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コトバ辞典


葎(むぐら)


むぐらさへ若葉はやさし破家(いえ)(芭蕉)、

の、

むぐら、

は、

葎、

と当て、

うぐら、
もぐら、

とも訛り、

カナムグラ・ヤエムグラなど、蔦でからむ雑草の総称、

とあり、蓬(よもぎ)や浅茅(あさぢ)とともに、

貧しい家、荒廃した家の形容に使われることが多い、

とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

荒れ地や野原に繁る雑草の総称、

なので、

葎生(むぐらふ)、

というと、

いかならむ時にか妹を牟具良布(ムグラフ)のきたなき屋戸(やど)に入れいませてむ(万葉集)、

と、

葎が生い茂っていること、また、その場所、

の意で使い、

葎の門(むぐらのかど)、

というと、

訪ふ人もなき宿なれど来る春は八重葎にもさはらざりけり(紀貫之)、

と、

葎が這いまつわった門、

の意で、

荒れた家や貧しい家のさま、

の意となる(広辞苑)

葎の宿、

も同じ意味で使う(仝上)。ただ、歌語としては、「葎の門」「葎の宿」は、

葎の門に住む女、
荒廃した屋敷に美女がひっそりと隠れ住む、

というようなロマン的な場面が、『伊勢物語』、『大和物語』、『うつほ物語』等々の物語によって形成され、類型化された(日本大百科全書)とある。

茂(も)く闇(くら)き儀、

が由来とある(大言海)が、他に、

繁茂しているところから、茂らの義、ラは助辞。またクラは木闇のクレの転で、草の暗く茂っている意(日本語源=賀茂百樹)、
一株で草むらのように生い茂った状態からhttps://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/yaso/yurai/yas_yur_yaemugura.html
ムグリツタ(潜蔦)の義(日本語原学=林甕臣)、
モレクグリ(漏潜)の義(名言通)、
世捨て人がとじこもっている室は、この草が茂って暗いことから、ムロクラキ(室暗)の義(和句解)、

と諸説あるが、どうもはっきりしないが、その状態をいう、

一株で草むらのように生い茂った状態、

を示しているとするのが、自然な気がする。なお、万葉集で、

思ふ人来むと知りせば八重葎おほへる庭に珠敷かましを(作者不詳)、

と歌われる、

やえむぐら(八重葎)、

は、

カナムグラ(鉄葎)、

を指しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%82%B0%E3%83%A9とされる。ヤエムグラ属は、

アカネ科、

に属し、カナムグラは、

アサ科カラハナソウ属、

とされる。「鉄葎」の、

カナは、鐵にて、此蔓、堅き墻(かきね)をも穿ち生ふると云ふ、

とあり(大言海)、

強靭な蔓を鉄に例え、「葎」は草が繁茂して絡み合った様を表すように、繁茂した本種の叢は強靭に絡み合っており、切ったり引き剥がしたりすることは困難である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%82%B0%E3%83%A9。「八重葎」は、

彌重葎、

の意で、

茎は直立、斜上し、またはつる性になり、4稜がある。葉は節ごとに対生する本来の2個の葉と、2〜8個からなる葉と同形の托葉からなり、4個〜多数個の葉が輪生しているように見える。花序は散集花序になり、茎先や葉腋につけて、ふつう多数の花をつける、

ためかと思われるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%B0%E3%83%A9%E5%B1%9E

『万葉集』から「八重(やへ)葎」「葎生(ふ)」などと用いられているが、平安時代以後は、歌語としては「八重葎」に固定して、

八重葎茂れる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶(えぎょう)法師)、

などと詠まれた(日本大百科全書)。

「葎」(漢音リツ、呉音リチ)は、

会意兼形声。「艸+音符律(ならぶ)」、

とあり(漢字源)、つるくさの名である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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くいな


