「宗と」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485666532.html?1645214436)で触れたように、「宗と」の「むね(宗・旨)」は、 ムネ(棟)・ムネ(胸)と同根。家の最も高いところで一線をなす棟のように、筋の通った最高のもの、 である(岩波古語辞典)。だから、「胸」は、 古形ムナの転。ムネ(棟)と同根。棟木(むなぎ)の高く張るように、胸骨の張っている所の意、 とあり(仝上)、和名類聚抄(平安中期)に、 胸、膺、臆、無禰、 とある(膺、臆はいずれも「むね」の意)。 「棟」は、 ムネ(胸)・ムネ(宗)と同根、 とあ(仝上)、和名類聚抄(平安中期)には、 棟、無禰、 とある。 古形ムナ、 は、 ぬばたまの黒き御衣(みけし)をまつぶさに取り装ひ淤岐都登理(オキツトリ)胸(むな)見る時羽叩(はたた)ぎもこれは相応(ふさ)はず(古事記・歌謡)、 と、 胸先、 胸騒ぎ、 胸板、 胸骨、 など、 多く他の語に冠して複合語をつくる(仝上)。 もちろん、「胸」の語源には、 ムネ(身根)の義か(古事記伝・和訓集説・国語の語根とその分類=大島正健・日本語原学=林甕臣)、 ミネ(身根)の転か(大言海)、 ム(身)+ネ(根幹)、人の根幹をなす部分(日本語源広辞典)、 と、「身根」とする説があり(「身(み)」の古形は「身(む)」で、「身代(むかはり)、「身胴(むくろ)」、「身実(むざね)」、「身屋(むや)、「身根(むね)」等々複合語を作っている)、「棟」の語源にも、 ムネ(身根)の義(大言海)、 その形から胸の義(名言通)、 ム(建物のまとまり)+ネ(根幹)、建物の根幹をなす材の意(日本語源広辞典)、 と、「身根」とする説がある。さらに、「胸」を、 ムナギ(棟木)のムナと同源で、身体中で最も大切な部分の意(おしゃれ語源抄=坂部甲次郎)、 と、「棟」とつなげる説もある。「棟」を「棟木(むなぎ)」のように「ムナ」と訓ませるところも、「胸」との関連を感じさせる。しかし、別に、「棟」を、 山の峯のように屋の最も高いところから、ミネ(峯)の転(日本釈名・和語私臆鈔・家屋雑考・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 ウナ(頂)の転で、ミネ(峯)と同根(日本古語大辞典=松岡静雄)、 と、「みね(峯・峰)」と関連付ける説がある。 しかし、「みね」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/468333451.html)で触れたように、 峰(ヲ)はタニの対、 とあり(岩波古語辞典)、「を(峰)」は、 尾、 と重なり、 尾根、 稜線、 脊梁(せきりょう)、 であり、「みね(峰)」は、 山の頂の尖ったところ、 の意であり、「を(峰)」とは由来を異にする言葉らしい。谷に対なのは、 峰々の連なり、 であって、 みね(峰)、 ではない、ということになる。「みね」は、 ミは發語。ネは嶺なり(大言海)、 ミは神のものにつける接頭語。ネは大地にくいいるもの、山の意。原義は神聖な山(岩波古語辞典)、 ミ(御)+ネ(嶺)(日本語源広辞典)、 ミは褒称。ネは高峻の義(箋注和名抄・東歌疏=折口信夫)、 ミは尊称、ネは止まり動かない意(東雅)、 ミネ(御根)の義。山上に神のあるところから(名言通)、 ミは神の略、ネはナル(成)の転(和語私臆鈔)、 ミはマシの約で美称、ネ(根)は山の義(和訓集説)、 など、「み」は「御」の意で、かつてヤマはご神体であり、とりわけ尖った頂は神聖視された。「ミ」はその名残りで、 ご神体、 の意味であると見ていい。つまり、「棟」と「峯」はつながらないのである。ちなみに、 峰打ち、 という、 刀の峰でうつ、 意も、 刀背打ち、 棟打ち、 とあて、 むねむち、 であり、「みねうち」はその転訛と見られる。 「胸」(漢音キョウ、呉音ク)は、 会意兼形声。もと匈と書く。凶の字の凵印がくぼんだ穴をあらわし、×印はその中にはまり込んで交差してもがくことをあらわす。匈(キョウ)は空洞を外から包んださま。胸は「肉+音符匈」で、中に空洞をつつみこんだむね。肺のある胸郭はうつろな穴である、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(月(肉)+匈)。「切った肉」の象形と「胸に施された不吉を払う印(しるし)と人が腕を伸ばして抱きかかえ込んでいる象形」(「むね」の意味)から、「むね」を意味する「胸」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji282.html)。 「棟」(漢音トウ、呉音ツ・ツウ)は、 会意兼形声。「木+音符東(真ん中を通す)」。家の頂上を通す棟木、 とある(漢字源)。「東」は、 袋の真ん中を通した様を象った文字で、家の真ん中を貫く「むなぎ」を意味する、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A3%9F)、別に、 形声文字です(木+東)。「大地を覆う木」の象形と「袋の両端をくくった」象形(重い袋を動かすさまから、万物を眠りから動かす太陽の出る方角「ひがし」の意味だが、ここでは、「重」に通じ(「重」と同じ意味を持つようになって)、「おもい」の意味)から、家屋の中で最も重要な部分「むね」を意味する「棟」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1981.html)。因みに、「東」は、 象形。中に心棒を通し、両端をしぼった袋の形を描いたもの。嚢(ノウ 袋)の上部と同じ。太陽が地平線をとおしてつきぬけて出る方角。白虎通(後漢の班固の編集の書。正しくは『白虎通義』という)に、「東方者動方也」とある、 とある(漢字源)。別に、 象形。上下を縛った袋の形から。袋から棒が突き抜けるように、日が地平線から突き出る様、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%B1)、 象形文字です。「袋(ふくろ)の両端を括った」象形から、袋を動かし万物を眠りから動かす太陽の方角「ひがし」を意味する「東」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji148.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「水干」は、 水干の袍(ほう 束帯、それを略した布袴(ほうこ)、衣冠、日常着の直衣(のうし)などの上着)、 水干の狩衣(かりぎぬ)、 と言うように、 糊を用いず水張りにて干し、乾いてから引きはがして張りをもたせて仕立てた衣、 の意である(広辞苑・大言海・日本大百科全書)。しかし、専ら、 水干の狩衣(かりぎぬ)の略称、 として使われ、製法は、 狩衣と異ならず、 とある(大言海)。その形式は、 盤領(あげくび 首紙(くびかみ)の紐を掛け合わせて止めた襟の形式、襟首様)、身一幅(ひとの)仕立て、脇あけで、襖(あお)系の上着。襟は組紐(くみひも)で結び留め、裾は袴(はかま)の中に着込める、 とある(日本大百科全書)。「襖(あお)系の上着」とは、 日本古代の衣服の一種。ペルシア系の唐風上着、盤領(あげくび)で身頃(みごろ)が一幅(ひとの)と二幅(ふたの)のものがある。この上着の裾に、生地を横向きにして縫いめぐらした襴(らん)という部分がつかず、両脇があいた無襴衣(むらんい)である。もとは狩猟用に用いられ、平安時代に日常着として親しまれた狩衣(かりぎぬ)は狩襖(かりあお)ともいわれた、 とある(仝上)。「幅(の)」は、 布帛類の幅(はば)を表わす単位、現在、普通には鯨尺八寸(約30センチメートル)ないし一尺(約38センチメートル) をいう(精選版日本国語大辞典)、とある。 「狩衣」と「水干」の違いは、 狩衣は、袴の上に着したが、水干は袴の下に着こめて行動の便をはかったこと、 菊綴(きくとじ)を胸に一ヵ所、背面・左右の袖の縫い目に四ヵ所、ほころび易いところに、特に太い組糸を通して結び、時には結び余りを糸総(いとふさ)として、いずれも二つずつつけた(その形から菊綴という)、 胸紐の、前は領(えり)の上角にあり、後は領の中央にあり、二条を、右肩の上にて打ち違え捩(もじ)りて、胸にて結ぶ、 等々といったところにある(有職故実図典・広辞苑・大言海)。狩衣が、広く有司(ゆうし)に使用されて華麗に形式化されたのに対して、水干は専ら、庶民に用いられ、平安時代以降、朝廷に仕える下級官人が用いたが、平安時代後期には、衛府の下級武官となった武士も水干を用い、鎧の下にも着用した。水干姿もしだいに礼装化して、鎌倉時代から室町時代にかけて、武家は狩衣とともに礼装として着用されるに至る(広辞苑・日本大百科全書)。 「水干」姿の構成は、 烏帽子、 水干、 水干袴、 単(ひとえ)、 扇、 沓(くつ)または緒太(おぶと)、 からなるのを普通とし、五位以上は立烏帽子、六位以下は風折烏帽子という(有職故実図典)。「烏帽子」については、「しぼ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475131715.html)で触れた。なお、「緒太」は、 沓ぬぎに緒ぶと御ぬぎ候(石山本願寺日記・私心記(天文五年(1536)五月一二日)、 と、 裏の付いていない、鼻緒の太い草履、 とある(精選版日本国語大辞典)。 なお、「水干」の語源は、上記のように、 糊を用いず水張りにして干した衣、 とするのが大勢(広辞苑・大言海・南嶺遺稿・卯花園漫録・有職故実図典・岩波古語辞典)であるが、別に、 スイカンバカマ(水灌袴)の義か、灌には洗う意がある、 とするもの(筆の御霊)もあるが、意味はほぼ同じである。 ところで、「水干」の原型になった「狩衣」は、 もと狩のときに用いたから、 といい(広辞苑・岩波古語辞典)、 猟衣、 雁衣、 とも当てる(仝上)。 制、襖(あお)に似たれば、狩襖(かりあを)とも云ひ、袴を狩袴(かりばかま 指貫さしぬき)と云ひ、古くは、上下共に、布にて製しかば、布衣(ほい)、布袴(ほうこ)とも云へり、衣に袖括(そでくく)りあり、袴に裾括りあるは、放鷹、射猟の時、引き括るべきために、軽便なる服なれば、平時にも用いるやうになりしなり、 とある(大言海)。「指貫」は、 八幅(やの)のゆるやかで長大な袴で、裾口に紐を指し貫いて着用の際に裾をくくって足首に結ぶもの、 である(精選版日本国語大辞典)。 「狩衣」は、奈良時代から平安時代初期にかけて用いられた襖(あお)を原型としたものであり、 両腋(わき)のあいた仕立ての闕腋(けってき 両わきの下を縫い合わせないであけておく)であるが、袍(ほう)の身頃(みごろ)が二幅(ふたの)でつくられているのに対して、狩衣は身頃が一幅(ひとの)で身幅が狭いため、袖(そで)を後ろ身頃にわずかに縫い付け、肩から前身頃にかけてあけたままの仕立て方、 となっている(日本大百科全書)。平安時代後期になると絹織物製の狩衣も使われ、布(麻)製のものを、 布衣(ほい)、 と呼ぶようになり、 狩衣は、上皇、親王、諸臣の殿上人(てんじょうびと)以上、 が用い、 地下(じげ 昇殿することを許されていない官人)は布衣を着た。狩衣姿で参内することはできなかったが、院参(院の御所へ勤番)は許されていた(岩波古語辞典)、とある。ただ、近世では、有文の裏打ちを、 狩衣、 とよび、無文の裏無しを、 布衣、 とよんで区別した(デジタル大辞泉・広辞苑)。 狩衣姿の構成は、 烏帽子、 狩衣、 当帯(あておび 腰に帯を当てて前に回し、前身(衣服の身頃のうち、前の部分)を繰り上げて結ぶ)、 衣(きぬ 上着と肌着(装束の下に着る白絹の下着)との間に着た、袿(うちき)や衵(あこめ)など)、 単(ひとえ 肌着として用いた裏のない単衣(ひとえぎぬ)の略。平安末期に小袖肌着を着用するようになると、その上に重ねて着た)、 指貫(さしぬき)、 下袴(したばかま)、 扇、 帖紙(じょうし 畳紙(たとうがみ)、懐紙の意)、 浅沓(あさぐつ)、 とされている(有職故実図典)が、晴れの姿ではない通常は、衣、単は省略する(有職故実図典)。色目は自由で好みによるが、当色以外のものを用い、袷の場合は表地と裏地の組合せによる襲(かさね)色目とした。 なお、「畳紙(たとうがみ)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/425358088.html)については、触れた。 「浅沓」は、 深沓(ふかぐつ)、 に対する名称で、鳥皮履(とりかわのくつ)の変化したもので、 足の爪先から甲にカけて差し込むだけの浅い構造、 から由来する名称(有職故実図典)で、古代、中世は、 前方が丸く盛り上がり、後方が細くなった舟形のもので、皮に黒漆を塗った烏皮履(くりかわのくつ)のほか、木製に黒漆を塗った、いわゆる木履(もくり)が使われた。内部の底敷きとして、白の平絹や白の綾(あや)が張られたが、公卿(くぎょう)以上のものには、その表袴(うえのはかま)と同質の浮織物が用いられた、 とあり(日本大百科全書)、「深沓」は、公家の外出用で、激しい雨や深雪のときの所用とされている。 足首から上の立挙(たてあげ)と呼ぶ筒の部分も含めて,すべて牛の革製で,表面を黒漆で塗りこめ,袴の裾口にふれる立挙の縁には染革をめぐらしている、 とあり(世界大百科事典)、庶民はわら製の深沓(履)を用いた。 参考文献; 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「白星の五枚甲の、吹返(ふきかえし)に日光、月光(がっこう)の二天子を金と銀とを以て彫り透かして打ったるを、猪頸に着なし(太平記)、 とある、 猪頸に着なし、 は、 兜を少し後ろにずらして深くかぶり、 の意とある(兵藤裕己校注『太平記』)。 「猪頸」は、 猪首、 とも当て、 イクビノヒト(日葡辞書)、 のように、 猪の首に似ている、 ところから(岩波古語辞典)の、 短い首、ずんぐりした首、 意だが、 旗さしは黒かはをどしの鎧に、甲猪頸に着ないし(平治物語)、 と、 猪首に着なして、 猪首に着ないし、 と使うときは、 兜などのかぶりものをあおむけて、深くかぶること、 また、 着物など襟を高めにして着て首が短く見えるさま、 という意味で使う(精選版日本国語大辞典)。これは、ただ、そういう着方、被り方をしているという状態表現だが、兜を猪首に着るのは、 戦いにあたって視界をよくするためのかぶり方、 で、 首筋を覆う錏(しころ)が深くかかって首が短く見える、 ためだが、 それは、額が露出して危険なので、勇敢さを示すことにもなる、 という価値表現の含意がある。いくさの場でない、通常は、 寒気や雨滴が首筋にかかるのを防ぐためにするかぶり方、 とある(精選版日本国語大辞典)。 ただ、 古代の兜の錏(しころ)は大にして、肩まで覆ひ、頸のくびれなし、猪の頸の如し、 とする説もある(大言海)。
確かに、中世の大鎧と比較すると、そう見えなくもないのだが。 「鶺鴒(せきれい)」は、 鶺鴒(にはくなぶり)有りて、飛び来たりてその首(かしら)尾を揺(うごか)し(神代紀)、 と、 にわくなぶり、 にはくなふり、 と訓ませ、 庭くなぶり、 などと当てた(精選版日本国語大辞典)「セキレイ」の古名である。和名類聚抄(平安中期)に、 鶺鴒、爾波久奈布里、 とあり、本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)にも、 鶺鴒、爾波久奈布利、 とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 鶺鴒、ニハクナブリ、トツギヲシヘドリ とある。だから、日本書紀には、「鶺鴒(にはくなふり)」の別訓として、 とつぎをしへとり、 つつなはせとり、 つつまなはしら、 とつきとり、 とある(日本書紀・兼方本訓)し、 ももしきの大宮人はうづらとり領巾(ひれ)取り掛けて鶺鴒(まなばしら)尾行き合へ(すそを引いていきかわしの意)(古事記)、 と、 まなばしら、 ともいい、また、 アノ鶺鴒を、にはくなぎ、庭たたき、戀教鳥(こひをしへどり)とも云ふ(近松門左衛門「日本振袖始」)、 と、 にはくなぎ、 戀教鳥(こひをしへどり)、 ともいい(大言海・デジタル大辞泉)、 胡鷰子(あめ)、鶺鴒(つつ)、千鳥、真鵐(ましとと 麻斯登登)何(な)ど開(さ)ける利目(とめ)(古事記)、 とある、 つつ、 も、セキレイの古名とされる(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)。「鶺鴒」は、他にも、 イシナギ、 イモセドリ、 イシクナギ、 イシタタキ(石叩き・石敲き)、 ニワタタキ(庭叩き)、 イワタタキ(岩叩き)、 イシクナギ(石婚ぎ)、 カワラスズメ(川原雀・河原雀)、 オシエドリ(教鳥)、 ツツナワセドリ(雁を意味することもある)、 ミチオシエドリ、 等々多くの異名を持つ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%82%A4・精選版日本国語大辞典)、とされる。 とつぎをしえどり(嫁ぎ教え鳥)、 戀教鳥(こひをしへどり)、 と呼ぶのは、 二柱(ふたはしら 伊弉諾尊、伊弉冉尊)……時に、鶺鴒(にわくなぶり)と云ふ鳥の、尾を土に敲きけるを見給ひて、始めて嫁することを習うて(太平記)、 とあるように、 日本書紀・神代巻の一書に、イザナギ、イザナミがこの鳥の動作を見て男女交合を知ったとされるところからのようである(岩波古語辞典)。 「にわくなぶり」は、 庭揺(にはくな)ぎ觸(ぶり)の義(大言海)、 庭来狎触の義(和訓栞)、 ニハは庭、クナは数揺、フリは触れの義(箋注和名抄)、 ニハクリナブル(庭砂嬲)の義(名言通)、 等々あるが、 庭で尾を振り動かすものの意、 であり(岩波古語辞典)、「鶺鴒」の特色である、 長い尾を上下に動かす、 ところと、その馴れ馴れしさから名づけているのかもしれない。 「鶺」(漢音セキ、呉音シャク)は、 会意兼形声。「鳥+音符脊(せぼね)」。背筋が奇麗な鳥の意、 とある(漢字源)。 「鴒」(漢音レイ、呉音リョウ)は、 会意兼形声。「鳥+令(きよらか)」、 とのみある(仝上)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 車輾(きし)りて横軸を摧(くだ)き、呉牛喘ぎて舌を垂る(太平記)、 にある、 呉牛喘ぎ舌を垂る、 は、 呉牛月を見て喘ぐ、 を出典とし、 中国南方の呉の牛が、暑さに月を日と見誤って喘ぐ、 の意と注記する(兵藤裕己校注『太平記』)。 呉牛、 は、 水牛の異称、 とあり(広辞苑)、 呉の地に多く産したから、 とも(仝上)、 中国の南方、呉の地方に多く棲息するところから、 ともある(精選版日本国語大辞典)。中国では、 8000〜9000年前から家畜化されていた、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%A6)ので、棲息ではなく、「家畜」としての「水牛」の生産地というべきだろう。 「呉牛月を見て喘ぐ」は、 呉牛喘月、 と四字熟語ともなっているが、出典は『世説新語』(せせつしんご 五世紀、南朝宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集)言語篇の、冀州刺史・尚書令・司隷校尉を歴任した西晋の文官・満奮(マンフン)の故事、 滿奮畏風、在晉武帝坐、北窻作琉璃屏、實密似疎、奮有難色、帝笑之、奮荅曰、臣猶呉牛見月而喘(滿奮風を畏る、 晉の武帝(司馬炎)坐に在り、北窓に琉璃屏(ルリヘイ)を作る、実は密なれども疎なるに似たり、奮、難色有り、帝之を笑ふ、奮答へて曰く、臣は猶呉牛の月を見て喘ぐがごとし)、 に由来する(http://fukushima-net.com/sites/meigen/1614・大言海)。註に曰く、 今之水牛、唯生江淮閨i長江と淮河(わいが)の下流域の間)、故謂之呉牛也、南土多暑、而此牛畏熱、見月疑是日、所以見月則喘、 とある(大言海)。 昼間太陽の暑さに苦しんでいるため、夜月を見ても太陽と思って喘ぐ、 意で(広辞苑)、 似たるものを真物と見誤りて畏る、 意味である(大言海)。 蜀犬日に吠ゆ(霧の多い蜀地方でまれに日が出ると犬が怪しんで吠える、吠日之怪(はいじつのあやしみ)ともいう)、 は同趣の言い回しになる(広辞苑)し、 思い過ごして取り越し苦労をする、 という意味では、 羹に懲りて膾を吹く(「熱い羹に懲りて、冷たい膾を吹く」「懲羹吹膾(ちょうこうすいかい)」ともいう)、 羹に懲りたる者韲(和)えを吹く、 も、 似たるものを真物と見誤りて畏る、 意味では重なる。また、「杞憂」のもとになったのは、 杞人天憂(きじんてんゆう)、 つまり、 杞人天を憂う(杞の国に天が崩れ落ちたらどうしようと心配して、夜も眠れず飯ものどを通らなかった人がいたという故事)、 で(故事ことわざの辞典)、似た意味の外延にある。 「呉」(漢音ゴ、呉音グ)は、 会意。「口+人が頭をかしげるさま」。人が頭をかしげて、口をあけ笑いさざめくさまを示し、娯楽の娯の原字。古くから国名に当てる、 とある(漢字源)。別に、 口と、夨(しよく 頭をかたむけた人)とから成り、顔をそむけるほどの大声の意を表す、 ともある(角川新字源)。ただ、口を開けて笑うさま(藤堂明保)とは別に、 祭器を担いで踊る様(白川静)、 との解釈もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%89)ので、 象形文字です。「頭に大きなかぶりものをつけて、舞い狂う」象形から「やかましい」、「はなやかに楽しむ」を意味する「呉」という漢字が成り立ちました、 との説になる(https://okjiten.jp/kanji1685.html)。 「牛」(漢音ギュウ、呉音グ、慣用ゴ)は、 象形。牛の頭部を描いたもの。ンゴウという鳴き声をまねた擬声語であろう、 とある(漢字源)。別に、 象形。羊(の象形)と区別し、前方に湾曲して突き出た角のあるうしの頭の形にかたどり、「うし」の意を表す、 とある(角川新字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 年未だ十五に過ぎざる童男(どうなん)丱女(かんじょ)六千人を集め(太平記)、 とある、 丱女、 は、漢語であり、わが国では、 かんにょ、 とも訓ます。 総角(あげまき)に結った年若い女、 というより、 丱は、少女の髪型(あげまき)の意、 と注記があり(兵藤裕己校注『太平記』)、 童女(どうじょ)、 を指す(広辞苑)。 「丱」(漢音カン、呉音ケン)は、 象形。二枚の板に横軸を通した形を描いたもので、貫くの意を示す。この字は關(関 かんぬき)の字の中の部分に含まれる、 とあるが(漢字源)、 あげまきにむすびたる象形文字(字源)、 髪を左右の二束に分け、かんざしで止めた様の象形文字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B1)、 とある説の方が妥当な気がする。「丱」自体、 前髪を二つにわけて巻き、かんざしを通した、子供や少女の髪型、 つまり、和風に言う、 あげまき、 の意であり、 つのがみ(総角)、 の意であり、 丱頭(かんとう あげまき)、 丱角(かんかく あげまき、転じて幼い童)、 丱女(かんじょ あげまきした少女、幼女)、 丱童(幼童 あげまきしたわらべ)、 という言葉がある(字源・漢字源)のだから。 総角(あげまき)したる童子を、 丱童、 総角したる少女を、 丱女(かんにょ)、 と云ふ(大言海)、とするのは上記の理由である。『詩経』齊風・甫田篇に、 総角丱兮(クワンタリ)、 総角聚兩髪也、 とあり、朱傳に、 丱、兩角貌、 とある(字源・大言海)。 「みずら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484777081.html)で触れたように、 角髪、 角子、 鬟、 髻、 などと当て(広辞苑)、 美豆羅、 美豆良、 とも書いた(日本大百科全書)、大和時代に始まる、 男子の成人に達したもの、 が結った髪型(岩波古語辞典)である、 みずら(みづら)、 の変型である(ブリタニカ国際大百科事典)。のちに、 髪を上げて巻く、 ところから、 あげまき(総角・揚巻)、 と呼ばれ、 古の俗、年少児の年、十五六の間は束髪於額(ひさごはな)す。十七八の間は、分けて、総角にす(書紀)、 と、 髫髪(うなゐ)にしていた童子の髪を十三、四を過ぎてから、両分し、頭上の左右にあげて巻き、輪を作ったもの、はなりとも、 とあり(岩波古語辞典)、 髪を中央から左右に分け、両耳の上に巻いて輪をつくり、角のように突き出したもの。成人男子の「みづら」と似ているが、「みづら」は耳のあたりに垂らしたもの、 とある(精選版日本国語大辞典)。「髫髪(うなゐ)」は、 ウナは項(うなじ)、ヰは率(ゐ)、髪がうなじにまとめられている意で、十二三歳まで、子供の髪を垂らしてうなじにまとめた形、 を言い(岩波古語辞典)、「束髪於額(ひさごはな)」は、 厩戸皇子、束髪於額(ヒサコハナ)して(書紀)、 とあり、辞書には載らず、はっきりしないが、「ヒサゴバナ(瓠花・瓢花)の項に、 上代の一五、六歳の少年の髪型の一つ。瓠の花の形にかたどって、額で束ねたもの、 とある(日本国語大辞典)。ただ、 ひさご花は後世に伝わっていない、 という(文政二年(1819)「北辺随筆」)。 なお、「をなご」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483799792.html)で触れたように、「女」(漢音ジョ、呉音ニョ、慣用ニョウ)は、 象形、なよなよしたからだつきの女性を描いたもの、 とある(漢字源)が、 象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す、 とあり(角川新字源)、 象形文字です。「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形から、「おんな」を意味する「女」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji32.html)。甲骨文字・金文から見ると、後者のように感じる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 亡国の先兆、法滅の表事、誰人かこれを思はざらん(太平記)、 にある、 表事、 は、あまり辞書にも載らない(手元の大言海・岩波古語辞典・明解古語辞典には載らない)が、 前兆、 と注記される(兵藤裕己校注『太平記』)。 素戔烏の尊に切り殺されたてまつし大蛇、霊劔を惜しむ心ざしふかくして、八のかしら八の尾を表事として、人王八十代の後、八歳の帝となって霊劔をとりかへして(平家物語)、 でも使われるが、 ひょうじ(表示)、 の当て字のようである(精選版日本国語大辞典)。 書生が身、忽に金色に変じたり。人皆、此を見て、此、偏に金粟(こんぞく=金粟如来)世界に生ぜる表示也と云て(今昔物語)、 と同じ使い方で、 きざし、印、兆候、表事、標示、 の意となり(精選版日本国語大辞典)、 ひょうし、 とも訓ませるが、それは、 意思表示、 のように、 外部へ表し示すこと、 の意ともなり(広辞苑)、今日では、 図表にして示すこと、 の意で使う。本来は、どうやら、 物事を表すしるし、 つまり、 きざし、 の意で使ったようである。「あらわれる」意の漢字には、 見、音はゲン、隠れたるものが出てくる義、露顕の義なり、 現、見と音義同じ、現在は、見在なり、 顯(顕)、光也、見也、明也などと註す、照り輝く程にあらわるるなり、高位高官に在る人を顕達、顕者などと云ふもこの義なり、 著、あらはる、あらはす、いちじるしなどと訓む、明らかに見ゆる義、著述、著姓などと連用す、 形、現也と註す、隠れたものの出現して形の観ること、大学「誠於中形於外」、 暴、日に晒す義なり、暴露とは、昼は日に照らされ、夜は露にうたれるをいふ。転用して、外へあらわし出す義とす、 露、むき出しにする義、史記「暴兵露師、十有餘年」、 表、うはがわへ出してあらはすなり、世説「謝之寛容、顛表於貌」、旌に似て用法広し、 彰、一に章に作る、同じ明也、著也と註す、物のあや模様などの、明らかに外に見ゆる義、書経「嘉言孔彰」、 旌、ハタと訓む。もと、はたを立てて功徳を人に知らする義より転用す、 等々と区別している(字源)。 「表」(ひょう)は、 会意。「衣+毛」で、毛皮の衣をおもてに出して着ることを示す。外側に浮き出る意を含む、 とあり(漢字源)、「表裏」の「おもて」であるが、「表現」の「あらわす」意でもある。皮衣では、毛の付いている部分が外側になることから、「おもて」「あらわす」意を表す(角川新字源)ことになる。ただ、別に、 会意文字です(衣+毛)。「衣服のえりもと」の象形と「毛」の象形から毛皮のおもて着(上着)、すなわち「おもて」を意味する「表」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji534.html)。 「事」(漢音シ、呉音ジ、慣用ズ)は、 会意。「計算に用いる竹のくじ+手」で、役人が竹棒を筒にたてるさまを示す。のち人の司る所定の仕事や役目の意に転じた。また仕(シ そばに立ってつかえる)に当てる、 とあり(漢字源)、 会意。