酒の肴、

をもいうようになる(仝上)が、

食うべきものを集めて積み飾った、

ところから「喰積」の名がついた、とある(たべもの語源辞典)。

京坂では正月の床の間飾として据えおいたが,江戸では蓬萊のことを「喰積(くいつみ)」ともいい,年始の客にまずこれを出し,客も少しだけこれを受けて一礼してまた元の場所に据える風があった。蓬萊の飾物を少しでも食べると寿命がのびると信じられたのであった、

とある(世界大百科事典)。「蓬莱(ほうらい)」とは、

蓬莱飾、

の意で、

中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山、

とされる、

蓬莱山、

をかたどった台上に、松竹梅、鶴亀、尉姥(じょううば)などを配し、祝儀などの飾り物に用いるもの、

で、「すはま」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%99%E3%81%AF%E3%81%BE)で触れたように、

島台、
蓬莱台、

ともいう。関西では、

蓬莱飾り、

江戸では、

喰積、

といい、

三方の盤の上に白米を盛り、熨斗鮑・搗ち栗・昆布・野老(ところ)・馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・海老などを飾った、

ようである(デジタル大辞泉)。

後に、これを、

重箱、

に詰めるようになった、ということらしい(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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気色


「気色」は、

けしき、

とも訓ますが、

きしょく、

とも訓ます。ほぼ意味は重なる。「気色(ケシキ)」は、

「色」はきざし。ほのかに動くものが目に見えるその様子。古くは自然界の動きに言う。転じて、人のほのかに見える機嫌・顔色・意向などの意。類義語ケハヒは匂い、冷やかさ、音など、目に見えるよりは、辺りに漂って感じられる雰囲気、

とあり(岩波古語辞典)、

自然界の動き、様子(枕草子「霞も霧もへだてぬ空の景色の」)、
人の心のほのかな動き、機嫌(土佐日記「歌主、いと気色あしくて怨ず」)、
ほのかな顔色(源氏物語「気色にだすべきことにもあらず」)、
(ちらりとした)そぶり(古今「つらげなる気色も見えで」)、
(ちらりと現れた)きざし、兆候(源氏「にはかに(出産の)御気色ありて悩み給へば」)、
内意をほのめかすこと、意向(源氏「わざとの御消息とはあらねど、御気色ありけるを、待ち聞かせ給ひて」)
内情のほのかな現われ(源氏「事の気色にも知りけりとおぼされむ、かたはらいたき筋なれば」)、
怪しい感じ、不安(大鏡「今宵こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるにだに気色おぼゆ」)、
ちょっととりたてた様子(源氏「式部がところにぞ気色あることはあらむ」)、
恰好(平家「少しも物詣での気色とは見えさぶらはず」)、
風景、景色(平家「雪ははだれに降ったりけり、枯野の気色の誠に面白かりければ」)、

等々の意味の幅であり(仝上)、「気色(キショク)」は、

大気の動き(続日本紀「風雲の気色常に違うことあり」)、
気持や感情などが顔に現れ出ること、またその顔色の様子など(保元「その気色まことにゆゆしくぞ見えける」)、
(御気色の形で)思し召し、御意向(平家「然らば屋島へ帰さるべしとの御気色で候」)、
気持、気分(浄瑠璃・藍染川「母上気色を損じ」)、
容態(伊曾保物語「折しも、獅子王違例の事ありけるは、御気色大事に見えさせ給ふ」)、

等々の意味の幅で、「気色(キショク)」には、風景の意はない。だから、

ケシキは、人事、自然などのようすを言っていたのですが、人間の心の様子の場合は、しだいに「気色」を使うようになり、自然物の眺めには、中国語源の「景色」を使うようになった、

とある(日本語源広辞典)ように、

ケシキ(気色)→ケシキ(景色)、

と使い分けが進んだが、「気色(キショク)」は、元の意の幅のまま使われた、と見ることができる。たとえば、

気色(きしょく)悪い、

とはいうが、

気色(ケシキ)悪い、

とは言わず、逆に、

気色ばむ、

は、

けしきばむ、

だが、

きしょくばむ、

とも訓ませ、前者が、岩波古語辞典が、

何となくそれらしい様子が現れる、
気持の片はしをあらわす、
何となく様子ありげなふりをする、気取る、

広辞苑が、

意中をほのめかす、
気取る、
怒ったさまが現れる、
懐妊の兆候が現れる、

で、いくらか顕現する気配のニュアンスが残るが、後者が、

得意になって意気込む、
怒りの気持を顔色に出す、

で(広辞苑)、少し、後者が、気持ちの表現に収斂しているが、ほぼ意味が重なる。これは、他の言い回しで比較してみると、「気色(けしき)」系は、

気色有り(ひとくせある、何かある。趣がある)
気色酒(ご機嫌取りに飲む酒)、
気色立つ(自然界の動きがはっきり目に見える、きざす。心の動きが態度にはっきり出る)、
気色付く(どこか変わっている、ひとくせある)、
気色取る(その事情を読み取る、察する。機嫌を取る)、
気色給(賜)わる(「気色取る」の謙譲語。内意をお伺いする、機嫌をお取りする)、
気色ばまし(「ムシキバム」の形容詞形。何か様子ありげな感じである。思わせぶりである)
気色許り(かたちばかり、いささか)、
気色覚ゆ(情趣深く感じる。不気味に感じる)、
気色に入る(気に入る)、

であり(広辞苑・岩波古語辞典)、「気色(きしょく)」系は、

気色顔(けしきばんだ顔つき、したりがお)、
気色す(顔つきを改める、(怒りや不快などの)感情を強く表に現わす)、
気色ぼこ(誇)り(他人の気受けのよいのを自慢すること)、

等々であり、「きしょく」「けしき」両方で使う言葉は、

気色ばむ、

だけだが、両者は、例外的なものを除いて、殆ど人の様子・気持の表現にシフトしていることがわかる。これは、

鎌倉時代以降、人の気分や気持ちを表す意は漢音読みの「きそく」「きしょく」に譲り、「けしき」は、現在のようにもっぱら自然界の様子らを表すようになって、表記も近世になって、「景色」が当てられた、

とある(日本語源大辞典)ことが背景にある。

さて、「気色(ケシキ)」を、大言海は、

ケハヒに、気色(キショク)の字を充てて、気色(ケシキ)と讀む語、

とするが、

「気」は、

漢音で「キ」、呉音で「ケ」、

「色」は、漢音で「ショク・ソク」、呉音で「シキ」、

である。それから見ると、

「ケシキ」と訓ませるのは、呉音、
「キショク」と訓ませるのは、漢音、

と見るのが妥当なのではないか。つまり、「気色」は、漢語由来なのである。

和文中では、平安初期から用いられているが、自然界の有様や人の様子や気持ちを表す語として和語化していった、

とみられる(日本語源大辞典)。

「景色」の「景」は、漢音ケイ・エイ、呉音キョウ・ヨウ、であり、「景色」を、

ケシキ、

と訓ませるのは、大言海は、

景色(ケイシキ)の約、

としているが、

漢音「ケイ」+呉音「シキ」

と、変則である。『字源』をみると、「景色」に、

ケイショク、

ケシキ、

と訓がある。中国でも、「ケシキ」と訓ませる可能性がある。「景色」に「気色」の含意があるためか、単なる、

風景、

という意味だけではなく、

山水、風物などの趣、

の意が含まれ、それが転じて、茶道具で、鑑賞上興味を引く、

釉(うわぐすり)の色、頽(なだ)れ、窯変(ようへん)、斑紋など、主として陶器について、

もいうようになる(精選版日本国語大辞典)。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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けし


「けし」は、

異し、
怪し、

等々と当てる。「けしからん」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%91%E3%81%97%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%93)で触れたことがあるが、

普段と異なった状態、または、それに対して不審に思う感じを表す、

とあり(広辞苑)、

いつもと違う、普段と違って宜しくない。別人に事情をもつ、病気が悪いなどの場合に使う(万葉集「はろばろに思はゆるかもしかれどもけしき心を我が思はなくに」)、
劣っている、悪い(源氏「心もけしうはおはせじ」)、
不美人だ(源氏「よき人を多く見給ふ御目にだにけしうはあらずと…思さるれば」)、
(連用形「けしう」の形で副詞的に)ひどく(かげろふ「けしうつつましき事なれど」)、

等々といった意味が載り(岩波古語辞典)、

け(異)の形容詞形。平安女流文学では,「けしうはあらず」「けしからず」など否定の形で使うことが多い(仝上),
異(ケ)を活用せしむ、奇(く)しと通ず(大言海)、

とあり、「異(け)」には、

奇(く)し,異(け)しの語根(大言海)、

とあり、別に、

怪、

と当てる「怪(け)」も載り、

怪(カイ)の呉音とするは常説なれど、異(ケ)の義にて、異常のいならむ、

ともある(大言海)。

怪し、

奇し、

とは、どちらから転訛したかは別として、意味の上からは、重なるようである。

当てている漢字からみるなら、「異」(イ)は、

会意。「おおきなざる、または頭+両手を出したからだ」で、一本の手のほか、もう一本の別の手をそえて物を持つさま。同一ではなく、別にもう一つとの意、

とある(漢字源)。

異は同の反。物の彼と此と違うなり、

とあり(字源)、「ことなる」意であり、だから、「怪しい」「奇し」「めずらしい」という意になっていく。

「怪」(漢音カイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。圣は「又(て)+土」からなり、手で丸めた土のかたまりのこと。塊(カイ)と同じ。怪は、それを音符とし、心をそえた字で、まるい頭をして突出した異様な感じを与える物のこと、

とあり(漢字源)、「ふしぎなこと」「あやしげなもの」といった意味を持つ。

「奇」(漢音キ、呉音ギ・キ)は、

会意兼形声。可の原字は┓印で、くっきりと屈曲したさま。奇は「大(大の字の形に立った人)+音符可」で、人のからだが屈曲してかどばり、平均を欠いて目立つさま。またかたよる意を含む、

とあり(仝上)、「めずらしい」「あやしい」という意味を持ち、当てている感じも、意味が重なる。

「けし」の大きな意味の変化は、

上代では「古事記」や「万葉集」に連体形のケシキがみられる。中古になると連用形のケシクとその音便形ケシウが、

あるべき状態と異なっているさま、よくないさま、

という状態表現の意から、

変わっていることに対して不審に思うさま、あやしい、

という主体の感情、価値表現の意で使われることが多くなり、「ケシウ」は、

程度がはなはだしいさま、

の意で、「けしうはあらず」「けしうはあらじ」の形で、

打消しを伴い、「たいしてよくない」「たいして悪くない」「格別のことはない」の意味で使用されることが多くなる。さらに、「けし」を否定した形の「けしからず」が意味的には肯定に使われることが多くなり、副詞的な使用は、

けしからず、

が、

けし、

にとってかわった(日本語源大辞典)、とある。

「けしからず」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E3%81%91%E3%81%97%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%93)が、

打消しの助動詞ズが加わって,ケシの,普通と異なった状態であるという意味の強調された語、

となり、「けし」は、それを否定した「けしからん」と,ほぼ同じ意味になる。

「あやし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%82%E3%82%84%E3%81%97)で触れたように、「あやし」が,

不思議なものに対して,心をひかれ,思わず感嘆の声を立てたという気持ちを言う、

という原義(広辞苑)が,

霊妙である,神秘的である。根普通でなくひきつけられる,

不思議である,

常と異なる,めずらしい,

いぶかしい,疑わしい,変だ,

見慣れない,物珍しい,

異常だ,程度が甚だしい,

あるべきでない,けしからん,

不安だ,気懸りだ,

確実かどうかはっきりしない,

ただならぬ様子だ,悪くなりそうな状況だ,

(貴人・都人からみて,不思議な,或可きでもない姿をしている意)賤しい,

みすぼらしい,粗末である,

見苦しい,

等々といった意味を変えていったように、「けし」も、

在るべき状態と異なっている,異様である、

よくないさま,けしからん、

解せない、

変っていることに対して不審に思うさま,怪しげだ,

怪しいまでに甚だしいさま,ひどい,

と意味を変じて言ったということになる。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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賽銭


「賽銭」は、

祈願成就のお礼として神仏に奉る賽物(さいもつ)の錢、

の意(広辞苑)か転じて、

神仏に参詣して、幣帛(ミテグラ)の代へて奉る錢、

の意となる(仝上・大言海)。「賽物」は、

お礼参りのしるしに神仏に供えるもの、
または、
祈祷の時の供物(くもつ)、

を指す(広辞苑)。その供物のひとつが、

賽銭、

ということになる。

「賽」(サイ)は、

形声。「貝+音符塞(サイ)の略字体」

とあり(漢字源)、「神から服を授けられ、そのお礼としてまつりをする」「むくいる」という意味である(仝上)。「賽」を、

賽は投げられた、

のように、

さいころ、

の意で使うのはわが国だけである。中国では、

骰子(トウス)、
色子(シアイツ)、

という(仝上)。

賽銭、

は、

日本で作られた和製漢語か、

という説(日本語源大辞典)があるが、「賽銭」は、

参詣して神仏に奉る錢、

とあり(字源)、中国語のようだ。

「賽銭」は、

サンセン(散錢)の義(志不可起)、

とあるように、「賽銭」は、

香花錢、

ともいう(大言海)、とある。これは、

香銭(こうせん)、

のことかと思うが、

仏前に香のかわりに供える金銭、

の意である(精選版 本国語大辞典)。これを、

散錢(サンセン)、

ともいう(大言海)のは、

寶前に、銭を撒き散らすに似て、散米(サンマイ うちまき)と、同趣なるべし、

とある(仝上)。江戸後期の松屋筆記に、

聖福寺佛傳記に、銭幣之獻、材木之奉、……按ずるに、これ、今日の賽銭也、

とある。錢が、他の賽物に代えられたのである。「散米」は、

うちまき、
くましね、

ともいう(大言海)。「うちまき」は、

打撒、

と当て、

打撒米(ウチマキヨネ)の略、

とあり(仝上)、

陰陽師の祓いに、粿米(カシヨネ)を撒き散らすこと、禍津比(マガツビ)の神の入り来むを、饗(あ)へ和めて、退かしむるなりと云ふ、

とあり、

魔物の心を和める意味で米を撒き散らすこと、

とあり(岩波古語辞典)、

節分の夜の豆撒きはこの名残り、

ともある(仝上)。それが、

神仏に供える米、

の意(仝上)に転じたものと思われる。「くましね」は、

糈(岩波古語辞典)、
糈米(大言海)、

と当て、和名抄には、

糈米、和名久万之禰(くましね)、精米、所以享神也、

とある(岩波古語辞典)。大言海は、だから、

精稲(クハシシネ)の転ならむ、

とする。

神に供える精米、

つまり白米、である。略して、

くま、

敬称して、

おくま、

といい、

御洗米(おせんまい)、

の意である(大言海)。「うちまき」と「くましね」は、由来は真反対だが、転じて、

神への供物、

となった。

お米を白い紙でつつむ、
あるいは、
洗った米を紙に包んで供える、

おひねり、

もこの流れの中にあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%BD%E9%8A%AD。それが、

錢、

に代えられた、とみていい。

金銭が供えられるようになったのは中世以降であり、庶民に貨幣経済と社寺への参詣が浸透しはじめた時期である、

とある(仝上)。ただ、

賽銭は願いを聞いてもらう対価ではない、

とする説もあり、日本書紀の「罪を素戔嗚尊に負わせ、贖罪の品々を科して差し出させた」というところから、

自身の罪を金銭に託して祓うとする説(浄罪箱)
と、
賽銭箱に硬貨を入れる音で罪祓う(鈴と同じ)

とする説がある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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佃煮


「佃煮」は、

江戸佃島で製造したのでこの名がある、

という(広辞苑)。

醤油と砂糖で甘辛く煮付けた日本の食べ物。とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを煮染めたものをこう呼ぶ。シソやゴマなどを加えることもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E7%85%AE、保存食品である(広辞苑)。

佃島は、

墨田川の河口にある小島。寛永年間(1624〜44)摂津国西成郡佃村の漁民が江戸幕府に招かれて移住したことから、「佃島」の地名になった。江戸時代は漁師が多く、白魚がとれた、

とある(日本語源大辞典)。シラウオは、

伊勢湾から品川沖へ移したもので、この漁業権を与えた、

という(たべもの語源辞典)。

毎年暮れから春先へかけて佃島沖でシラウオがとれ、さらに二月ごろになると墨田川へ上ってきた、

のだという。佃島の漁師は、

家康のお蔭で白魚漁ができるというので家康の命日の一月一七日には「おみき流」をした。この行事をするとベラという魚が白魚に変わるといった。そしてその魚の頭には家康の紋である葵がついている、

と言い伝えた、とされる(仝上)。家康とのかかわりについては、背景に、

本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢と共に堺にいた。家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。そこに救世主のごとく現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、手持ちの漁船と、不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食として用意した。気候の悪い時期に人里離れた山道や海路を必死に駆け抜けねばならない一行にとって、この小魚煮がどれだけ身を助けてくれたか。その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができた。後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えたのである、

という伝承があるhttp://www.kanehatsu.co.jp/oishisaikiiki/020/。真偽はともかく、

江戸時代、徳川家康は名主・森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせた、

ことは確からしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E7%85%AE。佃島の漁民は、

悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる、

とあ(仝上)、

小雑魚を煮詰めて自家用の惣菜にし、余剰を市販した(飲食事典=本山荻舟)、

と同一説をとるものもあるが、

佃の漁師は、大きい魚は将軍家をはじめ諸大名に納めたが、自家用に小雑魚を醤油で煮詰めることを考えついた。値段も安いし保存もきくので近隣にも売り始め、江戸から国に帰る大名が江戸土産として持ち帰るようになった。それで全国的に知られるようになった、

とする説もあり(たべもの語源辞典)、それを、

佃島で、四手網でとった魚をすぐに船の上で煮たものをいう(俚言集覧)、

とする説もあり(仝上)、それを、

安政五年(1858)に青柳才助が創始し、才助は佃島の塩煮から「佃煮」と名付けたとされる、

と個人に帰す説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E7%85%AE。この説は、

江戸城籠の口、銭亀橋の下に、佃島の漁師が二隻ずつ繋留したが、夜中には篝(かご)を置いて網をおろした。これを捨篝(すてかご)といった。とった小魚を呉服橋の稲荷新道にいた青柳才助という者が、安政五年(1858)の春ころから煮込んで小商売(こあきない)を始め、これを佃煮と呼んだ、

ともされる(たべもの語源辞典)。もともとは、

漁師の常備食であり保存食となっていたもので、雑魚や貝類を塩で煮つけたものであった、

とされる(仝上)が、「醤油」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E9%86%A4%E6%B2%B9)の由来、また「砂糖」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%A0%82%E7%B3%96)の普及等々から見ても、最初は「塩で煮つけた」ものと思われる。その意味で、それを後々醤油で煮つけた者がいたということはあり得る気がする。

その他、佃島漁師由来ではないとする説には、

文久二年(1862)に浅草瓦町の鮒屋佐吉が創始したとし、佐吉は、それまで塩煮であった佃煮を独自な改良(種類ごとの素材に分け、当時高級であった醤油を初めて使用するという斬新な発想)のもと現在の佃煮の原型を創り出した、

日本橋の伊勢屋太兵衛が創始した、

あるいは、

大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた(醬油煮説と塩煮説がある)、その住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来する、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E7%85%AE

佃煮と似たものに「しぐれ煮」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%97%E3%81%90%E3%82%8C%E7%85%AE)がある。

生姜を加えた佃煮の一種、

であるが、本来は、

「蛤のむき身に生姜を加え、佃煮にしたもの」

を指す(たべもの語源辞典)。生姜が入っているのが特徴になる。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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味醂


「味醂」は、

味淋、

とも当てる(広辞苑)が、

味霖、

とも当てるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93

味醂酒、
味醂酎、
蜜淋酒、
密淋酎、
密林酒、
美淋酎、
美淋酒、
美琳酒、

等々ともいう(たべもの語源辞典・大言海)。

蒸した糯米(もちごめ)と米麹とを焼酎またはアルコールに混和して醸造し、滓をシホ下痢とった酒、

とある(広辞苑)。大言海には、

焼酎十石、白糯飯九石二斗、麹二石八斗の割合にてまぜ合はせ、時々掻きまぜて、二十五日許り醸し成して、其滓をしぼり去れるもの、

とあり、たべもの語源辞典には、

焼酎一斗四升(25.2リットル)に、蒸糯米九升(12.9キログラム)、麹三升三合とを混ぜ合わせ、一日おきにかき交ぜ、約二日静置して、うわずみの液を取る。これが「みりん」である。あとに残った粕も、漉して味醂が得られるので、結局、計二斗(36リットル)余となる、

とある。

味、甚だ甘美なり、

とある(大言海)。甘みがあるのは、

麹が米の澱粉を等分に変え、同時に焼酎分が混じって、麹の酒精酵母が発育を妨げられることによる、

とある(たべもの語源辞典)。

元来は飲用であり、

江戸期に清酒が一般的になる以前は甘みのある高級酒として飲まれていた。現在でも薬草を浸したものを薬用酒として飲用する(屠蘇、養命酒など)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93

「味醂」の「醂」(リン・ラン)は、

会意兼形声。「酉+音符林(つらなる)」

とされ、

たらたらと垂れる発酵した汁、

の意で、「醂柿」は、酒を垂らして渋を去ったたる柿の意とある(漢字源)。ちなみに、「たる柿」とは、

渋柿を空いた酒樽に詰め、樽に残るアルコール分で渋を抜いて甘くした柿。樽抜き、

の意である(デジタル大辞泉)。ために、「醂」には、「ほしがき」の意もある(字源)。「醂す」は、

さわす、

と訓ませ、

柿の渋を抜く、
水に浸して晒す、

意味で使うのは、本来の「醂」の字からきている。だから、

味醂、

の当て字は、和製と言われたりするが、

美淋の淋に誤用、

とある(字源)。「淋」(リン)は、

会意兼形声。林は、木立のつづく林、絶え間なく続く意を含む。淋は「水+音符林」で、あとからあとから絶えず汁がしたたること、

とあり、

したたる、
水がたらたらと絶えず垂れる、

意で、似た意味なので、「酒」ということから、「醂」を採ったのはわかる気がする。現に、

美淋酒、味淋酒と書かれていたが、淋より酒であるから醂がよいというのでもちいられた、

とある(たべもの語源辞典)。で、

美淋とか蜜林また蜜淋も古くあって味淋と味をつかったものは新しい。「みりん」に「味」の字を用いねばならぬ理由はなかったようである。ミというよみから、たべものだから味の字が良かろうということであろう。……ミとは果実の実で、果実を多く集めてしぼり出した汁のように甘いものといった意で、ミリンと称した、

とする(仝上)。つまり、

実+林(淋 たらたら垂れる)、

ということであろうか。

味(味の深い)+醂(長時間酒につける)、

とする説(日本語源広辞典)は、

味醂、

という当て字の解釈のように思える。

中国清明の時代の『湖雅巻八造醸』という書に、「密淋(ミイリン)」と呼ばれる甘いお酒があったと記されています。このお酒が、戦国時代の頃、琉球や九州地方に伝来し、「蜜淋」「美淋」といった漢字があてられ、日本中に広まっていきましたhttps://kokonoe.co.jp/mirin01

味醂は、中国の密淋(みいりん)という酒が戦国時代に日本に入り、製法が改良されたものが由来とされる。密淋とは、蜜のような甘い淋(したた)りの意の漢語(由来・語源辞典)、

等々という中国由来説は、

現在でも浙江省に蜜酒という直糖分 20% 以上の酒があり、紹興酒の酒母を「淋飯酒」という、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93、さらに、文禄二年(1593)『駒井日記』がみりん(蜜淋)の名称が記され(仝上)、

博多の豪商神谷宗湛(1551〜1635)が密林酒を黒田如水に贈った、

という文書があり(たべもの語源辞典)、時代的には合っている。『文政年間漫録』に、

みりん酒は慶長(1596〜1615)ころに起こった、

との記述もあるし、慶安二年(1649)『貞徳文集』にも、

みりんは異国より渡来したものである、

という記述があるhttps://kokonoe.co.jp/mirin01ので、この時期に渡来したものとみられる。慶長七年(1602)の奈良・般若寺の記録に、

みりん一升が六五文、清酒の三倍、

とあり、慶安年間(1648〜52)のチラシにも、

極上味醂酒百文、

とあり、

大阪上酒四十文・伊丹極上酒八拾文、

とあって、上方のブランド酒より高価なものであったhttp://shokubun.la.coocan.jp/mirin.html

それが、元禄八年(1695)『本朝食鑑』には、

焼酎を用いた本みりんの製法、

が記載されるに至るhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93。そして、天明五年(1785)『萬寶料理秘密箱』「赤貝和煮」の記述以降、

蕎麦つゆや蒲焼のタレに用いる調味料として使われ始めていった、

という記述となる(仝上)。喜多川守貞の『近世風俗史』(1837〜1853)には、

美琳酒は多く摂の伝法村で醸した。然し京阪はあまり用いず多くは江戸に送って、たべものを醤油とこれを加えて煮た。京阪は夏月に夏銘酒柳蔭というものを専ら用いた。江戸では本直しといって美琳と焼酎を半々に合わせたものを用いた。ほんなおし、やなぎかげ、いづれも冷酒で飲んだ、

とあるので、調味料に転じつつありながら、飲用もされたことがわかる。

因みに起源説には、別に、

日本に古くから存在した練酒、白酒などの甘い酒に腐敗防止策として焼酎が加えられた、

という説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93があり、文正元年(1466)の『蔭凉軒日録』には、

「練貫酒(ネリザケ)」という甘いお酒が博多にあったと記述されています。これらのお酒は、酒の中に米や麹を加えるとアルコール度数が下がり腐敗しやすかったため、腐敗防止策として焼酎が加えられました、

ともあるhttps://kokonoe.co.jp/mirin01。どちらと決めかねるが、「練貫酒(ネリザケ)」に焼酎を入れることを知ったのは、

味醂、

渡来してから、という風にも考えられる。

なお、「麹」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E9%BA%B9)、「ささ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%95%E3%81%95%EF%BC%88%E9%85%92%EF%BC%89)、「さけ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E9%85%92)、については、それぞれ触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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さわす


「さわ(は)す」は、

醂す、

と当てる。「味醂」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E5%91%B3%E9%86%82)で触れたように、

柿の渋を抜く、
水に浸して晒す、

の意があるが、この他に、

黒漆で光沢のないように塗る、

意もあり、その場合、

淡(さわ)す、

とも当てる(広辞苑)。また、

醂す、
淡す、

は、

あわす、

と訓ませて、

柿の渋を抜く、

意になり(広辞苑)、

さわす、

と重なる。だから、

渋を去った柿の実、

を、

さわし柿(醂柿)、

というが、

あわしがき(淡柿・漬柿)、

とも言い、

あわせかぎ(「あわしがき」の音轉)、

とも言うのは、憶説だが、

sawasu→awasu、

と子音「s」が脱落したのではないか。

なげすつ(投げ棄つ)→なげうつ(投げうつ)、
さばく(捌く)→あばく、

等々の例もある(日本語の語源)。岩波古語辞典には、「さはし」は、「さはしがき」(醂柿・淡柿)しか載らず、「あわし」(醂し)は、

アハ(淡)と同根、

とのみ載る。しかし、大言海は、

爽(さは)を活用せしめたる語(熟(うむ)す、腐(くさ)す)、

とする。「淡い」は、意味からは、渋が淡くなった、という意味で重なるが、

(雪などが)今にも消えそうである、

の意であり、それをメタファに、

淡白である、

転じて、

情愛や関心が薄い、

意で使う。「濃い」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E6%BF%83%E3%81%84)で触れたように、「淡い」は、

濃いの反、

である。「淡」とは考えにくい気がする。和訓栞に、「さわす」は、

醂の字を訓めり。物の渋みを去りて、サハヤカにするをぃへり、

とある。

漢字「醂」(リン・ラン)は、

会意兼形声。「酉+音符林(つらなる)」

とされ、

たらたらと垂れる発酵した汁、

の意で、「醂柿」は、酒を垂らして渋を去ったたる柿の意とある(漢字源)。ちなみに、「たる柿」とは、

渋柿を空いた酒樽に詰め、樽に残るアルコール分で渋を抜いて甘くした柿。樽抜き、

の意である(デジタル大辞泉)。ために、「醂」には、「ほしがき」の意もある(字源)。「さらす」に、

醂す、

と当てるのは、「醂」の本来の意味に適っている。

因みに、

さわ師、

とあてる「さわし」は、隠語で、

詐欺行為をするもの、

を言うとある(隠語大辞典)。「醂し」とはちょっと無縁に思えるが。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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石榴口

 

「石榴口(ざくろぐち)」は、

江戸時代の銭湯の湯船の入り口。湯のさめるのを防ぐために、湯船の前部を板戸で深くおおったもの。身体を屈めて中に入る、

とある(広辞苑)。で、

石榴の実の酢は鏡の金属面を磨く料となるから、「屈み入る」と「鏡要る」とを掛けた名という、

とある(仝上・醒睡笑(せいすいしょう)・大言海)。「鏡要る」は「鏡鋳る」とも当てている。『嬉遊笑覧』にも、

常にたくを風呂といいて、あけの戸なきを石榴風呂とは、かがみいるとの心なり。鏡を磨くに石榴の酢を用ゆ、

とあり、

「富山県の農民にはこれ(鏡磨き)が大事な副業で、農閑期になると鏡磨きの旅に出た」

という(今野信雄『江戸の風呂』)。しかし、

湯屋に入る姿が蛇に呑み込まれるようなので「蛇喰口(じゃくろうくち)」が転訛した、

とする異説もある。

ただ、銭湯は、関西では、

風呂屋、

といい、江戸では、

湯屋、

といった(仝上)。当初は、

蒸(むし)風呂、

で、「むし」がとれて「風呂」になった。今日のように、首までつかる「洗湯(あらいゆ)」になったのは、江戸も後期になってからである(仝上)。当初は、

戸棚風呂、

といい、

「蒸風呂と洗湯を兼ねた湯槽で、洗い場で引き戸をあけて中へ入り,また引戸を閉める。つまり戸棚に隠れるような感じで,中の湯は一尺(約三十センチ)ほどしかない。だから腰だけ下が湯につかるだけだ。これを戸棚風呂といったが,引戸が板だから別名を板風呂といった。しかし引戸が閉めてあるから,内部は蒸気でむんむんする」

スタイルであった(仝上)が、江戸中期以降になると、

石榴風呂(ざくろぶろ)、

というものに変わる。客足がふえれば、引戸の開閉ごとに蒸気は外へ逃げることになり、第一その都度開閉するのは面倒だし、占めるのを忘れるものも出る(仝上)というので、燃料不足と水不足がある、という背景もあり、

「片方の引戸を固定し、反対側の引戸は下の方一メートルほど開けはなしにして、ここをくぐるようにした」

のである。入り口は、

関西の方が入口は高かった、

ともある(仝上)。「石榴口」は、

破風造りの屋根か鳥居がついており、両側の柱はうるし塗りで、そこに金ぴかの真鍮飾りがついている、

という。この「破風造り」が、後の、古い銭湯の入り口が、

破風造り、

になっていることとつながっているらしい(仝上)。

戸棚風呂も石榴風呂も、内部は暗く。

「一尺四方の小窓があるだけで、入口からさしこむ光線も、湯気のために奥まで届かず、石榴口をくぐって湯槽につかるときは、前をおさえ、『田舎者でござい。冷物(ひえもの)でござい、ご免なさいといい、あるいは、お早い、お先へと演(の)べ、あるいはお静かに、おゆるりなどという類い、すなわち礼なり』(浮世風呂)」、

とある(仝上)。しかし、銭湯は安く据え置かれ,寛永元年(1624)から明和九年(1772)まで,六文のままなのである。寛永の頃を百とすると,明和では三百,三倍の物価という。

一日に薪一本除けて焚けば,三百六十本虚(むだ)に焚く,
一本疏(おろそ)かにせざれば数日を助く,況や一生数年の損をや,

等々と「湯語教」という湯屋経営の教科書に載る。『浮世風呂』刊行の前年、文化五年(1808)、

湯屋十組仲間が誕生した時には、男風呂141株、女風呂11株、男女両風呂371株、合計523株、

あり、一町(60間、約109メートル)に二軒宛、

湯屋があったことになる。

なお、「風呂」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E9%A2%A8%E5%91%82)、「江戸の風呂」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-7.htm#%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E9%A2%A8%E5%91%82)、については触れた。

参考文献;
今野信雄『江戸の風呂』(新潮選書)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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石榴


「石榴(ざくろ)」は、

柘榴、
若榴、

とも当てる(広辞苑)。別名、

色玉、
じゃくろ、
セキリュウ、

等々ともいう(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%AD)。一重咲の紅花をつけて実を結ぶものを、

