「堅石白馬」(けんせきはくば)は、 堅白同異(けんぱくどうい)、 堅白異同(けんぱくいどう)、 ともいい、 ただ、如来の権実(ごんじつ 方便と真実の教え)徒らに堅石白馬(ケンセキハクバ)の論となり、祖師の心印、空しく叫騒怒張の中に落つべし(太平記)、 と、 堅と石、白と馬とはそれぞれ別の概念であり、ゆえに堅石は石ではなく、白馬は馬ではない、 とする、 詭弁の論法、 をいう(兵藤裕己「太平記」注)。出典は、『史記』孟軻伝に、 公孫龍、為堅白同異之辨、 とあり(大言海)、『史記』孟子荀卿伝に、公孫龍の堅白論が載る。 堅白石三、可乎、曰、不可。二可乎、曰可。謂目視石、但見白、不知其堅、則謂之白石、手触石則知其堅而不知其白、則謂之堅石、是堅白終不可合為一也(堅白石は三とは、可なるか、曰く不可なり。二とは可なるか、曰く可なり。謂う目は石を視るに、但白きを見て、其の堅きことを知らず、則ち之を白石と謂う、手石に触るれば則ち其の堅きを知りて其の白きを知らず、則ち之を堅石と謂う。是堅白終に合して一と為るべからざる)、 と(故事ことわざの辞典)。 つまり、 堅く白い石があるとすると、目で見た時はその白いことはわかるが、堅いことはわからない。手に触れた時はその堅いことはわかるが色の白いことはわからない。故に堅石と白石とは同一のものではない(広辞苑)、 とは、昨今では、 ご飯論法、 といった詭弁があった。「ご飯論法」とは、 「朝ご飯は食べたか」という質問を受けた際、「ご飯」を故意に狭い意味にとらえ、(パンを食べたにもかかわらず)「ご飯(白米)は食べていない」と答えるように、質問側の意図をあえて曲解し、論点をずらし回答をはぐらかす手法である、 というものだが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%94%E9%A3%AF%E8%AB%96%E6%B3%95)、要は、言葉を変えて、問題をすり替える。 似たものに、 自分の都合のいいように無理に理窟をこじつける、 意の、 牽強付会、 があるが、これに似たものに、 断章取義(だんしょうしゅぎ)、 がある。 文章の一節を取り出し、文章全体の本意と関係なく、その一節だけの意味で用いること。ひいて、自分の都合のよい引用をする、 意である。似ているようで違うのに、 郢書燕説(えいしょえんせつ)、 がある。 楚の都郢からきた手紙に対して、燕の国の人がとった解釈、 という意であるが、由来は、『韓非子』の、 郢の学者が、ある夜、燕の国の宰相に手紙を書いたが、灯火が暗いので、従者に「燭(しょく)を挙げよ」と命じ、従者は誤って「挙燭」というこのことばをそのまま、手紙に書き込んでしまった。これを読んだ宰相は、「挙燭」の語を「明(めい)を尊べ」の意(賢人を登用せよ)と誤って解し、王に進言して賢者を登用し、大いに治績をあげた、と伝える、 とあるのによる(故事ことわざの辞典)。 燕相受書而説之曰、 挙燭者尚明也。 尚明也者、挙賢而任之。 燕相白王。 王大説、国以治。 挙燭、 を、 尚明(明を尊ぶ)、 と解釈したもののようである。 韓非子は、 治則治矣、非書意也、 今世学者、多似此類、 と嘆いている(https://ameblo.jp/yk1952yk/entry-11346657378.html)。 「堅」(ケン)は、 会意兼形声。臤(ケン)は、臣下のように、からだを緊張させてこわばる動作を示す。堅はそれを音符とし、土を加えた字で、かたく締まって、こわしたり、形を変えたりできないこと、 とある(漢字源)が、別に、 土と、臤(ケン かたい)とから成り、土がかたい、ひいて、「かたい」意を表す。「臤」の後にできた字、 ともあり(角川新字源)、さらに、 会意兼形声文字です(臤+土)。「しっかり見開いた目の象形(「家来」の意味)と右手の象形」(神のしもべとする人の瞳を傷つけて視力を失わせ、体が「かたくなる」の意味)と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)から、かたい土を意味し、そこから、「かたい」を意味する「堅」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1243.html)。 参考文献; 兵藤裕己校注『太平記(全六冊)』(岩波文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 「むち」は、 鞭、 笞、 撻、 策、 等々と当てる(広辞苑)。 馬のむち、 の意もあるが、 罪人を打つむち、 の意もある(仝上)。 ブチとも云ふ、 とあり(大言海)、 打(うち)に通ず、 とある(仝上・日本語源広辞典)。或いは、 馬打(うまうち)の約、 ともある(大言海・言元梯)。 馬を打つところから、ウチの転(日本釈名・貞丈雑記)、 ウツの転(和語私臆鈔・国語の語根とその分類=大島正健)、 ムマウチの約(名語記)、 も同趣旨と思う。 ムヂ(和名抄)、 ブチ(新撰字鏡)、 などもあり、 ウブチ→ブチ→ムチと変化(山口佳紀・古代日本語文法の成立の研究)、 とする説もあるが、馬にしろ、罪人にしろ、 打つ、 ところから来たものと思われる。ところで、「むち」に当てる、 笞 は、「むち」ではなく、漢音の、 ち、 と訓むと、 律の五刑のうち、最も軽い刑、 を指す。 楚、 とも当て、 木の小枝で尻を打つ刑で、10から 50まで、10をもって1等に数え、5等級とした。明治初年の刑法典である『仮刑律』『新律綱領』においても正刑の一つとして採用された。しかし明治5 (1872) 年それに代り懲役刑が行われることとなった、 とある(ブリタニカ国際大百科事典)。五刑とは、 五罪、 ともいい、罪人に対する五つの刑罰で、 古代中国では墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)をさす。隋・唐の時代には、笞(ち むちで打つこと)、杖(じょう つえで打つこと)、徒(ず 懲役)、流(る 遠方へ追放すること)、死(死刑)の五つをいう。日本では、大宝・養老律以後この隋・唐の方式がとられ、近世まで行なわれていた、 とされる(精選版日本国語大辞典)。「笞」を、 しもと、 あるいは、 しもつ、 と訓むと、 (葼(しもと 木の若枝の細長く伸びたもの)を用いたところから)木の若枝でつくったむち、 の意となる(岩波古語辞典)。「しもと」が「笞」の意であるところから、 老いはてて雪の山をば戴けどしもと見るにぞ実は冷えにける(拾遺和歌集)、 との歌があり、「霜と」と「しもと(笞)」を懸けている。 「大隅守さくらじまの忠信が国にはべりける時、郡のつかさに頭の白き翁の侍りけるを召しかんがへむとし侍りにける時翁の詠み侍りける」とあり、それが上記の歌で、註に、「この歌により許され侍りにける」とある。似た歌が、宇治拾遺物語にあり、やはり罪人が、 としをへてかしらの雪はつもれどもしもとみるにぞ身はひえにけり、 と詠んで、「ゆるしけり」とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。 和名類聚抄(平安中期)に、 笞、之毛度、 とある。養老律令の獄令(ごくりょう)には、 笞杖、大頭三分、小頭二分、杖、削去節目、長三尺五寸、 とある(大言海)。さらに、「笞」を、 びんづらゆひたる童子のずはえ持ちたるが(宇治拾遺)、 と、 ずはえ、 あるいは、 すはい、 すはえ、 等々と訓ますと、やはり、 杖(じょう)、笞(むち)の類、 の意となる。これも、「すはゑ」が、 木の枝から真っ直ぐ伸びた若枝、 の意で、これを「むち」に使ったからかと思われる。 笞 ほそきすはゑ、 杖 ふときすはゑ、 とある(日本書紀)。 「しもと」は、 葼、 楉、 細枝、 と当てると、 枝の茂った若い木立、木の若枝の細長く伸びたもの、 をさし、 すはゑ(すわえ)、 ともいう。元来は、 小枝のない若い枝を言った、 とある(今昔物語注)。和名類聚抄(平安中期)には、 葼、之毛止、木細枝也、 字鏡(平安後期頃)には、 葼、志毛止、 とある(大言海)。これは、 茂木(しげもと)の略、本は木なり、真っ直ぐに叢生する木立の意(大言海・万葉考・雅言考・和訓栞)、 シモト(枝本)の義(柴門和語類集)、 数多く枝分かれした義のシマと枝の義のモトから(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 等々の説があるが、どうもしっくりしない。 小枝のない若い枝を言った 枝本、 を音読みした「シモト」ではないかと、憶測してみる。 「すはゑ」は、 平安初期の写本である興福寺本霊異記に「須波惠(すはゑ)」とあるから、古い仮名遣いは「すはゑ」と認められる、 とある(岩波古語辞典)。 楚、 楉、 杪、 條、 等々とも当てる(広辞苑・大言海)。字鏡(平安後期頃)、天治字鏡(平安中期)に、 須波江、 類聚名義抄(11〜12世紀)に、 楉、シモト、スハエ、 楚、スハヘ、 色葉字類抄(1177〜81)に、 楉、楚、シモト、スハエ(楉は若木の合字)、 等々とある(大言海)。 木の枝や幹から細く長く伸びた若い小枝、 の意であり(広辞苑)、 しもと、 と同義となる。この由来は、 スクスクト-ハエタル(生)モノの意(大言海)、 スハエ(進生)の義(言元梯)、 スハエ(末枝)の意(日本釈名・玉勝間)、 直生の義(和訓栞)、 直生枝の急呼(箋注和名抄)、 スグスヱエ(直末枝)の義(日本語原学=林甕臣)、 等々あるが、どうもすっきりしない。 素生え、 なのではないか、と憶測してみた。 「笞」(チ)は、 会意兼形声。「竹+音符台(ためる、人工を加える)」 とあり(漢字源)、「笞杖」「笞刑」等々と使うが、竹で作った細い棒である。 「楚」(漢音ソ、呉音ショ)は、 会意兼形声。「木二つ+音符疋(一本ずつ離れた足)」。ばらばらに離れた柴や木の枝、 とあり(漢字源)、別に、 会意形声。複数の「木」+音符「疋」。「疋」は各々の足を表し、木の枝をばらばらにしたものを集めた柴、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%9A)。 形声文字です(林+疋)。「木が並び立つ」象形(「林」の意味)と「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「あし(人や動物のあし)」の意味)だが、ここでは「酢(ソ)」に通じ(同じ読みを持つ「酢」と同じ意味を持つようになって)、「刺激が強い」の意味)から、「群がって生えた刺激が強い、ばら」を意味する「楚」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2520.html)。「一本ずつばらばらになった柴」や「いばら」の意である。 「策」(漢音サク、呉音シャク)は、 会意兼形声。朿(シ・セキ)は棘の出た枝を描いた象形文字。刺(さす)の原字。策は「竹+音符朿(シ とげ)」で、ぎざぎざと尖って刺激するむち。また竹札を重ねて端がぎざぎざとつかえる冊(短冊)のこと、 とある(漢字源)。「馬に策(むちう)つ」(論語)のように鞭打つ意である。また竹札から、文書の意も。別に、 会意、「竹」+「朿」で、朿とげが付いてる竹たけの「むち」が原義。むちで刺激することから派生して、「はかりごと」「計画」という意味に転化した、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AD%96)、 形声文字です(竹+朿)。「竹」の象形と「とげ」の象形(「とげ」の意味だが、ここでは、「責」に通じ(同じ意味を持つようになって)、「せめる」の意味)から、馬を責める竹、すなわち、「むち」を意味する「策」という漢字が成り立ちました。また、「冊(サク)」に通じ、「文書」の意味も表すようになりました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji985.html)。 「鞭」(慣用ベン、漢音・呉音ヘン)は、 会意兼形声。「革(かわ)+音符便(平らで、ひらひらと波打つ)」、 とあり(漢字源)、まさに馬の「むち」の意である。別に、 会意兼形声文字です(革+便)。「頭から尾までを剥いだ獣の皮」の象形(「革」の意味)と「横から見た人の象形と台座の象形と右手の象形とボクッという音を表す擬声語(「台を重ねて圧力を加え平らにする」の意味)」(「人の都合の良いように変える」の意味)から牛や馬を人の都合の良いように変える革の「むち」を意味する「鞭」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2783.html)。 「葼」(ソウ)は、 樹木の細長い小枝。しもと、 とあり、 葼(細枝)勝ち(しもとがち)、 は、 桃の木の若だちて、いとしもちがちにさし出でたる(枕草子)、 と、 若い小枝が多く茂っているさま、 をいう(デジタル大辞泉)。
「楉」(ジャク)は、 「はたる」は、 徴る、 債る、 と当て、 請求する、 強く求める、 意だが、 責めたてる、 という含意が強く、 科之以千挫句置戸、遂促徴(セメハタル)矣(神代紀) 檀越(だにをち)や然もな言ひそ里長(さとをさ)が課役(えだち)徴(はた)らば汝(いまし)も泣かむ(万葉集)、 安永その宮の封戸(ふこ)をはたらむがために上野(かみつけ)の国に行(ゆ)きにけり(今昔物語)、 等々と、税などを、 取り立てる、 徴収する、 との意で使う。類聚名義抄(11〜12世紀)には、 徴、ハタル、モトム、モヨホス、セム、 とあり、色葉字類抄(1177〜81)には、 徴、ハタル、税、 とある(岩波古語辞典・大言海)。 「はたる」の語源は、 朝鮮語pat(徴)と同源、 としか見つからない(岩波古語辞典)。ただ、大宝律令で完成する租・庸・調の税制度そのものが、唐の制度を真似たものだから、朝鮮半島経由で、この言葉が伝わってもおかしくはないが、これ以外に言及した物がないので、何とも言いようがない。 「徴(澂)」(チョウ・チ)は、 会意。「微の略体+王」で、隠れたところで微賤(ビセン 地位・身分が低くいやしいこと)なさまをしている人材を王がみつけて取り上げることを示す、 とある(漢字源)。「徴召」等々と云い、「隠れている人材を召出す」意である。「求める」意だが、 求、乞也索也と註す、なき物を、有るやうにほしがり求め、又、さがしもとむる義にて、意広し、求友、求遺書の類、 索、さがし求むるむなり、通鑑「粱主臥浄居殿、口苦索蜜不得、遂殂」、 需・須、音義通ず。まつとも訓む、無くてはならぬと、まち求むなり。赤壁賦「以待子不時之需」、 要、まちかまえてぜひにと求むるなり。孟子「修其天爵、以要人爵」、 徴、めすとも訓む。己の方へひきつけ求める義、 と(字源)、「求める」意味の中では、「徴」は、どちらかというと、「君主または官符の召出し」の意である。その意味で、「徴税」の意につながる。 同じく、 微+王、 としているものもある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BE%B4)が、別に、 旧字は、会意。微(び)(は省略形。かすか)と、𡈼(てい つきでる。「壬」(ニン ふくれる)とは別字)とから成り、かすかにものが現れる意を表す。ひいて、めしだす意に用いる。常用漢字は省略形による、 とある(角川新字源)。どちらとは決めかねるが、「王」と「𡈼」では違い過ぎる気がする。さらに、 形声文字です。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「植物が芽を出して発芽した」象形(「芽生え」の意味だが、ここでは、「登」に通じ(「登」と同じ意味を持つようになって)、「登用する」の意味)と「すねのまっすぐ伸びた人が地上にすくっと立つ」象形(「すぐれた人」の意味)と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「手でうつ」の意味)から、「すぐれた人材を呼び出す」を意味する「徴」という漢字が成り立ちました。また、「取り上げるに値する証拠」の意味も表すようになりました。 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1248.html)。 「債」(漢音サイ、呉音セ)は、 会意兼形声。「人+音符責(血でつぐなうべき貸し借り)」で。不整合に積み重なってきて、人を責めつける関係、つまり貸し借りの責任をいう、 とある(漢字源)。「清算していない貸借関係」の意で、「かり」「おいめ」の意である(字源)。「債券」「債鬼」「債権」「債務」等々と使う。 別に、 会意形声。人と、責(サク)→(サイ せめる、せめ)とから成り、おいめの意を表す。「責」の後にできた字、 とある(角川新字源)のが、意味が分かりやすい。別に、 会意形声。「人」+音符「責」、「責」は「貝」+音符「朿」の会意形声文字。「朿」は先のとがったとげや針で「刺」の原字。財貨の支払い・返済に関して、針などで責めるの意、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%82%B5)、 会意兼形声文字です(人+責)。「横から見た人」の象形(「人」の意味)と「とげの象形と子安貝(貨幣)の象形」(「金品を責め求める」の意味)から、借金で責められている人のさまを表し、そこから、「借り」、「負い目」を意味する「債」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1535.html)。「責」は、 会意兼形声。朿(シ)は、先のとがったとげや針を描いた象形文字で、刺(シ さす)の原字。責は「貝(財貨)+音符朿」で、貸借について、トゲで刺すようにせめさいなむこと。債の原字、 とある(漢字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「桂を折る」は、 折桂(せつけい)、 という(字源)。 進士の試験に及第する(字源)、 文章生(もんじょうしょう)、試験、対策に応じて及第する(大言海)、 官吏登用試験に応じて及第する(広辞苑)、 という意で、 登第、 及第、 登科、 と同義になる(字源)。温庭筠の詩に、 猶喜故人新折桂、 とある(字源)。由来は、「晋書」郤詵(げきしん)伝に、 秦始中、詔天下、學賢良直言之士、太守文立學詵應選、……武帝於東堂會送、問詵曰、卿自以為如何、詵對曰、臣擧賢良策為天下第一、猶桂林一枝、崑崙片玉、帝笑、 とあるのによる(大言海・故事ことわざの辞典)。 すぐれた人材、 を、 桂の枝、 にたとえたのだが、「桂林」には、 文官 または 文人、 の意もある(故事ことわざの辞典)。 「桂林一枝、崑崙片玉」は、 桂の林の一枝、崑崙山の宝石の一片にすぎない、 の意から、 謙譲、 の含意があるとされ(字源)、「桂林一枝」には、転じて、 人品の清貴にして俗を抜く、 という喩えとしても使われる、とある(仝上)。ただ、雍州刺史という地方長官に任命されたことに対する答えなので、どこかに、 大した出世ではない、 という意味で、 これは桂林の一枝、崑崙山の美しい玉の一つを手に入れたにすぎない、 といっている含意もある(学研四字熟語辞典)。で、 世以登科為折桂、此謂郤詵対東堂。自云桂林一枝也、唐以来用之(避暑秘話)、 とある。「桂林一枝」から「折桂」と意訳したことになる。そして、続いて、 其後以月中有桂、故又謂之月桂、 とある。つまり、伝説の、 月に生えている桂の木、 と結び付けられて、 月の桂を折る、 とも言うようになる。 これは、 桂男(かつらおとこ・かつらを)、 といい、「酉陽雑俎‐天咫」(唐末860年頃)に、中国の古くからの言い伝えとして、 月の中に高さ五〇〇丈(1500メートル)の桂があり、その下で仙道を学んだ呉剛という男が、罪をおかした罰としていつも斧をふるって切り付けているが、切るそばからその切り口がふさがる、 という伝説がある(精選版日本国語大辞典)。シジフォスの岩に似た話である。 呉剛伐桂、 といい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E7%94%B7)、伝説には、ひとつには、炎帝の怒りを買って月に配流された呉剛不死の樹「月桂」を伐採するという説と、いまひとつは、 舊言月中有桂、有蟾蜍、故異書言月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創隨合。人姓吳名剛、西河人、學仙有過、謫令伐樹(酉陽雑俎)、 と、仙術を学んでいたが過ち犯し配流された呉剛が樹を切らされているという説とがある(仝上)、という。 ために、「月の桂」には、 月の異称、 とされ、略して、 かつら、 ともいい、月の影を、 かつらの影、 といったり、三日月を、 かつらのまゆ、 などという(大言海)。また「桂男」は、 桂の人、 などともいい、 かつらおとこも、同じ心にあはれとや見奉るらん(「狭衣物語(1069‐77頃)」)、 と、盛んに使われるが、さらに、 手にはとられぬかつらおとこの、ああいぶりさは、いつあをのりもかだのりと、身のさがらめをなのりそや(浄瑠璃「出世景清(1685)」)、 と、 美男子、 の意味でも使われるようになる(精選版日本国語大辞典)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 「桂(かつら)」は、「桂を折る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484421562.html?1637178611)で触れたように、「桂を折る」以外にも、 桂男(かつらおとこ・かつらを 月で巨大な桂を永遠に切り続けている男の伝説)、 桂の眉(かつらのまゆ 三日月のように細く美しい眉)、 桂の影(かつらのかげ 月の光)、 桂の黛(かつらのまゆずみ 三日月のように細く美しく引いた眉墨)、 等々と使われるのは、「桂」が、 月の桂、 から、 月の異称、 として使われるようになったことによる。 「月の桂」は、「桂を折る」で触れたように、「酉陽雑俎‐天咫」に、 舊言月中有桂、有蟾蜍、故異書言月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創隨合。人姓吳名剛、西河人、學仙有過、謫令伐樹、 とあり、中国において、「月桂」は、 想像の説に、月の中に生ひてありと云ふ、月面に婆娑たる(揺れ動く)影を認めて云ふなるべし、手には取られぬものに喩ふ、 とある(大言海)。「懐風藻」に、 金漢星楡冷、銀河月桂秋(山田三方「七夕」)、 は、 月の中にあるという桂の木、 の意で、 玉俎風蘋薦。金罍月桂浮(藤原万里「仲秋釈奠」)、 では、 月影(光)、 の意で使われている(精選版日本国語大辞典)。万葉集では、 目には見て手には取らえぬ月内之楓(つきのうちのかつら)のごとき妹をいかにせむ、 と、 手には取られぬもの の喩えとして詠われている。「毘沙門堂本古今集註」(鎌倉時代末期〜南北朝期書写)では、 久方の月の桂と云者、左伝の註に曰、月は月天子の宮也。此宮の庭に有二七本桂木一、此の木春夏は葉繁して、月光薄く、秋冬は紅増故に月光まさると云也、 と解説する。また、月の人、「桂男」を、 月人、 とも言い(大言海)、 かつらをの月の船漕ぐあまの海を秋は明石の浦といはなん(「夫木(1310頃)」)、 桂壮士(カツラヲ)の人にはさまるすずみかな(「古今俳諧明題集(1763)」)、 等々と詠われる(精選版日本国語大辞典)。 さて、「桂」は、 楓、 とも当て(岩波古語辞典)、 かもかつら(賀茂桂)、 とわだかつら、 ともいった(「日本植物名彙(1884)」)らしいが、和名類聚抄(平安中期)には、 楓(ふう)、和名、乎加豆良(をかつら)、 とあり(岩波古語辞典)、古名は、 おかつら(男桂・楓)、 といった(「十巻本和名抄(934頃)」)。 カツラ科の落葉高木。日本の各地と中国の山地に生える。落葉広葉樹の大高木で、高さはふつう20〜25メートル、高いものは30メートルほどで、樹幹の直径は2mほどにもなる。葉は広卵形で裏面が白い。雌雄異株。5月ごろ、紅色の雄花、淡紅色の雌花をつけ、花びらはない、若葉は紅味があり、賀茂祭にも使う。秋黄葉する、 とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。 また、同じ和名類聚抄(平安中期)に、 桂、和名、女加豆良(めかつら)、 とあり、これは、 肉桂、 を指す。正確には、 藪肉桂(やぶにっけい)、 を指す(広辞苑)。やぶにっけいは、別名 マツラニッケイ(松浦肉桂)、 クスタブ、 ともいい、 クスノキ科の常緑広葉樹。高木だが、せいぜい15メートル。樹皮は灰黒色で滑らか。ニッケイに似た香気と渋味をもつ。夏、葉脇に長い花軸を出し、淡黄色の小花をつける。果実は液果で、紫黒色、 とある(広辞苑)。すくなくとも、 おかつら、 と めかつら、 は区別していたものと思われる。大言海は、 かつら(桂)、 と かつら(楓)、 とを、別項として立て、 前者を、 めかつら、 とし、 訓香木、云加都良(古事記)、 を引き、 後者を、 をかつら、 とし、 杜木、此云可豆邏(杜は鬘の誤と云ふ)(神代紀)、 を引き、 古事記、「楓(かつら)」(神代紀「杜木(かづら)」とあるに同じ、楓は桂の借字なり)、 と註している。 「かつら」の由来は、 カツは香出(かづ)、樹皮に香気あり、ツは濁る可きが如し、ラは添えたる音(大言海・日本語源広辞典)、 とされる。「ら」は、 擬態語・形容詞語幹などを承けてその状態表現をあらわす、 とある(岩波古語辞典)。 葉の香りに由来し、落葉した葉は甘い香りを発することから「香出(かづ)る」(日本語源広辞典・大言海)、 と香りが由来らしく、古事記(712)に、 傍の井の上に湯津香木有らむ、 に、 訓香木、云加都良、 注記がある。薫りに由来したものだと思われる。中国名は、 連香樹、 と表記される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%84%E3%83%A9_%28%E6%A4%8D%E7%89%A9%29)が、中国で言う「桂」は、 モクセイ(木犀)、 のことであって、日本と韓国では古くからカツラと混同されている(仝上)、ともある。 詩などに桂花と云ふは木犀なり、 とある(大言海)のはその意味である。 「桂」(漢音ケイ、呉音カイ)は、 会意兼形声。「木+音符圭(ケイ △型にきちんとして格好がよい)」で、全体が△型に育った良い形をしている木、 とあり(漢字源)、「肉桂(ニッケイ)」「筒桂(トウケイ)」「岩桂(ガンケイ)」「銀桂」「金桂」「丹桂」など香木の総称の他、伝説上の月の桂の意、である(仝上)。 桂については《山海経(せんがいきよう)》や《荘子》など先秦の書物にも記事があり、珍しい木、香辛料の木とされ、時代が下ると《本草》をはじめ諸書に、薬用植物として、牡桂、菌桂、木桂、肉桂など多様に表出される。これらが現在の何に当たるかは大半不明だが、漢の武帝が未央(びおう)宮の北に桂宮を作ったように、桂が高貴、良い香りを象徴したことはまちがいない、 とある(世界大百科事典)。別に、 会意兼形声文字です(木+圭)。「大地を覆う木」の象形(「木」の意味)と「縦横の線を重ねた幾何学的な製図」の象形(「上が円錐形、下が方形の玉(古代の諸侯が身分の証として天子から受けた玉)」)の意味から、「かつら(肉桂などの香木の称、モクセイ科の常緑樹、月に生えているという伝説の木)」、「カツラ科の落葉高木」を意味する「桂」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2251.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「短兵急」は、 乗勝軽進、反為所敗、賊追急、短兵接、光武自投高岸(御漢書)、 と、 刀剣を以て急に攻める、 意であり、「短兵」は、『史記』匈奴伝に、 長兵則弓矢、短兵則刀鋋、 とある(字源)ように、 刀剣の類、 を指す(仝上)。因みに、「鋋」は、 柄の短い小さな矛、 つまり、 手鉾(てぼこ) とあり(https://kanji.jitenon.jp/kanjip/7662.html)、 薙刀に似た古代の武器。刃はやや内に反り、柄に麻糸を巻き、鉄の口金と木の石突きをつけたもの、 とある(デジタル大辞泉)。 