「尻目」は、 しりめ、 と訓ませ、 後目、 とも当て、 同期を尻目に、彼一人出世していった、 騒ぎを尻目に、悠々と立ち去った、 などというように、 〜を…に、 の形で、 〜を無視して、かまわず事を行う、 目の隅に置いただけで全く無視する、 意(広辞苑)で使うことが多いが、 ただ一打ちに打ち拉がんと、尻目に敵を睨んで(太平記)、 というように、 横目、 の意(兵藤裕己校注『太平記』)で使ったり、 しりめに見おこせ給ひて(源氏物語)、 と、 顔を動かさず、ひとみだけ動かして、後方を見やること、またその目つき、 の意で、 流し目、 の意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。「横目」は、 横目づかい、 という言い方をするように、 顔を前に向けたまま横を見ること、 わき目、 ながしめ、 の意であり、その意味で、目の使い方としては、 尻目、 と重なる。しかし、それをメタファに、 その後、思ひかはして、また横目することなくて住みければ(宇治拾遺物語)、 と、 他に心を移すこと、 の意で使い、「尻目」とは意味が離れる。「尻目」は、 しりめ恥ずかしげに見入れつつ(狭衣物語)、 と、 相手を蔑視したり、無視したりする場合にも用いられるが、中古においては、多く女性が打ち解けたときのしぐさとして、また、近世においては、女性の媚を含んだ流し目という意味あいで使われた、 と(精選版日本国語大辞典)、「流し目」の方へシフトしたようである。特に、 尻目に懸く(懸ける)、 という言い方は、 言(こと)にいでて、などて言ひなし給ふと思ふがにくければ、のどやかにしりめにかけて見やりたれば(夜の寝覚)、 と、 人を見下したり無視したりする態度、 さげすむさま、 の意でも使うが、 中将かくとは知らず、しりめにかけ、うちゑみたる気色(きそく)をしてぞ通られける(御伽草子「しぐれ」) と、 秋波を送る、 意や、 過し所縁(ゆかり)とてもろこしに笑はせ、かほるが尻目に懸られ(好色一代男)、 と、 媚びた目つきをする、 色目を使う、 意で使ったりする(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「しり」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/454328830.html)で触れたように、かつては、 まへ⇔しりへ のちには、 まへ⇔うしろ と対で使われ、「しり」は、 口(くち)と対、うしろの「しろ」と同根、 で、前(さき)・後(しり)と対でもある(岩波古語辞典)。 「しり」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/454328830.html)で触れたように、「尻」(コウ)は、 会意兼形声。九は、手のひどく曲がった姿で、曲りくねった末端の意を含む。尻は「尸(しり)+音符九」で、人体の末端で奥まった穴(肛門)のあるしりのこと、 とあり(漢字源)、別に、 会意兼形声文字です(尸+九)。「死んで手足を伸ばした人」の象形と「屈曲して尽きる」象形から、人体のきわまりにある「しり」を意味する「尻」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2065.html)。 「目」(漢音ボク、呉音モク)は、 象形。めを描いたもの、 であり(漢字源)、 のち、これを縦にして、「め」、ひいて、みる意を表す。転じて、小分けの意に用いる、 ともある(角川新字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 諸国の斗藪畢(おわ)りて、禅門、鎌倉に帰り給ひければ(太平記)、 僧を一人御倶(とも)にて、山川斗藪のために立ち出でさせ給ふ(仝上)、 と、 斗藪(とそう)、 とあるのは、 角(かく)て抖擻(トソウ)修業の後再(ふたたび)高雄の辺に居住して(源平盛衰記)、 と、 抖擻、 抖藪、 等々とも当て、 とすう、 とも訓ませ(精選版日本国語大辞典)、 頭陀(づだ)、 の漢訳語であり、 修治(しゅうじ)、 棄除(きじょ)、 とも表記する、 身心を修錬して衣食住に対する欲望をはらいのけること、また、その修行。これに十二種を数える、 意(精選版日本国語大辞典)とあり、つまり、 僧の、旅行して、行く行く食を乞ひ、露宿などして、修行する、 ことだが(大言海)、禅宗では、 行脚(あんぎゃ)、 といい、時宗で、 遊行(ゆぎょう)、 というのもこれに当たる(仝上)、とある。冒頭引用にある「山林斗藪(抖擻)」は、 山林斗藪の苦行、樹下石上の生臥、これみな一機一縁の方便、権者権門の難行なり(「改邪鈔(1337年頃)」)、 と、 山野に寝て、不自由に堪えながら、仏道修行に励む、 意になる(精選版日本国語大辞典)。 「頭陀(ずだ・づだ)」は、 梵語ドゥータ(dhūta)、 の音訳。 頭陀者、漢言抖擻煩悩、離諸滞着(四分律行事鈔)、 と(抖擻はふるい落とす意)、 払い除くの意、 で、 頭陀此應訛也、正言杜多、譯云洮汰、言大灑也、舊云抖擻、一義也(玄應音義)、 と 杜多、 とも訳す(大言海)。「頭陀」は、 頭陀支(ずだし)、 頭陀行(ずだぎょう)、 とも呼ばれ、 衣食住に対する欲求などの煩悩を取り除く、 意味で(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1980/129/1980_129_L88/_pdf/-char/ja)、 世尊爾時以此因縁集比丘僧、為諸比丘随順説法、無数方便讃歎頭陀端嚴少欲知足楽出離者(四分律)、 と、仏陀も頭陀行をすることを賞賛していた、とある(仝上)。上記、「十二頭陀」(じゅうにずだ)とは、 仏道修行者が守るべき衣食住に関する一二の基本的規律、 で、 衲衣(納衣 のうえ 人が捨てたぼろを縫って作った袈裟)・但三衣・常乞食・不作余食(次第乞食)・一坐食・一揣食・住阿蘭若処(あらんにゃ)・塚間坐・樹下坐・露地坐・随坐(または中後不飲漿)・常坐不臥、 の十二項目(顕戒論)、 ともされる(精選版日本国語大辞典)が、 十二または十三の実践項目、 とし、 糞掃衣(ふんぞうえ 捨てられた布片を綴りあわせて作られた衣を着用する)、 但三衣(たんざんえ 三衣一鉢(さんえいっぱつ)、大衣・上衣・中着衣の三衣のみを着用する)、 持毳衣(じぜいえ 毛織物で作った衣のみを保持する)、 常乞食(じょうこつじき 托鉢乞食のみによって食物を得る)、 次第(しだい)乞食(行乞時には貧富好悪を選別せず、順次に行乞する)、 一食法(一日一食のみ食する)、 節量食(食を少なく、過食をしない)、 時後不食(食事の後で再び食事・飲み物を摂ってはいけない)、 阿蘭若住(あらんにゃじゅう 人里離れたところを住所とする)、 樹下坐(じゅげざ 樹の下を住所とする)、 露地坐(ろじざ 常に屋外を住所とする)、 塚間住(ちょうけんじゅう 塚墓つまり墓所の中やその近くを住所とする)、 随得敷具(ずいとくしきぐ 与えられたいかなる臥坐具(がざぐ)・住所も厭わず享受する)、 常坐不臥(じょうざふが 常に坐して横臥しない)、 などを挙げている(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%A0%AD%E9%99%80)。「頭陀支(ずだし)」は、 パーリ(上座部仏教)系では13支、 大乗系では12支、 を立てるとあり(日本大百科全書)、諸部派・大乗の文献で項目や配列に若干の相違があるようである(仝上)。 因みに、頭陀の修行者が常に携行する持ち物を、 頭陀十八物(ずだのじゅうはちもつ)、 といい、持ち物を入れるために首に掛ける袋を、 頭陀袋(ずだぶくろ)、 という(仝上)。これが転じて、死装束の一つとして、 首にかけて、死出の旅路の用具を入れる袋、 つまり、 僧侶の姿になぞらえて浄衣(経帷子きょうかたびら)を着せた遺体に、六文銭などを入れて首に掛ける。三衣袋(さんねぶくろ)と称して、血脈を入れることがある、 を頭陀袋と呼ぶ(仝上・広辞苑)。 「抖」(漢音トウ、呉音ツ)は、 形声、手+斗、 で、 ふるえる、 意であり、 「擻」(ソウ)も、身震いする意である。 「藪」(漢音ソウ、呉音ス)は、 会意兼形声。「艸+音符數(ス たくさん、つらなる)、 で、「やぶ」の意で、物事の集まるところ、となる。「抖藪」で、それを振り払う意となる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 秋思亭(しゅうしてい)の月(秋の寂しさを味わう四阿(あずまや)から仰ぐ月)は有待の雲に隠れ(太平記)、 の、 有待(うだい)、 は、 限りある人の身、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)が、 他に依存する、 の意で、仏教用語。 人間の身体は、食物、衣服などに依存する(たすけを待って保たれる)から、 という意で、 生滅無常のはかない身、 という意味になり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 有待の形空しく破れぬ(「妻鑑(1300頃か)」)、 と、 人間の肉体、 凡夫の身、 の意で使われる(岩波古語辞典)。だから、 有待の身を無墓(はかなく)あたなる物と思へり(「康頼宝物集(1179頃)」)、 と、 有待の身(うだいのしん・み)、 という言い方は、少し意味が重複するが、 生滅無常の世に生きるはかない身、 人の身、 という意味になる(精選版日本国語大辞典)。これは、 愛其死以有待也、養其身、以有為也(礼記)、 と、漢語であり、 有待之身(ゆうたいのみ)、 は、 後来事を為さんと時機を待つ身、 つまり、 いつかは事を成そうと時期を待つ身、 という意味になる(字源)。「有為」とは、 将大有為之君、必有所不召之臣(孟子)、 と、 為す所の事あり、 の意であり、更に、 莫戀漁樵與、人生各有為(李白)、 と、 職務がある、 意で使う。 「有待(ゆうたい)」は、仏教語に転用せられ、 初心有待、若得供養、所修事成(法華経)、 と、 有待の身(うだいのしん・み)、 と、 凡夫の身、 の意で使われた(字源)。この転用は、どういう筋道なのかはよくわからない。現代中国語では、動詞としては、 従属する、 他に頼って存在する、 の意であり、これが原意のようであるが、複音節動詞・動詞句・節の形で、 待たねばならない、 …する余地がある、 …する必要がある、 の形で用いられている(白水・中国語辞典)。つまりは、「待たねばならない」は、時機を待つであり、「する必要がある」が、なすべきことがある、という意と繋がっているようだ。 「中陰」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485912319.html)で触れたように、「有」(漢音ユウ、呉音ウ)は、 会意兼形声。又(ユウ)は、手で枠を構えたさま。有は「肉+音符又」で、わくを構えた手に肉をかかえこむさま。空間中に一定の形を画することから、事物が形をなしていることや、わくの中に抱え込むことを意味する、 とある(漢字源)。別に、 会意形声。肉と、又(イウ 変わった形。すすめる)とから成り、ごちそうをすすめる意を表す。「侑」(イウ)の原字。転じて、又(イウ ある、もつ、また)の意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(月(肉)+又)。「右手」の象形と「肉」の象形から肉を「もつ」、「ある」を意味する「有」という漢字が成り立ちました。甲骨文では「右手」だけでしたが、金文になり、「肉」がつきました、 ともあり(https://okjiten.jp/kanji545.html)、「有」に「月(肉)」が加わった由来がわかる。 「待」(漢音タイ、呉音ジ)は、 会意兼形声。寺は「寸(手)+音符之(足で進む)」の会意兼形声文字で、手足の動作を示す。待は「彳(おこなう)+音符寺」で、手足を動かして相手をもてなすこと、 とある(漢字源)が、「じっと止まってまつ」という意味としっくり重ならない。別に、 形声。彳と、音符寺(シ)→(タイ)とから成る。道に立ちどまって「まつ」意を表す、 とか(角川新字源)、 形声文字です(彳+寺)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「植物の芽生えの象形(「止」に通じ、「とどまる」の意味)と親指で脈を測る右手の象形」(役人が「とどまる」所の意味)から歩行をやめて「まつ」を意味する「待」という漢字が成り立ちました、 とあり(https://okjiten.jp/kanji514.html)、この解釈の方がすっきり納得できる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 洛中須臾に変化して、六軍翠花(すいか 古代中国で、カワセミの羽で飾った天子の旗)を警固し奉る(太平記)、 にある、 六軍(りくぐん・ろくぐん)、 は、 古代中国で天子の率いた軍、諸侯の軍の対、 と注記される(兵藤裕己校注『太平記』)。 六師(りくし)雷のごとく震ひ(古事記)、 と、 六師(りくし)、 ともいう(広辞苑)。 一軍萬二千五百人、周制天子六軍、諸侯大国三軍(周禮・地官 注)、 とある(字源)ように、 三代の周の制に、一萬二千五百人を一軍とし、其の六箇の軍を、天子の率いる軍とす、 とあり(大言海)、周代の軍制で、天子の統率した六個の軍、 一軍が1万2500人で、合計7万5000人、 の軍隊となる。のち、 晉や唐もこれをまねて、この名称を転用した、 という(精選版日本国語大辞典)。 諸侯の軍は、 凡制軍、萬有二千五百人為軍、王六軍、大国三軍、次国二軍、小国一軍(周禮・夏官) と定められていた。 『戦争の中国古代史』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481322750.html)で触れたが、西周時代、西の周原、宗周などの王畿に、 西の六師、 がある外に、東の拠点「成周」にも、 成周八師(せいしゅうはっし 殷八師)、 が置かれ、共に正規軍とされ、その他に、服属した国々の兵員から成る、 虎臣、 もあったとされる(佐藤信弥『戦争の中国古代史』)。 諸侯は、 周においては畿外の地に封建、 され、多く、 侯、 に任ぜられたため、諸侯と呼ばれる。もともとは、 辺境防衛のために配置された武官、 とされ、青銅器に鋳刻された金文によれば、周囲の敵と戦うとき、直属の六師、八師が動員された例はほとんどなく、 王臣や諸侯の兵力、 が駆使された、という(仝上)。 「六道四生」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486172596.html?1648323250)で触れたように、 「六」(漢音リク、呉音ロク)は、 象形。おおいをした穴を描いたもの。数詞の六に当てたのは仮借(カシャク 当て字)、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%AD)が、 象形。屋根の形にかたどる。借りて、数詞の「むつ」の意に用いる、 とも(角川新字源)、 象形文字です。「家屋(家)」の象形から、転じて数字の「むつ」を意味する「六」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji128.html)あり、「穴」か「家」だが、甲骨文字を見ると、「家」に思える。 「軍」(慣用グン、漢呉音クン)は、 会意文字。「車+勹(外側を取り巻く)」で、兵車で円陣を作って取巻くことを示す。古代の戦争は車戦であって、まるく円をえがいて陣取った集団の意、のち軍隊の集団をあらわす、 とあり(漢字源)、「軍団」のように兵士の組織集団をさすが、古代兵制の一軍の意もある。 「勹」は車に立てた旗を象ったもので象形、 とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BB%8D)。別に、 会意文字です(冖(勹)+車)。「車」の象形(「戦車」の意味)と「人が手を伸ばして抱きかかえこんでいる」象形(「かこむ」の意味)から、戦車で包囲する、すなわち、「いくさ」を意味する「軍」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji660.html)。 参考文献; 佐藤信弥『戦争の中国古代史』(講談社現代新書) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 尫弱の勢かさを見て、大勢の敵などか勇まであるべき(太平記)、 に、 尫弱(おうじゃく)、 とあるのは、 弱弱しい、 という意(兵藤裕己校注『太平記』)だが、 馬允なにがしとかやいひける老者、……尩弱の体にて、物くひてゐたりけるが(「古今著聞集(1254)」)、 と、 尩弱、 とも当てる。 「尫弱」の「尫」(オウ)は、 尩の俗字、 とあり(漢字源)、 尪、 とも表記する(https://kanji.jitenon.jp/kanjiy/14348.html)。原意は、 足や背中が曲がって不自由である(仝上)、 曲がれる脛(曲脛)(字源)、 などとあり、 素尩弱不能騎、宛轉山谷閨A僅達幷州(唐書・裴懷傳)、 と、 尩弱、 とか、 少尩病、形甚短小、而聡敏過人(晉書・山濤傳)、 と、 尩病(おうびょう)、 等々と使う。「尩」は、 尢、 と同じ、とある(仝上)。 「尢」(オウ)は、 象形。足が曲がった人の姿を描いたもの、 とあり(漢字源)、「まがる」「足や背が曲がった人」の意で、「尩」と同義であるが、「弱い」意はない。 「尩弱」は、上記の、 体、体力、気力などが弱いこと、 かよわいこと、 という漢語の意味の外に、和文では、 頼政、尫弱の勢にて固め給ふ(源平盛衰記)、 只近代使庁沙汰、逐日尫弱、偏如鴻毛(吾妻鏡)、 まことに尫弱(ワウジャク)の家に生れ天下一統の功を立給ひし事(「信長記(1622)」)、 などと、 微力、微禄、貧乏など、勢力、能力、財力、威力、影響力などが小さいこと、 の意や、 尫弱たる弓を敵(かたき)のとりもて、……嘲哢(てうろう)せんずるが口惜ければ(平家物語)、 と、 (弓などが)強くないこと、 の意、 月に六日十日は尩弱の事なり(極楽寺殿御消息)、 と、 とるに足りないこと、些細なこと、 の意や、 就尩弱所領、被懸抜群之課役事、難堪之至也(「新札往来(1367)」)、 抑笙筥一合蒔絵摺貝 妙怤持参、……結構之物也、則令買得、其代尫弱也、不慮感得喜悦也(看聞御記)、 などと、 土地からの税の貢納が少ないこと、 物品、金額が少ないこと、 の意や、 牛の事……在所をも不得尋候間、迷惑仕候。彼牛の事、此方よりはわうしゃく之儀なく候由申候へ共(高野山文書)、 と、 弱点、弱味があること、 の意にまで広げて使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典) 「弱」(漢音ジャク、呉音ニャク)は、 会意文字。彡印は模様を示す。弱は、「弓二つ+二つの彡印」で、模様や飾りのついた柔らかい弓、 とある(漢字源)。さらに、 装飾的な弓は機能面で劣ることから、「よわい」という意味がでた、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%B1)、 象形。かざりを付けた弓を二つ並べた形にかたどる。弓を美しく整えることから、しなやか、転じて「よわい」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(弓+彡×2)。「孤を描いた状態の弓(たわむ弓)」の象形と「なよやかな毛」の象形から、「よわい、たわむ」を意味する「弱」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji206.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) (細川清氏は)河内国に居たれども、その旧好を慕ひて尋ね来る人も稀なり。ただ秀(ち)びたる筆に喩へられし覇陵の旧将軍に異ならず(太平記)、 の、 秀(ち)び、 は「ちび」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464469440.html)で触れたように、 擦り減る、 意で、 古形ツビ(禿)の転、 とあり(岩波古語辞典)、「つび(禿)」は、 ツビ(粒)の動詞形(つぶ)、 で、 角が取れて丸くなる、 意であり ちび下駄、 ちび鉛筆、 のそれである。これは、 ツブルと通ずる(和句解・和訓栞)、 キフル(髪斑)の義(言元梯)、 を語源とする「ちび(禿)る」に由来し、 粒、 から来ているとみていい。 「つぶ」は、「つぶら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464485052.html)で触れたように、 つぶら(圓)の義、 とし(大言海)、 丸、 粒、 とあて(岩波古語辞典)、 ツブシ(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根(岩波古語辞典)、 ツブラ(円)義(東雅・夏山談義・松屋筆記・箋注和名抄・名言通・国語の語根とその分類=大島正健・大言海)、 などから見て、「粒」の意から出ているとみていい。なお、「ツブシ」が「粒」と関わるのは、「くるぶし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458644074.html)でも触れた。 禿びた筆、 は、 先のすり切れた筆、 の意で、 戯拈禿筆掃驊騮(カリュウ 名馬の名)歘(タチマチ)見麒麟出来壁(杜甫杜「壁上の韋偃(イエン)の画ける馬に題する歌」)、 と、 禿筆(とくひつ)、 と訓む漢語で、 禿毫冰硯竟無奇(范成大)、 と、 禿毫(とくごう) ともいう(字源)。また、 敗筆、 ともいい(大言海)、 古くなった筆、 の意の外に、 即使是名家的书法、也不免偶有败笔、 と、 書道の大家であっても、たまの書き損ないは免れない、 弘法も筆のあやまり、 の意で、 (書画・文字・文章などの)できの悪いところ、書き損ない、 の意でも使う(https://ja.ichacha.net/mzh/%E6%95%97%E7%AD%86.html)。 「和語」としては、 擦り切れた筆、 の意の外に、 禿筆を呵す(とくひつをかす)、 というように、「呵す」は、 息を吹きかけること、 で、 穂先の擦り切れた筆に息を吹きかけて書く、 の意、転じて、 下手な文章を書く、 と、 自分の文章の謙遜語、 としても使う(デジタル大辞泉)。なお、「禿筆」は、和文脈では、 ちびふで、 かぶろふで、 とも訓ませる(精選版日本国語大辞典)。 また、冒頭引用の、 びたる筆に喩へられし覇陵の旧将軍に異ならず、 にある「覇陵の旧将軍」は、 漢の前将軍李広が、覇陵(陝西省(せんせいしょう)長安県)を通りかかって役人に通行を止められた。李広の従者が名乗ると、現職の将軍でさえ、夜間の通行は禁じられていると言われた(史記・李広将軍列伝)。この故事から、世に力を失った人を、「覇陵の旧将軍」といい、宋の詩人林通(字は達夫)は、李広を「禿筆」に喩えた、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)。なお、李広は、司馬遷から、 桃李言わざれども下自ずから蹊(ミチ)を成す(桃や李の木は何も言わないが、その下には自然と人が集まって道ができる)、 とその人柄を評された、とある(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%BA%83)。 「禿」(トク)は、 会意。「禾(粟が丸く穂を垂れるさま→まるい)+儿(人の足)」。まるぼうずの人をあらわす、 であり(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A6%BF)、「はげ」とか「筆のすりきれる」意である。 「筆」(漢音ヒツ、呉音ヒチ)は 会意文字。「竹+聿(手で筆を持つさま)」で、毛の束をぐっと引き締めて、竹の柄をつけたふで、 とある(漢字源)が、「聿」(漢音イツ、呉音イチ)は、 筆の原字。ふでを手にもつさまをあらわす。のち、ふでの意味の場合、竹印をそえて筆と書き、聿は、これ、ここなど、リズムを整える助詞をあらわすのに転用された、 とある(仝上)。「聿」は象形文字で、それのみで「ふで」を意味する。「筆」は、竹製であることを強調したものである。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 越王げにもとや思はれけん、敗軍の将は二度(ふたたび)謀らず、と云へり(太平記)、 にある、 敗軍の将は二度謀らず、 は通常、 敗軍の将は兵を語らず、 などとも言うが、 敗軍の将は以て勇を言(かた)るべからず、 が正確、出典は史記、 廣武君辭曰、臣聞、敗軍之將、不可以言勇、亡國之大夫、不可以圖存、今臣敗亡之虜、何足以大事乎(淮陰侯傳)、 にある、 敗軍之將、不可以言勇、 からきている(字源)。 広武君、つまり、 李左車(りさしゃ)、 は、趙の武将。名将李牧の孫。漢の劉邦と敵対した趙は、20万の大軍を擁したが、漢の別働隊の韓信と 井陘(せいけい)の戦い、 で戦い敗れた。 戦いに臨んで、李左車は宰相の陳余に、 狭い地形を利用して本隊で守りつつ別働隊で韓信を襲うことを献策したが、陳余は却下した。趙に内偵を送っていた韓信は、李左車の策が容れられなかったことを知って大いに喜び、敢然と攻め入った。結果、隘路を越えて背水の陣を採った韓信に趙軍は敗れ、趙王歇と陳余と李左車は捕虜となった、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%B7%A6%E8%BB%8A)、その折、韓信は、李左車に、 燕と斉を破る方法を尋ねたのに対して、上記の、 敗軍之将、不可以言勇、 と答えたもの。 敗戦した将は、兵法について語る資格がない、 といった意だが、 背水の陣、 も、史記の、 謂軍吏曰、趙已先據便地爲壁、且、彼未見吾大将旗鼓、未肯撃前行、恐吾至阻険而還、信(韓信)乃使萬人先行出、背水陳、趙軍望而大笑(淮陰侯傳)、 にある(大言海・https://kanbun.info/koji/haisui.html)。この背水の陣は、武経七書のひとつ、中国戦国時代の、兵法書、 『尉繚子』(うつりょうし 尉繚)、 に、 背水陣為絶地、向阪陣為廃軍(尉繚子・天官篇) とあり(大言海・字源)、 川などを背後にひかえて、陣を立てること、 は、趙軍が「大笑」したというように、 兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった、 とされる。しかし、20万の趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で趙軍を打ち破った、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1)。この戦法は、「尉繚子(うつりょうし)」には、 周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を破ったとき の例、「後漢書(ごかんじょ)」銚期(ちょうき)列伝)に、 清陽(せいよう)の博平(はくへい)が銅馬(どうば)の賊を破ったとき、 の例などにみえる(https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kotowaza46)。なお、「陣」(漢音チン、呉音ジン)は、 会意文字。陳(チン)の原字ば「東(袋の形)二つ+攴(動詞の記号)」の会意文字。その東一つを略して、阜(土盛り)→防禦用の砦)を加えたものが陳の本字。陣はその俗字、 とあり(漢字源)、正しくは、 背水の陳、 ということになる。この時の故事から、 千慮の一失(絶対に失敗しないと思われた賢明な人でも、失敗することがあるということ)、 愚者一得(愚か者でも、ときには役に立つような知恵を発揮するということのたとえ)、 という故事も生まれている(故事ことわざ辞典)とある。 「敗」(漢音ハイ、呉音ヘ・ベ)は、 会意兼形声。貝(ハイ・バイ)は、二つに割れたかいを描いた象形文字。敗は「攴(動詞の記号)+音符貝」で、まとまった物を二つに割ること、または二つに割れること。六朝時代までは、割ることと割れることの発音に区別があった、 とあり(漢字源)、「敗」は「勝」と対で、 破、 廃、 と類義語になる。なお、 会意形声。「攴」(=撲)+音符「貝」、「貝」は二枚貝の象形であり、貝殻が打たれて二つに分かれることを意味する、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%95%97)、 形声文字です(貝+攵(攴))。「子安貝」の象形(貝の意味だが、ここでは「敝(へい)」に通じ(「敝」と同じ意味を持つようになって)、「やぶれる」の意味)と「ボクッという音を示す擬声語・右手の象形」(「手で打つ・たたく」 の意味)から「やぶれる」を意味する「敗」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji671.html)。 「軍」(慣用グン、漢呉音クン)は、「六軍」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486344877.html?1649359041)で触れたように、 会意文字。「車+勹(外側を取り巻く)」で、兵車で円陣を作って取巻くことを示す。古代の戦争は車戦であって、まるく円をえがいて陣取った集団の意、のち軍隊の集団をあらわす、 とあり(漢字源)、「軍団」のように兵士の組織集団をさすが、古代兵制の一軍の意もある。 「勹」は車に立てた旗を象ったもので象形、 とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BB%8D)。別に、 会意文字です(冖(勹)+車)。「車」の象形(「戦車」の意味)と「人が手を伸ばして抱きかかえこんでいる」象形(「かこむ」の意味)から、戦車で包囲する、すなわち、「いくさ」を意味する「軍」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji660.html)。 「將(将)」(漢音ショウ、呉音ソウ・ショウ)は、 会意兼形声。爿(ショウ)は長い台をたてに描いた字で、長い意を含む。將は「肉+寸(て)+音符爿」。もと、一番長い指(中指)を将指といった。転じて、手で物を持つ、長となって率いるなどの意味が派生する。また持つ意から、何かでもって処置すること、これから何か動作をしようとする意などを表す助動詞となった。将と同じく「まさに〜せんとす」と訓読することばには、且(ショ)がある、 とある(漢字源)。別に、 形声。寸と、音符醬(シヤウ は省略形)とから成る。「ひきいる」、統率する意を表す。借りて、助字に用いる、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(爿+月(肉)+寸)。