水鶏(くいな)啼と人のいへばや佐屋泊(さやどまり)(芭蕉)、

の、

水鶏、

は、

秧鶏、

とも当て、

ツル目クイナ科の鳥の総称、

で、

クイナ・ヒクイナなどの類、

をいい、

世界に約130種、鳥類の中で絶滅種が最も多く、1600年以降、世界の島嶼(とうしょ)に生息するクイナのうち14種以上が絶滅した、

とある(広辞苑)。詩歌に詠まれるのは、夏に飛来する、

緋水鶏、

で、和歌以来、もっぱら鳴き声が詠まれ、

人が戸をたたく音、

に比されて、

たたく、

と表現される(仝上・雲英末雄・佐藤勝明訳註『芭蕉全句集』)。

ヒクイナ、

は、

緋水鶏、
緋秧鶏、

と当て、

ナツクイナ、

とも呼ばれ(精選版日本国語大辞典)、

ツル目 クイナ科 ヒメクイナ属、

に分類されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A。古くは単に、

水鶏(くひな)、

と呼ばれ、その独特の鳴き声は古くから、

たたくとも誰かくひなの暮れぬるに山路を深く尋ねては来む(更級日記)、

と、

水鶏たたく、

と言いならわされてきたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A。その連想から

「く(来)」といいかけて用いる、

など、古くから詩歌にとりあげられてきた(日本国語大辞典)。

全長20センチ程、上面の羽衣は褐色や暗緑褐色、喉の羽衣は白や汚白色、胸部や体側面の羽衣は赤褐色、腹部の羽衣は汚白色で、淡褐色の縞模様が入る、

とあり(仝上)、湿原、河川、水田などに生息する。

「くいな」は、

水雉、

とも当て、

ツル目 クイナ科 クイナ属に分類されhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A、全長30センチ程度、体形はシギに似る。くちばしは黄色、背面が褐色で黒斑があり、顔は灰鼠色、腹には顕著な白色横斑がある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。秋、北方から渡来、湿原、湖沼、水辺の竹やぶ、水田などに生息する(仝上)。また、

薮の中にいることが多いので姿を見ることは少ない鳥、

ともあるhttps://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1515.html

くいな、

の和名は、

ヒクイナの鳴き声(「クヒ」と「な」く)に由来https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A
鳴きはじめは、クヒクヒと聞ゆと云ふ、ナは鳴くの語根(ひひ鳴き、ひひな。馬塞(うませき)、うませ)(大言海)、

と、鳴き声説があるが、「ひくいな」を「くいな」と呼んでいたとすると、

「クッ クッ」あるいは「クリュッ クリュッ」と聞こえる声、

を出しているのは、

くいな、

の方でhttps://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1515.html

ヒクイナ、

は、

「コン コン コン」あるいは「クォン クォン クォン ‥‥コココ‥」と聞こえ、次第に早口になります、

とあるhttps://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1527.html。この声が、夕方から夜にかけてよく聞くことが出来るので、夜間の訪問者を意識して、

戸を叩く、

と言ったと見られる(仝上)。とすると、「ひくいな」と「くいな」を区別していなかったとしても、鳴き声からは、「くいな」の鳴き声を「たたく」といったのとは矛盾してくる。他には、

キクナ(來鳴)の義(日本釈名)、
クヒナ(食菜)の義(名語記)、

や、

クヒナキ(食鳴)の義、夜中に田に鳴く蛙を食いながら啼くから(名言通)、
クヒア(喰蛙)の義(言元梯)、

がある(日本国語大辞典)。たしかに、本草和名には、

鼃鳥、久比奈(鼃(蛙)を食ふと云ふ)、

とあるのだが。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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とぼそ


