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コトバ辞典


折節


感に堪へずして、唐綾の染付なる二衣を纏頭にしてき。折節に付けては興がりておぼえき(梁塵秘抄口伝集)、

にある、

折節(おりふし)、

は、

ちょうどそのときに、その場合に、

とか、

ときどき、おりにふれて、

という意味で使われるが、ここでは、

時節、時機、場合、その時、

の意とあり(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)、「折節につく」で、

時機にかなっている、

意で、

「興がる」は、興趣をそそられているさまを原義とし、いかにも他と違うのを積極的にほめたたえる気持ちを込める、

とあり(仝上)、

折に合って、興趣深く思われた、

と訳すが、その場、その時に叶った、

時宜を正確に読み取り機転を利かせて帝王(後白河上皇)の歓心をかった、

ということなのだろう(仝上)。

「折節(セツセツ)」は、

節を折る、

で、

以秦之強、折節而下與國、臣恐其害於東周(戦国策)、

と、

己の主持する意を屈(ま)ぐる、

意で使う(字源)が、和語では、

折れ目の節、

と、名詞として、

時の流れの変わり目の意(岩波古語辞典)、
ヲリもフシも、時限を示す語(大言海)、

の意で、

また言ひ出で給はむ折ふし、ふとかきそがむ(落窪物語)、
いと嬉しう思ひ給へられぬべきをりふしに侍りながら(源氏物語)、

と、

何かが行なわれる、また何かの状態にある時点、ちょうどその時節、場合、機会、

などと使い(精選版日本国語大辞典)、それが転じて、

この折にある人々折節につけて、からうた(漢詩)ども、時に似つかはしき、言ふ(土佐日記)、
をりふしのいらへ心得てうちしなど(源氏物語)

などと、

その場合その場合、その時々、

と(岩波古語辞典)、切れ目の時が少し繋がり、さらに、

折節のうつりかはるこそものごとに哀れなれ(徒然草)、

と、広く、

時節、季節、

の意で使う(岩波古語辞典)。また、副詞として、

心中に我を念ぜよ、とぞおしへ給ひける。折ふし相応かさねてめし有て、祈り奉るほど(九冊本宝物集)、

と、

この時機において、ちょうどその時、折から、

の意から、転じて、

私も折ふしは、文のおとづれをも致したう御ざったれども(虎寛本狂言「鈍太郎」)、

と、

時々、時折、ときたま、

の意で使う(精選版日本国語大辞典)。

折節、

の「折」のもつ、

「切れ目」のその時、

が、広く、

季節、

に転じたり、それが、点々と広がり、

ときどき、

の意に転じ、広く、

時節、

にまでなった、と見ることができる。

「折節」を、

内々御遊興の御酒宴などが、折節(ヲリセツ)始まるでござりませうね(歌舞伎「早苗鳥伊達聞書(実録先代萩)」)、

と、

おりせつ、

と訓ませる場合もある(精選版日本国語大辞典)ようだが、意味は同じである。

折節無(な)し、

というと、

をりふしなき事、思ひたつよし申す(たまきはる)、

と、

都合が悪い、

意になる(仝上)。

「折」(漢音セツ、呉音セチ)は、「壺折」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492978987.htmlでふれたように、

会意。「木を二つに切ったさま+斤(おの)」で、ざくんと中断すること、

とある(漢字源)。別に、

斤と、木が切れたさまを示す象形、

で、扌は誤り伝わった形とある(角川新字源)。また、

会意文字です(扌+斤)。「ばらばらになった草・木」の象形と「曲がった柄の先に刃をつけた手斧」の象形から、草・木をばらばらに「おる」を意味する「折」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji670.html

「節」(漢音セツ、呉音セチ)は、

会意。即(ソク)は「ごちそう+膝を折ってひざまずいた人」の会意文字。ここでは「卩」の部分(膝を折ること)に重点がある。節は「竹+膝を折った人」で、膝を節(ふし)として足が区切れるように、一段ずつ区切れる竹の節、

とある(漢字源)。別に、

形声。「竹」+音符「即」(旧字体:卽)、卽の「卩」(膝を折り曲げた姿)をとった会意。同系字、切、膝など、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AF%80


会意兼形声文字です(竹+即(卽))。「竹」の象形と「食べ物の象形とひざまずく人の象形」(人が食事の座につく意味から、「つく」の意味)から、竹についている「ふし(茎にある区切り)・区切り」を意味する
「節」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji554.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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藐姑射(はこや)


修行を勤め、其の後天上にのぼり、或いは蓬莱宮、或いは藐姑射(はこや)の山、或いは玉景(ぎょくけい)崑閬(こんろう)なんどに行きて(伽婢子)、

にある、

藐姑射の山、

は、

仙人が住むという山、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「蓬莱宮」とは、

中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の霊地とされた、

とある(仝上)が、いわゆる、

蓬莱、

にあって仙人の住むという、黄金白金でつくった宮殿のことで、

蓬莱洞、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。「蓬莱」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488165402.htmlについては触れた。また、

玉景崑閬、

も、

中国の伝説で、西方にあり、仙人が住むという二つの山、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「藐姑射」は、

藐姑射之山、有神人居焉、肌膚若冰雪、淖約若處子、不食五穀、吸風飲露、乘雲氣、御飛龍、而游乎四海之外(『荘子』逍遥遊篇)、

により(字源)、

バクコヤ、

と訓ませ、『列子』第三にも、

藐姑射山在海河洲中、山上有神人焉、吸風飲露、不食五穀、心如淵泉、形如処女、不偎不愛、……、

とあるhttp://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E8%97%90%E5%A7%91%E5%B0%84%E7%A5%9E%E4%BA%BA。ただ、「藐姑射」の、

「藐」は「邈」と同じで遙か遠い、

意、

「姑射」は山名、

なので、従ってもともとは、

はるかなる姑射の山、

の意であるが、「荘子」の例によって、

一つの山名のように用いられるようになった、

とある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

我が国にも、古くから伝わっていたらしく、

心をし無何有(ムカウ)の郷に置きたらば藐姑射能山(はこやのやま)を見まく近けむ、

と万葉集にも歌われている(「藐孤射能山」を「まこやのやま」とも訓ませるとする説もある)。この、

無何有(ムカウ)の郷、

も、

出六極之外、遊無何有(ムカイウ)之郷、

と(字源)、荘子由来で、

ムカユウ、

と訓み、

何物もなき郷、造化の自然楽しむべき地にいふ、

とある(仝上)、

自然のままで、なんらの人為もない楽土、

という、

荘子の唱えた理想郷、

の謂いである(広辞苑)。

ムカユウ、

を、

ムカウ、

と訛って訓ませる。因みに、「六極」とは、

天地四方、
上下四方、

のこと、つまり、

宇宙、

をいう(精選版日本国語大辞典)。『荘子』逍遥遊篇には、

今子有大樹、患其無用、何不樹之於無何有之郷、廣莫之野、彷徨乎無為其側、逍遙乎寢臥其下(今、子、大樹有りて、其の用無きを患(うれ)ふ、何ぞ之を無何有の郷、広莫の野に樹て、彷徨乎(ほうこうこ)として其の側に為す無く、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥(しんが)せざる)、

とある(故事ことわざの辞典)。

なお、「藐姑射の山」は、

うごきなきなほよろづよぞ頼べきはこやの山のみねの松風(千載集・式子内親王)、

と、

上皇の御所を祝っていう語、

として、

上皇の御所、また、そこにいる人、すなわち上皇、

指し、

仙洞(せんとう)御所、
仙洞、

の意で、

はこやが峰、

という言い方もする(精選版日本国語大辞典)。

「藐」(漢音バク・ビョウ、呉音マク、ミョウ)は、

会意兼形声。「艸+音符貌(ボウ おぼろげな形、かすかな)」で、細い、かすかなの意を含む、

とある(漢字源)。「藐小」(バクショウ ちいさくてかすかな)、「藐然」(バクゼン 遠くにあっておぼろげなさま)などと使う。

「姑」(漢音コ、呉音ク)は、

会意兼形声。「女+音符古」。年老いて古びた女性の意から、しゅうとめやおばの称となった、

とある(漢字源)。「しゅうとめ」(夫の母)の意だが、「古姑」(ショウコ 夫の妹)、「外姑」(ガイコ 妻の母)、「姑母」(コボ 父の姉妹)などと使う。

「射」(漢音シャ・エキ、呉音ジャ・ヤク、呉漢音ヤ)は、

会意文字。原字は、弓に矢をつがえている姿。のち、寸(手)を添えたものとなる。張った弓を弦を話して緊張を解くこと、

とある(漢字源)。別に、

甲骨・金文は、象形。矢をつがえた弓を手に持つ形にかたどる。篆文は、会意で、矢(または寸)と身とから成る。矢をいる意を表す、

とも(角川新字源)、

甲骨文は「弓に矢をつがえている」象形。篆文は、会意文字。「弓矢の変形と、右手の手首に親指をあて脈をはかる象形(「手」の意味)から、「弓をいる」を意味する「射」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1022.htmlあるが、趣旨は同じである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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目見(まみ)


光り出づるばかりに麗はしきが、目見(まみ)気高く、容貌(かたち)たをやかに、袖の薫りの香ばしさ(伽婢子)、

にある、

目見、

は、

目の表情、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「ま」は、

目(め)の古形、

で、

いづくより来りしものそまなかひ(目交)にもとなかかりて安眠(やすい)しなさぬ(山上憶良)、

などと、

まつ毛、
まな子、
まな尻、

等々、

他の語について複合語を作る、

とあり(岩波古語辞典)、「まみ」は、

目を上げて見る目色、

とある(大言海)。で、

大船を荒海(あるみ)に漕ぎ出でや船たけ吾が見し子らが目見(まみ)は著(しる)しも(万葉集)、

と、

物を見る目つき、
まなざし、

の意から、

所々うち赤み給へる御まみのわたりなど(源氏物語)、

と、

目もと、

の意であるが、

内の御めのとの吉田の前大納言定房、まみいたう時雨たるぞあはれに見ゆる(増鏡)、

と、

目、
まなこ、
ひとみ、

と、「目」そのものをも指して使われる(精選版日本国語大辞典)。

「目見」は、

めみえ、

と訓ますと、

目見得、

とも当て、

御目見(おめみえ 御目見得)を許される、

というように、

主君・長上者にお目にかかること、
謁見、

の意であり、近世になると、

めみえの間、衣類なき人は、借衣装自由なる事なり(西鶴・好色一代女)、

と、

奉公人が雇い主に初めて会い、奉公契約するまで試験的に使われる、

意で使い(岩波古語辞典)、さらに、

お玉にめみえをさせると云うことになって(鴎外「雁」)、

と、

芸者や妾めかけになること、
また、
芸者や妾として主人に初めてあいさつをすること、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

「めみえ」は、

目見(みみえ)の転、目は逢ふこと、

とあり(大言海)、

目見(まみ)ゆ、

の転訛ではあるまいか。「まみゆ」は、

「ま」(目)+「みゆ」(見ゆ)、

とあり、

見(まみ)ゆ、

と当てるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%BE%E3%81%BF%E3%82%86。この名詞形が、

まみえ、

で、

見え、
目見え、

と当て、

我東海の公にまみえて(今昔物語)、

と、

お目にかかる、

意で、さらに、

まみえ・有様、まことに賢くやんごとなき僧(元和寛永古活字本撰集抄)、

と、

目つき、
また、
顔つき、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

なお、「目見」を、

めみせ、

と訓ませると、

扨殿の御目(メ)みせよければ横平なる事あり(浮世草子「男色十寸鏡」)、

と、

かわいがり、ひいきにすること、
目をかけること、

の意や、その意味するから、当然ながら、転じて、

テカケ memixe(メミセ)(「ロドリゲス日本大文典(1604〜08)」)、

と、

妾、そばめ、

の意で使う。これは、「めみえ」が、

芸者や妾めかけになること、
や、
芸者や妾として主人に初めてあいさつをすること、

の意があることと対になっているように思う。

さらに、「目見」を、

もっけん、

と訓ませる場合があり、これは、近代になってから、

其土地を目見(モクケン)するにあらでは詩文の趣興も浮みがたきと云は(「授業編(1783)」)、

と、

耳聞、

の意で使っている。これは「まみ」のもつ意味の流れとは乖離して、漢字「目見」の意味からの連想に思える。その流れの前段に、近世、「目見」を、

めみ、

と訓ませ、

勝手から人の来る目見(メミ)をしてゐるうちに(浮世草子「傾城歌三味線(1732)」)、
私が目見(めみ)を付けて置くからお前のなさる事はみんな通じますよ(滑稽本「古今百馬鹿(1814)」)、

と、

よく見ること、
見張ること、
また、
それをする人、

の意で使っていることがある(精選版日本国語大辞典)。この「めみ」は、

めしろ、

と同義で、「めしろ」は、「目代」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492591058.html?1665863225で触れたように、

監視、
目付、

の意で使う(江戸語大辞典)。

「目」(漢音ボク、呉音モク)は、「尻目」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486290088.htmlで触れたように、

象形。めを描いたもの、

であり(漢字源)、

のち、これを縦にして、「め」、ひいて、みる意を表す。転じて、小分けの意に用いる、

ともある(角川新字源)。

「見」(漢音呉音ケン、呉音ゲン)は、

会意文字。「目+人」で、目立つものを人が目にとめること。また、目立って見える意から、あらわれる意ともなる、

とある(漢字源)。別に、

会意。目(め)と、儿(じん ひと)とから成る。人が目を大きくみひらいているさまにより、ものを明らかに「みる」意を表す(角川新字源)、

会意(又は、象形)。上部は「目」、下部は「人」を表わし、人が目にとめることを意味するhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A6%8B

会意文字です(目+儿)。「人の目・人」の象形から成り立っています。「大きな目の人」を意味する文字から、「見」という漢字が成り立ちました。ものをはっきり「見る」という意味を持ちますhttps://okjiten.jp/kanji11.html

など、同じ趣旨乍ら、微妙に異なっているが、目と人の会意文字であることは変わらない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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三神山


是はそも、人間世(にんげんせい)の外、三(みつ)の嶋、十(とお)の洲(くに)に来にけるかと、怪しみながら(伽婢子)、

とある、

三の嶋、

とは、

伝説上の、「蓬莱」「方丈」「瀛洲」の三島(神仙傳)、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。蓬莱(ほうらい)・方丈・瀛州(えいしゅう)の三山は、

東方絶海の中央にあって、仙人の住む、

と伝えられ、

三神山(さんしんざん)、

といい、

三山、
三島、

ともいう(広辞苑)。「十の洲」も、

同じく伝説上の「鳳麟洲」「聚窟洲」など十の「洲(くに)」、いずれも仙人、天女が住むとされる、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

十洲(じつしゅう)、

は、

祖洲・瀛洲・玄洲・炎洲・長洲・元洲・流洲・生洲・鳳麟洲・聚窟洲、

とされる(字源)。

「蓬莱」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488165402.htmlで触れたが、

蓬莱・方丈・瀛洲此三神山者、其傳在渤海中、……嘗有至者、諸僊人(仙人)及不死之薬、皆在焉、……金銀為闕(史記・封禅書)、
使人入海求蓬莱・方丈・瀛洲、此三山者相傳在渤海(漢書・郊祀志)、
海中有三山、曰蓬莱、曰方丈、曰瀛洲、謂之三島(神仙傳)、

などと、

渤海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされ、不老不死の神薬があると信じられた霊山、

で、

三壺海中三山也、一曰方壺、則方丈也、二曰、蓬壺則蓬莱也、三曰瀛壺洲也(拾遺記)、

と、

蓬莱(ほうらい)山、
方丈(ほうじょう)山、
瀛洲(えいしゅう)山、

と、

三神山(三壺山)、

とされ(仝上・日本大百科全書)、前二世紀頃になると、

南に下って、現在の黄海の中にも想定されていたらしい、

と位置が変わった(仝上)が、

伝説によると、三神山は海岸から遠く離れてはいないが、人が近づくと風や波をおこして船を寄せつけず、建物はことごとく黄金や銀でできており、すむ鳥獣はすべて白色である、

という(仝上)。

「仙人」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483592806.htmlで触れたように、戦国時代から漢代にかけて、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし 神仙の術を行う人)によって説かれ、

蓬萊、方丈、瀛洲、此三神山者、其傅在勃海中、去人不遠、患且至、則船風引而去、蓋嘗有至者、諸僊人(仙人)及不死之藥皆在焉、物禽獸盡白、而黃金銀為宮闕、未至、望之如雲、及到、三神山反居水下、臨之、風輒引去、終莫能至云、世主莫不甘心焉(史記・封禅書)、

と、

(仙人の住むという東方の三神山の)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に金銀の宮殿と不老不死の妙薬とそれを授ける者がいる、

と信ぜられ、それを渇仰する、

神仙説、

が盛んになり、『史記』秦始皇本紀に、

斉人徐市(じょふつ 徐福)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん 仙人)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人(仙人)を求めしむ、

と、この薬を手に入れようとして、秦の始皇帝は方士の徐福(じょふく)を遣わした。後世、この三神山に、

岱輿(たいよ)、
員嶠(えんきよう・いんきょう)、

を加えた、

五神山説、

も唱えられ、

五山が海に浮かんでいて、15匹の大亀にささえられている、

とされたが、昔から、

蓬莱、

だけが名高い(仝上)。

蓬莱・方丈・瀛州の三山は

蓬壺、
方壺(ほうこ)、
瀛壺、

とも称し、あわせて、

三壺、

ともいう。「壺」については、

費長房者、汝南人也、曾為市掾、市中有、老翁賣薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中、市人莫之見、唯長房於楼上覩、異焉、因往再拝、翁乃與倶入壺中、唯見玉堂厳麗、旨酒甘肴盈衍其中、共飲畢而出(漢書・方術傳)、

とある、

壺中天(こちゅうてん)、

は、

仙人壺公の故事によりて別世界の義に用ふ、

とあり(字源)、また、

壺中天地乾坤外、夢裏身名且暮閨i元稹・幽栖詩)、

と、

壺中之天、

ともいい、さらに、

壺天、

ともいう(仝上)。「壺公(ここう)」とは、上記、

費長房者、汝南人也、曾為市掾、市中有、老翁賣薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中、市人莫之見、唯長房於楼上覩、異焉、因往再拝、翁乃與倶入壺中、唯見玉堂厳麗、旨酒甘肴盈衍其中、共飲畢而出(漢書・方術傳)、

で、後漢の時代、汝南(じょなん)の市場で薬を売る老人が、

店先に1個の壺(つぼ)をぶら下げておき、日が暮れるとともにその壺の中に入り、そこを住まいとしていた。これが壺公で、彼は天界で罪を犯した罰として、俗界に落とされていたのである。市場の役人費長房(ひちょうぼう)は、彼に誘われて壺の中に入ったが、そこは宮殿や何重もの門が建ち並ぶ別世界であり、費長房はこの壺公に仕えて仙人の道を学んだ、

とある(日本大百科全書)のを指す。

なお、「瀛洲」は、転じて、日本を指し、

東瀛(とうえい)、

ともいい、日本の雅称とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%9B%E5%B7%9E

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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縹(はなだ)


桜の枝一つ築地より外に差し出でて、縹(はなだ)の打ち帯一筋、縄の様なるを懸け置きたり(伽婢子)、

とある、

縹の打ち帯、

は、

薄い藍色の紐で組んだ帯、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「打帯」は、

糸で組んだ紐の帯、

で、

丸打ち、または、平打ちの太い紐を用いる、

とある。

組み帯、

のことである(精選版日本国語大辞典)。

真紅の撃帯(ウチオビ)ひとつ娘にとらせたり(伽婢子)、

と、

撃帯、

と当てたりする(仝上)。「打帯」と呼ぶのは、

糸の組目をへらで打って固く組んだ紐の帯、

だからである(広辞苑)。

「縹色」は、

花田色、

と当てたりする、

藍染めの紺に近い色、

とあり(日本国語大辞典)、

薄い藍色、

である(広辞苑)。新撰字鏡(898〜901)は、

碧、波奈太、

類聚名義抄(11〜12世紀)は、

縹、アヲシ・ハナダ、

武家名目抄(江戸時代後期)は、

花田、浅木色也、

とする。

後漢時代の辞典には、

「縹」は「漂」(薄青色)と同義、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%B9、漢和辞典には、

そらいろ、
薄き藍色、
ほんのりした青色(淡青色)、
浅葱色、

などとある(字源・漢字源)。別名、

月草色、
千草色、
露草色、
花色、

ともあり(「月草」は露草の古名、千草は鴨頭草(つきくさ)の転訛で露草のこと)、これら全てが、

ツユクサ、

を表しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%B9、本来、

露草の花弁から搾り取った汁を染料として染めていた色、

を指すが、

この青は非常に褪せ易く水に遭うと消えてしまうので、普通ははるかに堅牢な藍で染めた色を指し、古くは青色系統一般の総括的な呼称として用いられたようだ、

とある(仝上)。

つき草、うつろひやすなるこそうたてあれ(枕草子)、

と(ツユクサは古くは「つきくさ」と呼ぶ)、花色といえば移ろい易いことの代名詞であったので、「縹色」は、

露草の花の色から名づけられた、

とされるが、冠位十二階制などの古代の服制では、

藍染、

であったし、

『延喜式』(平安中期)も、

縹色は藍で染める、

とし、

深縹(ふかきはなだ、こきはなだ)、
中縹(なかのはなだ、なかはなだ)、
次縹(つぎのはなだ、つぐはなだ)、
浅縹(あさきはなだ、あさはなだ)、

の四種類にわけ(浅縹よりも淡く染めたものとして白縹(しろきはなだ、しろはなだ)がある)、紺色が深縹に相当し、中縹が「つよい青」の縹色とされ(色名がわかる辞典)、

古代に位を示す服色の当色(とうじき)として、持統天皇4年(690)に、

追位の朝服を深(ふか)縹、進位を浅(あさ)縹、

と定め、養老の衣服令(りょう)(大宝元年(701)制定、養老二年(718)改撰)で、

八位を深縹、初位(しょい)を浅縹、

としている(日本大百科全書)。しかし平安時代後期になると、七位以下はほとんど叙せられることがなく、名目のみになったため、六位以下の地下(じげ)といわれる下級官人は、みな緑を用いた。そこで縹は当色から外されたが、12世紀より緑袍(りょくほう)と称しても縹色のものを着ている。縹は当色ではなくなったため、日常も用いられる色となった(仝上)のである。

古事記伝に仁徳天皇からの使者が皇后に拒絶され、使命を果たそうと地下で嘆願し続けたために、

水溜りに漬かった衣服から青色が流れ出した、

という逸話があるが、下級官人はこのような脆弱な染色を用いていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%B9ことがわかる。

「縹」(ヒョウ)は、

会意兼形声。「糸+音符票(軽い、浮き上がる)」、

とある。

薄い藍色、

の意の他に、

縹渺(ひょうびょう ほのかに見えるさま)、

と、

薄く軽い、ほんのりと浮かぶ、

意もある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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さざれ石


俗にさざれ石と呼ぶ、この石の上に清水いりて常に水たえず、白龍石中にすむなり(梁塵秘抄口伝集)、

にある、

さざれ石、

の「さざ」は、

細、

あるいは、

小、
細小

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

「わずかな」「小さい」「こまかい」、

の意で、

ささ蟹、
ささ濁り、
ささ浪(波)、

等々、接頭語的に用い、

細かいもの、小さいものを賞美していう、

とあり、

形容詞の狭(さ)しの語根を重ねたる語、

とあり(大言海)、

近江の狭狭波(ささなみ)(孝徳紀)とあるは、細波(ささなみ)なり、狭狭貧鈎(ささまぢて)(神代紀)とあり、又、陵墓を、狭狭城(ささき)と云ふも同じ、いささかのササも、サとのみも云ふ、狭布(さふ)の狭布(さぬの)、細波(ささなみ)、さなみ。又、ささやか、ささめく、ささやく、など云ふも同じ、

とある(仝上)。

ただ、「ささやか」(細やか)は別として、「ささやく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/449925050.html、「さざめく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450667068.htmlの「ささ」「さざ」は擬声語である旨は触れた。

後世濁ってサザとも、

とある(岩波古語辞典)。

さざれ、

は、

ささらの転、

で、「ささら」は、

妹なろが使ふ川津のささら萩葦と人言(ひとごと)語りよらしも(万葉集)、

と、

ササは細小の意、ラは接尾語、

で(岩波古語辞典)、「さざれ」は、

細、

と当て、

さざれ水、そと流るる水なり(匠材集)、

と、

さざれ(細)波、
さざれ(細)水、
さざれ(細)石、
さざれ(細)砂、

と、名詞に付いて、

「わずかな」「小さい」「こまかい」などの意、

を添える(日本国語大辞典)。

「さざれ石」は、

細石、

と当て、

小さな石、こまかい石、小石、

の意で、

さざれ、
さざれし、

とも約め(大言海・広辞苑)、「さざれし(細れ石)」も、

レシ[r(es)i]が縮約をとげたためサザリになり、語頭を落としてざり・ジャリ(砂利)、

となる(日本語の語源)が、

わが君は千世に八千世にさざれ石の巌となりて苔こけのむすまで(古今和歌集)、

とある、

「さざれ石」は、

細(さざれ)石の巌(いわお)となる、
砂子(いさご)長じて巌となる、

というように、

小石、

の意ではあるが、

長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、一つの大きな岩の塊に変化した、

石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)、

を、「君が代」の歌詞にある、

巌(いわお)、

であるとして、この岩を指して、

さざれ石、

と呼ぶことが少なくないhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%96%E3%82%8C%E7%9F%B3とある。

