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コトバ辞典


ながえ


車のながえにつきて、牛飼童を打てば、童は牛を棄てて逃げぬ(今昔物語)、

の、

ながえ、

は、

轅、

と当て、

長柄の意、

で(広辞苑)、

長柄、

とも当て(岩波古語辞典)、

牛車(ぎっしゃ)・馬車などの前に長く平行に出した2本の棒。その前端に軛(くびき)を渡し、牛馬に引かせる、

とある(仝上)が、牛車(ぎっしゃ)・馬車だけでなく、

輦(てぐるま)、
輿(こし)、

などの、

乗物の箱の台の下に平行して添えた二本の長い棒、

をいう(精選版日本国語大辞典)。

輦、

は、駕輿丁(かよちょう)の肩にあて、

輿、

は、力者(ろくしゃ)の腰に添え、

牛車、

は、前方に長く挺出して軛(くびき)を通し、牛に引かせる(仝上)。

和名類聚抄(平安中期)に、

轅、奈加江、

字鏡(平安後期頃)に、

轅、輗、端横木、以縛振(枙)者也、奈加江乃波志乃久佐比、

とある。

輦(てぐるま)、

は、

手車、
輦車、

とも当て、

輦(れん)に車をつけ、肩でかつがずに車で運行する乗り物、

で、特に、

手車の宣旨を受けた皇太子または親王・内親王・女御・大臣などが乗用する、

もので、

れんしゃ、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。「輦(れん)」は、

輦輿(れんよ)、

ともいい、

土台につけた轅(ながえ)を数人で肩にかついで進行する乗り物、

で、

天皇など特に身分の高い人の乗り物、

とされる(仝上)。

輿(こし)、

は、

人を乗せる台の下に二本の轅(ながえ)をつけて、肩にかつぎ上げ、または手で腰の辺にさげて行くもの、

で、台の四隅に柱を立て、屋根をつけた、

四方輿(しほうごし)、

側面を覆った、

網代輿(あじろごし)、

の他、

筵輿(むしろごし)、
板輿(いたごし)、
塗輿(ぬりごし)、

等々の種類がある(仝上)。

轅(エン)、は、

輈(チュウ)、

とも言い、

攀轅臥轍、

というように、

ながえ、

の意で、

車輿の傍より出たる二本の直木、

とある(字源)。

輈、

は、

小車、即ち、兵車、田車、乗車の曲がれるながえ、

轅、

は、

大車(牛にひかせる運搬車)、

と区別する(仝上)。

牛車(ぎっしゃ・ぎゅうしゃ・うしくるま・うしぐるま)は、

奈良時代以前にも車の制はあったが、平安遷都以来、京洛(きょうらく)を中心に道路の発達と路面の整備によって、牛車を盛んに乗用として利用するようになった、

という(日本大百科全書)。その構造は、

軸(よこがみ)の両端に車輪をつけた二輪車で、人の乗る屋形(またの名を箱という)をのせる。この前方左右に長く前に出ている木を轅の先端の横木、軛(くびき)を牛の首にかける。屋形の出入口には御簾を前後に懸け垂らし、内側に絹布の下簾(したすだれ)をつける、

とある(仝上)。

四人乗り、

が通常で、二人や六人の場合もある(仝上)。平安中期を中心にし、武家の世になると牛車の乗用は衰え、特定の乗り物となり、一般日常には腰輿(たごし)を使用した。室町時代以降、大型化した新しい様式の、

御所車(ごしょぐるま)、

が出現した(仝上)。乗用の目的だけではなく、外観の装飾を華美にすることを競い、

賀茂祭(かもまつり)に用いた飾車(かざりぐるま)や、出衣(いだしぎぬ)といって女房の着ている衣装の一部を美しく重ねて御簾(みす)から垂らして見物の一つとしたこと、

などでも知られる(仝上)とある。「出衣」については、「いだしあこめ」で触れたように、

牛車の簾(すだれ)の下から女房装束の裾先を出して装飾とすること、寝殿の打出(うちで)のように装束だけを置いて飾りとすること、

をいう(学研全訳古語辞典)。

牛車は、乗る人の位階、家格や正式の出行か否かなどによりその構造が種々に分かれ、名称も異なり、

唐庇車(からびさしのくるま)、
雨眉車(あままゆのくるま)、
檳榔庇車(びろうびさしのくるま)、
檳榔毛車(びろうげのくるま)、
糸毛車(いとげのくるま)、
半蔀車(はじとみのくるま)、
網代庇車(あじろびさしのくるま)、
網代車(あじろのくるま)、
八葉車(はちようのくるま)、
金作車(こがねづくりのくるま)、
飾車(かざりぐるま)、
黒筵車(くろむしろのくるま)、
板車、

