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コトバ辞典


味煎


何ぞ湯涌すぞと見れば、此の水と見ゆるは味煎(みせん)なりけり(今昔物語)、

とある、

味煎、

は、

甘味料、あまづら(植物)から取った汁をにつめる、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

未煎、
蜜煎、

とも当て(大言海)、字鏡(平安後期頃)に、

未煎、ミセン(甘葛)、

とあり、

あまづらせん(甘葛煎)に同じ、

とあり(仝上)、

あてなるもの 薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、新しき鋺(かなまり)に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじう美しき児(ちご)の、いちごなど食ひたる(枕草子)、

と、

あまづら、

とも言った(仝上)。

アマヅラ、

の、

ツラ、

は、

蔓なり、

とある。「つら」は、

連(つら)の義、

で、

今、つる(蔓)と云ふ、

とあり(仝上)、

甘蔓(あまづる)の意、

とある(岩波古語辞典)。

「甘葛煎」は、「甘茶」で触れたように、

アマヅル、
アマヅラ、

という、ブドウ科のつる性の植物から、

春若芽の出る前にそのツルを採って煎じ詰めて用いた(たべもの語源辞典)。

甘茶」には何種類かあるが、

甘葛煎、

も、

甘茶、

といった(大言海・たべもの語源辞典)。

「味煎」は、中世後期に砂糖の輸入がはじまり、近世になってその国内生産が増大するとともに、位置をゆずって消滅した(世界大百科事典)。

「甘葛」は、

アマチャヅル、

のこととする説があるが、「甘茶」で触れたように、

アマチャヅル、

は、

ウリ科、

の多年草で、これから、

甘茶、

をつくり、

ツルアマチャ、
アマカヅラ、

というが、別物である。

また、今日、

アマヅル、

という、

男葡萄、

の名のある、

ブドウ科ブドウ属、学名Vitis saccharifera、

https://matsue-hana.com/hana/otokobudou.html、「アマヅラ」とも呼ばれた古くからある「アマヅル」とは別のようだが、

一般的にはブドウ科のツル性植物(ツタ(蔦)など)のことを指しているといわれる。一方で、アマチャヅルのことを指すという説もあり、どの植物かは明かではない、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%85%E3%83%A9、どの植物を指すかはっきりしない(仝上)という。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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経営(けいめい)


坊主の僧、思ひかけずと云ひて、経営(けいめい)す。然れども湯ありげもなし(今昔物語)、
俎(まないた)五六ばかり竝べて様々の魚鳥を造り、経営す(仝上)、

とある、

経営、

は、

何かと設備する、接待する、

意とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。「経営」は、普通、

けいえい、

と訓み、今日、

会社を経営する、
経営が行き詰まる、

などと

継続的・計画的に事業を遂行すること、

特に、

会社・商業など経済的活動を運営すること、また、そのための組織、

の意で使う(広辞苑)が、「経営(けいえい)」は漢語で、

家屋をはかりいとなむ、

意で、

経始霊臺、經之營之(詩経・大雅)、

と使う、

経始(けいし)、

と同義で、

家屋を建て始める、

意で、

經、

は、
地を測量する、

意とあり(字源)、

經は、縄張なり、營は、其向背を正すなり、

ともある(大言海)。「縄張」は、

縄を張って境界を定める、

つまり、

建築の敷地に縄を張って建物の位置を定める、

意であり、

経始(ケイシ)、

と同義となる(大辞林)。

その意味で、原義は、上記の、

経始霊臺、經之營之、庶民攻之、不日成之(詩経・大雅)、

と、

営むこと、
造り構ふること、
基を定めて物事を取立つること、

の意になる(大言海)。そこから転じて、

欲経営天下、混一諸侯(戦国策)、

と、

事を計(はから)ふこと、

の意で使う(大言海)。日本でも、

仏殿・法堂……不日の経営事成て、奇麗の粧ひ交へたり(太平記)、

と、

なわを張り、土台をすえて建物をつくること、

の意や、それをメタファに、

御即位の大礼は、四海の経営にて(太平記)、

物事のおおもとを定めて事業を行なうこと、

特に、

政治、公的な儀式について、その運営を計画し実行すること、

の意や、

多日の経営をむなしうして片時の灰燼となりはてぬ(平家物語)、

と、

力を尽くして物事を営むこと、

さらには、上記の、

房主(ぼうず)の僧、思ひ懸けずと云ひて経営す、

と、

あれこれと世話や準備をすること、
忙しく奔走すること、

の意や、

傅(めのと)達経営して養ひ君もてなすとて(とはずがたり)、

と、

行事の準備・人の接待などのために奔走すること、
事をなしとげるために考え、実行すること、

の意で使う(広辞苑・日本国語大辞典)。「奔走する」意からの派生か、

弓場殿方人々走経営、……有火(御堂関白記)、

と、

意外な事などに出会って急ぎあわてること、

の意で使うが、「接待などのために奔走する」意と、「急ぎあわてる」意で使うとき、

けいめい、

と訓ませる(精選版日本国語大辞典)とある。さらに、「あれこれ工夫し考える」意の派生からか、

面白く経営したる詩也(中華若木詩抄)、



工夫して詩文などを作ること、

の意や、「考えめぐる」意の派生か、

諸国経営(ケイエイ)して(医者談義)、

と、

めぐりあるく、

意で使ったりする(仝上)。

この意味の流れからは、今日の、

継続的・計画的に事業を遂行すること、特に、会社・商業など経済的活動を運営すること、

の意は、「経営」の意の外延にあるといえる。

「經(経)」(漢音ケイ、呉音キョウ、唐音キン)は、

会意兼形声。巠(ケイ)は、上の枠から下の台へ縦糸をまっすぐに張り通したさまを描いた象形文字。經は、それを音符とし、糸篇を添えて、たていとの意を明示した字、

とある(漢字源)が、

形声。もと「巠」が「經」を表す字であったが、糸偏を加えた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B6%93#%E5%AD%97%E6%BA%90

形声。織機のたて糸、ひいて、すじみち、おさめる意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(糸+圣(磨j)。「より糸」の象形と「はた織りの縦糸」の象形から「たていと」、「たて」を意味する「経」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji745.htmlある。

「營(営)」(漢音エイ、呉音ヨウ)は、

会意兼形声。營の上部は、炎が周囲をとりまくこと。營はそれを音符とし、宮(連なった建物)を加えた字で、周囲をたいまつで取巻いた陣屋のこと、

とある(漢字源)。別に、

形声。意符宮(宮殿。呂は省略形)と、音符熒(ケイ→エイ 𤇾は省略形)とから成る。周囲に土を盛り上げた住居の意を表す。転じて「いとなむ」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(熒の省略形+宮)。「燃え立つ炎」の象形(「夜の陣中にめぐらすかがり火」の意味)と「建物の中の部屋が連なった」象形(「部屋の多い家屋」の意味)から、周囲にかがり火をめぐらせた「屋敷」を意味する
「営」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji829.htmlある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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恪勤


其の時一の人の御許に恪勤(かくごん)になむ候ひける(今昔物語)、

とある、

恪勤(かくごん)、

は、

侍、家人、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

「恪勤」は、

かっきん、
かくご、

などとも訓ませ、「ごん」は、

「勤」の呉音、

で(精選版日本国語大辞典)、

かくご、

は、

カクゴンの転、

で(岩波古語辞典)、

「かくごん」の撥音「ん」の無表記、

とある(大辞林・大辞泉)。

恪勤、

は、漢語で、

カッキン、

と発音、

朝夕恪勤、守以淳徳、奉以忠信(國語)、

とあるように、

つつしみてつとめる、

意であり、本来、

然纔行一二、不能悉行、良由諸司怠慢不存恪勤、遂使名宛員数空廃政事(続日本紀)

と、

任務に忠実なこ、
怠ることなく勤めること、

つまり、

精勤、

の意であり(精選版日本国語大辞典)、

かくごん、
かくご、
かっきん、

などと訓ませた(仝上・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%81%AA%E5%8B%A4)。この、

任務や職務などをまじめに勤めること、

が、

令制では、官人の勤務評定の際、最も重要な項目の一つとされた、

ためか、平安時代、

凡称侍者、親王大臣以下恪勤之名也(職原抄)、

とあるように、

小一条院の御みやたちの御めのとのおとこにて、院の恪勤してさぶらひ給、いとかしこし(大鏡)、

と、

院、親王家、摂関家、大臣家、門跡などに仕えて宿直や雑役を勤仕する侍、

また、

その侍として仕えること、

の意に転じ(精選版日本国語大辞典・世界大百科事典)、

恪勤者(かくごしゃ)、

ともいわれ、

かくごん、

とも、

かくご、

とも訛った(精選版日本国語大辞典・広辞苑・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%81%AA%E5%8B%A4)。さらに、武家でも、鎌倉幕府の職制が公家を模したためこの役も設置され、室町幕府にも受けつがれ、

権門高家の武士共、いつしか、諸庭奉行人と成り、或は軽軒香車の後(しりへ)に走り、或は青侍(せいし)挌勤(カクコ)の前に跪(ひざま)づく(太平記)、

と、

侍所に属して、宿直や行列の先走りなど、幕府内部の雑役に従事した小役、

で、のちに、

御末衆(おすえしゅう)、

と呼ばれ(仝上)、

恪勤侍(かくごのさむらい)、

などともいい(仝上・日本国語大辞典)、

かくごん、
かくご、

と訓ませた(仝上・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%81%AA%E5%8B%A4)。同じ御所に仕える侍の中でも、将軍に近侍して警衛にあたった上級武士は、

番衆、

と呼ばれ、雑役にあたる下級の侍を、

恪勤、

と呼んだ(世界大百科事典)。

「恪」(カク)は、

会意兼形声。各(カク)は「口(かたいもの)+夊(あし)」の会意文字で、足がかたい物につかえて止まること、恪は「心+音符各」で、心がかたくかどばってつかえること、

とあり(漢字源)、「恪勤(カッキン)」の、つつしむ、堅苦しい意である。

「勤(勤)」(漢音キン、呉音ゴン)は、

会意兼形声。堇(キン)は、「廿(動物の頭)+火+土」の会意文字で、燃やした動物の頭骨のように熱気で乾いた土のこと。水気を出し尽して、こなごなになる意を含む。勤は、それを音符とし力を加えた字で、細かい所まで力を出し尽して余力がないこと。それから、こまめに働く意をあらわす、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。「力」+音符「堇」。「堇」は「革」を下から火で炙り乾かす様、「乾」や「艱」と同系。余力がなくなるまで力を出し尽くして働く、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8B%A4

会意兼形声文字です(菫+力)。「腰に玉を帯びた人(腰に帯びた玉の色から黄色の意味)と土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「黄色の粘土」の意味)と「力強い腕」の象形から、力を込めて粘土をねりこむ事を意味し、そこから、「つとめる」を意味する「勤」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1021.htmlある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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通天の犀


それを取りて開きて見れば、通天(つうてん)の犀(さい)の角のえもいはでめでたき帯あり(今昔物語)、

にある、

通天の犀、

は、

通天のさいの角のかざりのある帯、

とあり(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、

延喜式(治部省)によると通天のさいはその角に光があって天に通じ、雞が見て驚くという、

とある(仝上)。

是は明月に当て光を含める犀の角か、不然海底に生るなる珊瑚樹の枝かなんど思て、手に提て大神宮へ参たりける(太平記)、

が引用されているが、

薬用にされ珍重された、

としかない(兵藤裕己校注『太平記』)。「通天の犀」については載るものが少ないが、

サイの一種、

をいい、また、

犀(サイ)ノ 角ガ通天犀ナレバナニカゴザロフヲヲビニシマショフ(「交隣須知(18C中)」)、

と、

その角。角は鋭く、長さは中国尺で一尺(約24.12センチメートル)以上もあり、よく水をはじく。帯の飾りや薬として用いられ、

通天犀(つうてんさい)、
通天、

ともいう(精選版日本国語大辞典)とある。別に、

水犀(すいさい、みずさい)、

ともいい、

幻獣の一種、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%8A%80

その姿は体は馬、牛の四肢と尻尾を持ち、背中には亀の甲羅があり、額に巨大な角を持っている。その角には高い妖力がある、

とされ、

水を張った容器に入れたら水が真っ二つに別れる、
その角で火を起こせば数千里離れた場所からでも見える程に輝く炎が立つ、
その角で杯を作れば毒酒でも毒を浄化できる、

などの言い伝えがある(仝上)ともある。

通天の犀、

は、寺社の建築装飾で欄間や蟇股(かえるまた)によく見られ、

境界を守るやら火災よけ、

とするらしい。東照宮建物の部位ごとに漆・彩色・金具の仕様を詳細に記載した『御宮並脇堂社結構書』(宝暦結構書)によると、

昔より水犀や通天犀と呼ばれ、建築や絵画・工芸品などに使われていた犀が、いつの間にか変形して体形は鹿に、背中には亀の甲羅を背負い、一角を持つ、体には風車紋、脚は細く偶諦である姿に変わった。犀は我が国で生まれた霊獣である、

とあるhttp://www.photo-make.jp/hm_2/sai_toubu.html

海馬、

といわれたり、

天鹿(てんろく)、

といわれたりするhttp://www.syo-kazari.net/sosyoku/dobutsu/sai/sai1.htmlともある。また、

霊犀(れいさい)、

ともいい、

心有霊犀一点通(李商隠・無題詩)、

とあるのが、

心と心が一筋通いあうのを、霊力があるとされる通天犀の角の、根元から先端まで通う白い筋にたとえた、

こと(デジタル大辞泉)から、あるいは、また、

犀の角は中心に穴ありて両方に相通ず、

こと(字源)から、

人の意志の疎通投合する(仝上)、
互いの意志が通じあう(デジタル大辞泉)、

意で使う。

通天御帯(つうてんぎょたい)、

という言葉があり、

通天犀にて飾りし天子の帯、

とある(字源)。ただ、これと、

獻象牙犀角瑇瑁(タイマイ)(御漢書)、

とある、

薬用とする、

犀角(さいかく)、

とは別のもののようである(字源)。

水犀(すいさい)、

とは、

夫差衣水犀之甲者(越語)、

とあり、

水に住む犀の一種、

とある(仝上)。

ただ、水犀の口伝から、現実のサイと混同され、

アジアに分布する犀が角を目当てに乱獲された、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%8A%80、現在サイは、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ、クロサイ)を除くと、

インド北部からネパール南部(インドサイ)、
マレーシアとインドネシアの限られた地域(ジャワサイ、スマトラサイ)、

にのみ分布しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4

「犀」(漢音セイ、呉音サイ)は、

会意文字。「牛+尾」。ただし、本字は、「尸+辛」で、牙がするどいこと、

とある(漢字源)が、意味がよく分からない。他は、

形声。牛と、音符尾(ビ→セイ)とから成る(角川新字源)、

会意文字です(尾+牛)。「獣の尻の象形を変形したものと毛の生えているさまを表した象形」(「毛のあるしっぽ」の意味)と「角のある牛」の象形から、「角としっぽを持つ動物、サイ」を意味する「犀」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2585.html)、

と、「牛+尾」説を採る。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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をこづる


怖ろしく思ゆれば、妻にをこづり問へども、物云はばやとは思ひたる気色ながら云ふともなし(今昔物語)、

の、

をこづる、

は、

だまして誘うのを言う、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

をこづる、

は、

誘る、

と当て、通常、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

誘、ヲコツル、コシラフ、サソフ、アザムク、カドフ、

とあり、色葉字類抄(1177〜81)に、

誘、ヲコツル、

とあるように、

をこつる、

と清音で、

機る、

とも当て(大言海)、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

機、ワカツル、オコツリ、

とあり、

ワカツルの母音交替形、

とある(岩波古語辞典)ので、

をこづる、

を、

招(ヲキ)釣るの転かと云ふ、

という(大言海)のは如何か。むしろ、

機巧(わかつり)と通ずるか、

のほう(仝上)が妥当に思える。

を(お)こつる

は、

あやにくがりすまひ給(たま)へど、よろづにをこつり、祈りをさへして、教へ聞こえさするに(大鏡)、

と、

利を与えて、だましさそう、

意や、

こなたに入り給ひて姫君を遊ばしをこつり聞こへ給ひて(浜松中納言)、

と、

だましすかす、
機嫌をとる、

意で使う(岩波古語辞典・学研国語大辞典)。ただ、仮名遣いは、

をこつる、

か、

おこつるか、

かは不明(デジタル大辞泉)とある。

わかつる、

は、

機巧る、
誘る、

と当て、

をこつる(機・誘)の母音交替形、

とあり、

断見の愚癡のひとを誘(わかつり)誑(たぼろ)かすなり(地蔵十輪経元慶点)、

と、

あやつり動かす、

転じて、

巧言を以て人を欺き誘う、

また、

御機嫌をとる、
とり入る、
だます、

意で使い(日本国語大辞典)、やはり、

わかづる、

とも濁るようだ(大言海)が、名詞で、

譬へば、機関(わかつり)の如くして業(ごふ)によりて転す(西大寺本最勝王経平安初期点)、

と、

機巧、
機、

とも当て、

からくり、
物をあやつり動かすしかけ、

の意で使う、

わかつり、

がある(広辞苑・日本国語大辞典・岩波古語辞典)。

わかつる(機)の名詞化、

とある(日本国語大辞典)が、和名類聚抄(平安中期)に、

機、機巧之處、和加豆利、

類聚名義抄(11〜12世紀)に、

機、オコツリ、

とあるように、逆に、

わかつる、
をこつる、

が、

ワカツリ、
ヲコツリ、

の動詞化なのかもしれない。とすると、

招(ヲキ)釣る、
別(ワカ)釣る、

を語源とし、

わかつり、

は、

機(ハタ)のあやつる處、

とする説(大言海)が、逆に注目される気がする。

「誘」(漢音ユウ、呉音ユ)は、

会意兼形声。「事+音符秀(先に立つ)」。自分が先に立って、あとの人をことばでさそいこむこと、

とある(漢字源)が、別に、

「誘」は「羊+久+ムという漢字」の新字、

とし、

形声文字です。「羊の首」の象形と「横たわる人の背後から灸をする」象形(灸の原字だが、転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「時間が長い」の意味)と「小さく取り囲む」象形(「小さく取り囲む」の意味)から、羊を長い時間をかけて取り囲む事を意味し、そこから、「人や動物を時間をかけてある場所・状態にさそい導く」を意味する「誘」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1682.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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雑色


己は甲斐殿の雑色(ざふしき)某丸と申す者に候ふ。殿のおはしけるを知り給へずして(今昔物語)、

の、

雑色、

は、

ざっしょく、

と訓むと、

種々まじった色、また、さまざまな色、

をいい、

ざっしき、

と訓ますと、

さまざまの種類、

の意で、

ぞうしき、

とも訓んだが、

雑色田(ざっしきでん)、

というと、平安時代に、

種々の費用にあてられた田地、放生田・采女田・節婦田・警固田、

等々をいい、

ぞうしきでん、

とも訓ませた(広辞苑)。

雑色官稲(ざっしきかんとう)、

というと、奈良時代に、

国郡で種々の費用にあてるために出挙(すいこ 稲や財物を貸しつけて利息を取る)した稲、

で、

正税稲(しょうぜいとう)・公廨稲(くげとう)以外の郡稲・駅起稲(えききとう)・官奴婢食料稲・救急料稲、

等々の、

雑稲(ざっとう)、

をいい、

ぞうしきかんとう、

とも訓ませた(仝上)。

ぞうしき、

と訓ますと、

雑多な色、雑多なもの、

の意から、

雑色ノ色ノ字ハ、品ノ字ノ意ニテ、雑食ト云フガ如シ、雑役ヲ勤ムル人品を云フナリ、

とある(安斎随筆)。

雑色(ザツショク)、

は、漢語で、

免諸伎作屯牧雑色徒隷之徒、為白戸(北史・斉文宣紀)、

と、

奴隷、

の意である(字源)。

雑色、

とは本来、

種別の多いことおよび正系以外の脇役にあるもの、

を意味し、そうした傍系にある一群の人々を、

雑色人(ぞうしきにん)、

あるいは、

雑色(ぞうしき)、

とよんだ。古代の律令(りつりょう)制に始まり、

諸司雑色人、

といって、朝廷の官人や有位者の下にあって、

雑使に従う使部(しぶ・つかいのよぼろ)、宮廷の諸門の守衛、殿舎の清掃・管理・修理、乗輿(じょうよ)の調進、供御(くご)の食物の調理、水氷の供進などにあたる伴部(ばんぶ・とものみやつこ)、

等々の職種があった。それより身分が低く、

宮廷工房で生産にあたる品部(しなべ)・雑戸(ざっこ)、

も、

雑色、

に含める解釈もあり、各官司で、

写書、造紙、造筆、造墨、彩色、音楽などに従う諸生・諸手、

も、

雑色、

とよばれ、また、

造寺司のもとの各所の下級官人、仏工、画師、鋳工、鉄工、木工、瓦(かわら)工、

等々の工人も、

雑色、

に含まれる(日本大百科全書)とあり、

一般の農民=白丁(はくてい)とは区別され、属吏としての身分をもち、また官位を有するものもあり、課役を免除された(仝上)とあり、

下級の諸種の身分と職掌、

を表し、

供に侍(さぶら)ざうしき、三人ばかり、物も履かで、走るめる(枕草子)、

というような、

小者(コモノ)、
下男(シモヲトコ)、
僕隷(ぼくれい)、

を指す(大言海)。だから、古代には、「雑色」と括っても、

四等官の正規の官人に対する準官人、
農耕を本業とする思想によって末業の工芸民、
諸司に分属して専門技術に従う伴部や使部、

等々、その場所と立場に応じて異なった内容をもっていた(世界大百科事典)。

ただ、こうした律令制下での、

諸司の品部(しなべ)および使部(しぶ)、雑戸(ざつこ)、

の総称から、

蔵人所(くろうどどころ)に属する下級職員(下級の官人であるが、名誉職で、公卿の子弟や諸大夫が任じられ、本員数8人。代々蔵人に転ずる)、

や、平安時代以後

院司・東宮・摂関家などで雑役・走使いに任じた無位の職、

まで幅広く、一般に、

雑役に従う召使、

にもいうようになる(広辞苑・日本国語大辞典)。つまり、雑色の概念は拡大され、

諸国雑色人、

といって、国衙(こくが)や郡家で、上記に準じた身分のもの、

諸家雑色人、

として貴族の家務に従う従者にも適用され、また、

蔵人所(くろうどどころ)をはじめ政府の諸所が成立すると、

蔵人所雑色、

のような特殊なものも現れるようになる(日本大百科全書)。

武家社会になっても、武家の従者が、

雑色、

とよばれるのは、主として、

諸家雑色人、

の系譜を継ぎ、鎌倉幕府・室町幕府に所属する、

番衆(ばんしゅう)、

で、

雑役に従事する者、

を指す(岩波古語辞典)。

番衆、

とは、

番を編成して宿直警固にあたる者、

をいい、

営中に宿直勤番し、営内外の警衛その他雑務を掌ったもの、

の総称、

番方、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、

狭義においては幕府に詰めて将軍及び御所の警固にあたる者、

を指す(仝上)。室町時代、

禁裏、仙洞御所に宿直勤番して警衛にあたった公家衆、

や、

封建領主や権力者の館、寺院などの警固にあたった郷民、門徒、

のこともいった(仝上)。戦国時代、

大名の城・館に宿直勤番して警衛にあたった武士、

を指し、江戸幕府では、職名となり、

江戸城をはじめ、大坂城、二条城、駿府城などの要害地の守備、および将軍の警衛にあたったもの、

の総称、

で、

番方、大番、書院番、小姓組、新番および小十人組、

の五種があった(精選版日本国語大辞典)。

室町時代から江戸時代にかけての、

雑色、

は、

京都所司代に属して雑役に当たった者、

をいい、

行政・警察・司法の補助をし、行幸啓(ぎょうこうけい)の先駆け、祇園会の警固、要人の警固、布告の伝達などの雑役に当たった町役人、

をいい(岩波古語辞典)、

四座雑色(しざのぞうしき)、

があり、

四条室町辻で京都を4分割して各方面(方内(ほうだい)という)を上雑色とよばれた五十嵐(北西)・荻野(北東)・松村(南西)・松尾(南東)の4家が統轄した、

ので四座の名がある(マイペディア)。

「雜(雑)」(慣用ザツ・ゾウ、漢音ソウ、呉音ゾウ)は、「雑談」で触れたように、

会意兼形声。木印の上は衣の変形、雜は、襍とも書き、「衣+音符集」で、ぼろぎれを寄せ集めた衣のこと、

とある(漢字源)。混ぜ合わせることを意味する、ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%9C。別に、