しかし、わが国では、「短兵急」は、 息もつかせず急に急き立てる、 の意で使う(字源)、とある。しかし、 相従ふ兵僅に二十余騎に成しかば、敵三千余騎の真中に取籠て、短兵急に拉(とりひし)がんとす(太平記)、 小林民部丞、得たり賢しと勝(かつ)に乗って、短兵急に拉(とりひし)がんと、揉みに揉うで攻めける(仝上)、 等々をみると、 短兵(短い武器、刀剣)+急に(だしぬけに)、 と(日本語源広辞典)、原義に近く、 短兵を振るって敵に肉薄する(岩波古語辞典)、 いきなり敵に攻撃をしかける、だしぬけに行動を起こす(由来・語源辞典)、 意で使われていた、と見える。同じ意味で、 短兵直(ただ)ちに、 という言葉もあり、 さしも嶮しき山路を、短兵直ちに進んで、大敵の中に懸け入り、前後に当たり、左右激しける勇力に払われて(太平記)、 と、 息もつかせず攻め立てる、 意だが、ここではまだ「短兵」の持つ接近戦の含意がある。室町後期の注釈書「蒙求抄」にも、 短兵は、長具(ながぐ)を置いて、太刀打・腰刀の勝負ぞ。事の急ぞ、 とある(岩波古語辞典)。 そこから、戦いの場面が消えて、武器云々はなくなり、 事の急なこと、 つまり、 にわかに、 やにわに、 の意で使う(広辞苑)ようになる。江戸語大辞典には、 急に、にわか、 の意から、個人の振舞いにシフトして、 短兵急にやらうと云っても、些(ちつ)と六(むつ)かしいのう(文化七年(1810)「娘太平記操早引」)、 貴殿と某両人が、心を堅むる事を知らば敵心を赦さずして、たんぺいきうに若君を、殺害せんも計られず(浄瑠璃「伽羅先代萩(1785)」)、 等々と、 気早や、せっかち、 の意で使われ、今日の用例になっている。江戸時代になると、 勢いよく急に攻めるさま、 から、さらに、 突然ある行動を起こしたり、しかけたりするさま、だしぬけ、 の意味へと転じた、とある通りである(由来・語源辞典)。 「短兵急」に似た言葉で、 「短兵急接」(たんぺいきゅうせつ)、 があり、略して、 短兵急、 ともいうらしい(https://yoji.jitenon.jp/yojii/4135.htm)が、これも、 いきなり近づいて、いきなり攻撃する、 という意味から、 他の人よりも先に物事を行う、 という意に転じたとある(仝上)。 なお、「にわかに」の意で使う「短兵急」と同義の言葉に、 やにわに、 抜き打ちに、 があるが、いずれも、 意志的な動作に限って用いられる、 とある(類語新辞典)。由来を辿ると、当然のことかもしれないが、今日それが薄れているので、こういう確認が必要となる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 簡野道明『字源』(角川書店) 大野晋・浜西正人『類語新辞典』(角川書店) 「爪弾き」は、 つまはじき、 と訓ますと、本来は、 風やまず、爪弾きして寝ぬ(土佐日記)、 (光源氏は)ありさまのたまひて、幼かりけりとあはめたまひて、かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ(源氏物語)、 と、 心にかなわぬことのある時、または嫌悪・排斥する時など、(人差し指または中指の)爪先を親指の腹にかけて弾く、 という、 自分の不満・嫌悪・排斥などの気持を表すしぐさ、 の意であったが、それが転じて、 ……豈に天下の利にあらずやと、爪弾きをして申しければ(太平記)、 と、人を、 嫌悪・排斥して非難すること、 つまり、 指弾、 の意になる。 「爪弾き」は、もともと、あるいは、 散花や跡はあみだの爪はじき(俳諧「葛の松原(1692)」)、 とあるように、仏教でいう、 弾指(だんし・たんじ)、 という(本来は「たんじ」と訓む)、 曲げた人差し指を親指の腹で弾き、親指が中指の横腹に当たり、はじいて音を出す、 動作の、 他人の家や部屋に入る許諾の意味や、歓喜の合図、 などを表し、また場合によっては、 東司(手洗い)から出て手を洗うとき、不浄を見聞したときに、これを払い除く意味で行う、 ものからきた(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BC%BE%E6%8C%87)とみられる。古く、 縁起の悪さを祓う仕草、 とされた(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%BE%E3%81%AF%E3%81%98%E3%81%8D)のも、その由来ゆえかもしれない。 「指弾」も、 曲げた指を急に伸ばして物をはじく、 意で、これも漢語で、仏教の影響かもしれないが、 度百千劫、猶猶如指弾(維摩経)、 と、 つまはじき、 の意で使い、転じて、 三過門前老病死、一指弾頃去来今(三たび門を過ぐる閧ノ老ひ病み死す、一たび指を弾く頃(あいだ)の去来今)(蘓武)、 と、 極めてわずかの時間、 に喩える(字源)、とある。 三度門を過ぎる間に、老い病み、そして死ぬ。一度指を弾くだけの短い間に、過去・未来・現在の三世がある、 と、注記(兵藤裕己校注『太平記』)される。 「百千劫」の「劫」が、 共忘千劫之蹉跎、並望一涯之貴福(「三教指帰(797頃)」)、 と、仏語で、 天人が方一由旬(四十里)の大石を薄衣で百年に一度払い、石は摩滅しても終わらない長い時間といい、また、方四十里の城にケシを満たして、百年に一度、一粒ずつとり去りケシはなくなっても終わらない、 ような、 きわめて長い時間、 を指したことに対して、「儚い」一生を言うのかもしれない(精選版日本国語大辞典)。 さらに、「爪弾き」は、 つまひき、 あるいは、 つまびき、 と訓ますと、 と、 苦しとおぼしたる気色ながら、つまひきにいとよく合わせただ少し掻きならい給ふ(源氏物語)、 と、 指の爪で弦を弾くこと、 要は、 筝、又は、三味線などを、假甲(かけづめ)、撥(ばち)を用いずに、手の爪にて弾くこと、 になる(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)。 つめひき、 ともいう(大言海)が、また、 つまひく、 あるいは つまびく、 と訓ませ、 爪引く、 と当てると、 梓弓つまひく夜音(よと)の遠音(とほと)にも君が御幸(みゆき)を聞かくし好(よ)しも(万葉集)、 と、 弓弦(ゆずる)を指先で引く、 意となる(仝上)。 爪弾(つまびき)、 には、どうやら、上記の仏教の 弾指(だんし)、 の動作の、 許諾、歓喜、警告、入室の合図などを表す。また場合によっては排泄後などの不浄を払う、 意から、 後に爪弾(つまはじ)きといわれ、嫌悪や排斥の気持ちを表すことになった。この行為から(12000弾指で一昼夜というきわめて短い時間を表す)時間的概念が生まれ、主に禅宗などで行われる。元は密教の行法の一つだったが、縁起直し、魔除けの所作として僧以外の人々に広まった、 とする仏教の「弾指」由来とする説(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%BE%E6%8C%87)と、 楽器の弦を弾く、 意から、擯斥(ひんせき)の意の、 屈したる指を急に爪にて弾く、 という動作に転じ、その言葉が、 指弾、 の意に転じた(字源)とする説がある。どちらとも断じ得ないが、後者としても、前者の翳があり、何処か、 厄払い、 の意味がある気がしてならない。 「爪」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、 指事。つめの原字は蚤の上部であり、手の指先に「ヽ」印を二つつけて、つめのある所をしめしたもの。爪は手をふせて指先で物をつかむさまを示し、抓(ソウ つかむ)の原字。しかし普通には爪を「つめ」の意に用いる、 とある(漢字源)。しかし「象形」とする説が、 象形。上から下に向けた手の形にかたどり、物をつかむ、つかんで持ち上げる意を表す。「抓(サウ)」の原字、 とか(角川新字源)、 象形。下に向けた手の形から。元は「つかむ」のみの意で、「つめ」には「叉」に点を打った文字(「掻」の旁の上部)があったが、後代に「つめ」の意も含むようになった、 とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%AA)、 象形文字です。「手を上からかぶせて、下にある物をつまみ持つ」象形から、「つめ」を意味する「爪」という漢字が成り立ちました、 とか(https://okjiten.jp/kanji296.html)等々、多数派である。 「弾(彈)」(漢音タン、呉音ダン)は、 会意兼形声。單は、両耳のついた平らなうちわを描いた象形文字で、ぱたぱたとたたく、平面が上下に動くなどの意味を含む。彈は「弓+音符單」で、弓や琴の弦が上下に動くこと。転じて、張った紐や弦をはじいて上下に振動させる意、 とある(漢字源)。「弦をはじいて音を出す」意だが、「指弾」「弾劾」など、相手の悪事をはじき出す、意がある。 別に、 旧字は、形声。弓と、音符單(タン)とから成る。石つぶてなどを飛ばす弓、ひいて、「はじく」意を表す、 とか(角川新字源)、 会意兼形声文字です(弓+単(單))。「弓」の象形と「先端がY字形になっているはじき弓」の象形から「はじき弓」を意味する「弾」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1411.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 「すそご」は、 裾濃、 末濃、 下濃、 等々と当てる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 すそごう、 すえご、 などとも訛る(仝上)。 白地の下方をしだいにぼかして濃くする染色法、 で、布帛(ふはく)と甲冑の縅(おどし)の場合とがある。 布帛の場合、 すそご、むらご(斑濃・叢濃・村濃 同じ色でところどころを濃淡にぼかして染め出したもの)なども、つねよりはをかしくみゆ(枕草子)、 と、 上を淡く下を濃くした、 ものだが、 織色(おりいろ)によるものと染色(そめいろ)によるもの、 とがあり、 大旗、木旗、下濃(すそご)の旗、三流れ立てて三手に分かれ(太平記)、 と、旗にも使われる。 甲冑(かっちゅう)の威(おどし)の配色では、 上を白、次を黄とし、しだいに淡い色から濃い色とする、 ものを言う(仝上)。因みに、「縅」とは、 札(さね 鉄または練革で作った鎧の材料の小板)を上から下へ連接することを言い、縅は元来「緒通す(おどおす)」に「威す」の字を当てた(縅の字は、「威」に「糸」偏をつけた和製)、 を指し、「緒」の材質により、 韋(かわ)縅、 糸縅、 綾縅、 があり、縅し方には、 縦取縅(たてどりおどし 垂直に縅していく)、 縄目縅(なわめおどし 斜め状の縅毛が横に連続するため縄のように見える)、 素懸縅(すがけおどし 縦取縅の省略ともいえる間隔をおいて菱形に交差させながら2本ずつ縅す)、 寄懸(よせがけ 間隔をおいて3本以上ずつ縅す)、 等々があり、 紫裾濃、 紺裾濃、 紅裾濃、 萌黄裾濃、 等々という。縅の配色には、「すそご」と反対に、 濃い色から次第に淡い色になり、最後を白とする縅、 を 匂い、 といい、 黄櫨匂(はじのにおい 紅、薄紅、黄、白の順)、 萌黄匂(もえぎにおい 萌黄、薄萌黄、黄、白の順)、 等々がある(有職故実図典)。 縅には、一色に威すものもあるが、「すそご」「におい」の他に、 村濃(むらご 上下左右に偏せず、まばらに濃い色を配する)、 妻取(つまとり 袖・草摺の端の妻を三角に色々の意とで縅し交ぜたもの)、 等々がある。江戸後期の有職故実書『貞丈雑記』には、 すとごと云は、何色にても、上の方の色を淡くして、すその方をば、濃く染たるを云他、鎧の紅すそご、紫すそごも右の心なり、 とある。 なお、「すそご」には、他に、 三種の神器ならびに玄象(げんじょう)、裾濃、二間の御本尊に至るまで(太平記)、 と、玄象(げんじょう)と並び、 琵琶の名器の名、 にこの名がある(仝上)。平安末の日本における現存最古の書論書『夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)』に、琵琶名として、 井手、渭橋(已上、宇治殿)、玄上(大内)、牧馬(斎齋院)、下濃(すそご 内大臣殿)、元興寺(大内)、兩道、小比巴、木繪、元名(蝉丸比巴也)、以上皆、紫檀也、 とあるし、枕草子に、 御前にさぶらふものは、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞある。玄しゃう、牧馬(ぼくば)、井手(ゐで)、渭橋(ゐけう)、無名など、 とある。 参考文献; 笠間良彦『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房) 鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「固唾を呑む」は、 光寂房かたつを呑て、云やりたる事なし(「米沢本沙石集(1283)」)、 数万の見物衆は、戦場とも云わず走り寄り、堅唾(かたづ)を呑んでこれを見る(「太平記(14世紀末)」)、 などと、 事のなりゆきを案じなどして、息をこらすさま、 の意(広辞苑)で、「固唾」は、古くは、 かたつ、 と清音でもあった(仝上)が、 緊張して息をこらすときなどに口中にたまる唾、 の意である(仝上)。 「つばき(唾)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/457938309.html)は、前に触れたように、古くは、 御頸の璵(たま)を解きて口に含み、其の玉器に唾(つは)きをいれたまいひ(古事記)、 と つはき(Tufaki)、 と清音で、新撰字鏡(898〜901)には、 液、小児口所出汁也、豆波岐(つはき)、 とある。 院政期加点と目される『高僧伝長寛元年点』に、「唾手(ツワキハイテ)」の語形がみえるところから、ツハキ→ツワキの変化が指摘できる、 とあり、平安期(1086〜1185年頃)に、 ツハキ→ツワキ、 と変化したとみられる(日本語源大辞典)。 また「つばき」は、 つば、 とも言うが、やはり古くは、 法雷を響(ののし)り、弁を吐(つは)き(地蔵十輪経)、 と、 つは、 で、室町時代に、 ツバキ・ツワキの形があらわれた、 とあり(岩波古語辞典)、日葡辞書(1603〜04)には、 つわ、 とある(仝上)が、室町時代の『文明本節用集』(15世紀後半)には、 唾、ツワキ、 とあり、同じ室町でも末の『明応本節用集』(15世紀末)では、 唾、ツバキ、 となっている。ただ、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 唌、ツハキ、 とあるので、この間に濁音化したもののようである。ただ、 室町時代には、ツバキのほかに、ツハキ、ツワキ、ツ、ツハ、ツバ、ツワの語形が存する。このような状態は江戸時代まで続くが、次第にツバキがツバと共に優勢となる。なお、ツハキ→ツハケ、ツバキ→ツバケの変化も室町時代以降に生じたものの、一般化せず俗語の域にとどまっていた、 とある(日本語源大辞典)。そして、江戸時代に入って、 「キ」の脱落した形での使用が増え、「つば」が一般的な呼称となった、 ともある(語源由来辞典)。 しかし、「つば」「つばき」は、古くは、 梅の実の酸(す)き声を聞けば、口につ(唾)たまりうるほふなり(法華題目鈔)、 と、 つ(唾)、 であり、平安末期『色葉字類抄』に、 吒、ツ、口中液也、 咤、同、 とある(岩波古語辞典・大言海)。 この「つ」(唾)から、唾を吐く意の、 つはき(唾吐き)、 唾液を飲み込む意の、 つ(唾)を引く、 という言い方があった。で、「つばき」の語源を、 ツ(唾)+吐きの変化です。古語ツは、唾。ツバキとも。動詞のツハク(ツ+吐く)から、ク音脱落より、唾となった(日本語源広辞典)、 唾吐きの義(大言海・和句解・言元梯・名言通・菊池俗語考・日本古語大辞典=松岡静雄)、 とする説が出てくることになる。しかし、「つばき」が、 ツ(唾)吐く、 の略であって、 ツ(唾)吐く→(ツハク→ツワキ→ツバキ)→ツバ(唾)、 と、変化したことの意味は分かるが、古形「つ(つば)」の語源は明らかではない。 ツはイズ(出)の上略で、人体から出るものであるところから。ハキは吐の義(日本釈名)、 の、 「つ」が「イズ(出)」、 と言うのもあるが、和語が擬音語・擬態語が多いことから見ると、「つ」は擬態語なのかもしれない。臆説かもしれないが、擬態語に、 つー、 というのがある。 糸で引かれたように真直ぐに移動する様子、 を示すという(擬音語・擬態語辞典)。前述の『新撰字鏡』の、 液、小児口所出汁也、豆波木(つはき)、 という「つば」の説明から考えると、これではないか、と独り合点するのだが、もちろん憶説に過ぎない。 因みに、「唾」(慣用ダ、漢音呉音タ)の字は、 垂は「作物の穂の垂れた形+土」の会意文字。唾は「口+音符垂」で、口からだらりと垂れさがるつば、 の意とある(漢字源)。音符垂(スイ)→(タ)とも、また、「つばをはく」意、ともある(角川新字源) 別に、 会意兼形声文字です(口+垂)。「口」の象形と「草・木の花や葉の長く垂れ下がる象形と土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「草・木がたれさがる」の意味)から、口から垂れる液、「つば」を意味する「唾」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2124.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 「退屈(たいくつ)」は、いま、 散歩をして退屈をまぎらす、 というように、 することがなくて、時間をもてあますこと、 の意で使うことが多いが、もとは、文字通り、 退き屈する、 意で、宋史・李綱傳に、 創業中興之主、盡其在我而已、其成功歸之於天、今未嘗盡人事、敵至而先自退屈、而欲責功於天、其可乎、 とある(字源)。この「退屈」が、 起退屈心(地持論)、 とか、 仏心に退屈なし(反故集)、 とか、 修勝行時、有三退屈(唯識論) とか、 亦退屈の心にて山林を出る時は、山林は悪しとおぼゆ(正法眼蔵随聞記)、 等々と、仏教で、 仏道修行の苦しさ、むずかしさに負け、精進しようとする気持ちをなくす、 意で使われて(広辞苑・字源・大言海)、そこから、 かやうに申せばまた御退屈や候はんずらめなれども(毎月抄)、 と、 嫌気がさすこと、だれること、 の意や、 いまだ行じてもみずして、かねて退屈する人は愚の中の愚なり(夢中問答)、 と、 うんざりして、やる気をなくすこと、 といった意で使われ、その状態を、 もてあますこと、 から、 倦怠、 の意の、 主殿の無力せられし折からに、長在京はさても退屈(正章千句)、 けだいといふはでうすの御ほうこうのためにみだりなるかなしひ、たいくつの事なり(「どちりなきりしたん(1600)」)、 と、 つまらない、所在ない、暇で倦みあきる、 意までは、繋がっていく(仝上)。因みに、 三退屈、 とは、 @悟りを求めるのは広大深遠であると聞いて起こす退屈、 A布施の万行はきわめて修し難いと聞いて起こす退屈、 B悟りの妙果は証し難いと聞いて起こす退屈、 とされ、これらを対治するのを、 三錬磨、 という、とある(https://www.hongwanji.or.jp/mioshie/words/001313.html)。 また、 海上の兵、陸地(くがち)の、思ひしよりもおびただしく、聞きしにもなほ過ぎたれば、官軍、御方を顧みて、退屈してぞ覚えける(太平記)、 と、 圧倒されること、戦意をなくすこと、 の意や、 されども、城の体(てい)少しも弱らねば、寄手の兵は、多分に退屈してぞ見えたりける(太平記)、 の、 くたびれ果てる、 という意や、 しかれども叶わぬ訴訟に退屈して、歎きながら徒(いたずら)に黙(もだ)しぬれば(仝上)、 の、 気力をなくす、 あるいは、 千度(ちたび)百度(ももたび)闘へども、御方(みかた)の軍勢の軍(いくさ)したる有様を見るに、叶ふべしとも覚えざりければにや、将軍(尊氏)、早くも退屈したる気色に見え給ひける処に(仝上)、 の、 気力が屈した様子、 という意は、 うんざりして、やる気をなくすこと、 という意の外延の中に入る、とみられる。 「退」(タイ)は、 会意。もと「日+夂(とまりがちの足)+辶(足の動作)」で、足が止まって進まないことを示す。下へ下がって、低いところに落ち着く意を含む、 とあり(漢字源)、 進の対、 出の対、 になり、「退却」の「しりぞく」の意、「衰退」「退色」と、「褪せる」意でもある。類義は、「却」になる(漢字源)。 退は、進の反なり、又遜譲の義にも用ふ。退士は退きて隠れる士。退筆はかきさしたるちび筆なり。老子「功成名遂身退、天之道也」、 ともある(仝上)。別に、 会意。辵と、𣪘(き 艮は省略形。食物を盛る容器)とから成る。お供えの食物を引き下げる意を表す。転じて「しりぞく」意に用いる、 とも(角川新字源)、 会意文字です(彳+日+夊)。「十字路の左半分の象形」(「行く」の意味)と「食べ物」の象形と「下向きの足」の象形(「しりぞく」の意味)から、昔、役人が役所からしりぞいて家に帰り、食事をする事を意味し、そこから、「しりぞく(帰る)」を意味する「退」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji735.html)。 「屈」(漢音クツ、呉音クチ)は、 会意。「尸(しり)+出」で、からだをまげて尻を後ろにつき出すことを示す。尻をだせばからだ全体はくぼんで曲がることから、かがんで小さくなる、の意ともなる。出を音符と考える説もあるが、従い難い、 とある(漢字源)。しかし、 形声。意符尾(しっぽ。尸は省略形)と、音符出(シユツ)→(クツ)とから成る。短いしっぽ、転じて、くじく意を表す、 とか(角川新字源)、 会意文字です(尸(尾)+出)。「獣のしりが変形したもの」と「毛がはえている」象形と「くぼみの象形が変形したもの」から、くぼみに尾を入れるさまを表し、そこから、「かがむ」、「かがめる」を意味する「屈」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1192.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「綺(いろ)ふ」は、 武蔵守が行事、よろづ短才庸愚の事ある間、暫く綺ひを止むる処なり(太平記)、 佐兵衛督を政道に綺はせ奉る事、あるべからず(仝上)、 と使われる場合、 関与すること、 関わること、 の意である。「いろふ(う)」は、 色ふ、 彩ふ、 艶ふ、 と当てると、 色が美しく映える、彩が多彩である、 あるいは、 飾る、文飾する、 意であり、 綺ふ、 弄ふ、 と当てると、 関与する、 干渉する、 という意となる(広辞苑・大言海)。ただ、前者の場合にも、 いかばかり思ひ置くとも見えざりし露にいろへる撫子の花(和泉式部集) 綺ふ、 と当てるとするものもある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)が、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 綺、イロフ、 と、 艶、イロフ、ウルハシ、 と区別しているので、 「いろふ(う)」は、 綺ふ、 と当てたものと思われる。この「いろふ」は、 弄ふ、 と当てると、 かやうのもの(死人の入っている棺)をばいろはぬ事なりけりと逃げにけり(御伽草子・「むらまつ物語」)、 と、 手をふれる、 いじる、 意となる(岩波古語辞典)。これが訛って、 包は解くに及ぶまじいらうてみても五十両(浄瑠璃「冥途飛脚」)、 いらふ(う)、 ともなり、 いじる、もてあそぶ、 意だが、少し転じて、 あんまり深切が過ぎて、人をいらふ様な言ひ分(浄瑠璃「極彩色娘扇」)、 とからかう、おもちゃにする、 といった意になっていく。さらに、 船宿するによって、裏の離れをいらうたばかり(歌舞伎「桑名屋徳蔵入船物語」)、 と、 手を加える、手入れをする、修理する、 という意でも使われている(精選版日本国語大辞典)。ただ、 「いらふて」「いらうて」などは「イローテ」と読んだと思われるから、「いろう」と厳密には区別しにくい、 とある(仝上)ので、口語上は、「いろふ(う)」と「いらふ(う)」の区別はつけにくいようだ。 この「いろふ」の語源は、 入り追ふの約か、殊に入り込んで追う意、 しか見当たらない(仝上)。この含意は、 深入りする→踏み込む→関わる→いじる、 などといった意味の広がりになるのだろうか。 方言に多く残り、「いらう」は、 さわる、 いじる、 意である(愛知県三河・福井県若狭・近畿・中国・四国など)が、 大阪では「いらう」、 東京では「いじる」、 と使うようだ(精選版日本国語大辞典)。他に、 干渉する、 意で使う方言(熊本)もある(https://www.weblio.jp/content/%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%86)。 飴っこいらうが? の「いらふ」(下北弁)は、 要る、 の意で、他に、 借りる、 意で、 いらう、 を使う(山梨・静岡)場合があるが、 天下の百姓の貧乏しきに由りて、稲と資財とを貸(いらへ)よ(日本書紀)、 の、 いらす、 借りる、 意とつながるようである。 「綺」(キ)は、 会意兼形声。「糸+音符奇(まっすぐでない、変わった形)」、 とあり(漢字源)、「あや」「あやぎぬ」の意で、その意味では、「色ふ」に、「綺」を当ててもおかしくはない。別に、 会意兼形声文字です(糸+奇)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と「両手両足を広げた人の象形と、口の象形と口の奥の象形(「かぎ型に曲がる」の意味)」(「普通ではない人、優れている人」の意味)から、「目をうばうような美しい模様を織りなした絹」を意味する「綺」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2359.html)。現存する中国最古の字書『説文解字(100年頃)』には、 綺、文繪(あやぎす)也、 とある(大言海)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「色ふ(う)」は、 彩ふ、 艶ふ、 とも当てる。 いかばかり思ひおくとも見えざりし露にいろへる撫子(なでしこ)の花(和泉式部集)、 と、 色が美しく映える、 彩が多彩である、 という対象の状態表現の意や、 かざしの花の色色は、秋の草に異なるけぢめ分かれて何事にも目のみまがひいろふ(源氏物語)、 と、 色合いで目が惑わされる、 色合いで視覚が混乱する、 という対象によって主体に起こる惑いといった意で使われる(岩波古語辞典)。それが、他動詞化すると、 文(あや)、綺(イロヘ)画けるに同じ(「彌勒上生経賛平安初期点(850頃)」)、 と、 いろどる、 あやどる、 の意となる(広辞苑・大言海)。さらに、 この皮ぎぬ入れたる箱を見れば、種々(くさぐさ)のうるはしき瑠璃をいろへて作れり(竹取物語)、 と、 金属や宝石などを鏤(ちりば)め飾る、 意となり、さらに、「彩る」をメタファに、 もろこしに白楽天と申しける人は、七そぢの巻物作りて、ことばをいろへ、たとひをとりて、人の心をすすめ給へりなど聞こえ給も(「今鏡(1170)」)、 と、 文章や演技など技巧に工夫を凝らす、潤色する、 意でも使うに至る(精選版日本国語大辞典)。 類聚名義抄(11〜12世紀)には、 艶、イロフ、ウルハシ、 とある。この語源は、 色を活用す、顎(あぎと)ふ、境ふ、歌ふ、同趣、 とある(大言海)。「いろ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/438454270.html)で触れたように、「色」の語源には、 うるは(麗)しのウルの轉なるべし。うつくし、いつくし、いちじるしい、いちじろし(仝上)、 と、「いろふ」とつながることをうかがわせる。 「色」(慣用ショク、漢音ソク、呉音シキ)は、 象形。