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コトバ辞典


邪見


つねづね、女房に邪見にあたりて、食物も喰はせず(諸国百物語)、

の、

邪見、

は、

邪慳、

とも当て、

冷酷無慈悲、残忍なこと、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

邪険、

とも当てる(精選版日本国語大辞典)が、由来的には、仏語、

五見・十惑の一つ、

の、

因果の道理を無視する妄見、

をいい、

愍念邪見衆生、令住正見(法華経)、

と、


正見に対して、正理に違背する、一切の妄見を云ひ、特に、因果の理法を無視する妄見、

をいい(大言海)、正しくは、

邪見、

のようである。「五見(ごけん)」とは、

仏教で批判される五つの誤った見解(pañca dṛṣṭayaḥ)、

をいい、

@有身見(サンスクリット語satkāya-dṛṣṭi 実体的な自己が存在するという見解(我見)と一切の事物がその自己に属しているという見解(我所見)とを合わせたもの)、
A辺執見(サンスクリット語antagrāha-dṛṣṭi @の後に起こるもので、我は死後も常住である(常見)、あるいは断絶する(断見)というどちらか一方の極端に偏った見解)、
B邪見(サンスクリット語mithyā-dṛṣṭi 因果のことわりを否定する見解)、
C見取見(サンスクリット語dṛṣṭi-parāmarśa-dṛṣṭi 自らの見解だけを最高とし、@ABをはじめとする誤った見解を真実であるとする見解)、
D戒禁取見(かいごんじゅけん サンスクリット語śīla-vrata- parāmarśa-dṛṣṭi 誤った戒律や誓いを守ることで涅槃に導かれるとする見解)、

とされ(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%A6%8B・デジタル大辞泉)、特に、特に因果の道理を否定する見解はいちばん悪質なので、それを、

邪見、

という(ブリタニカ国際大百科事典)とある。

「十惑(じゅうわく)」は、根本煩悩である、

貪(とん)・瞋(し)・痴・慢・疑・見、

の六煩悩のうち、見を、

有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見、

の五見に分けて十と数えた、

十の煩悩、

をいう(精選版日本国語大辞典・仝上)。

「邪見」自体は、

貪著邪見(阿毗(毘)曇論)、

と、漢語で、

よこしまな考え、

の意があり、

天年(ひととなり)邪見にして三宝を不信(うけず)、

と、

よこしまであること、
不正な心、また、そのさま、

の意で使うが、転じて、

まことに人の心にひとを゜あはれむ心もなく、慳邪見ならば人にはあられず(春鑑鈔)、
世間の法には慈悲なき者を邪見の者という(日蓮遺文「顕謗法鈔」)、

などと、

思いやりがなくて無慈悲なこと、
意地悪でむごいこと、

の意で使う(日本国語大辞典)。現在では多く、

邪慳、

の字を用いる(仝上)。

「邪見」を用いた言い回しに、

邪見で物事にかど立てることを角にたとえた、

邪見の角、

や、

邪見が鋭く人を害することを刃にたとえた、

邪見の刃、

があるが、江戸時代の文化の頃、

無慈悲だ、

の意味で、

じやけんだのふの流言(はやりことば)は大町にもはかず(文化五年(1808)「やまあらし」)、

と、

邪見だ喃(じゃけんだのう)、

という言葉が吉原伏見町近辺の流行語であった(江戸語大辞典)とある。

「邪」(漢音シャ、呉音ジャ)は、

会意兼形声。牙は、食い違った組み木のかみあったさまを描いた象形文字。邪は「邑(むら)+音符牙」。もと琅邪という地名をあらわした字だが、牙の原義である食い違いの意をもあらわす、

とある(漢字源)が、地名から、借りて「よこしま」の意に用いる(角川新字源)とある。別に、

形声文字です(牙+阝(邑))。「きばの上下がまじわる」象形(「きば」の意味)と「特定の場所を示す文字と座りくつろぐ人の象形」(人が群がりくつろぎ住む「村」の意味)から、地名の「琅邪(ろうや)」の意味を表したが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「よこしま」を意味する「邪」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1484.htmlのが分かりやすい。

なお、「慳」は、「慳貪」で触れた。「見」は、「目見(まみ)」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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弁才天


その子、母を弁才天にいはひ(斎)しより、その後はしづまりたると也(諸国百物語)、

の、

弁才天、

は、

弁財天女、

で、

民間では、水神、音楽神であるとともに、嫉妬する女神としての信仰があった、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「弁(辯)才」は、

