其の前には冠山(かむりやま)とぞ云ひける。冠の巾子(こじ)に似たりけるとぞ語り傳へたるとや(今昔物語)、 の、 巾子、 は、 冠の後ろに高く突き出ている部分。もとどりを入れて冠を固定する、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 巾子(きんし)、 は、漢語であり、 武后を擅(もつぱ)らにし、多く群臣に巾子袍を賜ふ。勒するに回の銘を以てし、皆法度無し(唐書・車服志)、 と、 頭髪をつつむもの、 の意である(字通)。 「巾」の呉音、 が、 コン、 で、「巾子」を、 コジ、 と訓ませるのは、 「巾子」の呉音訓み、 で、 「こんじ」の「ん」の無表記(日本国語大辞典) 「こんじ」の撥音「ん」の無表記(大辞林)、 コンジのンを表記しない形(広辞苑)、 巾子(きんし)の呉音の、コンシの約なり、汗衫(カンサン)、かざみ(大言海)、 による。天治字鏡(平安中期)に、 巾子、斤自(こんじ)、 和名類聚抄(平安中期)に、 巾音如渾(コン)、 類聚名義抄(平安後期)に、 巾子、コンシ、 名目抄(塙保己一(はなわほきいち)編『武家名目抄』)には、 巾子、コジ、 とあるので、 コンシ→コンジ→コジ、 といった転訛なのであろうか。 前漢末の『急就篇(きゅうしゅうへん)』(史游)の註に、 巾者、一幅之巾(キン)、所以裏頭也、 とあり、 子は、椅子、瓶子の子の類、 とある(大言海)。 冠の名所(などころ 名称)、 で、 頂の上に、高く突出したる處、内、空なり。髻(もとどり)を挿し入る、 とある(仝上)。和名類聚抄(平安中期)には、 巾子、幞頭(ぼくとう)具、所以挿髻者也、此閨A巾音如渾、 とある。 平安時代以後、 冠の頂上後部に高く突き出て髻もとどりをさし入れ、その根元に簪(かんざし)を挿す部分、 をいうが、古くは、 髻の上にかぶせた木製の形をいった、 とある(広辞苑)。 近衛の御門に、古志(こし)落(おと)いつ、髪の根のなければ(神楽歌)、 とあり、 古製なるは、別に作りて、挿したりと云ふ、 と注記があるの(大言海)はその謂いである。 平安中期以後は冠の一部として作り付けになった、 (大辞泉)が、元来は、これをつけてから、 幞頭(ぼくとう)、 をかぶったからである。「幞頭」とは、 令制で、成人の男子所用の黒い布製のかぶりもの。中国後周の武帝の製したものに模してつくり、後頭部で結ぶ後脚の纓(えい)二脚と左右から頭上にとる上緒(あげお)二脚を具備するところから、 四脚巾(しきゃくきん)、 とも、 頭巾(ときん)、 ともいう(精選版日本国語大辞典)とある。 律令(りつりょう)制で、成人男子が公事のとき用いるよう規定された被(かぶ)り物、 だが、養老(ようろう)の衣服令(いふくりょう)では、 頭巾(ときん)、 とよび、朝服や制服を着用する際被るとしている(日本大百科全書)。幞頭は、 盤領(あげくび)式の胡服(こふく)を着るときに被る物であり、イランより中国を経て日本に伝えられた、 考えられ、原型は、 正方形の隅に共裂(ともぎれ)の紐(ひも)をつけた布帛(ふはく)を髻(もとどり)の上から覆って縛る四脚巾(しきゃくきん)といわれるもの、 だが、それをまえもって成形し、黒漆で固形化して被る物に変えた。貞観(じょうがん)儀式や延喜式(えんぎしき)で、 一枚とか一条と数えていて、元来平たいものであったことを示している。この遺風は、インド・シク教徒の少年にみられる(仝上)とある。 なお、 巾子紙、 というのは、 冠の纓(エイ)を巾子に挟み止めるのに用いる紙、 で、 檀紙(だんし 楮を原料として作られた縮緬状のしわを有する高級和紙)を2枚重ね、両面に金箔を押し、中央を切り開いたもので、冠の纓(えい)を、後ろから巾子の上を越して前で額にかけて折り返し、巾子紙で挟みとめる、 という(広辞苑)。近世には、紙全体に金箔(きんぱく)を押したものを、 金巾子(きんごじ)の冠、 という(仝上)。また、 放巾子(はなしこじ)、 というのは、 冠の巾子を額から取り去ってつくったもの、 をいい、 男子が元服の際に用いる冠、 である(http://www.so-bien.com/kimono/%E7%A8%AE%E9%A1%9E/%E6%94%BE%E5%B7%BE%E5%AD%90.html)。 「巾」(漢音キン、呉音コン、慣用コ)は、 象形文字。三すじ垂れ下がった布きれを描いたもの。布・帛(ハン)・帆などに含まれ、布を表す記号に用いる、 とある(漢字源)。別に、 象形。腰等におびる布を象る。「きれ」を意味する漢語{巾 /*krən/}を表す字、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%BE)、 象形文字です。「頭に巻く布きれにひもを付けて、帯にさしこむ」象形から「布きれ」を意味する「巾」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji2024.html)ある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 我が子にも劣らず思ひて過ぎけるに、この向腹の乳母、心や惡しかりけむ(今昔物語)、 の、 向腹、 は、 正妻の子、 の意である(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 向腹、 を、 むかばら、 あるいは、転化して、 むかっぱら、 と訓ませると、「向っ腹」で触れたように、 むかっぱらが立つ、 とか、 むかっぱらを立てる、 と用いて、 わけもなく腹立たしく思う気持、 の意になる。 むかひばら、 と訓むと、 本妻の腹から生まれること、 また、 その子、 を言い、 むかいめばら、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 向かひ腹、 とも表記し、 当腹、 嫡腹、 とも当てる(デジタル大辞泉)。 嫡妻腹(むかひひめばら)なるより移れるかと云ふ、 とある(大言海)。 側女でなく、正妻が生んだこと(広辞苑)、 「むかいめ(嫡妻)」すなわち本妻の腹から生まれること。また、その子(日本国語大辞典)、 正妻から生まれること。また、その子(デジタル大辞泉)、 などというのが通常の辞書の意味だが、 先妻に対して今の妻の生めること、またその子、 とあり(大言海)、 當腹、 というのは、 先妻のと別ちて云ふ、 とある(仝上)ところを見ると、 現時点の正妻、 という含意なのだろうか。 なお、「向腹」は、後に、日葡辞書(1603〜04)によると、 正妻と妾とが同時に懐胎すること、 の意で使われているようだ。 「向かふ」は、 対、 とも当て、 向き合ふの約、互いに正面に向き合う意、また、相手を目指して正面から進んでいく意(岩波古語辞典)、 で、 身交(みか)ふの義(大言海)、 ムキアフ(向合)の義(日本語原学=林甕臣)、 と、 対面する、 意で、 向かひ座、 というと、 向き合ってすわること、 向かい陣、 というと、 敵陣に向き合って構えた陣、 向かひ城、 というと、 対(たいの)城、 つまり、 城攻めのとき、敵の城に相対して築く城、 をいうように、「向かふ」は、 対、 の意味を持っている。まさに、夫婦の、 対、 という含意になる。 「向」(漢音コウ、呉音キョウ)は、「背向(そがい)」で触れた。 「腹」(フク)は、 会意兼形声。复(フク)は「ふくれた器+夂(足)」からなり、重複してふくれることを示す。往復の復の原字。腹はそれを音符とし、肉を加えた字で、腸がいくえにも重なってふくれたはら、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です。「切った肉」の象形と「ふっくらした酒つぼの象形と下向きの足の象形」(「ひっくり返った酒をもとに戻す」の意味だが、ここでは、「包」に通じ「つつむ」の意味)から、内臓を包む肉体、「はら」を意味する「腹」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji279.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 土に穢れ夕黒なる袖も無き麻布の帷子(かたびら)の、よぼろもとなるを着たり(今昔物語)、 の、 よぼろもとなる、 は、 ふくらはぎまでしかない、 と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 よぼろ、 は、 膕、 と当て、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 膕、ヨホロ、 和名類聚抄(平安中期)に、 膕、與保呂、曲脚中也、 とあるように、元々、 よほろ、 後世、 よぼろ、 よおろ、 といい、「膕」を、 ひかがみ、 とも訓ませ、 膝窩(しっか)、 とも、 うつあし、 よほろくぼ(膕窪)、 ともいい(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)、 膝(ヒザ)の裏側のくぼんだ部分、 をいうが、「よぼろ」に、 丁、 とあてると、 上代、広く公用の夫役(ブヤク 労力を徴用する課役)の対象となった、二十一歳から六十歳までの男子、 を指し、 正丁(せいてい)、 成丁、 丁男、 課丁、 役丁、 などもこの意で(大言海)、 信濃國男丁(よぼろ)作城像於水派邑(武烈紀)、 と訓ませ、また、 よほろ、 ということもある。本来は、 膕、 の意で、 脚力を要したことからいう、 とある(仝上)。 いま、人足と言はむが如し、 とある(大言海)。 膕(よほろ)と同語源、 とある(デジタル大辞泉)のは当然である。 よぼろ、 ともいう よほろ、 は、 弱折(ヨワヲリ)の約轉と云ふ(大言海)、 という語源しか見当たらない。 ひかがみ(膕)の古名、 とある。 ひかがみ(膕)、 は、 「ひきかがみ(隠曲)」の変化した語(精選版日本国語大辞典)、 引屈(ひきかが)みの約(大言海)、 とあり、 ひっかがみ、 とも訛るので、曲げる膝のところを指している。下腿の前面は、 むこうずね、 後面のふくらんだ部分を、 ふくらはぎ、 大腿と下腿の移行するところを、 ひざ、 あるいは、 ひざがしら、 その後面は曲げるとくぼむので、 膝窩(しつか)、 つまり、 ひかがみ、 となる(世界大百科事典)。古名が、 よぼろ、 うつあし、 であるが、 うつあし、 は、やはり、 膕、 と当て、 内脚(ウチアシ)の転、裏脚の意か、 とあり(大言海)、 うつもも、 うちもも(股)、 ひかがみ、 の古言(仝上)、字鏡(平安後期頃)に、 膕、曲脚中也、宇豆阿志、 とある。 膝窩(しつか)、 は、 膝膕窩(しっかくわ)、 膝膕(しっかく)、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。また、 よほろの筋、 つまり、よほろにある大きな筋肉を、 膕筋(よほろすじ)、 訛って、 よおろすじ、 よぼろすじ、 ともいう言い方もある(精選版日本国語大辞典)。 「膕」(漢音カク・キャク、呉音コク)は、 ひかがみ、 つまり、 膝の裏のくぼんだところ、 とのみあり(漢字源)、 腘、 𦛢、 𣍻、 䐸、 𩪐、 といった異字体があるが、特に説明する辞書が見当たらない(https://jigen.net/kanji/33173)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) この人かくめでたくをかしくとも、筥(はこ)にし入れらむ物は我等と同じやうにこそあらめ、それをかいすさびなどして見れば(今昔物語)、 の、 筥、 は、 當時大便をはこにしたのでこう言う。「はこす」と動詞にも使った、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 はこ、 は、 筥、 の他、 箱、 函、 匣、 筐、 等々とも当て(広辞苑)、 大事なもの、人には見せてはならないものを入れて収めておく、蓋のあるいれもの。古くは、箱の中に魂を封じ込めたり、人を幸せにする力をしまったりできると考えられた、 とあり(岩波古語辞典)、対比できるのは、 籠(こ)もよみ籠(こ)持ち掘串(ふくし)もよみ掘串(ぶくし)持ちこの丘に菜摘(なつ)ます児(こ)家聞かな名告(なの)らさね(万葉集)、 の、 籠(こ)、 つまり、 竹などで作ったもの入れ、 かご(籠)、 である(仝上)。ただ、「はこ」に当てた漢字「箱」自体竹製を意味するなど、「はこ」と「こ」の区別ははっきりしない。 筥、 は、 この箱を開(ひら)きて見てばもとのごと家はあらむと玉(たま)櫛笥(くしげ)少(すこ)し開くに(万葉集)、 と、 物を納めておく入れ物、 の意だが、上述のように、 この人かくめでたくをかしくとも、筥(はこ)にし入れらむ物は我等と同じやうにこそあらめ(今昔物語)、 と、 厠で大便を受けた容器、 をいい、つまり、 おまる、 の意で、平安時代、トイレである、 樋殿(ひどの)、 に、排せつ物を入れる容器である大便用の、 しのはこ(清筥・尿筥)、 小便用の、 おおつぼ(虎子・大壺)、 を置いていた(谷直樹『便所のはなし』)とされ、さらに転じて、 また、あるいは、はこすべからずと書きたれば(宇治拾遺物語)、 と、 大便、 の意となっていく(広辞苑・岩波古語辞典・日本国語大辞典)。その故に、便器の意の「はこ」に、 糞器、 と当てるもの(大言海)もある。 「はこ」は、和名類聚抄(平安中期)に、 箱、匧、筥、筐、波古、 とあり、語源説には、 蓋籠(フタコ)の約(大言海・日本釈名・雅言考・和訓栞)、 朝鮮語pakonit(筐)と同源(岩波古語辞典)、 笹で作ったので、ハ(葉)コ(籠)(関秘録)、 ハケ(方笥)の義(言元梯)、 物を入れてハコブものだから(和句解)、 貼り籠の約(国語の語根とその分類=大島正健)、 と諸説あるが、 蓋籠(フタコ)がどうしてハコになったか、音韻変化に無理がある、 とする(日本語源広辞典)説もあり、 葉は薄くて平たいものですし、平たい籠をハコと呼んだ、 のだし(仝上)、 蓋がなくても、ハコと呼んでいたのは現在も同じ、 とする(仝上)のは確かに説得力があるが、多くは竹などで編んだものなのに、「はこ」と「こ」を区別していたのには意味があるはずで、音韻変化の難はあるにしても、 蓋籠(フタコ)の約、 とする説には、意味がある気がする。 「はこ」に当てる漢字には、 箱、 函、 筥、 匣、 匣、 筐、 があるが、 箱、 には、 かたみ(筐・篋)、 あるいは、 かたま(堅閨@編みて目が密なる意)、 つまり、 かご、 の意がある。和名類聚抄(平安中期)に、 苓篝、賀太美(かたみ)、小籠也、 とある(字源・大言海・岩波古語辞典)。 函、 には、 匣、 の意があり、 櫃(ひつ)、 の意がある(字源・漢字源)。 筥、 は、 かたみ、 で、 円形の筐、 とあり、円なるを、 筥、 方なるを、 筐、 という(字源)とある。だから、 筥筐(きょうきょ)、 で、 方形のかごと圓きかご、 の意となる(仝上)。 篋、 は、 長方形の箱、 で、 主に書物などを入れる箱、 をいう(仝上・漢字源)。 匣、 は、 箱、筥、匱、 と同義だが、大きいものを、 箱、 小さいものを、 匣、 といい(字源)、 ふたがついて、ぴったりかぶさるもの、 をいう(漢字源)。 筐、 は、上述のように、 かたみ、 で、 方なるかご、 をいう(字源)。 「函(凾)」(漢音カン、呉音ゴン)は、 象形。矢を箱の中に入れた姿を描いたもの、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%87%BD)が、 象形。矢を入れておく入れ物にかたどる。ひいて「いれる」、また、「はこ」の意に用いる、 とも(角川新字源)、 象形文字です。「矢袋に矢が入れてある」象形から、「箱」、「ふばこ(文書を入れる小箱)」を意味する「函」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2247.html)。 「筥」(漢音キョ、呉音コ)は、 会意。「竹+呂(つらなる)」、 とある(漢字源)。 米などを入れるのに使う丸い竹製のかご、 である(仝上)。類聚名義抄(11〜12世紀)には、 筥 ハコ、筥 アラハコ/沓筥 クツバコ、 とある。 「箱」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、 会意兼形声。「竹+音符相(両側に向かい合う)」。もと、一輪車の左右にペアをなしてつけた竹製の荷籠、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(竹+相)。「竹」の象形と「大地を覆う木の象形と目の象形」(「木の姿を見る」の意味だが、ここでは、「倉」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「しまう」の意味)から竹の「はこ」を 意味する「箱」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji425.html)。 「篋」(キョウ)は、 会意兼形声。「匧」(キョウ)は、この枠内にさし入れてふさぐ意、篋はそれを音符とし、丈を添えた字、 とあり(漢字源)、竹冠がついていて、 竹製のはこ、 とみられる(仝上)。 「匣」(漢音コウ、呉音ギョウ、慣用ゴウ)は、 会意兼形声。甲(コウ)は、ぴったりと蓋、または覆いのかぶさる意を含む。からだにかぶせるよろいを甲といい、水路にかぶせて流れを塞ぐ水門を閘(コウ)という。匣は、「匚(かごい)+音符甲」で、ふたをかぶせるはこ、 とある(漢字源)。 「筐」(漢音キョウ、呉音コウ)は、 会意兼形声。「竹+音符匡(キョウ 中を空にした四角い枠)」、 とあり、四角いものを筐(キョウ)といい、丸いものは、筥(キョ)という(漢字源)。 以上の他、「はこ」に当てる漢字には、 匱、 匪、 匭、 匳、 匵、 櫃、 笥、 筲、 篚、 簏、 簞、 等々がある。 匱(キ)、 は、 大いなるはこ、 とあり(字源)、 匣、 と同義である(字源)。 匪(ヒ)、 は、 かたみ、 で、 方形の竹かご、 で、 篚、 と同じとある(仝上)。 篚、 は、 かたみ、 だが、 圓形の竹器(たけかご)、 とある(仝上)。 匭(キ)、 は、 匣、 と同じとある。 小さい箱、 の意である(仝上)。 匳(レン)、 は、 会意兼形声。僉は、いろいろな物を集める意を含む。匳はむ「匚(わく)+音符僉(ケン・レン)」で、手元の品を集めてしまいこむ小箱、 とあり(漢字源)、 かがみばこ、 くしげ(鏡匣)、 ともある(字源)。 匵(トク)、 は、 ひつ(匱)と同じ、 とある(字源)。 大いなるはこ(匣)、 の意となる(仝上)。 「櫃」(漢音キ、呉音ギ)は、 会意兼形声。「木+音符匱(キ はこ くぼんだ容器)」、 とあり(漢字源)、 物をしまっておくための大きな箱や戸棚、 の意である(仝上)。 「笥」(シ)は、 会意兼形声。「竹+音符司(すきまがせまい、中の物をのぞく)」。身と蓋の隙間が狭い、竹で編んだはこ、 とある(漢字源)。 飯または衣服などを入れる四角な箱。あしや竹を編んでつくり、蓋がすき間なく被さるようになっている、 とある(仝上)。 圓を、 簞、 といい、 方を、 笥、 という(字源)。 「簞」(タン)は、 会意兼形声。「竹+音符單(タン 平らで薄い)」。薄い割竹で編んだ容器、 とあり(漢字源)、別に、 形声文字です(竹+單)。「竹」の象形(「竹」の意味)と「先端が両またになっているはじき弓」の象形(「ひとつ」の意味だが、ここでは、「坦(タン)」に通じ(同じ読みを持つ「坦」と同じ意味を持つようになって)、「ひらたい」の意味)から「ひらたい竹製の小箱」を意味する「箪」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2644.html)。 かたみ、 であるが、 小筐、 と当て、 飯びつ、 とある(字源)。 簞、 笥、 共に飯に関わり、 簞笥(たんし)、 は、 飯などを入れる容器、 になるが、我が国では、 タンス、 と訓ませ、 ひきだしを備えた収納家具、 の意で使うが、上述のように、 簞は円形、 笥は方形、 の、ともに食物や衣類を入れる容器を意味した。 筲(ショウ、ソウ)、 は、 めしびつ、 の意だが、 一斗二升の飯米を入れる容器、 とある(字源)。 篚(ヒ)、 は、やはり、 かたみ、 円形の竹器、 とある(字源)。 簏(ロク)、 は、 篚と同じ、 とあり、 竹にて編んだ丈の高い箱、 で、 書物、衣類などを入れる、 とある(字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 浅黄の打衣(うちぎぬ)に青Kの打狩袴(うちかりばかま)を着て、練色の衣の綿厚からなる三つばかりを着て(今昔物語)、 の、 練色(ねりいろ)、 とは、 うすい黄色、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 白みを帯びた薄い黄色(精選版日本国語大辞典)、 薄黄色を帯びた白色(岩波古語辞典)、 淡黄色(大言海)、 などともある。 平安時代から使われ、 漂白する前の練糸の色で、わずかに黄色みがかった白。練糸とは生糸きいとに含まれる硬タンパク質のセリシンを除去し、白い光沢と柔らかい手触りを出した絹糸のこと、 とあり(色名がわかる辞典)、 繭(まゆ)から取れた生糸(きいと)は空気に触れると酸化して、その表面が固くなります。昔はこれを手で練って除去し精錬していました。精錬された自然のままの絹糸の色のこと、 を、 練色、 という(http://www.tokyo-colors.com/dictionary/%E7%B7%B4%E8%89%B2/)とある。現代では絹以外の布地にも色名として用いられる(色名がわかる辞典)という。 素人目には、 肌色、 と区別がつかないが、JISの色彩規格では、肌色は、 うすい黄赤、 とし、一般に、 平均的な日本人の皮膚の色を美化したイメージの色、 をさす(仝上)。7世紀ごろは、 宍(しし)色、 と呼ばれていた。英名は、 フレッシュ(flesh)、 または、 フレッシュピンク、 で白人の肌の色をイメージしている(仝上)。 肌色、 よりは、 フレッシュ、 に近いのかもしれない。 「練」(レン)は、 会意兼形声。柬(カン・レン)は「束(たばねる)+ハ印(わける)」の会意文字で、集めたものの中から、上質のものをよりわけることを示す。練は「糸+音符柬」で、生糸を柔らかくして、よりわけ、上質にすること、 とある(漢字源)。別に、 形声。糸と、音符柬(カン→レン)とから成る。灰汁(あく)で煮てやわらかにし、光沢を出した「ねりぎぬ」、ひいて「ねる」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(糸+東(柬))。「より糸の象形」と「たばねた袋の象形とその袋に選別して入れた物の象形」(「たばねた袋からえらぶ」の意味)から生糸などから雑物を取り除き、良いものを「選び取る」、「ねる」を意味する「練」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji431.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 筒尻を以て小男のまなかぶらをいたく突きければ、小男、突かれて泣き立つと見る程に(今昔物語)、 の、 まなかぶら、 は、 目のふち、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 眶、 と当て、和名類聚抄(平安中期)に、 眶、和名万奈加布良(まなかぶら)、目眶也、 とあり、色葉字類抄(平安末期)には、 眶、マカフラ、 とあり、 まかぶら、 に同じとある(岩波古語辞典)。 まかぶらくぼ(窪)く、鼻のあざやかに高く赤し(宇治拾遺物語)、 と、 まかぶら、 も、 眶、 と当て、 目の周囲、 まぶち、 とある(仝上)。 まぶち、 は、 目縁、 眶、 と当て、 目のふち、 とあり(広辞苑)、 まなぶち、 とある。 