つねづね、女房に邪見にあたりて、食物も喰はせず(諸国百物語)、 の、 邪見、 は、 邪慳、 とも当て、 冷酷無慈悲、残忍なこと、 とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。 邪険、 とも当てる(精選版日本国語大辞典)が、由来的には、仏語、 五見・十惑の一つ、 の、 因果の道理を無視する妄見、 をいい、 愍念邪見衆生、令住正見(法華経)、 と、 正見に対して、正理に違背する、一切の妄見を云ひ、特に、因果の理法を無視する妄見、 をいい(大言海)、正しくは、 邪見、 のようである。「五見(ごけん)」とは、 仏教で批判される五つの誤った見解(pañca dṛṣṭayaḥ)、 をいい、 @有身見(サンスクリット語satkāya-dṛṣṭi 実体的な自己が存在するという見解(我見)と一切の事物がその自己に属しているという見解(我所見)とを合わせたもの)、 A辺執見(サンスクリット語antagrāha-dṛṣṭi @の後に起こるもので、我は死後も常住である(常見)、あるいは断絶する(断見)というどちらか一方の極端に偏った見解)、 B邪見(サンスクリット語mithyā-dṛṣṭi 因果のことわりを否定する見解)、 C見取見(サンスクリット語dṛṣṭi-parāmarśa-dṛṣṭi 自らの見解だけを最高とし、@ABをはじめとする誤った見解を真実であるとする見解)、 D戒禁取見(かいごんじゅけん サンスクリット語śīla-vrata- parāmarśa-dṛṣṭi 誤った戒律や誓いを守ることで涅槃に導かれるとする見解)、 とされ(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%A6%8B・デジタル大辞泉)、特に、特に因果の道理を否定する見解はいちばん悪質なので、それを、 邪見、 という(ブリタニカ国際大百科事典)とある。 「十惑(じゅうわく)」は、根本煩悩である、 貪(とん)・瞋(し)・痴・慢・疑・見、 の六煩悩のうち、見を、 有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見、 の五見に分けて十と数えた、 十の煩悩、 をいう(精選版日本国語大辞典・仝上)。 「邪見」自体は、 貪著邪見(阿毗(毘)曇論)、 と、漢語で、 よこしまな考え、 の意があり、 天年(ひととなり)邪見にして三宝を不信(うけず)、 と、 よこしまであること、 不正な心、また、そのさま、 の意で使うが、転じて、 まことに人の心にひとを゜あはれむ心もなく、慳邪見ならば人にはあられず(春鑑鈔)、 世間の法には慈悲なき者を邪見の者という(日蓮遺文「顕謗法鈔」)、 などと、 思いやりがなくて無慈悲なこと、 意地悪でむごいこと、 の意で使う(日本国語大辞典)。現在では多く、 邪慳、 の字を用いる(仝上)。 「邪見」を用いた言い回しに、 邪見で物事にかど立てることを角にたとえた、 邪見の角、 や、 邪見が鋭く人を害することを刃にたとえた、 邪見の刃、 があるが、江戸時代の文化の頃、 無慈悲だ、 の意味で、 じやけんだのふの流言(はやりことば)は大町にもはかず(文化五年(1808)「やまあらし」)、 と、 邪見だ喃(じゃけんだのう)、 という言葉が吉原伏見町近辺の流行語であった(江戸語大辞典)とある。 「邪」(漢音シャ、呉音ジャ)は、 会意兼形声。牙は、食い違った組み木のかみあったさまを描いた象形文字。邪は「邑(むら)+音符牙」。もと琅邪という地名をあらわした字だが、牙の原義である食い違いの意をもあらわす、 とある(漢字源)が、地名から、借りて「よこしま」の意に用いる(角川新字源)とある。別に、 形声文字です(牙+阝(邑))。「きばの上下がまじわる」象形(「きば」の意味)と「特定の場所を示す文字と座りくつろぐ人の象形」(人が群がりくつろぎ住む「村」の意味)から、地名の「琅邪(ろうや)」の意味を表したが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「よこしま」を意味する「邪」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji1484.html)のが分かりやすい。 なお、「慳」は、「慳貪」で触れた。「見」は、「目見(まみ)」で触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) その子、母を弁才天にいはひ(斎)しより、その後はしづまりたると也(諸国百物語)、 の、 弁才天、 は、 弁財天女、 で、 民間では、水神、音楽神であるとともに、嫉妬する女神としての信仰があった、 とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。 「弁(辯)才」は、 梵語Sarasvat(薩囉薩伐底・薩羅婆縛底 サラサバティ)の訳語、 で(大言海・日本国語大辞典)、 天竺(インド)の神の名、 で、 聖河の化身、 といい(仝上)、のち、 学問・芸術の守護神、 となり、吉祥天とともにインドで最も尊崇された女神とされる(広辞苑)。仏教にはいって、 舌・財・福・智慧・延寿、 などを与え、 音楽・弁才・財福などをつかさどる女神、 とされ、 妙音天、 美音天、 ともいい(仝上・広辞苑)、 大弁才天、 弁天、 ともいう(仝上)その像は、 八臂(弓・箭・刀・・斧・杵・輪・羂索を持つ)、 また、鎌倉時代には、 二臂(二手で琵琶を持つ)、 の女神像が一般化するが、『金光明最勝王経』大弁財天女品によると、 頭上に白蛇をのせ、鳥居をつけた宝冠をかぶった八臂の女神で、持物は弓、箭、刀、さく、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんじゃく)、 で、密教に入って、 二臂で琵琶を持った姿で胎蔵界曼荼羅外金剛部院、 にある(ブリタニカ国際大百科事典)。 因みに、「羂索(けんじゃく)」は、 「羂」は「わな」の意、 の意で、 仏菩薩の、衆生を救い取る働きを象徴するもの、 とされ、色糸を撚(よ)り合わせた索の一端に鐶、他の一端に独鈷(どっこ)の半形をつけたもので、密教で用いる。不動明王、不空羂索観音、千手観音などがこれを持つ、 とある(精選版日本国語大辞典)。 後世、弁才天は、 吉祥天、 と混同され、また穀物の神である、 宇賀神、 とも同一視されて(仝上)、室町時代末期には、 福徳賦与の神、 つまり、 財福(福徳や財宝)を授ける女神とも考えて、 弁財、 の字を当て、 七福神の一、 に数えた(岩波古語辞典・日本国語大辞典)。「七福神」については触れた。 弁才(財)天女、 ともいう(仝上)。古来、 安芸の宮島、 大和の天の川、 近江の竹生島、 相模の江ノ島、 陸前の金華山、 を五弁天と称す(広辞苑)らしい。 天女の姿の弁財天、 というのは、江戸時代になり、七福神が信仰されるようになって認識されるようになったが、この天女姿の弁財天のルーツは、元々、七福神の女神が、 弁財天、 ではなく、 吉祥天(きちじょうてん) だったため、天女姿をしていた吉祥天からきたもの(https://www.s-bunsan.jp/choeiza/column/column2021-1)らしい。時代が進むにつれ、うまく日本の神様と習合して日本人に受け入れられた弁財天に対し、吉祥天信仰は徐々に薄れ、弁財天が代わりに七福神に入れられようである。その際に、吉祥天と同じ天女姿をした弁財天となったとみられている(仝上)。 因みに、吉祥天(きちじょうてん・きっしょうてん)も、 バラモン教の女神で、のちに仏教に入った天女。顔かたちが美しく、衆生に福徳を与えるという女神、 であり、日本では金光明最勝王経会や吉祥悔過会の主尊としてまつられた例が多く、像容はふつう、 宝冠、天衣をつけ、右手を施無畏印、左手に如意宝珠をのせ、後世も美貌の女神、 として親しまれ、 奈良薬師寺の画像、 東大寺法華堂の塑像、 京都浄瑠璃寺の木像、 が名高い。 吉祥功徳、 吉祥天女、 吉祥女、 吉祥神、 等々とも呼ばれる(日本国語大辞典)。 なお、梵語Sarasvat(サラスバティー)という古代インドの女神は、元来、 水を湛(たた)える、 を意味する女性名詞にかかる形容詞であるが、固有名詞となって西北インドの、 インダス川の東方を流れていたサラスバティー川(現在のものとは別と考えられる)が女神として神格化されたもの、 となり(日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典)、インド最古の聖典『リグ・ベーダ』では、河川神の中で最も有力な地位を占め(世界大百科事典)、 豊穣(ほうじょう)、生産、富、浄化の力をもつ、 とされ、後代には、 学問、技芸の神、雄弁と知恵の保護神、 として高い地位を与えられた(仝上)。これが、仏教に取りいれられて、弁才天となった。 「サラスバティー」は、 ヴィーナ、 と呼ばれる琵琶に似た弦楽器を持っており、 サラスバティー河の流れる川のせせらぎ、 から、 流れるもの、 を連想する、 音楽や言葉などの才能をもたらす神、 とされた(https://www.s-bunsan.jp/choeiza/column/column2021-1)とある。弁才天の琵琶につながる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 神前の灯明にて、紙燭をして、二階へあがりてみれば(諸国百物語)、 の、 紙燭、 は、 紙を撚(よ)って、それに火をつけて闇中のあかしにすること、 とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。 紙燭、 は、 脂燭、 とも当て、 ししょく、 とも訓ますが、 シソク、 は、 (シショクの)ショクの直音化、 である(岩波古語辞典)。和名類聚抄(平安中期)に、 紙燭、族音、之曾玖、 とあるので、 シショク→シソク、 と転訛したことになる。 宮中などで夜間の儀式・行幸などの折に用いた照明具、 で(広辞苑)、 室内用のたいまつともいうべきもの、 とあり(岩波古語辞典)、 陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取りて、其の雄柱を牽き折(か)きて秉炬(タヒ)として(日本書紀)、 の、 手火(たひ)の一種、 である(日本大百科全書)。 松の細き材の、一尺五寸(45センチ)許なるが、端を焦し、油を塗りて、被を點(とぼ)す、樹を青紙にて巻く(大言海)、 松根や赤松を長さ約1尺5寸、太さ径約3分(9ミリ)の棒状に削り、先の方を炭火であぶって黒く焦がし、その上に油を塗って点火するもの。下を紙屋紙(こうやがみ)で左巻にした(広辞苑)、 ものだが、また、 紙縷(こより)に油を漬して點すもの(大言海)、 布や紙を撚(よ)り合わせて蝋(ろう)や油、あるいは松脂(まつやに)などを塗り込んでつくったもの(日本大百科全書)、 もあり、 スギの芯、マツの小枝、 なども使われた(仝上)とある。一般に使われたものに、 小灯、 小点、 と当てる、 コトボシ、 というものがある(仝上)。後の形態だと、 手燭(てしょく)、 や 小提灯(こぢょうちん)、 などがそれにあたる(精選版日本国語大辞典)が、 マツの「ヒデ」(マツの根の脂味(あぶらみ)の部分)を30〜40センチメートルの手ごろな長さに切り、大人の親指ほどの細さに引き割って、その先端に火を点じ、 夜間室内の灯火に使った(仝上)とある。 なお、紙燭に火をともすことを、 さす、 という(学研全訳古語辞典)とある。 つとめて、蔵人所のかうやがみひき重ねて(枕草子)、 と、 紙屋紙(こうやがみ)、 というのは、 「かみやがみ(紙屋紙)」の変化した語、 で、 うるはしきかむやかみ、陸奥紙(みちのくにがみ)などのふくだめるに(源氏物語)、 ただうちの見参とて、かひやがみにかきたるふみの、ひごとにまいらするばかりを(今鏡)、 つとめて蔵人所のかや紙引かさねて(能因本枕)、 と、訛って、 かんやがみ(紙屋紙)、 かいやがみ(紙屋紙)、 かやがみ(紙屋紙)、 などともいう。元来は、 奈良時代・平安初期まで、朝廷の紙屋院(かみやいん)で製した官庁用紙、 をいうが、平安時代には、 京都の紙屋院で造られた反故(ほご)紙を漉(す)き返した紙、 をいう。字を書いた故紙(こし)を漉き返したので薄墨色をしており、 薄墨紙(うすずみがみ)、 ともいわれ、特に綸旨(りんじ)はこの紙を用いて書かれることになっていたので、 綸旨紙、 ともいい、 宿紙(すくし・しゅくし)、 水雲紙(すいうんし)、 還魂紙(かんこんし)、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 なお、 紙燭が一、二寸(約三〜六センチ)燃える短い間に作る歌、 また、 それを作る競技、 に、 紙燭の歌(うた)、 というのがある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) この(聖武天皇の)善行によって、空飛ぶ虫も芝草をくわえて寺の屋根をふき、地を走る蟻も砂金を積み上げて塔を建てた(日本霊異記)、 の、 芝草、 は、 しそう、 と訓み、 さいわいだけ、 の意で、 王者慈仁の時に生ずる、 と注記がある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 紀伊国伊刀郡、芝草を貢れり。其の状菌に似たり(天武紀)、 押坂直と童子とに、菌羹(たけのあつもの)を喫(く)へるに由りて、病無くして寿し。或人の云はく、盖し、俗(くにひと)、芝草(シサウ)といふことを知らずして妄に菌(たけ)と言へるか(皇極紀)、 とある、 芝草、 は、 万年茸(まんねんだけ)、 幸茸(さいわいたけ)、 ともいい、 霊芝(れいし)の異称、 万年茸(まんねんたけ)の漢名、 であり(広辞苑)、 きのこの一種で、瑞相(ずいそう)をあらわすとされた草、 である(精選版日本国語大辞典)。他に、 門出茸(かどでたけ)、 仙草(せんそう)、 吉祥茸、 霊芝草、 赤芝(せきし)、 福草(さきくさ)、 桂芝(けいし)、 聖茸(ひじりたけ) などの呼称でも呼ばれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9D・世界大百科事典・字源)、 福草(さきくさ)、 幸茸(さいわいたけ)、 と呼ぶようになったのは、 因露寝、兮産霊芝、象三徳兮應瑞圖、延寿命兮光此都(班固・霊芝歌)、 といった、中国文化の影響をうけてからのことである。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 芝は神草なり、 とあり(http://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/tatuta/kinoko/kinoko60.htm)、 霊芝、一名壽濳、一名希夷(続古今註)、 と、 寿潜、 希夷、 三秀、 菌蠢、 別名もある(仝上・字源)。 『説文解字』には、 青赤黄白黒紫、 の六芝、 とあり、『神農本草経』や『本草網目』に記されている霊芝の種類は、延喜治部省式の、 祥瑞、芝草、 の註にも、 形似珊瑚、枝葉連結、或丹、或紫、或黒、或黄色、或随四時變色、一云、一年三華、食之令眉壽(びじゅ)、 とあるように、 赤芝(せきし)、 黒芝(こくし)、 青芝(せいし)、 白芝(はくし)、 黄芝(おうし)、 紫芝(しし)、 とある(https://himitsu.wakasa.jp/contents/reishi/)が、紫芝は近縁種とされ、他の4色は2種のいずれかに属する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9D)とある。 担子菌類サルノコシカケ科(一般にマンネンタケ科とも)、 のキノコで、 北半球の温帯に広く分布し、山中の広葉樹の根もとに生じる。高さ約10センチ。全体に漆を塗ったような赤褐色または紫褐色の光沢がある。傘は腎臓形で、径五〜一五センチメートル。上面には環状の溝がある。下面は黄白色で、無数の細かい管孔をもつ。柄は長くて凸凹があり、傘の側方にやや寄ったところにつく、 とあり(精選版日本国語大辞典)、乾燥しても原形を保ち、腐らないところから、 万年茸(まんねんだけ)、 の名がある。 庭にマンネンタケが生えると瑞兆とし、一家のあるじが旅立つときはマンネンタケを門先にさげて無事の帰還を祈る地方もあった、 といい、 カドデタケ、 の名はそこから出た(世界大百科事典)。 成長し乾燥させたものを、 霊芝、 として用いる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9D)が、後漢時代(25〜220)にまとめられた『神農本草経』に、 命を養う延命の霊薬、 として記載されて以来、中国ではさまざまな目的で薬用に用いられ、日本でも民間で同様に用いられてきたが、伝統的な漢方には霊芝を含む処方はない(仝上)とある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) むかし、山城国にひとりの自度僧がいた。名前はわからない(霊異記)、 石川の沙弥(さみ)は自度僧で本姓もあきらかではない(仝上)、 の、 自度僧、 は、 公の許可を受けないで、勝手に僧形となった人のこと、当時は僧尼は官の感得を受けている、 とあり(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)、 私度僧、 ともいう(仝上)とある。 剃髪・出家して仏道を修行し(入道)、僧尼となることを、 得度(とくど)、 というが、律令時代には国家による一定の手続を要する許可制がとられていた。官の許可をえて得度したものを、 官度僧、 というのに対して、官の許可をえず私的に得度したものを、 私度僧、 といった。 私に入道し及び之を度する者は、杖(じよう)一百(戸婚律(ここんりつ))、 と私度を厳罰し(唐の戸婚律の規定をそのまま継受したもの)、また、 私度にかかわった師主(ししゅ 学問修行で、よりどころとなる師)、三綱(さんごう 仏教寺院において寺院を管理・運営し、僧尼を統括する上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(ついな・維那とも)の3つ僧職の総称)らを還俗(げんぞく 僧尼身分の剝奪)に処する、 ことを規定している。僧尼令(そうにりよう)には、 僧尼となれば課役免除の特典、 があり、課役をのがれるため、勝手に得度することを防止していた(世界大百科事典・日本大百科全書)。ただ、 私度僧、 と、 自度僧、 については、上記引用の『日本霊異記』に登場する、 自度の沙弥(しやみ)、 という場合の、 自度、 は、師主に就かないでみずから剃髪・出家したものを指し、 私度僧、 とは少し概念を異にする(仝上)ともある。なお、「沙弥」については、「沙喝」で触れたが、「僧尼令」のいうのは、 僧・尼の注釈に沙弥・沙弥尼を加えており、僧尼と同じ扱いをうけている、 とある。ただ、実際は僧の下に従属し、律師以上の僧官には従僧以下、沙弥と童子が配されていた(仝上)。 具足戒を受けず、沙弥のままいた人々も多く、また正式のルートによらないで出家した僧(私度僧)は私度の沙弥とか在家沙弥と呼ばれた(仝上)。私度の沙弥は、 8世紀以降とくに輩出し、ある者は正規の手続をへて官寺の僧となり、ある者は官寺や僧綱制の外縁にあって、古代の民間仏教を支える基礎となった、 とある(仝上)。 近年の研究によれば、 私度が実際に取り締まられた実例はなく、杖一百に処された者は1名も確認できない、 とある(仝上)が、 知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して、近畿地方を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業に活動したこと、 が、養老元年(717)4月23日、詔をもって、 小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している、 として、僧尼令違反で糾弾されて弾圧を受けた例がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA)。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、 指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、 豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかったこと、 行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないこと、 などから、朝廷は天平三年(731)に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した(仝上)とある。 この例以外、政府に禁圧されなかった私度、褒章を受けた私度、私度として公文書に署名した者が確認でき、追加法を見ても、私度は実際には容認されていたと考えられる(日本大百科全書)との見方もある。 空海、 景戒(きょうかい 日本霊異記の編者)、 円澄(えんちょう)、 も、最初私度として活動し、のち官度に転じた(日本大百科全書)。確かに、養老年間(717〜24)頃には僧俗の秩序を乱す行為として、僧尼令などによる弾圧の対象であったとされるが、 僧尼令違反を理由に処分されたのは行基、 のみで、天平三年(731)に、 行基の率いる私度僧集団からの得度、 が条件付きで認められる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%A7%81%E5%BA%A6%E5%83%A7)など、次第にその存在が容認されるに至ったという経緯のようだ。 なお、『日本霊異記』については触れた。 大和國宇太の郡漆部(ぬりべ)の里に風流な女がいた。漆部造麿(みやつこまろ)の妻であった(霊異記)、 の、 風流、 は、ここでは、 世俗の名利に無関心で、いつも身を浄らかに持つ清浄高邁な行為をさしている、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 風流(ふうりゅう)は、古くは、 ふりゅう、 とも訓んだ(大辞林)が、「風流」は、漢語で、 士女沾教化、黔首仰風流、自中興以來、功臣将相、継世而隆(後漢書・王暢傳)、 と、 先王の遺風餘流、 なごり、 の意や、 天下言風流者、以王樂為稱(晉書・樂廣傳)、 風雅、 の意でも使う(字源)。「風流」は、 風聲品流の略、 とあり(大言海)、 風聲品流能擅一世、謂之風流也(剪燈新話(せんとうしんわ 明代の怪異小説集)牡丹燈記)、 とするが、前後が逆で、古くは、 中国では、最も古くは先王の美風のなごりの意であったらしいが、やがて、俗ではない品格とか優美な魅力の意で使われた、 とあり(岩波古語辞典)、日本でも、室町時代編纂のいろは引きの国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』は、 風流、フウリュウ、遺風余風之義也、 とあり、風姿花伝では、 新しきを賞する中にも、またく風流を邪(よこしま)にする事なかれ、 と、遺風の意で使っている。しかし、早く万葉集以来、平安期でも、 風流、 を、 ミサヲ、 ミヤビヤカ、 と訓ませる(岩波古語辞典)など、 ここに前(さき)の采女あり、風流びたる娘子(おとめ)なり。左手に觴を捧げ、右手に水を持ち(万葉集)、 雖風流如野宰相、軽情如在納言、而皆以他才聞(古今集・漢序)、 と、 粗野・平凡ではない人品の良さ、風雅な情趣を解すること、 の意で使い、さらに、 その様例の車に似たりといへども、……風流詞を以て云ふべきにあらず(御堂関白日記)、 こがね・しろがねなど心を尽して、いかなることをがなと風流をしいでて(大鏡)、 と、 芸術的な衣装を凝らすことなどの意に転じていく。江戸後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗、事物を説明した類書(百科事典)『守貞謾稿』には、 夫男女ノ風姿タル、風流美麗ハ古今人ノ欲スル所ナリ、而カモ古人ハ、善美ニシテ流行ニ合ヒ、意匠ノ精シクシテ野卑ニ非ザル、乃チ之ヲ風流ト云フ、 とある。特に、 ふりゅう、 と訓む場合、室町時代の意義分類体の辞書『下學集』に、 風流、フウリュウ・フリュウ、風情義也、日本俗呼拍子物曰風流、 とあるように、平安時代末期以降、 みやびやかな、 の意が由来(広辞苑)らしいが、 御堂の庭に桟敷を打つて舞台をしき、種々の風流を尽さんとす(太平記)、 と、 和歌や物語を意匠化した作り物、 をさすようになり、 拍子物(はやしもの)を伴い、華麗な行粧・仮装をこらしてする祭礼、また、その拍子物、 をいい、後には、 趣向を凝らした祭礼の傘鉾、山車(だし)、 さらに、 それを取り巻いて踊ること、 をも称するようになる(岩波古語辞典)。「風流」(ふりゅう)は、だから、当初の、 祭礼の行列などで、服装や笠に施す華美な装飾、 の意から、 風情ある造り物、 を意味し(学研全訳古語辞典)、転じて、室町末期には、 造り物で飾った笠(カサ)・鉾(ホコ)などや仮装した者を中心に、囃し物を伴って群舞した集団的歌舞、 をいうようになった(広辞苑・日本国語大辞典)。 風流踊(ふりゅうおどり)、 風流傘(ふりゅうがさ 趣向をこらし種々飾りたてた長柄の傘。祭礼の行列などに用いた)、 風流車(ふりゅうぐるま 種々の装飾を施した車。賀茂祭などの祭礼の行列に加わる)、 等々といった言葉がある(仝上)。そうした、 群舞、 は、 念仏踊・太鼓踊・獅子踊・小歌踊・盆踊・奴踊・練物、 などにもつながり(仝上)、 浮立、 とも当て(仝上)、現在も広く行われている。そうした流れの一つに、 寺院で、法会のあと僧侶・稚児たちが行った遊宴の歌舞、 である 延年舞、 がある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 平安中期に起こり、鎌倉、室町時代に盛んに行なわれ、 比叡山の延暦寺、奈良の東大寺・興福寺その他の大寺で、大法会(だいほうえ)のあとの遊宴の席で、余興として演じられた、 もので、伴奏楽器は、 銅鈸子(どうばっし 金属製シンバル)、 鼓、 などで、 大風流、 小風流、 の別がある(仝上)という。能楽にもとり入れられ、特別な場合に、 式三番(翁)に付加して行う演目、 で、狂言方が担当するので、 狂言風流、 ともいう(仝上)とある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 奈良の都の元興寺の僧慈応大徳が、檀家の招きによって、夏安居(げあんご)を行い、法華経を講義した(霊異記)、 の、 夏安居(げあんご)、 は、 雨安吾(うあんご)、 ともいい、 僧が陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日間、家にこもって仏道を修行すること、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)が、本来は、 インドで雨期を安居の時期とした、 ことからいう(広辞苑)もので、 安居、 は、 梵語(サンスクリット)の vārsika、または varsa(ヴァルシャ)、 の訳で、 雨、 雨期、 の意である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B1%85・デジタル大辞泉)。なお、 あんご、 の、 ご、 は、 居(きょ)の呉音、 である(大言海)。南宋時代の梵漢辞典『翻訳名義集(ほんやくみょうぎしゅう)』には、「安居」について、 南山鈔(南山律鈔)云、形心摂静曰安、要期(ヨウゴシテ)、住此曰居、 とある。 