「深見草」(ふかみぐさ)は、 ぼたん(牡丹)の異名、 とされ、 たそかれ時の夕顔の花、観るに思ひの深見草、色々様々の花どもを(太平記)、 鉄炮取り直し、真正中(まっただなか)を撃つに、右の手に是を取り、深見草の唇に爾乎(にこ)と笑めるありさま、なを凄くぞ有りける(宿直草)、 等々と使われる。確かに、和名類聚抄(平安中期)に、 牡丹、布加美久佐、 本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)に、 牡丹、和名布加美久佐、一名、也末多加知波奈(やまたちばな)、 などとある。しかし、箋注和名抄(江戸後期)は、 この「牡丹」はもともとの「本草」では「藪立花」「藪柑子」のことで、観賞用の牡丹とは別物であるのに、「和名抄」が誤って花に挙げたために、以後すべて「ふかみぐさ」は観賞用の牡丹として歌に詠まれるようになった、 とする(精選版日本国語大辞典)。確かに、「深見草」は、 植物「やぶこうじ(藪柑子)」の異名、 でもある。しかし出雲風土記(733年)意宇郡に、 諸山野所在草木、……牡丹(ふかみくさ)、 と訓じている(大言海)ので、確かなことはわからないが、色葉字類抄(1177〜81)は、 牡丹、ボタン、 とある。しかし、 牡丹、 より、 深見草、 の方が、和風のニュアンスがあうのだろうか、和歌では、 人知れず思ふ心は深見草花咲きてこそ色に出でけれ(千載集)、 きみをわがおもふこころのふかみくさ花のさかりにくる人もなし(帥大納言集)、 などと、 「思ふ心」や「なげき」が「深まる」意を掛け、また「籬(まがき)」や「庭」とともに詠まれることが多い、 とある(精選版日本国語大辞典・大言海)。 「ヤブコウジ」は、 藪柑子、 と当て、 アカダマノキ、 ヤブタチバナ、 ヤマタチバナ、 シシクハズ、 深見草、 と呼ばれ、漢名は、 紫金牛、 とある(広辞苑)。別名、 十両、 で、 万両(マンリョウ)、 百両(ヒャクリョウ)、 とともに、サクラソウ科の常緑低木である(千両(センリョウ)はセンリョウ科)。 「牡丹」は、別名、 山橘、 富貴草、 富貴花、 百花王、 花王、 花神、 花中の王、 百花の王、 天香国色、 名取草、 深見草、 二十日草(廿日草)、 忘れ草、 鎧草、 木芍薬、 ぼうたん、 ぼうたんぐさ、 等々、様々に呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%B3_(%E6%A4%8D%E7%89%A9・広辞苑)。 「牡丹」の項で、大言海は、まず、 本草に云へるは、古名、ヤマタチバナ、フカミグサ。即ち今のヤブコウジ。関西にヤブタチバナ、この草、深く林叢中に生じ、葉、実、冬を凌ぐ。故に深見草、山橘の名あり。…木芍薬(牡丹の意)を深見草と云ふは誤れり、 と記し、それと項を改めて、別に、 高さ二三尺、春葉を生じ、夏の初、花を開く、花の径、六七寸に至る、重辨、単辨、紅、白、紫等、形、色、種類、甚だ多し、人家に培養して、花を賞す。花中の最も艷なるものなれば、花王の称あり。……音便に延べて、ボウタン。叉、ハツカグサ。ナトリグサ。富貴草。富貴花。木芍薬、 と書く見識を示す。 箋注和名抄には、 亦名百両金、 というともある(大言海)。 露台に植ゑられたりけるぼうたんの、唐めきをかしき事など宣ふ(枕草子)、 と、 長音化、 した言い方もした(広辞苑)。 安時代に宮廷や寺院で観賞用に栽培され、菊や葵(あおい)につぐ権威ある紋章として多く使われた。江戸時代には栽培が普及し、元禄時代(1688〜1704)に出版された《花壇地錦抄》には339品種が記録されている、 とある(世界大百科事典)。 牡丹、 は、漢名。 牡丹自漢以前、無有称賞、僅謝康楽集中、有竹關際多牡丹之語、此是花王第一知己也(五雜俎)、 とあり、 花王、 も漢名と知れる(字源)。併せ、 洛陽花、 木芍薬、 も同じとある(仝上)。「牡丹」の由来は、漢語なのだが、 ギリシャ語Botānēを、古代中国で音訳したもの(国語に於ける漢語の研究=山田孝雄)、 とする説しか載らない(日本語源大辞典)。しかし、原産地は、 中国西北部、 とされる(https://www.yuushien.com/botan-flower/)。ギリシャ語由来というのは妙である。おそらく音から訳したのには違いない。箋注和名抄に、 出漢剣南、土人謂之牡丹、 とある。「剣南」は、 唐の時代、郡をやめ州とし、その上に道、その下に県を設けた。初めは十道(河北道、河南道、関内道、隴右道、淮南道、河南道、山南道、江南道、剣南道、嶺南道)、玄宗の時代には十五道とした、 とされる「剣南道」を指すと思われる。場所は、蜀を含む四川省北西部と推測される。この記述が正しければ、現地で、「ボタン」と呼んでいたものを当て字したことになる。 「牡」(慣用ボ、漢音ボウ、呉音」・モ)は、 会意。牡の旁は、土に誤ってきたが、もとは士であった。士は男性の性器のたったさま。のち、男・オスを意味するようになった。牡(ボウ)は「牛+士(おす)」で、おすがめすの陰門をおかすことに着目したことば、 とある(漢字源)。 会意文字です(牜(牛)+土)む。「角のある牛」の象形と「おすの性器」の象形から「牛のおす」の意味を表し、そこから「おす」を意味する「牡」という漢字が成り立ちました、 との説明も同じ意味になる(https://okjiten.jp/kanji2583.html)。 「丹」(タン)は、 会意。土中に掘った井型の枠の中から、赤い丹砂が現れるさまを示すもので、赤いものが現れ出ることを表す。旃(セン 赤い旗)の音符となる、 とある(漢字源)。 会意。「井」+「丶」、木枠で囲んだ穴(丹井)から赤い丹砂が掘り出される様、 も(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B9)、 象形。採掘坑からほりだされた丹砂(朱色の鉱物)の形にかたどる。丹砂、ひいて、あかい色や顔料の意を表す、 も(角川新字源)、 象形文字です。「丹砂(水銀と硫黄が化合した赤色の鉱石)を採掘する井戸」の象形から、「丹砂」、「赤色の土」、「濃い赤色」を意味する「丹」という漢字が成り立ちました。 も(https://okjiten.jp/kanji1213.html)、解釈は同じだか、象形と見るか会意文字と見るかが異なる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「砌(みぎり)」は、 落城の砌、 というように、 時、 折、 の意で使うことが多いが、 露置く千般(ちくさ)の草、風に馴るる砌の松のみ、昔も問ふかと物さびたり(宿直草)、 と、 庭、 の意で使ったりする。本来は、古くは、 九月(ながつき)のしぐれの秋は大殿のみぎりしみみに露負ひてなびける萩を玉だすきかけてしのはしみ雪降る(万葉集)、 大(おほ)みぎりの石を伝ひて、雪に跡をつけず(徒然草) などと、 軒下・階下などの雨滴を受けるための石や敷瓦を強いた所、 を指し、その語源は、 水(ミ)限(ぎり)の意(広辞苑・岩波古語辞典・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本古語大辞典=松岡静雄)、 水キリの儀、キリは走り流れる意(筆の御霊)、 水を切る意(国語の語根とその分類=大島正健)、 等々とされる(日本語源大辞典)。しかし、 水(ミ)限(ぎり)の意、 とすると、本来は、 見砌中円月、知普賢之鏡智(みぎりの中の円月を見て普賢の鏡智を知りぬ)(四至啓白文「性霊集(1079)」)、 と、 水際、 の意ではないか、という気もする。 敷石、 の意から、 紫の庭、玉の台、ちとせ久しかるべきみぎりとみがきおき給ひ(千載和歌集・序)、 みぎりをめぐる山川もこれ(葬礼)を悲しみて雨となり雲となるかと怪しまる(太平記)、 と、上述の、 庭や殿舎の境界、 ひいては、 庭、 の意に広がるのはあり得る。それが、 巖の腰を廻り経て、麓の砌に至りぬ(今昔物語)、 と、 (その)場所、 (その)場面、 の意となり、さらに、 在世説法の砌に臨みたるが如く(十訓集) なると、 あることの行われる、または存在する時、 の含意となり、 この御政道正しい砌に、私な事はなりまらすまい(虎明本狂言・雁盗人)、 と、 あることの行なわれる、 または存在する時、 の意となり、 (その)とき、 (その)おり、 (その)時節、 の意に絞られていく。この意味の転換は、ある程度見えることかもしれない。ただ、この意味での、 みぎり、 についてのみ、 限(みぎり)の意にて、ミは発語か、砌は借字(大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、 そのころの意を其の左右(ゆんでめで)というところからミギリ(右)の意か(志不可起)、 と、別語源とする説もある。如何なものだろうか。確かに、 敷石、 と とき、 では差がありすぎるが、 敷石→庭→(その)場所→(その)時、 と、意味の変遷をたどると、無理がない気がするのだが。 いずれにしろ、 みぎり、 に当てた、「砌」(漢音セイ、呉音セイ)は、 会意兼形声。「石+音符切(切って揃える)」、 とあり(漢字源)、 瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段、 の意である。さらに、 石の端を切りそろえて積み上げる、 の意として使う。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 階の甃(いしだたみ)なり、 とあり、 階の下の敷石を敷いたところのこと、 のようである(https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A0%8C)。 苔砌、 甃砌、 等々とあるので、 敷石、 の用例が、「砌」の原意としては近いことになる(字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「褊(さみ)す」は、 狭す、 とも当てる(精選版日本国語大辞典)。 狭(サ)みすの意(広辞苑)、 狭(サ)ミスの意。相手を狭いものと扱う意(岩波古語辞典)、 とあるが、 サミは形容詞の狭(さ)しの語根を、名詞に形づくれるもの、無(な)しを、無(な)みす(蔑)とするに同じ、孟子・梁惠王「齊國雖褊小」、康熙字典「褊、狭也」(大言海)、 形容詞「さし(狭)」の語幹に接尾語「み」が付き、さらに動詞「す」が付いてできた語(精選版日本国語大辞典)、 というところが妥当なのだろう。 「褊」(ヘン)は、 会意兼形声。「衣+音符扁(うすっぺらな)」、 とあり(漢字源)、 形声文字。「衣」と音符「扁」を合わせた字で、衣服がきつく「せまい」という意味、 である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A4%8A)。同義の漢字は、 「狭」は、廣または闊の反なり、史記「地狭人寡」。心のせまきにも用ふ、 「褊」は、衣服の身はばのせまきなり。転じて、土地また心の狭きにも用ふ。左伝「衛國褊小、老夫耄矣」、 「窄」は、寛の反なり、狭なり、隘なり、天地窄の類、 「隘」は、ものの閧フせまきなり、谷閧ネどの迫りてけはしく、せまきに云ふ。険隘、峻隘と熟す、転じて心のせまきにも用ふ。狷隘は狷介にして寛容の量なきなり、 と「せまい」の意味を使い分けている(字源)。 きばやし(急)惼(ヘン)に通ず、 とある(仝上)ので、 褊狭(へんきょう)、 と、「土地が狭い」意や「心が狭い」意だけではなく、 褊心(へんしん)、 と、「心が狭く気が短い」意でも使う(仝上)。 「褊(さみ)す」は、漢字の意味から見て、元々は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 褊、サミス、さし、せばし、 字鏡(平安後期頃)には、 狭、サミス、 とあり、 三王の陒薜(あいへき)を陿(さみ)す(漢書・楊雄伝)、 と、 狭い、 狭いと思う、 という状態表現でしかなかったものが、 帰伏申したる由にてかへって武家をは褊しけり(太平記)、 所存之企、似褊関東(吾妻鏡)、 などと、 我を廣しとし、他を狭しとするより、第二義の、他を非とし軽侮する意、 となり(大言海)、色葉字類抄(1177〜81)では、 褊、サミス、謗也、狭、 と、 見下げる、 卑しめる、 軽んずる、 あなどる などといった意に転ずる(大言海・岩波古語辞典) こうした意味の変化はあり得るのだから、 アサミス(浅)の上略(言元梯)、 アサミスル(浅見)の略(菊池俗語考)、 の説は取りがたい。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「狂骨」は、 きょうこつ、 と訓ませ、 「きょう」は「軽」の呉音、 とあり(精選版 日本国語大辞典)、 軽忽、 軽骨、 とも当て、この場合、 けいこつ、 とも訓み、 然し汝に感服したればとて今直に五重の塔の工事を汝に任するはと、軽忽(かるはずみ)なことを老衲(ろうのう)の独断(ひとりぎめ)で云ふ訳にもならねば、これだけは明瞭(はっきり)とことわつて置きまする(幸田露伴「五重塔」) と、 かるはずみ、 と訓ませる場合もある。「狂骨」は、 軽忽 軽骨、 を、 きょうこつ、 と呼んだ時の当て字かと思われる。 「軽忽(けいこつ)」は、漢語である。 軽忽簡誣(漢書・孔光伝)、 と、 かろがろしくそそっかしい、 意である(字源)。で、 けいこつ、 と訓ませる、 軽忽、 は、漢語の意に近く、 軽んじ、ゆるがせにすること、 と(大言海)、 そそっかしい、 かるがるしい、 意で、 粗忽、 と同義になる(広辞苑)。しかし、 きょうこつ、 と訓ませ、 軽忽、 軽骨、 などと当てる場合は、漢語と同義で、 事極軽忽、上下側目云々(「小右記永延二年(988)」)、 キョウコツナコトヲイフ(「日葡辞書(1603〜04)」)、 などと、 軽率、 そそっかしい、 意でも使うが、 公家の成敗を軽忽し(太平記)、 と、 軽視する、 軽蔑する、 意や、 此の人の体軽骨(キャウコツ)也。墓々敷(はかばかしく)日本の主とならじとて(「源平盛衰記(14C前)」)、 と、 人の様子や人柄が軽はずみで頼りにならないようにみえる、 意で使い、その軽率な状態表現を、 中中不足言ともあまり軽忽なほどに物語ぞ(「三体詩幻雲抄(1527)」)、 此かさたためと有ければ、なふきゃうこつや是程ふるあめにといへば(浄瑠璃「凱陣八島(1685頃)」)、 などと、 他人から見て軽はずみで不注意に見えると思われるような愚かなこと、とんでもないこと、笑止、 と、価値表現へとシフトして使う。さらに、それが過ぎると、 あら軽忽や児わ何を泣給ふぞ(幸若「満仲(室町末〜近世初)」)、 と、 気の毒な、 という意にまで広がる(精選版日本国語大辞典)。 狂骨、 は、 若輩の興を勧むる舞にもあらず、また狂骨の言(ことば)を巧みにする戯(たわぶ)れにもあらず(太平記)、 と、 ばかばかしい、 意で使うとき当てたのではあるまいか。また、漢語「軽忽」の「忽」に、 軽骨、 狂骨、 と、「骨」を当てたのは、漢字「骨」に、 気骨、 硬骨漢、 というように、 人柄、 品格、 の意味で使うので、原義に適った当て字ではある。 「狂」(漢音キョウ、呉音ゴウ)は、 会意兼形声。王は二線の間に立つ大きな人を示す会意文字。または、末広がりの大きなおのの形を描いた象形文字。狂は「犬+音符王」で、おおげさにむやみに走り回る犬。ある枠を外れて広がる意を含む、 とある(漢字源)が、 形声。犬と、音符王(ワウ)→(クヰヤウ)とから成る。手に負えないあれ犬の意を表す。転じて「くるう」意に用いる(角川新字源)、 形声文字です(犭(犬)+王)。「耳を立てた犬」の象形と「支配権の象徴として用いられたまさかりの象形」(「王」の意味だが、ここでは、「枉(おう)」に通じ、「曲がる」の意味)から、獣のように精神が曲がる事を意味し、そこから、「くるう」を意味する「狂」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1163.html)、 などともある。
この違いは、「王」を示す甲骨文字がかなりの数あって、「王」(オウ)の字の解釈が、 「庶幾(しょき)」は、 云うふに及ばす、尤も庶幾する所なり(太平記) と、 こい願う、 意で使うが、これは、「庶幾」の、 「庶」「幾」はともにこいねがうの意、 であり(精選版日本国語大辞典)、 庶幾夙夜、以永終誉(詩経)、 と、漢語である(字源)。また、 顔氏之子、其始庶幾乎(易経)、 と、 ちかし、 とも訓ませる(字源)。これは、 「庶」「幾」はともに近いの意、 でもある(精選版日本国語大辞典)。 和語では、ために、 この一様、すなはち定家卿が庶幾する姿なり(「後鳥羽院御口伝(1212〜27頃)」)、 と、 しょき、 と訓むだけではなく、 心あらむ人愚老が心を知て、如説行学庶幾(ソキ)する所也(「雑談集(1305)」)、 と、 そき、 とも訛り(精選版日本国語大辞典)、また、 記録と實地を併せ考へ、古今の對照やや眞を得たるに庶幾(ちか)い(桑原隲蔵「大師の入唐」)、 と、 ちかし、 と訓ませたり、 庶幾(こいねが)うところなりとて、すでに、軍、立つを大国に聞き付けて万が一の勢なるが故に軽しめ嘲りて(南方熊楠「十二支考」)、 と、 こいねがう、 と訓ませたりする。因みに、「こいねがう」には、 希う(ふ)、 冀う(ふ)、 庶幾う(ふ)、 乞願う(ふ)、 等々と当てたりする(精選版日本国語大辞典)。ために、「庶幾」の訓み方は、 しょき 41.2%、 ちか(シ) 29.4%、 こいねが(ウ)5.9%、 とある(https://furigana.info/w/%E5%BA%B6%E5%B9%BE:%E3%81%A1%E3%81%8B)。 ところで、漢字では、 庶は、冀(キ こいねがう)也と註す。幾と同義なり。庶幾と連用しても、一字ずつ別ち用ひても同じ。又、庶乎(ショコ)と連用す(庶乎は、近しの意で、庶幾と同義)、 幾は、こひねがはくはとも、ちかしとも訓む、遠きものは及び難き故、望を絶つも、近きは及ぶべし、されば、願辞、又は、近辞と註すれども、意は一なり。孟子「王庶幾無疾病」、 希は、まれといふ字なり、故にまれなることのできるやうに願ふなり、 冀は、欲也、望也と註す。覬(キ のぞむ)と音通ず。伺ひ望む意あり、 尚は、庶幾也と註す。「黎民(レイミン 冠を着けない黒髪の者、つまり庶民)尚亦有利哉」の如し。尚の字、たふとぶといふ義あり、たふとび願ふ意なり、 幸は、非分而得曰幸と註す、幸調護太子の如し、 と、註されている(字源)。 「庶」(ショ)は、 会意。广の中は、動物の頭(廿印)のあぶらを燃やすさまで、光の字の古文。庶はそれに广(いえ)を添えたもので、家の中で火を集め燃やすこと。さらにまた、諸(これ)と同様に、近称の指示詞にあて「これこそは」と強く指示して、「ぜひこれだけは」の意を表す副詞に転用された、 とある(漢字源)。字源には、象形、指事、会意、形声、会意形声の諸説があるらしいが、 广と廿と火とに従う、广は厨房、廿は鍋など烹炊(ほうすい)に用いる器。その下に火を炊いて器中のものを烹炊し、煮ることを意味する字で、煮の本字である(白川)、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BA%B6)、 形声。火と、音符石(セキ)→(シヨ)とから成る。火で煮る意を表す。借りて、「もろもろ」の意に用いる、 とか(角川新字源)、 会意兼形声文字です(广+炗)。「家屋のおおいに相当する屋根」の象形と「器の中の物を火で煮たり沸かしたりする」象形から、屋内をいぶして「害虫を除去する」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「おおい(たくさん)」を意味する「庶」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji1842.html)、微妙に分かれるが、「火」と関わらせていることは同じである。 「幾」(漢音キ、呉音ケ)は、 会意。幺ふたつは、細く幽かな糸を示す。戈は、ほこ。幾は「幺ふたつ(わずか)+戈(ほこ)+人」で、人の首にもうわずかで戈の刃がとどくさまを示す。もう少し、近いなどの意を含む。わずかの幅をともなう意からはしたの数(いくつ)を意味するようになった、 とある(漢字源)。 別に、 会意。𢆶(ゆう かすか)と、戍(じゆ まもり)とから成る。軽微な防備から、あやうい意を表す、 との説(角川新字源)、 会意文字です。「細かい糸」の象形と「矛(ほこ)の象形と人の象形」(「守る」の意味)から、戦争の際、守備兵が抱く細かな気づかいを意味し、そこから、「かすか」を意味する「幾」という漢字が成り立ちました。また、「近」に通じ(「近」と同じ意味を持つようになって)、「ちかい」、「祈」に通じ、「ねがう」、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「いくつ」の意味も表すようになりました、 とする説(https://okjiten.jp/kanji1288.html)があるが、最後の説で、「ねがう」意が出てくる意味が分かる。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 車馬門前に立ち連なって、出入(しゅつにゅう)身を側(そば)め、賓客堂上に群集して、揖譲(ゆうじよう)の礼を慎めり(太平記)、 とある、 揖譲、 は、 ゆうじょう(いふじゃう) と訓むが、 いつじょう(いつじゃう)、 とも訓ませる(字源・大言海)。 揖は、一入(イツニフノ)切にて、音は、イフなり。されど、フは、入聲(ニッシャウ)の韻なれば、他の字の上に熟語となるときは、立(リフ)を立身(リッシン)、立禮(リツレイ)、入(ニフ)を入聲(ニッシャウ)とも云ふなり。六書故「揖、拱手上下左右(シテ)之以相禮也」(楚辞、大招、註「上手延登曰揖、壓手退避曰譲)、 とあり(大言海)、色葉字類抄(1177〜81)には、 揖譲、イツジャウ、揖、イフス、 とある。「延登(えんとう)」は、 初めて官に拝するとき、天子がその人を延き入れて、殿に登らしめ、親(みずか)ら詔を下す、 とある(字源)。「退避」は、それとの対で、「引退する」意と思われる(仝上)。 「拱手上下左右」は、 へりくだって敬意を表す、 意と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)が、 手をこまねきて(両手の指を組み合わせて)、或は上下にし、或は左右にする礼法、 とある(仝上)。 論語(八佾篇)に、 子曰、君子無所争、必也射乎、揖譲而升下、而飲、其争也君子(子曰く、君子は争う所無し、必ず射(ゆみい)るときか、揖譲して升(のぼ)り下(くだ)り、而して飲ましむ、その争いや君子なり)、 とある。「升下」とは、 射礼の際、最初、主人が招待にこたえて堂、つまり殿にのぼるのが升であり、次に堂から庭におりて弓を射るのである、 とある(貝塚茂樹訳注『論語』)。 射礼、 は、 弓の競い合いのことである。孔子は、 礼の故事、つまり、作法の心得を解説したものらしい(仝上)。 「揖譲」は、 大古之時、聖人揖譲(「聖徳太子伝暦(917頃)」) と、 両手を前で組み合わせて礼をし、へりくだること、 であり、 古く中国で客と主人とが会うときの礼式、 で(仝上)、 拱手の礼をなしてへりくだる、 意である(字源)。そこから、意味を広げ、 会釈してゆずる、 謙虚で温和なふるまい、 などにもいう、とある(精選版日本国語大辞典)。 つまり、「こまねく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484220493.html)で触れた、 拱く、 拱手、 である。「こまねく」は、現存する中国最古の字書『説文解字(100年頃)』には、 拱、斂手(手をおさむる)也、 礼記・玉藻篇「垂拱」疏には、 沓(かさぬる)手也、身俯則宜手沓而下垂也、 とあり(大言海)、 拱の字の義(両手をそろえて組むこと)に因りて作れる訓語にて、組貫(くみぬ)くの音轉なるべしと云ふ(蹴(く)ゆ、こゆ。圍(かく)む、かこむ。隈床(くまど)、くみど。籠(かたま)、かたみ)、細取(こまどり)と云ふ語も、組取(くみとり)の転なるべく、木舞(こまひ)も、組結(くみゆひ)の約なるべし、 とする(大言海)ように、「こまねく」は、もともと、 子路拱而立(論語)、 と、 両手の指を組み合わせて敬礼する 意であり、 拱手、 と言えば、 遭先生于道、正立拱手(曲禮)、 と、 両手の指を合わせてこまぬく、人を敬う礼、 であり(字源)、 中国で敬礼の一つ。両手を組み合わせて胸元で上下する、 とあり(広辞苑)、 中国、朝鮮、ベトナム、日本の沖縄地方に残る伝統的な礼儀作法で、もとは「揖(ゆう)」とも呼ばれた。まず左右の人差し指、中指、薬指、小指の4本の指をそろえ、一方の掌をもう一方の手の甲にあてたり、手を折りたたむ。手のひらを自身の身体の内側に向け、左右の親指を合わせ、両手を合わせることで敬意を表す。一般的には、男性は左手で右手を包むようにするが、女性は逆の所作となる。葬儀のような凶事の場合は左右が逆になる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B1%E6%89%8B)。 「揖譲」には、「拱手」の意の他に、 禅譲、 の意で、 天子の位を譲ること。特に、その位を子孫であるなしにかかわらず、徳の高い者に譲ること、 の意でも使われる。この逆は、 征誅、 とあり(字源)、 放伐、 ともいう(広辞苑)。 堯の舜に授け、舜の禹に授くる如きは揖譲なり、湯の桀を放ち、武王の紂を伐ち、兵力を以て国を得たる如きは征誅なり、 とある(字源)。 「揖」(ユフ(イフ)、イツ)は、 会意。旁(シュウ)は「口+耳」からなり、口と耳をくっつけるさまを示す。揖はそれと手を合わせた字で、両手を胸の前でくっつけること、 とある(漢字源・字源)。 「譲(讓)」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、 会意兼形声。襄(ジョウ)は、中に割り込むの意を含む。讓は「言+音符襄」で、どうぞといって間に割り込ませること。転じて、間に挟んで両脇からせめる意ともなる、 とある(漢字源)、 三タビ天下を以て讓る(論語)、 と、譲る意である。別に、 会意兼形声文字です(言+襄)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「衣服に土などのおまじない物を入れて邪気を払う象形と手の象形」(「衣服にまじないの品を詰め込んで、邪気を払う」の意味)から、「言葉で悪い点を責める」を意味する「譲」という漢字が成り立ちました。また、たくさんの品を詰め込む事を許すさまから、「ゆずる」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1680.html)。 問い責める意を表す。転じて「ゆずる」意に用いる、 とある(角川新字源)ので、原義は、それのようである。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 犂牛の喩へ、その理(ことわ)りしかなり。罰その罪にあり、賞その功に依るを、善政の最(さい)とする(太平記)、 とある、 「犂牛(りぎゅう)」は、 毛色のまだらな牛、 まだらうし、 の意(広辞苑・精選版日本国語大辞典)で、日葡辞書(1603〜04)にも、 リギュウ、マダラウシ、 とある(広辞苑)。ただし、「犂牛」については、 まだら牛、 とする説以外に、 耕作用の犂を引く牛、 とする説がある(貝塚茂樹訳注『論語』)。 「犂(犁)」(漢音レイ・リ、呉音リ)の字は、 会意兼形声。「牛+音符利(リ よくきれる)」。牛にひかせ、土を切り開くすき、 とあり(漢字源)、どうやら、 牛に引かせて土を起こす農具、 つまり、 からすき、 の意であるが、そこから、 耕作に使うまだらうし、 をも指す。「犂牛」に二つの意味がある所以であるが、個人的には、こういう背景から見ると、「犂牛」は、本来、 耕作用の犂を引く牛、 の意なのではないか、という気がする。「からすき」というのは、 唐鋤、 犂、 と当て、 柄が曲がっていて刃が広く、牛馬に引かせて田畑を耕すのに用いる、 もので、 牛鍬(うしぐわ)、 ともいい(精選版日本国語大辞典)、 四辺形の枠組をもつこの種の長床犂は、中国から朝鮮半島を経て由来したものと考えられ、わが国古来から用いられた代表的型式の犂である、 とある(農機具の種類)。わが国に伝わったものの原形を指していることになる。 『論語』・雍也篇に、 子謂仲弓曰、犂牛之子、騂且角、雖欲勿用、山川其舍諸(子、仲弓を謂いて曰く、犂牛(りぎゅう)の子も騂(あかく)く且つ角(つの)あらば、用うる勿(な)からんと欲すと雖も、山川それ諸(これ)を舎(す)てんや)、 とある(貝塚茂樹訳注『論語』)。仲弓とは、孔門十哲の一人、 冉雍(ぜんよう)の字(あざな)、 である。仲弓を指して、 犂牛之子、 つまり、 田で鋤を引くまだら牛の仔、 と言ったということは、 仲弓が賤眠の出自である、 ことを象徴している(仝上)。貝塚茂樹訳注には、こうある。 