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杳子論


T

 

(1)

 われわれは、作品の中で語るものと語られるものとの関係を固定することに慣れている。その固定化された語りをスタイルと呼び習わしている。しかし、その関係はそれほど自明のことなのだろうか?

 この不安を古井由吉は、処女作『木曜日に』からわれわれにかきたてる。

 

  鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮び上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、幾重もの山ひだにつつまれて眠るあの渓間でも、夕立はそれと知られた。まだ暗さはほとんど変わりがなかったが、まだ流れの上にのしかかっていた雨雲が険しい岩壁にそってほの明るく動き出し、岩肌に荒々しく根づいた痩木に裾を絡み取られて、真綿のような優しいものをところどころに残しながら、ゆっくりゆっくり引きずり上げられてゆく。そして雨音が静まり、渓川は息を吹きかえしたように賑わいはじめる。

 ちょうどその頃、渓間の温泉宿の一部屋で、宿の主人が思わず長くなった午睡の重苦しさから目覚めて冷い汗を額から拭いながら、不気味な表情で滑り落ちる渓川の、百メートルほど下手に静かにかかる小さな吊橋をまだ夢心地に眺めていた。すると向こう岸に、まるで地から湧き上がったように登山服の男がひとり姿を現し、いかにも重そうな足を引きずって吊橋に近づいた。

 こう始まった『木曜日に』では、語り手は、ずっと引いた視点から、「山麓の人々が眺めあう」ような景観を俯瞰する目で現前させ、それからゆっくりと温泉宿の主人へと焦点を絞り、その主人のパースペクティブの中に、登山服の男が入ってくるのを語っていく。この一読したときの、まるで一つの物語のとば口に立たされたような語りの印象が、しばらくして、実は、

  《あの時は、あんたの前だが、すこしばかりぞっとさせられたよ》と、主人は後になって私に語ったものである。

 と、語り手たる《私》が、過去において宿の主人から聞いた話を再現して語っているのだということが、種明しされる。

 しかし、この語りは宿の主人が語っているのでもないし、《私》が単純に伝聞を語っているのでもない。一つの物語を語り出す語り手の視点から、宿の主人のパースペクティブに入ってくる登山者を描き出している。

 つまり、語り手である《私》は、〃そのとき〃の《私》のパースペクティブでも主人のパースペクティブでもなく、まして語っている〃いま〃からの想い出語りでもなく、全体を構成し直す俯瞰する視点から、物語のような語り手のパースペクティブを設定し、「御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう」〃そのとき〃の情景を遠望し、そこから「ちょうどその頃」「長くなった午睡」から目覚めた宿屋の主人の視点へと滑り込み、彼の視線で、自分を客観化した「男」、つまり〃そのとき〃の《私》について、時間を巻き戻して、〃そのとき〃を現在として現前させながら、しかもその語り出された全体は、語り手である《私》の想い出となっている、という手のこんだ描写方法をとっている。

 〃そのとき〃は《私》にとって想い出であり、《私》は、〃そのとき〃に対しては、未来からの視点となって俯瞰し、俯瞰する視点を入子にして、《私》が〃いま〃語っている、ということになる。

 見られた《私》を、見られたパースペクティブで語ることで、《私》という語り手にとって、その光景が、《私》のパースペクティブに対する異和として、《私》の外に対立するものとしてある、ということを暗示しているし、にもかかわらず、そのパースペクティブを《私》の入子にすることで、それをも含めて《私》にとって語られるべきことでもある、ということを示している。

 その意味では、この語りには、三つの視点が入っていることを意味する。一つは、〃そのとき〃《私》が経験した過去を〃未来からの視点〃で〃いま〃語っているのであり、いま一つは、〃そのとき〃別の視点から眺めていた宿の主人の視点からのパースペクティブを語り直しているのでもあり、そしてその両者を〃いま〃俯瞰する視点から語っているのでもある。

 つまり、〃そのとき〃の《私》自身の記憶にある光景と、主人が眺めていた光景を主人の印象で要約して伝えた〃そのとき〃の眺めを、《私》の感受性で受け止めて刻みつけた光景と、そしてその両者の記憶を、語っている〃いま〃の視点から眺め直している光景の三つがある、ということになる。

 それは、結局《私》が、見られた自分をも見ている、語られた自分をも語っている、ということにほかならない。

 

(2)

 簡単に言ってしまえば、「『〜でしたね』と言われた」というだけのことを、〜を直接話法でも間接話法でもなく、そのときの宿の主人のパースペクティブを現前させる形で提示してみせたにすぎない。そうすることで、《私》という語り手の視点は、時間的にも空間的にも、〃いま〃は語られた瞬間〃そのとき〃になり、〃ここ〃は語られた瞬間〃そこ〃になるように、いくらでも後退させていくことができる、ということを、提示してみせたようにみえる。

 「『□でしたね』とAが語った」と、私が言う。

 「『□でしたね』とAが語った」とBが語ったと私が言う。

 「『□でしたね』とAが語った」とBが語ったとCが語ったと私が言う。

 それは語られているパースペクティブが最終的に誰のパースペクティブの中にあるのか、無限に入子になっていくことができるということだ。

 それは過去には見るものであった《私》が現在からは見られるものであり、その《私》も明日の《私》に入子にされる、ということでもある。

 このことは、振り返る、思い出す、意識するといった、自己意識そのもののもつ構造といっていい。□を思い出している自分を思い出している、というように。

 しかしそれは必ずしも親和感だけではない。古井もそのことを肯定しているわけではない。『木曜日に』では、見失った自分の記憶、あるいは記憶の中で紛失した自分への異和感そのものの隠喩として、冒頭の語りがあるとみていいからだ。

 むしろ異和感というなら、見ること自体が異和であるというべきだ。そして見られるもののパースペクティブを手に入れるか、見る自分の見られている視野を手に入れることによって初めて、見ることに親和の可能性が出てくるはずなのだ。それもまた『木曜日に』の中で、古井は既に見ている。

 たとえば『木曜日に』で、《私》が宿の人々への手紙を書きあぐねていたある折、「私の眼に何かがありありと見えてきた」ものを現前化した視線に、はっきりうかがえる。

  それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。

 厳密に言うと、それを見ていたのは、手紙を書きあぐねている〃とき〃の語り手としての《私》ではなく、むろん森の山小屋にいた〃そのとき〃〃その場所〃にいた「私」であり、その「私」が見ていたものを《私》が語っている。しかし、そのうちに、それを見ていたはずの「私」が背後に隠れ、「私」は木目そのものの中に入り込み、木目そのもののになって、木目が語っているように「うっとり」と語る。見ていたはずの「私」は、木目と浸透しあっている。動き出した木目の感覚に共感して、「私」自身の体感が「うっとり」と誘い出され、その体感でまた木目の体感を感じ取っている。

  節の中心からは、新しい木目がつぎつぎに生まれ出てくる。何という苦しみだろう。その時、板戸の一隅でひとすじのかすかな罅がふと眠りから爽やかに覚めた赤児の眼のように割れてわずかに密集の中へ喰いこみ、そのまま永遠に向かって息をこらしている……。私も白い便箋の前で長い間、息をこらしていた。

 最後に、視線は、語り手である《私》へと戻ってくる。そして、ふいに、いつも《私》の視線が貫徹していたこと、《私》のパースペクティブの入子になって「私」のパースペクティブがあり、それがまた木目に滑り込んで、木目に感応していたことに気づかされる。と同時に、浸潤しあうのは、そのときの見ていた「私」だけでなく、語り手の《私》そのものもまた、そうだということである。

 そのとき、《見るもの》は《見られるもの》に見られており、《見られるもの》は《見るもの》を見ている。《見るもの》は、《見られるもの》のパースペクティブの中では《見られるもの》になり、《見られるもの》は、《見るもの》に変わっていく。あるいは《見るもの》は《見られるもの》のパースペクティブを自分のものとすることで、《見られるもの》は《見るもの》になっていく。

 その全てを貫徹していた語り手《私》の視線にとっては、入子になっている「私」も、木目も、更には語り手《私》自身さえも、語られることで、同位相の点景にすぎなくなっていく。にもかかわらず、それによって、語り手もまた木目に浸透され、《見るもの》の位置からずり落ち、《見られるもの》になっていく。

 それは所詮《私》の創り出した幻想にすぎない、と言ってしまえばそれですべては終わりである。見ることとは、見られるものを見られる位置で見るのではなく、見る位置で見ることによってこそ、達成できるのだといえるからだ。