「長い調理台」の象形と「肉」の象形と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形から、肉を調理して神にささげる人を意味し、そこから、「統率者」、「ささげる」を意味する「将」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1013.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 大名(だいめい)の下には、久しく居るべからず、功成り遂げて、身退くは、天の道なり(太平記)、 にある、 大名の下には久しく居るべからず、 は、 『史記』越王句践世家の范蠡(はんれい)の言、 范蠡以為、大名之下難以久居、 による。『明文抄』(鎌倉初期成の漢語の故事金言集)にも引かれる。 大いなる名誉のもとに長くいてはいけない、 の意である(兵藤裕己校注『太平記』)。「大名(だいめい)」は、 諸葛大名照垂宇宙、宗臣遺像肅清高(杜甫)、 と、 すぐれたる誉れ、 大いなる名誉、 の意で、 大名を揚ぐ、 などと使う(大言海)。 名誉をきわめても、その地位に長くとどまるのは他人のねたみをうけてよくない、早く退(ひ)くのが賢明である、 の意(精選版日本国語大辞典)が正確かもしれない。 「狡兎死して」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485426752.html)で触れた、 狡兎死して良狗烹らる、 と同じ出典であり、呉を亡ぼして有頂天になる勾践を見て、越から斉(せい)に去った范蠡(はんれい)が越に残る文種(ぶんしょう)に宛てた手紙で、 范蠡遂去、自齊遣大夫種書曰(范蠡遂去り、齊より大夫種に書を遣わして曰く)、 蜚鳥盡、良弓藏(蜚鳥(ひちょう)盡(つ)きて、良弓(リョウキュウ)藏(おさめ)られ)、 狡兔死、走狗烹(狡兎(コウト)死して、走狗(ソウク)烹(に)らる)、 と言ったのと同じ文脈である。文種に、越王の容貌は、 長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)、 と指摘し、「子よ、何故、越を去らぬ」と書いたが、文種は、病と称して出仕しなくなったが越を去れず、謀反の疑いありと讒言され、勾践は文種に剣を贈り、 「先生は私に呉を倒す7つの秘策があると教えて下さいました。私はそのうちの3つを使って呉を滅ぼしました。残り4つは先生のところにあります。私のために先生は亡くなった父王のもとでその秘策をお試し下さい」と伝え、文種は自殺した、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E8%A0%A1)。 功成り遂げて、身退くは、天の道なり、 は、 功遂(と)げて身退(しりぞ)くは、天の道なり、 という『老子』の一節に由来する。やはり『明文抄』も引く。 功績をあげて名誉を得たならば、身を引くのが天の道にかなった生き方である、 という意(兵藤裕己校注『太平記』)である。「天の道」は、荘子の、 天道、 あるいは、 天理、 と同義であり、 天、 道、 とも言う、 天地自然の理法、 であり、 人間界と自然界を貫く恒常不変の真理、自然の掟、必然の理法、 の意である(福永光司訳注『老子』)。ふと、 死生有命、富貴在天(論語・顔淵篇)、 を連想したが、「天命」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163558.html)、「天」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163401.html)、で触れたように、 天には、「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つが並列されている。つまり、天命には、二つの意味があり、一つは、天の与えた使命、 五十にして天命を知る の天命である。いまひとつは、天寿と言う場合のように、「死生命有」の寿命である。だから不慮や非業の死は非命という。 しかし、もうひとつ、 彼を是とし又此れを非とすれば、是非一方に偏す 姑(しばら)く是非の心を置け、心虚なれば即ち天を見る(横井小楠) で言う「天理」のことでもある。ここでの「天道」は、後者を指していると見える。 『老子』九章には、 持而盈之、不如其已(持してこれを盈(み)たすは、その已(や)むるに如かず)。 揣而鋭之、不可長保(揣(う)ちてこれを鋭くすれば、長く保つべからず)。 金玉滿堂、莫之能守(金玉(きんぎょく)堂に満つるも、これを能く守る莫(な)し)。 富貴而驕、自遺其咎(富貴にして驕(おご)れば、自(み)ずからその咎(とが)を遺(のこ)す)。 功遂身退、天之道(功遂(と)げて身退(しりぞ)くは、天の道なり)。 とある(福永光司訳注『老子』)。「揣(た)」は、 捶(た)もしくは鍛(たん)と同義、 で、 打って鍛える、 義である(仝上)。 「功」(漢音コウ、呉音ク)は、 会意兼形声。工は、上下両面に穴をあけること。功は、「力+音符工」。穴をあけるのは難しい仕事で努力を要するので、その工夫をこらした仕事とできばえを功という、 とある(漢字源)が、 会意形声。力と、工(コウ つくる)とから成り、はたらき、ひいて「いさお」の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(工+力)。「のみ(鑿)又はさしがね(工具)の象形」(「作る」の意味)と「力強い腕」の象形から「仕事・手柄」を意味する「功」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji605.html)。 参考文献; 福永光司訳注『老子』(朝日文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 雷光行く先にひらめいて、雷(いかずち)上に鳴り霆(はた)めく(太平記)、 の、 鳴り霆めく、 は、 鳴りとどろく、 意である(兵藤裕己校注『太平記』)。 「はためく」に、 霆、 を当てる例は少ないが、「霆」には、 いなずま、 いなびかり、 とどろく、 の意があるし、 鳴動、 と当てる(大言海)場合もあるので、外れているわけではない。 「霆」(漢音テイ、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。「雨+音符廷(まっすぐのびる、よこにのび)」とあり、挺(テイ まっすぐのびる)と同系、 とある(漢字源)。「いなずま」の意である。「廷」(漢音テイ、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。右側の字(テイ)は、人がまっすぐ立つ姿を描き、その伸びたすねの所を一印で示した指事文字(形で表すことが難しい物事を点画の組み合わせによって表して作られた文字)。壬(ジン)とは別字。廴(のばす)を加えた字で、まっすぐな平面が広く伸びた庭、 とある(仝上)。 形声。廴と、音符𡈼(テイ 壬は誤り変わった形)とから成る。宮廷の中庭の意を表す。「庭(テイ)」の原字、 とある(角川新字源)のも、 会意形声。「廴」+音符「𡈼」。「𡈼」はすねを指し示した会意文字で、「廴」とあわせ、長く伸ばすの意を表す、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BB%B7)のも同趣旨だが、 会意兼形声文字です。「庭」の象形と「階段」の象形から、階段の前に突き出た庭を意味し、そこから、「広庭(政事を行う所(朝廷))、訴えを聞き裁判する所(法廷)」を意味する「廷」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2206.html)。 「はためく」は、 (太刀を)打ち合わする音のはためく事(義経記)、 にはかに雷のはためく音して(北条五代記)、 などと、 鳴り響く、 はげしく響き渡る、 意で使うように、 はた、 は、 擬音語(広辞苑・岩波古語辞典)、 音を名とする(大言海)、 と、擬音語由来と見られ、同義の言葉に、 水無月の照りはたたくにも、さはらずきたり(竹取物語)、 と、 はたたく、 という言葉があり、 並外れて激しい音をたてて雷などが鳴る、 意で、 ハタタはハタメクのハタを重ねた語(岩波古語辞典)、 とあるが、 音のハタハタの活用(大言海)、 なのではあるまいか。ただ、 はたはた、 は、今日の語感では、 ごく軽いものが板戸などに連続して当たる静かな音、 や 薄い物や張った紐などが風をはらんであおられるように動く音、 の意で使い(擬音語・擬態語辞典)、どちらかというと、 儺(な)といふ物こころみるを、まだ昼より、こほこほはたはたとするぞ(蜻蛉日記)、 と、 板戸などをつづけて打ち叩く音、 や、 手をおびただしくはたはたと打つなる(大鏡)、 と、 手を叩く意で使うのが近い。しかし、かつては、 雷がはたはたと鳴り来たれば(周易抄)、 と、 特に、雷が激しくとどろく音、 に使い、 雷も霹靂神にはならず、いかにも静かにどろどろと鳴り(三体詩抄)、 と、 はげしくとどろく雷、 を、特に、 霹靂神(はたはたがみ)、 といい、 はたたがみ、 とも呼んだらしい(岩波古語辞典)。面白いことに、「はたはた」は、 特に、雷が激しくとどろく音、 のみ雷に用い、後は、上記で、 こほこほはたはた(蜻蛉日記)、 と続けたように、静かな叩く音を指す。これのメタファなのか、 とこのまへをきくに、踊騒(ハタメク)こゑあり(観智院本三宝絵)、 に、 揺れ動くように鳴り響く、とどろく、 意でも使う(精選版日本国語大辞典)。「はたはた」は、少し強めて、 ばたばた、 と、少し輕く高い音で、 ぱたぱた、 と、微妙に擬音を使い分けてバリエーションがあるが、こうした「はたはた」の語感のため、「はためく」も、 舌や炎のやうにはためき合ひたり(今昔物語)、 と、 炎や火花が盛んにあがる、炎が勢いよく燃え動く、 と、 ばたばた、 に近い語感(広辞苑)や、 春風にばためく様(洒落本・温海土産)、 のように、濁らせたて、 布や紙などが風に吹かれてはたはたと音をたてて翻る、 と使ったりするが、こうなると、 羽ばたく、 意や、 旗などがはためく、 意と重なってくる。 ちなみに、「ひるがえる(翻る)」「はためく」「ひらめく(閃く)」の違いを、 「ひるがえる」は、 紙や布状のものが風を受けて、空中にある程度広がって位置を占め、動く意。主体が空中にある程度広がって見えている点に重点があり、動きにはさほど重点はない、 「はためく」は、 布や紙が風に吹かれてばたばたと音を立てていることにいう。なお、古くは、炎が勢いよく燃えるとか、雷などが鳴り響くとか、鳥が羽ばたくといった意でも用いた、 「ひらめく」は、 布や紙が風に吹かれてひらひら動く意、 と整理しているものがある(小学館・類語例解辞典)。類義語と比較すると「はためく」の意味が際立つことはある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) われに勝(まさ)りたる忠の者あらじと、臂(ただむき)を振るふ輩(ともがら)多き中に(太平記)、 と、 臂(ただむき)を振るふ、 とあるのは、 腕を揮う、 の、 手腕を発揮する、 とちょっと重なる、 威勢をふるう、 という意味になり(兵藤裕己校注『太平記』)、「ただむき」は、和名類聚抄(平安中期)に、 腕、太々無岐(ただむき)、一云宇天(うで)、 とあるように、 腕、 とも当てる(広辞苑・岩波古語辞典)、 肘から手首までの間、 を指し、 肩から肘までの、 かいな、 に対する(日本語源大辞典)。「かいな」は、また、 二の腕、 ともいう。「二の腕」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453113046.html)で触れたように、 一の腕、 を、 手首から肘まで、 つまり、 ただむき、 を言ったのに対して、「二の腕」といったものらしい(日本語源広辞典)。 ひじで折れ曲がるので、これを2部に分け、上半を上腕upper arm、下半を前腕forearmといい、上腕は俗に〈二の腕〉といわれる。腕は脚に相当する部分であるが、人間では脚より小さく、運動の自由度は大きい、 とある(世界大百科事典)ので、手首側から、一の腕、二の腕と数えたということだろう。 「腕」(ワン)の字は、 中国では主に手首のつけね。まるく曲がるところなので、ワンという、 とあり(漢字源)、 てくび、 臂の下端、掌の付け根の所、 を指し(字源)、 腕骨(わんこつ)、 は、「手首の骨」をさす(仝上)。 腕は、(日本)釈名に「腕宛也、言可、宛曲なり」、急就篇注に、「腕、手臂之節也」とありて、今云ふ、ウデクビなり、されば、ウデは、元来、折手(ヲデ)の転(現(うつつ)、うつ、叫喚(うめ)く、をめく)。折れ揺く意にて(腕(たぶさ)も手節(たぶし)なり)、ウデクビなるが、臂(ただむき)と混じたるなるべし、 とある(大言海)ように、 「てくび」を「ただむき」と混同、 つまり、 肘、 と混同したため位置が動き、本来、「うで」は、 肘と手首の間、 を指し、「かいな」は、 肩から肘までの間、 であったが、 後に「うで」と混用、 され(岩波古語辞典)、一の腕、二の腕を含めて、 腕、 と呼び、肘から上を、 上腕、 肘から下を、 前腕、 と称するようになったとみられる(日本語源大辞典)。こうした、 肩から手首、 を「腕」とするのは、わが国独自の用法になる(漢字源)。この用法が、「腕」に、 腕前、 腕の見せ所、 のような、 物事をする能力、技量、 の意で使う意味の範囲へ広げたのではないか。「腕」の語源を見ると、 ウテ(上手)の義(類聚名物考・和訓栞・国語の語幹とその分類=大島正健)、 ウテ(打手)の義(日本釈名・和句解)、 ヲテ(小手)の転(言元梯)、 ヲデ(折手)の転(名語記・大言海)、 「腕」の別音WutがWuteと転じた(日本語原学=与謝野寛)、 と、位置がばらばら、「腕」が今日、 肘と手首の間、 肩口から手首まで、 と、多義的に使われている訳である(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453113046.html)。 ところで、「ただむき」は、 手手向(タタムキ)の義、両掌に合はすれば、両臂相向ふ、股(もも)を向股(むかもも)と云ふが如し。説文(中国最古(後漢・許慎)の字書『説文解字』)「臂、手上也。肱(かひな)、臂上也、肘(ひじ)臂節也」、(日本)釈名「腕、宛也」、宛は屈すべきものにて、ウデクビなれど、通ずるなるべし、 とあり(大言海)、 左右が向かい合っているところからタタムキ(手手向)の義(柴門和語類集・日本語源=賀茂百樹)、 テテムカヒ(手手向)の義(名言通)、 手向の義(和訓栞)、 なども同趣のようである。 「かいな」は、「二の腕」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453113046.html)で触れたように、 腕、 肱、 とあて、 抱(かか)への根(ね)の約転か。胛をカイガネと云ふも舁(かき)が根の音便なるべし。説文「臂(ただむき)、手ノ上也。肱(かひな)、臂ノ上也」(大言海)、 カイ(支ひ)+ナ(もの)(日本語源広辞典)、 カヒネ(胛)の転(言元梯)、 カヒは抱き上げるという意のカカフルのカを一つ省いたカフルの変化したもの(国語の語幹とその分類=大島正健)、 女の臂のカヨワイことから(俗語考)、 カヒナギ(腕木)の意(雅言考・俗語考)、 カタヒジナカ(肩肘中)の略(柴門和語類集)、 カキナギ(掻長)の義(名言通)、 等々諸説あるが、「抱える」と関わることが、いちばん説得力があるような気がする。 ちなみに、「小手(こて)」は、 手首、 あるいは、 肘と手首の間、 を指すが、 手の腕頸より先。小手先。「小手返し」「小手調べ」「小手投げ」。これに対して、腕・肱を、高手(たかて)と云ふ。人を、高手小手(たかてこて)に縛ると云ふは、後ろ手にして、高手、小手、頸に、縄をかけて、縛りあぐるなり、 とあり(大言海)、いわゆる鎧や防具にいう、 籠手、 は、この「小手」から来ていて、 肘、臂の全体をおおうもの、 であり、「腕頸」とは、 手首、 の意で、 たぶし、 たぶさ(手房)、 こうで(小腕)、 ともいい、 腕と肘との関節、曲り揺く所、 とある(仝上)が、これもけっこう曖昧で、 手首をさす語として、上代より、タブサという語が使用されていたが、語義が不安定であったため、中世より、ウデクビが使われだした。その後、一四、五世紀あたりに、テクビという語が成立し、中世後期からは、テクビの方が優勢となる、 とあり、 たぶさ→うでうび→てくび、 と転化したようだ(精選版日本国語大辞典)。 「臂」(ヒ)は、 会意兼形声。「肉+音符辟(ヘキ 平らに開く)」で、腕の外側の平らな部分。足の外股を髀(ヒ)という。ともに胴体の外壁に当たり、うすく平らに肉が付着しているからこのようにいう、 とあり(漢字源)、 肩から手首にいたる腕全体の部分、人体の外側の壁に当たる部分、 とあり、幅が広く、日本語で「うで」という部分に重なる。「ひじ」の意があるが、「肘」と区別する場合は、腕の上腕を指す、とある(仝上)。説文解字に、 臂、手上也。肱(かひな)、臂上也、肘(ひじ)臂節也、 とある(大言海)のは、その意味だと思うが、「ひじ」と訓ませる、「肱」(コウ)は、 会意兼形声。∠は、∠型にひじを張り出したさま、右側は、「手のカタチ+∠」の会意文字でひじのこと。肱はそれを音符として、肉を添えた字、 とあり(仝上)、 曲肱枕之(肱を曲げてこれを枕とす)、 と(論語)、 外に向けて∠型にはりだしたひじ、 の意である。「肱」を「かいな」に当てているのは、漢字の意味からは外れている。これも「ひじ」と訓ませる「肘」(チュウ)は、 会意文字。肘は「肉+寸(手)」・もと丑(チュウ)がうでを曲げたさまを示す字であったが、十二支に転用され、たため「肉+丑」(ひじ)の字が作られた。肘はそれと同じ、 とあり(仝上)、まさに、 うでの中ほどの部分、曲げて張り出したり、曲げて物を抱え込んだりする部分(仝上)、 腕の関節(字源)、 で、 ひじ、 の意になる(漢字源) 「腕」(ワン)は、 会意兼形声。宛(エン)の字は、宀(屋根)の下に、二人の人がまるくかがむさま。腕は「肉+音符宛」で、まるく曲がる手首、 とある(漢字源)が、別に、 形声。肉と、音符宛(ヱン)→(ワン)とから成る。手を曲げて動かす部分、「うで」の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意形声。「肉」+音符「宛」、「宛」は「宀」(屋内)で、「夗」(体を丸め集う)の意。「丸い、曲がった」の意があり、「椀・椀(丸い器)」等が同系。手首など、四肢の曲がる部位、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%85%95)、 会意兼形声文字です(月(肉)+宛)。「切った肉」の象形と「屋根・家屋の象形と月の半ば見える象形とひざまずく人の象形」(屋内で身をくつろぎ曲げ休む事から「曲げる」の意味)から、自由に曲げる事の肉体の部分、「うで」を意味する「腕」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji288.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 敵頻りに懸からば、難所に引き入れては返し合はせ、引つ返さば、跡に付いて追つ懸け、野軍(のいくさ)に敵を老(つか)らかひて、雌雄を決すべし(太平記)、 にある、 野軍(のいくさ)、 は、 ゲリラ戦、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。ふつう、「のいくさ」は、 野戦、 と当て、 平野でする戦い、 つまり、漢語の、 我為趙将、有攻城野戦之大功(史記・藺相如伝)、 とある、 攻城、 と対比する、 野戦(やせん)、 の意味で使う(広辞苑)が、ここでは、その前のくだりに、 敵に在所を知られず、前にあるかとせば、後へ抜け、馬に乗るかとすれば、野臥(のぶし)になって、在々所々にて戦はんに、敵頻りに懸らば(太平記)、 とあり、その戦い方は、まさに「ゲリラ戦」である。「野臥」は、 野伏、 野武士、 とも当て、 のぶせり、 とも訓ませるように、文字通り、 野に臥す、 野に伏す、 で、 鎌倉末期から南北朝期に、畿内およびその周辺に起こり、全国的に広がった農民の武装集団をいう。一定の主人を持たず、山野に潜伏し、敗軍の将兵の武具、甲冑、馬などを略奪したり、形勢をうかがって優勢の軍について戦闘に参加したりした。また、戦国時代に、大名が領内の農民を徴発し武装させて徒歩兵力として戦闘に参加させたものもいう、 とある(世界大百科事典・精選版日本国語大辞典)。つまりこの、 野軍、 は、 野伏(のぶし)いくさ、 の意になる。これは、後には、 伏勢(ふせぜい)、 伏兵(ふくへい)、 とも呼ばれるもので、 草、 草調儀、 かまり、 透波、 などと呼ばれる「忍び」活動につながる。「忍び」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.html)、平山優『戦国の忍び』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484006742.html)で、「忍び」については触れたし、「忍び」の戦いについては盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.html)で触れた。 いわゆる「野戦(やせん)」の意味では、 今度(このたび)は、諸方の敵、諜(ちょう)し合はせて大勢にて寄せなば、平場の合戦ばかりにては叶ふまじ(太平記)、 と、 平場合戦、 を使っている(兵藤裕己校注『太平記』)。このほか、 平場蒐合(かかりあい)、 野相合戦、 野合戦、 という言い方をする(武家戦陣資料事典)。 野軍、 をあえて使ったのは、これとの区別のためと思われる。 ちなみに、「いくさ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/460494548.html)で触れたように、「いくさ」は、 戦、 軍、 兵、 と当て、 イ(射)+クサ(人々)(日本語源広辞典)、 と、「射る」と関わらせる説が多いが、大言海は、 射、 軍、 を別項を立て、「いくさ(射)」は、 イクは、射(いく)ふの語幹。、サは、箭(さ)なり。…箭を射ふ、即ち、射箭(イクヒサ)なり(贖物(あがひもの)、あがもの、馳使部(はせつかひべ)、はせつかべ)。賀茂真淵云ふ「伊久佐は、射合箭(イクハシサ)と云ふことなり」、 とし、「箭(さ)」は、 刺すの語根にもあるべきか、…或は征箭(そま)の約かとも云ふ、いかが。朝鮮語に、矢を、サルと云ふとぞ、箭(や)の古語(仝上)、 矢(や)の古語。朝鮮語salの末尾の子音を落した形(岩波古語辞典)、 とあるので、 矢を射る、 動作を示し、「いくさ(軍)」は、 いくさびと、 とする。どうも、「いくさ」は、はじめ、 矢を射る、 意味であったものと思われる。 イクはイクタチ(生大刀)・イクタマ(生魂)・イクヒ(生日)などのイクに同じ。力の盛んなことをたたえる語。サはサチ(矢)と同根。矢の意。はじめ、武器としての力のある強い矢の意。転じて、その矢を射ること、射る人(兵卒・軍勢)、さらに「軍立ち」などの用例を通じて矢を射交わす戦いの意に展開、 とあり(岩波古語辞典)、 矢を射る(人)→矢を射交わす→戦い、 とシフトしたと思えるが、大言海は、「いくさびと」を、 射人(いくさびと)の義、射(いくさ)、即ち、弓射る人の義。戦争の武器は、弓矢を主としたりき、後世、弓矢取、又弓取などと云ふも、是なり、 とし、「いくさだち」(軍立)も、 射立(いくさだち)の義。タチは役立(えだち)の立に同じ。射(いくさ)、弓矢の役に立つ義なり、イクサとのみ云ふは、下略なり。…イクサと云ひて、戦争の意とするは後世の事にて、古くは見えず、上代にイクサと云ひしは軍人(イクサビト)のことなり。…然るに軍人の義なる語は、夙(はや)くに滅亡して、戦争(いくさ)の意、其称を専らとするに至れり、 と、 イクサビト(軍人)→イクサ(戦)、 と転じたとする。いずれにしても、「矢を射る」ことが戦いのメタファとなり、戦いそのものの意味となったと思える。「いくさ」が、 戦争・戦闘の意で用いられるのは、中世以降、特に、『平家物語』『保元物語』など軍記物語にはこの意でもちいられている、 とある(日本語源大辞典)。 「野(埜)」(漢音呉音ヤ、漢音ショ、呉音ジョ)は、 会意兼形声。予(ヨ)は、□印の物を横に引きずらしたさまを示し、のびる意を含む。野は「里+音符予」で、横にのびた広い田畑、野原のこと、 とある(漢字源)。ただ、 会意形声。「里」+音符「予」(だんだん広がるの意を有する)(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%87%8E)、 と、 形声。里と、音符予(ヨ)→(ヤ)とから成る。郊外の村里、のはらの意を表す(角川新字源)、 とを合わせてやっとわかる解説のように思える。別に、「野」と「埜」を区別し、「野」は、 会意兼形声文字です(里+予)。「区画された耕地の象形と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(耕地・土地の神を祭る為の場所のある「里」の意味)と機織りの横糸を自由に走らせ通す道具の象形(「のびやか」の意味)から広くてのびやか里を意味し、そこから、「郊外」、「の」を意味する「野」という漢字が成り立ちました、 とし、「埜」は、 会意文字です(林+土)。「大地を覆う木」の象形と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(「土」の意味)から「の」を意味する「埜」という漢字が成り立ちました、 と解釈するものがある(https://okjiten.jp/kanji115.html)。 「軍」(慣用グン、漢呉音クン)は、「六軍」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486344877.html?1649359041)で触れたように、 会意文字。「車+勹(外側を取り巻く)」で、兵車で円陣を作って取巻くことを示す。古代の戦争は車戦であって、まるく円をえがいて陣取った集団の意、のち軍隊の集団をあらわす、 とあり(漢字源)、「軍団」のように兵士の組織集団をさすが、古代兵制の一軍の意もある。 「勹」は車に立てた旗を象ったもので象形、 とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BB%8D)。別に、 会意文字です(冖(勹)+車)。「車」の象形(「戦車」の意味)と「人が手を伸ばして抱きかかえこんでいる」象形(「かこむ」の意味)から、戦車で包囲する、すなわち、「いくさ」を意味する「軍」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji660.html)。 参考文献; 笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) ただ容色嬋娟(せんけん)の世に勝れたるのみならず、小野小町が弄(もてあそ)びし道を学び(太平記)、 の、 嬋娟、 は、 嬋妍幽艶なる女百人そろへて、紂王に奉つて(仝上)、 と、 嬋妍、 とも表記し、 せんけん、 せんげん、 と訓ませ、 容姿があでやかで美しいこと、 品位があってなまめかしいこと、 といった意味である(広辞苑・精選版日本国語大辞典)が、 秋月復嬋娟(阮籍詩)、 とか、 嬋娟美女(宣和書譜)、 とか、 花嬋娟沃春泉、竹嬋娟籠暁烟、雪嬋娟不長娟、月嬋娟眞可憐(孟浩然詩)、 などと使われる漢語である(字源・大言海)。 娟は、於縁切、エンを正とす、今慣用音に従ふ、 とあり(大言海)、 せんけん、 ではなく、 せんえん、 と訓むのが正しい(字源・仝上)ようである。白楽天の詩にも、 嬋娟雨鬢秋蝉翼 宛轉雙我遠山色 笑随戯伴後園中 此時興君未相識(新楽府・井底引銀瓶)、 とある。 その姿を強調し、 嬋娟窈窕(嬋妍窈窕)、 ともいう。「窈窕」の「窈」は、「奥深し」「静香」「うるわし」、「窕」は、「美しい」「奥ゆかしい」「静か「ふかい」といった意味(漢字源)なので、 窈窕淑女、君子好逑(詩経)、 と、 美しく嫋やかなさま、 の意だが、これは、 云有第三郎、窈窕世無雙(古詩)、 と、 男子のしとやかなるさま、 にもいい(字源)、 既窈窕以尋壑(陶淵明)、 と、 山水などの奥深いさま、 にもいう(仝上)。 「嬋」(漢音セン、呉音ゼン)は、 会意兼形声。「女+音符單(タン・ゼン ひとえ、かるくひらひらする)」、 で、身のこなしが軽くやわらかなさまの意である(漢字源)。 「娟」(ケン・エン)は、 右の旁(ケン・エン)は、まるくくびれた虫のこと。娟はそれを音符として、女を加えた字で、くねくねとして身ごなしの軽い意を表す、 とあり、うつくしい、身軽でスマートなさま、とある(漢字源)。こうみると、「嬋娟」は、身のこなしの軽さを言い表しているだけだが、 「嬋娟」は、軽やかに身をくねらせるあでやかな女性、転じて、詩では、花・月などの美しさを形容するのに用いる、 とある(仝上)。 「妍」(慣用ケン、漢音・呉音ゲン)は、 会意兼形声。幵(ケン)は、干印を二つ並べて、揃って整ったことを示す。妍は「女+音符幵」で、女性の容姿の磨きのかかった美しさを意味する、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) ゆえに、若干(そこばく)の人を殺し、国土を殞(ほろ)ぼしつ(太平記)、 官軍、矢の一つをも射ずして、若干(そこばく)の賊徒を征(たいら)げ候ひき(仝上)、 などとある、 そこばく、 は、 大勢、 多くの、 の意であり(兵藤裕己校注『太平記』)、 廻りける勢に、後陣を破られて、寄手若干(そくばく)討れにければ(仝上)、 と、 そくばく、 とも訓ませる。「そこばく」に当てた、 若干(じゃっかん)、 は、漢語であり、 干は一十に従ふ、一の如く十の如しの意、 とも(字源)、 干は、若一、若十の、一と十とを合わせたたるもの、 ともある(大言海)。「若干」は、 若干者、設數之言也。干、猶箇也、若箇、猶言幾何枚也(「春秋演繁露(宋代)」) と、 若箇(じゃっこ)、 ともいい 数量がそれほど多くなく、はっきりしないこと、 いくつか、いくらか、 いかほど(幾許)、 の意(漢字源)で、まさに、 一の如く十の如し、 ある。「そこばく」は、漢語「若干」の意の通り、 源氏殿上ゆるされて、御前にめして御覧ず。そこばく選ばれたる人々に劣らず(宇津保物語)、 と、 数量などを明らかにしないで、おおよそのところをいう、いくらか。いくつか、 の意でも使うが、上述の例や、 そこばくの捧げ物を木の枝につけて(伊勢物語)、 と、 数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表わす、 意で使い(精選版日本国語大辞典)、漢語「若干」の意をはみ出している。