むぐらさへ若葉はやさし破レ家(いえ)(芭蕉)、 の、 むぐら、 は、 葎、 と当て、 うぐら、 もぐら、 とも訛り、 カナムグラ・ヤエムグラなど、蔦でからむ雑草の総称、 とあり、蓬(よもぎ)や浅茅(あさぢ)とともに、 貧しい家、荒廃した家の形容に使われることが多い、 とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。 荒れ地や野原に繁る雑草の総称、 なので、 葎生(むぐらふ)、 というと、 いかならむ時にか妹を牟具良布(ムグラフ)のきたなき屋戸(やど)に入れいませてむ(万葉集)、 と、 葎が生い茂っていること、また、その場所、 の意で使い、 葎の門(むぐらのかど)、 というと、 訪ふ人もなき宿なれど来る春は八重葎にもさはらざりけり(紀貫之)、 と、 葎が這いまつわった門、 の意で、 荒れた家や貧しい家のさま、 の意となる(広辞苑) 葎の宿、 も同じ意味で使う(仝上)。ただ、歌語としては、「葎の門」「葎の宿」は、 葎の門に住む女、 荒廃した屋敷に美女がひっそりと隠れ住む、 というようなロマン的な場面が、『伊勢物語』、『大和物語』、『うつほ物語』等々の物語によって形成され、類型化された(日本大百科全書)とある。 茂(も)く闇(くら)き儀、 が由来とある(大言海)が、他に、 繁茂しているところから、茂らの義、ラは助辞。またクラは木闇のクレの転で、草の暗く茂っている意(日本語源=賀茂百樹)、 一株で草むらのように生い茂った状態から(https://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/yaso/yurai/yas_yur_yaemugura.html)、 ムグリツタ(潜蔦)の義(日本語原学=林甕臣)、 モレクグリ(漏潜)の義(名言通)、 世捨て人がとじこもっている室は、この草が茂って暗いことから、ムロクラキ(室暗)の義(和句解)、 と諸説あるが、どうもはっきりしないが、その状態をいう、 一株で草むらのように生い茂った状態、 を示しているとするのが、自然な気がする。なお、万葉集で、 思ふ人来むと知りせば八重葎おほへる庭に珠敷かましを(作者不詳)、 と歌われる、 やえむぐら(八重葎)、 は、 カナムグラ(鉄葎)、 を指している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%82%B0%E3%83%A9)とされる。ヤエムグラ属は、 アカネ科、 に属し、カナムグラは、 アサ科カラハナソウ属、 とされる。「鉄葎」の、 カナは、鐵にて、此蔓、堅き墻(かきね)をも穿ち生ふると云ふ、 とあり(大言海)、 強靭な蔓を鉄に例え、「葎」は草が繁茂して絡み合った様を表すように、繁茂した本種の叢は強靭に絡み合っており、切ったり引き剥がしたりすることは困難である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%82%B0%E3%83%A9)。「八重葎」は、 彌重葎、 の意で、 茎は直立、斜上し、またはつる性になり、4稜がある。葉は節ごとに対生する本来の2個の葉と、2〜8個からなる葉と同形の托葉からなり、4個〜多数個の葉が輪生しているように見える。花序は散集花序になり、茎先や葉腋につけて、ふつう多数の花をつける、 ためかと思われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%B0%E3%83%A9%E5%B1%9E)。 『万葉集』から「八重(やへ)葎」「葎生(ふ)」などと用いられているが、平安時代以後は、歌語としては「八重葎」に固定して、 八重葎茂れる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶(えぎょう)法師)、 などと詠まれた(日本大百科全書)。 「葎」(漢音リツ、呉音リチ)は、 会意兼形声。「艸+音符律(ならぶ)」、 とあり(漢字源)、つるくさの名である。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 水鶏(くいな)啼と人のいへばや佐屋泊(さやどまり)(芭蕉)、 の、 水鶏、 は、 秧鶏、 とも当て、 ツル目クイナ科の鳥の総称、 で、 クイナ・ヒクイナなどの類、 をいい、 世界に約130種、鳥類の中で絶滅種が最も多く、1600年以降、世界の島嶼(とうしょ)に生息するクイナのうち14種以上が絶滅した、 とある(広辞苑)。詩歌に詠まれるのは、夏に飛来する、 緋水鶏、 で、和歌以来、もっぱら鳴き声が詠まれ、 人が戸をたたく音、 に比されて、 たたく、 と表現される(仝上・雲英末雄・佐藤勝明訳註『芭蕉全句集』)。 ヒクイナ、 は、 緋水鶏、 緋秧鶏、 と当て、 ナツクイナ、 とも呼ばれ(精選版日本国語大辞典)、 ツル目 クイナ科 ヒメクイナ属、 に分類される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A)。古くは単に、 水鶏(くひな)、 と呼ばれ、その独特の鳴き声は古くから、 たたくとも誰かくひなの暮れぬるに山路を深く尋ねては来む(更級日記)、 と、 水鶏たたく、 と言いならわされてきた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A)。その連想から 「く(来)」といいかけて用いる、 など、古くから詩歌にとりあげられてきた(日本国語大辞典)。 全長20センチ程、上面の羽衣は褐色や暗緑褐色、喉の羽衣は白や汚白色、胸部や体側面の羽衣は赤褐色、腹部の羽衣は汚白色で、淡褐色の縞模様が入る、 とあり(仝上)、湿原、河川、水田などに生息する。 「くいな」は、 水雉、 とも当て、 ツル目 クイナ科 クイナ属に分類され(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A)、全長30センチ程度、体形はシギに似る。くちばしは黄色、背面が褐色で黒斑があり、顔は灰鼠色、腹には顕著な白色横斑がある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。秋、北方から渡来、湿原、湖沼、水辺の竹やぶ、水田などに生息する(仝上)。また、 薮の中にいることが多いので姿を見ることは少ない鳥、 ともある(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1515.html)。 くいな、 の和名は、 ヒクイナの鳴き声(「クヒ」と「な」く)に由来(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A)、 鳴きはじめは、クヒクヒと聞ゆと云ふ、ナは鳴くの語根(ひひ鳴き、ひひな。馬塞(うませき)、うませ)(大言海)、 と、鳴き声説があるが、「ひくいな」を「くいな」と呼んでいたとすると、 「クッ クッ」あるいは「クリュッ クリュッ」と聞こえる声、 を出しているのは、 くいな、 の方で(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1515.html)、 ヒクイナ、 は、 「コン コン コン」あるいは「クォン クォン クォン ‥‥コココ‥」と聞こえ、次第に早口になります、 とある(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1527.html)。この声が、夕方から夜にかけてよく聞くことが出来るので、夜間の訪問者を意識して、 戸を叩く、 と言ったと見られる(仝上)。とすると、「ひくいな」と「くいな」を区別していなかったとしても、鳴き声からは、「くいな」の鳴き声を「たたく」といったのとは矛盾してくる。他には、 キクナ(來鳴)の義(日本釈名)、 クヒナ(食菜)の義(名語記)、 や、 クヒナキ(食鳴)の義、夜中に田に鳴く蛙を食いながら啼くから(名言通)、 クヒア(喰蛙)の義(言元梯)、 がある(日本国語大辞典)。たしかに、本草和名には、 鼃鳥、久比奈(鼃(蛙)を食ふと云ふ)、 とあるのだが。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 此宿は水鶏(くいな)もしらぬ扉(とぼそ)かな(芭蕉)、 の、 とぼそ、 は、 枢、 扃、 と当て、 ト(戸)とホゾ(臍)との複合、 で(岩波古語辞典)、 ボソは、ホゾの清濁の倒語、 とあり(大言海)、 開き戸の上下の端に設けた回転軸である「とまら(枢)」を差し込むために、梁(はり)と敷居とにあける穴、 をいい(学研全訳古語辞典)、俗に、 とまら、 ともいう(広辞苑)。 楣(まぐさ 目草、窓や出入り口など、開口部のすぐ上に取り付けられた横材)と蹴放し(けはなし 門・戸口の扉の下にあって内外を仕切る、溝のない敷居)とに穿ちたる孔、 をいい(大言海)、 扉の軸元框(かまち)の上下に突出せる部分をトマラ(戸牡)と云ひ、それを戸臍に差し込みて樞(くるる)となす、 とある(大言海)。そこから転じて、広く、 扉、 または、 戸、 の称としてもつかう。和名類聚抄(平安中期)には、 樞、度保曾、俗云、度萬良、門戸之樞(くるる)也、 とあるが、天治字鏡(平安中期)には、 扃、扉、止保曾、 とある。「樞(くるる)」は、 回転(くるくる)の約(きらきら、きらら。きりきり、きりり)、クルル木と云ふが成語なるべし、 とある、 戸を回転させる機(しかけ)、 をいい、 くりり、 くろろ、 くる、 ともいう(仝上)。ややこしいのは、通常、 さる、 という、 戸の桟、 をもいう(仝上)。 「樞」の字は、 梁(ハリ)と敷居とにあけた小さい穴、 の意の、 とぼそ、 に当てるが、その穴に差し込む、 開き戸の上下にある突き出た部分、 つまり、 とまら(「と」は戸、「まら」は男根の意)、 にも、 樞、 を当てる(仝上・デジタル大辞泉)。その、 扉の端の上下につけた突起(とまら)をかまちの穴(とぼそ)にさし込んで開閉させるための装置、 を、 くるる、 というが、これにも、上述したように、 樞、 を当て(仝上)、 樞木(くるるぎ)、 ともいい、その扉を、 樞戸(くるるど)、 という。 「樞(枢)」(慣用スウ、漢音シュ、呉音ス)は、 会意兼形声。區は、曲がった囲いとそれに入り組んだ三つのものからなる会意文字。こまごまと入り組んださまを現わす。樞は「木+音符區」で、細かく細工をして穴にはめ込んだとびらの回転軸をあらわす、 とある(漢字源)。つまり、 形声。木と、音符區(ク)→(シユ)とから成る。「とぼそ」の意を表す。とぼそがとびらの開閉に重要なところから、転じて、かなめの意に用いる(角川新字源)、 会意兼形声文字です(木+区(區))。「大地を覆う木」の象形と「四角な物入れの象形と品(器物)の象形」(「区切って囲う」の意味だが、ここでは、「クルッとまわる」の意味)から、「とぼそ・くるる(開き戸を開閉する軸となる所)」を意味する「枢」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1676.html)、 である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 声すみて北斗にひゞく砧哉(芭蕉)、 の、 砧、 は、 碪、 とも当て、 衣板(きぬいた)の約、 とされるように、和名類聚抄(平安中期)には、 岐沼伊太、 と読ませ、 木槌(キヅチ)で布(洗濯した布や麻・楮(コウゾ)・葛(クズ)などで織った布や絹)を打って布地をやわらげ光沢を出すのに用いる、板や石の台、 の意だから(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7・デジタル大辞泉・学研全訳古語辞典)、 うちばん、 ともいう(大言海)が、 それで布を打つこと、 もいい、また、さらに、 その音、 にもいう(学研全訳古語辞典)。その「槌」は、 短き丸木に細き棒をつけたる、蒲の穂の如きを用ゐる、 とある(大言海)。歌語としては、 砧を打つ、 は、 白妙の衣うつ砧の音もかすかにこなたかなた聞きわたされ空飛ぶ雁の声取り集めて忍びがたきこと多かり(源氏物語)、 と、 秋、 のものとされ、 砧打ちは女の秋・冬の夜なべ仕事、 とされた(岩波古語辞典)。古くは、 夜になるとあちこちの家で砧の音がした、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7)。 砧(きぬた)は、 厚布を棒に巻き付け、その上に織物の表を内側にして巻き付け、さらに外側を厚手の綿布で包み、これを木の台に乗せ、平均するように槌(つち)で打つ、 とされる(仝上)。装束に使う絹布などは、 糊をつけ、これを柔らかくし、光沢を出すために砧で打つ、 とされ(仝上・岩波古語辞典)、こうした衣を、 打衣(うちぎぬ)、 といい、 男子の衣(きぬ)・袙(あこめ)、女子の袿(うちき)、 などに使った(仝上)。「袙」は、「いだしあこめ」、「小袿(こうちぎ)」で触れた。 「砧」には、民具として木製のものが普及していたが、表記としては、材質にかかわらず、 砧、 が使われ、木製のものに、 枮、 の字がが使われることもあった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7)とある。 当初は、 布を臼に入れ相対した2名の婦人が米をつくようにして打った、 が、後世には、 布を石板または木板の上に延べ、横杵で交互に打つ、 ようになった(ブリタニカ国際大百科事典)。 「砧」(チン)は、 会意兼形声。「石+音符占(セン・テン 一定の場所に固定する)」、 で、「きぬた」の意で、 布や衣の通夜を出すために、また洗うために使う石の台、 をいう(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(石+占)。「崖の下に落ちている、いし」の象形と「うらないに現れた形の象形と口の象形」(占いは亀の甲羅に特定の点を刻んで行われる事から、特定の点を「しめる」の意味)から、「一定の場所にすえて置く石の台」を意味する「砧」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2613.html)。 「碪」(漢音・呉音チン、漢音ガン、呉音ゴン)は、 会意兼形声。「石+音符甚(ずっしりと下がる、ずっしりと重みを受ける)」、 とある(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 南無さん、よいの相談をきいたかしてのいた(狂言記「磁石」)、 の、 南無三、 は、 げに何事も一睡の夢、南無三宝(謡曲「邯鄲」)、 と、 南無三宝(なむさんぼう)の略、 で、 仏に帰依(きえ)を誓って、救いを求めること、 で、転じて、 南無三、しくじった、 などと、 突然起こったことに驚いたり、しくじったりしたときに発する言葉。、 として使ったりする(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 三宝、 は、 仏法僧、 つまり、 仏と仏の教えと教えを広める僧、 のことである(「僧伽」で触れた)。 南無、 は、梵語、 Namas、 の音写、 南摩、 納莫(ノウマク)、 南謨、 とも音写し(デジタル大辞泉)、室町時代の「文明本節用集」には 南無、ナム、帰命語也救我也敬順也又南謨南芒南牟南膜南麽納無南莫南忙曩謨那蒙、 とあるようにいろいろな漢字を当てるが、 Namas、 は、 頭を下げる、 お辞儀をする、 の意味であり、 敬礼(きょうらい)、 帰命(きみょう)、 と訳し、 帰依すること、 信を捧げること、 の意で、翻訳名義集(南宋代の梵漢辞典)には、 南無、或那謨、或南摩、此翻帰命、要律儀、翻恭敬、善見論、翻帰命覚、或翻信徒 とあり、善導が、 「南無」と言うは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義(観経疏)、 と釈すように、 尊いものへの信頼や敬意を表す語、 であり、 南無阿弥陀、 南無帰命頂礼、 南無妙法蓮華経、 南無八幡大菩薩、、 などと、 南無〜、 の形で、 〜に帰依する、 ことを表す(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%97%E7%84%A1)。現代のヒンディー語では、「こんにちは」を、 ナマステー(namaste)、 というが、直訳すると、 「あなたに(te)帰依する(namas)」の意であり、南無(namas)の語が現代インドにおいても息づいている(仝上)とある。 南無阿弥陀仏、 というと、 阿弥陀仏に帰命するの意で、これを唱えるのを、 念仏、 といい、それによって極楽に往生できるという。 六字の名号(みょうごう)、 ともいう(広辞苑)。これを洒落て、 南無阿弥豆腐、 というと、 豆腐の異称、 で、 禅僧が多く豆腐を食べることから、また、その念仏の声のナムオミドウと聞こえる、 ことから南無阿弥陀仏にかけたことばである(仝上)。 南無妙法蓮華経(なむ‐みょうほうれんげきょう)、 は、 妙法蓮華経に帰依する、 意で、これを唱えれば、真理に帰依して成仏するといい、 題目、 本門の題目、 七字の題目、 御題目、 などともいう(仝上・デジタル大辞泉)。 南無帰命、 は、強調した形で、 梵語namas(南無)とその漢訳語「帰命」を重ねた語、 で、 心から帰依する、 意になる。 南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)、 は、 三宝(さんぼう)に帰依して仏足を頭に戴いて礼拝する意を表す、 語になる(仝上)。 「南」(漢音ダン、呉音ナン、慣用ナ)は、 会意兼形声。原字は、納屋ふうの小屋を描いた象形文字。入の逆形が二線さしこんださまで、入れ込む意を含む。それが音符となり、屮(くさのめ)とかこいのしるしを加えたのが南の字。草木を囲いで囲って、暖かい小屋の中に入れこみ、促成栽培をするさまを示し、囲まれて暖かい意、転じて取り囲む南がわを意味する。北中国の家は北に背を向け、南に面するのが原則、 とあり(漢字源)、 象形。鐘状の楽器を木の枝に掛けた形にかたどる。南方の民族が使っていた楽器であったことから、「みなみ」の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です。「草」の象形と「入り口」の象形(「入る」の意味)と「風をはらむ帆」の象形(「風」の意味)から春、草・木の発芽を促す南からの風の意味を表し、そこから、「みなみ」を意味する「南」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji150.html)が、 『説文解字』では「𣎵」+「𢆉」と分析されているほか、鐘に類する楽器の象形という説、「屮」+「丹」と分析する説もあるが、いずれも甲骨文字の形とは一致しない誤った分析である、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%97)、上記三説は、何れも間違いで、 象形。「同」(祭器のひとつ)に祭品を備えた形を象る。のち仮借して「みなみ」を意味する漢語{南 /*nəəm/}に用いる、 とする(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) あひみての後のこころにくらぶれば昔は物を思はざりけり(藤原敦忠)、 は、 後朝(きぬぎぬ)の歌、 とされる。 きぬぎぬ、 は、 衣衣、 と当て、本来は、 風の音も、いとあらましう、霜深き晩に、おのが衣々も冷やかになりたる心地して、御馬に乗りたまふほど(源氏物語)、 と、 衣(きぬ)と、衣と、 の意で、 各自に着て居る衣服、 をいう(大言海)。しかし、 しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき(古今集)、 の、顕昭(1130(大治5)年?〜 1209(承元元)年)注本に、 結句、きるぞかなしき、とあるはぞよろしかるべき、 とし、 きぬぎぬとは、我が衣をば我が着、人の衣をば人に着せて起きわかるるによりて云ふなり、 とあり(古今集註)、 男女互いに衣を脱ぎ、かさねて寝て、起き別るる時、衣が別々になる意、 とし(大言海)。この歌より、 男女相別るる翌朝の意として、 後朝(きぬぎぬ)、 と表記して、 きぬぎぬ、 とした(仝上)とある。平安時代は、 妻問婚(つまどいこん)、 で(https://mag.japaaan.com/archives/199944)、男性が女性の家に通う婚姻スタイルが一般的であり、朝になったら別れなければならなかったが、当時は、 敷布団はなく、貴族の寝具は畳で、その畳の上に、二人の着ていた衣を敷き、逢瀬を重ねます、 とか(https://www.bou-tou.net/kinuginu/)、 布団が使われ出したのは、身分の高い人で江戸期、庶民は明治期からで、それ以前は、着ていた衣をかけて寝ていた、 とある(https://kakuyomu.jp/works/1177354054921231796/episodes/1177354055255278737)ので、 脱いだ服を重ねて共寝をした、翌朝、めいめいの着物を身に着けること、 の意から、 きぬぎぬになるともきかぬとりだにもあけゆくほどぞこゑもおしまぬ(新勅撰和歌集)、 と、 男女が共寝して過ごした翌朝、 あるいは、 その朝の別れ、 をいい、 きぬぎぬの別れ、 こうちょう(後朝)、 ごちょう(後朝)、 ともいい、さらに転じて、後には、 此ごとくに、きぬぎぬに成とても、互にあきあかれぬ中ぢゃ程に、近ひ所を通らしますならば、必ず寄らしませ(狂言記「箕被(1700)」)、 と、広く、 男女が別れること、 にもいい、さらには、 首と胴とのきぬぎぬさあ只今返事は返事はと(浮世草子「武道伝来記(1687)」)、 と、 別々になること、 はなればなれになること、 でも使った。 後朝の暁を、 きぬぎぬの空、 といい(大言海)、後朝の朝を、 後の朝(のちのあさ・のちのあした) と言ったが、 暁に帰らむ人は、装束などいみじううるはしう、烏帽子の緒もと、結ひかためずともありなむとこそおぼゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣、狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りて笑ひそしりもせむ(枕草子)、 とある、 後朝(きぬぎぬ)の別れ、 には、当時のマナーがあり、 翌朝、まだ空が暗いころに男性は家へ帰り、女性に文を送る、 つまり、 後朝の文、 遣わすことが必要であった(https://mag.japaaan.com/archives/199944)。その文の使いを、 後朝の使(きぬぎぬのつかい・ごちょうのつかい)、 といった(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 代表的な、後朝の文の歌に、「百人一首」にも入っている、 あひみてののちのこころにくらぶればむかしはものをおもはざりけり(権中納言敦忠) 君がため惜しからざりしいのちさへ長くもがなと思ひけるかな(藤原義孝) あけぬれば暮るるものとはしりながらなほうらめしき朝ぼらけかな(藤原道信) がある(https://flouria001.com/entry/kinuginu-no-fumi/)。 「朝」(@漢音・呉音チョウ、A漢音チョウ、呉音ジョウ)は、 会意→形声。もと「艸+日+水」の会意文字で、草の間から太陽がのぼり、潮がみちてくる時をしめす。のち「幹(はたが上るように日がのぼる)+音符舟」からなる形声文字となり、東方から太陽の抜け出るあさ、 とある(漢字源)。@は、「太陽の出てくるとき」の意の「あさ」に、Aは「来朝」のように、「宮中に参内して、天子や身分の高い人のおめにかかる」意の時の音となる(仝上)。同趣旨で、 形声。意符倝(かん 日がのぼるさま。𠦝は省略形)と、音符舟(シウ)→(テウ)(は変わった形)とから成る。日の出時、早朝の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です。「草原に上がる太陽(日)」の象形から「あさ」を意味する「朝」という漢字が成り立ちました。潮流が岸に至る象形は後で付された物です、 とも(https://okjiten.jp/kanji152.html)あるが、 「朝」には今日伝わっている文字とは別に、甲骨文字にも便宜的に「朝」と隷定される文字が存在する、 として(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%9D)、 会意文字。「艸」(草)+「日」(太陽)+「月」から構成され、月がまだ出ている間に太陽が昇る明け方の様子を象る。「あさ」を意味する漢語{朝 /*traw/}を表す字。この文字は西周の時代に使われなくなり、後世には伝わっていない、 とは別に、 形声。「川」(または「水」)+音符「𠦝 /*TAW/」。「しお」を意味する漢語{潮 /*draw/}を表す字。のち仮借して「あさ」を意味する漢語{朝 /*traw/}に用いる。今日使われている「朝」という漢字はこちらに由来する、 とし、 『説文解字』では「倝」+音符「舟」と説明されているが、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように、「倝」とも「舟」とも関係が無い、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) はやくさけ九日(くにち)もちかしきくのはな(芭蕉)、 の、 九日(くにち)、 は、 九日の節句、 つまり、五節句の一つである、 九月九日の重陽(ちょうよう)の節句、 である。