天神などのいけにえにあてるためには、ふだんから政府の牧人が毛並みのいい牛を養っている。これが足りなくなると、一般の耕作につかう牛から毛並みのいい牛を選んでいけにえにする。それと同じように、徳行がすぐれ、人の上に立つ資格を備えた仲弓は、いつかはきっと世間で用いられるにちがいないことをたとえたのである、 と。ここから、 犂牛之子、 犂牛の喩え、 等々とも言われる。 「犂牛」には、 方便品、深着五欲如犂牛愛尾(「長秋詠藻(1178)」)、 と使われている(精選版日本国語大辞典)が、正確には、これは、「犂牛」ではなく、 犛牛(リギュウ) で、 やく、 を指し、 からうし、 黒牛、 の意ともされ(字源)、「犂牛」とは別物で、 深著於五欲 如犛牛愛尾(法華経・方便品)、 と、 犂牛の麻を愛するが如し、 とも使われる。 牛が役にも立たない自分の尾をいとおしむように、人が無意味な欲望からのがれられないさま、 を言うのに使う(故事ことわざの辞典)。仏教では、 犛牛、 を、 みょうご、 と訓むとある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) その昔、紅顔翠黛の世に類ひなき有様を、ほのかに見染し玉簾の、ひまもあらばと三年(みとせ)余り恋慕しけるを、とかく方便(てだて)を廻らして盗みい出してぞ迎へける(太平記)、 とある、 紅顔翠黛(こうがんすいたい)、 は、 紅(くれない)の顔と翠(みどり)の眉墨、 で、 翠黛紅顔錦繍粧(翠黛紅顔錦繍(きんしゅう)の粧(よそお)ひ)、 泣尋沙塞出家郷(泣くなく沙塞(ささい)を尋ねて家郷を出づ)、 と(「和漢朗詠集(1018頃)」)、 容貌の美しい、 意である(兵藤裕己校注『太平記』)。 「紅顔」は、 朝有紅顔誇世路(朝(あした)には紅顔ありて世路(せろ)に誇れども)、 暮為白骨朽郊原(暮(ゆふべ)には白骨となりて郊原(かうげん 野辺)に朽(く)つ)、 と(「和漢朗詠集(1018頃)」)、 年若い頃の血色のつやつやした顔、 の意(広辞苑)で、 此翁白頭眞可憐、伊(これ)昔紅顔美少年、 と(劉廷芝)、 少年をいふ、 が(字源)、 嗟呼痛しきかも紅顔は三従(さんしょう)と長(とこしなえ)に逝き(万葉集)、 と、 婦人の麗しい容貌、 をもいう(広辞苑)。 漢字「紅」は、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)によると、 赤糸と白糸からなる布の色、すなわち桃色、ピンク、 であり、中国ではその後、紅が赤を置き換えた(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%85)、とある。 赤は、きらきらとあかきなり(字源)、火のあかく燃える色(漢字源)、 紅は、桃色なり、 丹は、丹沙の色なり、大赤なり、 緋は、深紅色なり(字源)、目の覚めるような赤色(漢字源)、 絳(コウ)は、深紅の色(漢字源)、大赤色なり(字源)、 茜(セン)は、夕焼け色の赤色(漢字源)、 殷(アン)は、赤黒色なり、血の古くなりて黒色を帯びたるをいふ、 と(字源・漢字源)、赤系統の色の区別があり、「紅」は、 桃色に近いあか色、 である。 少年の顔色、 に、似つかわしい。「紅」を くれなゐ、 と訓むのは、 呉(くれ)の藍(あゐ)、 と、中国から来た染料の意(漢字源)、とある。 「翠黛」は、 燕姫翠黛愁(杜甫) と、 みどりのまゆずみ、 の意、さらに、 そのまゆずみで描いた美しい眉、 を指し(精選版日本国語大辞典)、それをメタファに、 煙波山色翠黛横(彦周詩話)、 と、 青き山の形容(字源)、 緑にかすむ山のたとえ(精選版日本国語大辞典)、 にも使い、さらに、 翠黛開眉纔画出、金糸結繭未繰将(「菅家文草(900頃)」)、 と、 柳の葉、 にも喩える(精選版日本国語大辞典)。 「翠」(スイ)は、 会意兼形声。「羽+音符卒(シュツ 小さい、よけいな成分を去ってちいさくしめる)」。からだの小さな小鳥のこと。また汚れを去った純粋な色、 とある(漢字源)が、別に、 形声文字です(羽+卒)。「鳥の両翼」の象形(「羽」の意味)と「衣服のえりもとの象形に一を付した」文字(「神職に携わる人の死や天寿を全うした人の死の時に用いる衣服」の意味だが、ここでは、「粹(スイ)」に通じ(「粹」と同じ意味を持つようになって)、「混じり気がない」の意味)から、色に混じり気のない羽の鳥「かわせみ」を意味する「翠」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2662.html)。 「黛」(漢音タイ、呉音ダイ)は、 形声。黒+音符代、 とあるのみだ(漢字源)が、 別に、 会意兼形声文字です(代+黒)。「横から見た人の象形と2本の木を交差させて作ったくいの象形」(人がたがいちがいになる、すなわち「かわる」の意味)と「煙出しにすすが詰まった象形と燃えあがる炎の象形」(すすの色が黒い事から、「黒い」の意味)から、「人の眉にとってかわる黒いすみ」を意味する「黛」という漢字が成り立ちました、 との解釈がある(https://okjiten.jp/kanji2542.html)。 「紅」(漢音コウ、呉音グ、慣用ク)は、 形声。糸+音符工(コウ)、 としかない(漢字源)が、 別に、 形声。「糸」+音符「工」、同義同音字「絳」。植物性原料による染料(「糸」を染めるもの)。説文解字によると、赤糸と白糸からなる布の色、すなわち桃色、ピンク。中国ではその後、紅が赤を置き換えた、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%85)、 形声文字です(糸+工)。「より糸」の象形と「工具(のみ又はさしがね)の象形」(「作る」意味だが、ここでは「烘(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「烘」と同じ意味を持つようになって)、「赤いかがり火」の意味)から、「あかい」、「べに」を意味する「紅」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji927.html)の解釈がある。 「顔(顏)」(漢音ガン、呉音ゲン)は、 会意兼形声。彥(ゲン)彦は「文(もよう)+彡(もよう)+音符厂(ガン 厂型にかどがたつ)」の会意兼形声文字で、ひたいがひいでた美男のこと。顏は「頁(あたま)+音符彥(ゲン)で、くっきりした美男のひたい、 とあり(漢字源)、 「厂(がけ)」は、岸(水辺のがけ)、雁(厂型に飛ぶ雁)と同系で、くっきりと角張っている意を含む、 とある(仝上)。 別に、 会意兼形声文字です(彦(彥)+頁)。「人の胸に入れ墨した」象形(模様、彩り」の意味)と「崖」の象形(「崖」の意味だが、ここでは、「鉱物性顔料」の意味)と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様、彩り」の意味)と「人の頭部を強調した」象形から「化粧をする部分、かお」を意味する「顔」という漢字が成り立ちました、 との説明もある(https://okjiten.jp/kanji20.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) この兵を以て、かの大敵に合はん事、たとへば蚍蜉の大樹を動かし、蟷螂の隆車を遮らんとするが如し(太平記)、 と、 蚍蜉(ひふ)大樹を動かす、 と、 蟷螂(とうろう)の隆車を遮らんとする、 は、共に、 弱者が自分の力や身分を弁えず、強者に立ち向かう、無謀で、身の程知らずの振舞い、 の喩えとして使われ(故事ことわざの辞典・広辞苑)、ほぼ同義である。「蚍蜉」は、 大蟻、 の意(字源・広辞苑)、あるいは、 羽アリ、 の意であり(白水中国語辞典)、 蚍蜉撼大樹(蚍蜉大樹を撼(うご)かす)、 は、時に後に 「可笑不自量」を伴う、 とある(仝上)のは、 蚍蜉撼大樹(蚍蜉大樹を撼(うご)かす)、 可笑自不量(笑うべし自ら量(はか)らざるを)、 からきている(韓愈・調張籍(張籍を調(の)ぶ)詩)。 蟷螂の隆車を遮らんとす、 は、 蟷螂の斧、 蟷螂が斧、 蟷螂が斧を以て隆車(りゅうしゃ)に向かう、 蟷螂車を遮る、 蟷螂の怒り、 蟷螂手を挙げて毒蛇を招き、蜘蛛網を張りて飛鳥を襲う、 蟷螂車轍(しゃてつ)に当る、 などともいう(故事ことわざの辞典)。「隆車」は、 大きな車、 の意。出典は、「淮南子(えなんじ)」人間訓の、 齊莊公出獵(斉(せい)の荘公出でて猟す)、 有一蟲、擧足將搏其輪(一虫有あり、足を挙て将に其の輪を搏(う)たんとす)、 問其御曰、此何蟲也(其の御に問いて曰く、此何の虫ぞや)、 對曰、此所謂螳螂者也(対えて曰く、此所謂螳螂なる者なり)、 其爲蟲也、知進而不知却、不量力而輕敵(其の虫たるや進むを知りて却くを知らず、力を量らずして敵を軽んず)、 莊公曰、此爲人而必爲天下勇武矣(荘公曰く、此人為(た)らば必ず天下の勇武為らん)、 廻車而避之(車を廻らして之を避さく)、 勇武聞之、知所盡死矣(勇武之を聞き、死を尽す所を知る)、 とか(https://kanbun.info/koji/toro.html・故事ことわざ辞典)、荘子・人間世(じんかんせい)の、 猶蟷螂之怒臂、以当車轍、則必不勝任矣(猶蟷螂の臂を怒らして以て車轍に当たるが如し、則ち必ず任に勝(た)へず)、 とか(故事ことわざの辞典)、後漢書・袁紹傳の、 乃欲運蟷螂之斧、禦隆車之隧(スイ 道)、 等々ある(http://fukushima-net.com/sites/meigen/246・故事ことわざの辞典・大言海)。『淮南子』の言葉は、 強敵を恐れない勇敢な姿、 の喩えとして使われているので、今日の「蟷螂の斧」の意味からは少しはずれる。荘子の言葉は、 中国の春秋時代、衛という国で、太子のお守り役に任命されたある人物が、太子が凶暴な性格であることを知って、どうしたものか蘧伯玉(きょはくぎょく)に相談をしました。すると蘧伯玉は、「螳螂を知らざるか、其の臂(ひぢ)を怒らして以て車轍に当たるを」と言って、身のほど知らずのことはせず、相手に合わせていくのがよいでしょう、と諭した、 というところからきている(故事成語を知る辞典)。これが今日の意味になる。 なお、漢文では、「蟷螂」は、 螳蜋、 螗蜋、 などとも書かれる(仝上)。類義の諺に、 石亀の地団駄、 小男の腕立て、 ごまめの歯ぎしり、 泥鰌の地団駄、 竜の鬚を蟻が狙う、 等々がある(故事ことわざ辞典)とされるが、 石亀の地団駄、 ごまめの歯ぎしり、 泥鰌の地団駄、 は、ちょっと含意が異なるような気がする。 「蚍」(ヒ)は、中国最古の字書『爾雅(じが)』(秦・漢初頃)に、 蚍蜉大螘、 とあり(螘は蟻)、 蚍蜉蟻子之援(ヒフキセシノエン 少しばかりの援兵に喩ふ 韓愈、張中丞伝後序「外無蚍蜉蟻子之援」)、 蚍蜉憾大樹(ヒフタイジュヲウゴカス 見識狭き者が妄りに大学者を批評するに喩ふ 韓愈詩「蚍蜉憾大樹、可笑不自量」)、 と、「蚍蜉」の用例以外載っていなかった(字源)。 「蜉」(慣用フ、漢音フウ、呉音ブ)は、 会意兼形声。「虫+音符孚化(フ =浮かぶ)」で、空中に浮遊する虫、 とある(漢字源)。「蜉蝣」は、蜻蛉の意となる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 不肖の身としてこの一大事を思ひ立ち候事、涯分を量(はか)らざるに似たりと云へども(太平記)、 の、 涯分、 は、 がいぶん、 と訓むが、 かいぶん、 とも訓ます(精選版日本国語大辞典)。 逍遥飲啄安涯分、何假扶揺九萬爲(蘆象詩)、 と、 身分に相応したこと、 身の程、 の意であり(字源)、そこから、 環視其中所有、頗識涯分(曾鞏文)、 と、 本分、 の意にもなる(仝上)が、「涯分」は、 かぎり、 の意である。さらに、 涯分武略を廻ぐらし、金闕無為なるやう成敗仕るべし(「平治物語(1220頃)」)、 と、 「身分相応に」の意から転じて、副詞的に、 自分の力の及ぶ限り、精一杯、 の意でも用いる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。 日本で中世以降に生じた用法である。本来名詞として用いられた漢語が、副詞としての用法に転じたという点は「随分」などと同様の変化をたどっている、 とある(仝上)。「随分」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463881312.html)については、触れた。 「涯分」を超えると、 報国の忠薄くして、超涯の賞を蒙らん事、これに過ぎたる国賊や候ふべき(太平記)、 と、 度を超えたること、 分限に過ぎたること、 の意、つまり、 過分、 の意で、 超涯、 といい(大言海・広辞苑)、 身分不相応の昇進、 異例の抜擢、 を、 労功ありとて、超涯不次の賞を行はれける(太平記)、 と、 超涯不次(ちょうがいふじ)、 と使う(デジタル大辞泉)。しかし、それを、 シカラバ イカナルセイカノツマトモナシ、chôgai(チョウガイ)ノガイタクニホコルベシ(「サントスの御作業(1591)」)、 と、 一生涯にわたっていること、 の意でも使う例がある(精選版日本国語大辞典)。「涯」を、 果て、 と見なせば、「涯分」を、 精一杯、 と見なしたのと同じかと見える。 「涯」(漢音ガイ、呉音ゲ)は、 会意兼形声。香iガイ)は、「圭(土盛り)+音符厂(ガン・ガイ 切り立った姿)」の会意兼形声文字で、崖と同じく、切り立ったガケのこと。涯はそれを音符とし、水を加えた字で、水辺のがけ、つまり岸を表す、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(氵(水)+香j。「流れる水」の象形と「削り取られた崖の象形と縦横線を重ねて幾何学的な製図」の象形(「傾いた崖」の意味)から、崖と水との接点「水際」を意味する「涯」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「果て」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1833.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 上の施行によって、須らく箚付(さっぷ 上から下に下ろす公文書)を議(はか)るべし。者(てえ)れば一実右を起こし(太平記)、 とか、 一方欠けんにおいては、いかでかその嘆きなからんや。てへればことに合力(かふりよく)いたして(平家物語)、 などと使われる「者れば」は、 てえ(へ)れば、 と訓ませ、 「と言へれば」の約、 とあり(広辞苑)、 記録体・書簡などで使う語、 とある(岩波古語辞典)。上記二例は、いずれも、牒状(回状)である。 格助詞「と」+動詞「いふ」の已然形+完了の助動詞「り」の已然形+接続助詞「ば」からなる「といへれば」の変化した語。漢文的色彩の強い文章に用いられた、 とあり(学研全訳古語辞典)、 先行の事柄を受け、その結果、後続の事柄が生じたことを示す もので(精選版日本国語大辞典)、 というわけで、 よって、 されば、 の意となる(仝上)。 「といへり」が「てへり」となったのと同じように、「といへれば」が「てへれば」となった。仮名文では、「といへば」となる。中世の古辞書などでは多く「ていれば」となっており、「文明本節用集」に「者 テイレバ 此事治定之義也」とある、 とある(仝上)。 と言へれば→ていれば→てへれば、 といった転訛となるのだろうか。「てへれば」の、 てへ、 は、 といへの約、 で、「といへ」の「いへ」は、 「言ふ」の已然形・命令形、 であり(岩波古語辞典)、「てへ」の、 てふ、 は、だから、 ちふ、とふ(といふの約)の転、 どある(大言海)。「とふ」は、 吾れのみぞ君に戀ふる吾れが背子が戀云(コフトフ)は言の慰(なぐさ)ぞ(万葉集)、 と使われるが、「とふ」は、 チフ、後に、テフ、 とある(仝上)ので、 と言ふ→ちふ→とふ→てふ、 と転訛したものかと推測する。 うたたねに戀しき人を見てしよりゆめてふものはたのみそめてき(小野小町)、 と、 平安朝よりの歌詞に云へり、 とある(大言海)。 「者(者)」(シャ)は、 象形。者は、柴がこんろの上で燃えているさまを描いたもので、煮(火力を集中してにる)の原字。ただし、古くから「これ」を意味する近称指示詞に当てて用いられ、諸(これ)と同系のことばをあらわす。ひいては直前の語や句を、「〜するそれ」ともう一度指示して浮き出させる助詞となった。また、転じて「〜するそのもの」の意となる。唐・宋の代には、「者箇(これ)」をまた「遮箇」「適箇」とも書き、近世には適の草書を誤って「這箇」と書くようになった、 とある(漢字源)。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 者、別事詞也(者とは、事を別つ詞なり)、 とある。その意味では、 といへれば、 に、「者」を当てたのは卓見ということになる。 別に、 旧字「者」は、象形。台の上でまきを重ねて火をたくさまにかたどり、焼く、にる、あつい意を表す。「煮(シヤ)」の原字。借りて、助字「もの」の意に用いる、 とあり(角川新字源)、また、会意説(白川静説)、象形説(藤堂明保説)を併記して、 会意。耂(交差させ集めた木の枝:「老・考」の部首とは異なる)+曰、曰は祝詞を入れる器で、まじない用の土塁を示す。「堵」の原字で「都」等と同系。後に「諸」(人々)の意となる(白川)、 象形。焚火のため木の枝を集めたものを象る、「煮」の原字。古くから近称指示語として用いられ、時代が下り主語を示す助辞となった(藤堂)、 なお、部首は「老部」であるが、上記のとおり字源を異にし、それを明確にするため篆書体やそれを受けた(清代の1716年編纂の)康煕字典体では左払いの下に点を打つ。しかし、(明の万暦43年(1615)編纂の)字彙以前に確立した楷書体などにはすでに点は無く「老部」と同形である、 としている(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%80%85)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「白波」は、 白浪、 とも当てるが、文字通り、 伊豆の海に立つ白波(思良奈美 しらなみ)のありつつも継(つ)ぎなむものを、乱(みだ)れしめめや(万葉集)、 と、 白く泡立つ波、 の意(広辞苑)の他に、 白浪五人男、 というように、 盗賊の異称、 としても使う(仝上)。これは、 海上(かいしょう)には海賊多くして白浪(はくろう)の難を去りかねたり(太平記)、 と、 白波、 の、 はくろう、 を訓読したものだが、出典は、後漢書・霊帝紀にみえる、 中平元年(184)張角反、皇甫嵩討之、角余賊在西河白波谷、時號白波賊、 の、 白波賊、 の、 白波、 に依る。張角は、 太平道の教祖、 で、目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いたことから、 黄巾(こうきん)の乱(黄巾之乱)、 と呼ばれる。この反乱を契機に後漢が衰退、劉備の蜀、曹操の魏、孫権の呉が鼎立した三国時代に移っていく。 ただ、海賊を、 白波、 山賊を、 緑林、 と区別することもある(岩波古語辞典)、とある。「緑林(りょくりん)」は、文字通り、 木の葉が青々としている林、 の意だが、 盗賊、 の意である。これは、 中国の湖北省当陽県の緑林山、 という山の名で、 前漢の末、王莽(おうもう)の時、王匡(おうきょう)・王鳳(おうほう)等が窮民をひきいてこの山にたてこもり、征討軍に抗して強盗をはたらいたとある、 ところに由来する(漢書・王莽伝、後漢書・劉玄伝)、とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。 緑林豪客夜知聞(李渉・遇盗詩)、 それによって、 隴頭秋水、白波之音間聞、辺城暁雲、緑林之陳不定(「本朝文粋(1060頃)」)、 とある(精選版日本国語大辞典)。 「白」(漢音ハク、呉音ビャク)は、 象形。どんぐり状の実を描いたもので、下の部分は実の台座。上半は、その実。柏科の木の実のしろい中身を示す。柏(ハク このてがしわ)の原字、 とある(漢字源)が、 象形。白骨化した頭骨の形にかたどる。もと、されこうべの意を表した。転じて「しろい」、借りて、あきらか、「もうす」意に用いる、 ともあり(角川新字源)、象形説でも、 親指の爪。親指の形象(加藤道理)、 柏類の樹木のどんぐり状の木の実の形で、白の顔料をとるのに用いた(藤堂明保)、 頭蓋骨の象形(白川静)、 とわかれ、さらに、 陰を表わす「入」と陽を表わす「二」の組み合わせ、 とする会意説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD)。で、 象形文字です。「頭の白い骨とも、日光とも、どんぐりの実」とも言われる象形から、「しろい」を意味する「白」という漢字が成り立ちました。どんぐりの色は「茶色」になる前は「白っぽい色」をしてます、 と並べるものもある(https://okjiten.jp/kanji140.html)。 「浪」(漢音呉音ロウ、唐音ラン)は、 会意兼形声。良は◉(穀物)を水でといてきれいにするさま。清らかに澄んだ意を含む。粮(リョウ きれいな米)の原字。浪は「水+音符良」で、清らかに流れる水のこと、 とある(漢字源)が、 形声。水と、音符良(リヤウ)→(ラウ)とから成る。もと、川の名。のち、借りて「なみ」の意に用いる、 ともある(角川新字源)。さらに、 会意兼形声文字です(氵(水)+良)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「穀物の中から特に良いものだけを選び出すための器具の象形」(「良い」の意味だが、ここでは、「ザーザーと、うねる波を表す擬態語」)から、「なみ」を意味する「浪」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1512.html)。 「波」(ハ)は、 会意兼形声。皮は「頭のついた動物のかわ+又(手)」の会意文字で、皮衣を手で斜めに引き寄せてかぶるさま。波は「水+音符波」で、水面がななめにかぶさるなみ、 とある(漢字源)。「皮」は動物の皮を斜めにかぶったさまで、それをメタファに、水の表面の斜めになっている状態をいっているようだ(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B3%A2)。別に、 会意兼形声文字です(氵(水)+皮)「流れる水の象形」と「獣の皮を手ではぎとる象形」(「毛皮」の意味)から、毛皮のようになみうつ水、「なみ」を意味する「波」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji405.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 仁和寺に志一房とて外法成就の人ありけるに、窓_尼天(だぎにてん)の法を習ひて、三七(さんひち)日行ひけるに(太平記)、 と、「窓_尼天」とあるのは、 荼枳尼天(だきにてん)、 の意で、 人の死を六ヶ月前に知ってその心臓を食い、その法を修する者に自在の通力を得させるという夜叉神、 と注する(兵藤裕己校注『太平記』)。 以術召請荼枳尼而訶責之、猶汝常噉(=喰)人、故我今當食汝、 とあり(大日経疏)、 荼枳尼は、通力自在の夜叉神なれば、此の法を修すれば、その人、亦、通力を得と云ふ、故に印度の外道、吾が朝の真言密教にては、荼枳尼法と云ひて、盛んに之を行ふ、 とある(大言海)。 「荼枳尼天」は、 梵語のダーキニー(Ḍākinī)を音訳、 で、 荼吉尼、 陀祇尼、 拏吉尼、 吒祇尼、 吒枳尼、 などとも写す(日本大百科全書)とあるが、 荼吉尼天、 吒枳尼天、 と、「天」をつけるのは、わが国特有で、 中国の仏典では“天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BC%E6%9E%B3%E5%B0%BC%E5%A4%A9)。サンスクリット語ダーキニーDākinīは、 大母神カーリーの使婢たる鬼霊。幻力(マーヤー)を有し、夜間尸林(しりん 墓所)に集会し、肉を食い飲酒し、奏楽乱舞し、性的放縦を伴う狂宴を現出する。人を害する鬼女として恐れられるが、手段を講じてなだめれば非常な恩恵をもたらす。タントラ仏教では彼女ら(〈母〉たち、現実には、特殊な魔術的能力を有するとされる低賤カーストの女性たち)のグループ(荼枳尼網)を、世界の究極的実在としての女性原理であり、悟りを生む知恵でもある〈般若波羅蜜〉とみなし、それと性的に瑜伽(ヨーガ 合一)することによって即身成仏の実現を期する、 とある(世界大百科事典)。ダーキニーの起源は明らかでないが、ヒンドゥー教もしくはベンガル地方の土着信仰から仏教に導入された(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BC%E6%9E%B3%E5%B0%BC%E5%A4%A9)と考えられ、ダーキニーは、 もともと集団や種族を指す名であるが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになった、 とされる(仝上)。で、密教では、 胎蔵界曼陀羅外金剛部院に配される女性の悪鬼、 とされ、 六ヶ月前に人の死を知り、その心臓を食う、 という(広辞苑)。日本では、その本体は、 此れは狐を云ふ、曼荼羅の中では、夜叉と云ふもの也、業通自在にして、速疾身を自由にせり、我が朝の飯綱(いづな)の神と云ふと同類なるべし、 と(真俗仏事編「陀羅尼」の注)、 狐の精、 とされ、白い狐がシンボルになっている、 稲荷大明神、 飯縄(いづな)権現、 と同一視する(広辞苑)。これは、「野干」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485021299.html)で触れたたように、日本の密教では、閻魔天の眷属の女鬼・荼枳尼(だきに)が、 野干の化身であると解釈され、平安時代以後、野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天となる。この日本独特の荼枳尼天の解釈はやがて豊饒や福徳をもたらすという利益の面や狐(野干)に乗っているという点から稲荷神と習合したり、天狗信仰と結び付いて飯綱権現や秋葉権現、狗賓などが誕生した、 ことによる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B9%B2)。因みに、「狗賓」(ぐひん)は、 天狗の一種。狼の姿をしており、犬の口を持つとされる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E8%B3%93)。 「夜叉」も、 梵語yakkhaの音写、 で、 インド古代から知られる半神半鬼。もとは光のように速い者、祀(まつ)られる者を意味し、神聖な超自然的存在とみられたらしい。しばしば悪鬼羅刹とも同一視される、 とあり(日本大百科全書)、 夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニーと呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E5%8F%89)。したがって、のちに仏教では、 クベーラ神(毘沙門天)の従者として、仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう)の一つに位置づけられた。人に恩恵を与える寛大さと殺害する凶暴さとをあわせもつ性格から、その信仰には強い祈願と慰撫の儀礼を伴う場合が多い、 とある(日本大百科全書)。 「荼」(慣用ダ・タ、漢音ト、呉音ド・ジャ)は、 会意兼形声。「艸+音符余(のびる、ゆるやかにする)」。からだのしこりをのばす薬効のある植物のこと。後一画を省いて茶と書き、荼(にがな)と区別するようになった、 とある(漢字源)。 「枳」(シ・キ)は、 会意兼形声。「木+音符只(シ 小さい)」。小さい実のなる木、 とあり(漢字源)、「からたち」の意である。 「尼」(漢音ジ・デイ、呉音ニ、ネイ)は、 会意。「尸(ひとのからだ)+比(ならぶ)の略体」で、人が相並び親しむさまを示す。もと人(ニン 親しみ合う)と同系。のち、「あま」の意に転用されたが、尼の原義は昵懇の昵の字に保存された、 とある(漢字源)。別に、 会意文字です(尸+匕)。「死んで手足を伸ばした人」の象形と「人」の象形から、「人が近づき親しむ」、「ちかづく」を意味する「尼」という漢字が成り立ちました。(また、梵語を漢訳した「比丘尼(びくに)」の略称、「あま」の意味も表します)、 とも解釈される(https://okjiten.jp/kanji1385.html)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) ここなる僧の臆病げなる、見たうもなさよ(太平記)、 の「見たうもなさ」は、 見たうもなし、 の名詞化で、 みっともないこと、 の意である。 