実石榴(みざくろ)、

といい、重弁で実を結ばないものを、

花石榴(はなざくろ)、

という(たべもの語源辞典)。白い花をつけるものを、

白榴(ハクリュウ)、

黄色の花をつけるものを、

黄榴(コウリュウ)、

という(仝上)、とある。

「石榴」の「榴」(漢音リュウ、呉音ル)は、

形声。「木+音符留」。瑠(つるつるした玉)と同系で、つるつるした玉のような種をつける木、

で、

ざくろ、

の意である。

石榴(セキリュウ)、

とも言う(漢字源)。曹植の詩に、

石榴植前庭、緑葉揺縹、

とある。「若榴」は、廣雅に、

若榴、石榴也、

とある(字源)。いずれも中国語である。「柘榴」は、

石榴の誤用、

とある(仝上)ので、我国だけでの用例である。

以上のことから、

漢語セキリュウ(石榴)は直音化のセキルを経て、サクロ・ザクロ・ジャクロとなった(日本語の語源)、

とする説が生まれる。

「石榴」の字音から(日本釈名)、
「柘榴」の字音セキリウの転(滑稽雑誌所引和訓義解)、

も同じ趣旨である。

ザクは「若」の字音ジャクの直音化、ロは榴の古音(岩波古語辞典)、

は、「若榴」から解釈したことになる。別に、

原産地イラクの西方のザクロス(Zagross)山脈の音訳から(語源辞典・植物篇=吉田金彦・語源大辞典=堀井令以知)、

とする説がある。これは、

漢名は「安石榴・石榴」と言い、ペルシャからインド西北部の原産である。名の由来は、中国の古書に、西域に使者として出て、安石国(イラン)から種子を持ち帰ったとある。安石とは安息の意味である。安息国(ペルシア)から薬用目的で伝来した果実が、瘤(こぶ)のように見えた事から、「安石榴」と名付けられた。日本にも、初めは薬用として伝わったhttp://cocologtakao.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-8e26.html

とする説につながる。確かに、漢語に、

安石榴(アンセキリュウ)、

があり、宋書・張暢傳に、

求甘蔗安石榴、

とある(字源)。ただし、

安石国、

は、

サマルカンド(ウズベキスタンの古都)、

とされる(たべもの語源辞典)。いずれにしても、たしかに西方由来かもしれないが、

和名のザクロは、安石榴が略された石榴の音読みセキリュウから転訛して、ジャクリュウ→ジャクロ→ザクロに変わったものとされる、

とする(仝上)必要はなく、漢語に、

石榴、

がある以上、それが、日本に伝わったと考えていいのではないか。原産地は、

西南アジアや中東、

とされるが、

トルコあるいはイランから北インドのヒマラヤ山地にいたる西南アジア原産、
南ヨーロッパ原産、
カルタゴなど北アフリカ原産、

と諸説あるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%AD。東方への伝来は、

前漢の武帝の命を受けた張騫が西域から帰国した際に、パルティアからザクロ(安石榴あるいは塗林)を持ち帰ったとする記述が『証類本草』(1091年-1093年)以降の書物に見られる、

が、今日では3世紀頃の伝来であると考えられている(仝上)、とあり。日本には、

延長元年(923)に中国から渡来した、

とかなり遅い(仝上)。やはり、中国で、

安石榴→石榴、

となってからの伝来と思われる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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坐禅豆


「坐禅豆」は、

ざぜんまめ、

と訓むが、

ざぜまめ、

とも言う(広辞苑)。

黒豆を甘く煮しめたもの。坐禅の際、小便を止めるために食べる習わしがあったことから、この名を得た、

という(仝上)。黒大豆は、

大豆の豊富な健康機能性成分に加え、ポリフェノールの一種、アントシアニンも含まれるため、夜間頻尿の改善にも役立つらしい、

とあるhttp://brandnewfunk.blog.fc2.com/blog-entry-149.html。もともとは、岩手県で採れる、俗に、

雁喰い豆(がんくいまめ)、

を指した、ともあるhttp://www.shiba-shinise.com/column/tamakiya01.html。だから、

僧侶が座禅を組む時に食べた、

とする説の他に、

雁喰い豆の形が座禅の組足に似ているからその名がついた、

とする説もある(仝上)。

「雁喰い豆」は、

黒い平べったい黒豆で、豆の腹に付いたスジが特徴です。通常1〜3本程度あるこのスジが鳥(雁)がくちばしでつついたような跡に見えたり、同じく鳥(雁)が歩いた跡のような足跡にたとえて、雁喰い豆と呼ばれる、

とあるhttps://www.kenkoutuuhan.com/gankui_ad1.html

東北地方でも岩手県や山形県などの一部の地域で作られている大豆です。その地方にもともとある在来の大豆(通常は地大豆と呼ばれる)、

である(仝上)。

「坐禅豆」は、

天明(1781〜89)のころには煮豆屋が坐禅豆という名で黒豆を煮て売り、大流行した、

とある(たべもの語源辞典)。

「ザゼン、ザゼン」と江戸市中を天秤担ぎながら行商して歩いた、

とあるhttp://www.shiba-shinise.com/column/tamakiya01.htmlのはそれである。ただ、

甘く煮た黒豆は江戸時代から有名な料理茶屋の八百善が始めた、

と言う説もあるらしいhttps://www.videlicio.us/CULTURE/CYFQrqnQ

異説に、「坐禅豆」は、

「座禅納豆」と呼ばれ、唐納豆や寺納豆など、大豆を塩と麹で発酵させ、その後乾燥させて作られたものです。小用を遠ざける効果があったとされ、僧が座禅をする時に食べたため、この名前が付いたようです、

とあるhttps://www.videlicio.us/CULTURE/CYFQrqnQが、これは、

坐禅納豆、

と呼ばれた、

浜納豆、

を指す(たべもの語源辞典)のではないか。「寺納豆」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E5%AF%BA%E7%B4%8D%E8%B1%86)で触れたように、「浜納豆」は、今日の「納豆」、つまり、

糸引き納豆、

とは別種で、

塩辛納豆、
寺納豆、
大徳寺納豆、
唐納豆、

等々とも呼ばれたものだ。大言海も、「坐禅納豆」の項で、

坐禅する僧、これを食へば、小便を止むると云ふ、法論味噌(ほふろみそ)も然り、

とし、

浜納豆、

のことだとしている。そして、「坐禅豆」の項では、

坐禅納豆と同じ、

としつつ、

今日東京では黒大豆を煮て、砂糖、醤油にて甘く煮しめたるものを云ふ、

としている。江戸語大辞典も、すでに、

黒大豆を甘く煮しめたもの、

としている。ただ、

僧が坐禅の時、小便を少なくするために食うのでいう、
とも、
坐禅納豆の名を真似たもの、

ともいうともあり、

ここの坐禅豆は、さりとは能い(明和八年(1771)「遊婦多数奇」)

の用例が載る。とすると、一つの考え方は、いずれの時点かまでは、

坐禅豆、

は、

浜納豆、

と同じだった、ということが考えられる。で、それを真似て、黒大豆を煮しめたものを、

坐禅豆、

と名づけた、ということになる。砂糖(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E7%A0%82%E7%B3%96)で触れたように、吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励し、とくに高松藩主松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、天保期(1830〜44)に国産白砂糖流通量の6割を占めるまでになって、砂糖が流通する以降かと思われる。だから、元禄八年(1695)の『本朝食鑑』の黒大豆の項に、

醤油や味噌を作るのには用いず、薬酒や納豆を作るものが多かった、

とあるhttps://www.videlicio.us/CULTURE/CYFQrqnQ。この時点は、浜納豆のようである。享保一五年(1730)『料理網目調味抄』に、「坐禅豆」は、

硬く煮るは豆を布巾にて拭きて、生漿にて炭火にて煮るくろ豆は丹波笹山名物なり、

とあるらしく(仝上)、「漿」は「漿油(しやうゆふ)」とされている(仝上)が、まだ甘くする砂糖は使われていない。しかし、

煮て乾燥させたものから、次第に豆を煮たものへ、

と変わりつつある(仝上)、と見ることができる。「黒豆」も、

丹波笹山産、

とある。ブランドにこだわり出している。江戸時代から、兵庫県丹波篠山市付近より選抜育成された

丹波黒、

は、京都府京丹波町の、

和知黒、

とともに、代表的な品種であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%B1%86

今日、「坐禅豆」は、

熊本の郷土料理、

として知られる煮豆である。豆がしわしわで硬いのが特徴、とか。

なお、「坐禅」の名のつくものに、

坐禅草、

というのがある。

仏像の光背に似た形の花弁の重なりが僧侶が座禅を組む姿に見える、

のが、名称の由来とされ、花を達磨大師の座禅する姿に見立てて、

ダルマソウ(達磨草)、

とも呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%82%A6

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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さつま揚げ


「さつま揚げ」は、

薩摩揚げ、

とあてるが、

すり身にした魚肉に、食塩、砂糖、でんぷんなどを加え、適当な形にして油で揚げたもの、

で、

人参の細切り・笹がき牛蒡などを混ぜる場合もある、

とある(広辞苑)。大言海には、

魚肉を細かく叩きたるものと、鹽、豆腐、片栗粉とを、煮出汁にて擂りまぜ、茹でたる胡蘿蔔(にんじん)を細く刻みたるを加へて、三寸許りに扁(ひらた)く固め、胡麻の油にて揚げたるもの、

とする。この違いは時代によるものか、地域差かはわからない。

江戸で、

薩摩のつけ揚げ、

からそう称したが、上方では、

てんぷら、

と呼んだりする(仝上)いわゆる「天麩羅」とあてる「てんぷら」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%B7%E3%82%89)については触れた。「さつま揚げ」は、

中国由来の料理が琉球に伝わり、薩摩を経由して全国に広がった、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E6%8F%9A%E3%81%92

沖縄の製法を、薩摩に傳へたるもの。沖縄にては、何物にも、豚の脂に揚げたるを、テンプラと云ふ、

とある(大言海)。

島津斉彬が諸藩のかまぼこなどをヒントに鹿児島の高温多湿の風土にあう揚げ物料理を考案させた、

との説もある(仝上)が、「さつま揚げ」は『守貞謾稿』(1837年)、『虚南留別志(うそなるべし)』(1834年)に登場しており、江戸時代後期には一般的に普及していたhttps://www.olive-hitomawashi.com/column/2018/06/post-1638.htmlとされる以上、この説はあり得ない。

野菜天ぷらを琉球語、

アンダーギ、

魚肉のすり身の揚げ物を琉球語で

チキアーギ、
チキアギ、

と言ったらしい。その「チキアーギ」が、薩摩で訛って、

つけあげ、

となった(https://ameblo.jp/alf0225/entry-12415621161.html・たべもの語源辞典)というのが妥当ではないか。石川、富山、長野や静岡以東の主に東日本では、

さつま揚げ、

西日本では、

てんぷら、

と呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E6%8F%9A%E3%81%92

宮崎あたりでも、天ぷらそばというと、そばの上に薩摩揚げののったものが出る、

とある(たべもの語源辞典)。

油を使う料理は、「普茶料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)や「卓袱」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E5%8D%93%E8%A2%B1)で触れたように、

普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす(料理山家集)、

というように、中国由来である。

ネットでの「呼称調べ」https://j-town.net/tokyo/research/votes/243110.htmlでは、東京でも、

天ぷら、

と呼ぶ人が、「さつま揚げ」と呼ぶ人を10とすると6くらいになる。地方出身者が多いせいかもしれないが。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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あたりきしゃりき


「あたりきしゃりき」は、

あたりきしゃりきのこんこんちき、

とか、

あたりきしゃりき車引き、

と言ったりする。「こんこんちき」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%A1%E3%81%8D)については触れたが、「あたりき」は、

(職人のことば。主に明治期に用いた)「あたりまえ」を語呂よく言った語、

とある(広辞苑)。

あたりきしゃりき車引き、

は、

あたりまえであるということの語呂合わせ、

だが、

「き」は単なる言葉癖で、「りき」から語呂合わせで「車力」を出しています、

と絵解きしている(落語あらすじ事典)ところからも、明治以降の言い方なのは確かであるが、

江戸・東京の職人言葉で「あったりめえよ」といったところ。「あたぼう」と同義です、

ともあり(仝上)、「江戸ッ子」気質が残っていたということのようである。

昭和中期辺りまでは「あたりきしゃりき」まではまだ使われていました、

ともある(仝上)。ずいぶん昔、まだモノクロテレビ時代の『てなもんや三度笠』という番組で、

俺がこんなに強いのもあたり前田のクラッカー、

と言って、あんかけ時次郎役の藤田まことが、一世を風靡したが、この

あたり前田のクラッカー、

も、

あたりまえ、

にスポンサーの前田製菓に引っ掛けた地口(じぐち)だったが、これもそれと同類になる。「あんかけ時次郎」自体が、長谷川伸の、

沓掛時次郎(くつかけときじろう)、

のもじりであり、パロディになっている。「もじり」は、

捩(もぢ)り、

とあて、「もじる」の原意は、

よじる、
ねじる、

だが、

(諷刺や滑稽化のために)元の文句、特に有名な詩句などを、他の語に似せて言い変える、

意である(広辞苑・大言海)。この語源は、

モトリチガフの義(和句解)、
モトル(戻)の義(言元梯)、
モジ入るの意。モは数奇の意、ジは数多く渡り領る意(国語本義)、

等々とある。「もぢ」に、



とあて、

麻糸をもじって目を粗く負った布、

の意があるが、

錑、

とあて、

錑錐(もじぎり)、

の意の、

先が螺旋(らせん)状をし、丁字形の柄をまわしながら穴をあける錐、

で、

南蛮錐、
もじ、
もじり、

というものがある(大言海・デジタル大辞泉)。

南蛮錐、

という名からみて、室町末期のものとみられ、日葡辞書に載る「もじり」と重なる。深読みかもしれないが、

よじる、
ねじる、

よりは、

孔を穿つ、

含意を採りたい気がする。

地口、

の語源については、江戸語大辞典は、

土地の口合(くちあい)の意、
似通った詞の意の、似口(じぐち)、

の二説を挙げる。

ヂ(地)は江戸の意で、グチ(口)は言葉の意。「当地の口あひ」の略(兎園小説外集・俚言集覧・三養雑記)、

は、前者である。他に、

モヂリが本義で、モヂグチの略(嬉遊笑覧)、

という説もある。

似口(じぐち)、

は面白いが、「似」(漢音シ、呉音ジ)で、「ヂ」とは訓まないのではないか。「地」(漢音チ、呉音ジ(ヂ))の、

「土地の口合(くちあい)」を意味し、京阪で行われた「口合」に対し、享保(1716〜36)の頃江戸で流行ったものを指す、

とするのが妥当のようである。「地口」は、

同音意義のしゃれ、

の意だが、

語呂合わせ、

と区別するときは、原句の一語一語を五十音図の各行各列いずれかに通じる他の語に言い換え、意味のまったく異なる別の句にするものをいい、その規則の寛大なものを語呂合わせとするのであるが、実際上両者の区別は厳格に守られてはいない、

とある(江戸語大辞典)。

当初は語に二重の意を重ね合わせる単純な言語遊戯であったが、より長い文句の一語一語を、五十音図の各行各列のいずれかに通ずる後に置き換えて滑稽な句をつくるものをさすようになる、

とある(日本語源大辞典)のは、その意味である。「地口歌」は、たとえば、

今はただ思ひたえなんとばかり人づてならで言ふよしもがな(左京大夫道雅)、

を、

いやあはや思ひがけないとびっくり一つ目ならで幽霊下(しも)がねえ、

といった具合である(江戸語大辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ニンジン


「ニンジン」は、

人参、

と当てる。「ニンジン」(人参)は、

オタネニンジン(御種人参)、

を指し、

朝鮮人参、

を言う(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3・大言海)。または、

高麗人参、

とも言い、

ウコギ科の多年草。

いわゆる「ニンジン」の漢名は、

胡蘿蔔(こらふ・こらふく)、

という。現在でも中国では胡蘿蔔と記述している(仝上)。「胡蘿蔔」とは、

「すずしろ」(ダイコンの異名)のことであり、「胡」は外来であることを示している。(胡麻=ゴマ・胡椒=コショウ・胡桃=クルミ・胡瓜=キュウリなども同様)、

とある(仝上)。この「ニンジン」は、

セリ科、

で、

セリ(芹)ニンジン、
ハタ(畠)ニンジン、
ナ(菜)ニンジン、
八百屋ニンジン、

等々という(広辞苑・仝上)。大言海は、「ニンジン」を、

人参、

と当てるものと、

胡蘿蔔、

と当てるものとに項を分けて記載する見識を示している。前者は、いわゆる、

朝鮮人参、

で、

根に頭、足手、面目ありて人の如きを最上として名あり、

とし、別名、

カノニケグサ、
熊膽(クマノイ)、

とし、こう記す。

一茎直上し、梢に三枝を分かち、枝ごとに五葉を生ず、うこぎ(五加)の葉の如し、皆鋸葉あり、年久しきは、数枝、数葉に至る。枝の中に一茎を生じ、其梢に細小花、簇り生ず、五弁にして淡緑色なり。中に白蕊あり、亦うこぎの花に似たり。花後に、実を結ぶ。形圓くして緑に、秋冬に至り、紅に熟す。根を薬用とす、

と。10世紀前半成立の『和名類聚抄』では、和名を、

加乃仁介久佐(カノニケ草)、

と表記しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3。これを、

御種人蔘、

というのは、

八代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて朝鮮半島で種と苗を入手させ、試植と栽培・結実の後で各地の大名に種子を分け与えて栽培を奨励し、これを敬って「御種人参」とよぶようになったといわれる、

とある(仝上・大言海)。

今日の「ニンジン」は、

東洋系ニンジンと西洋系ニンジンに大きく分けられ、東洋系は細長く、西洋系は太く短いが、ともに古くから薬や食用としての栽培が行われてきた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3。「ニンジン」は中央アジアの原産で、

西洋系ニンジンの原産地は小アジア、
東洋系ニンジンの原産地は中央アジア、

といわれ、原産地のアフガニスタン周辺で東西に分岐し、世界各地に伝播した、とされる(仝上)。東洋系ニンジンは、

中国元の時代(1271〜1368)に西方から伝わり、

胡蘿蔔、

と呼ばれ、日本伝来はそれ以降で、寛永年間(1624〜44)の『清良記』(1628)、『多識編』(1631)に記載されているところから、1600年頃と推定される(日本語源大辞典・たべもの語源辞典)。「多識編」には、

胡蘿蔔、今案世利仁牟志牟、

とあり(仝上)、当初その葉が芹に似ていることから、

セリニンジン、

と呼ばれた(仝上)。日本に伝わると、短い期間で全国に広まり、江戸時代の農書に、

菜園に欠くべからず、

とあるほどになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3。江戸時代に栽培されていた品種は東洋系が主流だったが、江戸時代後期に西洋系ニンジンが伝わり、明治期に入ると欧米品種が次々と導入され、東洋系ニンジンは栽培の難しさから生産量が減少し、戦後は西洋系品種が主流になっている、とある(仝上)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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物色


「物色」は、

室内を物色する、

というように、

多くの中から探し求める、

意で使うが、漢語由来であり、文字通り、

物の色、

の意味であり(字源)、菅原道真の漢詩文集では、

物色と人情と計会すること愚かなり、

と(菅家文草)、

風物景色、

の意で使っている(広辞苑)。万葉集の、

さを鹿の 朝立つ野辺の 秋萩に 玉と見るまで 置ける白露、

という大伴家持の歌の後記に、

右のものは、天平十五年癸未秋八月に、物色を見て作れりなり、

と注がある。この「物色」は、現物の気色を見て作ったという意となる。

書言字考節用集には、

色目、

とある(大言海)ので、

物の色、動物の毛色、自然の景色、

等々を指していたと思われる。

しかし「物の色」は、

仲秋之月、……命宰祝循行犠牲、視全具案、芻豢(スウカン)、瞻肥瘠、察物色、

とあり、「芻豢」とは、

「芻」は草を食べる畜類。「豢」は穀物を食べる畜類、

で、牛、羊、豚、犬など、人間が飼育して、食用や労役などに用いる家畜の意(精選版日本国語大辞典)であるが、

体格が揃っているかをみて、草と穀物の食べ方を検討し、肥えているか痩せているかを調べ、毛色を見る、

意になるhttps://kenbunroku-net.com/kotoba-20201116/らしい。で、ここでは、「物色」は、物の色は色でも、

犠牲(となる動物)の毛の色、

の意となる(大言海)。これが「物色」の語源とする説もある。

しかし、この意味が、転じて、『後漢書』嚴光傳に、

帝令以物色訪之、後齊國上言、有一男子、披羊羹釣澤中、帝疑其光、……遣使聴之、三反而至、

とあり、

人相書にて人を求める(大言海)、
人相書または容貌によってその人を探すこと(広辞苑)、

意になり、『唐書』李泌傳の、

肅宗即位、靈武物色、求訪會、泌亦自至、已謁見、陳天下所以成敗事、帝悦、

という、

任ずべき人物を探す、

意となる(大言海)。ここから、

尹喜が老子を物色して求めて著させたぞ(史記抄)、

というように、

探し求める、

意まではひと続きである。戦国期の永祿一三年(1570)には、

「信玄者、去一六、集人数、急速出張之由申候、雖然、境目至于今日、物色不見得候」(上杉家文書・北条氏康書状)

と、物事の様子、特に、戦(いくさ)の様子、

の意でも使われている。

「物色」の「物」(漢音ブツ、呉音モツ・モチ)は、

会意兼形声。勿(ブツ・モチ)はいろいろな布で作った吹き流しを描いた象形文字。また水中に沈めて隠すさまともいう。はっきりと見分けられない意を含む。物は「牛+音符勿」で、色合いの定かでない牛。一定の特色がない意から、いろいろなものをあらわす意となる。牛は、ものの代表として選んだにすぎない、

とある(漢字源)が、別に、

会意兼形声文字です(牜(牛)+勿)。「角のある牛」の象形と「弓の両端にはる糸をはじく」象形(「悪い物を払い清める」の意味)から、清められたいけにえの牛を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「もの」を意味する「物」という漢字が成り立ちました、

とありhttps://okjiten.jp/kanji537.html

会意形声。「牛」+音符「勿」。勿は「特定できない」→「『もの』の集合」の意(藤堂)。犂で耕す様(白川)。古い字体がなく由来が確定的ではない、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%89%A9。「物」は、

植物、
動物、
鉱物、

の三別の「物」を指す(漢字源)。もし、特に「牛」と絡めない、ということに意味があるとすると、語源に、

生贄の牛、

と限定する説には意味がないことになる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ぶっきらぼう


「ぶっきらぼう」は、

言動に愛敬がないこと、

とある(広辞苑)が、ちょっとニュアンスが違い、

不愛想、

のような気がする。大言海は、

打切坊、

とあて、

木強(きすげ)なること、木の切れ端のやうなること、質朴すぎて愛敬なきこと(東京)、

の意とする。「木強」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E6%9C%A8%E5%BC%B7)は、

ぼっきょう、

と訓ませ、

心が木石のように一徹なこと、
飾り気がなく、剛直なこと、
無骨、

という意であり(広辞苑)、

木強漢(ぼっきょうかん)、

と、

一本気で飾り気のない男、

の意で使う言い方もある。「木強」は、

きすぐ、

と訓ませ、副詞的に、

気性の質朴にして、飾りなき状を云ふ、

とあり(大言海)、

気健、

とも当てる(岩波古語辞典)のを、名詞化したものと見える。江戸語大辞典は、「ぶっきらぼう」を、

打切棒、

と当て、

ぶっきりぼうの転訛、

とする。「ぶっきりぼう」は、

棒状の固飴を七、八分位にぶっきりにしたもの、

で、

ぶっきり飴、

の意とする。それが転じて、

「野暮で固めし手づくねに、土気の抜けぬ宵子の小指、ぶっきり棒に釣鐘と、提灯掛けて引担ぎ」(享和元年(1801)名歌徳三舛玉垣)

というように、

無愛想、

の意となった、とする。「ぶっきり飴」とは、

固飴を引き伸ばして2センチメートル程度の長さに切ったもの、

を言う(広辞苑)。だから、「ぶっきらぼう」の語源としては、

木の切れ端(大言海)、
と、
ぶっきり飴(江戸語大辞典)、

とがあることになる。「ぶっきり」は、

打ち切り、

の、

うち→ぶち→ぶつ、

の転訛だが、「打ち切り」は、

ぶっきること、

であるが、「打ち切る」の「打(う)ち」は、

切るを強めている語、

であり、

うちきる→ぶちきる→ぶっきる、
うちとばす→ぶっとばす、
うちのめす→ぶちのめす、
うちころす→ぶちころす→ぶっころす、
うちたたく→ぶったたく、
うちあけ→ぶちあけ→ぶっちゃけ、

等々というよう、「切る」を強調しているだけだ。「ぼう」は、

坊、
とか
棒、

と当てるが、

けちんぼう(坊)、
くいしんぼう(坊)、
どろぼう(泥棒・泥坊)、

のように擬人化したり、

あめんぼう(棒)、
おさきぼう(棒)、
かたぼう(片棒)、
ごかぼう(五家宝・五荷棒)、

と、その形状に準えたりする擬物化にすぎない。だから、「ぼう(棒・坊)」には意味がなく、

ぞんざいにぶっ切った状態、

のような気質を指している、とみられる。

ぶっきり飴、

ぶっ切った木の端、

は例えにすぎない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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ぶっちょうづら


「ぶっちょうづら」は、

仏頂面、

と当てるが、

仏頂顔(ぶっちょうがお)、

ともいう。「仏頂」だけでも、

仏頂面、

の意味になるが、

仏の頭頂、仏の肉髻(にっけい)、

の意味と、

仏頂尊(ぶっちょうそん)の略、

の意味がある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。「肉髻」は、

仏・菩薩の頭の頂上に隆起した、髻髻(もとどり)の形のような頭頂の隆起、

を指す(仝上)。仏が備えているという優れた姿・形の32の特徴を言語によって数え上げた、

三十二相(さんじゅうにそう)、

のひとつに、肉髻(にくけい)を示す、

頂髻相(ちょうけいそう)、

があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%9B%B8

「仏頂尊」とは、

仏の頭頂の功徳である智慧を仏格化した最勝の尊で、胎蔵界第三院釈迦院に属する白傘蓋仏頂、除蓋仏頂などの五仏頂尊および大転輪などの三仏頂尊、その他の総称、

とある(仝上)が、肉髻を独立した仏として神格化したものも仏頂尊と呼ぶようである。たとえば、如来の胎蔵界(金剛界と対)三部(仏部・蓮華部・金剛部)の徳を表す「三仏頂」は、

広大仏頂(こうだいぶっちょう)、
極広大仏頂(ごくこうだいぶっちょう)、
無辺音声仏頂(むへんおんじょうぶっちょう)、

とされ、また、如来の五智を表す「五仏頂」は、

白傘蓋仏頂(びゃくさんがいぶっちょう)、
勝仏頂(しょうぶっちょう)、
最勝仏頂(さいしょうぶっちょう)、
光聚仏頂(こうしゅぶっちょう)、
除障仏頂(じょしょうぶっちょう)、

とされるhttp://tobifudo.jp/newmon/jinbutu/bucho.html、とか。

この「仏頂」つながりで、「仏頂面」の語源として、

仏頂尊の恐ろしい顔から、(岩波古語辞典)、
仏頂尊の厳めしい顔から(日本語源広辞典)、
仏の顔は年中変らないところから出た(隠語大辞典)、

等々、「仏頂尊」に絡めた説がある。しかし、いくらなんでも、

仏頂尊の面相は知恵 に優れ、威厳に満ちているが、無愛想で不機嫌にも見えることから、

という理由(語源由来辞典)は、信仰心のかけらも感じられない。仏の面との関りで、

ブッチョウシュ(仏頂珠 仏の眉間にあるしろい巻き毛)の義。指ではじいても動かないところから(松屋筆記)、
面をふくらませ、螺髪(仏の頭髪の縮れちた巻き毛)を見るようであるというたとえから(物類称呼)、

というのもあるが、ともに、

仏頂面、

と当て持した後から生れた、後付けの説ではないか。その他、

不承面の転訛(大言海)、
不貞面の訛り(上方語源辞典=前田勇)、

もあるが、

仏頂は仏頂尊の略とも「ふて」「不承」の訛りともいうが、あるいは付会あるいは音訛無理、

というのが妥当だろう(江戸語大辞典)。

ブッチョウ(膖脹)の促呼か(上方語源辞典=前田勇・江戸語大辞典)、

という説もある。「膖脹」は、

ボウチョウ、

と訓む。つまり、

ボウチョウ→ブッチョ→ブッチョウ、

と転訛したという説である。これも、仏教とつながり、「膖脹」は、

白骨観・膖脹(ぼうちょう)血観(けつかん)、

など三十種禅観(坐禅観法)の一つhttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%A6%85%E7%B5%8Cとある。

正直のところ、どれかということは手に余るが、「仏頂」と絡ませたのは、後付けだとしか考えられない。「仏頂」とふてくされ顔とはつながらない。それなら、意味の上から、転訛に無理はあるが、

ふくれっ面→ふっちょう面、
か、
ぶうたれ面→ぶっちょう面、
か、
むっと面(「むっと顔」というのはある)→ぶっちょう面、
か、
むっつり面→ぶっちょう面、

等々と擬態語からの転訛の方が納得がいくのだが。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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白酒


「白酒」は、

しろき、
しろさ、
しろささ、

と訓むと、

御神酒(おみき)の一種、

を指す。「さけ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E9%85%92)で触れたように、「き」は「さけ」の古名。

新嘗祭、大嘗祭に供え、

黒酒(クロキ)、

と並べ称す、とある(大言海)。白酒(しろき)、黒酒(くろき)は、

白貴、
黒貴、

とも書くhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92

古醸なるは、詳らかならず、

としつつ、

或は云ふ、荒稲(アラシネ 平精(ヒラシラゲ))にて醸せるが黒酒にて、和稲(ニコシネ 眞精(マシラゲ))なるが白酒なるべしと、

とある(大言海)。「荒稲(アラシネ)」とは、籾のままのもの、「和稲(ニコシネ)」は、「にぎしね」ともいい、殻を取ったものを指す。

『延喜式』によれば、

白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したもの、黒酒は白酒に常山木の根の焼灰を加えて黒く着色した酒(灰持酒)である、

と記載されている、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92。後に、

平安朝の頃は、白酒は常の酒にて、これに常山(クサギ)の焼灰を入れたるを黒酒とす。室町時代なるは、醴酒(アマザケ)を白酒とし、これを黒胡麻の粉を入れて黒酒を作れり、

とあり(大言海)、今日では、

清酒と濁酒(どぶろく)の組を白酒・黒酒の代用、

とすることも多いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92、という。

「白酒」を、

パイチュウ、
ハクシュ、

と訓めば、中国伝統の蒸留酒の総称。別名、

白乾児(パイカル)、

を指すが、ここでは、

しろざけ、

と訓ます「白酒」である。

精(しら)げたる糯米(もちごめ)を蒸し、久しく味醂に浸して、味醂を加えながら、碾(ひきうす)にて碾きて成る、色、白くして、甚だ濃し、多く上巳の雛遊びに用ゐる、

とある(大言海)。白酒の由来は、はっきりしていない。古来の製法は、

上酒に蒸した糯米を加え、さらには麹も加えて仕込んだ上で7日ほど熟成させてからすりつぶしたものを濾さずに飲用とした、

が、

現在の製法に近づいたのは江戸時代中期以降で、焼酎もしくはみりんをベースに製造されるようになった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%85%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92)。白酒が雛祭りのお供えとされるようになったのは、江戸時代からであるが、「雛祭り」は、

平安時代、貴族の子女の雅びた「遊びごと」として行われていたとする記録がある。初めは儀式ではなく遊びであり、雛祭りが「ひなあそび」とも呼ばれるのはそのためであるという。

「天児」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E5%A4%A9%E5%85%90)で触れたが、

三月上巳の日に人間の形をした形代(かたしろ)や人形(ひとがた)を作り,それで身体をなでたり息を吹きかけたりして身のけがれや災いを移し、川や海に流し捨てた、

とされる「形代」から、

天児(あまがつ)、
這子(ほうこ)、

と呼ばれる、

形代の代わりに、幼児の身近に置き、幼児にやってくる災いをそれらに移す人形、

が登場するhttps://www.hinaningyou.jp/know02.html。これが雛人形の由来の一つとされる。これが、江戸時代一般に広まり、

天児を男の子に、這子を女の子に見立てて飾るようになって、後に天児の姿は立雛の男雛へ、這子の姿は立雛の女雛へ、

と変化していく(仝上)。この上巳(桃の節句)において、室町時代から、

桃の花を浸した酒を飲んでいた、

のが変化して白酒の風習になった、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%85%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92)とされている。