中国では、一族で丘に登る、 登高、 という行楽の行事がある(広辞苑)。 都城重九後一日宴賞、號小重陽(輦下歳時記)、 と、 重九(ちょうきゅう)、 ともいう(字源)。 歳往月來、忽復九月九日、九為陽數、而日月竝應、故曰重陽(魏文帝、輿鐘繇書)、 と、 陽數である、 九が重なる、 意である。これを吉日として、 茱萸(しゅゆ)を身に着け、菊酒を飲む習俗、 が漢代には定着し、五代以後は朝廷での飲宴の席で、 賦詩、 が行なわれた(精選版日本国語大辞典)。「茱萸」(しゅゆ)は、 ごしゅゆ(呉茱萸)(または、「山茱萸(さんしゅゆ)」)の略、 とされ(精選版日本国語大辞典)、 呉茱萸、 は、古名、 からはじかみ(漢椒)、 結子五、六十顆、……状似山椒、而出于呉地、故名呉茱萸(本草一家言)、 とあり、中国の原産の、 ミカン科の落葉小高木、 で、古くから日本でも栽培。高さ約3メートル。茎・葉に軟毛を密生。葉は羽状複葉、対生。雌雄異株。初夏、緑白色の小花をつける。紫赤色の果実は香気と辛味があり、生薬として漢方で健胃・利尿・駆風・鎮痛剤に用いる、 とある(広辞苑)。 からはじかみ、 川薑(かわはじかみ)、 いたちき、 にせごしゅゆ、 ともいう(精選版日本国語大辞典) 重陽宴、題云、観群臣佩茱萸(曹植‐浮萍篇)、 と、昔中国で、この日、 人々の髪に茱萸を挿んで邪気を払った、 あるいは、昔、重陽節句に、 呉茱萸の実を入れた赤い袋(茱萸嚢(しゅゆのう)、ぐみぶくろ)を邪気を払うために腕や柱などに懸けた、 ので、 茱萸節、 ともいうように、 茱萸、 を節物とした(大言海)。重陽節の由来は、梁の呉均(ごきん)著『続斉諧記』の、 後漢の有名な方士費長房は弟子の桓景(かんけい)にいった。9月9日、きっとお前の家では災いが生じる。家の者たちに茱萸を入れた袋をさげさせ、高いところに登り(登高)、菊酒を飲めば、この禍は避けることができる、と。桓景はその言葉に従って家族とともに登高し、夕方、家に帰ると、鶏や牛などが身代りに死んでいた、 との記事の逸話をもってするとある(世界大百科事典)。この逸話に、重陽節の。 登高、 茱萸、 菊酒、 の三要素が挙げられている。重陽節は、遅くとも3世紀前半の魏のころと考えられる(仝上)とある。呉茱萸は、重陽節ごろ、芳烈な赤い実が熟し、その一房を髪にさすと、邪気を避け、寒さよけになるという。その実を浮かべた茱萸酒は、菊の花を浮かべた略式の菊酒とともに、唐・宋時代、愛飲された(仝上)とある。呉自牧の『夢粱録』には、 陽九の厄(本来、世界の終末を意味する陰陽家の語)を消す、 とある(仝上)という。 こうした行事が日本にも伝わり、『日本書紀』武天皇十四年(685)九月甲辰朔壬子条に、 天皇宴于旧宮安殿之庭、是日、皇太子以下、至于忍壁皇子、賜布各有差、 とあるのが初見で、嵯峨天皇のときには、神泉苑に文人を召して詩を作り、宴が行われ、淳和天皇のときから紫宸殿で行われた(世界大百科事典)。 菊は霊薬といわれ、延寿の効があると信じられ、 重陽の宴(えん)、 では、 杯に菊花を浮かべた酒(菊酒)を酌みかわし、長寿を祝い、群臣に詩をつくらせた、 とある(精選版日本国語大辞典)。菊花を浸した酒を飲むことで、長命を祝ったので、 菊の節句、 ともいう。 詩宴、 は漢詩文を賦するのが本来であるが、和歌の例も「古今集」に見られ、時代が下るにつれ、菊の着せ綿や菊合わせなどが加わり、菊の節供としての色合いが強調されるようになり(精選版日本国語大辞典)、江戸幕府は、これを最も重視したため、江戸時代には五節供の一つとして最も盛んで、民間でも菊酒を飲み、栗飯(くりめし)をたいた(マイペディア)。 山茱萸(さんしゅゆ)、 は、日本へは享保年間(一七一六‐三六)に薬用植物として渡来した、 とある(精選版日本国語大辞典)。 ミズキ科の落葉小高木。幹は高さ三〜五メートルになり、樹皮はうろこ状にはげ落ちる。葉は対生し短柄をもち、長卵形で先はとがり、裏面は白緑色で葉脈には褐色の細毛を密生する。早春、葉に先だって、小枝の先に四枚の苞葉に包まれた小さな黄色の四弁花を球状に多数密集してつける、 という(仝上)。果期は秋で、 果実は核果(石果)で、長さ1.2〜2 cmの長楕円形で、10月中旬〜11月に赤く熟し、グミの果実に似ている、生食はできないが、味は甘く、酸味と渋みがある、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A6)。ただ、和名の、 サンシュユ、 は、輸入された当時の学識者が、山茱萸の漢名をそのまま音読したもので、これが現在まで標準和名として伝わっている(https://www.miyakanken.co.jp/column1/1060)ものの、 山茱萸、 という名は、 薬用部分(果実)を指す漢方の生薬名、 なので、中国にもこのような名前の植物は存在しない(仝上)とある。 なお、 菊花ひらく時則重陽といへるこゝろにより、かつは展重陽のためしなきにしもあらねば、なを秋菊を詠じて人をすゝめられける事になりぬ(芭蕉、真蹟 扇面・許六 宛書 簡)、 とある、 展重陽、 とは、 国忌のために宮中の重陽の宴を延期し、十月に残月の宴として行うこと、 とある(雲英末雄・佐藤勝明訳註『芭蕉全句集』)。 「七夕」で触れたように、五節句は、 人日(じんじつ)(正月7日)、 上巳(じょうし)(3月3日)、 端午(たんご)(5月5日)、 七夕(しちせき)(7月7日)、 重陽(ちょうよう)(9月9日)、 である。正月七日の、七種粥、三月三日の、曲水の宴、上巳の日の、天児、白酒については触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 影待や菊の香のする豆腐串(芭蕉)、 の、 影待(かげまち)、 は、 正月・五月・九月の吉日、飲食しながら夜を徹して日の出を待つ行事、 をいい(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)、ここの「影待」は、 九月、 であるらしい(仝上)。 影待、 は、 日待、 に同じ(広辞苑)とある。 日待の、 マチ、 は、 待ち、 と当てているが、 祭りと同源(精選版日本国語大辞典)、 マツリ(祭)の約(志不可起・俚言集覧・三養雑記・桂林漫録・新編常陸風土記-方言=中山信名・綜合日本民俗語彙)、 とあり、その「まつり」は、 奉り、 祭り、 と当て、 神や人に物をさしあげるのが原義。類義語イワヒ(祝)は一定の仕方で謹慎し、呪(まじない)を行う義。イツキ(斎)は畏敬の念をもって守護し仕える義、 とある(岩波古語辞典)。だから、 待つこと、 は、本来、 神の示現や降臨を願って待ちうけ、これを祭る、 という素朴で原初的な意味の、 神祭のありかた、 を示していたものとみられる(日本昔話事典)。当然、そこに集まる者は、 厳重な物忌、精進潔斎、 が要求され、村落にあって近隣同信のものが同じ場所に集まり、 一夜厳重に物忌して夜を明かす、 という行事を、 まちごと(待ちごと)、 と総称した(仝上)。 庚申の日、 甲子の日、 巳の日、 十九夜、 二十三夜、 等々があり、 庚申(こうしん)待ち、 甲子(きのえね)待ち、 十九夜講、 二十三夜講、 等々と呼ばれる。この中でも一番普遍的な形のものが、 日待ち、 であり、 日祭の約(大言海)、 とあるように、 「まち」は「まつり(祭)」と同語源であるが、のちに「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意にした、 ともいわれ(精選版日本国語大辞典)、 日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもの、 で(日本史辞典)、 ある決まった日の夕刻より一夜を明かし、翌朝の日の出を拝して解散する、 ものだが、元来、神祭の忌籠(いみごもり)は、 夜明けをもって終了する、 という形があり、「日待」もその例になる(世界大百科事典)とある。その期日は土地によってまちまちで、 正・五・九月の一日と十五日(日本昔話事典)、 1、5、9月の16日とする所や、月の23日を重んずる所もある。なかでも6月23日が愛宕権現(あたごごんげん)や地蔵菩薩(ぼさつ)の縁日で、この日を日待とするのもある。また庚申講(こうしんこう)や二十三夜講の日を日待とする所もある(日本大百科全書)、 一般に正・5・9月の吉日(広辞苑・大辞泉・大辞林)、 正月・五月・九月の三・一三・一七・二三・二七日、または吉日をえらんで行なうというが(日次紀事‐正月)、毎月とも、正月一五日と一〇月一五日に行なうともいい、一定しない(精選版日本国語大辞典)、 1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的(日本史辞典)、 旧暦1・5・9月の15日または農事のひまな日に講員が頭屋(とうや(とうや その準備、執行、後始末などの世話を担当する人))に集まる(百科事典マイペディア)、 等々と、正・五・九月以外は、ばらつく。 江戸初期の京都を中心とする年中行事の解説書『日次紀事』には、 凡良賤、正五九月涓吉日、主人斎戒沐浴、自暮至朝不少寝、其間、親戚朋友聚其家、雜遊、令醒主人睡、或倩僧侶陰陽師、令誦経咒、待朝日出而獻供物、祈所願、是謂日待……待月其式、粗同、凡日待之遊、 とある。これは町家の例だが、村々でも似ていて、 その前夜の夕刻から当番の家に集まる。(中略)当番に当たったものは、一晩中、神前の燈明の消えないように注意し、カマドの灰はすべて取り出して塩で清め、柴でなくて薪を使うとか、家中の女は全部外に出して、男手だけで料理を用意したともいう。集まるものも必ず風呂に入り、清潔な着物で出席した、 とも(日本昔話事典)、あるいは、 講員は米を持参して当番の家に集まり、御神酒(おみき)を持って神社に参詣する。香川県木田(きた)郡では、春と秋の2回、熊野神社の祭日に餅(もち)と酒を持参して本殿で頭屋2人を中心として、天日を描いた掛軸を拝む。土地によっては日待小屋という建物があって、村の各人が費用を持参する例もある。変わったものに鳥取市北西部に「網(あみ)の御日待」というのがあり、9月15日に集まって大漁を祈願するという、 とも(日本大百科全書)、また、 家々で交代に宿をつとめ、各家から主人または主婦が1人ずつ参加する(世界大百科事典)、 ともある。もともとは、 神霊の降臨を待ち、神とともに夜を明かす、 ことが本来の趣旨だったからと思われる(日本昔話事典)。しかし、「待つ」という言葉の含意から、 日の出を待って拝む、 に力点が移った(仝上)とされ、 影待(かげまち)、 以外にも、 御日待(おひまち)、 とも呼ばれ(精選版日本国語大辞典)、後には、大勢の男女が寄り集まり徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなる(仝上)。だから、 単に仲間の飲食する機会、 を「日待」というところも出てくる。ただ、 マチゴトとして神とともにあったことから、その席には神と人の合歓(ごうかん いっしょに喜ぶこと)をめぐる口承文芸が伝承される場、 となり、やがては夜を徹して眠気を払うための話題が求められ(日本昔話事典)、様々な話を語り、伝え合うことになった(日本昔話事典)。 この「日待ち」と対になるのが、 月待(ち)、 で、 十九夜待、 二十三夜待、 二十六夜待、 は、日待と区別して月待と呼ぶ(世界大百科事典)。「月待」も、 月祭(つきまつり)の約、 とある(大言海)。 マチは待ちうけること(日本昔話事典)、 まち設けて物する意、稲荷待(稲荷祭)なども同じ(大言海) で、「日待」で、上述の『日次紀事』に、 待月其式、粗同、 とあったように、 神の示現や降臨を願って待ちうけ、これを祭る、 ことは同義だか、「月待」は、 特定の月齢の日を忌籠りの日と定め、同信の講員が集まって飲食をし、月の出を待って拝む行事、 で、「日待」と同様、 原始以来の信仰、 と見られ(日本昔話事典)、實隆公記(室町時代後期)に、 今夜待月看経、暁鐘之後参K戸、就寝(延徳二年(1490)九月二十三日)、 と、 室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94)。待つのは、 十三夜、 十五夜、 十七夜、 十九夜、 二十三夜、 などで(仝上・日本大百科全書)、十五夜の宴や名月をめぐる句会や連歌会などは、「月待」の行事から派生したとみられる。 「影」(漢音エイ、呉音ヨウ)は、「影向の松」で触れたように、 会意兼形声。景は「日(太陽)+音符京」からなり、日光に照らされて明暗のついた像のこと。影は「彡(模様)+音符景」で、光によって明暗の境界がついたこと。とくに、その暗い部分、 とあり(漢字源)、別に、 会意兼形声文字です(景+彡)。「太陽の象形と高い丘の上に建つ家」の象形(「光により生ずるかげ」の意味)と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様・色どり」の意味)から、「かげ」を意味する「影」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1289.html)。「景」(漢音ケイ・エイ、呉音キョウ・ヨウ)は、 形声。京とは、高い丘にたてた家をえがいた象形文字。高く大きい意を含む。景は「日+音符京」で、大きい意に用いた場合は、京と同系。日かげの意に用いるのは、境(けじめ)と同系で、明暗の境界を生じること、 とある(仝上)。 参考文献; 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 凡て、諸の山野に在るところの草木は……細辛・白頭公(おきなぐさ)(「出雲風土記(733)」)、 とある、 白頭公、 を、 おきなぐさ、 と訓ませているが、 白頭公(はくとうこう)、 は、和名、 翁草(おきなぐさ)、 の異名、「おきなぐさ」は、もともとの漢名の、 意訳ならむ、 とある(仝上)。ただ、漢名は、 如何青草裏、赤有白頭翁(李白)、 と、 白頭翁(はくとうおう)、 ともある(字源)。これは、消炎・止血・止瀉剤とする、 漢方生薬、 の名でもある(広辞苑)。 赤熊柴胡(しゃぐまさいこ)、 という漢名もある(精選版日本国語大辞典)。 春、宿根より數葉叢生す、春夏の交に、一尺許の茎を出し、頂に、小葉簇り付き、上に、數枝を分ち、枝毎に、一花、倒に垂れて開く、六辨にして紫赤なり、中に、一群の紫絲あり、後に、長ずること二寸許、白色に変じて、飛び去る。絲根に小子を結ぶ、 とある(仝上)。別名、 うなゐこ、 うねこ、 なかくさ、 ぜがいそう(善界草)、 ねこぐさ、 はぐま、 しゃぐま(赤熊) おばがしら、 うばがしら、 けいせんか(桂仙花)、 と多い(仝上・精選版日本国語大辞典)。『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)には、 白頭公、於岐奈久佐、一云、奈加久佐、近根處有白茸、似人白頭、 とある。これが、 翁草、 と意訳した理由のようである。 キンポウゲ科オキナグサ属の多年草、 だが、 花茎の高さは、花期の頃10cmくらい、花後の種子が付いた白い綿毛がつく頃は30-40cmになる。花期は4-5月で、暗赤紫色の花を花茎の先端に1個つける。開花の頃はうつむいて咲くが、後に上向きに変化する。花弁にみえるのは萼片で6枚あり、長さ2-2.5cmになり、外側は白い毛でおおわれる、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%82%B5)、 六弁花を開いたのち、白く長い綿毛がある果実の集まった姿、 を、 老人の頭、 にたとえて「翁草」といっている(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 様々な異名をもつ、 白頭翁、 翁草、 だが、これは、 日本と中国で生薬白頭翁(ハクトウオウ)として使用されている植物が違う、 からだ(https://www.pharm.or.jp/flowers/post.html)とある。 オキナグサ、 は、上述したように、キンポウゲ科で、 根を乾燥したものを生薬である、 ハクトウオウ、 として、 赤痢のような熱を伴う下痢や腹痛、痔疾出血に使用します。また、漢方において白頭翁湯の構成生薬であり、オウレン、オウバク、シンビと配合し、下部に熱を帯び不利後重、出血、熱性出血するものを目標にし、急性腸炎や細菌性下痢に使用されます、 とある(仝上)。中国で、 ハクトウオウ、 というと、 ヒロハオキナグサ、 をいい、オキナグサとヒロハオキナグサはどちらも痩果に白い毛が生えるが、 オキナグサは花が下向き、 ヒロハナオキナグサは上向き、 に、花を咲かせる。また、中国最古の薬学書である「神農本草経」(陶弘景)には、 根に近い部分は白茸(はくじょう)があって、その状が白頭老翁のようだから名付けたものだ、 と言っている(仝上)ように、それが中国で名前由来となったが、 オキナグサに毛は無く、ヒロハナオキナグサには白色の絨毛が生えています、 とあり(仝上)、まさにこの様が、 白髪の翁の髪が立っている状態、 を連想させた(仝上)と思われ、漢名と和名は、白頭から混同があったものらしい。だから、語源説も、上述の、 漢名ハクトウコウ(白頭公)の意訳(大言海)、 の他、 根に近いところに白茸があり、それが人の白頭に似ているところから(箋注和名抄)、 も、両者を混同した説である。 白い毛のかたまりから老人の銀髪を連想してできたもの(植物の名前の話=前川文夫)、 が妥当な説になる。 なお、 翁草は、 松の異名、 ともされるが、これは、 今朝見ればさながら霜を載きて翁さびゆく白菊の花(千載集)と云ふ歌に依る(大言海)、 秋のいろの花の弟と聞しかど霜の翁と見ゆる白菊(後九条内大臣)の歌、あるいは、名にしおふ翁が庭の百夜草花咲てこそ白妙になれの、翁の故事による(滑稽雑談)、 とあるが、これらの歌自体が、「重陽」で触れたように、菊に、 延寿の意、 があるからこそ、成りたっているように思える。その延長線上に、たとえば、 白菊よ白菊よ恥(はぢ)長髪よ長髪よ(芭蕉) の句も成り立つ。 菊は長く咲くので翁草と呼ばれる、 の説(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)の方が、順当に見える。また、 翁草、松、 とある(蔵玉集)ように、 松の異名、 でもあるが、これも、 松は常緑で変わらない、 ところから、 不老長寿、 の象徴とされ、 常盤草(ときわぐさ)、 とも呼ばれ(精選版日本国語大辞典)、「菊」を、「翁草」と呼ぶのと似た発想のようである。 そういえば、宮沢賢治に「おきなぐさ」という作品があり、 うずのしゅげを知っていますか。 うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼よばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやさしい若い花をあらわさないようにおもいます。 そんならうずのしゅげとはなんのことかと言いわれても私にはわかったようなまたわからないような気がします。 とはじまる。「うずのしゅげ」は、岩手県の方言らしい。 うず(おず)、 は、 おじいさん、 しゅげ、 は、 ひげ、 つまり、 おじいさんのひげ、 である(http://www2.kobe-c.ed.jp/shimin/shiraiwa/column/okina/index.html)。 「翁」(漢音オウ、呉音ウ)は、 形声。「羽+音符公」。もと、羽の名。「おきな(長老)」の意は、公(長老)と同系のことばに当てたもの、 とある(漢字源)。別に、 形声。「羽」+音符「公 /*KONG/」。「鳥の首の毛」を意味する漢語{翁 /*ʔoong/}を表す字。のち仮借して「老人」を意味する漢語{翁 /*ʔoong/}に用いる、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BF%81)、 形声。窒ニ、音符公(コウ)→(ヲウ)とから成る。鳥の首の羽毛の意を表す。借りて、老人に対する尊称に用いる、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(公+羽())。「2つに分れているものの象形又は、通路の象形と場所を示す文字」(みなが共にする広場のさまから、「おおやけ」の意味、また「項(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「項」と同じ意味を持つようになって)、「くび」の意味)と「鳥の両翼」の象形から、「老人を尊んで言う、おきな」、「鳥の首筋の羽」を意味する「翁」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1456.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことは命なりけり(古今集)、 の、 命なりけり、 は、 命があってのことだ、 と注釈する(高田祐彦訳注『古今和歌集』)。 年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山(西行)、 今ははや恋死なましをあひ見むとたのめし事ぞいのちなりける(古今集)、 もみぢばを風にまかせて見るよりもはかなき物はいのちなりけり(仝上)、 年をへてあひみる人の別には惜しき物こそいのちなりけれ(後撰集)、 あふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞいのちなりける(金葉集)、 等々、中古の和歌に詠み込まれた、 いのちなりけり、 という詠嘆表現は、 そのほとんどが恋歌、 である(佐藤雅代「命なりけり」の歌の系譜)とある。これは、 はかない命など恋の成就のためには惜しくない、あるいは逆に、恋しい人に逢うことを期待するから命が惜しくなる、 といった発想によるものである(仝上)。万葉集などでは、 たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとそ思ふ、 君が家(いへ)に我が住坂(すみさか)の家道(いへぢ)をも我は忘れじ命死なずは、 朝霧の凡(おほ)に相見し人故に命死ぬべく恋ひ渡るかも、 等々、 命死なずは、 命死ぬべく、 というのが、 命がけの恋を表現する常套句、 であった(仝上)。 いのちなりけり、 が出てくるのは、古今集あたりのようだ。それでも、八大集(古今集・後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集)でも、 八首、 しかない(仝上)、という。上述と重複するが、それを挙げると、 春ごとに花のさかりはありなめどあひ見む事はいのちなりけり(古今集)、 今ははや恋死なましをあひ見むとたのめし事ぞいのちなりける(仝上)、 もみぢばを風にまかせて見るよりもはかなき物はいのちなりけり(仝上)、 年をへてあひみる人の別には惜しき物こそいのちなりけれ(後撰集)、 あふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞいのちなりける(金葉集)、 さりともと思ふ心にはかされて死なれぬものはいのちなりけり(仝上)、 まどろみてさてもやみなばいかがせむ寝覚めぞあらぬ命なりける(千載集)、 としたけて又こゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山(新古今集) ながらへて世に住むかひはなけれどもうきにかへたる命なりけり(仝上)、 それが、『新古今集』成立後の勅撰集、『新勅撰集』から『新続古今集』までの十三代には、 三五首、 に増え、その二三首が「恋」の部に入れられている(仝上)という。 なりけり、 という表現は、 今初めてその事実に気づいたという詠嘆である(仝上)、 が、新古今以後定着したとするなら、あくまで表現のレトリックとして、 命と均衡、 するほどというメタファなのだろう。いわば、 命がけ、 を訴求していると言えるのだろう。別に、冒頭の、 春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことは命なりけり(古今集)、 年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山(西行)、 もみぢ葉を風にまかせて見るよちもはかなきものは命なりけり(古今集)、 などは、必ずしも恋の歌ではないので、 命があったればこそだの意。寿命を長らえたことに対しての詠嘆のことば、 という意味になる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)が、 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(劉希夷(「代悲白頭翁」)、 と似た、感慨と言ってもいいのかもしれない。 なお、「いのち」、清水博『〈いのち〉の普遍学』については触れた。 「命」(漢音メイ、呉音ミョウ)は、「いのち」で触れたが、 会意。「あつめるしるし+人+口」。人々を集めて口で意向を表明し伝えるさまを示す。心意を口や音声で外にあらわす意を含む。特に神や君主が意向を表明すること。転じて命令の意となる、 とあり(漢字源)、「いのち」の意味はあるが、「天命」の意で、天からの使命、運命の意で、「命令」色が強い。 会意文字です(口+令)。「冠」の象形と「口」の象形と「ひざまずく人」の象形から神意を聞く人を表し、「いいつける」、「(神から与えられた)いのち」を意味する「命」という漢字が成り立ちました、 という説明(https://okjiten.jp/kanji51.html)、あるいは、 会意。「人」(集める)+「口」(神託)+「卩」(人)、人が集まって神託を受けるの意。