「みたうもなし」は、 見たうも無し、 とも当てるが、 見たくもなしの音便形、 である。つまり、 心憂(こころう)や、みとうもなや(御伽・新蔵人物語)、 と、 見むことを欲せず、 という意味である。ここでは、既に、 (そのものを)見たくない、見る気がしない、 という、 主体の価値表現(感情表現)、 の意とともに、 我が身の年の寄りてみたうもない事をば、悲しむべき事とも知らずして(三体詩抄)、 と、 (そのものの)みにくさ、外聞の悪さ、 という、現代で使う、 みっともなさ、 のいう、 客体の価値表現、 の意をも含意している。 だから、 見たくもなし→みたうもなし→みとむなし→みともなし→みっともなし→みっともない、 と転訛していくうちに、 見たくない→それが見たくもないほど見苦しい→外聞が悪い、見苦しい、 と意味がシフトしていく。「みともなし」では、まだ、 取りて突退け、見ともない、おかっしゃれ(近松「生玉心中」)、 と、 見たくもない、 意と、 どうやら犬の様で、見ともない、どりゃ放して取らせふ(近松・国姓爺合戦)、 と、 外聞悪し、人目を恥ずべし、 の意とが併用されているが、「みっともなし」となると、 みっともないまねはよせ、 というように、 見るにたえない、 外聞が悪い、 という対象の価値表現へと完全にシフトしてしまっている。 「みっともない」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163583.html)で触れたように、 中世の「見たくもなし」が、「見たうもない」「見とむない」などを経て、近世後期に「みとむない」「みっともない」となった(日本語源大辞典)、 ものだが、現代だと、 みっともいいものではない、 みっともよくない、 という言い方が生まれている(仝上)。これなどは、完全に対象の価値表現となっている。 「見」(漢音呉音ケン、呉音ゲン)は、 会意。「目+人」で、目立つものを人が目にとめること。また、目立って見える意から、現れるの意ともなる、 とある(漢字源)。別に、 会意。目(め)と、儿(じん ひと)とから成る。人が目を大きくみひらいているさまにより、ものを明らかに「みる」意を表す(角川新字源)、 会意(又は、象形)。上部は「目」、下部は「人」を表わし、人が目にとめることを意味する(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A6%8B)、 会意文字です(目+儿)。「人の目・人」の象形から成り立っています。「大きな目の人」を意味する文字から、「見」という漢字が成り立ちました。ものをはっきり「見る」という意味を持ちます(https://okjiten.jp/kanji11.html)、 など、同じ趣旨乍ら、微妙に異なっているが、目と人の会意文字であることは変わらない。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 上将(静尊(せいそん)法親王)は鳩嶺(男山)に軍(いくさ)し、下臣(足利高氏)は篠村に陣す。共に瑞籬(みずがき)の影に在り、同じく擁護(おうご)の懐を出づ。函蓋(かんがい)相応せり(太平記)、 あるいは、 霊仏の威光、上人の陰徳、函蓋(かんかい)ともに相応して、奇特なりける事どもなり(太平記)、 と、 函蓋(かんがい)ともに相応す、 函蓋(かんがい)相応す、 は、 函蓋相応ず、 函蓋相応、 函蓋、 などともいい、 箱と蓋、 の意だが、 二者が相応ずるのに喩えて言う、 語で、 物事がよく合致する、 のにいう(広辞苑)とある。仏教で、 「機」と「法」とが相応する、 意であり、 境智冥合(きょうちみょうごう)すること、 あるいは、 仏の説いた法が衆生の機根にあっていること、 など、 二物が能く相和するたとえ、 として用いられる。「境智冥合」とは、 境と智が融合した一体の境界をいいます。境とは所観の対象であり、主観に対する客観世界をいい、智とは境を観察する能観の智慧、すなわち認識する心の作用としての主観的世界をいいます、 とある(http://monnbutuji.la.coocan.jp/yougo/4/461a.html)。「機根」を見極めて法を説ける境地ということであろうか。「機根」は、「根機」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484995810.html)で触れたように、 根機、 とも、 機、 ともいい、 一般の人々に潜在的に存在し、仏教にふれて活動しはじめる一種の潜在的能力のこと、 の意であり(ブリタニカ国際大百科事典)、仏教においては、 弟子や衆生のこの機根を見極めて説法することが肝要で、非常に大事である、 とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A0%B9)、各種経典において、 利根(りこん) - 素直に仏の教えを受け入れ理解する人、 鈍根(どんこん) - 素直に仏の教えを受け入れず理解しにくい人、 などとも説かれている(仝上)。 阿弥陀仏は、すべての人を「逆謗(ぎゃくほう)」(五逆の罪を犯したもの これを「真実の機」)とみて、それを助けようと本願を建てられています。……「逆謗」とは絶対助からないものということです。それなのに私たちは、何とかしたら何とかなれると思っています。だから、本願と合わないのです。それが、金輪際助からない逆謗であった、と知らされた時、本願と相応します。蓋と身がピッタリあいます。ところが私たちは、何とかしたら何とかなれると自惚れているから、願に相応せず、いつまでたっても流転を重ねるのです。「相応」とは、蓋と身がピタッとあったことです。本願でいうなら、逆謗の機と、それを助ける本願の法がピタッと一致した時、 とある(https://xn--vuqrjl75e.com/44kyoki.html)のが、仏教でいう、 函蓋相応ず、 ということらしい。大智度論には、 不増不減是名相應譬如函蓋大小相稱雖般若波羅蜜滅諸觀法而智慧力故名爲無所不能無所不觀能如是知不墮二邊是爲與、 とある。 不増不減是名相應譬如函蓋、 である。 「函」(漢音カン、呉音ゴン)は、 象形。矢をはこの中に入れた姿を描いたもの、 とあり(漢字源)、ひいて「いれる」、また、「はこ」の意に用いる(角川新字源)。 「蓋」(慣用ガイ、漢音呉音カイ、コウ、ゴウ)は、 会意兼形声。盍(コウ)は「去+皿」の会意文字で、皿にふたをかぶせたさま、かぶせること。蓋は「艸+音符盍」で、むしろや草ぶきの屋根をかぶせること、 とあり(漢字源)、草のふた、ひいて「おおう」意を表す。「盍」の後にできた字。借りて、助字に用いる(角川新字源)、とある。別に、 会意兼形声文字です(艸+盍)。「並び生えた草」の象形と「覆いの象形と食物を盛る皿の象形」(「覆う」の意味)から、「草を編んで作った覆い」、「覆う」、「かぶせる」、「ふた」、「覆い」を意味する「蓋」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2099.html)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 后妃の徳違(たが)はば、四海の鎮まる期(ご)あるべからず。褒姒(ほうじ)周の代(よ)を乱り、西施呉國を傾(かたぶ)けし事、黈\耳に届かず、君、何ぞ思し召し知らざらん(太平記)、 とある、 黈\(トウコウ)、 とは、 天子の冠の両脇にたらして耳を塞ぐ綿玉、 をいい(兵藤裕己校注『太平記』)、 黄綿似て作りし耳ふさぎ、 とある(字源)。 「黈」(トウ)は、漢書・東方朔伝に、 黈\充耳、所以塞聴、 とあり、 みみだま、 みみふさぎ、 とあり(字源)、 黄色の\(わた)にて作りし珠を、冕(ベン)に懸けて両耳の旁に垂れ、妄りに聞くことを戒むるもの、 とある(仝上)。「冕(ベン)」は、 冠、 の意であり、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、 古黄帝初作冕、 とある(仝上)。 冕冠(ベンカン)、 ともいい、 東アジアの漢字文化圏諸国で皇帝、天皇、国王などが着用した冠、 を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0)。 「冕旒(ベンリュウ)」は、 冕(かんむり)の前後に垂れ下げる珠玉。天子の冕は十有二旒、諸侯は九、上大夫は七、下大夫は五旒、 とあり、清・康熙帝勅撰の、漢代『説文解字』以降の字書の集大成として編纂した『康熙字典』(1716年)には、 冕旒以絲縄貫玉、垂冕前後也、 とある(字源)。「\」(コウ)も、 わた、 新しいわた、 の意である。 黈\耳を塞がず、 は、 天子の耳に届かないはずはない、 の意となる(兵藤裕己校注『太平記』)。 東方朔・答客難に、 水至清則無魚(水至って清ければ則ち魚無し)、 人至察則無徒(人至って察なれば則ち徒(ト 仲間)無し)、 冕而前旒(冕(べん)して旒(りゅう)を前にするは)、 所以蔽明(明を蔽(おお)う所以なり)、 黈\充耳(黈\(とうこう)して耳を充(みた)すは)、 所以塞聰(聡を塞(ふさ)ぐ所以なり)、 明有所不見(明にして見ざる所有り)、 聰有所不聞(聡にして聞かざる所有り)、 擧大コ(大徳を挙げ)、 赦小過(小過を赦し)、 無求備於一人之義也(備(そな)わらんことを一人(いちにん)に求むる無きの義なり)、 とあり(https://kanbun.info/koji/mizukiyo.html)、 冕而前旒、 所以蔽明、 黈\充耳、 所以塞聰、 である。これは、例の、 水清ければ魚棲まず、 の出典でもある。 無求備於一人之(備(そな)わらんことを一人に求むること無かれ)、 は、『論語』微子篇に、 周公謂魯公曰(周公魯公に謂(い)いて曰わく)、 君子不施其親(君子は其の親(しん)を施(す)てず)、 不使大臣怨乎不以(大臣をして以(もち)いられざるを怨ま使(し)めず)、 故旧無大故(故旧(こきゅう)大故(たいこ)無ければ)、 則不棄也(則ち棄(す)てざるなり)、 無求備於一人(一人に備わらんことを求むるなかれ)、 とあり、 一人の人間に完全を求めてはならない、 意とされる(貝塚茂樹訳注『論語』)。万能な人間などいないのだから、一人の人間に完全無欠を要求してはいけないという含意であるが、 備わるを一人に求むるなかれ、 と訓ますこともある(故事ことわざの辞典)。同趣旨は、『書経』に、 居上克明(上に居りては克(よ)く明らかに)、 為下克忠(下(しも)と爲りては克(よ)く忠あり)、 與人不求備(人と與(とも)にするには備わらんことを求めず)、 檢身若不及(身を検(けん)するも及ばざるが若くす)、 とある(https://ats5396.xsrv.jp/5620/)。 参考文献; 簡野道明『字源』(角川書店) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫) 「劫」は、慣用的に、 ゴウ、 とも訓むが、 コウ(コフ)、 が正しい。 呉音、 である。 劫波(こうは)、 劫簸(こうは)、 ともいう(広辞苑)。 「劫」(慣用ゴウ、漢音キョウ、呉音コウ)は、 会意。「力+去(くぼむ、ひっこむ)」で、圧力を加えて相手をあとずさりさせること、 とある(漢字源)。「脅」と同義で、 おびやかす、 力で相手をおじけさせる、 意だが、異字体「刧」とは本来別字ながら、 俗に誤りて、通用す、 とある(字源)。「劫」の字は、 サンスクリット語のカルパ(kalpa)、 に、 劫波(劫簸)、 と、音写した(漢字源)ため、仏教用語として、 一世の称、 また、 極めて長い時間、 を意味する(仝上)。 その後、四所の菩薩、化(け)を助けて、十方より来たり、……その済度利生(さいどりしょう)の区(まちまち)なる徳、百千劫の間に、舌に暢(の)べて説くとも、尽くべからず(太平記)、 は、「長い時間」を強調している。「劫」は、 刹那の反対、 だが、単に、 時間、 または、 世、 の義でも使う(字源)。インドでは、 梵天の一日、 人間の四億三千二百万年、 を、 一劫(いちごう)、 という。ために、仏教では、その長さの喩えとして、 四十四里四方の大石が三年に一度布で拭かれ、摩滅してしまうまで、 方四十里の城にケシを満たして、百年に一度、一粒ずつとり去りケシはなくなっても終わらない長い時間、 などともいわれる(仝上・精選版日本国語大辞典)。『大智度論』には、 1辺4000里の岩を100年に1度布でなで、岩がすり減って完全になくなっても劫に満たない、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%AB)、 磐石劫、 と呼ぶ、とか。この故か、囲碁で、 お互いが交互に相手の石を取り、無限に続きうる形、 を、 コウ(劫)、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A6)。 なお、劫には小中大の大きさの段階があり、 上下四方40里の城いっぱいにけしを満たし、3年ごとに1粒ずつけしを取除いて、すっかりけしがなくなってしまう時間、 を、 芥子(けし)劫、 といい、 死して無間地獄に墜ちて、多劫の苦を受け終って、今、人中に生まる(太平記)、 に注記(兵藤裕己校注『太平記』)する、 四十里の城に芥子粒を満たし、百年に一粒ずつ取って一劫はなお終わらない(大智度論)、 とあるのは、これを指すものと思われるが、さらに、 上下四方40里の岩を、天女が天から3年ごとに下ってきて、羽衣でひと触れしているうちについにその岩がすりへってなくなってしまうまでの時間、 を、 磐石劫、 といい、この、 芥子劫、 磐石劫、 を、 小劫、 とし、 上下四方80里の城と岩にたとえる場合、 を、 中劫、 さらに120里にたとえる、 のを、 大劫、 とする場合がある(ブリタニカ国際大百科事典)。また、 三千大千世界を擦って墨汁とし、千の世界に一点だけ下していき、墨汁が尽きるまで下した国全部を粉微塵にし、その一塵を、 塵点劫、 といい、これを多く集めた、 三千塵点劫、 とか 五百塵点劫、 とかの語もある(世界宗教用語大事典)。 四劫(しこう)、 というと、 世界の成立から無にいたるまでの期間を4期に分類したもの、 をいい、 成劫(じょうごう) 山河、大地、草木などの自然界と生き物とが成立する期間。人間の寿命が8万4000歳のときから100年ごとに1歳ずつ減少していって寿命が10歳になるまでの期間を1減とし、10歳のときから100年ごとに1歳ずつ増加していって8万4000歳となるまでの期間を1増というが、この成劫では20増減(20小劫)があるという、 住劫(じゅうごう) 自然界と生き物とが安穏に持続していく期間。20増減がある、 壊劫(えこう) まず生き物が破壊消滅していき、次に自然界が破壊されていく期間。20増減がある、 空劫(くうごう) 破壊しつくされて何もなくなってしまった時期。20増減がある、 とされる(ブリタニカ国際大百科事典・広辞苑・精選版日本国語大辞典)。また、この、 成(じょう)、 住、 壊(え)、 空、 の四劫は、循環するとも説かれる(精選版日本国語大辞典)。 天地すでに分かれて後、第九の減劫(げんこう)、人寿(にんじゅ)二万歳の時、迦葉(かしょう)世尊西天に出世し給ふ時(太平記)、 の、「第九の減劫」とは、 人間の寿命が百年毎に一歳減って八万歳から十歳になるまでを減劫、逆に十歳から八万歳になるまでを増劫という。それ十回ずつ繰り返される間この世が存続する、この九回目で、人の寿命が二万歳だった頃、 と注記(兵藤裕己校注『太平記』)されるのは、上記に基づく。 「劫」の字源については、 会意兼形声文字です(去(盍の省略形)+力)。「物をのせた皿にふたをした象形」(「覆う」の意味)と「力強い腕の象形」(「力」の意味)から、「力で相手をおしふせる」、「おどす」を意味する「劫」という漢字が 成り立ちました、 との説明もある(https://okjiten.jp/kanji2375.html)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 今は残雪半ば村消(むらぎ)えて、疋馬(ひつば)地を踏むに、蹄を労せざる時分によくなりぬ(太平記)、 の、 村消ゆ、 は、 斑消ゆ、 叢消ゆ、 群消ゆ、 とも当て(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、 (雪などが)あちこちとまばらに消えている、 一方は消え、一方は残る、 意である(広辞苑・岩波古語辞典)。名詞として、 若菜摘む袖とぞ見ゆる春日野の飛火(とぶひ)の野べの雪のむらぎえ(新古今和歌集)、 薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむらぎえ(仝上)、 こりつみてまきのすみやくけをぬるみ大原山の雪のむらぎえ(後拾遺・和泉式部)、 などと、 まだらに消え残る、 意でも使う。 「すそご」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484482055.html)で触れた、縅(おどし)や染色に、 同じ色で、所々に濃い所と薄い所のあるもの、 を、 村濃(むらご)、 というが、これも、 斑濃、 叢濃、 とも当て、紫色を、 紫村濃、 紺色を、 紺村濃、 といい、 むら(斑)、 の意、 ここかしこに叢(むら)をなすこと(大言海)、 つまり、 色の濃淡、物の厚薄などがあって、不揃い、 の意である(広辞苑)。「むら」は、 叢、 羣(群)、 と当てるが、 当て字に多く村と記す、羣(むれ)の転、 とある(大言海)。 俄に激しく降ってくる雨に、 村雨、 は、 叢雨(岩波古語辞典)、 群雨(大言海)、 の意であり、 ときどきさっと強く降って通り過ぎる雨を、 村時雨、 というのも、 叢時雨、 の意であり(岩波古語辞典)、 叢時雨、 群時雨、 とも当てる。 斑霧(むらぎり)、 は、 まばらに立つ霧、 であり、 村重藤(むらしげとう)、 とは、 重藤弓を斑(むら)に巻いたもの、 を指す(広辞苑)。 「村」(ソン)は、 会意兼形声。寸は、手の指をしばしおし当てること。村は「木+音符寸」で、人々がしばし腰を落ち着けた木のある所をあらわす、 とある(漢字源)が、 会意兼形声文字です(木+寸)。「大地を覆う木」の象形(「木」の意味)と「右手の手首に親指をあて、脈を測(はか)る事を示す文字」(脈を「測る」の意味だが、ここでは、「人」の意味)から、木材・人が多く集まる「むら」を意味する「村」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji173.html)。 ただ、「村」の異字体は、 邨、 で、 形声。意符邑(ゆう むら)と、音符屯(トン)→(ソン)とから成る。人が集まり住む「むら」の意を表す。村は形声で、木と、音符寸(ソン)とから成り、もと、木の名を表したが、のち、邨の意に用いる、 とある(角川新字源)ので、 形声。「木」+音符「寸」。「邨」に同音の文字を当て、「むら」の意を仮借、 ということのようである(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%91)。当然、「村」には、「斑(むら)」の意はない。 「斑」(漢音ハン、呉音ヘン)は、 会意。二つの王は、玉を二つにわけたさま。斑はそれと文を合わせた字で、分かれて散らばる意を含む、 とある(漢字源)が、 形声。文と、音符辡(ハン・ベン 玨は変わった形)とから成る。まだらもようの意を表す、 とも(角川新字源)、 会意文字です(辡+文)。「入れ墨をする為の針」の象形×2と「人の胸を開いて、入れ墨の模様を書く」象形から、模様に分かれ目がある事を意味し、そこから、「まだら」を意味する「斑」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2120.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「隔生則忘」(きゃくしょうそくもう)は、 隔生即忘、 とも当てる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 そも隔生則忘とて、生死道隔てぬれば、昇沈苦楽悉くに忘れ(源平盛衰記)、 隔生則忘とは申しながら、また一年五百生(しょう)、懸念無量劫の業なれば、奈利(泥犂(ないり) 地獄)八万の底までも、同じ思ひの炎にや沈みぬらんとあわれなり(太平記)、 なと、 普通一般の人は、この世に生まれ変わる時は、前世のことを忘れ去る、 という仏教用語である(仝上)。 「隔生」とは、 「きゃく」は「隔」の呉音、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 法門の愛楽隔生にも忘るべからざる歟(「雑談集(1305)」)、 二世の契をたがへず、夫の隔生(ギャクシャウ)を待つと見へたり(浮世草子「当世乙女織(1706)」)、 などと、 生(しょう)を隔てて生まれかわること の意の仏語である(仝上)。 「隔」(漢音カク、呉音キャク)は、 会意文字。鬲(レキ)は、中国独特の土器を描いた象形文字で、間を仕切って隔てる意を含む。隔は「阜(壁や土盛り)+鬲」で、壁や塀で仕切ることを示す。鬲にはカクの音もあるので、隔の字においては鬲が音符の役割を果たすと見てもよい。そのさいは、「阜+音符鬲」の会意兼形声文字、 とある(漢字源)。ただ、 形声。阜と、音符(レキ、カク 鬲は変わった形)とから成る。わけへだてるものの意を表す、 と、形成と見るのもある(角川新字源)が、 会意兼形声文字です(阝+鬲)。「はしご」の象形と「脚が高く、地上からへだてる鼎(かなえ。古代中国の金属製の器)」の象形から、「へだてる」を意味する「隔」という漢字が成り立ちました、 と、会意兼形声とみるものもある(https://okjiten.jp/kanji1486.html)。 「へだてる」意の漢字には、いくつかあり、 隔は、中に仕切りをいれるなり、史記「防隔内外」、 障は、隔也。界也。ささへ、へだつる義、禮、月令「毋有障塞」、 阻は、山川道路のへだてるに用ふ。詩、秦風「道阻且長」、又、へだて止むる義にも用ふ。阻諫の如し、 閧ヘ、すきまをこしらへる義。左伝「遠關e、新阨ア」。また間をへだておく義にも用ふ。闕ホは、一年間を置く意、 とある(字源)。生死の堺の意では、「隔」の字以外にはなさそうである。 「隔生則忘」は、生まれ変わり、つまり、 輪廻転生、 が前提になっている。輪廻転生とは、 六道(ろくどう/りくどう)、 と呼ばれる六つの世界を、 生まれ変わりながら何度も行き来するもの、 と考えられている(https://www.famille-kazokusou.com/magazine/manner/325)。六道は、 地獄(罪を償わせるための世界。地下の世界)、 餓鬼(餓鬼の世界。腹が膨れた姿の鬼になる)、 畜生(鳥・獣・虫など畜生の世界。種類は約34億種[9]で、苦しみを受けて死ぬ)、 修羅(阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界)、 人間(人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる)、 天上(天人が住まう世界)、 の六つ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93)。で、 六道輪廻、 ともいう。大乗仏教が成立すると、六道に、 声聞(仏陀の教えを聞く者の意で、仏の教えを聞いてさとる者や、教えを聞く修行僧、すなわち仏弟子を指す)、 縁覚(仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者を指す)、 菩薩(一般的には菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)を意味する)、 仏(「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味する)、 を加え、六道と併せて十界を立てるようになった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB)、とある。この転生について、仏教の正統的立場は、 この六道に輪廻し転生する生命のあり方を、肯定するのではない。反対に、克服すべき“迷い”の中にある命とみた。地獄は苦痛にみちた無残な世界であり、天上界は幸福にみちた境界であるけれども、その天上界は救いの実現した“浄土”でもなく、善悪の行為に縛られた輪廻転生を超えた“涅槃”の世界でもない。 仏教は生死を解脱する道をこそ求める。はてしない輪廻を肯定し、転生を求めるのではない。輪廻し転生する生命のあり方を、無残な迷いと観るのである。そして輪廻の束縛からの解放を“解脱”として求め、輪廻し転生する生命、すなわち “生死する命”の超越を、“涅槃”として求め続けるのである、 とある(https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000pth.html)。しかし、前世を忘れるとすると、その生命のあり方は、その都度リセットされるのではないか。とすれば、何の意味があるのだろう。 すべての前世の記憶を取り戻す方法が1つだけあります、 という(http://hounokura.houzouin.net/?eid=74)。それは、 極楽浄土に生まれることです。南無阿弥陀佛とお念仏をお称えし、阿弥陀さまのお力によって、極楽浄土にお救い頂くと、宿命通(しゅくみょうつう)という力がそなわります。この力によって、すべての前世の記憶が明らかになります。しかし、極楽浄土以外の世界に生まれ変わると、再びすべてを忘れてしまいます。 と(仝上)、信仰以外ない、という結論になるのだが、ぼくには、 仏教における輪廻とは、 単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので、意識が断絶することはない。また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない、 との説明(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB)が気になる。 自我とはそこから生じる錯覚にすぎない、 となるらしいのだが。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 神非礼を享給はずと申に、此大納言非分の大将を祈申されければにや、かかるふしぎもいできにけり(平家物語)、 神非礼を受けず、正直の頭(こうべ)に宿らんことを期(ご)す(太平記)、 神非礼を享け給はざりけるにや、所願空しくして、討死せんとしけるが(太平記)、 などとある、 「神非礼を受けず」とは、 神は礼にそむく祈りはうけない、 意で、 「世俗諺文(せぞくげんぶん)」(1007年、成句ことわざを集めその典拠を示した熟語辞書)、「管蠡抄(かんれいしょう)」(室町末期、格言集)など多くの和製類書の名句名言集にひかれる諺。つづく、「正直の頭にに宿らん……」も、上句と対で中世に広く行われた、 と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。典拠は、後漢末期から三国時代の魏の儒学者・何晏(かあん)編の『論語』の注釈書、 論語集解(ろんごしっかい)、 にある八佾(はちいつ)篇の包咸(ほうかん 後漢)の注記による(仝上)、とある。該当するのは、 季氏旅於泰山、子謂冉有曰、汝不能救與、對曰、不能、子曰、嗚呼、曾謂泰山不如林放乎、 季氏(きし)泰山に旅(りょ)す。子冉有(ぜんゆう)に謂いて曰く、汝救(と)むる能(あた)わざるかと。對(こた)えて曰く、能わず。子曰く、嗚呼、曾(すなわ)ち泰山は林放(りんぽう)にすら如(し)かずと謂(おも)えるか、 である。 林放(りんぽう)にすら如(し)かず、 といわれているのは、同篇で、 林放問禮之本、子曰、大哉問、禮、與其奢也寧儉、喪與其易也、寧戚。 林放(りんぽう)、禮の本を問う。子曰く、大いなるかな問いや。禮は其の奢(おご)らんよりは寧ろ儉(つつまや)かにせよ、喪(も)は其の易(おろそ)かならんよりは寧ろ戚(いたま)しくせよ。 と、林放が問うているのに比べて、 泰山は林放(りんぽう)にすら如(し)かずと謂(おも)えるか、 つまり、 大山の神が礼に無理解だと思うか、 といっているのである。貝塚注には、 「泰山は、……魯国内の名山であるばかりでなく、西周の時代は天下第一の名山であった。周の盛時、天子が中国を完全に支配していたころは、使いを出し、諸侯をひきいて祭祀をささげた。孔子が魯国に帰った前484年前後のあるとき、李氏の当主李康子が、突如として泰山で大祭を挙行した。天下一の名山としての泰山に対する周王朝の祭は廃絶していたが、この祭祀がもし行われるとしたら、魯国の名山として、魯の哀公がこれを主宰すべきである。李氏がこれをみずから執行したのは、魯公にかわって、君主の地位につこうとする野望をひめていると孔子は見破ったので、弟子で李氏の宰、つまり家臣の上役であった冉有を召して、はげしく責任を追及したのである。