梵語Sarasvat(薩囉薩伐底・薩羅婆縛底 サラサバティ)の訳語、

で(大言海・日本国語大辞典)、

天竺(インド)の神の名、

で、

聖河の化身、

といい(仝上)、のち、

学問・芸術の守護神、

となり、吉祥天とともにインドで最も尊崇された女神とされる(広辞苑)。仏教にはいって、

舌・財・福・智慧・延寿、

などを与え、

音楽・弁才・財福などをつかさどる女神、

とされ、

妙音天、
美音天、

ともいい(仝上・広辞苑)、

大弁才天、
弁天、

ともいう(仝上)その像は、

八臂(弓・箭・刀・・斧・杵・輪・羂索を持つ)、

また、鎌倉時代には、

二臂(二手で琵琶を持つ)、

の女神像が一般化するが、『金光明最勝王経』大弁財天女品によると、

頭上に白蛇をのせ、鳥居をつけた宝冠をかぶった八臂の女神で、持物は弓、箭、刀、さく、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんじゃく)、

で、密教に入って、

二臂で琵琶を持った姿で胎蔵界曼荼羅外金剛部院、

にある(ブリタニカ国際大百科事典)。

因みに、「羂索(けんじゃく)」は、

「羂」は「わな」の意、

の意で、

仏菩薩の、衆生を救い取る働きを象徴するもの、

とされ、色糸を撚(よ)り合わせた索の一端に鐶、他の一端に独鈷(どっこ)の半形をつけたもので、密教で用いる。不動明王、不空羂索観音、千手観音などがこれを持つ、

とある(精選版日本国語大辞典)。

後世、弁才天は、

吉祥天、

と混同され、また穀物の神である、

宇賀神、

とも同一視されて(仝上)、室町時代末期には、

福徳賦与の神、

つまり、

財福(福徳や財宝)を授ける女神とも考えて、

弁財、

の字を当て、

七福神の一、

に数えた(岩波古語辞典・日本国語大辞典)。「七福神」については触れた。

弁才(財)天女、

ともいう(仝上)。古来、

安芸の宮島、
大和の天の川、
近江の竹生島、
相模の江ノ島、
陸前の金華山、

を五弁天と称す(広辞苑)らしい。

天女の姿の弁財天、

というのは、江戸時代になり、七福神が信仰されるようになって認識されるようになったが、この天女姿の弁財天のルーツは、元々、七福神の女神が、

弁財天、

ではなく、

吉祥天(きちじょうてん)

だったため、天女姿をしていた吉祥天からきたものhttps://www.s-bunsan.jp/choeiza/column/column2021-1らしい。時代が進むにつれ、うまく日本の神様と習合して日本人に受け入れられた弁財天に対し、吉祥天信仰は徐々に薄れ、弁財天が代わりに七福神に入れられようである。その際に、吉祥天と同じ天女姿をした弁財天となったとみられている(仝上)。

因みに、吉祥天(きちじょうてん・きっしょうてん)も、

バラモン教の女神で、のちに仏教に入った天女。顔かたちが美しく、衆生に福徳を与えるという女神、

であり、日本では金光明最勝王経会や吉祥悔過会の主尊としてまつられた例が多く、像容はふつう、

宝冠、天衣をつけ、右手を施無畏印、左手に如意宝珠をのせ、後世も美貌の女神、

として親しまれ、

奈良薬師寺の画像、
東大寺法華堂の塑像、
京都浄瑠璃寺の木像、

が名高い。

吉祥功徳、
吉祥天女、
吉祥女、
吉祥神、

等々とも呼ばれる(日本国語大辞典)。

なお、梵語Sarasvat(サラスバティー)という古代インドの女神は、元来、

水を湛(たた)える、

を意味する女性名詞にかかる形容詞であるが、固有名詞となって西北インドの、

インダス川の東方を流れていたサラスバティー川(現在のものとは別と考えられる)が女神として神格化されたもの、

となり(日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典)、インド最古の聖典『リグ・ベーダ』では、河川神の中で最も有力な地位を占め(世界大百科事典)、

豊穣(ほうじょう)、生産、富、浄化の力をもつ、

とされ、後代には、

学問、技芸の神、雄弁と知恵の保護神、

として高い地位を与えられた(仝上)。これが、仏教に取りいれられて、弁才天となった。

「サラスバティー」は、

ヴィーナ、

と呼ばれる琵琶に似た弦楽器を持っており、

サラスバティー河の流れる川のせせらぎ、

から、

流れるもの、

を連想する、

音楽や言葉などの才能をもたらす神、

とされたhttps://www.s-bunsan.jp/choeiza/column/column2021-1とある。弁才天の琵琶につながる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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紙燭


神前の灯明にて、紙燭をして、二階へあがりてみれば(諸国百物語)、

の、

紙燭、

は、

紙を撚(よ)って、それに火をつけて闇中のあかしにすること、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

