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コトバ辞典


ながえ


車のながえにつきて、牛飼童を打てば、童は牛を棄てて逃げぬ(今昔物語)、

の、

ながえ、

は、

轅、

と当て、

長柄の意、

で(広辞苑)、

長柄、

とも当て(岩波古語辞典)、

牛車(ぎっしゃ)・馬車などの前に長く平行に出した2本の棒。その前端に軛(くびき)を渡し、牛馬に引かせる、

とある(仝上)が、牛車(ぎっしゃ)・馬車だけでなく、

輦(てぐるま)、
輿(こし)、

などの、

乗物の箱の台の下に平行して添えた二本の長い棒、

をいう(精選版日本国語大辞典)。

輦、

は、駕輿丁(かよちょう)の肩にあて、

輿、

は、力者(ろくしゃ)の腰に添え、

牛車、

は、前方に長く挺出して軛(くびき)を通し、牛に引かせる(仝上)。

和名類聚抄(平安中期)に、

轅、奈加江、

字鏡(平安後期頃)に、

轅、輗、端横木、以縛振(枙)者也、奈加江乃波志乃久佐比、

とある。

輦(てぐるま)、

は、

手車、
輦車、

とも当て、

輦(れん)に車をつけ、肩でかつがずに車で運行する乗り物、

で、特に、

手車の宣旨を受けた皇太子または親王・内親王・女御・大臣などが乗用する、

もので、

れんしゃ、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。「輦(れん)」は、

輦輿(れんよ)、

ともいい、

土台につけた轅(ながえ)を数人で肩にかついで進行する乗り物、

で、

天皇など特に身分の高い人の乗り物、

とされる(仝上)。

輿(こし)、

は、

人を乗せる台の下に二本の轅(ながえ)をつけて、肩にかつぎ上げ、または手で腰の辺にさげて行くもの、

で、台の四隅に柱を立て、屋根をつけた、

四方輿(しほうごし)、

側面を覆った、

網代輿(あじろごし)、

の他、

筵輿(むしろごし)、
板輿(いたごし)、
塗輿(ぬりごし)、

等々の種類がある(仝上)。

轅(エン)、は、

輈(チュウ)、

とも言い、

攀轅臥轍、

というように、

ながえ、

の意で、

車輿の傍より出たる二本の直木、

とある(字源)。

輈、

は、

小車、即ち、兵車、田車、乗車の曲がれるながえ、

轅、

は、

大車(牛にひかせる運搬車)、

と区別する(仝上)。

牛車(ぎっしゃ・ぎゅうしゃ・うしくるま・うしぐるま)は、

奈良時代以前にも車の制はあったが、平安遷都以来、京洛(きょうらく)を中心に道路の発達と路面の整備によって、牛車を盛んに乗用として利用するようになった、

という(日本大百科全書)。その構造は、

軸(よこがみ)の両端に車輪をつけた二輪車で、人の乗る屋形(またの名を箱という)をのせる。この前方左右に長く前に出ている木を轅の先端の横木、軛(くびき)を牛の首にかける。屋形の出入口には御簾を前後に懸け垂らし、内側に絹布の下簾(したすだれ)をつける、

とある(仝上)。

四人乗り、

が通常で、二人や六人の場合もある(仝上)。平安中期を中心にし、武家の世になると牛車の乗用は衰え、特定の乗り物となり、一般日常には腰輿(たごし)を使用した。室町時代以降、大型化した新しい様式の、

御所車(ごしょぐるま)、

が出現した(仝上)。乗用の目的だけではなく、外観の装飾を華美にすることを競い、

賀茂祭(かもまつり)に用いた飾車(かざりぐるま)や、出衣(いだしぎぬ)といって女房の着ている衣装の一部を美しく重ねて御簾(みす)から垂らして見物の一つとしたこと、

などでも知られる(仝上)とある。「出衣」については、「いだしあこめ」で触れたように、

牛車の簾(すだれ)の下から女房装束の裾先を出して装飾とすること、寝殿の打出(うちで)のように装束だけを置いて飾りとすること、

をいう(学研全訳古語辞典)。

牛車は、乗る人の位階、家格や正式の出行か否かなどによりその構造が種々に分かれ、名称も異なり、

唐庇車(からびさしのくるま)、
雨眉車(あままゆのくるま)、
檳榔庇車(びろうびさしのくるま)、
檳榔毛車(びろうげのくるま)、
糸毛車(いとげのくるま)、
半蔀車(はじとみのくるま)、
網代庇車(あじろびさしのくるま)、
網代車(あじろのくるま)、
八葉車(はちようのくるま)、
金作車(こがねづくりのくるま)、
飾車(かざりぐるま)、
黒筵車(くろむしろのくるま)、
板車、

などの種類がある(精選版日本国語大辞典)。

たとえば、

「唐廂車」(からびさしのくるま)、

は、牛車のなかで最高級の車で、

上皇、摂政、関白などが晴れの舞台で使用する大型の車、

とされ、

屋形の軒が中央部は弓形で、左右両端が反り返った曲線状の唐破風(からはふ)に似たつくり、

になっていて、別名、

唐車(からぐるま)、

とも言い、

屋根や廂(ひさし)、腰には、「檳椰樹」(びんろうじゅ)の葉を用い、袖は彩色が施され、「蘇芳簾」(すおうのれん)という黒味を帯びた赤色の簾を、屋形の前後と物見(屋形の左右にある窓)に付け、下簾は唐花(からはな)や唐鳥(からとり)の文様となっているのが特徴、

とあるhttps://www.touken-world.jp/tips/36783/

また、『平治物語絵巻』に描かれた、

八葉車(はちようのくるま)、

は、

網代車のひとつで、屋形の網代を萌黄色に塗り、屋形と袖には8つの葉の模様(九曜星)が描かれているのが特徴、

で、

文様の大小により、「大八葉車」や「小八葉車」と呼ばれ、前者の、

大八葉車、

は、親王や公卿、高位の僧が用い、後者の、

小八葉車、

は少納言・外記などの中流貴族、女房などが使用したhttps://www.touken-world.jp/tips/36783/とある。

また、牛車の主流になった、

「網代車」(あじろぐるま)、

は、

青竹の細割(または檜の薄い板状の物)を斜めに組んで屋形を張った車の総称、

で、

官位、家格、年齢等の違いによって乗用する車の仕様が異なり、大臣が乗る車は「袖白の車」または「上白の車」と言い、袖表や棟表は白く、家紋が付いている。棟、袖、物見の上に文様を描いた車を「文の車」(もんのくるま)と呼ぶ、

とあり、

網代車は、袖や立板などに漆で絵文様を描いた物が多く、加工や彩色も多様にできることから、屋形の形や物見の大小、時代の趣向などによって、様々な車に発展し、牛車の主流となりました、

とある(仝上)。なお、「半蔀車」については「半蔀(はじとみ)」で触れた。

なお、牛車に乗るには、

榻(しじ)を置いて後方から乗り、

降りるには、

牛を轅(ながえ)から外して、簾を上げて前方から降りる(学研全訳古語辞典)が、男が乗るときは御簾を上げ、女が乗るときは御簾を下ろしている(日本大百科全書)。通常の四人乗りの場合、

二人ずつ並んだ形で互いに向かい合って両側を背にして座る、

が、前の右側→前の左側→後の左側→後の右側と、席の序列が定まっている。男女が乗り合わせる場合は、

男が右側に入って向かい合う、

とある(仝上)。

中国では、乗物としての牛車は、

漢代以前は貧者に限られ、後漢末の霊帝(在位168〜189)、献帝(在位189〜220)のころから六朝の間に天子から士大夫にいたるまであらゆる階層の常用車となった。このためこの時代には、馬車は流行しなくなり、とくに優れた牛を、

賽牛(さいぎゅう)、

と呼び、ときには千里の馬になぞらえて、

八百里の牛、

と称して珍重した(世界大百科事典)。貴人の牛車は、

台車の上に屋と簾をつけ、

民間の牛車は、

屋のない露車、

であった(仝上)。

なお、宮城内に車を乗り入れることは禁じられていたが、

牛車許(ゆる)す、

というと、

牛車(ぎっしゃ)に乗って宮中の門を出入りすることを許す、

ことで、親王、摂政関白、および宿老の大臣が許された(広辞苑)。

牛車の宣旨(せんじ)、

とは、

親王、摂関家などが、牛車に乗ったまま、宮中の建礼門まではいることを許す旨を記した宣旨、

をいう(精選版日本国語大辞典)。

轅下(えんか)の駒、

というのは、史記・武安侯伝に由来し、

「駒」はまだ力の弱い2歳の馬で、車を引いても動かないことから、人の束縛を受けて思い通りにできないこと、

そこから、、

能力が十分でないこと、

のたとえとしていう(広辞苑)。

轅門(えんもん)、

は、

中国で、戦陣で車を並べて囲いとし、出入り口は兵車を仰向け、轅(ながえ)を向かい合わせて門にした、

ことから、

陣営の門、
軍門、

の意で使う(仝上)。

なお、「牛車」を、

ごしゃ、

と訓む(「ご」は「牛」の慣用音)と、「大白牛車(だいびゃくごしゃ)」で触れたように、法華経譬喩品の、

如下彼長者初以三車誘引諸子。然後但与大車宝物荘厳安隠第一。然彼長者、無中虚妄之咎上

から出た、

某長者の邸宅に火災があつたが、小児等は遊戯に興じて出ないので、長者はために門外に羊鹿牛の三車あつて汝等を待つとすかし小児等を火宅から救ひ出したといふ比喩で、羊車はこれを声聞乗に、鹿車はこれを縁覚乗に、牛車はこれを菩薩乗に喩へた、この三車には互に優劣の差のないではないが、共にこれ三界の火宅に彷復ふ衆生を涅槃の楽都に導くの法なので、斯く車に喩へたもの、

で(仏教辞林)、

火宅にたとえた三界の苦から衆生を救うものとして、声聞・縁覚・菩薩の三乗を羊・鹿・牛の三車に、一仏乗を大白牛車(だいびゃくごしゃ)にたとえた、

三車一車、

によるもので、

すべての人が成仏できるという一乗・仏乗のたとえに用いられる、

とある(仝上)。

「轅」(漢音ウン、呉音オン)は、

会意兼形声。「車+音符袁(エン 遠 とおまわり、ゆるい曲線をえがく)」、

とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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僧正、壺に召し入れて物語などし給ひけるに、(秦)武員(はたのたけかず)、僧正の前にうづくまりて(今昔物語)、

の、

壺、

は、

内庭、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

容器の「壺」は「つぼ」で触れたように、

自然にくぼんで深くなったところ、

の意(広辞苑)で、それに準えて、

容器、

の意味になったものと思われる。いわゆる、

窪み、

である。そして、

建物あるいは垣で囲まれた一区画の土地、

も、

周囲を囲まれていて、一段低くなっているところを、「壺」に見立てて呼ぶ、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

建物の間や垣根の内側などにある庭、

つまり、

中庭、

の意で、転じて、

宮中の部屋、

つぼね、

の意味で使う。こうした意味で使う場合、

壺、

の他、

坪、

ともあてる。「つぼね」は、

局、

と当て、

「つぼねたる所」の意、

ともある(広辞苑)が、

動詞つぼぬ(局)」の名詞化、

ともあり(日本国語大辞典)、「つぼぬ」は、

局ぬ、
搾ぬ、

と当て、

つぼ(壺)の動詞化、

で、

壺のように周囲を小さく仕切って囲う、

意である。その名詞「つぼね」は、

殿舎・邸宅・寺院などの中で、しきり隔てて設けた部屋、

をいい、

曹司(ぞうし)、

ともいい、また、特に、

宮中や貴人の邸宅で、そこに仕える女性に与えられる、仕切られた部屋、

をいい、そこから、その部屋を持っている、

女官、

また、転じて、

宮中や公家・武家に仕えて重要な立場にある女性への敬称、

としても使う(広辞苑)。漢字、

坪(ヘイ・ビョウ)、

は、

たいらか(平)、地の平らかなる所、

の意である(字源)。

長江の上流や中流の地名で、「〜坪」とあるのは、河岸や山間の小さな平地に付けた名、

とあり(漢字源)、和語で、

坪、

に当てた当初の意味が漢字の原義に添っていることが分かる。ただ、

坪は、平土の合字、

とある(大言海)ので、漢字の「坪」とは別に、国字として作字したものかもしれない。

殿中の閨iアハヒ)、垣の内の庭など、一区の窄(つぼ)まりたる地の称、

の場合、

常に壺の字を借書す、

とある(仝上)。なお、奈良時代、

坪、

は、

つほ、

と清音であった(岩波古語辞典)。

「坪」の語源を、

壺に見立てていうか、狭いところに引きこもる意のツボム(窄)からか(語源大辞典=堀井令以知)、
殿中の間、垣の内の庭など窄(つぼ)まった地であるところから(大言海)、

などとするのは、

壺、

の、

窪み、

のアナロジーから来たということを示している。

なお、

坪、

を、

地目の広さの単位、

つまり、

六尺四方、

の意で使うのは、わが国だけの用例である。この用例も、「坪」の、

建物あるいは垣で囲まれた一区画の土地、

の意味の派生から出たもののように思える。この、

坪、

は、

歩(ぶ)、

の別名として使われているが、中国古代に、

二歩(ほ)四方として設けられ、当時の尺で六尺平方とされた。その後、尺が伸びたため中国では五尺平方とされたが、日本では六尺平方をとってきている、

という(日本大百科全書)ように、「歩」は、中国由来で、大宝令以前から使われているが、

歩を坪とよぶようになったのは、いつごろのことかわからない、

とある(仝上)。ただ、

歩と同じ意味に用いるのは土地や建物の面積、

に限られ、その他のものの面積をいう場合、

錦(にしき)や金箔(きんぱく)の場合は一寸四方、皮革は尺坪といって一尺平方、

印刷製版では寸坪といって一寸四方、

等々である(仝上・精選版日本国語大辞典)。

また、

条里制における土地の地割の単位、

として、

坪、

を用いる場合、

条と里(り)によって仕切られた方六町の区画(里)の各辺を六等分して仕切った区画、

すなわち、

一里を三六等分した区画の称、

で、そのおのおのを、

一の坪、
二の坪、
三六の坪、

と数字を冠してよぶ(精選版日本国語大辞典)のは、「坪」の、

一区画の土地、

の原義に近いかもしれない。

「壺」(漢音コ、呉音グ・ゴ)は、「つぼ折」で触れたが、

象形。壺を描いたもの。上部の士は蓋の形、腹が丸くふくれて、瓠(コ うり)と同じ形をしているので、コという、

とあり、壼(コン)は別字、

とある(漢字源)。

「坪」(漢音ヘイ、呉音ビョウ)は、

会意兼形声。「土+音符平(ヘイ たいら)」、

とあり(漢字源)、土地の平らかな所の意を表す(角川新字源)とある。別に、

会意兼形声文字です(土+平)。「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)と「水面に浮く水草」の象形(「たいら」の意味)から、「土地の平らな所」を意味する「坪」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1802.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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御霊会


然る間、此の田楽の奴ばら……、今日此の御靈會(ごりやうゑ)にやあらむと思へば、いみじかりける折にしも來り會ひて、かかる奴ばらの中に具して行くは、物狂(ものぐる)はしきわざかな(今昔物語)、

とある、

御霊会、

は、

疫病神、祟神をなぐさめる催事で、有名なのは京の祇園の祭。此時には田楽が行われたのであろう。祭としては地方の卑俗なものと考えられていた事がわかる、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

御霊会は、

怨みを残して非業の死をとげた人の悪霊をしずめ、その祟りによる疫病の流行を避けるために行われる祭、

で(岩波古語辞典)、平安初期からはじまった(仝上)。

御靈會、

の、

御靈、

は、

疫神(ヤクジン)の神霊、又は、死者の怨霊(ヲンリヤウ)(疫神となりたる)の敬称、

會、


は、

齋會(サイヱ 神を祭祀する儀式。)、

とあり(大言海)、

官にて行ひて、死者の怨霊、又は、疫神の神霊の災ひをなすを、和(なご)めたまふ祭、

で、

御霊祭、

とも、

略して、

御霊、

ともいい(仝上)、つまりは、

鎮魂のための儀礼、

で、文献上最初に現われるのは、

『三代実録』貞観五年(863)五月二十日の条に、

於神泉苑、修御霊会、……靈座六前、……所謂御霊者、崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人、及観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等、是也、並坐衆事被誅、冤魂成氏A近代以来、疫病繁發、死亡甚衆、天下以為此灾御霊之所生也、……乃修此會、以賽宿禱也、

とある、

神泉苑で行われた御霊会、

が嚆矢である(日本伝奇伝説大辞典)。大言海は、

崇道天皇は、早良親王なり、藤原夫人は、伊予親王の御母なり、観察使、詳らかならず、脱字ならむと云ひ、藤原広嗣かと云ふ、霊座、六位なりしが、後に、長屋王の妃吉備内親王、火雷天神(菅原道真)を加えて、八所御靈と称す、今も、京の上御霊社、下御霊社に祀れる、是れなり、

と注記する。この背景にあるのは、

前年からの咳逆の流行で清和天皇の大叔父にあたる2人の大納言(源定・源弘)をはじめとする皇室・宮中関係者が多数死去したこと、この年太政大臣藤原良房が60歳を迎え、翌年には清和天皇の元服を控えていたことから、天皇やその周囲の人々を怨霊や怨霊がもたらす疫病から守るために開始された、

と考えられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BC%9Aとある。

貞観五年の御霊会において祭られた、

六柱、

は、

崇道天皇(早良親王)
伊予親王
藤原夫人(藤原吉子)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文室宮田麻呂)
観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)、

で、

六所御霊、

と呼ばれ、これに、六所御霊に2柱の神が追加され、伊予親王・観察使にかわって井上大皇后(井上内親王)、他戸親王があてられ、

八所御霊、

と呼ばれている(仝上)。

吉備聖霊(吉備大臣)、

は、

上御霊神社では現在吉備真備としているが、吉備内親王とする説、鬼魅(災事を司る霊)をあてる説がある。下御霊神社では六所御霊の和魂としている、

とあり、

火雷神、

は、

菅原道真とすることが多いが、文字通り火雷を司る神であるとする説もある。上下御霊神社では六所御霊の荒魂としている、

とある(仝上)。なお、「怨霊」については触れた。

神泉苑で修された御霊会では、朝廷は、

藤原基経、藤原常行らを遣わし、会事を監修、

し、

六柱の霊座の前に几と莚を設け、花果を盛陳し恭敬して薫修す。律師慧達を招き、講師となし、金光明経一部と般若心経六巻を演説させた。雅楽寮の伶人に楽を演奏させた。帝の近侍の児童と良家の稚児に舞を舞わせた。大唐・高麗が更に出て雑技や散楽を競った、

とありhttp://www.shinsenen.org/goryoue_rekishi.html、神泉苑の四門が開けられ、都邑の人は出入りし自由に観ることができたという(仝上)。

御霊会は畿内から始まり、諸国に及び、夏から秋ごとに頻繁に絶えず修された。仏を礼し経を説き、あるいは歌い舞い、童子は騎射をし、力自慢の者が相撲をとり、走馬の勝負などをした。人が多く集まり、全国で古い習慣は風俗となってきた、

とあり(仝上)。この年の春の初め、咳逆病が流行り、百姓が多くたおれた。朝廷は祈るために、御霊会を修し、宿祷(年来の祈願)を賽じた(仝上)、という。

後に各地の寺社で同様の行事が開催され、

八坂神社の祇園御霊会、
北野天満宮の御霊会、

などが特に名高く、

神輿渡御などの行列や風流・田楽と呼ばれる踊り、

なども加えられ、

非業の死を遂げた「御霊」は疫病や虫害・飢饉等の災厄をもたらすと考えられ、それを鎮める祭であるため、疫病流行の時期との関わりから、多く陰暦五月・六月の夏の季節に行なわれるようになった、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BC%9A・精選版日本国語大辞典)。清少納言は、

ここちよげなるもの、卯杖(うづえ)の法師。御神楽(みかぐら)の人長(にんじょう)。御霊会(ごりょうえ)の振幡(ふりはた)とか持たる者(枕草子)、

と書いている。

なお、虫送りは、

浮遊霊が稲の害虫になる、

として、非業の死を遂げた斎藤実盛に託して、

実盛送り、

と呼ばれるが、「実盛送り」については触れた。

ところで、大言海は、上述の、

御霊会、

とは別に、もう一項、

御霊会、

をたて、

前條と似て、異なり、疫神を遣(やら)ひたたへる祇園神(素戔嗚尊)の御斎會を修士して、疫神を鎮むる意、

つまり、

祇園御霊会の略、

としている。この、

祇園御霊会、

または、

祇園会、

つまり、

祇園祭、

は、

牛頭天王を祀る八坂神社(感神院)の祇園御霊会(祇園会)

として知られている。「祇園御霊会」については、「祇園」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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田楽


此の白装束の男どもの馬に乗りたる、或はひた黒なる田楽(の鼓)を腹に結びつけて、袂(たもと)より肱(ひぢ)を取り出して左右の手に桴(ばち)を持ちたり。或は笛を吹き、高拍子を突きささらを突き、えぶり(木製の鍬)をさして、様々の田楽を二つ三つまうけて打ちののしり、吹きかなでつつ狂ふこと限りなし(今昔物語)、

とある、

田楽、

は、

日本芸能の一つ、

で、平安時代から行われ、もと、田植えのときに田の神をまつるため笛・太鼓を鳴らして田の畔で歌い舞った、

田舞、

に始まり、やがて専門の、

田楽法師、

が生まれ、

腰鼓・笛・銅拍子(どびょうし)・簓(ささら)等の楽器を用いた群舞、

と、

高足(たかあし)に乗り、品玉(しなだま)を使い、刀剣を投げ渡しなどする曲芸、

とを本芸とした(日本国語大辞典・広辞苑)。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、

田楽能、

を生んで、本座・新座などの座を形成し、盛んに流行し、猿楽(さるがく)と影響しあった。のちに衰え、現在は種々のものが、民俗芸能として各地に残る(仝上)とある。

田楽」は、平安時代中期に成立し、田植え時の、田遊び・田植祭など田の豊作を祈願する、

田舞(田儛 たまひ・たのまひ・でんぶ)、

が発展したもので、

歌詞ありて、舞人は凡そ四人、楽につれて舞ふ、

とある(大言海)。これは、古え、大嘗祭の際、

主基人等、入就中座右幄、奏田舞(儀式・践祚大嘗祭儀)、

と、

主基(須岐・次 すき)の人などが奏した舞、

の名にもなっている(大言海・岩波古語辞典)。「主基(すき)」は、

二番目、次いでの意、

で、

悠紀(ゆき)の國に次いで、新穀を奉る國、

を指す。大嘗祭では、使われる新穀・酒料を出す国郡を占いによって定められたが、その第一に奉る国が、

悠紀(斎忌・由基 ゆき)、

で、

ユは神聖なるもの、キは酒。聖なる酒を奉る国、

の意である(岩波古語辞典)。ここに、古く「田舞」の由来が残っている。

田楽を演ずる者を、

田楽法師、

といい、

仏教や鼓吹と結びついて一定の格式を整え、芸能として洗練されていった。やがて専門家集団化した田楽座は在地領主とも結びつき、神社での流鏑馬や相撲、王の舞などとともに神事渡物の演目に組み入れられた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD

田楽能、

と呼ばれたが、室町後期には、世阿弥による猿楽能に押された衰退した(古語大辞典)。

各地に、民俗芸能として伝わったが、その共通する要素は、

びんざさらを用いる
腰鼓など特徴的な太鼓を用いるが、楽器としてはあまり有効には使わない、
風流笠など、華美・異形な被り物を着用する、
踊り手の編隊が対向、円陣、入れ違いなどを見せる舞踊である、
単純な緩慢な踊り、音曲である、
神事であっても、行道のプロセスが重視される、
王の舞、獅子舞など、一連の祭礼の一部を構成するものが多い、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD

「ささら」は、

簓、

と当て、

長さ三〇センチメートルぐらいの、竹の先をこまかく割って束ねた竹筒(ささら竹)と、こぎりの歯のように刻み目をつけた木の棒(木竿、ささらこ)とをすり合せせて音を出す、

もので、

棒ささら、

といい、本来のささらはこれを指す。

端に孔をあけた短冊様の板を、その孔に紐を通して数枚もしくは数十枚重ねて、その両端の二枚を持って振り鳴らす、

ものも、ささらというが、これは、

びんささら(びんざさら こきりこささら、板ささら)

といい、

編木、

の字をあて、

拍板、

とも書く(精選版日本国語大辞典)。

田楽、

は、

田囃子の田楽、

に由来して、

田楽法師による、

田楽踊、

になったわけだが、

田楽法師、

は、座の組織を持ち、

永長元年之夏、洛陽大有田楽之事、初自閭里及於公卿、高足、一足、腰鼓、振鼓、銅鈸子(どびょうし)、編子(ささら)、殖女、養女之類、日夜無絶、喧噪之甚、驚人耳(大江匡房『洛陽田楽記(らくようでんがくき)』)、

と、

神社の祭礼などにも出た。笠は飾りの藺笠で、風流(ふりゅう)といって蓬萊鶴亀等がつくられている。このようにつくり物をすることが、やがて後に、変化しながら祭礼に出る傘鉾や、つくり山にもなる、

とあるhttps://costume.iz2.or.jp/costume/510.html。「風流」については触れた。

田楽といひて、あやしきやうなる鼓、腰に結ひつけて、笛吹き、ささらといふ物突き、さまざまの舞して…(栄華物語)、

の、

「田楽」という名称の由来には、

田植えのときの楽であるところから(俚言集覧・芸能辞典)、
田はいやしい意で、正しく風雅な楽でないという意(貞丈雑記・安斎雑考・和訓栞)、
田野の学の義、また申楽の申が田の字に転じたものか(和訓栞)、
田舎の猿楽の義(能楽考)、

などの諸説があるけれども、

田はいやしい意、

を込めていることは確かのようである。しかし、猿楽より人気で、

鎌倉時代にはいると、田楽に演劇的な要素が加わって田楽能と称されるようになった。鎌倉幕府の執権北条高時は田楽に耽溺したことが『太平記』に書かれており、室町幕府の4代将軍足利義持は増阿弥の芸を好んだことが知られる。田楽ないし田楽能は「能楽」の一源流であり、「能楽」の直接の母体である猿楽よりむしろ高い人気を得ていた時代もあった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD。さらに、

