「深見草」(ふかみぐさ)は、 ぼたん(牡丹)の異名、 とされ、 たそかれ時の夕顔の花、観るに思ひの深見草、色々様々の花どもを(太平記)、 鉄炮取り直し、真正中(まっただなか)を撃つに、右の手に是を取り、深見草の唇に爾乎(にこ)と笑めるありさま、なを凄くぞ有りける(宿直草)、 等々と使われる。確かに、和名類聚抄(平安中期)に、 牡丹、布加美久佐、 本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)に、 牡丹、和名布加美久佐、一名、也末多加知波奈(やまたちばな)、 などとある。しかし、箋注和名抄(江戸後期)は、 この「牡丹」はもともとの「本草」では「藪立花」「藪柑子」のことで、観賞用の牡丹とは別物であるのに、「和名抄」が誤って花に挙げたために、以後すべて「ふかみぐさ」は観賞用の牡丹として歌に詠まれるようになった、 とする(精選版日本国語大辞典)。確かに、「深見草」は、 植物「やぶこうじ(藪柑子)」の異名、 でもある。しかし出雲風土記(733年)意宇郡に、 諸山野所在草木、……牡丹(ふかみくさ)、 と訓じている(大言海)ので、確かなことはわからないが、色葉字類抄(1177〜81)は、 牡丹、ボタン、 とある。しかし、 牡丹、 より、 深見草、 の方が、和風のニュアンスがあうのだろうか、和歌では、 人知れず思ふ心は深見草花咲きてこそ色に出でけれ(千載集)、 きみをわがおもふこころのふかみくさ花のさかりにくる人もなし(帥大納言集)、 などと、 「思ふ心」や「なげき」が「深まる」意を掛け、また「籬(まがき)」や「庭」とともに詠まれることが多い、 とある(精選版日本国語大辞典・大言海)。 「ヤブコウジ」は、 藪柑子、 と当て、 アカダマノキ、 ヤブタチバナ、 ヤマタチバナ、 シシクハズ、 深見草、 と呼ばれ、漢名は、 紫金牛、 とある(広辞苑)。別名、 十両、 で、 万両(マンリョウ)、 百両(ヒャクリョウ)、 とともに、サクラソウ科の常緑低木である(千両(センリョウ)はセンリョウ科)。 「牡丹」は、別名、 山橘、 富貴草、 富貴花、 百花王、 花王、 花神、 花中の王、 百花の王、 天香国色、 名取草、 深見草、 二十日草(廿日草)、 忘れ草、 鎧草、 木芍薬、 ぼうたん、 ぼうたんぐさ、 等々、様々に呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%B3_(%E6%A4%8D%E7%89%A9・広辞苑)。 「牡丹」の項で、大言海は、まず、 本草に云へるは、古名、ヤマタチバナ、フカミグサ。即ち今のヤブコウジ。関西にヤブタチバナ、この草、深く林叢中に生じ、葉、実、冬を凌ぐ。故に深見草、山橘の名あり。…木芍薬(牡丹の意)を深見草と云ふは誤れり、 と記し、それと項を改めて、別に、 高さ二三尺、春葉を生じ、夏の初、花を開く、花の径、六七寸に至る、重辨、単辨、紅、白、紫等、形、色、種類、甚だ多し、人家に培養して、花を賞す。花中の最も艷なるものなれば、花王の称あり。……音便に延べて、ボウタン。叉、ハツカグサ。ナトリグサ。富貴草。富貴花。木芍薬、 と書く見識を示す。 箋注和名抄には、 亦名百両金、 というともある(大言海)。 露台に植ゑられたりけるぼうたんの、唐めきをかしき事など宣ふ(枕草子)、 と、 長音化、 した言い方もした(広辞苑)。 安時代に宮廷や寺院で観賞用に栽培され、菊や葵(あおい)につぐ権威ある紋章として多く使われた。江戸時代には栽培が普及し、元禄時代(1688〜1704)に出版された《花壇地錦抄》には339品種が記録されている、 とある(世界大百科事典)。 牡丹、 は、漢名。 牡丹自漢以前、無有称賞、僅謝康楽集中、有竹關際多牡丹之語、此是花王第一知己也(五雜俎)、 とあり、 花王、 も漢名と知れる(字源)。併せ、 洛陽花、 木芍薬、 も同じとある(仝上)。「牡丹」の由来は、漢語なのだが、 ギリシャ語Botānēを、古代中国で音訳したもの(国語に於ける漢語の研究=山田孝雄)、 とする説しか載らない(日本語源大辞典)。しかし、原産地は、 中国西北部、 とされる(https://www.yuushien.com/botan-flower/)。ギリシャ語由来というのは妙である。おそらく音から訳したのには違いない。箋注和名抄に、 出漢剣南、土人謂之牡丹、 とある。「剣南」は、 唐の時代、郡をやめ州とし、その上に道、その下に県を設けた。初めは十道(河北道、河南道、関内道、隴右道、淮南道、河南道、山南道、江南道、剣南道、嶺南道)、玄宗の時代には十五道とした、 とされる「剣南道」を指すと思われる。