「らふたく」、「女」でも触れたことがあるが、 「臘」は、古代中国の、 臘祭(蜡祭)、 臘月(ろうげつ)、 という、 冬至後、第三戌の日の祭、 の意から、 僧臘(そうろう)、 法臘(ほうろう)、 夏臘(げろう)、 戒臘(かいろう)、 などと、 年の意、 に転じて、 我生五十有七矣、僧臘方十二(太平廣紀)、 とあるように、 僧の得度以後の年数を数ふる、 にいう(字源・漢字源・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%98)。 出家する者、髪を剃り受戒してより、一夏九旬の閨A安居(あんご)勤行(ごんぎょう)の経るを云ふ、これを、年掾A法掾A僧掾A戒揩ネどといふ、僧の位は受戒後の揩フ數に因りて次第す、之を搦氈iらふじ)と云ふ(僧の歳を記するに、俗年幾許、法臘幾許と云ふ、臘は安居の功(安居の功は、陰暦4月16日から7月15日までの3か月間の修行、この期間を一夏(いちげ)という)より數ふ)、又、在俗の人にも、年功を積むことに称ふ。極掾iきょくろう・ごくろう)、上掾A中掾A下揩ニ云ふは、上位、中位、下位と云ふが如し、 と(大言海・デジタル大辞泉)あり、「安居」は、 雨(う)安居、 夏(げ)安居、 ともいい、 仏教の出家修行者たちが雨期に1か所に滞在し、外出を禁じて集団の修行生活を送ること、 で、インドの雨期はだいたい4か月ほどだが、そのうち、 3か月間(4月16日〜7月15日、または5月16日〜8月15日)は、修行者は旅行(遊行 ゆぎょう)をやめて精舎(しょうじゃ)や洞窟(どうくつ)にこもって修行に専念した、 という(日本大百科全書)。この期間は雨が激しくて徒歩旅行に適さず、また、 雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)をやめて1か所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐ、 ため、釈迦(しゃか)が、 雨期の止住を規定した、 のが本来の意図とされる(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B1%85)。釈迦が安居を行った場所は、 1回目が鹿野苑、 2〜4回目が竹林精舎、 5回目が大林精舎、 以降44回目まで所々不明ながら記録がある(http://tobifudo.jp/newmon/gyoji/ango.html)。竹林精舎と祇園精舎はとにも計5回で、一番多く安居が行われた場所(仝上)とある。 ただ、雨季に行うといっても、インドは広いので、地域により雨期にずれがあるので、前中後の3種類の安居期間があり、 4月16日からを前安居、 5月16日からを後安居、 その中間の、 4月17日〜5月15日の間に始めるものを中安居、 と呼んだ(仝上)とある。 解夏の日は多くの供養がある、 ので、僧侶は満腹するまで食べる(世界大百科事典)とある。「盂蘭盆会」で触れたように、「解夏」にあたり、 仏教僧の夏安居の終わる旧暦7月15日に僧侶を癒すための施食を行う、 つまり、本来、 安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事、 が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、盂蘭盆会につながっていく。 上述したように、 法臘(ほうろう)、 というように、 出家修行者の教団内の新旧や先後の序列は、年齢(世寿 せじゅ)にはよらず、この安居の回数、 によって決められた(仝上)。 仏教の伝来とともに中国や日本に伝わり、中国では、所によっては降雪のため真冬の旅行も不適であったので、冬季にも安居する慣習が生まれ、 雪(せつ)安居、 冬(とう)安居、 とよばれ、 10月16日〜翌年1月15日の3か月間(場合によっては2月15日までの4か月間)、 がその期間である(仝上)。日本では、天武一二年(683)七月(北野本訓))に、 庚寅に鏡姫王薨せぬ。是の夏に、始めて僧尼を請せて、宮中(みやうち)に安居(アンコ)す(書紀(720) と、初めて安居が行われ、延暦二十五年(806)桓武天皇の命により、15大寺と諸国の国分寺で安居が行われ、以後、官寺の恒例行事となり、 毎年四月一五日から七月一五日までの夏季九〇日間、 経典の講説が行なわれた(仝上・精選版日本国語大辞典)。この間を、 一夏(イチゲ) といい、江戸時代には各宗の本山で盛んに実施されたが、現在は主として禅宗の僧堂などで、年2回の安居が厳格に行われている。禅宗では、安居に入ることを、夏安居の制度を結ぶ、との意味で、 入制(にゅっせい)、 結夏(けつげ)、 結制(けっせい)、 安居期間を、 制中(せいちゅう)、 その終了を、安居の制度を解くので、 解制(かいせい)、 解夏(かいげ)、 安居期間以外の時期を、 解間(げあい)、 制間(せいかん) と呼び(仝上・http://tobifudo.jp/newmon/gyoji/ango.html)、この間に参ずる者を、 夏衆(げしゅ)、 という(大言海)。 「安居」は、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)の他に、 安居一夏(あんごいちげ)、 一夏九旬(いちげくじゅん)、 夏講(げこう)、 夏行(げぎょう)、 夏臈(げろう)、 夏籠(げごもり)、 夏断(げだち)、 あんきょ(安居)、 等々とも呼ぶ(仝上・広辞苑)。 なお、「安居(あんきょ)」は、 頼得皇甫兮、復安居(皇甫嵩傳)、 と、 安らかに暮らしている、 意の漢語である(字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 善悪因果経にも、現世で鶏の卵を煮、焼く者は、来生灰河(けが)地獄に墜ちるとある(霊異記)、 の、 灰河地獄、 は、 熱い灰が流れている地獄、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。「灰河地獄」については載せているものが少ないが、 偽経の『善悪因果経』(ぜんあくいんがきょう 6世紀に中国で成立した偽経)に、 鶏の子を焼き煮た者が落ちるとされ、熱い灰が川のように流れている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B0%8F%E5%9C%B0%E7%8D%84)。 灰地獄、 ともいうが、『今昔物語』の頭注には、 灰地獄ハ灰河地獄ノ誤カ、 とある(http://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku20-30)ので、誤記かもしれない。 上記『日本霊異記』や『今昔物語集』に登場する。『今昔物語集』巻20第30話の、 和泉国人焼食鳥卵得現報語、 に、 今昔、和泉の国和泉の郡の痛脚村に一人の男有けり。心邪見にして、因果を知らず、常に鳥の卵(かひこ)を求て、焼き食ふを以て業とす、 とはじまる説話があり、 而る間、天平勝宝六年と云ふ年の三月の比、見知らざる人、此の男の家に来れり。其の姿を見れば、兵士の形也。此の男を呼び出て、告て云く、「国の司、汝を召す。我に具て参るべし」と。然れば、男、兵士に具て行くに、此の兵士を吉く見れば、腰に四尺許の札を負へり。 纔(ひたた)に郡の内に至るに、山直の里にして、山辺に麦畠の有るに、男を押入て、兵士は見へず。畠一町許也。麦二尺許生たり。忽に見れば、地に炎火有て、足を踏むに隙無し。然れば、畠の内に走廻て叫て、「熱(あつ)や、熱や」と云ふ。 其の時に、村の人、薪を切らむが為に、山に入(いらん)と為(する)に、見れば、畠の中に哭叫て、走廻る男有り。此れを見て、「奇異也」と思て、山より下り来て、男を捕へて引く。辞(いなめ)て引かれず。然れども、強く引て垣の外に引出しつ。男、地に倒臥ぬ。 暫く有て、活(いきかへ)り起たり。痛く叫て、足を病む事限無し。山人、男に問て云く、「汝ぢ、何の故に此く有ぞ」と。男、答て云く、「一の兵士来て、我を召し将来て、此に押入つ。地を踏むに、地皆焔火にして、足を焼く事、煮たるが如し。四方を見れば、皆火の山を衛(かこみ)て隙無くて、出ざるが故に、叫て走廻る也」と。山人、此れを聞て、男の袴を褰(かか)げて見れば、膊(はぎ)爛て、骨現に見ゆ。一日を経て、男、遂に死にけり。 人、皆此れを聞て、「殺生の罪に依て、現に地獄の報を示す也」とぞ云ける。然れば、人、此れを見聞て、邪見を止め、因果を信じて、殺生すべからず。「卵を焼煮る者は、必ず灰地獄に堕つ」と云は実也けり」とぞ人云けるとなむ、語り伝へたるとや。 と、仏法の説話になっていて、 卵を焼き煮る者は必ず灰地獄に堕つ、 と諺風にまとめている。ただ、この「灰河地獄」は、「衆合叫喚」、「阿鼻叫喚」で触れた、 八熱地獄、 には入らない。「八大地獄」とは、大智度論では、 活大地獄、黒縄地獄、合會地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、大熱地獄、大熱大地獄、阿鼻大地獄、 とあり、 是等種々八大地獄周圍其外、後有十六小地獄、 とあり(大言海)、『倶舎論』(4〜5世紀頃インドで成立した、部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書)では、 衆生が住む閻浮提の下、4万由旬を過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各2万由旬ある。その上の1万9千由旬の中に、下から大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の7つの地獄が重層し、総称して八大(八熱)地獄という、 とあり、原始仏教の経典、長阿含経(じょうあごんきょう)では、階層構造ではなく、十地獄ともども世界をぐるりと取り囲む形で配置され、第一地獄から順に、 想地獄(等活地獄)、 黒縄地獄、 堆圧地獄、 叫喚地獄、 大叫喚地獄、 焼炙(しょうしゃ)地獄(焦熱)、 大焼炙(だいしょうしゃ)地獄(大焦熱)、 無間地獄、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E7%8D%84)が、一般には、 等活(とうかつ)、 黒縄(こくじょう)、 衆合(しゅごう)、 叫喚(きょうかん)、 大叫喚、 焦熱(しょうねつ)、 大焦熱、 阿鼻(あび)、 か(ブリタニカ国際大百科事典)、 等活(とうかつ)、 黒縄(こくじょう)、 衆合(しゅごう)、 叫喚(きょうかん)、 大叫喚、 焦熱(しょうねつ)、 大焦熱、 無間(むげん)、 とされる(広辞苑・精選版日本国語大辞典・大言海)。「八大地獄」の外に、 十六小地獄、 があるとされ、 族地獄、 増地獄、 別所、 とも言われ、 黒沙、 沸屎、 五百釘、 飢、 渇、 一銅釜、 多銅釜、 石磨、 膿血、 量火、 灰河、 鉄丸、 釿斧、 豺狼、 剣樹、 寒、 の、 十六小地獄(十六遊増地獄)、 がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B0%8F%E5%9C%B0%E7%8D%84)とされる。初期の経典が成立し体系化され、八大地獄の概念とともに、この概念が成立した(「長阿含経」第十九地獄品)とある(仝上)。 『俱舎論』では、 八大地獄の東西南北に四つの門があり、門一つごとに小地獄が4種類付随し、合計で十六種類ある、 とされ、それぞれの門に、 煻煨、屍糞、鋒刃、烈河、 という小地獄(増)があり、鋒刃には、 刀刃路、剣葉林、鉄刺林、 の三つの地獄があるとする。『瑜伽師地論』(大乗仏教唯識派の重要な文献)では、 煻煨、死屍糞泥、刀剣の刃の道と刃の葉の林(刀剣・刃路)、設拉末梨(刺)の林があり、灰水のたぎる河が流れ、これら4つの園をもって1つの別処である、 している(仝上)。 なお、 灰河地獄、 の、 灰(カイ)、 を、 ケ、 と訓むのは呉音、 河(カ)、 を、 ガ、 と訓むのも呉音である(漢字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) (行基)大徳は嘆いて、からすといふおほをそどりのことをのみともにといひてさきだちいぬる、という歌を詠んだ(霊異記)、 おほをそどり、 について、 歌の大意は「烏という大あわてものの鳥が、言葉だけ一緒にといって、先に行ってしまった」。なお類歌は『万葉集』巻十四東歌に、「鴉といふ大輕率鳥(おほをそどり)の真実(まさで)にも來まさぬ君を児ろ來(く)とぞなく(烏という大あわてものの鳥が、本当にお出でにならない君のことを、来た来たといって鳴いている)」とある、 と注記がある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 「大輕率鳥」は、 大噓鳥、 とも当て(大言海)、万葉仮名では、 於保乎曾杼里(おほをそどり)、 と表記している(仝上・精選版日本国語大辞典)。 たいそうあわてものの鳥、 の意、また、一説に、 おおうそつきの鳥、 たいへん不誠実な鳥、 の意ともある(精選版日本国語大辞典)。 烏とふ於保乎曾杼里(オホヲソドリ)の真実(まさで)にも来まさぬ君を児ろ来(く)とそ鳴く、 という東歌から見ると、一説の意の方が当たっているようにも見えるが、いずれにしても、 カラスを罵って言う語、 であり、 カラスの異称、 である(仝上)。 「おそ」は未詳(日本国語大辞典)、 ともあるが、 「おそ」はかるはずみの意(デジタル大辞泉)、 ヲソは軽率の意(時代別国語大辞典-上代編) ヲソはワサ(早熟・軽率)の母音交替形、軽はずみの意(岩波古語辞典)、 啼声のコロクをク(来)と聞き、その人が来なければ嘘なりと戯れていう意か(大言海)、 大虚言鳥の義(和訓栞)、 オオキニキタナキトリの意、オソは物食いのきたないことを言う(袖中抄)、 等々、由来には諸説あり、 音の類似から、オソをウソ(嘘)の転とする説が唱えられてきたが、万葉集(四・六五四)の「咲く花も乎曾呂(ヲソロ)は飽きぬ晩(おくて)なる長き心になほしかずけり」のオロソと関連づける説が有力、 とある(日本語源大辞典)。万葉集の、 大伴坂上郎女、 の歌は、 咲く花もをそろはいとはし晩生(おくて)なる長き心になほしかずけり、 咲く花もをそろはうとしおくてなる長き心になほ及(し)かずけり、 などと表記されたりするが、 乎曽呂(をそろ)、 は(https://art-tags.net/manyo/eight/m1548.html)、 せっかち、 早熟、 軽率、 の意で、上記歌意は、 早咲き、 の意となる(仝上・https://bonjin5963.hatenablog.com/entry/2022/07/11/000000)。 「カラス」については触れたことがあるが、古来、カラスは、 霊魂を運ぶ霊鳥、 とされてきたし、日本神話の神武東征で、熊野に上陸して大和国へ向かう神武天皇を三本足の「八咫烏(やたがらす)」が松明を掲げ導いたと伝わるように、 吉兆を示す鳥、 でもあった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B9)。古代、やはり、 噓、 よりは、 軽率、 という意がふさわしいのかもしれない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 字を並べても文整わず、心愚かにして船にしるしをつけたと同じで、文を作っても句が整わない(霊異記)、 とある、 船にしるしをつける、 は、 『呂氏春秋』にある話。船の中から剣を落としたので、あわてて舟に目印をけておいた。船が止まったとき、その目じるしの場所から水中に入って剣をさがしたという、 と注記がある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 剣(けん)を落として舟を刻(きざ)む、 船に刻(こく)して剣(つるぎ)を求む、 船端に刻を付けて刀を尋ねる、 舟に刻みて剣を求む、 等々ともいい(故事ことわざの辞典)、 刻舟(こくしゅう)、 刻船(こくせん)、 刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん)、 ともいう(仝上・字源・大言海)。 『呂氏春秋』(秦の呂不韋(りょふい)が賓客を集めて編録させた、先秦諸家の諸学説や諸説話を集めた百科全書)慎大覧・察今に、 楚人有渉江者、其剣自舟中墜於水、遽刻其舟曰、是吾剣所従墜、舟止、従其所刻者、入水求之、舟已行矣、而剣不行、求剣若此、不亦惑乎(契(ケツ)、鍥と通ず、刻む也)、 とある(大言海・字源)。これが出典とされているが、 晋代の『抱朴子』(ほうぼくし 葛洪 内篇20篇、外篇50篇。内篇は神仙術に関する諸説を集大成した)外篇に、 刻船不可以索遺劔、膠柱不可以諧清音、 とあり、また、蘇軾(そしょく 蘇東坡)の詩にも、 堪笑東坡痴鈍老、區區猶記刻舟跡、 と詠っている。 変通を知らぬ喩え、 として使われ(字通)、 時勢の移ることを知らず、いたずらに古いしきたりを守ることのたとえ(精選版日本国語大辞典)、 古い物事にこだわって、状況の変化に応じることができないことのたとえ(デジタル大辞泉)、 愚人が頑固に舊を守りて時勢の移れるを知らざるに喩ふ(字源)、 時勢の移ることを知らず、いたずらに古いしきたりを守ることのたとえ(故事ことわざの辞典)、 物事にこだわって事態の変化に応ずる力のないことのたとえ(精選版日本国語大辞典)、 時勢の移り行くのを知らずに旧習を固守する愚かさのたとえ(広辞苑)、 等々と、ほぼ似た意味で使っている。 時代の移り変わりに気が付かないこと、 古い仕来りを守って時勢の変遷に気付けないこと、 つまり、川の流れを時勢、船をその人やその人の守っている考えに準えていることになる。 守株、 膠柱、 とも同義となる。「守株」は、 株(くいぜ)を守る、 株を守りて兎を待つ、 ともいい、 兎が走って来て木の切り株に当たって死んだのを見た宋の農民が、仕事を投げ捨てて毎日切り株を見張ったものの、ついに兎は捕れなかった、 という「韓非子」の故事による。 膠柱(こうちゅう)、 は、 琴柱に膠す、 ともいい、 「膠」はにかわ、「柱」は琴柱(ことじ)の意、 で、 琴を弾くのに、琴柱を膠(にかわ)で固定しては調子をととのえることができない、というところから、やはり、 法則にこだわっていて、融通がきかないこと、 いたずらに古い習慣を守って、時に応じた物事の処理ができないこと、 をいう。 「舟」(漢音シュウ、呉音シュ)は、「一葉の舟」で触れたが、「舟」と「船」の区別は、「ふね」で触れたように、 小形のふねを「舟」、やや大型のふねを「船」、 とするが、 千鈞得船則浮(千鈞も船を得ればすなはち浮かぶ)(韓非子)、 と、「船」と「舟」の違いは、あまりなく、 漢代には、東方では舟、西方では船といった、 とある(漢字源)。今日は、 動力を用いる大型のものを「船」、手で漕ぐ小型のものを「舟」、 と表記する(http://gogen-allguide.com/hu/fune.html)とし、 「舟」や「艇」は、いかだ以外の水上を移動する手漕ぎの乗り物を指し、「船」は「舟」よりも大きく手漕ぎ以外の移動力を備えたものを指す。「船舶」は船全般を指す。「艦」は軍艦の意味である。(中略)つまり、民生用のフネは「船」、軍事用のフネは「艦」、小型のフネは「艇」または「舟」の字、 を当てる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9)とある。 「刻」(コク)は、 会意兼形声。亥(ガイ)は、ごつごつした豚の骨組み。骸(ガイ)の原字で、核(かたい芯)と同系の言葉。刻は「刀+音符亥」で、かたい物を刀でごつごつと彫るの意。かたくごつごつとむりにきざみこむの意から刻薄の意に転じた、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(亥+刂(刀))。「いのしし」の象形(「いのしし」の意味だが、ここでは、「己」に通じ(「己」と同じ意味を持つようになって)、「かたい力が入る」の意味)と「刀」の象形から、刀に力を入れて「きざむ」を意味する「刻」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji980.html)。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 須弥山(すみせん)の頂上は見ることができても、欲の山の頂上はみることができない(霊異記)、 の、 須弥山、 は、 梵語Sumeruの音写(インド神話のメール山、スメール山、su-は「善」を意味する、美称の接頭辞)、 で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1)、 蘇迷盧(そめいろ)、 須弥留(しゅみる)、 とも表記、 ふつう、 しゅみせん、 と訓ませ、 妙高山、 妙光山、 と漢訳する(広辞苑)。 古代インドの世界観が仏教に取り入れられたもので、世界の中心にそびえるという高山、 とされ、この世界軸としての聖山は、 バラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教にも共有されている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1)。 風輪・水輪・金輪と重なった上にあり、大海中にあり、高さは八万由旬(ユジユン 一由旬は四〇里、一説に約7キロメートル)。水に没している部分も八万由旬、縦・横もこれに等しく、金・銀・瑠璃(ルリ)・玻璃(ハリ)の四宝からなり、頂上は帝釈天(たいしゃくてん)が住む、 忉利天(とうりてん)、 で、頂上には善見城(ぜんけんじょう)や殊勝殿(しゅしょうでん)がある。 須弥山には甘露の雨が降っており、それによって須弥山に住む天たちは空腹を免れる、 とある(仝上)。 中腹には四天王が住む。須弥山の周囲には同心円状に七重の山脈があり、その外側の東西南北に、 勝身(しようしん)・贍部(せんぶ)・牛貨(ごけ)・倶盧(くる)、 の四州があり、さらにその外を、 鉄囲山(てつちせん)、 が囲っている。贍部州(ぜんぶしゅう 閻浮提(えんぶだい)、南閻浮提(なんえんぶだい 須弥山の南にあるので)ともいう)が人々の住む世界に当たるとされる(広辞苑・大辞林・大辞泉・日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。 須彌山(しゅみせん)を中心とし、鉄囲山(てっちせん)を外囲とする、山、海の総称を、 九山八海(くせんはっかい)、 といい、中央の須彌山と外囲の鉄囲山と、その間にあるのを、 持双山、持軸山、担木山、善見山、馬耳山、象鼻山、持辺山、 の七金山を数えて九山とし、九山の間にそれぞれ大海があるとする。海は七海が内海で、 八功徳水(はっくどくすい)、 をたたえ、第八海が外海で、 鹵水(ろすい)海、 この中の四方に四大陸が浮かび、われわれの住んでいるのが、南の大陸、 南閻浮提(なんえんぶだい 閻浮提、贍部州)、 となる(精選版日本国語大辞典)。日月星辰は須弥山の中腹の高さで周回している(広辞苑)とある(仝上)。なお、「四天王」「帝釈天」については、「四天王」については触れた。 「金輪際」で触れたように、『倶舎論』(4〜5世紀成立)には、 安立器世閨iきせけん)、(世界)風輪居下、……次、上水輪、……水輪凝結為金、……於金輪上有九大山、妙高山王處中而住、 とあり、それによると、世界は、 有情世間(うじょうせけん)とよばれる人間界、 と、それを下から支えている、 器世間(きせけん)とよばれる自然界、 とに分類され、後者は、 風輪、 水輪、 金輪、 三つからなっている(日本大百科全書)。それは、 虚空にとてつもない大きさの風輪というものが浮かんでいる。その風輪の上に、風輪よりは小さいがなおかつ無限大に近いような水輪というものがあって、またその上に金輪がある。もちろん厚みも大変なものである。その金輪の上に九つの山がある。その中央にそびえるのが須弥山である。その高さは今の尺度でいうと56万キロメートルあるという。この山の南側に贍部(せんぶ)洲という名前の場所がある。ここがわれわれ人間どもの世界である、