田楽は、大和猿楽の興隆とともに衰えていったが、現在の能(猿楽の能)の成立に強い影響を与えた。能を大成した世阿弥は、「当道の先祖」として田楽から一忠(本座)、喜阿弥(新座)の名を挙げている、

とある(仝上)。しかし、

田楽は昔は目で見今は食ひ

という川柳に残るほど、いつのまにか、「田楽」は、

田楽豆腐、
田楽焼、

とされた。『宗長手記』(大永六年(1526)))に、

田楽たうふ、

とある(仝上)。

「田楽」に由来する、田楽豆腐については、「おでん」、「祇園豆腐」で触れ、また、それとかかわる「田楽」についても触れたが、「おでん」は、

御田、

と当てる。

田楽、

のことで、

田楽(でんがく)」の「でん」に、接頭語「お」を付けた女房詞、

である。御所で使われたことばが、上流社会に通じたもので、それが民間に広がった。

田楽、

とは、

豆腐に限って言った、

ので(たべもの語源辞典)、「おでん」は、

豆腐、

と決まっていた。

豆腐を長方形に切って、竹の串をさして炉端に立てて焼き、唐辛子味噌を付けて食べた。初めは、つける味噌は唐辛子味噌に決まっていた、

のであり、これが、

おでん、

であった(仝上)。

「田楽」という名前の起こりは、

炉端に立てて焼く形が田楽法師の高足の曲という技術の姿態によく似ているので、のちに、豆腐の焼いたものを田楽とよぶようになった、

ともいう(仝上)、とある。「高足」(たかあし、こうそく)とは、

田楽で行われる、足場の付いた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸、

で、

鷺足(さぎあし)、

とも呼びhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%B6%B3

田植どきに豊作を祈念して白い袴(はかま)に赤、黄、青など色変わりの上衣を着用し、足先に鷺(さぎ)足と称する棒をつけて田楽舞を行った。このときの白袴に色変わりの上衣、鷺足の姿が、白い豆腐に色変わりのみそをつけた料理に似ているので、田楽のようだといったのがこの料理の名称となり、本来の舞のほうは忘れ去られた、

とある(日本大百科全書)。

「田」(漢音テン、呉音デン)は、

四角に区切った耕地を描いたもの。平らに伸びる意を含む。また田猟の田は、平地に人手を配して平らに押していく狩のこと、

とある(漢字源)。別に、

象形文字です。「区画された狩猟地・耕地」の象形から「狩り・田畑」を意味する「田」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji108.html

「樂(楽)」(ガク、ラク)は、

象形。木の上に繭のかかったさまを描いたもので、山繭が、繭をつくる櫟(レキ くぬぎ)のこと。そのガクの音を借りて、謔(ギャク おかしくしゃべる)、嗷(ゴウ のびのびとうそぶく)などの語の仲間に当てたのが音楽の樂。音楽で楽しむというその派生義を表したのが快楽の樂。古くはゴウ(ガウ)の音があり、好むの意に用いたが、今は用いられない、

とある(漢字源)。音楽の意では「ガク」、楽しむ意では、「ラク」と訓む。しかし、この、

「木」に繭まゆのかかる様を表し、櫟(くぬぎ)の木の意味。その音を仮借、

とする説(藤堂明保)、

に対し、

木に鈴をつけた、祭礼用の楽器の象形、

とする説(白川静)があるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%BD。また別に、

象形。木に糸(幺)を張った弦楽器(一説に、すずの形ともいう)にかたどり、音楽、転じて「たのしむ」意を表す、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「どんぐりをつけた楽器」の象形から、「音楽」を意味する「楽」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「たのしい」の意味も表すようになりました、

とするものもあるhttps://okjiten.jp/kanji261.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ささら


田楽といひて、あやしきやうなる鼓、腰に結ひつけて、笛吹き、ささらといふ物突き、さまざまの舞して、あやしの男ども、歌うたひ(栄華物語)、

の、

ささら、

は「田楽」で触れたように、

簓、

と当て、

長さ三〇センチメートルぐらいの、竹の先をこまかく割って束ねた竹筒(ささら竹)と、こぎりの歯のように刻み目をつけた木の棒(簓子(ささらご) 木竿、ささらこ、ささらのこ)とをすり合せせて音を出す、

もので、

摩(す)り簓(ざさら)、
棒ささら、

といい(学研全訳古語辞典)、本来のささらはこれを指し、単に、

ささら、

ともいい、

地域によっては「ささらこ」を用いず、二本の「ささら竹」を打ち合わせる、場合もある(日本大百科全書)。古くは、

田楽、

に用い、江戸時代には、

門説経(かどぜっきょう 説経浄瑠璃(じょうるり)、説経節、歌説経(うたぜっきょう) 芸能化した説教で、門付(かどづけ)し、院の説教(唱導)における譬喩因縁(ひゆいんねん)談を簓(ささら)、鉦(かね)、鞨鼓(かっこ)を伴奏として語り、歌った)、
や、
歌祭文(うたざいもん 祭文節、祭文 芸能化した祭文で、市井の事件や風俗を詠み込み、三味線を伴奏とする。「祓(はら)ひ清め奉る」または「敬って申し奉る」に始まり、「敬って申す」に終わる)、

などに、三味線や胡弓などとともに用いられた。また、別に、

端に孔をあけた短冊様の板を、その孔に紐を通して数枚もしくは数十枚重ねて、その両端の2枚を持って振り鳴らす、

もの(ブリタニカ国際大百科事典)も、

ささら、

というが、これは、

びんざさら(びんささら、きりこささら、板ささら、ささら木)、

といい、

編木、
拍板、

の字を当て(精選版日本国語大辞典)、

短冊型の板の一端を紐で綴り合わせた両端の取っ手を持ってひろげ、連結部分を逆U字状にして構え、片方(または両方)の取っ手を動かして、揺すったり、突くようにして全部の板を打ち合わせて、

音を発する(https://museum.min-on.or.jp/collection/detail_T00007.html・学研全訳古語辞典)。

田楽躍(おどり)、

の重要な楽器で、日本固有の楽器ではなく、大陸より散楽(さんがく)とともに渡来した(日本大百科全書)とされる。特別な把手のついたものもあり、古くは、

田楽、

の主要楽器として用いられた(仝上)。

散楽、

は、

軽業、曲芸、手品、奇術、幻術、滑稽物真似(こっけいものまね)を内容とする雑芸(ぞうげい)、

で、奈良時代に中国から日本に伝来し、『信西古楽図』『新猿楽(さるがく)記』などに、

乱舞(らっぷ)、
俳優(わざおぎ)、
百戯(ひゃくぎ)、

とも記されており(日本大百科全書)、日本に入ってきたものも中国大陸のものと同じような内容であったと思われる(仝上)とある。伝来当初、

雅楽寮の楽戸(がくこ)、

で養成されていたが、平安初期に廃止となり、平安時代には一般に流布し、宴会の場や祭礼などに盛んに行われ、散楽法師とよばれる専門の者が生まれ、

唐術、透撞(とうてき)、走索(そうさく)、品玉(弄玉 いくつもの玉や刀槍などを空中に投げて巧みに受け止めて見せるもの)、刀玉、輪鼓(りゅうご)、独楽(こま)、一足、高足などの曲芸、軽業や、巫遊之気装貌(かんなぎのけそうがお)、京童之虚左礼(きょうわらんべのそらざれ)、東人之初京上(あずまびとのういきょうのぼり)などの滑稽な物まね、傀儡(くぐつ)のような人形遣い、

などがあった(精選版日本国語大辞典)。宮廷では多く相撲(すまい)の節会(せちえ)、競馬会(けいばえ)、神楽(かぐら)などの際に余興として行なわれたが、鎌倉時代になってしだいに衰え、田楽(でんがく)法師や放下(ほうか)師(放下つかい 曲芸師、手品師)などの手に移り、のちには獅子舞(ししまい)、太神楽(だいかぐら)、寄席(よせ)に伝えられ今日に残った(日本大百科全書)。「相撲の節会」については「最手(ほて)」で触れた。

「ささら」は、爾雅(じが 漢代 中国最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学の書)釋樂篇の註に、

敔如伏虎、背上有二十七鉏ム(キザミ)、以木長尺擽之也、

正韻(洪武正韻 明代の勅撰韻書)にも、

籈(シン)、割木、長尺、以鼓敔所以止樂也、

とあるが、和語、

ささら、

は、

擦る音の、さらさらの約(うらうら、うらら。きらきら、きらら。琴も、笛も音(ネ)を名とすること同じ)、謡曲、花月「心、乱るる此のささら、さらさら、さらさら、と擦っては歌ひ、舞うては数へ」、ささら竹と云ふが、成語なるべし。出典に、ささらの竹と見ゆ、編竹(ヘンチク)と書くは、竹を編む意なるべく、編木(ヘンボク)と書くは、びんざさらなるべきに、上略して言ひて、相、混ず、簓の字は、彫竹の合字なり(大言海)、

とあり、他に、

ササは歌の囃子、または合の手の発音を表す。ラは名詞にするための語尾で、拍子の義か(踊の今と昔=柳田國男)、
竹をササラ(細)に割ってつくるところから(日本語源=賀茂百樹)、
さらさらと音がするところから(デジタル大辞泉・広辞苑)、
ささらの音は、秋の稲穂が擦れあう擬音を意味してきた。楽器の「ささら」は、この擬音を表現する道具という意味に由来する名https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%95%E3%82%89

などがあるが、

さざめく」、「ささやく」で触れたように、

ささ、

は、擬音語・擬声語の可能性が高い。

同じ語幹の「ささ」でも、

さざめく、
さざめく、

が、

がやがやと大声をあげる意であるのに対して、

ささめく、

が、

ひそひそと小声で話す意であるという違いがあり、また、

ささめく、

が、音が聞こえることに主意があるのに対して、

ささやく、

が話し合う行為に主意がある(日本語源大辞典)としている。

なお、

びんざさら、

の語源は、

ビンは編の転、ササラは此の器の鳴る音から(嬉遊笑覧・大言海)、
比丘尼ザサラの略か、ささらはその音から(瓦礫雜考)、

とあり、

編んだ木、

からと見ていいが、ここでも、やはり、

ささら、

は、

音としているようである(日本語源大辞典)。

「簓」(ササラ)は、

会意。「竹+彫(こまかくきざむ)」、

とある。国字のようである。もし国字とするなら、「ささら」の「ささ」は、「ささめく」「ささやく」ともに、接頭語「ささ」で、「細波(ささなみ)」や「細雪」の「ささ」と同じく、

細かいもの、小さいものを賞美していう、

と(岩波古語辞典)という可能性は残るかもしれない。『大言海』は、「細小(ささ)」は、
 
形容詞の狭(さ)しの語根を重ねたる語。孝徳紀、大化二年正月の詔に「近江の狭狭波(ささなみ)」とあるは、細波(ささなみ)なり。神代紀、下三十六に、狭狭貧鈎(ささまぢち)とあり、又陵墓を、狭狭城(ささき)と云ふも、同じ。いささかのサカも、是レナリ。サとのみも云ふ。狭布(けふ)の狭布(さぬの)、細波(ささなみ)、さなみ。ササメク、ササヤク、など云ふも、同じ、

としている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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鬢だたら


歌を作りて歌はむとするなり。其の作りたるやうは、
鬢(びん)だたらを、あゆかせばこそ、ゆかせばこそ、愛敬(あいぎやう)づきたれ
と、此のびんだたらと云ふは、守(かみ)のけぎよく鬢の落ちたるを、かかる鬢だたらして、五節所に若き女房の中にまじり居給ひたるを歌はむずるなり(今昔物語)、

にある、

鬢だたら、

について、

此は五節の間にきまって歌われる歌謡の一つで、「びんだたら」と呼ばれていた。びんざさら(楽器)をゆるがしてならせばこそ、おもしろやの意で、元は田楽の歌謡か、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。また、

五節所、

は、

新嘗會の五節の舞姫の控室、

とあり(仝上)、

毎年十一月の新嘗會に五節の舞姫を四人、公卿や受領階級から(公卿の娘二人、受領・殿上人の娘二人)、

出させた(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E)。

鬢だたら、

は、殆どどこにも載らないが、

鬢だだら、

は、

五節の舞に歌ふ謡物の名、

とある(大言海)。室町時代の有職故実書『公事根源』(一条兼良)五節帳臺試に、

亂舞あり、びんたたらなど歌ふ、

とある。

鬢だたら、

は、

鬢萎(びんたたなは)るの意にて、舞姫の髪の美(うるは)しき状に云ふ、

とある(大言海)。

五節(ごせち)、

は、その謂れを、

「春秋左伝‐昭公元年」の条に見える、遅・速・本・末・中という音律の五声の節に基づく、

とも(精選版日本国語大辞典・芸能辞典)、

天武天皇が吉野宮で琴を弾じた際、天女が舞い降り、五度歌い、その袖を五度翻しそれぞれ異なる節で歌った、あるいは、天女が五度袖を挙げて五変した故事による、

とも(壒嚢抄・理齋随筆)いわれる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、

新嘗祭(にいなめまつり・しんじょうえ)・大嘗会(おおなめまつり・だいじょうえ)に行われた少女舞の公事、

をいい、毎年、

十一月、中の丑・寅・卯・辰の四日間にわたる、

とされ(岩波古語辞典)、丑の日に、

五節の舞姫の帳台の試み(天皇が直衣・指貫を着て、常寧殿、または官庁に設けられた帳台(大師の局)に出て、舞姫の下稽古を御覧になる)、

があり、寅の日に、

殿上の淵酔(えんずい・えんすい 清涼殿の殿上に天皇が出席し、蔵人頭以下の殿上人が内々に行う酒宴。《建武年中行事》などによると、蔵人頭以下が台盤に着し、六位蔵人の献杯につづいて朗詠、今様、万歳楽があったのち装束の紐をとき、上着の片袖をぬぐ肩脱ぎ(袒褐)となる。ついで六位の人々が立ち並び袖をひるがえして舞い、拍子をとってはやす乱舞となる)、

があり、その夜、

舞姫の御前の試み(天皇が五節の舞姫の舞を清涼殿、または官庁の後房の廂(ひさし)に召して練習を御覧になる)、

があり、卯の日の夕刻に、

五節の童女(わらは 舞姫につき添う者)御覧(清涼殿の孫廂に、関白已下大臣両三着座。その後、童女を召す。末々の殿上人、承香殿の戌亥の隅のほとりより受け取りて、仮橋より御前に参るなり。下仕、承香殿の隅の簀子、橋より下りて参る。蔵人これに付く。殿上人の付くこともある)、

があり、辰の日に、

豊明(とよのあかり)節会の宴(豊明は宴会の意で、豊明節会とは大嘗祭、新嘗祭(にいなめさい)ののちに行われる饗宴。新嘗祭は原則として11月の下の卯の日に行われ、大嘗祭では次の辰の日を悠紀(ゆき)の節会、巳の日を主基(すき)の節会とし、3日目の午の日が豊明節会となる。新嘗祭では辰の日に行われ、辰の日の節会として知られた。当日は天皇出席ののち、天皇に新穀の御膳を供進。太子以下群臣も饗饌をたまわる。一献で国栖奏(くずのそう)、二献で御酒勅使(みきのちよくし)が来る。そして三献では五節舞(ごせちのまい)となる)、

があり、正式に、

五節の舞、

が、

吉野の国栖が歌笛を奏し、大歌所の別当が歌人をひきいて五節の歌を歌い、舞姫が参入して庭前の舞台で五度袖をひるがえして舞う(大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4〜5人(大嘗祭では5人)の舞姫によって舞われる)、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9Ehttps://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki45・大言海・精選版日本国語大辞典)。後世、大嘗会にだけ上演され、さらにそれも廃止された。

豊明(豊の明かり とよのあかり)、

は、

豊は称辞なり、あかりは、御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義と云ふ(大言海)、
夜を日をついてせ酒宴するところから(和訓栞)、
タユノアケリ(寛上)またはタヨナアケリ(手弥鳴挙)の義か(言元梯)、
アカリは供宴に酔いしれて顔がほてっている様子から、トヨはそれを賛美する語(国文学=折口信夫)、

と諸説あるが、素直に、

御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義、

を採りたい。

昨日神ニ手向奉リシ胙ヲ、君モ聞食シ、臣ニモ賜ハン為ニ、節会ヲ行ハルルナリ(塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう 室町時代))、

と、

祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事(共飲共食儀礼)、

である、

直会(なおらい)、

の性格があり、

大嘗祭の祝詞の「千秋五百秋に平らけく安らけく聞食して、豊明に明り坐さむ」や中臣神寿詞の「赤丹の穂に聞食して、豊明に明り御坐しまして」などの例を引き、「豊明に明り坐す」という慣用句が、宴会の呼称として固定したものであり、「豊は例の称辞、明はもと大御酒を食て、大御顔色の赤らみ坐すを申せる言」と説く本居宣長『古事記伝』の解釈が最も妥当とみられる、

とある(国史大辞典)。

「鬢」(慣用ビン、漢音呉音ヒン)は、

会意兼形声。賓は、すれすれにくっつく意を含む。鬢は「髟(かみの毛)+音符賓」で、髪の末端、ほほとすれすれの際に生えた毛、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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気色ばむ


常に此の五節所の邊(あたり)に立ち寄り気色(けしき)ばみけるに、此の五節所の内に(今昔物語)、

の、

気色ばむ、

は、

何となくそれらしい様子が現れる、
とか、
気持の片端を現わす、
とか、
何となく様子ありげなふりをする、

といった含意になる(岩波古語辞典)。

気色」でふれたように、

気色、

は、

けしき、

とも

きしょく、

とも訓ますが、ほぼ意味は重なる。

けしき、

は、

気色の呉音訓み、

で、

「色」はきざし。ほのかに動くものが目に見えるその様子。古くは自然界の動きに言う。転じて、人のほのかに見える機嫌・顔色・意向などの意。類義語ケハヒは匂い、冷やかさ、音など、目に見えるよりは、辺りに漂って感じられる雰囲気、

とあり(岩波古語辞典)、

和文中では、はやく平安初期から用いられているが、自然界の有様や人の様子や気持ちを表す語として和語化していった、

とある(日本語源大辞典)。

けはひ、

とほぼ同義語であるが、

けはひ(けわい)、

は、

雰囲気によって感じられる心情や品性といった内面的なものの現われを表わすのに傾く、

のに対して、

けしき、

は、

顔色や言動といった一時的な外面を表すことにその重心がある、

とする(仝上)。ちなみに、

けはひ、

は、

ケ(気)ハヒ(延)の意。ハフは辺り一面に広がること、何となくあたりに感じられる空気、

とあり、

気配、

と当てとるのは、

後世の当て字、

とある(岩波古語辞典)。「気色」で触れたように、

気色(ケシキ)、

と、

気色(キショク)、

は意味がかなり重なるが、ただ、「気色(キショク)」には、風景の意はない。だから、

ケシキは、人事、自然などのようすを言っていたのですが、人間の心の様子の場合は、しだいに「気色」を使うようになり、自然物の眺めには、中国語源の「景色」を使うようになった、

とある(日本語源広辞典)ように、

ケシキ(気色)→ケシキ(景色)、

と使い分けが進んだが、「気色(キショク)」は、元の意の幅のまま使われた、と見ることができる。たとえば、

気色(きしょく)悪い、

とはいうが、

気色(ケシキ)悪い、

とは言わず、逆に、

気色ばむ、

は、

けしきばむ、

だが、

きしょくばむ、

とも訓ませ、前者が、岩波古語辞典が、

何となくそれらしい様子が現れる、
気持の片はしをあらわす、
何となく様子ありげなふりをする、気取る、

広辞苑が、

意中をほのめかす、
気取る、
怒ったさまが現れる、
懐妊の兆候が現れる、

で、いくらか表に現れるニュアンスが残るが、後者が、

得意になって意気込む、
怒りの気持を顔色に出す、

で(広辞苑)、少し、後者が、気持ちの表現に収斂しているが、ほぼ意味が重なる。

これは、他の言い回しで比較してみると、「気色(けしき)」系は、

気色有り(ひとくせある、何かある。趣がある)
気色酒(ご機嫌取りに飲む酒)、
気色立つ(自然界の動きがはっきり目に見える、きざす。心の動きが態度にはっきり出る)、
気色付く(どこか変わっている、ひとくせある)、
気色取る(その事情を読み取る、察する。機嫌を取る)、
気色給(賜)わる(「気色取る」の謙譲語。内意をお伺いする、機嫌をお取りする)、
気色ばまし(「ムシキバム」の形容詞形。何か様子ありげな感じである。思わせぶりである)
気色許り(かたちばかり、いささか)、
気色覚ゆ(情趣深く感じる。不気味に感じる)、
気色に入る(気に入る)、

であり(広辞苑・岩波古語辞典)、「気色(きしょく)」系は、

気色顔(けしきばんだ顔つき、したりがお)、
気色す(顔つきを改める、(怒りや不快などの)感情を強く表に現わす)、
気色ぼこ(誇)り(他人の気受けのよいのを自慢すること)、

等々であり、

きしょく、
けしき、

両方で使う言葉は、

気色ばむ、

だけだが、両者は、例外的なものを除いて、殆ど人の様子・気持の表現にシフトしていることがわかる。これは、

鎌倉時代以降、人の気分や気持ちを表す意は漢音読みの「きそく」「きしょく」に譲り、「けしき」は、現在のようにもっぱら自然界の様子らを表すようになって、表記も近世になって、「景色」が当てられた、

とある(日本語源大辞典)ことが背景にある。

きしょく、
けしき、

の両方の訓みで使う、

気色ばむ、

の、

「ばむ」は接尾語で、

規則ばむ、

というような、

得意げに意気ごむ、
気負いこんだ顔つきをする、

意で使い、

未然形 けしきば・ま{ズ}
連用形 けしきば・み{タリ}
終止形 けしきば・む{。}
連体形 けしきば・む{トキ}
已然形 けしきば・め{ドモ・バ}
命令形 けしきば・め{。}

と活用する、

マ行四段活用、

で(日本国語大辞典・学研国語大辞典)、

梅はけしきばみほほ笑みわたれる、とりわきて見ゆ(源氏物語)、

と、

始まる、
(季節が)きざす、
何となくそれらしい様子が現れる、

意から、それをメタファに、

この子生まるべくなりぬ。きしきばみて悩めば(宇津保物語)、

と、

出産のきざしが現れる、

意で、

大臣(オトド)けしきばみ聞こえ給(タマ)ふことあれど(源氏物語)、

と、

気持の片端を現わす、
(思いが)外に現れる、
ほのめかす、

意、さらに、

けしきばみ、やさしがりて、知らずとも言ひ(枕草子)、

と、

何となく様子ありげな様子をする、
気取る、

へ、状態表現から価値表現へとシフトしていく(学研全訳古語辞典・岩波古語辞典・大辞林)。今日は、

気色ばんで席を立つ、

というように、

怒ったさまが表れる、

意で使うことが多い。

曾丹かく問はれて、気色だちて、さに候と答ふ(今昔物語)、

の、

気色(けしき)だ(立)つ、

の、

だつ、

も、

接尾語、

で、

気色ばむ、

と、似た意味の変化を示し、

花もやうやうけしきだつほどこそあれ(徒然草)、

と、

自然界の動きがはっきりと目に見える、
きざす、
(その季節)らしくなる、

の意、それをメタファに、

けしきだちて悩しうおぼしたれば(栄花物語)、

と、

懐妊、出産の徴候をみせる、

意に、

心恥づかしう思(おぼ)さるれば、けしきだち給(たま)ふことなし(源氏物語)、

と、

(思いを)ほのめかす、

意に、そして、

女房に歌よませ給へば皆けしきたちゆるがしいだすに(枕草子)、

と、

気どる、
改まった様子をみせる、
様子ぶる、

となり、

見物人が気色だつ、

と、

物音や話し声がして活気づく、

意へと、やはり、状態表現から価値表現へとシフトしていく流れである(広辞苑・岩波古語辞典・日本国語大辞典)。

「気」については、「」、「」(宇佐美文理『中国絵画入門』)で触れた。

「氣(気)」(漢音キ、呉音ケ)は、

会意兼形声。气(キ)は、いきが屈折しながら出てくるさま。氣は「米+音符气」で、米をふかす時に出る蒸気のこと、

とある(漢字源)。別に、

形声。意符米(こめ)と、音符气(キ)とから成る。食物・まぐさなどを他人に贈る意を表す。「餼(キ)」の原字。転じて、气の意に用いられる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(米+气)。「湧き上がる雲」の象形(「湧き上がる上昇気流」の意味)と「穀物の穂の枝の部分とその実」の象形(「米粒のように小さい物」の意味)から「蒸気・水蒸気」を意味する「気」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji98.html

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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丁子染


烏帽子きたる翁の、丁子染(ちやうじぞめ)の狩衣袴のあやしげなるを着たるが来て座に着きぬ(今昔物語)、

の、

丁子染(ちょうじぞめ)、

は、

茶褐色に染めた、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

丁子染、

は、

丁子の蕾の煮汁で染めた染め物の色で黄みの暗い褐色のことhttps://www.pinterest.jp/pin/848928598524092514/
丁子を染料とした染物。香染(こうぞめ)の黒ずんだ色のもの(精選版日本国語大辞典)、
丁子の蕾の煮汁で染めた染め物の色で黄みの暗い褐色のことhttps://irocore.com/chojizome/
丁花の蕾と少量の灰汁と鉄分を用いた濃い褐色http://uikoburi.jugem.jp/?eid=194
チョウジのつぼみの煮汁で染めた染め物。香染めのやや色の濃いもの(デジタル大辞泉)、
香木の丁子のつぼみと灰汁と鉄分で染めだされ黄みの暗い褐色http://www.so-bien.com/kimono/iro/tyouzizome.html