 《見るもの》が《見られるもの》の見ているものを見ること、そのことによって、《見られるもの》は《見るもの》となる、あるいは《見るもの》が《見られるもの》に見られることでもある、ということだけがいいたいのではない。《見るもの》が《見られるもの》を見ること自体が、《見るもの》をまた《見られるもの》にすることになる、ということなのだ。それは、語り手は語ることによって、それ自体語られるものになる、ということでもある。

 古井は、ここで、《見るもの》の特権を剥奪している、といっていい。《見るもの》が《見られるもの》になりうるとすれば、どこまでもそれを統御する視点があるという《見るもの》の視点の無限後退、逆に言えば、どこまでいっても、特別席からしたり顔して見る絶対的視点の喪失にほかならない。

 

(3)

 語りは視線である。しかも古井の語りは、視線ついての視線ではなく、視線そのものである。その視線はいつか視線の閾を踏み越えていく。幻と現の境界を自在に飛び超える視線である。現を見ていた視線は、視点が〃いま〃から未来へ移ることで、そのパースペクティブが想い出に変わる。〃いま〃から過去へ退くことで幻想に変わる。見るもののパースペクティブが見られたパースペクティブに変わる。《見るもの》は《見られるもの》に変わり、《見られるもの》も《見るもの》に変わりうる。視線は《見るもの》のものだけではなく、《見られるもの》のものでもある。そしてその見られ見るものである視線を見るものでもある。それは、パースペクティブが見ているもののそれではなく、見られているもののそれであることさえありうる。視線は一人で見詰めているばかりではなく、相手に浸透し、また浸透したふりもする。視線は固定した視点をもたず、饒舌である。その意味は、視点が定まった視点から、一定のパースペクティブを描き出すというようにはなく、視点は変幻自在で、視点によってどのようにもパースペクティブが変わっていく。

 これは、もはや作家の安定した意識の外延を疑わせるものにほかならない。

 

(4)

 少し回り道をして、視点を考えてみる。

 視点として、眼前の〃いま〃と〃ここ〃に向けて開かれた【固定した視点】と、〃どこでも〃〃いつでも〃移動可能な【遍在する視点】の二つを想定してみる。

 【固定した視点】は、眼前の世界を一定の視点からしか見ることができない。つまり固定したパースペクティブの現前である。それは、〃偏ったパースペクティブ〃であるということができる。そこで語り手が動かせるのは過去の想い出の現前や未来への期待(絶望)の現前といった、〃時間〃でしかない。

 一方、【遍在する視点】は、〃いま〃〃ここ〃で見ている世界だけに拘束されず、時間と空間を自在に移動可能である。つまり現実に拘束されない遍在するパースペクティブである。

 しかし、この区別は、それほど簡単ではない。

 まず第一に、【固定した視点】による〃偏ったパースペクティブ〃も、それが過去を振り返り現前化させるとき、語り手は既知の視点でそれを見ており、その瞬間語り手は【遍在する視点】に立っている。

 第二は、【固定した視点】からのパースペクティブも、【遍在する視点】からのパースペクティブも、それ自体が別のパースペクティブの点景となってしまうとき、その区別は、ほとんど意味をなさない。第一の例も、現在の視点が過去の視点を自分の視野の点景としてしまうものと見れば、同じものと考えることができる。

 たとえば、それは、【固定した視点】で語られていたはずのパースペクティブが、一転して、実はもう一つ別の視点の入子になっていた、というようにである。あるいは逆に、【遍在する視点】で語られていたものが、一転して【固定した視点】からの転移したものだった、というように、現れる。

 と考えてくると、問題は、語り手の視点の転移にとどまらず、語り手そのものの転移にまで波及するということになる。つまり、当該の世界について語っていたはずの語り手が、もう一人別の語り手に語られるということは、たとえば、「私」が語り手であれば、過去のことを現在回想する(Aという人物自身の回想も同じ)、というかたちで、語り手が同じで、視点のみ転移することは可能である。しかし、別の人物ということになれば、それは語り手自身が、もう一人に語られる人に、つまり見られる人になったことを意味するからだ。

 とすれば、視点でなく見ること自体の差異を考えた方が分かりやすい。

 〃視線〃を、四つ考えてみる。

 @一方通行の視線、

A双方通行の視線、

B同時(進行)性の視線、

C入子構造の視線

 @とAは、《見るもの》と《見られるもの》の関係から、視線をみている。

 @は、見るものと見られるものが固定している視線。これが、視点でいうと、【固定した視点】にほかならない。見るものはただ、見るだけで、対象とは関わらない。観察者に近い。ただ【固定した視点】が、いつも一方通行の視線とはかぎらず、見ているものと見られるものが浸透し合うことがある。

 Aは、見るものと見られるものが、固定していない、だから、見るものであった語り手が、見られるものになる、語りの入子は、これにあたる。しかし、これは鏡のように向き合った、同時間同空間だけを意味しない。だから、過去と現在、現在と未来というように時間も動くし、場所が異なることもある。ただし見るものと見られるものは、同一でなくてはならない。過去の「私」と現在の「私」、職場の「私」と家庭の「私」、あるいは、Aという人物とBという人物の二人の関係でも同じであるし、見る人間と見られる風景でも同じである。

 BとCは、見るものと見られるものとの、時間的空間的関わりを指している。時空が自在であれば、【遍在する視点】にほかならない。

 Bは、現前する、〃いま〃と〃ここ〃で推移と、語り手が立ち会うことにほかならない。視点の位置でいえば、【固定した視点】である。しかし、その同時性で、視線は相互に浸透しあう。それは、〃双方通行の視線〃を、〃いま〃と〃ここ〃に縛りつけたものといっていい。そのぶん、見るものと見られるものの転換は何往復もするし、空間と時間を自在に伸縮させ、無限に遠くまで届いたり、至近距離に近づいたりするし、時間の流れを微速化したり、急速化したりもする。

 Cは、時間と空間を貫いて入子にする視線である。時間だけを貫く視線は、過去への回想や未来への予測になる。その意味で、【遍在する視点】にほかならない。

 それが@の一方通行の視線と重なれば、自分が見ているものが見ているパースペクティブに滑り込む妄想の視線になる。それがAの双方通行の視線に重なれば、見るものが見られるもののパースペクティブに滑り込むだけでなく、見られるもののパースペクティブに、自分のパースペクティブが呑み込まれることも意味する。もし、見られるもののパースペクティブに滑り込んで、そこにある自分のパースペクティブを想定するとすれば、被害妄想に近づく。

 Bの同時性の視線と重なれば、一つの視点だけでない、多角的多面的なパースペクティブを作り出すことができる。あるパースペクティブは、他のパースペクティブに滑り込むことで、自分と違う視界をえる。至近距離のパースペクティブが遠景のパースペクティブに重なれば、多義的な視野をえることができる。距離を縮め(拡大し)時間を縮め(拡大し)たパースペクティブを現在の等身大のパースペクティブに入れ込むことで、異質の視覚が並列し拮抗しあい、多角的なパースペクティブをもたらす。

 しかし、もしその同時性の視線が、もう一つ別のパースペクティブの中にすっぽりくるまれ、そのパースペクティブの点景にすぎないとき、『木曜日に』のどんでん返しがくる。それが入子構造の視線にほかならない。見ている風景が、見ている視点も含めて、そっくり見られているものに呑み込まれてしまう、それは時間的に現在のはずが、未来の視線によって、過去のことにされてしまう。Aという場所の現前のはずが、Sという場所のパースペクティブに呑み込まれてしまう。その空間は同じ地域の別の視点から見られたのでもいいし、全く遠距離の望遠鏡からの視点でもいいし、飛行機や宇宙衛星からの俯瞰する視線であってもいい。

 そして、それは、その呑み込んだパースペクティブ自体が、もう一つ別のパースペクティブに呑まれてしまう、ということをも予感させるはずである。その入子が幾つ重なってもいいのだ。それは、パースペクティブの多層化にほかならないし、これこそが【遍在する視点】にほかならない。

 

 (5)

 《見るもの》と《見られるもの》との錯綜とは、視線が関係を新しくするということにほかならない。拡大とは視点の接近であり、縮小とは視点の後退である。しかしそれは視点が外にある限りのことだ。もし視点が内と外、表と裏、こことそこの差異を踏み越えていったらどうなるのか、そうした浸透が古井の語りにはある。それが関係を異化する。

