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コトバ辞典


折節


感に堪へずして、唐綾の染付なる二衣を纏頭にしてき。折節に付けては興がりておぼえき(梁塵秘抄口伝集)、

にある、

折節(おりふし)、

は、

ちょうどそのときに、その場合に、

とか、

ときどき、おりにふれて、

という意味で使われるが、ここでは、

時節、時機、場合、その時、

の意とあり(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)、「折節につく」で、

時機にかなっている、

意で、

「興がる」は、興趣をそそられているさまを原義とし、いかにも他と違うのを積極的にほめたたえる気持ちを込める、

とあり(仝上)、

折に合って、興趣深く思われた、

と訳すが、その場、その時に叶った、

時宜を正確に読み取り機転を利かせて帝王(後白河上皇)の歓心をかった、

ということなのだろう(仝上)。

「折節(セツセツ)」は、

節を折る、

で、

以秦之強、折節而下與國、臣恐其害於東周(戦国策)、

と、

己の主持する意を屈(ま)ぐる、

意で使う(字源)が、和語では、

折れ目の節、

と、名詞として、

時の流れの変わり目の意(岩波古語辞典)、
ヲリもフシも、時限を示す語(大言海)、

の意で、

また言ひ出で給はむ折ふし、ふとかきそがむ(落窪物語)、
いと嬉しう思ひ給へられぬべきをりふしに侍りながら(源氏物語)、

と、

何かが行なわれる、また何かの状態にある時点、ちょうどその時節、場合、機会、

などと使い(精選版日本国語大辞典)、それが転じて、

この折にある人々折節につけて、からうた(漢詩)ども、時に似つかはしき、言ふ(土佐日記)、
をりふしのいらへ心得てうちしなど(源氏物語)

などと、

その場合その場合、その時々、

と(岩波古語辞典)、切れ目の時が少し繋がり、さらに、

折節のうつりかはるこそものごとに哀れなれ(徒然草)、

と、広く、

時節、季節、

の意で使う(岩波古語辞典)。また、副詞として、

心中に我を念ぜよ、とぞおしへ給ひける。折ふし相応かさねてめし有て、祈り奉るほど(九冊本宝物集)、

と、

この時機において、ちょうどその時、折から、

の意から、転じて、

私も折ふしは、文のおとづれをも致したう御ざったれども(虎寛本狂言「鈍太郎」)、

と、

時々、時折、ときたま、

の意で使う(精選版日本国語大辞典)。

折節、

の「折」のもつ、

「切れ目」のその時、

が、広く、

季節、

に転じたり、それが、点々と広がり、

ときどき、

の意に転じ、広く、

時節、

にまでなった、と見ることができる。

「折節」を、

内々御遊興の御酒宴などが、折節(ヲリセツ)始まるでござりませうね(歌舞伎「早苗鳥伊達聞書(実録先代萩)」)、

と、

おりせつ、

と訓ませる場合もある(精選版日本国語大辞典)ようだが、意味は同じである。

折節無(な)し、

というと、

をりふしなき事、思ひたつよし申す(たまきはる)、

と、

都合が悪い、

意になる(仝上)。

「折」(漢音セツ、呉音セチ)は、「壺折」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492978987.htmlでふれたように、

会意。「木を二つに切ったさま+斤(おの)」で、ざくんと中断すること、

とある(漢字源)。別に、

斤と、木が切れたさまを示す象形、

で、扌は誤り伝わった形とある(角川新字源)。また、

会意文字です(扌+斤)。「ばらばらになった草・木」の象形と「曲がった柄の先に刃をつけた手斧」の象形から、草・木をばらばらに「おる」を意味する「折」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji670.html

「節」(漢音セツ、呉音セチ)は、

会意。即(ソク)は「ごちそう+膝を折ってひざまずいた人」の会意文字。ここでは「卩」の部分(膝を折ること)に重点がある。節は「竹+膝を折った人」で、膝を節(ふし)として足が区切れるように、一段ずつ区切れる竹の節、

とある(漢字源)。別に、

形声。「竹」+音符「即」(旧字体:卽)、卽の「卩」(膝を折り曲げた姿)をとった会意。同系字、切、膝など、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AF%80