場所は、蜀を含む四川省北西部と推測される。この記述が正しければ、現地で、「ボタン」と呼んでいたものを当て字したことになる。 「牡」(慣用ボ、漢音ボウ、呉音」・モ)は、 会意。牡の旁は、土に誤ってきたが、もとは士であった。士は男性の性器のたったさま。のち、男・オスを意味するようになった。牡(ボウ)は「牛+士(おす)」で、おすがめすの陰門をおかすことに着目したことば、 とある(漢字源)。 会意文字です(牜(牛)+土)む。「角のある牛」の象形と「おすの性器」の象形から「牛のおす」の意味を表し、そこから「おす」を意味する「牡」という漢字が成り立ちました、 との説明も同じ意味になる(https://okjiten.jp/kanji2583.html)。 「丹」(タン)は、 会意。土中に掘った井型の枠の中から、赤い丹砂が現れるさまを示すもので、赤いものが現れ出ることを表す。旃(セン 赤い旗)の音符となる、 とある(漢字源)。 会意。「井」+「丶」、木枠で囲んだ穴(丹井)から赤い丹砂が掘り出される様、 も(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B9)、 象形。採掘坑からほりだされた丹砂(朱色の鉱物)の形にかたどる。丹砂、ひいて、あかい色や顔料の意を表す、 も(角川新字源)、 象形文字です。「丹砂(水銀と硫黄が化合した赤色の鉱石)を採掘する井戸」の象形から、「丹砂」、「赤色の土」、「濃い赤色」を意味する「丹」という漢字が成り立ちました。 も(https://okjiten.jp/kanji1213.html)、解釈は同じだか、象形と見るか会意文字と見るかが異なる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「砌(みぎり)」は、 落城の砌、 というように、 時、 折、 の意で使うことが多いが、 露置く千般(ちくさ)の草、風に馴るる砌の松のみ、昔も問ふかと物さびたり(宿直草)、 と、 庭、 の意で使ったりする。本来は、古くは、 九月(ながつき)のしぐれの秋は大殿のみぎりしみみに露負ひてなびける萩を玉だすきかけてしのはしみ雪降る(万葉集)、 大(おほ)みぎりの石を伝ひて、雪に跡をつけず(徒然草) などと、 軒下・階下などの雨滴を受けるための石や敷瓦を強いた所、 を指し、その語源は、 水(ミ)限(ぎり)の意(広辞苑・岩波古語辞典・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本古語大辞典=松岡静雄)、 水キリの儀、キリは走り流れる意(筆の御霊)、 水を切る意(国語の語根とその分類=大島正健)、 等々とされる(日本語源大辞典)。しかし、 水(ミ)限(ぎり)の意、 とすると、本来は、 見砌中円月、知普賢之鏡智(みぎりの中の円月を見て普賢の鏡智を知りぬ)(四至啓白文「性霊集(1079)」)、 と、 水際、 の意ではないか、という気もする。 敷石、 の意から、 紫の庭、玉の台、ちとせ久しかるべきみぎりとみがきおき給ひ(千載和歌集・序)、 みぎりをめぐる山川もこれ(葬礼)を悲しみて雨となり雲となるかと怪しまる(太平記)、 と、上述の、 庭や殿舎の境界、 ひいては、 庭、 の意に広がるのはあり得る。それが、 巖の腰を廻り経て、麓の砌に至りぬ(今昔物語)、 と、 (その)場所、 (その)場面、 の意となり、さらに、 在世説法の砌に臨みたるが如く(十訓集) なると、 あることの行われる、または存在する時、 の含意となり、 この御政道正しい砌に、私な事はなりまらすまい(虎明本狂言・雁盗人)、 と、 あることの行なわれる、 または存在する時、 の意となり、 (その)とき、 (その)おり、 (その)時節、 の意に絞られていく。この意味の転換は、ある程度見えることかもしれない。ただ、この意味での、 みぎり、 についてのみ、 限(みぎり)の意にて、ミは発語か、砌は借字(大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、 そのころの意を其の左右(ゆんでめで)というところからミギリ(右)の意か(志不可起)、 と、別語源とする説もある。如何なものだろうか。確かに、 敷石、 と とき、 では差がありすぎるが、 敷石→庭→(その)場所→(その)時、 と、意味の変遷をたどると、無理がない気がするのだが。 いずれにしろ、 みぎり、 に当てた、「砌」(漢音セイ、呉音セイ)は、 会意兼形声。「石+音符切(切って揃える)」、 とあり(漢字源)、 瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段、 の意である。