「㫃(旗の原字)」の略体+「中(記録を入れる竹筒)」+「又(手)」で記録したものを差し出すさま。「史」「吏・使」と同系。筮竹+「手」とも、 とあるのは(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%8B)、同趣旨と見られるが、別に、 形声。意符史(記録官)と、音符之(シ)の省略形とから成る。記録官の意を表す。もと、史(シ)・吏(リ)・使(シ)に同じ。一説に、象形で、文書をはさんだ木の枝を手に持つ形にかたどるという、 とも(角川新字源)、 象形文字です。「神への祈りの言葉を書きつけ、木の枝に結びつけたふだを手にした」象形から、「祭事にたずさわる人」を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「しごと、つかえる」を意味する「事」という漢字が成り立ちました。 とも(https://okjiten.jp/kanji491.html)ある。 「示」(漢音キ・シ、呉音ジ・ギ)は、 象形。上の「一」はものを、下部はものを乗せる高杯の象であり、高杯にものを乗せて「示す」というのが、現在最も有力な説。これに関連して、「不」は高杯の上にものが無いので「あらず」の意とされる(但し、「不」は甲骨文などから「つぼみ」の象形とする説が有る)。他説に、「示」は「光」の変字だとするものがあるが、説得力に乏しい、 と諸説あるようだが(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A4%BA)、見た限りでは、 象形。神霊の降下してくる祭壇を描いたもの。そこに神々の心がしめされるので、しめす意となった。のち、ネ印に書かれ、神・社など、神や祭りに関することをあらわす、 とか(漢字源)、 神の座に立てて神を招くための木の台の形にかたどる、 とか(角川新字源)、 「神にいけにえをささげる台」の象形から、「祖先の神」を意味する「示」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji821.html)、 と祭壇説が大勢である。また「しめす」意については、 「指(シ)」に通じ(同じ読みを持つ「指」と同じ意味を持つようになって)、「しめす」の意味も表すようになりました、 との説もある(仝上)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 嶮しき山の習ひとしとて、余所(よそ)は見えて、麓は見えざりければ(太平記)、 にある、 余所、 は、 他所、 外、 とも当てる(広辞苑)が、 天雲の外(よそ)に鴈(雁)鳴き聞きしより薄垂(はだれ)霜雫(しもふり)寒しこの夜は(万葉集)、 いつしかも見むと思ひし粟島を与曾(ヨソ)にや恋ひむ行くよしをなみ(仝上)、 昔こそ外(よそ)にも見しか吾妹子が奥つ城と思へば愛(は)しき佐保山(仝上)、 など、 万葉集の「よそ」に「余所(処)」の表記が一例もないところから、「余所」は中世以降の当て字と思われる、 とある(日本語源大辞典)。「よそ」は、 かけ離れていて容易に近寄りがたい場所、またそのような関係の意。転じて、全く無関係であること、局外者の意。類義語ホカは中心点からはずれた端の方の所の意、 とある(岩波古語辞典)。だから、 遠き所→疎遠な事→自分の外のもの、 といった意味の転化をした(大言海)ものと思われ、「ほか」と重なっていく。なお、 他所(たしょ)、 は漢語である(字源)。 風発於他所(漢書・五行志)、 と、 他の場所、 という状態表現の語である。それを「よそ」に当てはめたとき、価値表現に転じている。 こうみると、語源的に、 ヨソ(余所・他所)の義(名語記・言元梯・国語の語根とその分類=大島正健)、 とするのは、如何なものか。とはいえ、 イヤセ(弥脊)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、 形容詞ヤサシの語幹ヤサから(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 というのはしっくりこない。むしろ、説明的すぎるが、 ヨ(関係のない)+所、つまり関係のない場所、 ヨ(横・避く)+ソ(背・外)、横の外、避くべきところの意、 とする(日本語源広辞典)ほうが、意味的にはあっている。ただ、 ソ、 は、 セ(脊)の古形、 なので、「よそ」の「そ」は該当するが、「よ」は分からない。 「よそ」は、 かけ離れて関係なない所、 という意で、 玉桙(ほこ)の道の行き逢ひに天雲の外(よそ)のみ見つつ言問はむ縁(よし)のなければ心のみ咽(む)せつつあるに(万葉集)、 と、 位置的に近寄れない所、 という意や、 光なき谷には春もよそなれば咲て疾(と)くも散るもの思ひもなし(古今集)、 と、 縁がない、 という意や、 御涙に咽ばせ給ふとばかりこそ、御車のよそへは聞へけれ(保元物語)、 と、 内に対して外(そと)、 の意で使われるが、ここまでは、 外、 の意である。しかし、 貝をおほふ人の、我が前なるをばおきて、よそを見渡して、人の袖のかげ、膝の下まで目を配る間に(徒然草)、 と、 他の領分、 の意で、 余所、 を当てる意味が出てくる。また、 相手と直接つながらない人間関係、 という意味で、 よその人漏り聞けども、親に隠すたぐひこそは昔物語にもあれど(源氏物語)、 と、 血縁関係がない、 意や、 この大将の君の、今はよそになり給はむなむ、飽かずいみじく思ひ給へらるる(源氏物語)、 と、 疎遠な関係、 の意や、 さればよ、なほよその文通はしのみにはあらぬなりけり(源氏物語)、 と、 男女の関係がないこと、 の意や、 まして女はさる方に絶えこもりて、いちじるくいとほしげなるよそのもどきを負はざらむなむ良かるべき(源氏物語)、 と、 世間一般、 の意までは、 外、 の意だが、 これほどにもてなし興しあへるに、身の力なくて、そこばく多かる殿原の中に、われ一人よそなるが(古今著聞集)、 となると、 仲間はずれ、 の意で、 余所、 の当て字に当たる意味になる。で、 よろづの物まねは心根、鬼の能、ことさら当流に変れり。拍子も、同じものを、よそにははらりと踏むを、ほろりと踏み、よそにはどうど踏むを、とうど踏む(「申楽談儀(1430)」)、 申さばそちとは相弟子同前、夫故余所には思はねど(歌舞伎・「小袖曾我薊色縫(十六夜清心)(1859)」)、 と、 余所、 が主流になる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。
「餘(余)」(ヨ)の字源は、「余」は、 天の益人(ますひと)らが過ち犯しけむ雜々(くさぐさ)の罪は、天津罪(あまつつみ)と、畔放(あはなち)、溝埋(みぞうみ)、樋放(ひはなち)、頻蒔(しきまき)、串刺(くしざし)、生剥(いけはぎ)、逆剥(さかはぎ)、屎戸(くそへ)、許多(ここだ)くの罪を天つ罪と法(のり)別けて(延喜式(927)祝詞)、 にある、 許多(ここだ)く、 は、普通、 幾許く、 と当てる。「許多」は、漢語で、 忽與郷曲歯、方驚年許多(范成大詩)、 きょた、 と訓み、 あまた、 甚だ多し、 の意味である(字源)。ただ、「許多」の訓みは、 あまた 56.8% ここだ(く) 13.5% きよた 5.4% とある(https://furigana.info/w/%E8%A8%B1%E5%A4%9A)、「ここだく」と訓ませる例がないわけではないようだ。 なお、「ここだく」に当てる、「幾許」も、漢語で、 河漢清且浅、相去復幾許(古詩)、 と、 ききょ、 と訓み、 いくばく、 の意で、 幾何(きか)、 若干(じゃっかん)、 と同義であり、「いくばく」は、また、 幾許 幾何、 とも当てる(仝上)。 「ここだ」(幾許)は、 こんなに数多く、 こんなに甚だしく、 の意で、 夕影に来(き)鳴くひぐらし幾許(ここだ)くも日ごとに聞けど飽かぬ声かも(万葉集)、 と、 ココダに副詞を作る語尾ク、 のついた、副詞、 ここだ(幾許)く、 も、同じ意味になる。「ここだ」は、 ココバ・ココラより古い形、ダは、イクダ(幾)のダに同じく、ラに通じる。自分の経験内のものについて、程度の甚だしいのにいう、 とあり(岩波古語辞典)、この「ここだ」は、 秋の夜を長みにかあらむ何ぞ許己波(ココバ)寝(い)の寝(ね)らえぬも独り寝(ぬ)ればか(万葉集)、 と、 ここば(幾許)、 とも、 もみぢばのちりてつもれる我やどにたれをまつむしここらなくらん(古今集)、 と、 ここら(幾許)、 と訛り、同じく副詞の用法も、 渚にはあぢ群騒き島廻(み)には木末(こぬれ)花咲き許己婆久(ココバク)も見の清(さや)けきか(万葉集)、 と、 ここばく(幾許く)、 とも言う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。「ここば」は、 バはソコバ・イクバクのバに同じ。量・程度についていう接尾語。ココバは、話し手の身近な存在、または話し手に関係深い事柄について、多量である、程度が甚だしいのにいう語。平安時代以後はここら、 とあり(岩波古語辞典)、「ここら」は、 ラは幾らのラ、ココバの平安時代以後の形、 とあるので、 ここだ→ここば→ここら、 と転訛したことになる。さらに、 幾許、 は、 はねかづら今する妹は無かりしをいづれの妹そ幾許(そこば)恋ひたる(万葉集)、 と、 そこば、 とも訓ませ、「く」をつけた副詞、 そこばく、 は、また 若干、 と当てる。この、 そこば—そこばく、 は、 ここだ―ここだく、 ここば―ここばく、 の関係に等しい(精選版日本国語大辞典)。 源氏殿上ゆるされて、御前にめして御覧ず。そこばく選ばれたる人々に劣らず(宇津保物語)、 と、 数量などを明らかにしないで、おおよそのところをいう、いくらか。いくつか、 の意と、 そこばくの捧げ物を木の枝につけて(伊勢物語)、 と、 数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表わす、 意とがある。前者は、「幾許」と当てても、「若干」の意に転じている。さらに、 幾許、 を、 わが背子と二人見ませば幾許(いくばく)かこの降る雪のうれしからまし(万葉集)、 と、 いくばく、 とも訓ませ、また、 幾何、 とも当てる(広辞苑)。「いくばく」の「ば」も、やはり、 量・程度を示す接尾語、 である(岩波古語辞典)。 こうみると、 ここだ(く)→ここば(く)→ここら、 と、 そこば(く)、 いくばく、 とは明らかに音韻的なつながりがあるとみられるが、「ここだ」を、 ココダクの下略(大言海)、 ココは古韓語コ(大)の畳語で、多大の意。ダはタダ(唯)の原語で接尾語(日本古語大辞典=松岡静雄)、 ココノ(九)からの分義(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 とし、「そこばく」を、 ソ、コは其(そ)、此(こ)にて、ソコ、ココなり、バクはばかり(程度の意、そこはか、いくばく、いかばかり、万葉集「わが背子と二人見ませば幾許(いくばく)かこの降る雪のうれしからまし」「幾許(いかばかり)思ひけめかも」)にて、そこら、ここら程の意(今も五十そこそこの年などと云ふ、是なり)、 としたり(大言海)、「いくばく」を、 幾許(イクバカ)の転、かがまる、くぐまる、 とする(仝上)ばかりで、相互の関連を見るものは、 これほどまでの、こんなにもの意のカクバカリの語形が変化したもの、 とする(語源を探る=田井信之)のみだ。その説を詳しく見ると、そのもとは、 斯く許りすべなきものか世の中の道(山上憶良)、 の、 これほどまでに、 こんなにも、 の、 斯く許り、 で、 バカリ(許り)は「程度・範囲」(ほど、くらい、だけ)、および「限度」(のみ、だけ)を表す副詞である。カリ[k(ar)i]の縮約で、バカリはバキに変化し、さらに、バが子交(子音交替)[bd]をとげてダキ・ダケ(丈)に変化した。「それだけ読めればよい」は程度を示し、「君だけが知っている」は限定を示す用法である。 ばかり(許り)は別に「バ」の子交[bd]でダカリ・ダカレになり、「カレ」の子音が転位してダラケ(接尾語)になった。 カクバカリ(斯く許り)という副詞は、カ[ao]・ク[uo]の母交(母音交替)、カリ[k(ar)i]の縮約でココバキ・ココバク(幾許)になり、さらに語頭の「コ」が子交[ks]をとげてソコバク(許多)に転音した。すへて、「たいそう、はなはだ、たくさん」という意の副詞である。「ココバクのしゅうの御琴など、物にかき合わせて仕うまつる中に」(宇津保物語)、「この山にソコバクの神々集まりて」(更級日記)。 ココバク(幾許)が語尾を落としたココバ(幾許)は、「バ」が子交[bd]をとげてココダ(幾許)になり、さらに子交[dr]をとげてココラに転音した。「などここば寝(い)のねらえぬに独りぬればか」(万葉)、「なにぞこの児のここだ愛(かな)しき」(万葉)、「さが尻をかきいでてここらの公人(おおやけびと)に見せて、恥をみせむ」(竹取)。「幾許」に見られるココバ[ba]・ココダ[da]・ココラ[ra]の子音交替は注目すべきである。 ココダク(幾許)は、語尾の子交[ks]、ダの子交[dr]の結果、ソコラクに転音した。「このくしげ開くな、ゆめとそこらくに堅めしことを」。 ココラは語頭の子交[ks]]でソコラに転音した。「そこらの年頃そこらの黄金給ひて」(竹取)。 スコシバカリ(少し許り)は、「シ」の脱落、カリ[k(ar)i]の縮約で、スコバキ・ソコバキ・ソコバク(若干)に転音した。ソコバク(許多)とは同音異義語である。「いくらか、多少」の意味で、「そこばくの捧物を木の枝につけて」(伊勢)という。 イカバカリ(如何許り)は、カリ[k(ar)i]の縮約でイカバキになり、イカバクを経てイクバク(幾許)に転音した。「どれくらい、何ほど」の意の副詞として「わがせこと二人見ませばいくばくかこの降る雪のうれしからまし」(万葉)という。語尾を落としたイクバは、バの子交[bd]でイクダ(幾許)、さらにダの子交[dr]でイクラ(幾ら)になった。すべて万葉集にみえている、 とある(日本語の語源)。 ラは幾らのラ、ココバの平安時代以後の形、 ここだ(く)→ここば(く)→ここら、 という用例の時代変化と多少の齟齬はあるが、 斯く許り→ココバク(幾許)→ソコバク、ココバ(幾許)→ソコバ、ココダク(幾許)→ソコダク、ココダ(幾許)、 少し許り→スコバキ→ソコバキ→ソコバク(若干)、 イカバカリ(如何許り)→イカバキ→イカバク→イクバク(幾許)、 といった大まかな音韻転訛の流れをみることができる。 ある意味で、「ここだ」(幾許)が、指示代名詞「こ」の系統に属する語、 というのはある(精選版日本国語大辞典)し、だから、 身近な見聞、体験の中に、程度のはなはだしいものを発見したときの、その程度のはなはだしさをさしていう、 のである(仝上)のは、 斯く許り、 という、 これほどまでに、 こんなにも、 という出発点の語義の外延ということなのだろう。その限りで、「そこばく」を、 ソ、コは其(そ)、此(こ)にて、ソコ、ココなり、 とする説(大言海)は、「ここだ」(く)の、「ここ」にも当てはまる。 「幾」(漢音キ、呉音ケ)は、 会意。幺二つは、細く幽かな糸を示す。戈は、ほこ。幾は「幺二つ(わずか)+戈(ほこ)+人」で、戈の刃が届くさまを示す。もう少し、近いなどの意を含む。わずかの幅をともなう意からはしたの数(いくつ)を意味するようになった、 とある(漢字源)が、別に、 会意。𢆶(ユウ かすか)と、戍(ジュ まもり)とから成る。軽微な防備から、あやうい意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です。「細かい糸」の象形と「矛(ほこ)の象形と人の象形」(「守る」の意味)から、戦争の際、守備兵が抱く細かな気づかいを意味し、そこから、「かすか」を意味する「幾」という漢字が成り立ちました。また、「近」に通じ(「近」と同じ意味を持つようになって)、「ちかい」、「祈」に通じ、「ねがう」、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「いくつ」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1288.html)。 「許」(漢音キョ、呉音コ)は、 会意兼形声。午(ゴ)は、上下に動かしてつくきね(杵)を描いた象形文字。許は「言(いう)+音符午」で、上下にずれや幅をもたせて、まあこれでよしといってゆるすこと、 とある(漢字源)が、「言」と組んでいることから、 相手のことばに同意して聞き入れる、「ゆるす」意を表す、 という解釈もあり得る(角川新字源)。 別に、 会意兼形声文字です(言+午)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「きね(餅つき・脱穀に使用する道具)の形をした神体」の象形から、神に祈って、「ゆるされる」、「ゆるす」を意味する「許」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji784.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 用心の最中、なまばうたる人の疲れ乞ひするは、夜討ち強盗の案内見る者か(太平記)、 にある、 なまばうたる、 は、 うさんくさい、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。 生ばうたる、 と当てる、 生ばむ、 の転訛である。「生ばむ」は、 なんとなく怪しく見える、 どことなくうさんくさい、 意である(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。あまり用例がなく、太平記の上記がよく使われる。 「生ばむ」は、 生+ばむ、 である。「ばむ」は、 黄ばむ、 気色ばむ、 のように、 物の性質や状態を表わすような名詞、またはこれに準ずる動詞連用形や形容詞語幹などに付き、これを動詞化する。そのような性質をすこしそなえてくる、また、そのような状態に近づいてくるの意を添える、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 …のようすが現れる、 …のようすを帯びる、 などの意を表すが、古くは、 鼻の先は赤みて、穴のめぐりいたく濡ればみたるは(今昔物語)、 なよらかにをかしばめる事を、好ましからずおぼす人は(源氏物語)、 などと、 動詞の連用形、形容詞の語幹の下にも付いて動詞を作り、そのような性質を少し帯びる、そのような状態に近づいてくる、という意を表す、 とある(デジタル大辞泉・広辞苑)。 「なま」は、「なま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484932208.html)で触れたように、 生兵法、 なま女房、 なま侍、 なま道心、 なま聞き、 などと接頭語で使うときは、 未熟、不完全、いい加減、の意、それらの状態に対して好感をもたない場合に使うことが多い、 とある(岩波古語辞典)。今日、 生放送、 と使うのは、名詞「なま」の、 生野菜、 というときの、 動植物を採取したままで、煮たり、焼いたり、乾かしたりしないもの、 つまり、 そのままの状態、 の意から来ていると思われる。「なまじっか」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441764979.html)の「なまじひ(い)」も、 ナマは中途半端の意。シヒは気持ちの進みや事の進行、物事の道理に逆らう力を加える意。近世の初期まで、ナマジヒ・ナマシヒの両形あった。近世ではナマジとも、 とある(岩波古語辞典)し、 なまなか(生半)、 も、 中途半端、 の意になる。 なまめく、 は、 生めく、 艷めく、 と当てるが、この場合は、 ナマは未熟・不十分の意。あらわに表現されず、ほのかで不十分な状態・行動であるように見えるが、実は十分に心用意があり、成熟しているさまが感じとられる意。男女の気持のやり取りや、物の美しさなどにいう。従って、花やかさ、けばけばしさなどとは反対の概念。漢文訓読系の文章では、「婀娜」「艷」「窈窕」「嬋娟」などをナマメク・ナマメイタと訓み、仮名文学系での用法と多少ずれて、しなやか、あでやかな美の意。中世以降ナマメクは、主として漢文訓読系の意味の流れを受けている、 とあり(岩波古語辞典)、「なまめく」は、本来は、ちょっと「奥ゆかしい」ほのかに見える含意である。 「なま」を、副詞として、 御調度どもをいと古体になれたるが、昔様にてうるはしきを、なま、物のゆゑ知らんと思へる人、さる物要(えう)じて(源氏物語)、 と使う場合も、 未熟で中途はんぱである意を表わし、なまじっか、すこしばかり、 の意で使うし、「なま」を、名詞で使う場合も、 なまなる物熟したる物が目前にあまるほどあり(「古活字本荘子抄(1620頃)」)、 と、 植物や動物が生きて生活していた時と同じであること。それらの加工していない状態をいう。また、そのもの。成熟していない状態にもいう、 とあり、おそらくそれをメタファに、 くちばしも翼もなくて、なまの天狗なるべし(御伽物語)、 と、 技術や経験・物事の程度などが不十分でいい加減であるさま、 をいう(精選版日本国語大辞典)のに使ったり、 やい、与三、なま言ふなえ言ふなえ(与話情浮名横櫛)、 と、 生意気、 の意では使うが、「なま」には、 なまばむ、 の、 怪しくみえる、 うさんくさい、 意味はない。強いて言えば、「なま」のもつ、 未熟、 中途半端、 いい加減、 の意の延長で、 いかがわしい、 意はあり得るし、例えば、「なまぐさし(生臭し・腥し)」で、 洞の内なまぐさき事かぎりなし(今昔物語)、 と、 あやしげな臭気がある、 意で使う(岩波古語辞典)のからみて、 正体の定かでない、 まっとうでない、 という意味と見ていい。 「なま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484932208.html)でふれたように、 「生」(漢音セイ、呉音ショウ)は、 会意。「若芽の形+土」で、地上に若芽の生えたさまを示す。生き生きとして新しい意を含む、 とある(漢字源)。ただ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 土の上に生え出た草木に象る、 とあり、現代の漢語多功能字庫(香港中文大學・2016年)には、 屮(草の象形)+一(地面の象形)で、草のはえ出る形、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%9F)ため、 象形説。草のはえ出る形(白川静説)、 会意説。草のはえ出る形+土(藤堂明保説)、 と別れるが、 象形。地上にめばえる草木のさまにかたどり、「うまれる」「いきる」「いのち」などの意を表す(角川新字源)、 象形。「草・木が地上に生じてきた」象形から「はえる」、「いきる」を意味する「生」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji33.html)、 とする説が目についた。甲骨文字を見る限り、どちらとも取れる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「下火」は、 したび、 と訓むと、 火勢の衰えること、 の意(広辞苑)だが、 等持寺の長老別源、葬礼を取り営みて、下火の仏事をし給ひける(太平記)、 とか、 近き里の僧、比丘尼、その数を知らず群集し給ひて、下火念誦して、荼毘の次第悉く取り行ひければ(仝上)、 とか、 中一日あつて、等持院に(足利尊氏を)葬り奉る。鎖龕(さがん 遺骸を納め棺の蓋を閉じる儀式)は、天龍寺の龍山和尚、起龕(きがん 棺を墓所へ送り出す儀式)は、南禅寺の平田和尚、奠茶(てんちゃ 霊前に茶を供える儀式)は、建仁寺の無徳和尚、奠湯(てんとう 霊前に湯を供える儀式)は、東福寺の監翁和尚、下火は、等持院の東陵和尚にてぞおはしける(仝上)、 とかの、 下火、 は、 あこ、 と訓ませ、 火葬の時に、導師が遺骸に点火する儀式、 あるいは、 禅宗で火葬の時に偈を唱える作法、 あるいは、 火葬の火を点ずる儀式、 などと注記される(兵藤裕己校注『太平記』)。「下火」は、 下炬、 とも当てる。 唐音(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 あるいは、 宋音(大言海)、 とある。 火を下す義、下三連(あさんれん)、火鈴(カリン)、行火(あんこ)、 とある(仝上)ところを見ると、 下(あ)火(こ)、 ともに唐音ということだろう。室町時代の辞書『下学集』に、 下火(あこ)、二字、共、唐音也、禅家葬儀之法事也、火字、或作炬字、 とある。また「下火」は、 秉炬(ひんこ・へいこ)、 ともいう(広辞苑)。 禅宗にて、火葬の時、火をつくる所作、導師の役目、 であるが、後には、 偈を唱へて、点火の態をなすのみ、麻幹を束ねて、炬(たいまつ)に擬し、圓相ヲ空に畫く、 とある(大言海)。つまり、形式化し、 偈 (げ) を唱えて火をつけるしぐさを示すだけになった、 ようである(精選版日本国語大辞典)。いわゆる、 引導の儀式、 である。インドでは、火葬をして身を清めるという考え方があり、ヒンドゥー教でも、魂が煙となって天に昇っていくという考え方があり、お釈迦様も火葬でしたので、仏教ではそれにならって、火葬が主流といわれるが、禅宗で、上記のように、 引導法語とよばれる法語、偈頌(げじゅ)などを唱え、「喝(かつ)」などと大声を発する、 のは、中国唐代中期の禅僧黄檗希運(おうばくきうん)が溺死した母のために法語を唱え、荼毘の火を投じたことに由来するといわれ(日本大百科全書)。それは、禅師が、 得悟するまで、情にひかれるのを避けるため、故郷の母に安否を知らせなかった。母はわが子希運の安否を何としても知りたい一心で、福清渡という河の渡しで旅籠を始め、旅人の足を洗うことにした。目の悪かった母は足を洗う時、希運の足にあった大きなこぶ(一説にはあざ)を手がかりに、わが子を見つけるつもりであった。百丈のもとで得悟した希運は故郷に至り、なつかしい母に会った。しかし、こぶのない片足を二度出して洗ってもらい、名も告げず旅籠をあとにした。後でその僧がわが子と知った母は希運を追いかけたが、目の悪かった母は誤って河に落ち溺死した。それを知った希運は船上から母を探し、「一子出家すれば九族天に生ず。もし天に生ぜずんば、諸仏の妄言なり」と唱え、炬火を擲げて燃やす。両岸の人々は皆、その母が火炎の中で男子の身となって大光明に乗じて夜魔天宮に上生するのを見た。後になって官司(役人)が福清渡を改めて大義渡となした、 という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8B%E7%82%AC)。この故事は『韻府群玉』(1307)にあるが、その出典は明らかではない、とある(仝上)。『百通切紙』(『浄土顕要鈔』。延宝九年(1681)成立)に、 黄檗禅師、母を引導してより禅家に引導す。禅家の引導を見て他宗も意を以て引導すと見えたり、 と記し、禅宗の作法に他宗が倣ならったようである(仝上)。 浄土宗でも、引導のことを、 引導下炬(いんどうあこ)、 といい、 僧侶が松明に見立てたものを2本とり、1本を捨てます。これは、煩悩のあるこの世を離れることを意味しています。そして、もう1本の松明で円を描きながら、法語を唱え、松明を捨てます。これは、浄土への思いを表しています、 とある(https://www.e-sogi.com/guide/1927/#i-2)。 「下」(漢音カ、呉音ゲ)は、 指事。おおいの下にものがあることを示す。した、したになる意を表す、上の字の反対の形、 とある(漢字源)が、 指事。高さの基準を示す横線の下に短い一線(のちに縦線となり、さらに縦線と点とを合わせた形となる)を書いて、ものの下方、また、「くだる」の意を表す、 ともある(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%8B)。 「火」(漢音呉音カ、唐音コ)は、 象形。火が燃えるさまを描いたもの、 である(漢字源)。 象形。燃え上がるほのおの形にかたどる、 も同じだ(角川新字源)が、 象形。燃える火の形を表した象形字。転じて「燃える」、「焼く」こと。更に転じて「火災」のこと、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%81%AB)。 「炬」(漢音キョ、呉音ゴ、慣用コ)は、 会意兼形声。巨(キョ)は、工印のものさしにコ型の手て持つところのついた形を描いた象形文字。上の一線と下の一線とが隔たっている。距離の距(間がへだたる)と同系のことば。炬は「火+音符巨」で、長い束の先端に火をつけてもやし、ずっと隔たった下方を手に持つたいまつ、 とある(漢字源)。これだとわかりにくいが、「巨」(漢音キョ、呉音ゴ、慣用コ)は、 象形。I型の角定規に、手で持つための取手のついた姿を描いたもの。規矩の距(ク 角定規)の原字。のち両端が隔たった意味から、巨大の意に転用された(漢字源)、 とある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「のぞむ」は、 望む、 と当てるが、 臨む、 とも当てる。