会意兼形声文字です(竹+即(卽))。「竹」の象形と「食べ物の象形とひざまずく人の象形」(人が食事の座につく意味から、「つく」の意味)から、竹についている「ふし(茎にある区切り)・区切り」を意味する
「節」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji554.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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藐姑射(はこや)


修行を勤め、其の後天上にのぼり、或いは蓬莱宮、或いは藐姑射(はこや)の山、或いは玉景(ぎょくけい)崑閬(こんろう)なんどに行きて(伽婢子)、

にある、

藐姑射の山、

は、

仙人が住むという山、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「蓬莱宮」とは、

中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の霊地とされた、

とある(仝上)が、いわゆる、

蓬莱、

にあって仙人の住むという、黄金白金でつくった宮殿のことで、

蓬莱洞、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。「蓬莱」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488165402.htmlについては触れた。また、

玉景崑閬、

も、

中国の伝説で、西方にあり、仙人が住むという二つの山、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「藐姑射」は、

藐姑射之山、有神人居焉、肌膚若冰雪、淖約若處子、不食五穀、吸風飲露、乘雲氣、御飛龍、而游乎四海之外(『荘子』逍遥遊篇)、

により(字源)、

バクコヤ、

と訓ませ、『列子』第三にも、

藐姑射山在海河洲中、山上有神人焉、吸風飲露、不食五穀、心如淵泉、形如処女、不偎不愛、……、

とあるhttp://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E8%97%90%E5%A7%91%E5%B0%84%E7%A5%9E%E4%BA%BA。ただ、「藐姑射」の、

「藐」は「邈」と同じで遙か遠い、

意、

「姑射」は山名、

なので、従ってもともとは、

はるかなる姑射の山、

の意であるが、「荘子」の例によって、

一つの山名のように用いられるようになった、

とある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

我が国にも、古くから伝わっていたらしく、

心をし無何有(ムカウ)の郷に置きたらば藐姑射能山(はこやのやま)を見まく近けむ、

と万葉集にも歌われている(「藐孤射能山」を「まこやのやま」とも訓ませるとする説もある)。この、

無何有(ムカウ)の郷、

も、

出六極之外、遊無何有(ムカイウ)之郷、

と(字源)、荘子由来で、

ムカユウ、

と訓み、

何物もなき郷、造化の自然楽しむべき地にいふ、

とある(仝上)、

自然のままで、なんらの人為もない楽土、

という、

荘子の唱えた理想郷、

の謂いである(広辞苑)。

ムカユウ、

を、

ムカウ、

と訛って訓ませる。因みに、「六極」とは、

天地四方、
上下四方、

のこと、つまり、

宇宙、

をいう(精選版日本国語大辞典)。『荘子』逍遥遊篇には、

今子有大樹、患其無用、何不樹之於無何有之郷、廣莫之野、彷徨乎無為其側、逍遙乎寢臥其下(今、子、大樹有りて、其の用無きを患(うれ)ふ、何ぞ之を無何有の郷、広莫の野に樹て、彷徨乎(ほうこうこ)として其の側に為す無く、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥(しんが)せざる)、