などの種類がある(精選版日本国語大辞典)。

たとえば、

「唐廂車」(からびさしのくるま)、

は、牛車のなかで最高級の車で、

上皇、摂政、関白などが晴れの舞台で使用する大型の車、

とされ、

屋形の軒が中央部は弓形で、左右両端が反り返った曲線状の唐破風(からはふ)に似たつくり、

になっていて、別名、

唐車(からぐるま)、

とも言い、

屋根や廂(ひさし)、腰には、「檳椰樹」(びんろうじゅ)の葉を用い、袖は彩色が施され、「蘇芳簾」(すおうのれん)という黒味を帯びた赤色の簾を、屋形の前後と物見(屋形の左右にある窓)に付け、下簾は唐花(からはな)や唐鳥(からとり)の文様となっているのが特徴、

とあるhttps://www.touken-world.jp/tips/36783/

また、『平治物語絵巻』に描かれた、

八葉車(はちようのくるま)、

は、

網代車のひとつで、屋形の網代を萌黄色に塗り、屋形と袖には8つの葉の模様(九曜星)が描かれているのが特徴、

で、

文様の大小により、「大八葉車」や「小八葉車」と呼ばれ、前者の、

大八葉車、

は、親王や公卿、高位の僧が用い、後者の、

小八葉車、

は少納言・外記などの中流貴族、女房などが使用したhttps://www.touken-world.jp/tips/36783/とある。

また、牛車の主流になった、

「網代車」(あじろぐるま)、

は、

青竹の細割(または檜の薄い板状の物)を斜めに組んで屋形を張った車の総称、

で、

官位、家格、年齢等の違いによって乗用する車の仕様が異なり、大臣が乗る車は「袖白の車」または「上白の車」と言い、袖表や棟表は白く、家紋が付いている。棟、袖、物見の上に文様を描いた車を「文の車」(もんのくるま)と呼ぶ、

とあり、

網代車は、袖や立板などに漆で絵文様を描いた物が多く、加工や彩色も多様にできることから、屋形の形や物見の大小、時代の趣向などによって、様々な車に発展し、牛車の主流となりました、

とある(仝上)。なお、「半蔀車」については「半蔀(はじとみ)」で触れた。

なお、牛車に乗るには、

榻(しじ)を置いて後方から乗り、

降りるには、

牛を轅(ながえ)から外して、簾を上げて前方から降りる(学研全訳古語辞典)が、男が乗るときは御簾を上げ、女が乗るときは御簾を下ろしている(日本大百科全書)。通常の四人乗りの場合、

二人ずつ並んだ形で互いに向かい合って両側を背にして座る、

が、前の右側→前の左側→後の左側→後の右側と、席の序列が定まっている。男女が乗り合わせる場合は、

男が右側に入って向かい合う、

とある(仝上)。

中国では、乗物としての牛車は、

漢代以前は貧者に限られ、後漢末の霊帝(在位168〜189)、献帝(在位189〜220)のころから六朝の間に天子から士大夫にいたるまであらゆる階層の常用車となった。このためこの時代には、馬車は流行しなくなり、とくに優れた牛を、

賽牛(さいぎゅう)、

と呼び、ときには千里の馬になぞらえて、

八百里の牛、

と称して珍重した(世界大百科事典)。貴人の牛車は、

台車の上に屋と簾をつけ、

民間の牛車は、

屋のない露車、

であった(仝上)。

なお、宮城内に車を乗り入れることは禁じられていたが、

牛車許(ゆる)す、

というと、

牛車(ぎっしゃ)に乗って宮中の門を出入りすることを許す、

ことで、親王、摂政関白、および宿老の大臣が許された(広辞苑)。

牛車の宣旨(せんじ)、

とは、

親王、摂関家などが、牛車に乗ったまま、宮中の建礼門まではいることを許す旨を記した宣旨、

をいう(精選版日本国語大辞典)。

轅下(えんか)の駒、

というのは、史記・武安侯伝に由来し、

「駒」はまだ力の弱い2歳の馬で、車を引いても動かないことから、人の束縛を受けて思い通りにできないこと、

そこから、、

能力が十分でないこと、

のたとえとしていう(広辞苑)。

轅門(えんもん)、

は、

中国で、戦陣で車を並べて囲いとし、出入り口は兵車を仰向け、轅(ながえ)を向かい合わせて門にした、

ことから、

陣営の門、
軍門、

の意で使う(仝上)。

なお、「牛車」を、

ごしゃ、

と訓む(「ご」は「牛」の慣用音)と、「大白牛車(だいびゃくごしゃ)」で触れたように、法華経譬喩品の、

如下彼長者初以三車誘引諸子。然後但与大車宝物荘厳安隠第一。然彼長者、無中虚妄之咎上

から出た、

某長者の邸宅に火災があつたが、小児等は遊戯に興じて出ないので、長者はために門外に羊鹿牛の三車あつて汝等を待つとすかし小児等を火宅から救ひ出したといふ比喩で、羊車はこれを声聞乗に、鹿車はこれを縁覚乗に、牛車はこれを菩薩乗に喩へた、この三車には互に優劣の差のないではないが、共にこれ三界の火宅に彷復ふ衆生を涅槃の楽都に導くの法なので、斯く車に喩へたもの、