さらに、 石の端を切りそろえて積み上げる、 の意として使う。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 階の甃(いしだたみ)なり、 とあり、 階の下の敷石を敷いたところのこと、 のようである(https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A0%8C)。 苔砌、 甃砌、 等々とあるので、 敷石、 の用例が、「砌」の原意としては近いことになる(字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「褊(さみ)す」は、 狭す、 とも当てる(精選版日本国語大辞典)。 狭(サ)みすの意(広辞苑)、 狭(サ)ミスの意。相手を狭いものと扱う意(岩波古語辞典)、 とあるが、 サミは形容詞の狭(さ)しの語根を、名詞に形づくれるもの、無(な)しを、無(な)みす(蔑)とするに同じ、孟子・梁惠王「齊國雖褊小」、康熙字典「褊、狭也」(大言海)、 形容詞「さし(狭)」の語幹に接尾語「み」が付き、さらに動詞「す」が付いてできた語(精選版日本国語大辞典)、 というところが妥当なのだろう。 「褊」(ヘン)は、 会意兼形声。「衣+音符扁(うすっぺらな)」、 とあり(漢字源)、 形声文字。「衣」と音符「扁」を合わせた字で、衣服がきつく「せまい」という意味、 である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A4%8A)。同義の漢字は、 「狭」は、廣または闊の反なり、史記「地狭人寡」。心のせまきにも用ふ、 「褊」は、衣服の身はばのせまきなり。転じて、土地また心の狭きにも用ふ。左伝「衛國褊小、老夫耄矣」、 「窄」は、寛の反なり、狭なり、隘なり、天地窄の類、 「隘」は、ものの閧フせまきなり、谷閧ネどの迫りてけはしく、せまきに云ふ。険隘、峻隘と熟す、転じて心のせまきにも用ふ。狷隘は狷介にして寛容の量なきなり、 と「せまい」の意味を使い分けている(字源)。 きばやし(急)惼(ヘン)に通ず、 とある(仝上)ので、 褊狭(へんきょう)、 と、「土地が狭い」意や「心が狭い」意だけではなく、 褊心(へんしん)、 と、「心が狭く気が短い」意でも使う(仝上)。 「褊(さみ)す」は、漢字の意味から見て、元々は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 褊、サミス、さし、せばし、 字鏡(平安後期頃)には、 狭、サミス、 とあり、 三王の陒薜(あいへき)を陿(さみ)す(漢書・楊雄伝)、 と、 狭い、 狭いと思う、 という状態表現でしかなかったものが、 帰伏申したる由にてかへって武家をは褊しけり(太平記)、 所存之企、似褊関東(吾妻鏡)、 などと、 我を廣しとし、他を狭しとするより、第二義の、他を非とし軽侮する意、 となり(大言海)、色葉字類抄(1177〜81)では、 褊、サミス、謗也、狭、 と、 見下げる、 卑しめる、 軽んずる、 あなどる などといった意に転ずる(大言海・岩波古語辞典) こうした意味の変化はあり得るのだから、 アサミス(浅)の上略(言元梯)、 アサミスル(浅見)の略(菊池俗語考)、 の説は取りがたい。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「狂骨」は、 きょうこつ、 と訓ませ、 「きょう」は「軽」の呉音、 とあり(精選版 日本国語大辞典)、 軽忽、 軽骨、 とも当て、この場合、 けいこつ、 とも訓み、 然し汝に感服したればとて今直に五重の塔の工事を汝に任するはと、軽忽(かるはずみ)なことを老衲(ろうのう)の独断(ひとりぎめ)で云ふ訳にもならねば、これだけは明瞭(はっきり)とことわつて置きまする(幸田露伴「五重塔」) と、 かるはずみ、 と訓ませる場合もある。「狂骨」は、 軽忽 軽骨、 を、 きょうこつ、 と呼んだ時の当て字かと思われる。 「軽忽(けいこつ)」は、漢語である。 軽忽簡誣(漢書・孔光伝)、 と、 かろがろしくそそっかしい、 意である(字源)。で、 けいこつ、 と訓ませる、 軽忽、 は、漢語の意に近く、 軽んじ、ゆるがせにすること、 と(大言海)、 そそっかしい、 かるがるしい、 意で、 粗忽、 と同義になる(広辞苑)。