屈んだ女性と、屈んでその上にのっかった男性とがからだをすりよせて性交するさまを描いたもの、 とあり(漢字源)、「女色」「漁色」など、「男女間の情欲」が原意のようである。そこから「喜色」「失色」と、「顔かたちの様子」、さらに、「秋色」「顔色」のように「外に現われた形や様子」、そして「五色」「月色」と、「いろ」「いろどり」の意に転じていく。ただ、「音色」のような「響き」の意や、「愛人」の意の「イロ」という使い方は、わが国だけである(仝上)。また、 象形。ひざまずいている人の背に、別の人がおおいかぶさる形にかたどる。男女の性行為、転じて、美人、美しい顔色、また、いろどりの意を表す(角川新字源)、 とも、 会意又は象形。「人」+「卩(ひざまずいた人)、人が重なって性交をしている様子。音は「即」等と同系で「くっつく」の意を持つもの。情交から、容貌、顔色を経て、「いろ」一般の意味に至ったもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%89%B2)、 とも、 会意文字です(ク(人)+巴)。「ひざまずく人」の象形と「ひざまずく人の上に人がある」象形から男・女の愛する気持ちを意味します。それが転じて、「顔の表情」を意味する「色」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji143.html)、 ともある。 「艶(艷)」(エン)は、 会意。「色+豐(ゆたか)」で、色つやがゆたかなことをあらわす。色気がいっぱいつまっていること、 とあり(漢字源)、「艷話(えんわ)」のように、エロチックな意味もあるので、「つや」に、男女間の情事に関する意で「艶物(つやもの)」という使い方はわが国だけ(仝上)だが、語義から外れているわけではない。 別に、同趣旨の、 本字は、形声で、意符豐(ほう ゆたか)と、音符𥁋(カフ)→(エム)とから成る。旧字は、会意で、色と、豐(ゆたか)とから成り、容色が豊かで美しい意を表す。常用漢字は俗字による、 とする(角川新字源)ものの他に、「豔・豓」と「艷」を区別して、「豔・豓」は、「艶」の旧字とし、 会意兼形声文字です(豐+盍)。「草・木が茂っている象形と頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)の象形」(「豊かに盛られた、たかつき」、「豊か」の意味)と「物をのせた皿にふたをした」象形(「覆う」の意味)から、顔形が豊かで満ち足りている事を意味し、そこから、「姿やしぐさが色っぽい(異性をひきつける魅力がある)」、「顔・形が美しい」を意味する「豔・豓」という漢字が成り立ちました、 とし、「艶(艷)」は、 会意文字です(豊(豐)+色)。「草・木が茂っている象形と頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)の象形」(「豊かに盛られた、たかつき」、「豊か」の意味)と「ひざまずく人」の象形と「ひざまずく人の上に人がある」象形(「男・女の愛する気持ち」の意味)から、「男・女の愛する気持ちが豊か」を意味する「艶」という漢字が成り立ちました、 とする説明もある(https://okjiten.jp/kanji2086.html)。 「彩」(サイ)は、 会意兼形声。采(サイ)は「爪(手の先)+木」の会意文字で、木の芽を手先で選び取ること。採の原字。彩は「彡(模様)+音符采」で、模様をなす色を選んで取り合わせること、 とある(漢字源)。「彩色」の「いろどり」や、「彩雲」の「色の取り合わせ」「色彩」の「いろのとりあわれせ」の意である(仝上)。別に、 会意兼形声文字です(采+彡)。「木の実を採取する象形」(「つみとる」の意味)と「長く流れる豊かで艶(つや)やかな髪」の象形(「いろどり(模様・色)の意味)」から、多くの色の中から、人が意識的に選んでとりあげる事を意味し、そこから、「いろどる(色をつける)」を意味する「彩」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1152.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「いろ」に当てるものには、 色、 同母、 倚廬、 とがある。「倚廬」は、 諒闇(りょうあん)の期間、天子が籠る仮の屋、 の意(岩波古語辞典)、「諒闇」とは、 諒陰、 亮陰、 とも当て、 「諒」はまこと、「闇」は謹慎の意、「陰」はもだすと訓じ、沈黙を守る意で、天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間、 となり(デジタル大辞泉)、そのためにこもる臨時の仮屋「倚廬」は、 板敷を常の御殿よりもさげ、蘆の簾(すだれ)に布の帽額(もこう 御帳や御簾の懸けぎわを飾るために、上長押に沿って横に引き回す布帛)をかけ、御簾(みす)を敷く。調度品はすべて粗末な物を用いる、 とある(精選版日本国語大辞典)。 同母、 と当てる「いろ」は、 イラ(同母)の母音交替形(郎女(いらつめ)、郎子(いらつこ)のイラ)。母を同じくする(同腹である)ことを示す語。同母兄弟(いろせ)、同母弟(いろど)、同母姉妹(いろも)などと使う。崇神天皇の系統の人名に見えるイリビコ・イリビメのイリも、このイロと関係がある語であろう、 とある(岩波古語辞典)。この「いろ」が、 イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 色の語源は、血の繋がりがあることを表す「いろ」で、兄を意味する「いろせ」、姉を意味 する「いろね」などの「いろ」である。のちに、男女の交遊や女性の美しさを称える言葉となった。さらに、美しいものの一般的名称となり、その美しさが色鮮やかさとなって、色彩そのものを表すようになった(語源由来辞典)、 と、色彩の「色」とつながるとする説もある。 ここで取り上げるのは、 物に当たって反射した光線が、その波長の違いで、視覚によって区別されて感じとられるもの。波長の違い(色相)以外に、明るさ(明度)や色付きの強弱(彩度)によっても異なって感じられる。形などと共に、その物の特色を示す視覚的属性の一つ(精選版日本国語大辞典)、 つまり、 色彩、 の意の「色」である。「色」は、「いろ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/438454270.html)で触れたように、 色彩、顔色の意。転じて、美しい色彩、その対象となる異性、女の容色。それに引き付けられる性質の意から色情、その対象となる異性、遊女、情人。また色彩の意から、心のつや、趣き、様子、兆しの色に使う。別に「色(しき)」(形相の意)の翻訳語としての「いろ」の用例もみられる、 と(岩波古語辞典)、その用例は幅広い。だから、大言海は、「色彩」と「色情」を分けて項を立て、前者の語源は、 うるは(麗)しのウルの轉なるべし。うつくし、いつくし(厳美)、いちじるしい、いちじろし(著)、 と、「ウル」の転とし、天治字鏡(平安中期)に、 麗、美也、以呂布加志、 とあるとし、後者の語源は、 白粉(しろきもの)の色の義。夫人の化粧を色香(いろか)と云ふ。是なり、随って、色を好む、色を愛(め)づ、色に迷ふなどと云ひ、女色の意となる。この語意、平安朝に生じたりとおぼゆ、 とする(大言海)。意味の幅としては、 その物の持っている色彩 ↓ 物事の表面に現われて、人に何かを感じさせるもの(→顔色→表情→顔立ち→風情→趣) ↓ 男女の情愛に関すること(恋愛の情趣→男女の関係→情人→色気→遊女→遊里) といった広がりがある(精選版日本国語大辞典)が、やはり、大言海のように、 色彩、 と 色情、 とは語源を別にすると考えていいのかもしれない。 そのもとになった「色彩」の「色」の語源については、上述の、 同母(いろ)と同語原(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 うるわしの「うる」の転訛(大言海・日本語源広辞典) 以外に、 ウラ(心・裏)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 目に入る意から、イル(入)の転(名言通)、 キラ(佳麗)の転(言元梯)、 イキウルホヒ(生気潤)の義(日本語原学=林甕臣)、 イツツニの下略。色は五色に限るということからか(和句解)、 イは妙発の霊気をいい、ロは含み集まる。その変化の気に随って染まった地気をイロ(気品)という(柴門和語類集)、 湿気は草木その他の自然物に潤沢の色を与えるところから、イロは、湿を含む義のウルフから生じたもの(国語の語根とその分類=大島正健)、 美しい色彩をいう「豔」yenの別音inの語尾をラ行に転じたもの(日本語原考=与謝野寛)、 等々などがあるが、 「ウル」の転訛、 が、もっとも自然に思える。 「色情」の「色」の語源説は、 白粉(しろきもの)の色の義(大言海)、 以外に、 漢語で女を色ということから(和訓栞)、 古代、貴族の家庭内において女の順序を示したイロネ・イロモに関連して出た語か(国文学=折口信夫)、 ウロと通う。ウルハシの語根(日本語源=賀茂百樹)、 男女の放恣な情交をいう「淫」inの語尾が省略されてラ行音が添ったもの(日本語原考=与謝野寛)、 等々あるが、 色香、 とつなげた大言海は、「色香」で、 白粉(シロキモノ)と油綿(アブラワタ)の香と、婦人の化粧、 としている。理窟的にはこの方が納得がいくが、少し間遠な感じは否めない。むしろ、 漢語の「色」は「論語‐子罕」の「吾未見好徳如好色者也」にあるように、「色彩」のほか「容色」「情欲」の意味でも用いられるところから、平安朝になって「いろ」が性的情趣の意味を持つようになるのは、漢語の影響と考えられる。恋愛の情趣としての「いろ」は、近世では肉体的な情事やその相手、遊女や遊里の意へと傾いていく、 とある(精選版日本国語大辞典)ので、「いろ」に、 色、 の漢字を当てたために、その漢字の含意によって、「性的意味」が加わったものと考えられる。 「色」(慣用ショク、漢音ソク、呉音シキ)は、「色ふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484562978.html?1637957361)で触れたように、 象形文字。かがんだ女性と、かがんでその上に乗った男性とがからだをすりよせて性交するさまを描いたもの。セックスには容色が関係することから、顔や姿、彩などの意となる。また摺り寄せる意を含む、 とある(漢字源)。むしろ、漢字は、 色欲(「女色」「漁色」) ↓ 顔かたちの様子、色(「失色」「喜色」) ↓ 外に現われた形や様子(「秋色」) ↓ 色彩(「五色」) と、色彩は後から出できたらしく、 色とは、人と巴の組み合わせです。巴は、卩であり、節から来ているといいます。卩・節には、割符の意味があり、心模様が顔に出るので、心と顔を割符に譬えて色という字になったと聞きました。顔色という言葉は、ここからきています。また、巴は、人が腹ばいになって寝ている所を表しそこに別の人が重なる形だとも言われます。つまり、性行為を表す文字です。卩は、跪くことにも通じているようです。いずれにしろ、性行為のことです、 ともある(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1286809697)。上記の「中国語の影響」というのは、漢字の語源から来ているのがわかる。ただ、 音色、 といった音に使うのはわが国だけの用例のようである。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「色」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484590827.html?1638129665)で触れたように、 同母、 と当てる「いろ」は、 イラ(同母)の母音交替形(郎女(いらつめ)、郎子(いらつこ)のイラ)。母を同じくする(同腹である)ことを示す語。同母兄弟(いろせ)、同母弟(いろど)、同母姉妹(いろも)などと使う。崇神天皇の系統の人名に見えるイリビコ・イリビメのイリも、このイロと関係がある語であろう、 とある(岩波古語辞典)。この「いろ」が、 イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 色の語源は、血の繋がりがあることを表す「いろ」で、兄を意味する「いろせ」、姉を意味 する「いろね」などの「いろ」である。のちに、男女の交遊や女性の美しさを称える言葉となった。さらに、美しいものの一般的名称となり、その美しさが色鮮やかさとなって、色彩そのものを表すようになった(語源由来辞典)、 と、色彩の「色」とつながるとする説もあるが、 其の兄(いろえ)~櫛皇子は、是讃岐国造の始祖(はじめのおや)なり(書紀)、 と、 血族関係を表わす名詞の上に付いて、母親を同じくすること、母方の血のつながりがあることを表わす。のち、親愛の情を表わすのに用いられるようになった。「いろせ」「いろと」「いろも」「いろね」など、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 異腹の関係を表わす「まま」の対語で、「古事記」の用例をみる限り、同母の関係を表わすのに用いられているが、もとは「いりびこ」のイリ、「いらつめ」のイラとグループをなして近縁を表わしたものか。それを、中国の法制的な家族概念に翻訳語としてあてたと考えられる、 とされる(仝上)。「まま」は、 継、 と当て、 親子・兄弟の間柄で、血のつながりのない関係を表す。「まませ」「ままいも」は、同父異母(同母異父)の兄弟・姉妹、 である(岩波古語辞典)。また、 兄弟姉妹の、異腹なるものに被らせて云ふ語、嫡庶を論ぜず、 とある(大言海)。新撰字鏡(898〜901)には、 庶兄、万々兄(まませ)、…(庶妹)、万々妹(ままいも)、継父、万々父(ままちち)、嫡母(ちゃくぼ)、万々波々(ままはは)、 とある。その語源は、 隔てあるところから、ママ(顯閨jの義(大言海・言元梯)、 マナの転で、間之の義(国語の語根とその分類=大島正健)、 ママ(随)の義。実の父母の没後、それに従ってできた父母の意(松屋筆記)、 等々があるが、たぶん。「隔て」の含意からきているとみていいのではないか。 で、「いろ」は、 イラ(同母)の母音交替形(岩波古語辞典)、 イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、 など以外に、 イは、イツクシ、イトシなどのイ。ロは助辞(古事記伝・皇国辞解・国語の語根とその分類=大島正健)、 イロハと同語(東雅・日本民族の起源=岡正雄)、 イヘラ(家等・舎等)の転(万葉考)、 イヘ(家)の転(類聚名物考)、 蒙古語elは、腹・母方の親戚の意を持つが、語形と意味によって注意される(岩波古語辞典)、 「姻」の字音imの省略されたもの(日本語原考=与謝野寛)、 等々あるが、蒙古語el説以外、どれも、「同腹」の意を導き出せていない。といって蒙古語由来というのは、いかがなものか。 イロハと同語、 とある「いろは」は、 母、 と当て、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 母、イロハ、俗に云ふハハ、 とある。つまり、 イロは、本来同母、同腹を示す語であったが、後に、単に母の意とみられて、ハハ(母)のハと複合してイロハとつかわれたものであろう(岩波古語辞典)、 ハは、ハハ(母)に同じ、生母(うみのはは)を云ひ、伊呂兄(え)、伊呂兄(せ)、伊呂姉(セ)、伊呂弟(ど)、伊呂妹(も)、同意。同胞(はらから)の兄弟姉妹を云ひしに起これる語なるべし(大言海) とあるので、「いろ」があっての「いろは」なので、先後が逆であり、結局、 いら、 いり、 とも転訛する「いろ」の語源ははっきりしない。 因みに、「いらつめ」「いらつこ」は、 郎女、 郎子、 と当て、 いらつひめ、 いらつつみ、 ともいい、 「いら」は「いろも」「いろせ」「かぞいろ」など特別な親愛関係を示す「いろ」と関係があり、「つ」はもと、連体修飾の助詞。「いらつめ」と同様、何らかの身分について用いられた一種の敬称と思われるが、平安時代には衰えた、 とある(精選版日本国語大辞典)が、「いろ」の説明で、 母親を同じくすること、母方の血のつながりがあることを表わす。同母の。のち、親愛の情を表わすのに用いられるようになった、 としている(仝上)ので、 従来このイロの語を、親愛を表すと見る説が多かったが、それは根拠が薄い、 となり(岩波古語辞典)、この「いら」は、 イロ(同母)の母音交替形、 と見る見方になる(仝上)。当然、そうなれば、 イリビコ・イリビメのイリと同根、 ということになる(仝上)。さらに、 郎女、 という表記は中国にない。「郎子」と対にして、日本語のイラの音を表すためにラウの音の「郎」を使ったものとみられる、 とあり(仝上)、さらに「郎子」は、 イラツメに対して作られた語らしく、イラツメに比して用例が極めて少ない、 ともある(仝上)。因みに、「郎子」は、中国語では、 他人の息子の敬称、 である(字源) 「同」(慣用ドウ、漢音トウ、呉音ズウ)は、 会意。「四角い板+口(あな)」で、板に穴をあけて付きとおすことを示す。突き抜ければ通じ、通じれば一つになる。同一・共同・共通の意となる、 とある(漢字源)。同趣旨で、 会意。上部「凡」(盤、四角い板)+「口」。「口」は「あな」の意で、貫き通してまとめること。「筒」「胴」「洞」と穴の開いたものの意味で同系(藤堂)。または、「口」は神器で、「同」は筒形の器を表し、会盟のため人が集まったことから(白川)、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%8C)が、 会意。口と、冃(ぼう)(おおう。𠔼は省略形)とから成り、多くの人を呼び集める、ひいて「ともに」、転じて「おなじ」などの意を表す、 との解釈もある(角川新字源)。 また、 象形文字です。「上下2つの同じ直径の筒の象形」から「あう・おなじ」を意味する「同」という漢字が成り立ちました、 との説もある(https://okjiten.jp/kanji378.html)。 「母」(慣用ボ、漢音ボウ、呉音ム・モ)については「はは」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480039226.html)で触れたように、 象形。乳首をつけた女性を描いたもので、子を産み育てる意味を含む、 とあり(漢字源)、 指事。女(象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す)に、乳房を示す点を二つ加えて、子供に授乳するははおやの意を表す、 ともある(角川新字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「いら」は、 刺(広辞苑・大言海・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)、 莿(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、 などと当てる、 とげ、 の意と、 苛、 と当て、 苛立つ、 いらいら、 いらつく、 等々と使う、 かどのあるさま、 いらいらするたま、 甚だしいさま、 の意とがある(広辞苑)。この「いら(苛)」は、 形容詞、または、その語幹や派生語の上に付いて、角張ったさま、また、はなはだしいさま、 を表わし、 いらくさし、 いらひどい、 いらたか、 等々とつかわれる(精選版日本国語大辞典)とあり、 イラカ(甍)・イラチ・イラナシ・イララゲ(苛)などの語幹、 ともある(岩波古語辞典)ので、 苛、 と当てる「いら」は、 莿、 刺、 とあてる「いら」からきているものと思われる。 「いら」は多くの語を派生し、動詞として「いらつ」「いらだつ」「いらつく」「いららぐ」、形容詞として「いらいらし」「いらなし」、副詞として「いらいら」「いらくら」などがある、 とある(日本語源大辞典)。この「いら」の語源には、 イガと音通(和訓栞)、 イラは刺す義(南方方言史攷=伊波普猷)、 イタ(痛)の転語(言元梯)、 等々の諸説がある。ただ、 刺刺、 と当てる、 いらら、 という言葉がある(大言海)。平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)に、 木乃伊良良、 とあり、 草木の刺、 の状態を示す「擬態語」と考えると、 いら、 はそれが由来と考えていい。擬音語・擬態語の多さは、日本語の特徴なのだから。 『字鏡』には、 莿、木芒、伊良、 とある。「芒」(ぼう)は、 のぎ、 で、 穀物の先端、草木のとげ、けさき、 の意である(漢字源)。 「莿」(シ・セキ・シャク)は、 とげ、のぎ、 と訓ませる。異字体は、「茦」とある(https://jigen.net/kanji/33727)。手元の漢和辞典には載らない。 「刺」(漢音呉音シ、漢音セキ、呉音シャク)は、 会意兼形声。朿(シ とげ)の原字は、四方に鋭いとげの出た姿を描いた象形文字。刺は「刀+音符朿」。刀でとげのようにさすこと。またちくりとさす針。その左は朿であり、束ではない。もとはセキの音を用いたが、のち混用して多くシの音を用いる、 とある(漢字源)。 「苛」(漢音カ、呉音ガ)は、 会意兼形声。可は「¬印+口」からなり、¬型に曲折してきつい摩擦をおこす、のどをからせるなどの意。苛は「艸+音符可」で、のどをひりひりさせる植物。転じて、きつい摩擦や刺激を与える行為のこと、 とあり(仝上)、「苛刻」「苛政」「苛(呵)責」などと使う。別に、 形声。艸と、音符可(カ)とから成る。小さい草の意を表す。転じて、せめる、むごい意に用いる、 とか(角川新字源)、 会意兼形声文字です(艸+可)。「並び生えた草」の象形と「口と口の奥の象形」(口の奥から大きな声を出すさまから「良い」の意味だが、ここでは、「呵(カ)」に通じ(同じ読みを持つ「呵」と同じ意味を持つようになって)、「大声で責める」の意味)から、「大声で責める」、「厳しくする」を意味する「苛」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2098.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 莿、 刺、 と当てる「いら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484621462.html?1638302620)で触れたように、それに由来する「苛」は、 形容詞、または、その語幹や派生語の上に付いて、角張ったさま、また、はなはだしいさま、 を表わし、 いらくさし、 いらひどい、 いらたか、 等々とつかわれ(精選版日本国語大辞典)、 イラカ(甍)・イラチ・イラナシ・イララゲ(苛)などの語幹、 とあった(岩波古語辞典)。つまり、「甍」の「いら」も、 苛処(いらか)の意(広辞苑・大言海)、 イラ(刺)が語根(岩波古語辞典)、 とみられる。従来は、 その葺いた様子が鱗(うろこ)に似ているから、イロコ(鱗 ウロコの古名)の転(和語私臆鈔・俗語考・名言通・和訓栞・柴門和語類集・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健)、 と、 語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった、 が(日本語源大辞典)、 高く尖りたる意と云ふ、棟と同義、鱗(イロコ)の転など云へど、上古、瓦と云ふものあらず、 というように(大言海)、 上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる、 とされる(日本語源大辞典)。和名類聚抄(平安中期)に、 屋背曰甍、伊良賀(いらか)、 とあり、践祚大嘗祭式、大嘗宮正殿に、 甍置、堅魚木八枚、 とある。因みに、「堅魚木(かつおぎ)」は、 勝男木、 とも書く。形が鰹節に似るためこの名がある。 神社の本殿屋上棟木に直角の方向に並べられる木。実用的意味よりも荘厳を添えるためのもの。大嘗宮で8本、住吉造で5本、神明造で10本、大社造で3本、春日造では細く黒塗りなどである、 とある(百科事典マイペディア)。 「いらか」は、瓦と間違えられることが多いが、本来は、 海神(わたつみ)の殿のいらかに飛び翔けるすがるのごとき(万葉集)、 と、 屋根の背、 つまり、 家の上棟(うはむね)、 の意である(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)。それが、 扉は風に倒れて落葉の下に朽ち、甍は雨露にをかされて仏壇さらにあらはなり(平家物語)、 銀(しろがね)の築地をつきて、金(こがね)のいらかをならべ、門をたて(御伽草子「浦嶋太郎(室町末)」)、 と、 屋根の棟瓦、 あるいは、 瓦葺きの屋根、 の意となり(広辞苑・岩波古語辞典)、唱歌・鯉のぼりの、 甍(イラカ)の波と雲の波、重なる波の中空を、 では、正に瓦屋根を指している。さらに、 いま誤りて、切妻屋根の棟の、端以下、桁、梁以上の称(大言海)、 つまり、 切妻屋根の下の、三角形になった壁の部分(日本建築辞彙)、 としても使われる(広辞苑)。 「甍」(慣用ボウ、漢音モウ、呉音ミョウ)は、 会意兼形声。甍の瓦を除いた部分はかくす、かくれるの意を含む。甍はそれを音符とし、瓦を加えた字で、屋根の下地を覆い隠す瓦のこと、 とある(漢字源)。 朝猿響甍棟(劉孝綽)、 と、「甍棟(ボウトウ)」と使う。やはり、「棟」の意である。 発見されている世界で最も古い瓦は中国の陳西省西安の近郊から出土したもので、薄手の平瓦である。中国では夏王朝の時代に陶製の瓦が作られていたという記録がある、 と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A6)、中国では、古くから瓦が使われている。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「かわら」は、 瓦、 と当てる。 粘土を一定の形に固めて焼いたもの、 で、 屋根を葺くのに用いる、 ものである(広辞苑)。 日本で使われてきた瓦葺きの屋根葺きの形式には、 本瓦葺き、 と、 桟瓦葺き、 とがあり、本瓦葺きは、 平瓦と丸瓦を交互に並べて葺く形式、 で、飛鳥時代崇峻天皇元年(588)に百済からその技術が伝えられて以来使われてきた。丸瓦は、 直径15〜17センチメートル程度の円筒を二分した形、 平瓦は、 1辺30センチメートル程度の方形で、やや湾曲した形、 が普通、とある(日本大百科全書)。丸瓦は、 重なり部分に玉縁をつけ、突きつけて並べる、 が、全体を円錐形に細めた丸瓦もあり、この丸瓦を重ねながら葺く葺き方を、 行基(ぎょうき)葺き、 と呼び、奈良の元興寺(がんごうじ)極楽坊、京都の宝塔寺、兵庫の浄土寺浄土堂、大分の富貴寺に、僅かにみられる(仝上)、という。平瓦は、 少しずつずらしながら重ねて葺いている。桟瓦葺きは、 江戸時代に発明された桟瓦1種類だけで葺く形式である。桟瓦は、本瓦葺きの平瓦の1辺を湾曲とは反対に折り曲げ、二つの対角を欠いた形で、葺くときの重なり部分が少なく、丸瓦を使わないため重量を軽減することができた。また、桟瓦の裏面に突起をつけた引掛け桟瓦は、野地板に打った桟に掛けて葺き、それまで瓦を安定させるため野地板の上に敷いていた粘土が要らなくなり屋根がいっそう軽くなった、 とあり(仝上)。幕末から現在に至るまで引掛け桟瓦が瓦葺きのもっとも一般的な形式になった(仝上)、という。 中国大陸では夏の時代に瓦がつくられていたという記録があり、春秋戦国のころになれば遺品がみられ、漢代には、画像や明器(めいき)によって宮殿や城郭などが瓦葺きで、唐代には寺院、宮殿、都城などに広く用いられている(仝上)、日本では6世紀の末に、百済から技術が導入され、飛鳥寺(法興寺)で初めて用いられた、とされる(ブリタニカ国際大百科事典)。 