まなぶち、 は、 眼縁、 と当て、 眼の縁、 とある(仝上)。どうやら、 まなかぶら、 は、 まなこ(目な子)、 まなじり(目な尻)、 まばゆし、 等々と使う、 め(目)の古形、 の、 ま(目)、 の、 目の被(かぶり)、 の意で(精選版日本国語大辞典)、 まなかぶら→まかぶら、 と転訛したもののようである。ただ、「まなかぶら」の、 かぶら、 の語源については、 かぶつち(頭槌)、 などと関連させ、「頭」の意と考える説もあ(精選版日本国語大辞典)、そうなると、本来、 目尻、 の対の、 目の、鼻に近い方の端、 の意の、 目頭(めがしら)、 の意であったものが、変化したことになる(仝上)。しかし、 目の被(かぶり)、 なら、文字通り、 目を被す、 つまり、 まぶた、 ではあるまいか。漢字、 眶、 は、 眶瞼、 眼眶、 などと使い、 まぶた、 の意であり、 匡、 と同じて、 目匡、 と使う(字源)とある。そうなると、大言海が、「まかぶら」の意に、 まぶた、 としているのは、見識ということになる。しかし、 匡、 は、 涙満匡横流(史記・淮南王安傳)、 と、 まぶち、 の意とある(仝上)。大言海も、 まぶた、 と並べて、 まぶち、 ものせる。そして、 まぶち、 自体が、 目のふち、 の意と共に、 まぶた、 の意もある(日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。どうやら、 まぶち、 と、 まぶた、 は、あまり区別されていなかったのかもしれない。あるいは、 まぶた→まぶち、 あるいは、 まぶち→まぶた、 と転訛したのかもしれないと思ったが、 メブチ(目縁)はマブチ(目縁)、メブタ(目蓋)はマブタ(目蓋)、メノフタ(目の蓋)はマナブタ(瞼)、メノフチ(目の縁)はマナブチ(眼縁)、メツゲ(眼つ毛)はマツゲ(睫)、メノシリ(眼の尻)はマナジリ(眦)、メノコ(眼の子)はマナコ(眼)になった、 とある(日本語の語源)ので、当初はしっかり区別していたと思える。とするなら、 眶、 に当てた以上、「眶」を、「まぶた」とみるなら(後述のように「眶」の字の意味については異説があるが)、 まぶた、 の意であったと見るのが妥当なのではあるまいか。 なお、「め」については触れた。 「眶」(キョウ)、 については、載る辞書が少なく、 まぶた、 と限定するもの(字源・https://kanji.club/k/%E7%9C%B6)のほか、 目の縁、 とするもの(https://cjjc.weblio.jp/content/%E7%9C%B6)、 目のふち、まぶち と、 まぶた、 を載せるものもある(https://kanji.jitenon.jp/kanjiv/10542.html)。 熱泪盈眶(熱い涙が目に溢る)、 という言い方からすると、 まぶた、 目の縁、 どちらとも言い得る。 「匡」(漢音キョウ、呉音コウ)は、 会意兼形声。「匚(わく)+音符王(大きく広がる)」で、枠の中一杯に張る意を含む。廓(カク 家や町の外枠)や槨(カク 棺おけの外枠)は、匡の入声(ニッショウ 音)に当たる、 とある(漢字源)。別に、 形声。匚と、音符㞷(ワウ→クヰヤウ 王は省略形)とから成る。はこの意。「筐(クヰヤウ)」の原字。転じて「ただす」意に用いる、 とも(角川新字源)、 「匡」は「匩」の略字、「匩」は会意兼形声文字です(匚+王(㞷))。「柳・竹を曲げて造った箱」の象形と「古代中国で支配権の象徴として用いられたまさかり(斧)の象形(「盛ん」の意味)と植物の芽生えの象形(「芽生え」の意味)」(「盛んに芽生える」の意味)から、箱のように「形を正して盛んにする」、「ただす」を意味する「匡」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://xn--okjiten-8e2l.jp/kanji2380.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 醫師もこれを聞きて泣きぬ。さて云ひやう、此の事を聞くに、實にあさまし、己構へむと云ひて(今昔物語)、 の、 構ふ、 は、 方法を考える、 と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 構ふ、 については、 カム(噛)アフ(合)の約、かみあわせる意(岩波古語辞典)、 カは構くの語根、マフは、設け成す意(見まふ、為(しまふ)、立ちまふ)(大言海)、 の二説しか載らないが、 構く、 は、 絡く、 とも当て、 大君の八重の組籬(くみがき)かかめども汝(な)を有ましじみかかぬ組籬(日本書紀) と、 構え作る、 組み作る、 編み成す、 意である(大言海)。この、 構く、 は、 懸くと同源、 とあり、 懸く、 は、 舁く、 とも、 掻く、 とも、 書く、 とも同源で、「かく(書)」で触れたように、 書く・描く・画くは、全て「掻く(かく)に由来する。かつては、土・木・石などを引っ掻き、痕をつけて記号を記したことから、「かく」が文字や絵などを記す意味となった、 もので(語源由来辞典)、「掻く」は、 爪を立て物の表面に食い込ませてひっかいたり、絃に爪の先をひっかけて弾いたりする意。「懸く」と起源的に同一。動作の類似から、後に「書く」の意に用いる、 とあり(岩波古語辞典)、「懸く」は、 物の端を対象の一点にくっつけ、そこに食い込ませて、その物の重みを委ねる意。「掻く」と起源的に同一。「掻く」との意味上の分岐に伴って、四段活用から下二段活用「懸く」に移った。既に奈良時代に、四段・下二段の併用がある、 とする(仝上)。つまり、漢字がなければ、 書く、 も、 掻く、 も、 懸く、 も 掛く、 も、 舁く、 も、 構く、 区別なく、「かく」であり、 手指の動作に伴う、 幅広い意味があることになる。 構ふ、 は、そう見ると、上述語源説の、 カム(噛)アフ(合)の約、かみあわせる意(岩波古語辞典)、 カは構くの語根、マフは、設け成す意(大言海)、 を合わせて、 カは構く、アフ(合)、 と、 構く、 を少し強め、単純な、 構く、 の動作を進め、 長き世の語りにしつつ後人の偲ひにせむとたまぼこ(玉桙)の道の邊(へ)近く磐構へ造れる冢(万葉集)、 と、 組み立て作る、 結構、 と(大言海)、「構く」の動作を進捗させた言い方なのではないか。字鏡(平安後期頃)に、 材、用也、加万夫、 とある。それをメタファに、 樏(かじき)はく越の山路の旅すらも雪にしづまぬ身をかまふとか(夫木集)、 と、 身構え、 身支度す、 の意に、さらに、 いかにかまへて、ただ心やすく迎へとりて(源氏物語)、 と、 思慮・工夫・注意・用心などあれこれ組み立て集中する、 と、 心構え、 の意で用い、 このかまふる事を知らずして、その教へに随ひて(今昔物語)、 と、 企てる、 たくらむ、 意でも使う(岩波古語辞典・大言海)。この他動詞が、 心にかまへてする意より、四段自動の生じたるものか、下二段他動のいろふ(彩色)に対して、四段自動のいろふ(艶)、いろふ(綺)のあるがごときか、 という(大言海)、 多く打消しの表現を伴って用いる、 「構ふ」の自動詞形が生じ、 世間は何といふともかまはず、再々見舞うてくれい(狂言・居杭)、 私にかまわないで先に行ってください、 などと、 関わる、 関与する、 かかづらう、 携わる、 意や、 小車にかまふ辺りの木を伐りて(六吟百韻)、 我等が鼻が高いによつて、こなたの下尾垂さげおだれへかまひまして出入りに難儀をしまする(西鶴織留)、 費用がかかってもかまいませんか、 などと、 差し支える、 さしさわる、 意で使い、さらに、転じて、 たづさはりて禁ずる意、 から、 すでに市川の苗字を削られ芝居もかまはるべき程のことなり(風来六部集・飛だ噂の評)、 と、 強く干渉して、一定の場所での居住などを禁止する、 追放する、 意などでも使う(広辞苑・大言海)。 構ひ、 と名詞形だと、江戸時代、 日本半分かまはれにけり(俳諧・物種集)、 と、 一定地域から追放し、立入を禁止する刑、 を指す(広辞苑)。 「構」(漢音コウ、呉音ク)は、 会意兼形声。冓(コウ)は、むこうとこちらに同じように木を組んでたてたさま。向こう側のものは逆に書いてある。構は「木+音符冓」で、木をうまく組んで、前後平均するように組み立てること、 とある(漢字源)。別に、 形声。木と、音符冓(コウ)とから成る。木を組み合わせて家屋などをつくる、ひいて「かまえる」意を表す、 とも(角川新字源)、 形声文字です(木+冓)。「大地を覆う木」の象形と「かがり火をたく時に用いるかごを上下に組み合わせた」象形(「組み合わせる」の意味)から、「木を組み合わせる」、「かまえる」を意味する「構」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji789.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) それが賓頭盧(びんづる)こそ、いみじく験(げん)はおはしますなれとて(今昔物語)、 にある、 賓頭盧、 は、 十六羅漢の一つで、参詣すれば病をいやすといわれている、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 賓頭盧、 は、 Piṇḍola-bharadvāja(ピンドーラ・バーラドヴァージャ)の音写、 で、 名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャ、 は、 賓頭盧翻不動、字也、頗羅堕、姓也、木行集経翻重瞳(翻訳名義集)、 と、 賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ 「賓頭盧」は字、「頗羅堕」は姓)の略、 とあり(精選版日本国語大辞典)、漢訳では、賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)の他、 賓頭盧跋羅堕闍(びんずるばらだじゃ)、 賓頭盧突羅闍(びんずるとらじゃ)、 賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ)、 等々とも音写し、略称して、 賓頭盧(尊者)、 と呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%93%E9%A0%AD%E7%9B%A7)。釈迦の弟子で、十六羅漢の第一、 獅子吼(ししく)第一、 と称されるほど(仝上)、 人々を教化し説得する能力が抜群、 であり、 神通に長じたが、みだりに神通を用いたため、仏に叱られて涅槃(ねはん)を許されず、仏の滅後も衆生を救い続ける、 とされる(精選版日本国語大辞典)。『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』には、 賓度羅跋囉惰闍(賓頭盧(びんずる)が仏陀から世にとどまれと命ぜられた、 とみえ、『弥勒下生経(みろくげしょうきょう)』には、 大迦葉(だいかしょう)、屠鉢歎(どばったん)、賓頭盧、羅云(らうん)、 の四比丘(びく)が仏法の滅亡ののちに涅槃(ねはん)するよう命ぜられた、と記されている(日本大百科全書)。 末世の人に福を授ける役をもつ人、 として受け取られ、法会には食事などを供養する風習が生じ、中国では、彼の像を、 食堂(じきどう)、 に安置した。日本では、 一向小乗寺。置賓頭盧和尚以為上座(「山家学生式(818〜19)」)、 西国諸小乗寺、以賓頭盧為上座(梵網経疏)、 と、 寺の本堂の外陣(げじん)、前縁、 などに安置し、俗に、 病人が自分の患部と同じその像の箇所をなでて、病気の快復を祈願した、 ところから、 なでぼとけ(撫(な)で仏)、 ともいい、 おびんずる、 おびんずるさま、 びんずり、 等々とも呼ぶ(仝上・日本大百科全書)。 おびんずるさま、 は、 舌が出してる、 とされることについて、こんな逸話が載っている(https://www.zen-temple.com/zatugaku/binzuru/binzurutop.html)。 おびんずるさまは 毎日 熱心に修行に励んでましたが、困ったことにお酒が大好きでした。修行のあいまにお釈迦さまに隠れては、こっそりお酒を飲んでおりました。 しかし、ある日、お釈迦さまにお酒を飲んでることがばれてしまい怒られたそうです。 それで、「しまった」と思ったのかどうかは分かりませんが、舌を出したそうです、 と、 赤いお顔、 なのは、 お酒をのん飲んで赤い、 のか、 お釈迦さまに怒られて赤面してる、 のかは定かではない、とも(仝上) 病んでいる場所と同じ所をなでて治す、 という風習生まれたのはいつの頃かはっきりしないが、当初は、 紙でお賓頭盧さんをなで、その紙で自分の患部をなでていた、 という(http://tobifudo.jp/newmon/jinbutu/binzuru.html)。直接なでるようになったのは、 江戸時代中頃から、 のようである(仝上)。 なで仏、 の原型は、大唐西域記の瞿薩旦那国(くさたなこく)に登場し、 栴檀の木で造られた高さ6m程の仏像があり、たいへん霊験があって光明を放っていました。この仏像に患部と同じ場所に金箔を貼ると、すぐに病が治る、とされていた、 とある(仝上)。 因みに、十六羅漢は、 仏の命を受けて、ながくこの世にとどまって、正法を守護するという一六人の阿羅漢、 をいい、「羅漢」は、 阿羅漢、 の意で、 サンスクリット語のアルハトarhatの主格形アルハンarhanにあたる音写語、 で、 尊敬を受けるに値する者、 の意。漢訳仏典では、 応供(おうぐ)、 あるいは、 応、 と訳す。仏教において、 究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、 をいう。後世の部派仏教(小乗仏教)では、 仏弟子(声聞 しょうもん)の到達しうる最高の位、 をさし、仏とは区別され、大乗仏教においては、 阿羅漢は小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩ぼさつ)には及ばない、 とされた(日本大百科全書)。なお、十六羅漢の他、 五百羅漢、 が知られる。十六羅漢は、経典により名称に多少の差異があるが、 賓度羅跋羅惰闍(ひんどらばっらだじゃ)・迦諾迦跋蹉(かだくかばさ)・迦諾迦跋釐惰闍(かだくかばりだじゃ)・蘇頻陀(そびんだ)・諾距羅(なくら)・跋陀羅(ばだら)・迦理迦(かりか)・伐闍羅弗多羅(ばしゃらふったら)・戍博迦(じゅはか)・半託迦(はんだか 周梨槃特)・羅怙羅(らごら)・那伽犀那(なかさいな)・因掲陀(いんかだ)・伐那婆斯(ばなばし)・阿氏多(あした)・注荼半託迦(ちゅだはんだか)、 とされる(仝上・精選版日本国語大辞典)。 なお賓度羅跋羅堕闍尊者の形相は、 白眉皓首、岩窟に依り波瀾を見、両手に小宝塔を捧げ、中に仏像を安んず、 とある(http://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AD%E7%BE%85%E6%BC%A2)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) これが腹立ちて解かぬをも、あやにくだつやうにて、ただ解きに解かせつ(今昔物語)、 さこそあやにくだちつれども、いとほしかりければ、装束を取りて急ぎ着て、馬に乗りて(仝上)、 とある、 あやにくだつ、 は、 いじわるくする、 意とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。「あやにくだつ」は、 生憎だつ、 と当て、 人をいらだたせ、困らせるような態度をする、意地わるくふるまう(広辞苑)、 人の嫌がることをことさらにする(大辞林)、 身勝手なことをして人を困らせる、だだをこねる(大辞泉)、 強引なことをして他を困らせる、意地を張る(日本国語大辞典)、 他を困らせたがる、いたずら心が起こる(学研全訳古語辞典)、 憎らしく思われる振舞いをする(岩波古語辞典)、 などと、微妙にニュアンスが異なるが、用例は、同じ、 あなたこなたに住む人の子の四つ五つなるは、あやにくだちて、物とり散らしそこなふ(枕草子)、 についての意味なのが可笑しい。「あやにくだつ」は、 「あやにく」 + 接尾辞「だつ」、 で(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%84%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%A4)、 アヤニクは、憎む意、立つは、起こる、始まるの意(景色だつ、艶(えん)だつ)、憎む心の起こると云ふなり、アヤニクム心と云ふ語もあり、 とある(大言海)。単に、 困るようなこと、憎たらしいことをする、 というのではなく、 そういう気持ちが起こる、 という含意と思われる。 あやにく、 は、 生憎、 可憎、 と当て(大言海)、形容詞の、 あやにくしの語幹、 とある(仝上)が、 ニクシは憎しの語幹、 ともある(岩波古語辞典)。「あやにくし」の、 アヤは感嘆詞の嗟嘆(アヤ)なり、アナニクシと云ふも、嗟嘆(アナ)憎しなり、共に、語根のみにて、アヤニク、アナニクと、副詞に用ゐらる(大言海)、 てあり、「あやにく」は、 形容詞の嗟嘆(アヤ)憎しの語根(あやなし、あやな。あなかしこし、あなかしこ)、アナアヤニクとも云ふは、感動詞の重言なれども、下の語原は忘れられて云ふなり、アイニクと云ふは、後世語にて、音轉なり(此奴(こやつ)、こいつ。彼奴(あやつ)、あいつ)、 とも(大言海)、 アヤは感動詞、ニクは憎しの語幹、程度の程度の甚だしさとか、物事の潮時とかが、自分の思いを阻害して、憎らしく思われること、今の「あいにく」の古語、 とも(岩波古語辞典)、 「あや」は感動詞、「にく」は「にくし」の語幹)気持や予想に反して、好ましくないことが起こるさま。また、思うようにならないで好ましくなく感ずるさま(日本国語大辞典)、 とも、 「観智院本名義抄」では「咄」(意外な事態に驚いて発する声)の字が当てられているところから、一語の感動詞のように用いられ、やがて形容動詞に進んだとも見られる(精選版日本国語大辞典)、 ともあり、 出でんとするに、時雨(しぐれ)といふばかりにもあらず、あやにくにあるに、なほいでんとす(蜻蛉日記)、 と、 予期に反してまが悪いさま、おりあしく不都合だ、 の意や、 さらに見ではえあるまじくおぼえ給ふも、かへすがへすあやにくなる心なりや(源氏物語)、 と、 予期に反して思うにまかせないさま、思いどおりにならないで困る、 意や、 さらに知らぬよしを申ししに、あやにくにし給ひし(枕草子)、 と、 予期に反して程度のはなはだしいさま、はげしいさま、 の意や、 さらば人にけしき見せで、この御文奉るわざし給へといへばいでとて、取りて、あやにくに、かの部屋にいきてこれあけん、これあけん、いかでいかでといへば(落窪物語)、 と、 状態ややりかたが思いのほかであるさま、意地が悪い、 意で使うが(精選版日本国語大辞典)、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 咄、アヤニク、 字鏡(平安後期頃)に、 憎、阿也爾久、 江戸時代中期の国語辞典『和訓栞』(谷川士清)に、 杜詩に、生憎柳絮白於綿、遊仙窟二、可憎病鵠夜半驚人、コノ生憎、可憎ヲ、あやにくトモ、あなにくトモ訓めり、 とあるが、どの「あなにく」にも、 惜しまれぬ身だにも世にはあるものをあなあやにくの花の心や(山家集)、 のように、 いらだたしく、憎らしく思われる、 というように、 事態、 や、 事柄、 や 程度、 や 時機、、 や 進捗、 等々が、思うにまかせず、 憎たらしい、 という含意が含まれている。これは漢語からきたものらしく、漢語、 生憎(セイソウ)、 にも、 憎みを生ずる、 という意(大言海)があり、 生怕(ショウハク)、 と同義で、 ひどくにくたらしい、 意で、 ひどくにくらしい、 あやにく、 と訓じ(字源・漢字源)、 生憎帳額繍弧鸞(盧照鄰)、 と、 おりあしく、 意外に、 と、 今日の、 生憎(あいにく)、 と同義で使う(字源)。 あやにく、 から、 あいにく、 へと転訛は、 近世末から明治にかけて併用され、大正時代以降は、「あいにく」が一般化する、 とある(日本語源大辞典) あやにくがる、 は、 (男に対して)あやにくがりつるほどこそ(女は)寒さも知らざりつれ(枕草子)、 と、 気持や状況にうまく合わなくて迷惑だ、 まったく憎らしく思っている様子をする、 思いどおりにならずに、いやがる、 と、 憎らしがる、 意であり、 あやにく心、 は、 いとけしからぬ御あやにくなりかし(源氏物語)、 と、 どうにもならず憎らしく思われる心 の意で、逆に、 意地を張って人を困らせようとする気持、 意地わるい心、 でも使う。 今日、「あやにく」が転訛して あいにく、 と訓む、 生憎、 は、 予想と違ったり、目的と合わなかったりして、都合の悪いさま、 の意で用い、「と」を伴って、 あいにくと、 の場合も、 具合の悪いことに、 おりあしく、 の意で、「あやにく」の持っていた、 自分にどうにもならない事態、対手、時機、 等に切歯扼腕するような、 憎らしい、 という含意はなく、 あいにくの雨だ、 おあいにくさま、 あいにく都合が悪い、 等々、どちらかというと、 主体側の事情、 とあわない意味にシフトしているような気がする。 なお「あやにく」の語源については、上述の通り、 感嘆詞「あや」+形容詞「憎し」、 ないし、 「あやにくし」の語幹、 というのが通説になってるが、 副詞「あやに」との関係、 を指摘する説もある(日本語源大辞典)らしい。 あやに、 は、 感動詞「あや」に助詞「に」がついてできた語、 とされ、 言葉に表わせないほど、また、理解できないほどの感動をいう、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 この御酒(みき)の御酒の阿夜邇(アヤニ)転楽(うただの)し(古事記)、 と、 なんとも不思議に、 言いようもなく、 わけもわからず、 の意の他に、 見まつればあやにゆゆしくかなしきろかも(鈴屋集)、 と、 むやみに、 むしょうに、 ひどく、 の意でも使い(仝上・岩波古語辞典)、「あや」は、 「あやし」「あやしぶ」などの「あや」と同源で、感動詞「あや」に基づく。上代にも既に程度の副詞としての用法が見えるが、時代が下るにつれて、「目もあやに」の形など固定化された修辞的な用法が主となる、 とある(仝上)。確かに、感嘆詞「あや」つながりでは、関係があるとは見えるが、 憎たらしい、 という含意は薄い。「あや」つながり以外にはつながるとは見えない気がする。 「憎(憎)」(慣用ゾウ、漢音呉音ソウ)は、 会意兼形声。曾(ソウ)は甑(こしき)の形で、層をなして何段も上にふかし器を載せたさま。憎は「心+音符曾」で、嫌な感じが層をなしてつのり、簡単にのぞけぬほどいやなこと、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(忄(心)+曽(曾))。「心臓」の象形(「心」の意味)と「蒸気を発するための器具の上に重ねた、こしき(米などを蒸す為の土器)から蒸気が発散している」象形(「重なる」の意味)から重なり積もる心、「にくしみ」を意味する「憎」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1538.html)。 「生」(漢音セイ、呉音ショウ)は、「なま」で触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 隠れて見候つれば、内より御許(おもと)だちたる女出で来て、男の候つると語らひて(今昔物語)、 とある、 御許、 は、 宮廷の女房などを呼ぶときの敬称。相当の身分の女性の意味、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 御許、 は、 みもと、 と訓ませると、 仏世尊の所(ミモト)(「地蔵十輪経元慶七年点(883)」)、 と、 「み」は接頭語、 で、 神仏や天皇など、貴人のいる所。