又は、「令』(人が跪いて聞く)+「口(神器)」の意(白川静)、 という説明(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%BD)が、その意味からみて、分かりやすい。 参考文献; 佐藤雅代『「命なりけり」の歌の系譜』(https://www.jstage.jst.go.jp/article/sanyor/26/0/26_189/_pdf) 戀すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか(壬生忠見) は、 天暦の御時の歌合、 で、 しのぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで(平兼盛) とつがえられ、 兼盛、 の勝ちと判定された。判者の右大臣藤原実頼は、 「判定にこまり、(村上)天皇の気色をそっと伺ったところ、天皇も判をくださず、ただ兼盛の歌を低く口ずさまれた」 ので(大岡信『百人一首』)、そう判定したが、 「壬生忠見はこの歌合に敗れ、食事ものどに通らなくなり、それがもとで死んだと言い伝えられている。」 といういわく付きの「歌合」である。 歌合(うたあわせ)、 は、 歌を詠む人が集まって左右に分かれ、一定の題で双方から出した歌を順次つがえて一番ごとに、判者(はんじゃ)が批評、優劣を比較して勝負を判定した一種の文学的遊戯、 で、その単位を、 一番、 といい、小は数番から大は千五百番に上る(広辞苑)という。平安初期以来宮廷や貴族の間で流行した(大辞林・精選版日本国語大辞典)。平安初期には多分に社交的・遊戯的であったが、平安後期頃から歌人の力量を競う真剣なものとなり、歌風・歌論に大きな影響を与えた(大辞林)。 歌競べ、 歌結び、 ともいう。左右に分かれる参加者を、 方人(かたうど)、 優劣の判定を下す人を、 判者(はんじや)、 その判定の語を、 判詞(はんし、はんじ)という(仝上)。これにならって、平安中期、村上天皇の代に始まったのが、 漢詩、 の歌合、 詩合(しあわせ)、 で、 二手に分かれて漢詩を作り、判者がその優劣を判定して勝ち負けを決める競技、 があり、 闘詩、 ともいい、 天徳三年(959)八月一六日清涼殿に行われた十番詩合が最初、 という(精選版日本国語大辞典)。 「方人(かたうど)」で触れたように、 当座歌合、 兼日歌合、 撰歌合、 時代不同歌合、 自歌合、 擬人歌合、 等々種々あるが、その構成は、人的構成にのみ限っていうと、王朝晴儀の典型的な歌合にあっては、 方人(かたうど 左右の競技者)、 念人(おもいびと 左右の応援者)、 方人の頭(とう 左右の指導者)、 読師(とくし 左右に属し、各番の歌を順次講師に渡す者)、 講師(こうじ 左右に属し、各番の歌を朗読する者)、 員刺(かずさし 左右に属し、勝点を数える少年)、 歌人(うたよみ 和歌の作者)、 判者(はんじや 左右の歌の優劣を判定する者。当代歌壇の権威者または地位の高い者が任じる)、 などのほか、 主催者、 和歌の清書人、 歌題の撰者、 などが含まれる(世界大百科事典)とある。歌が披講されると、 方人は(難陳 相手方の歌を非難)し、味方の歌を弁護する。その後、判者が判定を下し、判定理由を判詞(はんじ)として記す。引分けは持(じ)という、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。 主な「歌合」は、 在民部卿家歌合 仁和元年(885年)頃(記録に残る最古の歌合)<主催者・在原行平> 寛平御時后宮歌合 寛平元年(889年) 亭子院歌合 延喜13年(913年) 天徳内裏歌合 天徳4年(960年)<主催者・村上天皇> 寛和二年内裏歌合 寛和2年(986年)<仝上・花山天皇> 六百番歌合 建久3年(1192年)<仝上・九条良経> 千五百番歌合 建仁元年(1201年)頃<仝上・後鳥羽院> 水無瀬恋十五首歌合 建仁2年(1202年)<仝上後鳥羽院> 等々ある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%90%88)が、 歌合、 自体が、中国の、 闘詩、 闘草、 の模倣から、 物合(ものあわせ 草合、前栽(せんざい)合、虫合など)、 が生まれ、その合わせた物に添えられた歌(その物を題にして詠む)が、互いに合わせられるようになり歌合が成立した(日本大百科全書)。現存最古の歌合は9世紀末の、 在民部卿行平家歌合(ざいみんぶのきょうゆきひらのいえのうたあわせ)、 といわれるが、このころは、 物合と歌合は明確に区分されず、節日(せちにち)、観月などの後宴に、神事、仏事の余興として催された、 という(仝上)。したがって、歌合の方式、行事もこれらの式次第が準用され、会衆の多くが、 方人(かとうど 優劣の難陳(なんちん)をする人)、 となり、 読師(とくじ 歌を整理して講師(こうじ)に渡す人)、 講師(歌を読みあげる人)、 によって左右の歌が交互に披講され、判定も和やかな左右の方人の合議によった(衆議判 しゅうぎばん)であった。ただ、勝負意識が強くなると、特定の、 判者(はんじゃ 判定者)が必要となり、初めは遊宴を主催する人(天皇、権門など)またはその代理者が判定したが、論難が激しくなり判定の資に歌学説が用いられるようになると、判者、方人には、 専門歌人、 が選ばれるようになった(仝上)とある。 天徳四(960)年の『内裏(だいり)歌合』に代表される時代は、内裏後宮を主とした、 女房中心の遊宴歌合、 で、長保五(1003)年の『御堂(みどう)七番歌合』から『承暦(じょうりゃく)内裏歌合』(1078)に至る間は、管絃(かんげん)を伴う遊宴の形をとりながらも歌が純粋に争われ、歌合の内容も、 歌人本位、 となり、平安末期までは、源経信(つねのぶ)・俊頼(としより)、藤原基俊(もととし)・顕季(あきすえ)・顕輔(あきすけ)・清輔(きよすけ)らの著名歌人が作者、判者となり、 歌の優劣と論難の基準、 のみが争われ、遊宴の意味はまったくなくなって、番数も増加し、二人判、追判などの新しい評論形式が生まれた(仝上)。鎌倉期に入ると、御子左(みこひだり)(俊成(しゅんぜい)、定家(ていか))、六条(顕昭(けんしょう)、季経(すえつね))両家学に代表される、 歌学歌論の純粋な論壇、 として、新古今時代にみられる新傾向の文芸の表舞台ともなった(仝上)とある。一応「歌合」自体は、江戸時代まで続いたようだが、この頃がピークで、 六百番歌合(俊成判)、 千五百番歌合(俊成ら十人判)、 が催された(山川日本史小辞典)。 「歌」(カ)は、「歌占(うたうら)」で触れたように、 会意兼形声。可は「口+⏋型」からなり、のどで声を屈折させて出すこと。訶(カ)・呵(カ のどをかすらせて怒鳴る)と同系。それを二つ合わせたのが哥(カ)。歌は「欠(からだをかがめる)+音符哥」で、のどで声を曲折させ、からだをかがめて節をつけること、 とある(漢字源)。 参考文献; 大岡信『百人一首』(講談社文庫Kindle 版) 御廟(ごへう)年経て忍(しのぶ)は何をしのぶ草(芭蕉)、 の、 しのぶ草、 は、 山中の樹木や岩肌に生える常緑のシダ類、 を指し、和歌以来、 「偲ぶ」と掛詞、 にして詠まれることが多い(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)とある。 忍草(しのぶぐさ・しのびぐさ)、 は、 シノブ・ノキシノブなどのシダ植物、 を指すが、上述したように、 千鳥(ちどり)鳴くその佐保川(さほがは)に岩に生(お)ふる菅(すが)の根(ね)採(と)りて偲(しの)ふ草祓(はら)へてましを(万葉集)、 しのぶぐさ摘みおきたりけるなるべし(源氏物語)、 などと、 偲(しの)ぶ種(ぐさ)、 の意にかけて、 思い出のよすが、 の意で使い(学研全訳古語辞典)、また、 しのぶ(忍)、 ともいい(「しのぶ草」が「しのぶ(忍)」の異名ともある)、 シダの古名のひとつ、 でもあり、この名を持つシダは多く、代表的なものに、 ノキシノブ・タチシノブ・ホラシノブ、 などがある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%96・精選版日本国語大辞典)。ただ、「しのぶ草」は、 わが宿の忍ぶ草おふる板間あらみ降る春雨のもりやしぬなむ(紀貫之)、 と、 軒忍の古名、 ともされる(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』・精選版日本国語大辞典)。なお、上代は、 しのふくさ、 と清音であった(仝上)。 みちのくのしのぶもぢずりたれ故に乱れそめにしわれならなくに(源融)、 の、 しのぶもじずり、 は、 忍草の葉を布帛に摺りつけて、捩(もじ)れ乱れたような模様を染め出したもの、 とも、 ねじれ乱れたような文様のある石(もじずりいし)に布をあてて摺りこんで染めたもの、 ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 延喜時代より、信夫郡の産物として、陸奥絹の一種の乱れ模様を捺したるを貢ぎしたり、 とあり(大言海)、平安末期の歌学書「和歌童蒙抄」には、 戻摺とは、陸奥の信夫郡にて摺り出せる布なり、打ちちがへて、乱りがはしく摺れり、 とあり、平安末期の歌学書「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)には、著者顕昭の注に、 陸奥の信夫郡に、もぢずりとて髪を乱るやうに摺りたるを、しのぶずりと云ふ、 とある。 なお、 しのぶ草、 は、 わがやどは甍(いらか)しだ草生ひたれど恋忘れ草見るにいまだ生ひず(柿本人麻呂)、 と、 「忘れ草」の別名、 としても使われる(学研全訳古語辞典・https://manyuraku.exblog.jp/24830383/)。「忘れ草」は、 萱草、 の意で、和名類聚抄(931〜38年)に、 萱草、一名、忘憂、和須禮久佐、俗云、如環藻二音、 とあり、 かんぞう(くわんざう)、 かぞう、 けんぞう、 とも訓むが、 わすれぐさ、 とも訓ませる。 花を一日だけ開く、 ために、 忘れ草、 と呼ばれるらしい。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 木曾(きそ)の瘦(や)せもまだなほらぬにのちのつき(芭蕉)、 の、 のち(後)の月、 は、 よめはつらき茄子(なすび)かるゝや豆名月(芭蕉)、 と、 豆名月、 ともいう。 陰暦九月十三日の月、 をいい、 栗名月 月の名残、 ともいい、 八月十五日とこの日と二度の月見をするのがよいとされる、 日本独自の風習で、 芋に代えて栗や枝豆を供る。この夜の月は和歌でも好まれ(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)、 秋の月ちぢに心をくだききてこよひひと夜にたえずもある哉(千載和歌集)、 などと詠われている。 月ごとにあふ夜なれども世を経つゝ今宵にまさる影なかりけり(紀貫之) と、 旧暦8月15日の、 中秋の名月(十五夜の月)、 を眺める風習は、 中秋三五夜、 名月在前軒(白居易)、 と、 中国から伝わったものだが、 十三夜の月を愛でる風習、 は日本で生まれたものである(https://www.sendai-astro.jp/observation/blog/2023/10/20231027.html)。延喜十九年(919年)に寛平法皇が、 月見の宴、 を開き、十三夜の月を称賛したことが由来のひとつとされている(仝上)とある。 中秋の名月、 が、里芋を供えることから、 芋名月、 と呼ばれるに対し、 後の月、 では、(この頃に収穫される)、 栗や枝豆、 を供えることから、、 栗名月、 豆名月、 とも呼ばれる(仝上)が、他に、 名残の月、 二夜(ふたよ)の月、 後の今宵、 後の名月、 女名月(おんなめいげつ)、 姥月(うばづき)、 等々さまざまに呼ばれる(https://kigosai.sub.jp/001/archives/2539)。 後の月、 は、 満月に二日早い月を見るという、 少し欠けたところをこそ賞するという日本独特の美意識、 とともに、実際的には、 早い時間に昇る月を賞する、 という理由がある(https://note.com/whitecuctus/n/n0c2faf4acb23)としている。 参考文献; 簡野道明『字源』(角川書店) 行秋や身に引まとふ三布(みの)蒲団(芭蕉)、 の、 三布蒲団、 は、 三幅の大きさの蒲団、 の意。 布(の)、 は、 布などの幅を測る単位、 で、 一布(一幅)は約三六センチ。標準 は敷蒲団が三布で掛蒲団は四〜五布。ここは掛蒲団なのでかなり狭い、 と注記(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)がある。 の、 は、 幅、 布、 と当て、和名類聚抄(平安中期)に、 幅、能、 平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)に、 幅、ノ、 とある。 一幅、 は、普通鯨尺で、 八寸(約三〇センチメートル)ないし一尺(約三八センチメートル)の幅 をいう(精選版日本国語大辞典)とある。「鯨尺」は、もと、鯨のひげで作ったところから、 鯨差(くじらざし)、 ともいい、 一尺が曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分(約三八センチメートル)にあたる長さを規準にしてつくったもの、 で、 布製のものの幅(はば)を数える単位、 として(大辞林)、和裁に用いる(精選版日本国語大辞典)とある。 の、 の語源は、 法(のり)の意(大言海・日本釈名)、 布のひとはたりの義で、ヌノの反(名語記)、 ヌノの略(名言通)、 などとある(大言海・日本語源大辞典)が、 一畐(ヒトノ)の一部(ひとつほ)の綾の羅(うすはた)等(日本書紀)、 とあり、普通に考えれば、 ぬの(布)の略、 ではあるまいか。ただ、「布(ぬの)」は、和名類聚抄(平安中期)に、 布、布能(ぬの)、織麻及紵(いちび)為帛、 とあり、 絹に対し、植物の繊維(麻・苧(からむし)等)で織った織物、 をいい、 延幅(ノビノ)の意と云ふ(大言海)、 縫幅の義(和訓栞)、 では、「の(幅)」を前提にしているので、 のぬ⇔の、 と戻ってしまう。他には、 ヌメリノビ(滑延)の義(名言通・国語の語根とその分類=大島正健)、 ヌハヌ(不縫)の義(日本釈名)、 ナツノソ(夏衣)の反(名語記)、 等々ではっきりしない。考えられるのは、巾の単位である、 幅(の)、 と、その対象である、 布(ぬ)、 が同一視されていたということではあるまいか。 因みに、 一幅、 は、 ひとの、 と訓むと、 布帛類の幅(はば)、 を表わすが、 ひとはば、 というと、 織物の幅、 で、織によって異なるが、 和裁では並幅(鯨尺で九寸五分)、広幅(同一尺九寸)、 があり、錦は、 二尺五寸、金襴二尺四寸、 などがあり(精選版日本国語大辞典)、 いっぷく、 と訓むと、 書画などの掛け軸の一つ、 あるいは、 一つの画題、 を言う(仝上)。 なお、「幅」の語源は、 端端(ハバ)の義、或は、はたばり(機張)の略かと云ふ(大言海)、 端から端までの距離の義(国語の語根とその分類=大島正健)、 羽端の義(和訓栞)、 ハは絹布をいう羽の意、ハマ(羽間)の義(名言通)、 ハタハリ(機張)の義、またハヘ(端方)の義(言元梯)、 とある(日本語源大辞典)。 はたばり(機張)、 は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 幅、はたばり、 とあり、 みずうみに秋の山辺をうつしてははたばり広き錦とぞ見る(拾遺集)、 と、 布帛の一幅(ヒトハタ)、幅の広さ、略して、はば、 とある(大言海)ので、 はば、 は、 はたばり(幅員)、 といっていたものの略と考えるのが妥当のようだ。 はたばり、 は、 機張の義か、 とあり(大言海)、機織りと関係があるらしいが、はっきりしない。 「幅」(フク)は、 形声、畐(フク)は、壺に酒をつめたさま。幅は、それを音符とし、巾(ぬの)を加えた字で、ひざや脛にぴたりと当てるぬの。くっつく意を含む。ひざ当てやすね当ては、織り布の横はばのままの寸法であったので、布地の意となった、 とあり(漢字源)、 織物の横はば、転じて布地、 とあり、 織物の横幅は、普通は、二尺二寸(周代の一尺は22.5センチ)、 とある(仝上)。で、「全幅」というように幅の意で使うが、 一幅(いっぷく)、 というと、 書画や掛け軸の数える単位、 でもある(仝上)。別に、 会意兼形声文字です(巾+畐)。「頭に巻く布きれにひもをつけて帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)と「神に捧げる酒たる」の象形(「りっぱな財産・ゆたかな」の意味)から、ゆたかな布・幅広い布を意味し、そこから、「(布の)はば」を意味する「幅」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1444.html)。 なお、「幅」の意で使う、「巾」(漢音キン、呉音コン、慣用コ)は、「巾子(こじ)」で触れたように、 象形文字。三すじ垂れ下がった布きれを描いたもの。布・帛(ハン)・帆などに含まれ、布を表す記号に用いる、 とある(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 作りなす庭をいさむるしぐれかな(芭蕉)、 の、 いさむ、 は、 戒める意の「諫む」から励ます意の「勇む」が派生した語、 とある(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)。この、 いさむ、 が、 勇む、 であるとは思うが、 諫む(諫める)、 と、 勇む、 と関連があるかどうかは、ちょっと疑問に思える。 勇む、 は、天治字鏡(平安中期)に、 勇、伊佐牟、 とあり、 勢いて進む(臆(おそ)るの反)、 勇気を振るう、 という(大言海)、 伊佐美(イサミ)たる猛き軍卒(いくさ)とねぎたまひまけ(任)のまにまに(万葉集)、 と、 (戦いや争いに臨んで)気持が奮い立つ、 意と共に、 過ぎぬる方よりはいさみさかえて、物をもよく食ひたりければ(今昔物語)、 と、 元気一杯になる、 意で使う(岩波古語辞典・大言海)。後年の、 勇み肌、 の、 勇み、 につながるのだろう。この「勇む」は、 息進(イキスサ)むの約なるべし(気噴(イキブ)く、いぶく。息含(イキクク)む、憤(イクク)む)(大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、 イサナフ(率)の義(名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 イは息、サはサユル心、ムは向う心(日本声母伝)、 イススム(勢進)の転(言元梯)、 「いさ」は、「いさ」(鯨(イサナ)、俗(クニヒト)、鯨を云ひて伊佐となす(壹岐風土記逸文))、「いさまし」(動詞勇むの形容詞形)の「いさ」と同語源(日本語源大辞典)、 等々の諸説があるが、どうやら、 勢い込む、 にその意味を見ようとしているらしい。この「勇む」の他動詞、 勇む、 は、 吹く風を神やいさめむ手向山折ればかつ散る端の錦に(『夫木(ふぼく)和歌抄(夫木集)』)、 と、 慰む、 と当て、 慰める、 意とする。 神をいさめると云ふも、勇よりでたり(和訓栞)、 とあり、 神楽(かぐら)を、神いさめとも云ふ、 ともある(大言海)。 主体を励ます、勇気づける、 意から、 客体(神)を励ます、勇気づける、 意に転じ、 父の敵を討ち首斬らんと言ひてこそ、多くの人をばいさめしか(曽我物語)、 と使われるに至ったと思える。しかし、 諫む、 は、もともと、 禁む、 と当て、 我が妻に人も言問へ此の山をうしはく神の昔よりいさめぬわざそ日のみはめぐしもな見そ(万葉集)、 と、 戒む、 抑え止む、 禁制する、 意で(大言海)、 強く言ひて止むる意ならむ、叱(いさ)ふと通ず、 とある(仝上)。これが、転じて、 諫む、 と当て、天治字鏡(平安中期)に、 諫、止人非也、伊佐牟、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 諫、イサム、アラソフ、タダス、イマシム、 とあり、 皇后聞悲、興感止之(イサメタマフ)(雄略紀)、 と、 「勇む」の戒め止める意より、改めシムルに移る(大言海)、 相手の行動を拒否し、抑制する意。類義語イマシムは、タブーに触れることを教えて、相手に行動を思いとどまらせるのが原義(岩波古語辞典)、 で、 其の非を告げて、改めしむ、 意見を加ふ、 諫言する、 意で使い、 あさむ、 とも訓ます(大言海)。この「禁む」の語源は、 言進(イヒスサ)むるの約略か(言逆(イヒサカ)ふ、いさかふ。おもひみる、おもみる)(大言海)、 イサ(不知 イサカフ・イサツ・イサフ・イサム(禁)と同根。相手に対する拒否・抑制の気持を表す感嘆詞)を活用させた語。相手の行動を拒否し、抑制する意(岩波古語辞典)、 イサは不知、メはその起こり始める処の意(国語本義)、 禁ずる意のイサフと関係がある語(日本釈名)、 イサム(勇)から転義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 イサム(率)から転義(和語私臆鈔・名言通)、 イは忌、サは然、メは活用語尾(日本古語大辞典=松岡静雄)、 等々と諸説あるが、「いさ」(不知)説は、 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香(か)ににほひける(紀貫之)、 の、 いさ、 で、 「人はいさ心も知らず」や、「いさかひ(諍ひ)」(=口論・喧嘩)に含まれる拒否・抑止系の語「いさ」に「む」を付けて動詞化し、相手の行動に対し否定的に作用する「禁止・忠告」の語義を持たせたもの、 ともあり(https://fusaugatari.com/sample/1500voca/isamu589/)、 禁む、 諫む、 は、 「いさ」の動詞化、 が妥当な気がする。 以上から考えてみると、「勇む」の、 励ます(主体)→励ます(客体)→慰める、 の流れはあり得るが、「禁む」の、 禁む→戒む→諫む、 から、「勇む」への流れは、語源を異にし、意味が異なり、少し考えにくい気がする。 「諫(諌)」(漢音カン、呉音ケン)は、 会意兼形声。「言+音符柬(カン よしあしをわける、おさえる)」、 とある(漢字源)。なお、白虎通(後漢、『白虎通義(びゃっこつうぎ』))には、 諫、是非相閨iマジル)、革更(アラタムル)其行也、 とある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 葛の葉の面見せけり今朝の霜(芭蕉)、 の、 葛の葉、 は、 風に白い葉裏を見せることから、 秋風の吹き裏返す葛の葉のうらみてもなほうらめしきかな(古今集)、 と、 「裏見」に「恨み」を掛けて詠むのが和歌の常套(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)とある。 恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 の歌で名高い、浄瑠璃(『信田森女占』、『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』)などになった、 信田妻(しのだづま)、 の、 摂津国の阿倍野(現在の大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(あべのやすな)が和泉国の信太の森(現在の大阪府和泉市)で狩人に追われていた白狐を助けたが、その時に怪我をしてしまった。その時に保名を介抱したのが葛の葉である。ここから恋仲になり、童子丸という子をもうけた。しかしある時、葛の葉の正体を童子に見られてしまい、保名に助けられた狐であることが保名本人にバレてしまい、上記の一首を残して信太の森に帰っていった、この童子丸は後に安倍晴明として知られることになる、 という物語(https://dic.pixiv.net/a/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89)がある。この話にはいくつか別系統の話があり、たとえば、 この子三歳の時に姿を消した母を、成人した晴明が信田の森に尋ねゆき、母なる狐と対面し、信田の明神である事を知る(近世初期の『簠簋抄(ほきしょう)』)、 とか、 残された童子が信田の森で白虎と再会後、亀を助けて竜宮城へ行き、9年後に帰ると、都の後涼殿震動騒ぎを聞き、龍王からもらった鳥語を解する二粒の龍仙丸で解決し、道満との奇特比べにも勝ち、安倍晴明として陰陽の頭(かみ)天文博士になった、 とかとある(日本伝奇伝説大辞典)。 きつね、 百歳の狐、 つかはしめ、 などでも触れたように、「狐」は、古くから、 農耕神の示現、 田の神の使い、 として重要視され、それに豊凶の託宣を問う時代があり、「葛の葉」の説話は、 人間との結合が異常な能力を備えた子が生じる、 という説話(日本霊異記など)の流れの中にあるともいえる(日本昔話事典)が、 童子、 は、 大寺に隷属し、力役雑役に携わる寺奴、 の意で、彼らの集落を、 童子村、 と呼んだが、寺社が早くから卜占に従事させるために専属せしめたといい、 陰陽師、 が形成した、 陰陽師村、 もその流れに在り、 阿倍野の里、 は、 阿倍野童子、 と呼ばれ、四天王寺と関係を持ちながら、占い、祈祷に従事した、 陰陽師の集落、 が存在し、 こうした陰陽師が、 信田森の聖神社、もしくは、その末社の葛の葉神社、 の由来を、信田妻の物語として説く自らの本地語りに由来している(仝上)とされている。 