そして、大山の山神が、こんな非礼の祭祀を嘉納するはずがないと、皮肉な口調で鋭く問責したのである。」 とある(貝塚茂樹訳注『論語』)。 神非礼を受けず、 とは、この章に対する、包咸の注記である。 これで思い出すのは、子路篇の、孔子の言葉、 名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則禮樂不興、禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足、故君子名之必可言也、言之必可行也、君子於其言、無所苟而已矣 名正しからざれば則(すなわ)ち言順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽(れいがく)興(おこ)らず、礼楽興らざれば則ち刑罰(けいばつ)中(あた)らず、刑罰中らざれば則ち民手足を措(お)く所なし。故に君子はこれに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子、其の言に於て、苟(いやしく)もする所なきのみ。 である。これは、 子路曰、衞君待子而爲政、子將奚先、子曰、必也正名乎、子路曰、有是哉、子之迂也、奚其正、子曰、野哉由也、君子於其所不知、蓋闕如也、 子路曰わく、衛(えい)の君、子を待ちて政(まつりごと)を為さば、子将に奚(なに)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さんか。子路が曰わく、是有るかな、子の迂(う)なるや。奚(なん)ぞ其れ正さん。子曰わく、野(や)なるかな、由(ゆう)や。君子は其の知らざる所に於ては、蓋闕如(かつけつじょ 知らないことを黙っていわないさま)たり。 と、子路に対して、「名」つまりことばと「実」つまり実在とが一致しなくてはならない、といったものだ。 『論語』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479597595.html)で触れたように、貝塚氏は、 子路と孔子とのこの対話は、いつ行なわれたか。ここに出てくる衛君が誰をさしているかが問題である。前497年、孔子は魯国を逃げて衛国に亡命した。前493年に衛の霊公が死ぬと、夫人南子(なんし)が公の遺命によるとして、公子郢(えい)を立てようとしたが承諾しない。ついに南子に反対して亡命していた後の荘公蒯聵(かいがい)の子で、霊公の孫にあたる出公(しゅつこう)輒(ちょう)を即位させた。蒯聵は大国の晋の後援を得て要地の戚(せき)の城に潜入し、ここを根拠地として内乱をおこした。……この衛の君は衛の出公をさしている。これにたいして孔子の立場は、荘公蒯聵は亡父霊公から追放されてはいるが、父子の縁はきれていないし、また太子の地位は失っていないから、出公は父である蒯聵に位を譲らねばならないと考えた。「名を正さん」とはこのことをさしている。子路はそんなことを出公が承知するはずはないから、孔子の言は理論としては正しいが、現実的ではないと非難したのである。孔子はしかし、自分の「名を正す」という立場が絶対に正しいことを確信して、子路を説得しようとした。「名」つまりことばと、「実」つまり実在とが一致せねばならないという「名実論」は、これ以後中国の知識論の基本となっている。「名」つまり単語の意味が明確でないと、「言」つまり文章の意味が不明になるという中国の文法論の基礎となり、また論理学の基本となった、 と解説する。孔子が「名実論」をはっきり意識していたかどうかについては「若干疑いがある」にしても、弟子たちにより、「名実論」「大義名分論」の立場で解釈された(貝塚茂樹訳注『論語』)。 因みに、『史記』「孔子世家」と「衛康叔世家」によれば、蒯聵が(姉の子、甥の)孔悝(こうかい)を脅してクーデターを起こした折、子路は、衛の重臣の領地の宰(管理者)をしていた(井波律子『論語入門』)が、 反乱を諫め、「太子には勇気がない。この高殿を放火すれば、太子はきっと孔悝を放逐されるだろう」と言い放ったために、激怒した蒯聵の家臣の石乞と于黶が投げた戈で落命した、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%B7%AF)。死の直前、冠の紐を切られた彼は、 君子は死すとも冠を免(ぬ)がず、 と、紐を結び直して絶命した、という。子路の遺体は「醢(かい、ししびしお)」にされた(死体を塩漬けにして、長期間晒しものにする刑罰)。これを聞いた孔子は、 嗟乎(ああ)、由(ゆう、姓は仲、名は由、字子路)や死せり、 と悲しみ(井波・前掲書)、家にあったすべての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたと伝えられる(仝上)。 「神」(漢音シン、呉音ジン)は、 会意兼形声。申は、稲妻の伸びる姿を描いた象形文字で、神は「示(祭壇)+音符申」で、いなづまのように、不可知な自然力のこと。のち、不思議な力や、目に見えぬ心の働きをもいう、 とあり(漢字源)、 日・月・風・雨・雷など、自然界の不思議な力をもつもの、 をさし、 天のかみ、 の意で、 「地のかみ」である「祇(ギ)」、 「人のたましい」である「鬼(キ)」、 に対する言葉で(仝上)、 広くすべての神の総称、 でもある(字源)が、和語の「かみ」、 祖先のかみ、 天照大神、 の「かみ」とはずいぶん含意を異にする。なお、和語「カミ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/436635355.html)については触れた。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 井波律子『論語入門』(岩波新書) 正成、元来(もとより)摩醯修羅(まけいしゅら)の所変(この世のものに姿を変える)にておはせしかば、今帰って欲界の六天に御座ありと云ふ(太平記)、 の、 摩醯修羅(まけいしゅら)、 とあるは当て字で、本来は、 摩醯首羅(まけいしゅら)、 と当てる(兵藤裕己校注『太平記』)。 宇宙(大三千界)を司る神、 であり、 大自在天(だいじざいてん)、 ともいい、 その像は、三目八臂(さんもくはっぴ)で、冠をいただき、白牛にまたがる、 とされる(仝上)が、 今帰って欲界の六天に御座ありと云ふ、 とあるように、しばしば、悪神の、 阿修羅、 第六天魔王、 と、混同・同一視される、とある(仝上)。阿修羅は、 古代インドの神の一族、インドラ神(帝釈天)など天上の神々に戦いを挑む悪神とされる。仏教では、天竜八部衆(天竜八部衆(天(天部)、竜(竜神・竜王)、夜叉(やしゃ 勇健暴悪で空中を飛行する)、乾闥婆(けんだつば 香(こう)を食い、音楽を奏す)、阿修羅、迦楼羅(かるら 金翅鳥で竜を食う)、緊那羅(きんなら 角のある歌神)など仏教を守護する異形の神々)とされる一方、六道(輪廻において、衆生(しゅじょう)がその業(ごう)に従って死後に赴くべき、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の六つの世界)のひとつとして、人間以下の存在とされる。絶えず、闘争を好み、地下や海底に住む、 といい、 アスラ、 修羅、 非天、 無酒神、 ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。第六天魔王は、 欲望が支配する欲界(三界(欲界・色界(しきかい)・無色界の三種の迷いの世界)のひとつ。色欲・食欲など本能的な欲望の世界)に属する六種(四王天・忉利(とうり)天・夜摩(やま)天・兜率(とそつ)天・楽変化(らくへんげ)天・他化自在(たけじざい)天)の天のうち、第六の他化自在(たけじざい)天、 にすみ、 第六天魔王波旬(はじゅん)、 天魔、 天子魔(てんしま)、 他化自在天(たけじざいてん)、 ともいい、 仏道修行を妨げる悪魔、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%AD%94)。あきらかに、 摩醯修羅(まけいしゅら)の所変(この世のものに姿を変える)にておはせしかば、今帰って欲界の六天に御座ありと云ふ(太平記)、 では、 摩醯首羅 と 第六天魔王 を同一視している。 「摩醯首羅」は、 大自在天、 のほか、 摩醯首羅王、 摩醯首羅天、 摩醯首羅天王。 ともいい、 異名は千以上あるといわれる、 ヒンドゥー教の、世界を創造し支配する最高神シヴァの別名、イーシュヴァラで、万物創造の最高神、 とされ(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%87%AA%E5%9C%A8%E5%A4%A9)、 色究竟天(しきくきょうてん、しきくぎょうてん)、 に在す、とある(仝上)。「色究竟天」は、 阿迦尼吒天(あかにだてん)、 ともいい、 三界(無色界・色界・欲界の3つの世界)のうち、色界色界の最上位に位置する、 とされる(仝上)。『法華経』序品では、 無色界の最上位である非想非非想天ではなく、この色究竟天が有頂天であると位置づけられている、 ともある(仝上)ので、 天上界における最高の天、 とも見られる。ちなみに、「非想非非想天」(ひそうひひそうてん)とは、 三界の中で最上の場所である無色界の最高天、 をいい、 非想非非想天、 が、全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことから、 有頂天(うちょうてん)、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A0%82%E5%A4%A9)。 もっとも、上記の意味から、「有頂天」には、 色界(しきかい)の中で最も高い天である色究竟天(しきくきょうてん)、 とも、 色界の上にある無色界の中で、最上天である非想非非想天(ひそうひひそうてん) の二説がある(広辞苑)。 「夜郎自大(やろうじだい)」は、 (野郎の王が漢の広大なことを知らず、自らを強大と思って漢の使者と接したことから)自分の力量を知らないで、幅を利かすたとえ、 として言われる(広辞苑)。 野郎大、 とも言うが、類義語に、 「井底之蛙」(せいていのあ 「井の中の蛙大海を知らず」の意)、 「井蛙之見」(せいあのけん 同上)、 「尺沢之鯢」(せきたくのげい 経験が少なく、知識が狭いこと。「尺沢」は小さな池。「鯢」は山椒魚。小さな池に住む山椒魚は、その池の中のことしか知らないということから)、 「遼東之豕」(りょうとうのいのこ 世間を知らず、経験や知識が少ないために、取るに足りないことで得意になること。「遼東」は中国にある遼河という河の東の地方。「豕」は豚。遼東の農家に頭の白い豚が生まれ、農民は特別なものだと思い天子に献上しようとしたが、道中で見かけた豚の群れは皆頭が白く、他の地方ではごく普通のことと知り、自身の無知を恥じて帰ったという故事から)、 「夏虫疑氷」(かちゅうぎひょう 夏虫氷を疑う。夏の季節しか生きることのできない虫は、冬に氷があるということを信じないということから。「夏虫疑冰」とも)、 等々があり(故事ことわざの辞典・https://yoji.jitenon.jp/yojih/3622.html)、似た言い回しに、「管見」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484894383.html)で触れたことと重なるが、謙遜の意で使うことが多い、 「用管窺天」(ようかんきてん 細い管に目を当てて天を窺い見るということから、視野が狭くて見識が足りない意味)、 「管窺蠡測」(かんきれいそく 管もて窺い蠡もて測る。見識が非常に狭いこと。または、狭い見識で物事の全体を判断すること。「管窺」は管を通して空を見ること。「蠡測」はほら貝の貝殻(「ひさご」とも)で海の水の量を量ること)、 「区聞陬見」(くぶんすうけん 学問や知識の幅が狭くて偏っていること。「区」は細かい、小さいという意味。「陬」は偏っていること)、 「甕裡醯鶏」(おうりけいけい 見識が狭く世間の事情がわからない人のたとえ。「甕裡」は甕(かめ)の中、「醯鶏」は酢や酒にわく小さな羽虫。孔子が老子に面会した後に弟子に向かって「私は甕にわく羽虫のようなものだ。老子が甕の蓋を開いて外に出してくれたおかげで、天地の大全を知ることができた」といった故事による)、 「管中窺豹」(かんちゅうきひょう 管中より豹を窺う。見識が非常に狭いことのたとえ。管を通して動物の豹を見ても、一つの斑文しか見ることが出来ず、全体はわからないという意味)、 「全豹一斑」(ぜんぴょういっぱん 物事のわずかな部分だけを見て、物事の全体を推測したり、批評したりすること。狭い管を覗いて、中から見えた一つの豹の斑文を見て、豹の全体を推測するという意味。中国の晋の王献之が幼い時に、学生たちが博打のようなもので遊んでいるのを見て、とある学生の負けを予想すると、一部分だけを見て狭い見識で全体を判断していると言い返されたという故事から)、 等々もある(仝上)。 唯我独尊、 は、 釈迦が生まれた時に七歩歩いて、 天上天下唯我独尊、 と唱えたとの故事によるが、 自分だけがすぐれているとうぬぼれる、 意でも使う。その他、 「野狐禅」(やこぜん 生禅(なまぜん) 禅の修行者が、まだ悟りきっていないのに悟ったかのようにうぬぼれること。転じて、物事を生かじりして、知ったような顔でうぬぼれること)、 「雪駄の土用干し」(雪駄を干すと反り返るところから、反っくり返り、いばって大道を歩き回る者をあざけっていう)、 「増上慢」(未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること)、 「道を聞くこと百にして己に若く者莫(な)しと為す」(道をわずか百ばかり聞いただけで、天下に自分以上の者はないと思い上がる)、 等々もある(仝上)。 「夜郎自大」の出典は、『史記』西南夷伝に、 西南夷君長、以什数、野郎最大。……滇(てん)王与漢使者言曰、漢孰与我大。及野郎候亦然。以道不通。故各自以為一州主、不知漢広大、 とあるのによる。これによると、西南夷(せいなんい)の一つ、 南越国に隣接する、 とされる(四字熟語を知る辞典)、 雲南省東部の滇池(てんち)周辺にあった滇人による西南夷の国、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%87)、 滇王、 も、 漢孰与我大(漢は我が大と孰与(いずれ)ぞ)、 と問うていて、 野郎候亦然(野郎候も亦然り)、 と言っているとあるのに、 滇(てん)、 は故事に残らず、 最大、 とされた、 野郎、 が、後世まで汚名を蒙ることになったようだ。「野郎」国は、 夜郎(やろう)、 とも呼ばれ、 前漢末期まで存在した小国(前523〜27年)、 とされ、 夜郎の中心地は現在の貴州省赫章県の可楽イ族ミャオ族郷であった。可楽遺址からは多くの夜郎時代の遺跡・遺物が発掘されている、 とあり、 興將數千人往至亭、從邑君數十人入見立。立數責、因斷頭(漢書・西南夷伝)、 と、 前漢末期に漢の牂牁(そうか 現在の貴州省や雲南省にまたがる地域に設置された郡)太守陳立に夜郎王の興が斬首され、 紀元前27年前後に滅亡したと考えられている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E9%83%8E)、とある。 夜郎は当時の西南地区における最大の国家であり、(漢の武帝は南越国を征服しようとしていたので)南越国を牽制する目的で唐蒙を使節として派遣、現地に郡県を設置し、夜郎王族を県令に任じることとした、 とある(仝上)。その漢の使者と面会した夜郎王が「漢孰與我大」と尋ねたことになる。 漢による郡県の設置は南越国滅亡後にようやく実施され、夜郎による漢への入朝も行われ、武帝は夜郎王に封じている、 とある(仝上)。しかし、前27年、夜郎王興が反漢の挙兵を起こし、漢軍に撃破され興は斬首され、その直後に滅亡したことになる。滅亡後は郡県が設置され、宋代に至るまでしばしば夜郎県の名称が登場している(仝上)、とある。 この「夜郎自大」と真逆なのが、 況や、粟散国の主としてこの大内(だいだい)を造られたる事、その徳に相応すべからず(太平記)、 と使う、 粟散、 粟散辺地、 粟散辺土、 粟散国、 粟散辺州、 という言い回しである。「粟散」(ぞくさん)は、 粟粒を散らしたように細かく散ること、 の意であり(広辞苑)、「粟散辺地」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433174213.html)で触れたことと重なるが、「粟散国」は、 粟散卽小國小主散天下、如粟多(楞厳(りょうごん)経會解)、 とあるように、 粟粒を散らしたような小さい国、 という意味で、インドや中国のような大国に対して、日本のことを、へりくだって言った。「粟散辺土」は、 粟散は粟散国(粟のように散在する小国)のこと。「辺地」は最果ての地。特に日本人自身が、日本のことを中国やインドと対照させて、このように表現するときがある、 とある(伊藤聡『神道とはなにか』)。 粟散辺地という言い方は、仏法との絡みで、意識されたようだ。 空間的にも時間的にも仏法より疎外された国、 という意識を、 粟散辺土、 という言葉に表現した自己意識である。この言葉によって見えている世界は、 「仁王経」などによれば、我らの住む南閻浮提(なんえんぶだい 須弥山を取り巻く四大陸のひとつ)は五天竺を中心に、十六の大国、五百の中国、一千の小国、さらにその周囲には無数の「粟散国」があるという。「粟散国」とは粟のごとく散らばった取るに足らぬ国という意味で、日本はそのような辺境群小国のひとつ、 という意識である。事実文明発祥のインド、中国の巨大な影響下にあった、周辺国の一つであることは確かだ。中国由来でないものを探すのは、文字一つとっても、箸ひとつとっても、漆ひとつとっても、至難といっていい。そういう冷静な自己意識であった時代が、我が国では、長かったといっていい。 粟散、 の初見は『聖徳太子伝略(延暦十七年(917))』らしく、以後こういう言い方が定着し、 この国は粟散辺地とて、心うきさかひにてさぶらへば、極楽浄土とて、めでたき処へ具しまゐらせさぶらふとぞ(平家物語)、 と表現される。それと前後して、中国を大国として、 小国辺土、 とも言ったようだ。少なくとも、今日のように、 自己肥大、 した、 夜郎自大、 な風潮よりははるかにましである。 なお、和語「野郎」については、「野郎」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/431378141.html)、「二才野郎」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/434393648.html)で触れた。 参考文献; 伊藤聡『神道とはなにか』(中公新書) 素引きの精兵、畠水練の言(ことば)に、怖(お)づる人はあらじ(太平記)、 とある、 素引(すび)きの精兵(せいびょう)、 の、「素引き」とは、 矢をつがえずに、弓の強さをためすために弦だけ引き試みること、 で、「素引きの精兵」とは、 素引きだけは(弓の使い手のように)強そうに見えるが、実戦の役に立たない兵(兵藤裕己校注『太平記』・広辞苑)、 あるいは、 理論だけは詳しいが実戦には役に立たないものをあざけって言う(故事ことわざの辞典)、 あるいは、 敵なきに、矢を射ること(大言海)、 などの意で使う。 素引きの精兵、畠水練、 と並ぶ、「畠水練」も同義で、 畑で水練したような、実戦経験のない兵、 の意で(仝上)、 畳の上の水練、 ともいう。似た言い回しに。 砂上の楼閣、 机上の空論、 座上の空論、 絵に描いた餅、 等々がある。「素引き」は、 その後(のち)、百(もも)矢二腰(こし 百本の矢を入れた箙(えびら)をふたつ)取寄て、張替(が)への弓の寸引(すびき)して(太平記)、 と、 寸引き、 あるいは、 白引き、 とも当てる(岩波古語辞典)。「素引き」の意味は、文字通り、 弓に矢をつがえないで弦だけを引く、 意で(故事ことわざの辞典)、 虚控、 空張、 ともいう(武経開宗)らしい(大言海)が、意味に変遷がある。本来は、 安達の野辺の白檀弓(しらまゆみ)、押し張り素引き肩に懸け(義経物語)、 と、 弓弦(ゆづる)を引いて、張り具合を調べる、 意であるが、そこから、 ヒトノココロヲスビイテミル(日葡辞書)、 と、 試す、 試みる、 とか、 かかは彼の銀を取って素引いて見(浮世草子・好色貝合)、 と、 指先で調べる、 意に広がり(岩波古語辞典)、 箱王竹刀素引(スビキ)して(浄瑠璃・伊豆院宣源氏鏡)、 と、 太刀、竹刀(しない)などを振ること、 素振りすること、 の意でも使い(精選版日本国語大辞典)、さらには、 スヂガスビク(日葡辞書)、 と、 筋がひきつる、 意にまで広がり(岩波古語辞典)、 用意の早縄すびきしてずっと寄るを寄付ぬ(浄瑠璃・源平布引滝)、 と、 縄などをしごく、 意でも使う(精選版日本国語大辞典)に至る。 「素」(漢音ソ、呉音ス)は、 会意。「垂(スイ たれる)の略体+糸」で、一筋ずつ離れてたれた原糸、 とあり(漢字源)、「人工を加える前のもと」「生地のまま」の意で、 素以為絢兮(素以て絢(あや)となす)、 と(論語)、生地のままの「白い」(布)の意でもある(仝上)。別に、 会意。古体は「𦃃」。上部は垂の略で、撚り合わせる前の糸を意味する。疏、索と同系、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%A0)、 形声。糸と、音符𠂹(スイ、サ)→(ソ 変わった形)とから成る。繭から取り出したばかりの生糸、転じて、かざりけがない、「しろい」意を表す、 とか(角川新字源)、 形声文字です(糸+昔の省略形)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と「積み重ねた肉片と太陽の象形」(太陽にほした鳥獣の肉の意味だが、ここでは、「初」に通じ(「初」と同じ意味を持つようになって)、「初め」の意味)から、繭(まゆ)からつむぎだしたばかりの白い糸を意味し、そこから、「もと(初め)」、「白い」を意味する「素」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji896.html)の諸解釈があるが、最後の二説が「白」につながる意を絵解きしている。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 盛長(大森彦七盛長)これ程の不思議を見つれども、その心なほも動ぜず、一翳(いちえい)眼(まなこ)にあれば、空花(くうげ)乱墜(らんつい)すと云へり。千変百怪、何ぞ驚くに足らん(太平記)、 にある、 一翳眼にあれば空華乱墜す、 は、 目にひとつでも曇りがあると、実際にない花のようなものが見える、 つまり、 煩悩があると、種々の妄想が起き、心が乱れて正しい認識ができないことのたとえ としていわれる(兵藤裕己校注『太平記』・精選版日本国語大辞典)。出典は、景徳元年(1004)北宋の道原撰の禅僧伝、 景徳伝燈禄、 にみえる、 福州芙蓉山靈訓禪師。初參歸宗問。如何是佛。宗曰。我向汝道汝還信否。師曰。和尚發誠實言何敢不信。宗曰。即汝便是。師曰。如何保任。宗曰。一翳在眼空華亂墜(福州芙蓉山霊訓禅師、初めて帰宗(きす)に参ず、問う、如何なるか是れ仏。宗(す)曰く、我汝に向って道(い)わん。汝、還(かえ)って信ずるや否や。師曰く、和尚、誠実の言を発せば、何ぞ敢えて信ぜざるや。宗曰く、汝に即すれば便(すなわ)ち是(ぜ)なり。師曰く、如何保任(ほにん)せん。宗曰く、一翳眼在れば空華乱墜す)、 の、 一翳在眼、空華乱墜、 による(故事ことわざの辞典)。「保任」は、 いまだまぬがれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり(正法眼蔵)、 と、 「保」はたもつ、「任」は背おうの意、 で、 保持して失わないこと、保持してそのものになりきること、 の意である(精選版日本国語大辞典) 一翳在眼、空華乱墜、 は、 目に、なにかくもりがあると、実態のない花のようなものが乱れ落ちるさまが見えるところから、 とか(精選版日本国語大辞典)、 眼病のために、実際には花が無いのにも拘わらず、空中にいろいろな花があるかのごとく見えること、 とか(新版禅学大辞典)、 目に小さい埃が入っただけで、幻の華が宙を舞って乱れ落ちるということ、 とか(https://irakun0371.hatenablog.com/entry/2020/11/22/091034)、 小さい埃一つが眼に入ると眼がチラチラする、 とか(禅林句集)、 眼にちょっとでも病いがあるとまぼろしの花が空中をみだれ飛ぶ、 とか(禅語辞典)等々とある(https://zengo.sk46.com/data/ichieimana.html)ので、そうした目の症状を喩えとして、 心病に陥っている者が、その迷妄の心により、本心がくもりさえぎられ、ものの真相を正しく見ることができないで、虚偽の仮相を見て、それをそのものの実態であるかのように思い誤っていることをいう、 という意味で使ったもののようである(https://zengo.sk46.com/data/ichieimana.html)。 一翳眼にある時は、空花みだれをつ。一妄心にある時、恒沙生滅す(「梵舜本沙石集(1283)」) である。「恒沙(ごうしゃ)」は、 恒河沙(ごうがしゃ)の略、 で、「恒河」(ごうが)は、 梵語でガンジス川、 の意、「恒河沙」は、 ガンジス川の砂、 の意。 数量が無数であることのたとえ、 としていう(広辞苑・デジタル大辞泉)。 「翳」(漢音エイ、呉音アイ)は、 会意兼形声。殹(エイ)は、矢を箱の中に隠すことをあらわす会意文字。翳はそれを音符とし、羽を添えた字、 とあり(漢字源)、 身分の高い人の姿を隠すために、侍者が持ってかざす羽のおうぎ、 鳥の羽でおおった車の屋根、 といった(仝上)、 かざしの羽、 の意(字源)で、 掩翳(エンエイ)、 というように、 かざして隠す、 という意味で、そこから、 ものに覆われてできた陰、 の意になったもののようである(漢字源)。 「眼」(漢音ガン、呉音ゲン)は、 会意兼形声。艮(コン)は「目+匕首(ヒシュ)の匕(小刀)」の会意文字で、小刀でくまどった目。または、小刀で彫ったような穴にはまった目。一定の座にはまって動かない意を含む。眼は「目+音符艮」で、艮の原義をあらわす、 とあり(漢字源)、「まなこ」、ひいて、目全体の意を表す(角川新字源)。別に、 会意形声。「目」+音符「艮」、「艮」は「匕」(小刀)で目の周りに入墨をする様で、そのように入墨を入れた目、または、小刀でくりぬいた眼窩(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%BC)、 会意兼形声文字です(目+艮)。「人の目」の象形と「人の目を強調した」象形から「眼」という漢字が成り立ちました。「人の目」の象形は、「め」の意味を明らかにする為、のちにつけられました(https://okjiten.jp/kanji12.html)、 などともある。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「狡兎死して」は、 走狗烹らる、 とつづく。「狡兎」 は、文字通り、 狡知ある兎、 で(大言海)、 素早い兎、 かしこい兎、 の意(広辞苑)で、「走狗」は、 狩猟などで駆け走って人のためにおいつかわれる狗(いぬ)、 の意で、それをメタファに、 権力の走狗、 というように、 他人の手先になって使役される人を軽蔑していう語、 としても使われる(広辞苑)が、 よく走る猟犬、 の意である(字源)。 狡兎死して走狗烹らる、 は、 兎が死ねば猟犬は不用となって煮て食われる、 意で、 敵國が滅びたあとには、軍事に尽くした功臣も邪魔者とされ殺されてしまう、 の喩えとして使う(広辞苑)。ために、 狡兎死して良狗烹らる、 狡兎尽きて良犬烹らる、 などともいう。出典は、『史記』越王勾践世家の、越を去った范蠡(はんれい)が大夫種(しょう)に宛てた手紙で、 范蠡遂去、自齊遣大夫種書曰(范蠡遂去り、齊より大夫種に書を遣わして曰く)、 蜚鳥盡、良弓藏(蜚鳥(ひちょう)盡(つ)きて、良弓(リョウキュウ)藏(おさめ)られ)、 狡兔死、走狗烹(狡兎(コウト)死して、走狗(ソウク)烹(に)らる)、 の、 蜚鳥尽良弓蔵、狡兎死走狗烹、 や、 『史記』淮陰侯列伝に、漢創業に功があった韓信が、高祖(劉邦)に謀反の疑いをかけられたときに引用した諺として、 信曰、果若人言(信曰く、果たして人の言の若し)、 狡兔死、良狗亨(狡兔死して、良狗亨られ)、 高鳥盡、良弓藏(高鳥(コウチョウ)盡きて、良弓藏(おさめ)られ)、 敵國破、謀臣亡(敵國破れて、謀臣亡ぶ)、 天下已定、我固當亨(天下已(すで)に定まる、我固(もと)より當(まさ)に亨(=烹)らるべし)。 の、 狡兔死、良狗亨、 であり(http://fukushima-net.com/sites/meigen/1917)、『韓非子』内儲説の、 狡兎尽則良犬烹、敵国滅則謀臣亡、 などである(故事ことわざの辞典)。