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コトバ辞典


鵲(かささぎ)の橋


くもゐ」で触れたように、

かささぎの雲井の橋の遠ければ渡らぬ中に行く月日哉(続古今集)、

の、

雲居の橋(くもいのはし)、

は、

雲のかなたにかかっている橋、

で、

鵲(かささぎ)の橋、

を指す。

梅田の橋をかささぎのはしとちぎりていつ迄も我とそなたは女夫(めおと)星(近松門左衛門『曾根崎心中』)、

の、

鵲(かささぎ)の橋、

は、

烏鵲橋(うじゃくきょう)、
烏鵲の橋(うじゃくのはし)、
鵲橋(じゃっきょう)、

ともいい(精選版日本国語大辞典・大辞泉)、

星の橋、
行合(ゆきあひ)の橋、
寄羽の橋、
天の小夜橋、
紅葉の橋、

等々の名もあるhttps://kigosai.sub.jp/001/archives/9973

七夕(たなばた)の夜、天の川にかけられるという鵲(かささぎ)の橋、

を指し、そこから、

宮中の階段、

をもいう(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。これは、後漢末の応劭著『風俗通』(『風俗通義(ふうぞくつうぎ)』)に、

織女七夕、当渡河、使鵲為橋、

とあるのにより、

陰暦七月七日の夜、牽牛(けんぎゅう)、織女(しょくじょ)の二星が会うときに、鵲が翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋、

をいい、

男女の仲をとりもつもの、男女の契りの橋渡しの意のたとえ、

としても用いられ(精選版日本国語大辞典)、唐代の類書『白氏六帖』(はくしりくじょう 白居易撰)にも、

烏鵲塡河成橋、而渡織女、

とある(字源)。ただ、中国では、

織女を渡らしむ、

とあるのに、日本では、

ひこ星の行あひをまつかささぎの渡せる橋をわれにかさなむ(菅原道真)、

と詠い、

牽牛星が橋を渡るものとされていた、

ようであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%B2%E6%A9%8B。因みに、

類書(るいしょ)、

とは、

事項別に分類・編集した書物。特に中国で、事項別に、それに関する詩文などの文献をまとめた書。あらゆる単語について、その用例を過去の書籍から引用した上で、それらの単語を天地人草木鳥獣などの分類順または字韻順に配列して検索の便をはかった、字引きのことである。結果として百科事典の機能ももつ、

とある(精選版日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%9E%E6%9B%B8)。

難波吉士磐金(きしのいわかね)、新羅より至(まゐ)りて、鵲(カササキ)二隻(ふたつ)を献る(日本書紀・推古紀)、

とあり、

鵲、

は、

烏鵲(うじゃく)、

ともいい、和名類聚抄(平安中期)に、

鵲、加佐佐木、

とあり、

カラス科の鳥。全長約四五センチメートルで、カラスより小さい。腹面および肩羽は白色で、ほかは金属光沢を帯びた黒色。尾羽は長く、二六センチメートルにも達する。村落近くにすみ、雑食性で、樹上に大きな巣をつくる。中国、朝鮮に多く分布するが、日本では佐賀平野を中心に九州北西部にだけみられ(朝鮮出兵の際九州の大名らが朝鮮半島から持ち帰り繁殖したものとする説がある)、天然記念物に指定されている、

とある(精選版日本国語大辞典・大辞泉)。鳴き声がカチカチと聞こえるので、

カチガラス、

ともいい(仝上)、

高麗鴉、
挑戦鴉、
唐鴉、

という別名を持ち、筑後に多いので、

筑後鴉、

の名もある(大言海)。古代の日本には、もともとカササギは生息しなかったらしく、「魏志倭人伝」も「日本にはカササギがいない」とあり、

七夕の架け橋を作る伝説の鳥、

として、カササギの存在は日本に知られることとなり、奈良時代、

鵲の渡せる橋におく霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける(小倉百人一首)、

と詠われるに至ったと見られるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B5%E3%82%AE

鵲、

の由来は、

カサは朝鮮の古名カス、又は、カシの転と云ふ(今はカアチ)、サギは鵲(サク)の音、韓、漢、雙擧の語なり、同地にて、火をフルハアと云ふ、フルは、其国語にて、ハアは火(フア)の字音と合して云ふ、此例の多し(大言海)、
朝鮮語にkat∫iという鳴き声からの命名か(岩波古語辞典)、
カサはこの鳥の朝鮮の方言、サギは鷺の意(名言通)、
カサは、鵲をいう朝鮮の方言カシの転、サギはサワギ(噪)から(東雅)、

等々あるが、基本、日本では認識されていなかった鳥なので、

朝鮮由来、

ということはあるかもしれない。また漢字「鵲」自体が、擬声語なので、鳴声由来はありえそうである。

上述のように日本書紀に、

難波吉士磐金、至自新羅、而献鵲、

とあり、二羽の鵲を持ち帰ったが、この「鵲」には万葉仮名が振られておらず、「かささぎ」という読みが初めて登場するのは、上述した和名類聚抄(平安中期)である。ために、

七夕のカササギの伝承、

は日本では、サギの仲間と考えてサギで代用され、八坂神社の祇園祭にて奉納された、

鷺舞、

は、中国の七夕伝説を端緒にするものとされる。また、名前は鷺舞であるが、この鷺は鵲であり、七夕伝説に於いて、牽牛と織女のため、天の川に桟を渡した伝承に因んだものであるが、京都では鵲は飛来してこないため鵲という存在を知らず、そのため鵲とは鷺の一種であろうと笠を被った白鷺をカササギに見立てたものとされている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%BA%E8%88%9E

なお、「たなばた」については触れた。

「鵲」(慣用ジャク、漢音シャク、呉音サク)は、

形声。「鳥+音符昔」。ちゃっちゃと鳴く声をまねた擬声語、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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心もしのに


淡海(あふみ)の海夕浪千鳥(ゆふなみちどり)汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思(おも)ほゆ(万葉集)、

の、

心もしのに、

は、

心が萎(しを)れて、

の意とある(斎藤茂吉「万葉秀歌」)。

しの、

は、

草や藻などが風や波などになびきしなうさまをいう、

とある(精選版日本国語大辞典)ので、

心もしなうばかりに、
心もぐったりして、

という意になるが、

心もうちひしがれて、
心もしおれるように、

のほうが(学研全訳古語辞典)ぴったりくる気がする。ときに、

しのに、



しぬに、

とするのは、上記の、

淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば情毛思努爾(こころモシノニ)古(いにしへ)思ほゆ、

の万葉仮名、

情毛思努爾(こころモシノニ)、

の、

努、

などを、

ヌと読み誤ってつくられた語、

とある(岩波古語辞典)。鎌倉時代の歌学書『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』に、

しぬぬれてとは、之怒怒と書きてしとどぬれてともよみ、又しぬぬにぬれてともよめり、

とある。

しのに、

は、

秋の穂(ほ)をしのに押しなべ置く露(つゆ)の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは(万葉集)、

と、文字通り、

(露などで)しっとりと濡れて、草木のしおれなびくさま、

の意(広辞苑・精選版日本国語大辞典)で、それをメタファに、上記のように、

淡海(あふみ)の海夕浪千鳥(ゆふなみちどり)汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思(おも)ほゆ(万葉集)、

と、

心のしおれるさまなどを表わす語、

として、

しおれて、
しっとり、しみじみした気分になって、
ぐったりと、

といった意味で使う(仝上)。中世以降になると、

しのに、

は、

あふことはかたのの里のささの庵(いほ)しのに露散る夜半(よは)の床かな(新古今和歌集)、

と、

しげく、
しきりに、

の意で使うようになる(岩波古語辞典・学研国語大辞典)。

しのに、

と似た、

聞きつやと君が問はせるほととぎすしののに濡れて此(こ)ゆ鳴き渡る(万葉集)、

と、

びっしょりと濡れるさまを表わす語、

で、

ぐっしょりと、
しとどに、
しっとりと、

の意味の、

しののに、

がある。これも、

朝霧に之努努爾(シノノニ)濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ(万葉集)、

とある、

努、

を、

ぬ、

と読み誤って、

しぬぬに、

とつくる(岩波古語辞典)とある。ただ、

しのに、

を、

しぬにの転、

とし、

撓(しな)ひ靡きて、

とする(大言海)説もある。その場合、

しぬに、

は、

撓ふの意、

とする。しかし、

撓(しな)ふ、

は、

しなやかな曲線を示す意。類義語撓むは加えられた力を跳ね返す力を中に持ちながらも、押されて曲がる意、

とあり、

生気を失ってうちしおれる、

意の、

萎(しな)ゆ、

は、

しおれる、

で別語ともあり(岩波古語辞典)、どうも意味からは、

撓ふ、

ではなく、

萎ゆ、

らしいが、「こころもしのに」の、打ちひしがれている感じは、

撓ふ、

にも思える。

つゆ」については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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をがたまの木


みよしのの吉野の滝に浮かびいづる泡をか玉の消ゆと見つらむ(古今和歌集)、

は、

をか玉の消ゆ、

に、

をがたま、

を詠みこんでいる。

をがたま、

は、

古今三木(さんぼく)、

のひとつ、

古今伝授の秘説、

とされる、

モクレン科の常緑高木、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

ヲガタマ、

は、多く、

ヲガタマノキ、

と呼ばれ(日本国語大辞典)、古今伝授では、

榊の異名、

とされる(岩波古語辞典)。で、

ヲガタマノキ、

は、

小賀玉榊(オガタマサカキ)、

という異名を持つ(動植物名よみかた辞典)。

古今伝授(こきんでんじゅ)の三種の木は、

をがたまの木、
めどにけづり花、
かはな草、

をいうが、他に、

をがたまの木、
さがりごけ、
かはな草、

とも、

相生(あいおい)の松、
めどにけづり花、
をがたまの木、

とも、

をがたまの木、
とし木、
めど木、

ともあり、諸説があって一定しない(精選版日本国語大辞典)。また、古今伝授で、解釈上の秘伝とされた、

三種の草、

というのもあり、異伝があるが、

めどにけずりばな、
かわなぐさ、
さがりごけ、

をさし、「さがりごけ」のかわりに「おがたまの木」を入れた三木とも関連深い(仝上)とある。

をがたまの木、

は、

小賀玉木、
黄心樹、
招霊木、

などと当て(広辞苑・日本大百科全書)、

モクレン科の常緑高木。日本南西部の暖地に自生。高さ18メートルに達する。樹皮は暗緑色で平滑。葉は長楕円形で、光沢ある革質。春、葉腋にやや紫色を帯びた白色の小花を開き、芳香がある。果実は集まって球果状。材は床柱または器具とし、葉は香料、

とある(広辞苑)。古来、

榊(サカキ)の代用、

とし(大辞泉)、神社の境内によく植えられている(世界大百科事典)。

招靈(ヲキタマ)の転、神霊を招禱(ヲキ)奉るものなれば云ふ(大言海)、
招霊(おきたま)が転じてオガタマの名になった(世界大百科事典)、
招魂(ヲギタマ)の義(和訓栞)、

等々が、その由来とされる。因みに、

大賀玉の木(おがたまのき)、

と呼ばれる正月の飾りは、邪気を払うために1月14日の夜に門前や門松に、

クルミ、
や、
ネムノキの枝、

を飾ったものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AC%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%82%AD

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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さかき


天香山(あめのかぐやま)の五百(いほ)つ真(ま)賢木(さかき)を根許士爾許士(ねこじにこじ)て(古事記)、
ひさかたの天の原より生(あ)れ来(きた)神の命(みこと)奥山の賢木(さかき)の枝に白香(しらか)つけ木綿(ゆふ)とりつけて(万葉集)、

の、

さかき、

は、

神域に植える常緑樹の総称。また、神事に用いる木(大辞林)、
常緑樹の総称。特に神事に用いる木をいう(広辞苑)
神域にある、また、神事に用いる常緑樹の総称(学研古語辞典)、
神域にある、また、神事に用いる常緑樹の総称(精選版日本国語大辞典)、
神木として神に供せられる常緑樹の総称(大辞泉)、

等々、総じて、

常緑樹、

殊に、

神域にある、
ないし、
神事に用いる、

神木、

を指している。で、

さかき、

は、

榊、
楊桐、
賢木、
栄木、
神樹、

等々とあて(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%AD・大言海・岩波古語辞典・広辞苑他)、

境(さか)木の意か(広辞苑)、
「栄える木」の意(精選版日本国語大辞典・大辞林)、
栄える木の意か。一説に境の木の意とも(デジタル大辞泉)
「栄(サカ)木」または「境(サカ)木」からか(学研全訳古語辞典)、
サカキ(小香木)の義(松屋叢考)、
サカキ(社香木)の義(言元梯)、
サカはサという精霊が発動することで、サカキは精霊の宿っている木の意(六歌仙前後=高崎正秀)、

等々あるが、大勢は、

常に枝葉が繫っているところから、サカエキ(栄木)の義(仙覚抄・名語記・日本紀和歌略注・箋注和名抄・名言通・和訓栞・柴門和語類集・日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、

サカキ(境木)の義で、神の鎮まります地のサカヒ(区域)の木の意。もと神樹を意味したが、常緑で、葉が枯れない榊を祭神の用としたことから榊一本を言うようになった(大言海)、

の、

境木、
と、
栄木、

に分かれるが、

(サカキのサカは)サカ(境)の第一アクセントと同じ。神聖なる地の境に植える木の意か。サカエ(栄)とはアクセントが別だから、「栄木」とする説は考えにくい、

とある(岩波古語辞典)。

境木、

説を採る、大言海は、

磐境(いはさか)の木の意、

とし、さらに、

(鎌倉時代初期)『萬葉集抄』(仙覚)「さかきト云ヘルハ、彼木、常緑ニシテ、枝葉、繁ケレバ、さかきト云フ、さかきトハ、サカエタル木ト云フ也」、是れは、後世の榊に就きて考へたるにて、古書に、坂樹(サカキ)、賢木(サカキ)など、借字に記したるはあれど、栄、又は、常緑の意の字に記したるを見ず、賢(ケン)の字を宛てたるは、さかしき、すぐれたる意もあるべく、又畏(かしこ)き意にもあるべし(畏所(かしこどころ)、賢所)、

とする。なお、

磐境(いはさか)、

の、

磐(いは)、

は、

堅固なる意か、磐座(いはくら)又斎(いは)ふの語根か、

とあり、

境(さか)、

は、

界、

とも当て(仝上・岩波古語辞典)、

サは割(さ)くの語根、割處(かきか)の義なるべし、塚も、塚處(つきか)、竈尖(くど)も漏處(くどなり)(招鳥(ヲキドリ)、をどり。引剥(ひきはぎ)、ひはぎ)、此語に活用をつけて、境、境ひと云ふ(大言海)、
サカ(坂)と同根。古くは、坂が、区域のはずれであることが多く、自然の境になっていた(岩波古語辞典)、
(坂は)サカヒ(境)の義(古事記伝・山島民譚集=柳田國男)、
(坂の)サはサキ(割)などの原語で、刺・挿の義。カは処を意味する語。分割所の意から境の意を生じ、更に山の境の意から坂の義に転じた(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、

境目、

を指していて、

サカキ、

は、

神域との境を示す木、

ということになる。上代(奈良時代以前)では、

サカキ、ヒサカキ、シキミ、アセビ、ツバキ、

等々、神仏に捧げる常緑樹の総称が、

サカキ、

であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%ADが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになり、収斂して、

一木の名、

となり(大言海)、

榊、

を指すことになり、

此樹常緑にして、葉が霜に遭へども、枯れぬほどなれば、専ら、祭神の用となれるならむ。榊は、神木の合字なり、

という次第である(大言海)。和名類聚抄(平安中期)に、

祭樹為榊、

とある。この

榊、

は、

ツバキ科の常緑小高木。暖地の山中に自生。高さ約10メートル。葉は互生し、厚い革質、深緑色で光沢がある。5〜6月頃、葉のつけ根に白色の細花をつけ、紫黒色の球形の液果を結ぶ。古来神木として枝葉は神に供し、材は細工物・建築などに用いる、

とある(広辞苑・大辞林)。

別名、

ホンサカキ、
ノコギリバサカキ、
マサカキ、

ともよばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%AD)

今、多く、

ヒサカキ、

を代用す(大言海)とあるのは、

サカキは関東以南の比較的温暖な地域で生育するため、関東以北では類似種のヒサカキをサカキとして代用している、

ためであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%AD。ヒサカキは仏壇にも供えられる植物で、早春に咲き、独特のにおいがある。名の由来は小さいことから、

姫榊(ヒメサカキ→ヒサカキの転訛)、

とも、サカキでないことから、

非榊、

とも呼ばれる(仝上)。独特のにおいのあるのは、こちらである。このヒサカキは、

常緑広葉樹の小高木で、サカキよりやや小型、普通は樹高が4〜7メートル程度、一年枝は緑色で、葉柄が枝に流れて稜をつくる。枝は横向きに出て、葉が左右交互にでて、平面を作る傾向がある。花期は3 〜4月。葉腋から枝の下側に短くぶら下がるように径3〜6ミリメートルほどの白い花が下向きに多数咲く。都市ガスのような独特の強い芳香を放つ、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%AD

「榊」(サカキ)は、

会意文字。「木+神」で、神に捧げる木の意からの日本製の漢字、

である(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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めどに削り花


花の木にあらざらめども咲きにけりふりにしこのみなるときもがな(古今和歌集)、

の、前文に、

めどに削り花させりけるをよませたまひける、

とある、

めど、

は、

萩の一種、

削り花は、

木を削って造った造花、

をいい、

めどに削り花、

とは、古今伝授の、

三木(さんぼく)、

のひとつ、

めどに造化を挿す、

とは、

どのような情景かはっきりしないが、めどは茎を占いの筮竹に用いたので、それに造花を挿したものか、初二句とも意味が通じる、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

古今伝授(こきんでんじゅ)の三種の木は、「をがたまの木」で触れたように、

をがたまの木、
めどにけづり花、
かはな草、

をいうが、他に、

をがたまの木、
さがりごけ、
かはな草、

とも、

相生(あいおい)の松、
めどにけづり花、
をがたまの木、

とも、

をがたまの木、
とし木、
めど木、

ともあり、諸説があって一定しない(精選版日本国語大辞典)。また、古今伝授で、解釈上の秘伝とされた、

三種の草、

というのもあり、異伝があるが、

めどにけずりばな、
かわなぐさ、
さがりごけ、

をさし、「さがりごけ」のかわりに「おがたまの木」を入れた三木とも関連深い(仝上)とある。

めどにけづりばな、

は、

蓍に削り花、

と当て、

蓍(めど)、

は、

蓍萩(めどはぎ)、

を指し、和名類聚抄(平安中期)に、

蓍、女止(めど)、以其茎為筮者也、

とあり、字鏡(平安後期頃)に、

蓍、蒿、女留、

とある。

めどはぎ、

は、

マメ科ハギ属の小低木状の多年草。草地・路傍に普通。茎は直立して高さ1メートル、葉は小型で細長い3小葉から成る。夏、紫条のある白色の小蝶形花をつける。茎を筮めどきに用いた。若芽は食用、利尿・解熱剤、

とあり、

メドギ、
メドグサ、

ともいい、和名は、

萩に似ている、

ことにより、漢名は、

鉄掃帚、

とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。日本では、

道端によく見かける雑草である。萩の仲間ではあるが、細かい葉が密生し、いわゆる萩とは印象を異にする。ひょろりと立ち、枝分かれして束状になった姿は独特で、一目見れば遠くからでも区別できる。細長い箒のようでもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%89%E3%83%8F%E3%82%AE

めどき、

は、

蓍、
筮木、

と当て、

蓍(めど)で作った、

のでこの名があり、

亀の卜(うら)、易の蓍などにて疑わしき事を勘(かんが)ふべきなり(尚書抄)、

と、

易で占筮(せんぜい)に用いる五〇本の細い棒のこと、

をいう。はじめ蓍萩(めどはぎ)の茎を用いたが、後には多く竹で作るようになったので、普通には筮竹(ぜいちく)という(精選版日本国語大辞典)。この、

蓍、

が、

目途、
目処、

とあてる、

目当て、

の意の、

めど、

の由来である。

蓍萩の茎で作った「めどき」という細い棒を占いに用いたことから目的の意が生じたか、

とある(日本語源大辞典)。

削り花、

は、

古への木綿花(ゆふばな)にして、後世のけづりかけと云ふ、是なり、

とあり(大言海)、

丸木を削りかけて、花の形に作れるもの、

で、多く、

十二月の御仏名(みぶつみょう)に供へらるるものに云ふ(生花なきときなればなり)。翌朝、これを奉るを、馬道(めだう)などに挿して、御遊びあそばしなどす、

とある(仝上)。ちなみに、

馬道(めだう)

は、

殿舎と殿舎の間をつなぐために縦に厚板を敷き渡した簡単な通路、

をいい、後には、

長廊下の称、

となる(精選版日本国語大辞典)。また、

御仏名、

は、

仏名会(ぶつみょうえ)、

といい、古くは、

陰暦一二月一五日より、後には一九日より三日間、禁中および諸寺院で仏名経を誦し、三世十方の諸仏の名号を唱えて罪障を懺悔する法会、

をいい(仝上)、

「過去」「現在」「未来」の三世にわたる諸仏のみ名を称えて、さまざまな罪や知らず知らずのうちに作ってしまった罪業などを懺悔(さんげ)し、滅罪生善を祈る法要、

https://www.chion-in.or.jp/event/event/1495/、奈良時代に初めて宮中でつとめられ、平安時代には宮中での恒例行事となり、その後、各地に広まり、寺院などでもつとめられるようになった(仝上)とある。

「蓍」(シ)は、

会意兼形声。「艸+音符耆(シ 年を経て、実質がつまった)」

とある(漢字源)。「めどはぎ」の意であり、「めどき」の意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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かはな草


うばたまの夢になにかはなぐさまむうつつにだにもあかぬ心を(古今和歌集)

で、

なにかはなぐさまむ、

に、

かはなぐさ、

を詠みこんでいる。その、

かはなぐさ、

は、

川菜草、

と当て、

古くから、水苔をかはなと訓む。川にはえる藻類であろう、

とあり、

古今伝授の三木のひとつ、

とされる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。古今伝授(こきんでんじゅ)の三種の木は、「をがたまの木」で触れたように、

をがたまの木、
めどにけづり花、
かはな草、

をいうが、他に、

をがたまの木、
さがりごけ、
かはな草、

とも、

相生(あいおい)の松、
めどにけづり花、
をがたまの木、

とも、

をがたまの木、
とし木、
めど木、

ともあり、諸説があって一定しない(精選版日本国語大辞典)。また、古今伝授で、解釈上の秘伝とされた、

三種の草、

というのもあり、異伝があるが、

めどにけずりばな、
かわなぐさ、
さがりごけ、

をさし、「さがりごけ」のかわりに「おがたまの木」を入れた三木とも関連深い(仝上)とある。

川菜草(かわなぐさ)、

は、

かわな、

ともいい、

淡水産の藻類の古称、

とあり(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、

カワモズク、

をさす(デジタル大辞泉)とする。

かはな、

に、

水苔、

と当て、

川栄の義、

とする大言海も、

かはあをのり、
かはもづく、

とする。

かわもずく、

は、

川水雲、

と当て、

カワモズク科の紅藻。水のきれいな川や池に生え、長さ約10センチで糸状に分枝し、柔らかい。酢の物などにする、

とあり(デジタル大辞泉)、

形、色、あをのりに似て、流水の石上に生ず、

とある(大言海)。

カハアヲノリ、
カハノリ、

ともいう(仝上)。

世界各地の湧泉からの小川や灌漑用水路などの流水中にみられるカエルの卵塊のようなカワモズク科の淡水産の紅藻、

で、

体は節をもつ中軸と、節から出る輪生枝とからなり、それらの周囲には多量の寒天物質が分泌されるので、体は寒天質の数珠の形状となる。カワモズク属には種類数が多く、種の同定は容易でない。分類には、輪生枝の発達の程度、囊果(のうか)の位置、受精毛の形、雌雄異株か同株かなどが主な形質となる、

とあり(世界大百科事典)、代表的な種に、

カワモズクB.moniliforme Roth、
アオカワモズクB.virgatum Sirodot
ヒメカワモズクB.gallaei Sirodot、

等々がある(仝上)。

ただ、異説もあり、

かはなぐさ、

は、

かはほね、

の意とする(岩波古語辞典)。

かはほね、

は、いま、

コウホネ、

といい、

水草の一種、

とある(仝上)本草和名(918頃)に、

骨蓬、和名加波保禰、

とあり、『梁塵秘抄(1179頃)』に、

聖の好むもの……さては池に宿る蓮の蔤(はい)、根芹根蓴菜、牛蒡(ごんばう)かはほね独活(うど)蕨土筆(つくし)、

とある。

こうほね、

は、

スイレン科の多年草、

で、いわゆる、

水草、

の一種で、日当たりのよい池沼や小川に自生する。

水底を這う根茎が骨のような色形であり、あたかも動物の背骨が横たわっているよう見えるため、コウホネあるいはセンコツ(川骨)と名付けられた、

とあるhttps://www.uekipedia.jp/%E5%B1%B1%E9%87%8E%E8%8D%89-%E3%82%AB%E8%A1%8C-1/%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%9B%E3%83%8D/。別名は、