葛の葉、 の裏面には、 細かな白毛があり、風に吹かれて裏面が見えるのを「恨み(裏見)」に掛けて、 歌に詠んだ(https://www.uekipedia.jp/%E3%81%A4%E3%82%8B%E6%80%A7%E6%A4%8D%E7%89%A9/%E3%82%AF%E3%82%BA/)。 なお、「野干」、「きつね」、「きつねとたぬき」、「九尾の狐」については触れた。また、「葛」についても触れた。 「葛」(漢音カツ、呉音カチ)は、 会意兼形声。「艸+音符曷(カツ 水分がない、かわく)」。茎がかわいてつる状をなし、切っても汁が出ない植物、 とある(漢字源)。「くず」の意である。また、 会意兼形声文字です(艸+曷)。「並び生えた草」の象形と「口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形」(「祈りの言葉を言って、幸福を求める、高く上げる」の意味)から、木などにからみついて高く伸びていく草「くず」、「草・木のつる」を意味する「葛」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2110.html)が、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%9B)、 形声。「艸」+音符「曷 /*KAT/」(仝上)、 形声。艸と、音符曷(カツ)とから成る(角川新字源)、 とする説がある。 参考文献; 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) ごを焼て手拭あぶる寒さ哉(芭蕉)、 の、 ご、 は、 松枯葉、 などと当てたりする(大言海)、 美濃・尾張・三河などで松の枯れ落葉をいい、燃料に用いる、 とある(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)が、 枯れ落ちた松葉を、かき集めて燃料にする時に多く言う、 とあり(日本語源大辞典)、 近世には美濃・尾張・三河地方の方言となる、 とある(仝上)。ただ、古くの用例の、 紅葉折りしきて、松のご、果(くだもの)盛りて、菌(くさびら)などして、尾花色の強飯(こはいひ)など、まゐるほどに(宇津保物語)、 は、 松の小菓子、 とし、 松の葉または実の形を模した菓子、 とする説もある(精選版日本国語大辞典)。「ご」は、 こくば、 ともいう(大言海・精選版日本国語大辞典)。和訓栞に、 四国にて、落葉を称す、コゲハの称にや、サラヒをコクバガキと云ふ(サラヒは、竹杷まなり)、 とあり、 播磨の熊野邊にては、松の落葉に就きて、 こく葉(ば)、 こくばがき、 といい、 甲斐國にては、すべての木の枯落葉を、ゴカと云ひ、ゴカガキニ行クなどと云ふ、 とある(大言海)。江戸中期の国語辞典『俚言集覧』には、 ごくも、甲斐にて、松の落ち葉を云ふ、 とある。 松の枯葉(コエフ)を下略して、松のことを云ひしを、更に上略したる語なるべし、 とある(大言海)が、 三河では、松平を意味する松という語を憚り、松葉をゴ(御)と称していたところからか。散りたるゴ(後)という意味からか(江戸後期の随筆『袂草』)、 とする説もある。ただ、「松平」を憚るのは、江戸時代、三河だけではあるまい。 今では松の落ち葉を燃料にすることもほとんどなくなって、専用の名前自体不要になってしまったために、共通語では単語そのものが存在しなくなった、 ようである(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13115686703)。 「松」(漢音ショウ、呉音シュ)は、 会意兼形声。「木+音符公(つつぬけ)」。葉が細くて、葉の間がすけて通るまつ、 という(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(木+公)。「大地を覆う木」の象形と「通路の象形と場所を示す文字」(みなが共にする広場のさまから「おおやけ」の意味)から、人の長寿、繁栄などの象徴の木「まつ」を意味する「松」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji576.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 凩に匂ひやつけし帰花(かへりばな)(芭蕉)、 の、 帰(り)花、 は、 返り花、 とも当て、 初冬の少し暖かい小春日和に、草木が時節はずれの開花をすること、 とあり(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)、 冬の季語、 とされ、 返り咲、 狂咲き、 二度咲き、 狂花、 忘花、 などともいう(大言海)。「返り咲」は、 花に云はば、又集る春や、かへり咲き(小町踊)、 と、 人事に、再び栄える、 いわゆる、 カムバック、 の意でも使う(仝上・精選版日本国語大辞典)が、その 復帰・再起・復職・帰任、 といった意味での、限定的な使い方に、 御身はまたまた廓 (くるわ) に帰り花(浮世草子「御前義経記」)、 と、 身請けされた遊女が、二度の勤めに出る、 意や、 歌舞伎役者などが2度目の勤めに出る、 意で使う(広辞苑・大辞林)。 帰花、 は、 信濃櫻のかへり花の枝にさし(飛鳥井雅親)、 という使われ方はあっても、 あはれてふことをあまたにやらじとや春におくれてひとり咲くらむ(古今集)、 とあるのを見かけるくらいで、 和歌や連歌には詠題としてはない、 らしく(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E3%82%8A%E8%8A%B1)、俳諧にいたって盛んに作られたらしい。 帰花、 は、 葉腋(ようえき)に花芽が完成したあと、日照量が多くて気温が高く植物の養分や水分の吸収が盛んな時期に、物理的障害や生理的充足を受けることにより生ずる、 とあり(日本大百科全書)、落葉樹では、 とくに気温が高く日照の豊富な9月ごろに、台風や潮風などで葉が傷ついたり落ちたりして葉の役目をなさなくなると、生育途中のため、急激に新葉が伸びると同時に花芽も作動して開花する、 とある(仝上)。秋に多くおこる返り咲きは、春のように満開になることがない。これは、 炭酸同化作用によってつくられたデンプンが十分に糖化していないためであり、春に満開となる植物は、低温が長く続く冬の休眠期間を経過するためである、 という(仝上)。 返り咲き、 のよくみられるのは、 ナシ、リンゴ、ウメ、サクラ、 などバラ科の落葉植物、 フジ、ツツジ、 に多い(仝上)とある。 「花」(漢音カ、呉音ケ)は、「はな」でも触れたが、 会意兼形声。化(カ)は、たった人がすわった姿に変化したことをあらわす会意文字。花は「艸(植物)+音符化」で、つぼみが開き、咲いて散るというように、姿を著しく変える植物の部分、 とある(漢字源)。「華」は、 もと別字であったが、後に混用された、 とあり(仝上)、また、 会意兼形声文字です。「木の花や葉が長く垂れ下がる」象形と「弓のそりを正す道具」の象形(「弓なりに曲がる」の意味だが、ここでは、「姱(カ)」などに通じ、「美しい」の意味)から、「美しいはな」を意味する漢字が成り立ちました。その後、六朝時代(184〜589)に「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「左右の人が点対称になるような形」の象形(「かわる」の意味)から、草の変化を意味し、そこから、「はな」を意味する「花」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji66.html)が、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 として(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8A%B1)、 形声。「艸」+音符「化」。「華」の下部を画数の少ない音符に置き換えた略字である、 とされ(仝上)、 形声。艸と、音符(クワ)とから成る。草の「はな」の意を表す。もと、華(クワ)の俗字、 とある(角川新字源)。 「華」(漢音カ、呉音ケ・ゲ)は、「花客」で触れたように、 会意兼形声。于(ウ)は、h線が=につかえてまるく曲がったさま。それに植物の葉の垂れた形の垂を加えたのが華の原字。「艸+垂(たれる)+音符于」で、くぼんでまるく曲がる意を含む、 とあり(漢字源)、 菊華、 と、 中心のくぼんだ丸い花、 を指し、後に、 広く草木のはな、 の意となった(仝上)とする。ただ、上記の、 会意形声説。「艸」+「垂」+音符「于」。「于」は、ものがつかえて丸くなること。それに花が垂れた様を表す「垂」を加えたものが元の形。丸い花をあらわす、 とする(藤堂明保)説とは別に、 象形説。「はな」を象ったもので、「拝」の旁の形が元の形、音は「花」からの仮借、 とする説もある(字統)。さらに、 会意形声。艸と、𠌶(クワ)とから成り、草木の美しい「はな」の意を表す、 とも(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AF)、 会意兼形声文字です。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「木の花や葉が長く垂れ下がる象形と弓のそりを正す道具の象形(「弓なりに曲がる」の意味)」(「垂れ曲がった草・木の花」の意味から、「はな(花)」を意味する「華」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji1431.html)ある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 炉開や左官老行(おいゆく)鬢(びん)の霜(芭蕉)、 の、 炉開(ろびらき)、 は、 茶家で、陰暦10月1日または同月の中の亥の日に、それまで使用していた風炉(ふろ)をしまい、炉をひらくこと、 をいい、 開炉(かいろ)、 ともいい(精選版日本国語大辞典)、 爐塞(ろふさぎ)、 に対し(大言海)、11月より翌春5月まで、半年間、 炉による茶の湯がおこなわれる、 とあり(https://www.omotesenke.jp/cgi-bin/result.cgi?id=2201)、また、その年の春に摘まれた新茶を使いはじめる口切の茶の頃と重なって、 口切り、 ともいい、 開炉の頃は茶の湯の正月ともよばれる(仝上)。 9月、昨年製の茶の尽くるに催す、 のを、 名残りの茶、 という(大言海)とある。また、広く一般に、 暖をとるために炉を使い始めること、 をも、 炉開、 といい(精選版日本国語大辞典)、 初冬に囲炉裏を使い始めること、 をいう(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)ともある。千利休の頃は、 柚の色づくのを見て炉を開く、 ともいわれた(https://www.omotesenke.jp/cgi-bin/result.cgi?id=2201)とある。季語は、 冬である。 口切に堺の庭ぞなつかしき(芭蕉)、 の、 口切り、 は、これも茶事にともなって、 十月初めに新茶の壺の封を切ること、 をいう(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)。炉開きに行なわれ、 葉茶壺に入れ目張りをして保存しておいた新茶を、陰暦10月の初め頃に封を切り、抹茶(まっちゃ)にひいて客に飲ませる、 ものである(精選版日本国語大辞典)。 口切り、 は、 一般には、 今度取て来たらば、汝に口切をさせうぞ(狂言「千鳥(室町末‐近世初)」)、 と、 容器などの口の封を切って初めてあけること。また、そのあけたばかりのもの、 をいい、 くちあけ、 くちびらき、 ともいい、転じて、 糀町の乾物屋より口切して(浮世草子「世間娘容気(1717)」)、 と、 物事をし始めること、 をいい、 てはじめ、 かわきり、 くちあけ、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 風炉(ふろ)、 は、「点前」でも触れたが、 茶釜を火に掛けて湯をわかすための炉、 をいい、 夏を中心に5月初めごろから10月末ごろまで用いる。 爐塞、 は、 茶人の家にて、陰暦3月晦日に、地爐を閉じて、(4月朔日からは)風爐を用いること、 をいう(大言海)。 なお、「茶事」、「茶道具」、「茶」については触れた。 「爐(炉)」(漢音ロ、呉音ル)は、 会意兼形声。盧(ロ)は「入れ物+皿(さら)+音符虎(コ)の略体」の形声文字で、つぼ型のまるいこんろのこと。のち金属で外側をまいた、または大型のかまどの意ともなる。爐は「火+音符盧(ロ)」で、盧(まるいつぼ、こんろ)の原義をあらわすため、火印を添えた、 とある(漢字源)。常用漢字は俗字による(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(火+盧)。「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「口の小さな亀の象形と食物を盛る皿の象形」(「クルッとろくろ(轆轤)を回して作った飯入れ」の意味)から、「いろり」を意味する「炉」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1569.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) ためつけて雪見にまかるかみこ哉(芭蕉)、 の かみこ、 は、 紙子、 と当て、 和紙で作り柿渋を塗った防寒用の安価な着物。もとは律宗の僧侶が用いたもので、老人や風流人に好まれたほか、浪人の代名詞ともなった、 とある(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)。 紙衣で触れたように、 かみこ、 かみころも、 かみきぬ、 などと訓む、 紙衣、 と同じである。 紙衣は、 紙製の衣服、 の意で、 生漉(きすき・きずき 楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などを用い、他の物をまぜないで、紙を漉くこと)の腰が強い、 とされる(日本大百科全書)、 かみこ紙と云ふ一種の白き紙、 を(大言海)、糊(のり)で張り合わせ、着物仕立てにした、 保温用の衣服、 で(広辞苑・岩波古語辞典)、 紙を糊で張り合わせて、その上に柿渋を引いたりするため、紙自体がこわばりやすいので、これを柔らかくするために、張り合わせたあと、渋を引いてから天日で乾燥させ、そのあと手でよくもんで夜干しをする。翌日また干して、夕刻に取り込み、再度もむ。これを何回か繰り返して、こわばらないように仕上げ、 て(日本大百科全書)、 渋の臭みを去ってつくった とある(広辞苑)。もとは、 律宗の僧が用いた、 が、後には一般の貧しいものの、 防寒用、 となり、元禄(1688〜1704)の頃には、 肩・襟などに金襴・緞子などをもちい、種々の染込みなどをした贅沢品も作られ、 遊里などでも流行した(広辞苑・岩波古語辞典)、とある。糊は、 江戸時代にはワラビの根からとったものであり、現在はこんにゃく糊を使用する、 とある(日本大百科全書)。 渋を用いずして白き、 を、 白紙子、 といい、 破れやすい部分には別に、 火打(ひうち)、 という三角形の紙を貼る(大言海)、とある。古代から用いられた僧衣の伝統を引いて今日も、奈良・東大寺の二月堂の修二会(しゅにえ)の際に着用されている(日本大百科全書)。 紙子四十八枚、 という言葉がある。「紙衣」は、 胴の前後に二十枚、左右の袖に四枚、裏に二十四枚の紙を用いて作る、 からである(岩波古語辞典)。もっとも、 身上は紙子四十八枚ばらばらとなつて(西鶴織留)、 というように、紙子を着る貧しさをいう喩えとして言うのだが。 さて、「紙衣」は、漢語で、 しい、 と訓ませると、 紙の衣、死者に用いる、 とあり(字通)、宋史・棲真伝に、 食はざること一月、〜十二月二日を以て、紙衣を衣(き)て磚塕(せんたふ)に臥して卒(しゆつ)す。〜歳久しきに及んで、形生けるが如し。衆始めてき、傳へて以て尸解(しかい 仙化の一、人がいったん死んだのちに生返り、他の離れた土地で仙人になること)と爲す、 とある(仝上)。ために、古く、 紙衣、 を、訛って、 しえ、 といった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%A1%A3)らしい。 「かみこ」は、 紙衣(かみころも)の略か、紙小袖(かみこそで)の略か、 とあり(大言海)、古くは、 かみぎぬ、 といい、中世末から、 かみこ、 と呼ぶようになった(日本語源大辞典)。 古へ、麻布なりしに起こる(大言海)、 という、 布子(ぬのこ)、 綿の入った、 綿子(わたこ)、 などのように「こ」は愛称(日本語源大辞典)と思われる。 「紙衣」は、戦国時代になると、 戦陣の衣料として陣羽織、胴服などに作られた、 とあり(世界大百科事典)、 秀吉公、白紙子の御羽折、紅梅の裏御襟(続武家閑談)、 と、豊臣秀吉の小田原出陣の際には、 駿河宇津山にて馬の沓の切れたのを見た石垣忠左衛門という者が沓を献じたところ、秀吉手ずから紙衣の羽織を賜わった、 とあり(一話一言)、必ずしも貧者のみのものではなかったが、 綴り詫びたる素紙子(すがみこ)や、垢に冷たきひとへ物に(宿直草)、 と、 近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられたもののようである。「素紙子」は、 すかみこ、 とも訓ませ、 柿渋を引かないで作った安価な紙子、 で(デジタル大辞泉)、 白紙子、 ともいい、 安価なところから貧乏人が用いた(精選版日本国語大辞典)。 紙子を仕立てるのに用いる紙、 を、 紙子紙(かみこがみ)、 というが、 白く厚くすいた腰の強い上質の和紙、 で(精選版日本国語大辞典)、 柿渋を引き、揉んで柔らかにしたつぎあわせの厚紙、 である(広辞苑)。 紙衾(かみぶすま・かみふすま)、 というと、 紙子作った粗末な夜具、 で、 槌(う)ちたる藁を綿に充(あ)て、紙を外被(かは)として、蒲団に製せるもの、 で(大言海)。別に、 天徳寺(てんとくじ)、 ともいうが、江戸時代、 江戸西窪、天徳寺門前にて、売りたれば名とす、 とある(仝上)。 日向ぼこりを、天道ぼこりと云ひし如く、日の暖なるを、天徳寺と云ふ、寺にかけて、戯として云ひしかと云ふ。紙衾は隠語とす。戯とは、どうしだもんだ、広徳寺の門だの類、 とある(仝上)。幕末の守貞謾稿には、 天徳寺、江戸困民、及武家奴僕、夏紙張を用ふ者、秋に至りて賣之、是にわらしべを納れて周りを縫ひ、衾として再び賣之、困民奴僕等、賈之て布團に代りて、寒風を禦ぐ也、……享保前は是を賣歩行く、享保以来廃して、今は見世店に賣るのみ、 とある。確かに、 紙子賣、 が居て、 引賣りやもみぢの錦紙子賣(誘心集)、 時なるを紙子賣る聲初時雨(柳亭筆記)、 などと、 初冬の頃、市中を売りて歩くを業とする者、 が居た。また、 紙子頭巾(かみこずきん)、 は、 紙子紙(かみこがみ)で作った頭巾、 で、防寒用であったが、浪人などが多く使用した(精選版日本国語大辞典)。 紙子浪人、 というと、 紙子1枚の貧乏浪人、 をさす(広辞苑)。 紙子羽織(かみこばおり)、 は、紙子の羽織。金襴や緞子などを施した奢侈品もあったが、多くは、 安物で貧乏人が着用した、 とある(仝上)。紙子で作った羽織は、 世之介初雪の朝、紙衣羽織に了佐極の手鑑(好色一代男)、 と、 紙子羽織(かみこばおり)、 という(広辞苑)。なお、「紙子」には、 紙子着て川立ち、 紙子着て川へ陥(はま)る、 などと、 無謀なことのたとえ、 としていう諺もある。また、貧乏なさまのたとえに、 紙子の火打ち膝(ひざ)の皿(さら)、 という言い方もあり、 「火打」は、紙子の袖の付け根のほころびやすい部分にあてる火打金の形をしたもの。「膝の皿」は、貧乏のさまをいう「向脛(むこうずね)から火が出る」の句から、「火打」の「火」と頭韻を合わせていい続けたもの、 という(精選版日本国語大辞典)。 紙子臭い(かんこくさい)、 は、 カミコクサイの音便、 で、 紙・布などのこげるにおいがする、 いで、 こげくさい、きなくさい、 と同義である。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 米買に雪の袋や投頭巾(芭蕉)、 の、 投頭巾(なげずきん)、 は、 四角の袋に縫った頭巾の上端を扁平のまま後ろに折りかけてかぶる、 もので(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 黒船頭巾、 ともいい、 近世、踊りに使われ、また傀儡師(かいらいし)・飴売り・小児などが用いた(広辞苑)とある。 おさな名やしらぬ翁の丸頭巾(芭蕉)、 の、 丸頭巾、 は、 焙烙頭巾(ほうろくずきん)、 ともいう(広辞苑)、 焙烙の形をした頭巾、 で、 僧侶・老人が用い、 大黒頭巾、 法楽頭巾、 法禄頭巾、 耄碌(もうろく)頭巾、 などともいう(仝上)。 焙烙、 は、 炮烙、 炮碌、 とも当てる、 素焼きの、平たい土鍋、 をいい(「伝法焼」で触れた)、 茶や豆、塩などを煎るのに用いる(背精選版日本国語大辞典)ので、 炒鍋(いりなべ)、 ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%99%E7%83%99)、 胡麻ごまや茶をいる専用の器として、縁が内側にめくれて、柄のついた小型のもの、 もある(精選版日本国語大辞典)。 ただ、厳密には、丸形は、 丸頭巾、 といわれ、円形の布をひだをとって袋状とし、頭の大きさに合わせてへりをとる、この丸い袋を大きくしたものが、 焙烙(ほうらく)頭巾、 とある(世界大百科事典)。 頭巾、 は、漢語で、 佩巾、本以拭物、後人著於頭、 とあり(梁代字書『玉篇(543年)』)、宋代の『事物起源』には、 古以p等裏頭、號頭巾、 とある。「衣冠束帯」で触れたように、 衣服令では、朝服では、 頭巾、 を、 ときん、 と訓ませ、唐風の服装の、 幞頭(ぼくとう)、 の流れをくみ、 一品以下。五位以上。並羅頭巾。衣色同礼服、 と(「令義解(718)」)、 p羅頭巾、p縵頭巾、、 などとあり、 礼服の冠は、冠と書し、朝服の冠は頭巾と書す、 とある(大言海)が、 頭巾(ずきん)、 とは関係ない(日本大百科全書)とある。 和名類聚抄(平安中期)に、 頭巾、世尊新剃頭髪、以衣覆頭、頭巾之縁也、 とあり、 僧の被り物、 として、 衣にて製し、頭を包む、 ものを指した(仝上)。宋代の仏教に関する名目、故実の解説書『釋氏要覧』(1019年)には、 僧の頭巾は、褐布にて、背後長さ二尺五寸、前長二尺八寸、 とあり(仝上)、室町時代、 僧侶(そうりょ)の被り物、 として発達しはじめ、中世までは、冠や烏帽子をかぶっていたが、江戸時代初期になると露頂の風習となり、 防寒や防塵のため、 として普及し、 御高祖(おこそ)頭巾・宗匠頭巾・苧屑(ほくそ)頭巾・角(すみ)頭巾・錣(しころ)頭巾・宗十郎頭巾・山岡頭巾、 様々の種類がうまれた。 なお、山伏の頭に被るものに、 兜巾(ときん)、 というのがある。 頭巾、 頭襟、 とも当てるが、中国の唐の、前述の。 幞頭(ぼくとう)、 を模し、 柔らかい皁羅(そうら)(黒の薄物)で袋状に縫った被(かぶ)り物で、このへりにつけた紐(ひも)をあごの下で結んで用いる(日本大百科全書)。山伏などの被るものには、 山中を遍歴する際に、山の悪気にあうのを防ぐ、 ため、十二因縁を表す12襞(ひだ)がある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 霰まじる帷子雪はこもんかな(芭蕉)、 の、 帷子雪(かたびらゆき)、 は、 薄くふりつもった雪、 をいう(広辞苑)が、一説に、 一片が薄くて大きな雪、 にもいう(大辞林・デジタル大辞泉)。 こもん、 は、 霰小紋、 のことで、 霰小紋(あられこもん・あられごもん)、 は、霰のような大小の白い斑の、 あられの模様の小紋、 のことで、 霰形の細かい文様を一面に染め出した、 染め物の模様の名称をいい(広辞苑)、近世では、 鮫(さめ)小紋などの規則正しく配列したものをいい、裃(かみしも)などに多く用いた、 とある(精選版日本国語大辞典)。 小紋、 は、古くは、 今宮、こもんの白き綾の御衣小紋かさね奉りて(宇津保物語)、 と、 錦、綾などで細かい模様を織り出したもの、 だが(仝上)、一説に、 種々の文様を、布帛の地一面に、細かく染め出したるものなるべし、 とあり(仝上・大言海)、後世、 布帛の地の種々の色に、星、或は、霰、其外の模様を、極めて細密に、白く染めだすもの、皆型染(カタゾメ)なり、 とある(仝上)。江戸後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗、事物を説明した類書(百科事典)『守貞謾稿』には、 小紋は、形染也、極細密のものにて、三都ともに、男子は、裃、必ず用之、夏の単衣織地、絽、絹、龍文(りゅうもん 太い糸で平織りにした絹織物。織り目は斜めで地は厚い。江戸時代には袴(はかま)や帯地などに用いた)の類、用之、 とある。 「帷子(帷)」は、 几帳、帳(とばり)など懸けて隔てとした布、 の意もあるが、 裏をつけない衣服、 つまり、 ひとえもの、 の意でもあり、 袷(あわせ)でなく裂(きれ)の片方を意味し、帳(ちよう)の帷(い)や湯帷子(ゆかたびら)はその原義を示している、 とある(世界大百科事典)。 「帷」(イ)は、 形声。「巾+音符淮(ワイ)の略体で、周囲に垂らす布。まるく取巻く意を含む。