しかし、 きょうこつ、 と訓ませ、 軽忽、 軽骨、 などと当てる場合は、漢語と同義で、 事極軽忽、上下側目云々(「小右記永延二年(988)」)、 キョウコツナコトヲイフ(「日葡辞書(1603〜04)」)、 などと、 軽率、 そそっかしい、 意でも使うが、 公家の成敗を軽忽し(太平記)、 と、 軽視する、 軽蔑する、 意や、 此の人の体軽骨(キャウコツ)也。墓々敷(はかばかしく)日本の主とならじとて(「源平盛衰記(14C前)」)、 と、 人の様子や人柄が軽はずみで頼りにならないようにみえる、 意で使い、その軽率な状態表現を、 中中不足言ともあまり軽忽なほどに物語ぞ(「三体詩幻雲抄(1527)」)、 此かさたためと有ければ、なふきゃうこつや是程ふるあめにといへば(浄瑠璃「凱陣八島(1685頃)」)、 などと、 他人から見て軽はずみで不注意に見えると思われるような愚かなこと、とんでもないこと、笑止、 と、価値表現へとシフトして使う。さらに、それが過ぎると、 あら軽忽や児わ何を泣給ふぞ(幸若「満仲(室町末〜近世初)」)、 と、 気の毒な、 という意にまで広がる(精選版日本国語大辞典)。 狂骨、 は、 若輩の興を勧むる舞にもあらず、また狂骨の言(ことば)を巧みにする戯(たわぶ)れにもあらず(太平記)、 と、 ばかばかしい、 意で使うとき当てたのではあるまいか。また、漢語「軽忽」の「忽」に、 軽骨、 狂骨、 と、「骨」を当てたのは、漢字「骨」に、 気骨、 硬骨漢、 というように、 人柄、 品格、 の意味で使うので、原義に適った当て字ではある。 「狂」(漢音キョウ、呉音ゴウ)は、 会意兼形声。王は二線の間に立つ大きな人を示す会意文字。または、末広がりの大きなおのの形を描いた象形文字。狂は「犬+音符王」で、おおげさにむやみに走り回る犬。ある枠を外れて広がる意を含む、 とある(漢字源)が、 形声。犬と、音符王(ワウ)→(クヰヤウ)とから成る。手に負えないあれ犬の意を表す。転じて「くるう」意に用いる(角川新字源)、 形声文字です(犭(犬)+王)。「耳を立てた犬」の象形と「支配権の象徴として用いられたまさかりの象形」(「王」の意味だが、ここでは、「枉(おう)」に通じ、「曲がる」の意味)から、獣のように精神が曲がる事を意味し、そこから、「くるう」を意味する「狂」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1163.html)、 などともある。
この違いは、「王」を示す甲骨文字がかなりの数あって、「王」(オウ)の字の解釈が、 「庶幾(しょき)」は、 云うふに及ばす、尤も庶幾する所なり(太平記) と、 こい願う、 意で使うが、これは、「庶幾」の、 「庶」「幾」はともにこいねがうの意、 であり(精選版日本国語大辞典)、 庶幾夙夜、以永終誉(詩経)、 と、漢語である(字源)。また、 顔氏之子、其始庶幾乎(易経)、 と、 ちかし、 とも訓ませる(字源)。これは、 「庶」「幾」はともに近いの意、 でもある(精選版日本国語大辞典)。 和語では、ために、 この一様、すなはち定家卿が庶幾する姿なり(「後鳥羽院御口伝(1212〜27頃)」)、 と、 しょき、 と訓むだけではなく、 心あらむ人愚老が心を知て、如説行学庶幾(ソキ)する所也(「雑談集(1305)」)、 と、 そき、 とも訛り(精選版日本国語大辞典)、また、 記録と實地を併せ考へ、古今の對照やや眞を得たるに庶幾(ちか)い(桑原隲蔵「大師の入唐」)、 と、 ちかし、 と訓ませたり、 庶幾(こいねが)うところなりとて、すでに、軍、立つを大国に聞き付けて万が一の勢なるが故に軽しめ嘲りて(南方熊楠「十二支考」)、 と、 こいねがう、 と訓ませたりする。因みに、「こいねがう」には、 希う(ふ)、 冀う(ふ)、 庶幾う(ふ)、 乞願う(ふ)、 等々と当てたりする(精選版日本国語大辞典)。ために、「庶幾」の訓み方は、 しょき 41.2%、 ちか(シ) 29.4%、 こいねが(ウ)5.9%、 とある(https://furigana.info/w/%E5%BA%B6%E5%B9%BE:%E3%81%A1%E3%81%8B)。 ところで、漢字では、 庶は、冀(キ こいねがう)也と註す。幾と同義なり。庶幾と連用しても、一字ずつ別ち用ひても同じ。又、庶乎(ショコ)と連用す(庶乎は、近しの意で、庶幾と同義)、 幾は、こひねがはくはとも、ちかしとも訓む、遠きものは及び難き故、望を絶つも、近きは及ぶべし、されば、願辞、又は、近辞と註すれども、意は一なり。孟子「王庶幾無疾病」、 希は、まれといふ字なり、故にまれなることのできるやうに願ふなり、 冀は、欲也、望也と註す。覬(キ のぞむ)と音通ず。伺ひ望む意あり、 尚は、庶幾也と註す。