とある(故事ことわざの辞典)。

なお、「藐姑射の山」は、

うごきなきなほよろづよぞ頼べきはこやの山のみねの松風(千載集・式子内親王)、

と、

上皇の御所を祝っていう語、

として、

上皇の御所、また、そこにいる人、すなわち上皇、

指し、

仙洞(せんとう)御所、
仙洞、

の意で、

はこやが峰、

という言い方もする(精選版日本国語大辞典)。

「藐」(漢音バク・ビョウ、呉音マク、ミョウ)は、

会意兼形声。「艸+音符貌(ボウ おぼろげな形、かすかな)」で、細い、かすかなの意を含む、

とある(漢字源)。「藐小」(バクショウ ちいさくてかすかな)、「藐然」(バクゼン 遠くにあっておぼろげなさま)などと使う。

「姑」(漢音コ、呉音ク)は、

会意兼形声。「女+音符古」。年老いて古びた女性の意から、しゅうとめやおばの称となった、

とある(漢字源)。「しゅうとめ」(夫の母)の意だが、「古姑」(ショウコ 夫の妹)、「外姑」(ガイコ 妻の母)、「姑母」(コボ 父の姉妹)などと使う。

「射」(漢音シャ・エキ、呉音ジャ・ヤク、呉漢音ヤ)は、

会意文字。原字は、弓に矢をつがえている姿。のち、寸(手)を添えたものとなる。張った弓を弦を話して緊張を解くこと、

とある(漢字源)。別に、

甲骨・金文は、象形。矢をつがえた弓を手に持つ形にかたどる。篆文は、会意で、矢(または寸)と身とから成る。矢をいる意を表す、

とも(角川新字源)、

甲骨文は「弓に矢をつがえている」象形。篆文は、会意文字。「弓矢の変形と、右手の手首に親指をあて脈をはかる象形(「手」の意味)から、「弓をいる」を意味する「射」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1022.htmlあるが、趣旨は同じである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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目見(まみ)


光り出づるばかりに麗はしきが、目見(まみ)気高く、容貌(かたち)たをやかに、袖の薫りの香ばしさ(伽婢子)、

にある、

目見、

は、

目の表情、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「ま」は、

目(め)の古形、

で、

いづくより来りしものそまなかひ(目交)にもとなかかりて安眠(やすい)しなさぬ(山上憶良)、

などと、

まつ毛、
まな子、
まな尻、

等々、

他の語について複合語を作る、

とあり(岩波古語辞典)、「まみ」は、

目を上げて見る目色、

とある(大言海)。で、

大船を荒海(あるみ)に漕ぎ出でや船たけ吾が見し子らが目見(まみ)は著(しる)しも(万葉集)、

と、

物を見る目つき、
まなざし、

の意から、

所々うち赤み給へる御まみのわたりなど(源氏物語)、

と、

目もと、

の意であるが、

内の御めのとの吉田の前大納言定房、まみいたう時雨たるぞあはれに見ゆる(増鏡)、

と、

目、
まなこ、
ひとみ、

と、「目」そのものをも指して使われる(精選版日本国語大辞典)。

「目見」は、

めみえ、

と訓ますと、

目見得、

とも当て、

御目見(おめみえ 御目見得)を許される、

というように、

主君・長上者にお目にかかること、
謁見、

の意であり、近世になると、

めみえの間、衣類なき人は、借衣装自由なる事なり(西鶴・好色一代女)、

と、

奉公人が雇い主に初めて会い、奉公契約するまで試験的に使われる、

意で使い(岩波古語辞典)、さらに、

お玉にめみえをさせると云うことになって(鴎外「雁」)、

と、

芸者や妾めかけになること、
また、
芸者や妾として主人に初めてあいさつをすること、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

「めみえ」は、

目見(みみえ)の転、目は逢ふこと、

とあり(大言海)、

目見(まみ)ゆ、

の転訛ではあるまいか。「まみゆ」は、

「ま」(目)+「みゆ」(見ゆ)、

とあり、

見(まみ)ゆ、

と当てるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%BE%E3%81%BF%E3%82%86。この名詞形が、

