「ゐ(い)る」は、 居る、 と当てるが、 動くものが一つの場所に存在する意、現代語では動くと意識したものが存在する意で用い、意識しないものが存在する意の「ある」と使い分ける、 とある(広辞苑)。「ある」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467053373.html?1616713488)は、 ものごとの存在が認識される。もともとは、人・動物も含めその存在を著したが、現代語では、動きを意識しないものの存在に用い、動きを意識して「いる」と使い分ける。人でも、存在だけをいう時には「多くの賛成者がある」のように「ある」ともいう、 とある(広辞苑)。「ある」は、 空間的時間的に存在し持続する意が根本で、それから転じて、…ニアリ、…トアリの形で、…であるという陳述を表す点では英語のbe動詞に似ている。ニアリは後に指定の動詞ナリとなり、トアリは指定の助動詞タリとなった。また完了を表すツの連用形テとアリの結合から助動詞タリ、動詞連用形にアリが結合して(例えば、咲キアリ→咲ケリ)完了・持続の助動詞リ、またナリ・ナシ(鳴)の語幹ナ(音)とアリの結合によって伝聞の助動詞ナリが派生した、 とあり(岩波古語辞典)、漢字の「在」と「有」が、 「有」は、無に対して用ふ、 「在」は、没または去と対す、 と使い分ける(字源)が、 語形上、アレ(生)・アラハレ(現)などと関係があり、それらと共通なarという語幹を持つ。arは出生・出現を意味する語根。日本人の物の考え方では物の存在することを、成り出る、出現するという意味でとらえる傾向が古代にさかのぼるほど強いので、アリの語根も、そのarであろうと考えられ……る、 と(岩波古語辞典)、和語「ある」は、「有」、「在」の意味をともに持つ。 「ゐる」は、 立つの対、 とあり(仝上)、 すわる意、類義語ヲリ(居)は、居る動作を持続し続ける意で、自己の動作ならば卑下謙譲、他人の動作ならば蔑視の意がこもっている、 とある(「立つ」(http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140615-1.html)については触れた)。 「居る」は、上記のように、 を(お)る、 とも訓ませるが、「を(お)る」は、 をり(居)の転、 であり(大言海)、「をり」は、 居有(ゐあ)りの転(大言海)、 坐(ゐ)有りの転(岩波古語辞典)、 等々、当てる字は違うが、 「ゐる」と「ある」との結合したもの、本来「ゐる」はある場所にすわること、「ある」は、継続存在することを意味する、 と(日本語源大辞典)、 そこにずっといる、 意で、 人がじっと坐り続けている意、転じて、ある動作をし続ける意、奈良時代には、自己の動作について使うのが大部分で、平安時代以後は、例が少なく、自己の動作の他、従者・侍女・乞食・動物などの動作に使うのがほとんどを占めている。低い姿勢を保つところから、自己の動作については卑下、他人の動作については、蔑視の気持をこめて使う。中世以後、四段に活用、 とある(岩波古語辞典)。 さて、この「ゐる」は、 「ヰ・ウ(居)」、つまり動かないさま、 が語源(日本語源広辞典)、とある。岩波古語辞典は、「ゐ」に、 居、 坐、 を当てて、 立つの対、すわる意、 とする。 動かないさま、 が語源、 住む、止まる、集まる、坐るが「居る」の語源、 とある(日本語源広辞典)。これだと分かりにくいが、 もとは動かぬ意のヰルが、転じて住む、止まる、集(ゐ)る、坐るの義に広がった、 のであり(日本語源大辞典)、「ゐ」に、 居、 坐、 を当て(岩波古語辞典)、 じっと動かないでいる、低い姿勢で静かにしているのをいうのが原義、 なので(デジタル大辞泉)、 「立ち」の対、 とする(岩波古語辞典)のはその故である。だから、 もとは、動かぬ意のヰルが、転じて住む、止まる、集(ゐ)る、坐るなどの義に広がった(国語の語根とその分類=大島正健・豆の葉と太陽=柳田國男)、 といった語源説になる。 「ゐる」に当てる「居」(漢音キョ、呉音コ)は、 会意兼形声。「尸(しり)+音符古(=固、固定させる、すえる)」で、台上にしりを乗せて、腰を落ち着けること。踞(キョ 尻をおろして構える)の原字、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(尸+古)。「腰掛ける人」の象形と「固いかぶと」の象形(「古い」意味だが、ここでは「固(コ)」に通じ(同じ読みを持つ「固」と同じ意味を持つようになって)、「しっかりする」の意味)から、しっかり座るを意味し、そこから、「いる」を意味する「居」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji888.html)。 「坐」(漢音サ、呉音ザ)は、 会意。「人+人+土」で、人が地上に尻をつけることを示す。すわって身丈を短くする意、 とある(漢字源)。別に、 会意文字です(人+人+土)。「向かい合う人の象形と、土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形(「土」の意味)」から、向かい合う2人が土にひざをつけて「すわる」を意味する「坐」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2404.html)。 なお、入る、要る、炒る、煎る、射る、鋳る、率る、沃る等々と当てる「いる」については「いる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450380300.html?1616486835)で触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「苞豆腐(つとどうふ)」は、 水切りした豆腐をすりつぶし、棒状にして、わらづとなどに入れ、固く締めて蒸したもの、 とあり(広辞苑)、 菰(こも)豆腐、 とも(仝上)、 しの豆腐、 ともいう(たべもの語源辞典)、とある。というのは、 わらの他にイグサやシノなどを束ねたつとを使うから、 とある(https://kondate.oisiiryouri.com/japanese-food-tsutodoufu/)。 「苞豆腐」には、 豆腐の水をよく絞ってから、甘酒をすりまぜ、棒のようにして、竹簀(タケス)で巻いたものを蒸し、小口切りにして出す、 あるいは、 豆腐一丁に、つくね芋をひとかぶおろして、豆腐の水気をよくしぼったものとすり合わせ、小麦粉を少し交ぜ、藁に巻き、湯煮してから煮しめ、切って用いる、 あるいは、 豆腐を絞って、葛粉をいれて、すり鉢ですって、布に包んで苞に包み、蒸してから、苞を採って生醬油で煮る、油で揚げることもある、 あるいは、 豆腐を手で崩して、納豆苞の中に詰めて、藁できっちり結び、塩を加えた湯の中でよく煮る。さめたところで取り出して、小口きりにする。それを出し、砂糖・醤油で煮ふくめ、煮汁の中に加える、 等々、さまざまな作り方、利用法がある(仝上)。 「苞」は、 苞苴、 とも当て(「苞苴」は「ほうしょ」とも訓む。意味は同じ)、 わらなどを束ねて物を包んだもの、 で、 藁苞(わらづと)、 荒巻(あらまき 「苞苴」「新巻」とも当てる)、 とも言う(広辞苑)が、「苞」には、 土産、 の意味がある(広辞苑)のは、 歩いて持ってくるのに便利なように包んできたから、 という(たべもの語源辞典)。土産の意では、 家苞(いえづと)、 ともいう(広辞苑)。「苞」は、また、 すぼづと、 ともいう(たべもの語源辞典)が、 スボというのはスボミたる形から呼ばれた、 かららしい(仝上)。 「苞」(つと)は、「つつむ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467683799.html)で触れたことだが、 ツツム(包)のツツと同根、包んだものの意、 とある(岩波古語辞典)。 包(ツツ)の転(大言海)、 ツツムの語幹、ツツの変化(日本語源広辞典)、 と、「つつむ」とつながる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「菜の花」は、 アブラナ(油菜)、ナタネナ(菜種菜)、ハナナ(花菜)、 と呼ぶ、 アブラナ科アブラナ属の花の総称、 を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9C%E3%81%AE%E8%8A%B1・広辞苑・たべもの語源辞典)が、特に、 アブラナまたはセイヨウアブラナ、 の別名としても用いられる(仝上)。花びらが4枚で十文字に咲くことから、 十字花科植物の花、 とも呼ばれる、 アブラ菜、コマツ菜、カブ、白菜、キャベツ、チンゲン菜、ブロッコリー、カリフラワー、葉牡丹、大根、カラシナ、ザーサイ、 等々、普段は花が咲く前に収穫されるが、種子を採るため、または放置されたまま成長を続けると花が咲いてくる。 アブラナ属以外のアブラナ科の植物には白や紫の花を咲かせるものがあるが、これを指して「白い菜の花」「ダイコンの菜の花」という(仝上)、とある。 「菜」は、 葉・茎などを食用とする草本類の総称、 であり(広辞苑)、特に、 総菜、 というように、 副食物とする草の総称、 とされる(日本語源大辞典)。最古の部首別漢字字典(100年)『説文解字』に、 草可食者、曰菜、 とある。 「菜」(サイ)は、 会意兼形声。「艸+音符采(=採 サイ、つみとる)」。つみなのこと、 とあり(漢字源)、「食用とする草本類」「あぶらな」「副食物」と、ほぼ和語の「な」の使い方と重なる。 しかし、「肴」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477167042.html)で触れたように、和語「な」は、 菜、 肴、 魚、 を当てた。「さかな」の語源が、 酒菜(さかな)の意、 とされるように(広辞苑)、「な(肴・菜)」は、平安時代から使われ、 サカは酒、ナは食用の魚菜の総称(岩波古語辞典)、 酒+ナ(穀物以外の副食物)、ナは惣菜の意(日本語源広辞典)、 「菜」(な)は、副食物のことを指し、酒に添える料理(酒に添える副菜)を「酒のな」と呼び、これが、なまって 「酒な」となり、「肴」となった(http://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.html)、 「酒菜」から。もともと副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字をあてていた。酒のための「な(おかず)」という意味である。「さかな」という音からは魚介類が想像されるかもしれないが、酒席で食される食品であれば、肴となる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4)、 等々と、「な(肴)」も「な(菜)」も、 食用とする魚菜の総称(大言海)、 の意で、 酒を飲むとき、副食(アハセ)とするもの、魚、菜の、調理したるもの、其外、すべてを云う、 とされた(仝上)が、いま「肴(さかな)」は、 今、専ら、魚を云ふ、 ようになり、「菜」は、 草本類、 を指すように分化した。 だから、「な(菜)」は、 肴(な)と同源、 であり(広辞苑)、「菜」と「肴」と漢字をあてわけるまでは、 な、 で、 野菜・魚・鳥獣などの副食物、 を全て指し、 さい、 おかず、 の意であった(岩波古語辞典)。かつては、 おめぐり、 あわせもの、 とも言った。「あわせもの」は、 飯に合わせて食うことから、 いう(日本食生活史)。古今著聞集に、 麦飯に鰯あはせに、只今調達すべきよし、 とある(仝上)。 「菜」の字を当てることで、「菜(な)」は、 葉・茎・根などの食用とする草木、 と分離し、今日では、「菜」(な)は、 あぶらな類の葉菜、 に限定するようになる(広辞苑)。そして、 魚類のことを「さかな」と呼ぶのは、肴から転じた言葉であり、酒の肴には魚介類料理が多く使用されたためである。古くは「うを」(後に「うお」)と呼んでいたが、江戸時代頃から「さかな」と呼ぶようになった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4)。 「な」は、だから、「な(肴)」の語源も、たとえば、 ナム(嘗)の義(大言海)、 「な(菜)」の語源も、 ナム(嘗)の義(日本釈名・和訓栞・大言海)、 「な(魚)」の語源も、 ナム(嘗)の義(大言海)、 等々同じになる。「な(菜)」の語源が、 肴(な)、 で、「な(肴)」の語源が、 菜(な)(言元梯)、 でもおかしくはない。 因みに「菜の花」は晩春の季語、 菜の花や 月は東に日は西に(蕪村) なの花にうしろ下りの住居かな(一茶) 等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9C%E3%81%AE%E8%8A%B1)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「すっぽん煮」というものがあるらしい。 鼈煮、 と当て、本来は、 スッポンを煮たもの、 を指したが、 ナマズ、エイなどを濃厚な味の汁でささがき牛蒡などと共に似て、スッポンの味に似せたもの、 を意味し、 すっぽんもどき、 ともいう(広辞苑)、とある。どちらかというと、「鼈煮」を、 すっぽんもどき、 と呼び、 スッポンの味に似せた煮物の一種。ぶつ切りの魚を油でいり、酒・みりん・醤油・砂糖で味付けし、ネギ、ゴボウなどとともに煮て、ショウガの絞り汁をふりかける。魚はナマズ、アカエイ、コチ、オコゼなど白身のものが多く用いられる。本来はスッポンの脂を使用、 とある(百科事典マイペディア)ところをみると、「鼈煮」に似せたものを、 鼈煮、 と呼んでいる気配である。 すっぽんは生臭いため、煮込み料理を作る際、大量の日本酒と生姜汁を使って仕立てます。そこから転じて、たっぷりのお酒でコクのある味に仕立てた煮込み料理を「すっぽん煮」と呼ぶようになりました、 とある(https://jp.sake-times.com/enjoy/food/sake_g_cooking_suppon)。で、「すっぽん煮」の具材は、すっぽんに限らず、 弱火でじっくり煮込むということで、長時間煮込んでもぱさつきにくい、ゼラチン質の多い素材に適した料理法、 とある(仝上)。もちろん、「すっぽん」そのものを使い、 スッポンは、おろしたあと霜降りをして薄皮を丁寧にむき取り、油で炒めたり、揚げたりしたものを酒、醤油、砂糖、みりんなどで煮つめます。そして、仕上げに搾りしょうがを加える、 とある(https://cookpad.com/cooking_basics/7118)が、 骨付きの鶏肉やうずら肉を使う場合が多い、 とある(仝上)。因みに、「霜降り」とは、 肉や魚などを調味する前に、沸騰したお湯にさっと通すか熱湯をかけることで、素材のもつ臭みを抜くこと。身をしめてうまみを逃げにくくなる効果もあります、 とある(https://cookpad.com/cooking_basics/7118)。 ただ、「すっぽん煮」には、 ナマコの料理に「すっぽう」という煮方があり、このすっぽう煮が「すっぽん煮」と混同した、 とする説がある(たべもの語源辞典)。 「煮しめ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480533264.html)で触れたが、すっぽん料理には、「筑前煮」の別名とされる、 がめ煮、 がある。これは、秀吉が、文禄元年(1592)に、 博多の入江や沢にスッポンが多くいたので、これと野菜を一緒に煮て食べた、 らしいが、スッポンは川龜、またはドロガメというので、 ガメ煮、 といった(たべもの語源辞典)、とある。後には、スッポンの代わりに鶏肉を使い、 人参や牛蒡ヤコンニャクや筍などを甘煮(うま煮)にするようになった、 とある(仝上)。ただ、「がめ煮」については、 筑前煮同様、鶏肉と野菜などを炒めてから甘辛く煮た福岡県の郷土料理、 ではあるが、 「寄せ集めの」という意味を持つ方言「がめくり込む」から来ているという説、 もあり、一般には、がめ煮は、 骨付きの鶏肉、 使う(https://delishkitchen.tv/articles/407)、ともある。「鼈煮」との違いは、「がめ煮」が、 具材を全て炒める、 ところにあるのかもしれないが、時代によって変化し、「鼈煮」も、 魚類を濃いつゆで煮た物から、魚類をごま油で揚げて、調味料で煮たものになった、 とある(たべもの語源辞典)ので、違いは、具の違いなど微妙になってきている。 なお、「鼈(すっぽん)」については「月と鼈」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470570777.html)で触れた。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「スッポン」は、 鼈、 の意であるが、これに準えた、 歌舞伎の舞台で、花道の七三(しちさん)に設けた切穴(きりあな)、 を指し、 奈落から花道へ役者をせり上げるためのもの、 をいう(広辞苑・江戸語大辞典)。「七三」とは、 「七三」とは揚幕(楽屋の出入り口にかかる幕)から七分、本舞台から三分の位置のこと、 で(http://www.moon-light.ne.jp/termi-nology/meaning/suppon.htm・広辞苑)、ここで、見得を切ったりする(広辞苑)。「奈落」は、花道の下や舞台の床下の地下室。回り舞台やせり出しの装置がある(仝上)。「七三」の位置は、 現在は舞台から3分、揚幕から7分(実際にはもっと舞台に近い)となっているが、古くは揚幕から3分の位置だったといわれる。花道にある〈スッポン〉は原則として人間以外の精や霊、妖怪、怨霊、忍術使いなどの出入りに用いる〈セリ上げ〉〈セリ下げ〉の機構である。すなわち、花道を歩かせない形で、効果的、印象的に役者を出没させるために案出されたものにほかならない、 とある(世界大百科事典)。人間以外の精や霊、妖怪、怨霊、忍術使いなどの役には、共通点があり、 人間離れしているか空想の生き物であるということです。これらはスッポンを使ってせり上がり、頭から徐々に登場してきます。場面によっては出たり退いたりする際に、スッポンから煙を出すこともあります。そうすることで、怪しさがさらに増すのです、 とある(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1174)。 こうした舞台機構は、宝暦年間(1751‐64)に、改新的な数々の技術改革が開発され、 セリ上げ(1753)、 (狂言作者並木正三による)回り舞台(1758)の発明、 につづいて、 スッポン(1759)、 がんどう返し(1761)、 が考案され、 舞台上の破風屋根を除去(1761)、 目付柱・脇柱の撤去(1761)、 明和期(1764〜72)には、 引割り(部隊の大舞台を左右へ引き込んで、次の場面に転換させること)、 寛政元年(1789)には、 田楽返し(舞台背景の襖などの中央に田楽豆腐の串のような棒を貫き、これを回転させて背景を変化させる)、 が創案されて、歌舞伎の演出上多彩な展開を可能とした(仝上・世界大百科事典)、とある。「スッポン」は、そうした舞台装置考案の一つである。 「月と鼈」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470570777.html)で触れたが、この「スッポン」は、 切穴から出るとき、演者が首から出るので亀の首を想像して付けられたか、 また、 床面が龜甲形だから、 とも、 床板のはまるときスポンと音がすることから、 ともいう、とあり(演劇百科大事典)、「鼈」と関わっている。 「鼈(すっぽん)」は、「月と鼈」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470570777.html)で触れたように、中国では、 団魚、 と呼ばれ、日本では、 土亀、 泥龜、 川龜、 等々とも呼ぶ(各地で、ガメ・ドウガメ・ドンガメ・ドヂ・ドチ・トチとも)。 和語「すっぽん」の語源は、 スボンボの轉。或いは、葡萄牙語也と云ふ説もあり(大言海)、 鳴き声がスンスボンと聞こえるから(瓦礫雜考・三余叢談・俚言集覧・名言通)、 等々がある。川柳に、 すっぽんの名は飛び込んだ時に附け、 とあるらしく、すっぽんが水の中に飛び込んだ時、 スッポン、 という音がした、という説に由来しているとするが、鳴き声が、スッポンスッポン、と聞こえるとするのは、 亀はポンポンと鼓の音のように鳴くという。「亀の看経(かんきん)」といって、亀の鳴き声は初めは雨だれ拍子で、次第に急になり、俗に責念仏(せめねんぶつ)といわれる。スッポンの鳴声も間遠にスポンスポンと聞こえる。いずれも夜になって聞こえる、 とある(たべもの語源辞典)のによる。大言海の「スボンホ」は、その転訛であるとも思われる。この他、 すぽむ+ぼ(もの)、 と首をすくめる擬態からとする説(日本語源広辞典)もあるが、やはり「擬音」で、よさそうである。 「スッポン」の由来が、「亀」ではなく「鼈」としたのは、音に由来するならわかるが、そうでないとすると、「カメ」では語感が間が抜けるせいだろうか。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「なか」は、 中、 仲、 央、 等々と当てる。「なか」の古形は、 な、 で、 三国の坂、中井(なゐ)に聘(むか)へて(書紀)、 と 他の語につき複合語をつくる、 とある(岩波古語辞典)。 中處(なか)の義、ナに中(チュウ)の意あり、 とある(大言海)のは、同趣旨である。で、 古くはナだけで中の意。カはアリカ・スミカのカと同じで、地点・所の意。原義は層をなすもの、並立するもの、長さのあるものなどを三つに分け、その両端ではない中間にあたる所の意。空間的には、上下、左右、または前後の中間。時間的な経過については、その途中、最中。さらに使い方が、平面的なとらえ方にも広まり、一定の区域や範囲の内側、物の内部の意を表すに至って、ウチと意味が接近してくる、 とある(岩波古語辞典)。「うち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452986493.html?1616905983)で触れたように、「うち」は、 うち(うつ)⇔そと(と)・ほか、 と対比され、 古形ウツ(内)の転。自分を中心にして、自分に親近な区域として、自分からある距離のところを心理的に仕切った線の手前。また囲って覆いをした部分。そこは、人に見せず立ち入らせず、その人が自由に動ける領域で、その線の向こうの、疎遠と認める区域とは全然別の取り扱いをする。はじめ場所についていい、後に時間や数量についても使うように広まった。ウチは、中心となる人の力で包み込んでいる範囲という気持ちが強く、類義語ナカ(中)が、単に上中下の中を意味して、物と物とに挿まれている間のところを指したのと相違していた。古くは『と(外)』と対にして使い、中世以後『そと』または『ほか』と対する、 とある(仝上)ように、「うち」は、 外(そと)の反。内、 外(ほか)の反。物事の露わならぬ方。ウラ、 あひだ。間、 それより下。以内、以下、 等々という「うち」の意味が、その意味のメタファとして、 内裏、禁中、 主上の尊称。うへ、 家の内、 味方、 心の内、 と、 中心となる人の力で包み込んでいる範囲、という気持ちが強い、 のに対して、「なか」が、 物と物とに挿まれている間のところ、 を指した。ただ、「なか」も、 空間的に、上中下の中、両端でない所(真中)、物と物の間、ある区間の端でない所、 時間的に、始めと終わりの中間、途中、最中、中旬、まるまるの日数・月数、時間の流れの中のその頃、 うち(内)の意味に近づいて、内部、内心、ある区間の範囲内、 と意味が変化し、その「間」という含意をメタファに、 二人の間、同類、間柄、 といった意味でも使う(仝上)。この場合、 仲、 を当てる(広辞苑・日本語源大辞典)。原義は、 上(ほ)つ枝は天を覆(お)へり、中つ枝は東(あづま)を覆へり、下(し)づ枝は鄙(ひな)を覆へり(古事記)、 夕へになればいざ寝よと手をたづさはり父母もうへはな離(さか)り三枝(さきくさ)の中にを寝むと(山上憶良)、 等々と見えるところから見て、 層をなすもの、並立するもの、長さのあるものなどを三つに分け、その両端ではない中間にあたる所、 の意が強かったものと推測される。ただ、「なか」の「な」が何から由来するかは、「なか」の語源、 並ぶものの中間の位置を言うところから、並處の義(国語の語根とその分類=大島正健)、 二つの物の間を意味するところから、両者が隔たることナカレ(勿)の義(名言通)、 マカ(間所)の義(言元梯)、 等々の諸説からは見当がつかない。ただ、憶説ながら、 並ぶ、 と関係あるのかもしれない。「並ぶ」は、 並(な)むの延、 とあり(大言海)、「並ぶ」は、 二つのものがそろって位置している意が原義、 だが(岩波古語辞典)、「並む」は、 三つ以上のものが凹凸なく横に並ぶ、 意とある(仝上)。この「並む」の語幹「な」ではないか、たとえば、 並む處(なむか)→並處(なか)、 というように転訛したというような。勿論憶説であるが。 「なか」に当てる漢字「中」(チュウ)は、 象形。もとの字は、旗竿を枠の真ん中につきとおした姿を描いたもので、真ん中の意を表す、また、真ん中を突きとおすの意をも含む。仲、衷の音符となる、 とあり(漢字源)、別の解釈では、 指事文字です。 「軍の中央に立てる旗」の象形から「うち」を意味する「中」という漢字が成り立ちました、との説もある(https://okjiten.jp/kanji121.html)が、「中」は、 中外、 と、「ものの内側」の意であり、「内」の意に近いが、そこから、物の真ん中、進行している最中、子や兄弟の間、心の中、という意味を持つ。位置関係よりは、「内側」の意がもともと強いと見えるが、 中は、矢の的に中る義。百発百中と用ふ。転じて、広く的中する義とす。家語「孔子聖賢、其所刺譏、皆中諸侯之病」、又そこなひあてらるる義に用ふ。「中暑」「中酒」、 とある(字源)ところをみると、 まんなか、中央、 という原義のようである。 「仲」(漢音チュウ、呉音ジュウ)は、 会意兼形声。「人+音符中(真ん中)」、 で(漢字源)、まさに、人の関係に当てた字で、 兄弟の序列で、中に当たる人、 の意である。兄弟を年齢の上の者から、 伯・中・叔・季(または、孟・仲・季)、 という(漢字源)。これを季節に当て、春夏秋冬それぞれを三分して、たとえば、 孟春・仲春・季春、 という。 「央」(漢音オウ、呉音ヨウ)は、 会意。大の字にたった人間の真ん中にある首の部分を枷で押さえ込んださま。また、人間の頭の真ん中を押し下げた形と考えてもよい。真ん中、真ん中を押さえつける意を含む、 とある(漢字源)が、別に、 会意(藤堂)。大(ひと)+しるし。大の字に立ったひとの真ん中にしるしをつけたもの、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%AE)、 象形文字です。「首かせをつけられた人」の象形で、人の首が首かせの中央にある事から「まんなか」を意味する「央」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji463.html)。いずれも、首の位置から言っているようだ。 なお、「うえ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463565088.html)、「かみ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463581144.html)、「した」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463595980.html)、「しも」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463610265.html?1616905179)、については、それぞれ触れた。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「せんろっぽ」は、 繊蘿蔔、 と当てるが、 千六本、 繊六本、 と当てたため、 せんろっぽん、 せろっぽう、 等々ともいう。「蘿蔔」は、「すずしろ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465194822.html)で触れたように、 蘿蔔(ラフク)、 は、漢名である。 蘿菔(ラフク)、 とも書く(字源)。 「蘿蔔」は、 ロフ(広辞苑・大言海)、 ラフク(たべもの語源辞典)、 ラフ(精選版日本国語大辞典)、 等々と表記されるが、『易林本節用集』(1597)には、 らふく(蘿蔔)、 とある(精選版日本国語大辞典)。 中国でロープと訓まれた。千切りにした大根を北京語でセンロープといった。それが訛って千六本といわれた、 とある(たべもの語源辞典)。 「せんろっぽ」は、従って、漢名の、 センロフ(繊蘿蔔)の転、 とある(広辞苑・大言海)。ただ、 センロフ→センロッポ、 センラフ→センロッポ、 センラフク→センロッポ、 のいずれにせよ、転訛しにくいと見えるが、「繊蘿蔔」を、 唐音「せんろうぽ」の音変化(デジタル大辞泉)、 せんろふを唐音で訓んだ(日本語源大辞典)、 北京語で発音すると、センロウプ(たべもの語源辞典)、 等々と、漢語の発音のいずれかの転訛とみられる。日本人の大根の千切りを見て帰化僧が、 センロウプ、 と呼んだところから、大根の千切りを、そう呼び始めた(たべもの語源辞典)、ともある。室町時代の『下学集』(1444)には、「繊蘿蔔」を、 センロフ、 とふり仮名されている(仝上)。いつ、 センロウプ→センロフ→センロッポ、 に転訛したかははっきりしないが、「かた言」(1650)には、 ほそくきざみてうじたるを繊蘿蔔(せんろふ)と申すを、せろっぽんと云は、いかが、 とあり(精選版日本国語大辞典)、転訛であることを承知していた、とみられる。 ただ、異説に、 中国料理の料理法でハリのように細く大根を切る「鍼蘿蔔(チェンロープ)」から、 とするものもある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%8A%E5%88%87%E3%82%8A)。これだと、「セン」ではなく、 チェンロープ→センロッポ、 という転訛ということになる。 なお、昭和初期まで、東京の主婦は、 「今朝のおみおつけのみは、せんろっぽよ」 という会話をしており、「せんろっぽ」が大根の千切りであることを承知していた、とある(たべもの語源辞典)。 平安期の「和名抄」は、 〈葍〉〈蘿菔〉の字をあて、俗に大根の二字を用う、 とある(世界大百科事典)が、近世以前は、どんな味付けをして食べていたものか、ほとんど知る手がかりがない(仝上)、とある。 また、「庭訓往来」には、 菜者、繊蘿蔔、煮染午房、 とある(大言海)。 従って、「千切り」にも、 千切り、 とともに、 繊切り、 とも当てる。 漢字「繊(纖)」(セン)は、 会意兼形声。韱(セン)は、小さく切るの意を含む。纖はそれを音符とし、糸を加えた字、 とあり(漢字源)、「繊細」「繊維」というように、細い意で、別に、 会意兼形声文字です(糸+韱)。「より糸」の象形と「刃のついた矛の象形と人の象形(「みじん切りにする」の意味)と地上に群がり生え揃った、にらの象形」(「みじん切りにしたような山にら」の意味)から、「細くてよわよわしい糸」を意味する「繊」という漢字が成り立ちました、 とあり(https://okjiten.jp/kanji1850.html)、「韱」の由来がよくわかる。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「笑止」は、 笑止千万、 などと使う。「千万」は、 無礼千万、 後悔千万、 迷惑千万、 等々と、 形容動詞の語幹や性質・状態を表す体言に付いて、その程度がはなはだしいという意を添える、 が、「千万」自体は、 センバンマウシタイコトナレド(日葡辞書)、 のように、 数量の多いこと、 の意や、 千万砕く気の働き(浄瑠璃「生玉心中」)、 のように、 状態のさまざまなさま、 の意(広辞苑)や、 是は千万蒐合 (かけあひ) の軍 (いくさ) にうち負くる事あらば(「太平記」)、 のように、 万が一にも、 の意でも使われた(デジタル大辞泉)。 「笑止千万」は、 甚だ気の毒なこと、 あるいは、 笑うべきこと、 と、 同情 と ばかばかしい、 と、相手に寄り添う気持ちと突き放す気持ちと、意味に幅がある。 これは、「笑止」自体の意味の幅が大きいことによる。たとえば、 たいへんなこと(弁内侍日記「笑止の候ふ、皇后宮の御方に火の、といふ」)、 困ったこと、苦しいこと、悲しいこと(謡曲・鉢木「あら笑止や候。さらばお帰りを待ち申しそうずるにて候」)、 他に対する気の毒な気持ちをあらわす(天草本・平家「女院、二位殿に憂き目を見せまらせうずるも笑止なれば」)、 気の毒やら、おかしいやらといった気持ちをあらわす(虎明本狂言・柿山伏「やれやれ笑止や、鳶と思うたればそなたか、と云て笑ふ」)、 おかしいこと、滑稽千万(咄・昨日は今日「言語道断、これ程おかしう、笑止なる事はあるまい」)、 恥ずかしく思うこと(浄瑠璃・一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)「ほんにまあわしとした事が、始めての付け合ひになめたらしい、ヲヲー笑止と、袖震ふさへ廓めかし」)、 等々と意味の幅がある(広辞苑・岩波古語辞典)。しかし、どうやら、 相手の状態に対する、 (「たいへん」という)状態表現から、その状態への、 (「こまったこと」という事態への)感情表現となり、その、 気の毒、 とか、 おかしい、 という感情自体の価値表現へと転換していく、という流れに見える。多くは、他者に対する表現だが、それが、自分自身に向けられると、「恥ずかしい」のように、 (相手が)気の毒、おかしい→(自分が)気の毒、おかしい→恥ずかしい、 という意味の転換が起きている場合がある。 しかし、多くは、その意味の幅の中に、 笑止なれども、京へ上ってたもれ(天草本狂言六義・若和布)、 というように、「笑止」には、相手に対する、 気の毒、 という気持ちがある。だから、本来、 気の毒やら、おかしいやらといった気持ち、 が、含意としてあるのではないか、と思えてならない。だから、 笑も止まる意か、 とし、 他人の、人笑いとなるを、気の毒と思ふこと、片腹痛きこと、 とするのが(大言海)、的確だと思える。「片腹痛い」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462187823.html)で触れたように、「片腹痛い」は、 傍ら痛い、 であり、室町末期の『日葡辞典』に、「カタハライタイ」と載り、 傍らにいて心が痛む、 意であり、 気の毒である、 傍で見ていて、嫌な気がする(源氏・桐壷「うへ人、女房などはかたはらいたしと、聞きけり」、「かたはらいたきもの、よくも音弾きとどめぬ琴を、よく調べで、心の限り弾きたてる」) の意と、 きまりが悪い、 はずかしい(源氏・柏木「かたはらいたうて、御いらへなどをだにえし給はねば」)、 と、ほぼ「笑止」の意味の範囲と重なる。つまり、「笑止」は、 傍ら痛い、 と同じく、人の状態の、 気の毒ながら、おかしい、 という気持ちを言い表している。そう考えると、 「笑止」は当て字、「勝事」の転で、本来普通でないことの意(広辞苑・岩波古語辞典)、 「勝事」からか(デジタル大辞泉)、 「勝事」が語源、すぐれたこと、まれなことの意(日本語源広辞典)、 とするのは如何なものか。 室町以降、笑止と当てられ、笑も止まるほどのこと、困ったこと、気の毒なこと、わらうべきこと、等と意味が変遷した、 とする(日本語源広辞典)のは、十三世紀前期に、 今度の御座に笑止数多(あまた)あり。先法皇の御験者、次に后御産の時御殿の棟より甑(こしき)を転かす事あり(高野本平家)、 と、「笑止」使われており、根拠がない(精選版日本国語大辞典)。むしろ、中世末の易林本節用集(1597)に、 勝事 シャウシ 笑止、 とあることは、これが「笑止」の語源ではなく、中世には、「笑止」がそう解釈されていただけなのではないか。高野本平家では、 今度の御産に勝事あまたあり、 となっており、「勝事」と表記されている(仝上)とされる。これは、 「勝」と「笑」とは本来「ショウ」「セウ」として別音であるが、平安時代末にはその発音上の区別は失われていたと考えられる、 ためである(仝上)。「高野本」は、もとになった、応安四年(1371年)の、 覚一本(http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/zenshoudan/shohon.html#kakuichi)、 を室町末期に写本した、とされる(http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1996Moji/04/4401.html)。とすれば、「笑止」は「勝事」という通念ができた室町期による表記なのではないのか、という気がする。もちろん、素人の憶説だが、ただ、 ショウジ(笑事)をショウシ(笑止)というのは強化例である、 との説もある(日本語の語源)。「笑」=「勝」とするのは如何だろうか。 なお、漢字「笑」については「笑」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/402589627.html)で、「わらう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html、http://ppnetwork.seesaa.net/article/418275600.html)については、それぞれ触れた。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「上戸」は、 じょうご、 と訓むと、 下戸(げこ)の対、 の意となり、 じょうこ、 と訓むと、701年(大宝1)に制定された大宝律令で、 賦役に服す義務をもつ壮丁(課丁)が6〜8人いる家を上戸、4〜5人の家を中戸、3人以下のそれを下戸(げこ)、 といい(日本大百科全書)、「上戸」は、 四等戸(大戸・上戸・中戸・下戸)の第二、 の意となる(広辞苑)。また、そこから、 貧富によって民家を区別して、富む家を上戸、貧しい家を下戸、 という意味でも使った(日本大百科全書)、とある。ここでは、 酒の飲めない人、 の意の、 下戸(げこ)の対、 の意とされる、 上戸(じょうご)、 である。 酒のたくさん飲める人、 の意だが、 笑い上戸、 無き上戸、 といった、 因った時の癖、 から、 日常の癖、 に転用しても使われる(広辞苑)。 「上戸(じょうこ)」に引きずられたせいか、「上戸(じょうご)」も、 庶民婚礼、上戸八瓶下戸二瓶、 とある(群書類要)として、 婚礼に用いる酒の瓶数の多少から出た(広辞苑)、 「上戸」「下戸」は、もと民戸の家族数による上下を言ったが、婚礼に用いる酒の瓶の数から、飲酒量に関して用いるようになったという(岩波古語辞典・大言海)、 等々と、江戸時代の随筆『塩尻(しおじり)』が伝える『群書類要』の、 庶民婚礼、上戸八瓶下戸二瓶、 根拠とする説が大勢である。しかし、酒瓶の数は、酒瓶の数で、飲酒量のことを指してはいない。