それとほぼ同義で、 肩瀬、腰越を打ち廻って、極楽寺坂へ打ち莅み給ふ(太平記)、 と、 莅む、 とも当てる。「望む」は、 朕(われ)、高台(たかとの)に登りて遠に望(み)に、烟気(けふり)、城(くに)の中(うち)に起(た)たず(日本書紀)、 南を望めば海漫漫として、雲の波煙深く(平家物語)、 などと、 遠くから眺めやる、 遠くを見やる、 意で(広辞苑・精選版日本国語大辞典・大言海)、 一辺に望みて見れば、大樹あり(金光明最勝王経平安初期点)、 と、 物事を求めて遥か遠くまで見やる、 意でも使い、そこから、 後見望む気色漏らし申しけれど(源氏物語)、 と、 願う、 希望する、 待望する、 意で使うに至る(岩波古語辞典・広辞苑)。今日、専らこの意で使う。 「臨む」は、 漢字「臨」をノゾムと訓読した、 ことから、 これより大きなる恥に臨まぬさきに、世をのがれなむと思う給へたちぬる(源氏物語)、 と、 むかう、 事の局にあたる、 直面する、 の意で使い(岩波古語辞典)、 (幼帝を)母后抱いて朝に臨むと見えたりけり(平家物語)、 と、 臨席する、 意でも使う(仝上)。 「のぞむ」は、 「臨む」「望む」同語源(デジタル大辞泉)、 (臨む・望むともに)ノゾク(覗く)と同根、 ノゾム(望・臨)はノゾク(覗・臨)と同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 とされ、「臨む」を、 ノゾ(あるものに対す)+む(動詞化)、 「望む」を、 ノゾ(距離を置いて対す)+ム、 と区別する(日本語源広辞典)説もある。「のぞく」は、 覗く、 覘く、 臨く、 と当て、 物のはざまよりのぞけば、此の男の顔見し心地す(源氏物語)、 と、 相手に知られないように、相手の様子をうかがい見る、 意や、 伊勢の国をのぞきたる事もなうて、いくたびも参宮したるよしはなす者あり(伊勢物語)、 と、 ちょっと立ち寄ってみる、 わずかに一部分だけ見る、 意で使う。特に、「臨」を当てる「のぞく」は、やはり、 漢字臨をノゾクと訓読したことから、 当てたものとされ(岩波古語辞典)、 人人渡殿より出たる泉に臨(のぞ)きゐて酒飲む(源氏物語)、 と、 上から見下ろす、 意で使う。あるいは、 それに向かって見えやすい位置を占める、 意で使う(日本語源大辞典)。これは、今日、 谷底をのぞく、 という使い方と同じである。 「のぞく」と「のぞむ」は、使われる意味が少し異なるように見える。しかし、字鏡(平安後期頃)には、 闚(うかがう)、宇加加不、乃曾无、 とあり、 頫(ふす・みる)、見也、観也、乃曾牟、 とあり、「臨(のぞ)む」と「臨(のぞ)く」の差はあまりない。だから「のぞく」の語源を、 のぞむ(望)の義(言元梯)、 ノゾム(望)と同源(小学館古語大辞典)、 ノゾ(臨む)+ク(動詞化)、都合の良いところに臨んで見る意、 とすることになる。漢字を当て分ける前は、「のぞむ」の意味の幅が、たとえば、「みる」が、 目と同根、 で、 眼の力によって物の存在や相違を知る(岩波古語辞典)、 自分の目で実際に確かめる、転じて自分の判断で処理する(広辞苑)、 目射るの義、目を転じて活用す(大言海)、 と、「知覚」としての「見る」機能なのに対して、「のぞむ」「のぞく」は、 見る位置、 あるいは、 見ようとする姿勢、 に力点があるように見える。その意味で、「うかがう(窺・伺)」も、 他人に知られないように周囲に気を配りながら、相手の真意や事の真相を掴もうとする意(岩波古語辞典)、 のぞいて様子を見る、そっと様子をさぐる(広辞苑・大言海)、 と、ほぼ「のぞく」と意味が重なるので、上述の字鏡の、 闚(うかがう)、宇加加不、乃曾无、 とつながることになる。 「のぞむ」意の漢字は、 望、高きをのぞみ、遠きを望むなり。又人に仰ぎて、見上げられるにも用ふ。人望・名望の類なり。詩経「萬民所望」、また、高遠を望むより、心に不満に思ひてうらむ義にも転用す。怨望・觖望(けつぼう)の如し、 臨、高きより見下ろすなり、詩経「戦戦兢兢(恐恐)、如臨深淵」、また、身分の尊き人が卑しき人にのぞむにも用ふ、君臨、臨政、 莅、臨と同義にして狭し、孟子「莅中国而撫四夷」、 眺、遠くをながめ望むなり、可以遠眺望の類、 とある(字源)。 「望」(漢音ボウ、呉音モウ)は、 会意兼形声。原字𦣠は「臣(目の形)+人が伸びあがって立つさま」の会意文字。望はそれに月と音符亡(ボウ・モウ)を加えたもので、遠くの月を待ち望むさまを示す。見えない所を見ようとする意を含む、 とある(漢字源)。別に、 もと、𦣠と書き、象形で、目を大きく開いて、背のびした人が遠くをのぞむさまにかたどる。借りて、満月の意を表した。のち、会意形声で、月が加えられて朢(バウ)となり、さらに臣にかえて音符亡(バウ)が加わり、望の字形になった、 とあり(角川新字源)、また、同趣旨で、 会意兼形声文字です(月+壬+亡)。甲骨文では「背伸びした人の上に強調した目のある」象形で「遠くをのぞむ」を意味する「望」という漢字が成り立ちました。(金文から、「月」が付されるようになり、「満月」の意味も表すようになりました)、 ともある(https://okjiten.jp/kanji685.html)。 「臨」(リン)は、 会意。臣は、下に伏せてうつむいた目を描いた象形文字。臨は「臣(ふせ目)+人+いろいろな品」で、人が高いところから下方の物を見下ろすことを示す、 とある(漢字源)。別に、 形声。意符臥(ふせる)と、音符品(ヒム)→(リム)とから成る。物をよく見定める意を表す。転じて「のぞむ」意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意文字です(臥+品)。「しっかり見開いた目」の象形と「のぞきこむ人」の象形と「とりどりの個性を持つ品」の象形から、とりどりの個性を持つ品をのぞき込む事を意味し、そこから、「のぞむ」、「みおろす」を意味する「臨」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1072.html)。 「莅」(リ)は、 会意。「艸(草で編んだ)+位(座席)」。座席やポストについて仕事をてきぱきと処理することをあらわす、 とあり(漢字源)、「身分の高いものがその場に出る」という意で、上述の、 臨と同義にして狭し、 と重なる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 隔生則忘(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485335998.html?1642968617)でも触れた、 隔生則忘とは申しながら、また一年五百生(しょう)、懸念無量劫の業なれば、奈利(ないり)八万の底までも、同じ思ひの炎にや沈みぬらんとあわれなり(太平記)、 に、 奈利(ないり)、 とあるのは、日葡辞書(1603〜04)辞書にも、 ナイリノソコニシヅム、 とある、 泥犂(ないり)、 とも当て、 なつり、 とも訓ませる(大言海)、 地獄、 の意で、その広さが、 八万由旬、 という(兵藤裕己校注『太平記』)。「由旬(ゆじゅん)」とは、 諸声聞衆、身光一尋、菩薩光明、照百由旬(「往生要集(984〜85)」)、 とあるように、 サンスクリット名ヨージャナ(yojana)の音訳、 で、 踰繕那(ゆぜんな)、 ともいい、古代インドにおける長さの単位、 約七マイル(約11.2キロメートル)あるいは九マイル、 という。 「くびきにつける」の意で、牛に車をつけて1日引かせる行程のこと(岩波仏教辞典)、 牛車の1日の行程(デジタル大辞泉)、 とも、 帝王の軍隊が一日に進む行程(精選版日本国語大辞典)、 ともある。 「泥犂」は、 泥梨、 とも当て、 サンスクリットのナラカnarakaまたはニラヤniraya、 の音訳、 地下にある牢獄、 を意味し、「金輪際」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482019842.html)で触れた、 贍部洲(せんぶしゆう 衆生の住む大陸)、 の地下に種々の地獄がある、 となっている。「贍部洲」は、 閻浮提(えんぶだい)、 ともいい、 衆生が住む閻浮提の下、4万由旬を過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各2万由旬ある。そこへの落下に二千年も要し、四方八方火炎に包まれた、一番苦痛の激しい地獄である。(中略)その上の1万9千由旬の中に、大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の7つの地獄が重層しているという。これを総称して八大(八熱)地獄という、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29)。 また、観念的には、 仏教における世界観の1つで最下層に位置する世界、 であり、 欲界(上は六欲天から中は人界の四大州、下は八大地獄に至る)・六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)、また十界(六道+声聞・縁覚・菩薩・仏)の最下層、 となる(仝上)。 「ナラカnaraka」は、 奈落迦、那落迦、捺落迦、那羅柯、 などとも音写され、奈落迦が転訛したのが、 奈落(ならく 那落)、 である(仝上)。「ニラヤniraya」が音訳されたのが、 泥犂、 泥黎耶、 になる(仝上)。音写語の文字の、 落・泥・夜・黎・犂からも知られるように、地下の世界、冥界、不可楽な闇の世界、無幸処、 という意味を持たされている(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9C%B0%E7%8D%84)。釈尊はそれを、 無記、 として直接説かなかったようだが、当時流布していた地獄思想が方便として利用され、 釈尊の死後、仏教の中にインド古来の業思想や輪廻思想が入り、地獄思想が導入されることにより独自の他界観、死後の様相が発達していった という(仝上)。その特徴は、 地獄は有限の世界、 としたことで、 一番短い場所で一兆六千二百億年、 という。そこには、 必ずそこに救いがあり最終的には地獄を脱し成仏できるとする、 とする考え方があるようである(仝上)。七世紀の玄應音義(一切経音義)には、 泥犂、或言泥梨耶、又言泥梨架、此云無可楽、 「泥」(漢音デイ、呉音ナイ)は、 会意兼形声。尼(ニ)は、人と人とがからだを寄せてくっついたさまを示す会意文字。泥は「水+音符尼」で、ねちねちとくっつくどろ、 とある(漢字源)。音符尼(ヂ)→(デイ)と変化した(角川新字源)ようである。別に、 会意兼形声文字です(氵(水)+尼)。「流れる水」の象形と「人の象形と人の象形」(「人と人とが近づき親しむ」の意味)から、「ねばりつくどろ」を意味する「泥」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1992.html)。 「犂(犁)」(漢音レイ・リ、呉音リ)の字は、「犂牛」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485135369.html)で触れたように、 会意兼形声。「牛+音符利(リ よくきれる)」。牛にひかせ、土を切り開くすき、 とあり(漢字源)、 牛に引かせて土を起こす農具、 つまり、 からすき、 の意であるが、そこから、 耕作に使うまだらうし、 をも指す。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) いづくより射るとも知らぬ流れ矢、主上(光厳帝)の御肱に立ちにけり、陶山(すやま)備中守、急ぎ馬より下り、矢を抜いて御疵を吸ふに、流るる血、雪の御膚(おんはだえ)を染めて、見まゐらするに目も当てられず、忝くも万乗の主、いやしき匹夫の矢先に傷(いた)められて、神龍忽ちに釣者(ちょうしゃ)の苦(あみ)にかかれる事、あさましき世の中なり(太平記)、 にある、 神龍忽ちに釣者の苦(あみ)にかかれる、 は、 神龍忽ち釣者の網にかかる、 といい、 尊貴な人(龍)が卑しい者(釣り人)の手にかかる喩え、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)が、 白竜が魚に化して漁者予且(よしょ)にその目を射られた、 という故事(予且の患い)などによる、とある(故事ことわざの辞典)。前漢の劉向撰編の故事・説話集『説苑』(ぜいえん)が出典らしい。 「神龍」(しんりょう)とは、 昨日は雲の上に雨をくだす神龍(シンレウ)たりき(平家物語)、 と、 神通力のある龍、 霊妙不思議な龍、 とある(精選版日本国語大辞典)。そんな龍が、釣り人の網にかかるとは、油断もさることながら、まさに、 あさましき事、 である。「あさまし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464317809.html)は、 見下げる意の動詞アサムの形容詞形。あまりのことにあきれ、嫌悪し不快になる気持、 であり、転じて、 驚くようなすばらしさにいい、副詞的には甚だしいという程度をあらわす、 とある(岩波古語辞典)。意味の流れは、 意外である、驚くべきさまである(「思はずにあさましくて」)、 ↓ (あきれるほどに)甚だしい(「あさましく恐ろし」)、 ↓ 興ざめである、あまりのことにあきれる(「つつみなく言ひたるは、あさましきわざなり」)、 ↓ なさけない、みじめである、見苦しい(「あさましく老いさらぼひて」)、 ↓ さもしい、こころがいやしい(「根性が浅ましい」)、 ↓ (あさましくなるの形で)亡くなる(「つひにいとあさましくならせ給ひぬ」)、 と、驚くべき状態の状態表現から、その状態への価値表現へと転じたとみれば、驚くより、 呆れ果てた、 見苦しい、 という含意がいいのかもしれない。 神龍忽ち釣者の網にかかる、 と、似た言い回しに、 蚊龍(こうりょう)は深淵の中に保つ。若し浅渚(せんしょ)に遊ぶ則(とき)は、漁網釣者(ちょうじゃ)の愁(うれ)へ有り(太平記)、 とある、 蚊龍は深淵の中に保つ云々、 は、上述の、 神龍忽ち釣者の網にかかる、 と同じく『説苑』(ぜいえん)出典で、 水中の龍は普段深淵の中におり、浅瀬に遊ぶと、網にかかったり釣り上げられたりする、 という意になる。 すぐれた人物も、油断すると思わぬ失敗をする、 意で使う(兵藤裕己校注『太平記』)。 蛟龍(こうりょう・こうりゅう)、 は、 中国古代の想像上の動物、まだ龍にならない蛟(みずち)。水中にひそみ、雲雨に会して天に上り龍になるとされる、 とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。これが上述の、 予且の患い、 あるいは、 白竜魚服(はくりょうぎょふく)、 ともいう故事で、 白竜が普通の魚の姿に化けて泳いでいたところを漁師予且に射られた、 というのによる。「白竜」は、 白い龍、 だが、 夫白竜、天帝之貴畜也(説苑)、 と、 天帝の使い、 とされる。ために、 白竜は天帝に訴えたが、天帝は人が魚を射るのは当然であり、非は魚の姿をして予且の前に出た白竜にあるとして、予且を咎めなかった、 とされる(故事ことわざの辞典)。そこから、 呉王欲従民飲酒。伍子胥諫曰、不可。昔白竜下清令之淵、化為魚、漁者予且射中其目。……今棄万乗之位、而従布衣之士飲酒、臣恐其有予且之患矣。王乃止、 と、 戦国時代の呉王がしのび歩きをしようとするのを、伍子胥が諫めてその危険の喩えにし、呉王を諫めた故事から、 貴人の微行、 または、 貴人がお忍びで外出して災難にあうこと、 の意味となった(仝上・広辞苑)。「魚服」は、 魚の服装をするという意味から、身分の高い人がみすぼらしい格好をすること、 のたとえである(仝上)。「万乗」は、 1万台の兵車、 の意だが、 古代中国の天子は一万輌の兵車を有した、 ために言う(兵藤裕己校注『太平記』)。中国、周の制度では、戦時、天子はその直轄領から兵車1万台を出すことになっていたので、転じて、 万乗の君、 万乗の主、 などと、 天子の称、 となった。 万乗の国、 は兵車1万台を出せる大国を意味し、「千乗」は、 兵車1000台を出せる大諸侯、 を、その国を「千乗の国」とよび、 百乗の家、 は、 兵車100台を出せる卿(きょう)、大夫の地位にある者、 をいった(日本大百科全書)。「万乗」は、日本では、冒頭引用の、 忝くも万乗の主(太平記)、 のように、 天皇の称、 として用いられ、「一天万乗の君」「万乗の位」などと用いられる(仝上)。 「亢龍悔い有り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484356729.html)で触れたように、「龍」(漢音リョウ、呉音リュウ、慣用ロウ)は、 象形。もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それにいろいろな模様を添えて、龍の字となった、 とある(漢字源)。別に、 象形。もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、「龍」となった。意符としての基本義は「うねる」。同系字は「瀧」、「壟」。古声母は pl- だった。pが残ったものは「龐」などになった、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 敵三方より寄せ懸けりたれば、武士東西に馳せ違い、貴賤山野に逃げ迷ふ。霓裳一曲の声の中(うち)に、漁陽(ぎょよう)の鼙鼓(へいこ 軍鼓)地を動かして来たり(太平記)、 にある、 霓裳一曲、 とは、玄宗皇帝が、 夢に天人の舞を見て作った、 とされる、 霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)、 を指す(兵藤裕己校注『太平記』)、とある。これは、 霓裳一曲を奏しているとき、安禄山が漁陽から軍鼓を打って攻めてきた、 という故事に依っている(仝上)。漁陽は、 隋代に置かれた郡および県名。現在の河北省薊県の地で北京の東北方に当たる。唐代、安祿山が反乱の兵を挙げた所、 である。白居易の「長恨歌」にも、 漁陽鼙鼓動地來(漁陽の鼙鼓(へいこ)地を動(どよ)もして来たり)、 驚破霓裳羽衣曲(驚破(けいは)す霓裳羽衣の曲)、 と詠われている。 「霓裳羽衣の曲」は、 唐の玄宗が楊玉環(楊貴妃)のために作ったとされる曲、 とも、 玄宗が婆羅門系の音楽をアレンジした曲、 とも言われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%93%E8%A3%B3%E7%BE%BD%E8%A1%A3%E3%81%AE%E6%9B%B2)。鎌倉中期の教訓説話集『十訓抄』(じっきんしょう、じっくんしょう)にも、 古き目録にも、霓裳羽衣は、壹越調の樂なり、本の名をば、壹越婆羅門といひけるを、同じ帝のとき、天寶年中に、もとの名を改めて、霓裳羽衣となづく、 とある。しかし、宋代初期の伝奇小説『楊太真外伝』によると、 玄宗が三郷駅に登り、女几山を望んだ時に作曲したものである説、 と、 玄宗が、仙人の羅公遠に連れられ、月宮に行き、仙女が舞っていた曲の調べをおぼえて作らせた説、 の二説が記されている(仝上)。 八月望日、唐明皇(玄宗皇帝)、與申天師、遊月宮、寒気逼人、霜露霑衣、過一大門、作玉光中、見一大府、榜曰廣寒清虚之府、少前見素蛾十余人、皓(白)衣乗白鸞、笑舞於廣庭大桂樹下、楽音清麗、上皇帰、製霓裳羽衣局(龍神禄)、 とある(大言海)ところを見ると、既に伝説化しているようである。 安史の乱(あんしのらん 安禄山の乱)以後、国を傾けた不祥の曲であると忌まれ、楽譜も散逸したが、南唐の後主である李Uにより復元された(仝上)、とある。 「霓裳」の「霓」は、 虹、 を指し、 虹のように美しく裾を引いたもすそ、転じて、天人、仙女などの衣、 の意(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。 「霓」(漢音ゲイ・ゲツ、呉音ゲ・ゲチ)は、 会意兼形声。「雨+音符兒(ゲイ 小さい子供)」、 とあり、「にじ」、転じて「五色」の意(漢字源)で、 雨が降った後に現れる小物体、 という意味らしい(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9C%93)。「にじ」を、 蛇、 または、 竜、 とみなし、 虹(コウ)、 を「雄」、 霓(ゲイ)、 を「雌」とし(漢字源)、「霓」は、 小形の細いにじ、 とされた(仝上)。 「裳」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。尚(ショウ)は、向(空気抜きの窓)から、空気が長く立ち上る事を示す会意文字。裳は「衣+音符尚」で、長い布で作った長いスカート、 とある(漢字源)が、別に、 形声文字です(尚+衣)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」(「強く願う」の意味だが、ここでは「長(ジョウ)」に通じ(同じ読みを持つ「長」と同じ意味を持つようになって)、「長い」の意味)と身体に纏(まつ)わる衣服の襟元(えりもと)」の象形(「衣服」の意味)から「腰から下を覆う長い衣服」を意味する「裳」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2730.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 善女(ぜんにょ)龍王独り、守敏(しゅびん 僧都 空海と祈雨を争った)よりも上位の薩埵(さった)にてありける間、守敏の請ひに随はずして(太平記)、 にある、 薩埵(さった)、 は、 菩薩、 の意とある(兵藤裕己校注『太平記』)。「薩埵」は、 梵語sattvaの音訳、 で、 薩埵婆(さったば)の下略、 とあり(大言海)、 有情(うじょう)、衆生(しゅじょう)、およそ生命あるもののすべての称、 の意とある(広辞苑・ブリタニカ国際大百科)が、さらに、 梵語bodhisattvaの音訳、 で、 菩提薩埵(ぼだいさった)の略、 であり、仏教において、 菩提(bodhi、悟り)を求める衆生(薩埵、sattva)、 の意味とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9)、元来は、 仏教の創始者釈尊の成道(じょうどう 悟りを完成する)以前の修行の姿をさしている、 とされる(日本大百科全書)。だから、釈迦の死後百年から数百年の間の仏教の原始教団が分裂した諸派仏教の時代、『ジャータカ』(本生譚 ほんじょうたん)は、釈尊の前世の修行の姿を、 菩薩、 の名で示し、釈尊は他者に対する慈悲(じひ)行(菩薩行)を繰り返し為したために今世で特別に仏陀になりえたことを強調した(仝上)。故に、この時代、 菩薩はつねに単数、 で示され、成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊だけを意味した(仝上)。だから、たとえば、「薩埵」も、 釈迦の前身と伝えられる薩埵王子、 を指し、 わが身は竹の林にあらねどもさたがころもをぬぎかける哉、 とある(宇治拾遺物語)「さた」は、 薩埵脱衣、長為虎食(「三教指帰(797頃)」)、 の意で、 釈迦の前生だった薩埵太子が竹林に身の衣装を脱ぎかけて餓虎を救うために身を捨てた、 という故事(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)で、法隆寺玉虫厨子の蜜陀絵にも見える(仝上)。しかし、西暦紀元前後におこった大乗仏教は、『ジャータカ』の慈悲行を行う釈尊(菩薩)を自らのモデルとし、 自らも「仏陀」になること、 を目ざした。で、 菩薩は複数、 となり、大乗仏教の修行者はすべて菩薩といわれるようになり(日本大百科全書)、大乗経典は、 観音、 弥勒、 普賢、 勢至、 文殊、 など多くの菩薩を立て、歴史的にも竜樹や世親らに菩薩を付すに至る(百科事典マイペディア)。で、仏陀を目ざして修行する菩薩が複数であれば、過去においてもすでに多くの仏陀が誕生しているとされ、薬師、阿弥陀、阿閦(あしゅく)などの、 多仏思想、 が生じ、大乗仏教は、 菩薩乗、 もいわれる(仝上)。宋代(1143年)の梵漢辞典『翻訳名義集』(ほんやくみょうぎしゅう)には、「薩埵」の項に、 薩埵、秦言大心衆生、有大心、入仏道、名菩提薩埵、……菩提名仏道、薩埵名成衆生、……薩埵此曰衆生以智上求菩提、用悲下救衆生、 とあり、もとの「薩埵」の意味を伝えている。日本では、「菩薩」を、 菩薩出家。為薬師寺僧一。読瑜伽論唯識論等了。知奥義 と(「日本往生極楽記(983〜987頃)」行基菩薩)、 朝廷から碩徳の高僧に賜わった号、 としても使い(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、また、転じて、 一般に高僧を敬まっていう語、 としても使う(仝上)。 「薩」(漢音サツ、呉音サチ)は、 梵語の音訳に当てた字で、もと薛(セツ・セチ)と書いたが、のち、薩と書くようになった、 とあり(漢字源)、「遍く衆生を救う」とある。「薛」(漢音セツ、呉音セチ)は、 会意。「艸+阜の字の上部(積重ねる)+辛(刃物で切る)」。束ね重ねて切る「よもぎ」を表す、 とある(仝上)。 別に、「薩」の字源を、 形声。意符阜(ふ)(=阝。おか)と、音符𦸰(サン)→(サツ)とから成る、 とある(角川新字源)のとかすかに重なる。さらに、 会意兼形声文字です。「並び生えた草」の象形と「段のついた土でできた山の象形と草・木が地上に生えてきた象形(「生まれる」の意味)と人の胸を開いてそこに入れ墨の模様を書く象形と険しい崖の象形と艶(つや)やか髪の象形(「険しい崖から得た鉱物性顔料(着色料)」の意味)」(生まれたばかりの子に顔料を塗る習慣があった事から、「産む」の意味)から、煩悩(人間の心身の苦しみを生み出す精神(心)の働き。欲望・怒り・悲しみ等)をなくして正しい物事の道筋を自分のものにする為の気持ちを芽生えさせる「救う」を意味する「薩」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2717.html)。 「埵」(タ)は、 かたきつち(堅土)、 と載るのみである(字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 不退の行学(ぎょうがく)を妨げんとしけれども、上人の定力堅固なりければ、間(ひま)を伺ふ事を得ず(太平記)、 とある、 定力、 は、 じょうりき、 と訓まし、 禅定(無念無想の境地)によって生じる能力、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。 禅定によって精神が安定し、悟りが得られるとともに、さまざまの神秘的な能力が得られる、 とある(広辞苑)が正確ではない。涅槃(煩悩の火が消え、智慧が完成する悟りの境地)に到達するための三七種類の実践修行を、 三十七道品(さんじゅうしちどうほん)、 あるいは、 三十七分法、 三十七菩提分法、 ともいい、 四念処、 四正道、 四如意足、 五根、 五力、 七寛支、 八正道、 をいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83%E9%81%93%E5%93%81に詳しい)。小乗仏教ではこれを正道とし、大乗仏教では助道としている(精選版日本国語大辞典)が、その一つ、 諸悪をしりぞける五つの力、 つまり、 五力(ごりき)、 を、 信力、 精進力、 念力、 定力、 慧力、 とし、「定力」は、この一つであり、 禅定(ぜんじょう)にそなわる悪不善を断ずるはたらきのこと、 を指す(仝上)。「禅定」は、 dhyānaを音訳した「禅那」を略した「禅」を、samādhiの訳語「定」と合成したもので、心を一つの対象に注いで、心の散乱をしずめるのが「定」、その上で、対象を正しくはっきりとらえて考えるのが「禅」、 とも(精選版日本国語大辞典)、 「禅」は、梵dhyānaの音写「禅那」の略。「定」はその訳、 とも(広辞苑・デジタル大辞泉)あり、 通常時にひとつの対象に定まっていない心をひとつの対象に完全に集中すること(禅定)、 で、 悪不善を断ずるはたらき(定力)、 をすることができるということになる。「定力」は、 禅定をそのはたらきの面からとらえたもの、 とある(精選版日本国語大辞典)のは、そういう意味のようである。 禅定に入る、 などと言う言い方をし、 思いを静め、心を明らかにして真正の理を悟るための修行法、 であり、 1つの対象に定まったときや心が対象に集中し乱されないとき、 を、 三昧(サマーディ)、 というので、 精神を集中し、三昧(さんまい)に入り、寂静の心境に達すること、 でもある(仝上)。 六波羅蜜(ろくはらみつ)の一、 三学(さんがく)の一、 とされる。