また、そのそば近くを尊んでいう語、 である(精選版日本国語大辞典)が、転じて、 誰ぞこの仲人たてて美毛(ミモ)とのかたち消息し訪ひに来るやさきむだちや(「催馬楽(七世紀後〜八世紀)」)、 と、 相手を敬って呼ぶ語、 として、 あなた、 おもと、 の意で使い(広辞苑)、 御許に候はばやと、 と、 女性が手紙の脇付に用いる、 こともある(デジタル大辞泉)。 おんもと、 と訓ませる場合も、「みもと」と同じく、 「おん」は接頭語、 で(精選版日本国語大辞典)、 宮の御もとへ、あいなく心憂くて参り給はず(源氏物語)、 と、 貴人の居所、 貴人のそば、 の意で、 おもと、 みもと、 ともいい、多く、 おんもとに、 おんもとへ、 の形で、 おそばまで、 の意で、 脇づけ あて名の傍(そば)へは、人により処(ところ)により、御前(おんまへ)に、御許(オンモト)に、人々申給へ……など書くべし(樋口一葉「通俗書簡文(1896)」)、 と、 手紙の脇付けに書く語として、主として女性が用いる(精選版日本国語大辞典)。ちなみに、「脇付け」とは、 侍史(じし)、 机下(きか)、 御中、 尊下(そんか)、 膝下(しっか)、 など、 書状の宛名の左下に書き添えて敬意を表す語、 で、女性は、 御前(に)、 御もと(に)、 などをよく使う(広辞苑)。 おもと、 と訓ませる場合も、 「お」は接頭語、 とある(精選版日本国語大辞典)が、 オホ(大)モト(許)の約、 ともある(岩波古語辞典)。後者なら、「みもと」と「おもと」では、その由来が異なることになる。「おもと」も、 入鹿、御座(オモト)に転(まろ)び就きて、叩頭(の)むで曰(まう)さく(日本書紀)、 と、 天皇や貴人の御座所を敬っていう語、 であるが、 見る人いだきうつくしみて、親はありや、いざわが子にといへば、いな、おもとおはすとて更に聞かず(宇津保物語)、 と、 天皇や貴人の御座所に仕える、 おもと人、 の意から 女性、特に女房を親しみ敬って呼ぶ語、 の意で用いる。上述の、 御許(おもと)だちたる女、 はその意味である。 おもと(御許)人、 は、 宮の家司・別当・御許人など職事定まりけり(紫式部日記)、 と、 天皇など貴人の御側近く仕える女官、 侍女、 を指す(広辞苑)が、もとは、 侍従、 陪従、 とも当て、 令制で、中務省の官人。天皇に近侍して護衛し、その用をつとめる従五位下相当官、 を指していた(精選版日本国語大辞典)。 また、「おもと」は、 三の君の御方に、典侍(すけ)の君、大夫(たいふ)のおもと、下仕まろやとて、いと清げなる物の(落窪物語)、 と、 「〜のおもと」の形で、 女房などの名前、または職名の下につけて呼ぶ敬称、 としても用い、 ゆゆしきわざする御許(おもと)かな、いとほしげに(今昔物語)、 何を賭けべからん。正頼、娘ひとり賭けん。をもとには何をか賭け給はんずる(宇津保物語)、 と、 対称、 で、多く、 女性に対して敬愛の気持から用いる、 とある(広辞苑)。その「おもと」には、 代名詞「あ」「わ」と結び付いた、 あがおもと、 わがおもと、 という形、さらに転訛して、 さてこそよ、和御許(わおもと)、面に毛ある者は物の恩知る者かは(今昔物語)、 と、 我御許、 吾御許、 とも当てる、 わおもと、 もある(デジタル大辞泉)。 なお、「御許」を、 おゆるし、 と訓ませると、 おさかづきはいただきますが、御酒は今のじゃ、おゆるしおゆるししたが(洒落本「聖遊廓(1757)」)、 と、 「お」は接頭語、「おゆるしなされ」「おゆるしあれ」などの略、 で、 許してほしいと頼むときに言うことば、 ごめん下さい、 お許し下さい、 の意で(精選版日本国語大辞典)、 もし、おゆるしと襖を少しあけて(洒落本「色深睡夢(1826)」)、 と、 他の人のいる部屋などにはいるときに言うことば、 ごめん、 の意である(仝上)。また、 ごゆるされ、 と訓ませると、 「ご」は接頭語、 で、 ヲモキ トガノ goyurusare(ゴユルサレ)ヲコムルベキヲンワビコト(「バレト写本(1591)」)、 と、 御赦免、 の意に、また、 おれさへまだ手も通さぬものを、女郎買にでも行なら借もしよふが、とふらいには、ごゆるされだ(咄本「今歳咄(1773)」)、 と、 拒否する気持を表わす語、御免、 の意でも使う(仝上)。 「御」(漢音ギョ、呉音ゴ)は、 会意兼形声。原字は「午(キネ)+卩(人)」の会意文字で、堅い物をきねでついて柔らかくするさま。御はそれに止(足)と彳(行く)を加えた字で、馬を穏やかにならして行かせることを示す。つきならす意から、でこぼこや阻害する部分を調整してうまくおさめる意となる、 とある(漢字源)。別に、 会意形声。もとは音符「午(きね>杵)」に「卩(人)」を加えた形で、人が杵で土をつき固めならす様を意味。のちに「彳」と「止(足)」を加え、馬を馴らし進ませることを意味した、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BE%A1)、 会意。彳と、卸(しや)(車を止めて馬を車からはずす)とから成る。馬をあやつる人の意、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(辵+午+卩)。「十字路の左半分の象形と立ち止まる足の象形」(「行く」の意味)と「きねの形をした神体」の象形と「ひざまずく人」の象形から、「神の前に進み出てひざまずき、神を迎える」を意味する「御」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1246.html)。 「許」(漢音キョ、呉音コ)は、 会意兼形声。午(ゴ)は、上下を動かしてつくきね(杵)を描いた象形文字。許は「言(いう)+音符午」で、上下にずれや幅をもたせて、まあこれでよしといってゆるすこと、 とある(漢字源)。別に、 形声。言と、音符午(ゴ)→(キヨ)とから成る。相手のことばに同意して聞き入れる、「ゆるす」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(言+午)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「きね(餅つき・脱穀に使用する道具)の形をした神体」の象形から、神に祈って、「ゆるされる」、「ゆるす」を意味する「許」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji784.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 鉾(ほこ)を取りたる放免(はうめん)の、蔵の戸の許に近く立ちたるを、蔵の戸のはざまより、盗人、此の放免を招き寄す(今昔物語)、 の、 放免、 は、 はうべん、 ともいい(「べん」は「免」の漢音)、 平安・鎌倉時代、検非違使庁の下で犯人捜査などに従事した下部(しもべ)、刑期終了後に放免された罪人をこれに使用した、 のでいう(岩波古語辞典)。 犯罪に通じており、追捕に便利だからおかれた、 らしく(広辞苑)、 法便、 とも当てる(仝上)。 獄の邊に住む放免(はうめん)どもあまた相議して、強盗にて□が家に入らむと思ひけるに とあるのは、 元来が囚人だったのでやはり悪人がいたのであろう、 とあり(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、摂関期の右大臣藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』長和(ちょうわ)三年(1014)4月21日条に、 狼藉(ろうぜき)を行い、看督長(かどのおさ)らとともに京中を横行し市女笠(いちめがさ)を切るなどの行為があった、 とあり、権中納言源師時(1077〜1136)の日記『長秋記(ちょうしゅうき)』大治(だいじ)四年(1129)12月6日条にも、 追捕の間に放免が東大寺聖宝僧正五師子(ごしし)の如意(にょい)を盗取した、 とある(日本大百科全書)。 放免(はうめん)、 は、 無罪放免(唐書)、 というように、 放ち許す、 意の漢語で、わが国でも、 無論公私、皆従放免(「続日本紀」養老四(720)年)、 あやまりなきよしをゆうぜられ、放免にあづからば(平家物語)、 と、 ゆるすこと、 あるいは、 義務を免除し、あるいは処罰することをやめ、あるいは怒りを解くこと、 の意や、 其為人凶悪衆庶共知者。不須放免(「延喜式(927)」)、 と、 身体の拘束を解き、行動の自由を回復させること、 の意でも使うが、検非違使庁(けびいしちよう)が、 釈放された罪人、 を、雑用等々に用いたことから固有名詞としても使われた。 その職務内容は、 野盗・山賊等の追跡・逮捕、獄囚に対する拷訊、 流罪人の配所への護送、死体の処理、 等々で、厳密には、 走り使い、 を職務とする、 走下部(はしりしもべ)、 と、 罪人の罪をゆるして、その代償に犯罪人の探索や密告収集活動に従事させた、 放免、 に分けられる(世界大百科事典)。彼らの容姿は、 当時は一般的でなかった口髭、顎鬚を伸ばし、特殊な祭礼や一部の女子にしか許されていなかった「綾羅(りょうら)錦繍(きんしゅう)」、「摺衣(すりごろも 文様を彫り込んだ木版の上に布を置き、これに山藍の葉を摺り付けて作る技法の衣)」と呼ばれる模様の付いた衣服を身につけた、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%85%8D)、この模様については、 贓物(盗んで得た財物の意)出来するところの物を染め摺り文を成した衣袴、 で、また、 七曲がりの自然木の鉾、 を持つ、 とある(仝上)。彼らは、賀茂の祭に従う時、 「綾羅(りょうら)」(あやぎぬとうすぎぬ)、「錦繍(きんしゅう)」(刺繍をした着物)を着、上に花など、種々の飾り物を着る習ひあり、これを風流(ふりゅう)と云ふ、後の邌物(ねりもの)の如し、これを放免のつけ物など云ふ、 とあり(大言海)、その華美な服装は、 新制で過差(過度に華美なこと)禁断の対象になったりしたが、院政期の説話集『江談抄』によれば、その、 放免の華美な服装は贓物(ぞうぶつ 盗品)を着用したものであった、 という(仝上・日本大百科全書)。「放免のつけ物」は、 放免の付物、 と当て、 建治(けんじ)・弘安(こうあん)の比(ころ)は、祭の日の放免(ほうべん)の付物(つけもの)に、異様(ことよう)なる紺の布五六反にて馬をつくりて、尾髪(おかみ)には灯火(とうしみ)をして、蜘蛛のい描きたる水干につけて、歌の心など言ひわたりしこと、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか、 とある(枕草子)ように、 賀茂祭の日、着用する水干につけた、花鳥などの作りもの、 をいう(広辞苑)。 邌物(ねりもの)、 は、 練物、 とも当て、 祭礼の時などにねり行く踊屋台・仮装行列または山車だしの類、その他種々の飾り物の称、 であり(大言海・広辞苑)、「風流」で触れた。 「放」(ホウ)は、 会意兼形声。方は、両側に柄の伸びたすきを描いた象形文字。放は「攴(動詞の記号)+音符方」で、両側に伸ばすこと。緊張やそくばくを解いて、上下左右に自由に伸ばすこと、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(方+攵(攴))。「柄のある農具:すき」の象形(「左右に広がる」の意味)と竹や木の枝を手にする象形(「強制する、わける」の意味)から左右に「広げる」、「はなす」を意味する「放」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji539.html)。 「免」(漢音ベン、呉音メン)は、 会意文字。免の原字ば、女性がももを開いてしゃがみ、狭い産道からやっと胎児が抜け出るさまを示す。上は人の形、中は両もも、下の儿印は、体内から出る羊水、分娩の娩の原字で、やっと抜け出る、逃れ出る意を含む、 とある(漢字源)。異説として、 冠を被った姿を象った様子(『冕』の原字)、 とするもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%8D)がある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 走りで逃げて去にけり。然れば、四人は矢庭に射殺したりけり。今一人は四五町ばかり逃げ去りて(今昔物語)、 とある、 矢庭、 は、 矢を射る場所。矢のとどく距離、近い所。時間では、即座に、ただちにの意となる。この場合は原義に近い使い方ではないか。「四五町ばかり」は、もはや矢庭ではない、 と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 矢庭、 は、 矢場、 とも当て(岩波古語辞典)、「矢場(やには)」は、 さんざんに射給へば、矢庭に鎧武者十騎許り射落さる(平家物語)、 と、 矢を射る場所、又は、射たる其場、 の意で(大言海)、 やにはに、 と副詞として使う場合、 ヤニハは矢場にて、其場を去らせずと、戦場に云ふより起こりたる語かという、 とある(仝上)。 (矢を射ている)その場で、時間もかけないで一気に事を行うさまを表す語、 ともある(日本語源大辞典)。同趣旨たが、 矢を射たその庭に、 の意(日本語源広辞典)ともある。しかし、 イヤニハカニ(彌俄に)は「イ」「カ」を落として、ヤニハニ(矢庭)になった、 と、語音転訛からとする説(日本語の語源)もある。 正直のところ、 矢を射る場所、あるいは、矢を射ているその場、 の意から、 即座に、 ただちに、 と意味が転化したのはわかりにくいが、もともと、 夜明けたれば逃ぐる者もらはに見えつるに、蠅だにふるまはさず、或いは矢庭に射臥せ(今昔物語)、 と、 その場で矢を射た、 あるいは、 矢を射たその場、 の意から、 究竟の者ども、五六人やにはに切り給ふ(義経記)、 と、 時間もかけないで一気に事を行なうさまを表わす語、 として、 直ちに、 たちどころに、 と、時間的に、 即座、 に転じ、それが、 南原にいたち一つはしり出たり。見付けしを幸に、やにはに棒をふりあげ、打殺さんとしけるを(咄本「醒睡笑(1628)」) と、 いきなり、 突然、 だしぬけに、 に転じ、さらに、 女の泣声がお絹だと分ったから、矢庭に合の襖を開けて飛び込んだ(森田草平「煤煙(1909)」)、 と、 前後の見境もなく直ちに、または、しゃにむに事を行なうさまを表わす語、 に転じたという流れになるようだ(岩波古語辞典・日本国語大辞典)。 なお、「矢」(シ)は、「征矢」で触れたように、 象形。やじりのついたやの形にかたどり、武器の「や」の意を表す、 とある(角川新字源)。 「庭」(漢音テイ、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。廷(テイ)の右側の字(テイ)は、壬(ジン)とは別字。挺(テイ まっすぐ)の原字で、人がまっすぐ伸ばして立つときの、すねの部分を示した字。廷はそれに廴印(横に伸ばす)をつけ、まっすぐ平らに伸びた所を示す。庭は「广(いえ)+音符廷」で、屋敷の中の平らにまっすぐ伸ばした場所、つまり中庭のこと。もと廷と書いた、 とある(漢字源)。別に、 会意形声。广と、(テイ 宮殿内の中庭)とから成る。宮中の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(广+廷)。「屋根」の象形と「階段(宮殿)の前から突き出たにわ」の象形から「にわ」を意味する「庭」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji522.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 髪をば後(うしろ)ざまに結ひて、烏帽子もせぬ者の、落蹲(らくそん)と云ふ麻衣のうにてあれば(今昔物語)、 の、 落蹲、 は、 高麗樂のひとつ、 で、 納蘇利(なそり)ともいう、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。「納蘇利」は、 納曾利、 とも当て、正確には、 《納曾利》通常為雙人舞、單人獨舞時又稱為《落蹲》、 とあり(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc22/sakuhin/bugaku/s12.html)、和名類聚抄(平安中期)には、 高麗楽曲、納蘇利、 とある、 舞楽の右舞で、二人舞の納蘇利(なそり)の一人舞、 をいう(精選版日本国語大辞典)。別名は、 落蹲、 とするのはその意味である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E6%9B%BD%E5%88%A9)。ただ、奈良の南都楽所では一般とは逆に一人舞の場合は曲名を「納曽利」、二人舞の場合は「落蹲」と呼ぶ(仝上)らしい。 双龍舞、 ともいう(仝上)のは、 二匹の龍が楽しげに遊び戯れる様子を表したもの、 とも(仝上)、 雌雄二頭の竜が戯れながら天に昇る姿を舞にした、 とも(日本大百科全書)言われ、 童舞(わらわまい 舞楽で、子どもの舞う舞)、 として舞われることもあるからである(仝上)。「納曾利」は、 高麗(こま)楽の高麗壱越(いちこつ)調(雅楽の六調子の一つ。壱越の音、すなわち洋楽音名の「ニ」の音(D)を主音とした音階)、 で(世界大百科事典・精選版日本国語大辞典)、 走舞(はしりまい)、 に属し、 右方で、二人の舞手は背中合わせで大きな輪を描いたり、互いに斜め方向に飛び離れたり舞台上を活発に動く、 二人舞(一人舞のときにが『落蹲(らくそん)』)、 で(日本大百科全書)、古くから、 『陵王』の答舞(とうぶ 先に演じる左舞の対となる右舞)として、頻繁に演じられてきました。平安時代には競馬の勝者に賭物が与えられる賭弓(のりゆみ)、相撲の節会(せちえ 季節の節目に行われる宴)で舞われ、左方が勝つと『陵王』が、右方が勝つと『納曽利』が舞われたといわれています、 とある(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc22/sakuhin/bugaku/s12.html)。「相撲の節会」あるいは「相撲節(すまいのせち)」については「最手(ほて)」、「相撲」については、「すまふ」で触れた。 因みに、「右舞(うまい・うぶ)」 とは、 右方の舞」(うほうのまい)、 右の舞、 ともいい、 舞楽の右方(うほう)の舞。古代朝鮮系の舞踊とその音楽。舞人は舞台後方の向かって右から出入りし、装束は緑、青、黄系統の色を用いる、 とあり(精選版日本国語大辞典)、対するのが、 左舞(さまい・さぶ)、 で、 左方の舞、 舞楽の左方の舞。中国、インド系の舞楽。舞人は赤・紅系統の色の装束を着け、舞台向かって左の通路から出入する、 とある(仝上)。一人舞の場合は曲名を、 落蹲(らくそん)、 と言うのは、 一人舞の場合、舞人が舞台中央で蹲(うずくま)る舞容があるためである、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E6%9B%BD%E5%88%A9)。二人舞のときは、 金青色の舞楽面、 を、一人舞のときは、 紺青色の龍頭を模した牙のある舞楽面、 を着け(仝上)、装束は、 袍に竜唐織紋のある毛縁の裲襠、指貫・大口・腰帯・糸鞋を着け、竜を模した吊顎面と緑色金襴の牟子(むし)で頭部を覆い、右手に銀色の桴(ばち 細い棒のこと)を持つ とある(http://heian.cocolog-nifty.com/genji/2006/07/post_4538.html)。ただし、童舞の場合は、 面、牟子を着けず、童髪に天冠、 を着ける(仝上)。 一人舞を落蹲、二人舞を納蘇利と呼ぶ、 とされているが、 納蘇利、らくそんといふべし(大神基政(おおがのもとまさ)の楽書『龍鳴抄』)、 とあり(http://youyukai.com/epi/ban6.html)、 日暮れかかるほどに、高麗の乱声して、「落蹲」舞ひ出でたるほど、なほ常の目馴れぬ舞のさまなれば、舞ひ果つるほどに、権中納言、衛門督下りて、「入綾」をほのかに舞ひて(源氏物語)、 落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる(枕草子)、 殿の君達二所は童にて舞ひたまふ。高松殿の御腹の巌君は納蘇利舞ひたまふ。殿の上の御腹の田鶴君陵王舞ひたまふ(栄花物語)、 と、少なくとも平安中期までは舞人の人数による呼び分けはなかった(http://heian.cocolog-nifty.com/genji/2006/07/post_4538.html)との見方があり、 落蹲、納曽利の名は昔、舞の人数に関係なく併用して使われていた、 のではないかとも言われる(http://youyukai.com/epi/ban6.html)。 なお、舞楽には、 番舞(つがひまい)、 あるいは、 番の舞、 つがい、 と言って、 左右の舞から舞姿の様式、装束の形式が同数のものを一曲ずつ組み合わせてひと番(つがい)にしたもの、 がある(精選版日本国語大辞典)。代表的なのが、上述した、 右方、納曽利(落蹲)、 左方、陵王、 である。 右方の、 納曾利、 と対をなす、番舞(つがいまい)の、左方(さほう)の、 陵王、 という曲は、別名、 蘭陵王入陣曲、 短縮して、 陵王、 といい、 左方(唐楽)に属する壱越調(いちこつちょう)の一人舞、 で、元は沙陀調(さだちょう 雅楽の調子の一。壱越を主音とする呂(りょ)調で、のちに壱越調に編入)であったが日本で壱越調に転調した、 とあり、 華麗に装飾された仮面を被る勇壮な走舞、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E9%99%B5%E7%8E%8B_%28%E9%9B%85%E6%A5%BD%29・デジタル大辞泉)。答舞が、 納曽利(なそり)、 になる。 管絃演奏時には、 蘭陵王、 舞楽演奏時には、 陵王と表す(仝上)とある。 北斉の蘭陵武王・高長恭の逸話にちなんだ曲目、 で、 眉目秀麗な名将であった蘭陵王が優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇姿を歌に歌ったのが曲の由来とされている(仝上)。 装束は、 龍頭を模した舞楽面を着け、金色の桴(ばち 細い棒のこと)、 を携え、 緋色の紗地に窠紋(「窠」は鳥の巣の意、数個の円弧形をつなぎ合わせた中に、唐花や花菱などを入れたもの)の刺繍をした袍を用い、その上に毛縁の裲襠(りょうとう)と呼ばれる袖の無い貫頭衣を着装し、金帯を締める、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 此れより蓼中(たでなか)の御門に行きて、忍びやかに弦打(つるう)ちをせよ(今昔物語)、 の、 弦打ち、 とは、 弓のつるを引いてならす、一つの合図。悪魔祓いにもした、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 弦打ち、 は、 矢をつがえずに、張った弦を手で強く引き鳴らすこと、 をいい(岩波古語辞典・日本大百科全書)、 空弾弓弦(カラユミツルウチス)於海浜上(雄略紀)、 と、 矢を放たず、弦音のみせしめて、敵を欺き、油断に乗じて射ること、 を意味する(大言海)が、 弓に矢をつがえずに、弓弦(ゆづる)だけを引いて放し、ビュンと鳴らすことによって、妖魔(ようま)を驚かせ退散させる呪法、 として行われ、 弓弦(ゆづる)打ち、 ゆみならし、 とも、 鳴弦(めいげん)、 ともいう。 