桃の節句に「白酒」を用いるのは、

桃には白い花がなくてみな桃色であったから、これに白酒を配して、赤と白とにして,日と月を祀るという意を表した、

とする説がある、らしい(たべもの語源辞典)。

明和・安永の頃(1764〜81)まで、白酒売りが江戸の街を売り歩いていた、という(たべもの語源辞典)。白酒は、
旧称を「山川酒」といい、『守貞謾稿』では、

「白酒売りはかならず「山川」と唱え、桶の上に硝子徳利を納める」

と記述しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%85%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92)。関東では山川白酒というが、関西では、

東白酒、

という、とある(たべもの語源辞典)。

白酒の元祖は、

鎌倉河岸の豊島屋の初代十右衛門である。後陽成天皇の慶長年間(1596〜1615)のある日、彼が自宅でうたたねしていると、可愛らしい紙雛が枕元に現われて、親切に白酒の製法を教えてくれた。そのとおりにつくるとすばらしい甘い酒ができたという。初めは物見遊山などに用いられたが、三代将軍家光のころは腿の節句の前後四日間に豊島屋で250〜260石の白酒が売れた、

とある(たべもの語源辞典)が、

京都六条油小路の酒屋で造っていた白酒の色を山間部を流れる川の水が白く濁るのになぞらえて「山川」と呼ばれるようになった、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%85%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92)

京都の「山川」という銘柄、

が有名とある(焼酎・泡盛用語集)。

寛政四年(1792)の『江戸総鹿子新増大全』には、

本所表町、金や長左衛門博多練酒 山川白酒無類名物、

とある。これは、

この家の祖が諸国を遍歴して筑紫で練酒の製法を覚えてきた、

といい、

その色のなめらかなところが練絹のようなので練酒と称した、

という(たべもの語源辞典)。その他、江戸浅草では、

富士の白酒、

が有名で、歌舞伎「助六所縁(ゆかりの)江戸桜」では、

富士の白酒といっぱい、

のセリフもある(仝上)。

因みに、「白酒」と「甘酒」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E7%94%98%E9%85%92)は異なり、甘酒は、

ご飯やおかゆなどに米こうじを混ぜて保温し、米のデンプンを糖化させたもので、アルコールをほとんど含まない甘い飲み物、

であるhttps://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/1201/a02.html

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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なゐ


「なゐ」は、

地震、

と当てる(岩波古語辞典)。「地震」(じしん)は、漢語である。中国春秋時代を扱った歴史書『国語』の周語に、

陽伏而不能出、陰遁而不能蒸、于是有地震、

とある(字源・大言海)。「なゐ」は、

地震の古言、

である(大言海)。字類抄に、

地震、なゐ、

とある(仝上)。

ナは土地の意、ヰは場所や物の存在を明らかにする語尾(広辞苑・日本の言葉=新村出)、
ナは土地、ヰは居、本来地盤の意(岩波古語辞典)、

であり、その、

地、

の意が、転じて、

地震、

の意となった、(広辞苑)とあるが、

なゐ震(ふ)り、
なゐ揺(よ)り、

で地震の意であったが、後に、

なゐ、

だけで地震を言い表すようになった、とみられる(岩波古語辞典)。「な」は、

オオナムチ、
スクナヒコナ、

というように神の名にあり、「大地・地」を意味したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E7%A5%9E

さらに、允恭紀五年七月には、

地震(ナヰフル)、

とあり、武烈即位前紀に、太子歌曰として、

臣の子の八符(やふ)の柴垣下動(したとよ)み地震(なゐ)が揺(よ)り来ば破(や)れむ柴垣、

とある。また推古紀七年四月に、

地震(なゐふり)舎屋悉破、則令四方、俾祭地震神、

とあり、「地震神」は、

なゐの神、

と呼ばれたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E7%A5%9Eは、日本神話に登場する地震の神である。

さらに天智紀三年三月にも、

是春地震(ナヰフル)、

とある(日本書紀)。

ネヰフル(根居震)の下略(日本語原学=林甕臣)、
ネユリ(根揺)の約轉(大言海)、

等々も、似た発想である。

「なゐ」は元来「大地」の意であり、「なゐがよる」「なゐふる」とは「地面が揺れる」の意である。動詞部分が省略されて「なゐ」が地震そのものをさすようになった、

のである(日本語源大辞典)。

こんにちでも、

ナイ、
ナエ、
ネー、

などの形で、九州・沖縄のほか、東日本の各地にも点在し、周圏分布をみせている、とある(仝上)。「周圏分布」とは、『蝸牛考』で柳田國男が提示した仮説で、

相離れた辺境地域に「古語」が残っている現象を説明するための原則で、文化的中心地において新語が生れると、それまで使われていた単語は周辺へ押しやられる。これが繰返されると、池に石を投げ入れたときにできる波紋のように、周辺から順に古い形が並んだ分布を示す、

とするものである(ブリタニカ国際大百科事典)。柳田國男は、

蝸牛を表わす語が、時期を違えて次々と京都付近で生まれ、各々が同心円状に外側に広がっていったという過程である。逆からみると、最も外側に分布する語が最古層を形成し、内側にゆくにしたがって新しい層となり、京都にいたって最新層に出会う。地層を観察すればかつての地質活動を推定できるのと同様に、方言分布を観察すればかつての言語項目の拡散の仕方を推定できる、

としたものであるhttp://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2012-03-07-1.html

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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な(菜・魚・肴)


「な」は、

肴、
魚、
菜、

と当てる。「肴」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%82%B4)で触れたように、「肴」(漢音コウ、呉音ギョウ)は、

会意兼形声。「肉+音符爻(コウ 交差する)」で、料理した肉を交差させて俎豆(ソトウ)の上に並べたもの、

とあり(漢字源)、

食べるために煮た魚肉、

の意である。俎豆とは、

昔の中国の祭器の名。俎と豆。俎はいけにえの肉をのせるまないた、豆は菜を盛るたかつき、

の意(デジタル大辞泉)。「肴」を、

飲食の時に食べる副産物、

の意で用いるのはわが国だけである(漢字源)とあるが、

酒肴、
珍肴、

という用語があり、

穀物以外の副産物、
肉と魚との熟して食うもの、

という意味がある(字源)ので、魚類に限定していても、的を外しているわけではなさそうである。

「魚」(漢音ギョ、呉音ゴ)は、

象形。骨組みの張った魚の全体を描いたもの、

で(漢字源)、いわゆる「さかな」の意であるが、

鱗と鰭のある水族、

を指し(字源)、

池魚、
海魚、

等々と使う。「さかな」の意味では、

鮭、

の字もあるが、「鮭」(漢音ケイ、カイ、呉音ケ、ゲ)は、

会意兼形声。「魚+音符圭(ケイ 三角形に尖った形がよい)」

とある(漢字源)。日本語では、「さけ」にあてるが、

鮭肝死人、

とあるように、

ふぐ、

を指し、さらに、

鮭菜、

というように、

調理せる魚菜の総称、

の意味がある(字源)。「菜」(サイ)は、

会意兼形声。「艸+音符采(サイ=採、つみとる)」。つみなのこと、

とあり(漢字源)、

野菜、
蔬菜、

というように、

葉・茎を食用とする草本類の総称、

の意だが(仝上)、

惣菜、
菜館、

というように、

酒または飯の副植物、
おかず、

の意でもある(仝上・字源)。

俗に肴饌をいふ、

とある(仝上)。「ご馳走」の意である。

和語「な」は、

肴、

と当てて、

野菜・魚・鳥獣の肉などの副食物、

つまり、

おかず、

の意味で、古く古事記に、

前妻(こなみ)が肴 (な) 乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね、後妻(うはなり)がな(肴)乞はさば いちさかき 実のおほけくを こきだひゑね(神武天皇)、

とある。「な」で、

肴、

を当て、「おかず」を指していた。だから、「肴」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%82%B4)で触れたように、「さかな」(肴)は、

酒菜(さかな)の意、

とされ(広辞苑)、平安時代から使われ、

サカは酒、ナは食用の魚菜の総称(岩波古語辞典)、
酒+ナ(穀物以外の副食物)、ナは惣菜の意(日本語源広辞典)、
「菜」(な)は、副食物のことを指し、酒に添える料理(酒に添える副菜)を「酒のな」と呼び、これが、なまって 「酒な」となり、「肴」となったhttp://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.html
「酒菜」から。もともと副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字をあてた。酒のための「な(おかず)」という意味である。「さかな」という音からは魚介類が想像されるが、酒席で食される食品であれば、肴となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4
サカは酒なり、ナは食用とする魚菜の総称(大言海)、

等々とされ、中国春秋時代を扱った歴史書『國語』晉語に、

「飲而無殽」注「殽俎實(モリモノ)也」、広韻「凡非穀而食者曰肴、通作殽」

とあり、かつて、

酒を飲むとき、副食(アハセ)とするもの、魚、菜の、調理したるもの、其外、すべてを云う、

とし、

今、専ら、魚を云ふ、

とした(大言海)。しかし、今日、「酒の肴」というとき、「肴」は、必ずしも「魚」を指さない。それは、「な」に、

菜、

を当て、

籠(こ)もよ み籠(こ)もち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも(雄略天皇)

と、

葉・茎などを食用とする草木類の総称、

とし、「な」に、

魚、

を当て、

足日女(たらしひめ)神の命(みこと)の魚(な)釣らすとみ立たしせりし石を誰(たれ)見き(山上憶良)

と、

食用とする魚類、

として、意味に応じて、「な」に、魚、肴、菜の漢字を当て分けた結果である。

しかし、「おかず」の意の「な」は、

肴、

なのか、

菜、

なのかは、語源と関わる。

なむ(嘗)の義(大言海・槻の落葉信濃漫録)、

とするのは、

肴・菜・魚が同源、

とする考え方からきている。とすると、

肴(な)→菜(な)・魚(な)、

と分化したことになる。しかし、「菜」(な)も「おかず」の意味でも使われていたので、「菜」(な)は、

ナメクサ(嘗草)の下略(柴門和語類集)、
ナエハ(萎葉)の下略(日本語原学=林甕臣)、
ナゴム(和)の義。葉はやわらかいところから(和句解・名言通)、
根があって生えるところからネハフの約(和訓集説)、

や、「魚」(な)は、

酒ナの略。ナは菜の義(梅の塵)、

とする説があり、これからすると、「菜」(な)が先にあり、

菜(な)→肴(な)・魚(な)、

と分化したことになる。確かに、抽象度の高い、

おかず、

が先にあって、個別の菜と魚に分化するより、個別の菜と魚から、「おかず」に抽象化する方があり得る気がする。

はじめ、ひっくるめて、

な、

と、

おかず、

の意として、意味の重なる、

肴、

を使ったのか、という方に、一応与しておくが、やはり「おかず」の意のある、

菜、

を使い、

酒の肴、

魚、

へと、分離したという考え方もあり得ると思う。

ところで、副産物を指した「菜」は、

サイ、

と、漢語を音読した形が、後世一般的になる。特に中世には、

食用となる野菜のいの「菜」(さい)より、

一汁二菜、

のように、

副食物、

を指すようになる。中世末の日葡辞書では、「サイ」を、

飯と汁とを除いた食物で、魚、肉、野菜などでつくった料理、

とし、「な」は、

野菜、

の意味としている(日本語源大辞典)。その意味で、副食物の意の、

菜(な)、

は、野菜の、

菜(な)、

と、副食の、

菜(さい)、

に分化したことになる。江戸時代、日常の「菜(さい)」を、上方では、

番菜(ばんざい)、

江戸では、

惣菜(そうざい)、

といういい方が一般化する(たべもの語源辞典・日本語源大辞典)。こう見ると、あるいは、副食物としての「菜(な)」が、先ということなのかもしれない。

ただ、「菜(さい)」は漢字の音読ではなく、

調菜(ちょうざい)の略(大言海)、
添物のソヘ・ソヒ(添・副)から(東牖子・松屋筆記・米櫃と糧と菜=柳田國男)

と、別の由来とする説もある(日本語源大辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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こなみ


「こなみ」

は、

前妻、
嫡妻、

と当て、

後妻、
次妻、

とあてる「うはなり」の対とされる(岩波古語辞典)。「こなみ(前妻)」「うはなり(後妻)」は、『古事記』神武紀に、

宇陀(うだ)の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし 鯨障(さや)る 前妻(こなみ)が 菜乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻(うはなり)が 菜乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね ええ しやこしや こはいのごふぞ ああ しやこしや こはあざわらふぞ、

と詠われている。因みに、日本書紀では、神武の皇后は、

媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと、記;比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひる))、

妃は、

吾平津媛(あいらつひめ、記;阿比良比売(あひらひめ))、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

「こなみ」は、

一夫多妻のころの制度で、先に結婚した妻。前妻または本妻、

で(広辞苑・デジタル大辞泉)、和名抄には、

前妻、毛止豆女、一云古奈美(こなみ)、

とあり(岩波古語辞典)、別に、

もとつめ、
むかひめ、

ともいったらしい(大言海)。

「うはなり」は、

あとに迎えた妻。上代は前妻または本妻以外の妻をいい、のちには再婚の妻をいう、

とあり(デジタル大辞泉)、

第二夫人や、めかけなどを云うことが多い、

とある(岩波古語辞典)。和名抄には、

後妻、宇波奈利、

とある(仝上)。

古へは、妻、二人を持ちて、二妻(ふたつま)とも云ひき、本妻(こなみ)の、次妻(うはなり)に対する嫉妬を、うはなりねたみと云ひ、打ちたたくをうはなりうちと云へり、

とある(大言海)。

山彦冊子に、コナミは、着馴妻(こなれめ)の轉(着物、ころも。雀、すずみ)。ウハナリは上委積妻(ウハナハリメ)の轉(なげかはし、なげかし)。古へ、二妻(ふたづま)を、衣を、二重着るに譬えたり、とあり(和訓栞、コナミ「熟妻(こなめ)、或は、モトツメと読めり」、ウハナリ「ウハは、重なる義也、ナリは並(ならび)の義、ラ、ビの反(かえし)、リ」)。仁徳紀廿二年正月、「天皇納八田皇女将為妃、皇后御歌『夏蟲の譬務始(ヒムシ 夏蠶(ナツコ))の衣二重着て隠み宿りは豈良くもあらず』、萬葉集「おおよそに吾し思はば下に着て馴れにし衣を取りて着めやも」「紅の濃染の衣下に着て、上らに取り着ば言成さむかも」。何れも、二妻のことを云へりなりと云ふ、

とあり(大言海)、「こなみ」「うはなり」ともに、着物に喩えた、と見る。「うはなり」の「うは」は、

ウハヲ(上夫)・ウハミ(褶)・ウハ(上)などのウハと同根、後から加えられるものの意、

とあり(岩波古語辞典)、

うはづつみ(上包)、
うはつゆ(上露)、
うはぬり(上塗り)

等々同趣の言葉が多く、これは、重ねるという意味にもなり、同趣の説が多い。

ウヘニアリ(上在)の転(名語記・俚言集覧)、
後にきてウヘ(上)ニナルという意か(和句解)、
ウハは上で、重なる意。ナリは並の義(和訓栞・名言通・日本語源=賀茂百樹)、
ウハ(上)ナリ‐メ(女)の略。ウハナルは下に着た着物の上にもう一重重ねる義(山彦冊子)、
ウハナリ(上也)の義(言元梯)、
ウハは後の意(古事記傳)、

しかし、「なり」の説明が得心がいかない。単純に考えれば、

上成、

なのだが、そうあけすけには言うまいから、

ならぶ(並)、

が妥当なのかもしれない。

「後夫」は、

宇波乎(ウハヲ 上夫)、

というのに対して、前夫は、

之太乎(したを 下夫)、

とわかりやすい言い方になっているが、「こなみ」(前妻)については、

こなため(此方女)の義(名言通)、
コノカミノメの略(和訓集説)、
キナレメ(着馴女)の転(山彦冊子)、
こなめ(熟女)の転(和訓栞)、

等々と諸説苦戦している。唯一、

コヌアミの約。アミは日鮮満蒙を通じて女性の総称。朝鮮語に、嫡室を意味するKŭnömiがある(日鮮同祖論=金沢庄三郎・国語學通論=金沢庄三郎)、

というのが着目されるが、「こなみ」だけが、朝鮮語由来というのは、腑に落ちない。

コ(子)ノ‐アミ(母)の約。子持ちの意から前妻の意に転じた(日本古語大辞典=松岡静雄)、

というのも面白いが、「こなみ」だけが他と対比できないのは納得できない。

夫が、

之太乎(したを 下夫)⇔宇波乎(ウハヲ 上夫)、

ならば、妻も、

こなみ⇔うはなり、

は、セットでなくてはおかしい。やはり、

着馴妻(こなれめ)の轉、

と、着物に準えたというのが、おしゃれではないだろうか。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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あざとい


「あざとい(あざとし)」は、

思慮が浅い、小利口である(広辞苑)、
無知浅薄だ、小利口だ、大人が子供っぽい浅はかな言動をする形容(岩波古語辞典)、

意で、

なま才覚あるをあざとしと云ふ(志不可起)、

とある(岩波古語辞典)。大言海は、「あざとい」に、

稚、

と当て、

あざとし「俗語なり、浅く聡しの義なるべし」(和訓栞後編)、

を引き、

児童に云ふ、関西語なり、

とある。どうやら、「あざとい」は、

子供の小才、

を言ったものらしい。それが、

大人の浅はかな言動、

を、子供ぽいとして「あざとい」といったものと想定される。それが最近では、

あざとい商法、

というように、

押しが強くて、やり方が露骨で抜け目がない、

と、より貶めた意味に転じて使われるようになっている(広辞苑)。

どうも「あざとい」は、近世に使われた言葉ではないか、という気がする。江戸語大辞典には、「あざとい」を、

気が利いているようで思慮が浅い、子供らしい、ばかばかしい

の意とし、

あざとさは雪見の留守で湯を沸かし、

という川柳を載せる。「ばかばかしさ」に意味のウエイトがある。その意味で、

幼稚、
稚拙、

の「稚」を当てたのは意味がある。「稚(穉)」(漢音チ、呉音ジ)は、

会意。もと「禾(イネ、作物)+遅(チ 成長が遅い)」で、稚はその俗字。成長が遅れて小さい作物、

とあり、「おさない」「ちいさい」意だが、どこかに「まだ伸び切らない、丈が小さい」という含意がある(漢字源)。

アサ(浅)くサトシ(聡)の義(和訓栞後編)、

が、「稚」を当てた含意に近い。しかし、

動詞アザル(戯れる意)と形容詞トシ(疾)の複合語(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦・日本語源広辞典)、
アは接頭語、ザルは戯れる。トシは疾しでアザリトシの略か(上方語源辞典=前田勇)、

とする説もある(日本語源大辞典)。

アザル+トシ→アザトシ、

アサ+サトシ→アザトシ、
か、

何れかと決める根拠はない。ただ、

子供っぽい、

という含意と、

稚、

を当てた意味から見ると、

浅い+聡し、

を採りたい気がする。江戸語大辞典には、

あさどい、

という言葉が載る。

小利口だ、
小癪だ、
ばかばかしい、

と、「あざとい」とほぼ意味が重なる。

「へゝ、矢兵衛に頼ま待伏するとは浅どい奴」(文政六年(1823)小脇差夢の蝶鮫)、
「山家の猿の浅どい智慧で」(文政十年(1827)契情肝胆粒志)、

浅どい、

という当て字から見ても、また「あざとい」を、

「おはつどん聞ねへ、安さんはまたいつあさとひ事を言ひなんすよ」(寛政元年(1798)南極駅路雀)、

と、

あざとい→あさとい、

という転訛が見られることや、

あざとい→あさどい、

と転訛したものとみられることなどから、

浅い+聡し、

の証のように思える。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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「粉」は、

こな、

と訓ませるが、

身を粉にする、

というように、

こ、

とも訓む。

「粉(こ)」は、

砕けてこまかくなったもの、
すりつぶした細かくしたもの、

という意で、

米の粉(コ)、
麦の粉(コ)、
石の粉(コ)、

等々と使う(大言海)。

「細かく砕く」という意のメタファ―か、

心身をひどく労する、

意もあり(岩波古語辞典)、

身体がくたくたになる、

意で、

粉(こ)にされる、
粉(こ)に成る、

という言い方もした(江戸語大辞典・広辞苑)。

「粉(こ)」の「細かく砕く」意の転化と思うが、

薬味、

や、

汁の実、

の意味が載る(広辞苑)。和名抄に、

粉、古(こ)、

と載るので、これが古形かと思う。「粉(こな)」が、

用いられるようになるのは近世から、

とある(日本語源大辞典)。

上代には、ア(足)、ハ(羽)など多くの一音節語が存在したが、語の不安定性、上代特殊仮名遣いの区別が失われるなどの音韻変化による同音衝突を避ける目的もあって、次第に、

ア(足)→アシ、
ハ(羽)→ハネ、

など、単音節語から複数音節語への交替現象が見られるようになった。この変化は、特に近世に盛んで、コもこのような変化の中で、コナと交替し始めた、

とある(日本語源大辞典)。しかし、「粉(コ)」と「粉(コナ)」とは、語源を異にするように思え、一般論では、

コはコ(小)の義から出た語。ナは無意義の接尾語(国語の語根とその分類=大島正健)、

という説があるように、

単音節語→複数音節語、

といえるかもしれないが、

コ→コナ、

は、別の由来のような気がする。

「粉(コ)」は、

小(コ)の義なるべし(和訓栞・大言海)、

なのに対し、「粉(コナ)」は、

熟(こなし)の語根(俚言集覧・大言海)、
こなす・こなるの語幹(江戸語大辞典)、
コ(細・小)+なす(為す)(日本語源広辞典)、

とする。つまり、「粉(コ)」から出た、

粉にする、
粉になす、

という言葉から派生したのではないか。これが、

こなす(熟)、

になり、

こな、

に転じた。「こなす」は、

粉(こ)になすが原義(岩波古語辞典)、
粉熟(な)すの義(大言海)、

とある。

粉になす・粉にする→こなす(熟)→こな(粉)、

という転訛である。

何やら粉名(こな)を入れ置きたる器を(文久三年(1863)七偏人)、

という使い方がある(江戸語大辞典)ので、

コナ(細名)の義(言元梯)、

もなくはなく、

粉になす・粉のなる→こなす(熟)→こな(粉名)→こな(粉)、

という転訛の経緯なのかもしれない。

この「こな」という使い方は、江戸の戯作に見られ、

コナは江戸語、

と意識されていた可能性もある(日本語源大辞典)という。しかし、

明治になっても、コが代表的形とされてきたが、現代では、コナが一般的になり、逆に、

小麦粉、
メリケン粉、

というように、複合語に「こ(粉)」が残り、

身を粉にする、

というような慣用句に残った。

なお、「こなす」については項を改める。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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こなす


「こなす」は、

熟す、

と当てる。「粉」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E7%B2%89)で触れたように、「こなす」は、

粉(こ)になすが原義(岩波古語辞典)、
粉熟(な)すの義(大言海)、
コ(細・小)+なす(為す)(日本語源広辞典)、

とある。つまり、

粉にする、

義である。それとかかわって、自動詞、

こなる(熟)、

あるいは、

こねる、

という言葉もある。「こなる」は、

粉熟(な)るの義、

で(大言海)、いまは、

こなれる(熟)、

といういい方をする(広辞苑)。「こねる(捏ねる)」は、

粉練る、

で、

粉(こ)成す、
粉(こ)熟(な)れる、

と同趣とある(大言海)。いずれも、「粉(こ)」から出ている。

さて、「こなす」は、従って、

粉にする、

つまり、

砕いて細かくする、

意で、室町末期の日葡辞書にも、

ツチヲコナス、

と載り、

熟田(コナダ 熟(こな)し田)、

というように、

土を掘り起こして、砕き熟(な)らす、

意に使う(大言海)。それをメタファに、

消化する、

意でも使うが、

数ヵ国語をこなす、

というように、

意のままに扱い馴らす、
思うままに扱う、

意でも、

ノルマをこなす、
仕事をこなす、

というように、

処理する、
仕事を済ませる、

意でも使う(広辞苑・大言海)。それとつながるが、

使いこなす、
乗りこなす、

というように、

動詞について、その動詞を要領よくうまくする意を添え、

うまく〜する、
完全に〜する、

意でも使う(広辞苑・デジタル大辞泉)。その、

思うままにする、

意が、

大敵の西夏をこなさんと(四河入海)、

というように、

思うままに処分する、
征服する、

意にもなり、

あんまりこなした仕打ちだ(梅暦)、

のように、

見下す、
軽蔑する、

意にも使う。悪意に使われると、

他宗をこなし貶めんと思へり(御文章)、

というようにも使う(岩波古語辞典)。

砕いて粉にする、

は、

圧し潰す、

に通じるからだろう。

粉にする、

というただの状態表現であった言葉が、価値表現へと転じ、遂には、感情表現にまで収斂したことになる。これは、名詞化し、

こなし、

となると、

こなすこと、
自分の思うままに取り扱うこと、

という意の他に、

とりなし。男女ともに、よく取り入りて、心のままに引く貌(かたち)を言ふに通ふ詞也(色道大鏡)、

と、

物のとりなし、その場の適当な振舞い、

の意で使われ(岩波古語辞典)、この振舞いの言葉が、歌舞伎用語「こなし」で、

台詞によらず主として動作で心理を表現する、

と特定した意味で使われる(江戸語大辞典)。

「思入れ」に似るが、顔の表情よりも身ぶりが主となる点で異なり、しぐさに重なる、

とあり(仝上)、

墾(こなし)、その場合相応の仕打、銘々の振りにてするをいふ也(天保十四年(1843)「伝奇作書」)、

とか(仝上)。「開墾」の「墾」を、「こなし」に当てているところは、なかなか含蓄がある。ちなみに、歌舞伎用語の「思入れ」は、

台詞によらず体の動きや顔の表情で心理を表現する演技、

とあり、作者は、ト書きで、

台詞の間で思入れを指定する場合は〇の符号を用いる、

とある(仝上)。また台詞のある場合は、

思入にて言ふ、

と指定する(仝上)、とある。

名詞「こなし」にも、

けなすこと、
ひどくやっつけること、

の意があり、今日でも、

頭(あたま)ごなし、

といういい方が残っている。これは、かつては、

頭(あたま)くだし、
頭(あたま)おろし、
頭(あたま)へし、

ともいい(大言海・江戸語大辞典)、

相手の言い分を聞かず最初から押さえつける、

意である。「へす」は、

圧(へ)し潰す、

意で(大言海)、「頭」は、

最初、

の意である(江戸語大辞典・日本語源広辞典・大言海)。ただ、「あたまくだし」は、

頭から水を浴びせかける、

意の他に、

歌を初句からなだらかに詠み下す、

意がある。その他に、

他人の言うことの理非も考えず最初から圧しつぶすこと、

の意がある。あるいは、「あたまくだし」は、前二者と、後者とは、意味が距り、由来を異にする言葉なのかもしれない。

「熟」(漢音ジュク・ズク、呉音シュク)は、

会意。享は、郭の字の左側で、南北に通じた城郭の形。突き通る意を含む。熟の左上は、享の下部に羊を加えた会意文字で、羊肉に芯を通すことを示す。熟は丸(人が手で動作するさま。動詞の記号)と火を加えた字で、芯にとおるまで柔らかく煮ること、

とある(漢字源)。これでは、少しわかりにくい、別に、漢字源の説を含めて、

会意形声。「火」+音符「孰」、「孰」は「享」+「丸(←丮)」の会意。「享(古体:亯)」は「郭」の原字で、城郭の象形、「丮」は、両手で工事するさま。「孰」は城郭に付属して建物を意味していたが、音を仮借し、「いずれ、だれ」の意に用いるようになったため、元の意は「土」を付し「塾」に引き継がれた。古体は「𦏧」であり、「羊」が加えられており食物に関連。「享」が献上物をとおして、「饗」と通じていたことから、饗応のための食物をよく煮る意となったか。藤堂明保(漢字源)は、「享」に関して、城郭を突き抜けるさまに似る金文の形態及び「亨」の意義などから、城郭を「すらりと通る」ことを原義としていることから、熱をよく通すことと解している。なお、「亨」に「火」を加えた「烹」も「煮(にる)」の意を有する、

と解説しているhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%86%9F。意味としては、「うれる」「なれる」の意で、

熟す、

といういい方だと、

成熟、
精熟、
熟練、

といったように、和語「こなす(熟)」と意味が重なる。和語の方は、けなす意味へとシフトしているが、当初、「こなす」に、「熟」という字を当てた見識に敬服する。

なお、「こなし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E3%81%93%E3%81%AA%E3%81%97)は触れたことがある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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ことわり


「ことわり」は、

断、
理、

と当てる。「断」とあてる「「ことわり」は、

物事の理非を分かち定めること、判断、判定(源氏「中将はこのことわりを聞きはてんと」)、
申し訳、言い訳(源氏「いみじうことわりして聞こゆとも、いとしかるべいわざぞ」)、
前もって理由を告げること(浄瑠璃・淀鯉出世滝徳「きつう酔うて御座んす故、ことわりいうて内からお駕籠に召させます」)、

の意があり、「理」とあてる「ことわり」は、

道理、条理(万葉集「父母を見れば貴し妻子(めこ)見ればめぐし愛(うつく)し世間(よのなか)はかくぞ道理(ことわり)」山上憶良)、
格式、礼儀に適っていること(欣明紀「新羅ことわり無し」)、
理由、わけ(源氏「そのことわりをあらはにえ承り給はじ」)、
当然のこと、もっともなこと(源氏「人の御心を尽し給ふも、げにことわりと見えたり」)、
(副詞的に)もちろん、無論(枕草子「わが得たらむはことわり、人の許なるさへ憎くこそあれ」)、

の意がある(広辞苑)が、どうも両者に差があるとは思えない。

「断(斷)」(漢音タン、呉音ダン)は、

会意。「糸四つ+それをきるしるし+斤(おの)」で、ずばりと糸の束を断ち切ることを示す、

とあり(漢字源)、「上から下へズバリと断ち切る」意で、「決断」「切断」「断乎」である。

断は、ものを二つにたちきること。または物の中たえたることにも用ふ。断碑、斷橋、斷雲の如し。転じて、決断の義に用ふ。斷獄の如し、

とあり(字源)、「断」には、

ことわる、ことわり、理由を説明して相手の要求を退ける、訳を述べて許可を得る、又はその許可、

といった意味はない(仝上)。「理」(リ)は、

会意兼形声。里は「田+土」からなり、すじめをつけた土地。理は「玉+音符里」で、宝石の表面にすけてみえるすじめ。動詞としては、すじをつけること、

で(漢字源)、「物事のすじめ」「ことわり」の意で、「道理」「論理」と使い、

理は、玉を治むる義。筋道をただしてをさむるなり、

とあり(字源)、むしろこの「理」のほうが、和語「ことわり」に当てるのに適っている。

岩波古語辞典をみると、

話の筋道をつける、筋道を立てて説明する

筋ありとする、道理ありとする、

(理非・正邪の)判断を下す、

前もって事の次第を知らせる、予告する、

拒絶する、

という意味の流れが見え、

筋道が通っている、

道理、

判断、

が主たる意味の流れで、だから、

拒絶する、



もちろん、

という意はこの意味の流れから当然帰結するし、敢えて言えば、

前もって知らせる、

のが、

筋通に通じる、

とも言える。

大言海は、「理」と「断」を分ける。「理」は、

筋道、
礼儀、

の意であり、「断」は、

告げおくこと、
過去の過ちを詫びること、
拒むこと、

とする。つまり、

話の筋道をつける、筋道を立てて説明する

筋ありとする、道理ありとする、

は「理」を当て、

(理非・正邪の)判断を下す、

前もって事の次第を知らせる、予告する、

拒絶する、

は、「断」を当てるとする。「理」の用例は古く、神代紀に、

於義(ことはり)不可、

とある(大言海)。用例を見ると、「断」は、近世以降に見える。

一般に、「ことわり」は、

動詞「ことわる」の連用形の名詞化、

とされ、「ことわる」は、

事割る(広辞苑)、
言割る(大言海)、

のいずれかとされる。「言霊」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-5.htm#%E8%A8%80%E9%9C%8A)で触れたように、一般的に、「事」と「言」は同じ語だったというのが通説である。あるいは、正確な言い方をすると、

こと

というやまとことばには、





が、使い分けてあてはめられていたが、古代の文献に見える『こと』の用例には、『言』と『事』のどちらにも解釈できるものが少なくなく、それらは両義が未分化の状態のものだとみることができる、とある(佐佐木隆『言霊とは何か』)。