此宿は水鶏(くいな)もしらぬ扉(とぼそ)かな(芭蕉)、

の、

とぼそ、

は、

枢、
扃、

と当て、

ト(戸)とホゾ(臍)との複合、

で(岩波古語辞典)、

ボソは、ホゾの清濁の倒語、

とあり(大言海)、

開き戸の上下の端に設けた回転軸である「とまら(枢)」を差し込むために、梁(はり)と敷居とにあける穴、

をいい(学研全訳古語辞典)、俗に、

とまら、

ともいう(広辞苑)。

楣(まぐさ 目草、窓や出入り口など、開口部のすぐ上に取り付けられた横材)と蹴放し(けはなし 門・戸口の扉の下にあって内外を仕切る、溝のない敷居)とに穿ちたる孔、

をいい(大言海)、

扉の軸元框(かまち)の上下に突出せる部分をトマラ(戸牡)と云ひ、それを戸臍に差し込みて樞(くるる)となす、

とある(大言海)。そこから転じて、広く、

扉、
または、
戸、

の称としてもつかう。和名類聚抄(平安中期)には、

樞、度保曾、俗云、度萬良、門戸之樞(くるる)也、

とあるが、天治字鏡(平安中期)には、

扃、扉、止保曾、

とある。「樞(くるる)」は、

回転(くるくる)の約(きらきら、きらら。きりきり、きりり)、クルル木と云ふが成語なるべし、

とある、

戸を回転させる機(しかけ)、

をいい、

くりり、
くろろ、
くる、

ともいう(仝上)。ややこしいのは、通常、

さる、

という、

戸の桟、

をもいう(仝上)。

「樞」の字は、

梁(ハリ)と敷居とにあけた小さい穴、

の意の、

とぼそ、

に当てるが、その穴に差し込む、

開き戸の上下にある突き出た部分、

つまり、

とまら(「と」は戸、「まら」は男根の意)、

にも、

樞、

を当てる(仝上・デジタル大辞泉)。その、

扉の端の上下につけた突起(とまら)をかまちの穴(とぼそ)にさし込んで開閉させるための装置、

を、

くるる、

というが、これにも、上述したように、

樞、

を当て(仝上)、

樞木(くるるぎ)、

ともいい、その扉を、

樞戸(くるるど)、

という。

「樞(枢)」(慣用スウ、漢音シュ、呉音ス)は、

会意兼形声。區は、曲がった囲いとそれに入り組んだ三つのものからなる会意文字。こまごまと入り組んださまを現わす。樞は「木+音符區」で、細かく細工をして穴にはめ込んだとびらの回転軸をあらわす、

とある(漢字源)。つまり、

形声。木と、音符區(ク)→(シユ)とから成る。「とぼそ」の意を表す。とぼそがとびらの開閉に重要なところから、転じて、かなめの意に用いる(角川新字源)、

会意兼形声文字です(木+区(區))。「大地を覆う木」の象形と「四角な物入れの象形と品(器物)の象形」(「区切って囲う」の意味だが、ここでは、「クルッとまわる」の意味)から、「とぼそ・くるる(開き戸を開閉する軸となる所)」を意味する「枢」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1676.html

である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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声すみて北斗にひゞく砧哉(芭蕉)、

の、

砧、

は、

碪、

とも当て、

衣板(きぬいた)の約、

とされるように、和名類聚抄(平安中期)には、

岐沼伊太、

と読ませ、

木槌(キヅチ)で布(洗濯した布や麻・楮(コウゾ)・葛(クズ)などで織った布や絹)を打って布地をやわらげ光沢を出すのに用いる、板や石の台、

の意だから(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7・デジタル大辞泉・学研全訳古語辞典)、

うちばん、

ともいう(大言海)が、

それで布を打つこと、

もいい、また、さらに、

その音、

にもいう(学研全訳古語辞典)。その「槌」は、

短き丸木に細き棒をつけたる、蒲の穂の如きを用ゐる、

とある(大言海)。歌語としては、

砧を打つ、

は、

白妙の衣うつ砧の音もかすかにこなたかなた聞きわたされ空飛ぶ雁の声取り集めて忍びがたきこと多かり(源氏物語)、

と、

秋、

のものとされ、

砧打ちは女の秋・冬の夜なべ仕事、

とされた(岩波古語辞典)。古くは、

夜になるとあちこちの家で砧の音がした、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7

砧(きぬた)は、

厚布を棒に巻き付け、その上に織物の表を内側にして巻き付け、さらに外側を厚手の綿布で包み、これを木の台に乗せ、平均するように槌(つち)で打つ、

とされる(仝上)。装束に使う絹布などは、

糊をつけ、これを柔らかくし、光沢を出すために砧で打つ、

とされ(仝上・岩波古語辞典)、こうした衣を、

打衣(うちぎぬ)、

といい、

男子の衣(きぬ)・袙(あこめ)、女子の袿(うちき)、

などに使った(仝上)。「袙」は、「いだしあこめ」、「小袿(こうちぎ)」で触れた。

「砧」には、民具として木製のものが普及していたが、表記としては、材質にかかわらず、

砧、

が使われ、木製のものに、

枮、

の字がが使われることもあったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7とある。

当初は、

布を臼に入れ相対した2名の婦人が米をつくようにして打った、

が、後世には、

布を石板または木板の上に延べ、横杵で交互に打つ、

ようになった(ブリタニカ国際大百科事典)。

「砧」(チン)は、

会意兼形声。「石+音符占(セン・テン 一定の場所に固定する)」、

で、「きぬた」の意で、

布や衣の通夜を出すために、また洗うために使う石の台、

をいう(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(石+占)。「崖の下に落ちている、いし」の象形と「うらないに現れた形の象形と口の象形」(占いは亀の甲羅に特定の点を刻んで行われる事から、特定の点を「しめる」の意味)から、「一定の場所にすえて置く石の台」を意味する「砧」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2613.html

「碪」(漢音・呉音チン、漢音ガン、呉音ゴン)は、

会意兼形声。「石+音符甚(ずっしりと下がる、ずっしりと重みを受ける)」、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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南無