カワホネ、
カワバス、
ヤマバス、
ホネヨモギ、
カワト、
カッパネ、
カッポンバナ、
タイコブチ、

等々(仝上)。

開花は夏で、光沢のある黄色い花が、水中から拳を突き上げたように咲く。花は直径3センチほどのお椀型で、花びらのように見える5枚の萼片と多数の雄しべが目立つ、

とある(仝上)。この、

かはなな=かはほね説、

は、定家の説らしく、

かはな草の 「かはな」は 「川菜」ではなく 「河花」の意味である。「かはな」だけでは言いにくいので、それに草をつけて、かはな草と言ったのである。かはな草は川苔のことではなく、実は河骨(こうほね:スイレン科の多年草)のことである。蓮(はす)を別とすれば、水草の中で爽やかなものといえば河骨をおいて他にはない、

との紹介(「和歌秘伝鈔(1941 飯田季治)」)もあるhttp://www.milord-club.com/Kokin/uta0449.htmらしいが、和名類聚抄(931〜38年)には、

水苔、一名、河苔、加波奈、

と、

水苔、

としている。倭名抄が、

水苔、

としているのだから、それを、

かはもづく

かはほね、

とする根拠がよく分からない。、

ミズゴケ、

は、

ミズゴケ科に分類され、ミズゴケ目を構成する。茎と葉の区別のある茎葉体であるが、独特の構造をもつ。軸は木質化し、主軸はほぼ上に伸びるが、放射状に側面方向に枝を出す。葉は軸の回りに密生する。葉の細胞には、大型で光合成を行わない空洞になった細胞(透明細胞または貯水細胞)と小型で葉緑体を持ち光合成を行う細胞(葉緑細胞)が交互に並んでいる。この透明細胞には表面に穴があって、内部に多量の水を蓄えられるようになっている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%82%B4%E3%82%B1%E5%B1%9E

葉に水を蓄える細胞が多数あるため、乾燥させれば多孔質の軽くて弾力のある素材となり、木綿の2倍以上の吸水力を持ち、水を吸わせれば水もちがよく、隙間が多いので空気の通りがよい、

ことから、古くから、

脱脂綿の代用、

として用いられ、青銅器時代から治療薬として用いられてきた(仝上)。ミズゴケの中にいるペニシリウムなどの微生物が治療を促進している(仝上)という。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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うばたまの


うばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてなほも恋ひ渡るかも(万葉集)、
うばたまの夢になにかはなぐさまんうつつにだにもあかぬ心を(古今和歌集)、

の、

うばたまの、

は、「夢」にかかる枕詞(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。この、

うばたまの、

は、

奴婆多麻能(ヌバタマノ)黒き御衣(みけし)をま具(つぶさ)に取り装(よそ)ひ(古事記・歌謡)
和妙(にきたへ)の衣(ころも)寒(さむ)らに烏玉乃(ぬばたまの)髪(かみ)は乱(みだ)れて国(くに)問(と)へど(万葉集)、

の、

「ぬばたまの」の転、

とある(岩波古語辞典)。

ヌバタマが、mubatama→nbatama→mbatamaと発音されるようになり、最初のmの音がuと混同され「うばたま」と表記された形、

とあり(岩波古語辞典)、

ぬばたまの実が黒いところから、黒色やそれに関連した「黒駒」「黒馬」「黒髪」「大黒」などにかかる枕詞、

である(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、この、

ぬばたまの、

は、中古、

恋ひ死ねとするわざならしむばたまの夜はすがらに夢に見えつつ(古今和歌集)、
いとせめて恋しきときはむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る(仝上)、
むばたまの闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり(仝上)、

と、

むばたまの、

という形で使われることが多い(精選版日本国語大辞典)。これは、

「うば」を平安時代以後、普通にmbaと発音したので、それを仮名で書いたもの、

とある(岩波古語辞典)。この中古の初・中期の形は、のち、

うばたまの、

ともなるが、表記の上では後世まで引き継がれる(精選版日本国語大辞典)とある。つまり、

ぬばたまの→むばたまの→うばたてまの、

と表記が転じたもので、同じ意味になり、当てる漢字が異なるものがある。

うばたまの、

は、

烏羽玉の、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

ぬばたまの、

は、

射干玉、

と当てる(大言海・広辞苑・精選版日本国語大辞典)。これは、

野羽玉(ヌバタマ)の義。射干(カラスアフギ)の實にて、野にありて、其葉、羽の如く、實園く黒ければ云ふと云ふ、

とある(大言海)。

ぬばたま、

は、「万葉」では仮名書きのほか、

射干玉、
野干玉、
夜干玉、
烏玉、
烏珠、

といった表記が見られ、

黒い珠、

の意、または、

ヒオウギの実、

をいう(大辞林)というが、未詳とされる(仝上)。『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)には、

射干……一名烏扇……和名加良須阿布岐、

とあり、和名類聚抄(931〜38年)には、

狐……射干也、関中呼為野干、語訛也、

ともあり、「射干」と「野干」は通じるようである(精選版日本国語大辞典)とあり、「万葉」の「野干玉」の表記は烏扇(檜扇)という植物の黒い実に結びついたものと考えられる、

とある(精選版日本国語大辞典)。なお「野干」については触れた。

ぬばたま、

の語源については、

射干(やかん ヒオウギの漢名)の実は野に生じ、黒い玉のようであるところからヌマタマ(野真玉)の義(冠辞考)、
射干の葉は羽のようであり、その実は丸く黒いところからヌバタマ(野羽玉)の義(古事記伝・雅言考・大言海)、
ヌはオニの原語アヌ(幽鬼)から、バタマはマタマ(真魂)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々あり、

烏扇の実の名がすなわち「ぬばたま」の語源であると考える説、
「ぬば」は元来は黒い色を表わす語であったと考える説、

とが有力とされ、後者の場合、

沼→泥→黒、

という意味的連環を想定し、

白玉が特に真珠を意味するように、黒い玉の意味の語が烏扇の実と二次的に結びついた、

とする(精選版日本国語大辞典)が、少し無理筋ではないか。やはり「檜扇」説が妥当なのではないか。

ヒオウギ(檜扇、学名:Iris domestica)、

は、

アヤメ科アヤメ属の多年草、



山野の草地や海岸に自生する多年草、

である。

高さは60〜120センチメートル程度。葉は長く扇状に広がり、宮廷人が持つ檜扇に似ていることから命名され、

別名、

烏扇(からすおうぎ)、

とも呼称されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%82%AE

花は8月ごろに咲き、直径は5 - 6センチメートル程度。花被片はオレンジ色で赤い斑点があり、放射状に開く。午前中に咲き、夕方にはしぼむ一日花である。種子は4ミリメートル程度で黒く艶がある(仝上)。

枕詞の、

ぬばたまの、
うばたまの、
むばたまの、

は、ほぼ同義の枕詞だが、微妙にかかる詞に差がある。

うばたまの、

は、烏羽玉が黒いところから、

「くろ(黒)」にかかり、さらに「やみ(闇)」「よる(夜)」「ゆうべ(夕)」「かみ(髪)」「ゆめ(夢)」などにかかる。

ぬばたまの、

も、ぬばたまの実が黒いところから、黒色やそれに関連した語にかかり、上述の、

奴婆多麻能(ヌバタマノ) 黒き御衣(みけし)を ま具(つぶさ)に 取り装(よそ)ひ(古事記)、

のように、「黒し」および「黒駒」「黒馬」「黒髪」「大黒」などにかかり、さらに、

いにしへに妹(いも)と吾が見し黒玉之(ぬばたまの)黒牛潟を見ればさぶしも(万葉集)、

と、「黒」を含む地名「黒髪山」「黒牛潟」にかかり、

にきたへの 衣(ころも)寒らに 烏玉乃(ぬばたまノ) 髪は乱れて(万葉集)、

と、髪は黒いところから、「髪」にかかり、

野干玉能(ぬばたまノ)昨夜(きそ)は帰しつ今宵さへ吾れを帰すな道の長手(ながて)を(万葉集)、
奴婆多麻乃(ヌバタマノ)夜(よ)は更けぬらしたまくしげ二上山(ふたがみやま)に月傾きぬ(仝上)、

と、夜に関する語、「夜(よる・よ)」およびその複合語「夜霧」「夜床」「夜渡る」「一夜」に、また、「昨夜(きそ)」「夕へ」「今宵(こよひ)」などにかかり、

相ひ思はず君はあるらし黒玉(ぬばたまの)夢(いめ)にも見えずうけひて寝(ぬ)れど(万葉集)、

と、夜のものである「月」や「夢(いめ)」にかかり、

奴婆多麻能(ヌバタマノ)妹(いも)が干すべくあらなくに我が衣手(ころもで)を濡れていかにせむ(万葉集)、

と、黒髪を持つ妹の意でかかる。また、夢(いめ)と妹(いも)が類音であるところから、「妹(いも)」にかかる(精選版日本国語大辞典)。

中古使われることの多い、

むばたまの、

は、

むばたまの我が黒髪やかはるらん鏡のかげに降れる白雪(古今和歌集)、

と、ぬばたまは色が黒いところから、「黒」または「黒」を含む語にかかり、

むは玉の髪は白けて恥かしく市にて生(む)める子をぞ悲しぶ(「天元四年斉敏君達謎合(981)」)、

と、髪は黒いところから、「髪」にかかり、

いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞきる(古今和歌集)、

と、黒に関係のある「夜」や「闇」にかかり、

むは玉の夢のうきはしあはれなと人めをよきて恋わたるらん(宝治百首)、

と、

夜のものである「夢」にかかる(精選版日本国語大辞典)。

ぬばたまの、

の転訛、

うばたまの、

は、冒頭の、

うばたまの夢になにかはなぐさまんうつつにだにもあかぬ心を(古今和歌集)、
烏羽黒(ウバタマ)の髪の落(おち)( 浮世草子「好色一代女」)、

と、

烏羽が黒いところから、「くろ(黒)」にかかり、さらに「やみ(闇)」「よる(夜)」「ゆうべ(夕)」「かみ(髪)」「ゆめ(夢)」などにかかる(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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きりぎりす


秋はきぬ今や籬(まがき)のきりぎりす夜な夜な鳴かむ風の寒さに(古今和歌集)

とある、

きりぎりす、

は、

こおろぎの古称、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

きりぎりす、

は、

蟋蟀、
螽斯、

と当て、

コオロギの古称、

であるが、

こおろぎ(こほろぎ)、

は、

蟋蟀、

と当て、

暮月夜 心毛思努爾 白露乃 置此庭爾 蟋蟀鳴毛(夕月夜(ゆふづくよ)心もしのに白露の置くこの庭に蟋蟀(こほろぎ)鳴くも)(万葉集)、

と、古くは、

秋鳴く虫の総称、

で(広辞苑・精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、

マツムシ・スズムシ・キリギリス、コオロギ、

等々すべてをいい(岩波古語辞典)、中国でも、

秋鳴く虫、

を、

蟋蟀(しつしゆつ)、

と総称した(仝上)が、

蟋蟀在堂、歳聿其莫、今我不樂、日月其除(蟋蟀、堂に在り歳聿(ここ)に其れ(く)れぬ 今我樂しまずんば 日其れ除(さ)らん)(詩経・唐風)

とある場合、

こおろぎ、

を指すともある(字通)。

ただ、秋鳴く虫の中で、特に、

こおろぎ、

を指す場合は、

きりぎりす、

といった。

むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす(芭蕉)、

も、

こおろぎ、

である。古くは、

促織(はたおりめ)蜻(コホロギ)蟋蟀(きりぎりす)……古にこほろぎといひ、今はいとどといふ者也(東雅)、

と、

いとど、

あるいは、

ちちろむしよる吹風やさむからしふくればいとどよはるこゑかな ちちろむしとはきりぎりすを云也(古今打聞(「1438頃)」)、

と、

ちちろむし、

ともいった(精選版日本国語大辞典)。和名類聚抄(平安中期)に、

蟋蟀、一名蛬(こおろぎ)、木里木里須、

天治字鏡(平安中期)に、

蟋蟀、支利支利須、

とある。中世になって、

こうろぎ、

という表記も見られるようになる(精選版日本国語大辞典)ようである。

きりぎりす(蟋蟀)、

の名の由来は、

鳴き声に基づく語か。スは鳥や虫など飛ぶものにいう語(広辞苑)、
鳴声から(言元梯・名言通・柴門和語類集・音幻論=幸田露伴)、
キリキリは鳴く声の聞きしなりと云ふ、スは、蟲、鳥につくる語、ほととぎす、みみず(大言海)、

と、擬声語由来というところのようである。ちなみに、

こおろぎ、

も、

古く「古保呂岐」と書かれ、黒い木を意味したもののようで、コオロギの黒褐色の体色と関連させてその名となった(日本大百科全書)、

とする説もあるが、

コホロとなく虫の意(箋注和名抄・日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、擬声語のようである。

コオロギ(蟋蟀、蛬、蛩、蛼)、

は、

昆虫綱バッタ目(直翅目)キリギリス亜目(剣弁亜目)コオロギ上科またはコオロギ科またはコオロギ亜科に属する昆虫の総称、

であり、別名には、

しっそつ・しっしつ・しっしゅつ、

があり、日本ではコオロギ科のうちコオロギ亜科に属する、

エンマコオロギ、ミツカドコオロギ、オカメコオロギ、ツヅレサセコオロギ、

等々が代表的な種類となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE

キリギリス(螽蟖、螽斯、蛬)、

は、

バッタ目キリギリス科キリギリス属、

に分類される昆虫のうち、日本の本州から九州地方に分布する種群、

ヒガシキリギリス、
ニシキリギリス、

の総称であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9

こおろぎ、

は、

直翅目コオロギ上科Grylloideaに属する昆虫を呼ぶときに用いる通俗的な呼名、

で、ケラの仲間になる。コオロギ類は、キリギリス類やバッタ類とともに直翅目を構成する主要な群で、とくにキリギリス類に類縁が近い、

が、

キリギリス類は体型が縦に平たく、主として樹上生活に適応しているが、コオロギ類は、エンマコオロギで代表されるように、体型が背腹に平たくなり、地表生活に適応している。色彩も地表面の色に近い、褐色ないし黒褐色系の色彩が主流を占めている、

とある(世界大百科事典)。

「蟋」(漢音シツ、呉音シチ)は、

形声。「虫+音符悉(シツ)」羽をさっさっとさせる音をまねした擬声語、

とある(漢字源)。

「蟀」(シュツ)は、

「蟋蟀」(シッシュツ)で、

こおろぎ、または、キリギリスを指す(漢字源・字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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くたに


散りぬればのちは芥(あくた)になる花を思ひ知らずもまどふてふかな(古今和歌集)

は、

芥(あくた)になる花、

に、

くたに

を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

くたに、

は、

苦丹、

と当て、

竜胆

牡丹

とされる(仝上)。

卯の花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子(なでしこ)、薔薇(さうび)、苦丹などやうの花草々を植ゑて、春秋の木草、そのなかにうち混ぜたり(源氏物語)、

とある、

くたに、

は、

くだに、

とも言い、

苦胆、

とも当て、貝原益軒編纂の『大和本草(1708)』にも、

龍膽、和名リンドウ、一名くたにと云ふ、

とあり、

リンドウの異称、

とされるが、一説に、

ボタンの異称、

ともあって未詳とされる(広辞苑・精選版日本国語大辞典・大辞林)。

リンドウ(竜胆)、

は、

リンドウ科リンドウ属の多年生植物、

で、別名、

イヤミグサ、

古くは、

えやみぐさ(疫病草、瘧草)、

とも呼ばれたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A6

山野に生え、高さ20〜60センチ。葉は先のとがった楕円形で3本の脈が目立ち、対生する。秋、青紫色の鐘状の花を数個上向きに開く、

とある(デジタル大辞泉)。同科には、

ハルリンドウ・ミヤマリンドウ・センブリ、

等々も含まれる(仝上)。

りゅうたん、

と訓むと、漢方で健胃薬などに用いる、

リンドウの根および根茎、

を指す(仝上)。和名、

リンドウ、

は、漢名の、

竜胆(龍胆りゅうたん)の音読み、

に由来し、中国では代表的な苦味で古くから知られる熊胆(くまのい)よりも、さらに苦いという意味で「竜胆」と名付けられた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A6

ボタン(牡丹)、

は、

ボタン科ボタン属の落葉小低木、
または、
ボタン属の総称、

とあり、原産の中国名も、

牡丹、

別名は、

富貴草・富貴花・百花王・花王・花神・花中の王・百花の王・天香国色・名取草・深見草・二十日草(廿日草)・忘れ草・鎧草・ぼうたん・ぼうたんぐさ、

等々多数あるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%B3_%28%E6%A4%8D%E7%89%A9%29が、「深見草」で触れた。

「苦」(漢音コ、呉音ク)は、

会意兼形声。古は、かたい頭骨を描いた象形文字で、かたくかわいたの意を含む。苦は「艸+音符古」で、口がこわばってつばがでない感じがする、つまり、にがい味のする植物のこと、

とある(漢字源)。別に、

形声。「艸」+音符「古 /*KA/」。「苦菜」を意味する漢語{苦 /*khaaʔs/}および「にがい」を意味する漢語{苦 /*khaaʔ/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A6)

形声。艸と、音符古(コ)とから成る。にがな、ひいて「にがい」、転じて「くるしい」意を表す(角川新字源)、

会意兼形声文字です(艸+古)。「並び生えた草」の象形と「固いかぶと(兜)」の象形(「固い」の意味)から、固い草⇒にがい草を意味し、さらに転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)「にがい・くるしい」を意味する「苦」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji262.html

と、ほぼ同趣旨の、「にがい植物」を指している。

「丹」(タン)は、

会意文字。土中に掘った井型の枠の中から、あかい丹砂があらわれでるさまをしめすもので、あかい物があらわれでることをあらわす。旃(セン 赤い旗)の音符となる、

とある(漢字源)。

会意。「井」+「丶」、木枠で囲んだ穴(丹井)から赤い丹砂が掘り出される様https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B9

象形。採掘坑からほりだされた丹砂(朱色の鉱物)の形にかたどる。丹砂、ひいて、あかい色や顔料の意を表す(角川新字源)、

象形文字です。「丹砂(水銀と硫黄が化合した赤色の鉱石)を採掘する井戸」の象形から、「丹砂」、「赤色の土」、「濃い赤色」を意味する「丹」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1213.html

も、ほぼ同趣旨である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ささがに


白露を玉にぬくとやささがにの花にも葉にも糸をみな綜(へ)し(古今和歌集)

の、

ささがにの、

は、

蜘蛛にかかる枕詞、

で、平安時代は、

ささがに、

は、

蜘蛛そのもの、

をいう(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。

ささがにの、

は、奈良時代の、

わが背子が來べき宵なりささがねの蜘蛛のおこなひ今宵著(しる)しも(日本書紀)、

とある、

ささがねの、

の転(岩波古語辞典)とあり、

ささがね、

は、一説に、

笹の根の意(仝上)、
「笹が根」「細小蟹」「泥(ささ)蟹」などの意(精選版日本国語大辞典)、

で、

枕詞ではない、

とある(仝上)。この「ささがに」の古形、

ささがね、

が使われている、

我が背子が来べき宵なり佐瑳餓泥(ササガネ)の蜘蛛の行なひ今宵著(しるし)しも、

が、

上代の唯一例、

とされ(精選版日本国語大辞典)、これが、古今集で、

衣通姫(そとおりひめ)の独りゐて帝(允恭天皇)を恋ひ奉りて、

という詞書とともに、

我が背子が来べき宵也ささがにのくものふるまひかねてしるしも(古今和歌集)、

と、

ささがに、

とした。これは、

形が小さいカニに似ているところから(岩波古語辞典)、
音の類似から「ささ蟹」と解し(精選版日本国語大辞典)、
佐瑳餓泥(ささがに 山名)の區茂(雲)とあるを、読み違へて、古今集の歌に、雲を蜘蛛と解し、ササガニを、小さき蟹と解し、蜘蛛の枕詞にのやうに用ゐ、転じては、蜘蛛の事とし、又、允恭紀の歌意に、詩経の疏なる、観客の意をも取り成して、意中の人の來ることにも云ふべきやうにもなりし語なり(大言海)、

などの経緯らしく、これによって、

枕詞、

の形として伝えられ、中古以降は、

ささがに、

は、

細小蟹、
細蟹、
笹蟹、

等々と当て(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、もとの意味にこだわることなく、

蜘蛛の異称、

とされ、

待ち人が訪れ来る前兆を人に示す、

といわれた(学研全訳古語辞典)。また、

風吹けばまづぞ乱るる色かはる浅茅が露にかかるささがに(源氏物語)、

と、

くもの糸、
くもの網(い)、

の意となる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。上記、大言海の、

詩経の疏なる、観客の意をも取り成して、

とは、『詩経』豳風・東山篇に、

蠨蛸(アシタカグモ)、在戸、

とあり、疏に、

謂之喜母、此蟲來著人衣、當有観客至有喜

とあることを指す。因みに、

ささがにひめ(細蟹姫)、

というと、

秋さし姫 たき物姫 ささかにひめ……已上七は七夕七ひめの名也(「藻塩草(1513頃)」)、

と、

蜘蛛はよく糸をかけること、

にちなんで、

たなばたひめ、
織女星、

の異称とされる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

枕詞としての

ささがにの、

は、上述の、

我が背子が来べき宵也ささがにのくものふるまひかねてしるしも(古今和歌集)、

と、

蜘蛛(くも)、

にかかる以外に、

思ひやる我が衣手はささがにのくもらぬ空に雨のみぞ降る(後拾遺和歌集)、

と、

「蜘蛛」と同音の語または同音を含む「蜘蛛手(くもで)」「雲」「曇る」などにかかり、

絶えねばと思ふも悲しささがにのいとはれながらかかるちぎりは(風雅和歌集)、

と、

蜘蛛の糸というところから、「糸」および「糸」と同音または同音を含む副詞「いと」や動詞「いとふ(厭)」などにかかり、

ささがにのいづこともなく吹く風はかくてあまたになりぞすらしも(蜻蛉日記)、

と、

蜘蛛の「い」(巣・網の意)というところから同音を語頭に含む「いかさま」「いかなり」「いづこ」「命」「今」などにかかる(精選版日本国語大辞典)。

なお、書紀・允恭紀の、、

わが背子が來べき宵なりささがねの蜘蛛のおこなひ今宵著(しる)しも、

は、万葉仮名で、

和餓勢故餓 勾倍枳予臂奈利 佐瑳餓泥能 区茂能於虚奈比 虚予比辞流辞毛、

については、鎌倉時代中期に著わされた『日本書紀』の注釈書『釋日本紀(しゃくにほんぎ)』では、

佐瑳餓泥、私記曰、山名也、区茂能於虚奈比、雲乃於支天(オキテ)也(御歌は、山の雲のたたずまひを見て、君の來ますべき象兆としたまひしなり、雲の動静に因りて、事の象兆とせしこと多し、古事記(神武)に、伊須気余理比賣の、御子の危難あらむを暗示したまひし御歌「佐韋川よ雲立ちわたり畝傍山木の葉さやぎぬ風吹かむとす」)、天武紀、伊賀の横河にて、「有黒雲、廣十余丈、経天、時、天皇異之、則挙燭親秉式、占曰、天下両分之祥也」、

とあり、

蜘蛛、

ではなく、

雲、

であったとしている(大言海)。

「蟹」(漢音カイ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。「虫+音符解(別々に分解する)」。からだの各部分がばらばらに分解するかに、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(虫+解)。 「頭が大きくてグロテスクな、まむし」の象形(「虫」、「動物」の意味)と「刀の象形と中が空になっている固い角(つの)の象形と角のある牛の象形」(「刀で牛を裂く」、「ばらばらになる」の意味)から足がすぐにばらばらになる動物「かに」を意味する「蟹・蠏」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2724.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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綜(ふ)


白露を玉にぬくとやささがにの花にも葉にも糸をみな綜(へ)し(古今和歌集)

の、

糸をみな綜(へ)し、

に、

をみなへし、

を詠みこんでいる(仝上)が、

へ(綜)、

は、終止形、

綜(ふ)、

で、

縦糸を機(はた)にかけて、織れるようにすること、

とある(仝上)。和名類聚抄(931〜38年)には、

綜、和名閉(へ)、機縷持絲交者也、

とある、

綜(ふ)、

は、

縦糸(たていと)を整えて織機にかけるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B5

とあるが、

経(たていと)を引きのばして機(はた)織り機にかける、織るために経をのばし整える(精選版日本国語大辞典)、
経糸(たていと)を一本ずつ順次、機にかける、経糸布の長さに伸ばして、そろえる(岩波古語辞典)、
経絲を引き延(は)へて織るに供す(大言海)、
織る長さにそろえて機 (はた) にかける(大辞泉)、

とあるのが分かりやすい。

綜(ふ)、

は、

語幹(語幹無し) 未然形(へ)連用形(へ)終止形(ふ)連体形(ふる)已然形(ふれ)命令形(へよ)

の、

ハ行下二段活用、

であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B5。意味から見ると、

経(ふ)と同根、

という(岩波古語辞典)のはよく分かる。

経(ふ)、

は、

歷、

とも当て、色葉字類抄(1177〜81)に、

経、フ、歴、フ、

とあり、

語幹(語幹無し) 未然形(へ)連用形(へ)終止形(ふ)連体形(ふる)已然形(ふれ)命令形(へよ)

の、

ハ行下二段活用、

で、綜(ふ)と同じで、

場所とか日月とかを順次、欠かすことなく経過していく、

意で、

あらたまの年経(ふ)るまでに白栲(しろたえ)の衣も干さず朝夕にありつる君は(万葉集)、

と、

めぐる日・月・年・時を、一区切りずつわたっていく、

つまり、

時が来てまた、去っていく、
時間が過ぎていく、
経過する、

意で使い、それを主体側に置き換えれば、

貧しくへても、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず(伊勢物語)