「六波羅蜜」は、 サンスクリット語のパーラミター pāramitāの音写、 で、 大乗仏教の求道者が実践すべき6種の完全な徳目のこと、 を指し、 布施波羅蜜(施しという完全な徳)、 持戒波羅蜜(戒律を守るという完全な徳)、 忍辱波羅蜜(忍耐という完全な徳)、 精進波羅蜜(努力を行うという完全な徳)、 禅定波羅蜜(精神統一という完全な徳)、 般若波羅蜜(仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳)、 とある(https://www.rokuhara.or.jp/rokuharamitsu/・精選版日本国語大辞典)。「三学」は、 仏道の修行者が必ず修めなくてはならない最も基本的な修行、 で、 戒学(悪を止め、善を修し、戒律を守って規律ある生活を保つこと)、 定学(心の散乱を鎮め、心を落ち着かせること)、 慧学(戒学と定学とに基づいて真理を知見し、智慧を獲得すること)、 をいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E5%AD%A6)。 「定」(漢音テイ、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。「宀(やね)+音符正」で、足をまっすぐ家の中に立ててとまるさまを示す。ひと所に落ち着いて動かないこと、 とある(漢字源)が、 形声。宀と、音符正(セイ)→(テイ)(𤴓は誤り伝わった形)とから成り、物を整えて落ち着かせる、ひいて「さだめる」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意形声。「宀」+音符「正」、「正」は「一」+「止(=足)」で目標に向け進むこと、それが、屋内にとどまるの意。「亭」「停」「鼎」「釘」と同系、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%9A)、 会意兼形声文字です(宀+正)。「屋根・家屋」の象形と「国や村の象形と立ち止まる足の象形」(敵国へまっすぐ突き進むさまから、「まっすぐ」の意味)から、家屋がまっすぐ建つ、すなわち、「さだまる」を意味する「定」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji520.html)ある。 「力」(漢音リョク、呉音リキ)は、象形だが、 腕の筋肉(説文解字)、 と すきの形(白川静)、 の二説あり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8A%9B)、 象形。手の筋肉を筋ばらせてがんばるさまを画いたもの(漢字源)、 象形文字です。「力強い腕」の象形から(https://okjiten.jp/kanji192.html)、 と、「筋肉」系の説と、 象形。農具のすきの形にかたどる。すきを使うことから、転じて、ちからをこめてする、また、「ちから」の意に用いる、 とする説(角川新字源)とに分かれる。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) やがて御息所、御心地煩ひて、御中陰(ちゅういん)の日数未だ終らざる前(さき)に、はかなくならせ給ひにけり(太平記)、 に、 中陰(ちゅういん)、 とあるのは、 人の死後の行き先が決まるまでの四十九日間、 と注記(兵藤裕己校注『太平記』)がある。 死んでから次の生を受けるまでの中間期における存在、 の意で、 サンスクリット語アンタラー・ババantarā-bhavaの音訳、 中有(ちゅうう)、 とも訳し(日本大百科全書)、 四有の一、 であり、仏教では、生物の存在様式の一サイクルを四段階、 四有(しう)、 に分け、 中有(ちゅうう)、 生有(しょうう 受精の瞬間)、 本有(ほんう・ほんぬ いわゆる一生)、 死有(しう 死の瞬間)、 とし、中有は、 死有と生有の中間の存在、 の意である(仝上・広辞苑)。中有は、七日刻みに七段階に分かれ、 死後七日を一期としてまた生を受ける、 といい(精選版日本国語大辞典)、 極悪・極善の者は死後直ちに次の生を受けるが、それ以外の者は、もし七日の終わりにまだ生縁を得なければさらに七日、第二七日の終わりに生を受ける。このようにして最も長い者は第七期に至り、第七期の終わりには必ずどこかに生ずる、 という(仝上)。つまり、遅くとも、 七七日(四十九日 しじゅうくにち)、 までにはすべての生物が生有に至るとされている。だから、遺族はこの間、七日ごとに供養を行い、四十九日目には、 満中陰(まんちゅういん)、 の法事を行う。この四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するとみられる(日本大百科全書)、とある。 此(ここ)に死して彼(かれ)に生ずる中間に於いて受くる陰形の義。……陰は五陰(蘊)陰なり、 とある(大言海)。「五陰(ごおん 「おん」は「陰」の呉音)」は、 五蘊(ごうん)、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。「蘊(うん)」(「陰(おん)」)は集まりの意味で、 サンスクリット語のスカンダskandhaの音訳、 仏教では、いっさいの存在を五つのものの集まりと解釈し、五つとは、 色蘊(しきうん 五根、五境など物質的なもののことで、人間についてみれば、身体ならびに環境にあたる)、 受蘊(じゅうん 対象に対して事物を感受する心の作用のこと)、 想蘊(そううん 対象に対して事物の像をとる作用のこと)、 行蘊(ぎょううん 対象に対する意志やその他の心の作用のこと)、 識蘊(しきうん 具体的に対象をそれぞれ区別して認識する働き)、 をいい、この五つも、やはりそれぞれ集まりからなる、とする、 色―客観的なもの、 受・想・行・識―主観的なもの、 に分類する考え方である(日本大百科全書)。仏教では、あらゆる因縁に応じて五蘊がかりに集って、すべての事物が成立している(ブリタニカ国際大百科事典)とする。「陰形」とは、その意味で、 五蘊がかりに集った、 形になるが、「色」はないので、 生を受けるまでの時期における幽体とでもいうべきもの、 ということになる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%B0)のだろうか。 此色身死後、未不托生前、名為中陰(大蔵法數)、 死生ニ有中、五蘊名中有(俱舎識)、 生後死前名為本有、兩身之闖且陰形、名為中有(大乗義章)、 などとある(字源・大言海)。 「中」(チュウ)は、 指事。縦棒の中間点に○印をつけたもの。{中 /trung/}を表す字。甲骨文字や金文の「𠁩」は旗竿を象った字(一説に{幢 /droong/}を表す字)と組み合わさったもの、 とする説と、 象形。旗ざおを枠に突き通した様、 の二説がある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%AD)ようだが、 象形。もとの字は、旗ざおを枠の真ん中につきとおした姿を描いたもので、真ん中の意をあらわす。また、真ん中を突きとおす意をも含む。仲(チュウ)・衷(チュウ)の音符となる(漢字源)、 指事文字です。「軍の中央に立てる旗」の象形から(https://okjiten.jp/kanji121.html)、 は後者、 指事。もと金文の字、甲骨文字の字とを区別したが、のちに合して中の一字となる。中は、物(口)の内部を一線でつらぬき、「うち」の意を示す。金文の字は、軍の中心に立てる旗で、ひいて、中央の意を示す(角川新字源)、 とする説が「中」に至る経緯をよく説明している。要は、「金文」の字と甲骨の字とは区別していたことから生じている。 「陰」(漢音イン、呉音オン)は、 会意兼形声。侌(イム くらい)は、「云(くも)+音符今(含 とじこもる、かくれる)」の会意兼形声文字。湿気がこもってうっとおしいこと。陰はそれを音符とし、阜を加えた字で、陽(日の当たる丘)の反対、つまり日の当たらないかげ地のこと。中にとじこめてふさぐ意を含む、 とあり(漢字源・角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%99%B0)、 丘の日陰側が原義、 となる(仝上)。別に、 会意兼形声文字です(阝+侌)。「段のついた土山」の象形(「丘」の意味)と「ある物をすっぽり覆いふくむ事を表した文字と雲の回転するさまを表す文字」(「雲が太陽を覆い含みこむ」の意味」)から、「かげ」、「くもり」を意味する「陰」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji1279.html)のも趣旨は同じである。 「有」(漢音ユウ、呉音ウ)は、 会意兼形声。又(ユウ)は、手で枠を構えたさま。有は「肉+音符又」で、わくを構えた手に肉をかかえこむさま。空間中に一定の形を画することから、事物が形をなしていることや、わくの中に抱え込むことを意味する、 とある(漢字源)。別に、 会意形声。肉と、又(イウ 変わった形。すすめる)とから成り、ごちそうをすすめる意を表す。「侑」(イウ)の原字。転じて、又(イウ ある、もつ、また)の意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(月(肉)+又)。「右手」の象形と「肉」の象形から肉を「もつ」、「ある」を意味する「有」という漢字が成り立ちました。甲骨文では「右手」だけでしたが、金文になり、「肉」がつきました、 ともあり(https://okjiten.jp/kanji545.html)、「有」に「月(肉)」が加わった由来がわかる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「童女」は、 どうじょ、 と訓ませると、 女児、 幼女、 の意味だが、 大甡(おおにえ)の祭(大嘗會)を行はるる程に、悠紀(ゆうき)・主基(すき)に風俗の歌を唱へて帝徳を称じ、童女(いむこ)の者ども、稲舂歌(いなつきうた)を歌ひて神饌を奉る(太平記)、 と、 いむこ、 あるいは、 いんご、 と訓ますと、 清浄な童女、 と注記(兵藤裕己校注『太平記』)されるが、 斎子、 忌子、 とも当て、 斎戒して神の祭に奉仕する未婚の少女、 の意であり、 大嘗祭、 賀茂の齋院に奉仕する、 とある(広辞苑)。上記の引用との関係でいうと、 斎子八女(いむこやめ)、 というと、 大嘗会のいなのみの翁、いんこや女とかや。色々のものの装束の衣、色々のそめ草、花、くれなゐなど参らせたり(「中務内侍(1292頃)」)、 と、 大嘗祭の時、稲舂(いねつき)歌を詠う八人の童女、 の意で、 いむこやおとめ、 とも訓む(広辞苑)。「いむこ」は、 いみこの音便、 である(大言海)。色葉字類抄(1177〜81)には、 忌子、イムコ、大嘗會供奉人名也、 とあり、齋院司式には、 給兩社禰宜祝及斎子等禄、 とある(仝上)。「斎子」を、 いつきこ、 とも訓ませ、「いむこ」と同様、 神の祭に奉仕する清浄な童女。特に即位や大嘗会(だいじょうえ)の時に奉仕する女子の司(つかさ)。また、賀茂別雷神社に奉仕する童女、 の意でもある。また「斎子」を、 いわいこ、 と訓ませても、 錦綾の中に裹(つつ)める斎児(いはひこ)も妹に及(し)かめや(万葉集)、 と、 大事にかしずき育てる子、 の意味もあるが、 けがれをきよめ、仮に神にささげる子、 の意味となり、 いつきこ、 と訓ませると、平安末期『色葉字類抄』に、 松尾、……本朝文集云、大宝元秦都理始建立神殿、立阿礼居斉子供奉、 とあり、やはり、 神に奉仕する少女、 を指し、特に、松尾神社でいい、 斎女(いつきめ)、 ともいう(精選版日本国語大辞典)。 「いはふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482573356.html)、「いむ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463067059.html)で触れたように、 忌む、 齋む、 と当てる「いむ」は、 齋(イ)を活用、 した語であり、「齋」(い)は、 神聖であること、 の意であり、 ユユシなどのユの母音交替形、 である。「いむ」も、本来、 凶穢(けがれ)を浄め、慎む。神に事ふるに云ふ、 の、 齋(い)む、 が先で、それ故、 禁忌(タブー)、 の意から、 忌む、 の、 穢れを避け、嫌う、 意になった(大言海)。 神聖なもの・死・穢れたものなど、古代人にとって、はげしい威力をもつ触れてはならないもの、 となった(岩波古語辞典)のである。だからこそ、 汚さぬように潔斎して、これを護り奉仕する、 必要があるのである。 「おおわらわ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484158438.html)で触れたように、「童」(慣用ドウ、漢音トウ、呉音スウ)は、 会意兼形声。東(トウ 心棒を突き抜けた袋、太陽が突き抜けてくる方角)はつきぬく意を含む。「里」の部分は、「東+土」。重や動の左側の部分と同じで、土(地面)つきぬくように↓型に動作や重みがること。童は「辛(鋭い刃物)+目+音符東+土」で、刃物で目を突きぬいて盲人にした男のこと、 とあり(漢字源)、「刃物々目を突きぬいて盲人にした奴隷」の意とあり、僕と同類で、「童僕」(男の奴隷や召使)と使うが、「童子」というように「わらべ」の意もある。別に、 形声。意符辛(入れ墨の針。立は省略形)と、音符重(チヨウ)→(トウ)(里は変わった形)とから成る。目の上(ひたい)に入れ墨をされた男子の罪人の意を表す。借りて「わらべ」の意に用いる、 ともあり(角川新字源)、 会意兼形声文字です(辛+目+重)。「入れ墨をする為の針」の象形と「人の目」の象形と「重い袋」の象形から、目の上に入れ墨をされ重い袋を背負わされた「どれい」を意味する「童」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「未成年者(児童)」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji530.html)。 「齋(斎)」(とき)(http://ppnetwork.seesaa.net/article/460543513.html)で触れたが、「齋」(漢音セイ、呉音セ)は、 会意兼形声。「示+音符齊(きちんとそろえる)の略体」。祭のために身心をきちんと整えること、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(「祖先神」の意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する「斎」という 漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji1829.html)。 「忌」(漢音キ、呉音ゴ)は、 会意兼形声。己(キ)は、はっと目立って注意を引く目印の形で「起」(はっと立つ)の原字。忌は「心+音符己」で、心中にはっと抵抗が起きて、素直に受け入れないこと、 とあり(漢字源)、「忌嫌」(きけん)というように、「嫌」「厭」と類義である。そこから「忌憚」というように「はばかる」意になる。別に、 形声。心と、音符己(キ)とから成る。にくむ、うらむ意を表す(角川新字源)、 会意兼形声文字です(己+心)。「三本の横の平行線を持つ糸すじを整える糸巻き」の象形(「糸すじを整える」の意味)と「心臓」の象形から、心を整える事を意味し、「かしこまる」、「いむ」を意味する「忌」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1499.html)、 とする解釈もある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 両所権現(りゃうしょごんげん)は、これ伊弉諾(いざなぎ)、伊弉(いざなみ)の応作(ヲウサ)なり(太平記)、 玲々たる鈴の声は垂迹(すいしゃく)五能の応化(ヲウクヮ)をも助くらんとぞ聞へける(仝上)、 などとある、 応作(おうさ)、 は、 降迹應化、為一老父(西域記)、 と、 応化(おうげ・おうけ)、 と同義で、 応現(おうげん)、 ともいい、 仏・菩薩が衆生を救うためにいろいろに姿を変えて出現すること、 とある(広辞苑)が、 応現の働(精選版日本国語大辞典)、 応現、変化の謂い(大言海)、 の意とあるので、 阿彌陀仏五濁(ごぢょく)の凡愚をあはれみて、釈迦牟尼仏としめしてぞ、迦耶城(かやじゃ)には応現する(「三帖和讚」(1248~60頃)・諸経讃)、 舟より道に下れば老公見えず。其舟忽に失せぬ。乃ち疑はくは、観音の応化なることを(「霊異記(810~824)」)、 などと、 仏、菩薩などが衆生に応じた姿を現わす、その働き、 という意味がわかりやすいように思える(仝上)。上記の、 迦耶城(かやじゃう・がやじょう)、 の、迦耶は、 梵名ガヤー(Gayā)の音写、 で、 釈尊在世の頃の中インドにあったマガダ国の都城、ブラフマ・ガヤー(Brahma-gayā)、 をいい、聖典で迦耶城といわれる場合は、 釈尊成道の地ブッダ・ガヤー、 を指すことが多い(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%BF%A6%E8%80%B6%E5%9F%8E)とあるが、「和讃」の解説には、 阿弥陀仏が釈迦牟尼仏となって現れ、人類の光となってくださった、 とし、迦耶城を、 浄飯(じょうぼん)大王(釈迦の実父)のわたらせたまいし所、 としている(https://zenkyu3.exblog.jp/29044578/)。つまり生誕地としているようだ。 「応化」は、 おうか、 とも訓ませるが、「おうか」と訓む場合は、 時世の変化に従って、それに適するように変わること、その結果、 の意で、 適応、 順応、 の同義となり(精選版日本国語大辞典)、 生物が環境の変化に応じて、自己の組織や機能を変えてゆく作用。また、この作用によって変化した状態、 の意でも使う(仝上)。 第六天の魔王集って、……応化(ヲウゲ)利(リ)生を妨げんとす(太平記)、 とある、 応化利生(おうげりしょう)、 の、 利生、 は、 利益衆生、 の意で、 仏、菩薩が衆生を救うために、それぞれの人に応じた姿に身を変えて説法、教化し、衆生に利益(りやく)を与えること、 となる(仝上)。 「いらふ(答・應)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484667446.html)で触れたように、「応(應)」(漢音ヨウ、呉音オウ)は、 会意兼形声。雁は「广(おおい)+人+隹(とり)」からなり、人が胸に鳥を受け止めたさま。應はそれを音符とし、心を加えた字で、心でしっかり受け止めることで、先方からくるものを受け止める意を含む、 とあり(漢字源)、「応答」「応召」などと「答える」意で使い、「応募」「内応」などと、求めに応じる意、「応報」と報いの意もある。別に、 「應」の略体。 旧字体は、「心」+音符「䧹(説文解字では𤸰)」の会意形声文字、「䧹・𤸰」は「鷹」の原字で、人が大型の鳥をしっかりと抱きかかえる(擁)様で、しっかり受け止めるの意、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%9C)、 「無作の大善」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485585699.html)で触れたように、「作」(サク・サ)は、 会意兼形声。乍(サク)は、刀で素材に切れ目を入れるさまを描いた象形文字。急激な動作であることから、たちまちの意の副詞に専用するようになったため、作の字で人為を加える、動作をするの意をあらわすようになった。作は「人+乍(サ)」、 とある(漢字源)。同趣旨で、 会意形声。「人」+音符「乍」。「乍」は、ものに刃物を入れる様を象ったもの。ものに刃物を入れ作ることを意味したが、「たちまち」の意の副詞として用いられるようになったため、意味を明確にするため「人」を添え、人為であることを明確にした。「做」(サ)と同音同系、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%9C)、別に、 会意兼形声文字です(人+乍)。「横から見た人の象形」と「木の小枝を刃物で取り除く象形」から人が「つくる」を意味する「作」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji365.html)。 はじめ三日の本尊には、来迎の阿彌陀の三尊、六道のうけの地蔵菩薩(曾我物語)、 われはかの入道(結城上野介入道道忠)が今度上洛せし時、鎧の袖に書きたりし六道能化(ろくどうのうげ)の主(あるじ)、地蔵薩埵にて候なり(太平記)、 などとある、 六道のうけ、 六道能化の主、 とあるのは、 六道衆生を能く教化する地蔵菩薩、 の意で、地蔵は、 釈迦入滅後、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの無仏世界の救世主とされる、 と注記される(兵藤裕己校注『太平記』)が、 六道能化、 自体が、 六道にあって衆生を教化する者、 の意、つまり、 地蔵菩薩の異称、 とされ(広辞苑)、 五濁(ごじょく)の悪世において救済活動を行う菩薩、 である。 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、 忉利天(忉利天(とうりてん、三十三天 須弥山の上にある)に在って釈迦仏の付属を受け、釈迦の入滅後、5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救う菩薩、 であるとされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9)。 「地蔵」は、 サンスクリット語クシティ・ガルバKiti-garbha、大地を母胎とするもの、 の意で、 一切衆生(いっさいしゅじょう)に仏性(ぶっしょう)があるという如来蔵(にょらいぞう)思想と関連し、大乗仏教の比較的後期に現れた、 とされ、『地蔵菩薩本願経(ほんがんきょう)』に、 仏になることを延期して、菩薩の状態にとどまり、衆生の罪苦の除去に携わることを本願とした、 とある。 しばしば比丘(びく 修行者)の姿をとり、剃髪(ていはつ)し、錫杖(しゃくじょう)と宝珠(ほうしゅ)を持つ。天上から救済活動を行う他の仏、菩薩と違い、自ら六道を巡る菩薩、 である(日本大百科全書)。地蔵信仰は、 平安朝末から中世にかけて民間信仰として普及し、堂宇に祀(まつ)るだけでなく、道の辻、橋のたもとなどに石像を立てて祀るようになった、 とされ、今日民間における地蔵信仰では、 子育て地蔵、子安(こやす)地蔵、夜泣き地蔵、乳貰(もら)い地蔵、田植地蔵、鼻取り地蔵、いぼ取り地蔵(縛り地蔵)、雨降り地蔵、雨止(や)み地蔵、親子地蔵、腹帯地蔵、雨降地蔵、お初地蔵、とげぬき地蔵、勝軍地蔵、延命地蔵、 等々、何々地蔵とよばれるものが100以上にも及ぶといい(仝上)、各地にある、 六地蔵、 は、上述の六道の衆生を済度するというのに因み、六道のそれぞれにあって、典籍によって名称は異なるが、 檀陀(だんだ 地獄道を教化する)、 宝珠(ほうじゅ 餓鬼道を教化する)、 宝印(ほういん 畜生道を教化する)、 持地(じじ 阿修羅道を教化する)、 除蓋障(じょがいしょう 人間道を教化する)、 日光(にっこう 天道を教化する)、 の六種の地蔵をいう、とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 「能化」(のうげ・のうけ)は、 我及諸子若不時出。必為所焼者。我譬能化仏、諸子譬所化衆生(法華義疏)、 と、 他を教化できる者、 の意だが、主として、 仏・菩薩、 をさす(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「六道」は、「六道の辻」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475321240.html)で触れたように、 天道(てんどう、天上道、天界道とも) 天人が住まう世界である。 人間道(にんげんどう) 人間が住む世界である。唯一自力で仏教に出会え、解脱し仏になりうる世界、 修羅道(しゅらどう) 阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる、 畜生道(ちくしょうどう) 畜生の世界である。自力で仏の教えを得ることの出来ない、救いの少ない世界、 餓鬼道(がきどう) 餓鬼の世界である。食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる、 地獄道(じごくどう) 罪を償わせるための世界である、 だが、 六道の辻、 あるいは、 六道の巷(たまた)、 といい、 六道の辻へ罷出、ぎんみして、よきざい人を、ぢごくへおとさばやと存候(虎明本狂言「朝比奈(室町末〜近世初)」)、 と、 六道へ通じる分かれ道、 を指し、日本では死後の世界を六道とするため、墓地を、 六道原、 というところがあり、京都東山の鳥辺野葬場の入口も、 六道の辻、 といい、 愛宕の寺も打過ぎぬ、六道の辻とかや、実おそろしや此道は、冥途に通ふなる物を(光悦本謡曲「熊野(1505頃)」)、 と、通称「六道さん」と呼ばれる、 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)、 の付近が「六道の辻」であるとされるのは、この寺の所在地付近が、 平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境、 にあたると考えられるからである。 因みに、 六道錢、 というのは、 仏葬に、死者を葬る時、棺中に入るる錢六文、 を言う(大言海)。 六道能化の地蔵への賽銭、 の意とも、 三途の川の渡錢、 ともいう(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) その声天に響いて、非想非々想天(ひそうひひそうてん)までも聞こえやすらんとおびただし(太平記)、 とある、 非想非々想天、 は、 猛火(みょうか)雲を焦がして翻る色は、非想天の上までも昇り(仝上)、 と、略して、 非想天、 ともいい、 無色界の第四天で、三界(欲界・色界・無色界)の諸天の最頂部にある天の名、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)。 非想非非想処、 非想、 非非想天、 非有想非無想天、 などともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 三界の中で最上の場所である無色界の最高天、 つまり、 全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)、 という意味で、「摩醯修羅(まけいしゅら)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485376769.html?1643227808)で触れたように、三界は有(う)ともよばれるので、その頂上にあるこの天は、 有頂天(うちょうてん)、 ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A0%82%E5%A4%A9)が、「摩醯首羅」は、 ヒンドゥー教の、世界を創造し支配する最高神シヴァの別名、イーシュヴァラで、万物創造の最高神、 とされ(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%87%AA%E5%9C%A8%E5%A4%A9)、 色究竟天(しきくきょうてん・しきくぎょうてん)、 に在す、とある(仝上)。「色究竟天」は、 阿迦尼吒天(あかにだてん)、 ともいい、 三界(無色界・色界・欲界の3つの世界)のうち、色界の最上位に位置する、 とされ(仝上)、鳩摩羅什漢訳の『法華経』序品では、 無色界の最上位である非想非非想天ではなく、この色究竟天が有頂天であると位置づけられている、 ともある(仝上)ので、この意味から、「有頂天」には、 色界(しきかい)の中で最も高い天である色究竟天(しきくきょうてん)、 とする説、 色界の上にある無色界の中で、最上天である非想非非想天(ひそうひひそうてん) とする説の二説がある(広辞苑)ことになる。 「無色界」は、 無色天(むしきてん)、 ともいい、色界より上位の世界で、 空無辺処(くうむへんしょ 無量空処 第一天。物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地)、 識無辺処(しきむへんしょ 第二天。認識作用の無辺性についての三昧の境地)、 無処有処(むしょうしょ 第三天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地)、 非想非非想処(ひそうひひそうしょ 第四天。三界の中で最上の場所である無色界の最高天)、 の四天からなり、「非想非々想天」に生まれるものは、 粗(あら)い想念の煩悩がないから、 非想、 または、 非有想、 というが、 微細なものが残っているから、 非々想、 非無想、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A0%82%E5%A4%A9・広辞苑)、とある。 