 しかも、古井の新しさは拡大鏡で見たような関係表現だけでなく、その関係にはいつも影と呼ぶべきか、あるいは形質とよぶべきか、その関係そのものの形態化したものがメタフィジカルに存在している。『哀原』では死んだ妹であり、『菫色の空に』では失ったシャツであり、『円陣を組む女たち』の円陣であり、『行隠れ』の失踪した姉あるいは姉の死であり、『妻隠』の夫の大病であり、『聖』の祖母の死であり、『栖』の妻の病である。それが関係そのものを映し出す光源のように、それに照らし出されて、関係そのものが歪み、揺らぎ、拡大し、そのことでその関係の本質が炙り出されてくる。

 『杳子』ではそれが杳子の病気にほかならない。

 U

 

 (1)

 『杳子』は確認の物語だ。確認し合うことの物語であると同時に、確認し合うことそのことが物語である。確認とは、《見ること》と《見られること》の交換と言い換えてもいい。それが、お互いの関係そのものにほかならない。古井由吉は、関係については語らない。関係そのものを語る。『杳子』ではそれが病気によって隠喩されている二人の関係の形質そのものを確認することにほかならない。それは冒頭の書き出しそのものに明確に顕われている。

 

  杳子は深い谷底に一人で坐っていた。 十月もなかば近く、峰には明日にでも雪の来ようという時期だった。

 彼は、午後の一時頃、K岳の頂上から西の空に黒雲のひろがりを認めて、追い立てられるような気持で尾根を下り、尾根の途中から谷に入ってきた。道はまずO沢にむかってまっすぐに下り、それから沢にそって陰気な潅木の間を下るともなく続き、一時間半ほどしてようやく谷底に降り着いた。ちょうどN沢の出会いが近くて、谷は沢音に重く轟いていた。 谷底から見上げる空はすでに雲に低く覆われ、両側に迫る斜面に密生した潅木が、黒く枯れはじめた葉の中から、ところどころ燃え残った紅を、薄暗く閉ざされた谷の空間にむかってぼおっと滲ませていた。河原には岩屑が流れにそって累々と横たわって静まりかえり、重くのしかかる暗さの底に、灰色の明るさを漂わせていた。その明るさの中で、杳子は平たい岩の上に躯を小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯れに積んでいった低いケルンを見つめていた。

 こう書き出された『杳子』は、「腰をきゅうっとひねって彼のほうを向き、首をひねって彼の目を一心に見つめていた」杳子の目を《彼》が見つめ返し、「まなざしとまなざしがひとつにつながった」二人の出会いまで語った後、

  後になって、お互いに途方に暮れると、二人はしばしばこの時のことを思い返しあった。

 と、『木曜日に』と同様、既知の二人の出会いを振り返っているのだということが明らかにされる。しかも、それだけではなく、

 ふたりはそのつど、この奇妙な出会をきれぎれな言葉で満たしあった。

 と、二人で何度も確かめあったものだということをも明らかにされる。

 それは出会いについての物語を語ることよりは、出会いの確認そのものを語っていることだということを、そしてそれが出会いそのものを語ることだという語りであることを、ここで明確にしている。

 これは、語り手が、杳子の坐っている姿を片目に収めながら、ずっと視点を後ろへ引いて、その全景の中に山を降りて来る《彼》をとらえ、彼のパースペクティブに入って来た杳子を見付けた、という語りでは完結しないことを意味する。

 これを語っている語り手の位置は、『木曜日に』で語り手《私》が入子にした語り手の位置にほかならない。ここでは、《彼》の振り返りの視点、《彼》の未来からの視点である。『木曜日に』と同様、杳子と《彼》の二人の想い出をアマルガムにした〃既知のパースペクティブ〃で語られている。

 確かに、『木曜日に』では、その語り手の視点は、語り手《私》の入子として、作品全体の語りの位置を簒奪されるが、ここでは、語り手はその位置を譲ることはない。つまり、語り手が同じ位置で、《彼》について語る。《彼》の視点からではあるが、語り手がその位置を捨てることはないために紛らわしいが、ここでも、『木曜日に』の《私》同様、語り手は《彼》の振り返りの視線に添って、一緒に未来からの視線となって、出会いを語る語り手を入子にしていることにかわりない。

 それは、《彼》の既知の視線に捕えられた冒頭の振り返り自体が、冒頭から始まった語り手の語りの内部にあること、この振り返り自体が、《彼》にとってだけでなく、語り手にとっても既知であることを意味している。そして、ちょうど『木曜日に』が、失われた自分自身をを見付け出す、語り手《私》の自分自身との関係そのものの確認の物語であったように、『杳子』でも、この語り手の位置は、杳子との関係そのものの確認の物語であることを予想させるのである。

 《彼》のパースペクティブと杳子のパースペクティブが、その出会いについて「思い返す」ことで、相互に、そのパースペクティブを確かめ合い、交換することによって、〃偏ったパースペクティブ〃が、複眼のパースペクティブにされ、それによって、ただ見られるものである杳子のパースペクティブが《彼》のパースペクティブによって質されるだけでなく、《彼》のパースペクティブに依存した語り手のパースペクティブそのものが、杳子のパースペクティブによって修正されていく。それは語りだけのことではなく、物語そのもののパースペクティブもまた修正されていくようにさえ見える。

 

(2)

 それ自体が、〃既知のパースペクティブ〃で見られたものであるからこそ、冒頭の一行目は、

 「杳子は深い谷底に一人で坐っていた。」 と、語り出される。「杳子が」ではなく、「杳子は」であるのは、そう語る《彼》にとって、杳子も杳子がそこに坐っていたことも、既知だからにほかならない。

 だが、なぜ〃既知のパースペクティブ〃でなくてはならないのか、なぜ眼前の杳子を同時進行で眺めていく、〃未知のパースペクティブ〃の語りであってはならないのか?

 それは、なぜ《私》や名前のある、例えば「義男」ではなく、《彼》なのかと問うこととも重なる。

 いや、その問いを変えなくてはならない。〃既知のパースペクティブ〃なのは、ただ出会いの想い出だけではなく、この作品全体だからだ。語り手にとって、二人の出会いだけでなく、二人の確認の物語全体が、予め知られていたからである。

 「あの頃の彼自身も、かならずしも尋常な状態にあったとは言えない。」

「あの時期のことを思い出すと、春先の膝陽ざしの中で無気力に寝そべっている彼のまわりを、杳子はたえず硬質の足音を立てて一人跳ねまわっていたような気がする。」

「彼自身にとっても、自分の躯をじかに感じ取ることのむしろすくない時期だった。」

 だから、語り手にとって、この世界も、彼も杳子も既知のものにすぎない。谷底の出会いが既知だったのは、二人にとってだけではないのである。

 だからこそ、冒頭は「杳子が」ではなく、「杳子は」でなくてはならなかったし、「義男」ではなく、「彼」でなくてはならなかったのでもあるのだ。既に承知している《あの彼》について、ちょうどその背中から指指すように、語っているのである。

 たとえば、三浦つとむの例にならえば、

 「田中君はどうした」と、出欠を問われたとき、

 「彼はいません」と、答えるときの《彼》と、

 「義男(田中君)はいません」と、答えるときの違いを考えてみる。

 《彼》というとき、語り手は、二つのことをいっている。一つは、《彼》と語り手やその場の人たちとの関係であり、その関係の中で位置づけて《彼》と呼ぶために、いくらか突き放した、遠くへ眺めやる視線であること、もう一つは、《彼》の不在が、そう問われるより前に(一瞬前かもしれないし、相当前かもしれない)、語り手には知られていた、ということである。

 「義男」といったときは、語り手の目線の範囲内に、その人物が不在であることを確認しているだけだ。その呼び方で、語り手との関係(親近か疎遠か)は、《彼》というより直截的に表現されるが、それは、語り手の表明の仕方に付随的に伴ってくる感情表現であって、そこで語り手が言っているのは、自分の目線内にはいないということを確認しているだけだ。

 これは、

 「彼がいません」

 「義男がいません」

 を比較してみると、一層はっきりしてくる。《彼》ということで、語り手は《彼》との関係を一度整理した目で、その不在を認めているのに対して、「義男」ということは、語り手の目線で、そのときの不在を言明しているだけだからだ。それは、《彼》と呼ぶほうが、時間的にも空間的にも、語り手の中で、その視点を、自分の立っている目線とは別の位置においていること、敢えて言えば、語り手と《彼》との関係を、時間的にも空間的にも俯瞰する視点をもっている、ということができる。だから、逆に言えば、「義男」というより、語り手との生々しい関係が顕われにくい、ということができるだろう。