で(仏教辞林)、

火宅にたとえた三界の苦から衆生を救うものとして、声聞・縁覚・菩薩の三乗を羊・鹿・牛の三車に、一仏乗を大白牛車(だいびゃくごしゃ)にたとえた、

三車一車、

によるもので、

すべての人が成仏できるという一乗・仏乗のたとえに用いられる、

とある(仝上)。

「轅」(漢音ウン、呉音オン)は、

会意兼形声。「車+音符袁(エン 遠 とおまわり、ゆるい曲線をえがく)」、

とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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僧正、壺に召し入れて物語などし給ひけるに、(秦)武員(はたのたけかず)、僧正の前にうづくまりて(今昔物語)、

の、

壺、

は、

内庭、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

容器の「壺」は「つぼ」で触れたように、

自然にくぼんで深くなったところ、

の意(広辞苑)で、それに準えて、

容器、

の意味になったものと思われる。いわゆる、

窪み、

である。そして、

建物あるいは垣で囲まれた一区画の土地、

も、

周囲を囲まれていて、一段低くなっているところを、「壺」に見立てて呼ぶ、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

建物の間や垣根の内側などにある庭、

つまり、

中庭、

の意で、転じて、

宮中の部屋、

つぼね、

の意味で使う。こうした意味で使う場合、

壺、

の他、

坪、

ともあてる。「つぼね」は、

局、

と当て、

「つぼねたる所」の意、

ともある(広辞苑)が、

動詞つぼぬ(局)」の名詞化、

ともあり(日本国語大辞典)、「つぼぬ」は、

局ぬ、
搾ぬ、

と当て、

つぼ(壺)の動詞化、

で、

壺のように周囲を小さく仕切って囲う、

意である。その名詞「つぼね」は、

殿舎・邸宅・寺院などの中で、しきり隔てて設けた部屋、

をいい、

曹司(ぞうし)、

ともいい、また、特に、

宮中や貴人の邸宅で、そこに仕える女性に与えられる、仕切られた部屋、

をいい、そこから、その部屋を持っている、

女官、

また、転じて、

宮中や公家・武家に仕えて重要な立場にある女性への敬称、

としても使う(広辞苑)。漢字、

坪(ヘイ・ビョウ)、

は、

たいらか(平)、地の平らかなる所、

の意である(字源)。

長江の上流や中流の地名で、「〜坪」とあるのは、河岸や山間の小さな平地に付けた名、

とあり(漢字源)、和語で、

坪、

に当てた当初の意味が漢字の原義に添っていることが分かる。ただ、

坪は、平土の合字、

とある(大言海)ので、漢字の「坪」とは別に、国字として作字したものかもしれない。

殿中の閨iアハヒ)、垣の内の庭など、一区の窄(つぼ)まりたる地の称、

の場合、

常に壺の字を借書す、

とある(仝上)。なお、奈良時代、

坪、

は、

つほ、

と清音であった(岩波古語辞典)。

「坪」の語源を、

壺に見立てていうか、狭いところに引きこもる意のツボム(窄)からか(語源大辞典=堀井令以知)、
殿中の間、垣の内の庭など窄(つぼ)まった地であるところから(大言海)、

などとするのは、

壺、

の、

窪み、

のアナロジーから来たということを示している。

なお、

坪、

を、

地目の広さの単位、

つまり、

六尺四方、

の意で使うのは、わが国だけの用例である。この用例も、「坪」の、

建物あるいは垣で囲まれた一区画の土地、

の意味の派生から出たもののように思える。この、

坪、

は、

歩(ぶ)、

の別名として使われているが、中国古代に、

二歩(ほ)四方として設けられ、当時の尺で六尺平方とされた。その後、尺が伸びたため中国では五尺平方とされたが、日本では六尺平方をとってきている、

という(日本大百科全書)ように、「歩」は、中国由来で、大宝令以前から使われているが、

歩を坪とよぶようになったのは、いつごろのことかわからない、

とある(仝上)。ただ、

歩と同じ意味に用いるのは土地や建物の面積、

に限られ、その他のものの面積をいう場合、

錦(にしき)や金箔(きんぱく)の場合は一寸四方、皮革は尺坪といって一尺平方、

印刷製版では寸坪といって一寸四方、

等々である(仝上・精選版日本国語大辞典)。

また、

条里制における土地の地割の単位、

として、

坪、

を用いる場合、

条と里(り)によって仕切られた方六町の区画(里)の各辺を六等分して仕切った区画、

すなわち、

一里を三六等分した区画の称、

で、そのおのおのを、

一の坪、
二の坪、
三六の坪、

と数字を冠してよぶ(精選版日本国語大辞典)のは、「坪」の、

一区画の土地、

の原義に近いかもしれない。

「壺」(漢音コ、呉音グ・ゴ)は、「つぼ折」で触れたが、

象形。壺を描いたもの。上部の士は蓋の形、腹が丸くふくれて、瓠(コ うり)と同じ形をしているので、コという、

とあり、壼(コン)は別字、

とある(漢字源)。

「坪」(漢音ヘイ、呉音ビョウ)は、

会意兼形声。「土+音符平(ヘイ たいら)」、

とあり(漢字源)、土地の平らかな所の意を表す(角川新字源)とある。別に、

会意兼形声文字です(土+平)。「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)と「水面に浮く水草」の象形(「たいら」の意味)から、「土地の平らな所」を意味する「坪」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1802.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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御霊会