まみえ、

で、

見え、
目見え、

と当て、

我東海の公にまみえて(今昔物語)、

と、

お目にかかる、

意で、さらに、

まみえ・有様、まことに賢くやんごとなき僧(元和寛永古活字本撰集抄)、

と、

目つき、
また、
顔つき、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

なお、「目見」を、

めみせ、

と訓ませると、

扨殿の御目(メ)みせよければ横平なる事あり(浮世草子「男色十寸鏡」)、

と、

かわいがり、ひいきにすること、
目をかけること、

の意や、その意味するから、当然ながら、転じて、

テカケ memixe(メミセ)(「ロドリゲス日本大文典(1604〜08)」)、

と、

妾、そばめ、

の意で使う。これは、「めみえ」が、

芸者や妾めかけになること、
や、
芸者や妾として主人に初めてあいさつをすること、

の意があることと対になっているように思う。

さらに、「目見」を、

もっけん、

と訓ませる場合があり、これは、近代になってから、

其土地を目見(モクケン)するにあらでは詩文の趣興も浮みがたきと云は(「授業編(1783)」)、

と、

耳聞、

の意で使っている。これは「まみ」のもつ意味の流れとは乖離して、漢字「目見」の意味からの連想に思える。その流れの前段に、近世、「目見」を、

めみ、

と訓ませ、

勝手から人の来る目見(メミ)をしてゐるうちに(浮世草子「傾城歌三味線(1732)」)、
私が目見(めみ)を付けて置くからお前のなさる事はみんな通じますよ(滑稽本「古今百馬鹿(1814)」)、

と、

よく見ること、
見張ること、
また、
それをする人、

の意で使っていることがある(精選版日本国語大辞典)。この「めみ」は、

めしろ、

と同義で、「めしろ」は、「目代」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492591058.html?1665863225で触れたように、

監視、
目付、

の意で使う(江戸語大辞典)。

「目」(漢音ボク、呉音モク)は、「尻目」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486290088.htmlで触れたように、

象形。めを描いたもの、

であり(漢字源)、

のち、これを縦にして、「め」、ひいて、みる意を表す。転じて、小分けの意に用いる、

ともある(角川新字源)。

「見」(漢音呉音ケン、呉音ゲン)は、

会意文字。「目+人」で、目立つものを人が目にとめること。また、目立って見える意から、あらわれる意ともなる、

とある(漢字源)。別に、

会意。目(め)と、儿(じん ひと)とから成る。人が目を大きくみひらいているさまにより、ものを明らかに「みる」意を表す(角川新字源)、

会意(又は、象形)。上部は「目」、下部は「人」を表わし、人が目にとめることを意味するhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A6%8B

会意文字です(目+儿)。「人の目・人」の象形から成り立っています。「大きな目の人」を意味する文字から、「見」という漢字が成り立ちました。ものをはっきり「見る」という意味を持ちますhttps://okjiten.jp/kanji11.html

など、同じ趣旨乍ら、微妙に異なっているが、目と人の会意文字であることは変わらない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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三神山


是はそも、人間世(にんげんせい)の外、三(みつ)の嶋、十(とお)の洲(くに)に来にけるかと、怪しみながら(伽婢子)、

とある、

三の嶋、

とは、

伝説上の、「蓬莱」「方丈」「瀛洲」の三島(神仙傳)、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。蓬莱(ほうらい)・方丈・瀛州(えいしゅう)の三山は、

東方絶海の中央にあって、仙人の住む、

と伝えられ、

三神山(さんしんざん)、

といい、

三山、
三島、

ともいう(広辞苑)。「十の洲」も、

同じく伝説上の「鳳麟洲」「聚窟洲」など十の「洲(くに)」、いずれも仙人、天女が住むとされる、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

十洲(じつしゅう)、

は、

祖洲・瀛洲・玄洲・炎洲・長洲・元洲・流洲・生洲・鳳麟洲・聚窟洲、

とされる(字源)。

「蓬莱」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488165402.htmlで触れたが、

蓬莱・方丈・瀛洲此三神山者、其傳在渤海中、……嘗有至者、諸僊人(仙人)及不死之薬、皆在焉、……金銀為闕(史記・封禅書)、
使人入海求蓬莱・方丈・瀛洲、此三山者相傳在渤海(漢書・郊祀志)、
海中有三山、曰蓬莱、曰方丈、曰瀛洲、謂之三島(神仙傳)、

などと、

渤海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされ、不老不死の神薬があると信じられた霊山、

で、

三壺海中三山也、一曰方壺、則方丈也、二曰、蓬壺則蓬莱也、三曰瀛壺洲也(拾遺記)、

と、

蓬莱(ほうらい)山、
方丈(ほうじょう)山、
瀛洲(えいしゅう)山、

と、

三神山(三壺山)、

とされ(仝上・日本大百科全書)、前二世紀頃になると、

南に下って、現在の黄海の中にも想定されていたらしい、

と位置が変わった(仝上)が、

伝説によると、三神山は海岸から遠く離れてはいないが、人が近づくと風や波をおこして船を寄せつけず、建物はことごとく黄金や銀でできており、すむ鳥獣はすべて白色である、