「かわら」は、歴史的かなづかいでは、 カハラ、 で、梵語、 カパーラkapāla(原意は、皿、鉢、頭蓋などの意)、 とする説が多数派である(広辞苑・箋注和名抄・大言海・外来語の話=新村出後・国語の中の梵語研究=上田恭輔・外来語辞典=荒川惣兵衛・日本語源広辞典)、 㙛(かわら)の意の梵語から(岩波古語辞典)、 も同趣旨と思われる。ほかに、 瓦磚の別音ka-haに諧音のラを添えたもの(日本語原考=与謝野寛)、 カワラ(亀甲 加宇良 こうら)の意(古事記伝)、 カハラ(甲冑 伽和羅 かわら)の義(言元梯)、 屋上のカハ(皮)の義(俚言集覧・家屋雑考・和訓栞)、 土を焼いて板に変えることから、カハルの転訛(日本釈名・柴門和語類集)、 触れた時の擬音語から(雅語音声考・国語溯原=大矢徹)、 等々ある(日本語源大辞典・由来・語源辞典)が、『日本書紀』に、「瓦」が、 百済から仏教と共に伝来した、 とあり、中国から朝鮮半島を経て、仏教とともに伝来し、寺院の屋根に用いられてきたので、梵語由来と見るのが妥当なのだろう。 「瓦」(漢音ガ、呉音ゲ)は、 象形。半円の筒型にしたかわらを互い違いに重ねた姿を描いたもの、 とあり(漢字源)、転じて、土器の意に用いる(角川新字源)、とある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「綺ふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484547997.html?1637870959)で触れたように、「いらふ」に当てる漢字には、 綺ふ、 色ふ、 弄ふ、 借ふ、 等々があるが、ここでは、 答ふ(う)、 応ふ(う)、 とあてる「いらふ」である。 答える、 返答する、 意である。 いらへ(え)る(答へる・応へる)、 とも使う(広辞苑)。ただ、 (女の話に対して)二人の子は情けなくいらへてやみぬ(伊勢物語)、 煩わしくてまろぞといらふ(源氏物語)、 などは、 適当に返事する、 一応の返事をする、 意とある(岩波古語辞典)。だから、この語源は、 イ(唯)を語根として活用したもの(大言海)、 というよりは、 アシラフの転、アシの反イ(和訓考)、 イヘルアハセ(云合)の義(名言通)、 イヒカヘ(言反)の転(言元梯)、 イロフ(綺)と同じ意(和語私臆鈔)、 などと、何処かアイロニカルな含意を持つものの方に軍配が上がる。しかし、同じ意味で、 答ふ(う)、 応ふ(う)、 と当てる、 こたふ(う)、 もまた、 こたへ(え)る(答へる・答へる)、 とも使うが、この言葉は、 コト(言)アフ(合)の約(岩波古語辞典)、 言合(ことあ)ふるの約、傷思(いたおも)ふ、いとふ(厭)(大言海)、 とあるように、 たそかれと問はばこたへむ術(すべ)を無み(万葉集)、 と、 こと(言)を合わせる意、 になる(広辞苑)。それが転じて、 問はれて答ふの、ここなる事の、かしこに響くと、移りたるなり(大言海)、 となり、 打ちわびて呼ばらむ聲に山びこのこたへぬ山はあらじとぞ思ふ(古今集) いなり山みつの玉垣うちたたき我がねぎごとを神もこたへよ(後拾遺)、 などと、 感じ、響く、通ず、應ず、反応す、 の意になる。この場合は、 応へる、 と当てる(大言海)。当然、そこから、 六魂へこたへてうづきまする(狂言記・あかがり)、 と、 刺激を受けて身に染みる、 とどく、 通る、 という意や、 われこの国の守となりてこのこたへせん(宇治拾遺)、 と、 報い、 返報、 の意でも使うに至る(岩波古語辞典)。 「こたふ」が、上代から用いられているのに対し、「いらふ」は、中古から例が見られるようになった。返事をする意の「こたふ」が単純素朴な返事であるのに対し、「いらふ」は自らの才覚で適宜判断しながら返事をする場合に多く用いられ、「こたふ」より自由なニュアンスがあったという。しかし、和歌ではもっぱら「こたふ」が用いられ、「いらふ」は用いられない。中古後期以降、散文では「こたふ」が勢力を回復し、「いらふ」よりも優勢となる、 とある(精選版日本国語大辞典)。「いらふ」と「こたふ」の微妙な含意の差は消えて、「こたふ」へと収斂していったということになる。当然、 答(いら)ふ、 と、 応(いら)ふ、 あるいは、 答(こた)ふ、 と 応(こた)ふ、 の当て分けの差異も薄れたとみていい。漢字では、 答は、當也、報也、先方の問に答ふるなり。 對は、人の問に、それは何々と、一々ことわけて答ふるなり。答よりは重し。 應は、あどうつ(人の話に調子を合わせて応答する)なり。孟子「沈同問、燕可伐與、吾應之曰、可」、 と使い分ける(字源)。 「応(應)」(漢音ヨウ、呉音オウ)は、 会意兼形声。雁は「广(おおい)+人+隹(とり)」からなり、人が胸に鳥を受け止めたさま。應はそれを音符とし、心を加えた字で、心でしっかり受け止めることで、先方からくるものを受け止める意を含む、 とあり(漢字源)、「応答」「応召」などと「答える」意で使い、「応募」「内応」などと、求めに応じる意、「応報」と報いの意もある。別に、 「應」の略体。 旧字体は、「心」+音符「䧹(説文解字では𤸰)」の会意形声文字、「䧹・𤸰」は「鷹」の原字で、人が大型の鳥をしっかりと抱きかかえる(擁)様で、しっかり受け止めるの意、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%9C)、 会意兼形声文字です(䧹+心)。「屋根と横から見た人と尾の短いずんぐりした小鳥の象形」(「鷹(たか)」の意味)と「心臓」の象形から、狩りに使う鷹を胸元に引き寄せておく事を意味し、そこから、「受ける」、「指名される」を意味する「応」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji858.html)。 「答」(トウ)は、 会意。「竹+合」で、竹の器にぴたりとふたをかぶせること。みとふたがあうことから、応答の意となった、 とある(漢字源)。別に、 形声。竹と、音符合(カフ)→(タフ)とから成る。もと、荅(タフ)の俗字で、意符の艸(そう)(くさ)がのちに竹に誤り変わったもの。「こたえる」意を表す、 とも(角川新字源)ある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店)
「色代」は、 色体、 式体、 とも当て、 しきだい、 と訓むが、 しきたい、 とも訓ませる。 力なく面々に暇を請ひ、色代して、科の浜より引き分けて(太平記)、 と、 あいさつ、 会釈、 の意である。 色代かひがひしく、この節(ふし)違(たが)はぬを賞(め)で感ず(梁塵秘抄口伝集)、 を、 深く頭を下げて挨拶すること、 頭を垂れて礼をすること、 ともあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 人に対して互に礼をするを旧記に色体(シキタイ)とあり……礼法を正し辞退して人を先にたて我はあとに退く心なる間式退と云也(「貞丈雑記(1784頃)」)、 とある。単なる会釈よりは、もう少しきちんとした挨拶なのかもしれない。 もともとは、 諸国年来間申請色代、望仏神事期給下文、以色代献之、公用間致事煩(御堂関白記・長和五年(1016)五月二二日)、 と、 他の品物でその代わりとする、 意で(広辞苑)、色代のことはすでに、 永保元年(1081)の若狭守藤原通宗解にみえ、その中で通宗は調絹1疋を代米1石あるいは1石5斗で納入したいと述べている。色代納はこののち室町時代に至るまで行われるが、米穀の代りとして雑穀や絹布またはその他の品を出す場合が多かった。色代納は、納入すべき品目が不足したため行われる場合もあったが、徴収する側あるいは納入する側が本来の品目と代納物との交換比率の高低を利用し利益を得ようとして行われる場合もあった、 とある(世界大百科事典)。 色代錢(しきたいぜに)、 というと、 平安時代、絹布などの物納の代わりに錢で納めさせたもの、 の意であり(仝上)、 色代納(しきたいのう・しきだいのう)、 というと、 中世に、年貢を米で納める代わりに、藁・粟・大豆・小豆・油・綿・布などで納める、 意で、 代納、 ともいい、これを、 いろだいおさめ、 と訓ませると、 江戸時代、米や錢を納めがたい時、藁・筵・糠・粟・綿・竹などいろいろなもので代納すること、中世の色代納(しきだいのう)の転じたもの、 とある(仝上)。ついでながら、「色代」を、 いろだい、 と訓ませると、 色代納(いろだいおさめ)、 の意の他に、「いろだい」の、 「いろ」は喪服の意の忌み詞、 で(精選版日本国語大辞典)、 近親者の香奠、あるいは、近親者が香奠以外に贈る金品、 の意(広辞苑)や、 百年居喰にしても気遣ひのなき身躰を、二流の色代に費やして(浮世草子「好色万金丹(1694)」) と、 遊女をあげて遊ぶ費用、遊興費、 の意でも使う(仝上)。 「色代」の由来は、 顔色を改めて礼する意(大言海)、 とする説があるが、それは、「あいさつ」の意から考えたもので、元来、 代納、 の意から来たのだとすると、それでは、意味が通らない。 礼法を正し辞退して人を先にたて我はあとに退く心、 からとする、 式退の義(貞丈雑記)、 も、 辞退の訛(志不可起)、 も、「あいさつ」の意やその広がった意味から解釈していて、同じである。「色代」が当て字でないなら、文字通り、 色に代える、 意である。「色」の意味がよく分からない。律令制の、 租庸調、 は、中国の租庸調を基とするが、 租の本色(基本的な納税物)は粟とされていた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%9F%E5%BA%B8%E8%AA%BF)。租税の、 本色の代用、 の意味で、 色代、 といったのではないか。中国由来の言葉と見たがどうだろう。 さて、 あいさつ、 の意で使われた「色代」は、転じて、 色代にも、御年よりも遥かに若く見え給ふと云ふは、嬉しく、殊の他に老ひてこそ見え給へと言はば、心細く(沙石集)、 と、 追従を言ふこと(大言海)、 つまり、 相手の意を迎えるようなことを言うこと、 の意となる(大言海)。さらに、 御前の出る時、御色代をなされて、大和大納言殿を上座へ上げさせ給ひて、下座へ居替らせ給ふ(三河物語)、 と、 遠慮すること、 辞退すること、 の意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。 なお、 色体、 と書くときは、 肉体、 の意で、日葡辞書(1603〜04)には、 ランタイ、即ち、クサッタシキタイ、 とある(広辞苑)。 「色ふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484562978.html?1637957361)で触れたように、「色」(慣用ショク、漢音ソク、呉音シキ)は、 象形。屈んだ女性と、屈んでその上にのっかった男性とがからだをすりよせて性交するさまを描いたもの、 とあり(漢字源)、「女色」「漁色」など、「男女間の情欲」が原意のようである。そこから「喜色」「失色」と、「顔かたちの様子」、さらに、「秋色」「顔色」のように「外に現われた形や様子」、そして「五色」「月色」と、「いろ」「いろどり」の意に転じていく。ただ、「音色」のような「響き」の意や、「愛人」の意の「イロ」という使い方は、わが国だけである(仝上)。また、 象形。ひざまずいている人の背に、別の人がおおいかぶさる形にかたどる。男女の性行為、転じて、美人、美しい顔色、また、いろどりの意を表す(角川新字源)、 とも、 会意又は象形。「人」+「卩(ひざまずいた人)、人が重なって性交をしている様子。音は「即」等と同系で「くっつく」の意を持つもの。情交から、容貌、顔色を経て、「いろ」一般の意味に至ったもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%89%B2)、 とも、 会意文字です(ク(人)+巴)。「ひざまずく人」の象形と「ひざまずく人の上に人がある」象形から男・女の愛する気持ちを意味します。それが転じて、「顔の表情」を意味する「色」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji143.html)、 ともある。 「代」(漢音タイ、呉音ダイ)は、 形声。弋(ヨク)は、くいの形を描いた象形文字で、杙(ヨク 棒ぐい)の原字。代は、「人+音符弋(ヨク)」で、同じポストにはいるべきものが互いに入れ替わること、 とある(漢字源)。「代理」「交代」の「かわる」意である。 音符弋(ヨク)→(タイ)、 と代わったようである(角川新字源)。別に、 会意兼形声文字です(人+弋)。「横から見た人の象形」と「2本の木を交差させて作ったくいの象形」から人がたがいちがいになる、すなわち「かわる」を意味する「代」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji387.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「たを(お)やか」は、 嫋やか、 と当てる(広辞苑)。 萩、いと色ふかう枝たをやかに咲きたるが(枕草子) と、 重みでしなっているさま、 たわんでいるさま、 の意で(岩波古語辞典)、そこから、それをメタファに、 衣(きぬ)のこちたく厚ければたをやかなるけもなし(栄花物語)、 この女の舞ふすがた、たをやかにして(中華若木詩抄)、 などと、 (身のこなしが)いかにも柔らかで、優美なさま、 の意となり、その状態表現から、 心ばへもたをやかなる方はなく(源氏物語)、 と、 (人の性質に)加えられる力に耐える柔軟性のあるさま、 の意や、 あなうたて、この人のたをやかならましかばと見えたり(源氏物語)、 心あらん人に見せばや津の国の難波わたりの春の景色を、是は始めの歌のやうに限なくとをしろくなどはあらねど、優(いふ)深くたをやか也(静嘉堂文庫本無名抄)、 などと、 ものごし、態度などがものやわらかなさま。また、気だてや性質が、しっとりとやさしいさま、おだやかなさま、 と、 女性の姿や舞いの動作などについて言う価値表現へとシフトし(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、さらに、後には、 此人七才の時より、形さだまって嬋娟(タヲヤカ)に、一笑百媚の風情(浮世草子「男色大鑑(1687)」)、 と、 あだめいているさま、 の意でも使うようになる。今日の語感は、こちらに近いのではないか。 「たをやか」の語源は、 タヲは、タワ(撓)の母音交替形、 で(岩波古語辞典・大言海・精選版日本国語大辞典)、 「やか」は接尾語、 となる(精選版日本国語大辞典)。 タヲタヲ・タヲヤグ・タヲヤメなどと同根で、しなやかな姿や形を示す語、 ともある(小学館古語大辞典)。 たをやめ(手弱女)、 は、 たわやめ(撓や女)、 の転訛と思われ、この「たわ」は、 タワム(撓)のタワ、ヤは性質・状態をしめか接尾語、タワヤでやわらかくしなやかな意。万葉集には、 手弱女の思ひたわみてたもとほり我れはぞ恋ふる舟楫をなみ、 と、 手弱女、 と書いた例がある(岩波古語辞典)。 「たをやめ」は、 ますらを(丈夫)の対、 とされる(岩波古語辞典)。 「嫋」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、 会意兼形声。弱(ジャク・ニャク)は、弓印二つに、彡印(模様)添えて、美しくしなやかな弓を示す。嫋は「女+音符弱」で、女性の捕捉たおやかなさま、 とある(漢字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「北(に)ぐ」は、 北(に)げる、 だが、「北」を当てる時は、 越の兵、勝(かつ)に乗って、北(に)ぐるを追ふこと十余里(太平記)、 と、 敗北する、 敗走する、 後退する、 意で用いる(広辞苑)。これは、「北」(ホク)の字が、 会意。左と右の両人が、背を向けて背いたさまを示すもので、背を向けてそむくの意。また、背を向けて逃げる、背を向ける寒い方角(北)などの意を含む、 とあり(漢字源)、その意味で、方角の「北」は、 寒くていつも背を向ける方角、 の意で、 侯鴈北(侯鴈北す)、 と(呂覧)、 北の方へ行く、 意もあるし、 三戦三北、而亡地五百里(三タビ戦ヒ三タビ北ゲテ、地を亡フコト五百里)、 と(史記)、 敵に背を向けて逃げる、 意がある(漢字源)。 北は後ろを見せる義、 とある(字源)ので、 相手に背を向ける、 つまり、 背(そむ)く、 意もある(漢字源)。「にぐ(にげる)」は、普通、 逃(迯)ぐ(げる)、 と当てる。「迯」は、 俗字、 だが(字源)、 逃の草書の誤用、 とある(大言海)。色葉字類抄(1177〜81)に、 迯、ニグ、逃、ニク、亡、ニク、北、ニク、 とある。「にぐ」は、 のがると通ず(大言海)、 ノガルはニグ(逃)の母音交替形(岩波古語辞典)、 ニゲル、ノガレル、ノガス、ヌケル、ヌグ、ヌゲルは同源(日本語源広辞典)、 とあり、「のがる」とつながっており、「にぐ(げる)」を、 退離(のきか)るの義、退くと通ず(大言海)、 ノキケムの反(名語記)、 ノキクアル(退来有)の義(名言通)、 ノカル(退)の義(言元梯)、 ノキサクル(退避)の義(日本語原学=林甕臣)、 と、「のく(退)」と絡める説は多い。また、「のがる」も、 退離(のきか)るの義、退くと通ず(大言海)、 ノキカル(退避)の義(言元梯・日本語原学=林甕臣)、 ノキアル(退有)の義(名言通)、 ノク(退)から出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、 と、やはり「のく(退)」と絡める説が大勢である。たしかに、「のく(退)」の語源も、 ノガルの約(名語記)、 「ノ(退)+ク」、場所をあけてほかへ移る(日本語源広辞典)、 ノコル(残)と同根。現在自分の居る所や、居る予定の所から引き下がって、他の人にその所を譲る意。類義語ソク(退)はソ(背)と同根、相手に背を向けて遠くへ離れる意(岩波古語辞典)、 とあり、 のく→のぐ→のがれる、 と転訛したことは想定できる。ただ、「のく」は、 (悔しさを)つつみもあへず、物ぐるはしき気色も(相手に)聞こえつべければ(自分から)のきぬ(源氏物語)、 と、 現在地から引き下がる、 意で、「逃げる」の、 背を向けて行く、 意とは、少し含意がずれる気はするが、 人目ばかりに矢一つ射て退かんとこそ思ひけるに(平家物語)、 と、 退却の意はある。だが、僕には、「退く」には、 しりぞ(退)く、 という、 後(シリ)ソキ(退)の意、後方へすさる、 と、 後ずさりする、 含意が強く感じられてならない。確かに、 後(しりへ)へ退く、 と(大言海)考えれば、同義ではあるのだが。 「逃」(漢音トウ、呉音ドウ)は、 会意兼形声。兆(チョウ)は、骨を焼いて占うときに、左右に離れた罅が生じたさま。逃は「辶(足の動作)+音符兆」で、右と左に離されること、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(辶(辵)+兆)。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「占いの時に亀の甲羅に現れる割れ目」の象形(「はじき割れる」の意味)から、「別れ去る」、「にげる」を意味する「逃」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1134.html)。 「北」の字源には、 象形。たがいに背を向け合っているふたりのさまにかたどり、そむく意を表す。「背(ハイ)」の原字。ひいて、太陽がある南を向いたときに、背の向く方角、「きた」の意に用いる(角川新字源)、 象形。人がふたり背を向け合った形(背の原字、cf.乖)から。転じて、太陽の方角である南方に面(南面)した場合に背が向く方向を意味する、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%97)ある。 「逃」と「北」の差異は、 逃は、たちのく、にげる、遁逃と用ふ。史記「伯夷曰、父命也、遂逃去」、 北は、うしろをみせる義、史記「三戦三北」、 とある(字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「出世」は、今日、もっぱら、 立身出世、 というように、 世の中に出て立派な地位・身分になる、 意で使うが、元来は、仏教用語で、 第九の減劫、人寿二万歳の時、迦葉世尊西天に出世した給ふ時(太平記)、 というように、 諸仏が衆生済度のため世界に出現する、 意(広辞苑)であり、例えば、 弥勒、 は、 慈尊(弥勒菩薩)の出生を五十六億七千万年歳の暁に待ち給ふ(太平記)、 と、 兜率天に住し、釈尊入滅後56億7千万年後この世に下生(げしょう)して、龍華三会(りゅうげさんね)の説法によって釈尊の救いに盛れた衆生をことごとく済度するために出世する、 とされる(仝上)。 於是衆生。歴年累月。蒙教修行。漸漸益解。至下於王城始発中大乗機上、称会如来出世之大意(法華義疏)、 とある。そこから転じて、 迷いの世界を離れ出ること、 も、 出世間、 略して、 出世、 という(日本語源大辞典)。従って、 出世の子弟は世俗の親子(愚管抄)、 と、 世俗を捨てて仏道に入ること、 つまり、 出家、 も意味し、 僧侶の意味にもなる(広辞苑)。さらに、禅宗では、 寺院の住持となること、高位の寺に転住すること、黄衣、紫衣を賜ること、和尚の位階を承ける、 意で言い、また、叡山で、 公卿の子息が受戒・剃髪して左右になること、 を指す(広辞苑)。特に、 公卿の子弟の昇進が早かったこと、 から、「出世」の意味に、 世間の出世も好まねば(一遍上人語録)、 と、 立身出世、 の意味が加わったとされる(大言海・岩波古語辞典)。だが、李白の詩に、 浪跡未出世、 とあり、 身を起こし立身する、 意で使われている(字源)ので、漢語由来ではあるまいか。後には、 太夫の新艘、出世の日より三ヶ日の間、さげ髪にて後帯する法也(評判記「色道大鏡(1678)」)、 と、 女郎が一本立ちして張り見世に出ること、 遊郭の勤めに初めて出ること、 という意味でも使うようだ(精選版日本国語大辞典)。 なお、大乗仏教の修行者(菩薩)は、 「出世」するために、布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定、般若の六つの実践徳目(六波羅蜜)を修める、 とある(日本語源大辞典)。そして、修行が進み、 二度と退かない位に至ること、 を、 不退転に達した、 という(仝上)、とある。「退転」は、 菩提心を失ったために、それまでに得たさとりの位や修行などを失ってあともどりすること、 の意(精選版日本国語大辞典)になる。 「出」(漢音シュツ、呉音スチ、漢音呉音スイ)は、 会意。足が一線の外へ出るさまを示す、 とある(漢字源)。別に、 象形。足が、囲いから外にでるさまにかたどり、「でる」「だす」意を表す、 とも(角川新字源)、 象形文字です。「足が窪(くぼ)みから出る」象形から「でる」を意味する「出」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji178.html)。 「世」(漢音セイ、呉音セ)は、 会意。十の字を三つ並べて。その一つの縦棒を横に引き延ばし、三十年間にわたり期間が延びることを示し、長く伸びた期間をあらわす、 とある(漢字源)が、 これは、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)の、 三十年爲一世。从卅而曳長之、 とあるところから、 「十」を三つ重ねた丗を原字とし、自分の子へ継ぐまでの約三十年が元の意で幾世代も続くことを意味したもの、 としたもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%96)のようだが、 三十を表すという解釈は誤りで「世」は「葉(枼)」を原字とし、甲骨文字で分かるように草木の枝葉の新芽の出ている形を示しており、それによって新しい時期、世代を表すものであるとする、 説(白川説)もある(仝上)、とされる。この場合、象形文字となる。甲骨文字ではないが、甲骨文字を引き継ぎ、漢字の祖形を示すとされる、青銅器に鋳込まれた(または刻み込まれた文字)である、西周の「金文(きんぶん)」を見る限り、「葉」の象形文字に見える。 ただ、別に、 会意文字です。「漢字の十を3つ合わせた」形から、「三十年」、「長い時間の流れ」を意味する「世」という漢字が成り立ちました。転じて、「世の中」の意味も表すようになりました、 との説もあるが(https://okjiten.jp/kanji509.html)、漢字源とは微妙に解釈が違う気がする。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「三会」は、 さんゑ、 と訓むが、連声して、 さんね、 とも訓ます(広辞苑)。 仏が、成道(道すなわち悟りを完成する意、悟りを開いて仏と成る意の成仏と同義)の後、衆生済度のために行う三度の大法会、 の意で、 竜華(りゅうげ)三会、 が知られる(仝上)。「竜華三会」は、 釈迦の入滅後、彌勒菩薩(弥勒菩薩)が五六億七千万年後に兜率天(兜率天)から下生(げしょう )して(人間界に下って)、龍華樹(りゅうげじゅ)の下で悟りをひらき、大衆のために三度、法を説くという説法の会座、 をいい、 龍華会、 弥勒三会、 ともいい(仝上・精選版日本国語大辞典)、 慈尊出生の暁を待つ(太平記)、 と、弥勒菩薩の異称、 慈尊、 を採って、 慈尊三会(じそんさんえ)、 とも言い(精選版日本国語大辞典)、 はや、三会の暁になりぬるやらん。いでさらば、八相成道(はっそうじょうどう この世に下生して、悟りを得て仏となり、釈迦がこの世に下生して経験した八つの姿を八相という)して、説法利生(衆生を救うこと)せんと思ひて(太平記)、 と、 三会の暁、 竜華三会の暁、 華三会の時、 竜華会の朝、 竜華下生の暁、 などとも呼ぶ。「暁」とは、 釈迦寂滅後の闇黒を破って弥勒が世に現われるからいう、 とある(岩波古語辞典)。 阿弥陀信仰が盛んになる前は、この当来仏信仰が広く信じられていた、 とあり(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AD)、 釈迦が滅した56億7千万年(57億6千万年の説あり)の未来に姿をあらわす為に、現在は、兜卒天で修行していると信じられている。このため、中国・朝鮮半島・日本において、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰が流行した、 とある(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%BF%E3%82%8D%E3%81%8F)。 この「三会」に因んで、 南京(奈良)で行なわれた三大法会。興福寺の維摩会(ゆいまえ)、薬師寺の最勝会、宮中大極殿の御斎会(ごさいえ)の三つをいう(また、興福寺の維摩会と法華会に薬師寺最勝会を加えていう)、 南都三会(奈良の三会)、 さらに、天台宗における三つの大きな法会、 円宗寺の法華会と最勝会、法勝寺の大乗会の三つ、 を、 北京(京都)の三会、 と呼んだりする(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。 「三」(サン)は、 指事。三本の横線で三を示す。また、参加の參(サン)と通じていて、いくつも混じること。また杉(サン)、衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで模様を成すの意も含む、 とある(漢字源)。また、 一をみっつ積み上げて、数詞の「みつ」、ひいて、多い意を表す、 ともある(角川新字源)。 「會(会)」(漢音カイ、呉音エ・ケ)は、 会意。「△印(あわせる)+會(増の略体 ふえる)」で、多くの人が寄り集まって話をすること、 とある(漢字源)が、 会意。曾(こしき)にふたをかぶせるさまにより、「あう」、ひいて「あつまる」意を表す、 とも(角川新字源)、 象形文字です。