「ことわり」は、

物事の筋道を見つけたり、つくり出したりする意、

で(岩波古語辞典)使われたのがはじめと見える。そして、

「万葉集」や「竹取物語」などの中古前後の和文資料には、動詞コトワルの例がみられず、中古中期などでも名詞、形容動詞の例に比べ、動詞例はごくわずかであるところから、

ことわり(名詞)→ことわる(動詞)、

という転化ではないか、と見る説がある(日本語源大辞典)。大言海は、動詞も、「断る」と「理る」を区別している。

言い別く、裁断す、判断す、
言い訳する、

を「断る」「理る」と当て、この転として、

告げおく、報告する、
理(ことわり)を云ひて押し戻す、
拒む、

を「断る」と当て、

常に断の字を当てるも(「断る」「理る」より)移れなり、

と。江戸語大辞典は、

断る、

と当て、

告げる、
訴える、
届ける、
抗議する、

意を載せる。

「理」の意味が、

筋道、

の意味から、主体の、

(理非・正邪の)判断を下す、

前もって事の次第を知らせる、予告する、

拒絶する、判断する、

といった言動にシフトした時が、動詞化のきっかけであり、「理」と「断」の分化につながったのではないか、と推測する。

参考文献;
佐佐木隆『言霊とは何か』(中公新書)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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船場煮


「船場煮」というものがある。

塩鯖と短冊形に切った大根を昆布だしで煮た汁もの、

とある(広辞苑)。

塩または粕・味噌煮の肴と大切りの大根・人参などの野菜を取り合わせた鍋料理、

ともある(岩波古語辞典)。

船場汁、
船場鍋、
せんば、

ともいう(仝上・たべもの語源辞典)。

薄味で汁たっぷりに煮たもの、

だが、今日多くつくられるのは、

大根と塩鯖の汁、

で、江戸時代は、

せんば、
せんばいり、
せんばに、

と呼ばれ、

千羽、
千羽煎、
前葉煮、

と当てられていた(たべもの語源辞典)。「千羽」は、

煎り鳥の手軽な料理法、

で、

わけなく千羽でもできる、

ということで名づけられた(仝上)、とある。江戸時代の川柳に、

からざけをせんば煮にする照手姫(宝暦十三年(1763)「川柳評万句会」)、

というのがある(江戸語大辞典)。

どうも初めは鳥料理だったらしい。

鳥肉にだしにたまりを少しさしてつくった、

とある(仝上)。

せんばいり、

は、煎り鳥に青物を加えて、

前葉、

の名がついた(仝上)。

煎り鳥と同じ料理法、

ということを示している(仝上)。鳥からはじまって、タイ、サケ、マスなとげの魚を用いるようになる、とある(仝上)。室町後期の《証如上人日記》《津田宗及自会記》には、

雁およびヒラタケ(平茸)のせんばいり、

が記録されているが、これはそれらの材料を煎りつけるように煮て、塩、ことに焼塩で調味したものだった(世界大百科事典)、とあり、《料理綱目調味抄》(1730)にも、

船場煮の名が見え、

船場煮、熬(いり)とも、

とあり、

大略うしほ煮のごとく多くは塩魚に大根、ふき等を加ふ、

とある(仝上)。

船場、

という字が当てられたのは、船場では、

使用人の待遇が非常に悪かった、おかずにしても、一日一度の菜葉に、あと二度は、一斗塩漬けという塩辛いたくあんと、ダイコンの葉をきざんで塩漬けにしたものがあればいい方で、たまに魚がでても、イワシ、サバ、サケなど塩干しくらいであった。これらの粗末な材料を利用してつくったのが船場煮であった、

とあり(仝上)、一名、

丁稚汁、

ともいい、

薄い塩味に、鯖の脂が適度に加わり、何杯でもお代わりが出来るし、それで相当に腹が張るので、しぜん、飯のほうはそれほど食べられない。旨い上に、至極経済的でもある、

ともある(大阪歳時記)が、船場の商家の食生活は、

「朝粥や昼一菜に夕茶漬け」といわれる、つましいものでした。日常は野菜本位のお惣菜で、月に2回だけ魚がつきました。その塩鯖や塩鮭を食べた後の頭やアラを出汁にして短冊にした大根を煮たのが船場汁で、いわば廃物利用の食物です。塩鯖一本で十人前のおかずになる、などとして魚を全部使っている例もありますが、これも頭から中骨まで使い切る無駄のない料理です、

とあり(日本国語大辞典)、使用人ではなく、

つましかった大阪船場の商人が食べた、

とされるらしいが、何れが正しいかは別として、これが、

船場煮の由来、

とする説がある。しかし、この説は、付会らしい(日本語源大辞典)。大言海は、

洗馬煮、

と当て、

木曽山中の洗馬駅に起こる、

とあり、

鰹・鮭の類の鹽漬魚を湯にて煠(ゆ)でこぼし、鹽気を去り、鰹節出汁煮にて煮たるもの、

とある。東海道中膝栗毛には、

鮪のせんば煮も、おざりまあす、

とある(大言海)。他に、

前葉煮の意(上方語源辞典=前田勇)、

という説も、

塩鯖の頭や中骨と短冊に切った大根を入れて作った潮汁(うしおじる)」のこと、

という説もある(日本国語大辞典)。どうも、入っている具も、

塩漬魚、
と、
鳥肉、

では差がありすぎる。ひょっとすると、鳥系の、

千羽、せんばいり、前葉、

と、塩漬魚系の、

船場煮、
洗馬煮、

とは、由来を異にするのかもしれない。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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あしびきの


「あしびきの」は、

足引の、

と当てる。奈良時代は、

あしひきの、

と清音であった(岩波古語辞典)。

「山」「を(峰)」にかかる枕詞である、

が、かかり方は未詳(仝上)、とある。万葉集には、

絶等寸(たゆらき)の山の峰(を)の上(へ)の桜花咲かむ春へは君し偲(しの)はむ(播磨娘子)
あしひきの山のしづくに妹(いも)待つとわが立ち濡れし山のしづくに(大津皇子)
あしひきのやまどりのをのしだりをのながながしよをひとりかもねん(柿本人丸)

等々、多くの歌がある。

「山」及び「山」を含む複合語、「山」と類義語「を(峰)」にかかる、

枕詞が(日本語源大辞典)、次第に、

あしひきの岩根(いはね)こごしみ菅(すが)の根を引かば難(かた)みと標(しめ)のみそ結(ゆ)ふ(大伴家持)
あしひきの木の間立ち潜(く)く霍公鳥(ほととぎす)かく聞きそめて後恋ひむかも、

等々と、

「山」の意を含み、「岩根」「木の間」などにかかる、

ように変ずる。

枕詞を言馴れて、下略して、直ちに山の義とす、

とある(大言海)。本来、

あしひきの岩根(いはね)、

は、

あしひきの(山の)岩根、

を略した使い方になる、ということである。

ひさかたの(天の)月、
ぬばたまの(夜の)夢、

の用例の如し(仝上)、ということである。「岩根」「木の間」以外にも、

「あらし」、「をてもこのも」にかかる例がある。「岩根」、「木の間」は、山に関連する語であり、「あらし」は山から吹き下ろす風、「をてもこのも」は山のあちらこちら、と理解できるので、山にかかる枕詞として「あしひきの」が定着し、慣用化されて、山の意味を内包する語として成立したと考えられる、

とあるhttp://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68193

この「あしひきの」の語源については、

アシヒキは万葉仮名ではkïの音の仮名で書いてあるから、四段活用の「引き」ではなく、ひきつる意をあらわす上二段活用の「ひき」であろう。医心方の傍訓には「攀」をアシナヘともヒキと訓んだ例がある。なお、平安時代の歌人たちは、アシヒキのアシを「葦」の意に解していたらしい、

とあり(岩波古語辞典)、特殊仮名遣いについては、

一字一音で記された例(「阿志比紀」(允恭記など)や「足日木」の表記は、乙類仮名であり、「足引」「足疾」「足病」「足曳」の表記は、甲類仮名であり、甲類乙類の仮名が混同されている。甲類仮名による表記は、記紀や万葉初期の歌には、用いられておらず、柿本人麻呂歌集以降にしか表れていない。人麻呂は新たな枕詞を創作したり、従来の枕詞に新たな表記を用い枕詞の再解釈を行った例もあるので、原義が既に不明になった「あしひきの」の語も、新たな解釈が行われ、表意的な「足引」「足疾」などの用字が選択されたのではないか、

とあるhttp://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68193。したがって、たとえば、

推古天皇が狩りをしていた時、山路で足を痛め足を引いて歩いた故事から(和歌色葉)、
天竺の一角仙人は脚が鹿と同じだったので、大雨の山中で倒れて、足を引きながら歩いた故事から(仝上)、
国土が固まらなかった太古に、人間が泥土に足を取られて山へ登り降りするさまが脚を引くようであったから(仝上)、
大友皇子に射られた白鹿が足を引いて梢を奔った故事から(古今集注)、
アシヒキキノ(足引城之)の意。足は山の脚、引は引き延ばした意、城は山をいう(古事記伝)、
足敷山の轉。敷山は裾野の意(唔語・和訓栞)、
足を引きずりながら山を登る意、
「ひき」は「引き」ではなく、足痛(あしひ)く「ひき」か(広辞苑)、
『医心方』に「脚気攀(あしなへ)不能行」を一つの根拠として足の病の意、

等々は、

「あしひきの」の「あし」を「足」と解釈しているが、平安時代のアクセントからは、「葦」と理解すべきとの指摘もある。万葉初期では、「き」が「木」と表記される例もあり、その表記には、植物のイメージがあるかも知れない、

としhttp://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68193、「あし」が「葦」と重なる例として、石川郎女が大伴田主に贈った歌を挙げ、

我が聞きし耳によく似る葦の末(うれ)の足ひく我が背(せ)つとめ給(た)ぶべし、

で、

足の悪い田主を「葦の末の足ひく我が背」と、足をひきずる様子が柔らかく腰のない葦の葉に喩えられている、

としている。

「あしひきの」「あし」を、「葦」とする説には、

一説に「あし」を葦と解する(広辞苑)、
古くはヤの音を起こす枕詞らしく、アシフキノヤ(葦葺屋)か、馬酔木の木から山を連想したとする(万葉集講義=折口信夫)、
国土創造の時、神々が葦を引いた跡が川となり、捨てたところが山となったので、葦引きの山という(古今集注)、

等々がある。大言海は、

冠辞考に、生繁木(オヒシミキ)の約轉と云へり(織衣(オリキヌ)、ありぎぬ。贖物(アガヒモノ)、あがもの。黄子(キミ)、きび)。上古の山々は、樹木、自然に繁かりし故、山にかかる。万葉集「青山の葉繁木山」。他に、語原説、種々あれど、皆、憶説なり、

と、

生繁木(オヒシミキ)の約轉説、

を採る。「青山の葉繁木山」は、柿本人麻呂の、

垣(かき)越しに犬呼び越して鳥猟(とがり)する君青山の繁き山辺(やくへ)に馬休め君、

である。

アオシゲリキ(青茂木)の約か(音幻論=幸田露伴)、
イカシヒキ(茂檜木)の意か(万葉集枕詞解)、

も同趣の主張になる。他に種々説があるというのは、たとえば、

悪しき日來るの意、三方沙弥が山越えの時、大雪にあい道に迷った時、「あしひきの山べもしらずしらかしの枝もたわわに雪のふれれば」と詠じたところから(和歌色葉)、
アソビキ(遊処)の音便(日本古語大辞典=松岡静雄)、
アスイヒノキの意。アスは満たして置く義の動詞、イヒは飯、キは界限する義の動詞クから転じた名詞「廓(キ)」(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
あはしひくいの(会はし引くいの)。「は」は消音化し「くい」が「き」になった。「あはし(会はし)」は「あひ(会ひ)」の尊敬表現。お会いになりの意。「い」は指示代名詞のそれ。古い時代、「それ」のように漠然とことやものを指し示す「い」があった。「お会ひになり引くそれの」のような意だが、お会いになり引くそれ、とは、お会いになり(私を)引くそれであり、それが山を意味するhttps://ameblo.jp/gogen3000/entry-12447616732.html

等々である。しかし、何れも理窟をこねすぎる。「あしひきの」の「あし」が、「足」でなく「葦」なら、個人的には、次の説が最もシンプルで説得力がある。

「ヒ」の母交(母音交替)[iu]を想定してアシフキ(葦葺き)としただけですぐに解ける。〈茅屋ども、葦葺ける廓めく屋などをかしうしつらひなしたり〉(源氏・須磨)とあるが、アシフキノヤ(葦葺きの屋)をヤマ(山)と言い続けて「山」の枕詞としたものであるが、いつしかアシヒキ(足引)に母交をとげたのであった。
 アツヒトノユ(猟人の弓)をユツキ(弓月)が岳と言い続け、ハルヒ(春日)のカス(霞)むカスガ(春日)と言い続け、鳥が鳴きアツマ(集)るアヅマ(東)と言い続けて、それぞれ枕詞が成立したのと同工異曲の造語法である(日本語の語源)。

平安時代のアクセントからは、「葦」と理解すべきとする説とも合致するではあるまいか。

参考文献;
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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千疋飯


「千疋飯(せんびきめし)」というのがある。

縮緬雑魚(ちりめんざこ)の炊き込みご飯、

をいう。

「ちりめんじゃこ」は、

縮緬雑魚(ちりめんざこ)の転訛、

イワシ類(カタクチイワシ・マイワシ・ウルメイワシ・シロウオ・イカナゴなど)の仔稚魚(シラス)を食塩水で煮た後、天日などで干した食品、

だが、

収量が多く、油分の少ないカタクチイワシの仔魚が用いられることが多い、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%8A%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%93

ごく小さな魚を平らに広げて干した様子が、細かなしわをもつ絹織物のちりめん(縮緬)を広げたように見えることからこの名前がついた、

ようである(仝上・日本語源大辞典)。

白縮緬のしわのように見える、

のが理由である。「縮緬」とは、

縦糸にはほとんど撚り(より)のない糸を使い、横糸に強い撚りをかけた右より(右回りにねじる)と左より(左回りにねじる)の糸を交互に織ったものである。そのため精練すると布が縮み生地の表面にシボ(凹凸)が現れる、

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%8A%E3%82%81%E3%82%93

布面に細かな縐(しじら)縮み

がある(日本語源大辞典)。

ちりめんぼし、

とも呼ばれる。「千疋」とは、

たたみいわし、

のことで、

カタクチイワシの稚魚(シラス)を洗い、生のままあるいは一度ゆでてから、(海苔をすくように)葭簀(よしず)や木枠に貼った目の細かい網で漉いて天日干しし、薄い板状(網状)に加工した食品、

である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%BF%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%97・たべもの語源辞典)。「かたくちいわし」は、

別に、

ひしこ、

とも言うが、海苔のように抄(す)いて簀子(すのこ)に並べた様が、

小さい魚が千疋もいるように見える、

ので、

千疋、

と呼んだ(たべもの語源辞典)、という。「たたみいわし」は、俗に、

白子(シラス)、

といい、江戸では、

白子干(しらすぼ)し、

とも呼んだ。

ということで、

千疋飯、

というと、「たたみいわし」ということになるが、

たたみいわし、

ちりめんざこ、

の差は、

生干し、
か、
煮干し、

の違いになる。しかし、一匹ずつばらばらになった

ちりめんざこ、

のほうが飯に良く混ぜ合せることができる(たべもの語源辞典)。この飯を、

茶碗に盛って、かけ汁をかけ、おろし大根、ネギの小口切、唐辛子など好みの加薬を用いて食べる、

とある(仝上)。

「千疋飯」と「疋」を使うのは、「疋」を、

布帛、絹織物の長さの単位、

として使い、

古くは四丈、令制では、小尺で五丈一尺、または五丈二尺(幅二尺二寸)、現在は鯨尺で六丈(約22.8メートル)で、幅九寸五分が標準、

とある(日本語源大辞典)ためかと思われる。

ちなみに「疋」(@漢音ソ、呉音ショ、A慣用ヒキ、漢音ヒツ、呉音ヒチ、B漢音ガ、呉音ゲ)は、

象形、足の形をえがいたもので、足の字と逆になった形で、左右あい対した足のこと。また左右一対で組をなすので、匹(ヒツ 二つで一組)に当ててヒツという音をあらわし、日本では、ヒキと誤読した。また正と混同して、正雅の雅をあらわす略字として転用された、

とあり(漢字源)、

動物を数える単位、

のほか、

織物を数える単位、

であり、

布二反のこと、

である。また、わが国だけの用例であるが、銭を数えるのに使った。「疋」は、

鳥目(ちょうもく 錢)十文の称、

である(大言海)。

百文を十疋とし、百疋を一貫文、

これが江戸時代は、銀貨一分に当たる。『奇異雑談集』『貞丈雑記』などによると、

1疋=10銭(文)とされたのは犬追物に使う犬1疋(匹)の値段が10銭(文)だったから、

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8B・大言海)。

「疋」は、

ピキ、
ビキ、

と動物を数えるが、

ヒキ、

と訓ませるほかに、

くれはどりといふ綾をふたむら包みてつかはしける(後撰・詞書)、

というように、

ムラ、

と訓ませて、

巻いた織物を数える、

のに用いる。で、

千疋、

は、

ちむら、

と訓ませ、

布帛千巻き、

を指し、

たくさんの布帛、

の意であり、

せんびき、

とも呼ぶ(精選版日本国語大辞典)。

千疋飯、

の「千疋」は、あるいは、

たたみいわし、

を指している(たべもの語源辞典)のではなく、

千疋(ちむら)、

からきているのではあるまいか。「千疋」には沢山の意があり、

千疋猿(せんびきざる)、

というと、

くくり猿(布に綿を入れて作った猿のぬいぐるみ)を多くの糸で連ねたもの。女児の災難除けや芸能の上達などを祈る、

ものがある(広辞苑)。

なお、「いわし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%82%B7)については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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引出物


「引出物(ひきでもの)」は、

饗宴の時、主人から来客へ贈るもの、

の意で、

古く馬を庭に引き出して贈ったことから起こり、後には武具を贈った、

とある(広辞苑)。「引出物」は、

古くからの習俗であるが、《江家次第》の大臣家大饗に〈引出物 馬各二疋〉とあるように、平安中期以降の貴族たちの大饗に当たっては、ふつう馬が引き進められたが、鷹や犬、あるいは衣類も用いられている。武家の場合、源頼朝が1184年(元暦1)平頼盛を招待したとき、刀剣、砂金、馬を贈っており、刀などの武具がこれに加わる。こうした引出物とされた物からみて、この行為は本来、みずからの分身ともいうべき動物、物品を贈ることによって、共食により強められた人と人との関係を、さらに長く保とうとしたものと思われる、

とある(世界大百科事典)。後代は、

引出物の名のもとに馬代(うましろ)として金品を贈るのが普通、

になり(日本語源大辞典)、現在は、

鰹節、砂糖など饗応の膳に添える土産物、

更に広く、

招待客への土産物、

をいう。

結婚式など慶事に限らず、法事のお返しにも引出物という言い方をするが、結婚式引出物も、もともとは、

結婚披露宴に供された料理の一部を披露宴出席者の家族へのお土産として持ち帰ってもらうもの、

であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E5%87%BA%E7%89%A9

「引出物」は、別に、

ひきいでもの、
かづけもの、
禄、
はな、
祝儀、
纏頭、
膳羞、

等々ともいう(大言海)、とある。「かづけもの」は、

被物、

と当て、

功を賞し、労をねきらふに賜う物、

で(大言海)、

禄、

ともいう。「禄」は、

封禄、

の給金の意の他に、

当座の褒美(かづけもの)として賜る物、

の意である(仝上・広辞苑)。

「膳羞」(ぜんしゅう)は、

「羞」は料理を勧める意で、料理。ごちそう、

の意(広辞苑)だが、

ひきでもの、

の意もある(大言海)。「纏頭」(てんとう・てんどう)は、

祝儀、はな、心づけ、

の意だが、

歌舞・演芸などをした者に、ほうびとして堪えるもの、もとは衣服を脱いで、その頭に纏わせた、

かずけもの、

ともいう(広辞苑・大言海)。

いま多くは、金銭なり、

とある(大言海)。「はな」は、

花、
華、

と当て、

かづけもの、

の意だが、

古へ、贈物には、草木の花枝をつけてやりしに起こり、転じて人に与ふる金銭などの称、

とあり(大言海)、

技芸を奏せる者に、当座の賞に与ふるもの、元は真に花を与えたり、後には専ら衣服、金銭となる、

とある(仝上)ので、

纏頭、

と同義であり、

芸者の揚げ代、
花代、

の意でもある(広辞苑)。ただ、

引出物の転、

ともされるが、

引き添ふるまでの意、

ともある(大言海)。

「引出物」は、また、

引物(ひきもの)、

とも言うが、

特に、膳に添えて出す肴やお菓子類、客の携へ帰るに供ふ、

をいう(岩波古語辞典・大言海)、とある。ただ「引物」は、

引出物の転、

ともされるが、

引き添ふるまでの意、

ともある(大言海)ので、本来の「引出物」の意味とは変わって、

饗宴の膳に添える物品、

を指すようになってからの用語に思われる。もともとは、「引出物」は、

ひきいでもの、

と訓んでいた。それが、

ひきでもの、

に転訛した。だから、

ヒキイデモノ→ヒキデモノ→ヒキモノ、

と転化したものと思われる(たべもの語源辞典)。ただ、『今川大双紙』に、

武家の間では、引出物は五献と定め、征矢、鞍鎧、太刀、小袖、馬とした、

とあり、この流儀が食膳にも及び、

1の膳 (本膳)、2、3、4(与)、5の膳というように、客がその席で食べられずに持帰るものをも予想した引出物の膳も備えた、

ともあり(ブリタニカ国際大百科事典)、「懐石料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%87%90%E7%9F%B3%E6%96%99%E7%90%86)で触れたように、

室町時代に主従関係を確認する杯を交わすため室町将軍や主君を家臣が自邸に招く『御成』が盛んになり本膳料理が確立した、

というような、武家の習わしが料理にも確立する中で「引物」へと変化していったもののようである。

その場合も、「本膳料理」で、

客に膳を出すとき、本膳、二の膳、三の膳から焼物膳の次に引物をすすめた。焼物膳は本膳と二の膳の間の向こう右に、引物台は本膳と三の膳の向こう左に置いた。下げるときに、台も一緒に引くので「台引」ともいう。ほとんど客はこれに箸をつけず、みやげ料理となった(たべもの語源辞典)、

とする説と、前出のように、

客の膳部に別に添える菓子などの類、

なので、

引き添える物、

から来たとする説(仝上)とがある。いずれにしても、「引出物」は、

饗宴のみやげ、

に変わっている。「引物」には、

焼物・鴫・酢うなぎ・蒸貝・焼鮎・伊勢海老・蒲鉾・煮蒲鉾・いり鳥・つぐみ・千甘鯛、

等々があると料理書には載る(仝上)という。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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菱餅


「菱餅」は、

熨斗餅を菱形に切ったもの、

で(大言海)、

鏡餅に戴す、

また、

餅を菱形に切りて、三枚重ねたるものは、三月の雛祭りに供す、

とあり、これは、

小笠原氏の家紋の、三蓋菱に因(ちな)めるものかと云ふ、

とある(仝上)が、それは間違いで、

菱形は、桃の葉をかたどったものである、

とある(たべもの語源辞典)。「鏡餅に戴す」というのは、古く、

鏡餅の上に菱餅を載せる、

風習がありhttp://kameyamarekihaku.jp/sisi/MinzokuHP/jirei/bunrui8/data8-1/index8_1_1_2.htm、御所では、

2段重ねの餅の上に薄く丸いはなびらという白い餅が12枚、上に高黍菱餅、さらに砂金餅、伊勢海老がのせられていますhttps://ameblo.jp/chocola0927/entry-10195189166.html

とか、

加賀藩・前田家の鏡餅。城内床の間に飾られる鏡餅は丸い紅白鏡餅の上に菱餅を12枚その上に丸餅を16枚、ほんだわら、熨斗鮑、昆布、串柿、橙。水引結びの伊勢海老と金塊に砂金袋がのせられ、譲り葉、裏白が飾られます(仝上)、

という例がある(仝上)。

雛祭りに飾る菱餅は、白・赤・緑の三色を用いるが、

地方によっては異なり、2色であったり、5色や7色になっている餅を菱形に切って重ねて作る地域もある。今の形になったのは江戸時代からである、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85

白は普通に搗いた餅を切り、紅はしょうえんじ(生臙脂)か食紅で、緑は草餅の汁で色を染めて搗く。やや柔らかく搗き上げた餅を、菱形に詰めて形状を整え、粉を敷いた板の上で冷まし、餅の間を水で示して三枚か五枚に重ねあわせる。後、庖丁に水をつけ、菱台に合うように、その周りを立ち落とす、

とある(たべもの語源辞典)。「生臙脂」(しょうえんじ)は、江戸時代に中国から渡来した鮮やかな紅色の染料である。

菱形にした餅、

ということで、「菱餅」となづけられた(仝上)。餅は、

白色の他、青・紅・黄や、もちぐさなどで色づけする、

という(仝上)。なお、御供餅の上に重ねる際は、餅の周囲を切り落とさない、という(仝上)。

赤い餅は、

先祖を尊び、厄を祓い、解毒作用がある山梔子の実で赤味を付けて健康を祝うためであり、桃の花を表している、

白い餅は、

この白い色が清浄を表し、残雪を模している。また、菱の実を入れて血圧低下の効果を得るという意味もある、

緑の草餅は、

初めは母子草(ハハコグサ)の草餅であったが、「母子草をつく」と連想され、代わりに、増血効果がある蓬を使った。春先に芽吹く蓬の新芽によって穢れを祓い、萌える若草を喩えた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85。これを、

赤は「桃の花」を、白は「純白の雪」を、緑は「新緑」を連想させるということで、組み合わせによって「春の情景」を表現しているのです。下から「緑・白・赤」の順番で配置されている菱餅は、雪の下に新芽が芽吹き、梅の花が咲いている情景。下から「白・緑・赤」の順番のときは、雪の中から新芽が吹き出、桃の花が咲いている情景です、

と絵解きしhttps://www.tougyoku.com/hina-ningyou/column/hina-matsuri-yurai/hishimochi-yurai/

菱形の形は、大地を表す、

という説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85

なお、宮中では、菱餅のことを、

オヒシ、
ヒシガチン、

ともいい、

ヒシハナビラを「御焼ガチン」と呼ぶ。餅をオカチンというので、ヒシハナハナビラは焼いた餅である、

とある(たべもの語源辞典)。足利時代の「牛中定例記」によると、

おもてむき御対面過て、内々の御祝まいる。次にあかきもちゐ白きひしのもちをやがてかさねて、ちぎりて、角之折敷にすへ、ちいさき土器にあめを入てそへて、御四方にすハりて参候。此もちゐ御老女うやかれ候、

とある(仝上)。すでにこの時期、菱餅が用いられていた。しかし、雛祭りの雛壇に菱餅を供えるのは、江戸後期になってのことである(仝上)。

菱形については、

宮中で正月に食べられる菱葩餅が起源であるという説、
元は三角形であったが、菱の繁殖力の高さから子孫繁栄を願ったという説、
菱の実を食べて千年長生きしたという仙人にちなんで長寿の願いを込めて菱形にしたという説、
室町時代の足利家には、正月に紅白の菱形の餅を食べる習慣があり、宮中に取り入れられて、草餅と重ねて菱餅になったという説、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85がはっきりしていない。

ただ、「餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)には、

粉餅、

搗餅、

があり、粉餅には、

粽(ちまき)、

があり、粽は、

糯米(もちごめ)の粉を湯でこねて笹か真菰で巻いて蒸したもの、

であるが、内裏の粽は、

粳米(うるちまい)を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った、

とある(日本食生活史)。

はっきり今日の「もち」とわかるのは室町期である。15世紀はじめの「海人藻芥(あまのもくず)」に、

内裏仙洞には一切の食物の異名を付て被召事也、(中略)飯を供御、酒は九献、餅はカチン(家鎮)、

と呼ばれたとある。「カチン」は、

搗飯(からいい)と呼ばれ、搗いた餅、

とみられる(仝上)。

三月三日の草餅、
五月五日の粽、柏餅、

は中世になってからであり、

雑煮、

は江戸時代になってからである。この時代になって、

正月の鏡餅、雑煮餅、
三月上巳の草餅、菱餅、
五月五日の粽、
十月亥の日の亥の子餅、

等々年中行事に欠かせないものになっていく(仝上)のである。

また「草餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba18.htm#%E8%8D%89%E9%A4%85)で触れたように、

上巳(じょうし)の供とす、

とある(大言海)。

古への、母子餅(ははこもち)の遺なり、

ともある(仝上)。鎌倉時代後期の「夫木抄」(夫木和歌抄 ふぼくわかしょう、夫木抄、夫木和歌集、夫木集とも)に、

花の里、心も知らず、春の野に、はらはら摘める、ははこもちひぞ(和泉式部)、

とある。「ははこもちい(ひ)」は、

母子(這兒)に供ふる餅の義ならむ、

とある(仝上)。「母子(ははこ)」とは、

這兒、

であるが、この流れは「天兒(あまがつ)」から始まる。「天兒」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E5%A4%A9%E5%85%90)は、

幼児の守りとして身の近くに置き、凶事をこれに移し負わせるのに用いる信仰人形。幼児用の形代として平安時代に貴族の家庭で行われた。『源氏物語』などの諸書には、幼児の御守りや太刀(たち)とともにその身を守るまじない人形の一種として登場する。1686年(貞享3)刊の『雍州府志』によると、30センチメートルほどの丸い竹1本を横にして人形の両手とし、2本を束ねて胴として丁字形のものをつくり、それに白絹(練り絹)でつくった丸い頭をのせる。頭には目鼻口と髪を描く。これに衣装を着せて幼児の枕元に置き、幼児を襲う禍や穢をこれに負わせる。1830年(文政13)刊の『嬉遊笑覧』には子供が3歳になるまで用いたとある。天児を飾ることは室町時代に宮中、宮家などで続いてみられ、江戸時代には民間でも用いられるようになった。また天児と同じ時期に発生した同じような人形に縫いぐるみの這子(ほうこ)があり、江戸時代に入ると天児を男の子、這子を女の子に見立てて対にして雛壇に飾り、嫁入りにはこれを持参する風習も生まれた、

とある(日本大百科全書)。室町時代の「御産之規式」には、

あまがつの事は、はふことも言ひ孺形(じゅぎやう)とも云ふ。是は若子の御傍に置きて、悪事災難を、このあまがつに負はするなり、若子の形代なり、

ともある。つまり、

稚児の身に副へおく、祓いの人形(ひとがた)、

であったものが、後世、

小兒の守として、枕頭に置くものとなり、幼児の形したる人形、

となり、

室町時代には白絹にて綿を包みて作り、江戸時代になると、尺余の竹筒に、白絹にて頭を作りつけ、又、尺余の竹筒を其下に横たへて、両肩とし、白絹の小袖を着す、小袖には、金銀にて、鶴・龜、松、竹、寶盡しなどを画く、

ようになる(大言海)。この「あまがつ」が雛人形につながるのだから、

後世此の餅をひなに供す、

となることになる(広辞苑)。つまり、「菱餅」の由来の一つは、

母子餅、

になる。「ははこもちひ」は、

古へ、米の粉に、ははこぐさ(母子草)の葉を和し、蒸して製したる餅、

で、

又、今のくさもちひ(草団子)、後に艾餅(よもぎもち)の草餅となる、

とある(大言海)。『三代実録』の嘉祥二年(849)三月三日の条に、母子草を、

蒸しつきて糕(もち)とす、

とある(たべもの語源辞典)。中国では、

鼠麹草(そきくそう)、

を用いていた。「ははこぐさ」の漢名である。そのため、昔は母子草を用いていたが、

室町中期頃から艾(もぐさ)

を用いるようになる。

よもぎ(艾)、

である。「母子草」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%AF%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%90%E3%81%95)は、春の七草のひとつ、「ごぎょう(御形)」のことである。「母子草」は、

臼と杵を陰陽と考える伝説もあって、母と子を同じ臼に付くことを忌む、

考え方から、母子草を用いることが廃れた、とある(たべもの語源辞典)。

「草餅」の起源は、中国である。

周の幽王が身持ち放埓のため群臣愁苦していたとき、三月上巳曲水の宴に草餅を献上するものがあった。王がその味を賞味して宗廟に献じしめた結果、國大いに治まって太平になったという。後にこれにならって祖霊に進めるようになったのが起源、

とされる(たべもの語源辞典)。荆楚歳時記によると、

6世紀ごろの中国では3月3日にハハコグサの汁と蜜(みつ)を合わせ、それで粉を練ったものを疫病よけに食べる習俗があった、

とされる(世界大百科事典)。これが日本に伝えられた、とみられる。「菱餅」の緑は、草餅に由来する。

これが、どういう経緯で「菱餅」になったかはっきりしないが、菱形になったのは江戸時代初期とされる。当時は、菱の実から作られた白い餅の層と菱の実の餅を蓬で色付けした緑の餅の層の二色、それを3段〜5段組み合わせた、とある。三色になったのは明治時代というhttps://www.tougyoku.com/hina-ningyou/column/hina-matsuri-yurai/hishimochi-yurai/