形声。意符衣(ころも)と、音符集(シフ→サフ)とから成る。いろいろのいろどりの糸を集めて、衣を作る意を表す。ひいて「まじる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(衣+集)。「衣服のえりもと」の象形(「衣服」の意味)と「鳥が木に集まる」象形(「あつまる」の意味)から、衣服の色彩などの多種のあつまりを意味し、そこから、「まじり」を意味する「雑」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji875.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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ひきめ


頼光、辭(いな)び申し煩ひて、御弓を取りて、ひきめをつがへて亦申すやう、力の候はばこそ仕り候はめ、かく遠き物は、ひきめは重く候ふ。征矢してこそ射候へ(今昔物語)、

とある(「征矢」は触れた)、

ひきめ、

は、

蟇目、
引目、
曳目、
響矢、

と当て(広辞苑・日本大百科全書)、

射放つと音響が生ずるよう、矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑が取り付けられた矢、

である、

鏑矢(かぶらや)、

の一種で、

蟇目鏑(ひきめかぶら)、

ともいい、「鏑矢」は、

戦場における合図として合戦開始等の通知、

などに用いられ、

鏑(かぶら)、
蟇目(ひきめ)、
神頭(じんとう)、

があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2とされるが、「鏑」と「蟇目」は、

大きさによって違いがあり、大きいものをヒキメといい小さいものをカブラという、

と故実にあるように、もともと同類のものであったようである(日本大百科全書)。因みに、

神頭(じんとう)、

というのが、鏑矢と間違われるが、

矢頭、

とも書き、鏑とは別物で、外見が鏑と似ているちため混同されがちである。古くから存在し、鏑に良く似ているが、中身が刳り貫かれておらず、また大きさも鏑より小さく、

鏃の代わりに矢に取り付け、射あてるものを傷を付けないよう、もしくは射砕く目的で使用される、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2

蟇目は、

朴(ほお)・桐などで作った、紡錘形の先端をそいだ形の木製の大形の鏑(かぶら)、また、それをつけた矢、

をいい(広辞苑・大辞林)、

鏑矢の鏃に似て長く、凡そ、四寸許り、圍(かこ)み五寸、五孔、或いは六孔、

とある(大言海)が、

正式な造りは四つ穴で、これを、

四目(しめ)、

と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2とある。

鏃(やじり)をつけず、犬追物(いぬおうもの)・笠懸(かさがけ)などで射る物に傷をつけない、

ために用い、これを矢の先端に取り付けた矢を放つと、

穴に空気が流入する事で笛のように音が鳴り、鋭い音を発する(仝上)。この音が、

邪を払い場を清める、

とされているので、妖魔を降伏(ごうぶく)するとし、

降魔(ごうま)の法、

に用いられ(仝上)、古代より、

宿直(とのい)蟇目、
屋越(やごし)蟇目、
誕生蟇目
犬射蟇目(いぬいひきめ)、
笠懸蟇目、
産所蟇目(さんじょひきめ)、

などの式法が整備されてきて(日本大百科全書)、今日でも、

蟇目の儀、

は弓道の最高のものとして行われている(日本大百科全書)とある。

犬射蟇目、

は特に長大につくり、

笠懸蟇目、

は、目の上にひしぎ目を入れて用いた。また、破邪のための、

産所蟇目、

は白木のまま用いるのを例とした(日本国語大辞典)。

御産の蟇目射るには、白き大口直垂にて射べし、白べりの畳一畳出すべし、それにむかばきをかけて射べし、……射る数は、女子には、一手射べし、男には三かいな可射(今川大雙紙)、

というように、

弓術の道に、蟇目の矢を射ることと、弦打ちする(鳴弦(メイゲン)と云ふ)こととにて、共に其發聲にて邪気を退くと云ふ。産屋などにて行ふ、

とある(大言海)。因みに、「鳴弦」は、

弦打(つるうち)、

ともいい、

弓矢の威徳による破邪の法、

で、後世になるとわざわざ高い音を響かせる引目(蟇目)という鏑矢(かぶらや)を用いて射る法も生じた。平安時代においては、生誕儀礼としての湯殿始(ゆどのはじめ)の、

読書(とくしよ)鳴弦の儀、

という、

宮中で皇子誕生後七日の間、御湯殿の儀式の際に湯殿の外で漢籍の前途奉祝の文を読み、弓の弦を引き鳴らす儀式、

として行われたのをはじめ、出産時、夜中の警護、不吉な場合、病気のおりなどに行われ、また天皇の日常の入浴に際しても行われた(世界大百科事典)とある。

「蟇目」の語源には、

「響き目」の義(貞丈雑記・古今要覧稿・和訓栞・大言海・広辞苑・大辞林)、
その形がヒキガエルの目に似ているから(名語記・本朝軍器考・類聚名物考)、
その孔が蟇の目に似ているから(大辞林・大言海)、

とあるが、この矢の特徴から見れば、

響き目の略、

とする(日本語源大辞典)のが妥当なのではないか。

諸所の神社で行われる鏑矢(かぶらや)を射て邪を除く神事を、

蟇目の神事(しんじ)、

といい、蟇目を射て妖魔を退散させる役目の番衆を、

蟇目の当番、

妖魔を降伏させるために、弓に蟇目の矢をつがえて射る作法を、

蟇目の法(ほう)、

といい、貴人の出産や病気のときに、妖魔を退散させ邪気を払うために蟇目を射る役の人を、

蟇目役、

などといった(日本国語大辞典)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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おほけなし


暗くなる程に、此の太郎介が宿したる所に行きて、おほけなく伺ひけるに(今昔物語)、

の、

おほけなし、

は、

大胆にも、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

「おほけなし」は、

あながちに有るまじくおおほけなき心ちなどはさらに物し給はず(源氏物語)、
おほけなく憂(う)き世の民におほふかなわが立つ杣(そま)にすみぞめの袖(そで)(千載集)、

と、

身の程知らずである、
身の程をわきまえず、

の意や、

おほけなくいかなる御仲らひにかありけむ(源氏物語)、

と、

(歳など)似合わしくない、

意で使う(岩波古語辞典)が、

身分、能力、年齢などから考えて、心・態度・ふるまいがふさわしくなく、出過ぎているさま、分不相応、

というのが原義のようである(日本語源大辞典)。そこから、

大将殿の、宣ふらむ状(さま)に、おほけなくとも、などかは思ひ絶たざらまし(源氏物語)、
おほけなくも琉球(りうきう)国の世子と仰がれ(椿説弓張月)、

と、

おそれ多い、

意(学研全訳古語辞典)など、どちらかというと相手に対する主体の、

劣位を表す、

価値表現から、逆に、その埒を破ることで、

(小男が親の仇討をしようと)おほけなく伺ひけるに……やはら寄りて喉笛を掻き切りて(今昔物語)、

と、

果敢である、
不敵、

というように、主体の価値表現が180度ひっくり返った意味でも使われる。

恐れ多い相手、

だから、

身の程知らず、
分不相応、

だが、にもかかわらず、踏み出すことで、

果敢、
大胆、

へと価値表現が転換した、というように。

そう考えると、「おほけなし」の語源は、

大気甚(おほけな)しの義、大胆なりの意、

とある(大言海)のは、いささか腑に落ちない。「おほけ」は、

大気、

と当て、

あなおほけなること莫言(ない)ひそ、様にも似ず、いまいまし(宇治拾遺物語)、

と、

大いなること、
大胆、

の意だが、

身の程知らず、
恐れおおい、

の含意からは遠い。また、

オフケナシ(負気無)の義(言元梯・名言通・和訓栞)、

も、

「負ふ気甚(な)し」の意という説があるが、古くは「おふけなし」という本文はない、

とあり(岩波古語辞典)、退けられる。また、

覚悟も無しということで、覚束なきという義(燕居雑話)、
アフケナシ(仰気無)の義(柴門和語類集)、

も、

大胆、
果敢、

の意から考えられた語源説のように見え、

恐れおおい、
身の程知らず、

の含意からは程遠い気がする。また、

「おほ」はいいかげんに、だいたいにの意の「おほに」の「おほ」と同じものであろう。「け」は気の意の体言(講談社古語辞典)、

も、ちょっとずれている違う気がする。憶説だが、単純に、

おほき・なし、

なのではないか、という気がする。

おほきなし→おおけなし、

と転訛したのではないか、と。

おほき、

は、

すくな(少・小)の対、

で、

もとオホシ(大・多)の連体形として、分量の大きいこと、さらに、質がすぐれ、正式、第一位であることをあらわした。また、オホキニとして、程度の甚だしさもいった。平安時代に入ってオホシの形は数の多さだけに用い、量の大きさ、偉大などの意はオホキニ・オホキナルの形で表し、正式・第一位の意は、オホキ・オホイで接頭語のように使った、

とある(岩波古語辞典)ので、あるいは、

オホキニナシ→オホキナシ、

の転訛もあり得る。もちろん憶説に過ぎないが、

「おおけ」は分不相応に大きい意、「なし」は甚だしいの意か、

との説(広辞苑)もある。この場合、

なし、

は、

甚し、

と当てる、

痛しの略なる、甚(た)しに通ず、

とある「なし」で、

苛(いら)なし、
荒けなし、
思つかなし、
はしたなし、

等々、

他語に接して、接続詞の如くに用ゐる語、

とある(大言海)のは、

状態を表す語についてク活用の形容詞をつくり、程度の甚だしい意を表わす、

語で、

うつなし、
いらなし、
おぎろなし、

など、

実に……である、
甚だ……である、

意を表わすとする(岩波古語辞典)のと同じである。

「大」(漢音タイ・タ、呉音ダイ・ダ)は、「大樹」で触れたように、

象形。人間が手足を広げて、大の字に立った姿を描いたもので、おおきく、たっぷりとゆとりがある意。達(タツ ゆとりがある)はその入声(ニッショウ つまり音)に当たる、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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股寄(ももよせ)


(源)宛(あたる)、馬より落つるやうにして矢に違えば、太刀の股寄(ももよせ)に當りぬ(今昔物語)、

にある、

股寄、

は、

太刀のさやの峰のほうにかぶせた金具、

とあり(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、

「あまおほひ」とも言う、

とある(仝上)。

「股寄」は、後に、

雨覆(あまおおい)、

ともいうようになる(図説日本甲冑武具事典)が、

太刀の鞘さやの拵(こしらえ)で、棟方(むねがた)を保護するために、鞘口から鞘の中ほどまでつけた覆輪(ふくりん)の金具、

を言い、股寄の逆に、

鞘尻の刃方(はがた)に伏せて装着した筋金、

つまり、

太刀の鞘尻(さやじり)の刃の方に伏せた短い覆輪(ふくりん)、

を、

芝引(しばびき)、

という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

「覆輪(ふくりん)」というのは、

伏輪、

とも当て、

へりぐり、
綾裏、

ともいい(大言海)、

刀の鐔(つば)や馬の鞍(くら)、天目茶碗(てんもくぢゃわん)など種々の器物の周縁を金属(鍍金 ときん 鍍銀)の類で細長く覆って損壊に備え、あわせて装飾を兼ねたもの、

をいう(日本大百科全書)。鍍金を用いたものを、

金覆輪、
または、
黄覆輪(きぶくりん)、

鍍銀を用いたものを、

銀覆輪
または、
白(しろ)覆輪、

とう(仝上)。また女性の衣服の袖口(そでぐち)などを、別布で細く縁どったものを、

袖覆輪、

といい、歌舞伎の衣装にも、袖口に織物、朱珍、繍(ぬい)などの、模様の異なる布地をつけたものがある(仝上)とある。甲冑(かっちゅう)・太刀なども、金・銀・錫すずなどで縁取りし、飾りや補強とした(デジタル大辞泉)。

なお、「
かたな」、「太刀」で触れたように、「太刀(たち)」は、

太刀(たち)とは、日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60cm)以上で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用(はいよう)するもの、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%88%80

腰に佩くもの、

を指す。腰に差すのは、

打刀(うちがたな)、

と言われ、打刀は、

主に馬上合戦用の太刀とは違い、主に徒戦(かちいくさ:徒歩で行う戦闘)用に作られた刀剣、

とされる(仝上)。馬上では薙刀などの長物より扱いやすいため、南北朝期〜室町期(戦国期除く)には騎馬武者(打物騎兵)の主力武器としても利用されたらしいが、騎馬での戦いでは、

打撃効果、

が重視され、「斬る物」より「打つ物」であったという。そして、腰に佩く形式は地上での移動に邪魔なため、戦国時代には打刀にとって代わられた、

とある(仝上)。打刀(うちがたな)、

は、

反りは「京反り」といって、刀身中央でもっとも反った形で、腰に直接帯びたときに抜きやすい反り方である。長さも、成人男性の腕の長さに合わせたものであり、やはり抜きやすいように工夫されている、

とあり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%88%80、やはり、これも、

太刀と短刀の中間の様式を持つ刀剣であり、太刀と同じく「打つ」という機能を持った斬撃主体の刀剣である、

という(仝上)。ちなみに、

「通常 30cmまでの刀を短刀、それ以上 60cmまでを脇差、60cm以上のものを打刀または太刀と呼ぶ。打刀は刃を上に向けて腰に差し、太刀は刃を下に向けて腰に吊る。室町時代中期以降、太刀は実戦に用いられることが少い、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。「太刀」と「打刀」の区別は、例外があるが、「茎(なかご)」(刀剣の、柄つかの内部に入る部分)の銘の位置で見分ける。

参考文献;
笠間良彦『図説日本甲冑武具事典』(柏書房)

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除目の大間


公(おほやけ)の御政をよきも悪しきもよく知りて、除目(じもく)あらむずる時には、先づ國のあまた開きたるを(今昔物語)、

の、

除目(じもく)、

とは、普通、

「除」は官に任命する、「目」は目録にしるす(日本国語大辞典)、
官に除し、目録に記す意(大言海)、
「除」は旧官を除去して新官につくの意。「目」は目録に記すこと(旺文社日本史事典)、
除は旧官を除いて新官に就任するの意、目は新官に就任する人名を書き連ねた目録の意(世界大百科事典)、

などとあるが、

「除」は宮中の階段、階段を昇る意から、官を拝すること。「目」は書、任間の書の意(岩波古語辞典)、

意ともある。確かに、「除」には、「きだはし(階段)」の意があるが、敍(叙)と同義とある(字源)ので、「新たに官に拝する」、つまり「新官に就く」意になる。前者でいいのではないか。また、

除書(じょしょ)、

ともいう。本来は、

任官、

といい、官職任命の政務をいい、

官に任ずることを除(じょ)といい、もとの官を去って新しい官につく、

意となる(日本大百科全書)。

除目(じょもく)、

は、

拝官曰除、除書曰除目(品字箋)、

と漢語で、

官に任じたる報告書、

の意で、

除書(じょしょ)、

ともいう(字源)が、我が国では、「除目」「除書」ともに、

任官の行事、

つまり、

大臣以外の臣の官位を進級せしむる公事、

をいった(仝上)。いわば、

諸司・諸国の主典(さかん)以上の官を任ずる儀式、

で、

公卿(くぎょう)が集まって約三日間清涼殿の天皇の前で行い、摂政の時はその直廬(ちょくろ 休息・宿泊・私的な会合などに用いる個室)で行うのを例とする、

とある(広辞苑)。律令官職制度では、在京諸官司の官人を、

内官(ないかん)または京官、

地方在勤のものを、

外官(げかん)、

また武器を携帯しないものを、

文官、

携帯するものを、

武官、

とし、文官の人事は式部省、武官の人事は兵部省でつかさどり、いずれも欠員が生じたときは、直ちに後任者を補任するたてまえであった(世界大百科事典)。

除目は、

定例春秋二回、

で、春は、正月十一日より十三日まで、諸國司を召して、外官(国司などの地方官)を任命するので、

県召(あがためし)の除目、

といい、第一夜は、

四所籍(ししょのしゃく)といって内豎所(ないじゅどころ)などに勤める下級の職員の年労(勤続年数)の多い者や、年給(ねんきゅう 天皇、院、宮、公卿などに毎年給せられる推挙権)による申請者を諸国の掾(じょう)、目(さかん)に任ずることから始めて、上位の任官に進め、

第二夜には、

外記(げき)、史、式部、民部の丞(じょう)、左右衛門尉(じょう)など重要な官司の実務官を任ずる顕官挙(けんかんのきょ)なども行われ、

第三夜では、

受領(ずりょう)や公卿の任官に及ぶ、

とある(日本大百科全書)。

秋は、大臣以外の京官を任命する(元は三月三日前に行うべきを、後に秋となった)ので、

司召(つかさめし)の除目、

といい、

一夜が原則であった、

とある(日本大百科全書)。

春秋除目のほか、

臨時除目(小(こ)除目)、
女官除目、
坊官除目、
一分召除目、

なども行われた(日本国語大辞典)。なお、大臣は、別に、

大臣召(だいじんめし)、

という儀式で天皇の宣命(せんみょう)によって任ぜられ、除目では任官されない(日本大百科全書)。

除目の作法は先例尊重の非常に繁雑なもので、公家(くげ)政治が実質を失っても朝廷の儀式として近世まで存続した(仝上)という。その煩瑣な儀式の次第は大江匡房(おおえのまさふさ)の『江家次第(ごうけしだい)』が特に詳しい(仝上)とある。

人皆聞きて、所望叶ひたりける人は、除目の後朝(ごてう)には、この大君のもとに行きてなむほめける(今昔物語)、

の、

除目の後朝、

とは、

春のあがためし(地方官任命)の最後の日の朝、

つまり、三日三晩行われる除目のあけた、

四日目の朝、

を指している(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

無下に故なくは読み給はじと、心にくく思ひて、除目の大間(おほま)、殿上にひらきたるやうに、皆人押しひらひて見騒ぐに(今昔物語)、

の、

大間、

とは、

大間書(おほまがき)の略、

で、

除目(じもく)に用いる文書、

つまり、

任官の対象となる闕官(けっかん 欠員)の職名の官職の名称とその候補者を列記した名簿のこと、

で、

原紙を作成のために欠員の官職名を列記する際に予め候補者の位階氏姓名を記入する(入眼 じゅがん)を行うための空白(間)が大きく開けられていたことから、

大間書、

もしくは、

大間、

と呼ばれたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%96%93%E6%9B%B8

除目に先立って外記(げき 律令制において朝廷組織の最高機関・太政官に属した職の一つである。四等官の中の主典(さかん)に相当する)が原紙を作成し、神祇官・太政官から八省及びその被官、弾正台・京職・鋳銭使・諸国国司及び大宰府(五畿七道順)・衛府・馬寮・兵庫寮・鎮守府までの欠員の官職(四等官及び品官)が一覧として記される。除目の銓擬(せんぎ)によって人事が決定された後に執筆(しゅひつ)を担当する大臣が空白部分に候補者の位階氏姓名及び年給などの注記を記入する入眼を行って大間書の最後に日付を書き加えて天皇の奏覧を受ける。その後、別に任じられた清書(きよがき)の上卿が白か黄色の紙に清書を行った、

とある(仝上・世界大百科事典)。

大臣置笏取大間、開之繰置座右(江家次第・除目・大間書)、

とあるように、「大間」は、

と多くは巻物になっており、除目のとき、天皇の前で執筆の大臣がこれを繰り、任ずべき人々の名前を読み上げて順次書き加え、終るとその奥に月日を記入、

夜前大間文等入櫃云云申文、大間書乍筥被置御円座前(後二条師通記(寛治五年(1091)正月二七日)、

と、

天皇の奏覧を経て、これを清書し上卿(しょうけい) に渡した、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。なお、

大間書は天皇の奏覧を受ける前に除目に参加した他の公卿の確認を行うことや、清書の終わった大間書は執筆した大臣が持ち帰ることが許されていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%96%93%E6%9B%B8

「年給」とは、

年料給分の略、

で、律令財政の苦しくなった平安初期に、経済生活が窮乏してきた皇族のために考案された、皇室の、

売官・売位制度、

で、皇族・貴族に官職・位階の推薦権を与え、推薦者が被推薦者から報酬を取る。売官を、

年官、

売位を、

年爵(ねんしゃく)、

といった。毎年、叙位、除目のとき、

天皇以下公卿以上はその身分に従って、一定の官位に一定の人員を申請する権利をもった。叙位、任官希望者はその申請権をもつ者に、叙料、任料を差出して官位を得る、

というものである(ブリタニカ国際大百科事典・マイペディア)。給主の地位に従って内給(天皇)・院宮給・親王給・公卿給・典侍給などの別がある(仝上)。

毎年所定の官職に所定の人数を申任する権利を与えて収入を得させるのが、

年官、

であり、

所定の人数の叙爵を申請する権利を与えて収入を得させるのが、

年爵、

で、給主は、

官や爵(位)を望む者を募り、申請して叙任し、そのかわりに任料、叙料を徴収して個人の得分とする。このように年給は、官や爵を一種の持ち株として個人に給(たま)わったものであるから、官職位階が公然と利権視され、政治の乱れを激しくした(世界大百科事典)とされる。

「除」(漢音チョ、呉音ジョ、慣用ジ)は、

会意兼形声。余(ヨ)は「スコップ+八印(左右に開く)」の会意文字で、スコップやこてで土や雪を左右に押しのけることを示す。除は「阜(土盛り)+音符余」で、じゃまになる土を押しのけること。押しのばす意を含む、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。「阜」+音符「余」。「余」は農具で土をかき分ける様。土をかき分けて除く、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%99%A4

形声。阜と、音符余(ヨ→チヨ)とから成る。建物の階段の意を表す。転じて「のぞく」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(阝+余)。「段のついた土山」の象形(「段のある高地」の意味)と「先の鋭い除草具」の象形(「伸びる、のぞく」の意味)から、「祭壇に伸びる階段」、「のぞく」を意味する「除」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji990.html。漢字では、

現在の官職を取り去るのを「開除」、
簡易を授けるのを「除授」、
任官することを「除官」、

という(漢字源・字源)とある。

なお、「目」(漢音ボク、呉音モク)は、「尻目」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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和琴(わごん)


匡衡を呼びて、女房とも和琴(わごん)を差し出して(今昔物語)、

にある、

和琴、

は、

日本の弦楽器、

で、

形は筝(こと)に似て、本の方が狭く、六絃、右手に爪(琴軋(ことさき 長さ7センチほどの鼈甲製の撥)を持って掻き鳴らし、左手は指先ではじく、

とあり(岩波古語辞典・大辞林)、色葉字類抄(平安末期)には、

倭琴、ワコン、

とある。

胴は桐製で全長190p前後、幅は本(もと 頭部)が約15cm、末(すえ 尾部)が約24cmであるが、古代のものははるかに小型。琴柱(ことじ)は楓の二股の小枝をそのまま利用、

とあり(広辞苑)。

尾端に櫛の歯型の切れ込みが 5ヵ所あり、それによって生じた6部分に分かれた凸部を、

弰頭(はずがしら)、

という。それより中央寄りに通弦孔が6個あり、本につけた横木にも通弦孔が6個ある。弰頭にかけた葦津緒(あしづお 白、黄、浅黄、薄萌葱の 4色のより糸)に弦を連結する、

もので(ブリタニカ国際大百科事典・世界大百科事典)、日本固有の楽器とされ、宮廷などで神楽(かぐら)歌・東遊(あずまあそび)・久米歌・大歌などの伴奏に用いる(仝上)。

東琴(あずづまごと)、
大和琴(やまとごと)、
六弦琴、

ともいう(仝上)。「筝(こと)」については「篳篥」(ひちりき)で触れたが、

箏の琴(しやうのこと)、

とよばれ(シヤウは呉音、サウノコトとも)、

十三絃琴、

である(岩波古語辞典)。「琴(きん)」の字を当てることもあるが、「箏」は、

琴、

とは別の楽器で、最大の違いは、箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節するのに対し、琴は柱が無く、弦を押さえる場所で音程を決める、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%8F。雅楽で用いる「筝」は、

楽箏(「がくごと」または「がくそう」)、

呼ばれる(仝上)。枕草子、源氏物語、平家物語等では、

そう(箏)、
そう(箏)のこと、
きん(琴)のこと、
わごと(和琴)のこと、

などと呼ばれていた(仝上)とある。

「和琴(わごん)」は、その祖形を、

古代の日本にまで遡る、

とされるhttps://www.musashino-music.ac.jp/guide/facilities/museum/web_museum/0078、数少ない、