「米などを蒸す為の土器(こしき)に蓋(ふた)をした」象形から土器と蓋(ふた)が、うまく「あう」を意味する「会」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji257.html)、 ともあり、「會」の字源としては、 象形説、ふたのある鍋を象り、いろいろなものを集め煮炊きする様を言う(白川)、 会意説、「亼」(集める)+「曾」(「増」の元字)多くの人が寄り集まることを意味する(藤堂)、 があることになる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%9A)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「推参」は、 定澄令申云。得業已上法師等卅余人許留、推参如何者(御堂関白記・寛弘三年(1006)七月一四日)、 遊者は、人の召に随ひてこそ参れ、左右なく、推参するやうやある(平家物語)、 などと、 招かれもしないのに自分からおしかけていくこと、 の意で、あるいは、 人を訪問することを謙遜(けんそん)していう、 場合にも使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。さらに、 いかなる推参の婆迦(ばか)者にてかありけん(太平記)、 と、 さしでがましいこと、 無礼な振舞い、 の意でも使う(仝上)。 「推」(呉音・漢音スイ、タイ、唐音ツイ)は、 会意兼形声。隹(スイ)は、ずんぐりとしもぶくれした鳥の姿。推は「手+音符隹」で、ずっしりと重みや力を懸けておすこと、 とあり(漢字源)、別に、 形声文字です(扌(手)+隹)。「5本指のある手」の象形(「手」の意味)と「尾の短いずんぐりした小鳥」の象形(「鳥」の意味だが、ここでは「出(スイ)」に通じ(同じ読みを持つ「出」と同じ意味を持つようになって)、「出る」の意味)から、手で「押し出す」を意味する「推」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji902.html)。 つまり、「推」は、「推進」というように、おし進める意で、さらに「推理」というように、考えをおし進める意でもある。その意味では、 強いて押しかける、 意で、それは、場合によっては、 差し出がましい振舞い、 となり、ひいては、 無礼な振舞いとなる。漢字の、 推参、 は、 自分から進んで参る、 参上する、 という意となる(字源)。謙遜の意でなら、 参上、 伺候、 と意味が重なる。 「参る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484295621.html)で触れたように、「参る」は、 まゐ(参)い(入)るの約、 とあり(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)、 「まゐく(参来)」「まゐづ(参出)」「まゐたる(参到)」などと関連して、「まゐ」と「いる」の結合と考えられる、 とある(日本語源大辞典)。「まゐる」の、 マヰは宮廷や神社など多くの人が参集する尊貴な所へ、その一人として行く意。イルは一定の区域の内へ、外から進みこむ意。従ってマヰルは、宮中や神社など尊い所に参入するのが原義、転じて、参上する、差し上げる意、 とある(岩波古語辞典)が、 貴人の居所に入って行くのが原義(日本語源大辞典)、 と、もう少し絞り込んだ見方もある。 「參(参)」(漢音呉音サン・シン、呉音ソン)は、 象形。三つの玉のかんざしをきらめかせた女性の姿を描いたもの。のち彡印(三筋の模様)を加えた參の字となる。入り交じってちらちらする意を含む、 とある(漢字源)。つまり、「參」には、「参加」「参政」といった「まじわる」「加わる」、お目にかかる意の「参観」の意はあるが、 神社などに参る、 意や、「降参」の意の、 参る、 という意味はなく、わが国だけの使い方らしい。 「参上」は、 目上の人のところへ行く、 意で(広辞苑)、 「まいのぼる(参上)」の変化した語、 であり(精選版日本国語大辞典)、 参向、 と同義となる。 伺候、 と同義で、 高貴な人の前に参り、お目にかかる、 意の、 見参、 は、 げんざん、 けんざん、 げざん、 げぞう、 などと訓ませるが、 見参(みえまゐらす)の字の音読み、 とある(大言海)。ということは、立場が逆で、本来は、 謁見、 目通り、 引見、 等々の意に近いことになる。で、 見参する、 を、 大方には、参りながら、此御方のげざんに入ることの難しくはべれば(蜻蛉日記)、 と、 見参に入る、 という(大言海)。あるいは、 同き十八日に、明卿初て見参せしめられたり(「折たく柴の記(1716頃)」)、 と、 武士が新しく主従関係を結ぶにあたって、主人に直接対面する、 意で使う(精選版日本国語大辞典)。 ただ、「見参」を、 「参会」や「対面」の意で用いるのは日本独自の用法で、中国の文献には見られない、 とある(精選版日本国語大辞典)。 古くは、「見参」は、 見参五位已上賜祿有差(類聚国史・天長八年(831)八月丙寅)、 とあり、 上代、節会(せちえ)、宴会などに出席すること。また、出席者の名を書き連ねて、御前に提出すること。またその名簿、 の意であったらしく、その名残りは、 現参被始之。筆師訓芸〈願信房〉、鈍色・五帖けさ(「大乗院寺社雑事記」応仁元年(1467)五月二三日)、 と、 法会・集会などへの衆僧の出仕を確認すること、 出欠をとること、 の意で使われている(精選版日本国語大辞典)。 目下の者が目上の者のもとへ参上して対面すること、また逆に目上の者が目下の者を出頭させ対面すること、 の意の「見参」は、平安時代より見られる用語とある(世界大百科事典)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 総大将の被御覧御目の前にて、討死仕りて候はむこそ、後まで名も、九原の骨に留まり候はんずれ(太平記)、 獄門にかくるまでもなくて、九原の苔に埋れにけり(仝上)、 などとある、 「九原(きゅうげん)」とは、 墓地、 の意である。 春秋時代に晋の卿大夫の墳墓のあった地名にもとづく、 とある(広辞苑)。それをメタファに、 千載九原如何作、香盟応与遠持期(蕉堅藁(1403)古河襍言)、 と、 あの世、 黄泉、 また、 死者、 をいう、とある(精選版日本国語大辞典)。 禮記に、 是全要領、以従先大夫於九京也(京、即ち、原の字)、 とあり、黄庭堅賦に、 顧膽九原兮、豈其可作、 とある(字源・大言海)。 「九」(漢音キュウ、呉音ク)は、 象形。手を曲げて引き締める姿を描いたもので、つかえて曲がる意を示す。転じて、一から九までの基数のうち、最後の引き締めにあたる九の数、また指折り数えて、両手で指を全部引き締めようとするときに出てくる九の数を示す。究(奥深く行き詰まって曲がる最後の所)の音符となる。また糾合の糾、鳩合(きゅうごう)の鳩と通じる、 とある(漢字源)。別に、 象形。人がひじを曲げた形にかたどる。借りて、数詞の「ここのつ」の意に用いる、 とも(角川新字源)、 象形。肘を曲げて一つにまとめるさま。一からの数字を最後にまとめる意味(藤堂)。竜を象った文字で、音を仮借したもの(白川)、 と両説あげものも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%9D)、 象形文字です。「屈曲(折れ曲がって)して尽きる」象形から、数の尽き極(きわ)まった「ここのつ」を意味する「九」という漢字が成り立ちました、 ともあり(https://okjiten.jp/kanji131.html)、微妙に含意が異なる。 「原」(漢音ゲン、呉音ゴン、慣用ガン)は、 会意。「厂(がけ)+泉(いずみ)」で、岩石の間の丸い穴から水が湧く泉のこと。源の原字。水源であるから「もと」の意を派生する。広い野原を意味するのは、原隰(ゲンシュウ 泉の出る地)の意から。また、生まじめを意味するのは、元(丸い頭)・頑(ガン 丸い頭→融通のきかない頭)などに当てた仮借字である、 とある(漢字源)。同音の別語に音を借りて、「はら」の意も表す(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8E%9F)のは借字の故のようである。 別に、 会意文字です(厂+泉)。「けずりとられたがけの象形」と「岩の穴から湧き出す泉の象形」からわきはじめたばかりの泉、すなわち「みなもと」を意味する「原」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji354.html)のも同趣旨となる。 つまり、「原」は、 厡、 がもとの字になる。「原」は、 「厡」の略字、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「みずら(みづら)」は、 角髪、 角子、 鬟、 髻、 などと当て(広辞苑)、 美豆羅、 美豆良、 とも書く(日本大百科全書)、 大和時代に始まる男子の髪型、 である(ブリタニカ国際大百科事典)。 男子の成人に達したもの、 が結った(岩波古語辞典)。和名類聚抄(平安中期)に、 鬟、美豆良、屈髪也、 とある。 髪(みぐし)を結(あ)げてみづらに為し(神代紀)、 御髪を解きて御みづらに纏(ま)き(仝上)、 などと、 頭の額の中央から左右に分けて、耳のところで一結びしてから、その残りを8字形に結んだもの。その8の形が、耳の中央より上か下かによって「上げみずら」「下げみずら」とよぶ。この姿は、6世紀に盛行した人物埴輪(はにわ)から知られるが、中国漢代の画像石のなかに、その髪形をした人物がみられるので、おそらくはその源は中国文化の伝来によるものであろう、 とある(日本大百科全書)。そして、 奈良時代には少年の髪型となる(広辞苑)、 平安時代以後、少年の型(岩波古語辞典)、 平安期に至りて、十四五歳の童子の髪風となる(大言海)、 と各説に時間差があるが、 当初は12歳以上の男子の髪型であったが、奈良時代には元服以前の少年用となり、さらに平安時代以降は皇族の少年用に限られるようになって名称も総角(あげまき)と変った、 ということのようである(ブリタニカ国際大百科事典)。 なまって、 びんずら、 びずら、 ともいう。 髪を上げて巻く、 ところから、後に、 あげまき(総角・揚巻)、 と呼ばれるのは、この変形とされ(仝上)、 古の俗、年少児の年、十五六の間は束髪於額(ひさごはな)す。十七八の間は、分けて、総角にす(書紀)、 と、 髫髪(うなゐ)にしていた童子の髪を十三、四を過ぎてから、両分し、頭上の左右にあげて巻き、輪を作ったもの。はなりとも、 とある(岩波古語辞典)。 髪を中央から左右に分け、両耳の上に巻いて輪をつくり、角のように突き出したもの。成人男子の「みづら」と似ているが、「みづら」は耳のあたりに垂らしたもの、 とある(精選版日本国語大辞典)のがわかりやすい。「髫髪(うなゐ)」は、 ウナは項(うなじ)、ヰは率(ゐ)、髪がうなじにまとめられている意で、十二三歳まで、子供の髪を垂らしてうなじにまとめた形、 を言い(岩波古語辞典)、「束髪於額(ひさごはな)」は、 厩戸皇子、束髪於額(ヒサコハナ)して(書紀)、 とあり、辞書には載らず、はっきりしないが、「ヒサゴバナ(瓠花・瓢花)の項に、 上代の一五、六歳の少年の髪型の一つ。瓠の花の形にかたどって、額で束ねたもの、 とある(日本国語大辞典)。ただ、 ひさご花は後世に伝わっていない、 という(文政二年(1819)「北辺随筆」)、 という。つまり、よくわからないようだ。 唐輪(からわ)、 という、 鎌倉時代の武家の若党や、元服前の近侍の童児の髪形、 とされる、 髻(もとどり)から上を二つに分けて、頂で二つの輪に作る髪型、 も(精選版日本国語大辞典)、 其の遺風なり、 とある(大言海)。ただ、 年の程十五六ばかりなる小児(こちご)の、髪唐輪に挙げたるが、麹塵(きじん 麹黴(こうじかび)のようなくすんだ黄緑色)の胴丸に袴のそば高く取り、金(こがね)作りの小太刀を抜いて(太平記)、 あるように、 垂髪を行動しやすいように頭上に束ね、輪にして巻きこめた髪型、 とある(兵藤裕己校注『太平記』)ので、もっと実戦的な理由だったのかもしれない。 唐輪髷(からわまげ・からわわげ)、 ともいい、後に、 その婦は出て草をとるほどに髪をからわにまげて(「玉塵抄(1563)」)、 と、 女性の髪形の一つ、 となり、 頭上で髪の輪を作り、その根を余りの髪で巻きつけるもの。輪は二つから四つに作るのが普通、 という、 唐輪髷、 となる(精選版日本国語大辞典)。 「みずら」は、 ミミツラ(耳鬘)の約(大言海・広辞苑・日本語源広辞典)、 ミミツラ(耳連)の約(日本古語大辞典=松岡静雄)、 マツラ(両鬘)の転(大言海)、 マヅラ(両列)の義(松屋筆記)、 とされるのは、髪型の位置からきている。 ミ(耳)+ツラ(鬘)、 は、 カ(頭)+ツラ(鬘)、 と対とする説明(日本語源広辞典)は説得力があるが、 「美面」の意で、ミは美称である、 とする説(筑波大学教授・増田精一説)もある。お下げ遊牧民であるモンゴル人が、おさげをクク、あるいはケクといったが、これは「いい面」の意味で、後代、中近世に広まった丁髷が大陸南方文化に多いのに対し、角髪(みずら)のようなお下げ文化は大陸の北方文化にみられる、 とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%AB%AA)。 なお、人物埴輪の美豆良の形に、 結んだ下端が肩まで垂れた〈下げ美豆良〉と、耳のあたりに小さくまとめた〈上げ美豆良〉とがある。上げ美豆良は農夫像などに見いだされる。下げ美豆良は労働には不適当であるから、この相違は身分の上下と関連するものであろう、 とある(世界大百科事典)。 「みづら(みずら)」の転訛、 びんづら(びんずら)、 も、 角髪、 と当てるが、 中世、少年の髪風となり、総角(あげまき)とも云ふ。鬟(みづら)を頭上に束ね結ふをあげびんづらと云ひ、左右に結ひ垂るをさげびんづらと云ふ、 とある(大言海)。平安時代後期の有職故実書『江家次第(ごうけしだい)』に、 幼主之時、垂鬢頬、 とある(仝上)。「あげびんずら(上鬘)」は、 髪を中央から分けて、左右それぞれを輪にし、総角(あげまき)という髪形にして、夾形(はさみがた)という紙で結んだ、 とあり、「さげびんずら(下鬘)」は、 左右の鬢(びん)の髪を結んで耳の上まで垂れ下げたもの、 とある(精選版日本国語大辞典)。当然、 あげみづら、 さげみづら、 と同じである。 「唐輪(からわ)」の語源は、 絡(から)げ綰(さ)げの義(大言海)、 髪をからめて輪にするのでカラワ(搦輪)の義(筆の御霊・松屋筆記)、 と、その結い方に因るようである。 「総角(あげまき)」の語源は、 髪を結ふをアグと云ふ。結(あ)げ巻くいなるべし、 とある(大言海)。「あげまき」に当てた、 総角、 は、漢語、 総角(ソウカク)、 を当てたものといっていい。 婉兮孌兮、総角丱兮(齊風)、 と、 小児の髪をすべて集めて頭の両側に角の形に結ぶもの、 の意で、転じて、 小児、 の義となる(字源)、とある。紐の結び方の、 総角、 揚巻、 から来たとする説は、先後逆なのではあるまいか。 「角」(カク)は、 象形。角は∧型の角を描いたもので、外側がかたく中空であるつの、 とある(漢字源)。 「髮(髪)」(漢音ハッ、呉音ホチ)は、 会意兼形声。犮(ハツ)は、はねる、ばらばらにひらくの意を含む。髮はそれを音符とし、髟(かみの毛)を加えた字で、発散するようにひらくかみの毛、 とある(漢字源)。 別に、 会意兼形声文字です。「長髪の人」の象形と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形と「犬をはりつけにした」象形(犬をはりつけにして、いけにえを神に捧げ、災害を「取り除く」の意味)から、長くなったらはさみで取り除かなければならない「かみ」、「草木」を意味する「髪」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji293.html)。 「鬟」(漢音カン、呉音ゲン)は、 会意兼形声。下部の字(カン)は、まるい、とりまくの意を含む。鬟はそれを音符とし、髟(かみの毛)を加えた字、 とある(漢字源)。髪を束ねて丸く輪にした意、である。 「髻」(漢音ケイ・キツ、呉音キ・キチ)は、 会意兼形声。「髟(かみの毛)+音符吉(結、ぐっとむすぶ)」 で、「もとどり」「たぶさ」の意である。 「鬢」(慣用ビン、漢音呉音ヒン)は、 会意兼形声。賓は、すれすれにくっつく意を含む。鬢は「髟(かみの毛)+音符賓」で、髪の末端、ほほとすれすれのきわにはえた毛、 とある(漢字源)。「びんずら」の意を持つ。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「きぶん」は、 気分、 と当てる他に、 機分、 とも当てる。「気分」は、 人の気分を離れて多くの年を経たり(今昔物語)、 と、 気持、 心持ち、 の意味と、 長老の気分強情(がんじゃう)なり(奇異雑談集)、 と、 気質、 気性、 の意があり、「機分」は、 其の子、獅子の機分あれば、教へざるに、中より身を翻して飛び揚り、死する事を得ずと云へり(太平記)、 と、 生まれつきの性質、 器質、 の意と、 末世の機分、戎夷(じょうい)の掌(たなごころ)におつべき御悟りなかりしかば(仝上)、 と 時勢、 時運、 の意がある(岩波古語辞典)。 「機微」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/403855330.html)で触れたが、「機」は、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 機、アヤツリ、 とあり、 千鈞の弩(いしゆみ)は蹊鼠(けいそ)の為に機を発せず(太平記)、 とあるように、 弩のばね、転じて、しかけ、からくり、 の意、 迷悟(凡夫と佛)機ことなり、感応一に非ず(性霊集)、 と、 縁に触れて発動される神的な能力、 素質、 機根、 の意、 一足も引かず、戦って機已に疲れければ(太平記)、 と、 気力、 元気、 の意と、 御方(みかた)の疲れたる小勢を以て敵の機に乗ったる大勢に懸け合って(仝上)、 と、 物事のきっかけ、 はずみ、 時機、 の意と、 息も機も同じ物、節・曲と云ふも同じ文字なれども、謡ふときは習ひやうべつなり(音曲聲出口伝)、 と、 (心の働きとしての)息、 気、 の意図がある。漢字「機」(漢音キ、呉音ケ)が、 会意兼形声。幾(キ)は、「幺二つ(細かい糸、わずか)+戈(ほこ)+人」の会意文字で、人の首に武器を近づけて、もうわずかで届きそうなさま。わずかである、細かいという意を含む。「機」は、「木+音符幾」で、木製の仕掛けの細かい部品、僅かな接触で噛み合う装置のこと、 とあり(漢字源)、漢字「機」には、 はた、機織り機、「機杼」、 部品を組み立ててできた複雑な仕掛け、「機械」、 物事の細かい仕組み、「機構」「枢機(かなめ)」、 きざし、事が起こる細かいかみあい、「機会」「契機」「投機」、 人にはわからない細かい事柄、秘密、「機密」「軍機」、 勘の良さ、細かい心の動き、「機知」「機転」、 といった意味があり、和語「機」が、強く漢字の意味の影響を承けていることがわかる。 「気」は、「気」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/412309183.html)で触れたように、 漢字の「気(氣)」(漢音キ、呉音ケ)は、 会意兼形声。气(キ)は、遺棄が屈折しながら出て来るさま。氣は「米+音符气」で、米をふかすとき出る蒸気のこと、 とあり(漢字源)、漢字の「気」の意味は、 @息。「気息」「呼気」、 A固体ではなく、ガス状のもの。「気体」「空気」、 B人間の心身の活力。「気力」「正気」、 C漢方医学で、人体を守り、生命を保つ陽性の力のこと。「衛気」、 D天候や四時の変化を起こすもとになるもの陰暦で、二十四気。「節気」「気候」、 E人間の感情や衝動のもととなる、心の活力。「元気」「気力」、 F形はないが、何となく感じられる勢いや動き。「気運」「兵革之気」、 G偉人のいるところに立ちあがるという雲気。「望気術」、 H宋学で、生きている、存在している現象を言う。「理気二元論」、 I俗語で、かっとする気持ち。「動気」、 となる(仝上)が、「気」は、固有の日本語としてはない言葉で、漢字の音をそのまま使い、 目に見えないが、空中に満たされているもの、 といった意味で、漢字の意味を流用しながら、微妙に違う意味にスライドさせ、 @天地間を満たし、雨中を構成する基本と考えられるもの。またその動き、 ・風雨・寒暑などの自然現象。「気象」「気候」「天気」、 ・15日または16日間を一期とする呼び方。三分してその一つを、候と呼ぶ。二十四節気、 ・万物が生ずる根元。「天地正大の気」、 A正命の原動力となる勢い。活力の源。「気勢」「精気」「元気」、 B心の動き・状態・働きを歩赤津的に表す。文脈に応じて重点が変る、 ・(全般的に見て)精神。「気を静める」「気が滅入る」、 ・事に振れて働く心の端々。「気が散る」「気が多い」、 ・持ちつづける精神の傾向。「気が短い」「気がいい」、 ・あることをしようとする心の動き。つもり。「どうする気だ」「気がしれない」「まるで気がない」「やる気」、 ・あることをしようとして、それに惹かれる心。関心。「気をそそる」「気を入れる」「気がある」「気が乗らない」、 ・根気。「気が尽きた」、 ・あれこれと考える心の動き。気遣い。心配。「気を揉む」「気に病む」「気を回す」「気が置ける」「気になる」、 ・感情。「気まずい」「気を悪くする」「怒気」、 ・意識。「気を失う」、 ・気質。「気が強い」、 ・気勢。「気がみなぎる」、 Cはっきりとは見えなくても、その場を包み込み、その場に漂うと感じられるもの、 ・空気。大気。「海の気」「山の気」「気体」「気圧」、 ・水蒸気のように空中にたつもの。気(け)、 ・あたりにみなぎる感じ。「殺伐の気」「鬼気」「霊気」「雰囲気」、 ・呼吸・息遣い。「気息」「酒気」、 Dその物体本来の性質を形づくるような要素。「気の抜けたビール」、 等々(広辞苑)、僻目かもしれないが、どうも、具体的なもの、形而下的な、あるいは現象としての「気」にシフトして使われている気がしてならない。矮小化する、というと貶めすぎだろうか。 「宇佐美文理『中国絵画入門』」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/401855141.html)で触れたように、中国絵画では、 最初は、孫悟空の觔斗雲のような形、 で表現されていた(後漢時代の石堂の祠堂のレリーフにある)、霊妙な気を発する存在としての西王母の肩から湧くように表現されていた「気」が、 逆境にもめげず高潔を保つ精神性を古木と竹で表現した(金の王庭筠の「幽竹枯槎図」の)、 われわれが精神や心と呼んでいるものも、 気の働きと考えるようになり、そういう 画家の精神性が表現されたということは、画家のもっている気が表現された、あるいは形象化された、 という「気」まで、いずれも、「気」を表現したと見なす。簡単に言えば、中国絵画における気の表現は、気を直接形象化した表現から、実物の形象を使いつつ気を表現するというところまで変換して、「気」が形而上学化されていく、それは、宋学の「気」を出すまでもなく、 我善く浩然の気を養う。敢えて問う、何をか浩然の気と謂う。曰く、言い難し。その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害うことなければ、則ち天地の間に塞(み)つ。その気たるや、義と道とに配す。是れなければ餒(う)うるなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所の者にして、襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(こころよ)からざることあれば、則ち餒う也。 とある(孟子)、 浩然の気、 の「気」が、文天祥の、 天地に正気あり、 雑然として流形を賦す 下は則ち河嶽と為り 上は則ち日星と為る 人に於いては浩然と為る 沛乎として滄溟に塞(み)つ の「正気の歌」につながる。これについては、「義」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/411864896.html)で触れた。 さて、「気」と「機」は、「気」が、 こころ、 感情、 「機」が、 形、 機能、 といった大まかな違いがあったはずであるが、江戸時代になると、 むさと物事機にかけまじきことなり(宿直草)、 と、 「気」に同じ、一般に心の働きを示す語、 と(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、ほぼ同義とされるのである。考えれば、 心の動き、 を、 機能、 で見るか、 表れ、 で見るかは、いずれ、同じになるのはやむを得ない。そう見ると、 いよいよ猛き心を振るひ、根機を尽くして(太平記)、 は、 気力の限りを尽くして、 の意だが、 手の限り闘って、機すでに疲れければ(仝上)、 は、 精も根も尽き果てた、 意だし、 敵の勢いに機を呑まれて(仝上)、 の、 気勢をそがれて、 の意や、 数ヶ度の戦いに腕緩(たゆ)み機疲れけるにや(仝上)、 敵の勇鋭を見ながら、機を撓(た)め給わず(仝上)、 などの用例などは、ほぼ「気力」の意で、「気」に置き換えても差はなくなってきているのである。 漢字「気」については、別に、 角川新字源 旧字は、形声。意符米(こめ)と、音符气(キ)とから成る。食物・まぐさなどを他人に贈る意を表す。「餼(キ)」の原字。転じて、气の意に用いられる、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(米+气)。「湧き上がる雲」の象形(「湧き上がる上昇気流」の意味)と「穀物の穂の枝の部分とその実」の象形(「米粒のように小さい物」の意味)から「蒸気・水蒸気」を意味する「気」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji98.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「屈強(くっきょう)」は、 強情で、人に屈しないこと、 であるが、 倔強、 とも当てる。 きわめて力が強いこと、 頑丈なさま、 の意である(デジタル大辞泉)。漢書・匈奴伝に、 楊信、為人剛直屈強、 とあり、 剛直の貌、 従順ならざる貌、 とあり(字源)、 檜曰、此老倔強猶昔(宋史)、 と、 倔強、 とも、 孟知祥倔彊於蜀(五代史)、 と、 倔彊、 とも、 迺欲以新造未集之越屈彊於此(史記)、 と、 屈彊、 とも当て、 崛彊、 とも同じとある(字源)。原意は、ただ、 強い、 頑丈、 というよりは、 頑強、 強情、 の含意が強い気がする。「くっきょう」は、 究竟、 とも当て、 六千余騎こそこもれけり、もとより究竟の城郭なり(太平記)、 と、 きわめて力の強いこと、 堅固、 の意で使い、 この場合は、 屈強、 とも当てる。しかし、本来、「究竟」は、 くきょう、 と訓ませ、 くっきょう、 は、 その急呼(促音化)、 とある(広辞苑・大言海)。「究竟(くきょう)」は、 クは呉音、 とある(仝上)。これも漢語のようであり、「究竟」は、漢音では、 キュウキョウ、 と訓ませ、 流覧徧照、殫變極態、上下究竟(後漢書・馬融伝)、 とあり、 つまるところ、 の意で、 畢竟、 究極、 窮竟、 と同義である(字源)。室町時代の意義分類体の辞書『下學集』にも、確かに、 究竟(クキャウ)、必竟之義也、 とあり、「必竟」は、 畢竟(ひっきょう)、 の意で、 梵語atyantaの訳。「畢」も「竟」も終わる意、 とあり(精選版日本国語大辞典)、 つまるところ、 の意だが、 究竟は理即にひとし、大欲は無欲に似たり(徒然草)、 と、 物の究極に達したところ、 の意でも使われ、日葡辞書(1603〜04)には、 クッキャウノジャウズ、 と載り、 極めて優れていること、 の意で、 金武と云ふ放免あり、究竟の大力(源平盛衰記)、 とも使われる。