「上戸」「下戸」は漢語由来ではあるまいか。 按以飲酒、為大小戸、三國之時也、今以嗜酒號上戸、以上頓與戸大幷言也(経史摘語)、 とあり(字源)、「戸大」とは「酒豪」の意とある。「戸」は、 とぐち、とびら、 の意だが、 飲酒の量、 の意があり、 大戸、 小戸、 と使い、白居易の詩に、 戸大嫌甜酒、才高笑小詩、 とある(仝上)。 戸大は上戸、 とある(仝上)「甜酒(てんしゅ)」は、もち米を蒸し、発酵させた甘い酒である。辛党が好むはずはない。 「戸」は酒量の意で、酒飲みの意の「上頓(じょうとん)」「戸大(こだい)」の語の1字ずつをとって上戸とし、その逆を下戸とした(日本大百科全書)、 ともある。 上頓の訛りという。また飲酒を戸というのは三国からの語であるから、上頓と戸大をあわせて上戸といった(俚言集覧)、 とするのは、上述の「経史摘語」を指している。 この「上戸」の由来については、 秦の阿房宮は高くて寒いため、殿上の戸の内に宿直する者は多量の酒を飲んで上がったから(志不可起・一時随筆・卯花園漫録)、 秦の時代、万里の長城で門番をしている兵士がいました。万里の長城には「上戸」と呼ばれる寒さの厳しい山上の門と、「下戸」と呼ばれる往来の激しい平地の門があります。労をねぎらうために、上戸の兵士には体を温めるお酒を、下戸の兵士には疲れを癒やす甘いものを配ったそうです。それが転じて、現在の「上戸」「下戸」の意味になったとされています(https://jp.sake-times.com/knowledge/culture/sake_jogo)、 等々とするが、そんな付会をする必要はなく、「上戸」は、漢語、 大戸、 小戸、 あるいは、 戸大、 からきた、漢語由来と考えていいのではないか。 「下戸」も、 酒を飲み得ざる人、 とある(字源)。 「戸」(漢音ト、呉音ゴ・グ)は、 象形。門は二枚扉を描いた象形文字。戸はその左半分をとり、一枚扉の入口を描いたもの、 とある(漢字源) 因みに、「上戸」と同じ意味の、「左党」は、 江戸時代、大工や鉱夫が右手に槌、左手にノミを持つことから右手のことを「槌手」、左手のことを「ノミ手」と言いました。この「ノミ手」が「飲み手」と同じ発音だったため、ダジャレのような感覚で、お酒飲みのことを「左利き」と呼ぶようになりました。「左党」もその派生語とされています、 との説がある(https://jp.sake-times.com/knowledge/word/sake_word-geko・笑える国語辞典)。 また、同義の「辛党」は、近代以降で、 酒が好きな人、 辛いものが好きな人 塩からいものが好きな人、 の用例は古くても1920年代ごろ、酒好きの意味にシフトしたのは、1930年頃、 と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E5%85%9A)、最近の言葉のようである。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 「雑炊」は、 雑吸、 増炊、 等々と当てる(たべもの語源辞典・語源由来辞典)が、 大根・ねぎなどの具を刻みこみ味付けをして炊いた粥(広辞苑)、 醤油や味噌などの調味料で味を付け、肉類、魚介類、キノコ類や野菜などとともに飯を煮たり、粥のように米から柔らかく炊き上げた料理(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E7%82%8A)、 等々とある。 雑炊、 は当て字で、古くは、 増水、 と当てられた(たべもの語源辞典)。「増水」というのは、 粥にして水を増す、 という意である(仝上)。「雑炊」は、 ただしくは増水、 とあり(江戸語大辞典)、「増水」は、 米の粉に水を加えてかき混ぜて煮立てた羹(あつもの 熱い吸物)、 であり、これを、 こながき、 ともいった(たべもの語源辞典)。「こながき」は、 こなかき、 ともいい、 糝、 餗、 等々と当てるが、平安中期の『和名抄』に、 餗、古奈加木、 米の粉をかきまぜて煮立てた羹(あつもの)、 とあり(たべもの語源辞典)、平安後期の『字鏡』に、 以糝煮肉也、古奈加支、 室町時代の『下学集』には、 増水羹也、 とある。「こながき(こなかき)」は、 熟攪(コナシガキ)の義、かきこなしの意。名義抄「擾、かきこなし」、熟田(こなた)、錬金(こながね)も、こなしだ、コナシガネなり(大言海)、 コナカキ(粉掻)の義(言元梯)、 米粉を菜羹(さいこう)に和える意で、コナカキ(粉菜掻・米菜掻)の義(日本釈名・和訓栞)、 等々、 米粉をかきまぜる、 という意に由来しているが、古くは、 穀類の粉末を熱湯でかいて補食または薬食としたもの、 であり(たべもの語源辞典)、厳密には、今日の「雑炊」とは異なる。 「雑炊」は、 びょうたれ(河内・播州)、 みそづ(加賀・越中・但馬)、 にまぜ(越前)、 いれめし(伊勢)、 等々と呼ばれ、東国では、 ぞうすい(ざふすい)、 いれめし、 といい、女房詞で、 おじや、 という(仝上)。「おじや」は、 じやじやは、煮ゆる音、じわじわ、じくじく(大言海)、 あるいは、 ジャジャと時間を長くかけて煮るさま(上方語源辞典=前田勇)、 由来と思われるが、安永四年(1775)の『物類称呼』に、 東国にて、ざふすい又いれめしといふ、婦人の詞に、おじやといふ、 とあり、幕末の『守貞謾稿』には、 江戸にて男女専らおじやと云……是も実は女詞なるべし、 とある(江戸語大辞典)。「雑炊」の呼び名に、 みそづ、 というのがあるが、江戸語大辞典は「雑炊」を、 味噌汁に飯・野菜を入れて炊いた粥、 としているように、 味噌水、 と当て、 みそうづ、 ともいい、 粥を味噌で煮たもの、 の意である。そういう食べ方が多かったのかもしれない。鎌倉時代中期『沙石集』(しゃせきしゅう / させきしゅう)には、 糝、ミソウヅ、増水也、 とある。しかし、「みそうづ」に、 醤水、 未曾水、 味噌水、 等々(世界大百科事典)と当て、女房詞で、 おみそう、 と呼ぶとあり、足利将軍家では七草粥にせず七種の雑炊を用いて、 御みそうづ、 と呼んだ(たべもの語源辞典)、とある。侍中群要(1071頃)には、 不入給日〈略〉如餹飯餠・味噌水・芋之類、 とある(精選版日本国語大辞典)。 江戸時代の『物類称呼』になると、 京都で正月七日の朝、若菜の塩こながきを祝って食べるが、これをふくわかしという。大坂・堺辺では、神棚に供えた雑煮、あるいは飯のはつほなどを集めておき、糝(こながき)に加えて食べるが、これを福わかしという。土佐では正月七日雜水に餅を入れたのを福わかしという。江戸で、正月三日上野谷中口の護国院に福わかしがあるが、これを大黒の湯という。男女が群集する、 とある(仝上)。どうやら、当初、 米の粉に水を加えてかき混ぜて煮立てた羹、 で、文字通り、 増水、 であったものが、今日の、 飯・野菜を入れて炊いた粥(江戸語大辞典)、 である、 雑炊、 に近くなっている。「雑炊」を、 雑菜粥、 とも呼ぶ(大言海)のは、この意味であろうか。 元来は白粥には味付けしなかったので、野菜や魚貝類を入れ、醤油や味噌で味付け、 するようになって、 雑炊、 と当てたものとみられる。 「増水」と「白粥」の違いは、 増水は塩味を加えたが、白粥は塩味を加えなかった、 のである(たべもの語源辞典)。 こう見てくると、今日、「雑炊」と「おじや」の区別を、たとえば、 調理にあたり、米飯をいったん水で洗い、表面の粘りをとってから用いることで、さらっと仕上げたものが雑炊。そうでないのがおじや、 汁とともに温めるだけ、または水分が飛ぶほどには煮込まず、米飯の粒の形を残すものが雑炊。煮込んで水分を飛ばし、米飯の粒の形をさほど残さないのがおじや、 味噌や醤油で味付けをしたものをおじやと呼び、塩味または煮汁が白いものは雑炊と認識している地域がある。その一方で塩味に限らず醤油味のものも雑炊と呼ぶ地域もある、 等々とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E7%82%8A・語源由来辞典)のは、たとえば、 増水→こながき→みそうづ→おじや、 といったように、次第に「増水」から具を入れ、味付けするようになった歴史的経緯の、どの段階にあるかの差でしかないことがわかる。なお、沖縄料理のジューシー(本来の方言名はジューシーメー)は、 雑炊(雑炊飯)の転訛、 であるとされる(仝上)。 因みに、「雜(雑)」(慣用ゾウ・ザツ、漢音ソウ、呉音ゾウ)は、 会意兼形声。木印の上は衣の変形。雜は、襍とも書き、「衣+音符集」で、ぼろ布を寄せ集めた衣のこと、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(衣+集)。「衣服のえりもと」の象形(「衣服」の意味)と「鳥が木に集まる」象形(「あつまる」の意味)から、衣服の色彩などの多種のあつまりを意味し、そこから、「まじり」を意味する「雑」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji875.html)。いろいろなものが混じる、意である。「増水」の字では表しきれず、「雜」+「炊」とするには意味があった、と思える。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「雑煮」は、 雑煮餅の略、 とある(大言海)。 餅を主に仕立てた汁もの、新年の祝賀などに食する、 ものである(広辞苑)。室町時代の『鈴鹿家記』に、 初めて「雑煮」という言葉が登場する、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E7%85%AE)。古くは、 烹雜(ほうぞう)、 といった(たべもの語源辞典)とあるが、ただ、 以前の名称ないし形態については諸説あり、うち1つの名前は、烹雑(ほうぞう)といわれる、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E7%85%AE)。 「煮切り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480550074.html)で触れたが、「にる」の意の漢字には、 煮、 烹、 煎、 等々などがあり、三者は、 「煎」は、火去汁也と註し、汁の乾くまで煮つめる、 「煮」は、煮粥、煮茶などに用ふ。調味せず、ただ煮沸かすなり、 「烹」は、調味してにるなり。烹人は料理人をいふ。左傳「以烹魚肉」、 と、本来は使い分けられている(字源)。漢字からいえば、「にる」は、 狡兎死して走狗烹らる、 の成句があるように、「煮る」は「烹る」でなくてはならない。その意味で、 烹雜、 から、 雑煮、 に転じた背景には、「烹る」ではなく、「煮る」が慣用化されて以降、ということになるが、「にる」は、 に(煮 上一段)、 で、万葉集に、 食薦(すごも)敷き青菜煮持ち来(こ)梁(うつはり)に行騰(むかばき)掛けて休むこの君、 とあり、あるいは、 にる(煮 上一段)、 でも(「煮ゆ」の他動詞形)、万葉集に、 春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見ゆ娘子(をとめ)らし春野のうはぎ採みて煮らしも、 と、共に、「煮」を当てている。当初から、「煮る」を用いていた可能性はある(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。 ただ、梁高僧伝に、 密以半合米、雑煮也 とある(大言海)。『梁高僧伝』は、 高僧伝、 梁伝、 とも言われ、 梁・天監一八年(五一九)述。中国への仏教伝来年とされる後漢・永平一〇年(67)から天監一八年(519)に至る二五七人の高僧の列伝を集めたもの< である(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%A2%81%E9%AB%98%E5%83%A7%E4%BC%9D)。そこで「雑煮」という言葉が使われている。あるいは、漢語なのかもしれない。 「雑煮」は、 羹餅(かんのもち)、一名雑煮(和漢三才図絵)、 とあるように、 羹餅(かんのもち)、 とも呼ばれ、略して、 かん、 ともいい、 元日に、かんを祝ふところへ、數ならぬ者、禮に来る(元和三年(1617)「醒睡笑」)< とあり(大言海)、「カン」は、 羹(カウ)の唐音、羹(スヒモノ)の餅の意、 である(仝上)。「かん」は、 吉原詞、 とあり(江戸語大辞典)、 おかん、 ともいう、とある(仝上)。物類称呼(1775)には、 畿内にて雑煮と云、又カンとも云、江戸にては、新吉原にてカンと云、オカンを祝ふ、又をかん箸など云ふ、案に新吉原市中をはなれて一ト廓を構へ住居す、ゆへに古く遺りたる事多し、 とある(江戸語大辞典)。「かん」という古い言い方が、吉原に残ったものらしい。「おかん」は、 御羹、 と当て、これも、遊女の隠語で、 正月中の節(せち)の食べものなり(文政八年(1825)「兎園小説」)、 とある(仝上)。 専ら正月の元日より三日の間、畿内にては羹(カン)の餅、又、おかんというが、「雑煮をたべる」ことを「食ふ」とは言わず、 羹(カン)を祝う、 雑煮を祝う、 という(大言海)、とある。 なお、「羊羹」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472187601.html)で触れたように、「羹(あつもの)」(漢音コウ、呉音キョウ、唐音カン)は、 会意。「羔(丸煮した子羊)+美」 で、 肉と野菜を入れて煮た吸い物、 である(漢字源)。 わが国で、「餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html)を祝賀に用いる風習は古く、 元日の鏡餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.html)、 上巳の草餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477094915.html)、 雛祭りの菱餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479150270.html)、 端午の粽(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474481098.html)、 十月の亥の子餅、 等々年中行事となっているが、 三月三日の草餅、 五月五日の粽、柏餅、 は中世になってからであり、 雑煮、 は江戸時代になってからである。この時代になって、 正月の鏡餅、雑煮餅、 三月上巳の草餅、菱餅、 五月五日の粽、 十月亥の日の亥の子餅、 と年中行事に欠かせないものになっていった。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「そばがき」は、 そばかき、 ともいい、 蕎麦掻、 と当て、 蕎麦練り、 蕎麦掻餅、 そばがゆ、 蕎麦の粥、 等々とも呼ばれる(たべもの語源辞典)。 そば粉を熱湯でこねて、餅状にもの、 である(広辞苑)。「そばがき」は、 蕎麦粉をかいてつくる動作そのものが名称となった、 もので(たべもの語源辞典)、 醤油をつけたり、そばつゆや小豆餡をかけたりして食べる(デジタル大辞泉)。秀吉は夜食に「蕎麦掻」を好んだ、という(たべもの語源辞典)。 縄文土器から蕎麦料理を食べていた形跡が発見されており、日本では古くから蕎麦が食べられていた。蕎麦がきは鎌倉時代には存在し、石臼の普及とともに広がったと見られ、江戸時代半ばまでは蕎麦がきとして蕎麦料理を食べられていた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D)。 「蕎麦切」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471421916.html)で触れたように、蕎麦は、 蕎麦及ビ大小麦ヲ種樹シ、 と『続日本紀』の「備荒儲蓄の詔」にあるから、古くから食べられたが、 蕎麦粉をこねて団子にして焼餅として食べるとか、やや進んで蕎麦かきとして食べた、 とある(たべもの語源辞典)。江戸時代以降、現在のように細く切られるようになり、当初は、 ソバギリ、 と呼ばれた(語源由来辞典)。その名は、 粉を水でこねて、麺棒で薄くのばして、たたみ、小口から細長く切り、ほぐして熱湯の中に入れてゆで、笊ですくって冷水につける。そして水を切った、 という製法からつけられた。 沸湯に煠(ゆ)でて、冷水にて洗ひ、再び蒸籠にて蒸すを、ムシソバキリと云ふ、 とある(大言海)。現在のような蕎麦が作られるようになったのは、慶長年間(1596〜1615)といわれる。 17世紀後半に著された(遠州横須賀藩の関係者が1680年ころに著したと推定されている)農書『百姓伝記(ひゃくしょうでんき)』には、 そば切りは田夫のこしらへ喰うものならず、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D)、そば切りを禁止されている農村が少なからずあった。そのような地域で蕎麦がき、そば餅が食べられた(仝上)、とある。そのため、当時食べられた蕎麦がきは、米飯の代わりとして雑穀や根菜を混ぜたり、鍋料理に入れるなど食べごたえのある形に調理された(仝上)、ともある。 因みに、「蕎麦切」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471421916.html)の発祥地には、 森川許六の編集した『風俗文選』宝永三年(1706)にある「蕎麦切の頌」から信濃の国、本山宿という説、 と 天野信景の『鹽尻』「蕎麦切は甲州よりはじまる。初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売るに、米麦の少なかのし故、そばをねりてだご(団子)とせし、其後うどむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし」から甲州発祥説、 のがある(たべもの語源辞典)。その後、明暦3年(1657)の振袖火事の後、復興のために大量の労働者が江戸に流入し、 煮売り(振売り)、 が急増、夜中に屋台でそばを売り歩く夜そば売りも生まれた(https://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/)、という。「かる口」(貞享)には、 「一杯六文、かけ子なし、むしそば切」 とあり、「鹿の子ばなし」(元禄)には、 「むしそば切、一膳七文」 とあるが、天保・嘉永期(1830〜54)になると、 「一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也」(守貞謾稿)、 とある(https://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「瀬戸飯(せとめし)」は、 瀬戸の染飯(そめいい)、 と呼ばれるものである(たべもの語源辞典)。瀬戸の染飯は、 もち米を蒸したものをクチナシの実で黄色く染め、せいろで蒸し、すりつぶして小判形に薄く伸ばして乾かしたもの、 とか(https://ippin.gnavi.co.jp/article-10198/)、 強飯(こわいい/こわめし・蒸した餅米、おこわ)をクチナシ(梔子)の実で黄色く染めて磨り潰し、平たい小判形や三角形(鱗形)、四角形などにして乾燥させたもの、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E3%81%AE%E6%9F%93%E9%A3%AF)が、 クチナシの実を煎じた汁で炊いた黄色いご飯。牛蒡をささがきにして茹でたものを混ぜ合わせ、食べるときに、熱いすまし汁をかけて好みの薬味を加える、 とある(たべもの語源辞典)。乾燥させたものだから、熱い汁を掛けて食べたのである。 現在の静岡県藤枝市上青島である駿河国志太郡青島村付近で戦国時代から販売された黄色い米飯食品、 であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E3%81%AE%E6%9F%93%E9%A3%AF)、古く、 『参詣道中日記』1553年(天文22年)、 や、 『信長公記長』1582年(天正10年)、 に記載があり、東海街道名物としては最古級、とある(仝上)。 江戸時代には藤枝宿-島田宿間にある瀬戸の立場(休憩所)で売られていた(仝上)。『東海道名所記』(1658)に、 藤枝の瀬戸の染飯は、此処の名物なり、その形、小判程にて、強飯に山梔子を塗りたり、うすきものなり、 とある(たべもの語源辞典)。これでみると、復元されたものにそっくりだが、「塗りたり」とあるので、後で色を付けたことになるが、ともかく、江戸時代、 駿河国瀬戸の名物、 であった。『嬉遊笑覧』(1830年)にも、 黄飯は瀬戸の染飯是なり、 とある(仝上)。 漢方医学では、 クチナシには消炎・解熱・利胆・利尿の効果があるといわれ、また足腰の疲れをとるとされることから、難所が多い駿河の東海道を往来して長旅に疲れた旅人たちから重宝された、 とある(仝上)。 寛永4年(1792)に西国を旅した小林一茶は藤枝で、 染飯や我々しきが青柏、 と詠んでいるが、この句を、金子兜太氏は、 「われわれのようなものでも、柏の青葉に盛った染飯がいただけるとは嬉しいね。ありがたいねぇ。こう眺めているだけで、涼しい風が通るようです」(『一茶句集』) と絵解きされている(https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/material/files/group/125/shishi11.pdf)。 寛政九年(1797)の『東海道名所図会』に染飯を売る茶屋の挿絵があり、享和四年(1804)の『東海道中五十三駅狂画』(葛飾北斎)でも四角い染飯を売る茶屋の娘が描かれ、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802〜1814年)でも登場する、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E3%81%AE%E6%9F%93%E9%A3%AF)。現在も藤枝市内で販売されているが、乾燥せずおにぎり状のおこわである。 光廣卿(烏丸光広(からすまる みつひろ) 江戸時代前期の公卿・歌人)の狂歌に、 つくづくと見てもくはれぬ物なれや口なし色のせとの染いひ、 とある(大言海)。「口無し」なのだから食べれぬと掛けてみたところは、「染飯」は、公卿の口には合わなかったようだ(https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/material/files/group/125/shishi11.pdf)。 なお、黄飯は、 豊後の郷土料理、 にもあり、大友宗麟伝来、といわれている。中国風の一種の、 けんちん料理、 で、古くは、 おうはん、 けんちん、 と呼んだが、黄色い飯ではなく、これにそえる魚菜、つまり「かやく」のことを、呼ぶようになり、飯が白米になり、趣旨が変わってしまった、とある(たべもの語源辞典)。 「けんちん」は、「けんちん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477345064.html)で触れたように、 巻繊、 捲煎、 巻煎、 等々と当て、 普茶料理の一つ(たべもの語源辞典)、 とされたり、 卓袱料理のひとつ(大言海)、 とされたりするが、何れも中国からの伝来で、油を使うところが特徴である。 日本に伝えられた「けんちん」は、 @黒大豆のもやしをごま油で炒めて湯葉で巻いたもの、 A大根・牛蒡・人参・椎茸などを千切りにして、油で炒めて崩した豆腐を加え、味付けしたものを油揚で巻いて油で揚げたもの、 B鯛・エビ・鶏肉などを玉子焼で巻いたもの、 などがある(たべもの語源辞典)。本来は中国料理なので、必ず油を用いる(仝上)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「すいとん(すゐとん)」は、 水団、 と当て、 炊団、 水飩、 等々とも当てる(たべもの語源辞典)。 水団子、 の意だとある(仝上)。 小麦粉を水で練ってちいさくちぎって、味噌汁かすまし汁に入れて煮込んだもの、 で(仝上)、そのため、 汁団子 ともいう、とある(仝上)。生地を入れる際、手で千切る、手で丸める、匙ですくうなどの方法で小さい塊に加工する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%84%E3%81%A8%E3%82%93)。 「すいとん」の歴史は長く、「水団」の語が、南北朝時代の『異制庭訓往来』に、 点心(てんしん)の品目、 を列挙する個所に登場してくる、とある(世界大百科事典)。 因みに、『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』というのは、『新撰之消息』『百舌鳥往来』『森月往来』などともいい、南北朝時代の初学者向け教科書で、1月から12月までの行事や風物を述べた贈答の手紙を掲げ、貴族社会における知識百般を体得できるように工夫されている(ブリタニカ国際大百科事典)。 参天台五台山記(1072〜73)に、 有水団炙夫二種菓、 とあり(精選版日本国語大辞典)、室町末期の『日葡辞書』にも、 Suiton、 の項目はあるが、 ある種の料理、 とあるのみで、その中身はわからない(世界大百科事典)。また、資料上「すいとん」の調理法は変遷が激しく、今日のような、手びねりした小麦粉の形式が出現したのは江戸後期である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%84%E3%81%A8%E3%82%93)。江戸時代から戦前は、 すいとん専門の屋台、 や 料理店、 が存在しており、庶民の味として親しまれていた。大正の半ばには一旦かなり減少したが、関東大震災直後には食糧事情の悪化に合わせて焼け野原のいたるところに出現した(仝上)、とある。戦後の食糧難の時期には、主食の代用ともされたため、その時代を生きた者にとっては、「すいとん」は、粗食の代名詞かもしれない。 「すいとん」は、 上方は同名異物、 とある(江戸語大辞典)のは、幕末の『守貞謾稿』(『近世風俗誌』ともいう)に、 心太、ところてんと訓ず、三都も夏月売之、蓋京坂心太を晒したる水飩と号く、心太一箇一文水飩二文買て後に砂糖をかけ或いは醤油をかけ食之、京坂は醤油を用ひず、又晒之乾きたるを寒天と云、煮之を水飩と云、江戸は乾物煮物とも寒天と云、因日江戸にては温飩粉を団し味噌汁を以て煮たるを水飩と云、蓋二品ともに非也。本は水を以て粉団で涼し白玉と云物水飩に近し、 とある。つまり、京坂では、「ところてん」を、 水飩、 と呼ぶからである。「すいとん」は、 水団子、 とか、 汁団子、 とも書き、「団」を 唐宋音、 で、 トン、 と呼んで、「水団」を、 すいとん、 と名づけた、とするものが多い(たべもの語源辞典・広辞苑・大言海他多数)。しかし、「すいとん」は、本来、 水飩、 なのではないか、と思う。「飩」(漢音トン、呉音ドン)は、 会意兼形声。「食+音符屯(トン まるくずっしりとかたまる)」 とあり(漢字源)、 小麦粉をこねて丸く固めたもの、 の意である。わが国は「うどん」に「饂飩」と当てているが、中国では「麺」である。 「團」(漢音タン、唐音トン、呉音ダン)も、 会意兼形声。專(セン 専)の原字は、円形の石をひもでつるした紡錘のおもりを描いた象形文字で、甎(セン)や磚(セン 円形の石や瓦)の原字。團は「□(かこむ)+音符專」で、円形に囲んだ物の意を表す、 とあり(漢字源)、確かに、丸い、円形の意であり、丸く集める意(字源)はあるが。なお「団」は、和製略字で、「專」の下部をとったものである(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9B%A3)。 「団子」は、「団子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html)で触れたように、 穀類の粉を水でこねて小さく丸めて蒸し、または茹でたもの、 である。「団子」の由来は、今日の感覚では、嗜好的な役割が強いが、 かつては常食として、主食副食の代わりをつとめた。団子そのものを食べるほか、団子汁にもする。また餅と同様に、彼岸、葬式、祭りなど、いろいろな物日(モノビ 祝い事や祭りなどが行われる日)や折り目につくられた、 とある(日本昔話事典)。柳田國男によると、 神饌の1つでもある粢(しとぎ)を丸くしたものが原型とされる。熱を用いた調理法でなく、穀物を水に浸して柔らかくして搗(つ)き、一定の形に整えて神前に供した古代の粢が団子の由来とされる、 とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。「粢(しとぎ)」とは、 日本古代の米食法の一種、水に浸した米を原料にさまざまな形に固めたものを呼び、現在は丸めたものが代表的である。別名で「しとぎもち」と言い、中に豆などの具を詰めた「豆粢」や、米以外にヒエや粟を食材にした「ヒエ粢」「粟粢」など複数ある。地方によっては日常的に食べる食事であり、団子だけでなく餅にも先行する食べ物、 と考えられている(仝上)。それが、「団子」となったのは、 米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)とよび、粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)といった。団粉(だんご)とも書くが、この字のほうが意味をなしている。団はあつめるという意で、粉をあつめてつくるから団粉といった。団喜の転という説もあるが、団子となったのは、団粉とあるべきものが、子と愛称をもちいるようになったものであろう、 とする(たべもの語源辞典)。「団子」は、 中国の北宋末の汴京(ベンケイ)の風俗歌考を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある、 とある(日本語源大辞典)。その「団子」の「シ」が唐音「ス」に転訛し、 ダンシ→ダンス(唐音)、 となり、 ダンス→ダンゴ、 と、重箱読みに転訛したともみられる。つまり「団子」の系列は、 神饌由来なのである。他方、「すいとん」は、 水団子、 汁団子、 とは呼ぶが、 粉物を水で練り、団子にして水(汁)に入れたもの、 という意(https://www.nikkoku.co.jp/entertainment/glossary/post-137.php)の、 すいとん、 である。 似たものに「きんとん」がある。「きんとん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/476983576.html)で触れたように、「きんとん」は、 金団、 と当てる(広辞苑)が、やはり、 金飩、 とも当て(たべもの語源辞典)、古くは、 橘飩(きつとん)、 と書いた(仝上)。 甘藷(さつまいも)・隠元豆などを茹でて裏漉しにし、砂糖を加えて練り、甘く煮た栗・隠元豆などを混ぜたもの、 である(広辞苑)。「橘飩」は、卓袱料理(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471380539.html)の語から由来した、とされる(仝上)。それは、もともと、 小麦粉を黄色く着色したものを丸めて茹でたもの、 とされるからである。 「きんとん」という語自体は室町時代から見られ、実隆公記の大永七年(1527)八月一日には、 自徳大寺一金飩一器被送之、 と、「金飩」の字があり、 米や粟の粉で小さな団子のように作り、中に砂糖を入れたもの、 とされる。どうも、「きんとん」は、中国から渡ってきた唐菓子の、 餛飩(こんとん)、 からその名が起こったらしい。「餛飩」は、「菓子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html)で触れたように、 麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの、 である。やはり、「小麦粉」を丸めたものなのである。 なお、「すいとん」の呼称は全、地方によっては、 ひっつみ、 はっと、 つめり、 とってなげ、 おだんす、 ひんのべ、 等々の名で呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%84%E3%81%A8%E3%82%93)。具材、出汁が異なり、あくまで、「すいとん」に似た郷土料理である(仝上)。例えば旧仙台藩北部地域の「はっと」は、 水で練った小麦粉の生地を小さな塊に分け、それを指で引き伸ばしながら薄い麺のように加工する、 とあり(仝上)、他の東北地方の、「ひっつみ」は、 小麦粉の団子をひっつかんで丸めて薄くしたもの(ひっつかむ→ひっつみ)、 とされる(https://katatosi.com/archives/1897)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「吸口(すいくち)」は、 煙管の吸口、 とか たばこの吸口、 など、口に当たる部分を指す(広辞苑)が、ここでは、 吸物に浮かべて芳香を添えるつま、 の意(仝上)、である。 ゆず、木の芽、蕗の薹、 等々を指す(仝上・大言海)。香りを添え、味をしめるために、 季節のものをそえる、 とあり、 ショウガ、カラシ、ウメ、ミョウガ、ワサビ、ネギ、 等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B8%E3%81%84%E7%89%A9)、 香りのあるもの、 である。 香りと風味を与え生臭い匂いを消す作用、 や、 見た目を美しくすることによって食欲をそそる働き、 だけではなく、 木の芽のような葉物を浮かべることで、熱い汁物を一気に飲むことで火傷をしないようにする効用もある、 とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B8%E5%8F%A3)。『大草家料理書』(16世紀中期)には、 生鶴料理の事。先作候て酒塩を懸て置。汁は古味噌をこくして。……すひくちは柚を入て吉也、 と載る(精選版日本国語大辞典)。 供し方は、 吸物(酒を飲むとき出すつゆもの)をつくるときは、お椀に具を入れ吸地(すいじ 汁)を張って、吸口を入れて蓋をする、 とある(たべもの語源辞典)。略して、 口、 とも、 香頭(こうとう)、 鴨頭(こうとう)、 ともいった(仝上)。香頭とは香料のことであり、香に鴨を当てたのは、江戸時代後期の『貞丈雑記』は、 青柚(あおゆ)の皮が汁に浮いているさまが、水中の鴨(かも)の頭のように見える、 ためだと記しているが、付会のようだ。 「鴨頭」は「鴨(アフ)」を「カフ」と誤読した当て字、 としている(デジタル大辞泉)し、鎌倉時代に、酒の盃に青い柚のヘギ切をちょっと浮かべて飲む酒、 柚子酒、 が流行っていた。李白の酒を讃えた、 遥かに漢水の鴨頭の緑を看れば、 という詩句(襄陽歌)から、 鴨頭、 と当てたのではないか、と推測している(たべもの語源辞典)。また、 鶴頭、 とも当てる(広辞苑)。 ちなみに、「ヘギ切」とは、 へぎ独活、 へぎ柚子、 といったように、「へぎ」は、 剥ぎ、 と当て、薄く表面を剥ぎ取る意味になる(https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/9991_K/01.html)。 「香頭」を使い出したのは室町時代で、『四条流庖丁書』(1489)に、 ヘギ生姜をカウトウに置くべし、 とある(仝上)。 「吸物」というのは、今日、 つゆ、 とか、 すまし汁、 を指すが、 すすり吸うように仕立てたもの、煮立てただし汁を塩・醤油・味噌などで味付けし、魚肉や野菜を実とする、 とある(広辞苑)。 羹(あつもの)、 とも呼び、 酒の肴、 となる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B8%E3%81%84%E7%89%A9)。因みに、 しる(汁)、 は、食事の時ご飯と共に出る、 つゆもの、 を指すが、 吸物、 は、 酒と共に出るもの、 を指した(たべもの語源辞典)。 「吸口」は、 つま、 の一種とされることもある(広辞苑)。 「つま」は、 刺身や汁などのあしらいとして添える野菜・海藻など、 の意(広辞苑)だが、「さしみのつま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480958538.html?1618167957)で触れたように、 妻、 とも、 具、 とも当て、 刺身や汁などのあしらいとして添える野菜・海藻、 の意だが、「つま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/443211797.html?1615959193)で触れたように、「つま」は、 妻、 夫、 端、 褄、 爪、 と当てて、それぞれ意味が違うが、つながっている。いずれも、 端(ツマ)、ツマ(妻・夫)と同じ(岩波古語辞典)、 と 物二つ相並ぶに云ふ(大言海)、 と、 はし(端)説、 と あいだ説、 がある。「つま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/443211797.html?1477684696)でも書いたことだが、上代対等であった、 夫 と 妻 の関係が、時代とともに、「妻」を「端」とするようになった結果、 対の関係、 が、 つま(端) になったように思われる。たべもの語源辞典は、「つま」の、 ツは連(ツラ)・番(ツガフ)のツ、 マは身(ミ)の転、 とし、「連身」説を採っている。「つま」は、あるいは、 対(つい)、 と通じるのかもしれない。「対」は、唐音由来で、 二つそろって一組をなすもの、 である。「つゐ(対)」は、 むかひてそろふこと、 でもある(大言海)。 江戸時代の料理書には、「つま」に、 交、 具、 妻、 等々を当て、「具(つま)」には、 大具(おおつま)、 小具(こつま)、 があり、「交(つま)」は、 取り合わせ、 あしらい物、 の意であり、 配色(つま)、 とも書く(たべもの語源辞典)。こうみると、 主役と脇役、 は、対である。 「吸口」は、 つま、 ともされるが、 汁物料理に用いられるつけあわせ、薬味のこと、 と、 薬味、 ともされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B8%E5%8F%A3)。「薬味」は、 食物に添えてその風味を増し、食欲をそそるための野菜や香辛料、 で、広く、 加薬、 と呼ばれる、 わさび、生姜、ねぎ、あさつき、大根、山椒、紫蘇、芹、三つ葉、茗荷、独活、春菊、蓼、大根おろし、七味唐辛子、胡麻、芥子、海苔、削り節、 等々を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%91%B3・広辞苑・世界大百科事典他)。 「吸口」は、 つまの一種、 薬味の一種、 とされるが、あくまで、 吸い物に浮かべて芳香を添えるもの、 である。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「水前寺海苔」というものがある。 