日月を送る、
歳月を送る、
時を過ごす、

意になり、それを空間に転用すると、

黒崎の松原をへていく(土佐日記)、

と、

地点を次々に通っていく、

意や、それをメタファに、

同二年に太政大臣に上る。左右を経(へ)ずしてこの位に至る事(源平盛衰記)、

と、

ある段階を通る、
ある地位や段階を経験する、

意や、

左右をへずして内大臣より太政大臣従一位へあがる(平家物語)、

と、

所定の手続をふむ、
他の人の認可などを求めてその過程を通る、

意でも使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

経(ふ)、

という一般的な用例を、

綜(ふ)、

の特殊用例に収斂したのか、その逆に、

綜(ふ)、

の特殊用例を、

経(ふ)、

と一般化したのかははっきりしないが、漢字で当て分けるまでは、

経(ふ)に通ず、或は云ふ、延(はふ)るの略、

とある(大言海)ので、共通して、

延ばす、

という意味であったことだけは確かである。

「綜」(漢音ソウ、呉音ソ)は、

会意兼形声。「糸+音符宗(ソウ たてに通す)」、

とあり(漢字源)、

縦糸を上下させて、横糸の杼(ヒ)の通る道をつくるための、機織の道具、

とあり、

綜絖(そうこう)、

といい、

一枚の綜絖に貼られた縦糸は一斉に上下する、

とある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ふりはへて


ふりはへていざ故里(ふるさと)の花見むと來しをにほひぞうつろひにける(古今和歌集)

の、

ふりはへて、

は、

振り延へて、

とあて、

ふりはえ(振り延え)、

と同じで、

わざわざ、
ことさら、

という意になる(広辞苑)。これは、動詞、

ふりはふ(振延)、

を、

ふりはへて、

の形で、副詞的に用いるもの(精選版日本国語大辞典)で、

ふりはふ、

は、

フリは人目を引くような動作、ハフは遠くへ這わせる、

意とある(岩波古語辞典)。この、

はふ、

は、

心ばえ」の、

心延え、

(心の動きを)敷きのばす、

意味と同じで(大言海・岩波古語辞典)、「心延え」は、

心映え、

とも書くが、

映え、

はもと、

延へ、

で、

延ふ、

は、

這ふ、

の他動詞形、

外に伸ばすこと、

つまり、

心のはたらきを外におしおよぼしていくこと、

になる(岩波古語辞典)。で、

ふりはふ、

は、

ことさらに物事をする、
わざわざする、

意で使い、多く、

ゆくての御ことは、なほざりにも思ひ給へなされしを、ふりはへさせ給へるに、聞こえさせむかたなくなむ。まだ難波津をだに、はかばかしう続け侍らざめれば、かひなくなむ(源氏物語)、

と、

困難なことをあえてする、
遠路わざわざ行く、

等々の意に用いる(精選版日本国語大辞典)とある。

「延」(エン)は、

会意文字。「止(あし)+廴(ひく)+ノ印(のばす)」で、長く引きのばして進むこと、

とある(漢字源)。別に、会意文字ながら、

会意。「彳(道路)」+「止 (人の足)」で、長い道のりを連想させる。「のびる」を意味する漢語{延 /*lan/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BB%B6)

会意文字です(廴+正)。「十字路の左半分を取り出しさらにそれをのばした」象形と「国や村の象形と立ち止まる足の象形」(「まっすぐ進む」の意味)から、道がまっすぐ「のびる」を意味する「延」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1012.html

と、構成を異にするが、

形声。意符㢟(てん)(原形は𢓊。ゆく、うつる)と、音符𠂆(エイ)→(エン)とから成る。遠くまで歩く、ひいて、「のびる」意を表す(角川新字源)、

と形声文字とする説もある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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しをに


ふりはへていざ故里(ふるさと)の花見むと來しをにほひぞうつろひにける(古今和歌集)

で、

來しをにほひぞ、

と、

しをに、

を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

しをに

は、

紫苑、
紫菀、

と当て、

おにのしこぐさ、
おもいぐさ、

ともいい、

しをに、

というのは、字音(漢名である)、

しをん(紫苑)、

の転ではあるが、

しをん(紫苑)、

の、

nの後に母音iを加えてniとしたもの、

で、

エニ(縁)、
ゼニ(錢)、

の類(岩波古語辞典)とある。

キク科の多年草、

で、日本では、中国地方と九州の山地の草原に自生、

高さ一〜二メートル。根ぎわに束生する葉は長楕円形で基部は柄に流れ、長さ約三〇センチメートル、茎につく葉は上部へ行くに従って無柄となり、披針形から線形となる。いずれもまばらに粗毛があり、縁に鋭い鋸歯(きょし)がある。茎は上部で多く分枝して、秋に、径約三センチメートルの淡紫色の頭花を多数つける。中心の管状花は黄色。冠毛は白色、

とある(精選版日本国語大辞典)。根は、煎(せん)じて鎮咳(ちんがい)薬に用いる(仝上)ともある。ただ、花の黄色なるものがあり、

黄苑、

といい、葉の小さく柔らかにして、花の白きを、

小紫苑、
姫紫苑、

という(大言海)ともある。

紫苑、

の花の色から、

八九人ばかり、朽葉の唐衣、薄色の裳に、しをん、萩など、をかしうて居並(ゐな)みたりつるかな(枕草子)、

と、

紫苑色(しおんいろ)、

の意でも使われ、

紫苑の花のような色、

つまり、

くすんだ青紫、

である(デジタル大辞泉)。また、

襲(かさね)の色目、

という、位色(いしょく)に関係ない、

公家男女の下着や私服の地質に、季節による配色を考慮して生じた表地と裏地の襲の色と、衣服数枚を重ねた場合の袖、襟、裾口などに見られる色合、

の、

紫苑(しおん)の襲色目、

は、

表は薄紫、裏は青。また、表は紫、裏は蘇芳(すおう)。秋に着用、

とある(大辞林)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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やまし


ほととぎす峰の雲にやまじりにしあれど聞けど見るよしもなき(古今和歌集)

の、

雲にやまじり、

で、

やまし、

を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

やまし、

は、

ユリ科の多年草、

で、

「知母」「花菅」の異称、

とある(仝上)。

やまし、

は、

やまじ、

ともいい、

ハナスゲの別名(大辞林)、
野草ハナスゲの異称(岩波古語辞典)、
はなすげ(花菅)」の古名(精選版日本国語大辞典)、

などとあり、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

児草、ヤマシ、

とある。

知母(ちも)、

は、

花菅(はなすげ)の漢名、

とあり、また、

その根茎の生薬名、

でもあり、漢方で、

知母治諸熱(本草)、

とあり、

解熱・鎮咳・利水・鎮静剤、

とする(広辞苑)。だから、類聚名義抄に、

知母、ヤマシ、

和名類聚抄(931〜38年)に、

知母、夜萬之、

とある。

知母、

は、

古名ヤマシ、

ともあり、

ヤマドコロ、

ともいい、

春、宿根より叢生す、葉は芒(すすき)の葉の如くにして、狭く厚く、深緑色、長さ二三尺、夏月、葉の中に、茎を起こす、高さ二三尺、其端に一尺許りの小さく長き花、繁く綴りて穂をなす。其色、深紫碧、後に、長さ三四分の細莢を結ぶ、内に三稜の黒子あり、

とある(大言海)。

やまし、

の、

し、

は、

羊蹄(ぎしぎし)の古名、

とある(精選版日本国語大辞典)が、

し、

は、別名、

シノネ、
ウマスカンポ、
オカジュンサイ、

などともよばれ、生薬名および中国植物名は、

羊蹄(ヨウテイ)、

で、俗に、

きしぎし、

と呼ばれる、古い名称は、

之(し)、

で、根を薬用にしたため、

之の根(シノネ)、

とも呼ばれ、薬は、

和大黄(わだいおう)、

という(大言海)。字鏡(平安後期頃)に、

羊蹄、志乃根、

本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)に、

羊蹄、之乃禰、

とある。

知母(ちも)、

を、

やまし(山之)、

というのも、

根を薬用するに因り、

しのね、
やまし、

と呼ぶようである(仝上)。

ただ、

ハナスゲ、

自体は、

からすすげ、

ともいうが、和名は、

カヤツリグサ科のスゲのような葉を生じ、地味なスゲの花と比べて大きく(といっても径5〜6mmです)、よく目立つことから名づけられました、

とありhttps://www.pharm.or.jp/yakusou/2023/01/post-114.html

根茎はやや塊状に肥大して白色の細根を多数生じ、また茶褐色の繊維を密生させています。草丈は1mくらい、葉は広線形で地際より多数出しています。葉の間から花茎を出し、その上部に白黄色から淡青紫色の花を穂状に多数つけ5〜6月に咲きます。果実は長卵形で、その中に翼のある黒色の種子を生じます、

とある(仝上)。日本へは、苗が、

享保年間(1716-36)ころに薬用として渡来した、

といわれている(仝上)。おそらく、古く、

知母、

として、薬用として伝わったものと思われるが、それにしても、

やまし、

と、

之、

として認識していたということは、この植物の生態をよく知っていたということなのだろうか。

「之」(シ)は、

象形。足の先が線から出て進みいくさまを描いたもの。進みいく足の動作を意味する。先(跣(せん)の原字)の字の上部は、この字の変形である。「これ」ということばに当てたのは音を利用した当て字。是(シ これ)、斯(シ これ)、此(シ これ)なども当て字で之(シ)に近いが、其・之、彼・此が相対して使われる。また、之は、客語(目的語)になる場合が多い、

とある(漢字源)。別に、

象形。足あとの形にかたどり、「ゆく」意を表す。借りて「これ」「の」の意の助字に用いる、

とも(角川新字源)、

形声。「一 (始点)」+音符「止 /*TƏ/」。「ゆく」を意味する漢語{之 /*tə/}を表す字。のち仮借して助詞の{之 /*tə/}に用いる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%8B

指事文字です(止+一)。「立ち止まる足」の象形と「出発線を示す」横線から、今にも一歩を踏み出して行く事を示し、そこから、「ゆく」、「行く」、「出る」を意味する「之」という漢字が成り立ちました(借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「これ、この(助字)」の意味も表すようになりました)、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2313.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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からはぎ


うつせみのからは木ごとにとどむれど魂(たま)のゆくへを見ぬぞかなしき(古今和歌集)

は、

からはきごとに、

で、

からはぎ、

を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

からはぎ、

は、

唐萩、

と当てるが、

どんな植物か不明、

とある(仝上)。

からはぎ、

は、

「はぎ(萩)」の異名か、萩の一種なのかは未詳(精選版日本国語大辞典)、
萩の一種(季語・季題辞典)、
萩に同じ(広辞苑)、
萩に同じという(岩波古語辞典)、

等々とあるが、

語源も明らかでなく、「唐萩」の字をあてることの当否もわからない。弓や柱を作るほどに幹の大きくなる萩の記事は諸書に見えるが、これを「からはぎ」というのは「幹萩(からはぎ)」の意か、

とある(精選版日本国語大辞典)。ただ、

此萩草花にあらず木なり。一名をから萩(ハギ)といふ。よって弓などに是を作る(浄瑠璃「伽羅先代萩(1785)」)、

と、

萩の一種「きはぎ(木萩)」の異名か、

または、

萩の中でも特に幹の大きな品種をいうか、

ともあり、

木だちの萩で、幹が大きく、冬も枝が枯れないもの。弓を作るのに用いるという、

と(仝上)、ある。古今集のいう、

からはぎ、

が、何を指しているかは、はっきりしない。

はぎ、

は、

萩、

と当てるが、古くは、

芽子、

と記し、

ハギ、

と読み(岩波古語辞典・大言海・世界大百科事典)、

生芽、

とも当てるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%AE。和名類聚抄(931〜38年)に、

鹿鳴草、萩、波木、

貝原益軒編纂の『大和本草(1708)』に、

天竺花、ハギ、花史云、観音菊、天竺花是也、五月開至七月、花頭細小、其色純紫、枝葉如嫩柳、其幹之長與人等、

とある。漢名は、

胡枝子、

特に、

ヤマハギ、

を指すという(日中対訳辞典)。

タマミグサ、
ツキミグサ、
ノモリグサ、
ネザメグサ、
ニハミグサ、
ハナヅマ、

の異名をもつ(大言海)が、

ハギ、

というのは、

マメ科ハギ属の中のヤマハギ節、

に属する数種類を含むもので、特定の種類ではなく、外観の似ている種類の総称(世界大百科事典)らしく、ふつうにハギと呼ばれるのは、

ヤマハギ、
ミヤギノハギ、
ニシキハギ、
ツクシハギ、
マルバハギ、

を指す(仝上)が、特に、

ヤマハギ、

をさすことが多い(精選版日本国語大辞典)とある。

秋の七草、

のひとつ、花期は、

7月から10月、

で、

背の低い落葉低木ではあるが、木本とは言い難い面もある。茎は木質化して固くなるが、年々太くなって伸びるようなことはなく、根本から新しい芽が毎年出る。直立せず、先端はややしだれる。葉は3出複葉、秋に枝の先端から多数の花枝を出し、赤紫の花の房をつける。果実は種子を1つだけ含み、楕円形で扁平。荒れ地に生えるパイオニア植物で、放牧地や山火事跡などに一面に生えることがある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%AE

ハギ、

の由来は、

生芽(ハエキ)の意(キ(芽)は気(キ)の転。芽を出すこと)。宿根より芽を生ずればなり、故に、芽子の字を用ゐる(大言海)、
ハヘクキ(延茎)の義(日本語原学=林甕臣)、
延木の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
ハキ(葉木)の義(柴門和語類集)、
ヤマハギの朝鮮語名mo-hyong(牝荊)もしくはsyo-hyong(小荊)紀から転じたもの(植物和名の語源=深津正)、

等々あるが、その生態と、

芽子、

と記したことから見て、個人的には、

生芽(ハエキ)の意、

のように思える。なお、

秋の野をにほはすはぎは咲けれども見る験(しるし)なし旅にしあれば、

と、

万葉集以来、和歌の世界の題目として非常に愛好された(岩波古語辞典)が、平安時代以降、

秋萩にうらびれをればあしひきの山下とよみ鹿のなくらむ(古今和歌集)、

と、

鹿、露、雁、雨、風などと組み合わせて、花だけでなく下葉や枝も作詠の対象となり、歌合の題としても用いられた、。特に鹿や露との組み合わせは多く、「鹿の妻」「鹿鳴草」などの異名も生まれた。一方、露は、萩の枝をしなわせるありさまや、露による花や葉の変化などが歌われ、また、「涙」の比喩ともされ、「萩の下露」は、「荻の上風」と対として秋の寂寥感を表現するなどさまざまな相をもって詠まれた、

とある(精選版日本国語大辞典)。なお、「萩」には、

襲(かさね)の色目、

として、秋に用いる、

表は蘇芳(すおう)、裏は萌葱もえぎまたは青、

の、

萩襲(はぎがさね)、

がある(仝上)。

「萩」(漢音シュウ、呉音シュ)は、

会意兼形声。「艸+音符秋」で、秋の草の意、「よもぎ」の一種、特に「カワラニンジン」を指す、

とある(漢字源)。本来は、

ヨモギ類(あるいは特定の種を挙げる資料もある)、

の意味で、「はぎ」は国訓である。牧野富太郎(『植物一日一題』(1998)「中国の椿の字、日本の椿の字」)によると、これは、

艸+秋、

という会意による国字であり、ヨモギ類の意味の「萩」とは同形ではあるが別字、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%AE。別に、

会意兼形声文字です(艸+秋)。「並び生えた草」の象形と「穂の先が茎の先端に垂れかかる象形(「稲」の意味)と燃え立つ炎の象形(「火」の意味)と亀(かめ)の象形(「亀」の意味)」から、「カメの甲羅に火をつけて占いを行う事を表し、そのカメの収穫時期が「秋」だった事と、穀物の収穫時期が「秋」だった事から「秋」の意味」を表し、そこから、秋に紫紅色・白色の花が群がって咲く落葉低木「はぎ」を意味する「萩」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2695.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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さがりごけ


花の色はただひとさかり濃けれども返す返すぞ露は染めける(古今和歌集)

は、

ひとさかり濃けれども、

で、

さがりごけ、

を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

さがりごけ、

は、

松蘿、

と当て、

さるおがせ、

ともいい、

山の木の枝から垂れ下がる地衣類、

とある(仝上)。「をがたまの木」で触れたように、

めどにけずりばな、
かわなぐさ、
さがりごけ、

と、古今伝授の三種の草、

三草、

の一つともされる(大言海)。

さがりごけ、

は、

下苔、

と当て、

キツネノモトユイ、
クモノアカ、

の別名を持ち(広辞苑)、

「さるおがせ」に同じ(大言海)、
サルオガセの異名(岩波古語辞典)、
サルオガセの異称(広辞苑)、

とする説が多いのに対して、

植物「ひかげのかずら(日陰蔓)」の異名。一説に植物「さるおがせ(猿麻蔓)」の異名とする(精選版日本国語大辞典)、
植物。ヒカゲノカズラ科の常緑多年草、薬用植物。ヒカゲノカズラの別称(動植物名よみかた辞典)、

と、

ヒゲノカヅラの異名、

とする説もある。漢名は、

松蘿(しょうら)、

なのだが、これ自体、

植物「さるおがせ(猿麻桛)」の漢名。また、一説にヒカゲノカズラなどの蔓草、

とある(精選版日本国語大辞典)。ただ、

松蘿、一名女蘿(本草)、

とあり、

蔦の一種、

とする(字源)が、

蔦與女蘿(小雅)、
女蘿在草、曰兔絲、在木曰松蘿(釋文)、

という、

女蘿(じょら)、

は、

女羅、

とも当て、

植物「さるおがせ(猿麻桛)」の漢名、

とある(精選版日本国語大辞典)。どうやら、

松蘿(しょうら)、

と同じとする、

さがりごけ、

は、

サルオガセ、

のように思えるが、如何であろうか。和名類聚抄(931〜38年)には、

松蘿、一名女蘿、和名万豆乃古介一云佐流乎加世、

とあり、平安中期の能因による歌学書『能因歌枕』には、

ざかりごけとは、岸などに下がりたる苔をいう、

とある。

サルオガセ(サルヲガセ)、

は、

サルオカセ、
サルノオガセ、

ともいい、

猿麻桛
猿尾枷、
猿麻蔓、

等々と当て(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%82%AA%E3%82%AC%E3%82%BB・広辞苑・精選版日本国語大辞典・動植物名よみかた辞典)、

樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣、

で、

霧藻、
蘿衣、

ともいう(仝上)、

地衣類サルオガセ科の植物の総称、

で、日本に約四〇種あり、ふつうは、

長さ七メートルに達するナガサルオガセ、

長さ約三〇センチメートルのヨコワサルオガセ、

をいう(仝上)。

糸状によく分岐し淡黄緑色を帯び、いずれも、霧のよくかかる深山の樹木の幹や枝からたれ下がって生え、直角につきだした短枝をたくさんつけ、レース状の大群落をなすことが多い。地衣体は糸状で根もとで二叉(にさ)に分かれるが、その後はほとんど分枝せず、長さ50〜100cm、時には3mを超える。断面は類円形、中心部に軸があり、外側から皮層、髄層、中軸の順に配列する、

とあり(仝上・世界大百科事典)、サルオガセ類は、ウスニン酸usnic acidを含み、漢方で、

松蘿(しようら)、
老君鬚(ろうくんしゆ)、

等々と称して、

利尿、解熱、去痰薬、

とする。民間薬では、

金線草、

と呼ばれる(仝上)。なお、

ヨコワサルオガセからリトマス色素がとれる、

とある(仝上)。

ヒカゲノカズラ、

は、

ヒカゲカズラ、

ともいい、

キツネノタスキ、
カミダスキ、

とも呼び、

日陰鬘、
日陰蔓、
蘿葛、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

山葛蘿(ヤマカズラカゲ)、

の別名を持ち、

漢名は、

石松、

で(広辞苑)、

蘿(かげ)、

という別称もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AB%E3%82%B2%E3%83%8E%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%83%A9

シダ類ヒカゲノカズラ科の常緑多年草、

で、各地の山麓に生える。高さ八〜一五センチメートル。茎はひも状で地上をはい長さ二メートルに達する。葉はスギの葉に似てごく小さく輪生状またはらせん状に密生する。夏、茎から直立した枝先に淡黄色で長さ三〜五センチメートルの円柱形の子嚢穂をつける、

とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。茎は、正月の飾りにし、胞子は、

石松子、

という丸薬の衣に用い、また皮膚のただれに効くという(仝上)。ただ、

ヒカゲノカズラ、

には、

植物「さるおがせ(猿麻桛)」の異名、

とする面もあり(仝上)、となると、

サガリゴケ、

は、

サルオガセ、

に収斂していくことになる。

なお、

ヒカゲノカズラ、

は、

践祚の大嘗祭、凡そ斎服には……親王以下女孺(にょじゅ、めのわらわ 下級女官)以上、皆蘿葛(延喜式)、

と、

新嘗(にいなめ)祭・大嘗(だいじょう)祭などの神事に、物忌のしるしとして冠の笄(こうがい)の左右に結んで垂れた青色または白色の組糸、

を呼ぶ(岩波古語辞典・広辞苑)。もと、

植物のヒカゲノカズラを用いた、

ための称である(仝上)。

「蘿」(ラ)は、

会意兼形声。「艸+音符羅(ラ あみ、あみの目)」で、網のようにはびこる草、

とあり、松蘿(ショウラ)、女蘿(ジョラ)等々、つた類の総称とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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にがたけ


命とて露をたのむにかたければものわびしらに鳴く野辺の虫(古今和歌集)

と、

たのむにかたければ、

で、

にがたけ、

を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。当時、

はかもなき夏の草葉に命と頼む虫のはかなさ(寛平御時后宮歌合)、

と、

虫は命の糧として露を吸うと考えられていた、

とある(仝上)。

にがたけ、

は、

苦竹、

と、茸の一種である、

苦茸、

のいずれか不明とする(仝上)。しかし、

(たけのこの味がにがいからいう)メダケまたはマダケの別称(広辞苑)、
マダケ、またはメダケの異名(岩波古語辞典)、
(そのタケノコに苦みがあるので)マダケ・メダケの別名(大辞林)、
真竹(まだけ)、女竹(めだけ)の別名。それらの竹の子に苦味があることから(学研全訳古語辞典)、
マダケまたはメダケの別名(大辞泉)、
(竹の子に苦味があるところから) 植物「まだけ(真竹)」または「めだけ(女竹)」の異名(精選版日本国語大辞典)、
まだけの一名(大言海)、

と、ほぼ、

まだけ(真竹)、または、めだけ(女竹)の異名とする。しかも、

にがたけ、

は、

苦竹、

と当てるが、

くちく、

と訓ませると、

メダケの別称(動植物名よみかた辞典)、

ともあるが、

苦竹黮、茶樹成林(「参天台五台山記(1072〜73)」)、

と、

植物「まだけ(真竹)」の古名(精選版日本国語大辞典)、
マダケの漢名、にがたけ(広辞苑)、
植物マダケの異名、にがたけ(大辞林)、
マダケの別名(大辞泉)、
「真竹」の別称https://kokugo.jitenon.jp/word/p38679

と、

まだけ、

に収斂していく。後世になるが、林羅山の本草学『多識編』(1631)には、

苦竹、爾賀多計、今案、末多計、

貝原益軒編纂の『大和本草(1708)』には、

苦竹、國俗呉竹、と云、又真竹と云、筍の味微苦、ハチクニオトレリ、

とある。

苦竹(くちく)、

は、

歳月青松老
風霜苦竹疎(孟浩然)、

は、

まだけ、

とある(字源)ので、

苦竹(くちく)、

は、

漢名、

にがたけ、

は、その和訓である可能性もある。ただし、中国で、

苦竹、

と書くのは、

メダケ属、

のもので、

マダケ、

は、

剛竹、

と呼ぶ(世界大百科事典)とある。

マダケ(真竹)、

は、

常の竹を、他名に対して云ふ称、

で、学名、

Phyllostachys bambusoides、

は、中国原産とも日本自生とも言われる、

イネ科マダケ属の竹の一種、

で、別名、

タケ、
ニガタケ(苦竹)、
真柄竹、

等々と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%80%E3%82%B1

稈(かん)の最大の直径20cmぐらい、高さ20m。節の部分は2環状になる。葉はモウソウチクよりも大きく、肩毛が直角につく。竹の皮に暗褐色の大きな斑紋のあることが特徴である。一定の周期で開花するが、花はモウソウチクに似ておしべは3本、

とある(世界大百科事典)。また、

日本マダケのほとんどは遺伝的に均一らしく、日本全国のマダケが一斉に花を咲かせ、一斉に実を付け、一斉に枯れる。日本へは古くから持ち込まれ栽培されていたと見る一方で、日本にもともと自生していた品種であると捉える向きもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%80%E3%82%B1。なお、別名を、

苦竹、

というように、収穫後時間を経過したタケノコはエグみがある。苦みやあくが強いためにマダケのタケノコは市場にはあまり出回らない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%80%E3%82%B1