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、「旁(かたわら)にあるを帷という」とあり、わきを取り巻く意と解する、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(忄(心)+隹)。「心臓」の象形(「心」の意味)と「尾の短いずんぐりした小鳥」の象形(「小鳥」の意味だが、ここでは、「維(イ)」に通じ(「維」と同じ意味を持つようなって)、「つなぐ」の意味)から、「1つの事に心を繋ぎ止めて思う」、「よく考える」を意味する「惟」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2278.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 節季候の来れば風雅も師走哉(芭蕉)、 の、 節季候(せっきぞろ)、 は、 せきざうらふ、 せきぞろ、 ともいい、 節季(せっき)にて候、 の意(デジタル大辞泉)で、 歳末(普通は十二月下旬)、笠に歯朶を挿し顔を赤い布で覆った異装で家々を回り、数人で歌い踊って米銭を受ける物乞い、 とある(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)。「厄払」は、 大晦日や節分の夜、厄難を祓う詞を唱えて豆と銭を受ける物乞い、 である(仝上)。 いわゆる、 門付け芸人、 で、12月の初めから27、8日ごろまで、 羊歯(しだ)の葉を挿した笠をかぶり、赤い布で顔をおおって目だけを出し、割り竹をたたきながら二、三人で組になって町家にはいり、 ああ節季候節季候、めでたいめでたい、 と唱えて囃(はや)して歩き、米銭をもらってまわったもの(日本国語大辞典)で、割竹で胸をたたいたので、 胸叩、 とも呼ばれた(https://kigosai.sub.jp/001/archives/17531)。のちには、 紙の頭巾(ずきん)に宝尽しの紙前垂れをし、四つ竹、小太鼓、拍子木などを鳴らし、女の三味線に合わせてにぎやかに囃して、 せきぞろ ほうほう 毎年毎年旦那のお庭へ飛び込めはねこめ、 などと唱えて歩いた(世界大百科事典)。 簓ばかりでなく太鼓もたたいてやってきた、 という。元禄(げんろく)時代(1688〜1704)から盛んに行われた、一種の、 物乞(ご)い、 で、 凶作の時代に多く出た、 とある(https://kigosai.sub.jp/001/archives/17531)。以前は三都にあったが、江戸時代末期には江戸の街だけとなった(日本大百科全書)という。折口信夫は、 山人、 が、 笠をつけみの(蓑)をまとい、山苞(やまづと)として削掛け(けずりかけ)などの棒や杖を所持して、宮廷の祭りには呪詞(いわいごと)を述べに来た、 とし、のちには村々を訪れて祝福を与えていく、 節季候(せきぞろ)などの遊芸、門付人ともなっていく、 としている(世界大百科事典)。 節季、 は、 日葡辞書(1603〜04)に、 セッキ。トシノスエ、 とあり、 年の暮れ、 の意である。 此こゝろ推せよ花に五器一具(芭蕉) の、 五器一具、 は、 一組の御器で、修行僧が携行する蓋の付いた椀、 であり(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)、 支考が奥羽行脚をするに際して、風雅の旅の心得を示した餞別吟、 とあり、 「花」は風雅の象徴、 で、支考の、 酒さへ呑ば馬鹿尽し候(五月七日付去来宛書簡)、 という一面への忠告でもあろう(仝上)と注記がある。芭蕉自身、 つくしのかたにまかりし比、頭陀に入し五器一具、難波津の旅亭に捨しを破らず、七とせの後、湖上の粟津迄送りければ、是をさへ過しかたをおもひ出して哀なりしまゝに、翁へ此事物語し侍りければ、 という前書きの後、 これや世の煤にそまらぬ古合子(ふるごふし)、 の句がある。 合子(ごうす・ごうし)、 も、 盒子、 とも当て、 蓋付きの器、 をいう(仝上)。 身と蓋(ふた)とを合わせる、 の意で、多くは、 いみじう穢き物。なめくぢ、えせ板敷のははき(帚)のすゑ、殿上の合子(枕草子)、 と、 扁球形で材質は陶磁器、漆器、金属器などで、香合(こうごう)、化粧品入、薬味入、印肉入、 などとある(精選版日本国語大辞典)が、和名類聚抄(平安中期)に、「合子」について、 唐式云、尚食局、漆器三年一換、供毎節料朱合等五年一換、今案、朱合(しゅあい)、俗所謂朱漆合子也、 とある。「穢き物」とされるわけだ。 五器、 は、 御器、 合器、 とも当て(広辞苑・大言海)、 合子(がふし)の器、蓋つきの椀、 で(大言海)、 木製、陶製、金属製、 などがある(精選版日本国語大辞典)。 その由来は、 合器(がふき)の約(狭布(ケフフ)、むふ。納言(なふごん)、なごん)(大言海)、 ゴキ(盒器)の義(俗語考)、 とあり、いずれも、 蓋つき、 の意からきているようだが。 「ごうき(合器)」の変化したもの、 とするには、 「合器」という語は見えず、「器」に接頭辞「御」を加えたものかと思われる、 とある(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。 御器、 は、漢籍では、 御器不以度(新書・輔佐)、 と、 天子の道具を言い、日本でも、 直広貮已上者、特賜御器膳幷衣装、極樂而罷(続日本紀)、 と、 皇室関係の人物のための器に対して用いられている(仝上)。しかし、 殿の御(み)ごきをなむ、一具賜へる(落窪物語)、 と、 五器、 に更に敬語接頭辞を加えた、 御ごき、 の例があり、早く普通語と理解されたようである(仝上・大言海)。中世以降には、 呉器、 五器、 と書かれた例が見え、やがて「ごき」は庶民の食器にも用いられるようになり、近世以降は、 修行僧の食器、 や、 今の閭に、御器下げて心がらの、非人仇討(近松・淀鯉出世瀧徳)、 と、 乞食が食物を乞うために持っている椀(わん)、 をいう(仝上)。ただ、現代方言では、単に、 椀、 を意味し、 ゴキブリ(ゴキカブリ)、 の、「ゴキ」も椀である(日本語源大辞典)とある。 なお、高麗茶碗(こうらいぢゃわん)の一つに、 呉器(ごき)、 があるが、 五器、 とも当て、禅寺で使う漆器の、 御器、 に形が似ているところからよばれたという(精選版日本国語大辞典)。高台は高く張りぎみで、その形色などの特徴によって、 大徳寺呉器、 一文字呉器、 など種々の名称がある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 月やその鉢木(はちのき)の日のした面(おもて)(芭蕉)、 の、 した面(おもて)、 は、 シテが面を付けず素顔で演じること、 をいう、 直面(ひたおもて)、 の訛言とされる(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)とある。 ひたおもて、 は、 ひためん、 の意である。 直面、 は、 ちょくめん、 と訓ませると、 困難に直面する、 というような、 接に物事に対すること、 避けられないような状態で物事に出会うこと、 の意になるし、 じきめん、 と訓ませると、 御自身に御出なされませい、直面(ヂキメン)におわたしませふ(浮世草子「傾城仕送大臣(1703)」)、 と、 直接に面会すること、 の意となり、 ひたおもて、 と訓ませると、 ただかう殿上人のひたおもてにさしむかひ(「紫式部日記(1010頃)」)、 と、 ひたおもてなり、 という形容動詞で、 直接、顔を合わせてさし向かうこと、 覆いかくすところなく直接的であること、またそのさま、 の意で使う(学研全訳古語辞典・精選版日本国語大辞典)。ただ、 ひたおもて、 には、 ひためん(直面)、 の意があり、昔は、 直面(ひためん)、 は、 ひたおもて、 と訓ませ、 顔を隠さないでいること、 とされていた(https://nohmask21.com/hitamen.html)とある。世阿弥は、 ひためんこれ又、大事也(「風姿花伝(1400〜02頃)」)、 と、 能を演ずるシテ、またはシテツレが、面をつけないこと、また、その役柄、 をいい(仝上)、 面をかけない場合でもかけた時と同じ心持で役を勤める ことをいう(https://db2.the-noh.com/jdic/2009/02/post_83.html)。このため、 素顔の状態でも喜怒哀楽の表情を露骨に出すことはなく、面をかけた役との調和が図られている、 とある(仝上)。 素顔もまた面、 という考え方(http://www.kamekawa-d.com/AON/article/%E7%9B%B4%E9%9D%A2%E3%81%A8%E3%81%AF/)のようで、 文字通りの素顔で、歌舞伎役者のように厚化粧や隈取りを施すこともありませんし、顔や筋肉や目玉を派手に使う事も無く、全く能面そのものの如く、表情を動かさずに演技する事を要求されます、 とある(仝上)。直面を使用するのは、 およそ70歳にならないと難しい、 とされ、 その顔に刻まれた豊かな人生の経験、品格が積み重なってこそ、「直面」として使える、 とある(https://nohmask21.com/hitamen.html)。 直面物(ひためんもの)、 というと、 神や幽霊でない現実の男性の役、すなわち面を用いない役を主人公とする能、 で、 「鉢木」「安宅」など現在物に限られる、 とある(広辞苑・大辞林)。 「直」(漢音チョク、呉音ジキ)は、 会意。原字は「―(まっすぐ)+目」で、まっすぐ目を向けること、 とある(漢字源)。『中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、 「十」+「目」+「𠃊」から構成される会意文字、 と説明されているが、これは誤った分析である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9B%B4)とし、 会意。「|」(直線)+「目」から構成され、まっすぐな視線を象る。「まっすぐな」を意味する漢語{直 /*drək/}を表す字、 とある(仝上)。 なお、「面」(漢音ベン、呉音メン)は、「面(おも)なし」で触れたように、 会意。「首(あたま)+外側をかこむ線」。頭の外側を線でかこんだその平面を表す、 とあり(漢字源)、 指事。𦣻(しゆ=首。あたま)と、それを包む線とにより、顔の意を表す(角川新字源)、 指事文字です。「人の頭部」の象形と「顔の輪郭をあらわす囲い」から、人の「かお・おもて」を意味する「面」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji541.html)、 も、漢字の造字法は、指事文字としているが、字源の解釈は同趣旨。別に、 仮面から目がのぞいている様を象る(白川静)、 との説(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A2)もある。 物ほしや袋のうちの月と花(芭蕉)、 の、 袋、 は、 布袋の袋、 を指し、画賛句のようで、 布袋様の袋には月や花もあるはずで、何やら物ほしい気持ちになる、 と、注釈がある(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)。 布袋(ほてい)、 は、 唐末・後梁の禅僧、名は契此(かいし、または釈を付けて釈契此(しゃくかいし)とも)、号は長汀子(ちょうていし)、 で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A2%8B・広辞苑・大辞林)、 明州奉化県の岳林寺に名籍をもつだけで、嗣法を明かさず、居所を定めず、 といい(世界大百科事典)、 容貌は福々しく、肥えた腹を露出し、日常生活用具を入れた袋を背負い杖を持って喜捨を求め市中を歩き、人の運命や天候を予知した、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A2%8B・広辞苑・大辞林)。 人々が与えるものは何でも布袋(ぬのぶくろ)に放り込んだことから、 布袋、 の名を得た(世界大百科事典)といい、後梁の貞明二年(916)に没したと伝えられる(精選版日本国語大辞典)。中国禅宗の諸祖における一種の異称の字典『禅林口実混名集』に、 布袋和尚、釋契此者、不詳氏族、形裁畏(腲脮(わいたい 肥えている)、蹙頞(しゅくあつ 顔をしかめる)皤腹(はふく 腹がふくれている)、常以杖荷布嚢入鄽、時號長汀子、布袋和尚、江浙鞦`其像焉、 とある。生前から、 神異の行跡が多く、分身の奇あり、一鉢千家の飯、孤身幾度の秋云々、その他、謎のような偈頌(げじゆ)が知られ、 て(世界大百科事典)、 弥勒の化身、 といわれ、鎌倉時代の説話集『十訓抄』に、 布袋和尚の十無益をかき給へる中に、文武不備、心高無益とあり、和尚は彌勒の化作なり、 とある。北宋代の禅宗灯史(伝承の歴史)『景徳伝灯録』(けいとくでんとうろく)に、布袋は死の間際に、 彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり) 時時示時分 時人自不識(時時に時分を示すも時人は自ら識らず) という名文を残した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A2%8B)ことも、弥勒菩薩の化身なのだという伝説を広める一因となったが広まったという(仝上)。 その円満の相は好画材として多く描かれ、日本では、室町時代後期には、 七福神、 の一人として信仰されるようになり(広辞苑・大辞林)、真言三宝宗大本山清荒神清澄寺では三宝荒神の眷属とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A2%8B)。ただ、七福神が確定するのは、 江戸後期、 で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A2%8B)、仙高フ『七福神画賛』には布袋が描かれているが福禄寿ではなく稲荷神が描かれている(仝上)、とある。 『日本七福神伝』の凡例によると、 國俗、以吉祥、辨才、多聞、大国四天、布袋和尚、南極老人、及吾国蛭子神、称七福神祭之、 となっており、『狂言七福神』では、 恵比須(蛭子)・大黒天・毘沙門天・弁財天・布袋・福祿寿・寿老人、 『七福神考』では、 えびす(夷、恵比須)、大黒天、毘沙門天(びしやもんてん)、布袋、福禄寿、寿老人、弁財天、 としているらしい(http://koshigayahistory.org/274.pdf)が、今日は、 えびす(夷、恵比須)、大黒天、毘沙門天、布袋(ほてい)、福禄寿、寿老人、弁財天、 で、近世には、 福禄寿と寿老人が同一神とされ、吉祥天もしくは猩々(しようじよう)が加えられていたこともある、 とある(世界大百科事典)。因みに、 南極老人(なんきょくろうじん)、 は、 南極老人星(カノープス りゅうこつ座α星)を神格化した道教の神、 で、 南極仙翁、 寿星、 ともいい、『西遊記』『封神演義』『白蛇伝』など小説や戯曲に神仙として登場することも多く、日本では七福神の福禄寿と寿老人のモデルだと言われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%A5%B5%E8%80%81%E4%BA%BA)とある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) ちはやぶる神代もきかず竜田川から紅に水くくるとは(業平)、 の、 から紅、 は、 唐紅、 韓紅、 と当て、 朝鮮半島から渡来した紅の色、 と注記がある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 (韓からの)舶来の紅、 の意で、 濃い紅色、 深紅色、 であるが、この言葉の由来については、 韓からきた紅花の意。カラ(韓)紅の義(和訓栞)、 韓は借字か、カラは、赤(アカラ)の略にて、呉藍(ごあゐ)の鮮明なるを云ふならむ(大言海)、 カラクレナヰ(辛紅)の意(言元梯)、 と異説もある。 唐紅の鮮やかで濃い赤色を出すには、エジプト原産の「紅花(べにばな)」という花が使われます。外国から日本に入ってきた製法のため、外から渡来した意味をもつ「唐」をあて、「唐紅」になった、 ようであり(https://biz.trans-suite.jp/89280)、 紅花には赤と黄色の色素が存在していますが、赤い色素だけを抽出し、それを用いて染めたもの、 が「韓紅」とあり(https://pex.jp/point_news/036b4d26fe05035c842e488311be28b2)、 何度も赤い染め液に浸すことによって、あざやかで濃い紅色(くれないいろ)になる、 とある(仝上)。日本に5世紀頃で、「呉(ご)」から伝わったため、当初は、 呉藍(くれのあい)、 と呼ばれていた(仝上)。だから、奈良時代には、 紅の八塩(くれないのやしお)、 とも呼ばれていた(仝上)。「八塩(やしほ)」は、 八入、 とも当て、 何回も染汁に浸してよく染めること、 濃くよく染まること、 の意で、 やしほぞめ、 とも言う(広辞苑・仝上)。「八入」で触れたように、 や(八)、 は、 ヨ(四)と母音交替による倍数関係をなす語。ヤ(彌)・イヤ(彌)と同根、 とあり(岩波古語辞典)、「八」という数の意の他に、 無限の数量・程度を表す語(「八雲立つ出雲八重垣」)、 で、 もと、「大八洲(おほやしま)」「八岐大蛇(やまたのおろち)」などと使い、日本民族の神聖数であった、 とする(仝上)。ただ、 此語彌(いや)の約と云ふ人あれど、十の七八と云ふ意にて、「七重の膝を八重に折る」「七浦」「七瀬」「五百代小田」など、皆數多きを云ふ。八が彌ならば、是等の七、五百は、何の略とかせむ、 と(大言海)、「彌」説への反対説があり、 副詞の「いや」(縮約形の「や」もある)と同源との説も近世には見られるが、荻生徂徠は「随筆・南留別志(なるべし)」において、「ふたつはひとつの音の転ぜるなり、むつはみつの転ぜるなり。やつはよつの転ぜるなる、 としている(日本語源大辞典)ので、 ひとつ→ふたつ、 みつ→むつ、 よつ→やつ、 と、倍数と見るなら、語源を、 ヤ(彌)・イヤ(彌)と同根、 とするのは意味がなくなるのではないか。また、「七」との関係では、 古い伝承においては、好んで用いられる数(聖数)とそうでない数とがあり、日本神話、特に出雲系の神話では、 夜久毛(やくも)立つ出雲夜幣賀岐(ヤヘガキ)妻籠みに 夜幣賀岐作る 其の夜幣賀岐を(古事記)、 の「夜(ヤ)」のように「八」がしきりに用いられる。また、五や七も用いられるが、六や九はほとんどみられない、 とあり(日本語源大辞典)、「聖数」としての「八」の意がはっきりしてくる。「八入」には、そう見ると、ただ、多数回という以上の含意が込められているのかもしれない。 正確な回数を示すというのではなく、古代に聖数とされていた八に結びつけて、回数を多く重ねることに重点がある、 とある(岩波古語辞典)のはその意味だろう。 また、「しほ(入)」は、 一入再入(ひとしおふたしお)の紅よりもなほ深し(太平記)、 と使うが、その語源は、 潮合の意にて、染むる浅深の程合いに寄せて云ふ語かと云ふ、或は、しほる意にて、酒を造り、色に染むる汁の義かと云ふ、 としかない(大言海)。 潮合ひ、 とは、 潮水の差し引きの程、 つまり、 潮時、 の意である。染の「程合い」から来たというのは、真偽は別に、面白い気がする。ただ、 八潮をり(折)、 と、 幾度も繰り返して醸造した強烈な酒、 の意でも使われるので、それが「八入」の染からきたのかの、先後は判別がつかない。さらに、 八鹽折之紐小刀(古事記)、 と、 幾度も繰り返して、練り鍛ふ、 意でも使う(大言海)のは、メタファとして使われているとみていいのかもしれないが。 さて、「八入」は、染の回数の意から、やがて、 竹敷のうへかた山は紅(くれなゐ)の八入の色になりにけるかも(万葉集)、 と、 色が濃いこと、 程度が深く、濃厚であること、 また、その濃い色や深い程度、 の意でも使われ、さらに、 露霜染めし紅の八入の岡の下紅葉(太平記)、 と、 八塩岡、 と、紅葉の名所の意として使われ、「八入」は、 紅の八しほの岡の紅葉をばいかに染めよとなほしぐるらん(新勅撰和歌集)、 と、 紅葉、 の代名詞ともなり、さらに「八入」は、 見わたしの岡のやしほは散りすぎて長谷山にあらし吹くなり(新六帖)、 と、 紅葉の品種、 の名となり、 春の若葉、甚だ紅なれば名とし、多く庭際に植えて賞す。夏は葉青く変ず、樹大ならず、 とある(大言海)。 「唐」(漢音トウ、呉音ドウ)は、 会意。「口+庚(ぴんとはる)」で、もと、口を張って大言すること。その原義は「荒唐」という熟語に保存されたが、単独ではもっぱら国名に用いられる。「大きな国」の意を含めた国名である、 とあり(漢字源)、別に、 会意文字です(もと、庚+口)。「きねを両手で持ち上げつき固める」象形と「場所を表す」象形から、「つき固めた堤(堤防)」を意味する「唐」という漢字が成り立ちました。「塘(とう)」の原字である。また、「蕩(トウ)」に通じ(同じ読みを持つ「蕩」と同じ意味を持つようになって)、「大きな事を言う」という意味も表します、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1413.html)が、 形声。「口」+音符「庚 /*LANG/」、 とし、 会意文字と解釈する説があるが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%94%90)、 形声。口と、音符庚(カウ)→(タウ)(は省略形)とから成る。大言する意を表す。転じて、おおきい意に用いる、 とある(角川新字源)。 「韓」(漢音カン、呉音ガン)は、 会意兼形声。「韋(なめしがわ)+音符乾(カン 強い、大きいの略体)」 とある(漢字源)。別に、 形声。「韋」+音符「倝 /*KAN/」。「いげた」を意味する漢語{韓 /*gaan/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9F%93)、 形声。韋と、音符倝(カン、ケン)(𠦝は省略形)とから成る。もと、国名を表した(角川新字源)、 会意兼形声文字です(倝+韋)。「長い旗ざお」の象形(「上に出るもの」の意味)と「ステップの方向が違う足の象形と場所を示す象形」(「群を抜いて優れている、取り囲む」の意味)から、「いげた(井戸の上に井の字形に組んだ木の囲い)」、群を抜いて優れているもの「かんこく(国名)」を意味する「韓」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2116.html)、 等々ともある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 五月来ば鳴きもふりなむほととぎすまだしきほどの声を聞かばや(古今和歌集)、 の、 まだしきほど、 は、 ほととぎすが本格的に鳴き始めないうちのまだ幼い声、 と注記がある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 まだし、 は、 未だし、 と当て、 まだその期に達しない、 意から、転じて、 なからまではあそばしたなるを末なんまだしきと宣(のたま)ふなる(蜻蛉日記)、 と、 まだ整わない、 まだ十分でない、 意で使い(広辞苑)、 琴・笛など習ふ、またさこそは、まだしきほどは、これがやうにいつしかとおぼゆらめ(枕草子)、 と、 未熟である、 意や(学研全訳古語辞典)、 この君はまだしきに、世の覚えいと過ぎて(源氏物語)、 と、 年齢などが十分でない、 幼い、 意となる(岩波古語辞典)。こうした用例から見ると、この由来は、 いまだし(未)の上略、待たしきの義(大言海)、 副詞まだ(未)の形容詞形(岩波古語辞典・角川古語辞典)、 副詞「いまだ」の形容詞化(デジタル大辞泉)、 などとあり、 未だ→まだ→まだし、 と転化した(日本語の語源)と見ていいのではないか。 いまだ(未)、 は、 事態が予想される段階に達しない意、 で(岩波古語辞典)、 妹(いも)が見し楝(あふち)の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ乾(ひ)なくに(山上憶良)、 と、多く打消しを伴って、 まだ、 の意や、 妹(いも)が門(かど)入(い)り泉川(いづみがは)の常滑(とこなめ)にみ雪の残れりいまだ冬かも(柿本人麻呂)、 と、 依然として、 いまなお、 の意で使う(仝上)。 今、だにの略(大言海)、 今まだの約、或は、マダに接頭語のイのついたものか(日本古語大辞典=松岡静雄)、 イは発語、マツ(待)から出た語(日本釈名)、 イマト(今間所)の転(言元梯)、 イマナ(今無)の転(和語私臆鈔)、 イマタ(今無)の義(日本語源=賀茂百樹)、 今ナラヌ(名言通)、 などと諸説あり、 接頭語「い」と、名詞「間(ま)」と「だに」と同根の「だに」というが複合したもので、ほんのわずかの間でさえも、の意を表した、 とする説もある(日本語源大辞典)とするが、 それなら、 今、だに(大言海)、 と、 道だに、 夕だに、 声だに、 の助詞「だに」のついたものとする説の方がすっきりする。「だに」の意味は、 「〜だけでも」の意で、否定の語と呼応する場合は「せめて…だけでもと願う。それも…ない」の意、 とある(岩波古語辞典)。 ただにと云ふを略したるなり(安斎随筆)、 を挙げ、 軽きを挙げて、餘の重きを言外に引証する意の語(サヘは、多きにつきて、それが上に添ふるもの、ダニは少なきをを挙げて示すもの)、 とする説(大言海)が説得力がある。 でも、 なりとも、 の意である。 いまだ、 は、平安時代に、「いまだ」から変化した、 まだ、 という語が和文専用語として用いられるようになり、 いまだ、 は、漢文訓読にもっぱら使われ、 否定との呼応が強く意識されるようになった、 とある(日本語源大辞典)。