淡水産の藍藻、清流の川底などに生え、体は丸い単細胞から成り、粘液質により多数集まって塊状をなす。これを厚紙状に漉いて食用とする、 とある(広辞苑)。 九州の一部だけに自生する食用の淡水産藍藻類、 であり、 茶褐色で不定形。単細胞の個体が寒天質の基質の中で群体を形成する。群体は成長すると川底から離れて水中を漂う、 ともあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8E%E3%83%AA)、 熊本市の水前寺成趣園(水前寺公園)の池で発見され、明治5年(1872年)にオランダのスリンガーによって世界に紹介された、 とある。ために、 水前寺海苔、 の名がある(仝上)。現在も、水前寺公園の石橋に、水前寺海苔発祥の地の立札が立っている(たべもの語源辞典)。別に、 カワタケノリ、 カワノリ(緑のカワノリとは別)、 ともいう(広辞苑・たべもの語源辞典)し、久留米では、 紫金苔(しきんたい)、 福岡県甘木では、 寿泉苔(じゅせんたい)、 と呼び名が変わる(https://www.oishi-mise.com/SHOP/mimisuise.html)。 スリンガーによって、「聖なる」を意味する学名の"sacrum"がつけられたが、それはこの藍藻の生息環境の素晴らしさに驚嘆して命名したものである(仝上)が、熊本市の上江津湖にある国の天然記念物「スイゼンジノリ発生地」では平成9年(1997年)以降、水質の悪化と水量の減少でスイゼンジノリはほぼ絶滅した、とされる(仝上)。現在、自生しているのは、 福岡県の朝倉市甘木地区の黄金川のみ、 とされ、 そこでも年々減少の一途をたどっている、 という(https://www.projectdesign.jp/201310/pn-kumamoto/000864.php)が、養殖が試みられており、 熊本の嘉島にて、丹生慶次郎が人工養殖に成功。最近では翠色が強い水前寺のりの亜種が発生し、継体養殖の末、品種として安定させた、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8E%E3%83%AA)。 歴史的には、 宝暦十三年(1763)遠藤幸左衛門が筑前の領地の川(現朝倉市屋永)に生育している藻に気づき「川苔」と名付け、食用とされた。1781〜1789年頃には、遠藤喜三衛門が乾燥して板状にする加工法を開発し、寛政五年(1792)に商品化された、 という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8E%E3%83%AA)。 寿泉苔、 紫金苔、 川茸、 等々の名で、将軍家への献上品とされた(仝上)。肥後でも、「水前寺海苔」は、 ひご野菜、 のひとつとされ、細川藩から幕府への献上品であった(https://www.projectdesign.jp/201310/pn-kumamoto/000864.php)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「すなわち」は、 即ち、 則ち、 と当てる(広辞苑)が、 乃ち、 とも当て(デジタル大辞泉)、 便ち、 輒ち、 迺ち、 とも当てる(大言海)。今日、ほとんど、 接続詞、 としての用法しかないが、この語の語源は、 いわゆる「時を表す名詞」の一種であり、平安時代以後、「即・則・乃・便」などの字の訓読から接続詞として用いられるようにもなったと考えられ、現在ではその用法に限られるといってよい、 とあり(デジタル大辞泉)、同趣旨で、 本来、ある時を示す名詞であったが、「即」「則」「乃」「便」「輒」などの接続語として用いられたことで、それらの語の元来の意味、用法をも併せもつようになった、 ともある(日本語源大辞典)。だから、たとえば、接続詞として、 載、 斯、 就、 曾、 茲、 焉、 等々も、「すなわち」と訓ませている(漢字源)。 本来は、和語「すなはち」は、名詞として、 ほととぎす鳴きしすなはち君が家に行けと追ひしは至りけむかも(大神女郎(おおみわのいらつめ)・万葉集) と「即刻」の意や、 (行列が)渡りはたぬるすなはちは、心地もまどふらむ(枕草子)、 と「当座」の意等々と使われ、この、 何かをして、すぐさま、即刻という意がもっとも古く、当座・直後の意の名詞として室町時代まで使われた、 とある(岩波古語辞典)。それが、副詞として、 (対面を)例ならず許させ給へりし喜びに、すわはちも参らまほしく侍りしを(源氏)、 と、「即座に」「すぐさま」「直ちに」の意や、 是れすなはち正法を久しく世にとどむるなり(金光明最勝王経平安初期点)、 と、「そのまま」「とりもなおさず」の意等々に転用されるようになる(岩波古語辞典)。 これとは別に、仏典などの訓読に接続詞として、 そのまま、 そこで、 そのとき、 ところで、 等々の意で使われるようになる(仝上)。 平安時代には、漢文の接続詞「則」をスナハチと訓むのは仏教関係者で、儒学関係者は、トキニハ・トキンバと訓んだが、鎌倉時代以後、仏家の訓み方が次第に広まり、スナハチの訓み方も広く使われるようになった、 とある(仝上)。平安末期の『名義抄』には、 仍、スナハチ、 便、スナハチ、 即、スナハチ、 則、スナハチ、 と載る(大言海)。 では、「即刻」「即座」の意の名詞「すなはち」の語源は何か。 其程(そのほど)の転と云ふ、當れり、六帖「春立たむ、スナハチ毎に」、宇津保物語「生れ給ひし、スナハチより」など、見るべし(大言海)、 その他、音韻から、 ソノハチ(間道)の義(国語の語根とその分類=大島正健)、 ソノハテ(其果)の転(類聚名物考)、 ソノハシ(其間)、またはソノハテ(其終)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、 スナホチ(直処)(国語溯原=大矢徹)、 等々がある。確かに、「間」は「はし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473930581.html)で触れたように、「はし」とも訓ますが、理屈が勝ち過ぎる気がする。すなおに、 そのとき、 の意で、 其の程、 が妥当に思えるが、大言海は、 為之後(スノノチ)の転、 直路(スナホヂ)の転(名言通・和訓栞)、 に疑問を呈して、もうひとつ、 墨縄路(スミナハヂ→スナハヂ)の略、 を挙げている(日本語源広辞典も)。「墨縄」は、 墨糸、 とも言い、大工が直線を引くのに用いる「墨壺」に、 墨を含んだ綿が入っている。糸車に巻き取られている糸をぴんと張り、糸の先についたピン(カルコ)を材木に刺す。この状態から糸をはじくと、材木上に直線を引くことができる、 が(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%A3%BA)、そこで引いた黒線のことを言っている、と思われる。確かに正倉院にも最古の墨壺が保存されてはいるが、少し穿ち過ぎではあるまいか。 いろんな漢字を「すなわち」と訓ませているが、 「仍」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、 会意兼形声。人の右の乃(柔らかい耳たぶ)を加え、乃(ナイ)の転音が音をあらわすもので、柔らかく粘りついて、なずむ意を含む、 とあり(漢字源)、「よる」「なず」「重なる」意で、今日あまり、「すなわち」とは訓まさず、 しきりに、 なお、 かさねて、 等々と訓ませる。「乃」を「すなわち」と訓ませた関連で、「すなわち」と訓ませた可能性がある。 一般に、「すなわち」に当てるのは、 即ち、 則ち、 だが、それに、 乃ち、 便ち、 輒ち、 迺ち、 等々を「すなはち」と訓ませるが、その使い分けが、 「乃」は、そこでと譯す。「継事之辞」と註す。一事を言ひ畢りて更に或事に言ひ及ぶ義。月令「仲春之月、雷乃発声」とあり、雷は仲春に至りて、そこで漸く声を発すとの義、 「迺」は、乃と同字、 「則」の類は、皆句中にある字なり、句尾にあることなし、則は「れば」「らば」「るならば」「るなれば」「は」などと譯し、「然後之辞」と註す、「これはかうそれはさう」という辭。論語「子弟入則孝、出則弟」とある如し、則の字、字を隔てて置くことあり。左伝「山有木、工則度之」とある如し、則の字木の字の下に置くべきを一字隔てて工の字の下に置けり、これ工の字を重く主としたるなり、毛詩「既見君子、我心則喜」とあるも、此れと同じ子の字の下に則の字を置くべきを、我心の二字を隔てて置きたるなり、 「即」は、とりもなおさずと譯す、そのままの義、性即理也の如し、則の字は緩にして、即の字は急なり。史記・項羽紀「徐行即免死、疾行則及禍」とあり、ここにては徐行を主とするに由りて、徐行に即を用ひ、疾行には則を用ひたるなり、 「便」は、そのまま、たやすくと譯し、即也と註す、即よりは稍軽し、 「輒」は、たやすくと訓む。便に近し、「毎事即然也」と註す、 「載」は、受け載する義にて上を受くる辞。「たやすく、そのまま」の義。便に近し、 と説明されている(字源)。しかし、訓読では、その微妙なニュアンスは消えて、「すなはち」一色である。 「すなわち」に当てられた漢字の語源を見ておくと、 「即」(漢音ショク、呉音ソク)は、 会意。左側は「皀」で、人がすわって食物を盛った食卓のそばにくっついたさまをしめす。のち、副詞や接続詞に転じ、口語では便・就などの語にとってかわられた、 とある(漢字源)。別に、同趣旨だが、 会意。「皀」+「卩(卪)」、「皀」は食物(「食」の下部)、「卩」はこれに向き合う様を表し、物を今にも食べようとする様子を表す。なお、食べ終わって食物から顔を背ける様を表す漢字が「旣(既)」である、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%B3)、 会意文字です(皀+卩)。「食物」の象形と「ひざまずく人」の象形から、人が食事の座につく事を意味し、そこから、「位置・地位につく」を意味する「即」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1398.html)。「そばにくっつく」意だが、副詞として「すぐに」、接続詞として、 先即制人(先んずればすなわち人を制す)、 というように(史記)、 AするとすぐにBとなるというように、前後に間をおかず、直結しておこることを示す、 と使われ(漢字源)、「くっつく」とか「すぐに」の意味が残っている。 「則」(ソク)は、 会意。「刀+鼎(カナエ)の略形」。鼎にスープや肉を入れ、すぐそばにナイフをそえたさま。そばにくっついて離れない意を含む。即(そばにくっつく)と同じ。転じて、常に寄り添う法則の意となり、さらにAのあとすぐBがくっついて起こる意をあらわす助詞となった、 とある(漢字源)。同趣旨で、 会意。「貝(元は「鼎」)」と「刀」を合わせて、鼎かなえで煮物をする脇に取り分ける刃物を置き、場に「のっとる」こと。音は「即」等と共通、 とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%89%87)、 会意文字です(貝+刂(刀))。「鼎(かなえ-中国の土器」の象形と「刀」の象形から、昔、鼎に刀で重要な法律を刻んだ事から「法律」、「法則」、「規則」を意味する「則」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji754.html)。「そばに寄り添って離れない」いから、副詞の「すなわち」、接続詞の「すなわち」の意で使われるが、接続詞としては、 行有余力則以學文(行いて余力有らばすなわちもって文を学べ) というように(論語)、 AならばBというように、前段のあとすぐ後段が続くことをしめす、 形で使われる(漢字源)。
「乃」(漢音のダイ、呉音ナイ・ノ)は、 「じじ(ぢぢ)むさい」は、 爺むさい、 と当て、 年よりじみている、 むさくるしい、 という意味だが(広辞苑)、年寄り自身に言うよりは、今日、 じじむさい身なり、 じじむさい意見、 というように、 男性の容姿や衣服などが年寄りのように感じられる様子、 また、 年寄りのようで汚らしい様子、 の意味で使う(デジタル大辞泉)。ただ、「じじむさい」に、 爺穢い、 と当て、 ぢぢむさい女房を持っている者も損だよ(文化十年(1813)「浮世床」)、 というように、 はなはだ穢い、 不潔、 という意味(大言海)や、 ちぢむさくも無く、小ざっぱりと洗濯物が着られるのは(文化六年(1809)「浮世風呂」)、 というように、 むさくるしい、 という意味(岩波古語辞典)で使う。 年寄りじみている、 という意味と、 むさくるしい、ひきたない、 という意味とが並立しているが、用例から見ると、室町から近世前後の、比較的新しい言葉に思える。方言では、 意地汚い、食い意地が張っている(松本)、 不細工、洗練されていない(東近江)、 等々と、汚さの意味が少しスライドして残っている。 どうも、「爺むさい」と「爺」を当てるのは、当て字なのではないか、という気がする。 「むさい(むさし)」は、 もとより礼儀をつかうて身を立つる人には心むさければ(甲陽軍鑑)、 心せばく、意地むさけれど(仝上)、 と、 むさぼり欲する心が強い。まだ欲望・意地などが強すぎてきたない(岩波古語辞典)、 卑しい、下品である(広辞苑)、 の意味と、 傍近う使ふにはちとむさいなあ(狂言・粟田口)、 と、 汚い、不潔である、 の意味がある。どうやら、 意地汚い、 という状態表現が、 汚い、 という価値表現へと転じたものと見える。方言には、この「むさい」の原意が残っていると見ることができる。 「むさい」は、 穢い、 と当てるが、 ムサト・ムサボルのムサと同根、 とある(岩波古語辞典)。「むさと」は、副詞で、 人の国をむさと欲しがる者は、必ず悪しきぞ(三略鈔)、 と、 むさぼるように強く、 むやみに、 無造作に、 といった意味で使い、「むさぼる」は、 ムサはムサト・ムサムサ・ムサシのムサと同じ、ホルは欲りの意、 とあり(仝上)、 汚らしくむさぼる、 意である(仝上)。「むさむさ」も、 むさぼり欲する心が強いさま、 で、 意地汚さ、 を言っている。こうみると、「じじむさい」は、 意地汚い、 意の「むさい」を強めている意味で、「爺」の意味は元来ない。「爺」は当て字の印象が強い。その当て字「爺」に引きずられて、今日の、 年寄りのよう、 という意味が加わったのではないか。となると、 老人の意の俗語ヂヂイ(老翁)にシジカム(蹙)のシジをだぶらせて、むさくるしい意のむさいを強調したもの(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、 ジジムムサイ(字染穢)の義か(語簏)、 ジジムサイ(字染穢)の義か(俚言集覧)、 は付会ではないか。 一説に爺(ぢぢい)かとする説は従い難く、またぢじみ(字染)は仮名違い、 とする(江戸語大辞典)のが妥当で、 ぢぢは、鼻汁の小児語「ぢぢ」か、 とする説(仝上)の方が納得できる。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 「庖丁」は、 包丁、 とも当てるが、「庖」と「包」は別字である。日本では、「包」の字を、 「庖」と「繃」の代用字として使う、 とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%85)ので、 庖丁→包丁、 繃帯→包帯、 という使い方はわが国だけである。 「つつむ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467683799.html?1562266983)で触れたように、「包」(漢音ホウ、呉音ヒョウ)の字は、 象形。からだのできかけた胎児(巳)を、子宮膜の中につつんで身ごもるさまを描いたもの。胞(子宮でつつんだ胎児)の原字、 とあり(漢字源)、また、 会意兼形声文字です(己(巳)+勹)。「人が腕を伸ばしてかかえ込んでいる」象形と「胎児」の象形から、「つつむ」を意味する「包」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji672.html)が、「抱」(つつみかかえる)、「泡」(空気をつつんだあわ)、「苞」(つぼみをつつみこむ)と同系ともあり(漢字源)、「つつむ」という意味である。 「庖」(漢音ホウ、呉音ビョウ)は、 会意兼形声。包(ホウ)は、外から包む意を含む。庖は「广(いえ)+音符包」で、食物を包んで保存する場所の意、 とあり(仝上)、「台所」の意であり、「厨」と同義である。 庖厨(ホウチュウ 台所)、 庖屋(ホウヤ 台所) 庖人(ホウジン 料理人 庖人は周代の料理(膳羞)のことを掌る官名、転じて料理人)、 と使う(字源)。「庖丁」は、『荘子』に、 庖丁為文惠君解牛、 とあり(仝上)、その牛の捌き方が見事だったので、コツを尋ねた粱の惠王に、彼は「刀を釈(すて)て」そのコツを語ったとある(たべもの語源辞典)。「庖丁」の「丁」(漢音テイ・トウ、呉音チョウ)は、 象形。甲骨・金文は特定の点。またはその一点にうちこむ釘の頭を描いたもの。篆文はT型に書き、平面上の一点に直角に釘を当てたさま。丁は釘の原字、 とある(漢字源)。この「くぎ」の意から派生する会意兼形声文字に、「打」(釘を打ち付けるように、直角に強い力を加える)、「頂」(頭のてっぺんの部分)。「(釘付けられ)じっと留まる」の意を有する会意兼形声文字として、「亭」(地上にじっと建つ建物)、「停」(じっと留まる)、等々がある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%81)。 「丁」は、 壮丁、 成丁、 園丁、 等々と使い、壮年の男の意である。齢盛りの男を、 丁男、 壮丁(そうてい)、 といい、 丁女、 は、二、三十歳の女性を指す(たべもの語源辞典)。だから、「庖丁」は、 料理人、 の意であり、 庖人(ほうじん)、 ともいうが、古代の漢語における「丁」は、 担税を課することに由来して「召使としての成年男性(古代中国の律令制で成年男性に該当するのは、数え年で21歳から60歳までの男性)」を意味し、「園丁」や「馬丁」という熟語があるように「その職場で働く成年の召使男性」の意味合いで用いられていた。したがって、「庖」と「丁」の合成語である「庖丁」は「台所で働く成年の召使男性」を指す、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E4%B8%81)ので、単なる料理人ではない。しかし、わが国で、料理人の意で、 庖丁者(じゃ)、 とか、 庖丁人(じん)、 とか 庖丁師、 などと使う(たべもの語源辞典・岩波古語辞典)のは、「庖丁」の原意から考えると重複している。 奈良時代から平安時代初期にかけての日本では、刃物はひとくくりに、 かたな、 と呼ばれていた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E4%B8%81)とある。この場合の「かたな」は、「かたな」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450320366.html?1549439317)で触れたように、 ナは刃の古語。片方の刃の意(広辞苑)、 片之刃の約か(水泡(みのあわ)、みなわ、呉藍(くれのアゐ)、くれなゐ)、沖縄にて、カタファと云ふ。片刃なり。西班牙語にも、刀をカタナと云ふとぞ(大言海)、 と、「諸刃(もろは)」の対の片刃だったと考えられる(日本語源広辞典)。 そして、「庖(台所、厨房)」で働く専門の職人を、 庖丁者(ほうちょうじゃ)、 または 庖丁人(ほうちょうにん)、 と呼ぶようになったのは、平安時代末期ごろ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E4%B8%81)と考えられている。庖丁者・庖丁人が用いる刀を「庖丁刀ほうちょうがたな)」と呼ぶようになったのもこの時期で、『今昔物語集』に、 「喬なる遣戸に庖丁刀の被指たりけるを見付て」、 とあり、略語の「庖丁」も、同じ『今昔物語集』に見られる(世界大百科事典)、とある。 わが国の「庖丁」の語義も、もともと、 料理人、 であるが(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、今日、ほぼ、 庖刀、 の意で使う(大言海)。これは、 庖丁刀の略、 とされる。そのためか、 「庖丁」は、その換喩として、 料理、割烹、 の意でも使われる。和名抄に、 庖、斷理魚鳥者、謂之庖丁、俗云抱長、 とある。江戸時代にも、料理上手を、 庖丁が利く、 という言い回しをした(江戸語大辞典)。 庖丁→包丁、 と字を当て換えられたのは、「庖」が、常用漢字でも人名用漢字でもないためで、戦後になってからのことである。なお、現代中国語では「庖丁」という語は、 日本の庖丁を指す語以外の、旧来の意味では死語になっており、「菜刀」または「廚刀(簡体字:厨刀)」と呼ばれている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E4%B8%81)。 ところで、「庖丁」は、『枕草子』に、 「園(そのの)別当入道は、さらなき庖丁者なり」 とあるが、これは、 料理人、 の意ではなく、 庖丁式、 という「庖丁儀式」を指している。 お客を招待したとき、これから、こんな材料で料理を差し上げますといった意味で、客の前に大きな俎板を出して、そこに魚とか鳥などをおき、真魚箸(まなばし)と庖丁刀を使って切って見せた、 という(たべもの語源辞典)、一種のデモンストレーションである。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「たたき」には、 叩き、 敲き、 と当てるのと、 三和土、 と当てるのとがある。いずれも、「たたく(叩・敲)」の連用形で、「三和土」は、 叩き土の略、 とあり(大言海)、 合わせ土、 ともいい、 赤土、石灰、砂に、にがしお(苦汁(にがり))を加えて叩き固めたもの、 で(大言海・日本語源広辞典・日本語源大辞典)、 溝、泉水の底などを、これを敷きて固めてつくる、 とある(大言海)。 叩き、 敲き、 と当てる「たたき」も、 食べる料理を包丁で細かく叩いた料理、 で、「叩く」意味と関わる(たべもの語源辞典)。 この「たたき」には、たとえば、 鰹のたたき、というように、 カツオをおろして表面を火であぶり、そのまま、あるいは手や包丁の腹でたたいて身を締めてから刺し身状に切ったもの。薬味や調味料を添える、土佐作り、 の意と、 鯵のたたき、 というように、 生の魚肉・獣肉などを包丁の刃でたたいて細かくした料理、 の二つの意味がある(広辞苑・デジタル大辞泉)。本来は、「たたき」は、 生肉や生魚など未加熱の食材を細かく切り刻んだもの、 であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%8D)、もともとは膾(あるいは鱠)と呼ばれた(仝上)。 「さしみ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453881536.html)で触れたように、「刺身」は、 指身・指味・差味・刺躬また魚軒とも書く。生魚の肉を細かく切ったものを古くは鱠(なます)とよんでいた、 のであり(たべもの語源辞典)、倭名抄には、 鱠、奈萬須、細切肉也、 とある。「膾」は、「生肉」で、「鱠」は、「魚肉」、 漢字の「膾」は、肉を細かく刻んであわせた刺身を表す字なので、「月(肉)」が用いられている。その後魚肉使うようになり、魚偏の「鱠」が用いられるようになった、 ということである(語源由来辞典)。 「膾」は、「なます」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474186656.html)で触れたように、 大根・人参などを細かく切って酢で和えた食べ物、 を指すが、「膾」の意味が、 魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、 ↓ 薄く切った魚貝を酢に浸した食品、 ↓ 大根・人参を細かく刻み、三杯酢・胡麻酢・味噌酢などで和えた料理、 と変わる(広辞苑)。野菜や果物だけで作ったものは「精進なます」と呼ばれ、魚介類を入れないことや、本来の漢字が「膾」であることから、「精進膾」と表記される、 とある(語源由来辞典)のは、「膾」の本来の意味から区別のためと思われる。初めは、 魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、 で、やがて魚の「なます」が多くつくられるようになり、 鱠、 が多く用いられるようになり、平安時代後期に魚肉と野菜を細かく刻んであえた物を指す言葉に変わった。 というように、刃物で細かく叩き切ることから、「膾」が、 叩き鱠、 あるいは、 叩き、 と呼ばれるようになるのは、本来の「膾」が主として酢の物を意味する言葉へと変化していったという背景がある。 庖丁やすりこぎで叩いた「たたき」には、 たたきあわび(叩鮑)、 たたきいか(叩烏賊)、 たたき牛蒡(叩牛蒡)、 たたき豆腐(叩豆腐)、 たたきあげ(叩揚 魚鳥の肉を細かに叩いて丸めて油で揚げたもの)、 たたきな(叩菜)、 たたきなっとう(叩納豆)、 たたきびしお(敲醢 叩き潰してひしおにしたもの。しおから)、 たたきはしら(叩柱 貝柱のたたき)、 等々ある(たべもの語源辞典)。なお、「しおから」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479351026.html)については触れた。 これに対して、 鰹たたき、 鯖たたき、 等々、「たたき」を後に付けるのは、「炙るたたき」である、 おろして表面を火であぶり、そのまま、あるいは手や包丁の腹でたたいて身を締めてから刺し身状に切ったもの、 を指す。 なお、「たたく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465451606.html)で触れたように、「叩」(漢音コウ、呉音ク)の字は、 形声。卩印は、人間の動作を示す。叩は「卩(人間のひざまずいた姿)+音符口」。扣(コウ)と通用する、 とあり(漢字源)、別に、 会意兼形声文字です(口+卩)。「たたいた時の音を表す擬声語」と「ひざまずく人」の象形(「ひざまずく」の意味)から、「ひざまずいて頭を地にコツコツとうちあてて礼をする」を意味する「叩」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2259.html)。 叩は、聲也。たたくうつ、叩門、叩首と用ふ。論語「以杖叩其脛」、 とある(字源)ので、擬制音とみるのが妥当だろう。 「敲」(漢音コウ、呉音キョウ)の字は、 形声。「攴(動物の記号)+音符高」、 とある(漢字源)が、 敲は、たたきて音聲を出す。叩より重し。敲金、敲門と用ふ。 とある(字源)。やはり擬音の可能性が高い。 和語の「たた(叩)く」の「たた」も、 タタは擬音語。クは擬音語を承けて動詞を作る接尾語、 とある(岩波古語辞典)。 「たたく」の「た」は、「て」の古形で、 他の語の上について複合語をつくる、 とある(岩波古語辞典)。「手玉」「他力」「手枕」「手挟む」等々。「たたく」も、「手」の動作に絡んで、 叩くは、「タ(手)+ク(ハタク)」が語源です。手ではたくように打つ意です。さらに、打つ、なぐる、やっつける、非難する、安くさせる、質問する、また憎まれ口をいう意にも使います。造語成分として複合語を作ります。例::タタキ上げ(長く苦労して一人前になった人)、タタキ込む、…タタキ大工、タタキ出す、タタキつける、タタキなおす、…タタキのめす、 とあり(日本語源広辞典)、擬音と推測出来る。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 簡野道明『字源』(角川書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 「しゃべる」は、 喋る、 と当てる。 話す、 言う、 の意だが、特に、 口数多くぺらぺらと話す、 意とあり(広辞苑・デジタル大辞泉)、 騒々しく話しまくる、 ともある(岩波古語辞典)。室町末期の『日葡辞書』では、 他人にもらす、 意も載る(広辞苑)。 ことばを発する意の日本語には、 言う、 云う、 謂う、 曰う、 道う、 等々と当てる いふ、 がある。「いふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472014795.html)は、 必ずしも伝達を目的とはせず言葉や音声を発する表出作用をいう(広辞苑)、 とか、 「言う」は「独り言を言う」「言うに言われない」のように、相手の有無にかかわらず言葉を口にする意で用いるほかに、「日本という国」「こういうようにやればうまく行くというわけだ」など引用的表現にまで及ぶ(デジタル大辞泉)、 等々と幅広く使われるが、 「話す」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148)は、 放す(心の中を放出する)、 意で(大言海・日本語源広辞典)、「言う」と「話す」の違いは、 「言うは単にことばを発することであり、内容は「あっと言った」のように非常に単純なこともあり、「言い募る」といえることからもわかるように、一方的な行動のこともある。それに反し「話す」のほうは、相手が傾聴し、理解してくれることが前提となっている(日本大百科全書)、 とある。 「語る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448623452.html)は、 「タカ(型、形、順序づけ)+る」で、順序づけて話す(大言海)、 とか、 「コト(物事・事象)+る」で、世間話をする、物事を話す、 の二説あるが、 事件の成り行きを始めから終わりまで順序立てて話す意(岩波古語辞典)、 である。 「述ぶ」は、「話す」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148)で触れたように、 伸ぶ、 延ぶ、 とも当てるので、 ノブ(延・伸)、 が語源で、ひっきりなしに続く、また横に長くのばし広げる意で、 長く話す、 意となる。 「つ(告)ぐ(仝上)」(仝上)も、「話す」で触れたように、 継ぐ・接ぐと同根、 で、 人に言を継ぎ述べる意(大言海)であるが、 ツグ(告)は、中に人を置いて言う語(岩波古語辞典)、 である。 「のり(宣り・告り・罵り)」も、「話す」で触れたが、 神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に対して正式に表明するのが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さない、みだりに口にすべきでない事柄(占いの結果や自分の名など)を、神や他人に対して明かし言う意。進んでは、相手に対して悪意を大声で言う意、 で(岩波古語辞典・日本語源大辞典)、 ノルの本質はノル(乗)。言葉という物を移して、人の心に乗せ負わせるというのが原義(続上代特殊仮名音義)、 という語源説は意味がある。 「もおす(まをす)」も、「話す」で触れたように、 「マヲス」が上代後期にマウスに変化した語です。麻袁須―麻乎須と表記され、申す、白す、啓す、が当てられ平安期には、「申す」が主流になった語です。語源は、「マヰ(参上)の古語マヲ+ス(言上す)」と思われます。現在でも、神社の宮司等の祝詞にマヲスが使われていますので、「参上してあらたまって言う」意が語源に近い(日本語源広辞典)、 神仏・天皇・父母などに内情・実情・自分の名などを打ち明け、自分の思うところを願い頼む意。低い位置にある者が高い位置にある者に物を言うことなので、後には「言ひ」「告げ」の謙譲表現となった。奈良時代末期以後マウシの形が現れ、平安時代にはもっぱらマウシが用いられた(岩波古語辞典)、 等々とあり、原義は、 支配者に向かって実情を打ち明ける意、 である(岩波古語辞典)。 こう見てくる(以上)と、「しゃべる」は、 話す、 か、 言う、 のいずれかと近い。ただ、「しゃべる」は、 しゃべくるの略、 とある(大言海)。「しゃべくる」は、 しゃべる、 と同義(広辞苑・大言海)とされるが、 若(わけ)へもんなみにしゃべくるからのことさ(文化七年(1810)「浮世風呂」)、 と、 しきりにしゃべる、 あれやこれやとしゃべる、 多弁である、 とあり(江戸語大辞典)、単に「しゃべる」意とは違う。「しゃべくる」は、 喧語(さへ)ぐ、喧噪(さはぐ)の遺、 とする説がある(大言海)。しかし、「さへぐ」は、岩波古語辞典には載らず、明解古語辞典に、 さへく、 として、 騒々しい声で物を言う、 聞き分けにくく物を言う、 の意味が載る。大言海には、 ことさへく、 の項で、「こと」は言、「さへく」は、 囀る、喧擾(さば)めくに通ず、ざわざわと物言う義にて、 「ことさへく」は、敏達紀に、 韓語(からさへづり)、 と訓ませ、 外国人の言語の、韓(カラ)、百済にかかるなり、 とする(大言海)。しかしこれなら、 ざへづる(囀る)、 なのではないか。『日本語の語源』は、 サヘヅル(囀る)は人間にも用いられた。〈(七八人の男が)さへづりつつ入り来れば(源氏)〉。「ヅ」を落としてシャベルになった、 とする。この当否は別として、少なくとも、 囀る、 とつながる気がするのは、「さえずる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/459963682.html)で触れたように、 「さえずる」は、 サヒヅルの転(広辞苑) であり、「さひづり」は、 サヘヅリの古形(明解古語辞典)、 とあり、 サヘは、喧語(さへ)くの語根…、ツルは、あげつらふ(論)、引(ひこ)つらふのツラフと通づ…。佐比豆留とある比(ヒ)は、閇(へ)の音に用ゐたるなり(大言海)、 と、 サヘク、 へと戻る。これは、 鳥が騒がしく喋りまくっている、 という感につながり、 しゃべくるにつながる。「さえずる」は、 サヘは擬声語(時代別国語大辞典−上代編)、 擬音さへ+ク(動詞語尾)(日本語源広辞典)、 と、擬声語につながる。これは「さわぐ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465482949.html)が、 奈良時代にはサワクと清音。サワは擬態語。クはそれを動詞化する接尾語(岩波古語辞典)、 と似ていなくもない。 確かに、「しゃべくる」は、 さえずる、 と感覚的に似ている気がしなくもない。 「喋」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、 会意兼形声。枼は、ぺらぺらした葉を描いた象形文字で薄い意を含む。喋はそれを音符として。口をそえた字で、薄い舌がぺらぺらと動くこと、 とあり(漢字源)、「ぺらぺらとしゃべる」意である。