類聚名義抄(11〜12世紀)にあるように、 若干・無限・多・多少、そこばく、 と、その意味の幅の広さを示している。 「そこばく」は、 ソコバに副詞語尾クをつけた、 形で、許多(ここだ)く(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485780752.html)で触れたように、「そこば」は、 はねかづら今する妹は無かりしをいづれの妹そ幾許(そこば)恋ひたる(万葉集)、 と、 幾許(そこば)、 と当てる。ために、「そこばく」も、 幾許、 とも当てる(精選版日本国語大辞典)。 「そこば」「そこばく」の、 バはイクバク、ココバのバに同じ。量・程度についていう語、 である(岩波古語辞典)が、この、 そこば—そこばく、 は、 ここだ―ここだく、 ここば―ここばく、 の関係に等しい(精選版日本国語大辞典)。平安時代には、 数量の多いさまを表わす語として、「そこら」「ここら」が和文に用いられるのに対して、「そこばく」は「若干」等の訓読語として用いられた。和文では、「ここら」と「そこら」に「こ━そ」の指示領域に関係した使い分けが見られるが、訓読文では「そこばく」が専ら用いられ、多く「そこばくの」という形で連体修飾語となる、 とあり(仝上)。「ここら(幾許)」は、許多(ここだ)く(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485780752.html)で触れたように、 こんなに数多く、 こんなに甚だしく、 の意の、 夕影に来(き)鳴くひぐらし幾許(ここだ)くも日ごとに聞けど飽かぬ声かも(万葉集)、 と使う「ここだ」(幾許)が、 秋の夜を長みにかあらむ何ぞ許己波(ココバ)寝(い)の寝(ね)らえぬも独り寝(ぬ)ればか(万葉集)、 と使う「ここば(幾許)」に、さらに、 もみぢばのちりてつもれる我やどにたれをまつむしここらなくらん(古今集)、 と「ここら」へと訛り、 ここだ→ここば→ここら、 と転訛したものだが、 平安時代末から中世にかけては、「ここら」「そこら」の用例数は次第に減るが、「そこばく」は引き続き用いられ、「そくばく」「そこそばく」といった形も生じた、 とある(精選版日本国語大辞典)。 ソ、コは其(そ)、此(こ)にて、ソコ、ココなり、バクはばかり(程度の意、そこはか、いくばく、いかばかり、万葉集「わが背子と二人見ませば幾許(いくばく)かこの降る雪のうれしからまし」「幾許(いかばかり)思ひけめかも」)にて、そこら、ここら程の意(今も五十そこそこの年などと云ふ、是なり)、又そこば、そくばく、そこだく、そこだ、そこらく、そこら、そきだく、などと云ふも、或は下略し、或は音轉相通じ、意は多少変はれども、語原は同じ(伐(こ)る、きる。踵(くびす)、きびす。撃(たた)く、はたく。いくだ、いくら。斑斑(はだら)、離散(はらら))。又、ここばくとも云ふも、其(そ)、此(こ)と云ふを、此(こ)、此(こ)と云ふにて、意は同じ。ここば、ここだく、ここだ、ここら、こきばく、こきだく、こきだ、など云ふも、前に云へると同例なり、 とある(大言海)ように、「其」「此」と「指示領域に関係した使い分け」(精選版日本国語大辞典)からきているとするのは一つの考えだが、 ここだ(く)→ここば(く)→ここら、 と、 そこば(く)、 いくばく、 とは明らかに音韻的なつながりがある。とするなら、 これほどまでの、こんなにもの意のカクバカリの語形が変化したもの、 と(語源を探る=田井信之)、音韻変化から、関係性を見るのもまた一つの見識である。そのもとは、 斯く許りすべなきものか世の中の道(山上憶良)、 の、 これほどまでに、 こんなにも、 の、 斯く許り、 で、許多(ここだ)く(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485780752.html)で触れたように、 バカリ(許り)は「程度・範囲」(ほど、くらい、だけ)、および「限度」(のみ、だけ)を表す副詞である。カリ[k(ar)i]の縮約で、バカリはバキに変化し、さらに、バが子交(子音交替)[bd]をとげてダキ・ダケ(丈)に変化した。「それだけ読めればよい」は程度を示し、「君だけが知っている」は限定を示す用法である。 ばかり(許り)は別に「バ」の子交[bd]でダカリ・ダカレになり、「カレ」の子音が転位してダラケ(接尾語)になった。 カクバカリ(斯く許り)という副詞は、カ[ao]・ク[uo]の母交(母音交替)、カリ[k(ar)i]の縮約でココバキ・ココバク(幾許)になり、さらに語頭の「コ」が子交[ks]をとげてソコバク(許多)に転音した。すへて、「たいそう、はなはだ、たくさん」という意の副詞である。「ココバクのしゅうの御琴など、物にかき合わせて仕うまつる中に」(宇津保物語)、「この山にソコバクの神々集まりて」(更級日記)。 ココバク(幾許)が語尾を落としたココバ(幾許)は、「バ」が子交[bd]をとげてココダ(幾許)になり、さらに子交[dr]をとげてココラに転音した。「などここば寝(い)のねらえぬに独りぬればか」(万葉)、「なにぞこの児のここだ愛(かな)しき」(万葉)、「さが尻をかきいでてここらの公人(おおやけびと)に見せて、恥をみせむ」(竹取)。「幾許」に見られるココバ[ba]・ココダ[da]・ココラ[ra]の子音交替は注目すべきである。 ココダク(幾許)は、語尾の子交[ks]、ダの子交[dr]の結果、ソコラクに転音した。「このくしげ開くな、ゆめとそこらくに堅めしことを」。 ココラは語頭の子交[ks]]でソコラに転音した。「そこらの年頃そこらの黄金給ひて」(竹取)。 スコシバカリ(少し許り)は、「シ」の脱落、カリ[k(ar)i]の縮約で、スコバキ・ソコバキ・ソコバク(若干)に転音した。ソコバク(許多)とは同音異義語である。「いくらか、多少」の意味で、「そこばくの捧物を木の枝につけて」(伊勢)という。 イカバカリ(如何許り)は、カリ[k(ar)i]の縮約でイカバキになり、イカバクを経てイクバク(幾許)に転音した。「どれくらい、何ほど」の意の副詞として「わがせこと二人見ませばいくばくかこの降る雪のうれしからまし」(万葉)という。語尾を落としたイクバは、バの子交[bd]でイクダ(幾許)、さらにダの子交[dr]でイクラ(幾ら)になった。すべて万葉集にみえている、 とみる(日本語の語源)のも注目すべきである。 ラは幾らのラ、ココバの平安時代以後の形、 とされ(岩波古語辞典)、 ここだ(く)→ここば(く)→ここら、 という用例の時代変化と多少の齟齬はあるが、 斯く許り→ココバク(幾許)→ソコバク、ココバ(幾許)→ソコバ、ココダク(幾許)→ソコダク、ココダ(幾許)、 少し許り→スコバキ→ソコバキ→ソコバク(若干)、 といった大まかな音韻転訛の流れをみることができる。こう見ると、「其」「此」は、音韻変化の結果そうなったのであって、語源ではないということになるのだが。 「若」(漢音ジャク・ジャ、呉音ニャク・ニャ)は、 象形。手を挙げて祈る巫女を象る物であり、「艸」(草)とは関係ない。髪をとく、体の柔らかい女性を象る(藤明保堂)。手や髪の部分が、草冠のように変形した。後に「口」を添え、「神託」の意を強くした(藤堂)、又は、神器を添えたものとも(白川静)。神託から、「かく」「ごとし」の意が生じる。「わかい」巫女が祈ることから、「わかい」の意を生じたものか。音は、「女」「如」「弱」「茹」等と同系で、「やわらかい」の意を含む、 と、字源説が微妙に違い(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A5)、「巫女」由来は同じだが、 象形。しなやかな髪の毛をとく、からだの柔らかい女性の姿を描いたもの。のち、草冠のように変形し、また口印を加えて、若の字になった。しなやか、柔らかく従う、遠まわしに柔らかく指さす、などの意を表す。のち、汝(ジョ)・如(ジョ)とともに「なんじ」「それ」を指す中称の指示詞に当てて用い、助詞や接続詞にも転用された(漢字源)、 象形。もと、髪をふり乱し、両手を前にさし出した巫女(みこ)の形にかたどり、のち、口(お告げ)が加えられた。神託を受けた者、転じて、かみ(神)、「したがう」の意を表し、借りて、助字に用いる(角川新字源)、 象形文字です。「髪をふりだし我を忘れて神意を聞き取る巫女」の象形から、神意に「したがう」を意味する「若」という漢字が成り立ちました。また、「弱(ジャク)」に通じ(同じ読みを持つ「弱」と同じ意味を持つようになって)、「わかい」の意味も表すようになりました(https://okjiten.jp/kanji947.html)、 と、微妙な解釈の違いがある。 「干」(カン)は、「野干」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485021299.html)で触れたように、 象形。二股の棒をえがいたもの。これで人を突く武器にも、身を守る武具にも用いる。また突き進むのはおかすことであり、身を守るのは盾である。干は、幹(太い棒、みき)、竿(カン 竹の棒)、杆(カン てこ)、桿(カン 木の棒)の原字。乾(ほす、かわく)に当てるのは、仮借である、 とある(漢字源)。別に、 象形。二股に分かれた棒で、攻撃にも防御にも用いる。干を持って突き進みおかす。「幹」「竿」「杆」「桿」の原字。「幹」の意から、「十干」や「肝」の意を生じた。「乾」の意は仮借であり、「旱」「旰」は、それを受けた形声文字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B9%B2)、 象形。先にかざりを付けた盾(たて)の形にかたどる。ひいて、「ふせぐ」「おかす」意を表す(角川新字源)、 などの解釈もある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 所領の二、三十ヶ国なりとも、替へて賜らでは叶はじとぞ恥(はじ)しめける(太平記)、 にある、 恥しめる、 は、 たしなめる、 意と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。 「恥しめる」は、 恥ぢしめる、 とも表記する(岩波古語辞典)が、 恥(ぢ)しむ、 は、 令恥(はづかしむ)の転、 であり(大言海)、 身づからを、ほけたり、ひがひがしと宣ひはぢしむるは、ことわりなる事になむ(源氏物語)、 と、 恥ずかしめる、 侮辱する、 意(精選版日本国語大辞典・大言海)で、 貪(むさぼ)る心にひかれて、みづから身をはづかしむるなり(徒然草)、 の、 恥づかしむ、 に同じ(仝上)で、 恥ずかしい思いをさせる、 侮辱する、 意である。この、 人を恥ずかしいという思いにさせる、 という意の延長線上で、 千騎が一騎になるまでも、引くなと互いにはぢしめて(太平記)、 コレホド ココロガ カイナウテワ、ブツダウガ アル モノカ、ナラヌ モノカト ココロニ ココロヲ fagiximete(ハヂシメテ)(「天草本平家(1592)」)、 などと、 (恥を知るように)戒める、 たしなめる、 意にもなる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。 「はぢ(じ)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/424025452.html)で触れたように、「はぢ」の語源は、手元では、 端(は)+づ、 とし、 端末にいる劣等感、 とする説(日本語源広辞典)しか見当たらないが、 自分の能力・状態・行為などについて世間並みでないという劣等意識を持つ意、 とする(岩波古語辞典)のと符合しないでもない。 中央から外れている、末端にいる劣等感、 から、 (自分の至らなさ、みっともなさを思って)気が引ける、 となるし、逆に、 (相手を眩しく感じて)気後れする、 となり、結果として、 照れくさい、 という意味になる。「はにかむ」は、 歯+に+噛む、で、遠慮がちに恥ずかしがる様子が、歯に物をかむようなので、はにかむという(日本語源広辞典)、 とする説もあるが、 ハヂカム(恥)の転(大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、 とする説の、 恥を知って、恥ずかしがる、 と、 恥、 とつなげた方が、意味の連続性があるのではないか。なお、「はし(橋、端、梯、箸、嘴、階)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473930581.html)については触れた。 また、「はじ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/424025452.html)に当てる漢字には、 恥、はぢ、はづると訓む。心に恥ずかしく思う、論語「行己有恥」、中庸「知恥近乎勇」、 辱、はずかしめ、栄の反。外聞悪しきを言う、転じて賓客応酬の辞となり、かたじけなしと訓む。降屈の義なり拝命之辱とは、貴人の命の降るを拝する義なり、曲禮「孝子不登危、懼辱親也」、 忝、辱に近し。詩経「亡忝爾所生」、 愧、おのれの見苦しきを人に対して恥ずる。醜の字の気味あり、媿に作る。韓文「仰不愧天、俯不愧人、内不愧心」、 慙、慙愧と連用す、愧と同じ。はづると訓むが、はぢとは訓まず。孟子「吾甚慙於孟子」、 怍、はぢて心を動かし、色を変ずるなり。礼記「容母怍」、 羞、はぢてまばゆく、顔の合わせがたきなり、婦女子などの、はづかしげにするなどに多く用ふ、 忸・怩・惡の三字、ともに羞づる貌、 僇(リク)、大辱なり、さらしものになるなり、 赧(タン・ダン)、はぢて赤面するなり、 詬(ク・コウ)、悪口せられてはづる義、言に従ひ、垢の省に従ふ、 等々とある(字源)。別に、 羞は、恥じて心が縮まること、愧は、はずかしくてこころにしこりがあること。「慙愧」と熟してもちいる。辱も柔らかい意を含み、恥じて気後れすること。忸は、心がいじけてきっぱりとしないこと。慙は、心にじわじわと切り込まれた感じ、 とあり(漢字源)、『字源』の説明と微妙にずれる。 「恥」(チ)は、 会意兼形声。耳(ジ・ニ)は、やわらかいみみ。恥は「心+音符耳」で、心が柔らかくいじけること、 とある(漢字源)が、別に、 会意。「心」+「耳」、恥ずかしくてその様子が耳に出る様。「耳」は音符、かつ、柔らかいことを象徴し、心がなよなよとすることを表わすとも(藤堂) とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%81%A5)、 会意文字です(耳+心)。「耳」の象形と「心臓」の象形から、はずかしくて耳を赤くする事を意味し、そこから、「はじる」、「はじ」を意味する「恥」という漢字が成り立ちました ともあり(https://okjiten.jp/kanji1170.html)、 恥ずかしくてその様子が耳に出る様、 はよく「恥」の体感を言い得ている気がする。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 羅綺にだも堪へざるかたち、誠にたをやかに物痛はしげにて、未だ一足も土をば踏まざりける人よと覚えて(太平記)、 にある、 羅綺(らき)にだも堪へざるかたち、 は、 薄絹の衣の重さにも堪えられそうにないさま、 の意とある(兵藤裕己校注『太平記』)。 羅綺に任(た)へえざるがごとし(陳鴻傳『長恨歌傳』)、 に典拠しているらしい(仝上)。 「羅綺」は、 羅(うすもの)と綺(あやぎぬ あや・模様のある絹の布)、 の意で、それをメタファとして、 美しい衣服、 の意でも使うが、上記の引用は、 うすい絹のように軽いもの、 の喩えとして使っている。「羅」は、 本来、鳥網の意味で、経糸を交互にからみ合わせてその中に緯糸を通し、網をすくうようにして織った、目の粗い絹織物のこと、 をいい、「あやぎぬ」は、 細かい綾模様を織り出した綸子の一種で、きらきらする光沢のある紋織物、 を指す(http://www.so-bien.com/kimono/%E7%A8%AE%E9%A1%9E/%E7%B6%BA%E7%BE%85.html)とある。 「羅綺」は、 皆得服綾錦羅綺紈(ガン 白絹)素金銀篩鏤之物(魏史・夏侯尚傳)、 と使う(字源)が、 河北則羅綾紬紗鳳翮葦席(玉海)、 と、 羅綾(らりょう)、 も、 うすぎぬとあやぎぬ、 と、同じ意味になるし、 車乗填街衢、綺羅盈府寺(顔氏家訓)、 と、「羅綺」の逆、 綺羅、 も、 あやぎぬとうすぎぬ、 の意となる(仝上)。「綺羅」は、 隙駟(ゲキシ 月日のたつのが早いこと)追ひがたし、綺羅の三千暗に老いんだり(和漢朗詠集)、 と、 装い飾ること、 はなやかであること、 の意や、 世のおぼえ、時のきら、めでたかりき(平家物語)、 と、 栄花をきわめること、 威光が盛んであること、 寵愛を受けること、 と言った意味でも使う(広辞苑)。 「きら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449864898.html)で触れたように、「綺羅」は、 綺羅、星の如く、 と使われ、 綺羅を磨く、 と、 華美を凝らす、 という意で使う。 綺羅星、 は、 綺羅、星の如く、 の意で、 暗夜にきらきらと光る無数の星、 を意味するが、 「綺羅」は美しい衣服のことで、「綺羅、星の如し」は、美しい服の人が居並ぶ様子。「綺羅星」で輝く星とするのは誤解から生じた、 とある(擬音語・擬態語辞典)。 「羅」(ラ)は、 会意。「网(あみ)+維(ひも、つなぐ)」 とあり(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%85)、 网と、維(つなぐ意)とから成り、あみを張りめぐらす意を表す、 ともあり(角川新字源)、また、 会意文字です(罒(网)+維)。「網」の象形と「より糸の象形と尾の短いずんぐりした小鳥と木の棒を手にした象形(のちに省略)」(「鳥をつなぐ」、「一定の道筋につなぎ止める」の意味)から、「鳥を捕える網」を意味する「羅」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2007.html)。 「綺」(キ)は、「綺ふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484547997.html)で触れたように、 会意兼形声。「糸+音符奇(まっすぐでない、変わった形)」、 とあり(漢字源)、「あや」「あやぎぬ」の意で、別に、 会意兼形声文字です(糸+奇)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と「両手両足を広げた人の象形と、口の象形と口の奥の象形(「かぎ型に曲がる」の意味)」(「普通ではない人、優れている人」の意味)から、「目をうばうような美しい模様を織りなした絹」を意味する「綺」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2359.html)。現存する中国最古の字書『説文解字(100年頃)』には、 綺、文繪(あやぎぬ)也、 とある(大言海)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) あやめも知らぬわざは、いかでかあるべきと思ひながら、いわんかたなく(太平記)、 にある、 あやめも知らぬ、 は、 物事の分別もつかない振舞い、 と注記があり(兵藤裕己校注『太平記』)、 郭公(ほととぎす)鳴くやさつきのあやめ草あやめ知らぬ戀もするかな(古今和歌集)、 の用例が引かれているが、 あやめ(文目)もわかぬ(ず)、 あやめもつかぬ、 などという言い方もし、 あやめもつかぬ暗の夜なれば、ここを何処としるよしなけれど(当世書生気質)、 と、文字通り、 暗くて物の模様や区別がはっきりしないさま、 の意から、それをメタファに、 燈燭(ともしび)滅(きえ)て善悪(アヤメ)もわかず(椿説弓張月)、 と、 物事をはっきり識別できない、 物の区別がわからない、 意や、 あらはれていとど浅くも見ゆるかなあやめもわかずなかれける音(ね)の(源氏物語)、 と、 判断力の不足などで、物事を筋道立てて考えられない、 物事の分別がつかない、 意でも使う(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。「あやめ」は、多く、 文目、 と当てるが、「あやめ」の「あや」は、 文、 と当てると、 水の上に文(あや)織りみだる春の雨や山の緑をなべて染むらむ(新撰万葉集)、 と、 物事の表面のはっきりした線や形の模様、 の意で、それをメタファに、 事物の筋目、 の意でも使うが、この意の場合、 薪を折るに其の木の理(あや)に随ふ(法華経玄賛平安初期点)、 と、 理、 を当てたりする(岩波古語辞典)。また、 沓をだにはかず行けども錦綾(にしきあや)のなかにつつめる斎(いつ)き児も妹にしかめやま(万葉集)、 と、 綾、 と当てると、 綾織物、 の意となり、それをメタファに、 秋来れば野もせに虫のおりみだる声のあやをばたれかきるらむ(後撰和歌集) と使うと、 表現上の技巧、 の意となる(仝上)。なお、 漢、 も、 あや、 と訓ませるが、 漢人、 の意で、 漢人が文に関することを扱い、文をアヤといったらしい、 とある(仝上)が、 綾の義、古へ、始めて漢土と通じて、職工女を召され、其機織の勝れたるに因りて、遂に其の国名に呼びし語と思はる、秦も、繪(はた)なり、呉(くれ)も、朝鮮語にて、織文の意なり、 とある(大言海)故と思われる。 呉國使将呉所獻手末才伎(タナスヱノテビト)、漢織(アヤハトリ)、呉織(クレハトリ)云々等、泊於住吉津(雄略紀)、 とある、 あやはとり(漢織)、 は、 漢(あや)の繪(はた)織り(ハトリはハタオリの約)、 の約で、 漢の機織女、 の意となる(岩波古語辞典・大言海)。 「あや」は、 合への約(さやぐ、さやぐ。たがへず、たがやす)(大言海)、 アザヤカの略(日本釈名・柴門和語類集)、 アヒヨラス(相寄)の義(名言通)、 感嘆辞のアヤ(和句解・和訓栞・日本語源=賀茂百樹)、 などとあるが、天治字鏡(平安中期)には、 縵、繪无文。阿也奈支太太支奴(アヤナキタケギス)、 とある。「縵」は、「飾りのない絹布」の意なので、「文」の意味は分かるが、「あや」の由来にはつながらない。冗談ではなく、感嘆詞、 あや、 はあるのかもしれない。 手並みの程見しかば、あやと肝を消す、さもあれ手にもたまらぬ人かなと思ひけり(義経記)、 と使う、 感嘆詞「あや」は、古事記の、 阿夜訶志古泥(あやかしこね)、 にも使われている。 因みに、 あやめどり(菖蒲鳥)、 というと、 ほととぎす(杜鵑)の異名、 になる。花の「あやめ」については、「いずれ菖蒲」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472100786.html)で触れた。 「文」(漢音ブン、呉音モン)は、 象形。土器につけた縄文の模様のひとこまを描いたもので、こまごまと飾り立てた模様のこと。のち、模様式に画いた文字や、生活のかざりである文化などの意となる。紋の原字、 とあり(漢字源)、「あや」「模様」の意から、「かざり」の意などでも使い、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 類に依り形の象る。故に之を文といふ、 とある(仝上)。別に、 象形。胸に文身(いれずみ)をほどこした人の形にかたどり、「あや」の意を表す。ひいて、文字・文章の意に用いる、 とか(角川新字源)、 象形。衣服の襟を胸元で合わせた形から、紋様、引いては文字や文章を表す、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%87)、 象形文字です。「人の胸を開いてそこに入れ墨の模様を描く」象形から「模様」を意味する「文」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji170.html)、「文身(からだに入墨する)」とする説が目につく。 「目」(漢音ボク、呉音モク)は、「尻目」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486290088.html?1649013975)で触れたように、 象形。めを描いたもの、 であり(漢字源)、 のち、これを縦にして「目」、ひいて、みる意を表す。転じて、小分けの意に用いる、 ともある(角川新字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 三月には、三日の御燈(帝が北斗七星に燈明を捧げる儀)、曲水(ごくすい)の宴、薬師寺の最勝会(さいしょうえ)、石清水の臨時の祭、東大寺の授戒(太平記)、 とある、 曲水の宴、 は、 詩歌を詠む遊宴、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。「曲水の宴」は、 きょくすいのうたげ(えん)、 ごくすいのうたげ(えん)、 とも訓ませ、 曲水流觴(きょくすいりゅうしょう)、 曲水豊の明かり(めぐりみずのとよのあかり)、 ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典・字源)。「曲水」は、 庭園または樹林・山麓を曲がり流れる水、 を意味するが、通常、 曲水の宴の略、 の意で用い、 曲宴、 流觴(りゅうしょう)、 巴字盞(はじさん)、 ともいう(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。 庭に曲溝を作り水を引き入れ、公卿がその両側に坐って酒杯を浮かべ、酒杯が上流から流れて来て自分の前を過ぎないうちに詩歌を詠じて酒杯をとって酒を飲む宴、 であり、天平勝宝二年(750)三月三日に、 漢人(からひと)も筏(いかだ)浮かべて遊ぶてふ今日そ我が背子(せこ)花縵(はなかづら)せな(大伴家持)、 と、曲水の宴を詠ったように、 中国の上巳(じょうし)の節句を伝えて、巳(み)の日の祓へとしたが、奈良時代頃から三月三日となり、摂関時代には貴族の邸でも行われた、 とある(岩波古語辞典)。この日の祓いの具として人形を流すことも行われ、 流し雛、 の起源ともされる(https://omatsurijapan.com/blog/kyokusuinoen-yurai-rekishi/)。「上巳」は、 古く中国で、はじめ三月の初めの巳(み)の日を上巳とよび、魏晉以後は三月三日を上巳として、みそぎをして不祥を払う行事が行なわれた、 ことに端を発する(精選版 日本国語大辞典)。ただ、 水上から流れてきた盃が自身の前を流れるまでに歌を詠む、 とする説は、 曲水の宴が行われなくなった室町時代の『公事根源』などの記述が発祥となったとみられ、平安時代の曲水の宴の様子を描いた『御堂関白記』などを見てもこうした事実ではなかったと考えられている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%AE%B4)。因みに、室町時代に書かれた有職故実書『公事根源』(一条兼良)には、曲水宴について、 是は昔、王卿など参りて、御前にて詩を作て、講ぜられけるにや、御溝水(ミカハミヅ)に盃を浮べて、文人以下、これを飲む由、康保の御記に載せられたり、……曲水宴は、周の世より始まりけるにや、文人ども、水の岸に並(な)み居て、水上より盃を流して、我が前を過ぎざるさきに、詩を作て、其の盃を取りて飲みけるなり、 とある(大言海)。これによる説らしい。 中国では、 曲水流觴、 として、 此地有崇山峻嶺茂脩竹、又有清流激湍、映帯左右、引以為流觴曲水(王義之・蘭亭集序)、 と、 晉の永和九年(353)三月三日、王義之、文人を会稽山陰の蘭亭にあつめ此の遊びを為す、 とある(字源)のが有名である。 曲折せる水流に盃を泛べて飲む、 とあり(字源)、 盃を水に流して宴を行う(流觴曲水=盃を曲水に流す)、 意である。 その際に詠じられた漢詩集の序文草稿が王羲之の書、 蘭亭序、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%AE%B4)。ここから、この宴が起因した、とする説もある(大言海)が、 武帝(司馬炎(しば えん) 西晋初代皇帝)闔O日曲水之義、皙曰、昔周公城洛邑、因流水泛酒、故逸詩云、羽觴曲水、其来已久、蘭亭之會、襲而作此、非創為也、 とある(晉書・東皙傳)。 「曲」(漢音キョク、呉音コク)は、 象形、曲がったものさし描いたもので、曲がって入り組んだ意を含む、 とあり(漢字源)、直の対、邪の類語になる。別に、 象形。木や竹などで作ったまげものの形にかたどり、「まがる」「まげる」意を表す。転じて、変化があることから、楽曲・戯曲の意に用いる、 ともある(角川新字源)。 「水」(スイ)は、 象形。水の流れの姿を描いたもの、 である(漢字源)。 「宴」(エン)は、 会意兼形声。晏(アン)は、「日+音符安」からなり、日が落ちること。宴は「宀(いえ)+音符晏の略体」で、家の中に落ち着きくつろぐこと。上から下に腰を落としてやすらかに落ち着く意を含む、 とあり(漢字源)、 屋内でくつろぐ、転じて、酒盛りして「たのしむ」意を表す、 とある(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(宀+妟)。「屋根・家屋」の象形と「太陽」の象形と「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形から、おだやかな日に、女性が室内でやすらぐ事を意味し、そこから、「やすらか」、「くつろぐ」を意味する「宴」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1518.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) ただ衆合叫喚(しゅごうきょうかん)の罪人も、かくやと覚えてあはれなり(太平記)、 にある、 衆合叫喚、 は、 八熱地獄のうち、相対する鉄山が両方から崩れて罪人を圧殺する衆合地獄と、熱湯や猛火の鉄室に入れられた罪人が泣き叫ぶ叫喚地獄、 をさす(兵藤裕己校注『太平記』)。 「八熱(はちねつ)地獄」は、 八大地獄、 の別称で、 八大奈落、 ともいい、仏教で、 殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語などを行なった者が死後におもむく、 といわれ(ブリタニカ国際大百科事典・精選版日本国語大辞典・広辞苑)、 焔熱によって苦を受ける、 八種の地獄、 とされ(広辞苑)、経典により異動があり、大智度論では、 活大地獄、黒縄地獄、合會地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、大熱地獄、大熱大地獄、阿鼻大地獄、 とあり、 是等種々八大地獄周圍其外、後有十六小地獄、 とあり(大言海)、倶舎論では、 衆生が住む閻浮提の下、4万由旬を過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各2万由旬ある。