「黎民(レイミン 冠を着けない黒髪の者、つまり庶民)尚亦有利哉」の如し。尚の字、たふとぶといふ義あり、たふとび願ふ意なり、 幸は、非分而得曰幸と註す、幸調護太子の如し、 と、註されている(字源)。 「庶」(ショ)は、 会意。广の中は、動物の頭(廿印)のあぶらを燃やすさまで、光の字の古文。庶はそれに广(いえ)を添えたもので、家の中で火を集め燃やすこと。さらにまた、諸(これ)と同様に、近称の指示詞にあて「これこそは」と強く指示して、「ぜひこれだけは」の意を表す副詞に転用された、 とある(漢字源)。字源には、象形、指事、会意、形声、会意形声の諸説があるらしいが、 广と廿と火とに従う、广は厨房、廿は鍋など烹炊(ほうすい)に用いる器。その下に火を炊いて器中のものを烹炊し、煮ることを意味する字で、煮の本字である(白川)、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BA%B6)、 形声。火と、音符石(セキ)→(シヨ)とから成る。火で煮る意を表す。借りて、「もろもろ」の意に用いる、 とか(角川新字源)、 会意兼形声文字です(广+炗)。「家屋のおおいに相当する屋根」の象形と「器の中の物を火で煮たり沸かしたりする」象形から、屋内をいぶして「害虫を除去する」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「おおい(たくさん)」を意味する「庶」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji1842.html)、微妙に分かれるが、「火」と関わらせていることは同じである。 「幾」(漢音キ、呉音ケ)は、 会意。幺ふたつは、細く幽かな糸を示す。戈は、ほこ。幾は「幺ふたつ(わずか)+戈(ほこ)+人」で、人の首にもうわずかで戈の刃がとどくさまを示す。もう少し、近いなどの意を含む。わずかの幅をともなう意からはしたの数(いくつ)を意味するようになった、 とある(漢字源)。 別に、 会意。𢆶(ゆう かすか)と、戍(じゆ まもり)とから成る。軽微な防備から、あやうい意を表す、 との説(角川新字源)、 会意文字です。「細かい糸」の象形と「矛(ほこ)の象形と人の象形」(「守る」の意味)から、戦争の際、守備兵が抱く細かな気づかいを意味し、そこから、「かすか」を意味する「幾」という漢字が成り立ちました。また、「近」に通じ(「近」と同じ意味を持つようになって)、「ちかい」、「祈」に通じ、「ねがう」、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「いくつ」の意味も表すようになりました、 とする説(https://okjiten.jp/kanji1288.html)があるが、最後の説で、「ねがう」意が出てくる意味が分かる。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 車馬門前に立ち連なって、出入(しゅつにゅう)身を側(そば)め、賓客堂上に群集して、揖譲(ゆうじよう)の礼を慎めり(太平記)、 とある、 揖譲、 は、 ゆうじょう(いふじゃう) と訓むが、 いつじょう(いつじゃう)、 とも訓ませる(字源・大言海)。 揖は、一入(イツニフノ)切にて、音は、イフなり。されど、フは、入聲(ニッシャウ)の韻なれば、他の字の上に熟語となるときは、立(リフ)を立身(リッシン)、立禮(リツレイ)、入(ニフ)を入聲(ニッシャウ)とも云ふなり。六書故「揖、拱手上下左右(シテ)之以相禮也」(楚辞、大招、註「上手延登曰揖、壓手退避曰譲)、 とあり(大言海)、色葉字類抄(1177〜81)には、 揖譲、イツジャウ、揖、イフス、 とある。「延登(えんとう)」は、 初めて官に拝するとき、天子がその人を延き入れて、殿に登らしめ、親(みずか)ら詔を下す、 とある(字源)。「退避」は、それとの対で、「引退する」意と思われる(仝上)。 「拱手上下左右」は、 へりくだって敬意を表す、 意と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)が、 手をこまねきて(両手の指を組み合わせて)、或は上下にし、或は左右にする礼法、 とある(仝上)。 論語(八佾篇)に、 子曰、君子無所争、必也射乎、揖譲而升下、而飲、其争也君子(子曰く、君子は争う所無し、必ず射(ゆみい)るときか、揖譲して升(のぼ)り下(くだ)り、而して飲ましむ、その争いや君子なり)、 とある。「升下」とは、 射礼の際、最初、主人が招待にこたえて堂、つまり殿にのぼるのが升であり、次に堂から庭におりて弓を射るのである、 とある(貝塚茂樹訳注『論語』)。 