なお、仏教以外のインド宗教では、「非想非々想天」は、 解脱の境地、 とされたが、仏教では、 釈迦がこれからさらに解脱したところに真の涅槃を見出した、 とされ(精選版日本国語大辞典)、いまだ、「非想非々想天」は、 迷いの境地、 とされる(広辞苑)。 因みに、無色界の四天の下は、色界の、 第四禅天、 第三禅天、 第二禅天、 初禅天、 欲界の、 空居天(くうごてん)、 地居天(じごてん)、 と続く(http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/ten.html)が、色界の第四禅天には、 色究竟天(しきくきょうてん)、 善現天(ぜんげんてん)、 善見天(ぜんけんてん)、 無熱天(むねつてん)、 無煩天(むぼんてん)、 無想天(むそうてん)、 広果天(こうかてん)、 福生天(ふくしょうてん)、 無雲天(むうんてん)、 とあり(仝上)、その頂点にあるのか、 色究竟天(しきくきょうてん)、 で、これを、 有頂天、 とする説があるとしたのは上記の通りである。 「非」(ヒ)は、 象形。羽が左と右とに背いたさまを描いたもの。左右に払いのけるという拒否の意味をあらわす、 とある(漢字源)。「羽」(ウ)の、 二枚のはねをならべおいたもの、 という「羽」の字と比べると、その意味が納得できる(仝上)。 「想」(慣用ソ、漢音ショウ、呉音ソウ)は、 会意兼形声。相は「木+目」からなり、向こうにある木を対象として見ることを示す。ある対象に向かって対する意を含む。想は「心+音符相」で、ある対象に向かって心で考えること、 とある(漢字源)。 形声。心と、音符相(シヤウ、サウ)とから成る。こいねがう気持ち、ひいて、かんがえる意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(相+心)。「大地を覆う木の象形と目の象形」(事物の姿を「みる」の意味)と「心臓の象形」から、心にものの姿をみる、「おもう」を意味する「想」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji436.html)。 形声。心と、音符相(シヤウ、サウ)とから成る。こいねがう気持ち、ひいて、かんがえる意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(相+心)。「大地を覆う木の象形と目の象形」(事物の姿を「みる」の意味)と「心臓の象形」から、心にものの姿をみる、「おもう」を意味する「想」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji436.html)。 三種の神器を足付けたる行器(ほかい)に入れて、物詣でする人の、破籠(わりご 弁当箱)なんど入れて持たせたるやうに見せて(太平記)、 とある、 行器(ほかゐ)、 は、 外居、 とも当て、 ほっかい、 とも訓ませ(日本語源大辞典)、 旅行の際に食料を入れて背中や肩に負う脚付(で蓋付き)の木製の容器、 とあり(兵藤裕己校注『太平記』)、平安時代以来用いられ、多くは、曲物で、 円筒形、 で、外側に反り返った三本の脚がつき、 杉の白木製から精巧な漆蒔絵(うるしまきえ)、 まである(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「ほかゐ」の由来は、 外行に居(す)うる義(大言海)、 ホカユク(外行)の義(日本釈名)、 旅行など外で食べる時用いる意か(筆の御霊)、 ホカヒ(外居)する食器を入れたところから(先祖の話=柳田国男)、 強飯をよそに出す器であるから、外食の義か(和句解)、 と、その利用形態から、外食とか旅行用とか、「外」の意からとする説が大半である。別に、 ホカヒ(穂器)の意か、ホカヒ(穂穎)の意か(俗語考)、 とあるが、古く、 さて、とりあつめて、ほかゐに入れ、瓶子に酒入れなどして(「古本説話集(1130頃)」)、 と、 ほかゐ、 と表記している以上、「ひ」から語源を考えていくのはどうだろう。「ゐ」から考えると、 居、 が妥当なのではあるまいか。 居(ゐ)、 は、 坐、 とも当て、 立つの対、すわる意、類義語ヲル(居)は、居る動作を持続しつづける意で、自己の動作ならば、卑下謙遜、他人の動作ならば軽蔑の意がこもっている、 とある(岩波古語辞典)。「外(ほか)」は、 カはアリカ・スミカに同じで場所の意。ホカは中心点からはずれた端の方の所の意。奈良・平安時代には類義語ヨソは、自分とは距離のある、無関係、無縁な位置関係をいう。また、ト(外)は、ここまでが自分の領域だとする区切りの向こうの場所をいう。奈良・平安時代にはウチ(内)・トが対義語であったが、トが衰亡するとウチ・ホカという対立関係が成立した。近世に入って、ソト(外)という語が確立するとウチ・ホカに代わって、ウチ・ソトが対義語になった、 とある(仝上)。そうみると、 見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむ後ぞ咲かまし(古今集)、 と、 別のところ、 の意と考えれば、 別の所でい(坐)る、 意と見ることができる。勝手な憶説だが、 行器、 は、当て字ではあるまいか。室町時代の意義分類体の辞書『下學集』に、 外居、ホカヰ、或作行器、 とあるのはその意味ではなかろうか。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房)
(高野の衆徒)御廟を掘り破つてこれを見るに、上人(覚鑁〈かくばん〉)、不動明王の形象(ぎょうぞう)にて、伽縷羅煙(かるらえん)の内に座し給へり(太平記)、 とある、 伽縷羅煙、 は、当て字で、正しくは、 迦楼羅炎(かるらえん)、 と表記、 不動明王の光背、仏法保護の鳥カルラが羽を広げた形に似るから、 とも(兵藤裕己校注『太平記』・広辞苑)、 迦楼羅の吐く炎、または迦楼羅そのものの姿、 とも(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%A6%E6%A5%BC%E7%BE%85)、 迦楼羅天の吐く炎そのものの姿(http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=768)、 ともあるが、 迦楼羅の吐く炎、 なのではないか。 「伽縷羅(かるら)」とは、 梵語ガルダ(Garuḍa)、 で、 インド神話における巨鳥で、龍を常食にする、 とある(広辞苑)が、 インド神話において人々に恐れられる蛇・竜のたぐい(ナーガ族)と敵対関係にあり、それらを退治する聖鳥として崇拝されている。……単に鷲の姿で描かれたり、人間に翼が生えた姿で描かれたりもするが、基本的には人間の胴体と鷲の頭部・嘴・翼・爪を持つ、翼は赤く全身は黄金色に輝く巨大な鳥として描かれる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80)。 それが、仏教に入って、 天竜八部衆、 のちに、 二十八部衆、 の一として、 仏法の守護神、 とされる(広辞苑)。 翼は赤く全身は黄金色に輝き、つねに口から火焔を吐く、 とされ、 翼を広げると336万里にも達し、鳥頭人身の二臂と四臂があり、龍や蛇を踏みつけている姿の像容、 もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%A6%E6%A5%BC%E7%BE%85)。仏教において、 毒蛇は雨風を起こす悪龍とされ、煩悩の象徴といわれる為、龍(毒蛇)を常食としている迦楼羅は、毒蛇から人を守り、龍蛇を喰らうように衆生の煩悩(三毒)を喰らう霊鳥、 とされている(仝上) 日本の、 天狗、 は、この変形を伝えたもの(仝上)とされる。「迦楼羅」はパーリ語ガルラ(Garuḷa)音写で、 迦楼羅天、 迦楼羅王、 あるいは、 食吐悲苦鳥(じきとひくちょう)、 と漢訳され(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%A6%E6%A5%BC%E7%BE%85)、 迦楼羅者、是金翅鳥(「法華義疏(7世紀)」)、 と、 金翅(こんじ)鳥、 ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。なお、「八部衆」、「二十八部衆」については、 八部衆(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%83%A8%E8%A1%86)、 二十八部衆(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%83%A8%E8%A1%86)、 に詳しい。 或る若大衆(だいしゅう)一人(いちにん)走り寄つて、これを引つ立てんとするに、その身盤石の如くにして、那羅延(ならえん)が力も動かし難(かた)し(太平記)、 とある、 那羅延(ならえん)、 は、 帝釈天の眷属で、仏法守護の大力の神、密迹(みっしゃく)と対で、二王(仁王)といわれる、 とあり(兵藤裕己校注『太平記』)、 那羅延金剛(ならえんこんごう)、 あるいは、 那羅延天(ならえんてん)、 の略であり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、「那羅延(Nārāyaṇa)」は、 バラモン教・ヒンドゥー教の神ヴィシュヌが、仏教に取り入れられ護法善神とされたもの、「那羅延」とはヴィシュヌの異名「ナーラーヤナ」の音写、ヴィシュヌの音写として毘瑟笯(びしぬ)、毘紐[(びちゅう、びにゅう)、毘紐天(びちゅうてん、びにゅうてん)、 とも表記され(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%BE%85%E5%BB%B6%E5%A4%A9)、大力があるとして、 勝力、 と訳され(仝上)、その大力を、 餠を作りて三宝に供養すれば、金剛那羅延の力を得云々といへり(「日本霊異記(810〜824)」)、 と、 那羅延力、 という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。その大力の故に、 釣鎖力士、 とも称す(大言海)、とある。唐代の密教の要義約百条を解説した『秘蔵記』には、 那羅延天、三面、黄色、右手持輪、乗迦楼羅鳥、 とある。「迦楼羅鳥」は「迦楼羅炎(かるらえん)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486022291.html?1647372366)で触れたように、 両翼をのばすと三三六万里あり、金色で、口から火を吐き龍を取って食う という神話的な鳥である。 「密迹(みつしゃく)」は、サンスクリットの、 ヴァジュラパーニ(Vajrapāni)、 または、 ヴァジュラダラ(Vajradhara)、 の漢訳、 金剛杵(こんごうしょ 仏敵を退散させる武器)を持つもの、 の意味(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%8A%9B%E5%A3%AB)で、「密迹(みつしゃく)」は、 常に仏に侍して、其秘密の事跡を憶持する意、 とあり(大言海)、 密迹力士、 金剛密迹(密迹金剛 みっしゃくこんごう)、 執金剛神(しゆうこんごうじん・しゆこんごうしん)、 跋闍羅波膩(ばじゃらぱに)、 伐折羅陀羅(ばざらだら)、 金剛手(こんごうしゅ) 持金剛(じこんごう)、 等々とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%8A%9B%E5%A3%AB・精選版日本国語大辞典)。これを、「金剛を持つもの」の意から、 金剛力士、 とし、 開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。寺院の門に配される際には仁王(におう、二王)の名で呼ばれる、 とあり(仝上)、 半裸の力士形に作られ、寺門の左右に安置されるもの(執金剛神)は、普通、仁王(二王)と呼ばれる、 ともあり(広辞苑)、「密迹金剛」の二体がおかれるように読めるが、「金剛力士」の、 其一を、金剛密迹天と云ひ、其一を、那羅延天、又那羅延金剛と云ふ、共に金剛神、又金剛手(こんごうしゅ)とも称し、其力量、非常なりと云ふ。此の二神を、二王尊とも称し、巨大なる立像を作り、寺門の両脇に安置したるを二王門と云ふ、各、裸体にて、腰に布を纏ひ、顔面、手足、勇猛なる相をなす、閧ノ向かひて、右方に金剛密迹を置く、金剛杵を執りて、口を開く、左方に那羅延を置く、口を閉づ、開閉は阿吽の二音を表す、 とあり(大言海)、 本光寺の阿形像は「那羅延金剛」(ならえんこんごう)、吽形像は「密迹金剛」(みっしゃくこんごう)です、 とある(https://www.honkouji.com/butsujin/niouzou)。阿形の仁王像は金剛杵を持ち、 密迹金剛力士の当初の性格を示す、 とある(世界大百科事典)。だから、「仁王」像は、 「金剛」をもつ「密迹金剛」二体、 なのか、 右に密迹金剛、左に那羅延金剛、 なのか、ちょっと分からないところがある。普通に考えれば、対の、 密迹金剛と那羅延金剛、 だが、金剛をもつから、 金剛力士、 というのなら、 密迹金剛、 が並んでいるという見方も可能である。金剛杵を持つ執金剛神(しゆうこんごうじん・しゆこんごうしん)は、 金剛力士、密迹力士(みつじゃくりきし)、密迹金剛力士などの称があり、金剛杵を執ってつねに釈尊を守る神であるから、仁王の本来の尊像と同一のものである、 とするの(仝上)は、故なくはない。なお、「密迹金剛」は、 中国の竜門や雲岡の諸像の中に鎧を着た武将像として表現され、日本の古代の作例の中にも東大寺三月堂の須弥壇上にある乾漆造仁王像(奈良時代)や法隆寺蔵橘夫人厨子扉絵の像、東大寺三月堂の執金剛神像(奈良時代)は鎧で武装した像であり、中国の像の形式を伝える、 とある(仝上)。因みに、「阿吽」は、 サンスクリット語のア・フームa-hūの音写、 で、密教では、 「阿」は口を開いて発音する最初の音声で、すべての字音は阿を本源とし、「吽」は口を閉じて発音する音声で、字音の終末とする、 とされるが、 阿は呼気、吽は吸気であるとともに、それらは万有の始源と究極とを象徴する、 とか、 阿字には不生(ふしょう)、吽字には摧破(さいは)の意がある、 等々とされ、 菩提心と涅槃などに当てる、 とされる(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 向かって右が口を開き、左が口を閉じ、 阿吽を表している。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) その身盤石の如くにして、那羅延(ならえん)が力も動かし難(かた)し。金剛の杵(しょ)も砕き難くぞ見えたりける(太平記)、 とある、 金剛の杵(しょ)、 は、 仏の知恵を表し、煩悩を打ち砕く密教の法具、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)。「那羅延(ならえん)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486035712.html?1647459272)については、別に触れた。 「杵」(ショ)は、 会意兼形声。午は、きねを描いた象形文字。杵は「木+音符午」。午が十二支の午(うま)に用いられたため、区別するために音符木を加えて、午の原義を表すようになった。午は、交差する意を含み、交互に上下するきねをあらわした、 とある(漢字源)。 断木為杵、掘地為臼(木を断りて杵と為し、地を掘りて臼と為す)(易経)、 とあるように、 臼の中に入れた穀物などを搗く道具、 の意である。 「金剛杵(こんごうしょ)」は、 サンスクリット語ヴァジュラvajra、 が、 手杵(てぎね)の如し、 ということで名づけられた(大言海)。 中央部が取っ手で両端に刃がついている。堅固であらゆるものを打ち砕く、 ところから、 金剛、 の名を冠し、 金剛杵、 といい、 跋折羅(ばさら・ばざら)、 ともいう(大言海・広辞苑)。 雷をかたどったもの、 といわれ、 インド神話でインドラ(帝釈天)の下す雷電、 を指し、本来は、 雷霆(らいてい)神インドラの所持物、 である(世界大百科事典)が、のち仏教では、 この武器を持った神(執金剛神)がいつも影のように仏につき従い、仏を守護していた、 と考えられた(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E6%9D%B5)。 密教の法具としての金剛杵は、この武器が堅固であらゆるものを摧破(さいは)するところから、 至青龍寺、随阿闍梨法全、重受灌頂、学胎蔵界法、尽其殊旨、阿闍梨以金剛杵并義䡄(軌)法門等、付属宗叡(「三代実録〜元慶八年(884)」三月二六日)、 と、 煩悩を破る悟りの智慧の象徴として採り入れられた(仝上・精選版日本国語大辞典)。 両端の刃先の形によって、 1本だけ鋭くとがった刃先の独鈷(独股 とっこ・とこ・どっこ)、 刃先に両側から勾(かぎ)形に湾曲した刃を2本備えた三鈷(さんこ 三股)、 四方から4本備えた五鈷(ごこ 五股)、 等々ある(仝上)。合類節用集(延宝八年(1680))に、 三鈷杵、鈷、本字、股、盖(ふた)、三枝之義、 とあり、「鈷」は、 股の義、 で、独鈷は、 一股杵の略、 で、 三股をなすを三鈷、 五股をなすを五鈷、 という(大言海)が、さらに、 二鈷(にこ)、四鈷(しこ)、九鈷(きゅうこ)、人形杵、羯磨(かつま)杵、塔杵、宝杵、 等々、その種類は多いが、上記三種がもっとも一般に用いられていて(日本大百科全書)、独鈷、三鈷、五鈷は、それぞれ、 一真如・三密三身・五智五仏の義、 を表わす(精選版日本国語大辞典)、とある。 密教法具は当初、 最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡の入唐八家によって請来されたが、おのおのに若干の異同があり、大別すると金剛杵(こんごうしよ)と金剛鈴(こんごうれい)が主流をなし、異種に独鈷(どつこ)杵の端に宝珠をつけた金錍(こんべい)があり、そのほか輪宝(りんぼう)、羯磨(かつま)、四橛(しけつ)、盤子(ばんし) 金剛盤)、閼伽盞(あかさん)、護摩(ごま)炉、護摩杓などがあるが、供養具まで完備するには至っていない。やがて、壇上に火舎(かしや 香炉)を中心に六器(ろつき)、花瓶(けびよう)、飯食器(おんじきき)などをそろえた一面器、さらに四面器を配するなど、密法法具の整備拡充が進む、 とある(世界大百科事典)。 帝釈天(たいしゃくてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。 天主帝釈、 天帝、 天皇、 ともいい、バラモン教の、 インドラ(indra)と同一の神、 であり、 雷霆神(らいていしん)、 であり、 武神、 である(日本大百科全書)。仏教では、世界を守護する12種の天神、 十二天の一つ、 で、 八方天の一つ、 として東方を守る。十二天とは、 八方天と上下の天と日月とからなる。 東方の帝釈天(たいしゃくてん インドラIndra)、 南方の焔魔天(えんまてん ヤマYama)、 西方の水天(バルナVaruna)、 北方の毘沙門天(びしゃもんてん バイシュラバナVaiśravaa、クベーラKuvera)、 東南方の火天(アグニAgni)、 西南方の羅刹天(らせつてん ラークシャサRākasa)、 西北方の風天(バーユVāyu)、 東北方の伊舎那天(いしゃなてん イーシャーナĪśāna)、 上方の梵天(ぼんてん ブラフマーBrahmā)、 下方の地天(ちてん プリティビーPthivī)、 日天(にってん スーリヤSūrya)、 月天(がってん チャンドラCandra)、 で、特に八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る諸尊を、 八方天、 あるいは 護世八方天、 という 須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の善見城(ぜんけんじょう)に住して、四天王を統率し、人間界をも監視する、 とされる(仝上)。仏教では、四王天を、 持国天(じこくてん 東方の勝身(しょうしん)州)、 増長(ぞうちょう)天(南方の瞻部(えんぶ)州)、 広目(こうもく)天(西方の牛貨(ごか)州)、 多聞(たもん)天(毘沙門(びしゃもん)天。北方の瞿盧(くる)州)、 をいう(日本大百科全書)。 像形は一定でないが、古くは、 高髻で、唐時代の貴顕の服飾を着け、また外衣の下に鎧を着けるものもあるが、平安初期以降は密教とともに天冠をいただき、金剛杵(こんごうしょ)を持ち、象に乗る姿が普及した、 とあり、彫刻では京都東寺(教王護国寺)講堂の白象に乗る半跏像(はんかぞう)、奈良唐招提寺(とうしょうだいじ)金堂の立像、 が著名である(精選版日本国語大辞典)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 世は皆夢の幻(うつつ)とこそ思ひ捨つる事なるに、こはそも何事のあだし心ぞや(太平記)、 の、 あだし心、 は、 徒し心、 と当てたりする(岩波古語辞典)が、 浮ついた心、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)。ただ、あだし、 には、 徒し、 のほか、 空し、 敵し、 仇し、 他し、 異し、 等々とも当て、意味を異にする。いずれも、古くは、 あたし、 であった(広辞苑・岩波古語辞典)。 君に逢へる夜霍公鳥(ほととぎす)他(あたし)時ゆ今こそ鳴かめ(万葉集)、 と、 他し、 異し、 と当てる意は、 異なっている、 別である、 になる。類聚名義抄(11〜12世紀)に、 他、アタシ、 とある(広辞苑・岩波古語辞典)。 殿の御前の御聲は、あまたにまじらせたまはず、徒しう聞こえたり(栄花物語) の、 徒し、 空し、 と当てる意は、 空しい、 不実である、 になり(仝上)、 徒を活用せしむ語(眞(まこと)しき、大人しき)、あだし契、あだし世、などと云ふは、終止形を名詞に接しむる用法にて、厳(いか)し矛(ほこ)、空し車、同例なり、 とあり(大言海)、 意味上はアダ(不実)の形容詞形と考えられるが、常に名詞と複合した形で使われる。アダシ(他)とアダ(不実)との意味と形の近似による混交の結果生じた語であろう。中世以後の例が多い、 とある(岩波古語辞典)。「あだし心」はその典型例になる。 王は外道に党(かたちは)へり(味方した)。それ敵(あだ)すべけむや(大唐西域記)、 と、 仇し、 敵し、 と当てる意は、 敵対する、 はむかう、 になり(広辞苑・岩波古語辞典)、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 敵、アタル、カタキ、アタ、 とある。だから、 アタは仇、 とある(仝上)。 「あだ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456168855.html)で触れたことだが、 徒し、 空し、 敵し、 仇し、 他し、 異し、 とあてる「あだし」の語幹「あだ」は、いずれも古くは、 あた、 と、清音だが、 徒・空、 他・異、 仇・敵、 の三通りがある。「徒」は、 無用の意を言うアヒダ(閨jの約(大言海・名言通)、 アダシ(他し)の語根(大言海)、 アナタ(彼方)の約言(和訓集説・萍(うきくさ)の跡)、 など諸説あるが、「他」との関係について、「他」は、 徒(あだ)の、実なき意の、我ならぬ意に移りたる語にもあるか、 と、 他(異)し、 と 徒(空)し、 を繋げている(大言海)。有名な、 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ(古今集)、 を、 徒し、 ではなく、 他し、 と当てている(岩波古語辞典)のを、 アダシ(他)とアダ(不実)との意味と形の近似による混交の結果生じた語であろう。中世以後の例が多い、 とする(仝上)のは、意味の近さからではないか。 他し心、 は、 他に心を移している、 意であり、 徒し心、 は、それゆえの、 不実な心、 ということになる。もともと「あだし心」は、 異なる、他のものに心を移す、 という状態表現にすぎなかったが、そのこと自体に意味を持たせた価値表現へと転じ、 徒し心、 へとシフトしたのかもしれない。 「仇し」については、「あだ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456168855.html)で触れたように、 語源についてはいまだ確定的なものはない。『万葉集』の表記に始まって平安朝の古辞書における訓、中世のキリシタン資料の表記はすべてアタと清音になっており、江戸中期の文献あたりでは、いまだ清音表記が主流である。二葉亭四迷の『浮雲』を始め近代の作品ではアダと濁音化しているので、江戸後期から明治にかけて濁音化が進んだとみられる、 とあり(日本語源大辞典)、 當(あた)るの語根、名義抄「敵、アタル、カタキ、アタ」、日本釈名(元禄)「アタは、當る也、我と相當る也、敵當の意なり」(大言海)、 「アタ(当たるの語幹)の変化」です。アタンスル(寇にする)が方言に残っています。アダと濁音になったのは憎む意の加わったものです(日本語源広辞典)、 と、「仇きに同じ」として、 憎むに因りて濁らするか(浅〔あさ〕む、あざむ。淡〔あは〕む、あばむ)、 と、その意味から濁点化したとみている(大言海)。もともと、 びたりと向き合って敵対するものの意、 と(岩波古語辞典)いう状態表現であったものが、「憎む」価値表現を加味したということかもしれない。 「徒」(漢音ト、呉音ズ・ド)は、 形成。「止(あし)+彳(いく)+音符土」で、陸地を一歩一歩とあゆむことで、ポーズをおいて、一つ一つ進む意を含む、 とある(漢字源)が、別に、 「辵」と「土」を合わせた漢字。「辵」は歩くことを意味し、「土」は地面、同時に音(ト)を示す。「徒」は地面を踏みしめ歩くことである、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BE%92)、 会意兼形声文字です(彳+土+止)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)と「立ち止まる足」の象形(「足」の意味)から、道を行く時に乗物に乗らず、土を踏んで「あるく」を意味する「徒」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji593.html)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 倩(つらつら)これを思ふに、惡の彼に在ると、義の我に在ると、天下の治乱、山上の安危に孰れぞ(太平記)、 とある、 つらつらは、 倩々、 熟、 熟々、 等々とも当て、 つらつら思へば、誉れを愛する人は、人の聞(きき)をよろこぶなり(徒然草)、 というように、 つくづく、 よくよく、 の意で使う(広辞苑)。類聚名義抄(11〜12世紀)には、 熟、ツラツラ、コマヤカナリ、クハシ、 とあり、さらに、 倩、ツラツラ、 ともある。また、「つらつら」は、 御涙にぞむせびつつ、つらつら返事もましまさず(浄瑠璃「むらまつ」)、 と、 すらすら、 の意でも使うが、これは、 滑々、 と当てる、 なめらかなさま、 つるつる、 の意となる。 倩、 熟、 と当てる「つらつら」は、 「と」を伴って用いることもある。古くは「に」を伴うこともあった、 とされ、 物ごとを念を入れてするさまを表わす語、 なので、 つくづく、 よくよく、 念入りに、 の意で使われるが、詳しく見ると、 巨勢(こせ)山の列々(つらつら)椿都良々々(ツラツラ)に見つつしのはな巨勢の春野を(万葉集)、 と、 じっと見つめるさま、熟視するさま、 の意、 伝燈の良匠にあらずして、強ひて訂(ツラツラ)この事をかへりみる(「霊異記(810〜824)」)、 と、 物事を深く考えるさま、 熟考するさま、 の意、 つらつらと歎き居たり(「今昔物語(1120頃)」)、 と、 深く嘆き、また反省するさま、 の意と、 男も草臥て、つらつら寝入ければ(仮名草子「東海道名所記(1659〜61頃)」)、 と、 よく寝入るさま、 ぐっすり、 の意と、単純に「よくよく」「つくづく」には置き換えられない含意の幅があり(精選版日本国語大辞典)、また当てた字も違うものもあるようである。 で、「つらつら」の語源を見ると、 絶えず続きての意(大言海)、 不断の意から転じた(日本古語大辞典=松岡静雄)、 として、 連連(つらつら)の義、 とするもの、あるいは、 連ね連ねの約(日本語源広辞典)、 ツラはツレア(連顕)の約(国語本義)、 と、「連」と絡める説が多いが、これは、上記万葉集の、 巨勢(こせ)山の列々(つらつら)椿都良々々(ツラツラ)に見つつ思(しの)はな巨勢の春野を、 を、 連連(つらつら)の意、 とする説(万葉集略解・万葉集古義)からきているようだ(精選版日本国語大辞典)。