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

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のっぺい


「のっぺい」は、

能平、
濃餅、

と当て、

油揚、大根、椎茸・人参・里芋・蒟蒻・豆腐などをすまし汁に仕立てて、葛粉を加えてとろみをつけた料理、

で(広辞苑)、日本全国に分布する郷土料理の一つであり、

のっぺい汁、
ぬっぺい、
のっぺい鍋、
のっぺい煮、
のっぺい湯(とう)
のっぺ、
のっぺ汁、
のっぺ鍋、
のっぺ煮、

等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%BA%E3%81%84%E6%B1%81、たべもの語源辞典、広辞苑)、微妙に訛ったさまざまな呼び名がある。

鶏肉と豆腐、ニンジン、ダイコンなどの野菜を刻んで煮て、葛粉や片栗粉を加えてとろみをつけた料理、

と(たべもの語源辞典)、鶏肉と豆腐に主眼を置いたものもあるので、

料理の際に残る野菜の皮やへたをごま油で炒め、煮て汁にしたもの、

で、

地域によって使用する材料やとろみの加減などが大きく異なり、

主にサトイモ、ニンジン、コンニャク、シイタケ、油揚などを出汁で煮て、醤油、食塩などで味を調え、片栗粉などでとろみをつけたものであることは共通する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%BA%E3%81%84%E6%B1%81が、たとえば、新潟県の「のっぺ」は、

「汁」でも「澄まし汁」でもなく「煮物」であり、残った野菜を使うわけでもなく、ごま油で炒めるようなことはしないため、「のっぺい汁」とは異なる、

ともあり(仝上)、名前は同じでも、具も、中身も微妙に異なる場合がある。江戸語大辞典には、

豆腐・人参・牛蒡などを葛煮にした汁、上方は同名異物、

とある。

はじめは小麦粉でとろみをつけた。汁を残さず食べる目的で葛を使ったものと思われるが、中国料理が多くこれを用いていたので、中国伝来の料理法、

ではないか、とする(たべもの語源辞典)が、原型は、

寺の宿坊で余り野菜の煮込みに葛粉でとろ味をつけた普茶料理「雲片」を、実だくさんの澄まし汁に工夫したものという。精進料理が原型だが、現在では鶏肉や魚を加えることもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%BA%E3%81%84%E6%B1%81

「普茶料理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86)の「雲片(うんぺん)」とは、

調理の際に残ったへたなども余すことなく、細かく刻んで葛でとじ、雲に見立てた、

普茶料理の代表的な料理、

であるhttps://www.obakusan.or.jp/eat/が、

数種の野菜類を刻んでごま油で炒めて調味し、水溶きのくず粉でとろみをつけた料理、

で(和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典)、料理山家集(1802)には、

普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす。卓袱は魚類を以って調じ、仕様も常の会席などと別に変りたる事なし、

とあり、「ごま油」を用いるのが特色である。

本来は、鶏肉料理であったものが、野菜だけ用いる料理にもその名がついた、

とある(たべもの語源辞典)が、

「卓袱(しっぽく)料理」の精進なるものが「普茶料理」

である(大言海)なら、その「雲片」を始原とする「のっぺい」は、逆に、初め野菜だけだったのではあるまいか。

「のっぺい」は、

ぬらりとしている意の「ぬっぺい」が訛って「のっぺい」となった(たべもの語源辞典)、
滑(ぬめら)の意(大言海)、

という説がある。「濃餅」と当てたのは、

汁が粘って餅のようであるから(たべもの語源辞典)、

という理由とする。他に、

のっぺり(擬態語)+汁(日本語源広辞典)、

というのもある。江戸語大辞典には、

のっぺいやろう(濃平野郎)、

という言葉が載る。

なまっ白いのっぺい野郎、

というように、

のっぺい汁のようにのっぺりした野郎、

の意で、

美男や優男を罵った言葉、

らしい。「のっぺり」は、

表面が滑らかで起伏がないさま、

の意で、江戸時代、

ぬっぺり、
ぬっぺら、
ぬっぽり、

とも使い(擬音語・擬態語辞典)、「のっぺり」よりも、

ぬっぺり、

の方が古い言い方で、

内心をあらわさぬ平然とした様子、

の意味もある(仝上)。

のっぺらぼう、

の「のっぺら」は、

のっぺり、

の方言になる。こうみると、

のっぺい、
ぬっぺい、
のっぺ、

は、「のっぺり」「ぬっぺり」の転訛とみるべきではあるまいか。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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白雪糕


「白雪糕(はくせつこう)」は、

白雪糖、
白雪羹、

ともいい、

落雁の一種、

軟落雁、

ともいう(日本大百科全書)。

精白した粳米〈うるちまい〉粉と糯米(もちごめ)粉を等分にあわせ、これに白砂糖と少量の水を加えて十分にもみ、木箱にふるい落として、ならしてから軽く押して3、4時間置いたのち、取り出して短冊(たんざく)形あるいは算木形に切る。本来はハスの実の粉末を入れた、

とある(仝上)。

白雪糕泣き止む寝々様(ねねさま)、

という諺や、

七人目白雪こうで育て上げ(柳多留)

という川柳があったように、「白雪糕」は、

砕いて湯にとかし、母乳の代用品、

とされた(江戸語大辞典・精選版日本国語大辞典)。

「糕」(コウ)は、

形声。「米」+音符「羔(コウ こひつじ)」、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B3%95。「糕」は、

餻(コウ)、

と同じで、

ケーキ。こなもち。穀物の粉を他の成分とまぜて蒸し固めた菓子、

の意である(仝上)が、

北宋以後、重陽節は菊花をめでる日ともなり、種類の飛躍的な増加とともに、菊の鉢を山や塔の形に陳列したり、展覧会が開かれたりした。また唐代以来、米の粉を蒸して作った菓子〈糕(こう)〉を食べる風習があり、重陽糕・花糕とも呼ばれ、互いに贈答しあった。現在、重陽節は菊花をめでることなどを除けば、ほとんどすたれている、

とある(世界大百科事)。本来のハスの実の粉末の代わりに、海藻に、さらにシソの葉の粉末にかえたものが宮城県塩竈市の「しおがま」であり、煎り玄米を混ぜたものが島根県松江市の「菜種の里」である。この菓子と並ぶ「山川(やまかわ)」は紅白だが、着色の場合は砂糖を染めて用いる。また白雪糕に少量の塩を入れ、餡を包んで型押しすると塩味まんじゅうとなる。さらに白雪糕を木型に押して乾燥させれば口あたりの堅い落雁となる、

ともある(仝上)。

「落雁」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%82%89%E3%81%8F%E3%81%8C%E3%82%93)で触れたように、落雁の製法には、

@すでに蒸して乾燥させた米(糒(ほしい、干飯))の粉を用い、これに水飴や砂糖を加えて練り型にはめた後、ホイロで乾燥させたもの、
A加熱していない米の粉を用いて、上記同様に水飴を加え成型し、セイロで蒸し上げた後、ホイロで乾燥させたもの、

二通りあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81が、

近松や西鶴の作品では魅力的な歌詞として登場するが、現在のものとはやや違い、『御前菓子秘伝抄』(1718)には、干飯を煎り、砂糖蜜で固めたものとあるので、いわゆる「おこし」に近かったものと思われる、

とある(日本語源大辞典)。「おこし」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%97)については触れた。

通常は、上記の@は落雁、Aは白雪糕(白雪羹)(はくせつこう。関西地方では「はくせんこ」とも)と呼ばれるものである(仝上)。ただ、

加熱処理済の粉を砂糖で固めた日持ちのよい落雁が普及すると、熱処理していない米粉を成形して蒸す白雪糕(はくせきこう)が廃れ始めた。『和漢三才図絵』は、白雪糕といいながら、その実、落雁の製法と同じものがあることを指摘している。結局、本来の製法の白雪糕は消えてしまったが、名前だけは残り、現在でも西日本には落雁の類をハクセッコー、ハクセンコーと呼ぶ地方がある、

とある(日本語源大辞典)。「白雪糕」は、

色が白いところが特色であるから白雪と名づけられた、

もの(たべもの語源辞典)だが、

さんぎがし、

とも呼ぶのは、占いに用いる、

算木の形に似ている菓子、

だからである(仝上)。「落雁」の製法は、

明時代の中国における軟落甘に基づく。これは小麦粉・米粉を水飴や脂肪で練り固めて乾燥させた菓子で、西〜中央アジアに由来するといわれ、元時代に中国に伝来した、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81、室町末期に、「軟落甘」の和製化したものであるが、「白雪糕」は、

元禄年間(1688〜1704)に清の商人陳芝香が長崎の女性に唐菓子を教えてつくらせた口沙糖(こうさとう)が長崎名物になったが、これが先駆、

とされる(たべもの語源辞典)。

宝暦・明和(1751〜72)ころ、名古屋、越後高田でつくられたものがあり、尾張名所図会には、

名産白雪糕、……興米(おこし)の一種、

とあり(大言海)、高田のものは、

精製された粉が細かいので口の中に入れると雪の如く消える、

ところから

越の雪、

と名づけられた、とある(たべもの語源辞典)。江戸には、安永年間(1772〜81)に神田豊島町に米屋吉兵衛が、

仙錦糕(せんきんこう)、

と、唐菓子の原名そのままで売り出した、とある(仝上)。

良寛が、死の前年の文政13年(1830)、病に倒れ衰弱の激しい折、滋養に富む白雪糕を望み、

白雪羔少々御恵たまはりたく候 以上 十一月四日 菓子屋 三十郎殿 良寛、

と、出雲崎の菓子屋宛の手紙が残っているhttps://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/018/

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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二八蕎麦



「二八蕎麦」は、

蕎麦粉八、うどん粉二で打った蕎麦、寛文(1661〜1673)頃定式化したという、

の意と、

天保の頃、もり・かけ一杯の値が16文だったことから、安価な蕎麦、「にはち十六」に掛けて「二八そば」と呼んだ、

の二説がある(広辞苑・大言海)。個人的には、江戸ッ子気質から見て、

当時、「二六」「三四」で12文というのもあったようですし、「二八うどん」もあったことから「しゃれ」から来た代価説が元々の起源、

というhttps://www.itomen.com/product/brand/28soba/history.php「しゃれ」説が妥当だろう。

江戸後期の『嬉遊笑覧』に、

享保半(1725)頃神田辺にて二八即座けんどんといふ看板を出す、二八そばといふこと、此の頃始なるべし、

とある(たべもの語源辞典・大言海)。ちなみに、「けんどん」とは、

倹飩、
慳貪、

と当て、

江戸時代、蕎麦、饂飩、飯、酒などを売るとき、一杯盛り切りにしたもの、

を言う(広辞苑)が、「けんどん」は、

上から蓋・扉をはめこむもの、

をもいい、出前用の岡持ちのことを、このふたが「けんどん」になっていることから「けんどん箱」とも呼ぶ。蕎麦屋・うどん屋のことを「けんどん屋」と呼ぶことの由来とする説もある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B9%E9%A3%A9

蕎麦の値段は、

寛文四年(1664)に玉売りが始まったころは八文、その後、七文、六文、寛政年間(1789〜1801)には、十四文、文化・文政年間(1804〜30)になって十六文、天保年間(1830〜44)には十六文が通り相場となった、

とある(たべもの語源辞典)。

二八のぶっかけ、
二八蕎麦切、
二八の蕎麦、

等々いずれも「二八蕎麦」のことだが、「二八蕎麦」とは、

駄そば、

の意である(仝上)。16文は、

天麩羅蕎麦32文、
豆腐一丁50文、
豆腐田楽一本2文、
串団子一本4文、
長命寺の桜餅4文、
しじみ一升10文、
ところてん一杯70文、
鮨一貫8文、
大福餅一個4文、
納豆一束4文、
米一升100文https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1210/25/news108.html

あるいは、

チリ紙1帖7文、
銭湯6文、
浮世絵1枚32文、
草鞋一足15文、
沢庵1本15文、
あんま一回50文、
長屋の家賃600文(月)、
蝋燭(7匁掛)1本18文、
髪結28文https://www.kumanekodou.com/tayori/13666/

等々と比べてみると、物価変動があるので、あくまで目安だが、必ずしも安いとばかりは言えない、微妙な値段に思える。

「蕎麦切」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E8%95%8E%E9%BA%A6%E5%88%87)で触れたように、

明暦3年(1657)の振袖火事の後、復興のために大量の労働者が江戸に流入し、煮売り(振売り)が急増、その中から、夜中に屋台でそばを売り歩く夜そば売りも生まれた、

というhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/

最初の頃の主力商品はそばではなくうどんで、貞享3年(1686)の町触には、「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とある。幕府は火事対策として夜の煮売りを禁止していたが、禁令を無視して夜中から明け方近くまで売り歩く煮売りが多かった、らしい(仝上)。「かる口」(貞享)には、

「一杯六文、かけ子なし、むしそば切」

とあり、「鹿の子ばなし」(元禄)には、

「むしそば切、一膳七文」

とある。これは、「夜鷹そば」とよばれたものもの値段に思われる。元文(1736〜41)頃から、夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになる、とある。売り物は温かいぶっかけ専門だった、らしい(仝上)。天保・嘉永期(1830〜54)になると、「一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也」(守貞謾稿)とある(仝上)。

物価の上昇から慶応年間に値上がりし20文を超えるようになったころから、「二八そば」とは、そば粉8割、小麦粉2割のそばを表すという文献が著され、「二八そば」は割合を示す名称と言われるようになった、

とされるhttps://www.itomen.com/product/brand/28soba/history.php。確かに、

二八蕎麦が蕎麦粉と小麦粉の混合率であるとする説を唱えたのは、嘉永・慶應(1848〜68)になってからで、「二八うどん」(江戸中期以降の一杯十六文のすうどん)という名称もあるし、一八(一杯八文)とか二六・三四そば(一杯十二文の意)という呼称もあり、混合説では説明がつかない(たべもの語源辞典)。

今市中に二八と看板を出すことは、細井廣澤が、神田三河街の杵屋と呼ぶ蕎麦屋を売る者へ、一蒸籠を錢十六文に定めし時に、松板へ二八と價を書與へしより始まる(先哲叢談)

ともあり、

慶応年間(1865〜1868)以前には、2×8=16で、1杯16文のそばをいったとされる。時代が下って小麦粉を混ぜて作ったそばに質の低下したものが増えると、「二八そば」はそのような安価なそばの代名詞のように用いられ、高級店ではそば粉だけで打つ『生そば』を看板とした。こんにちでは単に配合をいい、そばの質や店の格とは無関係に用いる(和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典)、

幕末以降の物価高騰で一気に五十文となり、明治には五厘から再出発することになってニハチの根拠が無くなってしまう。それで一時期は単に「二八そば」という呼称だけが習慣として残ることになる。それがふたたび「二八」はそばの品質とか差別化をあらわす使われかたとして再出現し、さらに高品質イメージに加えて、「打つ側も味わう側も」ちょうど頃合いの配合比率であったところから、「粉の配合割合」を表す言葉として、「二八の割合」という新しい解釈が生まれて現在に至ったhttp://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/11-4.html

というのが今日の用法の背景だろう。三田村鳶魚は、

玉子つなぎ・芋つなぎなんていうのを、格別に言い立てて売物にしていたのが、それを看板にしなくなったのは、天保以後だと思います。一体、一八・二八・三八などというということが、蕎麦と饂飩との配合の加減をいったものだという説がある。けれども、芋つなぎ・卵つなぎということから考えてみると、一方には、生蕎麦といって、蕎麦ばかりで拵えるということを呼びものにする。それも田舎蕎麦は生蕎麦であるということを標榜するために、手打蕎麦というのを名としてさえいる。もしつなぎに饂飩粉を入れる分量を名称に現すとしたならば、それだけ蕎麦が悪いことになる。正味の少ないことを看板にするようなもので、これはおかしい。だからだから昔から、二八といえば十六文、三八といえば二十四文というふうに、蕎麦の代価だと解している、

とし、さらに、

蕎麦粉は「引抜」といって、色が白くなりましたのは、寛政元年の秋からで、それまでは蕎麦というものは、少し黄色味を帯びたものと思っていたのです。これ等のものは、江戸ッ子なんていう連中が食うには、少し銭が高い。けれども、毎月二度や三度は物食いに出るというような風習をもっていた江戸ッ子は、奢りに行くと称して、随分五十文、七十文の蕎麦を食ったろうと思われる。 安い二八や三八の方はいうまでもない。その時分の労銀としては、三百か四百しか取れませんが、火事があった、嵐があったというようなことがあれば、日雇取連中は、二倍、三倍、甚しきは五倍も七倍もの賃銀を取った。 …江戸ッ子連中は、時たま、どうかして余分な銭でも取れれば、じきに何か食ってしまう。自宅では食えないものを食いに出掛ける。奢りにゆく風習は、彼の日常を存分に説明しています。あるいはまた下駄のいいのを穿く、手拭に銭をかける、というふうがあった、

とすれば、日常は、「二八蕎麦」は、まさに落語の江戸ッ子の食い物なのである。因みに、鳶魚の言う、

江戸ッ子、

とは、裏店(商売の出来ない場所)に住む、

日雇取・土方・大工・左官 などの手間取・棒手振、そんな手合で、大工・左官でも棟梁といわれるような人、鳶の者でも頭になった人は、小商人のいる横町とか、新道とかいうところに住んでおりますから、裏店住居ではない、

表店に住むのが、町人である。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
三田村鳶魚『江戸ッ子』 [Kindle版]

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口上


「口上」は、

口状、

とも当てる。表記は、古くは、

口状、

で、「俚言集覧」(1797年頃)は、

(口上の)上の字は口状のかり字なるべし、

としているように、元は、

口状、

と当てた。大言海、広辞苑は、二つを分け、「口上」は、

口頭と云ふに同じ、言語上(クチノウヘ)にて演(の)ぶるを下略して、口上とのみ云ふなり、案内を知るを案内、獄門にかくるを獄門と云ふが如し、

とし、

言葉にて用事を申し述ぶること、
(文書(かきもの)なるに対し)演舌、
口演、

の意で、それを記録したものを、

口状、
または、
口上書(こうじょうがき)、

という、とする。「口状」は、

口頭で陳述すること、
もしくは、
口上書、

の意である。この意が転じて、

久敷う逢はぬうちに口上があがった(狂言・八句蓮歌)、

というように、

弁舌、
口のきき方、

の意となり(広辞苑)、さらに、

芝居の幕明きの前に、舞台にて、見物人に、狂言外題、役者替名、役割、其外を述ぶること、

とし、その述べる者を、

口上人、
口上言(いい)

という。

「隅から隅まで」という意味で、東西あるいは東西東西(とざいとうざい)という呼び声に始まるのが通例。「仮名手本忠臣蔵」の大序(最初の部分)で、人形がすべての役名と演者を読み上げる習わしに往時をとどめる。現在では、口上といえば襲名興行や追善興行の際に行われることが多い、

とあるhttps://imidas.jp/genre/detail/L-108-0118.html

「口上書」には、

口上を記した文書、

の意の他に、

近世、武士・寺僧・社人に関する裁判上の口述の筆記で、当事者の捺印のある文書、

の意がある。寺社士以上は、

口上書、

というが、足軽以下、並びに百姓町人は、

口書(くちがき)、

と言った。要は、申し立てや、自白などを指す。ちなみに、島原の乱の唯一の生き残り、山田右衛門佐(右衛門作)の陳述(口供)は、侍扱いではなく、「山田右衛門作口書」として遺っている。

ところで「前口上」は、

本題に入る前に述べる口上、

で、芝居の幕開き前の、

口上、

と同義である。ただ、「前口上」は、由来が、

古代ギリシャ劇の合唱隊「コロス」の最初の登場に先立つ部分を指す「プロロゴス」という言葉が、

語源とし、「プロロゴス」は、

プロローグ、

の意で、

劇の内容の予告や劇の必要な情報を観客に提供したり、劇の出来栄えの言い訳をしたり作者の言葉を代弁したり、

と、「口上」と同義となるhttps://sanjijukugo.com/maekoujou/#i-2

なお、「口上」には、

口上茶番の略、

の意があり、「口上茶番」とは、

立茶番の対、

で、

坐ったままで種々の品物を取り出し、その品を種として洒落、諧謔を述べて越智をつける、

とある(江戸語大辞典)。「立茶番」つまり「茶番」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba5.htm#%E8%8C%B6%E7%95%AA)については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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鏑矢


「濫觴」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E6%BF%AB%E8%A7%B4)と同義の「嚆矢(こうし)」は、

鏑矢(かぶらや)、
鳴箭(めいせん)、

の意である。

矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑(かぶら)が取り付けられた矢のこと。射放つと音響が生じることから戦場における合図として、合戦開始等の通知に用いられた、

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2

古く中国で開戦のしるしに『かぶらや』を敵陣に向けて射掛けた、

ことから、

始まり、

の意で用いる。「嚆」(漢音コウ、呉音キョウ)は、

形声。『口+音符蒿(コウ)』で、うなる音を表す擬声語、

で(漢字源)、

矢のうなる音、

そのものを指す。出典は『荘子』在宥(ざいゆう)、

焉知曾(曾參)史(史鰌)之不為桀(夏桀王)跖(盗跖)嚆矢也、故曰、絶聖棄知、而天下大治(在宥篇)、

で初めて、「始まり」の意で使われたとされる。「賢者として知られた曾子や史鰌(しちゅう)も、極悪人として有名な桀王や盗賊団の主領の盗跖(とうせき)も『嚆矢』ではなかった、とだれに言えるだろうか」と、こざかしい知恵を振り回すことが世の中の乱れの原因だと嘆いている(故事成語を知る辞典)。

「鏑」(漢音テキ、呉音チャク)は、

会意兼形声。「金+音符適(テキ まっすぐに行く)の略体」。まっすぐにとがったやじり、

とある(仝上)が、「鏑」は、

かぶら、

と訓ませ、

木・竹の根または角で蕪(かぶら)の形に作り、中を空にし、数個の孔を穿って矢につけるもの、

の意で、多く、

雁股(かりまた)、

を用いる。「雁股」は、

狩股、

とも当て、

先が叉(また)の形に開き、その内側に刃のある鏃。飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる、

とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

「鏑」は、

大きさは全長で5cm前後から20cm前後まで大小様々で、円筒形、円錐形、或は紡錘形を基本とし、詳細な形状は一様ではない。矢への取り付けは基部から先端まで矢箆(やの 矢柄)を貫通させ、先端から鏃を挿して固定する。中身が刳り貫かれており中空構造になっており、通常は割れが生じないよう数カ所糸で巻き締め固定し、仕上げに漆で塗り固めてある。材質は朴や桐など軽量で加工性の良い木材、かつては鹿角や竹根も用いられた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2

「鏑」を、矢柄(やがら)の先の鏃につけるが、鏃につけた矢を、

鏑矢、
また
鳴鏑矢(なりかぶら)、

というが、「鏑」のみで、

かぶらや、

の意を持ち、

中を空にし、いくつか穴をあけた蕪(かぶら)の形をした球を屋の先につけ、その先に雁股(かりまた)をつけた矢。射ると、かぶらの穴に空気が入って響きを発する、

とある(仝上)。

紀の国の昔弓雄の鳴矢もち鹿取り靡けし坂の上にぞある、

と万葉集にあるように、

なりや(鳴箭、鳴矢、響矢)、
鳴鏑(めいてき)、

ともいう(広辞苑)が、

飛鏑、
峰鏑、

とも言う(字源)。匈奴傳に、

作為鳴鏑、

と載る(仝上)。大言海は、

鳴かぶら、

というのが正しい、とする。

「鏑矢」は、戦場における合図として合戦開始等の通知や、騎馬民族の信号用に用いられたが、

遊牧国家匈奴を大帝国に発展させた冒頓単于が、親衛隊に冒頓の射る鏑矢の向けられた先を一斉に射るよう厳命し訓練をほどこし、クーデターに成功した、

と史記にあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2。日本では、古墳時代中期以降に現れ、『古事記』『万葉集』に「比米加夫良」「鳴鏑」の名がみえ(ブリタニカ国際大百科事典)、鎌倉時代にも記述が見られる(保元物語)が、初期の頃は名称も定まっておらず起源、いつ頃から使われていたのかは解っていない、とある(仝上)。

「鏑矢」は、

中世は鏑矢を一手(ひとて)を征矢(そや)などの普通の矢と共に箙(えびら)に盛り上差矢(うわざしや)とするのが作法であった。現在では流鏑馬など故実の祭礼式などで使用され、また飾り矢として邪を払う縁起の良いものとして親しまれている、

とある(仝上)。「征矢」は、

征箭、

とも当て、戦闘で用いる矢を意味し、狩り矢・的矢などに対していう、とある(広辞苑)。

流鏑馬(鏑流馬、やぶさめ)は、

疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC、鎌倉時代、流鏑馬、犬追物(いぬおうもの)と並んで「騎射三物(きしゃみつもの)」と称されたものに、

笠懸(かさがけ)、

がある。これは、やはり、

疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のこと。流鏑馬と比較して笠懸はより実戦的で標的も多彩であるため技術的な難易度が高いが、格式としては流鏑馬より略式となり、余興的意味合いが強い、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%87%B8

なお、「鏑矢」の「鏑」の他に、

蟇目(ひきめ 引目)、
神頭(じんとう 矢頭)、

があり、それぞれ、

蟇目矢(ひきめや)、
神頭矢(じんとうや)、

がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2

笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)には、鏃(やじり)をつけない鏑の一種である蟇目(ひきめ)(引目)を用いた、

とある(日本大百科全書)。

なお、「鏑」の語源とかった「かぶら」は、古名「すずな」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%AA)で触れたように、

蕪菁、
蕪、

と当てる。「かぶら」は、

かぶらな(蕪菜)の略、

とされる。「かぶらな」は、

根莖菜(カブラナ)の義、

とあり(大言海)、「かぶら」は、

根莖、

と当て、

カブは、頭の義。植物は根を頭とす、ラは意なき辞、

とする(大言海)。「かぶ」は、

カブ(頭・株)と同根、

とする(岩波古語辞典)と重なる。「かぶ」と「かぶら」のつかいわけは、

「かぶら」の女房詞「おかぶ」から変化した語か。類例に「なすび」の女房詞「おなす」から「なす」が出来た例がある、

とある(日本語源大辞典)ので、

かぶらな→かぶら→おかぶ→かぶ、

と、転化してきたものらしい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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流鏑馬


「流鏑馬(やぶさめ)」は、「鏑矢(かぶらや)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E9%8F%91%E7%9F%A2)で触れたように、平安時代〜鎌倉時代に成立する騎射三物(きしゃみつもの)という、騎射により行う、

犬追物、
笠懸、

と並ぶ騎射の一つである。「流鏑馬」は、

鏑流馬、

とも当て、

疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2。特に、

馬上で矢継ぎ早に射る練習として、馳せながら的を射る、

とされ、的は、

方板を串に挟んで三ヶ所に立て、白重藤弓に矢三本、一人おのおの三的(みつまと)を射る、

とされる(広辞苑・大言海)。射手は、

水干(あるいは狩衣)、綾藺笠、行縢(むかばき)、籠手を着く、

とある(岩波古語辞典・大言海)。「水干(すいかん)」は、

水張りにして干した布、

の意(有職故実図典)で、

糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いる、

からであり、晴雨両用に便利なため(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%B9%B2、続深窓秘抄)ともいうが、いずれにせよ簡素な服飾である、

ことが由来で、

狩衣に似て盤領(丸えり)の一つ身(背縫いがない)仕立てである。ただし襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端につけられた紐で結んで止める。胸元と袖には総菊綴(ふさきくとじ)の装飾がある。袖口部分には袖括りがあり、刺し貫いた長部分を「大針」、短部分を「小針」と言い、下に出た余り部分を「露」と称した、

とある(仝上)。因みに、「蜻蛉(とんぼ)」とは、とんぼ結びの意で、トンボが羽を広げた形に結ぶものをさす。

「狩衣(かりぎぬ)」は、

野外遊猟に際して用いた衣(きぬ)、

のためこの名があり、

左右の脇を広げている、

もので(有職故実図典)、狩衣は袴の上に着すのに対して、水干は、袴の中に着籠めて行動の便をはかっている(仝上)。

「重藤の弓」とは、弓は、

木材と竹を組み合わせ、それを膠で接着し、補強のために藤を巻き付けてある。この巻き付け方の形式を重藤と言う。弓の全長は220cm程度で、弦は弓のしなりと反対側に掛ける。滋藤とも書く。重藤の弓の例:全長220cm、幅28mm、厚さ22mm。全体に黒漆塗り、断面はほぼ角で、皮革製の握りは下から85cm、上から135cm にある、

とありhttp://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/legacy/yumiya/yumi/index.htm、「重藤の弓」は、現在だと、

小笠原流では最高格の免許弓です。小笠原流で精進して許しを得なければ使用することができません、

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14208319799、かなり力と技を要する弓のようである。「弓矢」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba7.htm#%E5%BC%93%E7%9F%A2)については触れた。

「水干」は、

狩衣と源流を等しくし、時に水干狩衣とも呼ばれたが、狩衣が行為の顕官をはじめ、広く有司に使用されて、華麗に形式化されたのに対し、水干はもっぱら一般の庶民に用いられた、

とある(有職故実図典)。「行縢(むかばき)」は、

行騰、

とも当て、

向脛(むかはぎ)にはく意で、

鹿・熊・虎などの毛皮で作り、腰から脚にかけておおいとしたもの、

で、

奈良時代は短甲に用い、平安初期には鷹狩が用い、平安末期から武士が、狩猟・遠行に当たって騎馬の際に着用した、

ものである(広辞苑)。つまり、「流鏑馬」の衣装は、狩りの衣装なのである。狩装束は、

萎烏帽子(なええぼし)をかぶり、その上より藺草で編んだ綾藺笠(あやいがさ)をかぶる。中央は巾子(こじ)といい、髻(もとどり)をいれる為に高くなっている。下には水干(あるいは直垂)を着、射籠手(いごて)を左腕につけるが、手には鞢(ゆがけ 革手袋のこと、流鏑馬では手袋という)をはめ、腰に行縢むかばきという鹿の夏毛革の覆いをつける。足にはくのは物射沓という。腰に太刀、腰刀を佩び、空穂(うつぼ 矢を入れるもの)(流鏑馬の時は箙(えびら))を吊して弓を持つ、

とあるhttp://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000084。流鏑馬を含む弓馬礼法は、

寛平八年(896年)に宇多天皇が源能有に命じて制定された、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC

関白藤原忠通によって春日大社若宮の社殿が改築され、保延2年(1136年)3月4日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記)し、9月17日始めて春日若宮おん祭を行ない、大和武士によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきた、

とある(仝上)。鎌倉時代には、武士の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された、という(仝上)。足軽や鉄砲による集団戦闘の時代である室町時代・安土桃山時代と、時を経るに従い廃れ、現在は、各地神社の神職や氏子または保存会などに受け継がれた流鏑馬が、儀式や祭典として実施されている。

「流鏑馬」の語源は、馬を馳せながら矢を射ることから、

ヤハセメ(矢馳馬)の転(大言海)、
ヤバセマ(矢馳馬)の略(貞丈雑記)、
矢伏射馬の義(和訓栞)、
矢馳せ馬(やばせうま)の転訛https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC
矢馳馬(やばせめ)」の転訛https://mag.japaaan.com/archives/95710/2
流鏑馬(やばせむま)、馬を駆けさせながら鏑を射る意http://www.yabusame-fed.jp/yabusame.html

等々の語源説がある。

ヤハセメ→ヤブサメ、
ヤバセマ→ヤブサメ、

のいずれかのようだが、

yabaseme→yabusame、

という感じかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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骨柄


「骨柄」は、

人品骨柄、

などと使う。

人柄や品性など、その人から受ける印象のこと、
人相や風体から判断できる性格や風格などをいう、

とある(学研四字熟語辞典)。「人品」は、

品性や気品のこと、
あるいは、
風采、様子、

「骨柄」は、

体格や人相から想像する人柄のこと、

の意味、とされる(仝上)。

「骨柄」は、

コトガラ、

と訛り、

事柄、

とも当て、

骨組み、体つき、
の意と、
それから感じられる人柄、

の意とされる(広辞苑)。大言海は、「がら(柄)」の項で、

體(カラ)、即ち、體(テイ)、様子の義、大がら、人がらなど、連聲に因りて濁る、

とし、

身体(大がら)、
物事の容子を云ふ語。しな、くらい、品位、品種(人がら、家がら、身がら、品がら、手がら、事がら、日がら)、
其様子に連れて、相応したるを云ふ語(所がら、世がら、時節がら)、
布帛、織模様、染模様などに、品質、大小、醜美を云ふ語(端物の地がら、縞がら、染がら、大がら、中がら、小がら、新かぎら、珍がら)、