憶測だが、仏語で、 一切の法を悟りつくした境地、 天台宗でいう六即の最高位、 の意で、 究竟即、 といい、その略として、 究竟、 を使ったため、その転化として、 主従三騎究竟の逸物どもにて(平治物語)、 と、 卓越していること、 の意で使われ、音が、 クキョウ→クッキョウ、 と転訛し、音が重なる、 倔強、 屈強、 の、 きわめて力が強いこと、 の意と重なったのではあるまいか。 「退屈」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484531850.html?1637784119)で触れたように、「屈」(漢音クツ、呉音クチ)は、 会意。「尸(しり)+出」で、からだをまげて尻を後ろにつき出すことを示す。尻をだせばからだ全体はくぼんで曲がることから、かがんで小さくなる、の意ともなる。出を音符と考える説もあるが、従い難い、 とある(漢字源)。しかし、 形声。意符尾(しっぽ。尸は省略形)と、音符出(シユツ)→(クツ)とから成る。短いしっぽ、転じて、くじく意を表す、 とか(角川新字源)、 会意文字です(尸(尾)+出)。「獣のしりが変形したもの」と「毛がはえている」象形と「くぼみの象形が変形したもの」から、くぼみに尾を入れるさまを表し、そこから、「かがむ」、「かがめる」を意味する「屈」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1192.html)。 「倔」(漢音クツ、呉音ゴチ)は、 会意兼形声。屈は、伸の反対で、曲がって低くかがむの意を含む。倔は「人+音符屈」で、かがんでいるが底力のあること、 とある(漢字源)。「ずんぐりして芯の強いさま」の意で、「倔強」と使う。 「究」(漢音キュウ、呉音グ)は、 会意兼形声。九は、手が奥に届いて曲がったさま。十進法の序数のうち、最後の行き詰まりの数を示すのに用いる。究は「宀(あな)+音符九」で、穴の奥底の行き詰まるところまで探ることを示す、 とあり(仝上)、「究奥義」と、「きわめる」意である。 別に、 会意兼形声文字です(穴+九)。「穴居生活の住居」の象形と「屈曲して尽きる」象形(「尽きる」、「きわまる」の意味)から穴を「つきる・きわめる」を意味する「究」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji472.html)。 「彊」(漢音キョウ、呉音コウ、ゴウ、キョウ)は、 会意兼形声。右側の字(キョウ)は、田の間にくっきりと一線で境界を付けることを示し、かたく張ってけじめの明らかな意を含む。彊はそれを音符とし、弓を加えた字で、もと弓が堅く張ったこと。転じて、広く丈夫で堅い意に用いる、 とある(漢字源)。「強弓」の意(字源)とあり、丈夫で力がこもっている、意とある(漢字源)。「強」と同義である。 「強(强)」(漢音キョウ、呉音ゴウ)は、 会意兼形声。彊(キョウ)はがっちりとかたく丈夫な弓、〇印はまるい虫の姿。強は「〇印の下に虫+音符彊の略体」で、もとがっちりしたからをかぶった甲虫のこと。強は彊に通じて、かたく丈夫な意に用いる、 とある(漢字源)。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 強、蚚也、从虫弘聲…… とあり、「蚚」は、 コクゾウムシという、固い殻をかぶった昆虫の一種を表す漢字だ、とされています。つまり、「強」とは本来、コクゾウムシを表す漢字であって、その殻が固いことから、「つよい」という意味へと変化してきた、 とあり(https://kanjibunka.com/kanji-faq/mean/q0435/)、 会意兼形声文字です。「弓」の象形と「小さく取り囲む文字と頭が大きくてグロテスクなまむし」の象形(「硬い殻を持つコクゾウムシ、つよい、かたい」の意味)から、「つよい」を意味する「強」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji205.html)のは、その流れである。 しかし、白川静『字統』(平凡社)によれば、 「強」に含まれる「虫」はおそらく蚕(かいこ)のことで、この漢字は本来、蚕から取った糸を張った弓のことを表していた、その弓の強さから転じて「つよい」という意味になった とある(https://kanjibunka.com/kanji-faq/mean/q0435/)。だから、「強」については、 会意。「弘」+「虫」で、ある種類の虫の名が、「彊」(強い弓)を音が共通であるため音を仮借した(説文解字他)、 または、 会意。「弘」は弓の弦をはずした様で、ひいては弓の弦を意味し、蚕からとった強い弦を意味する(白川)、 と、上記(漢字源)の、 会意形声説:。「弘」は「彊」(キョウ)の略体で、「虫」をつけ甲虫の硬い頭部等を意味した(藤堂)、 と諸説がわかれることになる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%B7#%E5%AD%97%E6%BA%90)。 「竟」(漢音キョウ、呉音ケイ)は、 会意。「音+人」で、音楽の終り、楽章の最後を示す、 とある(漢字源)。 不肯竟學(あへて学を竟(お)へず)、 とある(史記)ように、「竟日」(きょうじつ 終日)と、「最後の最後までとどく」「しまいまでやりとげる」意である。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「轍魚(てつぎょ)」は、 轍にたまった水の中で苦しんでいる魚、 の意で、 義貞が恩顧の軍勢等、病雀花を喰うて飛揚の翅(つばさ)を展(の)べ、轍魚の雨を得て噞喁(げんぐう 魚が水面に口を出して呼吸すること)の唇を湿(うるお)しぬと(太平記)、 と、 困窮に迫られているものの喩え、 に言う(広辞苑)。 轍鮒(てつぷ)、 とも言う。 轍鮒之急、 涸轍之鮒、 とも言うが、これは、『荘子』外物に、 莊周家貧、故往貸粟於監河侯、監河侯曰、諾我將得邑金、將貸子三百金、可乎、莊周忿然作色曰、周昨來、有中道而呼者、周顧視、車轍中、有鮒魚焉、周問之曰、鮒魚來、子何為者邪、對曰、我東海之波臣也、君豈有斗升之水而活我哉、周曰、諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、可乎、鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、君乃言此、曾不如早索我於枯魚之肆、 とあるのによる(字源)。常與は水、の意。貧乏な莊周(荘子)が、 貸粟、 と頼んだところ、監河侯が、 諾我將得邑金、將貸子三百金、 と悠長なことを言ったのに対し、轍の鮒を喩えて、莊周が、 昨來、有中道而呼者、 見ると、 車轍中、有鮒魚焉、 その轍の鮒に、 君豈有斗升之水而活我哉、 と、一斗一升の水が欲しいと求められたのに対し、 諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、 と間遠な答えをしたところ、 鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、 と鮒が憤然として、そのように言うなら、 枯魚之肆、 つまり干物屋で会おうと言われたといって、監河侯をなじったのに由来する(故事ことわざの辞典)。これは、 籠鳥の雲を戀ひ、涸魚(かくぎょ)の水を求むる如くになって(太平記)、 とある、 涸魚(かくぎょ・こぎょ)、 ともいう。 カク、 は「涸」の漢音で、「涸魚」は、 水がない所にいる魚、 の意で、 今にも死にそうな状態、必死に助けを求めている状態などのたとえ、 として使われ、「轍魚」似た意味であるが、「轍魚」より事態は深刻かもしれない。 涸轍(こてつ)、 涸鮒(こふ)、 ともいい、 涸轍鮒魚、 とも言い、出典は、上記「轍魚」と同じく『荘子』である(字源)。 小水之魚(しょうすいのうお)、 焦眉之急(しょうびのきゅう)、 風前之灯(ふうぜんのともしび)、 釜底游魚(ふていのゆうぎょ)、 も似た意味になる(https://yoji.jitenon.jp/yojii/4389.html)。 なお、 涸魚(こぎょ)、 枯魚(こぎょ)、 と書くと、 かれうお、 とも訓ませ、 魚のひもの、干し魚、 の意となる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。 「轍」(漢音テツ、呉音デチ)は、 会意兼形声。旁(音 テツ)は、さっと取り去る、過ぎ去るの意を含む。轍は、それを音符とし、車を加えた字で、車がさっと通りすぎた跡、 とある(漢字源)。 「涸」(慣用コ、漢音カク、呉音ガク)は、 会意兼形声。古は、頭蓋骨を描いた象形文字で、かたく乾いた意を含む。固は「囗(四方を囲んだ形)+音符古」の会意兼形声文字で、周囲からがっちり囲まれて動きの取れないこと。涸は「水+音符固」で、水がなくなって堅くなること、 とある(漢字源)。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「南枕」は、 頭を南に、足を北へ向けて寝る、 つまり、 「北枕」の、 頭を北へ、足を南へ向けて寝る、 の真逆であるが、 河野備後守、搦手より攻め入る敵を支えて、半時ばかり戦ひけるが、精力尽きて深手あまた所負ひければ、攻め(口)を一足も引き退(しりぞ)かず、三十二人腹を切って、南枕にぞ臥したりける(太平記)、 と使われ、 北枕の反対で、成仏を拒む死に方、 と注記されている(兵藤裕己校注『太平記』)。 「北枕」は、 北枕に寝かせるのは「涅槃経(ねはんぎょう)」に、お釈迦さまのご入滅された時、頭を北にして顔を西に向けておられた姿をされたと書かれていることによります。また部屋の都合で北枕にできない時は西枕でもよいとされています。世界の仏教国ではこの風習があり、日本では「遺体は之を北枕に寝させ、今まで使用していた枕を除き、白布又はタオルを畳んで頭の下に敷く、顔面へは白布をかけ、枕元に屏風を逆に立て、小机の上に灯火と線香を供える。又魔除けのために刀を置き袈裟を遺体の上に置く」習俗が古代からありました、 とあり(http://www.hokkeshu.jp/faq/faq_02.html)、 頭北面西右脇臥(ずほくめんさいうきょうが)、 といい、 釈迦が入滅した時の姿。その姿にならって、人が死んだ時、死者を北枕にし、顔を西に向け、右脇を下にして寝かせること とある(精選版日本国語大辞典)。 頭北面西、 頭北西面、 頭北西面右脇臥、 ともいう。『仏本行経』には、 仏、便(すなわ)ち縄床(じょうしょう)に在り、右脇にして倚臥し、面を西方に向け、首を北にして足を累(かさ)ぬ(仏本行経)、 とあり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%A0%AD%E5%8C%97%E9%9D%A2%E8%A5%BF)、インドでは身分の高い人物はこのように臥されるといわれる(仝上)が、しかし、 これは仏教が将来、北方で久住するという考えから“頭北”が生まれたものである。ただし、この説は北伝の大乗仏教のみで後代による解釈でしかない、 ともあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9E%95)、また、 過去には中国でも北枕の風習があったと言われる。ただし、それは仏教に根付くものではなく、食中毒などの急死の際に、北枕に寝かせることで生き返ることがあったためである。この中国思想における北枕の思想は古墳時代初期における西日本の権力者の間にも伝わったと見られ、畿内・吉備・出雲における古墳被葬者に古代中国の宗教思想である「生者南面、死者北面」が流行したと考えられている ともある(仝上)。仏教由来で、少し「北枕」の持つ意味が変わったようである。 日本では、釈迦の故事に因み、 死を忌むことから、北枕は縁起が悪いこととされ、死者の極楽往生を願い遺体を安置する際のみ許されていた、 とある(仝上)。つまり、 成仏、 を願う意図である。冒頭の、意識して、 南枕、 とするのは、それを願わぬ、という意志であり、深読みすれば、 魂魄この世に留まりて、 ということになる。「魂魄」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456697359.html)で触れたように、「こんぱく(魂魄」は、 人間の精神的肉体的活動をつかさどる神霊、たましいをいう。古代中国では、人間を形成する陰陽二気の陽気の霊を魂といい、陰気の霊を魄という。魂は精神、魄は肉体をつかさどる神霊であるが、一般に精神をつかさどる魂によって人間の神霊を表す。人が死ぬと、魂は天上に昇って神となり、魄は地上に止まって鬼となるが、特に天寿を全うせずに横死したものの鬼は強いエネルギーをもち、人間にたたる悪鬼になるとして恐れられた、 とある(世界大百科事典)。死後も戦い続ける意志とみられる。 風水では、北枕は、 頭寒足熱の理にかなった「運気の上がる寝方」とされており、「頭寒足熱」説は体にいいとされる根拠の一つとなっている。また、「地球の磁力線に身体が沿っていることによって血行が促される」とする説も存在し、心臓への負担を和らげるため体にいいとされる考えがあり、「釈迦が北へ枕を向けたのもそのため」とする説もある、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9E%95)が、 地球の磁力線は水平面に平行しているわけではなく、伏角(地球の磁力線と水平面との角度)と呼ばれる角度だけ傾いているため、北枕にして水平に寝ても「磁力線に身体が沿った状態」とはならない、 らしい(仝上)。 因みに、「南枕」は、風水では、 南枕はおすすめできません。自然の気の流れに逆らう方位でもあるため、熟睡できずにエネルギーも上手く補充できません。健康を損なう場合もあるのでご注意を、 とある(http://happism.cyzowoman.com/2012/01/post_377.html)。 「南」(慣用ナ、呉音ナン、漢音ダン)は、「南」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/445223906.html)で触れたように、 会意兼形声。原字は、納屋ふうの小屋を描いた象形文字。南の中の形は、入の逆形が二線にさしこんださまで、入れこむ意を含む。それが音符となり、屮(くさのめ)と囲いのしるしを加えたのが南の字。草木を囲いで囲って、暖かい小屋の中に入れこみ、促成栽培をするさまを示し、囲まれて暖かい意、転じて取り囲む南がわを意味する。北中国の家は北に背を向け、南に面するのが原則、 とある(漢字源)。別に、 象形。鐘状の楽器を木の枝に掛けた形にかたどる。南方の民族が使っていた楽器であったことから、「みなみ」の意を表す(角川新字源)、 形声。テントと、丹(タン→暖)を組み合わせたもので、家の中が暖かいという意味。転じて、南を表す。鐘の形がもとになっている(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%97)、 会意文字です。「草」の象形と「入り口」の象形(「入る」の意味)と「風をはらむ帆」の象形(「風」の意味)から春、草・木の発芽を促す南からの風の意味を表し、そこから、「みなみ」を意味する「南」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji150.html)、 等々の解釈がある。 「北」(ホク)の字は、「北ぐ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484709038.html?1638820800)で触れたように、 会意。左と右の両人が、背を向けて背いたさまを示すもので、背を向けてそむくの意。また、背を向けて逃げる、背を向ける寒い方角(北)などの意を含む、 とある(字源)。 「枕」(慣用チン、漢音・呉音シン)は、 会意兼形声。冘(イン・ユウ)は、人の肩や首を重荷でおさえて、下に押し下げるさま。古い字は、牛を川の中に沈めるさま。枕はそれを音符とし、木を加えた字で、頭でおしさげる木製のまくら、 とある(漢字源)。音符冘(イム)→(シム)と音変化したらしい(角川新字源)。別に、 会意形声。「木」+音符「冘」。「冘」は、H字形のもので押しつけ「沈」めることを意味。頭で押しつける木製のまくらを意味したもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9E%95)、 会意兼形声文字です(木+冘)。「大地を覆う木」の象形と「人がまくらに頭を沈める」象形から、「(木製の)まくら」を意味する「枕」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2133.html)、 等々の解釈もある。共通するのは、「木製のまくら」とである。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「玄鳥」は、 つばめの異称、 である。禮記に、 仲春之月、玄鳥至、 とある(字源・大言海)。 「玄」(漢音ケン、呉音ゲン)は、 会意。「糸+一印」。幺(細い糸)の先端がわずかにのぞいてよく見えないさまを示す、 とあり(漢字源)、 「幻」と同系、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8E%84)。 「玄」は、 幽玄、 というように、 仄暗くてよく見えないさま、 奥深くて暗いさま、 の意だが、 玄色、 玄雲、 というように、 黒、 の意でもある。 玄は、黒なり、黒鳥の意なるか、 とある(大言海)のは、その意である。 「つばめ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458420611.html)で触れたように、和語「つばめ」を、和名類聚抄(931〜38年)で、 燕、豆波久良米、 本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)で、 燕、玄鳥、都波久良米、 字鏡(平安後期頃)で、 乙鳥、豆波比良古、 と、 つばくら、 つばくろ、 つばくらめ、 などとも呼び、 くら、 くろ、 を、 黒、 とする説と重なってくる。 簡狄(かんてき)感玄鳥之至。神霊福助前鑒既明者歟(源平盛衰記・厳島願文)、 とある、 玄鳥之至、 は、二十四節気の第五の三月節(清明)(旧暦2月後半から3月前半)の初候、つまり七十二候(二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間)の、 燕が南からやって来る、 意の、 玄鳥至(つばめきたる)、 を指す。 4月4日から4月8日頃(旧暦2月後半から3月前半)、 になる。それと対になるのが、二十四節気の第十五の八月節(白露)(旧暦7月後半から8月前半)の末候、つまり七十二候の、 燕が南へ帰って行く、 意の、 玄鳥去(つばめさる)、 の、 9月17日から9月21日頃(旧暦7月後半から8月前半)、 になる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%80%99)。 「玄」については、上述の字源説とは別に、 象形。黒い糸をたばねた形にかたどる。くろい、ひいて、おくぶかい意に用いる(角川新字源)、 象形。黒い糸をたばねた形にかたどる。くろい、ひいて、おくぶかい意に用いる(https://okjiten.jp/kanji1318.html)、 とする説もある。「金文」の字をみると、どうも、 黒い糸をたばねた形、 に、説得力があるように思える。 「鳥」(チョウ)については、「鳥」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458483418.html)で触れたように、 象形文字で、尾のぶら下がった鳥を描いたもの、 である(漢字源)。 因みに、尾の短い鳥は、 隹(スイ)、 で、 尾の短い鳥を描いたもの。ずんぐりと太いの意を含む。雀・隼・雉などの地に含まれるが、鳥とともに広く、とりを意味することばになった、 とある(仝上)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「鷸蚌之争」(いっぽうのあらそい)は、 鷸蚌相挿む、 とも言い(日本大百科全書)、 鷸蚌相挟んで、烏その弊(つい)えに乗る(太平記)、 名越尾張守高家(鎌倉幕府の総大将)、戦場に於て命を墜(お)としし後、(尊氏は)始めて義卒(官軍)に与して、丹州に軍(いくさ)す。天誅命を革(あらた)むるの日、兀(たちまち)鷸蚌の弊えに乗じて、快く狼狽が行を為す(仝上)、 と、 鷸蚌の弊(つい)え、 とも言う。 漁夫の利、 と同義で、 鷸(しぎ)と蚌(はまぐり)とが争いに夢中になっている間に両方とも漁師に取られたという故事から、二人が利を争っている間に、第三者にやすやすと横取りされて、共倒れになるのを戒めた語、 とある(広辞苑)。 出典は『戦国策』の、 趙且伐燕、蘇代為燕謂惠王曰、今日臣來過易水、蚌方出暴、而鷸喙其肉、蚌合而箝其喙、鷸曰今日不雨、明日不雨、卽有死蚌、蚌亦謂曰、今日不出、明日不出、卽有死鷸、両者不肯相捨、漁者得而幷擒之、今趙且伐燕、燕趙久相支以敝大衆、臣恐強秦之爲漁父也、燕王曰、善、乃止、 である(字源)。 趙且に燕を伐たんとす。蘇代、燕の為に惠王に謂ひて曰はく、今者臣来たりて易水を過ぐ。蚌方に出でて曝す。蚌合して其の喙を箝む。鷸曰く今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即ち死蚌有らんと。蚌も亦鷸に謂ひて曰はく、今日出でず、明日出でずんば、即ち死鷸有らん。両者、相舎つるを肯ぜず。漁者得て之を并せ擒(とら)ふ。今趙且に燕を伐たんとす。燕と趙久しく相支へ、以て大衆を敝れしめば、臣強秦の漁父と為らんことを恐るるなり。故に王の之を熟計せんことを願ふなり、 と(https://tactical-media.net/%E9%B7%B8%E8%9A%8C%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84/)、その諫言に従い、出兵をやめた。 漁夫之利、 と表記される、 漁父の利、 も、同じ出典から来た。 中国語では、 鷸蚌相争、 という(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%B7%B8%E8%9A%8C%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84)、とある。 「鷸」(漢音イツ、呉音イチ)は、 会意兼形声。矞(イツ)は、素早く避けるとの意を含む。鷸はそれを音符とし、鳥を加えた字、 とある(漢字源)。「鷸蚌」と使う場合、「しぎ」の意だが、「鷸冠」と、「かわせみ」(「翡翠」ともいう)の意である。なお、「しぎ」に当てる「鴫」は、国字である。 「蚌」(慣用ボウ、漢音ホウ、呉音ボウ)は、 会意兼形声。丰(フウ、ボウ、ホン)は、三角形にあわさる意を含む。蚌はそれを音符とし、虫を添えた字で、二枚の殻の頂点があわさり、横から見て三角形をなす貝、 とあり(漢字源)、「蚌貝」というと、黒い二枚貝で、湖沼などの泥の中に棲む、からすがい、どぶがいを指し、「蚌蛤(ボウコウ)」というと、「蛤(コウ)」とも当てる、ハマグリ、を指す。 参考文献; 簡野道明『字源』(角川書店) 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) ただ二人して言ふ事だに、「天知る、地知る、汝知る、吾知る」と云へり。況や、これ程の大勢が集まって、云ひ囁く事なれば、なじかは隠れあるべき(太平記)、 というように、 誰も知るまいと思っても天地の神は照覧し、自分も知り、それをしかけるあなたも知っていることだ。隠し事というものはいつか必ず露顕するものだ、 の意で、悪事の隠蔽をいさめる例言などとして用いられる(精選版日本国語大辞典)。 出典は、『後漢書』楊震列伝。 至夜懷金十斤、以遺震。震曰、故人知君、君不知故人、何也。密曰、暮夜無知者。震曰、天知、神知、我知、子知、何謂無知。密愧而出、 で、 (王密は)夜になって、金十斤を懐にし、楊震に賄賂として贈ろうとした。楊震が、「私は君の人となりを知っているのに、君が私の人となり(賄賂を受け取る人間ではない)を知らないのはどういうことだ」というと、王密は「日も暮れて誰も知るまい」といった。楊震は「天も、神も、私も、あなたも知っている。誰も知らないとどうして言えるんだ」といった。王密は恥じ入ってそのまま部屋を出た、 などと訳される(https://ja.wiktionary.org/wiki/・精選版日本国語大辞典等々)。 天知、神知、我知、子知、 が元。「子」は、 二人称の代名詞、 とされ、また、 人、 の意でもあり(漢字源)、 天知る、地知る、我知る、人知る、 天知る、地知る、子知る、我知る、 等々ともいわれる(仝上)。さらに、『十八史略』の時代には、 「神」を「地」として伝わる、 とされ、 天知る、地知る、我知る、汝知る、 ともいう(仝上)。 中国語では、 天知地知你知我知、 と表記されるらしい(仝上)。 天知、神知、吾知、子知、 故に、 四知(しち)、 楊震の四知、 とも言い、『後漢書』楊震伝の賛に、 震畏四知、秉去三惑、 とあるのにより、 ここをもって、やうしんは四知をはぢてとらず(「九冊本宝物集(1179頃)」)、 と使われる(精選版日本国語大辞典)。 秉去三惑(へいきょさんわく)、 は、後漢の楊秉(ようへい)が、常に「三つの誘惑」を絶ったという故事で、楊秉(ようへい)は、上記の楊震の子、 常に三つの不惑を有す、 と、己が戒めとしていたという(不惑は、酒・女色・財である)。つまり、父は、四知を畏れ、子は三惑を去った、というのが賛の意図らしい(https://gonsongkenkongsk.blog.fc2.com/blog-entry-603.html)。 天知、神知、吾知、子知、 の類義句に、 天網恢恢疎にして漏らさず、 がある。「天網恢恢」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/438205191.html)で触れたように、もとは『老子』に、 天網恢恢、疎而不失、 とあるのによる。 天の道は、争わずして善く勝ち、言わずしてよく応じ、召さずしておのずから来たり、繟然(せんぜん)として善く謀り、天網恢恢、疎にして失わず、 とあり、 自然の運行というものは、素晴らしく懐が深く、大きなもので、その道に従ってさえいれば、争わなくても勝つようになり、相手に言わなくても、自分の意図が通じ、必要と思えば、呼ばなくても訪ねてくるものです。自然のはかりごとは、人の考えよりずっと壮大なものです、 だから、 疎にして失うことはない、 と。これが載る章(七十三章)は、 敢えてするに勇なれば則ち殺(さつ)、敢えてせざるに勇なれば則ち活(かつ)。此の両者は、或いは利、或いは害。天の悪(にく)む所は、孰(たれ)かその故(こ)を知らん。是を以て聖人は猶お之を難しとす。天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召さずして自(お)のずから来たり、繟然(せんぜん)として善く謀る。天網は恢恢、疎にして失わず、 とあり、 人為的な刑罰よりも自然の裁きに任せて無為の政治を行うべきこと、 を述べているとされる。とすると、天はわかっているのだから、 天意を迎えて利害を揣(はか)るは、其の已(や)むるに如かず(列子)、 ということらしい。 「天」(テン)は、 指事。大の字に立った人間の頭の上部の高く平らな部分を一印で示したもの。もと、巓(テン 頂)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らに広がる意を含む、 とある(漢字源)。 別に、 象形。人間の頭を強調した形から(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%A9)、 指事文字です。