その上の1万9千由旬の中に、下から大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の7つの地獄が重層し、総称して八大(八熱)地獄という、 とあり、原始仏教の経典、長阿含経(じょうあごんきょう)では、階層構造ではなく、十地獄ともども世界をぐるりと取り囲む形で配置され、第一地獄から順に、 想地獄(等活地獄)、 黒縄地獄、 堆圧地獄、 叫喚地獄、 大叫喚地獄、 焼炙(しょうしゃ)地獄(焦熱)、 大焼炙(だいしょうしゃ)地獄(大焦熱)、 無間地獄、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E7%8D%84)が、一般には、 等活(とうかつ)、 黒縄(こくじょう)、 衆合(しゅごう)、 叫喚(きょうかん)、 大叫喚、 焦熱(しょうねつ)、 大焦熱、 阿鼻(あび)、 か(ブリタニカ国際大百科事典)、 等活(とうかつ)、 黒縄(こくじょう)、 衆合(しゅごう)、 叫喚(きょうかん)、 大叫喚、 焦熱(しょうねつ)、 大焦熱、 無間(むげん)、 とされる(広辞苑・精選版日本国語大辞典・大言海)が、阿鼻と無間の違いは訳語の違い。その詳細は「八大地獄」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E7%8D%84)に譲るが、八大地獄の第一の「等活地獄」は、 殺生罪を犯した者が堕ちるといわれ、五体を裂かれて粉砕されるが、涼風が吹いて元の身体となり、再び咲かれる苦しみを繰り返す、殺されても前と等しく何度も活きかえされるのでこの名がある、 とある(広辞苑)。黒縄地獄の下に位置する八大地獄の第三の「衆合地獄」は、その10倍の苦を受け、 堆圧地獄、 の別名を持ち(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E7%8D%84)、 殺生、偸盗、邪淫を犯したものの落ちるところ。鉄山におしつぶされたり、落ちてくる大石につぶされたり、臼の中でつかれたりする苦を受け、また、十六の別所(小地獄)で、さまざまな苦しみを受ける、 という(精選版日本国語大辞典)。その下の第四番目の「叫喚地獄」は、その10倍の苦を受け、 熱湯の大釜(大鍋)の中で煮られたり、猛火の鉄室に入れられて号泣、叫喚する、 とある(仝上)。地獄の最下層に位置する八番目の「無間地獄」は、 阿鼻(あび)地獄、 とも言うが、これは、「阿鼻」が、 梵語avīciの音訳、 で、それを、 無間(むけん)、 と漢訳したための違い。 現世で五逆・謗法などの最悪の大罪を犯した者が落ちる、地獄の中で最も苦しみの激しい所、 とされ(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、 間断なく剣樹・刀山・鑊湯(かくとう 「鑊」は釜の意、釜の中の湯)などの苦しみを受ける、 とあり(広辞苑)、 大きさは前の7つの地獄よりも大きく、縦横高さそれぞれ2万由旬(8万由旬とする説もある)。最下層ゆえ、この地獄に到達するには、真っ逆さまに(自由落下速度で)落ち続けて2000年かかる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E7%8D%84)。 衆合叫喚、 が、 衆合地獄と叫喚地獄、 を指すとするなら、 阿鼻叫喚、 は、 阿鼻地獄と叫喚地獄、 を取り合わせた謂いで、 阿鼻地獄の苦に堪えられないで泣き叫ぶさま、 を言うが、それをメタファに、 きわめてはなはだしい惨状を形容する語、 としても使う(広辞苑)。また、他にも、 今生より焦熱大焦熱の、炎に身を焦がしける(善悪報ばなし)、 というように、 焦熱地獄と大焦熱地獄、 を重ねて使うが、「焦熱地獄」は、 八大地獄の第六、殺生、偸盗、邪婬、妄語、飲酒、邪見の者がおちる地獄。罪人は熱鉄や鉄のかまの上に置かれて身をやかれ苦しめられる、 といい(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、 きわめて暑いことのたとえ、 としても使い、「大焦熱地獄」の「大焦熱」は、 pratāpanaの訳語、 で、八大地獄の第七番目。焦熱地獄の下、無間地獄の上にあり、罪人は炎熱で焼かれ、その苦は他の地獄の十倍といわれる。殺生・偸盗・邪婬・妄語・邪見などの罪を犯したものが、無量億千歳にわたって苦を受ける、 といい(仝上)、 焦熱大焦熱、 と重ねることで、その恨みの炎の暑さとすさまじさを強調している。 因みに、地獄には、 熱地獄、 のほかに、 寒地獄、 孤地獄、 の三種がある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%98%BF%E9%BC%BB%E5%8F%AB%E5%96%9A)らしい。 「地」(漢音チ、呉音ジ)は、 会意兼形声。也(ヤ)は、うすいからだののびたサソリを描いた象形文字。地は「土+音符也」で、平らに伸びた土地を示す、 とあり(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%B0)、別に、 会意兼形声文字です(土+也)。「土の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)と「蛇」の象形(「うねうねしたさま」を表す)から、「うねうねと連なる土地」)を意味する「地」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji81.html)。 「獄」(漢音ギョク、呉音ゴク)は、 会意。「犬+犬+言(角立てて言う)」で、二匹の犬が争うようにいがみ合って言い合うことを示す。かたくとげとげしいの意を含む、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8D%84)。別に、 会意。㹜(ぎん=\ あらそう)と、言(ことば)とからなり、うったえ争う、ひいて「ひとや」の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(犭(犬)+言+犬)。「耳を立てた犬の象形×2」(「二犬が争うまたは、二犬が見張るまたは、いけにえの犬」の意味)と「取っ手のある刃物と口」の象形(「誓いの言葉または、うったえ争う」の意味)から、「人に威圧感を与える場所(地獄)」を意味する「獄」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1310.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) ただ、めでたき歌どもにて候へと、会笏せぬ人はなかりけり(太平記)、 敵の村立(むらだ)つたる中へ、会笏もなく懸け入らんとす(仝上)、 其時此老僧、会釈して(仝上)、 などとある、 会笏、 は、 会釈、 の当て字、最初の「会笏」は、 お世辞、 の意、 次の「会笏」は、 名乗り、 の意とある(兵藤裕己校注『太平記』)。最後の「会釈」は、 挨拶、 お辞儀、 の意と思われる。 「会釈」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467504382.html)で触れたように、「会釈(ゑしゃく)」は、 凡そ諸経論の文は、人の信により、意楽(いげふ)によって、様々の会釈(ヱシャク)をのぶる者也(「真如観(鎌倉初)」)、 とあるように、 (仏語)和会(わえ)通釈の意。前後相違してみえる内容を互いに照合し、意義の通じるようにすること(広辞苑)、 仏教用語「和会通釈(わえつうしゃく)」の略である。和会通釈とは、一見矛盾する教義どうしを照合し、根本にある共通する真実の意味を明らかにすることである(語源由来辞典)、 (「和会(わえ)通釈」の意)仏語。一見矛盾しているように思われる異義、異説の相違点を掘り下げて、その根本にある、実は矛盾しない真実の意味を明らかにすること(精選版日本国語大辞典)、 中国語の「仏法を会得し解釈する」が本来の語源(日本語源広辞典)、 等々諸書、 和会通釈(わえつうしゃく)、 を由来とする。確かに、 会得して、心の中に釈然と解き得ること、 の意ではある(大言海)が、また、 相会ひて、打ち解け語らふこと、 の意ともある(大言海)。 「釋(釈)」(漢音シャク、呉音セキ)の字をみると、 会意兼形声。睪(エキ)は「目+幸(刑具)」から成り、手かせをはめた罪人を、ひとりつずつ並べて面通しすること。釋はそれを音符とし、釆(ばらばらにわける)を加えた字で、しこりをばらばらにほぐし、ひとつずつにわけて、一本の線に連ねること。釈は、音符を尺に換えた略字、 とある(漢字源)。「釋」は、「とく」意で、 しめて固めたものを、ひとつひとつ解きほぐす、分からない部分やしこりをときほぐす、 意で、「釈然(しこりがとけてさっぱりする)」「氷釈(氷がとけるようにほぐれる)」等々と使い、そこから、「保釈」といった「いましめをとく」意に転じ、「堅持不釈」と、「すてる」意となる。 「會(会)」(漢音カイ、呉音エ・ケ)の字は、 会意。「△印(あわせる)+會(増の略体 ふえる)」で、多くの人が寄り集まって話をすること、 とある(漢字源)。「会合」「会見」の「あう」とか、「機会」のようなめぐりあわせ、あるいは物事に「であう」意、「会心」の思い当たる意でもある(仝上)。 これらを考えると、「会釈」は、一般には、たしかに、 和会通釈(わえつうしゃく) 由来とされるが、もともと、 会得して、心の中に釈然と解き得ること、 あるいは、 打ちとけ語らふこと、 の意味があった(大言海)ものと思われる。だから、 一言会釈、一坐飲酒(説法明眼論)、 と、 仏教にては、法門の難儀を会得解釈すること、 に転用したのではあるまいか。勿論憶説ではあるが。 和会通釈(わえつうしゃく)、 は、 会通(えつう)、 和会、 融会(ゆうえ)、 ともいい、一般には、 一見矛盾しているように思われる異義、異説の相違点を掘り下げて、その根本にある、実は矛盾しない真実の意味を明らかにする、 意とされ、転じて、 義云。……未知、与此条若為会釈(「令集解(868)」)、 あまりに会釈すぎたり(成簣堂本沙石集)、 と、 あれこれ思い合わせて、納得できるような解釈を加えること となり、転じて、 大納言の、其の心を会釈せらるるにや(無名抄)。 と、 前後の事情をのみこんで理会する、 意や、 人の心情けなくゑしゃく少なきところも、かかる世界におはせんも恐ろしう(「浜松中納言(11世紀中)」)、 と、 一方的でなくいろいろな方面に気を配ること、 あれこれの事情を考慮に入れること、 つまり、 遠慮会釈なく、 というように、 配慮、 斟酌、 心づかい、 の意になり、 又一定(いちじょう)をとはんをりは、両方に会尺(ゑしゃく)をまうくる由の案どもにて(「愚管抄(1220)」)、 と、 あれこれとやむを得ない事情を説明すること、 言いわけ、 申し開き、 の意から、 入道の弔ひ、当座の会釈とおぼえたり(源平盛衰記)、 と、 相手の心をおしはかって応対すること、 応接のもてなし、 の意や、 大矢の左衛門尉致経、あまたの兵(つはもの)を具してあへり。国司会尺する間致経がいはく(「宇治拾遺(1221頃)」)、 と、 儀礼にかなった応対、 儀礼的な口上を述べること、 あいさつ、 の意に転ずる。それが Yexacuno(エシャクノ) ヨイヒト(「日葡辞書(1603〜04)」)、 の、 好意を示す応対、 態度、 愛想、 の意となり、 えしゃくこぼす(愛敬ある様子をする)、 えしゃくこぼる(愛敬が顔に現われる)、 と使われ、江戸期になって、 役目なれば罷通ると、会釈(ヱシャク)もなく上座に着ば(「浄瑠璃・仮名手本忠臣蔵(1748)」)、 と、 えさく、 とも訛り、 ちょっと頭を下げて礼をすること、 軽いお辞儀、 一礼、 の意となる(精選版日本国語大辞典)。江戸語大辞典には、 軽くお辞儀する、 の意の外に、 しばしゑしやくせしが(「契情買虎之巻(安永七年(1778))」)、 と、 差し控える、遠慮する、 意でも使って、両者の距離の確認に代わっている。この意味は、 遠慮会釈もなく、 にわずかにその含意が残っている以外、今日は、 軽くお辞儀する、 にこやかにうなずく、 一礼する、 といった意になっている。因みに、「会釈」は、 あしらひ(い)、 と訓ませると、能楽で、 能楽の型の一つ。相手役の方に体を向けて、互いに気持を通わせること、 能の囃子でリズムにはっきりと合わせず伴奏すること、 拍子に合わない謡に、大、小の鼓または大、小の鼓と太鼓でする伴奏、 大、小の鼓または大、小の鼓と太鼓の囃子とは独立した、拍子に合わない笛の伴奏、 シテ、ワキなどの登場、退場の時に奏する伴奏、あしらい出し、あしらい込み、 シテの物着(ものぎ)の間に演奏する物着あしらい、また、シテが橋掛りから舞台に入る時演奏する歩みのあしらいなど、 狂言で、 伴奏すること、リズムに合わせても、色どり程度の伴奏なのでこう呼ぶ、 囃子事の総称。狂言会釈(きょうげんあしらい)とも呼ぶ、 相手に体を向けて適当に応対をすること(「長刀会釈(なぎなたあしらい)」という成句もある)、 俳諧で、 支考の付句論。連句において付け心の分類の1つ「七名(しちみょう)」の内の1つ。打越(うちこし 付句の前々句のこと。付句をする場合、この句と題材、趣向が似ることを嫌う)の難しいときなどに、前句の人の容姿や周辺の器材などをもって程よくその場をあしらってゆく方法、 長唄で、 自由な形で即興演奏する手法、 等々様々な意味で使われる(広辞苑・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 「會(会)」(漢音カイ、呉音エ)の字は、 会意。「△印(あわせる)+會(増の略体 ふえる)」で、多くの人が寄り集まって話をすること、 とした(漢字源)が、異説があり、 ふたのある鍋を象り、いろいろなものを集め煮炊きする様を言う、 という象形説(白川静)と、上記、 「亼」(集める)+「曾」(「増」の元字)多くの人が寄り集まることを意味する、 とする会意説(藤堂明保)とがあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%83)、 会意。曾(こしき)にふたをかぶせるさまにより、「あう」、ひいて「あつまる」意を表す。教育用漢字は省略形の俗字による(角川新字源)、 象形文字です。「米などを蒸す為の土器(こしき)に蓋(ふた)をした」象形から土器と蓋(ふた)が、うまく「あう」を意味する「会」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji257.html)、 曾(こしき)説、 の方が目につく。 「釋(釈)」(漢音シャク、呉音セキ)の字も、上記(漢字源)の、 会意兼形声。睪(エキ)は「目+幸(刑具)」から成り、手かせをはめた罪人を、ひとりつずつ並べて面通しすること。釋はそれを音符とし、釆(ばらばらにわける)を加えた字で、しこりをばらばらにほぐし、ひとつずつにわけて、一本の線に連ねること。釈は、音符を尺に換えた略字、 とする説以外に、 形声。釆と、音符睪(エキ)→(セキ)とから成る。種子をよりわける、ひいて、解き分ける、はなつなどの意を表す。常用漢字は俗字による、 とか(角川新字源)、 形声文字です(釆+尺(睪))。「獣の指のわかれている」象形(「分ける」の意味)と「人の目の象形と手かせの象形」(「罪人を次々と面通しする」意味だが、ここでは、「斁(エキ)」に通じ(同じ読みを持つ「斁」と同じ意味を持つようになって)、「固まりを分解する」の意味)から、「分解する」を意味する「釈」という漢字が成り立ちました。 とか(https://okjiten.jp/kanji1361.html)、 形成(意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせて作られた)文字説、 が目につく。 「笏」(慣用シャク、漢音コツ、呉音コチ)は、 形成、「竹+音符勿(モツ・コツ)」、 で(漢字源)、 「笏」の本来の読みは「コツ」であるが、「骨」に通じるのを忌み、また日本で用いた笏の長さが一尺だったので「尺」の音を借りたもの、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) この時、虚空より輪宝(りんぽう)下り、剣戟(剣と鉾)降って、修羅の輩(ともがら)を分々(つだつだ)に裂き切ると見えたり(太平記)、 にある、 輪宝、 は、 りんぼう、 とも訓み(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 聖天子の転輪聖王(てんりんじょうおう)が持つ宝器、これが自転して王を先導して四方を征服・教化する、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)。 「転輪聖王(てんりんじょうおう)」とは、 従此洲、人壽無量歳、乃至八萬有、転輪王生、……此王由輪旋轉、應導威伏一切、名轉輪王(俱舎論)、 と、 転輪王、 ともいい、 チャクラヴァルティラージャン(cakravartiraajan)あるいは、チャクラヴァルティン(cakravartin)の訳語、 で、 チャクラは「輪」、ヴァルティンは「動かすもの」、 の意味とされ、 古代インドの思想における理想的な王を指す概念、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E8%BC%AA%E8%81%96%E7%8E%8B)、 世界は繁栄と衰退の循環を繰り返し、繁栄の時には人間の寿命は8万年であるが、人間の徳が失われるにつれて寿命は短くなり、全ての善が失われた暗黒の時代には10年となる。その後、人間の徳は回復し、再び8万年の寿命がある繁栄の時代を迎える。転輪聖王が出るのはこの繁栄の時代であり、彼は前世における善行の結果転輪聖王として現れる、 とあり(仝上)、転輪聖王は、 四天下を統一して正法をもって世を治める王。輪宝を転じて敵対するものを降伏させるところからこの名がある、 が、輪宝の種類(金・銀・銅・鉄)によって、 金輪王、 銀輪王、 銅輪王、 鉄輪王、 の4種があり、 鉄輪王は鉄の輪宝を持ち、(古代インドの世界観で地球上に4つあるとされた大陸のうち)1つの大陸、 を支配し、 銅輪王は銅の輪宝を持ち、2つの大陸、 を支配し、 銀輪王は銀の輪宝を持ち、3つの大陸、 を支配する。そして最上の転輪聖王である金輪王は、 金の輪宝を持ち、4つの大陸全てを支配する、 とある(仝上)。また、 若以三十二相、観如来者、轉輪聖王則是如来(金剛経)、 と、 輪宝のほかに六宝を有し、身に三十二相をそなえ、 出世間(解脱)の仏と対比される。これらの王が出現するときは、 金輪王は人間の寿命が無量から八万歳の間に出現し、鉄輪王は人寿百歳のとき、他はその間で一定しない、 という(仝上・精選版日本国語大辞典)。 この「転輪聖王」の「輪」とは、 聖王の感得せる輪宝、 の意であり(大言海)、「輪宝」は、 転輪聖王の感得する七宝の一つ、 で(広辞苑)、 車輪の形して、八方に鋒端を出す、これを用ゐて加持すれば、旋轉應導して、一切を威伏す、又、轉輪王の位に即く時、天より感得せしと云ふ宝器、 とある(大言海)。 転輪聖王遊行(ゆぎょう)の時、必ず先行して、四方を制する、 とある(仝上)。ちなみに、「七宝(しちほう)」とは 輪宝(チャッカラタナ cakkaratana) 四方に転がり、王に大地を平定させる、 象宝(ハッティラタナ hatthiratana) 空をも飛ぶ純白の象、 馬宝(アッサラタナ assaratana) 空をも飛ぶ純白の馬、 珠宝(マニラタナ maniratana) 発する光明が1由旬にも達する宝石、 女宝(イッティラタナ itthiratana) 美貌と芳香を持つ従順かつ貞節な王妃、 居士宝(ガハパティラタナ gahapatiratana) 国を支える財力ある市民、 将軍宝(パリナーヤカラタナ parinayakaratana) 賢明さ、有能さ、練達を備えた智将、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E8%BC%AA%E8%81%96%E7%8E%8B)。 また「輪宝」が、転輪王の所持する宝器であるところから、「輪宝」は、 転輪王、 転輪聖王、 の意ともされる(精選版日本国語大辞典)。 「輪」(リン)は、 会意兼形声。侖は、順序よく並ぶ意を含む。輪は「車+音符侖(リン)」で、軸の周りに整然と輻(や)が配列され、組み立てられたわのこと、 とある(漢字源)。ひいては、まるいものの意に用いる(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(車+侖)。「車」の象形と「3線が合う事を示す文字と文字を書く為にヒモで結んだふだの象形」(「すじ道をたて考えをまとめる」の意味)から車のタイヤが放射状に秩序だって並んでいる、すなわち、「わ(車輪)」を意味する「輪」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji673.html)。 「寶(宝)」(慣用ホ、漢音呉音ホウ)は、 形声。「宀」+「玉」+「貝」+音符「缶 /*PU/」。音符を除いた部分は、宝石や貝貨といった貴重品が建物に収蔵された様子。{寶 /*puuʔ/}を表す字、 とする説と、 会意。「宀(建物)」に「玉」、「缶」、「貝」といった財貨を集めた様。「缶」は音を表す、 とする説があり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AF%B6)、似ているようだが、 後者については、甲骨文字や金文などの資料と一致していない記述が含まれていたり根拠のない憶測に基づいていたりするためコンセンサスを得られていない、 ともある(仝上)が、 会意。「宀(かこう)+珠+缶(ほとぎ)+貝(かいのかね)」で、玉や土器や財貨などを屋根の下に入れ、大切に保管する意を示す(漢字源)、 会意形声。宀と、王(=玉)と、貝(貨幣)と、缶(フウ)→(ホウ 酒つぼ)とから成る。玉などをつぼに入れて家の中にたいせつにしまっておく、ひいて、財宝の意を表す(角川新字源)、 会意兼形声文字です(宀+玉+缶+貝)。「屋根・家屋」の象形と「3つ玉を縦ひもで貫き通した」象形と「酒などの飲み物を入れる腹部の膨らんだ土器」の象形と「子安貝(貨幣)」の象形から、屋内に宝石と貨幣と土器がある事を意味し、そこから、「たから」を意味する「宝」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1067.html)、 とほぼ前者の説である。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) あら熱や、堪へ難や。いで三熱の炎を醒まさんとて、閼伽井(あかい)の井の中へ蜚(と)びおりたければ(太平記)、 にある、 三熱、 は、「天人五衰」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/431420217.html)で触れたように、仏語で、 竜・蛇などのうける三つの苦悩、熱風・熱沙に身を焼かれること、悪風が吹いて住居・衣服を奪われること、金翅鳥(こんじちょう)に(子を)捕食されること、 を指す、とあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 三患、 ともいう。因みに、金翅鳥は、 迦楼羅者、是金翅鳥(倶舎論)、 とあるように、 迦楼羅(かるら)、 に同じであり、迦楼羅は、 梵語garuḍaの音写、 金翅鳥は、 garuḍaの訳語、 である(仝上) 「迦楼羅炎」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486022291.html)で触れたように、金翅鳥は、 インド神話における巨鳥で、龍を常食にする、 とある(広辞苑)が、 インド神話において人々に恐れられる蛇・竜のたぐい(ナーガ族)と敵対関係にあり、それらを退治する聖鳥として崇拝されている。……単に鷲の姿で描かれたり、人間に翼が生えた姿で描かれたりもするが、基本的には人間の胴体と鷲の頭部・嘴・翼・爪を持つ、翼は赤く全身は黄金色に輝く巨大な鳥として描かれる、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80)、仏教に入って、 八部衆の一つ迦楼羅(かるら)とは別のものであったが、同一視され天竜八部衆の一として、仏法の守護神とされる。翼は金色、頭には如意珠がおり、常に口から火焔を吐くという。日本で言う天狗はこの変形を伝えたものとも言う、 とある(仝上)。 また、「閼伽井(あかい)」は、 仏に供える水を汲む井戸、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)が、「閼伽」は、 梵語アルガarghaの音訳、 で、 阿伽、 遏伽、 とも表記する。 器、 功徳(くどく)水、 水、 と訳す。 価値あるもの、 の意で、 客人を接待するにもっとも必要な水を意味し、転じて神に供える捧(ささ)げ物の意となり、それを盛る容器の総称、 となったが、仏教では、 仏菩薩に献ずる聖水、 をさし、密教では、 仏や諸尊に捧げる六種供養(閼伽、塗香(ずこう)、華鬘(けまん)、焼香(しょうこう)、飲食(おんじき)、灯明(とうみょう))の一として、煩悩(ぼんのう)の垢(あか)を洗うもの、 とされる。一般には、 仏前や墓前などに供える神聖な水、 を、 閼伽水、 とし、この浄水をくむ井戸を、 閼伽井、 という(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。ために、「閼伽」のみでも、 仏前に供える水を入れる器、 の意とする(仝上)。 「三」(サン)は、「三会」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484736964.html)で触れたように、 指事。三本の横線で三を示す。また、参加の參(サン)と通じていて、いくつも混じること。また杉(サン)、衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで模様を成すの意も含む、 とある(漢字源)。また、 一をみっつ積み上げて、数詞の「みつ」、ひいて、多い意を表す、 ともある(角川新字源)。 「熱」(漢音ゼツ、呉音ネツ・ネチ)は、 形声。埶は、人がすわって植物を植え、育てるさま。その発音を借りて、音符としたものが熱の字(セイ→ゼツ)。もと火が燃えて熱いこと。燃の語尾がつまったことば、 とある(漢字源・角川新字源)。別に、 形声文字です(埶+灬(火)。「人が植木を持つ」象形(「植える」の意味だが、ここでは「然」に通じ(「然」と同じ意味を持つようになって)、「火で焼く」の意味)と「燃え立つ炎」の象形から、「あつい」を意味する「熱」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji655.html)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 城の背(うし)ろの深山(みやま)より、這う這う忍び寄りて、薄(すすき)、刈萱(かるかや)、篠竹(しのだけ)などを切って、鎧の札頭(さねがしら)、兜の鉢付(はちつけ 錣(しころ)の最上部)の板(いた)にひしひしと差して、探竿影草(たんかんようそう)に身を隠し(太平記)、 にある、 探竿影草(たんかんようそう)、 は、臨済宗では、 たんかんようぞう、 と訓ますようだが、臨済宗の禅語で、 身を隠す道具のこと、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。いわゆる 師便すなわち喝(かつ)す、 における、 臨済喝、 つまり、 臨済四喝(しかつ)、 の一つとされる。「四喝」は、『臨済録』の「勘弁」第二十一則、 に 師問僧:「有時一喝、如金剛王宝剣;有時一喝、如踞地金毛獅子;有時一喝、如探竿影草;有時一喝、不作一喝用。汝作麼生会」僧擬議、師便喝、 とあり、 師、僧に問う、「有る時の一喝は、金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は、踞地金毛の獅子の如く、有る時の一喝は、探竿影草の如く、有る時の一喝は、一喝の用(ゆう)を作(な)さず。汝作麼生(そもさん)か会す」と。僧議せんと擬(ほっ)するや、師便(すなわち)ち喝す、 とある(呉進幹「臨済禅の南伝と臨済宗の形成)。 「金剛王宝剣の如く」とは、 「金剛王宝剣」とは名刀の中の名刀のこと。この一喝で私たちの煩悩を初め、是非(ぜひ)善悪(ぜんあく)等一切の分別心を截断して、本来の自己に立ち返らせる働き、 で、その一喝を「金剛王宝剣の如し」という(http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/080101.html)とある。「踞地(こじ)金毛の獅子の如く」とは、 「踞地」は、大地にうずくまること、「獅子」が今にも獲物に向かって飛びかかろうとする瞬間、目をらんらんと輝かせて、四方八方に細心の注意を払って、内に百雷の威力を秘めて大地に踞(こ)す姿に喩たとえて、「踞地金毛の獅子」という、 とあり(仝上)、この一喝は如何いかなる英雄でも肝をつぶすほどすさまじいと言わる。「探竿影草(たんかんようぞう)の如く」とは、 「探竿影草」は、漁師が草の下に魚がいるかいないのか棒で探ることです。この一喝で、出てきた修行者が聖(しょう)か凡(ぼん)か、真(しん)か偽(ぎ)かを探り照らして、その力量を見抜く一喝の故に、「探竿影草の如し」という、 とある。上記兵藤裕己校注『太平記』の注は、その「探竿影草」を、文脈から、迷彩服やカモフラージュに草などを身につけるのと同じ意で「身を隠す道具」と注記したものと思われるが、「探竿影草」は、文字通り、 水の深さをさぐる竿のようなはたらきである の意になる(http://one-zen-temple.blogspot.com/2016/05/blog-post_13.html)。ただ、これには、 水の深さを測るとか、 魚をとらえる罠とか、 隠れ蓑を着るとか、 等々、様々な解釈があり(https://www.engakuji.or.jp/blog/29692/)、 わざわざ世間に出ていき、悩み苦しんでいる人のところにいって、その人が今、どういう問題で苦しんでいるのか、それを一つ一ついっしょになって感じていく働きです、 ともある(仝上)ので、「身を隠して」それをするという含意なのかもしれない。 「一喝の用(ゆう)を作(な)さず」とは、 前述の三喝のような働きをしない喝、 という意であり、 修行者が修行に修行を重ねて、十年、二十年、練りに練り、鍛えに鍛えて、もはや修するに修するの道なく、学ぶに学ぶの法なきところに至って、一切のアカの抜け切った任運(にんぬん)自在(じざい)、心の欲する所に従って、しかも矩(のり)を踰(こ)えざる大自在(だいじざい)、遊戯(ゆげ)三昧(ざんまい)の境界から発する一喝が、この一喝、 とあり(仝上)、この一喝は、 必ずしも「喝」の形相を取りません。