と使い方を示す。

骨柄(こつがら)→事柄(ことがら)、

と転訛としたためか、大言海は、「事柄」を、本来の、

ことのおもむき、
事の様子、

の意の「事柄」と、

骨柄の轉、

として、

骨柄、
体格、

を載せる。たとえば、平治物語では、

源氏勢沙汰、容儀、事柄、人に優れてぞ見えられける、

と、また太平記では、

篠塚勇力事、其勢、事柄、勇鋭たるのみならず、兼ねて聞こえし大力なれば、

と使われている。しかし、

「平家物語」の古写本で「ことがら」とあるものが後に「こつがら」と改められていることなどから、「ことがら」が本来の形で、それが語形変化したのが「こつがら」とする説がある、

とある(日本語源大辞典)。とすると、「ことがら」が、

「ひとがら」と同じく、「こと」の様子を意味した言葉であったが、「気骨」などの「骨」への語源俗解から語形が変化した、

とみられる、とある(仝上)。だから、

ことがら→こつがら→ことがら、

と再転訛したのか、あるいは、

こつがら→ことがら、

とは別に、古い「ことがら」が残り、そのまま「骨柄」の意で使われたかのいずれかということになる。

「こと」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%93%E3%81%A8)で触れたように、「ことがら(事柄)」の「こと(事)」は、

「こと(言)」は同源である。

古代社会では口に出したコト(言)は,そのままコト(事実・事柄)を意味したし,コト(出来事・行為)は,そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで,言と事とは未分化で,両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも,事の意か言の意か,よく区別できないものがある。しかし,言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以後に至ると,コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり,コト(事)と別になった。コト(事)は,人と人,人と物とのかかわり合いによって,時間的に展開・進行する出来事・事件などをいう。時間的に不変な存在をモノという。後世モノとコトは,形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた、

とある(岩波古語辞典)。モノは空間的,コト(言)は時間的であり,コト(事)はモノに時間が加わる,という感じであろうか。

人がら、

の意の「骨柄」を、

ことがら、

とみなすことは、「がら」の、大言海の挙げる、

人がら、家がら、身がら、品がら、手がら、事がら、日がら、

と使われる、

物事の容子を云ふ語。しな、くらい、品位、品種、

の意味からは、十分あり得るとは思う。

なお、「もの」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%82%E3%81%AE)は触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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屠蘇


「屠蘇」

とそ、
とうそ、

と訓み(岩波古語辞典)、

椒酒、

とも当てている(大言海)。

屠蘇の、屠の字は尸の頭に、一點を加へて、戸に作るは、醫家丹波氏の故実にて、尸の字を忌む也と云ふ。又屠蘇は草の名、庵中に此草を畫き、庵名となす、

とある(仝上)のは、『広韻』北宋の大中祥符元年(1008年)に陳彭年(ちんほうねん)らが先行する『切韻』『唐韻』を増訂して作った韻書に、

屠蘇は草庵なり、

とあるのによる(たべもの語源辞典)。

屠蘇散、
屠蘇延命散、

ともいい、

元日、邪気を祓い延命長寿を保つために飲む薬の名、

である(岩波古語辞典)が、

白朮(びゃくじゅつ)・桔梗・山椒・肉桂・防風・大黄などを細末にして調合した散薬、紅袋に入れて酒にひたして、度嶂散・白散などと共に、若年の者から年齢順に飲む。

とある(仝上)。

中国の漢の時代に、華佗が発明した薬酒、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%A0%E8%98%87、屠蘇に酒を用いることを始めたのは唐の孫思邈(孫真人)で、『屠蘇飲論』で、

大黄・蜀椒(さんしょ)・桂心(にっけい)・防風各半両(五匁)、白朮(おけら)・虎杖(いたどり)各一分、鳥頭半分、

の八品の薬を挙げて、

八神散、

と呼んだ、とある(たべもの語源辞典)。後に、

いたどりの代わりに、茱萸(かわはじかみ)になり、さんしょうが胡椒になっていく(仝上)。孫思邈は仙人とされ、

紅い袋にいろいろの薬を入れて、除夜の暮れがた井戸の中に吊るしておき、正月元旦にこれを出して袋のまま酒にひたし、しばらくたってその酒を飲むとき、「一人これを飲めば一家族病なく、一家これを飲めば一里病なし」と祈った。そして、年少者から先に飲んで年長者を後にし、飲むときは東に向かって飲んだ、

とある(仝上)、医書『小品方』(454〜73)の記述が古いもので、

その薬嚢らを再び井戸に投ずれば、病むことなし、

とされたともある(日本語源大辞典)。別に、

唐の世の、孫思邈の居たる草案……より、毎年大晦日に、薬を其の里人に送り、袋に入れて井の中に浸さしめ、元旦に取出して、酒樽に入れ、屠蘇酒と名づけ、之を飲まば、其の年に疫病に侵されまじと云ひ、一人飲めば一家に病なく、一家飲めば、一里に病なしと云ふ。飲むに、年少のものより始めて、年長のものに至る。是れ少者は年多きを以て先ず賀し、老者は年を失ふを以て、後に進むなりとも云へど、さにあらざるべし、少者の先ず飲むは、薬なれば、先ず長者の為に試むるなり(毒味)、

とある(大言海)。こちらの方が、実態を表している感じである。

中国明代(1596年)の『本草綱目』では、

赤朮・桂心・防風・菝葜・大黄・鳥頭・赤小豆を挙げている(現在では山椒・細辛・防風・肉桂・乾姜・白朮・桔梗を用いるのが一般的)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%A0%E8%98%87

日本には、「公事根源・正月・供御薬」によれば、平安時代初期の嵯峨天皇の弘仁期(810〜24)より、宮中の元旦行事として行われるようになった、とされる(日本語源大辞典)。孫思邈の、年少者から毒味として飲む、という由来は、日本にもそのまま伝わり、

禁中にて、元日に屠蘇を天子に奉るに、薬子(クスリコ 少女のまだ嫁せざるものを任ぜらる)鬼の間より出て、先ず試むるなり。鬼の間は、禁中の一室にて、白澤王(はかたおう)の、鬼を斬る絵を襖とせらるれば云ふ、

とある(大言海)。江戸時代、「毒味」を、

鬼をする、

と言うのも、これに起源がある(大言海)。「鬼の間」は、京都御所において、仁寿殿の西、後涼殿の東にある清涼殿南西隅の部屋。すなわち裏鬼門の位置にあり、

平安遷都(794年)時の内裏に大和絵師・飛鳥部常則が、康保元年(964年)の間に鬼を退治する白沢王像を描いたとされる。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王(はかたおう)といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であると、順徳天皇が著した『禁秘抄』(きんぴしょう)を解釈した『禁秘抄講義』(関根正直著)に記述されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E3%81%AE%E9%96%93。なお、現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていないらしい。

「屠蘇」の由来は、

孫思邈の庵を屠蘇庵、

といったから(大言海・たべもの語源辞典)とするものがある。

屠蘇という庵に住む人が、里人の疫病を予防して除夜に薬を配り、元旦にそれを浸した水を飲ませたことによる(甲子夜話所引歳華紀麗)、

も同趣旨である。他に、

「屠」は鬼気を去る意、「蘇」は神気を生じる(岩波古語辞典)、
「屠」は屠滅し人魂を蘇醒する意(甲子夜話所引四時纂要)、

と字面からくる説もある。もともと草庵に「屠蘇」とつけたとすれば、邪気を祓う意味でつけたとみていい。

「屠」(漢音ト、呉音ド。ズ)は、

形声。「尸(からだ)+音符者(シャ)」は、動物のからだを切り開くこと、

であり(漢字源)、「蘇」(漢音ソ、呉音ス)は、

会意兼形声。穌は「魚+禾(イネ科の植物)」の会意文字。まったく縁のないものを並べて、関係がない、隙間が空いていることを示す。疏(ソ 離れて別々になる)・疎(ソ 離れて別々になる)・粗(ソ ばらばらに離れるあらい米)などと同系。蘇はそれを音符とし、艸をくわえた字で、葉と葉の間にすきまがある植物を表す。転じて、喉に隙間があいて詰まった息が通ること、

とあり(仝上)、蘇る、生き返る、意である。とすると、

「屠」は鬼気を去る意、「蘇」は神気を生じる意
「屠」は屠滅し人魂を蘇醒する意、

何れの意味もある。意味は、いずれかだろう。謂れは、孫思邈に帰すよりほかはない。『土佐日記』には、

廿九日、大湊にとまれり。くす師ふりはへて屠蘇白散酒加へてもて來たり。志あるに似たり。元日、なほ同じとまりなり、

と、「屠蘇」が出てくる。

宮中では、一献目に屠蘇、二献目に白散、三献目は度嶂散を一献ずつ呑むのが決まりであった。貴族は屠蘇か白散のいずれかを用いており、後の室町幕府は白散を、江戸幕府は屠蘇を用いていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%A0%E8%98%87。「白散」(びゃくさん)は、

山椒・防風・肉桂・桔梗・白朮(びゃくじゅつ)・桔梗・細辛(さいしん)・附子(ぶし)などを刻み、等分に調合したもの、

とある(広辞苑)が、

刻みながら銚子に入れるものなりとそ、

とある(大言海)。「度嶂散」(としょうさん)も、新しい年の健康を祈って元日に飲んだ薬の一つで、

麻黄、山椒、細辛、防風、桔梗、乾姜、白朮、肉桂、

からなる(精選版日本国語大辞典)。

「屠蘇」の風習は、中国では唐の時代から確認できるが、現在の中国には見当たらない、という(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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年神


「年神(としがみ)」は、

歳神、

とも当てる。

五穀を守る、五穀の神、

であり、平安時代の神道資料『古語拾遺』には、

是今神祇官以、白猪白馬白鶏、祭御歳神之縁也、

とある(大言海)。

大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話、

によるものらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E7%A5%9E。『古事記』において、

須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ 大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カグヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる、

とある(仝上)。

また「歳神」は、

歳徳神(とくとくじん)、

の意でもある(広辞苑)。「歳(年)徳」は、

としとく、

ともいい、

一年中の吉方を司る女神、

であり、

婆利塞女(はりさいじょ)、
または、
大歳神、

で、

その神の居る方角、

をも指す(岩波古語辞典)。室町初期の『暦林問答集』には、

歳徳とはなんぞや、……皆十干の徳なり、但し五は陽徳となし、五は隠徳となす、

とある(岩波古語辞典)。

「歳神」は、

毎年正月に各家にやってくる来訪神である、

が、地方によって、

お歳徳(とんど)さん、
正月様、
恵方神、
大年神(大歳神)、
年殿、
トシドン、
年爺さん、
若年さん、
としこしさま、

等々とも呼ばれるのは、神話を反映している。多くは、その名からも、

白髪の老人、

とみなされているが、

長頭の翁、
女神、

とみなす土地もある(日本昔話事典)。

遠い土地からくる神の声によってその一年の祝福を期待していたという、

古い形が想像される(仝上)、とある。これが、後に、

千秋万歳、大黒舞などのホカヒ人や、小正月に村の若者が蓑をつけて顔をかくして村中を回る、

という形に移行したものらしい(仝上)。「ほかい人」とは、

乞児、

と当て、

門戸に立ち壽言(ほがいごと)を唱えて回る芸人、

を指す(広辞苑)。「歳神」が、

田の神を同一神と信じる土地も多い、

とされる(日本昔話事典)のは、「歳神」の、

原初形態は明らかでないが、冬至から立春までの間、つまり年の境に、遠くの他界(あの世)から霊威が訪れてきて、人々に幸(さち)を与えてくれるという信仰に基づくもののようである。水田稲作が広がるにつれて、食生活においても生産活動においても稲はもっとも重視され、一年生の稲の成育過程を人間生活の1年に当てはめ、稲魂(いなだま)を育てる神を年神と考えるようになった、

ことによる(日本大百科全書)、と思われる。それが、近世の初めになると、

先祖の霊を万能の神とする日本的な祖霊信仰が形成され、年神をも祖霊の一機能とみなして年中行事や民間の信仰を体系づけようとした。その時点では、年神は天空から降臨するものとされていたから、山上の松とともに年神を迎えて門松とし、屋内には祭壇として年棚を設け、供物としては米や鏡餅など稲作の産物を中心とする、現在の正月行事の基本ができあがった、

とある(仝上)。これには、

正月行事に盆の祖霊祭と類似した点が認められること、

からみて、

歳神がまた祖霊の性格も持つと考えられていた、

ということがあるようである(日本昔話事典)。

「歳神」は、

年棚という臨時の祭壇をつくり、鏡餅、海産物、乾果などを供えて祀る、

とある(日本昔話事典)のはその意味である。ただ祖霊信仰では、年神は天空から降臨するとしながらも、正月に仮装仮面で訪れるなまはげ系の行事が各地に残っており、また米や鏡餅を供物の中心に据えながらも、搗栗(かちぐり)、椎の実、干し柿など山野での採集生活の名残と思われるものが混在する(日本大百科全書)、ともある。

「門松」には、かつて、

木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、年神を家に迎え入れるための依り代、

としての意味が強いのではあるまいかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E6%9D%BE

なお、「年(とし)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E3%81%A8%E3%81%97)の語源は触れたように、「とし」も、

爾雅、釋天篇、歳名「夏曰歳、商曰祀、周曰年、唐虞曰歳」。注「歳取歳星行一次、祀取四時一終、年取禾一熟、歳取物終更始」。疏「年者禾塾之名、毎年一熟、故以為歳名」。左傳襄公廿七年、註「穀一熟為一年」トシは田寄(たよし)の義、神の御霊を以て田に成して、天皇に寄(おさ)し奉りたまふ故なり、タヨ、約まりて、ト、となる、

としている(大言海)ように、穀物の収穫と関わり、特に、

古くは「穀物」、特に「稲」を「とし」といい、稲が実ることも「とし」といった。『名義抄』には「年、稔、季」に「トシ」とあり、「稔」には「ミノル」と「トシ」の訓がある、

と、「稲」そのものを「とし」と訓んでいた可能性が高いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4。つまり「歳神」は、もともとは稲の神なのである。それが、吉方を司る神となり、正月に来訪する神となったのである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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お年玉


「お年玉」は、

年玉、

とも言うが、

新年の祝儀として贈るもの、

の意である。

歳贄、

とも当てる(大言海)。江戸時代の町家では、

貝杓子(かいじゃくし)、
鼠半紙、
塗箸、
粗製の扇、

等々粗末な物を用いた、とある(精選版日本国語大辞典)。江戸中期の医師・小川顕道は『塵塚談(ちりづかだん)』で、

正月、玄関に年玉の扇箱を飾る事、商醫が業をうらんとして、専らにせし事也、……年玉に貰ひし扇子箱を井桁に積重ね、高きを伊達にし、内より持出し飾るも有し也、

と揶揄している(大言海)。商人も、武家風の正装をして、年礼に回った。

大店の主人ともなると、紋付きの着物に裃、白足袋に脇差で、店の小僧や出入りの職人などを供に連れていた。連れている小僧はお年玉を載せるためのお盆をもつ、

とあるhttps://suumo.jp/journal/2016/12/26/123331/

年初に贈り物をする習慣は古くから存在し、宮中での正月の賜物に関する記述は多い。広く盛んになったのは室町時代で、太刀、金子、硯、酒等さまざまな品物が用いられた。特に男児のいる家には毬杖(ぎっちょう 毬を打つ道具)や振々(ぶりぶり 振々毬杖)、女児のいる家には羽子板や紅箱などを贈った、

という(日本語源大辞典)。近世には、

武士は太刀、
商人は扇子、
医者は丸薬、

等々と自分の作った物や家業と関係深いものを贈るようになった。

その中でも扇子は広く用いられた(仝上)、とある。末広がりで縁起が良いという理由かららしいhttps://suumo.jp/journal/2016/12/26/123331/。明治に入っても、

年賀の際の簡素で有用な手土産、

という性格は引き継がれ、

手拭い、
略歴、

等々が贈られたが、対象が目下、特に子供に限られてきた。子供に小遣いをやる習慣は、一般的には近代以降のものである(日本語源大辞典)。特に、

現金を渡すのが一般的になったのは、昭和30年代以降、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%B9%B4%E7%8E%89

年玉の起源は、

正月に歳神(年神)を迎えるために供えられた、丸い鏡餅(=歳神(年神)の霊魂が宿った依り代、歳神(年神)の象徴)が、家長によって子供に分け与えられ、その餅が「御歳魂(おとしだま)」と呼ばれたことから、

とする説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%B9%B4%E7%8E%89。つまり、

その年を、1年間を、生きるために必要な、歳神(年神)の霊魂=生命を、子供に分け与えることで、(強い生命力には、魔=災厄を退ける力がある)、子供の無事な成長を願う、宗教的な意味がある(仝上)。また他に、

年のありがたい賜物(たまもの)であるとして「年賜(としだま)」と呼ばれたから、

とする説(大言海)、

トシ(年)タマ(贄・手土産)の、礼物の意(日本語源広辞典)、

とする説もある。やはり、「年神」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E5%B9%B4%E7%A5%9E)とつながっていると見るのが自然だろう。ただ、「歳贄」とあてる「贄」(シ)は、

会意兼形声。「貝+音符執(シュウ 手に取る、たずさえる)」

で、

君主または先生にはじめて会見する際に携える礼物、手土産、

の意である。どうも、後世になってからの当て字ではあるまいか。「たまふ」は、

賜ふ、
給ふ、
玉ふ、

と当てる。「たまふ」は、

目下の者の求める心と、目上の者の与えようとする心とが合わさって、目上の者が目下の者へ物を与えるという意が原義、

とあり、

転じて、目上の者の好意に対する目下の者の感謝・敬意を表す、

とある(岩波古語辞典)。「たまふ」は、

タマ(魂)アフ(合)約、

とする説(仝上)もあり、

(求める)心と(与えたいと思う)心とが合う意で、それが行為として具体的に実現する意。古語では、「恨み」「憎しみ」「思ひ」など情意に関する語は、心の内に思う意味が発展して、それを外に具体的行動として表す意味を持つ、

とある(仝上)。「歳魂」と重なるし、「たま」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E3%81%9F%E3%81%BE)で触れたように、「玉」は、

タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、

である(岩波古語辞典)。

なお、「賜物」は、

たまひものの約、

である(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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とおい


「とおい(とほし)」に当てる、「遠」(漢音エン、呉音オン)は、

会意兼形声。「辶+音符袁(エン 間があいて、ゆとりがある)」、

とあるが(漢字源)、

会意形声。「辵」(=道、行く)+音符「袁」、「袁」はゆったりした衣服(藤堂)、死者の服の襟を開け玉を胸元に置いた様で死出の旅立ちをいう(白川静)、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%A0

会意兼形声文字です(辶(辵)+袁)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「足跡の象形と玉の象形と身体にまつわる衣服のえりもとの象形」(衣服の中に玉を入れ、旅立ちの安全を祈るさま(様)から、「とおざかる」の意味)から、「とおくへ行く」を意味する「遠」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji212.html

近の対、

であり、

距離・時間の距りが大きい、

意である(漢字源)。「辶」は、

元は「辵」という漢字だった。これは彳(道の形)と止(足の形)からなり、道を行くという意味、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B5%E9%83%A8、「遠」にも、

遠ざかる、

意もある。

和語「とほし」は、

近しの対、

で(大言海)、

関係が切れてしまうほど相手との間に距離がある意。空間的にも時間的にも、心理的関係にも用いる。類義語ハルケシは、両者の中間に広々とした何もない空間が広がって存在する意、

とある(岩波古語辞典)。

「遠い」は、その語感から、

ト(外)+多し、ト(外)が語根で、中心から外方向へ隔たる意(日本語源広辞典)、
トは外、ヲシは多い(和句解)、

というのがあり得る。しかし「ト(外)」の対は、

内(うち)、
奥(おく)、

であり、むしろ、

自分を中心にして、ここまでがウチだとして区切った線の向こう。自分に疎遠な場所という気持ちが強く働く所。時間に転用されて、多くは未だ時の至らない以前を指す。類義語ホカは、はずれの所、ヨソは、無縁・無関係の所、

とある(岩波古語辞典)ので、距離としての遠近よりは、区域の親疎に重きがある。「うち(内)」は、

古形ウツ(内)の転。自分を中心にして、自分に親近な区域として、自分から或る距離のところを心理的に仕切った線の手前。また、囲って覆いをした部分。そこは、人に見せず立ち入らせず、その人が自由に動ける領域で、その線の向こうの、疎遠と認める区域とは全然別の取り扱いをする。はじめ場所についていい、後に時間や数量についても使うように広まった。ウチは、中心となる人の力で包み込んでいる範囲、という気持ちが強く、類義語ナカ(中)が、単に上中下の中を意味して、物と物とに挟まれている間のところを指したのに相違していた。古くは、「と(外)」と対して使い、中世以後「そと」また「ほか」と対する、

とある(仝上)。とすると「と(外)」は、少し語源からはずれる。他には、

トホル(通)に通う(和訓栞)、

というのもある。現に、「通る」の語源を、

トホアル(遠有)の義(名言通)、

と、「とほし」とからめる説もある。しかし、「通る」は、

一方から他方に届く、
あるところを過ぎて、先へ進む、

という経過を示し、距離を意味するわけではない。ちなみに、逆の「近い」の語源は、

手所(ちか)しの義、手の届く所、着くに通ず(大言海・言元梯・国語溯原=大矢徹)、
チ(手)+カ(所)+い(形容詞を作る接尾語)で手の届くこと(日本語源広辞典)、
ツキカシ(著付)の約(和訓集説)、
チは小の意で、小距離の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
チ(小)+カ(所)+い(形容詞を作る接尾語)で小さい道のりの所の意(日本語源広辞典)、

と、「手」や(隔たりが)「小」と絡める説がある。「手」でいうと、

手近、
手掛かり、

という言葉もある。それとの関連で言うなら、

手の届かないところから、トホはテホ(手欲)の義(国語溯原=大矢徹)、
トホクはテホコ(手隔所)の義(言元梯)、

等々がある。しかし「て(手)」の古形は、

た、

である。

たなごころ(手(た)の心)、
たばさむ、

等々に残っている。「とほし」の語源で言うなら、ひとつは、この「て」の古形「た」と絡めるのがありえるし、もうひとつ、「すくな(少・小)」の対でいうと、「おほき(大)」がある。

「おおき(大)」について、

もとオホシ(大・多)の連体形として、分量の大きいこと、さらに、質がすぐれ、正式、第一位であることをあらわしたまた、オホキニとして、程度の甚だしさもいった。平安時代に入ってオホシの形は数の多さだけに用い、量の大きさ、偉大などの意はオホキニ・オホキナルの形で表し、正式・第一位の意はオホキ・オホイの形で接頭語のように使った、

とあり(岩波古語辞典)、「おほし(大・多)」は、

オホ(大)の形容詞形。容積的に大きいこと、また、数量的に多いこと、さらに、立派、正式の意。平安時代に入ってオホシは数量的な多さにだけ使い、他の意味にはオホキニ・オホキナルの形を用いるように分化し、中世末期からはオホイ(多)とオホキイ(大)との区別が明確になった、

とある(仝上)ので、この元となった、

数・量・質の大きく、優れていること、

の意の「おほ(大)」と絡めることも可能である。

結句、結論が出ないのだが、和語の成り立ちを推測するなら、「た(手)」の、

ア(a)→オ(o)→イ(i)、

と、

タ(ta)→ト(to)→チ(ti)、

の母韻交替の範囲なのかもしれない。とすると、「近い」の語源説、

チ(手)+カ(所)+い(形容詞を作る接尾語)で手の届くこと、

と絡めて、何れも、「手」を語幹とする、

tikasi、
tohosi、

という変化ということになるし、「近い」の語源説、

チは小の意で、小距離、
チ(小)+カ(所)+い(形容詞を作る接尾語)で小さい道のりの所の意、

と対比しつつ、

「オホ(大)」の、

oho→tho、

という音韻変化がありえるなら、「オホ」の形容詞化と考えられるのだが。勿論憶説である。

参考文献;
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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塩辛


「塩辛」は、

魚介類の身や内臓などを加熱すること無く塩漬けにし、素材自体の持つ酵素及び微生物によって発酵させ、高濃度の食塩により保存性を高めた発酵食品、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%BE%9B

熟成中は食塩の働きによって腐敗が防止されるほか、特に内臓に含まれている強力な酵素と微生物の生産する酵素の作用によって原料中の蛋白質、炭水化物、脂質がペプトン、ペプチド、ぶどう糖、乳酸などに変り、さらにアミノ酸が増加してきてうまみが増す、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。魚貝類の肉、内臓、卵などの塩づけを、古く中国では、

醢(かい)、

と総称し、

肉醬(にくしよう)、
魚醬、

とも呼んだ。和名抄は、

醢、

を「ししびしお」と訓み、延喜式には「兎醢」「魚醢」「鹿醢」「宍醢」(宍は肉の意)などの語が見られる、

とある(世界大百科事典)。この、奈良朝時代に、

醢(ししびしお)、

と呼ばれたものが「塩辛」に当たる(たべもの語源辞典)、とある。これは、肉に塩を混ぜて汁気を少なく製するから、

肉干塩(にくびしお)、

といい、「ししびしお(醢)」は、

肉醤(にくしょう)、

のことであるから、「肉醤」を「ししびしお」と呼び、

魚醤、

と書いて、

しおから、

と訓ませた(仝上)、とある。「醤油」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba15.htm#%E9%86%A4%E6%B2%B9)で触れたことだが、

「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

会意兼形声。「酉+音符将(細長い)」。細長く垂れる、どろどろした汁、

で(漢字源)、

肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、

の意と、

ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、

の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(漢字源)、とある。

「醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、味噌から発展した液状のものが現在の日本の醤油になる。

「ひしお」の醤は、

ヒは隔つる義、醸造久しければ塩と隔つ、故に名とすと云ふ、或いは云ふ、浸塩(ひたししお)の意か、

とある(大言海)が、

干(ヒ)塩(しほ)の意、

である(たべもの語源辞典・岩波古語辞典)。「ひしお(醤・醢)」とは、

なめみそ、

である。「ひしお」は、

大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、

の意だが(日本語源大辞典)、

「醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。

他方、「ししびしお」の「醤」の方は、シシは肉である。肉に塩を混ぜて汁気を少なく製するから、

肉干塩(ししびしお)、

である(たべもの語源辞典)。

藤原京跡から、地方より税としておくられた品物につけた木製の荷札である多数の木簡が発掘されている。その一つにフナの塩辛を意味する「鮒醢」、と書かれたものがあり、これが日本における塩辛の文献的初出、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%BE%9B、とされる。その後平安末期の『今昔物語』に、

鯵の塩辛、鯛の醤などの、もろもろに塩辛きものどもを盛りたり、

と、「塩辛」との文字が現れる(たべもの語源辞典)が、江戸時代以降の塩辛と同じものと確認できないため、室町末期の『日葡辞書』が初出とされることもある(仝上)。

塩辛、

が定着したのは、江戸中期後半以降という(仝上)。

鮎の腸を塩蔵したものを、

ウルカ、

といい、「鮎の塩辛」には、鮎の内臓のみで作る、

苦うるか(渋うるか、土うるか)、

内臓にほぐした身を混ぜる、

身うるか(親うるか)、

内臓に細切りした身を混ぜる、

切りうるか、

卵巣(卵)のみを用いる子うるか(真子うるか)、

精巣(白子)のみを用いる、

白うるか(白子うるか)、

等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8B%E3%81%8B・たべもの語源辞典)。

ナマコの腸の塩蔵は、

コノワタ、

カツオの腸を用いた塩辛は、

酒盗、

という。

因みに、塩漬け肉の「醢(かい)」は、古代中国の王朝では処刑した罪人の死体を塩漬けにして晒し者にする刑罰のことを醢とも呼んだ。子路は、その直情径行の性格が災いし、クーデターを起こした太子を諫めて怒りを買い、殺されて醢にされてしまったエピソードが残されているhttps://esdiscovery.jp/sky/info01/food_menu003.html

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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大福餅


「大福餅」は、

中に餡を包んだ餅菓子、

で、

大福、

ともいう。この起源は、

うずら餅、

とされる。

「うずら(鶉)餅」は、室町後期、

丸くふっくらして、餅皮がすく、中の餡は赤小豆に塩を入れただけの形の大きいもの、

で、

丸くふっくらしている様子がウズラに似ているから鶉餅とよばれた、

あるいは、

ウズラの腹がふくれていること、

そう呼ばれたが、

餅が大きくて食べると腹がふくれるので、

はらぶと(腹太)餅、

とも呼ばれた(たべもの語源辞典)、とある。「うずら餅」は、

これを焼いたり、焼印を押したりしたものを鶉焼と呼んだ。塩味のあんをたっぷり入れ、丸くふくらんだ形にしていた、

とある(世界大百科事典)、塩餡で「あんびん」とも称した、とある(日本大百科全書)。こんにちでも、

京の街の餅屋では道明寺を使って表面がブチブチとなっている餅菓子をうずら餅といいます。鶏の羽を取り去った皮の表にはその穴のあとが凹凸になっています、

https://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_8_12a.html、「うずらもち」と名づけたものがあるが、かつてのものと同じかどうかはわからない。

その後、明和八年(1771)に、江戸小石川箪笥町のお玉(おたよとも、お福ともいわれる)という後家が、はらぶと餅の形を小づくりにして、餡の中に砂糖を加えたものを、

大腹餅(だいふくもち)、

として売り出し、のちに、「大腹餅」の「腹」は佳字の「福」に書き換えられ、

大福餅、

となった(たべもの語源辞典・語源由来辞典他)、とされる。

宝暦現来集(1831)は、

おた福餅、

としたとする(https://www.ishizakisyouten.com/column/1378/・世界大百科事典)。大福の両面を鉄板で焼いたものを、

焼き大福、

というが、昔は焼き大福を、

大福餅、

焼かないものを、

生(なま)の餡餅、

といった(日本大百科全書)、とある。

餅まんじゅう、

とも呼ばれたらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A6%8F

寛政年間(1789‐1801)にいたって流行し、寛政紀聞には、江戸の町には毎夜、

籠の内へ火鉢を入れ、焼き鍋をかけ、その上に餅をならべて焼いた大福餅売の姿が見られた、

とあり(たべもの語源辞典・世界大百科事典)、

寒い夜など、温かい大福餅が喜ばれた、

という(たべもの語源辞典)。

大ふくもち、あったかい、

と売り声をあげたとある(享和二年(1802)綿温石石奇効報条)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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滝川


「滝(瀧)川」というのは、

瀧津瀬(たきつせ)、

と同じ(大言海)で、

谷川など、はげしく流れる川、
急流、

で、

滝つ川、

ともいう。

ただ、「滝つ瀬」は、

水の激しく流れる瀬、

の意(岩波古語辞典)もあり、

急湍(きゅうたん)、
急灘(きゅうだん)、
早瀬、

と重なり、「滝つ瀬」は、

滝、

の意も持つ。奈良時代は、

タギツセ、

と濁った(広辞苑)のは、

タキツはもとタギツとにごり、動詞「たぎつ」(滾・激)の連体形であったが、平安時代以後タキツとすみ、タキを滝、ツを助詞とみるようになった、

という理由からである(岩波古語辞典)。だから、本来「滝つ瀬」は、

急流の意であったのに、

滝の中に滾りて落つるところ、

の意となり(大言海)、

滝、

そのものの意となっていく。「だぎつ」の「つ」のはずが、

滝+つ、

と変じたのと重なる。「たぎつ(滾・激)」は、

泊瀬川(はつせがは)白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に来し吾を(万葉集)、

と詠われるように、

水が激しく沸き返る、

意で、名詞「たぎち」は、

激流、

の意である。しかし、「たき」自体が、もともと、

水が湧きたち激しく流れるところ、

の意と、

高い崖から流れ落ちる水、

の両義をもち、

たぎつ(滾つ)・タギル(滾る)のタギと同根。奈良時代はタギと濁音であったろう、

とある(岩波古語辞典)。となると、

たぎつ→たきつせ→滝、

とは限らず、

上代、動詞「たぎつ」の語幹に「滝」を当てているものがあり、あるいは「き」が清音であった、

かもしれず、そうなると、

滝の活用(大言海)、

という可能性もある。ただ、古代、「滝」は、

垂水(たるみ)、

と言った。あるいは激しい滝と緩やかな滝とを、「滝」と「垂水」で使い分けたか、と思いたくなるが、

命の幸(さき)くあらむと石ばしる垂水の水を結び飲みつ(万葉集)、

という歌をみると、そういう区別はない。

み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ(万葉集)、
皆人の命も我れもみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも(万葉集)、
山高み白木綿花におちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも(万葉集)、