南無さん、よいの相談をきいたかしてのいた(狂言記「磁石」)、

の、

南無三、

は、

げに何事も一睡の夢、南無三宝(謡曲「邯鄲」)、

と、

南無三宝(なむさんぼう)の略、

で、

仏に帰依(きえ)を誓って、救いを求めること、

で、転じて、

南無三、しくじった、

などと、

突然起こったことに驚いたり、しくじったりしたときに発する言葉。、

として使ったりする(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

三宝、

は、

仏法僧、

つまり、

仏と仏の教えと教えを広める僧、

のことである(「僧伽」で触れた)。

南無、

は、梵語、

Namas、

の音写、

南摩、
納莫(ノウマク)、
南謨、

とも音写し(デジタル大辞泉)、室町時代の「文明本節用集」には

南無、ナム、帰命語也救我也敬順也又南謨南芒南牟南膜南麽納無南莫南忙曩謨那蒙、

とあるようにいろいろな漢字を当てるが、

Namas、

は、

頭を下げる、
お辞儀をする、

の意味であり、

敬礼(きょうらい)、
帰命(きみょう)、

と訳し、

帰依すること、
信を捧げること、

の意で、翻訳名義集(南宋代の梵漢辞典)には、

南無、或那謨、或南摩、此翻帰命、要律儀、翻恭敬、善見論、翻帰命覚、或翻信徒

とあり、善導が、

「南無」と言うは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義(観経疏)、

と釈すように、

尊いものへの信頼や敬意を表す語、

であり、

南無阿弥陀、
南無帰命頂礼、
南無妙法蓮華経、
南無八幡大菩薩、、

などと、

南無〜、

の形で、

〜に帰依する、

ことを表すhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%97%E7%84%A1。現代のヒンディー語では、「こんにちは」を、

ナマステー(namaste)、

というが、直訳すると、

「あなたに(te)帰依する(namas)」の意であり、南無(namas)の語が現代インドにおいても息づいている(仝上)とある。

南無阿弥陀仏、

というと、

阿弥陀仏に帰命するの意で、これを唱えるのを、

念仏、

といい、それによって極楽に往生できるという。

六字の名号(みょうごう)、

ともいう(広辞苑)。これを洒落て、

南無阿弥豆腐、

というと、

豆腐の異称、

で、

禅僧が多く豆腐を食べることから、また、その念仏の声のナムオミドウと聞こえる、

ことから南無阿弥陀仏にかけたことばである(仝上)。

南無妙法蓮華経(なむ‐みょうほうれんげきょう)、

は、

妙法蓮華経に帰依する、

意で、これを唱えれば、真理に帰依して成仏するといい、

題目、
本門の題目、
七字の題目、
御題目、

などともいう(仝上・デジタル大辞泉)。

南無帰命、

は、強調した形で、

梵語namas(南無)とその漢訳語「帰命」を重ねた語、

で、

心から帰依する、

意になる。

南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)、

は、

三宝(さんぼう)に帰依して仏足を頭に戴いて礼拝する意を表す、

語になる(仝上)。

「南」(漢音ダン、呉音ナン、慣用ナ)は、

会意兼形声。原字は、納屋ふうの小屋を描いた象形文字。入の逆形が二線さしこんださまで、入れ込む意を含む。それが音符となり、屮(くさのめ)とかこいのしるしを加えたのが南の字。草木を囲いで囲って、暖かい小屋の中に入れこみ、促成栽培をするさまを示し、囲まれて暖かい意、転じて取り囲む南がわを意味する。北中国の家は北に背を向け、南に面するのが原則、

とあり(漢字源)、

象形。鐘状の楽器を木の枝に掛けた形にかたどる。南方の民族が使っていた楽器であったことから、「みなみ」の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「草」の象形と「入り口」の象形(「入る」の意味)と「風をはらむ帆」の象形(「風」の意味)から春、草・木の発芽を促す南からの風の意味を表し、そこから、「みなみ」を意味する「南」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji150.htmlが、

『説文解字』では「𣎵」+「𢆉」と分析されているほか、鐘に類する楽器の象形という説、「屮」+「丹」と分析する説もあるが、いずれも甲骨文字の形とは一致しない誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%97、上記三説は、何れも間違いで、

象形。「同」(祭器のひとつ)に祭品を備えた形を象る。のち仮借して「みなみ」を意味する漢語{南 /*nəəm/}に用いる、

とする(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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後朝(きぬぎぬ)