紙燭、

は、

脂燭、

とも当て、

ししょく、

とも訓ますが、

シソク、

は、

(シショクの)ショクの直音化、

である(岩波古語辞典)。和名類聚抄(平安中期)に、

紙燭、族音、之曾玖、

とあるので、

シショク→シソク、

と転訛したことになる。

宮中などで夜間の儀式・行幸などの折に用いた照明具、

で(広辞苑)、

室内用のたいまつともいうべきもの、

とあり(岩波古語辞典)、

陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取りて、其の雄柱を牽き折(か)きて秉炬(タヒ)として(日本書紀)、

の、

手火(たひ)の一種、

である(日本大百科全書)。

松の細き材の、一尺五寸(45センチ)許なるが、端を焦し、油を塗りて、被を點(とぼ)す、樹を青紙にて巻く(大言海)、
松根や赤松を長さ約1尺5寸、太さ径約3分(9ミリ)の棒状に削り、先の方を炭火であぶって黒く焦がし、その上に油を塗って点火するもの。下を紙屋紙(こうやがみ)で左巻にした(広辞苑)、

ものだが、また、

紙縷(こより)に油を漬して點すもの(大言海)、
布や紙を撚(よ)り合わせて蝋(ろう)や油、あるいは松脂(まつやに)などを塗り込んでつくったもの(日本大百科全書)、

もあり、

スギの芯、マツの小枝、

なども使われた(仝上)とある。一般に使われたものに、

小灯、
小点、

と当てる、

コトボシ、

というものがある(仝上)。後の形態だと、

手燭(てしょく)、

小提灯(こぢょうちん)、

などがそれにあたる(精選版日本国語大辞典)が、

マツの「ヒデ」(マツの根の脂味(あぶらみ)の部分)を30〜40センチメートルの手ごろな長さに切り、大人の親指ほどの細さに引き割って、その先端に火を点じ、

夜間室内の灯火に使った(仝上)とある。

なお、紙燭に火をともすことを、

さす、

という(学研全訳古語辞典)とある。

つとめて、蔵人所のかうやがみひき重ねて(枕草子)、

と、

紙屋紙(こうやがみ)、

というのは、

「かみやがみ(紙屋紙)」の変化した語、

で、

うるはしきかむやかみ、陸奥紙(みちのくにがみ)などのふくだめるに(源氏物語)、
ただうちの見参とて、かひやがみにかきたるふみの、ひごとにまいらするばかりを(今鏡)、
つとめて蔵人所のかや紙引かさねて(能因本枕)、

と、訛って、

かんやがみ(紙屋紙)、
かいやがみ(紙屋紙)、
かやがみ(紙屋紙)、

などともいう。元来は、

奈良時代・平安初期まで、朝廷の紙屋院(かみやいん)で製した官庁用紙、

をいうが、平安時代には、

京都の紙屋院で造られた反故(ほご)紙を漉(す)き返した紙、

をいう。字を書いた故紙(こし)を漉き返したので薄墨色をしており、

薄墨紙(うすずみがみ)、

ともいわれ、特に綸旨(りんじ)はこの紙を用いて書かれることになっていたので、

綸旨紙、

ともいい、

宿紙(すくし・しゅくし)、
水雲紙(すいうんし)、
還魂紙(かんこんし)、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

なお、

紙燭が一、二寸(約三〜六センチ)燃える短い間に作る歌、

また、

それを作る競技、

に、

紙燭の歌(うた)、

というのがある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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芝草(しそう)


この(聖武天皇の)善行によって、空飛ぶ虫も芝草をくわえて寺の屋根をふき、地を走る蟻も砂金を積み上げて塔を建てた(日本霊異記)、

の、

芝草、

は、

しそう、

と訓み、

さいわいだけ、

の意で、

王者慈仁の時に生ずる、

と注記がある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。

紀伊国伊刀郡、芝草を貢れり。其の状菌に似たり(天武紀)、
押坂直と童子とに、菌羹(たけのあつもの)を喫(く)へるに由りて、病無くして寿し。或人の云はく、盖し、俗(くにひと)、芝草(シサウ)といふことを知らずして妄に菌(たけ)と言へるか(皇極紀)、

とある、

芝草、

は、

万年茸(まんねんだけ)、
幸茸(さいわいたけ)、

ともいい、

霊芝(れいし)の異称、
万年茸(まんねんたけ)の漢名、

であり(広辞苑)、

きのこの一種で、瑞相(ずいそう)をあらわすとされた草、

である(精選版日本国語大辞典)。他に、

門出茸(かどでたけ)、
仙草(せんそう)、
吉祥茸、
霊芝草、
赤芝(せきし)、
福草(さきくさ)、
桂芝(けいし)、
聖茸(ひじりたけ)