小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程、

が、非常に長い歳月を表す比喩表現として用いられ(仝上)、「さざれ石」は、

神々の魂が宿る石、

として、古くから信仰の対象になっている。

「細」(漢音セイ、呉音サイ)は、

会意兼形声。「田」は小児の頭にある小さいすき間の泉門を描いた象形文字「囟」(シン)、細は「糸(ほそい)+音符囟(シン・セイ)」で、小さく細かく分離していること、

とあり(漢字源)、

田は誤り変わった形、

とある(角川新字源)。また、

隙間がわずかであるの意、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%B0。別に、

会意兼形声文字です(糸+田(囟)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と、「乳児の脳の蓋(ふた)の骨が、まだつかない状態」の象形(「ひよめき(乳児の頭のはちの、ぴくぴく動く所)」の意味)から、ひよめきのように微か、糸のように「ほそい」を意味する「細」という漢字が成り立ちました、

とあるのが分かりやすいhttps://okjiten.jp/kanji165.html

「石」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482824936.htmlで触れたように、「石」(漢音セキ、呉音ジャク、慣用シャク・コク)は、

象形。崖の下に口型のいしはのあるさまを描いたもの、

とある(漢字源)。

象形、「厂」(カン 崖)+「口」(いしの形)、山のふもとに石が転がっているさまを象る(『説文解字』他通説)。会意、「厂」(崖)+「口」(祭祀に用いる器)(白川)、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%B3

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ひわ


桜の花綻(ほころ)び、金翅雀(ひわ)、小雀(こがら)、争い囀づり(伽婢子)、

金翅雀(ひわ)、

とあるのは、

鶸、

とも当て、

鳥はこと所の物なれど、鸚鵡(あうむ)、いとあはれなり。人のいふらんことをまねぶらんよ。ほととぎす。くひな。しぎ。都鳥。ひわ。ひたき(枕草子)、

と挙げられている、

スズメ目アトリ科ヒワ亜科に属する鳥の総称、

で(日本大百科全書・広辞苑)、

ヒワ(鶸)とも総称されるが、狭義にはその一部をヒワと呼ぶ(ヒワという種はいない)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AF%E4%BA%9C%E7%A7%91

穀食型の嘴を持つ小形の鳥、

で、村落周辺や疎林に群をなしてすみ、小さな木の実や草の種子を食う。広義には、

マシコ・ウソ・シメなども含み、世界に約120種、

あるが、普通には村落近くで見られる、

マヒワ・カワラヒワ・ベニヒワ、

などを指す(広辞苑)。別に、

日本産のアトリ科の鳥のうち、マヒワ、ベニヒワ、カワラヒワの三種の総称、

であり、普通には、

マヒワ、

をさす(日本国語大辞典・デジタル大辞泉)とするものもある。で、

金翅雀、

は、

マヒワの別名、

とするものもある(季語・季題辞典)。

一般に雌雄異色で、雄は赤色または黄色の羽色をもつ種が多く、日本の伝統色である、

鶸(ひわ)色、

は、

マヒワの雄の緑黄色、

に由来する(日本大百科全書)。

ただ、

鶸、

の字は、

弱鳥の合字、

とあり、漢名は、

金翅雀、

とあり(大言海)、

飼育するとすぐに落ちる(死ぬ)ので弱い鳥として「鶸」(ヒワ)を充てています、

とする説https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1494.htmlもあるが、

非なり、……鶸は弱きにあらず、その形繊小(ひはやか)なる意なり。ひはやかに、ひはづに、と云ふ語は、細くたをやかなる、又、弱弱しき意なり。栄花物語、十七、音楽「宮いみじうひはやかにめでたういらせたまふ」、源氏物語、三十一、槙柱、「いとささやかなる人の、常の御なやみに痩せ衰へひはづにて」と見ゆ、

とあり(大言海)、

よく囀りて、清滑なり、

とし、

ひゅんちゅんちゅん、

と聞ゆ、とある(仝上)。「ひはづ」は、

繊弱、
怯弱、

と当て、

ヒハはヒハボソ、ヒハヤカのヒハと同じ、

とあり(岩波古語辞典)、

ひはづなる僧の経袋、頸にかけて(宇治拾遺物語)、

と、

きゃしゃ、
ひよわ、

の意、「ひはぼそ」も、

繊弱、

と当て、

ヒハは、ヒハヤカニ・ヒハヅのヒハと同じ、

で、

ひはぼそたわや(タワヤカナ)腕(かひな)(記紀歌謡)、

と、

か弱く細いこと、

で、「ひはやか」も、

繊弱、

と当て、

ヒハは、ヒハヅ・ヒハボソのヒハと同じ、

で、

いみじうをかしう、ひはやかに美しげにおはします(源氏物語)、

と、

見るからにひ弱なさま、
きゃしゃなさま、

の意とある(岩波古語辞典・大言海)。確かに、単純に、

弱弱しい、

というよりは、

はかなげ、

という含意なのかもしれない。「ひは」は、この、

ひはやかに、
ひはづ、
ひはぼそ、

の「ひは」を語源としていると思われ、

弱いことをヒワヒワシというところから、弱鳥の合字(和訓栞)、
ヒワヅの義(和句解)、
ヒヨワ(弱)の義(俚言集覧・名言通)、
ひわやかに弱弱しい義、また、ヒは鳴き声からか(音幻論=幸田露伴)、

等々諸説あるが、単純に、

弱い、

と見るのはいかがなものか。ただ、歴史的仮名遣いは、

ひは、

ではなく、

ひわ、

だとする説がある(日本語源大辞典)。だとすると、語源は、全く解釈が変わってくる可能性がある。

また、

鶸、

の字は、「漢字」由来ではなく、後述の漢字「鶸」の意味との乖離からみると、

和製漢語、

の可能性がある。

なお「ひわ」は、

ひわ色、

の「ひわ」でもあるが、その「ひわ」色は、

ヒワの羽のような黄緑色、

特に、

まひわ、

のそれを指す。

「鶸」(漢音ジャク、呉音ニャク)は、

会意兼形声。「鳥+音符弱(肉や羽が柔らかい)」、

とあり、漢字「鶸」は、

鶏の一種で、大型のもの、

とあり(漢字源)、

とうまる(仝上)、
とうまるの一種(字源)、

とある。

しゃもよりも大、性猛くしてよく闘ふ、

とある(仝上)。「とうまる」は、

鶤鶏、
唐丸、

等々と当てる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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こがら


春来ても見よかし人の山里にこがら群ゐる梅の立ち枝を(拾遺和歌集)、

にある、

こがら、

は、

小雀、

と当て、

並びゐて友を離れぬこがらめの塒(ねぐら)にたのむ椎の下枝(山家集)、

にある、

こがらめ(小雀目)、

に同じ、

とあり(岩波古語辞典)、

ズメ目シジュウカラ科、

の鳥、

全長12.5cm。シジュウカラより小さく、ヒガラより少し大きいほどの小鳥、

https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1424.html

頭は黒色で、

鍋かむり、

と呼ぶ地方もあり、

背は灰褐色で、頬と喉は白色、喉に小さな黒色の斑、

があり(仝上)、

シジュウカラに似て、

十二雀(じゅうにから)、

ともいう(広辞苑)。ただ、シジュウカラと比べ、

腹面には黒帯がない、

ので、区別できる(日本語源大辞典)。

ツツニーニーニー、

と甘えた感じの声を出し、

さえずりは高い声で、

チーツーチー チーツーチー、

を繰り返しhttps://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1424.html

ユーラシア大陸中・北部に分布し、亜高山帯の林に繁殖。冬は他のカラ類の群れに混じる、

とある(仝上)。

「から類」は、

ユーラシア大陸中・北部に分布し、亜高山帯の林に繁殖。冬は他のカラ類の群れに混じる、

とある(仝上)。「から類」は、

シジュウカラを始めとする山野の小鳥類の総称、

で、

シジュウカラ科のシジュウカラ、ヤマガラ、ヒガラ、コガラ、

等々をいう。

ゴジュウカラ、エナガ、

を含めることもある。大きさは、

ほぼスズメ大、

で、梢の間を活発に動き回り、

コガラやヒガラなどは山地、

で見られ、

シジュウカラは市街地、

でも見られhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E9%A1%9E、「から類」は、

様々な種類の野鳥で「混群」を作る習性、

があるhttps://www.nature-engineer.com/entry/2019/03/05/090000とされる。

「こがら」は、

コガラメ(小雀目)の略、カラメはカロムレ(軽群)の約轉で、群れをなして飛ぶ小鳥にいう接尾語、略してカラとのみも云ふ、

とあり(大言海)、

四十からめ、
五十からめ、
山がら、
ひがら、
小がら、

などあり、

つばくらめ、

の、

くらめ、

も、

此の轉ならむか、

としている。「つばめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/458420611.htmlで触れたように、「つばめ」は、和名類聚抄(931〜38年)で、

燕、豆波久良米、

本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)で、

燕、玄鳥、都波久良米、

字鏡(平安後期頃)で、

乙鳥、豆波比良古、

と、

つばくら、
つばくろ、
つばくらめ、

などとも呼び、

ツバメの古名はツバクラメ。ツバクラになり、ツバメとなった。ツバクラメは土喰黒女(ツバクラメ)となるが、この呼び名は光沢のある黒い鳥を意味するともいわれている。
「ツバ」「クラ」「メ」の三語よりなっている。
「ツバ」・・・光沢のあること。
「クラ」…黒
「メ」・・・ススメやカモメなど群れる鳥を指す。
姿の黒い照り輝くところからの命名。また、「土」「喰」「黒」・・・ルバメクロ(メ)とも解する、

という説もあり(日本語語源大辞典・語源大事典)、そうなると、「こがらめ」の「め」は、

すずめ、
かもめ、

などの鳥類共通の接尾語ということになる。

その上で、「シジュウカラ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460260840.htmlで触れた、「シジュウカラ」の「カラ」を見直すと、

シジュウ(多く集まる)+から(鳴く鳥)(日本語源広辞典)
四十カル(軽)の義。多く群れるところから・カルはカルク翻るところから(名言通)、
四十は群がる意という(大言海)、
雀四十を以てこの鳥一羽に代える意という(大言海)、
鳴き声チンチンカラカラの略転(名語記)、
シジウと鳴くカラの意。カラはヤマガラのガラ、ツバクロのクロと同じで、小鳥全体の総称(野鳥雑記=柳田國男)

などと、

鳴く鳥、
あるいは、
群れる鳥、

といった、

小鳥の総称、

らしいということがわかる。

雀は、種スズメではなく、小鳥一般を示す言葉です、

とする考えhttp://yaplog.jp/komawari/archive/619もあるから、そう考えると、「カラ」に、

雀、

と当てた意味が分かる。「コガラ」の、

小雀、

ハシブトガラの、

嘴太雀、

ヤマガラの、

山雀、

ヒガラの、

日雀、

ゴジュウカラの、

五十雀、

の共通項が見える。とすると、

ヤマガラ、
ツバクラメ、

の、

カラ、
クラ、

ともども、

鳥類を表す語、

であり、

「メ」も、

鳥を表す接尾語、

と考えると、

コガラメ、

の「カラメ」と、

ツバクラメ、

の「クラメ」は、重なって来るのではあるまいか(語源由来辞典)。

「雀」(慣音ジャク、漢音シャク、呉音サク)は、「スズメ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/458447405.htmlで触れたように、

会意兼形声文字。もとは、上部が少ではなくて小。「隹(とり)+音符小」で、小さい小鳥のこと、

とあり(漢字源)、

燕雀、

というと、小さい鳥の代表、である(仝上)。

とある。別に、

会意文字です(小+隹)。「小さな点」の象形と「尾の短いずんぐりした小鳥」の象形から、小さい鳥「すずめ」、「すずめ色(赤黒色、茶褐色)」を意味する「雀」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1699.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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こげら


「こげら」は、

小啄木鳥、

と当てる。

キツツキの一種、

で、

全長約15センチ、

ほど、

日本のキツツキ類中最小でスズメぐらい、

で、

背面は暗褐色で、白い横縞があり、腹面は汚白色で、褐色の縦斑がある。雄は後頭の両側に小さな赤い線状の羽がある、

という特色(日本国語大辞典・広辞苑)だが、その耳羽の上あたりの赤色羽は、

風になびくなどしないと見えないくらい小さい羽、

とあるhttps://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1425.html

主に低山にすみ、冬はシジュウカラなどと群れをつくる

という(日本国語大辞典・広辞苑)。

「こげら」の語源は、

キツツキの古名、

と関係する。

「きつつき」は、

啄木鳥、

と当て、

木突き、

がその由来だが、古名は、

テラツツキ、
テラツキ、

で(大言海)、

寺啄(広辞苑)、
啄木(大言海)、

と当て、本草和名(ほんぞうわみょう 918年編纂)は、

天良豆豆岐、

字鏡(平安後期頃)は、

啄木鳥、寺豆支、

とし、室町時代に、

啄木鳥、

と当てる(仝上)、

ケラツツキ、

の称を生じ(tera→keraと転訛か)、

両形が行われたが、江戸時代、

キツツキ、

が生まれ、

三者併用され、近世末に、

キツツキ、

標準形となった(日本語源大辞典)とある。江戸語大辞典には、

キツツキ、

の項に、

テラツツキ、
ケラツツキ、

が併記されている。江戸後期の『物類称呼』(安永四年(1775))には、

てらつつき又けらつつきといふ。江戸にて、きつつきと称す、

とあり、江戸期の『和漢三才図会』に、和名、

牙良豆豆木(ケラツツキ)、

とあり、

舌が長い鳥、

として認識されていて、

舌長、

とも記述されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%84%E3%82%AD%E7%A7%91

タクボク、
キタタキ、

は、

キツツキ(啄木鳥)、

の派生だが、「きつつき」を、

ケラ、

と呼ぶのは、

ケラツツキ、

の略称であろう。ただ、「ケラツツキ」に転訛する前の、

テラツツキ、

の、「テラ」の意味がはっきりしない。

寺啄、

と当てる(広辞苑)が、

テラとは取(トラ)にて、虫を取らむの意、

とある(大言海)ので、

寺、

は当て字のようである。

「ごげら」は、

小啄木鳥、

と当てるように、

ちいさなキツツキ、

の意で、

こけらつつき、

と呼び、

こけら→こげら、

と転訛したと思われる(語源由来辞典)。

アオゲラ、
アカゲラ、
クマゲラ、
ヤマゲラ、

等々の、キツツキの仲間の「ゲラ」も「コゲラ」の「ケラ」「ゲラ」同趣と考えられる。

なお、「キツツキ」に当てる、

啄木鳥(タクボクチョウ)、

は漢語である(字源)。

また、

テラツツキ、

を、

寺つつき(てらつつき)、

と当て、

啄木鳥のような怪鳥、

とするのは、

物部の大連は仏法を好まず、厩戸皇子(むまやどのわうじ)にほろぼさる。その霊一つの鳥となりて、堂塔伽藍を毀(こぼ)たんと、す。これを名づけて、てらつつきといふとや、

という鳥山石燕である(今昔画図続百鬼)。

四天王寺や法隆寺に現れ、嘴で寺中をつついて破壊しようとしている、

と言われ、

古来の神々を信仰していた物部守屋が、聖徳太子と蘇我馬子に討伐された後、寺つつきという怨霊になって、仏法に障りを成すため、太子の建立した寺を破壊しようとしている、

のだとされる。「源平盛衰記」によると、

聖徳太子は鷹になって寺つつきに対抗したところ、寺つつきは二度と現れなくなった、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E3%81%A4%E3%81%A4%E3%81%8D。寺つつきの正体は、

アカゲラ、

とされる(仝上)。これは、

寺啄、

の「寺」の字からの連想なのではないか、という気もするが、木造建築だけに、啄木鳥の被害が現実にあったということなのかもしれない。

「啄」(漢音タク・トク、呉音タク・ツク)は、

会意兼形声。豖(タク)は、本来冢の中と同じ豕(シ)とは別字。豚の足をひもでしばってとめた姿で、一か所にじっと止まる意を含む。触(角をじっと一か所に突き当てる)と同系のことば。啄はそれを音符とし、口を添えた字で、くちばしを一か所にじっと突き当ててつつくこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(口+豕)。「口」の象形と「口の突き出ている、いのしし」の象形(「いのしし」の意味だが、ここでは、「こつこつと木をつつく音を表す擬声語」の意味)から、「鳥がくちばしでつつく」を意味する「啄」という漢字が成り立ちました、

と真逆の説もあるhttps://okjiten.jp/kanji2394.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)

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嘯く


負われながら月を詠(なが)めうそぶきて、時替るまで立てり(今昔物語)、

丈は上の垂木近くあるが、吹(うそぶき)をし文を頌(しょう)して廻るなむありける(仝上)、

などとある、

うそぶく、

は、

うそふく、

ともいい、

口笛をふく、

もしくは、

口吟する、

意とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。あるいは、

花に愛で月にあくがれ、紅葉の秋、雪の夕べ、折にふれ事に寄そへて、歌よみ嘯きて、心を痛ましむ(伽婢子)、

香(か)を尋ねて花に嘯き、南枝向暖北枝寒、一種の春風有両般、といふ古詩を吟じける(仝上)、

などとある、

うそぶく、

は、

詩歌を吟唱する、

あるいは、

吟誦する、

意で使われている。

「うそぶく」は、

ウソ(嘯)フク(吹)の意、

とある(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)が、

ウソは、淫空(ウキソラ)の略にもあるか(引剥(ひきはぎ)、ひはぎ。そらしらぬ、そしらぬ)、虚空(コクウ)の事なるべし、ウソムクといふは、音轉なり(かたぶく、かたむく)、

とあり、

弟(おとのみこと)浜(うみべた)にましまして嘯(ウソフキ)たまふ。時に迅風(はやち)忽に起る(神代紀)

と、

虚空に向ひて、息を吹き出す(大言海)、
口をすぼめて息を強く吐き、また、音を立てる。ふうふうと息を吐き出す(精選版日本国語大辞典)、

意であり、

うそむく、
うそぶ、
うそむ、

と同じとある。「うそむく」は、

「うそぶく」の子音交替形、

だが、「うそぶく」「うそむく」は、文献的には、

うそぶ、
うそむ、

より遅れて出現するとされ、

「ぶ」から「む」への変化時期については平安中期以降である、

と言われる。中世、近世を通して使用されたが、近世の仮名遣い書に見られるように、当時、「うそふく」と書いて「うそむく」と読むということもあったらしい(精選版日本国語大辞典)、とある。

どうやら、「うそぶく」の原意は、

口をすぼめて粋を吹き出す、

であり(岩波古語辞典)、当然、

音が出る、

ので、

口笛を吹く、

につながる(大言海)。

その漢字「嘯」(ショウ)は、

会意兼形声。「口+音符肅(ショウ ほそい、すぼむ)」、

とあり、

口をすぼめてながく声を引く、
口をすぼめて口笛を吹く、

という意(漢字源)や、

聲を長く引きて詩を歌ふ(字源)、

意で、

嘯詠気頗雄、攀躋(はんせい)力或弱(馬祖常詩)、

と、

嘯詠(ショウエイ うそぶき歌ふ)、

とか、

嘯歌傷懐、念彼碩人(小雅)、

と、

嘯歌(ショウカ 詩歌をうたふ)、

と使い(字源)、また、

虎嘯、

と、

烈しく声を出してうなる、

意でも使う(仝上)が、わが国でも、その影響で、

虎風に嘯く、

と訓ませ、

吼える、

意でも使う。その意味では、漢字「嘯」の意味の範囲で使っていたことが分かる。ただ、

「うそぶく」の「うそ」も、

嘯、
嘘、
啌、

と当て、本来は、

今は目をふさぎ、うそを吹きて、(蜂に)明き間を刺されじと、あわてて騒ぐほどに(十訓抄)、

と、

口をすぼめて息を出すこと、

で、当然、

口笛は、うその事也(言塵集)、

と、

口笛、

の意に繋がっていく(岩波古語辞典)。

ただ、それが、「うそ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455830897.htmlで触れたように、

口をすぼめて息を吹き、音を出す→ほえる、なく→うそぶえ(嘯笛 口笛)を吹く→そらとぼける→大きなことを言う、

と、状態表現から価値表現へと転じ、「うそぶく」が、

大きなことを言う→ソラゴトを言う、

と、価値表現の意味が、大きなことから、空事、虚言、へと転じたために、「うそぶく」も、

舟のかぢとりたる男ども、舟を待つ人の数も知らぬに心おごりしたる気色にて、……とみに舟も寄せず、うそふいて見まはし(更級日記)、

と、

てれかくしにそらとぼける。また、開き直ったり得意になったりして相手を無視するような態度をとる、

という、

そらうそぶく、

意や、

天下無双と嘯く、

といったような、

強がりをいう。大きなことをいう、

で使うに至ったと思える。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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響(どよ)む

 

大きに怒れる眼(まなこ)の光、雷光(いなびかり)の如くひらめき、口より火を吐きて立ち休らひ、力足踏みて響(どよ)みける(伽婢子)、

にある、

力足踏みて響みける、

は、

地団駄を踏んで地鳴りをさせる、

意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「力足」(ちからあし)は、

二人が踏(ふみ)ける力足に、山の片岸崩れて足もたまらざりければ(太平記)、

と、

力を入れた足、

また、

足に力をこめること、

の意と、

どっさりと位さだめの力足(雑俳・神酒の口)、

と、

相撲の四股(しこ)、

の意とあるので、

地団駄を踏む、

は、意訳になる。

「どよむ」は、色葉字類抄(平安末期)に、

動、とよむ、

とあり、平安時代ごろまでは、

とよむ、

と清音で、

「どよむ」に変わったのは、平安中期以後

とされ(日本語源大辞典)、

響む、
動む、
響動む、

等々と当てる(広辞苑・岩波古語辞典・日本語源大辞典・大言海)。

「とよむ」の「とよ」は、

擬声語(広辞苑)、
擬音語(岩波古語辞典)、

の、

動詞化、

とあり(広辞苑)、古くは、

雷神(なるかみ)の少しとよみて降らずとも我はとまらむ妹しとどめば(万葉集)、

と、

鳴り響く、響き渡る、

意や、

さ野つ鳥雉(きぎし)は登与牟(トヨム)(古事記・歌謡)、

と、

鳥獣の鳴き声が鳴り響く、

意のように、

人の聲よりはむしろ、鳥や獣の声や、波や地震の鳴動など自然現象が中心であったのに対して、濁音化してからは、主として人の声の騒がしく鳴り響くのに用いられるようになった、

とある(日本語源大辞典)。この「どよ」「とよ」は、

どよめく、
とよもす、

とつながる、

擬音(声)語、

である(仝上)。

「響」(漢音キョウ、呉音コウ)は、

会意兼形声。卿(郷 ケイ)は「人の向き合った姿+皀(ごちそう)」で、向き合って会食するさま。饗(キョウ)の原字。郷は「邑(むらざと)+音符卿の略体」の会意兼形声文字で、向き合ったむらざと、視線や方向が空間をとおって先方に伝わる意を含む。響は「音+音符卿」で、音が空気に乗って向こうに伝わること、

とある(漢字源)が、

「郷(ク)」は「邑」+音符「卿」の会意形声文字で、「邑(むらざと)」で「卿」は向かい合って会食する様を示す。向かい合って音が「ひびく」様、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9F%BF

会意兼形声文字です(郷(ク)+音)。「ごちそうを真ん中にして二人が向き合う」象形(「向き合う」の意味)と「取っ手のある刃物の象形と口に縦線を加えた文字」(「音(おと)」の意味)から、向き合う音、すなわち、「ひびき」、「ひびく」を意味する「響」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1325.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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鳩の杖


八旬ばかりの老僧眉に八字の霜を垂れ、鳩の杖にすがり、水精(すいしょう)の数珠つまぐり、加賀守が家の戸を叩き給ふ(伽婢子)、

にある、

鳩の杖、

は、

八十歳以上の老人に高齢を祝して贈る杖。枝の握りに鳩の形がついている、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

ハトは食物をとるときにむせないということにあやかった、

ものという(広辞苑・大辞泉・岩波古語辞典他)。

80歳以上の功臣に宮中から下賜された、

ので、

宮中杖、
はとづえ、
鳩杖(きゅうじょう)