という(仝上)。

「仙人」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483592806.htmlで触れたように、戦国時代から漢代にかけて、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし 神仙の術を行う人)によって説かれ、

蓬萊、方丈、瀛洲、此三神山者、其傅在勃海中、去人不遠、患且至、則船風引而去、蓋嘗有至者、諸僊人(仙人)及不死之藥皆在焉、物禽獸盡白、而黃金銀為宮闕、未至、望之如雲、及到、三神山反居水下、臨之、風輒引去、終莫能至云、世主莫不甘心焉(史記・封禅書)、

と、

(仙人の住むという東方の三神山の)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に金銀の宮殿と不老不死の妙薬とそれを授ける者がいる、

と信ぜられ、それを渇仰する、

神仙説、

が盛んになり、『史記』秦始皇本紀に、

斉人徐市(じょふつ 徐福)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん 仙人)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人(仙人)を求めしむ、

と、この薬を手に入れようとして、秦の始皇帝は方士の徐福(じょふく)を遣わした。後世、この三神山に、

岱輿(たいよ)、
員嶠(えんきよう・いんきょう)、

を加えた、

五神山説、

も唱えられ、

五山が海に浮かんでいて、15匹の大亀にささえられている、

とされたが、昔から、

蓬莱、

だけが名高い(仝上)。

蓬莱・方丈・瀛州の三山は

蓬壺、
方壺(ほうこ)、
瀛壺、

とも称し、あわせて、

三壺、

ともいう。「壺」については、

費長房者、汝南人也、曾為市掾、市中有、老翁賣薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中、市人莫之見、唯長房於楼上覩、異焉、因往再拝、翁乃與倶入壺中、唯見玉堂厳麗、旨酒甘肴盈衍其中、共飲畢而出(漢書・方術傳)、

とある、

壺中天(こちゅうてん)、

は、

仙人壺公の故事によりて別世界の義に用ふ、

とあり(字源)、また、

壺中天地乾坤外、夢裏身名且暮閨i元稹・幽栖詩)、

と、

壺中之天、

ともいい、さらに、

壺天、

ともいう(仝上)。「壺公(ここう)」とは、上記、

費長房者、汝南人也、曾為市掾、市中有、老翁賣薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中、市人莫之見、唯長房於楼上覩、異焉、因往再拝、翁乃與倶入壺中、唯見玉堂厳麗、旨酒甘肴盈衍其中、共飲畢而出(漢書・方術傳)、

で、後漢の時代、汝南(じょなん)の市場で薬を売る老人が、

店先に1個の壺(つぼ)をぶら下げておき、日が暮れるとともにその壺の中に入り、そこを住まいとしていた。これが壺公で、彼は天界で罪を犯した罰として、俗界に落とされていたのである。市場の役人費長房(ひちょうぼう)は、彼に誘われて壺の中に入ったが、そこは宮殿や何重もの門が建ち並ぶ別世界であり、費長房はこの壺公に仕えて仙人の道を学んだ、

とある(日本大百科全書)のを指す。

なお、「瀛洲」は、転じて、日本を指し、

東瀛(とうえい)、

ともいい、日本の雅称とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%9B%E5%B7%9E

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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縹(はなだ)