あひみての後のこころにくらぶれば昔は物を思はざりけり(藤原敦忠)、

は、

後朝(きぬぎぬ)の歌、

とされる。

きぬぎぬ、

は、

衣衣、

と当て、本来は、

風の音も、いとあらましう、霜深き晩に、おのが衣々も冷やかになりたる心地して、御馬に乗りたまふほど(源氏物語)、

と、

衣(きぬ)と、衣と、

の意で、

各自に着て居る衣服、

をいう(大言海)。しかし、

しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき(古今集)、

の、顕昭(1130(大治5)年?〜 1209(承元元)年)注本に、

結句、きるぞかなしき、とあるはぞよろしかるべき、

とし、

きぬぎぬとは、我が衣をば我が着、人の衣をば人に着せて起きわかるるによりて云ふなり、

とあり(古今集註)、

男女互いに衣を脱ぎ、かさねて寝て、起き別るる時、衣が別々になる意、

とし(大言海)。この歌より、

男女相別るる翌朝の意として、

後朝(きぬぎぬ)、

と表記して、

きぬぎぬ、

とした(仝上)とある。平安時代は、

妻問婚(つまどいこん)、

https://mag.japaaan.com/archives/199944、男性が女性の家に通う婚姻スタイルが一般的であり、朝になったら別れなければならなかったが、当時は、

敷布団はなく、貴族の寝具は畳で、その畳の上に、二人の着ていた衣を敷き、逢瀬を重ねます、

とかhttps://www.bou-tou.net/kinuginu/

布団が使われ出したのは、身分の高い人で江戸期、庶民は明治期からで、それ以前は、着ていた衣をかけて寝ていた、

とあるhttps://kakuyomu.jp/works/1177354054921231796/episodes/1177354055255278737ので、

脱いだ服を重ねて共寝をした、翌朝、めいめいの着物を身に着けること、

の意から、

きぬぎぬになるともきかぬとりだにもあけゆくほどぞこゑもおしまぬ(新勅撰和歌集)、

と、

男女が共寝して過ごした翌朝、

あるいは、

その朝の別れ、

をいい、

きぬぎぬの別れ、
こうちょう(後朝)、
ごちょう(後朝)、

ともいい、さらに転じて、後には、

此ごとくに、きぬぎぬに成とても、互にあきあかれぬ中ぢゃ程に、近ひ所を通らしますならば、必ず寄らしませ(狂言記「箕被(1700)」)、

と、広く、

男女が別れること、

にもいい、さらには、

首と胴とのきぬぎぬさあ只今返事は返事はと(浮世草子「武道伝来記(1687)」)、

と、

別々になること、
はなればなれになること、

でも使った。

後朝の暁を、

きぬぎぬの空、

といい(大言海)、後朝の朝を、

後の朝(のちのあさ・のちのあした)

と言ったが、

暁に帰らむ人は、装束などいみじううるはしう、烏帽子の緒もと、結ひかためずともありなむとこそおぼゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣、狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りて笑ひそしりもせむ(枕草子)、

とある、

後朝(きぬぎぬ)の別れ、

には、当時のマナーがあり、

翌朝、まだ空が暗いころに男性は家へ帰り、女性に文を送る、

つまり、

後朝の文、

遣わすことが必要であったhttps://mag.japaaan.com/archives/199944。その文の使いを、

後朝の使(きぬぎぬのつかい・ごちょうのつかい)、

といった(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

代表的な、後朝の文の歌に、「百人一首」にも入っている、

あひみてののちのこころにくらぶればむかしはものをおもはざりけり(権中納言敦忠)
君がため惜しからざりしいのちさへ長くもがなと思ひけるかな(藤原義孝)
あけぬれば暮るるものとはしりながらなほうらめしき朝ぼらけかな(藤原道信)

があるhttps://flouria001.com/entry/kinuginu-no-fumi/

「朝」(@漢音・呉音チョウ、A漢音チョウ、呉音ジョウ)は、

会意→形声。もと「艸+日+水」の会意文字で、草の間から太陽がのぼり、潮がみちてくる時をしめす。のち「幹(はたが上るように日がのぼる)+音符舟」からなる形声文字となり、東方から太陽の抜け出るあさ、

とある(漢字源)。@は、「太陽の出てくるとき」の意の「あさ」に、Aは「来朝」のように、「宮中に参内して、天子や身分の高い人のおめにかかる」意の時の音となる(仝上)。同趣旨で、

形声。意符倝(かん 日がのぼるさま。𠦝は省略形)と、音符舟(シウ)→(テウ)(は変わった形)とから成る。日の出時、早朝の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「草原に上がる太陽(日)」の象形から「あさ」を意味する「朝」という漢字が成り立ちました。潮流が岸に至る象形は後で付された物です、