などとあり、微妙に色の含意が異なる。

香染(こうぞめ)、
濃き香(こきこう)、
こがれ香、

などともいう(仝上)とあるが、媒染剤を用いずに染めると、白茶に近い色になり、

淡き香、
香色、

と呼ばれるhttps://irocore.com/chojizome/とある。

いずれも落ち着いた色調で、染めてしばらくは色に丁子の香り、

が伴うらしい(仝上)。このように、

染めた布に香りが残るため、

香染め、

と呼ばれてきたhttps://maitokomuro.com/naturaldye/clove-dye/

ただし、

丁子、

は香木として高価だったため、一般には紅花と支子(くちなし)による代用染が行われた(仝上)が、

色調も褐色みの乏しい黄橙色、

になりhttp://www.so-bien.com/kimono/iro/tyouzizome.html、香りもない(仝上)とある。

丁子(ちょうじ)を濃く煎じて、その汁で染めたもの、黄地に赤みを帯びたもの、

は、

香染(こうぞめ)、

といい(精選版日本国語大辞典)、

丁子で淡く染めた淡い黄褐色、

は、前述したように、

灰汁と鉄分を用いず丁子のみ、

で染めるhttp://uikoburi.jugem.jp/?eid=194と、

後世でいう白茶に近い色、

となり、

淡香(うすこう)、
または、
香色(こういろ)、

という。つまり、一言で、

丁子染、

といっても、染め方の、

色の濃淡で呼び名が変わる、

ため、それぞれの色のニュアンスはよく分からないが、そのまま煮出して使用すると、

黄色がかった茶色である黄褐色(おうかっしょくいろ)、

鉄で媒染すると、

黒みがかった茶色である黒褐色(くろかっしょくいろ)、

に染まり、

丁子を煮て色素を抽出したその煎液(せんえき)の濃度、

と、

媒染剤の鉄分の多少、

によって、淡い黄褐色から濃い焦げ茶色まで色を調節できるhttps://iroai.jp/choji/ものらしい。そんな微妙な、

丁子染めの媒染による色の違い、

については、https://maitokomuro.com/naturaldye/clove-dye/に譲る。

チョウジ(丁子、丁字)、

は、香辛料として知られる、

クローブ、

のことで、

フトモモ科の樹木チョウジノキ(学名:Syzygium aromaticum)の香りのよい花蕾である。原産地は、

インドネシアのモルッカ群島、

香辛料、

として使われるほか、

生薬、

としても使われ、漢名で、

丁香(ちょうこう)

とも呼ばれhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%B8、生薬(漢方薬)として、

胃を温める効果があることから食欲増進などに作用する、

とされてきたhttps://hitotsuya.com/dye00003/

チョウジの花蕾は、

釘に似た形、

また乾燥させたものは、

錆びた古釘、

のような色をしており、

中国では紀元前3世紀に口臭を消すのに用いられ、「釘子(テインツ)」の名を略して釘と同義の「丁」の字を使って「丁子」の字があてられ、呉音で「チャウジ」と発音したことから、日本ではチョウジの和名がつけられた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%B8

丁字(ちょうじ)、
丁香(ちょうこう)、

ともいいhttps://maitokomuro.com/naturaldye/clove-dye/、また、

非常に強い香気を持っているので、

百里香、

という和名もある(仝上)。

丁香(テイコウ・チンコウ)、

ともいい、

雞舌香(けいぜつこう)、

ともいう(字源)が、

丁子、

は、

丁子有尾(荘子)、

と、

おたまじゃくし、

の意である(仝上)。

平安時代、

香色(こういろ)、

というと、

丁子などの香料の煮汁で染めた色、

または、

それに似せた色のことをいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E8%89%B2、色の濃淡で、

淡香(うすきこう)、
中香(なかのこう)、
濃香(こきこう・こがれこう)、

と呼び分け(仝上)たが、一般には、

ベニバナとクチナシを掛け合わせて染めた色、

を、

香色、

と呼んだ(仝上)。のちに、丁子を使わなくともその色彩に近いものを、

丁子茶、

と称するようになるhttps://iroai.jp/choji/。江戸時代には、

楊梅やまももと紅梅の根や樹皮を濃く煎じ出した染め汁である梅屋渋うめやしぶで丁子茶を染める技法(『諸色手染草(1772年)』)、
楊梅やまももと梅皮、苅安(かりやす)による法(『染物秘伝(1797年)』)、
楊梅やまももと中国からアジア西部に多いクロウメモドキ科の落葉高木である棗(なつめ)などで染める法(『染物早指南(1853年)』)、

などが記録にあるという(仝上)。

「丁」(漢音テイ・トウ、呉音チョウ)は、

象形。甲骨・金文は特定の点。またはその一点にうちこむ釘の頭を描いたもの。篆文はT型に書き、平面上の一点に直角に釘を当てたさま。丁は釘の原字、

とある(漢字源)。同趣旨で、

象形。くぎの頭、のち、くぎを横から見た形にかたどる。「釘(テイ)」の原字。借りて、十干(じつかん)の第四位に用いる、

とか(角川新字源)、

象形文字です。「釘を上・横から見た」象形から「くぎ」を意味する「丁」という漢字が成り立ちました。借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、十干(じっかん)の第四位、「ひのと」の意味も表すようになりました、

とかhttps://okjiten.jp/kanji518.html

釘の頭、

とする説が大勢だが、別に、

頭部の形を強調した人間の形である「天」字など、人間の頭をその構造に持つ字との比較から、この字が釘の形を表すとした従来の仮説は、根拠が弱いとして棄却された、

としhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%81

象形。人間の頭頂部の形。「あたま」を意味する漢語{頂 /*teengʔ/}を表す字。のち仮借して十干の4番目を意味する漢語{丁 /*teeng/}に用いる、

としている(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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子の日


円融院の天皇、位去らせ給ひて後、御子(おんね)の日に逍遥の為に、船岳(ふなをか)と云ふ所に出でさせ給ひけるに(今昔物語)、

の、

御子の日、

は、

「子の日」に、接頭辞「御」がついたもの、

で、

子の日、

は、

正月の子の日に野に出て遊ぶ風習があった、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

子の日、

は、

ねのひ、

と訓ませるが、後に、「日葡辞書」「書言字考節用集」で、

ねのび、

と濁音である(岩波古語辞典)。ここでは、

子の日の遊び、

の略である。

子の日、

は、

正月の初めの子の日に、野外に出て、小松を引き、若菜をつんだ。中国の風にならって、聖武天皇が内裏で宴を行ったのを初めとし、宇多天皇の頃、北野など郊外にでるようになった、

とあり(岩波古語辞典)、この宴を、

子の日の宴(ねのひのえん)、

といい、

若菜を供し、羹(あつもの)として供御とす、

とあり(大言海)、

士庶も倣ひて、七種の祝いとす、

とある(仝上)。「七草粥」で触れたように、

羹として食ふ、万病を除くと云ふ。後世七日の朝に(六日の夜)タウトタウトノトリと云ふ語を唱へ言(ごと)して、此七草を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥と云ふ、

とある(大言海)、当初は、粥ではなく、

羹(あつもの)、

であり、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる、

子の日に引く小松、

を、

引きてみる子の日の松は程なきをいかでこもれる千代にかあるらむ(拾遺和歌集)、

と、

子の日の松、

といい(仝上)、

小松引き、

ともいい、

幄(とばり)を設け、檜破子(ひわりご)を供し、和歌を詠じなどす、

という(大言海)。

子の日遊び、

は、

根延(ねのび)の意に寄せて祝ふかと云ふ(大言海)、
「根延(の)び」に通じる(精選版日本国語大辞典)、

とある。また、正月の初めの子の日に、

内蔵寮と内膳司とから天皇に献上した若菜、

を、

子の日の若菜(わかな)、

という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

「子」(漢音呉音シ、唐音ス)は、

象形。子の原字に二つあり、ひとつは小さい子どもを描いたもの。もうひとつは子どもの頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子(シ)の場合に用いた。のちこの二つは混同して、子と書かれる、

とある(漢字源)。他に、

象形。こどもが手を挙げている形にかたどり、おさなご、ひいて、若者の意を表す。借りて、十二支の第一位に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「頭部が大きく手・足のなよやかな乳児」の象形から、「こ」を意味する「子」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji29.html、子どもの説のみを取っている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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陵ず


ただ貧しげなる牛飼童(うしかひわらは)の奴獨(ひと)りに身を任せて、かく陵ぜられては何の益(やく)のあるべきぞ(今昔物語)、

の、

陵ぜられて、

は、

悩まされて、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

りょうず、

は、

凌ず、
陵ず、

と当て(広辞苑)、

掕ず、

とも当てる(学研全訳古語辞典)。

この君、人しもこそあれ、くちなはりょうじ給ひて(大鏡)、
恐ろしげなる鬼どもの、我身をとりどりに打ちりょうじつるに(宇治拾遺物語)、

などと、

ひどい目にあわせる、
いじめる、
乱暴する、
拷問する、

という意(広辞苑・日本国語大辞典)や、

責めさいなむ、

とか(大辞泉)、

せっかんする、

といった意(学研全訳古語辞典)で使う。

この語の仮名づかいは、

れうず、

と書かれることも多いが、

虐げるの意の「凌」をサ変化した語と考えられる、

とあり(仝上)、

りょうず、

と表記されることが多い。

会意兼形声。「陵」(リョウ)は、夌(リュウ)は「陸の略体+夂(あし)」の会意文字で、足の筋肉にすじめを入れるほど力んで丘を登ること。陵はそれを音符とし、阜(おか)を加えた字で、山の背のすじめ、つまり稜線のこと、

とある(漢字源)。「丘陵」の、「おか」とか、「陵墓」「御陵」「みささぎ」の意だが、「陵駕(リョウガ)」「陵辱」など「うちひしぐ」「しのぐ」「あなどる」などの意もある(仝上)。別に、

会意形声。「阜」+音符「夌」、「夌」は「坴(盛り土)」の略体+「夂(あし)」で力を入れて山に登ることであり、「陵」はそのような地形、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%99%B5

会意形声。阜と、(リヨウ)(しのぐ)とから成る。大きなおかの意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(阝+夌)。「段のついた土山」の象形(「丘」の意味)と「片足を上げた人の象形と下向きの足の象形」(「足をあげて高い地を越える」の意味)から、「越えていかなければいかない丘」を意味する「陵」という漢字が成り立ちました

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1487.html

「凌」(リョウ)は、

会意兼形声。夌(リュウ)は「陸(おか)+夂(あし)」の会意文字で、力をこめて丘の稜線をこえること。力むの力と同系で、その語尾が伸びた語。筋骨を筋ばらせてがんばる意を含む。凌はそれを音符として、冫(こおり)を加えた字。氷の筋目の意、

とある(漢字源)。「凌辱」「凌駕」と、しのぐ、力を込めて無理に相手の上に出る、ちからずくでもおかすという意や、こえる意(陵と同義)がある。別に、

会意兼形声文字です(冫+夌)。「氷の結晶」の象形(「凍る、寒い」の意味)と「片足を上げた人の象形と下向きの足の象形」(「高い地をこえる、丘に登る」の意味)から「(氷が丘のように盛り上がって)凍る」、「氷」、「しのぐ」を意味する「凌」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2324.html

「掕」(リョウ)は、あまり辞書に載らず、

止める、
動けなくする、
馬を止める、

意とのみあるhttps://kanji.jitenon.jp/kanjiw/11391.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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心にくし


履物どもは皆車に取り入れ、三人、袖も出さずして乗りぬれば、心にくき女車に成りぬ(今昔物語)、

の、

心にくき女車、

は、

ゆかしい女車、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

心にくし、

は、

心憎し、

と当て、

ニクシは親しみ・連帯感・一体感などの気持の流れが阻害される場合の不愉快な気持ちをいう語。ココロニクシは、対象の動きや状態が思うように明らかにならず、もっとはっきりしたい、もっと知りたいと関心を持ち続ける意、

とあり(岩波古語辞典)、同趣旨で、「心にくし」は、

対象の挙動・状態が思うように明らかにならないので、それをもっとよく知りたいと関心を持ち続ける意、

が含まれ(精選版日本国語大辞典)、

底知れないものに、あこがれ、賞賛、期待、不安、不審などの感情を抱いて、気をもむ意、

とある(仝上)が、

他の内心(ナイシン)に心置(こころお)きせらる、

の意が、

心、測りがたき意より転じて、おくゆかし、

という意味の幅の方がわかりやすい(大言海)。具体的には、

はっきりしないものに、すぐれた資質を感じ、心ひかれ、近づき、知りたく思う気持を表わす、

意で、

いとあてに、……式部卿の君よりもこころにくくはづかしげにものし給へり(宇津保物語)、

と、

人柄、態度、美的な感覚などに上品な深みを感じ、心ひかれる、
奥ゆかしい、

意や、

そらだきもの、いと心にくくかほりいで(源氏物語)、

と、

情緒が豊かであったり風情があったりして、心ひかれるさまである、

意や、

心にくきもの。ものへだてて聞くに、女房とはおぼえぬ手の、しのびやかにをかしげに聞えたるに、こたへ若やかにして、うちそよめきて参るけはひ(枕草子)、

と、

間接的なけはいを通して、そのものに心ひかれるさまである、

意で使う(精選版日本国語大辞典)。枕草子の「心にくきもの」は、続けて、

ものの後ろ、障子などへだてて聞くに、御膳(おもの)参るほどにや、箸・匙(かひ)など、取りまぜて鳴りたる、をかし。ひさげの柄の倒れ伏すも、耳こそとまれ、

と、間接的な気配への、

(よくわからないもの、はっきりしないものに)関心をそそられる。心をひかれる、

様子が具体的である。ここまではどちらかというと、

心惹かれるさま、

の、

状態表現、

である。それが、さらに、

こころにくく思ひて、盗人いりまうできて、一二侍し装束なども、みなさがしとりて(宇津保物語)、

と、

はっきりしないものに対して大きな期待をいだき、心がそそられるさまである、
気持をそそるさまである、
期待に気をもませる、

意や、

対象の状態・性質などがはっきりとわからないので、不安、警戒心、不審感などをいだくさまをいう、

意の、

さだめて打手むけられ候はんずらん。心にくうも候はず。三井寺法師、さては渡辺のしたしいやつ原こそ候らめ(平家物語)、

と、

おぼつかなくて不安である、
警戒し、心すべきさまである、

意や、

小おとこのかたげたる菰づつみを心にくし、おもきものをかるう見せたるは、隠し銀にきわまる所とて(世間胸算用)、

と、

対象の挙動・様子を不審に感じ、とがめたく思う、
あやしい、
どこやらわけありげである、

意や、

己が附前の句知りながら、句案数刻にして、脇より玉句御つけといへば、是はしたり、しばらくは案ずべしなどいへる、いと心にくけれ(一茶手記)、

と、

にくらしく思う、
こづらにくい、
こしゃくにさわる、

意や、

定めて討手向けられ候はんずらん。心にくうも候はず(平家物語)、

と、

(底が知れず)何となく恐ろしい、

意へと、明らかに、

価値表現、

へとシフトしており、今日では、

巧妙さは心憎い程だった、

とか、

心憎い出来栄え、

というように、

欠点がなく、むしろねたましさを感じるほどにすぐれている、
にくらしいほど完璧である、
憎らしい気がするほど、みごとだ、

という意で使われるに至っている(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・広辞苑)。

この、

状態表現から価値表現へのシフト、

は、

にくむ」で触れた、

にくい、

と同じである。「にくい」は、

憎い、
悪い、

と当て、

いやな相手として何か悪いことがあればよいと思うほど嫌っている、気に入らない、にくらしい、
腹立たしい、しゃくにさわる、けしからぬ、
みにくい、
無愛想であ、そっけない、
(癪にさわるる程)あっぱれだ、感心だ、

と意味が広い。さらに、

難い、

と当てて、

(動詞の連用形について、「むずかしい」「たやすくない」の意を表す)

という意味にもなる。

自分の相手への感情という状態表現、

であったものが、いつの間にかシフトして、

相手の価値表現、

へと、意味が転換していっているようである。その価値表現は、

みにくい、見苦しい、みっともない、

である一方、

(癪にさわるる程)あっぱれだ、感心だ、

と、両価性がある。その意味の幅は、

心にくし、

にもほぼ重なっている。

心にくし、

の、

にくし、

は、

無情(つれな)し、不愛相なり、枕草子、心羞(ハヅカ)しき人、いと憎し、

とある(大言海)。

「心」(シン)は、

象形。心臓を描いたもの。それをシンというのは、沁(シン しみわたる)・滲(シン しみわたる)・浸(シン しみわたる)などと同系で、血液を細い血管のすみずみまでしみわたらせる心臓の働きに着目したもの、

とある(漢字源)。別に、

象形。心臓の形にかたどる。古代人は、人間の知・情・意、また、一部の行いなどは、身体の深所にあって細かに鼓動する心臓の作用だと考えた、

ともある(角川新字源)。

「憎(憎)」(漢音呉音ソウ、慣用ゾウ)は、

会意兼形声。曾(ソウ 曽)は、こしきの形で、層をなして何段も上にふかし器を載せたさま。憎は「心+音符曾」で、いやな感じが層をなしてつのり、簡単に除けぬほどいやなこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(忄(心)+曽(曾))。「心臓」の象形(「心」の意味)と「蒸気を発するための器具の上に重ねた、こしき(米などを蒸す為の土器)から蒸気が発散している」象形(「重なる」の意味)から重なり積もる心、「にくしみ」を意味する「憎」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1538.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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返さの日


然る閨A賀茂の祭の返(かへ)さの日、此の三人の兵(つはもの)共云ひあわせて(今昔物語)、

の、

返さの日、

は、

祭の次の日、祭を終わって賀茂の斎院が紫野(賀茂の斎宮の御所があった)へ帰っていく、其を公卿が行列で送るのである、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

かへさ、

は、

歸方、

と当て、

「かへるさ」の略、

とあり(大言海)、

妹(いも)と來(こ)し敏馬(ミヌメ)の崎を歸左(かへるさ)に獨し見れば涙ぐましも(万葉集)、

と、

歸る時、

の意である(仝上)。

賀茂斎院(かものさいいん)、

は、

いつきのみや、

ともいい、

賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)、賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)からなる賀茂社に奉仕する、未婚の内親王または女王、

をいう(国史大辞典)。伊勢神宮の斎宮と併せて、

斎王(さいおう)、
斎皇女(いつきのみこ)、

と呼ばれ、

伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)、

だが、厳密には、

内親王の場合は「斎内親王」、
女王の場合は「斎女王」、

といい、両者を総称して、

斎王、

と呼んでいるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E7%8E%8B。伊勢神宮の斎王は特に、

斎宮(さいぐう)、

賀茂神社の斎王は特に、

斎院(さいいん)、

と呼んだ(仝上)。また、単に、

斎(いつき)、

ともいう(大言海)。

賀茂斎院制度の起源は、平安時代初期、

平城上皇が弟嵯峨天皇と対立して、平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は王城鎮守の神とされた賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を「阿礼少女(あれおとめ、賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)」として捧げると祈願をかけ、仁元年(810年)薬子の変で嵯峨天皇側が勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まり、

とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E9%99%A2・國史大辞典)。

伊勢神宮の、

斎王(斎宮)、

に倣い、歴代の斎王は、

内親王あるいは女王から占いによって選出され、賀茂川で禊を行い、宮中初斎院での二年の潔斎の後、三年目の四月上旬に、平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入し、再び賀茂川で禊をしてから、仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、年中祭儀や賀茂社での葵祭などに奉仕した、

とされる(仝上)。で、その御所の地名から、

紫野斎院、

あるいは、

紫野院、

とも呼ばれた(仝上)。特に重要なのは四月酉の日の賀茂祭で、

祭当日斎院は御所車にて出御され、勅使以下諸役は供奉し先ず下社へ次いで上社へ参向・祭儀が執り行われる。上社にては本殿右座に直座され行われた、

とあるhttp://www.genji.co.jp/yukari/aoi/saiin.html。この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、枕草子にも、

見物は、臨時の祭 行幸 祭の還さ 御賀茂詣で、

とある。「祭の還さ」が、

斎王の還御、

である(仝上)。祭り当日の夜は御阿礼所前の神館に宿泊され翌日野宮(紫野院)へ戻られたのである。

齋院制度は、

9世紀初めから13世紀初めまでの約400年間続き、35人が斎院をつとめた、

とある(国史大辞典)。

斎(いつき)、

は、

イは、斎(い)むの語幹、斎垣(イミガキ)、いがき。斎串(イミグシ)、いぐし。ツクは附くなり、かしづくと同じ。齋(い)み清(きよまは)りて事(つか)ふること(大言海)、
イツク(斎着)の意(日本古語大辞典=松岡静雄)、
イは接頭語、ツクはツカフ(仕)の原形。またイツク(嚴)か(万葉集辞典=折口信夫)、

等々諸説あるが、

イツ(稜威)の派生語。神や天皇などの威勢・威光を畏敬し、汚さぬように、潔斎してこれを護り奉仕する意(岩波古語辞典)、
イツ(嚴 神聖なるものの威力)の派生語で、本来的には潔斎して神へ奉仕する意(日本語源大辞典)、

といった意味なのだろう。「斎く」は、

畏敬し、潔斎して、大切に護り仕える、

意で、

斎(いつき)、

は、

潔斎してこもり、神事に仕えること、その場所、また、その人(特に斎宮、齋院)、

をさす(岩波古語辞典)。なお、

とき、

と訓ませる

斎、

については、「(とき)」で触れた。

「斎(齋)」(漢音サイ、呉音セ)は、「斎」は「(とき)」で触れたように、

会意兼形声。「示+音符齊(サイ・セイ きちんとそろえる)の略体」。祭りのために心身をきちんと整えること、

である(漢字源)。別に、

形声。示と、音符齊(セイ、サイ)とから成る。神を祭るとき、心身を清めととのえる意を表す。転じて、はなれやの意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(『祖先神』の意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する「斎」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1829.htmlある。

とあり、やはり、心身を浄め整える意味がある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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矢目


己いひつるやうに、今日より我が許に來らば、此の御社の御矢目負ひなむものぞ(今昔物語)、

の、

矢目負ひなむもの、

は、

神の罰として矢を受けるだろう、

の意で、

矢目、

は、

矢のささった所、

の意(佐藤謙三校注『今昔物語集』)とある。

鎧(よろひ)に立ったるやめを数へたりければ(平家物語)、

と、

矢の当たった所、

の意から、

矢を受けた跡、

の意、さらに、

矢疵(きず)、

の意でも使い(広辞苑)。その派生から、

水際を五寸ばかり下て、やめ近にひゃうど射るならば、のみを以て割る様にこそあらんずらめ(義経記)、

と、

矢を射る時の目標、

の意ともなる(広辞苑)。

」で触れたように、

め(目・眼)の語源は、

見(ミ)と通ず。或いは云ふ、見(ミエ)の約、

とあり(大言海)、

器官としての「目」は、「見る」という動作から来ていると思える。ただ、「憂き目」「酷い目」「嬉しい目」という用例の、

め(眼・目)、

が、

見えの約。先ず目に見て心に受くれば云ふ、

のに対し、その意味の外延を拡げた、「賽の目」「木の目」「網の目」「鋸の目」という用例の、

め(目)、

は、

「間(ま)の転」

と、両者の出自を区別している(仝上)。

矢目、

の、

め、

は、明らかに後者に当たる。

一二あるのみにはあらず五六三四さへありけり双六の采(万葉集)、

の、

め、

も、

小さい点、

の意で、後者の意味の派生に連なると見える。

「矢」(シ)は、「征矢」で触れたように、

象形。やじりのついたやの形にかたどり、武器の「や」の意を表す、

とある(角川新字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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さうぞきたる


参る人、返る人、様々行きちがひけるに、えもいはずさうぞくきたる女あひたり(今昔物語)、

さうぞきたる、

は、

装束きたる、

と当て、

名詞装束(さうぞく)」の語末を活用させて動詞化した(彩色(サイシキ)、さいしく。乞食(こつじき)、こつじく)、

さうぞ(装束)く、

の(学研全訳古語辞典・大言海)、

自動詞カ行四段活用(か/き/く/く/け/け)、

で、

裳(も)・唐衣(からぎぬ)など、ことごとしくさうぞきたるもあり(枕草子)、

と、

身に着ける、

意だが、

装う、
着飾る、

という含意である(学研全訳古語辞典)。その派生で、

唐(から)めいたる舟、作らせ給(たま)ひける、急ぎさうぞかせ給ひて(源氏物語)

支度する、
装備する、
整える、

意でも使う(仝上)。

装束、

は、

しゃうぞく、

とも訓ませるが、

装、

の漢音が、

しゃう、

呉音が、

さう、

で、

しゃうぞく(しょうぞく)→さうぞく(そうぞく)、

と転音した(強悍(おぞ)し、おずし)ものとある(大言海)。

装束(しゃうぞく・さうぞく)、

は、

装(よそほ)ひ束(つか)ぬるにて、身支度なり、

とあり(仝上)、漢語であり、

至夜勤所部云、陳悦欲向秦州、命皆装束(北史・李弼傳)、

と、

旅支度、

の意で(字源)、

時已日暮、出告従者、速装束、吾當夜去(捜神記)、

と、

扮装(いでた)つこと、

とある(大言海)。和語でも、

参りて奏せむ。車にさうぞくせよ(大鏡)、

と、

支度、
用意、

の意でも使うが、転じて、

夜は、きららかに、はなやかなるさうぞく、いとよし(枕草子)、

と、

衣服、
服装、

の意となり、さらに、

はたと、しゃうぞくしたりけるが、田に陥りて、小袖・直垂ぬらし(雑談集)、
参りて奏せむ。車にさうぞくせよ(大鏡)、

と、

盛装、

の意となり、特に、

御即位、人人装束寸法、大なる様被御覧及、可為国家之費、……人人装束、忽縮寸法了(吉口傳)、

と、

束帯、衣冠、直衣等の服装の総称、

として使う(仝上・岩波古語辞典)。

装束く、

と似た言葉に、

装束す、

と、

名詞「装束」に「す」が付いた自動詞(サ行変格活用)、

あり、また、

装束(さうぞきた)立つ、

と、

まことに寅(トラ)の時かとさうぞきたちてあるに(枕草子)、

の、自動詞の、

着飾る、

意や、

大きにはあらぬ殿上童(てんじやうわらは)のさうぞきたてられて歩(あり)くも、うつくし(枕草子)、

の、他動詞の、

着飾らせる、

意で使う(学研全訳古語辞典)。

「装」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、

会意兼形声。爿(ショウ)は、すらりと長い寝台を縦に画いた象形文字。壯はそれに士(おとこ)を加え、すらりと背の高い男を示す。裝は「衣+音符壯」で、すらりと細く身ごしらえをととのえること、