などの呼称でも呼ばれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9D・世界大百科事典・字源)、

福草(さきくさ)、
幸茸(さいわいたけ)、

と呼ぶようになったのは、

因露寝、兮産霊芝、象三徳兮應瑞圖、延寿命兮光此都(班固・霊芝歌)、

といった、中国文化の影響をうけてからのことである。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、

芝は神草なり、

とありhttp://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/tatuta/kinoko/kinoko60.htm

霊芝、一名壽濳、一名希夷(続古今註)、

と、

寿潜、
希夷、
三秀、
菌蠢、

別名もある(仝上・字源)。

『説文解字』には、

青赤黄白黒紫、

の六芝、

とあり、『神農本草経』や『本草網目』に記されている霊芝の種類は、延喜治部省式の、

祥瑞、芝草、

の註にも、

形似珊瑚、枝葉連結、或丹、或紫、或黒、或黄色、或随四時變色、一云、一年三華、食之令眉壽(びじゅ)、

とあるように、

赤芝(せきし)、
黒芝(こくし)、
青芝(せいし)、
白芝(はくし)、
黄芝(おうし)、
紫芝(しし)、

とあるhttps://himitsu.wakasa.jp/contents/reishi/が、紫芝は近縁種とされ、他の4色は2種のいずれかに属するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9Dとある。

担子菌類サルノコシカケ科(一般にマンネンタケ科とも)、

のキノコで、

北半球の温帯に広く分布し、山中の広葉樹の根もとに生じる。高さ約10センチ。全体に漆を塗ったような赤褐色または紫褐色の光沢がある。傘は腎臓形で、径五〜一五センチメートル。上面には環状の溝がある。下面は黄白色で、無数の細かい管孔をもつ。柄は長くて凸凹があり、傘の側方にやや寄ったところにつく、

とあり(精選版日本国語大辞典)、乾燥しても原形を保ち、腐らないところから、

万年茸(まんねんだけ)、

の名がある。

庭にマンネンタケが生えると瑞兆とし、一家のあるじが旅立つときはマンネンタケを門先にさげて無事の帰還を祈る地方もあった、

といい、

カドデタケ、

の名はそこから出た(世界大百科事典)。

成長し乾燥させたものを、

霊芝、

として用いるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9Dが、後漢時代(25〜220)にまとめられた『神農本草経』に、

命を養う延命の霊薬、

として記載されて以来、中国ではさまざまな目的で薬用に用いられ、日本でも民間で同様に用いられてきたが、伝統的な漢方には霊芝を含む処方はない(仝上)とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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自度僧


むかし、山城国にひとりの自度僧がいた。名前はわからない(霊異記)、
石川の沙弥(さみ)は自度僧で本姓もあきらかではない(仝上)、

の、

自度僧、

は、

公の許可を受けないで、勝手に僧形となった人のこと、当時は僧尼は官の感得を受けている、

とあり(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)、

私度僧、

ともいう(仝上)とある。

剃髪・出家して仏道を修行し(入道)、僧尼となることを、

得度(とくど)、

というが、律令時代には国家による一定の手続を要する許可制がとられていた。官の許可をえて得度したものを、

官度僧、

というのに対して、官の許可をえず私的に得度したものを、

私度僧、

といった。

私に入道し及び之を度する者は、杖(じよう)一百(戸婚律(ここんりつ))、

と私度を厳罰し(唐の戸婚律の規定をそのまま継受したもの)、また、

私度にかかわった師主(ししゅ 学問修行で、よりどころとなる師)、三綱(さんごう 仏教寺院において寺院を管理・運営し、僧尼を統括する上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(ついな・維那とも)の3つ僧職の総称)らを還俗(げんぞく 僧尼身分の剝奪)に処する、