というものである(内田正男『暦と日本人』)。 花を売る女人は、花を供養した功徳によって忉利(とうり)天に生まれることができ(霊異記)、 とある、 忉利天、 は、 梵語、多羅夜登陵舎(トラーヤストリンシャ Trāyastriſśa)の音写、 で、また、 怛利耶怛利奢、 に作り、 三十三天、 と漢訳する(大言海・デジタル大辞泉)。唐代の『慧苑音義』(慧苑・撰述 22年)には、 忉利、訛言、正云怛利耶怛利奢、言怛利耶者此云三也、怛利舎十三也、謂須弥山頂、四方各有八天城、當中有一天城、帝釈所居、総数有三十三處、 とある。つまり、原意は、 三十三、 つまり、 三十三種の天(または天神)からなる世界、 を意味するので、 三十三天、 と意訳された(日本大百科全書)。 「非想非々想天」、「三界」で触れたように、「三界」の、 欲界、 色界、 無色界、 の諸天のうち、 無色界(むしきかい)、 は、 色身、すなわち肉身を離れ、物質の束縛を離脱した心のはたらきだけからなる世界、 で、 無色天(むしきてん)、 ともいい、 空無辺処(くうむへんしょ 無量空処 第一天。物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地)、 識無辺処(しきむへんしょ 第二天。認識作用の無辺性についての三昧の境地)、 無処有処(むしょうしょ 第三天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地)、 非想非非想処(ひそうひひそうしょ 第四天。三界の中で最上の場所である無色界の最高天)、 の四天からなり、その下の、 色界、 は、 浄らかな物質からなる世界で、四禅を修めたものの生まれる天界で、性欲・食欲・睡眠欲の三欲を離れた生きものの住む清らかな領域、 をいい、 絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、 四禅天、 に大別される。「四禅天」(しぜんてん)は、 禅定の四段階、 その領域、とその神々をいい、 初禅天、 には、梵衆・梵輔・大梵の三天、 第二禅天、 には、少光・無量光・光音の三天、 第三禅天、 には、少浄・無量浄・遍浄の三天、 第四禅天、 には、無雲・福生・広果・無想・無煩・無熱・善見・善現・色究竟の九天、 合わせて十八天がある、とされる(「四禅」はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A6%85に詳しい)。いわゆる、 有頂天、 については、 色界(しきかい)の中で最も高い天である色究竟天(しきくきょうてん)、 とする説と、 色界の上にある無色界の中で、最上天である非想非非想天(ひそうひひそうてん) とする説の二説がある(広辞苑)ことは、「非想非々想天」で触れた。 色界の下にある、欲望の強い有情(うじょう)の住する境界、 欲界、 の、 六欲天、 は、上から、 他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、 化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん) 六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、 兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある。菩薩がいる場所、 夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、 忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん) 六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、 四大王衆天(しだいおうしゅてん) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、 となる(精選版日本国語大辞典・http://yuusen.g1.xrea.com/index_272.html他)。 忉利天、 は、 欲界の六天のうちの第二、 須弥山(しゅみせん)の頂上にあり、 帝釈天、 が住むとされる(「須弥山」については触れた)。 中央の、 喜見城(きけんじょう 善見城(ぜんけんじょう)、喜見、喜見宮とも) の、 殊勝殿(しゅしょうでん)、 に三十三天の首領である帝釈(たいしゃく)天が住み、四方の峰に八天があるので、 三十三天、 ともいう(広辞苑・デジタル大辞泉・日本大百科全書)。『慧苑音義』には、 この天、須弥山の頂に在り、四方に各八天の住処あり中央の善見城を加ふるゆゑに三十三天となる、帝釈天王の居所である、 に続いて、 往昔迦葉仏入滅の時一女人あり発心して塔を修す、また三十二人ありてこれを助修す、この功徳によりて女人は忉利天王に転生し、其助修者は皆輔臣となつたと、三十三天ある所以である、 とある(仏教辞)。ちなみに、三十三天は、中央の、 喜見城(きけんじょう)天(善見城天)、 のほか、 善法堂天(ぜんぽうどう 善見城の南西に善法堂があり、ここに天人が定期的に集まり会議を開く)、 山峯天(さんぽうてん 北東の外側にある)、 山頂天(さんちょうてん 北西の外側にある)、 鉢私地天(はっしちてん 北西にある)、 倶吒天(くたてん 北東にある)、 雑殿天(ぞうでんてん 北西の外側にある)、 歓喜園天(かんぎえんてん 北方にある。ここには善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ歓喜園と如意池がある。ここへ入ると自然に歓喜の心が生じるとされる。「かんぎおん」とも)、 光明天(こうみょうてん 北東の外側にある)、 波利耶多天(はりやたてん 北東の外側にある)、 離険岸天(りけんがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、 谷崖岸天(こくがいがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、 摩尼蔵天(まにぞうてん 北東の外側にある)、 旋行天(せんぎょうてん 北東にある)、 金殿天(こんでんてん 北東の外側にある)、 鬘影天(まんえいてん 南東にある)、 柔軟天(じゅうなんてん 南東の外側にある)、 雑荘厳天(ぞうしょうごんてん南東の外側にある)、 如意天(にょいてん 南東にある)、 微細行天(びさいぎょうてん 南東の外側にある)、 歌音喜楽天(かおんきらくてん 南の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ粗悪園(悪口園)と如意池がある)、 威徳輪天(いとくりんてん 南西の外側にある)、 月行天(げっこうてん 南西にある)、 閻摩那娑羅天(えんまやさらてん 南西の外側にある)、 速行天(そっこうてん 南西の外側にある)、 影照天(えいしょうてん 西の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ雑林園と如意池がある)、 智慧行天(ちえぎょうてん 西の外側にある)、 衆分天(しゅうぶんてん 西の外側にある)、 曼陀羅天(まんだらてん 北西にある)、 上行天(じょうぎょうてん 北西にある)、 威徳顔天(いとくがんてん 北西の外側にある)、 威徳燄輪光天(いとくえんりんこうてん 北西にある)、 清浄天(しょうじょうてん 北西の外側にある)、 とある(https://jiincenter.net/toriten-33ten/)。 この天は、 楼閣(ろうかく)、苑林(おんりん)、香樹(こうじゅ)、 に満ちた楽園であり、欲界に属し、性の交わりの享受があり(日本大百科全書)。釈迦の母は死後ここに生まれ、釈迦は生後7日目に死別した母マーヤー夫人に法を説くために祇園精舎から忉利天へ昇天し、ここで3ヶ月間、母マーヤー夫人に法を説いた後、三道の宝階を降下してサンカーシャの地に現れたとされる(三道宝階降下伝説)。この天人の寿命は、人間の 100年を一日一夜としたときの 1000年であるという(https://jiincenter.net/sankassa/・ブリタニカ国際大百科事典・世界大百科事典)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 男は初夜の時には、旅人が病気になって泊まっているのだろうと思った。(中略)後夜(ごや)の終わりごろに(霊異記)、 とある、 初夜、 後夜、 は、 初夜とは午後八時頃をいう。後夜は午前二時から六時までの間をいう、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 「初夜(しょや)」は、 そや、 とも訛り、古くは、 前日の夜半からその日の朝までの称。後には夕方から夜半までの称。 とある(広辞苑)。つまり、 前夜の夜半より、今朝までの称、これを、今日の初夜とす、又、今日の夕より、夜半までを、今日の後夜と云ふ、 とある(大言海)。それが、 今、常に云ふ所は、夕より夜半までの称、夜半より朝までを後夜とす、 と変わる(仝上)。「夜半」は、 子の時、 夜九ツ、 いまの午後十二時である(仝上)。さらに、 漏刻にては、亥の二刻(午後九時半)より子の二刻(午前十二時半)までの称、子の三刻(午前一時)より丑の四刻(午前二時半)までを後夜とす、 という(仝上)ともある。「漏刻」については、「深更」で触れた。 ただ、仏教では、一日を六分した時間帯の区分を、 六時(ろくじ)、 といい、 晨朝(じんじょう)・日中・日没(にちもつ)・初夜(しょや)・中夜(ちゅうや)・後夜(ごや)、 と別け、 昼夜六時、 ともいい、 晨朝・日中・日没、 を合わせて、 昼三時、 初夜・中夜・後夜、 を合わせて、 夜三時、 ともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%AD%E6%99%82・精選版日本国語大辞典)。上記の注記に言う、 午後八時頃、 というのは、この「初夜」の、 戌(いぬ)の刻(午後八時から九時頃)、 を指す。 初更、 甲夜、 ともいい、 その時刻に行なう仏事、 をさす(仝上)。「後夜」は、 寅の刻(午前三時から五時)、 を指す。伝法然撰『浄土三部経如法経次第』に、 日没申時、初夜戌時、半夜子時、後夜寅時、晨朝辰時、日中午時、 とある(仝上)。だから、寺院で初夜(午後八時ごろ)に鳴らす鐘を、 初夜の鐘、 後夜の勤行のとき鳴らす鐘、また、その鐘の音を、 後夜の鐘(かね)、 後夜の勤行のために起きることを、 後夜起、 後夜に行う勤行を、 後夜の行(おこ)ない、 といい、 二〇拝する礼讃を、 後夜礼讃偈(ごやらいさんげ) 後夜礼讃、 という(仝上)。因みに、「中夜(ちゅうや)」は、 亥(い)の刻(午後九時)から丑(うし)の刻(午前三時)、 を指す。 「夜」の呼び方には、「深更」で触れたように、中国で、夜を五つに分け、 五夜(ごや)、 というのがある。午後7時ないし8時から、午前5時ないし6時に至るまで、順次2時間を単位に、 初更(甲夜、)、 二更(乙夜、)、 三更(丙夜、)、 四更(丁夜、)、 五更(戊(ぼ)夜、)、 と区切ったところから由来する(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。 また、「朝」や「ひる」、「夜半」、「よひ」で触れたように、上代、日本の夜の時間区分は、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 であり、昼の時間帯は、 アサ→ヒル→ユウ、 であった(岩波古語辞典)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 二岩の団三郎が相川の玄伯などに贈った一緡の錢は、使ひ残しの一文が再び元の一緡になると云ふ(山島民譚集)、 の、 一緡、 は、 ひとさし、 と訓むが、 いちびん、 と訓む漢語である。 「緡」(漢音ビン、呉音ミン)は、 会意兼形声。暋(ビン)は、よく見えない意を含む。緡はそれを音符とし、意とを加えた字、 で(漢字源)、 維絲伊緡(召南)、 と、 細くて見えにくいひも、 つまり、 絲、 釣り糸、 の意(字源・漢字源)で、 なわ、 の意もあり(字源)、 錢の穴に通し、幾つもの錢を束ねる細い紐、 つまり、 ぜにさし(錢緡)、 ぜになわ(錢縄)、 の意(仝上・精選版日本国語大辞典)であり、そこから、 幾緡則豊用(幾緡ナレバスナワチ豊カニ用ヰルヤ)(杜子春)、 と、 紐を通した錢の束を数える単位、 つまり、 緡錢(びんせん)、 の意で使う(漢字源)。日本にもそれが伝わり、 ぜにさし、 あるいは、 ぜにざし、 といい、 銭差、 銭緡、 繦、 と当てる(精選版日本国語大辞典・大言海)。略して、 さし、 ともいう。また、 銭緡(ぜにさし)に通した銭、 をもいい、 銭貫(ぜにつら)、 貫銭(ぬきぜに)、 ともいう(広辞苑)。なお、「錢貫(センカン)」は、 緡、謂錢貫也(漢書・食貨志「注」)、 とあり、漢語からきている(字源)。江戸後期の百科事典『類聚名物考』には、 貫、さし、緡、錢ヲ貫ク縄ヲ緡ト云ヒ、又、即チ其ノ貫ヌクヲ名トシテ、貫トノミモ云フ、錢千文ヲバ、又、一貫トモ云フ也、……又俗ニハ、錢一貫文ヲ長ク貫ク緡ヲバ、即チ、貫緡トモ云フ也、 とある。「貫緡(かんざし)」は、 貫差、 とも当て、 銭一貫文をつらぬく緡(さし)、また、緡につらぬいた一貫文の銭、 を言うが、実際には、 九百六拾文、 で、一貫文として通用した(精選版日本国語大辞典)とある。 「ぜにさし」には、 百文差、 三百文差、 一貫文(千文)差、 などがあるが、一文錢一緡は、 六百文、 四文錢一緡は、 四百文、 ともある(大言海) 一文の「文」というのは、 貨幣の面に鋳出した文字から、 といわれ、 銅で鋳造した穴あき銭一枚、 をいい(仝上)、「一文錢(いちもんせん)」は、通貨の最下位の単位で、千枚で一貫文。 一銭、 一文、 とも。「四文銭(しもんせん)」は、 四文通用の銭貨、 四当銭、 しもん、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 寛永通宝、 は、それまで長く使われてきた、明の、 永楽通宝(えいらくつうほう)、 に代えて、寛永元年(1624)、江戸幕府が鋳造発行したものである(https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p026/)。 ところで、「錢さし売り」という商売があり、 緡売り(さしうり)、 と呼ばれ(デジタル大辞泉)、江戸後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗、事物を説明した類書(百科事典)『守貞謾稿』によると、 10本を一把、10把を一束、 として、京坂では、 所司代邸や城代邸などの中間の内職、 で、 一把で6文程度、 あり(http://detailofmodel.blog.fc2.com/blog-entry-6.html)。江戸では、 火消役邸の中間による内職、 で、 一束で約100文、 であった(仝上)とある。そして、 実は江戸でも京坂でも、店構えの大小や商売に応じて「押し売り」をした、 とある(仝上・デジタル大辞泉)。 「貫」(カン)は、 会意文字。もと、丸い貝を二つひもで抜き通した巣が゛他を描いた象形文字。のち「ぬきとおすしるし+貝(貨幣)」、 とあり(漢字源)、 穴あき錢千文をひもで貫いたもの、 を指し、 万貫之家資、 満貫、 という言葉がある(仝上)。ただ、 象形。縦棒が二つの貝を貫通した形を象る。「つらぬく」「うがつ」を意味する漢語、 とする『説文解字』の、 「毌」+「貝」、 という分析は、 金文などの資料とは一致しない誤った分析である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B2%AB)とし、また、「毌」は、 『説文解字』の「貫」に対する誤った分析から作られた字、 であり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AF%8C)、 「毌」なる字の実在は確認されていない、 とある(仝上)。しかし、その解釈が、 会意形声。貝と、毌(クワン つらぬく)とから成り、ひもに差し通した銭の意を表す。ひいて「つらぬく」意に用いる(角川新字源)、 会意兼形声文字です(毌+貝)。「物に穴をあけ貫き通す」象形と「子安貝(貨幣)」の象形から、「貫き通した銭」、「つらぬく」を意味する「貫」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1610.html)、 等々と通用している。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) ヨムという我々の動詞はか算(かぞ)えること、また暗誦することをも意味していた(柳田國男「口承文芸史考」)、 とある、 よむ、 は、 読む、 詠む、 訓む、 誦む、 等々とあてる(広辞苑)。 「よむ」は、 一つずつ順次数えあげていくのが原義。類義語カゾフは指を折って計算する意、 とあり(岩波古語辞典)、 ぬばたまの夜渡る月を幾夜経(ふ)とよみつつ妹は吾を待つらむぞ(万葉集)、 と、 一定の時間をもって起こる現象を、一つ一つ数え上げていく、 意の 數(よ)む、 から、 人の世となりて素戔嗚尊よりぞ、みそもじあまりひともじはよみける(古今和歌集・序)、 と、 一つ一つの音節を数えながら和歌を作り出す、 意の、 詠(よ)む、 あるいは、 維摩詰(ゆいまつき)のかたちをあらわして維摩経をよめば即ちやみぬ(三宝絵)、 と、 書かれた文字を一字ずつ聲立てて唱えてゆく、 唱えて相手に聞かせる、 意の、 誦(よ)む、 さらには、 春の日と書いてかすがとよめば、法相擁護の春日大明神(平家物語)、 と、 訓読する、 意の、 訓(よ)む、 とがなるが、「よむ」の、 数える、 意は、 錢をよむという事(世間胸算用)、 と生きている(仝上)し、そこから、 志学垂統と私かに題せる冊子に録せり。後の人々これをよんで知るべし(蘭学事始)、 や 古典をよむ、 というような、 文書を見て、意味をといて行く、 意や、そうした意味をメタファにして、 腹をよむ、 暗号をよむ、 と、 了解する意、 や、 顔色をよむ、 敵の作戦をよむ、 消費者動向をよむ と、 推測する、 意や、囲碁・将棋などで、 先の手を考える 意でも使う(広辞苑)。大言海は、 白妙の袖解き更へて還り來む月日を數(よ)みて往きて來(こ)ましを(万葉集)、 と、 數、 と当てる、 数(よ)む、 を別に立て、さらに、その轉として、 物を数ふる如く、つぶつぶに唱ふる、 聲立てて唱ふ、 意の、 誦む、 と、 定まりてある詞を、今まねびて口に云ふ、 意の、 読む、 を立て、それは、 和藤内些とも臆せず、読めたり、扠ては異国の虎狩(国姓爺合戦)、 と、 さとる、 了解する、 意でも使い、さらに、 心に思ふことを、條條とかぞへあぐる、 意として、 詠む、 を立てている。 「よむ」の語意の広がりは、 声に出して言葉や数などを、一つ一つ順に節をつけるように区切りを入れながら(唱えるように)言う行為を表わすのが原義、 ↓ (歌・詩・経典・文章などを)声を立てて、一区切りずつ、一音ずつたどりながらいう。声に出して唱えていく、 ↓ 文章など書かれた文字をたどって見ていく、 ↓ 文章・書物などを見て、そこに書かれている意味や内容を理解する、 という(この順で変化したという意味ではないが)流れが分かりやすい(日本語源大辞典)。本居宣長が、 凡て余牟(ヨム)と云は、物を數ふる如くにつぶつぶと唱ふることなり〈故物を數ふるをも余牟と云り、又歌を作るを余牟と云も、心に思ふことを數へたてて云出るよしなり〉、 といっていたこと(古事記伝)が、上記諸説の背景にあるようだが、 数を数える、 唱える、 歌を詠む、 が、原義としては同じとみなしていた(日本語源大辞典)ということなのだろう。このことで思い合わされるのは、柳田國男が、 メチャクチャ、 シンネリムッツリ、 あるいは、 スッタカッタ(急いで走り回る)、 アワタキサワタキ(狼狽する)、 といった方言等々を例に、語音の変化を楽しむところが日本語にはあり、 我々の歌謡や語り物の面白さ、さては謎とか諺とかの文句に、意味を離れてなお幼い者をまでひきつける力、 について言及していた(口承文芸史考)ことと考え合わせると、 よむ、 という言い回しにある、日本語の特徴をうかがわせる奥深さを想ってしまう。 ただ、「よむ」の語源については、 ヨフ(呼)の義(言元梯)、 ヨビミル(呼見)の義(日本語原学=林甕臣)、 ヨクミ(見)の転(和句解)、 ヨモミル(四方見)の反(名語記)、 ヨセメ(寄目)の義(名言通)、 ヨフクム(世含)の義(柴門和語類集)、 ヨ(節)を活用させた語(俚言集覧)、 と、とても語源を特定できる説はない(日本語源大辞典)。一方、「かぞふ」は、 カズ(数)と同根(岩波古語辞典)、 數+フ(継続)(日本語源広辞典)、 數(かず)を活用させた語(名言通・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)、 カズフ(数)の転、カズフは数を活用せしむ(占ふ、甘ふと同例)(大言海)、 と、「数」と繋がり、「かず」も、 カサ(嵩)から(国語の語根とその分類=大島正健・大言海)、 カソフ(日添)の義か、ズはソフの反(和句解) 古く貝を貨としたから、カソ(貝副)の義(言元梯)、 とあるが、はっきりしない。語源は定かではないものの、 カズ、 と カゾフ、 とはつながっていることは確かである(岩波古語辞典)。 「讀(読)」(「よむ」意では、漢音トク、呉音ドク、「とまる」意では、漢音トウ、呉音ズ)は、 会意兼形声。𧶠(イク・トク)は、途中でしばしばとまる音を含む。讀はそれを音符とし、言を加えた字で、しばしば息を止めて区切ること、 とある(漢字源)が、 会意形声。「言(ことば)」+音符「𧶠」(「イク」または「ショク」。「賣(=売)」に似るが「罒(モウ)」ではなく「四」。人目につかせ立ち止まらせて売ること)。立ち止まらせる、区切るなどの意があり、「瀆(みぞ)」「黷(とどこおらせる)」と同系、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AE%80)、別に、 形声。言と、音符𧶠(イク→トク)とから成る。書物から意味を引き出す、ひいて、声を出して「よむ」意を表す、 とか(角川新字源)、 形声文字です(言+売)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつし(慎・謹)んで)言う」の意味)と「足が窪(くぼ)みから出る象形(「出る」の意味)と網の象形と貝(貨幣)の象形(網をかぶせ、財貨を取り入れる、 「買う」の意味)」(買った財貨が出る、すなわち、「売る」の意味だが、ここでは、「属」に通じ、「続く」の意味)から、「言葉を続ける・よむ」を意味する「読」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji200.html)が、上記、 「賣(=売)」に似るが「罒(モウ)」ではなく「四」。人目につかせ立ち止まらせて売ること、 から(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AE%80)判断すると、いずれも間違っていることになる。なお、漢字、 讀、 誦、 の違いは、「讀」は、 書に対してよむ、 であり、「誦」は、 書に背きてそらんじよむ(背誦と熟す)、 とある(字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 一体、善悪の因果や吉凶得失の法は仏教の経典や他の書物に記されている。釈迦一代の教えの分を見ると、三つの時期に分けられる。一つは正法(しょうぼう)五百年、二つは像(ぞう)法千年、三つは末法万年である。釈迦が入滅して以来、延暦六年丁卯(787)まで千七百二十二年すぎた。正像の二つの時期がすぎて末法にはいった(「霊異記」下巻・序)、 とある、 正法(しょうぼう・しょうほう)、 像法(ぞうぼう・ぞうほう)、 末法(まっぽう)、 については、「闘諍堅固」で触れたように、 仏滅後二千五百年を五百年毎に区切った、 五五百歳(ごごひゃくさい)、 を、 大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん(大集経)、 とあり、順に、 @解脱堅固(げだつけんご 仏道修行する多くの人々が解脱する、すなわち生死の苦悩から解放されて平安な境地に至る時代)、 A禅定堅固(ぜんじょうけんご 人々が瞑想修行に励む時代)、 B読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご 多くの経典の読誦とそれを聞くことが盛んに行われる時代)、 C多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご 多くの塔や寺院が造営される時代)、 D闘諍言訟(とうじょうごんしょう 仏教がおとろえ、互いに自説に固執して他と争うことのみ盛んである時代)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)=闘諍堅固、 とし(大集経)、 解脱・禅定堅固は正法時代、 読誦多聞・多造塔寺堅固は像法時代、 闘諍堅固は末法、 といい、これを、 正法、 像法、 末法、 の、 三時説、 といい(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9C%AB%E6%B3%95)、 仏教が完全に滅びる法滅までの時間を三段階に区切り、 釈尊の入滅の後しばらくは、釈尊が説いた通りの正しい教えに従って修行し、証果を得る者のいる正法の時代が続く。しかしその後、教と行は正しく維持されるが、証を得る者がいなくなる像法の時代、さらには教のみが残る末法の時代へと移っていき、ついには法滅に至る、 という、 時代が下るにつれ、教(教説)・行(実践)・証(さとり)が徐々に失われていく、 という説である(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E6%99%82)。南岳慧思の『立誓願文』(558年)では、 正法五百年、 像法千年、 末法万年、 と三時の年数を定め、 末法思想、 の嚆矢となる(世界大百科事典)、とある。ただ、各時代の長さには諸説あり、 正法千年、 像法五百年、 末法万年、 とする説もある(とっさの日本語便利帳)。 日本では、正法・像法の時代を各千年とする説が採られ、周穆王(ぼくおう)五二年(紀元前949)の仏滅説から計算して、釈迦入滅後二千年に当たる後冷泉天皇の永承七年(1052)から末法の時代に入った、 とされる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9C%AB%E6%B3%95・岩波古語辞典)が、『日本霊異記』で景戒がいち早く、上記のように、 正法五百年、 像法千年説、 に則り、延暦六年(787)はすでに末法であると表明している。その後平安期後半に源信の『往生要集』や最澄に仮託した『末法灯明記』が著され、 正法千年・像法千年説、 を取り、周穆王(ぼくおう)五二年(紀元前949)の仏滅説から計算して、 永承七年(1052)、 を末法の年と見なした(仝上)。 正法(しょうぼう)、 は、 白法(びゃくほう)、 浄法(じょうぼう)、 妙法(みょうほう)、 ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95)、 有誹謗佛正法者、我當断其舌(涅槃経)、 と、 釈尊入滅後の500年または1000年間。正しい教えが行われ、証果がある、 とする、 正法時、 つまり、 教・行・証が具わった時代、 をいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E6%99%82・広辞苑)。「教・行・証」は、 教えと修行と覚り、 の意で、 教は仏の説いた教え、行は教えに従って行う修行、証は修行によって得られる覚りを意味する、 とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%95%99%E3%83%BB%E8%A1%8C%E3%83%BB%E8%A8%BC)。覚りは修行の結果として得られるものだから、 教・行・果、 ともいう(仝上)。 像法(ぞうほう・ぞうぼう)、 は、 正法の次の500年または1000年間の称で、教法は存在するが、真実の修行が行われず、証果を得るものがない、 とする(「像」とは「似」の意)、 像法時、 つまり、 証が欠けるが、教・行が存続する時代、 をいう(仝上)。日本では永承六年(1051)がその最後の年と信じられていた。 末法(まっぽう)、 は、 於末法中、但有信教、而无行證(末法燈明記)、 と、 像法(ぞうぼう)の後の1万年を指し、仏の教えがすたれ、修行するものも悟りを得るものもなくなって、教法のみが残る、 とする、 末法時、 つまり、 行・証が欠け、教のみ残る時代、 をいう(仝上)。日本では永承七年(1052)に末法に入ったとされる(仝上)。 因みに、末法の後は、 法滅、 で、 末法一万年後無窮、 とある(https://buddhist.hatenablog.com/entry/2017/08/24/120000)。 なお、平安時代は仏滅を紀元前949年とする説が一般的だったが、現在は、 周書異記の記述を根拠とする紀元前949年説、 東南アジアの仏教国に伝わる紀元前544-543年説、 2をギリシャ資料によって修正した紀元前486年もしくは紀元前477年説、 中国、チベットに残る記述から紀元前400-368年説、 があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%BB%85)、周書異記は偽書とする説があり、949年説の根拠が失せている。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 本堂の東側の脇士(きょうじ)の観音像の首が、理由もないのに切れて落ちた(霊異記)、 の、 脇士、 は、 仏の左右に侍る菩薩を脇士という、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。「三尊」で触れたように、 中央に立つ尊像を、 中尊(ちゅうそん)、 左右に従っているのを、 脇士、 というが、 挟み侍る、 意で(大言海) 夾、挟、俠、相通ず、 とある(仝上)。つまり、 、 仏の左右に侍して衆生(しゅじょう)教化を助けるもの、 の意(広辞苑)で、 脇侍、 夾侍、 挟侍、 とも当て、 脇士、 脇侍、 を、 わきじ、 とも訓ませ(大辞泉)、 脇立(わきだち)、 ともいう(広辞苑)。「脇侍」の、訓読みが、 わきだち、 で、 脇士、 は、 脇侍大士の意、 で、菩薩を、 大士、 という(仝上)とある。確かに、三尊は、 阿弥陀三尊は、阿弥陀如来と観音、勢至の二菩薩、 釈迦三尊は、釈迦如来と文殊、普賢の二菩薩(梵天と帝釈天、薬王菩薩と薬上菩薩、金剛手菩薩と蓮華手菩薩の例も)、 薬師三尊は、薬師如来と日光の二菩薩、 弥勒三尊は、弥勒如来と法苑林菩薩、大妙相菩薩の二菩薩、 盧舎那三尊は、盧舎那仏と如意輪観音、虚空蔵菩薩の二菩薩(薬師如来と千手観音菩薩)、 など脇士は菩薩が主流だが、菩薩とは限らず、 不動三尊は、中尊は不動明王と矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制吒迦童子(せいたかどうじ)、 観音菩薩三尊は、観音菩薩(十一面観音、千手観音など)と毘沙門天、不動明王、 という場合もあるので、 中尊をはさんで左右に侍する菩薩または比丘などのこと(日本国語大辞典)、 というのが正確かもしれない。 