 そこで、《彼》と呼び「杳子」と呼んだことの意味を敷衍してみることができる。

 「杳子」を《彼女》と呼ぶと、その関係を一旦俯瞰した視線であるため、抽象化した印象が伴うと同時に、どこか遠く突き放した、遠くへ眺めやる視線になるのに対して、「杳子」と名づけられたことで、杳子に伴って現前する風景が、様々の色合いをもってくることになる。彼から見られるものである、杳子という言葉の意味が滲み出てくる。

 そして更に敷衍すれば、杳子が名づけられ、《彼》が名づけられていないことは、《彼》が男の恋人一般に擬せられ、現前する恋人を見守る、という『杳子』全体の意味の隠喩となっている、という見方も可能である。

 「私」による〃既知のパースペクティブ〃の語りでは、どうしても目線の限界に留まる視野に限定されるし、また過去の追憶へと落ち込んでしまう傾向は否めない。しかもそれは閉ざされた同心円のような自己イメージの入子構造でしかないという欠陥が、《彼》という、語り手による突き放した語りかけによって、自分のパースペクティブの入子になりそうな危険を、現前する世界のほうへと押し戻すことが可能となったこと、しかも一方、固有名でなく《彼》であることによって、すでに周知であることを前提に、名前に連なって必要になる、周辺との関わりの説明的描写の不自然さを避けることができる、といえるのだろう。

 

(3)

 だが考えてみれば、確認すること、あるいはそれが確認であったと知れるのは、それが〃既知のパースペクティブ〃になったときでしかないのだ。いやそこにこそ、確認が必要になるのだ。杳子と彼が確認を始めたのは、肉体関係をもってなお、「依然として越えられない距離を間に置いて、お互いに沈黙の中からときどき見つめあい、それ以上の触れ合いを知らなかった」からだ。距離を埋められるのは共通の想い出でしかない。だから〃既知のパースペクティブ〃で語られなければならない。

 それは、一定の焦点のあるパースペクティブではなく、語ること、語られたこと自体が既にあやふやで、曖昧になっていくものであることを、むしろ強調するものとなっていくほかない。

 相手が自分の見たようにあるとは限らない。相手が自分の見たように見るとは限らない。それは相手が自分をどう見ているのかという、自分への不安ではない。ここで問題になっているのは、神経症的な関係妄想や幻想ではない。そうではなく、自分の見ているようには相手はみないし、自分の考えているように、相手が自分を考えてはいないということは、前提になっている。問題はその先だ。自分にこう見えたものが相手にはどう見えているのか、そして自分は相手の見たものを見ることができるのか、ということにほかならない。そして、古井由吉は、そのことを信じたがっているが、信じてはいない。いや、時代はそういうように回転した。それは時代の転換点にこの作品があることの、名誉と不安といっていい。

 焦点は、私が動けば、時間的空間的な位置だけでなく、感情や思考の位置が動けば、移動してしまう。もはや一つのパースペクティブで語れる時代は転換し、別の定まったパースペクティブが手に入る見通しはない、だがそういう失望は間違っている。もともと自分が見たものを相手が見てくれたかどうかが疑わしければ、信じてきたパースペクティブ自体が成り立っていなかったのではないか。それは自己喪失ではなく、自己拡散に近い感覚だった。

 昭和四五年にこの作品が登場したとき、われわれが受けた衝撃は、そういうものだった。その時代の転換はまだ続いていると考えるべきだ。

 

(4)

 われわれは、むしろ古井由吉の、焦点の一つに定まった語り口を回避しようとする、私的固執を見るべきかもしれない。

 『先導獣の話』では、見ていたはずの私が先輩から「困ったことになりましたねえ」と見られるものに変わっており、『菫色の空に』でも、相手に見ていた異和は自分の中の異和の目で自分を見ていただけであり、『円陣を組む女たち』でも、同じ女たちのイメージを見ていたはずの語り手が、見られるものに変わっている。

 私をつつんで、女たちの体がきゅうっと締った。その時、私の上で、血のような叫びが起った。

「直撃を受けたら、この子を中に入れて、皆一緒に死にましょう」

 そして、「皆一緒に死にましょう」とつぎつぎに答えて嗚咽に変わっていき、円陣全体が私を中にしてうっとりと揺れ動きはじめた。

 と、「うっとりと揺れ動」いているのを感じているのは、その中に入り込んでしまった《私》である。その中に入ってしまった《私》は、もはや円陣を見るものではなく、円陣の中にいるのを見られるものへと転倒してしまっている。

 『円陣を組む女たち』が典型な、まるでお椀を次々と重ねていくような、同質のイメージの重層化は、確認にすぎない。見るものが見られるものに見ている統一性の確認にすぎない。しかし、そのパースペクティブを、足袋をひっくり返すように転倒するのは、内と外、裏と表の転倒によってである。

 『男たちの円居』では、その転倒そのものが、よく顕われている。

 ……私は、徒労感に圧倒されないように、足もとばかりを見つめて歩いた。そしてやがて一歩一歩急斜面を登って行く苦しみそのものになりきった。すると混り気のない肉体の苦痛の底から、ストーヴを囲んでうつらうつらと思いに耽る男たちの顔が浮んできた。顔はストーヴの炎のゆらめきを浴びて、困りはてたように笑っていた。ときどきその笑いの中にかすかな苦悶の翳のようなものが走って、たるんだ頬をひきつらせた。しかしそれもたちまち柔かな衰弱感の中に融けてしまう。そしてきれぎれな思いがストーヴの火に温まってふくらみ、半透明の水母のように自堕落にふくれ上がり、ふいに輪郭を失ってまどろみの中に消える。どうしようもない憂鬱な心地良さだった。だがその心地良さの中をすうっと横切って、二つの影が冷たい湿気の中を一歩一歩、頑に小屋に背を向けて登って行く……。その姿をまどろみの中からゆっくりと目で追う男たちの顔を思い浮べながら、私はしばらくの間、樹林の中を登って行く自分自身を忘れた。

 と、まず「私」は、自分の苦しみに沿い、それから小屋に残っている男たちの、飢えでぼんやりしている姿を思い描き、うつらうつらする衰弱感に一緒になって浸り込み、その水膨れしてぼんやりした想念の中で一緒になって遠ざかる「私」たちの影を一瞥し、その背中を思いやる、その視線を、一転して次には「私」は自分の背中に感じながら、また樹林の中を登っている「私」のところへと、視線は返ってくる。

 つまり、「私」は相手の思いの中の「私」を、相手と一緒になって思いなし、一緒になって視線を送り、それから「私」へと返ってきた、というわけである。

 これを現実の語っているものと語られているもの関係の中に転移して考えれば、視点転倒の仕組みがよく見えてくる。ものを見ることはものに見られることであり、人を見ることは人に見られることだ。そこで相手の見ているものを見ることで、相手のパースペクティブを自分のパースペクティブにすることで、くるりくるりと焦点を転換していく。それが《見るもの》と《見られるもの》の関係だ、とでもいうように。

 

(5)

 谷間での出会いについて、二人の確認は、見たものを見られた視野から見返しながら、詳細に行われる。 

 《彼》は、「岩ばかりの河原をゆっくり下ってきた彼の視野の中に、杳子の姿はもっと早くから入っていたはずだっ」のに、初め杳子に気づかなかった。

  疲れた躯を運んでひとりで深い谷底を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えてくることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛を解いて内側からなまなましく顕われかかる。地にひれ伏す男、子を抱いて悶える女、正坐する老婆、そんな姿がおぼろげに浮んでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子は紛れていたのだろうか。

 そして、立ち止まるまでの僅かの間にも、昏迷して、

 女の姿を目にとめた。《ああ、あんなところに女がいるな》と頭の隅でつぶやいて歩きつづけ、次の瞬間にはもう、左手の急斜面からごうごうとと落ちてくるN沢の、何か陰にこもった響きに気を奪われていた。

 そして、その沢で遭難した例についての思いに滑り込んでしまっていた。

 だが、杳子は、「両側からずり落ちようとする山の重み」にのしかかる圧力がちょうど「山の重みがそこで釣合いを取る」そんな一点に、知らずに腰をおろして、

 彼女の坐った岩をのぞいて、どの岩もひたすらに、頑に垂直の方向をめざしていて、その上にのっかかって休もうとするものがあれば、岩角を立てて振り落とそうとする。大きな岩から、小さな石ころまで、どれもこれも落ちようとひしめいて、お互いに邪魔しあってようやく止まっている。……立ち上がったら、もう一気に駆け下るよりほかにない。