ともいう。中国由来のものである。

中秋之月、皆案戸比民、年齢七十者、授之以玉杖、餔之糜粥、八十、九十、禮有加賜、玉杖長尺、端以鳩鳥為飾、鳩者不噎(ムセ)之鳥也、欲老人不噎(後漢書・禮儀志)、

とあり、

老人は痰に咽びやすし、故にこれを以て呪すとむ云ふ、

とする(大言海)。

撞木杖の上の端に、鳩の形を作りて、つけたるもの、古来、宮廷より老人に慰労として賜りし杖、

である(仝上)。後漢末の『風俗通義(風俗通)』に、

俗説、高祖與項王戦、敗於京索、遁叢薄中、羽追求之、時鳩止鳴其上、追者以鳥在無人、遂得脱、及即位、異此鳥、故作鳩杖、以賜老者、

ともあるが、確かに俗説のようだ。

玉杖九尺。頭に鳩を飾る、

とあり(字通)、

京師に宴し、老を含元殿に侍す。九十以上に几杖を、八十以上に鳩杖を賜ふ。婦人にも亦た之(かく)の如くし、其の家に賜ふ、

ともある(唐書・玄宗紀)。これは、

鳩はむせない鳥とされ、老人がむせないようにとの意から鳩の飾りのあるはし(箸)を下賜された、

という故事による(世界大百科事典)らしい。

奈良時代には、日本では、

霊壽杖、

と呼ばれ、のちに、

80歳以上の功臣に宮中から下賜された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E6%9D%96。中国に倣ったのである。

『藤原俊成卿九十賀記』建仁3年11月23日条に、

置鳩杖、以銀作之、件杖竹形也、其上居鳩也、有一枝二葉、件葉書和歌、

とある。和歌は壽算を祝う意である(仝上)とある。

なお、「撞木杖」については、「かせぎ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488581882.htmlで触れた。

「鳩」(漢音キュウ、呉音ク)は、

形声、「鳥+音符九」。ひと所にあつまって群れをなす鳥。ひきしめ集める意を含む、

とある(漢字源)が、

会意兼形声文字です(九+鳥)。「屈曲(折れ曲がって)して尽きる」象形(数の尽き極(きわ)まった「九(きゅう)」の意味だが、ここでは「はとの鳴き声(クウクウ)の擬声語」)と「鳥」の象形から「はと」を意味する「鳩」という漢字が成り立ちました、

とする説もあるhttps://okjiten.jp/kanji2800.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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はと


「はと」は、

鳩、
鴿、

と当てる(広辞苑)。「鳩」は、

きじばと、

「鴿」は、

家鳩(いへばと)、

とある(字源)。字鏡(平安後期頃)には、

鴀、乳鳩、鳲鳩也、伊倍波止、
鴿、也萬波止、

とあるが、和名類聚抄(平安中期)には、

鳩、夜萬八止、
鴿、以倍八止、

ので、我が国で厳密に「鴿」と「鳩」を使い分けていたわけではないようだ。

家鳩は、

ドバト、

と称されるが、

カワラバトを改良したもので、室町時代から、

たうばと(塔鳩)、

安土桃山時代には、

だうばと(堂鳩)、

が使われ、

ドバト(土鳩)、

が登場するのは江戸時代である。ただ、日本語の

カワラバト・家鳩・塔鳩・堂鳩・土鳩・ドバト、

の間の線引きは曖昧とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%88

「はと」の語源は、

羽音を以て呼ぶか、はたはたとの略(大言海・本朝辞源=宇田甘冥・日本語源=賀茂百樹)、
ハ(羽)+ト(音)、飛び立つときの羽音に特徴があるので(日本語源広辞典)、
ハタタク(羽叩)の義(名言通)、

と、羽音説か、

速鳥の義(釋日本紀)、ハト(羽迅)の義、その羽の迅速なことから(和訓栞)、

と、速さ説、あるいは、

鳴き声ハツウハツウから(松屋筆記)、
ハトッポーポーの義(日本語原学=林甕臣)、
鳴き声から(音幻論=幸田露伴)、
ポーポーと鳴くところから、ボァー鳥の意か(国語溯原=大矢徹)、

と、鳴き声説もある。

天だむ 軽の乙女 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山 波斗(鳩)の下泣きに泣く(古事記)、

とあるように、古くから「波斗」と呼ばれただけに、限定は難しそうである。

なお、「鳩」にまつわる諺も多い(日本国語大辞典)。

●鳩に三枝(さんし)の礼(れい)あり 子鳩は親鳩のとまっている枝より三枝下にとまって礼譲を守るということ。礼儀を重んずべきことのたとえにいう。「烏に反哺(はんぽ)の孝あり」の対。
●鳩の飼(か)い 口先で人をたぶらかして世渡りをする人。詐欺師やいかさま師などにいう。もと、山伏や占者のような恰好をして家々を回り、熊野の新宮・本宮の事を語っては、鳩の飼料と称して金をだまし取ったところからという。
●鳩の杖http://ppnetwork.seesaa.net/article/493484722.html?1668369493 頭部に鳩の形を刻みつけた架杖(かせづえ)。
●鳩を憎み豆を作らぬ 畑に豆をまけば鳩がそれをついばむので、それを憎んで豆を作らない意から、わずかな事にこだわって必要なことまでもしないために、自分にも世間にも損害を招くことのたとえにいう、

「鴿」(コウ)は、

形声。「鳥+音符合」。こっこっという鳴き声をまねた擬声語、

とある(漢字源)。

漢字「鳩」については、「鳩の杖」http://ppnetwork.seesaa.net/article/493484722.html?1668369493で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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餞(はなむけ)


此の者を只返しては詮なし。餞(はなむけ)すべし(伽婢子)、

にある、

餞(はなむけ)、

は、

別れに際して贈る贈り物、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「はなむけ」は、

贐、

とも当て、

「馬の鼻向け」の意、

とあり(広辞苑・大言海・日本国語大辞典・大辞泉・大辞林・岩波古語辞典)、

旅立つ人の馬の鼻を行くべき方へ向けて見送った習慣による、

とある(広辞苑)。「鼻向け」は、

その方に鼻を向けること。匂いを嗅ぐために、その方向に鼻を向けること、

とあり(広辞苑・日本国語大辞典)、

鼻向けもならぬ、

は、「匂いを嗅ぐ」意から、

臭くてたまらないさま、

にいい、転じて、

見るにたえない、

意となり、

鼻持ちならぬ、

と同義で使われる(仝上)。

馬の鼻を立て直す、

と言い方もあり、

馬の鼻先をもと来た方へ向け変える、

意となる(日本国語大辞典)。

「馬のはなむけ」は、

旅に出る人を送る時馬の鼻を行き先に向けたことからという、

とあり(岩波古語辞典)、

八木のやすのりといふ人あり。この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。これぞ、たたはしきやうにて、馬のはなむけしたる(土佐日記)
講師(かうじ)うまのはなむけしにいでませり(仝上)、

と、

旅立や門出を祝って金品や詩歌などを贈ったり、送別の宴を開いて見送ったりすること。また、その金品・詩歌・宴など、

の意で使う(日本国語大辞典・岩波古語辞典)。字鏡(平安後期頃)に、

餞、馬乃波奈牟介、

とあり、室町時代の意義分類体の辞書『下學集』には、

餞別、ハナムケ、

易林節用集(1597)には、

餞、ハナムケ、

となっている。本来、

旅立つ人を送り、其の馬の鼻へ向けて物を贈る、

ことから、転じて、

旅行く人に送る凡ての品物、又は、詩歌、

を指すようになっていく(大言海)流れが分かる。現代では、

はなむけの言葉、

というように、旅立ちや門出の「挨拶」を意味することが多い(語源由来辞典)ともある。

本来は、「馬のはなむけ」は、文字通り、

行くべき方向へ馬の鼻をむけてやる意(安斎随筆・俚言集覧)、
馬の鼻の向かう方の意(和句解)、

と、「馬の鼻を行き先へ向ける」意とする説と、

馬の鼻に向かって餞別する意(和句解・日本語源=賀茂百樹・大言海)、

と、「馬の鼻に餞別する」意とする説とに分かれるが、常識的には前者なのだろう。

「餞」(漢音セン、呉音ゼン)は、

会意兼形声。「食+音符戔(小さい)」で、こじんまりした酒食の宴のこと、

とあり(漢字源)、「餞」は、

旅立つ人を送って郊外までいき、そこで小さな宴会をし、酒食を共にして別れる、小規模なわかれの宴をもうけること、

とある(仝上)。

「贐」(漢音シン、呉音ジン)は、

会意兼形声。「貝+音符盡(シン 出し尽す)」、

とあり(仝上)、「旅立つ人に贈る品物、送別の気持を尽くす餞別」の意とある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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景公の夢


『左伝』には景公の夢、鄭の大夫伯有(はくゆう)が事、皆鬼神を伝へり(伽婢子)、

にある、

景公の夢、

とは、

景公が病気になると、夢の中に鬼が二人の小人になって会話したという、

という注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。これだと何のことだかわかりにくいが、所謂、

病膏肓に入る、

の逸話である。なお、「伯有」についても、

春秋時代の人。貪欲な大夫だったが、殺されてから幽霊になって敵を討った、

とある(仝上)。

『左伝』には、

晋景公疾病。求医于秦(晋の景(けい)公疾病なり。医を秦に求む)
秦伯使医緩為之。未至、公夢(秦伯医の緩(かん)をして之を為(おさ)めしむ。未至に、公の夢に)、
疾為竪子曰、彼良医也。懼傷我。焉逃之(疾(やまい)竪子(じゅし 「豎」は子ども)と為りて、曰く、彼は良医なり。我を傷つけんことを懼る。焉(いづくか)に之を逃がれん)、
其一曰、居肓之上、膏之下、若我何(其一曰く、盲(こう)の上、膏下に居らば、我を若何(いかんせん))、
医至曰、疾不可為也。在肓之上、膏之下、攻之不可(医至りて曰く、疾(やまい)為(おさ)むべからざるなり。盲(こう)の上、膏(こう)の下に在あり、之を攻るは不可なり)、
達之不及、薬不至焉。不可為也(之に達せんとするも及ばずず、薬至らず。為(おさ)むべからざるなり)、
公曰、良医也、厚為之礼而帰之(公曰く、良医いなり。厚く之が礼を為して之を帰らしむ)、

とあるhttps://frkoten.jp/2016/03/03/post-1044/

病入膏肓(病膏肓に入る)、

は、

ここからきている。

居肓之上、膏之下、

とある、「膏」は、

心臓の下の微脂部分、

「肓」は、

膈(かく)の上の薄膜部分、

とされる(精選版日本国語大辞典・大辞林)。本来は、「膏肓」は、

こうこう、

と訓むが、誤って、

こうもう、

と訓まれている。また、

疾為竪子、

とあるところから、

二豎(にじゅ)、
二豎に侵される、
二豎子、

ともいう(広辞苑)。

この由来から、「病膏肓に入る」は、

不治の病にかかる、

また、

病気が重くなってなおる見込みが立たないようになる、

意で使うが、転じて、

悪癖や弊害などが手のつけられないほどになる、

また、

物事に熱中してどうしようもないほどの状態になる、

意でも使う(広辞苑)。

ただ、「二豎」(にじゅ)は、

病魔、

の意、転じて、

病気、疾病、

の意で使うが、悪癖に転じた使い方はない。

なお、晋の景公については、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%85%AC_%28%E6%99%8B%29に詳しい。

「膏」(コウ)は、

形声。「肉+音符高」、

とのみある(漢字源)が、「あぶらの乗った肉」の意である。別に、

形声。肉と、音符高(カウ)とから成る。「あぶら」の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(高+月(肉))。「高大な門の上の高い建物」の象形(「高い」の意味)と「切った肉」の象形(「肉」の意味)から高く大きい肉「こえる」を意味する「膏」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2674.html

「肓」(コウ)は、

会意兼形声。「肉+音符亡(見えない)」で、心臓の下、横隔膜の上にあって深く隠れて見えない所をいう。膜(マク)の語尾の転じたことば、

とある(漢字源)。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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九尾の狐


汝知らずや。九尾誅せられて千載にも許し無き事を。誰か汝が妖媚を厭ひ憎まざらん(伽婢子)、

にある、

九尾、

とは、

九尾の狐の故事、天竺では班足(はんそく)太子の塚の神、唐土では周の幽王の后褒姒(ほうじ)、また殷の紂王の妲己(だっき)、日本に渡来して鳥羽院の寵姫玉藻前(たまものまえ)となって、院を悩ました妖狐は九つの尾をもっていたという伝説。那須野で射殺されて殺生石となったとする、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「九尾の狐」は、

九尾の狐(きゅうびのきつね)、

または、

九尾狐(きゅうびこ)、
九尾狐狸(きゅうびこり)、

と呼ばれる、中国に伝わる伝説上の、

9本の尾をもつキツネの霊獣、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90、中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが、泰平の世や明君のいる代を示す、

瑞獣、

とされ、『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた、

神獣、

とされる(世界大百科事典)。伝説時代から戦国時代の魏の襄王に至るまでを著述した、史記と並ぶ中国の編年体の歴史書『竹書紀年』(ちくしょきねん)には、

夏(か)の伯杼子が東征して〈狐の九尾なる〉を得た、

とあり(仝上)、戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立した『山海経』「大荒東経」には、

有青丘之國、有狐而九尾、

とあり、

東方の霊獣、

と考えたらしい。西晋・東晋の文学者・卜者、郭璞は、

太平則出而為瑞也、

と言っている。また、後漢の『白虎通(白虎通義)』(班固・編集)にも、

徳至鳥獣、則九尾狐見、九者子孫繁息也、於尾者後當盛也、

とあり、後漢初期の『呉越春秋』(趙曄)には、

禹(う)は九尾狐を見て塗山氏の娘をめとった、

とあるように、こうした祥瑞の観念の背後には、

婚姻と子孫の多産などの生命力に関する信仰があった、

と考えられる(仝上)。九尾を瑞祥とする考えは、我が国の、「延喜治部省式」祥瑞上瑞に、

九尾狐、神獣也、其形、赤色、或白色、音如嬰児、

とあり、やはり同じ考え方が伝来したものと見ていい。

これが後世、

元の時代の『武王伐紂平話』や明の時代の『春秋列国志伝』などで、殷王朝を傾けたとされる美女・妲己の正体が九尾の狐(九尾狐、九尾狐狸)であるとされている

などhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90、九尾狐は、

千年修行すると尾が一本増え、一万年修行をすると黒かった毛が白くなる、

などと妖獣とされていくことになる。

日本でも、上述のように、『延喜式』の治部省式祥瑞に、

神獣なり、その形赤色、或いはいわく白色、音嬰児の如し、

と同様の受け止め方であったものが、中国志怪小説の影響で、

邪悪な妖怪、

とされ、玉藻前の正体が狐であるとされることになる。室町時代の意義分類体の辞書『下學集』では、

狐、多疑之獣也、古之淫婦也、其名紫紫(しし)、化為狐也、

とあり、

支那の小説に、九尾狐、化して妲己となり、殷の紂王を蠱惑せしことを云へり、

とある(大言海)。「紫紫」は、

狐の別名、中国で紫という昔の淫婦が化して狐になったという、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。日本の「九尾狐」つまり、玉藻前は、

陰陽師の安倍泰成に見破られて東国に逃れ、上総介広常と三浦介義純が狐を追いつめ退治すると狐は石に姿を変えた、

という伝説がある。その石は毒を発して人々や生き物の命を奪い続けたため、

殺生石、

と呼ばれるが、玄翁和尚によって打ち砕かれたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%97%BB%E5%89%8Dとされる

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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せこめる


勝れて慳貪なる者にて、恒に婦(よめ)をせこめること限りなし(片仮名本・因果物語)、

にある、

せこめる、

は、

いじめる、

意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

せごめる、

ともいい、

近世語、

とある(大辞林)。

いつかに高名したきとて、科なき女をせこむること、兄ながらも広綱は侍には似合ず(浄瑠璃「佐々木先陣(1686)」)、

と、

苦しめる、
いじめる、
責める、

意だ(江戸語大辞典)が、もう少しきつく、

虐待する、
ひどい目にあわせる、

という含意に近い気がする(精選版日本国語大辞典)。勝手な憶説だが、

責め+込める、

ではあるまいか。

semekomeru→se[me]komeru→sekomeru、

といった縮約なのではあるまいか。「込む」は、

籠む、

とも当て、

混む、

とも当てるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%93%E3%82%80

平安仮名文では複合動詞の中で使われることが多い、

とある(岩波古語辞典)が、複合動詞としての「込む」には、

飛び込む、押しこむ、

のように、

〜(場所、領域)に、〜(方法・様態)して入る、入れる、

という、

方向性を添加する用法、

と、

考え込む、買い込む、

のように、

すっかり〜する、十分〜する、

というように、

複合している動詞の状態や動作の程度を深めていく用法、

とがあり、後者の

程度深化、

の用法としては、さらに、

ふさぎこむ、だまりこむ、しょげこむ、弱り込む、話し込む、

などのように、

固着化(動作・作用の結果、ある状態に至ったまま固定化している)、

のタイプと、

ふけこむ、やつれこむ、冷え込む、めかしこむ、だましこむ、

などのように、

濃密化(程度が高まり、状態が亢進していくもの)、

のタイプと、

歌い込む、泳ぎ込む、漬け込む、使い込む、練り込む、

などといった、

累積化(何かの目的のため、人が動作や行為の積み重ねよりその技や対象とするものの質の向上を図る)、

のタイプの三つに分ける説がある(甲斐朋子「複合動詞『〜こむ』の程度深化の用法」)らしい。この場合、

責め込む、

は、「込む」の付加によって、

責め苛む、

と、単に「責める」のではなく、それを倍化される含意が強まる。「責める」よりも強める発話の意とがある、と考えていい。

「込」は、

国字である。

会意。「辵」(すすむ)+「入」、進んで中にはいること、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BE%BC

混雑する、

意では、

混む、

を当てる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
甲斐朋子「複合動詞『〜こむ』の程度深化の用法」https://www.apu.ac.jp/rcaps/uploads/fckeditor/publications/polyglossia/Polyglossia_V2_Kai.pdf

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責む


「責む」は、口語でいえば、

責める、

である。「せむ」は、

責む、
迫む、
攻む、

と当てる(岩波古語辞典)。

セシ・セバシ(狭)と同根、

とある(仝上)。たとえば、

攻める、

は、

迫むの転、

とあり(広辞苑)、

責める、

は、

攻めると同根、

とある(仝上)。「せし」は、

狭し、

と当て、

御勢まさりて斯かる御住ひも所せしければ(源氏物語)、

と、

ゆとりがない、
窮屈である、

意であり、「せばし」は、

狭し、
陝し、

と当て、

セシ(狭し)・セム(攻む)と同根、

で、

三蔵の中の修多羅(経)は竪(たたさま)には長く横さまにはせばし(法華義疏)、

と、

(窮屈に感じるほどに)面積や幅が小さい、せまい、

意で使う(岩波古語辞典)。

迫む、
逼む、

と当てる「せむ」由来かと思われるが、

狭(セ)を活用す、

とあり(大言海)、

せまる、
せばまる、

意で、

責む、

は、

迫むの他動、狭(セバ)むる、

意で、

迫りて、苦しめる、

意とある(仝上)。その延長線上に、

攻む、

が来ることになる。

物理的に距離を狭める

(相手との距離を詰める、はげしく迫る)

心理的に距離を狭める、

(追い詰める、窮地に追い込む)

といった、「距離」をメタファに転じて意味の外延を広げていった感じである。

「責」(慣用セキ、漢音サク、呉音シャク)は、

会意兼形声。朿(シ 束(ソク)ではない)は、先のとがったとげや針を描いた象形文字で、刺(シ さす)の原字。責は「貝(財貨)+音符朿」で、貸借について、とげでさすように、せめさいなむこと。債の原字、

とある(漢字源)。

負債が、だんだんと重なることから「つむ」の意が生じた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B2%AC

人から金銭をむしり取る、ひいて「せめる」「せめ」の意を表す、

ともある(角川新字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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いぶせし


永春も、少しいぶせく思ひ、何かと陳じけれども、女房聞きもいれず(片仮名本・因果物語)、

にある、

いぶせく思ひ、

は、

気づまりに思い、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「いぶせく」は、形容詞「いぶせし」のク活用の、

未然形 いぶせ・(く){ズ}
      いぶせ・から
連用形 いぶせ・く{ナル/ケリ}
      いぶせ・かり
終止形 いぶせ・し{。}
連体形 いぶせ・き{トキ}
      いぶせ・かる
已然形 いぶせ・けれ{ドモ・バ}
命令形 いぶせ・かれ{。}

と活用する「いぶせし」の連用形になる(広辞苑)。日葡辞書(1603〜04)には、

いぶせい、

とあり、

中世、近世には口語形「いぶせい」も見られる、

とある(精選版日本国語大辞典)。「いぶせし」は、

鬱悒し、

と当て、

セシは狭しの意、憂鬱な気持ちの晴らしどころがなく、胸のふさがる思いである、

意とあるが(岩波古語辞典)、

「何らかの障害があって、対象の様子が不分明なところから来る不安感・不快感」を示すのが原義、

と見られる(精選版日本国語大辞典)ともある。だから、

たらちねの母がかふ蚕(こ)の眉(まよ)ごもり馬声蜂音石花蜘蟵(いぶせくも)あるか妹にあはずして(万葉集)、

と、

心がはればれとしないで、うっとうしい、
気がふさぐ、
気づまりだ、

という意味になる。そこから、

いかで、いとにはかなりける事にかはとのみ、いぶせければ(源氏物語)、

と、

気がかりでおぼつかない、
心にかかる、
気にかかる、

と少し気がかりの焦点が合い、さらに、

いぶせくなどはあらで、いとらうらうじく恥づかしげなる気色も添ひて(源氏物語)、

と、

(対象となる人や事物が)いとわしくていやだ、
不快だ、
不愉快だ、

と、状態表現から、明らかな価値表現へと転じ、

是を見かける万人、まことに目覚ましくいぶせきこと限りなし(室町殿日記)、

と、

(胸が苦しくなるほど)怖ろしい、
気味がわるい。
恐ろしく、危険にみえる、

と、感情表現が極まる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

これが中世になると、「いぶかし」と混用して、

さやうの人のいかなる事にてか(越後へ)出で給ふらめと、いぶせくはべりしかば(選集抄)、

と、

気がかりである、
不審である、

意で使うに至り、

いぶせき事も忘られて、あさましげなるかたはうどにまじはって(平家物語)、

と、

きたならしい、
むさくるしい、
貧しく、みすぼらしい、

意で使い、また、

気味がわるい、
恐ろしい、

の意に用いられるが、現在では方言として残存するのみである(精選版日本国語大辞典)とある。因みに、

いぶせし、

と、

いぶかし、

の違いは、

「いぶせし」は、どうしようもなくて気が晴れない。「いぶかし」はようすがわからないので明らかにしたいという気持ちが強い、

とある(学研全訳古語辞典)。

なお、「いぶせし」の由来は、

鬱悒狭(いぶせ)し、

とある(大言海)ように、「せし」は、

狭し、

のようだが、「イブ」については、

動詞イブス(燻)と同根か(角川古語大辞典)、
イブカル・イブカシのイブ、オホ(オボ)ロカのオボと同源(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、

などとあるがはっきりしない。

「鬱」(漢音ウツ、呉音ウチ)は、字源について説が分かれていて、一つは、

甲骨文字・金文は「林」+「勹」(かがんだ人)+「大」(立った人)、人が生い茂った草木の中に隠れる様子を象る。「茂る」を意味する漢語{鬱 /*ʔut/}を表す字。「爵」の略体を加えて「鬱」となる、

とするもの、いまひとつは、

会意形声。「林」+音符「𩰪」(ウツ:「臼」+「缶」+「鬯」+「冖+「彡」)。音符の文字は、瓶にこもらせ酒に香草でにおいをつけることを意味する会意文字。木に囲まれ、ふさがった様子、

とするものとがあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AC%B1、とする。漢字源は、

会意兼形声。鬱の原字は、「臼(両手)+缶(かめ)+鬯(香草で匂いを付けた酒)」の会意文字で、かめにとじこめて酒ににおいをつける草。鬱はその略体を音符とし、林を添えた字で、木々が一定の場所にとじこめられて、こんもりと茂ることをあらわす。中に香りや空気がこもる意を含む、

とするが、

この記述は甲骨文字や金文などの資料と一致していない記述が含まれていたり根拠のない憶測に基づいていたりするためコンセンサスを得られていない、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AC%B1。別に、

会意兼形声文字です。「大地を覆う木の象形と酒などの飲み物を入れる腹部の膨らんだふたつき土器の象形」(「柱と柱の間にある器」の意味)と「穀物の粒と容器の象形とさじの象形と長く流れる豊かでつややかな髪の象形」(「におい草」の意味)から、「立ち込めるよい香り」、「(よい香りが)ふさがる」
を意味する「鬱」という漢字が成り立ちました、

とあるのもhttps://okjiten.jp/kanji2081.html、漢字源と同趣旨である。「鬱蒼」「憂鬱」などと、「こもる」「ふさがる」という意である。

「悒」(漢音ユウ、呉音オウ)は、

会意兼形声。邑(ユウ)とは「口(一定のわく内の場所)+人の服従した姿」からなり、配下の人民が服従している領地のこと。枠の中に押し込めて屈服させる意を含む。「悒」は、「心+音符邑」で、心が狭い枠の中に押し込められて伸びないこと、

とあり(漢字源)、「悒悒」「悁悒(エンユウ)」「悒鬱(ユウウツ)」と「うれえる」「うっとおしい」意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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徧参(へんさん)