「脇士」については、観無量寿経では、 阿弥陀如来ではその左辺に観音菩薩、右辺に勢至菩薩を配すること、 陀羅尼集経では、 釈迦如来では目連は左に侍し、阿難は右に在りと説かれ、釈迦画像ではその下の左辺に文殊騎獅像、右辺に普賢騎象像を画作せよ、 と説いている(世界大百科事典)。ただ、たとえば、阿弥陀三尊は、 阿弥陀如来と観音、勢至の二菩薩、 だが、脇侍を、観音菩薩を文殊菩薩に置き換えることはない。 阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩は、死後無事に浄土へたどり着けるよう導く「あの世担当」であるのに対し、文殊菩薩は仏道に沿った生き方をするための智慧を授ける「この世担当」だから、 と、それぞれが持っている仏教的な役割から、置き換え不可の者もある(https://goto-man.com/faq/post-10487/)。 「脇士」の多くは、 二尊で、中尊と合わせて、 三尊像、 だが、仏像には、 四尊、 八尊、 十二尊、 それ以上数十尊に及ぶこともある(世界大百科事典)。四尊像というと、 多聞天、持国天、増長天、広目天、 の四天王像があるが、牛伏寺(松本市)四尊像は、鎌倉時代のもので、4体の姿を田の字型に配置し、 向かって右上が孔雀明王像、その下が愛染明王像、その左が不動明王像、その上が尊勝仏頂像、 とある(https://www.city.matsumoto.nagano.jp/soshiki/134/3823.html)。五尊像は、 大日如来、阿閦如来(あしゅくにょらい)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)、 の五智如来、 不動明王、降三世明王(こうざんぜみょうおう)、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王(だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)、 の五大明王があり(https://goto-man.com/faq/post-10487/)、 獅子に乗った文殊菩薩の周囲に優填王、善財童子、大聖老人(最勝老人)、仏陀波利三蔵(中国語: 佛陀波利)の4侍者、 の文殊菩薩五尊、 がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E4%BE%8D)が、五尊懸仏(奈良国立博物館)では、 中尊が施無畏(せむい)・与願(よがん)の印を示す釈迦如来(しゃかにょらい)、以下右上から時計回りに十一面観音(じゅういちめんかんのん)、定印(じょういん)の阿弥陀如来(あみだにょらい)、僧形(そうぎょう)の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)、胸前に経巻を持する文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、 という組み合わせである(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/149157)。 八尊像は、 天、竜、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩睺羅迦(まごらが)、 の八部衆(釈迦如来の眷属)がある(仝上)。十二尊像では、 宮毘羅(くびら)、伐折羅(ばさら)、迷企羅(めきら)、安底羅(あんてら)、安底羅(あんにら)、珊底羅(さんてら)、因達(陀)羅(いんだら)、波夷羅(はいら)、摩虎羅(まこら)、真達羅(しんだら)、招杜羅(しゃとら)、毘羯羅(びから)、 の十二神将(薬師如来の眷属)がある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 聖武天皇の世に、大安寺の修多羅(すたら)分の錢三十貫を借りて、越前の敦賀の港に行って物を買った(霊異記)、 とある、 修多羅、 は、 経典の意、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 『東大寺要録』巻七に、修多羅供(すたらく)事の条があり、『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平元年(729)閏五月二十日の詔を引用して説明している。大安寺、薬師寺などに錢、布、稲などを施入し、華厳経をはじめ、一切の経論を転読講説し、天下太平、兆民快楽を祈らせた。この法事を大修多羅供といい、この経費や、常に寺で修多羅を研究する人々(常修多羅衆 じょうすたらしゅう)にあてる費用として施入される金を修多羅分の錢といったが、寺はこの金を利用して利息をつけて一般に貸し付けていた、 とも注記がある(仝上)。因みに、修多羅衆には、毎年一定期日に大規模な転読講説を行う、 大修多羅衆、 と、毎日平常の転読講説を行う、 常修多羅衆、 があり、その中には、東大寺大修多羅衆のごとく、天平勝宝元年(749)の詔によって設置されたものと、大安寺・弘福寺の両衆のごとく奈良初期から存在したものがあった(世界大百科事典)。 修多羅供銭(すたらぐせん)は、 しゅたらぐせん、 とも訓み、奈良時代の南都諸大寺において、 大小乗一切経律論疏を転読講説する修多羅供、およびそれに従事する修多羅衆の予算、 で、大安寺では、 寺の全予算額の28%近く、 に達したとある(仝上)。 いま、 修多羅、 を引くと、たとえば、 しゅたら、 と訓ませ、 浄土宗などで七条袈裟を着用する際に掛ける組紐、 のこととして出てきて、 七条袈裟は全体に着丈が長く、左肩から左腕まで覆うように身に着け、右脇の下で前にまわして修多羅の紐で右胸と左肩を結びとめます。修多羅を七条袈裟に結ぶときには、紐に裏表があるので注意します。七条袈裟には2か所で結びます。上は内側でしっかり結び、下は外側で余裕を持たせて結ぶようにします、 などと解説されている(https://en-park.net/words/7927)。 江戸中期(1729)の『聖道衣料編』修多羅絲結事には、 修多羅ノ事、本トハ、是レ、鈎紐ノ代ワリナリ、是ヲ、修多羅ト名ヅクルコトハ、種々ノ色相ノ絲ヲ集メテ、種々ニ組ミテ、袈裟ヲ飾ルナリ、……今、種々ノ模様ノ絲ヲ交ヘテ組ミシ、結ンデ、契経ニ擬ス、故ニ、修多羅ト名ヅクルナリ、 とある。これを見ると、後述の「経」のメタファとしての「紐」の意が生きていることになる。 修多羅、 は、元来、 梵語sūtra、経(たて)糸の意(広辞苑)、 梵語sūtraの音写、線・ひも・糸の意(デジタル大辞泉)、 梵語sūtra の訳語。修多羅と音訳する(精選版日本国語大辞典)、 等々とあるように、 糸、 の意で、 インドでは多羅葉という葉に書いた教法を鉛筆のようなもので刻書して、それが飛んで行かないように穴をあけて紐を通して保存していました。この紐を、 修多羅、 と呼んでいたとされている(仝上)。それをメタファに、 花を糸で通して花飾りをつくるように、金言が貫き収められている、 ので(日本大百科全書)とも、 教法を貫く綱要の意、 とも(岩波古語辞典)とされる。元来は、バラモン教で使われていたのを、仏教でも採用したものである(仝上)。また、 インドから中国に仏教要点を運ぶときに、組紐に巻経を挟んで馬やらくだで運んできた……ため、修多羅結びという組紐の組み方は、大切な経文が飛んで行かないように、結び留めの編み方で作られています。正確で歪みなどがなく、秩序良く束ねられるのが修多羅という紐の特長になっています、 ともある(仝上)。こうして、 修多羅、 は、 経者。乃是聖教之通名。仏語之美号。然経是漢語。外国云修多羅(「法華義疏(7C前)」)、 と、 仏の説いたもの、経文、佛書、契経(かいきょう) の意で使われる(精選版日本国語大辞典)が、仏教聖典を集めた、 三蔵、 の一つである。因みに、三蔵は、 律蔵(パーリ語・梵語 Vinayapiṭaka(ヴィナヤピタカ) 僧伽(僧団)規則・道徳・生活様相などをまとめたもの、 経蔵(パーリ語Suttapiṭaka(スッタピタカ)、梵:語Sūtrapiṭaka(スートラピタカ) 釈迦の説いたとされる教え(法、ダルマ)をまとめたもの、 論蔵(パーリ語Abhidhammapiṭaka(アビダンマピタカ)、梵語Abhidharmapiṭaka(アビダルマピタカ) 上記の注釈、解釈などを集めたもの、 のうち(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%94%B5)、 経蔵(仏の説いた教えの集成)、 を指す(精選版日本国語大辞典)。中国、南宋代の梵漢辞典「翻訳名義集」の「修多羅」の注に、 何者従古及今、譯梵為漢、皆題為經、若餘翻是正、何不改作線契、若傳譯僉然、則經正明矣、以此方周孔之教名為五經、故以經字、翻修多羅、然其衆典、雖單題經、緒論所指、皆曰契經、所謂契理契機、名契経也、 とある。で、やがて、 聖人、修多羅、祇耶など言十二部経の名字を唱へければ(「神宮文庫本発心集(1216頃)」)、 と、特に、十二分経(じゅうにぶきょう)の一つ、 契経(かいきょう)、 に限定して使われるようになる(仝上)。「契経」は、 経は人の資質に契(かな)い、法理に合するところからいう、 とある(精選版日本国語大辞典)。 十二分経(じゅうにぶんきょう)は、 十二部教(じゅうにぶきょう)、 ともいい(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%88%86%E6%95%99)、漢訳では、 十二部経、 十二分聖教、 ともいい(仝上)、 仏典の文章を叙述の形式または内容から12に分類したもの、 をいい(精選版日本国語大辞典)、 散文で法義を説いた、 契経、 を、 修多羅(sūtra)、 というほか、 祇夜(geyaぎや 応頌または重頌 散文の教説の内容を韻文で重説したもの)、 伽陀(gāthāかだ 諷誦、偈、偈頌または孤起頌(こきじゅ 最初から独立して韻文で述べたもの)、 尼陀那(nidānaにだな 因縁 経や律の由来を述べたもの)、 伊帝曰多伽(itivŗttakaいていわったか 如是語(かくの如き出来事)、本事 の意 菩薩などの修行時代の行為を述べたもの)、 闍陀迦(jātakaじゃだか 本生 釈迦の前生における菩薩としての多くの善行を説いたもの) 阿浮陀達摩(adbhutadharmaあぶだだつま 未曾有、希法 仏やその他の神秘なこと、またその功徳を記したもの)、 阿波陀那(avadānaあばだな 譬喩 教説を譬喩で述べたもの)、 優婆提舎(upadeśaうばだいしゃ 論義 教説を解説したもの)、 優陀那(udānaうだな 無問自説 質問なしに仏がみずから進んで教説を述べたもの)、 毘仏略(vaipulyaびぶつりゃく 方等、方広 広く深い意味を述べたもの)、 和伽羅那(vyākaraņaわからな 授記、記別 仏弟子の未来について証言を述べたもの)、 があり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%88%86%E6%95%99・精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典)、 修多羅(しゅたら 契経)、 祇夜(ぎや 応頌または重頌)、 伽陀(かだ 諷誦、偈、偈頌または孤起頌)、 の三者は経文の形式から、残り九者は経文の内容から立てた分類となる。また、古く、 釈尊(しゃくそん 釈迦(しゃか)の説法を9種にまとめた九部経(くぶきょう)があり、それに、 尼陀那(nidāna 因縁)、 阿波陀那(avadāna譬喩)、 優婆提舎(upadeśa 論義)、 を加え、九部経より発達した形となったものである(日本大百科全書)。 「經(経)」(漢音ケイ、呉音キョウ、唐音キン)は、 会意兼形声。磨iケイ)は、上の枠から下の台へたていとをまっすぐに張り通したさまを描いた象形文字。經はそれを音符とし、糸篇をそえて、たていとの意を明示した字、 とある(漢字源)。 「巠」が「經」を表す字であったが、糸偏を加えた(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B6%93)、 ともあり、 織機のたて糸、ひいて、すじみち、おさめる意を表す(角川新字源)、 ともある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) その山寺に執金剛(しつこんごう)~の摂像(しょうぞう)があった(霊異記)、 とある、 摂像、 は、 芯に木や針金で骨組みを作り、その上に塑土(そど)をつけて肉付けした像、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 粘土をひねって作った像、 つまり、 塑像(そぞう)、 のことで、 摂像、 は、また、 せつぞう、 とも訓ませ(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、 𡓳(しょう)像、 埝(てん)像、 ともいった(広辞苑)。 日本最古の塑像とされていめのは。 當麻寺(奈良県)金堂本尊の弥勒仏坐像、 で、7世紀後半にさかのぼると言われ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%91%E5%83%8F)、 岡寺(奈良県)如意輪観音坐像、 法隆寺(奈良県)中門 金剛力士立像 法隆寺食堂(じきどう)旧・安置 四天王立像、梵天・帝釈天立像、 新薬師寺(奈良県)十二神将立像、 東大寺法華堂(三月堂)(奈良県)執金剛神立像、日光菩薩像・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像、 等々塑像は奈良時代に集中し、平安時代以降木彫が主流となる(仝上)。 造仏方法には、 塑像仏、 のほか、金属で作る、 金銅仏(飛鳥〜奈良時代)、 木の芯で骨組みを作り、粘土で原型を作り、漆を含ませた麻布を貼り付ける、 脱活乾漆仏(奈良時代)、 脱活乾漆仏が粘土だったのに対し、こちらは木で原型を作る、 木心乾漆仏(奈良時代)、 1本の木から像を掘り出す、 一木造(飛鳥〜鎌倉時代)、 複数の木を組み合わせ、パーツごとに作る、 寄木造(飛鳥〜鎌倉時代)、 の六種がある(http://theory-of-art.blog.jp/archives/23804074.html)とされる。「乾漆像」については、『阿修羅と大仏』で触れた。 「攝(摂)」(慣用セツ、漢音呉音ショウ)は、 会意兼形声。聶(ニョウ)は耳三つを描き、いくつかの物をくっつけることを示す。囁(ショウ 耳に口をつけてささやく)の原字。攝は「手+音符」で、合わせくっつけること。散乱しないよう多くの物をあわせて手に持つ意に用いる、 とある(漢字源)。 手もとに引き寄せて持つ、ひいて「おさめる」意を表す、 ともある(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(扌(手)+聶)。「5本の指のある手」の象形と「3つの耳」の象形(「削ぎ取った耳をそろえる」の意味)から、「手でそろえて持つ」を意味する「摂」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1707.html)。
「塑」(漢音ソ、呉音ス)は、 その山寺に執金剛~(しつこんごうじん)の摂像があった。行者は神像の脛に縄をかけて引き、昼も夜も休まなかった(霊異記)、 とある、 執金剛~、 は、 しつこんごうじん、 のほか、 しゅうこんごうじん、 しっこんごうじん、 しゅっこんごうじん、 とも訓み、 しゅうこんごう、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 執金剛~、 とは、 手に金剛杵(こんごうしょ)を執れる金剛神の義と云ふ、 とある(大言海)ように、 手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち仏法を護る夜叉神、 をいい(仝上)、その形相は、初期には、 着甲の神将形、 にあらわされたが、後には、 半裸の力士形、 が一般に行なわれ、。本来は一つの神格であるが、日本では多く二神一対として寺門の左右に置かれた。いわゆる、 仁王、 をいう(仝上・デジタル大辞泉)。サンスクリット名は、 バジュラ・サットゥバVajra‐sattvaḥ、 で、 執金剛、 金剛手秘密主、 等々と漢訳され(世界大百科事典)、 持金剛、 金剛神、 金剛手、 執金剛力士、 金剛力士、 密迹(みっしゃく)力士、 密迹金剛、 執金剛夜叉、 等々様々な称がある(精選版日本国語大辞典)。 衆生が生まれながらに持つ菩提心(ぼだいしん)を象徴すると同時に、菩提心によって無上の悟りを求める者を代表する、 とし(仝上)、 密教付法の第二祖ともいわれる。形像は菩薩形であるが、胎蔵界曼荼羅金剛手院の像と金剛界曼荼羅理趣会、成身会、微細会の像とでは、持物と手の位置に差が見られる。後者に作例があり、それは左手に五鈷鈴(ごこれい)、右手に五鈷杵(ごこしよ)を持つ、 とある(世界大百科事典)。なお、 金剛杵、 は、「金剛の杵」で触れたように、 古代インドで、インドラ神や執金剛神が持つとされる武器。また、密教で用いられる法具の一種、 である。 仁王、 は、本来、 二王、 で、 二体一具の尊格、 を意味する(https://www.enyuu-ji.com/aboutus/kuronioson/)。 伽藍守護の神で、寺門または須弥壇しゅみだんの両脇に安置した一対の半裸形の金剛力士、 で、普通、口を開けた、 阿形(あぎょう)、 と、口を閉じた、 吽形(うんぎょう)、 に作られ、一方を 密迹(みっしゃく)金剛、 他方を、 那羅延(ならえん)金剛、 と分けるなど諸説がある(広辞苑)が、いずれも、 勇猛な忿怒の形相、 をなす。健康の象徴とされ、口中でかんだ紙片を投げつけて自分の患部または発達を願う部分に相当する箇所にはりつけば、願いがかなうという俗信がある(日本国語大辞典)。 また、 健脚の神、 ともされ、大きな草鞋(わらじ)などが奉納される(仝上)。 「那羅延」で触れたように、 那羅延(ならえん)、 は、 那羅延金剛(ならえんこんごう)、 あるいは、 那羅延天(ならえんてん)、 の略であり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、「那羅延(Nārāyaṇa)」は、 バラモン教・ヒンドゥー教の神ヴィシュヌが、仏教に取り入れられ護法善神とされたもの、「那羅延」とはヴィシュヌの異名「ナーラーヤナ」の音写、ヴィシュヌの音写として毘瑟笯(びしぬ)、毘紐[(びちゅう、びにゅう)、毘紐天(びちゅうてん、びにゅうてん)、 とも表記され(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%BE%85%E5%BB%B6%E5%A4%A9)、大力があるとして、 勝力、 と訳され(仝上)、その大力を、 餠を作りて三宝に供養すれば、金剛那羅延の力を得云々といへり(「日本霊異記(810〜824)」)、 と、 那羅延力、 という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。その大力の故に、 釣鎖力士、 とも称す(大言海)とある。唐代の密教の要義約百条を解説した『秘蔵記』には、 那羅延天、三面、黄色、右手持輪、乗迦楼羅鳥、 とある。「迦楼羅鳥」は「迦楼羅炎(かるらえん)」で触れたように、 両翼をのばすと三三六万里あり、金色で、口から火を吐き龍を取って食う という神話的な鳥である。 密迹(みっしゃく)力士、 の、 密迹(みつしゃく)、 は、サンスクリットの、 ヴァジュラパーニ(Vajrapāni)、 または、 ヴァジュラダラ(Vajradhara)、 の漢訳、 金剛杵(こんごうしょ 仏敵を退散させる武器)を持つもの、 の意味(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%8A%9B%E5%A3%AB)で、「密迹(みつしゃく)」は、 常に仏に侍して、其秘密の事跡を憶持する意、 とあり(大言海)、 密迹力士、 金剛密迹(密迹金剛 みっしゃくこんごう)、 執金剛神(しゆうこんごうじん・しゆこんごうしん)、 跋闍羅波膩(ばじゃらぱに)、 伐折羅陀羅(ばざらだら)、 金剛手(こんごうしゅ) 持金剛(じこんごう)、 等々とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%8A%9B%E5%A3%AB・精選版日本国語大辞典)。これを、「金剛を持つもの」の意から、 金剛力士、 とし、 開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。寺院の門に配される際には仁王(におう、二王)の名で呼ばれる、 とあり(仝上)、 半裸の力士形に作られ、寺門の左右に安置されるもの(執金剛神)は、普通、仁王(二王)と呼ばれる、 ともあり(広辞苑)、「密迹金剛」の二体がおかれるように読めるが、「金剛力士」の、 其一を、金剛密迹天と云ひ、其一を、那羅延天、又那羅延金剛と云ふ、共に金剛神、又金剛手(こんごうしゅ)とも称し、其力量、非常なりと云ふ。此の二神を、二王尊とも称し、巨大なる立像を作り、寺門の両脇に安置したるを二王門と云ふ、各、裸体にて、腰に布を纏ひ、顔面、手足、勇猛なる相をなす、閧ノ向かひて、右方に金剛密迹を置く、金剛杵を執りて、口を開く、左方に那羅延を置く、口を閉づ、開閉は阿吽の二音を表す、 とあり(大言海)、 本光寺の阿形像は「那羅延金剛」(ならえんこんごう)、吽形像は「密迹金剛」(みっしゃくこんごう)です、 とある(https://www.honkouji.com/butsujin/niouzou)。阿形の仁王像は金剛杵を持ち、 密迹金剛力士の当初の性格を示す、 とある(世界大百科事典)。だから、「仁王」像は、 「金剛」をもつ「密迹金剛」二体、 なのか、 右に密迹金剛、左に那羅延金剛、 なのか、ちょっと分からないところがある。普通に考えれば、対の、 密迹金剛と那羅延金剛、 だが、金剛をもつから、 金剛力士、 というのなら、 密迹金剛、 が並んでいるという見方も可能である。金剛杵を持つ執金剛神(しゆうこんごうじん・しゆこんごうしん)は、 金剛力士、密迹力士(みつじゃくりきし)、密迹金剛力士などの称があり、金剛杵を執ってつねに釈尊を守る神であるから、仁王の本来の尊像と同一のものである、 とするの(仝上)は、故なくはない。なお、「密迹金剛」は、 中国の竜門や雲岡の諸像の中に鎧を着た武将像として表現され、日本の古代の作例の中にも東大寺三月堂の須弥壇上にある乾漆造仁王像(奈良時代)や法隆寺蔵橘夫人厨子扉絵の像、東大寺三月堂の執金剛神像(奈良時代)は鎧で武装した像であり、中国の像の形式を伝える、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 利苅(とかり)の優婆夷(うばい)は河内国の人である。姓が利苅村主(とかりのすぐり)であるので字(あざな)とした(霊異記)、 とある、 優婆夷、 は、 仏道を修行している俗人の女性、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 在家の女性仏教信者、 である。対する、在家の男性仏教信者は、 優婆塞(うばそく)、 という。 優婆塞、 は、 サンスクリット語ウパーサカupāsakaの音写、 優婆夷、 は、 ウパーシカーupāsikā、その俗語形uvāyiの音写、 で、原義は、 そば近く仕える者、 で、 在家信者は出家者に近づいて法話を聞き、出家者の必要な生活物資を布施して仕えるのでこのようにいう、 とある(日本大百科全書・世界大百科事典)。 優婆塞、 は、 清信士(しょうしんじ)、 近事男(ごんじなん)、 などと漢訳され、 優婆夷、 は、 近事女(ごんじにょ)、 清信女(しょうしんにょ)、 などと漢訳される(広辞苑・日本国語大辞典)。『徒然草』(吉田兼好)には、 四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼に劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曾有の悪行なり、 とある。 優婆夷、 優婆塞、 は、 優婆夷・優婆塞、此在家二衆(圓覺経)、 と、 「四衆」で触れたように、 四衆(ししゅ)、 つまり、 四種の信徒、 であり、四種は、 比丘(びく ビクシュbhiku)、 比丘尼(びくにビクシュニーbhikunī)、 優婆塞(うばそく ウパーサカupāsaka)、 優婆夷(うばい ウパーシカーupāsikā)、 をいう(仝上)が、仏教の術語で、 仏教教団のメンバーの総称、 とする(日本大百科全書)のが正確。つまり、 出家者の男女、 を指す。比丘・比丘尼は、 具足(ぐそく)戒を受けて教団内で修行に専念する者、 の意、優婆夷・優婆塞は、 彼らに衣食住などを布施し、五戒を受け帰依(きえ)した在家信者、 を指し、彼らによって、教団は構成され維持される。後に比丘・比丘尼の未成年者、 沙弥(しゃみ 十戒を受けた二〇歳未満の男性出家者)、 と 沙弥尼(しゃみに 沙弥に同じ女性出家者)、 比丘尼として出家する前の二年間を過ごす、 学真女(がくしんにょ しきしゃまなśikṣamāṇā)、 を加えて、 七衆(しちしゅ)となる(仝上)。「四衆」は、 四輩、 四部衆、 四部、 などともいう(岩波古語辞典・ブリタニカ国際大百科事典)。「沙弥」「沙弥尼」については「沙喝」で触れた。 在家信者となるには、三宝(さんぼう 仏・法・僧、仏陀(釈迦)と法(ダルマ)と僧伽(さんが)をいう)に帰依し、 五戒、 を保つことが必要で、また六斎日(ろくさいにち 毎月の8、14、15、23、29、30の各日)には八斎戒(はっさいかい)を守り、とくに身を慎むことが勧められる(仝上)。 六斎日は、「非時」で触れたように、 特に身をつつしみ持戒清浄であるべき日と定められた六日、 で、「五戒」は、 五つの戒、 だが、「戒」は、 サンスクリット語のシーラśīla、 の訳語、 自ら心に誓って順守する、 徳目であり、「在家者のために説かれた「五戒」で、 不殺生(ふせっしょう 生命のあるものを殺さない)戒、 不偸盗(ふちゅうとう 与えられないものを取らない)戒、 不邪淫(ふじゃいん みだらな男女関係を結ばない)戒、 不妄語(ふもうご いつわりを語らない)戒、 不飲酒(ふおんじゅ 酒類を飲まない)戒、 をいい(日本大百科全書)、 優婆塞戒(うばそくかい)、 五常、 五学処、 などともいう(精選版日本国語大辞典)。「八戒」は、 在家信者が一昼夜の間だけ守ると誓って受ける八つの戒律、 つまり、 生き物を殺さない、 他人のものを盗まない、 嘘をつかない、 酒を飲まない、 性交をしない、 午後は食事をとらない、 花飾りや香料を身につけず、また歌舞音曲を見たり聞いたりしない、 地上に敷いた床にだけ寝て、高脚のりっぱなベッドを用いない、 をいい、おもに原始仏教と部派仏教で行われた(仝上)とある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 我、身を受くること唯五尺余有りとは、五尺とは五趣の因果なり(霊異記)、 の、 五趣、 については、 五趣とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上のこと、ここは前世で五趣をへめぐっている間になした行為が因となって、この世で五尺の身を受けたことをいう、 と注記がある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 五趣、 は、 五悪趣(ごあくしゅ)の略、 五悪趣、 は、 五悪道、 五道、 五種、 ともいい、 衆生(しゅじょう)が善悪の業因(ごういん)によって趣く五つの生存の状態または世界。 