 と、途方に暮れて坐っていた。彼女は「谷を降りてくる彼の山靴の音」が、早くから耳に入っていた。

  ただ、物音がとうからはっきり耳に聞えていて、その音に注意も惹かれているのに、それをどうしてもつかめないことがある。たとえば浅い眠りの中で、誰かが玄関の戸をくりかえし叩いているのを耳には聞いているのだけれど、何と言ったらいいのだろう、それをひとまとまりの思いにつかみ取ることがどうしても出来なくて、じれったくて寝床の中で躯をよじらせるみたい、それからぼんやりしてしまうみたい、……

 の状態にあり、身動きできないでいた。

 《彼》は、「女の蒼白い横顔が、それだけ、彼の目の中に飛びこんで」きて、立ち止まって目を見はる。

  それは人の顔でないように飛びこんできて、それでいて人の顔だけがもつ気味の悪さで、彼を立ちすくませた。

(中略)女はすこし手前に積まれたケルンを見つめていた。たしかに見つめてはいるのだが、その目にはまなざしの力がない。そして顔全体がまなざしの力によってひとつの表情に集められずに、目の前のケルンを見つめるほどにかえってケルンの一途な存在に表情を吸い取られて渺とした感じになってゆき、未知の女の顔でありながら、まるで遠くへ消えていくかすかな表情を記憶の中からたえずつかみなおそうとするような緊張を、行きずりの彼に強いた。彼の緊張がすこしでもゆるむと、その顔は無表情どころか、物体のおぞましさを顕わしかける。そのたびに彼はそこにいるのが人間であることの証しを、自分が立てなくてはならないとでもいうような気持に追いこまれて、逃げ腰ながら、目だけは一心に女の横顔を見つめ、……しばらくして、《泣き疲れて、庭の隅にかがみこんで石ころを見つめている子供の顔だな》と彼はつぶやいた。

 そうして初めて、《彼》は、杳子を見まわした。杳子は、そのとき、ケルンを見つめていた。「その岩の塔が偶然な釣合いによってでなく、ひとつひとつの岩が空にむかって伸び上がろうとする力によって、内側から支えられているように見えてきた」。

  岩の塔を見つめているうちに、杳子はもう畏れを感じなくなった。……ただ、彼女のまわりには、相変らず沢山の岩がどれもこれも重く頑固に横たわっていて、お互いに不機嫌そうに引っ張りあって釣合いを保っている。その網の目にくりこまれてしまって、彼女は身動きがとれなかった。立ち上がろうものなら、網の目の釣合いが破れて、迂闊者の彼女の中へ、岩という岩の怒りが雪崩れこんでくる。(中略)

 そこへ足音が近づいてきて、彼女のすぐ上あたりで止んだ。

 それで、杳子は我に返る。

  その時はじめて、杳子はハッとした。だれかが上のほうに立って、彼女の横顔をじっと見おろしている。そんな感じが目の隅にある。たしかにあるのだけれど、それが灰色のひろがりの、いったいどの辺に立っているのか、見当がつかない、見当がつかないから頭の動かしようもわからない。

 同じことを、《彼》のパースペクティブは、別様にとらえる。見詰めている《彼》の山靴に触れた小石が転がりだし、

  女が顔をわずかにこっちに向けて、彼の立っているすこし左のあたりをぼんやりと眺め、何も見えなかったようにもとの凝視にもどった。それから、彼の影がふっと目の隅に残ったのか、女は今度はまともに彼のほうを仰ぎ、見つめるともなく、鈍いまなざしを彼の胸もとに注いだ。気がつくと、彼の足はいつのまにか女をよけて右のほうへ右のほうへと動いていた。かれの動きにつれて、女は胸の前に腕を組みかわしたまま、上半身を段々によじり起して、彼女の背後のほうへ背後のほうへと消えようとする彼の姿を目で追った。

 ここには、まず《彼》の視線で見た杳子があり、つぎに杳子のパースペクティブを借りた(思い入れた)《彼》の視線が、杳子の心の動きを追い、逃げる彼の動きと、追う杳子の視線の、見るものと見られるものの、緊張がうまく語られている。

 これを、杳子は次のように、見ていた。

  《いるな》と杳子は思った。しかしいくら見つめても、男の姿は岩原に突き立った棒杭のように無表情で、どうしても彼女の視野の中心にいきいきと浮び上がってこない。《いるな》という思いは何の感情も呼び起さずに、彼女の心をすりぬけていった。杳子は疲れて目をそむけた。それから、視線がまだこちらに注がれているのを感じて、また見上げた。すると、漠としてひろがる視野の中で……男は、二、三歩彼女にむかってまっすぐに近づきかけて、彼女の視線を受けてたじろぎ、段々に左のほうへ逸れていった。男は、杳子から遠ざかるでもなく、杳子に近づくでもなく、大小さまざまな岩のひしめく河原におかしな弧を描いて、ときどき目の隅でちらりちらりと彼女を見やりながら歩いていく。

 その時、《彼》は、杳子のパースペクティブの中を、「影のように移っていく自分自身の姿」を思い浮べた。

 歩むにつれて、形さまざまな岩屑の灰色のひろがりの中、その姿は女のまなざしに捉えられずに段々に傾いて溺れていく。漠とした哀しみから、彼も彼女を見つめかえした。すると女の姿も彼のまなざしにつなぎとめられずに表情をまた失い、はっきりと目に見えていながら、まわりの岩の姿ほどに訴えてこない。彼はすでに女を背後に打ち捨てて歩み去るこころになった。

 杳子は、その《彼》を、「男が歩いていくにつれて、灰色のひろがりが、男を中心にして、なんとなく人間くさい風景へと集まっていく」のを、見まもっている。 

 「わが身をいとおしく思って、そのために不安に苦しめられて、その不安をまたいとおしく思って、岩屑のひしめきにたちまち押し流されてしまいそうなちっぽけな存在のくせに、戦々恐々と彼女をよけていく。それでも、そうやって男が歩いていくと、彼女にたいしては険しい岩々が、彼のまわりに柔らかに集まって、なま温かい不安のにおいを帯びはじめる。杳子は……、《立ち止まって。もし、あなた》と胸の中で叫んでしまった。

 すると《彼》は、立ち止まる。

  足音が跡絶えたとたんに、ふいに夢から覚めたように、彼は岩のひろがりの中にほっそりとたっている自分を見出し、そうしてまっすぐに立っていることにつらさを覚えた。それと同時に、彼は女のまなざしを鮮やかに躯に感じ取った。見ると、……女は、……不思議に柔軟な生き物のように腰をきゅうっとひねって彼のほうを向き、首をかしげて彼の目を一心に見つめていた。その目を彼は見つめかえした。まなざしとまなざしがひとつにつながった。その力に惹かれて、彼は女にむかってまっすぐ歩き出した。

 《見るもの》が《見られるもの》の見ているものを見る、《見られるもの》に見られている自分を見る。しかしそれは、距離を縮めることを意味しない。むしろ後ずさりさせ、遠ざけるかもしれない。それが、接近したかと思うとすぐ離反していく二人の関係をよく顕している。

 これは、そのまま二人の関係そのもの、いわば二人の確認そのもののもっている形質を示している。それは異和と親和の螺旋と言い換えることができる。そのようにここでの出会いは語られている。

 この齟齬と吻合とを確認された出会いを振り返る語りは、どのパースペクティブからの風景も、微速化し、スローモーションのように、お互いの動きをなめるように撫でていく。それは、既に繰り返し細部の細部まで穿ち、反芻し、確かめ尽くされた、既知の視線だからにほかならない。語り手の〃既知のパースペクティブ〃にとって、二人の出会いだけでなく、二人の確認そのものもまた、そのような視線で振り返られる。そして二人のこの出会いは、『円陣を組む女たち』がそうであったように、全体の象徴であると同時に、これからの二人の確認の螺旋を描く繰り返し全体を暗示するものでもあり、関係全体を形質化した杳子の病気の隠喩ともなっている。

 だから、この出会いは病気を語っていることであり、逆に病気を語ることは出会いを語っていることであり、二人の関係を語ることにもなるのである。

 

(6)

 見たと思ったことは、見られたことの意識とともにある。だが、それは手に入れた瞬間から不確かなものになっていく。《見られたもの》によって確かめられないままの《見たもの》は、あっけなく転倒してしまう。

 出会いの想い出は、「あの女の目にときどき宿った、なにか彼を憐むような、彼の善意に困惑するような表情」つきあたる。

 《あの女は、あそこで、自殺するつもりだったのではないか》という疑いが浮かびかけた。すると記憶が全体として裏返しになり、彼は女の澄んだ目で、幼い山男のガサツな、自信満々な振舞いを静かに見まもる気持になった。