其の後、徧参(へんさん)して歩きけるが、蛇守ァ(しゅざん)と人々云ふ也(片仮名本・因果物語)、

にある、

徧参、

は、辞書になく、

遍参、

と当て、

あそこへここへ遍参し回って(蓬左文庫本臨済録抄)、

と、

禅僧が諸寺を行脚歴訪して参學する、

意で使うのの、当て字ではあるまいか。

「遍」(ヘン)は、

会意兼形声。「辶+音符扁(ヘン 平らかにひろがる)」、

で、「あまねく」「まんべんなくひろがる」意であり、「徧」(ヘン)は、あまり辞書に載らないが、やはり「あまねく」の意で、「周」が、

徧也、至也、密也と註す、十分に行き届く義、

に対して、「徧」は、

周と略々同じく、意やや軽し、

とあり、「遍」は、

徧に同じ、

とある(字源)。その意味では、漢字から見て、

徧参、



遍参、

は、同義と考えられる。

ところで、「徧参」との絡みで、同じく、

へんさん、

と訓み、

上半身を覆う法衣。インドの衣に由来し、左前に着る、

という(広辞苑)、

偏衫、
褊衫、

と当て、

へんざん、

とも訓ませる

左肩から右脇にかけて上半身を覆う僧衣、

がある(岩波古語辞典)。

北宋初の『僧史略(大宋僧史略 だいそうそうしりゃく)』に、

後魏宮人、見僧自恣偏袒右肩、乃一施肩衣、號曰偏衫、全其両肩両袖、失祇支之體、自魏始也、

とあり、「僧祇支(そうぎし)」については、戦国時代の、『林逸(りんいつ)節用集』に、

此名、覆膊。亦なお、掩腋衣、

と注記している。

saṃkakṣikā の音訳、

で、

袈裟の下に着る腋をおおう長方形の衣。袈裟が汗などでよごれるのを防ぐ。肩にかけ、両端で左右の腋や胸・乳をおおって着る、

とある(精選版日本国語大辞典)。

覆腋衣(ふくえきえ)、
覆肩衣(ふくけんえ)、

ともいう。

インドで成立した袈裟に、さらにその下につける法衣として中国において形成された、

もので、

左肩を覆う僧支(掩腋衣)に右肩に覆肩衣が合一して、襟や袖がつけられたもの、

といわれているhttps://costume.iz2.or.jp/costume/14.html。日本では、仏教伝来当初より用いられ、

色は壊色(えじき)、背は襟下で割れ左前に着ける、

とある(仝上)。これはその成立当時の原形を留めていて、日本の服装として、

左衽(さじん)、

つまり、

衣服の右の衽(おくみ)を、左の衽の上に重ねて着る、

ひだりまえ、
ひだりえり、

のものはこれだけである(仝上)。なお、

下半身には同色の裙(くん)をつけるのが通常で、袈裟は同じく壊色(えじき)の如法衣(にょほうえ)、

で、これは、

中国伝来後吊り紐が附加されているが、この服装がインド古制に近いものと考えられていた。「律」及びこれを含む宗派に用いられ、現在もほぼ同様の形状がうけつがれている、

とあるhttps://costume.iz2.or.jp/costume/14.html

「偏」(ヘン)は、

会意兼形声。扁は「戸(平らな板)+冊(薄いたんざく)」の会意文字で、薄く平らに伸びたの意を含む。平らに伸びれば行き渡る(遍)、また周辺に行き渡ると、周辺は中央から離れるの意を派生する。偏は「人+音符扁」で、おもに扁の派生義、つまり中央から離れてかたよった意をあらわす、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(人+扁)。「横から見た人」の象形と「片開きの戸の象形と文字をしるしたふだをひもで編んだ象形」(「門戸に書き記した札」の意味だが、ここでは「辺(邊 ヘン)」に通じ(同じ読みを持つ「辺(邊)」と同じ意味を持つようになって)、「中心にない」の意味)から、中正でない人、すなわち、「かたよる」を意味する「偏」という漢字が成り立ちました、

との説もあるhttps://okjiten.jp/kanji2016.html

「褊」(ヘン)は、

会意兼形声。「衣+音符扁(ヘン うすっぺらな)」、

とあり(漢字源)、

形声文字。「衣」と音符「扁」を合わせた字で、衣服がきつく「せまい」という意味、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A4%8A

「衫」(漢音サン、呉音セン)は、「かざみ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491822373.htmlで触れたように、

会意兼形声。「衣+音符彡(サン 三。こまごまといくつもある)」、

とあり、「汗衫」(カンサン)の下着、「衫子」(サンシ)と、婦人用のツーピースの上着、「半衣」ともいう、とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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馬口労(ばくろう)


馬口労(ばくろう)を業(わざ)として、世を渡りけり(片仮名・因果物語)、

にある、

馬口労、

は、

博労、
馬喰、

あるいは、

伯楽、

とも当て(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、

馬の売買をする人、

の意であり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、文明本節用集には、

博労、バクラウ、馬商人、

とあるが、必ずしも馬だけではなく、

牛や馬のことに詳しく、またその売買の仲介などを業とする者、また、馬や牛の病気を治したり、調教をしたりする者、転じて、牛馬の売買をすること、また広く物と物とを交易すること、

ともあり(日本語源大辞典)、「ばくろう」は、

伯楽の転、

とある(岩波古語辞典)。「伯楽」(ばくろう)は、

古代中国の馬の鑑定の達人とも、また馬を守護する星の名ともされ、転じて村々を回って農家から牛馬を買い集め、各地の牛馬市などでこれを売りさばく者をさして呼んだ。また、獣医の普及以前、馬の血取りや治療、あるいは牛の治療などを業とした者にも伯楽の字があてられたが、この場合は「はくらく」と呼ばれた。両者とも馬相鑑定の技術にすぐれていることが必要で、もともと両者は兼ね行われたらしく、その分化はきわめて曖昧である、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。日本では、史料上は鎌倉中期から登場し、『北条九代記』の中に、弘安三年(1280)
11月の鎌倉の火災について、

柳厨子より博労坐に至る、

と記されているのが初見で(世界大百科事典)、

牛馬の仲買人の称、

として、

当時から座を形成し、

大馬喰・子方馬喰(地馬喰)・牛追い(牛回し)・旅馬喰、

の4種に分けられ、縄張りを定めて自己の営業区域とし、域内の家畜の売買、交換、斡旋(あっせん)を行う、

とある(マイペディア)。京都では『庭訓往来』に、

室町伯楽、

とあるように五条室町の馬市が有名であり、この馬市で活躍する伯楽は、室町座を形成し、石清水八幡宮駒形神人の支配を受けていた(世界大百科事典)。現在は、家畜商と呼ばれ家畜商法に基づき免許を要する(仝上)とある。

「ばくらう(ばくろう)」の由来は、

伯楽の転、

ということになるが、

唐の韓愈の書いた「雑説」に、「世に伯楽ありて、然る後に千里の馬あり」の文があり、ハクラク(伯楽)は馬の鑑定人の名であった。
わが国では、牛馬を売買する商人のことを伯楽といった。〈長五郎宗政、伯楽の事を奉行すべき旨、仰せ付けらる〉(東鑑)。東北地方では「獣医」のことをハクラクといっている。
語尾の「ク」のウ音便でハクラウ・バクラウ(馬喰・博労)に転音した。〈身どもは牛の善悪を存ぜぬ。ここに身どもの存じたバクラウがござる〉(狂言・横座)。さらに転音して、バクロウ・バクロ・ハゲクラといい、牛馬の売買・周旋人のことをいう、

とある(日本語の語源)。「鉏雨亭随筆(嘉永五年(1852))」にも

俗謂互市馬曰博労、初余不詳其義、偶閲韻書、伯楽一作博労、乃知互市之際、能相馬者、或称之曰博労、後訛為互市之義、

とある。

「博」(漢音呉音ハク、慣用バク)は、

会意兼形声。甫は圃の原字で、平らで、広い苗床。それに寸を加えた字(フ・ハク)は、平らに広げること。博はそれを音符とし、十(集める)を添えた字で、多くのものが平らにひろがること。また拍(ハク うつ)や搏(ハク うつ)に当て、ずぼしにぴたりとうちあてる意をあらわす、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(十+尃)。「針」の象形(「針」の意味だが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「多い」の意味)と「田んぼの象形と苗の象形と手の象形」(「田の苗を広く植える」の意味)から「ひろい」を意味する「博」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji684.html

「勞(労)」(ロウ)は、

会意文字。勞の上部は、火を周囲に激しく燃やすこと。勞はそれに力を加えた字で、火を燃やし尽すように、力を出し尽すこと。激しくエネルギーを消耗する仕事や、その疲れの意、

とある(漢字源)。別に、

会意。力と、熒(けい)(𤇾は省略形。家が燃える意)とから成る。消火に力をつくすことから、ひいて「つかれる」、転じて「ねぎらう」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(熒の省略形+力)。「たいまつを組み合わせたかがり火」の象形と「力強い腕」の象形から、かがり火が燃焼するように力を燃焼させて「疲れる」、また、その疲れを「ねぎらう」を意味する「労」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji719.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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払子(ほっす)


牛の尾切れ落ちて、再び僧の貌(かたち)となる。其の牛の尾払子(ほっす)と作して、今に至る也(片仮名本・因果物語)、

にある、

払子、

は、

獣毛、麻などを束ね、柄を付けたもの、法会や葬儀などの時の、導師の装身具とする、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「払子」は、

唐音、

とある(大言海・岩波古語辞典)。「払」は、

漢音フツ、
呉音ホチ、

だが、唐音、

ホツ、

「子」は、漢音、呉音共に、

シ、

だが、唐音、

ス、

である(漢字源)。

もとインドで蚊や蠅を追うのに用いたが、のち法具となり、日本では禅僧が煩悩・障碍を払う標識として用いる、

とあり、和漢三才図絵には、

拂子、ホッス、ハヘハラヒ……禅僧之所重、如有得道者、師授與之拂子、以為法門之規模矣、今多用羆毛作、

とあり、

サンスクリット語のビヤジャナvyajanaの訳、

で、単に、

払(ほつ)、

あるいは、

払麈(ほっす)、

と呼び(日本大百科全書)、

白払(はくふつ・びゃくほつ)、
払塵(ふつじん)、
麈尾(しゅび・しゅみ)、

ともいう(広辞苑・デジタル大辞泉)。「麈尾」は、

「麈」は大きな鹿の意、

で、

大鹿の尾の動きに従って、他の鹿の群れが動くところから、他が従うという意を寓して、その尾にかたどって作られたという、

とある(デジタル大辞泉)。

後世、中国・日本で、

僧が説法などで威儀を正すために用いる法具。真宗以外の各派で高僧が用いる、

とある(大辞林)。日本へは、鎌倉時代に禅宗とともに伝わった。

律云、比丘患草蟲、佛聴作拂洲子、

とあり(釋氏要覧)、。『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』に、

比丘が蚊虫に悩まされているのを知った釈尊は、羊毛を撚(よ)ったもの、麻を使ったもの、布を裂いたもの、破れ物、木の枝を使ったものなどに柄をつけて、払子とすることを許したという、

とある(日本大百科全書)。

元来の実用具から、

邪悪を払う功徳あるもの、

とされるようになり、中国では禅僧が盛んに用いて、

一種の荘厳具(しようごんぐ)、

とされたという流れになる。運歩色葉集(室町時代編纂の国語辞典)には、

払子、ホッス、禅家説法之時持之、

とある。

「払(拂)」(漢音フツ、呉音ホチ、唐音ホツ)は、

会意兼形声。弗(フツ)は「弓(たれたつる)+八印(左右にはねる)」からなり、たれたつるを左右に払って切るさま。拂は「手+音符弗」で、左右にはらいのける動作を示す。手を左右に振るのは拒否し、否定する表現でもある、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(扌(手)+弗)。「5本の指のある手」の象形と「からまるひもを2本の棒でふりはらう」象形(「はらいのける」の意味)から、「手ではらいのける」を意味する「払」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1114.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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算用


紀州、勇士某(なにがし)と云ふ人の祖父、賄ひ為(し)ける時、算用を遂げず病死す(片仮名本・因果物語)、
手代どもを喚(よ)ぶべし、急度(きっと)算用遂げん(仝上)、
我は算用に来たり、後世の沙汰、無益(むやく)なりと云ふて(仝上)、

などとある、

算用、

は、古くは、

さんにょう、

とも訓ませたが、普通、

算用合って銭(ぜに)足らず、

というように、

金銭の額や物の数量を計算すること、
勘定、

の意(この場合、「散用」とも当てる)や、その意の関連で、

色茶屋の算用(浮・好色旅日記)、

と、

支払うこと、
決済すること、
清算すること、

の意で使ったり、それをメタファに、

筭用(サンヨウ)して合点のゆかぬ女(浮・西鶴織留)、

と、

考え合わせてよしあしや過不足をきめること、

と、考えの決算を付ける意や、

是はさんようの外也(浮・真実伊勢物語)、

と、

見積りを立てること、また、その見積り、
予想、

の意で使ったりする。しかし、上記引用の「算用」は、どの意味にも合わない。むしろ、

現世は長者と悦んで閻魔の前で算用せいと(浄・大経師昔暦)、

にある、

きまりをつけること、
決着をつけること、

の意味が合う。

決算する、

という意味の流れと見れば、

決着をつける、

も、意味の外延にはいるとはいえる(日本国語大辞典)。「算用」は、漢語にはなく、

算木(さんぎ)にて計るなり、

とあり(大言海)、「算木」は、

十界十如は法算ぎ、法界唯心覚りなば、一文一偈を聞く人の、仏に成らぬは一人なし(梁塵秘抄)、

とある、

和算で使われた中国伝来の計算用具、

を指す。

木製の小さな角棒で、赤は加、黒は減を示す。これを方眼を引いた厚紙ないしは木製の盤上に並べて数を表わし、配列を変えることによって四則・開平・開立などの計算を行なう、

とある(精選版日本国語大辞典)。中国では、

算・策・籌などと呼ばれ、宋・元時代以降はこれを用いて高次方程式が解かれたが、日本でも江戸時代にはこの目的のために使用された、

とある(仝上)。

算、
算籌(さんちゅう)、

ともいう。「算木」はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%97%E6%9C%A8に詳しい。「算用」は、文字通り、

算を用いる、

という「計算」の意である。

「算用」は、熟語化されていて、

算用合(あひ)、

といえば、

いかに親子の中でも、たがひの算用合はきつとしたがよい(浮世草子・胸算用)、

と、

計算して数を合わせること、帳合、
勘定、

の意だし、

算用(散用)状、

は、

中世、荘園年貢の収支計算書、

の意、

算用立(だて)、

は、

前髪もある私が親ほどな山城屋、算用立も申しにくし(浄・淀鯉)、

と、

帳簿などを計算しなおして収支を検査すること、
算用の吟味、

算用尽(づ)く、

は、

損得ばかり考えて物事をする、
勘定づく、

算用詰、

は、

決算、

算用場、

は、

商家の帳場、

算用高い、

は、

勘定高い、
けちである、

算用違い、

は、

計算ちがい、
考え違い、誤った考え、

算用無し、

は、

俄かに金銀を費し、算用無しの色遊び(日本永代蔵)、

と、

金銭に関して、向うみずなこと、

算用酒、

は、

江戸時代、商取引の支払い勘定の後、双方で飲む祝い酒。えびす神に供え、商売繁盛を祈った、

等々と使われる(広辞苑・大辞泉・日本国語大辞典)。

「算」(漢音呉音サン、唐音ソン)は、

会意文字。「竹+具(そろえる)」で、揃えて数える意、

とある(漢字源)。これだとわかりにくいが、

竹と、具(ぐ そろえる。𥃲は変わった形)とから成り、数取りの竹をそろえて「かぞえる」意を表す、

とある(角川新字源)。別に、

会意文字です(竹+具)。「竹」の象形(「竹」の意味)と「子安貝(貨幣)の象形と両手の象形」(「両手で備える(準備する)」の意味)から、「竹の棒を両手で揃(そろ)える、数(かぞ)える」を意味する「算」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji229.html

「用」(漢音ヨウ、呉音ユウ)は、

会意文字。「長方形の板+ト印(棒)」で、板に棒で穴をあけ通すことで、つらぬき通すはたらきをいう。転じて、通用の意となり、力や道具の働きを他の面にまで通し使うこと、

とある(漢字源)が、別に、

象形、柵を象ったもので、そこに動物を飼い、犠牲に用いたことによる(白川静)、

とする説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%A8

象形。材木を組んで造ったかきねの形にかたどる。借りて「もちいる」意に用いる、

とする説(角川新字源)、

象形文字です。「甬鐘(ようしょう)という鐘の象形」で、甬鐘は柄を持って持ち上げて使う事から、「とりあげる」、「もちいる」を意味する「用」という漢字が成り立ちました、

とする説https://okjiten.jp/kanji372.htmlもある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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贓物(ぞうもつ)


盗人聞いて、贓物(ぞうもつ)捨てて去りにけり(片仮名本・因果物語)、

の、

贓物、

は、

盗物、

の意で、室町時代の意義分類体の辞書『下學集』に、

贓物 注「盗物(ヌスミモノ)也」、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

玉篇(南朝梁の顧野王によって編纂された部首別漢字字典)に、

贓、蔵(カクス)也、

とあり、廣韻(北宋期、『切韻』『唐韻』を増訂して作った韻書(漢字を韻によって分類した書物))には、

納賄曰贓、

とあり、「贓物」の「贓」は、

其羞辱、基於貪汗坐贓(漢書・賞尹傳)、

と、

賄賂(マヒナヒ)、盗賊(ヌスミ)などにて、取りたる財物(シナモノ)、

とある(大言海)。

贓品、

ともいい、漢語では、

ぞうぶつ、

と訓ます(字源)。

窃盗など財産に対する罪に当たる行為によって得た財物で、被害者が法律上の回復追求権をもつもの、

とある(広辞苑)。で、1995年刑法改正前には、

盗品など(贓物)の無償での譲り受け(収受)・運搬・保管(寄蔵)・有償での譲り受け(故買)・有償の処分についての斡旋(牙保)をすることにより成立する罪。盗品等に関する罪、

を、

贓物罪、

呼んだ(仝上)。この場合、

ぞうぶつ、

と訓ます。

「贓」(慣用ゾウ、漢音呉音ソウ)は、

会意兼形声。臧(ソウ)は、強いどれいのこと。藏(蔵)は、その音を借りた形声文字で、倉という意味を表わす。贓は「貝+音符臧(ソウ 藏・倉)」で、財貨を取り込んで、ひそかにしまいこむこと、

とある(漢字源)。その意味で、

今夜、香雲庵へ盗人入り、塗籠の贓物これをとらる(看聞御記)、

と、

蔵にしまってある物品、

の意で使うのも、「贓」の意から離れているわけではない。

「物」(漢音ブツ、呉音モツ・モチ)は、

会意兼形声。勿(ブツ・モツ)とは、いろいろな布でつくった吹き流しを描いた象形文字また、水中に沈めて隠すさまともいう。はっきりとみわけられない意を含む。物は「牛+音符勿」で、色合いの定かでない牛。一定の特色がない意から、いろいろなものをあらわす意となる。牛は、ものの代表として選んだに過ぎない、

とある(漢字源)が、

勿は「特定できない」→「『もの』の集合」の意(藤堂明保)、

説以外に、

犂で耕す様(白川静)、

とする説もありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%89%A9

古い字体がなく由来が確定的ではない、

とある(仝上)。牛説は、

形声。牛と、音符勿(ブツ)とから成る。毛が雑色の牛の意から、転じて、さまざまのものの意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(牜(牛)+勿)。「角のある牛」の象形と「弓の両端にはる糸をはじく」象形(「悪い物を払い清める」の意味)から、清められたいけにえの牛を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「もの」を意味する「物」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji537.htmlある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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車軸を流す


俄に大雨降りて車軸を流し、雷電轟て、四方黒闇(くらやみ)と成り、東西を失す(片仮名本・因果物語)、

にある、

車軸を流す、

は、

激しい大雨が降る、

の意(高田衛編・校注『江戸怪談集』)で、

折節降る雨車軸(シャヂク)を下(クダ)して、鈴鹿川に洪水漲(みなぎ)り下りて(源平盛衰記)、

と、

車軸を下す、

とも言い、

車軸のような太い雨脚の雨が降る、

という、

大雨の形容、

である(雨のことば辞典)。

「車軸」は、漢語で、

吾馬病、車軸折(史記・范睢傳)、

と、

車の軸、
車の心棒、

の意で、

しんぎ(心木)、

ともいうが、

漸降大雨、滴如車軸(長阿含経)、

と、

大雨の形容、

としても使う(字源・大言海)。で、

折ふし降る雨、車軸の如し(平家物語)、

と、

大雨の形容として使う。

大降り、
本降り、
ざあざあ降り、
土砂降り、
横殴り、
天の底が抜けたよう、

という言い方と重なる。

「車」(シャ)は、

象形。車輪を軸止めでとめた二輪車を描いたもので、その上に尻を据えて告る、または乗せるものの意。もと、居(キョ)と同系。キョの音に読むことがあるのは、上古音ののこったもの、

とある(漢字源)。別に、

象形。馬に引かせるくるまの形にかたどり、「くるま」の意を表す。ひいて、軸を中心にして回転するしかけの意に用いる、

ともある(角川新字源)。

「軸」(漢音チク、呉音ジク)は、

会意兼形声。「車+音符由(仲から抜け出る)で、車輪の中心の穴を通して外へ抜け出ている心棒、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(車+由)。「車」の象形と「底の深い酒ツボ」の象形(「よる(もとづく)」の意味)から、回転する車のよりどころとなる部分「じく」を意味する「軸」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1305.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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正念に往生す


母、程なく煩ひ付きて、正念往生す(片仮名本・因果物語)、

の、

正念に往生す、

は、

安らかな死を迎えた、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。別に、

臨終正念(りんじゅうしょうねん)、

という言葉がありhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%87%A8%E7%B5%82%E6%AD%A3%E5%BF%B5

臨終のときに心が乱れることなく、執着心に苛まれることのない状態のこと、

とあるのに重なるのだろう。

願わくは弟子等、命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱(しゃくらん)せず、心失念せず、身心に諸の苦痛なく、身心快楽(けらく)にして禅定に入るが如く、聖衆現前したまい、仏の本願に乗じて阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえ、

とある(善導『往生礼讃』発願文)のが、

臨終正念のありさまを示したもの、

とされる(仝上)。これは、

臨終正念なるが故に来迎したまうにはあらず、来迎したまうが故に臨終正念なりという義明(あきらか)なり、

とある(法然『逆修説法』)ことや、

念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし、

という(歎異抄)の、

他力本願、

からいえば、

念仏申す毎に罪を滅ぼして下さると信じて「念仏」申すのは、自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、

となり、

一心に阿弥陀如来を頼むこと、

に通じていくhttp://www.vows.jp/tanni/tanni29.htm

「正念」は、「正念場」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464644622.htmlで触れたように、

八正道(はっしょうどう)、

の一つとされ(詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93に譲る)、

八聖道、

とも書く、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目、

正見(しょうけん 正しい見解、人生観、世界観)、
正思(しょうし 正しい思惟、意欲)、
正語(しょうご 正しいことば)、
正業(しょうごう 正しい行い、責任負担、主体的行為)、
正命(しょうみょう 正しい生活)、
正精進(しょうしょうじん 正しい努力、修養)、
正念(しょうねん 正しい気遣い、思慮)、
正定(しょうじょう 正しい精神統一、集注、禅定)、

の1つで(日本大百科全書)、釈迦は、

それまでインドで行われていた苦行を否定し、苦行主義にも快楽主義にも走らない、中なる生き方、すなわち中道を主張したが、その具体的内容として説かれたのがこの八正道である、

とされ(世界大百科事典)、釈迦の教説のうち、おそらく最初にこの、

八正道、

が確立し、それに基づいて、

四諦(したい)、

説が成立し、その第四の、

道諦(どうたい 苦の滅を実現する道に関する真理)、

はかならず「八正道」を内容とした。逆にいえば、八正道から道諦へ、そして四諦説が導かれた、

とある(日本大百科全書)。「四諦(したい)」は、

四聖諦(ししょうたい)、

ともよばれ、「諦(たい) サティヤsatya、サッチャsacca)」は真理、真実をいい、

迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理、

とされ(精選版日本国語大辞典)、

苦諦(くたい 人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実)、
集諦(じったい その苦はすべて自己の煩悩や妄執など広義の欲望から生ずるという真実)、
滅諦(めったい それらの欲望を断じ滅して、それから解脱し、涅槃の安らぎに達して悟りが開かれるという真実)、
道諦(どうたい この悟りに導く実践を示す真実)

で、この、

苦集滅道(くじゅうめつどう)、

の四諦は原始仏教経典にかなり古くから説かれ、とくに初期から中期にかけてのインド仏教において、もっとも重要視されており、その代表的教説とされた(日本大百科全書)、とある。

要は、「正念」とは、

四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいること、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

意識が常に注がれている状態、

である。しかし、他力本願では、

自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、

ではなく、

一心に阿弥陀如来を頼み、命の終わる最後まで、怠ることなく念仏し続けること、

を指すと思われる。この、

正念、

と、

正念場・性念場、

との関係については、「正念場」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464644622.htmlで触れた。