日本固有の楽器、

で、古代の日本には、

コト・フエ・ツヅミ・スズ・ヌリデ(銅鐸)、

等々の楽器が存在していたが、「コト」は神聖な楽器として特別な存在であった。コトは、

男性によって使用され、王位継承のシンボルでもあり、神事で用いられる祭器、

でもあった(仝上)。

なお、現在日本でよく知られる、

箏、

は大陸からの渡来楽器が基で、和琴とは起源や系統が異なる。 なお、和琴の起源は神代紀の、

天沼琴(あめのぬごと)、

で、

天石窟(あめのいわや)前で天香弓六張をならべ弦を叩いて音を調べた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%90%B4

平安時代は貴族の男女の遊びの場で楽器演奏や歌の伴奏に盛んに使われたが、貴族の没落とともに衰退し、現在では皇室関係の儀式、宮中雅楽演奏、神社・寺院の法要など、おもに神道(しんとう)系雅楽演奏の、ごく限られた場でのみかろうじてその存在を保っている(日本大百科全書)が、今日に伝わる和琴は、日本古来のコトを土台にして、奈良時代に伝来した外国のコトの影響を受けて改造されたものとみられている(仝上)。

『源氏物語』では、古代中国の士君子の倫理性を担った琴に対して、日本伝来の遊楽を楽しむ和琴が対比され、

琴は礼楽中心の楽器、
和琴は自由な発想を持った楽器、

として描かれたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%90%B4

「箏(そう・しやう)」「笙」「篳篥」などについては、「篳篥」(ひちりき)で触れた。

「琴」(漢音キン、呉音ゴン)は、

会意兼形声。「ことの形+音符今(ふくむ、中にこもる)」。胴を密封して、中に音がこもることから命名した、

とある(漢字源)。

象形で、琴柱(ことじ)を立てた「こと」の胴体の断面の形にかたどる。のち、さらに音符今(キム)が加えられた、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「横から見た琴」の象形から「こと」を意味する「琴」という漢字が成り立ちました。のちに「吟」に通じる音符の「今」を付けて、現在の「琴」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1315.html

形声。音符は今。その上部は琴の糸を張りわたした形。古い字形は琴の形の全体をあらわす象形の字であったが、のち糸の部分だけを残し、その音を示す今をそえて琴の字形となった、

とも(白川静『常用字解』)ある。

「琴」は、古くは、

五弦、

だったというが、東周のころから、

七絃、

で(漢字源)、

絃をおさえて音を調節し、右手で詰めをはめずにひく、

とある(仝上)。のち、

胡琴(コキン)、月琴、

など、

「こと」の総称、

となり、西洋楽器の、

提琴(バイオリン)、
風琴(オルガン)、

等々にも用いるようになった(仝上)。なお、「琴」と似た字に、

瑟(漢音シツ、呉音シチ)、

があるが、「瑟」は、

由之瑟、奚為於丘之門(論語 由ノ瑟、ナンスレゾ丘ノ門ニオイテセン)、

と、

おおごと、

で、古くは、

五十絃、

のち、

二十五絃、
十九絃、
十五絃、

などになった。

妻子奸合、如鼓琴瑟(小雅)、

と、

琴瑟、

は、

おおごととこと、

の意で、

琴と瑟とを弾じてその音がよく合う、

意から、転じて、

夫婦相和して睦まじいたとえ、

に使う(字源・漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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覓(ま)ぐ


速須佐之男命(はやすさのをのみこと)、宮つくるべき所を出雲の国にまぎ給ひき(古事記)、
やしま國、妻麻岐(まぎ)かねて、遠遠し、越の國に(仝上)、

とある、

覓ぐ、

は、

求ぐ、

とも当て、

追いもとめる、
さがしもとめる、

意である(広辞苑)。

まぐ、

の語源については、

目(マ)の活用、香(か)ぐ、輪ぐと同趣(大言海)、
目で尋ねる意で、目來の義(日本語源=賀茂百樹)、
マ(枉)げて求める意(国語の語根とその分類=大島正健)、
モチ(持)タクの義(名言通)、

といった諸説があるが、意味から見て、

目(マ)の活用、

というのが妥当なのだろう。この、

覓ぐ、

と似た意味で、

娶(マイデ)其國婦而所生也(応神紀)、

と、

婚、

と当てる、

まぐ、
まく、

がある(大言海)。色葉字類抄(1177〜81)に、

婚、メマグ、

類聚名義抄(11〜12世紀)に、

娉、婚、メマグ、マグ、

字鏡集(鎌倉時代)に、

婚、娵、嫁、マグ、

とある。

女に遭合(あ)う、
婚す、

の意で、

くなぐ(婚ぐ)、
くなきがひす(婚合 クナギ(婚)アフ(合)の約)、
つままぎす、
つまどひす、
よばひす、
よばひ、

と同義(大言海)とあるので、

まぐはひす(目合ふ)、

のように、

目と目を見合わせて心を通じる、

という意もあるが、この場合も含め、

吾(あれ)、汝(いまし)にまぐはひせむと欲(おも)ふ(古事記)、

と、

性交、

の意である。この「まぐ」は、

メダク(女抱く)が、メグ[m(ed)a]の縮約で、マク(媾く)・マグ(媾ぐ)になった。……結婚・交接のことをマグアヒ(媾ぐ合ひ)という。〈この天の御柱を行きめぐりてみと(クミドの略。 夫婦の寝所)のマグアヒせむ〉(古事記)は結婚のことで、……〈さまざまに語らひ契りてマグアヒをなさんとすれば〉(古今著聞集)は男女の交接のことである、

とある(日本語の語源)ように、

覓ぐ、

婚ぐ、

は由来を異にするようである。

「覓」(漢音ベキ、呉音ミャク)は、

会意兼形声。覓の原字は、「目+音符脈の右側の字(細い)」。目を補足して、ものを見定めようとすること。覓は「見+爪」からなる俗字、

とあり(漢字源)、

遂教方士殷勤覓(ツヒニ方士ヲシテ殷勤ニ覓メシム)(白居易)、

と、

もとめる、
さがしもとめる、

意である。「覓ぐ」も、「目」と関わらせるのが妥当な所以である。「まぐ」に当てる、

覓、
と、
求、

の違いは、漢字では、

求は、乞也、索也と註す、なき物を、有るやうにほしがり求め、又はさがし求むる義にて、意広し、求友・求遺書の類、

覓は、さがし求むるなり、捜索の義、是猶欲登山者、渉舟航而覓路(晉書)、

とある(字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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左券


今のうちに一通り堺目を立てて、他日の左券とするのである(柳田國男『口承文芸史考』)、

にある、

左券、

は、

左契、

に同義で、

左験、

ともいう(字源)。

契(ケイ)も、券(ケン)も、割符なり、

とある(大言海)が、

昔、木の札に約束事を書き、手の印形を押した。それを二つに割って、甲乙がその片方はずつを保存し、照らし合わせて証拠とするものを符(わりふ)といい、紐で巻いて保存するものを、「券」という、

ともある(漢字源)。ともかく、

二分した割符(わりふ)の半片、

をいい(広辞苑)、

契約を二枚の札に書し、之を分かち、一を左契とし、一を右契とす、他日引合わせて証拠とす、

とあり(字源)、

自分の手許に留めておく方、

左契、

といい、相手に渡す方を、

右契、

とする(広辞苑)、

とあり(仝上)、転じて、

約束の証拠、

の意で使う(仝上)。出典は、

和大怨必有餘怨(大怨(たいえん)を和するも必ず余怨(よえん)あり)
安可以爲善(安(な)んぞ以って善と為(な)すべけんや)
是以聖人(是(ここ)を以って聖人は)
執左契左契(左契(さけい)を執(と)りて)
而不責於人(人に責めず)
有徳司契(徳有るものは契(けい)を司(つかさど)り)
無徳司徹(徳無きものは徹(てつ 取り立てること)を司る)
天道無親(天道は親(しん)無く)
常與善人(常に善人に与(くみ)す)(老子)

の、

左契、

からきている。

「左契」は「契」すなわち手形として用いる割符の左半分。証文を木札に書き、二つに割って左の半分を債権者、右の半分を債務者がもつ、

とある(福永光司訳注『老子』)。『礼記』曲禮に、

粟(ぞく)を獻ずる者は右契を執る、

とあり、『史記』田敬仲完世家に、

公常執左券、以責于秦韓、此其善於公、而惡張子多資矣、

ともある(仝上・字源・大言海)。

有徳司契(徳有るものは契(けい)を司(つかさど)り)
無徳司徹(徳無きものは徹を司る)

は、

俚言的な成語、

らしく(福永光司訳注『老子』)、

農民の収穫を現物で取り立てる「徹(てつ)の税法」、

と、

現物を離れて信用で取引する「契(けい)の税法」、

を対比している(仝上)。

粟(ぞく)を獻ずる者は右契を執る、

という『礼記』の記述は、その意味であろうか。

不責於人

とは、

相手(債務者)に厳しく督促しない、

意で

いつかは返済してもらい、長い目で見れば埋め合わせがつくことに信頼する、

意とあり(仝上)、

天道無親
常與善人

の、

天の理法の悠久な裁きに対する信頼と対応する、

とある(仝上)。

「券」(漢音ケン、呉音コン)は、

会意兼形声。原字は「釆(開いたてのひら)+両手」の会意文字で、拳(指をまいてにぎる)の原字でもある。券は、それに刀を加えたもので、開いた手をにぎることをあらわし、ひもで巻いて保存する手形。手形の文句を、小刀で木札に刻んだので、刀を加えた、

とある(漢字源)。別に、

形声。刀と、音符𢍏(クヱ 𠔉は変わった形)とから成る。むかし、二つの木片に刻み目をつけ、刻み目が合うことを契約の証拠とした。割り符、ひいて、証拠書類の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「種を散りまく象形と両手の象形」(「まく」の意味)と「刀」の象形から、刃物で木片にきざみ目をつけ約束したものを2つに割って両者がそれぞれひもで巻いて後日の証拠とする「割符(わりふ)」、「手形」を意味する「券」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji846.html

「契(契)」(漢音ケイ・ケツ・セツ、呉音ケ・ケチ・セチ)は、

会意。上部は棒(h)に彡印の刻み目をつけたさまに刀を加えた字で、刃で刻み目をいれること。契は、もとそれに大(大の字に立つ人の姿)を合わせて、商の始祖セツをあらわしたが、のち上部の字のかわりに用いた、

とある(漢字源)が、「ちぎる」「約束」「割符」の意味の場合、「契拠」というように「ケイ・ケ」と訓み、「きざむ」という意の場合、「ケツ・ケチ」と訓み、商の始祖の場合、「セツ・セチ」と訓む(仝上)。

別に、

会意兼形声文字です(丰+刀+大)。「刻み付ける」象形と「刀」の象形と「両手両足を伸びやかにした人」の象形から、人の肌や骨に符号に刻み付ける事を意味し、そこから、「きざむ」、「ちぎる(約束する)」、「しるし」を意味する「契」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1638.html

なお、「左」については「そうなし」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
福永光司訳注『老子』(朝日文庫)

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みぎ・ひだり


馬手・弓手」で触れたように、「左手」は、

弓を持つ方の手、

で、

弓手(ゆんで)、

「右手」は、

手綱を持つ手、



馬(め)手、

と言う(大言海)。漢語「右」(漢音ユウ、呉音ウ)は、

戦国時代には右を尊んだことから、

拝為上卿、位在廉頗之右(拝シテ上卿ト為シ、位廉頗ノ右ニ在リ)(史記)、

と、「右」は、

上位、

を意味し(漢字源)、

かみ

と訓ませ、

たっとびて上座に置く、

意で、

尚、

と同義となる(字源)。

「左」は、

左遷、

というように、

卑しんで、

下位、

を意味し(漢字源)、

左道、

というように、

よこしま、

の意である(字源)。で、世界的にも、右を重んじる民族が多く、「右」は、

光・聖・男性・正しさ、

を意味し、一の腕のように呼ぶ言語がある。英語のrightも、「右」と「正しい」とを意味するし、「左」は、

闇・曲・俗・女性・汚れ、

を意味する民俗が多い(岩波古語辞典)。たとえば、

インド・ヨーロッパ語では、一般に右にあたることばは強、吉、正という意味を含み、左にあたることばは弱、不吉、邪という意味も含んでいる。……ラテン語のdexterも右という意味のほかに強とか幸運を意味し、左をさすsinisterは不吉をも意味する。これは不吉を意味する英語のsinisterやフランス語のsinistreの語源でもある。古代ギリシア語のδεξιςは右および幸運を意味し、ριζτερςやενυμοςおよびσκαιςは左とともに不吉も意味する。(中略)インドネシアにおいては一般に食事をするときは右手を用い、排泄(はいせつ)など不浄な目的には左手を使う習慣がある。イスラム教の及んでいないインドネシア諸族にも同様な観念がある。たとえばバリ島においても右手を尊び、左手を不浄視する習慣がある。バリ島民は、呪術(じゅじゅつ)を「右の呪術」と「左の呪術」とに分け、「右の呪術」は病気治療のための呪術であり、「左の呪術」は人を病気にするための呪術であり、右を善、左を悪としている、

などとある(日本大百科全書)。しかし、古代日本では、

ヒダリはミギより重んじられ、「左手の奥の手」といわれ、左大臣は右大臣より上位だった、

とある(仝上)。ただ、現在、日本各地の俗信には、

尚右の観念、
左を嫌い、
あるいは
左が呪力をもつ、

とする観念がみられ、

左巻き、
左前、

など悪い意味に用いられ、

左縄

は、普通とは逆に左へ撚(よ)って綯(な)った縄のことで、不運を意味するとともに、魔物の撃退に用いられることもある(仝上)ともある。

さて、その、

みぎ、
ひだり、

は何処から来たか。

「みぎ」の語源については、

持切(モチキリ)の約略、力強く持つに堪ふ意(大言海・名言通)
ニギの転、ニギはニギル(握る)の略。右手はよく物をニギル(握)ところから(広辞苑・日本釈名)、
刀の柄をニギリテ(握り手)といったのが、ミギリテ・ミギリ・ミギ(右)になった(日本語の語源)、
かばうようにして物を持つ手なので、「みふせぎ(身防)」の意味(日本語原学=林甕臣)、

といった諸説だが、

上達部(かんだちめ)は階のひだり・みぎりに皆別れてさぶらひ給ふ(「亭子院歌合(913)」)、

と、

ミギリ、

という言い方がある。

ヒダリの語形に合わせ、ミギにリを添えた、

とされるが、

にぎる、

が語源なら、もともと、

ひだり、
みぎり、

と語形が揃っていたことになる。たとえば、

右を古くは「みぎり(右り)」とも言いったが、「みぎり」が略され「みぎ」になったものか、「ひだり(左)」に合わせて「みぎ」を「みぎり」と言ったものか分かっていない、

とされる(語源由来辞典)のだから。類聚名義抄(11〜12世紀)には、

右、ミキ、

と清音となっている例もあり、

上代、migiかmigïか未詳、

ともあり(岩波古語辞典)、「みぎ」の語源の特定は非常に難しいhttps://skawa68.com/2022/09/16/post-92726/ようだ。

「ひだり」は、

引垂(ひきたり)の略、力の怠(たゆ)く弱き意(大言海・名言通)、
太陽の輝く南を前面として、南面して東の方に当たるので、ヒ(日)ダ(出)り(方向)の意(岩波古語辞典)、
松明を持つ手という意で、ヒトリテ(火取り手)きが、ヒタリテ・ヒダリとなった(日本語の語源)、
ヒイタリ(日至)の義(柴門和語類集)、
ヒタタリ(直撓)の義(言元梯)、
ヒダはヒタ(直)の義(神代史の新研究=白鳥庫吉)、
端・へりの意のハタ・ヘタが転じた語か(広辞苑)、

等々の諸説があるが、「みき」が手とつながるのなら、「ひだり」も、手と絡めるのが自然なのきかもしれない。ただ、

日の出の方(ヒダリ)、

の説は、南を前面にした場合、東が左にあたるからではないかとするもので、「ひだり」尊重の考えと絡めていて、気になるところではある。たとえば、

陰陽道の「左=陽・右=陰」とも結びつく、

し、古事記で、

イザナギの左目から太陽神のアマテラスが、右目から月神のツクヨミが生まれた、

とされているのともつながるhttp://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2013072100002.html。また、律令制度下で、

左大臣が右大臣よりも上位に置かれた、

のは、南向きに座る天皇から見て、左(日の昇る東側)に座る左大臣の方が、右(日の沈む西側)に座る右大臣よりも上とされたから、

という説もある(仝上)。

そう(さう)なし」で触れたように、「右」(漢音ユウ、呉音ウ)は、

会意兼形声。又は、右手を描いた象形文字。右は、「口+音符又(右手)」で、かばうようにして物を持つ手、つまり右手のこと。その手で口をかばうことを意味する、

とある(漢字源)。

別に、

会意形声。口と、又(イウ 𠂇は変わった形。たすける)とから成る。ことばで援助することから、みちびく、「たすける」意を表す。のちに、又・佑(イウ)と区別して、「みぎ」の意に用いる、

とある(角川新字源)。更に、

会意兼形声文字です(口+又)。「右手」の象形(「右手」の意味)と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)から、「神の助け」、「みぎ」を意味する「右」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji118.html

「左」(サ)は、

会意。「ひだり手+工(しごと)」で、工作物を右手に添えて支える手、

とある(漢字源)が、工と、ナ(サ)(=ひだり手)とから成り、工具を取るひだり手、ひいて、ひだり側の意を表す。また、左手は右手の働きを助けるので、「たすける」意に用いる(角川新字源)がわかりやすい。ただ、この字源は、金文時代の説明にはなっているが、甲骨文字を見ると、そのもとになって「手」を示している字があるはずで、その説明がない。「手」は、五本指の手首を描いたもので、この「左手」とは合わない。しかし、

「左」という字は、甲骨文字ではまるで左手を上に上げた形状をしている。甲骨文字の右の字と相反する。金文と小篆の「左」の字は、下に一個の「工」の字を増やしたものである。ここでの工の字は工具と見ることが出来る、

とあるのでhttps://asia-allinone.blogspot.com/2012/07/blog-post_5.html、「手」を簡略化したものとみられる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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樵(こ)る


斧取りて丹生の檜山の木こり来て筏に作り真楫(まかじ)貫き礒漕ぎ廻つつ島伝ひ見れども飽かずみ吉野の瀧もとどろに落つる白波(万葉集)、

の、

こる、

は、

樵る、
伐る、

と当て、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

伐、キル・コル、

とあり、

枝を切ること、
また、
株を残して立木を切る、

意とある(岩波古語辞典)。

樵る、

は、また、

蒭(くさかり)樵(きこ)ること莫なかれ(天武紀)、

と、

きこる、

とも訓ませ、

木伐(こ)る、

の意で、

山林の木を切る、
薪を伐り採る、

意である(広辞苑)

「樵(こ)る」は、

木(コ キ(木の古形)、木の葉、木立など複合語に残る)を活用させた語(雲る、宿る)、或は、、伐(キ)るの転か(黄金(キガネ)、こがね)(大言海)、
「かる(刈)」の交替形、また、「きる(切)」とも関係がある(日本国語大辞典)、

などとあり、類聚名義抄(11〜12世紀)の、

伐、キル・コル、

からみると、

伐(キ)る、
切る、

か、

刈(か)る、

の音韻転換の可能性が高い。

樵(きこり)、
木伐(きこり)、

樵(きこ)る、

の名詞形である。

「樵」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、

会意兼形声。「木+音符焦(ショウ もやす、こがす)」で、燃料にするたきぎ、

とあり(漢字源)、

たきぎ、
きこる、
きこり、

の意もある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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けうとし


守、聞きていはく、汝はけうとく人にもあらざりける者のこころかな(今昔物語)、

の、

けうとし、

は、

気疎し、

と当て、

このさるまじき御中の違ひにたれば、ここをもけうとくおぼすにやあらむ(蜻蛉日記)、

と、

気に入らず離れていたい、また、気持が離れてしまっている、疎遠だ、

と(広辞苑)、

感じからして疎遠だ、の意が原意、

とある(岩波古語辞典)。

ケは接頭語(大言海)、

とあり、

「対象に対する自身の関係の薄さ」を意味する「疎し」に、「何となく・・・の感じ」の意の「気」を付けて婉曲化した語。やがてその原義の「疎ましさ」の語感が失われ、連用形「けうとく」の形で「(良かれ悪しかれ)程度が甚だしい」を表わす用法も生じた、

ともあるhttps://fusaugatari.com/sample/1500voca/kyoutoshi2620/。「け」は、

気、

と当て、接頭語、

カ(気)、

の転である(岩波古語辞典)。「か」は、

天(あめ)なる日売(ひめ)菅原(すがはら)の草な刈りそね蜷(みな)の腸(わた)か黒(ぐろ)き髪にあくた(芥)し付くも(万葉集)、

というように、

ノドカ・ユタカ・ナダラカ・アキラカ・サヤカ・ニコヤカなど、接尾語のカと同根、

で(仝上)、

か青、
か細し、
か弱し、

等々、

目で見た物の色や性質などを表す形容詞の上につき、見た目に……のさまが感じられるという意を表わす、

とある(仝上)。接尾語「か」も、母韻変化で、

あきらけし、
さやけし、

など、「ケ」となり、さらに、

さむげ、

と、「ゲ」に転じている。

この接頭語「け」は、

ほの=仄、
なま=生、
もの=物、

と同様、

はっきりしないけど、何となく・・・っぽい、

の感覚を表現しているhttps://fusaugatari.com/sample/1500voca/kyoutoshi2620/、日本語独特の語感である。で、

けうとし、

は、

(なんとなく)疎ましい、
(なんとなく)厭わしい、

という感覚になる(大言海)。そこから転じて、

愕然、

と当て(仝上)、

けうとくもなりにける所かな。さりとも、鬼なども、我をば見許してむ(源氏物語)、

と(学研全訳古語辞典)、

気味が悪い、
人気(ひとけ)がなくて寂しい、

あるいは、

聞くもけうとき物怪の、人を亡(うしな)ひしありさま(謡曲「夕顔」)、

と、

怖ろし、
驚くべし、

の意でも使い(大言海)、

妻恋ふ声もけうとき野ら寝かな(時勢粧)、

と、

興醒め、

の意にも転じる(岩波古語辞典)。

この「けうとし」は、

今年いかなるにか、大風吹き、地震(なゐ)などさへ振りて、いとけうとましき事のみあれば(栄花物語)、

と、

けうとまし、

とも転化し、近世初期以降、

けうとし、

は、

Qiôtoi(キョウトイ)ウマ(驚きやすい馬)、
Qiôtoi(キョウトイ)ヒト(不意の出来事に驚き走り回る人)、

と(「日葡辞書(1603〜04)」)、

きゃうとい(きょうとい)、

と発音した(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

なお、「気」については、「」で、中国絵画における、気の表現については、宇佐美文理『中国絵画入門』で触れた。

「氣(気)」(漢音キ、呉音ケ)は、

会意兼形声。气(キ)は、いきが屈曲しながら出てくるさま。氣は「米+音符气」で、米をふかすときに出る蒸気のこと、

とある(漢字源)が、

形声。意符米(こめ)と、音符气(キ)とから成る。食物・まぐさなどを他人に贈る意を表す。「餼(キ)」の原字。転じて、气の意に用いられる、

ともあり(角川新字源)、

「氣」は「餼」の本字、

としhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B0%A3

隸変後、「氣」は「气」の代用字、

ともある(仝上)。「隸変」とは、

漢代初期に中国語の表記が篆書体から隷書体に移行すると共に、書きやすくするためにある字の絵画的形態の省略や付け加え、変形を行う過程を通じて紀元前第2世紀の間に時とともに起った自然で漸進的で体系的な漢字の簡略化を指す、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%B7%E5%A4%89。また、

会意兼形声文字です(米+气)。「湧き上がる雲」の象形(「湧き上がる上昇気流」の意味)と「穀物の穂の枝の部分とその実」の象形(「米粒のように小さい物」の意味)から「蒸気・水蒸気」を意味する「気」という漢字が成り立ちました、

とする説もあるhttps://okjiten.jp/kanji98.html

「疎(踈)」(漢音ソ、呉音ショ)は、

会意兼形声。疋(ショ)は、あしのことで、左と右と離れて別々にあい対する足。間をあけて離れる意を含む。疎は「束(たば)+音符疋」で、たばねて合したものを、一つずつ別々に離して、間をあけること、