日常茶飯事の一挙手一投足がすべてこれ一喝でなければなりません。「一喝の用を作なさざる一喝」は他の三喝の根源であり、他の三喝を包括もの、 とあり、故に、厳密にいえば、すべての喝はこの、 一喝の用を作さざる一喝、 でなければならないとする(仝上)。この流れは、 第一の金剛王宝剣は、外の世界、誘惑などを断ち切る。これは、仏教の修行の上で言えば、戒・定・慧(三学 悪を止める戒、心の平静を得る定、真実を悟る慧)の戒にあたる。心から湧いてくる憎しみや怒りや貪りを断ち切る。そうして、踞地(こじ)金毛の獅子の、獅子がぐっと構えているようにじっとしている。これは、禅定(心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想の姿)です。禅定の力を得たならば、次は、探竿影草(たんかんようぞう)、外の世界に働いていくことです。今、どういう状況にあるのかを判断する。今、自分がどういう状況にあるか、外に向かって能動的に心を働かせていく。ここまでの三つの喝で、戒・定・慧がきちんとそろっている。最後は、「一喝の用(ゆう)を作(な)さず」。坐っている姿勢であるとか、こういう語録の言葉であるとか、様々な決まり事などにとらわれずに、自在に働いていく。これは、慈悲行として働いていくわけです、 とあるのがわかりやすい(https://www.engakuji.or.jp/blog/29877/・精選版日本国語大辞典)。つまり、この「臨済四喝」には、きちんと、 戒・定・慧と慈悲行の実践がよく説かれている、 つまり修行のプロセスが示されている(仝上)。「四喝」を、 金剛王宝剣(仁王の刀)、 踞地金毛(獅子のねらい)、 探竿影草(魚をさそう)、 不作一喝(声をださぬ喝) と整理するものもある(世界大百科事典)。 『臨済録』では、「一喝の用(ゆう)を作(な)さず」の後、 汝作麼生(そもさん)か会すと。僧議せんと擬(ほっ)するや、師便(すなわ)ち喝す、 とつづく。 「今挙げた四喝、汝はどう、わかったのか?」という臨済の問いに、この僧、わからず擬議します。臨済則ち喝す! つまり、 喝、 を食らったのである(呉進幹・前掲書)。 作麼生、 は、 主に禅問答の際にかける言葉で、問題を出題する側が用いる表現。「さあどうだ」といった意味合いである、 が(実用日本語表現辞典)。「そもさん」に対し、問題を出題される側は、 せっぱ(説破)、 と応えるのが一般的である(仝上)。 「うけてたとう」「さあ、こい」、 といった意味合いである(仝上)。 最初に喝を放ったのは、 馬祖(ばそ)道一(どういつ)禅師だといわれています。その弟子である百丈(ひゃくじょう)禅師(749〜814)は後に述懐しています。 「我れ当時(そのかみ)、馬祖に一喝(いっかつ)せられて、直(じき)に三日耳聾するを得たる」 という凄まじいものであったらしい(http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/080101.html)。しかし、 通行本『臨済録』に収録されている「四喝」は、円覚宗演が黄龍慧南校訂『四家録』(約1066年前後)中の『臨済録』を重刊(1120)した時に増補した八則のうちの一則であった。これが『続開古尊宿語要』(1238)、『古尊宿語録』(1267)に引き継がれ、単行本化されて江戸時代の通行本(18 世紀)に至るのである。したがって『臨済録』テキストの二系統のうち、「古尊宿系」に見えるもので、「四家録系」には見えない、 とある(呉進幹・前掲書)。「四喝」は、 『景徳伝灯録』及び『天聖広灯録』によれば、「喝」を発するということは確かに臨済宗の宗風として早くから受け止められていた。しかし、それと同時に、それが安易に模倣されるいわゆる「胡喝乱喝」の現象も現われていた。そこで、「胡喝乱喝」を避けるために「喝」の分類(すなわち「四喝」)が提起された、 と考えられている(仝上)とある。 胡喝乱喝、 つまり、形式化したり様式化したものを厳格化したということなのだろう。 因みに「喝」は、 人を叱咤(しった)する声、またその声を発すること。禅宗では中国唐代以降、種々の意味をもって使用され、師が言詮(ごんせん 言語をもって仏法を説き明かすこと)の及ばぬ禅の極意を弟子に示すための方便として盛んに用いられた。その始まりは馬祖道一(ばそどういつ)・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の師資(師弟)間に行われたとされ、「黄檗希運(おうばくきうん)の棒」「臨済義玄(りんざいぎげん)の喝」と並び称され、言語、思慮を超えた悟境を示す手段とされた、 とあり(日本大百科全書)、とくに臨済宗門下では、「臨済四喝」とよばれる機関(指導の手段)としてまとめられ、修行の指標とされ、のちには葬儀の際の引導にも用いられる(仝上)。 「喝(喝)」(漢音カツ、呉音カチ)は、 会意兼形声。曷(カツ)は口ではっとどなって、人をおしとどめる意。喝は「口+音符曷」。その語尾のtが脱落したのが呵(カ)で、意味はきわめて近い、 とある(漢字源)。別に、 旧字は、形声。口と、音符曷(カツ)とから成る。のどがかわいて水をほしがる意を表す。借りて「しかる」意に用いる。常用漢字は省略形による、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(口+曷)。「口」の象形と「口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形)(「高々と言う」の意味)から、「声を高くして、しかる」、「怒鳴りつける」、「さけぶ」を意味する「喝」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1622.html)。 なお無門慧開の『無門関』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473155387.html)については触れた。 参考文献; 呉進幹「臨済禅の南伝と臨済宗の形成―五代宋初臨済禅の一考察」 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 召人(めしうど)京都に着きければ、皆黒衣を脱がせ、法名を元の名に替へて、一人ずつ大名に預けらる。その秋刑を待つ程に(太平記)、 にある、 秋刑、 とは、 処刑。秋は草木を枯らすことから、古代中国では秋官が刑罰を司るとされた(周礼)、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)。 「秋官」は、 秋官、其属六十、掌邦刑(周禮)、 とある、 中国、周代の六官(りくかん)の一つ。訴訟、刑罰をつかさどった司法官、 とあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、この「秋」は、 秋は、粛殺を主(つかさどる)る故に云ふ(大言海・字源)、 秋が草木を枯らすように、きびしいことから(広辞苑)、 の故であり、「秋刑」の「秋」も、 秋の気は万物を粛殺するところから、「周礼」で秋官が刑罰をつかさどるのによる(精選版日本国語大辞典)、 秋は、草木の凋落するなれば、刑に譬えて云ふ(大言海)、 となる。 周代の「六官(りくかん)」は、 中央政府の官吏を天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官の六つに分け、それぞれ、治・教・礼・兵・刑・事を分掌させた、その六つの官の総称、 どあり(精選版日本国語大辞典)、天官(てんかん)は、 国政を総轄し、宮中事務をつかさどる官の総称、 「地官(ちかん)」は、 司徒の職で教育・土地・人事などをつかさどる、 「春官(しゅんかん)」は、 王を補佐して祭典や礼法をつかさどる、 「夏官(かかん)」は、 司馬の職で、軍政をつかさどる、 「冬官(とうかん)」は、 司空(しくう)の職で、土木工作の事をつかさどる もので、この「六官(りっかん)」の長が、それぞれ、 冢宰(ちょうさい)、 司徒、 宗伯、 司馬、 司寇(しこう)、 司空、 となる。「秋官」の長は、 秋官司冦刑官之属(周禮)、 と、 司寇、 となる。この六官の長を、 六卿(りくけい、りっけい)、 といい、 冢宰(ちょさい・ちょうさい)、 が、 六官の長で天子を補佐し、百官を統御した官、 とある(仝上)。 司空・司馬・司徒、 は、 三公の一つ、 とされ、 天子を補佐する三人、 とされる(仝上)。 「秋(龝・穐)」(漢音シュウ、呉音シュ)は、「秋」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/466853732.html)で触れたように、 会意。もと「禾(作物)+束(たばねる)」の会意文字で、作物を集めて束ね、おさめること。龝は、「禾+龜+火」で、「龜(カメ)」を日でかわかすと収縮するように、作物を火や太陽でかわかして収縮させることを示す。収縮する意を含む、 とあり(漢字源)、似た趣旨で、 会意兼形声文字です(禾+火+龜)。「穂の先が茎の先端に垂れかかる」象形(「稲」の意味)と「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「かめ」の象形(「亀(かめ)」の意味)から、カメの甲羅に火をつけて占いを行う事を表し、そのカメの収穫時期が「あき」だった事と、穀物の収穫時期が「あき」だった事から「あき」を意味する「秋」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji92.html)が、 別に、 元の字を「龝」+「灬」につくり、穀物につく「龜」(カメではなくイナゴ)を焼き殺す季節の意(白川静)、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A7%8B)、 形声。禾と、音符「『龝』+『灬』から成る字」、音符(セウ)→(シウ 龜・火は省略形)とから成る。いねの実りを集める、ひいて、その時期「あき」の意を表す、 とも(角川新字源)あり、殷時代の文字を見る限り、龜とは見えない。 「龝」+「灬」につくり、穀物につく「龜」(カメではなくイナゴ)を焼き殺す季節の意、 が正確なのではあるまいか。 「刑」(漢音ケイ、呉音ギョウ)は、 会意兼形声。左側の形は、もと井。井(ケイ)は、四角いわくを示す。刑は「刀+音符井」。わくの中へ閉じ込める意を含み、刀で体刑を加えてこらしめる意を示すため、刀印を加えた、 とあり(漢字源)、同趣旨の、 会意形声。「刀」+音符「井」、「井」は「型枠」、罪人を桎梏など型枠にはめ懲らしめること、更に「刀」を添えて体刑の意を加える。同系字に「形」「型」、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%91)、 会意兼形声文字です。「わく・かた」の象形と「刀」の象形から、刀や手かせや・足かせを使って「罰を加える」、「しおき」を意味する「刑」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji1635.html)あるが、別に、 形声。刀と、音符幵(ケン)→(ケイ)(开は省略形)とから成る。㓝は、会意形声で、刀と、井(セイ)→(ケイ わく、きまり)とから成る。「のり」、転じて、のりに照らしてつみする意を表す、 とあり(角川新字源)、この説の方が自然な気がする。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 大樹(たいじゅ)の位に居して、武備の守りを全くせん事は、げにも朝家(ちょうか)のために、人の嘲りを忘れたるに似たり(太平記)、 兄弟一時(いっし)に相並んで大樹の武将に備はる事、古今(こきん)未だその例を聞かず(仝上)、 などとある、 大樹、 は、 大樹将軍の略、 征夷大将軍の異称、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)。「大樹」は、文字通り、 大きな樹、大木、 の意で、 高山之巓無美木、傷於多陽成、大樹之下無美草、傷於多陰也(説苑・説叢)、 の、 大樹之下無美草(たいじゅのもとにはびそうなし)、 と、 賢路のふさがれるところには人材の出でざる、 意で使うが、また、 寄らば大樹の陰、 などと、 大きくてしっかりしたもののたとえ、 にもいう(広辞苑)が、この場合は、 大樹将軍の略、 で、 征夷大将軍、 を指し、わが国でも、 大樹公、 大樹、 などと、将軍の意で使った。この由来は、 異為人謙退不伐、……諸将竝坐論功、異常獨屛樹下、軍中號曰大樹将軍(異、人となり謙退にして伐(ほこ)らず、諸将並び坐して功を論ず、異、常に樹下に屛(しりぞ)く、軍中号して大樹将軍と曰う)(後漢書・馮異傳)、 にある(大言海・字源)、 諸将が功を誇る中、馮異(ふうい)一人が大樹の下に退いて誇らなかった、 という故事から、本来、 大樹将軍、 は、 後漢の将軍馮異の敬称、 であり、転じて、 将軍、 または、 征夷大将軍、 の異称となった(広辞苑)ものである。 「大」(漢音タイ・タ、呉音ダイ・ダ)は、 象形。人間が手足を広げて、大の字に立った姿を描いたもので、おおきく、たっぷりとゆとりがある意。達(タツ ゆとりがある)はその入声(ニッショウ つまり音)に当たる、 とある(漢字源)。 「樹」(漢音シュ、呉音ジュ)の字源には、諸説あり、 甲骨文字の「权」は木を植える様子を象る象形文字。「植える」を意味する漢語{樹 /*dos/}を表す字。「权」に音符「豆 /*TO/」を加えて「尌」となり、「尌」に「木」を加えて「樹」となった、 とか、 会意形声、「木」+ 音符「尌」。「尌」は「壴」(太鼓の象形)と「寸」(手を広げた様子の象形)を合わせた字で、太鼓を台に「たてる」こと。これに「木」を合わせて、「立ち木」や、木のように物事を「うちたてる」こと、 とかあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A8%B9)、 会意兼形声。尌は太鼓または豆(たかつき)を直立させたさまに寸を加えて、⊥型にたてる動作を示す。樹はそれを音符とし、木を添えた字で、立った木のこと、 とか(漢字源)、 会意兼形声文字です(木+尌)。「大地を覆う木」の象形と「たいこの象形と右手の手首に親指をあて脈をはかる象形」(「安定して立てる」の意味)から、樹木や農作物を手で立てて安定させる事を意味し、そこから、「うえる」、「たてる」を意味する「樹」という漢字が成り立ちました、 とかとある(https://okjiten.jp/kanji942.html)のは、後者の説に当たるが、 この記述は甲骨文字や金文などの資料と一致していない記述が含まれていたり根拠のない憶測に基づいていたりするためコンセンサスを得られていない、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A8%B9)。 会意形声。木と、尌(シユ、ジユ 立てる)とから成る。立ち木の総称(角川新字源)、 は前者に当たる。甲骨文字は、「太鼓」には見えないが、金文文字(青銅器の表面に刻まれた文字)では、 根拠のない憶測、 とまでは言い切れない、微妙なものがある気がする。「樹」の俗字に、 𣗳、 という字があるのも、気にかかる(字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) この外(ほか)、宗徒(むねと)の一族四十三人、或は象外(しょうがい)の撰に当たり、俗骨忽ち蓬莱の雲を踏み、或は乱階の賞によって、庸才たちどころに台閣の月を攀づ(太平記)、 とある、 象外の撰、 は、 高位高官に抜擢されること、 とあり(兵藤裕己校注『太平記』)、 昇殿はこれ象外の選び(予想外の抜擢)なり、俗骨(俗人)をもって蓬莱の雲を踏む(雲上人となる)べからず。尚書(太政官の弁官)はまた天下の望なり、庸才(凡人)をもって台閣の月を攀づ(弁官となる)べからず(和漢朗詠集・述懐) と付記があり(仝上)、それに依っているようだが、同文は、 昇殿是象外之選也。俗骨不可以踏蓬莱之雲。 尚書亦天下之望也。庸才不可以攀台閤之月。 ともられ、これは、橘直幹の、 申文、 と題されているものではあるまいか(https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E6%9C%97%E8%A9%A0%E9%9B%86)。因みに、「尚書」は、 「弁官」の唐名 であり、「弁官(辨官 べんかん)は、 おおともいのつかさ、 ともいい、 律令(りつりょう)官制における太政官内の要職、 で、 左右の弁官局があり、少納言局と合せて、太政官三局という。太政官内の庶務を取扱い、下級機関からの上申文書の受理および太政官への申達(しんたつ)や、太政官符など太政官からの命令の下達(げたつ)書の発給事務を統轄した行政事務の執行機関、 であり、 左弁官は中務(なかつかさ)、式部、治部、民部の4省を、右弁官は兵部、刑部(ぎょうぶ)、大蔵、宮内の4省を分掌、長官である左右大弁は従(じゅ)四位上相当で、八省の卿(かみ)に次ぐ高官。左右ともに大弁、中弁、少弁が1人ずつあり、のちに権官1人を加えて、定員7人で七弁と称せられた。名誉ある職で、家柄、能力ともにすぐれたものが任命された。弁官の制は江戸時代末期まで存続し、明治維新にいたって弁事に改められた、 とある(広辞苑・ブリタニカ国際大百科事典・日本大百科全書)。 ただ、「象外」は、 しょうげ、 とも訓ませ(「げ」は「外」の呉音)、 至若御製令製、名高象外、韻絶環中(小野岑守「凌雲集(814)」・序)、 天狗と羽を并べて、象外(セウガイ)に遊ぶの夢に余念なかりき(北村透谷「三日幻境(1892)」)、 などと、 凡俗を離れた境界(広辞苑)、 俗世間を超越した境地(精選版日本国語大辞典)、 という意味で使われる。「象外」は漢語で、 西觸王宰畫山水樹石、出於象外(畫斷)、 などと、 心が形象の外に超然として常法に拘束せられざる義、 とある(字源)。ここでは、 象外の撰、 という言い方で、 世間の常識を大きく外れた抜擢、 と言った意味で使っている。その後に続く、 乱階の賞、 は、 順序を飛び越えた賞、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。それまでの常識を外れた昇進や褒賞ということである。 「乱階」は、 無拳無勇、職為乱階(小雅)、 と、 階は梯、みだれるきざはし、 の意(字源)であり、 禍梯(かてい)、 乱梯、 と同義とある(仝上)。それをメタファに、 其乱階を尋るにイワンの姉……ソヒヤなる者奸才あり(福沢諭吉「西洋事情(1866〜70)」)、 などと、 秩序の乱れのもと、 騒乱の起こるきざし、 騒乱の端緒、 の意で使い、また、 今年之春叙位、乱階不次之賞不見(「本朝文粋(1060頃)」)、 と、 順序を越えて位階を進めること、 つまり、 越階(おっかい)、 の意でも使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「象」(漢音ショウ、呉音ゾウ)は、 象形。ぞうの姿を描いたもの。ぞうは最も目だった大きいかたちをしているところから、かたちという意味になった、 とある(漢字源)。「圖象」「象形」のように「かたち」の意味の外に、「現象」というように、外にあらわれたすがたの意で、周易の卦(カ)のあらわれた姿の意でも使う。 象形。長い鼻をもち、大きなからだをしたぞうの形にかたどる。借りて「かた」の意に用いる(角川新字源)、 象形。長い鼻のゾウを形取ったもの。また、相に通じて姿の意味も表す。大きく目立つことから、「かたち」「すがた」の意を生じたものとも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%A1)、 も同趣旨である。 「外」(漢音ガイ、呉音ゲ、唐音ウイ)は、 会意、「夕」(肉)+「卜」(占)で、亀甲占で、カメの甲羅が体の外にあることから、 とする「龜甲」占い由来とする説と、 「卜」+音符「夕」で、占で、月の欠け残った部分を指した会意形声とも(藤堂明保)、 とする「月」占い説とがある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%96)。 会意兼形声。月(ゲツ)は、缺(ケツ 欠ける)の意を含む。外は「卜(うらなう)+音符月」で、月の欠け方を見て占うことを示す。月が欠けて残った部分、つまり外側の部分のこと。龜卜(キボク)に用いた骨の外側だという解説もあるが従えない、 とか(漢字源)、 会意。夕(ゆうべ)と、卜(ぼく うらない)とから成る。通常は昼間に行ううらないを夜にすることから、「そと」「ほか」「よそ」、また、「はずれる」意を表す、 とか(角川新字源)は、「月」占い説、 形声文字です(夕(月)+卜)。「月の変形」(「刖(ゲツ)に通じ、「かいて取る」の意味)と「占いの為に亀の甲羅や牛の骨を焼いて得られた割れ目の象形」から、占いの為に亀の甲羅の中の肉をかいて取る様子を表し、そこから、「はずす」を意味する「外」という漢字が成り立ちました、 ある(https://okjiten.jp/kanji235.html)のは、「龜甲」占い説になる。ただ、甲骨文字と金文(青銅器に刻まれた文字)とでは、かたちが異なり、途中で変じたのかもしれない。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 旧功の輩(ともがら)を招き集められけるに、龍鱗に付いて鳳翼を攀(よ)ぢ、宿望を達せばやと(太平記)、 にある、 龍鱗に付いて鳳翼を攀ぢ、 は、普通、 竜鱗に攀じて鳳翼に附す、 という。 天下士大夫、捐親戚棄土壌、従大王於矢石之者、其計固望其攀龍鱗、附鳳翼、以成其所志耳(後漢書・光武紀)、 に依る、 竜のうろこにつかまり、鳳凰の翼につき従う、 つまり、 「攀」は、とりすがって上る、「附」は、つきしたがう、 意で、 勢力のある者にすがりて、立身すること、 である(大言海)。「龍鱗」は、 リュウリン、 とも リョウリン、 とも訓み、文字通り、 龍の鱗、 の意だが、 臣下のたのみとなる偉大な英主、 の意である(広辞苑)。 臣下が英主に従って功業を立てる、 の意をメタファに、 閉戸著書多歳月、種松皆老作攀龍(王維)、 と、 老松などの幹の樹皮が竜の鱗の形に似たもの、 に譬えたり、 先賢を手本に人徳を養うことのたとえ、 にも使ったり(広辞苑)、 敵虎韜(包囲、攻撃する陣立)に連ねて圍めば、虎韜に分れて相當り、龍鱗に結びて蒐(かか)れば、龍鱗に進んで戦ふ(太平記)、 と、 陣立て、 の一つとしても使う(大言海)。 「鳳凰」は、 古来中国で、麒麟、亀、龍とともに四瑞(しずい 四霊)と尊ばれた想像上の瑞鳥、前は麒麟、後は鹿、頸は蛇、尾は魚、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏に似、五色絢爛、聲は五声にあたり、梧桐に宿り、竹実を食い、醴泉(れいせん)の水を飲むといい、高さ五、六尺(一・五〜一・八メートル)、羽には五色の紋がある。聖徳の天子の兆しとして現れると伝え、雄を鳳、雌を凰という、 とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 鳳鳥、 ともいう(仝上)。「四霊」については、「四神相応」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486277205.html)でも触れた。 また、「龍鱗を攀じて鳳翼に附す」は、 攀龍附鳳勢莫當、天下盡化為侯王(杜甫)、 と、 攀龍附鳳(はんりょうふほう)、 という四字熟語になっていて、 附鳳、 ともいう(大言海)。似た言葉に、 蒼蠅(そうよう)驥尾に付して千里を致す、 というのがある。これも四字熟語で、 蒼蠅驥尾(そうようきび)、 ともいう。 驥尾に附く、 驥尾に付す、 ともいう(故事ことわざの辞典・広辞苑)。 蠅が驥尾について千里も遠い地に行くように、後進者がすぐれた先達につき従って、事を成し遂げたり功を立てたりする、 意で(広辞苑)、 蒼蠅附驥尾而致千里、以喩顔回因孔子而名彰(史記・伯夷傳)、 蒼蠅之飛、不過十歩、自託驥尾之髪、乃騰千里之路(漢書・張敞(ちょう しょう)傳)、 などによる(大言海・故事ことわざの辞典)。「蒼蠅」は、 あおばえ、 「驥尾」は、 駿馬の尾、 である。なお「蒼蠅」には、 營營青蠅、止手樊(まがき)、豈弟(がいてい 人柄のおだやかなこと)君子、無信、讒言(豈弟は楽易(心が安らかであること)の義)(詩経)、 匪鷄則鳴、蒼蠅之聲(齋風)、 などと、 讒人、 の意もある(字源・大言海) 「龍」(漢音リョウ、呉音リュウ、慣用ロウ)は、「神龍忽ち釣者の網にかかる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485851423.html)「亢龍悔い有り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484356729.html)で触れたように、 象形。もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それにいろいろな模様を添えて、龍の字となった、 とある(漢字源)。別に、 象形。もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、「龍」となった。意符としての基本義は「うねる」。同系字は「瀧」、「壟」。古声母は pl- だった。pが残ったものは「龐」などになった、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D)。 「うろこ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484969775.html)で触れたように、「鱗」(リン)は、 会意兼形声。粦(リン)は、連なって燃える燐の火(鬼火)を表す会意文字。鱗はそれを音符とし、魚を加えた字で、きれいに並んでつらなるうろこ、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(魚+粦)。「魚」の象形(「魚」の意味)と「燃え立つ炎の象形と両足が反対方向を向く象形」(「左右にゆれる火の玉」)の意味から、「左右にゆれる火の玉のように光る魚のうろこ」を意味する「鱗」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2354.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 簡野道明『字源』(角川書店) 今、兵革(ひょうがく)の後、世未だ安からず、国弊(つい)え、民苦しみて(太平記)、 とある。 兵革、 は、 ひょうかく、 へいがく、 へいかく、 などと訓ませ、 「兵」は槍・刀などの武器、「革」は甲冑(かっちゅう)などの武具の意、 で、 人数きたり、兵革(ひょうかく)を帯して大蛇を退治す(奇異雑談集)、 と、 いくさの道具の総称、 の意(高田衛編・校注『江戸怪談集』)であるが、それをメタファに、冒頭の、 兵革(ひょうがく)の後、 のように、 兵乱、 の意(兵藤裕己校注『太平記』)や、 天子念、則兵革災害不入国裏(続日本紀)、 のように、 たたかい、戦争、干戈、 の意で使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「兵革(へいかく)」は、 兵革非不堅利也(兵革堅利ならざるに非ず) とか 威天下不以兵革之利(天下を威(おど)すに兵革の利をもってせず)、 と(孟子)、漢語であり、ここでは、 武器・甲冑、 の意で使う(小林勝人訳注『孟子』)が、転じて、 いくさ、 の意でも使い、 城郭不完、兵甲不多、非国之災也(城郭完(まった)からず、兵甲多からざるは、国の災いに非ざるなり)、 と使う(仝上)、 兵甲(へいこう)、 と同義で、「兵甲」は、 兵は矛戟、甲は甲冑、 の意で、 戦争、 の意にも、 兵士、 戦力、 の意でも使う(字源)。 「兵」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、 会意文字。上部は斤(おの→武器)の形、その下部に両手を添えたもので、武器を手に持つさまを示す。並べ合わせて敵に向かう兵隊の意。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、「力を并(あわ)すすがた」とある、 とある(漢字源)。つまり、 「斤(おの)」+「廾(キョウ 両手をそろえた様)」、 で、 斧(=武器)を両手で(かかげ)持つ様、 ということになる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%B5・角川新字源)。別に、 会意文字です(斤+廾)。「曲がった柄の先に刃をつけた手斧」の象形と「両手」の象形から、両手で持つ手斧を意味し、そこから、「武器・兵士・軍隊」を意味する「兵」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji635.html)。 「革」(漢音カク、呉音キャク)は、 象形。動物の全身の皮をぴんとはったさまを描いたもの。上部は頭、下部はしっぽと両足である。張り詰める意を含む、 とある(漢字源)。 上部「廿」は頭、下部「十」は尾と両足、 ということ(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A9)で、 克(コク はりきってたえる)、亟(キョク はりつめる)、改(カイ だれたものを伸ばして、起こし直す)などと同系とある(漢字源)。別に、 象形。角(つの)と尾がついたままの動物の皮の形にかたどり、毛を取り去ったかわの意を表す。借りて「あらためる」意に用いる、 とも(角川新字源)ある。 参考文献; 小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 歓喜の眉を開き、弄璋(ろうしょう)の御慶(ぎょけい)天下に聞こえて(太平記)、 とある、 弄璋、 は、 男子が生まれること、生まれた男子に璋(玉の玩具)を与えた故事をふまえる、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)。 乃生男子、載寝之牀、載衣之裳、載弄之璋(乃ち男子を生まば載(すなは)ち之れを牀(寝台)に寢(い)ねしめ載ち之れに裳(したばかま)を衣(き)せ載ち之れに璋を弄せしむ)、 と『詩経』(小雅・斯干)にあるのによる。 璋は玉、徳を玉に比せんことを欲す、 とある(字源)。「璋」は、 圭玉、 とあり(広辞苑)、 圭(たま)を半分にしたる玉の笏を與へて、弄とする、 とある。