めだけ(女竹・雌竹)、

は、

をだけ(雄竹)、

つまり、

マダケ、

に対して言う、

篠竹の類、

をいい(大言海)、植物学上は、

ササ、

に分類される(世界大百科事典)、

イネ科の(メダケ属)タケササ類、

で、

関東以西の各地に生え、稈は高さ三〜六メートル、径一〜三センチメートルになり、節間は長く枝は節に五〜七本ずつつく。地下茎が横に走り、葉は披針形で手のひら状につき、長さ一〇〜二五センチメートル、三〜五個が枝先からななめに掌状に出る。花穂は古い竹の皮を伴い枝先に密集してつき、小穂は線形で長さ三〜一〇センチメートル。筍(たけのこ)には苦味がある。稈で笛・竿・キセル・籠などをつくる、

とあり(日本国語大辞典・大辞泉)、

なよたけ、
おなごだけ、
にがたけ、
あきたけ、
しのだけ、
しのべだけ、
かわたけ、

等々の名がある(仝上・広辞苑)。

因みに、

雄竹(おだけ)、

は、主として、

真竹(まだけ)、

をいうが、淡竹(はちく)、孟宗竹(もうそうちく)などの大柄な竹にもいう(精選版日本国語大辞典)とある。

ニガタケ、

の名は、

マダケ、

を指しているようでもあるが、いずれも、「筍」の苦みからきているので、

ニガタケ、

というとき、

マダケ、
メダケ、

何れを指しているかは、定めがたいようだ。

なお、ついでながら、

呉竹、

というのは、『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)に、

淡竹、名緑 和名久礼多介、

とあるように、

淡竹(はちく)の異名、

である(精選版日本国語大辞典)。

葉竹、
早竹、
半竹、
甘竹、

等々とも記し(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%81%E3%82%AF)、古名、

オオタケ、
クレタケ、

ともある(仝上)、

イネ科マダケ属、

で、中国原産で、呉(ご)から渡来したhttp://www.kaho-fukuoka.co.jp/saijiki/2003-00/kuretake.htmlことから

からだけ(唐竹)、
くれだけ(呉竹)、

という。

稈は高さ一〇メートル、径一〇センチメートルに達する。稈は滑らかで薄く蝋粉(ろうふん)をつけ、節は二輪状に突起する。枝は節ごとに一〜二本ずつ出て小枝を分け、その先端に長さ四〜一二センチメートルの披針形の葉を四〜五個つける。皮は紫色を帯び大きく、斑紋はない。花穂は紫緑色、

とある(精選版日本国語大辞典)。古今要覧稿(1821〜42)に、

おほたけ一名からたけ一名あはだけ一名はちくは西土にいはゆる淡竹一名水竹也、

とある。淡竹の筍(タケノコ)は、

えぐ味がなく美味とされる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%81%E3%82%AF

なお、「ささ」については触れたし、「しのだけ」については、「箆(の)」で触れた。また、「たけ(茸)」、「たけ(竹)」についても触れた。

「竹」(漢音呉音チク、唐音シツ)は、

象形、たけの枝二本を描いたもの。周囲を囲むの意を含む、

とある(漢字源)。

象形。たけの葉が垂れ下がっているものを象るhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AB%B9

象形。たけが並び生えているさまにかたどり、「たけ」の意を表す(角川新字源)、

象形文字です。「たけ」の象形から、「竹」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji68.html

と、象形文字であることは同じだか、微妙に異なる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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かはたけ


さよふけてなかばたけゆくひさかたの月吹きかへせ秋の山風(古今和歌集)

に、

なかばたけゆく、

で、

かはたけ、

を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

かはたけ、

は、

川竹か、

とし、

あはれなるもの……夕暮れ暁に、川竹の風に吹かれたる、目さまして聞きたる(枕草子)

を引くが、また、一説に、

皮茸、

ともいう(仝上)とある。

たけゆく、

は、

長けゆく、

で、

盛りをすぎること、

とある(仝上)。これは、

たけなわ

の、

たけ、

で、これについては触れたことがある。

かはたけ、

は、

革茸、
茅蕈、
皮茸、

等々と当て、、

いまのこうたけ(岩波古語辞典)、
コウタケの別称(広辞苑)、

という。

こうたけ、

は、秋、

松など広葉樹林の中に群生する、

が、

革茸、
茅蕈、
香茸、
皮茸、

等々と当て、別名、

鹿茸(ししたけ)、
鹿茸(しかたけ)、
猪茸(いのししだけ)、
猪茸(ししたけ)、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、馬も喜んで食べるとの例えから、

馬喰茸(ばくろうだけ)

ともいうhttps://hachimenroppi.com/item/6/58/2497/。ただ、

シシタケ、

は、

近縁種、

とするもの(日本大百科全書)があるが、

同種、

とする説もある(世界大百科事典)。

こうだけ、

は、

イボタケ目イボタケ科コウタケ属の食用キノコ、

で(栄養・生化学辞典)、かさの裏に剛毛状の針が密生しているのを野獣の毛皮と連想して、

カワタケ(皮茸)、

と名づけられ、それがなまって、

コウタケ、

となった。本来、

香茸、

という表記は、

シイタケ、

にあてられた名で本種を指すものではない(仝上)とある。

かさの径10〜25cm、深い漏斗状で中央部には茎の根元まで達する深いくぼみがある。表面は淡紅褐色で濃色の大きなささくれがある。かさの裏面の針は0.5〜1.2cm、灰白色のち暗褐色。胞子は類球形でいぼ状の突起がある。特有の香気があるので精進料理につかわれていた、

とある(仝上)。

一度ゆでこぼしてから料理するのがこつ、

とも(仝上)。乾かせば、

染革のような黒色となる、

ので(広辞苑)、

革茸、

と当てるのかもしれない。また、乾燥すると芳香があり(デジタル大辞泉)、保存がきく(広辞苑)。徒然草には、

鹿茸を鼻にあててかぐべからず、ちひさき虫ありて鼻より入て、脳をはむといへり、

とあり、江戸時代中期編纂の日本の類書(百科事典)『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』(には、

案ずるに革茸は、山麓で落葉をかぶって発生する。形状は松茸に似て傘の外側は黒くて粒皺がある。晒し乾すとまさに黒くなって染革のようである。裏は黄赤で毛糸のようなものがある。柄には鱗甲がある。山城(京都)の北山、摂州の有馬の山中に多く出る。味は微かに苦く、灰汁を用いてゆがいて酢に和えて食べる。味は甘く脆美である。しかし腐敗し易い。それで晒し乾して売る。最も上等品である、

とあるhttp://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/situ/TOK/neda/hanashi/hanasi23.htm

なお、

かはたけ、

に、

川竹、
河竹、

と当てると、文字通り、

川のほとりに生えている竹、

の意で、冒頭の、

川竹の風に吹かれたる、目さまして聞きたる(枕草子)、

は、これになる。この、

かはたけ、

をとる説もあるhttp://www.milord-club.com/Kokin/uta0452.htm。この場合、

たけ、

は、

茸、

でなく、

竹、

で、

マダケあるいはメダケ、

となる(仝上)。ただ、

かはたけ、

は、

呉竹は葉細く、河竹は葉広し。御溝に近きは河竹、仁寿殿の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり(徒然草)、

とある、

溝竹(カハタケ)の義、(清涼殿の)御溝竹(ミカハミヅ)に因る称ならむ、歌に多く河竹の流れと詠むも、この縁なるべし、

とあり(大言海)、延喜式(927)に、

御輿一具、……盖(蓋)下桟料川竹十株、盖料菅一囲、

とある、

清涼殿東庭の御溝水(みかわみず)の傍に植えた竹、

をいう(仝上・広辞苑)。また、

かはたけ、

は、上述したように、

メダケの古名、
マダケの異称、

ともされ(広辞苑)、和名類聚抄(931〜38年)に、

苦竹、加波多計、本朝式、用河竹字、

とあり、

マダケ(真竹)の古称、

とする(大言海)のは、

御溝(みかは)の竹、即ち、苦竹なりしよりの名ならむ、

とある(仝上)。別に、

メダケ(女竹)、

を、川端によく育つので、

川竹(かわたけ)、

ともいい(世界大百科事典)、

京都御所の清涼殿前の漢竹はメダケである、

とする説もある(仝上)。なお、

河竹、

は、

よよ経れど面(おも)がはりせぬかはたけは流れての世のためしなりけり(金塊集)、

と、

「ながる」「ながす」「よ(世)」にかかる枕詞、

として使われる(広辞苑)。「俊頼無名抄(俊頼髄脳)」(1112)には、

かはたけト云ヒテハ、流レテノ末ノ世、久シカルベキコトヲツヅクベキナリ、

とある。

なお、「たけ」、「たけ(茸)」、「たけ(竹)」、「裄丈(ゆきたけ)」については触れたが「たけ」は通じるようである。

「茸」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、「ひらたけ」で触れたように、

会意。「艸+耳(柔らかい耳たぶ)」。柔らかい植物のこと、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川新字源ソフィア文庫Kindle版)

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ものから


あぢきなし嘆なつめそ憂きことにあひくる身をば捨てぬものから(古今和歌集)

では、

あぢきなし、

で、

なし、

なつめそ、

で、

なつめ(棗)、

あひくる身、

で、

くるみ(胡桃)、

を詠みこむ(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

ものから、

は、

今は來じと思ふものから忘れつつ待たるることのまだもやまぬか(古今和歌集)、

と、

逆接の意味になることが多いが、冒頭の歌は順接、

とある(仝上)。

ものから、

は、

接続助詞。形式名詞モノに格助詞カラの付いたもの(広辞苑)、
形式名詞「もの」に名詞「から(故)」が付いたものから。上代から見られるが、上代ではまだ二語としての意識が強く、中古に至り一語の接続助詞としての用法が成立した(大辞林)、
形式名詞「もの」+格助詞「から」、活用語の連体形に付く(大辞泉)、
名詞「もの」に名詞「から」の付いてできたもの。「から」を助詞とする説もある。しかし、上代・中古において、このような意に用いられた「から」は名詞である。(精選版日本国語大辞典)、

などとある(格助詞は、体言につき、その体言と他の語との格関係を示す)。

「から」を名詞とするのは、「から」で触れたように、この「から」の由来が、

うから、
やから、
ともがら、
はらから、

の「から」で、

族、
柄、

とあて(岩波古語辞典)、

上代では「はらから」「やから」など複合した例が多いが、血筋・素性という意味から発して、抽象的に出発点・成行き・原因などの意味にまで広がって用いられる、

とあり、

助詞「から」も、

語源は名詞「から」と考えられる。「国から」「山から」「川から」「神から」などの「から」である。この「から」は、国や山や川や神の本来の性質を意味するとともに、それらの社会的な格をも意味する。「やから」「はらから」なども血筋のつながりを共有する社会的な一つの集りをいう。この血族・血筋の意から、自然のつながり、自然の成り行きの意に発展し、そこから、原因・理由を表し、動作の出発点・経由地、動作の直接続く意、ある動作にすぐ続いていま一つの動作作用が生起する意、手段の意を表すに至ったと思われる、

とある(仝上)ことによる。で、

ものから、

は、

もの、

と、

から、

の複合した助詞で、活用語の連体形を承け、

から、

は、上述したように、

格助詞の「から」と起源的には同一で、「自然のつながり」の意から種々に発展し、原因・理由を示す用法を持っていた、

とあり(仝上)、ほぼ同義の、

ものゆゑ、

も、

もの、

と、

ゆゑ、

の複合した助詞で、

ゆゑ、

は、

もとづくところ、

の意である(仝上)。で、

から、
も、
ゆゑ、
も、

それだけで原因・理由を示す助詞になりうることは、上述した通りである。その上に加わる、

もの、

は、

(ものから)物ながらの略、みな(皆)からの「から」と同じ、

とする説(大言海)があるように、いわゆる、

物、

が原義で、

「もの」とは形があり、手にふれることのできる存在を示す語で、「こと」と対比して使われ、「こと」が時間の経過とともに変化し推移していく出来事・行為をいうに対して、「もの」は変化せず推移しない存在を指す語である。その、変動しない存在の意から、確固として定まっている既定の事実や、避けることのできない法則とか慣習とかを指すことがあった、

とあり(岩波古語辞典)、したがって、

ものから、
ものゆゑ、

と複合すれば、

……するにきまっているのだから、
必ず……とはすでに決まっていることだ、
当然……するにきまっているけれど、

というのが古い用法(仝上)とある。

から、
ゆゑ、

は、順接条件も逆接条件も示しうるので、

ものから、
ものゆゑ、

も、両方の例があるが、平安時代には、

ものゆゑ、

は古語となり、

ものから、

が歌などに使われ、

……ながら、
……だのに、

の意を表した(仝上)とする。なお、「もの」、「と」については触れた。

見渡せば近き物可良(ものカラ)岩隠りかがよふ玉を取らずは止まじ(万葉集)、
待つ人にあらぬものから初雁のけさ鳴く声のめづらしきかな(古今和歌集)、

と、

既定の事柄を条件として示し、逆接的に下に続け(精選版日本国語大辞典)、

けれども、
ものの、
のに、

の意の使用は、平安時代に盛んに用いられたが、その後次第に衰え、擬古的な文以外にはあまり使われなくなり、中世には、

只乙(かなつる)手のさきさきに、目をかけつれば魂はありて見ゆるものからともの姿も見ゆるなり(「教訓抄(1233)」)、
さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる(奥の細道)、

と、理由を示す、

…だから、
…ので、

の意の順接用法が現われ、近世に至ってはこちらが一般的となる。これは、

接続助詞「から」の影響と考えられる、

とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

「物」(漢音ブツ、呉音モツ・モチ)は、

会意兼形声。勿(ブツ・モチ)とは、いろいろな布でつくった吹き流しを描いた象形文字。また、水中に沈めて隠すさまもいう。はっきりと見分けられない意を含む。物は「牛+音符勿」で、色合いのさだかでない牛。いろいろなものを表す意となる。牛は、ものの代表として選んだに過ぎない、

とある(漢字源)。しかし、

会意兼形声文字です(牜(牛)+勿)。「角のある牛」の象形と「弓の両端にはる糸をはじく」象形(「悪い物を払い清める」の意味)から、清められたいけにえの牛を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「もの」を意味する「物」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji537.html、別に、

形声。「牛」+音符「勿 /*MƏT/」。「雑色の牛」を意味する漢語{物 /*mət/}を表す字。のち仮借して「もの」を意味する漢語{物 /*mət/}に用いるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%89%A9

形声。牛と、音符勿(ブツ)とから成る。毛が雑色の牛の意から、転じて、さまざまのものの意を表す(角川新字源)、

と、形声文字とする説もある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川新字源ソフィア文庫Kindle版)

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月の桂


秋来れど月の桂の実やはなる光を花と散らすばかりを(古今和歌集)

の、

月の桂、

は、

月に生えている伝説上の木、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

は、

桂を折る(文章生(もんじょうしょう)、試験、対策に応)、
桂男(かつらおとこ・かつらを 月で巨大な桂を永遠に切り続けている男の伝説)、
桂の眉(かつらのまゆ 三日月のように細く美しい眉)、
桂の影(かつらのかげ 月の光)、
桂の黛(かつらのまゆずみ 三日月のように細く美しく引いた眉墨)、

等々と使われるが、それは、「桂」が、

月の桂、

から、

月の異称、

として使われるようになったことによる。

「月の桂」は、「桂を折る」で触れたように、「酉陽雑俎‐天咫」に、

舊言月中有桂、有蟾蜍、故異書言月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創隨合。人姓吳名剛、西河人、學仙有過、謫令伐樹、

とあり、中国において、「月桂」は、

想像の説に、月の中に生ひてありと云ふ、月面に婆娑たる(揺れ動く)影を認めて云ふなるべし、手には取られぬものに喩ふ、

とある(大言海)。「懐風藻」に、

金漢星楡冷、銀河月桂秋(山田三方「七夕」)、

は、

月の中にあるという桂の木、

の意で、

玉俎風蘋薦。金罍月桂浮(藤原万里「仲秋釈奠」)、

では、

月影(光)、

の意で使われている(精選版日本国語大辞典)。万葉集では、

目には見て手には取らえぬ月内之楓(つきのうちのかつら)のごとき妹をいかにせむ、

と、

手には取られぬもの

の喩えとして詠われている。「毘沙門堂本古今集註」(鎌倉時代末期〜南北朝期書写)では、

久方の月の桂と云者、左伝の註に曰、月は月天子の宮也。此宮の庭に有七本桂木、此の木春夏は葉繁して、月光薄く、秋冬は紅増故に月光まさると云也、

と解説する。また、月の人、「桂男」を、

月人、

とも言い(大言海)、

かつらをの月の船漕ぐあまの海を秋は明石の浦といはなん(「夫木抄(1310頃)」)、
桂壮士(カツラヲ)の人にはさまるすずみかな(「古今俳諧明題集(1763)」)、

等々と詠われる(精選版日本国語大辞典)。

桂を折る

のは、

桂男(かつらおとこ・かつらを)、

といい、「酉陽雑俎‐天咫」(唐末860年頃)に、中国の古くからの言い伝えとして、

月の中に高さ五〇〇丈(1500メートル)の桂があり、その下で仙道を学んだ呉剛という男が、罪をおかした罰としていつも斧をふるって切り付けているが、切るそばからその切り口がふさがる、

という伝説がある(精選版日本国語大辞典)。シジフォスの岩に似た話である。

呉剛伐桂、

といいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E7%94%B7、伝説には、ひとつには、炎帝の怒りを買って月に配流された呉剛不死の樹「月桂」を伐採するという説と、いまひとつは、上述した、

舊言月中有桂、有蟾蜍、故異書言月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創隨合。人姓吳名剛、西河人、學仙有過、謫令伐樹(酉陽雑俎)、

と、仙術を学んでいたが過ち犯し配流された呉剛が樹を切らされているという説とがある(仝上)。

ために、「月の桂」は、

月の異称、

とされ、略して、

かつら、

ともいい、月の影を、

かつらの影、

といったり、三日月を、

かつらのまゆ、

などという(大言海)。また「桂男」は、

桂の人、

などともいい、

かつらおとこも、同じ心にあはれとや見奉るらん(「狭衣物語(1069‐77頃)」)、

と、盛んに使われるが、さらに、

手にはとられぬかつらおとこの、ああいぶりさは、いつあをのりもかだのりと、身のさがらめをなのりそや(浄瑠璃「出世景清(1685)」)、

と、

美男子、

の意味でも使われるようになる(精選版日本国語大辞典)。

「桂」(漢音ケイ、呉音カイ)は、「」で触れたように、

会意兼形声。「木+音符圭(ケイ △型にきちんとして格好がよい)」で、全体が△型に育った良い形をしている木、

とあり(漢字源)、「肉桂(ニッケイ)」「筒桂(トウケイ)」「岩桂(ガンケイ)」「銀桂」「金桂」「丹桂」など香木の総称の他、伝説上の月の桂の意、である(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川新字源ソフィア文庫Kindle版)

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百和香


花ごとにあかず散らしし風なればいくそばくわか憂しとかは思ふ(古今和歌集)、

の、

いくそばくわか憂し、

の、

いくそばく、

は、

どれほど多く、

の意、

いくそばくわか憂し、

に、

百和香、

を(かなり無理して)詠みこむ(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とあり、

はくわこう(百和香)、

は、

神仙世界にあるとされる伝説的な香、

とある(仝上)。

百和香、

は、

ひゃくわこう、
ひゃっかこう、
はくわごう、

とも訓ませ(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)、

種々の香を練り合わせて作った香。5月5日に百草を合わせて作ったという(広辞苑)、
種々の香料を合わせた薫物(タキモノ)(大辞林)、
薫物の名。種々の香料を合わせた練香(ねりこう)(精選版日本国語大辞典)、
練り香の一種。陰暦5月5日に百草を合わせて作ったという(デジタル大辞泉)、

等々としかなく、

種々の香料を合わせた薫物(たきもの)の名、

として、

伝説的なものか、

とある(岩波古語辞典)ので、その由来ははっきりしないが、

伝説的な神仙の名、

を借りているもののようである。いわれははっきりしないが、

五月五日に、百草を取り合わする香と云ふ、

とある(大言海)。

百和香、

を詠みこんだ、上述の、

花ごとにあかずちらしし風なればいくそばくわがうしとかは思ふ、

は、杜甫の即事詩、

雷聲忽送千峯雨、
花氣渾如百和香、

を踏まえている(大言海)。

「香」(漢音キョウ、呉音コウ)は、

会意文字。もとは、「黍(きび)+甘(うまい)」で、きびを煮たときに空気に乗ってただよいくるよいにおいをあらわす。空気の動きに乗って伝わる意を含む、

とあり(漢字源)、同趣旨で、

会意文字です(黍+甘)。「穂先が茎の先端にたれかかる穀物の象形と、流れる水の象形(「酒」の意味)」(酒の材料に適した「黍(きび)」の意味)と「口中に一線を引いて食物をはさむさまを表した文字」(「あまい・うまい」の意味)から、黍などから生じる「甘いかおり」を意味する「香」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1180.html

会意。黍(しよ)(禾は省略形。きび)と、甘(日は変わった形。うまい)とから成り、きびのうまそうなかおり、「かおり」の意を表す、

とも(角川新字源)あるが、この解釈のもとになっている、

『説文解字』では「黍」+「甘」と解釈されているが、これは誤った分析である。甲骨文字の形を見ればわかるように「甘」とは関係がない、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A6%99

会意。「黍」(芳しい物の代表)+羨符「口」(区別のための記号、楷書では「日」と書かれる)。「かおり」を意味する漢語{香 /*hang/}を表す字、

としている(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川新字源ソフィア文庫Kindle版)

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行矣


自當逢雨露(自ずから当(まさ)に雨露に遭うべし)
行矣愼風波(行(ゆ)けや 風波を慎め)(高適・送鄭侍御謫)

の、

行矣(コウイ)、

は、

旅立つ人におくる言葉。さようなら、お大事にという意味、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

行矣(さきくませ)」で触れたように、

宜(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)(日本書紀)、

と、

さきくませ、

と訓ませ、

お幸せに、
とか、
お元気で、

という意味らしいが、

さきく(幸く)、

は、

「さき(幸)」に、「けだしく」などの「く」と同じ副詞語尾「く」の付いたもの、

で、

御船(みふね)は泊てむ恙(つつみ)無く佐伎久(サキク)いまして早帰りませ(万葉集)、
楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎さきくあれど大宮人の船待ちかねつ(仝上)、

などと、

さいわいに、
平穏無事に、
変わりなく、
つつがなく、
繫栄して、

等々、

旅立つ人の無事を祈っていう例が多い(日本国語大辞典)。

さきくませ、

の、

ませ、

は、助動詞、

まし、

の未然形、

動詞・助動詞の未然形を承け。奈良時代は、

未然形ませ、
終止形まし、
連体形まし、

しかなかったが、平安時代に入って、

已然形ましか、

が発達し、未然形に転用され(岩波古語辞典)、

ませ(ましか)・〇・まし・まし・ましか・〇、

と活用する(精選版日本国語大辞典)、

用言・助動詞の未然形に付く。推量の助動詞、

で(仝上)、その由来は、

将(ム)より轉ず(大言海)、
助動詞「む」の形容詞的な派生(精選版日本国語大辞典)、
推量の「む」から転成(mu+asi→asi)した(岩波古語辞典)、

とあり、中世以降の擬古文や歌で、

「む」とほぼ同じ推量や意志を表わすのに用いる、

とある(仝上)。

む、

は、

行かむ、
落ちむ、
受けめ、

と、

動作を未来に云ふ助動詞、

とある。漢語の、

行矣(こうい)、

は、まさしく、

行(ゆ)け、
いざゆけ、

人を励ますことば(学研漢和大辞典)とある。

矣、

は、

漢文の助字、

で、

語の終る意、

を示し(字源)、

句の最後につけて断定・推量・詠嘆などを表し、

…である、
…だなあ、
…だろう、

という意味になるhttps://www.kanjipedia.jp/kanji/0000130100。たとえば、下について、

懿矣(よいかな)・蔚矣(うつたり)・鬱矣(うつたり)・往矣(ゆけや)・久矣(ひさしいかな)・休矣(よきかな)・行矣(ゆけや)・皇矣(おおいなり)・尚矣(ひさしいかな)・甚矣(はなはだし)・壮矣(さかんなり)・逖矣(はるかなり)・悲矣(かなしいかな)・勉矣(つとめよや)・耄矣(おいたり)・老矣(おいたり)、

等々という使い方になる(字通)。

語の中に置く助辞、

哉、

反問の辞、

乎、

と通ず(字源)とあるが、文末で用いる語気詞として類義になる、

也、
哉、
焉、
矣、

を比較して、

也、哉>焉>矣、

の順で、すっぱりと言い切った語気から、屈折した語気になり、

也、哉が「!」、

とすると、

矣、

は、

……(!)、

という感じとある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14139270194・加藤徹『漢文法ひとりまなび』)が、ニュアンスが、

行矣、

の、

ゆけ、

の語感からは、わかりにくい。

いざゆけ、

という語感は、断定というよりは、希望的な願望が入るからだろうか。

「矣」(イ)は、

象形。「ム+矢」と書くが、実は、「匕+矢」が正しく、人が後ろを向いてとまったさまをえがいたもの。疑の左側の部分と同じ。文末につく、「あい」という嘆声であり、断定や慨嘆の気持を表す。息が仕えてとまるの意を含む、

とあり(漢字源)、

断定や推定の語気を表わすことば、

で、

……するぞ、
……となるぞ、

の意(仝上)とする。別に、

象形文字。「𠤗」(「疑」の原字)の略体、

とするものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%A3

会意。厶(し)+矢。厶の初形は(し)で耜(すき)の初文。耜に矢を加えて清め祓う意。その声を矣・唉・欸、その動作を挨という。詩「小雅」十月之交に謀(ばい)・萊(らい)と韻している。「説文」五下に「語已(をは)るの詞なり」とし、以声の字とするが、もとは矢で厶(すき)を祓う儀礼で、その声をいう。語句を強く結ぶとき、その声を加えたのであろう、