然る間、此の田楽の奴ばら……、今日此の御靈會(ごりやうゑ)にやあらむと思へば、いみじかりける折にしも來り會ひて、かかる奴ばらの中に具して行くは、物狂(ものぐる)はしきわざかな(今昔物語)、

とある、

御霊会、

は、

疫病神、祟神をなぐさめる催事で、有名なのは京の祇園の祭。此時には田楽が行われたのであろう。祭としては地方の卑俗なものと考えられていた事がわかる、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

御霊会は、

怨みを残して非業の死をとげた人の悪霊をしずめ、その祟りによる疫病の流行を避けるために行われる祭、

で(岩波古語辞典)、平安初期からはじまった(仝上)。

御靈會、

の、

御靈、

は、

疫神(ヤクジン)の神霊、又は、死者の怨霊(ヲンリヤウ)(疫神となりたる)の敬称、

會、


は、

齋會(サイヱ 神を祭祀する儀式。)、

とあり(大言海)、

官にて行ひて、死者の怨霊、又は、疫神の神霊の災ひをなすを、和(なご)めたまふ祭、

で、

御霊祭、

とも、

略して、

御霊、

ともいい(仝上)、つまりは、

鎮魂のための儀礼、

で、文献上最初に現われるのは、

『三代実録』貞観五年(863)五月二十日の条に、

於神泉苑、修御霊会、……靈座六前、……所謂御霊者、崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人、及観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等、是也、並坐衆事被誅、冤魂成氏A近代以来、疫病繁發、死亡甚衆、天下以為此灾御霊之所生也、……乃修此會、以賽宿禱也、

とある、

神泉苑で行われた御霊会、

が嚆矢である(日本伝奇伝説大辞典)。大言海は、

崇道天皇は、早良親王なり、藤原夫人は、伊予親王の御母なり、観察使、詳らかならず、脱字ならむと云ひ、藤原広嗣かと云ふ、霊座、六位なりしが、後に、長屋王の妃吉備内親王、火雷天神(菅原道真)を加えて、八所御靈と称す、今も、京の上御霊社、下御霊社に祀れる、是れなり、

と注記する。この背景にあるのは、

前年からの咳逆の流行で清和天皇の大叔父にあたる2人の大納言(源定・源弘)をはじめとする皇室・宮中関係者が多数死去したこと、この年太政大臣藤原良房が60歳を迎え、翌年には清和天皇の元服を控えていたことから、天皇やその周囲の人々を怨霊や怨霊がもたらす疫病から守るために開始された、

と考えられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BC%9Aとある。

貞観五年の御霊会において祭られた、

六柱、

は、

崇道天皇(早良親王)
伊予親王
藤原夫人(藤原吉子)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文室宮田麻呂)
観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)、

で、

六所御霊、

と呼ばれ、これに、六所御霊に2柱の神が追加され、伊予親王・観察使にかわって井上大皇后(井上内親王)、他戸親王があてられ、

八所御霊、

と呼ばれている(仝上)。

吉備聖霊(吉備大臣)、

は、

上御霊神社では現在吉備真備としているが、吉備内親王とする説、鬼魅(災事を司る霊)をあてる説がある。下御霊神社では六所御霊の和魂としている、

とあり、

火雷神、

は、

菅原道真とすることが多いが、文字通り火雷を司る神であるとする説もある。上下御霊神社では六所御霊の荒魂としている、

とある(仝上)。なお、「怨霊」については触れた。

神泉苑で修された御霊会では、朝廷は、

藤原基経、藤原常行らを遣わし、会事を監修、

し、

六柱の霊座の前に几と莚を設け、花果を盛陳し恭敬して薫修す。律師慧達を招き、講師となし、金光明経一部と般若心経六巻を演説させた。雅楽寮の伶人に楽を演奏させた。帝の近侍の児童と良家の稚児に舞を舞わせた。大唐・高麗が更に出て雑技や散楽を競った、

とありhttp://www.shinsenen.org/goryoue_rekishi.html、神泉苑の四門が開けられ、都邑の人は出入りし自由に観ることができたという(仝上)。

御霊会は畿内から始まり、諸国に及び、夏から秋ごとに頻繁に絶えず修された。仏を礼し経を説き、あるいは歌い舞い、童子は騎射をし、力自慢の者が相撲をとり、走馬の勝負などをした。人が多く集まり、全国で古い習慣は風俗となってきた、