「蜚」は、 三年不蜚、蜚将沖天(三年蜚バス、蜚ベバマサニ天ニ沖セントス)(史記)、 とあり、 飛ぶ、 意で、 蜚鳥=飛鳥、 である。 蜚鳥尽良弓蔵、狡兎死走狗烹、 と対比されているように、 蜚鳥尽良弓蔵(飛鳥尽きて良弓蔵(かく)る)、 も、 捕らえるべき鳥がいなくなれば、良い弓は不用となり仕舞われてしまう、 意で、 狡兎死して走狗烹らる、 と同様、 敵國が滅びたあとには、軍事に尽くした功臣も邪魔者とされ殺されてしまう、 という喩えに使われる(故事ことわざの辞典)。 鳥尽弓蔵、 と四文字熟語ともなっている。英語にも、 The nurse is valued till the child has done sucking.(子供が乳を飲んでいる間は乳母も大事にされる)、 When the fish is caught the net is laid aside.(魚が捕らえられると網は捨てられる)、 と似た言い方があるらしい(http://kotowaza-allguide.com/ko/koutoshishitesouku.html)。 なお、「にる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481728394.html)で触れたように、「にる」の意の漢字には、 煮、 烹、 煎、 があり、三者は、 「煎」は、火去汁也と註し、汁の乾くまで煮つめる、 「煮」は、煮粥、煮茶などに用ふ。調味せず、ただ煮沸かすなり、 「烹」は、調味してにるなり。烹人は料理人をいふ。左傳「以烹魚肉」、 と、本来は使い分けられ(字源)、漢字からいえば、「にる」は、 狡兎死して走狗烹らる、 のように、「煮る」は「烹る」でなくてはならないが、当初から、「煮る」を用いていた可能性がある(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。なぜなら、 「烹」(漢音ホウ、呉音ヒョウ)は、 会意。亨(キョウ)は、上半の高い家と下半の高い家とが向かい合ったさまで、上下のあい通うことを示す。烹は「火+亨(上下にかよう)」で、火でにて、湯気が上下にかよい、芯まで通ることを意味するにえた物が柔らかく膨れる意を含む、 とあり(漢字源)、「割烹」(切ったりにたり、料理する)と使い、「湯気を立ててにる」意であるが、 会意。「亨」+「火」、「亨」の古い字体は「亯」で高楼を備えた城郭の象形、城郭を「すらりと通る」ことで、熱が物によくとおること(藤堂)。白川静は、「亨」を物を煮る器の象形と説く。ただし、小篆の字形を見ると、「𦎫」(「亨(亯)」+「羊」)であり「chún(同音:純)」と発音する「燉(炖)(音:dùn 語義は「煮る」)」の異体字となっている。説文解字には、「𦎫」は「孰也」即ち「熟」とあり、又、「烹」の異体字に「𤈽」があり、「燉」に近接してはいる、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%83%B9)、「烹る」と「煮る」の区別は、後のことらしいのである。 「狡」(漢音キョウ、呉音コウ)は、 会意兼形声。交は、人が足をくねらせて交差させたさまを描いた象形文字。狡は、「犬+音符交」で、犬が身をくねらせて、すばしっこくにげるさま。すばしっこい、ずるい意となる、 とある(漢字源)。 「兎」(漢音ト、呉音ツ)は、 象形。長い耳と短い尾をもつうさぎの形にかたどる(角川新字源)、 象形文字です。「うさぎ」の象形から「うさぎ」、「月の別名(うさぎは月の中に含み持つという伝説に基づく)」を意味する「兎・兔」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2318.html)、 とある。 「狗」(漢音コウ、呉音ク)は、 会意兼形声。「犬+音符句(小さくかがむ)」、 とある(漢字源)。 犬は大、狗は小、 とも(字源)、 「狗」の場合は子犬や小型犬、つまり「小さいイヌ」を指す、 ともあり(https://www.docdog.jp/2020/03/magazine-dogs-s-k-2802.html)、 「狗」は、 小犬、 の意だが、 後世には、いぬの総称となった、 とある(漢字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 盛長(大森彦七盛長)が髻(もとどり)を取って中(ちゅう)に引つさげ、八風(はふ)の口より出でんとす(太平記)、 に、 八風、 と当てているのは、 破風、 つまり、 屋根の切妻の三角形の部分にうちつけた板、 と(兵藤裕己校注『太平記』)ある。 「破風」は、 搏風、 とも当て、 日本建築で、屋根の切妻(きりづま)についている合掌型の装飾板、または、それが付いているところ、 を指す(広辞苑)が、 破風板の付いている屋根の部分(三州瓦豆辞典)、 つまり、 切妻造や入母屋造の屋根の妻(棟の端)の三角形の部分、 をも指しデジタル大辞泉)、 屋根の妻側で桁や母屋の木口を隠して、風雨から屋根を保護するために付ける板。デザインカットされた板を重ね合わせることで、建物のイメージを変えるといった意匠的な側面ももつ、 とあり(ログハウス用語辞典)、実用的な意味と装飾的な意味とがある。しかし、「破風」は、 千木より起こる。もと殿の左右の妻、後にその前に別に形を作る。即ち、屋の切棟の端、両下して山形をなす處、 とある(大言海)ので、本来は、 山形をなす、 ことを指していたのではないかともみえる。つまり、 屋根の妻側の造形、 のことであり、切妻造や入母屋造の屋根の妻側には必然的にあり、 妻壁や破風板など妻飾りを含む、 ということ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E9%A2%A8)になる。「搏風」を、 風を搏(う)つ、 からきたとする(日本語源広辞典)説は、「搏風」という字からの解釈で、 風が強く当たる部分、 という意とするのは、当たらずと雖も遠からず、という感じだが、和名類聚抄(平安中期)に、 榑風、和名、如字、 とあり、江戸後期の辞書注釈書『箋注和名抄』に、 按、榑當作搏、榑桑(扶桑)字、音義皆異、但諸本皆従木、 と、本来「搏風」ではなく、 榑風、 としている。色葉字類抄(1177〜81)も、 榑風、ハフ、 とする。書言字考節用集(享保二年(1717))は、 破風、ハフ、本字、榑風謂之栄、 とあり、「搏風」でないとすれば、 風が強く当たる部分、 というのは、意味のない語源説になる。神武紀に、 太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、 と、 榑風、 を、 ちぎ、 と訓ませている(大言海)。「千木」と「破風」は一本の材を用い、「千木」は、 社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した木、 を指し、 古代の家は、この突き出た端を切り捨てなかった、 が(岩波古語辞典)、後世、 破風と千木とは切り離されて、ただ棟上に取り付けた一種の装飾(置千木)となる、 とある(広辞苑)。だから、「ちぎ」は、 千木、 知木、 鎮木、 等々と当て(仝上)、 搏風、 とも当てる(日本語源大辞典)が、上述の由来から見ると、本来、 搏風、 ではなく、 榑風、 なのではないか。 「搏」(ハク)は、 会意兼形声。甫(ホ)は、平らな苗床に芽がはえたさま。圃(ホ)の原字。搏の旁は「寸(手)+音符甫」からなり、平面を当てる動作。搏はそれを音符とし、手を添えた字で、パンと平面をうち当てること、 とある(漢字源)。「うつ」「手のひらでたたく」意となる。 「榑」(漢音フ、呉音ブ)は、 会意兼形声。旁の部分(フ・ハク)は、大きく広がる意を含む。榑はそれを音符とし、木を添えた字、枝の広がった大木、 とある(漢字源)。「榑桑」は、太陽の出る所にあるといわれる神木、「扶桑」とも書く、わが国では、 皮のついたままの丸太、 の意である(漢字源)。これを交叉させて、上にで突き出た分が、 千木(榑風)、 山形に交叉した部分が、 搏風(榑風)、 となったとみていいのではないか。因みに「扶桑」は、『南史』夷貊(イバク)伝・東夷・扶桑国に、 扶桑國者……在大漢國東二萬餘里、地在中國東、其土多扶桑木、故以為名、扶桑葉似桐、初生如笋、國人食之、實如梨而赤、積其皮為布以為衣、 とあり、中国東方にあるとされる、 日本国の異称、 とされている(大言海・広辞苑) さて、「破風」は、 伝統的な建物では、彫刻を施した板が貼り付けられて装飾性を持っていました、 とあり(https://shikishima-town.com/blog/word-hahu)、細かくは、三角形の斜辺に相当するところにつく板を、 破風板、 とよび、その頂点を、 拝(おが)み、 と名づけられ、破風板は、妻(棟の端)の垂木(たるき 棟から軒にわたす材)を隠すためにつけられた飾り板で、棟木の木口(切り口)を隠すために拝みの下に取り付ける飾りを、 懸魚(げぎょ)、 破風板の中ほどにあって、母屋桁(もやげた 棟や軒桁に平行して、垂木を支えるために渡した横木)の木口を隠す飾りを、 降懸魚(くだりげぎょ)、 という(日本大百科全書)、とある。 また、屋根の流れの中間にあけられた三角部分は、 据(すえ)破風、 または、 千鳥(ちどり)破風、 ともいい、屋根の流れの先端からさらに庇(ひさし)を出したときの妻の部分は、 縋(すがる)破風、 と呼ばれる(仝上)、とある。 破風の形には、直線的な、 直(すぐ)破風、 両端が反り上がる、 反(そり)破風、 中間が上向きに曲がる起(むく)り破風、 があり、玄関など入口によくみられる反転する形の破風は、 圓く下へ反りて、鍬形を倒にしたるが如く、 作る(大言海)、 唐(から)破風、 という(日本大百科全書)、とある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 八風(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485439588.html?1643659605)で触れたように、「千木」と「破風」は一本の材を用い、「千木」は、 社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した木、 を指し、 古代の家は、この突き出た端を切り捨てなかった、 が(岩波古語辞典)、後世、 破風と千木とは切り離されて、ただ棟上に取り付けた一種の装飾(置千木)となる、 とある(広辞苑)。 上代の家作に、切棟作りの屋根の、左右の端に用ゐる長き材にて、基本は、前後の軒より上りて、棟にて行き合ふを組交へ、其組目以上、其梢を、そのまま長く出して空を衝くもの。其組目より下は、椽(タルキ)と並び、又、屋根の妻にては、搏風(ハフ)となる、 という(大言海)。 だから、「ちぎ」は、 千木、 知木、 鎮木、 等々と当てる(仝上)とともに、 搏風、 とも当てている(日本語源大辞典)が、本来、「搏風」は、 榑風、 なので、「ちぎ」に当てた字も、 榑風、 なのではないか。神武紀にある、 太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、 も、 榑風、 を、 ちぎ、 と訓ませている(大言海)。「榑」(漢音フ、呉音ブ)は、 会意兼形声。旁の部分(フ・ハク)は、大きく広がる意を含む。榑はそれを音符とし、木を添えた字、枝の広がった大木、 とある(漢字源)。「榑桑」は、太陽の出る所にあるといわれる神木、「扶桑」とも書く、わが国では、 皮のついたままの丸太、 の意である(漢字源)。これを交叉させて、上にで突き出た分が、 千木(榑風)、 山形に交叉した部分が、 搏風(榑風)、 となった。 「千木」は、 氷木(ひぎ)、 ともいう(広辞苑・岩波古語辞典)。『古事記』の出雲大社創建条は、 氷木(ひぎ)、 であり、また、 冰椽、 とも表記され、『日本書紀』の神武天皇紀にも、上述のように、 太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、 と「チギ」と訓ませている。『延喜式』の祝詞において、 高天原の千木に高知りて、 と、「千木」の表記が現れ、平安時代中期には、 チギ、 と訓んだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%A8%E3%83%BB%E9%B0%B9%E6%9C%A8・岩波古語辞典)。 「ちぎ」の語源については、大言海は、 氷木(行合へば、合木(あひき)の約)と共に、肘木(ヒヂキ)の上略、又は中略にて、其形、屈折すれば云ふとぞ(枡(ヒヂキ)とは別なり)(雅言考・和訓栞)、 或は、 風木(チギ 搏風(チギ)、搏は、索持也、ナハカラゲ、暴風の材)の義と云ひ、垂木(タルキ)、又は交木(チガヒギ 木と木、十文字に組み合わせるもの、契合(チギリア)ふ木)の約(関秘禄・物類称呼・三省禄・日本語源=賀茂百樹・音幻論=幸田露伴)、 と、諸説挙げているが、 すべていかがか、 と疑問視している。 「肘木(ひじき)」は、 うでぎ、 ともいい、 斗(ます)と組合せて、上からの果汁を支える用をなす横木、 であり(広辞苑)、「垂木」は、 椽、 棰、 榱、 架、 などとも当て(広辞苑)、 はえ、 ともいい、 屋根の裏板、または木舞(こまい 野地板、こけら板(柿(こけら))等を受けるために垂木(たるき)の上に取り付けられた桟)を支えるために、棟から軒に渡す材、 とあり、「千木」とは関係ないように思える(仝上)。 チはタリの約、タリキ(垂木)の義(祝詞考・家屋雑考)、 も同様に思われる。その他、 チはチキル・チカフのチと同言で不動の意、風に吹き倒されないようにするための木の義(筆の御霊)、 チガヒギ・チガヘギ(差木)の義(日本釈名・名言通)、 チはツラ(連)の反。連木の義(延喜式祝詞解)、 もあるが、 千木、 となってからの解釈でしかなく、古く、 氷木(ひぎ)、 と言っていたことを考えると、語源の説明になっていない気がする。「氷木(ひぎ)」についての語源説はないが、江戸後期の辞書注釈書『箋注和名抄』に、 榑風板、比宜、……按、榑當作搏 とある。三角形の斜辺に相当するところにつく板を、 破風板、 と呼ぶので、ここからは憶測だが、一番端の「垂木」を、そのまま伸ばして、交叉させれば、「千木」になる。ここからの勝手な解釈だが、そう考えると、大言海が疑問視した、 風木(チギ 搏風(チギ)、搏は。索持也、ナハカラゲ、暴風の材)の義と云ひ、垂木(タルキ)、又は交木(チガヒギ 木と木、十文字に組み合わせるもの、契合(チギリア)ふ木)の約、 とする説は、 ひぎ(figï)→ちぎ(tigï)、 と(岩波古語辞典)、子音交替したとみられなくもない。 古墳時代の埴輪(はにわ)には、棟の両端だけではなく中間にも数組の千木のあるものもあり、これは垂木(たるき)の上端が屋根を貫いたものらしい、 とある(日本大百科全書)ので、まんざら憶説でもない。「千木」には、発生的には、 垂木(たるき)や破風(はふ)の上端を棟より長く突き出したもの、 と、 大棟や屋根葺き材が風でとばされるのを防ぐために重みとしてあげたもの、 とがある(世界大百科事典)らしいので、なおさらである。 さて、「千木」には、 其梢の一角を殺ぐを、カタソギと云ふ。伊勢の内宮なるは内角を殺ぎ、外宮なるは外角を殺ぐ、共に共に風穴を明く、 とがあり(大言海)、例外もあるが、 千木には矩形(くけい)の穴があけられており、これを風切穴(かざきりあな)という。千木上部が水平になる内殺(うちそぎ)と、外側が垂直になる外殺(そとそぎ)があり、前者は女神、後者は男神が祭神の本殿を飾る千木という、 らしく(仝上)、 内そぎは女千木(めちぎ)で女神を表す、 外そぎは男千木(おちぎ)で男神を表す、 となる(https://izumo-enmusubi.com/entry/chigi/)。 「千」(セン)は、 仮借(その語を表す字がないため、既存の同音あるいは類似音をもつ字を借りて表記すること)。原字は人と同形だが、センということばはニンと縁がない。たぶん人の前進するさまから、進・晋(シン すすむ)の音を表し、その音を借りて1000という数詞に当てた仮借字であろう。それに一印を加え、「一千」を表したのが、千という字形となった。あるいは、どんどん数え進んだ数の意か、 とある(漢字源)。 1000の意味を持つ音「人」(nien)と一の合字で1*1000を意味する、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%83)のはその意味だろう。「一+人」とみれば会意文字というのはありえるので、 会意文字です(人+一)。「横から見た人」の象形(「人民、多くのもの」の意味)と「1本の横線」(「ひとつ」の意味)から、数の「せん」を意味する「千」という漢字が成り立ちました、 という説もありえる(https://okjiten.jp/kanji134.html)。 「木」(漢音ボク、呉音モク)は、 象形。立ち木の形を描いたもの、 である(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 金五(近衛府の唐名)四隊列をなして、院々の燈(ともしび)を焼(た)いて白日の如し、沈香火底に坐して笙を吹くと云へる追儺(ついな)の節会、今夜(こよい)なり(兵藤裕己校注『太平記』)、 とある、 追儺は、「鬼門」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482333758.html)でも触れたが、宮中行事の一つで、 大晦日の夜、悪魔を払い疫病を除く儀式で、舎人(とねり)の鬼に扮装した者を、内裏の四門をめぐって追い廻す。大舎人長が方相氏(ほうそうし)の役をつとめ、黄金四つ目の仮面をかぶり、玄衣朱裳を着し、手に矛・楯をとった。これを大儺(たいな)といい、紺の布衣に緋の抹額(まっこう)を着けて大儺に従って駆け回る童子を小儺(しょうな)と呼び、殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る、 とある(広辞苑)。四門とは、東・西・南・北の門、建春・宜秋・建礼・朔平の四つの門を指す。 近世、民間行事となり、 福は内、鬼は外、 という二月の節分の豆撒きは、この、 宮中で大晦日の夜、悪魔を払い、疫癘を除くための、 追儺(ついな)の義式、 に由来する(仝上)。追儺は、 儺(だ、な)、 あるいは、 大儺(たいだ、たいな)、 駆儺、 鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、 儺祭(なのまつり)、 儺遣(なやらい)、 等々とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BA)。中国に由来するが、 中国では、 熊の皮をかぶり黄金の四つ目の面をつけ、黒衣に朱裳(しゅしょう)を着した方相(ほうそう)氏という呪師が矛と盾を手にして、宮廷の中から疫鬼を追い出す作法を行った、 という(周礼(しゅらい))。日本には、追儺は陰陽道の行事として取り入れられ、文武天皇の慶雲(きょううん)三年(706)に、諸国に疫病が流行して百姓が多く死んだので、土牛をつくって大儺(おおやらい)を行ったというのが初見(日本大百科全書)とある。『延喜式』によると、 宮中では毎年大晦日の夜、黄金の四つ目の面をかぶり黒衣に朱裳を着した大舎人(おおとねり)の扮する方相氏が、右手に矛、左手に盾をもって疫鬼を追い払ったという。この除夜の追儺はおそらく大祓(おおはらえ)の観念とも結び付いて展開したものと思われるが、そのほか、寺の修正会(しゅじょうえ)や修二会(しゅにえ)の際にもこの鬼やらいの式が行われた、 とある(仝上)。民間で行われる二月の節分の豆撒きにつながるが、大晦日に豆撒きを行う例があるのは、上記の由来と関わる。
「方相氏」(ほうそうし)とは、 会意兼形声。難は、ひでりや落雷、やまかじなどの災難のこと。儺は「人+音符難(ダ)」で、人が火で、悪鬼を払う災難除けの行事をあらわした、 とあり(漢字源)、「おにやらい」と訓ます。 参考文献; 広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社) 貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫) 門を開けて、方々へ追って見よと訇(ののし)り、沙汰しける間(太平記)、 とある、 訇る、 は、 大声で騒ぐ、 意と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。通常、 ののしる、 は、 罵る、 詈る、 等々と当てる。「訇」(コウ)は、手元の漢和辞典(字源)には載らないが、 大きな音や声の形容、 とある(https://kanji.jitenon.jp/kanjiq/8083.html)。 罵る、 と当てる「ののしる」は、 ノノは大音・大声を立てる意。シルは思うままにする意。類義語サワグは、音・声と動きが一所に起こる意、 とある(岩波古語辞典)。その意味で、本来は、 法雷を響(ののし)りて、弁を吐き(地蔵十輪経序)、 と当て、 大音を響かせる、 意や、 いと騒がしく人まうでこみてののしる(源氏物語)、 と、 がやがやと騒ぐ、 意や、 里びたる犬ども出で来てののしるも、いとおそろしく(源氏物語)、 と、 高い声や音を立てる、 意で使ったものと思われる。そこから、 この僧都に負け奉りぬ。今はまかりなむとののしる(源氏物語)、 と、 わめく、 意や、 恒水の神を罵りき、仏、因りて之を誡めて(法華経義疏)、 と、 罵倒する、 や、 后の腹立ちののしり給ひて(宇津保物語)、 と、 声高に非難する、 悪口を言う、 意となり、 うちに御薬の事ありて、世の中さまざまにののしる(源氏物語)、 と、 大騒ぎする、 盛大にする、 意となり、さらに、 この世にののしり給ふ光源氏、かかるついでに見奉り給はむや(源氏物語)、 と、 (世人が大声でいう意)評判が立つ、 意、 岸にさしくる程みれば、ののしりて詣で給ふ人のけはひ、渚に満ちていつくしき神宝をもて続けたり(仝上)、 と、 勢いがさかんである、 意、 そののち左の大臣の北の方にて、ののしり給ひける時(大和物語)、 と、 羽振りをきかす、 意、あるいは、 汝なぜに我を礼拝せぬぞ、唯今われを踏み倒さうも身がままぢゃと、ゆゆしげにののしって過ぎたが(天草伊曾保)、 と、 大声で𠮟りつける、 意などでも使うに至る(広辞苑・岩波古語辞典)。しかし、大言海は、 声高に言ひ騒ぐ、 意の、 ののしる、 には、 喧(やかま)しく呼ぶ、 騒ぎ立てるように呼ぶ、 意の、 喧呼、 を当て、 怒りて、然り言ふ、 罵(の)る、 意の、 ののしる、 には、「喧呼」を当てた「ののしる」の転として、 罵る、 を当てる見識を示している。平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、 聒、喧語也、左和久、又乃乃志留、 とある。「聒」(カツ)は、「やかましい」意であり、「喧」(ケン)は、「喧嘩」「喧噪」の「喧」であり、「やかましい」「さわがしい」意である。また、色葉字類抄(1177〜81)には、 訇、ノノシル、𨋽訇、ノノシル、大声也、 とある(大言海)。どうやら、「ののしる」は、 擬声(音)語、 由来と思われる。 見る人皆ののめき感じ、あるひは泣きけり(宇治拾遺物語)、 とある、 声高に叫び騒ぐ、 意の、 ののめく、 の、 のの、 とも通じ、 ノノ(騒がしい音を立てる)+シル(占有する)、 とある(日本語源広辞典)のが、 ノノは大音・大声を立てる意。シルは思うままにする意(岩波古語辞典)、 と共に、妥当な説に思える。「しる」を、 領る、 占る、 と当て、 占有する、 支配する、 意とするのも共通する。ただ、 罵(の)る、 という言葉があり、これは、 宣(の)る、 告(の)る、 の転化したものとされる。この、 のる、 の、 の、 は、「のる」が、 神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に対して正式に表明するのが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さない、みだりに口にすべきでない事柄(占いの結果や自分の名など)を、神や他人に対して明かし言う義。進んでは、相手に対して悪意を大声で言う義、 という意であったことから考えると、単なる、 騒音、 ではなく、 聖なる声(音)、 だったのかもしれない。それが、 聖→俗→邪(穢)、 と転化したのかもしれない。 そうみると、「罵(の)る」から「ののしる」の語源を考えようとする、 ノリソシル(罵譏)の約か(俗語考)、 ノリノリシカル(罵々叱)の義(名言通)、 ノリノリシクソシルの義(和句解)、 ノリシヒル(罵強)の義(言元梯)、 の諸説も一概に一笑に付することはできない気がする。 「訇」(コウ)は、 形声。「言」+ 音符「句の略体」、 大きな音の形容。ごうごう、 の意としかない(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A8%87)。 「罵」(漢音バ、呉音メ)は、网(あみ)は、相手におしかぶせる意を示す。罵は「网(あみ)+音符馬」で、馬の突進するように、相手かまわずおしかぶせる悪口のこと、 とあり(漢字源)、「ののしる」「大声で悪口を言う」意で、和語「ののしる」の「大音を響かせる」意はふさわしくない。で、 響(ののし)る、 訇(ののし)る、 を当てたものと思われる。他に、 会意形声。「网(=網)」+「馬」。「网」は「あみ」で「詈」にも見られるように、相手におしかぶせ抵抗できなくするさま。「馬」は、速さをもって突進するさま。相手かまわず、悪口を押しかぶせる、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BD%B5)、 形声文字です(罒(网)+馬)。「網」の象形と「馬」の象形(「馬」の意味だが、ここでは、「幕」に通じ(「幕」と同じ意味を持つようになって)、「覆いかぶせる」の意味)から、網や幕をかぶせるように悪口をあびせかける、「ののしる」を意味する「罵」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji2008.html)あるが、意味は、同じである。 「ののしる」は、 詈る、 とも当てるが、「罵る」「詈る」の違いは、 罵は、悪言を以て人に加ふる義。史記「輕士善罵」、 詈は、罵より輕し、韻會「正斥罵、旁及曰詈」とあり、書経「小人怨汝詈汝」、 とある(字源)。 「詈」(リ)は、 会意。「罒(网 かみ、かぶせる)+言」。相手に、ののしることばをかぶせることをあらわす、 とある(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「のる」は、「訇る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485476446.html?1643918412)で触れたように、 宣る、 告る、 罵る、 と当て、 神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に対して正式に表明するのが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さない、みだりに口にすべきでない事柄(占いの結果や自分の名など)を、神や他人に対して明かし言う義。進んでは、相手に対して悪意を大声で言う義、 とあり(岩波古語辞典)、また、 本来、単に口に出して言う意ではなく、呪力をもった発言、重要な意味をもった発言、普通は言ってはならないことを口にする意、 ともあり(日本語源大辞典)、 天の益人(ますひと)らが過ち犯しむけ雜々(くさぐさ)の罪は、天つ罪と畔放ち溝埋み……許多(ここだく)の罪を天つ罪とのり別けて(祝詞大祓詞)、 と、 神や天皇が神意・聖意を表明する、 意から、 夕卜(ゆふけ)にも占(うら)にものれる今夜だに來まさぬ君を何時とか待たむ(万葉集)、 と、 神意を表す、 意、そこから、広げて、 畏(かしこ)みとのらずありしをみ越路の手向(たむけ)に立ちて妹が名のりつ(万葉集) と、 みだりに口にしてはならないことをはっきりと表明する、 意まで、「犯すべからざる意向」の意味が広がり、その延長線上に、 おのれゆゑ詈(の)らえてをれば𩣭馬(あをうま)の面高夫駄(おもたかぶた)に乗りて来(く)べしや(万葉集) と、 大声でののしりの言葉を口に出す、 意までつなげる(岩波古語辞典)。しかし、大言海は、 宣る、 告る、 と、 罵る、 とは別項にしている。前者は、 述(のぶ)る意と云ふ、 として、 言(こと)を述ぶ、 意とし、後者は、 怒り宣(の)る意、 として、 卑しめて無礼げに物言ふ、 辱め言ふ、 悪口言ふ、 意とする。確かに、 宣る、 告る、 意は、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 詢、ノル、トフ、 色葉字類抄(1177〜81)には、 詢、ノル、 とある。