とあり(漢字源)、

疏と同じ、
踈は異字体、

とあり、「疏水」と、「とおす」意、「上疏」と「一条ずつわけて意見をのべた上奏文」の意、「中疏」と「難しい文句を、ときわけて意味を通した解説」の意で使うときに、「疎」ではなく「疏」を使うとあり(仝上)、「疏」(漢音ソ、呉音ショ)は、

会意兼形声。「流(すらすらとながす)の略体+音符疋(ショ)」、

とある。別に、「疎」は、

「疏」の異体字。「㐬」の筆画が「束」の形に変わった字体、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%96%8E、「疏」は、

形声。「㐬 (流の省略形)」+音符「疋 /*TSA/」。「(水流や道などが)とおる」を意味する漢語、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%96%8F#%E5%AD%97%E6%BA%90

また、「疎」は、

疏(ソ)の俗字、

とし、「疏」は、

会意。疋と、㐬(とつ 子どもが生まれる)とから成る。子どもが生まれることから、「とおる」意を表す、

とあり(角川新字源)、別に、

「疏」は「疎」の旧字、

とし、「疎」と「疏」を、別由来として、「疏」の成り立ちは、

会意兼形声文字です。「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「子が羊水と共に急に生れ出る象形」(「流れる」の意味)から、足のように二すじに分かれて流れ通じる事を意味し、そこから、「通る」、「空間ができて距離が遠くなる」を意味する「疏」という漢字が成り立ちました、

と、「疎」の成り立ちは、

形声文字です(疋+束)。「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味だが、ここでは、「疏(ソ)」に通じ(同じ読みを持つ「疏」と同じ意味を持つようになって)、「離す」の意味)と「たきぎを束ねた」象形(「束ねる」の意味)から、「束ねたものを離す」を意味する「疎」という漢字が成り立ちました

と説くものもあるhttps://okjiten.jp/kanji1968.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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むつまじ


形、有様より始めて、心ばへをかしければ、女御これをむつまじき者にしてあはれに思ひたれば(今昔物語)、



むつまじ、

は、

睦まじ、

と当て、古くは、

むつまし、

と清音、動詞、

むつむ(睦)の形容詞化、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

血縁あるもの、夫婦の関係にあるものの間に、馴れ合い、甘える感情がある意、広くは身内のように感じている人々や使用人に対する親しみの気持にも多く使う。類義語シタシは、本来必ずしも血縁などの無い人の間に、親密な関係、近しい気分のある意。室町時代からムツマジと濁音にも言う、

とある(岩波古語辞典)。だから、

兄弟(はらから)などのやうにむつましき程なるも無くて、いとさうざうしくなむ(源氏物語)、

と、

血縁の関係にあって気持ちがよく通じる、

意や、それを喩えとして、

我、国異(あたしくに)と雖も、心、断金(ムツマシキ)に在り(日本書紀)、

と、

間柄、気持のつながり、交わりなどが、隔てなく親密である、親しい、

意や、

人より先に参り給ひしかば、むつましくあはれなる方の御思ひは、殊に物語し給ふめれど(源氏物語)、

と、

夫婦関係にあって、馴れ甘え打ち解けた感情である、

意や、

春宮の御方は、実の母君よりも、この御方をばむつましきものに頼み聞え給へり(源氏物語)、

と、

血縁同様の親愛の情を感じる、

意で使い(仝上)、それを敷衍して、

是に陳蔡方(さま)に衛に睦(むつま)し(春秋経伝集)、

と、

仲がよい、

意でも使う(仝上)。

動詞「むつむ」は、

むつび、

と同じで、

むつ+接尾語ぶ、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

血縁あるもの、夫婦の関係にあるものとして、馴れ親しむ振舞いをする意、広くは身内のものとしての態度で振舞う意、

とある(岩波古語辞典)。

接尾語「ぶ」は、

荒ぶ、
うつくしぶ、
宮ぶ、
都ぶ、
神(かむ)ぶ、

のように、

名詞または形容詞の語幹について上二段活用の動詞を作り、そのようなふるまいをする、または、そういう様子であることをはっきり示す意をあらわす、

とある(岩波古語辞典)。で、名詞「むつ(睦)」は、

ここに親(むつ)~ろぎ神神ろみの命(みこと)の宣はく(祝詞)、

と(仝上)、

親、

ともあて、

血縁関係・夫婦関係にある者同士が、馴れ親しみ合っている状態、

を意味し(仝上)、

むつぶ、
むつまし、

のほか、

むつごと(睦言)、
むつたま(親魂)、
すめむつ(皇睦)、

など、名詞に熟して用いられる(精選版日本国語大辞典)。なお、

此の師子の縁覚の聖の木の下に居たる時を見て、日日に来て喜びむつれて、経を誦み(「観智院本三宝絵(984)」)、

と、睦(むつ)の動詞化、

むつ(睦)る、

もある。

また、動詞「むつむ」の名詞形、

とし玉をいたう又々申うけ〈蝉吟〉
師弟のむつみ長く久しき〈芭蕉〉(俳諧・芭蕉桃青翁御正伝記(1841)貞徳翁十三回忌追善俳諧)、

と、

むつみ(睦)、

という使い方もあり(仝上)、

また「むつまし」に関連して、

むつまじがる
むつまじげ
むつまじさ
むつましむ
むつまやかに、

といった言い方もある(仝上・大言海)。

「睦」(漢音ボク、呉音モク)は、

会意兼形声。坴(リク→ボク)は土がもりもりと集まったさま。陸の原字。睦はそれを音符とし、目を加えた字で、多くの者が仲良く集まること、

とある(漢字源・角川新字源)。別に、

形声文字です(目+坴)。「人の目」の象形と「高い土盛りをした場所」の象形(「高い土盛りをした場所」の意味を表すが、ここでは、「穆(ボク)」に通じ(「穆」と同じ意味を持つようになって)、「やわらぐ」の意味)から、目が穏やかの意味を表し、そこから、「親しくする」、「むつまじい」を意味する「睦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2053.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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たつき


食物より始めて馬鍬、辛鋤(からすき)、鎌、鍬、斧、たつきなど云ふ物に至るまで、家の具を船に取り入れて(今昔物語)、

にある、

たつき、

は、

大きい刃の広い斧、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。因みに、「辛鋤」は、

牛にかけて耕すのに使う、

とあり(仝上)、「犂牛(りぎゅう)」で触れた、

唐鋤、

と当てる、

柄が曲がっていて刃が広く、日本ではウシ、ウマに引かせて耕す犂(すき)、

をいい、

牛鍬(うしぐわ)、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、古墳時代後期に、中国から朝鮮半島を経て由来したものである。

たつき、

は、

鐇、

と当て、

たつぎ、

ともいう、

木を伐採するのに用いる刃はばの広い大きな手斧(おの)、

で(デジタル大辞泉)、

木材を竪に切るもの(横に切るを、ヨキという)、

とある(大言海)。

たつげ、
はびろ、

ともいう(大言海)。和名類聚抄(平安中期)に、

鐇、多都岐、廣刃斧也、

とある。

「よき」は、

木こりは恐ろしや、荒けき姿に鎌を持ち、斧(よき)を提げ(梁塵秘抄)、

と、

斧、

と当て、

小形のおの、

つまり、

小斧(こおの)、

(岩波古語辞典)とある。和名類聚抄(平安中期)に、

斧、與岐、

字鏡(平安後期頃)に、

鉿、鋌也、與支、

とある。「たつき」は、

立削(タツゲ)の転にて、竪に我が方へ削る意かと云ふ、

とあり(大言海)、「よき」は、

横切(よこきり)の約、鐇(タツギ)に対す、

とある(仝上)。

「たつき」の画像は、あまり見当たらないが、童謡の、

まさかりかついだ金太郎、熊に跨りお馬の稽古、

の、

まさかり、

は、

はびろ、

とも呼ばれたhttps://dic.pixiv.net/a/%E9%89%9Eとあり、ふるくは、

鐇(たつき)、

と呼び、兵器や刑具に用いられたhttps://www.hand-made-home.com/daikudougu/pageindices/index44.html#page=45、とある。なお、出土品から見たむ斧の分類は、https://www.hand-made-home.com/daikudougu/pageindices/index44.html#page=45に詳しい。それによると、

鉞型、

は、

肩を持つ刃幅広い斧で、伐採や木材を斫はつる場合などに用いる、

とあり、

与岐型、

は、

頭部より刃の方がやや幅広く、袋部の下から撫肩で広がっている。刃は蛤刃のように外に張り出した円弧を描いている。大型、中型、小型があり、伐木、薪割など、さまざまな用途に用いる万能的な斧、

とある。

なお、「方便」とあてる「たつき」については触れた。

「鐇」(漢音ハン、呉音ボン)は、

木を削る、

ちょうな、

の意とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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牽牛子(けにごし)


牽牛子(けにごし)の花を見ると云ふ心を、中将かくなむ、あさがほをなにはかなしと思ひけむ人をも花はさこそみるらめ、と(今昔物語)、

にある、

牽牛子(けにごし)、

は、

アサガオの異称、

で(広辞苑)、

アサガオの中国名を、ケニは牽の字音(ken)の後に母音iを添えて、日本風にした形、ゴは牛の呉音、

とあり(岩波古語辞典)、

けんごし、

ともいう(広辞苑)のは、iを添えないだけのことのようだ。

牽牛子(ケヌゴシ)の転、

とある(大言海)のも転訛の一つなのだと思われる。漢語では、

牽牛、

は、

ケンギュウ、

と訓み、

アサガオ、

は、

牽牛花(ケンギュウカ)、

とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

蕣(キバチス)、アサガホ、

とあるように、

蕣花(しゅんか)、

ともいう(字源)が、これは、

むくげ、

をさす(デジタル大辞泉)。このことは、後述する。

和名類聚抄(平安中期)には、

牽牛子、阿佐加保、

とある。

牽牛子は、アサガオを意味する「牽牛」の、

種子

をいう。漢方で、

味苦寒、有毒。気を下し、脚満、水腫を療治し、風毒を除き、小便を利す(「名医別録(1〜3世紀頃)」)、

とされ、漢方薬に用いる生薬としては、

アサガオの種子を乾燥させ粉末にしたもの、

で、

強い下剤作用がある。利尿剤としても用いられる。強い下剤である牽牛子丸、牽牛散に含まれる。下剤作用が強いので、注意が必要、

とある(漢方薬・生薬・栄養成分がわかる事典)。

「牽牛子」の名の由来は、

古代中国においてアサガオの種子は牛と取引されるほど高価な薬だった、
謝礼として牛を牽(ひ)いて来たという逸話に由来する、
アサガオの花を牛車に積んで売り歩いた、

等々の諸説があるhttps://www.fukudaryu.co.jp/sozai2/kengoshiHP.pdfが、中国六朝時代の医学者・科学者、陶弘景(456〜536)は、

この薬は農民の間で使用が始まったもので、人々はこの薬を交易するために牛を牽いて出かけたので牽牛子という、

と述べているhttps://www.uchidawakanyaku.co.jp/kampo/tamatebako/shoyaku.html?page=107し、宋代(1100年)の本草書『證類本草(しょうるいほんぞう)』にも、

此薬始出田野人、牽牛易薬、故以名之、

とある。

「朝顔」は、「あさがほ」で触れたように、

桔梗、

にも、

木槿、

にも、

呼ばれたが、

木槿も牽牛子(漢方、朝顔の種)も後の外来ものなれば、万葉集に詠まるべきなし、

と(大言海)し、

桔梗、

の意であった、とされる。今日の「あさがお」は、

奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされる。アサガオの種の芽になる部分には下剤の作用がある成分がたくさん含まれており、漢名では「牽牛子(けにごし、けんごし)と呼ばれ、奈良時代、平安時代には薬用植物として扱われていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%AAが、

遣唐使が初めてその種を持ち帰ったのは、奈良時代末期ではなく、平安時代であるとする説もある。この場合、古く万葉集などで「朝顔」と呼ばれているものは、本種でなく、キキョウあるいはムクゲを指しているとされる、

としている(仝上)。平安初期の新撰字鏡も、

桔梗、阿佐加保(あさがほ)、

とし、岩波古語辞典も、「朝顔」が、万葉集で歌われているのは、

桔梗、

の意で、輸入された、ムクゲが美しかったので、それ以前にキキョウにつけられていた「あさがほ」という名を奪った、とする。名義抄(11世紀末から12世紀頃)には、その後、平安時代に中国から渡来した、その実を薬用にした牽牛子(けにごし)が、ムクゲよりも美しかったので、「あさがほ」の名を奪った、

と(岩波古語辞典)ある。「桔梗」、「ムクゲ」については触れた。

中国では、牽牛子の原植物としてアサガオを当てるが、前述の陶弘景は、

花の形は扁豆のようで、黄色く、子は小さな房を作る、

と記し、アサガオとは異なるとしたものの、唐代の本草書『新修本草(しんしゅうほんぞう)』では、

花はヒルガオに似ており、碧色で、黄色ではなく扁豆にも似ていない。人々は原植物を秘密にしていて、陶氏は実物を見ることなく誤った情報を書き広めたのだ、

とし、宋代『開宝本草』では、

蔓性であること、子には黄色い殻が有り、実は黒いこと、

とし、北宋『図経本草』でも、

葉は三尖角で、8月に結実し毬のように白皮に包まれ、中には4〜5個の子があり、蕎麦大で、白黒の二種がある、

としておりhttps://www.uchidawakanyaku.co.jp/kampo/tamatebako/shoyaku.html?page=107、牽牛子がアサガオであったことは間違いなさそうである。

種皮の色によって区別され、白いものを、

白丑(はくちゅう)・白牽牛子、

黒いものを、

黒丑(こくちゅう)・黒牽牛子、

といいhttps://www.fukudaryu.co.jp/sozai2/kengoshiHP.pdf、両者の効能は変わらないが、古くは白種子を尊み、今日では黒種子の方がよく用いられている(仝上)、とある。元代の医師、朱震亨(しゅしんこう)は、

牽牛は火に属して善く走るものだが、黒い色は水に属し、白い色は金に属するものであって、病形と証とともに実して脹満せず、大便の秘せぬものでないかぎりは軽々しく用いていはいけない。その駆逐する作用でもって虚を惹起する。先哲は深く戒めている、

というhttps://www.uchidawakanyaku.co.jp/kampo/tamatebako/shoyaku.html?page=107

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)

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得意


本より得意とありける人一両人を伴なひて、道知れる人もなくて惑ひ行きけり(今昔物語)、

の、

得意、

は、

知人、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

得意(とくい)、

は、

天子得意、則ト歌(司馬法)、

と、

意の如くなりて満足する、

意の漢語であり、

失意、

の対である(字源)。日本語でも、

大小事宮仕つつ、毎日に何物か必ず一種を進らせければ、現世の得意、此の人に過ぎたる者あるまじ(源平盛衰記)、

と、

意(こころ)を得ること、
望みの満足して、喜び居たること、

の意でも使い、

得意の顔、
得意気、
得意満面、

などともいう(大言海)が、

入道はかの国のとくゐにて、年ころあひかたらひ侍れど(源氏物語)、
此のとくいの人人、四五人許、來集りにけり(宇治拾遺物語)、

と、上記用例のように、

心を知れる友、

の意(大言海)で、

自分の気持を理解する人、
親しい友、
昵懇(じっこん)にする人、
知友、

また、

知り合い、

等々の意で使ったり、

意を得る、

の意(精選版日本国語大辞典)から、

或主殿司若令得意人守護之(「古事談(1212‐15頃)」)、

と、

自信があり、また、十分に慣れていること、
常に馴染、それに熟達していること、

の意で(仝上)、

得意の技、

というように

得手、
オハコ、
十八番、

の意で使う(大言海)。さらに、

心を知れる友、

の意の外延、

あるいは、

馴染、

の意の外延を広げて、

御とくいななり、さらによもかたらひとらじ(枕草子)、

と、

ひいきにすること、また、その人、

意で、

雇主、
花主、

の意で使い、

その延長線上で、

世にわたる種とて、元来(もとより)商のとくい、殊更にあしらい(浮世草子「好色一代男(1682)」)、

と、

いつも取引きする先方、
商家などで、いつもきまって買いに来てくれる客、

の意で(精選版日本国語大辞典)、

得意先、
顧客、
花客

の意でも使う(仝上・大言海)

「得」(トク)は、

会意兼形声。旁の字は、「貝+寸(て)」の会意文字で、手で貝(財貨)を拾得したさま。得は、さらに彳(いく)を加えたもので、いって物を手に入れることを示す。横にそれず、まっすぐ図星に当たる意を含む、

とある(漢字源・https://okjiten.jp/kanji595.html)が、別に、

原字は「貝」+「又」で財貨を手中に得るさまを象り、のち「彳」を加えて「得」の字体となる。「える」を意味する、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BE%97

会意形声。彳と、䙷(トク=㝵。える、うる)とから成る。貴重な宝物を取りに行く、「える」意を表す、

とも(角川新字源)ある。

「意」(イ)は、「新発意(しぼち)」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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識神


此の法師の供なる二人の童は、識神(しきじん)の仕へて來たるなり(今昔物語)、

の、

識神(しきじん)、

は、

式神、

とも当て、

陰陽師の使う精霊のような神、

とあり、

しきがみ、

とも訓ませ(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、

職神、

とも当て(広辞苑)、

式の神、

とも(岩波古語辞典)、

式鬼(しき)、
式鬼神、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E7%A5%9E

陰陽師の命令で自在に動く霊的存在のこと(占い用語集)、
陰陽道(おんようどう)で、陰陽師が使役するという鬼神(デジタル大辞泉)、
陰陽道(おんようどう)で、陰陽師の命令に従って、変幻自在、不思議なわざをなすという精霊(広辞苑)、
陰陽師(おんようじ)の命令に従って、呪詛(じゆそ)・妖術などの不思議な業をするという鬼神(大辞林)、
陰陽師(おんやうじ)の命令に従って不思議なわざを行うという鬼神(学研古語辞典)、
陰陽道で、陰陽師が使役するという鬼神(日本国語大辞典)、
陰陽師(おんやうじ)が術を用いて駆使する神(岩波古語辞典)、
陰陽道にて行ふ、呪詛の妖術(大言海)、

等々とあり、

神、
鬼神、
精霊、

と、分かれるが、いずれにしろ、陰陽師が、

和紙で出来た札、

に術をかけると、

自在に姿を変えた自在に姿を変える、

といい(占い用語集)、

人の善悪を監視する(デジタル大辞泉)、
人心から起こる悪行や善行を見定める役を務めるものhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E7%A5%9E

とされ、

多くは童形、

ともある(学研古語辞典)が、

思業式神、
擬人式神、
悪行罰示式神、

の三種類の式神が言い伝えで残っているhttps://www.famille-kazokusou.com/magazine/manner/180とある。

思業式神、

は、思念によって陰陽師が作った式神を指し、

姿は自由に変化させられ、術者の力の具現化ともいえる式神で、投影する意識や実力次第でその力は大きく異なる、

とある(仝上・https://dic.pixiv.net/a/%E5%BC%8F%E7%A5%9E

擬人式神、

は、人型に切った和紙や藁人形などを依り代として術者が霊力を込めることで生み出す式神で、一般的にイメージされる式神はこれで、

これらの呪物に霊力や念を込めることで、術者の意図した能力や姿をして現れ、場合によっては悪霊・怨霊などによる呪いや祟りの身代わりとして用いられる、

こともある(仝上)。

悪行罰示(あくぎょうばっし)式神、

は、悪行を働いた過去のある式神をしいい、陰陽師によって倒され、従属した結果として式神になったもので、

最も強力な式神である一方、術者の能力が不足していると逆に取り込まれてしまう恐れもある危険な式神、

でもある(仝上)。安倍晴明が使役したとされる十二天(神)将はこの悪行罰示に該当するとされている(仝上)。

陰陽師・安倍晴明が使役したという、

十二神将(十二天将)、

は、六壬(りくじん)の、

青龍・朱雀・白虎・玄武・勾陳(こうちん)・六合(りくごう)・騰蛇(とうだ)・天后(てんこう)・貴人・大陰・大裳(たいじょう)・天空、

に由来(占い用語集)し、

悪行罰示、

とされている(仝上)。

十二天将は、

基本的に、6人の吉将と6人の凶将に分けられる、

のがの特徴でhttps://www.famille-kazokusou.com/magazine/manner/180、吉将は、

六合・貴人・青竜・天后・大陰・大裳、

凶将は、

騰虵 ・勾陳・朱雀・玄武・天空・白虎、

とあり(仝上)、中国の伝説に登場する神獣であることが多い(仝上)という。

十二神将、

は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%A4%A9%E5%B0%86に詳しい。

「六壬」は、

六壬神課(りくじんしんか)、

といい、約2000年前の中国で成立した占術で、

質問を受けた瞬間の時刻、

で(仝上)、

月将とよぶ太陽の黄道上の位置の指標と時刻の十二支から、天地盤と呼ぶ天文についての情報を取り出し、これと干支術を組み合わせて占う、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%A3%AC%E7%A5%9E%E8%AA%B2。飛鳥時代には既に日本で受容されていたが、602年の百済僧観勒による招来が記録に残る最初の招来である(仝上)。安倍晴明は『占事略决』という六壬の解説書を子孫のために残したとされる(仝上)。

安倍晴明は式神を使うのに長けており、

屋敷内の雑用から掃除、儀式など様々なことをさせていました。しかし晴明公の奥様がその存在を怖がられたため、一条戻橋のたもとに式神を隠し、用がある時に呼び出していた、

とあるhttps://www.seimeijinja.jp/?p=8969。このことは、「一条戻り橋」で触れたように、

戻橋(もどりばし)は一条通堀川の上にあり。安倍晴明十二神将をこの橋下に鎮め事を行なふ時は喚んでこれを使ふ。世の人、吉凶をこの橋にて占ふ時は神将かならず人に託して告ぐるとなん、

とある(都名所図会)。

なお、

陰陽師、

は、律令時代、

中国大陸から伝わった技術を基に、天文の観測、暦の作成、占いの一種である卜占(ぼくせん)などをおこなうために朝廷が作った、

陰陽寮、

に所属した官職の1つであるhttps://www.famille-kazokusou.com/magazine/manner/180

なお、陰陽道の十二天将と、仏教の、

十二神将、

は別で、十二神将は、

十二薬叉大将(じゅうにやくしゃだいしょう)、
十二神王、

ともいい、

天界にいる12人の武将、

を指し、

薬師如来および薬師経を信仰する者を守護する12の願いを基に、12の月や12の時間、12の方角を守護する十二尊の仏尊、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%A5%9E%E5%B0%86

なお、「式神」の「式」とは、

「用いる」意味であり、使役することをあらわす、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E7%A5%9E

「方程式」「算式」などの「式」=即ち法則性、

であり、この「式」をよく理解したうえである一定の手順を踏むと一定の反応を示す神のこと、

とあるhttps://dic.pixiv.net/a/%E5%BC%8F%E7%A5%9E。だから、所謂使い魔とは根本的に違い、扱い方さえ理解すれば本来は誰にでも使いこなせる(仝上)、と。

「式」(漢音ショク、呉音シキ)は、

会意兼形声。弋(ヨク)は、先端の割れた杙(くい)を描いた象形文字。この棒を工作や耕作・狩りなどに用いた。式は「工(仕事)+音符弋」で、道具でもって工作することを示す。のち道具の使い方や行事の仕方の意となる、

とある(漢字源)。

「手本」を意味する漢語、

ともありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%8F

形声。工と、音符弋(ヨク→シヨク)とから成る。工作をする際の決まり、ひいて「のり」の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(弋+工)。「枝のある木とそれを支える為の支柱(くい)」の象形と「工具(のみ・さしがね)」の象形から、「工具のように規則的で安定した支柱(くい)」を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「手本とすべきもの・しき」を意味する「式」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji492.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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あながち


父(賀茂)忠行が出でけるに、あながちに戀ひければ、其の兒を車に乗せて具してゐて行きにける(今昔物語)、
其の女の泣きつる聲は、内の心に違ひたりと聞きしかば、あながちに尋ねよとは仰せられしなり(仝上)、

にある、

あながちに、

の、

あながち、

は、

強ち、

と当て、

アナは自己、カチは勝ちか、自分の内部の衝動を止め得ず、やむにやまれぬさま、相手の迷惑や他人の批評などに、かまうゆとりをもたないさまをいうのが原義、自分勝手の意から、むやみに程度をはずれての意(岩波古語辞典)、
自分勝手に、自分の思うまま、したいままをやっていく状態をいうのが原義と思われる(日本国語大辞典)、
他人の迷惑をかえりみず、自分勝手にしたいままにするというのが原義。「あな」は「おのれ(己)」の意で、「己(アナ)勝ち」に由来するか(大辞林)、