「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

会意。「一+止(あし)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(真っ直ぐに進む)の原字、

とある(漢字源)が、

「止」が意符、「丁」が声符の形声字で、本義は{征(討伐する)}。従来は、「−」(目標となる線)+「止」からなり「目標に向けてまっすぐ進むこと」を表すとされたが、甲骨文・金文中でこの字の上部は円形もしくは長方形で書かれ、それらの部分(すなわち「丁」字)が後に簡略化されて棒線となったに過ぎないことから、この仮説は誤りである、

とする説があるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3。別に、

会意。止と、囗(こく=国。城壁の形。一は省略形)とから成り、他国に攻めて行く意を表す。「征(セイ)」の原字。ひいて、「ただす」「ただしい」意に用い、また、借りて、まむかいの意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji184.html

「念」(漢音デン、呉音ネン)は、「繋念無量劫」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491112345.htmlで触れたように、

会意兼形声。今は「ふさぐしるし+−印」からなり、中に入れて含むことをあらわす会意文字。念は「心+音符今」で、心中深く含んで考えること。また吟(ギン 口を動かさず含み声でうなる)とも近く、経をよむように、口を大きく開かず、うなるように含み声でよむこと、

とある(漢字源)。別に、

形声。心と、音符今(キム、コム)→(デム、ネム)から成る。心にかたくとめておく意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(今+心)。「ある物をすっぽり覆い含む」事を示す文字(「ふくむ」の意味)と「心臓」の象形から、心の中にふくむ事を意味し、そこから、「いつもおもう」を意味する「念」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji664.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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剰(あまつさ)へ


六歳まで物言ふこと契(かな)はず。剰(あまつさ)へ、親をも見知らず(片仮名本・因果物語)、

の、

剰(あまつさ)へ、

は、

前文をうけて、それだけでも並大抵でないのに、その上にさらに(悪いことが)加わる意を表す、
その上、
おまけに、

の意とある(広辞苑)。さらに、状態表現から、

amassaye(アマッサエ)フウジヲモトカイデ(天草本平家)、

と、価値表現を強めて、

(事態の異状なことなどに直面して)驚いたことに、あろうことか、

の意でも使う(日本国語大辞典)。

「あまつさへ(え)」は、

アマリサエの音便アマッサエの転、

とあり(仝上)、「あまっさへ」は、

余り+さへの音便、

ということになる(日本語源広辞典)。

奈良時代に伝来した、唐初の伝奇小説『遊仙窟』(ゆうせんくつ)では、

剰、アマッサヘ、

とし、

類聚名義抄(11〜12世紀)には、

剰、アマリサヘ、

色葉字類抄(1177〜81)には、

剰、アマサヘ、アマッサヘ、

室町時代の文明年間以降に成立した『文明本節用集』には、

剰、アマッサヘ、

日葡辞書(1603〜04)にも、

アマッサエ、

とあり、

近年はアマツサエが多いが、転ずる前の形のアマッサエも使う、

とある(広辞苑)。

あまりさへ→あまさへ→あまっさへ→あまつさへ→あまつさえ、

と転訛してきたことになる。

「剰」は、

唐の時代に行われた助字で、わが国では「あまりさへ」と訓読された。中世まで一般に、

あまさへ、

と表記されるが、これは「あまっさへ」の促音無表記、「落窪物語」には、

子三人、婿取りたれど、今に、我れにかかりてこそはありつれ、アマサヘ、憂き恥の限りこそ見せつれ、

と、

落窪の公の父の言葉に「あまさへ」の語が見えるところから、「あまっさへ」は平安時代にはすでに男子の日常語になっていたと考えられる、

とあり(日本語源大辞典)、近世には、

あまっさへ、

と表記されるようになり、近代以降は文字に引かれて「あまつさへ」となった、

とある(仝上・岩波古語辞典)。つまり、

「あまっさへ」の「っ」を、促音でなく読んでできた語、

である(大辞泉)。

「あまさへ」の「さへ」は、

辞(テニハ)のサヘなり、

とあり、

「あまさへ」は、

(あまりさへの)中略なり(わたりまし、わたまし)、

「あまっさへ」は、

急呼なり(のりとる、のっとる。ほりす、ほっす)、

とある(大言海)。

「剰」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、

会意兼形声。乘(乗)は、人が木の上に登ったさまを示す会意文字で、登・昇(のぼる)と同系の言葉。剩は「刀+乘」。予定分を刀で切り取っても、なおその上に残った余分のあることを示す。上に出た分、つまり、あまりのこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(乗(乘)+刂(刀))。「両手両足を開いた人の象形と木の象形」(木にはりつけになってのせられた人の意味から、「のる」の意味)と「刀」の象形(「中国古代の、刀の形をした貨幣」の意味)から、「利益が上乗せされる」を意味する「剰」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1935.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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血脈


木を切り、塔婆を立て、血脈(けちみゃく)を収め、七日弔へば(片仮名本・因果物語)、

の、

血脈(けちみゃく)、

は、

在家の俗人に与える仏法の法門相承の系譜。これを受けると出家と同じ功徳があると言われる、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「血脈」は、

ケツミャク、

とも訓み、漢語で、

血脈欲其通也、筋骨欲其固也(呂覧(呂氏春秋))、

と、

血液の通ふ脈管、

つまり、

血管、

の意である(字源)。それをメタファに、

訪査血脈所(梁書・劉杳傳)、

と、

血筋、
血統、

の意でも使う(仝上)。そのメタファで、仏語で、

法脈、
法統、

の意で、

仏法の奥義を師から弟子へへと代々承け伝える、

意としても使う(仝上・岩波古語辞典)。

父祖、子孫の血脈相続の如く、法脈を相続する意也、

という意味である(大言海)。で、

仏祖より授かりたる法門に、外道を混ぜず、正しく、師弟の間に、代々、相傳すること、

で、

師資相承、
法門伝承、

ともいう(仝上)。

自己の継承した法門の正統性と由緒正しさとを証明するものとして、とくに中国、日本で重要視された、

とある(日本大百科全書)。系譜は朱線で示されることが多く、宗派の教理を伝えた系譜を、

宗脈、
または、
法脈、

といい、戒を伝えた系譜を、

戒脈、

という(世界大百科事典)。教法の相承を、

血脈を白骨にとどめ、口伝を耳底に納む、

などと表現し、天台宗、真言宗では師弟の面授口訣を重んじ、その付法のあかしとして血脈系譜を授けた(仝上)という。この始まりは、

仏陀の滅後、特定の弟子に教法や戒律を伝えた、

ことかららしく、中国で宗派が成立すると、各派それぞれに列祖の相承を説くようになる。天台では、

金口、今師、九師の三種相承、

経典によらない禅は、

西天二十八祖と唐土の六祖を立て、相承の物証として、衣や鉢の伝授、

を主張し、別に真理の言葉としての伝法偈や、正法眼蔵の相承を説いて、

伝灯、
血脈、
または
逓代伝法、

とよぶ(仝上)。この意味の派生として、

僧都は、血脈を賜りて、法衣の袖に褱みつつ(源平盛衰記)、

と、

相承の次第を記した系図そのもの、

も意味するようになり(仝上)、師は法を授けた証(あかし)として弟子にその系図を与えた。日本では仏教以外に芸道や連歌、俳諧などでも同様の意で用いる(仝上)という。

その系図を入れるものを、

血脈袋、

という(岩波古語辞典)。また、その応用編のように、上記引用同様、

汝が十念血脈(ケチミャク)受たるもうじゃは、往生疑ひ有べからず(浄瑠璃・賀古教信七墓廻)、

と、

在家(ざいけ)の俗人に与える仏法の法門相承の系譜。これを受けると出家と同じ功徳があるといわれ、生きている間は身からはなさず、死後は遺骸とともに棺に納める、

意ともなる。

「血」(漢音ケツ、呉音ケチ)は、

象形。深い皿に、祭礼にささげる血のかたまりをいれたさまを描いたもので、ぬるぬるしてなめらかに全身を回る血、

とある(漢字源)、別に、

血は体中を勢いよくめぐるので「強く、活気のある」意味にも使われる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A1%80ある。

「脈」(漢音バク、呉音ミャク)は、

会意兼形声。𠂢(ハイ)は、水流の細くわかれて通じるさま。脈はそれを音符とし、肉を加えた字で、細く分かれて通じる血管、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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くり舟


在所の近所に、くり舟あり。其の所にて、彼の牢人を呼ぶこと、頻(しき)り也(片仮名本・因果物語)、

とある、

くり舟、

は、

粗製の川舟。船首船尾とも箱型、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。同じ出典で、

其の夜より、彼の縷(く)り舟の渡りに、化けものありと云ひけり(仝上)、

とある、

縷り舟、

も、文脈から同じ意味かと想像される。この「くり舟」は、

艪を漕ぐのには川底が浅すぎる、棹をさすのには流れが速すぎる――そのやうな川を渡るために、岸から岸へ綱を引き、乗手は綱を手繰つて舟をすすめる、これを繰舟の渡しと称(い)ふ、

とある(牧野信一「繰舟で往く家」)、

繰舟、

のことかと思われる。あまり辞書には載らないが、

渡船(わたしぶね)の両岸に、大綱を架(わた)し、乗る者の両手にて、綱を手繰りて、船を遣る、

とある(大言海)。

タグリブネ、

ともいう(仝上)。ただ、

手繰り船、

と当てると、

手繰り網を引いて魚をとる船、

の意になってしまう(デジタル大辞泉)。室町中期の『梅花無盡蔵』(禅僧万里集九(ばんりしゆうく)の詩文集)に、

出柿崎、大半濱路、黒井、中濱之阯L河、両岸挿柱張大綱、渡者、皆轉手而遣舟、號曰轉舟(くりぶね)、

とある、


轉舟、

も同じだと思われる。とすると、

縷(く)り舟、

に当てた、

縷、

は、

後述のように、

糸、

の意もあるが、

襤縷、

の「縷」で、

ぼろ布、

の意だから、

襤褸舟、

の意なのかもしれない。

ところで、

くり舟、

に、

刳船、

と当てると、

丸木舟、

1本の木を刳(く)り抜いてつくる舟、

の意になる。

独木舟、

ともいう。

「縷」(漢音呉音ル、漢音ロウ)は、

会意兼形声。「糸+音符婁(ル・ロウ 補足つらなる)」、

とあり(漢字源)、「細々と連なる意と」の意と、それをメタファに、「縷説」と、「くどくどしているさま」の意、「襤縷」と、「破れ布をつないだボロ」の意がある。

「操」(ソウ)は、

会意兼形声。喿(ソウ)は、うわついてせわしないこと。操はそれを音符として手を加えた字。手先をせわしなく動かし、うわべをかすめたぐること。繰(ソウ たぐり寄せる)と最も近い。転じて、手先でたぐり寄せて、うまくさばく意となる、

とある(漢字源)。ひいて「みさお」の意を表す(角川新字源)ようにもなる。別に、

形声文字です(扌(手)+喿)。「5本の指のある手」の象形と「器物の象形と木の象形」(「多くの鳥が鳴き、さわがしい」の意味だが、ここでは「巣(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「巣」と同じ意味を持つようになって)、「巣を作る」
の意味)から、鳥が巣を作るように手をたくみに動かす事を意味し、そこから、「あやつる」、「手にしっかり持つ」を意味する「操」という

漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji901.html

「舟」(漢音シュウ、呉音シュ)は、「一葉の舟」http://ppnetwork.seesaa.net/article/490791096.htmlで触れたように、

象形。中国の小舟は長方形の形で、その姿を描いたものが舟。周・週と同系のことばで、まわりをとりまいたふね。服・兪・朕・前・朝などの月印は、舟の変形したもの、

とある(漢字源)。

「舟」と「船」の区別は、「ふね」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463391028.htmlで触れたように、

小形のふねを「舟」、やや大型のふねを「船」、

とするが、「船」と「舟」の違いは、あまりなく、

千鈞得船則浮(千鈞も船を得ればすなはち浮かぶ)(韓非子)、

と、

漢代には、東方では舟、西方では船といった、

とある(漢字源)。今日は、

動力を用いる大型のものを「船」、手で漕ぐ小型のものを「舟」、

と表記するhttp://gogen-allguide.com/hu/fune.htmlとし、

「舟」や「艇」は、いかだ以外の水上を移動する手漕ぎの乗り物を指し、「船」は「舟」よりも大きく手漕ぎ以外の移動力を備えたものを指す。「船舶」は船全般を指す。「艦」は軍艦の意味である。(中略)つまり、民生用のフネは「船」、軍事用のフネは「艦」、小型のフネは「艇」または「舟」の字、

を当てるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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頓(とみ)に


その人々には頓に知らせじ。有様にぞしたがはん(源氏物語)、

とある、副詞、

頓(とみ)に、

は、

早急に、
さっさと、

の意で、

風波とににやむべくもあらず(土佐日記)、

とある、

トニニの転、

で、

多くの場合、下に打消しを伴って使われる。その打ち消された行動は、実は、即座に為し遂げられることが予想・期待される、

とある(岩波古語辞典)が、さらに、

とみにはるけきわたりにて(足が遠のいて)、白雲ばかりありしかば(蜻蛉日記)、

と、

打消しの意を含む語を修飾して、

ばったり、とんと、

の意でも使う(仝上)。「とにに」は、

トニは頓の字音tonに母音iを添えて、toniとしたもの、

で(仝上)、

にわかに、
急に、

の意である。

とみに、
とにに、

が、「頓」の字音からきているためか、

この故に名利とんに捨てがたし(「雑談集(鎌倉後期)」)、
頓(トン)に成就(じゃうじゅ)ある様に(太平記)、

などと、

とんに、

とも訛る。室町時代の文明年間以降に成立した『文明本節用集』では、

頓而、トンニ、

とある。「とみに」の語源について、

とし(疾)の語幹に接尾語みがついたもの、

とする説(大言海)もあるが、上記の土佐日記の、

とにに、

などの形から、

頓の字音の変化したもの、

と見ていいようである(日本語源大辞典)。

とにに→とみに→とんに、

といった転訛であろうか。

さるに、十二月(しはす)ばかりに、とみのこととて御ふみあり(伊勢物語)、

と使う、

とみ(頓)、

も同じで、

頓の字音tonに母音iを添えてトニとしたものの転、

である(岩波古語辞典)。

ニの音とミの音の交替例は、ニラ→ミラ(韮)、ニホドリ→ミホドリ(鳰鳥)、

などがある(仝上)。

時間的に間がおけないさま、
また、
間をおかないさま、
急、
にわか、
さっそく、

の意で、

「とみの」の形で連体修飾語として、また、「とみに」の形で副詞的に用いることが多く、現代ではもっぱら「とみに」の形で用いられる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「頓」(トン)は、

会意兼形声。屯(トン チュン)は、草の芽が出ようとして、ずっしりと地中に根をはるさま。頓は「頁(あたま)+音符屯」で、ずしんと重く頭を地につけること、

とあり(漢字源)、頭を下げる敬礼を意味する漢語(角川新字源)とある。別に、

会意兼形声文字です(屯+頁)。「幼児が髪を束ね飾った」象形(「集まる、集める」の意味)と「人の頭部を強調した」象形(「かしら、頭」の意味)から、頭を下げてきた勢いが地面で一時中断されて、力が集中する事から、「ぬかずく(頭を下げて地につける)」を意味する「頓」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2197.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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しきり


在所の近所に、くり舟あり。其の所にて、彼の牢人を呼ぶこと、頻(しき)り也(片仮名本・因果物語)、

とある、

頻(しき)り、

は、

動詞シキルの連用形から、

とも、

シク(頻)と同根、

ともある(岩波古語辞典・広辞苑)。

その年おほやけに物のさとし(不思議な前兆)しきりて(源氏物語)、

の、

しきる(頻)、

と、

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)(万葉集)、

の、

しく(頻)、

とは同じ意味で、

度重なる、
つづけて起こる、

意である(明解古語辞典)。「しく」は、

しく(敷・及)と同根、

とある。「しく(敷・頷)」は、

一面に物や力を広げて限度まで一杯にする、すみずみまで力を及ぼす意、

とあり、「しく(及・如)」は、

追って行って、先行するものに追いつく意、

とあり、

しく(敷・頷)、
と、
しく(及・如)、

は同根とある(岩波古語辞典)。憶説だが、

追って先行するものに追いつく、

意と、それが、

限度いっぱい広がっていく、

意から、「しきり」の、

度重なる、

意につながったと、みえる。

だから、「しきり」は、

行(ゆ)き廻(めぐ)り見とも飽(あ)かめや名寸隅(なきすみ)の船瀬(ふなせ)の浜にしきる白浪(万葉集)、

と、

同じ事が何度も重なるさま、
後から後からつづくさま、
重ねて、
たびたび、
ひっきりなし、

の意と、そこから、

しきりに恋しがる、

というように、

物事の程度や、感情、熱意などの度合が強いさま、
むやみ、
やたら、

の意に、さらに、

繰り返される痛みの意から、

出産のまぎわに起こる痛み、
陣痛、

の意でも使われる(日本国語大辞典)。

その「しきり」に、「に」をつけた、副詞、

しきりに、

も、

天変しきりにさとし、世の中静かならぬは(源氏物語)、

と、

繰り返し、
たびたび、

の意と、

身にはしきりに毛おひつつ(平家物語)、

たいそう、
むやみに、

の意で使われる(学研全訳古語辞典)。「しきり」に「と」を付けた副詞、

しきりと、

も、

顔の汗をしきりと拭く、

と、

たびだひ、

の意、

しきりと水を欲しがる、

と、

ひどく、
むやみ、

の意で使う(大辞林)。なお、

頻りの年、

というと、

頻りの年より以来このかた、平氏王皇蔑如して、政道にはばかる事なし(平家物語)、

と、

近頃ひき続いての年、
近年、
連年、

の意で使う(広辞苑・岩波古語辞典)。

「頻」(漢音ヒン、呉音ビン)は、

会意文字。「頁(あたま)+渉(水をわたる)の略体」で、水際ぎりぎりに迫ること、

とある(漢字源)。別に、

会意。元字は「𩕘(瀕?)」で、「涉(渉:浅瀬を歩く)」+「頁(頭を強調した人、儀礼に関係)」。「頁」が不分明であるが(「説文解字」は「顰(眉を寄せる)」に関連付け、白川静は水辺の儀礼と解く)、音は「賓」「比」に通じ、ぴったりと迫るの意。水辺・水際を表し「瀕」「濱(浜)」と同義。ぎりぎりまで近づく(「瀕」)の意を生じ、相接することから、「しきりの」意を生じた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A0%BB

会意。頁と、涉(しよう=渉。𣥿は変わった形。步は省略形。水をわたる)とから成り、川をわたる人が顔にしわを寄せる、ひそめる意を表す。もと、瀕(ヒン)に同じ。借りて「しきりに」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(もと、渉(涉)+頁)。「流れる水の象形(のちに省略)と左右の足跡の象形」(「水の中を歩く、渡る」の意味)と「人の頭部を強調した」象形(「かしら」の意味)から、水の先端「水辺」、「岸」を意味する「頻」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1877.html。だいたい趣旨は似ているようである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
金田一京助・春彦監修『明解古語辞典』(三省堂)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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竜田姫


物の色合ひなど、染め出だせる事は、竜田姫も恥ぢぬべき程なり(曽呂利物語)、

とある。

竜(龍)田姫、

は、

秋を支配する女神、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

龍田山は奈良の京の西に当たり、方角を四季に配当すると西は秋に当たるのでいう、

とある(岩波古語辞典)。

大和の平群(今は生駒郡)に座す女神、因みに、同じ平群に座す男神は、

竜(龍)田彦、

で、

わが行きは七日は過ぎじ竜田彦ゆめ此の花を風にな散らし(万葉集)、

と、

風を司る神、

とされ(大言海)、

竜田神社の祭神、

とある(岩波古語辞典)。「竜田姫」「竜田彦」ともに、『延喜式』にみえ、竜田坐天御柱国御柱神社二座」とともに、

竜田比古竜田比女神社二座、

と記され、

前者の天御柱国御柱も後者の竜田比古、竜田比女も、みな風難を避けるために祭られる神、

であった(朝日日本歴史人物事典)とある。

「竜田姫」は、春の、

佐保姫の対、

とあり、「佐保姫」は、

佐保姫の糸そめかくる青柳を吹きな乱りそ春の山嵐(詞花和歌集)、

と、

佐保山は平城京の東北方にあり、東は季節に配当すると春に当たるのでいう、

とあり(仝上)、イロハ引き国語辞書『匠材集(1597)』には、

佐保姫、春を守る神也、

とある(岩波古語辞典)。なお「竜田姫」は、

竜田山を神格化した秋の女神の名、

としても用いられるが、それは、

佐保山を神格化した春の女神佐保姫、

に対するためともある(朝日日本歴史人物事典)

また、「竜田姫」は、

染色・織物の名手、

ともされ(日本国語大辞典)、冒頭引用の文に、

物の色合ひなど、染め出だせる事、

とあるのは、その所以で、その由来は、

『万葉集』以来、秋の木の葉が色づくことを染色にたとえて「染める」と表現しました。一方、染色は古代の女性にとって大切な、しかも専門的な仕事でした。そこで、山を染め、木の葉を染めて紅葉にする神も女の神でなければならなかったのです。秋をつかさどる神としての竜田姫は、紅葉の歌とともに染色の神さまにもなったということになります、

とある(片岡智子「竜田姫の秋」https://www.ndsu.ac.jp/blog/article/index.php?c

なお、

西が秋にあたる、

というのは、

五行説、

に基づく。「五行説」は、

五行思想(ごぎょうしそう)、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3

中国古代人の世界観の一つ、

で、五行は、

五材、

ともいい、

生活に必要な水、火、金、木、土の五つの素材(民用五材)

をいい(日本大百科全書)、

万象の生成変化を説明するための理論、

で、

宇宙間には木火土金水によって象徴される五気がはびこっており、万物は五気のうちのいずれかのはたらきによって生じ、また、万象の変化は五気の勢力の交替循環によって起こる、

とする(精選版日本国語大辞典)。なお、漢代では五行説は、陰陽(いんよう)説と結合して、

陰陽五行説、

となり、以後の中国人のものの見方、考え方の基調となった(仝上)とある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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百万遍


……怨念を払はん爲とて、寺中寄りあひ百万遍の念仏を修行しける(曽呂利物語)、

とある、

百万遍の念仏、

とは、

災厄や病気をはらうために、大勢が集まって念仏を百万回となえる行事、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

百万遍念仏、

とも、略して、

百万遍、

ともいう。

如綽禅師、撿得経文、但能念仏一心不乱、得百万遍已去者、定得往生(伽才浄土論)、

とある。

祈禱、追善などのため、大型の数珠を多数のものが早繰(ざらざらぐり)して、同音に唱える念仏のこと、

で、百万遍の念仏に用いる大念珠を、

百万遍数珠、

といい、百万回の念仏を唱えることを本義とし、

これに1人が7日または10日間に100万回念仏を唱えること、

と、

10人またはそれ以上の者が同時に唱えた念仏の総計が100万回におよぶもの、

と2種類があり、

後者は100人の集団が念仏を100回唱えれば1万遍となり、同時に自他の唱える念仏の功徳が相互に隔通しあって、総計で100の3乗、つまり100万回の念仏を唱えたのと同じ功徳があるとする、

とある(世界大百科事典)。浄土宗で、

極楽往生を願って10人ずつの僧や信者が輪になって念仏を唱え、1080個の玉の大数珠を100回、順送りにする仏事、

で、

合わせて百八万遍の念仏になる、

というもので、京都知恩寺で始まり、のちに一般でも行われるようになった(デジタル大辞泉)とある。

知恩寺の、八世善阿空円が流行病をなおすため、

7日間 100万遍の念仏を称え、効験があったので後醍醐天皇から百万遍の寺号と 1080珠の大念珠を賜った、

といい、これが嚆矢とされる。以来知恩寺では、衆僧、信徒が集って、弥陀の名号を称えながら大数珠を 100回繰回す仏事が行われ、これも百万遍という(精選版日本国語大辞典)。古く、中国の僧、

道綽(どうしゃく)、

に始まると伝えられる(仝上)とある。

「百」(漢音ハク、呉音ヒャク)は、

「一+音符白」を合わせた文字(合文)で、もと一百のこと、白(ハク・ヒャク)は単なる音符で、白いといった意味とは関係がない、

とある(漢字源)。「大きな数」の意味もある(角川新字源)。別に、

形声文字です(一+白)。「1本の横線」(「ひとつ」の意味)と「頭の白い骨または、日光または、どんぐりの実」の象形(「白い」の意味だが、ここでは、「博」に通じ、「ひろい」の意味)から、大きい数「ひゃく」を意味する「百」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji133.html

「万(萬)」(慣用マン、漢音バン、呉音モン)は、「万八」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488425542.htmlで触れたように、

象形。萬(マン)は、もと、大きなはさみを持ち、猛毒のあるさそりを描いたもの。のち、さそりは萬の下に虫を加えて別の字となり、萬は音を利用して、長く長く続く数の意に当てた。「万」は卍の変形で、古くから萬の通用字として用いられている、

とあり(漢字源)、

「万」の異字体は「萬」、

とされたり、

「萬」は「万」の旧字、

とされたりするが、「万」は、

古くから「萬」に通ずるが、「萬」との関係は必ずしも明らかでない、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%87