「詢」(慣用ジュン、漢音呉音シュン)は、 会意兼形声。「言+音符旬(ジュン ひとめぐり)」、 とあり(漢字源)、「詢問」(尋ね問うこと)と使うように、「とう」「はかる」意であり、神に、問い、諮っている意でから「のる」に、当てたのかもしれない。そして、 罵る、 意は、類聚名義抄(11〜12世紀)は、 詬、ノル、ハヂシム、詈、ノル、 とあり、「詬」(コウ、ク)は、「はずかしめる」「ののしる」意で、「詬譏」(こうき)」は、ののしりそしる、「詬辱」(こうじょく)は、辱める意で使う。 「恥」の意味の差は、「恥」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/424025452.html)で触れたように、 恥、はぢ、はづると訓む。心に恥ずかしく思う義、重き字なり、論語「行己有恥」中庸「知恥近乎勇」、 辱、はずかしめなり、栄の反対。外聞悪しきを言ふ、転じて賓客応酬の辞となり、かたじけなしと訓む。降屈の義となり、拝命之辱とは、貴人の命の降るを拝する義なり。曲禮「孝子不登危、懼辱親也」、 忝、辱に近し、詩経「亡忝爾所生」、 愧、おのれの見苦しきを人に対して恥づる也。醜の字の気味あり、媿に作る、同じ。韓文「仰不愧天、俯不愧人、内不愧心」、 慙、慙愧と連用す、愧と同じ、はづると訓む、はぢとは訓まず。孟子「吾甚慙於孟子」、 怍、はぢて心を動かし、色を変ずるなり。禮記「容母怍」、 羞、はぢて心にまばゆく、顔の合わせがたきなり、婦女子などの、はづかしげにするなどに多く用ふ。 忸、忸・怩・惡の三字ともに羞づる貌。 僇(リク)、大辱なり、さらしものになるなり、 赧(タン)、はぢて赤面するなり、 詬、悪口せられてはづる義、言に従ひ垢の省に従ふ、 とある(字源)。あえて「詬」の字を当てたのだとすると、罵る側ではなく、相手を恥ずかしめる含意があることになる。 確かに、「宣る」「告る」と「罵る」は、語源的に、前者は、 朝鮮語nil(云)と同源(岩波古語辞典)、 ノブル(宣・述)の義(言元梯・名言通・大言海)、 ノルの本質はノル(乗)。言葉という物を移して人の心に乗り負わせるのが原義(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 などとされ、後者は、 怒りノル(宣)の意(大言海)、 人を下にする意で、ノリ(乗)の義(名言通・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 ナル(鳴)の義(言元梯)、 などと、別由来とするものが多い。しかし、 ノロフ(呪)の語もこの語(「のる」)から派生したものである、 とある(日本語源大辞典)ように、「のろう」は、 告るに反復・継続の接尾語ヒがついた形(岩波古語辞典)、 ノリ(宣)に活用語尾ハヒのついたもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、 ノル(宣)の未然形に反復・継続の助動詞フがついたノラフの変化(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦) ノル(宣)の義(名言通・嫁が君=煤垣実)、 と、「のる」と関連させるとする説は多く、また「いのる」も、 イはイミ(斎・忌)・イクシ(斎串)などのイと同じく、神聖なものの意。ノルはノル(告)・ノリ(法)などと同根か。妄りに口に出すべきでない言葉を口に出す意(岩波古語辞典)、 斎宣(いの)るの義(大言海・言元梯)、 イノル(忌宣)るの義(名言通・和訓栞)、 イは接頭語、ノリは宣(日本古語大辞典=松岡静雄)、 と、「のる」と関連させる説が多い。逆に、「のろう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/403152541.html)で触れたように、「のろう」を、 祈(いの)るの上略延(大言海)、 「祈る(ノル)」+「ふ」(日本語源広辞典)、 としても、「いのる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/436270292.html)が、 動詞「の(宣)る」に接頭語「い(斎)」が付いてできた語、 というように、「のる」由来となってくるので、 神仏に幸福を求める、 のと、 相手に災いがあるように祈る、 とは、 呪う、 と、 祈る、 と裏表で、結局、 みだりに口に出すべきでない言葉、 を口に出す意味では同じである。「のる」が、 神聖な言葉を口に出す→相手に悪意を言う、 のとつながるはずである。つまりは、 宣る、 告る、 が、 罵る、 へと転化したものと見ていいように思える。 なお、「のる」は、中古以降、 名のる(名告る)、 の形でのみ残る(日本語源大辞典)が、 名乗る、 は当て字である。 「宣」(セン)は、 会意兼形声。亘(エン・カン)とは、まるく取巻いて区画をくぎるさま。垣(エン めぐらせたかき)や桓(カン 周囲を取り巻く並木)と同系。宣は「宀(いえ)+音符亘」で、周囲をかきで取巻いた宮殿のこと。転じて、あまねく廻らす意に用いる、 とある(漢字源)。借りて、あきらかの意に用いる(角川新字源)ともある。別に、 会意兼形声文字です(宀+亘)。「屋根・家屋」の象形と「物が旋回する」象形(「めぐりわたる」の意味)から、部屋で、天子が家来に自分の意思をのべ、ゆきわたらせる事を意味し、そこから、「のべる」、「広める」を意味する「宣」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1068.html)。 「告」(コク・コウ)は、 会意。「牛+囗(わく)」。梏(コク しはぎったかせ)の原字。これを上位者に告げる意に用いるのは、号や叫と同系の言葉に当てた仮借字、 とある(漢字源)が、別に、 会意。口と、牛(うし)とから成り、牛の角に付ける横木の意を表す。牛が横木を人に当てることから、「つげる」、知らせるの意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意文字です(牛+口)。「捕えられた牛」の象形と「口」の象形(「祈る」の意味)から、いけにえとして捕らえた牛をささげて神や祖霊に「つげる」を意味する「告」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji638.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「十死一生」は、 到底生きる見込みのないこと、 あるいは、 生命の危険なこと、 また、 そのような状態からかろうじて生命が助かること、 の意で使われ(広辞苑・故事ことわざの辞典)、 十死に一生、 ともいい、 ジッシイッショウノワヅライヲスル、 と(日葡辞書)、 九死に一生、 をさらに強めた言い方になる(仝上)。ただ、 とても生きて帰るまじき事なればとて、十死一生の日を、吉日に取ってぞ向かひける(太平記)、 と、 十死一生の日、 と使うと、 十死日(じっしび)、 とも言い、 陰陽道の説で、出陣して生還の見込みのない大凶の日、 と注記される(兵藤裕己校注『太平記』)ように、 万事に大凶の日、特にこの日、(生還の見込みなしとされ)戦闘することを忌み、民間暦では、嫁取り、葬送に悪いとされる、 とあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、平安貴族の必須知識を記した源為憲の「口遊」や陰陽道の書「簠簣内伝(ほきないでん)」に、 酉巳丑酉巳丑酉巳丑酉巳丑、 とあるが、これは、 一月が酉の日、二月が巳の日、三月が丑の日というように、三か月ごとに酉・巳・丑の日が繰り返して十死一生の忌日に当たることを表わしたもの、 であり、このような知識は平安時代前期には貴族の間で一般的になっていた(精選版日本国語大辞典)とされる。 もっとも、 十死、 自体にも、 既に十死の体に見え候(芭蕉書簡)、 と、 生きる見込みがなくきわめて危ない、 意がある(広辞苑)。 九死に一生、 は、 九死に一生を得る、 九死の中に一生を得る、 九死を出でて一生を得る、 ともいい、これは屈原の「離騒」の、 亦余之所善兮雖九死其猶未悔、 に対する唐の劉良の注にある、 九死無一生、未足悔恨、 に端を発する(仝上)とされ、中国では、「十死一生」の方が古いと考えられるとあり(仝上)、 兼又忠常従去月廿八日受重病、日来辛苦、已九死一生也(長元四年(1031)「左経記」)、 と、 十のうち「死」が九分、「生」が一分、 の意で、 ほとんど助かるとはおもえないほどの危険な状態、 また、 そのような状態からかろうじて命が助かる、 意(『故事ことわざ辞典』・精選版日本国語大辞典)で使われるが、「九死」自体も、「十死」同様に、 敵数十人囲之、被疵輸九死(垂加文集(1714〜4)・加藤家伝)、 と、 十のうち九分までの死、 の意(精選版日本国語大辞典)、 で、 ほとんど死にそうになるほどの危い場合、 の意がある。 「十死一生」「九死に一生」と似た言い方に、 万死、 がある。 とても生命の助かる見込みのないこと、 の意で、 命を軽んずる郎等ども、返し合わせ返し合わせ、所々にて討死しけるその間に、万死を出でて一生に会ひ(太平記)、 と、 死地を逃れ生き延びる、 意で使われる。 万死を出でて一生に逢へり(「貞観政要(じょうがんせいよう)」)、 万死の中に一生を得る、 とも表記し、また、 夫秦為無道破人国家、……将軍瞋目張膽、出萬死不顧一生之計、為天下除殘也、 と(史記・張耳陳余伝)、 万死一生を顧みず、 と、 生き延びるわずかな望みを当てにしない、 命を捨てる覚悟で殊に当たる決意をする、 意でも使う。上記文例中の、「瞋目張胆(しんもくちょうたん)」は、成句になっていて、 目を瞋(いから)し胆を張る、 とも訓み、 「瞋目」は怒りで目をむき出すこと、 「張胆」は肝っ玉を太くすること、 で、 恐ろしい事態にあっても、恐れずに勇気を持って立ち向かう心構え、 をいう言葉になっている(四字熟語辞典)。 「万死」は、また、 罪万死に値する、 と、 何度も死ぬ、 意でも使ったりする。 「九死に一生」「十死一生」「万死」と似た言い方に、 刀下の鳥林藪(りんそう)に交わる、 がある。 刀下の鳥山林に帰る、 ともいい、 俎上の魚江海(こうかい)に移る、 ともいい、 是や此俎上の魚の江海に移り、刀下(タウカ)の鳥の林藪(リンソウ)に交(マシハ)るとは、只夢の心地ぞし給ける(「源平盛衰記(14C前)」)、 と、 斬り殺されようとした鳥がのがれて、林ややぶの中に遊ぶ、 意である(精選版日本国語大辞典・故事ことわざの辞典) 「十」(慣用ジッ、漢音シュウ、呉音ジュウ)は、 指事(数や位置など、形を模写できない抽象的概念を表わすために考案された漢字)。全部を一本に集めて一単位とすることを、h印で示すもの。その中央が丸く膨れ、のち十の字体となった。多くのものを寄せ集めてまとめる意を含む。促音の語尾がpかtに転じた場合は、ジツまたはジュツと読み、mに転じた場合はシン(シム)と読む。証文や契約書では改竄や誤解をさけるため、拾と書くことがある、 とある(漢字源)が、 象形。はりの形にかたどる。「針(シム)」の原字。借りて、数詞の「とお」の意に用いる、 とも(角川新字源)、 指事或いは象形。まとめて一本「h」にすることから、後にまとめたことが解るよう中央部が膨れた。或いは針の象形で、「針」の原字とも(なお、「シン」の音はdhiəɔpのp音がmpを経てm音となったもの)、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%81)、
象形文字です。「針」の象形から、「はり」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「とお」を意味する「十」という漢字が成り立ちました、 垂迹(すいじゃく)和光の悲願を思へば、順逆の二縁、いづれも済度(さいど)利生(りしょう)の方便なれば、今生の逆罪飄(ひるがえ)りて、当来の知遇やなるらんと(太平記)、 とある、 順逆二縁、 とは、 順縁(善行が仏縁となること)と逆縁(悪行がかえって仏縁となること)、 の意とある(兵藤裕己校注『太平記』)。「垂迹」とは、 仏・菩提が、衆生済度のために仮の姿を取って現れること、 の意(広辞苑)だが、 本地垂迹説、 では、世の人を救うために仮に姿を現す、 仏菩薩を本地(真実の身)、神を垂迹(仮の身)とする、 となる(仝上)。上記、 順逆の二縁、 は、 順逆二縁共に成仏す、 と言われたりする。 妙法の功徳は、教えを聞いて正しい信仰に入る順縁の人と、教えを聞いて背き逆らう逆縁の人を、共に救う、 とある(https://hokkekou.com/67se/9jyungyaku/)。 順逆皆方便(首楞厳(りょうごん)経)、 因縁有順逆(天台大師智・摩訶止観)、 ともある。 順縁とは、 素直(すなお)に仏縁を結(むす)ぶということです。順は素直の意あり、縁は仏縁を意味します。したがって、仏の真実の教えである妙法の教えを聞いて素直に信じ、仏道に精進する者を、 順縁の衆生、 といい(http://okigaruni01.okoshi-yasu.com/yougo%20kaisetu/junen-gyakuen/01.html)、これらが済度されるのは当たり前に見えるが、 妙法の教えを聞いても信ずることなく破法(はほう)・謗法(ほうぼう)を重ね、後にその罪が逆に仏縁となっていくことを、 逆縁、 といい、 このような衆生は、永く悪道に堕(お)ちて苦しみを受けなければなりませんが、一度植られた妙法の仏種(ぶっしゅ)は失(う)せることなく衆生の心田(しんでん)に残ります。そして、その仏種が縁にふれて薫発(くんぱつ)し、やがて得脱(とくだつ)することができる、 とあり(仝上)、このような因縁(いんねん)で救われていく衆生を、 逆縁の衆生、 という(仝上)。逆縁は、 雑(ぞう)毒薬を以って用いて、太鼓に塗り、大衆の中において、之(これ)を撃ちて声を発(おこ)さしむるがごとし、聞かんと欲する心無しと雖も、之を聞けば皆死す、 とあり(涅槃経)、 毒鼓(どっく)の縁、 ともいわれる(仝上)。 当世の人何となくとも法華経に背く失(とが)に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何(いか)にとしても仏の種は法華経より外(ほか)になきなり(日蓮・法華初心成仏抄)、 とあり、歎異抄で、親鸞が、他力本願から、 善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、 というのは、 しかるを世の人つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや、 の意ではなく、 煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、 と言ったのとは、少し違う。というがまったく逆である。 これだけ信心したのだから、 これだけ善行を積んだのだから、 というのは、こちらの思惑に過ぎない。「はからい」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163469.html)で触れたように、 自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず、 とあり、大事なのは、 計らいを捨てる、 という。親鸞が晩年に弟子に語ったものを聞き書きした『自然法爾章』によると、 浄土の阿弥陀如来から射してくる光を信じて、一遍でもなんら計らうことなく念仏を称えるという状態にひとりでになっていったときに、その両者の光がうまくいきあったときには、必ず浄土へ行ける、 そういう自然な状態を、 自然法爾(じねんほうに)、 と言っているらしい(「自然」はおのずからそうであること、そうなっていること。「法爾」はそれ自身の法則で、そのようになっていることの意)。この考え方の面白いところは、 こちらが信じてみようという気持ちになったら、浄土から光が差してくる、 というのではなく、信の心の状態になれる人のところに光が差してくる、 というところにある。つまり、こちらの関心ではなく、関心を持つということは、 向こうから光が射してきた、だから関心をもった、 と考える。これが親鸞の到達した地点だという。 人に対してであろうと、信仰であろうと、そのことに関心を持ち始めるということは、すでに向こうからこちらを包み込んでいる、 それが、 第十八願、 たとい我、仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生れんと欲し、乃至十念せん、若し生れずば正覚を取らじ、 つまり、 わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません、 という、至心、信楽、欲生我国の三心をもって念仏すれば必ず往生するようにさせるとする、 浄土三部経の一つ『大無量寿経』のうちに説かれる阿弥陀如来の48の誓願の第18番目の願で、この誓いの中に、 阿弥陀如来から射してくる光が向いている方向がある、 というのである。 至心に阿弥陀仏を信じて名号を称えれば、必ず浄土へ行けるとは、その状態が自然になれば、浄土の方から光が射してくる、という考え方になる。 しかし、こうすれば浄土へ行ける、と言うのは、こちらの計らいであって、それのない状態で、称える心の状態になれたら、と言う意味のようだ。そう考えると、 善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、 とは、こちらの計らいのない状態、 よいことをするといい、 善行を積めば救われる、 いった計らいがないことを象徴的に言っているとみなすことができる。 僕は、信仰心のないものだが、信仰とは、こちらの思惑、意図とは関係ないものなのだということがよくわかるという意味で、親鸞の考えの方が納得できる。 「順」(漢音シュン、呉音ジュン)は、 会意。「川+頁(あたま)」。ルートに添って水が流れるように、頸を向けて進むこと、 とある(漢字源)が、 形声。頁と、音符川(セン)→(シユン)とから成る。「したがう」意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(川+頁)。「流れる川」の象形と「人の頭部を強調した」象形(「かしら・頭部」の意味)から、 川の流れのように、事の成り行きにまかせる顔になる、すなわち、「したがう・素直」を意味する「順」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji692.html)。 「逆」(漢音ゲキ、呉音ギャク)は、 会意兼形声。屰は大の字型の人をさかさにしたさま。逆はそれを音符とし、辶を加えた字で、逆さの方向に進むこと、 とある(漢字源)が、 会意形声。辵と、屰(ゲキ、ギヤク 上下をさかさまにした人の形)とから成り、向こうからやってくる人を「むかえる」の意を表す。また、「さからう」意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意形声。「辵」+音符「屰」(ゲキ)。「屰」は「大」を上下反転させたもので人をさかさまにした図。逆さの方向に進むこと、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%86)、 会意兼形声文字です(辶(辵)+屰)。「立ち止まる足の象形と十字路の右半分象形」(「行く」の意味)と「さかさまにした人」の象形から「さからう」・「さかさま」を意味する「逆」という漢字が成り立ちました。また、「迎」に通じ (「迎」と同じ意味を持つようになって)、「迎える」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji734.html)。 「縁」(エン)は、 会意兼形声。彖(タン)は、豕(シ ぶた)の字の上に特に頭を描いた象形文字で、腹の垂れ下がったぶた。豚(トン)と同系のことば。縁は「糸+音符彖」で、布の端に垂れ下がったふち、 とある(漢字源)が、 形声。糸と、音符彖(タン)→(エン)とから成る。織物の「ふち」の意を表す。借りて「よる」意に用いる、 とも(角川新字源)、 形声文字です(糸+彖)。「より糸」の象形と「つるべ井戸の滑車のあたりから水があふれしたたる象形」(「重要なものだけ組み上げ記録する」の意味だが、ここでは、「転」に通じ(「転」と同じ意味を持つようになって)、「めぐらす」の意味)から、衣服のふちにめぐらされた装飾を意味し、そこから、「ふち」、「まつわる」を意味する「縁」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1127.html)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 吉本隆明『親鸞』(東京糸井重里事務所) 武家の輩(ともがら)、……そぞろなるばさらによって、身には五色を粧(よそお)ひ、食には八珍を尽くし、茶の会、酒宴そこばくの費えを入れ、傾城田楽に無量の財(たから)を与へしかば(太平記)、 とある、 ばさら、 は、 婆沙羅、 婆佐羅、 時勢粧、 等々と当て(広辞苑・日本大百科全書)、 常軌を超えた豪奢な風俗、 とあり(兵藤裕己校注『太平記』)、 南北朝動乱期の美意識や価値観を端的にあらわす流行語、 である。 近日婆佐羅と号して、専ら過差(かさ 身分不相応なぜいたく)を好み、綾羅(りょうら)・錦繍(きんしゅう)・精好(せいごう)銀剣・風流(ふりゅう)服飾、目を驚かさざるなし、頗(すこぶ)る物狂(ぶっきょう)と謂ふべきか(建武式目(1336))、 とか、 佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党共、例のばさらに風流を尽して(太平記)、 というように、 みえをはって派手にふるまうこと、 おごりたかぶって贅沢であること、 形式・常識から逸脱して、奔放で人目をひくようなふるまいをすること、また、そのさまやそのような行ない、 また珍奇な品物など、 という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 伊達(だて)な風体、 の状態表現の意味から、 大酒遊宴に長じ、分に過ぎたるばさらを好み(北条九代記)、 と、価値表現へシフトして、 遠慮なく、勝手に振る舞うこと、 しどけいこと、乱れること、また、そのさま、 放逸、放恣(ほうし)、 といった意味(広辞苑・デジタル大辞泉)で使われる。 此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨 召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ) 生頸 還俗 自由(まま)出家 俄大名 迷者、 とはじまる、二条河原の落書(建武元年(1334年)8月成立)にも、 ハサラ扇ノ五骨、 とあり、 骨数の少ない扇面に粗放、はでな風流絵を施したもの、 をいうらしい(日本大百科全書)。 「ばさら」の由来は、 跋折羅(ばざら)から、 とあり(広辞苑)、 伐折羅(ばざら)、 とも当て、 サンスクリット語(梵語)vajraバジラ、 訳して、 金剛、 金剛石、 からけの転訛とされる(大言海)。 薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二尊の仏尊である、 十二薬叉大将(じゅうにやくしゃだいしょう)、 十二神王、 ともいう、 十二神将(じゅうにしんしょう)、 の一つである、 伐折羅大将(ばざらだいしよう)、 別に、 伐折羅陀羅(ばざらだら)、 跋闍羅波膩(ばじゃらぱに)、 つまり、 金剛力士、 を指すが、鎌倉時代の中期には、すでに「派手(はで)」「分(ぶ)に過ぎた贅沢(ぜいたく)」「乱脈」等々の意味をもつ言葉として用いられていたようである(世界大百科事典)。 なお、狛朝葛(こまあさかつ)の音楽書『続教訓抄』(文永七年(1270)頃成立)に、 友正が笛を、白河院聞しめして、褒めたまひて、下臈の笛ともなく、ばさらありて仕るものかな、 と、 音楽・舞楽で、本式の拍子からはずれて、技が目立つようにする自由な形式。また、そのような音楽・舞楽のさま、 の意で使われているのが、「ばさら」の語が文献に現れた早い例と見られる(仝上)。 伝統的な奏法を打ち破る自由な演奏、 を、 ダイヤモンドのような硬さで常識を打ち破るというイメージが仮託されたものである、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%95%E3%82%89)。ここから由来して、 鎌倉時代末期以降、体制に反逆する悪党と呼ばれた人々の形式や常識から逸脱して奔放で人目を引く振る舞いや、派手な姿格好で身分の上下に遠慮せず好き勝手に振舞う者達を指すようになり、以降この意味で定着する、 とある(仝上)。 「ばさら」で有名なのは、 婆沙羅大名、 として知られる、 佐々木(京極)高氏、 で、 佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)、 佐々木道誉、 の名でも知られる。有名なエピソードは、『太平記』(巻第三十七「新將軍京落事」)の、 正平17年/延文6年(1361年)の都落ちで、細川清氏が南朝の楠木正儀(まさのり)らとともに入京する前に、自身の邸宅を占拠する武将をもてなすとして六間の会所に畳を敷き、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至るまで飾りたて、書院には王羲之の書や韓愈の文集を置いた。さらに眼蔵なども調え、三石入の大筒に酒を用意して、遁世者2人を置いて来訪者には誰に対しても酒を勧めるよう申し付けて退去したという。道誉の邸宅に入った正儀は遁世者から一献勧められたことで感じ入り、細川清氏らの主張する導誉邸の焼き払いを制し、……その後、戦況が一変して正儀が退去する立場となったが、『太平記』では正儀はさらに豪華に飾り立て、導誉へ返礼として鎧と白太刀を残して郎党2人を留め置いて退去した、 という出来事である(仝上)。「澆季」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484264044.html)で、『太平記』については触れた。 この「ばさら」は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮となった、 傾奇者、 歌舞伎者、 と表記する、 かぶきもの、 にも通じる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「夙(つと)に」は、 夙に群臣を召して、御夢を問ひ給ふに(太平記)、 と、 早朝に、 の意味で使われる(兵藤裕己校注『太平記』)。 夙(つと)に行く雁の鳴く音はわが如くもの思へかも声の悲しき(万葉集)、 とあるように、古くから使われてきた。類聚名義抄(11〜12世紀)には、 夙、ツトニ、アシタ、ハヤク、 とある。 人目もる君がまにまにわれともに夙興乍(ツトニオキツツ)裳の裾濡れぬ(万葉集) と、 早く、 の意として、さらに、後には、 人夙(ツト)に事業に志を立つべし(「西国立志編(1870‐71)」)、 のように、 早くから、 以前から、 と、時間を広げて使うに至る。 「つとに」は、 ツトはツトメテ(朝)・ツトム(勤)のツト、朝早い意(岩波古語辞典)、 ツトはツトメテの義(和句解・日本釈名)、 とある。「つとめて」は、 前夜から引き続いた翌早朝、前夜に何か事があった翌日の朝、 の意(大言海・日本語源大辞典)で、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 旦、ツトメテ、アシタ、アケヌ、 朝、ツトメテ、 夙、ツトメテ、アシタ、ハヤク、 とあり、新撰字鏡(898〜901)には、 暾、日初出時也、明也、豆止女天(つとめて)、又阿志太(あした)、 とある(「暾(トン) 丸い朝日、朝日のさし昇るさま)の意)。それが、 ツトは夙の意、早朝の意から翌朝の意になった、 とあるように(岩波古語辞典)、 つとめて少し寝過ごしたまひて、日さし出づる程に出でたまふ(源氏物語)、 と、 その翌朝、 の意でも使う(仝上)。そこから、 つとむ(務む・勤む)、 の、 早朝からことを行う意で、ツト(夙)を活用したもの、 で(日本古語大辞典=松岡静雄・大言海・日本語の年輪=大間晋)、 磯城島(しきしま)の大和(やまと)の国に明(あき)らけき名に負ふ伴(とも)の緒(を)心つとめよ(大伴家持)、 と、 気を励まして行う、 精を出してする、 努力する、 という意で使われるのにつながる(仝上・大言海)。 