とあり(仝上)。この年の春の初め、咳逆病が流行り、百姓が多くたおれた。朝廷は祈るために、御霊会を修し、宿祷(年来の祈願)を賽じた(仝上)、という。

後に各地の寺社で同様の行事が開催され、

八坂神社の祇園御霊会、
北野天満宮の御霊会、

などが特に名高く、

神輿渡御などの行列や風流・田楽と呼ばれる踊り、

なども加えられ、

非業の死を遂げた「御霊」は疫病や虫害・飢饉等の災厄をもたらすと考えられ、それを鎮める祭であるため、疫病流行の時期との関わりから、多く陰暦五月・六月の夏の季節に行なわれるようになった、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BC%9A・精選版日本国語大辞典)。清少納言は、

ここちよげなるもの、卯杖(うづえ)の法師。御神楽(みかぐら)の人長(にんじょう)。御霊会(ごりょうえ)の振幡(ふりはた)とか持たる者(枕草子)、

と書いている。

なお、虫送りは、

浮遊霊が稲の害虫になる、

として、非業の死を遂げた斎藤実盛に託して、

実盛送り、

と呼ばれるが、「実盛送り」については触れた。

ところで、大言海は、上述の、

御霊会、

とは別に、もう一項、

御霊会、

をたて、

前條と似て、異なり、疫神を遣(やら)ひたたへる祇園神(素戔嗚尊)の御斎會を修士して、疫神を鎮むる意、

つまり、

祇園御霊会の略、

としている。この、

祇園御霊会、

または、

祇園会、

つまり、

祇園祭、

は、

牛頭天王を祀る八坂神社(感神院)の祇園御霊会(祇園会)

として知られている。「祇園御霊会」については、「祇園」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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田楽


此の白装束の男どもの馬に乗りたる、或はひた黒なる田楽(の鼓)を腹に結びつけて、袂(たもと)より肱(ひぢ)を取り出して左右の手に桴(ばち)を持ちたり。或は笛を吹き、高拍子を突きささらを突き、えぶり(木製の鍬)をさして、様々の田楽を二つ三つまうけて打ちののしり、吹きかなでつつ狂ふこと限りなし(今昔物語)、

とある、

田楽、

は、

日本芸能の一つ、

で、平安時代から行われ、もと、田植えのときに田の神をまつるため笛・太鼓を鳴らして田の畔で歌い舞った、

田舞、

に始まり、やがて専門の、

田楽法師、

が生まれ、

腰鼓・笛・銅拍子(どびょうし)・簓(ささら)等の楽器を用いた群舞、

と、

高足(たかあし)に乗り、品玉(しなだま)を使い、刀剣を投げ渡しなどする曲芸、

とを本芸とした(日本国語大辞典・広辞苑)。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、

田楽能、

を生んで、本座・新座などの座を形成し、盛んに流行し、猿楽(さるがく)と影響しあった。のちに衰え、現在は種々のものが、民俗芸能として各地に残る(仝上)とある。

田楽」は、平安時代中期に成立し、田植え時の、田遊び・田植祭など田の豊作を祈願する、

田舞(田儛 たまひ・たのまひ・でんぶ)、

が発展したもので、

歌詞ありて、舞人は凡そ四人、楽につれて舞ふ、

とある(大言海)。これは、古え、大嘗祭の際、

主基人等、入就中座右幄、奏田舞(儀式・践祚大嘗祭儀)、

と、

主基(須岐・次 すき)の人などが奏した舞、

の名にもなっている(大言海・岩波古語辞典)。「主基(すき)」は、

二番目、次いでの意、

で、

悠紀(ゆき)の國に次いで、新穀を奉る國、

を指す。大嘗祭では、使われる新穀・酒料を出す国郡を占いによって定められたが、その第一に奉る国が、

悠紀(斎忌・由基 ゆき)、

で、

ユは神聖なるもの、キは酒。聖なる酒を奉る国、

の意である(岩波古語辞典)。ここに、古く「田舞」の由来が残っている。

田楽を演ずる者を、

田楽法師、

といい、

仏教や鼓吹と結びついて一定の格式を整え、芸能として洗練されていった。やがて専門家集団化した田楽座は在地領主とも結びつき、神社での流鏑馬や相撲、王の舞などとともに神事渡物の演目に組み入れられた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD

田楽能、

と呼ばれたが、室町後期には、世阿弥による猿楽能に押された衰退した(古語大辞典)。

各地に、民俗芸能として伝わったが、その共通する要素は、

びんざさらを用いる
腰鼓など特徴的な太鼓を用いるが、楽器としてはあまり有効には使わない、
風流笠など、華美・異形な被り物を着用する、
踊り手の編隊が対向、円陣、入れ違いなどを見せる舞踊である、
単純な緩慢な踊り、音曲である、
神事であっても、行道のプロセスが重視される、
王の舞、獅子舞など、一連の祭礼の一部を構成するものが多い、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD

「ささら」は、

簓、

と当て、

長さ三〇センチメートルぐらいの、竹の先をこまかく割って束ねた竹筒(ささら竹)と、こぎりの歯のように刻み目をつけた木の棒(木竿、ささらこ)とをすり合せせて音を出す、