「あけぼの」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.html)で触れたように、古代、夜の時間は、 ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 という区分をし、昼の時間帯は、 アサ→ヒル→ユウ、 と区分した(岩波古語辞典)。「アサ」は、 夜の対ではなく、 ヨイ(宵)・ユウ(夕)の対になる(仝上、なお「夜」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442052834.html)については触れた)。 時間帯としては、昼の時間帯の「アサ」は、夜の時間帯の、 アシタ(明日・朝)、 と同じになるが、「アシタ」は、「あした」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/447333561.html)で触れたように、 「夜が明けて」という気持ちが常についている点でアサと相違する。夜が中心であるから、夜中に何か事があっての明けの朝という意に多く使う。従ってアルクアシタ(翌朝)ということが多く、そこから中世以後に、アシタは明日の意味へと変化しはじめた、 とあり(仝上)、 アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アシタ(明日)、 と転化していった(日本語の語源・日本語源広辞典)ので、時間帯は同じだが、 夜が明けた朝、 と、 昼を前にした朝、 とは含意が異なったと思われる。しかし、「アサ」は、 アシタ(明日・朝)の約、 と、「アシタ」由来とみなされる。 〈あが面(オモ)の忘れんシダ(時)は〉(万葉)とあるが、夜明けの時のことをアケシダ(明け時)といった。「ケ」を落としてアシタ(朝)になった。さらにシタ[s(it)a]が縮約されてアサ(朝)になった、 とある(日本語の語源)。 アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アサ(朝)、 と転化したことになる(日本語源広辞典)。「シダ」は、 とき、 の意で、今日、 行きしな、 帰りしな、 と使う「しな」の古語である(岩波古語辞典・大言海)。「しな」については「しな、すがり、すがら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/420311540.html?1620242194)で触れた。 となると、「あさ」の語源は、「あした」から考える必要があるが、 アは、明(ア)くの語根、明時(あけした)の意(東(アヅマ)も明端(アケヅマ)なるが如し)、アシタ、約(つづま)りて朝(アサ)となる、雅言考、アシタ「明節(アケシタ)の略なり、時節などを、古くシタといふ、 とする説(大言海)で、尽きている気がする。「あか」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/429360431.html)で触れたが、古代日本では、固有の色名としては、 アカ、クロ、シロ、アオ、 があるのみで、それは、 明・暗・顕・漠、 を原義とする(岩波古語辞典)といい、 赤(アカ)は、「明(アケ)」が語源、 であり、「アケ(明)」は、 アカ(赤・明)と同根、 で、 明るくなる、 意である(岩波古語辞典)。 アはアケル(明)のア(言元梯・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健)、 アはアカの約(和訓集説)、 等々も同趣旨と見ていい。「アサ」の「サ」を、 サは接尾語(言元梯・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健)、 サはスサの約(和訓集説)、 等々は、 アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アサ(朝)、 の転化を考えると、意味のない穿鑿に見える。 なお、 ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 でいう、 アカツキ→アシタ、 と、「アサ」や「アシタ」の前の時間帯は、「あさぼらけ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473460440.html)で触れたように、あかつき(http://ppnetwork.seesaa.net/article/466141631.html)、以外にも、 ありあけ、 しののめ、 あさまだき(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.html?1474144774)、 あけぼの(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html)、 あさぼらけ(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473460440.html)、 等々あり、この違いには微妙な区分がある。 「あかつき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/466141631.html)は、上代は、 あかとき(明時)、 で、中古以後、 あかつき、 となり、今日に至っている。もともと、古代の夜の時間を、 ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 という区分した中の「あかつき」は、 夜が明けようとして、まだ暗いうち、 を指し(岩波古語辞典)、 ヨヒに女の家に通って来て泊まった男が、女の許を離れて自分の家へ帰る刻限。夜の白んでくるころはアケボノという、 とする(仝上)が、 明ける一歩手前の頃をいう「しののめ」、空が薄明るくなる頃をいう「あけぼの」が、中古にできたため、次第にそれらと混同されるようになった、 とある(日本語源大辞典)。 「しののめ」は、 東雲、 と当て、 一説に、「め」は原始的住居の明り取りの役目を果たしていた網代様(あじろよう)の粗い編み目のことで、篠竹を材料として作られた「め」が「篠の目」と呼ばれた。これが明り取りそのものの意となり、転じて夜明けの薄明かり、さらに夜明けそのものの意になったとする、 と注記して、 東の空がわずかに明るくなる頃。明け方、あかつき。あけぼの、 の意で、転じて、 明け方に、東の空にたなびく雲、 の意とある(広辞苑)。また、 万葉集に、「小竹之眼」「細竹目」と表記されて、「偲ぶ」「人には忍び」にかかる、語意未詳の「しののめ」がみられる。これを、篠竹を簾状に編んだものと考え、この編目が明かり取りの用をなしたところから、夜明けの意に転じたと見る説もある、 ともあり(日本語源大辞典)、 篠の目が明かり取りそのものの意となり、転じて夜明けの薄明かり、夜明け、 の意となった(語源由来辞典)、とする見方はあり得る。 「ありあけ」は、 月がまだありながら、夜か明けてくるころ、 だから、かなり幅があるが、 陰暦十五日以後の、特に、二十日以後という限定された時期の夜明けを指すが、かなり幅広い。 「あさまだき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.html)は、 マダ(未)・マダシ(未)と同根か、 とあり(岩波古語辞典)、 早くも、時もいたらないのに、 という意味が載る。どうも何かの基準からみて、ということは、夜明けを基点として、まだそこに至らないのに、既にうっすらと明けてきた、という含意のように見受けられる。 朝+マダキ(まだその時期が来ないうちに)(日本語源広辞典) で、未明を指す、とあるので、極端に言うと、まだ日が昇ってこないうちに、早々と明るくなってきた、というニュアンスであろうか。大言海には、 マダキは、急ぐの意の、マダク(噪急)の連用形、 とあり、「またぐ」は、 俟ち撃つ、待ち取る、などの待ち受くる意の、待つ、の延か、 とあり、 期(とき)をまちわびて急ぐ、 意とあるので、夜明けはまだか、まだか、と待ちわびているのに、朝はまだ来ない、 という意になる。 「あげぼの」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html)は、「あけぼの」の「ほの」は「ほのかの」「ほの」と通じ、 ボノはホノカのホノと同根、 とある(岩波古語辞典)。「ほのか」とは、 光・色・音・様子などが、薄っすらとわずかに現れるさま。その背後に大きな、厚い、濃い確かなものの存在が感じられる場合にいう、 とある。また、 「あけ(明)」と「ほの(ぼの)」の語構成。「ほのぼのあけ(仄々明け)」とも言うように、「ほの」は「ほのぼの」「ほのか」などと同源で、夜が明け始め、東の空がほのかに明るんでくる状態が「あけぼの」である。古くは、暁の終わり頃や、朝ぼらけの少し前の時間をいった、 ともある(語源由来辞典)。どうやら、 夜明けの空が明るんできた時。夜がほのぼのと明け始めるころ、 で、「あさぼらけ」と同義とある。 「あさぼらけ」は、 夜がほんのりと明けて、物がほのかに見える状態、 とある(岩波古語辞典)。大言海に、 世の中を何に譬へむ旦開(あさびらき)漕ぎにし舟の跡無きが如(ごと)、 という万葉集の歌の「あさびらき」が、拾遺集で、「朝ぼらけ」としている、とある。ちょうど朝が開く瞬間という意になる。しかし、『日本語の語源』は、 アサノホノアケ(朝仄明け)は、ノア(n[o]a)の縮約でアサホナケになり、「ナ」が子音交替(nr)をとげてアサボラケ(朝朗け)になった。「朝、ほのぼのと明るくなったころ…」の意である。「ボ」が母韻交替をとげて朝開きになった、 と、大言海と真逆である。しかし、時間軸を考えると、 アサビラキ→アサボラケ、 ではないか。 アサビラキ(朝開)の転。アケボノと混じた語(類聚名物考・俚言集覧・大言海)、 アサビラケの転(仙覚抄・日本釈名・柴門和語類集)、 とアサビラケ説に対し、 朝ホロ明けの約(岩波古語辞典)、 朝ホノアケの約(和訓栞)、 と、朝ホロ明け説があるが、これだと、ほぼ「あけぼの」と重なる。 「あけぼの」と並んで(「あさぼらけ」は)夜が明ける時分の視覚的な明るさを表す語である。「あけぼの」が平安時代に散文語で、中世には和歌にも用いられるようになるが、『枕草子』春はあけぼの以降春との結びつきが多いのに対し、「あさぼらけ」は主に和歌に用いられ、秋冬と結びつくことが多い。「あさぼらけ」の方が、「あけぼの」よりやや明るいという説もあるが、判然としない、 とある(日本語源大辞典)。さて、 あさまだき、 ありあけ、 あかつき、 しののめ、 あけぼの、 あさぼらけ、 の順序はどうなるのだろう。 「あさまだき」は、 マダ(未)・マダシ(未)と同根か、 とあり(岩波古語辞典)、 早くも、時もいたらないのに、 という意味が載る。夜明けに至らないのに、既にうっすらと明けてきた、という含意のように見受けられる。だから、 あさまだき→あかつき・ありあけ、 となろうか。「ありあけ」は、 月がまだありながら、夜か明けてくるころ、 だから、かなり幅があるが、「あかつき」も、 夜が明けようとして、まだ暗いうち、 と広く、たとえば、「あけぼの」と比べ、 「曙は明るんできたとき。「暁」は、古くは、まだ暗いううら明け方にかけてのことで、「曙」より時間の幅が広い、 とある(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1145636881)。とすると、古代の、 アカツキ→アシタ、 の時間幅全体を「あかつき」「ありあけ」とみると、その時間幅を、細かく分けると、 しののめ、 あさまだき、 あけぼの、 あさぼらけ、 の順序が問題になる。「あさぼらけ」には異説はあるが、 夜のほのぼのと明けるころ。夜明け方。「あけぼの」より少し明るくなったころをいうか。」(デジタル大辞泉)、 「あさぼらけ」の方が「あけぼの」よりやや明るいと見る説もあるが判然としない(精選版日本国語大辞典)、 とあるので、 あけぼの→あさぼらけ、 とみると、「しののめ」の位置だけが問題になる。 『日本語の語源』は「しののめ」について、 イヌ(寝ぬ。下二)は、「寝る」の古語である。その名詞形を用いて、寝ている目をイネノメ(寝ねの目)といったのが、イナノメに転音し、寝た眼は朝になると開くことから「明く」にかかる枕詞になった。「イナノメのとばとしての明け行きにけり船出せむ妹」(万葉)。 名詞化したイナノメは歌ことばとしての音調を整えるため、子音[∫]を添加してシナノメになり、母音交替(ao)をとげて、シノノメに変化した。(中略)ちなみに、イネノメ・イナノメ・シノノメの転化には、[e] [a] [o]の母音交替が認められる、 と、「篠竹」説を斥けている。そうみると、「目を開けた」時を指しているとすると、「しののめ」が、 しののめ→あけぼの→あさぼらけ、 なのか、 あけぼの→あさぼらけ→しののめ、 かの区別は難しいが、一応、いずれにしても、人が気づいた後の夜明け時の順序なのだから、 しののめ→あけぼの→あさぼらけ、 を、暫定的な順序としてみる(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html)。しかし、「しののめ」「あけぼの」「あさぼらけ」は、ほとんど時間差はわずかのように思える。 「アサ」に当てた「朝」(チョウ)の字は、 会意→形声。もと「艸+日+水」の会意文字で、草の間から太陽がのぼり、潮がみちてくる時をしめす。のち「幹(はたが上るように日がのぼる)+音符舟」からなる形声文字となり、東方から太陽の抜け出るあさ、 とある(漢字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 「ひる」は、 昼、 と当てる。 「朝」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481387969.html?1620462788)や、「夜」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442052834.html)でも触れたが、上代には昼を中心にした言い方と、夜を中心とした時間の言い方とがあり、 昼を中心にした時間の区分、アサ→ヒル→ユフ、 夜を中心にした時間の区分、ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 と、呼び方が分けられている(岩波古語辞典)。「ひる」は、 アサ→ヒル→ユフ、 と、昼を中心にした言い方で言う、 「アサ」と「ユウ」の間、 の、 朝夕をのぞいた明るい時間、 をいう(日本語源広辞典)ことになる。つまり、「アサ」の対は、 宵(よひ)・夕(ゆふ)、 であり、「ひる」の対は、 よる(古形は「よ」)、 である(岩波古語辞典)。 日本語では、時間帯について昼という場合、ひとつは、 夜と対立する意味での昼で、太陽が見える時間帯すべてを指す、 場合と、いまひとつは、 (太陽が見える時間帯すべての意の)昼から朝と夕方を区別し、残りの時間を指す場合である。この場合、太陽が見えて以後にある程度以上高く登り、その日の南中高度に近くなった時間を指す。単に“お昼”といえば、正午前後の時間だけを指す場合もあり、昼はその前後、ある程度の幅の時間を指す、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%BC)のは、 アサ→ヒル→ユフ、 という古代の感覚が残っている気がする。 「ひる」の語源は、 ヒ(日)と同根、 とあり(仝上)、「ヒ(日)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463232976.html?1618440403)は、 太陽というのが原義。太陽の出ている明るい時間、日中。太陽が出て没するまでの経過を時間の単位としてヒトヒ(一日)という。ヒ(日)の複数はヒビというが、二日以上の長い時間を一まとめに把握した場合には、フツカ(二日)・ミカ(三日)のようにカ(日)という、 とある(岩波古語辞典)ので、「ヒ」のみでも、 昼間、 の意味はある。だから、大言海は、「ひ(日)」を、 太陽、 の意と、 昼間、 の意の二項別に立てている。で、「ひる」は、 ヒ(日)+る(助辞)(大言海)、 ヒ(日)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、 という説になる。これは、「よる」が、 よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、 よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、 とされるのと対であると思われる。ただ、「よる」と「よ」とは微妙に差があり、「よる」中心にした時間の区分は、上代、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 のうち、 ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)、 と三分され、 当時の日付変更時点は丑の刻(午前二時頃)と寅の刻(午前四時頃)の間であったが、「よなか」と「あかとき」(明時、「あかつき」の古形)の境はこの時刻変更点と一致している、 とある(日本語源大辞典)が、 「よる」が「ひる」に対し、 暗い時間帯全体を指す、 のに対し、「よ」は、 よひ、 よなか、 よべ(昨夜)、 と三分された、 特定の一部分だけを取り出していう、 ともある(仝上)。ついでながら、「よべ」は、古代、 日付変更点の丑の刻と寅の刻の間(午前三時頃)の、こちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、 とある(仝上)。ちなみに、「ひ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463232976.html?1618440403)で触れたことだが、 明け六つ(午前六時)を一日の初とし、次の明け六つを終とせしを、夜九つ(午前十二時)よりと改むる由、元文五年の暦の端書に見えたり、 とある(大言海)ので、江戸時代の元文四年(1740)に一日を今日の、零時からと替えた。時計の影響かもしれない。 「ひる」に当てた「昼(晝)」(チュウ)の字は、 会意。晝は「筆を手に持つ姿+日を視覚に区切った形」。日の照る時間を、ここからここまでと筆でくぎって書くさまを示す。一日のうち、主となり中心となる時のこと。夜(わきにある時間)に対することば、 とある(漢字源)。「夜」(ヤ)の字は、 会意兼形声。亦(エキ)は、人のからだの両わきにあるわきの下を示し、腋(エキ)の原字。夜は、「月+音符亦の略体」で、昼(日の出る時)を中心にはさんで、その両脇にある時間、つまりよるのことを意味する、 とある(仝上)ので、「昼」の視点から「夜」をみていることかをみていることがわかるし、昼夜は、きっちりと区切られている感覚らしい。和語の、 昼を中心にした時間の区分、アサ→ヒル→ユフ、 夜を中心にした時間の区分、ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 というグラデーションの感覚とは違うようだ。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「ゆふ(ゆう)」は、 夕、 と当てるが、 夕方、 日暮れ、 夕暮れ、 晩方(ばんがた)、 等々とも言い、 「夕暮れ」「日暮れ」は、あたりが暗くなりはじめた状態をいうことが多く、「夕方」「晩方」は、そのような時間帯をいうことが多い、 とあり、 「晩方」が最も遅い時間をさす、 とある(類語例解辞典)。他にも、 入相、 夕刻、 黄昏(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479991859.html)、 薄暮、 宵の口、 暮れ方、 夕間暮れ(ゆうまぐれ http://ppnetwork.seesaa.net/article/464333025.html)、 逢魔が時(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.html)、 等々という言い方もある。 「朝」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481387969.html?1620462788)で触れたように、古代、夜の時間は、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 という区分をし、昼の時間帯は、 アサ→ヒル→ユフ、 と区分した(岩波古語辞典)。ヒル→ユフの「ユウ」は、ユフベ→ヨヒの、 ユウベ、 と重なる。「ゆふべ」は、 夕方(ゆうべ)の義 とある(大言海)。 古くは、ユフヘと清音。朝(あした)の対。……ユフベは夜を中心とした時間の区分の、ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタの最初の部分の称。昼を中心とした時間の区分の最後の名であるユフと実際上は同じ時間帯を指した。平安時代には、文章語・歌語と意識され、漢文訓読体や和歌、源氏物語に限られた和文作品に使われた、 とあり(岩波古語辞典)、平安女流文学では、普通「ゆふべ」ではなく、「ゆふぐれ」が使われた(仝上)。 で、「ゆふ」は、 ヨ(夜)、ヨヒ(宵)と同源(続上代特殊仮名音義=森重敏) 「ヨヒ」の音便変化。ヨヒ→ユヒ→ユウと転訛(日本語源広辞典)、 ヨ(夜)・ヨヒ(宵)と同根(岩波古語辞典)、 とされる。「よる」は、「ひる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481403520.html?1620499255)で触れたように、 よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、 よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、 であった。「よ」は、 ヨルの古形、 である(岩波古語辞典)。しかも、「ゆ」は、 上代東国の方言、 とあり(仝上)、 よ→ゆ、 と転訛しやすい。だから、 よ→ゆ、 だとしても、古代、夜の時間は、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 という区分をしており、夕暮れ時を、 ユフ→ヨヒ、 と、 ヨヒ、 と、その前の時間帯を、 ユフ、 とにわけていることになる。 以上から考えられることは、夜の「ヨ」は、 よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、 よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、 であり、「ひる」が、 ヒ(日)+る(助辞)(大言海)、 ヒ(日)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、 と、「ヒ」であり、「アサ」が、 アは、明(ア)くの語根、 で、「あか(赤)」の「ア」でもあると考えると、一日が、 ア→ヒ→ヨ、 しかなかった時間区分のうち、「ア」が、 アカツキ→アシタ、 と分化したように、「ヨ」が、 ユフ→ヨヒ→ヨナカ、 と分化した、と見ることができるのではないか。 日没のころであり、明るい昼から徐々に暗くなって完全に暗い夜となる前の境界の時間帯、 である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95)、古くは、 暮れ六つ、 や、 酉の刻、 ともいい、 だいだい2時間〜3時間の間、 である(仝上)、「ユウ」は、さらに、 「ゆうまぐれ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464333025.html)、 「逢魔が時」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.html)、 「たそがれ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479991859.html)、 等々とさらにこまかく言い表されることになる。 「ユウ」に当てられた「夕」(漢音セキ、呉音ジャク)は、 象形。三日月の姿を描いたもの、夜(ヤ)と同系で、月の出る夜のこと、 とある(漢字源)。「月の半ば見える」象形から「日暮れ」を意味する(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%95)、ともある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「よひ」は、 宵、 と当てる。 「朝」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481387969.html?1620462788)や「ひる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481403520.html?1620499255)で触れたように、「よひ」は、上代の夜の時間区分で、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 と分ける「ヨヒ」である。 「よる」中心にした時間の区分は、上代、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、 のうち、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)、 と分けられ、 当時の日付変更時点は丑の刻(午前二時頃)と寅の刻(午前四時頃)の間であったが、「よなか」と「あかとき」(明時、「あかつき」の古形)の境はこの時刻変更点と一致している、 とある(日本語源大辞典)が、「よ」は、 よひ、 よなか、 よべ(昨夜)、 と「よ」は、「よる」が「ひる」に対し、暗い時間帯全体を指すのに対し、 特定の一部分だけを取り出していう、 とある(仝上)。ついでながら、「よべ」は、昨晩の意だが、昨晩を表す語としては、古代・中古には、 「こよひ」と「よべ」とがあった。当時の日付変更時刻は丑の刻と寅の刻の間(午前三時)であったが、「こよひ」と「よべ」はその時を境としての呼称、日付変更時刻からこちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、 とある(仝上)。つまり、「よる」の古形、 よ、 が、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、 と区分されたことになるが、「よなか」が、 よべ→こよひ、 と、境界線を挟んで、使い分けていたことになる。 「よひ」は、「ゆふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481421283.html?1620586035)で触れたように、「ゆふ」が、 ヨ(夜)、ヨヒ(宵)と同源(続上代特殊仮名音義=森重敏) 「ヨヒ」の音便変化。ヨヒ→ユヒ→ユウと転訛(日本語源広辞典)、 ヨ(夜)・ヨヒ(宵)と同根(岩波古語辞典)、 とされ、「よる」は、 よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、 よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、 であった。つまり、「よひ」は、「よる」の古形「よ」が、 ゆふべ(ゆふ)、 よひ、 よなか、 と三分割した、「ゆふ」と「よなか」の間であり、 日が暮れて暗くなってからをいう。妻訪(つまど)い婚の時代には、男が女の家に訪ねていく時刻にあたる、 といい(岩波古語辞典)、 夜の初め、 とある(仝上)が、この時間幅は大きい。書紀・允恭紀に、 我が夫子(せこ)が來べき豫臂(よひ)なり ささがねの蜘蛛の行なひ今宵(こよひ)著(しる)しも とあり、ここでは、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、 の、ユフとヨナカの間の幅があり、 日暮から夜中までの間、 を指す(大言海・精選版日本国語大辞典)。現在では、 夜が始まってしばらくの間の意、 で用いるが、上代では、「万葉集」で、 「三更(=夜中の一二時ころ)」をヨヒと読ませていること、中古以降、ヨヒを語素にもつコヨヒという語が丑の刻(=午前二時ころ)まで、 をさして用いられたことなどから、現在より長い時間をさしてヨヒと呼んだと考えられる、 とある(日本語源大辞典)。それは、本来は、夜が、 単にヨヒとアカトキの二つに分けられていたところへ、ヨナカという語が現われ、ヨヒの時間が、中古にはより短い時間をさすようになったのではないかとも考えられる、 ともある(仝上)。そうすると、 宵のうち、 宵の口、 は、いずれも、 日が暮れて間もなくのとき、 とされる(広辞苑)。しかし、 気象庁は、「宵のうち」とは18時頃から21時頃の時間帯としていたのに、もっと遅い22時とか23時まで「宵」と思っている人がいるので、「夜のはじめ頃」(18〜21時頃)に用語を変えたのです、 と(https://weathernews.jp/s/topics/201904/100115/)、「宵の口」が、随分遅くまでになり、かつての「よい」の感覚まで広がって、「宵の口」といういい方に時間間隔の差があることを示している。 18時頃から21時頃の時間帯、 を、「宵の口」とするのは、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、 の感覚とあっている。 宵っ張り、 は、 夜遅くまで起きていること、 を指すが、これは、前述の、 日付変更点の丑の刻と寅の刻の間(午前三時頃)の、こちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、 ということから考えると、「よなか」のこちら側(午前三時過ぎ)まで、 こよひ、 と呼んでいたことになるが、しかしまあ、丑の刻(午前1~3時)と寅の刻(午前3〜5時)の間(午前三時頃)の前の、亥の刻(午後9時〜11時)から、子の刻(午後11時から午前1時)を挟んで、丑の刻(午前1〜3時)までが、「ヨナカ」にあたると思われるので、その前までが、 ヨヒ、 ということになるのではないか。とすると、「宵っ張り」の時刻は、せいぜい九時前くらいになる。 宵泊まり、 という言葉があるが、これは、 遊客が宵(午前七時頃)にきて泊まること、 とある(江戸語大辞典)。この逆に、その時刻に帰るのを、 宵立ち、 という。こう考えると、「宵」の目一杯は、 戌(いぬ)の刻(午後七時から九時)、 辺りを指すのではないか。宵のうちから寝る意の、 宵寝、 もその時刻ということになる。となると、 宵越しの金、 の「宵越し」というのは、 一夜を経ること、 だから、 日付変更点の丑の刻と寅の刻の間(午前三時頃)、 を超えた側を指すことになる。ただ、 日付変更時刻という意識の弱くなった中世末には、昨晩を表す「こよひ」が消滅する、 ので(日本語源大辞典)、江戸期以降の時間感覚は、現代に近くなっているのではないか。 宵の明星、 といういい方だと、「よひ」は、 日が暮れて間もない夕暮れ時、 を指している。 もちろん「よひ」の時間間隔は、時代によっても違うが、季節によっても異なるので、一概に言い切れないところはある。しかし、「宵の口」「宵っ張り」「宵越し」等々、「宵」がまだまだ、比較的活動的な時間帯であることを示していて、「ヨナカ」とは、その語感が違う気がする。 では「よひ」の語源は何か。「よ」は、 ユフ(夕)・ヨ(夜)と同根、 なので(岩波古語辞典)、「よる」の「よ」である。 夜閨iよあひ)の約(大言海・日本語源広辞典)、 という説が、 日暮れから夜までの間の意です。夜+サリ(来る)に対する語、 とし(日本語源広辞典)、 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、 という、「よ」を、 ゆふ、 よひ、 よなか、 と三分割した、「ヨヒ」の位置を示しているように思う。ちなみに、「よさり」は、 夜去り、 と当て、 夜が来ること、去るは来るなり、夕さり、などと同じ、 とある(大言海)。 「宵」(ショウ)の字は、 小は、−印を両側から削って小さくするさま。肖は、それに肉を添えた字で、素材の肉を削って小さくし、肖像をつくること。宵は「宀(家)+音符肖(ショウ)」で、家の中に差し込んでくる日光が小さく細くなったとき、 とあり、「日が暮れて薄暗くなったころ」の意である。 別の解釈は、 会意兼形声文字です(宀+小+月)。「屋根・家屋」の象形と「小さい点」の象形と「欠けた月」の象形から、月の光がわずかに窓にさしこむ事を意味し、そこから、「よい(日暮時)」を意味する「宵」という漢字が成り立ちました、 と(https://okjiten.jp/kanji1826.html)、「月」に見立てている。しかし、「宵」の意味は、 日の光が消えかけたとき、日が暮れて薄暗くなった時、 とある(字源)が、 徹宵(てっしょう 夜通し)、 宵晨(しょうしん 夜と朝)、 という言葉があり、「宵闇」とか「宵明星」は和語であり、漢語「宵」は「夜」の含意が強いので、「月」の光なのではあるまいか。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「ようやく(やうやく)」は、 漸く、 と当てる。 ようやく春めいてきた、 というように、 物事がしだいに進行して、ある状態になるさま、次第に、だんだん、 の意味と、 ようやく終電に間に合った、 というように、 長い間待ち望んでいた事態が遂に実現するさま、やっとのことで、とうとう、 という意味と、 ようやく起きて、 というように、 おもむろに、徐々に、 という意味と、 迷った末に、ようやくたどり着いた、 というように、 苦労した結果、目標が達成できるさま、かろうじて、何とか、やっと、 という意味と、 やうやく町に敷きみちたり(今昔物語)、 というように、 しばらくたって、 の意味と、意味の幅が、かなりあり、類義語の、 「ついに」(長い時間を要して、最終的な結果に至ったり、最後まで実現せずに終わるさま)、 「やっと」(長い時間を要したり、苦労してある状態に至るさま)、 「とうとう」(ある物事が最終的に実現した、もしく最後まで実現せずに終わるさま)、 「何とか」(完全・十分とはいえないが、条件・要求などに一応かなうさま)、 「どうにか」(まがりなりにも、なんとか)、 といった意味の幅をカバーしているように思える。 「ようやく(やうやく)」は、 ヤウヤウの転(大言海)、 ヤヤク(稍)、ヤクヤク(漸)の音便形(岩波古語辞典)、 ヤヤクに「ウ」が加わった(デジタル大辞泉)、 ヤヤ(稍)の延(大言海・日本語源広辞典)、 とあり、「ヤウヤウ」は、 漸う、 と当て、 ヤヤ(稍)の転、ヤウヤクの音便形(岩波古語辞典)、 とあり、「ヤクヤク」は、 徐々く、 漸く、 と当て、 ヤウヤクの古形、 とある(岩波古語辞典)。 ヤクヤク→ヤウヤク→ヤウヤウ、 か ヤウヤウ→ヤウヤク、 で、 ヤクヤク→ヤウヤウ→ヤウヤク→ヨウヤク、 と転訛した形になるが、 「徐」や「漫」の訓のヤヤク、もしくは「漸々」の訓のヤクヤクの音便形、 とある(岩波古語辞典)ように、 古くは漢文訓読特有語で、仮名文学、和文脈の「ようよう」に対してもちいられた、 とある(日本語源大辞典)。「ようよう」は、文語で、 ヤウヤウ、 になるので、 やうやう(漸う)、 と やうやく(漸く)、 は、和文脈で「やうやう(ようよう)」、訓読体で「やうやく(ようやく)」と使い分けていたことになる。 もとは、 ヤヤク(稍) ヤヤ(稍)、 ということになる。「やや」は、 彌彌(イヤイヤ)の略、又は、愈々(イヨイヨ)の略、 とあり(大言海)、 いかにも事の度合いが進み、募るさまが原義、 とある(岩波古語辞典)。 いよいよ、 とか、 だんだん、 とか、 が原意の近く、その時間経過の感覚から、 しばし、 とか、 すこし、 の含意が含まれることになる。その意味で、到達点から見れば、 ついに、 であり、到達しようとする心理面から見れば、 とうとう、 でもあるし、その経過の苦労から見れば、 何とか、 どうにな、 になり、到達しようとする時点から振り返れば、 やっと、 という思いになる。 「漸」(漢音セン・ゼン、呉音ゼン・セン、慣用ゼン)は、 会意兼形声。斬(ザン)は「車+斤(おの)」の会意文字で、車におのの刃をくいこませて切ること。割れ目に食い込む意を含む。漸は「水+音符斬」で、水分がじわじわと裂け目に沁み込むこと、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(氵(水)+斬)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「車の象形と曲がった柄の先に刃をつけた斧の象形」(「刀できる」の意味)から、水の流れを切って徐々に導き通す事を意味し、そこから、「だんだん」、「次第に」を意味する「漸」という漢字が成り立ちました、 という解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1661.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「とうとう」は、 到頭、 と当て、 とうどう、 とうど、 とも訛る(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。 物事が最終的にそうなるさま、 ついに、 結局、 とどのつまり、 という意味である。 浮世到頭須適性、男兒何必蓋成功(羅隠詩) とあり、 到頭、 は、 至竟、 畢竟、 到底、 と同義の漢語で、 つまるところ、 とどのつまり、 の意である(大言海・字源)。ちなみに、「到底」は、どちらかというと、わが国では、 到底できない、 到底無理だ、 と、 あとに否定の語を伴って、 どうしても、 いかにしても、 の意で使うことが多いが、これも漢語で、 心如清水、到底潔(呉澄詩)、 と、 底まで到る、 と、 つまるところ、 つまり、 の意である(字源)。で、「到頭」も、 先頭に到る、 意(日本語源広辞典)で、中国由来ということで決着が付きそうなのだが、異説がある。 尋ね尋ねて行き着く意で、トフトフ(問々)の義(松屋筆記)、 辺のきわまで危うくなる意で、ホトリホトリ(辺々)の転のホトホトの訛(俗語考)、 という説がある。しかし漢語がある以上、これは付会なのではないか(日本語源広辞典)。 「到底」と書いて「つまり」「結局」と読ませる、 ように、「到頭」も、 中国からの拝借文字、 なのではないか(https://oshiete.goo.ne.jp/qa/1443071.html)。 「とうとう」は、「ついに」と、 結果が現れることを表す、 意では一致するが、「とうとう」が、 長い時間を要してある結果が生じるという意味合いを持つ、 というのに対し、「ついに」は、 長い時間の後、最終的な時点で新しい何かが実現した、またはしなかった、 という意味合いがある(デジタル大辞泉)とあるが、「とうとう」にも、 とうとう成功を掴んだ、 というように、 期待されながらも実現が危ぶまれていたことが、時が経過して最終的に望んだ通りの事態に至った様子 と同時に、 到頭落第した、 というように、 以前から懸念されていたことが、時が経過して、最終的にその通りの好ましくない自体に至る様子、 の二重の含意がある(https://xn--fsqv94c.jp/toutou.html)のではないか。 類義語に、「結局」があるが、「結局」は、 結は終結、局は碁盤なり、 とあり(大言海)、 囲碁を一局打ち終える、 意からきており(広辞苑)、 ずいぶん頑張ったが、結局成功しなかった、 というように、 いろいろな経過があったが、 という含意がある(デジタル大辞泉)。 「到頭」の「到」(トウ)は、 会意兼形声。到は「至+音符刂(刀)」。至は、矢が一線に届くさま。刀は、弓なりに反った刀。まっすぐに行き届くのを至といい、弓なりの曲折を経て届くのを到という、 とある(漢字源)。別の解釈に、 形声文字です(至+刂(刀))。「矢が地面に突き刺さった」象形(「至る」の意味)と「刀」の象形(「かたな」の意味だが、ここでは、「召」に通じ(「召」と同じ意味を持つようになって)、「まねく」の意味)から、「(まねかれて)いたる」を意味する「到」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1108.html)。 「到」は、至なり、彼より此に到著する意、 とあり(漢字源)、至で通用するので、 至家、 を、 到家、 とも書くが、 知至、 徳至、 には到は用いない(字源)、とある。 「頭」(漢音トウ、呉音ズ)は、 会意兼形声。「頁(あたま)+音符豆(じっとたった高坏)」で、まっすぐたっているあたま。豆は、たかつき(高坏)を描いた象形文字、じっとひとところに立つ意を含む、 とある(漢字源)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「ついに(つひに)」は、 終に、 遂に、 竟に、 等々と当てる(大言海・デジタル大辞泉)。 ついに、完成した、 というように、 長い時間ののちに、最終的にある結果に達するさま、とうとう、しまいに、 という意味と、 ついに、完成しなかった、 というように、 (多く、打消しの語を伴って用いる)ある状態が最後まで続くさま、いまもって、いまだに、とうとう、 という意味がある。「とうとう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481488740.html?1620932160)で触れたように、「とうとう」にも、 とうとう完成した、 と、 とうとう完成しなかった、 の二重の使い方があるが、 口頭語としては「とうとう」が多く用いられ、「ついに」は文語的である、 とある(デジタル大辞泉)。 「ついに」は、 つひ(終、竟)+に、 で、「つひ」は、 終の住処、 終の事、 終の道、 等々と使う、 終わり、 の意であり、それをメタファに、 死期、終焉、 の意である。「つい(ひ)」は、 ツイユ(潰・弊・費)、ツヒヤス(潰・弊・費)と同根、次第に痩せ衰える、用いて次第に減る意、 とある(岩波古語辞典・広辞苑)。「ついゆ」(潰・弊・費)は、 生気を失う、 衰える、 という意なので、 長い時間の後、最終的な時点で新しい何かが実現した、またはしなかった、 という含意の原意は、 ものごとが衰え消耗していってゆきつくところ、 の意(岩波古語辞典)で、 次第に消えていく、 というようなニュアンスだったように見える。その意味では、 ツキ(尽)の義(言元梯)、 ツクル(尽)の義(和句解)、 尽きる日の義(国語の語根とその分類=大島正健)、 等々もあり得るが、 つく→つひ、 との音韻変化は、 イカホロ(伊可保呂)→イハホロ(伊波保呂)、 カルカタ(離る方)→ハルカタ・ハルカ(遥)→ハルバル(遥々)、 等々、 カ行音[k]→ハ形音[h]、 の、 カ→ヒ、 と、 発音運動の衰弱化に伴い破裂運動が摩擦運動にかわる、 ということ(日本語の語源)がありえるので、無理筋ではないのだが、しかし、 ツイユ(潰・弊・費)、ツヒヤス(潰・弊・費)と同根、 ということでいいのではあるまいか。 「終」(漢音シュウ、呉音シュ)は、 会意兼形声。冬(トウ)は、冬の貯蔵用の食物をぶらさげたさまを描いた象形文字。のち日印や冫印(氷)を加えて、寒い季節を示した。収穫物をいっぱいたくわえた一年のおわり。中(なかにいっぱい)・蓄(中にいっぱいたくわえる)と同系のことば。終は「糸+音符冬」で、糸巻に糸をはじめからおわりまで、いっぱい巻いて蓄えた糸の玉。最後までいきつくの意を含む、 とある(漢字源)。別に、 「冬」は貯蔵用の食べ物の象形で、それから、それを必要とする「ふゆ」を意味するようになった。