 それは、彼のパースペクティブ全体の転倒にほかならない。その転倒は、駅のホームにおける再開でまた転倒される。

  少女はかれの右側を一歩ほど遅れて歩いていた。先の尖った靴がときどき彼の目の隅に入り、あたりのざわめきの中で冴えた音を規則正しく立てていた。輪郭たしかな足音とでも言ったらよいのだろうか、それが自分の鮮明さに自分で苦しむように、ときどき苛立たしげにステップを踏んだ。そのたびに彼は振り向いた。すると、切れ長の目が彼に見つめられてすこしたじろぎ、それから、視線が小枝のように弾ね返ってきて彼の目を見つめて微笑んだ。あの日、谷底に坐っていた女の、目と鼻と唇と、細い頤にやわらかく流れ集まる線を、彼はまたひとつずつ見出した。

 それは、また確かめられなくてはならない。それが、病気のことを確かめることになっていくのもまた当然のことだ。

 「何の病気ですか」

「高所恐怖症」

「高所恐怖症って、そんな病気の人が、なんで山になんか登ったのです」

「気がつかなかったのです」

「谷底まで降りてきて、そこでようやく……」

(中略)

「谷底って、高さの感じが集まるところではないかしら。高さの感じがひとつひとつの岩の中にまでこもっていて、入ってくる人間に敵意をもっているみたいな……」

(中略)

「いいですか、高いところに立つとすくむのが、高所恐怖症ですよ」

「ええ、でも、平たいところにいる時に感じるんです(略)」

(中略)

「もしもお部屋の床がレンズみたいにふくらんでいたら、お部屋の中にいるのがとてもつらいでしょう。それから、ほら、床がすこし傾いていたら落着かないでしょう。(略)」

 そして杳子の病気を確認することは、お互いの存在を確認することであり、お互いの生き方を確認することであり、それが作品を語り出していくことでもある。

 


 V

 

(1)

 確認とは、見るものと見られるものの交換である。確認は、一方的ではない。《見るもの》が、《見られるもの》のパースペクティブを見ようとすれば、《見るもの》は《見られるもの》に侵食され、《見られるもの》に変わっていく。二人の関係が深まるにつれて、微妙に、相互に浸透しあい、影響を与え始める。それを杳子は、

 「あたしを観察してるのね、あなた。勝手になさい。だけど、あなたがあたしを観察すると、あたしも自然にあなたを観察することになるのよ。どっちかだけということはないのだから……」

 と、言い当てている通りなのだ。

 いったん二人して外へ出ると、彼は杳子のために周囲に対して神経をたえず張りつめるようになった。杳子も彼の緊張を感じ取って、今度はそのために躯の動きが固くなった。いつのまにか二人は人通りの中で足音を立てずに歩いている。まるで二人して杳子の病気の動静をじっと窺っているようだった。

 (中略)杳子は彼がそばにいる以上、彼のそばを離れて一人で自然に動きまわることができない。彼は杳子がそばにいる以上、杳子が彼のそばを離れて一人で歩きまわるのを安心して見ていられない。そうやって二人して杳子の病気を守りあいながら、二人は段々にまたあの最初の谷底のような、最初の喫茶店のいつもの決まったあの席のような、二人だけの孤立した時間と場所の中へ押しこまれていく。

 《彼》にとって杳子の病気(病気の杳子)が重荷になれば、杳子(の病気)にとっても、《彼》は負担になり、そのことが《彼》に一層の負担を強いるのだ。

 「なぜって……、あなたが待っていると思うと、はじめてあなたに出会った時みたいに、まわりの感じがよそよそしくなって、あんな遠いところで落合うなんてとてもうまく行きそうにもないって思えて、家を出る時からもうおかしくなるの」「それじゃ、なぜ来るの、なぜ来るって約束するの」

「吊橋のところで、あなた言ったでしょう。こんなところを一人で渡れないようでは、もう街の中も満足に歩けなくなるって」

(中略)

……彼女をいま病気につなぎとめているのは、ほかならぬ自分自身じゃないか、と彼は思った。あの谷底で、杳子は病気の最悪の状態の中にうずくまりこんでいた。ちょうど野獣が狭いところにまるまって、病いが自然に通り過ぎていくのを待っているみたいに。そこへ彼がやってきて、……立ち止まって彼女を見つめた。二人は見つめあった。ことによると、あの時、杳子の中で、自然に流れ過ぎるはずだった病気が、他人の目に見つめられて小さな石みたいに凝固してしまったのかもしれない。

 それは杳子の病気のパースペクティブに捕えられたとみなしてもいい。それは既に《彼》に杳子(の病気)が捕えられていることと対になっている。

  二十米ほどの距離から、彼は杳子の目をとらえて見つめた。杳子も彼の目を見つめて砂の上を渡ってきた。だが二人の距離が十米足らずに縮まったとき、杳子の視線が彼の目のほうを指しながら、ときどき彼の目を通り越して遠くを眺めやる表情になるのに、気づいた。……《いまに逸れるぞ。ほら左へ傾き出した》と杳子の歩みを見まもった。すると杳子はふいに支えをはずされたように躯をこごめてよろけ出し、左へ左へとよろけながら彼の目を険しく睨みかえした。

 やがて杳子は彼から目を離し、……砂の上にかがみこんだ。……長いことかかってようやく彼の目をまた探り当てた。そして杳子の声とも思われないひどい嗄れ声で言った。

「あたしを観察しているのね、あなた。勝手になさい。だけど、あなたがあたしを観察すると、あたしも自然にあなたを観察することになるのよ。……」

 杳子の目に射すくめられて、彼は躯を動かせなかった。

 《彼》がいるから支えられているが、それは同時に病気をつなぎ止めているのでもある。だから《彼》が視線を外せば、杳子は揺らぎ、揺らぐ杳子を見ている《彼》自身もまた、一緒になって揺らいでいる。

 それは《彼》が杳子をつかもうとすることが、杳子の病気をつかもうとすることになるほかないからだ。

 低い声を洩らす時でも、杳子の肌はまだ冷たさを保って、彼の肌からひっそりと遠のいて悶えていた。その冷たさを通して、鎖骨のくぼみや、二の腕の内側や、乳房から脇腹へ流れる線や、腰の骨の鈍いふくらみなどの感触が、性の興奮につつまれずに、たえず遠くから長い道をたどって集まってくるように、一点ずつ孤立して伝わってくる。その感触にむかって、彼はやはり性の興奮とほんの僅かずれたところで、一点ずつ肌の感触を澄ませていく。

 肌の感覚を澄ませていると、彼は杳子の病んだ感覚へ一本の線となってつながっていくような気がした。道の途中で立ちつくす杳子の孤立と恍惚を、彼はつかのま感じ当てたように思う。

 そのかぼそい糸を引っ張り合う緊張は、そのまま、「まなざしとまなざし」をひとつにし、視線をたぐり寄せるようにして一緒に山を降りて来たときの二人の関係そのものだ。それは、次のような、イメージを《彼》にもたらす。

 杳子は道をやって来て、ふっと異った感じの中に踏み入る。立ち止まると、あたりの空気が澄みかえって、彼女を取り囲む物のひとつひとつが、まわりで動く人間たちの顔つきや身振りのひとつひとつが、自然の姿のまま鮮明になってゆき、不自然なほど鮮明になってゆき、まるで深い根もとからたえずじわじわと顕われてくるみたいに、たえず鋭さをあらわにして彼女の感覚を惹きつける。杳子はほとんど肉体的な孤独を覚える。ひとつひとつの物のあまりにも鮮明な顕われに惹きつけられて、彼女の感覚は無数に分かれて冴えかえってしまって、漠とした全体の懐かしい感じをつかみとれない。自分自身のありかさえひとつに押えられない。それでも杳子はかろうじてひとつに保った自分の存在感の中から、周囲の鮮明さにしみじみと見入っている。

 これは、《彼》のパースペクティブが思い描いた、杳子のパースペクティブにほかならない。すでに杳子の目で、杳子の見るものを見ている。それは同時に、杳子が《彼》のパースペクティブを変え始めたことにほかならない。杳子のパースペクティブの中で、《彼》の存在がその風景を変えたように、《彼》のパースペクティブもまた、杳子が踏み入ってくることで、その光景を変えていく。これが、恋愛の、相互のパースペクティブの浸透であり、古井由吉は、心理を心象に、いや、感情を、それが見るパースペクティブに変えた。それは、視線を文体とした、彼の達成とみなければならない。

 

(2)