などからみると、外から見ると、

あながちなる好き心は更にからはぬを(源氏物語)、

と、

身勝手、
いい気、

の意や、

稀には、あながちにひきたがへ(人の予想に反し)心づくしなること御心におぼしとどむる癖なむあやにくくて(源氏物語)、

と、

衝動を止め得ぬさま、

の意になるが、翻って、内から見れば、

にくきもの、……あながちなる所に隠し伏せたる人の、いびきしたる(枕草子)、

と、

やむにやまれないさま、
人の思惑などかまっていられないさま、

の意となり、

あながちに心ざしを見せありく(竹取物語)、
など斯くこの御学問のあながちならむ(源氏物語)、

と、

一途、
ひたむき、

の意となり、それを価値表現にすれば、

あながちに丈高き心地ぞする(源氏物語)、

と、

むやみ、
無理に、
殊に際立つさま、

の意となる(岩波古語辞典)。しかし、こうした形容動詞としての使い方が、平安時代末期には、

打ち消しの語を伴って用いる、打消、禁止、反語の意が生じ、

時々入取(いりとり)せむは何かあながち僻事ならむ(平家物語)、

と、

必ずしも……でない、

意や、

範頼・義経が申状、あながち御許容あるべからず(平家物語)、

と、

決して、

の意が生じ(大辞林)、次第に「に」を脱落させた、

あながち無理とも言えない、
あながち悪くはない、
あながち嘘とは言い切れない、

などというような、

一概に、
まんざら、
かならずしも、

の意での、副詞としての用法が主流となっていった(仝上)とある。

「あながち」の類義語に、

しひて(強ひて)、
せめて、

がある。「しひて」は、

動詞「し(強)いる」の連用形に接続助詞「て」が付いてできた語、

で(デジタル大辞泉)、

ものごとの流れに逆らって、無理にことをすすめる意、

とあり(岩波古語辞典)、「せめて」は、

動詞「責む」の連用形に接続助詞「て」が付いてできた語、

で(広辞苑)、

セメ(攻・迫)テの意。物事に迫め寄って、無理にもと心をつくすが、及ばない場合には、少なくともこれだけはと希望をこめる意。また、力をつくすところから、極度にの意、

とあり(岩波古語辞典)、

しひて、

が、

ものごとの流れに逆らって、無理にことをすすめる、

意、

あながち(に)、

が、

人のことなどかまっていられず動く、

意、

せめて、

が、相手に肉薄して、少しでも自分の思うようにことを運ぶ、

意(仝上)と、三者外見には、強引さに変わりはないが、自分勝手度からいえば、

せめて→しひて→あながち、

と増していくという感じであろうか。「せめて」には、他の二者に比して、少し引き気味の希望的な含意がある。

また、

あながち悪くはない、

と、

必ずしも悪くはない、

の、

あながち、

かならずしも、

の違いは、

「あながち〜ない」は「断定しきれない」という気持ちをあらわし、「必ずしも〜ない」は「必ず〜というわけではない」「必ず〜とは限らない」という気持ちをあらわす、

としている(大辞泉)が、際立つ差異はない。強いて区別すると、

「必ずしも〜ない」という言葉は「ある推論や結論を論理的に否定できる可能性がある」という意味に解釈できます。たとえば「必ずしも良いとはいえない」は「論理的に『悪い』と判断できそうな部分もある」という意味になります。
一方、「あながち」は「強ち」と書くことからもわかるように「強引な」「身勝手な」ことを意味する言葉です。したがって「あながち良いとはいえない」といえば、「良い」という判断や結論に固執しないほうがいい、という意味になります。

との解釈もできるhttps://docoic.com/57426だろうが。

「強(强)」(漢音キョウ、呉音ゴウ)は、「屈強」で触れた。

会意兼形声。彊(キョウ)はがっちりとかたく丈夫な弓、〇印はまるい虫の姿。強は「〇印の下に虫+音符彊の略体」で、もとがっちりしたからをかぶった甲虫のこと。強は彊に通じて、かたく丈夫な意に用いる、

とある(漢字源)。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、

強、蚚也、从虫弘聲……

とあり、「蚚」は、

コクゾウムシという、固い殻をかぶった昆虫の一種を表す漢字だ、とされています。つまり、「強」とは本来、コクゾウムシを表す漢字であって、その殻が固いことから、「つよい」という意味へと変化してきた、

とありhttps://kanjibunka.com/kanji-faq/mean/q0435/

会意兼形声文字です。「弓」の象形と「小さく取り囲む文字と頭が大きくてグロテスクなまむし」の象形(「硬い殻を持つコクゾウムシ、つよい、かたい」の意味)から、「つよい」を意味する「強」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji205.htmlのは、その流れである。

しかし、白川静『字統』(平凡社)によれば、

「強」に含まれる「虫」はおそらく蚕(かいこ)のことで、この漢字は本来、蚕から取った糸を張った弓のことを表していた、その弓の強さから転じて「つよい」という意味になった

とあるhttps://kanjibunka.com/kanji-faq/mean/q0435/。だから、「強」については、

会意。「弘」+「虫」で、ある種類の虫の名が、「彊」(強い弓)を音が共通であるため音を仮借した(説文解字他)、

または、

会意。「弘」は弓の弦をはずした様で、ひいては弓の弦を意味し、蚕からとった強い弦を意味する(白川)、

と、上記(漢字源)の、

会意形声説。「弘」は「彊」(キョウ)の略体で、「虫」をつけ甲虫の硬い頭部等を意味した(藤堂)、

と諸説がわかれることになるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%B7#%E5%AD%97%E6%BA%90

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くみいれ


堂の天井(くみいれ)の上にかき上りて、川人は呪を誦(ず)し、大納言は三密を唱へてゐたり(今昔物語)、

とある、

くみいれ、

は、

組入天井、

の略で(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)、

格子形に組んだ天井。6〜8cm角くらいの木材を10〜20cm間隔に組むもので、古代の寺院に多く用いられたろ、

とあるhttps://www.architectjiten.net/ag15/ag15_621.html

格縁(ごうぶち 天井板に格子の形に組まれた木)を碁盤目に組み、その上に裏板を張って仕上げた天井、

である。因みに、

三密、

とは、

身密・語密(口密)・意密(心密)、

の三で、おもに密教でいい、

身密・手に諸尊の印契(印相)を結ぶ、
口密(語密)・口に真言を読誦する、
意密・意(こころ)に曼荼羅の諸尊を観想する、

の総称(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AF%86・日本大百科全書)、顕教(けんぎょう)では、凡人では推し測れない仏の、

身業(しんごう)、
口業(くごう)、
意業(いごう)、

の、

三業(さんごう・さんぎょう)、

をいう(日本大百科全書・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD#%E4%B8%89%E6%A5%AD)。

「組入天井」は、

格天井(ごうてんじょう)、

と言われるもののひとつで、

格間は一般的に45〜90センチ程度の正方形、

をしており、格子の間隔が狭いもの(6〜8センチ角くらいの木材を10〜20センチ間隔)に組むのを、

組入天井、

といい、裏板の代わりにさらに格子を組み入れたものを、

小組格天井(こぐみごうてんじょう)、

という。

格調高い天井様式で、重厚感があり、書院造り、寺院建築、大広間などに用いられている、

とある(https://www.homes.co.jp/words/k5/525001395/)

ただ、

組入天井、

と、

格天井、

とは厳密には異なり、組入(くみいれ)天井は、

梁や桁といった構造材に格子の木組みをのせ、板をかぶせる天井です。一見格天井と同じに見えますが、格天井が梁や桁といった構造材とは完全に独立した天井であるのに対し、組入天井は構造材に直接天井を乗せており、その分天井高が高くなります、

とありhttps://nara-atlas.com/naraarch-glossary/ceiling/、水平な天井としては最も古くから見られる屋根で、法隆寺や唐招提寺の金堂などで見ることができるが、中世までの寺院建築ではたびたび用いられたものの、近代和風建築においては格天井が多用された(仝上)とある。

格天井、

は、

格縁天井、

ともいわれ、

格子状に木材を組む伝統的な天井、

のことで、

構造材に直接格子を組んだ組入天井と違い、格天井は構造材から格子をぶら下げて板を張る吊り天井であるため、相対的に天井が低くなりやすいです。また見た目の上でも、一本一本の材が太く、格間(ごうま 格子同士の隙間の面)が広い豪快な印象のものが多いのも特徴、

とあり、構造や仕上げによって細かいバリエーションがあり、湾曲した格子材(支輪)によって格天井の中央を持ち上げる(天井の一部を一段高くすることを「折上」と呼ぶ)、

折上格(おりあげごう)天井、

や、

その中心をさらに持ち上げる、

二重折上格 (にじゅうおりあげごう)天井、

があり、二条城二の丸御殿内「大広間」など、非常に格式の高い空間に用いられる技法であり、また、格子の間にさらに細かい格子材を入れる、

小組格天井(こぐみごうてんじょう)、

も、施工に手間がかかる分くらいの高い人の居室などに用いられた(仝上)とある。

組入天井、

は、

古代の寺院に多く用いられ、

見れば檜網代(ひあじろ)を以て天井(くみれ)にしたり(今昔物語)、

と、

組み天井、
組み入れ、
くみれ、

とも言った(デジタル大辞泉)。因みに、「檜網代」は、

檜で編んだあじろ(むしろに近い)、それを組み合わせて天井にした、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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貝をつくる


足摺りをして、いみじげなる顔に貝を作りて泣きければ(今昔物語)、

の、

貝を作る、

は、

口をへの字にする、べそをかく、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

口を貝の形にする意(岩波古語辞典)、
泣き出す時の口つきが、ハマグリの形に似ているところから(精選版日本国語大辞典)、

とあり、

口をへの字に曲げて、泣きだす、

意で、

子供や僧について言うことが多い、

とある(仝上)。

たまご」で触れたように、「たまご」の古語は

かひ、

あるいは、

かひこ、

あるいは

かひご、

で(大言海・岩波古語辞典)、「かひこ」は、

卵子(大言海)、

殻子・卵(岩波古語辞典)、

とあて、「かひ」は、

卵、

で(仝上)、「かひ」は、

カヒ(貝)と同根、

とあり(岩波古語辞典)、

カヒは殻の意(岩波古語辞典)、
殻(カヒ)あるものの意(大言海)、

と、「たまご」の殻からきおり、

殻、

は、

かひ、

と訓ませ、「貝」は、

殻(かひ)あるものの義、

とある(大言海)。つまり「かひ」は、

貝、
とも
殻、
とも、
卵、
とも、

当て(岩波古語辞典)、「殻」は、

(卵・貝などの)外殻、

の意である(仝上)。和名類聚抄(平安中期)には、

殻、和名与貝(かひ)、同、虫之皮甲也
貝、加比、水物也、

とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)には、

稃(フ もみがら)、イネノカヒ、

とある。つまり、漢字がない時は、すべても

かひ、

で、漢字によって、

貝、
卵、
殻、

と当て分けたもので、「たまご」の「かひ」は、「殻」から名づけられ、

かひ(殻・貝)の子、

の意味になる(日本語源大辞典)が、

貝と同根、

とされる、「貝(かひ)」の語源は、「殻」に絡ませている、

カヒ(殻)あるところから(箋注和名抄・和訓栞・大言海)、
アラアヒ(殻合)の略(和訓栞・日本語原学=林甕臣)、
殻を背負って歩くところからカラハヒ(柄這)、又はカライリ(柄入)、又はカラユキの反(名語記)、
カはカラ(殻)の下略、イは家の意、又「介」の音が「貝」の訓となる(日本釈名)、
カライヘ(柄舎)から(柴門和語類集)、

などという諸説の他に、

アヒ(合)の義(名言通)、
カヒ(甲)の義(言元梯)、
殻の古代語「介」(ヨロイの中に入ったもの、二枚貝)の義(日本語源広辞典)、
交イ換イから。物々交換に貝を使ったから(日本語源広辞典)、
古く物と交換したところから、カヘ(替)の義(関秘録)、
カは、カシ(炊)の原語、ヒは容器を意味するヘの転(日本古語大辞典=松岡静雄)、
数個取り集める時、カフカフ、カヒカヒと音がするところから(国語溯原=大矢徹)、
「鳥の羽交」「目(ま)な交ひ」などの「交ひ」から(暮らしのことば語源辞典)、

等々の諸説がある。普通に考えると、「殻」「卵」「貝」ともに、

殻(かひ)あるものの義、

とする(大言海)

カヒ(殻)、

からきたとするのが、妥当なのではないか。

「貝」(慣用バイ、呉音・漢音ハイ)は、

象形。われめのある子安貝、または二枚貝を描いたもの、

とあり(漢字源)、

象形。子安貝(インド洋に産するたから貝)のからの形にかたどり、子安貝、ひいて「かい」の意を表す。古代には、子安貝のかいがらが貨幣の役目をしたことから、たからものの意に用いる、

とも(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji60.html)ある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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巻数木(かんじゅぎ)


さて几帳の綻びより巻数木(かんじゅぎ)のやうに削りたる白くをかしげなるが二尺ばかりなるをさし出でて(今昔物語)、

の、

巻数木、

は、

寺から願主へ饗応した経文の巻数を知らせる文書(巻数)を付けて送る木の枝、

かんじゅぼく、

とも訓む(佐藤謙三校注『今昔物語集』)とある。木の枝は、

梅の若枝、
榊の枝、

などを用いた(精選版日本国語大辞典)。

巻数、

は、

かんすう、

と訓むと、

巻物の数、

あるいは、

全集・叢書など、まとまった書物の冊数、

などをいうが、

手洗ひて、いで、その昨日のくゎんずとて、請(こ)ひ出でて、伏し拝みてあけたれば(枕草子)、

と、

かんじゅ、

訛って、

かんず、

と訓むと、

僧が願主の依頼で読誦(どくじゆ)した経文・陀羅尼(だらに)などの題目・巻数・度数などを記した文書または目録、

をいい(大辞泉)、

寺院が願主に贈る、

のだが、後に、これを短冊型の紙にしるし、木の枝などに付けたので、

巻数一枝、

などという(広辞苑)とある。依頼には、

貴族や領主などがとくに寺に依頼して読んでもらう場合、

と、

年中恒例となっている場合、

とがあり、

米穀や金品、荘園などの寄進という反対給付がついている場合が多い、

とある(世界大百科事典)。平安時代から日常化していたが、中世武家時代に入っても、

祈禱寺院に武運長久や怨敵退散を祈らしめて、そのしるしに巻数を献上させている、

とある(仝上)。これを見て願主は安堵し、寺は恩賞を期待したのである。

「巻数」は、後に、神道にもとりいれられ、

祈祷師は中臣祓(なかとみのはらえ)を読んだ度数を記し、願主に送った、

とある(仝上・大辞泉)。

「卷(巻)」(慣用カン、呉音・漢音ケン)は、

会意文字。𠔉は「采(ばらまく)+両手」で、分散しかける物を丸く巻いた両手で受けるさま。卩は人間がからだをまるくかがめた姿。まるくまく意を含み、拳(ケン まるくまいたこぶし)や倦(ケン 身体を軽くまいてかがめる)の原字、

とある(漢字源)。別に、

形声。卩と、音符𢍏(クヱン 𠔉は省略形)とから成る。ひざを折ってからだをまるめる、転じて、物を「まく」意を表す、

とあり(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「分散しかけたもの」の象形と「両手」の象形(「両手で持つ」の意味)と「ひざを曲げている人」の象形から、「まるくまく」、「たばねる」を意味する「巻」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1056.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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空薫(そらだき)


其の間、簾の内より空薫(そらだき)の香かうばしく匂ひ出でぬ(今昔物語)

とある、

空薫、

は、

空炷、

とも当て(広辞苑)、

香を室に豊富にくゆらせるのをいう、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)が、

どこでたくのかわからないように香をたきくゆらすこと(広辞苑)、
どこからともなく匂ってくるように香をたくこと。また、前もって香をたいておくか、あるいは別室で香をたいて匂ってくるようにすること(日本国語大辞典)、
何處よりとも知られぬやうに、香を薫(くゆ)らすこと(客を迎えるなどに)(大言海)、

とあり、だから、

暗薫、

ともいい(仝上)、それをメタファに、

にほひ来る花橘のそらたきはまかふ蛍の火をやとるらん(「夫木集(夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)(1310頃))」)、
匂ひくるそらだきものを尋ぬれば垣根の梅の謀るなりけり(仝上)、

と、

どこから来るともわからないかおり、

の意でも使う(岩波古語辞典・大言海)。また、

そらだきものするやらむと、かうばしき香しけり(宇治拾遺物語)、

と、

来客のある際、香炉を隠しおき、また、別室に火取りを置いて、客室の方を薫くゆらせるためにたいた香、

つまり、

空焼(だ)きの薫物、

を、

空薫物(そらだきもの)、

という。

つまり、

空薫、

とは、

間接的な熱を与える事で薫る御香を焚く方法、

をいい、

練香、
香木、
印香、

等々を焚くhttps://www.aroma-taku.com/page/18。これに対して、

掌の香炉から立ち上る幽玄な香りを楽しむ、

のを、

香炉から香りを、嗅ぐのとは異なり、心を傾けて香りを聞く、

という意味で、

聞香(もんこう)、

というhttps://www.shoyeido.co.jp/incense/howto.html

「栫i薫)」(クン)は、

会意兼形声。「艸+音符熏(クン くゆらす)」で、香草のにおいが、もやもやとたちこめること、

とある(漢字源)。別に、

形声。艸と、音符熏(クン)とから成る。かおりぐさ、ひいて「かおる」「かおり」の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(艸+熏)。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「煙の象形と袋の象形と燃え立つ炎の象形」(「香をたく・良い香り」の意味)から、「香気(良い香り)がする草」を意味する「薫」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1572.htmlある。なお、「空」(漢音コウ、呉音クウ)は、「空がらくる」で触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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押立門(おしたてもん)


土御門(つちみかど)と道祖(さへ)の大路との辺(ほとり)に、檜墻(ひがき)して押立門(おしたてもん)なる家有り(今昔物語)、

の、

押立門、

は、

二本の柱だけを立てて、扉を左右につけた手軽な門、

とある(広辞苑)。写真が見当たらないが、似たものに、

冠木門、

というのがある。「冠木門」は、

門や鳥居などで、左右の柱の上部を貫く横木、

つまり、

冠木(かぶき)、

要は、

貫(ぬき)

を、

二柱の上方に渡した屋根のない門、

をいい(広辞苑)、

衡門(こうもん)、

ともいい、古くは、

隠者の家、貧者の家に用いられた造り、

であるが、

諸大名の外門、

などにも用いられた(精選版日本国語大辞典)。ただ、

江戸時代には櫓門や楼門ではない平門を指していたが、明治以降は屋根を持たない門を指すことが多い、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80。「平門」とは、

ひらもん、
ひらかど、

と訓み、

二本の柱をたて、棟の低い平たい屋根をのせた門、

をいう(広辞苑)。

この「冠木門」の、

冠木、

つまり、

貫、

のない門が、

押立門、

ということになり、「冠木門」よりなお一層粗末な門、ということになる。

「押し立て」は、

やおら抱きおろして戸はおしたてつ(源氏物語)、
豊国の鏡の山の石戸立て隠れにけらし待てど来まさず(万葉集)、

と、

戸を閉てる、
障子をたつ、

の、

閉じる、
閉める、

と、

押し閉める、

意の、

戸や屏風などを押しやってとざす、

意からきていると思われる(精選版日本国語大辞典)。

因みに、「櫓門(やぐらもん)」の「やぐら」は、は、「やぐら」で触れたように、

矢倉、
矢蔵、
兵庫、

等々と当て、「」で触れたように、文字通り、

兵庫、

は武器庫の意なので、

閑曠(いたずら)なる所に兵庫(やぐら)を起造(つく)り(幸徳紀)、

と、

武器を納めて置く倉、

の意と考えられ(広辞苑)、中世の城郭では専ら、

矢蔵、
矢倉、

と記され(西ケ谷恭弘『城郭』)、

飛道具武器である弓矢を常備していた蔵である。敵の来襲に即応できるように、塁上の角や入口に建てられた門上にその常備施設として作られたことに由来する、

とある(仝上)ので、臨戦態勢の中では、すぐに射かけられるように、高い所に「矢倉」が設置されたものと考えられる。だから、「やぐら」の意は、

四方を展望するために設けた高楼、

の意と(広辞苑)なり、

城郭建築では敵情視察または射撃のため城門・城壁の上に設けた、

という意に転じていき、「櫓門」は、

櫓門は、門の上に櫓を設けた、特に城に構えられる門の総称、

で、

二階門、

ともいう(デジタル大辞泉)。

また、「楼門」は、

二階造りの門、

をいう(精選版日本国語大辞典)。だから、

二重門、

も本来は楼門といったが、二重の屋根のあるものとそうでないものがあるため現在は、下層に屋根のある門を、

二重門、

と呼び、下層に屋根のない二階造りの門を、

楼門、

と呼ぶ(精選版日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80)。

「門」(漢音ボン、呉音モン)は、

象形。左右二枚の扉を設けたもんの姿を描いたもので、やっと出入りできる程度に、狭く閉じている意を含む、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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三遅


然るに、既に三地畢(は)てて、押し合ひて乗り組みてうち追ふ(今昔物語)、

にある、

三地、

は、

三遅、

の意で、

罰杯の意から転じて、酒、または酒宴の意、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

三遅(さんち)、

は、

酒宴に遅刻すること、

の意(広辞苑)だが、

酒が十巡した後に遅れて来席すること、

を、

三遅、

といい、

七巡以後を、

二遅、

五巡以後の場合を、

一遅、

といい(岩波古語辞典)、それぞれ、

遅参した者に課した罰酒、

として(精選版日本国語大辞典)、

杯が五回回ったのちに参会した者には三杯、七回り以後の者には五杯、十回り以後の者には七杯の酒を課した、

という、

三種類の飲酒による罰、

である(精選版日本国語大辞典)。平安時代のされた有職故実・儀式書『西宮記(さいきゅうき・せいきゅうき・さいぐうき)』(源高明・撰述)に、

五巡後到著者、可行三盃、七巡後到者、可行五盃、十巡以上到者、可行七盃、一遅、不得通風、二遅、酒濶ヒ堰A三遅、非録事措手籌、

とある。

転じて、

三遅に先だってその花を吹けば暁の星の河漢に転ずるがごとし(和漢朗詠集)、

と、

酒、
または、
酒宴、

の意で使い(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

さらに、

三遅の後、敦延が馬の膝より血はしりければ(古今著聞集)、

と、

競馬(くらべうま)の出走前の作法、

をもいい、

一遅、

は、

間隔を広くとり、

二遅、

は、

ちょうどよい程度にし、

三遅、

は、

鐙(あぶみ)をならすこと、

また、

三度ゆっくり馬をすすめること、

あるいは、鼓の合図で進み、鉦の合図で退き、馬をゆっくりと歩ませること、

ともいう(精選版日本国語大辞典)とある。この意で使う場合、

三地、

とも当てる(仝上)。

「遲(遅)」(漢音チ、呉音ジ)は、

会意。犀は、動物のサイのこと。歩みの遅い動物の代表とされる。遲は、「辶+犀」、

とある(漢字源・角川新字源)が、

『説文解字』では「辵」+「犀」と説明されているが、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように「犀」とは関係がない、

とし、

形声。「辵」+音符「屖 /*LI/」「おそい」を意味する漢語{遲 /*lri/}を表す字、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%B2

なお、「三」(サン)は、「三会」で、「地」(漢音チ、呉音ジ)は、「依怙地」で触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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いとほし


今よりかかる事なせそ。いとほしければ逃すぞ(今昔物語)、

の、

いとほし、

には、意味の幅があり、

翁(おきな)をいとほしく、かなしと思(おぼ)しつることも失せぬ(竹取物語)、

と、

気の毒だ、
かわいそうだ、

の意と、

宮はいといとほしと思(おぼ)す中にも、男君の御かなしさはすぐれ給(たま)ふにやあらん(源氏物語)、

と、

かわいい、

の意、

人の上を、難つけ、おとしめざまの事言ふ人をば、いとほしきものにし給(たま)へば(源氏物語)、

と、

困る、
いやだ、

の意、

女のかく若きほどにかくて(貧しくて)あるなむ、いといとほわしき(大和物語)、

と、

見ていてつらい、
気の毒だ、

の意、

熊谷あまりにいとほしくて、いづくへ刀を立つべしとも覚えず(平家物語)、

と、

かわいそうだ、

の意(学研全訳古語辞典・精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)等々、微妙な意味の違いがあるが、