「万」はもとの字は「萬」に作る(白川静)、
「万」と「萬」とは別字で、「万」は浮き草の象形(新潮日本語漢字辞典・大漢語林。「万」と「萬」が古くから通用していることは認めている)、
「卍」が字源(大漢和辞典 西域では萬の數を表はすに卍を用ひる。万の字はその變形である)、
象形、蠆(さそり)の形。後に、数の一万の意味に借りられるようになった。現在でも、「万」の大字として使用される(角川新字源・漢字源)、
象形。もと、うき草の形にかたどる。古くからの略字として用いられていた(角川新字源)、

等々と諸説あり(仝上・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%90%AC)、「中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)は、

「萬」を「蟲なり」とするが、虫の名前は挙げず、説文解字注(段注)はサソリの形に似ているからその字であろう、

というが、白川静は「声義ともに異なる」と指摘する(仝上)。しかし、

「萬」が蠍の象形で、10000の意味は音の仮借、

という立場は、藤堂明保『学研 新漢和大字典』、諸橋轍次『大漢和辞典』、『大漢語林』、『新潮日本語漢字辞典』等々多くの辞典が支持する(仝上)、とある。数字の万としての用法はすでに卜文にみえる(白川)ようである(仝上)。

「遍」(ヘン)は、

会意兼形声。「辶+音符扁(ヘン 平らに広がる)」、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(辶(辵)+扁)。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「片開きの戸の象形と文字を記した札をひもで編んだ象形」(門戸に書き記した札の意味から、転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、札のように「ひらたい」の意味)から、「ひらたく行き渡る」を意味する「遍」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2030.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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十念


一々懺悔して十念を授かりて、久しく念仏しければ、いつと無く蛇失せたりと也(片仮名本・因果物語)、

とある、

十念、

とは、

僧から南無阿弥陀仏の六字の名号を十遍唱えてもらい、仏との縁を結ぶこと、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、これは、

浄土宗・時宗、

で、僧が南無阿弥陀仏の名号を信者に授けて結縁(けちえん)させること、

をいい(広辞苑)、これを、

十念を授(さず)く、

といい、

僧が南無阿弥陀仏の六字の名号を十遍唱えて信者に阿弥陀仏との縁を結ばせる、

ことで、浄土宗では、

葬式のとき、引導のあと、導師が六字の名号を十度唱えること、

をいう(仝上)。無量寿経には、

南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の御名(みな)を十ぺん唱えること(十念)によって阿弥陀仏の極楽浄土に往生できる、

と説かれ、浄土教義の重要な根拠となっているとされるが、これは唐の善導は、観無量寿経の、

至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称す、

を十声の称念と解し(観経疏)、法然も、

声はこれ念、念は即ちこれ声、

とのべ(選択(せんちやく)本願念仏集)、

十声、

ととらえている。この根拠になっているのは、大無量寿経の法蔵菩薩の誓願は漢・呉訳では24であるが、増広された魏訳の48願の第18願で、

十方世界の衆生が心を専一にして(至心)深く信じ(信楽)極楽に往生したいと願い(欲生)、わずか10回でも心を起こす(十念)ならば、必ず極楽に往生できる、

と説いている。この〈十念〉が10回の念仏と解され、中国、日本における念仏による往生の思想の根拠として重視されるにいたったようである(世界大百科事典)。

一般に、

十念、

というと、原始仏教経典に説かれる、

十種の心念、

つまり、

念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息(ぐそく)・念安(あんぱん)般・念身・念死、

という、

十種の思念を行う修行法、

をいい、

十随念、

ともいう(仝上)。また、

阿弥陀仏の相好を十遍つづけて観想すること、

または、

その御名を十遍唱えること、

をもいい(往生要集)、それを、

十念称名、

といい、また、

慈心・悲心・護法心など十種のおもいを数えたもの、

をもいう(彌勒所問経に説くとされている)とする(往生要集)、とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

なお、十念の唱え方は、https://zenryuji-jodo.com/jyunen/に詳しい。

「十死一生」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485500800.htmlで触れたように、「十」(慣用ジッ、漢音シュウ、呉音ジュウ)は、

指事(数や位置など、形を模写できない抽象的概念を表わすために考案された漢字)。全部を一本に集めて一単位とすることを、h印で示すもの。その中央が丸く膨れ、のち十の字体となった。多くのものを寄せ集めてまとめる意を含む。促音の語尾がpかtに転じた場合は、ジツまたはジュツと読み、mに転じた場合はシン(シム)と読む。証文や契約書では改竄や誤解をさけるため、拾と書くことがある、

とある(漢字源)が、

象形。はりの形にかたどる。「針(シム)」の原字。借りて、数詞の「とお」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

指事或いは象形。まとめて一本「h」にすることから、後にまとめたことが解るよう中央部が膨れた。或いは針の象形で、「針」の原字とも(なお、「シン」の音はdhiəɔpのp音がmpを経てm音となったもの)、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%81

象形文字です。「針」の象形から、「はり」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「とお」を意味する「十」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji132.html

「念」(漢音デン、呉音ネン)は、「繋念無量劫」http://ppnetwork.seesaa.net/article/491112345.htmlで触れたように、

会意兼形声。今は「ふさぐしるし+−印」からなり、中に入れて含むことをあらわす会意文字。念は「心+音符今」で、心中深く含んで考えること。また吟(ギン 口を動かさず含み声でうなる)とも近く、経をよむように、口を大きく開かず、うなるように含み声でよむこと、

とある(漢字源)。別に、

形声。心と、音符今(キム、コム)→(デム、ネム)から成る。心にかたくとめておく意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(今+心)。「ある物をすっぽり覆い含む」事を示す文字(「ふくむ」の意味)と「心臓」の象形から、心の中にふくむ事を意味し、そこから、「いつもおもう」を意味する「念」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji664.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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聊爾


こは如何に、聊爾をしつる事かな、と肝を潰し(曽呂利物語)、
脇よりも、聊爾をすな、殿の御秘蔵の唐猫なりと云ひければ(仝上)、

などとある、

聊爾、

は、前者については、

あやまち、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、後者は、後述の意味の幅から見ると、

粗相、
とか、
失礼、

といった意味ではないかと思う。

聊爾(レウジ・リョウジ)、

は、

未能免俗、聊復爾爾耳(晉書・阮咸傳)、

と漢語で、

かりそめ、

という意である。

聊、且略之辭(詩経)、

とあり、

爾は助辭、

とある(大言海)。で、

官倉求飽眞聊爾、山墅懐歸毎惘然(陸游傳)、

と、

仮初なること、
考えなくてすること、
不躾がましくすること、
いいかげん、
卒爾、

とある(仝上・岩波古語辞典・大言海)。我が国でも、

国の安危、政の要須これより先なるはなし。これより誰か聊爾に処せん(太平記)、
襄王の躰は、何共聊爾なき人で、人君とも見へぬ人ぢゃぞ(孟子抄)、

などと同じ意味で使うケースが多いが、やがて、そこから、

亭主のさる人にていみじうもてなしてことにふれつつ聊爾ならぬ人にはち道を執して(無名抄)、
もしいかようの事ありとも、船頭の聊爾にてあるまじく候(奇異雑談集)、

と、

ぶしつけで失礼なこと、
そそうなこと、
また、
そのさま(精選版日本国語大辞典)、

あるいは、

あやまち(岩波古語辞典)、

麁相、
失礼、
粗忽(大言海)、

といった意味で使うに至る。「慮外」http://ppnetwork.seesaa.net/article/490443592.html、「卒爾」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444309990.htmlとある意味で重なる言葉になっている。

「聊」(リョウ)は、

会意兼形声。「耳+音符卯(リュウ つかえる)」で、耳がつかえて音がよく通らないこと。しばらくつかえて、留まるの意から、一時しのぎに(とりあえず)の意となる、

とある(漢字源)。「聊逍遥以相羊(聊カ逍遥シ以テ相羊ス)」と、「いささか」「とりあえず」の意や、「民、不聊生(民、生ヲ聊(りょう)セズ)」と、「やっとしまつする」意の外、「意無聊(意、無聊ナリ)」と「無聊」とも、また「聊啾(リョウシュウ 幽かに耳鳴り)」と、耳鳴りの意でも使う。

「爾」(漢音ジ、呉音ニ)は、

象形。柄にひも飾りのついた大きなはんこを描いたもの。璽(はんこ)の原字であり、下地にひたとくっつけて印を押すことから、二(ふたつくっつく)と同系のことば。またそばにくっついて存在する人や物を指す指示詞に用い、それ・なんじの意をあらわす、

とある(漢字源)。別に、

象形。(例えば漢委奴国王印のような形の)柄に紐を通した大きな印を描いたもの(あるいは花の咲く象形とも)。音が仮借され代名詞・助辞などに用いられるようになったため、印には「璽」が用いられる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%BE

象形文字です。「美しく輝く花」の象形から「美しく輝く花」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「二人称(話し手(書き手)に対して、聞き手(読み手)を指し示すもの。あなた。おまえ。)」を意味する「爾」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2580.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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唐臼


いつも内なる唐臼(からうす)の上に、俵もの、石など多く置き、二十人ばかりしては、動かしがたく拵へて(曽呂利物語)、
いつもの如く、唐臼を踏み鳴らす(仝上)、

とある、

唐臼、

は、

足で踏んで杵(きね)を上下させる仕掛けの石臼、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

天照るや日の異(け)に干(ほ)しさひづるや唐臼(からうす)に搗き庭に立つ手臼(てうす)に搗きおしてるや(万葉集)、

とあるように、

臼を地に埋め、横木にのせた杵(きね)の一端をふみ、放すと他の端が落ちて臼の中の穀類などを搗く装置、

である(広辞苑)。「唐臼」は、また、

碓、

とも当てる(広辞苑)。

臼は地面に固定し、杵をシーソーのような機構の一方につけ、足で片側を踏んで放せば、杵が落下して臼の中の穀物を搗く。米や麦、豆など穀物の脱穀に使用した、

のでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%87%BC

踏み臼、
ぢからうす、略して、ぢから、
踏碓、

ともいう(大言海)。和名類聚抄(平安中期)に、

碓、踏舂具也、加良宇須、

とある。その由来は、

柄臼(からうす)の義、柄(え)に機発(しかけ)あり(大言海)、
柄があるところから、カラウス(柄臼)の義(古事記伝・言元梯・日本古語大辞典=松岡静雄)、
三韓から伝わったところから、カラウス(韓臼)の意(東雅)、
カラは外国伝来の意(岩波古語辞典)、
足で踏んで軽く舂くところから、カルウス(軽臼)の転(雅言考)、
カラはカラサヲ、カラクリ等のカラで、仕掛けの意(箋注和名抄)、

等々諸説あるが、はっきりしない。

柄臼(からうす)の義、柄(え)に機発(しかけ)あり(大言海)、

が個人的にはすっきりするのだが。

ややこしいのは、「唐臼」は、

からうす、

に、

殻臼、

とも当て、「からうす」のほか、

とううす、

とも訓ませ、

籾殻を磨る臼の義、

でも使い、

すりうすの古名、

とあり、

土臼、
するす、
すりす、

ともいう、

籾(もみ)をすって皮を取り除くのに用いる臼、

のこともいう(大辞泉)。

上下二個の円筒形からなり、二個の臼はそれぞれ竹や木を縁にし、塩を入れた土でうずめ固め、すりあう面には樫(かし)の歯を植えつけ、上の臼に籾を送り込む穴をあける。中央に軸があり、下の臼は動かないが上の臼には取手があり、籾を送って回すと、籾殻が取り除かれて出てくる。穀粉・ひき茶など製粉に使用するものもある、

とある(精選版日本国語大辞典)。字鏡(平安後期頃)には、

磑、宇須、

和名類聚抄(平安中期)には、

磨礱、須利宇須、

とある。

また、「唐臼」は、

添水(そうず)、

といい、

竹筒に水を引き入れ、たまる水の重みで反転した竹筒が石などに当たって快い音を立てるようにした装置、

をもいう(広辞苑)。庭園などに設けるが、

田畑を荒らす鳥獣を追うために、水力を利用して音を発する仕掛け

で、

ししおどし、

だが、

添水唐臼(そうずからうす)、

といって唐臼をつく装置のものもある(広辞苑)とある。「そうず」は、

一説に、ソホヅ(案山子)の転。また、「僧都」からとも、

とある(仝上)。

「臼」(漢音キュウ、呉音グ)は、

象形。∪型にえぐってくぼませたさまを描いたもの。臼は、意符(意義符 漢字の構成要素のうち、主として意義を表す部分。「坂」の「」や「泣」の「氵」等々)に用いられた時は舂(ショウ つく)・陷の右側(穴にはまる)・插(ソウ=挿 穴に差し込む)など、穴やうすをあらわす、

とある(漢字源)。別に、

象形文字です。「地面または、木・石をうがって造る、うす」の象形から、「うす」を意味する「臼」という漢字が成り立ちました、

ともある(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji2088.html)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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乙矢


本筈(もとはず)末筈(うらはず)一つになれと、能引(よっぴ)きひやうと放つ。……乙矢(おや)を射る間のあらざれば、駒をはやめて逃げ来たる(曽呂利物語)、

とある、

乙矢(おや)、

は、普通、

おとや、

と訓ませ、

第二番目に射る矢、

の意である(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「本筈」「末筈」は、

弓の両端の弦をかける所、上になる方を末筈、下になる方を本筈という、

とある(仝上)。「はず」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450205572.htmlについては触れたし、「弓」についても、「弓矢」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450350603.htmlで触れた。

手に持った二本の矢のうちで、二番目に射る矢を、

乙矢、

つまり、


二の矢(二矢)、

といい、

二本持って射る矢のうち初めに射る矢、

を、

甲矢(はや)、

つまり、

一の矢(一矢)、

という。

矢をつがえたとき、三枚羽根の羽表が外側になり裏が手前になる矢、

をいう(デジタル大辞泉)とある。これは、

鳥の羽は反りの向きで表裏があり、半分に割いて使用する。一本の矢に使う羽は裏表を同じに揃えられるため、矢には二種類できる。矢が前進したときに時計回りに回転するのが、

甲矢(はや、早矢・兄矢)、

逆が、

乙矢(おとや)、

となる。この、甲矢と乙矢あわせて一対で、

一手(ひとて)というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2。矢は、二本(甲矢、乙矢)を一手(ひとて)ととし、

四本を単位、

として使用することが一般的である(世界大百科事典)とある。

「甲矢(はや)」は、

端矢(はや)なるか、

とあり(大言海)、

歩射、四十六歩、十箭中的、四已上者為及第、若一箭(イチノヤ)不中皮者、以二的准折(左衛門府式)、

とある(仝上)。

矢羽の数によっていくつか種類があり、

二枚羽、

は原始的な羽数で軌道が安定しにくいが、儀式用として儀仗に用いられ、飛ぶ軌道の安定性を得るため、

四枚羽、

となったが矢が回転しないため、

三枚羽、

で、

矢を回転させ鏃で的となる対象物をえぐり取り殺傷力が強化された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2。矢羽(やばね)は、

鷲、鷹、白鳥、七面鳥、鶏、鴨、

など様々な種類の鳥の羽が使用されるが、特に鷲や鷹といった猛禽類の羽は最上品とされ、中近世には武士間の贈答品にもなっている。使用される部位も手羽から尾羽まで幅広いが、尾羽の一番外側の部位である、

石打、

が最も丈夫で、希少価値も高く珍重される(仝上)。「石打」は、


石打ちの羽、

鳥が尾羽を広げたとき、両端に出る1番目(小石打ち)と2番目(大石打ち)の羽、

をいい、鷲や鷹のものは、特に矢羽として珍重された(デジタル大辞泉)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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酒呑童子


手足は龍の如くにて、長さ一丈三尺五寸、かしらは絵にかけれる酒顛童子(しゅてんどうじ)の如くなり(曽呂利物語)、

にある、

酒顛童子、

は、

酒呑童子、

とも当てるが、

鬼形をもって財を掠め、婦女子を略奪した伝説の妖怪。丹波大江山や近江国伊吹山に住んだ、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。南北朝時代頃成立した御伽草子、

酒呑童子、

をはじめとして、絵巻・草双紙・謡曲・古浄瑠璃・歌舞伎などの題材となった(広辞苑)。

酒天童子、
朱点童子、
酒典童子、
酒伝童子

等々とも記される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E5%91%91%E7%AB%A5%E5%AD%90・日本伝奇伝説大辞典)。

鬼の頭領、
あるいは、
盗賊の頭目、

とされ、

酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた、

とある(仝上)。彼が本拠とした大江山では洞窟の御殿に住み棲み、茨木童子などの数多くの鬼共を部下にしていた、という。伝承では酒呑童子は最終的に源頼光とその配下の渡辺綱たちに太刀で首を切断されて打倒された(仝上)とされる。東京国立博物館が所蔵する太刀、

童子切、

は酒呑童子を退治した伝承を持ち、また源氏所縁の多田神社(兵庫県川西市)が所蔵する安綱銘を持つ太刀、

鬼切丸、

も酒呑童子を退治した伝承を持っている(仝上)。

一条天皇のころ(986〜1011)大江山に城を構え平安京を脅かした、

という説話の原型は南北朝時代には成立していたと考えられ、14世紀後半の『大江山絵詞』が現存する最古の絵巻とされている(朝日日本歴史人物事典)。

諸本は大別すると二種類あり、童子の住処を丹波国大江山とする、

大江山系、

と、それを近江国伊吹山とする、

伊吹山系、

に分かれるとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E5%91%91%E7%AB%A5%E5%AD%90。ただこの分け方には異論・慎重論もあるようだが。大江山系とされるのは、

『大江山絵詞』(逸翁美術館所)、江戸時代の『御伽草子』版本(渋川本)、

伊吹山系とされるのは、室町時代成立の、

『酒伝童子絵巻』(サントリー美術館)、『伊吹山絵詞』、『伊吹童子』、『土蜘蛛草紙』

になる(仝上)。渋川版『酒呑童子』によれば、

童子は越後(新潟県)に生まれ、山寺の稚児となったが法師を殺して出奔し、丹後国大江山にたどり着く。出生については、戸隠山の申し子で美貌の持ち主であったが、もらった恋文を焼き捨てようとして上がった煙に巻かれ鬼に変じてしまった、

となり、伊吹山系だと、

ヤマタノオロチ(伊吹大明神=山の神)の子で比叡山に児として入ったが、祭礼のときにかぶった鬼の面が肉に吸い付いて取れなくなり、そのまま鬼になってしまった、

となる(朝日日本歴史人物事典)。

伝承の内容は、

池田中納言の娘が鬼にさらわれて、悲しみのあまり帝に奏聞したところ、源頼光(よりみつ)に退治を命じたので(日本大百科全書)、

渡辺綱(わたなべのつな)、
碓井定光(うすいさだみつ)、
卜部季武(うらべすえたけ)、
坂田公時(きんとき)、

の四天王と、

藤原保昌(やすまさ)らを従え、羽黒の行者を装って、「鉄の御所」にたどり着き、童子の歓待を受ける。神から授けられた毒酒により童子らが酔いつぶれたのを見計らって、隠していた鎧兜に身を固め、住吉・八幡・熊野の三社の神々の力を借りてついに童子の首を切り落とす。さらに茨城童子ら配下の鬼たちも残らず退治し、さらわれていた姫君たちを連れて都に凱旋する、

というもの(仝上・朝日日本歴史人物事典)だが、平安末期に、

このあたり(大江山や伊吹山)が山賊の巣窟になっていたことから生まれた伝説に、頼光(らいこう)四天王の武勇譚(たん)が付会されて、

御伽草子などの題材となった(仝上)とされる。この酒呑童子は、

京の治安を乱すだけの存在ではない。神の申し子として京の王権、京の「秩序」とは対立する、もうひとつの「秩序」=「反秩序」を象徴する存在である。それゆえ勅令によって、「秩序」の側に立つ申し子である坂田金時らに退治される必然性があった。つまり、酒呑童子に代表される鬼退治譚は反「反秩序」=「秩序」としての、王権の正統性を強化する王権説話にほかならないのである、

との解釈もある(仝上)。

なお、「酒呑童子」の「しゅてん」については、定説はないが、

越後の産、奇怪なる行ひ多く六歳の頃谷底に捨てられたる者(前太平記)、

とあり、また、

大江山捨子のこうろへたのなり、

とも言われ、

捨て童子、

を原義とするという説がある(日本伝奇伝説大辞典)。

鳥山石燕は、

大江山いく野の道に行(ゆき)かふ人の財宝を掠(かすめ)とりて、積(つみ)たくはふる事山ごとし。轍耕録(てつこうろく 元末の1366年に書かれた陶宗儀の随筆)にいはゆる鬼贓(きざふ)の類なり。むくつけき鬼の肘(かいな)を枕とし、みめよき女にしやくとらせ、自(みづか)ら大杯(おおさかづき)をかたぶけて楽しめり。されどわらは髪に緋の袴きたるこそやさしき鬼の心なれ。末世に及んで白衣(びやくゑ)の化物出(いずる)と聖教にも侍るをや、

と記す(『今昔画図続百鬼』)。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)

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来国光


漸(ようよ)うに押し寛げ、相伝の来国光を以つて払い切りにぞしたりける(曽呂利物語)、

にある、

来国光、

は、

鎌倉末期の名工来国光が作った刀、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「来国光(らいくにみつ)」は、

鎌倉末期の刀工、

で、

来国俊の子。鎌倉末期を飾る来派の名工で、その作になる現存の太刀、短刀は多い、

とある(精選版日本国語大辞典)。「来派(らいは)」は、

日本刀の刀工の流派の一つ、

で、

大和伝、
山城伝、
備前伝、
相州伝、
美濃伝、

という

日本刀の五大刀工流派、

である、

五箇伝、

のうち、

山城伝、

に属する。鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて山城国(京都府)で活動した。主な刀工に、

国行、
国俊(二字国俊)、
来国俊、
来国光、
来国次、

らがいるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E6%B4%BEとある。五箇伝は、

令制国の大和国・山城国・備前国・相模国・美濃国、

を発祥とし、これらを系統づけたのは、代々足利将軍家に使えた研師で、豊臣秀吉以後は刀の鑑定も務めた、

本阿弥家、

で、最終的に、

本阿弥光遜がまとめ上げた(仝上)とある。現在、確認できる五箇伝の刀工数は、

備前4005、美濃1269、大和1025、山城847、相州438、

という(仝上)。これ以外の小さな流派は、

脇物、

といったらしい。

「来派」の作風の特徴は、

総じて身幅広く、反り高く、中切先が猪首となった姿のものが多い。反りは、刃長の中程に反りの中心がある鳥居反り(輪反り、京反り)となるものが典型的、

とあり(仝上)、地鉄は、

小板目肌良く詰み、細かな地沸が一面につく。沸映りが見られる、

のが特色で、

来肌、

と称して、

鍛えの弱い肌が片面、もしくは両面の一部に現れる、

ことが多いとされ、鑑定上の見所とされている。「刃文」は、

直刃(すぐは)、あるいは直刃に小乱や小丁子を交える、

のを基本とする(仝上)らしい。なお、「小乱れ」は、

不規則な乱れ、

「小丁子」は、

丁子、

で、

「丁子」という植物の実を連ねた形や、これを模様化した丁子文に似ている刃文、

とあるhttps://www.touken-world.jp/difficult-word/komidarekogunomekochojinohagamajiri/

「来国光」の作品には、相州伝の影響を受けたと思われる、乱れ刃や沸(にえ)の働きの強いものも見られる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E6%B4%BE。「沸(にえ)」は、

刃文を構成する鋼の粒子が肉眼で1粒1粒見分けられる程度に荒いもの、

をいい、

1粒1粒見分けられず、ぼうっと霞んだように見えるものを、

匂(におい)、

と称する。沸も匂も冶金学上は同じ組織である。沸と同様のものが地の部分に見えるものを地沸と称する(仝上)。

「来国光」は、通説では、

来国俊」(らいくにとし)の嫡男、

と伝わっているhttps://www.touken-world.jp/sword-artisan-directory/rai-kunimitsu/。ただ、

来国俊の次男や弟、孫とする説、
来国行(らいくにゆき)、もしくは来国秀(らいくにひで)の子とする説、
来国友(らいくにとも)の弟子であるとする説、

等々、異説も多い(仝上)、

謎の多い刀工、

らしい。

刀工は通常、自分の得意な作風を前面に押し出して作刀しますが、初代 来国光には、そのような傾向は見られません。これが窺えるのは、例えば刀身の身幅(みはば)。太刀、及び短刀において、身幅の広い作例と狭い作例の両方があります。刃文も同様で、「直刃」(すぐは)もあれば、「乱刃/乱れ刃」(みだれば)も見られる、

し、

乱刃/乱れ刃は、「小乱」(こみだれ)と「大乱」(おおみだれ)、それぞれを基調とした作例、

もあり、作風は、

大部分の姿が豪壮な物で、焼刃の働きも多くなっており、迫力、

があるhttps://www.touken-world.jp/search/6266/が、

多種多様な作風を得意としていた、

ようであるhttps://www.touken-world.jp/sword-artisan-directory/rai-kunimitsu/

なお、「かたな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450320366.html?1549439317、「太刀」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464272047.htmlについては触れた。