「いまだ」から転じた、 まだ、 は、 まだ帰らない、 というように、否定語を伴って、 一つの事態がその時点までになお実現していないさま、 を表し、 いままで……したことがない、 その時はなお……していない、 という意や、肯定表現に用いて、 未だ雨が降っている、 というように、 一つの状態がその時点において、猶継続するさま、 を表わし、 いまなお、……している、 意で使う(日本語源大辞典)。 まだし、 は、この、 まだ、 の、 (しく)・しから/しく・しかり/し/しき・しかる/しけれ/しかれ、 と活用する形容詞形(岩波古語辞典・角川古語辞典)となる。 「未」(漢音ミ、呉音ビ)は、 象形。木のまだ伸びきらない部分を描いたもので、まだ……していないの意を表す、 とある(漢字源)、同趣で、 象形。梢の若芽。「いまだ」の意は、音を仮借したものとも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%AA)、 象形。木の枝がしげっているさまにかたどる。借りて「いまだ」の意に、また、十二支の第八位に用いる(角川新字源)、 象形文字です。「大地を覆う木に若い枝が生えた」象形から「若い」・「小さい」・「いまだ」・「まだ」を意味する「未」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji709.html)、 とある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 一人寝る床は草葉にあらねども秋来る宵はつゆけかりけり(古今和歌集)、 の、 つゆけし、 は、 露に濡れることから転じて多く涙に濡れることをいう、 と注記がある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 つゆけし、 は、 露けし、 と当て、 けし、 は、 のどけし、 さやけし、 あきらけし、 等々と、 体言などに付いてク活用の形容詞を作り、その性質や状態を表わす接尾語、 で(精選版日本国語大辞典)、文字通り、 露にぬれてしっとりしている、 露に濡れて湿気が多い、 意(大辞林・デジタル大辞泉)だが、それをメタファに、 若宮の、いとおぼつかなく、つゆけき中に過ぐし給(たま)ふも(源氏物語)、 と、 涙がちである、 意を込めて使う(学研全訳古語辞典・広辞苑)。 つゆ(露)、 は、 秋の野に都由(ツユ)負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか(万葉集)、 と、 大気中の水蒸気が冷えた物体に触れて凝結付着した水滴。夜間の放射冷却によって気温が氷点以上、露点以下になったとき生じる。また、雨の後に木草の葉などの上に残っている水滴、 をいう(精選版日本国語大辞典)が、それをメタファに、 わが袖は草の庵にあらねども暮るればつゆのやどりなりけり(伊勢物語)、 と、 涙、 の比喩に用い、また、「露」のはかなさから、 つゆの癖なき。かたち・心・ありさまにすぐれ、世に経る程、いささかのきずなき(枕草子)、 と、 はかないもの、わずかなこと、 の比喩に用い(仝上)、 つゆばかりの、 つゆほど、 等々と使う。その垂れるメタファからか、 狩衣、水干などの袖をくくる緒の垂れた端、 を言い、 狩衣、水干、直垂などの袖括(そでぐくり)の端の、袖の端に余りて垂るるもの、 即ち、 袖の下、三四寸下ぐ、略して、袖先ばかりにもつく、 とあり(大言海)、その使用には、 その露を結びて肩にかく、 とある(仝上)。また、一般には、 留め紐や緒の先端の垂れ下った部分、 をもいう(仝上)。 さらに、太刀の、 頭に下ぐる、金銀の錘、 にもいい(大言海)、 豆板銀(まめいたぎん)、 小玉銀(こだまぎん)、 とも呼ばれる、江戸時代に丁銀に対する少額貨幣として流通した銀塊、 小粒銀(こつぶぎん)、 も(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E6%9D%BF%E9%8A%80)、 豆のような形、 から、「つゆ」と呼ばれた(大言海・岩波古語辞典)。 和名類聚抄(平安中期)に、 露、豆由、 とある、この「つゆ」の語源は、 つゆ、 と訓ませる、 汁、 つまり、 しる、 や 煮出し汁、 と同じとする(大言海)説や、 粒齋(ツブユ)の義(大言海・箋注和名抄・名言通・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本語源=賀茂百樹)、 ツは丸い意、ユはただよわしの意(槙のいた屋)、 ツイエルの意(和句解・和語私臆鈔)、 等々あるが、「つぶら」で触れたように、「つぶら」は、 粒、 と関わるとされ、「ツブ」は、 ツブラ(円)の義、 とされ、「粒」は、 円いもの、 とほぼ同じと見なしたらしいのである。そして、その「つぶ」は、 丸、 粒、 とあて(岩波古語辞典)、 ツブシ(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根、 とある。「くるぶし」で触れたように、「くるぶし」は、 つぶふし、 で載り、 ツブ(粒)フシ(節)の意、 とある(仝上)。和名類聚抄(平安中期)は、 「踝、豆不奈岐(つぶなぎ)、俗云豆布布之(つぶふし)」 とあるので、 つぶふし、 つぶなぎ、 が古称で、その箇所(くるぶし)を、「粒」という外見ではなく、回転する「くるる」(樞)の機能に着目した名づけに転じて、「くるぶし」となった。 こうした流れをみると、 粒、 は、 丸いもの、 の意だと考えられ、この音韻変化が可能かどうかはわからないが、 つぶ(tubu)→つゆ(tuyu)、 とストレートに転訛したと思いたいのだが。 「まどか」、「まる(丸・円)」、「つぶら」については触れた。 「露」(漢音ロ、呉音ル、慣用ロウ)は、 形声。「雨+音符路」で、透明の意を含む。転じて、透明に透けて見えること、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(雨+路)。「雲から水滴が滴(したた)り落ちる」象形と「胴体の象形と立ち止まる足の象形と上から下へ向かう足の象形と口の象形」(人が歩き至る時の「みち」の意味だが、ここでは、「落」に通じ、「おちる」の意味から、落ちてきた雨を意味し、そこから、「つゆ(晴れた朝に草の上などに見られる水滴)」を意味する「露」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji340.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 君しのぶ草にやつるるふるさとはまつ虫の音ぞかなしかりける(古今和歌集)、 の、 やつる、 は、 俏る、 窶る、 等々と当てる(学研全訳古語辞典)が、 忍草がはびこり荒れ果てた様子に、詠み手の女のやつれた様子を重ねる、 と注記(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)があり、ここでは、 やつるは、 荒れて、依然と変わってしまう、 という意で使われている。 やつる、 の原義は、 人の容姿、着物などが前とは変わって地味な、目立たない様子になる意、以前と打って変わって荒れ果て、落ちぶれ、衰弱している意、 のようで(岩波古語辞典)、 いといたうやつれ給(たま)へれど、しるき御さまなれば(源氏物語)、 いと忍びてただ舎人二人召継としてやつれ給ひて(竹取物語)、 などと、 目立たなくなる、 みすぼらしくなる、 粗末になる、 簡素になる、 といった意味で、 状、悪くなる、事殺(そ)ぎたる、衣類の麁末になる、 という含意(大言海)と、 いと若かりしほどを見しに、太り黒みてやつれたれば(源氏物語)、 と、 衰える、 見ばえがしなくなる、 の意があり(学研全訳古語辞典)、今日の、 長い間の病気ですっかりやつれた、 というような使い方をする、「やつれる」の持っている、 痩せ衰える、 という意味はなく、上例のように、中古には、 「太る」と「やつる」が矛盾なく同時に用いられてさえいる、 とある(仝上)。しかし、 人の形容のおとろふ、 つまり、 憔悴、 の意(大言海)なので、そこから、 瘦せ衰える、 に意味がシフトしてもおかしくはない。大言海は、この意味の語源を、 痩せ連るルの義、 とし、前者の語源を、 破(ヤ)れ連るル義、 と、分けて考えているが、他に、 痩するの義(言元梯)、 ヤセツカレアルル(痩労荒)の義(日本語原学=林甕臣)、 等々、どうも、 痩せる、 と関わらせる説が多い。やつる、 の他動詞が、 やつし、 で、「やつし」で触れたように、 やつれて見えるようにする、 という意だが、江戸時代、既に、 容姿を美しくつくる、粉飾する、 の意味で使われており、現代、 「窶す(やつす)」とは、おめかししたり、おしゃれに着飾ることをいうのです、 と(https://www.osaka-info.jp/ja/model/osakaben/html/0027.html)、成人式で着飾るのを指すしている。 現代風の「やつれる(寠れる)」は、 やつるの下二段活用、 で、 やせ細る、みすぼらしくなる、 という意味になる。本来は、 肉体的な痩せ細る、 という意味を、メタファとして、 みすぼらしい、 とし、さらに、 崩す、 と、それを拡大していったという含意の広がりの果てに、 化粧、 と行くのは、 意識的に身をやつす、 という意味の転化が挟まって、その意味の変化がよくわかる。 やせ細る→みすぼらしくする→身をやつす→形を変える→崩す→めかす→化粧、 という大筋が見えてくるので、「やつる」に、 痩せ衰える、 意味はなかったとしても、 日以襤褸而(やつれて)憂之曰、吾已貧矣(神代紀)、 と、 外見の劣化、 を指していたのに違いはなく、そこから、 みすぼらしい、 荒れる、 と変化したと見ていいのではないか。 「寠」(漢音ク、呉音グ)は、 会意兼形声。「穴(あな)+音符婁(ル ちぢまる)」 とある(漢字源)。「まずしさで縮こまっている」意である。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の陰にぞありける(古今和歌集)、 の、 なへに、 は、 …するとともに、 …するにつれて、 の意で、歌は、 ひぐらしが鳴いたとともに、その名のとおり日が暮れたと思ったら、山の陰なのだった、 という意になる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。奥義抄(1135‐44頃)に、 なへ、からになと云ふ心也、 とある。この「からに」は、 「と」「たちまち」、 などの意をいうものであろう(精選版日本国語大辞典)とある。 なへに、 は、 接続助詞「なへ」に格助詞「に」の付いたもの、 で、 今朝の朝明(あさけ)雁(かり)が音(ね)寒く聞きし奈倍(ナヘ)野辺の浅茅そ色付きにける(万葉集)、 と、 なへ、 とも使い、 ナは連体助詞、ヘはウヘ(上)のウの脱落形、ウヘにはものに直接接触する意があるので、ナヘは、「……の上」の意から時間的に同時・連続の意を表すようになった、 と(岩波古語辞典)、 活用語の連体形を受け、ある事態と同時に、他の事態の存することを示す上代語、 で(精選版日本国語大辞典)、 …とともに、 …にあわせて、 …するちょうどその時に、 の意となる(精選版日本国語大辞典)。『大言海』には、 なべ、 なべに、 と載るのは、この語は、万葉仮名で、 奈倍、 とか、 もみぢばのちりぬる奈倍爾に玉梓(たまづさ)の使を見れば會ひし日おもほゆ(万葉集)、 と、 奈倍爾、 と表記されていたためか、 長らくナベと訓まれてきちたが、万葉仮名の研究から、奈良時代にはナヘと清音であったとされるようになった、 ため(岩波古語辞典)である。 「なへ」の万葉仮名には「倍」「戸」が用いられているので、下二段活用動詞「並ぶ」または「並む」の連用形が語源で、したがって「なべ」と第二音節を濁音にみる、 説であった(精選版日本国語大辞典が、 葦邊なる萩の葉さやぎ秋風の吹來る苗爾鳫鳴きわたる(万葉集)、 と、「なへ」に、 苗、 の字が用いられているところから、第二音節は清音であると考えられるようになっている(仝上)とある。 柔田津に舟乗りせむと聞きし苗(なへ)なにかも君が見え来ざるらむ、 の例は、 その時にして、しかも、 …のに、 という語感が伴う(仝上)とあるが、「葦邊なる……」の歌も、そういう含意で読めなくもない。 上代には、 なへ、 とも、 なへに、 の形でも用いられたが、中古以後は、 なへに、 の形のみとなる(仝上)とある。 「上」(漢音ショウ。呉音ジョウ)は、 指事(形で表すことが難しい物事を点画の組み合わせによって表して作られた文字)。ものが下敷きの上にのっていることを示す。うえ、上にのる意を示す。下のの字の反対の形、 とある(漢字源)。別に、 指事。「下」の字とは逆に、高さの基準の横線の上に短い一線(のちに縦線となり、縦線と点とを合わせた形となる)を書いて、ものの上方、また「あげる」意を表す、 とも(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji116.html)ある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 秋の夜は露こそことに寒からし草むらごとに虫のわぶれば(古今和歌集)、 の、 わぶ、 は、 虫がつらそうに鳴いている、 と注釈される(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 侘ぶ、 と当て、 うらわぶ(心佗)の略、 とあり(大言海)、「わぶ」に当てる字について、 四種に書すが、義自ら異なり、その別を辨へむ、 として、 詫は、『玉篇(ぎょくへん、ごくへん)』(南北朝時代に編纂された部首別漢字字典)「誇也」、『集韻(しゅういん)』(宋代の漢字を韻によって分類した韻書)「誑也」、 詑は、『玉篇』「輕也、欺罔也」、 託は、『増韻』(南宋代に増注した『増修互注礼部韻略』(『増韻』と略称)「委也、信任也」、『玉篇』「憑依也」、 侘は、「離騒」(楚の屈原の作と伝わる楚辞の代表作)注「侘、立也、傺、住也、言憂思失意、住立而不能前也」 と見える(仝上)とある。当てる漢字の差異はともかくとして、和語、 わぶ、 は、 失意・失望・困惑の情を態度・動作に表す意、 で(岩波古語辞典)、 吾(あれ)無しとなわびわが背子ほととぎす鳴かむ五月は玉を貫(ぬ)かさね(万葉集)、 と、 気落ちして切ない、 気が抜けるようである、 意や、冒頭の、 秋の夜はつゆこそことにさむからしくさむらごとに虫のわぶれば、 の、 思うようにならないでうらめしく思う、 つらがって嘆く、 心細く思う、 意や、 舟帰る。この間に雨降りぬ。いとわびし(土佐日記)、 と、 身にこたえる、 やりきれない、 意や、 童(わらはべ)の名は例のやうなるはわびしとて、虫の名をなむつけ給ひたりける(堤中納言物語)、 と、 おもしろくない、 意や、 上りて、つい居て休むほどに、奥の方より人來ちたる音す。あなわびし人の有りける所をと思ふに(今昔物語)、 と、 困ったことだ、 当惑する、 意や、 あるは、昨日(きのふ)は栄えおごりて、時を失ひ、世にわび、親しかりしも疎(うと)くなり(古今集・仮名序)、 と、 落ちぶれる、 貧乏になる、 まずしくなる、 意や、さらに、 身ひとつばかりわびしからで過ぐしけり(宇治拾遺物語)、 と、 貧乏である、 意で使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・学研国語大辞典)が、 詫ぶ、 と当て、 困惑する、 意の外延になるのか、 わび申す由聞かせ参らせよと宣ひければ(今鏡)、 と、 困惑した様子をして過失などの許しを求める、 あやまる、 意でも使う(仝上)。さらに、その延長で、 他の動詞の連用形に付いて、 やよやまて山郭公ことづてんわれ世の中にすみわびぬとよ(古今和歌集)、 と、 その動作や行為をなかなかしきれないで困る、 の意を表わし、 …しあぐむ。、 意で使う(仝上)。日葡辞書(1603〜04)には、 ヒトヲ タヅネ vaburu(ワブル)、……Machivaburu(マチワブル)、 と載る。 なお、「わび」については「わび・さび」で触れた。 「侘」(漢音タ、呉音チャ)は、 会意兼形声。「人+音符宅(タク じっととまる)」、 とある(漢字源)。「たちどまる」「がっかりしてたちつくす」意で、貧困のさまを表す言葉に使う、とある。我が国では、「わび・さび」の「わび」に当てて使う。 「詫」(漢音タ、呉音チャ)は、 形声。「言+音符宅」、 で、「いぶかる」「おどろきあやしむ」意で、「詑」(あざむく)は別字、とある。別に、 形声。「言」+音符「宅 /*TAK/」。「おごる」を意味する漢語{詫 /*thraaks/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A9%AB)、 形声文字です(言+宅)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつし(慎・謹)んで)言う」の意味)と「屋根・屋の象形と寛(くつろ)ぐ人の象形」(「人が伸びやかにして、寛(くつろ)ぐ家屋」の意味だが、ここでは「託」に通じ(「託」と同じ意味を持つようになって)、「頼む」の意味、「侘」に通じ、「寂しく思う」の意味)から「かこつ」、「わびる」を 意味する「詫」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2736.html)、 ともある。 「詑」(漢音タ、呉音ダ)は、 形声。「言+音符它(タ)」。「あざむく」意で、「詫」(いぶかる)は別字、とある(漢字源)。 「佗」(漢音タ、呉音ダ)は、 会意兼形声。它(タ)は、蛇を描いた象形文字。蛇の害を受けるような変事の意から、見慣れない意となり、六朝時代からのち、よその人、他人、かれの意となる。佗は「人+音符它(タ)」。它で代用することが多い、 とある(漢字源)。「他」と同義で、「ほかの」「よその」の意で使う。別に、 会意兼形声文字です(人+也・它)。「横から見た人」の象形と「へび」の象形(「蛇(へび)、人類でない変わったもの」の意味)から、「見知らない人、たにん」を意味する「他」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji248.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 秋風に初雁が音ぞ聞こゆなる誰が玉づさをかけて来つらむ(古今和歌集)、 の、 たまづさ、 は、万葉集では、 たまづさの、 という形で、 使ひ、 にかかる枕詞であり、さらに、 使者そのもの、 の意味になったが、古今集から、 使者が携えてくる手紙、 の意となる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)と注記がある。なお、 雁が手紙を運ぶ、 は、いわゆる 雁信、 の故事による(仝上)とある。 雁信、 は、 雁札(がんさつ)、 とも、 雁書、 雁文、 雁素(がんそ)、 かりのたより、 等々ともいい、 漢の蘇武(そぶ)が匈奴(きょうど)に捕えられたとき雁の足に手紙を付けて祖国に無事を知らせたという「漢書」蘇武伝の故事から、 音信の書、 手紙、 の意で使う(仝上・精選版日本国語大辞典)。 たまづさ、 は、 玉梓、 玉章、 とあてる。その由来は、 たまづさは飛翔(とぶつばさ)の略転(ハヤツバサ、ハヤブサ)。古事記、軽太子の御歌に、「阿麻陀牟(アマダム)、軽嬢女(かるのおとめ)」(雁にかけたり)、又「阿麻登夫(アマトブ)、鳥も使ぞ」(使は速く行くを主といれば、鳥を使いとあるなり)(大言海)、 タマツサ(賜従者)の義(言元梯)、 タマツタヘクサ(奇伝草)の義(柴門和語類集)、 等々の諸説もあるが、 タマアヅサ(玉梓)の略(万葉集類林・類聚名物考・円珠庵雑記・玉勝間・和訓栞)、 の説が大勢で、タマは美称、 で(広辞苑・小学館古語大辞典)、 梓の杖は使者の持ち物だった。古く文字のない社会では使者が伝言などを口で伝えたところから(岩波古語辞典)、 古代、手紙を梓の木などに結びつけて使者が持参したことから(広辞苑・大辞林)、 と、 梓、 の解釈には差があるが、 こもりくの泊瀬の山に神さびにいつきいますと玉梓(たまづさ)の人そ言ひつる(万葉集)、 とあるので、 便りを運ぶ使者の持つ梓(あずさ)の杖、 が、転じて、 その杖を持つ人、 使者、 の意となり、転じて、 秋風にはつかりがねぞきこゆなるたがたまづさをかけてきつらん(古今集)、 と、 手紙、書簡、便り、 また、 文章、 の意となり、さらに、後には、 日比秘蔵の猫の首玉に、こがるるとの玉章(タマヅサ)をむすび付おこしけるを(判記「役者二挺三味線(1702)」)、 と、 手紙の真中を捻(ひね)り結んだもの、 という、多く、 恋文、 艶書、 にいうようになる(精選版日本国語大辞典・大言海)。江戸後期の『嬉遊笑覧』には、 艶書をば、、文の真中をねじりて結ぶあり、俗に是を玉づさと云、 とある。さらに、形が結び文ににていることから、 カラスウリの種子、 さらに転じて、 からすうり(烏瓜)の異名 ともなる(仝上)。 玉章豆腐(たまずさどうふ)、 というと、 豆腐を封書のように薄く細長く切って鉢の水に浮かべたもの、 玉章結び(たまずさむすび)、 というと、 吉弥結(きちやむすび)、 のことで、 延宝・元禄の頃の女形役者、上村吉弥の結びたるより名とす、 とあり(大言海)、 背にて二つ結びにして、其両端を、唐犬の耳を垂れたる如く垂らしおくもの、 とある(仝上)が、 大幅の長帯の桁目(くけめ 折ってある布と布を縫い合わす縫目)の角に鉛の重石を入れ、結んだ両端をだらりと垂らす、 がわかりやすい(岩波古語辞典)。 なお、「梓」は、「梓の真弓」で触れたように、 カバノキ科の落葉高木、 で、 古く呪力のある木とされた、 とあり(岩波古語辞典)、古代の「梓弓」の材料とされ、和名抄には、 梓、阿豆佐、楸(ひさぎ、きささげ)之属也、 とある。この「梓」には、古来、 キササゲ、 アカメガシワ、 オノオレ、 リンボク(ヒイラギガシ) などの諸説があり一定しなかったが、白井光太郎氏による正倉院の梓弓の顕微鏡的調査の結果などから、 ミズメ(ヨグソミネバリ)、カバノキ科の落葉高木、 が通説となっている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93)とある。 「梓」(シ)は、「梓の真弓」で触れたように、 会意兼形声。辛(シン)は、鋭い刃物の象形で、切る意を表わす。梓は「木+音符辛」で、刃物で切ったり刻んだりするのに適した木、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(木+宰の省略形)。「大地を覆う木」の象形と「入れ墨をする為の針」の象形(「祭事や宴会の為に調理する」の意味)から、「木材で各種の器具を作る職人、建具師」を意味する「梓」という漢字が成り立ちました。また、「あずさの木」、「版木(はんぎ)」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji324.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) わが門にいなおほせ鳥の鳴くなへにけさ吹く風に雁は来にけり(古今和歌集)、 山田も(守)る秋の仮廬(かりいほ)に置く露はいなおほせ鳥の涙なりけり(仝上)、 の、 いなおほせ鳥、 は、 ももちどり(百千鳥)、 よぶこどり(喚子鳥)、 と並ぶ、いわゆる、 古今三鳥、 の一つとされるが、 秋の田にいる鳥、 らしいものの、古来不明とされる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とあり、中世にはその正体が秘伝扱いされた。 稲負ほせ鳥、 と当て、 稲の収穫を促す鳥という意味か、 ともあり(仝上)、上記の歌では、 雁の到来と同時期のもの、 として詠まれたり、 露がその涙、 に見立てられるので、比較的秋の早い時期の鳥か(仝上)と注記がある。。 いなおほせ鳥、 は、多く、 稲負鳥、 と当て、和名類聚抄(平安中期)にも、 稲負鳥、以奈於保世度里、 とあり、 此鳥、秋の末、稲の熟せし頃、昼夜、空中に飛び鳴きわたり、田の面に群がり来る、農民これに促されて、稲を刈り取るなり、 とある(大言海)。で、この由来を、 「いなおほせ」は、稍課(イナオホセ)の義、稲刈りを課(おほ)する(催促)鳥の意なり(大言海・南留別志・嚶々筆語・和訓栞・岩波古語辞典)、 稲を刈り背に負わせる意(百草露)、 とする説があるが、他も、 鳥の姿が稲を負っているに似ていることから(和訓栞)、 日本に稲の穂をもたらしたという言い伝えから(古今集注)、 と、「稲」に絡める説が大勢である。 鳥の他に、牛・馬とする説もあった、 とされ(岩波古語辞典)、 セキレイ、トキ、スズメ、クイナ、バン、タマシギ、 等々に当てる諸説がある(精選版日本国語大辞典)が、近世では、 セキレイ、 とするのが通説(仝上)とあり、大言海は、 黄鶺鴒(きせきれい)、 の古名とする。 「鶺鴒」で触れたように、「セキレイ」は、古名、 鶺鴒(にはくなぶり)有りて、飛び来たりてその首(かしら)尾を揺(うごか)し(神代紀)、 と、「鶺鴒」を、 にわくなぶり、 にはくなふり、 と訓ませ、 庭くなぶり、 などと当てた(精選版日本国語大辞典)。和名類聚抄(平安中期)に、 鶺鴒、爾波久奈布里、 とあり、本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)にも、 鶺鴒、爾波久奈布利、 とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 鶺鴒、ニハクナブリ、トツギヲシヘドリ とある。