冬は年の「おわり」であり、終は糸巻きに最後まで巻き付けるの意(藤堂)、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B5%82)。 「終」は、 始と対す。始よりをわりまで続く意あり、終日は朝から晩まで、終身は生れてから死するまでなり、 とある(字源)。 「遂」(漢音スイ、呉音ズイ)は、 形声。㒸は重いぶたを描いた象形文字。隊(タイ)・墜(スイ)などの音符として用いられる。遂は辶(すすむ)にそれを単なる音符として添えた字。道筋をたどって奥へすすむこと、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「倒れた人」の象形(「したがう」の意味)から、一定の道すじに従って事が運び「なしとげる」を意味する「遂」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1692.html)。 「遂」は、 事をしとぐる意あり、つひにと訓むときは、因なり、兩事相因而及也と註す。此の因ありて、たゆみなく彼の事をしとぐる義。韓非子「蟻壊一寸而仞有水、乃掘地遂得水」、 とある(字源)。 「竟」(漢音ケイ 呉音キョウ)は、 会意。「音+人」で、音楽のおわり、楽章の最後を示す、 とある(漢字源)。 「竟」は、 究竟、または畢竟と熟し、あげくと訳す。史記に「及破驪戒、獲驪姫愛之、竟以乱晉」とある如し、 とある(字源)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「とどのつまり」は、 とどのつめ、 ともいう(岩波古語辞典)が、 結局、 つまるところ、 いきつくところ、 の意である(広辞苑・デジタル大辞泉)。 「とどのつまり」については、 「とどのつまり」の語源は、出世魚で知られているボラなのです。哺乳類として知られるトドではありません。ボラは成長していく過程で、以下のように成長していきます。 関東の場合:オボコ→イナッコ→スバシリ→イナボラ→トド 関西の場合:ハク→オボコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド 高知や東北でも、それぞれ呼び方が違います。高知や東北では「トド」とは呼びませんが、関東や関西ではもっとも大きく成長したボラのことを「トド」と呼んでいるのです、 と(https://macaro-ni.jp/44902)ということから、ボラは、 最終的に「トド」になり、それ以上は成長しません。そのことを由来とし、「とどのつまり」はこれ以上は大きくならない、これ以上は進まないなどの意味、 とする説(仝上)が、 出世魚で、おぼこ→いな→ぼら→とどの順です。「トドの詰まり」が語源(日本語源広辞典)、 ボラは成長するとともに名称が変わり、最後にトドという名になるところから(デジタル大辞泉)、 「これ以上大きくならない」ことから「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%A9)、 等々多々ある。しかし、これは俗説らしい。 同義の「とど」「つまり」を重ねて意味を強めた語(岩波古語辞典)、 止(トド)の詰まりの義(大言海)、 とどむ・とどまるの語幹(江戸語大辞典)、 というのが正確である。「とど」は、 止、 と当て、 きわまり、 はて、 の意であり、ここから、 鯔の十分に成長したるものの称、 となった(大言海)、とみられる。「鯔の十分に成長したるもの」は、 古老の口碑(はなし)に鯔の長さ七八丈もありけり、所々に毛生じ魚狸(とど)になりかかれりとなり(文政十二年(1829)「浮世名所図会」)、 と、 俗に毛が生えるといった、 とある(江戸語大辞典)。 また「とど」は、 歌舞伎台本用語、 とされ、そこから、 そうしたところが、とどめは手めへの身のつまり(享和二年(1802)「婦足鬜」)、 と、 結局、 の意や、 是から生きた所が、よく生きて五年か三年が到頭(とど)だ(文化八年(1811)「人間万事虚誕計」)、 と、 限度、 の意や、 全体(てへ)土間も六人とどめでみるといいけれど(文化八年(1811)「客者評判記」)、 と、接尾語として、 〜限り、 の意で使う(江戸語大辞典)。 とどの大詰、 とどの仕舞、 等々という言い方もあった(仝上)。だから、「とどのつまり」が、 トウドウ(到頭)の約(猫も杓子も=楳垣実・上方語源辞典=前田勇)、 というのはあり得るが、 魚のボラの最後の呼び名(ことばの事典=日置昌一・上方語源辞典=前田勇)、 は、先後が逆なのではないか、と思う。 「止」(シ)は、 象形。足の形を描いたもので、足がじっとひと所にとまることを示す。趾(シ あと)の原字、 とある(漢字源)。 「止」は、 やめとどまる意、止者、必至是而不遷之謂と註す、 とある(字源)。 「鯔」については、「ぼら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/468373813.html)で、ボラの幼魚の鯔(イナ)については、「いなせ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html)で、触れた。 参考文献; 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「醤油」は、 原料に大豆以外の麦類を加えたもの、 「たまり」は、 大豆だけを原料にしたもの、 という違いがある(たべもの語源辞典)らしい「たまり」は、 溜り、 と当てるが、 たまる、 という意味で、 味噌からしたたった汁、 の意と、 溜まり醤油(じょうゆ)、 の意とがある。 「醤油」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html)で触れたように、 「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、 会意兼形声。『酉+音符將(細長い)』。細長く垂れる、どろどろした汁、 で、 肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、 の意と、 ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、 の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(漢字源)。 醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する、 が(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)、「味噌」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471703618.html)から発展した液状のものが現在の日本の醤油になる。 「ひしお(醤・醢)」とは、 なめみそ、 である。 味噌は鎌倉時代の精進料理の伝来のなかで大きな影響を及ぼし、寺院でのみそ作りが盛んになったという。当時は調味料としてよりも『なめみそ』扱いをされたことが『徒然草』にも記されている、 とある(https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf)。「ひしお」は、 大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、 の意だが(日本語源大辞典)、 醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。 日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。 醤油は、 醤からしみだし、絞り出した油(液)、 の意(たべもの語源辞典)の意であるが、室町時代に、「醤」は、 漿醤、 となり、 シヤウユ、 の訓みが当てられた。現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞った、 たまり醤油、 で、「多聞院日記」(1576年)の記事に、 固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていた、 とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)、 味噌ができると、その汁を、 たれみそ、 たまりみそ、 うすだれ、 と称していた。これが、 たまり醤油、 である。初見は、慶長八年(1603)の『日葡辞書』で、 Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。天文十七年(1548)の古辞書『運歩色葉集』に、醤油の別名、 スタテ(簀立)、 の記述があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)、 簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也、 とある。これは、享和三年(1803)の『新撰庖丁梯』に、 昔、布袋に入れて絞ることをせず、かごす(籠簀)を立ててためた、 とか、 はたごや(駅亭)で溜というものは麦味噌などの仕込みに豆液(あめ)を多く入れ、ゆるく醸成し、その中にかごすをたててためた、 等々とあるのと通じる(たべもの語源辞典)。 「たまり」の発祥は、 後堀河天皇の安貞二年(1228)に紀伊国由良、興国寺の開山になった覚心(法燈国師)が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝えた。そして諸国行脚の途中、和歌山の湯浅の水がよいので、ここで味噌をつくり、その槽底に沈殿した液がたべものを煮るのに適していることを発見した。後、工夫して文暦元年(1234)に醤油を発明した、 と伝える(たべもの語源辞典)、とある。同趣は、 醤油は中国からもたらされた穀醤、宋の時代に伝わった径山寺みそ、日明貿易で中国から輸入されたという説があるが、紀州湯浅での醤油は径山寺味噌から発しているという説が有力である。この説は三世紀に宋で修業をおさめた僧(覚心)が径山寺味噌をひろめ、その製作工程中の上澄み液や樽の底にたまった液を集めて調味料として利用したというものである、 がある(https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf)。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を、 紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型、 ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。しかし、その他に、 伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型、 とする説、 500年代に記された『斉民要術』には現代の日本の味噌に似た豆醤の製造法と、その上澄み液から作る黒くて美味い液体「清醤」の製造法が詳細に記述されており、その製造法や用途から清醤が現代のたまり醤油の原型であると理解されている。たまり醤油が中国で普及していった過程において、その製造法が日本にも伝来した、 とする説等々もある(仝上)。 この時代のたまり醤油は、 原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴なわない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった、 が、木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展した。そのため、 麹はこうじカビを蒸した原料に職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。こうじカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに「すみ醤油」という名前で現れている、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。これが今のヒガシマル醤油である。 龍野醤油の醸造の始りは、天正十五年(1587)から後の寛文年間(1670)に、当時の醸造業者の発案により醤油もろみに、米を糖化した甘酒を混入して絞った。色のうすい、 うすくち醤油、 が発明された(http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/mame01.html)、とある。 現在の醤油は、 淡口醤油、 濃口醤油、 があり、ほぼ小麦と大豆が50%ずつとされる(https://tamariya.com/?mode=f3)が、 たまりしょうゆ、 は、大豆がほぼ100%である(仝上)。今日、「たまり」という場合、この、 たまり醤油、 をいう。愛知・三重・岐阜三権の特産で、 醤油より濃厚で旨味に富むが、醤油のような芳香はない、 とされる(たべもの語源辞典)。 「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)の成り立ちについては、上述の、 会意兼形声。「酉+音符將(細長い)」。細長く垂れる、どろどろとした汁、 とする(漢字源)以外に、より詳しく、 会意兼形声文字です(將+酉)。「長い調理台の象形と肉の象形と右手の手首に親指をあて脈を測(はか)る象形」(「肉を調理して捧げる」の意味)と「酒を入れる器」の象形(「酒」の意味)から「肉を細かく刻み、塩や酒などに漬けた料理」を意味する「醤」という漢字が成り立ちました、 とする解釈がある(https://okjiten.jp/kanji2762.html)。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「たまる」は、 溜る、 と当てる。 同質のものが一所(ひとところ)に次第に集まりと止まってじっとしている意、 とあり(広辞苑)、 流れ集まる(古事記「水のたまる依網(よさみ)の池の」)、 集まりとどまる、積もる(源氏「かひなを枕に寝給へるに、御ぐしのたまりたる程などありがたくうつくしげなるを」)、 物がある場所に止まる(後撰和歌集「散るとみて袖に受くれどたまらぬは荒れたる浪の花にぞありける」)、 といった、 とまる、 つもる、 といった意味をメタファに、 堪(たま)る、 と当て、 力の入った状態のまま保つ(保元「しばらく弓たまって、……真中に押し当て放ちたり」)、 こらえる、ふせぐ(拾遺和歌集「秋霧の峰にも尾にも立つ山は紅葉の錦たまらざりけり」)、 こらえきれる、がまんできる(保元「ひとたまりもたまらずどうど落つ」)、 目一杯にこらえる、 意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。「たまる」は、 たむ(溜む)の自動詞。ものごとが満を持した状態のまま、じっと動かずにいる意、転じて、相手の仕打ちに対して、こちらの態勢を変えず、されるがままにじっとこらえ通す意、 とある(岩波古語辞典)。「たむ」は、 満を持した状態でおく、一杯にした状態のままで保っておく、 意である。つまり、 満杯状態、 という状態表現が、 その状態を保っている、 という価値表現へと意味をずらしたということになる。 「たまる」の語源は、 止まる、積もるに通ず(大言海)、 トマル、ツモル、タタマルに通じ、「積もりとどまる」(日本語源広辞典)、 とする説がある。「たたまる」は、 畳まる、 で、 かさなる、つもる、たまる、 意である。その他、 手の中に集めて丸めたようであるところから(本朝辞源=宇田甘冥)、 タチモチウル(保得)の義(柴門和語類集)、 等々もあるが、どうも、音韻から見ると、 とまる(止 tomaru)→たまる(溜 tamaru)、 とむ(止 tomu)→たむ(溜 tamu)、 ではないかと感じる。「とまる」は、 止まる、 留まる、 と当てるが、確かに、 タマル(溜まる)の母音交替形。物の進行がその地点まで続いてきて、そこで一切の運動はなくなるが、その物はそこにある意。類義語トドマルは、物事の進行はやんでも、やんだ地点での物事の小さい動きはやまない意、ヤム(止)は、継続している現象や動作がその時点で消えてなくなる意、 とある(岩波古語辞典)。「とまる」が、 線的動作の時間軸が止まる、 意だが、「たまる」は、それを、雫のように、 一定場所での連続動作が空間的に極限に来る、 意とは、紙一重なのではあるまいか。 一つ所に寄り集まると、そこに集まって多くなる。これは流動していたものが止まらなければならない。止まるからきた(たべもの語源辞典)、 とする説明は、ある意味納得できる。 「澑(溜)」(漢音リュウ、呉音ル)は、 会意兼形声。「水+音符留(つるつるしたものがしばしとまる)」。古典では軒下の水たまりの意(畱とも)に用いる、 とある(漢字源)。別に、 形声文字です(氵(水)+留(畱))。「流れる水」の象形と「同形の物を左右対称においた象形(「等価の物と交易する」の意味だが、ここでは、「流(リュウ)」に通じ(同じ読みを持つ「流」と同じ意味を持つようになって)、「流れる」の意味)と区画された狩猟地・耕地(田畑)の象形」(田の間を流れる水が「とどまる」の意味)から、「水が流れる」、「水がとどまる」を意味する「溜」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji2348.html)。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「たまご」は、 卵、 玉子、 と当てる。 卵、 と 玉子、 の使い分けは、「卵」は、 生物学的な意味、 「玉子」は、 食材の意味、 と区別される(https://macaro-ni.jp/50053)が、生のものを、 「卵」、 調理されたものを、 「玉子」、 という使い分けがされるようになってきているという(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E5%8D%B5)。そのために、「たまご」から孵化する喩えで、 医者の卵、 と当てるが、 医者の玉子、 とは当てない。中国語でも、「卵(ルァン)」は、 生物学的な意味、 で、食材的な意味では、 「鶏蛋(ジータン)」、 と言う(https://macaro-ni.jp/50053)、とある。 ただ、「卵」と「玉子」の使い分けは、 ゆで卵、 とも、 ゆで玉子、 とも書き、 玉子焼き、 とも 卵焼き、 とも書かれ、必ずしも厳密ではない(https://macaro-ni.jp/50053)。 「たまご」の古語は かひ、 あるいは、 かひこ、 あるいは かひご、 である(大言海・岩波古語辞典)。 「かひこ」は、 卵子(大言海)、 か 殻子・卵(岩波古語辞典)、 とあて、「かひ」は、 卵、 と当てる(仝上)。「かひ」は、 カヒ(貝)と同根、 とある(岩波古語辞典)のは、 カヒは殻の意(岩波古語辞典)、 殻(カヒ)あるものの意(大言海)、 と、「たまご」の殻からきている。 殻、 は、 かひ、 と訓ませ、「貝」は、 殻(かひ)あるものの義、 とある(大言海)。つまり「かひ」は、 貝、 とも 殻、 とも、 当てている(岩波古語辞典)。「たまご」の「かひ」は、「殻」から名づけられ、 かひ(殻・貝)の子、 の意味になる(日本語源大辞典)。 蚕、 と当てる「かひこ」は、 飼ひ子、 で清音なのに対して、「卵子(殻子)」は、濁音、 かひご、 とされる(岩波古語辞典・日本語源大辞典)。平安中期の和名抄も、 卵、加比古(カヒゴ)、鳥胎也、 とし、平安末期の名義抄も、 卵、鳥殻、カヒゴ、 室町期の文明本節用集も、 卵、カヒゴ、 と、「かひご」とする(岩波古語辞典)。また、室町末期の日葡辞書も、 かひご、 であり、観音院本名義抄では、アクセントを異にする(日本語源大辞典)とある。「かひこ(蚕)」と「かひご(卵子・殻子)は区別されていた。 「かひこ」「かひご」の「こ」「ご」は、 子、 児、 卵、 とも当てるが、 愛しみ呼びて名づけたに起こる(大言海)、 に由来する愛称で(たべもの語源辞典)、 巣守子(毈)、稲子(蝗)、いささ子(魦)、 等々と同じ(大言海)、とある。 「たまご」という言葉は、室町期から使われ、江戸期に広く使われるようになったらしいが、 かひご→たまご、 と転訛したとは思えないので、 殻(かひ)子、 の「殻」のイメージではなく、外見の、 玉、 から来たのではないか、と思える。その意味で、 丸い球形のもの、真珠などに魂が宿っている、とする、 玉、珠、球は、魂(タマ)と同源、 とする説(日本語源広辞典)は捨てがたい。 「たま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462988075.html?1619562819)で触れたように、「たま」(玉・珠・球)は、 タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、 とあり、「たま(魂)」は、 タマ(玉)と同根。未開社会の宗教意識の一。最も古くは物の精霊を意味し、人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離靈の一種で、人間の体内からぬけ出て自由に動きまわり、他人のタマと逢うこともできる。人間の死後も活動して人を守る。人はこれを疵つけないようにつとめ、これを体内に結びとめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます、 とあり、「たまふり」とは、 人間の霊魂(たま)が遊離しないように、憑代(よりしろ)を振り動かして活力を付ける、 ことだ。憑代は、精霊が現れるときに宿ると考えられているものを指す。あるいは、憶説かもしれないが、「たま」の霊力が信じられなくなった時期が、「たまご」に、 たま、 を当てさせたのではあるまいか。本来「たま」は「魂」で、形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが、 丸い石、 を精霊の憑代とすることから、その憑代が「魂」となり、その石をも「たま」と呼んだことから、その形を「たま」と呼んだと、いうことのように思える。その「たま」は、単なる球形という意味以上に、特別の意味があったのではないか。しかし憑代としての面影が消えて、形としては、「たま」は、「丸」とも「円」とも差のない「玉」となったというのが、室町期のように思える。 形の丸については「まる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.html)で触れたように、「まる(まろ)」「まどか」という言葉が別にあり、 「まろ(丸)」は球状、 「まどか(円)」は平面の円形、 と使い分けていたが、やがて、「まどか」の使用が減り、「まろ」は「まる」へと転訛した「まる」にとってかわられた。漢字をもたないときは、「まどか」と「まる」の区別が必要であったが、「円」「丸」で表記するようになれば、区別は次第に薄れていく。いずれも「まる」で済ませた。「たま」も、また、 まる、 との区別が薄らぐ。「たまご」と呼ばれ出したのは、そんな時期ではないか。 それと、もうひとつ、本来、「卵(殻)子」は、 かひご、 で、「蚕」は、 かいこ、 であったが、その区別が曖昧になってくる。そのため、室町期に、 玉の子、 という言い方がされるようになる。「魂(たま)」の意味を失った「たま(玉)」の行き着いた先が、 玉の子→玉子、 なのである。 「卵」(ラン)は、 象形。丸く連なった、魚か蛙の玉子を描いたもの、 とされる(漢字源)。別に、 象形文字です。「たまご」の象形から、精子と卵子とが引き合って生じる「たまご」を意味する「卵」という漢字が成り立ちました、 とあるのは、少し穿ちすぎではあるまいか(https://okjiten.jp/kanji1052.html)。
「玉」(漢音ギョク、呉音コク)は、 「かいこ」は、 蚕(蠶)、 と当てる。古くは、 こ(蚕)、 といった。平安末期の『字類抄』に、 蠶、コ、 とある。万葉集には、 垂乳根(たらちね)の母が飼(か)ふ蠶(こ)の繭(まよ)隠(ごも)りいぶせくもあるか妹(いも)に逢はずして、 と(大言海は「飼」に「養」を当てる)、 飼(か)ふ蠶、 とあり、また、 なかなかに人とあらずは桑子(くはこ)にもならましものを玉(たま)の緒ばかり、 と、 桑子、 ともある。「こ」は、 子、 児、 卵、 等々と当てる。 おや(親)の対、 である。だから、すべて、 こ、 といった。だから、 桑子、 飼ふ蠶、 とあてる「こ」は、 籠・子・粉・海鼠などの意の「こ」との混同を回避しようとしたため(日本語源大辞典)、 というよりは、 子(こ)・卵(こ)の転義であろう(岩波古語辞典)、 あるいは、 子(こ)から分化、 したと見るべきではないか。あるいは、和語には、 こ、 という呼称しかなく、漢字を当てはめて、初めて、 子、 卵、 蚕、 粉、 と分岐できた(なまこの「こ」については、「なまこ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479450474.html)で触れた)。 卵の「こ」は、「たまご」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481618276.html?1621622290)で触れたように、 かひ(殻・貝)の子、 であり、古く、 かひご、 と濁った。この「こ」も、 子、 である。「こ(子)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.html?1619652563)は、 コ(小)の義(和句解・名言通・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健・広辞苑)、 小の義にて、稚子(チゴ)より起れる語なるべし(大言海)、 とあり、「こ」(粉)とも関わる。「粉」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.html?1619652563)で触れたように、「粉」は、やはり、 コはコ(小)の義から出た語(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健)、 となる。「小」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/445760046.html)は、 お(小川)、 さ(小百合、)、 しょう(小生)、 とも訓むが、訓み方は変わっても、この意味は、「小さい」「少ない」という、 状態表現、 であった(それが、貶めたり、蔑んだり、逆にみずからを謙ったり、という価値を加味した価値表現へ転化する)。 大人→子ども、 の対比の、 大→小、 の意味であったと考えられる。だから、「かいこ」(蚕)が、 飼い蚕、 飼い子、 となったりするのは、いずれも、 蚕(こ)=子(こ)、 とみなしていたからである。当然、 かいこ、 は、 家にて養ふに因りて、常に、養蠶(カヒコ)と云ふなり(大言海)、 とあるように、 かふこ(飼ふ蠶)、 つまり、 飼い蚕(広辞苑・デジタル大辞泉)、 飼い子(日本語源広辞典)、 から転じた。 「蚕」の歴史は、魏志倭人伝に、 その風俗淫らならず。男子は皆露紒し、木緜(ゆう)を以って頭に招(か)け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣(き)る。禾稲(かとう)・苧麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑(さんそう)緝績(しゅうせき)し、細苧(さいちょ)・縑緜(けんめん)を出(い)だす、 とあるほど古く、すでに 蚕桑(さんそう)緝績(しゅうせき)、 とある(日本昔話事典)。 また、『古事記』には、高天原を追放されたスサノオ(須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ(大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した、とある(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B3)。『日本書紀』には、渡来人による記述伝承や、養蚕の奨励が見える(仝上)。 蚕は、 おかいこさん、 とうとさん、 ひめ、 おしろさま、おしらさま、 こごじょ、 等々と呼ばれ(仝上)、稲作同様、 豊穣を願う、 ということから、 女性原理、 に支配されている、とある(日本昔話事典)。ために、蚕由来にまつわる昔話は、 名馬と美しい姫の馬娘婚姻譚、 と、 流された継子の蚕影(こかげ)山縁起、 の二系統あり、 蚕神信仰、 と深くつながる、とある(仝上)。 「蚕(蠶)」(漢音サン、呉音ゾン・テン)は、 会意兼形声。蠶の上部は、間に潜り込む意を含む。蠶はそれを音符とし、虫ふたつを加えた字。桑の葉の間にもぐりこんで食う、群れをなす虫のこと、 とし、つけ加えて、 形声。「虫+音符天」。唐代から蠶の略字として用いられた、 とある(漢字源)。別に、 甲骨文は「蚕(かいこ)」の象形。篆文は会意兼形声文字。「座った人が顔をそむける象形と鼻や口から吐く息の象形」(「かくれる」の意味)と「頭が大きくグロテスクなまむし」の象形から、糸を吐いて自身を隠し、まゆを作る、「かいこ」を意味する「蚕」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji1009.html)。 さらに、 形声。音は朁(さん)。「説文」に「絲(いと)を任(は・吐)く蟲(むし)なり」とあって「かいこ」をいう。甲骨文字はかいこを象形的にかいており、また、桑の葉の上に蚕の形の虫を加えているものがある。また甲骨文には蚕示(さんじ・蚕の神)を祀(まつ)ることをしるしているものがあり、三千数百年前の殷(いん)王朝の時代に養蚕(かいこを飼い育てて繭(まゆ)をとること)が行われていた。養蚕は農耕とともに重要な産業とされて、周王朝では王后夫人によって親蚕の儀礼が行われ、神衣、祭衣を織る定めであった、 ともある(白川静・https://jyouyoukanji.stars.ne.jp/j/6/6-060-san-kaiko.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂) 「亥の子餅」は、 いのこのもちひ、 能勢餅(のせもち)、 ともいい(広辞苑)、 「その夜さり、亥の子餅(もちひ)まゐらせたり」(源氏物語) とある。また、 玄猪餅(げんちょもち)、 厳重(げんじゅう)、 とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A5%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85)。
能勢餅、 「にる」は、 煮る、 煎る、 烹る、 と当てる(大言海)が、「にる」は、「雑煮」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481191464.html?1619376849)でも触れたが、 に(煮 上一段)、 で、万葉集に、 食薦(すごも)敷き青菜煮持ち来(こ)梁(うつはり)に行騰(むかばき)掛けて休むこの君、 とあり(岩波古語辞典)、あるいは、 にる(煮 上一段)、 でも(大言海)、万葉集に、 春日野に煙(けぶり)立つ見ゆ娘子(をとめ)らし春野のうはぎ採みて煮らしも、 にゆ(煮 下二段)、 でも(仝上)、 昔より阿弥陀佛に誓ひにて、ニユルものをばすくふとぞ知る(宇治拾遺)、 と、古くから、 煮、 を当ててきた。しかし、「煮切り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480550074.html)で触れたように、「煮」(慣用シャ、呉音・漢音ショ)は、 会意兼形声。者は、コンロの上で木を燃やすさまを描いた象形文字で、火力を集中して火をたくこと。のち、助辞にもちいられたため、煮がつくられて、その原義をあらわすようになった。「火+音符者」。暑(熱が集中してあつい)と縁が深い、 とあり(漢字源)、「煮沸」というように、「たぎらせる」意で、「容器に入れて湯の中でにる」意である。別に、 会意兼形声文字です(者(者)+灬(火))。「台上にしばを集めつんで火をたく」象形(「にる」の意味)と「燃え立つ炎」の象形から、「にる」を意味する「煮」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1199.html)、 でも、 会意形声。者は庶と古く同声であるため、この両者が声符として互易することがあり、庶蔽の庶はもと堵絶の意であるから者に従うべき字であり、庶は煮炊きすることを示す字であるから、庶が煮の本字である。本来、者は堵中に隠した呪禁の書であるから、これに火を加えて煮炊きの意に用いるべき字ではない(白川)、 でも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%85%AE)、今日の「煮炊き」の意味ではなかったと思われる。 「にる」の意の漢字には、 煮、 烹、 煎、 があり、三者は、 「煎」は、火去汁也と註し、汁の乾くまで煮つめる、 「煮」は、煮粥、煮茶などに用ふ。調味せず、ただ煮沸かすなり、 「烹」は、調味してにるなり。烹人は料理人をいふ。左傳「以烹魚肉」、 と、本来は使い分けられ(字源)、漢字からいえば、「にる」は、 狡兎死して走狗烹らる、 の成句があるように、「煮る」は「烹る」でなくてはならないが、当初から、「煮る」を用いていた可能性がある(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。 ついでながら、「烹」(漢音ホウ、呉音ヒョウ)は、 会意。亨(キョウ)は、上半の高い家と下半の高い家とが向かい合ったさまで、上下のあい通うことを示す。烹は「火+亨(上下にかよう)」で、火でにて、湯気が上下にかよい、芯まで通ることを意味するにえた物が柔らかく膨れる意を含む、 とある(漢字源)。「割烹」(切ったりにたり、料理する)と使い、「湯気を立ててにる」意である。やはり「煮る」は、「烹る」がふさわしいようだ。ただ、 会意。「亨」+「火」、「亨」の古い字体は「亯」で高楼を備えた城郭の象形、城郭を「すらりと通る」ことで、熱が物によくとおること(藤堂)。白川静は、「亨」を物を煮る器の象形と説く。ただし、小篆の字形を見ると、「𦎫」(「亨(亯)」+「羊」)であり「chún(同音:純)」と発音する「燉(炖)(音:dùn 語義は「煮る」)」の異体字となっている。説文解字には、「𦎫」は「孰也」即ち「熟」とあり、又、「烹」の異体字に「𤈽」があり、「燉」に近接してはいる、 とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%83%B9)、「烹る」と「煮る」の区別は、後のことらしい。「煎」(セン)は、 会意兼形声。前の「刂」を除いた部分は「止(あし)+舟」の会意文字。前はそれに刀印を加えた会意兼形声文字で、もと、そろえて切ること。剪(セン)の原字。表面をそろえる意を含む。煎は「火(灬)+音符前」で、火力を平均にそろえて、鍋の中の物を一様に熱すること、 とある(漢字源)。「水気がなくなるまでにつめる」「水気をとる」意で、「いる」意でもある。別に、 形声文字です(前+灬(火))。「立ち止まる足の象形と渡し舟の象形と刀の象形」(「前、進む」の意味だが、ここでは、「刪(セン)」に通じ(同じ読みを持つ「刪」と同じ意味を持つようになって)、「分離する」の意味)と「燃え立つ炎」の象形から、「エキスだけを取り出す為によく煮る」、「いる(煮つめる、せんじる(煎茶))」を意味する「煎」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2170.html)、 とあり、「水気を飛ばす」意になり、「煎薬」と、「煮出す」意でも使う。 しかし、和語「にる」は、 水などを加え、火にかけて熱を通す(広辞苑)、 沸かして熱を徹す、火にかけて沸かす(大言海)、 水を加えたものを火にかけ、水を沸かして熱をとおす(日本語源大辞典)、 といった意味で、今日の、 食物を汁と一緒に火に掛け、調味して、その沸騰した汁で柔らかくして食べられるようにする、 という意よりは、 沸かす、 含意が強かったように思われる。その意味で、 烹る、 よりは、 煮る、 を当てたのかもしれない。とすると、和語「にる」の語源は、 煮るときの音ジイルから(言元梯)、 なべ釜に入るる意から(和句解)、 というよりも、 熱(にぎ)の意(大言海)、 というのがふさわしいと思えるが、 ニバ・ニグ(熟)の音韻変化(日本語源広辞典)、 と同種の語源説を採るもの以外、 にぎ(熟)、 は他の辞書にはなく、「やわらぐ」意の、 にぎ(和)び、 が、 あら(荒)び、 の対としてある(岩波古語辞典)だけである。しかしここから類推すると、 「にぎ」は、 和、 熟、 と当て、 和(なぎ)に通ず、荒(アラ)の反、 とするのは(大言海)、「にぎ」は、 熟蝦夷(にぎえみし)、 荒蝦夷(あらえみし)、 の対になり、 熟飯(にぎいひ)、 という言葉があり、 姫飯(ヒメイヒ)、 つまり、強飯(こはいひ)の対になり、「和(なぎ)」は、 凪ぐ、 和ぐ、 で、 和(なご)やか、 の、 なご(和)と同根(岩波古語辞典)、とつながるのである。その意味で、 ニギ→ニグ→ニル、 の転訛は、意味から見てもあり得る気がする。 柔らかくなる、 意である。 和稲(にぎしね 荒稲(あらしね)の対)、 和布(にぎめ 和海藻)、 の「にぎ(和)」ともつながるのである。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「たく」は、 炊く、 焚く、 と当てるが、「炊」は、 かしぐ、 とも訓ませる。「かしぐ」は、 爨ぐ、 とも当てる。室町時代までは、 かしく、 と清音で、室町末期の『日葡辞書』も、 ヒャウラウ(兵糧)モナウテメシヲモカシカヌウチニ、 と、声音である。 カシグ、 と濁音になったのは、江戸時代以降とされる(明解古語辞典)。 「たく」は、もともと、 火を燃やす、 意で、 海人少女(あまをとめ)漁(いさ)りたく火のおぼほしく都努(つの)の松原思ほゆるかも(万葉集)、 とあるように、 暖を取り、香をくゆらし、食物を煮、塩を取るなど、或る目的のために火を使う、 意味であった(岩波古語辞典)。つまり、 飯を煮る、 も、 香をくゆらす、 も、 塩焼き、 も、 火を燃やす、 も、 すべて、 たく、 であった。 「粥」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.html)で触れたように、弥生時代、米を栽培し始めるが、この時は、 脱穀後の米の調理は、…玄米のままに食用にした。それも粥にしてすすったのではないかと想像される。弥生式土器には小鉢・碗・杯(皿)があるし、登呂からは木匙が発見されている、 とある(日本食生活史)。七草粥は、この頃の古制を伝えている(仝上)、とみられる。 