とある(漢字源)。別に、

形声。衣と、音符壯(サウ)とから成る。衣でつつんでしまう、ひいて、用意する意を表す。また借りて、かざる意に用いる、

とも(角川新字源)、

形声文字です(壮(壯)+衣)。「寝台を立てて横から見た象形(「寝台」の意味だが、ここでは「ながい」の意味)とまさかり(斧)の象形(「男子」の意味)」(背の高い男の意味だが、ここでは「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「しまう・かくす」の意味)と「衣服のえりもと」の象形から、「衣服で身をつつむ」、「よそおう」を意味する「装」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1023.html

「束」(漢音ショク、呉音ソク)は、

会意文字。「木+O印(たばねるひも)」で、たき木を集めて、その真ん中ひもをまるく回して束ねることをしめす、ちぢめてしめること、

とある(漢字源)。別に、

象形。物をふくろの中に入れ、両はしをしばった形にかたどり、「たば」「たばねる」意を表す、

とも(角川新字源)、

象形。両端を縛った袋の形を象る。もと「東」と同字で、「しばる」「たばねる」を意味する漢語{束 /*stok/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%9F

象形文字です。「たきぎを束ねた」象形から「たばねる・しばる」を意味する「束」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji601.htmlあり、象形文字説が大勢である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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色々し


重方は本より、色々しき心のありける者なれば、妻も常に云ひねたみけるを(今昔物語)、

の、

色々し、

は、

一本に、すきすぎしき、

とあり、

色めかしき、優優しき、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。「すきずきし」は、

かう、すきずきしきやうなる、後(のち)の聞こえやあらむ(源氏物語)、

と、

いかにも物好きだ、

の意や、

すきずきしうあはれなることなり(枕草子)、

と、

風流だ、

の意もあるが、

すきずきしき方(かた)にはあらで、まめやかに聞こゆるなり(源氏物語)、
昔よりすきずきしき御心にて、なほざりに通ひ給ひける所々(仝上)、

と、

色好みめいて見える、
好色らしい、

意であり(学研全訳古語辞典)、「色めかし」も、

いろめかしき心地にうちまもられつつ(源氏物語)、

と、

なまめかしい、
艶(つや)っぽい、

意だが、

色情を動かしやすい、

という含意であり(仝上・岩波古語辞典)、

色色し、

も、

色色しき者にて、よきあしきをきらはず、女といへば心をうごかしけり(古今著聞集)、

と、

女色にひきつけられやすい性分である、

という意で使う(仝上)。あわせて、

同じ程の人に差し出でいろいろしき物着給ふべからず(極楽寺殿御消息)、

と、

けばけばしい、
派手である、
きらびやか、

意で使う(仝上・大言海)。

色色、

は、

我が大君秋の花しが色々に見したまひ明らめたまひ酒みづき栄ゆる今日のあやに貴さ(万葉集)、

と、


あの色この色、
様々の色彩、

の意で、その派生で、

夜一夜いろいろの事をせさせ給ふ(源氏物語)、

と、色を離れて、

種々、
さまざま、
あれこれ、

の意で使う(岩波古語辞典)。

」は、「いろ」で触れたように、

色彩、顔色の意。転じて、美しい色彩、その対象となる異性、女の容色。それに引き付けられる性質の意から色情、その対象となる異性、遊女、情人。また色彩の意から、心のつや、趣き、様子、兆しの色に使う。別に「色(しき)」(形相の意)の翻訳語としての「いろ」の用例もみられる、

と(岩波古語辞典)、その用例は幅広い。だから、大言海は、「色彩」と「色情」を分けて項を立て、前者の語源は、

うるは(麗)しのウルの轉なるべし。うつくし、いつくし(厳美)、いちじるしい、いちじろし(著)、

と、「ウル」の転とし、天治字鏡(平安中期)に、

麗、美也、以呂布加志、

とあるとし、後者の語源は、

白粉(しろきもの)の色の義。夫人の化粧を色香(いろか)と云ふ。是なり、随って、色を好む、色を愛(め)づ、色に迷ふなどと云ひ、女色の意となる。この語意、平安朝に生じたりとおぼゆ、

とする(大言海)。意味の幅としては、

その物の持っている色彩

物事の表面に現われて、人に何かを感じさせるもの(→顔色→表情→顔立ち→風情→趣)

男女の情愛に関すること(恋愛の情趣→男女の関係→情人→色気→遊女→遊里)

といった広がりがある(精選版日本国語大辞典)が、やはり、大言海のように、

色彩、

色情、

とは語源を別にすると考えていいのかもしれない。ただ、この意味の幅は、

漢語の「色」は「論語‐子罕」の「吾未見好徳如好色者也」にあるように、「色彩」のほか「容色」「情欲」の意味でも用いられるところから、平安朝になって「いろ」が性的情趣の意味を持つようになるのは、漢語の影響と考えられる。恋愛の情趣としての「いろ」は、近世では肉体的な情事やその相手、遊女や遊里の意へと傾いていく、

とある(精選版日本国語大辞典)ので、「いろ」に、

色、

の漢字を当てたために、その漢字の含意によって、「性的意味」が加わったものと考えられる。

「色」(慣用ショク、漢音ソク、呉音シキ)は、「色ふ」で触れたように、

象形文字。かがんだ女性と、かがんでその上に乗った男性とがからだをすりよせて性交するさまを描いたもの。セックスには容色が関係することから、顔や姿、いろどりなどの意となる。またすり寄せる意を含む、

とある(漢字源)。むしろ、漢字は、

色欲(「女色」「漁色」)

顔かたちの様子、色(「失色」「喜色」)

外に現われた形や様子(「秋色」)

色彩(「五色」)

と、色彩は後から出できたらしく、

色とは、人と巴の組み合わせです。巴は、卩であり、節から来ているといいます。卩・節には、割符の意味があり、心模様が顔に出るので、心と顔を割符に譬えて色という字になったと聞きました。顔色という言葉は、ここからきています。また、巴は、人が腹ばいになって寝ている所を表しそこに別の人が重なる形だとも言われます。つまり、性行為を表す文字です。卩は、跪くことにも通じているようです。いずれにしろ、性行為のことです、

ともあるhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1286809697

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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なまめかし


濃き打ちたる上着(うはぎ)に、紅梅、もえぎなど重ね着て、なまめかしく歩びたり(今昔物語)、

の、

なまめかし、

は、

艶めかし、

と当て、

ナマメクの形容詞形、色・様子・形・人柄などのよさ、美しさが、現れ方として不十分のように見えながら、しっとりとよく感じられるさまをいうのが原義、

とあり(岩波古語辞典)、

さりげなくふるまうさまから、奥ゆかしい、優美であるの意となって、中古の女流文学などに多く用いられた、

とある(精選版日本国語大辞典)。

花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭などもなまめかしきに(源氏物語)、

と、

花やか、派手でなく、しっとりとして美しい、
何気ないようで美しい、

という意で(岩波古語辞典)、それを人の容姿・態度などについて、

はづかしう、なまめかしき顔姿にぞ物し給へる(宇津保物語)、

と、

優美である、上品である、もの柔らかである、

意に使い、

花の中におりて、童(わらは)べとまじりてありき給ふは……あてに、にほひやかに、なまめかしく見え給ふ(夜の寝覚)、

と、

「あて」や「清ら」などとともに用いられることが多い、

とある(精選版日本国語大辞典)。また、

けさうなどのたゆみなく、なまめかしき人にて、暁に顔つくりしたりけるを(紫式部日記)、

と、

特に若い女性などの容姿をいうことが多いところから、次第に女性の若い魅力をいうようになり、後世は、女性の性的魅力を、さらに性的魅力一般を表現する語となる、

とあり(仝上)、

色めかしくあだにおはしまする、若き折に、さ物せさせ給はぬ人やはある、さればこそ、をかしくなまめかしき事もいでくれ(栄花物語)、

と、

(男女関係について)何となく、気をひかれるさまである、

意から、

艷(えん)なるねくたれの姿なまめかしうて(浜松中納言物語)、

と、

色っぽい、
つやっぽい、

意へとなる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。また、

なまめかしきもの 細やかに清げなる君達の直衣姿。をかしげなる童女のうへの袴などわざとはあらでほころびがちなる汗衫(かざみ)ばかり着て、卯槌・薬玉など長くつけて、高欄のもとなどに扇さし隠してゐたる(枕草子)、

と、広く一般の物品などに対して、

優雅である、
優美である、

意や、

醍醐(だいご)ときこえさせ給けるぞ、なまめかしき御門におはしましければ(延喜御集)、
神楽(かぐら)こそ、なまめかしく、おもしろけれ(徒然草)、

と、人の性質・心柄や、情景・風物などについて、

情趣のあるさま、
趣を解するさま、

など、

風流である、

意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

侍従は、大臣(おとど)の御は、すぐれてなまめかしうなつかしき香なり、とさだめ給ふ(源氏物語)、

と、「源氏物語」までの用例では、

王朝風上品・優美な感覚美を基調としてはいるものの、女性の性的官能美や華麗に飾り立てた美を押え込んだ、深みのある精神美と同調する優雅さを意味する、

とあり、特に「源氏物語」では、

さりげない振舞い・飾り付け等から、自然ににじみでる高雅な精神性に裏打ちされた美を形容した用法が特徴的に見られる、

とある(仝上)。平安後期になると、

艷(えん)なるねくたれの姿なまめかしうて(浜松中納言物語)、

と、

官能的であるさまを形容する用法、

が見え始め、中世には、王朝風を懐古する文脈中に、王朝風用例も残存はするが、南北朝期以降は、

三味線にひきかはりたる三筋町、恋の市場となまめかし(浄瑠璃・反魂香)、

と、

女性の性的官能美を触発する、媚態に重点が置かれるようになる、

とある(仝上・学研国語大辞典)。

なまめかし、

のもとになった、動詞、

なまめく、

は、「なま」で触れたように、

生めく、
艷めく、

と当て、

ナマは未熟・不十分の意。あらわに表現されず、ほのかで不十分な状態・行動であるように見えるが、実は十分に心用意があり、成熟しているさまが感じとられる意。男女の気持のやり取りや、物の美しさなどにいう。従って、花やかさ、けばけばしさなどとは反対の概念。漢文訓読系の文章では、「婀娜」「艷」「窈窕」「嬋娟」などをナマメク・ナマメイタと訓み、仮名文学系での用法と多少ずれて、しなやか、あでやかな美の意。中世以降ナマメクは、主として漢文訓読系の意味の流れを受けている、

とあり(岩波古語辞典)、「なまめく」は、本来は、ちょっと「奥ゆかしい」ほのかに見える含意である。

なまめく、

は、

「なま」(生) + 接尾辞「めく」

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%82%81%E3%81%8B%E3%81%97

未熟・不十分の意の「生」とそのような様子が視覚的に見えるようになることを表す動詞化接尾語「めく」からなる動詞で、未熟性・清新性・さりげなさの中に気品が感じられる優美に見えるというのが基本義、

と(日本語源大辞典)、

不十分なように、あるいは未熟なようにふるまう、
また、
何でもないように、さりげなくふるまい、それがかえって、奥ゆかしく、優美に見える、

意で、

泣き給ふさまあはれに心深きものから、いとさまよくなまめき給へり(源氏物語)、

と、

何気ないように振舞う、
何でもないように振舞いながら、気持ちをほのめかす、

意や(岩波古語辞典)、

薄物の裳あざやかに引き結(ゆ)ひたる腰つき、たをやかになまめきたり(源氏物語)、

と、

(色・人柄・態度など)けばけばしくなく、しっとりと控えめである、

意や、

その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり(伊勢物語)、

と、

人の容姿や挙動、あるいは心ばえが、奥ゆかしく、上品で、優美である、
また、
そのようにふるまう、

意や、

秋の野になまめき立てるをみなへしあなかしがまし花もひと時(古今集)、

と、

物や情景などが優美で情趣がある、

意で使う(精選版日本国語大辞典)のは、

なまめかし、

の原義と通じる。それが、平安後期以降、

この車を女車と見て、寄り来てとかくなまめく間に(伊勢物語)、

と、

異性の心を誘うような様子を見せる、
色っぽい様子をしている、
あだっぽいふるまいをする、
また、
男女間の交際にかかわることをいう、

意と、

官能的であることを表す用法が見え始め、中世以降は、その意味が主流になる、

のも(仝上)、

なまめかし、

と同じである。なお、「なま」の意味の幅については、触れた。

「艶(艷)」(エン)は、「色ふ」、「つややか」で触れたように、

会意。「色+豐(ゆたか)」で、色つやがゆたかなことをあらわす。色気がいっぱいつまっていること、

とあり(漢字源)、「艷話(えんわ)」のように、エロチックな意味もあるので、「つや」に、男女間の情事に関する意で「艶物(つやもの)」という使い方はわが国だけ(仝上)だが、語義から外れているわけではない。別に、同趣旨の、

本字は、形声で、意符豐(ほう ゆたか)と、音符𥁋(カフ)→(エム)とから成る。旧字は、会意で、色と、豐(ゆたか)とから成り、容色が豊かで美しい意を表す。常用漢字は俗字による、

とする(角川新字源)ものの他に、「豔・豓」と「艷」を区別して、「豔・豓」は、「艶」の旧字とし、

会意兼形声文字です(豐+盍)。「草・木が茂っている象形と頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)の象形」(「豊かに盛られた、たかつき」、「豊か」の意味)と「物をのせた皿にふたをした」象形(「覆う」の意味)から、顔形が豊かで満ち足りている事を意味し、そこから、「姿やしぐさが色っぽい(異性をひきつける魅力がある)」、「顔・形が美しい」を意味する「豔・豓」という漢字が成り立ちました、

とし、「艶(艷)」は、

会意文字です(豊(豐)+色)。「草・木が茂っている象形と頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)の象形」(「豊かに盛られた、たかつき」、「豊か」の意味)と「ひざまずく人」の象形と「ひざまずく人の上に人がある」象形(「男・女の愛する気持ち」の意味)から、「男・女の愛する気持ちが豊か」を意味する「艶」という漢字が成り立ちました、

とする説もあるhttps://okjiten.jp/kanji2086.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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針目


物の色ども、打目(うちめ)、針目(はりめ)、皆いと目やすく調へ立てて奉りけるに(今昔物語)、

の、

打目、

は、

衣を打ってつやを出す、その打ち方、

とあり、

針目、

は、

衣のぬい方、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

打目、

は、

擣目、

とも当て、

つやを出すために絹布を砧(きぬた)で打った部分の光沢の出具合、

をいい(精選版日本国語大辞典)、

絹を砧で打ったときに生じる光沢の模様、

をいうので、

砧の跡、

ともいう(大辞林)。

絹帛の打物、

のことだが、

打物、

とは、

絹帛を、槌にて打ちて、光沢を生じさせるもの、

の謂いで、のちに、

板引、

となっても、そのまま、旧名を称したものである(大言海)。

板引、

とは、

漆塗りの板の上に、糊をつけたる絹を貼りつけ、燥(かわ)かして、引き離したるもの、

で、

絹に光沢を発せしむ、

とあり(大言海)、

紅絹、
白絹、

がある(仝上)。これだとわかりにくいが、平安時代に日本で考案された布地の加工法で、砧打ちの手間を省くために、

蝋などの植物性の混合物で生地をコートして艶と張りを持たせる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%BC%95、具体的には、

漆塗りの一丈近い板に、糊が張り付くのを予防するのと生地に滑らかさを与える目的で胡桃油を塗る。ついで滑らかさと耐久性を与える木蝋を塗る。姫糊(原料はコメ)で張りを持たせた生地を板に貼り付けて完成。加工に使う材料は、全て天然由来の植物加工品である、

とある(仝上)。

濃き打ちたる上着に、紅梅、もえぎなどを重ね着て(今昔物語)、

の、

濃き打ちたる、

とあるのは、

きぬたで打ってつやを出した、

意で、

濃き、

とは、

紫の濃いのをいう、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

針目、

は、文字通り、

わが背子が着(著 け)せる衣の針目おちず入りにけらしもわが情(こころ)さへ(万葉集)、

と、

針で縫った跡、

つまり、

縫目、

をいう(岩波古語辞典)。慶長二年(1597)の、最古のイロハ引き国語辞書『匠材集(しょうざいしゅう)』に、

針目、つづり也、

とあり、

針目衣(はりめぎぬ はりめごろも)、

というと、

つぎはぎだらけの衣、

また、

ぼろを綴り合わせた着物、

の意で、

つづれ、

ともいう(岩波古語辞典)。

「鍼」(シン)は、

会意文字。「金+咸(感 強いショック)」で、皮膚に強い刺激をあたえるはりのこと。針とまったく同じ、

とあり(漢字源)、「針」(シン)は、

形声、「金+音符十」。十の語尾pがmに転じて、シムの音をらわす、

とあり(仝上)、

十(シフ→シム はりの形)、

とある(角川新字源)。なお、

針は俗字、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%87%9D。別に、

会意兼形声文字です(金+十)。「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(土中に含まれる「金属」の意味)と「針」の象形から、「はり」を意味する「針」という漢字が成り立ちました(「十」は「針」の原字です)、

とある( https://okjiten.jp/kanji948.html)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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調楽


風俗(ふぞく)は調楽(てうがく)の内参(うちまいり)賀茂詣などにこれを用ゐらる(梁塵秘抄口伝集)、

とある、

調楽、

は、

でうがく、

とも訓ませ(学研全訳古語辞典)、

我君促震臨於此処、調楽懸於厥中(「増鏡(1368〜76頃)」)、

と、文字通り、

舞楽・音楽を奏する、

意だが、ここでは、

大将の君、丑寅の町にて、まづ、内内に、てうかくのやうに、明暮、遊びならし給ひければ(源氏物語)、

と、

楽舞の公式演奏に先立ってあらかじめ練習すること、

で、特に、平安時代以後、

今日石清水臨時祭調楽始、件祭平安可被遂之由(「小右記」天元五年(982)二月二五日)、

と、

賀茂社および石清水八幡宮などの臨時祭で行なう楽舞の予行練習、

をいい、祭儀当日に近い規模の、

試楽、

に対して、それ以前に数回にわたってくりかえされる、

予行練習、

を指してよぶとある(精選版日本国語大辞典)。

調楽、

は、公事・宴席で行う、

舞楽の下稽古、

の意(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)だが、特に、

まいて、臨時の祭の調楽などはいみじうをかし(枕草子)、

とあるように、

三月中午の日の石清水、十一月下酉の日の賀茂神社の臨時祭の試楽を指す。祭日の二日前に清涼殿の前庭で天皇臨席のもとに行われ、宮廷行事として重きが置かれた、

とある(仝上)。

内参り、

も、当然、

宮中に 参ること、

だが、ここではも

石清水・賀茂両神社の臨時祭の試楽において、関白をはじめ公卿・楽人・舞人などが参内する行事、

をいう(仝上)。

賀茂詣、

は、

四月の中の酉の日または下の酉の日(現在五月十五日)に行われる賀茂御祖神社(下賀茂神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭である賀茂祭の前日に、摂政や関白が賀茂神社に参拝する行事、

をいう(仝上)。なお、

風俗、

は、

風俗歌(ふぞくうた)、

の意で、

平安時代から行われた歌謡の一つ、

で(広辞苑)、

地方の国々に伝承されていた歌が、宮廷や貴族社会に取り入れられ、宴遊などに歌われた、

ものである(デジタル大辞泉)。

国風(くにぶり)、
国風歌、

ともいう(仝上)。

元正天皇の養老元年(717)四月二十五日、天皇に大隅・薩摩の両国の風俗歌舞が奏された( 続日本紀)、

のを初出として、その後、東国歌謡を主流として宮廷の儀式に奏され雅楽化されて宮廷宴遊歌謡となった、

とある(馬場・前掲書)。

「調」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、

会意兼形声。周の原字は、田の全体に点々と作物の植えられたさまを示す会意文字。調は「言元+音符周」で、全体にまんべんなく行き渡らせること、

とある(漢字源)。別に、

形声。言と、音符周(シウ→テウ)とから成る。「ととのう」意を表す。転じて、物をとりあげる意に用いる、
とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(言+周)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「方形の箱に彫刻が一面に施された象形」(「ゆきわたる」の意味)から、言葉に神経が「ゆきとどく」、「ととのう」を意味する「調」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji447.html。ちなみに、「周」は、

会意文字。「田の中にいっぱいに米のある形+口印」で、欠け目なく全部に行き渡る意を含む。「稠密(チュウミツ)」稠の原字。また口印はくちではなく、四角い領域を示し、まんべんなく行き渡ることから周囲の意となる、

とある(漢字源)。別に、

上部は周族(姫氏)の象徴である盾の象形であり、下部は神器を意味する会意で、周朝の威光から「あまねく」の意を生じ、「めぐる」の意味は仮借(白川静)、

とするものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%A8

会意。口と、用(もちいる)とから成り、ことばを用いてうまく話すことから、こまやかの意を表す、

とするもの(角川新字源)、

指事文字です。「方形の箱などの器物に彫刻が一面に施された」象形から、「あまねく・ゆきわたる」を意味する「周」という漢字が成り立ちました、

とするものhttps://okjiten.jp/kanji676.htmlもある。

なお、「樂(楽)」(ガク、ラク)については、「田楽」で触れた。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』(講談社学術文庫Kindle版)

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うるせし


広言は声色悪しからず、歌ひ過ちせず。節はうるせく似するところあり。心敏く聞き取ることもありて、いかさまにも上手にてこそ(梁塵秘抄口伝集)、

の、

うるせし、

は、

たくみだ、
上手だ、

の意とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。

平安時代から鎌倉時代にかけて用いられた日常語の一つ。高知方言などにのこる、

もの(広辞苑)で、

機敏、

と当てるものもあり(大言海)、

ウルサシと同根、相手の技術が巧みで、こちらの気持が締め付けられるように感じる意、

とある(岩波古語辞典)。

帝、いとうるせかりしものの帰りまうで来たれること、とよろこび給て(宇津保物語)、

と、

知的にすぐれて賢い、
よく気がつく、
頭の回転が速い、

とか、ものの処理が速いとかの敏捷さをさす場合が多いのが原義で(精選版日本国語大辞典)、

宮(女三の宮)の御琴の音は、いとうるせくなりにけりな(源氏物語)、

と、

技芸でも書や楽器の演奏など、知力の働きを要するもの、

について用いられ(仝上)、

(演奏などの)手口、技巧が達者で見事だ、
巧者だ、

の意で使う(仝上・岩波古語辞典)。さらに、それを敷衍したように、

才かしこく心ばへもうるせかりければ(宇治拾遺物語)、

と、

立派で申し分ない、

意で使う(岩波古語辞典)。

うるせし、

は、

心狭(うらせ)しの転か(心愛(うらは)し、可愛(うるは)し。いぶせしと云ふ語もあり)(大言海)、
うるはしきの中略(安斎随筆・日本語源=賀茂百樹)、

などの説があり、

うるさしと同源、

とされ(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・広辞苑)、

古写本では「うるさし」とある本文もあり、「うるせし」「うるさし」の区別は難しい、

とあり(岩波古語辞典)、

技芸でも書や楽器の演奏など、知力の働きを要するものについて用いられている。ただ、機敏・細心といった性格は極端に走れば繫雑といった否定的な面も生じてくる。あるいは、「うるさし」と交錯混用された時点では肯定的なニュアンスで用いられたか。やがて「うるさし」の勢力に押されて、吸収されていった、

とある(日本語源大辞典)。

うるさし、

は、

煩し、

と当てるが(デジタル大辞泉)、

ウルはウラ(心)の転、サシは狭しの意で、心持が狭く閉鎖的になる意が原義、

とあり(岩波古語辞典)、

やかましい物音やしつこい仕業など、わかりきった行為や音が何度も繰り返されることに対して、応じるのが面倒で、それをやめてもらいたいくらいに感じる意。転じて、相手のすきがない行為に困ったものと思いながら、一目置いた気持ちでいる、

とある(仝上)。平安時代、

禰宜の大夫がうしろ見つかうまつりて、いとうるさくて候ひし宿りにまかせて(大鏡)、

と、

行き届いて完全であるさま、

をいい、

織女(たなばた)の手にも劣るまじく、その方も具して、うるさくなむはべりし(源氏物語)、

と、

技芸がすぐれている、

意でも使い、また、

その度が過ぎて、反発されたり敬遠されたりする、

意でも使う(岩波古語辞典・デジタル大辞泉・日本語源大辞典)が、類聚名義抄(11〜12世紀)は、

悩、ウルサシ、

と訓ませており、

相手のすきのない行為や状態に接して心に圧迫を感じて一目置くものの、一方で敬遠したくなる感情をいう、

とあり(日本語源大辞典)、

うるせしの転(ふせぐ、ふさぐ)、敏捷(うるせ)きに過ぐるは、煩わしくなる意より移りたるなるべし、

とある(大言海)。そこから、

二人臥しぬるのちに、いみじう呼ぶ人のあるをうるさしなど言ひ合はせて寝たるやうにてあれば(枕草子)、
これを弾く人よからずとかいふ難をつけてうるさきままに、今はをさをさ伝ふる人なしとか(源氏物語)、

なとと、平安末期から、

ものが多くつきまとってむ煩わしい、
うっとうしい、
面倒で嫌だ、

などという意でも用いられ、近代には、

〜するとうるさい、

という形で、

面倒だ、
厄介だ、

の意で用いられ、現代では、

隣の声がうるさい、

と、

物音が大きすぎて耳障りである、
やかましい、

意や、

規則がうるさい、
ワインにはなかなかうるさい、

と、

注文や主張や批評などが多すぎてわずらわしく感じられる、
細かくて、口やかましい、

意や、

蠅がうるさくつきまとう、
この写真はバックがうるさい、

と、

どこまでもつきまとって、邪魔でわずらわしい、
また、
ものがたくさんありすぎて不愉快なさま、

にもいう(デジタル大辞泉)。現代の、この、

うるさい、

語感と、

うるせし、

とは、どうも語感が重ならないが、

うるさし、

は、

音などがやかましく、わずらわしい。原義は、何らかの刺激によって心が乱れ、閉塞状態になる意、

で、

ウラ(心)の母音交替形ウルに、形容詞サシ(狭し)がついたもの、

うるせし、

は、

ウル+セシ(サシの母音交替形)、

で、両者を無関係とする意見もあるが、

ウルセシはプラスの刺激による心の閉塞状態と解すればよい(暮らしのことば語源辞典)、
うるさいは「技芸がすぐれている」といった意味でも用いられ、細かいところまで気づくという点では(「うるせし」と)意味が近い(語源由来辞典)、