とするもの(字通)がある。

疑、

の原字、

𠤗、
は、象形文字、

杖をついた人が道に惑うさまを象る。のち「子」を加えて「疑」の字体となる、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%96%91

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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墨流し


春霞中し通ひ路なかりせば秋來る雁は帰らざらまし(古今和歌集)、

の、

春霞中し、

に、

詠みこんだのが、

墨流し、

で、

墨を水面に浮かべてできた模様を、髪に移し染める染色法、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。かつて担当した書物のカバーに墨流しの模様を使った記憶がよみがえる。

墨流し、

は、

墨汁を水に垂らした際に出来る模様、

または、

その模様を染めたもの、

をいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E6%B5%81%E3%81%97。日本には、

9世紀頃から、中国の墨流し「流沙箋」から伝わったものとされ、中国の初出資料としては、蘇易簡著『文房四譜』(986年)にある、

とされる(仝上)。上述のように、

墨流し、

には、江戸後期の風俗習慣、歌舞音曲を書いた随筆『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』(喜多村信節)に、

小豆粉あずきこ一匁、黄柏おうはく五分、明礬みょうばん一分、これを麻切に包み、水にて湿し紙にひたし、その上に文字にても絵にても(墨で)書きて水の内に浮め、細き竹串にて紙を突けば、紙は底に沈み、書きたる墨ばかり水上に浮み残るなり、

とある、

水の上に字や絵をかく画法、

をいうものと、

水面に墨汁または顔料を吹き散らし、これを布や紙の面に移して曲線文様を製出する染法、

をいうものとがある(広辞苑)。前者は、平安時代後期、

王朝貴族が川に墨を流し模様の変化を楽しんだ遊び、

であったhttps://euphoric-arts.com/art-2/suminagashi/ともされ、後者は、

墨流し染め、

といい、

墨汁または顔料で水面に文様を作り、それを紙や布に吸いとり、模様を染めとる方法、

で、

藤原時代以前からあったが、もっぱら古筆の料紙の染色に用いられ、墨だけによる一色のものであった。のちに布の染色にも応用されるようになり、江戸時代以後には、墨と藍、墨・藍・紅のものも現われた、

とある(精選版日本国語大辞典)。その方法は、

容器の水面に墨汁を落とし、静かに息を吹きかけるか、あるいは細い竹の先にわずかの油をつけて水面に入れると、水の表面張力によって墨が流れ、同心円の変形した複雑な模様をつくる。それを上からのせた和紙に吸着して写し取るが、二度と同じ文様が得られないという特徴がある、

というもの(日本大百科全書)で、平安時代の、

本願寺本三十六人家集、

が有名である。江戸時代に入ると、

墨のほかに紅や藍(あい)などが加えられ、油脂を用いたりして、複雑な木目形や、雲形などを染めたものが、千代紙や箱や小引出しの内張りなどに用いられた。そしてさらにこれを布地に写すことが開発され、福井県の武生(たけふ)をはじめ、京都などでも行われた、

とある(仝上)。

「墨(墨)」(漢音ボク、呉音モク)は、

会意兼形声。K(コク 黒)は「煙突+炎」の会意文字で、煙突のふちに点々と煤のたまったさまを示す。墨は、「土+音符K」で、土状をなしたすすの固まりのこと。くろい意を含む、

とある(漢字源)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川新字源ソフィア文庫Kindle版)

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虎嘯


子房未虎嘯(子房、未だ虎嘯せざりしとき)
破産不為家(産を破り家を為(おさ)めず)(李白)
の、

虎嘯(こしょう)、

は、文字通り、

虎が吠える、

意で、

虎が吠えれば、風が巻き起こると言われ、風雲に乗じて大事業に乗り出すこと、

をいう(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

子房、

とは、

張子房、

漢の高祖の軍師であった、

張良、

字(あざな)は、

子房(しぼう)

という(仝上)。

蕭何、
韓信、

と共に、

漢の三傑、

とされる(精選版日本国語大辞典)。

虎嘯(こしょう)、

は、文字通り、

虎のほえること、

また、

虎のような声でほえたてること、

の意だが、上記李白の詩のように、

英雄、豪傑が世に出て活躍することのたとえ、

として使う(精選版日本国語大辞典)。劉安編『淮南子(えなんじ)』(紀元前139年成立)に、

虎嘯(うそぶ)いて谷風至り、擧(あ)がりて景雲屬す。麒(きりん)鬭ひて日月食し、鯨魚(げいぎよ)死して慧星(けいせい)出づ、

にもとづき、ここから、

英雄が世に現れ、風雲を巻き起こす、

意の、

虎嘯いて谷風至る、

ということわざも生まれている。

虎嘯風生、龍騰雲起、英賢出發、亦各因時(北史・張定和傳)

ともあり、また、

龍吟雲起 虎嘯風生(りゅうぎんずればくもおこり とらうそぶけばかぜしょうず)、

と、

同じ考えや心をもった者は、相手の言動に気持ちが通じ合い、互いに相応じ合うということ。また、人の歌声や笛・琴の音などが、あたかも竜やとらのさけび声が天空にとどろき渡るように響くことをいう、

意で使われる(新明解四字熟語辞典)。

なお、「虎」をめぐっては、「」、「虎嵎を負う(とらぐうをおう)」、「虎を養いて自ら患(うれ)ひを招く」、「虎の尾」などで触れた。

「嘯」(ショウ)は、

会意兼形声。「口+音符粛(ショウ 細い、すぼむ)」

とある(漢字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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已矣(やんぬるかな)


覇図悵已矣(覇図(はと)、悵(ああ)已んぬるかな)
驅馬復歸來(馬を驅りて復た歸り來(きた)る)(陳子昂・薊丘覧古)

の、

悵、

は、

歎いたり恨んだりして、心の痛む時の間投詞、

で、また、

歎き怨むという意味もあり、ここで動詞にとって、

已みぬるを痛み、

と読むこともできる(前野直彬注解『唐詩選』)とある。また、

已矣(イイ)、

は、

おしまいになってしまった、

の意(仝上)である。

やんぬるかな、

は、

已矣哉(イイサイ)、
已矣乎(イイコ)、
已矣、

の訓読み、

已んぬる哉、

と当て、

「やみぬるかな」の転、

で、

已矣哉(やんぬるかな)國に人無し 我を知るもの(な)し(楚辞・離騒)、

と、

もうおしまいだ、
どうしようもない、

と、

慨嘆・絶望の辞、

を表わし、「已矣」「已矣乎」「已矣哉」などの漢文訓読みに使う(広辞苑・大辞林)。

已矣(ヤンヌルカナ)市に五勺の升あらば(俳諧「俳諧新選(1773)」)、

は、『論語』の、

子曰、已矣乎、吾未見能見其過而内自訟者也(子曰く、已んぬるかな、吾未だ能く見その過(あやま)ちを見て内に自(みずか)ら訟(せ)むる者を見ざる也)、

を背景にしている(精選版日本国語大辞典)。

「已」(イ)は、

象形。古代人がすき(農具)に使った曲がった木を描いたもの。のち、耜(シ すき)・以(イ 工具で仕事をする)・已(やめる)などの用法に分化した。已(やめる)は、止(とまる)・俟(イ 止まって待つ)に当てた用法。また、以に当てて用いる、

とある(漢字源)。別に、

象形。農具の「すき」を象ったもの。他に「㠯」「厶(以)」など。「やめる」「すでに」の意は音を仮借したもの、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%B2

もと、巳(シ)との区別はなかったが、のち、その字の一部を変え音も変えて、借りて、助字に用いる。一説に、㠯(イ)(以の古字)の字形の変わったものという、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「農作業に使う農具:すき」の象形から、「すき」の意味を表しました(耜(シ)の原字)。借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「やむ」、「すでに」、「のみ」等の意味で使用されるようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2432.html

已、

は、

畢りなり、全くをはる義、

とある(字源)。

「矣」(イ)は、「行矣」で触れたように、

象形。「ム+矢」と書くが、実は、「匕+矢」が正しく、人が後ろを向いてとまったさまをえがいたもの。疑の左側の部分と同じ。文末につく、「あい」という嘆声であり、断定や慨嘆の気持を表す。息が仕えてとまるの意を含む、

とあり(漢字源)、

断定や推定の語気を表わすことば、

で、

……するぞ、
……となるぞ、

の意(仝上)とする。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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挂冠


誓将挂冠去(誓って将に冠を挂(か)けて去り)
覚道資無窮(覚道、無窮に資せんとす)(岑参)、

の、

挂冠(けいかん・かいかん)、

は、文字通り、

冠をぬいでかける、

意だが、

冠は官位を持つ人が被るものなので、辞職することを言う、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

後漢の逢萌(ほうぼう)が辞職するとき、冠を脱いで、都の城門にかけ、家に帰ろうといった、

という故事にもとづく(前野直彬注解『唐詩選』)。

挂冠、

は、文字通り、

冠を脱いで柱などに掛けること、

の意味だから、

掛冠、

とも表記する。『後漢書』逸民伝・逢萌に、

時に王莽其の子宇を殺す。萌、友人に謂ひて曰く、三綱絶えたり。去らずんば、禍將(まさ)に人に及ばんとすと。卽ち冠を解きて東都の城門に挂けて歸る(時王莽殺其子宇、萌謂友人曰、三綱絶矣、不去禍将及人、即解冠挂東都城門、歸将家屬浮海、客於遼東)、

とある(字通)。つまり、

後漢(ごかん)の逢萌(ほうぼう)は、巧妙な術策によって政権を掌握し、ついには天子の位についた王莽(おうもう)に仕えることを、わが子を殺されたこともあって潔しとせず、その役職を表す冠を都洛陽(らくよう)の城門に掛けて遼東(りょうとう)に去った、

という故事にちなみ、

官職にある者がその職を辞すること、

をいい、

解冠(かいかん)、

とも当て、

致仕(ちし)、

と同義である(日本大百科全書・デジタル大辞泉)。

王莽、

は、

前漢末期、哀帝没後、平帝をたて実権を掌握。のち、平帝を毒殺し、幼帝嬰を擁立。その摂政となり、やがて自ら帝位を得、儒教の天命と称する符命を利用して、漢の皇帝を践祚(代行)することを名目に、漢の摂皇帝や仮皇帝となり、やがて、符命を理由に漢(前漢)から禅譲を受けて新の皇帝に即位した。周代初期の古制の復元をめざしたが失敗。漢の劉秀(後漢の光武帝)に攻められ殺された、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%8E%BD・精選版日本国語大辞典)。在位は、15年(前45〜後23)。

「挂」(慣用ケイ、漢音カイ、呉音ケイ)は、

会意兼形声。圭(ケイ)は、土を△型に盛った姿を示す会意文字。挂は「手+音符圭」で、高い所に∧型にひっかけること、

とある(漢字源)が、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8C%82

形声。「手」+音符「圭 /*KWE/」、

とする(仝上)。

「冠」(カン)は、「天冠」で触れたように、

会意兼形声。「冖(かぶる)+寸(手)+音符元」で、頭の周りを丸く囲むかんむりのこと。まるいかんむりを手で被ることを示す、

とある(漢字源)。同趣旨だが、

会意形声。冖と、寸(手)と、元(グヱン→クワン 首(こうべ)の意)とから成り、かんむりを手で頭に着ける、また、「かんむり」の意を表す、

とも(角川新字源)、また、

会意兼形声文字です(冖+元+寸)。「おおい」の象形と「かんむりをつけた人」の象形と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形から、「かんむりをつける」、「かんむり」を意味する「冠」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1616.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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方丈


方丈渾連水(方丈 渾(す)べて水に連なり)
天台総映雲(天台 総べて雲に映ず)(杜甫・観李固請司馬弟山水図)

の、

方丈、

は、

方壺、

ともいい、

蓬莱と同じく、東方の海中にあるといわれた仙山、

であり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

天台、

は、

浙江省の東部にある山、

で、

昔は仙人の住む霊山と考えられた、

とある(仝上)。

方丈、
天台、

ともに、孫綽(そんじゃく)「天台山に遊ぶ賦」に、

海を渉れば則ち方丈・蓬莱有り、陸に登れば則ち四明・天台有り、皆玄聖の遊化する所、霊仙の窟宅する所なり、

とあるのをふまえる(仝上)とある。

方丈、

は、文字通り、

丈(約三・〇三メートル)四方、

つまり、方丈記の、

広さは僅かに方丈、高さは七尺が内なり、

とある、

畳たたみ四畳半のひろさの部屋、

を言うが、

維摩居士宅……躬以手板、縦横量之、得十笏(尺)、故號方丈(釋氏要覧)、

とあるように、維摩経の、

天竺の維摩居士の居室が方一丈であった、

という故事から、禅宗などの寺院建築で、本堂・客殿を兼ねる、

長老・住持の居所、

の意で使い、転じて、

住持、
住職、

また、

師への敬称、

としても用いる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)ようになる。また、

食前方丈、侍妾数百人、我得志弗為也(孟子)、

で、

一丈四方の広さにならべられた食物、

つまり、

ぜいたくな食事、

の意でも使うが、上述のように、

方丈、

は、

此れの地ところは即ち方丈(懐風藻)、

と、

三神山(さんしんざん)、

の一つである、

神仙の住むという、東方絶海の中央にある想像上の島、

を指す。これについては、「蓬莱」で触れたように、

蓬萊、方丈、瀛洲、此三神山者、其傅在勃海中、去人不遠、患且至、則船風引而去、蓋嘗有至者、諸僊人(仙人)及不死之藥皆在焉、物禽獸盡白、而黃金銀為宮闕、未至、望之如雲、及到、三神山反居水下、臨之、風輒引去、終莫能至云、世主莫不甘心焉(史記・封禅書)
使人入海求蓬莱・方丈・瀛洲、此三山者相傳在渤海(漢書・郊祀志)、
海中有三山、曰蓬莱、曰方丈、曰瀛洲、謂之三島(神仙傳)、

などと、

渤海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされ、不老不死の神薬があると信じられた霊山、

で、

三壺海中三山也、一曰方壺、則方丈也、二曰、蓬壺則蓬莱也、三曰瀛壺洲也(拾遺記)、

と、

蓬莱(ほうらい)山、
方丈(ほうじょう)山、
瀛洲(えいしゅう)山、

と、

三神山(三壺山)、

とされ(仝上・日本大百科全書)、前二世紀頃になると、

南に下って、現在の黄海の中にも想定されていたらしい、

と位置が変わった(仝上)が、

伝説によると、三神山は海岸から遠く離れてはいないが、人が近づくと風や波をおこして船を寄せつけず、建物はことごとく黄金や銀でできており、すむ鳥獣はすべて白色である、

という(仝上)。

仙人」で触れたように、戦国時代から漢代にかけて、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし 神仙の術を行う人)によって説かれ、

(仙人の住むという東方の三神山の)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に金銀の宮殿と不老不死の妙薬とそれを授ける者がいる、

と信ぜられ、それを渇仰する、

神仙説、

が盛んになり、『史記』秦始皇本紀に、

斉人徐市(じょふつ 徐福)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん 仙人)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ、

と、この薬を手に入れようとして、秦の始皇帝は方士の徐福(じょふく)を遣わした。後世、この三神山に、

岱輿(たいよ)、
員嶠(えんきよう)、

を加えた、

五神山説、

も唱えられたが、蓬莱・方丈・瀛州の三山は

蓬壺、
方壺(ほうこ)、
瀛壺、

とも称し、あわせて、

三壺、

ともいう。「壺」については、

費長房者、汝南人也、曾為市掾、市中有、老翁賣薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中、市人莫之見、唯長房於楼上覩、異焉、因往再拝、翁乃與倶入壺中、唯見玉堂厳麗、旨酒甘肴盈衍其中、共飲畢而出(漢書・方術傳)、

にある、

壺中天(こちゅうてん)、

で、

仙人壺公の故事によりて別世界の義に用ふ、

とあり(字源)、また、

壺中天地乾坤外、夢裏身名且暮閨i元稹・幽栖詩)、

と、

壺中之天、

ともいい、さらに、

壺天、

ともいう(仝上)。「壺公(ここう)」とは、上記、

費長房者、汝南人也、曾為市掾、市中有、老翁賣薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中、市人莫之見、唯長房於楼上覩、異焉、因往再拝、翁乃與倶入壺中、唯見玉堂厳麗、旨酒甘肴盈衍其中、共飲畢而出(漢書・方術傳)、

で、後漢の時代、汝南(じょなん)の市場で薬を売る老人が、

店先に1個の壺(つぼ)をぶら下げておき、日が暮れるとともにその壺の中に入り、そこを住まいとしていた。これが壺公で、彼は天界で罪を犯した罰として、俗界に落とされていたのである。市場の役人費長房(ひちょうぼう)は、彼に誘われて壺の中に入ったが、そこは宮殿や何重もの門が建ち並ぶ別世界であり、費長房はこの壺公に仕えて仙人の道を学んだ、

とある(日本大百科全書)のを指す。

天台山、

は、

天上の三台星に応ずる地、

であるところから名づけられたとされる中国の名山で、

浙江省天台県の北にある。仙霞嶺山脈中の一高峰。赤城・仏隴・桐柏・瀑布などの諸峰を擁し八葉覆蓮の形をなしている。昔から道教の秘境とされた、

が、陳の太建七年(五七五)、天台宗の始祖智者大師智(ちぎ)がこの山にはいって天台宗を開き、天台教学の根本道場となった、

とされる(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。

天台山、

は、

中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)、

の一つとされ、

中国四大仏教名山(五台山、九華山、普陀山、峨眉山)、

の一つでもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%A8%E7%9C%89%E5%B1%B1。なお、「天台宗」については、「三諦円融(さんたいえんにゅう)」で、「智」については「摩訶止観」でそれぞれ触れた。

四明山、

も、この山脈中の、

天台山から北東方に連なる山一帯、

をいい、

日月星辰(せいしん)に光を通ずる義、

から四明山とよばれる(日本大百科全書)、古くからの霊山で、

山中には雪竇(せっちょう)山資聖(ししょう)寺、天童(てんどう)山景徳(けいとく)寺、阿育王山(あいくおうさん)寺など有名な仏寺があるが、道教でもこの山は第九洞天と称して尊ぶ、

が、10世紀末、阿育王山寺義寂(ぎじゃく)に天台を受けた知礼(ちれい)は明州延慶(えんけい)寺に住して山家(さんげ)派と称した。わが国の比叡(ひえい)山頂を四明ヶ岳(しめいがたけ)と称するのはこの山名にちなむ(仝上)とある。

「壺」(漢音コ、呉音グ・ゴ)は、「つぼ折」で触れたが、

象形。壺を描いたもの。上部の士は蓋の形、腹が丸くふくれて、瓠(コ うり)と同じ形をしているので、コという、

とあり、壼(コン)は別字、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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杪冬


杪冬正三五(杪冬、正に三五)、
日月遥相望(日月(日月)、遥かに相望む)(崔曙・早発交崖山還太室作)、

の、

杪冬(びょうとう)、

の、

杪は末、冬の末とは、陰暦十二月のこと、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

「杪」(漢音ビョウ、呉音ミョウ)は、

会意文字。「木+少」で、細い、幽かな等々の意を含む、

とあり(漢字源)、

枝の先、

つまり、

こずえ、

の意や、それをメタファに、

年や季節の末、

の意で、

歳之杪、

で、

歳の杪、

と使う。で、

杪冬、

は、

冬の終わり、晩冬、

の意で、

陰暦12月の異称、

でもある(デジタル大辞泉)。

だから、夏の終わりは、

晩夏、

ともいうが、

杪夏(びょうか)、

で、

秋の終わり、

は、

晩秋、

ともいうが、

杪秋(びょうしゅう)、

といい、

杪商(びょうしょう)、

ともいい、

陰暦9月の異称、

であり、春の終りは、

晩春、
季春、
暮春、

ともいうが、

杪春(びょうしゅん)、

といい、

陰暦の三月、

を指し、年の終わりは、

交霜雪於杪歳、晦風雨於将晨(晉書・桓彝傳)、

と、

歳杪、
歳暮、
歳尾、

ともいうが、

杪歳(びょうさい)、

という(仝上・精選版日本国語大辞典)。なお、「」、「」、「」、「」、については触れた。

「冬」(トウ)の字は、「」で触れたように、

象形。もと、食物をぶらさげて貯蔵したさまを描いたもの。のち、冫印(氷)を加えて氷結する季節の意を加えた。物を収蔵する時節のこと。音トウは、蓄えるの語尾がのびたもの、

とあり(漢字源)、別に、

会意文字です(日+夂)。「太陽」の象形と「糸の最後の結び目」の象形から、1年の月日の終わりの季節、「ふゆ」を意味する「冬」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji93.htmlあるが、

元は上部(𠂂>夂)のみ。後に、氷を意味する「冫」を加え、寒い季節であることを強調。「ふゆ」を意味する漢語{冬 /*tuung/}を表す、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%86%AC、「𠂂」の字源は不明。 上のような説があるが定説は無い(仝上)とする。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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歸與


客有歸與歎(客に帰らんかの歎き有り)
淒其霜露濃(淒(せい)として霜露(せいろ)濃(こま)やかなり)(李頎(りき)・望秦川)

の、

淒其、

は、

淒は、寒風の吹く形容、其は動詞・形容詞・副詞の後につく助字、「詩経」邶風・緑衣に、

淒其以風(淒として以って風ふく)、

とあるのにもとづく(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

「淒」(漢音セイ、呉音サイ)は、

会意兼形声。妻(セイ・サイ)は、夫と肩をそろえるつまのこと。同じようにそろう意を含む。儕(セイ 同列の相手)・斉(齊 セイ ひとしく並ぶ)と同系のことば。淒は「水+音符妻」で、ひしひしと並んで迫る風雨、

とあり(漢字源)、「すさまじいさま」、「寒さがひしひしと迫る」意で、「凄」と同義だが、

淒淒(セイセイ)、
淒然(セイゼン)、

と使うときは、

風雨淒淒(詩経)、

と、

風や雨がそろってひそしひしと吹き迫るさま、

の意で使う(漢字源)。また、

霜露(そうろ)、

は、前漢の経書『禮記』祭儀に、

霜露既に降(くだ)る、君子これを履めば必ず悽愴の心有り、

とあるのにもとづき、

人の心をいたませるものとさせる、

とある(仝上)。

歸與(帰与 きよ)、

は、

歸ることを促すことば、

で(字源)、王粲の「登楼の賦」に、

昔尼父之在陳兮、有歸歟之歎音(昔、尼父(じほ 孔子)の陳に在るや、歸與の歎声有り)

とあるように、『論語』公冶長、

の、

子在陳曰、歸與歸與、吾黨之小子狂簡、斐然成章、不知所以裁之(子、陳に在(いま)して曰わく、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子(しょうし)、狂簡(きょうかん)、斐然(ひぜん)として章を成す。これを裁する所以(ゆえん)を知らざるなり)

の、

歸與(帰らんか)、歸與(帰らんか)、

にもとづく(仝上) とある。

「與(与)」(ヨ)は、

会意兼形声。与は牙(ガ)の原字と同系で、かみあった姿を示す。與はさらに四本の手を添えて、二人が両手で一緒に物をもちあげているさまを示す。「二人の両手+音符与」で、かみあわす、力をあわせるなどの意を含む、

とある(漢字源)が、別に、

形声。「舁」+音符「牙 /*LA/」。「あたえる」を意味する漢語{與 /*laʔ/}を表す字、

とし、

『説文解字』では「舁」+「与」と分析がなされているが、「与」は「牙」の異体である。のちにこの部分のみを以って略字とした、

とするものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%87があり、

会意形声。舁(よ)(もちあげる。與の与を除く部分はその変わった形)と、「欤(歟)」の字の左側(ヨ)(くみあう。片は変わった形)とから成る。力を合わせて仲間になる、ひいて、ともにする、転じて「あたえる」意を表す。借りて、助字に用いる。常用漢字は與の略字として用いられていたの変形による、

とするもの(角川新字源)、

会意兼形声文字です(牙+口+舁)。「かみ合う歯」の象形と「口」の象形と「持ち上げる手」の象形と「ひきあげる手」の象形から、手や口うらを合わせて互いに助け合う事を意味し、そこから、「くみする(仲間になる)」、「あたえる」を意味する「与」という漢字が成り立ちました、

とするものhttps://okjiten.jp/kanji1356.html)

等々微妙に異なる。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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窮陰


獨往路難盡(獨往、路、盡き難く)
窮陰人易傷(窮陰、人、傷み易し)(崔曙・早発交崖山還太室作)

の、

窮陰(きゅういん)、

は、

おしつまった陰気、

の意、

一年は陰気と陽気の交替と考えられた。春に陽が発生して夏に極点に達し、秋に陰が生じて冬に極点に達するわけである。したがって(この詩の)12月は陰の一番最後に当たる、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