 神経の病は、関係の中でしか顕在化することはない。いや関係が神経の病を創り出す。神経の病とは関係の病そのものにほかならない。それは《見ること》と《見られること》の病でもある。あるいは《彼》が意識しているように、《彼》が《見ること》によって、《彼》に見られるという関係の中で、顕われてきたというべきかもしれない。それが、杳子の病気が関係の形質化であるということの意味だ。だから《見ること》でつかまえるのは、杳子と同時に関係そのもの、つまりは病気そのものをつかまえることになる。それは、《見ること》と《見られること》の中で、病気が、形を変え、質を変えていくことでもある。

 関係とは、また距離にほかならない。距離が異和感なのではない。親和感とは距離の喪失ではない。距離の喪失こそが、異和感にほかならない。それが関係の喪失であり、関係の病にほかならない。関係を埋めることが病を癒すことにはならず、関係を認めること、距離感を確かめることが《見ること》に違いない。

 《見ること》は距離を置くことだ。いや距離があるから見る。だから、その異和を宥るために《見られる》もののパースペクティブを手に入れようとする。だから、《見ること》と《見られること》の交換とは、関係の確認、距離の確認にほかならない。

 相手の見ているものを見るのは、距りがあるからだ。それが親和である。しかし相手の見ているものが見えないことが異和ではない。相手の見ているものが見えるからこそ、逆に異和が生まれる。近づけば異和が見え、遠ざかれば親和が見える。距離が変わるのではなく、心理の距りにすぎない。だから親和感や異和感に意味があるのではない。

 だからこそ、二人の微妙な緊張は、親和を探し当てると、異和が剥き出し、異和に諦めると、親和にたどりつく。二人の関係は螺旋を描いて、しかし少しずつお互いを変えて、出会いの緊張を繰り返しながら近づいていくことになる。

  ……いつでも、杳子の病気の深みと完全にひとすじにつながりあったように思う瞬間がある。しかし杳子の感覚の中へもう一息深く分け入ろうとすると、糸は微妙にほぐれて、性の興奮の中へ乱れていく。

 「まるでそうしなければ杳子の感覚の昏乱の中でお互いの関係が保てないとでもいうように、彼は杳子の躯に触れることになった」が、「そのとたん」、杳子の躯は、「ただ互いに見つめ合っていた時よりも、かえって彼にとって遠い、表情のつかみがたいものになってしまった。」のに、諦めかけると、再び親和が戻ってくる。

 「僕の力じゃ、君をどうすることもできないらしいね。僕が君のそばにいなくなりさえすれば、君はまた一人でちゃんと歩けるようになるのだろう」

 杳子は黙って天井を見つめていた。公園の午前の光の中を跳ねまわっていた杳子の姿を彼は思い浮べた。そしてあの躯を自分の無力な躯で汚してしまって、思い無表情な塊りに変えてしまったことに哀しみを覚えた。哀しみから、彼は躯を起して杳子に近づけた。冷たくひろがる杳子の躯の、左の胸のふくらみと左の腰のくびれだけが、彼の肌にかすかに触れてきた。それ以上は躯を寄せずに、彼は不安定な姿勢のまま目を閉じて、孤立した乏しい接触に感じ耽った。しばらくして彼は杳子が低い吐息を洩らしたのを耳にしたが、それにも逸されずに肌の感覚を一心に凝らしていた。すると、遠くから今にも消え入りそうに点っていた感触が、彼の冷えた肌にそってゆっくり動き出した。思わず躯を固くすると、杳子の躯の暗いひろがりの中から、ときどきゆるいうねりに押し上げられて来るように、みぞおちの薄い頼りなげな肌や、細い肋骨のふくらみや、腋の下の粗い感触がひとつひとつ浮んで来て、彼の肌に触れてはまた沈み、そして段々に全身が彼にむかってひとつの表情を帯びはじめた。二人は肌を押しつけ合わずに、それぞれ素肌の冷たさを保ったまま、躯を重ねた。腰の醜い感触がすこしずつ和らいで、全身のゆるやかな流れの中へ融けていった。 そのあと、二人は初めて毛布の下に温みをひとつに集めて、まるめた躯を寄せ合ってまどろんだ。

 しかしそのことで距離感がなくなったのではない。

 途中で振り返ると、もう百米も離れたところを、杳子がひっそり歩いている。初夏の陽ざしが灰色の道に降りそそいで、道いっぱいに陽炎を燃やし、そのゆらめきの中で杳子の服の淡い色彩が明るくひろがって、かすかに上下に揺れながら、今にも蒸発してしまいそうに見えた。……淡い色彩のひろがりの中に彼は杳子の躯を、肌を触れ合っている時に劣らずなまなましく感じ取る。そしてまた杳子に背を向けて歩き出すと、二人の躯を隔てている距離が奇妙な実体感を帯びて、彼の感覚にほとんどじかに訴えてくる。一足先に部屋について、電燈の光の中で杳子を待つ間に、その距離はまだ実体の感じをほのかに帯びたまま段々に縮まり、……電燈を消して薄暗がりの中で躯を寄せ合う時にも、距離の緊張がまだ残っていた。

 むしろ、距離感は強まっていると見るべきかもしれない。出会いのときの目と目のつながる感覚や、ささいなことで感じた一体感は薄らいでいく。それは思い入れにすぎないからだ。その分、距離は空虚な距りではなく、アルコール分の詰まった距り、陶酔も恍惚もあれば不安や嫉妬もある、心理的な距りへと変質していく。

 岩の上から杳子が彼のほうを振り向いて微笑みかけるとき、杳子の存在は、離れて立つ彼に生温くまつわりついてくる。視線を合わせているだけで、彼の躯は風の中で内側から泡立った。灰色の水が杳子のむこうで滑らかにふくれ上がって、杳子をのせて彼のほうに寄せてくる。彼は杳子の胸のあたりを見つめた。すると杳子は岩の上でつらそうに笑って頭を振った。左右にゆっくり揺れる頭からほつれた髪が彼のほうへ流れ、コートの裾が温い翳をつつんでふくらんだ。背中から風に吹きつけられて、杳子は困りはてた顔で躯をくねらせ、下腹を彼のほうに突き出した。それでも彼女は頭を振るのをやめず、いまにも崩れそうな姿勢をこらえていた。

 拒まれて、彼の情欲は聞き分けがなくなり、小児のにおいのする哀しみとなって、自分のほうから杳子の躯にまつわりつこうとした。彼は風に逆って杳子のそばに歩み寄り、岩の上に両足を揃えて細く立つ躯の、腰のくびれに片腕をまわした。すると杳子は彼の腕の中から伸び上がるようにして、風の中へ胸をきつく反らし、水平線のほうにむかって目を大きく見開いて澄んだ声で言った。

「今までの辛抱が無駄になるわ」

 杳子を見ている《彼》の視線は、自分の聞き分けのない「情欲」のパースペクティブに染められて、杳子の背景が性的な生温かさを滲ませて語られている。

 性的な意味を抜いても、子供のように聞き分けのない、あるいは我を通そうとする男と、それに惹かれそうになりながら、必死で堪える女の母性のようなものを、ここに読み取ってもいい。すでに、病気を象徴にした、二人の関係が、ここまで深く浸透しあっていることが、隠喩として語られている。

 それは、最後の会話の中で明らかにされている。

 「君の癖なら、僕は耐えられそうな気がするよ」

「そうねえ……」と、杳子は(中略)、……彼の言葉にか、自分の声のぬめりにか、また困りはてたように笑い、躯をかすかに左右によじった。

「いまのあたしは、じつは自分の癖になりきっていないのよ。あたしは病人だから、中途半端なの。健康になるということは、自分の癖にすっかりなりきってしまって、もう同じ事の繰返しを気味悪がったりしなくなるということなのね。そうなると、癖が病人の場合よりも露わに出てくるんだわ。(略)」

「どこの夫婦だって、耐えてるじゃないか」

「自分の癖の露わさで、相手の癖の露わさと釣合いをとっているのね。それが健康ということの凄さね」

「二人とも、凄くなってしまえばいい」

 これは、躇っている女への求愛にほかならない。このとき、病気は、あるいはふたりの距りは、少女の潔癖な何かの隠喩となっている。そして、

 「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」

 杳子が細く澄んだ声でつぶやいた。もうなかば独り言だった。彼の目にも、物の姿がふと一回限りの深い表情を帯びかけた。しかしそれ以上のものはつかめなかった。帰り道のことを考えはじめた彼の腕の下で、杳子の躯がおそらく彼への嫌悪から、かすかな輪郭だけの感じに細っていった。」