「璋」は、 半圭、曰璋(毛傳)、 と(大言海)、 上部を削いだ玉器である圭を縦に半分にしたもの、 で、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、 璋、上を剡(そ)ぎたるを圭と為し、半圭を璋と為す、 とあり、 片方だけ削いである玉器になる。見た目はまるで小刀のようである。『周礼』には、「以赤璋礼南方」とあり、祭祀に用いられたことが分かる、 とされる(https://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/99sasaki.html)。この意味を、 出生した男の子にこの玉器を弄玉として与えたので、玉は、神秘的な力が備わっていると考えられ、生まれたての赤子に玉器を与えることは、魂に活力を与える、 とか、 璋の元になっている玉器・圭は男性器を象徴しているし、璋自体もその形が男性器に似ているように思われる。璋を与えることで、男児の生命力を強化させようとした、 といった理由が挙げられている(仝上)。 この「弄璋」の対が、 弄瓦(ろうが)、 で、 女子がうまれること、 で、 瓦、紡塼(いとまき)也(毛傳)、 と、 瓦(土製の糸巻)を与えたのでいう、 とあり(兵藤裕己校注『太平記』・字源)、やはり、『詩経』(小雅・斯干)に、 乃生女子、載寝之地、載衣之裼、載弄之瓦(乃ち女子を生まば載(すなは)ち之れを地に寢(い)ねしめ載ち之れに裼(せき)を衣(き)せ載ち之れに瓦を弄せしむ)、 にあるのによる(字源)。 乃生男子、載寝之牀、載衣之裳、載弄之璋(もしも男子が生まれれば、寝台に寝かせ、袴を着せ、璋の玉を持たせよう)、 乃生女子、載寝之地、載衣之裼、載弄之瓦(もしも女子が生まれたら大地に寝かせ、産着を着せ、糸巻きを持たせよう)、 と対になっていて、男子は「裳(ショウ・ジョウ)」、女子は「裼」と置く場所が違う。「裳」は、 したばかま、 で、衣(上半身につれる上着)に対して、下半身につけるスカート状の衣服を指し(漢字源)、「裼(セキ・テイ)」は、 はだぎ、 を意味し(https://www.kanjipedia.jp/kanji/0003972000)、 女児を大地に寝かせる行為は、将来無事に多子を出産することを願って、大地の子を生む力が類間呪術的にその女児にも及ぶようにするのが目的、 とされる(https://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/99sasaki.html)。 以上の由来から、 弄璋(ろうしょう)の喜び、 弄瓦(ろうが)の喜び、 という言い方もある(デジタル大辞泉)。 「弄」(漢音ロウ、呉音ル)は、 会意文字。「玉+両手」で、両手の中に玉をいれてなぐさみにするさまを示す。転じて、時間をかけてもてあそぶこと、 とある(漢字源)。 「玉」+「廾(両手を添える様)」、 ということである(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%8)。別に、 会意文字です(玉+廾)。「3つの玉を縦のひもで貫き通した」象形と「両手で捧げる」象形から、「両手で玉を持って遊ぶ」を意味する「弄」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2080.html)。 「璋」(ショウ)は、 会意兼形声。「玉+音符章(鮮やかな模様)」、 で、上述したように、 圭を縦に半分に割った形の瑞玉、 である(漢字源)。「圭」(漢音ケイ、呉音ケ)は、 会意文字。圭は「土+土」で、土を盛ることを示す。土地を授ける時、その土地の土で円錐形の盛土をつくり、その上にたって神に領有を告げた。その形を象ったのが、圭という玉器で、土地領有のしるしとなり、転じて、諸侯や貴族の手にもつ礼器となった。その形は、日影をはかる土圭(ドケイ 日時計)の形ともなった、 とある(仝上)。 「寸(=手)」を添え行為を表したものが「封」、 となる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%AD)。「圭」については、 中国古代の玉器の一種で、権威を象徴した。上方がとがった短冊形を呈し、半圭のものを璋と呼んでいる。圭の形は先史時代の有孔石斧から発達したといわれるが、確かではない。殷代鄭州期および安陽期には、圭、璋に属する玉器が発見されているが、斧形あるいは戈形のものである。西周になると長方形あるいは戈形のものがみられ、いわゆる圭、璋の形が出現するのは春秋・戦国期に入ってから、 とある(ブリタニカ国際大百科事典・精選版日本国語大辞典)。説文解字には、「圭」について、 古之王者、封諸侯建邦国、必以玉為信。名之曰圭、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 囊沙(のうしゃ)背水の謀(はかりごと)、一たび成って、大いに敵を破ることを得たり(太平記)、 これを名づけて、韓信が囊沙背水の謀と申すなり(仝上)、 とある、 囊沙背水の謀、 とは、何れも韓信の試みた兵法、 囊沙の計、 背水の陣、 のことである。「囊沙の計」は、 囊沙之計、 とも表記する四字熟語になっている(字源)が、「囊沙」とは、 土嚢、 のことで、 濰水(いすい)の戦い、 で、 土嚢を使って川の上流で水をせき止め、敵が川を渡るのを見計らい土嚢を外し、下流に一気に水を流して、多くの敵を倒したという策略 とある(史記・淮陰侯列伝、兵藤裕己校注『太平記』)のは、 漢の高祖四年(紀元前203)11月、韓信は斉の首府であった臨淄城を攻め落とし、斉王を追って高密城を包囲した。斉は楚に救援を求め、項羽は将軍龍且(りゅうしょ)と副将周蘭(しゅうらん)に命じて20万の軍勢を派遣させた。龍且は周蘭から持久戦を進言されたが、韓信を侮って決戦を挑んだ。韓信も龍且は勇猛であるから決戦を選ぶだろうと読み、広いが浅い濰水(いすい)という河が流れる場所を戦場に選んで迎え撃った。韓信は決戦の前夜に濰水の上流に土嚢を落とし込んで臨時の堰を作らせ、流れを塞き止めさせていた。韓信は敗走を装って龍且軍をおびき出し、楚軍が半ば渡河した所で堰を切らせた。怒涛の如く押し寄せた奔流に龍且の20万の軍勢は押し流され、龍且は灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭も曹参(そうしん)の捕虜となった、 という経緯である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1)。 「背水の陣」は、「敗軍の将は以て勇を言るべからず」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486383116.html)で触れたように、その翌年、紀元前204年10月の、 井陘(せいけい)の戦い、 で、韓信が取った兵法。史記に、 謂軍吏曰、趙已先據便地爲壁、且、彼未見吾大将旗鼓、未肯撃前行、恐吾至阻険而還、信(韓信)乃使萬人先行出、背水陳、趙軍望而大笑(淮陰侯傳)、 とある(大言海・https://kanbun.info/koji/haisui.html)ように、背水の陣は、武経七書のひとつ、中国戦国時代の、兵法書『尉繚子』(うつりょうし 尉繚)に、 背水陣為絶地、向阪陣為廃軍(尉繚子・天官篇) とあり(大言海・字源)、 川などを背後にひかえて、陣を立てる、 のは、趙軍が「大笑」したというように、 兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった、 とされる。しかし、20万の趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で趙軍を打ち破った、 のである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1)。 なお、「背水の陣」の「陣」(漢音チン、呉音ジン)は、 会意文字。陳(チン)の原字ば「東(袋の形)二つ+攴(動詞の記号)」の会意文字。その東一つを略して、阜(土盛り)→防禦用の砦)を加えたものが陳の本字。陣はその俗字、 とあり(漢字源)、正しくは、 背水の陳、 ということになる。 「囊(嚢)」(漢音ドウ、呉音ノウ)は、 会意兼形声。嚢の上の部分は、芯に棒を通し、両端と中央とをひもで縛った袋らを描いた象形文字で、東(芯を通したふくろ)の原字。嚢は「ふくろ+音符襄(ニョウ・ジョウ 中に入れ込む)の略体」、 とある(漢字源)。 「沙」(漢音サ、呉音シャ)は、 会意文字。「水+少(小さい)」で、水に洗われてちいさくばらばらになった砂、 とある(漢字源)。別に、 象形。川べりに砂のあるさまにかたどる。水べの砂地、みぎわの意を表す、 とも(角川新字源)ある。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 勝ち負けの弓のやませに散花をまとゐの外の人も見よかし(「弁乳母集(11世紀)」)、 とある、 「やませ」は、 山背、 と当て、 山風の名、近江にていふ(「俚言集覧(1797頃)」)、 山背風の略(広辞苑)、 山の背より吹けば云ふ(大言海)、 山を越えて吹き下ろす風(日本の言葉=山本健吉)、 山から吹く風・山の風の義(風位考=柳田國男)、 など、 山の向こうから吹いてくる風、 の意で、 六月から八月頃吹くことが多い、 とされ(風と雲のことば辞典)、 山瀬風、 とも当てる(仝上)。 「やませ」の「せ」は、 ヤマ(山)+セ・チ・ジ(風)、 とある(日本語源広辞典)ように、 セはシとともに風の意で、ハヤテ(疾風)、オヒテ(追風)などのテ、コチ(東風)のチと同源(風位考=柳田國男)、 とみられる。 海ではそれぞれの風の性質が、風の名となっているのだが、内陸では専ら方角を問題にするが故に、それを地方的に意味を限定して使い、従っていたる処少しずつ内容の差が生じている。たとえばヤマセは山の方から吹いてくる風である。それ故に江差松前では今もって東北風がヤマゼであり、瀬戸内海の北岸では四国の方からくる南風をそういう処もある(柳田國男「海上の道」)、 し、 やまぜ。南にて西へよる風の名、大悪風也(大坂繁花風土記(1814))、 其靡く向を見て、何月は山背(ヤマセ)(東風)なれど何月はクダリ(南風)なり(「風俗画報152号(1897)」)、 出雲では山が南にあるから南風、 函館では東風、 静岡では、陸から沖に吹く風、やまで、 瀬戸内海の北岸では、四国の方からくる南風をそういう処もある(柳田國男・前掲書)、 等々、地方によって風向きや付随する意味もさまざまである。しかし、この風を、 山を背にして吹くから〈やませ〉というのは漢字表記にとらわれ過ぎた解釈、 とあり(風と雲のことば辞典)、 この語が風の中でも比較的有名なのは、方言の分布地域の広さのほか、この風の東北地方の太平洋側での実態による、 との考えがある(日本語源大辞典)。つまり、 夏の東北地方に冷害をもたらす、 やませ、 は、 三陸沖のオホーツク高気圧から吹く、 海風、 で、「やませ」は、 闇風(やみかぜ)の転訛、 とする説がある(風と雲のことば辞典)。 オホーツク海高気圧や三陸高気圧から北日本、東日本に吹いてくる東寄りの風は夏でも湿っていて低温だ。東北地方では、冷害を運んでくる、 凶作風、 餓死風、 と恐れ、ケカジ(飢饉)は海からくると意味嫌った(仝上)、とある。その意味で「やませ」は、 沖の闇のように暗い空から吹き出してくる、 とする(日本大百科全書)、「闇風(やみかぜ)」という実感に由来するのかもしれない。 逆に、 日本海側では出港のために好ましい風とされる地域もある(日本国語大辞典)、 上方(かみがた)に米などの荷を積み出すのに好都合なところから、船頭衆にはむしろ順風として喜ばれた(日本大百科全書)、 と、地域や職掌によっては意味が変わってくる。 「やませ」は、東北では、 北東風、 東風、 だが、この「東風」を、 あゆ、 あるいは、 あゆのかぜ、 と訓ませると、 東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海士(あま)の釣りする小舟(おぶね)漕ぎ隠るみゆ(万葉集)、 に、「東風」に注記して、 越(こし)の俗語(くにことば)に東風を安由乃可是(あゆのかぜ)と謂へり、 とあり(奈呉は今の富山県高岡市近辺の海岸)、 越前・越後地方で、 東風、 を指していた(風と雲のことば辞典)。今日、 あい、 あるいは、 あいのかぜ、 と転訛しているが、これが北前船によって、中央にも広まった。当然ながら、地方によっては、 北風、 北西風、 を指し、富山県の海岸でも、 方角によって能登アイと、宮崎(越後境)との二つのアイの風がある、 とし(柳田國男・前掲書)、「あゆのかぜ」は、柳田國男は、 海岸に向かってまともに吹いてくる風、すなわち数々の渡海の船を安らかに港入りさせ、またはくさぐさの珍らかなる物を、渚に向かって吹き寄せる風のこと、 とし(仝上)、「あゆ」は、風向きではないのではないかとし、 今日は半ば死語に属し、辛うじて字引と地方語の中に存留するのみであるが、果実のよく熟して樹から堕ちるのをアエルといい、またはアユ、アユル、アエモノ等の語の古くからあるように、人を悦ばせ、おのずから人の望みに応ずるというような楽しい状態を表示するために、夙(はや)く生まれていた単語ではなかったろうか。饗宴もしくは食物の供与を、アヘと謂っていたのも別の語ではないのかもしれぬ、 と(仝上)、 饗(あえ)の風、 とした(風と雲のことば辞典)。しかし、 山陰道、北陸道、羽前、羽後、陸奥にて、北風、又は、東北風、 を「あいのかぜ」というとある(大言海)ので、 アは雨、ユは由、雨気の風の義か(歌林樸樕(かりんぼくそく))、 アユはウ(卯)の延言、卯(東)の方の風(和訓集説)、 アヤという間に吹く意か(日本語源=賀茂百樹)、 と、諸説はあるが、あるいは、 語原異なるか、 とする(大言海)のもありえる。 北國にて、東風を、あゆの風と云ふ、北風を、ひとつあゆと云ひ、東北の風を、ぢあゆと云ひ、丑(北北東)の方より吹く風を、まあゆという(地(ヂ)、真(マ)なるか、安永年間(1772〜81)までは、此の如し)、 とある(物類称呼)ので、「あゆ」は、方角ではない可能性はある。 また、 東風、 というと、 東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ(菅原道真)、 の、 こち、 がある。これは、 春が近づき西高東低の冬型の気圧配置がくずれると、太平洋上から大陸に向かってゆるやかな東風又は北東風が吹くようになる、 のを呼んだ(風と雲のことば辞典)。この風は、 雨をともない寒さが緩む、 が、漁業者には、 時化をもたらす、 ものとして恐れられ、 初東風(はつこち)、 節東風(せちこち)、 雲雀東風(ひばりこち)、 鰆東風(さわらこち)、 梅東風、 桜東風、 朝東風、 夕東風、 伊勢ごち、 丑寅(北東)ごち、 等々土地ごとの生活暦と結びついた使われ方をしてきた(仝上)。この「こち」の「ち」は、 コチ、ハヤチ(疾風)のチと同じ、風の意、 で(岩波古語辞典)、 ツムジ(廻風)、アラシ(荒風)、トマキ(風卷)、 などと使われる、 風の古名、 シ の転じたものである(大言海)。「やませ」の「せ」も、 シの転訛、 である。「こち」の語源は、こうした経緯から見ると、 小風(こち)の義、春風の柔らかき意(大言海)、 ではなかろうか。 「山」(漢音サン、呉音セン)は、 象形。△型の山を描いたもので、△型をなした分水嶺のこと、 とある(漢字源)が、 「連なったやま」の象形から「山」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji77.html)。 「背」(漢音ハイ、呉音へ・ハイ、ベ・バイ)は、「背向(そがい)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482178677.html)で触れたように、 会意兼形声。北(ホク)は、二人のひとが背中を向けあったさま。背は「肉+音符北」で、背中、背中を向けるの意、 とある(漢字源)。「北」は(寒くていつも)背中を向ける方角、とある(「北」は「背く」意がある)。また「背」の対は、「腹背」というように腹だが、また「背」は「そむく」意があり、「向背」(従うか背くか)というように「向」(=従)が対となる(仝上)。別に、 会意形声。「肉」+音符「北」、「北」は、二人が背中を合わせる様の象形。「北」が太陽に背を向けるの意から「きた」を意味するようになったのにともない、(切った)「肉」をつけて「せ」「せなか」「そむく」を意味するようになった、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%83%8C)。 「風」(漢音ホウ、呉音フウ・フ)は、 会意兼形声。風の字は大鳥の姿。鳳の字は大鳥が羽ばたいて揺れ動くさまを示す。鳳(おおとり)と風の原字は全く同じ。中国ではおおとりを風の使い(風師)と考えた。風はのち「虫(動物の代表)+音符凡(ハン・ボン)」。凡は広く張った帆の象形。はためきゆれる帆のように揺れ動いて、動物に刺激を与える風をあらわす、 とあり(漢字源)、また、 古代には、鳳がかぜの神と信じられていたことから、 ともある(角川新字源)。 のち、鳳の鳥の部分が虫に変わって、風の字形となった、 とする(仝上)のは同じである。別に、 形声。「虫」(蛇、竜)+音符「凡」を合わせた字で、「かぜ」を起こすと見なされた蛇が原義(「虹」も同様で意符が「虫」)。「凡」は「盤」の原字で、盥盤の側面の象形。「虫」に代えて「鳥」を用いた文字が「鳳」であり、両方とも「かぜ」の使いとされた。古くは頭子音 pl- をもち、l の残った語が嵐である、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8)、 会意兼形声文字です(虫+凡)。甲骨文では「風をはらむ(受ける)帆」の象形(「かぜ」の意味)でしたが、後に、「風に乗る、たつ(辰)」の象形が追加され、「かぜ」を意味する「風」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8)のは、「虫」に転じて以降の解釈である。 参考文献; 倉嶋厚監修『風と雲のことば辞典』(講談社学術文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 柳田國男『海上の道』(岩波文庫) 牝鶏(ひんけい)の晨(あした)するは家の尽きんずる相なりと、古賢の云ひし言(ことば)の末、げにもと思ひ知られたり(太平記)、 牝鶏晨する時は、其の里必ず滅ぶとい云へり、めんどりの時をつくるは、所の怪異にてその里滅ぶるごとく、婦人政(まつりごと)をいろ(綺)ふことあれば、国必ずみだると云へり(保元物語)、 などにある、 牝鶏晨する、 牝鶏の晨するは家の尽きんずる相なり、 は、普通、 牝鶏晨す、 牝鶏の晨するは、これ家の索(つ)くるなり、 などという(兵藤裕己校注『太平記』)。 めんどりが朝の時をつげる(後宮の女性が政治に口出しする)のは、家(国)の滅びるしるしである、 意である(仝上)。「牝鶏」は、 めんどり、 牝鶏晨す、 は、 牝鶏が時をつくる、 意だが、 (武)王曰、古人有言、曰、牝雞無晨、牝雞之晨、惟家之索(書経・牧誓篇)、 に由来する。索は盡とある(字源)。 牝鶏に明日せらる、 牝鶏晨して婦女權を奪う、 牝鶏時を告ぐる、 牝鶏牡鳴(ぼめい)、 牝鶏晨(あした)に鳴く、 牝鶏晨(しん)を司る、 牝鶏に朝せらる、 等々という言い方もし(故事ことわざの辞典)、 牝雞之晨、 という四字熟語にもなっている(字源)。「牝鶏晨す」には、 めんどりがおんどりに先んじて朝の時を告げる、 という含意だ(精選版日本国語大辞典)から、 女が男に代わって権勢をふるう、 意味もあり(仝上)、 雌鶏勧めて雄鶏時を作る、 も似た意味になる(デジタル大辞泉)。なお、「牝鶏晨す」の「晨す」は、 あさなきす、 とも訓ませる(精選版日本国語大辞典)。 王(武王)曰、古人有言曰、牝雞無晨、牝雞之晨、惟家之索、今商(殷)王(紂王)受惟婦言是用、昏棄厥肆祀弗答、昏棄厥遺王父母弟不迪、乃惟四方之多罪逋逃、是崇是長、是信是使、是以為大夫卿士、俾暴虐于百姓、以奸宄于商邑、今予(武王)發惟恭行天之罰……(書経・牧誓)、 とあり、 紀元前11世紀、殷王朝の紂(ちゅう)王が、妲己(だっき)という美女に溺れたため、政治が乱れてたため、周王朝の武王は、「牝鶏の晨(あした)するは、惟(これ)家の索(つ)くるなり」ということわざを引いてそれを批判し、軍を起こして、殷王朝を滅ぼした、 と、武王は「牝雞之晨」を例に挙げた、とされる(仝上)。本来、 夜明けを告げるのは雄鶏であって、雌鶏が鳴くのはまれ、 だからこういうのだが、 神降伍氏、有雌雞司晨者、問之、答曰、牝雞不鳴、鳴則神生、其家果大利(嘉蓮燕語)、 という兆しとすることもあり得る。 「牝」(漢音ヒン、呉音ビン)は、 会意兼形声。「ヒ」(ヒ)は、女性の姿を描いた象形文字で、妣(ヒ 女の先祖)の原字。牝は「牛+音符ヒ」で、めすの牛。女性の性器が左右両壁がくっついて並んださまをしていることからでたことば、 とあり(漢字源)、「尼」「牝」の「ヒ」形は女性器を象ったものだが、さじの意の「匕」とは別源、また「化」「死」「北」等の「ヒ」形は人を象ったもので、これも別源・別形とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%95)。 「鶏(鷄)」(漢音ケイ、呉音ケ)は、 会意兼形声。奚(ケイ)は「爪(手)+糸(ひも)」の会意文字。系(ひもでつなぐ)の異字体。鷄は「鳥+音符奚」で、ひもでつないで飼った鳥のこと。また、たんなる形声文字と解して、けいけいと鳴く声を真似た擬声語と考えることもできる、 とある(漢字源・角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%B6%8F)。 「雞」(ケイ)は、 鷄の異字体、 で(字源)、 形声、「隹」+音符「奚」(ケイ 鳴き声から)、 とも、 会意形声、「奚」は「爪」+「糸」で鳥を糸でつなぐの意、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%9E)。 なお、「隹」(スイ)は、 象形。尾の短いとりをえがいたもの、ずんぐりと太いの意を含む。雀(すずめ)・隼(はやぶさ)雉(きじ)などに含まれるが、「鳥」とともに広く、とりを意味する、 とある(漢字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 簡野道明『字源』(角川書店) 剰(あまつさ)へかやうの空(そら)がらくる者ども、夜ごとに京、白河を回(めぐ)りて(太平記)、 とある、 空がらくる、 は、 みだりに武器をあやつりもてあそぶ、 意とある(兵藤裕己校注『太平記』)。 空がらくるは、からくる(あやつる)に、むやみにの意の接頭語「そら」のついた語、 となる(仝上)。 空からぐる、 は、当然、 空からくる、 とも言い、 妄(みだ)りに、刀槍などを操り弄ぶ、 ひねくりまわす、 意とある(大言海)。 「空(そら)」は、 天と地との間の空漠とした広がり、空間、 の意だが(岩波古語辞典)、 アマ・アメ(天)が天界を指し、神々の国という意味を込めていたのに対し、何にも属さず、何ものもうちに含まない部分の意、転じて、虚脱した感情、さらに転じて、実意のない、あてにならぬ、いつわりの意、 とあり(仝上)、 虚、 とも当てる(大言海)。で、由来については、 反りて見る義、内に対して外か、「ら」は添えたる辞(大言海・俚言集覧・名言通・和句解)、 上空が穹窿状をなして反っていることから(広辞苑)、 梵語に、修羅(スラ Sura)、訳して、非天、旧訳、阿修羅、新訳、阿蘇羅(大言海・日本声母伝・嘉良喜随筆)、 ソトの延長であるところから、ソトのトをラに変えて名とした(国語の語根とその分類=大島正健)、 ソラ(虚)の義(言元梯)、 間隙の意のスの転ソに、語尾ラをつけたもの(神代史の新研究=白鳥庫吉)、 等々諸説あるが、どうも、意味の転化をみると、 ソラ(虚) ではないかという気がする。それを接頭語にした「そら」は、 空おそろしい、 空だのみ、 空耳、 空似、 空言(そらごと)、 等々、 何となく、 〜しても効果のない、 偽りの、 真実の関係のない、 かいのないこと、 根拠のないこと、 あてにならないこと、 徒なること、 などと言った意味で使う(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)。「からくる」は、 絡繰る、 とあてるが、 組み立て作る、 いろいろ工夫する 意の、 絡繰(からく)む、 と同根とある(岩波古語辞典)。「からくる」は、 絡み操る義(大言海)、 カラはからまく(絡巻く)、からみ、からめるのカラで巻く意、クルは繰るの意(嬉遊笑覧)、 カラクル(輕繰)の転(名言通)、 カリラクリ(漢繰)の意(夏山雑談)、 等々といった由来で、 巧妙に仕立てる、 精巧な仕立てで動かす、 といった意味や、それをメタファに、 巧みに策略をめぐらす、 と言った意味でも使う。 「からくる」の連用形から名詞化したのが、 からくり、 で、 絡繰、 機関、 などと当て、 からくり人形、 からくり芝居、 などと、 糸の仕掛けで操り動かすこと、また、その装置、 の意で、転じて、 仕掛け、 の意でも使う。 「空」(漢音コウ、呉音クウ)は、 会意兼形声。工は、尽きぬく意を含む。「穴+音符工(コウ・クウ)」で、突き抜けて穴があき、中に何もないことを示す、 とある(漢字源)。転じて、「そら」の意を表す(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(穴+工)。「穴ぐら」の象形(「穴」の意味)と「のみ・さしがね」の象形(「のみなどの工具で貫く」の意味)から「貫いた穴」を意味し、そこから、「むなしい」、「そら」を意味する「空」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji99.html)。 「虚(虛)」(漢音キョ、呉音コ)は、 形声。丘(キュウ)は、両側におかがあり、中央にくぼんだ空地のあるさま。虚(キョ)は「丘の原字(くぼみ)+音符虍(コ)」。虍(トラ)とは直接の関係はない。呉音コは、虚空(コクウ)、虚無僧(コムソウ)のような場合にしか用いない、 とある(漢字源)。「虍」の下部は、「丘」の意味らしく、 神霊が舞い降りる大きなおかの意を表す。「墟(キヨ)」の原字。借りて「むなしい」意に用いる、 とある(角川新字源)。別に、 形声文字です。「虎(とら)の頭」の象形(「虎」の意味だが、ここでは「巨」に通じ(「巨」と同じ意味を持つようになって)、「大きい」の意味)と「丘」の象形(「荒れ果てた都の跡、または墓地」の意味)から、「大きな丘」、「むなしい」を意味する「虚」という漢字が成り立ちました、 と、「虎」と絡める説もある(https://okjiten.jp/kanji1322.html)。 「空」と「虚」の区別は、 「空」は、有の反、カラと訳す。空手・空牀・空山・空樽と用ふ、 「虚」は、實または盈の反、中に物なきなり、虚心・虚舟と用ふ、荘子「虚而往、實而帰」、 とある(字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) かんこどり、 は、 閑古鳥、 とあてると、当て字であるが、 仲夏後寂しい澄んだ声でかっこう、 と鳴く(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1403.html)、 カッコウ(郭公)、 の意である(広辞苑)。 カッコウドリの転訛、 とされる(広辞苑・岩波古語辞典)。別に、 クヮンコどり(喚子鳥)の義(万葉考・古今要覧稿)、 とする説もあるが、 郭・喚ともに、音クヮク・クヮンとなればカンとは拗直の相違あり、この鳥は「かっこう」と鳴く、また東日本の方言に散在する名も直音カンコドリ、よってその鳴き声より言う名、 とある(江戸語大辞典)。因みに、「拗音(ようおん)」は、 キャ、キュ、キョ、シャ、シュ、ショのように小さなャ、ュ、ョを綴(つづ)りにもつ音節。本来、日本語にはなく、初めは漢語にのみ用いられた。ねじ曲がった音の意で、子音+半母音(jまたはw。半子音ともいう)+母音の構造をもつ音節。これに対しカ、ク、コ、サ、ス、ソなどは直音(ちょくおん)とよぶ。表記は、ヤ行、ワ行の仮名を小さく添えて書く。「キャ」、「シュ」、「チョ」のようにヤ行を添えるものを「開拗音」ないし「ヤ行拗音」、「クヮ」、「グヮ」のようにワ行を添えるものを「合拗音」ないし「ワ行拗音」という。古くはクヮ、グヮがあり、合拗音はのちに「火事(クヮジ)→カジ」のごとくすべて直音化した、 とある(日本大百科全書)。 その鳴き声を、寂しきもの、 として、 かんこ鳥鳴く、 と、 閑寂なさま、 物寂しいさま、 に用い、 閑古鳥が歌ふ、 ともいい、 商売などのはやらないさま、 に譬え、 閑古鳥が鳴く、 ともいう(仝上)。この、 かんこどり、 に、 諫鼓鶏、 と当てると、 かんこのとり、 とも訓むが、訓読して、 いさめのつづみ、 とも訓ます(大言海)「諫鼓」は、 堯置敢諫之鼓、舜立誹謗之木(淮南子・主術訓) に基づき、 堯王が、施政に就きて、遍く人民の諫言を求むとて、朝廷に立てたる太鼓。諫めむと欲する者ある時は、これを撃ちて通ぜしむ、されど諫めむとする者なかりければ、鼓に苔を生じ、音することもなかりければ、鷄、鼓の上に止まりて、悠々たり、これを諫鼓の鷄と云ひ、政事治まりて、世の太平なる象とす、 とあり(大言海)、 諫鼓を用いぬこと久しい、 意から、 善政を施す、 という意味で、 諫鼓苔むす、 ともいう(広辞苑)。 敢諫(かんかん)の鼓(こ)、 敢諫鼓、 とも言う(精選版日本国語大辞典)。これに由来して、元和元年(1615)五月、大坂夏の陣に勝利して江戸へ凱旋した二代将軍徳川秀忠は、日枝神社の大祭である6月の山王祭を前に「太平の世を祝って諫鼓鶏の山車を末代に至るまで一番で渡せ」と上意を下し、それまでの「御幣猿」に代わって「諫鼓鶏」を先駆けとした(事績合考)、 といわれ(http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/goshahou/kankodori/)、 諌鼓に鶏が止まっているのは善政が行われて世の中がうまく治まっている、 ということで、「諫鼓鶏」は、まさに、 天下泰平の象徴、 とされ(https://wheatbaku.exblog.jp/23562601/)、 江戸の山王祭に麹町から出る諫鼓(カンコ)、さし渡しが三百六十間、胴の廻りが五百四五十間(「咄本・御伽噺(1773)てっぽう)」、 と、 江戸時代、江戸の二大祭(神田祭、山王祭)の時に大伝馬町から出た山車(だし)に飾られた(精選版日本国語大辞典)。 山王祭の山車行列は1番が大伝馬町、2番が南伝馬町と決まっていました。1番目の大伝馬町の山車は「諫鼓鶏」の山車で、2番目の南伝馬町の山車が「猿」の山車、 とあり(https://wheatbaku.exblog.jp/23562601/)、 神田祭でも、この大伝馬町と南伝馬町は1番と2番と決まっていた、 とある(仝上)。