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一条戻り橋


いつの頃にか有りけん、都のもどり橋の辺に、夜な夜な変化のもの有りと云ひわたる事あり(曽呂利物語)、

とある、

もどり橋、

は、

一条戻り橋、

のことで、

堀川の一条大路に架かる。古代、中世を通じて京域の境とされ、多くの伝承を生んだ。橋名の由来は、「一条の橋をもどり橋といへるは、宰相三善清行のよみがへり給へるゆへに名付けて侍る」(『撰集抄』)とされている、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

『都名所図会』には、

戻橋(もどりばし)は一条通堀川の上にあり。安倍晴明十二神将をこの橋下に鎮め事を行なふ時は喚んでこれを使ふ。世の人、吉凶をこの橋にて占ふ時は神将かならず人に託して告ぐるとなん。『源平盛衰記』に中宮御産の時二位殿一条堀川戻橋の東の爪に車を立てさせ、辻占を問ひ給ふとなん。また三善清行(みよしきよつら)死する時、子の浄蔵、父に逢はんため、熊野・葛城を出て入洛し、この橋を過ぐるに及んで父の喪送に遇ふ。棺を止めて橋上に置き、肝胆を摧き、数珠を揉み、大小の神祇を禱り、遂に咒力陀羅尼の徳によって閻羅王界に徹し、父清行(きよつら)忽ち蘇生す。浄蔵涙を揮ふて父を抱き、家に帰る。これより名づけて世人戻橋といふ。これ洛陽の名橋なり。

とあるhttps://sites.google.com/site/miyakomeisyo/home/maki-no-ichi--heian-jou-kubi/modo-hashi

この橋は、

794年の平安京造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%88%BB%E6%A9%8Bが、文献上は、平安中期の『権記』(藤原行成の日記)の長徳四年(998)の条に見えるのが最も古いとされる(日本伝奇伝説大辞典)。当時は、一条大路を、

戻橋路、

と呼んだとある(仝上)。

橋は、何度も作り直され、現在も当時と同じ場所にある。

平安中期以降、堀川右岸から右京にかけては衰退著しかったために、堀川を渡ること、即ち戻り橋を渡ることには特別の意味が生じ、さまざまな伝承や風習が生まれる背景となった、

という(仝上)。

「一条戻り橋」は、

洛中と洛外を分ける橋である、

と同時に、

この世とあの世の境目、

という意味も持っているとも言われ(仝上)、『平家物語』では、

源頼光の頼光四天王の一人、渡辺綱が、鬼の腕を太刀で切り落とした場所、

と伝える。また、

願い事をすると陰陽師・安倍晴明が橋の下に隠した式神・十二神将が橋を渡る人の口を借りてお告げをする「橋占」としても有名、

とあり、

平時子は娘の建礼門院徳子が高倉天皇の子・安徳天皇を生む際、難産なため橋の東のたもとで橋占を行った、

とされている(仝上)。

「戻り橋」の名の由来は、上記中にもあった通り、鎌倉後期の仏教説話集『撰集抄』に、

一条の橋をもどり橋といへるは、宰相三善清行のよみがへり給へるゆへに名付けて侍る。源氏宇治の巻に、ゆくはかへるの橋なりと申たるは是なり、

とあるのによる。それは、

三善清行が病篤くなり、熊野にいた子浄蔵が急ぎ帰ったが、すでに善行は没し、野辺の送りの一行とこの橋の上で出会い、父の棺に向かって加持祈祷すると善行が蘇生した、

という話である。この橋は、前述の通り、

京の内外をわかつ、

だけではなく、

橋占い、

の場所としても知られ、『源平盛衰記』に、

一条戻橋と云ふは、昔安倍晴明が天文の淵源を極めて、十二神将を仕ひにけるが、其妻、職神の貌に畏れければ、彼十二神を橋の下に呪し置きて、用事の時は召仕ひけり。是にて吉凶の橋占を尋ね問へば、必ず職神、人の口に移りて、善悪を示すと申す、

とある。こうした伝承のせいか、

今も婚儀の際はこの橋を通行せず、古は旅立には態(わざ)とこの橋を通って発足したという、

という民俗もあったようである(大辞典)。

ただ、「もどる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/489522919.htmlで触れたように、「もどる」は、

モドは、モドク(擬)・モヂル(捩)と同根、物がきちんと収まらず、くいちがい、よじれるさま、

とあり(岩波古語辞典)、

もとる(悖る)と同根、

ともある(仝上)。しかし、

モトホルの転、

ともある(広辞苑)。柳田國男は、「戻る」には、

元来引き返す、遁げて行くという意味はなかったように思います。漢字の戻も同様ですが、日本語の「戻る」という語は古くは「もとほる」といって、前へも行かず後へも帰らず、一つ処に低徊していることであったのです、

と指摘した(女性と民間伝承)上で、いわゆる「戻橋」についても、

橋占、辻占を聴くために、人がしばらく往ったり来たりして、さっさと通ってもしまわぬ橋というのでありました、

ことを傍証として挙げている(仝上)。

「もとほる」は、

廻る、
徘徊、

などと当て(岩波古語辞典・大言海)、新撰字鏡(898〜901)に、

邅、毛止保留(もとほる)、

類聚名義抄(11〜12世紀)に、

紆、モトホル、マツフ・メグル、
纏、マツハル・モトホル、

色葉字類抄(1177〜81)に、

繚、モトヲル、繞、旋、

等々とあり、多く、それを説明する漢字が、

邅(テン めぐる)、
紆(ウ めぐる)、
纏(テン まとう、まつわる、からまる)、

と、

よじれる、
くいちがう、

意ではなく、

めぐる、

や、それからの派生と思われる、

からまる、

の意としていたと見え、

神風の伊勢の海の生石(おひし)に這ひ廻(もと)ろふ細螺(しただみ)のい這ひもとほり撃ちてし止まむ(古事記)、

と、

ぐるぐると一つの中心をまわる、
めぐる、
まわる、

という意味である(岩波古語辞典・大言海)。「戻り橋」は「橋占」由来のほうが、上述の、

ゆくはかへるの橋(源氏物語)

の意味を合わせてみると、リアリティがある気がするのだが。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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おはぐろ


振り分けた髪の下よりも、並べたる角生(つのお)いたるが、薄化粧に鉄漿(かね)黒々とつけたり。恐ろしとも云はん方なし(曽呂利物語)、

とある、

鉄漿、

は、

おはぐろ、

の意で、

歯を染めるための黒い液、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「おはぐろ」は、

御歯黒、
鉄漿、

と当て、上述の引用のように、「鉄漿」を、

かね、

と訓ませると、

みかたには鉄漿つけたる人はない物を、平家の君達でおはするにこそ(平家物語)、

と、

おはぐろの液、

を指す。これは、

茶の汁や酢、酒に鉄片を浸して酸化させたもの、

とある(広辞苑)が、具体的には、

主成分は鉄漿水(かねみず)と呼ばれる酢酸に鉄を溶かした茶褐色・悪臭の溶液で、これを楊枝で歯に塗った後、倍子粉(ふしこ)と呼ばれる、タンニンを多く含む粉を上塗りする。これを交互に繰り返すと鉄漿水の酢酸第一鉄がタンニン酸と結合し、非水溶性になると共に黒変する。歯を被膜で覆うことによる虫歯予防や、成分がエナメル質に浸透することにより浸食に強くなる、などの実用的効果もあったとされる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AD%AF%E9%BB%92。毎日から数日に一度、染め直す必要があったという。また、

鉄屑と酢で作れる鉄漿水に対し、ヌルデの樹液を要する五倍子粉は家庭での自作が難しく、商品として莫大な量が流通した。江戸時代のお歯黒を使用する女性人口を3500万人とし、一度に用いる五倍子粉の量を1匁(3.75g)として、染め直しを毎日行っていたと仮定した場合、1日の五倍子粉の消費量は20トン弱になった、

と推定されている(仝上)。

「お歯黒(おはぐろ)」は、

「歯黒め」の女房詞、

とあり(デジタル大辞泉)、和名類聚抄(平安中期)には、

K齒、波久路女、

とある。もとは貴族の用語で、御所では、

五倍子水(ふしみず)、

民間では、

鉄漿付け(かねつけ)、
つけがね、
歯黒め(はぐろめ)、

等々ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AD%AF%E9%BB%92。日本をはじめ、世界各地で見られた風習で、

中国および東南アジアの少数民族地域において、現代でも、本式のお歯黒が見られる。主に年配の女性に限られ、既婚でも若い女性がお歯黒をする例は稀である、

とある(仝上)。日本では古代から存在し、その由来は、

お歯黒の起こりは日本古来からあったという説(日本古来説)、
南方民族が持って来たという説(南方由来説)、
インドから大陸、朝鮮を経て日本に伝わったという説(大陸渡来説)、

があるhttps://www.jda.or.jp/park/knowledge/index04.htmlが、初期には、

草木や果実で染める習慣、

があり、のちに、

鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わった、

とされる(仝上)。古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはお歯黒の跡が見られ、『山海経』には、

黒歯国(『三国志』魏志倭人伝では倭国東南方)、

があると記す(仝上)。天平勝宝五年(753)鑑真が持参した製法が東大寺の正倉院に現存し、その製造法は古来のものより優れていたため徐々に一般に広まっていった、とされる(仝上)。平安時代の末期には、

第二次性徴に達し元服・裳着を迎えるにあたって女性のみならず男性貴族、平氏などの武士、大規模寺院における稚児も行った。特に皇族や上級貴族は袴着を済ませた少年少女も化粧やお歯黒、引眉を行うようになり、皇室では幕末まで続いた、

とある。室町時代には一般の大人にも浸透したが、戦国時代に入ると、

結婚に備えて8〜10歳前後の戦国武将の息女へ、

成年の印、

して鉄漿付けを行ない、このとき鉄漿付けする後見の親族の夫人を、

鉄漿親(かねおや)、

いった。また、戦国時代までは戦で討ち取った首におしろいやお歯黒などの死化粧を施す習慣があり、

首化粧、
首装束、

呼ばれた。これは戦死者を称える行為であったが、身分の高い武士は化粧を施し身なりを整えて出陣したことから、鉄漿首(お歯黒のある首)は上級武士を討ち取ったことを示す証ともなった(仝上)とある。江戸時代以降は皇族・貴族以外の男性の間ではほとんど廃絶、また、悪臭や手間、そして老けた感じになることが若い女性から敬遠されたこともあって、

既婚女性、未婚でも18〜20歳以上の女性、
および、
遊女、芸妓、

の化粧として定着、農家においては祭り、結婚式、葬式、等特別な場合のみお歯黒を付けた(仝上)とある。ために、

江戸時代には既婚婦人のしるし、

となりデジタル大辞泉)、

まずは白い歯を染めて、「二夫にまみえず」との誓いの意味あい、

あったhttps://www.jda.or.jp/park/knowledge/index04.htmlとある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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肝煎る


あまた人の子を肝煎るとて、其の生(うみ)の親のかたよりは、金銀をとりて、おのれが物とし、其の子は此の河へ流せしとかや(百物語評判)、

にある、

肝煎る、

とは、

あっせんする、

意とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

肝を煎る、

意とある(日本国語大辞典)。「肝を煎る」とは、

おもひきりしに来てみえて、きもをいらする、きもをいらする(「閑吟集(1518)」)、

と、

肝を煎り焼くようにつらい思いをする、
気をもむ、

意で(岩波古語辞典)、その意味の派生で、

肝を焦がす、
肝を焼く、

とも言い、

心をいら立てる、
心を悩ます、
腹を立てる、

意で使う(精選版日本国語大辞典)。「肝煎る」は、

胸を焦がす、同趣、

とある(大言海)のはその意味である。そこから転じて、

心づかいをする、
熱心になる、

意で使い、その派生から、

色々きもをいらせられて、御地走なされたる衆を(虎明本狂言「雁盗人(室町末‐近世初)」)、
兼々(かねがね)滝川に恋する者ありて、きもをいり、返事待(まつ)事あるが(浮世草子「好色一代男(1682)」)、

等々と、

間に立って骨を折る、
世話をする、
取り持つ、

の意で使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

きもいる、

は、この意味の「肝を煎る」から出ている(仝上)。名詞「肝煎」が、

肝入、

とも当て、

室町時代や江戸時代の各種の団体の世話役、

の意で使い、室町時代の郷村や江戸時代の、

村の世話役、
村役人(庄屋・名主役)、

の意で使うのはこの意味の流れからきている。

肝煎る、

の語源が、

胸を焦がす意の肝煎る、

とする(大言海)のは意味があり、別に、

「肝を入れる」(とりもつこと)に由来する、

とする説(日本大百科全書)もあるが、

肝を入れるとする説は非、

とされ(上方語源辞典=前田勇)るように、もともと、

肝を煎る、

から派生した流れから見ると妥当に思える。

「肝」(カン)は、「肝胆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492437841.htmlで触れたように、

会意兼形声。干(カン)は、太い棒を描いた象形文字。幹(カン みき)の原字。肝は「肉+音符干」で、身体の中心となる幹(みき)の役目をする肝臓。樹木で、枝と幹が相対するごとく、身体では、肢(シ 枝のようにからだに生えた手や足)と肝とが相対する、

とある(漢字源)。

形声文字です(月(肉)+干)。「切った肉」の象形と「先がふたまたになっている武器」の象形(「おかす・ふせぐ」の意味だが、ここでは「幹」に通じ、「みき」の意味)から、肉体の中の幹(みき)に当たる重要な部分、「きも」を意味する「肝」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji291.html

「煎」(セン)は、

会意兼形声。前のりを除いた部分は、「止(あし)+舟」の会意文字。前は、それに刀印を加えた会意兼形声文字で、もと、そろえてきること。剪(セン)の原字。表面をそろえる意を含む。煎は「火+音符前」で、火力を平均にそろえて、なべの上のものを一様に熱すること、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(前+灬(火))。「立ち止まる足の象形と渡し舟の象形と刀の象形」(「前、進む」の意味だが、ここでは、「刪(セン)」に通じ(同じ読みを持つ「刪」と同じ意味を持つようになって)、「分離する」の意味)と「燃え立つ炎」の象形から、「エキスだけを取り出す為によく煮る」、「いる(煮つめる、せんじる(煎茶)」を意味する「煎」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2170.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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きも


「きも」は、

肝、
胆、

と当てる。古くは、

吾が肉(しし)は、御膾(みなます)はやし、吾が伎毛(臓腑)も、御膾はやし(万葉集)、

と、

臓腑の総称、

をいい、

群(むら)ぎも、

ともいい、

いまも、鳥の臓腑をきもと云ひ、俗に雑物(ざふもつ)と云ふ、

とある(大言海)。その意味から、

汝(なが)肝(心)稚之(わかし)、若雖(とも)、心望(こころにおもふ)而勿諠言(とよぎそ)(推古紀)、

と(大言海は、沖縄の「おもろ」に「晝なればきも通ひ、夜なれば夢通ひ」、「きも」は心なりと、注記)、

心、
きもだましひ、
精神、
気力、
胆力、
思慮、

の意に広げ(岩波古語辞典・大言海)、

胆を潰す、
胆太し、
肝に染む、
肝を消す、
肝を冷やす、
肝を摧(くだ)く、
肝を煎る、
肝に銘ず、
肝に彫(え)りつく、

等々と使う(仝上)。さらに、

(この句は)恋の本意をも背き、月の肝をも失ふ(長短抄)、

と、

物事の肝要な点、
勘所、

の意でも使い(岩波古語辞典)、また、

余りにもきも過ぎてしてけるにこそ(沙石集)、

と、

工夫、
思案、

の意味にも使う(広辞苑)。意味の広がりの流れとしてはよく分かる。

また、臓腑の総称の意であった、

きもを、中国から、

五臓六腑の説、

入りて後、一臓の名、つまり、

かんのざう、

つまり、

肝臓、

の意で使うに至る(大言海)。和名類聚抄(平安中期)に、臓腑類に、心、肺、腎、膵、等の中に列挙して、

肝、岐毛、

とある。ただ、「きも」は、

肝臓、

と同一とは言いがたい。

胆囊、

としばしば混同され、他方では、

昔、魂の宿るところとされたところ、

とされ、心や魂を指す語だった(世界大百科事典)から、とある。

で、「きも」の由来は、

凝物(こりもの)の約轉(熾火(オコシビ)、おきび。着物(きるもの)、きもの)(大言海)、
キ(気)+モ(内臓)、肝臓に気持ちの内臓があると考えた(日本語源広辞典)、
キノモト(気元)の義(和訓栞)、
キノモト(木本)の義(日本釈名)、
キヲモツ(気持)の義(和句解)、
キム(気群)の転(言元梯)、

等々あるが、「気持ち」系の説が多いが、どうも後世の解釈のような気がして、少し疑問である。

それにしても、「きも」に関わる言い回しは多い。

肝が煎(い)れる(焼(や)ける) 腹が立つ。しゃくにさわって気がいらいらする。
肝が大(おお)きい 心が強くて物事に恐れない。度胸がある。
肝が小(ちい)さい 度胸がない。小心だ。
肝が潰(つぶ)れる(抜(ぬ)ける、消(き)える) ひどく驚く。びっくりする。肝消える。
肝が菜種(なたね)になる(肝が、油を絞る菜種粒のようにつぶれる意。一説、菜種粒のように小さくなる意とも、多く「あったら肝が菜種になった」の形で用いる) 非常に驚くたとえにいう。肝が潰れる。。
肝が太(ふと)い 胆力が大きい。大胆だ。また、ずぶとい。
肝砕(摧 くだ)く (「くだく」が四段活用の場合) きも(肝)を砕く、(「くだく」が下二段活用の場合)はなはだしく心が痛む。
肝に染(し・そ)む 深く感じて忘れない。心に銘ずる。感銘する。
肝に銘(めい)ず 心にきざみこむようにして忘れない。しっかり覚えておく。
肝の束(たばね) @五臓六腑が一つに束ねられているものと見て、その束ね目。内臓の中で最も大切な所。急所中の急所、A物事に恐れない気力。きもったま、B物事の重要な所。要点。急所。
肝を煎(い)る @心をいら立てる。心を悩ます。腹を立てる。肝を焦がす。肝を焼く、A心づかいをする。熱心になる、B世話をする。間を取り持つ。
肝を砕(くだ)く @心配事や悩み事のために、あれこれと思い乱れる。心がさいなまれる、A心を尽して努め、考える。苦心して考えをめぐらす。
肝を消す @きも(肝)を潰(つぶ)す、A心を尽くす。苦心する。心を砕く。
肝を据(す)える かたく決心する。覚悟をきめる。腹をすえる。
肝を出(だ)す(投(な)げ出(だ)す) 思い切ってする。負けぬ気を出す。
肝を潰(つぶ)す(拉(ひし)ぐ・飛(と)ばす) 非常に驚く。肝を消す。
肝を嘗(な)める ひどく苦しい思いをする。あだ討ちや物事を成功させるために苦しみを経験する。臥薪嘗胆。
肝を冷(ひ)やす 驚き恐れて、ひやりとする。
肝を焼(や)く(焦(こ)がす) きも(肝)を煎(いる)。
肝が据わる 度胸があり、わずかなことで驚いたりしない。
肝も興も醒める 「興醒める」を強めた言い方、すっかり面白みがなくなる。
肝を抜かれる 肝を潰すに同じ。

なお、

肝、
はらわた、
腑、

は、

ともに、

人の心の奥深いところ、

の意で使われ、「はらわた」も、

はらわたがちぎれる(悲しみやいきどおりなどに堪えられないさま)、
はらわたが腐っている、
はらわたが煮えくりかえる、

等々、「腑」も、

腑が抜ける(気力がなくなる)、
腑に落ちない(納得できない)、

等々の言い方があり、三者は、

「肝」「はらわた」は内臓をさす言葉だが、転じて精神、心をいうようになった。
「腑」は、はらわたと同意で、心や命の宿ると考えられるところ。
「はらわた」は、「腸」とも書く、

とある(小学館類語例解辞典)。

「胆(膽)」(タン)は、

形声。・(セン・タン)は、「高い崖+八印(発散する)+言」の会意文字。瞻(セン 高い崖の上から見る)・譫(セン うわずったでたらめをいう)などの原字。膽はそれを単なる音符として加えた字で、ずっしりと重く落ち着かせる役目をもつ内臓、

とある(漢字源)。「胆嚢」の意である。ただ、「胆略」「胆力」等々、勇気や決断力、肝っ玉の意をもっている。別に、

会意兼形声文字です(月(肉)+旦(・))。 「切った肉」の象形と「屋根の棟(最も高い所)から、ひさし(屋根の下端で、建物の壁面より外に突出している部分)に流れる線の象形と音響の分散を表した文字と取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「くどくど言う」の意味だが、ここでは、「ひさし」の意味)から、肝臓をひさしのようにして位置する器官、「きも」を意味する「膽」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji292.html。なお、「胆」は、

「膽」の略字で、音符の「・」を同音の「旦」に変えた形声文字。『膽』は、「月」(肉) + 音符「・」の形声文字、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%83%86、「胆」は「膽」の俗字とする(字源)のが一般的だが、別に、

@形声。肉と、音符旦(タン)とから成る。はだぬぐ意を表す。もと、但(タン)の別体字。一説に、膻(タン)の俗字という。
A形声。肉と、音符・(セム→タム)とから成る。「きも」の意を表す。古くから、膽の俗字として胆が用いられていた。常用漢字はこれによる。

と別系統とする説もある(角川新字源)。

「肝」は、「肝煎る」http://ppnetwork.seesaa.net/article/494858626.html?1671045940で触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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獺祭(だっさい)


河太郎も河獺(かわおそ)の劫(こう)を経たるなるべし。河獺は正月に天を祭る事、七十二候の一つにして、よく魚をとる獣なり(百物語評判)、

の、

河太郎も河獺(かわおそ)の劫(こう)を経たるなる、

とは、

獺(カワウソ)老而成河童者(元和本下学集)、

とある(『下學集』は、室町時代の意義分類体の辞書)のに基づく(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

七十二候、

は、

陰暦で、一年を七十二分して季節の変化をあらわしたもの。その第二を「雨水」といい、「獺祭魚」とされている、

とある(仝上)。つまり、

河獺は正月に天を祭る事、七十二候の一つにして、よく魚をとる獣なり、

とあるのは、

七十二候(しちじゅうにこう)、

の、二十四節気でいうと、その第二、

正月中(通常旧暦1月内)、

の、

雨水、

の、

初候、

で、

立春末候の魚上氷の後、雨水次候の鴻雁来の前、

にあたる、

獺祭魚、

を指している。

七十二候は、「半夏生」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482302156.htmlでも触れたが、

一年を72に分けた五日ないし六日を一候、

とするものだが、

二十四節気をさらに五日ないし六日ずつの3つに分けた期間、

になる。二十四節気の一気が、

15日、

なので、一候は、わずか五日程度、

そんなに気候が変わるわけはない、

はずである(内田正男『暦と日本人』)。

「二十四節気」は「をざす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481844249.htmlでも触れたが、

1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けたもの、

で、

「節(せつ)または節気(せっき)」

「気(中(ちゅう)または中気(ちゅうき)とも呼ばれる)」

が交互にあるhttps://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter3/s7.html。例えば、

春は、

立春(りっしゅん 正月節)、
雨水(うすい 正月中)、
啓蟄(けいちつ 二月節)、
春分(しゅんぶん 二月中)、
清明(せいめい 三月節)、
穀雨(こくう 三月中)、

で、夏の、

立夏(りっか 四月節)、
小満(しょうまん 四月中)、
芒種(ぼうしゅ 五月節)、
夏至(げし 五月中)、
小暑(しょうしょ 六月節)、
大暑(たいしょ 六月中)、

のうち、七十二候の「雨水」は、

太陽黄径330度、
立春から数えて15日目ごろ、から、次の節気の啓蟄前日まで、

で、古代中国夏王朝は、

雨水を年始、

と定めているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E6%B0%B4。「雨水」は、七十二候では、

初候 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる) 雨が降って土が湿り気を含む 獺祭魚  獺が捕らえた魚を並べて食べる
次候 霞始靆(かすみはじめてたなびく) 霞がたなびき始める 鴻雁来 雁が飛来し始める
末候 草木萌動(そうもくめばえいずる) 草木が芽吹き始める 草木萌動 草木が芽吹き始める

とわけるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%80%99)。

「獺祭魚(だっさいぎょ)」は、略して、

獺祭、

ともいい、

孟春之月、……獺祭魚(礼記・月令)、

とあるのに基づき(「孟」は初めの意、春の初め。初春。また、陰暦正月の異称)、

獺の魚を捕へて、食する前に、これを陳列する、

のを、俗に、

魚を祭る、

といい(字源)、

人が祭をなすとき、物を陳列するに似たれば云ふ、

とある(大言海)。

おそまつり、
うそまつり、

ともいう(精選版日本国語大辞典)が、それをメタファに、「獺祭魚」は、

李商隠為文、多検閲書冊、左右鱗次、號獺祭魚(談苑)、

と、

晩唐の詩人李商隠が、文章を作るのに多数の書物を座の周囲に置いて参照し、自ら「獺祭魚」と号した、

故に(精選版日本国語大辞典)、

詩文を作る時などに多くの参考書を散乱したるさま、

にもいう(字源)。

「獺」(慣用ダツ、漢音タツ、呉音タチ)は、

会意文字。「犬+瀬(川の浅瀬)」の略体」、

とある。

大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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求聞持法