と、両者を同源とするのが大勢のようだ。ただ、

うるさい、

の語源には、

形容詞ウレタシは「なげかわしい」「いとわしい」という意で、ウレハシ(憂はし)と同義語である。〈むぐら生ひて荒れたる宿のウレタキは〉(伊勢物語)。ウレタシはさらに、「レ」が母交[eu]をとげてウルタシになり、「タ」の子交[ts]でウルサシ(煩さし)・ウルサイ(五月蠅い)になった。〈問はぬもつらし(苦しい)、問ふもウルサシ〉(伊勢物語)、

との異説がある。しかし、

うるはし、

うるさし、

の意味の乖離に疑問である。

なお、中世に、「うるさし」に、

右流佐死、

と表記する例があるが、これについては、平安時代(院政期)の説話集『江談抄』(ごうだんしょう 水言抄)に、

世以英雄之人称右流佐死、其詞有由緒、昔菅家為右府、時平為左府、共人望也、其後右府有事被流、左府薨逝、故時人称有人望之者号右流佐死……、

とある由(日本語源大辞典)。しかし、これはこじつけではないか。

また、

うるさし、

に、

五月蠅し、

とあてることについては、

五月蠅、
狭蠅、

とあて、

さばへ、

とよます。これについて、

サはサツキ(五月)のサと同根、神稲の意(岩波古語辞典)、
サはサミダレ・サツキの五月の意(古典文学大系)、
サバヘは、多蠅(サバハヘ)の約(河原(カハハラ)、カハラ)、あるいは、喧噪(サバ)メクの、サバ蠅ならむか(大言海)、
サワグのサが発語になったものか(国語の語根とその分類=大島正健)、

などとあり、語源ははっきりしないが、

陰暦五月、田植頃の群がりさわぐはえの称、

とあり(岩波古語辞典・大言海)、

群蠅の、湧き出て、聲立てて飛び騒ぐ、煩わしき意に云ふ、ウルサシと云ふ語に五月蠅の字を宛つることあるも、この意なり、

とある(大言海)。ただ、蠅の群るは夏の五月に限らない(仝上)のだが。順徳天皇の歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)に、

蠅、さはへなす、五月のはへと書けり、悪(わろ)き物也、

とある。

「煩」(漢音ハン、呉音ボン)は、

会意文字。「火+頁(あたま)」で、火のもえるように頭がいらいらすること、

とある(漢字源)。別に、

会意。頁と、火(熱)とから成り、熱があって頭痛がする、ひいて、なやむ意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(火+頁)。「燃え立つ炎」の象形と「人の頭部を強調した」象形から、悩みで熱が出て頭痛がするさまを表し、そこから、「わずらう」を意味する「煩」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1465.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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熒惑星(けいこくせい)


これは、熒惑星(けいこくせい)の、この歌を賞でて化しておはしけるとなん、聖徳太子の伝に見えたり。今様と申す事の起こり(梁塵秘抄口伝集)、

の、

熒惑星、

は、

火星の別名、

とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。

熒惑星、

は、漢語である。「熒惑」は、

兵乱の兆しを示す星の名、

つまり、

火星、

である。

熒惑出則有兵、入則兵散(史記・天官書)、

とある。別に、

火の神の名、

ともされ、

赤帝の神にて南方に位す、

とある(字源)。また、

目将熒之(荘子・人關「篇)、

の註に、

使人眼眩也、

とあり、「惑」は、

惑、戸國切(正韻)、
迷也(廣韻)、
疑也(増韻)、

等々とあり、「或」は、

亦通作或、孟子、無或乎王之不智(字典)、

とある。「惑」は、

妄張詐誘、以熒惑其将(六韜)、
熒惑トハ、火星ノ名、其光熒(かがや)クを以て、人ヲ疑惑セシムベシ(直解)、

と、

人心をR惑する、

意でも使う(仝上)。

火星、

の名は、

五行説に基づく呼び名であり、学問上(天文史料)では熒惑(ケイコク)といった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E6%98%9F

熒惑、

は、江戸時代に、

なつひぼし、

と訓じられ、

夏日星、

という和名もある(仝上)。

宋景公有疾、司馬子常曰、熒惑守心、宋之分野也、君當之、若祭之、可移于相(史記・宋世家)、

と、

熒惑守心(熒惑心を守る)、

という言葉があり、

火星がさそり座のアンタレス(Antares さそり座α星A 黄道の近くに位置している)付近にとどまること(地球から観測する場合、火星は順行から逆行に切り替える数日間、天球上の同じ場所に止まるように見える)、

をいい(仝上)、具体的には、

心宿(アンタレスあたり)で順行・逆行を繰り返してうろうろする現象、

をいいhttps://www.kcg.ac.jp/kcg/sakka/oldchina/tenpen/keiwaku.htm

熒惑守心、

は、

戦乱が起こる、不吉の前兆とされた、

とある(仝上)。「心」とは、

アンタレスが所属する星官(中国の星座)心宿(しんしゅく)のこと、

をいい(仝上)、星官(星座)の心は、

さそり座のσ、α(アンタレス)、τの3つの星によって構成される、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E5%AE%BF。「心宿」は、和名、

中子星(なかごぼし)、

という(仝上)。

「熒」(漢音ケイ、呉音ギョウ、慣用エイ)は、

原字の「𤇾()」は2つの交差するトーチを象る象形。東周時代に下に「火」が追加された。『説文解字』では、「焱」+「冂(家屋)」の会意文字とされているが、誤った分析である、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%86%92。和語では、

ひかり、

と訓ずる(仝上)。

ともしび、
ひかりかがやく、
めがくらむ、

といったいの場合、

ケイ、

と訓み、

螢と通ず、

とある(字源)。

疑い惑う、

という意の場合、

エイ、

と訓む(仝上)。

「惑」(漢音コク、呉音ワク)は、

会意兼形声。或は「囗印の上下に一線を引いた形(狭いわくで囲んだ区域)+戈」の会意文字で、一定の区域を武器で守ることを示す。惑は「心+音符或」で、心が狭い枠に囲まれること、

とある(漢字源)。別に、

形声。心と、音符或(コク、ワク)とから成る。心に思い迷う意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(或+心)。「矛(ほこ)の象形と村の象形と境界線の象形」(「武装した地域」の意味だが、ここでは、「さかんに現れる」事を表す擬態語)と「心臓」の象形から、さまざまな考えがさかんにあらわれる事を意味し、そこから、「まどう」を意味する「惑」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1167.html

「或」(漢音コク、呉音ワク)は、

会意。「戈(ほこ)+囗印の地区」から成る。また囗印を四方から線で区切って囲んだ形を含む。ある領域を区切り、それを武器で守ることを示し、往き國の原字である。ただし、一般には有に当て、ある者、ある場合などの意に用いる。或の原義は、のちに域の字で表すようになった、

とある(漢字源)。「或日」「或人」の「ある」、或師焉、或不焉、と「あるいは」の意だが、上述のように、無或乎王之普智也(王ノ不智ニ或(まど)フコトナカレ)と、「惑う」意もある。他も、

会意。戈と、囗(い 集落)と、一(境界)とから成る。境を設けた地域を武器で守る意を表す。ひいて、「くに」の意に用いる。「國(コク 国)」の原字。借りて「ある」「あるいは」の意に用いる(角川新字源)、

会意文字です(口+戈+一)。「村の象形と矛(ほこ)の象形と境界線の象形」から、「武装した地域・区切られた地域」の意味を表しました。(域・國(国)の原字)。借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「あるいは」を意味する「或」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2456.html

等々同種の説があるが、この解釈は、

『説文解字』で「戈」+「一」+「囗」と分析され、武器で土地や領土を守るさまと説明されているほか、「戈」ではなく「弋」を含むと分析する説もある。甲骨文字や金文の形を見ればわかるように、これらは誤った分析である、

としhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%96

象形。円形の刃を持つ鉞を象る。のち仮借して「ある」「あるいは」を意味する漢語{或 /*wəək/}に用いる、

とある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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髄脳


詠む歌には、髄脳(ずいなう)・打聞(うちぎき)などいひて多くありげなり。今様には、いまださること無ければ、俊頼(としより)が髄脳を学びて、これを撰ぶところなり(梁塵秘抄口伝集)、

とある、

髄脳、

は、

和歌の髄脳、いと所せく(たくさんあり)、病(歌病)、さるべき心多かりしかば(源氏物語)、

とあるように、

奥義や秘説・心得を書いた書物、

とあり(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)、

髄も脳も身体の極めて大切な部分なので、

そういうらしい(岩波古語辞典)。

打聞、

は、

人といひかはしたる歌の聞こえて、打聞などに書き入れらるる(枕草子)、

と、

耳に触れたことを書き留めたもの、

とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。

特に、撰集を編むために広く歌を書き集めること、

ともある(岩波古語辞典)。

聞書(ききがき)、

である(大言海)。源俊頼の歌学書、

俊頼髄脳(天永二年(1111〕〜永久元年(1113)成立)、

は、現存写本の標題が、

俊頼口伝集(くでんしゅう)、
俊頼無名抄(むみょうしょう)、
俊秘(しゅんぴ)抄、

等々で、

当初から明確な書名はなかった、

とみられhttps://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=754、もと、

五巻、

と推測されているが、残存するのは、

巻一断簡、
巻十、

だけである(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。

本書は、

藤原勲子(後の鳥羽院皇后・高陽院(かやのいん)泰子=改名)献呈した歌学書、

であり、

作歌のための実用書として具体的心得を説くことを主体とするもの、

であったため、その構成も記述の関連に従っており、一貫したものではなく、内容はほぼ、

序に始まり和歌の種類、歌病、歌人の範囲、和歌の効用、実作の種々相、歌題と詠み方、秀歌などの例、和歌の技法、歌語とその表現の実態という順で記述する、

とありhttps://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=754、そのうち最後の歌語を基底に置いての、その意味と表現の実態説明が全体の約三分の二を占め、歌語・表現の種々な具体的記述と詠まれた和歌の発想の基となる説話・伝承なども詳しく記述する(仝上)、とある。

「髓(髄)」(漢音呉音スイ、慣用ズイ)は、

会意兼形声。遀(スイ)は、外側の形に柔らかく従うこと。隨はそれを音符として、骨を加えた字。骨の外わくに従う柔らかいゼラチン状のなかみ、

とある(漢字源)。別に、

形声。骨と、音符遀(スイ)とから成る。骨の中心部、ひいて、物事の中心の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(骨+迶)。「肉を削り取り、頭部をそなえた人の骨の象形と切った肉の象形」(「骨」の意味)と「段のついた土山の象形と左手の象形と工具の象形×2」(「くずれる」の意味)から、動物の骨の中心にあるやわらかなもの「ずい」を意味する「髄」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1696.htmlある。

「腦(脳)」(漢音ドウ、呉音ノウ)は、

会意兼形声。𡿺は、頭に毛の生えた姿。上部の巛印は頭髪であり、下部は、思の字にも含まれて居る形であって、頭骨におどりの筋の入っている姿である。腦はそれを音符とし、肉を加えた字で、柔らかい意味を含む。脳みその柔らかい特質に着目した命名であろう、

とある(漢字源)が、ちょっと意味不明である。別に、

形声。「肉」+音符「𡿺 /*NU/」。{腦 /*nuuʔ/}を表す字。音符の「𡿺」は、「夒」の特殊な形の略体、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%85%A6

会意形声。肉と、𡿺(ダウ あたま)とから成る。のうみその意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「まだ上部が開いている乳児の頭蓋骨」の象形と「髪」の象形と「年老いた女性」の象形(「比」に通じ、「並ぶ、つく」の意味)から、髪と頭蓋骨が付いている「のうみそ」を意味する「脳」という漢字が成り立ちました。(「年老いた女性」の象形は、のちに、「切った肉」の象形に変形しました)、

ともhttps://okjiten.jp/kanji50.htmlある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』(講談社学術文庫Kindle版)

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瀉瓶(しゃびょう)


一筋を徹さむために、みな、この様に違ひたるをば習ひ直して、残ることなく瀉瓶(しやびやう)し終はりにき(梁塵秘抄口伝集)

の、

瀉瓶(しゃびょう)、

は(「びょう」は「瓶」の呉音)、

写瓶、

とも当て(広辞苑)、

仏教語で、瓶の水を他の瓶に一滴残らずそそぎ移すように、師から弟子に仏法の奥義をことごとく伝授すること、

とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。また、

その弟子、

の意もある(精選版日本国語大辞典)。

真言宗では、

瀉瓶相承、

とも使い、転じて、

後鳥羽院は、彼の卿(藤原定輔)に御琵琶習はせ給ひて、既に瀉瓶せさせ給ふべきになりにけるとき(古今著聞集)、

と、

秘曲啄木の伝授を以て琵琶の奥義を究めるとする意識に「瀉瓶」の語が用いられている、

という(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)ように、

学問や芸道、

においても用いられた(精選版日本国語大辞典)。

瀉(写)瓶相承(しゃびょうそうじょう)、

は、

五つには我に事(つか)ふるより来(このか)た、我が所説の十二部経を持し、一たび耳を経れば会て再問せず、瓶水を瀉(うつ)して之を一瓶に置くが如し(涅槃経巻四十)、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E6%B0%B4%E5%86%99%E7%93%B6

師から弟子へと教法が次々に受け継がれていく際、その教法の授受が、あたかも一器の水を他の一器に移すように、一滴たりとも遺漏なくすべてが伝えられ、受け継がれていくこと。師資相承は一宗の奥義を伝え、授受伝承されるものであるから、師の教えが正しく、間違いなく伝えられねばならない。その授受がすべて完全にそのまま移されることを示す言葉である、

とありhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%80%89%E7%93%B6%E7%9B%B8%E6%89%BF

法は譬えば水の能(よ)く垢穢(くえ)を洗うに……其の法水も亦復是(またまたかく)の如し、能く衆生の諸(もろもろ)の煩悩の垢を洗う(無量義経説法品第二)、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E6%B0%B4%E5%86%99%E7%93%B6

法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)、

という言い方もする。また、

親から子に血が受け継がれるように、受け継いだ仏教の諸々すべてをそっくりそのまま次代に継承させる、

という、

血脈相承(けちみゃくそうじょう)、

あるいは、

ロウソクからロウソクへと、法の灯火(火)を移していく、

という、

伝灯相承(でんとうそうしょう)、

という言葉もあるhttps://tenshinryu.net/?p=1711

「瀉」(漢音シャ、呉音サ)は、

会意兼形声、寫の舄(シャク・セキ)は鵲(セキ)と同じく、大きな口をあけて声をはきだすカササギを描いた象形文字。寫は、それを音符とする形声文字で、こちらの物をそちらへうつすこと。その原義には関係ない。瀉は「水+音符寫で、液体を外へまたは低い方へ移すこと、

とある(漢字源)。注ぐ意で、「傾瀉(ケイシャ)」、吐く意で、「吐瀉(トシャ)」、流れ出る意で、「瀉出(シャシュツ)」、流れがきわめて速い意で、「一瀉千里(イッシャセンリ)」等々。

「寫(冩・写)」(シャ)は、

形声。寫の舄(シャク・セキ)はカササギの姿を描いたもの。ここでは単なる音符で、もとの意味には関係ない。寫は場所を移す意味を含む、

とある(漢字源)。別に、

形声。宀と、音符舄(セキ→シヤ)とから成る。外から家の中に物を移しおろす、転じて、物をうつしとる意を表す、

とも(角川新字源)、

形声文字です(宀+舄)。「おおい」の象形と「かささぎ(スズメ目カラス科の鳥)」の象形(「かささぎ」の意味だがここでは、「席(せき)」に通じ(同じ読みを持つ「席」と同じ意味を持つようになって)、「しく(敷)」の意味)から、実物を下に置き、その上に紙をかぶせて「かきうつす」を意味する「写」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji494.html

「n(瓶)」(唐音ビン、漢音ヘイ、呉音ビョウ)は、

会意兼形声。并は「人二人+=印二つ」の会意文字で、二つあわせ並べることを示す。瓶は「瓦(土器)+音符并(ヘイ)」。もと、二つ並べて上下させる井戸つるべ。のち水をくむ器や、液体を入れる小口の容器を指すようになった、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(并(幷)+瓦)。「人を並べつないだ」象形(「あわせる」の意味)と「粘土をこねて焼いた土器」の象形(「土器」の意味)から、同じ鋳型(いがた)で作った半分を合わせて作る「かめ」を意味する「瓶」という漢字が成り立ちました

ともあるが、

形声。「瓦」+音符「并 /*PENG/」。「かめ」「つるべ」を意味する漢語{瓶 /*beeng/}を表す字。かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、誤った分析である、

と否定しhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%93%B6、また、

形声。瓦と、音符幷(ヘイ)とから成る。小形のほとぎ、「かめ」の意を表す(角川新字源)ともある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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九品往生


やがて聞きしより始めて、朝(あした)には懺法(せんぼふ)を誦みて六根を懺悔し、夕(ゆふべ)には阿弥陀経を誦みて西方の九品往生(くほんわうじやう)を祈ること、五十日勤め祈りき(梁塵秘抄口伝集)、

とある、

懺法、

は、

せんぽう、

とも訓み、

経を読誦して、罪過を懺悔(さんげ)する儀式作法。罪障を懺悔するために、特別に行なう法要、

をいい、古くは、

悔過(けか)、

といって、

法華懺法、
観音懺法、
阿彌陀(あみだ)懺法、

などは滅罪生善の後生菩提(ごしょうぼだい)のために、

吉祥懺法、

は鎮護国家、息災延命のために行なわれた(精選版日本国語大辞典)が、

普通は諸経に基づき、罪を懺悔する修法・儀式法則、

をいい(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)、

滅罪生善のための法華懺法、

あるいは、

後生菩提のための阿弥陀懺法、

が行われた(仝上)とある。

朝には懺法を誦みて、

は、

「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の根は、これらを対象とする執着の罪を生ずる)を懺悔し」という法華懺法、

をいい、

夕には阿弥陀経を誦みて、

は、

「西方の九品往生を祈る」という阿弥陀懺法、

を意味する(仝上)とあり、このような暁に法華懺法を行い、夕方に阿弥陀懺法が行われるのが一般であった(仝上)という。中古以後、

法華懺法がもっとも盛んで、懺法は法華懺法の略称となった、

とある(精選版日本国語大辞典)。「六根」については「六根五内」で触れた。

九品往生(くほんおうじよう)、

は、

『観無量寿経』によれば、

凡夫は生前に積んだ功徳に応じて浄土往生が九階層に分かたれているという。すなわち、極楽には上品・中品・下品があり、さらにそれらが上生・中生・下生に分かたれ、往生の違いによって迎えられる蓮華の台が異なり、これを九品往生といった、

とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。

九品往生、

とは、

阿弥陀如来の住む極楽浄土に生れたいと願う者の9段階(九品)の往生の仕方、

をいい(ブリタニカ国際大百科事典)、

九品浄土に往生しようと願って念仏すること、

を、

九品念仏(くほんねんぶつ)、

その、往生する者の機根に応じて九等の差別がある浄土を、

十方仏土の中には西方を以て望とす九品蓮台の間には下品といふとも足んぬべし(和漢朗詠集)、

と、

九品浄土、

あるいは、

九品安養界(あんにょうかい)、
九品の浄刹(じょうせつ)、
阿弥陀の西方浄土、
極楽浄土、

ともいい、その極楽浄土にある往生した者が座す蓮の台(うてな)、

を、

九品蓮台(くほんれんだい)、

という。それも、生前の功徳によって九等の差別があるので、

九品のうてな。
九品の蓮(はちす)、

といい、

阿弥陀仏が九品ごとに異なる来迎をするさまを描いた仏画、

の、印相の異なる9体の阿弥陀如来像を、

九品来迎図(くほんらいごうず)、

という。その阿弥陀仏を、九品浄土の教主という意味で、

九品の教主(くほんのきょうしゅ)、

という(広辞苑)。

九品、

は、

三三品(さんさんぼん)、

ともいい、

上品(ジヨウボン)、
中品(チユウボン)、
下品(ゲボン)、

に三分し、それぞれが、

上生(ジヨウシヨウ)、
中生(チユウシヨウ)、
下生(ゲシヨウ)、

に分けられ、

上品上生(じょうぼんじょうしょう)・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生、

九種の階位をいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B9%9D%E5%93%81・学研全訳古語辞典)。

九品の往生人が、菩薩の修道階位のどの位置に該当するかについては異説があり(仝上)、九品の人を高位の位置と見るのが、

上品を大乗人の中の種性已上とし、中品を小乗人の中の凡より聖に入るとし、下品を大乗人の中の外凡とする(浄影寺慧遠(じょうようじえおん)『観経義疏』)、
上品を習種から解行げぎょうの菩薩とし、中品を外凡の十信已下とし、下品を今時の悠々の凡夫としている(智『観経疏』)、
(浄全五・三五〇上〜一上/正蔵三七・二四五上〜中)では、上品を大乗の善とし、中品を小乗の善とし、下品を悪をなし善のない、過去に発心したものとする(吉蔵『観経義疏』)、

に対し、九品すべてが凡夫であるとするのは、

上品を大乗に出遇った凡夫、中品を小乗に出遇った凡夫、下品を悪に出遇った凡夫としている(善導は『観経疏』)、

など分かれている(仝上)。法然は、

九品は「釈尊ノ巧言」(釈尊の巧みな手だてのことば)であり、善人も悪人も同じところに往生するといえば悪業をなす者が慢心をおこすであろうから、方便として階位の違いを述べたのだ(『十二問答』)、

という(仝上)。「九品」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%93%81に詳しい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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下枝(しずえ)


沖つ風吹きにけらしな住吉の、松の下枝(しづえ)をあらふ白波(梁塵秘抄)、

の、

下枝、

は、

下の方の枝、
下の枝、
したえだ、

の意で、

しずえだ、

とも訓む(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。対語は、

花橘は本都延(ホツエ)は鳥ゐ枯らし志豆延(シヅエ)は人とり枯らし三つ栗の中つえのほつもり赤らをとめを(古事記)、

と、

上枝(ほつえ)、
中つえ、

で(仝上)、

上枝、

は、

上の方の枝、

の意、

秀枝、

とも当て、

はつえ、

とも訓み(仝上)、

なかつえ、

は、

中つ枝、

と当て、

中つ枝の枝(え)の末葉(うらば)は下つ枝に落ち触らばへ(古事記)、

と、

中間の高さにある枝、

の意である(デジタル大辞泉)。

下枝(シヅエ)、

の語源は、

シヅはシヅム(沈)、シヅカ(静)、シヅク(雫)のシヅと同根、下に沈んで安定しているさま(岩波古語辞典)、
シモツエ(下枝)の約ソツエの転(名語記)、
シヅはシタ(下)の転(国語の語根とその分類=大島正健)、
シヅはホツに対する体言形容詞、エは枝の義(万葉集講義=折口信夫)、

などと諸説ある。

上枝、

は、

ホ(秀)は、突き出ている意、ツは連体助詞(岩波古語辞典)、
秀(ほ)つ枝(え)の意(広辞苑)、
「ほ」は「秀」、「つ」は格助詞(大辞林)、
「つ」は「の」の意の格助詞(日本国語大辞典)、
「ほ」は突き出る意、「つ」は「の」の意の上代の格助詞(学研全訳古語辞典)、
秀(ほ)之(つ)枝(え)の義、ホ(秀)は最上の義(松屋棟梁集・大言海・万葉集講義=折口信夫)、
穂枝の義(万葉集類林)、
ホノカナル梢の義(歌林樸樕)、

等々とあるが、

穂、

は、

秀、

とも当て、

稲の穂、山の峰などのように突き出ているもの、形・色・質において他から抜きんでていて、人の目に立つもの、

の意(岩波古語辞典)なので、

上枝、

は、

秀つ枝、

であろう。とすると、

下枝、

は、「下」から来たのではなく、

シヅはシヅム(沈)、シヅカ(静)、シヅク(雫)のシヅと同根、下に沈んで安定しているさま(岩波古語辞典)、

なのではあるまいか。なお、

下枝、

を、

したえ、
しづえだ、

と訓ませると、

樹木の下部の枝、

になるが、

おろしえ、

と訓ませると、

院にありける紅梅のおろし枝つかはさんなど申けるを、又の年の二月ばかり、花咲きたるおろし枝に結びつけて(千載和歌集)、

と、

切りおろした枝、
おろしえだ、

の意になる(精選版日本国語大辞典)。

「枝」(漢音シ・キ、呉音シ・ギ)は、「」で触れたように、

支、

とも当てる。

幹の対、

であり、

会意兼形声。支(キ・シ)は「竹のえだ一本+又(手)」で、一本のえだを手に持つさま。枝は「木+音符支」で、支の元の意味をあらわす、

とある(漢字源)。手足の意では、

肢(シ)、

指の意では、

跂(キ)、

の字が同系である(仝上)。もと、

「枳」が{枝}を表す字であり、「枝」はその後起形声字である、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9E%9D

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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懈(たゆ)し