「鳴弦」(めいげん) 自体は、 雁落逐鳴弦(楊師道)、 と、 漢語で、 弓弦を鳴らす、 意味だが、我が国では、 御湯たびたびまゐりて、つるうちしつつ、こわづくりゐ給へるに、(出産あり、赤児が)いがいがと泣く(宇津保物語)、 紙燭さして参れ、随身もつるうちして絶えず声づくれと仰せよ、人離れたる所に心とけて寝ぬるものか(源氏物語)、 などと、 殿上人が入浴、病気、出産、雷鳴などの際に、その発する音によって物怪を払うために行い、妖怪、悪魔を驚かし、邪気、穢(けがれ)を祓(はら)うために行う、 という、 弓矢の威徳による破邪の呪法、 をいう(仝上)。また、 それをする役の人、 をもいう(精選版日本国語大辞典)。平安時代においては、 生誕儀礼としての湯殿始(ゆどのはじめ)の読書(とくしよ)鳴弦の儀、 として行われたのをはじめ、出産時、夜中の警護、不吉な場合、病気のおりなどに行われ、また天皇の日常の入浴に際しても行われ(世界大百科事典)、天皇の入浴の際には、 蔵人(くろうど)が御湯殿(おゆどの)の外に候(こう)して行い、滝口の武士の名対面(なだいめん)の際にも行われたが、皇子誕生の際の鳴弦はもっとも盛んであり、のちには貴族社会より波及して、鎌倉・室町幕府将軍家の子女誕生のおりなどにも行われた、 とある(日本大百科全書)。後世になると、 わざわざ高い音を響かせる引目(蟇目 ひきめ)という鏑矢(かぶらや)を用いて射る法も生じた、 とあり(世界大百科事典)、鏑矢を用いた儀礼は、「蟇目」で触れたように、 蟇目の儀(ひきめのぎ)、 と呼ばれる。 因みに、名対面(なだいめん)とは、 名謁、 とも書き、 名謁(みょうえつ・なだめし)、 とも訓ませ、 大内裏の宿直者、または、行幸行啓・御幸供奉の親王・公卿を点呼し、それぞれに特定の形式で名のらせること、 をいい(精選版日本国語大辞典)、 宿直の場合おおむね亥の刻を定刻とするが、左近衛は亥・子両刻、右近衛は丑・寅両刻の巡回の度ごとに、行幸行啓・御幸ではおおむね還御の際に行なう、 とある(仝上)。なお、近衛の宿直者の場合はもっぱら、 宿直申(とのいもうし)、 と称し、滝口の宿直者の場合は、 宿直申、 問籍(もんじゃく)、 ともいい、その他の所々の宿直者の場合は「問籍」ともいう。 「巫女」で触れたように、弦打ちをする、弓は、 梓弓、 というが、 アズサの木で作った丸木の弓、 で、 古くは神事や出産などの際、魔除けに鳴らす弓(鳴弦)として使用された、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93%E5%BC%93)、 梓弓の名に因りて、万葉集に、弓をアヅサとのみも詠めり、今も、神巫に、其辞残れり、直に、あづさみことも云へり、神を降ろすに、弓を以てするは和琴(やまとごと)の意味なり(和訓栞)、 と、 神降ろしに用いる、 が、 その頃はべりし巫女のありけるを召して、梓弓に、(死人の靈を)寄せさせ聞きにけり(伽・鼠草子)、 と、 梓の弓をはじきながら、死霊や生霊を呼び出して行う口寄せ、 をも行う(岩波古語辞典)。 今日でも、 鳴弦の儀、 が、 弦打の儀(つるうちのぎ)、 とも呼ばれ、節分の日などに、神社で行われている。 なお、「弓」については、「弓矢」で触れた。 「弦」(漢音ケン、語音ゲン)は、 会意兼形声。玄(幺(細い糸)+−印)は、一線の上に細い糸の端がのぞいた姿で、糸の細いこと。弦は「弓+音符玄」で、弓の細い糸。のち楽器につけた細い糸は、絃とも書いた、 とある(漢字源)。別に、 会意。弓と、𢆯(べき 細い絹いとを張った形で、糸(べき)の古字。玄は変わった形)とから成る。弓に張ったつるの意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(弓+玄)。「弓」の象形と「両端が引っ張られた糸」の象形から、「弓づる」を意味する「弦」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1648.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 半蔀(はじとみ)のありけるより、鼠鳴(ねずな)きを出して手をさし出でて招きければ、男寄りて(今昔物語)、 とある、 半蔀、 は、 上半分を外へ揚げるようにし、下ははめこみになった蔀、 をいい(広辞苑)、 こじとみ(小蔀)、 ともいう。「蔀(しとみ)」は、「妻戸」で触れたように、 柱の間に入れる建具の一つ、 で、 板の両面あるいは一面に格子を組んで作る。上下二枚のうち上を長押(なげし)から釣り、上にはねあげて開くようにした半蔀(はじとみ)が多いが、一枚になっているものもある。寝殿造りに多く、神社、仏閣にも用いる、 とある(精選版日本国語大辞典)。柱間全部を一枚の蔀とする場合もあるが、重すぎて開閉が困難なので、上下二枚に分けて〈半蔀(はじとみ)〉とするのが普通だった。これは、 上半分(上蔀)を長押から釣り下げ、あける時ははねあげて先端を垂木から下げられた金具にかけ、下半分(下蔀)は柱に打ちつけられた寄(よせ)に掛金でとめておき、あるいは取りはずして柱間全部をあけはなつこともできた、 とある(世界大百科事典)。 和名類聚抄(931〜38年)に、 蔀、之度美、覆暖障光者也、 とあるように、 檐(ひさし)の日覆(ひおほひ)、日除に用ゐる戸、 で(大言海)、その釣り上ぐべく作れるを、 上蔀(あげじとみ)、 釣蔀(つりじとみ)、 ともいう(仝上)。 もともとは、 是の日に、雨下(ふ)りて、潦水(いさらみつ)庭に溢(いはめ)り。席障子(むしろシトミ)を以て鞍作か屍(かはね)に覆(おほ)ふ(日本書紀)、 と、 光や風雨をさえぎるもの、 といった意味であったようだ(精選版日本国語大辞典)。 だから、その語源としては、 シは雨風、トミは止(とめ)の転(大言海)、 シトミ(風止)の義(筆の御霊)、 シトミ(湿止)の義か(志不可起)、 シトム(下止)の義か(東雅・名言通・和訓栞)、 外を見るためにあけるから、ヒトミ(他見)の義(俗語考)、 ヒトメ(日止)の義(言元梯)、 ソトモ(外面)の転(和語私臆鈔)、 等々諸説あるが、 シ、 は、 し(風)な戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く(祝詞)、 吹撥之気、化為神、號曰級長戸邊(しなとべ)命(神代紀)、 と、 風の古名、 で(大言海)、 多く複合語になった例だけ見える、 が(岩波古語辞典)、 荒風(あらし)、 廻風(つむじ)、 風巻(しまき)、 の「シ」(仝上)、さらに、 やませ、 の「セ」も、 シの転訛、 であり、その「シ」が転じて、 東風(コチ)、 速風(ハヤチ)、 と、「チ」、またその「チ」が、 疾風(ハヤテ)、 と、「テ」へと転じるが、やはり、 シは雨風、トミは止(とめ)の転(大言海)、 と見るのが妥当のようである。 「半蔀」と関係して、 半蔀車(はじとみぐるま)、 というのがある(広辞苑)。 網代車(あじろぐるま)の一種。物見を引き戸にしないで半蔀としてあるもの、 で、 摂政・関白・大臣・大将の乗用、 とし、時に、 上皇や高僧・上女房、 などが使用することもあった(精選版日本国語大辞典)とある。「網代車」とは、 牛車(ぎっしゃ)の一種。竹、檜皮(ひわだ)などを薄く細く削り、交差させながら編んだの網代を、車箱の屋形の表面に張ったもの、 で、 屋形の構造、物見の大小、表面の文様などに別があり、殿上人以上の公家が、家格、職掌に応じて使い分けた、 とある(仝上)。 「物見」とは、 牛車の網代(あじろ)による八葉(はちよう)や文(もん)の車の左右の立板に設けた窓、 で、前袖から後袖まで開いているのを、 長物見、 半分のものを、 切物見、 といい、そこに設けられた戸を、 物見板、 という(仝上)。これは、駕籠や輿などについてもいう(仝上)とある。 網代車(あじろぐるま)の物見窓を引き戸にしないで、 半蔀、 としてあるものが、 半蔀車、 となる(仝上) 棒蔀車(ぼうしとみのくるま)、 ともいう。 なお、 半蔀、 という、内藤藤左衛門作の、 能楽の曲名、 があり、『源氏物語』の「夕顔」の巻により、 京都紫野雲林院の僧が立花供養をしていると、一人の女が来て夕顔の花をささげる。やがて五条あたりの者とだけいって名もあかさずに消える。そこで僧が五条あたりに行くと、夕顔の花の咲いている家から半蔀を押し上げて女が現われ、むかし光源氏が夕顔の花の縁で夕顔の上と契りを結んだことなどを語り、舞を舞って半蔀の陰に姿を消す、 という筋である(仝上)。 「蔀」(漢音ホウ、呉音ブ)は、 会意兼形声。「艸+音符部(ホウ ぴたりと当てる)」で、明かり窓にぴたりとあてがうムシロ、 とあり(漢字源)、 席障子(むしろシトミ)、 の用例が、原義に近かったことが分かるが、 日光や風雨を遮るための戸、 の意味でも使われる(仝上)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 旅籠(はたご)に多く人のさし縄(なは)ども取り集めて結び継ぎて、それそれと下しつ。縄の尻もなく下したる程に(今昔物語)、 の、 さし縄、 は、 差縄、 指縄、 と当て、 さしづな(差綱)、 小口縄(こぐちなわ)、 ともいい、 馬をつなぐ縄、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 乗馬の口につけて曳く縄、 とあり(大言海)、古くは、 調布を縒り合わせて用ゐたり、 後世になるは、 麻布二筋を綯ひて作る。太さ、大指のほどなり、 とある(大言海)。 馬鞚、 ともいうとある(仝上)。飾抄(かざりしょう 鎌倉時代)には、 差綱(サシヅナ)、祭使、種々緂(だん)村濃(むらご)、或、打交、……公卿、師差縄(もろさしなわ)、四位以下、片差縄、 とある。師差縄(もろさしなわ)は、 「祇園御霊会也……馬〈黒糟毛、予馬也〉、移〈鋂羈、如公卿也〉、以諸差綱張口(「山槐記」治承三年(1179)六月一四日)、 にある、 諸差綱、 とあるのと同じで、 もろ、 は、 諸、 とあて、「もろ手」の「もろ」で、 ふたつ、 両方の、 の意味である(広辞苑)。 差綱、、 差縄、 は、 馬の頭から轡(くつわ)にかけてつけるもので、手綱に添えて用いる。索馬(ひきうま)には(くちとり)が左右からつかんで引く。軍陣には手綱の補助として四緒手(しおで 鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)の左右の四ヶ所につけた、金物の輪を入れたひも)にかける(精選版日本国語大辞典)。付け方に、 諸(もろ)差縄、 と、 片(かた)差縄とがあり、 麻縄、または紺・白・浅葱(あさぎ)の撚紐を用いる、 とある(仝上)。 「さし縄」の「さし」は、「さす」で触れたように、「さす」と当てる字は、 止す、 刺す、 挿す、 指す、 注す、 点す、 鎖す、 差す、 捺す、 等々とある 「さす」は、連用形「さし」で、 差し招く、 差し出す、 差し迫る、 と、動詞に冠して、語勢を強めたり語調を整えたりするのに使われるが、その「さし」は、使い分けている「さす」の意味の翳をまとっているように見える。 「さす」は、について、『岩波古語辞典』は、 最も古くは、自然現象において活動力・生命力が直線的に発現し作用する意。ついで空間的・時間的な目標の一点の方向へ、直線的に運動・力・意向がはたらき、目標の内部に直入する意、 とある(岩波古語辞典)。で、 射す・差す、 は、、 自然現象において活動力が一方に向かってはたらく、 として、光が射す、枝が伸びる、雲が立ち上る、色を帯びる等々といった意味を挙げる。また、 指す・差す、 は、 一定の方向に向かって、直線的に運動をする、 として、腕などを伸ばす、まっすぐに向かう、一点を示す、杯を出す、指定する、指摘する等々といった意味を挙げる。ここでの、 さし縄、 の意は、 曳く、 という意味からも、この意の、 さす、 かと思われる。 なお「さし縄」に、「緡縄」とあてる「錢緡」については、「一緡」で触れた。 「縄」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、 会意。「糸+黽(とかげ)」で、トカゲのように長いなわ、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(糸+蠅の省略形)。「より糸」の象形と「腹のふくらんだ、はえ」の象形で、なわのよりをかけた部分が、ふくらんだ腹のような所から、「なわ」を意味する「縄」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1799.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 笠間良彦『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房) 顔少し面長にて、色白くて、形つきづきしく、綾藺笠(あやゐがさ)をも着せながらあるに(今昔物語)、 の、 綾藺笠、 とは、 藺草(いぐさ)を綾の組織にならって編み、裏に絹をはった笠。中央に突出部がある。武士の狩装束で、遠行または流鏑馬やぶさめ用、 とあり(広辞苑・日本国語大辞典)、 あやがさ、 藺笠、 ともいう(仝上・大言海)。「狩衣」については「水干」で触れた。 中央の突出部は、 巾子形(こじがた)、 といい、髻(もとどり)を入れる。その根元のところから、藍革(あいかわ)と赤革の風帯を数条垂らして飾りとする(日本国語大辞典・大言海)。「巾子」については触れた。 綾藺笠、 の名は、 笠の裏に綾(経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を斜めにかけて模様を折り出した絹)を貼る、 故の名で(大言海)、 この時代武士は、綾藺笠を、女子は大型の浅い菅の、 市女(いちめ)笠、 を広く着用した。また女子では、日よけ雨よけを兼ねた垂衣(たれぎぬ)や、外出用で顔を隠す、 被衣(かづき)、 なども行われた(世界大百科事典)。「市女笠(いちめがさ)」は「つぼ折」で触れた。 「流鏑馬」については触れた。 「綾」(漢音呉音リョウ、唐音リン)は、 会意兼形声。夌(リョウ)は「陸(山地)の略体+夂(人間の足)」の会意文字で、足に筋肉の筋をたてて、力んで山を登ること。筋目を閉てる意を含む。綾はそれを音符とし、糸を加えた字で、筋目の立った織り方をした絹、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(糸+夌)。「より糸」の象形と「片足を上げた人の象形と下向きの足の象形」(「高い地を越える」の意味だが、ここでは、「凌(りょう)」に通じ(同じ読みを持つ「凌」と同じ意味を持つようになって)、「盛り上がった氷」の意味)から、織物に盛り上がった「氷のような模様が織り込まれた物(あや)」を意味する「綾」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1125.html)。 「藺」(リン)は、 形声。下部の字が恩を表す、 戸しか載らない(漢字源)。藺草(いぐさ)の意であるが、藺蓆(リンセキ)は、むしろの意である。 「笠」(リュウ)は、 会意兼形声。「竹+音符立(高さを揃えて立てる)」。平衡を保って頭上にたてかけるかさ、 とある(漢字源)が、別に、 会意兼形声文字です(竹+立)。「竹」の象形(「竹」の意味)と「一線の上に立つ人」の象形(「立つ」の意味)から、柄がなくて安定していて、置けばそのまま立つ「かさ(頭にかぶり、雨や日光をさける物)」を意味する「笠」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji2220.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 年三十餘りばかりの男の、鬚黒く鬢つきよきが、顔少し面長にて、色白くて、形つきづきしく(今昔物語)、 とある、 つきづきし、 は、 付き付きし、 と当て、 いかにもぴったりはまっている感じである、 という意で(岩波古語辞典) 似つかわしい、 ふさわしい、 調和している、 好ましい、 取り合わせがよい、 などといった意味で使われ(広辞苑・日本国語大辞典・岩波古語辞典)、 いと寒きに、火など急ぎおこして炭もて渡るも、いとつきづきし(枕草子)、 少し老いて物の例知りおもなきさまなるもいとつきづきしくめやすし(仝上)、 などと使われており、 何と調和がとれているのかは、省略されていることが多い、 とある(学研全訳古語辞典)。さらに、 なべての世には年経にけるさまをさへつきづきしく言ひなすも(狭衣物語)、 と、 いかにももっともらしい、 という意味でも使われる(大辞林・岩波古語辞典)。類聚名義抄(11〜12世紀)に、 擧止、ツキツキシ、 とあり、「擧止」は、 擧止進退、 というように、 立ち居振る舞い、 挙動、 挙措(きょそ)、 の意なので、上記の、 形つきづきしく、 は、 挙措、 のことを言っているようである。類義語は、 につかはし、 だが(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%A5%E3%81%8D%E3%81%97)、反対は、 つきなし、 であり(仝上・大言海)、 付き無し、 と当て、 時々さぶらふに、かかる御簾(みす)の前、はた、つきなき心地(ここち)し侍(はべ)るを(源氏物語)、 遭ふことの今ははつか(僅か・二十日)になりぬれば夜深からではつきな(月無・付無)かりけり(古今集)、 などと、 取り付くすべがない、 手がかりがない、 すべがない、 の意味で使われるが、 かかるものの散らむも今はつきなき程になりにけり(源氏物語)、 と、 (時・所・年齢などが)似合わしくない、ふさわしくない、 意や、 親君と申すとも、かくつきなきことを仰せ給(たま)ふこと(竹取物語)、 と、 不都合である、無理である、 意で使われる(岩波古語辞典・学研国語大辞典)。 「つきづきし」の、 つく、 は、「つく」で触れたように、 突く、 衝く、 撞く、 搗く、 吐く、 付(附)く、 点く、 憑く、 着く、 就く、 即く、 築く、 等々さまざまに当てる。辞書によって使い分け方は違うが、 付く・附く・着く・就く・即く・憑く、 と 吐く、 と 尽く・竭く、 と 突く・衝く・撞く・築く・搗く・舂く、 と 漬く、 を分けて載せる(広辞苑)。細かな異同はあるが、「尽く」は、 着きの義(言元梯)、 ツはツク(突)の義(国語溯原)、 とあり(日本語源大辞典)、「付く」に関わる。「吐く」は、 突くと同源、 とある(広辞苑)。従って、おおまかに、 「付く・附く・着く・就く・即く」系、 と 「突く・衝く・撞く(・搗く・舂く・築く)」系、 に分けてみることができる。しかも、語源を調べると、「突く・衝く・撞く」系の、「突く」も、 ツク(付・着)と同源、 とあり(日本語源広辞典)、 付く、 に行き着く。そして、 強く、力を加えると、突くとなります。ツクの強さの質的な違いは中国語源によって区別しています、 としている(仝上)。その区別は、 「突」は、 にわかに突き当たる義、衝突・猪突・唐突、 「衝」は、つきあたる、折衝と用いる。また通道なり、 「搗」は、うすつくなり、 「撞」は、突也、撃也、手にて突き当てるなり、 「築」は、きつくと訓む。きねにてつきかたむるなり、 と(字源)ある。となると、すべては、「付く」に行き着く。「付く」の語源は、 「ツク(付着する)」です。離れない状態となる意です。役目や任務を負ういにもなります、 とある(日本語源広辞典)ので、「付く」は「就く」でもある。「付く」は、 粘着するときの音からか(日本語源)、 とある(日本語源大辞典)ので、擬音語ないし、擬態語の可能性がある。そこから、たとえば、 二つの物が離れない状態になる(ぴったり一緒になる、しるしが残る、書き入れる、そまる、沿う、注意を引く)、 他のもののあとに従いつづく(心を寄せる、随従する、かしずく、従い学ぶ)、 あるものが他のところまで及びいたる(到着する、通じる)、 その身にまつわる(身に具わる、我がものとなる、ぴったりする)、 感覚や力などが働きだす(その気になる、力や才能が加わる、燃え始める、効果を生じる、根を下す、のりうつる)、 定まる、決まる(定められ負う、値が定まる、おさまる)、 ある位置に身を置く(即位する、座を占める、任務を負う、こもる)、 (他の語につけて用いる。おおくヅクとなる)その様子になる、なりかかる(病みつく。病いづく)、 と(広辞苑)、その使い分けを整理している。 どうやら、二つのもの(物・者)の関係を言っていた「つく」が、 ピタリとくっついて離れない状態、 から、その両者の、 それにぶつかる状態、 にまで広がる。「つくづくし」の「つく」は、 ピタリとくっついて離れない状態、 をメタファにして、 似つかわしい、 ふさわしい、 意で使っていると思われる。 ツキ(似つく)+ツキ(似つく)+シ、 とある(日本語源広辞典)ので、 似つかわしい、 の語意を強めている、と見ることが出来る。 「付」(フ)は、 会意。「人+寸(手のかたち)」で、手をぴたりと他人の身体につけることを示す、 とある(漢字源)。「附」は、もと、 土をくっつけて固めた土器や小さな丘を意味するが、のち、付と通用するようになる、 ともある(仝上)。別に、 会意。「人」+「寸」(手)、持っている物を人に与える様子。「与える」を意味する漢語{付 /*p(r)os/}を表す字、 とも、 また一説に、背後から人を前に押して倒すさまを象った字。「押す」を意味する漢語{拊 /*ph(r)oʔ/}を表す字。のち仮借して{付}に用いる、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BB%98)。また、 会意。人と、又(ゆう 手に持つ。寸はその変形)とから成り、手で物を持って人にあたえる意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(人+寸)。「横から見た人」の象形と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形(「手」の意味)から人に手で物を「つける」を意味する「付」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji571.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) それは皆をこ絵の気色なし。此の阿闍梨(義清)の書きたるは、筆はかなく立てたるやうなれども、ただ一筆に書きたるに、心地えもいはず見ゆるは、をかしき事限りなし(今昔物語)、 の、 をこ絵、 は、 漫画、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 痴絵、 烏滸絵、 等々とも当て、 滑稽な絵、 戯画、 おどけえ、 ざれ絵、 などとあり(広辞苑・大辞林)、 鳥羽絵、 ともあり(日本国語大辞典)、平安時代から鎌倉時代にかけて用いられた言葉で(ブリタニカ国際大百科事典)、 ばかげたおどけ絵、 の意味で(仝上)、 滑稽(こつけい)あるいは風刺を目的とした絵、 である(仝上)。のちに、 春画の俗語、 としても使われる(仝上・隠語大辞典)。 簡潔な筆づかいで風刺的にえがいたもの、 である(仝上)ことが、上記の今昔物語の引用からもわかる。この『今昔物語』に、比叡山無動寺の僧義清が、 嗚呼絵の名手、 であったとあるが、 ただ一筆に書きたるに、心地えもいはず見ゆる、 というように、 線描本位の絵画であったらしい。『古今著聞集』に載る、 鳥羽僧正覚猷、 など、をこ絵は画技のすぐれた僧侶間で発達したらしく、 鳥獣人物戯画、 のほか、放屁合戦などを描いた愛媛、太山寺蔵の、 ざれ絵、 などが知られる(仝上)。 「鳥羽絵」は、 手足が異様に細長く、目は黒丸か「一」文字に簡略化され鼻も低く大きな口を持ち、誇張と動きがある、 のが特徴とされる(https://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/38_tobae.html)、 江戸時代中期に大坂で流行った滑稽な絵、 で、平安後期の、 鳥獣戯画、 の筆者に擬せられる鳥羽僧正(覚猷)にちなんでこう呼ばれる。つまりは、 をこ絵、 に準えている。 