ことを規定している。僧尼令(そうにりよう)には、

僧尼となれば課役免除の特典、

があり、課役をのがれるため、勝手に得度することを防止していた(世界大百科事典・日本大百科全書)。ただ、

私度僧、
と、
自度僧、

については、上記引用の『日本霊異記』に登場する、

自度の沙弥(しやみ)、

という場合の、

自度、

は、師主に就かないでみずから剃髪・出家したものを指し、

私度僧、

とは少し概念を異にする(仝上)ともある。なお、「沙弥」については、「沙喝」で触れたが、「僧尼令」のいうのは、

僧・尼の注釈に沙弥・沙弥尼を加えており、僧尼と同じ扱いをうけている、

とある。ただ、実際は僧の下に従属し、律師以上の僧官には従僧以下、沙弥と童子が配されていた(仝上)。

具足戒を受けず、沙弥のままいた人々も多く、また正式のルートによらないで出家した僧(私度僧)は私度の沙弥とか在家沙弥と呼ばれた(仝上)。私度の沙弥は、

8世紀以降とくに輩出し、ある者は正規の手続をへて官寺の僧となり、ある者は官寺や僧綱制の外縁にあって、古代の民間仏教を支える基礎となった、

とある(仝上)。

近年の研究によれば、

私度が実際に取り締まられた実例はなく、杖一百に処された者は1名も確認できない、

とある(仝上)が、

知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して、近畿地方を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業に活動したこと、

が、養老元年(717)4月23日、詔をもって、

小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している、

として、僧尼令違反で糾弾されて弾圧を受けた例があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、

指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、
豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかったこと、
行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないこと、

などから、朝廷は天平三年(731)に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した(仝上)とある。

この例以外、政府に禁圧されなかった私度、褒章を受けた私度、私度として公文書に署名した者が確認でき、追加法を見ても、私度は実際には容認されていたと考えられる(日本大百科全書)との見方もある。

空海、
景戒(きょうかい 日本霊異記の編者)、
円澄(えんちょう)、

も、最初私度として活動し、のち官度に転じた(日本大百科全書)。確かに、養老年間(717〜24)頃には僧俗の秩序を乱す行為として、僧尼令などによる弾圧の対象であったとされるが、

僧尼令違反を理由に処分されたのは行基、

のみで、天平三年(731)に、

行基の率いる私度僧集団からの得度、

が条件付きで認められるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%A7%81%E5%BA%A6%E5%83%A7など、次第にその存在が容認されるに至ったという経緯のようだ。

なお、『日本霊異記』については触れた。

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風流


大和國宇太の郡漆部(ぬりべ)の里に風流な女がいた。漆部造麿(みやつこまろ)の妻であった(霊異記)、

の、

風流、

は、ここでは、

世俗の名利に無関心で、いつも身を浄らかに持つ清浄高邁な行為をさしている、

とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。

風流(ふうりゅう)は、古くは、

ふりゅう、

とも訓んだ(大辞林)が、「風流」は、漢語で、

士女沾教化、黔首仰風流、自中興以來、功臣将相、継世而隆(後漢書・王暢傳)、

と、

先王の遺風餘流、
なごり、

の意や、

天下言風流者、以王樂為稱(晉書・樂廣傳)、

風雅、

の意でも使う(字源)。「風流」は、

風聲品流の略、

とあり(大言海)、

風聲品流能擅一世、謂之風流也(剪燈新話(せんとうしんわ 明代の怪異小説集)牡丹燈記)、

とするが、前後が逆で、古くは、

中国では、最も古くは先王の美風のなごりの意であったらしいが、やがて、俗ではない品格とか優美な魅力の意で使われた、

とあり(岩波古語辞典)、日本でも、室町時代編纂のいろは引きの国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』は、

風流、フウリュウ、遺風余風之義也、

とあり、風姿花伝では、

新しきを賞する中にも、またく風流を邪(よこしま)にする事なかれ、

と、遺風の意で使っている。しかし、早く万葉集以来、平安期でも、

風流、

を、

ミサヲ、
ミヤビヤカ、

と訓ませる(岩波古語辞典)など、

ここに前(さき)の采女あり、風流びたる娘子(おとめ)なり。左手に觴を捧げ、右手に水を持ち(万葉集)、
雖風流如野宰相、軽情如在納言、而皆以他才聞(古今集・漢序)、

と、

粗野・平凡ではない人品の良さ、風雅な情趣を解すること、

の意で使い、さらに、

その様例の車に似たりといへども、……風流詞を以て云ふべきにあらず(御堂関白日記)、
こがね・しろがねなど心を尽して、いかなることをがなと風流をしいでて(大鏡)、

と、

芸術的な衣装を凝らすことなどの意に転じていく。江戸後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗、事物を説明した類書(百科事典)『守貞謾稿』には、