寐たる人打驚かす鼓かな、如何に打つ手の懈(たゆ)かるらん、可憐(いとをし)や(梁塵秘抄)、

の、

懈(たゆ)かる、

は、

(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ

と活用する、

く活用の形容詞、

たゆし、

で、

弛し、
懈し、

とあてる(岩波古語辞典・学研国語大辞典)。

垂るに通ず、

とあり(大言海)、

京師(みやこ)べに君は去(い)にしを誰解けかわが紐の緒の結ふ手手懈(たゆき)も(万葉集)、

と、

だるい、
元気がない、

意や、

いとつつましげにたゆくみなし給つるまみ(夜の寝覚)、

と、

目つきが、だるそうで力がない、

意で使い、この状態表現を価値表現に転じて、

心行き届かず、心の働き活き遅し、

の結果、

あやしくたゆくおろかなる本性にて(源氏物語)、

と、

鈍い、
(性格が)ぐずである、

とか、

わがたゆく世づかぬ心のみくやしく(仝上)、

と、

ぼんやりしている、
のんびりしている、

とか、

例のさいふとも日たけなむと、たゆき心どもは、たゆたひて(紫式部日記)、

と、

心のはたらきが鈍い、
気がきかない、

意などで使う(岩波古語辞典・学研国語大辞典)。この、

たゆし、

の動詞形が、

たゆむ(弛・懈)、

で、

持続する緊張がゆるむ意、類義語倦むは、長らく事にかかっていて疲れ、途中で嫌気がさして投げ出す意、

とある(岩波古語辞典)。

「懈」(漢音カイ、呉音ケ、慣用ゲ)は、

会意兼形声。解(カイ)は、ばらばらに解き放すこと。懈は「心+音符解」で、心の緊張がとけてだらけること、

とある(漢字源)。

「弛」(漢音呉音シ、慣用チ)は、

会意兼形声。也は、平らに長く伸びたサソリを描いた象形文字。弛は「弓+音符也」で、ぴんと張った弓がだらりと長く伸びること、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(弓+也)。「弓(ゆみ)」の象形(「弓」の意味)と「女の生殖器、または、蛇」の象形(「ひさげ(取っ手と注ぎ口をつけた形の容器)」の意味)から、ひさげ一杯の水が、たれ流れるように、弓のつるが「ゆるむ」を意味する「弛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2444.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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水馴木(みなれぎ)


水馴木(みなれぎ)の水馴(みなれ)磯馴(そなれ)て別れなば、戀しからんずらむものをや睦(むつ)れ馴(なら)ひて(梁塵秘抄)、

の、

水馴木、

は、

水に浸ってなれた木、
水に浸って十分に水分を含んだ木、

をいい(精選版日本国語大辞典)、

熊野河くだす早瀬のみなれざほ(お)さすがみなれぬ波のかよひ路(ぢ)(新古今和歌集)、

と、

水馴棹(みなれざお)、

というと、

水に馴れた棹、

の意で、

みざお(水棹)、

ともいい、

舟の棹、

を指す(岩波古語辞典)。

水馴(みなれ)、

は、

水に浸ることに馴れる、

意で、

よそにのみ聞かましものを音羽川渡るとなしにみなれそめけん(古今集)、

と、

見慣れ、
身慣れ、

とかけていうことが多い(仝上)とある。

磯馴(そなれ)、

は、

動詞「そなる(磯馴)」の連用形の名詞、

であり(精選版日本国語大辞典)、

潮風のために木が地面に低くなびいて、傾き生えること、

をいい、

そな(磯馴)る、

の「そ」は、

いそ(磯)」の変化したもの、

で、

み吉野のきさやまかげに立てる松いく秋風にそなれ来ぬらん(曾丹集)、

と、

下二段活用の自動詞、

で、

海岸の木の枝や幹が強い潮風のために地面に傾いて生えのびる、

意で、

いそな(磯馴)れる、

というと、

下一段活用の自動詞、

で、

礒なれし松も見らるるねはんかな(白雄句集)、

と、

強い潮風のために樹木が地面になびいて生え延びる、

意である(精選版日本国語大辞典)。

そな(磯馴)る、

は、

見慣れ磯馴れて別るる程は(源氏物語)、

と、

見慣れ磯馴れ、

の形で、

長年馴れ親しむ、

意だが、

「見慣れ」に「水馴れ」を掛け、単に語調を合わせるために「磯馴れ」と続けたにすぎない、

とある(岩波古語辞典)。

海岸などに傾き生えている木、

を、

磯馴(そな)れ木、

といい、

海岸などに傾き生えている松、

を、

磯馴(そな)れ松、

という(仝上)。

水馴る、
と、
磯馴る、

とを合わせた、

水馴磯馴る(みなれそな)る、

というと、

「見馴れ」に「水馴れ」をいいかけて、「水」の縁で「磯馴れ」と続けた表現、

で、

ただ、あだにうち見る人の、あさはかなるかたらひだに、みなれそなれて別るる程はただならざめるを(源氏物語)、

と、

みなれ(見慣)る、

意である(精選版日本国語大辞典)。

「馴」(漢音シュン、呉音ジュン)は、

会意兼形声。「馬+音符川」で、川が一定のすじ道に従ってながれるように、馬が従いなれること、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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柞(ははそ)


冬來(く)とも柞(ははそ)の紅葉(もみじ)な散りそよ、散りそよ勿(な)散りそ色變(か)へで見ん(梁塵秘抄)、

の、

柞、

は、

ははそのき(柞木)、

ともいい、

ミズナラなどのナラ類およびクヌギの総称(精選版日本国語大辞典)、
ブラ科の落葉喬木、ナラ(岩波古語辞典)、
古くは近似種のクヌギ・ミズナラなどを含めて呼んだ。誤ってカシワをいうこともある(デジタル大辞泉)、

などとあるが、

コナラの古名、

ともある(日本大百科全書・植物名辞典)。和名類聚抄(平安中期)には、

柞、波波曾、

とあり、

柞はいぬつげなり、

とあり(大言海)、字鏡(平安後期頃)には、

楢、波波曾、

とある。書言字考節用集(江戸中期)には、

柞、ハハソ、ニシキギ、ユシ、ユス、

とあり、後述の「イスノキ」と混同するなど、かなり混乱している。

この、

柞(ははそ)、

は、古く、

はわそ、

とも表記した(精選版日本国語大辞典)が、

たとへばはうその木にふるい葉がしげったに又其あとに枝のやうに生ずると(古活字本毛詩抄)、

と変化して、

はうそ(ほうそ)

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

コナラ(小楢)、

は、

ブナ目ブナ科コナラ属の落葉広葉樹、

別名、

ハハソ、
ホウソ、
ナラ、

ともよばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%A9。和名、

コナラ、

の由来は、もう一つの日本の主要なナラであるミズナラの別名であるオオナラ(大楢)と比較して、葉とドングリが小さめで「小楢」の意味で名づけられた(仝上)とある。

なお、

ははそ、

は、

語頭の二音が同音である、

ところから、

母の意をかけて、

いい、

母の雅語、

ともなる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

ははそ、

の語源は、

ハハソヒ(葉々添)の義(名言通・大言海)、
ハホソ(葉細)の義(言元梯)、

などとあるが、「柞」を、

コナラ、

と仮定すると、

オオナラ(大楢)と比較して、葉とドングリが小さめで「小楢」の意味で名づけられた、

という意味から、

ハホソ(葉細)、

はありえる気がする。

柞、

は、また、

いかにせん逢ことかたきゆすの木の我にひかれぬ人の心を(七十一番職人歌合(1500頃か)四二番)、

と、

ゆすのき、

あるいは、

ゆしのき(柞)、
ゆし(柞)、

とも訓み、

いすのき(柞)の古名、

とある(精選版日本国語大辞典)。

イスノキ、

は、

マンサク科の常緑高木、

別名、

ユスノキ、
ユシノキ、
クシノキ。
イス、

中国名は、

蚊母樹、

葉にしばしば虫こぶ(虫えい)がつき、大きくなると穴が開くのが特徴、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%82%AD

葉に生ずる虫こぶはタンニンを含み、染料に、材は堅くて重く、柱・机・櫛くし・そろばん玉などに用いられ、また柞灰(いすばい)も作られる、

ともある(デジタル大辞泉)。虫こぶを吹いたときに鳴る音から、

ひょんのき、

ともいい、

さるぶえ、
さるびょう、

ともいう(仝上)。

「柞」(漢音サク、呉音ザク)は、

会意兼形声。「木+音符乍(サ さっさときる)」、

とある(漢字源)。

「乍」(漢音サ、呉音ジャ)は、

象形。刃物をさっと∠形に切るさまを描いたもので、刃物で切れ目を入れることを表す。作(サク・サ さっと切る→はじめて動作を起こす)の原字。詐(つくりことば)・昨(サク 昔(セキ)に当てて用いる)の音符となる。作が作為の意に専用されたため、乍は急切な動作をあらわす副詞となった、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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鳥瑟(うしつ)


毗沙利(びしゃり)國の観音は、今は鳥瑟(うしつ)も見えじかし、入りぬらん、聖徳太子の九輪(くりん)は、光も變(かは)らで今ひをつあり(梁塵秘抄)、

の、

鳥瑟、

は、

烏瑟膩沙(うしちにしゃ)、

の略で、

梵語uṣṇīṣa、

の音訳、

うしち、
うしつ、
うすつ、
うしつにしゃ、
うちにしゃ、

ともいい、

仏頂、

とも訳し(精選版日本国語大辞典)、

肉髻(にくけい)、

つまり、

仏の三十二相の一つ。仏の頭頂にある、髻(もとどり)のように突起した肉塊、

をいい、

釈尊の三十二相(三十二相八十種好)の特徴の一つで、一般の如来形にも超人的なものの象徴として表わされる、

とある(仝上)。「三十二相」て触れたように、

肉髻(にくけい)、

は、

三十二相の三十一番目、

頂髻相(ちょうけいそう) 頭の頂の肉が隆起して髻(もとどり)の形を成している、

とある。

肉髻(にくけい)の中にあって、誰も見ることのできない頂点、

を、

無見頂相(むけんちょうそう)、

といい、

仏の八十随形好(ずいぎょうごう)の一つ。

とされる(広辞苑)。

烏瑟膩沙(うしちにしゃ)、

は、翻譯名義集(南宋代の梵漢辞典)に、

烏瑟膩沙、此云佛頂、頂骨湧起、自然成髻、故名肉髻、

とある。

三十二相」でふれたように、

如来変化之身、具此三十二相、以表法身衆徳圓極、人天中尊、衆聖之王也(「大蔵法數(だいぞうほっす)」)、

と、

仏がそなえているという32のすぐれた姿・形、

すなわち、

手過膝(手が膝より長い)、
身金色
眉間白豪(はくごう)
頂髻(ちょうけい)相(頭頂に隆起がある)

という意味であるが、転じて、

三十二相足らひたる、いつきしき姫にてありける(御伽草子「文正草子」)、

と、

女性の容貌・風姿の一切の美相、

の意味になる(広辞苑)。

釈迦如来の身体に具したる、異常なる表象(しるし)

は、

三十二大人(だいにん)相、
三十二大丈夫(だいじょうふ)相、
三十二大士(だいじ)相、
大人相、
四八(しはち)相、

等々ともいう(日本大百科全書)。また、

三十二相八十随形好(ずいぎょうこう)

あるいは、

三十二相八十種好(はちじっしゅごう)、

あるいは、

八十随形好(はちじゅうずいぎょうこう)、

とも言い、仏の身体に備わっている特徴として、

見てすぐに分かる三十二相と、微細な特徴である八十種好を併せたもの、

で、両者をあわせて、

相好(そうごう)

という(仝上)。

三十二相の一で、眉間の白毫(白い毛)は右旋して光明を発するという。「白毫」については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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葉腕(くぼて)・葉手(ひらて)


吉田野に神祭る、天魔(てま)は八幡(やはた)に葉椀(くぼて)さし、葉手(ひらて)とか、賀茂の御手洗(みたらし)に精進して、空には風こそさいさか程は取れ(梁塵秘抄)、

の、

葉椀(くぼて)、
葉手(ひらて)、

は、

柏(かしわ)の葉を使った容器で、

葉椀(くぼて)、

は、

窪手、

とも当て、

クボ、

は、

窪、
凹、

と当て(岩波古語辞典)、

其の窪きをいい(大言海)

神前に供える物を入れる器。カシワの葉を幾枚も合わせ竹の針でさし綴って、凹んだ盤(さら)のように作ったもの、

をいい(広辞苑)、

神山のかしはのくぼてさしながらおひなをるみなさかへともがな(相模集)、

と、

柏の窪手(かしわのくぼて)、

という言い方もする(精選版日本国語大辞典)。

葉手(ひらて)、

は、

枚手、
葉盤、

とも当て、

ひらすき(枚次)、

ともいい、

ヒラはヒラ(平)と同根、

で(岩波古語辞典)、

大嘗会(だいじょうえ)などの時、菜菓などを盛って神に供えた器。数枚の柏の葉を並べ、竹のひごなどでさしとじて円く平たく作ったもの

をいい(精選版日本国語大辞典)、後世ではその形の土器かわらけをいい、木製・陶製もある。

」で触れたように、「かしわ」には、樹木の葉の意味の他に、

食物や酒を盛った木の葉、また、食器、

の意がある。

多くカシワの葉を使ったからいう、

とあり(広辞苑)、

大御酒のかしはを握(と)らしめて、

と古事記にある。「カシワ」を容器とするものに、

くぼて(葉碗・窪手)、
ひらで(葉盤・枚手)、

があり、和名類聚抄(平安中期)に、

葉手、平良天、葉椀、九保天、

とある。ために、

葉、此れをば箇始婆(かしは)といふ(仁徳紀)、

とあり、仁徳紀に、

葉、此れをば箇始婆(かしは)といふ、

とある。で、「葉」を、

かしわ、

とも訓ます(岩波古語辞典)。

膳夫(かしわで)」で触れたことだが、

膳夫(かしはで)、

は、

カシハの葉を食器に使ったことによる。テは手・人の意(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・大辞林・日本語源広辞典)、
カシハは炊葉、テはシロ(料)の意で、ト(事・物)の転呼、カシハの料という意(日本古語大辞典=松岡静雄)、
カシハデ(葉人)の義(大言海)、

とあり、

カシハ、

は、

カシワ(柏・槲)、

の意である。「柏餅」触れたように、

たべものを盛る葉には、

ツバキ・サクラ・カキ・タチバナ・ササ、

などがあるが、代表的なのが、

カシワ、

であった(たべもの語源辞典)ので、「柏餅」の、

カシワの葉に糯米(昔は糯米を飯としていた)を入れて蒸したのは、古代のたべものの姿を現している、

ともいえる(仝上)。

こうみると、

くぼて、
ひらで、
かしわで、

の、

テ、

は、

くぼへ(凹瓮)、
ひらへ(平瓮)、

とする説(言元梯)もあるが、

瓮(オウ)、

は、和名類聚抄(平安中期)に、

甕、毛太井(もたひ)、

とあり、

甕(オウ)は瓮と同義(漢字源)とあり、

水や酒を入れる器、

なので、少しずれそうだ。

手、

と当てている通り、

テは手で捧げるところから(東雅)、
テは取り持つところから(日本語源=賀茂百樹)、

とあるように、

テ(手)、

自体、

トリ(取・執)の約轉(古事記伝・和訓集説・菊池俗語考・大言海・日本語源=賀茂百樹)、

と、動作からきているようなので、

テは手・人の意(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・大辞林・日本語源広辞典)、

というのが妥当な気がする。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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重波(しきなみ)


南(なん)宮の御前(おまへ)に朝日さし、兒(ちご)の御前に夕日さし、松原如来の御前には、官位(つかさ)昇進(まさり)の重波(しきなみ)ぞ立つ(梁塵秘抄)、

の、

重波、

は、

頻浪、

とも当て、

次から次へとしきりに打ちよせる波、

をいい、字鏡(平安後期頃)に、

波浪相重、志支奈美、

とあるが、転じて、

頻並、
敷並、

とあてる、

しきなみにつどひたる車なれば、出づべきかたもなし(枕草子)、

と、

絶え間なく続くさま、
たてつづけ、

という意で使い(広辞苑)、

しきなみなり(頻並みなり)、

は、

あとからあとから続いている、

意で(学研全訳古語辞典)、

頻浪(しきなみ)を打つ、

というと、

和泉・河内の早馬敷並を打つて(太平記)、

と、

しきりである、

意で使う(広辞苑)。ちなみに、

しきなみぐさ(頻浪草)、

というと、

すすき、

の異称である(仝上)。

なお、上記の、

南(なん)宮、
兒(ちご)、
松原如来、

とあるのは、摂津国武庫郡(西宮市大社町)の、式内社、

広田神社、

の、

摂社、
末社、

で、十巻本の伊呂波字類抄(平安末期)に、

広田  五所大明神 本身阿弥陀 在摂津国
矢洲大明神  観音  南宮  阿弥陀 
夷  毘沙門 エビス  児宮  地蔵 
三郎殿  不動明王  一童  普賢 
内王子  観音    松原  大日 
百大夫  文殊    竃殿  二所

とあるhttp://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/files/HIROTA.html

「頻」(漢音ヒン、呉音ビン)は、

会意文字。「頁(あたま)+渉(水をわたる)の略体」で、水ぎわぎりぎりにせまること、

とあり(漢字源)、

会意。頁と、涉(しよう=渉。𣥿は変わった形。步は省略形。水をわたる)とから成り、川をわたる人が顔にしわを寄せる、ひそめる意を表す。もと、瀕(ヒン)に同じ。借りて「しきりに」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(もと、渉(涉)+頁)。「流れる水の象形(のちに省略)と左右の足跡の象形」(「水の中を歩く、渡る」の意味)と「人の頭部を強調した」象形(「かしら」の意味)から、水の先端「水辺」、「岸」を意味する「頻」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1877.htmlが、別に、「頻」は、

「瀕」の略体。のち仮借して「しきりに」を意味する漢語{頻 /*bin/}に用いる、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A0%BB、「瀕」は、

原字は「水」+「步」から構成される会意文字で、水際を歩くさまを象る。西周時代に「頁」を加えて「瀕」の字体となる。「水辺」を意味する漢語{瀕 /*pin/}を表す字。『説文解字』では「頁」+「涉」と分析されているが、これは誤った分析である。甲骨文字や金文の形を見ればわかるように「涉」とは関係がない、

と、上記の、

「頁」+「涉」説、

を一蹴しているhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%80%95

「重」(漢音チョウ、呉音ジュウ)は、

会意兼形声。東(トウ)は、心棒がつきぬけた袋を描いた象形文字で、つきとおすの意を含む。重は「人が土の上にたったさま+音符東」で、人体のおもみが↓型につきぬけて、地上の一点にかかることをしめす、

とある(漢字源)。別に、

象形。荷物(音符「東 /*TONG/」を兼ねる)を背負った人物を象る。「おもい」を意味する漢語{重 /*drongɁ/}を表す字。のち仮借して「かさねる」を意味する漢語{重 /*drong/}にも用いる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%87%8D

会意形声。人と、東(トウ→チヨウ ふくろ)とから成り、人がおもいふくろを負う、ひいて「おもい」、また、「かさねる」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(壬+東)。「人が立っている」象形と「重い袋の両端をくくった」象形から(人が)重い袋を持って耐える、すなわち「おもい」を意味する「重」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji503.html。なお、「東」(漢音トウ、呉音ツウ)は、「東司(とうす)」で触れた。

「浪」(漢音呉音ロウもー、唐音ラン)は、

会意兼形声。良は◉(穀物)を水でといてきれいにするさま。清らかに澄んだ意を含む。粮(リョウ きれいな米)の原字。浪は「水+音符良」で、清らかに流れる水のこと、

とある(漢字源)。別に、

形声。水と、音符良(リヤウ)→(ラウ)とから成る。もと、川の名。のち、借りて「なみ」の意に用いる

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(氵(水)+良)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「穀物の中から特に良いものだけを選び出すための器具の象形」(「良い」の意味だが、ここでは、「ザーザーと、うねる波を表す擬態語」)から、「なみ」を意味する「浪」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1512.html

「波」(ハ)は、

会意兼形声。皮は「頭のついた動物のかわ+又(手)」の会意文字で、皮衣を手でななめに引き寄せて被るさま。波は「水+音符皮」で、水面がななめにかぶさるなみ、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+皮)。「流れる水の象形」と「獣の皮を手ではぎとる象形」(「毛皮」の意味)から、毛皮のようになみうつ水、「なみ」を意味する「波」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji405.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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阿耨(あのく)菩提


歸命頂禮大権現、今日(けふ)より我等を捨てずして、生々世々に擁護(おうご)して、阿耨(あのく)菩提成したまへ(梁塵秘抄)、

の、

阿耨(あのく)菩提、

は、サンスクリット語、

アヌッタラー(無上の)・サムヤク(正しい、完全な)・サンボーディ(悟り)、

の意の、

anuttarā samyak-sabodhi、

の音写、

佛説是普門品時、衆中八萬四千衆、皆発無等等阿耨多羅三藐三菩提心(法華経)、

とある、

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)、

の略、

阿は無、耨多羅は上、三は正、藐は等、三は正、菩提は悟り(大日経)、

と、

仏の仏たるゆえんである、このうえなく正しい完全なる悟りの智慧(ちえ)のこと、

を言い、

縁覚(えんがく 仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者)、
声聞(しょうもん 仏の教説に従って修行しても自己の解脱のみを目的とする出家の聖者)、

がそれぞれ得る悟りの智慧のなかで、

此三菩薩必定阿耨多羅三藐三菩提不退無上智道(顕戒論(820))

と、

仏の菩提(ぼだい)は、このうえない究極のものを示す、

とされ(日本大百科全書)、

無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)、
無上正真道(しょうしんどう)、
無上正遍知(しょうへんち)、

などと訳される(仝上・精選版日本国語大辞典)。

大乗仏教では、

声聞乗(声聞のための教え)を縁覚(えんがく 独覚(どっかく))乗、

を二乗と称し、

菩薩(ぼさつ)乗、

を、三乗とするが、このうち二乗を小乗として貶称(へんしょう)し、声聞は仏の教えを聞いて修行しても自己の悟りだけしか考えない人々であると批判し(仝上)、

小乗の声聞の菩提、
と、
縁覚の菩提、

は執着や煩悩を滅尽しているけれども、真の菩提ということはできず、大乗の仏と菩薩の菩提のみが、

阿耨多羅三藐(あのくたらさんみやく)三菩提(anuttarasamyak‐saṃbodhi)、

であるとしている(仝上)。

菩提(ぼだい)、

は、サンスクリット語、

ボーディbodhi、

の音写。ボーディは、

ブッドフbudh(目覚める)、

からつくられた名詞で、

真理に対する目覚め、すなわち悟りを表し、その悟りを得る知恵を含む、

とされ、その最高が、

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、

であり、

最高の理想的な悟り、

の意で、この語は、仏教の理想である、

ニルバーナnirvāa(涅槃(ねはん))、

と同一視され、のちニルバーナが死をさすようになると、それらが混合して、

菩提を弔う、

といい、

死者の冥福(めいふく)を祈る、

意味となった(仝上)。

法華経(妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう))、

については、「法華経五の巻」で触れたが、

法華経のサンスクリット語の原題の逐語訳は、

正しい・法・白蓮・経、

で、

白蓮華のように最も優れた正しい教え、

の意であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C

ところで、「耨多羅三藐(あのくたらさんみやく)三菩提」の「阿耨」を取った、

阿耨観音(あのくかんのん)、

というのがあり、

三十三観音の一尊、

で、

妙法蓮華経の一節、

或漂流巨海/竜魚諸鬼難/念彼観音力/波浪不能没(=大海を漂流しているときに龍や魚や鬼による難があっても、彼の観音の力を念ずれば、波でさえその者を侵すことができない)、

に対応する仏尊とされる。「阿耨」という尊名は、

阿那婆達多竜王の住む「阿耨達池(あのくだっち)」と呼ばれる池の名前から。岩上に立てた右膝を両手で抱える形で坐し滝を眺める姿で描かれる、

とあるhttps://shimma.info/amp/item_anokukannon.html

三十三観音、

は、観音が衆生済度のために三三体に姿を変えると説く経説(法華経普門品)に付会して、

三十三応現身(さんじゅうさんおうげんしん)、

と、俗信の観音を三三に整理したもので、

楊柳(ようりゅう)、龍頭(りゅうず)、持経(じきょう)、円光、遊戯(ゆげ)、白衣(びゃくえ)、蓮臥(れんが)、滝見(たきみ)、施薬(せやく)、魚籃(ぎょらん)、徳王、水月(すいげつ)、一葉、青頸(しょうきょう)、威徳(いとく)、延命、衆宝(しゅほう)、岩戸(いわと)、能静(のうじょう)、阿耨(あのく)、阿麽提(あまだい)、葉衣(ようえ)、瑠璃、多羅尊(たらそん)、蛤蜊(はまぐり)、六時、普悲(ふひ)、馬郎婦(めろうふ)、合掌、一如(いちにょ)、不二、持蓮、灑水(しゃすい)、

の三三体をいう(精選版日本国語大辞典)。三十三感応像については「仏像図彙(土佐秀信)」http://rokumeibunko.com/butsuzo/bosatsubu/b01901_sanjusankannon.htmlに詳しい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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摩訶迦羅天(まかからてん)


仏法及(きゅう)文殊とか、多聞(たもん)摩迦羅(まから)天、山王(さんのう)及(きゅう)傳教大師、、慈覚環(じかくぐゑん)如来(梁塵秘抄)、

の、

摩迦羅(まから)天、

は、

摩訶迦羅天(まかからてん)、

の謂いかと思う。

摩訶迦羅天(まかからてん)、

の、

摩訶迦羅(まかから)、

は、

Mahākālaの音訳、

まかきゃらてん、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、

マカは大、キャラは黒の義、

で(大言海)、

テン、

は、

天者如雜心釋、有光明、故名之為天(大乗義章)、

と、

梵語、提婆(Deva)、又素羅(Sura)、光明の義、

で(仝上)、転じて、

帝釈天、毘沙門天、辨財天、四天王、三十三天の類の如く、

一切の鬼神(神)を天といい(仝上)、

摩訶迦羅天(まかからてん)、

は、

大黒天、

のことである(精選版日本国語大辞典)。

大黒天、

は、サンスクリット語の、

マハーカーラMahākāla、

の訳で、

摩訶迦羅(まかから)、

と音写。

マハーカーラ、

は、

偉大な黒い神、偉大な時間(=破壊者)、

を意味する(日本大百科全書)。元来、

ヒンドゥー教の主神の一つ、

で、青黒い身体をもつ破壊神としての、

シバ神(大自在天)、

の別名で、それが仏教に入って護法神となり、

毘盧遮那(びるしゃな)、
または、
摩醯首羅天(まけいしゅらてん)、

の化身という(精選版日本国語大辞典)。

“マハー”は大(もしくは偉大なる)、“カーラ”とは時あるいは黒(暗黒、闇黒)、

を意味し、

偉大なる暗黒(闇黒)の神、

なので、

大黒天、

と名づけられたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした神である。

摩醯首羅(まげいしゆら 大自在天)の化身で戦闘の神、

で、大日経疏においては、

毘盧遮那(びるしやな)仏の化身、

で、

灰を身体に塗り、荒野の中にいて荼枳尼(だきに)を降伏させる忿怒(ふんぬ)神である、

と説く(世界大百科事典)。

密教では、

青黒色、三面三目六臂、逆髪の忿怒形、

で、胎蔵界曼荼羅外院北方に配する(精選版日本国語大辞典)。

七福神の一つ、

である。

天部と言われる仏教の守護神達の一人、

で、

軍神・戦闘神、富貴爵禄の神、

とされた(仝上)が、中国においてマハーカーラの3つの性格のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられた(仝上)。