「諫鼓鶏」の羽根の色は、 山王祭では、赤青黄白黒の五彩、 で、 神田祭では、白、 として区別されていた(仝上)とあり、広重の「糀町一丁目山王祭ねり込」は五彩ではなく、白なので、誤っていたことになる(仝上)らしい。 さらに、この「諫鼓鶏」、 小さな太鼓の側面に風車をつけ、下部にとりつけた竹笛を吹いて回転させ、風車の一端につけた糸の先の豆が太鼓をたたくように仕組んだ玩具、 の名ともなった(精選版日本国語大辞典)。 因みに、御輿の上にあるのは、 鳳凰、 で、日本の鳳凰は、 伝来の鳳凰に八咫烏(ヤタガラス)のモデルである金鳥や朱雀がブレンドされ、日本独自に変化したものになっている、 とある(http://makotomi-do.com/blog2/1161/)。山車の上のは「鷄」、御輿の上のは「鳳凰」ということになる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「伽縷羅煙」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486022291.html)で触れた、 伽縷羅(かるら)、 は、梵語Garuḍaで、 インド神話における巨鳥で、龍を常食にする、 とある(広辞苑)が、 インド神話において人々に恐れられる蛇・竜のたぐい(ナーガ族)と敵対関係にあり、それらを退治する聖鳥として崇拝されている。……単に鷲の姿で描かれたり、人間に翼が生えた姿で描かれたりもするが、基本的には、 人間の胴体と鷲の頭部・嘴・翼・爪を持つ、翼は赤く全身は黄金色に輝く巨大な鳥、 として描かれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80)、それが、仏教に入って、 天竜八部衆の一として、仏法の守護神、 とされ(広辞苑)、 翼は金色、頭には如意珠があり、つねに口から火焔を吐く、 が、日本の、 天狗、 は、この変形を伝えたもの(仝上)とされる。 確かに、曹洞宗 大雄山最乗寺にある、 道了尊・天狗化身像、 や、 大天狗、 小天狗、 を見ると、ガルダの像と似ていなくもない。道了尊は、 了庵慧明禅師の弟子だった道了尊者は、師匠の了庵慧明禅師が最乗寺を建立することを聞いて、近江の三井寺から天狗の姿になって飛んできて、神通力を使って谷を埋めたり、岩を持ち上げて砕いたりして寺の建設を手伝いました。そして了庵慧明禅師が75歳でこの世を去ると、寺を永久に護るために天狗の姿に化身して舞い上がり、山中深くに飛び去ったといわれ、以来、寺の守護神として祀られています、 とあり(https://daiyuuzan.or.jp/plan/tengu/)、特に、小天狗は、 インドの神話の巨鳥が烏天狗として表された。烏のような嘴をもった顔、黒い羽毛に覆われた体を持ち、自在に飛翔することができる、 とある(仝上)。 「天狗(てんぐ)」は、古くは、 てんぐう、 とも訓んだらしいが、 (この山伏は)天狗にこそと思ふより、怖ろしきこと限りなし(古今著聞集)、 天狗・木魅などやうの物の、あざむき率(ゐ)てたてまつりたりけるにや(源氏物語)、 などと、 空を自由に飛び回る想像上の山獣。後には、深山で宗教的生活を営む行者、特に山伏に擬せられ、大男で顔赤く、鼻高く、翼あって神通力を持つものと考えられた。高慢な者、または、この世に恨みを残して死んだ人がなる(岩波古語辞典)、 とか、 山中に住むといわれる妖怪。日本では仏教を、当初は山岳仏教として受け入れ、在来の信仰と結び付いた修験道(しゅげんどう)を発達させたが、日本の天狗には修験道の修行者(=山伏)の姿が色濃く投影している。一般に考えられている天狗の姿は、赤ら顔で鼻が高く、眼光鋭く、鳥のような嘴をもっているか、あるいは山伏姿で羽根をつけていたり、羽団扇(はうちわ)を持っていて自由に空を飛べるといったりする。手足の爪が長く、金剛杖(づえ)や太刀(たち)を持っていて神通力があるともいう。これらの姿は、深山で修行する山伏に、ワシ、タカ、トビなど猛禽の印象を重ね合わせたものである(日本大百科全書) とか、 天上や深山に住むという妖怪。山の神の霊威を母胎とし、怨霊、御霊など浮遊霊の信仰を合わせ、また、修験者に仮託して幻影を具体化したもの。山伏姿で、顔が赤く、鼻が高く、翼があって、手足の爪が長く、金剛杖・太刀・うちわをもち、神通力があり、飛行自在という。中国で、流星・山獣の一種と解し、仏教で夜叉・悪魔と解されたものが、日本にはいって修験道と結びついて想像されたもの。中世以降、通常、次の三種を考え、第一種は鞍馬山僧正坊、愛宕山太郎坊、秋葉山三尺坊のように勧善懲悪・仏法守護を行なう山神、第二種は増上慢の結果、堕落した僧侶などの変じたもの、第三種は現世に怨恨や憤怒を感じて堕落して変じたものという。大天狗、小天狗、烏天狗などの別がある。天狗を悪魔、いたずらものと解するときはこの第二・第三種のものである(精選版日本国語大辞典)、 とか、 深山に生息するという想像上の妖怪の一つ。一般に天空を飛び、通力をもって仏法の妨げをするといわれる。中国の古書『山海経』や『地蔵経』の夜叉天狗などの説が、日本古来の異霊、幽鬼、物怪(怨霊)などの信仰と習合したものと思われる。初期には異霊やコダマ(木霊)、変化、憑物の類なども天狗とされていたが、中世以後は山伏姿の赤ら顔で、鼻が高く、口は鳥のくちばしのようで、羽うちわをたずさえ、羽翼をたくわえて自由に空中を飛び回り、人に禍福を授ける霊神として祀られるようになった。天狗はまた、ぐひん、山の神、大人、山人とも呼ばれ、山に対する神秘観と信仰の現れでもある。大天狗、小天狗、からす天狗、木の葉天狗などの別があり、鞍馬、愛宕、比叡、大山、彦山、大峰、秋葉の各山々に住むとされ、武術の擁護者、讃岐金毘羅さんの使者ともされる(ブリタニカ国際大百科事典)、 等々と説明があるが、平安時代までは、 流星、 とび、 のように、人に憑いたり未来を予言する物の怪と考えられ、鎌倉時代以降、 山伏、 にたとえられるようになる(日本昔話事典)。今日の、 山伏姿で、顔が赤くて鼻が高く、背に翼があり、手には羽団扇はうちわ・太刀・金剛杖を持つ、 姿は、中世以降に確立した。「天狗」は、各地で、 狗賓(ぐひん)、 山人、 大人(おおひと)、 山の神、 とも呼ばれ(仝上・日本昔話事典)、 天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人山人ともいって、山男と同一視するところもある、 とし(柳田國男「山の人生」)、その性格、行状ともに、 山の神、 と密接に繋がっている(日本昔話事典)。柳田國男も、 自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵もなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨(みだ)りに俗衆の近づくを憎み、ことに隠形自在にして恩讎ともに常人の意表に出でた故に、畏れ崇められていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった、 と指摘している(柳田國男・前掲書)。 大天狗、 は、顔が赤く鼻高く、 鞍馬山の僧正坊、愛宕山の太郎坊、比叡山の次郎坊、飯綱山(いづなさん)の三郎坊、大山の伯耆坊、彦山の豊前坊、白峯の相模坊、大峰の前鬼、 などが大天狗とされる(大言海)。 小天狗、 は、烏天狗ともいい、烏様の顔をしている(日本伝奇伝説大辞典)。ただ、小天狗の小さきを、 烏天狗、 木の葉天狗、 という(大言海)ともある。『沙石集(鎌倉時代中期)』で、無住は、 天狗ト云事ハ日本ニ申伝付タリ、聖教に慥ナル文証ナシ。先徳ノ釋ニ魔鬼ト云ヘルゾ是ニヤト覚エ侍ル。大旨ハ鬼類ニコソ。真実ノ智恵ナクテ、執心偏執、我相驕慢等アル者有相ノ行徳アルハ皆此道ニ入也、 として、 善天狗、 惡天狗、 があるとする(仝上)。 極楽に行くために修行を積んだため、法力はあるが、しかしながら、慢心や邪心などから悟ることができない。そんな人間が天狗道に落ち、天狗になると信じられるようになった、 ものらしい(https://hetappi.info/fantasy/zentengu.html)。「天狗道」とは、 怪しや我天狗道に落ちぬるか、落ちぬるか(太平記)、 と、 天狗の住む天界・鬼道、 を、仏教の六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)にならっていい、 増上慢や怨恨憤怒によって堕落した者の落ちる魔道、 をもいう(精選版日本国語大辞典)とある。 「天狗」は漢語で、 流星の聲を発するもの、 とされる(字源)。 落下の際、音響を発するもの、 の意で、大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球がしばしば空中で爆発、大音響を発する現象を言っていい、 天狗、状如犬、奔星有聲、其下止地類狗(史記)、 といい、 天狗星、 ともいう。転じて、 陰山有獣焉、其状如狸而白首、名曰天狗、其音如橊橊可以禦凶(山海経)、 と、 狸、 の如きものとされる(大言海・字源)。 日本でも天狗の初見は、日本書紀・欽明天皇九年(637)で、 雷に似た大音を発し、東西に流れた流星、 を指し、 あまつきつね(天狗)、 と呼んでおり、当初は、伝来そのままの呼称であったと思われ、 天狗流星、 は、 大乱ノ可起ヲ天予メ示サレケルカ(応仁紀)、 と、 大乱・兵乱の兆し、 と記している。柳田國男ではないが、 時代により地方によって、名は同じでも物が知らぬまに変わっている、 ような「天狗」については、 かつては天狗に関する古来の文献を、集めて比較しようとした人がおりおりあったがこれは失望せねばならぬ労作であった。資料を古く弘く求めてみればみるほど輪廓は次第に茫漠となるのは、最初から名称以外にたくさんの一致がなかった結果である、 と述べている(山の人生)のが正直、妥当なところなのかもしれない。たとえば、 山中にサトリという怪物がいる話はよく方々の田舎で聴くことである。人の腹で思うことをすぐ覚って、遁げようと思っているななどといいあてるので、怖しくてどうにもこうにもならぬ。それが桶屋とか杉の皮を剥く者とかと対談している際に、不意に手がすべって杉の皮なり竹の輪の端が強く相手を打つと、人間という者は思わぬことをするから油断がならぬといって、逃げ去ったというのが昔話である。それを四国などでは山爺の話として伝え、木葉の衣を着て出てきたともいえば、中部日本では天狗様が遣ってきて、桶屋の竹に高い鼻を弾かれたなどと語っている、 と(仝上)、同じ話題が、サトリにも、山爺にも、天狗にもなる。その区別はつかないのである。それが文字や絵の話ではなく、現実の里での話なのである。 さて、漢字「天」(テン)は、「天知る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484881068.html)で触れたように、 指事。大の字に立った人間の頭の上部の高く平らな部分を一印で示したもの。もと、巓(テン 頂)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らに広がる意を含む、 とある(漢字源)。 別に、 象形。人間の頭を強調した形から(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%A9)、 指事文字。「人の頭部を大きく強調して示した文字」から「うえ・そら」を意味する「天」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji97.html)、 指事。大(人の正面の形)の頭部を強調して大きく書き、頭頂の意を表す。転じて、頭上に広がる空、自然の意に用いる(角川新字源)、 等々ともある。 「狗」(漢音コウ、呉音ク)は、「狡兎死して」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485426752.html)で触れたように、 会意兼形声。「犬+音符句(小さくかがむ)」 で、愛玩用の小犬を指すが、後世には、犬の総称となったが、 走狗、 のように、いやしいものの喩えとして用いることがある(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 柳田國男『遠野物語・山の人生』(岩波文庫) 爰元(ここもと)にても礫(つぶて)打ちし事、度度あり。いかなる術を得しものに候哉(百物語評判)、 にある、 礫打ち、 は、 俗にいう「天狗つぶて」。家の戸板、壁などにどこからともなく、つづけざまに投石があること、 とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「天狗つぶて」は、 其の町のさる家へ夜ごとに礫(つぶて)打つ。数も多からず、七つ八つ、或は十、十四、五も打ち打ちて、音無きもあり、また玉霰の枯れ野の篠を走るが如く、其の音ころころするもあり。(中略)天狗つぶて打つ家は、必ず焼亡(じょうもう)の難あり(宿直草)、 と、 天狗礫(てんぐつぶて)、 とも書き、 天狗の投げるというつぶて。どこからとも知れずとんでくるつぶて、 とされ(広辞苑)、 木の葉打つ霰は天狗つぶてかな(犬子集) ともある。 天狗の礫と称して人のおらぬ方面からぱらぱらと大小の石の飛んできて、夜は山小屋の屋根や壁を打つことがあった。こんな場合には山人が我々の来住を好まぬものと解して、(山の民は)早速に引きあげてくるものが多かった、 とある(柳田國男「山の人生」)ように、「天狗」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/487940696.html?1652293645)で触れたことだが、「天狗」は、各地で、 狗賓(ぐひん)、 山人(やまびと)、 大人(おおひと)、 山の神、 山鬼(さんき)、 とも呼ばれ(仝上・日本昔話事典)、 天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人、山人ともいって、山男と同一視するところもある、 とし(柳田國男『山の人生』)、その性格、行状ともに、 山の神、 と密接に繋がっている(日本昔話事典)のがよくわかる。「天狗のつぶて」は、 通例は中(あた)っても人を傷つけることがない、 という(柳田國男「山人考」)。この現象は、一般には、 ファフロツキーズ現象(Fafrotskies、Falls From The Skiesの略)、 というらしく(https://aglamedia.com/spiritual/1500/)、『和漢三才図会』には、 怪雨(あやしのあめ)、 とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BA)。 天狗のしわざとされるものには、「天狗礫」の外に、 天狗倒し、 天狗笑い、 天狗のカゲマ、 天狗の酒買い、 天狗の通路、 天狗囃子(ばやし)、 天狗隠し、 天狗の太鼓、 天狗ゆすり、 天狗火、 天狗風、 等々さまざまな怪異が挙げられている(柳田・前掲書・日本昔話事典)。 「天狗倒(たふ)し」は、 二百余間の桟敷、皆天狗倒しに遭てげり。よそよりは、辻風の吹くとぞ見えけり(太平記)、 と、 深山で、突然樹木が倒れるような原因不明の大音響が立つこと、天狗が暴れる音と信じられていたのでいう。また、家などが、突然原因もなくたおれること、 とある(岩波古語辞典)が、しかし、 非常な大木をゴッシンゴッシンと挽き斫(き)る音が聴こえ、ほどなくえらい響きを立てて地に倒れる。しかも、後にその方角に行ってみても、一本も新たに伐(き)った株などはなく、もちろん倒れた木などもない、 という(柳田・前掲書)、 山中で大木を切り倒す音がするが行ってみると何事もない、 という方が原型のようである。天狗の、 山中を自在に駆け、背が高く眼光が鋭いという山人など山住みの生活者のイメージ、 を反映したものと考えられ(世界大百科事典)、 天狗倒しの音響に至っては、……或いは狸の悪戯などという地方もあるが、本来跡方もない耳の迷いだから、誰の所業と尋ねてみようもない。深夜人定まってから前の山などで、大きな岩を突き落す地響がしたり、またはカキンカキンと斧の音が続いて、やがてワリワリワリワリバサアンと、さも大木を伐り倒すような音がする。夜が明けてからその附近を改めて見ると、一枚の草の葉すら乱れてはいなかった、などというのが最も普通の話、 とあり(柳田・前掲書)、これを、 其怪を伐木坊(きりきぼう)又は小豆麿(あずきとき)と謂ふ。伐木坊は夜半に斧伐(ふばつ)の聲ありて顛木の響を為す。明くる日其処を見るになんの痕(あと)も無し(白河風土記)、 とするものもある(仝上)。 こうした怪を体験すると、山の神を祭り、仕事を休んだり、作法にのっとって酒や餅(狗びん餅、ごへい餅など)を供えたり、仕事場や山小屋の向きを変えたりする、 という(日本伝奇伝説大辞典)。西日本では、 山童(やまわろ 人間の嬰児に似た妖怪)、 セコ(ヨイヨイとかショウショウと勢子に似た声を出す)、 がそういうしわざをすると考えられていたが、天狗、セコ、山童は、 山で働く人々の間の山の神、 の信仰が零落して、妖怪化したものとみられる(仝上)。これらは、 天狗さんの遊び仕事、 狗(ぐ)びさんの空木倒し、 天狗なめし、 天狗かえし、 などともいう(日本昔話事典・日本伝奇伝説大辞典)。 「天狗囃子」は、 どこからともなく祭囃子の音が聞こえてくるというもの、 である。 「天狗笑い」は、 人数ならば十人、十五人が一度に大笑いする声が、不意に閑寂の林の中から聴こえる、 というもの(柳田・前掲書)、 もともとは神霊の威力を示し、人々を畏怖させる目的であった、 と考えられる(日本伝奇伝説大辞典)。 「天狗ゆすり」は、 夜小屋がユサユサとゆすられているので、……窓からそっと覗くと、赤い顔をした大男がいた、 という類の話である(日本昔話事典)。 「天狗のカゲマ」は、 天狗攫い、 天狗隠し、 といわれる、 神隠し、 と繋がっている。子供が神隠しに遭うのは、大体、 旧暦四月ごろ、 と決まっていいたらしく、たとえば、 跡にはきちんと履物が揃えられており、村中が鉦や太鼓で探す。見つかる時には、何度も探した場所に不意に現れたり、屋根の棟など思ってもいない場所にいたりする、中には、天狗と一緒に遠くの土地を見物したなどという者もいる、 といい(日本昔話事典)、 なお人が設けたのでない法則のごときものが、一貫して存するらしい、 とある(柳田國男「山の人生」)。 例えば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物が正しく揃えてあって、一見して普通の狼藉、または自身で身を投げたりした者と、判別することができるといっている、 という(仝上)。たとえば、 松崎村の寒戸というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという(柳田國男「遠野物語」)、 とあり、その探し方は、 北大和の低地部では狐にだまされて姿を隠した者を捜索するには、多人数で鉦と太鼓を叩きながら、太郎かやせ子か やせ、または次郎太郎かやせと合唱した。この太郎次郎は子供の実名とは関係なく、いつもこういって喚んだものらしい。そうして一行中の最近親の者、例えば父とか兄とかは、一番後に下ってついて行き、一升桝を手に持って、その底を叩きながらあるくことに定まっており、そうすると子供は必ずまずその者の目につくといっていた。(中略)播磨の印南郡では迷子を捜すのに、村中松明をともし金盥などを叩き、オラバオオラバオと呼ばわってあるくが、別に一人だけわざと一町ばかり引き下って桝を持って木片などで叩いて行く。そうすると狐は隠している子供を、桝を持つ男のそばへほうり出すといっていた。同国東部の美嚢郡などでは、迷子は狐でなく狗賓さんに隠されたというが、やはり捜しにあるく者の中一人が、その子供の常に使っていた茶碗を手に持って、それを木片をもって叩いてあるいた、 などとある(柳田國男「山の人生」)。 「天狗のカゲマ」と呼ばれるのは、 (『黒甜瑣語(1795年)』によると)当時神隠しに遭って帰ってきた少年や男たちは「天狗の情朗」と呼ばれていたとある。情朗は「陰間」とも呼ばれ、神隠しの犠牲者は邪な性的欲求の犠牲者と認識されていた、 ことと関係がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E6%94%AB%E3%81%84)。たとえば、 世の物語に天狗のカゲマと云ふことありて、爰かしこに勾引さるゝあり。或は妙義山に将て行かれて奴となり、或は讃岐の杉本坊の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元禄の頃仙北稲沢村の盲人が伝へし『不思議物語』にも多く見え、下賤の者には別して拘引さるゝ者多し。近くは石井某が下男は、四五度もさそはれけり。始は出奔せしと思ひしに、其者の諸器褞袍(おんぽう)も残りあれば、それとも言はれずと沙汰せしが、一月ばかりありて立帰れり。津軽を残らず一見して、委しきこと言ふばかり無し。其後一年ほど過ぎて此男の部屋何か騒がしく、宥して下されと叫ぶ。人々出て見しに早くも影無し。此度も半月ほど過ぎて越後より帰りしが、山の上にてかの国の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辞を左右に托して言はず。若し委曲を告ぐれば身の上にも係るべしとの戒を聞きしと也。四五年を経て或人に従ひ江戸に登りしに、又道中にて行方無くなれり。此度は半年ほどして、大阪より下れりと云う(黒甜瑣語)、 とある(柳田國男・前掲書)。 また、不思議の現象の起きる道筋を、 天狗の通い路、 天狗の道、 といい、 山の頂の草原の間に、路らしい痕跡のあるところ、 は、 いずこの嶺にも山鬼(さんき)の路とて、嶺の通路はあけるもの也。此道を行かば又何処とも無く踏み迷ひなん、 と(菅江真澄「遊覧記」)、 山男の往来に当たっている、 として、 露宿の人がこれを避けたり、 樵夫(きこり)の輩一切夜分は居らぬことにしている、 とか、山中に小屋を掛ける人たちも、 谷の奥が行抜けになって向こう側へ越えうる場所は此れを避け、奥の切り立って行詰まりになった地形を選定する、 といい、 途中にて石を撃たるゝこと、土民は天狗の道筋に行きかゝりたるなりと謂ふ。何れの山にても山神の森とて、大木二三本四五本も茂り覆ひたる如くなる所は其道なりと知ると言へり(笈埃随筆)、 とある(柳田・前掲書)。また、山中の茂みにある小さな空地を、 天狗の相撲場、 といい、 予期しない時に急に空から吹き下ろしてくる旋風、 つむじ風、 辻風、 を、 天狗風、 といい(風と雲のことば辞典)、 人心を惑わすあやしいデマを、 天狗沙汰、 不審火・鬼火を、 天狗火、 などといったりする(日本伝奇伝説大辞典)。 天狗を題材にした、昔話には、そこで天狗が休んだ、という、 天狗松、 や、天狗をだまして手に入れた、 隠れ蓑笠、 というのがある。それは、大略、 ある子供が「めんぱ」に弁当を入れて山へ行く。天狗がいるので「めんぱ」でのぞき、京が見える、五重塔が見えると欺く。天狗が貸せというので隠れ蓑笠と交換する。天狗はのぞいてみたが何も見えないので、だまされたと気づいて子供を探すが、隠れ蓑笠を着ているのでみつからない。子供は隠れ蓑笠を使って盗み食いする。あるとき母親が蓑笠を焼いてしまう。灰を体に塗り付けて酒屋で盗み飲みすると、口の周りの灰がとれて発見され、川へ飛び込んで正体が現れる、 といった話である(日本昔話事典・日本大百科全書)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 柳田國男『遠野物語・山の人生』(岩波文庫) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 何事につけても、己一人(おのれいちにん)をのみ責めて敢えて叨(みだ)りにお勢を尤(とが)めなかッた(二葉亭四迷『浮雲』)、 ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨(みだ)りに俗衆の近づくを憎み(柳田國男「山の人生」)、 と、 叨りに、 とあてる「みだりに」は、普通、 妄りに、 濫りに、 猥りに、 と当て(広辞苑)、あるいは、 漫りに、 乱りに、 浪りに、 とも当てたりする(https://mojinavi.com/d/list-kanji-yomikata-midarini)。 乱る(四段活用)の未然形、みだらにとなる、 とあり(大言海)、 斯れは亦、漫(みた)りに傷急(あつか)ふことを為るなり(「南海寄帰内法傳(平安後期点)」)、 と、 順を乱して、 秩序を破って、 禮を外れて、 無作法に、 締まりなく、 思慮もなく、 むやみに、 などといった意味の幅(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)で、 白川の瀧のいと見まほしけれどみだりに人を寄せじとものとや(後撰集) と使われる。訛って、 みだらに、 ともいう(仝上)「みだる」は、 乱る、 紊る、 と当て、 四段活用の他動詞、 と、 下二段活用の自動詞、 とがあるが、前者は、 物や心の秩序を混乱させる意、中世以降、次第にミダス(乱す・紊す)に取って代わられるようになる、 とあり(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、後者は、 保たれるべき秩序が失われる、 意で、口語では、 乱れる、 紊れる、 となる(仝上)。形容詞としては、 虫の聲聲みだりがはしく(源氏物語)、 と、 秩序乱しているさまが不愉快である、 と、価値表現へシフトしている(岩波古語辞典)。 「みだりに」の漢字の当て分けで、 「妄りに」 しっかりした根拠もなく。むやみやたらに。「妄りに人を信用するな」「妄りに論ずべからず」「妄りに会社を休む」、 「漫りに」 しまりなく。だらだらと。勝手きままに。「漫りに時間を過ごす」「漫りに女性を口説く」「漫りに軽口をたたく」、 「濫りに」 抑制しないでむやみに。度を超して。「濫りに原生林を伐採する」「濫りに酒を飲むな」「濫りに金を遣う」、 「猥りに」 正当な意味もなく、原則を押しまげてやたらに。「猥りに禁句を口にする」「猥りに立ち入ることを禁止する」、 と含意の差異を整理するものがある(https://www.kanjipedia.jp/sakuin/doukunigi/items/0006609600)が、漢字の差異は、 妄は、めった(滅多)になり、妄言・妄語・妄作の類、 濫は、妄に近く、まぎれる意あり、濫眞は、眞物にまぎれるなり、濫入はまぎれて入りこむなり、 漫は、差別もなく、わけも無き義、漫歩と用ふ、 猥は、煩雑の義、軽々しくなれる意、煩猥、猥雑と連用す、 叨は、濫と同義、 とある(字源)。「妄」「妄」「叨」はほぼ同義で、「むやみに」の意でいいが、「漫」は、漫然とといった含意、「猥」は、「猥雑」の含意で、やたらと、と言った意味の差になるが、しかし、漢字の意味で使い分けるほどのことかどうか、微妙である。 「叨」(トウ)は、 会意兼形声。「口+音符刀(ゆるくまがる)」、 で、「むさぼる」意であるが、 叨在知己(叨りに知己在り)、 と、「みだりに」の意で、「不相応に恩恵を受けるさま」の意で使う(漢字源)。 「妄」(漢音ボウ、呉音モウ)は、 会意兼形声。亡は「ない、くらい」などの意を含む。妄は「女+音符亡(モウ)」で、女性に心がまどわされ、我を忘れたふるまいをすること、 とあり、 不知常妄作凶(常ヲ知ラズシテ妄に作るは凶なり)(老子)、 と使う(漢字源)別に、 会意兼形声文字です(亡+女)。「人の死体に何か添えた」象形(「人がなくなる」の意味)と「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「女」の意味だが、ここでは、「女性の心理状態を表す語」)から、「道理がない」、「でたらめの」を意味する「妄」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1979.html)。 「漫」(漢音バン、呉音マン)は、「そぞろ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484051057.html)で触れたように、 会意兼形声。曼(マン)は「冒の字の上部(かぶせるおおい)+目+又」の会意文字で、ながいベールを目にかぶせたさま。ながい、一面をおおうなどの意を含む。漫は「水+音符曼」で、水が長々と続く、また水が一面におおうなどの意、 とあり(漢字源)、「みちる」「一面を覆う」意だが、「漫談」「冗漫」と、「とりとめがない」意もある。で、水がひろがる、から転じて、とりとめがない意を表す(角川新字源)、とある。別に、 会意兼形声文字です(氵(水)+曼)。「流れる水」の象形と「帽子の象形と目の象形と両手の象形」(目の上下に手をあてて目を切れ長にみせるような化粧のさまから、擬態語として「とおい・長い」の意味)から、「どこまでものびる広い水」、「勝手きまま」を意味する「漫」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1264.html)。 「濫」(ラン)は、 会意兼形声。監は「うつむいた目+人+水をはった皿」の会意文字で、人がうつむいて水鑑に顔をうつすさま。そのわくの中に収まるようにして、よく見る意を含む。鑑(かがみ)の原字。檻(カン 枠をはめて出ぬようにするおり)と同系のことば。濫は「水+音符監」で、外に出ないように押さえた枠を超えて、水がはみ出ること、 とあり(漢字源)、「氾濫」のように「あふれる」意だが、 濫入党中(濫りに党の中に入る)(後漢書)、 と、「みだりに」の意で用いる。別に、 会意兼形声文字です(氵(水)+監)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「たらいをのぞきこむ人の象形としっかり見開いた目の象形と水の入ったたらいの象形」(「のぞきこむ」の意味)から、のぞきこんではじめて見える、地中からふきだす泉を意味し、そこから、「あふれる」を意味する「濫」という漢字が成り立ちました、 の解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1517.html)。 「猥」(漢音ワイ、呉音エ)は、 会意兼形声。「犬+音符畏(くぼんでまがる、押し曲げる)」で、押し下げる、凹む意を含む、 とあり(漢字源)、「猥雑」のように乱れている意だが、 猥自枉屈、三顧臣於艸廬之中(猥ニミヅカラ枉屈シ、三タビ臣を艸廬ノ中ニ顧ミル)(諸葛亮)、 と、「みだりに」の意でも使う。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 此虵(くちなは)ものぼりて、かたはらにわだかまりふしたれど(宇治拾遺物語)、 にある、 くちなは、 は、 蛇の異名、 とされる(広辞苑)。「虵」は、「蛇」の俗字である(字源)。