ともhttps://okjiten.jp/kanji152.htmlあるが、

「朝」には今日伝わっている文字とは別に、甲骨文字にも便宜的に「朝」と隷定される文字が存在する、

としてhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%9D

会意文字。「艸」(草)+「日」(太陽)+「月」から構成され、月がまだ出ている間に太陽が昇る明け方の様子を象る。「あさ」を意味する漢語{朝 /*traw/}を表す字。この文字は西周の時代に使われなくなり、後世には伝わっていない、

とは別に、

形声。「川」(または「水」)+音符「𠦝 /*TAW/」。「しお」を意味する漢語{潮 /*draw/}を表す字。のち仮借して「あさ」を意味する漢語{朝 /*traw/}に用いる。今日使われている「朝」という漢字はこちらに由来する、

とし、

『説文解字』では「倝」+音符「舟」と説明されているが、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように、「倝」とも「舟」とも関係が無い、

とある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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重陽


はやくさけ九日(くにち)もちかしきくのはな(芭蕉)、

の、

九日(くにち)、

は、

九日の節句、

つまり、五節句の一つである、

九月九日の重陽(ちょうよう)の節句、

である。中国では、一族で丘に登る、

登高、

という行楽の行事がある(広辞苑)。

都城重九後一日宴賞、號小重陽(輦下歳時記)、

と、

重九(ちょうきゅう)、

ともいう(字源)。

歳往月來、忽復九月九日、九為陽數、而日月竝應、故曰重陽(魏文帝、輿鐘繇書)、

と、

陽數である、

九が重なる、

意である。これを吉日として、

茱萸(しゅゆ)を身に着け、菊酒を飲む習俗、

が漢代には定着し、五代以後は朝廷での飲宴の席で、

賦詩、

が行なわれた(精選版日本国語大辞典)。「茱萸」(しゅゆ)は、

ごしゅゆ(呉茱萸)(または、「山茱萸(さんしゅゆ)」)の略、

とされ(精選版日本国語大辞典)、

呉茱萸、

は、古名、

からはじかみ(漢椒)、

結子五、六十顆、……状似山椒、而出于呉地、故名呉茱萸(本草一家言)、

とあり、中国の原産の、

ミカン科の落葉小高木、

で、古くから日本でも栽培。高さ約3メートル。茎・葉に軟毛を密生。葉は羽状複葉、対生。雌雄異株。初夏、緑白色の小花をつける。紫赤色の果実は香気と辛味があり、生薬として漢方で健胃・利尿・駆風・鎮痛剤に用いる、

とある(広辞苑)。

からはじかみ、
川薑(かわはじかみ)、
いたちき、
にせごしゅゆ、

ともいう(精選版日本国語大辞典)

重陽宴、題云、観群臣佩茱萸(曹植‐浮萍篇)、

と、昔中国で、この日、

人々の髪に茱萸を挿んで邪気を払った、

あるいは、昔、重陽節句に、

呉茱萸の実を入れた赤い袋(茱萸嚢(しゅゆのう)、ぐみぶくろ)を邪気を払うために腕や柱などに懸けた、

ので、

茱萸節、

ともいうように、

茱萸、

を節物とした(大言海)。重陽節の由来は、梁の呉均(ごきん)著『続斉諧記』の、

後漢の有名な方士費長房は弟子の桓景(かんけい)にいった。9月9日、きっとお前の家では災いが生じる。家の者たちに茱萸を入れた袋をさげさせ、高いところに登り(登高)、菊酒を飲めば、この禍は避けることができる、と。桓景はその言葉に従って家族とともに登高し、夕方、家に帰ると、鶏や牛などが身代りに死んでいた、

との記事の逸話をもってするとある(世界大百科事典)。この逸話に、重陽節の。

登高、
茱萸、
菊酒、

の三要素が挙げられている。重陽節は、遅くとも3世紀前半の魏のころと考えられる(仝上)とある。呉茱萸は、重陽節ごろ、芳烈な赤い実が熟し、その一房を髪にさすと、邪気を避け、寒さよけになるという。その実を浮かべた茱萸酒は、菊の花を浮かべた略式の菊酒とともに、唐・宋時代、愛飲された(仝上)とある。呉自牧の『夢粱録』には、