「をこ」は、 痴、 烏滸、 尾籠、 と当て、 おろかなこと、ばかげていること、 という意味になる(広辞苑)。柳田國男は、 人を楽しませる文学の一つに、日本ではヲコといふ物の言ひ方があった、 人をヲカシと思わせるのが、本来はいはゆる嗚呼の者、 といい(「鳴滸の文学」)、 嗚呼、 鳴滸、 とも当てる。 ウコ(愚)の母音交替形、 とある(岩波古語辞典)。 わが心しぞ 最(いや)袁許(をこ)にして 今ぞ久夜斯岐(クヤシキ)(古事記) と、記紀では、 袁許、 于古、 の字が当てられ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E6%BB%B8)、平安時代に、 烏滸、 尾籠、 嗚呼、 などの当て字が登場した(仝上)。この時代、 散楽、特に物真似や滑稽な仕草を含んだ歌舞やそれを演じる人、 を、 をこ、 というようになり、多くの、 烏滸芸、 が演じられた(新猿楽記)。 今昔物語集、 古今著聞集、 などの平安・鎌倉時代の説話集には、 烏滸話、 と呼ばれる滑稽譚が載る。こうした時代の流れの中に、 をこ絵、 もある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 装束をもかたゆがめ、下腰にせさせて、袴は踏み含(くく)ませて、帞袼(まかう)も猿楽のやうなるを(今昔物語)、 の、 帞袼(まかう)、 とあるは、 まつかう、頭のはちまき、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 まつかう(まっこう)、 は、普通、 末額、 抹額、 などと当て、 まっかくの音便(精選版日本国語大辞典)、 まつがくの音便(大言海)、 とされ、 まこう、 もこう、 とも訓ませ(精選版日本国語大辞典)、それぞれを、 抹額(まつこう)、 または、 末額(もこう)、 とするものもある(世界大百科事典)が、 冠や烏帽子の動揺を防ぐために額(ひたい)にあてて引き締めておく鉢巻、 で(精選版日本国語大辞典)、 冠のへりに紅の絹で鉢巻きをして後ろで結んだ、 とあり(デジタル大辞泉)、下級の武官が用いた。 威儀の武官や競馬(くらべうま)の乗尻(のりじり)、非常の際の参向などに用いる、 とも(精選版日本国語大辞典)、 下級の武官が用いた、 とも(デジタル大辞泉)あるが、 細纓(さいえい)の冠の縁に鉢巻に結んだ紅の絹布、 とある(広辞苑)。「細纓(さいえい)」とは、 冠の纓の一種。幅の狭い纓の中央を曲げて両端を纓壺(えつぼ)に差し込むのを例としたが、のちに纓の縁のみを残した形にして鯨のひげ2本を曲げて用いた、 とあり、 六位以下の武官および六位の蔵人が用いた、 とある(仝上)ので、 下級の武官、 ということになる。 色葉字類抄(平安末期)に、 末額、マカフ、冒額、額巾、已上同、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 額巾、マカウ、 令義解(718)武官朝服に、 衛士。皀縵頭巾。桃染衫。白布帯。……会集等日。加朱末額挂甲。以皀(香)衫代桃染衫、 とある。 纓(えい)は、 冠の付属具で、背後の中央に垂らす部分。古くは、髻(もとどり)を入れて巾子(こじ)の根を引き締めたひもの余りを後ろに垂らした。のちには、幅広く長い形に作って巾子の背面の纓壺(えつぼ)に差し込んでつけた、 とある(デジタル大辞泉)。 垂纓(すいえい)、 巻纓(けんえい)、 立纓(りゅうえい)、 細纓(さいえい)、 縄纓(なわえい)、 などの区別がある(仝上)。 鉢巻は末額の名残り、 とあり(有職故実図典)、 この「まっこう」が、 頭の鉢に手ぬぐいその他の布を巻く習俗、 である、 鉢巻、 につながる。 平安中期、武士の勃興とともに登場した、騎馬の武士の着用した「大鎧」の場合、冑下に、 捼烏帽子(なええぼし)、 をつける。「捼烏帽子」は、 萎烏帽子、 とも当て、 梨子打(なしうち)烏帽子、 ともいい、 捼(も)み萎やした烏帽子、 つまり、かた塗りの、 立烏帽子、 風折烏帽子、 折烏帽子、 に対して、 漆で塗りかためないしなやかな烏帽子、 を被る(有職故実図典・精選版日本国語大辞典)。冑をかぶらない時は、引き立てて置くので、 引立(ひきたて)烏帽子、 とも呼ぶ(仝上)。 鉢巻は、軍装時、 萎烏帽子、 の縁に引き纏うのに用いた。鎌倉時代中期以降は、(兜の)鉢の拡大化に伴い、鉢巻が必須の具となり、真向(まっこう)正面で結び合わす、 一重鉢巻、 正面で引き違えて背面に結び垂らす、 二重鉢巻、 が生じた(仝上)とある。地質は、 白平絹(へいけん)、 を普通とした(仝上)が、那須与一が、 薄紅梅の鉢巻しめ(「源平盛衰記(じょうすいき)」)、 とあるように、若年には、 紅梅などの色、 を用いた(仝上)とある。 この、 まっこう(抹額)から変化した、 のが、 真っ向、 真っ甲、 と当てる、 額(ひたい)のまんなか、 あるいは、 兜(かぶと)の鉢の前面部、 の、 まっこう、 である(仝上)。 易林(えきりん)節用集(室町中期)に、 真向(マッコフ)、甲、 天正本節用集に、 真向、マッカウ、 とあり、「まっこう」の意味が転化していることがわかる。 まっこう、 は、 後世は、もっぱら、 鉢巻、 と呼び、手ぬぐいなどを細長く折りたたんで、頭の鉢に巻き、前額部で結ぶ、 ねむこう鉢巻、 後頭部で結ぶ、 うしろ鉢巻、 折りたたまずにしごいてよりをかけ、前額部にはさみ込む、 ねじり鉢巻、 などと使い分ける(世界大百科事典)。 「末」(漢音バツ、呉音マツ・マチ)は、 指事。木のこずえのはしを、一印または・印で示したもので、木の細く小さな部分こと、 とある(漢字源)が、多くは、「一」を加えたとし、 指事。「木」の上に「一」を加えて、木の「すえ」を表す(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%AB)、 指事。木の上部にこずえの部分をさし示す一線を引いて、こずえ、ひいて「すえ」の意を表す(角川新字源)、 指事文字です。「大地を覆う木」の象形に「横線」を加えて、「物の先端・すえ・末端」を意味する「末」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji698.html)、 とある。 「抹」(漢音バツ、呉音マツ・マチ、唐音モ)は、 会意兼形声。末は、小さいこずえのことで、小さく見えにくい意を含む。抹は「手+音符末」で、こすってみえなくすること、 とある(漢字源)。別に、 形声。手と、音符末(バツ)とから成る。手でこする意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(扌(手)+末)。「5本の指のある手」の象形と「木の上部に一線を加えた象形」(「木の先端、先端でよく見えない」の意味)から、「手でこすってはっきり見えないようにする」を意味する「抹」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2048.html)。いずれも同趣旨である。 「額」(漢音ガク、呉音ギャク)は、 会意兼形声。「頁(あたま)+音符客(堅い物につかえて止まる)」。頭のうち、特に固くて、こつんと受け止める額の部分、 とあり(漢字源)、別に、 形声文字です(客+頁)。「屋根(家屋)の象形と上から下に向かう足の象形と口の象形」(「よそから家にやってくる客」の意味だが、ここでは、「挌(カク)」に通じ(同じ読みを持つ「挌」と同じ意味を持つようになって)、「つきだす」の意味)と「人の頭部を強調した」象形(「頭」の意味)から、人の頭部のつきでた部分、「ひたい」を意味する「額」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji830.html)。 「末額」に当てた、 帞袼、 は辞書に乗りらないが、「帞」(ハク)は、 かしらづつみ(幧頭)、 とあり、 はちまき(帕)、 とある(字源)。「帕(バツ・ハ)は、 はちまき(抹額)、 とある。 はちまき、 と訓ませるとするもの(https://mimiu.net/k/bute.php?q=5E1E)もある。 「幧」(ソウ、ショウ)も、 髪を束ねる、 髪をおさめる、 頭づつみ、 髪づつみ、 はちまき、 とあるので(https://www.weblio.jp/content/%E3%81%9A%E3%81%8D%E3%82%93)、似た意味である。ただ「袼」(カク・ラク)は、 そで、 とあり(字源)、 衣服の袖をつなぐ、脇部分の縫い目、 とあり(https://kanji.jitenon.jp/kanjiu/10027.html)、 繄袼(えいらく)、 は、 子どものよだれ掛け、 とある(仝上)ので、頭に掛ける、という含意なのかもしれない。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 左の競馬(くらべうま)の装束のいみじきを着て、えならぬ馬にいみじは平文(ひやうもん)の移しを置きて、それに乗せて(今昔物語)、 の、 移し、 は、 移し鞍、 平文、 は、 塗り方の名、金銀貝等で模様を作り、漆の地に平らに塗りこめる、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 「鞍」で触れたように、「鞍」は、 狭義には鞍橋(くらぼね)、 をいう(広辞苑)。「鞍橋」は、 鞍瓦、 とも当て、 前輪(まえわ)、後輪(しずわ)を居木(いぎ)に取り付け、座の骨組みをなす部分、 をいい(仝上)、近代以前は、 馬の背に韉(したぐら 鞍)をかけ、鞍褥(くらしき)を重ねて鞍橋(くらぼね)をのせ、鞍覆(くらおおい)を敷いて両側に障泥(あおり 泥除け)を下げる、 という形で馬具を整える(世界大百科事典)。この、 鞍橋、 を一般に、 鞍、 という。本来革製であったが、木製の鞍は中国の漢代に現れ(百科事典マイペディア)、日本へは古墳時代に中国から、 木製の地に金銅製や鉄製の覆輪および地板などを施した鞍、 が伝来、そこから生まれた鞍が、 唐鞍(からくら)、 で、平安時代になると、儀礼用の、 唐鞍(からくら)、 移鞍(うつしくら)、 日常用の、「水干」を着るような場合に用いる、 水干鞍、 などと、多様な発展をとげた(世界大百科事典)。 移し鞍(移鞍)、 は、 左右馬寮(めりょう)の官馬につけた鞍、 で、 諸衛府の官人などが行幸供奉などに際して用いた、 とある(広辞苑)。官馬につけるのを普通とするが、後には、 摂関家などで随身(ずいじん)や家人用として、その形状にならって作り、私馬(わたくしのうま)につけることもある、 とある(精選版日本国語大辞典)。 平文の鞍橋(くらぼね)、半舌の鐙(あぶみ)、斧形の大滑(おおなめ)を特色とする、 とある(仝上・デジタル大辞泉)。 「舌」をメタファに、 鞍の両脇に垂れて、乗る時に足を踏みかけ、また、乗馬中に乗り手の足を支えるもの、 を、 鐙の舌、 というが、 半舌、 は、 半舌鐙(はんしたあぶみ)、 のことで、 舌長鐙(したながあぶみ)、 に対して、 舌の短いもの、 をいう(精選版日本国語大辞典)。ちなみに、 鐙(あぶみ)、 とは、 足(あ)で踏むもの、 の意である(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。 平文(ひょうもん)、 は和名、漢名は、 平脱(へいだつ)、 といい、奈良時代に唐から伝わった、 漆器の加飾技法の一種、 で、 金・銀・錫(すず)・真鍮(しんちゅう)などの金属の薄い板を文様に切り、漆(うるし)面に貼り付けるものと、その上から漆を塗り埋めたのち漆を小刀の類で剥ぎ取るか、または研ぎ出して金属板を現す方法がある、 とされ(日本大百科全書)、平安時代以後は、 蒔絵(まきえ)、 と併用され、鎌倉時代に始った、 切金(きりかね 金銀の箔(はく)を細線状あるいは小さな三角、四角などに切ってはり、文様を施す手法)、 も同系統の技法で、室町時代からは、 金貝(かながい)、 よばれるようになった(仝上・マイペディア)とある。 大滑(おおなめ)、 は、鞍の下に敷く、 下鞍、 を、 滑(なめ)、 とよび、 そのの大形のもの、 をいい、唐鞍(からくら)、移鞍(うつしぐら)の鞍橋(くらぼね)の下に敷く、 もので、 ただつけ、 なめ、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 官人、供奉などの時、馬寮より、其乗用に給せられる馬、 を、 移馬(うつしうま)、 という(大言海)、その所以は、 馬寮(めりょう)に飼ってある、諸国の牧場から集めた馬を、衛府官など馬寮外の官人が供奉(ぐぶ)などで使用する際、移牒(管轄の違う他の役所などへの通知文書)を送ってこれを徴用する、 ときにいうからで(精選版日本国語大辞典)、 官人、公事にて乗用の時、其所属の本司より、其旨を馬寮に移牒(うつしぶみ)して、給せられるよりの名かという(幕末期の有職故実研究書「後松日記」)、 とある(大言海)。 移牒によって使用する馬、 のことで(精選版日本国語大辞典)、 のりかへうま、 副(そへ)馬、 ともいい、これに用いる鞍を、 移鞍(うつしくら)、 という。 移馬、 移鞍、 ともに略して、 うつし、 ともいう(大言海)。ただ、一説に、「移馬」は、 乗り換え用の馬、 また、 移し鞍をおいた馬、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。なお、 馬寮(めりょう・うまのつかさ)、 は、唐名は、 典厩(てんきゅう)、 令制における官司の一つ、 で、 兵衛府の被官、 で、 左右二寮あり、官牧から貢する官馬の調習・飼養および供御の乗具の調製などをつかさどる、 とある(仝上)。 「鞍」(アン)は「鞍」で触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 今は昔、内舎人(うどねり)より大蔵の丞(じょう)になりて、後には冠(かうぶり)給はりて大蔵の大夫とて(今昔物語)、 の、 内舎人、 は、 律令制で、中務(なかつかさ)省に属する文官、 で、 帯刀し、宮中の宿直、天皇身辺の警護・雑事、行幸時に供奉(ぐぶ)して前後左右を警護する職、 にあたる(広辞苑・大辞林)、 天皇近侍の官、 であり、 四位以下五位以上の者の子弟が選ばれたが、平安時代には低い家柄の者も任ぜられた、 とある(仝上)。 近習(きんじゅ)舎人(日本書紀)、 が内舎人の前身とされ(日本大百科全書)、 大宝元年(701)六月設置され、定員90人、 「養老軍防令」では、 五位以上者の子孫(21歳以上)の聡敏(そうびん)者から採用、中務(なかつかさ)省に属し、帯刀して禁中宿衛、行幸警衛を任とした、 が、 武官でなく文官、 で、大臣らの子を任ずることが多い(たとえば大伴家持)。延喜(えんぎ)(901〜923)以後、良家の子の任用が絶え、諸家の侍を任じて卑官化し、武士が任ぜられることが多くなると、その本姓と「内舎人」を略した呼称が使われ、 源氏は源内、平氏は平内、藤原氏は藤内、橘氏は吉内、紀氏は喜内、清原氏は清内、伴氏は伴内、 といった(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%88%8E%E4%BA%BA・岩波古語辞典)。 「内舎人(うどねり)」の、 内は禁内(きんだい)をさし、大舎人(おおとねり)に対する称、 とある(日本大百科全書)。「大舎人」は、 おおどねり、 ともいい、 律令制での下級官人、 をいい、 交替で宮中に宿直し、行幸の供や雑用、 をした。 中務省の左右大舎人寮(おおとねりりょう)に属し、四位、五位の子や孫をあてた。定員は各800人。弘仁十年(819)、左右あわせて400人となった、 とある(精選版日本国語大辞典)。 内舎人、 は、 分番官(順番に勤務する)の大舎人に対して長上官(毎日出勤する)、 である(仝上)。 うちとねりの略(日本大百科全書)、 とも、 うちとねりの転(広辞苑・大辞林)、 ともある。 天皇または皇族に近侍し、雑役に当たる官人を、 舎人(とねり)、 というが、 とねり、 は、 律令制で天皇、皇族などに近侍して警固、雑事にあたった下級官人、 の総称で、内舎人、大舎人、の他、 中宮舎人(400人)、 東宮舎人(600人)、 衛府の兵士(衛門府衛士は400人、左右衛士府の衛士は各600人)、 などの総称である(精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典・日本大百科全書)。 とねり、 は、 トノ(殿)イリ(入)の約(岩波古語辞典・大言海)、 刀禰(とね)入りの意(大言海・和訓栞)、 殿侍(とのはべ)りの義(古事記伝・雅言考・日本語原学=林甕臣)、 トネリ(殿寝)の義(言元梯)、 トノモリ(殿守)の約轉(祝詞考)、 など諸説あってはっきりしないが、いずれも、 近侍、 の含意である。なお、 とねり、 の当てた、 舎人(しゃじん)、 は、漢語である。 宮中に宿直して取締を為す官、秦代より始まる、 とあり(字源)、『漢書』高帝紀の師古の注に、 舎人は左右近侍の官と記す、 に由来して、我が国で使われたとある(日本大百科全書)。 舎人職は、 一種のキャリアコースであったらしく、 有力者の子弟・子孫や白丁(無位無官者)はまず舎人を務める段階を踏み、その後官人や郡司となりえたが、中でも蔭子孫(おんしそん 五位以上の貴族官人の子・孫)は内舎人、大舎人、二宮(東宮・中宮)舎人のいずれかを務めたあと主典を経ず判官に進み、とくに内舎人は長上(常勤)待遇で考限(撰任に必要な年限)が短く昇進に有利で、藤原武智麻呂など上級貴族の子弟がこのコースをとった、 とある(世界大百科事典)。、 天皇に近侍し、宿直や遣使をつとめる間に天皇に忠節をつくす習慣を養わせ、このように養成された大舎人を他の官司の官人に任じ、天皇による支配を官司に浸透させるしくみであった、 と解されている(仝上)。 内舎人から選抜された者が摂政、関白の随身を務めたこともあり、これを内舎人随身と呼ぶ。21歳以上の四位以下五位以上の子弟から選抜された。また、三位以上の子弟でも希望があれば無条件で任官された。長上の扱いを受けたために他の舎人系の官職よりも昇進に有利であった、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%88%8E%E4%BA%BA)。 「舎(舎)」(シャ)は、 会意兼形声。余の原字は、土を伸ばすスコップのさま。舎は「口(ある場所)+音符余」で、手足を伸ばす場所。つまり、休み所や宿舎のこと、 とある(漢字源)。別に、 形声。音符「余 /*LA/」+羨符「口」(他の字と区別するための記号)、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%8D)、 象形。口(垣根の形)と、(建物の形)と、亼(しゆう)(集の古字)とから成り、「やどる」、ひいて「おく」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(余+口)。「先の鋭い除草具」の象形(「自由に伸びる」の意味)と「ある場所を示す文字」から、心身をのびやかにして、「泊まる(やどる)」、「建物」、「ゆるす」を意味する「舎」という漢字が成り立ちました、 ともあり(https://okjiten.jp/kanji841.html)、微妙に解釈が異なる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 其の男を呼びて問はむと尋ぬる程に、膳夫(かしはで)のあるが、これを聞きて云ふやう(今昔物語)、 の、 膳夫、 は、 膳、 とも当て、 宮中で、天皇の食膳や、饗応の食事のことをつかさどる人、 つまり、 料理人、 の意で(岩波古語辞典・広辞苑)、 膳部(かしはで・かしはでべ)、 と書くと、大和政権の品部(しなべ)で、律令制では宮内省の大膳職・内膳司に所属し、 朝廷・天皇の食事の調製を指揮した下級官人、 を指す(広辞苑)。それをつかさどるのは、 膳司(膳職 かしわでのつかさ)、 で、 長は、 膳臣(かしわでのおみ)、 と称し、子孫の嫡系は高橋朝臣(仝上)。律令制では、大宝律令制定時に、天皇の食事を掌る、 内膳司(ないぜんし・うちのかしわでのつかさ)、 と、饗膳の食事を掌る、 大膳職(だいぜんしき・おおかしわでのつかさ)、 に分かれた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%86%B3%E8%81%B7・大辞林)。 膳夫(ぜんふ)、 は漢語で、 膳夫掌王之食飲膳差(周禮)、 の註に、 膳、牲肉也、 とあり、 周代、宮中の食膳を司るもの、 の意である(字源)。 膳部(ぜんぶ)、 も漢語で、 晉代の官名、宮廷の料理を掌る、 意で、 料理人、 を意味する(仝上)。 膳夫(かしはで)、 は、 カシハの葉を食器に使ったことによる。テは手・人の意(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・大辞林・日本語源広辞典)、 カシハは炊葉、テはシロ(料)の意で、ト(事・物)の転呼、カシハの料という意(日本古語大辞典=松岡静雄)、 カシハデ(葉人)の義(大言海)、 とあるが、 カシハ、 は、 カシワ(柏・槲)、 の意である。「柏餅」で触れたように、 もともと柏の葉で食べ物を包むというのは昔から行われていて、 古代に飯を盛るのに木の葉を縫い合わせたものの上にのせた。それを「かしは」とよぶ。すなわち「炊ぎ葉」(かしはぎ)である、 とある(たべもの語源辞典)。「膳」で触れたように、「かしわで(膳・膳夫)」は、 中世、寺院で食膳調理のことをつかさどった職制、 に転じ、 供膳、 饗膳、 の意となる(広辞苑)。たべものを盛る葉には、 ツバキ・サクラ・カキ・タチバナ・ササ、 などがあるが、代表的なのが、 カシワ、 であった(たべもの語源辞典)ので、「柏餅」の、 カシワの葉に糯米(昔は糯米を飯としていた)を入れて蒸したのは、古代のたべものの姿を現している、 ともいえる(仝上)。 「柏」で触れたように、「カシワ」を容器とするものに、 くぼて(葉碗・窪手)、 ひらで(葉盤・枚手)、 がある。和名類聚抄(平安中期)に、 葉手、平良天、葉椀、九保天、 とあるように、 柏の葉を十枚合わせて、竹の針を以て刺し綴ぢて、平たく盤(さら)の如く作れるもの、 を、 ひらで(葉盤)、 其の窪きを、 くぼて(葉碗)、 という(大言海)。 葉、此れをば箇始婆(かしは)といふ(仁徳紀)、 とあり、「葉」を、 かしわ、 とも訓ますなど、 「木の葉」の「柏」、 と 「食器」の「かしわ」、 は関係が深いが、 堅し葉の約(雄略紀七年八月「堅磐、此云柯陀之波」)、葉の厚く堅きを擇びて用ゐる意なり(大言海)、 という「食器」の「かしわ」と、 かしは木の略(本草和名「槲、加之波岐)、かしはは(「葉」と訓んだかしはの)語なり、此樹葉、しなやかにして、食を盛るに最も好ければ、その名を専らにせしならむ、天治字鏡「槲、万加志波(大言海)、 とする「木の葉」の「かしわ」は、両者は深くつながり、 「かしわ」の葉を使ったから、その葉で作った食器を「かしわ」といったのか、 あるいは、 その葉で作った食器を「かしわ」といったから、その葉を「かしわ」といったのか、 先後がはっきりしない。たとえば、木の葉「かしわ」の語原を、 上古、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いた葉をカシキ(炊葉)といい、これに多く柏を用いたから(東雅・古事記伝・松屋筆記)、 ケシキハ(食敷葉)の義(茅窓漫録奥・日本語原学=林甕臣)、 飯食の器に用いたから、またその形を誉めていうクハシハ(麗葉)の義(天野政徳随筆・碩鼠漫筆)、 神膳の御食を盛る葉であるところからいうカシコ葉の略(関秘録)、 食物を盛った木の葉(食敷葉・炊葉)(日本語源広辞典) とするのは、 その葉で作った食器を「かしわ」といったから、その葉を「かしわ」といった、 とする説である。