射礼、 は、 弓の競い合いのことである。孔子は、 礼の故事、つまり、作法の心得を解説したものらしい(仝上)。 「揖譲」は、 大古之時、聖人揖譲(「聖徳太子伝暦(917頃)」) と、 両手を前で組み合わせて礼をし、へりくだること、 であり、 古く中国で客と主人とが会うときの礼式、 で(仝上)、 拱手の礼をなしてへりくだる、 意である(字源)。そこから、意味を広げ、 会釈してゆずる、 謙虚で温和なふるまい、 などにもいう、とある(精選版日本国語大辞典)。 つまり、「こまねく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484220493.html)で触れた、 拱く、 拱手、 である。「こまねく」は、現存する中国最古の字書『説文解字(100年頃)』には、 拱、斂手(手をおさむる)也、 礼記・玉藻篇「垂拱」疏には、 沓(かさぬる)手也、身俯則宜手沓而下垂也、 とあり(大言海)、 拱の字の義(両手をそろえて組むこと)に因りて作れる訓語にて、組貫(くみぬ)くの音轉なるべしと云ふ(蹴(く)ゆ、こゆ。圍(かく)む、かこむ。隈床(くまど)、くみど。籠(かたま)、かたみ)、細取(こまどり)と云ふ語も、組取(くみとり)の転なるべく、木舞(こまひ)も、組結(くみゆひ)の約なるべし、 とする(大言海)ように、「こまねく」は、もともと、 子路拱而立(論語)、 と、 両手の指を組み合わせて敬礼する 意であり、 拱手、 と言えば、 遭先生于道、正立拱手(曲禮)、 と、 両手の指を合わせてこまぬく、人を敬う礼、 であり(字源)、 中国で敬礼の一つ。両手を組み合わせて胸元で上下する、 とあり(広辞苑)、 中国、朝鮮、ベトナム、日本の沖縄地方に残る伝統的な礼儀作法で、もとは「揖(ゆう)」とも呼ばれた。まず左右の人差し指、中指、薬指、小指の4本の指をそろえ、一方の掌をもう一方の手の甲にあてたり、手を折りたたむ。手のひらを自身の身体の内側に向け、左右の親指を合わせ、両手を合わせることで敬意を表す。一般的には、男性は左手で右手を包むようにするが、女性は逆の所作となる。葬儀のような凶事の場合は左右が逆になる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B1%E6%89%8B)。 「揖譲」には、「拱手」の意の他に、 禅譲、 の意で、 天子の位を譲ること。特に、その位を子孫であるなしにかかわらず、徳の高い者に譲ること、 の意でも使われる。この逆は、 征誅、 とあり(字源)、 放伐、 ともいう(広辞苑)。 堯の舜に授け、舜の禹に授くる如きは揖譲なり、湯の桀を放ち、武王の紂を伐ち、兵力を以て国を得たる如きは征誅なり、 とある(字源)。 「揖」(ユフ(イフ)、イツ)は、 会意。旁(シュウ)は「口+耳」からなり、口と耳をくっつけるさまを示す。揖はそれと手を合わせた字で、両手を胸の前でくっつけること、 とある(漢字源・字源)。 「譲(讓)」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、 会意兼形声。襄(ジョウ)は、中に割り込むの意を含む。讓は「言+音符襄」で、どうぞといって間に割り込ませること。転じて、間に挟んで両脇からせめる意ともなる、 とある(漢字源)、 三タビ天下を以て讓る(論語)、 と、譲る意である。別に、 会意兼形声文字です(言+襄)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「衣服に土などのおまじない物を入れて邪気を払う象形と手の象形」(「衣服にまじないの品を詰め込んで、邪気を払う」の意味)から、「言葉で悪い点を責める」を意味する「譲」という漢字が成り立ちました。また、たくさんの品を詰め込む事を許すさまから、「ゆずる」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1680.html)。 問い責める意を表す。転じて「ゆずる」意に用いる、 とある(角川新字源)ので、原義は、それのようである。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 犂牛の喩へ、その理(ことわ)りしかなり。罰その罪にあり、賞その功に依るを、善政の最(さい)とする(太平記)、 とある、 「犂牛(りぎゅう)」は、 毛色のまだらな牛、 まだらうし、 の意(広辞苑・精選版日本国語大辞典)で、日葡辞書(1603〜04)にも、 リギュウ、マダラウシ、 とある(広辞苑)。