陽九の厄(本来、世界の終末を意味する陰陽家の語)を消す、

とある(仝上)という。

こうした行事が日本にも伝わり、『日本書紀』武天皇十四年(685)九月甲辰朔壬子条に、

天皇宴于旧宮安殿之庭、是日、皇太子以下、至于忍壁皇子、賜布各有差、

とあるのが初見で、嵯峨天皇のときには、神泉苑に文人を召して詩を作り、宴が行われ、淳和天皇のときから紫宸殿で行われた(世界大百科事典)。

菊は霊薬といわれ、延寿の効があると信じられ、

重陽の宴(えん)、

では、

杯に菊花を浮かべた酒(菊酒)を酌みかわし、長寿を祝い、群臣に詩をつくらせた、

とある(精選版日本国語大辞典)。菊花を浸した酒を飲むことで、長命を祝ったので、

菊の節句、

ともいう。

詩宴、

は漢詩文を賦するのが本来であるが、和歌の例も「古今集」に見られ、時代が下るにつれ、菊の着せ綿や菊合わせなどが加わり、菊の節供としての色合いが強調されるようになり(精選版日本国語大辞典)、江戸幕府は、これを最も重視したため、江戸時代には五節供の一つとして最も盛んで、民間でも菊酒を飲み、栗飯(くりめし)をたいた(マイペディア)。

山茱萸(さんしゅゆ)、

は、日本へは享保年間(一七一六‐三六)に薬用植物として渡来した、

とある(精選版日本国語大辞典)。

ミズキ科の落葉小高木。幹は高さ三〜五メートルになり、樹皮はうろこ状にはげ落ちる。葉は対生し短柄をもち、長卵形で先はとがり、裏面は白緑色で葉脈には褐色の細毛を密生する。早春、葉に先だって、小枝の先に四枚の苞葉に包まれた小さな黄色の四弁花を球状に多数密集してつける、

という(仝上)。果期は秋で、

果実は核果(石果)で、長さ1.2〜2 cmの長楕円形で、10月中旬〜11月に赤く熟し、グミの果実に似ている、生食はできないが、味は甘く、酸味と渋みがある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A6。ただ、和名の、

サンシュユ、

は、輸入された当時の学識者が、山茱萸の漢名をそのまま音読したもので、これが現在まで標準和名として伝わっているhttps://www.miyakanken.co.jp/column1/1060ものの、

山茱萸、

という名は、

薬用部分(果実)を指す漢方の生薬名、

なので、中国にもこのような名前の植物は存在しない(仝上)とある。

なお、

菊花ひらく時則重陽といへるこゝろにより、かつは展重陽のためしなきにしもあらねば、なを秋菊を詠じて人をすゝめられける事になりぬ(芭蕉、真蹟 扇面・許六 宛書 簡)、

とある、

展重陽、

とは、

国忌のために宮中の重陽の宴を延期し、十月に残月の宴として行うこと、

とある(雲英末雄・佐藤勝明訳註『芭蕉全句集』)。

七夕」で触れたように、五節句は、

人日(じんじつ)(正月7日)、
上巳(じょうし)(3月3日)、
端午(たんご)(5月5日)、
七夕(しちせき)(7月7日)、
重陽(ちょうよう)(9月9日)、

である。正月七日の、七種粥、三月三日の、曲水の宴、上巳の日の、天児白酒については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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影待


影待や菊の香のする豆腐串(芭蕉)、

の、

影待(かげまち)、

は、

正月・五月・九月の吉日、飲食しながら夜を徹して日の出を待つ行事、

をいい(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)、ここの「影待」は、

九月、

であるらしい(仝上)。

影待、

は、

日待、

に同じ(広辞苑)とある。

日待の、

マチ、

は、

待ち、

と当てているが、

祭りと同源(精選版日本国語大辞典)、
マツリ(祭)の約(志不可起・俚言集覧・三養雑記・桂林漫録・新編常陸風土記-方言=中山信名・綜合日本民俗語彙)、

とあり、その「まつり」は、

奉り、
祭り、

と当て、

神や人に物をさしあげるのが原義。類義語イワヒ(祝)は一定の仕方で謹慎し、呪(まじない)を行う義。イツキ(斎)は畏敬の念をもって守護し仕える義、

とある(岩波古語辞典)。だから、

待つこと、

は、本来、

神の示現や降臨を願って待ちうけ、これを祭る、

という素朴で原初的な意味の、

神祭のありかた、

を示していたものとみられる(日本昔話事典)。当然、そこに集まる者は、

厳重な物忌、精進潔斎、

が要求され、村落にあって近隣同信のものが同じ場所に集まり、

一夜厳重に物忌して夜を明かす、

という行事を、

まちごと(待ちごと)、

と総称した(仝上)。

庚申の日、
甲子の日、
巳の日、
十九夜、
二十三夜、

等々があり、

庚申(こうしん)待ち
甲子(きのえね)待ち、
十九夜講、
二十三夜講、

等々と呼ばれる。この中でも一番普遍的な形のものが、

日待ち、

であり、

日祭の約(大言海)、

とあるように、

「まち」は「まつり(祭)」と同語源であるが、のちに「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意にした、