桜の枝一つ築地より外に差し出でて、縹(はなだ)の打ち帯一筋、縄の様なるを懸け置きたり(伽婢子)、

とある、

縹の打ち帯、

は、

薄い藍色の紐で組んだ帯、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「打帯」は、

糸で組んだ紐の帯、

で、

丸打ち、または、平打ちの太い紐を用いる、

とある。

組み帯、

のことである(精選版日本国語大辞典)。

真紅の撃帯(ウチオビ)ひとつ娘にとらせたり(伽婢子)、

と、

撃帯、

と当てたりする(仝上)。「打帯」と呼ぶのは、

糸の組目をへらで打って固く組んだ紐の帯、

だからである(広辞苑)。

「縹色」は、

花田色、

と当てたりする、

藍染めの紺に近い色、

とあり(日本国語大辞典)、

薄い藍色、

である(広辞苑)。新撰字鏡(898〜901)は、

碧、波奈太、

類聚名義抄(11〜12世紀)は、

縹、アヲシ・ハナダ、

武家名目抄(江戸時代後期)は、

花田、浅木色也、

とする。

後漢時代の辞典には、

「縹」は「漂」(薄青色)と同義、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%B9、漢和辞典には、

そらいろ、
薄き藍色、
ほんのりした青色(淡青色)、
浅葱色、

などとある(字源・漢字源)。別名、

月草色、
千草色、
露草色、
花色、

ともあり(「月草」は露草の古名、千草は鴨頭草(つきくさ)の転訛で露草のこと)、これら全てが、

ツユクサ、

を表しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%B9、本来、

露草の花弁から搾り取った汁を染料として染めていた色、

を指すが、

この青は非常に褪せ易く水に遭うと消えてしまうので、普通ははるかに堅牢な藍で染めた色を指し、古くは青色系統一般の総括的な呼称として用いられたようだ、

とある(仝上)。

つき草、うつろひやすなるこそうたてあれ(枕草子)、

と(ツユクサは古くは「つきくさ」と呼ぶ)、花色といえば移ろい易いことの代名詞であったので、「縹色」は、

露草の花の色から名づけられた、

とされるが、冠位十二階制などの古代の服制では、

藍染、

であったし、

『延喜式』(平安中期)も、

縹色は藍で染める、

とし、

深縹(ふかきはなだ、こきはなだ)、
中縹(なかのはなだ、なかはなだ)、
次縹(つぎのはなだ、つぐはなだ)、
浅縹(あさきはなだ、あさはなだ)、

の四種類にわけ(浅縹よりも淡く染めたものとして白縹(しろきはなだ、しろはなだ)がある)、紺色が深縹に相当し、中縹が「つよい青」の縹色とされ(色名がわかる辞典)、

古代に位を示す服色の当色(とうじき)として、持統天皇4年(690)に、

追位の朝服を深(ふか)縹、進位を浅(あさ)縹、

と定め、養老の衣服令(りょう)(大宝元年(701)制定、養老二年(718)改撰)で、

八位を深縹、初位(しょい)を浅縹、

としている(日本大百科全書)。しかし平安時代後期になると、七位以下はほとんど叙せられることがなく、名目のみになったため、六位以下の地下(じげ)といわれる下級官人は、みな緑を用いた。そこで縹は当色から外されたが、12世紀より緑袍(りょくほう)と称しても縹色のものを着ている。縹は当色ではなくなったため、日常も用いられる色となった(仝上)のである。

古事記伝に仁徳天皇からの使者が皇后に拒絶され、使命を果たそうと地下で嘆願し続けたために、

水溜りに漬かった衣服から青色が流れ出した、

という逸話があるが、下級官人はこのような脆弱な染色を用いていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%B9ことがわかる。

「縹」(ヒョウ)は、

会意兼形声。「糸+音符票(軽い、浮き上がる)」、

とある。

薄い藍色、

の意の他に、

縹渺(ひょうびょう ほのかに見えるさま)、

と、

薄く軽い、ほんのりと浮かぶ、

意もある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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さざれ石


俗にさざれ石と呼ぶ、この石の上に清水いりて常に水たえず、白龍石中にすむなり(梁塵秘抄口伝集)、

にある、

さざれ石、

の「さざ」は、

細、

あるいは、

小、
細小

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

「わずかな」「小さい」「こまかい」、

の意で、

ささ蟹、
ささ濁り、
ささ浪(波)、

等々、接頭語的に用い、

細かいもの、小さいものを賞美していう、

とあり、

形容詞の狭(さ)しの語根を重ねたる語、

とあり(大言海)、

近江の狭狭波(ささなみ)(孝徳紀)とあるは、細波(ささなみ)なり、狭狭貧鈎(ささまぢて)(神代紀)とあり、又、陵墓を、狭狭城(ささき)と云ふも同じ、いささかのササも、サとのみも云ふ、狭布(さふ)の狭布(さぬの)、細波(ささなみ)、さなみ。又、ささやか、ささめく、ささやく、など云ふも同じ、