弱い者、劣った者を見て、辛く目をそむけたい気持になるのが原義、自分のことについては、困ると思う意、相手に対しては「気の毒」から「かわいそう」の気持に変わり、さらに「かわいい」と思う心を表すに至る、いとしはこの転、

とある(岩波古語辞典)。ある意味、たとえば、

弱小的なもの、

を、外から見て、

気の毒、

が、弱小なものへの保護的な感情を表わして、

見るのがつらい、

いじらしい、

かわいそう、

といった状態表現から、

かわいいい、

いとしい、

と、価値表現へと転じていくように見える。

「いとほし」の語源は、

イタワシ(心痛・心労)の転(大言海・俚言集覧・日本語源広辞典)、

と、

イトフ(厭)と同根、イトハ(イトフの未然形)+シイ(岩波古語辞典・日本語源広辞典)、
動詞「いとふ」から派生した形容詞(精選版日本国語大辞典)、

に分かれる。前者は、

いとおし、心苦しい、気の毒、いじらしい、の意を表し、

後者は、

見ていても厭でたまらない、他人への同情の語をあらわす、

とある(日本語源広辞典)。大勢は、

「いたはし」の母音交替形と考えられている、

が、平安時代になって多用され、「いたはし」とも併用されている。その、

いたはし、

は、

「いたはり・いたはる」が富を背景とした物質的な待遇を表わすのに応じて対象を価値あるものとして認め、大切にしようとするのに対して、「いとほし」は、あくまでも精神的な思いやりとして表現されるが、和歌には用いられない、

とあり(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、中世から近世初期ころに、

ハ行音転呼によってイトヲシとなり、さらに長音化してイトーシと発音され、いじらしい・いとしいの意が強くなって、イトシとなった、

ため(精選版日本国語大辞典)、「今昔物語集」から、

糸惜、

と漢字表記され、近世には、

いとをし、
いとうし、

の両形で表記されている(仝上)。

ただ、「いとふ」で触れたように、「いとふ」は、

傷思(いたくも)ふの約か。腕纏(うでま)く、うだく(抱)。言合(ことあ)ふ、こたふ(答)(大言海)、
いやだと思うものに対しては、消極的に身を引いて避ける。転じて、有害と思うものから身を守る意。類義語キラヒは、好きでないものを積極的に切りすて排除する意(岩波古語辞典)、

などとある。この語源からみると、

好まないで避ける

この世を避けはなれる

害ありと避ける

いたわる、かばう、

大事にする、

という意味の変化となり、

身をお厭いください、

という言い方は、

危なきを厭ひ護る、

意より転じて(大言海)、

自愛、

の意に変っていく。「いたはし」は、「いたわる」で触れたように、

いたはし(労はし)、

という形容詞があるが、『岩波古語辞典』は、

「イタは痛。イタハリと同根。いたわりたいという気持ち」

とあり、

(病気だから)大事にしたい、
大切に世話したい、
もったいない、

といった心情表現に力点のある言葉になっている。この言葉は、いまも使われ、

骨が折れてつらい、
病気で悩ましい、
気の毒だ、
大切に思う、

と、主体の心情表現から、対象への投影の心情表現へと、意味が広がっている。こうみると、

いとほし、

と、

いたはし、

の意味の重なりがあることは確かだが、「いとふ」の「いた」も、

痛、

と重なる。とすると、

いとふ、

いたはし、

の語源の対立は、

自分にとって面白くないと思う心情を表わす、

つらい、
こまる、
いやだ、

と、他人に対する同情の心を表わす、

かわいそうだ、
不憫だ、
気の毒だ、

のような(日本国語大辞典)自分に向かう感情との、

二つの方向性、

を言う(今井久代「『源氏物語』の「いとほし」が抉るもの」)のだが、共通に、

いた(痛)、

の含意があって、

いとふ、

と、

いたはし、

との二つの感情表現、

かわいそうで見ていられない、

になっているところが、

いとほし、

という言葉の含意の多重性を表しているように見える。

「痛」(漢音トウ、呉音ツウ)は、

会意兼形声。「疒+音符甬(ヨウ・トウ つきぬける、つきとおる)」、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(疒+甬)。「人が病気で寝台にもたれる」象形(「病気」の意味)と「甬鐘(ようしょう)という筒形の柄のついた鐘」の象形(「筒のように中が空洞である、つきぬける」の意味)から、「身体をつきぬけるようないたみ」を意味する「痛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1025.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
今井久代「『源氏物語』の「いとほし」が抉るもの」https://core.ac.uk/download/pdf/268375063.pdf

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最手(ほて)


最手(ほて)に立ちて、いくばくの程をも経ずして脇にはしりにけり(今昔物語)、
これが男にてあらましかば、合ふ敵なくて最手なむどにてこそあらまし(仝上)、

とある、

最手、

は、主位の相撲、

脇、

は、

次位の相撲、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)が、これだとわかりにくい。

最手、

は、

秀手、

とも当て、

すぐれたわざ、
上手、
てだれ、

の意で、

相撲節(すまいのせち)で、力士の最上位の者の称、

をいい、後世の、

大関にあたり(広辞苑・大言海)、

ほつて、

とも訓ませる。「最手」の語源は、

秀手(ほて)の義(大言海)、
秀(ほ)の意(岩波古語辞典)、
ホは秀の意。(「ほつて」の)ツは連体格助詞(広辞苑・大辞林)、

である。

脇、

は、

最手脇(ほてわき)、
最手の脇(ほてのわき)、

のことで、

相撲節(すまいのせち)で、最手に次ぐ地位の力士、

をいい、現在の、

関脇、

にあたり(仝上)、

助手(すけて・すけ)、
占手(うらて)、

ともいう(岩波古語辞典・大辞林・大辞泉)。和名類聚抄(931〜38年)に、

相撲……本朝相撲記、有占手、垂髪総角、最手、助手等之名別、

とあり、平安時代後期の有職故実書『江家次第(ごうけしだい)』(大江匡房)に、

内取御装束、……一番最手與助手取之、

裏書に、

助手、又曰腋也、最手、腋手、皆近衛府各補其人也、

とある。また平安時代に編纂された歴史書『三代実録』(『日本三代実録(にほんさんだいじつろく』)は、

膂力之士左近衛阿刀根継、右近衛伴氏長竝、相撲最手、天下無雙(仁和二年(886)五月廿八日)、

とある。

すまふ」で触れたように、

すまひ、

は、

相撲、
角力、

と当て、

乃ち采女を喚し集(つと)へて、衣裙(きぬも)を脱(ぬ)きて、犢鼻(たふさぎ)を着(き)せて、露(あらは)なる所に相撲(スマヒ)とらしむ(日本書紀)、

と、

互いに相手の身体をつかんだりして、力や技を争うこと(日本語源大辞典)、

つまり、

二人が組み合って力を闘わせる武技(岩波古語辞典)、

要するに、

すもう(相撲)、

の意だが、今日の「すもう(相撲・角力)」につながる格闘技は、上代から行われ、「日本書紀」垂仁七年七月に、

捔力、
相撲、

が、

すまひ、

と訓まれているのが、日本における相撲の始まりとされる(日本語源大辞典)。「捔力」は、中国の「角力」に通じ、

力比べ、

を意味する(日本語源大辞典)。字鏡(平安後期頃)にも、

捔、知加良久良夫(ちからくらぶ)、

とある(日本語源大辞典)。中古、天覧で、

儀式としての意味や形式をもつもの、

とみられ、

其、闘ふ者を、相撲人(すまひびと)と云ひ、第一の人を、最手(ほて)と云ひ、第二の人を、最手脇(ほてわき)と云ふ、

とあり(大言海)、これが、制度として整えられ、

勅(ちょく)すらく、すまひの節(せち)は、ただに娯遊のみに非ず、武力を簡練すること最も此の中に在り、越前・加賀……等の国、膂力の人を捜求して貢進せしむべし(続日本紀)、

とある、

相撲の節会、

として確立していく(仝上)。これは、平安時代に盛行されたもので、

禁中、七月の公事たり、先づ、左右の近衛、力を分けて、國國へ部領使(ことりづかひ)を下して、相撲人(防人)を召す。廿六日に、仁壽殿にて、内取(うちどり 地取(ちどり))とて、習禮あり、御覧あり、力士、犢鼻褌(たふさぎ 下袴(したばかま 男が下ばきに用いるもの))の上に、狩衣、烏帽子にて、取る。廿八日、南殿に出御、召仰(めしおほせ)あり、力士、勝負を決す。其中を選(すぐ)りて、抜出(ぬきで)として、翌日、復た、御覧あり、

とあり(大言海)、その後、

承安四年(1174)七月廿七日、相撲召合ありて、その後絶えたるが如し、

とある(仝上)。また、別に、

相撲の節は安元(高倉天皇ノ時代)以来耐えたること(古今著聞集)、

ともある(日本語の語源)。高倉天皇は在位は、応保元年(1161)〜治承四年(1181)、承安から安元に改元したのが1175年、安元から治承に改元したのが1177年なので、安元から治承への改元前後の頃ということか。なお、「犢鼻褌(たふさぎ・とくびこん)」については「ふんどし」で触れた。

スマヒの勝ちたるには、負くる方をば手をたたきて笑ふこと常の習ひなり(今昔物語)、

とあるように、禁中では、相撲の節会は滅びたが、民間の競技としては各地で盛んにおこなわれていた(日本語源大辞典)とある。また、「すまひ(相撲)」は、武技の一のひとつとして、昔は、

戦場の組打の慣習(ならはし)なり。源平時代の武士の習ひしスマフも、それなり、

と、

組討の技を練る目的にて、武芸とす。其取方は、勝掛(かちがかり 勝ちたる人に、その負くるまで、何人も、相撲(すまふ)こと)と云ふ。此技、戦法、備わりて組討を好まずなりしより、下賤の業となる(即ち、常人の取る相撲(すまふ)なり)、

とあり(大言海)、どうやら、戦場の技であるが、そういう肉弾戦は、戦法が整うにつれて、下に見る傾向となり、民間競技に変化していったものらしい。

その装束は、「犢鼻褌」で触れたように、

ふんどし(褌)のようなもの

とされ、

今の越中褌のようなもの、まわし、したのはかま(岩波古語辞典)、
股引の短きが如きもの、膚に着て陰部を掩ふ、猿股引の類、いまも総房にて、たうさぎ(大言海)、
肌につけて陰部をおおうもの、ふんどし(広辞苑)、

等々とあるので、確かに、

ふんどし、

のようなのだが、「ふんどし」で触れたことだが、

犢鼻(とくび)、

と当てたのは、それをつけた状態が、

牛の子の鼻に似ていること(「犢」は子牛の意)、

からきている(日本語源大辞典)とする説もあり、確かに、和名類聚抄(平安中期)に、

犢鼻褌、韋昭曰、今三尺布作之、形如牛鼻者也、衳子(衳(ショウ)は下半身に穿く肌着、ふんどしの意)、毛乃之太乃太不佐岐(ものしたのたふさき 裳下(ものしたの)犢鼻褌)、一云水子、小褌也、

とあり、下學集(文安元年(1444)成立の国語辞典)にも、

犢鼻褌、男根衣也、男根如犢鼻、故云、

とある。しかし、江戸中期の鹽尻(天野信景)は、

隠處に當る小布、渾複を以て褌とす。縫合するを袴と云ひ、短を犢鼻褌と云ふ。犢鼻を男根とするは非也、膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に至る故也、

とする。つまり、「ふんどし」状のものを着けた状態ではなく、「したばかま」と言っているものが正しく、現在でいうトランクスに近いものらしいのである。記紀では、

褌、

を、

はかま、

と訓ませているので、日本釈名に、

犢鼻褌、貫也、貫両脚、上繁腰中、下當犢鼻、

と言っているのが正確のようである。

「最」(サイ)は、

会意文字。「おおい+取」で、かぶせた覆いを無理におかして、少量をつまみ取ることを示す。撮(ごく少量をつまむ)の原字。もと、極少の意であるが、やがて「少ない」の意を失い、「いちばんひどく」の意を示す副詞となった、

とある(漢字源)が、別に、

形声。「宀」+音符「取 /*TSOT/」、「宀」が変形して「曰」の形となった。「あつまる」を意味する漢語{最 /*tsoots/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%80

会意。冃(ぼう=冒。おかす意。曰は変わった形)と、取(とる)とから成り、むりに取り出す意を表す。「撮(サイ、サツ)」の原字。借りて、「もっとも」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(日(冃)+取)。「頭巾(ずきん)」の象形と「左耳の象形と右手の象形」(戦争で殺した敵の左耳を首代わりに切り取り集めた事から、「とる」の意味)から頭巾をつまむを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、他と区別して特別とりあげる、「もっとも・特に」を意味する「最」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji661.html、説が分かれている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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もとほし


此の相撲どもの過ぎむとするが、皆水干装束にてもとほしをときて、押入烏帽子どもにてうち群れて過ぐるを(今昔物語)、

にある、

もとほしをときて、

は、

衣のくびのまわり、その紐をといてくつろいだ、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。因みに、「押入烏帽子」とは、

えぼしを目深にかぶること、

とある(仝上)。

ただ、一般には、

押入烏帽子、

は、

兜の下へおしいれて着けるところから、揉烏帽子(もみえぼし)をいう、

とあり(精選版日本国語大辞典)。

揉烏帽子(もみえぼし)、

は、

薄く漆を塗って柔らかに揉んだ烏帽子、

をいい、

甲をば脱童に持せ、揉烏帽(モミエボ)子引立て(源平盛衰記)、

と、

兜(かぶと)などの下に折り畳んで着用したので、兜を脱ぐと引き立てて儀容を整えたため、

引立烏帽子、

ともいい、なえた形から、

萎烏帽子(なええぼし)、

とも、

梨子打烏帽子(なしうちえぼし)、

ともいう(仝上)とある。

「なしうち」は「萎(な)やし打ち」の変化したもの、で、柔らかにつくった烏帽子、

の意で(仝上)、

漆を粗くかけ、先を尖らせた柔らかな打梨(うちなし)の烏帽子、

である。近世は、

縁に鉢巻をつけ、鎧直垂に用いる(仝上)。

えぼしを目深にかぶること、

の注記が何処から来たかはわからないが、そういう烏帽子をかぶっていたというだけでも意味は通る気がする。

さて、「もとほし」は、

純(もとほし)を解て、押入烏帽子共にて打群て過るを(今昔物語)、

と、

純、

とも当て(精選版日本国語大辞典)、

衣服の襟などの紐に通してある金具、

とある(岩波古語辞典)。しかし、「ほとほし」は、

もとほすの名詞形、

「もとほす」は、

モトホルの他動詞形、

で、「もとほる」は、「もどる」で触れたように、

廻る、

と当て、

細螺(しただみ)のい這(は)ひもとほり撃ちてし止(や)まむ(古事記)、

と、

ぐるぐるとね一つの中心をまわる、

意であり(仝上)、「もとほす」も、

寿(ほ)き(祝い)もとほし、献(まつ)り來し御酒(みき)ぞ(古事記)、

と、

ぐるりとまわし、めぐらす、

意で、色葉字類抄(平安末期)には、

繞、縁、モトヲシ、

類聚名義抄(11〜12世紀)には、

縁、ホトリ・ヘリ・モトホシ、

字鏡(平安後期頃)には、

履縁、沓之毛止保之、

天治字鏡(平安中期)に、

衿、領、衣上縁也、己呂毛乃久比乃毛止保志、

とあり、

ぐるりと回る、

意からは、

紐、

よりは、

襟、

のようにも思えるが、「水干」は、

盤領(あげくび 首紙(くびかみ)の紐を掛け合わせて止めた襟の形式、襟首様)、身一幅(ひとの)仕立て、脇あけで、襖(あお)系の上着。襟は組紐(くみひも)で結び留め、裾は袴(はかま)の中に着込める、

もの(日本大百科全書)なので、

紐、

と考えられる。

また、「うへのきぬ」、「宿直」で触れた「束帯」、「衣冠」、「」で触れた「狩衣」、「いだしあこめ」で触れた「直衣(なほし)」は、

イラン系唐風の衣、

で、詰め襟式の、

盤領(あげくび・まるえり)、

で、

中央は、丸く括り、それに沿って下前の端から上前の端まで襟を立てて首上(くびかみ)とし、首上は時代が上るほど高さを加えている。(中略)そして首上の上前の端と、肩通りとに紐をつけて入れ紐といい、前者は丸く蜻蛉(とんぼ)結びとし、後者は羂(わな)として掛け解しに用い、それぞれ受緒(うけお)と蜻蛉(とんぼ)と呼ぶ、

とあり(有職故実図典)、こうした

入れ紐、

の着用法を、

上頸(あげくび)、

という(仝上)ので、やはり、

紐、

なのではないか。

なお、

もとほし、

には、

纏、

とあて、

まつはしのうへのきぬ(縫腋)の略、

の、

まつはしの転、

で、

もとほし、

ともいう(大言海)。「縫腋」は、「うへのきぬ」で触れたように、

前身と後身との間の腋下を縫い合わせている、

ことからくる名称である。

「紐」(慣用チュウ、漢音ジュウ、呉音ニュウ)は、

会意兼形声。「糸+音符丑(チュウ ねじる、ひねって曲げる)」で、柔らかい意を含む、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(糸+丑)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と「手指に堅く力を入れてひねる」象形(「ひねる」の意味)から、ひねって堅く結ぶ「ひも」を意味する「紐」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2650.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

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中結ひ


僧正、工の今日の所作はいかばかりしたると見むと思ひ給ひて、中結ひにして高足駄を履きて杖をつきて(今昔物語)、

にある、

中結(なかゆ)ひ、

は、

腰ところで衣をむすんで、歩行に便にする、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。因みに、「高足駄(たかあしだ)」は、

たかあし、

ともいい、

足駄の歯の高いもの、

をいう(精選版日本国語大辞典)。「足駄」は、

下駄の古称、

で(日本語源大辞典)、

現代では差し歯下駄(げた)の歯の高いものをいうが、古くは下駄の総称、

で、「足駄」は、

足下(あしした)あるいは足板(あしいた)の音便(おんびん)、

とされる(仝上・日本大百科全書)。かつては、

屐(げき)、

をあて、

あしだ、

と訓ませた。平安時代には僧兵や民間の履き物であった。室町時代に一般化した。当初の形は、

長円形の杉材の台に銀杏(いちょう)歯を差し込んだ、

露卯(ろぼう)下駄の高(たか)足駄、

か、

歯の低い平(ひら)足駄、

であった(仝上)。

露卯下駄、

は歯の臍(ほぞ へそ)が台の上に出たものである。江戸末期になると、江戸では差し歯の高い下駄を、

高下駄、
あるいは、
足駄、

歯の低いものと連歯(れんし)下駄を、

下駄、

といい、大坂では足駄の名前は廃れて、差し歯も連歯のものもすべて、

下駄、

というようになった(仝上・日本語源大辞典)とある。

さて、

中結ひ、

は、辞書には、

衣服の裾を引き上げるなどして腰帯を結ぶこと。また、その帯(大辞泉)、
中帯を結うこと。衣服を身丈に着るために、腰の中ほどに帯を結んで腰折りにすること。また、その帯(精選版日本国語大辞典)、
動きやすくするために衣を少し引き上げて腰の辺りを帯で結ぶこと、またその帯(岩波古語辞典)、

などとあるが、

古へ、衣着て、腰を結ひたるもの、

とあり(大言海)、即ち、

今の常の帯なり、

とある(仝上)。「帯」は、古くは、

結び垂らしている、

という意で、

たらし、

といい、前または横で結んでいる。平安時代も、「したうづ」で触れたように、外観から帯を見ることはできないが、

袍袴(ほうこ 男性用の表着である袍と,内側の脚衣である(はかま)の組合せ服)、
裙(くん 女性の下衣、「裳(も)」と同じ意味)、

を着用したころから、

革帯(かわのおび)、
綺帯(かんはたのおび)、
紕帯(そえのおび)、
石帯(せきたい)、
裳(も)の腰、

等々によって前合わせを押さえており、今日風の帯は使用していなかった(仝上)。中世、袴の簡略化が行われ、「壺折」で触れたように、女房装束の大袖(おおそで)衣の表着を脱ぎ、下着に着用していた、

小袖(こそで)、

が表着になるのに伴って、小袖の前合わせを幅の狭い帯で押さえるようになり、

帯、

が表面に現れてくる。室町時代には小袖の発達とともに、小袖、帯の姿となる(仝上)。「中結ひ」は、帯が出てくる過渡の時期の呼名ではあるまいか。平安時代、庶民は、

衣服の前合わせを細い紐状の帯を締めて押さえていた、

とあるので、この「紐」を指している可能性がある。

中結ひ、

は、「帯」の意味のメタファで、

のし進上と染抜たるを、八所縫の小風呂敷にして、腹帯もて中結(ナカユヒ)し(滑稽本「狂言田舎操(1811)」)、

と、

包物などの中ほど、または内部を紐などで結び括ること、

の意でも使った(精選版日本国語大辞典)。また、

竹刀(しない)、

で、

竹刀の棟にあたるところに、柄革から先革にかけて弦を張り、切先から約30cmくらいのところを細い革できつく縛る、

のも、

中結(なかゆい)、

というらしい(世界大百科事典)。

なお、「下駄」については、「下駄をはかせる」、「下駄を預ける」で触れたことがある。

「帯」(タイ)は、

会意。「ひもで物を通した姿+巾(たれ布)」。長い布のおびでもっていろいろな物を腰につけることをあらわす、

とある(漢字源)。別に、

象形。結んだ帯を象る、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%B6

象形。かざりをつけたおびからぬのが下がっているさまにかたどる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「おびに飾りのたれ布が重なり、垂れ下がった」象形から「おび・おびる」を意味する「帯」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji634.htmlあり、象形文字とするのが大勢である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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あななひ


ただ独り寺のもとに歩み出て、あななひどもを結びたる中に立ち廻りて見給ひける程に(今昔物語)、

の、

あななひ、

は、動詞、

あななふ、

の名詞形で、

麻柱、

と当て(大言海)、

支柱(すけ)の義、

とあり、

古、工人、支柱に縁(ふちど)りて、高きに登りしに起こると云ふ、麻柱は、庪柱の誤りならむかと云ふ説あり、即ち、枝柱、支柱なり、

とある(大言海)。

あぐら、
足代(アシシロ)、
足場、
濶ヒ(カンカ 「間」は梁(はり)と梁の間、「架」は桁(けた)と桁の間、結構の意)、

ともいい(仝上・精選版日本国語大辞典)、特に、

高い所に上がるための足がかり、

とある(仝上)。天治字鏡(平安中期)に、

麻柱、阿奈奈比須、

和名類聚抄(平安中期)に、

麻柱、阿奈奈比、

とある。「支柱(すけ)」は、

島ツ鳥、鵜飼が徒(とも)、今須気(すけ)に來ね(古事記)、

と、

助ける、

意の、

助(すけ)、

の義で(仝上)、

家の、傾き倒れむとするを、助け支ふる柱、

の意で、

つっぱり、
かひぼう、

の意である(仝上)。動詞、

あななふ、

は、

扶、
翼、

と当て(仝上)、

まめなる男(をのこ)ども廿人ばかりつかはして、あななひにあげ据ゑられたり(竹取物語)、

と、

助けること。支えること、

の意である。

アは発語、ア擔(ニナ)ふの転にもあるべきか(あさにけに、あさなけに)、

とある(仝上)。

「足」(漢音ショク、呉音ソク、漢音シュ、呉音ス)は、

象形。ひざからあし先までを描いたもので、関節がぐっと縮んで弾力を生み出すあし、

とある(漢字源)。別に、

指事文字です(口+止)。「人の胴体」の象形と「立ち止まる足」の象形から、「あし(人や動物のあし)」を意味する「足」という漢字が成り立ちました。また、本体にそなえるの意味から、「たす(添える、増す)」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji14.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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かたぬぐ