ただし、「犂牛」については、 まだら牛、 とする説以外に、 耕作用の犂を引く牛、 とする説がある(貝塚茂樹訳注『論語』)。 「犂(犁)」(漢音レイ・リ、呉音リ)の字は、 会意兼形声。「牛+音符利(リ よくきれる)」。牛にひかせ、土を切り開くすき、 とあり(漢字源)、どうやら、 牛に引かせて土を起こす農具、 つまり、 からすき、 の意であるが、そこから、 耕作に使うまだらうし、 をも指す。「犂牛」に二つの意味がある所以であるが、個人的には、こういう背景から見ると、「犂牛」は、本来、 耕作用の犂を引く牛、 の意なのではないか、という気がする。「からすき」というのは、 唐鋤、 犂、 と当て、 柄が曲がっていて刃が広く、牛馬に引かせて田畑を耕すのに用いる、 もので、 牛鍬(うしぐわ)、 ともいい(精選版日本国語大辞典)、 四辺形の枠組をもつこの種の長床犂は、中国から朝鮮半島を経て由来したものと考えられ、わが国古来から用いられた代表的型式の犂である、 とある(農機具の種類)。わが国に伝わったものの原形を指していることになる。 『論語』・雍也篇に、 子謂仲弓曰、犂牛之子、騂且角、雖欲勿用、山川其舍諸(子、仲弓を謂いて曰く、犂牛(りぎゅう)の子も騂(あかく)く且つ角(つの)あらば、用うる勿(な)からんと欲すと雖も、山川それ諸(これ)を舎(す)てんや)、 とある(貝塚茂樹訳注『論語』)。仲弓とは、孔門十哲の一人、 冉雍(ぜんよう)の字(あざな)、 である。仲弓を指して、 犂牛之子、 つまり、 田で鋤を引くまだら牛の仔、 と言ったということは、 仲弓が賤眠の出自である、 ことを象徴している(仝上)。貝塚茂樹訳注には、こうある。 天神などのいけにえにあてるためには、ふだんから政府の牧人が毛並みのいい牛を養っている。これが足りなくなると、一般の耕作につかう牛から毛並みのいい牛を選んでいけにえにする。それと同じように、徳行がすぐれ、人の上に立つ資格を備えた仲弓は、いつかはきっと世間で用いられるにちがいないことをたとえたのである、 と。ここから、 犂牛之子、 犂牛の喩え、 等々とも言われる。 「犂牛」には、 方便品、深着五欲如犂牛愛尾(「長秋詠藻(1178)」)、 と使われている(精選版日本国語大辞典)が、正確には、これは、「犂牛」ではなく、 犛牛(リギュウ) で、 やく、 を指し、 からうし、 黒牛、 の意ともされ(字源)、「犂牛」とは別物で、 深著於五欲 如犛牛愛尾(法華経・方便品)、 と、 犂牛の麻を愛するが如し、 とも使われる。 牛が役にも立たない自分の尾をいとおしむように、人が無意味な欲望からのがれられないさま、 を言うのに使う(故事ことわざの辞典)。仏教では、 犛牛、 を、 みょうご、 と訓むとある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) その昔、紅顔翠黛の世に類ひなき有様を、ほのかに見染し玉簾の、ひまもあらばと三年(みとせ)余り恋慕しけるを、とかく方便(てだて)を廻らして盗みい出してぞ迎へける(太平記)、 とある、 紅顔翠黛(こうがんすいたい)、 は、 紅(くれない)の顔と翠(みどり)の眉墨、 で、 翠黛紅顔錦繍粧(翠黛紅顔錦繍(きんしゅう)の粧(よそお)ひ)、 泣尋沙塞出家郷(泣くなく沙塞(ささい)を尋ねて家郷を出づ)、 と(「和漢朗詠集(1018頃)」)、 容貌の美しい、 意である(兵藤裕己校注『太平記』)。 「紅顔」は、 朝有紅顔誇世路(朝(あした)には紅顔ありて世路(せろ)に誇れども)、 暮為白骨朽郊原(暮(ゆふべ)には白骨となりて郊原(かうげん 野辺)に朽(く)つ)、 と(「和漢朗詠集(1018頃)」)、 年若い頃の血色のつやつやした顔、 の意(広辞苑)で、 此翁白頭眞可憐、伊(これ)昔紅顔美少年、 と(劉廷芝)、 少年をいふ、 が(字源)、 嗟呼痛しきかも紅顔は三従(さんしょう)と長(とこしなえ)に逝き(万葉集)、 と、 婦人の麗しい容貌、 をもいう(広辞苑)。 漢字「紅」は、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)によると、 赤糸と白糸からなる布の色、すなわち桃色、ピンク、 であり、中国ではその後、紅が赤を置き換えた(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%85)、とある。 