しかし、 つらつら椿、 の、 つらつら、 は、確かに、 列々、 と使っているように、 連なっている、 意で、 連連、 の意でいいが、 都良々々(ツラツラ)、 は、別の字を当てており、 連連、 とは区別していると見るべきではないか。 他の語源説には、 ツヅラ(蔓)から派生した語(国語溯原=大矢徹)、 と、どちらかというと、 連連、 と、似た発想になる。さらに、 ツラは、ツヨシ(強)のツヨ、ツユ(露)、ツラ(頬・面)と同根(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 とする説もある。いずれの語源説も、 よくよく、 念入り、 という意味とのつながりは見えてこない。「つら」は、上記でも、 列々(つらつら)椿、 と当てているように、 連、 列、 と当て、 連なる、 ならぶ、 意である。これが、 途絶えず続く意味から転じ、じっと見つめたり、深く考えるさまを表すようになったと考えられている、 とされる(語源由来辞典)が、 つらなる、 ことが、 よくよく、 念入り、 の意へと意味の外延としては繋がりにくい気がするが、ただ「連連」の、 空間的な連続、 が、 時間的な連続、 へと意味を転化させたということは、他の語の例でもよくあるので十分あり得る。そうみれば、 連連、 にも根拠はある。 なお、「つらつら」を、 熟、 と当てるのは、 「熱」は「熟考」や「熟視」など、「十分に」「よくよく」といった意味からの当て字、 とされ(語源由来辞典)、 倩、 と当てるのは、中世、 記録資料をはじめ、「平家物語」など記録体の影響を受けた文学作品に、「倩」の表記が見られる、 とある。冒頭の「太平記」の例もそれであるが、「倩」は、 漢籍では美しく笑うさま、あるいは、男子の美称であり、この「つらつら」との結び付きの由来はわからない、 とある(精選版日本国語大辞典)。 「倩」(漢音呉音セン、漢音セイ、呉音ショウ)は、 会意兼形声。「人+音符青( セイ)」で、清らかに澄んだ人のこと、 とあり(漢字源)、「妹婿」(マイセン)と、すっきりした男、転じて婿、あるいは、笑ったとき口元がすっきりと美しいさま、の意で、「巧笑倩兮(巧笑倩たり)」(詩経)とある。 「熟」(漢音シュク、呉音ジュク・ズク)は、 会意。享は、郭の字の左側の部分で、南北に通じた城郭の形。つき通る意を含む。熟の左上は、享の字の下部に羊印を加えた会意文字で、羊肉にしんを通すことを示す。熟は丸(人が手で動作するさま。動詞の記号)と火を加えた字で、しんに通るまで軟らかく煮ること、 とある(漢字源)が、わかりにくい。ただ「熟」は「孰」の後にできた字のようである(角川新字源)。ただ、別に、 会意兼形声文字です(孰+灬(火))。「基礎となる台の上に建っている先祖を祭る場所の象形と人が両手で物を持つ象形」(「食べ物を持って煮て人をもてなす」の意味)と「燃え立つ炎」の象形から、「よく煮込む」を意味する「熟」という漢字が成り立ちました、 ともあり(https://okjiten.jp/kanji971.html)、さらに、 形声。「火」+音符「孰 /*TUK/」。{熟 /*duk/}を表す字、 会意形声。「火」+音符「孰」、「孰」は「享」+「丸(←丮)」の会意。「享(古体:亯)」は「郭」の原字で、城郭の象形、「丮」は、両手で工事するさま。「孰」は城郭に付属して建物を意味していたが、音を仮借し、「いずれ、だれ」の意に用いるようになったため、元の意は「土」を付し「塾」に引き継がれた。古体は「𦏧」であり、「羊」が加えられており食物に関連。「享」が献上物をとおして、「饗」と通じていたことから、饗応のための食物をよく煮にる意となったか。藤堂明保は、「享」に関して、城郭を突き抜けるさまに似る金文の形態及び「亨」の意義などから、城郭を「すらりと通る」ことを原義としていることから、熱をよく通すことと解している。なお、「亨」に「火」を加えた「烹」も「煮にる」の意を有する(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%86%9F)、 と、異説が併記されているので、諸説あることがわかる。漢字源は、藤堂説である。 ついでに、「孰」(漢音シュク、呉音ジュク)は、 会意文字。「享(築き固めた城)+手のかたち」。塾(ジュク ついじ)・熟(奈河までく煮る)などの原字。また、その音を借りて、選択を求める疑問詞(孰れ)に用いる、 とある(漢字源)が、 形声。「享(建物)」+音符「丮 /*TUK/」。{塾 /*duk/}を表す字。のち仮借して{孰 /*duk/}に用い、「いずれ、だれ」の意味を表す、 会意。「享」+「丸(←丮)」の会意。「享(古体:亯)」は「郭」の原字で、城郭の象形、「丮」は、両手で工事するさま。城郭に付属した建物を意味していたが、音を仮借し、「いずれ、だれ」の意に用いるようになったため、元の意は「土」を付し「塾」に引き継がれた。説文解字の親字には採用されてはおらず、「熟」の原字である「𦏧」が採られている。また、「𦎫」には「孰也」との記載がある、 と諸説併記である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AD%B0)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 天慮臣を以て爪牙(そうげ)の人と為す。肆(かかるがゆえ)に、否泰(ひたい)を卜する遑(いとま)あらず(太平記)、 にある、 肆に、 は当て字である。普通は、 斯るが故に、 と表記するのではないか。 かかるがゆえに、 は、 か(斯)あるがゆえ(故)に、 あるいは、 斯(か)くあるがゆえに、 の変化したもの(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)、 で、 般若波羅蜜ををこなひたまはすよりほかには、諸仏の正覚なりたまふ事なし。かるがゆへに、依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、とのたまへり(「百座法談(1110)」)、 と、 先行の事柄の当然の結果として、後行の事柄が起こることを示す、 言い回しで、 こういうわけで、 このために、 それゆえに、 という意味になる。 斯(か)く、 自体が、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 斯、カク、 とあり、 カは此・彼、クは副詞語尾、目前の状態や、直前に述べたこと、直後に述べることを指している、 使い方で、例えば、 神代紀には、 如斯(カク)、 とあり、 海つ道のなぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや(万葉集)、 と、 このように、 の意でもあり(岩波古語辞典)、 いにしへよりかく伝はるうちにも(古今集序)、 と、 上の意をうけて下に移す、 形で、 かように、 それゆえに、 とか、 の意で使われる(大言海)。 古くは漢文訓読の語で、中世・近世には改まった感じの文章語として用いられた、 もののようである(精選版日本国語大辞典)。ただ、 肆に、 と当てるケースは少ない。 「肆」(シ)は、 会意。もと「長(ながい)+隶(手でもつ)」。物を手にとってながく横に広げて並べることをあらわす。後に、肆(長+聿)と誤って書く、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%82%86)。「肆陳」(シチン)というように、「つらねる」「横に長く並べる」意であり、「書肆」のように、「品物を横に並べてみせる店」の意で使う。どちらかというと、「放情肆志」(ホウジョウシシ)というように、「放肆」「恣肆」「驕肆」などと「ほしいまま」の意で使う方が目につく。 かかるがゆえに、 に当てたのは、 肆不殄厥チ(肆にそのチを殄(た)たず)(詩経)、 と、 ゆえに、 の意で、 語の端を更(あらた)める辞(字源)、 として使われたり、 肆中宗之享國七十有五年(書経)、 と、 ここに、 の意で、 詩の句調をととのえることば(漢字源)、 として使われるからと思われる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 庶幾(こいねが)ひて聴(きき)を貪る処に、儻(たまたま)、青鳥(せいちょう 使者)を投じて丹心(たんしん 忠義の誠)を竭(つく)さる(太平記)、 にある、 儻(たまたま)、 は、 偶、 適、 会、 等々とも当て、 儻、 と当てるケースは少ないが、「儻」(トウ)は、 会意兼形声。「人+音符黨(トウ)」で、もと大きくこだわらない人の意、 とある(漢字源)が、接続詞として、 儻所謂天道是耶非耶(儻しくはいはゆる天道は是か非か)(史記・伯夷傳)、 と、 もしくは、 ひよっとしたら、 たまたま、 の意で使うところから、 儻(たまたま)心を遂げずは必ず瞋怒を起し国をも毀(そこな)ひ祀をも滅してむ(「大唐西域記(646年)」)、 と、漢文系の用例かと思われる。 「たまたま」は、 予期もしなかったことに偶然出くわすさま。和文脈系には使われることが少ない、 とあり(岩波古語辞典)、意味の幅としては、 たまたま、まゐらせ給ふとものせしかど(「宇津保(970〜99)」)、 と、 その場合とか機会とかがまれではあるが何度かあるさまをいう、時おり、ときたま、 の意で、あるいは、 知らぬ世にまとひ侍りしをたまたまおほやけに数まへられたてまつりては(「源氏物語(1001〜14)」)、 至りて愚かなる人はたまたま賢なる人を見てこれを憎む(「徒然草(1330〜131年)」)、 と、 その場合とか機会とかが偶然であるさまをいう、偶然に。ふと、 の意で、あるいは、 若、偶(タマタマ)音響に中らば、十九首の流なり(「文鏡秘府論保延四年点(1138)」)、 念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま換ふるものは金を軽くし、粟を重くす(「方丈記(1212)」)、 と、 ごくまれではあるが、ひょっとしてそうなるとか、そうなるかもしれないとかいう気持を表わす、ひょっとして、どうかして、もしかして、 の意で、あるいは、 属(タマタマ)有道に逢ふ。時惟(ときこれ)我が皇なり(「大慈恩寺三蔵法師伝承徳三年点(1099)」)、 と、 予期したことが実現するとか、実現してよかったとかいう気持を表わす、折よく、折があって、運よく、 の意と、微妙な意味の幅で使う(精選版日本国語大辞典)。 和文資料では、「宇津保物語」「枕草子」「和泉式部日記」「栄花物語」などに散見するが、「蜻蛉日記」「更級日記」「紫式部日記」などには見えない。また、「方丈記」や「徒然草」では「たまたま」があって「たまさか」がないこと、「源氏物語」では他はすべて「たまさか」が用いられているが、光源氏のことば一例のみが「たまたま」であることなどから、男性語であると考えられる、 ともある(仝上)。「たまさか」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441825356.html)で触れたように、「たまさか」も、 偶、 適、 と当て(広辞苑)、 邂逅、 とも当て(大言海)、 偶然出会うさま。類義語マレは、存在・出現の度数がきわめて少ない意。ユクリカ・ユクリナシは、不意・唐突の意、 とあり(岩波古語辞典)、 ゆくりなし、 とも意味が重なる。「たまさか」の意味の幅は、 玉坂(たまさかに)吾が見し人を如何にあらむ縁(よし)をもちてかまた一目見む(万葉集)、 邂逅(タマサカニ)児有る家に次(やど)り、遂に是の子を得たり(「日本霊異記(810〜824)」)、 と、 思いがけないさま、偶然であるさま、 の意と、 よき帯などたまさかにありけるなども、皆大将殿に奉り給ふ(「落窪(10C後)」)、 と、 まれであるさま、その場合とか機会が数少ないさま、 の意と、 若し天竺(てんぢく)にたまさかにもて渡りなば(「竹取物語(9C末〜10C初)」)、 たまさかにも、おぼし召しかはらぬやう侍らば……必ず、かずまへさせ給へ(「源氏物語」)、 と、多く、「に」「にも」を伴って副詞的に、 めったにないさま、あまり期待できないが、ひょっとしてそうなるさま、 の意と、その意の幅がある(精選版日本国語大辞典)。 奈良時代の用例は……、平安時代になるとこの意は「たまたま」が担い、「たまさか」は時間的に長い間隔があることを意味する場合と、仮定条件句とともに用いられる意を表わすようになった、 とあり、 女性の手になる作品、たとえば「蜻蛉日記」では「たまさか」は使用されているが「たまたま」は現われない。また、他の女流作品でも「たまたま」は僅少である。一方、男性の手になる「方丈記」や「徒然草」には「たまさか」は見られないという事実から「たまさか」は女性的な用語であったと思われる、 とある(仝上)。「ゆくりなし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441967296.html)で触れたように、「ゆくりなし」は、 ユクは擬態語。ユクリカと同根(リカは状態を示す接尾語)。気兼ね遠慮なしに事をするさま。相手がそれを突然だと感じるような仕方。リは状態を示す接尾語。ナシは、甚だしい意、 であり(岩波古語辞典)、 ゆくりなくかぜふきて、こげどもこげども、しりへしぞきにしぞきて(「土左日記(935頃)」)、 と、 予想もしないようなさまである、にわかである、不意である、突然である、思いがけない、 意や、 あたら思ひやり深うものし給ふ人のゆくりなくかうやうなる事(源氏物語)、 と、 思慮をめぐらさずに事をなすさまである、かるはずみである、不注意である、 の意の幅がある(精選版日本国語大辞典)。「たまたま」から連想される語に、 たま(偶)に、 あるいは、 たま(偶・適)、 がある。これは、 たまにこととふものとては、みねにこづたふむらざるの(御伽草子「六代(室町時代物語大成所収 室町末)」)、 と、 めったにないこと、まれであること、 の意となる(仝上)。こう見ると、 たまさか、 たまに、 たまたま、 ゆくりなく、 は、かなり意味が重なり、 まれに、 が、 思いがけず、 となり、 偶然に、 となる、という意味の流れはある程度わかる気がする。とくに、 たまに、 たまさか、 たまたま、 は、音韻的なつながりが強いとみていい。そのつながりを、 「ひじょうに希である」という意のイタマレニ(甚稀に)は、省略されてタマニ(偶に)に変じた。これを強めてタマタマ(偶々)という。 イササカ(聊か)は「ついちょっと。ほんのすこし。わずかばかり」という意の形容動詞である。「めったに会いがたいものがついちょっとあう」という意を表現するとき、ふたつの形容動詞を重ねてタマニイササカ(偶に聊か)といった。語中の三音節を落として「タマサカ(偶)になった。〈わたつみの神のをとめにタマサカニ漕ぎ向かひ〉(万葉・永江浦島)、〈タマサカニわが見し人をいかならむ縁(よし)をもちてかまた一目見む〉(万葉)、 とする説もある(日本語の語源)。「たまさか」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441825356.html)で書いたように、この音韻変化によるならば、元々は、 まれ、 という意であり、それを出会う側が、 不意に、 と受け止めるか、 偶然に、 と受け止めるか、 唐突に、 と受け止めるか、 予期せずに、 と受け止めるかで、微妙な語感の幅になったということなのではあるまいか。 「たまに」と「たまたま」は語原が同一だと思われるが、その「たま」をどう見るか、 タマは形容詞トモシ(乏)の語幹トモと同根、タマタマはこれを重ねたもの(小学館古語大辞典・日本語源広辞典)、 タエマタエマ(絶間絶間)の義(大言海)、 タマタマ(時間時間)の義(日本語原学=林甕臣)、 「たま」は、滅多にないこと、希なことを意味する「たまさか」と同源(語源由来辞典)、 と、諸説あるが、「ともし」は、 トメ(求)と同根、跡をつけたい、求めたいの意。欲するものがあって、それを得たいという欠乏感・羨望感をあらわす、 という意味(岩波古語辞典)から見て、意味が違い過ぎる気がするし、「たえま」「時間」も、時間幅があって、 まれに、 たまに、 の意だと思われるが、どうも後付けの解釈なのではないかという気がする。やはり、上記の、 めったにないこと、 由来と見て、 イタマレニ(甚稀に)→タマニ(偶に)→タマタマ(偶々) と転訛したとするのが、いまのところ妥当な気がするのだが。 類義語「わくらば」については、「ゆくりなし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441967296.html)、「たまさか」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441825356.html)で触れた。 「たまさか」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441825356.html)で触れたように、「偶」(慣用グウ、呉音グ、漢音ゴウ)は、 会意兼形声。禺は、上部が大きい頭、下部が尾で、大頭のひとまねざるをえがいた象形文字。偶は「人+音符禺」で、人に似た姿をとることから、人形の意となり、本物と並んで対をなすことから、偶数の意図なる、 とあり(漢字源)、 形声。人と、音符禺(グ)→(ゴウ)とから成る。ひとがたの意を表す。耦(グウ)・俱(グ)に通じ、転じて、つれあい、くみの意に用いる、 とも(角川新字源)、 形声文字です(人+禺)。「横から見た人」の象形(「人」の意味)と「大きな頭と尾を持ったサル、おながざる又は、なまけもの」の象形(「おながざる・なまけもの」の意味だが、ここでは、「寓(ぐう)」に通じ(同じ読みを持つ「寓」と同じ意味を持つようになって)、「かりる」の意味)から、木を借りて人の形に似せたもの「人形(ひとがた・でく)」を意味する「偶」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1529.html)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 庶幾(こいねが)ひて聴(きき)を貪る処に、儻(たまたま)、青鳥(せいてう)を投じて丹心(たんしん 忠義の誠)を竭(つく)さる(太平記)、 にある、「せいちょう」と訓ます、 青鳥、 は、文字通り、 青鳥居山日、丹鳥(鳳凰)表瑞時(張衡「西京賦」)、 と、漢語であり、 青い鳥、 の意で、 藍鳥、 とも表記する(https://dic.pixiv.net/a/%E9%9D%92%E9%B3%A5)が、ここでは、 西王母の使いの鳥、 の意で、 転じて、 使者、 また、 書簡、 の意である(広辞苑・兵藤裕己校注『太平記』)。 この由来は、 七月七日、忽有青鳥、飛集殿前、東方朔曰、此西王母欲來、有頃王母至、三鳥夾侍王母傍(漢武故事)、 による、 前漢の東方朔が、三足の青い鳥の飛来したのを見て、西王母の使いであるといった、という故事による(字源・大言海)。 「漢武故事」は、「漢武内伝」とともに、 中国、六朝時代(222〜 589年)の志怪小説、 で、「漢武故事」は、 漢の武帝の出生から崩御までを描いたもの、 であり、「漢武内伝」は、 『漢武故事』の武帝の行状のうち、神仙との交渉をおもに述べたもので、特に西王母と会って宴をともにし、仙書を授けられる話が中心になっている、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。 後漢の班固の作と称するが、いずれも六朝人の偽作と考えられている、 とある(仝上)。「史記」司馬相如傳に、 幸有三足鳥、為之使、 とあり、その註に、 三足鳥、青鳥也、主為西王母取食、 とある(大言海)。 案内を達せんとするところに、青鳥飛来りて芳簡(はうかん)を投げたり(「平家物語(13C前)」)」、 とか、 翌日青鳥飛来投芳簡(源平盛衰記)、 とか、 方々御下文等、被附此青鳥(「吾妻鑑(1300年頃)」)、 等々、使者や書簡のメタファとして使われている。 「(青)」(漢音セイ、呉音ショウ)は、 会意。「生(あおい草の芽生え)+丼(井戸の中に清水のたまったさま)」で、生(セイ)・丼(セイ)のどちらかを音符と考えてよい。あお草や清水のような澄み切ったあお色、 とある(漢字源)が、 会意形声。丹(井の中からとる染料)と、生(セイ は変わった形。草が生えるさま)とから成り、草色をした染料、「あお」「あおい」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意。「生」と「丹」を合わせた字形に由来する、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%91)、 会意兼形声文字です。「草・木が地上に生じてきた」象形(「青い草が生える」の意味)と「井げた中の染料(着色料)」の象形(「井げたの中の染料」の意味)から、青い草色の染料を意味し、そこから、「あおい」を意味する「青」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji137.html)あり、「生」と「丹」とする説が大勢のようだ。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 川を渡り、馳せ懸かる威(いきおい)、寔(まこと)に天魔波旬(てんまはじゅん)をも欺くべし(播磨別所記)、 とある、 天魔波旬、 は、 (三浦介高継は)千葉(介貞胤)が右に立たん事を怒(いか)って、共に出仕を留めてければ、天魔の障碍、法会の違乱(いらん)とぞなりにける(太平記)、 と、 天魔、 ともいい、「魔」は、 マーラ(Māra 魔羅)の略、 「魔羅(摩羅)」は、 問、何故名魔、答曰、斷慧命故名魔、復次常行放逸、害自身、故名魔(大婆娑論)、 と、 智慧の命を奪ふ因縁となる故に、能奪命と訳す、又、能く修道の障碍をなす故に、破壊善者とも訳す、下略して、魔とのみも云ふ、 とあり(大言海)、「魔」の字は、 舊訳の経論は磨に作る、梁の武帝より魔の字に改めしと云ふ、弘決外典抄「魔字従石、梁武帝(502〜49年)来、謂、魔能悩人、字宜従鬼」、 とある(仝上)。なお、梁(りょう 502〜57年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。蕭梁とも呼ばれる。 「波旬」は、 梵語pāpīyas、 の音訳で、 邪悪なもの、 の意である。 佛初成道、天魔波旬、以三旬、嬈乱(にょうらん)耳(四十二章経)、 とある(大言海)。 「摩醯修羅(まけいしゅら)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485376769.html)で触れたように、「天魔波旬」は、 第六天魔王、 といい、 欲望が支配する欲界(三界(欲界・色界(しきかい)・無色界の三種の迷いの世界)のひとつ。色欲・食欲など本能的な欲望の世界)に属する六種(四王天・忉利(とうり)天・夜摩(やま)天・兜率(とそつ)天・楽変化(らくへんげ)天・他化自在(たけじざい)天)の天のうち、第六の他化自在(たけじざい)天、 にすみ、 第六天魔王波旬(はじゅん)、 天子魔(てんしま)、 他化自在天(たけじざいてん)、 などともいい、 仏道修行を妨げる悪魔、 とされる(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%AD%94)。よく、 摩醯首羅(まけいしゅら)、 つまり、 大自在天(だいじざいてん)、 と混同される。 第六天、つまり、 他化自在天、 は、 此の天は他の所化を奪いて自ら娯楽す、故に他化自在と言う、 とあり(大智度論)、 他人の変現する楽事をかけて自由に己が快楽とするからこの名がある。この天の男女は互いに相視るのみにて淫事を満足し得、子を欲する時はその欲念に随って膝の上に化現するという。天人の身長は三里、寿命は1万6千歳という、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8C%96%E8%87%AA%E5%9C%A8%E5%A4%A9)。その一尽夜は人間の1600年に相当するという(仝上)。また、 他の者の教化を奪い取る天、 とされ、 他化天の上、梵身天の下、其の中間に摩羅波旬・諸天の宮殿有り、 とあり(起世経)、 第六天魔王、 は、 自在天王、 と称し(過去現在因果経)、 魔波旬六欲の頂に在りて別に宮殿有り。今因果経すなわち自在天王を指す。是の如くなれば則ち第六天に当たる、 とある(仏祖統紀)。 欲界の六種の天、つまり、 六欲天、 は、上から、 他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、 化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん) 六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、 兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある。菩薩がいる場所、 夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、 忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん) 六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、 四大王衆天(しだいおうしゅてん) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、 となる(http://yuusen.g1.xrea.com/index_272.html他)。 なお、「奈利」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485836000.html?1646337121)で触れたことだが、「由旬」(ゆじゅん)は、 古代インドで用いた距離の単位の一つ、 で、 帝王の軍隊が一日に進む行程(精選版日本国語大辞典)、 あるいは、 「くびきにつける」の意で、牛に車をつけて1日引かせる行程のこと(岩波仏教辞典)、 牛車の1日の行程(デジタル大辞泉)、 などともあり、古代インドでは度量衡が統一されておらず、厳密に定義できないが、 約11.3kmから14.5km前後(仝上)、 あるいは、 約7マイル(約11.2キロメートル)あるいは九マイル(約14.5キロメートル)(精選版日本国語大辞典)、 とある。 「天」(テン)は、「天知る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484881068.html)で触れたように、 指事。大の字に立った人間の頭の上部の高く平らな部分を一印で示したもの。もと、巓(テン 頂)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らに広がる意を含む、 とある(漢字源)。 別に、 象形。人間の頭を強調した形から(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%A9)、 指事文字。「人の頭部を大きく強調して示した文字」から「うえ・そら」を意味する「天」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji97.html)、 指事。大(人の正面の形)の頭部を強調して大きく書き、頭頂の意を表す。転じて、頭上に広がる空、自然の意に用いる(角川新字源)、 等々ともある。 「魔」(漢尾バ、呉音マ)は、 会意兼形声。麻は、摩擦してもみとる麻。こすってしびれさせる意を含む。魔は「鬼+音符麻(しびれさす)」。あるいは、梵語の音訳字か、 とあり(漢字源)、 「麻」は植物のアサで人をしびれさせる(麻痺)させる効能を持つ。しびれさせ、正気でなくさせる「鬼(=霊魂)」。唐代以降に見られる文字で、仏教の悪鬼マーラの漢音訳『魔羅』を表記するために造字されたものといわれる、 ともあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%94)、さらに、 形声文字です(麻+鬼)。「切り立った崖の象形とあさの表皮をはぎとる象形」(「麻」の意味だが、ここでは、「梵語mara(釈尊の成道を妨げようとした魔王の名)の音訳」の意味)と「グロテスクな頭部を持つ人」の象形(「鬼」の意味)から、「人をまどわす悪い鬼」を意味する「魔」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1767.html)。上記したように、梁・武帝の指示で作字したとする説がある。 「波」(ハ)は、 会意兼形声。皮は「頭のついた動物のかわ+又(手)」の会意文字で、皮袋を手でななめに引き寄せて被るさま。波しは「水+音符皮」で、水面がななめにかぶさるなみ、 とある(漢字源)が、 会意兼形声文字です(氵(水)+皮)。「流れる水の象形」と「獣の皮を手ではぎとる象形」(「毛皮」の意味)から、毛皮のようになみうつ水、「なみ」を意味する「波」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji405.html)。 