とある(仝上)。

ただ、「ささやか」(細やか)は別として、「ささやく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/449925050.html、「さざめく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450667068.htmlの「ささ」「さざ」は擬声語である旨は触れた。

後世濁ってサザとも、

とある(岩波古語辞典)。

さざれ、

は、

ささらの転、

で、「ささら」は、

妹なろが使ふ川津のささら萩葦と人言(ひとごと)語りよらしも(万葉集)、

と、

ササは細小の意、ラは接尾語、

で(岩波古語辞典)、「さざれ」は、

細、

と当て、

さざれ水、そと流るる水なり(匠材集)、

と、

さざれ(細)波、
さざれ(細)水、
さざれ(細)石、
さざれ(細)砂、

と、名詞に付いて、

「わずかな」「小さい」「こまかい」などの意、

を添える(日本国語大辞典)。

「さざれ石」は、

細石、

と当て、

小さな石、こまかい石、小石、

の意で、

さざれ、
さざれし、

とも約め(大言海・広辞苑)、「さざれし(細れ石)」も、

レシ[r(es)i]が縮約をとげたためサザリになり、語頭を落としてざり・ジャリ(砂利)、

となる(日本語の語源)が、

わが君は千世に八千世にさざれ石の巌となりて苔こけのむすまで(古今和歌集)、

とある、

「さざれ石」は、

細(さざれ)石の巌(いわお)となる、
砂子(いさご)長じて巌となる、

というように、

小石、

の意ではあるが、

長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、一つの大きな岩の塊に変化した、

石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)、

を、「君が代」の歌詞にある、

巌(いわお)、

であるとして、この岩を指して、

さざれ石、

と呼ぶことが少なくないhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%96%E3%82%8C%E7%9F%B3とある。

小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程、

が、非常に長い歳月を表す比喩表現として用いられ(仝上)、「さざれ石」は、

神々の魂が宿る石、

として、古くから信仰の対象になっている。

「細」(漢音セイ、呉音サイ)は、

会意兼形声。「田」は小児の頭にある小さいすき間の泉門を描いた象形文字「囟」(シン)、細は「糸(ほそい)+音符囟(シン・セイ)」で、小さく細かく分離していること、

とあり(漢字源)、

田は誤り変わった形、

とある(角川新字源)。また、

隙間がわずかであるの意、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%B0。別に、

会意兼形声文字です(糸+田(囟)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と、「乳児の脳の蓋(ふた)の骨が、まだつかない状態」の象形(「ひよめき(乳児の頭のはちの、ぴくぴく動く所)」の意味)から、ひよめきのように微か、糸のように「ほそい」を意味する「細」という漢字が成り立ちました、

とあるのが分かりやすいhttps://okjiten.jp/kanji165.html

「石」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482824936.htmlで触れたように、「石」(漢音セキ、呉音ジャク、慣用シャク・コク)は、

象形。崖の下に口型のいしはのあるさまを描いたもの、

とある(漢字源)。

象形、「厂」(カン 崖)+「口」(いしの形)、山のふもとに石が転がっているさまを象る(『説文解字』他通説)。会意、「厂」(崖)+「口」(祭祀に用いる器)(白川)、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%B3

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ひわ


桜の花綻(ほころ)び、金翅雀(ひわ)、小雀(こがら)、争い囀づり(伽婢子)、

金翅雀(ひわ)、

とあるのは、

鶸、

とも当て、

鳥はこと所の物なれど、鸚鵡(あうむ)、いとあはれなり。人のいふらんことをまねぶらんよ。ほととぎす。くひな。しぎ。都鳥。ひわ。ひたき(枕草子)、

と挙げられている、

スズメ目アトリ科ヒワ亜科に属する鳥の総称、

で(日本大百科全書・広辞苑)、

ヒワ(鶸)とも総称されるが、狭義にはその一部をヒワと呼ぶ(ヒワという種はいない)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AF%E4%BA%9C%E7%A7%91