だから、日本書紀には、「鶺鴒(にはくなふり)」の別訓として、 とつぎをしへとり、 つつなはせとり、 つつまなはしら、 とつきとり、 とある(日本書紀・兼方本訓)し、 ももしきの大宮人はうづらとり領巾(ひれ)取り掛けて鶺鴒(まなばしら)尾行き合へ(すそを引いていきかわしの意)(古事記)、 と、 まなばしら、 ともいい、また、 アノ鶺鴒を、にはくなぎ、庭たたき、戀教鳥(こひをしへどり)とも云ふ(近松門左衛門「日本振袖始」)、 と、 にはくなぎ、 戀教鳥(こひをしへどり)、 ともいい(大言海・デジタル大辞泉)、 胡鷰子(あめ)、鶺鴒(つつ)、千鳥、真鵐(ましとと 麻斯登登)何(な)ど開(さ)ける利目(とめ)(古事記)、 とある、 つつ、 も、セキレイの古名とされる(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)。「鶺鴒」は、他にも、 イシナギ、 イモセドリ、 イシクナギ、 イシタタキ(石叩き・石敲き)、 ニワタタキ(庭叩き)、 ニワクナギ(鶺鴒、熟字訓)、 イワタタキ(岩叩き)、 イシクナギ(石婚ぎ)、 カワラスズメ(川原雀・河原雀)、 オシエドリ(教鳥)、 ツツナワセドリ(雁を意味することもある)、 ミチオシエドリ、 トツギオシエドリ(嫁教鳥)、 ツツ(鶺鴒)、 マナバシラ(鶺鴒)、 コイオシエドリ(恋教鳥)、 ニワクナブリ、 等々多くの異名を持つ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%82%A4・精選版日本国語大辞典)。 主に水辺に住み、長い尾を上下に振る習性がある、 とされ、イシタタキなどの和名はその様子に由来する。人や車を先導するように飛ぶ様子がよく観察される(仝上)とある。この生態からみると、 いなおほせ鳥、 とは異なるような気がするのだが。 なお、「くいな」、「千鳥」、「スズメ」、「しぎ」、「トキ」については触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) いとはやも鳴きぬる雁か白露の色どる木々ももみぢあへなくに(古今和歌集)、 の、 あふ、 は、 … しきる、 … しおおせる、 の意とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 あへなし、 は、 敢へ無し、 とあてる形容詞で、語源は、 あふ(敢ふ)の連用形(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%B8%E3%81%AA%E3%81%97)、 とも、 敢ふの名詞形(大言海)、 とも、 「あえ」は動詞「あう(敢)」の連用形の名詞化。こらえられないの意から(精選版日本国語大辞典)、 ともあるが、 あへなし、 は、 「合へ無し」の意、死・出家・失踪・焼失など、もはや取り返しのつかない結果に対して、手の打ちようもなく、がっくりした気持ちに言うことが多い、 とあり(岩波古語辞典)、 敢ふことなしの義、堪(こら)へずの義、力落(ちからおとし)するなり、 とある(大言海)のも同趣旨である。 (尼になって)みづから額髪をかきさぐりて、あへなく心ぼそければうちひそみぬかし(源氏物語)、 と、 (今になっては)どうしようもない、仕方がない、 意から、 前ざまへ強く引きたるに、うつぶしにまろびぬ。あへなきことかぎりもない(古今著聞集)、 と、 (対処しようにも)はりあいがない、あっけない、 意へ、さらに、 ここにて切られたらば、あへなく討たれたるぞと言はれんずる(義経記)、 と、 もろくはかない、 意へとスライドしていく(岩波古語辞典・学研国語大辞典)。このもとになった、 敢ふ、 は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 肯、アフ、アヘテ、 敢、アヘテ、 とあり、 合ふと同根、事の成り行きを、相手・対象の動き・要求などに合わせる。転じて、ことを全うし、堪えきる、 とあり(岩波古語辞典)、 大船のゆくらゆくらに面影にもとな見えつつかく恋ひば老い付く我が身けだし堪へむかも(万葉集)、 と、 (事態に対処して)どうにかやりきる、 どうにかもちこたえる、 意から、 秋されば置く露霜にあへずして都の山は色づきぬらむ(万葉集)、 と、 こらえきる、 意となり、動詞連用形に続いて、 神なびにひもろき立てて斎へども人の心はまもりあへぬもの(万葉集)、 と、 ……しきれる、 意や、 足玉(あしだま)も手玉(てだま)もゆらに織る服(はた)を君が御衣(みけし)に縫ひもあへむかも(万葉集)、 と、 すっかり……する、 意で使う。 「敢」(カン)は、 会意兼形声。甘は、口の中に含むことを表す会意文字で、拑(カン 封じこむ)と同系。敢は、古くは「手+手+/印(はらいのける)+音符甘(カン)」で、封じ込まれた状態を、思い切って手で払いのけること、 とある(漢字源)。別に、 形声。意符𠬪(ひよう 上下から手をさしだしたさま)と、音符古(コ)→(カム)とから成り、進んで取る意を表す。のち、敢の字形に変わり、借りて、おしきってする意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意文字です(又+又+占の変形)。「口」の象形と「占いの為に亀の甲羅や牛の骨を焼いて得られた割れ目を無理矢理、両手で押し曲げた」象形から、道理に合わない事を「あえてする」を意味する「敢」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji1613.html)ある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 月草に衣はすらむ朝露にぬれてののちはうつろひぬとも (古今和歌集)、 の、 摺る、 は、 染料を塗った形木(かたぎ)を布にこすりつけて染めること、 で、 月草であなたの衣を摺(す)って染めましょう。たとえ朝露に濡れて帰った後は色うつろうとしても、 と注記がある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 する、 には、 摺る、 のほかに、 刷る、 擦る、 磨る、 摩る、 擂る、 等々と当てるが、いずれも、 「こする」の、コ音脱落による、 とある(日本語源広辞典)。 こする、 は、 コ(接頭語、擬音)+スル で、 コシコシと摩擦する、 意で、 さする、 すれる、 も同源で、 何かの面に手を強く押し当てて前後左右に動かすこと、 とある(仝上)。 こ、 は、 小、 と当てる接頭語で、 小松、 小倅(こせがれ)、 小風、 小腰、 小手、 こざかしい、 こづらにくい、 ちいさいこと、 程度の少ないことを表す、 いささか、 の意で使う(岩波古語辞典・大言海)ので、 ちょっとする、 意の、「こ」がとれると、「ちょっと」の意が消えていくことになる。 擦る、 摩る、 磨る、 と当てるのは、 物と物とをこすり合わせる、 意なので、 こすって磨く、 意(岩波古語辞典)から、 味噌をする、 のように、 触れ合わせて細かく砕く、 で使う。この場合は、 擂る、 と当てる(デジタル大辞泉)。 摺る、 刷る、 と当てる場合は、 苗代(なはしろ)の小水葱(こなぎ)が花を衣(きぬ)に摺(す)りなるるまにまにあぜか愛(かな)しけ(万葉集)、 と、 (草木の汁などを)布にこすりつけて着色する、 布に木型を押し当てて、彩色したり、模様を染め出したりする、 意や、 版木を使って印刷する、 意だが、とくに、 摺る、 は、 仍て俄に上の句を摺り、下の句三字を改む、 というように、 草稿を抹消する、 意で使う(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。 「擦」(漢音サツ、呉音サチ)は、 会意兼形声。祭はもと「肉を水や酒で清めるさま+又(手)」からなる会意文字で、供え物に水をかけ、こすって清めるさま。察は「宀(やね、いえ)+音符祭」からなり、すみまできれいにすること。擦は「手+音符察」で、こすって汚れをとりさること、 とある(漢字源)。手でこすりあわせる意を表す(角川新字源)ともあり、別に、 会意兼形声文字です(扌(手)+察)。「5本の指のある手」の象形と「家屋(屋根)の象形といけにえの肉の象形と右手の象形と神にいけにえを捧げる台の象形」(「屋内で祭り神の心をはっきりさせる」の意味だが、ここでは、「物をする時の音の擬声語」)から、「する」、「さする」、「こする」を意味する「擦」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1634.html)。 「摺」(@漢音呉音ショウ、A漢音呉音ロウ)は、 会意兼形声。習は、羽を重ねること。摺は「手+音符習」で、折り重ねること、 とあり(漢字源)、「たたむ」意は@、ひしぐ意はAの発音である。別に、 会意兼形声文字です(扌(手)+習)。「5本指のある手」の象形と「重なりあう羽の象形と口と呼気(息)の象形」(「繰り返し口にして学ぶ」、「重ねる」の意味)から「(手で)折りたたむ」を意味する「摺」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2469.html)。 「刷」(漢音サツ、呉音セチ)は、 会意文字。左の旁は「尸(しり)+巾(ぬの)」の会意文字で、人が布で尻の汚れを拭き取る意を示す。刷はそれに刀を加えた字で、刀でさっと汚れをこすりとる意、 とある(漢字源)が、別に、 形声。刀と、音符㕞(セツ)→(サツ)(𡰯は省略形)とから成る。刀で平らにけずる、ひいて「はく」「する」意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です。「死んで手足を伸ばした人」の象形と「頭に巻く布きれにひもをつけて帯にさしこむ」象形(「布」の意味)と「刀」の象形から布や刃物でけがれたものを「取り除く」・「ぬぐう」を意味する「刷」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji691.html)。 「磨」(漢音ば、呉音マ)は、 会意兼形声。麻は「广(いえ)+麻の繊維をはぎとるさま」からなり、家の中で麻の繊維をはぎ取るさまを示す。そのさい、こすりあわせて繊維をこまかくわける。磨は「石+音符麻(こする)」で、石でこすること、 とある(漢字源)。別に、 形声。「石」+音符「麻 /*MAJ/」。「砥石」を意味する漢語{磨 /*maajs/}を表す字。もと「麻」が{磨}を表す字であったが、「石」を加えた。のち仮借して「みがく」を意味する漢語{磨 /*maaj/}に用いる、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A3%A8)、 形声。石と、音符(バ)とから成る。ひきうす、転じて、けずりみがく意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(麻+石)。「切り立った崖の象形とあさの表皮をはぎとる象形」(「麻」の意味)と「崖の象形と崖の下に落ちている石の象形」(「石」の意味)で麻は表皮を水に浸してつぶして繊維をとる所から、「すりつぶす」、「すりつぶす為の石うす」を意味する「磨」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2044.html)。 「摩」(漢億バ、呉音マ)は、 会意兼形声。麻(マ)は、すりもんで繊維をとるあさ。摩は「手+音符麻」で、手ですりもむこと、 とある(漢字源)。別に、 形声。「手」+音符「麻 /*MAJ/」。「こする」を意味する漢語{摩 /*maaj/}を表す字、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%91%A9)、 形声。手と、音符(麻 バ)とから成る。手ですり合わせて細かくする、ひいて、すりあう、こする意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(麻+手)。「切り立った崖の象形とあさの表皮をはぎとる象形」(「麻」の意味)と「5本の指のある手」の象形で、麻は表皮を水に浸してつぶして繊維をとる所から、「手ですりつぶす」を意味する「摩」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2043.html)。 「擂」(ライ)は、 会意兼形声。雷は、電気が積み重なって、ごろごろと、重苦しい音を出すこと。磊(ライ 積み重なった石)と同系。擂は、「手+音符雷」で、ごろごろと雷のような音を立てて、または重い力を掛けて、こすったり、たたいたりすること、 とある(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 神無月時雨もいまだ降らなくにかねてうつろふ神奈備の森(古今和歌集)、 の、 神奈備の森、 は、もともと普通名詞で、 神が降りる森、 の意で、各地にあるが、ここは、固有名詞とすれば、 竜田川に近い奈良県生駒郡斑鳩町の森、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。これは、 ちはやぶる神奈備山のもみぢ葉に思ひはかけじうつろふものを(古今和歌集)、 の、 神奈備山、 と同じである。 神奈備(かんなび)、 は、 神名火、 神名樋、 甘南備、 等々とも当て(岩波古語辞典・日本大百科全書)、 な、 は、連帯助詞で、 の、 の母音交替形、 で(仝上)、「神奈備」の由来については、 「かむなび」と表記。「かん」は「神」、「な」は「の」の意、「び」は「辺」と同じく「あたり」の意か(精選版日本国語大辞典)、 神(かん)の杜(もり)の約なる、カンナミの転(大言海)、 神の山の意。カムはカミ(神)の形容詞的屈折、ナはノ、ビはもり、むれなどという山の意の語が融合したミの音転(万葉集辞典=折口信夫)、 神嘗の意で、神をまつった所をいうか。また、カンノモリ(神社)の約であるカンナミの転か(和訓栞)、 カミナラビ(神双)の義(古今集注)、 カミノベ(神戸)の転、戸は家の義(延喜式詞解)、 朝鮮語で木をnamuというところから神木の義(国語学通論=金沢庄三郎)、 朝鮮語で山をモイというところから、カム(神)ノモイの約か(日本古語大辞典=松岡静雄)、 等々諸説あるが、 〈かんな〉を〈神の〉の意として〈び(備、火、樋)〉の原義を論じるものが多く、〈辺〉に通じる〈場所〉の意、 といった意味になり(世界大百科事典)、 神をまつる神聖な場所、 神のいらっしゃる場所、 の意と思われる。古代信仰では、 神は山や森に天降(あまくだ)るとされたので、降神、祭祀の場所である神聖な山や森、 をいうところからきている(精選版日本国語大辞典)。したがって、ひいては、 神社のあるところ、 という意にもなる(岩波古語辞典)。固有名詞ではないが、特に、 龍田、 飛鳥、 三輪、 が有名で、《延喜式》の出雲国造神賀詞(かむよごと)には、 大御和乃神奈備、 葛木乃鴨乃神奈備、 飛鳥乃神奈備、 とあり、万葉集にも、 三諸乃かんなび山、 かんなびの三諸(之)山(神)、 かんなびの伊波瀬(磐瀬)之社、 が見え、《出雲国風土記》にも、 意宇郡の神名樋野、 秋鹿郡の神名火山、 楯縫郡の神名樋山、 出雲郡の神名火山、 《延喜式》神名帳に、 かんなび神社、 《三代実録》に、 かんなび神、 等々があって、いずれも、 神体山そのものか神体山に関係ある神または神社、 をさしている(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%82%99)。その山容が、 円錐(えんすい)形または笠(かさ)形の美しい姿をして目につきやすいので、神霊が宿るにふさわしいもの、 と考える(大場磐雄)説もある。 神奈備山、 は、 竜田川もみぢ葉流る神奈備の三室の山に時雨降るらし(古今和歌集)、 神奈備の三室の山を秋行けば錦たちきる心地こそすれ(仝上)。 と、 奈良県斑鳩(いかるが)町にある、 三室山(みむろやま)の異称、 であり、また、奈良県明日香村にある 三諸山(みもろやま)の異称、 でもある。 三輪山(みわやま)、 は、奈良県桜井市にあるなだらかな円錐形の山、 三諸山(みもろやま)、 ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1)、大和国一宮・大神神社の神奈備(神体山)。大神神社は山を御神体とし、本殿がない(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%82%99)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 同じ枝をわきて木の葉のうつろふは西こそ秋のはじめなりけれ(古今和歌集)、 の前文に、 貞観の御時、綾綺殿(りょうきでん)の前に梅の木ありけり。西の方にさせりける枝のもみぢはじめたりけるを、上にさぶらふをのこどものよみけるついでによめる、 にある、 西の方にさせりける枝、 の、 さす、 は、 枝を伸ばす、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 「さす」と当てる字は、 止す、 刺す、 挿す、 指す、 注す、 点す、 鎖す、 差す、 捺す、 等々とある(「令(為)す」という使役は別にしているが、大言海は、そのほか、「發す」「映す」「フす(ささげる意)」を載せる)。文脈依存で、会話では「さす」で了解し合えても、文字になった時、意味が多重すぎる。で、漢字を借りて、使い分けたとみえる。しかし、「さす」は、連用形「さし」で、 差し招く、 差し出す、 差し迫る、 と、動詞に冠して、語勢を強めたり語調を整えたりするのに使われるが、その「さし」は、使い分けている「さす」の意味の翳をまとっているように見える。 さす、 は、最も古くは、 自然現象において活動力・生命力が直線的に発現し作用する意。ついで空間的・時間的な目標の一点の方向へ、直線的に運動・力・意向がはたらき、目標の内部に直入する意、 とある(岩波古語辞典)。で、 射す、 差す、 と当てる「さす」は、 自然現象において活動力が一方に向かってはたらく、 として、 光が射す、枝が伸びる、雲が立ち上る、色を帯びる、 等々といった意味があり(仝上)、 指す、 差す、 と当てる「さす」は、 一定の方向に向かって、直線的に運動をする、 として、 腕などを伸ばす、まっすぐに向かう、一点を示す、杯を出す、指定する、指摘する、 等々といった意味がある(仝上)。冒頭の、 枝を伸ばす、 は、 この、 指す、 差す、 に当たる、と思われる。 刺す、 挿す、 と当てる「さす」は、 先の鋭く尖ったもの、あるいは細く長いものを、真っ直ぐに一点に突き込む、 として、 針などをつきさす、針で縫い付ける、棹や棒を水や土の中に突き込む、長いものをまっすぐに入れる、はさんでつける、 等々といった意味がある。 鎖す、 閉す、 と当てる「さす」は、 棒状のものをさしこむ意から、ものの隙間に何かをはさみこんで動かないようにする、 として、 錠をおろす、ものをつっこみ閉じ込める、 といった意味がある(仝上)。 注す、 点す、 と当てる「さす」は、 異質なものをじかにそそぎ加えて変化を起こさせる、 として、 注ぎ入れる、火を点ずる、塗りつける、 といった意味がある(仝上)。 止す、 と当てる「さす」は、 鎖す意から、動詞連用形を承けて、 として、 途中まで〜仕掛けてやめる、〜しかける、 という意味がある。 こう見ると、「さす」の意味が多様過ぎるように見えるが、 何かが働きかける、 という意味から、それが、対象にどんな形に関わるかで、 刺す、 や 挿す、 や 注す、 に代わり、ついには、その瞬間の経過そのものを、 〜しかけている、 という意味にまで広げた、と見れば、意味の外延の広がりが見えなくもない。語源を見ると、 「刺す」 と 「指す・差す・射す・挿す・注す」 と、項を分けている説もある(日本語源広辞典)が、結局、 刺す、 を原意としている。 刺す、 を、 表面を貫き、内部に異物が入る意です。または、その比喩的な意の刺す、螫す、挿す、注す、射す、差すが同語源です、 とある(仝上)。別に、 刺す・鎖す と 差す・指す・射す、 と項を別にしつつ、 刺すと同源、 としている(日本語源大辞典)ものもあり、結局、 刺す、 に行きつく。では「刺す」の語源は何か。 サス(指)の義(言元梯・国語本義)、 指して突く意(大言海)、 間入の義。サは間の義を有する諸語の語根となる(国語の語幹とその分類=大島正健)、 物をさしこみ、さしたてる際の音から(国語溯原=大矢徹)、 進み出す義(日本語源=賀茂百樹)、 サカス(裂)の義(名言通)、 サはサキ(先)の義、スはスグ(直)の義(和句解)、 等々と諸説あるがはっきりしない。擬音語・擬態語が多い和語のことから考えると、 物をさしこみ、さしたてる際の音から、 というのは捨てがたい気もする。 さす、 を、 「指す」のほうは基本的に、方向や方角などを指し示す場合に使われます。将棋は駒を指で動かすので、「指す」の字があてられるのです、 「差す」は一般的に、細長い光などがすき間から入り込む様子を表します。もちろん、光だけではありません。「魔が差す」は、心のふとしたすき間からよこしまな考えが忍び込む、という意味です、 「挿す」は使い方が限定的で、おもに草花やかんざしなどに使われます。また、「挿し絵」のように何かの間にはさみこむ、さしいれるという意味があるようです、 「刺す」はわりと日常的に使われていますよね。言葉のニュアンスは「差す」よりも強く、細長くとがったもので何かを突き通す、という意味をもっています。「刺」のつくりはりっとうと言い、刃をもつ武器や道具を表す部首です。 このことからも、「刺す」は刃物を使って何かを突く、傷つけるという意味をもつこととがわかります、 「射す」は太陽の光や照明の明かりが入ってくること、 「注す」は水などの液体を容器に注ぐこと、 「点す」は目薬をつけることを表します、 と、意味の使い分けを整理している(http://xn--n8j9do164a.net/archives/4878.html)が、単に、現時点での漢字の使い分けに従っているに過ぎない。漢字は、 「刺」は、朿(シ)の原字は、四方に鋭い刺の出た姿を描いた象形文字。「刺」は「刀+音符朿(とげ)」。刀で刺のようにさすこと。またちくりとさす針。朿は、束ではない。もともと名詞にはシ、動詞にはセキの音を用いたが、後に混用して多く、シの音を用いる、 「挿(插)」は、臿(ソウ)は「臼(うす)+干(きね)」からなり、うすのなかにきねの棒をさしこむさまを示す。のち、手を添えてその原義をあらわす、 「指」は、「手+音符旨」で、まっすぐに伸びて直線に物をさすゆびで、まっすぐに進む意を含む。旨(シ うまいごちそう)は、ここでは単なる音符にすぎない、 「差」は、左はそばから左手で支える意を含み、交叉(コウサ)の叉(ささえる)と同系。差は「穂の形+音符左」。穂を交差して支えると、上端は]型となり、そろわない、そのじくざぐした姿を示す、 「注」は、「水+音符主」。主の字は、「ヽは、じっと燃え立つヽ灯火を描いた象形文字。主は、灯火が燭台の上でじっと燃えるさまを描いたもので、じっとひとところにとどまる意を含む」で、水が柱のように立って注ぐ意、 「点(點)」は、占は「卜(うらなう)+口」の会意文字で、占って特定の箇所を撰び決めること。點は「黒(くろい)+音符占」で、特定の箇所を占有した黒いしるしのこと。のち略して点と書く、 「鎖」は、右側の字(音サ)は、小さい意。鎖は素家を音符とし、金を加えた字で、小さい金輪を連ねたくさり、 といった由来があり、多く漢字の意味に依存して、「さす」を使い分けたように見える。 「差」(@漢音サ、呉音シャ、A漢音呉音シ、B漢音サイ、呉音セ、慣用サ)は、 会意兼形声。左はそばから左手で支える意を含み、交叉(コウサ)の叉(ささえる)と同系。差は「穂の形+音符左」。穂を交差して支えると、上端は]型となり、そろわない、そのじくざぐした姿を示す、 とある。「差異」のように「違い」の意の音は@、ちぐはぐの意の音はA、「差遣」のように「つかわす」意の音はBとなる(漢字源)。また、 会意兼形声文字です。「ふぞろいの穂が出た稲」の象形と「左手」の象形と「握る所のあるのみ(鑿)又は、さしがね(工具)」の象形から、工具を持つ左手でふぞろいの穂が出た稲を刈り取るを意味し、そこから、「ふぞろい・ばらばら」を意味する「差」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji644.html)が、 かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、 とされ(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%AE)、 形声。「𠂹 (この部分の正確な由来は不明)」+音符「左 /*TSAJ/」、 とある(仝上)。別に、 会意。左(正しくない)と、𠂹(すい)(=垂。たれる)とから成り、ふぞろいなさま、ひいて、くいちがう意を表す。差は、その省略形、 とする説もある(角川新字源)。 「指」(シ)は、 形声。「手+音符旨」で、まっすぐに伸びて直線に物をさすゆびで、まっすぐに進む意を含む。旨(シ うまいごちそう)は、ここでは単なる音符にすぎない、 とある(漢字源・角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(扌(手)+旨)。「5本の指のある手」の象形と「さじの象形と口の象形」(「美味しい・旨い」の意味)から、美味しい物に手が伸びる事を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ゆび・ゆびさす」を意味する「指」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji489.