弥生時代の終わりになると、甑(こしき)が用いられ、古墳時代には一般化する(日本食生活史)。3世紀から4世紀にかけて朝鮮半島を伝い、日本にも伝来した、と見られ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91)、「甑」は、中国で、 新石器時代に袋状をなした三脚を有する鬲(れき)や、底部に若干の穴をほったこしき(瓦+曾)、また鬲と甑を結合させた甗(こしき)などがあった。甑は漢代に使用され、それが南満・朝鮮半島を経て、米の流入とともにわが国に伝わった、 とある(日本食生活史)。『周書』に、 黄帝が穀を蒸して飯となすとか、穀を烹(に)て粥となす、 とあり(仝上)、穀類を煮たり蒸したりすることを古くは、 炊(かし)ぐ、 といい、のち、 炊(た)く、 というようになった。〈たく〉は燃料をたいて加熱する意と思われる。飯の炊き方には煮る方法と蒸す方法とがあり、古く日本では甑(こしき)で蒸した強飯(こわめし)を飯(いい)と呼び、水を入れて煮たものを粥(かゆ)といった。粥はその固さによって固粥(かたがゆ)と汁粥(しるかゆ)に分けられた、 とあり(世界大百科事典)、 飯を固粥(かたかゆ)または粥強(かゆこわ)とよび、今日の粥を汁粥(しるかゆ)といった。また固粥は姫飯(ひめいひ)とも称した。蒸した飯は強飯(こわいい)である、 とある(たべもの語源辞典)ように、飯は、 甑(こしき)、 を用いて蒸してつくられた(たべもの語源辞典)。伊勢物語に、 飯をけこ(ざる・かご)の器物に盛ってたべる、 とあるが、蒸した強(こわ)い飯であったことがわかる(仝上)。だから、「甑(こしき)」の語源は、 カシキ(炊)の転(大言海・東雅)、 あるいは、 米をかしぐ器の意(名語記・日本釈名)、 動詞「かし(炊)く」と同源か(小学館古語大辞典)、 カシキ(炊)からできた(時代別国語大辞典−上代編)、 炊籠(カシキコ)からコシキになった(たべもの語源辞典)、 等々とされるのである(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478420647.html)。つまり、上代、 米を蒸したものを常食としていたので、「かしく」は、「米を蒸すこと」をいった、 のである。しかし、 中古末頃からカタカユが常食となったため、「かしく」は、「米を炊くこと」を言うようになった、 とある(日本語源大辞典)。平安後期の「江家(ごうけ)次第」には、 固粥は高く盛られて箸を立てることが見えている。固粥は姫飯ともいわれ、後世の飯(いい)であると思われる。飯や粥には米だけのものではなく、粟飯(あわい)・黍飯(きびい)もあった。貴族は汁粥を多く食べていたようであるが、平安末期になると正規の食事でも固粥(飯)を用いた、 とある(日本食生活史)。固粥よりも、水の量が多く、柔らかく炊いたものが、 粥、 で、後世の粥に当たる。 粥には白粥・いも粥・栗粥などがある。白粥は米だけで何も入れてない粥である。いも粥はやまいもを薄く切って米とともに炊き、時に甘葛煎(あまかずら)を入れてたくこともある。大饗(おおあえ)のときにそなえて貴族の食べるものである。小豆粥は米に小豆を入れ塩を加えて煮たもの。栗を入れてたいたものが栗粥である。さらに魚・貝・海藻などを入れて炊く粥もあった、 とある(仝上)。鎌倉時代は、平安時代を受け継ぎ、蒸した強飯が多かったようである。 米を精白して使うことは公家階級のわずかな人々の間に行われた程度であった。それも今日の半白米ぐらいである。玄米食は武家や庶民の間に用いられ、一般的であった。今日の飯と粥に当たる姫飯(固粥)と水粥(汁粥)とは僧侶が用い…たが、鎌倉末期になり、禅宗の食風がひろまると強飯は少なくなり、…今日の習慣にように姫飯を常食とする傾向になった、 とある(仝上)。鉄製の鍋釜ができるのは、室町以降だが、ようやく、 固粥を飯と言い、汁粥を粥、 というようになる(たべもの語源辞典)。 「かしぐ」は、従って、 甑、 と深くつながり、 米を蒸すのに用いるコシキ(甑)と関係のある語か(筆の御霊・松屋筆記)、 ケシキ(食敷)の転。下に藁を強いて食物を蒸したことから(名言通)、 は、「甑」が、 カシキ(炊)の転(大言海・東雅)、 動詞「かし(炊)く」と同源か(小学館古語大辞典)、 等々と裏返しである。どちらが先かは、判然としないが、「かしく」は、 ケ(食)の活用語か(日本語源=賀茂百樹)、 カシはケシ(食為)の転呼。クは飲食に関する原語(日本古語大辞典=松岡静雄)、 よりは、 コシキ(甑)+ク(動詞化)。甑にかけて蒸す(日本語源広辞典)、 の方が、まだ納得できる。 昔かなえ(鼎)の上に甑をのせて飯をかしいだことが『空穂物語』にある。室町時代になると、かなえを「かま」とよんだ。飯はかしぐといい、粥は煮るというが、かしぐとは甑をつかうからであろう、 とある(たべもの語源辞典)のが、「甑」と「かしく」の関係をよく示す。 ちょうど「こしき」が「かま」に転じるころ、「いひ」が「めし」という言葉に転換する時期になる。それが鉄製の鍋釜が普及する江戸時代となる(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471966862.html)。 「たく」が、 飯を炊く、 という意で、 煮る、 とか、 加熱する、 とか、 湯を沸かす、 意で使うのは、かなり新しく、 もともと、ニル、カシクになっていた意味領域に、中世後期からタクが意味領域を拡大して侵出していったと考えられる。飯についてはタクといい、汁物(野菜)など飯以外の物についてはニルという現代共通語の体系が、近世から近代にかけて成立した、 と見られる(日本語源大辞典)。江戸語大辞典では、 飯をたく、 を、 副食物を煮るの対、 としているのは、そういう背景がある。ところで、飯の上手な炊き方を示す言葉に、 はじめチョロチョロなかパッパ、ジュウジュウいうとき火を引いて、赤子泣くとも蓋とるな、 というのがある。はじめは弱火で釜全体を温め、中頃は強火で加熱する。沸騰したら火を弱め、最後は蓋を取らずに余熱で蒸らすという意味だが、この炊き方は、 炊き干し、 と呼ばれる(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40806)とある。この炊き方は、 水が多い最初のうちは「煮る」状態だが、水が少なくなってくると「蒸す」状態になる。つまり、「煮る」と「蒸す」を組み合わせた調理法、 であるが、これが定着したのは、江戸時代から、とされる(仝上)。 漢字「焚」(漢音フン、呉音ブン)は、 会意、「林+火」で、林が煙を噴き上げて萌えることを示す、 とある(漢字源)。別に、 会意文字です(林+火)。「木が並び立つ」象形と「燃え立つ炎」の象形から「林を火で焼く」を意味する「焚」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji2571.html)。ほぼ同義である。 「炊」(スイ)は、 欠(ケン)は、人が背をかがめ、口を開けてしゃがんださま。炊は「火+欠」で、しゃがんで火を吹き起こすさま、のち、広く、火を起こして煮たきすること、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(火+吹くの省略形)。「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「人が口を開けている」象形(「吹く」の意味)から、火を吹いて「飯をたく」を意味する「炊」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1570.html)。 「爨」(サン)は、「飯を炊く」意の、 炊爨(スイサン)、 という言葉があるように、「かしぐ」意で、 会意。「かまどの形+臼(両手)+両手+火」で、両手でもって木を竈の下に入れて、火を燃やすさまを示す。かまどの狭い穴にたき木を入れ込む動作を指す言葉、 とある(漢字源)。和語で、 爨(さん)、 というと、 おさんどん、 つまり、 飯を炊く女、 の意になる。「おさん」については、「権助」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478489648.html)で触れた。 なお、「めし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471966862.html)については、触れた。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館) 「たぬき汁」は、 狸汁、 と当てるが、 狸の肉に大根・牛蒡などを入れて味噌で煮た汁、 の意と、 蒟蒻と野菜一緒に胡麻油でいため、味噌で煮た汁。上記の「たぬき汁」の代用とした精進料理、 の、二つの意味が載る(広辞苑)。蒟蒻による「たぬき汁」は、江戸時代から、その名で呼んでいる(たべもの語源辞典)とある。 寛永二十年(1643)の『料理物語』には、 味噌にて仕立候、妻は大根牛蒡、 とあり、文化十四年(1817)の『瓦礫雜考』には、 狸汁は、今の蒟蒻を味噌汁にて煮たるには非らず、 とある。この頃には、「蒟蒻仕立て」が隆盛だったのだろう。 「けんちん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477345064.html)で触れたが、 普茶料理(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474648427.html)、 あるいは、 卓袱料理(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471380539.html)、 は、「普茶料理」が、 卓袱(しっぽく)料理の精進なるもの、 とあり(大言海)、料理山家集(1802)には、 普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす。卓袱は魚類を以って調じ、仕様も常の会席などと別に変りたる事なしといへども、蛮名を仮てすれば、式と器の好とに、心を付ける事肝要なり、 とあり、それで、 精進の卓袱料理、 といわれ(たべもの語源辞典)、「卓袱料理」もその精進版「普茶料理」、何れも中国からの伝来で、油を使うところが特徴である。 ただ、安永七年(1778)『屠龍工随筆』には、 狸を汁に煮て食ふに、其の肉を入れぬ先に、鍋に油を引きて炒りて後に、牛蒡大根など入れて煮るがよし、 とあり、同じく同書には、 蒟蒻などを油にていためて、牛蒡大根などまじへて煮るを狸汁、 ともあるので、もともと「たぬき汁」が油を使っていたとも、逆に精進系の蒟蒻版「たぬき汁」の影響のようにも見えるが、 獣肉食が禁止されていた仏僧によって、タヌキの代わりに凍りコンニャクをちぎって胡麻油で炒り、そこに良く擦ったおからを加え味噌汁にすると、味がそっくりになることから、これが精進料理として広まった、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%AC%E3%81%8D%E6%B1%81)ので、前者のようである。宝暦頃(1751〜64年)の『籰絨輪』に、 狸汁にばけるこんにゃく、 とあるので、広く蒟蒻版が広まっていたことになる。奈良奉行川路聖謨の日記『寧府紀事』の嘉永元年(1848年)1月25日に、 「宝蔵院は昨日稽古はじめなるに古格にて狸汁を食するよし也いにしへは真の狸にて稽古場に精進はなかりしが今はこんにゃく汁を狸汁とてくはするよし也」、 と記されている(仝上)、とある。 別に、 凍こんにゃくをむしって胡麻油で揚げたものを実とした豆腐かす(おから)の味噌汁、 も「たぬき汁」と呼ばれたようである(たべもの語源辞典)。 「たぬき」については、「狸寝入り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/469925330.html)で触れたれたように、 狸、 貍、 と当てる。 アナグマと混同され両者ともムジナ・貒(まみ)といわれる。ばけて人をだまし、また腹鼓を打つとされる、 とある(広辞苑)。「むじな」は、 狢、 貉、 とあてるが、「むじな」は、 アナグマ、 の異称。しかし、 混同して、タヌキをムジナとよぶこともある、 とある(広辞苑)。和名抄には、 「貉、無之奈、似狐而善睡者也」とあるが、 文明本節用集には、 「貉、ムジナ、狸類」 とある(岩波古語辞典)。「たぬき汁」では、どちらを食べていたのだろうか。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 「籠」は、 かご、 とも訓むが、 こ、 とも、また、 ろう、 とも訓ませる。これは「籠」の漢音である。いずれも、 かご(籠)、 の意の、 竹や籐(とう)・藺(い)・柳・針金などで編んだり、組んだりした器物、 の意がある。 ただ、「こ」には、 伏籠・臥籠(ふせご)、 の意、つまり、 伏せておいてその上に衣服をかける籠。中に香炉を置いて香を衣服に移したり、火鉢などを入れて服を乾かしたり暖めたりするのに用いる。竹または金属でできているもの、 の意もある(精選版日本国語大辞典)。あるいは、 富士籠 とも、 匂懸(におひかけ)、 とも言う(広辞苑・仝上)。 また、「ろう」は、「かご」の意で、 印籠、 蒸籠(せいろう)、 灯籠、 薬籠、 等々の他に、 籠絡、 牢籠、 というように、 中にこめる、とりこむ、 意と、 籠居、 籠城、 参籠、 というように、 中に閉じこもる、 意もある。ただ、この意で使うのは、わが国だけの使い方のようである(字源・漢字源)。 ここでは「こ」と訓む、 籠、 である。これは、 籠(こ)もよ み籠(こ)もち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも(雄略天皇) にある「こ」である。 「かご」の古形、 とされる。「こ」は、 コム(籠)の義、ケ(笥)に通じるか(大言海)、 ケ(笥)の転音(日本古語大辞典=松岡静雄)、 と、「笥」と関わらせる説がある。「け(笥)」は、 物を盛り、また入れる器、 の意で、特に、新撰字鏡(898〜901頃)に、 箪 笥也、円曰箪方曰笥 太加介(タカケ=竹笥)、 とあるように(「簞」は、「簞食(タンシ)」というように、竹で編んだ丸い飯びつや「簞笥(タンス)」のように、はこの意)、 飯を盛る器、 で(精選版日本国語大辞典)、「け(笥)」は、 古形「瓮(カ)」の転、 とある(岩波古語辞典)。「か(瓮)」は、 甕、 とも当て、 平瓮(ひらか)、 斎甕(みか)、 のような複合語だけに見られる(仝上・大言海)。 か(ka 瓮)→け(ke 笥)→こ(ko 籠)、 と、 a→e、 e→o、 と母音交替した可能性はある。この三者の関係から考えると、 カゴ(籠)の義(名言通)、 カゴの上略(和句解)、 と「かご」とつなげる必要はなさそうな気がする。 「かご(籠)」は、 藍、 とも当て(岩波古語辞典・大言海)、 こ(籠)、 とも、 かたま(堅間)、 かため(堅目)、 かつま(かつみ)、 等々とも言う(仝上)が、 構籠(カキコ)の略か、壁(カベ)も、構隔(カキヘ)なるべし(大言海・日本語源広辞典)、 囲むの義(和語私臆鈔・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、 カ(囲)+コ(込める)の変化(日本語源広辞典・日本釈名)、 等々、 竹で組んだ入れ物、 竹製の囲んだもの、 囲い込めるもの、 等々、入れ物を意識した語源か、 タカケ(竹笥)の転(言元梯)、 カタメ(堅目)の義(名言通)、 等々「竹」を意識した語源説があるが、「かご」は、 か(ka 瓮)→け(ke 笥)→こ(ko 籠)、 の変化の「か」と関わるとみていい。むしろ、 上代に〈こ〉と呼ばれていたことを考えれば、〈か〉の由来する言葉との合成語であることがわかる。すなわち〈か〉は竹の意とも堅の意ともいわれ、〈こ〉に形容的に冠している、 とする(世界大百科事典)ように、「かご」の「ご」は、 古形「こ」、 で、それに、「たけ」の「た」がついた、というのが妥当なのではあるまいか。鎌倉時代の『名語記』、 こころ流浪の行人のせなかに負たる籠をかこおひとなつけたり、 と、「かご」は「かこ」と清音であったのだから。 また、「タケ(竹)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461199145.html)で触れたが、「たけ」には、 タは竹の意の朝鮮語(tai)からとする説、 もあり(日本語源大辞典)、「かご」や「こ」が「竹」と関わる以上、「竹」との関連は捨てがたい。もう一つ気になるのは、「竹」は、 篠竹以外、ほとんどが中国由来、 ということだ。「竹」とともに、「タケ」を示す言葉が入ってきたことを想定できるとすると、 中国音tikuがtake音韻変化した語(日本語源広辞典)、 もあり得る。その場合も「た」は「たけ」の「た」である。 「籠」(漢音ロウ、呉音ル)は、 会意兼形声。「竹+音符龍(ロウ 円筒状で長い)」。大蛇のような細長い竹かご、 とある(漢字源)。別の解釈に、 会意兼形声文字です(竹+龍)。「竹」の象形と「龍」の象形(「龍」の意味だが、ここでは、「つめこむ」の意味)から、「土を詰め込む竹かご(もっこ)」を意味する「籠」という漢字が成り立ちました、 という説もある(https://okjiten.jp/kanji1369.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「まさに」は、 正に、 将に、 当に、 等々と当てる。 まさにその通り、 というように、 間違いなく、 確かに、 の意で使う(広辞苑)が、この場合、「ある事が確かな事実である」という意で、 見込み通りに(事が起こり行われて)、 とか、 (社会的に定められている通りに)当然のこととして、 とか、 期待通りに、 とか、 の「まさに」の意と、また、「実現・継続の時点を強調する」という意で、 ちょうど、 とか、 いまや、 という意の「まさに」の意とがあり(「将に」とも当てる)、「確かに」の意の「まさに」には、微妙な含意の幅がある(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)。 さらに、漢文訓読から起こった用法として、 学生たる者正に学問に励むべきだ、 と、 まさに…べし、 などの形で、 当然あることをしなければならないさま、ぜひとも、 の意でも使い(「当に」とも当てる)、また、 飛行機が正に飛び立とうとしている、 と、 まさに…せんとする、 という形で、 ある事が実現しそうだという気持ちを表す、 意でも使う(「将に」とも当てる)し、反語的に、 いまの翁まさに死なむや(伊勢物語)、 と、 どうして…しようか、 というように、 思い通りにはならない、 意を表す(仝上)。なお、 漢文で予想を表す辞の「将」の訓としても用い、予想通りにの意。また漢文で「当」「合」「応」などの辞も「マサニ」と訓む。これらの漢文は、本来、二つの物や事がぴたり一致する意を含む点で「まさに」にあたる。「方」はきっちり、ちょうどの意でマサニと訓む。「まさに……すべし」とだけ呼応するのは後世の訓読で、平安初期には、「まさに……む」とか、命令形、時には過去形と呼応した例もある、 とある(岩波古語辞典)。 この「まさに」は、 マサ(正・当)の副詞形、 であり、 見込み・予定・期待通りにの意、転じて、ちょうど、ぴたりと、 の意である(岩波古語辞典)。つまり、 思いと現実が重なる、 のが、「まさに」の意で、「まさ」は、 正、 当、 雅、 昌、 等々と当てる(岩波古語辞典・日本語源広辞典)。「まさ」は、 マはメ(目)の古形、サは方向の意で、タタサ(縦)、ヨコサ(横)のサに同じ。目の向く方向の様子の意。転じて、見込み・予想・予定の意。類義語タダ(直)は、直接的、一直線的で、曲折の無い意、 とあり(岩波古語辞典)、 予想にぴたり一致し、的中した事態が実現するさま、また、当然の期待に合致するさま、 とあり(仝上)、 柾、 と当てると、 正目、 つまり、 木目の真っ直ぐなるものを指す(仝上)。 当てた主な漢字を見ておくと、「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、 会意。「―+止(足)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(まっすぐに進)の原字、 とある(漢字源)。別に、 会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji184.html)。 「正」は、まさしくと訳す、正面の義、偏の反なり、花正開といへば、花が十分の見頃になりたるなり、 とある(字源)。「正」は、時機のぴたり合う、という意のようである。 「将(將)」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、 会意兼形声。爿(ショウ)は、長い台を縦に描いた字で、長い意を含む。將は「肉+寸(手)+音符爿」。もといちばん長い指(中指)を将指といった。転じて、手で物をもつ、長となって率いるなどの意味を派生する。またもつ意から、何かでもって処置すること、これから何かの動作をしようとする意などをあらわす動詞となった。将と同じく「まさに……せんとす」と訓読することばに、且(ショ)がある、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(爿+月(肉)+寸)。「長い調理台」の象形と「肉」の象形と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形から、肉を調理して神にささげる人を意味し、そこから、「統率者」、「ささげる」を意味する「将」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji1013.html)。 「且」も、確かに、 且為所虜(且に虜にせられんとす) と使われ(史記)、「まさに……せんとす」と訓ますが、接続詞「かつ」の意で見ることが多い。「且」(漢呉音シャ、漢音シャ、呉音ソ)は、 象形。物を積み重ねたかたちを描いたもので、物を積み重ねること。転じて、かさねての意の接続詞となる。また、物の上に仮にちょっとのせたものの意から、とりあえず、間に合わせの意にも転じた、 とある(漢字源)。 「将」は、既の反なり、欲然也と註す、まさに何々せんとすとかへり訓む、 とあり(字源)、論語に、 子曰、孟之反不伐、奔而殿、将入門、策其馬曰、非敢後也、馬不進也、 子曰く、孟之反(もうしはん)、伐(ほこ)らず。奔(はし)って殿(でん)たり。将(まさ)に門に入らんとす。 其の馬に策(むちう)って曰う、敢(あえ)て後れたるに非ず、馬進まざるなり。 とある。 「当(當)」(トウ)は、 形声。當は「田+音符尚(ショウ)」。尚は、窓から空気の立ち上るさまで、上と同系。ここでは単なる音符にすぎない。當は、田畑の売買や替地をする際、それに相当する他の地の面積をぴたりと引き当て、取引をすること。また、該当する(枠組みがぴたり当てはまる)意から、当然そうなるはずであるという気持ちをあらわすことばとなった、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(尙+田)。「神の気配」の象形と「家の象形と口の象形」(「屋内で祈る」の意味)と「区画された耕地」の象形(「田畑」の意味)から、田畑に実りを願って事に「あたる」を意味する「当」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji238.html)。 「方」(ホウ)は、 象形。左右に柄の張り出した鋤をえがいたもので、⇆のように左右に直線状に延びる意を含み、東⇔西、南⇔北のような方向の意となる。また、方向や筋道のことから、方法の意が生じた、 とある(漢字源)。別に、 象形文字です。「両方に突き出た柄のある農具:すきの象形」で人と並んで耕す事から「ならぶ」、「かたわら」を意味する「方」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji379.html)。 「方」は、方位の方にて、その方に向ふ義。まさかりと訳す。花方開といへば、花がいまをさかりと咲けるなり、又方今と熟し、さしあたってと訳す、 とある(字源)。左伝に、 水潦(すいろう)方隆、疾瘧(しつぎゃく)方起、 とある(仝上)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) 簡野道明『字源』(角川書店) 「を(お)ざす」は、 建す と当てる。 北斗七星の斗柄が、十二支のいずれかの方角を指す。陰暦の正月は寅の方角を指し、二月は卯を指し、順次一年間に十二支の方角を指す、 とある(広辞苑)。この順で、 三月は、辰、 四月は、巳、 五月は、午、 六月は、未、 七月は、申、 八月は、酉、 九月は、戌、 十月は、亥、 十一月は、子、 十二月は、丑、 を指す。 「斗柄」は、 とへい、 と訓むが、 けんさき、 とも訓まし(大言海)、 北斗七星のひしゃくの柄の部分、 をいい、 大熊座のイプシロン・ゼータ・エータの三星、 を指し、古代から、 これのさす方向で時刻や季節を判別した、 とある(精選版日本国語大辞典)。別に、 斗杓(とひょう)、 斗杓(としゃく)、 ともいう(仝上)。 「をざす」は、 尾指すの意、 である(和訓栞・広辞苑・岩波古語辞典・大言海)。これは、 漢字「建」に、 北斗七星の柄が、ある方向を指す、 という意味があり、 建寅(月)(ケンイン 夕方、星が見え始める時刻に寅の方向を指す=正月)、 建卯(月)(ケンポウ 同上、卯の方向を指す=二月)、 建辰(月)(ムンシン 三月)、 建巳(月)(ケンシン 四月)、 建午(月)(ケンゴ 五月)、 建未(月)(ケクビ 六月)、 建申(月)(ケンシン 七月)、 建酉(月)(ケンユウ 八月)、 建戌(月)(ケンジュツ 九月)、 建亥(月)(ケンガイ 十月)、 建子(月)(ケンシ 十一月)、 建丑(月)(ケンチュウ 十二月)、 という意味があることから、「建」を当てた、というか、「建」を「をざす」と訓ませた、とみられる。わが国では、たとえば、 建寅月、 を、 寅にをざす月、 というように訓ませた(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)。 これを、 十二月建(げっけん)、 といい、 閏月(うるうづき)は二四節気の節による、 とある(精選版日本国語大辞典)のは、陰暦では、1年につき約11日ズレるため、それを解消するため、 二十四節気との関連で、2年ないし3年に1度ずつ閏月をおいて補正する、 ことを指している(仝上)。 戦国時代の『鶡冠子(かつかんし)』に、 斗柄指東、而天下知春、 とあるらしいが、江戸中期の『和漢三才図絵』に、 北斗……、劔峰時々替、以可知時刻及月建、以毎昏時、劔峰所指方、知月建即気令所旺也、如正月黄昏則指寅、二月昏則指油卯(正月為寅月、二月為卯月)、謂之月建、 とある。 太陽暦では一月一日から一年が始まるが、中国で始まった太陽陰暦(月の満ち欠けをもとにした太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦(暦法))は、農耕用であったので、二十四節気の立春を年初とする説がある。しかし、正月という月名は、正月中(雨水)で定まるが(雨水(うすい)は、二十四節気の第二。正月中(通常旧暦1月内)。冬至→小寒→大寒→立春→雨水→啓蟄→春分と続く)、立春は正月の中に在るとは限らない。しかし、理想的には、春は立春より始まるとして、 正月、二月、三月を春、 四月、五月、六月を夏、 七月、八月、九月を秋、 十月、十一月、十二月を冬、 と区分し、それぞれの季節に、 孟、 仲、 季、 を冠して、 孟春(正月)、 仲春(二月)、 季春(三月)、 と呼んできた(広瀬秀雄・前掲書)。漢の武帝の時代から、 雨水を含む月の第一日(朔)から暦年を数え始めるのが定着した、 とある(仝上)。以降二千年採用されてきたが、『史記』によると、それ以前、 夏正は正月をもってし、殷では十二月を以てし、周正は十一月を以てす、 とあり、夏は、 寅の月(一月)を正月とし、これを人正(じんせい)、 といい、殷では、 丑の年(十二月)を正月とし、これを地正、 といい、周では、 子の年(十一月)を正月とし、天正、 と、正月が分れていた(内田正男『暦と日本人』)。つまり、 冬至を含む月(十一月 冬至月)、 大寒含むその翌月(十二月 大寒月)、 雨水を含むその翌月(一月 雨水月)、 は、年初月になる資格がある、のだという(仝上)。この正月の三つの定め方を、 三正、 というらしい(仝上)が、これは、 夏の時代に北斗の尾は建寅月(雨水月)の夕刻には、垂直になって真北(子の方向)を指していたが、周の初期には、それが冬至の頃の夕刻になっていた、 という。つまり、 夕刻に、北斗の尾が垂直になる季節(月)が変わる、 「歳差」が生じていたためらしい(広瀬秀雄・前掲書)。わが国に入ってきたのは、 夏の正月、 つまり、 雨水月、 を正月としたもので、 建寅月、 という呼び方も、そのまま受け入れた(仝上)。 さて、「建」(漢音ケン、呉音コン)は、 会意。聿(イツ)は、筆の原字。筆を手で持つさまを表す。のち、筆の意の場合は、竹しるしを添えて筆と書き、聿は、これ、ここなりなど、リズムを整える助詞を表すのに転用された。ここでは、筆をまっすぐ手で立てたさま。建は「聿(ふで)+廴(進む)」で、体を真っ直ぐ立てて堂々と歩くこと、 とある(漢字源)。別に、 会意。廷(てい)(廴は省略形。朝廷)と、聿(いつ)(筆の原字。法律)とから成り、法律を定めて国を治める、転じて「たてる」意を表す、 という解釈(角川新字源)もあるし、 会意文字です(廴+聿)。「十字路の左半分を取り出し、それを延ばした」象形(「のびる」の意味)と「手で筆記用具を持つ」象形(「ふで」の意味)から、のびやかに立つ筆を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「たつ・たてる」を意味する「建」という漢字が成り立ちました、 という解釈もある(https://okjiten.jp/kanji569.html)。 「建」は、 立てると、始むるとの意を兼ね、建国とは、国家を開き始むる義、易経に、 天造草昧、利建侯、 とある(字源)ので、「立つ」意からの解釈と、「始める」意からの解釈が並立することになるらしい。 参考文献; 内田正男『暦と日本人』(雄山閣) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社) 「笑笑」は、昨今、 わらわら、 と訓ますらしいが、本来は、 ゑみゑみ、 と訓ませる(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)。 にっこりと、 といった、 笑みを含んださま、 に言う。 光の中に、年よりたる姥(うば)の、ゑみゑみとしたる形を現はして見えけり(古今著聞集)、 と、副詞として使うが、動詞として、 声たかくゑわらひなどもせで、いとよし(枕草子)、 と、 ほほえみ笑う、 意で、 笑笑(ゑわら)ふ、 とも使う。さらに、「笑笑」は、 声たかくゑわらひなどもせで、いとよし(枕草子)、 とあるように、 ゑわらひ、 とも訓ます(精選版日本国語大辞典)。これは、 つつましげならず、ものいひ、ゑわらふ(枕草子)、 と使われる、 動詞「えわらふ(笑笑)」の連用形の名詞化、 である(仝上)。「つつましげならず」とあるのは、この場合の「ゑわらふ」が、 ほほえみ笑う、 意ではなく、 声に出して笑う、 意だからである。 「ゑむ」は、「えむ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449771882.html))で触れたように、「わらう」が、 割れ、破れ、散る、 という眼前の表情変化から来た言葉であった(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html?1494102077)と同様、「えむ」にも、 にこにこする、ほほえむ、 の意の他に、 蕾がほころびる、 さらには、 栗のイガが割れる、果実が熟して自然に割れる、 という意もある(広辞苑)。これは、「ゑむ」に当てた「笑」(ショウ)の字が、 会意。夭(ヨウ)は、細くしなやかな人。笑は「竹+夭(ほそい)」で、もと細い竹のこと。正字は「口+音符笑」の会意兼形声文字で、口を細くすぼめて、ほほとわらうこと。それを誤って咲(わらう→さく)と書き、また略して笑を用いる(漢字源)、 という経緯が関係しているのかもしれない。「咲」(ショウ)の字は、 「口+音符笑」が、変形した俗字。日本では、「鳥なき花笑う」という慣用句から、花がさく意に転用された。「わらう」意には笑の字を用い、この字(咲)を用いない(仝上)、 とある。 ただ大言海は、「ゑむ」に、二項立て、 笑む、 咲む、 と当てて、 口を開かんとする義。ゑらぐ(歓喜)に通ず、 とする、 心に愛ずることありて、顔にあらはれて、にこやかになる、笑ひをふくむ、ほほえむ(声を発せず)、 意と、 花咲き、蕾ほころぶ、 意を載せ、別に、 罅む、 と当て、 (笑むの義)裂け開く(栗毬(いが)など)、 の意とする。因みに、「ゑらぐ」は、 歓喜、 と当て、 笑む義、 とし、 いかんぞと天鈿目命かくゑらぐやとおぼして(神皇正統記)、 歓喜盈(えらぎます)懐、更欲貢人(雄略紀) と、 笑み楽しむ、 意とする(大言海)。 どうやら、「えむ」も、「わらう」と同じく、表情の変化から来ているらしいことは推測がつくが、 口が開きはじめる、さける(日本語源広辞典) では「えむ」の謂れの説明になっていない。といって、 ヱを発音するときは、口角が上がり、笑うときに似ているところから(国語溯原)、 口を開こうとする義、ヱラグの略(大言海)、 エエと、咲い出しそうな様子が顔に見える義デ、エミ(咲見)から(言元梯)、 ヱ(笑)が語根デ、ムは含むの略(類聚名物考・日本語原学)、 エミ(得見)か。自分の得たいものを得て見る時、喜びの表情が現れるから(和句解)、 等々の語源説も、どうも明快ではない。敢えて言うなら、語呂合わせではない、 ヱラグの略、 とする『大言海』の転訛説をとりたい(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449771882.html)。 「笑」の成り立ちとしては、 象形文字です。「髪を長くした若いみこの象形」から「わらう」を意味する「笑」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji383.html)。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「そばだつ」は、 峙つ、 聳つ、 喬立つ、 側つ、 屹つ、 等々と当てる(広辞苑・岩波古語辞典・大言海等)。古くは、 そばたつ、 と言った(仝上)。 たかくそびえる、 という意味だが、 かどが立つ、 という意もある。「そば」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/437123006.html)は、古名は、「そばむぎ」で、その略とされる。語源は、 そば(稜・カド)、 で、 とがったカド(稜角)がある三角形の実の穀物、 が語源とされる。ただ「そばだつ」には、 攲つ、 と当てるものがあり、 斜めにたてる、 と そびえたたせる、 意とあり、ともに、古くは、 そばたつ、 と言っていたようで、平安末期の『色葉字類抄』に、 欹 ソハタツ、 とあり、『名義抄』の鎌倉中期写しの『高山寺本名義抄』にも、 側 ソバタツ、 と清音形で挙げており、室町末期の『日葡辞書』では、 「Sobatatatsu」「Sobatatatsuru」に、それぞれ「Sobadatatsu」「Sobadatatsuru」としている、 ことから、 室町時代末期には、ソバダツ、ソバタツ両形、 があり、それ以前はソバタツと清音であった(岩波古語辞典)。両者は、 峙つ、 聳つ、 喬立つ、 側つ、 屹つ、 が、四段活用なのに対して、 攲つ、 は、下二段活用と、異なり、後者は、前者の 他動詞形、 とあり(大言海)、本来は、同じであった可能性がある。口語形は、 そばだてる、 になるが、 攲てる、 と当て、 そびえたたせる、 意の他に、 一方の端を高くする、 意があり、その派生で、 耳をそばだてる、 とか、 枕をそばだてる、 と、 注意力をそのほうへ集中させる、 とか、 聞き耳をたてる、 意も使う(デジタル大辞泉)。口語形では、 峙つ、 聳つ、 喬立つ、 側つ、 屹つ、 と 攲つ、 の区別は消え、 攲てる、 と当てている(広辞苑・デジタル大辞泉)。 「そばだつ」の語源は、 稜(そば)立つ、 から由来していることから考えても、普通は、 稜立つの義(大言海・名言通・日本語源=賀茂百樹)、 だが、 ソビエタツ(聳立)、ソバミタツの意(和訓栞)、 もあり得る。それは、「そば」は、 稜、 傍、 側、 等々と当て、 ソハ(岨)と同根、 とあり、「そは」は、 山の切り立った斜面、 を意味し、そのため「そば」は、 原義は斜面の義、また、鋭角をなしているかど、斜めの方向の意。日本人は水平または垂直を好み、斜めは好まなかったので、斜めの位置、尖ったかどの場所の意はやがて、はずれ・すみっこの意に転じ、さらに、すこしばかりのものなどを指すようになった。またはずれ所の意から、物の脇・物の近くの意を生じた。ソバ(蕎麦)、そびゆ(聳)も同根、 とあるからである(岩波古語辞典)。 当てている「攲」(イ)は、 形声。「欠(からだを屈める)+音符奇」、 とあり(漢字源)、「かたむく」「そばだつ」意で、「攲攲」で、物のそばだつ貌の意、とある(字源)。 「峙」(漢音チ、呉音ジ)は、 形声。「山+音符寺(ジ)」。「峙立というように、山が「そびえる」「そばだつ」こと(漢字源)。 「聳」(漢音ショウ、呉音シュ・シュウ)は、 会意兼形声。從(ショウ・ジュウ)は、縦に細長いこと。聳は、「耳+音符從」で、頭にくっついた耳たぶをたてに細長くたてること、 とあり(漢字源)、「聳立(ショウリツ)」と、そばだてる意だが、「聳懼(ショウク)」と、棒立ちになる意もある。「聳耳」というように、耳を聳つの意でも使う。 「喬」(漢音キョウ、呉音ギョウ)は、 会意兼形声。喬は、高の字の上に、先端の曲がったしるしを加えた字で、上部が曲線をなしていること。また「夭(ヨウ 曲がる)+音符高」の会意兼形声文字とかんがえてもよい。高と同系だが、喬は先端がしなっている意を含む、 とあり(漢字源)、「喬木」というように、「高い」という意だが、そびえる意は薄い。 「側」(漢音ソク、呉音シキ)は、 会意兼形声。則は「鼎の略形+刀」の会意文字で、食器の鼎のそばに食事用のナイフをくっつけたたま。則が接続詞や法則(ひっついてはなれない掟)の意に転用されたため、側の字がその原義をあらわすようになった。側は「人+音符則」で、そばにくっつければ一方にかたよることから、そば、かたよるの意をあらわす、 とあり(漢字源)、「側目」というように、目を側(そば)むの意や、「盾を側だてて」というように、「立てて起こす」意がある。 「屹」(慣用キツ、漢音ギツ、呉音ゴチ)は、 会意兼形声。乞(キツ)は、下からむくっとおきてきたものが、上につかえて曲がるさまを描いた象形文字。屹は「 山+音符乞」で、山が空につかえるほど高くそそりたつさま、 とある(漢字源)。「屹立」というように、山がそばだつ意。