中国南部では、

床几(しょうぎ)に腰を掛け金袋を持つ姿、

で、

西方諸大寺處、或於食厨柱側、、或在大庫門前、彫木表形、或二尺三尺為神王状、坐把全嚢、却踞小床、脚垂地、毎将油拭、黒色為/形、號曰莫訶歌羅、即大黒神也(南海寄歸傳)、

と、

諸寺の厨房(ちゅうぼう)に祀(まつ)られた。わが国の大黒天はこの系統で、最澄によってもたらされ、天台宗の寺院を中心に祀られたのがその始まりといわれる(日本大百科全書)。

最澄は、

毘沙門天・弁才天と合体した三面大黒、

を比叡山延暦寺の台所の守護神として祀り、後に大国主神と習合した。

その後、台所の守護神から福の神としての色彩を強め、七福神の一つとなり、頭巾(ずきん)をかぶり左肩に大袋を背負い、右手に小槌(こづち)を持って米俵を踏まえるといった現在みられる姿になり、

商売繁盛を願う商家、
田の神として農家、

においても信仰を集め、音韻や容姿の類似から大国主命(おおくにぬしのみこと)と重ねて受け入れられたことが大きな要因で、

福徳や財宝を与える神、

とされ、その像は、

狩衣のような服を着て、まるく低いくくり頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を背負い、右手には打出の小槌を持ち、米俵の上にいる、

で、

大国主命を本地とする説が行なわれ、甲子の日をその祭日とし、二股大根をそなえる習慣がある(精選版日本国語大辞典)。

大黒さん、
大黒さま、
大黒天神、

などとして親しまれている(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9)。

なお、「七福神」については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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如来


十万佛神集まりて、寶塔扉(とぼそ)を押し開き、如来滅後の末の世に、法華を説きおき給ひしぞ(梁塵秘抄)、

の、

如来、

は、

梵語tathāgata(多陀阿伽陀)、

の訳、

かくの如く行ける人、

すなわち、

修行を完成し、悟りを開いた人、

の意。のちに、

かくの如く来れる人、

すなわち、

真理の世界から衆生(しゅじょう)救済のために迷界に来た人、

と解し、

如来、

と訳す(広辞苑)。

梵語 Tathāgata、

の語構成を、

tathā(「如」と訳され、真理・ありのままを表す)



āgata(「来る」の意のアーガムāgamの過去完了「来た」)

の合成と解して、

如来、

と訳されたが、

Tathā



gata(「行く」の意のガムgamの過去完了「去った」)、

の合成とも解され、その際には、

如去(にょきょ)、

の訳となる(チベット訳はこのほうをとっている)ということのようである(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。で、

如去(にょこ)、

ともいう、

仏の尊称、

である、

仏十号(ぶつじゅうごう)、

の一つである(仝上)。釈迦には、仏陀であることを意味する、

阿羅漢、
辟支仏、
如来、

等正覚などいくつもの尊称があるが、そのうちとくに、

十号(じゅうごう、 epithets for the Buddha)、

という、10の名号がよく知られている、つまり、

如来 tathāgata 真実に達した者、人格完成者、
応供(おうぐ) arhat 尊敬を受けるに値する者、阿羅漢。
正遍知(しょうへんち) samyaksambuddha 正しく悟った者、
明行足(みょうぎょうそく) vidyācaraṇasaṃpanna 知恵と行いの完成者、
善逝(ぜんぜい) sugata よく到達した者、しあわせな人、
世間解(せけんげ) lokavid 世間を知る者、
無上士(むじょうし) anuttara このうえなき者、
調御丈夫(じょうごじょうぶ) puruṣadamyasārathi 教化すべき人を教化する御者、
天人師(てんにんし) śāstā devamanuṣyānāṃ 天や人に対する教師、
仏世尊(ぶつせそん) buddho bhagavān 真理を悟った者、尊き人、

で、「仏世尊」を「仏」と「世尊」に分ければ十一号となる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8F%B7・ブリタニカ国際大百科事典)。

真如(真理)から来て衆生(しゅじょう)を導く、

意の「如来」は、

修行完成者、

の意で一般諸宗教を通じての呼称であったが、後に、

仏陀、

の呼称となり、更に大乗仏教では、

薬師如来、
大日如来、
阿弥陀如来、

のように諸仏の称ともなった(仝上)。

仏陀(ぶっだ)、

は、梵語、

ブッダBuddha、

の音写。

Buddha、

は、

budh(目覚める)を語源とし、

目覚めた人、
覚者、

すなわち

真理、本質、実相を悟った人、

を表し、もとは普通名詞であり、インドでは諸宗教を通じて使われたことばだが、ゴータマ・シッダールタはその一人で、それが仏教を創始した、

釈迦(しゃか)、

である。釈尊ゴータマもみずから悟ったので仏陀といいのちゴータマ・ブッダとなり、ゴータマの教えの最重要点が悟りであったこともあり、特に彼が仏陀の名を専有できたのであろう(ブリタニカ国際大百科事典)とある。

だから、当初は、

教祖の人格、

を表わすものであったが、入滅後は法としての精神が語り継がれ、彼の神格化が行われた。またのちには慈悲の面が特に強調されたこともあり、特に、

釈迦如来、

をさすことが多い(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典)。

なお、中国では、

浮図(ふと)、

などと音写し、それが日本に「ふと」として伝わり、これに「け」を加えて、やがて、

ほとけ、

となった(仝上)とある。

仏、

は、

仏陀の略、

ではなく、伝来の過程でBuddhaがBudとなったものらしい。唐以降は仏陀の音写が広まったとある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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箆(の)


鷲の本白を、くわうたいくわうの箆(の)に矧ぎて、宮の御前を押開き、無道(ふとう)射させんとぞ思ふ(梁塵秘抄)、

の、

箆、

は、和名類聚抄(平安中期)に、

箆、乃、箭竹名也、

とあり、

ヤダケの古名、

であるが、「やだけ」は、

矢竹、
箭竹、

と当て、

篠の類、形、雌竹に似て細く、葉は、ちまきざさ(粽笹)の如し、高さ、丈に過ぎず、幹、強くして、節の闥キく、多く矢の幹に作る、

とある(大言海)、

矢に用いる竹、

の意から、

矢に用いる竹の部分、

のため、

矢柄(やがら)、

の意となり、

箆、

も、

馬の額を箆深に射させて(平家物語)、

と、

矢柄(やがら)、

の意で使い、
箆、一名のだけ、一名やだけ、一名やのたけは漢名を菌簬、一名筓箭、一名箭幹竹といふ、

と(古今要覧稿)、

やだけ、

箆、

はほぼ同義となっている(広辞苑・大言海)。「矢柄」は、

矢幹、
簳、

とも当て、

矢の幹、

つまり、

鏃(やじり)と矢羽根を除いた部分、

をいい、普通は、

篠竹(しのだけ)で作る(デジタル大辞泉)。これも。

篦、

と同義でも使い、

矢篦、

ともいう(仝上)。

なお、

本白、

とは、

矢羽根の名、

で、

褐色で根元の方が白いもの、

をいう(精選版日本国語大辞典)。


侍(さぶらひ)藤五君(ぎみ)、めしし弓矯(ゆだめ)はなどとはぬ、弓矯も箆矯(のだめ)も持ちながら、讃岐の松山へ入(い)りにしは(梁塵秘抄)、

の、

弓矯(ゆだめ・ゆみだめ)、

は、

檠、

とも当て、和名類聚抄(平安中期)に、

檠、又は擏、由美大米、所以正弓弩也、

とあり、

弓の弾力を強くするために、弓幹(ゆがら)を曲げてそらせること、

あるいは、また、

曲がっている弓の材を、真っすぐに改めること、

の意で(精選版日本国語大辞典)、また、

そのために用いる道具、

をもいう(精選版日本国語大辞典)。

箆矯、

は、

箆撓、
箆揉、

とも当て、

弓の箆を撓(た)めて、曲がりなどを直す、

意から、

箆を撓めて、弓を張れる如き形、

をもいう(大言海)。また、

矢竹の曲がったのを撓め直す道具、

をもいい(岩波古語辞典)、

細い木に筋かいに溝を彫り、その中に箆を入れて直す、

ので、

すじかい、

ともいう(仝上・大言海)。

箆、

の由来は、

矢のノリ(度)の意(和訓栞・大言海)、
直であるところから、ナヲ(直)の反(名語記・日本釈名)、
箭の古訓ノリの略(古今要覧稿)、

とあるがはっきりしない(日本語源大辞典)。なお、

箆、

を、

へら、

と訓むと、

箆を使う、

というように、

竹・木・象牙・金属などを細長く平らに削り、先端をやや尖らせた道具、

をいい、

折り目・しるしをつけ、または漆・糊を練ったり塗ったりするのに用いる、

ものを指す(デジタル大辞泉)。

なお、「矢」については、「弓矢」で、「矧ぐ」についても触れた。

「箆」(漢音ヘイ、呉音ハイ、慣用ヒ)は、

会意兼形声。下部の字(ヒ・ヘイ)は、びっしりと並ぶ意を含む。箆はそれを音符として、竹を加えた、

とあり(漢字源)、「竹ぐし」の意で、

へら、

の、

の意で使うのはわが国だけである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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みさご


海におかしき歌枕、磯邊の松原琴(まつばらきん)を弾き、調(しら)めつつ沖の波は磯に来て鼓打てば、雎鳩(みさご)濱千鳥、舞い傾(こだ)れて遊ぶなり(梁塵秘抄)

の、

傾(こだ)る、

は、

薪(たきぎ)樵(こ)る鎌倉山の許太流(コダル)木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ(万葉集)、

とあり、

こ垂る、

とも当て(岩波古語辞典)、

「木垂る」で樹木の枝葉が繁茂して垂れ下がる、

意、また一説に、

「木足る」で、枝葉が充足している(繁茂している)、

意ともあり(精選版日本国語大辞典)、

重みでだらりとなる、
しなだれ下がる、

意で(仝上)、そこから転じて、

緊張がゆるんで姿勢がたるむ、

意でも使う。上記の、

舞い傾(こだ)れて遊ぶなり、

は、

この意味のようである(岩波古語辞典)。のちには、さらに転じて、

あのつらでこだれちゃあ、掃き溜めの地震、雪隠へ落っこちた雷、といふつらだらう(洒落本「辰巳婦言」)、

と、

泣きしおれる、
泣く、

意でも使うが、これは、もと、

人形浄瑠璃の社会の隠語、

という(デジタル大辞泉)。

みさご、

は、

鶚、
雎鳩、
鵃、
魚鷹、

などと当てhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%B4、鳥綱タカ目ミサゴ科ミサゴ属の、

トビとほぼ同大のタカ、

で、海辺や湖岸に住み、

全長約55センチ。尾は短めで、翼は長め。背面は暗褐色で、下面は白色。翼の下面には暗褐色の模様が出ます。空中の一点に羽ばたきながら留まり、水面を探し、獲物を見つけると急降下し、足を伸ばして水中へ飛びこみ、魚類を捕らえます。捕らえた魚は小さければ片足で運び、大きいものは手拭を絞るように握り、魚の頭を先にして縦にして運びます

とありhttps://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1496.html

捕らえた魚を岩陰の巣に積んでおく習性、

があり、その魚を、

みさご酢、

といって珍重する(岩波古語辞典)とある。

鹽、醤を加へずして食ふべく、味、人の作れる酢の如し、

とある(大言海)。和名類聚抄(平安中期)に、

雎鳩、美佐古、

天治字鏡(平安中期)に、

雎、雎鳩也、彌左古、又、萬奈柱、雎(上同)、

とある。

雎鳩(しょきゅう)、
州鳥(すどり)、

ともいい、魚を好んで食べることから別名、

ウオタカ(魚鷹)、

ともhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%B4いい、垂直離着陸能力をもつ、

オスプレイ、

は、

みさご、

の意味である。

雎鳩(しょきゅう)、

は漢語であるが、

關關雎鳩、在河之洲、窈窕淑女、君子好逑(詩経)、

と、

雌雄仲が良いこと、
や、
淑徳ある婦女、

に喩えられるともある(岩波古語辞典・大言海)。

ミサゴ、

の由来は、

水探(ミサゴ)の義か(大言海)、
水サグルの意(日本釈名)、
ミヅサガシ(水捜)の義(名言通)、
ミサク・ミサゴ(水探)の義(言元梯)、
ウミサグリドリ(海捜鳥)の義(日本語原学=林甕臣)、
ミサグの転、ミサグはミヅサハカスの反(名語記)、
水沙の際にいるところから、ミサゴ(水沙児)の義(東雅)、
ミッシャコ(水𪋞鴣)の義(日本語原学=林甕臣)、

と、何れも、その生態から音を当てているが、はっきりしない(日本語源大辞典)。

「鶚」(ガク)は、

会意兼形声。「鳥+音符咢(ガク ガクガクトかどがたつ、あごが鋭い)、

とある(漢字源)。「みさご」の意である。

「雎」(漢音ショ、呉音ソ)は、

会意兼形声。「隹(とり)+音符且(ショ)」

とあり(漢字源)、「雎鳩」(しょきゅう)で、「みさご」の意である。

「鳩」(漢音キュウ、呉音ク)は、

形声。「鳥+音符九」。ひと所にあつまって、群れをなす鳥。ひきしめあつめる意を含む、

とある(漢字源)が、別に、

会意兼形声文字です(九+鳥)。「屈曲(折れ曲がって)して尽きる」象形(数の尽き極(きわ)まった「九(きゅう)」の意味だが、ここでは「はとの鳴き声(クウクウ)の擬声語」)と「鳥」の象形から「はと」を意味する「鳩」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2800.html

「鵃」(チョウ、トウ)は、

「鶻鵃(こっちょう)」は、鳥の名。ハトに似た鳥の意(この場合、チョウの音)、「鵃䑠(ちょうりょう)」は、船体が細長く、足の速い船の意(この場合、トウの音)、とあるhttps://kanji.jitenon.jp/kanjio/7125.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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綾羅


唐(もろこし)唐(たう)なる唐(とう)の竹、佳(よ)し節(ふし)二(ふた)節切(ふしき)りこめて、萬(よろず)の綾羅(れうら)に巻きこめて、一宮にぞ奉る(梁塵秘抄)。

の、

綾羅、

は、

あやぎぬとうすぎぬ、

で、転じて、

美しい衣服、

の意ともなる(精選版日本国語大辞典)。

羅綾、

ともいう。

綾羅、

は、

童僕餘梁肉、婢妾蹈綾羅(張華)、

と、漢語で、

河北則羅綾紬紗鳳翮葦席(玉海)、

と、

羅綾、

も同じ、

皆得服綾錦羅綺紈素金銀飾鏤之物(魏史・夏侯尚傳)、

と、

羅綺、

も、

うすぎぬとあやぎぬ、

の意である(字源)。「綺」も、「綾」と同じく、

あやぎぬ、

の意である。で、

綾羅、

は、

薄い綾ぎぬ、

の意になる(字通)。

「綾」(漢音呉音リョウ、唐音リン)は、「
綾藺笠(あやゐがさ)」で触れたように、

会意兼形声。夌(リョウ)は「陸(山地)の略体+夂(人間の足)」の会意文字で、足に筋肉の筋をたてて、力んで山を登ること。筋目を閉てる意を含む。綾はそれを音符とし、糸を加えた字で、筋目の立った織り方をした絹、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(糸+夌)。「より糸」の象形と「片足を上げた人の象形と下向きの足の象形」(「高い地を越える」の意味だが、ここでは、「凌(りょう)」に通じ(同じ読みを持つ「凌」と同じ意味を持つようになって)、「盛り上がった氷」の意味)から、織物に盛り上がった「氷のような模様が織り込まれた物(あや)」を意味する「綾」という漢字が成り立ちました、

ともある
https://okjiten.jp/kanji1125.html

「羅」(ラ)は、

会意文字。「网(あみ)+維(ひも、つなぐ)」

とある(漢字源)。あみを張りめぐらす意を表である(角川新字源)。別に、

形声。「糸」+音符「䍜 /*RAJ/」。「あみ」を意味する漢語{羅 /*raaj/}を表す字。もと「网」が{羅}を表す字であったが、「隹」を加えて「䍜」となり、さらに「糸」を加えて「羅」となった、

とも
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%85

会意文字です(罒(网)+維)。「網」の象形と「より糸の象形と尾の短いずんぐりした小鳥と木の棒を手にした象形(のちに省略)」(「鳥をつなぐ」、「一定の道筋につなぎ止める」の意味)から、「鳥を捕える網」を意味する「羅」という漢字が成り立ちました、

ともある
https://okjiten.jp/kanji2007.html

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)

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百大夫


遊女(あそびめ)の好むもの。雜藝鼓(つづみ)、小端舟(こはしぶね)、簦(おほがさ)翳(かざし)艫取女(ともとりめ)、男の愛祈る百大夫(梁塵秘抄)、

の、

百大夫、

は、

百太夫、

とも表記し(世界大百科事典)、

ひゃくだゆう、

とも(広辞苑・精選版日本国語大辞典・日本人名辞典)、

ひゃくたいぶ、

とも(大言海)訓ませ(「大夫」についてはは触れた)、

道祖神の1神、

ともいわれ(日本人名大辞典+Plus)、

摂津国西宮の夷(えびす)社(西宮神社)の末社百太夫社、

が有名で、

正月に木製の神体の顔に白粉(おしろい)をぬる、

とあり(仝上)、平安時代は、遊女が、

恋愛神、

として、また近世は傀儡師(くぐつし)が、

祖神、

として祭った神である(広辞苑・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

百太夫、

は地位の低い小祠の神で、遊女が尊崇したのは、その、

求愛神、
和合神、

としての属性によるとみられる(世界大百科事典)とある。

百太夫社、

は末社の形で諸社に付属し、ほかに京都の八坂(やさか)神社などにもまつられ(日本人名大辞典+Plus)、

百神、
白太夫(はくだゆう)、

というのも同じ神と思われる(世界大百科事典)とあるが、

北野天満宮の第一の末社に白太夫(しらだゆう)があるが、字が似ていることや「はくだゆう」と読むと「ひゃくだゆう」に音が似ていることから百太夫と混同されることが多い。白太夫は各地の天満宮に祀られる。一説には、菅原道真の従者であった外宮祀官・渡会春彦を祀るという、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A4%AA%E5%A4%AB、由来が異なるようだ。

傀儡子」で触れたように、

平安後期の『傀儡子記』(大江匡房 おおえのまさふさ)に、

傀儡子、定居なく、其妻女ども、旅客に色を売り、父、母、夫、知りて誡めず、

とあるように、

集団で各地を漂泊し、男は狩猟をし、人形回しや曲芸、幻術などを演じ、女は歌をうたい、売春も行った、

が、平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、摂津西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、夷(えびす)人形を回し歩く、

えびす舞(えびすまわし)、
えびすかき(夷舁)、

となった(マイペディア・日本大百科全書)。

『摂津名所図会』の、

西宮傀儡師、

には、

西宮傀儡師は末社百太夫神を租とす。むかし漢高祖平城を囲まれし時、陳平計をめぐらし、木を刻みて美人を作り城上に立てて敵将単于君を詐る。これ傀儡のはじまりなり、

と説明があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%80%E5%84%A1%E5%AD%90。西宮神社の周辺は「えびす信仰」を諸国に広めたという傀儡師たちが住んでいた(仝上)。平安後期の『遊女記』(大江匡房)には、

南則住吉、西則広田、以之為祈徴嬖之処、殊事百大夫、道祖神一名也、人別刻期之、数及百千、

とある。

百大夫神社、

は、元は、

境外散所村、

にあったものが、天保十年(1839)に夷神社境内に遷座した、

とされhttps://nishinomiya-style.jp/glossary/hyakutayujinja、その一月五日を記念して、

人形に見たてた五色の団子を特別にお供えします、

とある(仝上)。

なお、「傀儡子」については触れた。道祖神については、「ちぶりの神」、「さえの神」、「庚申待」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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鐵圍山


勝れて高き山、須彌山耆闍崛山(せん)鐵圍山(てちゐせん)、五臺山、悉達(すだち)太子の六年行ふ檀特山(だんとくさん)、土山(どせん)黒山(こくせん)鷲峯山(ぶせん)(梁塵秘抄)、

とある、

悉達(すだち)太子、

の、

悉達(すだち)、

は、普通、

Siddhãrtha、

の音訳で、

しったたいし、

と訓ませ、

悉達多(しったるた)、

ともいい、

釈迦の出家前の名、

である。

耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、

は、マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)近くにある山、

Gṛdhrakūṭa(グリドラクータ)、

の音訳、

霊鷲山(りょうじゅせん)、
鷲峰山(じゅほうせん)、

と訳され、

釈迦が『観無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山として知られる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E9%B7%B2%E5%B1%B1。また、

五台山(ごだいさん)、

は、別名は、

清涼山、

中国にある古くからの霊山であり、

峨眉山(がびさん)、天台山、五台山、

あるいは、

五台山、峨眉山、普陀山(ふださん)、

を三大霊場といい、

五台山、峨眉山、普陀山、九華山(きゅうかざん)、

を四大霊場とし、

五台山は文殊菩薩、
峨眉山は普賢菩薩、
九華山はお地蔵様、
普陀山は観音様、

の住む聖地とされているhttp://tobifudo.jp/newmon/seichi/5daisan.htmlとある。また、

土山(どせん)、
黒山(こくせん)、

は、法華経に載っている山https://mukei-r.net/poem-ryouzin/ryouzin-hisyou-6.htmとある。

鐵圍山(てちゐせん)

は、

てついせん、

が転訛(連声)して、

てっちせん、
てちいせん、

とも訓ませ、

須彌山(しゅみせん)を中心とする四洲を囲む九山八海(くせんはっかい)の一番外側の、鉄でできた山、

をいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)が、一説に、

この外にさらに大鉄囲山があり、先の山との間に八大地獄があるといい、また三千世界おのおのを囲む山である、

ともいう(仝上)。

仏教の世界観で考える小宇宙の、

九山八海(くせんはっかい)

とは、

須彌山(しゅみせん)を中心とし、鉄囲山(てっちせん)を外囲とする、山、海の総称、

で、

中央の須彌山と外囲の鉄囲山と、その間にある持双山、持軸山、担木山、善見山、馬耳山、象鼻山、持辺山の七金山を数えて九山とし、九山の間にそれぞれ大海があるとする。海は七海が内海で、八功徳水をたたえ、第八海が外海で鹵水海(ろすいかい)、この中の四方に四大陸が浮かび、われわれはその南の大陸(南閻浮提)に住む、

という(仝上)。四大陸は、

須弥山に向かって東には半月形の毘提訶洲(びだいかしゅう、あるいは勝身洲)、南に三角形の贍部洲(南洲あるいは閻浮提)、西に満月形の牛貨洲(ごけしゅう)、北に方座形の倶盧洲(くるしゅう)、

がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1、「贍部洲(せんぶしゅう)」は、インド亜大陸を示している、とされる(以上、「金輪際」で触れた)。

三千世界」で触れたように、

須弥山(しゅみせん)を中心に、その周りに四大州があり、さらにその周りに九山八海があるとされ、これを一つの、

小世界、

という。小世界は、下は風輪から、上は色(しき)界の初禅天(しょぜんてん 六欲天の上にある四禅天のひとつ)まで、左右の大きさは鉄囲山(てっちせん)の囲む範囲である。「小世界」の大きさは、

直径が太陽系程の大きさの円盤が3枚重なった上に、高さ約132万Kmの山が乗っています、

とあるhttp://tobifudo.jp/newmon/betusekai/uchu.html。この層は、

三輪(さんりん)、

と呼ばれ、

虚空(空中)に「風輪(ふうりん)」という丸い筒状の層が浮かんでいて、その上に「水輪(すいりん)」の筒、またその上に同じ太さの「金輪(こんりん)」という筒が乗っている。そして「金輪」の上は海で満たされており、その中心に7つの山脈を伴う須弥山がそびえ立ち、須弥山の東西南北には島(洲)が浮かんでいて、南の方角にある瞻部洲(せんぶしゅう)が我々の住む島、

http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=90)、三つの円盤状の層からなっている。いちばん下には、

円盤状つまり輪形の周囲の長さが「無数」(というのは10の59乗に相当する単位)ヨージャナ(由旬(ゆじゅん 1ヨージャナは一説に約7キロメートル)で、厚さが160万ヨージャナの風輪が虚空(こくう)に浮かんでいる、

その上に、

同じ形の直径120万3450ヨージャナで、厚さ80万ヨージャナの水輪、

その上に、

同形の直径は水輪と同じであるが、厚さが32万ヨージャナの金でできている大地、

があり、その金輪の上に、

九山、八海、須弥四洲、

があるということになる(日本大百科全書)。そして、

「三千世界」は、

須弥山有八山、遶外有大鐵圍山、周廻圍繞、幷、一日月、晝夜回轉、照四天下、名一國土、積一千國土、名小千世界、積千箇小界、名中千世界、積一千中千世界、名大千世界、以三積千、故三千大千世界(『釋氏要覧(宋代)』)、

とあるように、一世界が1、000個集まったものを小千世界といい、小千世界が1、000個集まったものを中千世界といい、中千世界が1、000個集まったものを大千世界、

といい、それが、

三千世界、

つまり、

三千大千世界、

である(精選版日本国語大辞典)。

須弥山」は、

梵語Sumeruの音写(インド神話のメール山、スメール山、su-は「善」を意味する、美称の接頭辞)、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1