逆に、 食物を盛る古習からカシハ(炊葉)の義(国語学通論=金沢庄三郎)、 カシハ(槲・柏)の葉に食物を盛ったから(類聚名物考・本朝辞源=宇田甘冥)、 ケシキハ(食敷盤)の義(言元梯)、 カタシハ(堅葉)の義(関秘録・雅言考・言元梯・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、 とするのは、 「かしわ」の葉を使ったから、その葉で作った食器を「かしわ」といった、 とする説である。もし、葉の命名が先なら、 風にあたるとかしがましい音を立てる葉の意(和句解)、 カシは「角」の別音katが転じたもので、きれこみがあってかとかどしいこと。ハは「牙」の別音haで、葉の義(日本語原学=与謝野寛)、 という説もあるが、 「かしわ」の葉を使ったから、その葉で作った食器を「かしわ」といった、 のか、 その葉で作った食器を「かしわ」といったから、その葉を「かしわ」といった、 のか、何れが先かは、判別不能である。 「膳」(漢音セン、呉音ゼン)は、 会意兼形声。善は、「羊+言」の会意文字で、ゆったりとゆとりがある意。もと亶(セン ゆったりと多い)と同系のことば。膳は「肉+音符善」で、いろいろとゆたかにそろえた食事。転じておいしいごちそうをいう、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(月(肉)+善)。「切った肉」の象形と「羊の首の象形と、取っ手のある刃物の象形と口の象形×2(原告と被告の発言の意味)」(羊を神の生贄とし、両者がよい結論を求めるさまから、「よい」の意味)から、よい肉を意味し、そこから、「供え物」、「供える」、「すすめる」を意味する「膳」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2186.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 簡野道明『字源』(角川書店) 今は昔、大蔵の丞より冠(かうぶり)給はりて、藤原清廉云ふものありき。大蔵の大夫(たいふ)となむ云ひし(今昔物語)、 の、 大蔵の大夫、 は、 大蔵官の三等官(六位相当)で、その労を以て五位を給わった。大夫は五位の称、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 冠(かうぶり)給はる、 は、 冠(かうぶり)賜る、 とも当て、 位階を授けられる、 五位に叙せられる、 意である(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。 大夫、 は、 たいふ、 だいぶ、 たゆう、 などと訓み方があり、意味が変わる。 大夫(たいふ)、 は、漢語で、 中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で領地を持った貴族、 をいい(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AB)、周代に王や諸侯に仕えた卿・大夫・士の家臣団のうち、 三公九卿、二十七大夫、八十一元士(周禮)、 大夫死衆、士死制(仝上)、 と、「大夫」は、 夫は扶なり、卿の下、士の上に位す、 とある(字源)。しばしば、士とあわせ、代表的支配層として、 士大夫、 と称される(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AB)。また、 小天門有秦時五大夫松(泰山記)、 と、 松の異名、 としても使われるが、これについては後述する(字源)。 日本では、中国のそれを取り入れ、律令制では、 大夫(たいふ)、 は、 太政官に於いては三位以上は大夫と称せよ、……司及び中国以下には五位は大夫と称せよ(公式令)、 とあり、 一位以下五位以上の総称、 で、一般には、 大夫は五位の唐名(からな)なり、武家にて諸大夫と云ふも五位の称、 とあるように、 五位の通称、 とされ(岩波古語辞典・大言海)、例えば、 式部丞(相当正六位下)、左近衛将監(従六位上)、左衛門尉(従六位下)などが五位に叙せられたる時は、他より敬して式部大夫、左近大夫、左衛門大夫などと称する、 とある。また、堂上の息の五位に叙して、官なきを、 無官大夫、 という(大言海)。「大夫」が、 五位の通称、 とされるについては、 一位から五位に通ずる尊称ともされるが、三位以上が、卿と称されるのに対して、四位・五位をさすことが多くなり、大夫が本来、尊称であるところから、五位の場合はとくに多用され、五位の別称ともなった、 とある(精選版日本国語大辞典)。なお、以上のように、位には、 たいふ、 と、清む読みで、官には、「大夫」を、 だいぶ、 と濁る(仝上)が、後者は、 中宮職・春宮職・大膳職・修理職などの職(しき)の長官、 をいい、 中宮大夫・春宮大夫・修理大夫、 などというが、 八省の次官、少輔(せう)の上位である、 大輔(たいふ)、 との混同をさけるため濁って訓む(岩波古語辞典)。また、摂関・諸大臣家に家司(けし)などとして仕えた四位・五位の家筋の者の総称として、 諸大夫(しょだいぶ)、 という言い方があり、その中で昇殿を許されぬ者を、 地下諸大夫、 といったりする(大言海・岩波古語辞典)。なお、 位階の場合の仮名表記は「たいふ」、 だが、 現代の発音では「たゆう」 となる(精選版日本国語大辞典)とある。また、 禰宜の大夫、 神主の大夫、 と言ったりするのは、 五位に叙せし神官を大夫と称した、 ことから、後には、全ての有位無位にかかわらず、 神主の俗称、 として使う(仝上)。この場合、 太夫、 ともあて、 たいふ、 たゆう、 とも訓ませ、 伊勢神宮の下級神官、 仮名、 御師(おし)、 にも使う(仝上)。 大夫、 を、 たゆう、 と訓ませ、 太夫、 とも当てるものに、 翁をば、昔は宿老次第に舞ひけるを、……大夫にてなくてはとて(申楽談義)、 と、 猿楽の座長(江戸時代以降は、観世、宝生、金剛、金春の四座の家元)、 を、 観世大夫、金春大夫、 などといったり(江戸時代に新しく成立した喜多流では、家元を大夫とは言わない)、 一切の能のつれ、大夫の前を通る。但、つれ、脇のかたへなほる時は、大夫のうしろを通る(童舞抄)、 と、 能のシテ、 あるいは、 浄瑠璃語りの長の称、 として、 摂津太夫、 播磨太夫、 などといったり、 後々は一座の大夫になる(評判・野郎虫)、 と、 歌舞伎の立女形、 太夫の御全盛はいともかしこし(評判・吉原失墜)、 と、 遊女の最上位、 の意味で使われる(岩波古語辞典)。 歌舞伎役者のトップ、 と 遊女のトップ、 の意味の重なりについて、 歌舞伎は出雲のお國の舞ひ始めしにて、京の六条の遊女など出演し、初はすべて女の技なりき。(芝居の女形の長を大夫とも云ひき)因りて遊女の上首のものをも、大夫と云ふこととなりたり、支那、秦の始皇、狩せし時、大雨に遭ひ、松の下に避くるを得て、松に大夫の位を授けたりと云ふ、この伝説に因りて、遊女の大夫を松の位などと云ふ(江戸吉にては、宝暦(1751〜64年)の頃、大夫の称、絶へたり)、 とある(大言海)。これについては、 始皇東行郡県、乃遂上泰山、立石封祠祀、下、風雨暴至、休於松樹下、因封其樹為五大夫(史記・始皇紀)、 とあり、 五大夫、 とあり(字源)、 五大夫、 が、 秦の爵名、 である(仝上)。 なお、江戸時代、中国の諸侯・卿・大夫・士などになぞらえて、「大夫(たゆう)」を、 旗本、 をさしたり、「忠臣蔵」で大石内蔵助を、「大夫(たゆう)」と呼んだように、 家老の異称、 として使ったりもした(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。「大夫」の、 五位は貴族の最下級であったが、門地のない地方の武士などにとっては、これに叙爵し、大夫を称することが栄光を意味した。遊芸人、神職、遊女の主なる者が大夫を称するのもこれに類した事情からであったと考えられる、 ともある(精選版日本国語大辞典)。ただ別に、芸能者が、 大夫(太夫)、 と称するには、元来は中国における五位にならって、日本でも、 五位の官人が芸能・儀式をとりしきるならわしが古代にあった、 とされ、五節舞(ごせちのまい)や踏歌(とうか)の舞妓を率いる役を、 楽前(がくぜん)の大夫、 と称し、太でなく大の字を用いた(世界大百科事典)とある。それが、転じて、 神事芸能を奉仕する神職や芸能人、 の称とり、 神事舞太夫、猿楽(さるがく)の太夫、幸若(こうわか)・説経・義太夫節などの語り手、 常磐津(ときわず)・富本(とみもと)・清元(きよもと)・新内(しんない)など豊後浄瑠璃(ぶんごじょうるり)の語り手、 さらに、 歌舞伎(かぶき)の女方(おんながた)、 大道芸人(万歳(まんざい)・猿回し・鳥追い・軽業(かるわざ)・放下(ほうか)師など)、 等々にも太夫の称を名のる者があった(仝上)、という流れのようだ。 「大」(漢音タイ・タ、呉音ダイ・ダ)は、「大樹」で触れたように、 象形。人間が手足を広げて、大の字に立った姿を描いたもので、おおきく、たっぷりとゆとりがある意。達(タツ ゆとりがある)はその入声(ニッショウ つまり音)に当たる、 とある(漢字源)。 「夫」(漢音呉音フ、慣用フウ)は、「夫子」で触れたように、 象形。大の字に立った人の頭に、まげ、または冠のしるしをつけた姿を描いたもので、成年に達した男をあらわす、 とある(漢字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 九月の下旬ばかりの程のことなれば、地火爐(ぢびろ)に火たきなどして、物食はむとするに(今昔物語)、 の、 地火爐、 は、 ちくわろ、 ぢほろ、 いろり、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)が、 地火爐(地火炉)、 の訓みは、 じ(ぢ)ひろ、 じ(ぢ)ほろ、 ちひろ、 ちか(くわ)ろ(地下炉)、 などとする諸説あり、明証を得ない(精選版日本国語大辞典)とある。 泥をぬり固めて作った炉、 とし、 主として料理用のものをさすかといわれる、 とあり、 囲炉裏(いろり)、 の意のようである。「囲炉裏」は、 ゆるり、 とも訓ませ(岩波古語辞典)、明応節用集(1496年)に、 火爐、ユルリ、 とある。 枕草子に、すさまじきもの(興ざめしてしまうもの)として、 晝(昼)ほゆる犬、春の網代(あじろ)。三四月の紅梅の衣。牛死にたる牛飼。ちご亡くなりたる産屋(うぶや)。火起こさぬ炭櫃(すびつ)地下爐(炉)、博士(はかせ)のうち続き女子生ませたる。方たがへにいきたるに、あるじせぬ所。まいて節分などはいとすさまじ……、 とある。 囲炉裏、 は、 屋内の床を四角に仕切って火をたき、煮炊きや暖房などに用いる場所、 をいい、 地火爐、 とは少し違うようだが、古くは、 比多岐(ひたき)、 地火炉(ぢかろ)、 とも言った(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B2%E7%82%89%E8%A3%8F)とあるので、囲炉裏の前身なのだろう。 囲炉裏(ゐろり)、 は、 爐、 と同じ(大言海)で、字鏡(平安後期頃)に、 爐、火呂、又、可可利、 とある(大言海)。「爐」は、漢語で、 守爐消夜漏、停燭待春風(高啓・除夕詩)、 と、 囲炉裏、 の意である(字源・大言海)。 囲炉裏、 には、 囲炉裏は床に組み込んで設置される、 場合と 土間に設置される場合、 とがあり(仝上)、 日本の伝統的な民家は床敷きの部位と土間の部位が大黒柱を軸に結合した形態を取り、囲炉裏が切られるのは多くの場合床敷きの部位の中央である。しかし、地域によっては床敷き部分の土間寄りの辺に接して切る場合もある、 とある(仝上)。「地火爐」は、 地炉、 ともいい(精選版日本国語大辞典)、その形態、目的から見ても、土間に設置されたもののように見える。 なお、(床に組み込んで設置される場合)炉を囲む席は、 土間から見て奥が家長専用の横座、その左右が主婦のすわるかか座(北座)と客人・長男・婿のすわる客座(向座)、土間寄りが下男下女の木尻と定まっている、 とある(マイペディア)。上下に調節できる自在鉤(じざいかぎ)は、 火の神のより所、 として信仰の対象となった(仝上)。 なお、「こたつ」で触れたように、 当初の「こたつ」は、室町時代、 椅子用の炬燵として、囲炉裏の上に低い櫓で囲った足炙り、 であったらしく(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%AC%E7%87%B5)、最初は、 囲炉裏の火が「おき」になったときなどに上に櫓をかけ、紙子(かみこ)などをかぶせて、櫓に足をのせて暖めていた、 とされ(世界大百科事典)、このため櫓も低く、形も櫓の上面が格子でなく簀の子になっていた。やがて、布団を懸け、足先だけを入れるのではなく、四方から膝まで、時には腰まで入れるものに改良され、現在の櫓の高さになったのは江戸時代からである(仝上)。 「爐(炉)」(漢音ロ、呉音ル)は、 会意兼形声。盧(ロ)は「入れ物+皿+音符虎(コ)の略体」の形成文字で、つぼ型のまるいコンロのこと。のち金属で外側を巻いた。また大型の竈の意ともなる。爐は「火+音符盧(ロ)」で、盧(丸いつぼ・こんろ)の原義をあらわすため、火印をそえた、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(火+盧)。「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「口の小さな亀の象形と食物を盛る皿の象形」(「クルッとろくろ(轆轤)を回して作った飯入れ」の意味)から、「いろり」を意味する「炉」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1569.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 然るに、其の職(しき)の属(さくわん)にて、紀茂経と云ふ者ありける(今昔物語)、 の、 属(さかん)、 は、律令制において、各省の下で事務を行う、 四等官(しとうかん)、 つまり、 長官(かみ)、 次官(すけ)、 判官(じょう)、 主典(さかん)、 の第四位である、 主典のうち、 職・寮・坊(春宮坊)、 の官職名であり、具体的には、 中官職(ちゅうぐうしき)、 大膳職(だいぜんしき)、 修理職(すりしき)、 左右の京職(きょうしき)、 の四つ職(しき)と、 蔵人所(くろうどどころ)、 大舎人(おおとねり)・図書・大学・陰陽・木工などの寮(りょう・つかさ)、 で一番下の位の官職(https://naming-dic.com/wa/word/80566834)で、職と坊での、 大属(たいさかん)、 少属(しょうさかん)、 寮での、 属、 大属、 少属、 がこれにあたる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B1%9E)。 主典(さかん)、 は、 さうくわん、 しゅてん、 とも訓ますが、「さかん」は、 「佐」(たすける)官の意の「佐官」の字音、 からきており、 公文書の文案を草し、公文書の抄録・読申をつかさどる、 が、官司によって(当てる)文字を異にし、職・坊・寮では、 属、 を当てるが、 太政官・神祇官では、 史、 省では、 録、 弾正台では、 疏、 使(勘解由使、検非違使、奉幣使等々)では、 主典、 司・署では、 令史、 近衛府では、 将曹、 兵衛府・衛門府では、 志、 大宰府では、 典、 鎮守府では、 軍曹、 国司では、 目、 郡司では、 主帳、 等々で(広辞苑)、官司によっては、大属、少属のように、 大少の別、 があり(職員令)、それぞれの相当位も異なっている(日本国語大辞典)。 和名類聚抄(平安中期)に、 神祇曰史、……勘解由(使)曰主典、職寮曰属、司曰令史……皆佐官、 とある。ちなみに、壁塗り職人を意味する、 さかん(左官)、 は、この、 主典、 に由来するとする説がある。 王室の修理などに無官の者、入ること能わず、因りて仮に、木工寮の属(佐官)として、入らしめたれしに起こる、 とある(大言海)。古くは、 沙官、 沙翫、 と表記されていた(語源由来辞典)。 左官(さかん)、 は、漢語である。漢書註に、 人道上右、今舎天子而仕諸侯、故謂之左官、 とあり、 朝臣出でて諸侯に事るをいふ、 とある(字源)。 左官、 は、 泥工(かべぬり)、 壁大工、 などともいう(大言海・広辞苑) 「屬(属)」(漢音ショク、呉音ゾク・ソク)は、 会意兼形声。蜀(ショク)は、桑の葉にひっついて離れない目の大きい虫のこと。属は「尾+音符蜀」で、しりをひっつけて交尾すること、ひっついて離れない意を含む、 とある(漢字源)が、別に、 /形声。意符尾(省略形。しっぽ)と、音符蜀(シヨク)とから成る。つらなる、ひいて、ひっつく意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(尾+蜀)。「獣のしりの象形の変化したもの」と「毛のはえている」象形と「大きな目を持ち植物(桑)にむらがる不快な虫(いもむし)」の象形(「いもむし」の意味だが、ここでは、「つづく」の意味)から、「つらなるを意味する「属」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji837.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 白き犬のぎやうとなきて立てり。早う犬の半挿(はんざふ)を頭にさし入れたりけるを、半挿を蹴抜きたるままに見れば(今昔物語)、 の、 半挿、 は、 湯水の容器、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 半挿、 は、 はんさふ(はんそう)、 とも、 はんざふ(はんぞう)、 とも訓ませ、 湯や水を注ぐ容器。柄の中の穴を湯・水が通ずるようにしてあり、この柄が半分本体の中に挿しこまれているところからの名、 とある(広辞苑)。 はんぞう、 は、 はにざふの音便、ニを略してハザフとも云ふ、 とあり(大言海)、 はにそう、 はそう、 はぞう、 ともいい(仝上)、 半挿、 は、 楾、 匜、 𤭯、 とも当てる(広辞苑・仝上)。枕草子には、 火桶、くだものなど持て続けて、半挿(はんぞう)に手水(ちょうず)入れて、手もなき盥(たらい)などあり、 とあり、内匠寮式(728年)には、 楾、一合(高一尺、周一尺四寸)、 和名類聚抄(平安中期)には、 匜、波邇佐布(はにさふ)、柄中有道、可以注水之器也、俗用楾字、……此器有柄、半挿其中、故名半挿也、 天治字鏡(平安中期)には、 𤭯、波邇佐不(はにさふ)、 和漢三才図絵(江戸時代中期)に、 有柄半挿其内故、故呼曰半挿、 とある。やはり、 水を盛りて物に注ぐ器、柄に水を通す道あり、 とある(大言海)。柄と注ぎ口が一体になったもの、のようである。 この名は、 須恵器(1200度くらいの高温で焼く灰色の硬質土器)の一器形、 にも当てられ、素焼きの、 土師器(はじき)、 もあり、 丸い胴部に小さい孔があけられた口の広い小形壺。穴に竹の管を差し込み、液体を注ぐのに用いたとされる、 とある(大辞林)。これは、 𤭯(はそう・はぞう)、 と当て、古名が、 匜、 楾、 半挿(はんぞう)、 波邇佐布(はにさふ)、 波佐布(はさふ)、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%9D%E3%81%86)、 球形の胴部にラッパ形の口縁部をもち、胴部に注口となる竹管などを挿すための孔を持つ壺形の焼き物、 である(仝上)。 考古学者の三宅米吉氏は、木製の場合が、 楾、 陶製の場合、 𤭯、 と当てているとし、さらに、 匜、 を、 波佐布(ハサフ)、 と訓むのが正しいとし、 「波佐布」を「半挿(ハンザウ)」と言うのは音便からの附会であり、両者は本来別種で、『和名抄』が成立した時代には既に両者の混淆が生じているとする、 としているようだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%9D%E3%81%86)が、形状の類似も含め、須恵器から、木製、陶製、さらに、 しろかねの半挿(宇津保物語)、 と金属製もあり、一系列なのではないか。 なお、 匜(い)、 は、漢語で、 中国古代の礼器の一つで、水差しのこと、 とあり、 一端に樋状の注口があり、反対側には取っ手のついた楕円状容器。おもに青銅でつくられた、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。形が似ていないので、用途から、「匜」の字を借りたものと見られる。 楾、 は、国字である(デジタル大辞泉)。 なお、 半挿、 と呼ぶものに、 半挿盥、 を略して言うものがある。 洗面道具の一つ、 で、 小さな盥で、口や手を洗ったり、渡し金をしてお歯黒をつけるときに用いる、 もので、 角盥(つのだらい)、 耳盥(みみだらい)、 ともいう(大辞林)。 また、 半挿、 という、 一つ目で口をへの字に結んだ妖怪、 もいる(https://www.nichibun.ac.jp/cgi-bin/YoukaiGazou/card.cgi?identifier=U426_nichibunken_0435_0001_0000)らしい。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 然る間、犬の常に出で来て築垣(つひがき)を越えつつゆばりをしければ(今昔物語)、 の、 ゆばり、 は、 しと、小便、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。「しと」も、 蚤虱馬の尿(しと)する枕もと(芭蕉)、 と、 尿、 と当て、 小便、 の意であるが、これは、 垂れ出す意(大言海)、 シタル(水垂)、 シツの転、下の義か(俚言集覧)、 シトル義か(和訓栞)、 シトと垂れ出す音から(松屋筆記)、 と、その状態を指している気配だが、和名類聚抄(平安中期)に、 褻器(せっき おまる)、謂、清器虎子之屬也、、 とあり、注記に、 清器、師之波古、 つまり、 便器、 の意とある。 ここで、 師、 とあるのは、 尿(し)、 である。つまり、 シタル、 は、水ではなく、 尿(シ)、 の意とわかる。なお、 (お)まるは、 大小便を放(ま)る器、 の意で、 虎子、 清器、 と当て、書言字考節用集(1717年)は、 椷窬、マル(字彙、褻器也、出遠由)、虎子同上、 とある。「まる」は、 殿に屎(くそ)麻理(マリ)散らしき(古事記)、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)乃ち大樹に向かってゆまる(神代紀)、 と、排泄する意の動詞、 まる、 からきている(広辞苑・日本国語大辞典)。色葉字類抄(1177〜81)に、 溺、ユハリマル、ユハリマリカク、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 旋、ユバリマル、 とある。しかし、「まる」に、 虎子、 を当てるのは、 褻器の形からいうか(南留別志の弁・海録)、 としかない(日本語源大辞典)。 同じ「尿」の意の、 ゆばり、 は、 尿、 溲、 溺、 と当て(大言海)、 ゆまり(湯放り)の転、 とある(大言海・広辞苑)。和名類聚抄(931〜38年)に、 尿、由波利、小便也、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 溺、尿、ユハリ、 溲、ユハリ、 とある。 まる、 は、 放る、 と当て(大言海)、 張るに通ず、 とある(仝上)。 ゆはり、 は、 湯放り、 であるが、「湯」は、 小便、 の意である(仝上)。 大小便を排泄することを、 まる、 といい、「糞(くそ)」と区別して、小便を、 あたたかい水、 の意から、 ゆ(湯)、 といった(日本語源大辞典)。だから、本来は、 ゆまる(湯放る)、 の名詞化、 ゆまり(湯放) である。ただ、中古には、語原が忘れられて、 ゆばり、 が一般化した(仝上)とある。 