ただ「皮」(漢音ヒ、呉音ビ)は、 象形又は会意。頭のついた獣のかわ+「又(=手)」で動物の皮を引きはがす様、または、斜めに身にまとう様、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9A%AE)、 会意。「頭のついた動物のかわ+又(手)」で、動物の毛皮を手で身体にかぶせるさま。斜めにかける意を含む、 とも(漢字源)あるが、 象形文字です。「獣の皮を手ではぎとる」象形から「かわ」を意味する「皮」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji525.html)。「はぎとる」とも「かぶる」とも、金文(西周)からだけでは、判別しにくい。 「旬」(漢音シュン、呉音ジュン)は、 会意兼形声。「日+音符勹(手をまるくひとめぐりさせたさま)」で、甲乙丙……の十干(じつかん)を一回りする十日の日数のこと、 とあり(漢字源)、 形声文字です(勹+日)。「人が腕を伸ばして抱え込んでいる」象形(「つつむ」の意味だが、ここでは、「堰iキン)」に通じ(「堰vと同じ意味を持つようになって)、「ひとしい」の意味)と「太陽」の象形から、ひとしい太陽の運行を意味し、そこから、「十日」、「十日間」を意味する「旬」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1154.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) いっとき、 ぼったくり男爵、 という言葉が世上で話題になったが、「ぼったくり」とは、 法外な料金を取ること、 力ずくで奪い取ること、 といった意味で、訛って、 ぶったくり、 ともいう(デジタル大辞泉)。その動詞が、 ぼったくる、 で、あまり辞書には載らないが、 ぼったくりをする、 ぼる、 ともいい(精選版日本国語大辞典)、 法外な料金を取る、 むりやり奪い取る、 意で、訛って、 ぶったくる、 ともいう(デジタル大辞泉)。この「ぼったくる」の、 「ぼっ」は「ぼる」(暴利)から、 とある(デジタル大辞泉)。 「ぼったくる」から、当然連想されるのは、 ぼる、 という言葉だが、 名詞「暴利(ぼうり)」の動詞化(デジタル大辞泉)、 米騒動の際の暴利取締令に出た語で、「暴利」を活用させたもの(広辞苑)、 「ぼうり(暴利)」を動詞化した語(精選版日本国語大辞典)、 1917年に発せられた「暴利取締令」にある「暴利」からとも、従来一般的な語でなかったが、この法令により民衆に強く印象づけられた(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%BC%E3%82%8B)、 「ぼりたくる」が音的に変化したものである。「ぼり」は「暴利」を動詞化した「ぼる」の連用形(日本語俗語辞典)、 などとあり、 法外な代価や賃銭を要求する、 不当な利益をむさぼる、 意とされる(広辞苑・デジタル大辞泉)。「暴利取締令」は、 第一次世界大戦期インフレによる物価騰貴を抑えるため農商務省が定めた省令「暴利ヲ目的トスル売買ノ取締ニ関スル件」の通称。1917年(大正6)9月1日寺内内閣により公布施行された。適用を受けた物品は、米穀類、鉄類、石炭、綿糸および綿布、紙類、染料、薬品、肥料(18年6月追加)で、買占めや売り惜しみに対して戒告、さらに3か月以下の懲役、100円以下の罰金が定められた。おもなねらいは米価騰勢を抑えることにあったが、米騒動を未然に防ぐことはできなかった、 とある(日本大百科全書)。ただ、「ぼる」という言葉は、 貪る、 と当て、 江戸の大坂屋のぼられし年、此男を見て養子にせんと云ふ(北条團水『日本新永代蔵(正徳三(1713)年)』)、 と、 ものを強いてとる、 格外なる代価、または賃錢などを請求する、 意で使われている(大言海)。その意味では、当時、 暴利、 になぞらえて、その転訛とした方が、通りがよかったのかもしれないが、言葉としては、 ぼる、 はあったと見るべきだろう。「たくる」は、 手繰るの義か、 とあり(大言海)、 手繰る、 と当てる(岩波古語辞典)として、 稚児見んとて小袖をたくる(天正本狂言・米借)、 と、 自分のものとして引き寄せる、 ひっぱり取る、 奪って自分のものにする、 ひったくる、 意(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)や、 袖をたくる、 と、 まくる、 たくしあげる、 意(広辞苑)や、 拝み申す、くれ申せと、たくりかかれば(浄瑠璃・心中宵庚申)、 と、 無理に頼む、 せがむ、 意(仝上・岩波古語辞典)や、更には、 座主、姉妹の娘を、別々に置き、思ふほどたくりて、飽き候時(咄本「昨日は今日の物語(1614〜24年)」)、 と、 自分のほしいままに扱う、 意(精選版日本国語大辞典)や、 真白に子の筆たくる市が嚊(雑俳「名付親(1814)」)、 と、 だます、 ごまかす、 手をぬく、 意(仝上)でも使うが、 塗りたくる、 のように、 動詞の連用形に付いて補助動詞のように用い、荒々しく事を行なう、限度をこえて強引にするの意を表わす、 といった使い方をする(精選版日本国語大辞典)。 ぼうり(暴利)たくる→ぼりたくる→ぼったくる、 なのか、 ぼる+たくる→ぼったくる、 なのかは別として、「たくる」を付けて、その強引さを強調したものと思われる。この「たくる」と、「たぐる(手繰)」は、 「日葡辞書」に「Tacuri、 u、 utta(タクル) 〈訳〉引っ張って、またはまるめて取る。または力ずくで手から取る」と「Taguri、 u、 utta(タグル) 〈訳〉縄などをまるめながら取る。ナワヲ taguru(タグル)」とが別項目になっていたり、近世多く用例のみられる「たくりかかる」「たくりかける」が清音であったりする、 ことなどから、別語も考えられる(精選版日本国語大辞典)とあり、 同語源かどうかは明らかでない、 とされる(仝上)。「たぐる(手繰る)」は、 三保の浦の引き網の綱のたぐれども長さは春の一日なりけり(平安中期「曾丹集(歌人曾禰好忠(そねのよしただ)の私家集)」)、 と、 綱などを両手で交互に使って引き寄せる、 我が方へかなぐり寄せる、 といった意味(大言海・岩波古語辞典)なので、「ひっぱる」「引き寄せる」という意味の外延に収まらなくもない。 手繰る、 と当てているところから、 たぐる→たくる、 と訛ったとみてもおかしくはない気がする。 なお「ぼったくる」は、 巡査。或は掠奪、 の隠語としてもつかわれる(隠語大辞典)らしい。 「暴」(漢音ホウ・呉音ボウ、漢音ホク・呉音ボク、慣用バク)は、 会意。もと「日+動物の体骨+両手」で、動物のからだを手で天日にさらすさま。のち、その中の部分が「出+米」のように誤って伝えられた。表(外に出す)と同系で、曝(バク むきだしてさらす)の原字。のち、豹(ヒョウ 荒く身軽なヒョウ)・爆(バク 火の粉が荒くはじける)・瀑(バク しぶきが荒々しく散る)などの系列の語と通じて、手荒いの意に用いる、 とある(漢字源)。別に、 会意。日と、米(こめ。氺は誤り変わった形)と、「出+大」(共は変わった形。両手に持つ)とから成る。米を両手に持って日光に当ててかわかす、「さらす」意を表す。借りて、あらあらしい意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意。動物の死骸(「氺」古くは「米」)を両手で支えて(「共」)、「日」にさらすさま。「曝」の原字。「表」「票(火の粉が舞い上がって目立つ)」等に通じる。「あらい・あらあらしい」は「𣋴」と通じたものか、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9A%B4)、 会意文字です。「太陽」の象形と「両手」の象形と「動物を裂いた」象形で、動物などを裂き開いて、太陽にさらす様を表し、そこから、「日に当てて乾かす」を意味する「暴」という漢字が成り立ちました。また、この作業があらあらしい事から、「あらあらしい」の意味も表すようになりました、 とも(https://okjiten.jp/kanji204.html)あり、微妙に解釈が異なる。 「利」(リ)は、 会意、「禾(いね)+刀」。稲束を鋭い刃物でさっと切ることを示す。一説に、畑を鋤いて水はけや通風をよくすることをあらわし、刀はここでは鋤を示す。すらりと通り、支障がない意を含む。転じて刃がすらりと通る(よく切れる)、事が都合よく運ぶ意となる、 とある(漢字源)。 会意。刀と、禾(か いね)とから成り、すきで田畑を耕作する意を表す。「犂(リ すき)」の原字。ひいて、収益のあること、また、すきのするどいことから「するどい」意に用いる、 とか(角川新字源)、 会意、「禾」(穀物)+「刂」(刀)で、穀物を鋭い刃物で収穫することで、「するどい」の意と、刈り取ったものから「もうけ」「もうける」の意が生じた。一説には、「刂」は鋤で、水はけ等を良くすることとも、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%A9)のは、「鋤」説である。 「貪」(慣用ドン、漢音タン、呉音トン)は、 会意。今(漢音キン、呉音コン)は「ふたで囲んで抑えた印+―印」の会意文字で、物を封じ込めるさまを示す。貪は「貝+今」で、財貨を奥深くため込むことを表す、 とある(漢字源)。 会意文字です(今+貝)。「ある物をすっぽり覆い含む」象形(「含」の一部で、「含む」の意味)と「子安貝(貨幣)」の象形から「金品を含み込む」、「むさぼる」、「欲張る」、「欲張り」を意味する「貪」という漢字が成り立ちました、 も同趣旨になる(https://okjiten.jp/kanji2202.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 申すに及ばぬ処なれども、竹園(ちくえん)摂家の外(ほか)、未だ准后の宣旨を下されたる例なし(太平記)、 に、 竹園、 を、 ちくえん、 と訓ませるのは、漢語の音読みで、 孝王、竇太后少子也、愛之、賞賜不可勝道、於是、孝王築東苑、方三百余里、卽免園也、多植竹、中有修竹園(史記・梁孝王世家)、 とあり(字源)、 修竹園、 と名づけたといい、その註に、 正義曰、……俗人言梁孝王竹園也、 とあり(大言海)、文字通り、 竹の生えている園、 の意だが、この故事により、 親王、皇子の異称、 皇族、 を意味する。 和語では、 たけのその、 と訓ませ、 つたへきて世々にかはらぬ竹のその身にうきふしを残さずもがな(「新千載集(1359)」)、 と、文字通り、 竹の生えている園、 竹藪。 の意でも使うが、 朝日かげさし栄えゆく竹の園(たけのその)千代に八千代になほぞ重ねん(夫木抄)、 と 竹の園、 あるいは、 竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞ、やんごとなき(徒然草)、 と、 竹の園生(たけのそのふ)、 とも、 竹生(たかふ)、 ともいい(大言海)、室町末期の国語辞書『匠材集(しょうざいしゅう)』(慶長二年(1597)成立)に、 竹の園、親王の名なり、竹園、 とあるように、 天子の子、 親王、 の雅語として使う(岩波古語辞典・大言海)。 「竹生」も、 并せて竹村(タカフ)の地(ところ)を奉献りつ(書紀・安閑紀)、 と、文字通り、 竹の生えた所、 の意で、 竹やぶ、 竹林、 を指す(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「竹」(漢音・呉音チク、唐音シツ)は、 象形。たけの枝の二本を描いたもの。周囲を囲むの意を含む、 とある(漢字源)が、 象形。たけの葉が垂れ下がっているものを象る、 の方が正確のようである(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AB%B9)。 「園」(漢音エン、呉音オン)は、 会意兼形声。袁(エン)は、ゆったりとからだを囲む衣。園は「囗(かこし)+音符袁」、 とある(漢字源)。別に、 形声。囗と、音符袁(ヱン)とから成る。果樹・野菜などを植える「その」の意を表す、 とも(角川新字源)、 形声文字です。「周辺を取り巻く線」(「囲(かこ)い」の意味)と「足跡・玉・衣服」の象形(衣服の中に玉を入れ、旅立ちの安全を祈るさまから、「遠ざかる」の意味だが、ここでは、「圜(えん)」に通じ(同じ読みを持つ「圜」と同じ意味を持つようになって)、「巡る」の意味)から、囲いを巡らせた「その」を意味する「園」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji270.html)ある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 御辺は今、六道四生の間、いづれの所に生じておはするぞ(太平記)、 に、 六道四生、 とあるは、 ろくどうししょう、 と訓ませ、 六道は、欲望が支配する欲界の衆生が輪廻する六種の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)、四生は、四種の生れ方(胎生・卵生・湿生・化生)、 と注記される(兵藤裕己校注『太平記』)。正倉院文書にも、 百工遵有道之風、十方三界、六道四生、同霑此福、咸登妙果(天平勝宝八年(756)六月二一日・東大寺献物帳)、 とある(精選版日本国語大辞典)が、 六趣四生、 ともいう。 「欲界」は、「摩醯修羅(まけいしゅら)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485376769.html)で触れたように、仏教における、 欲界、 色界、 無色界、 の三つの世界の一つとされ、欲界には、「天魔波旬」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486132894.html?1648063382)で触れた、六種の天が、上から、 他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、 化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん) 六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、 兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある。菩薩がいる場所、 夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、 忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん) 六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、 四大王衆天(しだいおうしゅてん) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、 とある(http://yuusen.g1.xrea.com/index_272.html他)。そして、「六道」(ろくどう・りくどう)は、「六道の辻」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475321240.html)で触れたように、 天道(てんどう、天上道、天界道とも) 天人が住まう世界である。 人間道(にんげんどう) 人間が住む世界である。唯一自力で仏教に出会え、解脱し仏になりうる世界、 修羅道(しゅらどう) 阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる、 畜生道(ちくしょうどう) 畜生の世界である。自力で仏の教えを得ることの出来ない、救いの少ない世界、 餓鬼道(がきどう) 餓鬼の世界である。食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる、 地獄道(じごくどう) 罪を償わせるための世界である、 を指し、このうち、 天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)、 といい、 畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)、 という(大言海)らしい。この六つの世界のいずれかに、 死後その人の生前の業(ごふ)に従って赴き住まねばならない、 のである(岩波古語辞典)。 「六道」は、 梵語ṣaḍ-gati(gatiは「行くこと」「道」が原意)、 の漢訳で、 6つの迷える状態、 の意(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93)。 「隔生則忘(きゃくしょうそくもう)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485335998.html)で触れたように、大乗仏教が成立すると、六道に、 声聞(仏陀の教えを聞く者の意で、仏の教えを聞いてさとる者や、教えを聞く修行僧、すなわち仏弟子を指す)、 縁覚(仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者を指す)、 菩薩(一般的には菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)を意味する)、 仏(「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味する)、 を加え、六道と併せて十界を立てるようになる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB)が、「六道」は、 六趣、 六界、 ともいい、 衆生(しゅじょう)がその業(ごう)に従って死後に赴くべき六つの世界、 であり、 生まれ変わりながら何度も行き来する、 と考えられている。 「四生」(ししょう)は、生物をその生まれ方から、 胎生(たいしょう 梵: jarāyu-ja)母胎から生まれる人や獣など、 卵生(らんしょう 梵: aṇḍa-ja)卵から生まれる鳥類など、 湿生(しっしょう 梵: saṃsveda-ja)湿気から生まれる虫類など、 化生(けしょう upapādu-ka)他によって生まれるのでなく、みずからの業力によって忽然と生ずる、天・地獄・中有などの衆生、 の四種に分けた(岩波仏教語辞典)。 要するに、「六道四生」とは、 六道のどこかに、胎生・卵生・湿生・化生の四つの生まれ方のどれかをとって生まれること、 の意味(精選版日本国語大辞典)になり、 衆生が生まれ変わり、流転している状態、 を指す(広辞苑)。 冒頭の引用は、大森彦七盛長という武者が、鬼となって現れた楠木正成に、 六道四生(ろくどうししょう)の間、いづれの所に生じておはするぞ、 と、問いかけているのである。正成は、先帝後醍醐に供奉し、先帝は、 摩醯修羅(大自在天)の所変にておはせしかば、今帰って欲界の六天に御座あり、 と答え、自らは、 修羅の眷属となりて、 といい、 千頭王鬼となって七頭の牛に乗っている姿、 を現すのである(太平記)。なお、「六道能化」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485970447.html?1647027751)で触れたように、六道衆生の救い主は、 地蔵菩薩、 であり、地蔵は、 釈迦入滅後、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの無仏世界の救世主とされる、 「六」(漢音リク、呉音ロク)は、 象形。おおいをした穴にを描いたもの。数詞の六に当てたのは仮借(カシャク 当て字)、 とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%AD)が、 象形。屋根の形にかたどる。借りて、数詞の「むつ」の意に用いる、 とも(角川新字源)、 象形文字です。「家屋(家)」の象形から、転じて数字の「むつ」を意味する「六」という漢字が成り立ちました、 とも(https://okjiten.jp/kanji128.html)あり、「穴」か「家」だが、甲骨文字を見ると、「家」に思える。 「道」(漢音トウ、呉音ドウ)も、 会意形声説。「辵」(足の動きを意味する)+音符「首」(古くは同系統の音とする)で、ある方向を向いた道を表わす(藤堂明保)、 と、 会意説。魔除に他部族の首を刎はね、供えた(白川静)、 と、説がわかれる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%93)。 会意兼形声。「辶(足の動作)+音符首」で、首(あたま)を向けて進みゆくみち。また迪(テキ みち)と同系と考えると、一点から出て延びていくみち(漢字源)、 会意形声。辵と、首(シウ)→(タウ かしら。先導する者)とから成る。目的地までみちびく意を表す。「導(タウ)」の原字。一説に、会意で、邪気をはらうために、生首を持って行進する意を表すという。転じて「みち」の意に用いる(角川新字源)、 などは、前者になる。 会意兼形声文字です。(行+首)。「十字路」の象形(「行く、みち」の意味)と「目と髪を強調した頭」の象形(「首」の意味)から、異民族の首を埋めた清められた「みち」を意味する「道」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji216.html)のは、後者になる。 「四」(シ)は、 会意。古くは一線四本で示したが、のち四と書く。四は「口+八印(分かれる)」で、口から出た息がばらばらに分かれることを表す。分散した数、 とある(漢字源)。それは、 象形。開けた口の中に、歯や舌が見えるさまにかたどり、息つく意を表す。「呬(キ)(息をはく)」の原字。数の「よつ」は、もとで4本の横線で表したが、四を借りて、の意に用いる(角川新字源)、 とか 指事文字です。甲骨文・金文は、「4本の横線」から数の「よつ」の意味を表しました。篆文では、「口の中のに歯・舌の見える」象形となり、「息」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「よつ」を意味する「四」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji126.html)、 とか、 象形。口をあけ、歯と舌が見えている状態。本来は「息つく」という意味を表す。数の4という意味はもともと横線を4本並べた文字(亖)で表されていたが、後に四の字を借りて表すようになった(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9B%9B)、 とかと、「指事」説、「象形」説とに別れるが、趣旨は同じようである。 「生」(漢音セイ、呉音ショウ)は、「なま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484932208.html)で触れたように、 会意。「若芽の形+土」で、地上に若芽の生えたさまを示す。生き生きとして新しい意を含む、 とある(漢字源)。 ただ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 土の上に生え出た草木に象る、 とあり、現代の漢語多功能字庫(香港中文大學・2016年)には、 屮(草の象形)+一(地面の象形)で、草のはえ出る形、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%9F)ため、 象形説。草のはえ出る形(白川静説)、 会意説。草のはえ出る形+土(藤堂明保説)、 と別れるが、 象形。地上にめばえる草木のさまにかたどり、「うまれる」「いきる」「いのち」などの意を表す(角川新字源)、 象形。「草・木が地上に生じてきた」象形から「はえる」、「いきる」を意味する「生」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji33.html)、 とする説が目についた。甲骨文字を見る限り、どちらとも取れる。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「うんざり」は、 小姑のできるには嫁うんざりし(万句合)、 と、 物事に飽き果てていやになるさま、 げんなり、 の意(広辞苑)で使うが、 うんざりと、 と、「と」を付けて、 うしろびっくり、前うんざりといふなるべし(評判記「あづまの花軸(1764〜72)」)、 と、 予想外のことにがっかりしたり、びっくりしたりするさま、 あきれ驚くさま、 を表わす語として使ったり、 復(また)お座敷かとうんざりしたが(人情本「春色恋廼染分解(1860〜65)」)、 と、 物事が十分すぎて、あきあきしていやになるさま、 同じ状態が続いたり、何度も繰り返されたりしてあきてしまうさま、 を表わす語としても使う(精選版日本国語大辞典)。 挨拶が長過ぎてウンザリする、 と、動詞化して、 わずらわしく思う、 面倒くさい、 意でも使う。 厭り、 倦んざり、 と当てるように、 倦んずありの約(大言海)、 ウンはウンジハテルのウンで、厭の義、ザリは助語(俚言集覧・語簏)、 「ウン(倦み)+シ+ハテリ」、倦み果てりの変化(日本語源広辞典)、 などと、 倦む、 と関係づける説が多い。確かに、 消息断たれければ、それに思ひうんじて、こもりたるとなむ(宇治拾遺物語)、 と、「倦んず」を、 倦みす→倦んず、の転訛(大言海)、 とみるか、 ウム(倦)シ(為)の転(umisi→umizi→unzi)(岩波古語辞典)、 とみるかの違いはあるが、「倦んず」もまた、 まことにまめやかにうんじ心憂がれば(枕草子)、 と、 気がくじける、ふさぎこむ、倦む、 の意の外に、 世の中をうんじて筑紫へくだりける人(大和物語)、 と、 ものごとがいやになって投げ出す、 の意があり、意味としては、確かに重なる。因みに、「倦んじ」の「ん」抜きが、 御衣どもに移り香もしみたり。すべられる程に、あらはに人もうじ給ひぬべければ(源氏物語)、 と、 倦ず、 となる。 「うんざり」は、本来、 飽きてうるさく煩わしく感じられる、 我慢の限界を超えて嫌気がさし、やる気を失う様子、 といった意であったが、 江戸時代から明治にかけて、 不思議そうに恐々(おそるおそる)叔母の顔色を窺ッて見てウンザリした(二葉亭四迷『浮雲』)、 と、 驚きや恐れからくる嫌悪感、 をも表すようになった(擬音語・擬態語辞典)。現代の語感でも、 飽き飽きする、 という状態表現に、 嫌悪感、 のような、 生理的・体感的な、 価値表現へとシフトしているような気がする(日本語語感の辞典)。 同じようなものがたくさん集まっていて、全体がうごめいている、 意で使う擬態語に、 うじゃうじゃ、 があるが、それと似た言葉に、 うざうざ、 という、 小さいものがうるさいぐらい密集する様子、 を表す擬態語があり、それが、「ぼやぼや」と「ぼんやり」が関係するように、 うざうざ⇔うんざり、 と対比でき、「うんざり」は「うざうざ」の「うざ」とは重なり、現代語の、 うざい、 うざったい、 の「うざ」とも共通する(擬音語・擬態語辞典)。 ウウンと呻(うな)って退き去る義か(両京俚言考)、 という説はありえないにしても、あるいは、「うんざり」は、 うざうざ、 の「うざ」とつながる、擬態語由来なのかもしれない。 因みに、江戸時代、 此時風呂のすみにかゞみ居たるは、うんざり鬢とかいふちうッぱらの中ウどしまさきほどよりだまって居たりしが、この騒動おびたゞしく、湯のはねるにあつくなって、風呂のすみから真赤におこり出す(浮世風呂・女中湯之遺漏)、 とあるように、男女ともに、 うんざり鬢(びん)、 という鬢の形があった。一説に、 うんざりするほど鬢の毛が多いもの、 をさす(仝上)、という。その「うんざり鬢」に結った頭を、 うんざり頭で寝ているやつもあり(安永六年(1777)「くだ巻しゃれ會」)、 と、 うんざり頭、 といい、 粋でない髪型、 とされる(仝上・江戸語大辞典)。 「倦」(漢音ケン、呉音ゲン)は、 会意兼形声。卷(巻)の字の下部は、人が丸くからだをかがめた姿。上部は両手で物を持った姿を示す。まるく曲げたり巻いたりするの意を含む。捲(ケン)の原字。倦は「人+音符卷」で、しゃんとからだを伸ばさず、ぐったりと曲がること、 とある(漢字源)が、別に、 形声。人と、音符卷(クヱン)とから成る。つかれてうずくまる、ひいて、あきる意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(人+卷)。「横から見た人」の象形と「分散しかけたものの象形と両手の象形(「両手で持つ」の意味)とひざを曲げている人の象形」(「まるくなる」の意味)から、「人が疲れてひざを曲げる」、「疲れる」を意味する「倦」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2370.html)。 参考文献; 中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