 この「嫌悪」は潔癖さではなく、《彼》が杳子が少しでも待ち合わせに遅れてくると、いても立ってもいられない気持になったのと同じことだ。

  心配からではなかった。そうではなくて、その姿が彼自身の恥辱にじかにつながってくるように思えるのだ。(中略)彼のそばまで来ると、杳子は腰をこころもちうしろに引いて彼の顔をのぞきこみ、自分の躯を羞じているような曖昧な笑いを目もとに浮べる。その姿に彼はかすかな嫌悪を感じた。自己嫌悪に近い気持だった。

 それは《彼》を見ているのであり、《彼》の見ているものを見ているのである。それは、自分を見ていることにほかならない。

 語り手による〃既知としてのパースペクティブ〃は、見るだけのものをきちんと見ているというべきだろう。「凄くなる」ことの日常的な凄さが、既に知られてしまった時点から、そのとき二人の「頂点」を語り尽くしている。それが視線について語るのではなく、視線を語ることのもっている意味だ。あるいはシニカルになる、ある焦点の定まったパースペクティブがなくなったとは、こういうことにほかならない。もちろん頂点であることによって、既に異和が見えているということでもある。

 

(3)

 《彼》が杳子の病気に見ていたものは、杳子の見ていたものではない。しかし杳子は、《彼》に見られることで、自分の病気を探り当てたというべきだろう。その頂点が、

 「病院には行かなくてもいいんだよ」と彼は唇を触れたままでささやいた。

「このままじゃ、やっぱり、やっていけないのよ」と杳子は姉と同じことを言った。

「やっていけるさ、心配するな」

「この部屋に、こうしてずっと閉じこもっていればね」

「街の中を歩く時でも、この部屋と同じ暗さを、君のまわりにこしらえてやるよ。(中略)このままの気持で、やることだけは、普通の人間と同じことを几帳面に守っていればいいんだよ」

「あなたは健康な人だから、健康の暮しの凄さが、ほんとうにはわからないのよ」(中略)あなたにはわからない、という言葉で杳子に拒まれたのは、これが初めてだった。

 だが、拒まれたことで、思い入れの親和が消え、距離が見えてくる。そのとき頂点がくるのも、不思議はない。

 《彼》に杳子の病気が見えないことが、確認の交換ができないことではない。確認ができるとは、自分のパースペクティブにすべてを見尽そうとすることではない。それなら、焦点の定まったパースペクティブにすぎない。必要なのは、相手のパースペクティブでみること、あるいは相手のパースペクティブの中の自分を見付けることにほかならない。

 それは、自分勝手に思い入れることで、相手のパースペクティブを見ているつもりになることではない。それに対しては、杳子は拒絶している。

  ときどき杳子は立ち止まって、頭をゆっくりまわして店内の人の動きを見まわした。その放心も露わな姿わ人目につかせないために、彼も杳子の頭の動きに合わせて、二人して何かを探しているように店内を見まわした。すると同じ動きにつれて、彼は杳子の病気と一本の線でつながっていくような気がした。

 この種の一体感は杳子に裏切られる。

 「なによ、あんたなんか」

 粘っこいつぶやきが、まうしろへよろける彼の耳に入ってきた。

 だが、既に《彼》は、杳子が病気を探り当てたことを知っている。

  五日前から杳子が昔の姉のように風呂に入ろうとしなくなったわけが、彼にはわかる気がした。おそらく杳子は自分の病気の根を感じ当てたのにちがいない。そして何をやっても、何をやられても一生変えようのない自分のあり方を知って、階下の姉にむかって、自分を病人として病院に送りこんでもかまわないと合図を送っていたのだ。

 嫌悪をもって語っていた姉の少女時代と同じく、何日も風呂に入らず部屋に閉じこもることで、姉へのシグナルを送ることは、姉との距りを認めること、姉との関係を宥めつけることができたことを意味する。それは多分憎悪と愛情の混交した感情だが、その感情と折り合いをつけたことを意味する。

 杳子には姉の見るものが見える。姉のパースペクティブが見える。それは《見るもの》である杳子が、姉のパースペクティブを自分のものとすることで、自分が見えることにほかならない。そこに《見られたもの》となっている自分が見えること、そういうパースペクティブを手にしたことにほかならない。

 そして、それは《彼》との関係もまた見えることだ。いま《彼》に《見られるもの》であった杳子は、《彼》を《見るもの》として《彼》の前にいる。

 そういう杳子のパースペクティブを、《彼》は見ることができる。《彼》は、かつて

 (公園のベンチでまどろむ彼を池の向こう岸から杳子が見つめているのに気づいて) ……全身が何かを怪しむように静まりかえってこちらをしげしげと見つめている。彼はまどろみの中にまだなかば捕えられていて、見つめかえすことが出来ずに、ただ一方的に見つめられていた。見つめられることの気味の悪さを、彼は知った。(中略)

《あの人に見つめられていたのか……》という驚きと、そして嫌悪が女の躯にひろがっていく。醜悪な目撃者の眼を潰してやりたい。そんな衝動を彼は思いやった。

 と、杳子のパースペクティブを想像することができた。いまは確かにそれとは一巡り異なる螺旋上にいる。見えないことを知っている。しかし、その《見られるもの》のパースペクティブの中にいる自分を見ることができたから、自分に見えなくても、杳子に見えたことに気づくことができる。

 「……あなたには、あたしのほうを向くとき、いつでもすこし途方に暮れたようなところがある。自分自身からすこし後へさがって、なんとなく稀薄な、その分だけやさしい感じになって、こっちを見ている。それから急にまとわりついてくる。それでいて中に押し入って来ないで、ただ肌だけを触れ合って、じっとしている……」

 彼はそうではない時の自分の姿を思った。杳子のそばにいながら自分ひとりの不安に耽って、無意識のうちに同じ癖を剥き出しにして反復している獣じみた姿を……。そして彼のそばで眉をかすかに顰めてそれに耐えている杳子の心を思いやった。しかしその思いは胸の中にしまって、杳子の差し出した言葉を彼はそのまま受け取った。

「入りこんで来るでもなく、距離を取るでもなく、君の病気を抱きしめるでもなく、君を病気から引張り出すでもなく……」

 「でも、それだから、こうして向かいあって一緒に食べていられるのよ。あたし、いま、あなたの前で、すこしも羞かしくないわ」

 杳子もまた、《彼》が距りの向こうから、杳子が病気を探り当てたことを見ていることを知っている。

 それが一瞬の「頂点」を二人の間にもたらしたといえるだろう。

  彼は杳子に合わせて音を立てて食べながら、内側から自分の頬の動きを、同じ物哀しげな表情の、同じ鈍重な反復をじっと感じ取っていた。そうして薄暗がりの中で二人して同じ反復に耽っていると、躯を合わせている時よりも濃い暗い接触感があった。しかしそれをお互いに見つめあう目が残って、暗がりの中に並んで漂って、お互いのおぞましさをいたわりあった。二度と繰返しのきかない釣合いを彼は感じた。

 

(4)

 相手の見ているものが見える、見られている自分が見えるという関係は、たとえ一瞬の錯覚であるにしろ、昭和四五年という時点を考えると、時代へのアイロニーとなっているとしか言いようがない。もはやそれを信じることが不可能になりつつある時代への、あるいは、多分に時代への思い入れの勝った目からは、哀惜、と言いたい気がしないでもない。お互いが、相手のパースペクティブを見、また相手のパースペクティブにいる自分を見るということは、あるいは幻覚というべきかもしれない。しかし、その一瞬を、関係そのものの中から描き止めたことは、希有のことだと言っていい。視線となった語りだけが、それをつなぎとめることができる。

 それだからこそなおのこと、時代のパースペクティブがちょうど個へと転換しようとしていた一瞬を、辛うじてつなぎとめているとみなすことができる。以後しかし、こうした「頂点」は、時代にも個にも訪れたことはない。

 二人の齟齬、内の世界(杳子)と外の世界(彼)は、時代の転換点にある考え方を写し止めている。

  「癖ってのは誰にでもあるものだよ。それにそういう癖の反復は、生活のほんの一部じゃないか。どんなに反復の中に閉じこめられているように見えても、外の世界がたえず違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ。……」

 「そうね、あなたの思っている人生というのは、そちらのほうなのね。でも、どんなに外の世界に応じて生きていたって、残る部分はあるでしょう。すこしも変わらない自分自身に押しもどされる時間が、毎日どうしたって残るでしょう。そこでいつも同じことを、大まじめでくりかえしているのよ。あたしの思う人生は、こちらのほうよ」

 その不安は紛れこみ、見えにくくなったが、そのまま個の矛盾として、内包されたままいまも続いている。それが良かったか悪かったかは個人の人生の決算書でしか評価のつけようはない。            


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