夫男女ノ風姿タル、風流美麗ハ古今人ノ欲スル所ナリ、而カモ古人ハ、善美ニシテ流行ニ合ヒ、意匠ノ精シクシテ野卑ニ非ザル、乃チ之ヲ風流ト云フ、

とある。特に、

ふりゅう、

と訓む場合、室町時代の意義分類体の辞書『下學集』に、

風流、フウリュウ・フリュウ、風情義也、日本俗呼拍子物曰風流、

とあるように、平安時代末期以降、

みやびやかな、

の意が由来(広辞苑)らしいが、

御堂の庭に桟敷を打つて舞台をしき、種々の風流を尽さんとす(太平記)、

と、
和歌や物語を意匠化した作り物、

をさすようになり、

拍子物(はやしもの)を伴い、華麗な行粧・仮装をこらしてする祭礼、また、その拍子物、

をいい、後には、

趣向を凝らした祭礼の傘鉾、山車(だし)、

さらに、

それを取り巻いて踊ること、

をも称するようになる(岩波古語辞典)。「風流」(ふりゅう)は、だから、当初の、

祭礼の行列などで、服装や笠に施す華美な装飾、

の意から、

風情ある造り物、

を意味し(学研全訳古語辞典)、転じて、室町末期には、

造り物で飾った笠(カサ)・鉾(ホコ)などや仮装した者を中心に、囃し物を伴って群舞した集団的歌舞、

をいうようになった(広辞苑・日本国語大辞典)。

風流踊(ふりゅうおどり)、
風流傘(ふりゅうがさ 趣向をこらし種々飾りたてた長柄の傘。祭礼の行列などに用いた)、
風流車(ふりゅうぐるま 種々の装飾を施した車。賀茂祭などの祭礼の行列に加わる)、

等々といった言葉がある(仝上)。そうした、

群舞、

は、

念仏踊・太鼓踊・獅子踊・小歌踊・盆踊・奴踊・練物、

などにもつながり(仝上)、

浮立、

とも当て(仝上)、現在も広く行われている。そうした流れの一つに、

寺院で、法会のあと僧侶・稚児たちが行った遊宴の歌舞、

である

延年舞、

がある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

平安中期に起こり、鎌倉、室町時代に盛んに行なわれ、

比叡山の延暦寺、奈良の東大寺・興福寺その他の大寺で、大法会(だいほうえ)のあとの遊宴の席で、余興として演じられた、

もので、伴奏楽器は、

銅鈸子(どうばっし 金属製シンバル)、
鼓、

などで、

大風流、
小風流、

の別がある(仝上)という。能楽にもとり入れられ、特別な場合に、

式三番(翁)に付加して行う演目、

で、狂言方が担当するので、

狂言風流、

ともいう(仝上)とある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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夏安居


奈良の都の元興寺の僧慈応大徳が、檀家の招きによって、夏安居(げあんご)を行い、法華経を講義した(霊異記)、

の、

夏安居(げあんご)、

は、

雨安吾(うあんご)、

ともいい、

僧が陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日間、家にこもって仏道を修行すること、

とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)が、本来は、

インドで雨期を安居の時期とした、

ことからいう(広辞苑)もので、

安居、

は、

梵語(サンスクリット)の vārsika、または varsa(ヴァルシャ)、

の訳で、

雨、
雨期、

の意である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B1%85・デジタル大辞泉)。なお、

あんご、

の、

ご、

は、

居(きょ)の呉音、

である(大言海)。南宋時代の梵漢辞典『翻訳名義集(ほんやくみょうぎしゅう)』には、「安居」について、

南山鈔(南山律鈔)云、形心摂静曰安、要期(ヨウゴシテ)、住此曰居、

とある。

らふたく」、「」でも触れたことがあるが、

「臘」は、古代中国の、

臘祭(蜡祭)、
臘月(ろうげつ)、

という、

冬至後、第三戌の日の祭、

の意から、

僧臘(そうろう)、
法臘(ほうろう)、
夏臘(げろう)、
戒臘(かいろう)、

などと、

年の意、

に転じて、

我生五十有七矣、僧臘方十二(太平廣紀)、

とあるように、

僧の得度以後の年数を数ふる、

にいう(字源・漢字源・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%98)。

出家する者、髪を剃り受戒してより、一夏九旬の閨A安居(あんご)勤行(ごんぎょう)の経るを云ふ、これを、年掾A法掾A僧掾A戒揩ネどといふ、僧の位は受戒後の揩フ數に因りて次第す、之を搦氈iらふじ)と云ふ(僧の歳を記するに、俗年幾許、法臘幾許と云ふ、臘は安居の功(安居の功は、陰暦4月16日から7月15日までの3か月間の修行、この期間を一夏(いちげ)という)より數ふ)、又、在俗の人にも、年功を積むことに称ふ。極掾iきょくろう・ごくろう)、上掾A中掾A下揩ニ云ふは、上位、中位、下位と云ふが如し、