世すでに闘諍堅固(とうじょうけんご)になりぬれば、これならずとも、閑(のど)かなるまじき理(ことわ)りなれども(太平記)、 にある、 闘諍堅固、 は、 仏滅後の二千五百年を五つに区分した最後の五百年で、争いがたえない世、 をいう(兵藤裕己校注『太平記』)。文字通り、「闘諍」は、 修羅の闘諍、帝釈の争ひもかくやとこそ覚え侍ひしか(平家物語)、 と、 たたかい争う、 意、つまり、 闘争、 の意で、「堅固」は、 道心堅固の人なり(宇治拾遺)、 と、 物のかたくしっかりしていること、転じて心がしっかり定まって動かない、 意で使うが、「闘諍堅固」は、 次の五百年には、我が法の中において、言頌を斗諍し、白法隠没損減すること堅固ならん(「大集経(だいじっきょう)」=「大方等大集経(だいほうどうだいじっきょう)」)、 と(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%97%98%E8%AB%8D%E5%A0%85%E5%9B%BA)、 仏滅後二千五百年を五百年毎に区切った五五百歳(ごごひゃくさい)のうち、解脱堅固、禅定堅固、多聞堅固、造寺堅固につぐ第五の五百年、 を指し(岩波古語辞典)、 いはんやこの頃は第五の五百年闘諍のときなり(文永一一年(1274)「和語燈禄」)、 と、 諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時(精選版日本国語大辞典)、 仏教がおとろえ、互いに時節に固執して多と争うことのみ盛んである時代(岩波古語辞典)、 の謂いで、 末法、 を指す。「闘諍堅固」は、 闘諍言訟(とうじょうごんしょう)、 白法隠没(びゃくほうおんもつ)、 ともいい、法滅の危機だからこそ、 我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提(えんぶだい 人間が住む大陸)に広宣流布して断絶せしむること無かれ(法華経)、 と、 世界広宣流布の時、 とされる。「五五百歳」は、順に、 @解脱堅固(げだつけんご 仏道修行する多くの人々が解脱する、すなわち生死の苦悩から解放されて平安な境地に至る時代)、 A禅定堅固(ぜんじょうけんご 人々が瞑想修行に励む時代)、 B読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご 多くの経典の読誦とそれを聞くことが盛んに行われる時代)、 C多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご 多くの塔や寺院が造営される時代)、 D闘諍言訟(とうじょうごんしょう)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)=闘諍堅固、 とされ(大集経)、ここで「堅固」は、 変化、変動しない様をいい、定まっていること、 の意味で、 解脱・禅定堅固は正法時代、 読誦多聞・多造塔寺堅固は像法時代、 闘諍堅固は末法、 と(https://www.seikyoonline.com/commentary/?word=%E4%BA%94%E4%BA%94%E7%99%BE%E6%AD%B3)、これを、 正法、 像法、 末法、 の、 三時説、 といい、仏教が完全に滅びる法滅までの時間を三段階に区切り、 釈尊の入滅の後しばらくは、釈尊が説いた通りの正しい教えに従って修行し、証果を得る者のいる正法の時代が続く。しかしその後、教と行は正しく維持されるが、証を得る者がいなくなる像法の時代、さらには教のみが残る末法の時代へと移っていき、ついには法滅に至る、 という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9C%AB%E6%B3%95)。南岳慧思の『立誓願文』(558年)では、 正法五百年、 像法千年、 末法万年、 と三時の年数を定め、 末法思想、 の嚆矢となる(世界大百科事典)、とある。日本では、『日本霊異記』がいち早く、 正法五百年・像法千年説、 に則り、延暦六年(787)はすでに末法であると表明している。その後平安期後半に源信の『往生要集』や最澄に仮託した『末法灯明記』が著され、 正法千年・像法千年説、 を取り、周穆王(ぼくおう)五二年(紀元前949)の仏滅説から計算して、 永承七年(1、052)、 を末法の年と見なした(仝上)、とある。 「鬪(闘)」(漢音トウ、呉音ツ)は、 会意兼形声。中の部分の字(音ジュン)は、たてる動作を示す。鬪は、それを音符とし、鬥(二人が武器をもってたち、たたかうさま)を加えた字で、たちはだかって切り合うこと。闘は鬥を門に替えた俗字で当用漢字に採用された、 とある(漢字源)。別に、 形声。鬥と、音符斲(タク)→(トウ)とから成る。旧字鬪は、その俗字。常用漢字は、旧字鬪の誤字闘による、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(門(鬥)+尌(斲))。「人がたたかう」象形と「頭がふくらみ、脚が長い食器、たかつきの象形と曲がった柄の先に刃をつけた手斧の象形」(「物を置いておいて、斧で切る」の意味)から、「たたかう」を意味する 「闘」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1417.html)が、 鬭→鬪→闘、 の変化があったことになる。 「諍」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、 会意兼形声。爭(=争 ソウ)は、一つのものを両方に引っ張り合うことを示す会意文字。諍は「言+音符爭」で、ことばで両方からとりあいをすること。いさめる、うったえる、などというのはその派生義である、 とあり(漢字源)、「争」と同義で、「諍訟」(ソウショウ)と、「訟」と類義である(仝上)。 「堅石白馬」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484371677.html)で触れたように、「堅」(ケン)は、 会意兼形声。臤(ケン)は、臣下のように、からだを緊張させてこわばる動作を示す。堅はそれを音符とし、土を加えた字で、かたく締まって、こわしたり、形を変えたりできないこと、 とある(漢字源)が、別に、 土と、臤(ケン かたい)とから成り、土がかたい、ひいて、「かたい」意を表す。「臤」の後にできた字、 ともあり(角川新字源)、さらに、 会意兼形声文字です(臤+土)。「しっかり見開いた目の象形(「家来」の意味)と右手の象形」(神のしもべとする人の瞳を傷つけて視力を失わせ、体が「かたくなる」の意味)と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)から、かたい土を意味し、そこから、「かたい」を意味する「堅」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1243.html)。 「固」(漢音コ、呉音ク)は、 会意兼形声。古くは、かたくひからびた頭蓋骨を描いた象形文字。固は「囗(かこい)+音符古」で、周囲からかっちりと囲まれて動きの取れないこと、 とあり(漢字源)、似た説に、 会意形声。「囗(囲い)」+音符「古」、「古」は、頭蓋骨などで、古くてかちかちになったものの意。それを囲んで効果を確実にしたもの、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9B%BA)が、別に、 形声。囗(城壁)と、音符古(コ)とから成る。城をかたく守る、ひいて「かたい」意を表す、 とか(角川新字源)、 (囗+古)。「周辺を取り巻く線(城壁)」の象形と「固いかぶと」の象形(「かたい」の意味)から城壁の固い守り、すなわち、「かたい」を意味する「固」という漢字が成り立ちました、 ともあり(https://okjiten.jp/kanji598.html)、説がわかれている。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 梨軍支(りぐんし)、大きに慚愧して、四衆(ししゅ)の前にして、これならでは、喰ふべき物なしとて、沙(いさご)を喫し、水を飲みて即ち涅槃に入りにけるこそあはれなれ(太平記)、 にある、 四衆、 ししゅ、 と訓ませ(「しゅ」は「衆」の呉音)、 四種の信徒、比丘(僧)、比丘尼(尼)、優婆塞(うばそく 在家の男)、優婆夷(うばい 在家の女)、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)が、仏教の術語で、 仏教教団のメンバーの総称、 とする(日本大百科全書)のが正確。つまり、出家者の男女を指す、 比丘(びく ビクシュbhiku)、 比丘尼(びくにビクシュニーbhikunī)、 と、在家信者の男女を指す、 優婆塞(うばそく ウパーサカupāsaka)、 優婆夷(うばい ウパーシカーupāsikā)、 である。比丘・比丘尼は、 具足(ぐそく)戒を受けて教団内で修行に専念する者、 の意で、優婆夷・優婆塞は、 彼らに衣食住などを布施し、五戒を受け帰依(きえ)した在家信者、 を指し、彼らによって、教団は構成され維持される。後に比丘・比丘尼の未成年者、 沙弥(しゃみ)と沙弥尼、 比丘尼として出家する前の二年間を過ごす、 学真女(がくしんにょ)、 を加えて、 七衆(しちしゅ)となる(仝上)。「四衆」は、 四輩、 四部衆、 四部、 などともいう(岩波古語辞典・ブリタニカ国際大百科事典)。 「具足(ぐそく)戒」の「具足」は、 近づくの意で、涅槃に近づくこと、 をいい、また、教団で定められた、 完全円満なもの、 の意ともいい(精選版日本国語大辞典)、 小乗仏教の僧・尼僧の戒。また出家教団(僧伽 そうが)に入るために受持する戒律、 で(百科事典マイペディア)、 具戒、 進具戒、 大戒、 ともいい、『四分律』では、 男性の修行者は250戒、女性は348戒、 あるとされる(精選版日本国語大辞典)。また、「五戒」は、 五つの戒、 だが、「戒」は、 サンスクリット語のシーラśīla、 の訳語、 自ら心に誓って順守する、 徳目であり、ここの「五戒」は、在家者のために説かれた「五戒」で、 不殺生(ふせっしょう 生命のあるものを殺さない)戒、 不偸盗(ふちゅうとう 与えられないものを取らない)戒、 不邪淫(ふじゃいん みだらな男女関係を結ばない)戒、 不妄語(ふもうご いつわりを語らない)戒、 不飲酒(ふおんじゅ 酒類を飲まない)戒、 をいい(日本大百科全書)、 優婆塞戒(うばそくかい)、 五常、 五学処、 などともいう(精選版日本国語大辞典)。 なお、「四衆」は、天台宗では、 発起衆(ほっきしゅ 仏の説法のために時機を考えて質問を発する者)、 当機衆(とうきしゅ 教説を聞いて悟りを得る者)、 影響衆(ようごうしゅ 他所から来て仏の説法教化を助ける者)、 結縁衆(けちえんしゅ 仏の説法会に列席する因縁のある者)、 をいい(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/)、仏の説法の席に列席する人々を、「機根」に応じて四種に分けた。なお、「機根」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484995810.html)については触れた。 「四」(シ)は、「六道四生」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486172596.html?1648323250)で触れたように、 会意。古くは一線四本で示したが、のち四と書く。四は「口+八印(分かれる)」で、口から出た息がばらばらに分かれることを表す。分散した数、 とある(漢字源)。それは、 象形。開けた口の中に、歯や舌が見えるさまにかたどり、息つく意を表す。「呬(キ)(息をはく)」の原字。数の「よつ」は、もとで4本の横線で表したが、四を借りて、の意に用いる(角川新字源)、 とか 指事文字です。甲骨文・金文は、「4本の横線」から数の「よつ」の意味を表しました。篆文では、「口の中のに歯・舌の見える」象形となり、「息」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「よつ」を意味する「四」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji126.html)、 とか、 象形。口をあけ、歯と舌が見えている状態。本来は「息つく」という意味を表す。数の4という意味はもともと横線を4本並べた文字(亖)で表されていたが、後に四の字を借りて表すようになった(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9B%9B)、 とかと、「指事」説、「象形」説とに別れるが、趣旨は同じようである。 「衆」(漢音シュウ、呉音シュ・ス)は、 会意。「日(太陽)+人が三人(多くの人)」で、太陽のもとで多くの人が集団労働をしているさま。上部は、のち誤って血と書かれた、 とある(漢字源)が、 会意形声。囗(こく 地域。罒・血は誤り変わった形)と、㐺(シウ 多くの人。乑は変わった形)とから成り、集落に暮らす多くの人々、ひいて「おおい」意を表す、 とか(角川新字源)、 象形。太陽(日>血)の下に多くの人々(㐺>乑)がいるさま。{衆 /*tungs/}を表す字。「眾」の上部を「血」と書き誤ったもの(康煕字典・正字通)。もとの「眾」は「目」+「乑」の会意。「乑」は人を3個書いた「㐺」であり(簡体字「众」は、元は別字)、人が集まった様。「目」は「臣」「民」同様支配に関連する成分とするが、白川静は「目」の初形は「口」であり「口は邑の外郭で、邑中の人」を意味したもの(ときに「口」を「日」の形に作ることがあるが、それは日月の字に、実体のあるものとして点を加えた示すのと同じ意味であって、日に従う字ではない)とする、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A1%86)あり、「日」と見るには異説がある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 匡正(きょうせい)の忠あって、阿順の従(じゅう)なし。これ良臣の節なり。もし乃ち諫むべきを見て諫めざるは、これを尸位(しい)と謂ふ(太平記)、 の 尸位(しゐ)、 とあるは、 いたずらに高位におり、職責を果たさないこと、 の意である(兵藤裕己校注『太平記』)。この『太平記』の文章は、 若乃見可諫、即而不諫、謂之尸位、 と、『古文孝経』諫諍章の、孔安国注によっている。この出典は、『書経』五子之歌篇に 太康尸位、以逸豫滅厥徳、黎民咸貮(太康位を尸(つかさど)り、逸豫を以て厥(そ)のコを滅ぼす。黎民(れいみん 人民)咸貳(ふたごころ)あり)、 とあるより出ず、 とある(大言海)。この「太康(たいこう)」は、夏朝の第三代帝。中国の編年体の歴史書『竹書紀年』によれば、 斟鄩に都し、在位年数は4年であった。政治を省みないで狩猟に明け暮れていたという。そのために羿(げい)によって反乱を起こされ、権力を失い、河南(洛水の南側)の陽夏において死亡した、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%BA%B7_(%E5%A4%8F))。「尸位」に似た言葉に、 其性寒氷よりも潔し。懐寵、尸位の喩を離れたり(「十訓抄(1252)」)、 とある(『書経』五子之歌が出典)、 懐寵(かいちょう)、 がある。 主君に懐(なづ)き、退くべき時に退かずして、位をぬすむこと、 の意で(懐(なづ)くは、懐(なつ)くとも。馴れ付くの意)、 懐寵尸位、 と並べて使う(仝上)。出典は、同じ、『古文孝経』諫諍章の、孔安国注に、 見可諫而不諫、謂之尸位、見可退而不退、謂之懐寵、懐寵尸位、國之姦人也、 とある。 「尸位」は、多く、 尸位素餐(しいとさん)、 と並べ用いる。「素餐(そさん)」は、 いたずらに食を得ている、 意(四字熟語辞典)だが、「素」は、 むなしい、 意、「餐」は、 御馳走、 の意で、 才能または功績がなく、徒に禄を食むこと、 つまり、 徒食、 である(広辞苑)。王充『論衡』量知篇に、 文吏空胸、無仁義之学、居住食禄、終無以效、所謂、尸位素餐者也、素者空也、空虚無徳餐人禄、故曰素餐、無道藝之業、不暁政治、黙坐朝廷、不能言事、與尸無異、故曰尸位、然則文吏、所謂、尸位素餐者也、 とあり、『漢書』朱雲伝にも、 今朝廷大臣、上不能匡主、下無以益民、皆尸位素餐、 とある、 才徳無きに、位に居り、功労無きに、禄を受く、 意である(大言海)。「尸位素餐(しいとさん)」は、 しいとざん、 とも訓ませる(仝上)。 尸禄素餐(しろくそさん)、 窃位素餐(せついそさん)、 伴食宰相(ばんしょくさいしょう)、 伴食大臣(ばんしょくだいじん)、 も似た言い回しだが、 徒食無為、 無芸大食、 も、また意味の外延には入る(四字熟語)。 「尸位」の意味の説明が、微妙に違って、 昔、中国で祖先を祭るとき、人が仮に神の位についたところから(デジタル大辞泉)、 昔、中国で祖先をまつるとき、その血統の者が仮に神の位についたところから(精選版日本国語大辞典)、 昔、中国で祖先をまつるとき、その血統の者が仮に神の位についたところから(日本国語大辞典)、 人が形代(かたしろ)になって神のまつられる高所にいる意(広辞苑)、 などとあるのは、「尸」の字の由来からきている。「尸」(シ)は、 象形。人間がからだを硬直させて横たわった姿を描いたもの。屍(シ)の原字。また、尻(シリ)・尾の字におけるように、ボディを示す音符に用いる。シは矢(まっすぐなや)・雉(チ まっすぐに飛ぶきじ)のように、直線状にぴんとのびた意味を含む、 とあり(漢字源)、 魂去尸長留(魂は去りて尸は長く留まる)、 と(古楽府)、「しかばね」の意味だが、 弟為尸則誰敬(弟、尸となせばすなはち誰をか敬せん) と(孟子)、 かたしろ、 古代の祭で、神霊の宿る所と考えられた祭主、 の意味で、 孫などの子供をこれに当てて、その前に供物を供えてまつった。のち、肖像や人形でこれに代えるようになった、 とある(仝上)のが、各辞書の意味になる。のちに、 死体のみならず、精神と切り離された肉体そのものを指すようになった、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%B8)。 「位」(イ)は、 会意。立は、人が両足で地上にしっかりたつ姿。位は「立+人」で、人がある位置にしっかりたつさまを示す。もと、円座のこと。まるい座席に座り、また円陣をなして並び、所定のポストを占める意を含む。またのち広く、ポストや定位置などの意に用いられるようになった、 とある(漢字源)。別に、 会意文字です(人+立)。「横から見た人」の象形と「立った人」の象形から、「人がある位置に立つ」を意味する「位」という漢字が成り立ちました、 とあり(https://okjiten.jp/kanji565.html)、 金文までは象形文字でした、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店) 尊(みこと)、剣を抜いて、大蛇を寸々に切り給ふ(太平記)、 の 寸々は づたづた(ずたずた)、 と訓ませ、 細かく乱雑に切り裂かれたさま、 寸断、 きれぎれ、 の意(広辞苑)で、「づたづた」には、「寸々」以外にも、 寸々 36.8% 寸断寸断 21.1% 寸断々々 21.1% 寸断 15.8% 寸裂 5.3%、 と、さまざま漢字を当てるようだ(https://furigana.info/r/%E3%81%9A%E3%81%9F%E3%81%9A%E3%81%9F)。 「づたづた」は、また、 武乙(ぶいつ 殷の帝、紂王の曾祖父)、河渭(かい 渭水)に猟(かり)し給ひける時、俄に雷(いかずち)落ち懸かり、御身を分々(つだつだ)に引き裂いてぞ捨てたりける(太平記)、 と、 切れ切れになるさま、 ずたずた、 の意で、 つだつだ、 ともいうが、「づたづた」は、 つだつだの転、 で、 づだづだ、 ともいう(岩波古語辞典)とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 寸、つたつた、つだつだ、きだきだ、 とあり(仝上・大言海)、 日葡辞書(1603〜04)には、 ヅダヅダニナル とある(仝上)ので、 つたつた→つだつだ→づだづだ→づたづた、 といった転訛なのかもしれない。さらに、 悲膓寸々断、何日下生還(「経国集(827)」)、 と、「寸々」を、 づんづん(ずんずん)、 とも訓ませ、 物を細かく切るさま、 きれぎれ、 ずたずた、 ばらばら、 の意で使う。もっとも、「ずんずん」は、 雪がずんずん積もる、 と、 速くはかどる意や、 頭がづんづん痛む、 と、 づきづき、 の意でも使い、これは別由来かもしれないが、「づんづん」には、 一寸ごとに、 の意味もあるようなので(精選版日本国語大辞典)、 空間的なずたずた、 が、 時間的なずたずた、 に転じて、 少しずつ、 となり、 はかどる、 意になったと考えれば、必ずしも別語源とは限らないかもしれない。 「づたづた」の語源説には、 ズタ(破れ 擬態語)の繰り返し(日本語源広辞典)、 つたつたの転じた語スタスタの転(大言海)、 スタスタ(寸断寸断)の義(言元梯)、 などがあるが、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 段、つたつた、つたきる、 とあり、 細かく切れ切れに、 の意で、 つたつた、 という擬態語があった、と見るのが妥当な気がする。それが、 つたつた→つだつだ→づたづた→づだづだ、 と転訛した。 「寸」(漢音ソン、呉音ソン)は、 会意。寸は「手のかたち+一印」で、手の指一本の幅のこと。一尺は手尺の一幅で、22.5センチ。指十本の幅がちょうど一尺にあたる。また漢字を組み立てる時には、手、手をちょっとおく、手をつけるなどの意味をあらわす、 とあり(漢字源)、 象形文字。手を当てて物の長短を測る様を象る。手で測れるほど長くないという短さから「みじかい」という意味になった。「尊」の略体。のち仮借して{寸 /*tshuuns/}に用いる、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AF%B8)あるが、別に、 指事。手の象形文字(=又。て)の下部に一点を加えて、手首の脈搏(みやくはく)をはかる意を表す。また、手のひらの付け根から手首の脈までの間を基準にして、長さの単位の一寸とする、 とも(角川新字源)あり、 指事文字です。「右手の手首に親指をあて、脈をはかる事を示す文字」から、脈を「はかる」を意味する「寸」という漢字が成り立ちました。また、親指ほどの長さ、「一尺の十分の一の単位」も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji950.html)のは、別の解釈である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 桓武の聖代(せいだい)、この四神相応(しじんそうおう)の地を撰んで、東山に将軍塚を築(つ)かれ、艮(うしとら)の方(鬼門)に天台山(延暦寺)を立てて(太平記)、 に、 四神相応(しじんそうおう)、 とあるのは、 東の青龍(せいりょう)、南の朱雀(すざく)、西の白虎、北の玄武の四神(しじん)に適合する地相、南に沼沢、西に長道、北に丘陵のある地、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。つまり、 地相からみて、天の四神に応じた最良の土地柄、 という意味で、 左方(東)は青龍にふさわしい流水、右方(西)は白虎の大道、前方(南)は朱雀の汚地(おち くぼんだ湿地)、後方(北)は玄武の丘陵を有する、官位・福祿・無病・長寿を合わせ持つ地相、 であり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 此の地の躰を見るに、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の地也、もっとも帝都を定るに足れり(平家物語)、 と、平安京の地勢はこれにあたるとされる(上記「桓武云々」は、その意味である)。また「四神相応」は、 四地相応(しちそうおう)、 ともいい(仝上)、 四神の中央に黄竜や麒麟を加えたもの、 は、 五神(ごじん)、 五獣、 と呼び、 中央を守護するものとして、五行(木火土金水)と対応するようにしたもの、 とある(https://dic.pixiv.net/a/%E4%BA%94%E7%A5%9E)。黄竜(こうりゅう、おうりゅう)は、 四神の中心的存在、または、四神の長とも呼ばれている。四神が東西南北の守護獣なのに対し、中央を守るとされる。五行説で黄は土行であり、土行に割り当てられた方角は中央である、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E7%AB%9C)。 麒麟(きりん)は、中国神話に現れる伝説上の動物だが、鳥類の長たる鳳凰と比せられ、対に扱われることが多い。戦国時代の『礼記』によれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「瑞獣」とされ、 鳳凰、 霊亀、 応竜、 と共に、 四霊、 と総称されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%92%E9%BA%9F)。 なお、「四霊」(しれい)は、 四瑞(しずい)、 ともいい、 麟(りん、麒麟)・鳳(ほう、鳳凰)・亀(き、霊亀)・竜(りゅう、応竜)、 を言う(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%9C%8A)が、 四神と通用する(四神を四霊(もしくは天之四霊))、 とあり、あるいは四霊を、 四神、 と呼ぶことがある、とある(仝上)。ついでに、四霊の一種「応竜」(おうりゅう)は、中国神話では、 帝王である黄帝に直属していた竜。4本足で蝙蝠ないし鷹のような翼があり、足には3本の指がある。天地を行き来することができる、 とあり、水を蓄えて雨を降らせる能力があるとされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%AB%9C)、志怪小説『述異記』には、 泥水で育った蝮(まむし)は五百年にして蛟(雨竜)となり、蛟は千年にして竜(成竜)となり、竜は五百年にして角竜(かくりゅう)となり、角竜は千年にして応竜になり、年老いた応竜は黄竜と呼ばれる、 とある(仝上)。 さて、「四神」の、東方を守護する「青竜(せいりゅう、せいりょう)は、 長い舌を出した竜の形、 とされ、「」は、青山(せいざん)・青林(せいりん)の「」で、本来は緑色を指し、青は五行説では東方の色とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E7%AB%9C)。 西方を守護する白虎(びゃっこ)の白は、 細長い体をした白い虎の形、 をし、 四神の中では最も高齢の存在、 とされ(最も若いという説も)、五行説では西方の色とされる。 なお、漢代の文献には西方を白虎としないものもあり、『礼記』では虎のかわりに麒麟を四霊にあげている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E)。 南方を守護する「朱雀」(すざく、すじゃく、しゅじゃく、しゅしゃく)は、 長生の神、 とされ、朱は赤であり、五行説では火の象徴で南方の色とされる。「朱雀」は、翼を広げた鳳凰様の鳥形で表されるが、中国古代の想像上の鳥である、 鳳凰、 とは異なる(同一起源とする説もあり、混同もある)。 北方を守護する「玄武」げんぶ)は、 水神、 であり、玄は黒を意味し、黒は五行説では北方の色とされる。脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多いが、古代中国では、亀は「長寿と不死」の象徴、蛇は「生殖と繁殖」の象徴で、後漢末の魏伯陽は「周易参同契」で、 玄武の亀と蛇の合わさった姿を、「玄武は亀蛇、共に寄り添い、もって牡牝(ひんぼ)となし、後につがいとなる、 と、陰陽が合わさる様子に例えている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E6%AD%A6)。 因みに、「鬼門」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482333758.html)でも触れたが、北東(艮=うしとら 丑と寅の間)の方位を、 鬼門(きもん)、 といい、この逆の、南西(坤=ひつじさる 未と申の間)を、 裏鬼門(うらきもん)、 というが、 鬼門・裏鬼門、 を忌むのは日本だけである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E7%9B%B8%E5%BF%9C)。 |
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