赤は、きらきらとあかきなり(字源)、火のあかく燃える色(漢字源)、 紅は、桃色なり、 丹は、丹沙の色なり、大赤なり、 緋は、深紅色なり(字源)、目の覚めるような赤色(漢字源)、 絳(コウ)は、深紅の色(漢字源)、大赤色なり(字源)、 茜(セン)は、夕焼け色の赤色(漢字源)、 殷(アン)は、赤黒色なり、血の古くなりて黒色を帯びたるをいふ、 と(字源・漢字源)、赤系統の色の区別があり、「紅」は、 桃色に近いあか色、 である。 少年の顔色、 に、似つかわしい。「紅」を くれなゐ、 と訓むのは、 呉(くれ)の藍(あゐ)、 と、中国から来た染料の意(漢字源)、とある。 「翠黛」は、 燕姫翠黛愁(杜甫) と、 みどりのまゆずみ、 の意、さらに、 そのまゆずみで描いた美しい眉、 を指し(精選版日本国語大辞典)、それをメタファに、 煙波山色翠黛横(彦周詩話)、 と、 青き山の形容(字源)、 緑にかすむ山のたとえ(精選版日本国語大辞典)、 にも使い、さらに、 翠黛開眉纔画出、金糸結繭未繰将(「菅家文草(900頃)」)、 と、 柳の葉、 にも喩える(精選版日本国語大辞典)。 「翠」(スイ)は、 会意兼形声。「羽+音符卒(シュツ 小さい、よけいな成分を去ってちいさくしめる)」。からだの小さな小鳥のこと。また汚れを去った純粋な色、 とある(漢字源)が、別に、 形声文字です(羽+卒)。「鳥の両翼」の象形(「羽」の意味)と「衣服のえりもとの象形に一を付した」文字(「神職に携わる人の死や天寿を全うした人の死の時に用いる衣服」の意味だが、ここでは、「粹(スイ)」に通じ(「粹」と同じ意味を持つようになって)、「混じり気がない」の意味)から、色に混じり気のない羽の鳥「かわせみ」を意味する「翠」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2662.html)。 「黛」(漢音タイ、呉音ダイ)は、 形声。黒+音符代、 とあるのみだ(漢字源)が、 別に、 会意兼形声文字です(代+黒)。「横から見た人の象形と2本の木を交差させて作ったくいの象形」(人がたがいちがいになる、すなわち「かわる」の意味)と「煙出しにすすが詰まった象形と燃えあがる炎の象形」(すすの色が黒い事から、「黒い」の意味)から、「人の眉にとってかわる黒いすみ」を意味する「黛」という漢字が成り立ちました、 との解釈がある(https://okjiten.jp/kanji2542.html)。 「紅」(漢音コウ、呉音グ、慣用ク)は、 形声。糸+音符工(コウ)、 としかない(漢字源)が、 別に、 形声。「糸」+音符「工」、同義同音字「絳」。植物性原料による染料(「糸」を染めるもの)。説文解字によると、赤糸と白糸からなる布の色、すなわち桃色、ピンク。中国ではその後、紅が赤を置き換えた、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%85)、 形声文字です(糸+工)。「より糸」の象形と「工具(のみ又はさしがね)の象形」(「作る」意味だが、ここでは「烘(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「烘」と同じ意味を持つようになって)、「赤いかがり火」の意味)から、「あかい」、「べに」を意味する「紅」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji927.html)の解釈がある。 「顔(顏)」(漢音ガン、呉音ゲン)は、 会意兼形声。彥(ゲン)彦は「文(もよう)+彡(もよう)+音符厂(ガン 厂型にかどがたつ)」の会意兼形声文字で、ひたいがひいでた美男のこと。顏は「頁(あたま)+音符彥(ゲン)で、くっきりした美男のひたい、 とあり(漢字源)、 「厂(がけ)」は、岸(水辺のがけ)、雁(厂型に飛ぶ雁)と同系で、くっきりと角張っている意を含む、 とある(仝上)。 別に、 会意兼形声文字です(彦(彥)+頁)。「人の胸に入れ墨した」象形(模様、彩り」の意味)と「崖」の象形(「崖」の意味だが、ここでは、「鉱物性顔料」の意味)と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様、彩り」の意味)と「人の頭部を強調した」象形から「化粧をする部分、かお」を意味する「顔」という漢字が成り立ちました、 との説明もある(https://okjiten.jp/kanji20.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) この兵を以て、かの大敵に合はん事、たとへば蚍蜉の大樹を動かし、蟷螂の隆車を遮らんとするが如し(太平記)、 と、 蚍蜉(ひふ)大樹を動かす、 と、 蟷螂(とうろう)の隆車を遮らんとする、 は、共に、 |