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「そびえる」は、 聳える、 と当てる。文語は、 聳ゆ、 である。 山などが高くたつ、 つまり、 そそり立つ、 意であるが、それの派生で、 身の丈がすらりとしている、 意でも使う。 「そびゆ」の「ソビ」は、 ソバ(稜)と同根、 とある(岩波古語辞典)。「そばだつ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481874947.html?1623004913)で触れたように、「そば」は、 稜、 傍、 側、 等々と当て、 ソハ(岨)と同根、 とあり、「そは」は、 山の切り立った斜面、 を意味し、そのため「そば」は、 原義は斜面の義、また、鋭角をなしているかど、斜めの方向の意。日本人は水平または垂直を好み、斜めは好まなかったので、斜めの位置、尖ったかどの場所の意はやがて、はずれ・すみっこの意に転じ、さらに、すこしばかりのものなどを指すようになった。またはずれ所の意から、物の脇・物の近くの意を生じた。ソバ(蕎麦)、そびゆ(聳)も同根、 とある(仝上)。「そび」を使う言葉には、「聳える」意の、 そび(聳)く、 という動詞があるが、平安末期の『名義抄』には、 聳、ソビク・タナビク、 とあり、 黒くも空にそびきて(今昔物語)、 と、 雲などがたなびく、 意でも使った(仝上)。 その他に、「聳える状に云ふ」 そび(聳)け、 がある。平安後期の『字鏡』に、 聳、曾比介、 と載る(大言海)。また、 肩をそびやかす、 という「そび(聳)やかす」は、 聳えるようにする、 という意だが(広辞苑・大言海)、 背たけなどがすらりと伸びている、 という意の、 そび(聳)やく、 の他動詞形と思われる(岩波古語辞典)。 それを副詞的に使う、 そび(聳)やかに、 という、 聳え、のびやかなる状、 に使う言葉もある(大言海)。 こうみると、「そびえる」は、 「そびく」、「そびやか」と同根(角川古語大辞典)、 とともに、 ソバ(稜)と同根、 と、 そばだつ、 とも、 そば(蕎麦)、 ともつながる。 「聳」(漢音ショウ、呉音シュ・シュウ)は、 会意兼形声。從(ショウ・ジュウ)は、縦に細長いこと。聳は、「耳+音符從」で、頭にくっついた耳たぶをたてに細長くたてること、 とあり(漢字源)、「聳立(ショウリツ)」と、そばだてる意だが、「聳耳」というように、耳を聳つの意でも使うのが、おもしろい。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「惠方」は、 吉方(えほう)、 の当て字とある(大言海)。別に、 兄方、 とも当てる(デジタル大辞泉)。古くは、 正月の神の来臨する方角、 とされた(広辞苑)が、後に、暦法が中国より伝わり、 その年の歳徳神(としとくじん)のいる方角、 とされるようになる。暦は、『日本書紀』に、欽明天皇十四年(553)、 百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来た、 との記事があり、遅くとも6世紀には中国暦が伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は元嘉暦であるので、このときに伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される、 とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6・広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)。「歳徳神」は、 とんどさん、 とも言うが、 恵方神、 正月様、 神徳、 歳神、 等々とも呼ぶ。 恵方の方角にいる神、 で、 陰陽道(おんようどう)でその年の福徳をつかさどるとされる。年により恵方の方角は変わる。なお節分では、恵方の方角に向かって恵方巻を食べる習わしがある、 とある(実用日本語表現辞典・デジタル大辞泉)。江戸中期の『鹽尻』に、 歳徳の方、俗にゑ方と云、吉方とかく事、伊勢守の記、寛正六年八月、今出川殿夫人産の所に見えたり、吉をゑとよむ事、住吉をすみのゑと讀むに同じ、 とある(大言海)。「歳徳神」は、 (安倍晴明編纂の)簠簋内伝(ほきないでん)云、歳徳とは頗梨賽女(はりさいじょ)にして、八将神の母龍王の妻なりと、 とある(諸国図会年中行事大成)。「八将神(はっしょうじん)」とは、 陰陽道で、さまざまな吉凶の方位をつかさどるという八神、 太歳(たいさい)、 大将軍、 太陰(たいおん)、 歳刑(さいけい)、 歳破(さいは)、 歳殺(さいさつ)、 黄幡(おうばん)、 豹尾(ひょうび)、 を指し、方位の吉凶をつかさどる、とされる。江戸時代の儒者・中井竹山は、松平定信の諮問に応えて、 「八将軍など、いつの時よりいいだせることにや。暦法にかつて預かるものなし。多分道士の方の名目にてあらんか。一向無精の妄誕(ぼうたん)なり」 と一蹴している(内田正男『暦と日本人』)。 歳徳神の所在方位、すなわち来る方位を、 明きの方(かた)、 という。これが、 惠方、 であるが、その方角は、その年の干支で、次のように、 甲(きのゑ)と己(つちのと)の年は、甲の方の寅卯(東)の閨i東北東)、 乙(きのと)庚(かのえ)の年は、庚の方申酉(西)の閨i西南西)、 丙(ひのえ)戊(つちのえ)辛(かのと)癸(みずのと)の年は、丙の方巳午(南)の閨i南南東)、 丁(ひのと)壬(みずのえ)の年は、壬の方亥子(北)の閨i北北西)、 と決まる(大言海・内田・前掲書)。因みに、今年(2021)は、 辛丑(かのとうし)、 なので、惠方は、南南東ということになる。 兄弟(えと)の兄方なるにより吉方など云ひ、又恵なる意に寄せて。惠方などとも書く、 とある(大言海)。これは干支(えと/かんし)を、 甲(こう) 木の兄(きのえ)、 乙(おつ) 木の弟(きのと)、 丙(へい) 火の兄(ひのえ)、 丁(てい) 火の弟(ひのと)、 戊(ぼ) 土の兄(つちのえ)、 己(き) 土の弟(つちのと)、 庚(こう) 金の兄(かのえ)、 辛(しん) 金の弟(かのと)、 壬(じん) 水の兄(みずのえ)、 癸(き) 水の弟(みずのと)、 と呼ぶ際の、 甲(きのえ)の方、 庚(かのえ)の方、 丙(ひのえ)の方、 壬(みずのえ)の方、 と兄の方の意を指す(内田・前掲書)。因みに、この干支と十二支、 子(シ) ね 北 23〜1時、 丑(チュウ) うし 1〜3時、 寅(イン) とら 3〜5時、 卯(ボウ) う 東 5〜7時、 辰(シン) たつ 7〜9時、 巳(シ) み 9〜11時、 午(ゴ) うま 南 11〜13時、 未(ビ) ひつじ 13〜15時、 申(シン) さる 15〜17時、 酉(ユウ) とり 西 17〜19時、 戌(ジュウ) いぬ 19〜21時、 亥(ガイ) い 21〜23時、 を順次結びつけ、 甲子(きのえね)、 ↓ 乙丑(きのとうし)、 から、 壬戌(みずのえいぬ) ↓ 癸亥(みずのとい)、 まで、六十の組み合わせができる(干支一循60年を一元という)。 ところで、「恵方巻」を食べる「節分」は、 各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日、 を指すが、 江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日、 を指す場合が多い(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86)とある。天文学的にいうと、 太陽がその軌道上で南半球から北半球に入る時で、その時刻は東京天文台で計算される、 が、 二十四節気の時刻は四年ごとにほぼ近い値をとる。くわしく言えば四年前より45分くらい早くなるだけである。したがって四年前の時刻から45分引いた値が、夜半の0時、つまり日の境界近くにならない限り月日は簡単に決まる、 とある((内田・前掲書)。) 参考文献; 広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社) 内田正男『暦と日本人』(雄山閣) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「こよみ」は、 暦、 と当てるが、中国の旧い文献では、 歴、 の字を使っている(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)、とある。 「暦」と「歴」は同系である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9A%A6)。「暦(曆)」(漢音レキ、呉音リャク)は、 厤(レキ)はもと「禾(カ 象形。穂の垂れた粟の形を描いたもの)をならべたさま+厂印(やね)」の会意文字で、順序よく次々と並べる意を含む。曆はそれを音符とし、日を加えた字で、日を次々と順序よく配列すること、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(厤+日)。「屋内で整然と稲をつらねる」象形と「太陽」の象形から、日の経過を整然と順序立てる事を意味し、そこから、「こよみ(天体の運行を測り、その結果を記したもの。カレンダー。)」を意味する「暦」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1292.html)。 「歴(歷)」(漢音レキ、呉音リャク)は、 会意兼形声。厤は「厂(屋根)+禾(カ イネ)ふたつ」の会意文字で、禾本(カホン)科(イネ科 稲・麦・粟・稗等々)の作物を次々と並べて取り入れたさま。順序よく並ぶ意を含む。歷は、それを音符とし、止(あし)を加えた字で、順序よく次々と足で歩いて通ること、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(厤+止)。「屋内に稲(いね)を整然と並べた」象形と「立ち止まる足」の象形から、整然と並べた稲束を数え歩く事を意味し、そこから、「すぎる」・「かぞえる」を意味する「歴」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji705.html)。 「こよみ」は、「惠方」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481909221.html?1623182699)でも触れたが、『日本書紀』欽明天皇十四年(553)に、百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌欽明十五年、百済国、 貢曆博士固徳正保孫、 とあり、遅くとも6世紀には中国暦が伝来していたと考えられる。また推古十年(602)には、 百済の僧勧勒(かんろく)が暦を献上した、 とあり、この頃の百済で施行されていた暦法は元嘉暦なので、伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6・広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)。日本では、元嘉暦から宣明暦までは中国暦を輸入して使った。渋川春海の手によって日本独自の暦法を完成させたのは、江戸前期の貞享暦からである(仝上)。 百済の僧勧勒(かんろく)が献上した暦は、 こよみのためし、 と訓まれている。では、この「こよみ」の語源は何か。二つの説に分かれる。ひとつは、 カヨミ(日読)の転(東雅・嘉良喜随筆・類聚名物考・和語私臆鈔・名言通・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄・神代史の新研究=白鳥庫吉・岩波古語辞典・広辞苑)、 で、いまひとつは、 コはキヘ(来歴)の転(大言海・俗語考)、 である。両者とも、 ヨミは読むで、数える、 意であることは一致している。たとえば、本居宣長は、 日を数へていくかといふも、幾来歴(いくけ)、暦をこよみとつけたるも、来歴数(けよみ)にて、一日一日とつぎつぎに来(き)歴(ふ)るを、数へゆくよしの名なり、 とし(真暦考)、大言海は、 けよみ→こよみ、 かよみ→こよみ、 の両転訛を採っている。 コは、ケ(来歴)の轉、カとも轉ず(二日(フツカ)、幾日(イクカ)。気(ケ)、香(カ)。處(カ)、處(コ))。ヨミは、読むにて、数ふること、酉(ユウ)の字を日読(ひよみ)のトリと云ふも、鶏(トリ)に別ちて、暦用のトリと云ふ也。和訓栞、コヨミ「日読の義、二日、三日と数へて、其事を考へ見るものなれば、名とせるなり」。暦は、歴の義。説文に「歴、過也」とあり、年、月、日を歴(フ)る意。経歴と別ちて、下を日にしたるなり、 とある。 け→こ、 か→こ、 という母音交替は、 a→o、 e→o、 の、「奥舌母韻間の母音交替」がありうるとし、 「大開の母韻の発音運動が弱化すると、下顎の開き(顎角)はせまくなる。そのとき、舌の後部の奥舌が軟口蓋に近づき、唇が左右からすぼまると、半開きのオ[o]の音がひびく」 とされる(日本語の語源)。ただ、 日読(かよ)みとか、来歴数(けよみ)とかであることは……たしからしいとは考えられるが、このような暦の理解は、比較的後世のものではないかと思う、 という説明は説得力がある(広瀬・前掲書)。なぜなら、「こよみ」は、 時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの、 であり、 配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記した、 からである。それは、欽明紀にある、 暦博士、 とは、 現在の確認と未来の日次の予知技術に従事する人、 であり、この時輸入された中国暦法は、 観念論的数里体系であり、陰陽五行説のような形而上学的自然観に裏打ちされた非常に高度な文化所産であった、 ので、それまでの、 自然観に基づく本来の太陽暦、 を捨て去った。つまり、「こよみ」の、 けよみ(来歴数)、 かよみ(日読)、 という カレンダー的な解釈、 は、それ以降の思想に基づくものだ、ということなのである。それ以前は、魏志倭人伝で、 其俗正歳四時を知らず、但但春耕・秋収を記して、年紀と為すのみ、 と、中国暦法(太陰太陽暦)を知らずといわれた時期の、 農耕をもとにした四季の捉え方、 にこそ、和語の、 こよみ、 という言葉は由来している、ということなのである(広瀬・前掲書)。つまり、これは「こよみ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455951678.html)で触れたように、「暦」のある中国から見ると, 「春に耕し秋に収穫するのを一年と大ざっぱに考えている」 という程度ではあるが,季節と日々の巡りを,自然の流れの中で読んで(数えて)いたというふうに見られる。「暦」ではない,「こよみ」があったということである。 確かに、そうではなく、 日本語の「こよみ」は日を数える意である。長い時の流れを数える法が暦である。これに対し漢字の「暦」が意味するのは、日月星辰の運行を測算して歳時、時令などを日を追って記した記録である、 という解釈がある(日本大百科全書)が、この、 日を数える、 という解釈自体が、カレンダー的感覚を前提にしているということなのである。 「こよみ」の語源説の、他の、 コマカ(細)に書いたものをヨム(読)ところから、コヨミ(小読・細読)の義(和句解・日本釈名・東雅・柴門和語類集・本朝辞源=宇田甘冥)、 にも、やはりカレンダー感覚がうかがえる。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社) 内田正男『暦と日本人』(雄山閣) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「ポンチ絵」は、 寓意・諷刺の滑稽な絵・漫画、 の意(広辞苑)で、この言葉は、 1862年に横浜でイギリス人チャールズ・ワーグマンによって創刊された漫画雑誌『ジャパン・パンチ(The Japan Punch)』に由来する、 とされる。この雑誌は、 1841年にロンドンで創刊された雑誌『パンチ(Punch)』、 にならって創刊した。 時事的題材をもとにユーモラスな諷刺画を次々と掲載、大きな評判を呼んだ、 という『ジャパン・パンチ』の活動から、 ポンチ絵、 という言葉が生まれた(澤村修治『日本マンガ全史』)とされるが、正確には、本家の、 週刊誌《パンチPunch、or the London Charivari》 で掲載されていた戯画にならって、『ジャパン・パンチ』が創刊されたのだから、 1841年ロンドンで刊行された週刊誌《パンチPunch、or the London Charivari》に掲載された戯画にちなむ、 というべきかもしれない(百科事典マイペディア)。既に、明治一六年(1883)二月六日東京日日新聞には、 「ポンチ絵を善(よく)して人の似顔を写すに妙を得たり」 という記事があるので、幕末から、明治にかけて「ポンチ絵」という言葉が一般化していたことが分る。 この「ポンチ」は、 Punch、 から、とされる。「パンチ」とは、 Showのかぎ鼻で猫背な人形、 とある(リーダーズ英和辞典)が、 もともと人形芝居に出演する主要人物たる男の名、 ともあり(大言海)、 人形芝居に戯謔(おどけ)をなす者、 を指し、転じて、 寓意有りて、世を諷する戯画をも云ふ、 とある(仝上)。だから、 鳥羽絵の類、 とある(仝上)。「鳥羽絵(とばえ)」は、 江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式のひとつで、「江戸の漫画」とも言われる略画体の戯画のこと、 であるが、この名は、「鳥獣人物戯画」の作者と伝えられる、 鳥羽僧正覚猷、 に因んでいる(広辞苑)。 この「ポンチ絵」の、 マンガ的表現、 は、明治の日本で流行し、ポンチ絵入りの新聞・雑誌が日本人によっても続々刊行された。河鍋暁斎・仮名垣魯文は、日本人初の漫画雑誌、 『絵新聞日本地』 を、明治七年(1874)に刊行したし、中江兆民の仏学塾でフランス語を教えていた、フランス人のG・ビゴーも、イギリスやフランスの雑誌に報道絵画を載せつつ、明治二十年(1887)に居留フランス人向けの風刺漫画雑誌、 トバエ(TÔBAÉ)、 を創刊した(澤村・前掲書)。 狂斎とワーグマンに関係のあった小林清親も、ワーグマンの「THE JAPAN PUNCH」から派生した「清親ぽんち」シリーズを明治十四年(1881)から刊行。明治十五年(1882)頃からは「団々珍聞(まるまるちんぶん)」に毎号風刺画も描き始めていた(http://artistian.net/kiyochika/)。 ある意味、北斎の「北斎漫画」の系譜が、伏流水のように地下を通底し、文明開化とともに、海外の「風刺画」に刺激されて、地上へ出てきたような趣である。この「ポンチ絵」という言葉が、 漫画、 へとシフトしていくのは大正時代である。今日、「ポンチ絵」という言葉は、 風刺漫画、 や 戯画、 の意味はほぼ消えて、製造業や、建築業では、 概略図、構想図。製図の下書きとして作成するものや、イラストや図を使って概要をまとめた企画書、 等々を指す意味で使われている。 多くのベテラン設計者は、「3D-CADの操作に入る前に、その辺にある紙の裏などにポンチ絵を描いている」と話す。設計コンサルタントでCADIC(京都府大山崎町)の筒井真作氏もその1人。「3D-CADが普及する前は、(製図板で製図に取り掛かる前に)『定規を使わずに手で描け』とよく言われた」(筒井氏)という。同氏によればCADや製図は清書であり、清書はすでに確定している内容をきれいに表現する行為だから、その前に製品をどのような構造や形状で実現するかが確定していなければならない。その設計内容の実質的確定の過程で描くのがポンチ絵である、 とある(https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00138/031300754/)ように、 下書き、 や 概略図、 の意味で使われている。 参考文献; 澤村修治『日本マンガ全史〜「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで』(平凡社新書) 「ついたち」は、 一日、 朔日、 朔、 と当てる(広辞苑)が、大言海は、 月立、 と当てている。「ついたち」が、 ツキタチ(月立)→ツイタチ(朔日)、 と、 tukitati→tuitati、 とkの脱落した音便形と見られるからだ(日本語の語源)。似た例は、 つきたて(衝い立て)→ついたて、 タキマツ(焚き松)→たいまつ(松明)、 やきば(焼き刃)→やいば(刃)、 等々多い。いまは、 一日、 を指すが、 西方の空に、日の入ったあと、月がほのかに見えはじめる日をはじめとして、それから10日ばかりの間の称、 で、 月の初め、 上旬、 初旬、 の意である(広辞苑)。「一日」いう場合は、古くは、 閏二月のついたちの日、雨のどかなり(蜻蛉日記)、 とあるように、 ついたちの日、 といった(仝上)。 朔日(さくじつ)、 は、漢語である。詩経に、 十月之交、朔日辛卯、 とあるように、太陽太陰暦、つまり旧暦での、 毎月の初日(第一日)、 を指す。この「朔」の字を、 ついたち、 と訓ませた(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』・字源)。なお、単に、 朔(サク)、 というと、 月が太陽と同方向になった瞬間、 のことであるが、この「朔」の発生した日が、 朔日、 となる。 この時の天にある月を「新月」という。但しこの日には、月は太陽と同方向にあるので、実際には月は見えない。「月立ち」というのは月の旅立ちの意味である、 とある(仝上)。 ツキタチ(月起)の転(日本釈名・和語私臆鈔)、 も同趣旨である。 この日から月が毎日、天上を移り動く旅が始まり、第三日ぐらいには、夕方西空に低く、細い、いわゆる三日月が見え、一日、一日と日が経つに従って、月は満ち太りながら、夕方見える天上の位置は、東へ東へと移っていく。そこで毎日の月の入りの時刻はおそくなる。第七日か第八日になると、夕方の月は真南に見え、その時の月の形は、右側が光った半月で、これを「上弦の月」といい、この日を「上弦の日」または略して、単に「上弦」という。 上弦から七日か八日経つと満月の日となって、夕方に東からまんまるな「満月」が登ってきて、終夜月を見ることができる。月が西に沈むのは日の出の頃である。満月は毎月の第十五日ごろである。 満月を過ぎると、月の出は段々おそくなり、夕方にはたいてい月は見えない。その代わり、日の出の頃にまだ西の空に月が残っているのが見える。残月であり、この時の月は右側が欠けた形になっている。 第二十二、三日頃には、日出の頃の月は真南に見え、右半分が欠けた半月である。これを「下弦の月」といい、この日が「下弦」である。 それより以後、月はますます日出の太陽に近づき、第二十九日か第三十日には、月は太陽に近づきすぎるので、その姿は見えない。この日が「晦日」である、 とある(広瀬・前掲書)。漢語、 晦日(かいじつ)、 を、 つごもり、 と訓ませる。 ついたちの対、 であり、 月の下旬、 つまり、 毎月の下旬の十日ばかりの程の称、 の意であるが、 つごもりの日、 と使って、 最終日、 の意である。 みそか、 とも言うが、「みそか」は、 ミトカ/ミトヲカ(三十日)→みそか(晦日)、 の転訛とも(日本語の語源)、 ミソ(三十)カ(日)、 とも(日本語源広辞典)いう。小の月の最終日、 二十九日、 も、大の月の最終日、 三十日、 も、関係なく「みそか」と呼んでいる(広瀬・前掲書)が、特に、小の月の二十九日に終わるものは、 九日(くにち)みそか、 といい、十二月の盡日は、 おおみそか(大晦日)、 という(大言海)。 「ついたち」の語源から考えて、「つごもり」は、 ツキゴモリ(月隠)の約(大言海・広辞苑・日本語の語源) ツキゴモリ(月籠)(岩波古語辞典・日本語源広辞典)、 の意とする説が大半である。平安後期の『字鏡』にも、「晦」を、 豆支己毛利、 と当てている(大言海)。しかし、 単純なキの音節の脱落によるツキゴモリ→ツゴモリという説は、他に類例がなく極めて疑問、 とする説(日本語源大辞典)がある。 意味上対をなすツイタチと音節数の平衡性を保つためにキが脱落したという見方もあるが、上代の複合語形成の原則からは、ツキタチ・ツキゴモリよりも、ツクタチ・ツクゴモリの方が自然であり、ツクゴモリ→ツウゴモリ→ツゴモリという変化過程も考えられる。ツキゴモリは興福寺本「日本霊異記」訓釈に見られ、天治本・享和本「新撰字鏡」にはツキコモリ・ツクコモリの両訓が見られるが、特にツクコモリの意味の限定は難しい。上代において、「ツク―」は「太陰」を表し、「ツキ―」し暦日の「つき」を表すという意義分化があった可能性もあり、意義の分裂に沿って語形の分裂が起こった可能性も否定できない、 とする。是非の判断する力はないが、「つく」は、 月、 を当てる、 つく(月)夜、 つくよみ(月読)、 等々と使われる、 月の古形、 とされ(岩波古語辞典)、 複合語の中に残った、 とあるのだから、 ツキゴモリ→ツゴモリ、 よりは、より古い形である、 ツクゴモリ→ツウゴモリ→ツゴモリ、 tukugomori→tuugomori→tugomori、 と、「ついたち」と同様に、やはり「k」の脱落で転訛していくほうが、 tukigomori→tugomori、 と、「ki」の脱落よりは可能性が大きいと見た。 さて、「朔」(サク)は、 会意。屰は、逆の原字で、さかさまにもりを打ち込んださま。また大の字(人間が立った姿)をさかさにしたものともいう。朔はそれと月を合わせた字で、月が一周してもとの位置に戻ったことを示す、 とある(漢字源)。別に、 会意兼形声文字です(屰+月)。「人をさかさまにした」象形(「さからう、もとへ戻る」の意味)と「欠けた月」の象形から、欠けた月がまた、もとへ逆戻りする「ついたち」を意味する「朔」という漢字が成り立ちました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1774.html)。 「晦」(漢音カイ、呉音ケ)は、 形声。毎(マイ)は「まげを結った姿+音符母」の会意兼形声文字で、母と同系であるが、とくに次々と子をうむことに重点を置いた言葉。次々と生じる事物を一つ一つ指す指示詞に転用された。晦は「日+音符毎(マイ・カイ)」、 とある。別に、 形声文字です(日+毎)。「太陽」の象形と「髪飾りをつけて結髪する婦人の象形」(つねに女性は髪の手入れが必要な事から「つねに」の意味だが、ここでは、「夢」に通じ(「夢」と同じ意味を持つようになって)、「暗い」の意味)から、「日が暗い」を意味する「晦」という漢字が成り立ちました、 の解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2488.html)。 参考文献; 広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社) 田井信之『日本語の語源』(角川書店) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
「鳥羽絵」は、
「トバエ」という言葉は、 「金輪際(こんりんざい)」は、 金輪際ごめんだ、 と、 (多く、あとに打消しを伴って)強い決意をもって否定する意を表す語として、 絶対に、断じて、 の意で使う。あるいは、 聞きかけたことは金輪際聞いてしまはねば、気がすまぬ(膝栗毛)、 と、 どこまでも、とことん、 という意味でも使う(広辞苑・デジタル大辞泉)。これは、 金輪際、 という言葉が、 金輪奈落、 金剛輪際、 ともいい、仏語の、 金輪、 からきている。「金輪」とは、 この世界の地層の名、其最下底にあるものは風輪なり、其上に水輪あり、水輪の上に金輪あり、これ即ち地輪(大地)なり。其下水輪に接する所を金輪際と云ふ、 とある(大言海)。つまり「金輪際」は、 大地がある金輪の一番下、水輪に接するところ、 から来た言葉で、 地層のどんづまり、 を指し、そこから、 金輪際の敵、憎しといふはきやつがこと(浄瑠璃・鑓の権三重帷子)、 のように、 物事の極限、ゆきつくところ、 の意で使い、それを副詞的に使うと、上述のように、 金輪際嫌だ、 と、否定を強調する使い方になる。 『倶舎論』には、 安立器世閨iきせけん)、(世界)風輪居下、……次、上水輪、……水輪凝結為金、……於金輪上有九大山、妙高山王處中而住、 とある。妙高山とは須弥山(しゅみせん)の訳名とある(大言海)。「須弥」が漢字による音訳で、「妙高」は意訳となる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1)らしい 「金輪(こんりん)」は、 仏教的宇宙観、 に根ざしているのである。それによると、世界は、 有情世間(うじょうせけん)とよばれる人間界、 と、それを下から支えている、 器世間(きせけん)とよばれる自然界、 とに分類され、後者は、 風輪、 水輪、 金輪、 三つからなっている(日本大百科全書)。それは、 虚空にとてつもない大きさの風輪というものが浮かんでいる。その風輪の上に、風輪よりは小さいがなおかつ無限大に近いような水輪というものがあって、またその上に金輪がある。もちろん厚みも大変なものである。その金輪の上に九つの山がある。その中央にそびえるのが須弥山である。その高さは今の尺度でいうと56万キロメートルあるという。この山の南側に贍部(せんぶ)洲という名前の場所がある。ここがわれわれ人間どもの世界である、 というものである(内田正男『暦と日本人』)。「金輪」の厚みも、須弥山並にある、という。だから、その底、 金輪際、 までは底の底という感じである。古い図ではわかりにくいが、この層は、 三輪、 と呼ばれ、 虚空(空中)に「風輪」という丸い筒状の層が浮かんでいて、その上に「水輪」の筒、またその上に同じ太さの「金輪」という筒が乗っている。そして「金輪」の上は海で満たされており、その中心に7つの山脈を伴う須弥山がそびえ立ち、須弥山の東西南北には島(洲)が浮かんでいて、南の方角にある瞻部洲(せんぶしゅう)が我々の住む島、 と(http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=90)、三つの円盤状の層からなっている、とする。 いちばん下には、 円盤状つまり輪形の周囲の長さが「無数」(というのは1059に相当する単位)ヨージャナ(由旬(ゆじゅん)。1ヨージャナは約7キロメートル)で、厚さが160万ヨージャナの風輪が虚空(こくう)に浮かんでいる、 その上に、 同じ形の直径120万3450ヨージャナで、厚さ80万ヨージャナの水輪、 その上に、 同形の直径は水輪と同じであるが、厚さが32万ヨージャナの金でできている大地、 があり、その金輪の上に、 九山、八海、須弥四洲(しゅみししゅう)、 があるということになる(日本大百科全書) 「須弥山」をとりまいて、 七つの金の山と鉄囲山(てっちさん)があり、その間に八つの海がある。これを九山八海という。 周囲の鉄囲山(てっちせん)にたたえた海水に須弥山に向かって東には半月形の毘提訶洲(びだいかしゅう、あるいは勝身洲)、南に三角形の贍部洲(南洲あるいは閻浮提)、西に満月形の牛貨洲(ごけしゅう)、北に方座形の倶盧洲(くるしゅう)、 があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1)、われわれの住んでるとされる「贍部洲(せんぶしゅう)」は、インド亜大陸を示している、とされる(仝上)。その天竺図には、 須弥山(しゅみせん)の南方海上に浮かぶとされる大陸(南贍部州 なんせんぶじゅう)を、中天竺、北天竺、東天竺、南天竺、西天竺の五つの地域に分けて描き、その上に玄奘が辿った旅の道筋が朱線で示されている、 という(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455179)。 天竺図は、 天竺(インド)で生まれた仏教が震旦(中国)を通して本朝(日本)にもたらされたという地理的・歴史的な関係が表されている、 と考えられており、この三国によって世界が形成されているという見方を 三国世界観、 という(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455179)、とある 確かに、金輪と水輪の境目の「金輪際」は、贍部洲(南洲あるいは閻浮提)からみれば、 遥かな底の底、 になるわけである。 参考文献; 内田正男『暦と日本人』(雄山閣) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 「とことん」は、 とことん頑張る、 のように、副詞的に使い、 最後の最後、 とか、 徹底的に、 の意味で使うが、別に、 日本舞踊で足拍子の音、 の意で、転じて、 踊りの意、 でも使う(広辞苑)、とある。しかし、「とことん」は、「大言海」「岩波古語辞典」「江戸語大辞典」には載らない。比較的新しい言葉ではないか、と思う。 類義語「とんとん」というのは、擬音語で、 つづけて軽く打つ音、 の意だが(仝上)、そこから、 とんとん拍子、 のように、 物事が中断せず順調に進行する様子、 の意に用い(擬音語・擬態語辞典)、さらに、 収支とんとんだ、 というように、 二つのものがほぼ同程度である、 意でも使う。これは、「とんとん」の擬音に、 軽いものが続けて調子よく当たる音、 で、たとえば、 俎板の上で物を刻む音、 や 木製のものが当たる音、 の意(仝上)から来ているように思える。この「とんとん」の「とん」は、 軽いものがはずみをつけて一回当たる音を表す、 とあり(仝上)、それが、 とんとん、 と畳語することで、連続を表現する。これは、江戸時代から、 玄関の戸をとんとんと、たたく(浄瑠璃「夕霧阿波鳴門」)、 というように使われ、さらに、 とんとん、 とことん、 と、叩く音に変化をつけた使われ方になる。この「とことん」は、 わしどもやるべい、みんなそれからトコトントコトンと、はやしてくれさっしゃい(十返舎一九「東海道中膝栗毛」)、 と、囃子詞として使われている。 また、「とことん」の「とこ」は、 とことこ、 と、 すたすた、 の対になる、 狭い歩幅で、足早に歩いたり走ったりする、 擬態語としてつかわれる「とこ」である。この「とこ」は、 とこまかしてよいとこりゅう、 と、「よいところりゅう」に、 よい所流、 と当て、 ちょぼくれちょんがれちゃらまか流、とこまかしてよい所流(安政四年(1857)「七偏人」)、 と、 掛け声「とこまかして」「よいとこ」を武芸の流儀にいいなした戯語、 とある(江戸語大辞典)。 どうやら、「とことん」の「とん」も、「とこ」も拍子を取る掛け声のようである。だから、「とことん」を、 舞踊の「トコトン」は「床(とこ)」と「トン」という擬音が語源(https://www.yuraimemo.com/1410/)、 トコは床で、底の意。トンはそこを叩く音(上方語源辞典=前田勇) 日本舞踏で「トコトントコトン」という足拍子の音を意味し、転じて踊りの意味となった語で、近世には民謡などの囃子詞として用いられた(語源由来辞典)、 とする説が、語源としての大勢である。ただ、それはあくまで、 足拍子、 や 囃子詞、 であって、そこからは、 とことん話し合う、 という意の、 最後まで、 とか、 徹底的、 という意味は出てこない。そこで、明治初年(1986)に大流行した『とことんやれ節』の、 トコトンヤレトンヤレナ、 が、 軍歌でもあったことが関係し、軽快さと威勢の良さも手伝って、「徹底的」「最後まで」の意に転じた、 とする説がある(語源由来辞典他)。しかし、 とことんやれとんやれな、 は、あくまで囃子言葉にすぎず、今日的な含意を、この文句から引き出す(たとえぱ「とことんやれ」だけ抜き出すような)ことは、無理筋ではないか。それならば、「とことん」自体が、舞踊の足拍子由来であるのなら、 「床をトンと踏む」です。踊りの所作の、最後の足拍子まで、きちんとし終えるに由来する(日本語源広辞典)、 踊りの最後に踵で踏む足拍子「とことん」を用いることが多い。踊りの所作を最後まできちんとやりとげることを「とことんまでする」と言った(https://mobility-8074.at.webry.info/201605/article_39.html)、 と、踊りの足拍子に淵源すると考えた方が、自然ではあるまいか。 参考文献; 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫) 「やれやれ」は、意味に幅がある。もともとは、 感動詞「やれ」重ねて強調した語、 であり、「やれ」は、 呼びかける時、相手の注意を引く時、ふと心づいた時、困った時、他に同情する時などに発する声、 とあるが、 やんれの音便(大言海)、 あるいは逆に、「やんれ」が、 やれの転(岩波古語辞典)、 ともあり、もともとは、 やよ、 と同じく、 呼びかける声であり、「やよ」が、 やよ時雨物思ふ袖のなかりせば木の葉ののちに何を染めまし(新古今)、 と、 やあ、 とか、 やい、 とか、 もしもし、 と、呼びかける声であったように、また「やよ」が、 げにもさあり、やよ、げにもさうよのと(狂言記)、 のように、 囃子の声、 あるいは、 掛け声、 である以上、「やれ」もまた、 やれ、どうよく者、やるまいぞ(狂言記)、 や やれ、ほんさに凪ぎるやら、 と、 掛け声、 の意がある。ただ、「やれ」には、 やんれ、 や やよ、 にはない、 やれ、人にてありけりとて、河に投げ入れてけり(雑談集)、 やれ、一息つこうか、 やれ、困った、 というように、 おや、 とか、 あれっ、 といった、 ふと気づいた時や驚いた時などに発する声、 の意がある。 人に向けた発声、 が、 自分自身に向けた発声、 つまり、 つぶやき、 に近い、 思わず漏らす言葉、 に転じた、とみることができる。 だから、「やれ」を重ねた、 やれやれ、 にも、 やれやれ小僧ども、あの道無殿のお供の人に、よく酒をすすめよ(室町末期「人鏡論(ジンキョウロン)」)、 と呼びかける声の意の他に、 いやはや、 といった含意のつぶやきで、 ヤレヤレメデタイ(日葡辞書)、 やれやれありがたい、 のような、 安心したり深く感じたりしたときに、思わずこぼす言葉であったり、 やれやれ、ここで一服、 やれやれ、困ったものだ、 と、 疲労した時、あるいはあきれ果てた時にもらす言葉としても使う。これは、「やれ」と同じく、 人に向けていた声掛け、 を、 自分自身に向けた声掛け、 に転じたものとことができる。 人に向けた声掛けとしては、 やれかれ、 やれこれ、 やれそれ、 等々の類義語がある(江戸語大辞典)。 やれ、 も、 かれ、 も、 これ、 も、 それ、 も、 共に、促したり、はやしたりする言葉である。 ただ、「やれやれ」には、今日、金融・証券用語に、 高値つかみで損をし、売りたくても売れなかったのが、相場がまた上がってきて安心する、 意で使う。そういう人を、 ヤレヤレ筋、 ヤレヤレ筋が売って手仕舞うことを、 ヤレヤレ筋の売り、 という(https://www.daiwa.jp/glossary/YST1781.html)、とある。「やれやれ」の漏れた吐息に近い言葉で「やれやれ」の意味の外延に入っている。 因みに、「やれやれ」の「やれ」については、 やよ、 や やんれ、 といった感動詞由来ではなく、 やる(遣る)の命令形、 という説(日本語源広辞典)がある。