と(大言海・デジタル大辞泉)あり、「安居」は、

雨(う)安居、
夏(げ)安居、

ともいい、

仏教の出家修行者たちが雨期に1か所に滞在し、外出を禁じて集団の修行生活を送ること、

で、インドの雨期はだいたい4か月ほどだが、そのうち、

3か月間(4月16日〜7月15日、または5月16日〜8月15日)は、修行者は旅行(遊行 ゆぎょう)をやめて精舎(しょうじゃ)や洞窟(どうくつ)にこもって修行に専念した、

という(日本大百科全書)。この期間は雨が激しくて徒歩旅行に適さず、また、

雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)をやめて1か所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐ、

ため、釈迦(しゃか)が、

雨期の止住を規定した、

のが本来の意図とされる(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B1%85)。釈迦が安居を行った場所は、

1回目が鹿野苑、
2〜4回目が竹林精舎、
5回目が大林精舎、

以降44回目まで所々不明ながら記録があるhttp://tobifudo.jp/newmon/gyoji/ango.html。竹林精舎と祇園精舎はとにも計5回で、一番多く安居が行われた場所(仝上)とある。

ただ、雨季に行うといっても、インドは広いので、地域により雨期にずれがあるので、前中後の3種類の安居期間があり、

4月16日からを前安居、
5月16日からを後安居、

その中間の、

4月17日〜5月15日の間に始めるものを中安居、

と呼んだ(仝上)とある。

解夏の日は多くの供養がある、

ので、僧侶は満腹するまで食べる(世界大百科事典)とある。「盂蘭盆会」で触れたように、「解夏」にあたり、

仏教僧の夏安居の終わる旧暦7月15日に僧侶を癒すための施食を行う、

つまり、本来、

安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事、

が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、盂蘭盆会につながっていく。

上述したように、

法臘(ほうろう)、

というように、

出家修行者の教団内の新旧や先後の序列は、年齢(世寿 せじゅ)にはよらず、この安居の回数、

によって決められた(仝上)。

仏教の伝来とともに中国や日本に伝わり、中国では、所によっては降雪のため真冬の旅行も不適であったので、冬季にも安居する慣習が生まれ、

雪(せつ)安居、
冬(とう)安居、

とよばれ、

10月16日〜翌年1月15日の3か月間(場合によっては2月15日までの4か月間)、

がその期間である(仝上)。日本では、天武一二年(683)七月(北野本訓))に、

庚寅に鏡姫王薨せぬ。是の夏に、始めて僧尼を請せて、宮中(みやうち)に安居(アンコ)す(書紀(720)

と、初めて安居が行われ、延暦二十五年(806)桓武天皇の命により、15大寺と諸国の国分寺で安居が行われ、以後、官寺の恒例行事となり、

毎年四月一五日から七月一五日までの夏季九〇日間、

経典の講説が行なわれた(仝上・精選版日本国語大辞典)。この間を、

一夏(イチゲ)

といい、江戸時代には各宗の本山で盛んに実施されたが、現在は主として禅宗の僧堂などで、年2回の安居が厳格に行われている。禅宗では、安居に入ることを、夏安居の制度を結ぶ、との意味で、

入制(にゅっせい)、
結夏(けつげ)、
結制(けっせい)、

安居期間を、

制中(せいちゅう)、

その終了を、安居の制度を解くので、

解制(かいせい)、
解夏(かいげ)、

安居期間以外の時期を、

解間(げあい)、
制間(せいかん)

と呼び(仝上・http://tobifudo.jp/newmon/gyoji/ango.html)、この間に参ずる者を、

夏衆(げしゅ)、

という(大言海)。

「安居」は、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)の他に、

安居一夏(あんごいちげ)、
一夏九旬(いちげくじゅん)、
夏講(げこう)、
夏行(げぎょう)、
夏臈(げろう)、
夏籠(げごもり)、
夏断(げだち)、
あんきょ(安居)、

等々とも呼ぶ(仝上・広辞苑)。

なお、「安居(あんきょ)」は、

頼得皇甫兮、復安居(皇甫嵩傳)、

と、

安らかに暮らしている、

意の漢語である(字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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灰河(けが)地獄


善悪因果経にも、現世で鶏の卵を煮、焼く者は、来生灰河(けが)地獄に墜ちるとある(霊異記)、

の、

灰河地獄、

は、

熱い灰が流れている地獄、

とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。「灰河地獄」については載せているものが少ないが、

偽経の『善悪因果経』(ぜんあくいんがきょう 6世紀に中国で成立した偽経)に、

鶏の子を焼き煮た者が落ちるとされ、熱い灰が川のように流れている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B0%8F%E5%9C%B0%E7%8D%84

灰地獄、

ともいうが、『今昔物語』の頭注には、

灰地獄ハ灰河地獄ノ誤カ、

とあるhttp://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku20-30ので、誤記かもしれない。