ともいわれ(精選版日本国語大辞典)、

日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもの、

で(日本史辞典)、

ある決まった日の夕刻より一夜を明かし、翌朝の日の出を拝して解散する、

ものだが、元来、神祭の忌籠(いみごもり)は、

夜明けをもって終了する、

という形があり、「日待」もその例になる(世界大百科事典)とある。その期日は土地によってまちまちで、

正・五・九月の一日と十五日(日本昔話事典)、
1、5、9月の16日とする所や、月の23日を重んずる所もある。なかでも6月23日が愛宕権現(あたごごんげん)や地蔵菩薩(ぼさつ)の縁日で、この日を日待とするのもある。また庚申講(こうしんこう)や二十三夜講の日を日待とする所もある(日本大百科全書)、
一般に正・5・9月の吉日(広辞苑・大辞泉・大辞林)、
正月・五月・九月の三・一三・一七・二三・二七日、または吉日をえらんで行なうというが(日次紀事‐正月)、毎月とも、正月一五日と一〇月一五日に行なうともいい、一定しない(精選版日本国語大辞典)、
1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的(日本史辞典)、
旧暦1・5・9月の15日または農事のひまな日に講員が頭屋(とうや(とうや その準備、執行、後始末などの世話を担当する人))に集まる(百科事典マイペディア)、

等々と、正・五・九月以外は、ばらつく。

江戸初期の京都を中心とする年中行事の解説書『日次紀事』には、

凡良賤、正五九月涓吉日、主人斎戒沐浴、自暮至朝不少寝、其間、親戚朋友聚其家、雜遊、令醒主人睡、或倩僧侶陰陽師、令誦経咒、待朝日出而獻供物、祈所願、是謂日待……待月其式、粗同、凡日待之遊、

とある。これは町家の例だが、村々でも似ていて、

その前夜の夕刻から当番の家に集まる。(中略)当番に当たったものは、一晩中、神前の燈明の消えないように注意し、カマドの灰はすべて取り出して塩で清め、柴でなくて薪を使うとか、家中の女は全部外に出して、男手だけで料理を用意したともいう。集まるものも必ず風呂に入り、清潔な着物で出席した、

とも(日本昔話事典)、あるいは、

講員は米を持参して当番の家に集まり、御神酒(おみき)を持って神社に参詣する。香川県木田(きた)郡では、春と秋の2回、熊野神社の祭日に餅(もち)と酒を持参して本殿で頭屋2人を中心として、天日を描いた掛軸を拝む。土地によっては日待小屋という建物があって、村の各人が費用を持参する例もある。変わったものに鳥取市北西部に「網(あみ)の御日待」というのがあり、9月15日に集まって大漁を祈願するという、

とも(日本大百科全書)、また、

家々で交代に宿をつとめ、各家から主人または主婦が1人ずつ参加する(世界大百科事典)、

ともある。もともとは、

神霊の降臨を待ち、神とともに夜を明かす、

ことが本来の趣旨だったからと思われる(日本昔話事典)。しかし、「待つ」という言葉の含意から、

日の出を待って拝む、

に力点が移った(仝上)とされ、

影待(かげまち)、

以外にも、

御日待(おひまち)、

とも呼ばれ(精選版日本国語大辞典)、後には、大勢の男女が寄り集まり徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなる(仝上)。だから、

単に仲間の飲食する機会、

を「日待」というところも出てくる。ただ、

マチゴトとして神とともにあったことから、その席には神と人の合歓(ごうかん いっしょに喜ぶこと)をめぐる口承文芸が伝承される場、

となり、やがては夜を徹して眠気を払うための話題が求められ(日本昔話事典)、様々な話を語り、伝え合うことになった(日本昔話事典)。

この「日待ち」と対になるのが、

月待(ち)、

で、

十九夜待、
二十三夜待、
二十六夜待、

は、日待と区別して月待と呼ぶ(世界大百科事典)。「月待」も、

月祭(つきまつり)の約、

とある(大言海)。

マチは待ちうけること(日本昔話事典)、
まち設けて物する意、稲荷待(稲荷祭)なども同じ(大言海)

で、「日待」で、上述の『日次紀事』に、

待月其式、粗同、

とあったように、