そうみると、「つとに」の語源を、 ツトはツトメ(勤)の略(万葉集類林・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本語源=賀茂百樹)、 ツトはツトメテ(朝)・ツトメ(勤)のツト、朝早い意(岩波古語辞典)、 ツトはツトメテの義(和句解・日本釈名)、 とし、「つとめて」の語源を、 翌朝を待ち設けての意で、ツトマウケテ(夙設)の約、また、ツトミエテ(夙見)の約か(大言海)、 「つとむ」の語源を、 早朝からことを行う意で、ツト(夙)を活用したもの(日本古語大辞典=松岡静雄・大言海・日本語の年輪=大間晋)、 ツトメ(晨目・早目)の義(言元梯・名言通)、 ツトは晨の義(国語本義)、 と、 つとに、 と、 つとめて、 と、 つとむ、 がにらみ合ったまま、確かに、 早朝をあらわす「つと(夙)」から派生した語、 であり、 「夙に」が漢文訓読調であるのに対して、「つとめて」は平安朝の和文に多く用いられた、 としても(日本語源大辞典)、結局、「つと」そのものの語源に至らない。 「つとむ」「つとめて」とのつながり以外で、「つと」の語源についての言及は、 ツトはハツトキ(初時)の上下略(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、 ハツド(初時)ニの略(大言海)、 直ちにの意のツから(国語の語根とその分類=大島正健)、 ツトは日出の意の韓語ツタと同語(日本古語大辞典=松岡静雄)、 等々がある。新撰字鏡(898〜901)のいう、 暾、日初出時成り、明也、豆止女天(つとめて)、又阿志太(あした)、 説明から見ると、 日の出、 とつなげる説に傾くが、断定は難しい。 「夙」(漢音シュク、呉音スク)は、 会意。もと「月+両手で働くしるし」で、月の出る夜もいそいで夜なべすることを示す、 とあり(漢字源)、「夙昔(シュクセキ)」と「昔から」の意、「夙興夜寝、朝夕臨政」と、「朝早く」の意である(仝上)。 別に、 会意文字です(月+丮)。「欠けた月」の象形(「欠けた月」の意味)と「人が両手で物を持つ」象形(「手に取る」の意味)から、月の残る、夜のまだ明けやらぬうちから仕事に手をつけるさまを表し、そこから、「早朝から慎み仕事をする」、「早朝」を意味する「夙」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2302.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 思ふに当国他国の悪党どもが、落人の物具(もののぐ)を剥がんとて集まりたるらん(太平記)、 とある、 悪党、 は、今日の語感では、 然不遵奉、隠蔵売買、是以、鋳銭悪党、多肆姧詐(「続日本紀(しょくにほんぎ)」五月丙申)、 の、 鋳銭の悪党、多く姧計を肆(ほしいまま)にして、 と、 悪人の集団、 悪人の仲間、 といった意味から、転じて、 わるもの、 の意で使う(広辞苑・岩波古語辞典)が、南北朝期、 荘園や公領を侵す反体制的な武士や荘民の集団、 と注記(兵藤裕己校注『太平記』)されるように、「悪党」は、 中世、荘園領主や(鎌倉)幕府の権力支配に反抗する地頭・名主などに率いられた集団(岩波古語辞典)、 鎌倉後期から南北朝時代にかけて、秩序を乱すものとして支配者の禁圧の対象となった武装集団。風体、用いる武器などに、従来の武士とは異なる特色を持ち、商工業・運輸業など非農業的活動に携わる者も少なくなかった(広辞苑)、 鎌倉中・末期から南北朝内乱期にかけて、反幕府、反荘園体制的行動をとった在地領主、新興商人、有力農民らの集団をいう。悪党は、山賊、海賊とともに、鎌倉幕府から鎮圧の対象とされた。悪党は、(1)荘園領主による代官職の否認、(2)得宗(とくそう 北条)政権による御家人所領(地頭職)の否定、(3)得宗政権の経済政策(港湾・都市など独占)の強行、(4)支配下農民との矛盾対立、(5)蒙古襲来を契機とする社会経済情勢の急激な変化、などを要因として発生した(日本大百科全書)、 等々とあり、「ばさら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485525197.html?1644264178)で触れたように、 鎌倉時代末期以降、体制に反逆する悪党と呼ばれた人々の形式や常識から逸脱して奔放で人目を引く振る舞いや、派手な姿格好で身分の上下に遠慮せず好き勝手に振舞う者達を指す、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%95%E3%82%89)「ばさら」と称された人々と重なる、新たな価値観の体現者たちといっていい。彼らは、 悪党張本(ちょうほん)を中心に、一族、下人(げにん)、所従(しょじゅう)など血縁関係者を集め、さらに近隣の在地領主層と連携して、当該地域における分業、流通の支配を目ざし、数百人に及ぶ傭兵(ようへい)を組織することもあった、 とされる(日本大百科全書)。 上記の『続日本紀』霊亀2年5月21日条(716年)の勅に見える、 鋳銭悪党、 は、今日の意の「悪党」に近いが、12世紀後半以降は、 いずれも荘園や公領における支配体制または支配イデオロギーを外部から侵した者、 を指して用いられている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E5%85%9A)。 安元元年(1175年)に東大寺領黒田荘(伊賀国名張郡)に乱入した名張郡司源俊方と興福寺僧らは、 東大寺の年貢米を奪い、寺使を追放して路次(ろじ)を切りふさぎ、やがて荘民の支持を受けて、東大寺から独立を宣言するに至った、 が(日本大百科全書)、東大寺の文書は、 悪党、 と記している。つまり、荘園領主や荘官の支配体系に対し、 外部から侵入ないし妨害しようとした者、 が悪党として観念されていたのである(仝上)。固定化した、 荘園支配、 に対する、 在地で荘園支配の実務にあたる荘官(彼らも在地領主層の一員である)、 との対立は、中世社会の流動化へとつながっていく。こうした、 外部から荘園支配に侵入する悪党のほか、蝦夷や海賊的活動を行う海民なども悪党と呼ばれたが、これは支配体系外部の人々を悪党とみなす観念に基づいている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E5%85%9A)。鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた、 楠木正成(河内国)、 赤松則き(播磨国)、 名和長年(伯耆国)、 瀬戸内海の海賊衆、 らは、悪党と呼ばれた人々だったと考えられている(仝上)。 この「悪党」の「悪」は、 物が類を以て集まる習ひなれば、……所大夫怪舜とて、少しも劣らぬ悪僧あり(太平記)、 と使われ、 勇猛な僧、 の意とされ(兵藤裕己校注『太平記』)、「悪」は、 気の強きこと、猛き、荒々しき意として、接頭語の如く用ゐらる、 とあり(大言海)、 惡左府頼長、 惡源太義平、 惡七兵衛景清、 等々があり、 惡逆の意には非ず、又、自ら称するにあらず、外聞よりの呼名なり、 とある(大言海)。 荒夷(あらえびす)、 鬼武者、 鬼柴田、 などと云ふと同意なり、 惡獣も猛獣なり、惡龍、惡魚もあり、惡物食(アクモノクヒ)などと云ふ語も是なり、 ともある(仝上)。この由来は、 あし宰相、 あし法眼、 など云ひしを、惡の字を書きて、音読するやうになりしなり、 とある(仝上)。雄略紀に、 天皇以心為師、誤殺人衆、天下誹謗、言大悪天皇也、 の旁注に、 ハナハダ、アシクマシマス、スハメラミコト、 とあるも、 荒々しくまします、 意なり(仝上)、とある。 「悪」(漢音呉音アク、漢音オ、呉音ウ)は、 会意兼形声。亞(ア)は、角型に掘り下げた土台を描いた象形文字。家の下積みとなるくぼみ。惡は「心+音符亞」で、下に押し下げられてくぼむ気持ち。下積みでむかむかする感じや欲求不満、 とある(漢字源)が、 形声。心と、音符亞(ア、アク)とから成る。あやまち、まちがい、ひいて「わるい」意を表し、また、「にくむ」意に用いられる、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(亞(亜)+心)。「古代の墓の部屋を上から見た象形」と「心臓の象形」から、墓室に臨んだときの心、「わるい・いまわしい」を意味する「悪」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji434.html)。 「党(黨)」(トウ)は、 形声。「K+音符尚」。多く集まる意を含む。仲間で闇取引をするので黒を加えた、 とある(漢字源)が、「黨」の字源には、 形声。儿と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。もと、西方の異民族の名を表したが、(「党」は)古くから俗に黨の略字として用いられていた、 と、 形声。意符K(=黒。やみ)と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。さえぎられてはっきりしない意を表す。借りて、「なかま」の意に用いる、 の二説あるらしく(角川新字源)、 形声文字、音符「尚」+「人」 。部族の一つ、タングート(党項)族を指す。黨の略字(別字衝突)。「なかま」「やから」の意味。意符「人」から通じて略字として用いられるようになったか、 は(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%9A)、前者をとり、 形声文字です(尚(尙)+K)。「神の気配を示す文字と家の象形と口の象形」(「強く願う」の意味だが、ここでは「堂」に通じ(「堂」と同じ意味を持つようになって)、「一堂に集まった仲間」の意味)と「上部の煙だしに「すす」がつまり、下部で炎があがる」象形(連帯感を示す色(黒)だと考えられている)から、「村」、「仲間」を意味する「党」という漢字が成り立ちました、 は(https://okjiten.jp/kanji1038.html)、別の解釈である。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 道士どもが朝夕(ちょうせき)業とする処なれば、するに難からじとて、玉晨(ぎょくしん)君を礼(らい)し、芝荻(してき)を香に烓(た)いて、気を飲み、鯨桓(げいかん)の審に向かって、天に昇らんとすれども(太平記)、 にある、 鯨桓の審、 とは、 鯢桓之審、 である。 鯢桓之審、 とは、 雌くじらの集まる淵、 の意である。ここにある、 玉晨(ぎょくしん)君を礼(らい)し、 芝荻(してき)を香に烓(た)いて、 気を飲み、 鯨桓(げいかん)の審に向かって、 云々は、 道士の術、 らしく、後漢の顕宗皇帝の前で、摩騰法師という沙門と道士に、 天に上り、地に入り、山を擘(つんざ)き、月を握る術 を競わせんとしたもの。当然、道士たちには、 朝夕(ちょうせき)業とする、 術のはずだから、容易だと考えたらしい、ということなのである。結果は、 仏力に押されて、することを得ざる、 破目に陥った、ということなのだが、この中の、 玉晨(ぎょくしん)君、 は、 道教で祀る仙人、 であり、 芝荻(してき) は、 香に焚く芝や荻、 の意であり、 気を飲み、 は、 気分を集中する、 意である(兵藤裕己校注『太平記』)。 鯢桓之審、 の「鯢」は、 雌くじら、 の意で、 雄くじら、 の意の、 鯨、 に対して言う。「雄くじら」は、 鰕(カ)、 とも当てる。ただ、「鯢」(漢音ゲイ、呉音ゲ)は、 会意兼形声。「魚」+音符「兒(=「児」)」。「兒」は「ちいさい、おとる」の意、 で(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AF%A2)、「雌くじら」の意よりは、 サンショウウオ、 や、 鯢鰕(ゲイカ)、 というように、 小さい魚、 の意もある。「人魚」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483024554.html)で触れたように、「さんしょううお」の意の、 鯢(ゲイ)、 は、 䱱魚、 鯢魚、 と当て、 鯢魚、 の漢名は、 人魚、 である(大言海)。 その面、猴に似て、其聲、小児の啼くが如し、 とある(仝上)。 貝原益軒編纂の『大和本草』(宝永七(1709)年)には、「䱱魚(ていぎょ)」は、 名人魚此類二種アリ江湖ノ中ニ生シ形鮎ノ如ク腹下ニツハサノ如クニ乄足ニ似タルモノアリ是䱱魚ナリ人魚トモ云其聲如小兒又一種鯢魚アリ下ニ記ス右本草綱目ノ說ナリ又海中ニ人魚アリ海魚ノ類ニ記ス、 とし、「鯢魚(げいぎょ)」は、 おおさんしょううお、 と訓まし、 溪澗ノ中ニ生ス四足アリ水中ノミニアラス陸地ニテヨク歩動ク形モ聲モ䱱魚ト同但能上樹山椒樹皮ヲ食フ国俗コレヲ山椒魚ト云四足アリ大サ二三尺アリ又小ナルハ五六寸アリ其色コチニ似タリ其性ヨク膈噎ヲ治スト云日本處〻山中ノ谷川ニアリ京都魚肆ノ小池ニモ時〻生魚アリ小ナルヲ生ニテ呑メハ膈噎ヲ治ス、 とある(https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2019/06/post-58535d.html)。 さて、「鯢桓之審」の由来は、『荘子』応帝王にある、 鯢桓の審を淵と為す、 であり(兵藤裕己校注『太平記』)、 鯨(くじら)が旋回して集まるような、大海の水深が深い場所、 の意である(四字熟語辞典)。「審」は、 水深が深いところ、淵(ふち)など、 の意である(仝上)。応帝王(おうていおう)篇には、 明日、列子與之見壺子。出而謂列子曰、嘻子之先生死矣、弗活矣、不以旬數矣、吾見怪焉、見灰焉。列子入、泣涕沾襟、以告壺子。壺子曰、鄉吾示之以地文、萌乎不震不正。是殆見吾杜コ機也。嘗又與來。明日、又與之見壺子。出而謂列子曰、幸矣子之先生遇我也。有瘳矣、全然有生矣。吾見其杜權矣。列子入、以告壺子。壺子曰鄉吾示之以天壤、名實不入、而機發於踵。是殆見吾善者機也。嘗又與來。明日、又與之見壺子。出而謂列子曰、子之先生不齊、吾無得而相焉。試齊、且復相之。列子入、以告壺子。壺子曰、吾鄉示之以太沖莫勝。是殆見吾衡氣機也。鯢桓之審為淵、止水之審為淵、流水之審為淵。淵有九名、此處三焉。嘗又與來、 とある(http://furoppa.blog.fc2.com/blog-date-20111206.html)。 列子は、心服している占い師季咸(きかん)を師匠の壷子に引き合わせた。壷子に会った季咸は、 あなたの先生はまもなく死ぬでしょう。せいぜい十日の命です。先生に湿った灰の相を見たのです、 と告げる。慌てて師匠にその話をすると、 吾示之以地文、 と、 地文、 を見せた、という。翌日、壷子にあった季咸は、生気が戻った、と告げる。そのことを列子が壷子に告げると、 吾示之以天壤、 と言い、翌日、再び壷子にあった季咸は、 子之先生不齊、吾無得而相焉、 と、相が変じて占えぬ、と言った。それを列子が壷子に告げると、 示之以太沖莫勝、 と、太沖莫勝(たいちゅうばくしょう)の相を見せたのだという。自分の中の、九つある淵のうち、 鯢桓之審為淵、 止水之審為淵、 流水之審為淵、 を見せたのだ(仝上)と言ったというところに依る。結局、この占い師季咸は、 明日、又與之見壺子。立未定、自失而走 四度目に壷子の顔を見た途端逃げだした、という落ちがある(https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5033/)らしい。 なぜ「鯨」でなく、「鯢(「雌くじら)」なのかはよくわからない。「雌くじら」の集まる処には、多くの雄くじらが集まってくる、それほど深い淵という喩えなのだろうか、と推測するが。 「桓」(漢音カン、呉音ガン)は、 会意兼形声。亘(カン)は、ぐるりを取り巻く意を含む。桓は「木+音符亘」で、ぐるりと取巻いて植えた木、 とある(漢字源)。「漢代、郵亭(宿場)のしるしとして、宿場の周りに立てた木」の意である。 「審」(シン)は、 会意。番(ハン)は、穀物の種を田にばらまく姿で、播(ハ)の原字。審は「宀(やね)+番」で、家の中にちらばった細かい米粒を、念入りに調べるさま、 とある(漢字源)。別に、 本字は、会意。宀と、釆(はん わける)とから成る。おおわれているものを区別して明らかにすることから、「つまびらかにする」意を表す。のち、宀と番とから成る字形となった、 とも(角川新字源)、 形声文字です。「屋根・家屋」の象形(「屋根・家屋」の意味だが、ここでは、「探(シン)」に通じ(同じ読みを持つ「探」と同じ意味を持つようになって)、「さぐる」の意味)と「種を散りまく象形と区画された耕地の象形」(「田畑に種をまく」の意味)から、要素的な物をばらばらにして「つまびらかにする」を意味する「審」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1689.html)。ここで、「鯢桓之審」の、 鯢桓之審為淵、 の「淵を為す」の意味が幽かに繋がる。 なお、「くじら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456973765.html)については触れた。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「無作」は、 むさく、 と訓ますと、文字通り、 何も作らない、生み出さない、 意だが、 技量のないこと、無骨であること、 の意で使う。その場合、 くちのひろげやう、ぶさくだつた(「本福寺跡書(1560頃)」)、 と、 ぶさく、 とも訓ます(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。しかし、 むさ、 と訓ますと、 無作滅諦即如来蔵(「勝鬘経義疏(611)」)、 と、 有作(うさ)、 の対になり、仏教用語で、 因縁によって生成されたものでないこと、 つまり、 因縁の世界を超越した悟りの境地、 の意とある(広辞苑)。しかし、 有作、 は、 作られたもの、自然ならぬこと、 であり、 有為(うゐ)、 有相(うそう)、 と同じとある。となると、「無作」は、 身口意の動作を假らずして、自然に相続すること、 自然にして作為なきこと、 分別造作なきこと、 とある説明(大言海)の方が、正確である。それが、 道常無為、而無不為、侯王若能守、万物将自化(老子)、 の、 無為(むい・ぶい)、 に同じで、 自然にまかせて、作為するところのない、 つまりは、 因縁の造作なきこと、 因縁によって作られたものでなく、生滅変化を離れたもの、 となり、 その境地、 へと意味がつながる。 無作無起、観法如化(無量寿経)、 とある。「無作」は、 叡慮の驕慢の心を破って、無作の大善(だいぜん)に帰せしめんとなり(太平記)、 と、 無作の大善、 とも使う。 人為的でないおのずからの善、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)が、 菩薩がする、分別を離れた無為自然の善根(広辞苑)、 はからいを離れた偉大な善(精選版日本国語大辞典)、 ともあり、「無作」の境地からの、 菩薩がする、分別を離れた無為自然の善根、 の意味の方がいい気がする。 有作、 には、 有相(うそう)、 の意がある。仏教用語で、 すがた、形のあるもの、 存在するもの、 の意で(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 それは生滅変化するところから有為(うい)、 の意味にも用いる。また、 相対、差別においてとらえられるものをさす、 ともあり(精選版日本国語大辞典)、 うぞう、 と訓ますと、 有象無象(うぞうむぞう)、 となり、 有相無相(うそうむそう)、 の、 形をもっている存在と、すがた、形によって特質づけられている存在自体、すなわち存在の本性、 の意と同じで(精選版日本国語大辞典)、そこから、 宇宙にある有形・無形の一切の物、 つまり、 森羅万象、 の意となり、そのメタファで、 有象無象(うぞうむぞう)、 は、 世にいくらでもある種々雑多のつまらない人々、 の意で使う(広辞苑)。 「無」(漢音ブ、呉音ム)は、 无、 とも書き、 形声。原字は、人が両手で飾りを持って舞うさまで、のちの舞(ブ・ム)の原字。無は「亡(ない)+音符舞の略体」。古典では无の字で無をあらわすことが多く、今の中国の簡体字でも无を用いる、 とあり(漢字源)、 音を仮借したもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1)、 もと、舞(ブ)に同じ。借りて「ない」意に用いる。のち舞とは字形が分化し、さらに省略されて無の字形となった(角川新字源)、 「人の舞う姿」の象形から「まい」を意味していましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「ない」を意味する「無」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji730.html)、 等々とあり、「舞」を略して借字したということのようだ。 「作」(サク・サ)は、 会意兼形声。乍(サク)は、刀で素材に切れ目を入れるさまを描いた象形文字。急激な動作であることから、たちまちの意の副詞に専用するようになったため、作の字で人為を加える、動作をするの意をあらわすようになった。作は「人+乍(サ)」、 とある(漢字源)。同趣旨で、 会意形声。「人」+音符「乍」。「乍」は、ものに刃物を入れる様を象ったもの。ものに刃物を入れ作ることを意味したが、「たちまち」の意の副詞として用いられるようになったため、意味を明確にするため「人」を添え、人為であることを明確にした。「做」(サ)と同音同系、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%9C)、別に、 会意兼形声文字です(人+乍)。「横から見た人の象形」と「木の小枝を刃物で取り除く象形」から人が「つくる」を意味する「作」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji365.html)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 諸軍勢に至るまで、ただ窮子(ぐうじ)の他国より帰て、父の長者に逢へるか如く、悦ひ合事限なし(太平記)、 にある、 窮子(ぐうじ)の他国より帰て、 の、 窮子(ぐうし)、 は、 「法華経」信解品(しんげほん)の譬喩を踏まえる。長者の息子が家出して流浪し、五十年後に偶然長者の邸を訪れたのを、長者は下男として召使い、後に親子の名乗りをして財宝を譲ったこと。仏を長者、仏道修行者を子、仏法を財宝に喩えた譬喩、 と注される(兵藤裕己校注『太平記』)が、「窮子」を、 きゅうし、 と訓ますと、 中国古代の伝説に基づく貧乏神、 の意とされる(広辞苑)。あるいは、 窮鬼、 とされ、 貧乏神あるいは生霊のこと、 とある(https://chinki-note.blogspot.com/2021/02/kyuki.html)。この窮鬼は、 五帝の一人である顓頊(せんぎょく)の息子とされており、生まれつき体が弱くて背も低く、いつもボロボロの服を着て、白粥ばかり食べていたという。新しい服を与えても、着る前に破ったり、火で焼いて穴を作ってしまうので、周りの人々は、 窮子、 と呼んだという。 窮子は正月晦日に死んだので、宮中ではこの日を「窮子を送り出す日」と定めて葬り、これ以来窮鬼と呼ばれて人々に恐れられる存在になったとされている。なお、唐代には窮鬼に由来する「送窮」あるいは「送窮鬼」と呼ばれる民間行事が起こったという、 とある(仝上)。なお和名類聚抄(平安中期)には、 窮鬼は『遊仙窟』で伊岐須太萬(イキスダマ)、 と注釈されるとあり、 窮鬼と書いてイキスダマと読まれることもある、 とある(仝上)が、 窮鬼(きゅうき)は生霊にあらず、 とある(大言海)。「鬼」(き)は、 死者の精霊、 つまり、 幽霊、 のことだからである(仝上)。 しかし、「きゅうし」と訓ます「窮子」は、また、 困窮している人、 の意で、仏教で、 困って身の置き所のない子、 の喩えとして、 ぐうじ、 と訓ます、 窮子、 の意でもある。「窮子(ぐうじ)」は、法華七喩のひとつ、法華経信解品(しんげほん)」に説かれた、 窮子喩(ぐうじゆ)、 を指す(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。「窮子喩」は、紹介によって多少の移動がある。ひとつは、 ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9)。いまひとつは、 ある男が幼くして「父の膝下を離れ」「他国へ行った」。やがて「大人」になったが貧しく、「生業を求めて衣食のため十方を放浪し」た。「彼の父も他国に移住し、多くの財宝・穀物・金貨・倉庫を所有し、多量の金・銀・真珠・瑠璃・螺貝・水晶・珊瑚を蓄え、また大勢の男女の奴隷や雇用人・使用人がおり、また象・馬・牛・羊を幾頭も所持するようになった」。「また、大勢の眷属をつれ、諸大国の中でも有数な金持となり、そして農業や商業を手広く営んで、財産を蓄積しただけではなく、利殖をはかって繁盛していた」。息子は貧しく「各地を放浪して、ついに大金持の彼の父親が住む都城にたどり着いた」。「貧乏人の父親である大金持は、この町に住んでなに不自由なく暮らして」いたが、息子と別れてこのかた息子のことを片時も忘れたことはなかった。しかし。「誰にも打ち明けず、自分ひとりで悩み苦しみ」心を痛めていた。ところが、ある日のこと、貧しい息子が、衣食を求めて父の家とは知らず、その門の前に立った。しかし息子は「その豪勢な様子に驚くと同時に全身の毛がよだつほど怖れおののき」慌てて立ち退いてしまった。父親は「一目で自分の息子であることに気がつき」、一計を案じ、息子を使用人とした。長者である父親は、「華美な服を脱ぎ、汚れた衣服をまとい、自分の手足を泥土でよごし、かの貧乏な男に近づいて話しかけ」、「わたしをおまえの父親と思うがよい」。「おまえは今日からは、わたしの実の子と同じだ」と言った。やがて、年月が流れ、長者は死期の近づいたことを悟り、貧しかった男に財産を譲り渡し、おおやけに自分の実子であることを宣言するという喩である、 とある(http://www.n-seiryo.ac.jp/library/kiyo/tkiyo/11pdf/%E7%9F%AD%E5%A4%A71105.pdf)。 また別に、『法華経』や『涅槃経』等の影響下に作成された、如来蔵系経典である『大法鼓経』にも長者窮子喩が説かれているが、 『法華経』の長者窮子喩では、貧者は長者の家で仕事をしつつも財産を望まず、長者から真実を告げられ、思いもかけずに相続者となるのに対し『大法鼓経』では、長者から真実を聞かされる前であったにもかかわらず、貧者は自発的に財産の相続者となることを望み、そして長者から真実を告げられ、望み通りに相続者となる、 とされている。これは、『大法鼓経』が、 「衆生の内側に実在する如来蔵・仏性」に見出しているため「教えられずとも衆生(貧者)の側から成仏(財産)を求める」という構図、 を描いたためとされる(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/63/3/63_KJ00009915786/_article/-char/ja/)。 ま、ともかく、『法華経』信解品(しんげぼん)」の「窮子喩(ぐうじゆ)」は、 長者の出と知らずに流浪している貧窮の子を父親が見つけ、手段を尽くしてその嗣子であることを自覚させる、衆生が三界(欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つの世界)に流転しているのを仏の慈悲方便で善導し、正道を悟らせる、 のを喩えている(仝上)、とされる。他の喩えは、 譬喩品に説かれる三車火宅の喩、 薬草喩品に説かれる三草二木喩、 化城喩品に説かれている化城宝処喩、 五百弟子受記品に説かれている衣裏繋珠喩、 安楽行品に記されている髻中明珠喩、 如来寿量品にみられる良医治子喩、 とされる。この七つのたとえ話は、 釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化したスタイルに則している、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9)。 「窮」(漢音キュウ、呉音グ・グウ)は、 会意兼形声。「穴(あな)+音符躬(キウ かがむ、曲げる)」で、曲がりくねって先がつかえた穴、 とあり(漢字源)、「困窮」の「きわまる」、「貧窮」の「行き詰まる」、「窮理」「窮尽」の「きわめる」、「究極」の「行き詰まり」「果て」等々の意である。別に、 会意。「穴+躬(きゅう)」。穴中に躬(み)をおく形で、進退に窮する意。〔説文〕七下に「極まるなり」と訓し、……究・穹と声義近く、「究は窮なり」「穹は窮なり」のように互訓する。極は上下両木の間に人を入れて、これを窮極する意で、罪状を責め糾す意。窮にもその意があり、罪状を糾問することを窮治という、 とあり(白川静『字通』)、また、 会意兼形声文字です(穴+身+呂)。