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 雨降れど露ももらじをかさとりの山はいかでかもみぢそめけむ(古今和歌集)、 の、 露ももらじ、 とある、 露、 は、 雨露の「露」と、「少し も… ない」の意の「つゆ」を掛ける、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 つゆけし、 で触れたように、 つゆ(露)、 は、 秋の野に都由(ツユ)負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか(万葉集)、 と、 大気中の水蒸気が冷えた物体に触れて凝結付着した水滴。夜間の放射冷却によって気温が氷点以上、露点以下になったとき生じる。また、雨の後に木草の葉などの上に残っている水滴、 をいう(精選版日本国語大辞典)が、それをメタファに、 わが袖は草の庵にあらねども暮るればつゆのやどりなりけり(伊勢物語)、 と、 涙、 の比喩に用い、また、「露」のはかなさから、 つゆの癖なき。かたち・心・ありさまにすぐれ、世に経る程、いささかのきずなき(枕草子)、 と、 はかないもの、わずかなこと、 の比喩に用い(仝上)、 つゆばかりの、 つゆほど、 等々と使う。つまり、 そんなこととはつゆ知らず、 つゆ疑わなかった、 等々と使う、 つゆ、 も、 露、 と当て(広辞苑・大言海)、下に打消の語を伴って、 少しも、 まったく、 の意で使うので、上述の、 露、 と掛けるのは自然のようなのである。 つまり、「露」のはかなさから、 はかないもの、わずかなこと、 の比喩に用い(仝上)、 ありさりて後も逢はむと思へこそつゆも継ぎつつ渡れ(万葉集)、 と、 露のようにはかない命、 の、 露の命、 とか、 つゆも忘らればこそあぢきなや(謡曲・松風)、 と、 ごくわずかな間、 の意の、 露の間、 とか、 露のようにはかない身の上、 の意の、 露の身、 とか、 露のようにはかないこの世、 の意の、 露の世、 等々といい、その流で、 つゆばかりの、 とか つゆほど、 等々と、 物事の程度がわずかであるさま、 の意で、 つゆあしうもせば沈みやせんと思ふを(枕草子)、 と、 ちょっと、 わずかに、 の意で使い、さらに、その意味の流れから、反語的に、 いみじくみじかき夜のあけぬるに、つゆ寝ずなりぬ(枕草子)、 と、 否定表現を伴って、強い否定の気持を表わし、 全く、 全然、 の意で使うに至る流れである。 「露」(漢音ロ、呉音ル、慣用ロウ)は、「露けし」でふれたように、 形声。「雨+音符路」で、透明の意を含む。転じて、透明に透けて見えること、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(雨+路)。「雲から水滴が滴(したた)り落ちる」象形と「胴体の象形と立ち止まる足の象形と上から下へ向かう足の象形と口の象形」(人が歩き至る時の「みち」の意味だが、ここでは、「落」に通じ、「おちる」の意味から、落ちてきた雨を意味し、そこから、「つゆ(晴れた朝に草の上などに見られる水滴)」を意味する「露」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji340.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) ちはやぶる神の斎垣(いかき)には(這)ふくず(葛)も秋にはあへずうつろひにけり(古今和歌集)、 の、 斎垣、 は、 神域の清浄を保つ垣、 の意で、 瑞垣(みづがき)、 ともいい、 いかきと清音で訓む、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)が、 いがき、 とも訓ませ、 「い」は「斎み清めた神聖な」の意の接頭語、 で、 神社など、神聖な場所の周囲にめぐらした垣、 をいい、 みだりに越えてならないとされた、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 玉垣 (たまがき)、 ともいう(デジタル大辞泉)。 ちはやぶる、 は、 「神」「わが大君」「氏」などにかかる枕詞、 で、 「ちはやぶる」「ちはやひと」は、勢いが激しい強大な「氏(うぢ)」の意から、同音の「宇治」にかかるようになったといわれる、 とある(日本国語大辞典)。また、 千の磐を破るとも解釈されたらしく「神」「我が大君」に、また、神の住む「斎(いつき)の宮」、神の名「別雷(わけいかづち)」、神と同音をもつ地名「金(かね)の岬」、ウヂ(勢い)の意と同音の「宇治」などにかかる、 ともある(岩波古語辞典)。 この歌では、 「力のある」という本来の意味がこもる、 とあり、 神の力をもってしても秋の力にはかなわない、と少し大げさな対比をしながら、万物がうつろう秋に感慨を抱く、 と注釈している(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 ちはやぶる、 は、 落語では、知ったかぶりの御隠居が、 千早振る神代(かみよ)もきかず竜田川からくれないに水くくるとは、 という百人一首の歌の意味を八五郎に聞かれ、口から出まかせに、 竜田川という大関が千早という花魁(おいらん)に惚(ほ)れたが振られ、妹女郎の神代もいうことを聞かないので「千早ふる神代もきかず竜田川」。失望した竜田川は帰郷して豆腐屋になり、10年後、女乞食(こじき)が卯(う)の花(おから)をくれといったのでやろうとすると、それが千早のなれの果て。竜田川は怒っておからをやらず、恥じた千早が井戸へ身を投げて死んだので「からくれないに水くぐるとは」。八五郎が最後の「とは」の意味を聞くと、「とはは千早の本名だ」とサゲる、 と解釈しているのが有名だが、 ちはやぶる、 は、中世、 ちはやふる、 ちわやふる、 ともいい(日本国語大辞典)、 千早振る、 と当て(広辞苑)、その由来は、 チは風、ハヤは速、ブルは様子をする意(岩波古語辞典・広辞苑)、 動詞「ちはやぶ」の連体形に基づく(大辞林)、 「いちはやぶ(千早ぶ)」の変化。また、「ち」は「霊(ち)」で、「霊威あるさまである」の意とも(日本国語大辞典)、 「ち」は雷(いかづち)の「ち」と同じで「激しい雷光のような威力」を、「はや」は「速し」で「敏捷」を、接尾語の「ぶる」は「振る舞う」を意味する(https://zatsuneta.com/archives/005742.html)、 最速(イチハヤブル)の約、勢鋭き意。神にも人にも、尊卑善惡ともに用ゐる。倭姫命世紀に、伊豆速布留神とあり、宇治に續くは、崎嶇(ウヂハヤシ)、迍邅(ウヂハヤシ)、うぢはやきと云ふに因る(大言海)、 イトハヤシ(甚早し)はイチハヤシ(逸早し)に転音し、さらに「敏速に振る舞う」という意でイチハヤブル(逸速振る)といったのが、チハヤブル(千早振る)に転音して「神」の枕詞になった。ふたたびこれを強調したイタモチハヤフル(甚も千早振る)はタモチハフ・タマチハフ(魂幸ふ)に転音して、「神」の枕詞になった、〈タマチハフ神もわれをば打棄(うつ)てこそ (万葉集) 〉(日本語の語源)、 等々諸説あるが、はっきりしない。意味からいうと、枕詞にも、 千磐破(ちはやぶる)人を和(やは)せとまつろわぬ国を治めと(万葉集)、 強暴な、 荒々しい、 という意から、 地名「宇治」にかかる。かかり方は、勢い激しく荒荒しい氏(うじ)の意で、「氏」と同音によるか。一説に、「いつ(稜威)」との類音による、 ものと、 ちはやぶる神の社(やしろ)しなかりせば春日(かすが)の野辺(のへ)に粟(あは)蒔(ま)かましを(万葉集)、 と、 勢いの強力で恐ろしい神、 の意で、「神」およびこれに類する語にかかり、 「神」また、「神」を含む「神世」「神無月」「現人神」などにかかる。「神」に縁の深いものを表す語、「斎垣」「天の岩戸」「玉の簾」などにかかる、 ものと、また、 特定の神の名、神社のある場所、 などにもかかるものがあり、さらに、 稜威(いつ)の、 意から、それと類音の地名「伊豆」にかかる、 ものがある(日本国語大辞典)とされる。もし「ちはやぶる」の由来が異なるのなら、上記の、 チハヤブル(千早振る)、 と タマチハフ(魂幸ふ)、 説(日本語の語源)となるのだろうが。 なお、「からくれない(唐紅・韓紅)」については触れた。 「千」(セン)は、 仮借。原字は人と同形だが、センということばはニンと縁がない。たぶん人の前進するさまから、進・晋(シン すすむ)の音を表わし、その音を借りて1000という数詞に当てた仮借字であろう。それに一印を加え、「一千」をあらわしたのが、千という字形となった。あるいはどんどん数え進んだ数の意か、 とある(漢字源)。別に、 形声。「一」(数)+音符「人 /*NIN/」[字源 1]。「1000」を意味する漢語{千 /*sniin/}を表す字、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%83)、 形声。十(数の意)と、音符人(ジン)→(セン)とから成る。百の十倍の数の「せん」を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(人+一)。「横から見た人」の象形(「人民、多くのもの」の意味)と「1本の横線」(「ひとつ」の意味)から、数の「せん」を意味する「千」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji134.html)ある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 神の社のあたりをまかりける時に、斎垣のうちの紅葉を見てよめる、 と前文のある、 ちはやぶる神の斎垣には(這)ふくず(葛)も秋にはあへずうつろひにけり(古今和歌集)、 の、 斎垣、 は、「ちはやぶる」でも触れたように、 神域の清浄を保つ垣、 の意で、 瑞垣(みづがき)、 ともいい、 いかきと清音で訓む、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)が、 いがき、 とも訓ませ、 「い」は「斎み清めた神聖な」の意の接頭語、 で、 神社など、神聖な場所の周囲にめぐらした垣、 をいい、 みだりに越えてならないとされた、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 玉垣 (たまがき)、 ともいう(デジタル大辞泉)。和名類聚抄(平安中期)に、 瑞籬、美豆加岐(ミヅカキ)、以賀岐(イガキ)、 とある。 イはイミ(斎・忌)のイに同じ(岩波古語辞典)、 イは斎(イ)む(忌(イ)む)の語根(齋(いつ)く、齋(いは)ふに同じ)、斎み浄めたる意、東雅(新井白石)、神祇「瑞垣、ミヅカキ、……イガキとも云ひしは、イとは、斎也」、斎串(イグシ)、斎杙(イグヒ)、斎籠(いこも)る、皆同義なり、斎(ユ)と通ず(壹岐、ゆき。的(イクハ)、ゆくは)、斎庭(ユニハ)、斎胤(ユダネ)(大言海)、 イミガキの略(万葉考)、 等々とあるところからも、 斎垣、 は、 忌垣、 とも当て(精選版日本国語大辞典)、 いみがき、 とも訓ませる。ただ、 斎垣(いみがき)、 と訓ませる場合、上記意のメタファからか、 兜の鉢の下縁にめぐらす金銅の飾り金物、 を指し、 多く、総覆輪(そうふくりん)の筋鉢(すじばち)の飾りとし、筋の間を八双(はっそう)形として猪目透(いのめすかし)を入れる、 とある(仝上)。なお、 斎垣、 は、 神社・寺院・墓地などに用いられる垣、 を指し、 特定の形式を指すものではない、 とあり(世界大百科事典)、多くの形式の垣が見られる(仝上)とある。 「斎(とき)」で触れたように、「斎」は、 いつき、 ものいみ、 とも訓まし、総じて、 身を浄め、心を整える、 といった意味で、「斎」の字は、「い」と訓んで、 イミ(斎・忌)と同根。 で(岩波古語辞典)、神聖である意だが、複合語としてのみ、 「斎垣」「斎串」「斎杭」「斎槻」 等々と使い、さらに、 いつき、 と訓ませれば、 イツ(稜威 自然、神、天皇の威力)の派生語。神や天皇などの威勢・威光を畏怖して、汚さぬように潔斎して、これを護り奉仕する意。後に転じて主人の子を大切にして仕え育てる意、 で(岩波古語辞典)、それが特定されると、 斎宮(いつきのみや)、 の意となる。 いむ、 と訓ませると、「忌」とも当て、 神に仕えるために汚(けが)れを避けて謹慎する、 意と、 死・産・血などの汚れに触れた人が一定期間、神の祀(まつ)りや他人から遠ざかる、 意となり、さらに広がって、 方角・日取りその他、一般によくないとされている、 意へと広がる。 いわい、 と訓ませると、「祝」とも当て、やはり、 心身を清浄にして無事安全を祈り神をまつる、 意となる(仝上)。当然だが、 さい、 と訓ませれば、漢字「斎」の意と重なる。 「斎(齋)」(漢音サイ、呉音セ)は、「返さの日」、「斎(とき)」で触れたように、 会意兼形声。「示+音符齊(サイ・セイ きちんとそろえる)の略体」。祭りのために心身をきちんと整えること、 である(漢字源)。別に、 形声。示と、音符齊(セイ、サイ)とから成る。神を祭るとき、心身を清めととのえる意を表す。転じて、はなれやの意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(『祖先神』の意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する「斎」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji1829.html)ある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 秋霧は今朝はな立ちそ佐保山のははそのもみぢよにても見む(古今和歌集)、 佐保山のははその色はうすけれど秋は深くもなりにけるかな(仝上)、 の、 ははそ、 は、 柞、 と当て、 楢 のことで(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、 黄葉する、 とあり、 ははその色はうすけれど、 は、 黄葉するので、紅葉のように色が深くならない、 意で、 薄い、 の意ではなく、 深いの対、 とある(仝上)。 ははそ、 は、和名類聚抄(平安中期)に、 柞、波波曾(柞はイヌツゲなり)、 平安時代の漢和辞典『新撰字鏡』(898〜901)に、 楢、堅木也、波波曾乃木、又奈良乃木、 平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)に、 楢、波波曾、 書言字考節用集(享保二(1717)年)に、 柞、ハハソ、ニシキギ、ユシ、ユス、 とある(大言海・岩波古語辞典)。なお、 ははそ、 は、訛って、 たとへばはうその木にふるい葉がしげったに又其あとに枝のやうに生ずると(「古活字本毛詩抄(17C前)」)、 ほうそ、 はうそ、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。「ははそ」の由来については、 かしは(柏)に同じ(大言海)、 ブナ科の落葉喬木、ナラ、一説にナラやクヌギの総称(岩波古語辞典)、 コナラ・クヌギ・オオナラなどの総称(広辞苑)、 コナラなど、ブナ科コナラ属の植物の別名(大辞林)、 ミズナラなどのナラ類およびクヌギの総称(精選版日本国語大辞典)、 コナラの別名。古くは近似種のクヌギ・ミズナラなどを含めて呼んだらしい。また、誤ってカシワをいうこともある(デジタル大辞泉)、 コナラの古名とも、ナラ・クヌギ類の総称ともいう(日本大百科全書)、 等々、微妙に異なるが、どうやら、 楢、 らしい。 ナラ、 は、 楢、 柞、 枹、 等々と当て、 ブナ科(Quercoideae)コナラ亜科(Quercoideae)コナラ属(Quercus)コナラ亜属(subgenesis Quercus)のうち、落葉性の広葉樹の総称、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%A9)、日本では、 クヌギ、 ナラガシワ、 ミズナラ、 シノニム、 カシワ、 等々があり、 イチイやシイなどを含めて呼ぶこともある(岩波古語辞典)とある。 ははそ、 の由来は、 葉葉添(ハハソヒ)の略(大言海・名言通)、 ハホソ(葉細)の義(言元梯)、 としかないが、どうもぴんとこない。 なお、 ははそ、 は、その語頭の二音が同音であるところから、 時ならぬははその紅葉散りにけりいかに木(コ)の下(モト)さびしかるらむ(拾遺集)、 と、 母(ハハ)の意、 にかけて用いられ(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 柞の森、 というと、 柞の木の生い茂っている森、 の意の他に、 母の意にかけて用いる(仝上)。 また、 柞、 を、 ゆしのき、 と訓ませると、 これやこのせんばんさんたの木由之乃支(ユシノキ)の盤むしかめの筒(とう)(催馬楽)、 と、 いすのき(柞)の古名、 となる(精選版日本国語大辞典)。 「柞」(漢音サク、呉音ザク)は、 会意兼形声。「木+音符乍(サ さっときる)」 とある(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 荒陵(あらはか)の松林(はら)の南に当りて忽に両(ふたつ)の歴木(クヌキ)生ひたり(日本書紀)、 の、 くぬぎ、 は、 櫟、 橡、 櫪、 椚、 椢、 等々と当て(日本国語大辞典)、 ブナ科コナラ属の落葉高木、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8C%E3%82%AE)。 樹皮からしみ出す樹液にはカブトムシなどの昆虫がよく集まり、実はドングリとよばれ、材は耐朽性が強く杭(くい)や神社の鳥居にも使われ、椚の字はここから由来する。木炭としては火もちがよく、シイタケ栽培の原木にもつかわれる(仝上・日本大百科全書)とある。古名は、 橡(つるばみ)の衣(ころも)は人(ひと)皆(みな)事(こと)なしと言ひし時より着(き)欲しく思ほゆ(万葉集)、 橡(つるばみ)の解(と)き洗ひ衣(きぬ)のあやしくもことに着欲しきこの夕(ゆふへ)かも(仝上)、 と、 ツルバミ(橡)、 といい、実の煎汁(せんじゅう)を衣服の染色に用いた(仝上)という。 「くぬぎ」は、別に、ツルバミのほか、 クノギ、 ハハソ、 ホウソ、 フシマキ、 カタギ、 フシクレボク、 などともよばれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8C%E3%82%AE・日本国語大辞典)、漢字も、上記以外、 栩、椡、㓛刀、功刀、柞(ははそ)、 等々とも当てる。中国名は、 麻櫟、 と書く(仝上)とある。 くぬぎ は、 到筑紫後國(シリノクニ)御木(ミケ)、有僵樹、長、九百七十丈、是樹者、歷木(クヌギ)也、天皇曰神木(アマシキキ)也、故、是國宣號御木國(景行紀)、 渡會の大河の邊の若歷木(万葉集) とつかわれ、字鏡(平安後期頃)に、 櫟、櫪、久奴木、 とある。「くぬぎ」の由来は、上記景行紀によって、 クニキ(国木)の転、天皇が筑紫の道後で歷木(くぬぎ)と称する大木をご覧になり、その国を御木の国となづけられたとある。クヌギ(歷木)の旧称がクニキ(国木)に変わり、更に音転した(東雅・名言通・大言海)、 とするものもあるが、他に、 皮を煎じて染料とするところから、クヅニルキ(屑煎木)の義(名語記)、 葉がクリの葉に似ていてクリニギ(栗似木)の義(日本語原学=林甕臣)、 クノキ(食之木)の転。クは飲食の概念を表示する原語で、クヌギは食用の実を結ぶ槲斗科植物の総称だった(日本古語大辞典=松岡静雄)、 古く、火に焚く木をクノギといった。それが特定の燃料用木に限られるようになり、クヌギといわれたらしい(地名の研究=柳田国男)、 クは「栩」の音ku からで、字義は柞櫟。栩の木の義(日本語原考=与謝野寛)、 朝鮮語のkul(クリまたはクヌギ)に関係があるか(木の名の由来=深津正)、 等々とある(仝上)が、はっきりしない。 厄介なのは、「くぬぎ」に当てる字は、「柞」だけでなく、 櫟 (イチイ)、 橡(トチ)、 と他の木にも当てていることだ。 「櫟」(@漢音レキ、呉音リャク、A漢音呉音ロウ)は、 会意兼形声。「木+音符樂(ラク・レキ)。もと樂の字は、「まゆ二つ+白(どんぐり形の実)」からなり、野蚕が眉をつくる、クヌギの木。のち、樂が音楽・快楽の意に転用されたので、櫟の字で原義を表す、 とある(漢字源)。なお、「くぬぎ」の意は@の音、「こすってがりがり音を立てる」意の音はAになる(仝上)。 「橡」(漢音ショウ、呉音ゾウ)は、 形声。「木+音符象」、 とあり(漢字源)、「とち」の意も「くぬぎ」の意もある。 「櫪」(漢音レキ、呉音リャク)は、 会意兼形声。「木+音符歷(レキ ならべる)」、 とある(漢字源)。 この字は、和製漢字。 会意。「木+門」。くぬぎは、ふるくは「くのき」ともいい、門が家の内外をくべつすることから、「区(門)の木」に当てた、 とある(漢字源)。 「椢」(カイ)は、「はこ」の意である。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 竜田姫たむくる神のあればこそ秋の木の葉のぬさと散るらめ(古今和歌集)、 秋の山紅葉をぬさとたむくれば住むわれさへぞ旅心地する(仝上)、 神奈備の山を過ぎゆく秋なれば竜田川にぞぬさはたむくる(仝上)、 とある、 ぬさ、 は、 幣、 と当て、 布や帛を細かく切ったもので、旅人は、道の神の前でこれを撒く、 とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。 道の神、 とは、 道祖神、 のことである(仝上)。「道祖神」は、 さえの神、 とも、訛って、 道陸神(どうろくじん)、 ともいい、 世のいはゆる道陸神(どうろくじん)と申すは、道祖神とも又は祖神とも云へり。(中略)和歌にはちぶりの神などよめり(百物語評判)、 と、 ちぶりの神、 ともいう、 旅の安全を守る神、 であり、 行く今日も帰らぬ時も玉鉾のちぶりの神を祈れとぞ思ふ(鎌倉時代の歌学書『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』)、 とある。 ぬさ、 は、 幣、 と当て、 麻・木綿・帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、または祓(はらえ)にささげ持つもの、 の意で、 みてぐら、 にぎて、 ともいい、共に、 幣、 とも当てる。「ぬさ」は、 祈總(ねぎふさ)の約略なれと云ふ、總は麻なり、或は云ふ、抜麻(ぬきそ)の略轉かと(大言海)、 とあり、「ねぎふさ」に、 祈總(ねぎふさ)を当てるもの(国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、 と 抜麻(ねぎふさ)を当てるもの(雅言考)、 があり、「抜麻」を、 抜麻(ねぎあさ)と訓ませるもの(日本語源広辞典・河海抄・槻の落葉信濃漫録・名言通・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、 があり、その他、 ヌはなよらかに垂れる物の意。サはソ(麻)に通じる(神遊考)、 抜き出してささげる物の義(本朝辞源=宇田甘冥)、 ユウアサ(結麻)の略(関秘録)、 等々、その由来から、「ぬさ」が、元々、 神に祈る時に捧げる供え物、 の意であり、また、 祓(ハラエ)の料とするもの、 の意、古くは、 麻・木綿(ユウ)などを用い、のちには織った布や帛(はく)も用い、或は紙に代えても用いた、 とあり(大言海・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉他)、 旅に出る時は、種々の絹布、麻、あるいは紙を四角に細かく切ってぬさぶくろに入れて持参し、道祖神の神前でまき散らしてたむけた、 とある(精選版日本国語大辞典)。後世、 紙を切って棒につけたものを用いるようになる、 とある(仝上)。ただ、 神に捧げる供物、 をいう「ぬさ」と、本来は、供物の意味をもたない、 しで(四手)、 みてぐら、 と混同が起こったと考えられている(精選版日本国語大辞典)。ただし、 ぬさ、 は、普通、 旅の途上で神に捧げる供物、 をいうのに対して、 みてぐら、 は必ずしも旅に関係しないという傾向が見られる(仝上)とある。 神に祈る時にささげる供え物、 である、 ぬさ、 は、 麻・木綿(ゆう)・紙、 等々で作り、後には、 織った布や帛(はく)、 も用いたが、旅に出る時は、 種々の絹布、麻、あるいは紙を四角に細かく切ってぬさぶくろに入れて持参し、道祖神の神前でまき散らしてたむけた、 とある(仝上)。このため、 みちの国の守平のこれみつの朝臣のくだるに、ぬさのすはまの鶴のはねにかける(貫之集)、 と、「ぬさ」は、 旅立ちの時のおくりもの、 餞別、 はなむけ、 の意ともなる(仝上)。 「幣」(漢音ヘイ、呉音ベ)は、「ぬさ」で触れたように、 会意兼形声。敝の左側は「巾(ぬの)+八印二つ」の会意文字で、八印は左右両側に分ける意を含む。切り分けた布のこと。敝(ヘイ)は、破って切り分ける意。幣は「巾(ぬの)+音符敝」で、所用に応じて左右にわけて垂らし、または、二枚に切り分けた布のこと、 とある(漢字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) |
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