「人の頭部を大きく強調して示した文字」から「うえ・そら」を意味する「天」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji97.html)、 指事。大(人の正面の形)の頭部を強調して大きく書き、頭頂の意を表す。転じて、頭上に広がる空、自然の意に用いる(角川新字源)、 等々ともある。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 吉川幸次郎監修『老子』(朝日新聞社) 吾少信管見、老而彌篤(何承天、答顔永嘉書)、 と使う、 「管見」は、 管(くだ)を通して見る、 意で、 狭い見識、 自分の見識や見解を謙遜して言う語、 であり、 以管窺天、以針刺地、所窺甚大、所見者甚少(説苑)、 と、 管窺(かんき)、 ともいう(広辞苑)。 高材(逸材)に対してかやうな事を申せば、管を以て天を窺ひ、途(みち)を聴き巷(みち)に説く風情にて候へども(太平記)、 と、 管を通して天を窺う、 からきている。 因みに、上記の、 途(みち)を聴き巷(みち)に説く、 は、『論語』陽貨篇の、 子曰、道聴而塗説、徳之棄者也(道を聴きて塗(みち 道のこと)に説くは、徳をこれ棄つるなり)、 の、 道ばたで聞きかじってきたことを、自説のように道ばたで説く、 の意である。 この、 管を以て天を窺う、 は、『史記』扁鵲伝の、 扁鵲(へんじゃく)仰天歎曰、夫子之爲方也、若以管窺天、以郄視文、 と、 管を以て天を窺い、郄(げき 隙間)を以て文(あや)を視るが如し、 とあるのによる(https://kanbun.info/koji/kanwomo.html)。扁鵲は、名医として知られ、『史記』扁鵲伝で、 医師で脈診を論ずる者はすべて扁鵲の流れを汲む、 とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%81%E9%B5%B2)ので、 夫子之爲方也(夫子(ふうし)の方を爲す)、 ことについて、「管見」と為すのは、なかなか重い自戒とみられる。これは、また、 管を用いて天を窺う、 用管窺天、 ともいう(広辞苑)。 用管闚天(カンヲモツテテンヲウカガフ)、 ともいい、『荘子』秋水に、 是直用管窺天、用錐指地也、不亦小乎、 ともある(字源・故事ことわざの辞典)。で、 管闚(かんき)、 用錐指地、 以蠡測海(いれいそくかい)、 などともいう、とある(字源)。「蠡」は、 ひさご(ヒョウタンを割って作った器)、 の意(https://www.kanjipedia.jp/kanji/0007276300)で、 蠡測(レイソク)、 とも言う(仝上)。これは、漢の東方朔の「答客難」に、 以筦窺天、以蠡測海、以筳撞鐘、 とあるのによる(精選版日本国語大辞典)。「筦」は、 竹製の管、 「筳」は、 竹や木の小枝、 の意(http://fukushima-net.com/sites/meigen/1504)。「蠡」には、 ほら貝、 の意もある(https://www.kanjipedia.jp/kanji/0007276300)が、 法螺貝(ほらがい)で海水を汲んで、はかるここと、 とある(精選版日本国語大辞典)のは、如何なものか、 ひさご、 の方が、妥当だろう。 蠡測、 も、史記・扁鵲の「管見」別バージョンということになる。 「管」(カン)は、 会意兼形声。「竹+音符官(屋根の下に囲ってある人)」。丸く全体に行き渡るの意を含む、 とある(漢字源)が、 会意形声。「竹」+音符「官(屋敷に囲われている人)」、丸く囲われる中空の棒状のもの(くだ)をいう。「つかさどる」「とりまとめる」の意は、「丸く囲う」の意からか、または「官」からの派生とも、 ともあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AE%A1)、別に、 形声。竹と、音符官(クワン)とから成る。竹に穴をあけた「ふえ」の意を表す。また、「くだ」の意に用いる、 との解釈(角川新字源)、 形声文字です(竹+官)。「竹」の象形と「家屋・祭り用の肉」の象形(軍隊の留まる役所の意味だが、ここでは、「貫(かん)」に通じ(同じ読みを持つ「貫」と同じ意味を持つようになって)、「つらぬく」の意味)から竹の「くだ」・「ふえ」を意味する「管」という漢字が成り立ちました、 との解釈(https://okjiten.jp/kanji553.html)などもある。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 敵御方の時の声、……四方三百里に響き渡って、天維も忽ち落ち、坤軸も砕けて傾(かたぶ)くかとぞ聞こえける(太平記)、 とある、 天維(てんい)、 は、 天を支える綱、 坤軸(こんじく)、 は、 地軸、 の意である(兵藤裕己校注『太平記』)。 「維」は綱の意、 とあり(広辞苑)、 天綱、 ともいう(字源)。 天が落ちないように支えているとされる綱、 とされる(広辞苑)。 天を支えるおおもと、 ともある(仝上・字源)。漢代の『淮南子(えなんじ)』に、 天維建元、常以寅始、 とあり(字源)、『後漢書』延篤傳に、 不知天之為蓋、地之為輿、 と、 天蓋、 という言葉があり、 天を覆う蓋を支えている、 と見なしたものではないか、と推測する。 坤軸、 は、 矢叫びの声、時の音(こえ)、暫くも止む時なければ、大山崩れて、海に入り、坤軸折れて地に流るらんとぞ覚えし(太平記)、 と、 大地の中心を貫いて大地を支えていると想像される軸、 で(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、 地の中心、 とある(字源)。杜甫の詩に、 殺気南行動坤軸 とある(仝上)。 天地、 の意では、 剣戟、刃を合はする響き、姓名を揚げて檄(げき)する声、乾坤に達す(太平記)、 と、 乾坤、 という言葉がある。「乾坤」は、 易の卦の名、 であり、 乾は、天、男の義と成し、坤は、地、女の義と成す、 とある(大言海)。『易経』周易説卦伝に、 乾天也、故称乎父、坤地也、故称乎母、 とある。さらに、同周易繋辞上傳に、 天尊地卑、乾坤定矣、 ともある。 礒山嵐・奥津浪、互に響を参へて、天維坤軸もろともに、斷へ砕ぬとぞ聞へける。竜神是にや驚き給けん。節長(ふしたけ)五百丈ばかりなる鮫大魚(こうたいぎょ)と云ふ魚に変じて、浪の上にぞ浮出たる。頭は師子の如くにして、遥なる天に延び上がり、背は竜蛇の如くにして、万頃(ばんけい)の浪に横れり(太平記)。 にある、 鮫大魚(こうたいぎょ)、 は、 高大魚(こうだいぎょ)、 鮫大魚(こうだいぎょ)、 とも呼ばれ、『史記』秦始皇本紀・始皇37年(紀元前210年)に、始皇帝は船に乗ってみずから連弩を持ち、之罘(シフ 山東省の半島名)で大魚を発見して射殺した、との記述がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%AE%AB%E9%AD%9A)。 「天知る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484881068.html?1639944897)で触れたように、 「天」(テン)は、 指事。大の字に立った人間の頭の上部の高く平らな部分を一印で示したもの。もと、巓(テン 頂)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らに広がる意を含む、 とある(漢字源)。指事文字は、形で表すことが難しい物事を点画の組み合わせによって作られた文字である(https://kanjitisiki.com/info/006-02.html)。 「維」(漢音イ、呉音ユイ)は、 会意兼形声。隹(スイ)は、ずんぐりと重みのかかった鳥。維は「糸(つな)+音符隹」で、下方に垂れて押さえ引っ張る綱、 とある(漢字源)が、 形声。糸と、音符隹(スイ)→(ヰ)とから成る。物をつり下げるつな、ひいて「つなぐ」意を表す。借りて、助字に用いる、 と、形声文字(意味を表す文字(漢字)と音(読み)を表す文字(漢字)を組み合わせてできた漢字)とする説も(角川新字源)、 会意兼形声文字です(糸+隹)。「より糸」の象形と「尾の短いずんぐりした小鳥と木の棒を手にした象形(のちに省略)」(「一定の道筋に従う」の意味)から、「一定の道筋につなぎ止める」、「つなぐ」、「しばる」を意味する 「維」という漢字が成り立ちました、 と解説する説(https://okjiten.jp/kanji1128.html)もある。因みに、会意文字は、既存の複数の漢字を組み合わせて作られた文字(https://kanjitisiki.com/info/006-03.html)、会意兼形声文字は、 会意文字と形声文字の特徴を併せ持つもの。六書にはない造字法であるが、従来形声文字と分類されていたものが、その音を表す文字も類縁の文字を選んでいるという事実から造字法として区分するようになっている、 とある(https://www.weblio.jp/content/%E4%BC%9A%E6%84%8F%E5%85%BC%E5%BD%A2%E5%A3%B0%E6%96%87%E5%AD%97)。 「坤」(こん)は、 会意。「土+申」で、上に伸びないで逆に土の中に引込むこと、 とある(漢字源)。 「軸」(漢音チク、呉音ジク)は、 会意兼形声。「車+音符由(中から抜け出る)」で、車輪の中心の穴を通して外へ抜け出ている心棒、 とある(漢字源)が、別に、 形声。車と、音符由(イウ)→(チク)とから成る。二つの車輪をつなぐ心棒の意を表す、 とも(角川新字源)、 会意兼形声文字です(車+由)。「車」の象形と「底の深い酒ツボ」の象形(「よる(もとづく)」の意味)から、回転する車のよりどころとなる部分「じく」を意味する「軸」という漢字が成り立ちました、 と解釈するもの(https://okjiten.jp/kanji1305.html)もある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫) 生兵法、 と使う、接頭語の「なま」は、 これも今は昔、有る人のもとに、なま女房のありけるが(宇治拾遺物語)、 と、 新参の女房、 の意で使ったり(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)、 今はむかし、人のもとに宮づかへしてあるなま侍ありけり(仝上)、 と、 若侍の、 意で使ったりと、 未熟、不完全、いい加減、の意、それらの状態に対して好感をもたない場合に使うことが多い、 とある(岩波古語辞典)。 生兵法、 なま道心、 なま聞き、 という使い方は、その意である。今日、 生放送、 と使うのは、名詞「なま」の、 生野菜、 というときの、 動植物を採取したままで、煮たり、焼いたり、乾かしたりしないもの、 つまり、そのままの状態の意から来ていると思われる。これは、 生の声、 というように、 材料に手を加えない、 意や、 今は昔、京に極めて身貧しき生者(なまもの)ありけり(今昔物語)、 と、 一人前でない、未熟、 の意でも使い、その延長で、 くちばしも翼もなくて、なまの天狗なるべし(御伽物語)、 と、 中途半端、不完全、 の意でも使うが、この反映か、接頭語「なま」も、 何やらんなま白き物うちかつぎて(おようの尼)、 なま心やましきままに(源氏物語)、 などと、 度合いが不十分な意から、 中途半端に、なんとなく、わずかながら、 の意へ転じている。「なまじっか」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441764979.html)の「なまじひ(い)」も、 ナマは中途半端の意。シヒは気持ちの進みや事の進行、物事の道理に逆らう力を加える意。近世の初期まで、ナマジヒ・ナマシヒの両形あった。近世ではナマジとも、 とある(岩波古語辞典)し、 なまなか(生半)、 も、 中途半端、 の意になる。 なまめく、 は、 生めく、 艷めく、 と当てるが、この場合は、 ナマは未熟・不十分の意。あらわに表現されず、ほのかで不十分な状態・行動であるように見えるが、実は十分に心用意があり、成熟しているさまが感じとられる意。男女の気持のやり取りや、物の美しさなどにいう。従って、花やかさ、けばけばしさなどとは反対の概念。漢文訓読系の文章では、「婀娜」「艷」「窈窕」「嬋娟」などをナマメク・ナマメイタと訓み、仮名文学系での用法と多少ずれて、しなやか、あでやかな美の意。中世以降ナマメクは、主として漢文訓読系の意味の流れを受けている、 とあり(岩波古語辞典)、「なまめく」は、本来は、ちょっと「奥ゆかしい」ほのかに見える含意である。 接頭語「なま」を、厳密に、頭につく品詞によって、 なま心苦し、 なまやさしい、 なまわろし、 なま若い、 なまあたたか、 などと、 動詞、形容詞、形容動詞などの用言の上に付くと、 すこしばかり、中途はんぱに、 の意、 なま女房、 なま受領、 なま学生、 などと、 人を表わす名詞の上に付けて、その人物が形の上ではその名詞の表わす地位とか身分を備えていても、実体はそれに及ばない未熟な状態であることを示す。後世には、他人を軽蔑するような意味の名詞に付けて、その気持を強めるような用い方もし、 なま煮え、 なま焼き、 なま聞き、 なまかじり、 と、 動詞の連用形の変化した名詞の上に付けて、その名詞の表わす動作が中途はんぱである、 意と、整理するものがある(精選版日本国語大辞典)。確かに分かりやすいが、これだと、結果であって、プロセスの意味の変化が見えなくなる気がする。 なま侍、 を、 生侍、 ではなく、 青侍(なまさむらい)有りて道を行くに(宿直草)、 と、「青」を当てる場合がある。もちろん、同じ意で、 妻も子もなくてただ一人ある青侍(あおざむらい)ありけり(宇治拾遺物語)、 とも使う。いずれも、 若侍、 の意だが、 未熟、 の含意がある。「あを(お)」は、 青梅、 青びょうたん、 など、 木の実などが、十分に熟していないこと、 を表わすが、そのメタファで、 青二才、 青臭い、 女房(あおにょうぼう)、 と、 若い、 未熟、 の意を表す(広辞苑)。なお、「あを」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/429309638.html)については触れた。 「生」(漢音セイ、呉音ショウ)は、 会意。「若芽の形+土」で、地上に若芽の生えたさまを示す。生き生きとして新しい意を含む、 とある(漢字源)。ただ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、 土の上に生え出た草木に象る、 とあり、現代の漢語多功能字庫(香港中文大學・2016年)には、 屮(草の象形)+一(地面の象形)で、草のはえ出る形、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%9F)ため、 象形説。草のはえ出る形(白川静説)、 会意説。草のはえ出る形+土(藤堂明保説)、 と別れるが、 象形。地上にめばえる草木のさまにかたどり、「うまれる」「いきる」「いのち」などの意を表す(角川新字源)、 象形。「草・木が地上に生じてきた」象形から「はえる」、「いきる」を意味する「生」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji33.html)、 とする説が目についた。甲骨文字を見る限り、どちらとも取れる。 「青()」(漢音セイ、呉音ショウ)は、 会意。「生(あおい草の芽生え)+丼(井戸の中に清水のたまったさま)」で、生(セイ)・丼(セイ)のどちらかを音符と考えてもよい。あお草や清水のようなすみきったあお色、 とある(漢字源)。 ただ、 会意。「生」+「丼」(井戸水)で音もいずれのものとも同じ(藤堂)。又は、「生」+「丹」(顔料のたまった井戸。cf.青丹(あおに)(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%92)、 会意形声。丹(井の中からとる染料)と、生(セイ)(は変わった形。草が生えるさま)とから成り、草色をした染料、「あお」「あおい」意を表す(角川新字源)、 会意兼形声文字。「草・木が地上に生じてきた」象形(「青い草が生える」の意味)と「井げた中の染料(着色料)」の象形(「井げたの中の染料」の意味)から、青い草色の染料を意味し、「あおい」を意味する「青」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji137.html)、 などと、「染料」を特記する説が多い。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「八入(やしほ)」は、 吾妹子が形見(かたみ)がてらと紅の八塩(やしほ)に染めておこせたる衣の裾もとほりて濡れぬ(万葉集)、 と、 八塩、 とも当てるようだ(精選版日本国語大辞典)。 何回も染汁に浸してよく染めること、 濃くよく染まること、 また、 そのもの、 の意で、 やしほぞめ、 とも言う(広辞苑・仝上)。 「や」は多数の意、「しお」は染色のとき染汁につける回数を表わす接尾語、 とある(仝上)。 「八つ当たり」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455872576.html)、 「真っ赤な嘘」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455851358.html?1514491886)、 などで触れたように、「や(八)」は、 ヨ(四)と母音交替による倍数関係をなす語。ヤ(彌)・イヤ(彌)と同根、 とあり(岩波古語辞典)、「八」という数の意の他に、 無限の数量・程度を表す語(「八雲立つ出雲八重垣」)、 で、 もと、「大八洲(おほやしま)」「八岐大蛇(やまたのおろち)」などと使い、日本民族の神聖数であった、 とする(仝上)が、 此語彌(いや)の約と云ふ人あれど、十の七八と云ふ意にて、「七重の膝を八重に折る」「七浦」「七瀬」「五百代小田」など、皆數多きを云ふ。八が彌ならば、是等の七、五百は、何の略とかせむ、 と(大言海)、「彌」説への反対説はある。しかし、 副詞の「いや」(縮約形の「や」もある)と同源との説も近世には見られるが、荻生徂徠は「随筆・南留別志(なるべし)」において、「ふたつはひとつの音の転ぜるなり、むつはみつの転ぜるなり。やつはよつの転ぜるなる、 としている(日本語源大辞典)ので、 ひとつ→ふたつ、 みつ→むつ、 よつ→やつ、 と、倍数と見るなら、語源を、 ヤ(彌)・イヤ(彌)と同根、 とするのには意味がなくなるのではないか。また、「七」との関係では、 古い伝承においては、好んで用いられる数(聖数)とそうでない数とがあり、日本神話、特に出雲系の神話では、「夜久毛(やくも)立つ出雲夜幣賀岐(ヤヘガキ)妻籠みに 夜幣賀岐作る 其の夜幣賀岐を」(古事記)の「夜(ヤ)」のように「八」がしきりに用いられる。また、五や七も用いられるが、六や九はほとんどみられない、 とあり(日本語源大辞典)、「聖数」としての「八」の意がはっきりしてくる。「八入」には、そう見ると、ただ、多数回という以上の含意が込められているのかもしれない。 正確な回数を示すというのではなく、古代に聖数とされていた八に結びつけて、回数を多く重ねることに重点がある、 とある(岩波古語辞典)のはその意味だろう。 また、「しほ(入)」は、 一入再入(ひとしおふたしお)の紅よりもなほ深し(太平記)、 と使うが、その語源は、 潮合の意にて、染むる浅深の程合いに寄せて云ふ語かと云ふ、或は、しほる意にて、酒を造り、色に染むる汁の義かと云ふ、 としかない(大言海)。 潮合ひ、 とは、 潮水の差し引きの程、 つまり、 潮時、 の意である。染の「程合い」から来たというのは、真偽は別に、面白い気がする。ただ、 八潮をり(折)、 と、 幾度も繰り返して醸造した強烈な酒、 の意でも使われるので、それが「八入」の染からきたのかの、先後は判別がつかない。さらに、 八鹽折之紐小刀(古事記)、 と、 幾度も繰り返して、練り鍛ふ、 意でも使う(大言海)のは、メタファとして使われているとみていいのかもしれないが。 さて、「八入」は、染の回数の意から、やがて、 竹敷のうへかた山は紅(くれなゐ)の八入の色になりにけるかも(万葉集)、 と、 色が濃いこと、 程度が深く、濃厚であること、 また、その濃い色や深い程度、 の意でも使われ、さらに、 露霜染めし紅の八入の岡の下紅葉(太平記)、 と、 八塩岡、 と、紅葉の名所の意として使われ、「八入」は、 紅の八しほの岡の紅葉をばいかに染めよとなほしぐるらん(新勅撰和歌集)、 と、 紅葉、 の代名詞ともなり、さらに「八入」は、 見わたしの岡のやしほは散りすぎて長谷山にあらし吹くなり(新六帖)、 と、 紅葉の品種、 の名となり、 春の若葉、甚だ紅なれば名とし、多く庭際に植えて賞す。夏は葉青く変ず、樹大ならず、 とある(大言海)。 「八」(漢音ハツ、呉音ハチ)は、 指事。左右二つにわけたさまを示す(漢字源)、 指事。たがいに背き合っている二本の線で、わかれる意を表す。借りて、数詞の「やつ」の意に用いる(角川新字源)、 象形文字です。「二つに分かれている物」の象形から「わかれる」を意味する「八」という漢字が成り立ち、借りて、数の「やっつ」の意味も表すようになりました(https://okjiten.jp/kanji130.html)、 などと説明される。 「入」(慣用ジュ、漢音ジュウ、呉音ニュウ)は、 指事。↑型に中へ突き進んでいくことを示す。また、入口を描いた象形と考えてもよい。内の字に音符として含まれる、 とある(漢字源)。ために、 象形。家の入り口の形にかたどり、「いる」「いれる」意を表す(角川新字源)、 象形。「入り口」の象形から「はいる」を意味する「入」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji177.html)、 と、象形説もある。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 覚めて枕の上の眠(ねぶ)りを思へば、わづか午炊一黄粱の間を過ぎざりけり。客、ここに、人間百年の楽しみも、枕頭片時の夢なることを悟りて(太平記)、 を、 楊亀山が日月を謝する詩に曰く、 少年より学に勧(つと)めて志須(すべか)らく張(ちょう)すべし、 得失由来一夢長し、 試みに問ふ邯鄲枕を欹(そばだ)つる客、 人間幾度(いくたび)か黄粱を熟する(「勉謝自明」)、 これを、邯鄲午炊の夢とは申すなり(仝上)、 と表現するのは、 邯鄲の枕 邯鄲の夢、 邯鄲の夢枕、 黄粱の夢、 黄梁一炊の夢、 盧生の夢、 等々、さまざまに言われる、唐の沈既済撰(李泌(りひつ)作)『枕中記』(ちんちゅうき)の、 官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると枕頭の黄粱(こうりょう)がまだ煮えないほどの短い間の夢であった、 という故事に由来する(広辞苑)。その夢は、たとえば、 みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻したりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣にするに至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ、ふと目覚めると、 とか(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AF%E9%84%B2%E3%81%AE%E6%9E%95)、 仕官して、貶せられ、又、徴(め)されて、終に、官、中書令に陞(のぼ)り、燕國公に封ぜられ、子あり、孫あり、八十余年にして終はると見て、夢覚むれば、 とか(大言海)、そして、目覚めると、 盧生欠伸而寤。見方偃於邸中、顧呂翁在傍。主人蒸黄粱尚未熟。触類如故。蹶然而興曰、豈其夢寐耶。翁笑謂曰、人世之事亦猶是。生然之。良久謝曰、夫寵辱之数、得喪之理、生死之情、尽知之矣。此先生所以窒吾欲也、敢不受教。再拝而去(盧生欠伸(けんしん)して寤(さ)む。見れば方(まさ)に邸中(ていちゅう)に偃(ふ)し、顧みれば呂翁(りょおう)傍らに在り。主人黄粱(こうりょう)を蒸して尚(な)お未(いま)だ熟せず。触類(しょくるい)故(もと)の如(ごと)し。蹶然(けつぜん)として興(お)きて曰(いわ)く、豈(あ)にそれ夢寐(むび)なるか、と。翁笑いて謂いて曰く、人世の事も亦た猶お是くのごとし、と。生、これを然(しか)りとす。良(やや)久しくして謝して曰く、夫(か)の寵辱(ちょうじょく)の数(すう)、得喪(とくそう)の理、生死の情、尽(ことごと)くこれを知れり。これ先生の吾が欲を塞(ふさ)ぐ所以(ゆえん)なり、敢て教えをうけざらんや、と。再拝して去る) と(https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kotowaza34)、 うたた寝をする間に、50余年の富貴を極めた一生の夢、 を見たことになる。だから、 人生の栄枯盛衰のはかないことの喩え、 として使われる(広辞苑)。 南柯(なんか)の夢、 とも言われるが、これは、唐の李公佐の小説「南柯太守伝」の、 淳于棼(じゅんうふん)が、酔って邸内の槐(えんじゅ)の下で眠り、大槐安(だいかいあん)国からの使者に導かれて穴の中へ入り、大槐安国へ至り、国王の娘を娶り、国王から南柯郡(「柯」とは、枝という意味)の長官に封ぜられ、それから二〇年を過ごした夢を見る。目が覚めて、槐の木の下を見ると、蟻の穴が二つあり、その一つには大蟻が王として住み、もう一つは、槐の木の南に向いた枝へと通じていて、それが南柯郡であった、 による(故事ことわざの辞典・広辞苑)が、 淳于棼家居廣陵、宅南有古槐樹、棼醉臥其下、夢、二使者曰、槐安國王奉、棼随使人穴中、見榜、曰大槐安國、其王曰、吾南柯郡政事不理、屈卿、為守理之、棼至郡凡二十載、使送歸、遂覚、因尋古槐下穴、洞然明朗、可容一榻、有一大蟻、乃王也、又、尋一穴、直上南柯、即棼所守之郡也、 とあり(異聞集)、詳細は、陳翰「大槐宮記」にある、とある(大言海)。いずれにせよ、「盧生の夢」と似た話である。 南柯の一夢、 南柯の一睡、 ともいう(故事ことわざの辞典)。人の一生の儚さを、 天上の五衰、人間(じんかん)の一炊、ただ夢とのみぞ覚えたるに(太平記)、 と、天上と対比する言い方もある。 五衰、 とは、 天人が死に臨んで現わす衰相、 と注記され(兵藤裕己校注『太平記』)、 六道最高位の天界にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆し、 ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BA%BA%E4%BA%94%E8%A1%B0)が、天界の神々である天人(デーバdeva)の命が終ろうとするとき、 その身体に五つの衰えが表れる、 のをいい、経説によって差異があり、涅槃経では、 衣服垢穢(いふくくえ 衣服が垢で汚れる)、 頭上華萎(ずじょうけい 頭にかぶっている華(はな)の冠がしおれる)、 身体臭穢(しゅうえ 身体が臭くなる)、 腋下汗流(えきけかんる 腋(わき)の下から汗が流れる)、 不楽本座(ふらくほんざ 自らの位置を楽しまなくなる)、 の五つとされるが、増一阿含経では、 華冠自萎、 衣裳垢、 腋下流汗、 不楽本位、 王女違叛、 仏本行集経では、 頭上花萎、 腋下汗出、 衣裳垢膩、 身失威光、 不楽本座、 と、微妙に異なる(日本大百科全書・デジタル大辞泉)。 時移り、事去りて、世の代はり行く有様は、天人の五衰に異ならず(平家物語)、 と、世の変化に兆しをみる。 参考文献; 尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「うろこ」は、「甍」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484637308.html?1638389230)で触れたように、従来、「かわら」の語源は、その形態上の類似から、 その葺いた様子が鱗(うろこ)に似ているから、イロコ(鱗 ウロコの古名)の転(和語私臆鈔・俗語考・名言通・和訓栞・柴門和語類集・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健)、 と、「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かったが(日本語源大辞典)、 高く尖りたる意と云ふ、棟と同義、鱗(イロコ)の転など云へど、上古、瓦と云ふものあらず、 というように(大言海)、 上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる、 とされる(日本語源大辞典)、とした。