つまり、 地獄、餓鬼、畜生、人間、天上 をいう(広辞苑・日本国語大辞典)。 五道神識、盡能得知彼善悪趣(菩提處胎経)、 とある。 六道、 のうち、 修羅道、 を除いた五つの世界をいうので、 五道、 という(デジタル大辞泉)。「六道」は、「六道四生」で触れたように、 欲望が支配する欲界の衆生が輪廻する六種の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)、 をいい、「欲界」は、「摩醯修羅(まけいしゅら)」で触れたように、仏教における、 欲界、 色界、 無色界、 の三つの世界(三界)のうち最下の層は欲界で、欲望にとらわれた生物のすむ領域、 であり(「三界」については触れた)、欲界には、「天魔波旬」で触れた、六種の天が、上から、 他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、 化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん) 六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、 兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある。菩薩がいる場所、 夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、 忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん) 六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、 四大王衆天(しだいおうしゅてん) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、 とある(http://yuusen.g1.xrea.com/index_272.html他)。そして、「六道」(ろくどう・りくどう)は、「六道の辻」で触れたように、 天道(てんどう、天上道、天界道とも) 天人が住まう世界である。 人間道(にんげんどう) 人間が住む世界である。唯一自力で仏教に出会え、解脱し仏になりうる世界、 修羅道(しゅらどう) 阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる、 畜生道(ちくしょうどう) 畜生の世界である。自力で仏の教えを得ることの出来ない、救いの少ない世界、 餓鬼道(がきどう) 餓鬼の世界である。食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる、 地獄道(じごくどう) 罪を償わせるための世界である、 を指し、このうち、 天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)、 といい、 畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)、 という(大言海)らしい。この六つの世界のいずれかに、 死後その人の生前の業(ごふ)に従って赴き住まねばならない、 のである(岩波古語辞典)。 「六道」は、 梵語ṣaḍ-gati(gatiは「行くこと」「道」が原意)、 の漢訳で、 六つの迷える状態、 の意(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93)。 紙本着色の「五趣生死輪図」(妙楽寺)がある。 2本の角をもつ無常大鬼が腹前に五趣生死を描いた大きな輪を抱き、上部には虚空に浮かぶ丸い円が白色でシンボリックに描かれ、「涅槃円浄」と記されている、 とあり(https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000472.html)、 「五趣生死の輪は、中心に小円を表わし、外輪と小円のあいだは五等分して、右上から順に天・畜生・地獄・餓鬼・人間の各界(すなわち五趣)を、小円中には定印坐像の一仏を配し、その周辺に鳩・蛇・猪を描いて、それぞれ多貧・多瞋・多癡と註記する。また、輪環をもつ無常大鬼の回りにも葬送の人々や、舟を漕ぐ人物など12因縁を中心に18種の図柄を表わす。」 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 白米を捧げて乞食に献じるとは、大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)を得を得むが為に、願を発し、仏を造り大乗経典を写し、真心をもって善因を行うことである(霊異記)、 にある、 大白牛車、 は、 法華経の譬喩品(ひゆほん)にある故事。大きな白い牛が引く、宝物で飾ってある車のことで、仏道の喩えとして出している、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 大白牛車、 は、普通、 だいびゃくごしゃ、 と訓ませ、 牛の車、 ともいう(広辞苑)。 大きな白牛の引く車、 の意で、 法華経譬喩品の、 如下彼長者初以三車誘引諸子。然後但与大車宝物荘厳安隠第一。然彼長者、無中虚妄之咎上 から出た、 某長者の邸宅に火災があつたが、小児等は遊戯に興じて出ないので、長者はために門外に羊鹿牛の三車あつて汝等を待つとすかし小児等を火宅から救ひ出したといふ比喩で、羊車はこれを声聞乗に、鹿車はこれを縁覚乗に、牛車はこれを菩薩乗に喩へた、この三車には互に優劣の差のないではないが、共にこれ三界の火宅に彷復ふ衆生を涅槃の楽都に導くの法なので、斯く車に喩へたもの、 で(仏教辞林)、 火宅にたとえた三界の苦から衆生を救うものとして、声聞・縁覚・菩薩の三乗を羊・鹿・牛の三車に、一仏乗を大白牛車(だいびゃくごしゃ)にたとえた、 三車一車、 によるもので、 すべての人が成仏できるという一乗・仏乗のたとえに用いられる、 とある(仝上)。法相宗では、 羊・鹿・牛の三車、 の一つとして声聞乗の羊車、縁覚乗の鹿車に対して菩薩乗にたとえたとするが、天台宗では、全 羊車(ようしゃ)・鹿車(ろくしゃ)・牛車(ごしゃ)の三つ(三車)に、大白牛車(だいびゃくごしゃ)を加えたもの、 を、 四車(ししゃ)、 とし、この説が一般にもちいられている(精選版日本国語大辞典)とある。 三界は安きこと無しなお火宅の如し、 と、 迷いと苦しみに満ちた世界を、火に包まれた家にたとえた、 三界火宅、 のたとえ、 は、 「あるところに大金持ちがいました。ずいぶん年をとっていましたが、財産は限りなくあり、使用人もたくさんいて、全部で百名ぐらいの人と暮らしていました。主人が住んでいる邸宅はとても大きく立派でしたが、門は一つしかなく、とても古くて、いまにも壊れそうな状態でした。ある時、この邸宅が火事になり、火の回りが早く、あっという間に火に包まれてしまいました。主人は自分の子どもたちを助けようと捜しました。すると、子供たちは火事に気付かないのか、無邪気に邸宅の中で遊んでいます。この邸宅から外に出るように声をかけますが、子どもたちは火事の経験がないため火の恐ろしさを知らないのか、言うことを聞きません。そこで主人は以前から子供たちが欲しがっていた、おもちゃを思い出します。羊が引く車、鹿が引く車、牛が引く車です。主人は子どもたちに『おまえたちが欲しがっていた車が門の外に並んでいるぞ!早く外に出てこい!』と叫びます。それを聞いた子どもたちが喜び勇んで外に出てくると、主人は三つの車ではなく、別に用意した大きな白い牛が引く豪華な車(大白牛車)を子どもたちに与えました。」 という話(https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=103)で、これは、 主人が仏で、子どもがわれわれ衆生、邸宅の中(三界)に居る子どもは火事が間近にせまっていても、目の前の遊びに夢中で(煩悩に覆われて)そのことに気付きません。また、主人である父(仏)の言葉(仏法)に耳を傾けることをしません。そこで、主人は子どもに三車(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教え)を用意して外につれ出し助け、大きな白い牛が引く豪華な車(一乗の教え)を与えた、 というもので、 われわれ衆生をまず、三乗の教えで仮に外に連れ出し、そこから更に、これら三乗の教えを捨てて一乗の教えに導こうとする仏の働き(方便)を譬え話に織り込んで、説いている、 と解釈されている(仝上)。三車は、 羊鹿牛車(ようろくごしゃ)、 みつのくるま、 などともいう(仝上)。 因みに、法華経には、 仏は衆生の能力に応じていろいろな教法を説くが、目的は、仏の悟りに導くため、および仏の法身 (永遠不変の真実の相) は不滅かつ普遍であることを示す、 ためであり、 三界火宅の喩え(譬喩品)、 のほかに、 長者窮子(ぐうじ)の喩え(「窮子」については触れた)、 三草二木の喩え、 化城宝所の喩え(化城喩品)、 衣裏(えり)繋珠(けいじゅ)の喩え(五百弟子受記品)、 髻中(けいちゅう)明珠(みょうじゅ)の喩え(安楽行品)、 良医病子の喩え(寿量品)、 の七つの喩え、 法華七喩(ほっけしちゆ)、 が説かれている(http://www.hokkeshu.jp/hokkeshu/2_07.html・ブリタニカ国際大百科事典)。それぞれの概略はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9に譲る。 なお、法華経については、「法華経五の巻」で触れたことがある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 千手の呪(まじない)を持っている者を打って、死の報いを得た話(霊異記)、 の、 千手の呪(まじない)、 は、 呪とは陀羅尼のこと、ここは千手陀羅尼經の陀羅尼を指す、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。『梁塵秘抄』(第二巻陀羅尼品)にも、 ゆめゆめ如何にも毀(そし)るなよ、一乗法華の受持者をば、薬王勇施(ゆせ)多聞持國十羅刹の、陀羅尼を説いて護るなる、 とある(佐々木信綱校訂『梁塵秘抄』)。 密教の要義約百条を解説した『秘蔵記』(恵果の口説を空海が記述とも、不空三蔵の口説を恵果が記述とも、唐の義操の弟子文秘述とも、諸説ある)には、 諸經中説陀羅尼、或陀羅尼、或明、或呪、或密語、或真言、如此五義、其義如何、陀羅尼者、佛放光、光之中所説也、……今持此陀羅尼人、能發神通、除災患、與呪禁法相似、是曰呪、 とある。 「陀羅尼」は、「加持」で触れたように、 サンスクリット語ダーラニーdhāraīの音写、 で、 陀憐尼(だりんに)、 陀隣尼(だりんに)、 とも書き、 保持すること、 保持するもの、 の意で、 総持、 能持(のうじ)、 能遮(のうしゃ)、 と意訳し、 能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力、 をいい(日本大百科全書)、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず、 サンスクリット語原文を音読して唱える、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC)。 其の用、聲音にあり。これ佛、菩薩の説ける呪語にして、萬徳を包蔵す。呪は、如来真言の語なれば真言と云ひ、呪語なれば、誦すべく解すべからず、故に翻訳せず、 とある(大言海)。ダーラニーとは、 記憶して忘れない、 意味なので、本来は、 仏教修行者が覚えるべき教えや作法、 などを指したが、これが転じて、 暗記されるべき呪文、 と解釈され、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった(仝上)。だから、 一種の記憶術、 であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることをいい、それは、 暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事、 を目的とし(仝上)、 種々な善法を能く持つから能持、 種々な悪法を能く遮するから能遮、 と称したもので、 術としての「陀羅尼」の形式が呪文を唱えることに似ているところから、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった とある(精選版日本国語大辞典)のは、 原始仏教教団では、呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典のなかにも取入れられた。『孔雀明王経』『護諸童子陀羅尼経』などは呪文だけによる経典で、これらの呪文は、 真言 mantra、 といわれたからだが、普通には、 長句のものを陀羅尼、 数句からなる短いものを真言(しんごん)、 一字二字などのものを種子(しゅじ) と区別する(日本大百科全書)。この呪文語句が連呼相槌的表現をする言葉なのは、 これが本来無念無想の境地に至る事を目的としていたためで、具体的な意味のある言葉を使用すれば雑念を呼び起こしてしまうという発想が浮かぶ為にこうなった、 とする説が主流となっている(仝上)とか。その構成は、多く、 初に那謨(なも)、或は唵(おん)の如き、敬礼を表す語を置き、諸仏の名號を列ね、二三の秘密語を繰返し、末に婆縛訶(そはか)の語を以て結ぶを常とす、又、阿鎫覧唅欠(アバンランガンケン)の五字は、大日如来の真言にて、五字陀羅尼とも云ひ、この五字は阿鼻羅吽欠(アビラウンケン)の如く、地、水、火、風、空、の五大にして、大日如来の自体となす(大言海)、 とか、 仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次に、タド・ヤター(「この尊の肝心の句を示せば以下の通り」の意味、「哆地夜他」(タニャター、トニヤト、トジトなどと訓む)と漢字音写)と続き、本文に入る。本文は、神や仏、菩薩や仏頂尊などへの呼びかけや賛嘆、願い事を意味する動詞の命令形等で、最後に成功を祈る聖句「スヴァーハー」(「薩婆訶」(ソワカ、ソモコなどと訓む)と漢字音写)で終わる(日本大百科全書)、 とかとある。因みに、「阿毘羅吽欠蘇婆訶」(あびらうんけんそわか)となると、 阿毘羅吽欠、 は、 梵語a、vi、ra、hūṃ、khaṃ、 の音写で、 地水火風空、 を表し、 大日如来に祈るときの呪文、 である(デジタル大辞泉)。 蘇婆訶、 は、 梵語svāhā、 の音写で、 成就の意を表す(仝上)。『大智度論(だいちどろん)』には、 聞持(もんじ)陀羅尼(耳に聞いたことすべてを忘れない)、 分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する)、 入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声によっても左右されることがない)、 の三種の陀羅尼を説き、 略説すれば五百陀羅尼門、 広説すれば無量の陀羅尼門、 があり、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』は、 法陀羅尼、 義陀羅尼、 呪(じゅ)陀羅尼、 能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼(忍)、 の四種陀羅尼があり、『総釈陀羅尼義讃(そうしゃくだらにぎさん)』には、 法持(ほうじ)、 義持(ぎじ)、 三摩地持(さんまじじ)、 文持(もんじ)、 の四種の持が説かれている(仝上)。しかし、日本における「陀羅尼」は、 原語の句を訳さずに漢字の音を写したまま読誦するが、中国を経たために発音が相当に変化し、また意味自体も不明なものが多い、 とある(精選版日本国語大辞典)。 なお、「陀羅尼」は、訛って、 寺に咲藤の花もやまんたらり(俳諧「阿波手集(1664)」)、 と、 だらり、 ともいう。 陀羅尼、 は、結句、 すべてのことを心に記憶して忘れない力、または修行者を守護する力のある章句、 をいい(日本国語大辞典)、特に、 密教では一般に長文の梵語を訳さないで梵文の呪文を翻訳しないで、原語のまま音写されたものを、そのまま読誦するので(仝上)、 一字一句に無辺の意味を蔵し、これを誦すればもろもろの障害を除いて種々の功徳を受ける、 とされ(仝上)、 秘密語、 密呪、 呪、 明呪、 ともいい(広辞苑)。 呪、 を、 陀羅尼、 と名づけるところから、呪を集めたものを、 陀羅尼蔵、 明呪蔵(みょうじゅぞう)、 秘蔵(ひぞう)、 等々といい、経蔵、律蔵、論蔵、般若(はんにゃ)蔵とともに、 五蔵、 の一つとされる。密教では、 祖師の供養(くよう)や亡者の冥福(めいふく)を祈るために尊勝(そんしょう)陀羅尼を誦持するが、その法会(ほうえ)を、 陀羅尼会(だらにえ)、 といい(日本大百科全書)、 陀羅尼を誦する時につく鐘、特に、京都建仁寺の 百八陀羅尼鐘、 を、 陀羅尼鐘、 といい、陀羅尼のこと、また、密教の呪文を、 陀羅尼呪(だらにじゅ)、 また、吉野・大峰・高野山などで製造する、 もと陀羅尼を誦する時、睡魔を防ぐために僧侶が口に含んだ苦味薬で、ミカン科のキハダの生皮やリンドウ科のセンブリの根などを煮つめて作る黒い塊、 を、 陀羅尼助(だらにすけ)、 という(仝上)。 苦味が強く腹痛・健胃整腸剤、 に用いる(日本国語大辞典)。訛って、 だらすけ、 ともいう(仝上)。 なお、真言密教の「加持」、「求聞持法」については触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 千手観音を信仰し、日摩尼手(にちまにしゅ)をたたえ、眼が見えるように祈った(霊異記)、 にある、 日摩尼手、 は、 千手観音の多くの手の中で、日摩尼(日精摩尼ともいう)の玉を持つ手をいう。日摩尼の玉は一切の闇を除くと信じられていた、 とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。 日摩尼(にちまに)、 の、摩尼は、 maṇi、 日宮殿(太陽)の火珠、 からできていて、 自然に光熱を発する玉、 で、 太陽をかたどったもので、この玉は、 千手観音の四十手中、右の第八手が持ち、 衆生に光明を与えることを意味し、盲人の信仰が厚い(精選版日本国語大辞典)とある。日宮殿(太陽)の対が、 月宮殿(げっきゅうでん、がっきゅうでん)、 で、「須弥山」で触れたように、共に須弥山の中腹の高さで周回している。 「千手観音(せんじゅかんのん)」は、 千手千眼観自在菩薩、 の略称(精選版日本国語大辞典)、 千手、 千手千眼、 千手観世音、 千手千眼観世音菩薩、 千眼千臂観世音、 とも呼び(精選版日本国語大辞典)、観世音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿である、 観音菩薩の変化(へんげ)像の一つ、 で、 五重二十七面の顔と一千の慈眼をもち、一千の手を動かして一切衆生(いっさいしゅじょう)を救うという大慈(だいじ)大悲の精神、 を具象している(日本大百科全書)。 「千手観音」の、 千は満数で、目と手はその慈悲と救済のはたらきの無量無辺なことを表わしている、 とある(精選版日本国語大辞典)。観音菩薩は大きな威神力をもち世間を救済するという期待が、この千手観音像を成立させたと考えられる(仝上)。千手のうち、四十二臂(ひ)には、 印契器杖(いんげいきじょう)、 を持ち、九五八臂より平掌が出て、 宝剣、宝弓、数珠(じゅず)、 などを持っている。ただ、造像のうえでは千手ではなく、四十二手像に省略されることが多い(仝上)。江戸時代に土佐秀信によって描かれた仏画集『佛像圖彙』(元禄3年(1690))の「千手観音」の註には、 千手、實ニハ、四十臂也、二十五有ニ、各々、四十臂コレアルヲ都合スレバ、千手ナリ、根本印、九頭龍印、又、大慈悲観音、 とある。また、 二十八部衆、 という大眷属を従え、これらは礼拝者を擁護するという(仝上)。 なお、「印契(いんげい)」とは、 Mudrā、 の意訳、 で、 牟陀羅、 と音訳し、 印相、 密印、 印、 等々とも意訳する(精選版日本国語大辞典)。 「印」は標幟(ひょうし)、「契」は契約不改、 の意で、 指を様々の形につくり、また、それを組み合わせて、諸仏の内証を象徴したもの、 で、もとは、 釈尊のある特定の行為の説明的身ぶりから生れたもの、 であったが、密教の発展に伴って定型化した。顕教と密教では印契の意味についてかなり異なった解釈をし、顕教はこれを、 しるし、 の意味としているが、密教では、 諸尊の悟り、誓願、功徳の象徴的な表現、 と解し(ブリタニカ国際大百科事典)、 三密(身密(しんみつ 身体・行動)、口密(くみつ 言葉・発言)、意密(いみつ こころ・考え)との「身・口・意(しんくい)」)、 のうちの「身密」であるとされる。 施無畏印(せむいいん)、 法界定印(ほっかいじょういん)、 施願印(せがんいん)、 智拳印(ちけんいん)、 引声印、 などがある(精選版日本国語大辞典)。印契のうち持物を用いる象徴を、 契印、 手の形による象徴を、 手印、 という(仝上)。 「千手観音」は、六道に対応する、 六観音の一つ、 とされ、 餓鬼道または天道、 に配し、形像は、 立坐の二様、 で、 一面三目または十一面(胎蔵界曼荼羅では二十七面)、四十二の大きな手をそなえ、各手の掌に一眼をつけ、それぞれ持物を執るか、印を結ぶ、 とある。この菩薩の誓いは、 一切のものの願いを満たすことにあるが、特に虫の毒・難産などに秀でており、夫婦和合の願いをも満たす、 という(仝上)。因みに、六観音とは、 六道それぞれの衆生を救済するために、姿を七種に変える観音、 を言い、 衆生を救う六体の観音、 で、密教では、 地獄道に聖(しよう)観音、餓鬼道に千手観音、畜生道に馬頭観音、修羅道に十一面観音、人間道に准胝(じゆんでい)または不空羂索(ふくうけんじやく)観音、天道に如意輪観音、 を配する(広辞苑)。 七観音(しちかんのん)、 という呼び方もする。 千手観音の眷属である、二十八部衆は、『千手経二十八部衆釈』には、 密迹金剛士・烏芻君荼央倶尸・摩醯那羅延・金毘羅陀迦毘羅・婆馺婆楼那・満善車鉢真陀羅・薩遮摩和羅・鳩蘭単吒半祇羅・畢婆伽羅王・応徳毘多薩和羅・梵摩三鉢羅・五部浄居炎摩羅・釈王三十三・大弁功徳天・提頭頼吒王・神母女等大力衆・毘楼勒叉・毘楼博叉・毘沙門天・金色孔雀王・二十八部大仙衆・摩尼跋陀羅・散脂大将弗羅婆・難陀跋難陀・大身阿修羅・水火雷電神・鳩槃荼王・毘舎闍、 等々の各神とされるが、神名は必ずしも一定しない(精選版日本国語大辞典)とある。 なお、小児の遊戯の一つに、 小いさき児を背合せに負いて、千手観音と呼びあるくもあれば(「東京風俗志(1899〜1902)」)、 と、 小さな児を背中合わせにおぶって「千手観音、千手観音」と呼び歩く遊び、 というのがある(精選版日本国語大辞典)という。 なお千手観音の持ち物についてはhttps://butsuzo-nyumon.com/senju-kannon-bosatsu#jimotsuに詳しい。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 弥勒菩薩が兜率天にいて、願いに応じて現れた(霊異記)、 とある、 兜率天、 とは、 仏教に六欲天の第四なり、須弥山の頂上十二万由旬に在り、摩尼宝殿又兜率天宮なる宮殿あり、無量の諸天之に住し、内院には弥勒ありて説法す、 という(画題辞典)。 六欲天の中下の三天は慾情に沈み、上の二天は浮逸多し、唯この天のみ浮沈の中間に在りて喜事遊樂多しと説かる、之を画けるものに兜率曼陀羅あり、 とある(仝上)。「兜率」は、 サンスクリットの原語 Tuṣita、 を(トゥシタは「満足せる」の意)、 都率(とそつ)、 覩史多(とした) 兜率陀、 都史陀、 兜術、 等々と音写し、 上足、 知足、 喜足、 妙足、 などと訳す(東洋画題綜覧・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C%E7%8E%87%E5%A4%A9)。 内外二院、 あり(広辞苑)、内院は、 将来仏となるべき菩薩が最後の生を過ごし、現在は弥勒(みろく)菩薩が住む、 とされ、 弥勒はここに在して説法し閻浮提に下生成仏する時の来るのを待っている、 とされている(仝上)。日本ではここに四十九院があるという。外院は、 天人の住所、 である(広辞苑)。 一切衆生(しゅじょう)の生死輪廻(しょうじりんね)する三種の世界、すなわち欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)と、衆生が活動する全世界を指す、 三界、 は、 仏教の世界観で、生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域、 を、 欲界(kāma‐dhātu)、 色界(rūpa‐dhātu)、 無色界(ārūpa‐dhātu)、 の三種に分類したもので(色とは物質のことである。界と訳されるサンスクリットdhātu‐はもともと層(stratum)を意味する)、 欲界は、 他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、 化楽天(けらくてん、楽変化天 らくへんげてん)六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、 兜率天(とそつてん、覩史多天 としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある、 夜摩天(やまてん、焔摩天 えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、 忉利天(とうりてん 三十三天 さんじゅうさんてん)六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、 四大王衆天(しだいおうしゅてん、四天王の住む場所) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、 の六つの、 六欲天(ろくよくてん)、 からなる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%AC%B2%E5%A4%A9・精選版日本国語大辞典)。 で、「兜率天」は、 夜摩天の上にあり、この天に在るもの五欲の境に対し、喜事多く、聚集して遊楽す、故に喜楽集とも訳し、又兜卒天宮とは、此の兜率天にある摩尼宝殿をいふ、また三世法界宮ともいふ、この天に内院外院の二あり、外院は定寿四千歳にして内院にはその寿に限なく火水風の二災もこれを壊すこと能はざる浄土である、この内院にまた四十九院あり、補処の菩薩は弥勒説法院に居す、余の諸天には内院の浄土なく兜率には内院の浄土ありと『七帖見聞』に説かれている、 とあり(仏教辞林)、この天の一昼夜は、 人界の四百歳に当たる、 という(精選版日本国語大辞典)。この天は、 下部の四天王、忉利天、夜摩天三つの天が欲情に沈み、 また反対に、 上部の化楽天・他化自在天の二天に浮逸の心が多い、 のに対して、 沈に非ず、浮に非ず、色・声・香・味・触の五欲の楽において喜足の心を生ずる、 故に、弥勒などの、 補処の菩薩、 の止住する処となる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C%E7%8E%87%E5%A4%A9)。