スマル→スバル、 シマシ→シバシ、 等々、 マ行→バ行への変化、 に添っている(仝上)とみられる。中古には、 しと、 も用いられたが、こちらのほうがやや上品な語と意識されていた(仝上)とある。 なお、中古中期には、 いばり、 の形に変じた(仝上)。 小便(しょうべん)、 は漢語で、古代から使われていたが、一般化したのは、中世後期である(仝上)。 「尿」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、 会意文字。「尸(しり)+水」で小便のこと、 とある(漢字源)。別に 会意文字です(尾+水)。「獣の尻の象形の変形したものと毛の生えているさまを表した象形」(「毛のあるしっぽ」の意味)と「流れる水」の象形から、後尾から出る水、「小便」、「にょう」を意味する「尿」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1384.html)。 「溲」(漢音ソウ、呉音シュ)は、 会意兼形声。「水+音符叟(細長い、やせた)」で、細長く垂れる水。細長い線を描いて出る尿のこと、 とある(漢字源)。大小便の意があるが、特に「小便」を指す。 「溺」(漢音デキ・ジョウ、呉音ニャク・ニョウ)は、 会意兼形声。「水+音符弱」。弱の字は、弓を二つ並べたさまで、なよなよと曲がった意を含む。水で濡れて、柔らかくぐったりなること、また尿に当てる、 とあり(漢字源)、「おぼれる」意では、漢音デキ・呉音ニャク、「ゆばり」の意では、漢音ジョウ、呉音ニョウの音になる。別に、 会意形声。「水」+音符「弱」、「弱」は、飾りをつけた弓で、実用の弓と異なりなよなよしている。水に濡れなよなよしている様、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%BA%BA)、 会意兼形声文字です(氵(水)+弱)。「流れる水」の象形と「たわむ弓の象形となよやかな毛の象形」(「弱い」の意味)から、「水中で弱る」、「おぼれる」、「水にはまって死ぬ(溺死)」を意味する「溺」という漢字が成り立ちました。また、「尿(ニョウ)」に通じ(同じ読みを持つ「尿」と同じ意味を持つようになって)、「小便」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2143.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) さは此の人はもと傀儡子(くぐつ)にてありけりとは知りける。その後は館の人も國の人も、傀儡子目代(くぐつもくだい)となむ付けて笑ひける(今昔物語)、 の、 傀儡子、 は、 傀儡師、 とも当て、 くぐつ、 くぐつし、 かいらいし、 くぐつまわし、 などとも訓ませ、 傀儡、 とも当て、 大江匡房『傀儡子記』(平安末期)によると、浮浪の民で、男は広く曲芸を演じ、女は媚を売った、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 傀儡、 は、 操り人形、 の意で、奈良時代の、『華厳経音義私記(けごんきょうおんぎしき)』に、 機関木人、久久都(くぐつ)、 とある。 カイライ、 とも訓ませ、 でくぐつ、 テクルバウ、 ともいい(大言海)、 其の人形を、歌に合わせて舞はす技を業とする者、 を、 傀儡子(カイライシ)、 くぐつまわし、 という(大言海)。類聚名義抄(11〜12世紀)には、 傀儡師、クグツマハシ、 とある。女性の場合は、 傀儡女(くぐつ め)、 ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%80%E5%84%A1%E5%AD%90)。 上記『今昔物語集』にも、少し前に、 傀儡子(くぐつ)の者ども多く館に来て、守(伊豆守小野五友)の前に並び居て歌をうたひ笛を吹き、おもしろく遊ぶ、 とある。大江匡房(おおえのまさふさ)『傀儡子記』には、 傀儡子、定居なく、其妻女ども、旅客に色を売り、父、母、夫、知りて誡めず、 とあり、 集団で各地を漂泊し、男は狩猟をし、人形回しや曲芸、幻術などを演じ、女は歌をうたい、売春も行った、 が(マイペディア)、このために、後に、 傀儡、 は、 遊女の名となる、 とある(大言海)。 傀儡(カイライ)、 は、漢語で、 周穆王時、巧人形有偃者、為本人能歌舞、此傀儡之始(列子)、 と、 あやつり人形、 の意で、それを使う、 人形遣い、 を、 傀儡子自昔傳云、起於漢祖在平城、為冒頓所圍、其城一面、即冒頓妻閼氏兵、強於三面、陣平訪知閼氏妒忌、即造木偶人、運機関、舞於陣閨A閼氏望見、謂是生人、慮其城下冒頓必納妓女、遂退軍、後楽家翻爲戯具(樂府雜録)、 と、 傀儡師、 傀儡子、 といい、 偃師(エンシ)、 ともいう(字源)。「傀儡」は、 魁、 窟、 などとも書かれ、 殉死者の代用物、 である、 明器(めいき)、 に起源するとの考えもある(世界大百科事典)らしいが、漢の応邵の『風俗通』の佚文に、 魁、喪家の楽、 とある、 傀儡、 は、追儺(ついな)の日、 黄金四目の面に、熊皮をかぶり、玄衣朱裳の身ごしらえをし、戈(か)と盾を手に悪鬼を追う、 方相面、 に由来するといわれる。方相の頭が大きく畏怖すべき貌を形容したのが、もともと、 傀儡、 の意味で、この追儺を喪礼に行ったのが、 喪家の楽、 である(仝上)とされる。また、『顔氏家訓』(北斉)に、 問ふ。俗に傀儡子を名づけて郭禿(くわくとく)と爲す、故實有るかと。答へて曰く、……前代の人に姓郭にして禿を病める者有り。滑稽にして戲調す。故に後人其の象を爲(つく)り、呼びて郭禿と爲す、 ともある(字通)。 傀儡子たちは、平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、摂津西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、夷(えびす)人形を回し歩く、 えびす舞(えびすまわし)、 えびすかき(夷舁)、 となった(マイペディア・日本大百科全書)。これが、のちの、 人形浄瑠璃、 の源流となった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%80%E5%84%A1%E5%AD%90・仝上)。また、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられ、 日本で初めての職業芸能人、 といわれ、 操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる(仝上)。 寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護され、後白河天皇は今様の主な歌い手であった傀儡女らに歌謡を習い、『梁塵秘抄』を遺した。 こうした職能組織には属さないものを、 手傀儡(てくぐつ)、 といい、「手」は「私的な」という意味をもち、職能組織のそれが、交通の要衝に地歩を築いて活躍し、人形浄瑠璃の成立につながるが、一方、手傀儡は、 宮中や貴族の邸内に参入、当時の流行芸能である猿楽能などを人形で演じて見せた、 とある(看聞日記・世界大百科事典)。この流れが、 首に人形箱をつるし、その箱の上で人形を操って門付(かどづけ)して歩く首かけ人形芝居、 の形で、江戸時代まで大道芸として存続した(マイペディア)。江戸時代には、これが、 傀儡子(師)芸、 と目され、幕末まで続き、 首かけ芝居、 木偶(でく)まわし、 山猫まわし、 などともいわれ、その特異な風体は清元の歌舞伎(かぶき)舞踊にいまもみられる(日本大百科全書)とある。「山猫」とも呼ばれたのは、 首から下げた箱の中から猫のような小動物の人形を出す、 ことから、江戸では別名そう呼ばれた。なお、 手傀儡(てくぐつ)、 には、 よくよくめでたく舞うものは、巫(かんなぎ)、小楢葉、車の筒とかや、八千独楽(やちくま)、蟾舞(侏儒舞 ひきまひ)、手傀儡、花の園には蝶、小鳥(梁塵秘抄)、 と、 手で直接人形を持って操る人形遣い、 または、 その人形戯、 を指す意もあり(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)、室町時代の文献には、 てくぐつ、 の用例が多い(仝上)とあるが、これは、「私的な」大道芸の流れと繋がっている気がする。 なお「くぐつ(傀儡)」の語源には、 クグ(莎草)で編んだ袋の意のググツコ、クグツトの語尾脱落か。その袋に人形を納めていたところから(偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道=折口信夫)、 クグ(莎草)で編んで作った袋を携帯していたところから(和訓栞・巫女考=柳田国男)、 クグビト(蟆人)の転。蟆(蟇)を食したことから、あるいは谷蟆のように、どこへでも行ったことから(少彦名命の研究=真田貞吉)、 モククツ(木偶出)の義(言元梯)、 クク(茎)は草木の幹の意、ツは男性の尊称のチと通じる。木の人形を使うとき、神ある如くみえるところから(画証録)、 中国語傀儡に対する朝鮮語koangからの転化(演劇百花大事典所引安藤伊賀守正次説)、 唐代語のkulutsから(日本大百科全書)、 と、「クグ(莎草)」とする説が有力だが、併せて、 塩干の三津の海女の久具都(クグツ)持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む(万葉集)、 とある、 クグあるいは藁などで編んだ手提げ袋、 の意の、 「くぐつ」(裹)、 の語源について、 袋類の「くぐつ」をつくることを生業とした漂白民の集団で、人形遣いの技をもち、その人形を「くぐつ」に入れて歩いたことによる、 ともあり(日本語源大辞典)、 傀儡、 と、 裹(くぐつ)、 とは深くつながるようだ。本来、 くぐつ(裹)、 は、 刈った藻の入れ物、 で、海辺の草「くぐ」を編んだものと見られる。時代が下るにつれて藁、竹などで編んだ袋や籠もいうようになり、また入れる内容も海藻から米、豆、絹、綾、石炭などに及んでいる、 とある(精選版日本国語大辞典)。 くぐ、 にあてる、 莎草、 は、 ささめ、 と訓ませ、 綾ひねささめの小蓑衣きぬに着む涙の雨も凌しのぎがてらに(山家集)、 と、 スゲやチガヤのようなしなやかな草、 をいい、 編んで蓑みのやむしろを作った、 とある(デジタル大辞泉)が、今日、 カヤツリグサ(蚊帳吊草)、 に、 莎草、 があてられている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A4%E3%83%84%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%82%B5)。 「傀」(漢音カイ・呉音ケ)は、 会意兼形声。鬼は、頭の大きい亡霊の姿を柄がい象形文字。傀は「人+音符鬼」で、大きく目立つ意、 とあり(漢字源)、「傀偉」「傀然」で大いなる貌、「傀俄」(ガガ)で、大いなる山の崩れかかる貌の意である。また「あやしい」「もののけ」の意もある。「傀儡」で操り人形の意である(字源)。 「儡」(ライ)は、 会意兼形声。田を三つむ重ねた旁は、同じようなものをいくつも積重ねる意を表わす。儡はそれを音符とし、人を添えた字、 とあり(漢字源)、「傀儡」とは、 土のかたまりを積み重ねて頭を丸く大きく拵えた人形、 とある(仝上)。 殉死者の代用物、 とあった(字源)のとつながる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 機嫌のよい仲を引さいたりする札付(ふだつ)きのおしゃべりあまにて(浮世風呂)、 の、 札付き、 は、 世に一定の悪評あること、 また、 世に知られたるわるもの、 の意である(大言海)。 札付、 は、文字通り、 ものに、札のついていること、 の意味である(広辞苑)。「札」は、 神社の御札や値札などと使うように文字や絵が書いてある紙、木などの小片をいう。つまり、カード。「札付き」は札が付いている、 という意味で(笑える国語辞典)、特に、 商品に正札が付いていること、 つまり、 正札付、 の意の、 ふだつきの、娘年まで、かけねなり(柳多留)、 と、 かけねなしのなきこと、 の意である(大言海)。江戸時代に、 三井家の越後屋が、掛値なしの値段(つまりぼったくっていない値段)を札に書いて提示したことから、商品の「札付き」がはじまった、 とある(笑える国語辞典)。この札を付けたこと自体、 正規の値段を堂々と示している、 という店側の姿勢を示しており、それを強調する意味で、 正しい値札が付いていること、 を、 正札(しょうふだ)付き、 と言った(仝上)。で、そこから、 虚偽や誇張のない商品や、よい評判が定着している人などについて「正札付」という言葉が慣用的に使われるようになった、 とする(仝上)語源説があるが、他方、江戸時代、 素行の悪いものや駆け落ちしたものは、(町役人によって管理されていた)人別帳から削除され、「無宿人」になりました。最初の頃は、罪を犯したり、駆け落ちしたり、親から勘当されると外されていたのですが、時代が下ると、将来人別帳から外されそうな素行の悪い人物の名前のところに前もって「札」をつけるようになったそうです。ようは、問題をおこしそうな人物にあらかじめレッテルを張り、監視の対象にしたわけです、 と(https://mag.japaaan.com/archives/90521・http://zokugo-dict.com/28hu/hudatukinowaru.htm)、 人別帳に貼られた札、 を指すとする語源説がある。越後屋が、 店前現銀無掛値(たなさきげんきんかけねなし)、 と銘打って、初めて、 正札販売、 という、 定価販売、 を始めたのは、天和三年(1683)とされる(https://www.imhds.co.jp/ja/business/history/history_mitsukoshi.html)。他方、 人別帳に貼った札、 の意については、三田村鳶魚が、こんなことを言っている。 「当時無宿の方になりますと、安永度の書付に、百姓は農業を怠り、町人は渡世をなさず、身持放埒になつた者が無宿になる、といふことがあります。これが当時の無宿なので、その中から本当の帳外になつた者も出る。その後文化二年に八州取締が出来た時、『関八州教諭書』といふもの が出て居りますが、その中に、無宿になる程の者に愚者なし、と書いてある。利口なやつが無宿になるわけで、……この無宿者になる手続は、……文化頃までは親が勘当する。旧里〔旧離〕切る、といひます。さうして御奉行様の帳面へつけて貰ふと、村役人の方でも勘当が許可になつたといふので帳外にします。文化度(1804〜18年)にはその手続をせずに、あいつは厄介なやつだからというと、親の勘当をまだ受けない―帳外処分を受けないやつでも、その村役人が無宿の取扱ひにすることがありました。従つてまだ籍のある、人別帳から除かぬうちに、無宿になる者があつたのです。尤もそれより前の安永度(1772〜 81年)にも、親が勘当 するといふ手続をしないのに、帳外にすることはあつたのですが、その頃はまだ無宿の扱ひを受ける者が少かつた。 文化度には村だけで無宿にすることも出来たのです。村役人はまた親が勘当する、せぬに拘らず、帳外すべき者、即ちその候補者に対して、下げ札といふことをはじめました。これは人別帳に札をつけて置くので、よく『あいつは札つきだ』といふのは、それのことです。まだ無宿の取扱ひはしないけれども、してもいゝやつだといふしるしをつけて置くのであります。」(『侠客と角力』) つまり、 無宿予備軍、 に、 レッテル貼り、 する行為である。こちらの方が、時代が下がる。 あいつは札付きの悪党、 というのは、 こちらからきている。明らかに、 正札(しょうふだ)付き、 の意の、 札付き、 と、 下げ札、 の意の、 札付き、 とは由来を異にしているといっていい。 後者の意の、 札付き、 は、当然、悪い評判について使う言葉なので、良い評判については使わない。良い評判をいう場合は、 折り紙付き、 となる(語源由来辞典・大辞林)。 「札」(漢音サツ、呉音サチ)は、 会意文字。「木+おさえてとめるしるし」で、ピンや釘でおさえてとめる紀だをあらわす、 とある(漢字源)。別に、 会意。「木」+「乚」(押さえて止める)、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%AD)、 形声。木と、音符乙(イツ→サツ(乚))とから成る。うすくけずった木のふだ、転じて、文字を書いたふだ、文書の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(木+乙)。 「大地を覆う木」の象形(「木」の意味)と「彫刻刀」の象形から、木を刃物で削り作った「ふだ」を意味する「札」という漢字が成り立ちました、 ともあり(https://okjiten.jp/kanji64.html)、微妙に異なる。 参考文献; 柴田宵曲編(三田村鳶魚著)『侠客と角力』(Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) これを聞くに、我が心地にも、いみじくすずろはしくおもしろくおぼえけるに(今昔物語)、 の、 すずろはし、 は、 うきうきとして、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 漫はし、 とも(岩波古語辞典・広辞苑)、 漫然、 とも(大言海)当て、動詞、 すずろう(漫)の形容詞化、 で(日本国語大辞典)、 心、すずろなる、 意(仝上)とある。「そぞろ」で触れたように、 漫ろ(広辞苑)、 あるいは、 不覚(大言海)、 とも当てる「そぞろ」は、 すずろの母音交替形、 なので、 すずろ、 ともいい(岩波古語辞典)、「すずろはし」は、 そぞろはし、 とも言う(学研全訳古語辞典)。 すずろ、 そぞろ、 の意味は、例えば、『太平記』で、ランダムに引っ張ると、 城より打ち出でて、そぞろなる敵ども皆城の中へぞ引き入れける、 では「無関係な」という意味、 そぞろに思ひ沈ませ給ひける御心の遣る方なしに、 は、「何となく」といった意味、 これ程の打ちこみの軍(いくさ)に、そぞろなる前懸けして討死したりとても、さしたる高名ともいはるまじ、 は、「意味のない」といった意味、 そぞろなる長活きして、武運の傾(かたぶ)かんを見んも、老後の恨み、臨終の障(さわ)りともなりぬべければ、 は、「漫然と」といった意味等々といった具合で、「何となく」「意味のない」「無関係」と、「とりとめのない」といった意味の幅で使われている。 すずろはし、 は、 待ちつけさせ給へる宮の御心は、さりとも少しすずろはしく思し召されむかし(大鏡)、 と、 何となく落ち着かない気持である、 意の状態表現が、そこから、 うたて雄々しきけはひなどは見え給はぬ人なれば、むうとくすずろはしくなどあらねど(源氏物語)、 と、価値表現へ転じて、 何となく嫌な感じで、じっとしていられない気持である、 落ち着かず具合が悪い、 なんとなく気に食わない、 しっくりしない気持がする、 意や、逆に、 聞く人ただならず、すずろはしきまで愛敬(あいぎやう)づきて(源氏物語)、 と、 (楽しくて)じっとしていられない、 浮き浮きしている、 意でも使われる(岩波古語辞典・学研国語大辞典・日本国語大辞典)。 すずろ(そぞろ)、 自体が、 これという確かな根拠も原因も関係ない、とらえ所のない状態、人の気分や物事の事情にもいう、 とある(岩波古語辞典)ので、 すずろはし(そぞろはし)、 も、 そわそわと落ち着かない心の状態、 をいい、当然、 楽しい場合、 にも、 不安な場合、 にも用いることになる(学研全訳古語辞典)。 なお、 すずろ、 そぞろ、 の、 すす、 そそ、 の語源については、「そぞろ」で触れたように、 進む、 すさぶ、 の語幹と同根、 とする説、 気ぜわしく物や体を突き動かす擬態語、 とするもの、 脈絡が断絶している状態を表す擬態語、 するものなどがある(日本語源大辞典)。 「漫」(漢音バン、呉音マン)は、「そぞろ」で触れたように、 会意兼形声。曼(マン)は「冒の字の上部(かぶせるおおい)+目+又」の会意文字で、ながいベールを目にかぶせたさま。ながい、一面をおおうなどの意を含む。漫は「水+音符曼」で、水が長々と続く、また水が一面におおうなどの意、 とあり(漢字源)、「みちる」「一面を覆う」意だが、「漫談」「冗漫」と、「とりとめがない」意もある。で、水がひろがる、から転じて、とりとめがない意を表す(角川新字源)、とある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) かく云はれて少し攀縁おこりければ、只今、天には大将を犯す星なむ現じたると答へければ(今昔物語)、 の、 攀縁、 は、 こだわり、いかり、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 攀縁、 は、古くは、色葉字類抄(1177〜81)の「へ」の部に、 攀縁 不吉詞、 室町時代の文明年間以降に成立した『文明本節用集』に、 攀縁 ヘンヱン 不吉詞也、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 ヘンエン(「へん」は「攀」の呉音)、 とも訓ませたが、 攀縁可到玉峰頭(吴融)、 と、 攀縁(ハンエン)、 は、漢語で(字源)、 よぢのぼる、縁は因る、 の意とあり(仝上)、 攀援(ハンエン)、 と同義とある。 攀援、 は、 欲相攀援、死而後已(漢書・翟方進傳)、 と、 たよる、勢力ある人をたのみとする、 意と、 烏鵲之巣、可攀援而闚(荘子)、 と、 よじのぼる、 意がある(仝上)。だから、 攀縁、 は、 (頼って)よじのぼる、 意だが、 事物やその間にある縁に取り縋り、攀じ登ること、 意から、 人の関係などに頼って立身出世を企図する、 という意味にも用いられる(新詳仏教用語)。この「因る」意をメタファに、 よろづに攀縁しつつせむ念誦・読経は、かひはあらむとすらむやは(栄華物語)、 と、 (猿が木によじのぼり飛び廻るのに喩えて)俗縁にかかずらうこと、 心が外界のために煩わされて平静を失うこと、 の意でも用い(岩波古語辞典)、さらに、 心の平静を失う意から、 転じて、 されば心に攀縁とて、少々思はずなる事あれども(極楽寺殿御消息)、 と、 いきどおること、 の意で使う(岩波古語辞典・広辞苑)。仏教的な意味では、 人の心が或る対象にとらわれ、特別な働きを起こすこと、 を意味し、 何かを深く考え、それに執心してしまうことは、悩み多い俗世に縛られるということであったため、仏教を信仰する者にとっては忌避される情動であった、 とあり(新詳仏教用語)、 何謂病本、謂有攀縁、……云何斷攀縁、以無所得、若無所得則無攀縁(「楞嚴経(705)」)、 於一切行、捨攀縁想、是檀波羅蜜(「顕戒論(820)」)、 と、「攀縁」とは、 心が対象に向かってはたらくこと、 つまり、 心が対象によりかかってはたらきを起こすことで、煩悩を起こすもとになるはたらき、 であり(精選版日本国語大辞典)、 俗縁に携わること、 の意となる(大言海)。 因みに、 攀縁茎(はんえんけい)、 というと、 よじのぼり形の茎、 で、 ブドウ、カギカズラ、キヅタなどの茎、 などのように、 巻きひげや不定根などで他物にからみついて伸びる茎、 や、 アサガオやカナムグラの茎、 などのように、 茎自体が他物に巻きついて伸びるもの、 とがある(大辞林・大辞泉)。まさに、 絡みつかれている、 を喩えている。 攀縁、 の意味は以上なのだが、 攀縁 不吉詞(色葉字類抄)、 攀縁 ヘンヱン 不吉詞也(文明本節用)、 とある、 不吉詞、 の含意はつかめなかったが、唯一、「不吉詞」の含意のニュアンスについて言及しているものがあった(http://scp-jp.wikidot.com/hanen)。あまり声高には言えない感じなのだろうか。 「攀」(漢音ハン、呉音ヘン)は、 会意文字。