されば皆紐解き袒(かたぬ)ぎて舞ひ戯(たはむ)るる間夜も漸くふけて皆人いたく酔ひにたり(今昔物語)、

の、

袒ぐ、

は、

肩脱ぐ、

とも当て、

上衣(ウハギ)をなかば脱いで、下衣(シタギ)の肩をあらわす、

意で、さらに転じて、

袒ぎて背(せなか)を見しむ(今昔物語)、

と、

はだ脱ぎになる、

意でも使う(岩波古語辞典)。

「袒」(漢音タン、呉音ダン・デン)は、

会意兼形声。旦は、地平線上に太陽が姿をあらわした形、袒は「衣+音符旦」で、着物がほぐれて、中が外にあらわれること。綻と同じく外にあらわれ出るの意を含む、

とある(漢字源)。

裼(漢音セキ・テイ、呉音シャク・タイ)、

と同義、

袒裼(タンセキ)、

で、

かたぬぎ、

の意である(仝上・大言海)。

江南律範、端嚴第一、衲衣袒肩、跣足行乞(李華文)、

と、

袒肩(タンケン)、

ともいい、

司射適堂西、袒決遂(儀礼)、

と、

古えの礼法の一つ、

で、

左の肩を脱ぐ、

意があり、

吉凶ともに行う(刑を受くるには右の肩をぬぐ)、

とあり、また、

罪を謝するために行うを、

肉袒(ニクタン)、

という(字源)とある。で、

肉袒、

には、

はだ脱ぎ、

の意もある(大言海・字源)。また、

太尉周勃入軍門、行令軍中、曰、為呂氏右袒、為劉氏左袒、軍中皆左袒(史記)、

の、

左袒(サタン)、

あるいは、

偏袒(ヘンタン 偏は一方のみを擁護する意)、

は、

肩はだぬいで、加勢する、
肩を持つ、

意である(漢字源・字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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かはらか


年四十餘ばかりなる女の、かはらかなる形して、かやうの者の妻と見えたり(今昔物語)、

の、

かはらか、

は、

こざっぱりした、

意とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

かはらか、

は、

爽、
清、

と当て(大言海)、

こざっぱりしてきれいである(岩波古語辞典)、
さわやかである、さっぱりしている(精選版日本国語大辞典)、
さわやかに、さっぱりとしている意なりと云ふ(大言海)、

といった意で、

カワク(乾)と同根で、歴史的仮名遣は「かわらか」とすべきか(岩波古語辞典)、
カハラカは、乾(カワ)らかの仮名遣なるべきか、乾きたるは、やがて爽(さは)やかなり、爽(サハ)らかという語もあり(大言海)、
「らか」は接尾語。「かはらかなり」と表記される例も多いが、「かわ(乾)く」と語源的に同じとみて「かわらかなり」とする(学研全訳古語辞典)、

と、

乾く、

とつながるようである。そのためか、

胸をあけて乳などくくめ給ふ。……御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰め給ふ(源氏物語)、

と、

(乳など)さっぱりとあがっているさま、乳が出ないさま、

の意でも使っている(岩波古語辞典)。

さはらか、

は、

爽らか、

と当て、

サハヤカと同根、髪の毛の状態に使うことが多い、

として(岩波古語辞典)、

髪の裾少し細りて、さはらかにかかれるしも(源氏物語)、

と、

すっきりしているさま、

の意である。

かわく、

は、

乾く、

と当て、

水分や湿気がなくなる、

意だが、

気沸(け)わくの転、涸るるの意(大言海)、
カワク(香沸)の義(和訓栞)、
カレワクム(涸輪組)の義(言元梯)、
カタワク(形分)の義(名言通)、
水がないと河の神である河伯が苦しむところから、カハク(河伯苦)の義、またはカハク(日焼)か(和語私臆鈔)、

といった諸説よりは、

カハは物のさっぱりと乾燥したさまをいう擬態語、キは擬態語を受けて動詞化する接尾語(岩波古語辞典)、

の方が、使用例にもあっている気がする。「かわく」は、

kawaku、

のようなので、

カハク、

ではなく、

カワク、

で、その意味で、

かはらか、

ではなく、

かわらか、、

という仮名遣いではないか、という説に繋がっている。

「清」(漢音セイ、呉音ショウ、唐音シン)は、

会意兼形声。青(セイ)は、「生(芽ばえ)+井戸の中に清水のある姿」からなり、きょく澄んだことを示す。清は「水+音符青」で、きよらかに澄んだ水のこと、

とある(漢字源)。なお、呉音ショウは、

六根清浄(ショウジョウ)のような特殊な場合にしか用いない、

とある(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+青())。「流れる水」の象形と「草・木が地上に生じてきた象形(「青い草が生える」の意味)と井げた中の染料の象形(「井げたの中の染料(着色料)」の意味)」(「青くすみきる」の意味)から、水がよく「澄んでいる・きよい」を意味する「清」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji586.html

「爽」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、

会意。「大(人の姿)+両胸に×印」で、両側に分かれた乳房または入墨を示す。二つに分かれる意を含む、

とある(漢字源)が、別に、

大とは両手を広げた人の姿。四つの「乂」は吹き通る旋風。人の周囲をそよ風が吹き通って「爽やか」、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%BD

会意。大と、四つの×(り、い 美しい模様)とから成る。美しい、ひいて「あきらか」の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(日+喪の省略形)。「太陽の象形と耳を立てた犬の象形と口の象形と人の死体に何か物を添えた象形」の省略形から、日はまだ出ていない明るくなり始めた、夜明けを意味し、そこから、「夜明け」を意味する「爽」という漢字が成り立ちました。また、「喪(ソウ)」に通じ(「喪」と同じ意味を持つようになって)、「滅びる」、「失う」、「敗れる」、「損なう」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2191.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ねびまさる


寄りて見れば、見し時よりもねびまさりて、あらぬ者にめでたく見ゆ(今昔物語)、

の、

ねびまさる、

は、

成人して、大人びて、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。因みに、「あらぬ者」は、

其の人とは思えぬほど立派に、

とある(仝上)。

ねびまさる、

は、

ねび勝る、

と当てたり(広辞苑)、

老成勝る、

と当てたりする(大言海)が、

(比較して)成熟の度がきわだつ、より生育して見える(岩波古語辞典)、
年齢よりも大人びてみえる、また、年齢とともに美しくなる。年をとって一層立派になる(広辞苑)、
年齢よりもませて見ゆ、また、長ずるに随ひて、美しくなる(大言海)、
年をとるにつれて立派になる、年齢より成熟している(大辞林・大辞泉)、
年齢よりもおとなびてみえる。また、成長するにつれて美しく立派になる(日本国語大辞典)、
成長に従って立派になる。成長して美しくなる。年よりもおとなびる(学研全訳古語辞典)、

などとあり、

その年齢よりは大人びて見える、

意とともに、時間経過を加味して、

成長に従って立派になる、
年齢とともに美しくなる、

の意を併せ持っているが、

綿とりてねびまさりけり雛の顔(五元集)、

と、
年をとる、
ますますふける、

と、

老ゆ、

とほぼ同義でも使われる(日本国語大辞典)。ただ、

年をとり、成熟の度を増す、

という「ねびまさる」の、

成長に従って立派になる、

という含意を残しているように思われる。

「ねびまさる」の、

ねぶ、

は、

老成、

と当てたりする(大言海)が、

年をとったのにふさわしい行動をする意、類義語オユ(老)は、年をとって衰えに近づく意、

とあり(岩波古語辞典)、

(五十歳のこの尼は)ねびにたれどいと清げによしありて、ありさまもあてはかなり(源氏物語)、

と、

いかにも年のいった様子をする、

意や、

(十四歳の)御門は御としよりはこよなうおとなおとなしうねびさせ給ひて(源氏物語)、

と、

(年齢の割に)おとなびた、成熟する、

意で使う。

若き気配の失せてひねたり、

ともあり(大言海)、

およづく、

と同義ともある(仝上)。「およづく」は、

老就く、

と当て(大言海)、

老就(おいづ)くの転、

とあり(仝上)、

此御子のおよづけもておはする御貌、心ばへ、ありがたく(源氏物語)、

と、

児童、生立(おひたち)にまして智慧づく、おとなめく、

意で、

ねびる、
ませる、

と同義とある(大言海)。「およづく」は、

およすぐ、

と同義ともある(岩波古語辞典)。この「およすぐ」は、

仮名文に多く、およすげとあれど、皆誤りなり、

とある(大言海)ように、「およすぐ」は、

活用形は連用形だけ(およすげ)しかない。オヨスは老ユの他動詞形。名義抄に「耆、オヨス」の例があり、ゲは本来気(け)の意の名詞形。したがって年とった様子の意が原義、それがワラハゲ(童)と同じく、下二段活用の語尾としてつかわれたもの(岩波古語辞典)、

連用形「およすけ」だけが使われる。「おゆ(老)」と関係ある語といわれる。「すく」の清濁不明、精神的・肉体的に、年齢以上におとなびているさまを表わす。語源について「老就(付)く」から転じたとする説があるが、「およづく」は古写本の仮名づかいからみて誤りである。また、老人の意の「およすけ」が動詞化したものとする説もある(精選版日本国語大辞典)、

と、対立があるが、

大人ぶる、
成長する、

意で使われ、「ねぶ」と同義で使われている(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。

こうみてみると、

ねびまさる、

は、

おとなびた、

意の、

ねぶ、

に、

まさる、

という意味では、単なる、

大人びた、

ではなく、

年齢を遥かに超えた成熟度、立派さ、

という含意を持っているように見える。

「ねぶ」の語源は、

陳(ひね)ぶの上略、

とする説(大言海)しか載らないが、

ひね、

は、

晩稲、

と当て、

干稲(ヒイネ)の約、

とあり、奥手の稲、

とある(仝上)。色葉字類抄(平安末期)に、

晩稲、ヒネ、

江戸後期の辞書注釈書『箋注和名抄』に、

晩稲、比禰、……於久天乃以禰、

とある。で、その転として、

陳、

と当てる「ひね」は、

殻の去年以前に収穫せるもの(今年の新米に対す)、

意の、

陳米(ひねまい)、

つまり、

古米、

である。箋注和名抄に、

今人称舊穀為比禰、

とある。そのメタファとして、

老成、

とあてた「ひね」は、

ものの熟したること、
ふるびたること、

の意で使い、室町時代編纂のいろは引きの国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』には、

古、ヒネ、

とある。つまり、「ひね」の動詞形、

ひぬ、

は、

古、
陳、

とあて、

恋のひねたが夫婦のいさかい(三代男)、

と、

古くなる、
年を経る、

意である(岩波古語辞典)。

「勝」(ショウ)は、「殊勝」で触れたように、

会意文字。朕(チン)は「舟+両手で持ち上げる姿」の会意文字で、舟を水上に持ち上げる浮力。上に上げる意を含む。勝は「力+朕(持ち上げる)」で、力を入れて重さに耐え、物を持ち上げること。「たえる」意と「上に出る」意とを含む。たえ抜いて他のものの上に出るのがかつことである、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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有識


本(もと)より有識(いうしき)なる者にて、賤しき事をばせずして(今昔物語)、

の、

有識、

は、

教養ある者、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。この、

有識(ゆうしき)、

は、漢語であり、

凡學事毋為有識者所笑、而為見仇者所快(漢書・朱浮傳)

ものしり、
見識ある人、

の意で(字源)、

有識之士、心獨怪之(後漢書・何皇后紀)、

と、

有識之士、

という言い方もある(仝上)。和語でも、

有識(ゆうしき)

は、

いと有識の者の限りなむなりかし、さてはうたはいかがありけむ(宇津保物語)、

と、

広く物事を知っていること、
学問・識見のあること、

の意で使うが、さらに、その知識の中身を、

とりどりに有識にめでたくおはしまさふもただことごとならず(大鏡)、

と、

諸芸諸道にすぐれていること、
芸能が上手であること、また、その人、

の意で用い、また、

たぐひなき天の下のゆうそくにはものし給めれど(夜の寝覚)、

と、

才知・人柄・家柄・容貌などのすぐれた人、

の意で使ったりするが、さらにそれを、

ある有職の人、白き物を着たる日は火ばしを用ゐる、苦しからずと申されけり(徒然草)、

と、

朝廷や公家の制度・故実などに精通していること、また、その人、

の意に特定して使い、この場合、

ゆうしき、
ゆうしょく、

とも訓ませ、

有識、

に、

有職、

とも当てるようになる(日本国語大辞典)。

有職故実、
有識故実、

の、

有識、
有職、

である。また、

有識、

を、

うしき、

と訓ませると、仏語で、

対象を分析、認識する心のはたらきのあるもの、
心識あるもの、

の意(精選版日本国語大辞典)で、

有情(うじょう)、

である。

心識、

とは、仏語で、

心のこと、

であり、

心王の種々のはたらきを蔵するところから、心といい、その識別のはたらきから識というが、小乗ではこれらを同じものとみる、

とあり、また、

六識(ろくしき)、
八識(はっしき)、

などの総称(「八識」で触れた)でもある。

有情(うじょう)、

とは、仏語で、

Sattva(生存するものの意)、

つまり、山川草木などの、

非情・無情、

の対で、

感情など心の働きを持っているいっさいのもの、

つまり、

人間、鳥獣などの生き物、

をいう。この「有識」の意味の派生で、

うしき、

は、

醍醐の惡禅師は、後、有識に任じて、駿河阿闍梨といひけるが(平治物語)、

と、

僧の職名、

として使い、

僧綱(そうごう 僧尼を管理するためにおかれた僧官の職で、僧正・僧都・律師からなる)、

に次ぐ、

已講(いこう 「三会已講師(さんえいこうし)」の略 宮中の御斎会、薬師寺の最勝会、興福寺の維摩会の三会の講師を勤めた)、
内供(ないぐ 「内供奉(ないぐぶ)」の略 宮中の内道場に奉仕し、御斎会(ごさいえ)のときに読師(どくし)、または天皇の夜居(よい)を勤めた)、
阿闍梨(あじゃり ācārya の音訳。弟子を教授し、その軌範となる師の意)、

の総称として用いる(岩波古語辞典・大言海)。

「職」(漢音ショク、呉音シキ)は、

会意兼形声。戠の原字ば「弋(くい)+辛(切れ目をつける刃物)」からなり、くいや切れ目で目じるしをつけること。のち、「音(口に出さずだまっているさま)+弋(めじるし)」の会意文字となり、口で言う代わりにしるしをつけて、よく区別すること、識別の識の原字。職はそれを音符とし、耳をくわえた字で、耳できいてよく識別することを示す。転じて、よく識別でき、わきまえている仕事の意となる、

とある(漢字源)が、別に、

形声。「耳」+音符「戠 /*TƏK/」。「しる」「わかる」を意味する漢語{識 /*stək/}を表す字。のち仮借して「しごと」「公務」を意味する漢語{職 /*tək/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%81%B7

形声。耳と、音符戠(シヨク)とから成る。耳に聞いて知り覚える意を表す。転じて「つかさ」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

形声文字です(耳+戠)。「耳」の象形と「枝のある木に支柱を添えた象形とはた織りの器具の象形」(はたをおるの意味だが、ここでは、「識(ショク)」に通じ(同じ読みを持つ「識」と同じ意味を持つようになって)、「他と区別して知る」の意味)から、よく聞きわきまえる事を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「細部までわきまえ努める仕事」を意味する「職」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji788.htmlあり、いずれも会意文字(既存の複数の漢字を組み合わせて作られた文字)ではなく、形声文字(意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせて作られた文字)説を採る。

「識」(漢音ショク、呉音シキ、漢音・呉音シ)は、「八識」で触れた。

「有」(漢音ユウ、呉音ウ)は、「有待(うだい)」、「中陰」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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おほいらつめ


我はそこのおはしつらむ御坊の大娘(おほいらつめ)なり(今昔物語)、

とある、

大娘(おほいらつめ)、

は、

長女、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

おほいらつめ(おおいらつめ)、

は、

大嬢、

とも(岩波古語辞典・大言海)、

大郎女、

とも(精選版日本国語大辞典)当て、次女に当たる、

弟女(おといらつめ)、
あるいは、
二嬢(おといらつめ)、

の対で(岩波古語辞典・大言海)、

三尾君(みおのきみ)加多夫(かたぶ)の妹、倭比売に娶(めと)して生みませる御子、大郎女(おほいらつめ)(古事記)

と、

第一の女、
大姉(おほあね)、
おおおみな、

つまり、

長女、

の意である(仝上)。

貴人の長女を親しんでよぶ語、

なので、

大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)、

と、

名前の下につける(デジタル大辞泉)。

一に云はく、稲日稚郎姫(いなびのわきいらつめ)といふ。郎姫、此をば異羅菟刀iイラツメ)と云ふ(日本書紀・景行二年)、

と、

いらつめ(郎女)、

は、

いらつこ(郎子)、

の対で、

いらつひめ、

ともいい、

天皇または皇族を父とし、皇族に関係ある女を母とした女子を言うことが多い。記紀の景行以後、殊に応神以後に見える語、

とあり(岩波古語辞典)、そこから、

上代、女子に対する親愛の情をこめた称、

として用いられていく(仝上・精選版日本国語大辞典)。「郎女」の対、

いらつこ(郎子)、

は、

いらつきみ、

ともいい、

宮主矢河枝比売(みやぬしやがはえひめ)を娶(あ)ひて生みませる御子、宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)(古事記・応神紀)、

と、

天皇または皇族を父とし、皇族に関係ある女を母とした男子の称か。系譜の上で応神天皇に関係ある男子に少数見える語、

とあり(岩波古語辞典)、転じて、

時に太子(ひつきのみこ)、菟道(うちの)稚郎子(わかいらつこ)、位を大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)に譲りて、未即帝位(あまつひつきしろしめさす)(日本書紀・仁徳紀)、

と、

上代、男子に対する親愛の情をこめた称、

として用いる(精選版日本国語大辞典)。

郎子(ろうし)、

は、漢語で、

郎君、

と同義で、

幼時、見一沙門、指之曰、此郎子好相表、大必為良将責極人臣、語終失之(北史・暴顯傳)、

と、

他人のむすこの敬称、

である(字源)。しかし、

郎女、

は、

漢語にはない。

郎子(いらつこ)と対にして、日本語のイラの音を表すためにラウの音の「郎」を使ったものと見られる、

とあり(岩波古語辞典)、

郎子、

も、

イラツメ(郎女)に対して作られた語らしく、イラツメに比して例が極めて少ない、

とある(仝上)。

いらつめ、
いらつこ、

の、

いら、

は、

「いら」は「いろも」「いろせ」「かぞいろ」など特別な親愛関係を示す「いろ」と関係があり、「つ」はもと、連体修飾の助詞。「いらつめ」と同様、何らかの身分について用いられた一種の敬称と思われるが、平安時代には衰えた、

とある(精選版日本国語大辞典)が、「同母(いろ)」、「」で触れたように、このイロの語を、

親愛を表すと見る説が多かったが、それは根拠が薄い、

とされ(岩波古語辞典)、この「いら」は、

イロ(同母)の母音交替形、

と見られる(仝上)。当然、そうなれば、

イリビコ・イリビメのイリと同根、

ということになる(仝上)。ちなみに、

御間城入日子印惠命(みまきいりびこいにゑのみこと)……尾張連の祖、意富阿麻比売(おほあまひめ)を娶(あ)ひて生みませる御子、大入杵命(おほいりきのみこと)、次に八坂之入日子命(やさかのいりびこのみこと)、次に沼名木之入日売命(ぬなきのいりひめのみこと)(古事記)、

とある、

いりびこ(入彦)、
いりひめ(入日売)、

は、

崇神・垂仁・景行の三代にあらわれる名、多くイリビコ、イリビメと一対で、兄妹の間の名に使われる。いずれも、天皇・皇族、母は皇族・豪族の娘で、イリビコの中には天皇の位についた者があり、イリビメは祭祀に携わる巫女と思われる者がある。イリは同腹を表す語であったととも考えられる、

とある(仝上)。で、

同母、

と当てる「いろ」は、

イラ(同母)の母音交替形(郎女(いらつめ)、郎子(いらつこ)のイラ)。母を同じくする(同腹である)ことを示す語。同母兄弟(いろせ)、同母弟(いろど)、同母姉妹(いろも)などと使う。崇神天皇の系統の人名に見えるイリビコ・イリビメのイリも、このイロと関係がある語であろう、

とある(岩波古語辞典)。この「いろ」が、

イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
色の語源は、血の繋がりがあることを表す「いろ」で、兄を意味する「いろせ」、姉を意味 する「いろね」などの「いろ」である。のちに、男女の交遊や女性の美しさを称える言葉となった。さらに、美しいものの一般的名称となり、その美しさが色鮮やかさとなって、色彩そのものを表すようになった(語源由来辞典)、

と、色彩の「色」とつながるとする説もあるが、

其の兄(いろえ)~櫛皇子は、是讃岐国造の始祖(はじめのおや)なり(書紀)、

と、

血族関係を表わす名詞の上に付いて、母親を同じくすること、母方の血のつながりがあることを表わす。のち、親愛の情を表わすのに用いられるようになった。「いろせ」「いろと」「いろも」「いろね」など、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

異腹の関係を表わす「まま」の対語で、「古事記」の用例をみる限り、同母の関係を表わすのに用いられているが、もとは「いりびこ」のイリ、「いらつめ」のイラとグループをなして近縁を表わしたものか。それを、中国の法制的な家族概念に翻訳語としてあてたと考えられる、

とされる(仝上)。因みに、「まま」は、

継、

と当て、

親子・兄弟の間柄で、血のつながりのない関係を表す。「まませ」「ままいも」は、同父異母(同母異父)の兄弟・姉妹、

である(岩波古語辞典)。また、

兄弟姉妹の、異腹なるものに被らせて云ふ語、嫡庶を論ぜず、

とある(大言海)。新撰字鏡(898〜901)には、

庶兄、万々兄(まませ)、…(庶妹)、万々妹(ままいも)、継父、万々父(ままちち)、嫡母(ちゃくぼ)、万々波々(ままはは)、

とある。その語源は、

隔てあるところから、ママ(顯閨jの義(大言海・言元梯)、
マナの転で、間之の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
ママ(随)の義。実の父母の没後、それに従ってできた父母の意(松屋筆記)、

等々があるが、たぶん。「隔て」の含意からきているとみていいのではないか。

ただ、

いろ、

は、

イラ(同母)の母音交替形(岩波古語辞典)、
イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

など以外に、その語源を、

イは、イツクシ、イトシなどのイ。ロは助辞(古事記伝・皇国辞解・国語の語根とその分類=大島正健)、
イロハと同語(東雅・日本民族の起源=岡正雄)、
イヘラ(家等・舎等)の転(万葉考)、
イヘ(家)の転(類聚名物考)、
蒙古語elは、腹・母方の親戚の意を持つが、語形と意味によって注意される(岩波古語辞典)、
「姻」の字音imの省略されたもの(日本語原考=与謝野寛)、

等々とあるが、蒙古語el説以外、どれも、「同腹」の意を導き出せていない。といって蒙古語由来というのは、いかがなものか。

イロハと同語、

とある「いろは」は、

母、

と当て、類聚名義抄(11〜12世紀)に、

母、イロハ、俗に云ふハハ、

とある。つまり、

イロは、本来同母、同腹を示す語であったが、後に、単に母の意とみられて、ハハ(母)のハと複合してイロハとつかわれたものであろう(岩波古語辞典)、
ハは、ハハ(母)に同じ、生母(うみのはは)を云ひ、伊呂兄(え)、伊呂兄(せ)、伊呂姉(セ)、伊呂弟(ど)、伊呂妹(も)、同意。同胞(はらから)の兄弟姉妹を云ひしに起これる語なるべし(大言海)

とあるので、「いろ」があっての「いろは」なので、先後が逆であり、結局、

いら、
いり、

とも転訛する「いろ」の語源ははっきりしない。

色彩、

の意の「色」については、「いろ」、「」で触れた。

「大」(漢音タイ・タ、呉音ダイ・ダ)は、「大樹」で触れたように、

象形。人間が手足を広げて、大の字に立った姿を描いたもので、おおきく、たっぷりとゆとりがある意。達(タツ ゆとりがある)はその入声(ニッショウ つまり音)に当たる、

とある(漢字源)。

「カ(郎)」(ロウ)は、

会意兼形声。良は粮の原字で、清らかにした米。郎は、「邑(まち)+音符粮」で、もとは春秋時代の地名であったが、のち良に当て、男子の美称に用いる、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(良+阝(邑))。「穀物の中から特に良いものだけを選びだす為の器具」の象形(「良い」の意味)と「特定の場所を示す文字と座りくつろぐ人の象形」(人が群がりくつろぎ住む「村」の意味)から、良い村を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「良い男」を意味する「郎」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1482.html