穀食型の嘴を持つ小形の鳥、

で、村落周辺や疎林に群をなしてすみ、小さな木の実や草の種子を食う。広義には、

マシコ・ウソ・シメなども含み、世界に約120種、

あるが、普通には村落近くで見られる、

マヒワ・カワラヒワ・ベニヒワ、

などを指す(広辞苑)。別に、

日本産のアトリ科の鳥のうち、マヒワ、ベニヒワ、カワラヒワの三種の総称、

であり、普通には、

マヒワ、

をさす(日本国語大辞典・デジタル大辞泉)とするものもある。で、

金翅雀、

は、

マヒワの別名、

とするものもある(季語・季題辞典)。

一般に雌雄異色で、雄は赤色または黄色の羽色をもつ種が多く、日本の伝統色である、

鶸(ひわ)色、

は、

マヒワの雄の緑黄色、

に由来する(日本大百科全書)。

ただ、

鶸、

の字は、

弱鳥の合字、

とあり、漢名は、

金翅雀、

とあり(大言海)、

飼育するとすぐに落ちる(死ぬ)ので弱い鳥として「鶸」(ヒワ)を充てています、

とする説https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1494.htmlもあるが、

非なり、……鶸は弱きにあらず、その形繊小(ひはやか)なる意なり。ひはやかに、ひはづに、と云ふ語は、細くたをやかなる、又、弱弱しき意なり。栄花物語、十七、音楽「宮いみじうひはやかにめでたういらせたまふ」、源氏物語、三十一、槙柱、「いとささやかなる人の、常の御なやみに痩せ衰へひはづにて」と見ゆ、

とあり(大言海)、

よく囀りて、清滑なり、

とし、

ひゅんちゅんちゅん、

と聞ゆ、とある(仝上)。「ひはづ」は、

繊弱、
怯弱、

と当て、

ヒハはヒハボソ、ヒハヤカのヒハと同じ、

とあり(岩波古語辞典)、

ひはづなる僧の経袋、頸にかけて(宇治拾遺物語)、

と、

きゃしゃ、
ひよわ、

の意、「ひはぼそ」も、

繊弱、

と当て、

ヒハは、ヒハヤカニ・ヒハヅのヒハと同じ、

で、

ひはぼそたわや(タワヤカナ)腕(かひな)(記紀歌謡)、

と、

か弱く細いこと、

で、「ひはやか」も、

繊弱、

と当て、

ヒハは、ヒハヅ・ヒハボソのヒハと同じ、

で、

いみじうをかしう、ひはやかに美しげにおはします(源氏物語)、

と、

見るからにひ弱なさま、
きゃしゃなさま、

の意とある(岩波古語辞典・大言海)。確かに、単純に、

弱弱しい、

というよりは、

はかなげ、

という含意なのかもしれない。「ひは」は、この、

ひはやかに、
ひはづ、
ひはぼそ、

の「ひは」を語源としていると思われ、

弱いことをヒワヒワシというところから、弱鳥の合字(和訓栞)、
ヒワヅの義(和句解)、
ヒヨワ(弱)の義(俚言集覧・名言通)、
ひわやかに弱弱しい義、また、ヒは鳴き声からか(音幻論=幸田露伴)、

等々諸説あるが、単純に、

弱い、

と見るのはいかがなものか。ただ、歴史的仮名遣いは、

ひは、

ではなく、

ひわ、

だとする説がある(日本語源大辞典)。だとすると、語源は、全く解釈が変わってくる可能性がある。

また、

鶸、

の字は、「漢字」由来ではなく、後述の漢字「鶸」の意味との乖離からみると、

和製漢語、

の可能性がある。

なお「ひわ」は、

ひわ色、

の「ひわ」でもあるが、その「ひわ」色は、

ヒワの羽のような黄緑色、

特に、

まひわ、

のそれを指す。

「鶸」(漢音ジャク、呉音ニャク)は、

会意兼形声。「鳥+音符弱(肉や羽が柔らかい)」、

とあり、漢字「鶸」は、

鶏の一種で、大型のもの、

とあり(漢字源)、