七宝で飾られた四九重の宝宮があるとされる、 兜率天の内院(ないいん)、 は、 一生補処(いっしょうふしょ)の位、 にある菩薩が住むとされ、かつて釈迦もこの世に現れる前世に住し(釈迦はここから降下して摩耶夫人の胎内に宿り、生誕したとされている)、今は弥勒菩薩が住し、法を説く(仝上)とされ、日本では古くよりこの内院を、 彌勒菩薩の浄土、 つまり、 兜率浄土、 と見てきた(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)。弥勒信仰の発展とともに、兜率天に生まれ変わることを願う、 兜率往生、 の思想が生じ、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽浄土(ごくらくじょうど)への往生との優劣が争われた(日本大百科全書)とある。 一生補処(いっしょうふしょ)、 とは、 eka-jāti-pratibaddha、 の意訳で、元来は、 一生だけこの迷いの世につながれたもの、 の意(ブリタニカ国際大百科事典)で、 この一生だけ生死の迷いの世界に縛られるが、次の世には仏となることが約束された菩薩の位、 をいい、菩薩の位のうちでは最上の位で、特に、 遠く西天の雲の外、一生補処の大聖(宴曲「拾菓集(1306)」)、 と、 彌勒(みろく)菩薩、 をさし、 一生所繋(いっしょうしょけ)、 補処、 ともいう(仝上・精選版日本国語大辞典)。もともと、 浄土、 という理念はインドにはなかったので、浄土思想はむしろ中国において発達し展開したが、未来仏として修行中の弥勒菩薩が待機している天上の兜率天(とそつてん)を、 弥勒の浄土、 として、そこに生まれたという信仰がまず起こり、兜率天の信仰から、東方にある、 阿閦(あしゆく)仏の浄土、 としての妙喜を説いた「阿閦仏国経」につながっていく、とある(世界大百科事典)。 弥勒信仰には、釈尊滅後五六億七千万年の後に弥勒菩薩が兜率天から娑婆世界に下ってきて衆生を済度することを待望する、 下生(げしょう)信仰、 と、 死後に兜率天宮に生天して下生するまでの間、弥勒菩薩の教化を受けようとする、 上生(じょうしょう)信仰、 の二種類があり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%9C%E7%8E%87%E5%A4%A9)、兜率天が重視されるのは主として後者の思想である(仝上)とある。 「弥勒菩薩」については、「三会」で触れたように、阿弥陀信仰が盛んになる前は、 弥勒菩薩信仰、 が広く信じられ(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%BF%E3%82%8D%E3%81%8F)、釈迦が滅した56億7千万年(57億6千万年の説あり)の未来に姿をあらわす為に、現在は、兜卒天で修行していると信じられている。このため、中国・朝鮮半島・日本において、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰が流行した(仝上)。 因みに、「阿閦(あしゆく)仏」とは、 大乗仏教の如来(にょらい)の名、 で、 サンスクリット語の、アクショービヤAkobhya、 の訛(か)音写で、正しくは、 阿閦婆、 あるいは、 阿閦鞞(べい)、 また、 無動、 無瞋恚(むしんに)、 と訳される(日本大百科全書)とある。 過去久遠の昔、大日如来の教化により、発願、修道して成仏し、東方善快浄土を建てた仏、 で、西方の、 阿彌陀仏、 に対比され、今なお説法していると『阿閦国経』に説かれている。密教では、金剛界五智如来の一つで東方に住し、無冠で降魔の印を結ぶとする(仝上・精選版日本国語大辞典)。 インドにおいて阿閦仏の信仰は、西方の阿弥陀(あみだ)仏の信仰よりも古くから行われていたが、弥陀信仰が盛んになるに及んで衰えてしまった(仝上)とある。 弥勒菩薩が説法をしている兜率天の世界を描いた、 兜率天曼荼羅図、 があるが、「絹本著色兜率天曼荼羅図」(滋賀県立琵琶湖文化館)では、 図像は左右対称を原則として、上から虚空、摩尼宝殿(まにほうでん)、弥勒菩薩を中心とする諸菩薩・諸天、宝池(ほうち)、二重門を描く。中央には、二重円光を背にして蓮華座上で結跏趺坐(けっかふざ)する弥勒菩薩がひときわ大きく描かれる。弥勒菩薩は脇侍(わきじ)を従え、その周囲には菩薩衆が囲繞する。弥勒菩薩の前では説法を聴聞する天子・天女が恭敬礼拝し、舞踊奏楽が献じられるなど、兜率天浄土の安穏快楽の様相をあらわす、 とある(https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/bunakasports/bunkazaihogo/312315.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 打出(うちで)の太刀をはきて、節黒の胡簶(やなぐい 矢を入れ、右腰につけて携帯する道具)の、雁股(かりまた)に幷(ならび)に征矢(そや 戦闘に用いる矢。狩矢・的矢などに対していう)四十ばかりをさしたるを負ひたり(今昔物語)、 の、 打出の太刀、 は、 金銀を延べて飾った太刀、 と注記があり(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、 節黒、 は、 矢柄(がら)の節の下を黒く漆で塗った物、 とある(仝上)。 打出、 は、 うちいで、 うちだし、 とも訓み、 打出の太刀、 は、 金銀を打ち延ばした薄板で柄・鞘を包み飾った太刀、 をいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。なお、「矢」については、「弓矢」、「矢の部位名」については、「はず」、「乙矢」、「矢の種類」については、「鏑矢」、「雁股」については「雁股の矢」で、それぞれ触れた。 「かたな」、「太刀」で触れたように、「太刀(たち)」は、 太刀(たち)とは、日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60cm)以上で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用(はいよう)するもの、 で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%88%80)、 腰に佩くもの、 を指す。腰に差すのは、 打刀(うちがたな)、 と言われ、打刀は、 主に馬上合戦用の太刀とは違い、主に徒戦(かちいくさ:徒歩で行う戦闘)用に作られた刀剣、 とされる(仝上)。馬上では薙刀などの長物より扱いやすいため、南北朝期〜室町期(戦国期除く)には騎馬武者(打物騎兵)の主力武器としても利用されたらしいが、騎馬での戦いでは、 打撃効果、 が重視され、「斬る物」より「打つ物」であったという。そして、腰に佩く形式は地上での移動に邪魔なため、戦国時代には打刀にとって代わられた、 とある(仝上)。 打刀(うちがたな)、 は、 反りは「京反り」といって、刀身中央でもっとも反った形で、腰に直接帯びたときに抜きやすい反り方である。長さも、成人男性の腕の長さに合わせたものであり、やはり抜きやすいように工夫されている、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%88%80)、やはり、これも、 太刀と短刀の中間の様式を持つ刀剣であり、太刀と同じく「打つ」という機能を持った斬撃主体の刀剣である、 という(仝上)。ちなみに、 「通常 30cmまでの刀を短刀、それ以上 60cmまでを脇差、60cm以上のものを打刀または太刀と呼ぶ。打刀は刃を上に向けて腰に差し、太刀は刃を下に向けて腰に吊る。室町時代中期以降、太刀は実戦に用いられることが少い、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。「太刀」と「打刀」の区別は、例外があるが、「茎(なかご)」(刀剣の、柄つかの内部に入る部分)の銘の位置で見分ける。 「いかもの」で触れたように、 嚴物造(づく)り、 は、 嚴物作、 怒物作、 嗔物造、 等々と当てて、 鍬形打ったる甲の緒をしめ、いかものづくりの太刀を佩き(「平治物語(鎌倉初期)」)、 と、 見るからに厳めしく作った太刀、 を指し(岩波古語辞典)、 龍頭の兜の緒をしめ、四尺二寸ありけるいか物作りの太刀に、八尺余りの金(かな)さい棒脇に挟み(太平記)、 では、 金銀の装飾をしていかめしく作った太刀、 と注がある(兵藤裕己校注『太平記』)。 イカモノは、形が大きくて堂々としているもの、 とある(岩波古語辞典)だけでなく、 事々しく、大仰なさま、 をも言っているようである。 打出の太刀、 も、その一種、こけおどしに見える。 なお、刀については、「鎧通し」、「来国光」でも触れた。 鎧、甲、胡簶(やなぐひ)、よき馬に鞍置きて、打出の太刀などを、各取り出さむと賭けてけり(今昔物語)、 にある、 胡簶(やなぐひ)、 は、 矢を入れ、右腰につけて携帯する道具、 で、 胡籙、 とも当て、 ころく、 とも訓ませ、奈良時代から使用され、 矢と矢を盛る箙(えびら 矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具)とを合わせて完備した物の具、 で(デジタル大辞泉)、 箙(えびら)に似て軽装、 とあり(大言海)、 十矢を差す、 とある(仝上)。 矢を差し入れて背に負う武具。「靫」(ゆき・ゆぎ 矢を入れる背に負った細長い箱形のもの)に対して、矢の大部分が外に現れる、 立て式のもの、 のほか、状差し状の、形、細く高く、筒の如きを、 狩胡簶(かりやなぐい)、 といのは、古製の靫(ゆき)が発展したもので、平安時代は、 壺胡簶(つぼやなぐい)、 といい、また、丈短く、下に盆の如きものありて、背に棒を添えて矢を平らに立てたるを、 平胡簶(ひらやなぐい)、 という(仝上・デジタル大辞泉)。 裾開きの背板に細長い方立(ほうだて 鏃(やじり)を差しこむ箱の部分の称、頬立)を取りつけた平たい形、 からいう。 和名類聚抄(平安中期)には、 箙、夜奈久比、盛矢器也、胡祿、 字鏡(平安後期頃)には、 靫、兵戈之具也、也奈久比、 とある。 また、箙にさす矢羽や矢篦(やの 矢の幹)の名称から、 石打胡簶、 鷹羽(たかのは)胡簶、 中黒胡簶、 鵠羽(くぐいば)胡簶、 節黒胡簶、 などがある(精選版日本国語大辞典)。 此の負ひたる胡簶の上差(うはざし)の矢を一筋、河より彼方に渡りて土に立てて返らむ(今昔物語)、 の、 上差、 は、 うわざし、 うわや、 とも訓み、 やなぐいの左側に差した二本のかぶらや、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)が(「鏑矢(かぶらや)」については「鏑矢」で触れた)、「上差の矢」とは、「胡簶」「箙(えびら)」等々に盛った矢の上に、 別形式の矢を一筋または二筋差し添えたもの、 で、征矢(そや 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう)に対しては、 狩矢(かりや)である狩股(かりまた)の鏃(やじり)をつけた鏑矢(かぶらや)、 を用い、狩矢を盛った狩箙(かりえびら)には、 征矢、 を上差しとする(精選版日本国語大辞典)。平胡簶や壺胡簶では矢篦(やがら)を斜めに筈(はず)を下げて差しこむので、 落し矢、 ともいう(仝上)。 「やなぐい」は、 矢之杙(ヤノクヒ)の義(大言海・和字正濫鈔)、 矢具笈(やぐおひ)の略転(大言海)、 辺りが語源と見られるが、その他、 矢の笈の意か(南留別志・安斎随筆)、 ヤクイレ(矢具入)の義(言元梯)、 ヤナクミ(簗組)の義か(名語記)、 等々もある。 「靫」(ゆぎ)は、平安時代までは、 ゆき、 と発音、 上古時代に矢を入れて携行した武具の一種、 で、 靭、 とも当てる(ブリタニカ国際大百科事典)。 背中に背負って携行、 し、 古墳時代後期には、武人埴輪や装飾古墳の壁画などにみられる奴凧形の靫が使用されている(ブリタニカ国際大百科事典)。木製漆塗りのほか、表面を張り包む材質によって、 錦靫(にしきゆき)、 蒲靫(がまゆき)、 などがあり、平安時代以降の壺胡簶(つぼやなぐい)にあたる(デジタル大辞泉)。 「靫」の語源には、 弓術笥(ユミゲ)の略顛と云ふ、射具(イゲ)と云はむが如し(大言海)、 ユミケ(弓笥)の義(名言通)、 ユミゲの略(箋注和名抄)、 ユキ(弓笥)の義(東雅・和訓栞・日本語源=賀茂百樹)、 ユキオヒ(靭負)の義(名語記)、 等々、「笥」(ケ)という、 四角いはこ、 の意は形態からきている。 なお、 靫、 を、 うつぼ、 と訓ますと、 空穂、 とも当て、 うつお、 となまり、 雨湿炎乾に備えて矢全体を納める細長い筒、 で、 下方表面に矢を出入させる窓を設け、間塞(まふたぎ)と呼ぶふたをつける。竹製、漆塗りを普通とするが、上に毛皮や鳥毛、布帛(ふはく)の類をはったものもあり、また、近世は大名行列の威儀を示すのに用いられ、張抜(はりぬき)で黒漆塗りの装飾的なものとなった、 とある(精選版日本国語大辞典)。なお、 「靱」と書くのは誤用、 とある(広辞苑)。 また、「箙」(えびら)は、 矢筒、 ともいい、 やなぐい、 とも訓ませ、 靫(うつぼ、ゆぎ)、 とも呼ばれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%99)とあり、同じ、 矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具、 である、 箙、 胡簶、 の区別が難しいが、 矢をもたせる細長い背板の下に方立(ほうだて)と呼ぶ箱をつけ、箱の内側に筬(おさ)と呼ぶ簀子(すのこ)を入れ、これに鏃(やじり)をさしこむ。背板を板にせずに枠にしたものを、 端手(はたて)、 といい、中を防己(つづらふじ)でかがって、 中縫苧(なかぬいそ)、 という。端手の肩に矢を束ねて結ぶ緒をつけ、矢把(やたばね)の緒とする(精選版日本国語大辞典)。 箙は、 靭(ゆぎ)から発展したもの、 とされ、平安時代中期ごろから盛んに用いられた。なお、同時代の矢入れ具である、 胡籙(やなぐい) と同じものであったらしいことが当時の資料にみえる(日本大百科全書)とあり、鎌倉時代以後、 矢を盛った状態のものを、 胡籙、 矢入れ具そのものを、 箙、 と称したこともあったようだが、 箙、 は武人用、 胡籙、 は公家の儀式用と区別するようになった(日本語源大辞典)。結局、箙は、 古製なるは、胡簶に同じ、後には、平胡簶に似たる製の物の称、 とあり(大言海)、 矢の數二十四本にて、其一本は、矢がらみの緒にて鎧にからみつく、 とある(仝上)。 なお、箙は、熊や、猪の皮を張った、 逆頬箙(さかづらえびら)、 を正式とし、そのほかに、 葛(つづら)箙、 竹箙、 角(つの)箙、 革箙、 柳箙、 塗箙、 等々の種類がある(仝上・精選版日本国語大辞典)。 「箙」の語源は、 蠶簿胡簶(エビラヤナグヒ)の略にて、竹籠製の竹箙(タカエビラ)が本なるべし、 とあり(大言海)、今昔物語の、 夫は竹蠶簿(タカエビラ)、箭十ばかり刺したるを掻負いて、弓うち持ちて後に立ちむて行きけるほどに、 とあるのを用例とする(仝上)。「蠶簿(えびら)」は、 葡萄葛(えびらつら)の略、 で、養蚕の具、和名類聚抄(平安中期)には、 蠶簿、衣比良、養蠶(蚕)器、施蠶於其上、令作繭者也、 とある。そのため、 蚕具のエビラにかたどったものであるところから(名言通・和訓栞)、 というのが妥当ではあるまいか。 なお、「矢」については、「弓矢」、「矢の部位名」については、「はず」、「乙矢」、「矢の種類」については、「鏑矢」、「雁股」については「雁股の矢」で、それぞれ触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 其の呼ぶ聲を弓手(ゆんで)ざまになして、火を火串(ほぐし 松明を固定させるための串)にかけていけば、……本(もと)の如く、馬手(めて)になして火を手に取りて行く時には、必ず呼びけり(今昔物語)、 の、 弓手、 は、 弓を取る手、左手、つまり、弓を射る時の正面になる、 とあり(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、 馬手、 は、 馬の手綱を取る手、右手、 とある(仝上)。 「弓矢」で触れたことだが、 (源為朝は)弓手のかひな馬手に四寸のびて、矢づかを引く事世に越たり(保元物語)、 と、 ユミデ(弓手)の音便(大言海)、 ユミテの音便形(岩波古語辞典)、 で、 弓を持つ方の手、右手には手綱を持つ。因りて、右手を馬(め)手と云ふ、 とあり(大言海)、広げて、 左の方、 左側、 の意でも使い、鎧(よろい)の右脇(わき)の草摺(くさずり)を、 射向(いむけ・いむか)の草摺、 というのに対して、左脇のそれを、 弓手の草摺、 と称し、左側から体を後ろひねりにすることを、 弓手捩(もじり)、 と言う(精選版日本国語大辞典・世界大百科事典)。 馬手、 は、 右手、 とも当て、 馬の手綱を持つ手、 の意(広辞苑)で、 矢をつがえる手、 の意で、 矢手(やて)、 とも言う(精選版日本国語大辞典)。広げて、 右の方、 右側、 の意でも使い、鎧(よろい)の右脇の草摺を、 馬手の草摺(くさずり) 鎧(よろい)の右側の袖を、 馬手の袖(そで)、 という(日本国語大辞典)。 右方が防備不十分だったところから、 とも、また、 めて(女手)の意、 ともいい、 御連中といふ物は、ちっとめてな時に見てやらしゃるが本の御ひいき(浄瑠璃「難波丸金鶏」)、 と、 劣っているさま、 落ち目であるさま、 の意で使い、 めてくち、 ともいう(仝上)。また、犬追物(いぬおうもの)のとき、向かいから右方へ筋かいに行く犬の右を射ることを、 馬手差(めてざし)、 また、通常の腰刀は左腰にさすが、組打(くみうち)などの便宜から右脇にさすために、さし方や栗形(くりがた 刀の鞘口に近い差表(さしおもて)に付けた孔のある月形(つきがた)のもの。下緒(さげお)を通す)、折金(おりがね 栗形の下につけて帯をはさみ、刀身を抜く際に鞘の抜け出すのを防ぐ)の拵(こしらえ)を反対にとりつけた腰刀(短刀)を、 馬手差(めてざし)、 という(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) うちまきの米を多(おほ)らかにかいつかみてうち投げたりければ、此の渡る者ども、さと散りて失せにけり。……されば、幼き兒どもの邊には、必ずうちまきをすべきことなりとぞ(今昔物語)、 とある、 うちまき、 は、 まよけの為に子供の枕もと等に米をまくのをいう。又その米をもいう、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 打撒き、 と当て、 散米(うちまき)、 とも書き(ブリタニカ国際大百科事典)、 打撒米(うちまきよね)の略、 とあり、 散米(さんまい)、 ともいう(広辞苑)。 陰陽師の祓に、粿(カシヨネ)を撒き散らすこと、禍津比(まがつび)の神の入り来たらむを、饗(あ)へ和めて、退かしむる、 という(大言海)、 供物供進の一方法、 で、 米をまき散らすこと、 だが、特に、 陰陽師が祓(はらい)、禊(みそぎ)、病気、出産、湯殿始めなどの時、悪神を払うために米をまき散らすこと、また、その米、 をいう(精選版日本国語大辞典)とある。「粿(カシヨネ)」は、 カシは淅(か)し(水に浸す)の意、 で、 水で洗った米、 洗米、 の意(岩波古語辞典)である。「禍津比(まがつび)の神」は、 神名の「禍」(マガ)は「災厄」、「ツ」は上代語の格助詞「の」、「日」(ヒ)は「神霊」の意味で、「マガツヒ」の名義は「災厄の神霊」、 という意味になり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8D%E6%B4%A5%E6%97%A5%E7%A5%9E)、 神産みで、黄泉から帰った伊邪那岐命が禊を行って黄泉の穢れを祓った時に生まれた神、 である(精選版日本国語大辞典)。 祓に際してまくのは、 米のもつ霊力で悪霊や災厄を防除し、心身や四囲を清めようとするため、 である(ブリタニカ国際大百科事典)。 節分の夜の豆撒きは、これの名残、 とある(岩波古語辞典)。 しかし、「うちまき」の意は、転じて、 御幣紙(ごへいがみ)、うちまきの米ほどの物、慥(たしか)にとらせん(宇治拾遺物語)、 と、 祓の際や、神仏に参ったときなどに水に浸した米をまき散らすこと(ブリタニカ国際大百科事典)、 また、 神拝の時、神前にまく米(精選版日本国語大辞典)、 をも指すようになり、やはり、 散米、 ともいい、 散供(さんく)、 花米(はなしね)、 などともいい(大辞泉)、散供がなまって、 さんご(散供)、 お散供がなまって、 おさこ(御散供)、 おさご(御散供)、 ともいう(世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典)。字鏡(平安後期頃)に、 糈、ウチマキヨネ、 とある(「糈(ショ)」は、神前に供える米、または餅)。この、 神仏に供える白米、洗い米、 は、 糈(くましね)、 といい、 糈稲(くはししね)の転、 とあり(大言海)、 神のカミはクマからきたとする、 説もある(世界大百科事典) 糈米、 供米、 奠稲、 とも当て(仝上・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、 おくま、 御洗米(おせんまい)、 おくまい(御供米)、 ともいい、 すごき山伏の好むものは……わさび、かしよね、みづしづく(梁塵秘抄) と、 かしよね(粿米・淅米)、 ともいい、略して、 くま、 ともいう(大言海)。 社前にまくのは、 神供、 としてであり、 賽銭箱、 が普及して、そこに銭を奉財する習俗が一般化したのは近世になってからであるといわれ(仝上)、 散米の習俗、 は、その一つ以前の姿を伝ている(仝上)とされる。ただ、 後世、神社に詣で、神前に米を撒き奉りて、御散供(おさんごう)と云ふは、無禮なり、 ともあり(大言海)、賽銭は、 幣帛(みてぐら)に代えて供へ奉る錢、 で、 香花錢、 ともいう(大言海)。江戸後期の『松屋筆記』に、 聖福寺佛殿記に、錢幣之獻、材木之奉、……按ズルニ、コレ、今ノ賽銭也、 とある。「散米」、「産供」は、 散錢(さんせん)、 ともいい、 神前に奉る錢、 で、 散物(さんもつ)、 ともいう(仝上)。 花米(はなしね)、 は、 花稲、 とも当て、神供には違いないが、 山桜吉野まうでのはなしねを尋ねむ人のかてにつつまむ(古今著聞集)、 と、 神に供えるため、米を神に包んで木の枝などに結びつけたもの、 とあり(岩波古語辞典)、また、参拝のとき、 神前にまきちらす散米、 をもいう(精選版日本国語大辞典)とある。 はなよね、 ともいう(仝上)。もともと、白紙に米を包んで一方をひねったものを、 オヒネリ、 ともいうから、もとは神への供え物である米を意味したが、米の霊力によって悪魔や悪霊を祓うためにまき散らすこととなった、 ようである(世界大百科事典)。たとえば、『延喜式』記載の大殿祭(おおとのほがい)の祝詞の注に、 今世、産屋以辟木束稲、置於戸邊、乃以米散屋中之類、 と、 出産にあたって産屋に米をまき散らし、米の霊力によって産屋を清めたこと、 がみえている(仝上)。 神前にまきちらす散米、 の意からであろうか、「うちまき」は、さらに転じて、 御うちまきのふくろ二宮の御かたへまいる(御湯殿上日記)、 と、 米、 特に、 ついて白くしたものをいう女房詞、 としても使われた(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。 「散供」(さんぐ)は、 清き砂を散供として、名句祭文を読みあげて、一時の祝(のっと)と申しけり(源平盛衰記)、 神祇官人……次南殿御膳宿、散供畢挿土銭以糸貫之(「江家次第(1111頃)」) と、 米、金銭などをまき散らして、神仏に供えること、また、そのもの、 を言い、特に、 米、 にいい、 うちまき、 はなしね、 散米、 と同義に用いることが多い(精選版日本国語大辞典)とあり、やはり、 戌時帰小野宮、以陰陽允奉平令反閉、先是於小野宮令散供(「小右記」寛和元年(985)五月七日)、 と、 散米、 うちまき、 はなしね、 と同様に、 米、金銭などをまき散らして、悪、けがれ、災厄等を祓い、善、浄、吉祥等をあがなおうとすること、また、そのもの、 の意でも使う(仝上)。 因みに、節分の夜、鬼を追い払うためと称して煎豆(いりまめ)を撒く、 豆撒き、 は、食べ物を撒き散らす、 散供(さんぐ)、 からきているが、白米を撒く、 散米(うちまき)、 白米すこしを紙片に包んで神仏にあげる、 オサゴ、 とつながっている。、家屋新築の棟上げに餅(もち)や粢(しとぎ)団子を投げるのも同類の趣旨とみられる(日本大百科全書)とある。「豆撒き」については、「追儺」、「鬼門」で触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) こぼれてにほふ花櫻かなと詠(なが)めれば、其の聲を院聞かせ給ひて(今昔物語)、 花を見る毎に、常にかく詠めけるなめりとぞ人疑ひける(仝上)、 などとある、 詠む、 は、 声を長くひく、また、声を長くひいて詩歌をうたう、 つまり、 真日中に、聲を挙げてながめけむ、まことに怖るべき事なりかし(仝上)、 と、 詩歌を吟詠する、 意で(広辞苑・大辞林)、そこから、転じて、 彼の在原のなにがしの、唐衣(からころも)きつつなれにしとながめけん三河の国八橋(やつはし)にもなりぬれば(平家物語)、 と、 詩歌をつくる、 詠ずる、 吟ずる、 つまり、 詠(よ)む、 意でも使う。 「詠む」は、 「長(なが)む」の意か(広辞苑・大辞林)、 「なが(長)」から派生した語か。「長む」とも書く(日本国語大辞典)、 とある。 長む、 は、 さしはなれたる谷の方より、いとうらわかき聲に、遥かにながめ鳴きたなり(蜻蛉日記)、 いとむつかしがれば、長やかにうちながめて、みそかにと思ひて云ふらめど(枕草子)、 と、 長くなす、 引き延ばす、 意で、 詠む、 と同義でも使う(大言海)。憶説だが、 長む、 が先で、 歌を詠う、 のと絡めて、 詠む、 と当てたのではあるまいか。漢字「詠」は、 聲を長くのばして、詩歌をうたう、 意と共に、 詩歌を作る、 意もある(漢字源)。 「詠」(漢音エイ、呉音ヨウ)は、 会意兼形声。「言+音符永(ながい)」、 とあり(仝上)、 声を長く引いて「うたう」意を表す、 とある(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(言+永)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「支流を引き込む長い流域を持つ川」の象形(「いつまでも長く続く・はるか」の意味)から、口から声を長く引いて「(詩歌を)うたう」を意味する「詠」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1238.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) これを怪しむで寄りてみれば、銀(しろがね)のかなまりにてありけるを取りて置きてけり(今昔物語)、 とある、 かなまり、 の、 「まり」はおわん、金属製のわん、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 「かなまり」は、 あて(貴)なるもの 薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、新しき鋺(かなまり)に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじう美しき児(ちご)の、いちごなど食ひたる(枕草子)、 と、 鋺、 あるいは、 金椀、 と当て(広辞苑)、 金属製の椀、 で、 酒や水などを盛る器、 とある(デジタル大辞泉)。 