「女」は、「をんな」、「」で触れたように、

「女」(漢音ジョ、呉音ニョ、慣用ニョウ)は、

象形、なよなよしたからだつきの女性を描いたもの、

とある(漢字源)が、

象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す、

とあり(角川新字源)、

象形文字です。「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形から、「おんな」を意味する「女」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji32.html。甲骨文字・金文から見ると、後者のように感じる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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かれがれ


漸くかれがれになりつつ、前々(さきざき)の様(やう)にも無かりけり(今昔物語)、

の、

かれがれ、

は、

うとうとしくて、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。「うとうとし」は、

疎疎し、

と当て、

心寄せ聞え給へば、もて離れてうとうとしきさまにはもてなし給はざりき(源氏物語)、

と、

親しくない意の「うとい」を強めて言う語、

で、

いかにもよそよそしい、
疎遠である、

意である(岩波古語辞典・広辞苑)。

かれがれに、

は、

離れ離れ、
枯れ枯れ、
嗄れ嗄れ、
涸れ涸れ、

等々とあてる(日本語活用形辞書)ようだが、

形容動詞「離れ離れだ」「枯れ枯れだ」「嗄れ嗄れだ」「涸れ涸れだ」の連用形である「離れ離れに」「枯れ枯れに」「嗄れ嗄れに」「涸れ涸れに」に、動詞「なる」が付いた形、

の、

かれがれになる、

や、

かれがれなる、

という使い方をする。大言海は、

枯れ枯れ、

とあてる「かれがれ」は、

野辺の草どもも、皆、かれがれになりて(狭衣物語)、

と、

草木の枯れむとする状に云ふ語、

また、

蟲の音もかれがれになる長月の浅茅が末の露の寒けさ(後拾遺和歌集)、

と、

声の嗄れ盡むとする状に云ふ語、

さらに、

小車のわたりの水のかれがれにひれ振る魚は我をよばふか(夫木集)、

と、

水の乾かむとする状に云ふ語、

とし、

離れ離れ、

と当てる「かれがれ」は、

離(か)る、

の意で、

忘れじと言ひはべりける人のかれがれになりて、枕箱取りにおこせてはべりけるに、たまくしげ身はよそよそになりぬとも二人契りし事な忘れそ(後拾遺)、

と、

(多く男女の情交に云ひ)はなればなれに、わかれわかれに、

の意として使うとある。前者は、

枯れ枯れ、
嗄れ嗄れ、
涸れ涸れ、

とも当てると思われる。ただ、和歌では、「離れ離れ」に、

「枯れ枯れなり」とかけて用いることが多い、

とある(学研国語大辞典)ので、本来、

枯れ枯れ、

という状態表現であったものを、価値表現に転じたことで、

離れ離れ

と当てるようになったのではあるまいか。含意には、

枯れ枯れ、

が翳のように残っている。

枯る、
涸る、
乾る、
嗄る、

と当てる、

かる、

と、

離る、

と当てる、

かる、

とでは、意味が違い過ぎる。前者(枯・涸・乾・嗄)は、

カル(涸)と同根、

で(岩波古語辞典・大言海)、

水気がなくなってものの機能が弱り、正常に働かず死ぬ意。類義語ヒ(干)は水分が自然に蒸発する意だけで、機能を問題にしない、

とある(岩波古語辞典)。後者(離)は、

切(き)るると通ず、

とある(大言海)ように、

空間的・心理的に、密接な関係にある対手が疎遠になり、関係が絶える意。多く歌に使われ、「枯る」と掛詞になる場合が多い。類義語アカル(分・別)は散り散りになる意。ワカル(分・別)は一体となっているものごと・状態が、ある区切り目をもって別のものになる意、

とある(仝上)。

「枯」(漢音コ、呉音ク)は、

会意兼形声。古は、人間のかたい頭骨を描いた象形文字。枯は「木+音符古」で、ひからびてかたくなった木、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(木+古)。「大地を覆う木」の象形と「固いかぶと」の象形(「固くなる・ふるい」の意味)から、「木がかれて固くなる・ふるくなる」を意味する「枯」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1177.html

「離」(リ)は、

会意。「离」は大蛇(それの絡んだ形)で、離は「隹(とり)+大蛇の姿」で、もとへびと鳥が組みつはなれつして争うことを示す。ただし、普通は麗(きれいに並ぶ)に当て、二つ並んでくっつく、二つべつべつになる意をあらわす、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%A2)。別に、

形声。隹と、音符离(チ、リ)とから成る。こうらいうぐいすの意を表す。借りて「はなれる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(离+隹)。「頭に飾りをつけた獣」の象形と「尾の短いずんぐりした小鳥」の象形から、「チョウセンウグイス」の意味を表したが、「列・刺」に通じ(「列・刺」と同じ意味を持つようになって)、切れ目を入れて「はなす」を意味する「離」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1304.html

「涸」(慣用コ、漢音カク、呉音ガク)は、

会意兼形声。古は頭蓋骨を描いた象形文字で、かたくかわいた意を含む。固は「囗(四方を囲んだ形)+音符古」の会意兼形声文字で、周囲からかっちり囲まれて動きのとれないこと。涸は「水+音符固」で、水がなくなってかたくなること、

とある(漢字源)。

「嗄」(漢音サ、呉音シャ)は、

会意。「口+夏」。夏はかすれてざらざらすることを水気のかれる夏に喩えた意味。砂(沙)と同系で、ざらざらと摩擦を生じる意を含む、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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めざまし


聟にならむと云はせけれども、高助、目ざましがりて文をだに取り入れさせざりけり(今昔物語)、

の、

めざましがる、

は、

興ざめなこととして、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

めざまし、

は、

目覚まし(岩波古語辞典・学研国語大辞典)、

あるいは、

目醒まし(大言海)、

と当て、

シク活用形容詞で、

(しく)・しから/しく・しかり/し/しき・しかる/しけれ/しかれ、

と活用し(学研全訳古語辞典)、

平安時代の仮名文学では、多く、上位の者が下位の者の言動や状態を見て、身の程を越えて意外であると感じたときに、

はじめより我はと思ひ上がり給(たま)へる御方々、めざましきものにおとしめそねみ給ふ(源氏物語)、

と、

(相手を見下した気分でいたのに)意外で癪に障る、
気にくわない、
目にあまる、

意や、

かの四の君をも、なほかれがれにうち通ひつつ、めざましうもてなされたれば(源氏物語)、

と、

(扱いが意外に粗末で)失礼だ、失敬だ、


の意、

さやかにもまだ見給はぬかたちなど、いとよしよししうけ高きさまして、めざましうもありけるかなと見捨てがたく(源氏物語)、

と、

(つまらぬものと思っていたが)意外に大したものだ、

の意や、

さらには、その価値表現が上がり、

案内も知らぬ者どもを、悪所へ追っ詰め追っ詰め笑ひたるこそ、めざましうして面白けれ(源平盛衰記)、

と、

実に愉快である、

意にまで、

事の状、思ひの外にて、目も醒むるばかりなり、

の意味を、

善悪、褒貶に通じて云ふ、

使い方である(大言海)。類義語に、

あさまし、

とする(仝上)のは、

あさまし

の、

意味の流れが、

意外である、驚くべきさまである(「思はずにあさましくて」)、

(あきれるほどに)甚だしい(「あさましく恐ろし」)、

興ざめである、あまりのことにあきれる(「つつみなく言ひたるは、あさましきわざなり」)、

なさけない、みじめである、見苦しい(「あさましく老いさらぼひて」)、

さもしい、こころがいやしい(「根性が浅ましい」)、

(あさましくなるの形で)亡くなる(「つひにいとあさましくならせ給ひぬ」)、

と、驚くべき状態の状態表現から、その状態への価値表現へと転じたように見えるのと似ている故である。

ただ、

瞠若(どうじゃく)、

とある(大言海)ように、

意外感に目を見張る、

という含意がついて回っているようである。

上記引用の、

目ざましがりて文をだに取り入れさせざりけり、

の、

めざましがる、

は、

目覚ましく思う、

意だが、接尾語「がる」は、

ガは接尾語ゲの古形、見た目の様子、ルは動詞語尾、

で、

気(ケ)あるの約、

ともあり(大言海)、

形容詞語幹・名詞につき、四段活用の動詞をつくる、

とあり(岩波古語辞典)、

ざえがる、
さかしらがる、
こころ強がる、
ねたがる、

等々、平安時代以後用いられた(仝上)。

自分はいかにも……があると思う、
……であるようなそぶりを他人にはっきり示す、
其の風をする、
……ぶる、

の意を表わす(仝上・大言海)とある。

「覺(覚)」(漢音呉音カク、漢音コウ・呉音キョウ・慣用カク)は、

会意兼形声。𦥯は「両手+×印に交差するさま+宀(いえ)」の会意文字で、爻(コウ)と同系のことば。片方が教え、他方が受け取るという交差が行われる家を示す。學の原字。覺はそれを音符とし、見を加えた字で、見聞きした刺激が一点に交わってまとまり、はっと知覚されること、

とある(漢字源)。音は、中国では、覚える意は、漢音呉音カク、さめる意は、漢音コウ・呉音キョウ・慣用カクと使い分けるが、日本では区別せず、カクである。別に、

会意兼形声文字です(學の省略形+見)。「両手と建物の象形と屋根のむねの千木(ちぎ)のように物を組み合わせた象形(「交わる」の意味)」(教える者が学ぶ者を向上させる場、すなわち「学ぶ」の意味)と「大きな目と人」の象形から、学んではっきり見える、「おぼえる・さとる」を意味する「覚」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji603.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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先追


賤しくとも前(さき)追はむひとこそ出し入れてみめ(今昔物語)、

の、

前追ひ、

は、


行列を作り、前払いをさせる身分の人、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。「前追」は、

先追、

とも当て、

貴人が外出する際、その行列の先頭に立って、路上の人々をじゃまにならないように声を立てて追い払うこと。また、その人のこと、

で、

あそび人御車などすぎて、たちをくれて、これもさきをひて、年廿ばかりの男(宇津保物語)
仍りて平旦(とら)時を取りて警蹕(みさきおひ)既に動きぬ(日本書紀)、

と、

さき、
先払い、
先駆け、
先使い、
警蹕(けいひつ・みさきおひ)、
前駆(ぜんく)、
先駆(せんく)、

ともいう(精選版日本国語大辞典・広辞苑・大辞林)。類聚名義抄に、

前駈、オホムサキオヒ、サキバラヒ、

とある。「前駆(駈)」は、

王出入、則自左馭而前駆(周禮)、

と漢語であり、「警蹕」も、

従千乗萬騎、出稱警、入言蹕、擬於天子(漢書)、

と漢語で、

行幸の時、道をいましめ通行どめをする、蹕は、行人を止むる義、

とあり(字源)、

出るときには「警」(気をつけよ)、入るときには「蹕」(止まれ)と声をかけて制止した、

とある(日本大百科全書)。

先駆(センク)、

も、

鄒子如燕、昭王擁篲先駆(孟軻傳)、

と、やはり、

さきばらい、

の意の漢語である。

「蹕」(漢音ヒツ、呉音ヒチ)は、

会意兼形声。「足+音符畢(ヒツ おさえる、すきまを封じる)」。道行く人に警告して、粗相のないように取り締まること、

とある(漢字源)。「蹕」自体に、

さきばらい、

の意があり、

君王の出で行くに、道路を警戒して行人をとどめる、

意である。古今注に、

警蹕所以戒行使也……秦制出警入蹕、

とある(字源)。「警蹕」は、和語では、

警蹕(サキバラヒ)、

と訓ませ、

御膳(おもの)まゐる足音たかし。警蹕(けいひち)などおしといふ声きこゆるも(枕草子)、
昼の御座の方におものまゐる足音高し。けはひなどをしをしといふ声きこゆ(能因本枕)

など(精選版日本国語大辞典)と、

天皇または貴人の出入り、神事の時などに、先払いが声をかけて、あたりをいましめ、「おお」「しし」「おし」「おしおし」などと発声した、

ので(広辞苑)、

その声、

の意もある(日本国語大辞典)。発声者の順位や作法は細かく定められており、天皇の召しを受けた時などの発声は、

称唯(いしょう)、

と言った(精選版日本国語大辞典)とある。

みさきおい、
みさきばらい、
けいひち、

とも言った(仝上・広辞苑)。もともと、

帝王に対してのみ用いられた、

のは漢語で知られるが、日本でも、

もっぱら天皇の出御・入御に際して行なわれ、やや降って陪膳の折にも行なわれ、次第に高貴な卿相公達もまた、私行の時に密かに行なうようになった、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

行幸時に殿舎等の出入りのさい、

だけでなく、

天皇が公式の席で、着座、起座のさい、
天皇に食膳を供えるさい、

等々にも、まわりをいましめ、先払をするため側近者が発した(世界大百科事典)。

「前駆(ぜんく)」も、

前駆御随身(みずいじん)御車に副(そ)ひ、警蹕にして儀式たやすからざりしに(保元物語)、

と、

行列などの前方を騎馬で進み、先導すること、

をいい、古くは、

せんく、
せんぐ、
ぜんぐ、
ぜんくう、
せんくう、

ともいい(「前」は漢音セン・呉音ゼン)、

さきのり、
先駆、
さきがけ、

とも言った(精選版日本国語大辞典)。平安末期『色葉字類抄』には、

「前」「駆」の両字に平声の単点、

があり、共に清音であったことが知られるし、「元亀本運歩色葉集」には、

「先駆」と表記されているところから「セン」と清音で読まれた、

と考えられるが、「駆」には、

「グ」と濁音符号があり、連濁していた、

と見られる(精選版日本国語大辞典)とある。

「前駆」を行なう人には状況に応じて束帯・衣冠・布衣のそれぞれの場合があり、人数自体も一定ではない。路次の行列としては、下臈・上臈・主となる。

「前駆」は古く、

御前(ごぜん)、

といったが、後には、

馬に乗って前を行くもの、

を、

前駆、

主に近いもの、

を、

御前、

と言い分けたとされる(仝上)。

「先」(セン)は、

会意文字。先は「足+人の形」で、跣(セン はだしの足先)の原字。足さきは人体の先端にあるので、先後の先の意となった、

とある(漢字源)。別に、

会意。儿と、之(し 足あと。𠂒は変わった形)とから成り、人よりもさきだつ意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(儿+之)。「人の頭部より前に踏み出した足跡」の象形から「さき・さきだつ」を意味する「先」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji180.html
「追」(ツイ)は、

形声。𠂤(タイ・ツイ)は、物を積み重ねたさまを描いた象形文字。堆(タイ)と同じ。追においては、音を表すだけで、その原義とは関係ない、

とあり(漢字源)、「𠂤」は「堆」の異体字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BF%BDともあり、「後について行く、ひいて『おう』意を表す」(角川新字源)ともある。別に、

会意文字です。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「神に供える肉の象形」から、肉を供えて祭り、先祖を「したう」、「見送る」を意味する「追」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji417.html

「警」(漢音ケイ、呉音キョウ)は、

会意兼形声。左上の部分(音キョク)は、苟(コウ)とは別の字で、「羊のつの+人」からなり、人が角に降れないように、はっと身を引き締めること。それに攴(動詞の記号)を加えたのが敬の字。警は「言+音符敬」で、ことばで注意してはっと用心させること、

とある(漢字源)。別に、

形声、音符「敬」+「言」で、言葉で「いましめる」こと、

とも(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AD%A6)、

形声文字です(言+敬)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「髪を特別な形にして身体を曲げ神に祈る象形と右手の象形とボクッという音を表す擬声語」(「尊敬する」の意味だが、ここでは、「刑(ケイ)」に通じ(同じ読みを持つ「刑」と同じ意味を持つようになって)、「いましめる」の意味)から、「いましめて言う」を意味する「警」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji931.html

「前」(漢音セン、呉音セン)は、

会意兼形声。前のりを除いた部分は「止(あし)+舟」で、進むものを二つあわせてそろって進む意を示す会意文字。前はそれに刀を加えた字で、剪(揃えて切る)の原字だが、「止+舟」の字がすたれたため、進むの意味に前の字を用いる。もと、左足を右足のところまでそろえ、半歩ずつ進む礼儀正しい歩き方。のち、広く前進する、前方などの意に用いる、

とある(漢字源)。同趣旨たが、

会意形声。刀と、歬(セン すすむ。は変わった形)とから成る。刀で切りそろえる意を表す。「剪(セン)」の原字。ひいて「すすむ」「まえ」の意に用いる、

とも(角川新字源)、別に、

会意兼形声文字です(止+舟+刂(刀)。「立ち止まる足の象形と渡し舟の象形」(「進む、まえ」の意味)と「刀」の象形から「まえ、すすむ、きる」を意味する「前」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji221.html

「駆(駈)」(ク)は、

会意兼形声。「馬+音符區(区 小さくかがむ)」。馬が背をかがめて早がけすること。曲がる、屈むの意を含む、

とある(漢字源)。別に、

形声。馬と音符區(ク)とから成る。馬にむち打って走らせる意を表す、

とも(角川新字源)、

形声文字です(馬+区(區))。「馬」の象形と「くぎってかこう象形と多くの品物の象形」(「多くの物を区分けする」意味だが、ここでは、「毆(オウ)」に通じ(同じ読みを持つ「毆」と同じ意味を持つようになって)、「うつ」の意味)から、馬にムチを打って「かる(速く走らせる、追い払う)」を意味する「駆」という漢字が成り立ちました。のちに、「区」が「丘(丘の象形)」に変化して「駈」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1230.html

「払(拂)」(漢音フツ、呉音ホチ、唐音ホツ)は、「払子」で触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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放生会


八月十五日の法會(ほふゑ)を行ひて放生會(はうじやうゑ)と云ふ、これ大菩薩の御誓ひに依る事なり(今昔物語)、

にある、

放生会(はうじやうゑ・ほうじょうえ)、

は、

仏教の不殺生の思想に基づいて、捕らえられた生類を山野や池沼に放ちやる儀式、

をいい(広辞苑)、

殺生戒に基づくもの、

で、奈良時代より行われ(大辞泉)、日本では、養老四年(720)、

合戦之間、多致殺生、宜修放生者、諸国放生會、始自此時矣(扶桑略記)、

と、

大隅、薩摩両国の隼人の反乱を契機として同年に誅滅された隼人の慰霊と滅罪を欲した宇佐八幡宮の祝(はふり・ほうり)大神諸男(おおがのもろお)と禰宜尼大神杜女(おおがのもりめ)による八幡神の託宣により宇佐八幡宮で放生会を執り行った、

のが初例(日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9A)で、

(八月十五日石清水宮放生會)今件放生會、興自宇佐宮、傳於石清水宮(政事要略)、

とある、

石清水八幡宮の放生會は、貞観四年(863)に始まり、その後天暦二年(948)に勅祭となった。律令体制の衰退とともに、

古代の国家制度としての放生会は衰滅していく一方、全国に八幡信仰が広まり石清水八幡宮を中心に放生会が行われるようになった、

とある(仝上)。

放生、

とは、仏語で、

殺生(せつしやう)、

の対、

正旦放生、示有恩也(列子・説符)、

と、

功徳を積むため、魚鳥などをはなちやる、

意だが、

諸国をして毎年放生せしむ(「続日本紀(しょくにほんぎ)」)、

と、

仁政を示すためなどに行った(岩波古語辞典)。

放生会(ほうじょうえ)、

は、

仏教の不殺生(ふせっしょう)、不食肉の戒めに基づき、鳥魚などを野や海などに放って命を救う法会(ほうえ)、

で、仏典には、

生類は人間の前世の父母かもしれないから、その命を救い、教えて仏道を完成させてやるべきだ(「梵網経(ぼんもうきょう)」)、
眼前の動物は六道を輪廻する衆生であり、代々の父母であり我が身である(梵網経)、
釈迦が前世で流水長者であったとき、流れを止められ死にそうな魚のために、20頭の大象に水を運ばせこれを注いで命を救い、忉利天(とうりてん)に生まれさせた(「金光明経(こんこうみょうきょう)」)、

などとある(日本大百科全書・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9A)。

唐の肅宗天下に詔して放生池を置く、

とあるが(金石録)、

長江(揚子江)沿岸の州県城に放生池81所を設けた、

とされ(世界大百科事典)、南北朝時代末の天台智(ちぎ)が、

放生池をつくり殺生を止めた、

話が有名である。また、

四月八日、為佛誕生日、諸寺各有浴佛會、是日西湖作放生會、小舟競賣亀魚螺蚌令放生(宋「乾淳佛時記(周密撰)」)

と(字源)、宋代、杭州西湖の三潭印月の周囲を放生池とし、仏生日に供養の放生会を催したことも有名である。

日本では、応仁の乱の後、石清水八幡宮での放生会も中断し、江戸時代の延宝7年(1679年)に江戸幕府から放生会料百石が下され再開したが、江戸時代の放生会は民衆の娯楽としての意味合いが強く、

放し亀蚤も序(ついで)にとばす也(小林一茶)

は亀の放生を詠んだ句であり、歌川広重の、

名所江戸百景 深川万年橋、

は、亀の放生を描いた絵であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9A

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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あからめ


本の妻の許に返り行きて、本のごと、あからめもせで棲みにける(今昔物語)、

の、

あからめ、

は、

よそめ、

の意で、

わきみ、

つまり、文脈では、

他の女には目もくれず、

の意とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

あから目、
傍目、
傍観、

などと当て(広辞苑・学研国語大辞典・大言海)、類聚名義抄(11〜12世紀)には、

売目、アカラメ、

と、鎌倉初期の歌学書『八雲御抄(やくもみしょう)』(順徳天皇著)には、

外目、アカラメ、

とあり、

獅子(しし)は前に猿の二の子を置きてあからめもせず護りゐたるほどに(今昔物語)、

と、

ちらっと目をそらすこと、
わき見、

の意や、それをメタファに、

いみじき色好みを、かくあからめもせさせたてまつらぬこと(宇津保物語)、

と、

ちょっと他に心を移すこと、
(目が他の異性に移るというところから)男または女が、ほかの相手に心を移すこと、

つまり、

浮気、

の意で使い、さらに、

我が宝の君は、いづくにあからめせさせ給へるぞや(栄花物語)、
と、

(ふと、目がそれているという状態であるというところから)にわかに、姿が見えなくなること、

といった意でも使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。

何の禍ひそも、何の罪そも、不意之間(ゆくりもなく)あがこをあからめさしすること(景行紀)、

と、

ちょっと目をそらす間に、急に身を見えなくする、
忽然と姿をくらます、

意の、

傍目(あからめ)さし、

という言葉もある(岩波古語辞典)。

「あからめ」は、

アカラはアカル(散)の古形(岩波古語辞典)、
離(アカ)れ目の轉、細波(サザレナミ)、さざらなみ。疏疏(アララ)松原、あられまつばら(大言海)、
アカラはアカル(散)と同根(広辞苑)、
「あから」は「別(アカ)る」と同根か。「あから目」とも書く(大辞林)、
「あから」は、「あかる(散・離)」また「あからさま」の「あから」などと同根、「め」は「目」の意(日本国語大辞典)、

等々と、

離る、
散る、
別る、
分る、

ないし、

離散(あか)る、

などと当てる「あかる」からきている(大言海・大辞林・岩波古語辞典・広辞苑)。

あかる、

は、

ひと所に集まっていた人が、そこから散り散りになる、

意である(岩波古語辞典)。類聚名義抄(11〜12世紀)には、

分、アカル、ワカレタリ、

とある。とみると、

あからめ、

は、

目を散らす、

という意味である。

「傍」(漢音ボウ、呉音ホウ)は、

会意兼形声。方は、鋤の柄が両脇に張り出た形を描いた象形文字。旁は、それに二印(ふたつ)と八印(ひらく)を加え、両側に二つ開いた両脇を示す。傍は、「人+音符旁(ボウ)」で、両脇の意。転じて、かたわら、わきの意をあらわす、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。人と、旁(ハウ、バウ あまねく、かたわら)とから成り、「かたわら」の意を表す。「旁」の後にできた字、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(人+旁)。「横から見た人」の象形と「帆(風を受けるための大きな布)の象形と柄のある農具:すきの象形(並んで耕す事から「並ぶ・かたわら」の意味)」(「左右に広がった部分・かたわら」の意味)から、「かたわら」、「よりそう」を意味する「傍」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://xn--okjiten-e37k.jp/kanji1175.htmlある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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