窮陰、

は、文字通り、

陰気の窮極、

の意で、それをメタファに、

冬の末、

つまり、

陰暦一二月、

を指し、

窮冬、

ともいう(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

陰(漢音イン、呉音オン)、

は、易学で、

陽、

に対置され、

陰、蔭也、気在内、奥蔭也、陽、揚也、気在外、發揚也(「釋名」)、

と、

陰陽(いんよう・おんよう・おんみょう)、

合わせて宇宙の根元となる気をいう(精選版日本国語大辞典・大言海)。

日・春・夏・東・南・火・男・奇数・強・動・軽・剛・熱・明、

等々積極的、能動的性質を持つ、

陽、

に対して、

月・秋・冬・西・北・水・女・偶数・弱・静・重・柔・冷・暗、

等々、受動的、消極的性質を有するものを、

陰、

とし、

男(なん)は陽、女(にょ)は陰也……南は陽、北は陰、女を北方(きたのかた)といへり(「雑談集(1305)」)、
夜は又陰なれば、いかにも浮々と、やがてよき能をして人の心花めくは陽也(「風姿花伝(1400〜02)」)、

などと使い(仝上・世界大百科事典)、それをメタファに、

陽気が衰え、陰気の盛んなとき、

をいい、転じて、盛りを過ぎた、

四〇歳以上の年齢、

にもいう(仝上)とある。

生生、之れを易と謂ひ、象を成す、之れを乾と謂ひ、法を效(いた)す、之れを坤と謂ふ。數を極め來を知る、之れを占と謂ひ、變に通ずる、之れを事と謂ひ、陰陽測られざる、之れを神と謂ふ、

とある(「易経」繋辞伝上)、

森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から、

陽(よう)と陰(いん)、

の二つのカテゴリに分類する思想を、

陰陽道、

といい、

天地間にあって互いに反する性質を持った二種の気。両者の相互作用によって、万物が造り出され、その消長によって四季が形成される、

とし(仝上)、両者は、

対立する二元であるが敵対するものではなく、太極(たいきよく)または道と呼ばれるものによって統合されており、たがいに引きあい補いあう。また、一方が進むと一方が退き、一方の動きが極点にまで達すると他の一方に位置をゆずって、循環と交代を無限にくりかえす、

とした(仝上)。この発想は、中国人が事物を認識する際、

対(つい)でとらえる、

というけ性向にあり、それが陰陽論に由来しており、

文学表現における対句、建築などにおけるシンメトリーの愛好も陰陽論と切りはなすことができない、

ともある(仝上)。

「窮」(漢音キュウ、呉音グ・グウ)は、「窮子」で触れたように。

会意兼形声。「穴(あな)+音符躬(キウ かがむ、曲げる)」で、曲がりくねって先がつかえた穴、

とあり(漢字源)、「困窮」の「きわまる」、「貧窮」の「行き詰まる」、「窮理」「窮尽」の「きわめる」、「究極」の「行き詰まり」「果て」等々の意である。別に、

会意。「穴+躬(きゅう)」。穴中に躬(み)をおく形で、進退に窮する意。〔説文〕七下に「極まるなり」と訓し、……究・穹と声義近く、「究は窮なり」「穹は窮なり」のように互訓する。極は上下両木の間に人を入れて、これを窮極する意で、罪状を責め糾す意。窮にもその意があり、罪状を糾問することを窮治という、

とあり(白川静『字通』)、また、

会意兼形声文字です(穴+身+呂)。「穴居生活の住居」の象形と「人が身ごもった象形と背骨の象形」(「体」の意味)から、「人の体が穴に押し込められる」、「きわまる」を意味する「窮」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1691.html。類似の「窮」「極」「究」の違いは、

窮は、行き詰まる意。をはる、盡く。稗編「史記上起黄帝、下窮漢武」、転じて困窮と連用す、
極は、至極の義、行き届きて、もはやその先なきを言ふ、
究は、推尋也、竟也、深也、窮尽也と註す。考究・研究と連用す。困窮の義はなし、

とある(字源)。

「陰」(漢音イン、呉音オン)は、「中陰」で触れたように、

会意兼形声。侌(イム くらい)は、「云(くも)+音符今(含 とじこもる、かくれる)」の会意兼形声文字。湿気がこもってうっとおしいこと。陰はそれを音符とし、阜を加えた字で、陽(日の当たる丘)の反対、つまり日の当たらないかげ地のこと。中にとじこめてふさぐ意を含む、

とあり(漢字源・角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%99%B0)、

丘の日陰側が原義、

となる(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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五更


還家萬里夢(家へ還る 万里の夢)
為客五更愁(客(かく)と為(な)る 五更の愁い)(張謂・同王徴君洞庭有懐)

の、

五更、

は、

夜明けに近い時刻、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。昔は、夜の時間を五つに等分し、

初更、二更、……五更、と順番を付けた(仝上)とある。

つまり、一夜を、

初更(しょこう 甲夜(こうや)、ほぼ午後7時〜9時)、
二更(にこう 乙夜(いつや)、午後9時〜11時)、
三更(さんこう 丙夜(へいや)、午後11時〜午前1時)、
四更(しこう 丁夜(ていや)、午前1時〜3時)、
五更(ごこう 戊夜(ぼや)、午前3時〜5時)、

に分けた称で、

五更、

は、

寅(とら)の刻、

に当たり、

戊夜(ぼや)、

つまり、

暁、

をいう(広辞苑)。古くは、中国で、

五夜(ごや)、

ともいい、すなわち日没から日の出までを五等分して、

甲、乙、丙、丁、戊(ぼ)、

の五つとし、

甲夜(こうや 初更(しょこう)、おおよそ現在の七時から九時頃、戌(いぬ)の刻、初夜とも)、
乙夜(いつや・おつや 二更(にこう)、おおよそ現在の午後九時頃から一一時頃、亥(い)の刻)、
丙夜(へいや 三更(さんこう)、おおよそ現在の午後一一時から午前一時頃にあたるが、子(ね)の刻。三鼓(さんこ)ともいう)、
丁夜(ていや 四更(しこう)、おおよそ現在の午前一時ごろから午前三時ごろ、丑(うし)の刻)
戊夜(ぼや 五更(ごこう)、おおよそ現在の午前三時から五時ころ、寅(とら)の刻)、

と別けた(精選版日本国語大辞典)。

深更」で触れたように、「更」(漢音コウ、呉音キョウ)は、

会意。丙は股(もも)が両側に張り出したさま。更は、もと「丙+攴(動詞の記号)」で、たるんだものを強く両側に張って、引き締めることを示す、

とある(漢字源)。しかし、「更」には、

初惠遠以山中不知更漏、乃取銅葉製器(唐國史補)、

と、

更漏(こうろう)、

というように、

時を報ずる漏刻(みずどけい)、

の意があり(字源)、また、

五夜者、甲夜、乙夜、丙夜、丁夜、戊夜、衛士甲乙相傳盡五更(漢官舊儀)、

と、

一更毎に夜番の者が交替する、

義もあり(字源)、

甲乙順番に更代する、故に五更ともいふ、

とある(仝上)。

漏刻のかはる時(大言海)、

だから交替するのだから、その元は、時刻の更新なので、

更、

は、

漏刻のかはる義、字典「因時變易刻漏曰更」、

とある(大言海)ように、「刻漏」とは「漏刻」の意である。それが「變易」すること、つまり(時刻が)変わることを「更」という。これが、中国にて、

一夜を、五つに分くる称、

の謂いとして、

初更、又一更、甲夜(こうや)は、午後八時、九時なり、
二更、又乙夜(いつや)は、十時、十一時なり、
三更、又丙夜(へいや)は、十二時、午前一時なり、
四更、又丁夜は、二時、三時なり、
五更、戊夜(ぼや)は、四時、五時なり、

とあるものをわが国でも踏襲している(仝上)。これを、

五夜(ごや)、

という(仝上)。また、

五更、

ともいい、

一夜五更、

というが、

漢魏以来、謂為甲夜、乙夜、丙夜、丁夜、戉夜、……亦云一更、二更、三更、四更、五更、皆以五為節(顔氏家訓)、

とある。ある意味、「更」は、夜全体を指しているので、

午後7時ないし8時から、午前5時ないし6時に至るまで、順次2時間を単位に、

初更(甲夜、一鼓)、
二更(乙夜、二鼓)、
三更(丙夜、三鼓)、
四更(丁夜、四鼓)、
五更(戊(ぼ)夜、五鼓)、

と区切ったことになる(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。

「漏刻」は、

管でつながった四つまたは三つの箱を階段上に並べ、いちばん上の箱に水を満たし、順に流下して最後の箱から流出する水を、浮箭(=矢 ふせん)を浮かべた容器に受け、矢の高さから時刻を知る、

とあり(百科事典マイペディア・世界大百科事典)、

1昼夜48刻に分け、4刻を1時(とき。辰刻)にはかる、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。「漏」は、

計時用の漏壺を指し、

刻は、

時間の単位(1日は100刻が標準であるが、120刻、96刻、108刻とした時期があった)、

を意味する(仝上)。日本の漏刻は、中国で発明・使用されたものを真似て、

斉明六年(660)中大兄皇子が製作したという所伝が初見。令制では陰陽寮に2人の漏刻博士があり、漏刻によって時刻をはかり、守辰丁(しんてい、ときもり)に鐘鼓を打たせて時を報じた、

とある(仝上)ので、一更、二更……を、一鼓、二鼓……と呼んだものと思われる。

さらに、各一更の時間を、

五等分して、その各分割を一点、二点、三点、四点、五点と称える。もちろん各点は、一更の五分の一に当たる時間帯になる、

とあり(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)、「夜半」は、三更の中央(三更三点の中央)、

に当たる。詩文などで、「夜半」を言うのに、

三更、

というのは、この意味である。

ただ、

一更、二更、三更、四更、五更、

も、

一点、二点、三点、四点、五点、

も、

時刻点、

を指す言葉ではなく、夜間を五等分した、

時間帯、

をいうので、何時に当たるかには幅がある。特に、江戸時代貞享暦(じょうきょうれき)が使われる時代(1684年以降)は、夜間は、

日暮れから翌日の夜明けまで、

を指したが、江戸初期は、

日没から日出まで、

を指し、季節によって、日暮、夜明けの時刻は異なるので、「更」の長さも異なる。便宜上、日没から日出まで夜間とした、更点時間帯と現在の時刻制度とは、年間を通してかなり変動する。

例えば、現在の時刻で、一更は、

春は午後六時三〇分頃から八時三〇分すぎまで、夏は午後七時四〇分頃から九時すぎまで、秋は午後六時すぎから八時二〇分頃まで、冬は午後五時すぎから七時四〇分頃まで、

二更は、

現在のおよそ午後九時から一一時頃。また、午後一〇時から午前零時頃、

三更は、

春は午後一〇時四〇分頃から零時五〇分頃まで、夏は午後一一時前頃から零時三〇分頃まで、秋は午後一〇時頃から零時三〇分頃まで、冬は午後一〇時二〇分頃から零時五〇分頃まで、

四更は、
春は午前一時頃から三時頃まで、夏は午前零時半頃から二時すぎまで、秋は午前零時半頃から二時半すぎまで、冬は午前一時頃から三時すぎまで、

五更は、

春は午前三時頃から五時頃まで、夏は午前二時頃から四時頃まで、秋は午前二時半すぎから五時頃まで、冬は午前三時二〇分すぎから六時頃まで、

と、幅を持たせた時間帯になる(精選版日本国語大辞典)。

ちなみに、時刻は、いま、

真夜中(午前零時)から真昼(午後零時)までを午前、真昼から真夜中までを午後とし、そのおのおのを12等分(または午前・午後を通して24等分)する、

が、昔は、

12辰刻、

が広く行われた。これは夜半を九つ、一刻を終わるごとに八つ・七つ・六つ・五つ・四つとし、正午を再び九つとして四つに至る区分である。また、時刻を方位に結びつけ、一日を十二支に配して12等分し(夜半前後一刻を子(ね)の刻とする。午前零時から午前2時までを子の刻とする説もある)、一刻の前半・後半を初刻と正刻に分け、さらにまた四分などする区分もあった。この区分は、後に一刻を上・中・下に三分するようになった。また民間では、日出・日没を基準に定めて、明六つ・暮六つとし、昼間・夜間をそれぞれ6等分して、四季に応じて適当な分割による時刻をも定めた、

とある(広辞苑)

なお、「」については触れたが、「初夜」、「夜半」、「深更」、「よひ」、「ゆふ」についても触れた。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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遊絲


百丈遊絲爭繞樹(百丈の遊絲は争って樹を繞(めぐ)り)
一群嬌鳥共啼花(一群の嬌鳥(きょうちょう)共に花に啼く)

の、

嬌鳥、

は、

美しい声でさえずる鳥、

の意、

遊絲、

は、

蟲の吐く糸が空中を浮遊しているもの。春の風物である、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

遊絲(イフシ)、

は漢語で、

晻曖矚遊絲(梁武帝詩)、

と、

快晴の日に蜘蛛の網の如きものが空中に見える現象、

を意味し(字源)、和語では、

いとゆふ(いという)、

という。これは、

漢語「遊絲(陽炎)」の影響を受けた語、

とあり(岩波古語辞典)、本来、漢語「遊絲」の、

蜘蛛の子が銀色の糸なびかせながら空中を流れている現象をさす。和歌ではその「遊絲」を題として「いとゆう」がつくられたものか、

ともある(日本語源大辞典)。そして、

「遊絲」が空中をあるかなきかに浮遊する現象であるため、地面から立ちのぼる大気が揺らめいてみえる気象現象の「陽炎(かげろう)」との混乱が生じたとされる、

とある(仝上)。しかし漢語「遊絲」には、

陽炎(かげろう)、

の意味もあり(字源)、

陽炎、
野馬、

と同義とある(仝上)。因みに、「野馬」は、

野馬也、塵埃也、生物之以息相吹也(逍遥遊)、

と、

陽炎、

の意で、

遊気蔽天、日月失色(晋書)、

とある、

空中にたなびく雲気、

の意の、

遊気、

とも、意味は少しずれるが、重なる(仝上)とある。ついでに「陽炎」は、

陽焔、

と同じで、

龍樹大士曰、日光者微塵、風吹之野中轉、名之爲陽焔(庶物異名疏)、

と、

遊絲、

と同義(仝上)とある。このため、たしかに、室町末期「三体詩」の注釈書の総称「三体詩抄」に、

三月の時分に、日ののどかなる頃に、野外などに出て見れば、空中にちろちろと日に輝いて糸のやうなるものが見ゆるぞ、……本邦にて、いというと云ふ物ぞ、

とあるものの、鎌倉中期の「万葉集」の注釈書「仙覚抄(万葉集註釈)」(仙覚)には、

かげろふとは、春になりぬれば、日のうららかにてりたるに、炎のもゆるやうに見ゆるなり。いとゆふもおなじことなり、

と、同一視している。ちなみに、

いという、

を、歴史的仮名遣、

いとゆふ、

とするのは平安時代以来の慣用による(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。

いという、

は、

あそぶいと(遊ぶ糸)、

ともいうのは、

漢語に陽炎を、遊絲とも云ふを、文字読みに、あそぶいとと云ふなり、それを、几帳の絲結(いとゆひ)の浮遊(あそ)び揺曳(ゆらめ)くに寄せ、陽炎のたなびくに見立てて、あそぶいとゆふ云ふらむ、それを上略して、いとゆふとのみも云ふ、漢語の遊絲も、揺曳する絲の意なるべし、

とあるように、

遊絲、

の文字読みである(大言海)が、

陽炎の異称、

でもある(仝上)とする。大言海は、これをもとに、

いとゆふ、

の語源を、

漢語「遊絲」の文字読みアソブイトを、几帳のイトユヒ(絲結)に寄せてアソブイトユウと云ふ。その上略、

とする(仝上・碩鼠漫筆)。

糸結(いとゆひ)、

は、

夕暮れに、公達、御簾あげて、いとゆひの御几帳ども、立てわたし(宇津保物語)、

と、

几帳(きちょう)の飾りに懸くる緒の、處處揚巻に結ひて垂れたるもの、

をいい(大言海)、「揚巻」とは、

輪を左右に出し、中を石畳 (いしだたみ) に結び、房を垂らす、

のを言う。

普通に考えると、

いとゆふ、

いとゆひ、

の先後は、逆かもしれない。別に、

イト(糸)タユタフの義(日本語原学=林甕臣)、

ともあり、

遊絲、

から見ると、こちらのような気がするが、

遊絲、

の受容仮定を考えると、後付けの説のように思えなくもない。

陽炎(かげろう)、

は、

(揺れて光る意の)かぎろふの転。ちらちらと光るものの意が原義。あるかなきかの、はかないものの比喩に多く使う(岩波古語辞典)、
かぎろひ、カゲロヒの転(和訓栞)、
カギロヒの転(大言海)、

とあり、

かぎろひ、

は、

陽炎、
火光、

などと当て(大言海・日本語源大辞典)、

カガヨフ・カグツチ(迦具土・火神)と同根。揺れて光る意。ヒは火(岩波古語辞典)、
爀霧(カガキラヒ)の約轉(軋合(きしりあ)ひ、きしろひ)、かぎろふと云ふ動詞の名詞形なるか、かげろふと云ふ動詞あり、此轉なるべし(大言海)、
カギルヒ(R日・R火)の転呼。カギルは、カガヤクと同義(雅言考・日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々あるが、

ともし火の影にかがよふうつせみの妹が笑(え)まひし面影見ゆ(万葉集)、

の、

静止したものがきらきらと光って揺れる、

の意の、

かがよふ、

とつながるのではあるまいか。

漢字「遊」(漢音ユウ、呉音ユ)は、「遊ぶ」で触れたように、

会意兼形声。原字には二種あって、ひとつは、「氵+子」の会意文字で、子供がぶらぶらと水に浮くことを示す。もうひとつは、その略体を音符とし、吹き流しの旗の形を加えた会意兼形声文字(斿)で、子供が吹き流しのようにぶらぶら歩きまわることを示す。游はそれを音符とし、水を加えた字。遊は、游の水を辶(足の動作)に入れ替えたもの。定着せずに、揺れ動くの意を含む、

とあり(漢字源)、原義は、「きまったところに留まらず、ぶらぶらする」意である。別に、

会意形声。「辵」+音符「斿」、「斿」は「㫃」+音符「汓」、「汓」は子供が水に浮かぶ様、「㫃」は旗を持って進む様子であり、あわせて旗などがゆらゆら動く様を言う。「游」と同音同義、「游」は説文解字に採録されているが、「遊」は採録されておらず、「游」の水のイメージを、「辵」に替え陸上の意義にしたものかhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%8A

とあるのは、同趣旨だが、別に、

辵と、ゆれうごく意と音とを示す斿(ゆう)とから成り、ゆっくり道を行く、ひいて「あそぶ」意を表わす(新字源)、

会意兼形声文字です(辶(辵)+斿)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「旗が風になびく象形」と「乳児(子供)の象形」から子供が外で「あそぶ」を意味する「遊」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji416.html

等々の解釈もある。

「絲(糸)」(@シ、A漢音ベキ、呉音シャク)は、

会意文字。絲は、糸(ベキ)を二つ並べたもので、より糸のこと。いま、ベキ(糸)をシ(絲)の略字に使ってシとよむ。小さく細かい意を含む、

とある(漢字源)。@は、「いと」の意。Aは蚕の繭からとった細い原糸、中国では綫(セン)・線といい、糸(シ)とはいわない(仝上)とする。同趣旨で、

@(糸)象形。繭からつむぎ出してより合わせた細い生糸の形にかたどり、よりいと、ひいて「いと」の意を表す。教育用漢字はこれによる、
A(絲)会意。糸を二つならべて、蚕が引き続いてはき出す、きいとの意を表す。また、「いと」の総称とされる、

とも(角川新字源)、

(糸は)象形文字です。「よりいと」の象形から「いと」を意味する「糸」という漢字が成り立ちました(「絲」は会意文字です)、「糸」は「絲」の略字です、

ともhttps://okjiten.jp/kanji193.htmlあるが、これらの説が根拠とする、『説文解字』では、

「糸」は「覛(ベキ)」と読み「絲」とは別字として扱われているが、それを支持する証拠はない。甲骨文字や金文では「糸」と「絲」の用法には違いがない、

としhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B3%B8

象形。束ねた糸を象る「いと」を意味する漢語{絲 /*sə/}を表す字、

とする(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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ほだし


あはれてふことこそうたて世の中を思ひ離(か)れぬほだしなりけれ(古今和歌集)、

の、

ほだし、

は、もともと、

馬などの足かせで、行動を束縛するもの、

で、そこから、

「束縛」「妨げ」などの抽象的な意味に広がる、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)が、ここでは、

「あはれ」ということばが、まるで「物」のように、我身をこの世に縛り付けている、というイメージ、

と注釈する(仝上)。

ほだし、

は、

絆し、

と当て、

馬の足などをつなぐこと、

つまり、

馬の足になわをからませて歩けないようにすること、

をいい、それに用いる、

なわ、

の意もある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。和名類聚抄(931〜38年)鞍馬具の項に、

絆、保太之、

類聚名義抄(11〜12世紀)に、

絆、ホダシ、キヅナ、ナハ、カケナハ、

天治字鏡(平安中期)に、

絆、馬前足波志利、保太之、

字鏡(平安後期)に、

覊、保太之、

とある。どうやら、

馬の脚を縄でからめること、

のようであるが、そこから、

夜中独り坐して経を誦す。鏁(ホタシ)忽ちに自ら解けて地に落ちぬ(「冥報記長治二年点(1105)」)、

と、

自由に動けないように人の手足にかける鎖や枠(わく)など、手かせ、足かせ、

の意となり、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

桎、ホダシ、

とあるように、意味が広がり、

ほだせ、
ほだ、

ともいい、さらに、上記の歌のように、

人の心や行動の自由を束縛すること、
人情にひかれて、自由に行動することの障害となること、
また、そのようなもの、

の意と、抽象度が上がって、

きずな、

と意味が重なっていく(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。この由来は、

フモダシ(踏黙)の約(大言海・万葉代匠記・俗語考・日本語源=賀茂百樹)、
ホタシ(鋜為)の義(言元梯)、

等々ある。この、

ふもだし、

も、

絆、

と当て(精選版日本国語大辞典)、

馬にこそ布毛太志(フモダシ)懸くもの牛にこそ鼻縄(はななは)はぐれ(万葉集)、

とある(「鼻縄」は、牛の鼻につける縄。はなづな)、

馬の足をつなぐ綱、

をいい(日本語源大辞典)、

ほだし、

ともいい(岩波古語辞典)、

踏黙(フミモダシ)の約にて、蹈むことを止む意かと云ふ、

とあり(大言海)、

ほだし、

は、

さらに約めたるなりと云ふ、

とある(仝上)。この動詞が、

ほだす、

で、

馬などを繋いで離れないようにする、

意から、やはり、転じて、

政務にほだされ、……当来の昇沈を顧みず(平家物語)、

と、

自由に動けないようにつなぎ止める、
人の自由を束縛する、

意や、

宿世つたなきかなしきこと、この男にほだされて(伊勢物語)、

と、

逃げようにも逃げられない気持ちになる、この、

ほだす、

の受動形、

ほだされる、

は、

自由を束縛される、

意で、

情にほだされる、

は、

人情にひかれて自由に行動できないこと、

をいい、

心がほだされる、
気持がほだされる、

と、癒される意味に誤用されることがある。これは、

ほぐされる、

からの連想かもしれない(日本語源大辞典)とある。

「絆」(漢音呉音ハン、慣用バン)は、

形声、「糸+音符半(ハン)」。ひもをぐるぐる巻いてからめること、

とある(漢字源)。別に、

形声。糸と、音符(ハン)とから成る。「きずな」の意を表す(角川新字源)、

形声文字です。「より糸」の象形(「糸」の意味)と「2つに分かれている物の象形と角のある牛の象形」(「牛のような大きな物を2つに分ける」の意味だが、ここでは、「攀(はん)」に通じ、「引き繋ぐ」の意味)から、「きずな」を
意味する「絆」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji46.html

などともある。

なお、冒頭の歌の、

うたて、

は、「うたたね」で触れたように、

うたた

が、

うたてと同根、

とあり(広辞苑)、

ウタテの転(大言海)、

とも、

うたて、

が、

ウタタの転、

と、

平安時代には多くは「うたてあり」の形で使われ、事態のひどい進行を諦めの気持で眺めている意、

とし(岩波古語辞典)、

ウタタの転。物事が移り進んでいよいよ甚だしくなってゆくさま。それに対していやだと思いながら、諦めて眺めている意を含む、

とあり(仝上)、「うたた」と「うたて」は、

うたた→うたて、

うたて→うたた、

かの、両説あるが、

うたて、

は、

物事が移り進んでいよいよ甚だしくなってゆくさま、それに対して嫌だと思いながら、諦めて眺めている意、

であり(岩波古語辞典)、

度合いがとどめようもないさま、ますます、いよいよ激しく(万葉集「いつはなも戀ひずりありとはあらねどもうたてこころ戀ししげしも」)、
普通でなく、異様に(古事記「うたて物云ふ王子(みこ)ぞ。故(かれ)慎み給ふべし」)、
(こちらの気持にかまわずにどんどん進行していく事態に出会って)いたたまれないさま、なんともしょうがないさま(土佐日記「このあるじの、またあるじのよきを見るに、うたて思ほゆ」)、
いやで気に染まないさま、なじめず不快に(枕草子「鷺はいとみめも見苦し。まなこゐなどもうたてよろづになつかしからねど」)、
嘆かわしく、なさけなく(平家物語「あれ程不覚なる者共を合戦の庭に指しつかはす事うたてありや、うたてありやと言って」)、
(「あな〜」「〜やな」の形で軽く詠嘆的に)いやだ(宇津保「あなうたて、さる心やは見えし」)、