もので、

棒ささら、

といい、本来のささらはこれを指す。

端に孔をあけた短冊様の板を、その孔に紐を通して数枚もしくは数十枚重ねて、その両端の二枚を持って振り鳴らす、

ものも、ささらというが、これは、

びんささら(びんざさら こきりこささら、板ささら)

といい、

編木、

の字をあて、

拍板、

とも書く(精選版日本国語大辞典)。

田楽、

は、

田囃子の田楽、

に由来して、

田楽法師による、

田楽踊、

になったわけだが、

田楽法師、

は、座の組織を持ち、

永長元年之夏、洛陽大有田楽之事、初自閭里及於公卿、高足、一足、腰鼓、振鼓、銅鈸子(どびょうし)、編子(ささら)、殖女、養女之類、日夜無絶、喧噪之甚、驚人耳(大江匡房『洛陽田楽記(らくようでんがくき)』)、

と、

神社の祭礼などにも出た。笠は飾りの藺笠で、風流(ふりゅう)といって蓬萊鶴亀等がつくられている。このようにつくり物をすることが、やがて後に、変化しながら祭礼に出る傘鉾や、つくり山にもなる、

とあるhttps://costume.iz2.or.jp/costume/510.html。「風流」については触れた。

田楽といひて、あやしきやうなる鼓、腰に結ひつけて、笛吹き、ささらといふ物突き、さまざまの舞して…(栄華物語)、

の、

「田楽」という名称の由来には、

田植えのときの楽であるところから(俚言集覧・芸能辞典)、
田はいやしい意で、正しく風雅な楽でないという意(貞丈雑記・安斎雑考・和訓栞)、
田野の学の義、また申楽の申が田の字に転じたものか(和訓栞)、
田舎の猿楽の義(能楽考)、

などの諸説があるけれども、

田はいやしい意、

を込めていることは確かのようである。しかし、猿楽より人気で、

鎌倉時代にはいると、田楽に演劇的な要素が加わって田楽能と称されるようになった。鎌倉幕府の執権北条高時は田楽に耽溺したことが『太平記』に書かれており、室町幕府の4代将軍足利義持は増阿弥の芸を好んだことが知られる。田楽ないし田楽能は「能楽」の一源流であり、「能楽」の直接の母体である猿楽よりむしろ高い人気を得ていた時代もあった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD。さらに、

田楽は、大和猿楽の興隆とともに衰えていったが、現在の能(猿楽の能)の成立に強い影響を与えた。能を大成した世阿弥は、「当道の先祖」として田楽から一忠(本座)、喜阿弥(新座)の名を挙げている、

とある(仝上)。しかし、

田楽は昔は目で見今は食ひ

という川柳に残るほど、いつのまにか、「田楽」は、

田楽豆腐、
田楽焼、

とされた。『宗長手記』(大永六年(1526)))に、

田楽たうふ、

とある(仝上)。

「田楽」に由来する、田楽豆腐については、「おでん」、「祇園豆腐」で触れ、また、それとかかわる「田楽」についても触れたが、「おでん」は、

御田、

と当てる。

田楽、

のことで、

田楽(でんがく)」の「でん」に、接頭語「お」を付けた女房詞、

である。御所で使われたことばが、上流社会に通じたもので、それが民間に広がった。

田楽、

とは、

豆腐に限って言った、

ので(たべもの語源辞典)、「おでん」は、

豆腐、

と決まっていた。

豆腐を長方形に切って、竹の串をさして炉端に立てて焼き、唐辛子味噌を付けて食べた。初めは、つける味噌は唐辛子味噌に決まっていた、

のであり、これが、

おでん、

であった(仝上)。

「田楽」という名前の起こりは、

炉端に立てて焼く形が田楽法師の高足の曲という技術の姿態によく似ているので、のちに、豆腐の焼いたものを田楽とよぶようになった、

ともいう(仝上)、とある。「高足」(たかあし、こうそく)とは、

田楽で行われる、足場の付いた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸、

で、

鷺足(さぎあし)、

とも呼びhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%B6%B3

田植どきに豊作を祈念して白い袴(はかま)に赤、黄、青など色変わりの上衣を着用し、足先に鷺(さぎ)足と称する棒をつけて田楽舞を行った。このときの白袴に色変わりの上衣、鷺足の姿が、白い豆腐に色変わりのみそをつけた料理に似ているので、田楽のようだといったのがこの料理の名称となり、本来の舞のほうは忘れ去られた、

とある(日本大百科全書)。

「田」(漢音テン、呉音デン)は、

四角に区切った耕地を描いたもの。平らに伸びる意を含む。また田猟の田は、平地に人手を配して平らに押していく狩のこと、

とある(漢字源)。別に、

象形文字です。「区画された狩猟地・耕地」の象形から「狩り・田畑」を意味する「田」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji108.html