上記『日本霊異記』や『今昔物語集』に登場する。『今昔物語集』巻20第30話の、

和泉国人焼食鳥卵得現報語、

に、

今昔、和泉の国和泉の郡の痛脚村に一人の男有けり。心邪見にして、因果を知らず、常に鳥の卵(かひこ)を求て、焼き食ふを以て業とす、

とはじまる説話があり、

而る間、天平勝宝六年と云ふ年の三月の比、見知らざる人、此の男の家に来れり。其の姿を見れば、兵士の形也。此の男を呼び出て、告て云く、「国の司、汝を召す。我に具て参るべし」と。然れば、男、兵士に具て行くに、此の兵士を吉く見れば、腰に四尺許の札を負へり。
纔(ひたた)に郡の内に至るに、山直の里にして、山辺に麦畠の有るに、男を押入て、兵士は見へず。畠一町許也。麦二尺許生たり。忽に見れば、地に炎火有て、足を踏むに隙無し。然れば、畠の内に走廻て叫て、「熱(あつ)や、熱や」と云ふ。
其の時に、村の人、薪を切らむが為に、山に入(いらん)と為(する)に、見れば、畠の中に哭叫て、走廻る男有り。此れを見て、「奇異也」と思て、山より下り来て、男を捕へて引く。辞(いなめ)て引かれず。然れども、強く引て垣の外に引出しつ。男、地に倒臥ぬ。
暫く有て、活(いきかへ)り起たり。痛く叫て、足を病む事限無し。山人、男に問て云く、「汝ぢ、何の故に此く有ぞ」と。男、答て云く、「一の兵士来て、我を召し将来て、此に押入つ。地を踏むに、地皆焔火にして、足を焼く事、煮たるが如し。四方を見れば、皆火の山を衛(かこみ)て隙無くて、出ざるが故に、叫て走廻る也」と。山人、此れを聞て、男の袴を褰(かか)げて見れば、膊(はぎ)爛て、骨現に見ゆ。一日を経て、男、遂に死にけり。
人、皆此れを聞て、「殺生の罪に依て、現に地獄の報を示す也」とぞ云ける。然れば、人、此れを見聞て、邪見を止め、因果を信じて、殺生すべからず。「卵を焼煮る者は、必ず灰地獄に堕つ」と云は実也けり」とぞ人云けるとなむ、語り伝へたるとや。

と、仏法の説話になっていて、

卵を焼き煮る者は必ず灰地獄に堕つ、

と諺風にまとめている。ただ、この「灰河地獄」は、「衆合叫喚」、「阿鼻叫喚」で触れた、

八熱地獄、

には入らない。「八大地獄」とは、大智度論では、

活大地獄、黒縄地獄、合會地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、大熱地獄、大熱大地獄、阿鼻大地獄、

とあり、

是等種々八大地獄周圍其外、後有十六小地獄、

とあり(大言海)、『倶舎論』(4〜5世紀頃インドで成立した、部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書)では、

衆生が住む閻浮提の下、4万由旬を過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各2万由旬ある。その上の1万9千由旬の中に、下から大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の7つの地獄が重層し、総称して八大(八熱)地獄という、

とあり、原始仏教の経典、長阿含経(じょうあごんきょう)では、階層構造ではなく、十地獄ともども世界をぐるりと取り囲む形で配置され、第一地獄から順に、

想地獄(等活地獄)、
黒縄地獄、
堆圧地獄、
叫喚地獄、
大叫喚地獄、
焼炙(しょうしゃ)地獄(焦熱)、
大焼炙(だいしょうしゃ)地獄(大焦熱)、
無間地獄、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E7%8D%84が、一般には、

等活(とうかつ)、
黒縄(こくじょう)、
衆合(しゅごう)、
叫喚(きょうかん)、
大叫喚、
焦熱(しょうねつ)、
大焦熱、
阿鼻(あび)、

か(ブリタニカ国際大百科事典)、

等活(とうかつ)、
黒縄(こくじょう)、
衆合(しゅごう)、
叫喚(きょうかん)、
大叫喚、
焦熱(しょうねつ)、
大焦熱、
無間(むげん)、

とされる(広辞苑・精選版日本国語大辞典・大言海)。「八大地獄」の外に、

十六小地獄、

があるとされ、

族地獄、
増地獄、
別所、

とも言われ、

黒沙、
沸屎、
五百釘、
飢、
渇、
一銅釜、
多銅釜、
石磨、
膿血、
量火、
灰河、
鉄丸、
釿斧、
豺狼、
剣樹、
寒、

の、

十六小地獄(十六遊増地獄)、

があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B0%8F%E5%9C%B0%E7%8D%84