「やれ」の元を辿れば、 命じてやらせる、 意がなくはないかもしれないが、命令形の含意と、掛け声の「促す」含意とは少し差がある気がする。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「伊達巻」は、 といた卵に白身魚のすり身を加えて甘みと塩で味付けした卵焼き器で厚焼きにしてから巻き簀(す)で渦巻状に巻いたもの、 で(たべもの語源辞典)、 伊達巻玉子、 とも呼ぶ(仝上)。正月料理や祝い事には欠かせない料理となっている。 この「伊達巻」には、 水分が多くジューシーなタイプ、 と、 水分が少なめでカステラのような食感のもの、 と二つのタイプがあり(https://www.kamaboko.com/column/2208/)、 主に江戸時代に長崎に伝来した「カステラ蒲鉾」という料理が伊達巻の始まり、 との説もある(仝上)のは、 スポンジケーキ状に焼くにはオーブン(天火)の存在が不可欠であることから、ポルトガルのロールケーキである「トルタ・デ・ラランジャ」の技法が応用された、 と考えられている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%B7%BB)からである。 「伊達巻」には、 女性が和服の着くずれを防ぐために締める幅の狭い帯。博多織などのしっかりした布で作り、端をはさみ込んでとめる、 の意もある。これは、 だてじめ、 ともいう(広辞苑)が、正確には、 伊達巻の両端を結ぶことができるようにしたもの、 が、 伊達締め になる(デジタル大辞泉)。結ぶ部分以外に芯を入れるものが多い。伊達締めは、 紐の一種、 だが、伊達巻きは、 幅の狭い単帯(ひとえおび)、 になる(https://oiwai-kimono.com/kihon/datejime.html#datejime_datemaki)。とはいえ、「伊達巻」も「伊達締め」も、着物の表に出して見せるものではない。「伊達締め」は、 長襦袢の胸元をととのえるためと長着のお端折(はしより)を始末するために用い、二巻きして端をはさみこむ。正絹で中央が堅く織られている博多織がかさばらずに使いよい。伊達巻は倍ほどの長さでぐるぐる巻きつけて体型の補整も兼ね、花嫁衣装の着付などに用いる、 ともある(世界大百科事典)。 食べ物の「伊達巻」を、 女性用の和服に使われる伊達巻きに似ていることからこう呼ぶようになった、 とする説がある。 着物の伊達巻と料理の伊達巻の形が似ていること、また着物の伊達巻の巻く時の動作と、伊達巻を巻く時の動作が似ている、 ことかららしい(https://www.kamaboko.com/column/2208/)。 しかし、他に、「いなせ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html)で触れた、 伊達者、 というような、 ことさら侠気を示そうとすること、 あるいは、 人目を引くように派手にふるまうこと、 という意(広辞苑)とともに、 あか抜けていきであること、 とか さばけていること、 という含意もある、 伊達、 からつけられたとする、 伊達巻も鮮やかな黄色をしていて、食べ物の中でも人目をひく色合いであることから「派手な卵焼き」として伊達巻と名付けられたと言われています。 また、当時のおしゃれな若者である「伊達者」が着用していた着物の柄と形と似ていたことから、伊達巻という名前がついたとされています、 という説もある(仝上)。他に、伊達政宗が好物だったというのもあるが、これは付会にすぎるようだ。 伊達者の含意と着物の「伊達巻」を重ねて、 伊達は人目を引く派手なこと、粋であること、外見を飾ることといった意味を持っている。伊達巻は料理としてこの伊達の要素を兼ね備えている。しかも、厚焼玉子をうず巻状に巻くこの動作は、婦人が用いる伊達巻という幅の狭い帯を締めることにも似ている。これで伊達巻という名がついた、 という説明がいい(たべもの語源辞典)。 伊達(外見、見栄え)+巻き、 で、見栄えの派手さと伊達巻を巻くイメージの二重重ねということでよさそうである。 参考文献; 清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版) 増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房) 「伊達」は、当て字である。「いなせ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html)で触れたように、 伊達者、 というような、 ことさら侠気を示そうとすること、 あるいは、 人目を引くように派手にふるまうこと、 という意(広辞苑)とともに、 あか抜けていきであること、 とか さばけていること、 という含意もある、「だて」は、 タテ(立)の転、接尾語ダテの名詞化(岩波古語辞典・日本語源広辞典)、 「立つ」から、人目につくような形を表す(広辞苑)、 と、 タテダテシキの上下略しして濁る、男を立てる意。即ち男立、腕立、心中立などより移る。世には伊達政宗の部兵の服装華美なりしに起こると云へど、此語政宗の自体よりは古くありしが如し、且つ慶長の頃までは、伊達氏、イダテと唱へたり(大言海)、 の二説が有力である。 因みに、「伊達」を「イダテ」と訓むについては、伊達政宗が慶長一八年(1613)に、遣欧使節として派遣した支倉常長が元和六年(1620)に帰国した際持ち帰った、ラテン語で書かれた「ローマ市公民権証書」に、確かに、 IDATE MASAMVNE とある(https://www.city.sendai.jp/museum/kidscorner/kids-10-3.html)。 「だて」は、 タツ(立)の転、名詞・形容詞語幹などに付いて、そのさまをことさらとりたてて示す意、 であり、 いきがる、 意の、 男立、 心中立、 等々の他、 その意味を強め、またはそのことを取り立てて示そうとする場合、 洗い立て、 心安立て、 忠義立て、 等々とも使う。その「わざとらしさ」「誇らしげ」という意味では、「男立」と重なる。 「たてだてし」は、 立て立てし、 と当て、 心を立てとほす意、 とし、 世を逃れ身を捨てたれども、こころはなほ昔に変わらず、たてだてしかりけるなり(著聞集)、 と、 意気地を張ること強し、 とするが(大言海)、しかし、 たてたてし、 と訓み、 山伏はたてたてしきものをあさましき事なり(沙石集)、 と、 気性が激しい、 意とするものがある(岩波古語辞典)。意味から見れば、「たてだてし」は、 いきがる、 よりは、 はげしい気性、 の意の方がまさる気がする。 「だて」には、 伊達眼鏡、 伊達の薄着、 のように、 それが本来的な目的で着用されているのではないことを示す、 こともあり(実用日本語表現辞典)、やはり、 むやみにそうする意を表す接尾語「立て」が単独で用いられるようになったものだと考えられる。接尾語「立て」は、はっきりさせる意で用いられた動詞「立てる」の連用形に由来する、 というところだと思われる(仝上)。こうした、 いかにも〜らしい様子を見せる、 ことさらにそのような様子をする、 という使い方の接尾語「だて」は、 室町末期に、名詞または形容詞として独立した、 とみられる(日本語源大辞典)。 「だてら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461527184.html)で触れたが、「だてら」は、 女だてらに、 などといった使い方をするが、 接尾語「だて」+状態を表す接尾語「ら」、 で(デジタル大辞泉)、この「だて」は、 伊達、 と当てる「だて」で、「たつ」は、「縦」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453257596.html)につながる。 そこで触れたように、「よこ」には、 横流し、 横取り、 よことま、 等々、正しからざる意味を含んでいるが、「立つ」は、 自然界の現象や静止している事物の、上方・前方に向かう動きが、はっきりと目に見える意。転じて、物が確実に位置を占めて存在する意、 と(岩波古語辞典)、「目立つ」という含意がある。この含意は、 立役者、 立女形、 の「立」に含意を残している気がする。 「立」(慣用リツ、呉音・漢音リュウ)は、 会意。「大(ひと)+―線(地面)」で、人が両足を地につけて立ったさまを示す。両手や両足を添えて炉安定する意を含む、 とある(漢字源)。別に、 指事文字です。「1線の上に立つ人」の象形から「たつ」を意味する「立」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji181.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「下司」は、 げし、 と訓むと、 身分の低い官人、 の意で、 したづかさ、 とも訓ます。 平安末期から中世にかけて、荘園の現地にあって事務をつかさどった荘官、在京の上司(じょうし)に対して言う、 とある(広辞苑)、 沙汰人、 ともいう。より詳しく見ると、 荘園領主の政所で荘園のことを扱う上司、上司と荘園現地の間の連絡にあたる中司(預(あずか)り)に対して、現地で実務にあたるものを「荘の下司」(荘司)といった。所領を寄進した在地の領主(地主)がそのまま下司に任命される場合と、荘園領主から任命されて現地に赴任するものとがあった。下司は荘地・荘民を管理し、年貢・公事(くじ)を荘園領主に進済する。代償として給田(きゅうでん)・給名(きゅうみょう)を与えられたほか、佃(つくだ)を給されたり、加徴米や夫役(ぶやく)の徴収を認められたりした。平安末期には、在地の下司は世襲となり、国衙(こくが)領の郡司職(ぐんじしき)・郷司職(ごうじしき)を兼帯して、それらの職(しき)を足掛りにして在地領主として成長し武士化するものが多かった、 とあり(日本大百科全書)、この在地領主層を武家の棟梁として組織することによって成立したのが鎌倉幕府ということになるが、 下司のうちかなりの部分が御家人化し、彼らの下司職の多くは地頭職に切り替わっていった。地頭には本所の改替権が及ばず、また地頭と称さずとも御家人化した場合には、〈所々下司荘官以下、仮其名於御家人、対捍国司領家之下知〉と《御成敗式目》に見えるように、荘官としての一面を保持しつつも、むしろ荘田・荘民を自己の支配下にとり込み、独自の領主化をすすめた、 とある(世界大百科事典)。これが、国人領主になっていく。 「下司」は、 現地にあって公文(くもん)、田所、惣追捕使等の下級荘官を指揮し、荘田・荘民を管理し、年貢・公事の進済に当たる現地荘官の長をいう、 ともある(仝上)ので、 身分の低い官人、 とはいっても、貴族から見てのことでしかない。この「上司」が、今日、 上役(うわやく)、 の意で使われる。このため、「下司」も、 したづかさ、 と訓ませて、 部下、 や 下役、 の意で使う。 「下司」は、また、 げす、 と訓ませると、 下衆、 下種、 とも当て、 身分の低いもの、 使用人、 の意で使う。この場合は、 上種(じょうず)、 上衆(じょうず)、 の対として使われ(岩波古語辞典・広辞苑)、 上衆めかし、 上衆めく、 と、 上流の人らしい、 上流の人らしくふるまう、 といった意味で使う。だから、 下種(衆)⇔上種(衆)、 の対と、 下司⇔上司、 の対は、別々の意味であったと思われる。しかし、「げす」が、 げすな奴、 とか げすな根性、 と、 身分の低い者、 とか しもべ、 という状態表現でから、 卑しきこと、 鄙劣(卑劣)、 等々という価値表現に転じたことによって、似た、 下層の人、 の意と混同されたのか、「卑しい」意の「げす」に、 下種、 下衆、 とともに、 下司、 も当てるようになっている。「げす」は、 げすけずし、 げすし、 と、 いかにも身分が低いものがやりそうである、 という状態表現とともに、 見るからに卑しい、 という価値表現としても使う。 本来の「下衆(種)」は、 下+ス(衆・種)、 と(日本語源広辞典)、広く、 下賤の人、 の意であったと思われる。 ところで、「下司」には、 したづかさ、 と訓ませて、 長官(かみ)、 次官(すけ)、 判官(じょう)、 主典(さかん)、 という四階級の、 四部官、 または 四等官、 を指した。おなじ「かみ」「すけ」でも、省・職・寮・司という官制によって、「下司」が変わる。官名の階級を付け、 官名+(の)+四部官、 で、たとえば、「縫殿寮(ぬいのりょう)の長官(かみ)なら、 縫殿(ぬい)+の+頭(かみ)、 大膳職(だいぜんしき)の次官(すけ)なら、 大膳亮(だいぜんのすけ)、 土佐の国の判官(じょう)なら、 土佐掾(とさのじょう)、 と称する。この四部官をつけることを、「下司をつける」という(尾脇秀和『氏名の誕生〜江戸時代の名前はなぜ消えたのか』)が、ここは憶説だが、荘園の荘官を「下司(したづかさ/げし)」と呼ぶ起源は、この四部官の「下司(したづかさ)」から来たのではないか、という気がしている。 さて、「下司」にあてる「下」(漢音カ、呉音ゲ)は、 指事。おおいの下にものがあることを示す。した、したになる意を表す、上の字の反対の形、 とある(漢字源)。 別に、 指事文字です。甲骨文(甲骨文字)では、基準線の下に短い線を1本引く事で「した」を意味していました。それが変化し、現代の「下」という漢字が成り立ちました、 とある(https://okjiten.jp/kanji117.html)。甲骨文字を見る限り、こちらの説の方に説得力がある。 「司」(唐音ス、呉音・漢音ス)は、 会意。「人+口」。上部は、人の字の変形、下部の口は、穴のこと。小さい穴からのぞくことをあらわす。覗(のぞく)・伺(うかがう)・祠(神意をのぞきうかがう)の原字。転じて、司祭の司(よく一事をみきわめる)の意となった、 とある(漢字源)が、別に、 会意文字です。「まつりの旗」の象形と「口」の象形(祈りの言葉」の意味)から、祭事をつかさどる、すなわち、「つかさどる(役目とする)」を意味する「司」という漢字が成り立ちました、 とする解釈もある(https://okjiten.jp/kanji620.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 尾脇秀和『氏名の誕生〜江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(ちくま新書) 「そうぞうしい」は、 騒々しい、 と当てる。物音や人声が、 さわがしい、 やかましい、 の意だが、その状態表現のメタファで、大きな事件が続いて起こるなどして、 落ち着かない、 不穏である、 意でも使う(広辞苑・デジタル大辞泉)。文語では、「そうぞうしい」は、 さうざうし、 と表記するが、 騒々(さわざわ)の音便。さわづく、さうどく。さわがし、さうがし、 と、 さわざわの転訛、 とする(大言海)説がある。「さわぐ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465482949.html)で触れたように、「さわざわ」は、 さわぐ(騒)のサワと同根、 とあり(岩波古語辞典)、「さわぐ」は、 奈良時代にはサワクと清音。サワは擬態語。クはそれを動詞化する接尾語、 とある(仝上)し、 音を云ふ語なり(喧喧(さやさや)と同趣)、サワを活用して、サワグとなる。サヰサヰ(潮さゐ)、サヱサヱとも云ふは音轉なり(聲(こゑ)、聲(こわ)だか。据え、すわる)、 ともあり(大言海)、「さいさいし」も さわさわの、さゐさゐと転じ、音便に、サイサイとなりたるが、活用したる語、 と、「さわさわ」と関わり、 「万葉集の「藍左謂(さゐさゐ)」、「恵佐恵(さゑさゑ)」などの「さゐ・さゑ」も「さわ」と語根を同じくするもので、母韻交替形である、 ともある(日本語源大辞典)。 だから、「サワ」は、 さわさわ、 という擬態語由来と思われるが、今日、「さわさわ」は、 爽々、 と当て、 さっぱりとして気持ちいいさま、 すらすら、 という擬態語と、 騒々、 と当て、 騒がしく音を立てるさま、 者などが軽く触れて鳴る音、 不安なさま、落ち着かないさま、 の擬音語とがある。古くは、「さわさわ」は、 騒々しい音を示す用法(現代語の「ざわざわ」に当たる)や、落ち着かない様子を示す用法(現代語の「そわそわ」に当たる)もあった、 とある(擬音語・擬態語辞典)。古事記に、 口大(くちおほ)の尾翼鱸(をはたすずき)さわさわに(佐和佐和邇)引き寄せ上げて、 とあり、「さわさわ」の「さわ」は、 「騒ぐ」の「さわ」と同じもの、 とする(仝上)。で、「そうぞうしい」は、 騒々(さわさわ)+シ(形容詞化)、 というのが一つの説になっている(日本語源広辞典)。 ただ、室町末期の『饅頭屋本節用集』に、 「忩々 ソウゾウシ」とあること、 また、「日葡辞書」の表記が、 sôzô(ソウゾウ)であってsǒzǒ(サウザウ)でないこと、 等々から、 ソウゾウ(忩々)の形容詞化(疑問仮名遣)、 を是とすべきとする説があり(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)、音韻からみると、後者に分がある気がする。 「忩」の異字体は、 悤、 怱、 匆、 とある(https://jigen.net/kanji/24553・https://jigen.net/kanji/24553その他)。「忩」は、 忩(あわ)てる、 忩(いそ)ぐ、 等々と使い、「忩々(そうそう)」は、 怱々、 悤々、 とも当て、 あわただしいさま、 忙しいさま、 騒がしいさま、 を示す語とある(広辞苑・日本語源大辞典)。 事をはぶいて簡略にする、 という意もあり(岩波古語辞典)、手紙の最後に、 取り急いで走り書きした、 意で、 草々、 匆々、 と書くのと同じ使い方をする。いずれとも決める手がかりをもたないが、表記が、「日葡辞書」で、 sǒzǒ(サウザウ)、 でなく、 sôzô(ソウゾウ)、 であることは、もともと、 さうざうし、 ではなく、 そうぞうし、 であったことを推定させ、 さうざう→そうぞうし、 より、 そうそう→そうぞう(忩々・怱々)し、 の方が、説得力がある。 「忩」(ソウ)の異字体、「怱」(漢音ソウ、呉音ス・スウ)は、 形声。正字は、悤(緫の旁と同じ)で、「心+音符窗(ソウ)の略体」。窗(まど)はここでは意味に関係ない。急促の促(ソク せかす)の語尾が伸びたことば、 とある(漢字源)。 「騒」(ソウ)の字は、 「会意兼形声。蚤(ソウ)は『虫+爪』から成り、のみにさされてつめでいらいらと掻くことをあらわす。騒は『馬+音符蚤』で、馬が足掻くようにいらだつことをあらわす」 とある(漢字源)。さわぐ、意だが。いらだちや落着かないさまをも意味する。 別に、象形と頭が大きくグロテスクなまむしの象形(「虫」の意味)」(飛び跳ねる虫を上から押さえ爪でつぶすさまから、「のみ」の意味を表すが、ここでは、「飛び跳ねる」の意味)から、飛び跳ねる馬を意味し、そこから、「さわぐ」、「さわがしい」を意味する「騒」という漢字が成り立ちました。また、「愁」に通じ(「愁」と同じ意味を持つようになって)、うれえる(嘆き悲しんで訴え出る)の意味も表します、 ともある(https://okjiten.jp/kanji1231.html)。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「背向」は、 そがい と訓ませる。 はいこう、 と訓むと、 背くこと向かうこと、 離れることと従うこと、 の意で、 向背、 と同義で、文字通り、 背を向ける、 意からのメタファと思われる。 そがい、 と訓むと、文字通り、 背(うしろ)の方、 うしろ向き、 の意で、 背面、 と重なる。古く万葉集に、 筑波根(つくばね)に曽我比(そがひ)に見ゆるあしほ山悪しかるとがもさね見えなくに と、使われている。ここから、万葉集で、 わが背子(せこ)を何処(いづち)行かめとさき竹の背向(そがひ)に寝(ね)しく今し悔やしも 背中合わせ、 の意も、出てくる。 ソは背、ソムカヒの約か。ヒムガシがヒガシに転ずる類(岩波古語辞典)、 ソムカヒの略。ひむがし、ひがしと同趣(大言海)、 とある。「そ(背)」は、 セの古形、 とある(岩波古語辞典)。 ソはセ(背)の母音交替形。「万葉集」には「背」「背向」などとも表記され、ソムカヒの縮約と見られる。多くの場合、「に」を伴って「見る」「寝る」といった同志を修飾する、 とある(日本語源大辞典)。 ソムカヒ→ソガヒ→ソガイ、 という転訛ということになる。ただ、漢語に 背向(ハイコウ・ハイキョウ)、 という言葉があり、漢書・藝文志に、 形勢者、雷動風擧、後発而先至、離合背向、変化無常、以形疾制敵者也、 とあり(字源)、 背向=向背、 と注記されている。ために、 「前後」または「向かい合ったり背にしたりする」意の漢語「背向」の翻訳語、 と見る説もある(日本語源大辞典)。 「背」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/405100495.html?1622501901)については触れたことがあるが、「せ」の古形、 ソ(背)、 から語源を考えるしかない(岩波古語辞典)。 朝鮮語tïng(背)と同源(岩波古語辞典)、 は別として、 反(ソレ)の約(大言海・名言通) ソ(外)の義(言元梯)、 シリヘの約シレの反(日本釈名)、 ソヘ(後方)の義(日本語原学=林甕臣)、 体の根の意で、ネ(根)の転か(国語蟹心鈔)、 等々の諸説がある中で、 本来「せ」は外側、後方を意味する「そ」の転じたもの、 とある(日本語源大辞典)ので、 ソ(外)の義(言元梯)、 ソヘ(後方)の義(日本語原学=林甕臣)、 辺りになるが、この原義から考えると、 背が高い、 というような、 背丈、 の意味はない。 ところが、 身の勢、極て大き也(今昔)、 というように、体つき・体格を意味する、 勢(せい)、 があり、これとの音韻上の近似から、 勢(せい)⇔背(せ)、 と混同されるようになった(日本語源大辞典)、とある。 「背」(漢音ハイ、呉音へ・ハイ、ベ・バイ)は、 会意兼形声。北(ホク)は、二人のひとが背中を向けあったさま。背は「肉+音符北」で、背中、背中を向けるの意、 とある(漢字源)。「北」は(寒くていつも)背中を向ける方角、とある(「北」は「背く」意がある)。また「背」の対は、「腹背」というように腹だが、また「背」は「そむく」意があり、「向背」(従うか背くか)というように「向」(=従)が対となる(仝上)。別に、 会意形声。「肉」+音符「北」、「北」は、二人が背中を合わせる様の象形。「北」が太陽に背を向けるの意から「きた」を意味するようになったのにともない、(切った)「肉」をつけて「せ」「せなか」「そむく」を意味するようになった、 ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%83%8C)。 「向」(漢音コウ、呉音キョウ)は、 会意。「宀(屋根)+口(あな)」で、家屋の北壁にあけた通気口を示す。通風窓から空気が出ていくように、気体や物がある方向に進行すること、 とある(漢字源)。別に、 会意。「宀」(屋根)+「口」(窓 又は 窓に供えた神器)、 ともあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%91)、さらに、 象形文字です。「家の北側に付いている窓」の象形から「たかまど」を意味する「向」という漢字が成り立ちました。 「卿(キョウ)」に通じ(同じ読みを持つ「卿」と同じ意味を持つようになって)、「むく」という意味も表すようになりました、 との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji487.html)。 向、 と同義の「嚮」(漢音キョウ、呉音コウ)は、 「向(キョウ)+郷(キョウ)」で、ごちそうをはさんで左右から人が向かい合うさまを示す。むかう、むこうの方角へ動いて去るの意を含む、 とあり(漢字源)、「嚮導」(キョウドウ 目標目ざして導く)等々と使う。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「せがれ」は、 倅、 忰、 と当てる(広辞苑)が、 躮 世椊、 忰子、 とも書く、 とある(岩波古語辞典)。「躮」は、 造字なり、 とある(大言海)。国字のようである(字源)。江戸中期の『書言字考』には、 忰、セガレ、本朝俗謂我子為忰、 とある(仝上)。 古くは女子にも用いた、 とある(広辞苑・デジタル大辞泉)。 ただ、漢字では、 忰、 と 倅、 は別字である。 「倅(伜)」(漢音・呉音サイ、漢音ソツ、呉音ソチ)は、 会意兼形声。卒は「衣+十」の会意文字で、法被を着た十人一組の雑兵や人夫をあらわす。小者の意を含む。倅は「人+音符卒」で、小者の意から、小さい人、添え役などの派生義をあらわす、 とあり(漢字源)、「せがれ」の意味はない。「助け役」「副官」の意で、周禮(夏官篇)、「遊倅」の註に、 子之未仕者、 とあり(大言海・字源)、 部屋住、 の意で使われる。 「悴(忰)」(漢音スイ、呉音ズイ)は、 会意兼形声。卒は、小者の雜卒のことで、小さい意を含む。悴は「心+音符卒」で、心やからだがやせて小さく細ること、 とある(漢字源)。「憔悴」とか「悴顔」というように、やつれ体で使う。「せがれ」に使うのは、 倅の誤用、 とある(字源・漢字源)。「悴」は、屈原「漁父辞」に、 屈原既放、 游於江潭、 行吟沢畔、 顔色憔悴、 形容枯槁、 に、 顔色憔悴、 と使われている(字源)。 「せがれ」は、 室町時代から見られる語、 とある(語源由来辞典)が、屈原の、 顔色憔悴、 形容枯槁(ここう)、 を、 「憔悴」「やせ」、「枯槁」を「かれ」と訓んだ(つまり痩せ枯れ)ところから、 とする説が結構ある(鋸屑譚・海録・俗語考・用捨箱・日本語源=賀茂百樹・猫も杓子も=楳垣実・日本語源広辞典他)。大言海も、 痩枯(ヤセカレ)の略。痩法師の意。乱世に、武勇を貴びしより、己れが子を卑下して、憔悴(ヤセガレ)と云ひしなり。此語、屈原の漁父辞に、顔色憔悴、形容枯槁(カレ 古調)とあるより出づ。悴の字を省きて、忰に作り、過りて、倅となれり。名義抄に、「顇、又倅、かじく」と見えたり、 とする。「かじく」は、古くは「かしく」で、 悴く、 とあて、 痩せる、 意である(広辞苑)。しかし、 「憔悴」「やせ」、「枯槁」を「かれ」と訓んだ、 というのが付会に思えてならない。「子供」を卑下して、 痩法師、 というのは、「坊主」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473899166.html)で触れたように、 腕白坊主、 というような子供(男の子)を指すのと同様、 昔男児は頭髪を剃ったから、 法師、 ということも、 痩法師、 ということもあり得る。しかし、それと、 痩せ枯れ、 と呼ぶのとはつながらない。しかし、 中國で娘を称する蕉萃と同義か(書言字考節用集)、 セガラウ(拙郎)の義か(燕石雑記)、 兄子吾(日本語源=賀茂百樹)、 セカルル(世悴)の義(名言通) 等々、他には見るべき説がない。ここからは勝手な憶説だが、似た音の、 やつがれ(僕)、 という言葉がある。これは、 奴我(ヤッコアレ)の約、 とされる(古くは「やつかれ」と清音)。「アレ」は、 吾(我)、 である。この言葉との類縁性の方が、気になるのだが。 参考文献; 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 「やつがれ」は、 僕、 と当てる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。また、 やつがり、 とも、とある(大言海)。和名抄に、 僕、夜都加利、 とある。 へりくだって、 わたしめ、 というような、 自分の謙称、 で、 上代は、男女に通じて用いた、 とある(広辞苑・大言海)。和名抄(平安中期)には、 奴僕、夜豆加禮、 とあり、名義抄(平安末期)には、 僕、ヤツカレ、ヤッコ、臣、ヤツカレ、 とある。 「やつがれ」は、 ヤッコアレの約(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、 ヤッコアレ(奴我)はコア[k(o)a]の縮約でヤツガレ(僕)になった(日本語の語源)、 とされるが、「ヤッコアレ」に、 奴吾(岩波古語辞典)、 奴我(広辞苑・大言海)、 臣我(箋注和名抄)、 臣吾(言元梯)、 と、微妙に当てる字を異にする。 近世以降になると、もっぱらある程度身分のある男性の、やや改まった場での文語的な用法として使われ、近世後期には、気どったり茶化したりする用法になった。これは明治初期まで引き継がれ、その後は書生ことばなどで、ややおどけた口調の語などに用いられている、 とある(日本語源大辞典)。今日では、特殊な例を除いて、「やつがれ」は使われないし、「僕」は、漢文脈の中でも、 古代から男子の、非常にへり下った表現として見られるが、訓読されるのが一般的であった、 とある(精選版日本国語大辞典)。つまり「やつがれ」「やつがり」と訓ませた。今日は、 ぼく、 と音読するが、これは、 江戸時代の漢文から「ぼく」の形で、対等もしくは目下の者に対する自称の代名詞として多用され、さらに明治時代から、書生・学生が「ぼく」と読んで用いるようになった。現代では特に少年男子の自称として広く用いられるが、改まったときは「わたくし」を用いる、 とある(仝上・デジタル大辞泉)。 「ヤッコアレ」の「やっこ」は、 や(家)ツ(連帯助詞)コ(子)の意、室町時代までは、ヤツコ。ヤッコとなったのは近世以降、 とある(岩波古語辞典・日本古語大辞典=松岡静雄・大言海・広辞苑)。「やっこ」は、 臣、 とも、 家人、 とも 僕、 とも当てる(大言海)が、「臣」と当てると、 生事之、死不殉、是不臣(やっこ)矣(安康紀)、 と、 臣(おみ)、君に仕ふる人、 の意であり、さらに、 住吉の小田を刈らす子賤(ヤツコ)かもなき奴(ヤツコ)あれど妹がみために私田(わたくしだ)苅る(万葉集)、 と、 奴婢、 の意でも使う(大言海・岩波古語辞典)。さらに、「家人」と当てとると、 竪(タタ)さにも彼(カ)にも横さも夜都故(やつこ)とぞ、吾(あれ)はありける主の殿外(とのと=御殿)に(万葉集)、 というように(「大伴の池主が主家の大伴家持の親しき家の子なるを」と注記)、 長上より其の下を親しみで言ふ語、 の意でも使う(大言海・広辞苑)。さらに、それが、「奴」「婢」と当てると、 奴僕、 でも使われ、さらに、代名詞として、古くは、 天皇招之、因問曰、汝誰也、對曰、臣(ヤツコ)是國神、名曰珍彦(神武即位前紀)、 と、 古へ、男女共に謙遜に用いる自称の代名詞、 とある。この場合、どちらが先かは分からないが、 身分の低い人、あるいは下男、 という状態表現から、自分をへりくだる、 謙称、 として使われたということなのだろう。「やつこ」が、「やっこ」となった江戸時代以降、 武家の下僕、 つまり、 中間、 を指し、 撥鬢(ばちびん)頭・鎌髭をはやし、ぽくとぅを指した。主人の行列に槍・長柄・挟箱を持ち歩いた奉公人、 の謂いである。近世初期に、 町奴、 武家奴、 等々と、 男立、 を指したこともある(岩波古語辞典・明解古語辞典)。 「六方」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444986084.html)で触れたように、「男立(男伊達)は、 六方、 ともいい、 奴風(やっこふう)、 を指し、 萬治、寛文の頃、江戸にありし男伊達の黨の穪。鶺鴒組、吉屋組、鐡砲組、唐犬組、笊籬(ざる)組、大小の神祇組、などありて、これを六法男伊達と云ひ、町々を徘徊せり。これ等のものを六法者とも云へり、 とあり(大言海)、三田村鳶魚は、 武家の奉公人で、身分の軽いものですが、これをすることを軽快であるとし、おもしろいとして、それを学んだものが旗本奴(江戸ッ子)、 とある。この、 男立(伊達)を気どるのを、「彌造」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/422606177.html)で触れたように、 彌造(弥蔵)、 といい、 懐手をして、着物の中で握りこぶしをつくり、肩の辺りを突き上げる姿形。江戸後期、職人、博徒などの風俗、 とある。 「ヤッコアレ」の「アレ」は、 吾、 我、 と当て、 わたし、 の意だが、 ワレ(ware)の語頭のwが脱落した形か、平安時代以後はほとんど使われず、僅かに慣用句の中に残る、 とある(岩波古語辞典)。「われ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473288508.html)については触れた。 「僕」(漢音ボク、呉音ホク)』は、 会意兼形声。菐の原字は奴隷が供え物をささげるさまに、その奴隷の頭に入れ墨をする印を加え、下部に尻尾を添えた姿を描いた象形文字で、獣に近いさまを示す。僕は、それを音符として、人を加えた字で、荒削りで作法を知らない下賤の者の意を含む。転じて謙遜するときの一人称代名詞になった、 とある。「ぼく」の使い方よりは、「やつがれ」の方が、漢字の意味にはかなっていたことになる。 別に、 会意形声説。「人」+音符「菐」(従者等の象形)。甲骨文は「其」(箕の象形)+「辛」(刑具の象形)+「人」+「尾」+数個の点。しもべがごみを盛った竹箕を持ち、掃除する姿に象る。奴僕、しもべが本義である。「其」は後に「甾」に変形、両手は「辛」の下に移り、人は偏へ、「辛」は「丵」に変形した。劉興隆によれば、「尾」には侮辱の意味が込められている、 とする説(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%83%95)、 会意文字です(人+其+辛+廾)。「5本の指のある手」の象形と「農具:箕(み)」の象形と「入れ墨をする為の針」の象形と「両手」の象形から、罪人・奴隷が汚物を捨てているさまを表し、そこから、「しもべ」、「召使い」を意味する「僕」という漢字が成り立ちました、 とする説(https://okjiten.jp/kanji2014.html)、 等々もある。 参考文献; 大槻文彦『大言海』(冨山房) 前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館) 大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店) 「贅六」は、 ぜいろく、 とも、 ぜえろく、 とも訓ませる(広辞苑)。 贅は当て字、 で、 おめへがたのことを、上方ぜえろくといふわな(浮世風呂)、 と、 上方贅六、 という言い方をし、 関西人への蔑称、 とある(仝上)。 上方贅六、 は、 上方贅六(ざいろく)、 とも言う。 江戸で、上方の人をののしっていう称、 とある(仝上)。で、「ぜえろく」は、 才六(さいろく)、 が、 江戸風に訛ったもの、 ということになる(仝上)。しかし、江戸語大辞典は、 青少年を罵って言う語、 つまり、 小僧っ子、 の意味で、転じて、 なんだへ此せへ六め、手引をつれて出やアがれ(安永八年(1779)「廻覧奇談深淵情」)、 と、 人への罵語、 として使う、とある。とすると、 へへ、関東ぺいが。さいろくをせへろくと、けたいな言葉つきぢゃなあ(文化六〜十年(1809〜13)「浮世風呂」)、 というやり取りは、 江戸人が上方人をけなしていう語(岩波古語辞典)、 と、ことさら上方人を言挙げするというよりは、罵詈雑言の一種ということになる。 大言海も、「才六(ざいろく)」を、 毛才六(ケザイロク)とも云へば、毛二歳を上略して、擬人したる語(宿六、耄六)。未熟者の意なるべし。ケを略して云ひ、ザイは、濁音にて遺る、 とする。 毛才六(ケザイロク)、 ともいう。だから、本来、江戸人が上方を貶めて言う場合、 上方才六(贅六 ぜえろく)、 を、略して、 ぜえろく、 といった、と見える。つまり、 ぜえろく、 といった時は、 上方を貶めている、 と見られる(大言海)のである。 もともと人をののしって毛才六(けざいろく)(青二才)ということがあり、その才六が江戸っ子ことばでゼエロクとなり、擬人化されたといわれる。才六はばか、あほう、つまらぬ者の意。文化八年(1811)の『客者評判記』には、「上方の才六めらと倶一(ぐいち)にされちゃアお蔭(かげ)がねへ」などとある。関西が長い文化の伝統をもっているのに対して、江戸は新興都市であったから、コンプレックスの裏返しの心理とみることができよう。贅はよけいなものの意であり、六も宿六(やどろく)、甚六(じんろく)などのように、あまり役にたたない者に対して、卑しむ気持ちを表現したことばである、 とある(日本大百科全書)。つまり、 上方才六(上方さいろく)→才六(ざいろく)→ぜえろく(贅六)、 と転化していったものとみられる。 因みに、「毛才六(けざいろく)」は、 けさいろく、 ともいい、 ケは接頭語、異(ケ)の意、転じて、罵意を表し、 どこの馬の骨かもしれねへ毛才六(けさへろく)(天明四年(1784)「二日酔巵觶」)、 と、 青二才、 小僧っ子、 の意である。だから、 「せいろく」は上方で丁稚のことをいう隠語「さいろく」の江戸なまり(精選版日本国語大辞典)、 は如何であろうか。また、 さいころの目になぞらえて、小者のことを、揃って一の目の出る重一の裏の意の重六といったところから、ジューロクの訛、またサイロク(賽六)の転(日本の言葉=新村出・話の大事典=日置昌一)、 という説もあるが、江戸語大辞典は、 賽六説は付会、 とするように、少し考えすぎなのではないか。 「贅六」「宿六」「甚六」などに使う「六」は、「宿六」が、 宿の碌でなし(ろくでなし)、 の「ろく」から来た当て字らしい(精選版日本国語大辞典・日本語俗語辞典)ので、「甚六」も、 長男の甚六、 の謂いで、 順禄(じゅんろく)(世襲制度により順を追って家禄を相続すること)の転訛、 とされ(日本大百科全書)、 長男や長女がだいじにされてのんびりと育てられ、これといった才能もなく、また努力もしないで家禄を相続できたため、他の兄弟姉妹に比べてうすぼんやりしているさまをあざけっていった、 ところから、転じて、「甚六」を、 うすぼんやりした人やお人よし、愚か者、 をいう(仝上)ので、この「六」も、 ろくでなし、 の「ろく」の当て字とみられる。 「贅」(慣用ゼイ、漢音セイ、呉音セ)は、 会意。「貝+敖(余分の、有り余る)」で、よけいな財貨があまっていることをあらわす、 とある(漢字源)。 「才」(漢音サイ、呉音ザイ)は、 象形。才の原字は、川をせきとめる堰を描いた象形文字。その全形は、形を変えて災などの上部に含まれている。其の堰だけを示したのが才の字である。切って止める意を含み、裁(切る)・宰(切る)と同系。ただし、材(切った材木)の意味に用いることが多く、材料や素材の意から、人間の素質、持ち前を意味することとなった、 とある(仝上)。別に、 象形文字です。「川の氾濫をせきとめる為に建てられた良質の木の象形」から「もともと備わっているよいもちまえ」を意味する「才」という漢字が成り立ちました、 ともある(https://okjiten.jp/kanji370.html)。 参考文献; 前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社) 大槻文彦『大言海』(冨山房) 藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社) |
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