「穴居生活の住居」の象形と「人が身ごもった象形と背骨の象形」(「体」の意味)から、「人の体が穴に押し込められる」、「きわまる」を意味する「窮」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1691.html)。 類似の「窮」「極」「究」の違いは、 窮は、行き詰まる意。をはる、盡く。稗編「史記上起黄帝、下窮漢武」、転じて困窮と連用す、 極は、至極の義、行き届きて、もはやその先なきを言ふ、 究は、推尋也、竟也、深也、窮尽也と註す。考究・研究と連用す。困窮の義はなし、 とある(字源)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 人望に背きて自滅せんとする悪人を、御方となされたらば、豈に聖運の助けとならんや。虎を養いて自ら患(うれ)ひを招く風情なるべきものを(太平記)、 とある、 虎を養いて自ら患いを招く、 は、 虎を養いて自ら患(うれ)いを遺す、 虎を養いて患(うれ)いを残す、 虎の子を養いて患(うれ)いを忘れる、 などといい、 災いの種を絶たずに将来に禍根を残す、 意で(兵藤裕己校注『太平記』)、史記・項羽本紀の、 今釈弗撃、此所謂養虎自遺患也(今釈(す)てて撃たざれば、此所謂虎を養いて自(みずか)ら患いを残すなり)、 とあるのによる(故事ことわざの辞典)。 虎の子を殺さずに育てたために、いつの間にか凶暴な猛虎になって、我が身の心配をしなければならないようなことになる、 情愛に引かれてわざわいの種を絶たなかったために、後日のわざわいとなる、 などに喩えて言う(仝上)、とある。 膠着状態が続いた「広武山の戦い」(前203年)で、鴻溝より西を漢が、東を楚が領有するという盟約を結び、盟約がなった後、西楚王項羽(姓は項、名は籍、字は羽)は陣を引き払い、帰国の途に就いたが、漢の陣営では、謀将陳平と帷幄の将張良が、劉邦(姓は劉、諱は邦、字は季)に、 漢、天下の大半を有(たも)ち、楚の兵 饑疲(きひ)す。今 釈(ゆる)して撃たずんば、此れ所謂、虎を養いて自ら患いを遺すなり、 と、帰心矢の如き項羽軍の追撃を進言し、ついに項羽を垓下(がいか)に追い詰めた(垓下の戦い)。 四面楚歌、 は、 夜聞漢軍四面皆楚歌、項羽乃大驚曰、漢皆已得楚乎、是何楚人之多也、 と、包囲された項羽は楚の民が漢軍に降伏したと驚いた逸話へとつながり、別れの宴席を設けた時に虞美人に送った詩、 力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う) 時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず) 騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 奈何すべき) 虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん) 垓下の歌につながる(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%9D%A2%E6%A5%9A%E6%AD%8C)。 最後従うもの二十八騎になり、烏江(うこう)(という長江の渡し場)にたどり着き、烏江の亭長(ていちょう)に、 江東(こうとう)小なりと雖も、地は方千里(ほうせんり)、衆は数十万人、亦王たるに足るなり。願わくは大王急ぎ渡れ。今独り臣のみ船有り、漢軍至るも、以て渡ることなからん、 と勧められたが、 天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡ることを為さん。且つ籍江東の子弟八千人と江を渡りて西し、今一人の還る者なし。縦(たと)い江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありてかこれに見えん。縦い彼言わずとも、籍独り心に愧(は)じざらんや、 と(https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/china2/shiki010.html)、 乃ち騎をして皆馬より下りて歩行せしめ、短兵(たんぺい)を持ちて接戦す。独り籍の殺す所の漢軍数百人なり。項王自らも亦十余創を被る。顧みて漢の騎司馬(きしば)の呂馬童(りょばどう)を見て曰く、若(なんじ)は吾が故人に非ずやと。馬童これに面(そむ)き、王翳(おうえい)に指さして曰く、これ項王なりと。項王乃ち曰く、吾聞く、漢我が頭(こうべ)を千金、邑(ゆう)万戸(ばんこ)に購うと。吾若の為に徳せんと。乃ち自刎(じふん)して死す、 とある(仝上)。 虎を野に放つ、 虎を千里の野に放つ、 虎を赦して竹林に放つ、 千里の野辺に虎の子を放つ、 虎の子を野に放し、龍に水を与える、 なども、 虎を養いて患(うれ)いを遺す、 と似た意味で、 後に災いを残すような危険なものを野放しにしておく、 意のたとえとして使う。「虎の尾」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/454576631.html)で触れたが、 履虎尾不咥人(易経)、 由来の、 虎の尾を踏む、 などと、虎は危険なものの代名詞として使われる。 「虎」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482959788.html)で触れたように、「虎」(漢音コ、呉音ク)は、 象形、虎の全体を描いたもの、 である(漢字源)が、 儿(元の形は「几」:床几)にトラの装束を被った者が座っている姿、 とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8E)。 「虎嵎を負う」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456719697.html)も触れたことがある。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) その比(ころ)、世に聞こえし勾当内侍(こうとうのないし)を貴重せられける初めにて、暫時の別れをも悲しみて、……西国下向の事を延引せられけるぞ、誠に傾城傾国(けいせいけいこく)の謂はれなりける(太平記)、 に、 美女が城や国を傾ける故事の通りである、 と注記する(兵藤裕己校注『太平記』)、 傾城傾国、 は、 傾国傾城、 とも言い、「傾城」は、 町を危うくさせること、 「傾国」は、 国を危うくさせること、 とあり(故事ことわざの辞典)、 男がおぼれて、町も国も顧みぬまでに進水させるほどの絶世の美人、 の意とある(仝上)が、「傾城」を、 城を傾けしむるものなれば云ふ、傾くるは、ほろぼすにて、不詳の語原なり、傾国と云ふも意同じ、草苞(くさづとと 賄賂)に国傾くと云ふ諺あり、大砲を国崩(くにくづし)などとも云ふ、 とある(大言海)。 「傾」(漢音ケイ、呉音キョウ)は、 会意兼形声。頃(ケイ)は「頁(あたま)+化(かわる)の略」の会意文字で、頭を妙な具合にまげ、垂直の状態から変化させる意を示す。傾は「人+音符頃」。頃が田畑の単位(一頃が一畝)に転用されたため、傾でその原義(かたむく)をあらわした、 とあり(漢字源)、「傾覆」「傾陥(人をたおしておとしいれる)」と使い、「立っている物を倒す」意がある。「傾城」「傾国」を、メタファと考えれば、意は通じる。別に、 会意兼形声文字です(人+頃)。「横から見た人」の象形と「かたむく人の象形と人の頭部を強調した象形」(「頭をかたむける」の意味)から、「かたむく」、「かたむける」を意味する「傾」という漢字が成り立ちました、 との説もある(https://okjiten.jp/kanji1105.html)。 「傾城」「傾国」は、「詩経」大雅・蕩之什・膽卬編に、 哲夫成城、哲婦傾城、……婦有長舌、維飼V階(ミダレノハシ)(哲は聟なり、これは、支那の三代の周の幽王の寵姫褒姒(ほうじ)をさして云ふ)、 とあり(大言海)、さらに、「漢書」外戚伝に、 北方有佳人(北方に佳人有り) 絶世而獨立(絶世に而て獨り立つ) 一顧傾人城(一たび顧みれば人の城を傾け) 再顧傾人國(再び顧みれば人の國を傾ける) 寧不知傾城與傾國(寧ぞ傾城と傾國を知らずや) 佳人難再得(佳人を再び得るは難し) と、漢の李延年(りえんねん)の「佳人の歌」がある。これは、自分の妹を武帝に売りこむために作ったといわれる。その結果、妹は李夫人と呼ばれ武帝の寵愛を得ることになる(https://www.minyu-net.com/serial/yoji-jyukugo/yoji0602.html)。 また、白居易(字は楽天)の長恨歌に、 漢皇重色思傾国(漢皇(かんのう)色を重んじて傾国(けいこく)を思う) 御宇多年求不得(御宇(ぎょう)多年(たねん)求むれども得ず) 楊家有女初長成(楊家(ようか)に女(むすめ)有り初めて長成(ちょうせい)す) 養在深閨人未識(養われて深閨(しんけい)に在り人未(いま)だ識(し)らず) 天生麗質難自棄(天生(てんせい)の麗質(れいしつ)自(みずか)ら棄(す)て難(かた)く) 一朝選在君王側(一朝(いっちょう)選ばれて君王(くんのう)の側(かたわら)に在り) 迴眸一笑百媚生(眸(ひとみ)を迴(めぐ)らして一笑すれば百媚(ひゃくび)生じ) 六宮粉黛無顔色(六宮(りくきゅう)の粉黛(ふんたい)顔色(がんしょく)無し) と詠われた、 楊貴妃、 もある。 あるいは、古くは、夏の最後の帝・桀(けつ)の妃、 末喜(ばっき、まっき)、 殷の紂王の妃、 妲己(だっき)、 も有名だ。しかし、わが国では、「傾城」は、 契情、 と、音意ともに写した当て字(広辞苑)で、 色をもって人を溺らする意、 で(大言海)、 昔一條の桟敷屋に、或男、泊まりて、けいせいと臥したりけるに(宇治拾遺)、 と、 遊女、 を指す(広辞苑)。 浄瑠璃、歌舞伎の役柄に多く取入れられ、女方の基本の一つとされる。特に上方歌舞伎では『傾城浅間獄』『傾城壬生大念仏』など、「傾城」「契情」「けいせい」の字を外題につける習慣があった、 ともある(ブリタニカ国際大百科事典)。 「傾城」にかかわる、 傾城買いの糠味噌汁、 傾城買いと灰吹きは青いうちが賞翫、 傾城買いより紙屑買い、 傾城狂いによい程という程がない、 傾城と行燈、昼は見られず、 傾城と辻風は会わぬが秘密、 傾城に誠なし、 傾城に誠あれば晦日に月が出る、 傾城の千枚起請、 傾城の柄(づか)を握る、 傾城小忠実(こまめ)に盥が女房、 等々の多くの諺は、遊女の意意である。 なお、和語「傾く」については、「傾く」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463942949.html)、「かぶく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463958263.html)で触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簀の子の下尋ぬるに、母常々秘蔵せし虎毛の猫死し居たりとなり。是猫又か(宿直草)、 千歳の狐は美女となり、百年の鼠は相卜すと経文に見えたり。年経し猫は猫又とも成るべし(仝上)、 とある、「猫又」は、 猫股、 とも当て、「化け猫」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461633915.html)で触れたように、 古猫の尻尾の二本に裂けた猫股(猫又とも)はよく化ける、 とか、 飼猫が一三年たつと化けて人を害す、 というが、 想像上の怪獣で、年をとって犬のような大きさになったもの、 ともあり(岩波古語辞典)、 奥山に猫又といふものありて人をくらふなり(徒然草)、 とある。 和名類聚抄(平安中期)には、 猱㹶、萬太、 とあるものが、 是か、 とある(大言海)。明月記(藤原定家)天福元年(1233)八月二日には、 南都云、猫股獣出来、一夜噉七八人死者多、或又打殺件獣、目如猫、其體如犬長、 と載る。これが初出らしいが、「猫又」は、 大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの2種類、 あるらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E5%8F%88)。貞享二年(1685)『新著聞集』で、紀伊国山中で捕えられた猫又は、 イノシシほどの大きさ、 とあり、安永四年(1775)『倭訓栞』では、 猫又の鳴き声が山中に響き渡った、 とあり、ライオンほどの大きさだったと見られ、文化六年(1809)『寓意草』では、 犬をくわえていたという猫又は全長9尺5寸(約2.8メートル)、 とあるとか(仝上)と、 山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向、 がある(仝上)が、江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、 江戸中期の『安斎随筆』(伊勢貞丈)に、 数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる、 とあり、また江戸中期の新井白石も、 老いたネコは「猫股」となって人を惑わす、 と述べるなど、 金花猫(ねこまた)でも化けたと申スやうな事かナ(文化十一年(1814)「素人狂言紋切型」)、 と、老いたネコが猫又となることが常識となっていたようだ(仝上)。 「猫又」の語源は、 「又」は尾が二又に分かれているから、 とされているが、民俗学的には、 年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」、 とする説、あるいは、 老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり分かれているように見える、 とする説、 かつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」、 とする説などがあるが、 サルを意味する爰(また)、 から思い至るのは、和名類聚抄(平安中期)の、 猱㹶、萬太、 とする説である。「㹶」(テイ・ジョウ)はどの漢和辞典にも載らなかったが、「猱」(ドウ・ジョウ)は、 さる、テナガザルの一種、 とされている(https://kanji.jitenon.jp/kanjiy/16418.html)。あるいは、「猫又」は猿の謂いなのかもしれない。いまひとつ、「猫又」は、中国の、 仙狸、 が由来とする説(https://dic.pixiv.net/a/%E4%BB%99%E7%8B%B8)がある。「仙狸(せんり)」は、 中国に伝わる猫の妖怪。歳を経た山猫が神通力を得て妖怪化したもので、美男美女に化けては人間の精気を吸う、 とされている(https://dic.pixiv.net/a/%E4%BB%99%E7%8B%B8)。「狸(リ)」は、 貍(リ)、 と同義で、 むじな、 たぬき、 の意の他に、 野生の猫、 の意がある(漢字源)。 「猫」(漢音ビョウ・ボウ、呉音ミョウ)は、 会意兼形声。「犬+音符苗(なよなよとして細い)」。からだがしなやかで細いねこ。あるいは、ミャオと鳴く声になぞらえた擬声語か、 とか(漢字源)、 会意形声。犬+音符「苗」(ビョウ・ミョウ;なよなよして弱い。一説に、ニャーという猫の鳴き声をあらわす。cf.喵(miāo) 中国語における猫の鳴き声の擬声語)、 と、二説があるようである(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8C%AB)が、 会意兼形声文字です(犭(犬)+苗)。「犬」の象形(「獣」の意味)と「並び生えた草の象形と区画された耕地の象形」(「田畑に生えた苗(なえ)」の意味)から、苗を荒らす鼠(ねずみ)を捕まえて苗の害をなくす獣、すなわち「ねこ」を意味する「猫」という漢字が成り立ちました、 と、「苗」説をとるもの(https://okjiten.jp/kanji56.html)もある。 「ねこ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451841720.html)、「猫も杓子も」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451814115.html?1500062074)、については、別に触れた。 参考文献; 高田衛編・校注『江戸怪談集』(岩波書店) 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) よしや、ただ一業所感(いちごうしょかん)の者どもが、この所にて皆死すべき果報にてこそあらめ(太平記)、 にある「一業所感」は、 同じ業により現世で同じ報いを受ける者たち、 と注記がある(太平記)。「業(ごう)」は、 サンスクリット語のカルマンkarmanの訳語、 で、 羯磨(かつま)、 とも当てられる(広辞苑)。 もともとクル(為(な)す)という動詞からつくられた名詞であり、行為を示す、 が、しかし、 一つの行為は、原因がなければおこらないし、また、いったんおこった行為は、かならずなにかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この系列はどこまでも続く)を総称して、業という、 とある(日本大百科全書)。それはまず素朴な形では、 いわゆる輪廻思想とともに、インド哲学の初期ウパニシャッド思想に生まれ、のち仏教にも取り入れられて、人間の行為を律し、また生あるものの輪廻の軸となる重要な術語、 となり、 善因善果・悪因悪果、さらには善因楽果・悪因苦果の系列は業によって支えられ、人格の向上はもとより、悟りも業が導くとされ、さらに業の届く範囲はいっそう拡大されて、前世から来世にまで延長された、 とある(仝上)。 現在の行為の責任を将来自ら引き受ける、という意味に考えてよいであろう。確かに行為そのものは無常であり、永続することはありえないけれども、いったんなした行為は消すことができず、ここに一種の「非連続の連続」があって、それを業が担うところから、「不失法」と術語される例もある、 との解釈は、「業」を身に受けるという主体的解釈に思える(仝上)。仏教では、 三業、 といい、 その行為が未来の苦楽の結果を導く働きを成す、 とし、 善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生む、 としている(広辞苑)。だから、業による報いを、 業果や業報、 業によって報いを受けることを、 業感、 業による苦である報いを、 業苦、 過去世に造った業を、 宿業または前業、 宿業による災いを、 業厄、 宿業による脱れることのできない重い病気を、 業病、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD)。で、自分の造った業の報いは自分が受けなければならないゆえに、 自業自得、 ということになる。初期の仏教では、業をもっぱら、 個人の行為、 に直結しているが、やがては社会的に拡大して多くの個人が共有する業を考えるようになり、 共業(ぐうごう)、 とよび、個人ひとりのものは、 不共業、 と名づけるともある(日本大百科全書)。 こうみると、 一業所感、 は、 一業所感の身なれば、先世の芳縁も浅からずや思ひしられけん(平家物語)、 と、 同一の善悪の業(ごう)ならば同一の果を得る、 という意味であり、 共業共果(きょうごうきょうか)、 ともいう(大辞泉)。「一業」は、 一つの行為、 だが、 ひとの業因(岩波古語辞典)、 つまり、 結果を招く一種の力をもったはたらき、 を指し(精選版日本国語大辞典)、「所感」は、今日では、 今日の事件を材料にして、早速、所感を書いて送る事にしよう(芥川龍之介「手巾」)、 と、 心に感じたこと、感想、 の意だが、仏教用語では、 此業力所感の故に、業の尽不尽に依て生を改めて(「覚海法橋法語(12C終〜13C前)」)、 と、 (前世での)過去の行為が、その結果としてもたらすもの、 の意となる(四字熟語を知る辞典・精選版日本国語大辞典)。「字通」(白川静)には、「所感」について、 心に感じる。〔列女伝、母儀、周室三母伝〕子を姙(はら)むの時は、必ず感ずるを愼む。善に感ずるときは則ち善、惡に感ずるときは則ち惡なり。人生まれて物に肖(に)るは、皆其の母、物に感ずればなり、 とある。 「一」(漢音イツ、呉音イチ)は、 指事。一本の横線で、一つを示す意のほか、全部をひとまとめにする、一杯に詰めるなどの意を含む。壱(イチ)の原字壹は、壺に一杯詰めて口をくびったたま、 とある(漢字源)。 「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、 象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる。厳(ガン いかつい)・岩(ごつごつしたいわ)などと縁が近い、 とある(漢字源)が、別に、 象形。楽器などをかけるぎざぎざのついた台を象る。苦労して仕事をするの意か? とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%AD)、 象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる、 とも(角川新字源)、 象形文字です。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちました、 ともあり(https://okjiten.jp/kanji474.html)、 ぎざぎざのとめ木のついた台、 が、 のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板、 と特定されたものだということがわかる。 「所」(漢音ソ、呉音ソ)は、 形成。「斤(おの)+音符戸」で、もと「伐木所所(木を伐ること所々たり)」(詩経)のように、木をさくさくと切り分けること。その音を借りて指示代名詞に用い、「所+動詞」の形で、〜するその対象を指し示すようになった。「所欲」とは、欲するそのもの、「所至」とは、至るその目標地をさし示した言い方。後者の用法から、更に場所の意を派生した、 とある(漢字源)。 別に、 会意文字です(戸(戶)+斤)。「入り口の戸」の象形と「斧(おの)」の象形から斧等を置いた入り口の戸を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ところ・ばしょ」を意味する「所」という漢字が成り立ちました ともあり(https://okjiten.jp/kanji468.html)、 会意、「斤」(おの)で「戸」を守るの意で、神の居る所(白川静)。または、「戸」を音とし、「斤」で切り開く意であったものが、音を仮借し指示代名詞として用いた(藤堂明保)、 と(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%80)、 「戸」を守る、 の意と、 「戸」を音、 の意との二説ある。 「感」(漢音カン、呉音コン)は、 会意兼形声。咸(カン)は、戈でショックを与えて口を閉じさせること。緘(とじる)の原字。感は「心+音符咸」で、心を強く動かすこと。強い打撃や刺激を与える意を含む、 とあり(漢字源)、 形声。心と、音符咸(カム)とから成る。外物に対して心が動く意を表す、 と(角川新字源)、 会意文字です(咸+心)。「口の象形とまさかりの象形」(「大きなまさかりの威圧の前に口から大声を出し切る」の意味)と「心臓の象形」から大きな威圧・刺激の前に「心が動く・かんじる」を意味する「感」という漢字が成り立ちました、 と(https://okjiten.jp/kanji439.html)、 これも、 会意形声。「心」+音符「咸」、「咸」は「戌(←戈+一)」+「口」の会意文字で、 武具で脅して口を閉じさせるの意であり、「緘」の原字で、「感」は口を閉ざすほどの心理的に強い衝撃の意(藤堂)、 または、 神器に武具をあわせ神威を得るの意(白川)、 の二説がある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%84%9F)。 参考文献; 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 一生のうち、むねとあらまほしからん事の中に、いづれかまさると(徒然草)、 とある、 むねと、 は、 宗とは仁木右京大夫(うきょうのだいぶ)義長が過分の振る舞ひを徇(しず)めんがためにて候ひき(太平記)、 と、 宗と、 と当て、副詞として、 主として、 もっぱら、 の意で(岩波古語辞典)使い、この場合、 旨、 の字も当てる(大言海)。また、 宗とあると見ゆる大将、横座にゐたり(宇治拾遺)、 と、 大将として、 の意でも使う(明解古語辞典)。さらに、 宗徒、 と当て、 海賊が宗との物、くろばみたる物きて、あかき扇ひらきつかひて(宇治拾遺)、 洛中の勢を集められけれども、宗徒の勢は、摩耶城より追つ立てられて(太平記)、 と、名詞として、 主だったもの、 中軸となるべき、 の意でもつかう(岩波古語辞典)。 宗とあるものの意、 とあり(明解古語辞典)、この「むね」は、 宗、 と当てると、 家の造やうは夏を宗とすべし(徒然草)、 宗とは詩作り給ふ事を好みて(今鏡)、 と、 主とすること、 中心とすること、 専らとすること、 の意(広辞苑・大言海・明解古語辞典)や、 (歌合は)歌を宗としたる事に、(絵を)などわろきものにかかすべき(栄花根合)、 と、 最高の価値として一貫すべきもの、 の意ともなり(岩波古語辞典)、 旨、 と当てると、 方等経の中におほかれど、言ひもてゆけば、ひとつむねに當りて、菩提と煩悩とのへだたりなし(源氏物語)、 こころ、 ことのおもむき、 趣意、 の意で(広辞苑・大言海)、 其の有らゆる深き致(むね)、亦一に十を斯に尽くしつ(三蔵法師傳)、 と、 致、 とも当てる(広辞苑・大言海)。 「宗」は、 心(むね)の義、 「旨」は、 事の宗の義、胸、心と通ず、 とある(大言海)が、別に、「むね(宗・旨)」は、 ム(含・内容のまとまり)+ネ(根幹)、 とし、 宗は、主とすること、旨は、趣旨の意、 とする説(日本語源広辞典)もある。しかし、「むね(宗・旨)」は、 ムネ(棟)・ムネ(胸)と同根。家の最も高いところで一線をなす棟のように、筋の通った最高のもの、 とある(岩波古語辞典)。「胸」は、古形は、 胸先、 胸騒ぎ、 に残るように、 むな、 であり、 身根(むね)の転、 「棟」も、 身根(むね)の転、 とする説があり(大言海)、いずれも、 (人や建物の)根幹、 の意であり、「宗」の意と繋がり、「宗」と「胸」「棟」とは、漢字を当て別けるまで、ひとしく「むね」であった可能性が高い。 「宗」(慣用シュウ、漢音ソウ、呉音ソ)は、 会意。「宀(やね)+示(祭壇)」で、祭壇を設けたみたまやを示す。転じて、一族の集団を意味する。族はその語尾がつまってkに転じたことば、 とあり(漢字源)、ひいて、祖先、また、祖先神の祭りを主宰する族長の意に用いる、ともある(角川新字源)。 「旨」(シ)は、 会意。もと「匕+甘(うまい)」の会意文字。匕印は人の形であるが、まさか人肉の脂ではあるまい。匕(さじ)に当てた字であろう。つまり「さじ+甘」で、うまい食物のこと。のち指(ゆびで示す)に当て、指し示す内容の意に用いる、 とある(漢字源)が、 諸説あり、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%97%A8)、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)は、 「曰」は「甘」の転で「匕」を音符とするが、後代の研究において否定的(唐韻においても、「旨」は「職雉切」であるが、「匕」は「卑履切」と遠い。但し、「是(承旨切)」に音を借りた「匙(是支切)」や、匙を原義とする「氏(承旨切)」の音は近い)。「匕」は「匕首」即ち小型の刃物であり、それで、食物をとりわけ味わうの意であろうとされる。白川静は「曰」を神意を得たもの(この場合は食物)を封じた容器(サイ)と解する。「意義・内容」の意義は、皇帝が「指」したものからの派生、 と説明する(仝上)。しかし、多くは、 会意形声。意符甘(あまい。日は変わった形)と、匕(ヒ)→(シ さじ)とから成り、さじに取って口でなめる、ひいて「うまい」意を表す(角川新字源)、 会意文字です(匕+日(口))。「さじ」の象形と「口」の象形から、さじで口に食物を流し込む事を意味し、そこから、「うまい」、「よい」を意味する「旨」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1158.html)、 と、「さじ」説を取っている。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 金田一京助・春彦監修『明解古語辞典』(三省堂) 大槻文彦『大言海』(冨山房) |
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