等々と、この「滝(たぎ)」は濁る。やはり、「たぎる」から「たき」へ転じたとみていいようである。「垂水」と「滝」を使い分けていたのだとすると、「滝」には急流の含意がつきまとっている気配である。

「滝」の、

急流、

滝、

の両義は、「滝(瀧)」(ロウ)自体が、

会意兼形声。「水+音符龍(太い筒型をなす、龍)」、

で、

龍のような形をした急流、早瀬、

高い所から長い筋をなして流れ落ちる水、滝、

の二義をもつことも反映しているかもしれない。

ところで、その「滝川」に因んで、

滝川豆腐(たきがわどうふ)、

というものがある。

豆腐に寒天・ゼラチンを入れて冷まし、凝固させてから切ってトコロテン突きにいれて押し出すか、庖丁で千切りにしたもの、

という(たべもの語源辞典)。

この料理を器にもったところが、滝川のようにみえるところから、

とある(仝上)が、「滝川」の語意を辿ってみると、

滝川、

というより清流に見えてしまう。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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たかんな


「たかんな」は、

タカムナの音便、

とある(広辞苑)が、

たかむな、

とも表記し、

たかうな(たこうな)、

ともいう(デジタル大辞泉)。

takamuna→takanna、

マ行音(m)→ナ行音(n)の子音交替、

takanna→takouna、

は、「思はう」→「思ほゆ」のような、ア列音→オ列音といった母音交替かと思われ(日本語の語源)、

タカムナ→タカンナ→タカウナ、

といった転訛であろうか。「たかんな」は、

筍、
笋、

と当て、

タケノコの古名、

である。古名には、

からまた、

ともいう、とある(たべもの語源辞典)。

また、「漢語」には、

篛(ジャク)、

もあり(字源)、「篛笠」という言葉もあり、

何人方舟順流下、草衣篛笠倶瀟灑(王冕)

と詠われる(字源)。他に、

筠(イン)、

とも書き、「筠」は、

堰iキン)は均の原字である。均というのは、……全部を平らにならすということである。タケノコがその周囲を竹の皮で取り巻かれている姿をいった、

とある(たべもの語源辞典)。

「筍(笋)」(ジュン、シュン)は、

会意兼形声。「竹+音符旬(シュン 周囲を取り巻く)」で、竹の皮がとりまいているたけのこ。転じて、たけのこのように突き出たもの、

とあり(漢字源)、「タケノコ」の意である。

竹の胎なり、

というとあり(たべもの語源辞典)、

旬内に竹の子となり、旬外に竹となる、

ところからつくられた字という(仝上)。他に、漢名として、

竹前、
牙筍(ガジュン)、
竹芽(チクガ)、
籜龍(タクリュウ)、
竹笋(チクイン)、
猫頭(ビョウトウ)、
妬母草(トボソウ)、

等々がある、という(仝上)。

「たかんな」の語源としては、
タカメナ(竹芽菜)の転(大言海・雅言考・古事記伝)、
タカノナ(竹菜)の約(日本古語大辞典=松岡静雄)、
タカナ(竹菜)の義(俗語考)、

といったところが、妥当ではなかろうか。

タケメネ(竹芽根)の義(日本語原学=林甕臣)、

も、ほぼ同じ発想である。その他、

竹笛の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・東雅・言元梯・俚言集覧)、
形が蜷(ごうな)に似ているところからタカミナ(竹蜷)の義(日本語の発想=白石大二所引中川芳雄説)、

というのは考え過ぎではないか。「蜷」(ごうな)とは、

寄居虫、

と当て、

ヤドカリの別名、

である。似ていなくもないが、音韻からの付会ではあるまいか。

「竹」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%9F%E3%81%91)で触れたことだが、

新井白石の「東雅」には、「万葉集抄」にタは高いことだとあって、ケとは古語に木をケというようであり、タケとは、生じて高くなる木という意味でつけられて名である、と説いている。タカムナという筍の異名からタカムは高くなることで、ナは「菜」でたべものを意味するという説もある、

とある(たべもの語源辞典)。「タケノコ」が、「菜」と見られていたことは確かである。「菜」は、

葉・茎などを食用とする草木類の総称、

であったhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/478982915.html

本朝食鑑(1697)は、

今本邦食する所の筍は苦竹、淡竹、長間竹の筍なり、

と、食用にされるのはマダケ、ハチク、シノダケのものだとしているように、明和・安永(1764‐81)以降モウソウチクの栽植が進むまでは、たけのこといえばだいたいマダケとハチクのそれであったらしい(世界大百科事典)。

「竹」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%9F%E3%81%91)で触れたように、

モウソウという竹は、元文年間(1726-41)徳川八代将軍吉宗のとき、琉球から薩摩に二本移植されたのが始まりである。これは中国中部の江南竹で、雪竹ともいう。日本で孟宗竹とよんだのは、中国の筍の産地として有名な西湖近くの法華山一帯から出るものを毛笋(モウシュン)とよんでいるから、これが訛ってモウソウとなり、孟宗とあて字したものである。中国から日本に移植された竹は、マダケ(漢名、苦竹。ニガタケともよぶ)、ハチク(漢名、淡竹。苦味がうすいからである。クレタケ、カラダケともいう)、布袋竹(ホテイチク。短い節間がふくれていて、ほていさんの腹を連想させるところからの名)、鼓山竹(ゴザンチクともいう。漢名多般竹)である、

とあり(たべもの語源辞典)。日本原産の竹は、中部山岳地帯、東北地方にあるスズタケ(篶竹。スズ・ミスズともいう。スズは篠(しの)と同じ意)である(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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このわた


「このわた」は、

海鼠腸、

と当てる。「こ」は、

海鼠、

の古名(江戸語大辞典)、あるいは、

本名、

とある(大言海)。和名抄に、

海鼠、古(コ)、似蛭而大者也、

とある。で、「このわた」は、

「こ」(海鼠)+の(助詞)+わた(腸。内臓という意味)、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9F

ナマコの腸(はらわた)、

を指すが、多く、

その塩辛、

を指す(広辞苑)。

ナマコの内臓から作る塩辛。はらわたをよく洗い、20〜30%の食塩を加え樽詰とし熟成する。特有の香気があり、酒のさかなとして珍重、

とある(マイペディア・たべもの語源辞典)。

火力で乾燥したものを、

煎海鼠(いりこ)、
海参(いりこ)、

というが、別に、乾燥したものを一般に、

干海鼠(ほしこ)、
俵子(たわらご)

ともいう(大言海)。和名抄には、

熬海鼠、伊里古、

とある(大言海)。

「俵子」は、「なまこ」の異称である(たべもの語源辞典)。『嬉遊笑覧』には、

俵子(たわらこ)は沙噀(さそん:海鼠の別称)の乾たるなり。正月祝物に用る事目次のことを記ししものにも唯その形米俵に似たるもの故俵子と呼て用るよしいへり。俵の形したらんものはいくらもあるべきにこれを用るは農家より起りし事とみゆ。庖丁家の書に米俵は食物を納るものにてめでたきもの故たわらごと云ふ名を取て祝ひ用ゆるなり、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9F)、伊勢貞丈も、

海鼠の乾したるなり(中略)其の形少し丸く少し細長く米俵(こめだわら)の形の如くなる故タワラゴと名付けて正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にて、メデタキ物故タワラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり、

とする(仝上)。

串に刺して乾燥させたものは、

串海鼠(くしこ)、

また「なまこ」の卵巣を干したもの

海鼠子(このこ)、

といい、

紅梅腸、

とも称した、とある(仝上)。特に、金華山でとれた「なまこ」を、

金海鼠(きんこ)、

と称した、とある(仝上)。また、「金を帯ぶるものあり、略、虎斑(とらふ)に似たれば」、

虎海鼠(とこら)、

というが、味は劣る、とある(大言海)。

「このわた」は、尾張徳川家が師崎のこのわたを徳川将軍家に献上したことで知られ、江戸時代、

三河(愛知県)の「このわた」、長崎県の「からすみ」(ボラの卵巣)、越前の「うに」とともに「天下の三珍」として賞味された、

とある(日本大百科全書)。「このわた」は、

能登国の産物、

として平安時代の史料に登場する。延長五年(927)成立の『延喜式』では、

中央政府が能登国のみに課した貢納物の中に、熬海鼠(いりなまこ)に加えて「海鼠腸」が挙げられている。能登の交易雑物に「海鼠腸一石」と記録されており、かなり量産されていた、

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9F。元禄十年(1697)の『本朝食鑑』では、「奈麻古」(なまこ)について、

腹内ニ三條ノ黄腸(きわた)ガ琥珀ノ如クシテ、之ヲ淹(つ)ケテ醬(しゃう)ト爲シ、味ワヒ香美、言フヘカラス。諸(さまざま)ナ醢(ひしお=塩辛)ノ中ノ第一ト爲スナリ、

と記す(仝上)。幕末の『千蟲譜』に、「このわた」について

此のもの、・K・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことはり)ありと思へり、

と記すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9F

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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なまこ


「ナマコ」は、

海鼠、

と当てるが、

生子、
奈麻(万、末)古、

とも当てたりし(日本大百科全書)、

タワラゴ(俵子)、
タワラ、

等々とも言い、上方では、

トラゴ、

ともいった(たべもの語源辞典)。漢名では、

沙噀(さそん)、
沙蒜(ささん)、
塗筍(どじゅん)、

等々とあり(仝上)、また、ケンペル『日本誌』では、

土肉、

を、

なまこ、

と訓ませているhttps://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GF024017&hid=4085

中国語でナマコを指す、

「海参(ハイシェン)」は、その強壮作用から「海の人参(御種人参)」との意味でつけられた名前である、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%B3

「このわた」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479417966.html?1610050202で触れたように、古くはふるくは、和名抄に、

海鼠、古(コ)、似蛭而大者也、

とあるように、

こ(海鼠)、

と呼ばれた。「こ」の語源は、

凝るの語根にもあらむか、體、凝れるが如し(大言海・名言通)、
小を意味する原語コからの転義で、コ(蚕)に似ているところから(日本古語大辞典=松岡静雄)、

の説がある。是非を判断する手立てはないが、

こ(蚕)、

は、

子(コ)、卵(コ)の転義、

とある(岩波古語辞典)。

桑子(くはこ)のコならむ。家にて養ふに因りて、常に、養蠶(カヒコ)と云ふなり、

ともある(大言海)。「かいこ」は、

たらちねの母がかふこ(蚕)の繭隠(まよこも)り隠れる妹を見むよしもがも(万葉集)、

とも詠われるほど古い。確かに、「蚕」に似ていなくもない。となると「小」ではないだろう。

「ナマコ」は、

円筒状で左右対称の体形をした無脊椎動物で、日本近海には約200種が生息する。主に食用になるのはマナマコで、体表の色からアカナマコ、アオナマコ、クロナマコの3種に区別される。アカナマコは国内の生食向けに1キロあたり500〜1千円程度で取引される。アオナマコ、クロナマコの乾燥品は高級食材として主に香港や中国に輸出される、

とある(朝日新聞掲載「キーワード」)。生食が中心の日本に対し、中国では乾燥させた干しナマコとして利用するのが一般的だからである。

日本人とナマコの関わりは古く、『古事記』に、

海鼠(コ)、

と載る。『養老律令』賦役令及び『延喜式』にも諸国からの貢納品として挙げられ、『和名類聚抄』には「老海鼠」「虎海鼠」などと載る。江戸時代の『本朝食鑑』には、その形がネズミに似ていることから「鼠」の字が用いられたといい、江戸時代には米俵に似ているということで豊作に通じた縁起物として正月の雑煮の具(上置)に用いられた、長崎貿易においては「俵物」として清などに輸出された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%B3

「ナマコ」の語源は、

乾海鼠(ほしこ)、熬海鼠(いりこ)などに対して、生(なま)なるを、ナマコと云ひて、通名とす、

というのが通説である(大言海)が、

再生力が強く、体を切っても時間が経つと元へ戻ることから、「生き返る」という意味の「生」(語源由来辞典)、

と、再生力から「生」というとする説もある。その他、

ヌメリコ(滑凝)の義(日本語原学=林甕臣)、
ナメリ(滑)コの義(滑稽雑誌所引和訓義解)、

と、その特徴からとする説がある。たべもの語源辞典は、

生だからナマコだという説は間違っている。生きていることが特色ではない。名称は、それ自体の特色を見てつけるもので、ヌラヌラとしたなめらかなもの、ナメリコ(滑りこ)が略されてナマコになったのである、

とする。しかし、その形態は、

体は筒形で、腹面が平たくて背面の盛り上がったかまぼこ形のものが多いが、背腹の区別のないものもある。口の周りにはふさふさした触手が何本もある。腹面には小さいいぼのような管足が無数にある。管足は縦に3対列をなして並ぶことが多いが、背腹の区別のないものでは、体の周りに5対列をなして並ぶ。管足がまったくないものもある。体表は粘液でぬるぬるしていて、皮革のような手ざわりのものや、ぶよぶよした柔らかいものもあり、また滑らかなものも、ざらざらして手に吸い付くような感じのものもある。皮膚の中には顕微鏡的な小骨片が無数に埋もれている。骨片の形は櫓(やぐら)、錨(いかり)、車輪などに似ていて、ナマコを分類するときの標徴とされる

とあり(日本大百科全書)、一概に、「なめらか」とはいかないようである。やはり、古くから、

乾海鼠(ほしこ)、熬海鼠(いりこ)などに対して、生(なま)なるを、

ナマコと言ってきたのには意味があるのではないか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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なびく


「なびく」は、

靡く、

と当てる。

(根元が押さえられていて)先の方がゆらゆらと横に揺れ動く、

のを言い、それをメタファに、

さ寝(ぬ)がには誰とも寝(ね)めど沖つ藻の靡きし君が言待つ我を(万葉集)、

というように、

(心や態度が、ある人の方へ)揺れ動いて寄る、

意であり、さらに、

上は下に助けられ、下は上になびきて(源氏)、

というように、

他人の威力・意志などに従う、
服従する、

意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。

「靡」(漢音ビ、呉音ミ)は、

形声。「麻(しなやかな麻)+音符非」

とある(漢字源)が、別に、

形声。「非」+「麻」。「非」は、分離すること。「麻」は、水に浸した麻のこと、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A1が、

燕従風而靡、

と、

外から加わる力に従う、

意から考えると、「麻」を水に浸したイメージが浮かぶ。

「なびく」の語源は、

ナビク(並)は、下二段動詞ナブ(並)と同源。ナブは、同じ方向に揃うという意味的共通性からみて、ナブ(並)・ナム(並)と同源と考えられる、

とする(日本語源大辞典)、

並ぶ意のナム(列)、ナラブと同系か(語源大辞典=堀井令以知)、
ナミク(並木)の義(名言通)、
ナミフス(並偃)の義(言元梯)、

という「並」とみなす説と、

ナビは擬態語。元がささえられながら、先がしなやかに揺れ動く意。擬態語を語根とし、接尾語クをつけて、動詞を作る、さわぐ(騒)・かがやく(輝)・とどろく(轟)などの類(岩波古語辞典)、

と、擬態語とする説に大別される。

他に、

偃(な)え延(ひ)くの意(大言海)、
ナ(和)+引く、物の力に引き寄せられる(日本語源広辞典)、

もあるが、上記二説が有力である。

なぶ(並)、

は、列をなす意である(大言海)が、

なむ(並)、

も、

横に凹凸なく並ぶ意。縦に一列並ぶのはツレ(連)という、

とある(岩波古語辞典)。で、

ならぶ(並)、

は、

二つのものがそろって位置している意が原義、類義語ナム(並)は三つ以上が凹凸なく横に並ぶ意、

である(岩波古語辞典)。つまり、

なぶ(並)、

なむ(並)、
も、
ならぶ(並)、

も、並んだ状態を示す言葉の可能性が高い。となれば、

なぶ(靡)、

もその意味の外延にあるかもしれないが、「さわぐ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba13.htm#%E3%81%95%E3%82%8F%E3%81%90)が、

奈良時代にはサワクと清音。サワは擬態語。クはそれを動詞化する接尾語

とある(岩波古語辞典)。「サワ」は、

さわさわ、

という擬態語であり、「とどろく」が

ドロドロという音ないし声から(国語溯原=大矢徹・時代別国語大辞典−上代編)、
ドドは擬音語(岩波古語辞典)、

と、また擬音語であり、「かがやく」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%82%84%E3%81%8F)も、

カガは、赫(かが)、ヤクは、メクに似て、発動する意。あざやく(鮮)、すみやく(速)(大言海)、
カガ・カガヤ(眩しい・ギラギラ)+く(動詞化)(日本語源広辞典)、
カクエキ(赫奕)の転(秉穂録)、
カガサヤクの約言(万葉考)、

と、「赫」とつなげる説が多く、擬態語と見ることができる。「なふ」「なむ」も並んだ状態の擬態語と考えれば、二説は、

並んだ状態、

靡いた状態、

と、重なるのかもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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とどろく


「とどろく」は、

轟く、

と当てる。「轟」(慣用ゴウ、呉音・漢音コウ)は、

会意。「車+車+車」で、多くの車が往来することを表す、

とあり(漢字源)、

ごろごろととどろく音の形容、

の意である。

轟音、
喧轟、



地響き、
どんととどろく音、
ざわざわと騒ぎ乱れる音、

等々につかう(仝上)し、

轟轟烈烈、

と、

物事が盛んで激しいさま、

にも使う(仝上)し、

轟飲、
轟笑、

と、

大いに、むやみに、の意でも使う(字源)。

音が鳴り響く、
とか、
胸が轟く、
とか、
名前が世間に知れ渡る、

等々という意味で使うのは、我国だけのようである(仝上・漢字源)。

「とどろく」は、

トドロの活用、

とある(大言海・日本語源広辞典)。

「とどろ」は、

擬音語、

で、

とどろき響くさま、

で(岩波古語辞典)、使用範囲は広く、

磯波・激流・馬の音、鹿・鶴・蝉の声、橋板を踏み鳴らす音、

等々に、

みよしのの滝(たぎ)もとどろに落つる白波留まりにし妹に見せまく欲しき白波(万葉集)、
伊勢(いせ)の海の磯(いそ)もとどろに寄する波恐(かしこ)き人に恋ひわたるかも(仝上)、
梅柳(うめやなぎ)過(す)ぐらく惜しみ佐保の内に遊びしことを宮もとどろに(仝上)、

等々、幅広く使う(岩波古語辞典)。その「とどろ」は、

ドロドロという音から(言元梯・名言通・国語溯原=大矢徹)、
トドロはトドと同じく擬声語で、大きな物音を表す(時代別国語大辞典−上代編)、

等々とあるが、「とど」は、

馬の音のとどともすれば松蔭(まつかげ)に出でてぞ見つるけだし君かと(万葉集)、
奥山の真木の板戸をとどとしてわが開かむに入り来て寝(な)さね(万葉集)、

等々の擬音語「とど」からきているとみていいが、この「とど」は、

ことこと、

といった優しい音の意であり、

どど、

とも訛った(岩波古語辞典)。「ろ」は、

接尾語、

で、

名詞の下につく。意味は明確ではない。歌の調子で用いられているような例もあり、親愛の情を示すように見える例もある、

とある(仝上)。

目ろよしに寄しより來ね(記紀)、

は前者、

武蔵野のをぐきが雉(きぎし)立ち別れ去(い)にし宵(よひ)より背ろに逢はなふよ(万葉集)、

の場合は、後者だろう。

「とどろ」が、

とどろき響くさま、

に転じたとき、同じ意の擬音語、

轟、

を当てたのは慧眼である。漢字より、意味の外延は広いが。

「とどろく」は、「なびく」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%81%AA%E3%81%B3%E3%81%8F)で触れたように、

擬音語・擬態語+ク(動詞を作る接尾語)、

で、

なびく(靡)、
さわぐ(騒)、
かがやく(輝)、

と同種の言葉である(岩波古語辞典)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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なまづ


「なまづ(ず)」は、

鯰、

と当てるが、

魸、

とも当てる。共に、国字である。中国では、「なまず」は、

鮎、

である。これを「あゆ」に当ててしまったので、国字を作った、という(たべもの語源辞典)。

「鮎」(漢音ネン、呉音デン)は、

会意兼形声。「魚+音符占(=粘、ねばりつく)、

で、「なまず」である。中国では、

鯷(テイ、シ)、
鮧(イ、テイ)、

は、「おおなまず(大なまず)」を意味し、

鯷冠、

という言葉があり、

この皮を以て冠を作る、

という(字源)が、日本では、「鯷」を「ひしこ(いわし)」に当てている。

鰋(エン)、

も「なまず」で、小雅に、

魚麗于罶鰋鯉、

という詩が載る(字源)。

「なまず」は、また、

鯰公(ねんこう)、
鮎鯰(でんねん)、
慈魚(じぎょ)、
鮰魚(かいぎょ)、
偃額魚(いんがくぎょ)、
水底羊(すいていよう)、

とも呼ばれ、

なまだ、
にぜんぎょう(二漸経)、
ちんころ(東京)、

とも言い、

じょうげんぼう、

という異名もある(たべもの語源辞典)。梅雨のころが産卵期で、

梅雨鯰(つゆなまず)、

というが、享保十三年(1728)に、洪水があって、手賀沼、井の頭の池などから、神田川、墨田川になまずが流れ出て、これで江戸になまずがいるようになり、鯰料理が始まった、とある(仝上)。

「なまず」の語源は、

滑らかなる意(大言海・日本釈名・和語私臆鈔・日本語源=賀茂百樹)、

とか、

ぬめる(日本語源広辞典)、

という触覚系の語感が主流で、

ナメリデ(滑手)の義(名言通)、
ナメハダウオ(滑肌魚)の義(日本語原学=林甕臣)、

も同趣。

鱗がなくて滑らかなので「なまる」「なめらか」「ねばる」といった意から(たべもの語源辞典)、

というところだろう。「なめくじ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%83%8A%E3%83%A1%E3%82%AF%E3%82%B8)で触れたように、

ナメは滑の義(大言海)、

であり、「づ」は、

川や沼の泥底にすむことから、「どじょう」の「ど」とおなじく、「泥」や「土」の意味、

とある(語源由来辞典)。ただ、「どじょう」は、和名を、

登知也于(壒嚢抄)、

と当てるのに対して、「なまず」は、

奈萬豆(和名抄)、
奈末都(本草和名、

と当て、別のようである。「つ」は、

津、豆、渡水處也(和名抄)、

であり、「つ」は、

ト(戸)の母音交替形、

であり、「と」は、

ミナト(港)・セト(瀬戸)のトに同じ、

とあり、水の出入り口、の意である。「どじょう」は、

基本的に夜行性で、昼間は流れの緩やかな平野部の河川、池沼・湖の水底において、岩陰や水草の物陰に潜んでいる。感覚器として発達した口ヒゲを利用して餌を探し、ドジョウやタナゴなどの小魚、エビなどの甲殻類、昆虫、カエル、亀、蛭などの小動物を捕食する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%BAので、生態からみると、「泥」と当てるのは当たらないのかもしれない。「つ」も、少し的から外れているような気がする。

なお「なまず」には、

地震、

の意もある。

地底に鯰ありて、地震は其しわざなりとの伝説がある、

ためである(大言海)。この鯰は、

大鯰(おおなまず)、

とされ、

地下に棲み、身体を揺することで地震を引き起こすとされる、

と信じられたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%AF%B0)。地震にまつわる古代の世界観として、

地底には巨大な毒蛇が棲んでおり、このヘビが身動きをするのが自身である、という「世界蛇」伝説が、アジア一帯において共通して存在していた。これは日本も同様で、江戸時代初期までは、竜蛇が日本列島を取り巻いており、その頭と尾が位置するのが鹿島神宮と香取神宮にあたり、両神宮が頭と尾をそれぞれ要石で押さえつけ、地震を鎮めている、とされた、

が(仝上)、江戸時代後期になると、民間信仰から、

竜蛇、

が、

ナマズになった、とある(仝上)。

なお、地震については「なゐ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%81%AA%E3%82%90)で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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どじょう


「どじょう」は、

泥鰌、
鰌、
鯲、

等々と当てる。「鰌」(漢音シュウ、呉音ジュ)は、

会意兼形声。「魚+音符酋(シュウ しまって細い)」

とある(漢字源)。「酋」(漢音シュウ、呉音ジュ)は、

象形。壺の中に酒が醸されて、外へ香気がもれでるさまを描いたもの。シュウということばは、愁(シュウ 心が小さく縮む)・就(ひきしめる)などと同系で、もと酒をしぼる、しぼり酒の意であったが、のち、それを酒の字にかきあらわし、酋はおもに一族をひきしめる頭の意にもちいるようになった、

とある(漢字源)。「酋」は、

ミミズを意味する、

とあるがhttps://zatsuneta.com/archives/001987.html、調べた限り、その意はない(漢字源・字源)。なお、「どじょう」の意では、

鰍(シュウ)、
鯲、

を当てるが、「鰍」は、

会意兼形声。「魚+音符秋(ぐっとひきしまる、締まって細い)」

で、我国では、

になだ、

かじか、

に当てる。「鯲」は、

会意。「魚+於(とごる、どろ)」、

と、「どじょう」と訓ませる、国字。

「どじょう」は、室町期の「壒嚢抄」は、

鯲、どぢゃう、

江戸期の林羅山の本草學「多識篇」は、

鰌魚(シウギョ)、和名登知也宇、異名泥鰍(デイシウ)、

慶長期の易林節用集は、

鰌、ドヂャウ、

江戸期林逸節用集は、

土町、ドジャウ、

等々と、歴史的仮名遣いでも、

どぢゃう、
どづを、
どぢを、
どじゃう、

と種々の表記がされてきたが、

「ぢ・じ」「ちゃう・ちょう」の発音の別が存した室町中期に編纂された辞典「壒嚢抄」に、

ドヂャウ、
土長、

の表記が見られることから、

どぢゃう、

とする説に従う(日本語源大辞典)、とある。だから、江戸時代に、

どぜう、

という表記が看板・暖簾などにみられるが(語源由来辞典)、江戸期の「駒形どぜう」に由来するとするhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86。現に、「駒形どぜう」では、

もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記です。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案です。文化三年(1806)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます、

としているhttps://www.dozeu.com/history/。「どじょう」は、地域で、

ウナマ(石川県河北地方)、
ノロマ、ノロ(石川県鹿島地方)、
ジックリ、ドジュクリ(鹿児島)、
トドヨ(和歌山)、
ドロンボ(滋賀県)、
ドンキ(山形村山地方、福島北部)、
ドンキュー(広島、鳥取、岡山)、
メロ(青森)、

等々、さまざまな異称で呼ばれている(たべもの語源辞典)。

「どじょう」の語源については、はっきりしないが、大言海は、

泥之魚(ドロツヲ)の義、泥の中へちょろちょろするより起こる。泥鰌(デイシウ)の轉と云ふは、少し鑿(イリホガ)なるべし、壒嚢抄(あいのう)に、土長、増補下學集に土𩸎。又は土生、泥生などと云ひ、髭あれば泥尉(どぜう)と云ふ説なども據所なし、

と、「土長」説を否定している。これと似ているのが、

ドロツヲ(泥津魚)の義(三余叢談・日本語源広辞典)、

であり、

ドロツウオ→ドロツオウ→ドロジオウ→ドロジヨウ→ドジョウ、

と転訛したとみる(日本語源広辞典)。

しかし最古の文献が、

どぢゃう、

としたことから見ると、「ツ→ジ」ではなく、「ツ→ヂ」を経て、

ドロツウヲ→ドロツヲウ→ドロヂヲウ→ドロヂヤウ→ドヂャウ→ドジョウ、

といった転訛だったことも考えられるが、

ドヂャウ→ドジョウ、

と見るのが自然だろう。

「どじょう」は、江戸期の「料理物語」(1643)をみると、

鰌汁、
すし、

とあり、「すし」は「なれずし」であったとみられる(日本語源大辞典)。江戸で「どじょう汁」を始めたのは、文政年間(1818〜30)で南伝馬町三丁目店に住む万屋が、ドジョウをさいて骨首・わたを取り去って、鍋煮にして売った、とある(たべもの語源辞典)。その後天保(1830〜44)の初めころ横山同朋町に「柳川」という屋号で、どじょう鍋を売る店ができ、この商売が広まり、「どじょう鍋」を「柳川鍋」というようになる(仝上)。いまもある「浅草駒形のどぜう」は、文化元年(1804)に開業した。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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どさまわり


「どさまわり(回り)」は、

劇団などが地方まわりをすること、また常設の劇場をもたない地方回りの劇団の称、

の意と、

盛り場などを歩きまわるよたもの、
地回り、

の意とがある(広辞苑)。「地回(廻)り」は、

地回りの酒、

というように、

近くの土地から回送してくること、またその品物、

の意だが、そこから、

地廻商人、
地廻船、

というように、

その地方の近辺を巡回すること、

の意であり、たとえば、

江戸では、上方からもたらされた品物を「下り物」「下り荷」と呼んでいた。一方、江戸の近郊、関東各地から来た品物は「地廻り物」と呼ばれた、

とあるhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/edo-reference17.html。それが、

近郷を巡り歩いて商売すること、またその商人、

の意になり、

地廻の若者、

というように、

その土地に住み着いている、土地っ子、

をさし(大言海)、さらに、特に、

遊里や盛り場に住んでうろつきまわるならず者、

の意に転じた(広辞苑)。江戸期に確定したらしい最後の意味は、

地廻下駄組、

という、

下駄をはいた地廻りの一団を侠客などの集団名に擬していった語があるほどで、

吉原では用心棒として地廻りをかかえ、喧嘩などの際取鎮めに当たらせた娼家もあった、

とある(江戸語大辞典)。

「どさ」は、

どさぁの意、
(隠語)賭場に役人が踏み込むこと、手入れ、

の意の他に、

地方または田舎をさげすんで言う語、

の意がある(広辞苑)。「どさぁ」の意というのは、

奥州にて、他人の事柄を相手に話す時、「と云ふ」の意に使う語、

であり(大言海)、転じて、

奥州弁、
どさことば、

の意で使う(仝上)。だから、

東北人、
田舎者、

の意に転じ(江戸語大辞典)、「どさまわり」の語源に、

ドサァ言葉、つまり東北弁の土地へ行って行う芝居の意(演劇大百科事典・上方語源辞典=前田勇)、

とするのだが、如何であろうか。また、手入れの意の「どさ」から、

江戸時代の賭場言葉が芸能界に受け継がれ、博打で逮捕されて遠く佐渡へ贈られることをサドの倒語をもちいてドサといったところから(演劇大百科事典・上方語源辞典=前田勇)、

とする説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B5%E5%9B%9E%E3%82%8A・日本語源広辞典)。

また、「どざ」に、

土座、

を当てて、

板敷でない地面のままのところ、
土間、

の意があり、そこから、

客席にも楽屋にも筵が敷いてあったから(演劇大百科事典)、

という語源説もある。

土砂降りになると休みになるような田舎芝居の意(仝上)、
ドサは土臭い意の土砂から(ことばの事典=日置昌一)、

も、趣旨は同じである(日本語源大辞典)。どれかと特定する識見があるわけではないが、

左は男桟敷右のかたは女中とさだめ土座はすゑすゑの万人自由に見るため」(浮世草子・「新可笑記(1688)」)、

ともあり、

のみにしらみにうきはまたぐら土さに唯しけるむしろもよしなしや(俳諧・寛永十三年「熱田万句(1636)」)

では、「どさ」と訓ませてもいる。江戸時代、

芝居小屋の「江戸三座」(中村座、森田座、市村座)は、町奉行所から歌舞伎興行を許された格式の高さを誇り、「大芝居」とも言った。一方、寺社の境内などで小屋掛け興行する一座は「宮芝居」、または「小芝居」と呼ばれ、大芝居とは格段の差があった、

とあるhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/edo-reference16c.html。寺社などの空き地を借りて小屋掛けするという意で、「土座」説に与したい気がする。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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たまふ


「お年玉」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E3%81%8A%E5%B9%B4%E7%8E%89)で触れたように、「たまふ」は、

賜ふ、
給ふ、
玉ふ、

等々と当てる。「たまふ」には、

目下の者の求める心と、目上の者の与えようとする心とが合わさって、目上の者が目下の者へ物を与えるという意が原義、転じて、目上の者の好意に対する目下の者の感謝・敬意を表す、

(目下の者に)お与えになる、
(慣用句として「いざ〜賜へ」と命令形で)是非どうぞ、是非〜してください(見給へ、来給へ)、

意の他動詞(岩波古語辞典)と、それが、

タマ(魂)アフ(合)の約か。(求める)心と(与えたいと思う)心とが合う意で、それが行為として具体的に実現する意。古語では、「恨み」「憎しみ」「思ひ」など情意に関する語は、心の内に思う意味が発展して、それを外に具体的行動として表す意味を持つ、