所捧鋺水溢、而腕凝不堪寒(日本書紀)、 と、 「まり」は、 鋺、 椀、 と当て(岩波古語辞典)、 土や金属で作った酒や水を盛る器、 で(広辞苑)、 もひ(もい)、 ともいう(仝上)。 平安時代の漢和辞典『新撰字鏡』(898〜901)には、 椀、杯也、万利(まり)、 とあり、和名類聚抄(平安中期)金器類の、 金椀、 の註に、 古語謂、椀為磨利、 とあり、同・瓦器類には、、 盌(ワン)、亦作椀、……末里、俗云毛比、 天治字鏡(平安中期)には、 椀、萬利、 平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、 鎵、萬利、 などとある。 「まり」は、 「まろ(円)」と同源。球形のものの意(日本国語大辞典)、 圓(まろ)の顛、 マリ(鞠)・マロ(丸)などと同根、球形のものの意(岩波古語辞典)、 と、「まる」と関連づけている。「まる(丸・円)」でも触れたが、 中世期までは「丸」は一般に「まろ」と読んだが、中世後期以降、「まる」が一般化した。それでも「万葉−二〇・四四一六」の防人歌には「丸寝」の意で「麻流禰」とあり、「塵袋−二〇」には「下臈は円(まろき)をばまるうてなんどと云ふ」とあるなど、方言や俗語としては「まる」が用いられていたようである。本来は、「球状のさま」という立体としての形状を指すことが多い、 とあり(日本語源大辞典)、 平面としての「円形のさま」は、上代は「まと」、中古以降は加えて、「まどか」「まとか」が用いられた。「まと」「まどか」の使用が減る中世には、「丸」が平面の意をも表すことが多くなる、 と(仝上)、本来、球状は、 まろ(丸)、 平面の円形は、 まと(円)、 まどか(円)、 と、使い分けていたが、「まどか」の使用が減り、「まろ」は「まる」へと転訛した。 平面は、 円、 球形は、 丸、 と表記していたが、漢字をもたないときは、「まどか」と「まる」の区別が必要でも、「円」「丸」と漢字で表記するようになれば、「まどか」と「まる」の区別は次第に薄れて、いずれも「まる」で済ませたということのようだ。「まどか」についても触れた。 「鋺」(漢音エン、呉音オン)は、 会意兼形声。「金+音符宛(エン まるくまがる)」 とあり、本来、 曲線をなしてくぼんだはかりの皿、 の意であり、その形から、 金属製の椀、 の意に転用したもののようである(漢字源・字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 侍、年来棲みける妻の在りけるが、不合(ふがふ)は堪へ難かりけれども、年も若く、形、有様もよく、心ざまなどもらうたかりければ(今昔物語)、 の、 不合、 は、 ふしあわせ、 と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。なお、「らうたかりける」の「らうたく」は、「ろうたく」で触れたように、 上品、優美なさま、 の意である。 「不合」は、 ふあい、 と訓むと、 はや御姫君も二人出来させ給へども、御不合にも有りつるか(三河物語)、 と、 仲の悪いこと、 不和、 の意で、 不相、 とも当てる(岩波古語辞典)。 不合、 は、文字通り、 合わないこと、 一致しないこと、 が元の意で、そこから、 元春・隆景御兄弟の御所存に不合の事折ふし候ひき(陰徳太平記)、 と、 考えや意見などが一致しないこと、 の意や、 人ノホドモ、ヤンゴトナクオハシマシシカド、ふがふニオハストテ、カカル今北ノ方ヲマウケテ(大鏡)、 と、 和合せざること、 また、 家風に合わぬこと、 の意や、 宮仕へも不合にては、難(かた)げになんあめる(宇津保物語)、 と、 思うに任せないこと、不仕合せなこと、 の意や、 己等は不合の身にも候はず、田十餘町は名に負ひ侍り(今昔物語)、 と、 生活が思うに任せないこと、 貧乏、 不如意、 の意で使う(岩波古語辞典・大言海・大辞泉) 「不」(漢音フツ、フウ、呉音フ、ホチ、慣用ブ)は、「不肖」で触れたように、 象形。不は菩(フウ・ホ つぼみ)などの原字で、ふっくらとふくれた花のがくを描いたもの。丕(ヒ ふくれて大きい)・胚(ハイ ふくれた胚芽)・杯(ハイ ふくれた形のさかずき)の字の音符となる。不の音を借りて口篇をつけて、否定詞の否(ヒ)がつくられたが、不もまたその音を利用して、拒否する否定詞に転用された。意向や判定を打ち消すのに用いる。また弗(フツ 払いのけ拒否する)とも通じる、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%8D)。別に、 象形。花の萼(がく)の形にかたどる。「芣(フ 花の萼)」の原字。借りて、打消の助字に用いる、 とも(角川新字源)、 象形文字です。「花のめしべの子房」の象形から「花房(はなぶさ)」を意味する「不」という漢字が成り立ちました。借りて、「否定詞」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji729.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) ちちんぷいぷいト御袋療治なり(文化八年(1811)「柳多留」)、 というように、 幼児が転んだり、ぶつけたりして体を痛めた時に、痛む所をさすりながら、すかしなだめ、 ちちんぷいぷい、痛いの痛いの、飛んでけ! などと使うまじない語の、 ちちんぷいぷい、 は、 ちちんぷいぷい御代(ごよ)の御宝(おんたから)の略、 とされる。一説には、 智仁武勇は御世の御宝の意、 ともされる(広辞苑・日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 滑稽本『古朽木(ふるくちき)』(1780年)や洒落本の『五臓眼(ごぞうめがね)』(1789〜1801年)など、江戸時代中期にはこのように言っていた(https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=502)し、『俚言集覧(りげんしゅうらん)』(1797頃)にも、 ちちんぷいぷい御代の御宝 小児を誘ふ児語、 とある(仝上)。「ちちんぷいぷい」はこの頃から、子どもに対しても使われていたことがわかる。江戸語大辞典にも、 チチンプイプイチチンプイプイ御代(ごよ)の御宝(おんたから)と言ふかとおもへば、さくら木(ぎ)と変じ(安永九年(1780)「古朽木」)、 と、 小児に唱える呪文、 とある。 一説には、 智仁武勇は御世のお宝、 といい(広辞苑・日本国語大辞典)、 子どものころ泣き虫だった徳川三代将軍家光を、乳母の春日局(かすがのつぼね)があやしたときに唱えたことば、 とする俗説があるが、 「智仁勇」なら、儒教で「三達徳(さんたっとく)」と呼ばれるもっとも基本的な三つの徳のことだが、儒教でいう「勇」は「武勇」とは違うので、「智仁武勇」とはどこからきたのだろうか。「武勇」は「ぷいぷい」と言わせるための、こじつけのような気がしないでもない、 とある(https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=502)。 また、一説には、仏教用語の、 七里結界(しちりけっかい)、 という言葉に由来する説で、 ちちんぷいぷい七里結界(ここは四方七里に邪を寄せ付けない結界だから安心しておくれ)、 とするもの(http://www.lance2.net/gogen/z511.html)だが、これは、「ちちんぷいぷい」の用例ではあっても、「ちちんぷいぷい」の由来の説明にはなっていない。実際、 ちちんぷいぷい七理けっぱい、 は、 (湯灌場からそのまま女郎買に来たんだろう)アゝコレ親方よしてくんねいし、ちちんぷいぷい七理けっぱい(文化三年(1806)「船頭深話」)、 と、 縁起でもない、真っ平御免だ、 の意を呪文めかして言っている(江戸語大辞典)。 もうひとつは、柳田國男が、『昔話と文学』の中で紹介している、 致富譚、 のひとつ、 屁こき爺、 と呼ばれ、地域によっては、 竹伐(きり)爺、 の名でよばれる昔話で、 竹切りの爺が自身の屁の妙音によって幸福になる、 という、 承服の話、 で(日本昔話事典)、さまざまなバリエーションはあるが、たとえば、中部から西日本では、 昔貧乏な一人の爺が、藪に入って竹を伐っている。そこへ出てきたのが地頭殿、または山主とも山の神とも、殿様とも言っているが、……その殿様が竹伐爺を見つけて、そこにいるのは何者か。日本一の屁こき爺でござる。そんなら一つこいてみよという問答があり、珍しい音を出して御褒美を山と貰って還る。それを隣の爺が羨ましがって、同じ問答をして失敗を演じ、尻を切られて戻って来る……、 といった内容(柳田國男『昔話と文学』)で、東日本に分布しているのは、 鳥呑み爺、 で、小鳥を誤って吞んだために、 腹を撫でてみると、臍のすぐ脇にその小鳥の足が、または尻尾が出ていて、それを引っ張るとよい声で面白い歌をうたう、 というものである(仝上)。 柳田國男は、 「親がよく唱えた『チチンプイプイごよのおん宝』というのは、まさしくこの竹伐爺の鳥の話の名残」 と書き、その屁の音について、 あやつつ、にしきつつ、こがねさらさら(福富草紙)、 ジージーボンボン、コガネサラサラ、チチワポン(因伯童話)、 コガネサラサラ、ニシキサラサラ、スッポコポンノポン(備後) ニシキサラサラ、ゴヨノマツ、チリンホンガラヤ(陸中紫波郡)、 アヤチュウチュウ、ニシキノオンタカラデ(遠野)、 チチンプヨプヨ、ゴヨノオンタカラ(信州下伊那郡)、 ピピンピヨドリ、ゴヨノサカズキ、ちょっと持って飛んで来い(同小県郡)、 等々と挙げながら、 「江戸では小さな児がちょいとした怪我をして、いざ大いに泣こうとしている際などに、慌てて母姉の唱えたチチンプイプイゴヨノオンタカラという句も、たしかにまたこの昔話からでていたのである」 と説いている。『福富草紙』は、 オナラの芸で成功する翁と、それを真似て失敗する隣りの翁が、京の都を舞台にくりひろげるドタバタ劇を描いた絵巻物、 で(https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/rekihaku-meet/seminar/fukutomi/commentary/index.html)、15世紀半ばにはすでに成立していたとされている(仝上)。この、 「『福富草紙』の絵にある屁の音は、 あやつつ、にしきつつ、こがねさらさら とあって、お蔭でこれだけは元の心持がおおよそ解るのだが、現在各地に行われているものに至っては、ほとんど一つ残らず毀れゆがみ、もしくは角が取れて丸くなっていて、いかにこの永い年月の間に、盛んに使われ弄ばれていたかが察せられるのである。綾と錦と黄金との三くさは、古来凡人の最も貴しとした財宝であった。それがつうつうと引きほどかれ、またはさらさらとこぼれ出るというのは、つまりは昔話の取れども尽きぬ宝を、鮮明に耳に訴えようとしたことばであった。」 という意味のある言葉(柳田・前掲書)が、上述のように、様々に崩れ、 チチンプヨプヨ、ゴヨノオンタカラ(信州下伊那郡)、 という迄になっていくのである。しかし、『福富草紙』の言葉、 あやつつ、にしきつつ、こがねさらさら、 を勘案すしてみると、 チチンプイプイごよのおん宝、 という「御宝」の意味が、鮮やかに浮かび上がってくるのである。この言葉の由来の奥行きは、やはり、相当に歴史が深いと思えてならない。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 柳田國男『昔話と文学(柳田國男全集第八巻)』(ちくま文庫) あてなるもの 薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、新しき鋺(かなまり)に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじう美しき児(ちご)の、いちごなど食ひたる(枕草子)、 ある、 あて、 は、 貴、 と当て(岩波古語辞典)、また、 高貴、 とも当て(大言海)、 いやしの対、 で、 高い血筋にふさわしい上品さ、必ずしも、ヤンゴトナシのような第一級の尊貴をさすものではない、 とある(岩波古語辞典)。平安末期『色葉字類抄』に、 貴、アテナリ、 とあり、 あてなる人は、皆ものきよげにけはひ異なべいものとのみ、大臣、中将などの御にほひに目馴れたまへるを(源氏物語)、 と、 身分の高いこと、 の意や、広げて、 よしある手のいとあてなるを打ち捨て書き給へり(源氏物語)、 と、 言動、容姿、物の様子などが上品でみやびやかなさま、 の意で使う(日本国語大辞典)。「枕草子」の、 あてなるもの、 は、この意である。これが転じて、 あては麿(まろ)をば恋しとは思ひ給はぬか(栄花物語)、 と、 父上、 の意で使うケースもある(日本国語大辞典)。 「あて」の語源は、 上様(ウハテ)の約(錦様(ニシキデ)茶碗)、和訓栞、あて、「眞字伊勢物語ニ、高貴ノ字ヲヨメリ、……一説ニ、上手(ウハテ)也、うハ、反、あ也」。兄(エ)も、上(ウヘ)の約なるべし(大言海)、 ウヘ(上)→エ(兄)も同例か(和訓栞・日本語源=賀茂百樹)、 アナ-タヘ(妙)と嘆美した語。タヘの反(和訓栞)、 ウツ(貴)の音通(雅言考)、 アタヘ(直)の転、直は姓(かばね)の一つ(名言通)、 アタカ(弥尊)の転(言元梯)、 と諸説あるが、 エ(兄)、 は、 弟(オト)の対、 で、 同母の子のうち年少者から見た同性の年長者、弟から見た兄、妹から見た姉、 の意で(岩波古語辞典)、 年長者、 の意ではあっても、 身分の高いこと、 の意とはつながらない。ただ、 上手(様)、 は、 下手(したて)の対、 で、 つよき馬をばうは手にたてよ、弱き馬をば下手(川下)になせ(平家物語)、 と、 上の方、 の意で使う(岩波古語辞典)ので、 身分の上、 という意に転じる可能性はなくもない。 なお、 当、 宛、 とあてる「あて」については触れたことがある。 「貴」(キ)は、 会意文字。臾は、両手で荷物を持つさま。貴は「両手でもっこをかつぐさま+貝(品物)」で、大きく目立った財貨、 とある(漢字源)が、意味が分からない。ただ、この説は、 会意文字。「臾(両手で持つ)」と「貝(財貨)」を合わせた字で、財貨や価値が「たかい」こと、大切に取り扱う財貨、高い財貨のように「とうとぶ」意を生じた、 ということのようで(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B2%B4)、 会意文字です(臾+貝)。「両手で物を贈(おく)っている」象形と「子安貝(貨幣)」の象形から、贈り物を意味し、そこから、「とうとい」、「値段・身分が高い」を意味する「貴」という漢字が成り立ちました、 とする説もある(https://okjiten.jp/kanji973.html)が、この説は、 甲骨文字や金文などの資料と一致していない記述が含まれていたり根拠のない憶測に基づいていたりするためコンセンサスを得られていない、 とある(仝上)。しかし、別に、 形声。「貝」+音符「㬰 /*KUJ/」。漢語{貴 /*kujs/}を表す字、 とする説があり(仝上)、 形声。貝と、音符臾(ユ→クヰ)(𠀐は変わった形)とから成る。高い値段、ひいて「とうとい」意を表す、 としている(角川新字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 山より返り来たるに、あやしう母の吟(によ)びければ、子供、などによび給ふぞと問へども(今昔物語)、 の、 吟(にょ)ぶ、 は、 うめいた、 と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 にょぶ、 は、 吟ぶ、 呻ぶ、 とも当て、 しりぞくに随ひ、先の如くまた呞(さけ)びによふ(霊異記)、 手輿(たごし)つくらせ給ひてによふによふ担はれ給ひて、家に入り給ひぬるを(竹取物語)、 などと、 古くは二ヨフと清音、 とある(岩波古語辞典)が、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 吟、ニヨフ、なげく、 室町時代の文明年間(1469〜87年)以降に成立した『文明本節用集』にも、 吟、ニヨウ、 とある。で、 従来「によぶ」と読まれてきたがその確証はなく、文明本以下の節用集類には、みな「ニヨウ」とあり、日葡辞書も同様なので「によふ」と清音だったと考えられる、 となる(日本国語大辞典)。 によふ(う)、 は、 あくる日まで頭痛く、物食はず、によひふし(徒然草)、 と、 苦しそうにうなる、うめく、 意だが、それをメタファに、 少輔、文やらんとて、歌をによひをる程に(落窪物語)、 と、 歌を詠み悩む、 苦吟する、 意で使う(仝上)。 寝呼ぶの義、 とある(大言海)。他に語源に言及しているものがないので、はっきりしないが、 によふ、 が、本来の表記とすると、この語源説はなさそうである。 「呻」(シン)は、 会意兼形声。申(シン)は、もといなずま(電光)を描いた象形文字で、電の原字。のち「臼(両手)+h印(まっすぐ)」のかたちとなり、左右の両手で、中央のh線を長く押しのばすさまを表す会意文字となる(まっすぐのばすこと、伸(のばす)の原字)。呻は「口+音符申(のばす)」で声をひきのばすこと、 とあり(漢字源)、「聲を長くのばしてうなる」意である。 「吟」(漢音ギン、呉音ゴン)は、 会意兼形声。今は「かぶせるかたち+一印(隠されるもの)」の会意文字で、物を寄せ集め、ふたをして隠す意を含む。吟は「口+音符今」で、口をふさぎ、発音を表に出さず、聲を含んで低く出すこと、 とある。別に、 形声。口と、音符今(キム→ギム)とから成る。口をとじてうめく、転じて、声に調子をつけて「うたう」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(口+今)。「口」の象形と「ある物をすっぽり覆い含む」象形(「すっぽり覆い包む」の意味)から、「含み声で言う」、「口に含んで味わう」を意味する「吟」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji1630.html)ある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 若き侍の兵(つはもの)だちたる二人、南面の放出の間に居て、宿直(とのゐ)しけるに、此の二人、本より心ばせあり(今昔物語)、 東三條殿の長宿直(ながとのゐ)に召し上げたりけるが、その宿直はてにければ(仝上)、 とある、 宿直、 は、 「殿居」の意で、宮中などにいること、 とあり(日本国語大辞典)、 里居、夜居の如し、 とある(大言海)。 晝仕ふるを直と云ひ、夜仕ふるを宿と云ふ、 とあり(仝上)、定家仮名遣には、 とのゐ、宿直、殿居、 金剛般若集験記(11世紀)には、 宿衛(とのゐ)、 とある。なお、 長宿直、 は、 長期間の宿直で、これは地方野臥が務めた、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。令制における宿直は、 夜仕曰宿、昼仕曰直、 とあって(令集解・職員)、宿と直が区別されているが、一般に「とのゐ」(「殿居」とも書く)という場合は、 夜の勤務をのみさしている、 ようである(精選版日本国語大辞典)。で、 故彼の宮に詣(まう)でて宿(とのゐ)に侍(はへ)らむと将(す)(日本書紀(720)皇極三年正月)、 と、 内裏や宮司に事務をとったり警護するために宿泊すること、 意で、 令制では内舎人は帯刀して宿衛し、大舎人、中宮舎人、東宮舎人もまた分番して、それぞれ天皇、中宮、東宮の警衛をするため宿直した。平安時代には大臣、納言、蔵人頭、近衛大将などの高官も宿直した、 とある(仝上)。さらに、 新中納言など、殿ゐには、など、さぶらはれぬ(「夜の寝覚(1045〜68頃)」)、 と、 夜間、貴人の身近にあって守護すること、 不寝番、 の意や、 御方々の御とのゐなども、たえてし給はず(源氏物語)、 と、 天皇の寝所で女性が近侍すること、 夜とぎすること、 の意でも使う(仝上)。本来、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 直、トノヰ、 とあるように、 職制律(在官応直不直条)においては昼の警備を「宿」、夜の警備を「直」と書いて「とのい」と読ませ、 宮中・官司あるいは貴人の警備を行うこと、 の意味であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E7%9B%B4)、大納言以上及び八省卿を除く全ての官人は、その所属する官司に対して交代で、 分番して宿直(とのい 宿直と日直)すること、 を義務づけられていて(仝上・世界大百科事典)、平安時代、内裏や院御所では公卿・殿上人などの当番宿直が行われ、 6日ごとの勤番と5日連続の勤番、 が多い(仝上)とある。宿直の時間割作成は、 各官司の判官(太政官では少納言・弁官、八省では大丞・少丞、国司では掾がこれに相当する)が行い、毎日弁官に対してその名簿を提出した、 し、また、別に、 職務として兵衛・内舎人は宮中を、大舎人・東宮舎人・中宮舎人は、それぞれ天皇・東宮・中宮を警備するために交代で宿直した、 が、平安時代には、近衛府が内裏及び大蔵・内蔵の夜間警備を担い、『延喜式』によれば、 亥の刻・子の刻は左近衛府が、丑の刻・寅の刻は右近衛府が担当、 し、近衛の官人は巡回の際に自らの姓名を叫びながら見回りを行った。これを、 宿奏(とのいもうし)、 といい、律令の規定に関わらず大臣・大納言は中納言・蔵人頭・近衛大将とともに内裏内に置かれた宿直所(とのいどころ)・直廬(じきろ)に宿直して緊急事態に備えた(仝上)とある。しかし、後世においては、夜の警備を、広く、 宿直、 もしくは、 殿居、 と書いて「とのい」といったようである(仝上)。 なお、「宿直」は、 以顒有辞儀、引入殿内、親近宿直(齊書・周顒傳)、 と、 シュクチョク、 と訓ませ、 役所などに更代にてとまる、 官吏がとのゐする、 意の漢語である(字源・大言海)。 また、官人が宮中に宿直するときの服装、 を、 昼(ひ)の装束(しょうぞく)、 に対して、 宿直装束(とのいしょうぞく)、 宿装束 宿直衣(とのいぎぬ)、 といい、その姿を、 宿直姿、 といい(大言海・日本大百科全書)、枕草子に、 うへのきぬの色いときよらにて革の帯のかたつきたるを宿直姿にひきはこえて紫の指貫(さしぬき)も雪に冴え映えて、 とあるように、文官も武官も、 縫腋(ほうえき)の袍(ほう)のはこえ(後ろ腰の袋状にたくし上げた部分)を外に出して着る、すなわち、 衣冠(いかん)姿、 であった(仝上)。ただ、平安時代末期の仮名文の平安装束の有職故実書『雅亮(まさすけ)装束抄』(源雅亮)には、 とのゐそうぞくといふは、つねのいくはんなり、さしぬきしたはかまつねのことし、そのうへにわきあけをきて、かりぎぬのをびをするなり、 とあって闕腋(けってき 衣服の両わきの下を縫い合わせないであけておくこと)の袍も用いたようである。なお「狩衣(かりぎぬ)」については「水干」で触れた。 「袍(ほう)」は、「したうづ」で触れたように、 束帯や衣冠などの時に着る盤領(まるえり)の上衣、 で、 束帯や衣冠に用いる位階相当の色による、 位袍、 と、位色によらない、 雑袍、 とがあり、束帯の位袍には、文官の有襴縫腋(ほうえき 衣服の両わきの下を縫い合わせておくこと)と武官の無襴闕腋(けってき)の二種がある(精選版日本国語大辞典)。 「束帯」は、「したうづ」、「いだしあこめ」)で触れたように、 飾りの座を据えた革の帯で腰を束ねた装束、 の意(有職故実図典)で、『論語』の公冶長篇の、公西華(字は赤)についての孔子の、 赤也何如(赤や何如)、 子曰、赤也、 束帯立於朝(赤(せき)は束帯して朝に立ち)、 可使與賓客言也(賓客と言(ものい)わしむべし)、 の言葉にある、 束帯立於朝、 に由来するとされ(仝上)、 公家(くげ)男子の正装。朝廷の公事に位を有する者が着用する。養老(ようろう)の衣服令(りょう)に規定された礼服(らいふく)は、儀式のときに着用するものとされたが、平安時代になると即位式にのみ用いられ、参朝のときに着る朝服が礼服に代わって儀式にも用いられ、束帯とよばれるようになった、 とある(有職故実図典・日本大百科全書)。 「衣冠」は、 参朝用の束帯の略装、 で、束帯を、 晝装束(ひるのしょうぞく)、 と称したのに対して、宿直装束に属したので、 宿衣(とのいぎぬ)、 という(有職故実図典)。直衣(のうし)と同様、内々に用いられていたが、鎌倉時代になると、宮中出仕のときにも用いられるようになった、 が、直衣(のうし)は、宿直用にも用いられたが、これは平服で正装とはされなかった(世界大百科事典)。なお、「直衣」は、「いだしあこめ」で触れたように、 衣冠が宿衣(とのいぎぬ)なのに対して、直(ただ)の衣の意で、平常の服であることからきた名、 である。束帯、衣冠のように当色(とうじき 位階に相当する服色)ではなく、好みの色目を用いたことにより、 雜袍(ざつぽう)、 と呼ばれた。ただ、 雜袍聴許、 を蒙っての参内、あるいは院参などの場合は、一定の先例にしたがった(有職故実図典)、とある。 「衣冠」の構成は、 束帯より半臂(はんぴ)、下襲(したがさね)、石帯(せきたい)を省き、表袴(うえのはかま)のかわりに指貫(さしぬき)をはく形式で、 冠(かんむり)、 袍(ほう 「したうづ」で触れた)、 衣(晴の所用)、 袙(あこめ 略すこともある)、 単(ひとえ 「単(ひとえぎぬ)」については「帷子」で触れた)、 指貫(「袴」lで触れた)、 下袴(時によって省略 「したのはかま」については「犢鼻褌(たふさき)」で触れた)、 檜扇、 帖紙(たとう 「畳紙(たとうがみ)」で触れた) 浅沓(「水干」で触れた)、 である(仝上・日本大百科全書)。「石帯」(せきたい)については「したうづ」で、「表袴(うえのはかま)」については「袴」で触れた。 束帯や布袴の袍と同様に位袍であるが、通常は帯剣することがなく、闕腋(けってき)の袍は用いられない。また着装に石帯を用いないため、それにかわる絹の帯で腰を締めることにより、その衣文(えもん)や着装姿は束帯と異なる、 とある(仝上)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) 年老いて立居(たいゐ)もやすからぬ母のありけるを、一つの壺屋に置きて、子二人は家を圍(かこ)み別けて居たりけるが(今昔物語)、 の、 壺屋、 は、 我が居たる傍なる壺屋に将(ゐ)て入りぬ(今昔物語)、 と、 臨時に仕切られた部屋ではなく、ちゃんと仕切りの施されてある部屋、 つまり、 個室、 とある(岩波古語辞典)が、上記引用の、 一つの壺屋に置きて、子二人は家を圍(かこ)み別けて居たりけるが(今昔物語)、 や、 身貧しくして壺屋に住てある者あり(今昔物語)、 だと、 主家(おもや)に付属して建てた物置に類する家(広辞苑)、 母屋から離れて建てられた物置小屋風の建物(大辞林)、 主な家屋に付属して建てられた小屋、物置の類(デジタル大辞泉)、 物置、納戸(なんど)のような、まわりを壁・板などで囲った小屋(精選版日本国語大辞典)、 などという意になる。 古へ、人はなれたる、物置の如き家、 とある(大言海)ので、こちらが元の意で、そこから転じて、 個室、 の意で使ったのではあるまいか。 只だ然るべき壺屋一壺に畳を敷きて給へと云へば(今昔物語)、 とあるところから、勝手な妄想だが、 一壺天(いっこてん)、 を思い出した。