「樂(楽)」(ガク、ラク)は、

象形。木の上に繭のかかったさまを描いたもので、山繭が、繭をつくる櫟(レキ くぬぎ)のこと。そのガクの音を借りて、謔(ギャク おかしくしゃべる)、嗷(ゴウ のびのびとうそぶく)などの語の仲間に当てたのが音楽の樂。音楽で楽しむというその派生義を表したのが快楽の樂。古くはゴウ(ガウ)の音があり、好むの意に用いたが、今は用いられない、

とある(漢字源)。音楽の意では「ガク」、楽しむ意では、「ラク」と訓む。しかし、この、

「木」に繭まゆのかかる様を表し、櫟(くぬぎ)の木の意味。その音を仮借、

とする説(藤堂明保)、

に対し、

木に鈴をつけた、祭礼用の楽器の象形、

とする説(白川静)があるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%BD。また別に、

象形。木に糸(幺)を張った弦楽器(一説に、すずの形ともいう)にかたどり、音楽、転じて「たのしむ」意を表す、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「どんぐりをつけた楽器」の象形から、「音楽」を意味する「楽」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「たのしい」の意味も表すようになりました、

とするものもあるhttps://okjiten.jp/kanji261.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ささら


田楽といひて、あやしきやうなる鼓、腰に結ひつけて、笛吹き、ささらといふ物突き、さまざまの舞して、あやしの男ども、歌うたひ(栄華物語)、

の、

ささら、

は「田楽」で触れたように、

簓、

と当て、

長さ三〇センチメートルぐらいの、竹の先をこまかく割って束ねた竹筒(ささら竹)と、こぎりの歯のように刻み目をつけた木の棒(簓子(ささらご) 木竿、ささらこ、ささらのこ)とをすり合せせて音を出す、

もので、

摩(す)り簓(ざさら)、
棒ささら、

といい(学研全訳古語辞典)、本来のささらはこれを指し、単に、

ささら、

ともいい、

地域によっては「ささらこ」を用いず、二本の「ささら竹」を打ち合わせる、場合もある(日本大百科全書)。古くは、

田楽、

に用い、江戸時代には、

門説経(かどぜっきょう 説経浄瑠璃(じょうるり)、説経節、歌説経(うたぜっきょう) 芸能化した説教で、門付(かどづけ)し、院の説教(唱導)における譬喩因縁(ひゆいんねん)談を簓(ささら)、鉦(かね)、鞨鼓(かっこ)を伴奏として語り、歌った)、
や、
歌祭文(うたざいもん 祭文節、祭文 芸能化した祭文で、市井の事件や風俗を詠み込み、三味線を伴奏とする。「祓(はら)ひ清め奉る」または「敬って申し奉る」に始まり、「敬って申す」に終わる)、

などに、三味線や胡弓などとともに用いられた。また、別に、

端に孔をあけた短冊様の板を、その孔に紐を通して数枚もしくは数十枚重ねて、その両端の2枚を持って振り鳴らす、

もの(ブリタニカ国際大百科事典)も、

ささら、

というが、これは、

びんざさら(びんささら、きりこささら、板ささら、ささら木)、

といい、

編木、
拍板、

の字を当て(精選版日本国語大辞典)、

短冊型の板の一端を紐で綴り合わせた両端の取っ手を持ってひろげ、連結部分を逆U字状にして構え、片方(または両方)の取っ手を動かして、揺すったり、突くようにして全部の板を打ち合わせて、

音を発する(https://museum.min-on.or.jp/collection/detail_T00007.html・学研全訳古語辞典)。

田楽躍(おどり)、

の重要な楽器で、日本固有の楽器ではなく、大陸より散楽(さんがく)とともに渡来した(日本大百科全書)とされる。特別な把手のついたものもあり、古くは、

田楽、

の主要楽器として用いられた(仝上)。

散楽、

は、

軽業、曲芸、手品、奇術、幻術、滑稽物真似(こっけいものまね)を内容とする雑芸(ぞうげい)、

で、奈良時代に中国から日本に伝来し、『信西古楽図』『新猿楽(さるがく)記』などに、

乱舞(らっぷ)、
俳優(わざおぎ)、
百戯(ひゃくぎ)、

とも記されており(日本大百科全書)、日本に入ってきたものも中国大陸のものと同じような内容であったと思われる(仝上)とある。伝来当初、

雅楽寮の楽戸(がくこ)、

で養成されていたが、平安初期に廃止となり、平安時代には一般に流布し、宴会の場や祭礼などに盛んに行われ、散楽法師とよばれる専門の者が生まれ、

唐術、透撞(とうてき)、走索(そうさく)、品玉(弄玉 いくつもの玉や刀槍などを空中に投げて巧みに受け止めて見せるもの)、刀玉、輪鼓(りゅうご)、独楽(こま)、一足、高足などの曲芸、軽業や、巫遊之気装貌(かんなぎのけそうがお)、京童之虚左礼(きょうわらんべのそらざれ)、東人之初京上(あずまびとのういきょうのぼり)などの滑稽な物まね、傀儡(くぐつ)のような人形遣い、