等々の意があり(仝上)、

片腹痛く、笑止、

の意味すらもつ(大言海)。ある意味、意に染まぬ進行に、

不愉快、
いたたまれない、
嫌で気に染まない、
なげかわしい、

といった気持を言外に表している。不快感から、

嫌悪感、

そして、

蔑み、

へと意味が変わっていく感じである。

どんどん、
とか、
甚だしい、

という副詞的な背後にも、

どうにもならない、

という気持ちがある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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比目(ひもく)


得成比目何辭死(比目(ひもく)を成すを得ば何ぞ死を辭せん)
願作鴛鴦不羨仙(願わくば鴛鴦(えんのう)と作(な)りて仙を羨まず)
比目鴛鴦眞可羨(比目、鴛鴦、眞に羨やむべし)
雙去雙來君不見(雙(なら)び去り雙(なら)び來(きた)る、君見ずや)(盧照鄰・長安古意)

の、

比目、

は、

東方の海に棲むという魚。雌雄が片目ずつ持っていて、泳ぐときには双方が寄りそい、両目になって進むと言われ、仲の良い夫婦のたとえに用いられる、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

鴛鴦、

と同義である。中国最古の字書『爾雅』(秦・漢初頃)に、

東方有比目魚焉、不止不行、其名謂之鰈、比翼鳥其名謂之鶼(ケン)、

とあり、朝鮮の異名ともされる、

鰈域、

は、

東海致比目之魚、西海致比翼之鳥(漢書・郊祀志)、

と、

東海に鰈魚を産するにより名づく、

とあり(字源)、朝鮮近海を、

鰈海、

という(仝上)。「鰈」(漢音呉音トウ、チョウ)は、

カレイ、

を指すが、

ヒラメ、カレイの類の総称、

でもあり、

比目魚(ひもくぎょ)、
板魚、
王餘魚、

ともいう(字源)。「王餘魚」は、爾雅の註に、

比目魚、河東呼為王餘、

とあり、

カレイの異名、

である。多く、

比目魚、

と表記する。

比目(ヒモク)、

は、

ヒボク、

とも訓ませ、文字通り、

目を並べること、

だが、上記のように、

目がおのおの一つしかなく、二匹並んで泳ぐという想像上の魚、

を指し、

夫婦または友人の仲の良いたとえ、

として使う(大辞林)。

カレイ、

は、

比目魚、

と当て、

ヒラメ、

に、

平目、

と当てたりする(大言海)。ヒラメ(鮃)は、

カレイ目カレイ亜目ヒラメ科に属し、ヒラメ科とダルマガレイ科に属する魚の総称である、

とあり、

有眼側(目のある方)が体の左側で、また口と歯が大きいのが特徴、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%83%A1)

カレイ(鰈)は、

カレイ目カレイ科に分類される魚類の総称、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%82%A4

日本では、

左ヒラメに右カレイ、

といって区別するが、例外が多く、

目の付き方、

が異なり、ヒラメは、

目が埋まったように付いており、上を見ることが得意な付き方をしています、

カレイは、

少し飛び出たように目がついており、キョロキョロと周囲を見渡すことができるようになっています、

とある(https://tsurinews.jp/45688/)

なお、「ヒラメ」、「カレイ」については触れたことがある。

「比」(漢音呉音ヒ、呉音ビ)は、

会意文字。人が二人くっついて並んだことを示すもの、

とあり(漢字源)、同趣旨で、

会意。人がふたり並んでいるさまにより、「ならぶ」、ひいて「くらべる」意を表す(角川新字源)、

会意文字です。「人が二人並ぶ」象形から、、「ならぶ」を意味する「比」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji867.html

等々とあるが、この根拠となる、『説文解字』では、

人が二人並んだ形で「从」を左右反転させた文字であると解釈されているが、甲骨文字から現代に至るまで「人」字と「匕」字は一貫して形状が異なるため、この分析は誤りである、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AF%94

形声。音符「匕 /*PI/」を二つ並べた文字[字源 1]。「ならぶ」「ならべる」を意味する漢語{比 /*piʔ/}を表す字。のち仮借して「くらべる」を意味する漢語{比 /*pis/}に用いる、

とする(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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桃李蹊


倶遨侠客芙蓉剣(倶(とも)に遨(むか)う侠客芙蓉の剣)
共宿娼家桃李蹊(共に宿る娼家桃李の蹊(けい))(盧照鄰・長安古意)

の、

桃李蹊、

は、

蹊は小道、桃や李の花咲く小道、

をいい、「漢書」李陵伝に引用されていることわざに、

桃李は言わざれども、下自ずから蹊をなす、

とあるのをふまえる(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

桃李(トウリ)、

は、

何彼穠矣、華如桃李(詩経)、

と、

桃とすもも、

あるいは、

桃の花とすももの花、

意で、万葉集にも、

眺矚春苑桃李花作二首、

として、

春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女、

とあり、さらに、転じて、

一日声名徧天下、満城桃李属春官(劉禹錫「継和礼部王侍郎放榜後詩」)、

によって、

試験官が採用した門下生、
自分が推挙した人材、
自分がとりたてた弟子、

といった意味にも使われ、

姚元崇等數十人、皆狄仁傑所薦、或謂仁傑曰、天下桃李、盡在公門矣、仁傑曰、薦賢為國、非為私也(唐書)、

とあり(字源・精選版日本国語大辞典)、優秀な門下生が多く集まることを、

桃李門に満つ(とうりもんにみつ)、

ともいうhttps://kokorogoan.com/proverb-tourimonoiwazaredomoshitaonozukaramichiwonasu/

桃李蹊、

の、

桃李不言下自成蹊(桃李は言わざれども下自ずから蹊をなす)、

は、

桃李は華實あるを以て、招かざれども、人争ひ赴きて徑(こみち)を成す、

意で、

徳ある人は言わざれども、人自ら帰服するに喩ふ、

とある(字源)。

史記・李将軍傳讃贊に、

太史公曰、傳曰、其身正、不令而行、其身不正、雖令不従、其李将軍之謂也、余睹李将軍、悛悛如鄙人、口不能道辞、及死之日、天下知與不知、皆為盡哀、彼其忠實心、誠信於士大夫也、諺曰桃李不言下自成蹊、此言雖小、可以喩大也、

とある。李将軍とは、

李広、

のことでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%BA%83に詳しい)、最後は、匈奴との戦いに遅れたことを大将軍衛青に咎められ、

広結髪与匈奴大小七十余戦。今幸従大将軍出接単于兵、而大将軍又徙広部。行回遠、而又迷失道。豈非天哉。且広年六十余矣。終不能復対刀筆之吏。遂引刀自剄(広結髪してより匈奴と大小七十余戦す。今幸ひに大将軍に従ひ出でて単于の兵接せんとするも、大将軍又広の部を徙せり。行回遠にして、又迷ひて道を失ふ。豈に天に非ずや。且つ広は年六十余なり。終に復た刀筆の吏に対する能はず。遂に刀を引きて自剄す)、

と自裁するhttp://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/ShikiPP/LastOfRiKoh.html。李広には、

李広は虎に母を食べられて、虎に似た石を射たところ、その矢は羽ぶくらまでも射通した。のちに石と分かってからは矢の立つことがなく、のちに石虎将軍といわれた、

という伝説もある。

「蹊」(漢音ケイ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。「足+音符蹊(ケイ ひも、ひものように細い)」、

とある(漢字源)。「こみち」の意である。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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桑田碧海


節風風光不相待(節風風光、相待たず)
桑田碧海須臾改(桑田碧海、須臾にして改まる)(盧照鄰。長安古意)

の、

桑田碧海(そうでんへきかい)、

は、

麻姑という仙女が王方平という仙人と宴会をしたとき、「この前お会いしてから、東の海が桑畑に変わり、また海になったのを三度みました」と語ったという故事にもとづく。人の世の変転のはげしいことにたとえる、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

桑田碧海、

は、

桑田変成碧海、

つまり、

桑田変じて碧海となる、

意で、

已見松柏摧為薪、更聞桑田変成海(劉廷芝)、

獨往不可羣、滄海成桑田(儲光義)、

等々漢詩でしばしば見かけ、

滄桑之変(そうそうのへん)、
滄海桑田(そうかいそうでん)、
桑海之変(そうかいのへん)、
桑田滄海(そうでんそうかい)、
陵谷遷易(りょうこくせんえき)、
陵谷之変(りょうせんのへん)、

等々とも言い(字源)、

陵谷遷易(りょうこくせんえき)、

の、

遷易、

は、

天道有遷易、人理無常全(陸機)、

と、

移り変わる、

意で、

陵谷易處、

というと、

陵谷易處、列星失行(漢書)、

と、

高下其の位をかえ、尊卑その順序を失う、

義になる(仝上)。

また、すこし時間のスケールが小さくなるが、

古墓鋤為田、松柏摧為薪、白楊多悲風、蕭蕭愁殺人(文選)、

の、

古墓鋤かれて田と為り松柏摧かれて薪(たきぎ)となる、

というのも同じ意味になる(故事ことわざの辞典)。

桑田碧海、

の元は、晋代の「神仙伝」にあり、

漢の桓帝の時代、神仙の王遠とともに麻姑が蔡経の家に降臨し、そこで宴会を開き神仙世界のことを語った、

という記事が見え、麻姑(まこ)の言葉の中で、

以前お会いしてから、すでに東の海が干上がって桑畑になり、また海に戻るのを三度見ました、

とある(四字熟語を知る辞典)のによる。

麻姑(まこ)、

は、

その容姿は歳の頃18、19の若く美しい娘で、鳥のように長い爪をしている、

という
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E5%A7%91。蔡経は、その爪をみて、

長爪の仙女。「まごの手」は麻姑の手。〔太平広記、六十、麻姑〕姑は鳥爪なり。經之れを見て、心中に念言す。背の大いに癢(かゆ)き時、此の爪を得て以て背を爬(か)かば、當(まさ)に佳なるべし、

と(字通)思う。この結果、王遠に背を鞭で打たれることになるのだが、この、

麻姑の手、

が、転じて、

孫の手、

となったとされる(世界大百科事典・精選版日本国語大辞典)所以である。

「碧」(漢音ヘキ、呉音ヒャク)は、

会意兼形声。「玉+石+音符白(ほのじろい)」。石英のようなほの白さが奥にひそむあお色。サファイア色、

とある(漢字源)。別に、

形声文字、音符「珀」+ 「石」
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A2%A7
形声。石と、玉(王は省略形。たま)と、音符白(ハク)→(ヘキ)とから成る(角川新字源)、
会意兼形声文字です(王(玉)+白+石)。「3つの玉を縦の紐で貫き通した」象形(「玉」の意味)と「頭の白い骨又は、日光又は、どんぐりの実」の象形(「白い、輝く」の意味)と「崖の下に落ちている石」の象形(「石」の意味)から、「輝きのある玉のような石」を意味する「碧」という漢字が成り立ちました
https://okjiten.jp/kanji2357.html

等々ともある。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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鶴髪


宛轉娥眉能幾時(宛轉たる娥眉、能く幾時ぞ)
須臾鶴髪亂如絲(須臾にして鶴髪(かくはつ) 亂れて絲の如し)(劉廷芝・代悲白頭翁)

の、

鶴髪(かくはつ)、

は、

鶴のように白い髪、北周の庾信の「竹杖の賦」に、老人を形容して、「鶴髪雞皮」とあるのにもとづく、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。つまり、

鶴髪(かくはつ)、

は、

鶴髪雞皮
蓬頭歷歯(庾信(ゆしん)「竹杖賦」)、

と、

白髪(しらが)、

の意である(大言海)が、

鶴髪童顔、
童顔鶴髪、

という言い方がある。

頭は白髪であるが、顔がつやつやして子供のようであること、

また、

そういう人、

を指して言う(広辞苑)。

老人の元気のあること、
老いてなお精気盛んなこと、

である(新明解四字熟語辞典)。

鶴髪、

を訓読した、

鶴の髪(つるのかみ)、

という言い方もする(広辞苑)。

劉廷芝(りゅうていし)、

の、

廷芝、

は字、

庭芝、

とも、

劉希夷(りゅうきい)、

として知られるが、一説に、

名が庭芝で字が希夷、

ともいわれる(ブリタニカ国際大百科事典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%B8%8C%E5%A4%B7)。

代悲白頭翁、

の、

年年歳歳 花相似たり
歳歳年年 人同じからず

がよく知られている(前野直彬注解『唐詩選』)。

「鶴」(漢音カク、呉音ガク)は、

会意兼形声。隺(カク)は、鳥が高く飛ぶこと、鶴はそれを音符とし、鳥を加えた字。確(固くて白い石)と同系なので、むしろ白い鳥と解するのがよい、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。鳥と、隺(カク)(つる)とから成る(角川新字源)、


会意兼形声文字です(隺+鳥)。「横線1本、縦線2本で「はるか遠い」を意味する指事文字と尾の短いずんぐりした小鳥の象形」(「鳥が高く飛ぶ」の意味)と「鳥」の象形から、その声や飛び方が高くて天にまでも至る鳥「つる」を
意味する「鶴」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2168.html

などともある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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烏號


赤土流星剣(赤土(せきど) 流星の剣)
烏號明月弓(烏號(うごう) 明月の弓)(楊烱・送劉校書従軍)

の、

赤土、

は、

晋の雷墺が張華の指示に従って地を掘り、名剣を得た。これを華陰(陝西省)に産する赤土で磨くと、更に光輝を増した、

とされ、

流星剣、

は、

呉の孫権が持っていた六振りの宝剣の一つとされる、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

因みに、孫権の持つとされる、

六振りの剣、

とは、

白虹・紫電・辟邪・流星・青冥・百里、

と命名されており、ほかに、孫権は、

百錬・青犢・漏影、

の名をもつ、

三振りの宝刀、

をも所持していた。中国では、直身で(先のとがった)両刃の物を、

剣、

片刃の物を、

刀、

と呼ぶとされる(中国語辞典)。

烏號、

は、

弓の名、

とあり(前野直彬注解『唐詩選』)、

上古の帝王、黄帝(こうてい)が大きな鼎を作り、それが完成したとき、空から龍が降りてきたので、黄帝は龍に乗って昇天した。群臣があとをしたい、龍のひげをつかむと、ひげが抜け、また黄帝の弓が落ちた。人々はこれを抱いて泣いたので、号泣の意味で烏號と名づけた、

といい(仝上)、また別に、

烏が桑の木にとまり、また飛ぼうとするとき、その枝が強靭で弾性に富む場合は、しなうので飛び立てなくなる。そこで烏が鳴きわめくから、その枝を伐って弓を作れば、よい弓が得られる。これを烏號と呼ぶ、

ともいわれる(仝上)。『史記』封禅書には、

黄帝采首山銅、鑄鼎於荊山下。鼎既成、有龍垂胡髯下迎黃帝。黃帝上騎、群臣後宮從上者七十餘人、龍乃上去。餘小臣不得上、乃悉持龍髯、龍髯拔、墮、墮黃帝之弓。百姓仰望黃帝既上天、乃抱其弓與胡髯號、故後世因名其處曰鼎湖、其弓曰烏號、

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7028

百姓仰望するに、黄帝既に天に上る。乃ち其の弓と胡(こぜん)とを抱きて號(な)く。故に後世、因りて其の處を名づけて鼎湖と曰ひ、其の弓を烏號(をごう・おごう)と曰ふ、

とある(字通)。で、後世、

其弓曰烏號、

と(字源)。この、

烏號、

の「烏」は、

漢音は「ヲ(オ)、呉音・唐音は「ウ」、

である(漢字源)。

黄帝、

は、

三皇五帝のひとり、

で、

三皇は神、
五帝は聖人

とされ、諸説あるが、『史記』三皇本紀では、三皇を、

伏羲、女媧、神農、

とし、

天皇・地皇・人皇という説も並記しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9A%87%E4%BA%94%E5%B8%9D

五帝、

も、諸説あるが、『史記』五帝本紀では、

黄帝・顓頊(せんぎょく)・嚳(こく)・堯・舜、

とし、司馬遷は、

黄帝伝説は史実とは思っていないが、黄帝伝説のあるところに限って共通の民俗風土があり、いくばくかの史実が紛れ込んでいることは否定できない。よって、これらを記録することに価値を見出すものである、

と断って(仝上)、

五帝を歴史の範疇内、

に置き、彼から中国史を記述しはじめている(旺文社世界史事典)。黄帝は、

姓は公孫、名は軒轅であるといわれる。諸侯を攻める炎帝(神農氏)を阪泉(河北涿鹿(たくろく)県北西)にやぶり、反乱を起こした蚩尤(しゆう)を涿鹿で殺し、帝位につく。四方を平定し、天地自然の運行を調和させ、衣服、舟車、家屋、弓矢などの生活用具を初めてつくるとともに、文字、音律、暦などを制定し、また薬草を試用して人民に医術を教えるなど、人類に文化的生活を享受させた最初の帝王、

とされる(世界大百科事典・日本大百科全書)。で、中国人は、黄帝を漢族の祖先と考えた(旺文社世界史事典)。伝説中の帝王であることは言うまでもないが、戦国時代の斉国の青銅器銘文では、黄帝を高祖と呼んでいるから、東方地域の人々の間には、黄帝を始祖とする伝承があったことはあきらかである(デジタル大辞泉)。司馬遷が、

いくばくかの史実が紛れ込んでいる、

と言っているのはこの辺りを指している。『史記』では、中国の歴史を黄帝から始め、

黄帝以下の顓頊(せんぎよく)・帝嚳(ていこく)・尭・舜、夏殷周三王朝の始祖をすべて黄帝の子孫、

と説明し、黄帝を、

黄河流域の古代文明の始祖、

とみなしていた(仝上)。

「烏」(漢音ヲ(オ)、呉音・唐音ウ)は、

象形。カラスを描いたもの。アと鳴く声をまねた擬声語、

とある(漢字源)。そこから、黒い」、「黒色」を意味も意味する(https://okjiten.jp/kanji2246.html)。なお、

象形。上を向いて鳴くカラスの形。古くはカラスは目の位置が分からないので「鳥」の横線を欠いたともいわれたが、鳥類をかたどった漢字の甲骨文には目と思われる部分はめったに無く、また金文中では、正面を向いた鳥を象った「鳥」字と、上を向き口を開けて鳴くカラスを象った「烏」字の形状は大きく異なるためこの説は誤りである、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%83%8F

カラスは全身真っ黒で目がどこにあるかわからないことから、「鳥」の字の目の部分の一画を外して「烏」とした、

との説(角川新字源)は、「鳥」の象形を見ると、それが妥当な説明ではないことがわかる。「」については触れた。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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沙棠の舟


木蘭之竝ケ棠舟(木蘭の(かい) 沙棠舟)
玉簫金管坐兩頭(玉簫金管 兩頭に坐す)(李白・江上吟)

の、

沙棠(しゃとう)、

は、

崑崙山に生えるという木、

で、それで作った舟を、

沙棠舟、

という(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

沙棠、

は、

舟材に用いる、

とあり(字通・字源)、

崑崙之丘有木焉、其状如棠、黄葉赤實、其味如李而無核、名曰沙棠、可以禦火、食之使人不溺、焉舟不沈(山海経)、

とあり、この前漢の地理書『山海経』を受けて、梁の志怪小説集『述異志』には、

漢成帝常趙飛燕、游太液池以沙棠木為舟、其木出崑崙山、人食其實入水不溺、詩曰安得沙棠木、刳以為舟舩、

とある(「志怪小説」については触れた)。

崑崙山(こんろんさん・こんろんざん)」は、

中国古代の伝説上の山、

で、「崑崙」は、

昆侖、

とも書き、

霊魂の山、

の意で、

崑崙山(こんろんさん、クンルンシャン)、
崑崙丘(きゅう)、
崑崙虚(きょ)、
崑山、

ともいい(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%91%E5%B4%99・ブリタニカ国際大百科事典)、中国の古代信仰では、

神霊は聖山によって天にのぼる、

と信じられ、崑崙山は最も神聖な山で、大地の両極にあるとされた(仝上)。中国北魏代の水系に関する地理書『水経(すいけい)』(515年)註に、

山在西北、……高、萬一千里、

とあり、中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』には、

崑崙……高萬仞、面有九井、以玉為檻、

とあり、その位置は、

瑶水(ようすい)という河の西南へ四百里(山海経)、

とか、

西海の南、流沙(りゅうさ)のほとりにある(大荒西経)、

とか、

貊国(はくこく)の西北にある(海内西経)、

と諸説あり、

その広さは八百里四方あり、高さは一万仞(約1万5千メートル)、

あり、

山の上に木禾(ぼっか)という穀物の仲間の木があり、その高さは五尋(ひろ)、太さは五抱えある。欄干が翡翠(ひすい)で作られた9個の井戸がある。ほかに、9個の門があり、そのうちの一つは「開明門(かいめいもん)」といい、開明獣(かいめいじゅう)が守っている。開明獣は9個の人間の頭を持った虎である。崑崙山の八方には峻厳な岩山があり、英雄である羿(げい)のような人間以外は誰も登ることはできない。また、崑崙山からはここを水源とする赤水(せきすい)、黄河(こうが)、洋水、黒水、弱水(じゃくすい)、青水という河が流れ出ている、

とあるhttp://flamboyant.jp/prcmini/prcplace/prcplace075/prcplace075.html。『淮南子(えなんじ)』(紀元前2世紀)にも、

崑崙山には九重の楼閣があり、その高さはおよそ一万一千里(4千4百万キロ)もある。山の上には木禾があり、西に珠樹(しゅじゅ)、玉樹、琁樹(せんじゅ)、不死樹という木があり、東には沙棠(さとう)、琅玕(ろうかん)、南には絳樹(こうじゅ)、北には碧樹(へきじゅ)、瑶樹(ようじゅ)が生えている。四方の城壁には約1600mおきに幅3mの門が四十ある。門のそばには9つの井戸があり、玉の器が置かれている。崑崙山には天の宮殿に通じる天門があり、その中に県圃(けんぽ)、涼風(りょうふう)、樊桐(はんとう)という山があり、黄水という川がこれらの山を三回巡って水源に戻ってくる。これが丹水(たんすい)で、この水を飲めば不死になる。崑崙山には倍の高さのところに涼風山があり、これに昇ると不死になれる。さらに倍の高さのところに県圃があり、これに登ると風雨を自在に操れる神通力が手に入る。さらにこの倍のところはもはや天帝の住む上天であり、ここまで登ると神になれる、

とある(仝上)。

「沙」(漢音サ、呉音シャ)は、「沙喝」で触れたように、

会意。「水+少(小さい)」で、水に洗われて小さくばらばらになった砂、

とあるが、別に、

象形。川べりに砂のあるさまにかたどる。水べの砂地、みぎわの意を表す

とも(角川新字源)、

会意文字です(氵(水)+少)。「流れる水」の象形と「小さな点」の象形から、水の中の小さな石「すな(砂)」を意味する「沙」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2096.html

「棠」(漢音トウ、呉音ドウ)は、

形声、「木+音符尚」、

とあり(漢字源)、「甘棠(カントウ やまなし)」「海棠(カイドウ)」の意である。別に、

形声、声符は尙(尚)(しよう)。尙に堂(どう)・當(当)(とう)の声がある。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に「牡を棠(やまなし)と曰ひ、牝を杜(あかなし)と曰ふ」とあり、甘棠をいう、

ともある(字通)。「尚」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、

会意文字。「向(まど)+八(わかれる)」で、空気抜きの窓から空気が上に立ち上って、分散することを示す。上、下に上がるの意を含む。また、上に持ちあげる意から、あがめる、とうとぶ、身分以上の願いなどの意を派生し、また、その上になお、の意を含む副詞となる、

とある(漢字源)。しかし、これは、『説文解字』の、

「八」+「向」、

という分析をもとにしているが、金文の形を見ればわかるように、これは誤った分析である、

として、

象形。建物を象る。「たかどの」を意味する漢語{堂 /*daang/}を表す字。のち仮借して「そのうえ」を意味する漢語{尚 /*daangs/}に用いる、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%9A。なお、類聚名義抄(11〜12世紀)では、

棠 ヤマナシ・アマシ・サス・ツク・ヨル、

と訓ませている(字通)。因みに、

甘棠(かんとう・かんどう)、

というと、

かんとう(甘棠)の詠(えい)、

の故事をふまえて、

ずみ(桷 漢名「棠梨(とうり)」)の古名、

として用いられる。

この故事は、

周の宰相召公奭(しょうこうせき 召伯)が甘棠樹の下で民の訴訟を聞き、公平に裁断したので、民が召公の徳を慕い甘棠の詩(「詩経‐召南」)をつくりうたったという、

ところからいうらしい(精選版日本国語大辞典)。『詩経』「国風・召南」には、

蔽芾甘棠(蔽芾(へいひ)たる甘棠)
勿翦勿伐(翦(き)る勿(なか)れ伐(き)る勿れ)
召伯所茇(召伯の茇(やど)りし所)

蔽芾甘棠(蔽芾たる甘棠)
勿翦勿敗(翦る勿れ敗る勿れ)
召伯所憩(召伯の憩ひし所)

蔽芾甘棠(蔽芾たる甘棠)
勿翦勿拝(翦る勿れ拝(ぬ)く勿れ)
召伯所説(召伯の説(やど)りし所)

とありhttp://www.atomigunpofu.jp/literary%20works/China_classic/shikyo_kokufu_shonan_kanto.htm