「うろこ」は、 「藪に眴(めくは)す」は、 佐渡判官入道道誉、これを聞きて、すはや、悪(にく)しと思ひつる相模守(細川清氏)が過失は、一つ出で来にけるとは、と独り咲(え)みして、藪に眴(めくは)し居たる処に(太平記)、 とあり、 蔭でめくばせする、事が秘密であることを示す、 と、注記される(兵藤裕己校注『太平記』)が、 藪の方に向かってめくばせする、 意味で、 よそ見をする、 意とも、 薮にらみ、 の意とも、また、 事が秘密であることを示す動作、 の意ともある(故事ことわざの辞典)。和訓栞には、 やぶにめくばせ、……よそ見して居る体なり、 とある(仝上)ので、本来は、 よそ見、 の意なのかもしれない。「やぶにらみ」は、 藪睨み、 と当て、文字通り、 斜視、 の意から、それをメタファに、 見当違いな見方、 の意で使う。その意味で、 よそ見、 とは重なるが、 事が秘密であることを示す動作、 とはつながらない。ここからは憶説だが、 藪に目、 という諺がある。 壁に耳、 と同義で、 秘密などの漏れやすい喩え、 として使う。その意味で、 秘密の目くばせ、 の意につながったのではないか、という気がする。 眴(めくは)す、 は、 目食はすの意(岩波古語辞典)、 目と目を食ひ合はする意と云ふ(大言海)、 目交わすの転か(大言海)、 メは目の意。クハセは交す意(類聚名物考・俗語考・言元梯)、 と、 目を食ふ、 か、 目を交はす、 と、 目の合図、 目を合わせる、 といった意であるが、 中古には、目で合図することを「めをくはす」「めくはす」と言った。「め」は目、「くはす」は、「食はす」で、目を合わせる意を表す、 とある(日本語源大辞典)。 「めをくはせる」は中世には用いられなくなり、「めくはす」「めくはせ」の形のみが残った、 とあり(仝上)、 中世末(室町時代)には第二音節が濁音化した「めぐはせ」も使われ、近世前期には第三音節を濁音化する「めくばせ」があらわれた、 とある(仝上・岩波古語辞典)。色葉字類抄(1177〜81)、 眴、メクハス、 とあり、類聚名義抄(11〜12世紀)には、 眴旬、マシロク、メクハス、又、同瞬、 とあり、また、 室町中期~後期の『宗祇袖下(そうぎそでした)』には、 めくはせとは、目にて心を通はす事、 とあるが、同じ室町期の『和漢通用集』には、 眴、めぐわせ、 とある(岩波古語辞典)。同じ近世でも、 このあぶれ者等も、大蔵なるべしとて、目くはせたるを見て(「春雨物語(1808)」)、 もあり、 喜之介はふすまのかげ今や出でん今や出でんと、たがひにめくばせきをかよはし(「浄瑠璃・嫗山姥(1712頃)」)、 もある。併用されていたと思われるが、明治以降、 「もう此儘出掛けよう、夜が明けても困る」と、西宮は小万に眴(メクバ)せして(広津柳浪「今戸心中(1896)」)、 と、 めくばせ、 になる。なお、 互いに目を交わす、 というところから「めくばせ」とほぼ同意の、 めまじ(目交)、 めまぜ(目交)、 も用いられていたが、現在では「めくばせ」が一般的である(精選版日本国語大辞典)、とある。 「眴」(ケン・シュン、ジュン)は、 目が動く、 意だが、そこから、 項梁眴籍曰、可行乎(史記)、 と、 めくばせする、 意と、 目がくらむ、 またたく、 意とに広がったようである(字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「根機」は、 根器、 根気、 とも当て(岩波古語辞典)、本来、仏教用語で、 衆生の、教法を受けるべき性質・能力、 の意で、 人の根機下される故なり(沙石集)、 と、 仏の教化を受けるとき発動することができる能力または資質、 という意味であり(精選版日本国語大辞典)、 機根、 とも、 機、 とも言われる(仝上)が、その意味を広く取って、 楠、いよいよ猛き心を振るひ、根機を尽くして、左に打って懸かり(太平記)、 と、 忍耐する気力、 気根、 の意でも使う。 「機根」は、 気根、 とも当て、やはり仏教用語で、 その機根をはからひて、上人もかくすすめけるにや(十訓抄)、 と、 仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと、また、仏の教えを理解する度量・器のことで、さらには衆生の各人の性格をいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A0%B9)、 とか、 一般の人々に潜在的に存在し、仏教にふれて活動しはじめる一種の潜在的能力のこと(ブリタニカ国際大百科事典)、 の意であり、仏教においては、 弟子や衆生のこの機根を見極めて説法することが肝要で、非常に大事である、 とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A0%B9)、各種経典において、 利根(りこん) - 素直に仏の教えを受け入れ理解する人 鈍根(どんこん) - 素直に仏の教えを受け入れず理解しにくい人 などとも説かれている(仝上)、とある。 「機根」は、「根機」同様に、 かの亡者は生得(しやうとく)機根の弱気人(ロザリオの経)、 と、 気力、 根性、 の意でも使い、一般にいう 根性、 は、この機根に由来する言葉である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A0%B9)とされ、 根性の根とは能力、あるいはそれを生み出す力・能生(のうしょう)のこと、性とは、その人の生まれついた性質のことを意味する、 とある(仝上)。さらには、 ちと機根の落つる御薬を、申し請けたきよし申せば(咄「昨日は今日」)、 と、 精力、性欲、 の意にまで使う。用例から見ると、 時代機根に相萌して、因果業報の時至るゆゑなり(太平記)、 と、もっとひろく、 時勢と気運、 の意でも使われる(兵藤裕己校注『太平記』)。 「機微」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/403855330.html)で触れたように、「機」自体が、類聚名義抄(11〜12世紀)に、 機、アヤツリ、 とあり、 千鈞の弩(いしゆみ)は蹊鼠(けいそ)の為に機を発せず(太平記)、 と、 弩のばね、転じて、しかけ、からくり、 の意で使われるだけではなく、 迷悟(凡夫と佛)機ことなり、感応一に非ず(性霊集)、 と、 縁に触れて発動される神的な能力、 素質、 機根、 の意や、 一足も引かず、戦って機已に疲れければ(太平記)、 と、 気力、 元気、 の意でも使われている(岩波古語辞典)。「機」は、 縁に遇えば発動する可能性をもつもの、 の意(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%A9%9F)とあり、 仏の教法を受け、その教化をこうむる者の素質能力。また教化の対象となる衆生、 をいい、これを法または教と連称して機法、機教という(仝上)、とあり、『法華玄義』に、機の語義を、 微(仏の教化によって発動する微かな善を内にもっている)、 関(仏が衆生の素質能力に応じてなす教化、即ち仏の応と相関関係にある)、 宜(仏の教化に宜しくかなう)、 の三義を挙げる(仝上)、とある。 機は必ず何らかの根性(根本となる性質、資質)をもつ、 から機根或いは根機といわれるというわけである(仝上)。さらに、 機の語が表われる場面には一つの法則がある。それは仏(あるいは菩薩)と衆生という関係において、機と法(仏のはたらき)の相応関係が論ぜられる場合、 とある(https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DD/0013/DD00130R025.pdf)。まさに、 機縁、 つまり、 仏の教えを受ける衆生の能力と仏との関係(縁)、 である。「機」に、 御方(みかた)の疲れたる小勢を以て敵の機に乗ったる大勢に懸け合って(仝上)、 と、 物事のきっかけ、 はずみ、 時機、 の意で使う所以はある。 「根」もまた、 根気、 性根、 と使うように、仏教用語の、 能力や知覚をもった器官、 を指し(日本大百科全書)、 サンスクリット語のインドリヤindriyaの漢訳で、原語は能力、機能、器官などの意。植物の根が、成長発展せしめる能力をもっていて枝、幹などを生じるところから根の字が当てられた、 とあり(仝上)、外界の対象をとらえて、心の中に認識作用をおこさせる感覚器官としての、 目、耳、鼻、舌、身、 また、悟りの境地を得るために優れた働きがある能力、 信(しん)、精進(しょうじん)、念(ねん)、定(じょう)、慧(え)、 を、 五根(ごこん)、 という(広辞苑・仝上)。因みに、目、耳、鼻、舌、身に意根(心)を加えると、 六根、 となる(精選版日本国語大辞典)。 「根」(コン)は、 会意兼形声。艮(コン)は「目+匕(ナイフ)」の会意文字で、頭蓋骨の目の穴をナイフでえぐったことを示す。目の穴のように、一定のところにとまって取れない意を含む。眼(目の玉の入る穴)の原字。根は「木+音符艮」で、とまって抜けない木の根、 とある(漢字源)が、 木のねもと、ひいて、物事のもとの意を表す、 ともある(角川新字源)。別に、 会意形声。「木」+音符「艮」。艮はとどまるの意味。木を土に留める「ね」の意味となった、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A0%B9)、 会意兼形声文字です(木+艮)。「大地を覆う木の象形」と「人の目を強調した象形」(「とどまる」の意味)から植物の地中にとどまるもの、すなわち「ね」を意味する「根」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji420.html)。 「機分」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484789500.html?1639339910)で触れたように、漢字「機」(漢音キ、呉音ケ)は 会意兼形声。幾(キ)は、「幺二つ(細かい糸、わずか)+戈(ほこ)+人」の会意文字で、人の首に武器を近づけて、もうわずかで届きそうなさま。わずかである、細かいという意を含む。「機」は、「木+音符幾」で、木製の仕掛けの細かい部品、僅かな接触で噛み合う装置のこと、 とあり(漢字源)、漢字「機」には、 はた、機織り機、「機杼」、 部品を組み立ててできた複雑な仕掛け、「機械」、 物事の細かい仕組み、「機構」「枢機(かなめ)」、 きざし、事が起こる細かいかみあい、「機会」「契機」「投機」、 人にはわからない細かい事柄、秘密、「機密」「軍機」、 勘の良さ、細かい心の動き、「機知」「機転」、 といった意味があり(仝上)、和語「機」が、強く漢字の意味の影響を承けていることがわかる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 脇屋左京太夫(さきょうのだいぶ)義助(よしすけ 新田義貞弟)の兵五千騎、志賀の炎魔堂の辺りにありける敵の向かひ城、五百余ヶ所に火を懸けて(太平記)、 とある、「向かひ城(むかいじろ)」は、 向ひ城、 向城、 対城、 などとも表記するが、 対(たいの)城、 ともいい、戦国期には、多く、 三木城へ取懸けるが名城なるにより一旦に攻上るに事難かるべしとて、四方に附城を丈夫に拵へ秀吉卿に御渡有て、八月十六日には信忠卿惣人数卒して打納給ふ(信長記)、 と、 付城(つけじろ、つけしろ)、 とも呼び、 城攻めのとき、敵の城に相対して築く城、 の意である(兵藤裕己校注『太平記』)。 三木城攻めでは、40以上の付城を築き、三木城南側には付城と付城の間に土塁を設けて、三木城を包囲して兵糧攻めにし、 (毛利の将)西国の住人生石(おいし)中務大輔(なかつかさたいふ)、平島一介、幷(ならび)に紀州(雑賀)の住人土橋平丞、渡辺藤左衛門尉、魁(さきがけ)となり、数万騎案内者を乞い、裡(うら)の手を廻り、大村坂を越え、未明に堀柵(ほりさく)を切り崩し、嶮難を凌ぐところに、三木の士卒懸け合わせ、先づ、兵粮を入れず、谷大膳亮(衛好)が付城(つけじろ)に攻め上り、数剋防戦、火花を散らし、既に外構へに乗り入れ、終に大膳を討つ。秀吉、早々に懸着(かけつ)けらるべきところに、敵一手に働くべきにあらず。北方の襲(おそい)にて南方の行(てだて)あらんと、少し見合はせらるヽ間に、此(かく)の如き註進(ちゅうしん)あり。風に随ふ旗先は敵陣に差し向かい、一刻に懸け渡し、声を同じうして懸かりたり、敵も名ある侍にて、左右(そう)なく太刀場を取られずと、二、三度鑓を合はすと雖も、精兵に突き立てられ、潴(たま)らずして敗北す。然れども、外構へを乗つ取る輩(ともがら)二、三百、出張(でばり)を打ちて支えたり。秀吉、軍兵を二手に分けて、一方は、城を乗つ取るの返りを攻め、片時が間に討ち果たす。又一方の軍兵、麓に至りて追つて行く。其こにて取つて引き返し、鑓前(やりさき)に死する者五、六百。其の中の別所甚太夫、同三太夫、同左近将監、光枝(みつえだ)小太郎、同道夕、櫛橋弥五三、高橋平左衛門、三宅与兵次、小野権左衛門、砥堀(とぼり)孫太夫、以上大将分、此の外、藝州、紀州の諸侍七、八百、首塚を積み上げ置かれたり(播磨別所記)、 と、別所側は兵糧を入れるのに失敗し、 三木の干殺し、 と呼ばれ、数千人の餓死者を出した、といわれる。 「向かふ」は、 向キ合フの約。互いに正面に向き合う意。相手を目ざして正面から進んでいく意、 とある(岩波古語辞典)。「付く」は、 二つ以上のものがぴたりと一つになって離れず、一体化する意。類義語ヨル(寄)は近づく動きそのものに主点を置いていうに対して、ツクは一体化する結果に観念の濃い用法が多い、 とある(仝上)。攻城の、向かい側という意識よりは、より近くという含意になるが、対抗する意よりは、包囲を主眼にすることによって、付城という言い方になったのかもしれない。 付城、 は、 陣城(じんしろ・じんじろ)、 と重なる。「陣城」は、 戦場で、臨時の城を造ること、 だが、 敵城に対して城攻めのために陣城を築く、 と、 付城、 になる(西ヶ谷恭弘『城郭』)。また、 城中より多勢を出してもたやすく曳とりかたし、また寄手よりも多勢をもってせめかかるべき地形ならず。先仕よりをつけ、埋め草をもつて城を一重づつ取るべきとの議定也(信長記)、 とある、 仕寄(しより)、 は、 攻撃する時に、敵に身体を晒して被害が出ぬように濠を掘り、あるいは前線における横の通路としたり、また濠から弓矢や鉄炮で攻撃し、敵の騎馬隊の突撃を防ぐための装置のこと、 とあり(笹間良彦『図説 日本戦陣作法事典』)、濠だけではなく、 竹束・盾・井楼(櫓)を組み、柵を結ぶなどして敵城に接近する法、 を指し、 竹などを大きな束にしたもの、 の意で用いることもある(精選版日本国語大辞典)。この敵城への攻め口をも、 仕寄、 と言い、 寄口(よせぐち)、 とも言い、 濠を掘ったり、矢弾よけの盾・竹束を並べたり、……井楼をつめて攻城の態勢にすることを、 仕寄を付ける、 という(笹間良彦『武家戦陣資料事典』)。つまり、城攻めの第一段階が、 付城を築く、 ことで、第二段階は、城に接近する行動である、 仕寄(しよ)る、 ための構築物を、 仕寄(しより)、 「仕寄」を城の近くに接近させることを、 仕寄を付ける、 といった(世界大百科事典)。 「背向(そがい)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482178677.html)で触れたように、「向」(漢音コウ、呉音キョウ)は、 会意。「宀(屋根)+口(あな)」で、家屋の北壁にあけた通気口を示す。通風窓から空気が出ていくように、気体や物がある方向に進行すること、 とある(漢字源)。別に、 会意。「宀」(屋根)+「口」(窓 又は 窓に供えた神器)、 ともあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%91)、さらに、 象形文字です。「家の北側に付いている窓」の象形から「たかまど」を意味する「向」という漢字が成り立ちました。「卿(キョウ)」に通じ、「むく」という意味も表すようになりました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji487.html)。 「城」(漢音せい、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。成は「戈(ほこ)+音符丁(打って固める)」の会意兼形声文字で、とんとんたたいて、固める意を含む。城は「土+音符成」で、住民全体をまとめて防壁の中に入れるため、土を盛って固めた城のこと。『説文解字』(後漢・許慎)には、 城とは民を盛るもの、 とある(漢字源・角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9F%8E)。ただ、 会意兼形声文字です(土+成)。金文では、土の部分が「望楼(遠くを見渡すだけに作られた背の高い建物)」の象形でした。のちに、「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)と「斧のような刃のついた矛の象形と釘の頭からみた象形」(「まさかりで敵を平定する・安定させる」の意味)から、土を盛り上げ、人を入れて安定させる事を意味し、そこから、「しろ」、「きずく」を意味する「城」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1029.html)。 参考文献; 西ヶ谷恭弘『城郭』(近藤出版社) 笹間良彦『図説 日本戦陣作法事典』(柏書房) 笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房)
「野干(やかん)」は、 射干、 とも当て(広辞苑)、日本では、 女、……成野干……随夫語而來寐、故名為也(霊異記)、 とあるように、狐の正体がばれたときに夫から、 「来つ寝」(きつね)、 と言われたため、 岐都禰(キツネ)、 という名になったとする説話があり、 汝、前世に野干の身を受けて(今昔物語) などと、 狐の異称、 とされ、和名類聚抄(平安中期)に、 狐、木豆禰、獣名、射干……、野干、 とある。ただ、中国では、史記・司馬相如伝、子虚賦「射干」註に、 漢書音義曰、射干似狐能縁木、 とあり(大言海)、 狐に似て小さく、能く木に登り、色、黄色にして、尾、大なり。狗の如く、羣行し、夜鳴き、聲、狼の如しと云ふ、 野獣の名とされる(広辞苑・大言海)。元々、 漢訳仏典に登場する野獣、 で、 射干(じゃかん、しゃかん、やかん)、 豻(がん、かん)、 野犴(やかん 犴は野生の犬のような類の動物、キツネやジャッカルなども宛てられる)、 とも表記され、狡猾な獣として描かれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B9%B2)とあり、日本の密教においては、 閻魔天の眷属の女鬼・荼枳尼(だきに)が野干の化身、 とされ、平安時代以後、 野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天、 となる(仝上)、ともある。 唐の『本草拾遺』に、 仏経に野干あり。これは悪獣にして、青黄色で狗(いぬ)に似て、人を食らい、よく木に登る、 宋の『翻訳名義集』に、 狐に似て、より形は小さく、群行・夜鳴すること狼の如し、 明末の『正字通』に、 豻、胡犬なり。狐に似て黒く、よく虎豹を食らい、猟人これを恐れる、 等々とある(仝上)。中国には生息していなかったため、 狐、貂(てん)、豺(ドール)、 との混同がみられる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B9%B2)ようだ。 元来は、梵語の シュリガーラ(śṛgāla)、 を漢訳する際に、 野干、 と表記されたもので、他に、 悉伽羅、 射干、 夜干、 とも音訳された(仝上)、とある。明治43年(1910)、南方熊楠が、 漢訳仏典の野干は梵語「スルガーラ」(英語「ジャッカル」・アラビア語「シャガール」)の音写である、 旨を、『東京人類学雑誌』に発表した(仝上)。熊楠は、こう書いている。 わが邦で従来野干を狐の事と心得た人が多いが、予が『東京人類学会雑誌』に述べたごとく全く狐と別で英語でいわゆるジャッカルを指す、梵名スリガーラまたジャムブカ、アラブ名シャガール、ヘブライ名シュアルこれらより転訛して射干また野干と音訳されただろう(十二支考)、 そして、既に、 『松屋筆記』に「『曾我物語』など狐を野干とする事多し、されど狐より小さきものの由『法華経疏』に見ゆ、字も野豻と書くべきを省きて野干と書けるなり云々、『大和本草』国俗狐を射干とす、『本草』狐の別名この称なし、しかれば二物異なるなり」といい、『和漢三才図会』にも〈『和名抄』に狐は木豆弥射干なり、関中呼んで野干と為す語は訛なり、けだし野干は別獣なり〉と記す、豻の音岸また忓、『礼記』玉藻篇に君子々々虎豹蛟竜銅鉄を食う猟人またこれを畏るとある、インドにドールとて群を成して虎を困(くる)しむる野犬あり縞狼(ヒエナ)の歯は甚だ硬いと聞く、それらをジャッカル稀に角ある事実と混じてかかる談が生じただろう、西北インドの俗信にジャッカル額に角あるはその力で隠形の術を行うこれを截り取りてその上の毛を剃って置くとまた生えると(1883年『パンジャブ・ノーツ・エンド・キーリス』)。(中略)とにかく周の頃すでに豻てふ野犬が支那にあったところへジャッカル稀に一角ある事などをインド等より伝え、名も似て居るのでジャッカルを射豻また野干と訳したらしい(仝上)、 と(仝上)。「豻」(カン・ガン)は、 胡地(中国の北方)の野狗。又狐に似て喙の黒き野犬、 とある(字源)。 そしてジャッカルについて、 この野干は狼と狐の間にあるようなもので、性質すこぶる黠(ずる)く常に群を成し小獣を榛(シン やぶ)中に取り囲み逃路に番兵を配りその王叫び指揮して一同榛に入り駆け出し伏兵に捕えしむ、また獲物ある時これを藪中に匿しさもなき体で藪外を巡り己より強きもの来らざるを確かめて後初めて食う、もし人来るを見れば椰子殻などを銜えて疾走し去る、人これを見て野干既に獲物を将(も)ち去ったと惟い退いた後、ゆっくり隠し置いた物を取り出し食うなど狡智百出す、故に仏教またアラビア譚等多くその詐(いつわり)多きを述べ、『聖書』に狐の奸猾を言えるも実は野干だろうと言う、したがって支那日本に行わるる狐の譚中には野干の伝説を多分雑え入れた事と想う、 とも(仝上)。 「野(埜)」(漢音呉音ヤ、漢音ショ、呉音ジョ)は、 会意兼形声。予(ヨ)は、□印の物を横に引きずらしたさまを示し、のびる意を含む。野は「里+音符予」で、横にのびた広い田畑、野原のこと、 とある(漢字源)。 ただ、 会意形声。「里」+音符「予」(だんだん広がるの意を有する)(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%87%8E)、 と、 形声。里と、音符予(ヨ)→(ヤ)とから成る。郊外の村里、のはらの意を表す(角川新字源)、 とを合わせてやっとわかる解説のように思える。別に、「野」と「埜」を区別し、「野」は、 会意兼形声文字です(里+予)。「区画された耕地の象形と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(耕地・土地の神を祭る為の場所のある「里」の意味)と機織りの横糸を自由に走らせ通す道具の象形(「のびやか」の意味)から広くてのびやか里を意味し、そこから、「郊外」、「の」を意味する「野」という漢字が成り立ちました、 とし、「埜」は、 会意文字です(林+土)。「大地を覆う木」の象形と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(「土」の意味)から「の」を意味する「埜」という漢字が成り立ちました、 と解釈するものがある(https://okjiten.jp/kanji115.html)。 「干」(カン)は、 象形。二股の棒をえがいたもの。これで人を突く武器にも、身を守る武具にも用いる。また突き進むのはおかすことであり、身を守るのは盾である。干は、幹(太い棒、みき)、竿(カン 竹の棒)、杆(カン てこ)、桿(カン 木の棒)の原字。乾(ほす、かわく)に当てるのは、仮借である、 とある(漢字源)。別に、 象形。二股に分かれた棒で、攻撃にも防御にも用いる。干を持って突き進みおかす。「幹」「竿」「杆」「桿」の原字。「幹」の意から、「十干」や「肝」の意を生じた。「乾」の意は仮借であり、「旱」「旰」は、それを受けた形声文字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B9%B2)、 象形。先にかざりを付けた盾(たて)の形にかたどる。ひいて、「ふせぐ」「おかす」意を表す(角川新字源)、 などの解釈もある。 「狐」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433049053.html)については、 「狐と狸」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/469977053.html)、 「狐の嫁入り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/469952031.html)、 でも触れた。 参考文献; 南方熊楠『南方熊楠作品集』(Kindle版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「夜光」とは、 暗いところで、光を出すこと、 の意だが、 「夜光の璧(やこうのたま)」とは、 夜光る玉、 で、 昔、中国で、随侯の祝元陽が蛇から授かったと伝えられる暗夜でも光るという貴重な璧、 の意である。 今可取捨之由忝有此命、夜光之璧何如琢磨乎(「明衡往来(11世紀中頃)」)、 とある(精選版日本国語大辞典)。また、 南海有珠、即鯨目、夜可以鑒、謂之夜光珠(「述異記(5世紀末)」)、 ともあ(字源)、史記・鄒陽(すうよう)伝に、 故無因至前、雖出隋侯之珠、夜光璧、猶結怨而不見徳、 ともある(大言海)。この「夜光璧」と対比されるのが、 和氏璧(かしのたま)、 である。「和氏」とは、 卞和(べんか)、 の謂いで、「卞和」は、 春秋時代の楚のひと、玉璞を得て、楚の脂、(れいおう)に獻ぜしに、王以て詐と為し、其の左足を刖(あしき)る、武王の時、また獻せしに、又以て詐と為し、其の右足を刖る、文王位に即くに及び、王玉人をして之を琢かしめたるに果たして寶玉を得たりと云ふ、 とある(字源・広辞苑)。「璞」(漢音ハク、呉音ホク、慣用ボク)は、 会意兼形声。菐(ボク)は、荒削りのままの意を含む、 とあり、「璞」は、 あらたま、 と訓み、 未だ磨かれていない玉、 の意である(漢字源)。この璧を、名付けて、 和氏の璧、 といった、という。韓非子に載る逸話である。さらにこの名玉は、 秦の昭王十五城を以て之に代へんことを(趙・惠王に)請へり、故に云ふ、 連城璧(れんじょうのたま)、 とある(字源)。楊炯は、 趙氏連城璧、由来天下傳、送君還舊府、明月滿前川 と詠い(夜送趙縦詩)、 惠王之珠、光能照乗、和氏之璧、価値連城、 とある(成語考)
王は、十五城を渡さず、危うくただ取りされるところを、趙の使者・藺相如が智謀と勇気によって取り返した、 |
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