助動詞として、動詞の意味の外延を引きずって、

天皇が自己の動作につけて用いる。天皇は他人から常に敬語を使われる位置にあるので、自分の動作にも敬語を用いたもの、

として、

〜してつかわす(「「労(ね)ぎたまふ」)、

意と、さらに、

〜してくださる(「いざなひたまひ」)、

と、目上の者の行為に対する感謝・敬意をあらわし、また、

〜なさる(「位につきたまふ」)、

と、広く動作に敬意を表す(仝上)使い方をする。助動詞「たまふ」は、

元来、ものを下賜する意で、それが動詞連用形(体言の資格をもつ)を承けるように用法が拡大されて、「選び玉ヒデ」「御心をしづめたまふ」などと用い、奈良時代以後ずっと使われた。そこから、相手の動作に対する尊敬の助動詞へと転用されていったものと考えられる。つまり相手の動作を相手が(自分などに対して)下賜するものとして把握し表現したのである。
平安時代になると、単独の「たまふ」よりも一層厚い敬意を表す表現として、……使役の「す」「さす」「しむ」と、「たまふ」とを組み合わせる形が発達した。「せ給ふ」「させ給ふ」「しめ給ふ」という形式…である。それは、「〜おさせになる」という、人を使役する行為を貴人が下賜することを意味し、その意味で使われた例も多く存在する。しかし、貴人自身の行為であっても、それを侍者にさせるという表現を用いることによって単に「〜し給ふ」と表現するよりも一層厚い敬意を表すこととになったものである、

とある(仝上)。

さらに、「たまふ」には、

タマフの受動形。のちにタブ(食)に転じる語、

である下二段動詞として、

(飲み物などを)いただく、
主として自己の知覚を表す動詞「思ふ」「聞く」「知る」「見る」などの連用形について、思うこと、聞くこと、知ること、見ることを(相手から)いただく意を表し、謙譲語、

として、

伺う、
拝見する、

等々の意としても使う。尊敬語(下さる)の受け身なのだから、謙譲語(していただく)になるのは、当然かもしれない。

「たまふ」と同義に、

たぶ(賜)、
たうぶ(賜)、

がある。「たうぶ」は、

「たまう」あるいは「たぶ」の音変化で、主として平安時代に用いた、

とあり、訛ったものと想像がつく。「たぶ」を、大言海は、四段動詞「たまふ」は、

だぶの延、

その助動詞用法には、

たぶの転、

とする。しかし、

たまふ(tamafu)→たぶ(tabu)、

はあり得ても、その逆はあり得ないのではあるまいか。つまり、「たぶ」は、

たまふの転、

である(岩波古語辞典)。

さて、「たまふ」の語源は、岩波古語辞典は、前述の通り、

タマ(魂)アフ(合)の約か、

とする。「タマ」を魂とする説には、

タマフル(魂+振る)(日本語源広辞典・日本の敬語=金田一京助)、

がある。あとは、「た」を、「手」の古形「た」とするもので、

タ(手)マフ(幣)で、手土産をもってものを頼む意が本義(日本語源学の方法=吉田金彦)、
タマフ(手間触)の義(言元梯)、

がある。さらに、

タマ(玉)の動詞化(山口栞)、
タマウ(玉得)の義(柴門和語類集)、

と「たま」とするもものがある。「たま(玉・珠)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E3%81%9F%E3%81%BE)で触れたように、「玉(珠)」は、

タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、

とある(岩波古語辞典・日本語源広辞典)。つまり「魂」の「たま」と「玉」の「たま」は、同源である。とすると、「たまふ」の「たま」は、そのいずれかと見ていい。

「たま」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E3%81%9F%E3%81%BE)で触れたことと重なるが、

本来「たま」は「魂」で、形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが、

丸い石、

を精霊の憑代とすることから、その憑代が「魂」となり、その石をも「たま」と呼んだことから、その形を「たま」と呼んだと、いうことのように思える。

その「たま」は、単なる球形という意味以上に、特別の意味があったのではないか。とすると、

タマ(玉)の動詞化、

が最も近い気がする。しかし、例によって、『日本語の語源』は、音韻変化から、

アフ(合ふ)は「みんな……しあう」という意で、複数のものの動作をあらわす補助動詞であるが、支配者が庶民の生活苦を助けるために食料を分け与えることをタベアフ(食べ合ふ)といった。ベア[b(e)a]の縮約でタバフ・タマフ(給ふ)に転化した。食料を分配する支配者の恩恵に対する感謝の気持ちはおのずから尊敬の念となり、「与ふ」「授く」の尊敬動詞が成立した。(中略)
受身形を作ったナル(為る)を補助動詞として用いたタマヒナル(給ひ為る)は、ヒナ[h(in)a]の縮約でタマハル(賜る)になった「受く」「もらふ」の謙譲語であり、「与ふ」「授く」の尊敬語でもある。
また、タマフ(給ふ)のマフ[m(af)u]を縮約するときには、タム・タブ(給ぶ)になった、

と説明する。

タマフ(給ふ)のマフ[m(af)u]を縮約してタブ(給ぶ)になった、

はあり得るかと思う。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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たま(魂・魄)


「たま」は、

魂、
魄、
霊、

と当てる。「たま(玉・珠)」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E3%81%9F%E3%81%BE)で触れたように、「たま(玉・珠)」は、

タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、

とある(岩波古語辞典)。依り代の「たま(珠)」と依る「たま(魂)」というが同一視されたということであろうか。

未開社会の宗教意識の一。最も古くは物の精霊を意味し、人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離靈の一種で、人間の体内から脱け出て自由に動き回り、他人のタマとも逢うこともできる。人間の死後も活動して人を守る。人はこれを疵つけないようにつとめ、これを体内に結びとどめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます、

ともある(仝上)。だから、いわゆる、

たましい、

の意であるが、

物の精霊(書紀「倉稲魂、此れをば宇介能美柂麿(うかのみたま)といふ」)、

人を見守り助ける、人間の精霊(万葉集「天地の神あひうづなひ、皇神祖(すめろき)のみ助けて」)、

人の体内から脱け出して行動する遊離靈(万葉集「たま合はば相寝むものを小山田の鹿田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)らすも」)、

死後もこの世にとどまって見守る精霊(源氏「うしろめたげにのみ思しおくめりし亡き御霊にさへ疵やつけ奉らんと」)、

と変化していくようである。そこで、

生活の原動力。生きてある時は、體中に宿りてあり、死ぬれば、肉體と離れて、不滅の生をつづくるもの。古くは、死者の魂は、人に災いするもの、又、生きてある閧ノても、睡り、又は、思なやみたる時は、身より遊離して、思ふものの方へゆくと、思はれて居たり。生霊などと云ふ、是なり。故に鎮魂(みたままつり)を行ふ。又、魂のあくがれ出づることありと、

ということになる(大言海)。ちなみに、「たまふり(靈振)」とは、

人の霊魂(たま)が遊離しないように、憑代(よりしろ)を振り動かして活力をつける、

のを言う。憑代は、精霊が現れるときに宿ると考えられているもので、樹木・岩石・御幣(ごへい)等々。「鎮魂(みたままつり)」「みたましずめ」も同義である。万葉集に、

たましひは朝夕(あしたゆふべ)にたまふれど吾が胸痛し恋の繁きに、

という歌がある。

「たま」に当てられている「魂」(漢音コン、無呉音ゴン)の字は、

会意兼形声。「鬼+音符云(雲。もやもや)、

とあり、

たましい、
人の生命のもととなる、もやもやとして、決まった形のないもの、死ぬと、肉体から離れて天にのぼる、と考えられていた、

とある(漢字源)。

しかし、後述の「鬼」の意味からは、

会意兼形声文字です(云+鬼)。「雲が立ち上る」象形(「(雲が)めぐる」の意味)と「グロテスクな頭部を持つ人」の象形(「死者のたましい」の意味)から、休まずにめぐる「たましい」を意味する「魂」という漢字が成り立ちました、

とする説明もあり得るhttps://okjiten.jp/kanji1545.html

「魄」(漢音ハク、呉音ヒャク)の字は、

会意兼形声。「鬼+音符白(ほのじろい、外枠だけあって中味の色がない)」。人のからだを晒して残った肉体のわくのことから、形骸・形体の意となった、

とあり(仝上)、また別に、

会意形声。「鬼」+音符「白」、「白」は白骨とも、しゃれこうべとも、

とするものもあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84。やはり、

たましい、
肉体をまとめてその活力のもととなるもの、

の意だが、「魂」と「魄」は陽と陰の一対、

「魂」は陽、「魄」は陰で、「魂」は精神の働き、「魄」は肉体的生命を司る活力人が死ねば魂は遊離して天上にのぼるが、なおしばらくは魄は地上に残ると考えられていた、

とあるのは、それは、

「魂」と対になり、「魂」が精神的活動で陽、「魄」が肉体的活動で陰とされ、魂魄は生きている間は一体であるが死後すぐに分離し、魂は天界に入るが、魄は地上をさまようとされた、

からであるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84

さらに、「靈(霊)」(漢音レイ、呉音リョウ)の字は、

会意兼形声。靈の上部の字(音レイ)は「雨+〇印三つ(水たま)」を合わせた会意文字で、連なった清らかな水たま。零と同じ。靈はそれを音符とし、巫(みこ)を加えた字で、神やたましいに接するきよらかなみこ。転じて、水たまのように冷たく清らかな神の力やたましいをいう。冷(レイ)とも縁が近い。霊はその略字、

とある(仝上)。やはり、

たましい、

の意だが、

形や質量をもたない、清らかな生気、

の意で、

形ある肉体とは別の、冷たく目に見えない精神、また死者のからだから抜け出たたましい、

とある(仝上)ので、「たま」に重なるのは、「霊」である。

で、和語で言う「たま」を指す。

ちなみに、「たま」とも訓ませる「鬼」(キ)の字は、和語「おに」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%82%AA%E3%83%8B)とは別で、

象形。大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊を描いたもの。『爾雅』(漢初の、最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学の書)に、「鬼とは帰」とあるがとらない、

とする(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(霝+巫)。「雲から雨がしたたり落ちる」象形と「口」の象形と「神を祭るとばり(区切り)の中で人が両手で祭具をささげる」象形から、祈りの言葉を並べて雨ごいする巫女を意味し、そこから、「神の心」、「巫女」を意味する「霊」という漢字が成り立ちました、

という説もあるhttps://okjiten.jp/kanji1219.htmlが、後述の「鬼」の意味から見れば、前者ではあるまいか。

中国では魂がからだを離れてさまようと考え、三国・六朝以降には泰山の地下に鬼の世界(冥界)があると信じられた、

とある(漢字源)。和語「たま」が、遊離靈とみなすようになるのは、この影響かと推測される。

なお、漢字源が採らない、「鬼は帰」とは、

鬼は帰なり、古は死人を帰人と為すと謂う、

であり、

帰とは、其処から出て行ったものが再びその元のところに戻ってくることの謂。元のところとは、そのものの本来の居所なので、そうなれば帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間であり、生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間にすぎないことになる、

とある、とかhttps://blog.tokyo-sotai.com/entry/2015/11/19/111406

人は、仮にこの世に身を寄せて生きているにすぎず、死ぬことは本来いた所に帰ることである、

とある(「淮南子(えなんじ)」 )ところからすると、「霊」の意味からは離れてしまうと思われる。なお「鬼」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba4.htm#%E9%AC%BC)については触れた。

さて、「たま」の語源であるが、

靈と玉は前者が抽象的な超自然の不思議な力、霊力となり、後者は具体的に象徴するものという意味で、両者は同一語源、

と考えるなら(日本語源大辞典・岩波古語辞典)、

タマチハイ(賜幸)恵み守るものであるところから、また、造花神が賦与するものであるところから賜ふの義、あるいは円満の義、あるいは入魂は丸い玉のようであるところからともいう(日本語源=賀茂百樹)、
イタクマ(痛真)の義で、タマ(玉)と同義(日本語原学=林甕臣)、
タは直の意の接頭語、マはマル(丸)・マト(円)等の語幹(日本古語大辞典=松岡静雄)、
タは接頭語、マはミ(実)の転。草木が実から生ずるように、人も魂の働きによって生長すると考えたところから(神代史の新研究=白鳥庫吉)、
[tama]は[ta]と[ma]。[ta]は「て(手)[te]」のはたらきを表す。[ma]は「むすぶ(結ぶ)」行為の根拠を意味する。「たま」は「はたらいて実を結ぶ」ことhttp://aozoragakuen.sakura.ne.jp/aozoran/teigi/jisyov1v2/jisyoI/node57.html

等々の諸説はひねくり回し過ぎではあるまいか。単純に、「タマ(玉)と同源」から、

「魂」の形を「マルイ」とする、

説(日本語源広辞典)だと、

タマ(魂)→マルイ→玉、

となる。形の丸については「まる」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba11.htm#%E3%81%BE%E3%82%8B%EF%BC%88%E5%86%86%E3%83%BB%E4%B8%B8%EF%BC%89)で触れたように、「まる」「まどか」という言葉が別にあり、

中世期までは「丸」は一般に「まろ」と読んだが、中世後期以降、「まる」が一般化した。それでも『万葉−二〇・四四一六』の防人歌には「丸寝」の意で「麻流禰」とあり、『塵袋−二〇』には「下臈は円(まろき)をばまるうてなんどと云ふ」とあるなど、方言や俗語としては「まる」が用いられていたようである。本来は、「球状のさま」という立体としての形状を指すことが多い、

とあり(日本語源大辞典)、更に、

平面としての「円形のさま」は、上代は「まと」、中古以降は加えて、「まどか」「まとか」が用いられた。「まと」「まどか」の使用が減る中世には、「丸」が平面の意をも表すことが多くなる、

と(仝上)、本来、

「まろ(丸)」は球状、
「まどか(円)」は平面の円形、

と使い分けていた。やがて、「まどか」の使用が減り、「まろ」は「まる」へと転訛した「まる」にとってかわられた。『岩波古語辞典』の「まろ」が球形であるのに対して、「まどか(まとか)」の項には、

ものの輪郭が真円であるさま。欠けた所なく円いさま、

とある。平面は、「円」であり、球形は、「丸」と表記していたということなのだろう。漢字をもたないときは、「まどか」と「まる」の区別が必要であったが、「円」「丸」で表記するようになれば、区別は次第に薄れていく。いずれも「まる」で済ませた。

とすると、本来「たま」は「魂」で、形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが、

丸い石、

を精霊の憑代とすることから、その憑代が「魂」となり、その石をも「たま」と呼んだことから、その形を「たま」と呼んだと、いうことのように思える。その「たま」は、単なる球形という意味以上に、特別の意味があったのではないか。

「たま」は、

魂、
でもあり、
依代、

でもある。何やら、

神の居る山そのものがご神体、

となったのに似ているように思われる。

なお、「たましい」については、「魂魄」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba9.htm#%E9%AD%82%E9%AD%84)で触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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どぶろく


「どぶろく」は、

濁酒、
濁醪、

と当てる。

滓を漉しとらない酒、

の意で、

もろみ酒、
濁り酒(にごりざけ)、
濁酒(だくしゅ)、
白馬(しろうま)、

等々ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%B6%E3%82%8D%E3%81%8F・広辞苑)。

日本の伝統的な酒のうち、米と米麹と水を原料として発酵させただけで漉す工程を経ていない酒、

である(仝上)。ただ、「どぶろく」と「濁り酒」とは区別される。「どぶろく」は、

米と米麹、水を発酵させただけのもので、しぼりやろ過を一切行っていない、もっとも簡単な造られ方をしているお酒、

で、清酒の定義は、

米と米麹、水を発酵させてこしたもの、

なので、どぶろくは清酒ではないが、「にごり酒」は、

透明ではない白く濁った酒であり、

発酵したお米をしぼる時、酒袋の目をわざと荒くして澱を残したままにされたもの、

で、清酒の一種とされるhttps://macaro-ni.jp/3299、とある。

「白酒」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E7%99%BD%E9%85%92)は、

しろき、
しろさ、
しろささ、

と訓み、

御神酒(おみき)の一種、

を指す。「さけ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba8.htm#%E9%85%92)で触れたように、「き」は「さけ」の古名。

新嘗祭、大嘗祭に供え、

黒酒(クロキ)、

と並べ称す、とある(大言海)。白酒(しろき)、黒酒(くろき)は、

白貴、
黒貴、

とも書くhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92

古醸なるは、詳らかならず、

としつつ、

或は云ふ、荒稲(アラシネ 平精(ヒラシラゲ))にて醸せるが黒酒にて、和稲(ニコシネ 眞精(マシラゲ))なるが白酒なるべしと、

とある(大言海)。「荒稲(アラシネ)」とは、籾のままのもの、「和稲(ニコシネ)」は、「にぎしね」ともいい、殻を取ったものを指す。

『延喜式』によれば、

白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したもの、黒酒は白酒に常山木の根の焼灰を加えて黒く着色した酒(灰持酒)である、

と記載されている、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92。後に、

平安朝の頃は、白酒は常の酒にて、これに常山(クサギ)の焼灰を入れたるを黒酒とす。室町時代なるは、醴酒(アマザケ)を白酒とし、これを黒胡麻の粉を入れて黒酒を作れり、

とあり(大言海)、今日では、

清酒と濁酒(どぶろく)の組を白酒・黒酒の代用、

とすることも多いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92、という。

ところで、「濁醪」の「醪」(ロウ)は、

会意兼形声。翏(リョウ)は、入り交じる意を含む。醪はそれを音符とし、酉を加えた字。かすが入り交じっている濁酒、

とあり(漢字源)、

醸造してまだ濾過していない、どろどろの酒、

の意で、

濁醪(ダクロウ)、

は漢語である。因みに、甘酒は、

醴(レイ)、

といい、

一晩だけ醸してつくった酒、白酒、

である(仝上)。

醴酒(レイシュ)、

という(字源)。

で、「どぶろく」は、

濁醪(ダクロウ)の訛りなりと云ふ、また、どびろく(酴醿醁)の転訛と云ふは鑿(いりほが 穿ち過ぎ)ならむ、

とある(大言海)。梅園日記(1845年)に、

濁醪、俳諧新式に、ドブロクとあるを、俳諧通俗志には、酴醿漉と見えたれども誤りなり、(中略)松岡怡斎(恕庵)の・・(せんせん)言にも、ドブロクは、酴醿漉の転語なりと云へるも、その子松岡洙が按語に、ドブロクは、濁醪の轉語歟とある説あたれり、

とある(大言海)。「濁醪」は、和名抄には、

もろみ、

とあり、室町時代の辞書、下學集には、

濁醪(ダクラウ)、

とあり、江戸時代の節用集大全には、

濁醪白酒也、

とあり、方言辞典「物類称呼」(1775年)には、

関西にてどびろくと云ふ、関東にてはどぶろくとも、濁り酒とも云ふ、

とある(たべもの語源辞典)。「とびろく」というのは、

その色が酴醿(とび)に似ているので、酴醿漉(とびろく)と言い、清酒に対しての名である、

とある(仝上)。「酴醿」とは、

頭巾薔薇(トキンイバラ)の別名、

とある。頭巾薔薇は、

バラ科の落葉小低木。高さ約1メートル。葉は3〜5枚の小葉からなる複葉。5、6月ごろ、八重咲きの白い花を開く、

とある(デジタル大辞泉)。物類称呼は、

酴醿漉、

を、

どぶろく、

と訓んでいる。「どぶろく」に、

酴醿漉、

と当てたのではあるまいか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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濁る


「濁る」の「濁」(漢音タク、呉音ダク)は、

会意兼形声。蜀(ショク)は目の大きい桑虫を描いた象形文字で、くっついて離れない意を含む。觸(=触 くっつく)・屬(=属 くっつく)などと同系のことば。濁は「水+音符蜀」で、どろがくっついて、濁っている水のこと、黷(トク きたない)とも縁が近い、

とあり(漢字源)、「清」の対である。「溷濁」(こんだく)の「溷」(漢音コン、呉音ゴン)も、同じ意であり、

会意兼形声。圂(コン)は、「□印(かこい)+豕(ブタ)」の会意文字で、きたないブタ小屋のこと。転じて、便所をいう。溷はそれを音符とし、水を加えた字で、ごたまぜになった汚い汚水をさす、

とあるので、微妙に含意は異なる。

「にごる」は、

験(しるし)なき物を思はずば一坏(ひとつき)のにごれる酒を飲むべくあるらし(大伴旅人)、

とあるように、

澄む、
清む、

の対であり、

水などに汚れが混じる、

意であり、それをメタファに、

邪念を持つ、
とか、
潔白でない、
とか、
色・音声などが鮮明でなくなる、
とか、
濁音になる、

といった意味の広がりを持つ。

「にごる」の語源は、「泥」や「土」の塊りから見てか、

鈍(にぶ)り凝るの意(大言海)、
ニコル(煮凝)の義(名言通・和訓栞)、
ニは土、コルは凝るの義(和句解)、
ニゴ居るの義で、ニは土の義、ゴは染凝の義(国語本義)
ニコル(二凝)の義(和語私臆鈔)、
ニクハハル(土加)の義(言元梯)、

と、「土」や「凝る」と絡める説が多いが、どうも語呂合わせの感がしてならない。

たしかに、「土」は、

に、

と言い、

櫟井(いちひゐ)の丸邇坂(わにさ)のに(土)を端土(はつに)は膚赤らけみ、底土(しはに)は黒きゆゑ三栗のその中つ邇(ニ)を(古事記)

と、「に」と呼ぶ。しかし「に」は、

此の山のすなごを取りてに(丹)にあてき。因りて丹生(にふ)のさとといふ(豊後風土記)、

と、

丹、

とも当て、顔料にした、

朱色の土、

の意でもある(岩波古語辞典)。「に(土)」は、

土器の材料や顔料にする、

という意であり(仝上)、

特に赤色の土、また辰砂(しんしゃ)あるいは、赤色の顔料、

の意であり(日本語源大辞典)、だから「に(丹)」は、そこから、

赤い色、

という色の意ともなった。とすると、「に」は、ただの、

土、

の意でもあるが、

丹、

の意でもあった。「に」(丹)は、

アカニ(赤土)、

の意から出た(国語本義・大言海・日本語源=賀茂百樹)、とする説もある。とするなら、

ニ(丹・赤土)+凝る(日本語源広辞典)、

もあり得る。経験的に言うなら、顔に塗るために、「丹」を説いたときの感覚なのかもしれない。抽象度の高い「ことば」ではなく「具体物」から言葉が生まれている和語の傾向から見るなら、

丹+凝る、

が近い気がする。

「凝る」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E5%87%9D%E3%82%8B)で触れたように、「こる」「こごる」「しこる」「こごゆ」はつながっている。当然、「こほり」(氷)とも関わるとみていい。「こる」の語源諸説をみると、その関係が見える。

コル(固)の義(言元梯)、
コはコ(濃)の義で、コム(込)のコに同じ(国語の語根とその分類=大島正健)、
コは所、学ぶ所や好む所に心が集中することをいうところから(国語本義)、
コホル(氷)の義(名言通)、
コオ(冱)に諧調のラ行音を添えた語コオリを活用した語コオルから(日本語原学=与謝野寛)、
カル(離)から(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々の中で、「こほり」との関係が注目される。抽象度の高い解釈よりは、具体物を表現したものの方が、和語にふさわしい。「こほる」は、

氷る、
凍る、

とあて、

平安仮名文では、コホリ・ツララは、水面に張り詰めた氷にいうことが多く、ヒ(氷)は固まりの氷に言うことが多い、

とある(岩波古語辞典)。「こほり」の語源諸説は、

水が凝り固まったものであるところからコル(凝)の転(滑稽雑誌所引和訓義解・類聚名物考)、
コゴリから(円珠庵雑記)、
コリヒ(凝氷)の義(和訓栞)、
ココリ(氷凝)の義(言元梯)、
コリヲレ(凝折)の転(柴門和語類集)、
コハリ(強)の義(名言通)、

等々と、どうやら「こる」「こごる」とつながる。

「こごる」の語源諸説をみると、

コイコル(凍凝)の義(大言海)、
コイコユ(凍凍)の義(和訓栞)、
語幹コゴは動詞クグム(屈・曲)のクグに由来する(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
コゴエ・コゴシと同根(岩波古語辞典)、

等々「こごゆ」との関係とつながる。「こごゆ」の語源諸説を見ると、

コイコユ(凍凍)と重ねて意を強めた語で上二段活用が下二段活用に変化した語(大言海)、
コゴユルは古くコイといい、コホリイル(氷入)の義(名言通)、

等々、「こい」「こゆ」とつながる。「こい」は、

寒い、
凍い、

と当て、

凍える、

意であり(岩波古語辞典)、「こゆ」は、

此語(下二段)活用は違えど「凝る」(四段)と通ず、

とあり、「こる(凝)」へと戻ってくる。ちなみに「しこる」は、

シ(接頭語)+コル(凝る)、

のようである(日本語源広辞典)。

こう見てくると、抽象的な言葉より、具体的な指示に基づいた言葉の方が古いのだとすると、

こる→こゆ(氷)→こほる、

よりは、具体的な「凍る」のを見て、

こゆ→こほる→こる、

という変化なのではないか、という気がする。すくなくとも、「凝る」は、

凍ゆ(凍える)、
あるいは、
氷る(氷る)、

とつながり、それが語源のように思われる。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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すむ


「すむ」は、

澄む、
清む、
済む、
住む、
棲む、
栖む、

等々と当てる。和語「すむ」のもつ意味の幅を、漢字を当て分けて分化したように見える。

澄む、
清む、
済む、

は、

住むと同根、浮遊物が全体として沈んで静止し、気体や液体が透明になる意、

とあり(岩波古語辞典)、

濁る(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba19.htm#%E6%BF%81%E3%82%8B)の対、

とある(仝上)。そして、

済む、

は、

澄むの転義、

とあり(広辞苑)、

澄むに通ず、落ち着き、片付く意、

とある(大言海)。

住む、
棲む、
栖む、

は、

澄むと同根。あちこち動き回るものが、一つ所に落ち着き定着する意(岩波古語辞典)、
澄むに通ず、落ち着く意(大言海)、

とあり、

す(巣)と同源か。生物が巣を定めたところで生活を営む意、

とある(広辞苑)。「す(巣)」は、

栖、
窼、

とも当て(広辞苑・大言海)、

鳥・獣・魚・虫のすみか、

である(岩波古語辞典)。結局、

澄む、
清む、
済む、
住む、
棲む、
栖む、

は、いずれも、「す」(巣)にいきつく。しかし、「すむ(住む)」と「す(巣)」とは相互絡まり、「す」(巣)の語源を、

スム(栖・住)の義(和句解・言元梯・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
スム(住む)の語幹スが名詞に転じた語。スは、物事の落ち着くさまを示す(国語の語根とその分類=大島正健)、
住居(すまひ)を占むる意(大言海)、
スミカ(栖)の義(日本釈名・和訓栞)、

等々と「すむ(住む)」につなげ、「すむ(住む)」の語源を、

スメ(巣目)の義(名言通)、
スウ(窼居)の義(言元梯)、
卜居の意で、シム(卜)の転(和語私臆鈔)、
「巣」から出た動詞か(小学館古語大辞典)、

等々とあり、「す(巣)」と「すむ(住む)」に由来があるように見える。

見方を変えれば、「巣」「住(棲)む」「据う」、さらに「澄む」の語幹スには、「ひとところに落ち着く」といった共通の意を読み取ることが可能、

であり(日本語源大辞典)、それは、

落着く意の語根スから出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、

と通じる(日本語源大辞典)、と見られる。だから、

落着くことは、「終わる」「かたづく」と通じる、

ことから、

済む、

へとつながった(仝上)、とみることができる。ただここで「据う」の「ス」も同列に於いているが、「据う」は、

うヱ(植)と同じ(岩波古語辞典)、
直居(すう)の義。居(すを)るの他動詞(大言海)、

とあり、少し異なる気もするが、

植える、

もまた、

落着く、

意と重ならないでもない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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椿餅


「椿餅」は、

ツバイモチイ、

あるいは、

ツバイモチ

と訓ませる(広辞苑)。

ツバキモチイの音便、

である。

アマズラをかけ、ツバキの葉二枚にて包んだ餅、

である(広辞苑・大言海)。

餅は、道明寺糒(どうみょうじほしい)を用いて、中に餡を入れる、

とある(たべもの語源辞典)。「桜餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E6%A1%9C%E9%A4%85)で触れたが、「道明寺」は、尼寺である。道明寺も、

糒(ほしい 干飯)の一種、

で、保存食として使われ(「ほしい(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E3%81%BB%E3%81%97%E3%81%84)」)、

糯米を水に浸し、吸水した後水を切り、古くは、釜の上にせいろを置いて、下から火をたいて蒸した。その蒸し上がった物を天日にさらして乾燥させて、干飯(ほしいい・ほしい)として保存した(仝上)。作り出したのは、

道明寺の尼僧、

で、

道明寺糒、

として有名になって、

道明寺、

といえば、糒のこととなった(たべもの語源辞典)。この道明寺糒を碾いて粉にしたものが道明寺粉である。

源氏物語に、

つばいもちひ、梨、柑子(カウジ)やうの物ども、さまざまに、箱の蓋どもに取りまぜつつあるを、若き人びとそぼ(戯)れ取り食ふ。さるべき乾物ばかりして、御土器参る、

とあるが、室町時代初期の『源氏物語』の注釈書『河海抄』に、

椿の葉を合はせ、餅の粉にあまづらをかけて包みたる物なり、

とある(大言海)ように、平安時代に、軽食代わりとして食べられた餅菓子で、

平安時代の菓子は唐菓子と言う中国伝来の揚菓子がほとんどだが、桜餅のように団子を植物の葉で挟む形式などが珍しく、この椿餅は日本独自のものでないかと言う見解もある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E9%A4%85。「椿餅」は、蹴鞠の後、食べられることが多いのは、上記の、

源氏物語「若菜上」の蹴鞠の場面で描かれていることにより、後世、様式化した、

のではないか、との推測もあるhttp://kakitutei.web.fc2.com/taiken/tubaimotihi.html

「唐菓子」については「干菓子」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E5%B9%B2%E8%8F%93%E5%AD%90)で触れたように、文武天皇の治世の704年に、遣唐使によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。

梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、

等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、その他、

餛飩(コントン 麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、
餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、
餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
結果(カクナワ 小麦粉を練って緒のように結び、油で揚げたもの。加久縄(かくのあわ)とも)
捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、
餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、

等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)。

「モチヒ」というのは、「餅」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba17.htm#%E9%A4%85)を、古くは、

モチヒ、

といったが、「餅」には、

粉餅、

搗餅、

があり、粉餅には、

粽(ちまき)、

があり、粽は、

糯米(もちごめ)の粉を湯でこねて笹か真菰で巻いて蒸したもの、

であるが、内裏の粽は、

粳米(うるちまい)を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った、

とある(日本食生活史)。はっきり今日の「もち」とわかるのは室町期になってからである。

また、「アマヅ(ズ)ラ」というのは、

甘葛、
味葛、

と当て(大言海)、

今のアマチャヅルに当たるといわれる蔓草の一種、その蔓草からとった甘味料、

をいい(広辞苑)、

甘葛煎(あまずらせん)、
味煎、

ともいう(仝上・大言海)。

「甘茶」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba16.htm#%E7%94%98%E8%8C%B6)で触れたように、「甘茶」をつくる植物には、三種あり、そのひとつが、

アマヅル、
アマヅラ、

で、別名、

ツタ、
ナツヅタ、

その幹から液を採って煮詰めて甘味料をつくった、

とある。ツル性の植物で、甘い液の出るツルがその名になった(たべもの語源辞典)。

いまひとつは、ヤマアジサイ(あるいはガクアジサイ)に似た、

ユキノシタ科の落葉低木、

で、

コアマチャ、

とも呼ばれるものがある(仝上)。これを、

アマチャ、

といい、

その葉を乾かすと甘くなるので、甘茶をつくった。漢名で土常山(どじょうざん)と称するのがこれであり、アマチャの木という。

三つめは、ウリ科の、

アマチャヅル、

である。

ツルアマチャ、
アマカヅラ、

ともいい、

夏から秋にかけて新芽をとって蒸してからよく揉み、青汁をとり除いてから乾燥させる。黄褐色で甘みが強く、香りがよいので、飲料とした、

とある(仝上)。

「椿餅」は、延喜式に、

つばい餅、

とあり(たべもの語源辞典)、

上古は砂糖がなかったので、米の粉をこねて桂枝(ケイシ 桂の枝の皮)を細かにしたものを少し入れ、甘茶の煎汁でよく練って丸め、椿の葉を両方から合わせて包み込んで蒸しあげたもの、

で(仝上)、唐菓子に暗示されてつくられたもの、という(仝上)。

なお「つばき」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba10.htm#%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%AD)については、触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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