甘棠(かんとう)の詠(えい)、

は、

人々が為政者の徳をたたえること、

をいう(精選版日本国語大辞典)。『史記』燕世家には、

召公巡行郷邑、有棠樹、決獄政事其下、自侯伯至庶人、各得其所、……民人思召公之政、懐棠樹不敢伐、歌詠之、作甘棠之詩、

とある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

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あやめぐさ


ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな(古今和歌集)、

の、

あやめぐさ、

は、

菖蒲(ショウブ)、

のこと、

節は、五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみぢうをかし(枕草子)、

とあるように、

五月の端午の節句に、その強い芳香によって、邪気を払うため、鬘(かずら)や玉薬をつくり、また軒を葺いた、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。「よもぎ(蓬)」については触れた。

あやめぐさ、

は、

菖蒲草、

と当てる。

サトイモ科のショウブの古名、

で、

初夏に、黄色の細花が密集した太い穂を出す。葉は剣の形で、香気が強いので邪気を払うとされ、五月五日の節句には、魔除けとして軒や車にさし、後世は、酒にひたしたり、湯に入れたり、種々の儀に用いられる。菖蒲の枕、菖蒲の湯、菖蒲刀の類。一方、根は白く、長いものは四、五尺に及ぶので、長命を願うしるしとする。また、根合わせといって、その長さを競う遊びもある、

とある(精選版日本国語大辞典)。本草和名(918頃)に、

昌蒲……昌蒲者水精也、菖蒲 一名菖陽注云石上者名之蓀、一名荃、和名阿也女久佐、

とあり、和名類聚抄(931〜38年)には、

菖蒲、阿夜女久佐、

とある。歌では、枕詞として、

同音反復によって「あや」にかかり、また、「根」を賞するところから「ね」にかかり、「鳴く」「泣く」などの語を導いたり、物の文目(あやめ)に言いかけたりして詠まれることが多い、

とある(仝上)。日本でショウブを、

菖蒲、

と漢字で書き表されるが、中国で正しくは、

白菖、

と書き、「菖蒲」は小型の近縁種である、

セキショウ(石菖)、

を指す漢名であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%96

何れ菖蒲」で触れたことだが、

ショウブ、

は、

晩秋から冬期にかけて地上部が枯れてから、採取した根茎のひげ根を除いて水洗いし、日干しにしたものが生薬の「ショウブコン(菖蒲根)」です。ショウブコンは特有の芳香があり、味は苦くやや風味がある精油を含みます。その水浸剤は皮膚真菌に対し有効であると言われています。また、採取後1年以上経過したものの煎剤は芳香性健胃薬、去痰、止瀉薬、腹痛、下痢、てんかんに用いられます、

とあるhttps://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlように、薬草で、和名は同属の、

セキショウ(石菖)、

の漢名、

菖蒲、

の音読みで、古く誤ってショウブに当てられたらしい(仝上)。

本来、「菖」(ショウ)は、

会意兼形声。「艸+音符昌(ショウ あざやか、さかん)」で、勢いがさかんで、あざやかに花咲く植物、

の意で(漢字源)、「セキショウ」(石菖蒲)の意。「ショウブ」は、

白菖(ハクショウ)、

という。日本では、これを「ショウブ(菖蒲)」というが、「蒲」(漢音ホ、呉音ブ)は、

会意兼形声。「艸+音符浦(みずぎわ、水際に迫る)」、

で、「がま」の意となる(仝上)。

あやめ草、

は、だから、

文目草の義、

とし(大言海)、

和歌に、あやめ草 文目(あやめ)も知らぬ、など、序として詠まる、葉に体縦理(たてすぢ)幷行せり。アヤメとのみ云ふは、下略なり、

とする説もあるが、

菖蒲草、

と当て、

「漢女(あやめ)の姿のたおやかさに似る花の意。文目草の意と見るのは誤り、

とし、

平安時代の歌では、「あやめも知らぬ」「あやなき身」の序詞として使われ、また、「刈り」と同音の「仮り」、「根」と同音を持つ「ねたし」などを導く、

とする説がある。いずれとも決めがたいが、

「ショウブ」の別名、

として、

端午の節句の軒に並べることに因んだノキアヤメ(軒菖蒲)、古名のアヤメグサ(菖蒲草)、オニゼキショウ(鬼石菖)などがあります。(中略)中国名は白菖蒲といいます、

とあるhttps://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlので、

菖蒲草、

と当てる方に与しておく。なお、

あやめ、
かきつばた、
はなあやめ、
しょうぶ、

の区別については、「何れ菖蒲」で触れた。

「菖」(ショウ)は、

会意兼形声。「艸+音符昌(ショウ あざやか、さかん)」で、勢いがさかんで、あざやかに花咲く植物のこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(艸+昌)。「並び生えた草」の象形と「光をはなつ日」の象形から(「明るい」、「良い」、「美しい」の意味)から、良い香りのする草・美しく明るい花を咲かせる「菖蒲(しょうぶ)」を意味する「菖」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2689.html

とあるが、

形声。艸と、音符昌(シヤウ)とから成る(角川新字源)、

と、形声文字とするものもある。

「蒲」(漢音ホ、呉音ブ)は、

会意兼形声。「艸+音符浦(みずぎわ、水際に迫る)」、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(艸+浦)。「並び生えた草」の象形と「流れる水の象形と草の芽の象形と耕地の象形(田に苗を一面に植える意味から、「一面に広がる」の意味)」(「水辺」の意味)から、水辺に生える「がま」を意味する「蒲」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2701.html)

ともあるが、

形声。「艸」+音符「浦 /*PA/」https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%92%B2

形声。艸と、音符浦(ホ)とから成る(角川新字源)、

と、形声文字とするものもある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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はたて


夕暮れは雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人をこふとて(古今和歌集)、

の、

雲のはたて、

は、

漢語「雲端」の訳語であろう。「美人雲端に在り、天路隔たりて期無し」(『玉台新詠』巻一、「雜詩九首・蘭若春陽に寄す」)。「はたて」は端の意味で、雲の端、すなわち、はるか彼方、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

はたて、

は、万葉集に、

嬢子(をとめ)らが插頭(かざし)のために遊士(みやびを)の蘰(かづら)のためと敷(し)き坐(ま)せる国の波多氐(はたて)に咲にける桜の花のにほひもあなに、

と詠われ、

果、
極、
尽、

等々と当て(広辞苑・大辞泉・大言海)、

はて、
かぎり、
際涯、

の意で使われる(仝上)。

漢語「雲端」の訳語であろう、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)が、

極之方(はたつへ)の(大言海)約、
ハタはハテ(極)の古形、テはチと同根、方向の意(岩波古語辞典)、

とある。「東風(こち)」「はやち」の、

風、

と当てる、

ち、

は、転じて、「はやて」のように、

て、

に転ずる(岩波古語辞典・大言海)。

道・方向、

とあてる、

ち、

も、同様に、

て、

に転ずることはあり得る気がする。

ち、

は、

たらちしの母が目見ずて欝(おほほ)しく何方向(いづちむ)きてか吾(あ)が別るらむ(万葉集)、

と、

いづち、
をち、
こち、

など、

道、また、道を通っていく方向の意、独立して使われた例はない。……へ行く道の意で複合語の下項として使われる場合は多く濁音化する、

とある(仝上)。その意味で、

極之方(はたつへ)、

と重なる。

「果」(カ)は、

象形。木の上にまるい実がなったさまを描いたもので、まるい木の実のこと、

とある(漢字源)。他も、

象形。実のなった樹木のさまを象る。「くだもの」を意味する漢語{果 /*koojʔ/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9E%9C)

象形。木に実がなっているさまにかたどり、木の実の意を表す。「菓(クワ)」の原字。借りて、思いきりがよい、また、「はたす」意に用いる(角川新字源)、

象形文字です。「木に実のなる」象形から「木の実」を意味する「果」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「なしとげる」の意味も表すようになりましたhttps://okjiten.jp/kanji689.html)

と、ほぼ同趣旨。「菓」(カ)は、「菓子」で触れたように、

会意兼形声。「艸+音符果(丸い木の実)」

で、「果」と同義。食料とされる果物、木の実の意である(漢字源)。

「極」(漢音キョク、呉音ゴク)は、

会意兼形声。亟(キョク)の原字は、二線の間に人を描き、人の頭上から足先までを張り伸ばしたことを示す会意文字。極は「木+音符亟」で、端から端まで引っ張ったしん柱、

とある(漢字源)。別に、

形声。「木」+音符「亟 /*KƏK/」。「棟木」を意味する漢語{極 /*g(r)ək/}を表す字。のち仮借して「きわみ」を意味する漢語{極 /*g(r)ək/}に用いるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%B5

形声。木と、音符亟(キヨク)とから成る。棟木(むなぎ)の意を表す。棟木が最も高いところにあることから、ひいて「きわめる」意に、また、最高・最上の意に用いる(角川新字源)、

会意兼形声文字です(木+亟)。「大地を覆う木」の象形と「上下の枠の象形と口の象形と人の象形と手の象形」(口や手を使って「問いつめる」の意味)から屋根の最も高い所・二つの屋根面が接合する部分「棟(むね)」、「きわみ」を意味する「極」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji575.html)

等々ともある。

「盡(尽)」(漢音シン、呉音ジン)は、

会意文字。盡は、手に持つ筆の先から、しずくが皿にたれつくすさまを示す、

とある(漢字源)が、別に、

象形。空になった容器をブラシで洗うさまを象る。「つきる」を意味する漢語{盡 /*dzinʔ/}を表す字、

とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9B%A1)

形声。皿と、音符㶳(シン)(は「盡」の上部はその変形)とから成る。容器がからっぽであることから、「つきる」「つくす」意を表す(角川新字源)、

ともあるが、

会意文字です(聿+皿)。「はけを手にした」象形と「うつわ」の象形から、うつわの中をはけではらって空にするさまを表し、そこから、「つきる」、「なくなる」を意味する「尽」という漢字が成り立ちました、

とする(https://okjiten.jp/kanji1382.html)説については、

これは誤った分析である。甲骨文字や金文の形を見ればわかるように「聿」とも「火」とも関係がない、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9B%A1

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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刈菰(かりこも)


刈菰(かりこも)の思ひ乱れて我恋ふと妹(いも)知るらめや人し告げずは(古今和歌集)、

の、

刈菰、

は、

刈り取った菰、

の意で、

思ひ乱れての枕詞、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。枕詞としての、

刈菰の(刈薦の)、

は、上記のように、

刈り取ったこもの乱れやすいところから、「みだる」にかかる、

ほか、

刈ったこもがしおれやすいところから、

夏麻(なつそ)引く命かたまけ借薦之(かりこもの)心もしのに人知れずもとなそ恋ふる息の緒にして(万葉集)、

と、「心もしのに」にかかる(一説に、「篠(しの)」の意をかけるともいう)し、

沼水に君は生ひねどかるこものめに見す見すも生ひまさるかな(「平中(へいちゆう)(965頃)」)、

と、刈った菰から芽が出るところから、

「芽」と同音の「目」にもかかる(精選版日本国語大辞典)。

刈菰、

は、

刈薦、

とも当て、後世は、

かりごも、

とも訓ませた(仝上)が、

刈薦の一重(ひとへ)を敷きてさ寝(ぬ)れども君とし寝(ぬ)れば寒さむけくもなしか(万葉集)、

と、

刈り取った真菰、

または、

それで作ったむしろ、

である(仝上・大言海・岩波古語辞典)。

真菰刈る淀の沢水雨降ればつねよりことにまさるわが恋(古今和歌集)、

とある、

真菰、

は、

真薦、

とも当て、「ま」は、

接頭語(岩波古語辞典)、
まは発語と云ふ(大言海)、
マは美称の接頭語(角川古語大辞典・小学館古語大辞典)、

とあり、色葉字類抄(1177〜81)に、

菰、マコモ、コモ、

とあり、

こも(薦・菰)、

のことで、

かつみ、
はなかつみ、
まこもぐさ
かすみぐさ、
伏柴(ふししば)、

ともよぶがイネとは異なる(広辞苑・大言海)。

真菰、

は、古くから、

神が宿る草。

として大切に扱われ、しめ縄としても使われてきたhttps://www.biople.jp/articles/detail/2071

こも」は、

薦、
菰、

と当て、

まこも(真菰)の古名、

とある(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)。

イネ科の大形多年草。各地の水辺に生える。高さ一〜二メートル。地下茎は太く横にはう。葉は線形で長さ〇・五〜一メートル。秋、茎頂に円錐形の大きな花穂を伸ばし、上部に淡緑色で芒(のぎ)のある雌小穂を、下部に赤紫色で披針形の雄小穂をつける。黒穂病にかかった幼苗をこもづのといい、食用にし、また油を加えて眉墨をつくる。葉でむしろを編み、ちまきを巻く、

とあり、漢名、

菰、

という(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。

マコモの種子、

は米に先だつ在来の穀粒で、縄文中期の遺跡である千葉県高根木戸貝塚や海老が作り貝塚の、食糧を蓄えたとみられる小竪穴(たてあな)や土器の中から種子が検出されている、

とある(日本大百科全書)。江戸時代にも、『殖産略説』に、

美濃国(みののくに)多芸(たぎ)郡有尾村の戸長による菰米飯炊方(こもまいめしのたきかた)、菰米団子製法などの「菰米取調書」の記録がある、

という。中国では、マコモの種子を、

菰米、

と呼び、古く『周礼(しゅらい)』(春秋時代)のなかに、

供御五飯の一つ、

とされているし、『斉民要術(せいみんようじゅつ)』(6世紀)には、菰飯の作り方の記述がある(仝上)。なお、茎頂にマコモ黒穂菌が寄生すると、伸長が阻害され、根ぎわでたけのこ(筍)のように太く肥大する。これを、

マコモタケ、

という。内部は純白で皮をむいて輪切りにし、油いためなど中国料理にする。根と種子は漢方薬として消化不良、止渇、心臓病、利尿の処方に用いられる(マイペディア)。

こも、

の由来は、

クミ・クム(組)の転か(碩鼠漫筆・大言海)、
キモ(着裳)の転呼、被服に用いた編物から、さらにその材料となる植物をいうようになった(日本古語大辞典=松岡静雄)、
コモ(薦)に用いるところから(和訓栞)、
もと、茂る意の動詞カムから(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々あるが、

こも、

には、

「まこも(真菰)」の古名、

の意の他に、「まこも」で作った、

あらく織ったむしろ、

の意がある。今は藁を用いるが、もとはマコモを材料とした(精選版日本国語大辞典)。で、

コモムシロ(菰蓆)の下略(大言海)、
コモで編んだところから(東雅・松屋筆記)、
コアミ(小編)の義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、

等々「こも」から「蓆」のプロセスを意識した由来説になる。

ただ、「こも」で触れたように、『大言海』は、

菰・蒋、

の字を当てる「こも」と、

菰、

を当てる「こも」と、

藺、

を当てる「こも」と、

海蓴、

を当てる「こも」を項を分けている。由来はこの区別の中で明らかになるように思える。

「菰・蒋」の「こも」は、

クミの轉か(拱(コマヌ)クもクミヌクの転なるべし。黄泉(よみ)、よもつ)。組草などと云ふが、成語なるべく、葉を組み作る草の意。即ち、薦(こも)となる。菰(かつみ)の籠(かつま)に移れるが如きか(藺(ゐ)をコモクサと云ふも、組草、即ち、薦草(こもくさ)ならむ)。マコモと云ふやうになりしは、海蓴(コモ)と別ちて、真菰(まこも)と云ふにか。物類称呼(安永)三「菰、海藻にコモと云ふあり、因りて、マコモと云ふ」、

と注記がある。「薦」と当てる「こも」は、

菰席(こもむしろ)の下略(祝詞(のりとごと)、のりと。辛夷(こぶしはじかみ)、こぶし)。菰の葉にて作れるが、元なり。神事に用ゐる清薦(すごも)、即ち、菰席(こもむしろ)なり、

とある。「藺」の字を当てる「こも」は、

こもくさ、

を指し、「こもくさ」は、

薦に組み作る草の意。藺の一名、

とあり、「こもくさ」の下を略して、「こも」である。「海蓴」の字を当てる「こも」は、

小藻か、籠藻か、

とあり、やはり、細く切って、羹(あつもの)にすべし、とあるので、食用だったと見なされる。「蓴」は、「ぬなわ」で、「じゅんさい(蓴菜)」である。

この説に依れば、「こも」を組んで、神事に用ゐる、

清薦(すごも)、

即ち、

菰席(こもむしろ)、

を作ったが、

海蓴(コモ)、

と区別するために、

真菰、

としたということになる。それだけでなく、大事なものだったからこそ、区別するために、美称の、

マ、

をつけたに違いない。

神事で、用いていたところを見ると、「菰」は、大切なものだったに違いない。しかし、稲作とともに、藁が潤沢となり、「菰席(こもむしろ)」は、蓆に堕ちた、という感じだろうか。「薦被り」も「おこもさん」まで、堕ちるということか。

薦の上から、

という言い方は、お産のとき、こもむしろを敷いたところから、

生まれたときから、

の意で使い、

薦を被(かぶ)る(被(かず)く)、

というと、

こもをかぶる身となる、

意で、

身躰残らずうち込み菰をかぶるより外はなし(好色二代男)、

と、

乞食(こじき)になり下がる。

「菰」(漢音コ、呉音ク)は、

会意兼形声。「艸+音符孤(コ 丸くて小さい、小粒)」、

とあり、「まこも」の意である(漢字源)。別に、

形声。「艸」+音符「孤 /*WA/」https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%B0

とある。
 

「薦」(セン)は、

会意。「艸+牛に似ていて角が一本の獣のかたち」で、その獸が食うというきちんとそろった草を示す、

とある(漢字源)が、別に、

形声。「艸」+音符「廌 /*TSƏN/」。「むしろ」を意味する漢語{薦 /*tsəəns/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%96%A6

会意。艸と、廌(ち)(しかに似たけもの)とから成り、廌が食う細かい草の意を表す。借りて「すすめる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(艸+廌)。「並び生えた草」の象形と「一本角の獣」の象形から、「一本角の獣が食べる草」を意味する「薦」という漢字が成り立ちました。また、「饌(せん)」に通じ(同じ読みを持つ「饌」と同じ意味を持つようになって)、「すすめる」、「供える」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1962.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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ねたし


つれもなき人をやねたく白露のおくとは嘆き寝とはしのばむ(古今和歌集)、

の、

ねたし、

は、全体にかかり、

しゃくにさわる、

意である(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

ねたし、

は、

妬し、
嫉し、

と当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

相手に負かされ、相手にすげなくされなどした場合、またつい不注意で失敗した場合などに感じる、にくらしい、小癪だ、いまいましい、してやられたと思うなどの気持。類義語クヤシは、自分のした行為を、しなければよかったと悔やむ意。クチヲシは期待通りに行かないで残念の意、

とある(岩波古語辞典)。基本、

ねたましい、

意で、

ねたきもの 人のもとにこれより遣るも、人の返りごとも、書きてやりつるのち、文字一つ二つ思ひなほしたる。とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに、針を引き抜きつれば、はやく尻を結ばざりけり。また、かへさまに縫ひたるもねたし(枕草子)、

と、

憎らしい、癪である、
いまいましい、
残念だ、

といった意味の幅を持つ(仝上)が、たとえば、

ほととぎすいとねたけくは橘の花散る時に来鳴きとよむる(万葉集)、

と、

癪である、

意や、

いとほしきに、つれなき心はねたけれど、人のためは、あはれと思しなさる(源氏物語)、

と、

(相手にされず)いまいましい、

意や、

(碁を)打たせ給ふに三番にかず一つ負けさせ給ひぬ、ねたしきわざかな(源氏物語)、

と、

残念だ、

意などで使われる(岩波古語辞典)。

ねたし、

は、

「名痛し」の転か。相手の評判が高くて、自分に痛く感じられる意から(広辞苑)、
「な(名)いた(痛)し」の変化で、相手の評判の高いのを痛いと感じるところからかという(精選版日本国語大辞典)、
相手の名、評判が高く、自分に委託感じられる意のナイタシ(名痛し)から(日本語の年輪=大野晋)、
ネイタシ(性痛)の義(日本語原学=林甕臣)、
ネイタシ(心根痛)から変化した(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、

等々、

反発を感じ、ねたましく思う気持を表わす、

と思われる、

心、
名誉、
自尊心、

等々自負心が

痛い、

というところからきていると見ているようだ。動詞、

ねたむ(妬・嫉)」、

は、形容詞、

ねたし、

と語幹が共通し、

ウム(倦)→ウシ(憂)、
スズム(涼)→スズシ(涼)、

と同様の関係と考えられる(日本語源大辞典)とあるが、

「ねたし」+接尾辞「む」

とする説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%9F%E3%82%80もあり、また、

形容詞「ねたし」から動詞「ねたむ」が生まれた、

とする説(日本語源大辞典)もある。これに一考の余地があるのは、

ねたし、

と類義語の、

ねたまし、

が、動詞、

ねたむ、

を形容詞化した派生語とされるからである。そうなると、

ねたし→ねたむ→ねたまし、

と変成したことになる。

「嫉」(漢音シツ、呉音ジチ)は、「妬む」で触れたように、

会意兼形声。疾は「疒(やまい)+矢」からなり、矢のようにきつくはやく進行する病を意味する。嫉は「女+音符疾」。女性にありがちな、かっと頭にくる疳の虫、つまりヒステリーのこと、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AB%89)。別に、

会意兼形声文字です(女+疾)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形と「人が病気で寝台にもたれる象形と矢の象形」(人が矢にあたって傷つき、寝台にもたれる事を意味し、そこから、「やまい」の意味)から、女性の病気「ねたみ」を意味する「嫉」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2076.html

「妬」(漢音ト、呉音ツ)は、

形声。「女+音符石(セキ)」で、女性が競争者に負けまいとして真っ赤になって興奮すること。石の上古音は妬(ト・ツ)の音になりうる音であった、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(女+石)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形と「崖の下に落ちている石」の象形(「石」の意味だが、ここでは、「貯」に通じ(「貯」と同じ意味を持つようになって)、「積もりたくわえられる」の意味)から、夫人(妻)の夫に対する積もった感情「ねたみ」を意味する「妬」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2077.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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末摘花


人知れず思へば苦し紅(くれなゐ)の末摘花の色にいでなむ(古今和歌集)、

の、

末摘花、

は、

紅花、

のことで、源氏物語の、

末摘花の女君は鼻が紅いところからその名がある、

と注記がある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

ベニバナ、

を、

末摘花、

と呼ぶのは、

茎の末の方から花が咲き始め、その茎の末に咲く黄色の頭花を摘み取って染料の紅をつくるからいう、

とある(広辞苑・大辞林)。

ベニバナ、

は、日本には5世紀頃に渡来したといわれ、古くは和名を、中国伝来の染料の意味で、

くれのあい(呉藍)、

といいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%8A

万葉集にも、

外(よそ)のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘む花の色に出(い)でずとも、

と詠われ、上代の和歌では、

紅の末摘花、

などと、

色に出づ、

を導き出す序詞とされる(精選版日本国語大辞典)、

成長すると草丈は0.5〜1m、葉は5〜10cmほどになり、初夏に半径2.5〜4cmのアザミに似た花を咲かせます。咲き始めは鮮やかな黄色の花ですが、やがて色づき、赤くなります。種子は花1つにつき10〜100個ほど、ヒマワリの種を小さくしたような種子がつきます。葉のふちに鋭いトゲがあり、このため花摘みはトゲが朝露で柔らかくなっている朝方に行われました、

とあるhttps://www.lib.yamagata-u.ac.jp/database/benibana/mame.html

キク科ベニバナ属、

の耐寒性の一年草で、

秋に種をまき、夏に花を咲かせ、翌冬に枯れます、

とある(仝上)。乾燥させた花は、

紅花(こうか)、

と呼ばれhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%8A、血行促進作用がある生薬として使われる。

源氏物語で、

末摘花、

とあるのは、

うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪恥づかしく白うて真青に、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ(源氏物語)、

と、

常陸宮(ひたちのみや)の姫の、ながくのびた鼻の先が末摘花(ベニバナ)でそめたようにあかい、

ところからきている。

「末」(漢音バツ、呉音マツ・マチ)は、

指事。木のこずえのはしを、一印または・印で示したもので、木の細く小さい部分のこと、

とある(漢字源)。別に、

指事。「木」の上端部分に印を加えたもの「すえ」「こずえ」を意味する漢語{末 /*maat/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%AB

指事文字です。「大地を覆う木」の象形に「横線」を加えて、「物の先端・すえ・末端」を意味する「末」という漢字が成り立ちました

ともhttps://okjiten.jp/kanji698.htmlある。

「摘」(漢音テキ・タク、呉音チャク)は、

会意兼形声。帝は、三本の線を締めてまとめたさま。締(しめる)の原字。啻は、それに口を加えた字。摘は、もと「手+音符啻」で、何本もの指先をひとつにまとめ、ぐいと引き締めてちぎること、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(扌(手)+啇(啻))。「5本の指のある手」の象形と「木を組んで締めた形の神を祭る台の象形と口の象形」(「中心によせ集める」の意味)から、5本の指先を集めて、果物の実などを「つまみとる」を意味する「摘」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1214.htmlが、別に、

形声。「手」+音符「啇 /*TEK/」。「つまむ」を意味する漢語{摘 /*treek/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%91%98)

形声。手と、音符啇(テキ)→(タク)とから成る。つまみとる意を表す(角川新字源)、

と、形声文字とする者もある。

「花」(漢音カ、呉音ケ)は、「はな」で触れたが、

会意兼形声。化(カ)は、たった人がすわった姿に変化したことをあらわす会意文字。花は「艸(植物)+音符化」で、つぼみが開き、咲いて散るというように、姿を著しく変える植物の部分、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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