智遁といふ出家、浅間が嶽(たけ)に来たりて、求聞持(ぐもんじ)の法を行ひ度(たき)よし望みけるに(百物語評判)、

にある、

求聞持の法、

とは、

仏教密教修法の一つ、『虚空蔵求聞持法』に説く修法で、見聞したことすべてを記憶する術、求聞持法、

のこと(高田衛編・校注『江戸怪談集』)で、正確には、

仏教書、「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」、

の略称で、

虚空蔵菩薩を本尊として修する行法、

という(広辞苑・日本国語大辞典)。

「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」は、

サンスクリット語アカーシャガルバĀkāśagarbhaの訳、

で、

宇宙のすべてのものを含み、虚空(大空)のように無量の福徳・智慧を具え、これをつねに衆生(しゅじょう)に与えて諸願を成就させる菩薩、

である(日本大百科全書)。

アーカーシャガルバ、

は、

「虚空の母胎」の意、

で、

広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、

ということから、

智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩、

として信仰されhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9

明けの明星、

は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされ、

明星天子、
大明星天王、

とも呼ばれる(仝上)。また、大日如来(にょらい)の福と智の二徳を本誓(ほんぜい 根本の誓願)とするため、同体とする菩薩が多い。たとえば、

金剛宝菩薩、
虚空庫菩薩(『理趣経』)、
金剛胎菩薩(『摂真実経』)、
地蔵菩薩、

がそれであり、だからこの菩薩の化身に、

明星(『虚空蔵神呪経(しんじゅきょう)』)、
日月星(『宿曜儀軌(しゅくようぎき)』)、

がある(日本大百科全書)とされる。

奈良時代に将来された求聞持(ぐもんじ)法以降、虚空蔵信仰が盛んとなり、曼荼羅(まんだら)にも描かれ、

胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅の虚空蔵院の中心仏、

その形像は、

菩薩形、

で、

右手に智慧を表す剣、左手に福徳を表す蓮華(れんげ)と如意宝珠(にょいほうじゅ)を持ち、頭上に五つの智慧を表す冠をかぶる、

とある(仝上)。この菩薩を本尊とする修法には、虚空蔵求聞持(ぐもんじ)法の他に、

虚空蔵菩薩法、

もある(世界大百科事典)らしい。

求聞持法を行う人は、

山中など静かな場所で虚空蔵菩薩の絵を掲げ供養し、集中して息の続く限り虚空蔵菩薩の陀羅尼(だらに サンスクリット原文の言葉、ノウボウ アキャシャキャラバヤ オン アリキャマリボリソワカ)を唱える。疲れたらやめてよいが、毎日続けて行い、合計100万回を唱える。唱え終わったら、今度は日食・月食の日に再び陀羅尼を唱えながら蘇(そ 古代のチーズ)を作り、これを食べれば一度読んだ経典の内容を忘れない知恵を得る、

とあるhttps://edu.narahaku.go.jp/post_note/27/。この求聞持法を、

空海、

も「三教指帰」(さんごうしいき)に、

ここにひとりの沙門あり、余に虚空蔵求聞持を呈す。その経に説く、もし人、法によってこの真言一百万遍を誦すれば、すなわち一切の教法の文義、暗記することを得る、

と記しているように、若い頃に、

高知の室戸岬の洞窟、御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修した、

とされ、

山岳修行の日々を過ごし、高知の室戸岬の崖上に座禅を組み、虚空蔵求聞持法を修行していた時に明けの明星である金星が口の中に飛び込んでくるという不思議な体験をした、

というhttps://yasurakaan.com/shingonshyu/kokuuzou-gumonji/。この、

明けの明星が口の中に飛び込んでくるという体験こそが虚空蔵求聞持法の真髄であり、明けの明星は虚空蔵菩薩の化身とされて、明星天子、大明星天王などと呼ばれることもありますので、この体験こそ虚空蔵菩薩と一体化した瞬間であり、轟音がして明星が飛来して、体が爆発して粉々に飛んでいくような物凄い体験なのです、

とある(仝上)。それによって空海は悟りを開き、

洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗った、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7

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ちぶりの神


世のいはゆる道陸神(どうろくじん)と申すは、道祖神とも又は祖神とも云へり。(中略)和歌にはちぶりの神などよめり(百物語評判)、

にある、

ちぶりの神、

は、

ちふりの神、

ともいい、

旅の安全を守る神、

とあり、

行く今日も帰らぬ時も玉鉾のちぶりの神を祈れとぞ思ふ(袖中抄)、

を引いている(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、『袖中抄』(しゅうちゅうしょう)は、顕昭が著した鎌倉時代の歌学書である(仝上)。

「道祖神」は、「さえの神」http://ppnetwork.seesaa.net/article/489642973.htmlで触れたように、

塞(斎 さえ)の神、
道陸神(どうろくじん)、

ともいい、

塞大神(さえのおおかみ)、
衢神(ちまたのかみ)、
岐神(くなどのかみ)、
道神(みちのかみ)、

などとも表記される(日本大百科全書)。

障(さ)への神の意で、外から侵入してくる邪霊を防ぎ止める神(岩波古語辞典)
路に邪魅を遮る神の意(大言海)、
邪霊の侵入を防ぐ神、行路の安全を守る神(広辞苑)、
さへ(塞)は遮断妨害の意(道の神境の神=折口信夫・神樹篇=柳田國男)、

等々という由来とされ、近世には、

集落から村外へ出ていく人の安全を願う、
悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神、

としてだけでなく、

五穀豊穣、
夫婦和合・子孫繁栄、
生殖の神、
縁結び、

等々、

性の神、

としても信仰を集めた。中国では、もともと、

祖餞、崔寔(さいしょく 四民月令の著者)四民月(しみんげつれい 後漢時代の年中行事記)令曰、祖道神也、……故祀以為道祖、

と(「文選」李善註)、

行路神、

として祀られていたらしいが、平安期の御霊信仰の影響で、

境の神、

としての信仰が盛んになった(日本昔話事典)。

「ちぶりの神」は、

道触の神、

と当て、

わたつみのちふりのかみにたむけするぬさのおひかぜやまずふかなん(土佐日記)

と、

陸路または海路を守護する神。旅行の時、たむけして行路の安全を祈った、

とされ、

道祖神、

のこととされる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)が、

隠岐国の一宮、

である、

隠岐の西ノ島町の由良比女(ゆらひめ)神社、

は、由良比女命をまつる。この神は「ちぶり神」ともいはれ、海上安全守護の神として信仰されてきた、

とありhttp://nire.main.jp/rouman/fudoki/42sima17.htm

上記土佐日記の、

わたつみのちぶりの神に手向けするぬさの追ひ風やまず吹かなん(袖中抄)、

と言い、確かに旅の守護神だが、

海路の旅の安全を守る神、

の色彩が強いのではないか、という気がする。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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垢ねぶり


垢ねぶりといふ物は、ふるき風呂屋にすむばけ物のよし申せり(百物語評判)、

にある、

垢ねぶり、

は、

垢舐、

とも当て、

人の垢をねぶりて生く、

とあり(大言海)、室町後期の国語辞書『林逸節用集』に、

垢舐、アカ子(ね)ブリ、温室中之蟲也、

とある。で、

風呂場に生ずる蟲の名、

とある(大言海)。だからか、

いもり(井守)の異名、

ともされる(精選版日本国語大辞典)。上記引用の『百物語評判』(1677年)の「垢ねぶりの事」にも、

凡そ一切の物、其の生ずる所の物をくらふ事、たとへば魚の水より生じて水をはみ、虱のけがれより生じて、其のけがれをくらふがごとし。されば垢ねぶりも、其の塵垢(じんこう)の気の、つもれる床呂より、化生(けしょう)し出づる物なる故に、垢をねぶりて身命をつぐ、

と説明していて、冒頭の、

垢ねぶりといふ物は、ふるき風呂屋にすむばけ物のよし申せり、

とあるのに対する回答として、こう答えているので、必ずしも「化け物」「妖怪」という見方を肯定しているとばかりは言えない。その後、しかし、鳥山石燕の妖怪画集、

『画図百鬼夜行』(1776年)、

では、

垢嘗(あかなめ)、

として、

風呂桶や風呂にたまった垢を嘗め喰う、

妖怪とされ、

足に鉤爪を持つざんぎり頭の童子が、風呂場のそばで長い舌を出した姿、

で描かれているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%A2%E5%98%97

さらに、後年になると、玄紀の、

『日東本草図纂』(1780年)、

では、

垢舐(あかねぶり)、

は、完全に妖怪に化し(仝上)、

嬰児に似て目は丸く舌が長い、

と記している(仝上)。その流を受けて、歌川芳員の、

『百種怪談妖物雙六』(1858年)では、

不気味な青黒い肌の妖怪、

として描かれている(仝上)。

本来、

垢ねぶり、

と、

垢嘗、

は、別系統だったはずだが、

妖怪、

とされることで、混同され、現在では、

垢嘗、
も、
垢ねぶり、

と同一視され、

垢嘗は古びた風呂屋や荒れた屋敷に棲む妖怪であり、人が寝静まった夜に侵入して、風呂場や風呂桶などに付着した垢を長い舌で嘗める、

とされてる(仝上)。当時の人々は、

垢嘗が風呂場に来ないよう、普段から風呂場や風呂桶をきれいに洗い、垢をためないように心がけていた、

というhttp://logdiary6611.blog.fc2.com/blog-entry-93.html。「垢」には、

心の穢れや煩悩、余分なもの、

という意味もあることから、

風呂を清潔にすることをし忘れるほど、穢れを身に溜めこんではいけないという教訓も含まれている、

との説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%A2%E5%98%97

なお、

垢舐(あかなめ)、

と当てると、

垢なめの歯にはさまつた灸のふた(柳多留)、

とある、

川瀬の底石に着く珪藻を鮎その他の淡水魚が餌として食べた跡、

の意、つまり、

喰跡(はみあと)、

の意になる(江戸語大辞典)。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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望夫石


唐土にても望夫石(ぼうふせき)の故事と相ひ似たり、是れたまたま其の石の、人がたちに似たるを以て、名付けたるべし(百物語評判)、

とある、

望夫石、

は、

望夫石の故事は多いが、ここでは「武昌貞婦望失、化面為石」と『神異経』の述べる、湖北省武昌北山の石であろう、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。『神異経』は、

中国の古代神話を編纂した古書、

で、『山海経』に似ているhttps://prometheusblog.net/2017/12/01/post-6570/とある。

「望夫石」の故事は、各地にあるらしいが、

中国湖北省武昌の北山にある石、

は、

貞女が戦争に出かける夫をこの山上で見送り、そのまま岩になった、

と伝える(広辞苑・日本国語大辞典)が、『神異経』などに見える伝説にもとづく、とある(仝上)。

日本でも、

はうふせきという石も、こひゆゑなれるすかたなり(「とはずがたり(14C前)」)、

と、

松浦佐用姫(まつらさよひめ)が夫の大伴狭手彦(おおとものさでひこ)を見送り、石になった、

というものなど各地にある(仝上)。万葉集にも、

山の名と言ひ継げとかも佐用姫(さよひめ)がこの山の上(へ)に領布(ひれ)を振りけむ、
万代(よろづよ)に語り継げとしこの岳(たけ)に領布(ひれ)振りけらし松浦佐用姫、
海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領布(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫、
行く船を振り留(とど)みかね如何(いか)ばかり恋(こほ)しくありけむ松浦佐用姫、

などと詠われる「松浦佐用姫」伝説は、

大伴佐提比古(狭手彦 おとものさてひこ/さでひこ)が異国へ使者として旅立つとき、妻の松浦佐用比売(さよひめ)が別れを悲しみ、高い山の上で領巾(ひれ 首から肩に掛けて左右に垂らす白い布)を振って別れを惜しんだので、その山を「領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)」とよぶと伝える、

とある(日本大百科全書)。大伴狭手彦が朝廷の命で任那(みまな)に派遣されたことは『日本書紀』の宣化(せんか)天皇二年(537)条にみえるが、佐用姫の伝えはない、とある(仝上)。肥前地方で発達した伝説で、奈良時代の『肥前国風土記』にも、松浦(まつら)郡の、

褶振(ひれふり)の峯(みね)、

としてみえるが、そこでは、

大伴狭手彦連(むらじ)と弟日姫子(おとひひめこ)の物語、

になっており、

夫に別れたのち、弟日姫子のもとに、夫に似た男が通ってくる。男の着物の裾(すそ)に麻糸をつけておき、それをたどると、峯の頂の沼の蛇であった。弟日姫子は沼に入って死に、その墓がいまもある、

と、昔話の、

蛇婿入り、

の三輪山型の説話になっている(仝上)。

佐賀県唐津市東郊鏡山(284メートル)を中心に東北地方まで伝説が分布、

しているという(日本伝奇伝説大辞典)。

狭手彦が百済救援のため渡海するときに名残りを惜しんだ、

名残りの坂、

焦がれ石、

がある(仝上)。姫は夫に焦がれて後姿を追って鏡山に登り領巾(ひれ)を振った。山頂に、

領巾振り松、

があり、それで鏡山を、

領巾振(ひれふり)山、

といい、姫は、軍船が小さくなると、松浦川の

松浦佐用姫岩、

に飛び降り、着物が濡れたので、

衣掛(きぬかけ)松、

で干し、呼子に走ったが及ばず、加部島の伝登(てんどう)岳で、悲しみの余り、

望夫石、

と化した(仝上)、とされる。なお、「呼子」の古名、

呼子の浦、

といい、姫がここで夫の名を呼んだのに由来すると伝える(日本大百科全書)。近年、

松浦佐用姫伝説、

が、干拓地に多いことから、

人柱、

とする説もあるようだ(若尾五雄「人柱と築堤工法」)。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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如意宝珠


絵かきは尾さきに如意宝珠を書けるも、これらの故実にてや侍らん(百物語評判)、

とある、

如意宝珠は、

種々の物を意にまかせて出すという、寶の珠。火焔状で書かれるのが普通、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、日本では一般的に、下部が球形、上部が山なりに湾曲して尖っているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0、とある。

梵語cintmai(チンターマニ)の訳語、

で(精選版日本国語大辞典)、サンスクリット語で、

チンターとは「思考」、マニは「珠」、

を指し、

意のままに願いをかなえる宝、

と解釈できるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0

如意宝、
如意珠、
如意の珠、
摩尼(マニ)、
摩尼宝珠、

などともいう(広辞苑・大辞林・精選版日本国語大辞典)。

如意輪観音、
地蔵菩薩、
馬頭観音、

などの、

持物(じもつ)、

とされ、とくに真言宗などの密教で重んじられる(岩波古語辞典・日本大百科全書)。

摩尼宝珠瓔珞、如意珠瓔珞(法華経)、
諸佛入涅槃時、以方便力留砕身舎利、以福衆生、衆生福盡此舎利變為摩尼如意寶珠(往生論註)、

と(字源)、

一切の願いが自分の意の如くかなうという不思議な宝のたまの意で、民衆の願かけに対し、それを成就させてくれる仏の徳の象徴、

であり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

意のままに、宝や衣服、飲食を出し、病気や苦悩をいやしてくれるまさに空想上の宝珠であり、また悪を除去し、濁った水を清らかにし、災禍を防ぐ功徳(くどく)があると信じられている(日本大百科全書)。

一説に、

竜王の脳の中にあり、これを手に入れると、多くの財宝が得られるだけでなく、毒にもおかされず、火にも焼かれない、

という(ブリタニカ国際大百科事典)。

如意宝珠の概念は、

天台智(智)の摩訶止観、

とともに日本に伝わったが、平安時代には神道にもとりこまれ、稲を持った豊穣の女神ウカノミタマが、富裕の神として如意宝珠を持った姿で描かれるようになった。この、

ウカノミタマとともに信仰されてきた如意宝珠の図柄、

は、「牛王」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492844892.htmlで触れたように、

熊野本宮大社の牛玉宝印、

伏見稲荷大社のご朱印、

として押印されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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百歳の狐


唐土(もろこし)にては、百歳の狐、北斗を礼(らい)して美女となり、千歳にして其の尾わかれて、淫婦となれりとかや(百物語評判)、

にある、

百歳の狐、

は、

狐、百歳ニシテ美女ト為リ、神巫ヲ為ス。……千歳ニシテ即チ天ニ通ジ天狐ト為ル(玄中記)、

などによる伝説上の狐で、

つづいて、

宋の王欽若(おうきんじゃく)と云ふ者、其のむまれつきねぢけて、何共心得がたきを以て、九尾狐(きゅうびこ)と名付けし事、『宋史』にみえたり(仝上)、

とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、「百歳の狐」が「九尾の狐」となることになる(『玄中記』は、西晋(265〜316年)代の編纂)。

「九尾の狐」http://ppnetwork.seesaa.net/article/493610281.htmlは、

天竺では班足(はんそく)太子の塚の神、唐土では周の幽王の后褒姒(ほうじ)、また殷の紂王の妲己(だっき)、日本に渡来して鳥羽院の寵姫玉藻前(たまものまえ)となって、院を悩ました妖狐は九つの尾をもっていたという伝説。那須野で射殺されて殺生石となったとする、

とされる(仝上)。本来「九尾の狐」は、

中国に伝わる伝説上の、

9本の尾をもつキツネの霊獣、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90、『山海経』には、

有獸焉、其狀如狐而九尾、其音如嬰兒、能食人、食者不蠱、

とあり、

食べた者は蠱毒(あるいは邪気)を退ける、

と、

霊験として辟邪の要素を付与されており、瑞獣としてあつかわれている、

ようにhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90、中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが、泰平の世や明君のいる代を示す、

瑞獣、

とされ、『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた、

神獣、

とされる(世界大百科事典)。伝説時代から戦国時代の魏の襄王に至るまでを著述した、史記と並ぶ中国の編年体の歴史書『竹書紀年』(ちくしょきねん)には、

夏(か)の伯杼子が東征して〈狐の九尾なる〉を得た、

とあり(仝上)、戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立した『山海経』(戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀〜3世紀頃)にかけて付加執筆された地理書)「大荒東経」には、

有青丘之國、有狐而九尾、

とあり、

東方の霊獣、

と考えたらしい。九尾を瑞祥とする考えは、我が国の、「延喜治部省式」祥瑞上瑞に、

九尾狐、神獣也、其形、赤色、或白色、音如嬰児、

とあり、やはり同じ考え方が伝来したものと見ていい。

これが後世、

元の時代の『武王伐紂平話』や明の時代の『春秋列国志伝』などで、殷王朝を傾けたとされる美女・妲己の正体が九尾の狐(九尾狐、九尾狐狸)であるとされている

などhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90、九尾狐は、

千年修行すると尾が一本増え、一万年修行をすると黒かった毛が白くなる、

などと妖獣とされていくことになる。

「百歳の狐」は、「玄中記」によると、

狐、五十歲能變化為婦人。百歲為美女。又、為巫神。或、為丈夫、與女人交接。能知千里外事、善蠱魅、使人迷惑失智。千歲即與天通為天狐、

と、

狐は、五十歳にして婦人と為り、百歳にして美女と為り、神巫と為り、丈夫と為り女人と交接し、千里の外の事を知り、人をして智を失わしめ、千歳にして天狐と為る、

という流れは、

神獣→妖獣、

となっていく、

九尾の狐、

の流れと真逆である。

江戸後期の辞書注釈書『箋注和名抄(箋注倭名類聚抄)』には、

狐 考聲切韻云。狐[音胡岐豆禰]。獸名射干也。關中呼爲野干。語訛也。孫面曰。狐能爲妖怪。至百歳化爲女者也、

とありhttp://www.hyakujugo.com/kitsune/kenkyu/kigen02.htm

按。太平御覧引玄中記云。百歳狐爲美女。孫面至百歳化爲女之説。蓋本之、

と注釈している(仝上)。『太平御覧』(たいへいぎょらん)は、北宋代初期(10世紀末)の類書である。そして、『太平御覧』は、

玄中記曰。五十歳之狐。爲淫婦。百歳狐。爲美女。又爲巫神。

と、「玄中記」へと返る。どうやら、「百歳の狐」の伝説は、「玄中記」の説を始まりとするようである。

なお、「野干」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485021299.html、「きつね」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433049053.htmlについては触れた。

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つかはしめ


是れ、世に云はゆる稲荷の狐なり。……神のつかはしめなりと云へり(百物語評判)、

にある、

つかはしめ、

は、

使者、
使役神、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「つかわ(は)しめ」には、

御使姫、
神使、
使婢、

等々とも当て(https://furigana.info/r/%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%97%E3%82%81・精選版日本国語大辞典)、

使い姫、
神の使い(かみのつかい)、
御先(みさき)、

ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%BF・デジタル大辞泉)、

稲荷の狐、

のほか、

日吉(ひえ)・鹿島の猿、
熊野の烏、
八幡の鳩、
春日(かすが)の鹿、
弁天の蛇、

等々、

神仏の使いといわれるもの、

を指し(精選版日本国語大辞典)、

神の眷属、御先神とも考えられ、神に先駆けて出現し、あるいは神の意志を知る兆し、

とされるhttps://genbu.net/tisiki/sinsi.htm

しんし、

とも訓ませる、

神使、

は、神道において、

神の使者(使い)、
もしくは、
神の眷族で神意を代行して現世と接触する者、

と考えられる特定の動物のことであるが、時には、

神そのもの、

と考えられることもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%BF。その対象になった動物は哺乳類から、鳥類・爬虫類、想像上の生物まで幅広く、

鼠 大黒天
牛 天満宮
虎 朝護孫子寺
蜂 二荒山神社
兎 住吉大社・岡崎神社・調神社
亀 松尾大社 
蟹 金刀比羅宮 
鰻 三嶋大社
海蛇 出雲大社
白蛇 諏訪神社
猿 日吉大社・浅間神社
烏 熊野三山・厳島神社
鶴 諏訪大社
鷺 氣比神宮
鶏 伊勢神宮・熱田神宮・石上神宮
狼 武蔵御嶽神社・三峰神社など奥多摩・秩父地方の神社
鯉 大前神社
猪 護王神社・和気神社
ムカデ 毘沙門天

等々多岐にわたる(仝上)

『日本書紀』の景行天皇記には、

伊吹山の荒神(あらぶるかみ)が大蛇に化身して日本武尊の前に現れたのを、尊は「大蛇は荒神の使いだろう」と言った、

という記述があり、『古事記』の皇極天皇記(4年正月条)には、

姿は見えないが猿の鳴き声がしたため、人々が「伊勢大神の使」として、その声で吉凶を判じた、

という記述がある(仝上)。三島宮御鎮座本縁には、

己酉二年……白鳥鷺、三島使女云、

とある(大言海・精選版日本国語大辞典)。江戸時代中期編纂の日本の類書(百科事典)『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』には、

近江國、日吉山王権現、天智天皇御宇、始鎮座、……以猿為宦者(つかはしめ)、社傍養之、

とある。

なお、

つかはす、

は、

使はす、
遣はす、

と当て、

つかふ(使)に尊敬の助動詞シの添った形(岩波古語辞典)、
古くは「行かせる」「与える」の尊敬語として、「給う」などを付けないで用いる(精選版日本国語大辞典)、

とあり、

真蘇我(マソガ)よ蘇我の子らは馬ならば日向(ヒムカ)の駒(コマ)太刀(タチ)ならば呉(クレ)の真刀(マサヒ)諾(うべ)しかも蘇我の子らを大君のつかはすらしき(万葉集)、

と、

お使いになる、
お仕えさせになる、

意や、

朝(あした)には召して使ひ夕(ゆふへ)には召して使ひ使はしし舎人(とねり)の子らは 行く鳥の 群がりて待ち(万葉集)、

と、

使いとしてお行かせになる、
命じて行かせる、

意が原義であるが、後に敬意が薄れて下位者を派遣するだけの場合にも用いる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。そのため、「つかはしめ」も、

国王大臣のつかはしめとして(正法眼蔵)、

召し使う者、
家人、
家来、

の意でも使うに至る(仝上)。

「使」(シ)は、

会意文字。吏は、手に記録用の竹を入れた筒をしっかり持った姿を示す。役目をきちんと処理する役人のこと。整理の理と同系の言葉。使は「人+吏」で、仕事に奉仕する人を示す。公用や身分の高い人の用事のために仕えるの意を含む。また他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。「人」+音符「吏」。仕える人の意味(説文)。「吏」は「㫃(旗の原字)」の略体+「中(記録を入れる竹筒)」+「又(手)」で記録したものを届けるさま、貴人に仕え、使役される人を意味する。「史」「事」と同系で音が通ずる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%BF

会意形声。人と、吏(リ→シ 仕事をする意)とから成り、人のために仕事をする人の意を表す。「吏」の後にできた字。古くは、「史」「吏」「事」と同字であった。転じて「つかう」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(人+吏)。「横から見た人の象形」と「官史(役人)の象徴となる旗ざおを手に持つ象形」(「役人」の意味)から「つかう・つかえる人」を意味する「使」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji388.htmlが、趣旨は同じである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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