「くちなわ」は、 朽縄に似ているから(広辞苑)、 身、縄の如くにして、口ある意ならむ、くちばみ(蝮)のクチも、口なり、今、紐の端に、小さき輪をつけたるものを、蛇口といふ(大言海)、 クチナワ(口縄)の義(東雅・名言通・嫁が君=楳垣実)、 形が朽ちた縄に似ているところから(デジタル大辞泉)、 クチナワ(朽縄)の義(名語記・円珠庵雑記)、 ツチナハ(地縄)の義(言元梯)、 と、「縄」と関わらせる説が多いが、「へび」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433628380.html)で触れたように、 朽ち(罵り語)+ナワ(青大将)、「朽ち+縄」は俗解、 と「朽ちた縄」説を退ける(日本語源広辞典)もの、逆に、 ヘビを「くちなわ」というのは、ヘビの形が朽ちた縄(腐った縄)に似ていることから。口が付いた縄の意味ではない、 と「口縄」説を否定するものもある(語源由来辞典)。他に、 クチナブサの四音変化、クチは、有害な蛇に対する称呼。ナブサは、害の無い蛇の名(青大将の起源=柳田國男)、 その舌の様子から、クチノハリ(口之針)の約略(俗語考)、 コトニナガキ(殊に長き)虫は、「コ」の母交[ou]、「トニ」[t(on)i]の縮約の結果、クチナガになった。さらに「ガ」が子交[gh]をとげてクチナハになった(日本語の語源)、 などがあるが、大勢は、 朽+縄、 か 口+縄、 になるが、その判別はつかない。ただ、「縄」に似ているのに、「朽ち」ている必要があるのかどうか。よく道に落ちている縄を蛇と見間違えることは実際にあるのだから、 口+縄、 の方が妥当な気がするのだが。勿論憶説である。和名類聚抄(931〜38年)に、 蛇、倍美(へみ)、一云、久知奈波、日本紀私伝云、乎呂知、毒虫也、 とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 蛇、ヘミ、クチナハ、オロチ、 とあるように、「くちなは」は、 平安時代には「へみ」とともに無毒の蛇の総称であった。「へみ」は、 四つのへみ五つの鬼(もの)集まれる、きたなき身をば、いとひ捨つべし、離れ捨つべし(仏足石歌)、 と見えているが、「くちなは」は、平安時代以降の和文脈で用いられることが多い(日本語源大辞典)。 「へび」の古称「へみ」は、 延蟲(はへむし)の約(白蟲(しらむし)、しらみの類)、転じてへびとなる(黍(きみ)、きび。夷(エミシ)、えびすと同趣)。長蟲(ながむし)の名もあり(大言海)、 ハヘムシ(這虫)の義(名言通)、 ハヒ(匍)の義(言元梯)、 朝鮮語peiyam(蛇)と同源(岩波古語辞典)、 ヘビは脱皮をすることから、「ヘンミ(変身)」の転(語源由来辞典)、 小動物を丸呑みするところから、「ハム(食む)」の転(仝上)、 ハムの義(日本釈名)、 等々とあるが、「はう」という擬態によると見るのが大勢なのだが、ただ、 ヘミ→ヘビ、 と転訛したと見るわけにもいかないようだ。ヘビの方言には、 ヘミ、ヘブ、ヘベ、ハビ、ハベ、ハム、ハメ、バブ、パプ、ヒビ、ヘンビ、ヘンミ、 等々数多くの呼称があり、 「ハブ」や「ハミ(マムシ)」は、「ハム(食む)」からきた、 とされる(語源由来辞典)ように、「ハム」と関わる呼び名もあり、 ハミムシ(咬み虫)の略省形ハミ(波美 和名抄)も中・四国ではマムシ(蝮)の別名になっている、 ともあり(日本語の語源)、 ヘミ→ヘビ、 ではなく、 ハミ→ハビ→ヘミ→ヘビ、 と、「ハム(食む)」からきたとする見方もあり、 上代には「へみ」と呼ばれていたが、平安時代に「くちなは」が現れ、「へみ」と共存した、 のは確かである(日本語源大辞典)が、 ヘミ→ヘビ、 の転訛とのみは確定しにくい(語源由来辞典)。ほかにも、「へび」には、 やまとのかみ、 ながむし、 たるらむし、 たるなむし、 かがち、 等々の異称がある(大言海・広辞苑)、 へび、 は、だから、 へみ→へびの転訛、 以外にも、 ハミ(蝮)の義(言元梯)、 反鼻(ハンピ)の義(滑稽雑談・和訓栞)、 ハヒウネリムシ(這蜿蜒虫)の義(日本語原学=林甕臣)、 と、「ハム」の音韻を引きずっていなくもないのだ。だから「ハム(食む)」の、 はむ(蝮)、 が、「へび」の総称に変化したという見方もできる。「マムシ」は、 真虫、 と当て、易林節用集(慶長)には、 蝮、ハミ、 とあり、 蝮蟲(ハミムシ)の略転(はたら、まだら。かはち、かまちと同趣)、真虫の義、真は害をなすこと甚だしき故に、狼を真神と云ふが如し(大言海)、 ハミムシ(喰虫・蝮虫)の転(柴門和語類集)、 はむのを恐れて云ふ(俗語考)、 と、「はむ」由来で、あるいは、 ハム→ハビ→ヘミ→ヘビ、 と、蛇の総称へと転じていった可能性もある。因みに「反鼻(ハンピ)」は、 漢土の蝮の一名にて、その鼻反りたれば云う、その音を我が国の蛇にあつるは牽強なり、 とあり(大言海)。反鼻は、 本来、中国大陸にすむアオハブ(タイリクハブ)あるいはその近縁種のことで、鼻先が短く上に反り返っているところから命名された。マムシは日本での代用品といえる、 からなのである(日本大百科全書)。「反鼻」は(まむしの)漢方薬として名が使われる。 ところで、「へび」の異称には、 おろち、 うわばみ、 みづち、 等々があるが、「おろち」は、「をろち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/469001407.html)で触れたように、 大蛇、 と当て、 オは「峰」、ロは接尾語、チはミヅチ(蛟)イカヅチ(雷)などのチで、はげしい勢いのあるもの、霊威あるものの意(広辞苑・岩波古語辞典)、 で、「ヲ」を「尾」とするものも多くある(日本語源広辞典)が、「を(尾)」は、 小の義。動物體中の細きものの意、 で(大言海)、そのメタファで、 山尾、 という使い方をし、 山の裾の引き延べたる處、 の意に使い、転じて、 動物の尾の如く引き延びたるもの、 に使った(仝上)。「ヲ(峰・丘)」は、その意味の流れの中で重なったとみられる。「チ」は、「ち(血)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465705576.html?1557945045)、「いのち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465724789.html)、で触れたように、 いかづち(厳(いか)つ霊(ち)。つは連体助詞)、 をろち(尾呂霊。大蛇)、 のつち(野之霊。野槌)、 ミヅチ(水霊)、 と重なり、「ち(霊)」は、 原始的な霊格の一。自然物のもつはげしい力・威力をあらわす語。複合語に用いられる、 ので、 いのち(命)、 をろち(大蛇)、 いかづち(雷)、 等々と使われ(岩波古語辞典)、 神、人の霊(タマ)、又、徳を称へ賛(ほ)めて云ふ語。野之霊(ノツチ、野槌)、尾呂霊(ヲロチ、蛇)などの類の如し。チの轉じて、ミとなることあり、海之霊(ワタツミ、海神)の如し。又、轉じて、ビとなることあり、高皇産霊(タカミムスビ)、神皇産霊(カムミムスビ)の如し、 とある(大言海)。つまり、「をろち」は、 尾の霊力、 という意味になる(日本語源大辞典)。 「うわばみ」は、 蟒蛇、 と当て、 巨大な蛇、 の意で、「ばみ」は、 はみ、へびと同根、 つまり、 オオハミ(大蝮 大蛇の意)の轉。うごく、おごく。うつほもの、うつはもの。やほら、やわら(大言海)、 ウハヘミ(大蛇)の義(南留別志・言元梯・名言通)、 等々、「バミ」は、「ヘミ」「ハミ」の転訛なのである。 「みづち」は、 蛟、 虬、 虯、 螭、 蛟龍、 などと当て(広辞苑・岩波古語辞典)、古くは、 みつち、 と清音。 想像上の動物。水に棲み、蛇に似て、角と四足をもち、人に害を与えるという、 とあり、和名類聚抄(平安中期)は、 蛟、美豆知(みつち)、龍属也、 類聚名義抄(11〜12世紀)は、 蛟、大虬、ミツチ、 天治字鏡(平安中期)は、 蛟、龍名、美止知(止は豆か)、 とあり、龍との関連を思わせる。 ミは水、ツは助詞、チは靈で、水の霊(広辞苑)、 チはオロチのチに同じ、威力あるものの意(岩波古語辞典)、 ミは蛇(ヘミ)にて、ツは之なり、或は云ふ、合して水なりと。チは靈の異称(大言海)、 ミは蛇の古称、ツチは尊称、蛇の主の義(蛇に関する民俗と伝説=南方熊楠)、 という字解の上、 水神の義(類聚名物考)、 ミツチ(水之神)の義(琅玗記=新村出)、 ミツチ(水霊)の義(大言海)、 朝鮮語mirï(龍)と同源(岩波古語辞典)、 等々、水神化された龍、或は大蛇というところに落ち着く。 「へび」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433628380.html)で触れたように、漢字の「蛇」(慣用ダ、漢音呉音タ・イ、漢音シャ、呉音ジャ)の字は、 会意兼形声。它(た)は、頭の大きいヘビを描いた象形文字(虫」もへびを象った字)。蛇は、「虫+音符它」で、うねうねとのびる意を含む。它が三人称の代名詞(かれ、それ)に転用されたため、蛇の字で它の元の意味をあらわした、 とあり(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%9B%87)、它(シヤ)∔(ジヤ)と転音した(角川新字源)。だから、 会意兼形声文字です(虫+它)。「頭が大きくてグロテスクなまむし」の象形と「へび」の象形から、「へび」を意味する「蛇」という漢字が成り立ちました、 となる(https://okjiten.jp/kanji310.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「竜(龍)宮」は、 浦島太郎、 で名高いが、一応、 深海の底にあって、龍神の住む宮殿、 とされ(広辞苑)、中国伝説や物語では、 龍宮(りゅうぐう 竜宮)、 竜宮城(りゅうぐうじょう)、 水晶宮(すいしょうきゅう)、 水府(すいふ)、 は、竜王が主(あるじ)で、四海竜王等々、各地にいくつもの竜王が存在する。日本では、これを うみのみやこ、 たつのみや、 たつのみやこ、 たつのみやい、 わたつみのみや、 わたつみのみやい、 等々日本風に訓む(仝上・大言海)が、いわゆる、 竜宮城、 であり(仝上)、 竜神のすみか、 とされる(マイペディア)が、必ずしも、 海の底、 ではなく、 湖沼や川、井戸の底、洞窟が龍宮への通路となっているものも存在している、 とされ(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%AE)、俵藤太は、龍宮の使いの小男と共に、瀬田の唐橋から、 二人共湖水の水の波を分けて水中に入ること五十余町あつてひとつの楼門あり、開いて中に入るに、瑠璃の砂(いさご)、厚く玉の甃(いしだたみ)あたたかにして落花自から繽紛たり(太平記)、 とある。 しかし、柳田國男が、日本の昔話では、 竜宮には竜はいない。そうしてしばしば乙姫様という美しい一人娘がいる、 といったように(『海上の道』・海神竜考)、 美女と歓楽と不老と珍宝珍味の宮殿、 のイメージで(マイペディア)、 国外から運び入れたのは、主として語音の珍しいその仙郷の名だけであって、説話の内容は是がために大きな変化をとげていなかった、 もののようだ(仝上)。それまでは、 蓬莱山、 を使い、 トコヨノクニ、 と訓ませていたが、万葉集では、 潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人娘子(あまをとめ)ども、 と、 わたつみの神の宮(綿津見神宮)、 とか、 海境(うなさか)を過ぎて漕ぎ行くに海神(わたつみ)の神の娘子(をとめ)にたまさかにい漕ぎ向ひ相とぶらひ、 と、 わたつみの神のをとめ、 という言葉を使っていた、これは、 浦島太郎、 海幸(うみさち)・山幸、 や、売れ残りの花を水に投じた礼に竜宮に招かれる花売りの説話などで語り継がれてきた、 海中または海上、 の、 海の国の名、 であった(柳田・前掲書)し、記紀の、 根の国、 常世の国、 とも関わり、奄美や沖縄などの南島諸島で、海の向こうにあるとされる異世界、 ニライカナイ、 と通じるものである。「竜宮」を、 ニルヤ、 に近い語をもって呼んでいた、ともある(柳田・仝上)。因みに「蓬莱」は、 よもぎがとま、 とも訓ませ、 蓬莱山、 蓬莱島、 とも呼び、「仙人」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483592806.html)で触れたように、『史記』秦始皇本紀に、 斉人徐市(じょふつ 徐福)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ、 とある三神山の一つ、 東海中にあって、仙人が住み、不老不死とされる霊山で、不老不死の神薬があると信じられた、 とあり(広辞苑)、この薬を手に入れようとして、秦の始皇帝は方士の徐福(じょふく)を遣わした。 仏教においても、 爾時、文殊師利、坐千葉蓮花、大如車輪、俱來菩薩、亦坐寶蓮華、従於大海、婆竭羅龍宮、自然湧出、住虚空中(妙法蓮華経・提婆達多品)、 とあるように、 大海の底に娑竭羅(しやから)竜王の宮殿があって、縦広8万由旬(ゆうじゆん 1由旬は帝王1日の行軍里程)もあり、七重の宮牆(きゆうしよう)、欄楣(らんび)などはみな七宝をもって飾られている(長阿含経)、 とか、 海上に白銀、瑠璃、黄金の諸竜宮があって、毒蛇大竜がこれを守護しており、竜王がここに住み珍宝が多い(賢愚因縁経)、 などと説く(大言海・世界大百科事典)。 娑竭羅龍王(しゃからりゅうおう)の娘(第三王女)は、 善女(如)龍王、 と呼ばれ、 その年わずか八歳の竜少女、 とあり(妙法蓮華経・提婆達多品)、文殊師利菩薩はこの竜女は悟りを開いたと語るも、 智積菩薩はこれに対し、お釈迦様のように長く難行苦行をし功徳を積んだならともかく、僅か8つの女の子が仏の悟りを成就するとは信じられないと語った。また釈迦の弟子の舎利弗も、女が仏になれるわけがないと語った。 のに、 竜女はその場で法華経の力により即身成仏し、それまで否定されていた女子供でも動物でも成仏ができることを身をもって実証した、 とある(https://www.wdic.org/w/CUL/%E5%A8%91%E7%AB%AD%E7%BE%85%E9%BE%8D%E7%8E%8B%E3%80%82%E5%A5%B3)。「娑竭羅(サーガラ Sāgara)」は、仏法を守護する天龍八部衆に所属する竜族の八王、 八大竜王(はちだいりゅうおう)、 の一人とされ(法華経)、 娑伽羅、 沙掲羅、 沙羯羅、 とも音訳され、 大海、 龍宮の王、 大海龍王、 と漢訳されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E7%AB%9C%E7%8E%8B)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店) 柳田國男『海上の道』(岩波文庫) 「蓬莱は、 蓬莱隔弱水三十万里、非舟楫可行、非飛仙無以到(太平広記)、 とある、 蓬莱弱水の隔たり、 蓬莱弱水、 などと成語になっている。「弱水」とは、 北の果てにあるとされる川、 で、 遥かに遠く隔たっている喩え、 としていう(故事ことわざの辞典)。「蓬莱」は、 蓬丘、 蓬壺、 蓬島、 蓬莱山、 蓬莱島、 等々ともいい、 よもぎがとま、 よもぎがしま、 とも訓ます(広辞苑)、 使人入海求蓬莱・方丈・瀛洲、此三山者相傳在渤海(漢書・郊祀志)、 と、 渤海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされ、不老不死の神薬があると信じられた霊山、 で、 三壺海中三山也、一曰方壺、則方丈也、二曰、蓬壺則蓬莱也、三曰瀛壺洲也(拾遺記)、 と、 方丈(ほうじょう)山、 瀛洲(えいしゅう)山、 と共に、 三神山(三壺山)の一つ、 とされ(仝上・日本大百科全書)、前二世紀頃になると、 南に下って、現在の黄海の中にも想定されていたらしい、 と位置が変わった(仝上)が、 伝説によると、三神山は海岸から遠く離れてはいないが、人が近づくと風や波をおこして船を寄せつけず、建物はことごとく黄金や銀でできており、すむ鳥獣はすべて白色である、 という(仝上)。 「仙人」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483592806.html)で触れたように、戦国時代から漢代にかけて、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし 神仙の術を行う人)によって説かれ、 (仙人の住むという東方の三神山の)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に金銀の宮殿と不老不死の妙薬とそれを授ける者がいる、 と信ぜられ、それを渇仰する、 神仙説、 が盛んになり、『史記』秦始皇本紀に、 斉人徐市(じょふつ 徐福)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん 仙人)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ、 と、この薬を手に入れようとして、秦の始皇帝は方士の徐福(じょふく)を遣わした。後世、この三神山に、 岱輿(たいよ)、 員嶠(えんきよう)、 を加えた、 五神山説、 も唱えられたが、昔から、 蓬莱、 だけが名高い(仝上)。 蓬萊山は海中にあり、大人の市は海中にあり(山海経)、 とあり、「市」とは蜃気楼のこととされた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AC%E8%90%8A)ともある。 日本では、 蓬莱山(蓬山)、 を、 トコヨノクニ、 と訓ませ(丹後国風土記)、「竜宮」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488132230.html?1652812023)と重なり、「竹取物語」では、 蓬萊の玉の枝、 が難題として課されたが、 然れば本号は不死山なりしを、郡の名に寄せて、士の山とは申すなり、蓬萊の、境たり(謡曲「富士山」)、 と、富士山とつなげられたりもした。 また、 蓬莱飾り、 蓬莱台、 については、「すはま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473834956.html)で触れたが、 御前に扇ども数多さぶらふ中に、ほうらいつくりたるをしも選りたる(「紫式部日記(1010頃)」)、 と、 蓬莱山をかたどった台上に、松竹梅、鶴亀、尉姥などを飾って、祝儀や酒宴の飾りものとしたもの、 をいい、 蓬莱山、 蓬莱盤、 蓬莱台、 ともいい、 婚礼や供応などの時の飾り物。州浜台の上に松・竹・梅などを飾り、鶴・亀を配し、尉(じょう)・姥(うば)を立たせたりしたもので、蓬莱山(ほうらいさん)を模した、 すはま、 島台、 とも重なる。「蓬莱飾り」は、主として関西では、 新年の祝儀に、三方(さんぼう)の上に白紙、羊歯(しだ)、昆布などを敷き、その上に熨斗鮑(のしあわび)・勝栗・野老(ところ)・馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・蜜柑などを飾ったもの、 を言う(精選版日本国語大辞典)。 (「蓬莱飾り」 精選版日本国語大辞典より) 「すはま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473834956.html)は、 洲浜台、 で、略して、「洲浜」といい、 洲浜の形に似せて作れる物の台(大言海)、 に、 岩木・花鳥・瑞祥のものなど種々の景物を設けたもの、もと、饗宴の飾り物としたが、のち正月の蓬莱・婚姻儀式の島台として肴を盛るのに用いた、 とある(広辞苑)。 洲浜(すはま)形の台に松竹梅を立て、足元に鶴亀、翁と媼の人形などを飾る置物で古来より不老不死の仙山として信仰される蓬莱山を写し、慶事の祝儀として用いられてきたものだ。特に近世以降は「婚礼」の席に欠かせない調度品として飾られてきたものだという、 とあり(https://karuchibe.jp/read/4476/)、貞丈雑記に、 洲濱形に、臺の板を作る、海中の島のすその、海へさし出たる形なるを、洲濱と云ふなり、されば島形とも、洲濱形とも云ふ、其上に肴を盛る也、飾のには、岩木、花鳥などを置く也、 とあり、松屋筆記にも、 島臺は、蓬莱島の造物の臺なれば、サ(島臺と)云ふ也、洲濱など同物成り、 とある(大言海)。守貞謾稿には、 蓬莱、古は正月のみの用に非ず、式正の具と云にも非ず、貴人の宴には、唯、臨時風流に製之、今も貴人の家には、蓬莱の島臺と云、島臺と云は、洲濱形の臺を云也、今世は三都とも蓬莱同制なれども、京坂にては蓬莱と云、或は俗に寶來の字を用るも有り、江戸にては蓬莱と云ず、喰積(くいつみ)と、……今俗は、島臺と、蓬莱は二物とし、島臺は婚席の飾とし、蓬莱は、正月の具とし、其製も別也、 と、蓬莱と島臺が別扱いになっている経緯を書いている。「喰積(くいつみ)」は、 三方などに米、餅、昆布、熨斗鮑、ゴマメ、橙、ユズリハなどの種々の縁起物を飾り、年賀客にも供した、 とあり、これが 重詰め となった(https://kigosai.sub.jp/001/archives/9094)とみられる。 「蓬」(漢音ホウ、呉音ブ)は、 会意兼形声。「艸+音符逢(△型にであう)」で、穂が三角形になった草、 とあり(漢字源)。ヨモギの意である。 「莱」(ライ)は、 会意兼形声。「艸+來(ライ 来 むぎ)で、麦に似た雑草、 とある(仝上)。別に、 会意兼形声文字です(艸+來)。「並び生えた草」の象形と「ライむぎ」の象形から「あかざ」を意味する「萊」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2692.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 「にいなめ(にひなめ)」は、 新嘗、 とあて、 にひなへの転、 とあり(岩波古語辞典・広辞苑)、 新饗(にひのあへ)の約轉、口に嘗(な)むる意と紛ふべからず、嘗(シャウ)は、支那の秋祭りの名なるを借りれるなり、 ともある(大言海)。中国最古の字書『爾雅(じが)』(秦・漢初頃)釋天篇に、 春祭曰祠(シ)、夏祭曰礿(ヤク)、秋祭曰嘗(シャウ)、冬祭曰蒸(ジョウ)、 とあり、注に、 嘗、嘗新穀也、 とあり、また、班固編『白虎通』(後漢 正しくは『白虎通義』)には、 嘗者、新穀熟而嘗之、 とある(仝上)。「にいなめ」は、 にひなへ、 にはなひ、 ともいい(仝上・岩波古語辞典)、また、「新嘗」を、 シンジョウ、 とも訓ますが、 宮中にて行はせらるる神事、古へは陰暦十一月、下の卯の日(三卯のあるときは中の卯の日 今は陽暦、十一月二十三日)に、其年の新稲を始めて神に奉らせたまひ、主上、御躬(みずから)も聞し召す、 とあり(大言海・精選版日本国語大辞典)、宮中神嘉殿(しんかでん 平安大内裏の中和院(ちゅうかいん)の正殿の称。天皇が神をまつるところ)にて行われるこの儀式を、 新嘗祭(にいなめさい・にいなめまつり・しんじょうさい・しんじょうえ)、 といい、 當年の新稲を以て酒撰を作り、天照大神を始め奉り、普く天神地祇に饗(あ)へ給ひ、天皇御躬らも聞し食し、諸臣にも賜る式典、 で(大言海)、 稲の収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する祭儀、 である(仝上)。なお、天皇の即位の年、一代一度行うのを、 大嘗祭(だいじょうさい・おおにえまつり・おおなめまつり・おおんべのまつり)、 といい、 天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿ついで主基殿(東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)という)、 で行う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。一世一度の新嘗であるから、 大新嘗(おおにいなめ)、 ともいう(仝上)。 「にいなめ」は、 古へは、朝家のみならず、民間にもせし饗(あへ)なり、いたく斎み謹みて、神に祭るを主(むね)として、其餘の人にも饗へ、自らも食したるなり。後世、九月日待と云ひ、村村にて鎮守の神の縁日に祝ひ饗することあるは、其遺風なり、 とある(大言海)。 新粟(にひしね 新米)の初嘗(なへ)して、家内諱忌(ものいみ)せり(常陸風土記)、 とあり、 新粟嘗(にひなへ)、 と訓ます(仝上)。 「にいなめ(新嘗)」の語源を、 ニヒ(新設)ノ(助詞)アヘ(饗)の約、新穀を差し上げる神事(岩波古語辞典)、 新饗(にひのあへ)の約轉(大言海・広辞苑)、 ニイナアヘ(新肴饗)の約(日本古語大辞典=松岡静雄)、 と、 にひのあへに関する考証が多く、ニヒが体言を修飾するとき、ノを介さないのが普通だから、 アヘはナヘのnが脱落したとする説(山口佳紀「古代日本語分謗の成立の研究」)、 もある(日本語源大辞典)。「あ(饗)ふ」は、 遭ふの他動詞、待遇の意、 とあり(大言海)、 食物を作ってもてなす、 意であり、その名詞形、 あへ(饗)、 は、新撰字鏡(898〜901)に、 佐客、饗於他、 とあり、 饗応、 の意である(岩波古語辞典) いずれも、多少の差があっても、本居宣長が、 にひのあへ、それを約めてにひなへ、 としたところに由来があるが、万葉集の、 誰ぞ此の、屋の戸押(お)そぶる爾布奈末に、吾が背を遣りて齋(いは)ふ此の戸を、 とあるのには、 爾布奈末(にふなみ)、 とある。だから、柳田國男は、 『書紀』神代巻でも、「新嘗」の文字を用いつつも、天照大神当時新嘗時を、ニハナへきこしめす時と訓ませ、またその新宮をニハナヘノミヤと訓ませていた。『古事記伝』巻八などには、『日本紀』の全巻を通じて、爾波那比、爾波能阿比、爾波那閇、爾波比、爾波閇などの読法があることを列記しながら、独り「爾波那閇」をもって正とし、他はみな正しからずと決定せられたのは、いささか専断のきらいがあった。『書紀』の振仮名はもとより一度に成ったものではなく、歴代の教師の口伝が積り溜まったものであろうが、この数々の不一致こそはむしろ意味があり、後久しからずして公けにも、シンジョウの音読を認められたのも、多分は言葉の本義が夙く失われて、家々の伝えが区々になった結果ともみられる。つまりは本居氏が是をニヒナメの一つに統一せられたのは何の詮もなく、いわば後代の研究者のために、なお発見の喜びを遺されたものと言ってもよい。(『海上の道』「稲の産屋」)、 と批判している。常陸風土記の 初嘗(なへ)して、 で、「嘗」一字で、 にひなめ、 の意となっており、また、『釋日本紀』の私記に、 爾波奈比は嘗也、之を爾波と謂ふなり、 ともあり、「新嘗」の「嘗」の字自体、 新たなる穀物を食べ試みる意味をはじめから持っていた、 とし、 (「新」の字を当てた)ニヒがはたしてその宛て字のごとく、単純なる形容詞の語根であったならば、是にノをつけてニヒノアヘ、それを約(つづ)めてニヒナヘとし、またニヒナメとしたという本居説は、いよいよもってこころもとない……、 としている。『書紀』神武紀には、 天皇、其の厳瓮(いつへ)の粮(おしもの)を嘗(にひなへ)したまひて、兵を勒(ととの)へて出でたまふ。 とあり、「嘗」を、 たてまつる、 なむ、 と訓むこともできるのは確かだが、「嘗(にひなへ)」とみると、 にひなへ、 の「にひ」を「新」とみるのは意味が重複することになってしまう。そこで、柳田は、 にひ、 には、 にふ、 を、折口信夫の、 稲村、 稲積、 と関わらせる説から、 ニホ、 ニオ、 の「ニオ(ニホ)」の転訛を提唱している。「稲積」は、 いなづみ、 とも訓むが、 ニオ、 とも訓ませる。その是非はともかく、「稲積」は、 刈取った稲束を円錐形に積上げたもの、 で、 イナムラ、 イネコズミ、 イナコヅミ、 ホヅミ、 ニゴ、 ミゴ、 ニュウ、 ニョー、 ニョウ、 スズキ、 ツブラ、 ススキ、 等々全国さまざまな異名があり(ブリタニカ国際大百科事典・世界大百科事典)、 今日では脱穀したのちわら束を積上げるワラニオが普通であるが、昔は穂のついたままの穂稲を積み、必要に応じて脱穀したものである。ニオの頂上にはわら帽子をつくっておおう習慣があり、本来ここが稲の収穫を祝う祭場であったらしい、 とある(仝上)。沖縄ではニオを、 シラ、 といい、それがまた産屋(うぶや)とつながることを「稲の産屋」で展開しているが、 刈ったばかりの稲穂のついたままの束を積み上げた場所は、そのまま田の神をまつる祭場、 と考えられ、 ニオ場、 とも呼び、 翌年の穀種が生育するという信仰があった、 とみられ(柳田・前掲書)、「ニオ」は、 新嘗(にひなめ)のニヒ、ニフのほか、ニエすなわち贄の語とも関連する、 ともある(仝上)ので、 神霊に捧げる供物、 という意味があり、頂に、 ワラトベ、 トツワラ、 トビ、 等々と呼ぶわら製の笠形の飾りや屋根をのせる(仝上)。これは、種俵の前後に取り付ける、 桟俵(さんだわら)、 つまり、 俵の両端の口に当てる直径30センチメートルくらいの円形の藁蓋(わらぶた)、 ともつながるように見え(柳田・前掲書)、 物の貴さを標示する一種の徽章、 ではないか、と柳田はみる(仝上)。こうした稲を収穫した後の農民のさまざまな振舞い、思いを背景に考えると、 にひのなへ説、 は、 新嘗、 と当てた漢字の言葉面だけをなぞった軽薄な説だということが見えてくる気がする。 「嘗」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。嘗は「旨(うまいあじ)+音符尚(のせる)」で、食べ物を舌の上にのせて味をみること、転じて、試してみる意となり、さらにやってみた経験が以前にあるという意の副詞となった、 とある(漢字源)。「嘗烝(蒸)」という言葉があるが、これは前出の『爾雅(じが)』にある、 春祭曰祠、夏祭曰礿、秋祭曰嘗(シャウ)、冬祭曰蒸、 で、 春の祠、夏の礿、秋の嘗、冬の烝 を、 四祭(しさい)、 四時祭、 という(精選版日本国語大辞典)。別に、「嘗」を、 形声文字です(尚+旨)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」(「請い願う」の意味だが、ここでは、「当(當)」に通じ(同じ読みを持つ「当(當)」と同じ意味を持つようになって)、「当てる」の意味)と「さじの象形と口の象形」(さじで口に食物を流し込む事から、「うまい」の意味)から、「旨い物を舌に当てる」、「味わう」を意味する「嘗」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2401.html)。漢字の、 新嘗(しんじょう)、 は、 野露及新嘗(杜甫)、 とあるように、 新穀を廟にすすめて神をまつる、 意である(字源)。「にいなめ」に当てたのは、この故であろう。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) |
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