蘇迷盧(そめいろ)、
須弥留(しゅみる)、

とも表記、

ふつう、

しゅみせん、

と訓ませ、

妙高山、
妙光山、

と漢訳する(広辞苑)。

古代インドの世界観が仏教に取り入れられたもので、世界の中心にそびえるという高山、

とされ、この世界軸としての聖山は、

バラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教にも共有されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1

風輪・水輪・金輪と重なった上にあり、大海中にあり、高さは八万由旬(ユジユン 一由旬は四〇里、一説に約7キロメートル)。水に没している部分も八万由旬、縦・横もこれに等しく、金・銀・瑠璃(ルリ)・玻璃(ハリ)の四宝からなり、頂上は帝釈天(たいしゃくてん)が住む、

忉利天(とうりてん)、

で、頂上には善見城(ぜんけんじょう)や殊勝殿(しゅしょうでん)がある。

須弥山には甘露の雨が降っており、それによって須弥山に住む天たちは空腹を免れる、

とある(仝上)。

「鐵(鉄)」(漢音テツ、呉音テチ)は、

会意文字。鐵は「金+切るしるし+呈(まっすぐ)」で、まっすぐに物を切り落とす鋭利な金属を表す。「鉄」は「金+音符失(シツ・テツ)」の形成文字、

とある(漢字源)。別に、

形声。「金」+音符「戜 /*LIK/」。「くろがね」を意味する漢語{鐵 /*hliik/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%90%B5

形声。金と、音符(テツ)とから成る。「くろがね」の意を表す。鉄は、もと、紩(ちつ)の別体字であるが、俗にの略字として用いられていた。教育用漢字はこれによる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(土中に含まれる「金属」の意味)と「川のはんらんをせき止める為に建てられた良質の木の象形と握りの付いた柄の先端に刃のついた矛の象形(「災害を断ち切る器具」の意味)と口の象形と階段の象形(「突き出る」の意味)」(「大きな矛」の意味)から「てつ」を意味する「鐵」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji2817.htmlある。

「圍(囲)」(漢音イ、呉音エ)は、

会意兼形声。韋(イ)は、口印の周囲を、右足と左足が回っているさまを示す会意文字。圍は、「囗(かこむ)+音符韋(イ)」で、ぐるりと周囲をかこむこと。韋がからだにまきつけるなめし皮の意に転用されたため、圍がその原義をついだ、

とある(漢字源)。「囲」の使用は、日本では中世から見られるが、

「韋」の下部から「ヰ」という部分を抜き出して生じたものか、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9B%B2。別に、

会意形声。囗と、韋(ヰ 周りをめぐる)とから成り、かこいの周りをめぐる意を表す。ひいて「かこむ」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(囗+韋)。「周辺を取り囲む線」の象形(「めぐらす」の意味)と「ステップの方向が違う足の象形と場所を示す文字」(「かこむ」の意味)から、「かこいめぐらす」を意味する「囲」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji630.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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霊鷲山(りょうじゅせん)


勝れて高き山、大唐唐(だいたうたう)には五臺山、靈鷲山、日本國には白山(しらやま)、天台山、音にのみ聞く蓬莱山(ほうらいさん)こそ高き山(梁塵秘抄)、

の、

靈鷲山(りょうじゅせん)、

は、梵語、

Gdhrakaparvata、

の訳、

禿鷲の頂という山、

という意(原語のグリドラはハゲワシのこと)で、

耆闍崛山、此翻靈鷲、亦曰鷲頭(法華文句)、

とあるように、

この山のかたちが、空に斜めに突き出すようになっておりしかも頂上部がわずかに平らになっていてハゲワシの首から上の部分(頭)によく似た形をしているので、

山の頂が羽を拡げた鷲の形に見えるところから、

とも、

山形が鷲の頭に似るから、

とも、あるいは、

鷲が多くすむから、

ともいわれる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%80%86%E9%97%8D%E5%B4%9B%E5%B1%B1・ブリタニカ国際大百科事典)、

鷲峰山(じゅほうせん・じゅぶせん)、
鷲山(じゅせん)、
霊頭山、
鷲頭山、

などとも訳され、略記して、

霊山(りょうぜん)、

別に、

鷲(わし)の山、
鷲嶺、
鷲台、
鷲の峰、

和語では、

鷲のみ山、

等々とも呼ばれるが、梵語を、

耆闍崛多(ぎしやくつた)、

と音写されるため、山の音訳は、

耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、

である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E9%B7%B2%E5%B1%B1・日本国語大辞典・広辞苑)が、

姑栗陀羅矩詫(ぐりどらくーた)、

とも音写されるhttp://tobifudo.jp/newmon/seichi/ryoju.html

インド古代マガダ国の主都王舎城を囲む五山の一つチャッター山の南面にある山、

で、

釈迦が法華経や無量寿経などを説いた所、

として著名である(仝上)。『無量寿経』上の序分に、

我れ聞ききかくの如きを。一時、仏、王舎城の耆闍崛山の中に住して、大比丘衆万二千人と俱なりき、

とあり、『観経』『大品般若経』『法華経』『金光明経』などの多くの大乗諸経典がこの山で説かれ(仝上)、

妙法蓮華經(卷第一序品第一)では、

如是我聞。一時佛住王舍城耆闍崛山、

妙法蓮華經如來壽量品(第十六)では、

時我及衆僧 倶出靈鷲山 我時語衆生……於阿僧祇劫 常在靈鷲山 及餘諸住處、

などとあるhttp://tobifudo.jp/newmon/seichi/ryoju.html

ビンビサーラ王が釈尊の説法を聞くために登ったとされる小路が今も用いられている、

とありhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%80%86%E9%97%8D%E5%B4%9B%E5%B1%B1

灌木がとりまく中腹には、出家者が修行にはげんだ多くの洞窟が残る、

とある(仝上)。

現在は、

チャタ(Chata)山、

と呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E9%B7%B2%E5%B1%B1

なお「蓬莱山」については「蓬莱」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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咒師


天魔が八幡(やはた)に申(まう)すこと、頭(かしら)の髪こそ前世の報(ほう)にて生(を)いざらめ、そは生いずとも、絹葢(きぬがさ)長幣(ながぬさ)なども奉らん、咒師の松犬(まついぬ)とたたひせよ、しないたまへ(梁塵秘抄)、

の、

咒師(呪師)、

は、

じゅし、

とも、

しゅし、
すし、
ずし、

とも訓み、

大法会で、陀羅尼(だらに)を誦して加持祈祷をした法師、

をいい(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

呪禁(じゅごん)の師、

ともいう(仝上)、

仏教行事における僧侶の役名、

で、

旧年の罪障を懺悔(ざんげ)して穢れを払い、当年の安穏豊楽を祈願する古代からの伝統行事に、

悔過会(けかえ)、

があり、呪師はその悔過会において重要な位置を占める役柄で、密教的な局面あるいは神道的な局面などを宰領し、

法会の場への魔障の侵入を防ぎ、護法善神を勧請(かんじよう)して、法会の円満成就のための修法、

を行う(世界大百科事典)とある。

加持祈祷、

は、「加持」で触れたが、

陀羅尼(だらに)、

は、

サンスクリット語ダーラニーdhāraīの音写、

で、

陀憐尼(だりんに)、
陀隣尼(だりんに)、

とも書き、

保持すること、
保持するもの、

の意で、

総持、
能持(のうじ)、
能遮(のうしゃ)、

と意訳し、

能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力、

をいい(日本大百科全書)、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず、

サンスクリット語原文を音読して唱える、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC。ダーラニーとは、

記憶して忘れない、

意味なので、本来は、

仏教修行者が覚えるべき教えや作法、

などを指したが、これが転じて、

暗記されるべき呪文、

と解釈され、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった(仝上)。だから、

一種の記憶術、

であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることをいい、それは、

暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事、

を目的とし(仝上)、

種々な善法を能く持つから能持、
種々な悪法を能く遮するから能遮、

と称したもので、

術としての「陀羅尼」の形式が呪文を唱えることに似ているところから、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった、

とある(精選版日本国語大辞典)のは、原始仏教教団では、呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典のなかにも取入れられた。『孔雀明王経』『護諸童子陀羅尼経』などは呪文だけによる経典で、これらの呪文は、

真言 mantra、

といわれたから(日本大百科全書)だが、普通には、

長句のものを陀羅尼、
数句からなる短いものを真言(しんごん)、
一字二字などのものを種子(しゅじ)

と区別する(仝上)。この呪文語句が連呼相槌的表現をする言葉なのは、

これが本来無念無想の境地に至る事を目的としていたためで、具体的な意味のある言葉を使用すれば雑念を呼び起こしてしまうという発想が浮かぶ為にこうなった、

とする説が主流となっている(仝上)とか。その構成は、多く、

仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次に、タド・ヤター(「この尊の肝心の句を示せば以下の通り」の意味、「哆地夜他」(タニャター、トニヤト、トジトなどと訓む)と漢字音写)と続き、本文に入る。本文は、神や仏、菩薩や仏頂尊などへの呼びかけや賛嘆、願い事を意味する動詞の命令形等で、最後に成功を祈る聖句「スヴァーハー」(「薩婆訶」(ソワカ、ソモコなどと訓む)と漢字音写)で終わる、

とある(仝上)。

『大智度論(だいちどろん)』には、

聞持(もんじ)陀羅尼(耳に聞いたことすべてを忘れない)、
分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する)、
入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声によっても左右されることがない)、

の三種の陀羅尼を説き、

略説すれば五百陀羅尼門、
広説すれば無量の陀羅尼門、

があり、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』は、

法陀羅尼、
義陀羅尼、
呪(じゅ)陀羅尼、
能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼(忍)、

の四種陀羅尼があり、『総釈陀羅尼義讃(そうしゃくだらにぎさん)』には、

法持(ほうじ)、
義持(ぎじ)、
三摩地持(さんまじじ)、
文持(もんじ)、

の四種の持が説かれている(仝上)。しかし、日本における「陀羅尼」は、

原語の句を訳さずに漢字の音を写したまま読誦するが、中国を経たために発音が相当に変化し、また意味自体も不明なものが多い、

とある(精選版日本国語大辞典)。

咒師、

には、

法義が家の犬悪(わろ)し。亦、呪師有て、呪神に令打しむ(今昔物語)、

の、

加持祈祷をした僧侶(そうりょ)の勤める仏教上の呪師、

の意の他に、

人々相共遊東光寺、令走呪師(「左経記(1017)」)、
今夜猿楽見物許之見事者。於古今未有。就中咒師(「新猿楽記(1061〜65頃)」)、

とある、

猿楽(さるがく)者の勤める呪師、

がある。前者は、

法呪師、

といわれ、

修正会(しゅしょうえ)、
修二会(しゅにえ)、

において道場の結界(けっかい)や香水・護摩などの密教的行法(ぎょうぼう)をつかさどる(日本大百科全書)が、後者は、

呪師猿楽(じゅしさるがく)、

といい、

法会のあとに、法呪師の行法の威力を一般参詣(さんけい)人に対して内容を分かりやすく、猿楽や田楽に近い形で演劇化して演じた者、

で、その演技は、

走り(呪師走)、

とよばれ、その曲は一手、二手と数えられる(仝上)。公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書『百練抄』(鎌倉時代後期)に、

延応元年(1239)七月五日、今日法成寺咒師、参入吉田社、施曲五手也、依太閤御祈也、

とあり、10余手あったとされるが、今日知られている曲は、

剣手、
武者手、
大唐文殊手、
とりばみ、

などがある。この呪師は寺院に属し貴族の庇護を受け、華美な装束に兜をつけて、鼓の囃子(はやし)で鈴を振りながら舞った。平安時代には華やかであった呪師も、鎌倉時代に入ると漸次衰運の道をたどるようになった(仝上)とある。この咒師は、

のろんじ

ともいった(仝上・精選版日本国語大辞典)。本来、

役僧である法呪師が担当した鎮魔除魔的な役を、散所法師と呼ばれる役者が代演するようになり、それが芸能化した、

とあるhttps://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E5%91%AA%E5%B8%AB

因みに、修正会(しゅしょうえ)は、

毎年正月の始めに3日ないし7日間にわたって、国家・皇室の安泰、五穀豊穣などを祈願する法会、

で、

修正月会、

略して、

修正、

ともいう。修正会には一つには、

《金光明経》《金光明最勝王経》による年始の仏事として恒例化したもの、

と、いま一つには、

767年(神護景雲1)正月の国分寺や官大寺における吉祥天悔過(けか)が年中行事化したもの、

とがある(世界大百科事典)。

修二会(しゅにえ)は、

修二月会(しゅにがつえ)、

単に、

修二月、

ともいい(仝上)、

毎年2月の初めに国家の安泰、有縁の人々の幸福を祈願する法会、

をいう。インド由来で、インドでは、建卯すなわち2月を歳首とすることが《宿曜経》にみえ、日本では年頭の法会を修正会、2月に祈修する法会を修二会と称した(仝上)という。

此月の一日よりもしくは三夜・五夜・七夜、山里の寺々の大なる行也。つくり花をいそぎ、名香をたき、仏の御前をかざり(三宝絵詞)、

とあるように、寺々で盛んに行われた。最も大規模なものは、

東大寺二月堂の修二会十一面観音悔過、

で、

お水取り、

の名称で親しまれている(仝上)し、薬師寺の修二会は、

花会式、

の通称で知られるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E4%BA%8C%E4%BC%9A

「咒(呪)」(慣用ジュ、漢音シュウ、呉音シュ)は、

会意文字。「口+兄(大きい頭の人)」。もと、祝と同じで、人が神前で祈りの文句を唱えること。のち、祝は幸いを祈る場合に、呪は不孝を祈る場合に分用されるようになった、

とある(漢字源)。別に、

形声。口と、音符祝(シウ 兄は省略形)とから成る。「のろう」、転じて、まじないの意を表す、

とも(角川新字源)、

形声文字です(口+兄)。「口」の象形と「口の象形とひざまずく人の象形」(上に立って弟妹の世話をやく人、「兄」の意味を表すが、ここでは、「祝(シュウ)」に通じ(「祝」と同じ意味を持つようになって)、「祈る」の意味)から、「祈る」、「のろう」を意味する「呪」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2123.html

「師」(シ)は、𠂤は、隊や堆(タイ)と同系のことばをあらわし、集団を示す。帀は、ぐるぐるまわること、あまねしの意を含む。師は、このふたつを合わせた字で、あまねく、人々を集めた大集団のこと。転じて、人々を集めて教える人、

とある(漢字源)。別に、

会意。帀(そう めぐる)と、𠂤(たい おか)とから成る。小高い丘を取り巻く、二千五百人から成る兵士の集団、ひいて、指導者の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「神に供える肉」の象形と「刃物」の象形から、敵を処罰する目的で、祭肉を供えて出発する軍隊を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「軍隊」を意味する「師」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji893.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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引板(ひた)


心の澄むものは、秋は山田の庵(いを)毎に、鹿驚(おど)かすてふ引板(ひた)の聲、衣(ころも)しで打つ槌(つち)の音(梁塵秘抄)、

の、

引板、

は、

「ひきいた(引板)」の変化した語(精選版日本国語大辞典)、

で、

ヒキタの音便ヒイタの約(広辞苑)、

ともあるので、

ヒキイタ→ヒキタ→ヒイタ→ヒタ、

と転訛したもののようである。だから、

ひきいた、
ひきた、

とも訓む(仝上)。

衣手(ころもで)に水渋(みしぶ)つくまで植えし田を引板(ひきた)我れ延(は)へ守れる苦し(万葉集)、

と、

田や畑に張りわたして鳥などを追うためのしかけ、

で、

細い竹の管を板にぶらさげ、引けば鳴るようにしかけたもの、

をいい、

鳴子、

と同じで、

おどろかし、
とりおどし、

などともいう(精選版日本国語大辞典)が、また、竹筒などで水を引き入れたり、流水を利用して音を立てる、

ばったり、
ししおどし、

にもいう(仝上)。この、

引板(ひた)、

を鳴らすために引く縄、

を、

秋果つる引板の懸縄引き捨てて残る田面の庵のわびしさ(玉葉集)、

と、

引板の懸縄(ひたのかけなわ)、

という(広辞苑)。

鳴子(なるこ)、

も、

田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐためのしかけ、

であることは同じで、

小さき板に、小さき竹管を、糸にて掛けて連ねたるを、縄にて張り、(遠くから縄や綱を引けば、管、板に触れて、音を発するもの、

で(大言海・精選版日本国語大辞典)、また、

竹ざおの先につけ綱をつけたり、
棒の先に付けたり、

するものもあり、これは、

鳴竿(ナルサオ)、

といいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E5%AD%90_(%E9%9F%B3%E5%85%B7)、人が手に持って追う。農家ではおもに、

子どもや老人がこの綱の一端を引いてこれを鳴らす役目にあたる、

とある(世界大百科事典)が、田畑に鳥が来たら鳴子を鳴らす人を、

鳴子守(なるこもり)、
鳴子引(なるこひき)、
鳴子番(なるこばん)、

といったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E5%AD%90_(%E9%9F%B3%E5%85%B7)

また、

隠居から鳴子を引けばたばこ盆(雑俳「たからの市(1705)」)、

と、

鳴子、

に似せて小さい板に竹筒や鈴などをつるし、綱を引くと鳴るしかけの、人を呼んだり合図を送ったりするもの、

にもいい、さらに、

鳴子(ナルコ)の音に神(しん)を飛し、一切(ひときり)遊びは対面の三方のごとく扱れ(洒落本「仕懸文庫(1791)」)、

と、

江戸、深川の岡場所で、舟着き場に置いて、客を乗せた舟が着くと茶屋へ合図のために鳴らしたもの、

についても、似た仕掛けなので、

鳴子、

と呼んだらしい(精選版日本国語大辞典)。

上述のように、「引板」は万葉集にも歌われているが、平安時代後期以降は、引板の操作などしたこともないような層が歌に詠むにあたって、

宿ちかき山田の引板(ひた)に手もかけで吹く秋風にまかせてぞ見る(後拾遺和歌集)、

と、

「引板」が風によって鳴らされているとすることに趣を感じて「引板」を「人が引かないのに鳴る=鳴子」と詠むことが増えてくるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E5%AD%90_(%E9%9F%B3%E5%85%B7)とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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梓の真弓


武者を好まば小胡簶(こやなぐひ)、狩を好まば綾藺笠(あやゐがさ)、捲くり上げて、梓(あづさ)の真弓(まゆみ)を肩にかけ、軍(いくさ)遊をよ軍神(いくさがみ)(梁塵秘抄)、

の、

梓の真弓(あずさのまゆみ)、

は、

「真」は美称の接頭語、

で、

梓弓(あづさゆみ)、

の意である(精選版日本国語大辞典)。因みに、「胡簶」、「綾藺笠」については触れた。

梓弓、

は、

梓の木で作った丸木の弓、

で、

渡瀬に立てる阿豆佐由美(アヅサユミ)檀(まゆみ)い伐らむと心は思へど……そこに思ひ出愛(かな)しけくここに思ひ出い伐らずそ来る阿豆佐由美(アヅサユミ)檀(古事記)、

と、

上代、狩猟、神事などに用いられ、

あずさの弓、
あずさの真弓、

とも呼ばれた。のちに、

あずさみこ、

が、死霊や生霊を呼び寄せる時に鳴らす小さな弓、

の意となり、転じて、

あずさみこ、

をもいうようになった(仝上)。

巫女」で触れたように、「梓(あづさ)」は、

カバノキ科の落葉高木、

で、

古く呪力のある木とされた、

とあり(岩波古語辞典)、古代の「梓弓」の材料とされ、和名抄には、

梓、阿豆佐、楸(ひさぎ、きささげ)之属也、

とある。この「梓」には、古来、

キササゲ、
アカメガシワ、
オノオレ、
リンボク(ヒイラギガシ)

などの諸説があり一定しなかったが、白井光太郎による正倉院の梓弓の顕微鏡的調査の結果などから、

ミズメ(ヨグソミネバリ)、カバノキ科の落葉高木、

が通説となっている、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93。「梓弓」は、

古くは神事や出産などの際、魔除けに鳴らす弓(鳴弦)として使用された、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93%E5%BC%93

梓弓の名に因りて、万葉集に、弓をアヅサとのみも詠めり、今も、神巫に、其辞残れり、直に、あづさみことも云へり、神を降ろすに、弓を以てするば和琴(わごと)の意味なり(和訓栞)、

と、

神降ろしに用いる、

が、

その頃はべりし巫女のありけるを召して、梓弓に、(死人の靈を)寄せさせ聞きにけり(伽・鼠草子)、

と、

梓の弓をはじきながら、死霊や生霊を呼び出して行う口寄せ、

をも行う(岩波古語辞典)。

あづさみこ

は、

小弓に張れる弦を叩きて、神降をし、死霊・生霊の口寄せをする、

といい、

髑髏(しゃれこうべ)を懐中し居るなり、これをアヅサとのみも云ひ、又、市子とも、縣巫(あがたみこ)とも云ふ、何れも賤しき女にて、賣淫をもしたりと云ふ、

とある(大言海)。「鳴弦」つまり「弦打ち」については触れた。

巫女」で触れたように、「巫女」は、

かんなぎ

ともいうが、

あがたみこ、
あづさみこ、
いちこ、

等々とも呼ぶものもある(大言海)。柳田國男や中山太郎の分類によると、

おおむね朝廷の巫(かんなぎ)系、

と、

民間の口寄せ系、

に分けられ、「巫(かんなぎ)系」巫女は、関東では、

ミコ、

京阪では、

イチコ、

といい、口寄せ系巫女は、

京阪では、

ミコ、

東京近辺では、

イチコ、
アズサミコ、

東北では、

イタコ、

と呼ばれる、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E5%A5%B3。柳田は、「もともとこの二つの巫女は同一の物であったが、時代が下るにつれ神を携え神にせせられて各地をさまよう者と、宮に仕える者とに分かれた」とした(仝上)。

この原型となる「神に仕える女性」として、

邪馬台国の卑弥呼、
天照大神、
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、
倭姫命(やまとひめのみこと)、
神功(じんぐう)皇后、

等々を見ることができ、沖縄の、

のろ、
ゆた、

もそれである(日本大百科全書)。

朝廷の巫(かんなぎ)系である、

宮廷や神社に仕え、神職の下にあって祭典の奉仕や神楽をもっぱら行うもの、

には、

神祇官に仕える御巫(みかんなぎ)(大御巫、坐摩(いがすり)巫、御門(みかど)巫、生島(いくしま)巫)、
宮中内侍所(ないしどころ)の刀自(とじ)、
伊勢神宮の物忌(ものいみ)(子良(こら))、
大神(おおみわ)神社の宮能売(みやのめ)、
熱田神宮の惣(そう)ノ市(いち)、
松尾神社の斎子(いつきこ)、
鹿島神宮の物忌(ものいみ)、
厳島(いつくしま)神社の内侍(ないし)、
塩竈(しおがま)神社の若(わか)、
羽黒神社の女別当(おんなべっとう)、

等々があり、いずれも処女をこれにあてた、とされる(仝上)。

民間の口寄せ系である、

神霊や死霊の口寄せなどを営む呪術的祈祷師、

には、

市子(いちこ)、

という言葉が一般に用いられており、東北地方では、巫女のことを一般に「いたこ」といい、これらの巫女はほとんど盲目である。そのほか、

関東の梓(あずさ)巫女、
羽後(うご)の座頭嬶(ざとうかか)、
陸中の盲女僧、
常陸の笹帚(ささはた)き、

等々の称がある、とされる(仝上)。

「いちこ」は、

降巫(岩波古語辞典)、
市子(日本語源大辞典)、
巫子(仝上・江戸語大辞典)、
神巫(大言海)、

等々と当て、

巫女、

の意で、

イチは巫女をあらわす語、コは子、

とあり(岩波古語辞典)、「イチ」は、

和訓栞、イチ「神前に神楽をする女を、イチと云ふは、イツキの義にや、ツ、キ、反チなり」。斎巫(いつきこ)なり。松尾神社に斎子(いつきこ)あり、春日神社等に、斎女(イツキメ)あり、此語、口寄せする市子とは、全く異なり、

とあり(大言海)、

略してイチとのみも云ひ、一殿(イチドノ)とも云ふ、

とある(仝上)。あくまで、ここでは「いちこ」は、

巫女、

の意で、

神前に神楽する舞姫、神楽女(かぐらめ)、

の意とする。この「いちこ」のひとつに、

あづさみこ、

がある(岩波古語辞典)とされる。

なお、「梓弓」は、古くから枕詞として使われ、

弓の弦を引く、または張るところから「い」「いる」「ひく」「はる」、
弓の部分名称から「もと」「すえ」「つる」、
弓を引けば、弓の本と末とが寄るところから「よる」、
弓が反るところから「かえる」、
矢を射る音から「や」「おと」、

等々に冠せられる(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。

なお、「弓」については、「弓矢」で触れた。

「梓」(シ)は、

会意兼形声。辛(シン)は、鋭い刃物の象形で、切る意を表わす。梓は「木+音符辛」で、刃物で切ったり刻んだりするのに適した木、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(木+宰の省略形)。「大地を覆う木」の象形と「入れ墨をする為の針」の象形(「祭事や宴会の為に調理する」の意味)から、「木材で各種の器具を作る職人、建具師」を意味する「梓」という漢字が成り立ちました。また、「あずさの木」、「版木(はんぎ)」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji324.html

「辛」(シン)は、

象形。鋭い刃物で描いたもので、刃物でぴりっと刺すことを示す。転じて、刺すような痛い漢字の意、

とある(漢字源)。別に、

象形。罪人に入れずみをする針の形にかたどり、印をつける針の意を表す。転じて、つみの意に用いる。借りて、五味の一つや、十干(じつかん)の第八位に用いる、

とか(角川新字源)、

象形文字です。「入れ墨をする為の針」の象形から、「つらい」を意味する「辛」という漢字が成り立ちました、

などとあるhttps://okjiten.jp/kanji1655.htmlが、

刑罰や入墨に用いる道具を象る象形という説は別の「䇂」という文字との混同に由来する誤った分析で、本項の「辛」は刑罰や罪とは関係がない、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BE%9B

「弓」(漢音キュウ、呉音ク・クウ)は、

象形。弓の形を描いたもの。曲線をなす意を含む、

とある(漢字源)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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