などがあった(精選版日本国語大辞典)。宮廷では多く相撲(すまい)の節会(せちえ)、競馬会(けいばえ)、神楽(かぐら)などの際に余興として行なわれたが、鎌倉時代になってしだいに衰え、田楽(でんがく)法師や放下(ほうか)師(放下つかい 曲芸師、手品師)などの手に移り、のちには獅子舞(ししまい)、太神楽(だいかぐら)、寄席(よせ)に伝えられ今日に残った(日本大百科全書)。「相撲の節会」については「最手(ほて)」で触れた。

「ささら」は、爾雅(じが 漢代 中国最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学の書)釋樂篇の註に、

敔如伏虎、背上有二十七鉏ム(キザミ)、以木長尺擽之也、

正韻(洪武正韻 明代の勅撰韻書)にも、

籈(シン)、割木、長尺、以鼓敔所以止樂也、

とあるが、和語、

ささら、

は、

擦る音の、さらさらの約(うらうら、うらら。きらきら、きらら。琴も、笛も音(ネ)を名とすること同じ)、謡曲、花月「心、乱るる此のささら、さらさら、さらさら、と擦っては歌ひ、舞うては数へ」、ささら竹と云ふが、成語なるべし。出典に、ささらの竹と見ゆ、編竹(ヘンチク)と書くは、竹を編む意なるべく、編木(ヘンボク)と書くは、びんざさらなるべきに、上略して言ひて、相、混ず、簓の字は、彫竹の合字なり(大言海)、

とあり、他に、

ササは歌の囃子、または合の手の発音を表す。ラは名詞にするための語尾で、拍子の義か(踊の今と昔=柳田國男)、
竹をササラ(細)に割ってつくるところから(日本語源=賀茂百樹)、
さらさらと音がするところから(デジタル大辞泉・広辞苑)、
ささらの音は、秋の稲穂が擦れあう擬音を意味してきた。楽器の「ささら」は、この擬音を表現する道具という意味に由来する名https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%95%E3%82%89

などがあるが、

さざめく」、「ささやく」で触れたように、

ささ、

は、擬音語・擬声語の可能性が高い。

同じ語幹の「ささ」でも、

さざめく、
さざめく、

が、

がやがやと大声をあげる意であるのに対して、

ささめく、

が、

ひそひそと小声で話す意であるという違いがあり、また、

ささめく、

が、音が聞こえることに主意があるのに対して、

ささやく、

が話し合う行為に主意がある(日本語源大辞典)としている。

なお、

びんざさら、

の語源は、

ビンは編の転、ササラは此の器の鳴る音から(嬉遊笑覧・大言海)、
比丘尼ザサラの略か、ささらはその音から(瓦礫雜考)、

とあり、

編んだ木、

からと見ていいが、ここでも、やはり、

ささら、

は、

音としているようである(日本語源大辞典)。

「簓」(ササラ)は、

会意。「竹+彫(こまかくきざむ)」、

とある。国字のようである。もし国字とするなら、「ささら」の「ささ」は、「ささめく」「ささやく」ともに、接頭語「ささ」で、「細波(ささなみ)」や「細雪」の「ささ」と同じく、

細かいもの、小さいものを賞美していう、

と(岩波古語辞典)という可能性は残るかもしれない。『大言海』は、「細小(ささ)」は、
 
形容詞の狭(さ)しの語根を重ねたる語。孝徳紀、大化二年正月の詔に「近江の狭狭波(ささなみ)」とあるは、細波(ささなみ)なり。神代紀、下三十六に、狭狭貧鈎(ささまぢち)とあり、又陵墓を、狭狭城(ささき)と云ふも、同じ。いささかのサカも、是レナリ。サとのみも云ふ。狭布(けふ)の狭布(さぬの)、細波(ささなみ)、さなみ。ササメク、ササヤク、など云ふも、同じ、

としている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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鬢だたら


歌を作りて歌はむとするなり。其の作りたるやうは、
鬢(びん)だたらを、あゆかせばこそ、ゆかせばこそ、愛敬(あいぎやう)づきたれ
と、此のびんだたらと云ふは、守(かみ)のけぎよく鬢の落ちたるを、かかる鬢だたらして、五節所に若き女房の中にまじり居給ひたるを歌はむずるなり(今昔物語)、

にある、

鬢だたら、

について、

此は五節の間にきまって歌われる歌謡の一つで、「びんだたら」と呼ばれていた。びんざさら(楽器)をゆるがしてならせばこそ、おもしろやの意で、元は田楽の歌謡か、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。また、

五節所、

は、

新嘗會の五節の舞姫の控室、

とあり(仝上)、

毎年十一月の新嘗會に五節の舞姫を四人、公卿や受領階級から(公卿の娘二人、受領・殿上人の娘二人)、

出させた(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E)。

鬢だたら、

は、殆どどこにも載らないが、

鬢だだら、

は、

五節の舞に歌ふ謡物の名、

とある(大言海)。室町時代の有職故実書『公事根源』(一条兼良)五節帳臺試に、