「三神山(さんしんざん)」で触れたことだが、後漢の費長房(ひちょうぼう)が、薬売りの老人とともに壺(つぼ)の中にはいって、別世界の楽しみを得たという故事である。そこから、 壺中天(こちゅうてん)、 とも言い、薬売りの老人、即ち、 仙人壺公(ここう)の故事、 によりて、 別世界の義に用ふ、 とあり(字源)、 一つの小天地、 別世界、 という含意もありそうな気がする。それは、 費長房者、汝南人也、曾為市掾、市中有、老翁賣薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中、市人莫之見、唯長房於楼上覩、異焉、因往再拝、翁乃與倶入壺中、唯見玉堂厳麗、旨酒甘肴盈衍其中、共飲畢而出、 とあり(漢書・方術傳・費長房)、また、 壺中天地乾坤外、夢裏身名且暮閨i元稹・幽栖詩)、 と、 壺中天地、 壺中之天、 とも(仝上)いい(精選版日本国語大辞典・大言海)、さらに、 壺天、 ともいう(仝上)。後漢の時代、汝南(じょなん)の市場で薬を売る老人が、 店先に1個の壺(つぼ)をぶら下げておき、日が暮れるとともにその壺の中に入り、そこを住まいとしていた。これが壺公で、彼は天界で罪を犯した罰として、俗界に落とされていたのである。市場の役人費長房(ひちょうぼう)は、彼に誘われて壺の中に入ったが、そこは宮殿や何重もの門が建ち並ぶ別世界であり、費長房はこの壺公(ここう)に仕えて仙人の道を学んだ、 という(日本大百科全書)。 壺屋、 には、 個室、 を、若年の頃、初めて持ったときの、 小世界、 のイメージがある気がする。 「壺」については、「つぼ折」で触れた。 「屋」(オク)は、 会意文字。「おおってたれた布+至(いきづまり)」で、上から覆い隠して、出入りをとめた意をあらわす。至は室(いきづまりの部屋)・窒(ふさぐ)と同類の意味を含む。この尸印は尸(シ)ではない。覆い隠す屋根、屋根でおおった家のこと、 とある(漢字源)が、この説明ではよく分からない。ただ、別に、 形声。「室」+音符「𡉉 /*ɁOK/」、「尸」は「𡉉」の変化形で「しかばね」とは関係がない、「やね」を意味する漢語{屋 /*ʔook/}を表す字、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B1%8B)、また、 会意。尸(居の省略形。すまい)と、至(矢がとどく所)とから成る。居住する場所を求めて矢を放つことから、住居の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(尸+至)。「屋根」の象形(「家屋」の意味)と「矢が地面に突き刺さった」象形(「至(いた)る」の意味)から、人がいたる「いえ・すみか」を意味する「屋」という漢字が成り立ちました、 ともあり(https://okjiten.jp/kanji464.html)、「尸」が、「しかばね」とは別の、「屋根」を表す字であることは共通している。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 其の居たりける後の方にありける妻戸(つまど)を、にはかに内より押し開けければ、内に人のありて開くなめりと思ふ程に、何ともおぼえぬ物のきと手を差し出して(今昔物語)、 の、 妻戸、 は、 簷(のき)の戸、 とあり(大言海)、 舞戸(まいど 枢(くるる)や蝶番(ちょうつがい)などによって開閉する開き戸)にて両方へ開くもの、 で、 寝殿造などの廂(ひさし)の四隅にありて、主客共に出入りする戸口、戸は厚板にて作り、両開きにして、内外に金具あり、外の方へ開き、閉づる時、繫金(かけがね)す、 とある(仝上)。 寝殿造では、周囲の建具は蔀(しとみ)が主で、必要に応じて柱間全部を開け放てる利便があるが、夜間や風雨の強い日にひとたび閉じてしまうと開けるのが容易でない。そこで建物の端の隅に、開閉のたやすい両開きの板戸を設けていた、 とある(日本大百科全書・世界大百科事典)。一名、 小脇戸(こわきど)、 とも(仝上)。 ちなみに、「しとみ」とは、 蔀、 と当て、 柱の間に入れる建具の一つ、 で、 板の両面あるいは一面に格子を組んで作る。上下二枚のうち上を長押(なげし)から釣り、上にはねあげて開くようにした半蔀(はじとみ)が多いが、一枚になっているものもある。寝殿造りに多く、神社、仏閣にも用いる、 とある(精選版日本国語大辞典)。 「妻戸」の語源は、 端戸(つまど)の意(広辞苑・大言海・学研全訳古語辞典・岩波古語辞典・日本語源広辞典・類聚名物考)、 が大勢である。その「端(つま)」は、 妻は端を意味し、端にある扉であるために妻戸とよばれた、 と(日本大百科全書)、「端(はし)」の意味もあるが、 棟木と直角の面を、 妻、 平行の面を、 平(ひら)、 といい、妻に入口のある建物を妻入りというが、平安時代に寝殿の、 妻(妻入り) に用いた、 ところからこの名がある(ブリタニカ国際大百科事典・世界大百科事典)とする説もある。そして、 寺院建築や神社建築では板扉を板唐戸(いたからと)という。妻戸は板唐戸の形式の扉であったため、この形式の扉は建物の端に設けられなくても、すべて妻戸の名でよばれるようになった、 とある(日本大百科全書)。つまり、「端(はし)」ではなく、 建物の妻(棟の両端の側面)、 つまり、 棟と直交する方向の側面に設けられたためこの名があり、そこから、 家の端(つま)にある両開き戸、 をも「妻戸」というようになった、というわけである。 しかし、「つま」で触れたように、「つま」は、 妻、 夫、 端、 褄、 爪、 と当て、 爪、 を当てて、「つま」と訓むのは、「つめ」の古形で、 爪先、 爪弾き、 爪立つ、 等々、他の語に冠して複合語としてのみ残る「爪」は別として、 端(ツマ)、ツマ(妻・夫)と同じ、 の(岩波古語辞典)、 端、 は、 物の本体の脇の方、はしの意。ツマ(妻・夫)、ツマ(褄)、ツマ(爪)と同じ、 とある。「つま(妻・夫)」は、 結婚にあたって、本家の端(つま)に妻屋を立てて住む者の意、 つまりは、「妻」も、「端」につながる。で、「つま(褄)」も、やはり、 着物のツマ(端)の意、 とあり、結局「つま(端)」につながるのであるが、『大言海』は、「つま(端)」について、 詰間(つめま)の略。間は家なり、家の詰の意、 とあり、「間」には、もちろん、いわゆる、 あいだ、 の意と、 機会、 の意などの他に、 家の柱と柱との中間(アヒダ)、 の意味がある。さらに、「つま(妻・夫)」は、 連身(つれみ)の略転、物二つ相並ぶに云ふ、 とあり、さらに、「つま(褄)」も、 二つ相対するものに云ふ、 とあり、 「つま(妻・夫)」の語意に同じ、 とある。こう見ると、「つま」には、 はし(端)説、 と あいだ説、 があるということになる。つまり、 「ツマ(物の一端)」が語源で、端、縁、軒端、の意、 と、 「ツレ(連)+マ(身)」で、後世のツレアイです。お互いの配偶者を呼びます。男女いずれにも使います。上代には、夫も妻も、ツマと言っています、 と(日本語源広辞典)、多少の異同はあるが、 はし、 と 関係(間)、 の二説といっていい。僕には、上代対等であった、 夫 と 妻 が、時代とともに、「妻」を「端」とするようになった結果、 つま(端) 語源になったように思われる。三浦佑之氏は、 あちこちに女を持つヤチホコ神に対して、「后(きさき)」であるスセリビメは、次のように歌う。 やちほこの 神の命(みこと)や 吾(あ)が大国主 汝(な)こそは 男(を)に坐(いま)せば うちみる 島の崎々(さきざき) かきみる 磯の崎落ちず 若草の つま(都麻)持たせらめ 吾(あ)はもよ 女(め)にしあれば 汝(な)を除(き)て 男(を)は無し 汝(な)を除(き)て つま(都麻)は無し と紹介する。どうも、ツマは、 対(つい)、 と通じるのではないか、という気がする。「対」は、中国語由来で、 二つそろって一組をなすもの、 である。『大言海』は、「つゐ(対)」について、 「むかひてそろふこと」 と書く。この「つま」の意味から見ると、 建物の端(はし)、 ではなく、 妻(棟の両端の側面)、 の意味を併せ考えると、 関係(間)、 の意味があり、対をなしている、 両開き、 の含意もあったのではないか、という気がしてならない。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 然る間、ある人亦試みむと思ひて、征矢(そや)を一筋、其の穴にさし入れたりければ(今昔物語)、 の、 征矢、 は、 戦争用の矢、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 「胡簶(やなぐい)」で触れたことだが、「胡簶」「箙(えびら)」等々に盛った矢の上に、 別形式の矢を一筋または二筋差し添えたもの、 を、 上差の矢、 といい、 で、征矢(そや 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう)に対しては、 狩矢(かりや)である狩股(かりまた)の鏃(やじり)をつけた鏑矢(かぶらや)、 を用い、狩矢を盛った狩箙(かりえびら)には、 征矢、 を上差しとする(精選版日本国語大辞典)。 征矢、 は、 征箭、 とも当て、 戦場で使う矢、 なので、 狩り矢、 的矢、 雁股、 尖矢、 などに対していう(デジタル大辞泉・大言海)。因みに、 尖矢(とがりや)、 は、 利雁矢、 とも当て(大言海)、 先をとがらせた平根の鏃(やじり)をさして、四立(よつたて・よつだて)の羽を矧(は)いだ矢、 とある(精選版日本国語大辞典)。「征矢」は、 三羽に矧ぐ、 とあり(大言海)、 上差(うはざし)、中差(なかざし)の四羽なると、異なり、 といい(仝上)、 軍将の壺胡簶には、征矢十九本中、内に入れて刺す、これを中差(ナカザシ)と云ふ、別に一本の鏑矢、又は雁股の矢を表(うへ)に刺す、是れ、上差(ウハザシ)の矢なり、 とある(仝上)。「矧ぐ」については触れた。「壺胡簶」も「胡簶(やなぐい)」で触れた。 和名類聚抄(平安中期)には、 征箭、和名曾夜(そや)、 とあるが、「征」は、 征服、 征討、 など、 セイ、 と訓み、 征矢、 は漢語にはない(字源)。 「征矢」の語源は、 ソはサ(矢 サ(矢)は矢(や)の古語、朝鮮語sal(矢)の末尾の子音を落とした形)の転(岩波古語辞典)、 襲矢(オソヒヤ)の約にて、敵を襲ひ射る意かと云ふ。萬葉集に於比曾箭(オヒソヤ)とあり、雁股・尖矢に対する語(大言海)、 多く揃えて軍用にそなえる意のソロヒヤ(揃矢)の義(日本釈名)、 飾りがないところからソヤ(素矢)の義か(類聚名物考・古今要覧稿)、 直(すぐ)なる根の矢の意のスヤから(愚得随筆)、 セ゚に負う矢の意でソビラヤの略か、またセヤ(背矢)の転か(貞丈雑記)、 ソギヤ(殺矢)の義か(名言通・和訓栞)、 等々諸説あるが、語呂合わせを避けるとすると、 征矢、 の、「ソ」が、 荒し男のいをさ(矢)手挟み向ひ立ちかなるましづみ出でてと我が来る(万葉集)、 と、 「矢」の古語「サ」、 からきているというのが自然に思われる。 なお、「矢」については、「弓矢」、「乙矢」、「矢の部位名」については、「はず」、「矢の種類」については、「鏑矢」、「雁股」については「雁股の矢」で、それぞれ触れた。 「征」(漢音セイ、呉音ショウ)は、 会意兼形声。正は「―印+止(あし)」の会意文字で、遠方の目標線をめざして、まっすぐ足を進めること。征は「彳(いく)+音符正」。のち正がまっすぐ、正しいの意となったため、征の字で、原義を表した、 とある(漢字源)。別に、 会意形声。彳と、正(セイ ただす、討ちに行く)とから成り、「うつ」「ゆく」意を表す。「正」の後にできた字、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(彳+正)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、「まっすぐ進撃する」を意味する「征」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1247.html)。 「矢」(シ)は、 象形。やじりのついたやの形にかたどり、武器の「や」の意を表す、 とある(角川新字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 夜半(よなか)ばかりに西の對(たい)の塗籠(ぬりごめ)を開きて、人のそよめきて渡る気色のありければ(今昔物語)、 などとある、 塗籠、 は、 室内をくぎって周囲を壁で囲った室、物置に使い、寝室にもした、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。「對」は、 對の屋、宮廷貴族の邸宅の様式であった寝殿造の一部で、正殿(寝殿)の北、及び東西にあった、 とある(仝上)。 寝殿造は、 主人が居住する寝殿という建物を中心に、東西に渡殿(わたどの)という廊下で結ばれた対屋(たいのや)を、南には池のある大きな庭園を設けたもの。東西の対屋からは中門廊(ちゅうもんろう)が南に向かって伸び、中ほどに中門を、先端の池に臨む場所には釣殿(つりどの)を設けた、 とあり(家とインテリアの用語がわかる辞典)、床は板敷き、畳は人が座るところにのみ置かれ、部屋を区切る建具はほとんどなく、仕切りには、 御簾(みす)、 や 几帳(きちょう)、 を用い、初期には、 塗籠(ぬりごめ)、 だけは独立した寝室として用いられたが、平安中期以降は母屋(もや)や北庇に帳台(ちょうだい)を置いて寝所とした(仝上)とある。 だから、「塗籠」は、 寝殿造りの母屋もやの一部を仕切って、周囲を厚く壁で塗りこめた閉鎖的な部屋、 なので(広辞苑)、 寝殿造の部屋の名、 というのが正確のようである(岩波古語辞典)。 四方をかべでかこみ、明取(あかりとり)をつけ、妻戸から出入りする、 とあり(仝上・大言海)、 土で厚く塗った壁に囲まれていた小さな部屋のことが塗込だったことから、 塗籠、 と呼ばれた(https://www.token.co.jp/estate/useful/archipedia/word.php?jid=00016&wid=30046&wdid=01)が、 衣服・調度など手近な器具を納めて置く所、 になったようである(仝上)。「妻戸」については触れた。 『花鳥余情』(1472年 一条兼良)は、 寝殿の廂に、壁を塗りまはし、妻戸の如き開き戸を設け、調度を置く所、 としている。平安時代の寝殿造では、 寝殿や対屋(たいのや)の母屋(もや)の端2間四方をくぎって塗籠とした例がよくみられる、 とある(日本大百科全書)。御簾(みす)、障子(現在の襖(ふすま))、屏風(びょうぶ)など、開放的な間仕切りが中心となる寝殿造の中で、壁や妻戸(両開きの板戸)で囲まれた塗籠は、閉鎖的で暗い場所を寝室とする古くからの習慣が残ったものであろう、 とされる(仝上)が、平安中期には母屋や庇(ひさし)に、 帳台(ちょうだい)、 を置いて寝所とし、塗籠は納戸として使うようになった(仝上)。内裏(だいり)清涼殿で、天皇が用いるものは、 夜の御殿(おとど)、 と呼ばれたようだが、やはり江戸時代には、衣服・調度等の物品を収納する部屋にも使用した(マイペディア・世界大百科事典)とある。 宮はいと心憂く、なきけなくあはつけき、人の心なりけりと、ねたく、つらければ、若々しきやうには、いひ騒ぐともとおぼして、塗籠に御座(おまし)ひとつ敷かせ給いて、内より鎖して大殿籠もりけり、これもいつまでにかは。かばかりに乱れ立ちにたる人の心どもは、いと悲しうくちをしう思す、 と『源氏物語』(夕霧)では、女性が求婚者を避けるために、塗籠を寝所とする場面が描かれているが、平安中期には母屋や庇(ひさし)に帳台(ちょうだい)を置いて寝所とし、塗籠は納戸として使うようになったので、 塗籠他行(ぬりごめたぎょう)、 という、 人には外出と偽って、実は塗籠の中に隠れていること、 つまり、 居留守を使うこと、 のような用例があり、特殊の避難場所のような使い方と見られる(広辞苑)。 「帳台(ちょうだい)」というのは、 寝殿の母屋(もや)内で、風を避け寒さを防ぐため、四方に帳(とばり)を巡らし、このなかで座ったり寝たりする屏障具(へいしょうぐ)を兼ねた座臥具(ざがぐ)、 をいい(日本大百科全書)、 天皇・皇后とか上級貴族の寝室を、 帳(ちょう)、 御帳、 帷帳、 というが、鎌倉時代中期以降は、 帳台(ちょうだい)、 御帳台、 と呼ばれる(http://www.ktmchi.com/SDN/SDN_013-3.html)、本来「帳台」は、 帳の台、つまり浜床という高さ約二尺という台、 つまり、 ベッド、 のことであるが、鎌倉時代の中期以降、全て、 帳台、 というようになる(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 赤き上衣(うへのきぬ)を着、冠したる人の、いみじく気高くおそろしげなる(今昔物語)、 の、 うへのきぬ、 とは、 袍(はう)、 のことで、 貴族の正装、赤いのは高貴の人の着るもの、 とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。 うへのきぬ、 ともいわれる、 袍(ほう)、 は、「したうづ」で触れたように、 束帯や衣冠などの時に着る盤領(まるえり)の上衣、 で、 束帯や衣冠に用いる位階相当の色による、 位袍、 と、位色によらない、 雑袍、 とがあり、束帯の位袍には、 文官の有襴縫腋(ほうえき 衣服の両わきの下を縫い合わせておくこと)、 と 武官の無襴闕腋(けってき)、 の二種がある(精選版日本国語大辞典)。 袍の語の初見は養老(ようろう)の衣服令(りょう)にみられ、 イラン系唐風の衣、 で、詰め襟式の、 盤領(あげくび)、 で、奈良時代から平安時代初期にかけての袍は、 生地(きじ)の幅が広かったため、身頃(みごろ)が一幅(ひとの 鯨尺八寸(約三〇センチメートル)ないし一尺(約三八センチメートル)のはば)と二幅(ふたの)のもの、袖(そで)が一幅と、それに幅の狭いものを加えた裄(ゆき)の長いものがみられる、 とあり(日本大百科全書)、平安時代中期以後、服装の和様化とともに、 袍の身頃は二幅でゆったりとし身丈が長く、袖は、奥袖とそれよりやや幅の狭い端袖(はたそで 袖幅を広くするため、袖口にもう一幅ひとのまたは半幅つけ加えた袖)を加えた二幅仕立て、袖丈が長い広袖形式となった、 とある(仝上)。 「したうづ」、「襖(あを)」で触れたように、「袍」には、文官用の、 縫腋(ほうえき)の袍、 と、武官用の、 闕腋(けってき)の袍、 があるが、「縫腋の袍」は、 前身と後身との間の腋下を縫い合わせている、 ことからくる名称で、 まつはしのきぬ、 訛って、 もとほしの袍、 とも呼ぶ(有職故実図典)。裾(すそ)に生地を横に用いた襴(らん)がつき、 有襴(うらん)の袍、 ともいわれる。襴の両脇は、古くはひだを畳んであったが、衣服の長大化とともに、そのひだを解いて外に引き出し、 蟻先(ありさき)、 とよんでいる。縫腋の袍の前身頃をたくし上げて、懐(ふところ)をつくる分だけ、あらかじめ後ろ腰の部分をたくし上げて縫い留めたものを、 はこえ、 とか、 格袋(かくぶくろ)、 とよんでいる(日本大百科全書)。「闕腋の袍」は、 わきあけのころも、 わきあけのきぬ、 というように、 袖から下、両腋すべてあけ開いた行動に便利なもの、 で、 襴(らん)、 がなく、 無襴(むらん)の袍、 ともいわれ、 襖(あを)、 ともいう(有職故実図典)。因みに、「襴」は、 裾に足さばきのよいようにつける横ぎれ。両脇にひだを設けるのを特色とし、半臂(はんぴ)や袍に付属するが、袍はひだを設けずに外部に張り出させて蟻先(ありさき)といい、ひだのあるのを入襴(にゅうらん)と呼んで区別した、 とある(精選版日本国語大辞典)。半臂(はんぴ)は、「したうづ」で触れた。 令義解(718)に、「襖」は、 謂無襴之衣也、 とある。「襖」を、 狩衣、 の意とするのは、狩衣が、 狩襖(かりあお)、 といったため、「狩」が略されて、「襖」と呼んだためである(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 狩襖、 と呼んだのは、狩衣が、 闕腋(けってき)、 つまり、 両方の腋(わき)を縫い合わせないで、あけ広げたままのもの、 だからである。 位袍と称される、 束帯(「したうづ」で触れた)、 布袴(文官の束帯に準ずるもの。表袴(うえのはかま)と大口(おおぐち)のかわりに指貫(さしぬき 「袴」で触れた)と下袴(したばかま 「袴」で触れた)を用いる)、 衣冠(「宿直」)で触れた)、 などの袍は、位階相当の色、すなわち、 当色(とうじき)、 が定められている。その色は、 一位は深紫(又は濃き紫とも云ひ黒し)、二位、三位は浅紫(又は薄紫とも云ふ)、四位は深緋、五位は浅非、六位は深緑、七位は浅緑、八位は深縹(ふかはなだ)、初位は浅縹、無位は黄色、 とある(大言海)が、時代の下降とともに若干の変化をみせ、平安時代初期に、 紫、緋(ひ)、緑、縹(はなだ)、 などの深浅の区別がなくなって、すべて深い色とし、中期以降、 深紫は黒にかわり、四位も黒を用い、六位以下はみな深縹、 を用い、 緑袍(ろくほう)、 緑衫(ろうそう)、 とよんだ(日本大百科全書)。なお、天皇着用として、 帛(はく)の袍、 黄櫨染(こうろぜん)の袍、 青色の袍、 があり、上皇着用に、 赤の袍、 皇太子用には、 黄丹(おうだん)の袍、 がある(ブリタニカ国際大百科事典)。 「縹」(はなだ)で触れたように、 養老の衣服令(りょう)(大宝元年(701)制定、養老二年(718)改撰)で、 八位を深縹、初位(しょい)を浅縹、 としている(仝上)が、平安後期になると、七位以下はほとんど叙せられることがなく、名目のみになったため、六位以下の地下(じげ)といわれる下級官人は、みな緑を用いた。そこで縹は当色から外されたが、12世紀より緑袍(りょくほう)と称しても縹色のものを着ている。縹は当色ではなくなったため、日常も用いられる色となった(仝上)。なお、「袍の色」については、http://www.kariginu.jp/kikata/5-1.htmに詳しい。 また、袍の地質は、五位以上が冬に表地を綾(あや)、裏地を平絹、夏に縠か顕文紗(けんもんしゃ)。六位以下は表地・裏地とも平絹、夏に無文縠か生絹(すずし)とし、公卿(くぎょう 太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議(もしくは従三位以上)以上の者が着用する日常衣の直衣も縫腋の袍で、当色による位袍ではないため、 雑袍(ざっぽう)、 といわれる(仝上)。また、五位以上は家流による有紋、地下は無紋、である(精選版日本国語大辞典)。 なお、「衣冠」は、「宿直」で触れたように、 参朝用の束帯の略装、 で、束帯を、 晝装束(ひるのしょうぞく)、 と称したのに対して、宿直装束に属したので、 宿衣(とのいぎぬ)、 という(有職故実図典)。直衣(のうし)と同様、内々に用いられていたが、鎌倉時代になると、宮中出仕のときにも用いられるようになった、 「直衣(なほし)」は、「いだしあこめ」で触れたように、 衣冠が宿衣(とのいぎぬ)なのに対して、直(ただ)の衣の意で、平常の服であることからきた名、 である。束帯、衣冠のように当色(とうじき 位階に相当する服色)ではなく、好みの色目を用いたことにより、 雜袍(ざつぽう)、 と呼ばれた。 「水干」「狩衣」については、「水干」で触れたように、「水干」は、 水干の袍(ほう 束帯、それを略した布袴(ほうこ)、衣冠、日常着の直衣(のうし)などの上着)、 水干の狩衣(かりぎぬ)、 と言うように、 糊を用いず水張りにて干し、乾いてから引きはがして張りをもたせて仕立てた衣、 の意である(広辞苑・大言海・日本大百科全書)。しかし、専ら、 水干の狩衣(かりぎぬ)の略称、 として使われ、製法は、 狩衣と異ならず、 とある(大言海)。その形式は、 盤領(あげくび 首紙(くびかみ)の紐を掛け合わせて止めた襟の形式、襟首様)、身一幅(ひとの)仕立て、脇あけで、襖(あお)系の上着。襟は組紐(くみひも)で結び留め、裾は袴(はかま)の中に着込める、 とある(日本大百科全書)。「狩衣」と「水干」の違いは、 狩衣は、袴の上に着したが、水干は袴の下に着こめて行動の便をはかったこと、 菊綴(きくとじ)を胸に一ヵ所、背面・左右の袖の縫い目に四ヵ所、ほころび易いところに、特に太い組糸を通して結び、時には結び余りを糸総(いとふさ)として、いずれも二つずつつけた(その形から菊綴という)、 胸紐の、前は領(えり)の上角にあり、後は領の中央にあり、二条を、右肩の上にて打ち違え捩(もじ)りて、胸にて結ぶ、 等々といったところにある(有職故実図典・広辞苑・大言海)。 ついでながら、「盤領(あげくび)」の「袍」から外れるが、正面の領(えり)の左側と右側とを垂らし引き違えて合わせる着用法になる、 直垂(ひたたれ)、 は「素襖」で触れたように、(水干と同様)袴の下に着籠めて着用する、のが普通で、もともとは、 上衣、 の名称で、袴は別に、 直垂袴、 と言っていたが、袴に共裂(ともぎれ)を用いるに及んで、袴も含めて、 直垂、 と呼ぶに至り、単に、 上下(かみしも)、 とも呼んだ(有職故実図典)。 垂領(タリクビ)・闕腋(ケツテキ 衣服の両わきの下を縫いつけないで、開けたままにしておくこと)・広袖で、組紐(クミヒモ)の胸紐・菊綴(キクトジ)があり、袖の下端に露(ツユ)がついている上衣と、袴と一具となった衣服。古くは切り袴、のちには長袴、 を用いた(大辞林)。直垂(ひたたれ)の一種の、 素襖、 は、 素袍、 とも当て、 素は染めず、裏なき意あり、誤りて、素袍とも書す、然れども、襖も、袍も、うへのきぬなれば、借りて用ゐたるにや、 とし(大言海)。 狩襖(かりおう 狩衣)の、表、布にて、裏絹なるものの、裏をのぞきたるものと云ふ、されば布製にて、即ち、布衣(ほうい)なり、 とある(大言海)。江戸後期の武家故実書『青標紙』(あおびょうし)に、 素袍は、上古、京都にて、軽き人の装束にして、布にて拵へて、文柄も無く、ざっとしたる物故、素とも云ふ、襖は、袍と同じ、上に著たる装束の一體の名なり、 あるように、 もと庶人の常服であったが、江戸時代には平士(ひらざむらい)・陪臣(ばいしん)の礼服となる。麻布地で、定紋を付けることは大紋と同じであるが、胸紐・露・菊綴きくとじが革であること、袖に露がないこと、文様があること、袴の腰に袴と同じ地質のものを用い、左右の相引と腰板に紋を付け、後腰に角板を入れることなどが異なる。袴は上下(かみしも)と称して上と同地質同色の長袴をはくのを普通とし、上下色の異なっているのを素襖袴、半袴を用いるのを素襖小袴という、 とある(広辞苑)。 「袍」(漢音ホウ、呉音ボウ)は、 会意兼形声。「衣+音符包(すっぽりそとからつつむ)」、 で、「褞袍(おんぽう)」で、「わたいれ」、「戦袍(せんぽう)」で、「戦士が着る外衣」の意である。 うえのきぬ、 の意で、衣冠・束帯の上着の意で使うのはわが国独自である。 『礼記』「玉藻篇」に、 \爲繭、縕爲袍、襌爲絅、帛爲褶(\(新しいまわた)を入れた服を繭といい、縕(古いまわた)を入れたのを袍という。また襌(ひとえ)に仕立てた衣服を絅といい、綿を入れないのを褶という)、 とあり、唐においては「袍」というのは、 冬の常服の上衣、 で、夏の裏無しは「衫」と称した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%8D)とある。日本の朝服は、 唐の「常服」、 を祖型とし、北朝の胡服の系統を引き、元来は腋のあいたものであった(仝上)らしい。 参考文献; 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) |
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