攀の下部は、左右の手をそらしたさまで、反(そらせる)と同じ。攀は「林+交差のしるし+手をそろえるさま」。生け垣をつくるとき、枝をそらせて×型にからみあわせて編むことを示すため、林印(垣根の木)とそらすしるしを加えた。藩籬(ハンリ いけがき)の藩と同じ。また、身体をそらせてのぼること、 とある(漢字源)。 「縁(緣)」(エン)は、 会意兼形声。彖(タン)は、豕(シ ブタ)の字の上に特に頭を描いた象形文字で、腹の垂れ下がったこぶた。豚(トン)と同系のことば。縁は「糸+音符彖」で、布の端に垂れ下がったふち、 とある(漢字源)。織物の「ふち」の意を表す。借りて「よる」意に用いる(角川新字源)ともある。別に、 形声文字です(糸+彖)。「より糸」の象形と「つるべ井戸の滑車のあたりから水があふれしたたる象形」(「重要なものだけ組み上げ記録する」の意味だが、ここでは、「転」に通じ(「転」と同じ意味を持つようになって)、「めぐらす」の意味)から、衣服のふちにめぐらされた装飾を意味し、そこから、「ふち」、「まつわる」を意味する「縁」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1127.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 中将、さらば、明後日ばかり、此の青経(あをつね)呼びたる事はあがはむ(今昔物語)、 青経の君呼びたる過(とが)あがふべしとて、殿上人皆参らぬ人なく皆参りたり(仝上)、 と、 あがふ、 とあるのは、 贖ふ、 購ふ、 と当て、 あがなうの古形、 で、 平安時代以後、漢文訓読語として用いた、 とあり(日本国語大辞典)、 財物を代償として出して罪をつぐなう、 意で(広辞苑)、また、その派生として、 物を神に捧げて、罪を払い、命の長久を求める、 意でも使う(精選版日本国語大辞典)。 中臣(なかとみ)の太祝詞言(ふとのりとごと)いひ祓(はら)へ贖(あか)ふ命も誰(た)がために汝(なれ)(万葉集)、 韓(から)媛と葛城(かつらき)の宅七区(ななところ)とを奉献りて、罪(しぬつみ)を贖(あかは)むことを請(う)けたまはらむ(日本書紀)、 と、古く、 あかふ、 と、 清音である(岩波古語辞典)。華厳私記音義(奈良時代)に、 救贖、出金而贖罪也、倭云阿可布(アカフ)、 字鏡(平安後期頃)にも、 贖、阿加不、 類聚名義抄(11〜12世紀)にも、 贖、アカフ、ツクノフ、 などとあり、平安末頃まで第二音節は清音と考えられる(精選版日本国語大辞典)。 室町時代に成立した一群の部首引きの漢和辞典『和玉篇(倭玉篇 わごくへん)』には、 贖、アガナフ とあり、室町後期頃には、 あがなふ、 が用いられるようになり、近世になると、 あがふ、 を使う例は稀になる(精選版日本国語大辞典)。この変化は、 うら(占)ふ→うらなふ、 あざ(糾)ふ→あざなふ、 などの動詞が、 あがふ→あがなふ、 の派生に影響を与えた(日本語源大辞典)とある。 意味も、平安時代初期には、 亀の命をあがなひて放生し現報を得て亀に助けらえし縁(日本霊異記)、 と、 買う、 意でも使われている(岩波古語辞典)。ただ、 物を代償として出して、罪などのつぐないをする、 意の場合、 贖ふ、 と当て、 代償を払って、そのものを自分の自由にする、 つまり、 買う、 の場合、 購ふ、 と当てわける(精選版日本国語大辞典)。 あがふ、 の語源については、 アは相(アヒ)の下略(鞣ト(アヒコメ)、袙(アコメ)。言逆(イヒサカ)ふ、いさかふ)、ガは交(カ)ふるの語根(預(あそ)ふも、相副(あひそ)ふなり)、相交(アヒガヘ)を活用せしめて、罪と交換する意なり。アガナフのナフは、行ふ義(占(ウラ)なふ、蠱(マジ)なふ)。玉篇「贖、以財抜罪也」(大言海)、 アガは斑で、返す意、ナフは活用言(俚言集覧)、 アガチネガフの約、アガチはワカチ(分)から(和訓集説)、 などとある(日本語源大辞典)。 アザ、 は、 交、 と当て、 アザナフ・アザナハル・アザハル・アザナフなどのアザ、 とあり(岩波古語辞典)、 あぜ(校)の古形、 で、 棒状・線状のものが組み合う意、 とある(仝上)。類聚名義抄(11〜12世紀)に、 糺縄、アザハレルナハ、 とある(仝上)。 なふ、 は、 商(あき)なふ、 占(うら)なふ、 いざなふ、 諾(うべ)なふ、 甘なふ、 などと、 名詞、副詞、形容詞の語幹などに付いて、その動作・行為を行う意の動詞をつくる、 とあり(学研全訳古語辞典)、また、 綯(な)ふと同根か、手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作する意に転じたもの、 とある(岩波古語辞典)。ほぼ、大言海説に添うといっていい。 「贖」(漢音ショク、呉音ゾク)は、 会意兼形声。旁の字(イク・ショク)は、これと思うものを抜き出して売り買いすること。賣(バイ)とは別字。贖はそれを音符とし、貝を加えた字で、財貨を払って物を求める意。転じて、金品によって身柄を抜きかとること、 とある(漢字源)。「贖罪」と使う。 「購」(漢音コウ、呉音ク)は、 会意兼形声。冓(コウ)は、こちらとむこうとが同じ形に組まれた組み木をがいた象形文字。購は「貝(財貨)+音符冓(コウ)」で、こちらと先方とが同じように納得して取引すること、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(貝+冓)。「子安貝(貨幣)」の象形と「かがり火をたく時に用いるかごを上下に組み合わせた」象形(「組み合わせる」の意味)から、その金額とちょうど組み合わせとなる物を「買う」を意味する「購」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1611.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 御前(円融院)近く上達部(かむだちめ)の座あり。其の次に殿上人(てんじょうびと)の座あり(今昔物語)、 の、 上達部、 は、 かんだちべ、 ともいい、 摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議、及び三位以上の人の総称、 で、 参議は四位であるがこれに準ぜられた、 とある(精選版日本国語大辞典)。 公卿、 雲上人、 ともいい(仝上)、 卿相(けいそう)、 月卿(げつけい)、 棘路(きよくろ)、 などの異称もある、つまり、 三位以上の殿上人(と参議)、 をいう(旺文社日本史事典)。なお、鎌倉以降、家格の形成に伴い、公卿に昇る上流廷臣の家柄もしだいに固定し、江戸時代には、その家柄に属する廷臣の総称として、 公家、 とほぼ同じ意味にも用いられた(世界大百科事典)。で、 殿上人、 とは、 天皇の常御殿の清涼殿の「殿上の間(ま)」に昇ることを許された者、 をいい(大辞林)、 殿上、 ともいい、 親王・公卿(くぎょう)・受領(ずりょう)、 などを除いた、清涼殿の、 「殿上の間(ま)」の簡(ふだ)、 に名を付され、蔵人頭の管理下に、交替で天皇の身辺に日夜、仕えた、 四位・五位・六位(蔵人頭(くろうどのとう)や蔵人を含む)、 をいい(仝上・日本大百科全書)、 雲の上人(うえびと)、 雲上人(うんじようびと)、 上人(うえびと)、 うえのおのこ、 堂上(どうじよう・とうしょう)、 雲客(うんかく)、 などともいう(広辞苑・大辞林)。特権身分であるが、天皇に近侍する性格上、代替わりには入れ替えが行われる。また官位の昇進に伴い殿上を去る慣例もあり、その際引き続き昇殿を許されるのを、 還昇(げんしょう) といい、過失により昇殿を止められる場合もある。員数は、平安時代の有職故実・儀式書『西宮記(さいぐうき)』(源高明撰述)によれば、 30人前後、 あるが、寛平九年7月3日(897年8月4日)に宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際して当時13歳の新帝に与えた書置『寛平御遺誡』(かんぴょうのごゆいかい)で、 25人、 に定められていた(世界大百科事典)。その後、 100人近く、 に増加した(ブリタニカ国際大百科事典)。また貴族の年少者を昇殿させる、 童殿上(わらわてんじょう)制、 もあった。近世では、 堂上(とうしょう)、 と称した(仝上)。なお、 上皇・東宮・女院の御所に昇ることを許された者、 の殿上人もあり(精選版日本国語大辞典)、 院殿上人、 などと称した。 院の殿上人 と 内裏の殿上人、 を区別して、後者を、 内の殿上人(うちのてんじょうびと)、 とも言う(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF%E4%B8%8A%E4%BA%BA)。 殿上人、 の対が、 地下人(ぢげにん・ぢげびと)、 で、「凡下」で触れたように、 堂上、殿上に対して、五位以下の未だ清涼殿の殿上に、昇殿を聴(ゆるさ)れざる官人の称、 である(大言海)が、それが転じて、 禁裏に仕ふる公家衆よりして、其以外の人を云ふ称、 となり、 庶民、 となり、室町末期の『日葡辞典』には、 土着の人、 の意となる。本来五位以下を指したが、そこにも至らぬ公家以外を指し、遂に、庶民を指すようになった。武家も、公家から見れば、地下である。しかし武家の隆盛とともに、地下は、 土着の人、 つまり、 地元の人、 という意になり、 凡下、 甲乙人、 とほぼ同義となった。その経緯は、「凡下」で触れた。 清涼殿の南面の殿上の間に昇ること、 を、 昇殿(しょうでん)、 というが、 日給の簡(につきゆうのふだ 殿上簡(でんじょうのふだ)・仙籍(せんせき)とも)、 に名を記されたので、昇殿の許可を、 簡につく、 ともいった(世界大百科事典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF%E4%B8%8A%E4%BA%BA)ので、「殿上人」は、 簡衆(ふだのしゅう)、 ともいう(仝上)。なお、 日給(にっきゅう・ひだまい)、 とは、 日をたまわる、 の意で、 宮中での当直、 を言う(http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/r_kugyo.html)。 殿上の簡(ふだ・かん)、 は、 日給の簡(にっきゅうのふだ・ひだまいのふだ)、 仙籍(せんせき)、 ともいうが、 殿上人の氏名が記された木簡のことで、出勤簿と職務通達書とを兼ねたようなもの、 とある(仝上)。その日、宮中の当直に当たっている人は、 殿上の間の西北の壁にこの簡(ふだ・かん)が立てかけられている、 ので、参内した場合は簡に日付を記入し、宿直した人は「夕」の字も併記、 し、 参内しなかった人(不参者)は「不」、 等々といったことが記入される(仝上)とある。 殿上の間(てんじょうのま)、 というのは、 公卿(くぎょう)、殿上人(びと)が伺候する部屋、 だが、平安宮内裏(だいり)の、 清涼(せいりょう)殿南庇(ひさし)、 の、 東西6間の細長い部屋、 をさし(日本大百科全書・世界大百科事典)、 昼(ひ)の御座(おまし)、 に隣接していて(学研全訳古語辞典)、 殿上人が詰めて天皇の日常生活に奉仕したり、公卿などの僉議(せんぎ)や事務作業の場、 となる、 清涼殿の控室・事務室・会議室を兼ねた所、 で(精選版日本国語大辞典)、常には蔵人が詰めており、 北側は白壁で身舎(もや 母屋)との間を仕切り、櫛形(くしがた)の窓がある。南側は南は簀子がなく、神仙門で東西に区切り、東側に小板敷、西側に沓脱(くつぬぎ)の縁をつける。東西に妻戸があり、西を下の戸、東を上の戸といい、上の戸の東が落板敷(おちいたじき)で、年中行事障子がある。ここを通って清涼殿の身舎に出る、 とあり(世界大百科事典・日本大百科全書)、室内には、天皇の倚子(いし)のほか、 台盤(だいばん 食事をのせる台)、辛櫃(からびつ)、鳥口(とりぐち 文杖(ふづえ)などの尖端(せんたん)の、物を挟む所。ここに文書などを挟んで位の上の人に差し出した。鳥のくちばしに似ているところからいう)の文杖(ふづえ)、 などさまざまな備品が置かれ、殿上人の名を記した日給(にっきゅう)の簡(ふだ)(出勤の確認に用いる札)が掛けてあった(仝上)。殿上人はここに控え、 上の戸から東廂の御前に参進した、 とある(精選版日本国語大辞典)。また、その南は、 台盤所、 で、天皇の食事を調進する女房の詰所である(世界大百科事典)。殿上人等が詰める殿上の間に相当し、 御倚子(ごいし)、台盤、当番の女房の名を記した女房簡(ふだ)、 等が置かれている(仝上)。南の端が、 鬼の間、 で、南側の壁に白沢王(はくたくおう 古代インド波羅奈国(はらなこく)の王で、鬼を捕らえた剛勇の武将と伝えられる)が鬼を切る画が描かれている(仝上)とある。 なお、殿上間(てんじょうのま)の御倚子(殿上の御倚子)については、「京都御所」(https://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/03seiryouden.pdf)に詳しい。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 満田さおり「清涼殿南庇『殿上の間』(「侍所」)に関する研究」(https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/78/683/78_223/_pdf) 頭の鐙頭(あぶみがしら)なりければ、纓(えい)は背に付かずして離れてなむふられける(今昔物語)、 の、 鐙頭(あぶみがしら)、 は、 後頭部の突き出たでこあたま、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。なお「纓(えい)」は、「帞袼(まかう)」で触れたが、 冠の後ろに垂れた細長い布、 で(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、 古くは、髻(もとどり)を入れて巾子(こじ)の根を引き締めたひもの余りを後ろに垂らした。のちには、幅広く長い形に作って巾子の背面の纓壺(えつぼ)に差し込んでつけた、 とある(デジタル大辞泉)。 鐙頭、 は、いわゆる、 さいづちあたま、 の謂いで、 さいづちがしら、 ともいい、 後頭・前頭のつき出て、木槌の頭部のような形をした頭、 をいう(広辞苑)。 さいづち、 は、 才槌、 木椎、 とも当て、 小形の木の槌(つち)、 である(精選版日本国語大辞典)。 しかし、「鐙頭」という以上、 さいづち頭、 とは異なり、「鐙(あぶみ)」の形状から見て、 後ろの部分が出っ張った頭、 なのだと思われる。 「鐙」は、天治字鏡(平安中期)に、 鐙、阿不彌、 和名類聚抄(平安中期)に、 鐙、鞍兩邊承脚具也、阿布美、 とあり、「移し鞍」で触れたように、 足蹈(アシフミ)の略(足掻(アシカキ)、あがき。足結(アシユヒ)、あゆい)(大言海)、 足(あ)で踏むもの(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)、 足(あ)踏みの意(精選版日本国語大辞典・名語記・和句解・東雅)、 足踏(あぶみ)の意(広辞苑)、 等々ほぼ、 足踏、 の意としている。「移し鞍」で触れたように、「鞍」は、 狭義には鞍橋(くらぼね)、 をいう(広辞苑)。「鞍橋」は、 鞍瓦、 とも当て、 前輪(まえわ)、後輪(しずわ)を居木(いぎ)に取り付け、座の骨組みをなす部分、 をいい(仝上)、近代以前は、 馬の背に韉(したぐら 鞍)をかけ、鞍褥(くらしき)を重ねて鞍橋(くらぼね)をのせ、鞍覆(くらおおい)を敷いて両側に障泥(あおり 泥除け)を下げる、 という形で馬具を整える(世界大百科事典)。この、 鞍橋、 を一般に、 鞍、 という。本来革製であったが、木製の鞍は中国の漢代に現れ(百科事典マイペディア)、日本へは古墳時代に中国から、 木製の地に金銅製や鉄製の覆輪および地板などを施した鞍、 が伝来、そこから生まれた鞍が、 唐鞍(からくら)、 で、平安時代になると、儀礼用の、 唐鞍(からくら)、 移鞍(うつしくら)、 日常用の、「水干」を着るような場合に用いる、 水干鞍、 などと、多様な発展をとげた(世界大百科事典)。 唐鞍(からくら)、 は、 唐風の鞍、 の意で、飾り鞍の一種、 平安時代以来、晴れの儀式の行幸などの飾り馬に用いた唐様の鞍、 で、 朝儀の出行列の正式の馬、 であり、 銀面、頸総(くびぶさ)、雲珠(うず)、杏葉(ぎょうよう)などの飾りがあり、蕃客の接待、御禊(ごけい)、供奉(ぐぶ)の公卿、賀茂の使いなどが使用した、 とある(広辞苑・日本国語大辞典)。 これに対するのが、 大和鞍(やまとぐら)、 倭鞍(わぐら)、 で、 唐様の鞍に対して和様化した鞍、 をいい、 唐鞍(からくら)の皆具(かいぐ)に対して、皆具の和様の鞍の一式、 をいう(日本国語大辞典)。 中心となる鞍橋(くらぼね)は、前輪と後輪(しずわ)の内側にそれぞれ切込みを設けて、居木先(いぎさき)をはめこみ、鐙(あぶみ)の袋には舌をつけたのを用い、韉(下鞍 したぐら)を二枚重ねにして、装束の汚れをふせぐ障泥(あおり)を加え、糸鞦(いとしりがい)には総(ふさ)などをつけて装備し、布手綱(ぬのたづな)に差縄を合わせて使用するのを特色とする、 という(仝上)。 最も古い鐙は、 金属製で輪の形状をした、 輪鐙」(わあぶみ)、 で(https://www.touken-world.jp/tips/64453/)、 輪鐙の上方には力韋(ちからがわ:鐙を取り付ける革)を結ぶための穴が空けられ、他の馬具に取り付けることができます、 とある(仝上)。 「壺鐙」(つぼあぶみ)、 は、 古墳時代末期に完成した鐙。足先のみを金属で覆う様式、 で、輪鐙よりも馬からの乗り降りがしやすいように工夫がされ、また、落馬の際などに足を鐙から抜けやすくし、事故を防ぐ効果があるとされる(https://www.touken-world.jp/tips/64453/)。「法隆寺」や「正倉院」に多くの壺鐙が収蔵されている。 半舌鐙(はんしたあぶみ)、 は、奈良時代から平安時代末期に流行し、「移し鞍」でも触れたが、 馬上で武器を扱うため、より踏ん張れる機能が求められるようになり「半舌鐙」(はんしたあぶみ)を考案。半舌鐙は、壺鐙の後方に10cmほどの踏板を伸ばした形状、 が用いられる(https://www.touken-world.jp/tips/64453/)。 武士達が力を付けはじめた平安時代末期に登場したのが、 「舌長鐙」(したながあぶみ)、 で、武士達が、戦場で鞍立(くらたち 馬上で鐙を踏ん張って立ち上がること)をしながら槍や弓を使用するようになったからとされる(https://www.touken-world.jp/tips/64453/)。 舌長鐙、 は、鐙を吊り下げたときに前部が傾いてしまうのを防ぐため、随所に金属などの重りを装着して、常に水平になるよう工夫が施されている(仝上)という。機能面の高さから、江戸時代末期に「洋鐙」(ようあぶみ:海外で使用されている輪鐙)が導入されるまで、利用された(仝上)。 「鐙」(トウ)は、 会意兼形声。「金+音符登(トウ のぼる、のせる)」 とあり(漢字源)、別に、 形声。「金」+音符「登 /*TƏNG/」。「たかつき」「ランプ(の台)」を意味する漢語{燈 /*təəng/}を表す字。のち仮借して「あぶみ」を意味する漢語{鐙 /*təəngs/}に用いる、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%90%99)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 一乗の峯には住み給へども、六根五内の□位を習ひ給はざれば、舌の所に耳を用ゐる間、身の病となり給ふなりけり(今昔物語)、 とある、 六根五内、 の、 六根、 は、 目、耳、鼻、舌、身、意、 五内、 は、 肝、心、脾、肺、腎、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 以是功徳、荘厳六根、皆令清浄(法華経)、 六根清徹、無諸悩患(無量寿経)、 とある、 六根(ろくこん・ろっこん)、 は、 根は、能性の義、六境に対して、迷ひの六意識を生ずれば六根といふ、 とある(大言海)。 「根機」で触れたように、「根」は、、 根気、 性根、 と使うように、仏教用語の、 能力や知覚をもった器官、 を指し(日本大百科全書)、 サンスクリット語のインドリヤindriyaの漢訳で、原語は能力、機能、器官などの意。植物の根が、成長発展せしめる能力をもっていて枝、幹などを生じるところから根の字が当てられた、 とあり(仝上)、外界の対象をとらえて、心の中に認識作用をおこさせる感覚器官としての、 目、耳、鼻、舌、身、 また、煩悩(ぼんのう)を伏し、悟りに向かわせるすぐれたはたらきを有する能力、 の、 信(しん)根、勤(ごん)根(精進(しょうじん)根)、念(ねん)根(記憶)、定(じょう)根(精神統一)、慧(え)根(知恵)、 をも、 五根(ごこん)、 という(広辞苑・仝上)が、 目、耳、鼻、舌、身、 に、 意根(心)を加えると、 六根、 となる(精選版日本国語大辞典)。仏語で、 六識(ろくとき)、 つまり、 六根をよりどころとする六種の認識の作用、 すなわち、 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識、 の総称、 つまり、 六界、 による認識のはたらきの六つの対象となる、 六境(ろっきょう)、 つまり、 色境(色や形)、 声境(しょうきょう=言語や音声)、 香境(香り)、 味境(味)、 触境(そっきょう=堅さ・しめりけ・あたたかさなど)、 法境(意識の対象となる一切のものを含む。または上の五境を除いた残りの思想など)、 で、別に、 六塵(ろくじん)、 ともいう対象に対して認識作用のはたらきをおこす場合、その拠り所となる、 六つの認識器官、 である。だから、 眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根、 といい、 六情、 ともいう(仝上)。 五内(ごだい・ごない)、 は(「だい」は「内」の漢音)、 一念不離、五内爛裂(「三教指帰(797頃)」)、 と、漢方で、 体内にある五つの内臓、 つまり、 五臓(ごぞう 心臓・肝臓・肺臓・腎臓・脾臓)、 の意となる。 をいう。 「根」(コン)は、「根機」で触れたように、 会意兼形声。艮(コン)は「目+匕(ナイフ)」の会意文字で、頭蓋骨の目の穴をナイフでえぐったことを示す。目の穴のように、一定のところにとまって取れない意を含む。眼(目の玉の入る穴)の原字。根は「木+音符艮」で、とまって抜けない木の根、 とある(漢字源)が、 木のねもと、ひいて、物事のもとの意を表す、 ともある(角川新字源)。 「内」(漢音ダイ、呉音ナイ)は、 会意文字。屋根の形と入とを合わせたもので、おおいのうちにいれることを示す、 とある(漢字源)。 形声。「宀(家)」+音符「入 /*NUP/」。{内 /*nuups/}を表す字。もと「入」が{内}を表す字であったが、「宀」を加えた、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%86%85)、 会意。入と、冂(けい いえ)とから成り、家に入れる、ひいて、「うち」の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(冂+入)。「家屋」の象形と「入り口」の象形から家に「はいる」を意味する「内」という漢字が成り立ちました。また、入った中、「うち」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji236.html)。ほぼ同解釈である。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) |
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